問題を入れた扇箱

一

「いや、勤まらぬことはありますまい。」

土屋相模守は、じろりと二人を見た。

「勤まらぬといってしまえば、だれにもつとまらぬ。一生に一度のお役であるから、万事承知しておる者は、誰もないのです。みな同じく不慣れである。で、不慣れのゆえをもってこの<ruby><rb>勅使饗応役</rb><rt>ちょくしきょうおうやく</rt></ruby>を御辞退なされるということは、なんら<ruby><rb>口実</rb><rt>こうじつ</rt></ruby>にならんのです。御再考ありたい。」

しかし、一、二度押し返したうえで引き受ける習慣になっていた。

浅野事件の前年だった。

元禄十三年三月三日に、岡部美濃守と立花出雲守が、城中の一室で土屋相模守の前に呼び出されていた。土屋相模守は老中だった。

年に一回京都の宮廷から、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>が江戸に下って、将軍家に政治上の<ruby><rb>勅旨</rb><rt>ちょくし</rt></ruby>を伝える例になっていた。その<ruby><rb>天奏衆</rb><rt>てんそうしゅう</rt></ruby>の江戸滞在中、色いろ取持ちするのが、この饗応役だった。毎年きまったことなのに、関東では一年ごとに、諸大名が代って勤めることになっていた。

初めてつとめるのだし、大役だしするから、天奏饗応役に当てられた諸侯は、迷惑だった。心配だった。形式的にも、一応は辞退したかった。

饗応役には、正副二人立つのだった。この元禄十三年度の饗応役に、本役には岡部美濃守、<ruby><rb>添役</rb><rt>そえやく</rt></ruby>には立花出雲守が振りあてられた、と、土屋相模守にいい渡されたとき、出雲守は顔いろを変えた。

「おそれいりますが、私は、<ruby><rb>堂上</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>方の扱いをよく存じません。それに、家来には田舎侍多く、この大切なお役をお受けして万一不都合がありましては、上へ対して申訳ありませんから、勝手ながら余人へ――。」

これは、毎年のように、誰もが一度饗応役を辞退する時の定り文句になっていた。相模守は、聞き飽きていた。

そして、これも、この場合、毎年繰りかえしてきた言葉だが、

「御再考ありたい。<ruby><rb>上野</rb><rt>こうずけ</rt></ruby>がすべて心得おるから、あれに尋ねたなら勤まらぬことはあるまいと思われるが――。」

と、眼を苦笑させて、ちらと岡部美濃守を見た。

そういわれると、それでもつとまらないとはいえないのだった。

「さようならば――。」

無理往生だった。出雲守は、仕方なしに、引き受けないわけにはいかなかった。

「身に余る栄誉――。」

と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。

「お受けいたします。なに吉良殿などに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くことはありません。私は、私一個の平常の心掛けだけでやりとおす考えです。」

どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。

二

<ruby><rb>上野介</rb><rt>こうずけのすけ</rt></ruby>は、無意識に、冷えた茶をふくんだのに気がついた。吐き出したかったが、吐き出すかわりに、ごくりと飲み下して眉根を寄せた。

「何だ、これは――何だと訊いておるに、なぜ返事をせんか。」

すこし離れて、公用人の<ruby><rb>左右田</rb><rt>そうだ</rt></ruby>孫三郎が、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>すじを撫でながら、主人を見上げた。

「御覧のとおり、<ruby><rb>扇箱</rb><rt>おうぎばこ</rt></ruby>でございます。」

「扇箱は、見てわかっておる。その扇箱がどうしたというのだ。」

<ruby><rb>鍛冶橋</rb><rt>かじばし</rt></ruby>内の<ruby><rb>吉良</rb><rt>きら</rt></ruby>の邸で、不機嫌な顔を据えた上野介の前に、扇箱が一つ、ちょこなんと置いてあった。

年玉などに使う、八丈を貼った一本入れの、粗末なものだった。空箱で、竹串がはいっていて振るとがらがら音がした。<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>く踏んで、四十五文か、精ぜい五十文の物だった。

「立花出雲は、添役じゃぞ。」吉良は、<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>のように黒く光る眼を、いそがしく<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>いた。「孫三、出雲から、何がまいったとやらいうたのう――。」

「は。天瓜冬の砂糖漬、鯛一折、その他国産色いろ――。」

「砂糖漬には――これだけとか申したな？」

ちょっと<ruby><rb>逡巡</rb><rt>ためら</rt></ruby>ったのち、上野は、人さし指を一本立てて見せた。<ruby><rb>百両</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>の意味だった。

珍奇な、天瓜冬の砂糖菓子に小判を潜めて、<ruby><rb>賄賂</rb><rt>まいない</rt></ruby>を贈る風習だった。天瓜冬の砂糖漬といえば、やるほうにも貰うほうにも、菓子のあいだに相当の<ruby><rb>現金</rb><rt>もの</rt></ruby>が<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>めてある、無言の了解があった。

孫三郎も閃めくように指一本出してうなずいた。

扇箱を顎でさして、吉良が、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていた。

「気の毒だな。添役が、そんなにせんでもええに。本役の岡部殿からは、この扇箱ひとつ――ふふふ、二重底であろう。見い。」

孫三郎は、箱を手に取って、<ruby><rb>弄</rb><rt>いじく</rt></ruby>りまわした。

「ただの扇箱で――。」

「使いの者は？」

「何とか申す用人でございました。逃ぐるように引き取りましたが――。」

「口上をきいておるのだ、口上を。」

「口上は、その、このたび、岡部美濃守様が天奏饗応役を仰せつけられましたについて、殿中よろしくお引廻しのほどを、という――。」

骨張った吉良の額に、太い青筋がはってきて、

「よい。<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>する気であろう、この上野を。」

と、口びるを白くした時、襖をあけて、平手で頭を叩いた者があった。

「へっ、殿様、御機嫌伺い。」

お錠口御免の出入りの小間物屋だった。平野屋茂吉が、ずかずかはいってきていた。

「一大事<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>。<ruby><rb>平茂</rb><rt>ひらも</rt></ruby>、御注進に。じつぁね、例の女の子、<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>がわりの、へへへ、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてやっていただきやしょう。見ただけで、ぶるるとくるようなやつが、殿様、みつかりやしたんで。」

平茂に、新しい妾の<ruby><rb>周旋</rb><rt>せわ</rt></ruby>を頼んであったことを思い出しながら、吉良は、不愉快な感情のやり場がなくて、孫三郎をきめつけていた。

「扇箱一つで、殿中引廻し、か。虫のいい！　これ、進物の<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>をいうのではない。が、ものには順があるぞ、順が。」

蒼ざめた吉良の顔に、無礼を愛嬌にしている、幇間のような平茂も<ruby><rb>飽気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られた。

三

「相手が悪いから、心配するのだ。」

<ruby><rb>辰馬</rb><rt>たつま</rt></ruby>は、江戸ふうの青年だけに、めっきり浪人めいて来ていた。

大きな<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、御用部屋の壁によりかかった。

吉良へ扇箱を届けて<ruby><rb>帰邸</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってきた久野彦七も<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>役人の北<ruby><rb>鏡蔵</rb><rt>きょうぞう</rt></ruby>も金奉行の<ruby><rb>十寸見</rb><rt>ますみ</rt></ruby>兵九郎も黙っていた。

岡部辰馬は、岡部美濃守の弟だった。分家してぶらぶらしていたが、兄が勅使取持役を受けてからは、ほとんどこの屋敷に詰めきりだった。

「まずかったかな。」と、口をへの字にして、もう一度老人たちを見まわした。「誰が扇箱などを持って行けといったのだ。まるで、からかうようなものじゃないか。いい年寄りが多勢揃っていて――。」

久野彦七は、汗をかいていた。

「いやはや、子供の使いでしたよ。あの扇箱を置いて、すたこら逃げて来ましたわい。まったく、あとが怖い。憎い<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>には餌をやれで、例の天瓜冬の三百か五百――<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>もあてにしているんですなあ。」

「それだけ知っていて、なぜやらぬ。」

「殿様の<ruby><rb>御気性</rb><rt>ごきしょう</rt></ruby>を御存じでしょう――。」

納戸役の北が、腕組みをして溜息を吐いた。

十寸見が、乗り出した。

「立花様のほうへ、それとなく伺ってみました。添役だから、<ruby><rb>内輪</rb><rt>うちわ</rt></ruby>にして百両――だいたいそんなところだったらしい。」

「そうだろう。添役で<ruby><rb>百両</rb><rt>いっそく</rt></ruby>なら、本役の当家は、やっぱり、五百という見当だ。そこを、扇箱<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>なんて、間抜けめ！　吉良のやつ、今ごろかんかんだぞ。」

三人は無言だった。

「訊いてくる。」

辰馬が、膝に手を突っ張って、起き上りかけた。

「ちょっと、お待ちを――。」

「停めるな。泉州岸和田五万三千石と、一時の<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>らぬ<ruby><rb>強情</rb><rt>ごうじょう</rt></ruby>と、どっちが大切か、兄貴にきいてくるのだ。」

歩き出すと、久野が、追いすがった。

「しかし、殿様はもう、吉良殿と一喧嘩なさるおつもりで、気が立っておられますから――。」

「その前に、おれが兄貴と喧嘩する。金で<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>くすむのに、家のことも思わずに、何だ。おれにも考えがある。離せ！」

振りきって、跫音が、美濃守の居間のほうへ、廊下を鳴らして曲った。

夜の客

一

「平茂か。進むがよい。」

吉良の声を<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に助かったように孫三郎が座を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ると、入れ違いに、平野屋茂吉が吉良の前にすわった。

「驚きました。<ruby><rb>達磨</rb><rt>だるま</rt></ruby>は<ruby><rb>面壁</rb><rt>めんぺき</rt></ruby>、殿様<ruby><rb>肝癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>――。」

つるりと顔を撫でて、平伏しながら、

「何ごとかは存じませんが、平に御容赦。ほどよい女子を探しあてましたる手前の手柄に免じて、ここは一つ、お笑い下さいまし。お笑い下さいまし。」

吉良は、<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き古した<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>のような感じの、細長い顔をまっすぐ立てたまま、平茂のことばは、聞こえていて聞こえていなかった。

「美濃めが――。」

と、口の隅から、つぶやいた。

――<ruby><rb>高家筆頭</rb><rt>こうけひっとう</rt></ruby>として、公卿堂上の取次ぎ、神仏の代参、天奏衆上下の古礼、その他<ruby><rb>有職故実</rb><rt>ゆうそくこじつ</rt></ruby>に通じている吉良だった。勅使饗応を命じられた大名は、吉良の手引きがなくては、手も足も出ないのだった。自然、この役を勤める諸侯から吉良へ<ruby><rb>賄賂</rb><rt>わいろ</rt></ruby>を贈ることが、毎年の例になっていて、吉良のほうでも、いつのまにか、今度は誰それがつとめるのだから、およそいくらぐらいは持って来るであろう、と、心待ちするようになっていた。吉良は、その、天瓜冬の砂糖漬に隠された現金の進物を、賄賂とは解釈していなかった。自分に教えを受けるについての、当然の謝礼――挨拶、と周囲から思わせられてきていた。

添役立花出雲守は、奥州下手渡三万石で、それが百両もはずんだのだから、本役で五万三千石の岡部家からは、まず、五百両は動かないところ、と踏んでいた矢さきに、この扇箱ひとつだった。

「<ruby><rb>侮辱</rb><rt>ぶじょく</rt></ruby>だ。立派な挑戦じゃ――。」

また<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>が出た。

「うむ。おれに訊かんでも、饗応方が勤まるという意じゃろう。面白い。勤めてみるがよい。物の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>ではないぞ。この無礼な仕打ち――はじめてじゃ。」

「殿様。」平茂が、前の扇箱に眼をつけて、手を伸ばした。「<ruby><rb>酔興</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>なお品がこれに。<ruby><rb>松飾</rb><rt>まつ</rt></ruby>がとれますと、扇箱のお払いものはございませんか、って、裏ぐちから顔を出しますな。あれは、買いあつめて、箱屋へ返して、<ruby><rb>来新春</rb><rt>らいはる</rt></ruby>また――。」

吉良は、黙って起った。扇箱を、うしろの違い棚へ置いて、<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>へ返った。

「よいのがあるとか申したのう。」

「現れました。」

いつもの吉良を見て、平茂は、羽織の裾をひろげながら、膝を進め出した。

「あちこち口を掛けておきましたところが、これも縁でございますな。いや、<ruby><rb>逸物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>、<ruby><rb>尤物</rb><rt>ゆうぶつ</rt></ruby>――なんぼ人形食いの殿様でも、これがお気に召しませんようでは、今後こういう御相談は、平茂、まっぴら御免、なんて、前置きが大変。」

「ううむ、どうしてくれよう。」

急に吉良は、両手を握りしめてうつ向いたが、すぐ蒼白く笑って、

「美濃か。美濃か。はっはっは――そうさのう、<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてまいれ、その女を。」

二

<ruby><rb>弊風</rb><rt>へいふう</rt></ruby>、という字を、美濃守は、宙に書いては消していた。

上野介が、三州吉良大浜で四千二百石を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>み、従四位少将の位にあるのは、殿中諸礼式の第一人者だからだった。そして、役目のなかには、もっぱらこの天奏饗応などに際して、慣れない役に当たった大名の面倒を見、万端手落ちのないように勤めさせることが、含まれていていいはずだった。

それなのに、近年――贈るほうもおくるほうだが、うけとるほうも受け取るほうだ、と美濃守は、<ruby><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby>しかけた幕政のあらわれの一つのように思えて、<ruby><rb>憂憤</rb><rt>ゆうふん</rt></ruby>を禁じえなかった。

個人的にも美濃守はあの吉良という人間に普段から、何かしら許しておけないものを感じてきていた。

手違い、不便、吉良の手によって続けさまに、それらの障害が投げられるであろうことは承知の上で――と、美濃守は、ふたたび、弊風、それに、打破の二字を加えて、自分を<ruby><rb>鞭撻</rb><rt>べんたつ</rt></ruby>するように、こころに大書した。

「兄者、お<ruby><rb>在室</rb><rt>いで</rt></ruby>かな。」

大声がして、縁の障子が開いた。辰馬が、荒あらしく踏みこんで来た。

立ったままで、

「兄者、聞こう！　公卿相手の茶坊主ごときやつに<ruby><rb>抗</rb><rt>さから</rt></ruby>って、先祖代々の家をつぶして何が面白い――。」

振りあおいだ美濃守の片面に、燭台の火が、辰馬の持って来た廊下からの風にあおられて、黄色く息づいた。

「賢才ぶったことをいうな。」

といった兄には、やはり、ちょっと兄らしい重みがあった。その<ruby><rb>偉躯</rb><rt>いく</rt></ruby>とともに、武芸家として、また、世事に通じた大名らしくない大名として、平常辰馬の尊敬している兄でもあった。

それだけに、今度の、事を好むような態度が、いっそう不思議でならなかった。

「やるものをやらんと、意地悪をしますぞ、兄者。」

どかりと、坐った。

「わざと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>を教えて役儀に不都合をきたさしめ、それとなく賄賂を催促するということです――。」

「賄賂の督促など、おれには馬の耳に念仏だよ。何もやらんのではない。久野に命じて、四十五文の扇箱をやった。」

「師匠番ですぞ。いくらか風にならって――。」

美濃守は、大きな声を出した。

「吉良には、頼まん。」

「兄者は、殿上の扱いをすべて御存じか。」

「自慢じゃないが、何も知らんよ。しかし、先例というものがある。」

「先例はあっても、時に応じて変ることもあります。」

「そんなら、そのときのことだ。」

「万一、<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>があったらどうなさる。」

「おれ一人が、責任を持ったらいいだろう。」

「お一人ではすみません。お家を、お<ruby><rb>郷藩</rb><rt>くに</rt></ruby>を――。」

「なんじゃ、<ruby><rb>賢</rb><rt>さか</rt></ruby>しらな！　肩をそびやかして詰め寄って――。」

美濃守が、いつものように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬうっ</span>としているので、辰馬は、<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>ってきた。

「兄者は、吉良に怒らせられて、きっと殿中で刀を抜く。<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>――。」

「おれが吉良を斬る――。」馬のように笑って「馬鹿な！」

「いや、必ずそんなことになる。そうすると岸和田五万三千――。」

「斬りなどせんよ、大丈夫――ただ、逆を往くのだ。ははは、は、万事、吉良のいう逆を、な。」

歯を食いしばって、辰馬は、考えに落ちた。

美濃守は、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>ごとのようにけろりとして、その、沈痛な弟の顔を、珍しそうに見ていた。

三

「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」

<ruby><rb>多湖</rb><rt>たご</rt></ruby><ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>は、亀井能登守の江戸家老だった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べっこう</span>ぶちの大眼鏡を額へ押し上げて、微笑の漂っている視線を、岡部辰馬のうえに据えた。

「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は？」

「立花殿です。」

と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。

外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、

「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」

辰馬は、<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>わざ頼みにきたことを、どう切り出していいかわからなくなった。で、黙っていると、外記がひとりでつづけて、

「気骨が折れて、出金が多い。それで、無事勤めたところで、戦場一番槍ほどの功にはならんのですから、一生に一度の、まず名誉かもしらんが、正直、ありがたくありませんな。ところで、申すまでもなく、そこらに抜かりはありますまいが、吉良さまのほうへ、いくらかお<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わしになった――。」

辰馬は、待っていた話題が来たので、四角くなった。

「兄に、何か考えがあるとみえて、吉良への進物は断じてならぬと申しますので、困っております。」

外記は、ぎょっとしたように、

「岡部様らしい。が、それはいかん。それは、危ない。」

「それにつきまして、じつは――。」

「最初の贈り<ruby><rb>額</rb><rt>だか</rt></ruby>がたりませんでな。手前の主人も、さんざ吉良様にいじめ抜かれ、すんでのことで<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>におよぶところ、手前が、遅ればせに、例の天瓜冬の届け直しをやって、はははは――。」

「おそれいりますが、」辰馬は、やっと用を口に出した。

「昨年の勅使お日取りが、お手元にありましたら、ちょっと借覧願いたいのですが――。」

「お易い御用。ありますはずです。」

外記は、そんなことだろうと思っていたといったように、せかせかと鈴を振って、用人を呼んだ。

四

野武士めいた、肩幅の広い美濃守のうしろ姿を、吉良が、憎悪をこめて<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めている時、美濃守が、ふり返った。

眼が合うと、両方が立ち停まって、しげしげと眺めあった。それは、たがいに、珍奇きわまる生物を発見したとでもいうような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やゆ</span>と敵意の交錯した、視線の戦争だった。

吉良を見上げ見下ろしながら、美濃守が、厚い胸を張って、近づいて来た。

城の廊下で、いそがしく往き<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う役人や坊主の影が、壁に明るかった。

「吉良殿、自分は、勅使取持役は不調法です、よろしく。」

吉良は、<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>を向いて、小声に、いわでものことをいった。

「不調法なものを、なぜお受けなされた。」

美濃守が、聞き咎めた。

「これは、異なことを！　上野介殿はそのほうは専門家であるから、万事お手前の指図を仰ぐように、という、土屋相模守殿のお言葉添えがあったればこそ、お引受けしたものを――それを、とやかくいわるるなら、拙者は、これより相模守殿に申達して――。」

吉良は、取り合わずに、さっさと歩き出していた。美濃守の声が、追っかけた。

「お出迎えは、どこまで出るのですか。」

吉良を振り向かせるまでに、美濃守は、同じ問を根気よく、三、四度くり返した。

「お！　美濃守じゃったな。先日はまた、結構な扇箱を――お出迎えぐらいのことを御存じないとは、御冗談でしょう。」

「知っておれば訊きませぬ。知らぬから訊く。品川までかな？」

「品川にはおよびません。芝<ruby><rb>御霊屋</rb><rt>みたまや</rt></ruby>の前あたりまで出られたら、よろしかろう。」

「しからば、」美濃守は、顔いっぱいに笑って、「品川までお出迎えいたしましょう。どうも自分は、吉良殿の逆を往くことが好きでな。」

ほんとうは、もちろん品川まで迎えに出なければならないのだった。

「御随意に。」

さっと赤くなった吉良は、すぐ蒼く、こまかくふるえて、美濃守に背中を見せた。

が、足をゆるめて、肩越しに、

「勅使院使のお日取り――御存じのうてはかないませぬぞ。」

美濃守は、首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。

「知りませんな。が、これだけのことは存じておる――勅使院使公家参向当日、お使い御老中、高家さしそえこれをつかわさる。御対顔につき、登城。<ruby><rb>摂家宮</rb><rt>せっけのみや</rt></ruby>、<ruby><rb>門跡</rb><rt>もんぜき</rt></ruby>方、その他使者楽人、三職人御礼。溜詰御譜代衆、お役人出仕。御対顔済み、下され物あり。御饗応前、お能見物の儀、御三家、両<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんがしら</rt></ruby>の内。御返答につき、公家衆地下一統出仕。おいとま仰せ出ださる。一同拝領物。<ruby><rb>発駕</rb><rt>はつが</rt></ruby>之日、御馳走大名お届け登城――。」

おや！　と思いながら、

「もうよろしい。お日取りというのは、それです。」

「何だ、これしきのことですか。」

吉良は、むっとした。しかし、殿中だった。じっと自分を抑えて、美濃守の嘲笑をあとに、足を早めた。

身を変えて

一

「御覧になったでしょうか。」

<ruby><rb>糸重</rb><rt>いとえ</rt></ruby>は、白い顔を上げて、良人を見た。

床柱にもたれて、辰馬は、眼をつぶっていた。しばらく答えなかった。

辰馬の住いに、水のような暮色が、忍び寄っていた。室内は、灯がほしかった。

「見たろう。」辰馬がいった。「机の上に置いてきたから――。」

「紙にお書きになって――。」

「うむ。多湖殿に頼んで、写さしてもらったのだ。気持ちよく見せてくれたよ。お日取りなどは、毎年変るものではないから、兄貴が、あれさえ<ruby><rb>記憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えておれば、だいたい間違いはあるまい。」

夫婦はふたりいっしょにほっと安心の息をもらした。

糸重が、笑った。

「ほんとに、昨年の御本役、亀井様にお尋ねとは、思いつきでございました。」

「兄貴がああいう性質だから、傍がやきもきして、手落ちのないように盛り立てねばならぬ。お日取りという第一の難関は、これで過ぎたが――いや、賄賂さえつかわせば、何のことはないんだがなあ。」

「兄上様に知れずに、こっそり――。」

「それはできぬ。吉良の態度で、兄にすぐ知れるよ。」

糸重は、黙り込んだ。

腕を組み直して、辰馬が、妻の顔を覗きこむように、

「亀井殿に訊くことも、そうたびたびはならぬ。また、昨年と今年で、じっさい変ることもあるに相違ない。土台、兄貴の頑固ときたら、何も知らんくせに、自分一個の<ruby><rb>量見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>で押し通すなどと、おれにさえ聴こうとはせぬ。書き物にして、そっと机のうえに残しておくと、人のおらぬのを見すまして一生懸命に読む始末だ。兄貴の面白いところだが、今度は困ったよ。あれで、短気だから、吉良の<ruby><rb>性悪</rb><rt>しょうわる</rt></ruby>に勘忍しきれずに、大事にならねばよいが――。」

糸重が、しんみりと、

「おあにい様のお身の上――ひいては、お家が第一でございますから。」

「ついては、おれに策がないでもない。お前にも、ちょっと働いてもらわねばならんかもしれぬが。」

辰馬の声に、きっとしたものが聞かれて、糸重は、身を固くした。

「はい、何なりと――。」

「平茂のう、あの、<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ小間物の――。」

と私語になって、辰馬がにじり寄って来ていた。

二

駿河町の裏通りの自宅を出た平野屋茂吉は、高価な商売物のはいった桐箱を、風呂敷包にして提げて、片手に傘をさして歩いていた。

<ruby><rb>鎌倉河岸</rb><rt>かまくらがし</rt></ruby>に、三月の雪が降って、茶いろのぬかるみに白い斑点があった。

「おい、平茂じゃあねえか。」

辰馬は、御家人くずれといった、やくざな服装でそこらをぶらつきながら、平茂を張っていたのだった。

声をかけて、傘の下へはいって行った。

「どこへ行く。嫌なものが、落ちたぜ。」

「おや、これは、岡部の若殿様でしたか。」

きょとんとしたが、顔中に愛嬌を見せた平茂は、

「そのお<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えは――ははあ、雪の日に、<ruby><rb>尾羽</rb><rt>おは</rt></ruby><ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ち枯らした御浪人、刀をさした<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>という御趣向で、なるほどな、おそれいりました。おそれいりました。」

「<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>をするなよ。好きで、こんな恰好ができるか。」

並んで、歩き出した。

「しかし、御無沙汰つづきで――お見それ申しやしたよ。」

だしぬけに、辰馬がいった。

「兄貴が、かまってくれぬ。恥かしながら、このざまだ――。」

「へ？」

平茂が訊き返したが、辰馬は、ひとり合点でしゃべりつづけた。

「不如意だらけ――どうにもこうにもやりきれんのだ。一時、女房を預けたいと思うのだが――。」

「糸重様を？」平茂は、歩をとめて、狡猾そうに辰馬を見た。「御冗談で。」

「背に腹は換えられぬ。本人も承知だ。妾奉公でも何でも、といっておる。」

二人は、どっちからともなく、<ruby><rb>降雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>の中に、膝を包んでしゃがんでいた。

声をひそめて、辰馬が、

「貴様、鍛冶橋のおやじにひとり、頼まれてるというじゃねえか。」

「吉良様ですか。よく御存じで。」

「地獄耳よ。早えやな。きまったのか、そっちのほうは。」

「いえ、まだお見せしたわけではなし、決まったというわけではございませんが――ほんとですか、殿様。」

「うそでこんなことがいえるか。ぜひ糸重を吉良へ世話してくれ。頼む。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もとより</rt></ruby>、五万三千石の弟の奥では困るから、そこはそれ、そちのいつもの伝で、要領よく、魚屋なり灰買いなり、仮親に立てて――。」

「糸重さまを、ね。糸重様なら、申し分ござんせんが、御身分を隠して、と――。」

平茂の眼に、異様な輝きが来た。

三

日光は、どこにでもあって、石も、木も、庭ぜんたいが幸福そうにあたためられていた。

小さな<ruby><rb>寒梅</rb><rt>かんばい</rt></ruby>の鉢植を、自分で地に根下ろして、岡部美濃守は、手を土だらけにしていた。

背中に跫音を聞いて、ふり返った。

久野が、腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて近づいて来ていた。一人だと思ったのが、重なっていた<ruby><rb>十寸見</rb><rt>ますみ</rt></ruby>が、うしろに動いて見えた。

そばまで来ないうちに、美濃守の大声だった。

「訊いてまいったか。」

「は。吉良様にはお眼通りかないませんでしたが、御用人をとおしまして――。」

ならんで立ち停まって、久野が答えた。

「天奏衆お宿坊の儀は広光院なそうにござります。」

美濃守は、大きな音を立てて、土を払った。

「広光院か。そんなことは、はじめからわかっておる。普請等手当て、掃除万端は、何といった？」

「は。」十寸見が、かわって、「<ruby><rb>修繕</rb><rt>ていれ</rt></ruby>は、何も<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りませんそうで。」

「なに、手入れはいらん？」

「ただ、お庭だけはちょっと掃除しておけばよいと申されました。」

「そうか。」美濃守は、青い空を仰いで考えていたが、「壁の塗りかえは？」

「<ruby><rb>質</rb><rt>たず</rt></ruby>ねましたが、まったく不要との御返事でした。」

「障子の貼り替えは？」

「それも、心配いらぬとのことで――。」

「畳がえは、どうだな。」

「今のままで結構といわれましたが――。」

「廊下、<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>などは、もとより丹念に磨かずばなるまい。」

「いえ、ざっと掃くだけでよいとの――。」

美濃守は、大きなからだを揺すぶって、上を向いて<ruby><rb>哄笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

「御苦労。いや、それでよくわかった。大儀、大儀――それではな、さっそく手配して、庭から屋内から、すっかり修理するようにいたせ。」

「しかし、」久野が不審気に、「そういう必要がないと吉良様が――。」

「よい。黙って聞け。壁は、なかなか乾かぬから、至急に塗りかえさせろ。」

「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」

「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」

久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、

「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」

そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。

四

広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。

その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを<ruby><rb>機会</rb><rt>きっかけ</rt></ruby>に、美濃守をとっちめてやろうと、いくぶん今日をたのしみにしていた。

いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。

今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。

が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちなかった。そして玄関をはいると、<ruby><rb>新壁</rb><rt>あらかべ</rt></ruby>と、あたらしい畳のにおいが、鼻をついた。

「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに<ruby><rb>準備</rb><rt>ととの</rt></ruby>えおったらしいぞ。」

奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。

久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。

「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」

と、ふと、座敷の隅を見て、

「あそこには<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>が一双ほしいところじゃが――。」

閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。

「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、<ruby><rb>狩野</rb><rt>かのう</rt></ruby><ruby><rb>法眼</rb><rt>ほうげん</rt></ruby><ruby><rb>永徳</rb><rt>えいとく</rt></ruby>あたりが、出ず入らずのところと――。」

そのとおりだった。永徳とは、<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>ったことをいうやつ――誰だろう、と吉良は、不審に思った。

ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、

「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」

係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。

五

平茂が、目見得に<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。

が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。

夜になって、吉良が<ruby><rb>寝</rb><rt>しん</rt></ruby>につく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>として来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。

名を訊くと、お糸といった。<ruby><rb>請人</rb><rt>うけにん</rt></ruby>の平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、<ruby><rb>了解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>しているはずのことをことごとしくいいだすのも<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。

「変った女だ――。」

こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。

で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。

馬鹿にされているような気がしないでもなかった。

吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、

「は、ははは、一つ、今夜あたり<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いてみるかな――。」

口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。

明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の<ruby><rb>屈託</rb><rt>くったく</rt></ruby>もなさそうなお糸の顔があった。

通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。

<ruby><rb>敷居</rb><rt>しきい</rt></ruby>に、三つ指をついていた。

重い髪を、ゆらりと上げかけて、

「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」

お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。

じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。

六

玉虫<ruby><rb>靱負</rb><rt>ゆきえ</rt></ruby>は、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。

正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。

腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。

「どうもおそく参上いたしまして――。」

「いや、なに、かまいません。」

吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。

用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。

「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」

すぐ、吉良からきりだした。

用人の<ruby><rb>左右田</rb><rt>そうだ</rt></ruby>孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。

「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」

「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」

吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいた。

「お役上、何か御不審でも――。」

「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」

「その料理を――。」

「当日は、清らかなお席、<ruby><rb>生臭</rb><rt>なまぐさ</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>って<ruby><rb>精進</rb><rt>しょうじん</rt></ruby>精物でございましょうか。」

「いや、精物というは、<ruby><rb>潔</rb><rt>きよ</rt></ruby>きものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」

「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを<ruby><rb>承</rb><rt>うけたまわ</rt></ruby>りに上りましたようなわけで。」

吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。

「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」

吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。

礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。

「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は<ruby><rb>上野</rb><rt>こうずけ</rt></ruby>が引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」

お糸は、何か胸中にうなずいている<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で、玉虫を送りに、つづいた。

親抱きの松

一

饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。

不意の声が、美濃守の首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ向けた。

「岡部殿！」

吉良だった。

美濃守は、無言で、眼で訊いた。

「――――。」

「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」

うそぶくように、美濃守が、

「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」

「とすましておられて、それでよいのか。」

「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」

憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。

「知らぬことは、どうにもならぬ？　よく、さような口が――。」

「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>が、何かと教えてくれるであろうから、まあ、どうにかなるでしょう。などと考えて、あえてあわてませぬ。」

「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」

「それも御存じないから、呆れたものですな。」

「美濃殿！」

吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、<ruby><rb>焦</rb><rt>いら</rt></ruby>だった声を出した。

「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、<ruby><rb>御饗餐</rb><rt>ごきょうさん</rt></ruby>は、魚類をいといます。精進料理ですぞ。」

美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。

今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。

にっと、笑って、

「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、<ruby><rb>初春</rb><rt>はつはる</rt></ruby>の慶賀に御下向なさるに、何で精進料理ということがありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」

吉良は、背骨が棒に<ruby><rb>化</rb><rt>な</rt></ruby>ったように硬直して、唾を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでいるだけだった。

手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。

二

「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」

押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。

ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>やかな<ruby><rb>媚笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を作った。

「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>に<ruby><rb>抗</rb><rt>さから</rt></ruby>いましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」

いいながら、いくら<ruby><rb>間者</rb><rt>かんじゃ</rt></ruby>としても、心にもない<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>を――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を、と、ぞっとした。

刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。

「ただ、何だ――それなら、なぜ<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かれぬ、と申すのじゃ。」

蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。

はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。

乾いた音だった。

「妾が――意に添うも添わぬもないはず。<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を申してみい。」

いつものように、吉良の就寝を見て、<ruby><rb>自室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。

「わけと申して、べつに――。」

吉良は、何気なくよそおっていた。が、<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>らしくもなく、手出しして<ruby><rb>拒</rb><rt>は</rt></ruby>ねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。

しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。

いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と、本人のお糸への、意地もあった。

何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。

糸重は、泣いていた。

吉良が、いつになくやさしく、

「何を泣く――？」

一寸<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れを、いわなければならなかった。

「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」

「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との<ruby><rb>証拠</rb><rt>しるし</rt></ruby>にな。面白いぞ。して何が<ruby><rb>所望</rb><rt>しょもう</rt></ruby>じゃ。」

とっさの思いつきに、困って、

「あの――。」

と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。

「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」

糸重は、あわてた。

「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」

ほっとして、いった。

三

「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ！」

職人のひとり言だった。

吉良からの注文書を置くと、すぐ、<ruby><rb>奇科百種新述</rb><rt>きかひゃくしゅしんじゅつ</rt></ruby>と標題のある工学書を参考して、

「ええと、何だって？――木地を塗りて<ruby><rb>玳瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>あるいは<ruby><rb>大理石</rb><rt>マルメル</rt></ruby>の観をなさしむる法、とくらあ。まず材をよく磨きてのち、<ruby><rb>鉛丹</rb><rt>たん</rt></ruby>に<ruby><rb>膠水</rb><rt>にかわ</rt></ruby>、または<ruby><rb>尋常</rb><rt>よのつね</rt></ruby>の<ruby><rb>荏油</rb><rt>えのゆ</rt></ruby><ruby><rb>仮漆</rb><rt>かしつ</rt></ruby>を<ruby><rb>和</rb><rt>あわ</rt></ruby>せたる、黄赤にして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たいまい</span>色をなすところの<ruby><rb>元料</rb><rt>もと</rt></ruby>を塗る。さてこれに、血竭二<ruby><rb>羅度</rb><rt>らど</rt></ruby>、焼酎十六度よりなる<ruby><rb>越幾斯</rb><rt>エキス</rt></ruby>にて、雲様の<ruby><rb>斑点</rb><rt>とらふ</rt></ruby>を<ruby><rb>模彩</rb><rt>うつ</rt></ruby>す。かつ、あらかじめ<ruby><rb>原色料</rb><rt>くすり</rt></ruby>をよく乾かすよう<ruby><rb>注意</rb><rt>きをつけ</rt></ruby>、清澄たる洋漆を<ruby><rb>全面</rb><rt>そうたい</rt></ruby>へ<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びせるべし。」

<ruby><rb>常磐橋</rb><rt>ときわばし</rt></ruby>の東の、<ruby><rb>石町</rb><rt>こくちょう</rt></ruby>一丁目にあって、<ruby><rb>御影堂</rb><rt>みかげどう</rt></ruby>として知られた、扇をつくる家だった。京都五条の橋の西の御影堂が本家で、<ruby><rb>敦盛</rb><rt>あつもり</rt></ruby>の<ruby><rb>後室</rb><rt>こうしつ</rt></ruby>が落飾して尼になり、<ruby><rb>阿古屋扇</rb><rt>あこやおうぎ</rt></ruby>を折って売り出したのが、いまに伝わっているといわれていた。おうぎ形の<ruby><rb>槻板</rb><rt>つきいた</rt></ruby>に、大きく屋号を書いた<ruby><rb>招牌</rb><rt>かんばん</rt></ruby>が、さがっていた。

そこの<ruby><rb>工作</rb><rt>しごと</rt></ruby>場だった。

扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。

「大理石の<ruby><rb>様模</rb><rt>はだ</rt></ruby>をあたうるには、<ruby><rb>随意</rb><rt>おもう</rt></ruby>ところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに<ruby><rb>擬</rb><rt>まぎら</rt></ruby>し、後に<ruby><rb>落古</rb><rt>ラッカ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せて<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>出しするを<ruby><rb>善</rb><rt>よし</rt></ruby>とす――。」

そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。

それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>すことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。

風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。

義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の<ruby><rb>費</rb><rt>かか</rt></ruby>りそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。

吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。

毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。

四

立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。

お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。

<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のないのを見すまして、背戸の<ruby><rb>柴折</rb><rt>しお</rt></ruby>り戸をあけた。

いつものように、宵闇に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて、<ruby><rb>折助</rb><rt>おりすけ</rt></ruby>すがたに<ruby><rb>装</rb><rt>つく</rt></ruby>った辰馬が、ぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>た</rt></ruby>っていた。

手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、

「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こつ</span>なそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」

辰馬は、頬被りの奥から、

「ほかに、心得は？」

「当日は、必ず<ruby><rb>大紋烏帽子</rb><rt>だいもんえぼし</rt></ruby>のこと――。」

「その他――気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>く。」

垣根を離れて、行こうとするので、

「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが、お出迎えなされます。」

「うむ。それで？」

「その節、吉良は、高家筆頭の格式でお<ruby><rb>掛縁</rb><rt>かけえん</rt></ruby>とやらまで出ますそうでございますが、兄上さまと立花様は、本座に――。」

「本座――ではわからぬ。どこだ、本座と申すのは。」

「何でも、おひき出しと申す場所だと――。」

「よし。お<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>だな。」

去りかけた辰馬が、引っかえしてきて、

「扇は、は、ははははは、まだであろうな。」

「はい。まだでございます。でも、もうすぐ――危のうございますので、変り骨だけでは心細いと、あとから、いま一つ、難題を加えてやりました。吉良の知行、下野の稲葉の里に、親抱きの松というのがございまして、常から吉良が自慢にいたしております。いつぞや順礼がその松の下で相果てましたので、土地の者が、葬いのしるしに、それなる老木の傍に若松を一本植えましたところが、小松が枝を伸ばして、親松の幹を押さえましたそうで――さながら枝で支えようとしております恰好から、吉良が<ruby><rb>命名</rb><rt>なづ</rt></ruby>けまして親抱きの松と呼んでおります。これから考えつきまして、扇面いっぱいに、三万三千三百三十三の松の絵を、<ruby><rb>梨地蒔絵</rb><rt>なしじまきえ</rt></ruby>で、<ruby><rb>幸阿弥</rb><rt>こうあみ</rt></ruby>風に――面倒な注文でございますが、御影堂では、夜も昼も、職人から主人からかかりきりで、それもやがて、仕上げに近いと聞きましてございます。心配でございますが、どうすることもならず――。」

影絵を見る

一

お<ruby><rb>白書院</rb><rt>しろしょいん</rt></ruby>に、飾りつけができていた。

大広間上席、帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間と、相役が席についた。

静寂が、城中に渡って、柳原大納言、<ruby><rb>正親町</rb><rt>おおぎまち</rt></ruby>中納言、<ruby><rb>甘露寺</rb><rt>かんろじ</rt></ruby>中納言の三卿が、お上りという時だった。

服装のことなど、教えてないはずだから、場違いの<ruby><rb>長裃</rb><rt>ながかみしも</rt></ruby>でも着けていはしまいか――そうだと面白いのだが、と、吉良が、美濃守の姿を求めると、立派に大紋烏帽子だった。

吉良は、拍子抜けがして、美濃守が前へ来ても、このあいだからのように、何か一こと敵意を示してやるだけの気にも、なれなかった。

口を切ったのは、美濃守だった。

「御次第書とかいうものがあろうかの。見せられい。」

<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>なことばつきになっていた。

吉良は、無言で、相手を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「おい、御次第書は、どうした。ないのか。本役の美濃である。一応、眼を通しておかなければ、不都合だ。さし出すがよい。」

眼に見えて、吉良は、ふるえてきた。

「ござらぬ。」

「紛失いたしたな。」

「いや、持っておる。が、このほうは高家筆頭じゃ。わしが見ておれば、それで充分。お手前に関係したことではない。」

「なに、御饗応のお次第書が、本役のおれの知ったことではないと――。」

吉良は、生えぎわに汗を見せて、

「まあさ、そう大きな声をされんでも――今にも天奏衆がお着きになる。その<ruby><rb>銅鑼声</rb><rt>どらごえ</rt></ruby>がお耳にはいっては、おそれ多い。」

が、美濃守は、たたみかけるように、

「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ！」

どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。

美濃守は、にやりとして、

「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お<ruby><rb>徒士頭</rb><rt>かちがしら</rt></ruby>が出る。定例じゃぞ。十三日が、天奏衆御馳走のお能。<ruby><rb>高砂</rb><rt>たかさご</rt></ruby>に、<ruby><rb>三番叟</rb><rt>さんばそう</rt></ruby>。名人鷺太夫がつとめる。御三家、老若譜代大名、諸番がしら、物頭、お医師まで拝観、とある。おぼえておけ。」

吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで立った。

二

「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」

京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊<ruby><rb>法然</rb><rt>ほうねん</rt></ruby>の像をまつって、時宗だったから、僧形で妻帯していたが、円頂で扇をつくって京の名物男だった。

それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。

辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。

手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れぼれと眺めた。

辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、

「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」

「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう？　どうですい、この<ruby><rb>扇骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>の色は。十本物だが、磨きは、自慢じゃあねえが、蘭法でも、ちょいと新しい式でね、いや、職人泣かせでしたよ、まったく。」

「うなずかれる――。」

「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。

「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」

「松がまた、よく描けておるな。」

辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。

「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>だて――これで、松の数は、三万三千三百三十三あるのか。」

「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」

「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」

「ええ、そんなもの、いつだって――。」

歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。

辰馬が、おとしたのだった。

扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。

「お！　これは、とんだ――。」

叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。

「何をしやがる！　直すのに、また何日かかると思うんだ――。」

「粗相だ。許せ！」

もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。

三

勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お<ruby><rb>掛縁</rb><rt>かけえん</rt></ruby>に控えて、最後に、すべての<ruby><rb>配</rb><rt>くば</rt></ruby>りはよいかと、あたりを見廻した。

岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。

いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、<ruby><rb>争</rb><rt>あらそ</rt></ruby>えないと吉良は思った。

仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。

吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、

「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと！　今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」

扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。

勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。

「美濃殿――。」

聞こえないらしかった。

「美濃殿！」

のっそりと、美濃守が、答えた。

「何じゃい。」

「お席が違いますぞ。」

「はあ？」

吉良は、面白くなってきた。

「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」

「なに？　何をぶつぶついわれおる。」

美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。

「本座にお直りなさい、本座に！」

「本座？　本座とはどこですかな。」

「しっ！　さような大声を――早く、本座へ！」

「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」

「何を申す！」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない！　ええいっ！　本座へ控えるのだ、本座へ。」

つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>へ<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>るのを見ると、吉良は、かっとした。

美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。

<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>されぬいていた――眼のまえに、何か赤いものが<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り立つように、吉良は、感じた。

四

「関東の武家、名は何といわるる？」

<ruby><rb>正親町</rb><rt>おおぎまち</rt></ruby>中納言が、ものずきに、岡部美濃守をふり返って、訊いた。

饗応役は、勅使にしたがって、松の廊下まで来かかっていた。

「岡部美濃守です。」

ぶっきら棒にいうと、中納言は、笑って、

「関東は武をもって治むる国である。<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しい御体格ですな。定めしお力があろう。見たい。」

「心得ました。」

と、それを掛け声に、美濃守は、やにわに、すぐ前を往く吉良に手をかけた。

「何をなさる！　乱心――。」

<ruby><rb>踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いたが、枯れた吉良のからだは、美濃守の両手に差しあげられて、頭のうえを高く、空に泳いでいた。

<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>がまがり、<ruby><rb>中啓</rb><rt>ちゅうけい</rt></ruby>が、飛んだ。と、吉良は、美濃守に受けとめられて、すうっと、<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わるように、抱き下ろされていた。

武骨な<ruby><rb>座興</rb><rt>ざきょう</rt></ruby>――として、笑い声をあとに、天奏衆は、もう、かなり先へ進んで行っていた。出雲守をはじめ、あっけにとられた人々の顔が、まわりにあった。

吉良は口がきけなかった。なんという暴！――もはや、これまでだと思った。

「美濃、待てっ！」

叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。

美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。

<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>だった。吉良は、それを、一瞬にこころに描いた。

殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>三寸ひろげれば、大変なことになるのだった。

が、<ruby><rb>勘忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>ぶくろの<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>が切れた。じぶんは、どうなってもよかった。乱心といわれても、切腹でも、そんなことは、かまっていられなかった。

吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。

松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。

<ruby><rb>初太刀</rb><rt>しょだち</rt></ruby>は、烏帽子の金具に当って、流れた。二の太刀は、伸びて肩先へ行った。

美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。<ruby><rb>梶川</rb><rt>かじかわ</rt></ruby><ruby><rb>与惣兵衛</rb><rt>よそべえ</rt></ruby>だった。大力の人で、すっかり<ruby><rb>羽掻</rb><rt>はが</rt></ruby>い<ruby><rb>締</rb><rt>じ</rt></ruby>めに、うごきが取れなかった――吉良は、身をゆすぶった。

「残念――。」

「いかがめされた、吉良殿！」

ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。

「<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り上げられて、眼が廻ります。どうも乱暴だ。」

「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな？」

吉良も、仕方なしに、苦笑していた。

「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」

勅使に<ruby><rb>随</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、廊下の端に、美濃守のすがたが小さく見えていた。