Soranoha

李陵

りりょう

中島 敦

一

漢かんの武帝ぶていの天漢てんかん二年秋九月、騎都尉きとい・李陵りりょうは歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣へんさいしゃりょしょうを発して北へ向かった。阿爾泰アルタイ山脈の東南端が戈壁沙漠ゴビさばくに没せんとする辺の磽确こうかくたる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風さくふうは戎衣じゅういを吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北ばくほく・浚稽山しゅんけいざんの麓ふもとに至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴きょうどの勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿うまごやしも枯れ、楡にれや檉柳かわやなぎの葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍きんぼうを除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧かわらと、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野こうやに水を求める羚羊かもしかぐらいのものである。突兀とっこつと秋空を劃くぎる遠山の上を高く雁かりの列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰だれ一人として甘い懐郷の情などに唆そそられるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極きわまるものだったのである。

騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨またがる者は、陵とその幕僚ばくりょう数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極きわみというほかはない。その歩兵も僅わずか五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山しゅんけいざんは、最も近い漢塞かんさいの居延きょえんからでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。

毎年秋風が立ちはじめると決きまって漢の北辺には、胡馬こばに鞭むちうった剽悍ひょうかんな侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠かすめられ、家畜が奪略される。五原ごげん・朔方さくほう・雲中うんちゅう・上谷じょうこく・雁門がんもんなどが、その例年の被害地である。大将軍衛青えいせい・嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいの武略によって一時漠南ばくなんに王庭なしといわれた元狩げんしゅ以後元鼎げんていへかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病かくきょへいが死んでから十八年、衛青えいせいが歿ぼっしてから七年。浞野侯さくやこう趙破奴ちょうはどは全軍を率いて虜ろに降くだり、光禄勲こうろくくん徐自為じょじいの朔北さくほくに築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋つなぐに足る将帥しょうすいとしては、わずかに先年大宛だいえんを遠征して武名を挙あげた弐師じし将軍李広利りこうりがあるにすぎない。

その年――天漢二年夏五月、――匈奴きょうどの侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉しゅせんを出た。しきりに西辺を窺うかがう匈奴の右賢王うけんおうを天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重しちょうのことに当たらせようとした。未央宮びおうきゅうの武台殿ぶだいでんに召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍ひしょうぐんと呼ばれた名将李広りこうの孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射きしゃの名手で、数年前から騎都尉きといとして西辺の酒泉しゅせん・張掖ちょうえきに在あって射しゃを教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重しちょうの役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚けいその一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出いで、側面から匈奴の軍を牽制けんせいしたいという陵の嘆願には、武帝も頷うなずくところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割さくべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重しちょうの役などに当てられるよりは、むしろ己おのれのために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒おかすほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手はで好きな武帝は大いに欣よろこんで、その願いを容いれた。李陵は西、張掖ちょうえきに戻って部下の兵を勒ろくするとすぐに北へ向けて進発した。当時居延きょえんに屯たむろしていた彊弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくが詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙まずいことになってきた。元来この路博徳ろはくとくという男は古くから霍去病かくきょへいの部下として軍に従い、邳離侯ふりこうにまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波ふくは将軍として十万の兵を率いて南越なんえつを滅ぼした老将である。その後、法に坐ざして侯を失い現在の地位に堕おとされて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯ほうこうをも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵こうじんを拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴きょうどの馬は肥え、寡兵かへいをもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒えいほうには些いささか当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉しゅせん・張掖ちょうえきの騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷ひどく怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気おじけづくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝なんじはこれと協力する必要はない。今匈奴が西河せいがに侵入したとあれば、汝なんじはさっそく陵を残して西河に馳はせつけ敵の道を遮さえぎれ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北ばくほくに至り東は浚稽山しゅんけいざんから南は竜勒水りょうろくすいの辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、浞野侯さくやこうの故道に従って受降城じゅこうじょうに至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈はげしい詰問きつもんのあったことは言うまでもない。寡兵かへいをもって敵地に徘徊はいかいすることの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引けんいん力と、冬へかけての胡地こちの気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王ようおうではなかったが、同じく庸王ではなかった隋ずいの煬帝ようだいや始皇帝しこうていなどと共通した長所と短所とを有もっていた。愛寵あいちょう比なき李り夫人の兄たる弐師じし将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛だいえんから引揚げようとして帝の逆鱗げきりんにふれ、玉門関ぎょくもんかんをとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘わがままでも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自みずから乞こうた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇ちゅうちょすべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。

浚稽山しゅんけいざんの山間には十日余留とどまった。その間、日ごとに斥候せっこうを遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰あますところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下きかの陳歩楽ちんほらくという者が身に帯びて、単身都へ馳はせるのである。選ばれた使者は、李陵りりょうに一揖いちゆうしてから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨うちまたがると、一鞭ひとむちあてて丘を駈下かけおりた。灰色に乾いた漠々ばくばくたる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。

十日の間、浚稽山しゅんけいざんの東西三十里の中には一人の胡兵こへいをも見なかった。

彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師じし将軍はいったん右賢王うけんおうを破りながら、その帰途別の匈奴きょうどの大軍に囲まれて惨敗ざんぱいした。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂うわさは彼らの耳にも届いている。李広利りこうりを破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因杅いんう将軍公孫敖こうそんごうが西河せいが・朔方さくほうの辺で禦ふせいでいる(陵りょうと手を分かった路博徳ろはくとくはその応援に馳はせつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南かなん(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴きょうどの主力は現在、陵の軍の止営地から北方郅居水しっきょすいまでの間あたりに屯たむろしていなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺ながめるのだが、東方から南へかけてはただ漠々ばくばくたる一面の平沙へいさ、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹たかか隼はやぶさかと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵こへいをも見ないのである。

山峡の疎林の外はずれに兵車を並べて囲い、その中に帷幕いばくを連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚たいては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星ろうせいが、青白い光芒こうぼうを斜めに曳ひいて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退たちのいて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨ほしょうが見るともなくこの爛々らんらんたる狼星ろうせいを見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨おおきな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨ほしょうが声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯ひはフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。

歩哨ほしょうの報告に接した李陵りりょうは、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷らいのごとき鼾声かんせいを立てて熟睡した。

翌朝李陵が目を醒さまして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟ほこと盾たてとを持った者が前列に、弓弩きゅうどを手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾はさんだ二つの山はまだ暁暗ぎょうあんの中に森閑しんかんとはしているが、そこここの巌蔭いわかげに何かのひそんでいるらしい気配けはいがなんとなく感じられる。

朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴きょうどは、単于ぜんうがまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧わいた。天地を撼ゆるがす喊声かんせいとともに胡兵こへいは山下に殺到した。胡兵の先登せんとうが二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声こせいが響く。たちまち千弩せんどともに発し、弦に応じて数百の胡兵こへいはいっせいに倒れた。間髪かんはつを入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者じげきしゃらが襲いかかる。匈奴きょうどの軍は完全に潰ついえて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首りょしゅを挙げること数千。

鮮あざやかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡なびいていた旗印から見れば、紛れもなく単于ぜんうの親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰ごづめの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城じゅこうじょうへという前日までの予定を変えて、半月前に辿たどって来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞きょえんさい(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。

南行三日めの午ひる、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵こうじんの揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙すきもなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲こりたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停とめて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦はくせんを避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖ふえていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野こうやの狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句あげく、いつかは最後の止とどめを刺そうとその機会を窺うかがっているのである。

かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵りりょうは全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執とって闘わしめ、両創を蒙こうむる者にもなお兵車を助け推おさしめ、三創にしてはじめて輦れんに乗せて扶たすけ運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体したいはすべて曠野こうやに遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車しちょうしゃ中に男の服を纏まとうた女を発見した。全軍の車輛しゃりょうについて一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮りくに遇あったとき、その妻子等が逐おわれて西辺に遷うつり住んだ。それら寡婦かふのうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とくいとする娼婦しょうふとなり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北ばくほくまで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬きるべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間たにまの凹地おうちに引出された女どもの疳高かんだかい号泣ごうきゅうがしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑のまれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然しゅくぜんたる思いで聞いた。

翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体したい三千余。連日の執拗しつようなゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄にわかに奮ふるい立った形である。次の日からまた、もとの竜城りゅうじょうの道に循したがって、南方への退行が始まる。匈奴きょうどはまたしても、元の遠巻き戦術に還かえった。五日め、漢軍は、平沙へいさの中にときに見出みいだされる沼沢地しょうたくちの一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘でいねいも脛はぎを没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原かれあしはらが続く。風上かざかみに廻まわった匈奴の一隊が火を放った。朔風さくふうは焔ほのおを煽あおり、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦あしに迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地そじょちの車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘でいねいの中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿たどりついたとたんに、先廻さきまわりして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭あった。人馬入乱れての搏兵はくへい戦である。騎馬隊の烈はげしい突撃を避けるため、李陵は車を棄すてて、山麓さんろくの疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于ぜんうとその親衛隊とに向かって、一時に連弩れんどを発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍せいほうをまとった胡主こしゅはたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬すくい上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗しつような敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体したいはまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。

この日捕えた胡虜こりょの口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于ぜんうは漢兵の手強てごわさに驚嘆し、己おのれに二十倍する大軍をも怯おそれず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃たのんでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩もらして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢かぜいを滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還かえそうということに決まったという。これを聞いて、校尉こうい韓延年かんえんねん以下漢軍の幕僚ばくりょうたちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微かすかに湧わいた。

翌日からの胡軍こぐんの攻撃は猛烈を極めた。捕虜ほりょの言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳てきびしい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経たつと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴きょうどらは遮二無二しゃにむに漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体したいを遺のこして退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚ばくりょう一同些いささかホッとしたことは争えなかった。

その晩、漢の軍侯ぐんこう、管敢かんかんという者が陣を脱して匈奴の軍に亡にげ降くだった。かつて長安ちょうあん都下の悪少年だった男だが、前夜斥候せっこう上の手抜かりについて校尉こうい・成安侯せいあんこう韓延年かんえんねんのために衆人の前で面罵めんばされ、笞むち打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間たにまで斬ざんに遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣こじんに亡にげて単于ぜんうの前に引出されるや、伏兵を懼おそれて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋なんじゅうを極めている。漢軍の中心をなすものは、李り将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟しをもって印としているゆえ、明日胡騎こきの精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅かいめつするであろう、云々うんぬん。単于ぜんうは大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。

翌日、李陵りりょう韓延年かんえんねん速すみやかに降くだれと疾呼しっこしつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟しを目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙はるかに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注そそいだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜鄣しゃりょしょうを出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟とうそうぼうげきの類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟ほこを失ったものは車輻しゃふくを斬きってこれを持ち、軍吏ぐんりは尺刀せきとうを手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭せまくなる。胡卒こそつは諸所の崖がけの上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍ししと纍石るいせきとでもはや前進も不可能になった。

その夜、李陵は小袖短衣しょうしゅうたんいの便衣べんいを着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡かいから覗のぞいて谷間に堆うずたかい屍しかばねを照らした。浚稽山しゅんけいざんの陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡かたおかの斜面は水に濡ぬれたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺うかがってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺うかがった。遠く山上の敵塁から胡笳こかの声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷とばりをかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀きょしょうに腰を下おろした。全軍斬死ざんしのほか、途みちはないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏ぐんりの一人が口を切り、先年浞野侯さくやこう趙破奴ちょうはどが胡軍こぐんのために生擒いけどられ、数年後に漢に亡にげ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵かへいをもって、かくまで匈奴きょうどを震駭しんがいさせた李陵りりょうであってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途みちを知りたもうであろうというのである。李陵はそれを遮さえぎって言う。陵一個のことはしばらく措おけ、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様ありさまでは、明日の天明には全軍が坐ざして縛ばくを受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞へんさいに辿たどりついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は鞮汗山ていかんざん北方の山地に違いなく、居延きょえんまではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途みちはないではないか。諸将僚もこれに頷うなずいた。全軍の将卒に各二升の糒ほしいいと一個の冰片ひょうへんとが頒わかたれ、遮二無二しゃにむに、遮虜鄣しゃりょしょうに向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗せいきを倒しこれを斬きって地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧おそれのあるものも皆打毀うちこわした。夜半、鼓こして兵を起こした。軍鼓ぐんこの音も惨さんとして響かぬ。李陵は韓校尉かんこういとともに馬に跨またがり壮士十余人を従えて先登せんとうに立った。この日追い込まれた峡谷きょうこくの東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。

早い月はすでに落ちた。胡虜こりょの不意を衝ついて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭あった。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬こばに鞭むちうって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙へいさの上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵りりょうはまた峡谷の入口の修羅場しゅらばにとって返した。身には数創を帯び、自みずからの血と返り血とで、戎衣じゅういは重く濡ぬれていた。彼と並んでいた韓延年かんえんねんはすでに討たれて戦死していた。麾下きかを失い全軍を失って、もはや天子に見まみゆべき面目はない。彼は戟ほこを取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入かけいった。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢ながれやに当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈ほこを引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰くらって失神した。馬から顛落てんらくした彼の上に、生擒いけどろうと構えた胡兵こへいどもが十重二十重とえはたえとおり重なって、とびかかった。

二

九月に北へ立った五千の漢軍かんぐんは、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞へんさいに辿たどりついた。敗報はただちに駅伝えきでんをもって長安ちょうあんの都に達した。

武帝ぶていは思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利りこうりの大軍さえ惨敗ざんぱいしているのに、一支隊たる李陵の寡軍かぐんにたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北ばくほくから「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛おうせい」の報をもたらした陳歩楽ちんほらくだけは(彼は吉報の使者として嘉よみせられ郎ろうとなってそのまま都に留とどまっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。

翌、天漢てんかん三年の春になって、李陵りりょうは戦死したのではない。捕えられて虜ろに降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒かくどした。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈はげしさは壮時に超えている。神仙しんせんの説を好み方士巫覡ほうしふげきの類を信じた彼は、それまでに己おのれの絶対に尊信する方士どもに幾度か欺あざむかれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗しつようにつきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達かったつだった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑さいぎを植えつけていった。李蔡りさい・青霍せいかく・趙周ちょうしゅうと、丞相じょうしょうたる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀こうそんがのごとき、命を拝したときに己おのが運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢こうこつかん汲黯きゅうあんが退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣ねいしんにあらずんば酷吏こくりであった。

さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属けんぞく家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉ていいが常に帝の顔色を窺うかがい合法的に法を枉まげて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを詰なじったところ、これに答えていう。前主の是ぜとするところこれが律りつとなり、後主の是とするところこれが令りょうとなる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相じょうしょう公孫賀こうそんが、御史大夫ぎょしたいふ杜周としゅう、太常たいじょう、趙弟ちょうてい以下、誰一人として、帝の震怒しんどを犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵ののしる。陵のごとき変節漢へんせつかんと肩を比べて朝ちょうに仕えていたことを思うといまさらながら愧はずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟いとこに当たる李敢りかんが太子の寵ちょうを頼んで驕恣きょうしであることまでが、陵への誹謗ひぼうの種子になった。口を緘かんして意見を洩もらさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有もつものだったが、それも数えるほどしかいない。

ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣ざんぶしているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃さかずきをあげて、その行を壮さかんにした連中ではなかったか。漠北ばくほくからの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広りこうの孫と李陵の孤軍奮闘を讃たたえたのもまた同じ連中ではないのか。恬てんとして既往を忘れたふりのできる顕官けんかん連や、彼らの諂諛てんゆを見破るほどに聡明そうめいではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌きらう君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫かたいふの一人として朝ちょうにつらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒ほめ上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事つかえて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠まことに国士のふうありというべく、今不幸にして事一度たび破れたが、身を全うし妻子を保やすんずることをのみただ念願とする君側の佞人ねいじんばらが、この陵の一失いっしつを取上げてこれを誇大歪曲わいきょくしもって上しょうの聡明を蔽おおおうとしているのは、遺憾いかんこの上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴きょうど数万の師を奔命ほんめいに疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮きわまるに至るもなお全軍空弩くうどを張り、白刃はくじんを冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古いにしえの名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜ろに降くだったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……

並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫ふるわせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。

向こう見ずなその男――太史令たいしれい・司馬遷しばせんが君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣」の一人が、遷せんと李陵りりょうとの親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故ゆえあって弐師じし将軍と隙げきあり、遷が陵を褒ほめるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞しゅっさいして功のなかった弐師将軍を陥おとしいれんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀せいれきぼくしを司つかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜ふそんな態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉ていいに下された。刑は宮きゅうと決まった。

支那しなで昔から行なわれた肉刑にくけいの主おもなるものとして、黥けい、劓ぎ(はなきる)、剕ひ(あしきる)、宮きゅう、の四つがある。武帝の祖父・文帝ぶんていのとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑きゅうけいのみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ふけいともいうのは、その創きずが腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木ふぼくの実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人えんじんと称し、宮廷の宦官かんがんの大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷しばせんがこの刑に遭あったのである。しかし、後代の我々が史記しきの作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令たいしれい司馬遷は眇びょうたる一文筆の吏りにすぎない。頭脳の明晰めいせきなことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人ひとに負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人へんくつじんとしてしか知られていなかった。彼が腐刑ふけいに遇あったからとて別に驚く者はない。

司馬氏は元もと周しゅうの史官であった。後、晋しんに入り、秦しんに仕え、漢かんの代となってから四代目の司馬談しばたんが武帝に仕えて建元けんげん年間に太史令たいしれいをつとめた。この談が遷の父である。専門たる律りつ・暦れき・易えきのほかに道家どうかの教えに精くわしくまた博ひろく儒じゅ、墨ぼく、法ほう、名めい、諸家しょかの説にも通じていたが、それらをすべて一家の見けんをもって綜すべて自己のものとしていた。己おのれの頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子むすこの遷に受嗣うけつがれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内かいだいの大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。

元封げんぽう元年に武帝が東、泰山たいざんに登って天を祭ったとき、たまたま周南しゅうなんで病床にあった熱血漢ねっけつかん司馬談しばたんは、天子始めて漢家の封ほうを建つるめでたきときに、己おのれ一人従ってゆくことのできぬのを慨なげき、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史つうしの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集しゅうしゅうのみで終わってしまったのである。その臨終りんじゅうの光景は息子・遷せんの筆によって詳しく史記しきの最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起たちがたきを知るや遷を呼びその手を執とって、懇ねんごろに修史しゅうしの必要を説き、己おのれ太史たいしとなりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟じせきを空むなしく地下に埋もれしめる不甲斐ふがいなさを慨なげいて泣いた。「予よ死せば汝なんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾なんじそれ念おもえやと繰返したとき、遷は俯首流涕ふしゅりゅうていしてその命に背そむかざるべきを誓ったのである。

父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷しばせんは太史令たいしれいの職を継いだ。父の蒐集しゅうしゅうした資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝ふしそうでんの天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初たいしょ元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記しきの編纂へんさんに着手した。遷、ときに年四十二。

腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋しゅんじゅうを推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝さでんや国語こくごになると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮あざやかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許みもと調べの欠けているのが、司馬遷しばせんには不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底ていのものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積うっせきしたものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創つくるという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画えがいてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子こうしに倣ならって、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異ことにした述而不作のべてつくらずである、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。

漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝しこうていの反文化政策によって湮滅いんめつしあるいは隠匿いんとくされていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興おこらんとする気運が鬱勃うつぼつとして感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。司馬遷しばせん個人としては、父の遺嘱いしょくによる感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然こんぜんたるものを生み出すべく醗酵はっこうしかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀ごていほんぎから夏殷周秦かいんしゅうしん本紀あたりまでは、彼も、材料を按排あんばいして記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽こうう本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。

項王則すなわチ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞ぐ。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬しゅんめ名ハ騅すい、常ニ之これニ騎ス。是ここニ於おいテ項王乃すなわチ悲歌慷慨こうがいシ自ラ詩ヲ為つくリテ曰いわク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋おおフ、時利アラズ騅逝ゆカズ、騅逝カズ奈何いかんスベキ、虞ヤ虞ヤ若なんじヲ奈何いかニセン」ト。歌フコト数闋けつ、美人之ニ和ス。項王泣なみだ数行下ル。左右皆泣キ、能よク仰ギ視みルモノ莫なシ……。

これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌はつらつたる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有もった者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止やめる。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽こううが項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝しこうていも楚その荘王そうおうもみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊噲はんかいや范増はんぞうが、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。

調子のよいときの武帝ぶていは誠まことに高邁闊達こうまいかったつな・理解ある文教の保護者だったし、太史令たいしれいという職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周ほうとうひしゅうの擠陥讒誣せいかんざんぶによる地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。

数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚かんぷなきまでに説破することを最も得意としていた。

さて、そうした数年ののち、突然、この禍わざわいが降くだったのである。

薄暗い蚕室さんしつの中で――腐刑ふけい施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾おこして暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然ぼうぜんと壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬ざんに遭あうこと、死を賜たまうことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死けいしする己おのれの姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵りりょうを褒ほめ上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念けねんは自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋しゅうろうな宮刑きゅうけいにあおうとは! 迂闊うかつといえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有もっていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨こうがいの士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒とには緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判わかってくるのだと。司馬遷しばせんは自分を男だと信じていた。文筆の吏りではあっても当代のいかなる武人ぶじんよりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂くるまざきの刑なら自分の行く手に思い画えがくことができたのである。それが齢よわい五十に近い身で、この辱はずかしめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室さんしつの中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽おえつとも怒号どごうともつかない叫びが彼の咽喉のどを破った。

痛憤と煩悶はんもんとの数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢こんていから異なった彼かの国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨うらんだ。一時はその怨懣えんまんだけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者じゅしゃと違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨しえんのために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく措おくとするも、仁君じんくん文帝ぶんていも名君景帝けいていも、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷しばせんは極度の憤怨ふんえんのうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の作なせる疾風暴雨霹靂へきれきに見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤いきどおりへと駆かったが、また一方、逆に諦観ていかんへも向かわせようとする。怨恨えんこんが長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣かんしんに向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心じきょうしんの高い彼にとって、彼ら小人輩しょうじんはいは、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣かんしんや酷吏こくりよりも始末が悪い。少なくとも側かたわらから見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁はんばくもせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相じょうしょう公孫賀こうそんがのごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛あゆ迎合げいごうを事としても、杜周としゅう(最近この男は前任者王卿おうけいを陥れてまんまと御史大夫ぎょしたいふとなりおおせた)のような奴やつは自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子くをまっとうしさいしをたもつの臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。

司馬遷は最後に忿懣ふんまんの持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵りりょうのために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別拙まずかったとは考えぬ。阿諛あゆに堕だするに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受かんじゅしなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解しかいされようと腰斬ようざんにあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑きゅうけいは――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言しょくげんの余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒いえることもあろうが、己おのが身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己おのれのどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強しいていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。

茫然ぼうぜんとした虚脱きょだつの状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻まわる。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。

我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣ふんまんとの中で、たえず発作ほっさ的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然ばくぜんと感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。

許されて自宅に帰り、そこで謹慎きんしんするようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一ひと月狂乱にとり紛まぎれて己おのが畢生ひっせいの事業たる修史しゅうしのことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻はばむ役目を隠々いんいんのうちにつとめていたことに気がついた。

十年前臨終りんじゅうの床とこで自分の手をとり泣いて遺命いめいした父の惻々そくそくたる言葉は、今なお耳底じていにある。しかし、今疾痛しっつう惨怛さんたんを極きわめた彼の心の中に在あってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡たのしい態ていのものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然こうぜんとして自らを恃じする自覚ではない。恐ろしく我がの強い男だったが、今度のことで、己おのれのいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張いばってみたところで、所詮しょせん己は牛にふみつぶされる道傍みちばたの虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃じじも失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡たのしいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁いんねんに近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋つながりによってである)ということだけはハッキリしてきた。

当座の盲目的な獣の呻うめき苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途みちのないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫じょうふたる太史令たいしれい司馬遷しばせんは天漢てんかん三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途みちはなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡なきものと思い込む必要があったのである。

五いつ月ののち、司馬遷はふたたび筆を執とった。歓よろこびも昂奮こうふんもない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打むちうたれて、傷ついた脚を引摺ひきずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些いささか後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令ちゅうしょれいに取立てたが、官職の黜陟ちゅっちょくのごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然しょうぜんたる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊あくりょうにでも取り憑つかれているようなすさまじさを、人々は緘黙かんもくせる彼の風貌ふうぼうの中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。

凄惨せいさんな努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓よろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌ふうぼうの中のすさまじさも全然和やわらげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者かんじゃとか閹奴えんどとかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻うめき声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上しょうじょうに横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌きざしてくると、たちまちカーッと、焼鏝やきごてをあてられるような熱い疼うずくものが全身を駈かけめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺あたりを歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己おのれを落ちつけようと努めるのである。

三

乱軍の中に気を失った李陵りりょうが獣脂じゅうしを灯ともし獣糞じゅうふんを焚たいた単于ぜんうの帳房ちょうぼうの中で目を覚ましたとき、咄嗟とっさに彼は心を決めた。自みずから首刎はねて辱はずかしめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償つぐなうに足る手柄を土産みやげとして――か、この二つのほかに途みちはないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。

単于ぜんうは手ずから李陵の縄なわを解いた。その後の待遇も鄭重ていちょうを極めた。且鞮侯そていこう単于とて先代の呴犁湖くりこ単于の弟だが、骨骼こっかくの逞たくましい巨眼きょがん赭髯しゃぜんの中年の偉丈夫いじょうふである。数代の単于に従って漢かんと戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強てごわい敵に遭あったことはないと正直に語り、陵の祖父李広りこうの名を引合いに出して陵の善戦を讃ほめた。虎とらを格殺かくさつしたり岩に矢を立てたりした飛将軍ひしょうぐん李広の驍名ぎょうめいは今もなお胡地こちにまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒わけるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴きょうどのふうであった。ここでは、強き者が辱はずかしめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧きゅうろと数十人の侍者じしゃとを与えられ賓客ひんきゃくの礼をもって遇ぐうせられた。

李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳じゅうちょう穹盧きゅうろ、食物は羶肉せんにく、飲物は酪漿らくしょうと獣乳と乳醋酒にゅうさくしゅ。着物は狼おおかみや羊や熊くまの皮を綴つづり合わせた旃裘せんきゅう。牧畜と狩猟と寇掠こうりゃくと、このほかに彼らの生活はない。一望際涯いちぼうさいがいのない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于ぜんう直轄地ちょっかつちのほかは左賢王さけんおう右賢王左谷蠡王さろくりおう右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐おって土地を変える。

李陵には土地は与えられない。単于麾下きかの諸将とともにいつも単于に従っていた。隙すきがあったら単于の首でも、と李陵は狙ねらっていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地こちにあって単于と刺違えたのでは、匈奴きょうどは己おのれの不名誉を有耶無耶うやむやのうちに葬ってしまうこと必定ひつじょうゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強しんぼうづよく、その不可能とも思われる機会の到来を待った。

単于ぜんうの幕下ばっかには、李陵りりょうのほかにも漢の降人こうじんが幾人かいた。その中の一人、衛律えいりつという男は軍人ではなかったが、丁霊王ていれいおうの位を貰もらって最も重く単于に用いられている。その父は胡人こじんだが、故ゆえあって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉きょうりつとい李延年りえんねんの事に坐ざするのを懼おそれて、亡にげて匈奴きょうどに帰きしたのである。血が血だけに胡風こふうになじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且鞮侯そていこう単于ぜんうの帷幄いあくに参じてすべての画策に与あずかっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人かんじんの降くだって匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。

一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞こうたことがある。それは東胡とうこに対しての戦いだったので、陵は快く己おのが意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌いやな表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強しいて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠こうりゃくする軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後じご、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。

単于の長子・左賢王さけんおうが妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野そやではあるが勇気のある真面目まじめな青年である。強き者への讃美さんびが、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射きしゃを教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧うまい。ことに、裸馬らばを駆る技術に至っては遙はるかに陵を凌しのいでいるので、李陵はただ射しゃだけを教えることにした。左賢王さけんおうは、熱心な弟子となった。陵の祖父李広りこうの射における入神にゅうしんの技などを語るとき、蕃族ばんぞくの青年は眸ひとみをかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅わずかの供廻ともまわりを連れただけで二人は縦横に曠野こうやを疾駆しっくしては狐きつねや狼おおかみや羚羊かもしかや鵰おおとりや雉子きじなどを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙はるかに駈抜かけぬいていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭むちうち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻しりに飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀わんとうをもって見事みごとに胴斬どうぎりにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛かみ裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕てんまくの中で今日の獲物を羹あつものの中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜すするとき、李陵は火影ほかげに顔を火照ほてらせた若い蕃王ばんおうの息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

天漢三年の秋に匈奴きょうどがまたもや雁門がんもんを犯した。これに酬むくいるとて、翌四年、漢は弐師じし将軍李広利りこうりに騎六万歩七万の大軍を授さずけて朔方さくほうを出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくにこれを援たすけしめた。ひいて因杅いんう将軍公孫敖こうそんごうは騎一万歩三万をもって雁門を、游撃ゆうげき将軍韓説かんせつは歩三万をもって五原ごげんを、それぞれ進発する。近来にない大北伐ほくばつである。単于ぜんうはこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水しょごすい(ケルレン河)北方の地に移し、自みずから十万の精騎を率いて李広利りこうり・路博徳ろはくとくの軍を水南すいなんの大草原に邀むかえ撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵りりょうに師事する若き左賢王さけんおうは、別に一隊を率いて東方に向かい因杅いんう将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説かんせつの軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣きづかっている己おのれを発見して愕然がくぜんとした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴きょうどの敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。

その左賢王に打破られた公孫敖こうそんごうが都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉かどで牢ろうに繋つながれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜ほりょが、匈奴軍の強いのは、漢から降くだった李り将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗まけたことの弁解にはならないから、もちろん、因杅いんう将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄ごくに収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西ろうせい(李陵の家は隴西の出である)の士大夫したいふら皆李家を出したことを恥としたと記されている。

この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致らちされた一漢卒かんそつの口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉むなぐらをつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛しばり、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶くもんの呻うめきを洩もらした。陵りょうの手が無意識のうちにその男の咽喉いんこうを扼やくしていたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房ちょうぼうの外へ飛出した。

めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦うずを巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼やけるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇こかつさせてしまうのであろう。

今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広りこうの最期さいごを思った。(陵の父、当戸とうこは、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹たてながら、君側の姦佞かんねいに妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位しゃくい封侯ほうこうを得て行くのに、廉潔れんけつな将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧せいひんに甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青えいせいと衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下ばっかの一軍吏ぐんりが虎とらの威いを借りて李広を辱はずかしめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自みずから首刎はねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶おぼえている。……

陵の叔父(李広の次男)李敢りかんの最後はどうか。彼は父将軍の惨みじめな死について衛青を怨うらみ、自ら大将軍の邸に赴おもむいてこれを辱はずかしめた。大将軍の甥おいにあたる嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいがそれを憤って、甘泉宮かんせんきゅうの猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿しかの角に触れて死んだと発表させたのだ。……。

司馬遷しばせんの場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒ふんぬがすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于ぜんうの首でも持って胡地こちを脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地こちにあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々うんぬん」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒りしょという者がある。元、塞外都尉さいがいといとして奚侯城けいこうじょうを守っていた男だが、これが匈奴きょうどに降くだってから常に胡軍こぐんに軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖こうそんごうの軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵りりょうは思った。同じ李り将軍で、李緒りしょとまちがえられたに違いないのである。

その晩、彼は単身、李緒の帳幕ちょうばくへと赴おもむいた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃たおれた。

翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要いらぬと単于は言う。だが母の大閼たいえん氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴きょうどの風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾さいしょうのすべてをそのまま引きついで己おのが妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有もっているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣やるから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山とうかんざん(額林達班嶺がくりんたっぱんれい)の麓ふもとに身を避けた。

まもなく問題の大閼たいえん氏が病死し、単于ぜんうの庭ていに呼戻されたとき、李陵りりょうは人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与あずからなかった彼が、自みずから進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王うこうおうに任じ、己おのが娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇ちゅうちょなく妻としたのである。ちょうど酒泉しゅせん張掖ちょうえきの辺を寇掠こうりゃくすべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山しゅんけいざんの麓ふもとを過よぎったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己おのれに従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染しみ込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

翌、太始たいし元年、且鞮侯そていこう単于ぜんうが死んで、陵と親しかった左賢王さけんおうが後を嗣ついだ。狐鹿姑ころくこ単于というのがこれである。

匈奴きょうどの右校王うこうおうたる李陵りりょうの心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅ぞくめつされた怨うらみは骨髄こつずいに徹しているものの、自みずから兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌きらいな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬しゅんめを駆って曠野こうやに飛び出す。秋天一碧しゅうてんいっぺきの下、嘎々かつかつと蹄ひづめの音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸ほとりに下り、馬に飲みずかう。それから己おのれは草の上に仰向あおむけにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落へきらくの潔きよさ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子いちりゅうしのみ、なんぞまた漢と胡ことあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨またがり、がむしゃらに駈かけ出す。終日乗り疲れ黄雲こううんが落暉らっきに曛くんずるころになってようやく彼は幕営ばくえいに戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。

司馬遷しばせんが陵りょうのために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶あいさつをしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭いやに議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘たたかうのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

初め一概に野卑やひ滑稽こっけいとしか映うつらなかった胡地こちの風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服こふくでなければ朔北さくほくの冬は凌しのげないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪たえるだけの精力を貯たくわえることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶けなし去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保たもとうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。

かつて先代の且鞮侯そていこう単于ぜんうの言った言葉を李陵りりょうは憶おぼえている。漢の人間が二言めには、己おのが国を礼儀の国といい、匈奴きょうどの行ないをもって禽獣きんじゅうに近いと看做みなすことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂いいではないか。利を好み人を嫉ねたむこと、漢人と胡人こじんといずれかはなはだしき? 色に耽ふけり財を貪むさぼること、またいずれかはなはだしき? 表うわべを剥はぎ去れば畢竟ひっきょうなんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉こつにく相あい喰はむ内乱や功臣連の排斥はいせき擠陥せいかんの跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人ぶじんたる彼は今までにも、煩瑣はんさな礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗こぞくの粗野そやな正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙はるかに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏しょかの俗を正しきもの、胡俗こぞくを卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字あざながなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。

彼の妻はすこぶる大人おとなしい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利きけない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝ひざに匍上はいあがって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安ちょうあんに残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤おもかげをふと思いうかべて李陵は我しらず憮然ぶぜんとするのであった。

陵が匈奴きょうどに降くだるよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将ちゅうろうしょう蘇武そぶが胡地こちに引留められていた。

元来蘇武は平和の使節として捕虜ほりょ交換のために遣つかわされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛ないふんに関係したために、使節団全員が囚とらえられることになってしまった。単于ぜんうは彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅おびやかしてこれを降くだらしめた。ただ蘇武一人は降服を肯がえんじないばかりか、辱はずかしめを避けようと自みずから剣を取って己おのが胸を貫いた。昏倒こんとうした蘇武に対する胡毉こいの手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎あなをつくり熅火うんかを入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈ふんで血を出させたと漢書かんじょには誌しるされている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶こんぜつしたのちにまた息を吹返した。且鞮侯そていこう単于はすっかり彼に惚ほれ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復かいふくすると、例の近臣衛律えいりつをやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈ばりに遭あい、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖あなぐらの中に幽閉ゆうへいされたとき旃毛せんもうを雪に和して喰くらいもって飢えを凌しのいだ話や、ついに北海ほっかい(バイカル湖)のほとり人なき所に徙うつされて牡羊おひつじが乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節じせつ十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵りりょうが悶々もんもんの余生を胡地こちに埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。

李陵りりょうにとって蘇武そぶは二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中じちゅうを勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵ようりょうまでその葬を送った。蘇武の妻が良人おっとのふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁かした噂うわさを聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。

しかし、はからずも自分が匈奴きょうどに降くだるようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙はるか北方に遷うつされていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己おのれの家族が戮りくせられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。

狐鹿姑ころくこ単于ぜんうが父の後あとを嗣ついでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂うわさが伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。

姑且水こじょすいを北に溯さかのぼり郅居水しっきょすいとの合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海ほっかいの碧あおい水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族ていれいぞくの案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎ごやへと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被かぶった鬚ひげぼうぼうの熊くまのような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監いちゅうきゅうかん蘇子卿そしけいの俤おもかげを見出してからも、先方がこの胡服こふくの大官を前さきの騎都尉きとい李少卿りしょうけいと認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武そぶのほうでは陵が匈奴きょうどに事つかえていることも全然聞いていなかったのである。

感動が、陵の内に在あって今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。

陵の供廻ともまわりどもの穹廬きゅうろがいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑にぎやかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎こやに運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙わたった。

己おのが胡服を纏まとうに至った事情を話すことは、さすがに辛つらかった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺さんたんたるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於靬王おけんおうが猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於靬王の死後は、凍いてついた大地から野鼠のねずみを掘出して、飢えを凌しのがなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂うわさは彼の養っていた畜群が剽盗ひょうとうどものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝かでんらしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄すてて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。

この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺さんたんたる日々をたえ忍んでいるのか? 単于ぜんうに降服を申出れば重く用いられることは請合うけあいだが、それをする蘇武そぶでないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自みずから生命を絶たないのかという意味であった。李陵りりょう自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下おろして了しまった数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累けいるいもない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄せつぼうを持して曠野こうやに飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎はねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌きざしたとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽こっけいなくらい強情な痩我慢やせがまんを思出した。単于ぜんうは栄華を餌えに極度の困窮こんきゅうの中から蘇武を釣つろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪たええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止しょうしには見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠まことに凄すさまじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人おとなげなく見えた蘇武の痩我慢やせがまんが、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴きょうどの単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自みずから顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己おのが事蹟じせきを知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵りりょうは、かつて先代単于ぜんうの首を狙ねらいながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土きょうどの地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空むなしく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武そぶを前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己おのれの過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人ぎじん、自分は売国奴ばいこくどと、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳きびしさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日ひにちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子ひょうしにひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷ぼろをまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍れんびんの色を、豪奢ごうしゃな貂裘ちょうきゅうをまとうた右校王うこうおう李陵りりょうはなによりも恐れた。

十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然しょうぜんと南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎ごやに残してきた。

李陵は単于ぜんうからの依嘱いしょくたる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武そぶの答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱はずかしめるには当たらないと思ったからである。

南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳そびえているように思われる。

李陵自身、匈奴きょうどへの降服という己おのれの行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬むくいたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。

飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人なんぴとにも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。

蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡くんかいでもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣つかわして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈じゅうせんを贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

数年後、今一度李陵は北海ほっかいのほとりの丸木小舎ごやを訪たずねた。そのとき途中で雲中うんちゅうの北方を戍まもる衛兵えいへいらに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守たいしゅ以下吏民りみんが皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪もに相違ない。李陵は武帝ぶていの崩ほうじたのを知った。北海の滸ほとりに到いたってこのことを告げたとき、蘇武そぶは南に向かって号哭ごうこくした。慟哭どうこく数日、ついに血を嘔はくに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯しんしさを疑うものではない。その純粋な烈はげしい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛うかんでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮りくせられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝ちょうから厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭つうこくを見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬たとえようもなく清洌せいれつな純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑おさえようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出わきでる最も親身な自然な愛情)が湛たたえられていることを、李陵ははじめて発見した。

李陵は己おのれと友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己おのれ自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

蘇武そぶの所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝ぶていの死と昭帝しょうていの即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵りりょうの故人とも・隴西ろうせいの任立政じんりっせいら三人であった。

その年の二月武帝が崩じて、僅わずか八歳の太子弗陵ふつりょうが位を嗣つぐや、遺詔いじょうによって侍中奉車都尉じちゅうほうしゃとい霍光かくこうが大司馬だいしば大将軍として政まつりごとを輔たすけることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀じょうかんけつもまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。

単于ぜんうの前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律えいりつがそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴きょうどの大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己おのれの刀環とうかんを撫なでて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応こたえるべきかを知らない。

公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯ばくぎとをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令たいしゃれいが降り万民は太平の仁政じんせいを楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟かくしもう・上官少叔じょうかんしょうしゅくが主上を輔たすけて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律えいりつをもって完全に胡人こじんになり切ったものと見做みなして――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚はばかった。ただ霍光かくこうと上官桀じょうかんけつとの名を挙あげて陵の心を惹ひこうとしたのである。陵は黙もくして答えない。しばらく立政りっせいを熟視してから、己おのが髪を撫なでた。その髪も椎結ついけいとてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更かえるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字あざなを呼んだ。少卿しょうけいよ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟かくしもうと上官少叔じょうかんしょうしゅくからよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴ふうきなどは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武そぶの所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易やすい。だが、また辱はずかしめを見るだけのことではないか? 如何いかん?」言葉半ばにして衛律が座に還かえってきた。二人は口を噤つぐんだ。

会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫じょうふふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧おそれたためではない。

後五年、昭帝の始元しげん六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死きゅうしすると思われた蘇武そぶが偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑じょうりんえん中で得た雁かりの足に蘇武の帛書はくしょがついていた云々うんぬんというあの有名な話は、もちろん、蘇武そぶの死を主張する単于ぜんうを説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地こちに来た常恵じょうけいという者が漢使に遭あって蘇武の生存を知らせ、この嘘うそをもって武ぶを救出すくいだすように教えたのであった。さっそく北海ほっかいの上に使いが飛び、蘇武は単于の庭ていにつれ出された。李陵りりょうの心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞しもとたるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然しゅくぜんとして懼おそれた。今でも、己おのれの過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰けんしょうされることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々めめしい己の気持が羨望せんぼうではないかと、李陵は極度に惧おそれた。

別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡こに降くだったときの己おのれの志が那辺なへんにあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮りくせられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴ぐちになってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

径万里兮度沙幕ばんりをゆきすぎさばくをわたる

為君将兮奮匈奴きみのためしょうとなってきょうどにふるう

路窮絶兮矢刃摧みちきゅうぜつししじんくだけ

士衆滅兮名已隤ししゅうほろびなすでにおつ

老母已死ろうぼすでにしす雖欲報恩将安帰おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん

歌っているうちに、声が顫ふるえ涙が頬ほおを伝わった。女々めめしいぞと自みずから叱しかりながら、どうしようもなかった。

蘇武そぶは十九年ぶりで祖国に帰って行った。

司馬遷しばせんはその後も孜々ししとして書き続けた。

この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活いきていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連ろちゅうれんの舌端ぜったんを借りてはじめて烈々れつれつと火を噴くのである。あるいは伍子胥ごししょとなって己おのが眼を抉えぐらしめ、あるいは藺相如りんしょうじょとなって秦王しんおうを叱しっし、あるいは太子丹たいしたんとなって泣いて荊軻けいかを送った。楚その屈原くつげんの憂憤うっぷんを叙して、そのまさに汨羅べきらに身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦かいさのふを長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己おのれ自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。

稿を起こしてから十四年、腐刑ふけいの禍わざわいに遭あってから八年。都では巫蠱ふこの獄が起こり戻太子れいたいしの悲劇が行なわれていたころ、父子相伝ふしそうでんのこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史つうしがひととおりでき上がった。これに増補改刪かいさん推敲すいこうを加えているうちにまた数年がたった。史記しき百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝ぶていの崩御ほうぎょに近いころであった。

列伝れつでん第七十太史公たいしこう自序の最後の筆を擱おいたとき、司馬遷は几きに凭よったまま惘然ぼうぜんとした。深い溜息ためいきが腹の底から出た。目は庭前の槐樹えんじゅの茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉せみの声に耳をすましているようにみえた。歓よろこびがあるはずなのに気の抜けた漠然ばくぜんとした寂しさ、不安のほうが先に来た。

完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷ひどい虚脱の状態が来た。憑依ひょういの去った巫者ふしゃのように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄ふけた。武帝の崩御ほうぎょも昭帝の即位もかつてのさきの太史令たいしれい司馬遷しばせんの脱殻ぬけがらにとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。

前に述べた任立政じんりっせいらが胡地こちに李陵りりょうを訪たずねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡なかった。

蘇武そぶと別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平げんぺい元年に胡地こちで死んだということのほかは。

すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑ころくこ単于ぜんうは死に、その子壺衍鞮こえんてい単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王さけんおう、右谷蠡王うろくりおうの内紛があり、閼氏えんしや衛律えいりつらと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難かたくない。

漢書かんじょの匈奴伝きょうどでんには、その後、李陵の胡地で儲もうけた子が烏籍都尉うせきといを立てて単于とし、呼韓邪こかんや単于ぜんうに対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝せんていの五鳳ごほう二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。

底本 / Source edition

底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2011年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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中島 敦「李陵」(新字新仮名)、底本『李陵・山月記・弟子・名人伝』角川文庫、角川書店、1968年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001737_000119, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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