ウォーソン夫人は頭脳もよく、相当に教育もある婦人であった。それで博士の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>が死んで以来、<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る学術研究会の調査部に入り、図書の整理係として働らいていた。彼女は毎朝九時に出勤し、午後の四時に帰宅していた。多くの知識婦人に見る<ruby><rb>範疇</rb><rt>はんちゅう</rt></ruby>として、彼女の容姿は<ruby><rb>瘠形</rb><rt>やせがた</rt></ruby>で背が高く、少し黄色味のある皮膚をもった神経質の女であった。しかし別に健康には異状がなく、いつも明徹した理性で事務を整理し、晴れやかの精神で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てきぱき</span>と働らいていた。要するに彼女は、こうした職業における典型的の婦人であった。

或る朝彼女は、いつも通りの時間に出勤して、いつも通りの事務を取っていた。一通り仕事がすんだ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で、彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっかり</span>疲労を感じていた。事務室の時計を見ると、丁度四時五分を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>しているので、彼女は卓上の書類を片づけ、そろそろ帰宅する準備を始めた。彼女は独身になってから、或る裏町の寂しい通りで、一間しかない部屋を借りていたので、余裕もなく装飾もない、ほんとに味気ない生活だった。いつでも彼女は、午後の帰宅の時間になると、その<ruby><rb>空漠</rb><rt>くうばく</rt></ruby>とした部屋を考え、毎日毎日同じ位地に、変化もなく彼女の帰りを待ってる寝台や、窓の側に<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りきってる古い書卓や、その上に載ってる退屈なインキ<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>などを考え、言いようもなく味気なくなり、人生を<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>なものに感ずるのだった。

この日もまた、そのいつも通りの帰宅の時間に、いつも通りの空虚な感情が襲って来た。だがそうした気分の底に、どこか或る一つの点で、いつもとちがった不思議の予感が、<ruby><rb>悪寒</rb><rt>おかん</rt></ruby>のようにぞくぞくと感じられた。彼女の心に浮んだものは、いつものような退屈な部屋ではなく、それよりも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>悪い、<ruby><rb>厭</rb><rt>い</rt></ruby>やな陰鬱なものが隠れている、不快な気味のわるい部屋であった。その圧迫する厭やな気分は、どんなにしても自分の家に、彼女を帰らせまいとするほどだった。けれども結局、彼女は重たい<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着て、いつも通りの<ruby><rb>家路</rb><rt>いえじ</rt></ruby>をたどって行った。

部屋の戸口に立った時、彼女は何物かが室の中に、明らかにいることを直感した。いつ、どこから、だれがこの部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来て、自分の留守にいるのだろう。そうした想像の謎の中で、<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>のわからぬ一つの予感が、疑いを入れない確実さで、<ruby><rb>益〻</rb><rt>ますます</rt></ruby>はっきりと感じられた。「確かに。何物かがいる。いるに相違ない。」彼女はためらった。そして勇気を起し、一息に<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けひらいた。

部屋の中には、しかし一人の人間の姿もなかった。室内は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>としており、いつものように片づけられていた。どこにも全く、少しの変ったこともなかった。けれどもただ一つ、部屋の真中の床の上へ、見知らぬ黒猫が坐り込んでいた。その黒猫は大きな<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をして、じっと夫人をみつめていた。置物のように動かないで、永遠に静かな姿勢をしてうずくまっていた。

夫人は猫を飼っておかなかった。もちろんその黒猫は、彼女のいない留守の間に、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>から紛れ込んだものに相違なかった。がどこから這入って来たのだろう。留守の間の用心として、いつも<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は厳重に<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>してあった。もちろん<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をかけ、そしてすべての窓は錠を<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>して密閉されていた。夫人は少し疑い深く、部屋のあらゆる隅々を調べてみた。しかしどこにも決して、猫の這入るべき<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>はなかった。その部屋には煙突もなかったし、空気ぬきの穴もなかった。どんなによく調べてみても、猫の這入り得る箇所はないのである。

夫人はそこで考えた。留守の間に何人かが――おそらくは<ruby><rb>窃盗</rb><rt>せっとう</rt></ruby>の目的で――一度この部屋をうかがい、窓の一部を開けたのである。猫はその時偶然にどこからか這入って来た。そしてその人物が、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくこの部屋で何事かをした後に、再度またもとのように、窓を閉めて帰って行った。猫はその時から、此所に閉じこめられているのであると。実際また、それより外に推理の仕方はなかったのだ。

夫人は決して、病的な精神の所有者ではなかった。反対に理智の発達した、推理癖のある女性であった。けれども婦人の身として、さすがにこの不思議な出来事は不気味であった。自分のいない留守の間に、或る知らない人物が忍び込んで、<ruby><rb>居間</rb><rt>いま</rt></ruby>で何事かをしているということは、考えるだけでも神経を暗くした。

夫人は夢に<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>された時のように、厭やな重圧した気分を感じた。だが彼女の推理癖は、どうにもしてこの奇怪な事件から、真の原因を探り出そうと考えた。もし或る人物が、留守にどこかの窓を開けて、そこから<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>して来るとすれば、窓の或るどこかに、コジあけた<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>が残っているか、でないとしても、多少の指紋が残っているべきはずである。夫人は注意ぶかく調べて見た。だが窓のどこにも、少しの異状がなく、指紋らしきものさえなかった。この点の様子からは、絶対に人の這入った痕跡がないのである。

翌朝起きた時に、彼女は一つの妙案を思いついた。それは部屋のあらゆる隅々へ、人の気づかない色チョークの粉を、一面に薄く敷いておくことである。もし今日も昨日のように、留守に何事かが、起ったらば、すっかり証拠の足跡がついてしまう。例の厭やな猫でさえも、それが這入って来た箇所からの、正直な足跡を免かれない。一切の原因が明白になってしまうだろう。

この計案を完全に実行し、充分の成功を確めたところで、彼女はいつもの外套を着、いくらか落付いた気分で出かけて行った。が、だが事務室の柱時計が四時に近くなった時には、またいつもの不安な予感が、いつものように襲って来た。どうしても部屋の中に、だれかが坐っているような感じがする。その感じはハッキリしており、眼の前を飛ぶ小虫のように、<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>に追いのけられないものであった。そしてなお不吉なことには、いつも必ず適中するのであった。果してその留守の部屋の中には、今日もまた黒猫が坐り込んでた。気味の悪い静かな瞳で、じっと夫人の方をみつめながら。しかもその部屋の中には、夫人のすべての期待に反して、どこに一つ小さな足跡すら付いてなかった。今日の朝に敷かれたチョークの粉は、閉じ込められた<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の重たい空気で、<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>のように積っていた。その粉の一粒すらが、少しも位地を換えてなかった。明白に部屋の中へは、何物も這入って来なかったのである。

すべてのあり得べき奇異の事情と、その<ruby><rb>臆測</rb><rt>おくそく</rt></ruby>される推理の後で、夫人はすっかり<ruby><rb>混惑</rb><rt>こんわく</rt></ruby>してしまった。実証されてる事実として、此所にはどんな人間も這入って来ず、猫でさえも、決して外部から入り込んだものではないのだ。しかも奇怪のことには、その足跡を残さぬ猫が、ちゃんと目前の床に坐り込んでいるではないか。今、此所に猫がいるというほど、それほど確かな事実はない。しかも魔法の奇蹟でない限り、この固く閉めこんだ室の中に、一つの足跡も残さずして、猫がいるという道理はないのである。

夫人は理性を投げ出してしまった。それでもなお、もっと念入りの注意の下に、翌日もまた同じ試験を試みてみた。だが結果は、依然として同じであり、しかもその翌日も、翌日も同じ気味の悪い黒猫が、同じ床の上に坐り込んでいた。そしてこの奇怪の動物は、彼女が窓を開けると同時に、いつもそこから影のように飛び去って行った。

とうとう夫人は、最後に或る計画を思いついた。猫がどこから這入ってくるのかを見定めるため、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の蔭にかくれていて、終日鍵穴から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみようと考えた。翌日、彼女は出勤を休んだ。そしていつもの通り、窓にすっかり錠をおろし、戸口に一脚の椅子を持ち出した。それから扉を閉め、椅子を鍵穴のところに持って行って、一秒の間も油断なく、室内を熱心に覗いていた。朝から午後まで長い時間が経過した。それは彼女の緊張した注意力には、ひどく苦しい時間であり、耐えられないほどの長い時間であった。ともすれば彼女は、注意力の<ruby><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby>からして、他のことを考えてぼんやりしていた。彼女は時々、胸の<ruby><rb>隠衣</rb><rt>かくし</rt></ruby>から時計を出して針の動くのを眺めていた。すべて長い時間の間、室内には何事も起らなかった。夫人はまた時計を出した。その時丁度、針が四時五分前を指していたので、うたた寝から醒めた人のように、彼女は急に緊張した。そして再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が坐っていた。しかもいつもと同じ位地に、同じ身動きもしない静かな姿勢で。

全くこの事実は、超自然の不思議というより外、解決のできないことになってしまった。ただ一つだけ解ってるのは、午後の四時になる少し前に、どこからか、どうしてか解らないが、とにかく<ruby><rb>一疋</rb><rt>いっぴき</rt></ruby>の大きな黒猫が、室内に現われてくるという事実であった。夫人はもはや、自分の認識を信用しなくなってしまった。すべてやるだけの手段を尽し、疑い得るだけの実験を尽してしまった。夫人はもしかすると、自分の神経に異状があり、狂気しているのではないかと思った。彼女は鏡の前に立って、<ruby><rb>瞳孔</rb><rt>どうこう</rt></ruby>が開いているかどうかを見ようとした。

毎日毎日、その<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい奇怪の事実が、執拗にウォーソン夫人を苦しめた。彼女はすっかりヒステリカルになってしまい、白昼事務室の卓の上にも、猫の幻影を見るようになってしまった。時としてはまた、往来を歩くすべての人が、猫の<ruby><rb>変貌</rb><rt>へんぼう</rt></ruby>した人間のように見えたりした。そういう時に彼女は、その紳士めかした化猫の<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>をつかんで、街路に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけてやりたいという、狂気めいた<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>の激情に駆り立てられ、どうしても押えることができなかった。

それでも<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に、理性がまた彼女に回復して来た。この不思議な事件について、第三者の実証を確めるために、友人を招待しようと考えたのだ。それで三人の友人が、いつも猫の現われる時間の少し前に、彼女の部屋に招待された。二人は同じ職業の婦人であり、一人は死んだ良人の親友で、彼女とも家族的に親しくしていたところの、相当年輩に達した老哲学者であった。

訪客と主人を加えて、丁度四脚の<ruby><rb>肱掛椅子</rb><rt>ひじかけいす</rt></ruby>が、部屋の中央に<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>く並べられた。それは客のだれの眼にも、猫がよく見える位置を選んで、彼女がわざとそうしたのであった。始め暫らくの間、皆は静かに黙っていた。しかし少時の後には、会話が非常にはずんで来て、皆が快活にしゃべり始めた。いろいろな取りとめもない雑談から、話題は心霊学のことに移った。老博士の哲学者は、この方面に深い興味を持っていたので、最近或る心霊学会で報告された、馬鹿に陽気な幽霊の話をして婦人たちを面白<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく笑わせた。しかしウォーソン夫人だけは、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になって質問した。

「動物にも幽霊があるでしょうか？　例えば猫の幽霊など。」

皆は一緒に笑い出した。猫の幽霊という言葉がひどく<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>に思われたのである。だが丁度、その時皆の坐っている椅子の前へ、いつもの黒猫が現われて来た。それはだれも知らないどこかの窓から、そっと入り込んで来たのであった。そして平気な様子をして、いつもの場所に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すまし</span>込んで坐っていた。

「この事実は何ですか？」

夫人は神経を緊張させて、床の上の猫を指さした。その一つの動物に、皆の注意を集中させようとしたのである。

人々はちょっとの間、夫人の指さす所を見た。しかしすぐに眼をそらして、他の別の話を始めた。だれも猫については、少しも注意していないのである。多分皆は、そんなつまらない動物に、興味を持とうとしないのだろう。そこでまた夫人が言った。

「どこから這入って来たのでしょう。窓は閉めてあるし、私は猫なんか飼ってもいないのに。」

客たちはまた笑った。何かの<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>な<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>のように、夫人の言葉が聴えたからだ。すぐに人々は、前の話の続きにもどり、元気よく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃべり</span>出した。

夫人は不愉快な侮辱を感じた。何という礼義知らずの客だろう。皆は明らかに猫を見ている。その上に自分の質問の意味を知ってる。自分は真面目で質問した。それにどうだ。皆は空々しく白ばっくれて、故意に自分を無視している。「どんなにしても」と、夫人は心の中で考えた。「この白ばっくれた人々の眼を、床の動物の方に引きつけ、そこから<ruby><rb>他所見</rb><rt>よそみ</rt></ruby>が出来ないように、否応なく<ruby><rb>釘付</rb><rt>くぎづ</rt></ruby>けにしてやらねばならない。」

一つの計画された意志からして、彼女は<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby><ruby><rb>茶碗</rb><rt>ぢゃわん</rt></ruby>を床に落した。そして過失に驚いた様子をしながら、人々の足下に散らばっている破片を集め、丁寧に謝罪しながら、婦人客の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>についた液体の<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>をぬぐった。それからの行為は、否応なく客たちの眼を床に向け、すぐ彼らの足下にいる猫へ注意を引かねばならないはずだ。にもかかわらず、人々は快活に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしゃぎ</span>廻って、そんなつまらない主人の過失を、意にもかけない様子をした。皆は故意に会話をはずませて、過失に<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>している主人の様子を、少しも見ないように<ruby><rb>勉</rb><rt>つと</rt></ruby>めていた。

ウォーソン夫人は耐えがたく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いらいら</span>して来た。彼女は二度目の成功を期待しながら、執念深く同じ行為を繰返して、再度<ruby><rb>茶匙</rb><rt>ちゃさじ</rt></ruby>を床に落した。銀製の光った匙は、床の上で<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねあがり、鋭く澄んだ響を立てた。がその響すらも、人々の熱中した話題の興味と、婦人たちのはしゃいだ話声の中で消されてしまった。だれもそんな事件に注意をせず、見向いてくれる人さえなかった。反対に夫人の方は益〻神経質に興奮して来た。彼女はすっかりヒステリックになり、<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい突発的の行動に駆り立てられる、激情の強い発作を感じて来た。いきなり彼女は立ちあがった。そして足に力を込め、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけくそ</span>に床を<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>み鳴らした。その野蛮な荒々しい響からして、急に室内の空気が振動した。

この突発的なる異常の行為は、さすがに客人たちの注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。皆は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、一度に夫人の方を振り向いた。けれどもただ一瞬時にすぎなかった。そしてまたもとのように、各自の話に熱中してしまった。もうその時には、ウォーソン夫人の顔が真青に変っていた。彼女はもはや、この上客人たちの<ruby><rb>白々</rb><rt>しらじら</rt></ruby>しさと無礼とを、がまんすることが出来なかった。或る発作的な<ruby><rb>激情</rb><rt>パッション</rt></ruby>が、火のように全身を焼きつけて来た。彼女はその憎々しい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>どもの<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を引っつかんで、床にいる猫の鼻先へ、無理にも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span>と押しつけてやろうとする、強い衝動を押えることができなかった。

ウォーソン夫人は椅子を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った。そして本能的な憎悪の感情に熱しながら、いきなり一人の婦人客の頸を引っつかんだ。その婦人客の細い頸は、夫人の熱した右手の中で、死にかかった<ruby><rb>鵞鳥</rb><rt>がちょう</rt></ruby>のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びくびく</span>していた。夫人はそいつを引きずり倒して、鼻先の皮がむけるまで、床の上へ<ruby><rb>惨虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>にこすり付けた。

「ご覧なさい！」

夫人は怒鳴った。

「此所に猫がいるんだ。」

それから幾度も繰返して叫んだ。

「これでも見えないか？」

おそろしい絶叫が一時に起った。婦人客は死ぬような悲鳴をあげて、恐怖から壁に張りつき、棒立ちに突っ立っていた床にずり倒れた。婦人の方は殆んど完全に気絶していた。ただ一人、老哲学者の博士だけが、突然的の珍事に対して、手の付けようもなく<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と眺めていた。ウォーソン夫人の充血した眼は、じっと床の上の猫を見つめていた。その大きな気味の悪い黒猫は、さっきから久しい間、じっとそこに坐っており、音楽のように静かにしていた。その印象の<ruby><rb>烙</rb><rt>や</rt></ruby>きつけられた姿は、おそらく彼女の生涯まで、どんなにしても離れがたく、執拗に生きてつきまとっているように思われた。「今こそ！」と彼女は考えた。「こいつを撃ち殺してしまわねばならない！」

それから書卓の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を開け、<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>の柄に青貝の<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>り込んでいる、女持ちの小形なピストルを取り出した。そのピストルは少し前に、不吉な猫を殺す手段として、用意して買った物であったが、今こそ始めて、これを役立てる決行の機会が来たのである。

彼女は<ruby><rb>曳金</rb><rt>ひきがね</rt></ruby>に手をあてて、じっと床の上の猫を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。もし発火されたならば、この久しい時日の間、彼女を苦しめた原因は、煙と共に地上から消失してしまうわけである。彼女はそれを心に感じ、安楽な落付いた気分になった。そして<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを定め、指で<ruby><rb>曳金</rb><rt>ひきがね</rt></ruby>を強く引いた。

<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる発火と共に、煙が室内いっぱいに立ちこもった。だが煙の散ってしまった後では、何事の異状もなかったように、最初からの同じ位地に、同じ黒猫が坐っていた。彼は<ruby><rb>蜆</rb><rt>しじみ</rt></ruby>のような黒い<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>をして、いつものように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と夫人を見つめていた。夫人は再度<ruby><rb>拳銃</rb><rt>けんじゅう</rt></ruby>を取りあげた。そして前よりも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>近く、すぐ猫の頭の上で発砲した。だが煙の散った後では、依然たる猫の姿が、前と同じように坐っていた。その執拗な印象は、夫人を耐えがたく狂気にした。どんなにしても彼女は、この執拗な黒猫を殺してしまい、存在を<ruby><rb>抹殺</rb><rt>まっさつ</rt></ruby>しなければならないのだ。

「猫が死ぬか自分が死ぬかだ！」

夫人は絶望的になって考えた。そして憎悪の<ruby><rb>激情</rb><rt>パッション</rt></ruby>に逆上しながら、自暴自棄になって拳銃を乱発した。三発！　四発！　五発！　六発！　そして最後の<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>が尽きた時に、彼女は自分の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>のコメカミから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬるぬる</span>として赤いものが、糸のように引いてくるのを知った。同時に眼がくらみ、壁が一度に倒れてくるような感じがした。彼女は裂けるように絶叫した。そして火薬の<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いの立ちこめている、煙の<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>とした部屋の中で、燃えついた柱のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばったり</span>倒れた。その<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>からは血がながれ、<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた顔の上には、狂気で引き<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かれた髪の毛が乱れていた。（完）

附記。この物語の主題は、ゼームス教授の心理学書に引例された一実話である。