深山の巻――<ruby><rb>女髪兼安</rb><rt>にょはつかねやす</rt></ruby>――

猿の湯

岩間に、黄にむらさきに<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>が咲いて、夕やみが忍び寄っていた。

ちょうど石で畳んだように、満々と湯をたたえた<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>の池である。<ruby><rb>屹立</rb><rt>きつりつ</rt></ruby>する巌のあいだに湧く天然の野天風呂――両側に迫る山峡を映して、緑の絵の具を溶かしたような湯の色だった。

<ruby><rb>三国</rb><rt>みくに</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>嶽</rb><rt>だけ</rt></ruby>を背にした<ruby><rb>阿弥陀沢</rb><rt>あみださわ</rt></ruby>の自然湯――。

白い湯気が樹の幹に<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わる。澄んだ湯壺の隅に、山の端の夕月が影を落していた。

「なんという静かさだろう！　まるで大昔のような――。」

千浪は、あたまの中で独り言をいいながら、透きとおる底の平たい小石を、珍しげに数えはじめた。

岸の岩に<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を預けて、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は深く湯に浸かっている。十九の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の裸形は、白く、青く湯のなかに伸びて、桜貝を並べたような足の爪だ。小さな花びらが流れ付いたと見える乳首である。うす桃色に上気した、くっきりと美しい顔が、魅されたように、いつまでも湯底を覗いている。

耳の痛くなるような山の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>――。

頭の上に覆いかぶさる深い木立ちは、いま、宵へ移ろうとして刻々に黒さを増し、空を屋根のこのいで湯の表は、高い夕雲の去来を宿して、いっそう<ruby><rb>深沈</rb><rt>しんちん</rt></ruby>と<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え返ってくる。

谷あいに群立つ岩のあいだに、一枚の小鏡を置いたよう――<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>、白樺、杉、柏、などの高山のみどりを縫って、ほのかな湯の香が立ち迷い、うえの尾根を行く人には、この<ruby><rb>沢壺</rb><rt>さわつぼ</rt></ruby>の湯は、茶碗の底を指さすように眼に入るのである。

だが、旅人の通る道すじではない。

ましてこの夕ぐれ時、父の<ruby><rb>法外</rb><rt>ほうがい</rt></ruby>も、あの大次郎様も、この上の森かげのたった一軒の湯の宿――それも、宿屋とは名ばかりの藤屋で、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の膳を前に自分の帰りを待っているだけで、今どきこの湯つぼへ下りて来る人はあるまいと、千浪は安心して、<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>もなくその<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を湯に<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>らせて、上ることも忘れたふうだった。

<ruby><rb>逢魔</rb><rt>おうま</rt></ruby>が<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>という。

山の精にでも憑かれたのか――やがて、涼しい声が千浪の口を洩れて、

「ひとうつ、ふたあつ、三つ――、四つ、いつつ、六つ、七つ――。」

数を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えだした。興に惹かれるまま唄のように節をつけて底の<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>を読んでいるのだ。

「九つ、十、十一――。」

一つは二つと、思わず、声が高くなった。

その声が、魔を呼んだのである。

「はてな――？」

と小首を傾けて、その時、この阿弥陀沢の頂きを急ぎ足に来かかった<ruby><rb>葛籠笠</rb><rt>つづらがさ</rt></ruby>が、はたと、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を停めた。

「声がする。待てよ。女の声のようだが――。」

ふかいつづら笠に面体は隠れて、編目の隙に、きらりと眼が光るだけだが、<ruby><rb>道中合羽</rb><rt>どうちゅうがっぱ</rt></ruby>に<ruby><rb>紺脚絆</rb><rt>こんきゃはん</rt></ruby>、あらい滝縞の裾を<ruby><rb>尻端折</rb><rt>しりばしょ</rt></ruby>って、短い刀を一本ぶっ差した<ruby><rb>二十七八</rb><rt>しっぱち</rt></ruby>のまたたび姿。

「ううむ！　好い声だなあ。この<ruby><rb>文珠屋佐吉</rb><rt>もんじゅやさきち</rt></ruby>の足をとめる声、聞いていて、こう、身内が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞくっ</span>とすらあ！――<ruby><rb>駿</rb><rt>すん</rt></ruby>、<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>、<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>の三国ざかい、この山また山の行きずりに、こんな、玉をころがす声を聞こうたあ、江戸を出てこの方、おいらあ夢にも思わなかった。おお、何か数えている声だが――。」

右手に谷を望んで、剣の刃わたりのような一ぽん路だ。草のなかの小径に、釘づけにされたように歩を忘れた男の耳へまたしても響いてくる銀鈴の山彦――。

「下から聞える。それに、湯のにおいがする。」男は片手を耳屏風に、「十一、十二、十三――何を数えてるのか知らねえが、とんだ皿屋敷だ。ここらは猿の<ruby><rb>棲家</rb><rt>すみか</rt></ruby>だてえから、定めし狐も多かろう。化かされめえぞ。」

と、歩きかけたとたん――木の間をとおして、閃めくように眼に入った眼下の湯の池と、そして、そこに何を認めたのか、江戸の文珠屋佐吉と自ら名乗るその男は、ひた、ひた、と吸い寄せられるように路を外れて、<ruby><rb>歯朶</rb><rt>しだ</rt></ruby>を踏みしだき、木の根を足がかりに、たちまち、そこに、谷を覗きぐあいに<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えている一本の山桂の枝へ、<ruby><rb>油紙包</rb><rt>ゆしづつみ</rt></ruby>の<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわ</rt></ruby>けを肩にしたまま、ひょいと飛びついた。

ひらり！

奇怪！　なんという身の軽い男！

天然露天の風呂の真うえに高く、自分こそまるで、猿のように、枝の繁みに身をかくして。

そっと窺う文珠屋の顔が、葛籠笠の中で、にたりと笑った。

はるか下に、岩のあいだに湯を使う山の人魚がある。

三国ヶ嶽のふもとに、<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこり</rt></ruby>や<ruby><rb>猟人</rb><rt>かりうど</rt></ruby>のみ知る無蓋自然の<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>で、里の人は呼んで猿の湯という。

富士も、ここまで来ると低い。

<ruby><rb>靉靆</rb><rt>あいたい</rt></ruby>たる暮色が、山伏、大洞、足柄の峰つづきに押し<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>もって、さざなみ雲のうえに、<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のように肩を出している宝永山の一面にだけ、相模潟の入り陽が、かっと照り映えていた。

胸突き三里

甲斐、駿河、相模と――三国が三角点に境を接している三国ヶ嶽。

東はさがみの<ruby><rb>足柄郡</rb><rt>あしがらぐん</rt></ruby>、西、するがの国<ruby><rb>駿東郡</rb><rt>すんとうぐん</rt></ruby>、そして、北は甲斐の<ruby><rb>都留郡</rb><rt>つるぐん</rt></ruby>である。この三つの国が、富士の裾の<ruby><rb>籠坂峠</rb><rt>かごさかとうげ</rt></ruby>から一線に延びる連山の一ばん高いてっぺんに出会ったところが、この三国ヶ嶽で、いうまでもなく、訪う人も<ruby><rb>深山</rb><rt>みやま</rt></ruby>の奥だ。

阿弥陀沢は、この三国ヶ嶽のすぐ下にある。朝夕、<ruby><rb>檐</rb><rt>のき</rt></ruby>の端に富士を仰いで、春から夏を飛んで、すぐ秋虫の音を聞く山家住まい、あみだ沢は山あいに五、六軒の<ruby><rb>草葺</rb><rt>くさぶ</rt></ruby>きが<ruby><rb>集</rb><rt>かた</rt></ruby>まって炭焼き、黒水晶掘り、木こりにかりうど、<ruby><rb>賤機木綿</rb><rt>しずはたもめん</rt></ruby>、<ruby><rb>枝朶細工</rb><rt>しだざいく</rt></ruby>などを<ruby><rb>生業</rb><rt>なりわい</rt></ruby>の、貧しい小部落だった。

が、<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>が出る。と言っても、部落から小半町下りた谷間の岩に。

<ruby><rb>稀</rb><rt>たま</rt></ruby>に、山越えの諸国担ぎ売りが宿をとるくらいのもので、もとより<ruby><rb>浴客</rb><rt>よっきゃく</rt></ruby>などはないのだから、温泉とはいっても、沢の底の奇巌のあいだに噴き出るに任せ、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>るるままに、ちょうど<ruby><rb>入浴</rb><rt>はい</rt></ruby>りごろの加減のいい湯が、広やかに四季さまざまの山の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>をうつしているだけ、村びとは屋根ひとつ掛けず、なんらの手も加えていない。

岩からいきなりあつい湯へ飛びこんで、鼻唄まじりに富士をあおごうという寸法。

風流――などとは他国者のいうことで、遠国から旅をかけてわざわざ湯にはいりに来るものがあろうとは、阿弥陀沢の人は、何百年来誰ひとり考えてみたこともなかった。

<ruby><rb>湯治</rb><rt>とうじ</rt></ruby>などという<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>は、あみだ沢にはないのだった。

で、前の谷の猿の湯は、長いこと、猟人が峰づたいの山狩りの汗を洗い、炭やきが、<ruby><rb>煤煙</rb><rt>すすけ</rt></ruby>を落すだけの場所だったが――それがこのごろ、遙か下の町の人々にも知れて来たとみえて、ぽつぽつ入湯の客が<ruby><rb>登山</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来る。遠く、山にとっては外国のようなひびきを持つ、花の都のお江戸からさえも、といっても、月にふたりか三人の逗留客があるにすぎないが、それでも、上って来る者のあるのに不思議はないので、じつはこの猿の湯は、さながら<ruby><rb>神薬</rb><rt>しんやく</rt></ruby>と言っていい<ruby><rb>霊験</rb><rt>れいげん</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているのだ。

きく。打ち身、切り傷にうそのようにきく。

たいがいの<ruby><rb>金創</rb><rt>きんそう</rt></ruby>は、三日の入浴で肉が盛り上り、五日で傷口がふさがり、七日でうす皮が張り、十日ですっぱり痛みが<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>れて、十五日目には跡形もなく、一月もいれば、傷あとを打っても叩いても、何の<ruby><rb>痛痒</rb><rt>うずき</rt></ruby>も感じないという。

ことに、二つき三月とこの猿の湯に<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>かりあげれば、年どしの季候の変り目に、思い出したようにふる傷が泣くということがない。

別人のような達者なからだになって山を下りられる――と旅の者の口が<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろ</rt></ruby>めて、おのずから諸国へ散ったのであろう。この、幕運ようやく衰えかけて、天下なにとはなしに騒然たる時節である。肩から背へ大きく繃帯して、葛籠笠に顔を包み、山ふじの杖をつく武家すがた。賭場の<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>でいり</rt></ruby>で長脇差を喰らったらしいやくざ者など、そういった物凄い<ruby><rb>手傷者</rb><rt>ておい</rt></ruby>が、世をはばかり気に爪さき上り、山へ、この阿弥陀沢へ、と志すのだった。

相模から登る者は山北路。

駿河路は、竹の下みちから<ruby><rb>所領</rb><rt>しょりょう</rt></ruby>、<ruby><rb>中日向</rb><rt>なかひなた</rt></ruby>とまわって、

甲斐筋は、勘治村から道士川を越える。

その誰もが、傷もつ身。世を忍ぶ面をかくして、山露をしのぐよすがのつづら笠――。

猿の湯をとりまいて、三国ヶ嶽の麓に唄ができている。

あみだ上りはみな葛籠笠、どれが様やら主じゃやら

で、<ruby><rb>杣</rb><rt>そま</rt></ruby>しか通わなかった道に、湯治客の草鞋のあと<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>く、今は、阿弥陀沢村の一戸にまあたらしい白木の看板が掲がって――御湯宿、藤屋。

内湯ではないから、客は、藤屋から山下駄をはいて、小みちづたいに、谷底の猿の湯まで下りるのである。

だが――。

文珠屋佐吉は、金創をもつ<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>ではない。

桂の枝にぶら下がって、真下の猿の湯に千浪の<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>をさんざん眺めあきたかれ佐吉、ふたたびかるく枝をゆすぶって、元の小径へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんと</span>跳びかえると、

「いい女だなあ。どうやら、山の娘っこじゃあねえらしいぜ。おいらの面さえ、こんな化けものでなかったら――。」

と心から口のなかで呟いたが、恐ろしいことに触れたようにぶるぶると口びるを鳴らして、かれはさっさと歩き出していた。葛籠笠の奥ふかく、にたり、にたりと蒼い微笑を洩らしながら。

谷について一町ばかり上ると、こんもりした森の向うに、小さな家の<ruby><rb>集団</rb><rt>かたまり</rt></ruby>が見える。阿弥陀沢の部落である。なかに、庄屋づくりの白壁の家が、一軒しかない。旅籠藤屋なのだ。

ここへ泊るのだろうと思いのほか、文珠屋は、村の入口から道をかえて、不意に横へきれた。

胸を突く小坂が、まっすぐ、宵やみの雑木林の奥へ消えている。三国ヶ嶽の登山ぐちである。

これから上に、家はない。

この夕方から夜みちをかけて、文珠屋佐吉、三国ヶ嶽へのぼろうというのだろうか。

なにしろ――。

そして、この文珠屋とは何者？

間もなく、佐吉のつづら笠は、あみだ沢の家々を遠く下に見て、三里の上りを、三国一点の頂上をさして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すたすた</span>いそいでいた。

さながら、空ゆく風――<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>い足だ。

第二の葛籠笠

斬り傷、金創の入湯客が多い。

自然、人別あらための山役人の眼がきびしい。

山奥ながら、宿屋とあれば、藤屋も宿帳を一冊備えて、――この宿帳に。

半月ほど前に名を記して、今だにずっと滞在している三人づれの江戸の客というのは、

<ruby><rb>下谷練塀小路</rb><rt>したやねりべいこうじ</rt></ruby>　法外流剣法道場主

<ruby><rb>弓削法外</rb><rt>ゆげほうがい</rt></ruby>　六十三歳

同人娘　　　　<ruby><rb>千浪</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>　十九歳

法外門人　<ruby><rb>伴大次郎</rb><rt>ばんだいじろう</rt></ruby>　二十七歳

「ほんとうにお父さまは、どうしてこんな淋しいところに、こうしていつまでもいらっしゃるのかしら――。」

黒ずんできている湯だ。湯気が白く眼立つ。もうすっかり暮れてしまったのに、千浪は上ろうともせず、腰から上を湯のうえに見せて、天然の湯船をなしている岸の巌に、<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって立っている。

江戸育ちで、千浪は、賑やかなところが懐しいのだった。

また、口のうちにひとり言を噛みしめて、

「大次郎さまはこのお山に、何か御用がおありだという話のようだけれど、お父さまは、いったいいつ江戸へお<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ちになるおつもりなのだろう。」

うす闇の迫る<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>のなかに、じぶんのからだが、ほのぼのと白く浮き出て見える。

もう墨を<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>かしたような湯なのだが手に<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>い上げて見ると、空の余映を受けて<ruby><rb>岩清水</rb><rt>いわしみず</rt></ruby>のように明るいのである。上半身に残光を浴びて、千浪は、両手に湯をすくってはこぼしいつまでも無心に<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れているのだった。

<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>のようなつづら笠の男――文珠屋佐吉が、つい今し方まで、高い真上の木の枝から、こっそり自分の裸形を見下ろしていたことなどは、千浪、もとより知るよしもなかったので。

裸に<ruby><rb>憑入</rb><rt>みい</rt></ruby>る魔の葛籠笠と、この<ruby><rb>凶精</rb><rt>きょうせい</rt></ruby>に取っつかれた美しい<ruby><rb>処女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>と――。

ばしゃ、ばしゃと湯の音が、暮れなずむ谷あいの<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>とした空気を破る。

千浪が、上り支度をはじめたのだ。

小さな波をつくって湯がうごくと、底に立っている<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の足が、くの字を幾つもつづけたように、ゆら、ゆらと<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>け揺れる。

「お猿が怪我をすると、何十里ものお山を伝わっても、この阿弥陀沢のお湯へはいって癒しに来るという。いつかも、<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>の子猿を伴れた親猿が、この近所の木に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んで、何日もお湯へはいっていたという里の人のはなしだった。だから、いつのころからともなく猿の湯と呼び慣らわしてきたのだとのこと。それで、お猿が<ruby><rb>入浴</rb><rt>はい</rt></ruby>っている時は、人間は遠慮して、できるだけ邪魔をしないのだそうな。」

と思い出した千浪は、今にも猿が来はしまいかと、急に恐ろしくなって、いそいで湯壺を出た。

人の見る眼はないが、むすめ十九、<ruby><rb>裸身</rb><rt>はだかみ</rt></ruby>を屈ませて小走りに、素早く岩かげへ廻ると、何の<ruby><rb>設備</rb><rt>しつらえ</rt></ruby>もないとは言え、女性の浴客のために建てられたささやかな脱衣場がある――竹を立て、<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をめぐらしたほんの掘立小屋。

ここへはいって、すぐ大きな<ruby><rb>矢羽</rb><rt>やばね</rt></ruby>の着物に帯を廻した千浪は、

「まあ、いつの間にか、こんなに暗くなってしまって。ほんとに、わたしとしたことが気の強い。さぞお父様や大次郎さまが御心配のことでしょう。」

七月の初めではあるが、山は、夏を知らない。<ruby><rb>生乾</rb><rt>なまかわ</rt></ruby>きの<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の裾をさばいて、うねうねとした黒土の小道を、上の森陰の部落をさしていっさんに上って行った。

剣を取って江戸を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>する弓削法外先生のひとり娘である。夜みちを怖いとは思わないが――。

すると、この時だ。

一ぽんの路を下りてくる多人数の跫音。

手拭いをぶら提げた丸腰の侍たちで、だいぶ前から藤屋の下座敷に陣取って、連日連夜騒いでいる連中である。

わるいところへ悪いやつらが――とは思ったが、すっとすれ違おうとすると、まっ先に立った一人が、藤屋とあるぶらぶら提灯を千浪の顔へ突きつけて、

「いよう！　べっぴん！　や、磨いた、みがいた。」

ぷんと酒の香がする。

「惜しいことをしたわい。もう一足早ければ、これなる<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>のお臍が拝めたものを。わっはっは。」

また、ひとりが、

「いや、じつに<ruby><rb>尤物</rb><rt>ゆうぶつ</rt></ruby>！　拙者は、送り狼の役を買って藤屋まで引っ返そう。」

<ruby><rb>下婢</rb><rt>げび</rt></ruby>た笑いと<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>のなかを、耳を覆った気で潜りぬけ、やっと藤屋へ走りこんだ千浪が、裾をおさえて梯子段を駈け上って、二階の部屋の障子をひらくと――。

「長湯じゃったな。いま見させにやろうかと思っておったところじゃ。」

高弟の伴大次郎と何か話しこんでいた父、法外が、しずかに首を向けて千浪を見上げた。

大次郎は、女とも見まごう整った顔に、若わかしい笑みを浮かべて、

「いま階下の連中が、大騒ぎして湯へ下りて行きましたが、そこらでお会いになりませんでしたか。」

が、答える先に、千浪の眼は、部屋の隅に置いてある一つのまあたらしいつづら笠に止まった。

山でかぶる葛籠笠。

千浪は、見るみる顔をかがやかして、

「まあ！　では、いよいよ江戸へ<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ちますことに決まりましたんでございますか。」

でも、三人旅に笠が一つとは――？

大次郎が、にこやかに答えていた。

「いや、わたくし一人です。ぜひ今夜のうちに三国ヶ嶽へ登る用がありまして、今、宿の者に命じてその笠を取り寄せましたので――。」

女鹿男鹿

それから数刻の後。

膳部を下げた藤屋の二階には、江戸ものには珍しい<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>のともし灯をなかに、法外、大次郎、千浪の三人が、<ruby><rb>五徳</rb><rt>ごとく</rt></ruby>の脚形に三つにひらいて坐っていた。

山の庄屋のやしきをそのままに、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>とはいっても、なんの手も入れてない八畳の座敷だ。

年代の山の霧に黒ずんだ建具に、燈りが、<ruby><rb>赧茶</rb><rt>あかちゃ</rt></ruby>けた畳の目を照らして、法外老人の大きな影法師を、床の間から壁へかけて黒ぐろと倒している。

「ほほう。すると、七年目ごとにその三人が、この三国ヶ嶽の頂上で落ち合って、その後の身のありさまを語りあおうと言うのじゃな。ふふむ、そりゃおおいに面白いぞ。」

円明流から分派して自流を<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>て、江戸下谷は練塀小路に、天心法外流の町道場をひらいている弓削法外、柿いろ無地の小袖に、同じ割羽織を重ね、うなずくたびに、<ruby><rb>合惣</rb><rt>がっそう</rt></ruby>にとりあげた銀髪が、ゆさゆさと揺れる。

<ruby><rb>法外有法</rb><rt>ほうがいほうあり</rt></ruby>――の語から取って法外と号し、流名もこれからきている。

<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を想わせるほそ長い<ruby><rb>赭顔</rb><rt>しゃがん</rt></ruby>に、眼の配りが尋常でないのは、さこそと思わせるものがあった。

「そりゃおおいに面白いて。」

そう言って、じろり、大次郎を見やって笑ったが、眼だけは笑いに加わらない。

法外先生の眼は、いつも鋭く凍っていて、かつて笑いというものを知らないのである。

あけ放した二階縁の手すりに、近ぢかと迫って見える三国ヶ嶽のすがた――山気を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだ風が、濡れた布のように吹き込んできて、あんどんの灯をあおる。

千浪が、そっと上眼づかいに大次郎を見あげて、

「どういうお話でございましょう。わたくしは、途中から伺いましたので、よくわかりませんけれど――。」

大次郎は、優しい顔に似げなく<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の照りに面擦れを見せて、<ruby><rb>黒七子</rb><rt>くろななこ</rt></ruby>紋付きの着流し、鍛え抜いた<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>のように瘠せた上身を、ぐっと千浪のほうへ向けた。

「弱りましたな。これは、千浪さまにはお耳に入れたくなかったのですが――、御案じなさるといけませんから。」

「かまわぬ。話してやるがよい。」法外は、ちらと、若い二人を見くらべて、「遠からず大次郎を千浪の婿に、ははは、ま、<ruby><rb>仮祝言</rb><rt>かりしゅうげん</rt></ruby>だけでも早うと考えておるわしの心中は、そちらも薄うす知ってであろう。いずれ<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>となるものならば、互いに苦も楽も、何もかも識り合うたがよい。」

いつからともなく、命までもと深く慕い合っている大次郎と千浪――さきごろから父の許しで、今はいいなずけとなっている二人である。剣腕人物、ふたつながらに師のめがねに<ruby><rb>協</rb><rt>かな</rt></ruby>って、やがてその一人むすめを恋妻に、二代法外を名乗って弓削家へ養子にはいろうとしている伴大次郎と、おんなの<ruby><rb>誠心</rb><rt>まこと</rt></ruby>のすべてを捧げて、かれを<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り迎えようとしている千浪と。

今度の旅に千浪を伴ったのも、父法外としては、人の世の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>のようなふたりの胸を察すると同時に、旅ともなれば気散じた朝夕に、もっと二人を近づけて、打ち解けて心を語らせ、たがいによく知り合わせたいという、父親らしい、大きな思いやりと気くばりからだったに相違ない。

この、法外老人の計らいは、恋しあう若人のうえに、どんなによろこびを<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>したことだったろう！　そのあみだ沢へ来て以来、ふたりは雌鹿雄鹿のように、ほがらかに山をあるき廻って、心ゆくばかり語らい、よく気ごころを知り合って、いっそうたがいの思慕を深めたのだった。

そしてまた、法外にとって、この若い二人の<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じい様ほどかれの老いたこころを慰め、ほほえませる絵はないのだ。

こうして、うつくしい<ruby><rb>健</rb><rt>すこや</rt></ruby>かな千浪と、練塀小路の小鬼、美青年伴大次郎とは、男女の<ruby><rb>規</rb><rt>のり</rt></ruby>を越えない潔い許婚の仲をつづけて来ている。

で、今日。

そして、いま。

だしぬけに父に、近く仮祝言でもといわれて、われにもなく頸すじまで真っ赤にしてさしうつ向いた千浪を、大次郎はいつにも増して好もしく、<ruby><rb>愛</rb><rt>いと</rt></ruby>しく思いながら、

「じつは、私の身に秘めた大事なのですが――。」

と、口をひらいた。

夏といっても序の口なのに、<ruby><rb>高山</rb><rt>やま</rt></ruby>の暦は早い。沈黙が部屋に落ちると、庭に取り入れたうら山々、しんしんと降るような虫の声。

とたんに、

「おう！　あれを見さっしゃれ。三国さんの肩に、月が葛籠笠をかぶりおるわい。」

宿の男衆の大声が、階下の土間に湧く。

変なことをいうと思っていると、いあわせた土地の人が、つづいて覗きに出たらしく、

「わ、こりゃなんとしたことじゃい。皆の衆、出て見やれ。三国ヶ嶽のお月さんが、円ういつづら笠をお<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りじゃぞえ。」

あとは、口ぐちに、

「月の笠じゃ。お山荒れの<ruby><rb>兆</rb><rt>しる</rt></ruby>しじゃぞな。」

「ついぞないハッキリしたお被りものじゃが、えらい荒れにならねばよいて。」

「久しゅうお山がお静かじゃったが、あれで見ると、今夜のうちにもおいでじゃな。」

思わず耳をすました<ruby><rb>階上</rb><rt>うえ</rt></ruby>の三人――。

重い夜風が部屋を走り抜ける中で、千浪は、何がなしにはっとした顔を上げて大次郎を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

猟くら悲誌

こんな山奥――三国ヶ嶽のふもとの阿弥陀沢に、猿の湯などという温泉のあることは、千浪はもとより、弓削法外も知らなかったので。

ここへ入湯に来ることを言いだしたのは、この門弟筆頭の伴大次郎なのだった。

しばらく暇を貰って三国ヶ嶽へ往ってきたい――下谷練塀小路の道場で、こういきなり大次郎が願い出た時、師の法外はちょっと考えて、わしも一しょにと膝をすすめた。そして、娘の千浪を連れて、と。

それならば、ちょうど、山のすぐ下に珍しい湯の宿があるから<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>それに<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>なさるのも一興であろうと、この大次郎のことばに従って、道場は留守師範の高弟に預け、父娘師弟の三人づれ、そこはかと江戸を<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>って来たわけ。

これが、もう、半つきほどまえのこと。

山中、暦日なし。

のんべんだらりと滞在して、山の宿屋めしにもあきてきたが。

元来法外は、じぶんもいささか旅にでも出て<ruby><rb>都塵</rb><rt>とじん</rt></ruby>を洗いたい気持ちもあったし、それよりも、気らくな旅の<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>き<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>しに、まず二人を親しませたい心づかいから、折から大次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの<ruby><rb>深山</rb><rt>みやま</rt></ruby>の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。

きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。

そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。

その、大次郎の待つめあてとは何か。

第一、かれは、どうしてこんな<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この<ruby><rb>近所</rb><rt>きんぺん</rt></ruby>の、山伏山のむこう側にあたる<ruby><rb>田万里</rb><rt>たまざと</rt></ruby>というところの生れで――。」

眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。

「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の<ruby><rb>部落</rb><rt>むら</rt></ruby>あとにも、言いようのない懐しさを抱いておりますが、行ってみたところで、その淋しさに胸を打たれるに相違ない、と今はまだ、とても帰ってみる気にはなれませぬ。で、私が、先生と千浪さまのお供をして、黙ってここへまいりましたのは、その山伏山のかげのむかしの田万里を、ひそかに訪れんがためではござりませぬ。」

今年で、ちょうど七年まえのことである。

千代田城菊の間出仕、<ruby><rb>祖父江出羽守</rb><rt>そふえでわのかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>狩猟地</rb><rt>かりち</rt></ruby>だった田万里は、殺生を好む出羽守のたびたびの<ruby><rb>巻狩</rb><rt>まきが</rt></ruby>りと、そのたびごとの徴発、一戸一人の<ruby><rb>助</rb><rt>す</rt></ruby>け人足、荷にあまる<ruby><rb>苛斂誅求</rb><rt>かれんちゅうきゅう</rt></ruby>のために、ついに村全体たってゆけなくなり、出羽守へ<ruby><rb>万哭</rb><rt>ばんこく</rt></ruby>のうらみのうちに、一村散りぢりばらばらに、住み慣れた田万里を捨てて村人は、他国に楽土を求めて、思いおもいに諸国へ落ち延びたのだった。

祖父江出羽守の<ruby><rb>猟座</rb><rt>かりくら</rt></ruby>、山伏山の田万里は、こうしてあくなき殿の我慾の<ruby><rb>犠牲</rb><rt>にえ</rt></ruby>に上げられて、一朝にして<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>の<ruby><rb>棲家</rb><rt>すみか</rt></ruby>と化し去ったのだった。

法外流のつかい手、下谷の小鬼と名を取った伴大次郎は、<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しくもこの田万里の出生だという。

山の<ruby><rb>湯宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の夜ふけ――。

恋する男の身に<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わる悲惨事に、千浪は、<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>のできごとのように眉をひめて、

「初めて<ruby><rb>承</rb><rt>うけたま</rt></ruby>わるお痛わしいおはなし、なんとも申しあげようがございません。村の方々をはじめ大次郎さまも、さぞ、さぞ口惜しく思召して――。」

大次郎の面上、いつしか蒼白なものが<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた。

「今だからお話いたしますが、祖父江の殿様のやり口というものは、それは、それはひどいものでござりました。猟場とはいえ、人の住む村を、たんにおのが遊びの庭とのみ心得て――法外先生っ！　千浪さま！　言わしていただきます。かの祖父江出羽守は、きゃつ、人間ではござりませぬぞ。鬼畜！――人外でござる！」

膝を掴む大次郎の手が、悲憤の思い出にわなわなと打ちふるえるのを、法外は温みの<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>もった、だが、きっとした<ruby><rb>低声</rb><rt>こえ</rt></ruby>で、

「これ、大次、口をつつしめ！」

「お言葉ではございますが、しかし――。」

「わかっておる。それに相違ないが、なあ伴、山役人は、あれで仲なか耳が早いでな、よいか。あっはっは。」

大次郎、なみだを持った眼を伏せて、

「は。ちと、ことばがすぎましたようで。」

「いや、なに、そちの申すとおりではあるが、そこがそれ、下世話にもいう、壁に耳あり障子に眼ありでな――。」

法外先生、急に声をあらためて、

「若いぞ、大次郎！」

「おそれいりました。」

と頭を<ruby><rb>低</rb><rt>さ</rt></ruby>げて、大次郎は今さらのように、隣室のけはい、縁の<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ注意を払った。

お山荒れの先触れか、どうっ！　と棟を揺すぶって、三国<ruby><rb>颪</rb><rt>おろし</rt></ruby>が過ぎる。

さっき猿の湯から帰ってきた侍たちが、真下の座敷で、胴間声で唄をうたいだしていた。

出羽守行状

「出羽守が人数を<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>いて<ruby><rb>狩猟</rb><rt>まきがり</rt></ruby>をしたあとは、全村、<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の渡ったあとのごとく、青い物ひとつとどめなかった惨状でござりました。」

血のにじむほど口びるを噛み締めながら、大次郎は、しんみりとつづけて、

「これは、千浪様のまえでははばかりますが、すこしでも見目のよい若い女で、出羽守に犯されずにすんだものはありませぬ。したがってその家老めら、取りまき家臣ら、猟り役人、<ruby><rb>勢子</rb><rt>せこ</rt></ruby>の末にいたるまで、役徳顔におんなをあらしまわり、田万里の村じゅう、老婆のほかは、ひとりとして逃れたものはござらぬ。まことに、口にもできぬことでござるが、人の母といわず、妻と言わず――これが年々歳々いつも猟りには付きもののこと！　今から思えば、村びと一同、よくあれまで踏みとどまったもので。」

聴いている千浪の口から、ほっと溜息が洩れる。

この阿弥陀沢は、山ひとつこっちで領主が違う。

それは、田万里だけが受けた災害だった。

狩りに事よせては、人妻、娘を漁りに来る。

さからえば一刀にお手討ち。

さむらいたちは、<ruby><rb>山家</rb><rt>やまが</rt></ruby>に押し入って金目のものを、手あたり次第に略奪する。――これを御奉納と称して。

山肌に<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>かれたわずかの田畑は、<ruby><rb>自儘</rb><rt>じまま</rt></ruby>に<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>に掘りかえされるし、働き手の男は、山人足に狩り出される。その上、何やかやの名目で取り立てられる年貢、高税の数かず――。

土けむりを上げて、風のように馬を飛ばして来ては思う存分荒らし廻って行く出羽守主従だった。

そのあとには、<ruby><rb>鬼啾</rb><rt>きしゅう</rt></ruby>と、<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りのなみだと、黙々たる<ruby><rb>怨恨</rb><rt>えんこん</rt></ruby>が<ruby><rb>累々</rb><rt>るいるい</rt></ruby>と横たわり重なってゆく。

「あまりといえばあまりな、殿のお仕打ちでした――。」

と大次郎は語を切って、灯に顔をそむけながら眼を擦った。

「ほんとに、お察し――でも、今までおうち明け下さらなかったことが、なんだかお恨みのようにも――。」

千浪のことばを遮って、法外老人は、

「伝奇稗史の類の暴君にもまさる。いや、さような大名がおるから、民の<ruby><rb>怨嗟</rb><rt>えんさ</rt></ruby>を買うて、人心いよいよ幕府を離れ、<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>の影がうすらぐのじゃ。祖父江出羽は――あれは、藩地は、たしか<ruby><rb>遠州相良</rb><rt>えんしゅうさがら</rt></ruby>――。」

「は。石高二万八千石、江戸の上屋敷は、神田一番原、<ruby><rb>御火除地</rb><rt>おひよけち</rt></ruby>まえにござります。」

そう答える大次郎の顔を、法外はじっと見据えて、

「大次――！」

「は。」

「そちは、なんじゃな。」――と法外先生、ぐっと声を落としてさし覗くように、「復讐を企ておるな、出羽に対して！」

「いや、これは先生のお言葉とも覚えませぬ。」大次郎は、あわてて、「いかに恨みに思えばとて、相手は一藩の主、手前は郷士上りの一武芸者、<ruby><rb>竜車</rb><rt>りゅうしゃ</rt></ruby>に刃向う<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>とうろう</rt></ruby>のなんとやら、これでは、<ruby><rb>頭</rb><rt>てん</rt></ruby>から芝居になりませぬ。あは、あはははは。」

法外老人は、例の、冷やかな眼でにっこりして、

「隠すな、大次郎。」

美しい顔を義憤に燃やして、千浪も傍から、

「おんなの口を挾む場合ではございませんが、及ばぬながらもお懲らしなさるが武士の意地――本懐とやらではないかと思われますけれど。」

血の気が引いて、氷のように澄んだ大次郎の眼に、突然、大粒の涙がきていた。

「わたくしに、姉がひとりございました。ひとつ上で、当時二十一――柴刈り姿が出羽守のお眼にとまって、猟りの人数が下山のとき、お側に召されて引っさらわれました。今はもう生きておりますかどうか――。」

「えっ！　お姉さまが！――まあ、そんなことまであったのでございますか。」千浪は、痛ましげに父に眼を移して、「でも今まで何年も道場にいらしって、そういうお身の上のことは少しもお話し下さらなかったことを思うと、なんでございますか、ねえ、お父さま、ほんとに水臭いような――。」

桃の七年

千浪のことばも耳に入らないらしく、大次郎は、物の怪のついたような<ruby><rb>静徹</rb><rt>せいてつ</rt></ruby>な声だった。

「その姉を奪い返そうとして、父は単身行列へ斬り込んで一寸刻み――<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>のような屍骸でした。今も、眼のまえに見えるようです。」

「あの、お父うえが――。」

叫ぶようにいって、千浪は、法外と眼を見合わせる。

法外は、ううむと唸っただけだった。膝に話しかけるように、うつむいたまま大次郎は語をつないで、

「そのため母は、遠州相良の空を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、自害してはてました。」

千浪も法外も、うな垂れるばかり――言葉もない。

ややあって法外は、顔を上げ、

「その出羽守の暴状を、公儀へ訴え出る途もあったであろうに、なにゆえしかるべき<ruby><rb>当路者</rb><rt>とうろしゃ</rt></ruby>へ、差し立て願いに及ばんだのかの――上も、それだけの<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>ぶりを耳にしては、そのままに打ち捨ておくわけにはゆかんはずだが。」

「さ、それでございます。<ruby><rb>名主</rb><rt>なぬし</rt></ruby>をはじめ村有志が、たびたび江戸表へ出府して、<ruby><rb>伝手</rb><rt>つて</rt></ruby>を求めて訴え出ようとしたのですが、公儀も、この出羽守の乱暴を薄うす承知しておりながら、誰一人、田万里の<ruby><rb>哀訴</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を取り上げて老中に取り次ごうとする者のないのは、かの祖父江出羽守というのは、大老<ruby><rb>中良井</rb><rt>なからい</rt></ruby>氏の縁続きになっておりますので――それで、きゃつ出羽め、菊の間詰めのいわば末席ではありますが、<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>でもなかなか羽振りがよく、皆、大老の気を兼ねて出羽守の言動には御無理ごもっともの一点張り、触らぬ神に崇りなしの扱いだとのこと――出羽守もまた、これをよいことに、田万里の猟くらの惨虐は募る一方でござった――。」

「ふうむ、中良井の髯の塵を払って、幕政の面々、出羽の無道に眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>っておったわけか。」

山奥に住む無力の民は、こうして権勢を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>る狂君の<ruby><rb>蹂躙下</rb><rt>じゅうりんか</rt></ruby>に放置されて、まき狩のたびごとに、上は出羽から、下は仲間小者のために、犯される女人、斬り殺されるもの、数知れず――。

そこへ矢つぎ早やに絞るような年貢、納め物の取り立て。

村ぜんたい、すっかり荒らされきって、一家一族は手を引き合って、思いおもいの方角に山を下り、猫の子一ぴき入って残らぬ無人郷。七年まえ。

それから、廃村に桃の花が散り、七年の星霜を<ruby><rb>閲</rb><rt>けみ</rt></ruby>した。

長ばなしを終った伴大次郎、女性のような美しい顔に、きっと眉を吊って、

「はは、ははははは、下らぬ因縁話に、思わず身が入りました。お耳をわずらわして、おそれいります。」

<ruby><rb>豁然</rb><rt>かつぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>哄笑</rb><rt>わら</rt></ruby>うと、千浪はまだ打ち<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ面持ち。

「御一家ははて、お<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>はそういうことになり、ほんとうに、御心中お察し申し上げます――ですけれど、大次郎様、この新しいつづら笠、いいえ、今夜これからこの<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中を、夜みちをかけて、三里もある、三国ヶ嶽へお登りにならなければならないとおっしゃって、その<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>はまだ、ちっともお説き明かし下さらないではございませんか。」

心配気に<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を曇らせて、千浪がそっと、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>のやみに眼を配るとき、風は、いつの間にか烈しくなっていて――ぱら、ぱら、ぱらと屋根を打つ<ruby><rb>飛礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のような雨の一つ、ふたつ。

どうやらお山荒れは、<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れないらしい。

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の座敷の<ruby><rb>放歌</rb><rt>ほうか</rt></ruby><ruby><rb>乱舞</rb><rt>らんぶ</rt></ruby>は、夜ふけの静けさとともに高まって、まるで、藤屋を買いきったような騒ぎである。

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の話、な、大次郎。」法外先生が、膝を進めて、「そちとその二人――つまり三人が、七年目ごとにこの三国ヶ嶽の頂上で落ち合おうという約束、あのことも千浪に語って聞かせい。」

「力――世の中は力であるということを、私は田万里の滅亡を前にして、つくづく考えさせられたのです。」

とすぐ大次郎は、誰にともなく口をひらいた。

千浪は大きく<ruby><rb>頷首</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、髪から、<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を抜き取った。そして、大次郎の口もとから眼を離さずに、横ざまに片手をさし伸べて、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>灯立</rb><rt>ほた</rt></ruby>ちを<ruby><rb>均</rb><rt>な</rt></ruby>らした。

執念三羽烏

七年前、田万里が亡んだ時、伴大次郎は<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>だった。

同じ人間でありながら、大名であるがゆえに、力を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているがために、すべての悪虐非行を押しとおしてゆく――そのありさまを<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見て、彼は、力だ！　力こそ万事を決定すると、若いこころにつよく、深く感じるところあったというのだ。

「力さえあれば、早い話が、出羽守に<ruby><rb>一矢</rb><rt>いっし</rt></ruby><ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いようと思えば、それもできるかもしれない。いや、これは、かりのはなしですが、世間は、力以外にはなにものもないと――。」

「話しちゅうだが。」と法外が、

「その、出羽に一矢報いようというのは、本心ではないのかな。」

と声を低めて、

「大次郎、ここには、この弓削法外と千浪のほか、誰もおらぬ。打ち明けても仔細ないぞ。」

大次郎の眼に、異常な光りがきていた。

「は、姉の行方を捜し、祖父江出羽殿のお命をお狙い申しております。」

「よく申した。七年前に出府入門以来のそちの稽古ぶりを見て、わしはとうから、これは何ごとか大望あって剣を<ruby><rb>励</rb><rt>はげ</rt></ruby>むものと、この眼で睨んでおったぞ。」

千浪も、<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>くように、

「それでこそ――でも、相手は一藩のあるじ、なみたいていのことでは――。」

と、そう思うと、早くもその小さな胸は、夫ときめた大次郎の身を案じ、もう、<ruby><rb>潰</rb><rt>つい</rt></ruby>えんばかりなのだった。

きっと、形をあらためた大次郎、法外先生に向って、

「しかし、この復讐の儀につきましては、その方策、進行の模様など、いずれとも今しばらくは、不問に付しおかれますよう――。」

「解った。時機の来るまで、何も訊くまい。」法外老人は、千浪へ鋭く、

「そちも、このことは忘れるのだぞ、大次郎のために。よいか。」

「はい。でも、心でそっとお案じ申すことだけは、お許し――。」

「いや、それもならぬ。と言うたところで、これは野暮と申すものかの。ははははは、どうじゃ、大次。」

赧く笑った大次郎、

「これはどうも――ははは。」

真顔に返って、

「<ruby><rb>目下</rb><rt>いま</rt></ruby>はひたすら、剣技をみがきます一心――。」

「そのこと！　わしも<ruby><rb>外</rb><rt>よそ</rt></ruby>ながら出羽の動静を――いや、言わぬというて、また――続けい話を。」

姉を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>し去り、父を殺され、母を自害させた祖父江出羽守を、大次郎が秘かに仇とつけ狙うのに、不思議はなかった。

が、かたきを持つ身が、師の娘を恋し、養子に入り、<ruby><rb>養父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の名を襲って道場を受け継ぐ――それでもいいものだろうか。

討っても討たれても、いずれ千浪に嘆きを見せねばならぬ。

この大望のために、道場を捨てなければならない日もくる。

それかといって、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の純情と、老師の恩愛は、一片の理では断ち切れぬ。なによりも、千浪を求めて止まぬ己が恋ごころ――そこに大次郎の苦しみがあり、また、きょうまでこの秘密を、独り、胸に呑んできたわけなので。

七年前の七月七日。

田万里を散って下山する日に。

当時村内で、大次郎と一ばん仲が好く、幼いころから田万の三人組、三羽烏と言われていた三人の若者があった。

いずれも、田万の里に古い郷士の倅。

<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>も、三人ともそのとき<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>で。

伴大次郎。

江上佐助。

有森利七。

「三国ヶ嶽の頂上に、三国の<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めとして三国神社というのがあります。三人<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をわかつ。そこの境内に登って、遙か山伏山の裾野の田万里に別れを惜しみ、その時、この三人の間で、出羽殿への復讐を固く誓ったので――神前に額ずいて、三人同時に<ruby><rb>金打</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>いたしてござる。」

大次郎は、そう言って頭を<ruby><rb>低</rb><rt>さ</rt></ruby>げた。

力を得よう！

毒には毒！　無法の力に抗する無法の力。

この三羽烏の力を合わせて、他日必ず出羽守を討ち取り、父、母、姉、村人の恨みを<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>らす。

その力は、何によって――？

「ここです！　毒に報ゆるに毒、無法の力に抗する無法の力――という、その毒、その無法の力とは、さ、何か――？」

となって、三人寄れば<ruby><rb>文珠</rb><rt>もんじゅ</rt></ruby>の智恵、伴大次郎、江上佐助、有森利七の三人が、あたまを<ruby><rb>鳩</rb><rt>あつ</rt></ruby>めて考えた末。

その時、神前の三人に期せずして閃めいた想念は、

「<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>」――の二字！

毒とは？　――煩悩！

無法の力とは？――煩悩！

<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>、人間の力は、これ煩悩の一語につきる！

この<ruby><rb>解釈</rb><rt>げしゃく</rt></ruby>を得て。

田万里をほろぼしたのは、荒れ狂う出羽守の煩悩悪血。

それに返すに、この主人の煩悩力をもってする！

煩悩力！――煩悩のちからほど、人を強くするものはあるまい。

これは、三人にとって、三国神社のお告げとも思われた。

お山の神様は、荒い神さまである。

山の若者の復讐は、<ruby><rb>炎烈</rb><rt>えんれつ</rt></ruby>、野火のごとくに激しいのである。

この時から、煩悩の語は、三羽烏の執念となった。

笹籤

出羽守の煩悩に焼き払われた焦土の灰から、ここに、三つの煩悩の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>が立ち上ったのだ。

煩悩で煩悩を制すべく。

さて、名も金もない非力の三人が、煩悩によって金剛の力を獲るとは――？

名も金もない――そうだ！

男の煩悩に、三つありはしまいか。

名、金、そして女。

名誉慾。黄金慾。女慾――。

人を動かす<ruby><rb>原因</rb><rt>もと</rt></ruby>にこれ以外のものはなく、また、これ以上の力はない。有史以来、人間はこの三つの煩悩に<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>りたてられて、われも人もこの三慾のためにこそ、<ruby><rb>孜々営々</rb><rt>ししえいえい</rt></ruby>と生命を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>る歩みをつづけてきたのだ――現世は、名、金、おんなの煩悩三つ<ruby><rb>巴</rb><rt>どもえ</rt></ruby>。

男として、この三つを獲たものを強者という。

祖父江出羽守は、この三つを三つとも<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているではないか。名はもとより、金も、そして、女も。

で、三人が三つの煩悩を追って、銘めい、各その方面で求めるものを掴み、他日なんらの形でその力を<ruby><rb>協</rb><rt>あ</rt></ruby>わせて、煩悩出羽に立ち向かおうというので。

この相談――誓約が成って。

<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を引いた。

笹の葉を三つの長さに手折り、根元を隠して、三人が一ぽんずつ取る。

一ばん長いのが「名」中が「金」短いのは「女」ということにして。

その結果。

「名」――伴大次郎。

「金」――江上佐助。

「女」――有森利七。

伴大次郎は、名誉を追う。江上は巨富をあつめる。そして有森利七は、女をという三人三役。

何年か後、この大次郎の<ruby><rb>名利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>の力と、佐助の金力と、利七――女のちからとで、煩悩の怪物出羽を仕留めようとの策謀なのだった。

復讐も復讐だが、この、どっちの道でも、三人いちように豪くなり、それぞれ受持ちの分野で力を得ねば、と、二十歳の青年らしい興奮も、あったに相違ない。

三国神社のまえで、三人はこんな誓いを立てた。

仇討ちの準備に、伴大次郎は、まず剣腕をもって世に名を取らん。

江上佐助は、そのいざという場合のために資金を積む――いかなる方法でも！

そして、「女」を引き当てた有森利七は、色道の習練で多くの女を手に入れ、それを十指のごとく使って、巧みに、好色出羽の身辺を絶えず探っていようという――いわば、一味の女間者の総元締めになるはず。

それがまた、籤で決めたとはいえ、よく三人の柄に<ruby><rb>適</rb><rt>はま</rt></ruby>った役割りで、大次郎は武を好み、佐助は、顔は二た眼と見られない醜面の生まれつきだが、おそろしく<ruby><rb>目端</rb><rt>めはし</rt></ruby>がきいて、利に速い、これを商才に用いたら、必ず富豪ともなり得よう。そして利七は、山育ちだけれど、きりりとして苦み走った、まことに好い男で、色慾煩悩の籤を当てた時、

「ありがたい！　天下晴れて女狂いができる。」

<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を叩いて笑った。

三国ヶ嶽の三国神社から、三つの道が三方に下って、甲斐、駿河、相模へと、人間社会へ伸びている。

三人の親友は、その三つの<ruby><rb>下山口</rb><rt>おりぐち</rt></ruby>をとって、<ruby><rb>瓢々乎</rb><rt>ひょうひょうこ</rt></ruby>として三国へ散ったのだった。ひとりずつ煩悩の分け前を追って――大次郎は相模路へ。佐助は駿河国へ。利七は甲州へ。

が、三人とも、流れ流れて間もなく、いずれは煩悩の溜り所、江戸へ入り込んだに相違ない。

その、別れる時の、もう一つの申し合わせは。

今度、必ず七年目ごとの今月今日、七月七日に、三人、この三国ヶ嶽の絶項、三国神社の境内で落ち合い、その後の身の上を語り合って、連絡をつけようということ。

そして、そのあいだの七年間は、<ruby><rb>音信不通</rb><rt>いんしんふつう</rt></ruby>。各自、道につとめて、たとえ<ruby><rb>街上</rb><rt>みち</rt></ruby>で行き会っても、言葉をかけること無用たるべし。互に生死も不明のまま、七年目七年めの七月七日に、忘れなく三国ヶ嶽で――会う。かならず、会う。こういう三羽烏の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をかけた<ruby><rb>起誓</rb><rt>きせい</rt></ruby>である。

そこで、この、はじめての七年目。

二十歳の伴大次郎は、二十七になり、こうして、江戸下谷練塀小路、弓削法外道場第一の剣の名誉として、今この思い出の山麓へ帰って来ている。

他の二人は、どうしたか。

弥四郎頭巾

「こういうわけで、私はこの山へまいったのです。で、その約束の日を待っておりましたので――今日は、七月六日。」

「おう、そう言えば、三国神社へ集まるのは、明日じゃな。」

「佐助に利七のふたりも、生きておりますれば、今ごろ<ruby><rb>登山</rb><rt>のぼ</rt></ruby>っておるさいちゅうでござろう。七月七日の夜の引き明け、という申しあわせですから――どれ、そろそろ私も。」

無造作に起ち上る大次郎を千浪は、縋りつくような眼で見上げて、

「けっしてお留めはいたしませんけれど、でも、この大風、それに雨さえ――お父さま、どうしたらよろしゅうございましょう。ああ、あたしは、心配で――なりませぬ。」

「大丈夫。」大次郎は、もう、縁側へ踏み出していた。「明日の夕刻までに帰ります。いかな大風だとて、吹き飛ばされもせず、紙子細工ではござらぬから、濡れたところで大事ない。ははははは、二人に、この拙者を見せて、またふたりの苦心談を聞き、語りもするのがなによりのたのしみ――では、先生、千浪さま、行ってまいりまする。」

<ruby><rb>黒七子</rb><rt>くろななこ</rt></ruby>の紋つき着流しのまま、葛籠笠を片手に、両刀を<ruby><rb>手挾</rb><rt>たばさ</rt></ruby>んで梯子段へかかる大次郎のうしろから、法外老人と千浪が送りにつづいて口ぐちに、

「ひどいあらしですこと。ほんとに、お山荒れ――。」

「七年前の七月七日も、恐ろしいお山荒れでござった。」

「せめて<ruby><rb>合羽</rb><rt>かつぱ</rt></ruby>なと――それに、<ruby><rb>足拵</rb><rt>あしごしら</rt></ruby>えもいたしたらどうじゃ。」

「そう遊ばしたら、後生ですから。」

「なに、かえって<ruby><rb>荷厄介</rb><rt>にやっかい</rt></ruby>になります。同じ濡れるなら、このほうが気楽。つづら笠は、お山へかかっての三人の眼じるしにと、これも申し合わせのひとつで、はははははは――少し行ったら、着ものを畳んで、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>で<ruby><rb>登山</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ります。<ruby><rb>鍛練</rb><rt>たんれん</rt></ruby>の機会ですから。」

「そうまで言うなら――。」

と、階段の中途に立ち停まった法外先生、ふと思いついて、

「千浪、<ruby><rb>彼刀</rb><rt>あれ</rt></ruby>を持ってまいれ。<ruby><rb>兼安</rb><rt>かねやす</rt></ruby>を――大次ちょっと待て。」

千浪は座敷へ引っ返して、床の間の刀架けから、だいぶ<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>き古した<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>ごしらえの父の大刀を持って来て、はしご段のなかほどに待っていた法外に渡すと、老人は<ruby><rb>其刀</rb><rt>それ</rt></ruby>を、肩越しに、二、三段下の大次郎へ差し出して、

「さ、守刀だ。これを帯して行け。その、お前の刀は残して、これと脇差と――。」

ななめに振り返って、受け取った大次郎。

「これは千万！　ありがたく拝借いたします。」

自分の<ruby><rb>佩刀</rb><rt>はいとう</rt></ruby>と差しかえて、残して行く刀は、千浪の手へ。

千浪はそれを、人形のように両袖に抱き締めて、<ruby><rb>父娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は土間の上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>まで、大次郎を送って出る。

大次郎の腰には、兼安の朱鞘と、かれの蝋ざやの小刀と、異様な一対をなして。

「くれぐれも言うておくが、大次、けっしてその兼安を抜いてはならぬぞ。抜けば血を見る。や、こりゃ、わしとしたことが、門出に不吉な！　千浪、許せ。ははは、気に留めるな。じゃが、大次郎、刃元に浮かぶ一線の乱れ焼刃、刀面に、女の髪の毛と見えるものが、ハッキリ<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わりついておる。人呼んで<ruby><rb>女髪兼安</rb><rt>にょはつかねやす</rt></ruby>、弓削家代々の名刀じゃ。しかし、必ずともに、その女髪を見んとて、<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>三寸、押し拡げるでないぞ。抜かぬ剣、斬らぬ腕、そこが法外流の<ruby><rb>要諦</rb><rt>ようてい</rt></ruby>じゃ。女髪を覗いて、伝えらるるがごとく、邪心を発し、渦乱を捲き起してはならぬ、よいか。」

「女髪兼安の由来、かねがね承わって存じております。抜きませぬ。御免！」

「おう、行くか。」

「お気をつけなされて。」

阿波の住人、右近三郎兼安<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>えるところの女髪剣。鮫は朝鮮の一の切れ、目貫は金で断の一字、銘を<ruby><rb>天福輪</rb><rt>てんぷくりん</rt></ruby>と切った<ruby><rb>稀代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の剛刀――ぐいと、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>ざまに落とし差した下谷の小鬼、伴大次郎、黒七子の裾を端折ると一拍子、ひょいと切戸を潜って<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た。

まっ黒な夜ぞらの下、銀の矢と降る雨、咆え狂う風の中を葛籠笠を傾けて、と、と、と――大次、たちまち<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>に消えた。

框に立って、伸び上り、屈みこみ、一心にやみの奥をすかし見送っている法外先生父娘。

すると――。

梯子段のうしろが大広間で、すっかり戸障子が<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>り放してある。

そこの座敷に。

<ruby><rb>杯盤狼藉</rb><rt>はいばんろうぜき</rt></ruby>をきわめて<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>いでいた、風体人相の好くない浪人者と覚しい七、八人の一団――部屋の隅に、四曲屏風を立てめぐらして、その中に、白衣に白の弥四郎頭巾をかぶり、眼だけ出した痩せぎすの武士が、敷蒲団に寝そべって若侍に肩腰を揉ましているのが、屏風の蔭に斜に覗いて見える。

いま、この一座が、ぴったり鳴りを鎮めて、浪人ものも、弥四郎頭巾も、いっせいに<ruby><rb>舐廻</rb><rt>なめまわ</rt></ruby>すような視線を千浪の立ちすがたに<ruby><rb>集中</rb><rt>あつめ</rt></ruby>ているのを、法外老人もかの女も気がつかなかった。

深山の巻――福面鬼面――

白魔

「もうよい。これ、もう、揉まずともよいと申すに。」

祖父江出羽守は、激しく肩を揺すぶって、按摩をしていた若侍の手を振り切った。

そして、

「二階の娘か。」

と早口に呟いて、むっくり、敷蒲団の上に起き直った。

白絹に黒で紋を置いた紋付きを着流して、頭からすっぽりと、雪白の弥四郎頭巾を被り、眼だけ出している出羽守である。顔は見えない。

が、恐ろしく<ruby><rb>癇癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>が強いに相違ない。膝に構えた両手が<ruby><rb>細</rb><rt>こま</rt></ruby>かく顫えて、頭巾から窺いている鋭い眼も赤く濁っている。

「は。」

と、出羽守の肩に手をかけていた小姓風の若侍が、その手を引いて、背後に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこま</rt></ruby>った。

広間にとぐろを巻いて、がやがや酔声を揚げていた浪人体の荒くれ武士たちも、今は、ひっそりと<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をのんで、この、部屋の隅に、四曲屏風を背に敷ぶとんに坐っている出羽守へいっせいに眼をあつめている。

阿弥陀沢の山の湯宿、藤屋の<ruby><rb>階下座敷</rb><rt>したざしき</rt></ruby>、ちょうど梯子段の裏にあたって、七月とはいえ、山の夜気は膚寒いのに、ぱらりと障子を取り払った大一座だ。

七、八人の、人相風体のよくない一行――もう大分前からこの藤屋に泊り込んで、毎日毎晩、まるで、家が破裂するような騒ぎをつづけてきているので。――

<ruby><rb>山路主計</rb><rt>やまじかずえ</rt></ruby>、<ruby><rb>中之郷東馬</rb><rt>なかのごうとうま</rt></ruby>、川島与七郎などという連中――身を持ち崩した田舎侍のような<ruby><rb>装</rb><rt>つく</rt></ruby>りだが、皆これ出羽守お気に入りの家臣なので、こうして主君出羽の<ruby><rb>御微行</rb><rt>おしのび</rt></ruby>の供をして、この猿の湯へ湯治に来ているのだった。

悪遊びと乱行が、骨の髄まで染み込んでいる出羽守は、<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby><ruby><rb>無頼</rb><rt>ぶらい</rt></ruby>の徒のようになっていて、この側近の臣に対しては、あまり主従の別を置かないのである。

ぐっと<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けてでて、まるで友達扱い。

それにはまた、この取巻きに要領の好いのばかりが揃っていて、殿のこの気性をすっかり呑み込んで、よくないことにすべて御相伴にあずかるといったふうだから、この傾向はいっそう助長されるばかり、ことに今は、世を忍んで入湯に来ていて、宿にさえ身許を明かしてないのだから、さながら旅の浪人者の一団、出羽守はその中でのいささか頭分と見えるだけだ。

府中あたりの田舎浪士が、気楽な長逗留という触れ込みで、藤屋でも、この一行の身分は知らないのである。

ひとつには、今いった、やくざの寄合いのような一同の態度物腰と、もう一つは、祖父江出羽守、寝ても覚めても白の弥四郎頭巾をかぶっていて、ついぞ顔を見せないからで――。

前の谷の猿の湯へは、必ず真夜中に、そっと一人で降りて行く。

日中は、ざしきの片隅の屏風のかげに、例の弥四郎頭巾に面体を包んで、長身のからだを横たえたきり――これでは、宿のものにも里人にも、何者とも知られようがないのに不思議はない。

何か、<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くありげなようす。

とりまき連は日夜酒で、きょうも朝から痛飲、放歌乱舞、すわり相撲やら脛押しやらそれを出羽守は弥四郎頭巾の中から眼を光らせて、終日、にやり、にやりと笑って眺めているので。

よほどどうも変った大名には相違ない。

いま。

伴大次郎が女髪兼安を佩して、三国ヶ嶽の頂上を指して闇黒に消えて行ったすぐあと。

見送っていた法外先生と千浪は、ほっと溜息を残してしょんぼりと、<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>し合って梯子段を、二階の<ruby><rb>自室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ帰って行こうとしている。

とん、とん――とん！　と、父娘が階段を踏み上る跫音に、広間の一同は、出羽守の弥四郎頭巾へ据えていた眼をかえして、またじっと、登って行く千浪の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>すがたを<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>める。<ruby><rb>淫靡</rb><rt>いんび</rt></ruby>な視線が、千浪の腰、脚のあたりに、絡むように吸いついて。

大兵の中之郷東馬、さも感に耐えたように、赭ら顔を一振りふって大声に、

「いや、<ruby><rb>逸品</rb><rt>いっぴん</rt></ruby>！」

「<ruby><rb>五月蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いっ！」

出羽守は、咬みつくように呶鳴って、すぐ、笑いを呑んだ冷い声を、階段の法外先生へ投げ上げた。

「おい、<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>耄</rb><rt>ぼ</rt></ruby>れ！　娘を借りようかの。このとおり、野郎ばかりで<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>の明かぬところ。酒の酌が所望じゃ――。」

谷へ下りる番傘

変に陰惨な声で、だしぬけに無礼なことを言うやつがあるので、法外は、思わずきっとなって、はしご段の中途に立ちどまった。

「お父さま、どうぞ相手にならずに。」

千浪は、二、三段下から、必死に懇願して、押し上げるような手つきをする。

じろっ！　と、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の座敷を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>み下ろしたまま、法外先生は無言である。

<ruby><rb>柿色割羽織</rb><rt>かきいろわりばおり</rt></ruby>の袖を、ぽんと、うしろへ撥ねて、悠然と梯子段を上りきった。

逃げるようにつづいて、千浪が小刻みに駈け上る。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の水を叩きつけるよう、<ruby><rb>轟</rb><rt>ごう</rt></ruby>っ！　と地を鳴り響かせて降りしきる山の豪雨である。まっ黒な風が横ざまに渦巻いて、百千の槍の<ruby><rb>穂尖</rb><rt>ほさき</rt></ruby>を投げるような、太い、白く光る雨あし。

三国ヶ嶽のお山荒れは、とうとう本物になりそう。

「馬鹿め！」

吐き出すように言って、出羽守は起ち上った。

川島与七郎が、

「のう、殿――。」

「与七！　殿とは禁句のはずじゃぞ。何じゃ。」

「あ、さようでございましたな。しかし、物も言わずに、ずいと上ってしまうとは、きゃつ、年寄り甲斐もない無礼なやつ！」

誰かが傍から口を合わせて、

「なんでも、江戸の武芸者だとかいうことだが。」

あとは、肩肘を張って口ぐちに、

「ふん、江戸の武芸者か。へん！　江戸にゃあ、武芸者と犬の糞は、箒で掃くほど転がってらあな。」

「あの若造は、娘と言い交した仲でもあるかな。それにしても、この大雨風の夜更けに、いずこへ出かけて行ったのだ。」

「そんなこたあどうでもいいや。」宿の浴衣の腕捲くりをした山路主計が、「それより、貴公たち、あのおやじにあのような扱いを受けて、黙って引っ込んでおる<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>か。」

「そうだ！　どうあっても娘を呼んで来て、酒の相手をさせろ！」

「うむ！　男ばかりで飲んでおっても、とんと発しない。誰か行って、ちょっと娘を引っ張って来い。」

「ぜひとも下りて来て貰わにゃ、一同の顔が立たんぞ。」

「なあに、貴公の顔なんざ、ついぞ立っていた<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>がねえ。いつも寝転んでやがら。」

「余計なことを言うな。おい、川島、貴様弁口が巧い。二階へ行って、娘を借りて来い。」

「よしきた。一つ、弁天様のお迎いに行くかな。」

藤屋のどてらを素膚に引っかけた川島与七郎が、いつもの、古草鞋のような不得要領な顔で、気軽に腰を上げかけると、

「湯へ行ってまいる。」

蒲団の上に突っ立って、何かぼんやり考えこんでいた出羽守が、いきなりそう言って、縁へ踏み出した。大刀を差したままである。湯へ行くにも、刀は離さないのだ。

びっくりした一人が、

「ですが、この、雨の中を――。」

「黙っておれ。雨だとて仔細ない。湯へはいれば、どうせ濡れる。おい、手拭を取れ。」

差し出した手拭を鷲掴みに、出羽守はぶらりと土間へ下りながら、

「一風呂浴びて来て、飲み直しじゃ。<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよい</rt></ruby>は<ruby><rb>徹宵</rb><rt>てっしょう</rt></ruby><ruby><rb>呑</rb><rt>や</rt></ruby>るも面白かろう。湯から上って来るまでに、娘を伴れてきておけ。湯壺へは、誰も来るでないぞ。」

いつも必ず真夜中に、ただ一人で猿の湯へはいりに行くのである。片手で番傘を振りひらいて、篠突く雨のなかへ、刀の鞘を袖で<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いつつ、出羽は、さっさと出て行った。

二階には、この祖父江出羽守を<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>と狙う伴大次郎が、ものの半月も滞在していて、階下の座敷には、こうしてその当の出羽守が、遊び仲間のような取りまき連中を引き具して泊っている。<ruby><rb>四六時中</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>覆面して、深夜の入湯のほかはほとんど寝たきり、姿を見せることもないので、大次郎は気が付かなかったのだが、この<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しき因縁は第二としても、遠州相良の城主、菊の間詰、二万八千石の祖父江出羽守が、いくらお忍びとはいえ、こうしてこの粗末な山の温泉に潜んでいるとは――！

しかも、主従関係を隠し、供の連中などは変装同様のいでたちで。

そして、面を覆って、それに、毎夜丑満を選んで入浴する。おまけに、湯へ人の来ることを厳禁して。

一行は、殿様を朋輩あつかいに、酒を飲んで毎日騒いでいればいいのだから、退屈だが、大よろこび。しかし、湯は、金創にきく猿の湯である。こんな<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の晩も、欠かさず<ruby><rb>入浴</rb><rt>はい</rt></ruby>りに行くところをみると。――

さては、出羽守のからだは、秘すべき刀傷でも持っているのか。

それはとにかく、この<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な山の湯と、二万八千石の大名と――これにはおおいに<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>がなくてはならない。

狂笑剣

ど、ど、どうっ！　と屋根を轟かし、この藤屋を揺すぶって、三国おろしが過ぎる。

二つ三つそこここに立てた行燈の灯が、すうっと薄らいで、また、ぱっと燃え立つ。

酒乱の中之郷東馬、山路主計らの赤い顔が、瞬間、朱盆のように浮き上って見える。

「さあ！　殿のお声掛りじゃ。天下晴れて娘を引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>って来い。」

「君命、もだしがたし――か。」

そんなことを言って、川島与七郎は、足早に階段を上って行く。

さかずきを口に、誰かが、

「君命ときた。こういう君命なら、貴公、いつでも引き受けるだろう。」

与七郎が、上から答えて、

「うむ。買って出たいところだ。あはははは。」

と、すぐ階上では、与七郎が法外先生の部屋の障子を開けたらしく、何かごそごそ言い合う声が、かすかに聞えて来る。

階下の座敷では、一同しばらく天井へ注意を集めて、聴耳を立てていたが、やがて、東馬が、

「だいぶ手間取るらしい。」

「そりゃそうじゃろう。なにしろ、見ず知らずの武士の娘を、酒席へ引っ張り出そうというのじゃからな。」

「なあに、老いぼれが一人くっついておるだけじゃ。ぐずぐず言えば、おれが行って、首根っこに繩をつけてひき下ろして来る。」

「しかし、世にも<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかなる娘じゃわい。」

「<ruby><rb>彼娘</rb><rt>あれ</rt></ruby>に眼をつけるとは、殿もまた、持病が出たらしいぞ。えらい騒ぎにならねばよいが――。」

「なにを、分別らしいことを言う。さわぎと申したところで、父親をひっ掴まえて谷間の杉へでも、吊るし斬りにしてしまえば、後はこっちのものではないか。」

「そうそう！　殿のおあまりを順に頂戴して、あはははは。」

この一行は、もうかなり長く藤屋に滞在しているのだけれど、この乱暴に恐れをなして、宿の者は、誰も近づかないのだ。

夜も、更けている。

雨の音と、咆哮する風と――母家のほうはすっかり寝しずまったらしく、男衆が一人、そっと土間を片づけにかかっているだけ。すると、その時である――。

「江戸下谷、練塀小路、法外流剣法道場主、弓削法外の贈り物じゃ！　ありがたく取っておけ！」

<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>の上に大声がして、一同は振り仰ぐ。

声がするのみ――声の主の姿や顔は見えないが、広間の連中、何事？　といっせいに見上げた。その面上へ！

ぱら、ぱらっ！　と赤い、小さな物が降って来たので！

皿へ落ちる。起ちかけた膝もとに転がる。髷に引っかかる。頬を打って飛ぶ――十本ばかりの、細い金魚のようなものだ。

「なんだ――！」

と拾い上げて見る。指である。いま斬り離されたばかりの血に<ruby><rb>染</rb><rt>まみ</rt></ruby>れた手の指が十本！

「うぬ！」

酔いもなにも一時に醒めて押っ取り刀、わや、わや、わやと崩れ立った中之郷東馬、山路主計、ほか六、七人の異形の<ruby><rb>士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>、なかに、北伝八郎という素っ裸のさむらい、さらしの六尺に一本ぶっこんで、

「与七郎、やられたのかっ！　おのれ――！」

まっ先に階段を駈け上ろうとする――と！　その頭の上へ落ちて来たのだ。川島与七郎が。血だらけの袖で、死人のように<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めた色で、一段一だんと、弾みを打って。

「どうしたっ！」

総勢取りかこむ。中之郷が、ぐったりしている川島のもとどりを掴んで、顔を引き上げる。と、どうだ！　<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に書いてあるのだ――「酒の肴に進上」と、墨黒ぐろ。

両手の指はすっかり切り離され、血に染んだ<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>古木</rb><rt>こぎ</rt></ruby>のような、なんとも異妖なすがた！

与七郎は、虫の息で、

「驚いた。恐ろしくできるおやじだ。一言いうと、黙って小刀が飛んで来て、ぱらり、十本の指が飛んだ。それから――それから、押さえつけられて、<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に墨で何か書かれたまでは覚えているが――。」

二階は、しんとしている。

暴風雨は、ちょっと<ruby><rb>小止</rb><rt>こや</rt></ruby>みになって、一瞬間の不気味な静寂――階上には、法外父娘の部屋の障子に、ぼうっとあんどんの灯が滲んで人のいそうもない気配。

<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を詰めて一同が、はっと<ruby><rb>階上</rb><rt>うえ</rt></ruby>を見上げたせつなである。

「うわっ！　こりゃ、なんとしたことじゃい！　この猿の湯でお猿さまを斬り殺すとは――！」

土間の男衆が、つん裂くような声で叫んだ。

と、見る。片手に傘をさし、かた手に小さな猿の死骸をぶら下げた祖父江出羽守が、切戸を潜って、のそりとはいって来ている。

「畜生のくせに、湯へはいりに来おったから、一刀のもとに、このとおりじゃ。四足を斬った刀は、滅法切れると言うことじゃぞ、ははははは。」

「じゃが、旦那、殿さま、お猿さまは、この猿の湯の守り神で、あれは、お猿の湯へ人間が入れて貰っておるというくらい――ああ、こりゃ、とんだ崇りがなければよいが。」

おろおろと立ち騒ぐ男衆へ、出羽守は、一喝をぶつけて、

「猿を斬ったがなんで悪い！　さほどに思うなら、手厚く葬ってやれ。」

どさりと、猿の屍骸を下男の顔へ投げつけておいて、出羽守は、家臣らの集まっている階段の根本へ。

じろりと川島のようすを見ると、一眼ですべてを知ったらしい。

そのまま、無言で梯子段を上って行くのだ。中之郷と山路が、すぐそれに続く。とっつきから弓削父娘の部屋で。

出羽守、がらり障子を引き開けながら、

「おやじ、くどいようじゃが、また、娘を貰いに来た。」

弥四郎頭巾の中からきらり、つめたい眼がきらめく。

同時に、からだ一つ崩さずに、いま猿の血をなめたばかりの<ruby><rb>腰間</rb><rt>こし</rt></ruby>の利剣が、音もなく、白く伸びて――法外先生は、たちまち肩口を押さえて、堂っ！　とそこに倒れていた。

女髪兼安が手にないために、法外、急に腕が鈍ったのか、それとも、猿を斬った出羽守の刀が、人間業以上の働きをしたのか。

うっ！　と呻いてのけ反る父へ、駈け寄ろうとする千浪は早くも、中之郷、山路の二人に、左右の手を取られて<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>まれていた。

お山荒れは、ふたたび勢いを盛り返して、雨と、風と、屋鳴りと――それのなかに、頭巾をゆさぶる出羽守の狂笑が、さながら猿のそれのように、高く、鋭く、つづいた。

山頂恋慕流し

谷に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>える露が、ひとつ一つ光り輝いて、まるで、無数の真珠を懸けつらねたよう――。

濡れたみどりが、迫るように息づいて、草と土の香が爽かに立ち昇って、ひがしの空がうす紅いろに色づいて――<ruby><rb>東天紅</rb><rt>とうてんこう</rt></ruby>を告げる鶏の声を聞くべく、あまりに里離れているけれど――雨のなかを、雨を衝いて登る太陽。

あかつき。

七年目の七月七日、明けの七つ刻に、三国ヶ嶽の山上、三国神社の前に、やがて匂やかな朝が来た。

駿、甲、相の三国ざかいが、ここ小さな三角点に集って、ささやかな平地をなしているてっぺんである。

三つの登り口が相会するところ――三国の鎮め三国神社の古びた<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>は、この三角の地形の正面にある。

左右は、底ぶかい渓谷で、杉、<ruby><rb>蝦夷松</rb><rt>えぞまつ</rt></ruby>、柏などの大木が、釘を立てたように小さく低く覗かれる。だんだんと<ruby><rb>畝</rb><rt>うね</rt></ruby>りを作って続く樹の海の向うに、大洞、足柄、山伏の山々――その山伏山のむこう側に、今はない田万里の廃墟があるので。

灰色の雲の去来。それが、起伏する連峰をひと<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>けに押し包んで、山肌に、ところどころ陽が照っている――明方の日照り雨。

雨は、まだ降っているのだ。お山荒れは、どうやら納まったらしいが、こまかい<ruby><rb>糠雨</rb><rt>ぬかあめ</rt></ruby>が、山をひとつに抱いて、しとしと、しとしと、と。

それに、時どき、風さえ横なぐりに――神社のまえの三角地の中央に、高さ一尺ほどの三角形の石が立っている。

三国ヶ嶽国境の石なので、三角の面に、それぞれの方角へ向けて甲斐の国、するがの国、相模の国と彫ってある。

いつの時代、何人の置いたものか、石は、千古の三国荒れに揉まれ抜いて三角の角は<ruby><rb>摩滅</rb><rt>まめつ</rt></ruby>し、青苔が蒸して、彫ってある文字も定かではないが、三つの国は三つの線を描いて、この石のところで出合っているわけ。

お社の、格子づくりの扉をぴったり閉じ、奉納の絵馬の一つふたつ――黙念として春風秋雨の七年間、この今朝の三人の会合を待っていたかのように。

約束の場所である。伴大次郎と、江上佐助と有森利七と。

起誓の三角石である。七年前に別れる時も、大次郎はこの石に腰うちかけて若い二人の友と話し込んだものだった。銘めい葛籠笠を引きつけて――。

自然は、変らない。人事は走馬燈のように、あわただしく移りかわるが。

七年の歳月は、当年二十歳の三人を二十七にし、伴大次郎を法外流の名誉、下谷の小鬼に変えた。そして今は、あの、この三里下の山腹、あみだ沢の藤屋に自分の帰りを待ち焦れているであろう千浪様というものを有つ身である。

だが。

変らないのは、石と木と草と、神社だけではない。

大次郎もあのときと同じに、この国標の三角石に腰を据えて――七年のあいだ、ちっとも変らなかった景色に見える。

待っているのだ。煩悩の他のふたつ、金と女を追って七年。前に下山した佐助と利七を――。

来るかな？　と思う。

来る！　くるにきまっている！

と大次郎が、小雨を相手に独り言を洩らした時、<ruby><rb>勘治村</rb><rt>かんじむら</rt></ruby>、<ruby><rb>道士川</rb><rt>どうしがわ</rt></ruby>と越えてくる甲斐すじの登り口から、りょうりょうと一節の、何の煩悩もないような<ruby><rb>今時花恋慕流</rb><rt>いまはやりれんぼなが</rt></ruby>しの唄声が、上がって来た。

「君は<ruby><rb>五月雨</rb><rt>さみだれ</rt></ruby>

思わせぶりや

いとど焦るる

身は浮き舟の――。」

おんな崩れ

「いとど焦るる

身はうき舟の

浪に揺られて

島磯千鳥

れんれ、れれつれ

れんれ、れれつれ。」

<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい、江戸の<ruby><rb>花街</rb><rt>いろまち</rt></ruby>で聞く恋慕流しを、この深山の奥で――大次郎は耳を疑いながら、弾かれたように三角石を離れて、神社の横の甲斐口へ向い、両手で声を囲んで、

「おうい！」

突き上げて来る感激に、胸がふるえる。

甲斐ぐちから登ってくるなら、有森利七に相違ないが、きゃつめ、女色煩悩を引き受けて七年むかしに山を下ったのだけれど――今この、<ruby><rb>灰</rb><rt>あく</rt></ruby>の<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けた恋慕流しの<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から察するに、相当その道に苦労して、女という女を見事征服してきたに相違ない――。

大次郎の口辺に、友へのなつかしさが微笑となって浮かんで、

「おうい――！」

もう一度呼ばわると、唄声は、ぴたりと止んだ。

「有森ではないか。利七ではないか――伴だ！　大次だ。待っておったぞ。」

神社の横手から熊笹の中を、だんだら下りの<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>が、はるか甲斐の国のほうへ落ちている。その降り口まで走り寄って大次郎が下を望むと、

「へっ！　こりゃあ伴の若旦那で――どうも、あいすみやせん。長らくお待ちになりやしたか。」

という声とともに、一人の町人体の若い男が、その小みちを上って来る。

山がけの旅とも見えず、<ruby><rb>万筋</rb><rt>まんすじ</rt></ruby>の浴衣一まい引っかけたきりで、小意気なようすに裾を端折り、手に、約束のつづら笠を下げているのだが――水の撥先をぱらり<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>いた<ruby><rb>小銀杏</rb><rt>こいちょう</rt></ruby>の髪に、鼻すじの通ったあお黒い顔、きりっと結んだ口、いかにもおんな好きのする面立ちは、忘れもしない、たしかにあの田万里で、一しょに小川の<ruby><rb>目高</rb><rt>めだか</rt></ruby>を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>って幼い日を送った有森利七である。

が、しかし、なんという変りよう！――着つけから身のこなし、ことばの調子、顔まで、もうすっかり町人――というよりも、芸人としか見えないのだ。ひとりの人間が七年間に、こんなに変りうるものかと思うくらい。

懐しさが先に立って、大次郎はまだ、相手の変化に気がつかないらしく、

「おお利七！　やっぱり来てくれたか。貴公も、この七年目の約束は、忘れなかったのだな。」

と、登って来る利七に走りよって、手を取らんばかりにすると、

「いえ旦那、もったいない！　ですけれどねえ、旦那、つまらない約束をしたばかりに、えらい目にあいやしたよ。途中でずっと降られどおしで、へへへへへ、御らんのとおり、ずぶ濡れの、ぬれ鼠の、濡れ仏ってんで。」

大次郎は、はっとしたように、利七を見直した。

たしかに利七には相違ないが、語調といい、顔つきといい、七年間の<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>に崩れきったらしい安芸人肌――きっとした大次郎の視線を受けても、利七は平気の平左で、がさがさと笹を鳴らして上って来ると、自分から先に中央の三角石の前へ行って、ばらり、裾を下ろして<ruby><rb>蹲踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>みこんだ。葛籠笠をぽんと、傍らの地上へ投げ出して。

「おおしんど！　なんてえことを、上方女なら、言うところでげす。さあ旦那、めえりやした。宗七はお約束どおり、立派に山へめえりやした。煮るなと焼くなと、わちきゃお前の心まかせじゃわいのう――とおいでなさいましたかね。」

三角石に腰かけた大次郎は、呆れて相手を見下ろして、

「有森！　七年目だな。」

「へ？　なるほど。ここで会うたが七年目、覚悟はよいか、でんでんでん――こりゃあ<ruby><rb>太棹</rb><rt>ふとざお</rt></ruby>で、へへへへへ。」

「利七、真面目に話そうではないか。」

「利七？　ははあ！　有森利七でげすかい。厭ですよ旦那、旦那もお人が悪い。そりゃあ昔のことで、今じゃ宗七――。」

「宗七？」

「へえ。れんぼ流しの宗七さんで。どうぞ御ひいきに――。」

「ふん！」大次郎は不愉快気に顔をしかめて、「変えたのは、名前だけではないようだな。貴公、心の<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>から変ったようだな。」

利七の宗七は、そぼ降る小雨のなかで、ぽんと一つ額部を叩いて、

「そ、そりゃ旦那、旦那の前ですが、女から女への七年間、いいかげん変りもしましょうさ。有森利七なんてえ<ruby><rb>野暮仁</rb><rt>やぼじん</rt></ruby>は、もう、とっくのむかし死んだんで、ここにこうしておりますのは、<ruby><rb>吉原</rb><rt>なか</rt></ruby>から遠く<ruby><rb>深川</rb><rt>たつみ</rt></ruby>へかけて、おんなの子を泣かせる恋慕流しの宗七さま、へへへへへ。」

「見上げたものだ。」ふっと眼を外らした大次郎、「江上はいかがいたしたのであろう。あの佐助が、きょうの会合を忘れるはずはないが――。」

と言った顔には、遣り場のない淋しさが、大きく描かれてあった。

草の文

「さようでげすな。」

宗七は軽薄な表情で、わざとらしくそこらを見まわしながら、

「あの江上の先生が、今日という日をすっぽかすわきゃあござんせんが。はてな――。」

けれど、いくら眺めわたしても、狭い山上は一眼である。人といっては、大次郎と宗七の二人きりで、思い出したように雨に濡れた小鳥の声――。

陽は、もう高く上りかけて、三国神社の<ruby><rb>檐</rb><rt>のき</rt></ruby>に、雨垂れの粒が七色にかがやいている。しいんと、耳を突き刺すような山奥のしずけさを破って、峰から峰へ<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>みどりの風が吹いて渡る。

大次郎は眼を返して、じっと宗七の顔を見つめていた。

「有森。いや、宗七どのか。拙者のことは後刻話すが、この七年のあいだ、貴殿は何をしておられたかな？」

すると宗七は、もうすっかり芸人のふうが身に<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みわたっているに相違ない。まるで生れからの恋慕流しか、未知の武士の前へ出たように、おずおずと頸すじを撫でて、

「へえ、それがその、面目次第もげえせんので――七年前の今月今日、ここで旦那さま方に言いつかりやしたとおり、へへへへへ、あのお約束をいいことにね、江戸へ出で、精ぜい女狂いをしておりやすうちに、とうとう旦那、三味線ひきのお多喜って女に、取っ<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれてしまいやして、まあ、旦那の前ですが、惚れたの腫れたのとへへへへへ、ま、そこらは御推量にお任せ申すとして、今じゃあ、そのお多喜と一しょに色街から色まちへと、恋慕流しのつれ<ruby><rb>弾</rb><rt>び</rt></ruby>きてえ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しが</span>ねえ渡世で、へえ。」

しきりに頭を掻いている宗七のようすは、装っているのでもなんでもない、こころの底からの<ruby><rb>巷</rb><rt>まち</rt></ruby>の遊芸人である。

泣き出さんばかりの顔で、大次郎はそれをじっと見据え、

「無理もない、女、おんな――最も危険の多い煩悩を受け持ったのだからな。その女の毒気に身も心も<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>れはてて――。」

「へ？」

宗七は、とろんとした眼を上げる。

「あは、あははは、いや、こっちのことじゃ。」大次郎は、自嘲的に笑って、「それでどうして、誓約どおり今日ここへ来る気になられた。」

「それがどうも、あっしにもよくわからねえんで、へえ――来ねえつもりだったんですが、なにかにこう引っ張られるような気もちで、気がついた時あ深川の家を出て、この浴衣のまんま、ふらふら歩いて来ておりやしたんで。へえ、へえ、お多喜の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>あ、今ごろは眼の色を変えて探しておりやしょう。へへへ。」

「有森氏！」

思わず大次郎は、声を<ruby><rb>励</rb><rt>はげ</rt></ruby>ました。

七年ぶりに会った懐しい友の一人は、こんなに変りはてているばかりか、この七年間予期しつづけて来た親しみさえ、すこしも湧いてこないで、まるで、冷たい他人行儀。

しかし大次郎は、あくまで宗七と観ず、むかしの有森利七とのみ扱おうとして、

「田万里の件――かの出羽への<ruby><rb>怨執</rb><rt>おんしゅう</rt></ruby>は、よも御忘却ではあるまいな。」

宗七はきょとんとして、

「へ？」

「煩悩が煩悩に溺れては、その煩悩の中より力を獲ることは<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬわけ――有森氏！　煩悩力をもって出羽を討つとの誓いはいかが召されたっ！」

すると宗七は、何を見つけたのか、ぶらりと起ち上って、

「あ！　あそこの草の中に、笠がありやす。真新しいつづら笠、雨に濡れて――。」

大次郎も、<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>をめぐらす。見ると、なるほど、神社の裏手の草むらのなかに、誰が置いたのか新しい葛籠笠がひとつ、そぼ降る雨を吸って、光って。

話を打ち切った二人は、足早にその草叢へ踏み込んで行った。

足が、濡れる。

裾を引き上げた伴大次郎と、今は深川の恋慕流し宗七、左右から笠を挾んで立った。

見下ろす。

「どうしてこんなところにつづら笠が――。」

つぶやきながら、宗七が手をかけて笠を<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>ると、下には、小石を重しに載せて一枚の紙が置いてある。

宗七が拾い上げて、大次郎に渡した。

「はてな。何人が残しておいたものか。ことによると、佐助ではないかな――。」

ふたつ折りの紙をひらくと、さらさらと<ruby><rb>矢立</rb><rt>やた</rt></ruby>てを走らせたらしい墨のあと。

「約束どおりこの山へ来り候えども、思う仔細ありて、両人を待たず、一足先に下山仕り候と申すは、昨夕登山のみぎり、この下の猿の湯にて、江戸<ruby><rb>女</rb><rt>もの</rt></ruby>と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき見目うるわしき女子を<ruby><rb>見初</rb><rt>みそ</rt></ruby>め、この七年間、何ものにも眼をくれず、黄金のみ追い来りし<ruby><rb>文珠屋佐吉</rb><rt>もんじゅやさきち</rt></ruby>。ぞっこん恋風とやらを引き申候。これより猿の湯に引き返し、強談もて娘を申し受くる所存に候。御存じのとおり、生れつき不具同然の醜面にて、おなごに縁うすき佐助の初恋。ゆめお<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>い下さるまじく、いずれは再び七年後に、この山頂にて御面談仕るべく、まずは一筆、こころの<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くまましるし残し申候。

江上佐助あらため、

文珠屋　佐吉」

大次郎、手がふるえて、紙が、かさかさと細かい音を立てた。

猿の湯にいる江戸ものらしい女――千浪さまにきまっている！

「あの江上めが今は文珠屋と名乗って――うむ！　こうしてはおられぬ。宗七、また七年後にここで、会おうぞ。」

叫んだ大次郎、愛する千浪の危急を知って、いっさんにその三角形の山頂を駈け下り出した。ぼんやり呆気に取られて後見送っている宗七を残して――三里の下りを阿弥陀沢の藤屋へ。

言いだしたらきかぬ江上佐助の気性、これはただごとでは納まるまいと、大次、走りながら、腰の女髪兼安の柄を叩いて、ぶつり、鯉口を切った。

きらり！　鯉ぐち三寸、銀蛇のごとくきらめいて、眼を射る。そこに、何の<ruby><rb>焼刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>のみだれか、一ぽん女の毛が纏わりついたと見える<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>え<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>。

阿波の右近三郎打ち上げるところの女髪兼安。

ゆうべ出がけに<ruby><rb>此刀</rb><rt>これ</rt></ruby>を渡すとき、法外先生が言った――「くれぐれも言っておくが、大次、けっしてこの刀を抜いてはならぬぞ、抜けば血を見る。<ruby><rb>擾乱</rb><rt>じょうらん</rt></ruby>を呼ぶ。刃元にうかぶ一線の乱れ焼刃。女髪剣、必ずともに、その女髪に心惹かれて、<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れにも鯉口を押し拡げるでないぞ。よいか。」

その女髪兼安を伴大次郎、いま抜きかけて、ぱちんと鞘へ返したが。

が、ハッキリと見てしまった<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>の髪の毛！　七年目、山上の会合が、こんな意外な展開を生もうとは！

血煙お花畑

「かっ！　この女は、貴様の何だと申すのだ。」

山路主計が、柄がしらを叩いて、一、二歩、前へ出た。

大次郎は黙って、手にしていたつづら笠を、ぽんとうしろへ投げやった。

「藤屋から後を尾けて来たのか。」

それでも、大次郎は、答えない。眼が据わって、異様な光りが、出羽守の一行を睨め廻している。

「斬れ、斬れ！」

誰かが、山路のうしろから、声をかけた。

「問答無益！」

北伝八郎がおめいて、すらり長刀を引きぬきざま、主計と大次郎のあいだへ割り込んで来た。

「小僧っ！　来るかっ！」

両手の指を失った川島与七郎は、一人が<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けて、七、八人の出羽守の一行である。

出羽は、すこし離れたところに立って、相変らず白の弥四郎頭巾の中から、おそらくは面白そうに、伴大次郎を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めている。その背後に、ふたりの武士に左右を押さえられて、千浪が、狂気のようにおろおろと立ちすくんでいるのだ。

猿の湯をすこし相模のほうへ下りた途中の、山と山の間の広野である。こんなところで、何人の<ruby><rb>丹精</rb><rt>たんせい</rt></ruby>で、こんな花園があるかと思われるくらい、地べた一めんに高山植物が花をつけて、ひろい野原に、赤、黄、むらさきと、一望に咲き揃っている眼も<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>な自然の<ruby><rb>友禅模様</rb><rt>ゆうぜんもよう</rt></ruby>――高い山にはよくあるお花ばたけなのである。

三国ヶ嶽から藤屋へ駈け下りた大次郎は、法外先生が階下の白覆面のために、肩に重傷を負わされたのみか、その一行は、騒ぎに紛れて千浪をひっ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>い、<ruby><rb>急遽</rb><rt>きゅうきょ</rt></ruby><ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をつらねて下山の途についたと知るや否、<ruby><rb>腰間</rb><rt>こし</rt></ruby>に躍る女髪兼安を抑えてただちにあとを踏み、今やっとこの中腹のお花畑へ、千浪をかこんで麓へいそぐ一同に追いついたところだ。

江上佐助の文珠屋佐吉は、途中も気を配って捜して来たがどこにも見えない。

そして、これが、眼ざす祖父江出羽守とは、大次郎知る<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もないが、養父同然の恩師法外先生のかたきではあり、いま目前に、千浪様を掴まえて伴れて去ろうとしている相手だから――大次、しずかに女髪兼安の鞘を払って、とうとう抜いた。

出羽は、猿の湯の猿を殺して山に渦紋を招き、伴大次郎は禁制の女髪剣に陽の目を見せて、いよいよこの紛乱にいっそうの血しぶきをくれようとしている。

きのうの宵、三国ヶ嶽の月が笠をかぶったのは、ただ、昨夜のお山荒れをだけ予言したのではなかった。この、人界の血の暴風雨と、それから捲き起る万丈の波瀾を警告したのではなかったろうか。

そして、このすべては、善も悪も「煩悩」の二字が操るように人を動かして。

「まいるぞ。」

しずかな声で、大次郎が言った。

と、瞬間に、正面の北伝八郎を襲うと見せた大次郎、だっ！　横ざまに足を開いて、右手にいた一人へ片手なぐり――女髪兼安は、がっと聞える異妖なよろこびの叫びを揚げて、肉を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>み、骨を削った。

たら、たらと、女髪を伝わって鍔もとを舐める温かい人血。

「ふふん、こりゃそうとうできる！」

中之郷東馬がそう言ってにやりとすると、大次郎も笑いながら、

「お<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めにあずかって――それでは、次ぎは貴殿へゆこう。」

くるりと、<ruby><rb>斬尖</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を東馬へ向けた。

入道雲

もう、伴大次郎は、伴大次郎ではなかった。下谷の小鬼だった。

間もなく――一人ふたりと女髪兼安を喰らって白い花を赤く染めて断末魔の<ruby><rb>蹂</rb><rt>もが</rt></ruby>きに草の根を掴む者、痛手を押さえて<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>き、花のあいだに<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を組む者。

大次郎のまわりには、入りかわり立ち代り、新手が剣輪を描いて。じっ――！　静止するかと見る！　たちまち前後左右に飛び違える。<ruby><rb>鉄</rb><rt>あかがね</rt></ruby>とあらがねが、絡んで、軋んで、押しあうひびき。掛け声は、出ない。沈黙の力闘なのだ。花の香を消す血のにおいが漂って、野の末にはむくむくと、梯子をかけて登れそうな雲の峰の群らだちである。

その、夏の陽ざかりの入道雲を背景に、白い棒のような剣がうごいて、人は、草をふみしだいて縦横に馳駆する。

大次郎も、かなり斬りつけられているに相違ない。着物はところどころ裂かれて、若布のように下がり、どす黒い血を全身に浴びて、顔ももはや人相がわからないほど血まみれなのだ。

血で、女髪兼安の柄が滑るのか、時どき片手ずつ離してはじぶんの脇腹へ股へ、赤い掌をこすり拭いている。

出羽は、動かない。

両手をひらき気味に、背後の千浪を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って立ちはだかったまま、じっと、その大次郎の<ruby><rb>太刀捌</rb><rt>たちさば</rt></ruby>きを眺めているのだ。

広い野づらに、小さな人影が入り乱れて、血戦はつづいてゆく。花だけが静かに呼吸づき、雲は、移るともなく、すこしずつ流れている。

この時である――。

お花畑の隅の、山みちに寄ったほうに、一むらの灌木の繁みがある。その陰にそっと身を潜めて、葛籠笠を傾け、道中合羽の袖を撥ねて、さっきから<ruby><rb>憑</rb><rt>み</rt></ruby>されたように、この斬りあいに見入っている人物がある。

<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby><ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>、荒い滝縞の裾高くはしょって、一本ざし――見覚えがある。

文珠屋佐吉だ。

かれ、三国ヶ嶽から下りて早朝に、藤屋へ宿をとったのだが、間もなく下座敷の侍の一行が、例のむすめを押し囲んでにわかに出発するもようなので、脱いだばかりの草鞋をすぐ穿き、ずっとおくれて後をつけて来たのだが。

驚いた。

<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けているのは、じぶんだけではない。

山上に利七と会っているはずの大次郎――七年会わないあいだに、すっかり江戸風の、立派な若ざむらいになった大次郎が、押っ取り刀で、見え隠れに一同の跡を踏んで行く。そして、ほかにも誰か人を求めているらしく、きょろきょろあたりを窺っていくようすなので、これには何かわけがありそう――見つけられては面白くないと、文珠屋佐吉、木の軒、草の深みを楯に、一行をつける大次郎を尾けて身を隠しながら、やっとこのお花畑まで来たので。

すると、この乱闘だ。

大次、いつの間にか腕を磨いて、おそろしい使い手になったものだ――と、われを忘れて<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れていた文珠屋は、そのとき、わっと人声に気がつくと！

逃げ出したのだ、千浪が。

どういう隙があったのか、警戒の侍を振りほどいて、千浪が一散に駈け出している。

血なまぐさい光景に失神しそうなのだろう。無意識に、懸命に走りだしたらしい。それが、裾を蹴りひらいて、<ruby><rb>転</rb><rt>こ</rt></ruby>けつまろびつ、佐吉の伏さっているほうへ駈けて来るのだ。

「あっ！　千浪さま！――。」

大次郎の大声がして、すぐ、左右を一気に斬り払い、と、と、とっと大次も、千浪につづいて走って来るのが見える。

「追うな！　これ！　追うなと申すに！　雌蝶雄蝶だ。はっはっは、逃がしてやれ。」

出羽守の笑い声が、ばらばらと後を追おうとする中之郷、山路、北らの足をとめた。一同は抜刀をぶら下げたまま立ち止まって、去り行く大次郎のうしろ姿を、じっと見送っている。

こちらは、文珠屋佐吉だ。

猛獣のように藪かげに待ちかまえていて、来かかった千浪を、やっといきなり、横抱きに抱きかかえるが早いか、ほそい一ぽん路が反対側へ、ずっと木の間へ伸びている、そこを、佐吉、千浪の胴に片手をまわして急ぎだしたが。

「待たれい！　待てっ！」

うしろに、大次郎の声だ。今の野原では、むこうに小さく人かげが<ruby><rb>集</rb><rt>かた</rt></ruby>まって、<ruby><rb>負傷者</rb><rt>ておい</rt></ruby>に応急の手当てをし、下山の道をつづけるらしい。こっちへ来る気はいはない。

「待てというのは、わしかね？　それとも、このお嬢さんかね？」

ぬけぬけと言って、文珠屋佐吉、樹の下の小径に振りかえった。

秋深く

陽は、高い。暑いのだ。文珠屋は、その陽のほうへ背を向けて、自分の顔を影にすることを忘れなかった。

が、そんな気づかいをしなくても、彼はつづら笠をかぶっている。また、その編目は<ruby><rb>粗</rb><rt>あら</rt></ruby>く、なかの顔は透いて見えるけれど、大次郎は生死の血戦を経たあとで、<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろめ</rt></ruby>きそうに弱っているのである。笠の中の相手の顔になど注意を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らす余裕は、なかった。

で、誰とも知らずの対応――。

「貴様も、その娘御を誘拐しようというのか。」

大次郎は、ざくろの<ruby><rb>果</rb><rt>み</rt></ruby>のはぜたような、傷だらけの顔に、硬い微笑をつくって、片手に女髪兼安を引っさげたなり、前のめりに、佐吉の前へ来て立った。

いま文珠屋と言っている当年の江上佐助が、千浪を慕ってにわかに下山していることは、大次郎のあたまを去ったわけではないが、藤屋からあのお花畑までの途中、後にも<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>にも佐吉の影はなかったし、それに、佐助の佐吉が、こんな<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしていようとは知らないから、大次郎は、行きずりの旅人と話しているつもりで。

「これが、眼に入らぬか。」

手の、大刀を振って見せた。

「大次郎さま、わたくしどうなることかと――それに、藤屋に、残っているお父さまの傷が気がかりで、肩を深く――。」

千浪が、気もそぞろに叫びながら文珠屋の手を離れて、大次郎のうしろに廻って立った。

「もはや大丈夫！　これからすぐ藤屋へ引っかえしましょう。」

言いながら大次郎は、きっと、眼のまえの葛籠笠を覗き見て――山越えのやくざ者らしいがなぜ口をきかぬ？

「下らぬ真似を致すな。見逃してつかわす。果報に思え。」

言い捨てて、千浪を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>って立ち去ろうとすると、その大次郎の面前へ、文珠屋佐吉、すうっと脇差しを抜いて突き出した。

「おのれっ！　やる気かっ！」

きものは一面に切り裂かれて、<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>を下げたような大次郎、かっとなって、抜身の兼安を取り直そうとすると、途端に、かれの眼が相手のさし出している小刀の<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>っ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>にとまった。

そこに、小さな刃こぼれが三つ並んでいるのは！――思い出す。

田万里の幼年時代に、佐助がこの刀で、森の立木を出羽守に見立て、めったやたらに斬り廻った時の<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>あとだ。

「おお、江上――！」

思わず大次郎が叫んだ拍子に、そのわき差しをかざした文珠屋は、素早く、背後の沢へ身を躍らして――大次郎が駈け寄って、覗いた時、つづら笠と旅合羽は、傾斜に生えている木のあいだを、土煙りとともにずるずる踏みすべらして、谷底へいそいでいた。

あいかわらず、江上は――身が軽い――それにしても、あの風体で、今はどこで何をしているのか――大次郎は、苦笑を洩らしながら、

「文珠屋どのと言ったな。また七年後に、このうえの三国ヶ嶽で会おう。」

下へ向って、大きく叫んだ。

山彦の答えに混じって、佐吉の声が、かすかに上って来た。

「なあに、それまでに、今度は江戸で会わあ。娘は預けとくぜ。」

「お知り合いの方なのでございますか。」

「ふふん。」と大次郎は、遙か眼下の沢へ笑って、千浪へ、「いや、なんでもござらぬ。先刻追うて来る途中、ちょっと道で逢うただけのことで――それより、先生が心配でござる。だいぶん<ruby><rb>重傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>のようでしたが――さ、急ぎましょう。」

二人は、手を取り合って、上の阿弥陀沢へ引っかえした。

不覚にも、女髪兼安が手近になかったためか、そして、出羽の刀が四足の血に滑っていたせいか、法外先生の傷は、思ったより深かった。

法外流を編みだした練塀小路の老先生が、あんなことで肩を割りつけられるようなことはないのだけれど――物の<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みとでも言うのだろうか。

金創に霊験あるはずの猿の湯も、法外先生の傷にはきかなかった。

あの、白覆面の乱暴武士が、お猿さまを斬り殺したために、猿の湯は効能を失った――あみだ沢の里人は、ひそかにそう言い合ったが、事実そうなのかもしれない。

秋が来て、満山の紅葉燃ゆるがごときころ、老体の弓削法外はこの傷が<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>で、千浪と大次郎に左右の手を取られながら、にっこりと寂しく、息を引き取ったのだった。

それは、山々に秋が深まって、阿弥陀沢に霜柱の立った朝だった。

転身異相画

その法外先生が<ruby><rb>永遠</rb><rt>とわ</rt></ruby>の眠りにつく時、枕辺の大次郎と千浪の手に、痩せ細った手を持ち添えて握らせ合い、

「改めて許す。今から、<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>じゃ。末長く、な。」

千浪は、父の背に泣き伏して、大次郎の眼からも、大きな涙が、その、顔ぜんたい繃帯に包まれた上を滴り落ちる。

「泣くな、千浪。命数をまっとうして世を去るのが、なんで悲しいか――大次、女髪兼安と、道場を譲るぞ。千浪を頼む。道場を、な、道場をわしじゃと思って、盛り立てて行ってくれい。」

「先生！　あの白の弥四郎頭巾の武士を、必ず捜しだして、きっと<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ちます！」

「先生ではない。父と呼べ、父と――。」

「父上！　お恨みは、この大次郎がきっと<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>らします。」

女髪兼安の鍔を丁！　と鳴らす。<ruby><rb>金打</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>して、耳もとに叫ぶと法外先生は微笑を洩らしたきり、それなり一言も口をひらかずに、<ruby><rb>逝</rb><rt>い</rt></ruby>ったのだった。

村人の手で、遺骸は<ruby><rb>荼毘</rb><rt>だび</rt></ruby>に付した。お骨を捧げて、今日は明日は江戸の道場へ帰ろうと思いながら、大次郎の傷の癒えも<ruby><rb>進捗</rb><rt>はか</rt></ruby>ばかしくないので、二人はまだこうして、この猿の湯に逗留している。

なにしろ、手足に七カ所、胸に大きく一太刀、顔は、一ばんひどく、大小無数の斬り傷なので。

癒りが遅いのである。

床の間に、法外先生の遺骨を安置し、部屋の真ん中に寝床を敷ききりで、伴大次郎、毎日、寝たり起きたりしている。胸から手、足はもちろん、顔にもすっかり白い布を巻き包んでいるところは、あのいつぞやの白の弥四郎頭巾にそっくり――険しくなった双眼だけが、その繃帯の奥から覗いているのである。

夜など、この姿の大次郎にあの弥四郎頭巾を思い出して、千浪は、ひとり<ruby><rb>秘</rb><rt>ひ</rt></ruby>そかにぞっとすることが多かった。

自分さえ、この七年目の会合に来なかったら、いや、じぶんは来ないわけにはいかなかったが、先生や千浪をお伴れしなかったならば、こんなことにはならなかったものを――そう考えると大次郎は、傷痕に<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み込まれるような思いで、一日に何度となく、床の間の骨壺へ掌を合わせる。

この自責の念が、夜となく昼となくかれを悩まして、自分で制しきれずに、焦々した気持ちになるのであろう。大次郎はこのごろ、人が変ったように、神経が<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>り、千浪に対しても、以前とは打ってかわって、荒あらしい声を放つのだった。

顔じゅう繃帯に覆われ、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>は、<ruby><rb>百日鬘</rb><rt>ひゃくにちかずら</rt></ruby>のように伸び放題。狂的に光りかがやく眼が、いつも<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と千浪を見守って。

<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は、われにもなく眼を<ruby><rb>外向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けながら、

「雪が降ります前に、下りなければなりませんと思いますけれど――。」

「けれど、なんです。こんな<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>のような顔になった拙者と、ともに、江戸へ帰らなければならないかと思うと、この山を出る気にはならないと言うのだろう。」

「あれ、またあなた、そんなことをおっしゃって、わたくしを困らせてばっかり――。」

「千浪。」

「はい。」

「きょうは顔の繃帯を取ってくれ。」

「は、い――でも、あの、あの――。」

大次郎の顔が、どんなに変相しているか、千浪はその恐ろしい事実を知っていて、顔の繃帯をとる日を、一日延ばしに延ばしてきたのだが――。

<ruby><rb>逡巡</rb><rt>ためら</rt></ruby>っていると、癇走った大次郎の声で、

「取ってくれと言うに、なぜとらぬのだ。」

女とも見紛うた、ふくよかな美しい顔に、<ruby><rb>額部</rb><rt>ひたい</rt></ruby>と言わず頬と言わず、ふかい刀痕が十字乱れに刻まれて、まるで打ち砕かれた鬼瓦のよう――とは、大次郎、知らないのである。

が、いくらか察してはいるらしい。

「繃帯を取ったとて、鏡を見るとは言わぬぞ。」

「あれ、またあんなことを――では、おとりいたします。」

もう、仕方がない。床の上に起き上っている大次郎の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に廻って、膝を突いた千浪、観念して布の結び目を解きにかかると、

「待て。待ってくれ、千浪。」悲痛な大次郎の声で、「拙者の顔がどう変っておろうとも、大次郎を想ってくれるそなたの心にかわりはあるまいな。」

千浪は一生懸命に、

「なにをおっしゃります。千浪は、遊び女ではござりませぬ。お顔によって、つくす誠に違いがございましょうか。なんという情ないお言葉――。」

「よし！　その口を忘れるな。解け！」

顫える千浪の手で、繃帯は、ひと巻き二まき、ほごされてゆく。

やがて、眼の上の凄い刀痕が、ちらと見えてきた。

大次郎は、つと手を上げて千浪の手を押さえて、

「ま、待て――待て、千浪！　もう一度訊く。拙者の顔がどんなになっておろうと、そちのまごころは変らぬであろうな？」

「あれ、また！　おことばとも覚えませぬ。千浪を、そのような女と思召しでござりますか。」

「ははははは、よろしい！　早く取れ、早く！」

わななく胸を押さえて千浪は懸命に、繃帯を巻き取る。早く！　早くと促されるままに、眼まぐるしいほど手を廻して。

眉が、片眼が、紫いろの、凹凸の中から、覗いてきていた。

江戸の巻――二人白衣――

足留め詣り

「いくら呑気だってほどがある。うちの<ruby><rb>宿六</rb><rt>やどろく</rt></ruby>には呆れ返っちまう。これで十日あまりも冢を明けているんです。<ruby><rb>南無八幡大菩薩</rb><rt>なむはちまんだいぼさつ</rt></ruby>、どうぞ足どめをしてお返し下さいますように――。」

朝の七つ半刻、むらさき色の薄靄が<ruby><rb>暗黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>を追い払おうとして、八百八町の寺々の鐘、鶏の声、早出の青物の荷車――大江戸は、また新しい一日の活動にはいろうとして。

ここ深川、富ヶ岡八幡の社前に、おごそかに柏手を打ってしきりに何ごとか念じているのは、恋慕流しの宗七の妻、お多喜なので。

きれいに掃き清められた<ruby><rb>階</rb><rt>きざは</rt></ruby>しの下にうずくまって、

「ほんとにほんとに、<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいそ</rt></ruby>がつきてしまいますけれど、でも八幡さま、あれでも、あたしにとっては大事な人ですからね、どこにいるのか知りませんけれど、しっかり護ってやって下さいまし。」

とお多喜は、まるで<ruby><rb>相識</rb><rt>しりあい</rt></ruby>の人に話しかけるような<ruby><rb>心易</rb><rt>こころやす</rt></ruby>い言葉で、八幡様に向い、なおも口の中で、

「いえね、十日ほど前、どこへ行くとも言わず、着のみ着のままでぶらりと出て行ったきりなんです。どうせどこかへしけ込んで<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>を抜かしているにきまってます。そりゃあね、女狂いはあの人の病ですから、あたしゃとうから諦めてはいますけれど、ただ一日も早くあたしという女房と、この深川の家を思い出して、帰って来ますようにお願いいたします。遠くへ突っ走りませんように、なにとぞ足どめを――。」

森閑とした朝の神社だ。奉納の石燈籠、杉並木、一直線の長い参詣道――人っこひとりいない。

<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な浴衣に、ずっこけに帯を結んで、白い顔に眉を寄せて一心に拝んでいるお多喜、凄いほど眼鼻立ちの整った、二十五、六の女である。宗七とともに恋慕流しの三味線を引いて、街から街と流し歩くのが<ruby><rb>稼業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>で。

その、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>で、商売の相手の宗七がもう十日も家に寄りつかないので、思いあまったお多喜、こうして近くの八幡様へ、毎朝、宗七の足どめを祈りに来ているのだった。

最後に、調子よく柏手を打ったお多喜が、くるりと踵をめぐらして社前を立ち去ろうとすると、

「ほほほほほ――。」どこか近くに、女の笑い声がする。

お多喜は、耳を疑って辺りを見まわした。

笑い声は、どうやら社の縁の下から響いて来るらしい。ぎょっとしながら、お多喜がそっちへ廻って、高い縁の下を覗いてみると――女が寝ているのだ。

「なんだい、お前さん。お<ruby><rb>乞食</rb><rt>こも</rt></ruby>かえ。」

気味の悪いのをこらえて、お多喜はそう声をかけたが、女は、答えない。

向うむきに寝ているのである。

地べたに莚を敷いて、髪を振り乱し、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>とほこりに汚れた着物を着て、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>だった。

顔は見えないが、二十八、九、<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>のようすのいい女なのだ。

「ほほほほほ、おかしいねえ。殿様が女に斬られたりしてさ。」

と女は、独り言をいって、また笑った。

さっきの笑いの出どころが、この女とわかると、お多喜はすっかり安心して、

「お前さん、何をひとりでぶつぶつお言いだえ。」

と覗きこんだが、今の、殿に斬られて<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>という言葉がちょっと耳に触って、お多喜は解せぬ面持ち、

「何を言ってるんですよ。寝言をいってるのかえ。」

すると、女、犬のようにざかざか這って、縁の下を出て来たかと思うと、お多喜の前にすっくと起ち上って、

「ほほほほほ！　あなたのお顔に、蝶々がとまっていますえ。」

お多喜は、ぎょっとして飛び<ruby><rb>退</rb><rt>す</rt></ruby>さった。

女は、お多喜の顔とは別の方角へ、おろおろと落ちつかない眼を据えて、

「あれ、あれ！　蝶々が二つも！　女蝶男蝶！　ほほほほほ――。」

白い脛も露わに、よろよろと歩きだしてくる。さながら蝶を追うような舞いの手ぶりよろしく。

<ruby><rb>保名狂乱</rb><rt>やすなきょうらん</rt></ruby>――ではないが、女は、無残に狂っているのである。

人品、言葉つきも卑しくなく、相当の<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>をした女に相違ないが、いくらか、これにはよほど深い事情がなくてはかなわぬとはいえ、なんという気の毒な――と、お多喜は、しばし宗七のことを忘れて、その狂女のありさまを打ち守るのであった。

銀磨きお預り十手

お参りに行って会ったのだから、これを助けるようにという神様のお示しであろうと、お多喜は、嫌がる女を伴れて、早々に櫓下の自宅へ帰って来た。

格子をあけると、狭い土間の取っつきに、夏なので障子をとり払い、すだれが二枚、双幅のように掛かっている。

宗七と二人きりの、小さな家で、雇人を置く<ruby><rb>生計</rb><rt>くらし</rt></ruby>でも、身分でもない。

「さあ、あなた、ずっとお上り下さいまし。ずっとと申しても、この一部屋なんですけれど。」

そう言ってお多喜は、女を抱きかかえるようにして上った。

畳の焼けた六畳の間。壁に、三味線が一つ、ぶらりと下がっているので。

「あなたはほんとにここを、御自分のお家と思召して、ゆっくり<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いで下さいましね。」

狂女は、わかったとみえて、お多喜のまえに横ずわりにすわって、ぼんやりとそこらを見まわしている。

「お名前は何とおっしゃいますの？」

子供に言うように、お多喜はゆっくり話しかけてみたが、狂女はやはり答えないで、今度は、うつ向いて、さめざめと泣きだすのである。

気ちがいだとは思っても、お多喜は呆気に取られながら、

「お宅はどちらですか。」

もとより、通じようはずはない。

<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へは連れて来たものの、人手のないところへこのまま置くわけにはゆかず、それかと言って、抛りだすような無情なこともできなくて困りはてて、お多喜がじっと女の顔を見つめると――。

いま初めて気がついた。

たましいの抜けた眼をして、顔ぜんたい、汗と砂ほこりにまみれてはいるが、狂女は、この深川の羽織衆の中にもそうたんとはあるまいと思われる美人で、白い膚、鈴を張ったような眼、じつに高貴な面ざしなのだ。

「どこの人だろう？　まあ、可哀そうな――当分うちに置いて、世話をして上げてもいいけれど、知らせなかったと言われて、あとで恨まれてもつまらない。親兄弟はないのかしら。」

お多喜が、狂女の顔を見つめて、こうした物思いに耽っているとき、土間に人かげがさした。

見ると、宗七だ。

宗七が、今ぶらりと帰って来たところだ。

出る時着て行った浴衣が、すっかり旅に汚れて、どんよりと、疲れた顔をして立っている。

一眼見るとお多喜は、狂女をそのままに、転がるように上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>へにじり寄って、

「お前さん！　なんだい、いまごろ、妙な顔をして帰って来てさ。」

宗七は、お多喜の前へ出ると頭が上らないらしく、それに長らく家を明けた弱味もあるので、

「いま帰ったよ。」

「今帰ったよもなにもないもんだ。いったいどこへ行っていたのさ。」

「山へ行って来たんだ。」

じっさい宗七は、いま三国ヶ嶽から帰ったところなのである。

が、何も知らないお多喜は、そんなことは<ruby><rb>頭</rb><rt>てん</rt></ruby>から信じないので、

「山だって？　山とは何のことさ。ぶらりと家を出て、山へ行く人もないもんだ。いいかげん人を馬鹿にしたことを言うがいいよ。」

「しかし、そんなこと言ったって、真実、まったく、山へ行って来たんだからしようがねえ。」

「まあ、そんな詮議はあとでしてやるから、さっと上ったらいいじゃないか、じぶんの家じゃないの？　忘れたの？」

とお多喜は、口ではぽんぽん言いながらも、宗七が帰って来たことだけで、もうすっかりよろこんでいるようす。

足のほこりを払って上って来た宗七へ、

「お前さん、八丁堀の旦那から、毎日のようにお迎いだったよ。なんでも、またあの押込みが江戸中を荒らしだして――。」

「え？」

と言って、お多喜を振り返った宗七、それは、今までの宗七とは別人のように見えた。

女たらしのほかは能がなく、女房に頭が上らないと見えた恋慕流しの宗七――じつは、辰巳の岡っ引として、<ruby><rb>朱総</rb><rt>しゅぶさ</rt></ruby>を預っては江戸に隠れもない捕物名人なので。

いま、八丁堀からたびたび使いが――と聞いて、宗七、人間が変ったように、活気を呈し、顔まで引きしまったのに不思議はない。

「うむ、そうか。<ruby><rb>川俣</rb><rt>かわまた</rt></ruby>様からお呼びか。」

と、きびきびした<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な口調――が、その眼がひとたび、そこにすわっている狂女へ行くと、お多喜の説明を聞きながらと見こう見していた宗七、やにわに、愕きのあふれる声で叫んだ。

「おお！　あなたは田万里の――！　あの、伴、伴大次郎の姉上――。」

街の小鬼

「どうもとんだことがあったものだ。」

「先生がやられなすったとは、ほとんど信じられん。」

「一刀のもとに先生を<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ったということだから、その相手の白覆面の曲者は、よほど腕の立つやつに相違ないて。」

下谷の練塀小路、今は主の変った法外流の道場で、門弟たちが集り、わいわい話し合っている。

大次郎と千浪が、法外先生の遺骨を守って下山し、江戸へ帰って半月ほどしてからで。

武者窓から西陽のさす道場の板敷きで、またしても雑談に花の咲く話題は、いつも先師法外先生の最期の噂ときまっている。

稽古後。

「それはそうに決まっておるが、なにしろ先生も御老体のことだったからな。」

と、一人が言う。

ほかのひとりが、

「伴先生は、その時、現場にいあわせなかったのか。」

「そうと見える。なんでも、上の山とかへ一夜登っておった後のできごとじゃそうな。」

「伴先生と言えば、山から帰ってから、先生の稽古は滅法荒くなったな。」

「稽古ぶりも、まるで別人のようじゃ。」

「顔も別人――。」

「これ！　それを言ってはならぬ。」

一同は、急に声を忍ばせて、

「しかし、えらい変りようじゃなあ。あれほど<ruby><rb>眉目</rb><rt>びもく</rt></ruby><ruby><rb>秀麗</rb><rt>しゅうれい</rt></ruby>だった伴大次郎が、今はまるで鬼の面と言ってもよい。」

「山から帰って来られて初めて見たとき、おれは、化物ではないかと思ったぞ。」

「声が高いぞ。それが伴先生のお耳へ入ったら、貴様の首は胴へつながっておるまい。」

「いや、化物にしろ何にしろ、あの千浪さまを妻にして、これだけの道場を承け継いで見れば、決して悪い気持ちはすまい。」

「ところが、そのお嬢様と先生との間が、うまくいっておらぬのだ。」

「それはまた、どういうわけで――。」

「顔がああなってからの、先生のひがみだろうと思うのだが、かようになった大次郎を、そなたはまだ大切に思うか、慕っておるかと言って、毎日のように千浪さまを責めるのだ。このごろの千浪さまは、なみだの乾くおりもなく、まことにお気の毒な様子だ。」

「が、大次郎先生のお身になってみれば、それも無理がないのう。」

「ほら、聞えるだろう。かすかに、千浪さまの泣き声が――ああまた、無理難題を持ち出されて、困っておられるのだ。」

じっさい、あたりを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>る低い啜り泣きの声が、廊下つづきの母家のほうから、あるかなしに伝わり聞えて来るのだ。

その母家――奥の書院で。

大次郎改め、二代目伴法外が、血相を変えて縁に立ちはだかり、その足もとに、眉のあとも青い若妻千浪が、泣き濡れて倒れていた。

伴法外は、片方の眼の上、顎、頬、額と、その他顔じゅういたるところに大きな傷を負って、傷口はもはやふさがっているとはいうものの、昔日の美青年の面影はすこしもなく、じつに、見る人をしてぞっとさせる、恐ろしい顔つきである。

顔とともに、その性格も一変したに相違ない。この日ごろ、ことごとに荒あらしい言葉を吐いて、やさしい千浪を苦しめ、<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt></ruby>むのである。

「いやいや、何と言っても、こんな顔になった大次郎を、そちが守り通してくれようとは思われぬ。また、こんな化物が傍におっては、その方も飯がまずいであろう。私は、自決を考えておる。」

千浪は、なみだの下から、

「またしても、そのようなことを――。」

「ええいっ！　言うな。そちはわしに鏡を見せんように気を配っておるが、今こそこの顔を見てやるぞ。」

言ったかと思うと大次郎の法外、そこの縁にあった洗面の金盥を両手に取り上げ、さっそく水かがみ――。

ハッキリ映って見える恐ろしい己が形相！

「ぷっ！　かほどまでに変っておろうとは！」

庭石に、はったと金盥を投げ棄てた法外。

――その夜である。彼が道場をも妻をも捨てて家出したのは。

白絹の紋つきに白の弥四郎頭巾。<ruby><rb>女髪</rb><rt>にょはつ</rt></ruby>兼安を腰に。

この時から、江戸の巷に、二人の祖父江出羽守が<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>することになった。

風過ぎ雁去って

一つには、この自分――千浪のために、また父法外の仇敵である、あの弥四郎頭巾の一団とお花畑で渡り合って、全身満面に刀痕を受けた伴大次郎、改め二代法外である。<ruby><rb>相変</rb><rt>そうがわ</rt></ruby>りのしたのも自分のせいと思えば、その恐ろしい顔も、千浪は、眼に入らなかったのだが――。

金創十字に斬り苛まれた醜い容貌は、忍ぶ。

忍ぶどころか、何もかもこの弓削家のためにと――、もったいなくさえ思って、ひそかに蔭で、良人大次の背へ手を合わして来た千浪ではあったけれども――その顔とともに性格まで一変した大次郎を、千浪、どうしても愛することはできなかった。

彼女の悩みは、そこにあった。

人間というものは、顔によって、こんなに<ruby><rb>気質</rb><rt>きだて</rt></ruby>が変るものであろうか。その物凄い相貌のままに、まるで鬼のような心になった伴大次郎――伴法外を、千浪が、愛そうとして愛し得なかったのに無理はないのだった。

大次郎もまた――。

「かような顔になった拙者を、そちは、怖れておるに相違ない。いや、憎んでおる！　嫌っておる！　それが拙者にはよくわかる！」

と昼夜、千浪の顔にこの言葉を吐きかけて、千浪を泣かせ自らも苦しんだものだったが。

稽古振りまで、がらり違ってきて、竹刀の先が火を噴くような激しさ、荒さ。

それは弟子どもへの薬になるとはいえ、この大次郎の立合いの鋭さは、そういう意味のものではなかった。

炎のような憎悪！――普通の<ruby><rb>容貌</rb><rt>かお</rt></ruby>をしている者への、強いにくしみ――それが、大次の眼光に、道場での木太刀取りに、突き刺すように感じられる。

こうなると、<ruby><rb>下谷練塀小路</rb><rt>したやねりべいこうじ</rt></ruby>の法外道場は淋れて往く一方。

そして、それは江戸の街々に、秋も深まろうとする一夜だったが、大次郎は、風に捲かれる落葉のごとく、瓢然と道場を出奔したのである。

見てはならない自分の顔、下山以来、鏡というものを避けていたじぶんの相貌を、金盥の水かがみに、はっと、見てしまったのが動機となって。

「げっ！　か、かほどまでに変っておろうとは！　これでは、千浪！　そちに嫌われても詮ない道理。うは、ははははは、いや、夢を見た、夢を見た――。」

と伴法外――否、法外の名は先師弓削氏の霊に<ruby><rb>返戻</rb><rt>へんれい</rt></ruby>して、すっぱりとまたもとの伴大次郎、あの三国ヶ嶽のふもと、山伏山の陰なる廃村<ruby><rb>田万里</rb><rt>たまざと</rt></ruby>の郷士あがり、天涯孤影、肩をそびやかして、恋妻の許を去ったのだ、大次は。

<ruby><rb>躓</rb><rt>こ</rt></ruby>けつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ、裾踏み乱して<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>しながら、門まで大次郎のあとを追って出て千浪の耳に聞えたのは、そこの練塀小路の町かどをまがって消えて行く、かれの詩吟の声のみだった。

「風過ぎて風<ruby><rb>光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>を<ruby><rb>駐</rb><rt>とど</rt></ruby>めず

<ruby><rb>雁</rb><rt>かり</rt></ruby>去って雁<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>を残さず」

朗々たる歌声、<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>に呑まれて。

浅い<ruby><rb>縁</rb><rt>えにし</rt></ruby>。

短い<ruby><rb>夫婦</rb><rt>みょうと</rt></ruby>の契り――ほんとに、夢だったかもしれないと、<ruby><rb>得耐</rb><rt>えた</rt></ruby>えず門柱に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかった千浪は、いつしか地に伏して泣きじゃくっていたのだった。

白絹の紋服。

おなじく白の弥四郎頭巾に、妖刃女髪兼安を腰にぶっ差して。

あたらしい顔とともに、新しい人間に生まれ変った小鬼大次郎、胸中ふかく蔵するのは何か？

が、こうしてふっつりと<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>の綱を断ち切った気の伴大次郎も、畢竟、眼に見えぬ煩悩の綾糸に手繰られ、躍らせられているのではあるまいか。

所詮、生そのものが煩悩。

生きているあいだは、人間、煩悩の児なのかもしれない。

それはそうと。

ふたたび言う。この夜から、八百八街の辻々に、完全に同じよそおいのふたりの<ruby><rb>祖父江出羽守</rb><rt>そふえでわのかみ</rt></ruby>が出没することになったので。

二人白衣――。

いずれをいずれとも見わけがたい。

あの、三国ヶ嶽山上の七年目の会合と、月の笠の予言した阿弥陀沢名物お山荒れと、見てはならぬ女髪剣のみだれ焼刃を覗いてしまった大次郎と、猿の湯の猿を斬ってその血に走る刀で、弓削法外先生を斃した、煩悩魔祖父江出羽と――果して！　渦紋は<ruby><rb>擾乱</rb><rt>じょうらん</rt></ruby>を呼び、事件は展開を予約して、場面はいま、大江戸に移っているのだ。

大次郎を失った千浪のこころ――。

そしてまた。

七年前に虐君出羽への復讐を誓って、名、金、女の三煩悩を追って三つに散った山の若者のうち。

今。

金を受持った江上佐助は、文珠屋佐吉と名乗る為体の知れない人物となり、もっとも危険な煩悩、おんなの係の有森利七はその女毒に当って意地も甲斐もない巷の遊芸人、恋慕流しの宗七と化し去り――ところが、この宗七、じつは、十手をお預りして<ruby><rb>黒人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>仲間に隠れもない捕物名誉だとのこと。

その宗七の留守中に、女房お多喜が富ヶ岡八幡から拾って来た美しい狂女を見て、三国ヶ嶽から<ruby><rb>帰宅</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来た宗七、持前の頓狂な大声で、叫んだものだ。

「ややっ！　あなたは田万里の――！　あの伴、伴大次郎の姉うえ、小信さまでは――。」

やぐら下宗七宅の場

土橋、仲町、おもて櫓、裏やぐら、裾つぎ、網打場、大新地、小新地――ふか川。

あそびの世界。

価い、昼夜十二匁ずつの五つ切り、あるいは昼二歩二朱、夜一分、ひと切り二朱など、さまざま。

栄喜横町、仲町の尾花屋、大新地の<ruby><rb>大漢楼</rb><rt>だいかんろう</rt></ruby>、<ruby><rb>五明楼</rb><rt>ごめいろう</rt></ruby>、百歩楼――屋根船を呼ぶ舟宿の声。

この二枚証文の辰巳七個所の色まちのなかで。

矢倉下――恋慕流し宗七とお多喜の住いは、ここの路地奥にあるのだ。

格子から土間を一跨ぎに、上ったところが六畳ひと間っきりの家で、表看板商売物の三味線が懸かっているだけ、身を秘しての捕物稼業だから、お役風を吹かせる<ruby><rb>朱総</rb><rt>しゅぶさ</rt></ruby>の十手やとり繩などは、壁にぶら下がっていない。

<ruby><rb>其室</rb><rt>そこ</rt></ruby>の、うす赤く陽に染んだ畳に。

惨めに狂っている大次郎の姉、小信を中に挾んで、お山帰りの宗七とお多喜、じっと顔を見合っている。

出しぬけの良人の言葉に、お多喜は愕きの眉を上げて、

「まあ！　お前さんはこの<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>を知ってるのかえ。」

それには答えず、小信の横へちょこなんと膝を揃えて坐った宗七は、

「小信様！　お見かけするところ、あなたあ<ruby><rb>変</rb><rt>ひょん</rt></ruby>な御様子だがこりゃあまあいったいどうなすったというので――あの出羽、いや、祖父江出羽さまのお眼に留まって、田万里から伴れ出されてから、今までどこにどうしてお暮らしなされた――。」

と彼は、真剣の色を<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にあらわして、小信の顔をさし覗くのだった――。

相手は、うつ向いて袂の端を弄んでいるきり、答えない。

お多喜は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、八幡のお社の縁の下で、この小信を<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>けて家へ伴れ帰った顛末を話した後、

「気が違っておいでなんだもの。何を訊いても、<ruby><rb>分別</rb><rt>ふんべつ</rt></ruby>のつくわけはないよ。それにしてもお前さんは、あたしの識らないことばかり言い出すんだねえ。祖父江出羽守だの、田万里だのって――この女は小信さんって名で、その伴何とかさんの姉さんだって。」

お多喜が不審に思うのは当然で、有森利七の宗七は、じぶんの出身については、女房のお多喜にも何ひとつ明かしてないのである。

<ruby><rb>夫婦</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の<ruby><rb>会話</rb><rt>やりとり</rt></ruby>をぼんやり聞いている小信は、まるで薄桃色の霞のなかに生きているような気がするだけで。

何の記憶も、意識もない。

だが、いま――。

田万里、祖父江出羽守、伴大次郎――という名を耳にしたかの女のこころに、<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ながら、恐ろしい思い出が<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくる。

さっきのお多喜が、八幡の縁の下に寝ていたこの小信を見つけた時、小信が独りでに口走った言葉、

「ほほほほほ、おかしいねえ。殿さまが女に斬られたりしてさ。」

といったのは、あれは事実なので。

狂人ながら、絶えず心にあることを、思わずひとり<ruby><rb>語</rb><rt>ご</rt></ruby>ちたというわけ。

それは。

巻狩りの殿の眼に留まって誘拐され、彼女が田万里を去ってから、もう七年になる。恐怖と恥じと怨恨との連続だったさながら夢魔のようなこの七年間――。

自分は出羽守の一行に取りまかれてこの江戸の下屋敷へ送られて、そこで、ほかの多くの妾てかけとともに日夜殿の玩弄に身を任せなければならないことになったが――その、山を下りる時、かすかながら覚えているのは、父の伴大之丞が自分を助けようとして、単身、出羽守狩猟の人数へ斬り込んで無残な切り死をしたことと。

それから、後で風の便りに聞けば、この娘の悲運と老夫の横死を嘆き、主君出羽を恨みにうらんで、母はついに出羽の藩地、遠州<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>の空を<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで自害して果てたという。

父母の仇、じぶんの敵！――七年間、耐え忍びながら機会を窺っていた小信は、とうとう、今から三月ほど前の月のない夜中に、この江戸の下やしきの寝所で、思いあまって出羽守に斬りつけ、混雑に紛れて屋敷を逃亡したのだった。

傷は、背中に深く一太刀――たいしたことはなかった。出羽は、平気だった。血の垂れる肩下へ手を廻し、立ち騒ぐ侍臣たちを制して、

「おれを斬るとは面白い<ruby><rb>女</rb><rt>やつ</rt></ruby>、ははははは――。」

と、いつものように、たかだかと<ruby><rb>哄笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を噴き上げていたが。

美しき残骸

豪放なところのある出羽守である。捕まれば、女の命はないにきまっている。殺すのも<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>と思ったものか、逃がしてやるつもりだったのだろう。

「なんのこれしきのことに、騒ぐなっ！」

家臣らを押さえている間に、小信は<ruby><rb>闇黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>を縫って庭伝いに屋敷を落ち延びたのだ。

大名が寝所で妾に斬られた。人に話もできない。この噂が世上に拡まれば、殿様はもちろん、祖父江藩の名折れになるばかりか、公儀の耳に入ったとなると、ただではすまない。どのみち、いい物笑いの種を播くのは知れたことなので、小信を斬ればその評判も立ちやすいと、そこですべてを内証に葬る考えから、出羽守、とっさに思案して家来たちを取り鎮め、それとなく、彼女に脱出の機会を、与えたのかもしれなかった。

そして、極秘のうちに背の刀傷を癒すべく、山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、気に入りの側近のみを<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて人知れず、金創に霊顕ありとすすめる者のあったままに、あのあみだ沢の猿の湯へ湯治に行ったのだった。

<ruby><rb>御微行</rb><rt>おしのび</rt></ruby>――どころか、身分を隠しての逗留なので、江戸を出てから帰るまで、ああして白の弥四郎頭巾に、すっぽり面体を押し包んで。

内に猛り狂う煩悩を宿し、外に、おのれを仇とつけ狙う三つの煩悩の鬼ありとも知らず、祖父江出羽守、千浪のやさしい顔姿に煩悩の火を燃やした末、弓削法外先生を討ち果たし、二重に、伴大次郎に、かたきとつけ廻されることになった。

奇しき因縁――とは言っても、伴大次郎、無論あの白の弥四郎頭巾を祖父江出羽守とは知る由もなかった。

一方、出羽の屋敷を逃れ出た小信は――。

怖いもの知らず。

殿様に斬りつけた時から、可哀そうに小信、すでに狂っていたに相違なく、とにかく、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で街に走り出た彼女は、もう立派にたましいの抜けた残骸だった。

<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けるしかばね――となって、あれからこっち、材木置場や町家の檐下で、寺社の縁などに雨露をしのいで江戸の町まちを当て<ruby><rb>途</rb><rt>ど</rt></ruby>もなしにほっつき歩き、きょうこうしてはからずもお多喜の眼に触れて、その宗七の家へ引き取られたという<ruby><rb>仔細</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>。

が、この三月まえの出来事はもとより、七年来の悲しい歳月は、いま小信の<ruby><rb>意識</rb><rt>こころ</rt></ruby>の底に埋められているだけで。

宗七とお多喜が両方からかわるがわるいろいろ尋ねても、何の反応もないので、ふたりともしまいには黙り込んでしまった。

お多喜はほっと深い溜息を洩らして、宗七へ向い、

「どうしたもんだろうねえ。しばらく家に置くとしても、大家さんへ話しておかなくちゃあ悪いだろうねえ。そんなことをして、面倒な係合いになっても詰まらないし――。」

何か考えていた宗七が、ぽんと小膝を打って起ちかけた。

「うむ、そうだ！　これの兄さんで伴大次郎、じつあ三国ヶ嶽でその旦那に会って来たんだが、その節の話じゃあ、なんでも下谷の練塀小路、法外流とかいう<ruby><rb>剣術</rb><rt>やっとう</rt></ruby>の道場にいると聞いたが――。」

「この<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>の兄さんがかえ。そりゃあお前さん、うってつけの話じゃあないか。それじゃあ一っ走り報せに行って、引き取ってもらうなり、とっくり相談してみたら――。」

「うん。大次郎の旦那も、どんなにかお喜びなさるに違えねえ。じゃ、そういうことにしよう。」

宗七が自分の<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>を見下ろして、

「おう、これじゃアあんまりだから、小ざっぱりした<ruby><rb>着物</rb><rt>もの</rt></ruby>とあっちの帯を出してくんねえ。」

「あいよ。」

とお多喜は、押入れへ首を突っ込んで、

「だけど、どうしてこんな可哀そうなことになったんだろうねえ。あたしゃ見ていて、いっそ泪が出てしようがないよ。」

「何か深え<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるらしいが、なにしろ、こっちの言うこたあ通ぜず、おまけに口をきかねえんだから、始末におえねえ。」

が、小信が出羽に伴れ去られたことだけは知っている宗七、なにかこれは出羽守の暴状と<ruby><rb>関係</rb><rt>つながり</rt></ruby>があるらしい、早くも察していっそう暗い気もちになりながら、一<ruby><rb>本独鈷</rb><rt>ぽんどっこ</rt></ruby>の博多の帯を廻しまわし、足を踏みかえて締めている最中――。

がらっ！

入口の格子が開いて、

「宗七、いるか。」

低い、しゃ嗄れ声が土間に。

ぼんのう小僧噂の聞書

「お、<ruby><rb>川俣</rb><rt>かわまた</rt></ruby>の旦那――。」

と宗七は、たちまちもとの、人に対する時のへらへらした芸人口調に返って、

「ようこそお越しを、へへへへへ。」

ぴょこりと頭を<ruby><rb>低</rb><rt>さ</rt></ruby>げて、上り口にすわった。

かれ宗七は、いわば二重人格なので。女たらしのほか能のない恋慕流しの宗七と、捕親として十手を閃めかし、繩を捌く時の彼と。

後のかれは、めったに見せたことがない。

普段はいつも、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">から</span>だらしのない、頼りにならない女殺し宗七――慣い性というとおり、もうこのほうがほんとうの彼なのかもしれない。三国ヶ嶽の頂上で、伴大次郎を涙の出るほど失望させたのも、このかれの半面――恋慕流しの宗七だった。

八丁堀の与力川俣伊予之進は、こういう宗七を知っているかして、その浮わついた態度も別に気に留まらない様子。

短い羽織の下から刀のこじりを覗かせたまま、その羽織の裾を習慣的にぽんと叩き撥ねて、あがり框に腰を下ろした。

三十一、二。浅黒い顔の、いかにも不浄役人と言った、眼のぎょろりとして鼻の鋭い侍だ。

「ようこそじゃあねえぜ。」と伊予之進は<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>に砕けた調子で、「久しく<ruby><rb>他行</rb><rt>たぎょう</rt></ruby>だったじゃあねえか。」

「へえ、じつあその、ちょっくら旅にね――。」

「ほんとに旦那。」お多喜が、手早く茶の支度にかかりながら口を入れて、「うんと油を絞ってやっておくんなさいましよ。さっきぶらりと、気が抜けたような顔をして帰ってまいりましてね、呆れ返るの雨蛙じゃアありませんか。」

「いや、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>にさんざ叱られた後らしいから、おれあもう何も言うめえ。なに、おいらより、おかみの待ち焦れ方と言ったら――ははははは、なあ、お内儀、おめえ、ずんと痩せたようじゃあねえか。」

「あれま、旦那は相変らずお口の悪い。」

「なあに、里ごころがついて帰って来たんだ。思いきり可愛がってもらいねえ。」

「あんなことばっかり、ほほほ――どうぞ、ひと口お湿し下さいまし。」

お多喜の差し出した茶を、伊予之進は、大きな音を立てて啜ってから、

「時に、宗七――。」

「へえ。」

「へえじゃあねえ。ぱっちりとこう、眼を開けな。またお前の出幕が廻って来たぜ。」

「とおっしゃいますと？」

「宗七様の帰りを待ちかねていたんだ。またあの、煩悩夜盗があちこちに出はじめた騒ぎでな。」

「では、あの、煩悩夜盗と名乗る押込みが、また、お膝下を荒しているんで――。」

「うむ。この七年間、われらを愚弄し抜いてまいった煩悩夜盗だ。きゃつのためには、お互いたびたび苦杯を舐めさせられたことは、覚えがあろう。江戸に岡っ引なしとまで言われて――それが、先ごろより、またもや暴れ出したのじゃ。」

「それは存じておりやすが――。」

そう言って宗七は、じっと腕組をした。

煩悩夜盗というのは。

七年ほど前から深夜の江戸を荒らし出した怪盗で、警戒の厳重な富豪と言われる家のみを襲い、箱に入れて積んだ大金を担ぎ出して、しかも、何らの手がかりをも残さない。いや、手がかりといえば、いつも大きな手がかりがあるので――それは、この賊は押し入った家に、必ず「煩悩」の二字を書き残しているのである。

それが、誰いうとなく煩悩夜盗の名を取った<ruby><rb>謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>れでもあるが。

襖に、あるいは障子に、畳に、墨黒ぐろと大きな文字「煩悩」と――いつもきまって被害の現場に、雄渾な筆跡を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ってある。出張の役人、公儀、江戸中の人々を嘲るごとく、あわれむごとくに――。

一度などは、日本橋の質屋へはいった時、<ruby><rb>文晁</rb><rt>ぶんちょう</rt></ruby>の屏風いっぱいにこの煩悩の二字が殴り書に遺されてあった。

御府内を恐怖と、疑惑の淵に追いこんでいる、この煩悩夜盗！

それが再び活躍をはじめたというので、

「もっとも、おめえが旅に出ていたこの十日間がほどは、煩悩小僧もじっとおとなしくしていたとみえて、押込みの届出もねえようだが――。」

川俣伊予之進が、しずかに言っていた。

何か思案の底に沈んでいた宗七は、この時、いつになく蒼白く緊張した顔を上げて、

「あっしが山へ行ってるこの十日のあいだは、煩悩小僧も出なかったとおっしゃるので。」

「宗七！　おめえ何か心当りがあるんじゃあねえのか。」

心あたり？――なくてどうしよう！

彼にとって忘れることのできない、「煩悩」の語を冠した賊ではないか。

何者の仕業？　ということは、宗七には早くから眼あてがついているのだけれど――その煩悩小僧の目的を知っている彼としては、手をだしたくない。出せない！

もうすこし、うっちゃっておきたい気もちだったのだが――。

志があって、非常手段で金を集めているに相違ないぼんのう小僧、そのうちに引っこむだろうから、邪魔したくないと思っていた宗七なのだけれど、またぞろ出没し始めたと聞いては、お役を承る身、このお捕物御免とは、逃げていられない。

ことに、恩顧のある川俣様御自身出向いての話――。

覚悟を決めた宗七が、

「ようがす。ひとつ、<ruby><rb>嗅</rb><rt>け</rt></ruby>えで歩きましょう。」

と、腰を浮かしかけた時、今まで黙ってうな垂れていた小信が、突然、顔を上げて、

「ほほほ、だって、おかしいじゃないか。殿さまのくせに、女に斬られるなんてさ――。」

大きな、ハッキリした声だった。ぎょっとした三人の中で伊予之進は、初めて小信の存在に気がついて、

「えっ、何だって？――おう、宗七、なんでえ、この<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>あ。」

川俣、聞き咎めた白い眼を、じろりと、宗七お多喜へくれた。

砥石店

お江戸の繁華は、ここ日本橋にひとつに集まって。

八百八丁の中央、川の両岸が江戸をまっぷたつに割って、江戸から何里、江戸へ何里という四方の<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>は、すべてここを基準にしている。八方の人家、富士のすがた、日本六十四州からのお上りさんは、都へ来ると、誰しも、まず第一にこの橋を渡る。西のほうには千代田城の雄壮な眺め、物見の高殿、東の岸には、まるで万里の長城の酒庫の白壁がならび、そのむこうは眼もはるかに人家の海――。

日本橋と言えば魚河岸。

魚がしといえば日本橋。

川のうえの魚ぶねは、その<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を<ruby><rb>魚鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>のように列ねて、橋桁の下も、また賑やかな街をつくっている。

雑沓を極める橋の上の往来。

諸侯の行列にはいくつとなく長柄の槍が立って、さながら移動する林のようである。武士、町人、諸職、僧侶、男、女、こども、さまざまの車と、駕籠乗物、下駄の音が秋空にひびいて、切れ目もなくあわただしい。

近海物の魚を積んで、船は躍るようにはいって来る。河幅が狭いから、その混雑はたいへんなもので。

おもかじ！

とりかじ！

どなりあう声、声、声――。

橋の前後、新場町と小田原町に、毎朝うお市場が立つ。

なまぐさい風が橋を撫でて、この二十七間、日本橋の南の袂は高札場、ちょうど蔵屋敷、砥石店の前である。

「大次様！　大次郎さま――。」

ひき裂くような声に呼びとめられて、大次郎は、ゆっくりと振り返った。

練塀小路の道場を出て、これで何日経ったか。

あのままの姿の大次郎、祖父江出羽守と寸分違わぬ<ruby><rb>雪白</rb><rt>せっぱく</rt></ruby>の弥四郎頭巾、白い絹に、黒で賽ころの紋を置いた着流し――こげ茶献上をぐっと下目に、貝の口に結び、<ruby><rb>此刀</rb><rt>これ</rt></ruby>があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。

この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。

ぶらりと来かかった高札の前である。

呼ぶ声に何もの？　と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。

あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。

「や！　そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」

大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。

それに。

頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいるようではあるが。

何も気のつかない千浪は、

「大次郎様――。」

ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>った。

この千浪は、

良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。

お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい気立てになった大次郎ではあったけれど、あれは果して良人の本心だったろうかと、今にして千浪は、疑わざるを得ないのだった。

こう醜くなった自分に、良人として生涯仕えなければならないと努めている千浪を、いじらしく思って――千浪を自分から解放するために、ああ心にもない乱暴な言動をつづけて来て、あげくの果てに飛び出してしまわれたのではなかろうか。

つまり、千浪を愛すればこそ、千浪の一生を救うために、あの愛想づかしの末が家出ということになったに相違ないと、大次郎の出奔後、千浪は千々に思いを砕いた後、思いきって、こうして毎日江戸の町じゅうを、大次郎の影を求めて<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さすら</rt></ruby>い歩いて来たのであった。

千浪ゆえに荒んだ心になって、道場を棄てて巷へ出て行った良人――会って、縋って、泣いて頼んで、もとどおり練塀小路へ帰ってもらおう。

是が非でも、そうしなければ、<ruby><rb>死</rb><rt>な</rt></ruby>くなった父上さま法外にも申訳がない。

そう思って。

と言うのは、この千浪、初恋の優しかった大次郎のおもかげを、夢に<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>に、忘れ得ないのだった。

真昼の狼

で、その大次郎をここの人混みで<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>けた千浪は、嬉しさにわれを忘れて、

「あれからずっとお探し申しておりましたが、運よくお眼にかかれて、わたくし――ささ、とにかく一応道場へお帰り下さいまし。千浪の心も、よっくお話し申し上げたいと存じますから。」

人の輪のすぐそとの立ちばなし。

高札に気を取られている群集の耳には、入らないらしい。

大次郎――と思われる人物は、その、弥四郎ずきんの中の眼を、かすかに笑わせて、千浪！　さてはこの、あの猿の湯の藤屋にいた江戸の武芸者の娘は、千浪と言うのかと、ひとり<ruby><rb>合点</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた様子で、

「大次郎か。わしがその大次郎ということが、千浪殿にはよくおわかりになられたな。」

「はい。それはもう――。」

この江戸に。

白の弥四郎頭巾に白の紋つき――同じよそおいの伴大次郎が二人、あるいは、祖父江出羽守がふたり、さまよいあるいていることを、千浪は知っているはず、忘れるわけもないのだけれど、これと思う姿を人中に認めた喜びのあまり――千浪、この瞬間やはり忘れていたに相違ない。

恥らいを含んでそう言いながら、にっこり覆面を見上げると、

「さほどまでこの拙者を――かたじけない。千浪どのと伴れ立って道場とやらへ帰るに異存はないが、まず、それより先、拙者の隠れ家というへ御案内申そう。そこでゆるゆる談合の上――。」

祖父江出羽守は、悪戯らしい微笑を頭巾に包んで、声を<ruby><rb>装</rb><rt>つく</rt></ruby>って言った。

千浪は何ごとも気取らぬらしく、

「あの、下谷をお出になってから隠れていらしったお家へ、わたくしをお連れ下さるとおっしゃるのでございますか。」

いったいどこだろう？　どんなところであろうかと、浅い女ごころに、もう面白そうな顔つきだ。

「さよう。拙者が下谷を追ん出てからの住いじゃ。では、こうまいられよ。」

と、真昼の狼。

ゆらり、片ふところ手。

かた手を、朱鞘の大刀の鍔元に添えて、のっしのっしと歩き出す。

その後から、ゆめかとばかりうれしげに、小走りについて行く千浪のすがた。

どこへ伴れて行かれることやら――。

と！

この時である。その、日本橋ぎわ御高札場に立った、新しい札の文句――。

<ruby><rb>御示</rb><rt>おしめし</rt></ruby>

数年来江戸町々にて押込みを相働き、財物を奪いて諸人に迷惑をかけし煩悩夜盗儀、またもや近ごろ諸処方々にあらわれ荒らし廻りおる趣。右煩悩小僧に関し、その人相、手がかり、声音等見聞きしたる者、または聞込みを得たるものは、何人によらず、なにごとに限らず、町役人を通じて早々お訴え出ずべきこと。

右計らいたる者は、特別の思召をもってお褒めの言葉及び金員若干、賜わるべきものなり。

月　　日　　　　　　　　南北奉行所

とあるのを、わいわい言って仰ぎ読んでいる群集の中で。

眉は歪み、眼はくぼみ、獅子っ鼻に口は大きく額部が抜け上って<ruby><rb>乱杭歯</rb><rt>らんぐいば</rt></ruby>、般若の面のような顔がひとつ。

<ruby><rb>小銀杏</rb><rt>こいちょう</rt></ruby>の髪。縞の着物に縞の羽織。大家の旦那ふうの文珠屋佐吉なので。

山では。

あみだ上りはみなつづら笠、どれが<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>やら<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>じゃやら――この文珠屋も、<ruby><rb>葛籠笠</rb><rt>つづらがさ</rt></ruby>をかぶっていたから、あの時は<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>は見えなかったが、こうして素面に日光を受けたところは――。

なるほど、いつぞや自分で洩らしたとおり、ぞっとするほど恐ろしい醜面。

この文珠屋佐吉が、微苦笑とともに高札から眼を離して、むこうの人ごみで立ち話をしている白ふくめんと千浪の様子を、しばしじっと見据えていたが。やがて。

嬉々として出羽守と伴れ立って去り行く千浪のあとを、見送ると、佐吉、物凄い笑いに眼を光らせて、傍らに立っている若い男をかえり見た。

「由や、御苦労だが、ちょいとあの二人をつけて、はいった<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>を見届けてくんねえ。」

文珠屋佐吉の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>で承知の由公、こいつ、名打ての<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>や張込みの名手なので。

「承知！」

と、綽名にまでなっている得意のひと言、由の字、もう、とっとと小刻みに、流れるような通行人を楯に身を潜めて、消えて行った。

先の二人は、橋をわたって室町一丁目、二丁目、本町――神田のほうへ。

後から由公、見えがくれに鼻唄まじり。ずっと橋を渡りきるあいだ、それを見送っていた文珠屋佐吉は、安心したのか、にやっとほくそえんで歩き出していた。

口を利く鬼瓦

東へ下がって思案橋を過ぎ、堀留から大伝馬町の文珠屋という看板を掲げたわが家へ、帰り着いた佐吉は、その鬼瓦のような顔を、皮肉な笑いに引きつらせていた。

部屋部屋の女中の役目から、台所の板場、水仕事まで、おんなというものを一人も置かずに、何からなにまで男の手でやっている、一風変った宿屋である。

「いま戻ったぞ。」

文珠屋佐吉は、侍のような言葉づかいで、ずいと、その薄暗い土間へはいって行った。

時代で黒く光る帳場格子の中で、なにか帳合いをしていたらしい番頭の与助が、そろばんをそのままに、筆を耳に挾んで飛び出して来た。

「これは旦那、お帰んなさいまし――あの、由さんは。」

「うむ。由公か。ちょっと用達しがあってな、ほかへ廻った。」

言いながら、裾をはたいて上った佐吉は、大股に帳場を通り抜けて、二枚暖簾をうるさそうに頭で押し分け、奥の居間へはいっていく。

無言である。いつも口の重い文珠屋佐吉なのだが、きょうは何か心配ごとでもあるらしい顔つきなので、長く店にいて主人の気質も、何もかも知りぬいている与助は、おずおずあとにつづいて、

「何かございましたので――お出先にでも。」

「あったとも、大ありだ。」

佐吉は、どしんと縁側を踏んで、白壁の土蔵につづいた六畳の茶の間へ。

茶の間とは言っても、女房はおろか、家じゅうに女中ひとりいないのだから、茶の間らしい<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いだ、意気な空気はすこしもなく、茶だんすに長火鉢、それも秋口なので、火は入れてない。それだけ。

いたって殺風景なこしらえ。

すぐ眼の前が中庭で、まがりくねった赤松が一本、落ちかけた陽に、うすい影を畳に這わせている。

文珠屋佐吉は、長火鉢のまえの座蒲団へ、どっかりと坐り、

「弱気になった――。」

と出しぬけに言って、与助の顔を見て笑った。

「商売のほうは、どうかな与助どん。」

が、それよりも与助は、今の佐吉のことばが気になる<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で、

「弱気になったとおっしゃって、何か――。」

「うん。おれの高札が立ったよ、煩悩小僧お尋ねの――あは、ははははは。」

旅籠屋の番頭というのは仮りの面で、剛腹無二、剣の鋭い与助は、あの由公とともに佐吉の左右の腕なのだ。

文珠屋佐吉こと、じつは煩悩小僧の口から、自分の高札が立ったと聞いた与助は苦笑しながら、

それでも、あたふたとあたりを見廻して低声になり、

「お声が高い！　へへへへへ、そんなことを今さら気にかけるなんて、なるほど、これでみると親分も、よっぽど気が弱くおなんなすった。情ねえ。商売のほうは――とおっしゃるのは？」

「いや、高札などが押っ立って見ると、おいらも盗人は嫌になったよ。これからは、宿屋稼業に力を入れて、と思うのだが。」

「ふうむ、はあてね。」と与助は、ふかく腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>いて、「そりゃあ親分、本心でござんすかえ。」

「うむ。まあ、本心と思ってもらいてえ。おいらも、本心と思いてえのだが――。」

「へへへへ、なあに、そう弱っ腰になった<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>は、じぶんの高札を見て浅ましい気におなんなすった――というんじゃあござんすめえ。一つ、この与助が<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>を置いて、図星を当ててみやしょうか。」

「それも面白かろう――。」

と、佐吉は、しきりに何かほかのことを考えている顔で、

「じゃあ、おいらは別に<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>があって、この煩悩小僧が嫌になったとでも言うのかえ。」

「女でがしょう、親分。」

与助は、ずかりと言って、膝を進めた。

「おんなだよ。親分。隠しなさんな。何もきょう始まったこっちゃあねえ。山から帰ってから、親分は夜の稼ぎに身が入らずに、昼も、まるで腑が抜けたように考えこんでばっかり、青息吐息――十八島田の恋わずらいじゃアあるめえし、人は知らねえが、ぼんのう小僧ともあろうものが見ていて、あっしゃあ小じれってえよ親分。」

江戸の巻――<ruby><rb>奇術駕籠</rb><rt>てじなかご</rt></ruby>――

お山土産

「面目ねえ。女だ。が、笑ってくれるな。」と文珠屋佐吉は、自分で笑って、

「この<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>だから、この年齢になるまで、おんなに惚れたの<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れたのってえことアなかったが――それに、おれア金がほしいの一天張りで、文珠屋てえ宿屋ア世間ていの装り、裏へ廻りゃア商売往来の陰を往く夜盗を稼ぎ、それで金を溜めて来たが、なあ与助、世の中あ佐渡の土だけでもなさそうだぜ。」

まったく――かれ文珠屋佐吉こそは。

いま江戸を騒がせている煩悩夜盗なので――と言うのも、祖父江出羽守への復讐を誓って、その資金の係りを笹くじで引き当て、金の煩悩を追って三国ヶ嶽を下山した江上佐助ではあったが、裸か一貫の青年を、どこへ行ったところで金のほうで相手にしようはずはないのだった。

江戸へ出て無職の日を送り、飢餓に迫った佐助は、とうていこの分では富豪になれないどころか、<ruby><rb>乞食</rb><rt>ものごい</rt></ruby>をしても<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きて行けないかもしれないと覚って、と言って、黄金に対する火のような煩悩は断ち切れない。七年後の山上の会合に、相当の成績をもって二人に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えるためには――と、ここで<ruby><rb>性来</rb><rt>うまれつき</rt></ruby>人なみ外れて身が軽く、それに山奥育ちで木登りは<ruby><rb>十八番</rb><rt>おはこ</rt></ruby>、足も滅法早いところから、さっそく盗賊に早変り、そのぬすんだ金の一部を資本に、この文珠屋という宿屋の出物を買って世間の眼をくらまし、押し入った先々にいたずら半分社会への意趣晴らしのこころも<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めて、かならずそこらへ書きのこしてくる。煩悩小僧の名を取って、今では。

由公、与助の二人を乾児に、店のほうもかなり繁昌しているし、もう一つの稼ぎもなかなか大きい。だがこの、顔が怖いだけで苦労人、結構人の文珠屋の主人が、あの評判のぼんのう小僧とは、このふたりのほか、店の使用人も誰も知らないので。

その与助と由公も、佐吉親分はただの泥棒と思っているだけ、どうしてこんな暗い道に踏み込んだかその真の<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>は何であるかそんなことは、佐吉もかつて打ちあけたことはなし、二人より何人にも察しようのないことだった。

女を置かず、客の用から拭き掃除まで、みんな男を雇って済ましているのは、女は眼はしがきいて口に締まりがないというので、この大秘密を保たんがためではあったが、それよりも、佐吉が大の女嫌いという建前。

じつに、おしろいのにおいを嗅ぐと、三日飯がまずい――というところから、下男ばかり何人も置いているのだが、江戸というところは、何でも奇抜でさえあればいい、その風変りな点が当りを取って、老人客や、茶人めいたかわり者のあいだに、この伝馬町の文珠屋は、なかなか評判がよく、江戸へ出ればここときめている定連も、かなり尠くないのだった。

が、女を使わないというだけで、女客を断わるわけではない。事実、急ごしらえの出あい夫婦、つれ込みが、文珠屋の泊り客の過半なので、おんながいないだけに、うしろめたい女客には、かえって気が置けないのかもしれない。

その、世の中に金以外、女に用のないはずの文珠屋佐吉は、先日旅に出て<ruby><rb>帰宅</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってからというものは、めっきり味気ない顔つきで、ことに今日は、じぶんの高札を見てすっかり腐ってしまったと言う。

いつもは、そんな文珠屋ではないのであるが。

たとえ鼻の先へ百本千本の十手が飛んでこようとも、どっかり<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>で<ruby><rb>吐月峯</rb><rt>はいふき</rt></ruby>を叩いていようという親分。高札なんどせせら笑って、かえって面白がってこそ文珠屋なのに。

ほかに<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があると睨んだ与助の推測どおり、心に思っている女があって、<ruby><rb>善良</rb><rt>まとも</rt></ruby>な生活が恋しくなったと言う告白だ。二十七の物思い――鬼瓦の文珠屋が恋風を引き込んだ。

山だろう――このあいだの山の旅で、何か知らねえが、おんなを<ruby><rb>見初</rb><rt>みそ</rt></ruby>めて来たのだ、と与助、おかしいが笑いもならず、それにしても、いったい何しに山などへ？　と胸の隅で<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>りながら、

「親分も焼きが廻った。女一匹で善心とやらに立ち返るようじゃあ、あっしもこころ細い。諦めやした。ようがす。あのほうの足アふっつり洗ってみっちりこの宿屋商売に身を入れよう。」

佐吉の性質を呑みこんでいるだけに、心得たやつで、考えている逆を言う。

そうあっさり賛成されてみると、佐吉は呆気ない顔つきで、だが、じぶんで言い出したことなので所在なさそうに、

「だからおれあ、稼業のぐあいはどうだと、訊いてるじゃあねえか。」

「へえ。まあ、どうやらどうやら、部屋あ塞がっていますがね――親分、一言伺いやすが、その、旅で、お見そめなすった女ってなあ、この江戸のものでがしょうな。」

佐吉がくすぐったそうに、

「当りめえよ。それがどうしたと言うんだ。」

「いえねえ、どこの娘――むすめだか女房だか知らねえが、どこの何ものてえことは、わかってるんでごわしょうね。」

「解ってるような、わかってねえような。」

「ぷふっ！」と与助は、笑いを手で受けるような恰好をして、

「大分御意に<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>ったようで。」

「茶化すもんじゃあねえ。おらあ真剣なんだ。おめえも、心から惚れる女に行き当たって見ねえ。おいらの今の気持ちのように、陽かげの世渡りゃア嫌になるし、とてもその女のことを、不真面目な口で話すこたあできなくならあ。おれの胸がおめえにゃアわからねえんだ。」

「そういうものでございますかね。あっしゃアまだ、とんとそのほうの運が向いてこねえから、ふっふふ――ところで親分そんなに気に入った女なら、引っ担いでくりゃあ世話あねえじゃごわせんか。」

「馬鹿あ言え。菩薩のような、もってえねえお方様だ。拝んだら、眼がつぶれるほど美しいや。それに、ちいと奇妙な引っかかりもあってな。」

「おやおや、もう、お<ruby><rb>惚気</rb><rt>のろけ</rt></ruby>ですかい親分、ははははは――そりゃあそうと、さっきね変てこな武士が一人、宿を取りやしたよ、女を伴れてね。」

佐吉は、異様に眼を光らせて、

「へんな武士が女をつれて？」

「へえ。二階の『梅』へ通して置きやしたが、男も女も手ぶらでね――大方、今夜だけの泊りでげしょう。」

「二人連れか。どんなやつら――。」

そう佐吉が訊きかけたとたんに、おもてから一目散、毬のように駈けこんで来た由公が、中庭の縁にぺたりとすわって、騒々しい大声。――

「親分！　合わす顔がねえ。まかれた。み、見事にまかれた――。」

「えっ！　あの白頭巾と娘を見失ったと――？」

鋭く叫んで、佐吉は、突っ起っていた。

階上階下

大伝馬町の名物、女禁制の男宿文珠屋の階下、中庭に面した奥座敷で。

主人の口をきく鬼瓦――煩悩小僧の文珠屋佐吉が、番頭とは表向き、夜盗のほうの片腕与助を相手に山で引き込んで来た恋風を告白して、

「そこへ、今日、日本橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で、おれの高札が建っているのを見て来た。それで、じぶんと自分がつくづく浅間しくなり、もうこれで、この陽かげの世渡りとはふっつり手を切るつもりだ。ついては、これからはこの宿屋稼業へ身を入れる気だが、今日など、泊り客の具合いは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなものだ。」

そう言って訊くので、与助はくすぐったそうな顔、

「へえ、何ですか、先刻ね、変てこな侍が一人、女を伴れて宿を取りやしたよ。裏二階の『梅』へ通して置きやしたが――。」

「二人連れか。うむ、何んなやつらだ。」

「大方今夜だけの泊りでげしょうが、男も女も手ぶらでね、荷物ひとつ無えんです。それに、武士は頭巾を――。」

与助がそこまで言いかけた刹那、あの、日本橋詰の高札場から、千浪と白覆面の後を尾けて行った由公――承知の由公が、<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>みたいに走り込んで来たかと思うと、そこの縁さきにぺしゃんと尻餅、馬鹿っ声を張り揚げたものだ。

「お！　親分！　あ、会わす顔がねえ。<ruby><rb>晦</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた。見事にまかれた――。」

「げっ！　あの白頭巾と娘を見失ったと？」

からり！　長煙管を抛り出して起ち上った佐吉、

「そうか。仕方がねえ。」

それだけ言うと、静かに背後へ手を伸ばして、茶箪笥の横に立てかけてあった脇差を取った。

「大次は、下谷の道場にいるとかいう噂だ。道場へ報せてやらざあなるめえ。下谷の練塀小路だ。由来い。」

いきなり歩き出そうとするから、由公はあわてて、

「ちょっと、親分、待っておくんなさい。」

「親分たあなんでえ。野中の一軒家じゃあねえや。お客様の聞えもあらあ。旦那と言いねえ。」

「へえ、旦那――じつは、十軒店から本銀町まであ、ちゃんとうしろから<ruby><rb>白眼</rb><rt>にら</rt></ruby>んで行きましたんで。それが、あそこの角へかかりますと、ふっと消えちめえやがった。いや、あっしは面喰ったの、面くらわねえのって、すぐ横町へ飛び込んで、あの、時の鐘の下あたりをぐるぐる廻って捜しやしたが――。」

佐吉は、苦笑して、

「こりゃあ承知の由公にゃあ、ちっと荷が勝ち過ぎたようだ。そりゃあお前、甲賀流の<ruby><rb>霞跳</rb><rt>かすみと</rt></ruby>びと言って、山あるき野歩きに、草一本ありゃア不意っと姿を消すといわれている妙法だあな。」

「あれっ！　するてえと、あの武士はとんでもねえ化物なので。」

「馬鹿野郎、化物なりゃこそ手前に後を尾けさせたんじゃねえか。」

「どうも何とも申しわけがござんせん。」

しきりに、頭を掻いている由公を、佐吉はじろりと見下ろして、ずかり！　縁側へ踏み出した。

「はははは。承知の由公も、あんまり承知たあ言えねえな。今から承知の綽名を取り上げることにしよう。さ、ついて来い。」

話の筋道を知らない与助は、何とも口の出しようがないので黙っていたが、この時、出て行く佐吉の背後から声を掛けて、

「親分、どちらへいらっしゃるんで。」

「うん、ちょっと訳があってな。下谷の練塀小路の法外流の道場まで往って来る。由公を伴れて行くから、お前は留守をしてくれ。」

そして、ぶらりと文珠屋を立ち出でて行った。

もしこの時佐吉が、さっき宿を取ったという女伴れの奇態な武士のことを、いっそう詳しく与助に訊くか、また与助のほうから、この武士のことをもうすこしよく話しでもしたら、彼はこうして下谷へ出向かずに、この事件だけは、ここで手っ取り早く結末がついたであろうに――。

勢い込んで出かけて行った佐吉と由公を見送った与助は上り口に立ったまま、じっと両手を組んで、梯子段の上へ耳をすました。

と、いうのは。

この時、二階の裏座敷、「梅」と名づけられた一室では――。

「うむ、よく来てくれた。いや、下谷の道場を出てから、拙者はずっとここに身を潜ませておったのです。どうだな？　珍しいところであろうがな。」

出羽守はそう言って、弥四郎頭巾の間から、白い眼を光らせて千浪を見遣った。

はぐれ鳥

この文珠屋では、上等の客間なのであろう。八畳の座敷に三畳ほどの控えの間がついて、床には何か軸が掛かっている。

その前に大胡坐をかいた祖父江出羽守は、前に坐っている千浪へ、ちらちらと視線を送りながら、上機嫌だった。

秋に入って、照り続いた空模様は、どうやら今夜あたりから怪しいらしく、重い空気が暗い風となって吹き込んで来る。何か物売りの声が町を流して、この、日暮れ近い伝馬町は、江戸の代表のように、あわただしいのだった。

着衣から頭巾、それに着物の紋まで、何から何まで寸分違わぬ伴大次郎と祖父江出羽守と――まだこの祖父江出羽守を、良人大次郎とばかり思い込んでいる千浪は、

「でも、ほんとに、よくあそこでお眼にかかれました。あなた様が道場をお出になってからというものは、私は毎日のように家を空けて、お姿を慕って、江戸の町々をお探し申しておりました。今日こうしてお目にかかることのできましたのも父と、それから<ruby><rb>女髪兼安</rb><rt>にょはつかねやす</rt></ruby>の引き合わせではないかと存じます。」

出羽は、頭巾のなかから不審気に、

「女髪何と仰せられたな？　何でござる、その、女髪云々というのは。」

「あれ！」と千浪はびっくりして、「あなた様は、あの女髪兼安のことをお忘れになったのでございますか。」

と、出羽が腰から抜いて、背後へ置いた佩刀のほうへ首をさし伸べた。

まごついた出羽が、

「おおそうであったな。うむ、この刀のこと、さよう、さよう。」

大声に笑うと、かれ出羽ふっと話題を変えて、

「久し振りだのう。うう――何と言われたかな？」

「何とと申しまして。何がでございます。」

「そなたの名だ。」

「あっ！」

と、叫んで、千浪が逃げるように、思わず背後へ反った拍子に、ぬっと伸びて来た出羽の手が、彼女の手首へかかった。

「名なぞ何でもよい。山でそちを見かけた時分から――。」

はっと千浪は思い出して阿弥陀沢の猿の湯で、父法外を手にかけた後、自分を捕えて、あの山腹の花畑まで伴れて逃げた白覆面の武士！

あの人であったのか？

なんという不覚！　と、彼女が飛び退こうとすると、出羽は片手で、ぐっと千浪を手許へ引き寄せながら、片手を弥四郎頭巾の裾へ掛けて、

「そちの慕うておる良人の顔を見せてやろうか。」

言いながら、さっと手早く頭巾を上げて、すぐに下ろした。初めて出羽守の顔をちらと見た千浪――そこに何を見たのか。

「あ、お許しなされて！」

叫ぶように言うなり、早くも彼女は、高い所から暗黒の中へ墜落して行くような気がして、もう、気を失いかけたのだった。

ちょうどこの時刻。

日本橋を神田のほうへ渡って、魚市場へ曲がろうとする角のところに、やくざ浪人とも見ゆる一団の武士達が、わいわい言いながら、あちこち見廻わして集まっていた。さっきそこまで一緒に来た主人を見失った山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、出羽守側近の面々である。

通りがかりの群集のなかへ、それぞれ眼を走らせながら、北伝八郎が、

「さっき、あの高札場のところまでは、先に立って歩いておられたのだが――。」

川島与七郎は、故法外先生に斬られた手はすっかり癒ったものの、両手の指が十本全部ないので、何があっても刀を抜くこともできない身体である。いつも懐手をして、傍観の役目なのだが、今も、両手を深く懐中へ押し込んだまま、

「しかし、人目につかれる<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしておられるのだから、見失うというはずはない。またわれわれが主君のお供をしておって、はぐれたとあっては申しわけが立たぬ。」

「じつにどうも不思議だ。一同の前に立って、高札の前の人混みの中へはいって行かれるところまでは、たしかに拙者も見ておったが――。」

「うむ。この先が判然せんのだ。いつの間にか、ふっと姿を消されて――。」

そう誰かが言いかけた時、きょろきょろあたりを見廻わしていた中之郷東馬が、頓狂な大声で叫んだ。

「おお！　あそこへ行く？　あそこへ行かれるじゃないか。」

身代り殿様

「あ！　お人の悪い。あちこちお探し申しました。」

という声に、白絹の紋付に弥四郎頭巾をすっぽりと被り、女髪兼安を帯した伴大次郎は、ゆっくりと振り返った。

日本橋を神田から来て、京橋のほうへ渡ろうとする橋の袂だった。

振り向いた大次郎の前に、お花畑の斬り合いで覚えのある顔、顔、顔――北伝八郎、中之郷東馬、山路主計らが、五、六人ずらりと並んでいる。

どきんとした大次郎だったが、すぐ自分の顔は、覆面に隠れていて見えないのに気がつくと同時に、相手方は、誰かと取り違えているらしいので、安心した大次、思わずはっと腰を落した構えをゆるめて、

「おお、一同か。」

と、含み声で答えた。

「一同かじゃアありませんぜ、殿様。そこまで来ると、お姿を見失ったので、いま皆で大騒ぎをしていたところです。」

自分を、あの主人の、もう一人の弥四郎頭巾と間違えているのだと気がつくと、大次郎は、頭巾のなかでにっと微笑みながら、なおも声をつくることを忘れなかった。

「うむ。一と足先にそこらまで行ったのだが、誰も付いて来ておらんのに気がついたから、引っ返して来た。どうだな。これで揃っておるかな？」

と、彼は、真深に隠れた頭巾の下の眼で、連中を見まわす。

中で山路主計が、一歩進むように、

「それでは、今日、下谷へお出かけになるのは、お取り止めになったんで。」

「下谷へ？」

思わず大次郎は、訊き返す。主計はじめ一同は、不思議そうに、

「お忘れでございますか。あの娘と若造は、下谷練塀小路の法外流道場にいるとかとのことで、殿様は今日そちらへいらっしゃるというので、こうしてわれわれ一同出かけて来たのではございませんか。」

「うん、そうであったな。」

と、言いながら大次郎は、法外先生の仇のこの連中に逢ったのを幸い、また、彼らが自分をその首領の白頭巾と思い込んでいるのをいいことにして、しばらく身代りになり澄まし、彼らの欲するとおりに動いて、その内状をさぐって見るのも興あること――なによりの好機会、そう思うと同時に、

「うむ。これからすぐまいろう。」

と、先に立って今来たほうへ引っ返し、下谷を指して急ぎはじめた。

と、この時――である。

別の道をとって、

やはり下谷を指して急いでいる二人伴れがあった。それはあの、女たらし恋慕流しの名に隠れて、十手を預っている深川やぐら下の岡っ引宗七と、八丁堀の与力、川俣伊予之進の二人だった。

大次郎の姉小信を、思いがけなく自宅に引き取った宗七は、折から来かかった川俣と伴れ立って、その小信の弟伴大次郎のいるはずの下谷の道場へ、小信のことを知らせようと、出かけて来たのである。

「いえ、あの、気の違った女の知り合いが、下谷のほうの道場にいるので、それが、ひょんなことからあっしの知り人でござんしてね。あの気狂い女を自宅へ引き取っていることを知らせてやろうというだけのことなんで。」

たしか、川俣伊予之進には、何も話してないのだ。が、

「例の煩悩小僧のほうにも、案外何か引っ掛りがあるかもしれませんから、旦那も、お出でなすったらいかがです。」

という宗七の言葉を頼りに、川俣は、それ以上何も訊かないことにして、一緒に出て来たわけ。

しかし、話はまた煩悩小僧のことに落ちて行って、

「なあ、櫓下、何とかしてそちの手で、この煩悩小僧をお繩にしたいものだ。日本橋には高札が建ったが、いや、もう、江戸中えらい評判で、今この怪盗をお手当てにした者は、一躍名を挙げるというものだ。」

「まあ、旦那、そうなにも<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>ることはござんせん。あっしもこれで、まんざら当てのねえ動き方はしてねえつもりで。」

「うむ、たのもしい一言だな。」

「と、まあ、そうお思いになって、ここしばらく、宗七めに付き合っておくんなせえ。」

話しながら歩く道は早い。もういつの間にか、下谷は練塀小路、法外流道場のそばまで来ている。

三すくみ

泉刑部というのが、留守の道場を預かって、師範代だった。

ちょうど一稽古終ったところで、面を外した頭から、湯上りのように湯気を上げた若侍たちが、板敷の片隅に立ったり、坐ったり、ある者は小手の縛り糸を締めたりなどしながら、

「伴の若先生は、いったいどうしたのであろうな。」

「道場を出られてから、これで随分になるが、とんと音沙汰を聞かん。」

「いや、それよりも奥様の千浪さまだ。毎日のように大次郎先生を探されて、あちこち出歩いておられるようだが、なんともお気の毒の至りだ。」

「千浪さまに、あんなに慕われる大次郎先生を思うと、人ごとながら、冥加に尽きるような気がするなあ。」

「しかし、おれはいつも不思議に思うのだが、顔があんなに変ったとて、心まで一変するものであろうか。」

「そういうこともあるであろう。なにしろ、この自分というものが、すっかり変ったような気がするに相違ないだろうからな。」

「恐ろしいことだ。」

わいわい話し合っているところへ、遠く玄関のほうに当って、人の訪れる声がする。

立って行った弟子の一人が、すぐ引っ返して来たかと思うと、背後に、荒い滝縞の重ねに一本ぶっ差して、ぞっとするほど恐ろしい大柄な顔をした男と、鼠のような小さな男とが、そのまま案内役にくっ付いて、どんどん道場まではいり込んで来ていた。

見咎めた泉刑部が、立って来て、

「何だその方たちは何だ。何故取り次ぎを待たずに――。」

「伴大次郎さんにお目にかかりてえのですが。」

「大次郎先生は、もはやここにはおられぬ。」

「そんならあんた方に申し上げてもよいが、こちらのお嬢さんが、誰とも知れねえ白覆面にかどわかされて――。」

承知の由公も、そばから口を入れて、

「へえ、あっしが後を尾けたんですが、本銀町の角で、ふっと横町へ外れたなり――。」

そう言っている時である。道場の入口にいた弟子たちが、驚きの大声を揚げたかと思うと、大次郎――とはしれない、弥四郎頭巾の武士を先頭に、中之郷東馬、北伝八郎、山路主計、川島与七郎等の一行が、どしどし踏み込んで来た。

「や！　何者？」

と、叫んだ泉刑部らの前に、北伝八郎が大声をぶつけて、

「祖父江出羽守の<ruby><rb>御微行</rb><rt>おしのび</rt></ruby>だ。父とともに三国ヶ嶽の下の猿の湯へ行っておった娘は、どうした？　どこにおる？」

この、祖父江出羽守という言葉は、雷のように伴大次郎と、文珠屋佐吉の耳を打ったのだった。

大次郎は、はいって来るとすぐ、文珠屋佐吉の顔に気がついて、先日、あの山腹のお花畠のわき道で、千浪を中に逢った時は、<ruby><rb>葛籠笠</rb><rt>つづらがさ</rt></ruby>に隠れて相手の顔は見えず――今七年振りに初めて見る江上佐助である。どうして彼がここに？　と思う間もなく、今背後から伝八郎が、祖父江出羽守の一行だと呼ばわった声に、彼は、はっと胸を衝かれていた。

祖父江出羽守？　すると、あの、自分と同じ弥四郎頭巾は――。

これより早く、文珠屋佐吉は、腰の脇差を抜いていた。

「待て！」

大次郎が呼ばわったが、それはすでに遅かった。先に来た文珠屋佐吉主従を、この続いて後に来た武士の一団の先ぶれと思ったらしい泉刑部は、すぐ竹刀を真剣に代えて、青眼に構えていた。山路主計、伝八郎、東馬らに促されるように、大次郎も、一同とともに女髪兼安の鞘を払わざるを得なかったので。

竹刀より知らぬ道場に、時ならぬ白刃の林が立ってこの一瞬間の無気味な静寂の後に来る乱闘の場面を思わせた瞬間、三度、廊下につづく道場の入口に人影が立って、

「御用っ！――と、まず、こう一つ脅かしておきやしょうかな。」

声がした。やぐら下宗七と、川俣伊予之進である。御用！　の声にぎょっとして振り向いた煩悩小僧の文珠屋佐吉と宗七、はったと眼が合って――。

三つの煩悩を負う三人、計らずもここに落ち合った。

空追い機転

三つの煩悩を負う三人、はからずもここに落ち合った。

七年前の七月七日に、笹くじを引いて三方に下山した伴大次郎、江上佐助、有森利七の田万里の三羽烏が、七年後のこの七月七日には、約束の三国ヶ嶽で大次郎と利七の恋慕流し宗七とが、顔を合わしたので――。

煩悩小僧の文珠屋佐吉が、子分の承知の由公を連れて来たすぐその後から、出羽守に化けた大次郎とやくざ侍の一行、それをまた追っかけるように、

「御用っ――！」

とばかりに飛び込んで来たのが櫓下の宗七と、川俣伊予之進の二人。

何が何やら解らない気持――三すくみ。

文珠屋佐吉は、この法外流道場を預っている師範代、泉刑部に、自分は、この家の千浪が為体の知れぬ白覆面の武士に伴われて行くのを見かけて、この承知の由公に後を尾けさせたが、うまく<ruby><rb>晦</rb><rt>ま</rt></ruby>かれてしまったと話しているところへ、どやどやと踏み込んで来た荒らくれ武士がどなったには、祖父江出羽守がおしのびで、父と共に三国ヶ嶽の猿の湯へ行っていた娘はどうしたという。

誰かは知らぬが、故法外先生の仇の、あの白覆面に化けすましたとだけ思っていた伴大次郎も、そこに居合わせた文珠屋佐吉も、この、

「祖父江出羽守の――。」

と言った声に、ぎょっと声を呑んだ瞬間、そこへ櫓下宗七と与力の川俣が飛び込んで来たのだ。

「さては、きゃつめ、祖父江出羽守であったか。」

と、大次も思わずびっくりすれば、あの、三国ヶ嶽のお花畑以来、妙に因縁のある弥四郎頭巾が、七年この方眼ざして来た出羽だったのかと、佐吉も胆をつぶすと同時に、見れば面前に、その白覆面白服の祖父江出羽守が突っ立っているので――それを大次郎とは知らぬ文珠屋佐吉、

「やいっ！　うぬあ出羽だなっ！」

と佐吉は、いきなり抜いて切りかかったが、道場の一同にとっては、いずれも同じ為体の知れぬ敵なので、皆一様に鞘を払った刹那、ずいと通って来た宗七は、

「おお、文珠屋。」

と佐吉に声を掛けたので、見向いた佐吉、

「や、お主は有森利七。」

「げっ！　いんや、今じゃあ十手を預る宗七だ。」

「おう、恋慕流しの宗七。」

大次郎が、頭巾のなかからそう言った。二人からは彼は見えないが、大次からは佐吉も宗七も、そのまま眼に入るので。

じりじりしていた中之郷東馬が、二、三歩前へ踏み出すと同時に、北伝八郎が、突如、文珠屋佐吉に斬りつける。醜面の佐吉、その顔を歪めて、さっと横に払うと同秒、師範代の泉刑部は、大次郎とも知らず、その白覆面に向って青眼に構えて誰を誰とも知れない乱刃の光景。

止むを得ず大次郎も、腰の女髪兼安に、暮れ近い薄日を映えさせて、時ならぬ剣林、<ruby><rb>怒罵</rb><rt>どば</rt></ruby>、踏み切る跫音、気合いの声、相打つ<ruby><rb>銀蛇</rb><rt>ぎんだ</rt></ruby>、呼吸と、燃える眼と――。

あわてたのは承知の由公で、剣の下を木鼠のように走り廻り、

「親分、こうわけの解らねえ斬り合いも、めったにござんせんぜ。ここあ一つ早く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どろん</span>を決め込んだほうが、利巧のようで。さっきの甲賀流の霞飛びじゃあねえが、ふっと横へ消え込んで――。」

職掌柄、川俣伊予之進は、この容易ならぬ乱闘に眼をぱちくりさせているものの、どれがどれだか解らないから、手の付けようがなくて、まごまごしていると、かねがね煩悩小僧と動かぬ<ruby><rb>白眼</rb><rt>にらみ</rt></ruby>をつけている文珠屋佐吉を、宗七、ここで一声かけるかと思いのほか、そこは共に大志を抱く友達のよしみ。

「おい、江上、ここでこの出羽守を仕止めようとしても、それは無理だ。向うには大勢二本差しがくっ付いている。ここはひとまずずらかったほうが――。」

と囁いたかと思うと、自分から先に立って、元来た入口のほうへ一目散！

「御用！　おのれっ――！」

と何もないのに、さも何者かを追いかけるよう、いっさんに道場を駈け出した。

見越の松

この、いきなり御用の声と一緒に、恋慕流しこと深川やぐら下の岡っ引宗七が、やにわに外へ向かって駈け出したので、まず川俣伊予之進が、何事かと後につづく。

それを自分を逃がそうとの機智と知った佐吉、

「由公、来いっ！」

と、承知のを促して、あとに続く。

出羽とばかり思われて今までは顔を見せて弁解することもできなかった伴大次郎も彼と知らずに斬りかかって来る泉刑部はじめ、自分の弟子たちを疵つけないように斬り払ったのち、これ幸いと道場を後にした。残された山路主計、北伝八郎、中之郷東馬、それから指無しの川島与七郎の面々何やらさっぱり解らない顔で、

「勝負はお預けだ。いずれまた来る。」

と、泉刑部等に一言投げ捨てておいて、

「それ、殿様に遅れるな。」

と大次郎の後を踏んで、道場を飛び出したが、その時はもう、先に出た文珠屋主従をはじめ、宗七も伊予之進も、大次郎の影も、その下谷練塀小路の横町にはなくて、暮れに近い日脚が白っぽい道に弱々しい光りを投げていた。

すぐそこの角は、名ある人のお囲い者の住居でもあるか、お約束の舟板塀に、冬の支度に藁を巻いた見越しの松が、往来に枝を拡げて、お妾の所在なさであろう、この夕暮を退屈そうに、今<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>恋慕流しの一節が――。

「君は五月雨

思わせ振りや

いとど焦るる

身は浮き舟の

浪に揺られて

島磯千鳥――」

「殿様は、どこへいらしった。」

「どうも今日は、よく姿をお隠しになる。」

「また<ruby><rb>晦</rb><rt>ま</rt></ruby>かれたのか。まあ、仕様がねえ。ぶらぶら歩いて行くうちには――。」

「ひょいとまた、そこらの横町から顔をお出しなさるだろう。」

「しかし、それにしても、あの恐ろしい面をした町人は何ものだ。出羽守と聞いたら、血相を変えてむかって来たが――。」

「あの岡っ引らしいやつも、殿様のお名前を聞いたら顔色を変えおったが――。」

「何だかさっぱり合点のいかねえことばかりだ。」

あははは、と笑い声を合わせた一行、大道狭しともと来たほうへ、ぶらりぶらりと歩き出したが――。

それを送るかのように、また耳をくすぐる恋慕流しが漂って来て。

「君は五月雨

思わせ振りや

いとど焦るる――」

この唄の洩れて来る、その妾宅の裏に、この時、ぴったり貼りついている二人は、道場を飛び出すと同時に、うまく川俣伊予之進をまいてしまった恋慕流しの宗七と、文珠屋佐吉で、

「おい、有森、しばらくだったなあ。お前は、先日三国ヶ嶽へ来なかったじゃないか。」

「七年目に山で会う以外は、往来で擦れ違っても、口をきかぬ約束だが、こうしてなにやら復讐の機会の近づいて来たらしい気のする今日だから、そんなことも言っちゃあいられめえ。」

宗七はそう言って、膝を包み込むように、黒板塀の蔭にしゃがむ。

承知の由公は、佐吉に命じられて先に帰ったとでも見え、あたりにいない。宗七は続けて、

「何を言ってるんだ。おれは山へ行ったよ。行って伴大次郎にだけは会ったが、待っても、お前は来なかったじゃあねえか。」

「いや、おいらも行くには行ったのだが、途中でひょいと見たものがあって、堂のわきに手紙を残して引っ返えしたのだ。」

「その見たものというのは、何だい――うむ、それはそうと文珠屋、煩悩小僧の評判は、ちと高すぎるようだぜ。」

「えっ、うむ、するとお主は、このおれと――何にも言わねえ。さすがは。――眼が高けえや。だが、のう櫓下、金の煩悩になりきったおれだ。もう少し、大眼に見てくれよ、なあ。」

「そんなことは言わなくても解っている。出羽の首を挙げるまでは待つが――。」

眠り美人

「それまで待つ――？」

「うん、それまで待つ。」

「それで、その後は？」

「その後は――お前は煩悩小僧、おいらは<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>と岡っ引だ。察してくんねえ。」

「解った話だ。出羽さえ打ち取りゃあ、煩悩小僧は立派に、やぐら下の繩にかからあ。」

そう文珠屋佐吉が、暗い顔ながらも欣然として答えた時、そこの角を曲がって近づいて来る白衣の武士――伴大次郎なのだが、二人は祖父江出羽守と思いこんでいるので、思わず身を堅くして待ち構えると、静かに傍へ進んで来た大次郎は、

「おれだ。」

とひらり、と覆面を撥ね上げて、顔を見せた。

大次郎と解って、二人は喜ぶやら、驚くやらしたが、二度びっくりしたのは、その顔に昔日の美男の面影はなく、まるで<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>れ柿を潰して固まらしたような、物凄い刀痕。

三国ヶ嶽で、師匠法外先生を殺され、千浪を攫われようとして戦ったとき、受けた疵だという説明を聞いて、二人は暗い顔を見合わせると、大次郎は語をつないで、

「その弥四郎頭巾が、祖父江出羽守であったとは、今日はじめて聞いた。」

そう言えば先刻日本橋の高札場から、千浪を連れ去ったのは、あれは祖父江出羽守だったのかと、文珠屋佐吉の言葉におのが顔ゆえに表面千浪を捨てて家を出たものの、一刻も千浪の面影を忘れ得ずにいる大次郎は、顔色を変えて、

「うんそれはこうしてはおられぬ。一時も早く千浪様を探して――。」

と焦立ったが、

「それがどこへ行ったか解らねえのだ。」

と言う文珠屋の言葉。

また二階から聞えて来る恋慕流しの唄に、大次郎は頭巾のなかから、宗七へにっこりして、

「山で、お主のあの唄声を聞いたが七年後の三国ヶ嶽の会合から、こんな騒動になろうとは思わなかった。」

と今さらのように、腰の女髪兼安の柄を叩いて、三人ここで、再び、重なる恨みの煩悩鬼出羽に、堅い復讐を誓ったのだ。

と！　騒ぎにとりまぎれていた宗七、大次郎へ向かって、

「大次さん、驚いちゃいけやせん。姉さんの小信さんを、あっしの家にお世話しているのだが。」

「え、姉上を！　それはどういう――。」

「それが、どうしたのか、さっぱり解らねえが――大次さん驚いちゃあいけねえ。小信さんは、少し気が狂っていなさるようだ。」

<ruby><rb>田万里</rb><rt>たまざと</rt></ruby>にいたころから、文珠屋佐吉も、この伴大次郎、姉小信を知っているので。

「あの小信さんが――？　すりゃ、出羽の許を逃げ出して。」

出羽守の<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>に、押しこめ同様になっているはずの姉の所在が解ったと聞いて、喜んだのも束の間、気が狂っていると知って、大次郎の悲痛と落胆は大きかった。

が、気が狂っている以上、今すぐ訪ねて行ってもしようがあるまいと、小信の身は、宗七夫婦に依頼して一時安心することにした。

そして二、三日うちに、大次郎は必ずやぐら下の宗七夫婦の宅へ小信に会いに行くことにして、とにかくその日は、文珠屋佐吉と連れ立って、その伝馬町の旅館へ帰ることにした。なおも三人、相談と手筈を決めた後。

その、女気抜きの名物旅籠、文珠屋の階上「梅」の座敷では。

良人大次郎とばかり思い込んで、ここまで来たのが、顔を見せられて、あの恐ろしい父の仇敵白覆面と知った千浪は、そのまま哀れに気を失っている。

その、ちょっと覗かせて見せた祖父江出羽守の素顔に、何があるのか。それは本人の出羽守と、一眼見せられた千浪のほか、誰も知らないのだが――。

夕暮れ近い部屋である。

出羽守は、またすっぽりと覆面を下ろして、その、倒れている千浪の姿をまじまじと凝視めて、頭巾の中で隠れ笑いをしている様子だったが、やがて手を鳴らして、障子際に手を突いた番頭の与助へ、

「酒が所望じゃ。」

と命じた。

この、気絶している千浪を眺めながら、それを肴に一杯やる気と見える。

「へい。畏りました。」

と答えた与助は、前から怪しいと睨んでいた二人連れなので、じっと倒れている千浪へ眼を返し、

「御新造さまは、どうかなさいましたので。」

「うむ、いや、なに、ちょっと眠っておるのだ。遠道をすると足弱はことのほか疲れると見えるのう。」

「いえ、もう、御婦人方はごもっとも、お床をとらせましょうか。」

「いや、それには及ばぬ。ほどなく覚めるであろうから。」

頭巾のなかからそう言っている出羽守を、敷居際でお辞儀をしながら与助は、素早くじろりと見て、

「それでは、ただ今御酒を――。」

と障子を閉めて、階下へ下りたのだったが――。

合言葉

梯子段を下りた与助は、そこの土間へぶらりとはいって来た主人の文珠屋佐吉を認めて、

「おう、親分。」

と声をかけたが、その佐吉の背後から、もう一人、あの二階にいる白覆面と同じ弥四郎頭巾、同じ白絹にさいころの紋付、同じような朱鞘を腰に、懐手ではいって来た侍を見ると――狐につままれたような顔の与助は、その侍と、二階のほうを見較べるようにして、

「親分！　これはいったいどうしたというんで。」

「何がどうしたというんだ。客人をお連れした。もとおいらがお世話になったお侍様だ。御挨拶をしねえか。」

与助は眼をまんまるにして、

「冗談じゃありませんぜ、親分。これと同じお侍さんが、女を連れて二階の、『梅』にいらっしゃるんで。」

「げっ！　なに？　それではあの、もう一人の弥四郎頭巾が！」

と、佐吉は思わず、背後の大次郎を振り返りながら、与助へ、

「ひょんな侍が女を連れて泊り込んだと、さっきお前が言ったのはその客か？」

与助はまだ呆気にとられて、大次郎を凝視めて、頷くだけだ。

佐吉は先に立って上りながら、

「大次さん、来てるらしいぜ。」

「そうらしいな。<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>るかな。まず、千浪どのに怪我のないように。」

この、親友の妻と知りながら、千浪に対する恋心を制し切れない佐吉は、つと、暗い顔になりながらも、

「そうだ。その千浪様とやらに、お怪我があっちゃあならねえ。だが、出羽はこれを幸い、首にしてえものだな。」

「言うまでもない。それは拙者が引き受けるから、お主は千浪を頼む。」

何の話か解らないので、そばでまごまごしている番頭の与助を、振り返った佐吉、

「すこし二階でどたんばたんするかもしれねえ。お前は誰が下りて来ても、ここから一歩も出すんじゃねえぞ。いいか――由公は、どうした。」

「由公はまだ帰りませんが、御一緒じゃなかったんで。」

「先へ帰してやったんだが、どこかで引っかかって油を売ってるんだろう。――おう、大次郎さん、それじゃあひとつ二階へ乗り込みやしょうか。」

びっくりしている与助を残し、佐吉が先に立って大次郎を促し、梯子段を上がりかけたが、

「待てよ。」

と大次郎を顧みた佐吉、

「お前さんもあの出羽守もどこからどこまで寸分違わねえ<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしているんだから、斬り合いになって動き廻られると、どっちがどっちともおいらにゃあ区別がつかなくなるに相違ない。はて、どうしたものかな。」

「合言葉を決めよう。」

大次郎の言葉に佐吉は頷いて、

「うん、そうだ。だが、その合言葉は何とする。」

「煩と呼んだら、悩と答える。どうかな？」

「煩悩か――よかろう、面白い。」

そして二人は、七年前の田万里の時代に返ったように、にっこり笑顔を見合わせたが、それも束の間で、二人はすぐ緊張した面持ちで、跫音を忍ばせて二階へ――。

階下に残った与助は、すぐ二、三の男衆を呼び集めて、

「今ちょっと二階で騒ぎが持ち上がるかもしれねえ、お前たちに<ruby><rb>関係</rb><rt>かかわり</rt></ruby>のあることじゃあねえから、があがあ音を上げて騒ぐんじゃあねえぞ。だが、他のお客さんに、お怪我があっちゃ申訳ねえから、そこんところはよく気をつけてくれ――おお定、お前は裏口を閉めて来い。構うことはねえから縁側の雨戸を立ててしまいねえ。表の大戸を下ろしちゃあ世間様が何かと思うから、まあここだけは開けておくとして、手前たちみんなここにいて、泊りの客が来たら、ちょっと取り込みがござんすからと言って断るんだ。」

男ばかりの世帯だから、こういう時は締めくくりがつきやすい。喧嘩だと聞いて、文珠屋の下男一同心張棒を持ち出す者、捻り鉢巻をする者、すっかり面白がって、わいわい言う騒ぎ――。

いずれを何れ二つ巴

長い廊下に部屋べやの障子がすっかり閉まって、しんとした静けさ――。

大次郎の先に立った文珠屋佐吉は、その廊下を進み、ぴたと足を停めたが、「梅」という部屋の前。

「ここだ。」

と言う目くばせを大次郎へ送ると、障子のなかでは祖父江出羽守、室外で跫音が停まった様子に、早くもそっと背後の床の間の大刀へそれとなく手を伸ばしながら、

「誰か。」

「――――」

「番頭か、酒を持ってまいったのか。」

「へえ、さようで。」佐吉が答える。「お酒を持ってまいりましたんで。」

「うむ、待っていたぞ。」

さっと両方から、佐吉と大次郎が二枚の障子に手を掛けて左右へ開く。

床柱を背に、胡坐をかいた出羽と、縁に立った大次郎と佐吉と、六つの眼がぴたと合った。

気を失った千浪は、美しい人形のように座敷の隅に俯伏したまま動かない。この酔美人を肴に一献傾けようとしていた出羽守は、思いきや自分と同じ<ruby><rb>服装</rb><rt>つくり</rt></ruby>の白の弥四郎頭巾が、ぬっくとそこに立ちはだかっているので、大刀を膝に引き寄せるが早いか、じりっと膝の<ruby><rb>向</rb><rt>むき</rt></ruby>を大次郎の方へ寄せて、声は、冷たい笑いを含んでいた。

「何じゃ、その<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いは、わしの真似をして茶番でもしようというのか。」

「そちこそ何者じゃ。」

大次郎はそう鋭く呼びかけながら、ずかりと部屋へはいって来た。そして、腰の女髪兼安の柄に手を掛けながら、頭巾のなかの眼を怒らせて、出羽守を睨み下ろした。

「お前はいったい何者だ。何のために余と同じ服装をして、こうして江戸の町を彷徨しておるのか。余が誰であるか、そちは存じておるのか。」

この大次郎の言葉に、祖父江出羽守は度胆を抜かれて、

「な、な、何だと？　貴様こそおれの真似をして――。」

「黙れっ！」

大次郎が叫んでいた。

「余は祖父江出羽守であるぞ。……遠州相良の城主、この祖父江出羽守と同一の服装をいたすとは、怪しからん奴――。」

そばに立っている文珠屋佐吉が、にやにやして両方を見較べたが、大次、なかなかうまいことを言うと思いながら、しかし心中には、一脈の疑惑を持ったので、こっちこそ本当の出羽守で、千浪を連れて泊り込んでいるほうが、伴大次郎なのかもしれないと、先刻大次の顔を見て、一緒に連れだってここへ来たのだから、万々そんなことはないけれど、だが、こうして見ると、まったくどっちがどっちともわからないのだ。佐吉としてはとっさに、こんな疑問が湧こうというもの。

驚いたのは出羽守である。

「ややっ！　余の名を<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>るとは、不屈千万なやつ。余こそ遠州相良の祖父江出羽であるぞ。」

叫ぶより早く大刀片手に、すっと起ち上がっていたが、これだけ聞けばもう用はない。この出羽守の口から、一度名乗らせようとの魂胆だったのだから。

「うむ！」

と頭巾のなかで笑った大次、

「とうとう正体を明かしおったな。出羽守殿、覚えがござろう。拙者とこれなるこの家の主は、御貴殿のために亡ぼされた田万里の郷士でござる。七年以来、貴殿の煩悩に報ゆるに煩悩をもってせんと、江戸に潜んで、この機会を待ちもうけておったもの。また先般三国ヶ嶽の猿の湯で、殿の刃に倒れた弓削法外先生の仇でもある。――拙者は、この千浪の夫の伴大次郎です。」

そう言いながら大次郎が、部屋の一隅の千浪の姿に眼をやると、出羽守もそれへ、素早い視線を投げて、

「なかなかこみ入っておるのだな。田万里の伴といえば、小信の弟――。」

「そうです。あなたに奪われた小信の弟ですが――今日聞くところによると、その姉は、気が狂って、お屋敷を出ておるとのこと――。」

遠州の巻――<ruby><rb>奇術駕籠</rb><rt>てじなかご</rt></ruby>の二――

花の人質

「おい、大次、殿様を相手に何か言ってもしようがねえ。早くお命を貰ってしまおうではないか。」

佐吉がそばから、やきもきして急き立てると、

「命を貰う？　うふふふ、おれの命が欲しいというのか。欲しけりゃあくれてもやるが、だが、ちょっと待て。」

と出羽守は、弥四郎頭巾の顔を佐吉から大次郎へ移して、

「小信が発狂しておるというのは初耳だぞ。あれは邸を飛び出して、その後とんと消息を聞かんのだが。」

「姉のことは姉のこととして、もはや問答無益でござる。出羽守殿、覚悟っ！」

おめくより早く大次郎、腰間の女髪兼安に、一反り打たせたかと思うと、腰を落して流し出した白刃一閃、阿波の国の住人、右近三郎兼安の鍛えるところの弓削家伝来の名剣である。煩悩の姿をそのままに、女の髪の毛が一筋、刀の面に張りついたと見えるような一本の線が、鏡のような刃に<ruby><rb>嫋々</rb><rt>なよなよ</rt></ruby>とまつわりついている――人呼んで女髪兼安、抜けば必ず<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>を呼び、血の池を掘ると伝えられている女髪兼安だ。

と見る！

出羽守は、素早く部屋の一隅へ飛びすさったかと思うと、これも鞘を払って三尺の<ruby><rb>秋水</rb><rt>しゅうすい</rt></ruby>を、青眼にも大上段にも構えるどころか、いきなり、その足許に意識を失って倒れ伏している、大きな花のような千浪の咽喉首へ、ぎらり、その<ruby><rb>斬尖</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を刺し当てて、千浪の上に跨がったまま、大次郎へ笑いかけた。

「どうじゃな。そちの刀が一寸こっちへ伸びて来れば、この<ruby><rb>斬尖</rb><rt>きっさき</rt></ruby>が一寸女の首へ近づく。そちが一尺寄って来れば、この刀は女の首を芋刺しに畳を突き通すのだ。わっはっは、わっはっは。」

三国ヶ嶽の麓に住む、年古りた猿のような笑い声が、その出羽守の頭巾を洩れ、白衣に包まれた肩が、怪しい笑いに大きく揺れる。

はっ！　と刀を持つ手を宙に凍らせた大次郎は、思わず一歩退って、

「ううむ！　おい、文珠屋、悪いところを押さえられてしまったな。」

これも脇差を抜いて、そばに構えていた文珠屋佐吉、

「これはちと困った。手の出しようがねえ。」

その間も出羽守の笑いは、高々と響いて、

「そちがおれを斬ると同時に、おれはこの女を刺し殺す。この女とおれと、二つの死骸が重なれば美男美女の心中というものじゃ、ははははは、どうした。かかって来ぬか。」

ひっそりとした室内に、三人の荒い息づかいが聞えるだけで、千浪は何事も知らずに、うつらうつらと夢心地でいるらしく、肩のあたりが、優しい呼吸に動いているだけで――。

このままではいつまで経っても睨み合いが続くだけで、どう結末がつこうとも見えなかった。

出羽守は、立ちはだかったまま、その千浪の寝姿の上に跨がり、真珠のような美しい首に、刀の斬尖を一、二寸上に止めて、頭巾のなかの眼を上眼づかい、じっと大次郎と佐吉へ視線を凝らしているので。

「どうじゃな、刀を引いたほうが利口らしいの。」

そう出羽守が、口を歪めて言った時だった。

不思議なことが起ったのである。

夕方に近いとは言え、暖かい小春日和で、今日も日本橋の袂など、ああして人が出盛ったくらい、冬にしては暖かな強い日光が、まだ戸外にきらめいているのだ。

ことに西陽を受けて、この伝馬町あたりは、かっと瓦が燃え立つような<ruby><rb>茜色</rb><rt>あかねいろ</rt></ruby>の空。

縁の障子が開けられ、すぐ外は中庭を隔てて、向うの部屋になっているのだが――。

この瞬間である。

千浪の上から首に刀を擬していた祖父江出羽守が、あっと小さく叫んだと思うと、片手を頭巾の眼へやって、いかにもまぶしそう。刀を片手に、一瞬間、ちょっとその緊張した姿勢が乱れた。

背を伸ばして、自然、刀の斬尖は千浪の咽喉首から、一尺も上へ上がったのだ。

この不意の出来ごとに、虚を衝くことも忘れて、大次郎と佐吉は、驚きの眼を合わせて立っている。

眼つぶし鏡

一条の光線が、その出羽守の眼を射たので。というのは、ちょうどその中庭を隔てた向う側の二階の部屋から、障子を細目に開けた番頭の与助が、手鏡に陽をかざして、その照り返しを巧みに出羽守の眼へ当てたのだった。

たじろいで起ち上がった出羽の眼を追って、きらきらと丸い鏡の光が、壁を斜めに踊りながら、またもや出羽の眼を射抜く。

「あっ！　まぶしくてかなわん。」

思わず独り言を洩らした出羽は、片腕を上げて眼を庇いながら、よろよろと二、三歩背後へ退った。

今だっ！　と心に叫んだ文珠屋佐吉、いきなり走り寄ったかと思うと、その知覚を失っている千浪の身体を横抱きにかかえて、一目散に縁側へ駈け出すが早いか、廊下伝いに階下へ運んで行く。

千浪さえ奪ってしまえば、もう、この照り返し戦術の用はないと、高笑いを洩らした与助、障子の間から鏡を引っ込めると同時に、その中庭の向う側の戸を立て切った。

しつこく追って来る光線から開放された出羽守が、やっと手を放して見ると、千浪の姿はもう室内になく、面前には伴大次郎の女髪兼安が、ぴたり、微動もせずに突きつけられている。

「お眼は癒りましたかな。」

大次郎は笑って、

「ただ今斬りつけようと思えば、難なく一刀の許に、今ごろ殿は胴、首ところを異にしておりましたろう。だが、ああいう邪魔があっては、勝負が面白うない。このとおり刀を引いてお待ちしておりました。今はもう容赦はない。参りますぞ。」

静かな大次郎の声に、ぞっと冷たいものを感ずると同時に出羽守は、もはやこの血戦は免れないと感じたらしく、

「さ、来い！」

と大刀を構え直した。

その刹那に！

法外流の名誉、下谷の小鬼といわれた伴大次郎である。いきなり真向から女髪兼安を躍らせて、刀と身体が一つになって斬り込んで行く。

「うむ！　これはできる！」

感心したように叫んだ出羽守は、ちゃりいん！　女髪兼安を横に受け流すが早いか、ひらり身をかわして――二人、今は場所を取り換えて、大次郎が今まで出羽のいた壁際に、そして、出羽は、いま大次の立っていた場所に、双方とも青眼に構えで動かない。

動かない。

動かない。

千浪を下へ抱き下ろして、若い者たちに手当てを命じておいた文珠屋佐吉は、すぐさまこの二階の「梅」へ駈け上がって来たが、部屋へはいろうとして、敷居際に立ち停った佐吉、びっくりしてしまった。

もうこうなると、どっちがどっちともわからないので。

同じ弥四郎頭巾、同じ白衣に賽ころの紋、背恰好も肉付きも完全に同じだし、頭巾のなかから覗いている眼も、この真剣に、同じように赤く血走っている。

が、自分が階下へ下りる時、祖父江出羽は壁際によろめいていたのだから、今もその壁際にいるのが出羽であろうと、佐吉は脇差を閃めかして、室内へ踏み込むと――。

それと見た出羽守、声を励まして、

「おお、来たか。こいつをここに追いつめておる。お前は横から廻って、二人で斬り伏せよう。」

紛らわしいのを幸い、こう佐吉をごまかして、味方に引き入れようとする。その声も伴大次郎にそっくりなので、佐吉はそう思い込んで、出羽と並んで大次へ斬尖を向けたが。

その時、その出羽だとばかり思っていた、部屋の隅の白覆面が、

「煩！」

と叫んだ。

はっと気のついた佐吉、

「悩！」

と答えるより早く、振りかぶった刀をそのまま、さっと横手に、並んで立っている出羽守の肩先へ斬り下ろしたから堪らない。

「ぼん！」と「のう！」とは妙な掛け声があったものだと、ちょっと不思議に思っていた出羽守、つまりそこに隙があったと言うのだろう。おまけに味方に引き入れたとばかり信じていた人間が、相手へ向けようとした刀で、いきなり、こっちを払ったのだから――肩先を押えた出羽守、あっと横へすっ飛んで、

「な、何をする。おれは大次郎だぞ。出羽はこいつだ！」

その押えた肩から、花のような赤い血が、白絹の紋付きをさっと染めて。

まんじ乱れ

合言葉でわかってはいるものの、佐吉は瞬間、ほんとにこっちが大次郎で、向うが出羽、自分は早合点から盟友を傷つけたのではなかったかと、彼ははっとした。

が、とたんに　大次郎が、その女髪兼安を振りかぶって、出羽守へ迫った。

が、受け流した出羽、斬り返したその一刀は、見事外されて、踏み応えようとしていた大次の肩をかする。大次郎の肩にも、ぱっと血が吹き出た。

どっちも右の肩をやられて、同じように血が出ている。それが左右に縦横に、飛びちがえての乱戦なので、こうなると佐吉、どれがどれだか、もうさっぱりわからず、したがって、刀をふるって斬りつけようにも、見当がつかない。

脇差を下げて、二人の廻りをうろうろするばかり。

こういう時こそ、例の合言葉と、

「煩！」

と呼ばると、

「悩！」

「悩！」

二人の弥四郎頭巾が、二人一緒に佐吉のほうを向いて大声に答える。

なんだか知らないが、さっき「ぼん！」と「のう！」との二つの言葉から、この宿屋の亭主が向うへついたので、そういうおまじないでもあるのかと思った出羽守は、それからは佐吉が「煩！」とやるとすぐ大次郎より先に、大声に「悩！」と答えるので、これでは合言葉が合言葉にならない。

佐吉はますますまごつくばかりだ。

そればかりか出羽守は、今度は自分から、

「ぼん！」

と佐吉へ向ってさかんに呼びかける。

そこで佐吉が、

「悩！」

と答えて、そのもう一人の白頭巾へ斬ってかかると、そっちは大次郎なのだから、

「おい、おい、おれは伴だよ、出羽は向うだ。」

とあわてて呼ばわる。そうすると出羽守が、

「冗談じゃない。大次郎はおれだ。出羽はそっちだ！　そっちだ！」

佐吉は、部屋の隅にぺたんと坐って、腕組みをして考えこんでしまった。

なんだか知らないが、馬鹿に利き目のあるおまじないだと、出羽守はさかんに、

「ぼん！　ぼん！　ぼん！」

と叫びながら、懸命に大次郎へ斬り込んで行く。

もう大次郎も真剣である。

刃と刃が<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>み合い、火を吹くような息が絡んで「梅」の間の乱闘は、しばし続いた。

が！

どういう隙があったのか、この白頭巾の一人が、ひらり縁へ飛び出したかと思うと、

「出羽を押えろ、おれは下の千浪をちょっと見て来る。」

と佐吉へ言い残したと思うと、そのまま廊下を小走りに、階下へ下りて行った。

ぼんやり坐って剣闘を眺めていた佐吉が、はっと我れに返ったように見ると、もう一人の弥四郎頭巾が先に出て行った一人の後を追って、これもいま部屋を飛び出そうとしているから、佐吉は、

「己れっ！　出羽！　やるものか。」

とその男の足へしっかり抱きついた。

抱きつかれた白覆面は、大狼狽、

「おい、文珠屋、何をする。おれは大次郎だ、俺だ。出羽は今逃げて行ったじゃないか。」

「何を言やあがる。手前は出羽だ。ややこしくて頭が痛くならあ。」

「何を馬鹿なことを言う。離せ、離してくれ。出羽が逃げてしまうじゃないか。」

「だから、逃げねえように、おれがこうして押さえているのだ。」

「おい、佐吉。感ちがいをしてくれるな。おれだよ。」

と大次郎が、ひょいと頭巾を撥ね上げて顔を見せると、一目見上げた佐吉、なるほど正真正銘の伴大次郎なので、あっと手を離すが早いか、

「さては、今出て行ったのが出羽だったのか、畜生っ！」

叫ぶより早く、梯子段を駈け下りて、階下へ来て見ると、その出羽守が、

「うん、いや、何、あの女連れの侍は、ここの主人に押さえられておるよ。おれはちょっとそこまで、ははははは。」

と呑気に笑って、大勢の男衆や与助に送られて文珠屋を立ち出るところだ。これは、後から来た親分の<ruby><rb>同伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>と、すっかり思い込んでいるので、与助などは、背後からぺこぺこお辞儀をしながら、

「そうですか、うまく親分が押さえつけてくれましたか。あっしはね、急に思いついて、向うの部屋から鏡を使ってあいつの眼を眩ましてやりましたので、へへへへへへ。」

「いや、大手柄、大手柄。あれが味方にとって大助りであったぞ。さらばじゃ。」

大勢に送られて、出羽守は、ぶらりと、文珠屋を出て行った。

「馬鹿野郎、そいつを押さえろ、逃がすなっ！」

文珠屋佐吉は上り框に立って、大声にどなったが、その時はもう、出羽守の姿は向うの町角に消えていた。

伴大次郎も出羽守のほうを諦めて、千浪を看病に下りて来ていた。

断愛恋

千浪はすぐに息を吹き返したが、気がつきそうだと見ると、伴大次郎はその文珠屋の奥座敷をそっと出て、縁の物蔭へ佐吉を呼び出し、

「拙者は、あの千浪に顔を見せたくないのだ。拙者のために、また千浪のために――おれはもう、千浪の前に現われないほうがいいのだ。で、これからあの討ち洩らした出羽を狙って、拙者はもう一度江戸の町をうろつくつもりだ。」

「それは大次、どういうわけだ。あの千浪さまはお前の女房で、今日もお前を慕ってあちこち探し歩きそのために、あの出羽をお前と間違えて、ここへ連れ込まれたくらい――それほどお前に<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れているものを――。」

「いや、言うてくれるな。」

その大次郎の眼に、素早く涙が宿って、

「おれとても、あれを憎からず思ってはおる。憎からず思うどころか、いつどこにおっても、あれのことが頭を離れんぐらいに、おれは千浪を思いつめているのだが――あれの幸福を願えばこそ、あれと別れておらねばならぬ。」

「それはいったいどういうわけだ。」

急き込んで訊く文珠屋佐吉の手を、しっかり握り締めて、

「その理由は、訊いてくれるな。一つには、あの祖父江出羽守という仇敵をもつ身が、千浪と恋に落ちたのが、そもそもの間違いであった。いかに思い合ったればとて、世の常の夫婦のごとく、安穏に共に暮らせるものではなかったのだ。出羽を討つにしろ、また討たれるにしろ、早晩千浪に歎きを見せるは必定――それを思えばこそ――。」

と大次郎は、またちょっと頭巾の端を撥ね上げて、その別人のように変った顔を佐吉に見せながら、

「かように面貌が一変いたしたのを幸い――幸いと言うよりも、それをきっかけに、まるで心まで変ったように見せかけて、愛想づかしをして道場を出て来たのが、千浪は、あんなに辛く当ったおれを、こうして探し歩いてくれるのだ。江上、察してくれ。」

その大次郎の心中を思って、江上佐助の文珠屋佐吉、隠れ名、煩悩小僧は、その生まれながらの醜い顔に涙を浮かべたのだったが、ややあって大次郎は、

「だからおれは、もう一度風に吹かれて街をさ迷う。千浪は道場へ帰ってもいたし方あるまい。どうだ、佐吉、迷惑は重々察するが、しばし千浪をこの家に預ってはくれまいか。」

言われた時に佐吉は、あんなに恋い焦れていたこの千浪が親友伴大次郎のれっきとした妻であったことを知ると同時に、隠しようもない失望と共に、また、この大次と千浪のためにできるだけのことをしようという、清い新しい決心が湧いて来て、

「承知した。千浪さんのことは、おれが引き受けたから、安心していてもらいたい。」

「大次郎さま！　大次郎様！」

意識を取り戻そうとして、まだ千浪は、夢の境からハッキリ覚めきらないと見える。

その時室内から、<ruby><rb>良人</rb><rt>つま</rt></ruby>を呼ぶ彼女の声が細々と、二人の耳へ洩れて聞えて来る。

その己が身を慕って呼ぶ恋妻千浪の声を聞いた時に、それを振りきって出て行こうとする伴大次郎の心は、どんなであったろう！

飽きも飽かれもせぬ仲を、復讐と、彼女の幸福のために、哀恋の糸を自ら絶ち切って武士なればこそ、辛い大次郎ではあった。

佐吉は声を忍ばせて、

「それじゃあ行くか。いま言ったとおり、おれが預かったからにゃあ、大事な客人として誰にも指一本指させるこっちゃあねえ。安心していなせえよ。」

「思わぬ苦労で、千浪は身体が弱っておるらしい。充分ともに気をつけてやってくれ。」

と捨て行く妻の身を案じて、なおも佐吉にくれぐれも頼んだのち、白覆面の煩悩児伴大次郎、白衣の懐手の袂をぽんと背後に撥ねたかと思うと、

「ではいずれ――。」

飄然として、この伝馬町の旅籠文珠屋を後にした。

煩悩の女髪を宿す右近三郎兼安の朱鞘に、暮れゆく陽ざしを赤々と照り返して。

こうして、文珠屋佐吉は、あれほど恋い慕っていた千浪様を己が家に置くこととなったが、それと同時に彼佐吉、千浪に対する煩悩をさらりと捨てて――こう心気一転すれば、さっぱりした文珠屋である。親友の妻と奉って、千浪様々、下へも置かない持てなし、男だけで女のいないのを売り物にしていた宿屋だけに、この美しい客人は、番頭、小僧をはじめ、下男たちも大喜びで、一にも千浪様、二にも千浪さま。

奥まった一室を与えられた千浪、まるで文珠屋の女王のように、主人佐吉をはじめ、一同に大事に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>かれていた。

裏おもて隠れ里

「あらッ！」

叫んだのは、恋慕流し宗七の妻お多喜だ。深川やぐら下の小意気な宗七の住居で。

「あれ、お前さん、小信さんがいないじゃないか。」

と言う声に、その一間きりの柱にもたれて、ぼんやり物思いに耽っていた宗七は、眼を上げてあたりを見廻した。

なるほど、この家へ引き取って以来、ずっと毎日、起きている間は、必ずそこの部屋の隅にうつ向いていた小信の姿がいま見えないのである。

宗七は、考えごとに気を取られていて、いつ小信が家を出たとも知らなかったが、ちょっと用たしに行ったお多喜がいま帰って来ると、格子を開けて土間へはいると同時に、そう驚きの声をあげたわけ。

「うん、いねえなあ。そう言えばさっき、土間へ下りてうろうろしていたようでもあったが――。」

「何を言ってるんだよ。お前さん。そんな呑気なことを言ってちゃあ、困るじゃあないか。弟さんの大次郎様とやらから、ああして大事にお預かりしている小信さん、気が狂って、まとまった考えがないんだもの。そこらをうろうろして、変な間違いでも起されたら、大次郎様に申訳がないじゃあないか。」

「うん、それはそうだ。なに、遠くへは行くめえ。お前、ちょっくら町内を一廻りして、探して来ちゃあくれめえか。

「あいさ、岡っ引の女房だもの、お安い御用だよ、ほほほ。」

怒るだけ怒ってしまうと、きさくなお多喜は呑気に笑って、からころ溝板を鳴らして、路地を出て行った様子。

あとで宗七は、また物思いに耽るのだった。

煩悩を背負って、三つに別れて下山した自分と、大次郎と江上佐助と。

爾来自分は女色煩悩を追って、この江戸の色街で文字どおり恋慕流しの流れの生活を送ったままいまのお多喜と一緒になって、表面は街の夜を賑わす恋慕流しの宗七だが。

またその裏面は、いつからともなくあの八丁堀の与力、川俣伊予之進に見込まれて、十手を預かる御用聞きとなってはいるが。

だが、表裏いずれとも宗七の心を離れないのは、あの田万里を亡ぼした出羽守に対する復讐である。煩悩に対するに煩悩をもってする――という<ruby><rb>建前</rb><rt>たてまえ</rt></ruby>から、自分は女色煩悩を漁って来たのだが、それすらをすべて<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>した宗七に、たった一つ残っている煩悩の二字は？　それは、いま言った出羽への復讐！

こう考えてくると、復讐そのものが一つの煩悩かもしれなかった。

「つまるところ人間は、煩悩に生まれて煩悩に死ぬ。これだけは煩悩ではないつもりでも、こうやって思いつめているだけで、それがすでに煩悩の一つかもしれねえ。」

伴大次郎は、ああして祖父江出羽と同じ服装で、いま町をさまよっている。四、五日前にここへ訪ねて来て、小信にも会ったが、気の狂っている小信が、実の弟を目のあたりに見ても、気のついた顔もしなかったのに不思議はない。悲しみのうちに大次郎は、なおも小信の身を宗七夫婦に頼んで、またどこともなく立ち去ったのだったが――。それに、あの文珠屋佐吉――煩悩小僧の正体を知っているものは、自分一人なのだが、金の煩悩のために盗みを働くとわかっているだけに、やぐら下の宗七も、出羽を首にするまでは、煩悩小僧は挙げられねえ。

だが、その後では？――佐吉も喜んでおいらの繩にかかるとは言っているが、だが、友達の身に、この捕り繩を当てることができようか――。

あわただしい跫音が路地を飛んで来て、格子のそとからお多喜の声、

「ちょいと、お前さん！　大変だよ！　大変だよ！　出て来ておくれってば！」

「何でえ、騒々しい！」

舌打ちをしながらも、やぐら下の宗七、のそりと起ち上がっていた。

居合抜き俄芸人

「さあ、お立ち会い！　これだけの<ruby><rb>観物</rb><rt>みもの</rt></ruby>は、お主らが金を山と積んだところで、<ruby><rb>金輪際</rb><rt>こんりんざい</rt></ruby>、拝める代物じゃあない。拙者もこうして大道に立って、芸を切り売りしたくはないのだが、そこがそれ、農工商の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>などと威張ってみたところで、どうせ同じ人間様だ。食わなきゃあ生きちゃいられねえ。ところが禄を離れてみると、強いようでも弱いのが侍だ。浪々の身で、この大道芸人――芸人の身で<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りものは恐れ入るが、これも侍のつまらねえ<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>と、まず、この頭巾だけは許してもらいたい。さあさ、お立ち会い。いよいよ始める。」

路端に立って大声にしゃべり立てているのは、例の白の弥四郎頭巾に白服の伴大次郎である。そのそばに、腰元のように<ruby><rb>装</rb><rt>つく</rt></ruby>った派手な振袖の千浪が、高く結い上げた髪も重たげに、立っているのである。

麗らかな日で、吹く風も寒くなく、江戸の空には<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が舞っていた。

深川やぐら下を少し富ヶ岡八幡に寄ったほうの横町で、稲荷の祠の前だ。この異形の侍と、若い美しい女に眼をとめて、好奇心に満ちた群集がぐるり取り巻いてわいわい言っている。

お多喜が、引っ張るように宗七を促して連れて来たのは、ここだった。宗七は、その群集の外側に立って、じっと中を覗いている。

「大次郎様だね、お前さん。」

「うん、そうだ。あの美しい女子衆は、あれのお内儀の千浪様というのだが。」

そう言いながら見廻すと、すこし離れた見物人のなかに、虚ろな小信の顔も見えるので、

「おい、小信さんはあすこにいるじゃあねえか。お前そっと背後に立って、この芸がすんだら、うちへ連れ帰るようにしねえ。」

「おや、ほんとにあすこにいるね。まあこれでわたしも安心したよ。」

とお多喜は、そそくさとその見物人のなかの小信の背後へそっと寄って行く。

群集看視のなかの大次郎は。

当てもなく江戸の町を歩いたところで、いつまた祖父江出羽守に逢うともわからないし、それに、生きて行く<ruby><rb>生計</rb><rt>なりわい</rt></ruby>も考えねばならぬ。

かつまた、いつまでも妻の千浪を、のんべんだらりと文珠屋へ預けて置くのは、佐吉の好意に甘えすぎるようで、それも面白くないので、ああは言ったものの、一応千浪を引き取り、佐吉と相談の上で、大次がこの腕に覚えの居合い手品を始めたのだった。

千浪は喜んで、一種独特、法外流門外不出の坐り方を大次郎に教わって、この相手を勤めることになったわけ。

もはや会わぬつもりではあったが、ともに道場を出ている今は、そうまで堅く考えずともと、己れの恋を犠牲にした佐吉が懸命に仲に立って、こうして二人、恋慕流し宗七夫婦をそのままに、この大道芸は<ruby><rb>奇術駕籠</rb><rt>てじなかご</rt></ruby>の辻芸人と落ちたのだった。始めから愛しきっている、大次郎の喜びもさることながら、やっと二人一緒に暮して行ける千浪の胸のときめきは、どんなであったろう。

夢のような日のうちに、こうして江戸の町まちを、芸を売っているのだった。

大次郎のそばに、駕籠が一つ置いてある。何の変哲もない普通の駕籠だ。

大次郎は、その垂れをはぐって、中に種、仕掛けのないことを人々に見せた後、

「さあ、これへ。」

と千浪へ合図をすると、千浪は足取りも<ruby><rb>淑</rb><rt>しとや</rt></ruby>かに、背を屈めて、その駕籠の中へ下りる。

「さあ、こうしてこの垂れを下して――。」

そう言うと大次郎は、いま千浪と入れ違いに駕籠から取り出した三十本ほどの刀の束ねたのを地面に置いて、それと共に、駕籠の屋根から取り下ろした長い太い細引きを、見物のほうへ差し出した。

「お女中は、こうして駕籠の中にはいっておる。垂れは両方から下ろした。そこでお立ち会い、おぬしらの中から、誰でもいいから出て来て、この細引きで、この駕籠を縦横無尽、がんじ絡めに縛ってもらいたい。」

見物一同はもちろん、宗七もお多喜も、狂女小信も、何をするのかと、にわか芸人大次郎を凝視めていると、群集の中から、町家の番頭ふうなのや、鳶の者、職人など、物好きなのが飛び出して、大次郎の手から細引きを受け取り、にやにや笑いながら、その千浪のはいっている駕籠を横に縦に、八方に綱を廻して、めちゃくちゃにしばり上げてしまった。

細引きを掛けた駕籠は、そのまま大地に立っている。

木曾の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>

「うん、それでよい。大地には種仕掛けはないから、いまこの駕籠へはいった女は、ちゃんと中におる。そうしてこのように、綱を掛けてしまったら、もうどこからも出られぬわけ。念のために、中におるかどうか――。」

駕籠へ近づいた大次郎が、

「お女中！」

と呼ばわると、中でこつこつと駕籠の底を叩く音がして、大丈夫千浪ははいっている。

「そこで――。」

と呻くように言った大次郎は、まず、その三十本ほどの刀の束から一本取り上げたかと思うと、ぎらり鞘を抜き払ってやっという気合いの声もろとも、垂れの横から、駕籠の中央を目がけて、ずぶりと刀を刺した。柄元まで通って、向う側の垂れを破り、刀の斬尖が突き出る。

あっと群集は驚きの声を揚げたが、中の千浪は、声一つ立てない。と思う間に、大次はつぎつぎに刀を抜き放って、今度は反対側の横からずぶり！　また第三の刀は篤龍の屋根からまっすぐにと、一つは棒鼻の下から駕籠を縦に串ざしに、刺し通す。見る間に四、五本の刀が、あらゆる角度から駕籠に刺さって、横に斜めに、何本もの斬尖が、反対側へ突き出ているのだ。中の女は、ひとたまりもなく一寸刻みに刺されたであろう、見物は声を呑み、顔色を変えて凝視めている。

「そう驚くことはない。これからが大変なのだ。」

と笑った大次郎、

「この刀は、すべて触れば斬れる逸物揃い、証拠のために。」

とまた、刀の束から二本とって、刀身をかちかちと打ち合わせて見たかと思うと、

「ええいっ！」

と裂くような一声。また一本を上から駕籠へ突き刺した。同時に、

「や！」

とまた今度は、駕籠の背後から、中の女の背を突き通すように、柄元まで駕籠へ刺し込む。

群集のある者は、もう眼を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>っている。

気の弱い女などは前にいたのが、そろそろと背後へ引っ込んで行く。

見る間にその三十本の刀全部が、前後左右と上から、柄まで駕籠へ刺されて、駕籠はまるで、栗の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いが</span>のよう――。

中の女は、もう眼も当てられない肉塊と化し去ったことだろうが、それにしては、駕籠を通して、血がすこしも流れ出ないのが不思議と、見物は眼を見張っていると。

「これでよし。女はずたずたに刺し殺されてしもうた。そこで、お立ち会い！　今わしが、この三十本の刀を引き抜くから、誰でもよい、すぐこの綱を取り払って、駕籠の垂れを上げてほしい。」

そう言いながら大次郎は、駕籠のまわりを歩いて、その三十本の刀を全部抜き取ってしまう。

最後の一本が抜き取られるのを待って、群集の中から飛び出した二、三人が、素早く縛ってある細引きを取り外け、駕籠の垂れを開けると、中から千浪がにっこり笑いながら、駕籠を出て来た。身体はもちろん、着物にも帯にも、いずことして疵一つない。

あまりの妙技に、群集はどっと歓呼の声を揚げる。

宗七もお多喜も、われを忘れて凝視めていた。気の早い江戸っ子の群集なので、大次郎が扇子をひろげて歩き廻ると、ばらばらと<ruby><rb>鳥目</rb><rt>ちょうもく</rt></ruby>が扇子の上へ飛ぶ。

三十本の刀を鞘におさめ、その細引きでぐるぐる巻きにして駕籠へほうり込むと、これで芸は終った。

千浪は恥かしげに終始駕籠のわきに首垂れて立っていた。

これは別に不思議はないので、中にはいる千浪の坐り方一つにある。

「木曾の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>」と言って、手足をひろげ、胴をくねらせて、狭い駕籠のなかで、一種独特の微妙な坐り方をするのである。それがわかっているから、大次郎は、一厘一毛の隙でその千浪の身体を避けながら、縦横無尽に刀を突き刺す。千浪の身体が崩れず、すこしも動かない以上、これはなんら危険はないのだ。

駕籠を突き刺す場所まで、一つ一つ大次郎には決っていて一瞬間の居合いの<ruby><rb>骨</rb><rt>こつ</rt></ruby>、手許の狂うことは断じてないのである。

法外流居合の<ruby><rb>秘奥</rb><rt>ひおう</rt></ruby>「駕籠飾り」――その刀を刺した駕籠が何十本となく、光る<ruby><rb>笄</rb><rt>かんざし</rt></ruby>で飾られた女の髪のように見えるところから来た、名称だった。

御代参

が、大次郎は、どんなことがあっても女髪兼安だけは駕籠へ刺し通すことはしなかった。

煩悩を宿す妖剣、手許が狂って、千浪の身体に触れないともかぎらないので。

こうしてこの千浪と駕籠と、三十本の刀を資本に、彼はこの「木曾の桟橋――駕籠飾り」の芸を売物に、江戸の町から町と、さまよい歩いている。弥四郎頭巾の異装と千浪の美貌と、この離れ業が人気を呼んで、大次郎のとどまる辻々は、いつも人で黒山だが――。

するとある日、岡っ引の職分を利用して、それとなく出羽守の動静を探索していたやぐら下の宗七が、文珠屋佐吉の許へ報告を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>したのには、

「祖父江出羽守が、故郷の遠州相良へ帰って行く。」

ということだった。

出羽のいない江戸に、三人は用はないのだった。

大次郎も千浪を伴い、この駕籠の<ruby><rb>奇術</rb><rt>てじな</rt></ruby>を道中で演じながら東海道をまっすぐに遠州へ上ることになる。

こういう時こそ煩悩の金魔と化して、煩悩小僧として盗み溜めておいた金を役立てる場合であると、文珠屋佐吉は、手品用の――と言っても、何の仕掛けもないのだが――朱塗りの美しい駕籠を新調して、大次郎に持たしてやると同時に、自分も、その文珠屋の店は番頭の与助に任せて、承知の由公を連れて大次一行の背後から見え隠れ、これも<ruby><rb>飄々乎</rb><rt>ひょうひょうこ</rt></ruby>として旅に上った。

やぐら下の宗七は。

密偵としての役を果たすとともに、妻のお多喜と一緒に、預っている狂女小信をいたわりながら、この三人は一番後から、東海道を上って行くので。

四つの奇妙な行列の一行が、一日行程ぐらいの間隔をおいて、東海道を西へ、西へ――。

先頭は、国へ帰る祖父江出羽守の大名行列。それから一日ほどおくれて、大次と千浪の手品駕籠の辻芸人、そのつぎは、文珠屋佐吉と承知の由公の主従。そしてしんがりは、宗七お多喜の二人が狂女小信を中に挾んで、夫婦連れ弾きの恋慕流しの旅姿。

この四組は、前後して遠州相良の城下へはいった。

「おう、今度八幡のお祭りに、境内へかかっている浪人の駕籠の手品は、素晴らしい人気だぜ。」

「うんそうだってなあ。美しい女子を駕籠の中へ入れて、めっちゃやたらに刀を突き刺しても、姐さんは疵一つ負わずに、にっこり笑って出て来るっていうじゃねえか。たいしたもんよなあ。」

と城下の人々の間には大変な人気が湧いたというのは、折よく大次一行をはじめ、三煩悩の一同が城下へはいって四、五日すると、遠州で有名な相良八幡の大祭礼。そこの境内へ、大次と千浪がかかることになったわけで。

今日は、その祭りの当日である。

年に一度の八幡の祭りだというので、城下は上を下への浮かれ調子、老も若きも打ち連れて、お宮へ、お宮へ――近郷近在からも、百姓衆が泊りがけで出て来て、境内にはありとあらゆる見世物の小屋がけ、客を呼ぶ声、物売りの叫び、着飾った人々、迷い子、喧嘩、掏摸、怪我人、大変な雑沓。

「下に、下に――！　下におろうっ！」

先きぶれの声が群集を分ける。太守祖父江出羽守参詣の行列だ。

庶民はわらわらと左右に崩れ込んで、裾を叩いて土下座する。その中を鳥毛の槍、鉄砲、<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>の六法。美々しい行列が、鳥居をさして練って行くのだが――。

御代参である。

国家老が殿のかわりに、参詣するので――と言うのは、その太守の駕籠の中にはいっているのは家老で、肝腎の殿様は、お祭りの参詣など、こうして家老に押しつけたまま、自分は例の弥四郎頭巾に面体を包み、白絹の紋付に朱鞘の落し差し、群集のなかに紛れ込んで、かえって行列へ向って軽く頭を下げたりなどしているから、この祖父江の殿様、かなり人を喰っている。

神前白羽の矢

行列を見送った祖父江出羽守は、群集に伍してぶらりぶらりと、境内の見世物の間を歩き廻っているとふと眼についたのは、一段と人を集めている居合抜きである。

近づいて見ると――驚いた。

自分と同じ服装の、あの伴大次郎が、忘れもしない妻の千浪と共に、人を集めて何かしゃべり立てている。その足許に赤く塗った美しい駕籠が置いてあるので。

大次郎の口上よろしくあって、いつもの手品駕籠が始まったが、群集の中から秘かにそれを見物した出羽守は、すっかり度胆を抜かれた。

すると、この、人中の出羽を素早く見つけたのが、大次一行と一緒に城下入りをして、今日もそれとなくこの群集の間に出羽の姿を物色していた文珠屋佐吉、承知の由公、宗七お多喜の連中である。小信は、理由を話して、宿に看視を頼んで残して来ていた。

あらかじめ手筈ができている。佐吉が群集の中から、さっと手を挙げて、それとなく、ここに祖父江出羽守の来ていることを大次郎に知らせた。

と！　それを見ると大次郎は、素早く群集の中へ飛び込んで、まるで逃げるように、一時、どこへともなく姿を隠してしまったのである。奇怪な大次の行動――。

有名なこの手品駕籠だから、もう一度見たい人が多い。評判を聞いて、今やって来たばかりの者も尠くないから、群集は承知しないのだ。

「おい、あの白覆面の居合抜きは、どこへ行った。」

「駕籠の女だけじゃあ芸にならねえ。」

「あの侍を探し出せ。」

「白覆面を探し出せ。」

途方に暮れたように、駕籠のそばに立っている千浪を取り巻いて、群集は、がやがやと大変な騒ぎになった。

すると、人々の中から、文珠屋佐吉が大声を張り揚げ、

「あ！　あの居合使いは、そこにいる。白覆面は、そこにいるじゃねえか。」

とやにわに、人々の肩越しに、祖父江出羽守をゆび指した。

「そうだ、ここにいる。なんだ、こんなところに立っていたのか。」

「お侍さん、もう一度やってお見せなすっておくんなせえ。」

「もう一番お願えしやす。」

出羽守が気がつくと、人々の顔がいっせいに彼に向いて、なかには、前へ来てお辞儀をするもの、何本もの手が、背後からぐいぐいと押し、前から引っ張って、

「いやおれは違う。おれはこの居合抜きの侍ではない。」

出羽は頭巾の中で苦笑して、抗弁やら弁解やら――今さら城主の祖父江出羽だとも言えず、また言っても、殿様がこんな風態で、一人で歩いているなどは、誰も信じてくれるもののないのは知れきっている。

第一、殿様はいま、あの行列の駕籠に揺られて通って行ったばかり、今ごろは社殿で、厳粛に参拝していると思われているのだから――。

「違うも違わねえもありゃしねえ。お前さんは、今ひょっくり見えなくなったあの白覆面のお侍じゃあねえか。」

「着付けから紋まで同じだ。そんなことを言わねえで、もう一ぺんやって見せてくんなせえ。」

「違う！　違うと言うのに！　これ、放せ、放さぬか。」

と、争いながら出羽は、群集の手で、とうとうその駕籠と千浪のそばへ押し出されてしまった。

佐吉、宗七、由公、お多喜などが、先に立って手を叩き、音頭を取っているに相違ない。群集はわっという喝采で、四方八方からいろんな声が飛んで来る。

「さあ、早くやれ。」

「早く見せてくれ。」

それら叫び声のなかで、頭巾の奥に眼を凝らして、出羽はじっと千浪を見た。

千浪は心もち蒼ざめて、細く顫えているようだったが、落ち着いて出羽を見上げて、にっこりした。

「うん、この女も、おれがあの大次郎と代ったことを知らんと見える。ままよ、でたらめでいいからやってやれ。」

面白半分に、出羽はそう決心した。

<ruby><rb>三股追分</rb><rt>みつまたおいわけ</rt></ruby>

で、この千浪に対しても、すっかり大次郎になり澄ましている出羽守は、頭巾の中からにこにこして、

「では、もう一度やろうか。そち、駕籠へはいってくれ。」

「はい。」

と答えた千浪が、いつものように裾をかばって、背を屈めて駕籠へはいろうとすると――！

この時である、群集の中から大声が飛んで来た。

「おい！　皆の衆、人間があの駕籠の中へはいって外からあんなに刀を突き刺しても怪我一つねえなんて、そんな馬鹿なことがあるもんか。これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぺてん</span>だ！」

文珠屋佐吉の大声である。一瞬間、しんとなった群集の、今度は反対側から別の声で、

「そうとも！　そうとも！　何か仕掛けがあるに相違ねえ。居合い一つで、そんなことができるわけはねえんだ。」

と叫んだのは、かねがね手筈をしてあったやぐら下の宗七だ。するとたちまち、女の声が後に続いて、

「そうともさ、いんちきに決っているよ。でも、ほんとに何も種はないと言うんなら、今度はあの女のかわりに、あの白覆面のお侍さんが駕籠の中にはいって見せるがいい。」

こう呼ばわったのは、筋書通りにお多喜である。

承知の由公が、すぐその尾について、

「そうだ、そうだ。今度は侍がはいって見せろ！　白覆面が駕籠へはいれっ！」

とんでもないことを言うやつだと、出羽守があたりを睨み廻している間に、群集心理というのか、人々はみな今の由公の言葉に<ruby><rb>雷同</rb><rt>らいどう</rt></ruby>して、

「そうだ、今度は侍がはいれ、白覆面が駕籠へはいれ！」

境内を圧するほどの怒号叫喚となってしまった。

それを制しようと、両手を挙げて何か言っている出羽守の声は、すこしも聞えない。騒ぎはますます激しくなる一方。えらいことになったと驚きながらも、今さら引っ込みがつかず、諦めた出羽守は、どうせ手品だ、たいしたことはあるまいと千浪に向い、

「どうじゃな。わしがはいっても大事ないか。」

すると千浪はにっこりして、

「ええ、刀を突き刺すように見せかけるだけで、ほんとに刺すのではございませんから、誰がはいってもたいしたことはございません。」

そうだろうと出羽守は頷いて、

「それで、わしが中へはいるとして、刀を刺すのは誰かな。」

「ほほほほ。私がやりますけれど、今も申したとおり、ほんとに刺すんではございませんから、御安心遊ばして。」

もし、出羽守が思っているとおりに、彼女がこの出羽を大次郎と信じているならば、こんな説明的なことは言わないはず。が、出羽はそれには気がつかなかった。

「それでは、おれがはいるから、うまくやってくれ。」

と千浪へ囁いて、祖父江出羽守は、その赤い駕籠の中へ円く背を屈めて坐り込んだのである。

千浪はにっこり微笑んで、垂れを下ろす。群集は、今は鳴りをひそめて見守っている。

「どなたかこの綱で、駕籠をおしばり下さいまし。」

そう言った千浪の声を待たずに、ばらばらとそこへ飛び出したのは、これもかねての手筈によって、佐吉、宗七、由公、お多喜の四人である。

「こん畜生！」

などと低声に呟きながら、ぎりぎりに綱を掛けて縛ってしまう。

と、それを待っていたかのように、今まで境内の物蔭に身をひそめていた伴大次郎が、群集を分けて現れて来た。

寸分違わない二人の白覆面に、群集はあっと驚いたが、その間に大次郎は千浪と並んで駕籠の前に立ったかと思うとたちまち大音声に呼ばわった。

「これ！　祖父江出羽！　よっく聞け。<ruby><rb>田万里</rb><rt>たまざと</rt></ruby>の伴大次郎！」

背後にいる佐吉と宗七が、

「有森利七！」

「江上佐助！」

この三人の名乗りを聞いて、駕籠の中の祖父江出羽守、何か叫んで出ようとしたが、綱でしばってある。駕籠が一つ大きく横に揺れた。

千浪も大声に、

「弓削法外の娘千浪――！」

と叫ぶと同時に、伴大次郎の手には女髪兼安が抜き放されていた。この手品駕籠には、かつて使ったことのない女髪兼安を、今こそ彼は抜いたのだ。そして、千浪は早く！　と促すより早く、千浪と大次郎と二人、女髪兼安の柄を持ち添えて、真正面から駕籠の真ん中を突き刺した。恐ろしい呻り声が駕籠を揺さぶった。祖父江出羽の赤い煩悩毒血が、赤い駕籠を赤く染めて、まるで噴き出すように散った。

こうして三人の煩悩児は、煩悩の利剣によって、煩悩をもって煩悩を制し、祖父江出羽を仕止めたのだったが――その時から、この兼安の刀面から、女髪は掻き消すように消えたと言われている。出羽の煩悩の血に満足して、煩悩の女髪、刀を離れたのだ。

あとで、その出羽の死顔から頭巾を外して見ると、彼の顔には恐ろしい刀痕が十字に刻まれていた。これは、小信に傷つけられた時のあとで、彼女が傷を負わしたのは、背中にだけではなかったので、出羽はそれを隠して、その時から弥四郎頭巾を被り、疵を癒しに、あの<ruby><rb>阿弥陀沢</rb><rt>あみだざわ</rt></ruby>の猿の湯へ湯治に行ったのだったが――。この出羽守の疵痕が、大次郎の疵あとと寸分も違わなかったのは、これこそ恐ろしい煩悩の因縁と言うべきであろうか。

かくして、煩悩は無に帰し、三人はここに、名誉、金、女色の三煩悩を解いた。

大次郎と千浪は、小信を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わって、また江戸への旅に――。

佐吉と由公は、煩悩小僧の罪滅ぼしに四国巡礼へ――。

宗七とお多喜は、中仙道を廻って、これも江戸への恋慕流しの夫婦旅。

その三方へ別れる追分で、佐吉が背後に両手を廻して、宗七の前に頭を下げながら、

「約束だ、縛ってくんねえ。」

「何を言ってるんだ。江戸じゃあ煩悩小僧かもしれねえが、これからは四国詣での巡礼さん――それに、この宗七も、もう十手を持つ手はねえ。元気でお札所を廻って来なよ。」

にっこり別れる三つの旅――また七年後七月七日まで――それまで三人離ればなれに世を送って、やがてはあの田万里へ集まって廃村を興そうと言うので、夕陽を追って、三組が三つの道へ別れて行く。その相良の城下はずれの追分には、何事もなかったように、上り下りの馬子唄と、馬の鈴の音がしゃらん、しゃららんと――。