## 一

お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。

能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>のようなものが敷き詰められてありました。

その広い室の中央と片隅とに<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>が置かれて、その周囲には椅子が置かれて、四方には明るく窓が切ってあります。

<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の上や壁の間には、いくつもの額が掲げられてありますが、どの額も、軍艦や大砲やまた見慣れない風景や建築の図案であります。それから書棚には多くの書物があります。その書物には洋式の書物が特にめだっているのみならず、書棚の隅や、本箱の上、また別に棚を作って、見慣れないさまざまの武器の実物と模型とが、無数に陳列されてあります。

さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲は模型として順序よく並べられてありました。

旧来の屋敷を、こんなに能登守が好みで建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。

その<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の近くの椅子の上へ腰をかけてよいのだか、また絨氈の上へ坐らねば失礼であるのだか、それさえお君にはわかりませんで、案内のあとに隠れてただポーッとして立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまったようです。能登守はその時、片隅の椅子に腰かけて卓子に向っていました。

<ruby><rb>黒羅紗</rb><rt>くろらしゃ</rt></ruby>の筒袖の陣羽織を着て野袴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていました。門番の足軽が言った通り、今まで調練の<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>をしていたのが、それが済んでからここへ来て、書物を開いて何か書いているのでありましょう。その書物は、やはり見慣れない文字の書物であります。それを見慣れた文字に書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>として、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。

「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」

と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>とした<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>には、懐しいものがあります。

「はい」

お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>で、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。

駒井能登守は<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>から渡った砲術の書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、

「お君どの、よく見えましたな、一人で……」

と言って能登守は、真中にある方の大きな<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の方へ進んで、

「さあ、それへお掛けなさるがよい」

「はい」

能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りました。お君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。

「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」

やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。

「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」

と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。

「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」

お君は、おどおどとして申しわけをしました。

「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」

と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>は、それとは全く<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った心でお君の胸を騒がせました。

「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、そのようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」

「ナニ、それを聞かぬ？　では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」

「はい、どのような御沙汰でございましたか……」

「それは不審」

能登守は美しい<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。

「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」

「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」

お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお<ruby><rb>請</rb><rt>う</rt></ruby>けをするとしないとに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家の旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当ったのはお銀様のことであります。あ、それではお銀様の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と、すぐにこう感づいてしまいました。

殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様の言葉、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>のような甘い香と鋭い<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>とが、ふたつながら含まれていたのも漸くわかってくると、お君は我知らずポーッと上気してまたも<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が真赤になりました。そうして、お銀様の仕打ちが憎らしくなってたまりませんでした。

「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」

お君は自分の<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>を申し開きするような態度でこう言いました。

お君が、自分の冤罪を主張するように熱心になったのを、能登守は意外に思いました。

「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」

と言いました。

「左様でございましょうか知ら」

とお君が<ruby><rb>本意</rb><rt>ほい</rt></ruby>ないように言いました。

「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」

と能登守は頼むように優しい言い方であります。

「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」

とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。

「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」

お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。

お君は、今この優しい言葉を聞き、これから始終、この殿様の傍に<ruby><rb>仕</rb><rt>つか</rt></ruby>えることができるという嬉しさに、胸がいっぱいであります。それがために胸がいっぱいで、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの身分を考える<ruby><rb>余裕</rb><rt>よゆう</rt></ruby>もありませんでした。また何のために自分がここに来たかという使命の程も忘れてしまっていました。やがてそれを考えついた時に、お君は悲しい心持がしました。悲しい心持が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てる心持でせきたてられました。それで、幸内の行方不明になったことを<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>申し上げて、お頼みをしなければならないと思いました。

お君はようやく、そのことの一切を能登守に物語りました。幸内が伯耆の安綱といわれる刀を持って出て家へ帰らないこと、それがためにお嬢様がいちばん心配していらっしゃること、幸内はこの城内のどなた様かへお目にかけるつもりでその刀を持って出たらしいこと、どうかお嬢様のために殿様のお力添えをお願い申したいということを、お君は嘆願したのであります。

能登守は黙ってそれを聞いて、何か考えているだけで返事をしません。しかし、それだけのお願いを申し上げておけば、お君のここへ来た使命は尽きたわけであります。

お君がお暇乞いをして帰ろうとする時に、能登守は立って一方の机の上から、一つの小さな箱を取って、

「まだ帰らんでもよかろう、お前に見せたいものがある」

その<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を取って、お君の前に置きました。

「まあ、これは、殿様のお姿……」

と言って立ちかけたお君は、この箱の中にあった絵姿に見入ってしまいました。これは絵姿ではありません。けれども、お君は、絵姿だと思って、

「ほんとに、お<ruby><rb>生写</rb><rt>いきうつ</rt></ruby>し……どうしてこんなに上手にかけるものでございましょう」

と我を忘れて驚嘆したのであります。

「それはかいたのではない」

と能登守は微笑しました。けれども、お君にはその意味がわかりませんでした。

「恐れながらこちらのは、殿様、こちらのお方は……」

お君の見ている絵姿には、二人の人の姿が写し出されてあるのであります。その一人はこの能登守、もう一人は<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>い婦人の<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>でありました。

「それは、お前によく似た人」

この時のお君が写真というものを知ろうはずがありません。眼に見たことはおろか、話にさえ聞いたことはありません。

「それは、お前によく似た人」と言われて、お君の胸は何ということなしに騒ぎました。念を推してお尋ねするまでもなく、これは殿様の奥方でいらっしゃるとお君は<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>りました。

お君は奥方のお像をじっと見入って、「お前によく似た」とおっしゃった殿様のお言葉が、おからかいなさるつもりのお言葉ではないと、お君は自分ながら、そう思いました。<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの容貌を買い被るのも女であるし、己れの容貌をよく知るのも女であります。

「それは写真というもので、筆や絵具でかいたのではない、機械でとって薬で焼きつけた<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>のままの<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>じゃ、日本ではまだ珍らしい」

絵姿だとばかり思って、お君があまり熱心に<ruby><rb>見恍</rb><rt>みと</rt></ruby>れているものですから、能登守が少しばかり説明を加えますと、

「これはかいたものではございませんか。まあ、機械で、どうしてこんなによくお像を写すことができるのでございましょう、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>とやらの魔法のようでございます」

「そうそう、最初はそれを切支丹の魔術と思うていた、今でもその写真をとると<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が縮まるなんぞと言うものが多い、けれどもそれは取るに足らぬ<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>かな者の言い分じゃ」

「ほんとにお珍らしいものでございます」

お君はその写真を飽かず見ておりました。自分は今お暇乞いをして立とうとしていることも忘れて、写真から眼をはなすことができません。

「それをお前が欲しいならば、お前に上げてもよい」

能登守からこう言われた時に、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を上げたお君の眼は狂喜にかがやいて見えました。

こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて<ruby><rb>帛紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>に包み、<ruby><rb>後生大事</rb><rt>ごしょうだいじ</rt></ruby>に袖に抱えてこのお邸を立ち出でました。

それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるような<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>きが幾度か<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>をします。その戦きはお君にとって怖ろしいものでなく、<ruby><rb>心魂</rb><rt>しんこん</rt></ruby>を<ruby><rb>恍</rb><rt>とろ</rt></ruby>かすほどに甘いものでありました。

「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」

お君は身を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>って、そこから<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの心の乱れて行くことを、更に気がつきません。

ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がお<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の外で待ち<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れておいでなさるだろうということも、この時は思い出す余裕がありませんでした。さいぜん親切に案内された門番へさえも、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も挨拶をしないで門を通り抜けようとして、門番から言葉をかけられてようやく気がついて、あわててお礼を言ったくらいでありました。

橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。

「お嬢様は……」

と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。

その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時を<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>したことを考えました。待たせる自分は嬉しさに包まれて時の移るのを知らなかったけれど、待たせられたお嬢様にとっては、ずいぶん長い時間であったろうと気がつきました。

## 二

これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。

役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みました。市五郎はなにげなくそれを<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして行ってしまったが、お銀様がそれを忘れてやや久しいのに、お君はまだ御門から出て来る模様がありません。

お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。

そうすると、問屋場の方から五六人かたまって<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>きながらこっちへ来る者があります。それは例の<ruby><rb>折助連</rb><rt>おりすけれん</rt></ruby>であります。

自分で無理にすすめて<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の中へやっておきながら、お銀様は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れて焦れてたまらなくなっていました。自分を平気でこんなに待たせておくお君を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うような心持になって、城の方ばかり睨んでいましたから、この五六人の折助連が<ruby><rb>私語</rb><rt>ささや</rt></ruby>きながらこっちへ近づいて来ることも気がつきません。

そうしていると、折助の一人が、ふらふらと歩いて来て、お銀様に突き当るようにしてすれ違って、

「危ねえ、危ねえ」

と言いましたから、お銀様も気がつくとその折助は酔っていて、足許も定まらないようであります。お銀様は驚いてそれを<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けました。それを避けるとその次に、また一人の折助が通りかかって、同じようにお銀様に突き当ろうとしました。お銀様は、また驚いてそれを避けると、第三番目の折助が、とうとうお銀様にぶっつかってしまいました。お銀様は危なく足を踏み締めますと、

「やい、気をつけやがれ」

とその折助が言いました。わざとする乱暴さに、お銀様は口惜しがって折助どもを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めて立っていました。お銀様の眼つきは、ことさらに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めないでも、いつも怒気を含んでいるように見えるのであります。

「へへへへへ、これはこれは」

と言って折助は急に、ふざけた<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>を使って、頭巾で隠してあるお銀様の顔をワザと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むようにして、

「お女中のお方でいらっしゃる、それとは知らず飛んだ御無礼」

なんぞと言って、またまたワザとらしい声色と身ぶりでお辞儀をしました。

お銀様は、それを見ないでぷいと向き直って歩き出すと、

「<ruby><rb>兄弟</rb><rt>きょうでえ</rt></ruby>、どうしたんだい」

と言ってほかの折助が寄って来ました。

「いや、このお女中に飛んだ失礼をしてしまったんだ、ツイ足がよろめいたために、このお女中に突き当ってしまったから、今、<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>っているところなんだ、兄弟、なんとかとりなしてくんねえ」

と、前の折助がこんなことを言いました。

「そいつは悪いことをした。まあ、どちらのお女中さんか知らねえが、この野郎は、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>から<ruby><rb>軽佻</rb><rt>かるはずみ</rt></ruby>な野郎でございますから、ナニ、別に悪い心があってするわけじゃございません、どうぞ御勘弁してやっておくんなさいまし」

ほかの折助が、これもまたワザとらしい身ぶりと声色で、<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をしながら、お銀様の方へとかたまって来るのであります。

お銀様は腹を立てました。無礼にも無作法にも限りのないやつらだと、口惜しくてたまりませんでした。それだから黙って彼等を振り払って行こうとすると、その前へ廻り、

「どうか、御勘弁をなすっておくんなさいまし」

それを振り払って、また進んで行くと、

「野郎が、あんなに<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>るんだから、どうか御勘弁をして上げておくんなさいまし」

お銀様は心の弱い女ではありません。どちらかと言えば気丈な女であります。それだからこれらの無作法な折助に一言も口を利くことをいやがりました。それを振り払って避けようとしました。

折助どもはそれを前後から取捲くようにして追いかけるのは、どうも何か計画あってすることとしか思われません。

「これほど<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>っても、何ともお許しが出ねえのは、よくよく見倒された野郎だ」

と折助の一人が言いました。

「ナーニ、お女中さんが<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>がよくっていらっしゃるから、それで気取っておいでなさるのよ、下郎どもとは口を利くも<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>れと思っておいでなさるんだ」

と、また一人の折助が言いました。

「違えねえ、折助なんぞはお歯に合わねえという思召しなんだから、それでお言葉も下し置かれねえのだろう。ああ、情けなくなっちまわあ、<ruby><rb>孫子</rb><rt>まごこ</rt></ruby>の代まで折助なんぞをさせるもんじゃねえ」

と言って、また<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り寄ってお銀様の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を覗き込むようにしました。お銀様がついと横を向くと、乗り出してわざとまた覗き込んで、

「はははは」

一度に笑いました。お銀様は<ruby><rb>歯咬</rb><rt>はがみ</rt></ruby>をして彼等を押し退けて避けようとすると、折助たちは、ゾロゾロと後をついて来るのであります。お銀様は、ついに立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまうよりほかはなくなりました。

そうすると、折助もまたその周囲に立ちはだかりました。

「お前たちは女と<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>って、このわたしに無礼なことをする気か」

お銀様はこらえきれなくなったから、声を<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わして折助どもを<ruby><rb>詰責</rb><rt>きっせき</rt></ruby>しました。お銀様でなかったら、ぜひはさて<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、一応この折助どもに<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>ってみるべき儀でありましたけれど、お銀様は口惜しさに堪えられないで、わが家の雇人を叱るような態度で<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>にかかりました。

「どう致しまして、無礼をするなんぞと、そんなことがございますものですか、お女中がお一人では途中が案じられますから、こうしてお送り申し上げようと言うんでございます」

折助はこう言いました。

「わたしは、ほかに連れの者がある、それを待っているの故、お前方のお世話は<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ」

お銀様は、やはり叱るような言いぶりであります。折助どもは、お銀様が何か言い出すのを待っていたと言わぬばかりでしたから、

「そんなことをおっしゃらなくたっていいじゃあございませんか」

「無礼なことをすると許しませぬ」

お銀様は懐中へ手を入れました。その時に一人の折助が、横の方からお銀様の被っていた頭巾を引張りました。眼ばかり見えていたお銀様の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の口もとから額へかけて、斜めにその呪われた怖ろしい面が見えました。

「はははは」

と折助どもは声高く笑いました。歯をキリキリと噛み鳴らしたお銀様は、キラリ光るものを手に持っていました。

「やあ、危ねえ、刃物を持っている」

前後から五六人の折助が寄ってたかって、お銀様の持っていた懐剣を奪い取ろうとして、怪我をしたものもありました。

「面倒くさいから<ruby><rb>引担</rb><rt>ひっかつ</rt></ruby>いでしまえ」

彼等は寄ってたかって無礼な振舞に及ぼうとする時に、<ruby><rb>妙詮寺</rb><rt>みょうせんじ</rt></ruby>の角から<ruby><rb>突然</rb><rt>いきなり</rt></ruby>飛び出して来た強そうな男。

「この野郎ども、飛んでもねえことをしやがる」

折助どもをポカポカと殴り飛ばして、その一人を濠の中へ蹴込みました。

「やあ、役割！」

と言って、折助はたあいもなく逃げてしまいました。この場へ来合せた強そうな男は、役割の市五郎であります。

「お嬢様、もう御安心なさいまし、ほんとにあいつらあ、悪い奴だ、お嬢様とも知らずに<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもねえことをしやがる」

市五郎がこんなことを言って慰めているところは市五郎の宅であります。

「市五郎どのとやら、お前が来てくれなければ、わたしはドノような目に会ったことやら。よいところへお前が来てくれたから、それで悪者がみんな逃げてしまいました」

お銀様は泣いていました。

「ナニ、たかの知れた折助どもでございますが、<ruby><rb>打捨</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>っておくと癖になりますから、少々大人げねえと思いましたけれど、二つ三つ<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>わしてやりました。御心配なさいますな、これからお屋敷まで送らせて差上げますから」

「市五郎どのとやら、わたしには連れの者があってそれを待っていたところ、その連れの者に沙汰をして貰いたい」

「左様でございますか、そのお連れの方とおっしゃるのはどちらへおいでになりました」

「御城内まで参りました、もう帰って来て、あのお<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の傍で、わたしを探していることと思います、早う、そこへ人をやって、わたしがここにいることを知らせて下さい」

「へえ、よろしうございますとも。そうしてそのお連れの方のお名前は何とおっしゃいますな」

「それは君といって、年もわたしと同じ位、わたしと同じこのような衣裳を着ておりますわいな」

「なるほど、お君さんとおっしゃるのでございますな、へえ、よろしうございます、今、人をやってお迎え申して差上げますから、御安心なさいまし」

「この甲府にも、わたしの親戚はあるけれど、誰にも言わないように頼みます、わたしが悪い者に出会って、あんな<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>をしかけられたと、それを世間に知られては外聞になるから、<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>に頼みます」

「へえ、もうその辺は心得たものでござりまする、人様の外聞になるようなことを、頼まれたって触れて歩くような、そんな<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>な野郎でもございませんから御心配なさいますな。まあ、なんにしてもお怪我がなくてようございました」

「あの、早く連れの者に沙汰をして」

「へえ、よろしうございます、いま使に出した野郎が、もう帰って来ますから、帰って来たらすぐに飛ばせてやりますでございます、お乗物なんぞは、ここで一声<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>れば御用が足りるんです。<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>でもいるとお<ruby><rb>髪</rb><rt>ぐし</rt></ruby>やお召物のお世話をして上げるんでございますけれども、まあそのうちに嬶も帰って参りますから」

「髪や着物などはかまいませぬ、あのお君が帰って来さえすれば、直ぐにお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をして屋敷へ帰りたい、早くあの子へ沙汰をして」

「へえへえ。どうも困ったな、いつも二人や三人はゴロゴロしているくせに、今日に限って嬶までが出払ってしまうなんて。と言って俺が出向いて行けば家は<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になるし……野郎どもも<ruby><rb>大概</rb><rt>てえげえ</rt></ruby>察しがありそうなものだ、ぐずぐずしていると日が暮れちまうじゃねえか、日が暮れちまった日にゃあ、お嬢様をここへお泊め申さなけりゃならなくなるんだ。そんなことにでもなってみろ、お屋敷でどんなに心配なさるか知れたもんじゃねえ」

市五郎は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れ気味で<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言っているに<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず、自分は長火鉢の前へ<ruby><rb>御輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>を据えて、悠々と<ruby><rb>脂下</rb><rt>やにさが</rt></ruby>っていました。

## 三

宇治山田の米友は、この時分に八幡宮の境内を出て来ました。米友は油を買うべく、町へ向って出かけたのであります。

町へ出る時にも、やっぱり米友は<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>白丁</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>を着ておりました。それから例の杖に油壺をくくりつけて肩に<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでおりました。今夜もまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>の来襲に備うべく、<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の番をする必要があればこそ、油を買いに行くのであります。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>というのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。<ruby><rb>素敵</rb><rt>すてき</rt></ruby>もない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して<ruby><rb>相模灘</rb><rt>さがみなだ</rt></ruby>を埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>という字には何を<ruby><rb>当箝</rb><rt>あては</rt></ruby>めたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>が八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>だが、八幡様も八幡様だ」

米友はブツブツ言いました。実際、米友の粗雑な頭でさえも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でえだらぼっち</span>の実在を信じきれないのであります。わざわざ眠い眼を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>って、実際有るか無いかわからないものの来襲に備えているということは、かなりばかばかしいものだと思わないではありませんでした。

しかし、米友はいま<ruby><rb>宮仕</rb><rt>みやづか</rt></ruby>えの身であります。ばかばかしいからと言ってそれを主張した日には、また追い出されてしばらくは路頭に迷わねばならないと思って、これまでずいぶん追い出されつけていただけに、多少身にこたえがあるから、ばかばかしいはばかばかしいなりに辛抱して、その油買いにも行き、油差しもしようというものであります。

「油買いに茶買いに、油屋の縁で<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>んで、油一升こぼした」

と町の子供が、米友が油を買いに出たところを見て<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>しました。

米友は、それに取合わないで澄まして歩きました。子供らにとっても大人にとっても、米友が油買いに行く形はおかしいものでありましたろう。

八幡の社を出て米友は三の堀を、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の中へと行きました。廓を抜けて町の方へ行こうとして、<ruby><rb>竪町</rb><rt>たてまち</rt></ruby>の正念寺の角を曲って二の堀の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>を歩いて行くうちに、米友は、

「あっ」

と言って立ち止まりました。

そうして猿のような眼を円くして、しきりに御門の橋のあたりを見つめていました。

「あっ、ありゃ」

と言って<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りました。吃った時分には、いま米友が見かけた人影は、<ruby><rb>御米蔵</rb><rt>おこめぐら</rt></ruby>の蔭へ隠れてしまいました。その人影の隠れた御米蔵をめざして、米友は<ruby><rb>一目散</rb><rt>いちもくさん</rt></ruby>に駆けて行きました。

その挙動は、かなり<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そそ</rt></ruby>っかしいものであります。ついには油壺が邪魔になるので、その油壺を振り落して堀際を駆けました。米友の身にとっては油壺も大切ですけれどもその油壺を抛り出してさえ、なお追い求めようとするものがあったと見なければならぬ。ほかでもない、米友は今ここで<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>らずもお君の姿を認めたからであります。

米友がその不自由な足を引きずってわざわざ甲州まで来たのは、<ruby><rb>一</rb><rt>いつ</rt></ruby>にお君を求めんがためでありました。米友にとってお君は<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいつ</rt></ruby>の<ruby><rb>幼</rb><rt>おさ</rt></ruby>な<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>であり、お君にとっても米友は唯一の幼な馴染でありました。米友は、今しばらく旅費に窮したから八幡宮に雇われましたけれど、いくらか給金が<ruby><rb>貯</rb><rt>たま</rt></ruby>ればそれを持って、お君を探しに行くつもりなのであります。

それだから、いま認めたそれがお君であったとすれば、もう油壺などは問題にならないはずであります。

息を切って米友が馳せつけたのは、例の役割市五郎の宅の裏手。

「こんにちは」

米友は、せいせい言って、そこに庭を掃いていた折助に挨拶しました。

「何だ」

折助は米友を見て<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしました。

「少しお聞き申してえことがあるんだ」

米友は<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を飲んで咽喉を<ruby><rb>湿</rb><rt>うる</rt></ruby>おしました。

「何だ何だ」

折助は米友が、あんまり一生懸命に見えるから<ruby><rb>笑止</rb><rt>しょうし</rt></ruby>がって箒を持った手を休めました。

「今、ここへ娘が一人、入ったろう、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>につれられて娘が一人入ったろう」

「ふん、それがどうしたい」

「それを聞きてえんだ、あの娘はありゃ、この家に奉公している娘かい、それともまたよそからお客に来た娘なのかい」

「それをお前が聞いてどうするんだ」

折助は突き放すように答えました。

「それを聞かなくちゃならねえことがあるんだ、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だから教えてくれ」

米友は突き放されじと<ruby><rb>焦</rb><rt>せ</rt></ruby>き込みました。焦き込めば焦き込むほど、米友の調子が変になりますから、折助などが嘲弄するには、よい材料であります。

「ははは、ずいぶん教えてやらねえもんでもねえがの、いったいお前はどこの何者で、あの娘っ子とは、どんな筋合いがあるんだ、それから聞かしてもらった上でなけりゃあ骨が折れめえじゃねえか」

「うむ、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らはいま八幡様に奉公しているんだ。名前か、名前は米と言ってもよし、友と言ってもかまわねえんだ。今たしかにこの家の中へ入った娘は、ありゃ、国にいた俺らの幼な馴染とよく似ているんだ、よく似ているじゃねえ、あの子に違えねえのだから会いてえのよ、向うでもまた、そう言えばキット俺らに会いたがる」

「おやおや、こりゃあお安くねえわけだ」

と言って折助は、またおかしな<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして、米友の面をジロジロと見ました。

この問答が事ありげなので、そこへ屋敷の中から二三人の折助がまた面を出しました。

「どうしたのだ」

「ははは、この大将が、はるばる<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>から女を追っかけて来たんだ、そうして後生だから一目会わせてくれという頼みよ。会わせてやらねえのも罪のようだし、そうかと言って、会わせて間違えでも出来た日には、取返しがつかねえし、どうしたものかと、挨拶に困っているところだ」

「なるほど」

彼等は充分の侮辱を以て、米友の面をしげしげとのぞいて、

「は、は、は」

と<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>いしました。米友は<ruby><rb>勃然</rb><rt>むっ</rt></ruby>として、

「何だ、何がおかしいんだ」

手に持っていた杖を取り直しました。

「まあ、兄さんや、そんなことを言わねえで帰りな。そりゃ、お前の眼で見ると、どの女もこの女も、みんなその国許にいた馴染の女とやらに見えるんだろうけれど、今ここを通った女はありゃ、ちっとお前には縁が遠いんだ。悪いことを言わねえから、ほかへ行って、もう少しウツリのいいのを探してみな」

お君のことを言い出すと、米友は必ず侮辱されてしまいます。前に両国の<ruby><rb>軽業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>の<ruby><rb>小舎</rb><rt>こや</rt></ruby>へ訪ねて行った時も、美人連のために手ヒドク嘲弄されました。

短気の米友が、ここで折助連と衝突を起さなかったのは不思議であります。しかし、米友もこのごろでは、短気がいつでも自分に好い結果を来さないことを少しは<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>ったのか、争っても到底、折助が自分の言うことを相手にしないのを見て取ったのか、口が<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>って利けないほどに憤慨しながら、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>としてそこを引上げたのであります。

引上げるには引上げたけれども、確かに米友はお君を見たのです。お君が堀端をあちらこちら歩いている時に、一人の男が来てお君に何か言って、お君を連れて行くのを見かけたから、それで油壺を抛り出して追いかけて、この家へ連れ込まれたのを、確かに見たのでありますから、その場は立ち去ったけれども、到底この屋敷から眼と心とを離すわけにはゆきますまい。

しばらくその屋敷の周囲を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>うていた米友は、物蔭へ入って<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>と白丁とを脱いでクルクルと丸めて<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れました。それからこの屋敷の前にあった縄のれんの一ぜん飯屋の前を二三度<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>しましたが、思いきってその中へ入って空樽へ腰をかけてしまいました。米友はここで一ぜん飯を食いはじめました。一ぜん飯を食いながらも、役割の屋敷からちっとも眼をはなすことではありません。けれどもいったん入ったお君の姿は、この家のどちらからも外へ出た模様はありません。一ぜん飯を食い終った米友は、なお暫らく腰をかけて、縄のれん越しに市五郎の宅ばかりを見ていました。そのうちに日が暮れかかって、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>が薄暗くなりました。飯屋の親方は掛行燈に火を入れました。

米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、

「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」

と急に考えて飛び上りました。

けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>をグルグルと廻っていました。

ちょうど、<ruby><rb>黄昏時</rb><rt>たそがれどき</rt></ruby>であることが、米友にとっては仕合せでありました。塀のまわりや壁の下に身を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りつけて、中の様子を伺っていると、<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の折助が、遠慮のない馬鹿話をしたり高笑いをしたりするのがよく聞えましたけれど、女の声としては更に聞えることがありません。

米友はついに<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>え兼ねて、その杖を塀のところに立てかけて、それに足をかけて飛び上りました。天性の敏捷な米友は<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>と塀を乗り越えてしまいました。塀を乗り越えるとその杖を上から引き上げて、屋敷の中の井戸端からソット忍びました。

ここは、折助どもの集まっている、いわゆる大部屋であります。昼のうちはそんなでもなかったのが、いつ集まったか、盛んな<ruby><rb>人集</rb><rt>ひとだか</rt></ruby>りで、一方の隅にかたまって<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>に夢中なのもありました。真中どころにごろごろして竹の皮包みの<ruby><rb>餡</rb><rt>あん</rt></ruby>ころかなにかを頬張りながら、<ruby><rb>下卑</rb><rt>げび</rt></ruby>た話をしてゲラゲラ笑っているのもあります。

博奕の方ではスポンスポンと烈しい音がしていました。今まで着ていた<ruby><rb>唐桟</rb><rt>とうざん</rt></ruby>の着物を脱いで抛り出すのもあり、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の帯を解いて投げ出すのもありました。

こちらで寝転んで、餡ころを頬張りながらゲラゲラ笑って下卑た話をしているのが、米友の耳によく入ります。米友は戸の<ruby><rb>節穴</rb><rt>ふしあな</rt></ruby>からそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていると、<ruby><rb>蜜柑箱</rb><rt>みかんばこ</rt></ruby>を枕にした折助が、

「はくしょッ」

と咳をしました。

「<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いちまった、飛んでもねえところで泳ぎをさせられちまったから、風邪を引いちゃった」

と言いました。

「は、は、は」

と一人の折助が高笑いをすると、

「あっぷ、あっぷ」

と、もう一人の折助が水に溺れるような形をしました。

「笑いごとじゃあねえ、全く命がけの狂言よ、二朱じゃやすい」

と風邪を引いた折助は、さのみ浮き立ちません。

「全く笑いごとじゃあねえ、親方にいいところを買って出られて、こっちはまるっきり<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>からねえ役廻りだが、そのなかでも、兄いが儲からねえ方の<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>だ」

「そりゃそうよ、手前たちは、痛くねえように二つばかり<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたんで事が済んだけれど、俺らときた日にゃあ御丁寧に、お濠の中で涼ませられたんだ」

「仕方がねえ、頼まれりゃ水火の中へも飛び込むということがある」

「そこが男だ」

「ふざけるない。そうして骨を折っておけば、骨を折っただけのものはあるだろうと思っていたら、何のことだ、手前たちと同じように二朱の頭だ。結局、看板をだいなしにしたのと、寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」

「ははははは」

折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。

「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>だってマンザラではねえし、どうも役割の気が知れねえ」

「そりゃお前、なんだな、あれはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">トリ</span>というものさ。あれをああしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">トリ</span>にしておけば、それ<ruby><rb>案</rb><rt>あん</rt></ruby>の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>、あとから<ruby><rb>音色</rb><rt>ねいろ</rt></ruby>のいいのがひっかかって来ようというものじゃねえか。けれどもこりゃ、役割が色に転んだ狂言じゃあねえ、慾にかかった仕事だよ」

「なるほど」

米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。

米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。

米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>っていました。誰かに見つかればまさしく泥棒の仕業であります。しかしもう心のいっぱいに張りきっている米友は、更に<ruby><rb>疑惧</rb><rt>ぎぐ</rt></ruby>するところがありません。戸でもあいていたなら、そこから家の中へ入ってしまったでしょう。けれど、戸はよく締めてあり、節穴もないことはないし、壁の隙間もあるにはあったけれど、中は障子が立てきってあったり、真暗であったりして、どうも思うように家の中を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うことができません。

もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ<ruby><rb>密着</rb><rt>くっつ</rt></ruby>けたりなどしましたけれども、それらしい声も聞えません。米友はこうして家の周囲を一通り廻ってしまいました。

今度は縁の下へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ってみようと思いました。<ruby><rb>短躯</rb><rt>たんく</rt></ruby>にして俊敏な米友は、縁の下を潜るのにことに適当しております。

米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。

「へえ、お迎えのお<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>でございます」

縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞き<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めて耳を引立てたが、急に縁の下へ潜ることを見合せて、その声のした方へ出かけました。米友は立木の蔭から、今この家の表へ来た駕籠と<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごかき</rt></ruby>とをじっと見ていました。駕籠が二挺釣らせてありました。人足は提灯を持ったり、<ruby><rb>息杖</rb><rt>いきづえ</rt></ruby>をかかえたり、煙草を喫んだりして、居たり立ったりしていました。これらの連中がそこへ暫く待っていると、家の中から、

「御苦労、御苦労」

と言って出て来たのは役割の市五郎であります。米友はこの男を知らないけれども、多分、これがここの親方だろうと思いました。

「親方、今晩は」

と言って、駕籠舁どもは頭を下げました。

「さあ、お嬢様、これにお召しなさいまし、お女中さんはこちらのにお召しなさいまし」

市五郎が、あとを顧みてこう言ったから、米友は、

「ちぇッ、提灯の火が暗えなあ」

米友は腹の中で<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>をにやしました。米友が身体を固くして、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑んで、その上に業をにやして待っているのは、今、市五郎がお嬢様と呼び、お女中さんと呼んだその人の<ruby><rb>影</rb><rt>すがた</rt></ruby>をよく見たいからであります。まもなくそこへ現われたのは――一層口惜しいことに<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っています。頭巾を被って<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の全部はほとんど見えないから、米友が<ruby><rb>身悶</rb><rt>みもだ</rt></ruby>えしているうちに、その頭巾を被った若い娘は前の方の駕籠へ、市五郎が手を取って乗せて<ruby><rb>垂</rb><rt>たれ</rt></ruby>を下ろしてしまいました。

「ちぇッ」

米友は口惜しがって<ruby><rb>地団太</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>を踏みましたが、続いて同じような<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、同じ年頃の娘が、これも同じように頭巾で面を包んで出て来たのを見ると、

「おや」

米友は実にカッとしてしまいました。

「おっと待ってくれ」

こう言って<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中から飛び出してしまったのは、米友としてはぜひもないことであります。

「何、何だと」

はしなく米友がその場へ飛び出したことによって、その場は大混乱を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起しました。

その混乱を聞きつけて折助どもが飛び出して来ました。折助どもが米友を支えている間に、市五郎は、差図してズンズン駕籠を進ませてしまいました。

ほどなく米友の姿は市五郎の家の屋根の上に現われました。彼は杖を持って、いつのまにかその俊敏な身を屋根の上へと<ruby><rb>刎上</rb><rt>はねあ</rt></ruby>げてしまったものと見えます。

米友の姿が屋根の上に現われた時に、下では折助どもが<ruby><rb>喧々囂々</rb><rt>けんけんごうごう</rt></ruby>として<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎ罵りました。<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を持って来いと怒鳴りました。俺は頭を三ツ四ツ続けざまに、あの棒で殴られたと言って<ruby><rb>歯咬</rb><rt>はが</rt></ruby>みをしているものもありました。眼と鼻の間を一撃の下に打ち倒されて、鼻血を出して頭の上げられない者もありました。<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>をしていたのも、無駄話をしていたのも、みんな馳せ集まって来ました。

下では、こうして折助が芋を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>むようにして噪いでいるのを、米友は見下ろしてハッハッと息を吐きました。

「ちぇッ、口惜しいなア、こいつらに邪魔をされて、あの駕籠を<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おっか</rt></ruby>けることができねえのが口惜しいなア」

屋根の上で足を踏み鳴らしつつ口惜しがりました。

<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しても、夜は真暗であります。真暗い中に甲府の城が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えています。二の<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>は右手の方に続いています。前も左もいずれも武家屋敷であります。

屋根へ上った米友は、いつぞや古市の町で宇津木兵馬に追い詰められた時のように、屋根から屋根を泳ぐつもりでありました。

米友は<ruby><rb>小躍</rb><rt>こおど</rt></ruby>りして屋根の瓦の上を走りました。

「ソレ、そっちへ行った」

折助が<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎました。

「ヤレ、こっちへ来た」

<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>が飛び廻りました。ヒューと石が飛んで来ました。

「危ねえ！」

お手の物で米友は、その石を<ruby><rb>発止</rb><rt>はっし</rt></ruby>と受け止めました。

「竹竿で足を<ruby><rb>打払</rb><rt>ぶっぱら</rt></ruby>え」

折助は<ruby><rb>物干竿</rb><rt>ものほしざお</rt></ruby>を幾本も担ぎ出しました。<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>になった米友は、その危ない屋根の上をなんの苦もなく走ります。市五郎の宅から大部屋の屋根の上を<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>の走るように走って、武家屋敷の屋根へ飛び移りました。

折助は、いよいよ<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎました。梯子と竹竿とが盛んに担ぎ出されます。今や噪ぐのは折助ばかりでなく、武家屋敷の者共が、みんな家々から飛び出して噪ぎました。担ぎ出されたのは梯子と竹竿ばかりでなく、<ruby><rb>水弾</rb><rt>みずはじ</rt></ruby>きや、槍、<ruby><rb>長刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>まで担ぎ出されるという有様です。米友はよく屋根の上を走りました。或る時はこれ見よがしに直立して走りました。或る時はそっと身を沈めて走りました。

「ばかにしてやがら、手前たちをこっちは相手にしねえんだぞ、相手にするほどのやつらでねえからそれで相手にしねえんだぞ、俺らが逃げりゃあいい気になって<ruby><rb>追蒐</rb><rt>おっか</rt></ruby>けて来る手前たちの馬鹿さ加減の底が知れねえや」

こう言って米友が立ち止まって息を切った。屋根の上から下を見ると、<ruby><rb>家並</rb><rt>やなみ</rt></ruby>はそこで尽きて足許は二の廓の堀の水。屋根から垣へ足をかけた米友の姿は、これもどこかの闇へ消えてしまいました。

## 四

何事か起るべく思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。

市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に駕籠に付添うて有野村へ入ってしまいました。

有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。

お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家は<ruby><rb>鼎</rb><rt>かなえ</rt></ruby>の沸くような騒ぎであります。前に幸内の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が今以て知れないところへ、今またお銀様とお君との行方が知れなくなったということは、伊太夫はじめ、この<ruby><rb>大尽</rb><rt>だいじん</rt></ruby>の家の一家と出入りの者を驚かせずにはおきません。

お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>言い置いて出ようと言ったのを、お銀様が<ruby><rb>無下</rb><rt>むげ</rt></ruby>に<ruby><rb>斥</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けてしまいました。それだから屋敷では誰あって、二人がいつごろ、どこへ行ったかを知るものはありません。召使の女のうちに、お銀様とお君さんとがお<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>の着物を着て紫の頭巾を被って、裏の林の中を脱けておいでなすったのを見たというものがあったというぐらいのものであります。

なかにはお君がお銀様を<ruby><rb>嗾</rb><rt>そそのか</rt></ruby>して、一緒に<ruby><rb>駈落</rb><rt>かけおち</rt></ruby>をしたのではないかと言っているものもありました。君ちゃんはそんな子ではない、お嬢様があの通りの気むずかし屋だから、無理にお君さんを引きつれてお出かけになったのだと弁護するものもありました。

人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお<ruby><rb>御籤</rb><rt>みくじ</rt></ruby>を取ったということもわかりました。それまではわかったけれども、それから後が更にわかりません。ところがその八幡様でもまた一つの騒ぎがありました。それは<ruby><rb>油注</rb><rt>あぶらつ</rt></ruby>ぎの男が、油買いに出たまま帰って来ないということであります。

それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。

そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から<ruby><rb>後光</rb><rt>ごこう</rt></ruby>がさすように見えてしまいました。

下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。

市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。<ruby><rb>馬大尽</rb><rt>うまだいじん</rt></ruby>の一家一門の人が、さまざまに<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてな</rt></ruby>すのを<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って辞退して帰ることにしました。ぜひに一泊をすすめるのを断わって帰る時分には、市五郎の駕籠が提灯で隠れるほどに見送りがついて参りました。

その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>の立ったほどにお礼を述べに来ました。

市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。

市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの<ruby><rb>内談</rb><rt>ないだん</rt></ruby>を持ち込みました。内々で伊太夫が何というか、それを聞いてみたいような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>であります。

それは意外にも縁談のことであります。

「お嬢様もお年頃でございますから」

と言い出した時に、さすがに伊太夫は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしました。

その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて一通り話してしまうと、伊太夫の苦い面が少しく<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>けかかってきました。

「お組頭で神尾主膳殿……」

と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色が<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>いだのを見て、市五郎はその目をそらさぬように、

「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間が<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けておいでなさいます、物の<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>いも<ruby><rb>甘</rb><rt>あま</rt></ruby>いもよくわかっておいでなさるお方でございます、もう御当家のこともお嬢様のことも<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>御承知の上で……」

と言って<ruby><rb>媒人口</rb><rt>なこうどぐち</rt></ruby>らしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づけようという取持ちであることに疑いもない――人もあろうに神尾主膳へ、そして女もあろうにお銀様を――市五郎の内心は計りがたないものであります。しかしながら市五郎の口前は極めて上手であります。神尾主膳の人柄を、伊太夫の心へ最もよくうつるように言葉を尽して、蔭と<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>から説きかけました。そうして苦労人の神尾様は決して<ruby><rb>御縹緻好</rb><rt>ごきりょうごの</rt></ruby>みをなさるようなお方でなく、お嬢様があんな不仕合せでおいでになっても、それがために愛情を落すようなお方でないということ、かえってお嬢様のお身の上を蔭ながら同情をしているというようなことを言葉巧みに説きました。その上に当地の有力者であるこの藤原家と縁を結ぶことが、神尾のためには有力なる後援であり、お嬢様のために生涯の幸福であり、且つまた若い神尾主膳はやがて甲府詰から出世をなさる人に疑いのないことなども話しかけました。市五郎のこのごろの信用の上に、その口前によって伊太夫の心がだんだん動いて来るのが眼に見えるようであります。

市五郎がこの縁談のことを話して辞して帰った後で、伊太夫は一人でやはり腕を組んで考えていました。もとは何千石のお旗本、今は甲府勤番の組頭、それにあの娘が貰われて行くことは、家にとって釣合わぬことではないと思いました。しかしながら、あの娘――と思い出すと、さすがの伊太夫も自分ながら気落ちがしてなりません。お旗本どころではない、どんな人でもあの娘を貰って、生涯の面倒を見てくれる人があるなら大恩人だと、日頃から思わせられないことではありません。娘もよくそれを呑込んで、つまらぬ男に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>くよりは、いっそ独身で通す覚悟をきめているのを見て、親としての伊太夫が、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>に思わぬということもありません。

伊太夫は、なお暫く考えた後に女を呼んで、

「お銀にここへ来るように」

と言って、

「あれが何と言うか、あれのことだからウンとは言うまい、たとえ少しは気があっても、はいと返事をするような女ではないけれども、もし承知したら……あれが承知をしたら、わしの方にも異存はないのだが、しかし、それがほんとうに当人のために仕合せかなあ。あれはああしておいた方が仕合せであるかも知れない。まあまあ<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>を聞いてみての上で」

伊太夫はこんな<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言って考えながら、お銀様の来るのを待っていました。

父の許へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。

お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。

<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>にも縁談のことは若い人の<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>らせねばならぬものであります。けれどもお銀様にあっては必ずしもそうでありません。お銀様がだまって父の許から<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が部屋へ帰ったのは、そのことの恥かしさから返事ができないで帰ったのではありません。

いつも怒気を含んだようなお銀様の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が、一層の怒気で曇って見えました。父のものやわらかな話半ばで、ついと立って挨拶もなくて立ちかえったその畳ざわりは荒いものでありました。父の伊太夫は、

「ははあ、また<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじ</rt></ruby>った」

というような面をして、立って行く娘の後ろ姿を<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく見送っているばかりであります。

お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリと<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れてゆくのが目に見えるのであります。それだからお銀様の前で縁談を言うものはありません。お君も近ごろ来て、その呼吸をよく呑込んでおりました。父の伊太夫ももとよりそのことを知っていたけれども、市五郎の口前を信ずるの余りに、つい口に出してしまって、また娘の御機嫌を損ねたことに気がついて、気まずい思いをして<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく見送るばかりでありました。

お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまで<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>むのでありました。自分に縁談を申し込んで来るような男は、男のなかのいちばん意気地なしで恥知らずで、あるものは慾ばかりで人格も趣味もあったものではない、男のなかの<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>だと、口に出してまでそう言うことがありましたくらいであります。

今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。

お銀様は<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い面をして自分の部屋へ帰って来て、

「お君、お君、お君や」

続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。

お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな<ruby><rb>寒椿</rb><rt>かんつばき</rt></ruby>が一輪、留守居顔にさされてあるばかりです。

「どこへ行ったのだえ」

お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。

「まあ、これは珍らしいもの」

と言って、つくづく眼を<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>いだのは一枚の写真でありました。その写真は、先日お君が駒井能登守からいただいて来た、何よりも大切にしている二人立ちの写真なのであります。

最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。

「アア、口惜しいッ」

<ruby><rb>鬼女</rb><rt>きじょ</rt></ruby>が炎をふくように言い捨てました。

その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。

その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守の<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>でありました。それと並んだ一人は女の像でありました。

「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」

お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を<ruby><rb>咬鳴</rb><rt>かみな</rt></ruby>らしました。

「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」

お銀様は頭を<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に振って、銀の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に吹きかけました。

お銀様の呪いの<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>となっている写真の中の女の像、それは<ruby><rb>裲襠姿</rb><rt>うちかけすがた</rt></ruby>の気高い奥方でありました。美男の聞えある能登守と並んだこの気高くて美しい奥方。お銀にとってそれは、骨を削ってやりたいほどに呪わしいものでなければなりませぬ。

ことに、あのお<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の外で、折助どもからあんな無礼な仕打をされている時に、城の中で二人にこんなことをされては……それが口惜しくて、<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましくて、腹立たしくて、呪わしくて、お銀様の銀の簪持った手がワナワナと<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて慄えてたまりません。

お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、

「エエ、覚えておいで」

と言ってズブリ――その女の<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>の面をめがけてつきとおそうとしました。

「お嬢様、まあ何をなさいます」

あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。

「お放しなさい」

お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。

「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」

「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」

「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」

「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口惜しい！」

「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」

お君は日頃に<ruby><rb>似気</rb><rt>にげ</rt></ruby>なく争いました。お銀様はほとんど狂気の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で写真を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らじとしました。一枚の写真を争う<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、ほとんど<ruby><rb>他目</rb><rt>よそめ</rt></ruby>からは組打ちをしているほどの烈しさで揉み合いました。

そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>きながら、

「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」

「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」

お銀様がこう言ってその両眼から<ruby><rb>留度</rb><rt>とめど</rt></ruby>もなく涙を落した時に、お君は何と言ってよいか解らない心持になりました。

いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかが<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>かれてしまいました。お君が、もうお嬢様のお傍にいないと言ったのは一時の激した言い分のようであったが、実は本心からその気で言ったのであります。

お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。

しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいに<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>ったけれど、すぐにあとでお君が<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>りました。お銀様もうちとけました。

謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。それにお銀様はお君に対して、身の廻りのものやらお金などを多分に分けてやりました。お君はそれを有難く思って、なんとなくこのお嬢様の傍を離れたくない心持もしましたけれど、自分の行く先のことを考えれば、その心持も忽ち消えてしまうのであります。

お君がこのお嬢様の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>を辞して行こうとする先は問うまでもなく、それは駒井能登守のお邸であります。

主人やお銀様からいろいろの下され物をお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>の男に馬につけてもらって、お君は愛するムク犬と共に藤原家を離れました。

みんな機嫌よくお君を送ってくれました。

有野村から甲府まで行く間に、お君は一足毎に春の野原へ近づいて行く心持でありました。駒井の殿様のお情けというものが嬉しくて、心が<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>けてゆくばかりでありました。それでも<ruby><rb>釜無河原</rb><rt>かまなしがわら</rt></ruby>へ来た時分に振返って有野村を見ますと、小高い丘の下に一面に黒くなった森、そこが今まで世話になっていた馬大尽の藤原の家の構えだと知った時に、なんとなく<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の光景が物悲しくなりました。

幸内に助けられてあの家へ厄介になった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かりそめ</span>の縁が、思い出にならないということはありません。その幸内は<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が知れないし、それよりもひとり残ったお嬢様が、「わたしもお嫁に行く」と言った一言は今でもお君にとって、何の意味だかよくわからないのであります。

いったいにお銀様の心持というものは、お君にはよくわかりませんでした。駒井様で所望する自分の身の上をお銀様が途中で、水を<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>そうとするような仕打がわかりません。そうかと思えば、そのお暇乞いをした時に冷やかではあったけれど、不快な色を見せないで承知をして下すったこともわかりません。

自分をすすめて御城内の殿様のところへやりながら、その殿様のお写真に向って、あんなことをなさるお嬢様の気心はなおさらにわかりませんでした。

いろいろと、わからないことはありましたけれども結局、お君はお銀様の同情者でありました。お銀様がああして<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れておいでなさる心持も、お君には<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>だとばかりは思われませんでした。お銀様と幸内との間は知らないけれど、幸内がいなくなってお銀様が一層焦れ出したことは、側についていて手に取るようにわかるのでありました。その後お銀様がお君を愛するために、怖ろしいような挙動をなさることも度々ありました。今やそのわたしもお側を離れてしまう。お銀様はお一人。どうかこの上ともお仕合せにお暮しなさるようにと、お君は目に涙を持って、心のうちに祈りました。

## 五

神尾主膳の邸ではこの頃<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>が始まりました、建増しをしたり、手入れをしたりするために、大工や左官が幾人も入りました。

表の方では<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>や<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby>の音で景気がいいし、奥の方は奥の方でまた、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>、長持、<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>の類を引き出して女中たちが、虫干しでもするような騒ぎであります。

正月が近いから、それで御普請をなさるのだろうと表の方では言っていましたけれど、奥の方はそれだけでは納まりません。

「近いうちにお<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいことがおありなさるんですとさ」

早くも女中たちの口から、こんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が立ってしまいました。

その女中たちの中にはお松がいました。お松は今、箪笥から掛物の一幅を取り出して<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を<ruby><rb>掃</rb><rt>はら</rt></ruby>っていました。

「お慶たいこととはどなた」

「お松様はまだ御存じないの」

と言って、ほかの女中たちは面を見合せました。

「いいえ、存じません」

「そのお慶たいことで、あんなに御普請が始まったり、こちらではまた御宝物のお風入れがあったりするのではありませんか」

女中たちはお松の<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>を笑うような言いぶりです。

「それでも、わたくしは存じませんもの」

「それはね」

「はい」

「つい、この近いところよ」

「近いところとは……」

「近いと言ってもこの甲府に近いところ、それはこれから三里ばかり離れた有野村というところの大金持のお家から、近いうちに殿様へお<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしい</rt></ruby>れがあるんですとさ」

「それは結構でございますねえ」

お松は手に持っていた掛物の塵を掃ってその紐を解きました。なにげなくあけて見ると、それは山水でも花鳥でもなく、一枚の絵図面を仕立てた<ruby><rb>横幅</rb><rt>よこふく</rt></ruby>でありました。

神尾主膳の家に<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいことがあるといっても、それはお松が知ったことではありません。

けれども、このたびの慶事の噂が、お松の耳にはあまりに<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>に聞えたものですから、多少考えさせられないわけにはゆきませんでした。

今まで放蕩無頼に身を持ち崩して、いったん持った奥方を去ったという主膳が、今になって女房を迎えようとする心持がお松にはわかりませんでした。それから、この殿様を夫に持とうという女はどういう人であろうか、その人の気も知れないように思いました。

<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいことだから祝わねばならぬけれども、お松の常識で考えては、この結婚がどうも<ruby><rb>末頼</rb><rt>すえたの</rt></ruby>もしくは思われません。どうしても一時の権略のための結婚であるとしか思われないのであります。

どうしても、お気の毒なのは、こちらへ貰われて来る<ruby><rb>嫁御寮</rb><rt>よめごりょう</rt></ruby>だと思わないわけにはゆきません。

このお屋敷の殿様が、どういうお方であるかまるきり知らずに、ただお殿様という名前に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れて、可愛い娘を手放す親御たちをもお気の毒と思わないわけにはゆきません。

人の<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいことを呪うような心を起すのは浅ましいとは知りながら、お松はこの慶たい噂を慶たからず思いました。

それはそれとして、お松がいま持って出た掛物は甲府のお城の絵図面であります。今日、宝物の風入れに、お松はそれとなくこの絵図を心がけていました。塵を掃っている<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の書物や掛物のなかにはそれがあるだろうと思っていましたが、幸いにそれを見つけました。

仕事が済んでから、お松はその絵図を持って自分の部屋へ帰りました。部屋へ帰ってそれを拡げて、つくづくとながめていました。

お松のながめている絵図には、甲府城を真中にして、その<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の内外の武家屋敷や陣屋、役宅などが細かに引いてありました。

お松の眼はお城の濠に沿うて東の方の一角をじっと見ていました。ほかのところはさしおいて、その一角ばかりを見つめていました。お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人を<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>える牢屋があるのであります。聞いてもいやな感じのする牢屋、お松はそれを見たいばかりに、わざわざこの絵図をそっと持ち帰ったのであります。牢屋を見たがるお松は、牢屋の中に見たいと思う人があるからであります。

その人のために、お松はどのくらい心を痛めているか知れません。お絹を通したり、自分で遠廻しに頼んだりして神尾に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りました。ここへ来る道中では駒井能登守にさえも訴えてみました。

けれども、その証拠が歴然たる上に、御金蔵破りのことが重いので、ともかくも本当の犯人が挙った上でなければ、<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>が晴れまいということを聞かされて、お松の失望落胆は言うべくもありません。

せめて牢屋の模様でも知っておきたいと、お松はその道筋を幾度か指で引いてみました。けれどもそれは<ruby><rb>徒事</rb><rt>いたずらごと</rt></ruby>で、お松の力でどうしようというのではありません。自分の力でどうしようというわけにはゆかないものであると知りながら、お松は人の力の<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>みにならないことをもどかしがって思案に暮れました。

ここは神尾の本邸とは別に一棟をなしているところの別宅であります。その一間に、お絹は取澄まして一人の男のお客を前に置いて話をしていました。

お絹の前に坐っている男の客というのは役割の市五郎です。

「御別家様、まず以て<ruby><rb>滞</rb><rt>とどこお</rt></ruby>りなく運びましてお<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>とう存じまする。<ruby><rb>御結納</rb><rt>ごゆいのう</rt></ruby>はこの暮のうちに日を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んでお<ruby><rb>取交</rb><rt>とりかわ</rt></ruby>しなさいますように。お婚礼は来春になりまして花々しく」

市五郎が言葉を<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しくこう言いますと、お絹も喜ばしそうに、

「お前さんの橋渡しで都合がよく運びました、これでわたしもワザワザ甲府へ来た<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>があると申すもの、主膳殿もこれから身持ちが改まって出世をすることでしょう、三方四方<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいこと」

と言ってお絹は市五郎の労をねぎらいました。市五郎は<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を叩いて、

「まことにハヤ慶たいことで。なにしろ、先方が聞えた旧弊の家柄でございますのに、当人がまたばかに気むずかしいものでございますから、どうなることかと心配しておりましたが、幸いなことに、その当人が乗気になりまして、それで話がズンズンと進んで参りました……しかし御別家様」

市五郎が呑込んで話しているのは、例の縁談の一件であります。

「御別家様」

市五郎はお絹を呼ぶのに御別家様の名を以てして、

「お<ruby><rb>媒妁人</rb><rt>なこうど</rt></ruby>はどなた様にお頼みあそばしますおつもりでございますな」

「それは……あの御支配のお二方のうち、筑前様と能登様といずれかにお頼み致すよりほかはなかろうと思っておりまする。また別に組頭や奉行衆のうちにしかるべきお方があれば、その方へお頼みすることにしてもかまいませぬ」

「左様でございますな、お組頭やお奉行衆のうちで……それも結構でございますが、御当家様のお媒妁としては、やはり御支配様をお頼みになるのが順当でございましょう。その御支配様と申しましても、能登様は御新任の上に、お年もお若いし、それに奥方様をお連れになりませぬ故、やはりお年と申しお二方のお揃いと申し、筑前様をお頼みあそばすが至極よろしいことのように存じまする」

「わたしもそう思いまする。それに主膳殿は能登様とは合いませぬ」

「左様……」

「もとは同じぐらいの格式の旗本、それで同じところへ勤めていると、若い同士でどうも<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>くなって困ります」

「けれども能登様へも、一応のお話は申し上げませんと」

「それは筑前様の方を、よくよくお頼み申しておいて、お話をきめた上で能登様へは一通りの御挨拶だけにしておきたいと、主膳殿も申しておりました」

「左様でございますな……あれで能登様もなかなか<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かぬところがおありなさるから、万一、この縁談に……そんなこともございますまいが、能登様から故障が出るようなことがございますると……」

「それだから、最初に筑前様の方を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めておけばよいではありませぬか。その筑前様へのお使は、わたしが行って、きっと纏めて参りましょう」

「左様ならば大丈夫でございます、御別家様から<ruby><rb>懇</rb><rt>ねんご</rt></ruby>ろにお頼みになりますならば、大丈夫でございます」

市五郎はそこへ<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>らしく保証をおいて、お暇乞いをして帰ろうとすると、

「まあ、よいではないか、前祝いに何か差上げたいもの……お松や、お松はおらぬかいな」

お絹は市五郎を引留めてお松の名を呼びました。

お絹から呼ばれてお松はその席へ出ますと、

「こっちへお入り」

お松はしとやかに座敷の中に入りました。

そこでお絹はお松を市五郎に引合わせると、市五郎は<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに膝を揃えて座を下り、

「これはこれは初めまして、わたくしが市五郎めにござりまする、どうぞお見知り置かれて」

と非常に低く頭を下げましたから、お松はそれに準じて丁寧に挨拶をし、

「行届かぬものでござりまする、なにぶんよろしく……」

と両手を揃えて言いました。

近づきが終ってから市五郎は<ruby><rb>卑下</rb><rt>ひげ</rt></ruby>と自慢とをこき交ぜて、自分がこの土地に長くいることだの、折助や人足、それらの間における自分の勢力が大したものであること、御支配をはじめ重役の間にて自分の信用が多大であるということ、そんなことを、それとなく言っているが、お松には聞き苦しいほどであるのに、お絹は上機嫌で、

「お松や、お政治向きのことは別にして、そのほかのことならこの人が何でも心得ているから、お前、何か頼みたいことがあるなら、遠慮なくこの人に片肌脱いでおもらい」

とまで言いました。

お松が自分の部屋へ帰った後も市五郎は、お絹の許を辞して帰る模様がありませんでした。しばらくたつと、その座敷が陽気になって、盃のやりとりにまで進んでいったようであります。根岸へ引籠った時分には一層慕わしく思われたお師匠様が甲府へ来ると、またがらりと変ったように思われるのがお松には浅ましい。誰とでも<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く懇意になってしまって、ああして気を許すお師匠様の挙動がお松には歎かわしい。

## 六

甲府の牢屋は甲府城の東に<ruby><rb>方</rb><rt>あた</rt></ruby>ってお濠と境町の通りを隔てて相対し、三方はお組屋敷で囲まれている。そのお組屋敷の東は御代官の陣屋になっているのであります。

宇津木兵馬の<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われているのは、その牢屋の中の一番室で、それは六畳敷でありました。その六畳の中には兵馬と、そのほかに一人の奇異なる武士が囚われています。

この室の中の南と北は格子であります。東と西は<ruby><rb>羽目</rb><rt>はめ</rt></ruby>であります。

宇津木兵馬はその羽目の方の一隅に寝ています。もう夜が更けているから牢の中は真暗であります。兵馬は寝入っている様子だけれども、同室のもう一人の奇異なる武士は、まだ起きていて暗い中で何をかしているようです。

その武士は三十前後の歳で、総髪にして髪を結んで後ろへ下げています。

「うーん」

というて苦しげに<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>るのは寝ている宇津木兵馬の声で、それと同時に寝返りを打とうとするらしい。

「宇津木、苦しいか」

奇異なる武士は声をひそめてこう言いますと、

「いや、別に」

と兵馬は、これも、ひそかに答えました。けれどもその返事は、苦しさを<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>えている返事です。

「もう一服、飲んでみるか」

と言って奇異なる武士が、兵馬の枕許まで来て、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の下を探ります。

「うーん」

と兵馬はまた苦しげに呻りました。

蒲団の下から一包の紙、それは薬と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しいのを取り出して、奇異なる武士が兵馬の口許へ持って来ました。

「まだ熱が高いな」

片手では薬の包を持ち、片手では兵馬の額を押えました。

兵馬は寝ていながら、口を開いてその紙包から薬を飲みました。

「ソレ水」

枕許の椀を取って水を兵馬に飲ませました。兵馬は少しばかり起き直って、コクリコクリとその水を飲みました。

「気をつけて寝ておれ」

奇異なる武士は、じっと兵馬の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見つめています。

火の気のない牢屋の中の夜のことであるから、尋常ならば、なにもかも見えないのであろうけれど、この奇異なる武士は暗い中でも、よく物が見えるようであります。

兵馬もまた相当に暗い中で物が見えるようです。暗い牢の中に居つけたために、おのずから眼がそういうふうに慣らされたものでしょう。

兵馬が寝ついたのを見て奇異なる武士は、また以前の座へ立戻り、何をしているのかと思えば、紙を裂いて、しきりに<ruby><rb>紙撚</rb><rt>こより</rt></ruby>をこしらえているのであります。

自分の蒲団は兵馬に着せてしまっているから、この武士の横たわるべきものはありません。半畳ほどの渋紙をしいてその上で、紙撚をこしらえて、眠いということを知らないもののようです。

何十本かの紙撚をこしらえてしまうと、そこにはもはや紙撚にすべき紙がありません。その時この人の<ruby><rb>座右</rb><rt>ざう</rt></ruby>の書冊、それは「安政三十二家絶句」というのを手に取ると、その中の紙をメリメリと引き破り、幾枚か引き破ってそれをまた細かにし、細かにしてまた紙撚をこしらえはじめたのであります。

この人がこうして一心不乱に紙撚をこしらえていると、この室の一隅、兵馬の寝ている隅とは違ったところの羽目板が、微かな音でトントンと二つばかり鳴りました。

羽目をトントンと叩いた音は、到底そのつもりでいなければ聞けないほどの微かな音でありました。けれども、紙撚をこしらえていた奇異なる武士は直ぐにそれを聞きつけて、坐ったまま耳をその羽目の合せ目の<ruby><rb>透間</rb><rt>すきま</rt></ruby>へ着けてしまいました。

「まだ起きてか」

これが次の室から聞えた小さな声でありました。

「起きてる、起きて一生懸命に内職じゃ」

こっちの奇異なる武士は、そう答えてニヤリと笑いました。

「そうか、病人はどうじゃ」

「熱は高いけれど、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>にかかわることはあるまい」

「大事にするがよい」

「せっかく養生中じゃ」

「それからな、今日は重大な<ruby><rb>音信</rb><rt>たより</rt></ruby>を聞いたから、知らせる」

「左様か」

「今日は、おれの方に一人の<ruby><rb>新参</rb><rt>しんまい</rt></ruby>があった、それは、<ruby><rb>贋金遣</rb><rt>にせがねづか</rt></ruby>いとやらの罪で、この牢へ送られた男だが、その男から聞いた話だ」

「なるほど」

「長州では、いよいよ三人の家老を斬って、幕府にお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びをすることになったげな」

「ナニナニ、長州で三人の家老を斬って幕府へお詫びをすると？　そりゃ夢のような話だ、<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>とは聞かれぬ」

「どうも、拙者においても信じきれぬのだが、その男の言うことを聞いてみればマンザラ<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>とは思われぬ、まあ聞いてくれ、こういうわけじゃ。長州藩では去年の八月、入京を禁ぜられてから、その許しを願うことと、それから例の七卿の復任を許されたいということで、さまざまに建言をするけれど更に御採用がない、この上は兵力を以て京都へ推参して<ruby><rb>手詰</rb><rt>てづめ</rt></ruby>の歎願をするほかはないと、<ruby><rb>久坂玄瑞</rb><rt>くさかげんずい</rt></ruby>、来島又兵衛、入江九一の面々が<ruby><rb>巨魁</rb><rt>きょかい</rt></ruby>で、国老の福原越後を押立てて、およそ四百人の総勢で<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby>の三田尻から、京都へ向って出帆したというものだ」

「うむ、うむ」

「そのほかに、久留米の神主で、あの<ruby><rb>慷慨家</rb><rt>こうがいか</rt></ruby>の<ruby><rb>真木和泉</rb><rt>まきいずみ</rt></ruby>が加わる、それから中山卿のお附であった池、<ruby><rb>枚岡</rb><rt>ひらおか</rt></ruby>、大沢の三人――中山卿は長州で<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなられたそうじゃ。大和の十津川から<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>を経て、長州へおいでになったが、そこで亡くなられたということじゃ。まだ十九か二十のお歳であろうに、お痛わしいことな」

「そうか、中山侍従は長州で亡くなられたか」

「御病気で亡くなられたか、または不慮の御災難であったか、その辺は更にわからぬ。してその中山卿のお附であった池、枚岡、大沢の三人も加わってよ、浪華へ着くと、同藩の仲間や諸藩の脱走が<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ加わったから、兵を二手に分け、一手は船で山崎から、一手は陸を伏見へのぼって行った。何しろ兵器を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>え、旗を立て、隊伍を乱さず上って行くのだから、京都も騒がずにはいられないのじゃ」

「なるほど、なるほど」

「それにまた国司信濃や益田右衛門介らが<ruby><rb>鎮撫</rb><rt>ちんぶ</rt></ruby>を名として<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ加わって、とうとう御所へ押しかけてしまった、そこで会津、一橋、薩州の兵を相手に、<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>くも<ruby><rb>宮闕</rb><rt>きゅうけつ</rt></ruby>の下を戦乱の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>にしてしまった」

「うむ、うむ」

「しかし、さすが命知らずの長兵も諸藩の矢に攻められて、来島又兵衛は討死する、久坂玄瑞も討死する、福原、国司、益田の三家老は歯噛みをしつつ本国へ引上げるということになって、その後が長州征伐の結末は、毛利公の恭順と、例のその三家老の首を斬って謝罪するということで納まったそうじゃ」

これらの話し声は、極めて小さい声で行われましたけれども、<ruby><rb>平談俗語</rb><rt>へいだんぞくご</rt></ruby>の通り、尋常に聞き且つ答えることができました。

話をしている間も、見廻りの来る心配はありません。ここの牢番もよく見廻りをするよりも、よく眠りたい方です。

「ははあ、それは一大事じゃ」

と言って、こちらの奇異なる武士は考え込みました。

「これで長州も<ruby><rb>寂滅</rb><rt>じゃくめつ</rt></ruby>」

えたいの知れない話し相手も、絶望したような声で言いました。

「いやいや、そう<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>くはいくまいよ」

こちらの奇異なる武士は、存外、平気で答えました。

「どうして」

「長州の中にも、二派あるはずじゃ」

「左様」

「そうして幕府に恐れ入ってしまうのもあるだろうが、なかなかそれで承知のできぬ奴もあるはずじゃ」

「左様」

「例の高杉<ruby><rb>晋作</rb><rt>しんさく</rt></ruby>がこしらえた奇兵隊というのがある、あの辺のところが黙って引込んではいまいよ」

「なるほど」

「君は高杉を知っているか」

「知らん」

「<ruby><rb>老物</rb><rt>ろうぶつ</rt></ruby>は知らん、若手では、あれが第一の男よ。あれのこしらえた奇兵隊というのは、他藩には、ちょっと類のないものじゃ」

「うむ、うむ」

さきには向うが話の主でこっちが聞き手でありましたが、今度はこっちが話し手で、向うが聞き手になりました。

「長州には奇兵隊があり、薩摩には西郷吉之助のようなのがある、長州が本気で立てば薩摩が黙っていない、薩摩と長州とが手を握れば天下の事知るべし」

「面白くなるのだな」

「それは面白くなるにきまっているけれど、おたがいに籠の鳥だ」

「南条――」

ここで両人の話が暫らく途切れました。話が途切れると<ruby><rb>獄舎</rb><rt>ひとや</rt></ruby>のうちは暗くありました。こちらの室では兵馬の寝息、あちらでは同じ室に、また幾人いるか知らん、<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>の声を立てているのさえあるが、それをほかにしては、いよいよ静かなものであります。

こちらの奇異なる武士は、いよいよ近く羽目の<ruby><rb>透間</rb><rt>すきま</rt></ruby>へ耳をつけた時に、

「南条――南条」

と向うから呼びましたが、

「手を出せ」

「うむ、うむ」

こちらの武士は、耳を着けていたところより一尺ばかり下の透間へ手を当てると、その透間からスーッと抜き取ったのは、<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>のない一挺の<ruby><rb>鑢</rb><rt>やすり</rt></ruby>のようなものであります。

「これはどうしたのだ」

「今いう<ruby><rb>贋金遣</rb><rt>にせがねづか</rt></ruby>いという男が、そっとおれにくれたのだ、同じやつがまだ一挺ある、<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>と<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>と<ruby><rb>小刀</rb><rt>こがたな</rt></ruby>と三様に使える」

「エライものを手に入れたな」

「それこそ天の与え」

「有難い、有難い」

と言って、こちらの奇異なる武士は、その<ruby><rb>鑢</rb><rt>やすり</rt></ruby>を<ruby><rb>推戴</rb><rt>おしいただ</rt></ruby>きました。

この時に牢番の小使が咳をしました。もう大抵、話すべき要領は尽きたと見えて、それを<ruby><rb>機会</rb><rt>しお</rt></ruby>に話は切れてしまいました。

牢屋の形式は厳重でありましたけれど、中の見廻りはさほど厳重なものではありません。

牢番の小使の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>に金をやって頼めば、大抵のものは<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えてくれます、羽目の間から物のやりとりや、小さな声で話をすることなどは、ほとんど自由です。

宇津木兵馬は、ここへ<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われて来る時に金を持って来ませんでしたけれども、その後、誰ともなく金を差入れてくれるものがあると見え、その小づかいが二両三両と兵馬に手渡されます。それも五両差入れたものがあるとすれば、そのうち二三両ずつ、誰か頭を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねる者があるらしくありました。

誰が差入れてくれるのだか知らないけれど、兵馬はそれがために、大へんに便宜を得ました。望みの物を買ってもらうこともでき、同室の人に融通することもできました。多分、七兵衛の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>でありましょう。

その兵馬は不幸にして、このごろ熱に<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>されています。そうして枕が上らないでいるのを、例の同室の奇異なる武士が介抱していました。この奇異なる武士は、兵馬よりは先にこの室に入れられていました。それと同室して語っているうちに、兵馬はこの奇異なる武士の奇なることを感ぜずにはいられません。

今日は少し<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>かったから起きてみました。夜は早く床に就きましたが、よく眠れました。夜中になって、ふと妙な音が耳に入りましたから目を覚まして、音のする方を見て、我知らず身を起しました。兵馬は半身を起して、怪しげな音の耳ざわりになるところを見ると、同室の奇異なる武士が、格子によりかかって仕事をしているのを認めました。

その奇異なる武士は、何かを以て、極めて小さな音を立てながら、牢の格子を切っているとしか見えません。言葉を換えて言えば、牢破りを<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てつつあるとしか見えません。

あまりのことに兵馬は、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>って、よろめく足を踏みしめて立ち上りました。

「南条殿」

兵馬はよろめきながら近寄って、牢の格子を切っている奇異なる武士の手を押えました。

「宇津木、起きてはいかん」

奇異なる武士は、兵馬に押えられても、別段に驚きはしません。

「南条殿、何をなさる、軽々しいことをなさるな」

兵馬はたしなめるように言いました。

「君の知ったことではない、身体に悪いから寝て居給え」

南条と呼ばれた奇異なる武士は兵馬の手を取って、牢の格子の角の隅をさぐらせました。兵馬はそこへ手を当ててみると、何かの刃物でズーッと横に筋が切り込まれてあります。その切込みはまだそんなに深くはありませんでしたけれど、<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>ならぬ破牢の<ruby><rb>極印</rb><rt>ごくいん</rt></ruby>であることは確かであります。

「ああ、大胆なこと」

と言って兵馬は嘆息しました。

「二番の室でも、これをやっている、<ruby><rb>成敗</rb><rt>せいはい</rt></ruby>ともに我々が引受けるから、まあまあ安心して寝て居給え」

奇異なる武士は騒ぐことなく、兵馬をなだめて、またも静かにその切込みへ刃物を入れました。その刃物というのは、前夜隣室の羽目の隙間から手に入れた<ruby><rb>鑢様</rb><rt>やすりよう</rt></ruby>のものであります。兵馬は、その上にかれこれと言いませんでした。それは余人ならぬこの人が、かく決心して事をはじめた上は、いまさら自分が是非を論じても駄目だと思ったからであります。

「世が世ならばこんなことはしたくはないが、時勢を聞いてみると、どうしてもここに安んじてはいられぬのじゃ、<ruby><rb>文天祥</rb><rt>ぶんてんしょう</rt></ruby>が天命に安んずるこそ丈夫の<ruby><rb>襟懐</rb><rt>きんかい</rt></ruby>ではあるが、盗人の<ruby><rb>屋尻</rb><rt>やじり</rt></ruby>を切るような真似をせにゃならぬのも時節。宇津木、君だからとて、そうそう正直に<ruby><rb>冤</rb><rt>むじつ</rt></ruby>の晴れるのを待ってもいられまい。上に名判官ある世には、<ruby><rb>獄屋</rb><rt>ひとや</rt></ruby>のうちにも白日の照すことはあろうけれど、ここらあたりでそれを望むは、百年富士川の流れが澄むのを待つのと同じこと」

南条と呼ばれた奇異なる武士は、こう言いながら静かに、格子の角を引いているのであります。

兵馬はぜひなく寝床の方へ退きました。兵馬は蒲団を<ruby><rb>引被</rb><rt>ひきかつ</rt></ruby>ぎながら、格子の角に引かれる鑢の<ruby><rb>微</rb><rt>ちい</rt></ruby>さな音を聞いていました。

兵馬は正直な心で、今まで待っていました。<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しいことさえなければ、泰然として待っているうちに、天は必ず己れを助くるものだと信じていました。非法に囚われたけれど、自分は法を犯してそれを逃れようとはしませんでした。しかし今という今、その心に動揺が起らないわけにはゆきません。

## 七

駒井能登守は例の洋風に作った一間に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>って、このごろは役所へもあまり出勤せず、また調練も暫らく他の者に任せておきました。

この一間に籠った能登守は、人を諸方に<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わして土を集めさせています。自分もまた、思い立ったように外へ出ては土を集めて来るのであります。

集めた土を<ruby><rb>分析</rb><rt>ぶんせき</rt></ruby>したり、また火にかけたりして<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>すことに、ほとんど寝食を忘れるくらいの熱心でありました。

能登守が預かって、城内の調練場で扱っている<ruby><rb>虎砲</rb><rt>こほう</rt></ruby>十二<ruby><rb>磅砲</rb><rt>ポンドほう</rt></ruby>というようなのは、伊豆の江川の手で出来たものであります。伊豆の江川は能登守と同じく、高島四郎太夫を師とするものであります。能登守は甲府へ赴任の最初から、ここへひとつ、江川と同じようなものを建てたいと思っていたのでありました。それは自身で研究して自身で造り出した砲でなければ満足のできないほどに、能登守の砲術の愛好心は<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じているのであります。

江川太郎左衛門が伊豆の<ruby><rb>韮山</rb><rt>にらやま</rt></ruby>に立てたのは有名なる反射炉であります。江川がその反射炉を立てる時に最も苦心したのは<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>でありました。煉瓦を作る土でありました。当時、外国から取り寄せることのできないために、江川はまず煉瓦から焼いてかからねばなりませんでした。その高熱に耐える煉瓦を焼くべき、土から求めてかからなければなりませんでした。

江川はようやくにしてその土を、<ruby><rb>天城山</rb><rt>あまぎさん</rt></ruby>の麓と韮山附近の山田山というところから探し出して、煉瓦を作りました。その煉瓦は立派なものでありました。今日の進歩した耐火煉瓦に劣らぬほどの煉瓦を、当時、独創的に作り出したものであります。耐火試験によって、千七百度の高熱に耐えるということであります。千七百度の熱度は、白金の溶解度であります。

能登守は江川のその苦心を見もし聞きもしました。土を集めてそれを調べていることは、やはり同一の目的のためと見てよいのであります。その研究の間は誰人をもこの室に入れることを避けて、眠ることも、ほとんどこの椅子と<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>とに<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>ったのみでありました。疲れた時は夜となく、昼となく、うつらうつらと眠るのでありました。覚めた時は書物と実物とを向うに首っ引きでありました。

今も疲れて能登守は、椅子に深く身体を埋めて眠っていました。その時に扉が静かにあいて、

「殿様」

扉の前に立っているのはお君でありました。

お君は、大名や旗本の家へ仕える女中のように<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えています。お松とは年の頃合いは同じくらいでありましたけれど、お松は肉附のよい、どこかに雄々しいところのある娘でありました。お松に比べると、お君はもういっそう色白で、<ruby><rb>繊細</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>で、沈んだ美しさを持っていました。

「殿様」

と言って、そっと扉をあけたお君は、椅子に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>ってスヤスヤと眠っている能登守の姿を見て、<ruby><rb>嫣然</rb><rt>にっこり</rt></ruby>として、音を立てないようにその傍へ近づいて行きました。

能登守はよく眠っていて、お君の入って来たのに少しも気がつきません。お君は、能登守の椅子に近いところまで来て、主人の寝顔の前に立っていました。

この数日、主人の髪も乱れているし、それに寝ている<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にも<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れが見えていました。心配そうに見ていたお君は、

「殿様」

やや大きい声でふたたび呼んだ時に、能登守は眼を覚まして、

「あ、お前か」

と言って<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>として、<ruby><rb>敢</rb><rt>あ</rt></ruby>えて<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めることをしませんでした。お君が給仕としてこの室に入ることを許されている唯一の者であります。

「よく、お<ruby><rb>寝</rb><rt>よ</rt></ruby>っておいであそばしました」

お君はこう言いました。

「あ、ついうとうとと寝入ってしまった」

能登守は椅子に埋めた身体を、少しばかり起そうとしました。

「あの、お客様でございますが」

とお君が言いました。

「客？」

能登守は小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げて、

「言うておいた通り、この仕事をはじめてからは、来客に会いたくない」

「<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>ってお目通りを致したいと、そのお客様からのお願いでございます」

「それは誰じゃ」

「女の方でございます」

「女の……」

「はい、神尾主膳様の御別家のお方と申すことでございまする」

「ははあ」

駒井能登守は、直ぐにそれと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くところのものがありましたが、

「どのような用向か知らん、わしは会いたくない、誰か会ってもらいたい」

会うことを多少迷惑がるようであります。

「それでも殿様に、<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>にお目通りを致さねば申し上げられないことなのだそうでございます。それがため、小島様も服部様も、わたしにお殿様へお取次ぎ申してみるように、お頼みでございました」

「はてな」

能登守は、その晴れやかな<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を少しく曇らせました。

「ともかく、あちらへお通し申しておくがよい、暫らくの間お待ち下さるようにお断わりをして」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました」

「それから、お前は、わしの羽織だけをここへ持って来てくれるように」

「畏まりました」

お君は<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を受けてこの一間を出て行きました。能登守はその後で腕を組んで考え込んでいましたが、

「ははあ、そうじゃ、忘れていたわい、例の神尾が嫁を貰いたいということであろう、あの一件で例の婦人が出向いて来たものと見ゆるわい――筑前殿からも内談があったのだが、あれは、まだ拙者には<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬことがある故に、なんとも返事をせずにおいた。事実、神尾があの縁組みを本気でするか、それとも一時の策略か、その辺を、もう少し確めてみぬことには……」

駒井能登守は、こんなことを思いつきました。そうして<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように、

「しかし神尾は小人じゃ、まんいち拙者が故障を言えば、きっと拙者を恨むに違いない、恨まれるのは苦しくないが、何も知らぬ<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>が、悪い計略に落ちるようじゃと気の毒の至り」

こんなことを胸に問い答えている時に、お君が羽織を入れた黒塗りの箱を捧げて来ました。能登守が筒袖の羽織の紐を解くと、お君はその後ろに廻りました。それを黒の紋付の羽織と着替えさせて、お君はその筒袖の羽織を畳みかけました。

能登守は着替えた羽織の紐を結ぶと、お君は、

「殿様、あの、お<ruby><rb>髪</rb><rt>ぐし</rt></ruby>が乱れておいであそばしまする」

と言いました。

「うむ、それもそうじゃ」

お君は、筒袖の羽織を畳んでいた手を休めて、鏡台を<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に立てました。その鏡は隅の棚の上に置かれてあった、これは洋式のものではなく、磨き上げた丸い鏡でありました。

お君はこうして能登守のために乱れた<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を撫でつけながら、その鏡にうつる殿様のお<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見ると、恥かしさで手先がふるえて、自分の面が火のようにほてるのに堪えられません。

駒井能登守は客間でお絹と対坐しております。

それは日本式の客間で、二人の間には桐の火桶が置いてありました。お絹は、いつぞやの甲州道中のお礼などを述べました。そうして後に、お絹が言い出したことは案の如く、神尾主膳のこのたびの縁談のことでありました。

「神尾も、ああして置きますると<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>が<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>って困りまする、わたしが参りましたのをよい折に、ぜひこの縁談だけは<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて帰りたいのでございまする。筑前様にも、このことを大へんおよろこび下さいました」

こういう話でありました。能登守はそれを聞いて、

「それは<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たいことでござる、左様な慶たいことを何しに拙者において異議がござりましょう。して、先方のお家柄は？」

穏かにこう尋ねたのでありました。

「先方は、有野村の藤原の伊太夫の一の娘にござりまする」

「有野村の伊太夫の娘？」

「左様でござりまする」

「なるほど」

能登守は暫らく考えている<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>でありましたが、言葉をついで、

「あれは聞ゆる旧家でありましたな」

「仰せの通り、家柄では多分、この甲州に並ぶ者がなかろうとのことでござりまする」

お絹はやや誇りがおに答えました。

「その通り、伊太夫は拙者もよく存知の間柄、その家柄もよく承っているが、その息女にはまだお目にかからぬ」

「常には、あまり人中へ出ることさえ嫌うような娘でありましたが、このたびの縁談は、その当人が進みましたものでござりまする」

「それは何よりのこと。この縁談の<ruby><rb>仮親</rb><rt>かりおや</rt></ruby>はどなたでござりまするな」

「仮親と仰せられまするのは？」

「神尾家と藤原家とには<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か家格に違いがござるようじゃ、藤原家の息女が神尾家へ御縁組み致すには、仮親をお立てなさるが順序と考えられるが」

「恐れながら、家格の違いと仰せでござりまするが、あの伊太夫が家は、御承知の通り、<ruby><rb>葛原親王</rb><rt>かつらはらしんのう</rt></ruby>いらいの家柄と申すことでござりまする、それに権現様以前より<ruby><rb>苗字帯刀</rb><rt>みょうじたいとう</rt></ruby>は御免、国主大名の系図にも劣らぬ家柄でござりまする故に、神尾家にとって釣合わぬ格式とは存じませぬ」

お絹は、こう言って能登守から、家格の相違ということを言われたのに弁解を試みました。

「いやいや、そのことではない。およそ旗本の家が縁組みをするには、同じ旗本のうちか、或いは大名の家よりするか、さもなき時はしかるべき仮親を立てるが定め、その辺は御承知でござりましょうな」

「それは……」

と言ってお絹は、ややあわてました。

「まだそれまでには運んでおらぬのでござりまする……」

お絹が、それについてなお何かを弁明しようとする、その言葉の鼻を押えるように、能登守が、

「左様ならば<ruby><rb>取敢</rb><rt>とりあえ</rt></ruby>ず、そのことをお<ruby><rb>取定</rb><rt>とりき</rt></ruby>めあってしかるべく存じまする」

と言ってしまいましたから、お絹は二の矢が<ruby><rb>次</rb><rt>つ</rt></ruby>げないようになりました。

「御親切のお心添えを有難く存じまする、よく主膳にも申し聞けました上で……」

お絹はこう言って辞して帰るよりほかはありません。能登守の言い分は正当であるにしても、せっかく使者に来たお絹にその言い分が快い感じを与えることができませんでした。ましてやこれが神尾主膳の耳に伝わる時は、憎悪となり<ruby><rb>怨恨</rb><rt>えんこん</rt></ruby>と変ずることは目に見えるのであります。

## 八

神尾主膳はその晩、一人で<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>の古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。

「机氏、机氏」

いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。

「竜之助殿、どこへ行った」

と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて室内を見廻しました。

例の通り、<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>に火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。

「いやに暗い火だ、明るくない<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>だ、もっと明るくなれ、明るくなれ」

主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れ<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>を見れば、かなりに酔っていることがわかります。

「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」

怪しげな<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>で取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、<ruby><rb>狛犬</rb><rt>こまいぬ</rt></ruby>のような形をしたりしていました。

「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見がある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>共は主人の言いつけを聞かぬな、其方共までこの主膳を<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>ると見ゆるな」

神尾主膳は、また酔眼を据えて室内を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>め廻したが、

「はははは」

と高笑いをしました。

「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ヶ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には<ruby><rb>法性狐</rb><rt>ほっしょうぎつね</rt></ruby>がいる、そのほかには誰もいない、いないところへ物を言いつけた、これは拙者が悪い、どれどれ、大儀ながら御自身に立って、あの燈火を掻き上げにゃならぬ、<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>は暗し<ruby><rb>数行虞氏</rb><rt>すうこうぐし</rt></ruby>が<ruby><rb>涙</rb><rt>なんだ</rt></ruby>――」

こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>を明るくして、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なくも油をさえ差加えましたから、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は急に明るくなりました。

「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ、竜之助が姿を見せぬわい、はて、この夜中に、どこへ行った、眼の見えぬくせに、はははは、眼が見えぬから夜と昼の区別がつかず、どこぞへ<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い出したかな」

神尾主膳には酒乱の癖があります。しかしこちらへ来てからは酒乱の癖が出るほどに酒を飲みませんでした。主膳もこれだけは多少謹慎の心があったのであります。それにどうしたものか今宵は、その酒乱に近いほど酒を過して来たもののようであります。

室内が明るくなると共に、主膳は四辺をまた見廻しはじめました。

「刀もある、槍もある、敷物もある、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>もある……茶道具もあれば煙草盆まである、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>、<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>……」

こんなことを言って室内を見廻した主膳の酔眼がトロリとして、室の片隅の長持の上へ落ちました。

「あ、あれだ、誰もおらぬと思うたのはこれも間違い、あの中に一人の男がいる、口の利けない男がいる、今それを引き出して<ruby><rb>玩弄</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>にするのだ」

主膳は、またふらふらと立って長持の傍へ行きました。

「幸内、長持の中にいる幸内、これへ出ろよ、そのように長持の中に隠れてばかりいては窮屈であろう、貴様も若い<ruby><rb>身空</rb><rt>みそら</rt></ruby>じゃ、そう長持の中に隠れていずと、ちっとは広いところへ出てこいよ、<ruby><rb>壺中</rb><rt>こちゅう</rt></ruby>の天地ということもあるから、それは長持の中もよかろうけれど、若いのにそう隠れてばかりいては命の毒じゃ、それこそ長持ちがないぞ」

主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持には<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>がしてありません。蓋をしてない長持の中へ主膳は手を入れて、鼠を吊し出すような手つきをして、その<ruby><rb>襟髪</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>を取って引き立てたのは幸内であります。

かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋は<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せられていないけれども<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せきっておりました。両手は前に<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>られていました。両足は揃えて固く縛られてありました。争うにも力は尽き果て、物を言おうにも声が立ちません。

ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、

「はははは」

主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、

「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>り、小人罪なし珠を抱いて罪ありということがある、幸内罪なし刀を抱いて罪ありというのじゃ、<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の安綱が悪いのじゃから<ruby><rb>不祥</rb><rt>ふしょう</rt></ruby>せい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘、気の毒ながらお化けのような娘、あれを拙者が嫁にしたいと言うのは、抱いて寝たいからではないぞ、いとしい恋しいと思うからではないぞ、恥かしながら拙者はいま<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>が<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>じゃ、伊太夫の財産に惚れたのじゃ、娘には恋なし、財産があるから恋ありと言わば言うものよ、ははははは」

主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。

幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、

「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところで<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れそうじゃわい、ほかでもない、それは駒井能登めが為す<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>じゃ、あの<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しい駒井能登が邪魔をして、惜しい縁談が壊れかかったわい、残念じゃ、腹が立ってたまらぬわい」

ここに至って神尾主膳は、<ruby><rb>正銘</rb><rt>しょうめい</rt></ruby>の酒乱になってしまったようであります。

「<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触って腹が立ってたまらぬ故、これからそちを駒井能登めに見立てて、この腹が納まるほど、<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>って弄って、弄りのめしてやるからそう思え」

神尾主膳はブルブルと身を<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わして、突然、幸内の襟髪を取って引き立て、

「やい、駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、主膳をなんと心得て、どうしてみようというのじゃ、えい、小癪な」

力を極めて前へ突き倒しました。突き倒されて幸内が突んのめるのを直ぐにまた引き起して、

「<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せこけた駒井能登守、口の利けない駒井能登守、突き倒されて直ぐに突んのめる駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、えい、腹が立ってたまらぬ、見るも胸が悪くなるわ、やい」

それをまた、力を極めて横へ突き転がしました。突き転がしておいて直ぐにまた引き起し、

「前へ突き倒せば前へ倒れる駒井能登守、横へ転がせば横に転がる駒井能登守、さあ、この次はどうしてくれよう、水を<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>わせてくれようか、火を浴びせてくれようか、どうすればこの腹が<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えることじゃ、やい」

こんなことをしているうちに、神尾主膳の酒乱がだんだん<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じてきました。残忍性が増長してきました。

幸内の襟髪をもってズンズンとこの座敷を引きずり出しました。

座敷を引きずり出して戸をあけると縁側であります。その縁側から裏庭へ、主膳は幸内を引き下ろしました。自分は<ruby><rb>足袋跣足</rb><rt>たびはだし</rt></ruby>で、庭へ飛び下りていました。

今度は土の上を引いて引いて、古井戸の傍まで引張って来ました。

おそらく酒乱が、こんなふうに嵩じると、もはや自分で自分の為すことを知らないのでありましょう。野獣のような残忍性が、加速度を以て加わって来るものとしか思われません。

古井戸の流しへ幸内を引摺って来て、そこへ突き放すと、神尾主膳は車井戸の綱へ手をかけてキリキリと水を汲み上げました。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おの</rt></ruby>れが、汝れが」

主膳は汲み上げた水をザブリと幸内の上から浴びせました。

手を縛られ、足を縛られた幸内は、水を浴びせられて二尺ばかりも飛び上りました。飛び上ってまた倒れました。

神尾主膳は、心持よかりそうに高笑いして、また二杯目の水を汲みにかかりました。

「はははは」

二杯目の水を汲み上げて、またザブリと幸内の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>のあたりから浴びせました。幸内は一尺ほど飛び上りました。

広い古屋敷のことで誰もいませんから、この場へ来るものはありません。ここにいる人のために衣食の世話をする人は、この近所の農夫の家族でありましたが、それは一定の時をきめて来るほかには、ここへ寄りつきませんでした。

どんな目に遭わされても幸内は、ついに一語をも発することができません。主膳はこの残忍性の面白味を帯びた遊戯のために、三杯目の水を汲み上げて、

「はははは、これは信玄が軍用に用いた用水じゃ、なかなか冷たい水だ、指を入れると指が切れるような水だ、信玄はこの水の底へ黄金を沈めて置いたとやら、それで水がこんなに冷たい、さあ、この冷たい水を、もう一杯飲め」

<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>を抱いて、さあ三杯目の水を幸内の頭から浴びせようとして、神尾主膳はよろよろとよろけました。幸内に浴びせようとした水を三分の一ばかり、自分の懐ろの中へ浴びせてしまいました。

「あッ、冷たい」

主膳は釣瓶を取落すと、釣瓶は井戸の中へ落ちました。やり<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>なった主膳は、まだ釣瓶の綱の手を放さないで四杯目の水を汲みにかかりました。<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>をかけてウンウンと力を入れて<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>った時は、自分のしている残忍そのものの興味をも忘れているようであります。

かわいそうに幸内は、主膳が酒乱の犠牲となって、<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り<ruby><rb>殺</rb><rt>ごろ</rt></ruby>しにされなければ納まらないでしょう。弄り殺しにした上に、その屍骸を粉々にしなければ納まりそうにはありません。

主膳は悪魔のうなるように、ウンウンと力をこめて綱を引きました。力余って釣瓶を井戸車の上まで<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げてしまいました。井戸の水は、滝が岩に砕けるように一時にパッと飛び散りました。

「うーん」

その途端に神尾主膳は、どうしたハズミか二三間後ろへ<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>と尻餅を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いてしまいました。釣瓶の縄が切れたのです。釣瓶は<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい音をして<ruby><rb>単独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で井戸の底へ落ちて行きました。ハズミを喰って尻餅を搗いた神尾主膳は、暫らく起き上ることができません。

「神尾殿、神尾殿」

やや暫らくして神尾主膳は、何者にか呼び<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>まされました。

「あ……」

主膳は気がついた時に、自分の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の上へ小田原提灯を差しつけている者があることと、また自分の身体を後ろから抱き上げている者があることを知りました。

「神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」

後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>のような<ruby><rb>扮装</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、看板の上には半合羽を着て、脇差を一本だけ差しておりました。

「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>の縄が切れたから、それで尻餅を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いて気を失っただけなんだ」

小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。

やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、

「これはこれは、小林文吾殿か」

この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな<ruby><rb>扮装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしてここへ来合せたかということも、疑問にならないではありませんでしたけれど、

「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこの<ruby><rb>状</rb><rt>ざま</rt></ruby>じゃ――して貴殿方はどうしてここへ」

「我々はちと尋ねる人があって、その人を尋ねてこのあたりまで来たところ、ついその人を見失うて……」

「それはそれは、ともかく、あれまで」

神尾主膳は立ち上りました。先に立って小林を屋敷のうちへ案内しようとすると、

「こりゃどうしたんだ、エ、ここに男が一人縛られて倒れてるが、こりゃどうしたんだ」

と言って、けたたましく叫んで提灯を振りかざしたのは米友であります。

「ああ、そりゃあきちがいじゃ、養生のためにそうして水を浴びせてやるのじゃ」

神尾は憎そうに言い捨てました。

「いくらきちがいだってお前、この寒いのに<ruby><rb>井戸側</rb><rt>いどばた</rt></ruby>へ、水をかけて置きっ放しにしたんじゃ<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>え死んでしまうじゃねえか」

米友は同情しました。神尾は米友の方を、じっと見ただけで取合わずに、小林に向い、

「貴殿方が尋ぬる人というのは、そりゃ、いかなる人でござるな」

「ほかではござらぬ、このごろ市中に評判のある辻斬の<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>を尋ねんがために」

「なるほど」

「<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>から<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>へかけて、こうして<ruby><rb>扮装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を変えて毎夜のように尋ねてみるが、ついぞ<ruby><rb>出会</rb><rt>でっくわ</rt></ruby>し申さぬ。しかるに今夜という今夜、柳小路で見かけた怪しの者、見えがくれに後をつけると、要法寺の墓地へ入って行衛が知れず、引返そうとした時に、かねて<ruby><rb>謀</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せておいたこの男、同じような怪しい者が、たった今、古城の方へ行ったと申す故、二人で後追いかけて、たしかに姿を認めたのが当屋敷の裏手。喜び勇んで駈けつけて見れば、それは尋ねる曲者ではなくて、御主人の神尾殿がこの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらく」

小林文吾は一通りの事情を話して苦笑いしました。

「それは、それは」

神尾はそれを聞いてなんとなく<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないような心持で、例の座敷の傍へ来て縁側から覗いて見ると、さいぜん、さんざん問題にした丸行燈の火は消えてしまっていましたから、中は真暗でありました。

幸いに米友は小田原提灯を持っていました。頼まれもしないのに、幸内を担いでその縁側のところまでやって来ていました。

主膳と幸内とを座敷の中へ送り込んで、小林文吾と米友とはそこを辞して外へ出てしまいました。

そのあとで、主膳は座敷の中で寝転んで、詩を吟じてみたり、<ruby><rb>新内</rb><rt>しんない</rt></ruby>を語ったりしてみましたが、やがて思い出したように起き直りました。米友が提灯からうつした行燈には火が入っていました。その行燈の下に幸内は、水を浴びせられたままで<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>って置かれてありました。主膳はその傍へ寄って来て、

「幸内、お前にもだいぶ苦しい思いをさせたな、どれ、許してやろう、縄をゆるめて<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わすぞ」

と言って、縛ってある幸内の縄の結び目を解きにかかりました。酒乱は止んだらしいけれど、酔いはまだ<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めていないようであります。

ついに面倒になったものと見えて、主膳は<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>を抜きました。その小柄でブツリブツリと縄を切ってしまいました。

こうして手首の縄を切られたけれど、幸内はグッタリとしていました。

「ははははは、おとなしいな」

と主膳は笑いました。それから同じ小柄をもって足首の縄をブツリブツリと切りかかりました。

縄は足首の中に食い込んであったのを切ってしまうと、幸内の両足も自由になりました。

両手も両足も自由になったけれど、幸内はグッタリとして動きません。それはそのはずです、三杯目の水を浴びせられようとする時分から、幸内は絶息していたものでありましたから。

「ははは、永らく窮命させた、これで許して遣わす、どこへなと勝手に出て行け」

神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。

「はははは」

と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると<ruby><rb>新内</rb><rt>しんない</rt></ruby>の<ruby><rb>明烏</rb><rt>あけがらす</rt></ruby>をところまんだら<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んで<ruby><rb>鼻唄</rb><rt>はなうた</rt></ruby>にしているうちに、グウグウと寝込んでしまいました。

主膳の<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>がようやく高くなった時分に、幸内の身体が少しばかり動きました。絶息していた幸内の眼に白い雲のようなものがかかりました。幸内は夢のように手を振りました。それが気のついたはじめで、それから自分のことを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>るまでには、なお幾分かの時間がかかりましたけれど、結局、幸内は我に返りました。

我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。

それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体で<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い起きたのが不思議なくらいでありましたけれど、這い起きて見るとこれも嬉しや、足も自由になっていました。

見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。

幸内はゾッとしてしまいました。永らく<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れを苦しめて苦しめ抜いた<ruby><rb>極悪人</rb><rt>ごくあくにん</rt></ruby>という<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>がむらむらと起りましたけれど、その憎悪は<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>というところまで行かない先に、恐怖を以て占領されてしまいました。

何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と迫って来たから、幸内は縁側の方の戸を押し開きました。一生懸命で戸を開いて縁側へ出て、縁側から転げ落ちて、やっと起き直って、庭を駈け出してまた転びました。また転んでまた起きました。その有様は後ろから鬼に追われて、足の<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んだ夢を見ているような形でしたけれど、別に何者も追いかけるのではありません。

神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。

例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつも<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめている<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>が一層蒼ざめていました。

「神尾殿、神尾殿」

行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。

「やあ、机氏、どこへ行っていた」

神尾主膳はやっと起き直りました。

「夜遊びに行って来た」

と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、

「や！」

神尾は<ruby><rb>悸</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>として少しく身を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>かせました。

胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。

神尾が見て<ruby><rb>悸</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>としたのは、その竜之助のもぎ取ろうとしている白い物が、人間の手のように見えたからであります。

人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。

「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」

主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。

「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」

竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。

「どうしたのじゃ」

主膳は再びたずねました。

「これが……この手首が……」

竜之助は、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に力を入れてその羽織にぶらさがった人間の手を引きました。

「斬ったのか、人を斬ったのか……」

主膳は面を突き出して、その手首を<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と見届けようとして、

「取れないのか」

「取れない」

「どれどれ」

「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに<ruby><rb>密着</rb><rt>くっつ</rt></ruby>いて離れない」

「拙者が離してみてやろう」

神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、

「こりゃ女の腕ではないか」

「ああ、女の腕よ」

「女を斬ったのか」

「うむ、女を斬った」

「なぜ斬った、どこで……」

それから、やや暫らく古屋敷の中は<ruby><rb>寂然</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>としていましたが、

「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」

机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>りました。

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ、静かに」

それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。

それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、

「や、幸内がいない。幸内が逃げた」

と叫ぶ声が聞えました。

幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに気がつかないでいたと見えます。

それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>がわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>をはじめましたようであります。

主膳は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。

「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>く、たまらぬ」

竜之助は座の左を探って、<ruby><rb>手柄山正繁</rb><rt>てがらやままさしげ</rt></ruby>の刀を取り上げました。

「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしていたか、醜い面をしていたか、それもわからぬ。若い女であったら何とする、また美しい女であったら何とする、おれはただ斬ればよいのだ、斬りさえすれば胸が透くのだわい。声をしるべに斬った途端に、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついて泣いたからまた斬った、それでこの片腕がおれの羽織にしがみついたなりに残った」

竜之助はその刀に残る血の香に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えつくようでありました。身体もまたブルブルと顫えて、手に持った刀から水が飛ぶようであります。

「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾くように人が斬りたい。あの幸内とやらは逃げたそうな、長持の中の窮命人は逃げたそうな、せめて彼でもいたら斬ってみたい、一人では斬り足らぬ。どうしてまた、今宵はこれほどに人が斬りたいのだ」

竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているのでありました。それは血を飲みたいがために乾いた咽喉であります。

「ああ、甲府は狭い、一夜のうちに二人と人が斬れぬ、江戸へ出たい、江戸へ出れば、好みの人間を好むように斬ることができるのだ――今宵斬れば明日の晩は遠慮せにゃならぬ。甲府の土地にはおられぬ、江戸へ出る工夫はないか。江戸へ出て思うままに人を斬らねば、おれは生きてはおられぬのだ」

彼は狂する者のように、刀の血の香いを嗅いでいるのでありました。

## 九

その翌朝、甲府の市中がまた沸き立ちました。それはまたしても辻斬があったからであります。

その騒ぎ方と驚き方と怖れ方とが、今までよりも一層甚だしかったのは、斬られたのが女であったからであります。今まで斬られた者のうちに女は一人もありませんでした。昨夜斬られたのは女でありましたからです。

それは<ruby><rb>八日市</rb><rt>ようかいち</rt></ruby>へ呉服屋を出して、いくらもたたない若夫婦でありました。その女房が良円寺の門の前で斬られました。それはこの<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>のことでありました。

この呉服屋の<ruby><rb>小店</rb><rt>こだな</rt></ruby>の若い夫婦の間には、今年生れの可愛い男の子があって、虫のせいかその夜中に苦しがって気絶してしまったのを、若い女房は、その夜中であることも、このごろ辻斬が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>るというようなことも知っておりながら、考え直す余裕がなく、良円寺の内に住んでいるお医者を迎えに行きました。

夫なる人もまた、自分が女房に代って医者を迎えに行くことさえ気がつかなかったくらいでしたから、気絶した子供を抱えて、前後を顛倒して為すべき<ruby><rb>業</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らなかったものであります。

そのうち隣家の人も来てくれましたけれど、女房は帰らないし、医者も駈けつけてくれません。

隣家の人たちが提灯をつけて、良円寺まで迎えに行った時から、この騒ぎが始まったものであります。

女房は帰らないはず、医者も来てはくれないはず――その若い女房は良円寺の門前に斬られておりました。

思慮のない人々は、その驚愕と戦慄と恐怖とをそのまま<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>で持って来て、若い亭主の前へブチまけたからたまりません、若い亭主はその場で即座に発狂してしまいました。

抱いていた子を投げ出してゲラゲラと笑い出しました。

来てくれた人々を見てもゲラゲラと笑いました。釣台で運んで来たその女房の<ruby><rb>無惨</rb><rt>むざん</rt></ruby>な<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を見た時もゲラゲラと笑いました。

幸いにしていったん気絶した子供は、医者の来てくれたことによって蘇生して、無邪気な笑い顔を見せるようになりましたけれど、親なる人のゲラゲラ笑いは無制限に放縦なものになってしまいました。人が騒いでいる間に、若い亭主はゲラゲラ笑いながら、フイとどこへか姿を見せなくしてしまいました。

これで小さな八日市の呉服店はつぶれてしまいました。地廻りの若い者たちに<ruby><rb>岡焼</rb><rt>おかやき</rt></ruby>をさせた愛嬌のあるおかみさんと、お世辞のよい御亭主と、その間の可愛らしい子供から成り立った平和な家庭が、根柢から<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>けてしまいました。

市中の上下は、その<ruby><rb>惨虐</rb><rt>さんぎゃく</rt></ruby>なる殺人者の何者であるかを<ruby><rb>揣摩</rb><rt>しま</rt></ruby>して、盛んに<ruby><rb>役向</rb><rt>やくむき</rt></ruby>を罵りました。役向を罵るばかりでなく、おのおの進んで辻斬退治のために私設の警察を作ろうとしました。

その晩は幸いに何事もありませんでしたけれども、その翌日になると、町の人は気の毒とも悲惨とも言い様のない一つの光景を見せられることになりました。

発狂して親戚に預けられた呉服屋の若い亭主が、その子供を背に負うて何か言いながら、<ruby><rb>当途</rb><rt>あてど</rt></ruby>もなく町を歩いていることであります。

その若い亭主は、どこを目当ともなく歩いていましたけれど、時々休んではゲラゲラと笑います。そうすると背中にいる子供は、それを喜んで、またキャッキャッと笑い興じているのであります。

それらのことを知るや知らずや机竜之助は、ちょうどそれから三晩目の夜中に、そっと<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>の古屋敷を抜け出しました。

<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、羽織を着、刀を差して、竹の杖をつくこと例の通りにして、いつのまにか<ruby><rb>愛宕町</rb><rt>あたごちょう</rt></ruby>の東裏へその姿を見せましたが、そこへ来ると境町の方からズシズシと<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の人の足音が聞えました時に、竜之助は、時の鐘の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の下へ<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のように身を張りつけて、その足音をやり過ごしました。

「こんなところが<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>じゃ」

と言って過ぎ行く一隊の中で、六尺棒を突き立てて暫らく時の鐘の櫓の下に立っている者もありました。

「斬る方では、こんなところが<ruby><rb>究竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>だけれど、わざわざこんなところへ斬られに来る奴はあるまい」

そんなことを言って行き過ぎてしまいました。これは辻斬を警戒するために組織された一隊の足軽たちと見えます。これをやり過ごすと竜之助は、また静かに櫓の下から出て来ました。

<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>を渡ると境町の通りであります。甲府の城を右に、例の牢屋を左に、その中の淋しい通りです。そこをズッと市中の繁華な方へ歩んで来るうちにも、竜之助の<ruby><rb>勘</rb><rt>かん</rt></ruby>が驚くべきほどに発達していることがわかります。一町二町先から人の足音を聞き取って、高塀や木蔭に身を忍ばすことの巧妙なのは、さながら忍びの術の精妙から出でたものかとも思われます。

通り過ぐる人を物蔭から測量して、斬って捨つべきか否かを吟味して後、やり過ごして物蔭から身を現わす時は、幽霊が出て来るようであります。

三の<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>まで出たけれども竜之助はまだ、しかるべき相手を見出さないようであります。三の廓の留まりを直角に廻って、竜之助は東に向きを変えて歩みました。東に向きを変えるとお城が背になって、牢屋が左になって、行手には長禅寺山が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えているのであります。

「ゲープ、寒いなア」

「<ruby><rb>滅法界</rb><rt>めっぽうかい</rt></ruby>寒い」

折助が五人ばかりかたまって来ました。

「芋で一杯飲んで来たが、ここへ来るといやに寒くなりやがった」

「それ、辻斬！」

「やい、<ruby><rb>嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>すない」

ここで黙ってしまいました。言い合せたように身ぶるいをして、

「はははは」

<ruby><rb>附元気</rb><rt>つけげんき</rt></ruby>らしく高笑いをして、牢屋の方へ曲って行きました。

それをもやり過ごして、なおも廓の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>を歩んで行った竜之助が、いつしか足を留めたところは、とあるお寺の門の前でありました。

竜之助は小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げて杖で大地を突いてみました。大地は別に異様な音を立てるではありませんでした。ただこの時分になって、町も廓も一面に霧のようなもので包まれてしまったことであります。さきには聳えて影を見せた日本丸の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>も、それがために見えなくなってしまいました。いま立っているお寺の門も、その前の竜之助も同じく、その霧のような<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>で包まれてしまいました。

その霧のような靄に包まれた甲府の町の夜は、この時静かなものでありました。その静かなうちに、町の辻々は例によって辻斬警戒の組の者が六尺棒を提げてのっしのっしと過ぎて行くのであります。ただ一つ不思議でならないことは、その静粛にしてしかも物騒なる甲府の町の夜の道筋のいずれかを、子供が泣いて歩いているらしいことであります。

机竜之助が<ruby><rb>如法闇夜</rb><rt>にょほうあんや</rt></ruby>の中に一人で立ち尽していたのは、その子供の泣く声を聞いたからであります。子供の泣く声が、だんだん自分に近く聞えて来たからであります。

「モシモシ」

と言って、霧のような靄の中から、不意に言葉をかけたものがありました。

それは、竜之助を見かけて呼んだものとしか思われないのであります。ナゼならば竜之助のほかにこの夜中に、ここらあたりを歩いている人があろうとは、竜之助自身も思い設けぬことでありました。

「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」

こう言いながら近寄って来るのであります。

近寄って来るところによって見れば、その背中で子供が泣きじゃくっているらしいことであります。竜之助は、ただ黙って立っていました。

ここにおいても竜之助は、その自身すら、自分に近寄って来る者の心のうちを<ruby><rb>推</rb><rt>すい</rt></ruby>するに苦しみました。

ことにまだ<ruby><rb>乳呑児</rb><rt>ちのみご</rt></ruby>らしいのを背にして、この夜中に、人もあろうに、自分を呼びかける人の心は計られぬのです。

「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」

竜之助は近寄って来る者の足音に耳を傾けましたけれども、その足音は一人の足音です。その背に負うた子供のほかには、何者をも引きつれて来たとは思われません。<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んやこの男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">オトリ</span>にして、あとから与力同心だの、足軽小者だのいう者が<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>い寄るというような形勢は更にありませんでした。

「モシモシ、少々お伺い致したいものでございますがねえ」

なんらの怖れることと、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ることがなしに、竜之助の刀の下へ、身を<ruby><rb>露出</rb><rt>むきだし</rt></ruby>に持って来る者があります。

「何を聞きたいのだ」

竜之助は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として、返事をしてしまいました。

「あの、ほかではございませんがね、少々お尋ね申したいと言いますのはね、それは私の女房のことなんでございますよ、私の女房はまだ若くって、なかなか愛嬌があるおかみさんなんでございますよ」

憮然とした竜之助は、ここに至って<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>としました。あ、きちがいだ！　道理で……

「その私の女房でございますがね、それはどこへ行ったんでございましょう、どうもあの女房に出られては、私も困るんでございますがね、なかなか愛嬌があって人好きのする女でございますものですからね、近所の人もみんな<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてくれましたんでございますよ、それで私との仲も好かったんでございますよ、それが急に見えなくなってしまったものでございますから、私も心配なのでございますよ、それに坊やがこうやって泣くものでございますからね、どうかしてモウ一ぺん帰って貰いたいと思うんでございますよ」

ついに竜之助の傍まで来て、その<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を持ってグイグイと引きました。

「わしは知らない」

「左様でございますか、なんでも人の話では、良円寺前で斬られたということでございますが、そんなことがあるものでございますか、ねえ、旦那、そりゃ嘘でございますねえ」

続けざまに袂をグイグイと引いてこう言いかけられた時に、竜之助は身ぶるいして、見えない眼でその男の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見下ろしました。

甲府に<ruby><rb>徽典館</rb><rt>きてんかん</rt></ruby>というものがありました。これは士分以上の者、または農商のうちでも相当の身分の者の子弟が学問をするところであります。その晩のこと、この徽典館へ多くの子弟が集まりました。多くは前髪立ちのものばかりであります。

この集まりは別段、今ごろ騒がしい辻斬問題と交渉があるわけではありません。ただ時々こうして集まって、青少年の気焔と談話とが賑わしく、また勇ましく語り合われるものでありました。

今、ここで話題になっていることを聞いても、それがこのごろの天下の形勢や、<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby>の辻斬の問題とは触れておりません。

彼等の間の話題は、近いうちおたがいに結束して山登りをしようということの相談でありました。その山登りをすべき山は、どこにきめたらよかろうかということにまで相談が進んでいたのであります。<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>の国のことですから、山に不足はありません。多過ぎる山のうちのそのどれを<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んでよいかという評議であります。

「富士山に限る」

と言って大手を拡げたのがありました。それと同時に、富士山は甲斐のものである、それは<ruby><rb>古</rb><rt>いにし</rt></ruby>えの記録を見てもよくわかることである、しかるに中世以来、駿河の富士、駿河の富士と言って、富士を駿河に取られてしまったことは心外千万である、甲斐の者は奮ってその名前を取戻さねばならぬ、なんどと主張しているものもありました。

けれどもこの説は、事柄が壮快であるにかかわらず、事実において問題が残ってありました。

「しからば天子ヶ岳へ登ろう」

と主張する者もありました。名前が貴いからそれで、若い人はそんなことを言い出したものと見えます。

それらを最初にして、いろいろの説が出ました。<ruby><rb>御岳</rb><rt>みたけ</rt></ruby>の奥、金峰山がよかろうというものもありました。或いは天目山を推薦するものもありました。少し飛び離れて駒ヶ岳を指定するものもありました。

その山々の名が呼ばれるに従って、いちいちその山の地勢だの、その山から起った伝説だの、そんなことが青少年の口から口へ泡を飛ばして語り合われるから、なかなか山の相場がきまりません。

そのうちに、<ruby><rb>流鏑馬</rb><rt>やぶさめ</rt></ruby>をやろうじゃないかという説も出ました。この説がかなり有力な説になっていきそうでありました。八幡宮で行われる流鏑馬が久しく<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れているから、それを起そうじゃないかという説は、これらの子弟の説としては根拠もあり理由もある説なのであります。

また一方においては、我々でお能の催しでもしようではないかという温雅な説も出て来ました。それは大した勢力はなかったけれど一部のうちには、なかなか熱心な<ruby><rb>面付</rb><rt>かおつき</rt></ruby>をしている者がないではありません。

議論百出で、容易になんらの決定を見ませんでしたけれども、大体において、近いうち<ruby><rb>徽典館</rb><rt>きてんかん</rt></ruby>の青少年らしい催しをして、大いに元気を揚げようじゃないか、ということに一致したのであります。それで<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>出て来たいろいろの議論を参考として、次回の集まりまでに成案を立てるというだけはここできまりました。

それから各自になるべくその主張するところに多くの賛成者を求めようとして、雑談の間に<ruby><rb>遊説</rb><rt>ゆうぜい</rt></ruby>を試みているのもありました。それで夜の更けると共に、席はいよいよ興が乗ってゆくばかりです。

この連中が解散を告げて徽典館の門を出た時分に、<ruby><rb>黒闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>の夜に例の霧のような<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がいっぱいに拡がっていました。後なる人は前の人の影をさえ見ることができません。前の人はまた後の人の名を呼んで門の前から三々五々、その志す家路に帰ろうとする時に、はじめてこの青少年たちに警戒の心が起りました。

もう夜が更けている。暗い上に<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がかかっている。こういう晩に門外へ出ると、そぞろにこのごろの世間の噂の中の人とならないわけにはゆきません。

彼等は言い合せたように、三人五人かたまって行きました。<ruby><rb>空身</rb><rt>からみ</rt></ruby>であるのもあったけれども、<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>と道具とを<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>っているのもありました。お能をやりたいと言った少年たちのうちには特に得意の美音で、<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>をうたい出したのもありました。ましてや間近き鈴鹿山、ふりさけ見れば伊勢の海……なんぞと<ruby><rb>口吟</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>んだ時は、いかにも好い気持のようでありました。

どこかで太鼓の音がしています。それは近在の若い者たちが<ruby><rb>囃</rb><rt>はやし</rt></ruby>の稽古をしているものらしい。<ruby><rb>大胴</rb><rt>おおどう</rt></ruby>を入れる音と、笛を合せるのと、シャギリの音までも手に取るように響いて来たものであります。

「あの連中は根気はいいな、寒稽古といって<ruby><rb>夜徹</rb><rt>よどお</rt></ruby>しやっていることがある。太鼓を叩いて笛を吹いて、<ruby><rb>馬鹿面</rb><rt>ばかめん</rt></ruby>を被って踊ることでさえも、あの通りの根気がいる、それで、十年二十年と苦しんでもなかなか上手にはなれぬそうじゃ、<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んや我々の武芸学問においてをや」

囃の稽古を聞いても、こんなことを言い出すものがありました。

「一生苦しんでも出来ぬ奴は出来ん……と言って一心を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて精を出せば僅かの間にも上達する。拙者はこのごろ、ふと或る人の話を聞いた、歳は僅かに十七、我々とそう違わぬけれど、この甲府城の内外には及ぶものはなかろうとの剣術の達者があるという話を聞いた」

彼等少年軍の多くは足駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いておりました。<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てついた大地をその足駄穿きで、カランコロンと蹴りながら歩いていました。

「そんな人がどこにいる」

前へ進んだのが後ろを振返りました。振返ったけれど、やはりおたがいの姿は見えないのです。

「この甲府にいるにはいる」

「ナニ、左様な人が甲府にいると？　それならば教えを受けたいものだ、ぜひ」

やはり前へ進んでいた剣術の道具を荷ったのが踏み止まりました。

「甲府にいるにはいるけれど、居所が変っているから、お<ruby><rb>紹介</rb><rt>ひきあわせ</rt></ruby>をするわけにはゆかんのじゃ」

「居所が変っていると？　およそこの甲府の附近であったなら、どこでも苦しくない、行って教えを受けようじゃないか」

「それは我々には行けないところ、先方もまた我々に来られないところだから仕方がない」

「そのようなところがあろうはずがない」

「<ruby><rb>畢竟</rb><rt>つまり</rt></ruby>、この甲府の牢屋の中にいるのだから我々には会えん、また先方も出て来られんのだ」

「甲府の牢屋の中に、まだ少年でそしてそれほどの剣道の達者がいると？　いったいそれは何という者で、何の罪で牢獄に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がれたのじゃ」

「それは宇津木兵馬といって、御金蔵破りの嫌疑があって、牢から出られない。聞くところによれば、江戸で島田虎之助という先生の門人で<ruby><rb>直心陰</rb><rt>じきしんかげ</rt></ruby>を学び、それから宝蔵院の槍の極意に達し、<ruby><rb>突</rb><rt>つき</rt></ruby>にかけては甲府城の内外はおろか、お膝元へ出ても前に立つ者は少なかろうとのこと」

「それほどの人が、御金蔵破り？　そりゃ<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>であろう、我々の力でどうかしてその冤罪を晴らしてやる工夫はないものかな」

彼等は靄の中を歩いているのだか、立ち止まっているのだか、わからないほどであります。

<ruby><rb>徽典館</rb><rt>きてんかん</rt></ruby>の少年たちの一組は、こんなことを話し合いながら靄の中を歩いて行きました。

闇がいよいよ黒くなるところへ、靄がいよいよ濃くなってゆくのでありました。靄というけれども、やはり霧といった方がよいかも知れません。或いは雲という方が当っているかも知れません。天地が墨の中へ<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>を交ぜて塗りつぶしてゆかれるようです。

彼等の一組が御代官陣屋の方を指して行くと、

「あ、赤児の泣く声が聞えるではないか、諸君」

と言うものがありました。

「なるほど」

と言って耳を傾けました。なるほど、赤児の泣く声がするのであります。それも家のうちで泣いているならなんのことはないけれど、家の外、町から町を泣き歩いているもののようであります。

だから少年たちはまた一かたまりになって、

「ハテ、この夜中に子供が泣きながら道を歩いていようとは……」

「モシモシ」

その厚くて濃い闇と靄の中から、不意に言葉がかかりました。それは子供の言葉ではなく、

「少々承りとうございますがね、わたしの女房はどこへ行ったんでございましょう、わたしのおかみさんはどこへ参りましたろう、まだ帰って参りませんよ」

少年たちは、そのあまりに不意の言葉に驚かされてしまいました。それは<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ怖ろしいくらいで、

「誰じゃ、どなたでござるな」

と<ruby><rb>誰何</rb><rt>すいか</rt></ruby>しましたけれども、それを耳に入れる様子はなく、それとは<ruby><rb>相反</rb><rt>あいそ</rt></ruby>れた方へ行ってしまいながら、

「もしもし、少々物を承りとうございますがね、わたしのおかみさんがまだ帰って参りません、女房はどこへ参りましたろう」

そこで少年たちは、

「<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>だろう」

「<ruby><rb>狂人</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>じゃ」

と言って気の毒がりました。

その狂人と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しい男は暫らくして足音も聞えなくなりましたが、やがて前の子供の泣く声が異なった方向で、町から町を筋を引いて歩くように聞え出します。

「危ないものだ、子供を背負うて夜中にああして歩いている、さだめて女房に死なれて、気が狂うたものと見ゆる」

「それに違いない。しかし、このごろのように物騒な時に、ああしてこの夜中を歩くのは、薪を背負って火の中へ駈け込むのと同じことじゃ、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>がなければよいが」

「ここへ来れば取押えて家まで連れ戻してやろうものを、向うへ行ってしまったから仕方がない」

「あの男のことばかりではない、我々もまた用心せんと……」

彼等はこう言って、また歩き出しました。もとよりこの一組の少年たちのうちにも、勇なるものと<ruby><rb>怯</rb><rt>きょう</rt></ruby>なるものとがあります。けれどもこうかたまってみれば、勇なる者にも守る心が出来、怯なるものは勇なる者に同化され、勇怯合せて一丸となった別の心持に支配されるのであります。

例の子供の泣く声が糸を引いたようにして絶えることしばし。その時、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>として耳を貫く物の響が起りました。物の響といううちに、やっぱりそれは<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>ける物のなせる声でありましたけれど、前のとは違って人の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>にピリピリと<ruby><rb>徹</rb><rt>こた</rt></ruby>えるような勇敢にして<ruby><rb>凄烈</rb><rt>せいれつ</rt></ruby>なる叫びでありました。

「や、あの声は？」

「狼ではないか」

「熊ではあるまいか」

少年たちはまたも足をとどめたが、その<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>え落す声をじっと聞きとめて、

「やっぱり、犬のようじゃ」

いま吠え出したそれはまさに犬の声であります。犬の声ではありましたけれども、尋常の犬の声とは思われません。

それはさておいて、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっそろしい</span>闇と靄の晩にも泰平無事なのは、甲府のお牢屋の番人の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>であります。

小使の老爺は貰いがたくさんあります。牢の中にいても金を持っている奴は、小使に頼んでいろいろの物を買ってもらうことができる。最初に持っていた金は役人のところへ取り上げられて、必要に応じて少しずつ下げ渡される制度であったが、その少しずつ下げ渡された金で、小使の老爺に頼んで、内々でいろいろの物を買い<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えるのであります。

<ruby><rb>生姜</rb><rt>しょうが</rt></ruby>や<ruby><rb>日光蕃椒</rb><rt>にっこうとうがらし</rt></ruby>を買ってもらうものもあります。紙の将棋盤と駒を買ってもらって勝負を楽しむものもあります。武鑑を買ってもらって読むものもありました。お<ruby><rb>菜</rb><rt>かず</rt></ruby>が無いので困る時には、生姜や日光蕃椒のほかに、ヤタラ味噌や<ruby><rb>煮染</rb><rt>にしめ</rt></ruby>などを買って仲間へ<ruby><rb>大盤振舞</rb><rt>おおばんぶるまい</rt></ruby>をするものもありました。また大奮発で二両三両と出して毛布の類を買い込んで、寒さを<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぐような<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>なものもありました。<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を一枚買い足して重ね着をする者もありました。

酒は固く禁じてありましたけれども、それとても小使に頼めば薬を買うというなだいで、<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>や<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>しを買って来てくれます。

その度毎に小使はコンミッションが貰えます。コンミッションが貰える上に更にその代金の頭を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねることもできます。このごろ<ruby><rb>贋金使</rb><rt>にせがねづか</rt></ruby>いというのがこの牢へ入ってから、この小使のうるおいがまた大きくなりました。それですからこのごろの小使は成金で、天下はいよいよ泰平です。

午後の四時から九時までの間に、お役目だけの役人の見廻りがあります。その時は小使と番人とが、

「お見廻りでござりまするぞ」

と<ruby><rb>先触</rb><rt>さきぶれ</rt></ruby>をして各牢を廻って歩くと、牢内の一同が、

「御苦労さまでござりまする」

と言ってお礼を申し上げるのがきまりになっておりました。

この成金で、そうして天下泰平であった甲府の牢番も、勤めに在る以上、やはり相当の<ruby><rb>責</rb><rt>せめ</rt></ruby>を尽さねばなりません。

「はははは、二番の贋金使いの弥兵衛たらいう奴は、さすがに贋金でも使ってみようというだけあって話せる奴だわい、お寒いに御苦労さまでございますなんかと言って、袂の裾をふんわりと重くさせる奴さ。それに比べると<ruby><rb>武士上</rb><rt>さむれえあが</rt></ruby>りは、いやに見識が高くって薬の利き目が薄いのは<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>だが、それにしても御方便に、おれの持場はみんな客種が上等で仕合せだ」

<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持って、眠い眼をこすりながら立ち上り、

「いるかな」

<ruby><rb>御定例</rb><rt>ごじょうれい</rt></ruby>に提灯をかざして、一番の牢の内を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見ました。

返事がしないのは、よく寝ている証拠でありましょう。牢番は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて第二番室の前、

「いるかな」

また御定例に提灯をかざし、格子の中を覗いて見ましたが、ここでもやっぱり返事がありません。

天下もあまり泰平過ぎると気味が悪くなるものです。いつも一人や二人返事をするはずのが、一番二番を通して一人も返事をする者がありませんから、牢番もあまりの泰平に拍子抜けがして、なおよく格子の間から覗いて見て、

「おや？」

と言って仰天しました。

この時分、牢屋の外も、同じように墨と<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>で塗りつぶした夜の色で包まれていました。

「<ruby><rb>破牢</rb><rt>はろう</rt></ruby>、破牢、牢破り！」

この声が牢屋の中のすみから起ると共に、牢の内外の泰平は一時に破れてしまいました。

「スワ！」

という騒ぎ。<ruby><rb>高張</rb><rt>たかはり</rt></ruby>がつき提灯がつき、用意の物の具が、物すさまじい音をして牢屋同心の人々の手から手に握られました。

けれども<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が深いから、高張も提灯もその光が遠く及ばないのであります。人々の騒ぐのも、ただ電燈の消えた湯屋の流し場の中で騒ぐのと同じことで、おたがいの姿を見て取ることができません。<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んや破牢の者共は、どの道をどの方向に逃げたのか、サッパリその見当もつきません。

「出合え、出合え」

という声が北の方の外まわりの高塀の下で聞えましたから、同勢はその声をしるべに、同じ方向へ駈けて行きました。

「待て！」

と言う声が聞えました。

「うーん」

とうなる声と共に、ドサリと人の倒れる音がしました。

「どこだ、どっちへ逃げた」

同勢はその<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る声と、人の倒れる音を目当として靄の中を進みます。

「<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>った！」

「<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>な！」

そこで<ruby><rb>喧々濛々</rb><rt>けんけんもうもう</rt></ruby>として一場の大挌闘が起ったようであります。

「提灯を！　高張を！」

同勢が叫びました。提灯と高張とは一度にそこへ集められました。その光で、あたりの光景が<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を流したように明るくなりました。そこに<ruby><rb>一箇</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の囚徒が<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>のように<ruby><rb>荒</rb><rt>あば</rt></ruby>れています。

その荒れている囚徒というのはすなわち、宇津木兵馬と室を同じうした、かの奇異なる武士でありました。仮りにその名を南条と呼ばれていた武士でありました。

南条は左の小脇にまだ病体の宇津木兵馬を抱えながら、右の手と足とを縦横に働かせて、組みついて来る同心や手先や非人を取って投げ、蹴散らして、阿修羅のように戦っているのであります。

南条は外まわりの<ruby><rb>総高塀</rb><rt>そうたかべい</rt></ruby>を背にして、寄り来る人々を手玉に取りながら、一歩一歩と高塀の方へ押着けられて行くのであります。いや押着けられて行くのではない、自分からジリジリとさがって行くようであります。

いよいよ南条はその<ruby><rb>塀際</rb><rt>へいぎわ</rt></ruby>までさがった時に、手早く塀の一端へ手をかけました。その手をかけたことによって気がつけば、見上げるような高い塀の上から、一条の<ruby><rb>縄梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>が架け下ろしてあります。

この縄梯子は尋常の梯子よりは大へん狭いものでありました。狭いものであったけれども、かなり丈夫に見えました。

それは尋常の縄ではありません。このとき思い当るのは、手内職というてこの奇異なる武士が、暇にまかせて<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えておいた<ruby><rb>紙撚</rb><rt>こより</rt></ruby>であります。その紙撚がここに梯子となって利用されているものとしか見えません。

片手と片足とをその縄梯子にかけた時、

「捕った！」

もうその前後から<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のように<ruby><rb>捕方</rb><rt>とりかた</rt></ruby>が飛びつきました。

この時、どこから来たか一隊の人が闇と靄との中から打って出でました。

彼等は物をも言わず牢屋同心や牢番や小使や非人の中へ打ってかかりました。手には丸太や<ruby><rb>板片</rb><rt>いたきれ</rt></ruby>を持っているものもあれば、同心や牢番を叩き伏せてその<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を奪うて働くのもあります。

言うまでもなくこれは第二番室の破牢の一組で、先に立って指揮するのは<ruby><rb>武士体</rb><rt>さむらいてい</rt></ruby>の屈強な壮者でありました。

「弥兵衛殿、お前は南条と一緒に宇津木君を助けるがいい、あとは我々が引受ける」

「それではひとつそういうことにお願い申します」

弥兵衛と呼ばれた男の駈け出すのを認めた非人が、

「やい、貴様は贋金使いの野郎だな、逃すこっちゃあねえ」

前後から組みついて来たのを、

「邪魔しやがるな」

贋金使いは二人を投げ飛ばしました。

「南条様、兵馬様を私にお渡しなさいまし、私の方が身軽でございますから、さあお出しなさいまし」

贋金使いは<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みつく奴を蹴飛ばして、奪い取るように兵馬の身体を南条という武士の手から受取って、<ruby><rb>一本背負</rb><rt>いっぽんじょ</rt></ruby>いに背中へ引っかけて、それと同時に片手を懐ろへ入れるやヒューと塀に向って投げたのは一筋の細引であります。その細引が弓の<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>のように張っているのを伝わって矢のように早く、見上げるような高塀を上って行ったその身の軽いこと、<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>の早いこと。

それを見届けてホッと息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた南条という壮士は、多勢の中へ躍り込んで、非人の持っていた六尺棒を奪い取り、

「五十嵐！」

と一声叫ぶと、

「おうー！」

ほど遠からぬところで勇ましい返事。

<ruby><rb>徽典館</rb><rt>きてんかん</rt></ruby>の少年たちが家路へ帰りがけに、猛然たる犬の吠え声に驚かされたのは、牢内にこの騒ぎが起ったのと前後しての時であります。

暫らくして町々を縦横無尽に人が走りました。彼等がいま帰って行こうとする方向から<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しき人が走って来て、ただでさえ霧中に捲かれている彼等をひきつつんでしまいました。

「ど、どうしたのだ、何事だ」

「破牢、破牢、破牢」

少年たちは丸くなって、そうして自分たちを取囲んだ<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しい人々に詰問の矢を放ちながら、おのおのその帯刀へ手をかけました。その理由はすぐ判明し、嫌疑はたちどころに晴れてしまいました。

取囲んだのはお組番や牢屋同心。彼等を取囲んで仔細に検分したのは、もしやと破牢の罪人を取調べのため。

そこで少年たちは、今夜という今夜は、いよいよ容易ならぬ晩であることを知りました。これは片時も早く家路に帰った方が無事だとの考えを起しました。しかしながら、遠くもあらぬお代官陣屋の方まで帰るには、これから、また幾度も改められ調べられることであろうと聞かされて、飛んだ迷惑なことだと、一同は苦笑いをしながら、またも例の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の中を泳ぐようにしてその場を歩き出しました。

彼等はこうして無事に、それぞれの家へ帰るには帰ったけれども、帰って見ると家の方の騒ぎはまた一層であります。

彼等の父兄というのは、牢屋に関係を持ったお組屋敷の者が多かったから、帰って聞くとその騒ぎは容易なものではありません。

破牢は一番二番の室で、逃げ出したものは一番室で二人、二番室で八人、都合十人ということです。その計画はズット前から<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>まれていて、両室共に牢の格子が鋭利なる<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>の類で<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き切られていたのを、飯粒で塗りつぶして隠しておいたということ。そうしておいて今夜のような靄の深い晩を待っていたらしいということ。その首謀者は<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て東北の方からこの甲州へ入り込んで、甲州の地勢を探っていたために<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われた二人の怪しい浪士であって、それに力を添えて、刃物を供給したりなんぞしたのは、近ごろ入った贋金使いの男であるということ。幸いに牢番が発見した時分には、一の構内から外まわりの高塀を乗り越えようとして、まだその辺にうろついていたということ。不幸にして彼等の手が利いていて、人数の気の揃い方が上手であり、捕方の方が<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、それにこの通りの靄であったから、とうとうみんな取逃がしてしまったということであります。

多分逃げた先は長禅寺山の方に違いなかろうというので、その方へ追手が向いました。しかし<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の内、町の中とても油断がならないというので、その方へも追手が廻りました。

お組屋敷の人たちは総出でその<ruby><rb>追捕方</rb><rt>ついほかた</rt></ruby>に向っているために、家庭においては出陣の留守を預かるような心持で、眠るものとては一人もありません。

少年たちも父兄のあとを追うて出かけようとする者もあったけれど、それは差留められて、その代りに附近の警戒をつとめることになりました。

逃げた先はたいてい山の方だろうとは誰も想像するところでありましたが、この通りの闇のことですから、たとえ御城内へ逃げ込んだところでその姿を認めることはできません。たとえまた廓内の武家屋敷の方へ走ったにしろ、または市中へ走ったにしろ、やはり人影を見て追跡するというわけにはゆきません。右往左往に人は飛んだけれど、たまたま行会えばこの少年たちのようなのや、かの子供を背負うたきちがいのようなのや、そうでなければ御同役の鉢合せのようで更に手ごたえがありません。

「いったい、こりゃ何というもんだ、煙のようでもあるし、霧のようでもあるし、靄がかかったようでもある、行く先行く先がボヤボヤとして、前へ出ていいんだか、後ろへ戻っていいんだかわかりゃしねえや、大方、雲が下りて来たんだろう、ここは山国なんだからな、四方の山から雲が捲いて来て、甲府の町を取りこめたんだ。<ruby><rb>暗</rb><rt>くれ</rt></ruby>えなら暗えで、我慢の仕様もあるけれど、暗えところへこんなものが舞い込んで来た日にゃあ、てんで提灯の火も見えやしねえ、お城の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>がどの辺にあったんだか、その見当もつかねえんだ。こんな晩に牢破りをするなんというのは考えたもんだ、<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の晩よりまだ始末が悪いやな、大手を振って眼の前を歩かれたってわからねえやな、逃げられる方もわからねえから逃げる方もわからねえんだ。こうして歩いて行くうちに、犬も歩けば棒に当るということがあるから、なんでもかまわねえ、ドシドシ駈けろ、駈けろ」

宇治山田の米友もまた、こんな<ruby><rb>口小言</rb><rt>くちこごと</rt></ruby>を言いながら、闇と靄の中の夜の甲府の町を、例の<ruby><rb>毬栗頭</rb><rt>いがぐりあたま</rt></ruby>で、<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>を引いて棒を肩にかついで、小田原提灯を腰にぶらさげて走って行く一人であります。

狂人走れば不狂人もまた走るというのが、この晩の甲府の町の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の有様でありました。<ruby><rb>段々</rb><rt>だんだん</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>のかかった筒袖を一枚<ruby><rb>素肌</rb><rt>すはだ</rt></ruby>に着たばかりで、<ruby><rb>不死身</rb><rt>ふじみ</rt></ruby>であるべく思わるる米友はまた、寒さの感覚にも欠けているべく見受けられます。

「やっしし、やっしし」

米友はこういう掛け声をして極めて威勢よく駈け出して行きました。どこへ行くのだかその見当はつかないながら、その口ぶりによって見れば、いま破牢のあったことを彼は心得ているのであります。

こうして駈けて行く米友が、途中で不意に、

「あ、あ、あぶねえ！」

と言って、弁慶が<ruby><rb>七戻</rb><rt>ななもど</rt></ruby>りをするように後ろへ<ruby><rb>退</rb><rt>すさ</rt></ruby>って、肩に担いだ棒を斜めに構えて立ちはだかったのは、奇妙であります。

もちろん、そんなような晩でありましたから、先に何の敵が現われて、何のために米友が不意に立ちどまったのだかわかりません。ただ立ちどまって棒を構えた米友の<ruby><rb>権幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>を見ると、それは冗談でないことがわかるのであります。

担いだ時は棒であるけれども、構えた時は槍でありました。宇治山田の米友はこの時、冗談でなく槍をとって、それを中段に構えて<ruby><rb>待</rb><rt>まち</rt></ruby>の位に附けたのは、正格にしてまさに堂に入れるものであります。一口に米友と言ってしまえば、お笑いのようなものだけれども、ひとたびこうして本気になって槍を構えた時の米友は、また尋常の米友ではありません。しかしてこの米友は、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>てこういう正格な構え方を、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>に見せたことは幾度もありませんでした。

東海道の天竜川のほとりの天竜寺で米友は、心ならずも多勢を相手にして、その<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>の誤解から<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>れようとしました。その時は<ruby><rb>遊行上人</rb><rt>ゆぎょうしょうにん</rt></ruby>に助けられました。

甲州街道の鶴川では、雲助どもを相手に一場の<ruby><rb>修羅場</rb><rt>しゅらば</rt></ruby>を出しました。その時は彼等をばかにしきって、乱雑無法なる使い方をして荒れました。この間は折助と、あわや大事に及ぼうとした途端に、屋根へ上って巧みに逃げてしまいました。

今や、その時のような放胆な米友ではありません。

<ruby><rb>待</rb><rt>まち</rt></ruby>の槍には<ruby><rb>懸</rb><rt>かかり</rt></ruby>の槍が含んでいるのであります。その両面には<ruby><rb>磐石</rb><rt>ばんじゃく</rt></ruby>の重きに当る心が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っているのであります。不思議なる<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>、ほとんど師伝に依ることなき米友は、三身三剣の奥の<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>が、立ちはだかって棒を構えたところ、そのままにおのずと備わっているのでありました。こうして見ると、運慶の<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>んだ十二神将の形をそのままであります。

不思議なのはそれのみではありません。米友が何故に<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに真剣になって槍を構えたか、米友自身もそれは知ることができませんでした。ことにその通りの五里霧中にあって、鼻の先に現わるるものさえわからない時に、そこに何者かがあって米友を驚かせたものとすれば、それも不思議ではありませんか。

ただ米友の槍を構えたその形だけを見ていれば、例の運慶の刻んだ十二神将のような形が、さまざまに変化するのを認めます。十二神将が十二神将にとどまらず、二十八部衆にまで変化するのを認めます。

槍を挙げて、あ、と言って<ruby><rb>散指</rb><rt>さんし</rt></ruby>の形をして見せました。やや遠く離れて槍を抱えては<ruby><rb>摩醯首羅</rb><rt>まけいしゅら</rt></ruby>の形をして見せました。またそろそろと<ruby><rb>懸</rb><rt>かかり</rt></ruby>の槍を入れたその眼は、<ruby><rb>難陀竜王</rb><rt>なんだりゅうおう</rt></ruby>の眼のように光ります。「エエ」と言って飛び上る時は、雷神が下界を驚かすような形をして見せます。して見せるつもりではない、米友においては、実に容易ならぬ生死の覚悟が、眼にも<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>にも筋肉にも充ち満ちているのだが、相手が例の如法闇夜の中にあるから、離れて見れば一人相撲を取っているとしか見られません。ややあって、米友はものの五間ほど一散に飛び<ruby><rb>退</rb><rt>しざ</rt></ruby>りました。

飛び退って、槍を下段に構え直して、ヤ、ヤヤ、と言って、口から<ruby><rb>咄々</rb><rt>とつとつ</rt></ruby>と火を吐くような息を吐いて、もう一寸も進みませんでした。

<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>における米友は<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>でありますけれども、槍を持たした米友は少しも跛足ではありません。

猿のような眼をクリクリとさせて、槍を下段へ取ったままの米友は、油汗をジリジリと流していました。

これもまた平常における米友ならば、ここで得意の米友流の警句と<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>とが口を突いて、相手を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るはずであったが、この時は、エとか、ヤとか言うほかには言句の余裕がないようであります。

それよりも大事なことは、その棒の頭へ槍の穂をすげる隙がないことであります。いつも懐中へ忍ばせて、必要ある場合には取ってすげる、自分一流の工夫の槍の穂を頭へつける余裕すらないのでありました。多くの場合において米友は、その槍の穂をすげる必要を認めません。棒だけを持って槍の必要につかえるのでありました。

それにまた、穂をすげれば血を見ずしては納まらないのも、穂がなければ単に敵を<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らすだけで済む、という理由もありました。

今は穂をすげなければならない場合になってきたと見ゆるに<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、なお米友は、それを<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てするの余裕を持たないと見えます。

ものの五間ほど飛び<ruby><rb>退</rb><rt>しざ</rt></ruby>ってから、やや暫らくして、

「やい、出て来い、かかって来い、隠れていちゃあ相手にならねえ」

ようやくのことで米友は、これだけの言葉を出すの余裕を持つことが出来ました。これだけの言葉を出したけれども、その構えは少しも<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めることをしませんでした。やはり米友は、この中で誰をか相手に戦い、今その相手を呼びかけたものであります。

しかしながら、如法闇夜の中に何者も見えないように、何者の返事もありません。

「うむ、掛って来ねえのか、掛って来なけりゃあ、何とか言ってみろ、何とか言えば、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らの方から掛って行く、返事をしてみろ、やい、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>ぬかしてみろ、やい」

米友は続いてこう言いましたけれども、掛っても来らず、一言の返事もありません。

「おかしな奴だな、斬りたけりゃ斬られてやるから出て来いよ、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りながら宇治山田の米友だ、斬って二ツになったら<ruby><rb>大</rb><rt>でか</rt></ruby>い方をくれてやらあ」

そろそろ米友の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>が始まりそうな形勢です。

「うむ、何とか<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬか</rt></ruby>せやい、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らの方から出て行ってやりてえのだが、<ruby><rb>理詰</rb><rt>りづめ</rt></ruby>の槍になっているからそうはいかねえのだ、ここは<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の方から出て来るところだ、<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>なら仕方がねえが、盲目でなかったら出て来いやい」

と米友は啖呵を切りました。盲目なら仕方がないが、盲目でなかったら出て来いと米友が言ったのは、故意に出たのではありません。しかしながら相手は決して出て来ませんでした。自然、米友は力抜けがしました。

「どうもおかしな奴だな、今、ああして俺らが後ろへ飛んだ時に、手前がもう一太刀追っかけて来ると、実は俺らも<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>なかったんだ。ナニ、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を斬られるまでのことはねえが、槍は二つに斬られていたかも知れねえのだ。俺らにとっちゃあ身体を斬られるより、槍を斬られるのが恥かしいくれえのものなんだ。それを手前が追っかけずにいるのが気が知れねえよ。いったい、俺らの腕を試すつもりで斬りかけたのか、またホンとに俺らを斬るつもりで斬りかけたのか、そこんところがどうも<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せねえやい、何とか挨拶をしろやい」

米友はこう言いながら、槍を左の手に持ち直して身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>ませました。もう先方が確かに斬ってかかる気遣いがないから、それで形をすっかり崩してしまって、そうして右の手を伸べて往来の地面を掻きさがしました。ちょうど手頃の石があったのを拾い取って、腰をのばしました。

「それ！」

ヒューと風を切ってその<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>が米友の手から暗夜の宙に飛びました。投げたものを受け留めることを商売にしていた米友は、また同時に投げることも巧みでありました。暗夜の宙に飛ぶ礫は聖人もまたこれを避けることができないはずであったけれど、幸いにして米友の投げた礫の<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>には、聖人も凡夫もいなかったと見えて、向う側の古池かなにかに飛んで行ってパッと水音を立てただけです。

礫は<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく飛んだけれども、

「合点だ！」

米友はけたたましく叫びました。叫ぶと共にその棒を一振りして水車のように廻し、

「危ねえものだが、その方はお手の物よ、<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>の時分からそれで飯を食っていたんだ」

水車のように廻した棒の七三のあたりへ、カッシと立ったのは刀の<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>であります。それを受けとめるべく米友は、前のような<ruby><rb>惨憺</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる苦心に及びませんでした。南禅寺の楼門でする五右衛門の手裏剣を<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>で受けた<ruby><rb>久吉</rb><rt>ひさよし</rt></ruby>気取りに、棒に食い付いた小柄を抜こうともせず、再び身を屈めて小石を拾いました。拾い取るとヒューと手の内から飛びました。手の内から飛ぶと、<ruby><rb>矢継早</rb><rt>やつぎばや</rt></ruby>にまた拾いました。拾っては投げ、拾っては投げる米友の礫、それは上中下の三段から、槍を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>う如く<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>もなく飛ぶのでありました。

<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>は隙間なく飛んだけれども、やはりその手答えはなくている途端に、

「破牢！　破牢！」

この声が闇を圧して物凄く響き渡ります。

それを聞くと米友は、礫を打っていた手を少しく控えて耳を傾ける。このとき早く、

「あっ！」

と言って米友は、また後飛びに五間ほど、今度は腰を立て直す<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>がなくて、仰向けに大地へ倒れてしまいました。仰向けに倒れたけれど米友は、倒れながらその槍を構えることを忘れませんでした。そしてやや暫くその形で、すなわち倒れたままで槍を構えた形でじっと身動きをしません。米友がこんな形をしてじっとしているのはかなり長い時間でありました。しかしながら事はそれだけで、それ以上の<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>を示しませんでした。すべてこれは米友の一人芝居であります。五里霧中の中で米友は、始終こうして一人芝居を打っていました。しかしながら米友は、まだまだこの構えから起き上ることはできません。<ruby><rb>四方転</rb><rt>しほうころ</rt></ruby>びの腰掛をひっくり返したような形をしたままで、いつまでも大道の真中に寝ているのは、<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>から見ればかなりおかしい形でないことはないけれど、米友自身になってみれば、油汗を流しているのです。今の時間で言えば、ほとんど三十分ばかり、米友はこうして油汗を流して<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>って槍を構えていました。そうしていた時分に米友は、

「エイ」

と言ってその槍を、やっぱり寝ながらにして横に一振り振ると、今度はたしかに手答えがありました。

「ワン！」

米友の横に振った棒を飛び退いてまた飛びついて、ワン！　といったのは人間ではない、かなり大きな形をしている犬の声でしたから、米友は<ruby><rb>勃然</rb><rt>むっく</rt></ruby>としてはねおきました。

「ばかにしてやがら」

「ワン！」

「こん畜生」

「ワン！」

「まだ逃げやがらねえ」

「ワン！」

「<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>るぞ、こん畜生」

「ワン！」

「それ！」

「ワン！」

さすがの米友も<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られてしまいましたのです。今まで必死になって相手にしていたのは、こんな犬ではないはずであります。相手が犬であるくらいであったならば、米友は<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>もなく十二神将や二十八部衆の形をして見せたり、また縁台がさかさになったような形をして、半時間も大道に寝ている必要はなかったのであります。

五里霧中とは言いながら、その中にはまさに米友をして怖れしむべき敵があったればこそ、彼はさんざんの苦心をして、一人相撲や一人芝居を打って見せていたものを、その大詰に至って犬が一匹出て来て、<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めてかかろうとは、いかな米友といえども力抜けがして、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として起き上ったのも無理のないところでありました。

「こん畜生！」

米友は<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>になって、犬をこっぴどく打ち据えようとしました。しかし、この犬がまた追っても<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>しても容易に逃げないで、いよいよ米友の近くに飛びついて<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついて来たがるというのが、よくよくの因果であります。

米友が棒を振り廻せば犬は心得てそれを避け、棒を控えていれば<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りずまたすぐに傍へ寄って来て、吠えてみたり、鼻を鳴らしてみたり、身体を擦りつけようとしてみたり、ずいぶん人を食った犬としか思われません。米友はばかばかしいやら腹が立つやらしてたまりません。

「<ruby><rb>狂犬</rb><rt>やまいぬ</rt></ruby>だろう、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち殺してくれべえぞ！」

打ったり払ったりするだけでは我慢がなり難くなったから米友は、殺気を含んで棒を振いました。その棒の下にあって犬はいっそう声高く吠えました。

「おや？」

米友は振り上げた棒を振り下ろすことなしに、この時ようやく犬の<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>を聞き<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めました。犬は<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かさずその米友の足許へ寄って来ました。

「待て待て、手前の声は聞いたことのあるような声だ。ムクじゃあねえか、ムク犬じゃあねえか」

犬はこのとき鼻息を荒くして、米友の腰へ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みつきました。

「いま提灯をつけるから待っていろ、もし手前がムクだとすれば、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは嬉しくてたまらねえんだ」

米友の腰につけた小田原提灯は消えていましたけれど、幸いにこわれてはいませんでした。その中には火打道具も用心してありました。

果してその犬はムクであります。

ほどなく宇治山田の米友とムク犬とは、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>し<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでその場を駈け出しました。

しかし、例の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>は少しも<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れる模様はなくて、いよいよ深くなってゆきそうであります。その靄の中で、あっちでもこっちでも、破牢、破牢、という声が聞えるのでありました。

今や、米友にあってはそれらの声は問題でなくなりました。辻斬も牢破りも今はさして米友の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くことがなく、ただムクの導くところに向って<ruby><rb>一散</rb><rt>いっさん</rt></ruby>に走るのみでありました。

ムクの導くところ――そこにはお君がいなければならないのであります。

町筋はどうで、道中をどう廻ったか、米友はトンと記憶がありません。米友にあっては、ただムクを信じてトットと駈けて行くばかりであります。

「ムクやい、どうした」

暫くして米友は足を止めました。それは今まで先に立って走っていたムク犬が、急にあるところで立ち止まったからであります。

立ち止まったムク犬は、しきりに地を嗅ぎはじめました。地を嗅いでいたが何と思ったのか、真直ぐに行くべきはずの道を横の方へと鼻先を持っていくのであります。

「ムクやい、どこへ行くんだ」

米友は腰なる小田原提灯を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、ムクの行く先を照して見ました。もちろん、その通りの靄でありましたから、提灯の光も、足許だけしか利きませんでした。利かないけれども、米友はその提灯を突き出しながら、地を嗅ぎ嗅ぎ横へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて行くムク犬のあとを監視するように<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行きました。これはどっちも前のように勇み足ではありません。

「ムクやい、手前、道を間違えやしねえか、これ見ねえ、ここはどっちも松並木で、それ並木の外は<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>で、その向うは畑になってるようだぜ、いいのかい、こんなところに君ちゃんがいるのかい、道を間違えちゃあいけねえぜ」

米友は、小田原提灯の光の許す限り、前後左右を見廻しました。それにも拘らずムクは、やはり地を嗅ぎながら、その松並木の横道を入って行くことを止めないから、米友もぜひなくそのあとを跟いて行きました。

暫くすると、一つの<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の前へと米友は導かれて行きました。その祠は荒れ果てた小さなものであります。社殿の前までムク犬に導かれて来た時に、米友は小田原提灯を差し上げて、

「こりゃ天神様だ、天神様の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>に違えねえが、その天神様がどうしたんだ」

米友は小田原提灯を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>していると、やっぱり土を嗅いでいたムク犬は、急にその巨大な<ruby><rb>体躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>跳上</rb><rt>はねあ</rt></ruby>げて、社の左の方から廻って裏手へ飛んで行きました。

「ムク、待ちろやい」

米友は急いでそのあとを追いかけて、この荒れたささやかな天満宮の社の後ろへ廻って見ると、後ろは杉の林であります。

米友はムクを信じています。ムクの導いて行くところにはいつも重大の理由も事情も存するということを、米友はよく信じているが故に、五里霧中の上の闇の夜の杉林の奥をも、疑わずに踏み込んで行き得るのであります。

ほどなく宇治山田の米友が、この杉の林を出て来た時には、背中に一人の人を背負っておりました。小さい米友の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に大の男を一人背負って、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる霧と靄と闇との林を出て来ると、例のムク犬は勇ましく、またも前の天神の祠から松並木を、先に立って案内顔に走って行くのであります。

「待てやい、ムク」

道の傍に井戸を探し当てた米友は、その前へ棒を突き立てて、

「この人に水を飲ませてやりてえんだ、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らも<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾いたわい」

米友は<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>を投げて水を汲み上げてから、背中の人を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>して、

「どうだい、水を一杯飲んで、気を確かに持って、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>名乗って聞かしてくんねえな、お前はどこの者で何という名前だか、それを<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>いって聞かしてもれえてえんだ」

いま、米友が背中から卸して水を飲ませようとしているその男は幸内でありました。けれども幸内は、米友の知合いではありません。ムクはよく知っているけれども、口を利くことができません。

幸内はまだ生きていました。生きている証拠には水を飲めと言われて、しきりに口を動かしているのでもわかります。またその水を飲みたがっていることは、咽喉の鳴る音でも推察することができます。けれどもその水を飲むべく気力がありません、手も利きません、身体も動かすことさえできませんでした。

「仕様がねえなあ、それじゃ俺らが今、口うつしに飲ましてやるから」

米友は口うつしに幸内の口へ注ぎかけました。幸内はふるえつくようにしてその水をゴクリゴクリと飲みました。

「待っていろ、もう一杯飲ましてやる」

米友はまた口うつしにして幸内に水を飲ませました。幸内の口が、もうたくさんだという表情をして米友の口から離れるまで、水を飲ませてやりました。

「ちっとは元気がついたかい。いくらか元気がついたら、お前の所番地を言ってみねえな、そうすればそこまで<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らが送ってやるよ」

しかしながら、幸内はその返事をしたくて咽喉をビクビクと動かすのだけれども、ついに言葉を聞き取らせることができません。

「まあ、いいや、ムクが知ってるだろう、ムクがお前の家を知っているだろうから」

と言って、米友は幸内を抱き直して、またも自分の背中へ廻そうとしました。米友が幸内を<ruby><rb>負</rb><rt>おぶ</rt></ruby>って来た帯は、神社の<ruby><rb>鰐口</rb><rt>わにぐち</rt></ruby>の綱をお借り申して来たものであります。米友はその綱を探って背負い直そうとした時に、

「あッ、冷たくなっちまったぞッ、冷たくなっちまったぞッ」

と叫びました。そうして幸内の手首から、あわただしく胸元へ手をやって、

「いけねえいけねえ、咽喉へ<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>が<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まってらあ、さあいけねえ」

米友は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>うろた</rt></ruby>えました。

「おいおい、<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃねえ、死んじまっちゃいけねえよ、せっかくムクと二人で助け出して来たんだ、いま死んじまっちゃあなんにもならねえよ、もう少し生きてろやい、もう少し生きてろやい、おーい、おーい」

米友は幸内の耳元へ口をつけて大声で呼びました。それにもかかわらず幸内は返事をしませんでした。返事をしないのみならずそのままで、だんだん冷たくなってゆくばかりでありました。

「冗談じゃあねえ、死、死、死んじまっちゃあいけねえよ」

米友は何と思ったか、棒を腰に挟んで、幸内を引担いでドンドンと駈け出しました。無論ムクはそれに<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>らず<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ出しました。

## 十

その夜の騒ぎが、駒井能登守の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ注進されると、能登守は衣裳を改めて出勤し、役向の差図をしました。

それが済むと能登守は自分の邸へ帰って来ました。邸に帰って、客間の中に柱を負うて一人で坐っていました。前には桐の火鉢を置いて、それには炭火がよく<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けてあります。そこへ坐って<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>としていた能登守の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>には、なんとなく屈托の色が見えます。なんとなく心の底に心配が残っているもののようです。

「君、お君」

と、やがて能登守は、あまり高からぬ声でお気に入りのお君の名を呼びました。いつもならばその声を聞いて、直ぐに次の間から返事のあるべきお君の声が聞えませんでした。

能登守は重ねて呼びはしませんでしたけれども、所在なさそうにホッと息をつきました。<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>に物案じ顔に頼りのない様子は、能登守としては珍しいことであります。

破牢の責任をそれほど強く感じたものか、それとも江戸表に残し置いた奥方の病気が急に重くなったのでもあるか、そうでなければほかに何か軽からぬ心配事が起るでなければ、こうまで打沈むはずはないのであります。

と言っても、そのほかに能登守を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>えしむべきほどの大事は思い当らないのであります。神尾主膳の一派は最初から能登守を<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み嫌うて、これが排斥運動を企てつつあることは、能登守も知らないではありませんでした。けれどもそれは能登守が決して相手になりませんでした。相手にならない者に喧嘩を売りかけることもできません。

甲府に来て以来の能登守は、政治向きのことにはほとんど口を出しませんでした。旧来の組織に一を加えようとも二を引こうとも何ともしませんでした。支配は先任の太田筑前守の為すがままで、自分はただ調練と大砲の研究ばかりやっていました。それですから、かえって無能呼ばわりをされようとも、出過ぎた仕事は一つもしていませんでした。それ故に神尾主膳らが、能登守を忌み嫌うというのも単に感情の問題のみで、仕事の上では<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>を受けるような成功もしなければ、<ruby><rb>弾劾</rb><rt>だんがい</rt></ruby>を受けるような失態もしていませんでした。

名は勤番支配というけれども、実はその見習いのような地位に甘んじて、能登守は別にその新知識を振り廻したり、<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えた腕を振おうとしたりしませんでした。家来の若い武士はそれを物足らず思って、多少は献策をしたりすることもあったけれど、能登守は、さっぱりそれを用いてみようという模様がありません。それでただ自分の連れて来た比較的少数の家来だけを進退して、まるで島流しにでもなったような心持であるらしくあります。

やや手強く言ったことは、この間の神尾主膳の結婚問題の時ぐらいのものでありました。能登守のあの一言のために、神尾と藤原家との縁談はまだ行悩んでいるようでありますけれど、そのほかには能登守が人の意見を妨げたり進路を塞いだりしたような挙動は一つもありませんから、やはり無能と<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>られようとも、恨みを受けるような形跡は一つもないのであります。

人を取立てたために、その競争者から恨まれるというようなこともまた、一つもないのでありました。

ここへ来てから能登守が取立てた人といえば――それはお君を、有野村の藤原家から迎えて来たくらいのものでありました。そのお君でさえ、どうしたものかいま主人に呼ばれたけれども返事がないのであります。お君のいるところにはムクもまた<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>らねばならぬはずでありましたけれど、今宵のような騒ぎの晩に門を守っていないから、ムクもまたこの邸にはいないものと思われても仕方がありません。

ややあって能登守は立って、この客間を出て廊下を通りました。

「君」

能登守が足を留めて障子を外から開いた部屋には、<ruby><rb>高脚</rb><rt>たかあし</rt></ruby>の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が明るく光っておりました。

能登守はこの部屋の障子をあける時に、お君の名を呼びましたけれど、お君の声で返事はありませんでした。

お君の返事こそはなかったけれど能登守は、その部屋の中へ隠れるように入って、障子を締めてしまいました。

「お君」

と言って行燈の下に立った能登守は、そこに<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うて泣き伏しているお君の姿を見たのであります。

お君は泣き伏したまま、返事をしないのでありました。先にも返事をしなかったし、今も返事をしないのであります。主人が入って来た時も面を上げてそれを迎えることをさえしないで、かえってその打伏した袖の下から<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>の声が、ややもすれば高くなるのでありました。

「お前は、また泣いているな」

と言って能登守は眉をひそめて、お君の姿を<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじ</rt></ruby>らしげに見下ろしたまま立っているばかりであります。

「お殿様」

お君は泣きじゃくりながら、やはり泣き伏したままこう言いました。

「どうぞ、あちらへいらしって下さいまし、ここへおいでになってはいけませぬ」

精一杯にこう言って、あとは<ruby><rb>喚</rb><rt>わっ</rt></ruby>と泣き出すのを<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えるために、ワナワナと肩が揺れるのが見えます。

「わしが呼んでもお前が来ないから、それでお前のところまで来た」

と能登守は言いわけのように言って、立去ろうともしません。

「<ruby><rb>御前様</rb><rt>ごぜんさま</rt></ruby>」

お君は<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>の声で再び主人を呼びました。そうしてこころもちあちらを向いて、

「わたくしはお暇をいただきとうござりまする」

「暇をくれい？」

能登守は、さすがにお君の突然の言いぶりに驚かされたようであります。

「お前はいつまでもこの邸にいたいと言うたのではないか」

「わたくしは……わたくしはいつまでもお殿様のお傍に置いていただきとうござりまする、そのつもりで喜んでおりましたけれども、今となりましては……」

お君はこれまで言って情が迫ったように、もう言葉がつげないで、身を震わして泣いているばかりであります。

「さあ、今となってはお前が切れたくても、わしが許さぬ」

能登守の言葉にも<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを帯びていました。

「いいえ」

とお君の返事は存外に冷やかでありました。そうして頭を左右に振ったのは、それは前のように感情が迫ったのではなく、明らかに拒否の意志を含めたものでありました。

「どうぞ、あちらへおいであそばして下さいまするように。ここは殿様のおいであそばすところではござりませぬ」

「わしはお前にまだ話したいことがあって来た」

「いいえ、もう何もお<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い申しますまい、わたくしはお暇をいただく身分の者でござりまする、お暇をいただけば、御主人でもなく召使でもないのでござりまする」

「君、お前は聞きわけがない」

「どう致しまして、わたくしは、もう何もお伺い申すことはござりませぬ……わたくしはお暇をいただきとうござりまする、わたくしはお暇をいただいて帰りまする」

お君はついに<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えられず<ruby><rb>喚</rb><rt>わっ</rt></ruby>と泣いてしまいました。

ほどなく能登守は<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>として、お君の部屋を出て帰りました。

もとの一間へ来て、火鉢の上に片手をかざして、前のように物思わしげに、まだ寝ようともしません。

今の有様は、主従のところを換えたような有様であります。能登守としては思いがけない弱味でありました。お君としても思いきった<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>の言い分のように聞えました。

能登守はかえって、お君に向って申しわけをし、或いは哀求するような物の言いぶりは<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>いものであります。お君は始終泣いて泣きとおしていました。見様によっては<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねて拗ね通しておりました。さすがに、能登守ほどのものが、そのお君の張り通した我儘に、<ruby><rb>一矢</rb><rt>いっし</rt></ruby>を立てることができないで、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>と引返すのは何事であろう。<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の人物のように言い<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>された能登守、それをこうして見ると、振られて帰る可愛い<ruby><rb>優男</rb><rt>やさおとこ</rt></ruby>としか思われないのであります。

それと思い合わすれば、このごろお邸のうちに<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>のないことではありません。殿様がお君さんを<ruby><rb>御寵愛</rb><rt>ごちょうあい</rt></ruby>になる……という噂が誰言うとなく、口から耳、耳から口へと<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>かれているのであります。

けれども、それがために誰も主人の人柄を疑う者はありませんでした。その地位から言えば諸侯に準ずべき人なのですから、幾多の若い女を侍女として左右におくことも、また妾としてお部屋に住まわしておくことも、更に不思議なこととは言えません。<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろそういうことをせぬのが、その周囲の人から不思議がられるのでありました。

能登守は一人の奥方に対してあまりに貞実でありました。その奥方が病身なために能登守は、女房がありながら<ruby><rb>鰥</rb><rt>やもめ</rt></ruby>のような暮らしに甘んじていることは、家名を大事がる近臣の者を心配がらせずにはおきません。

妾をおくことを、お家のための重大責任として家来が<ruby><rb>諷諫</rb><rt>ふうかん</rt></ruby>したものでありました。けれども能登守は、それを悟らぬもののようであります。

お君を有野村の藤原家から呼び迎えたことが、誰からも<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めずに、能登守自身の発意に出たことは、家来の者を驚かすよりは、かえって<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせたのでありました。

そうして日を経て行くうちに、お君がいよいよ殿様のお気に<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>ってゆくことを、家来の人たちは<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>みも<ruby><rb>烟</rb><rt>けむ</rt></ruby>たがりもせずに、恐悦してゆくのでありました。

そのお君が、この若くて美しくて聡明の聞えある殿様の前へ出ることを<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>くようになったのは、ついこの二三日来のことでありました――それと同時に能登守の美しい<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>に重い雲がかかって、憂愁の色が<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられるようになったのも、ふたつながら目に立つ変化でありました。

人に面を合せない時は、お君は部屋に入って泣いているのであります。能登守は茫然として、何事も手につかずに考え込んでいることが多いのであります。

今もこうして能登守は、同じような憂愁の思いに沈んで寝ることを忘れていました。この時、廊下を急ぎ足で忍びやかに走る人の<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>がありました。

能登守が<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れた首を上げて、その人の足音を気にすると、

「殿様」

障子を押しあけてこの一間へ入って来たのは、今まで泣いていたお君でありました。お君の<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>はいつもとは違って、物狂わしいほどに動いてみえました。それでも入って来たところの障子は締め切って、そして能登守の膝元へ<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れるように<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざま</rt></ruby>ずいて、

「どうぞ御免下さりませ」

と言って、やはり泣き伏してしまいました。

「お殿様、わたくしが悪うございました、わたくしが悪いことを申し上げました、わたくしがお暇をいただきたいと申し上げたのは嘘でございます、わたくしはいつまでも……いつまでもお殿様のお傍にいたいのでございます、どうぞ、お殿様、よきようにあそばして下さいませ」

お君は泣きながらこう言いました。こういって能登守の膝の下に全身を埋めるほどにして身を<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えながら、またも泣きました。

この時まで能登守の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた憂愁の色が一時に消えました。そうして炎々と燃えさかる情火に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>られて、五体が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに熱くなるのでありました。

「よく言うてくれた、お前がその気ならば、<ruby><rb>拙者</rb><rt>わし</rt></ruby>はいつまでもお前を放すことはない、お前もまた誰に憚ることもあるまい、今日からは召使のお君でなくて、この能登守の部屋におれ」

「…………」

「そうして、お前は好きな女中を<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>うて、その部屋の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>となってよいのじゃ、人に使われるお前でなくて、人を使う身分と心得てよいのじゃ」

「…………」

お君には何とも返事ができませんでした。殿様にこう言われたことが嬉しいのならば、もっと先になぜあんなに<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねるようなことをして見せたのだ。またこう言われることが嬉しくないのならば、今この場でそれはお言葉が違いますとキッパリ言わないのだ。

どちらともつかないお君は、何とも返事をすることができないで、やはりこの殿様の膝元に泣き崩れているのを、能登守はその背中へ軽く手を当てました。

「殿様、それでも……あの、奥方様がこちらへおいでになりました時は、わたくしの身はどう致したらよろしいでござりましょう」

「ナニ奥が？　あれは病気で、とても、もう<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るまい」

「おかわいそうなことでござりまする、どうぞお癒し申して上げたいことでござりまする」

「癒してやりたいけれども、病が重い上に天性あのような<ruby><rb>繊弱</rb><rt>かよわ</rt></ruby>い身で……」

「さだめて御病気中も、お殿様のことばかり御心配あそばしてでござりましょう、それがためによけい、お身体にも<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>るのでござりましょうから、おいとしうてなりませぬ」

「あれは存外冷たい女である――自分の病のことも、我等が身の上のことも、さほどには心配しておらぬ、物の判断に明らかな賢い女ではあるけれど……」

能登守の述懐めいた言葉のうちには、その奥方に対する冷静な観察と、自然何か物足らない<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>があるように見えます。

「どうして左様なことがありますものでござりましょう、奥方様は、どんなにか殿様を恋しがっておいであそばしますことやら」

「いやいや、あの女は恋ということを知らぬ、恋よりも一層高いものを知っているけれど……それはあの女の罪ではなくて堂上に育った<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちじゃ、過ちではない、それが正しい女であろうけれども」

「殿様、奥方様の御身分と、わたくしの身分とは……違うのでござりまする」

「それは違いもしようが」

「奥方様のお里は？」

「それはいま申す通り堂上の生れ」

「堂上のお生れと申しまするのは」

「それは<ruby><rb>雲上</rb><rt>うんじょう</rt></ruby>のこと、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>の家じゃ」

「まあ、あのお公卿様、<ruby><rb>禁裏</rb><rt>きんり</rt></ruby>様にお附きあそばすお公卿様が、奥方様のお里方なのでござりまするか」

「父は<ruby><rb>准大臣</rb><rt>じゅんだいじん</rt></ruby>で従一位の家、兄に<ruby><rb>三位</rb><rt>さんみ</rt></ruby>、弟には<ruby><rb>従五位下</rb><rt>じゅごいのげ</rt></ruby>の<ruby><rb>兵衛権佐</rb><rt>ひょうえごんのすけ</rt></ruby>がある。その中で育った女、<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>と生れとには不足がないけれど……」

お君は能登守の奥方の<ruby><rb>門地</rb><rt>もんち</rt></ruby>というものを、初めて能登守の口から聞きました。

その晩、おそく自分の部屋へ戻ったお君は、しばらく鏡台の前へ立ったままでおりました。その身には大名の奥方の着るような<ruby><rb>打掛</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着て、裾を長く引いておりました。その打掛は、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>に桐に<ruby><rb>唐草</rb><rt>からくさ</rt></ruby>の<ruby><rb>繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>のある見事なものでありました。鏡台の前を少し離れて立って、自分の姿に<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れているお君の眼には、先の涙が乾いてその代りに、淋しい<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みが漂うていました。淋しい笑みの間には、<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>え難い誇りが芽を出しているようにも見えました。

ことに鏡の前に立てかけてあった写真の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>と、自分の打掛姿を見比べた時に、お君の面には物に<ruby><rb>驕</rb><rt>おご</rt></ruby>るような冷たい気位を見せていました。

「奥方様はどんなに御身分の高いお方でもわたしは知らない、わたしはまたどんなに<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しい身分のものであっても、今となっては知らない。お殿様がわたし一人をほんとうに可愛がって下さるから、わたしはお殿様お一人を大切にする。わたしのような者がお殿様に可愛がられることが、わたしのために善いか悪いか、今、わたしにはそんなことは考えていられない。それでは御病中の奥方様に済むものか済まないものか、それもわたしにはわからない。わたしは本当にもうあのお殿様が恋しくて恋しくて、わたしは前からあんなにお殿様を恋しがりながら、なぜ泣いたり逃げたりしていたのだろう、ああ、それが自分ながらわからない。わたしはお部屋様になりたいから、それでお殿様が好きなのではない、わたしにはもうどうしたってあのお殿様のお<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>は離れられない、お殿様のおっしゃることは、どんなことでも嫌とは言えない。わたしの<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をみんなお殿様に差上げてしまえば、お殿様のお情けはきっとわたしにみんな下さるに違いない。奥方様には本当に申しわけがないけれども、お殿様をわたしの物にしてしまわなければ、わたしはのけものになってしまう」

お君の写真を見ている眼は、火が燃えるかと思われます。その口から言うことも、半ば<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いのような響でありました。お君が見ている写真というのは、最初にこの邸へ訪ねて来た時に、心あってか能登守より貰った奥方と二人立ちの写真でありました。能登守の立っている姿よりも、奥方の立ち姿がお君の<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>になっているのであります。

お君の姿がこの奥方の姿に似ているということは、能登守もそう思うし、家来たちもそう思うし、お君自身もまたそう思わないではないし、ことにお銀様の如きは、これがためにあらぬ<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>を起して、それは弁解しても<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>けないことにまでなってしまいました。

「わたしも、明日からこの奥方様の通りに、片はずしに<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>って、この打掛を着てもよいと殿様がおっしゃった。奥方様がいらっしゃれば、奥方様の方からお許しをいただくのだけれども、ここでは殿様のお許しが出さえすれば、誰も不承知はないのだから、わたしは明日からそうしてしまおう。でも人に見られるときまりが悪い、御家来衆はなんとお思いなさるだろう。そんなことはかまわない、この家来衆よりもわたしの方が身分が重くなるのかも知れない。ああ、わたしが片はずしの<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に結って打掛を着て、侍女を使うようになったのを、伊勢の国にいた<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>たちが見たらなんというだろう。わたしは出世しました、わたしは恋しい恋しいお殿様のお側で、お殿様の<ruby><rb>御寵愛</rb><rt>ごちょうあい</rt></ruby>を一身に集めてしまいました、わたしのお殿様は世間のお殿様のような浮気ごころで、わたしを御寵愛あそばすのではありません、奥方様よりもわたしを可愛がって下さるのです。わたし、もうお殿様が恋しくて恋しくて仕方がない、わたしの胸がこんなにわくわくしてじっとしてはいられない」

お君は鏡台の前に立って<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えるように、手を高く後ろへ廻して髪の飾りを取って捨てると、髪を振りこわしてしまいました。たった今、片はずしに<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>ってみたくてたまらなくなったからです。

お君はついに髪を解いて、そこで自分から片はずしの<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を結ってみようとしました。<ruby><rb>櫛箱</rb><rt>くしばこ</rt></ruby>を出して鏡台に向ったお君の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>には、銀色をした細かい<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいました。お君の眼には、物を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>る時のような張りきった光が満ちていました。

無教育な故にこの女は単純でありました。賤しい生れを自覚していたから、物事に思いやりがありました。今となってはその本質が、ひたひたと寄せて来るほかの慾望に圧倒されてしまいました。<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な処女の面影が拭い消されて、人を<ruby><rb>魅</rb><rt>み</rt></ruby>するような<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>がこれに代りました。お君は鏡にうつる自分の髪の黒いことを喜びました。その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色の白いことが嬉しくて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>りませんでした。それから頭へ手をやるたんびに、わが腕の肉が張りきっていることに自分ながら胸を躍らせました。お君はこうして、その写真を見ながら髪を結っては、また写真を見比べるのでありました。おそらくはその姿を能登守に見せたいからではありません。ただこの場で今宵限りこの打掛を着て、この奥方の通りに片はずしに結って、ひとりでながめていることだけに、このわくわくと狂うような胸の<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>を押鎮めようとするに過ぎないらしいのであります。

お君は、どうやら自分の手で、それを本式の<ruby><rb>長髱</rb><rt>ながづと</rt></ruby>の片はずしに結んでしまい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばらふ</span>の長い<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>でとめて、にっこりと<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい色を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えながら、例の奥方の写真を取り上げました。眉を払ってあの<ruby><rb>奥床</rb><rt>おくゆか</rt></ruby>しい堂上のぼうぼう眉を染めることだけは、奥方のそれと並ぶわけにはゆきませんけれども、お君はわざわざそんなことをしないでも、これで充分に満足しました。燈火の下で合せ鏡までしてその髪の出来具合をながめたり、また立ってその打掛の裾を引いてみたり、立ってみたり居てみたりして<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らない心です。

お君がこうして夢中の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>でいる時分に、その窓の外で風の吹くような音がしました。夢中になっていたお君には、その音などは耳に入ることがありません。つづいて<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>を使ってみたり<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>をいじってみたり、どこまで行ってこの奥方ごっこに飽きるのだか、ほとほと<ruby><rb>留度</rb><rt>とめど</rt></ruby>がわからないのであります。

しかしながら、その風の吹くような音が止んで直ぐに、それほど夢中であったお君が、その夢を破られないわけにはゆかなくなったのは、それが風の音だけでなかったからであります。

「ワン！」

というのは犬の声、愛すべきムク犬の声でありましたから、この声だけには、お君もその<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せて逆上せて<ruby><rb>留度</rb><rt>とめど</rt></ruby>を知らない空想から、今の現在の世界へ呼び戻されないわけにはゆきません。

「ムクかい」

お君はあわてて立ちました。

「お前、今までどこへ行っていたの、こんな晩にこそお邸にいて御門を守らなければならないのに、今夜に限って外へ出歩いて、いくら呼んでも出て来ないのだもの、いくら心配したか知れやしない」

庭の方へ向った障子を押し開きました。それと共にこの時までまだ戸を締めておかなかった不用心を、お君は気がついて悔ゆるような心になりました。

邸の外は庭の中までもいっぱいに例の闇と<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>とで、その中にいる真黒な犬の形は、とてもこちらからは見ることができませんけれども、その鼻息で充分にわかります。

「帰って来たらいいから、もうお寝、これからこんな晩には<ruby><rb>外出</rb><rt>そとで</rt></ruby>をしてはなりませんよ」

お君はムク犬に寝よとの許しを与えました。それはいつもムク犬がするように、今夜は少し<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>くなったけれども、やはりその例で挨拶に来たものとばかり思ったからであります。

けれどもまたムク犬は、今夜に限ってその許しを柔順に受けないで、縁先へ首をつきだして物を訴えるような<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>であります。

「どうしたの」

ムク犬はその巨大な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>と優しい目で、お君の面を見上げたのは、自分はよんどころない用事が出来て外出致しました、こんなことは滅多にありませんから、今晩のところはどうぞ悪しからず御免下さいまし、と申しわけをするように見えました。そうしておいて自分の首をグルリと半分ばかり外の方へ廻して、また主人の面を見上げました。それだけでお君にはムク犬の心持がよく呑込めました。

「お前、誰か連れて来たのだね」

見廻した外の方向には板塀があって、そこには木戸があるはず。

「困ったねえ」

とお君は、その木戸口の方とムク犬の面とを等分にながめて、しばらく思案に暮れました。

「お前、あの木戸をこの夜中にあけられるものかね。それに今夜はお前、牢破りの悪人があったりなんぞして、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い晩ではないか。こんな怖い晩に、お客様なんぞを連れて来られては、わたしも迷惑するし、連れて来られたお客様だって、どんな疑いをかけられるかわかりゃしないじゃないか」

お君はこう言ってムク犬を<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>りました。けれども強く叱ることはできません。ナゼならば今までムク犬のしたことで、その時はずいぶん腹が立っても、その事情がわかった時は、なるほどと感心することばかりでありましたからです。ムクのする通りにしなければ、取返しのつかないことになったものをと、あとでホッと息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いて感謝することが幾度あったか知れないからであります。それでここでもまた同じように、あの木戸をあけろという無言のムク犬の合図を、お君は何事とも知らずに無条件で信用しなければならなかったのであります。

けれども、この木戸は、すんなりとあけられない理由も充分にあります。今宵のような物騒な晩であることと、主人の居間近くであるということと、女一人の部屋であるということと、それらの用心は、お君としては或る場合には身を以ても守らねばならないのでありました。それ故お君は当惑しました。

しかし、ムク犬は主人の当惑に同情する模様がなくて、その縁に引いた打掛の裾をくわえてグイグイと引きました。その挙動は、主人をして<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>させぬ<ruby><rb>手詰</rb><rt>てづめ</rt></ruby>の<ruby><rb>催促</rb><rt>さいそく</rt></ruby>に見えます。ここに至るとお君はどうしても、すべての危険を忘れてムク犬を信用せねばならなくなりました。よしこの木戸をあける瞬間において、いかなる危険が予想されようとも、ムク犬の勇敢はそれを防いで余りあることを信ぜずにはいられません。

「待っておいで、いま<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けるから」

お君は、やがて<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>に火を入れて庭下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>きました。打掛の裾をかかげて庭に下り立って、ムクを先に立ててほど離れた木戸口の錠前を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すべく、静かに靄の中の闇を歩いて行きました。

ムク犬を先に立てて、お君はついに木戸の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を外してしまいました。用心して戸をガラリと開いて、

「どなた」

ムクの後ろの方からお君は、<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>を遠くさし出して塀の外を見やりました。塀の外も、やっぱり例の闇と靄とでありましたから、雪洞の光もさっぱり届き兼ねて、そこに何者が来ているかということがお君にはわかりません。

「今晩は」

いまあけた木戸口の前に立っているものがあります。

「どなた」

お君は二度問いかけました。ムク犬は鼻を鳴らして、何者とも知れない外の者に向って、入れ入れと<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しているように見られます。

「今晩は」

外に立っているものは、入っていいのだか悪いのだか計り兼ねて、遠慮をしているような<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>でありました。

「どなたでございます」

お君は三たびこう言って外なる人に問いかけました。<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>のゆくほどの返答を聞かないうちには、入れということを言わないのであります。

「今晩は。どうも遅くなって済まねえが、入ってもようござんすかい」

と言って、外なる人が駄目を押しました。

「いったい、あなたはどこのお方で、このお邸へこんなに遅く、何の御用があって来たのでございます」

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らはこの犬に引張られて来たんだ。もしこのお邸に、君ちゃんという女の子がいやしねえかな。俺らは米友というものだよ」

「友さん？　ほんとにお前が米友さんなのかい。お前が本当に米友さんならば、わたしはお君に違いありません」

「そうかそうか、どうも声がよく似ていると思ったが、もし間違うといけねえから、よく聞きすましていたんだ。俺らの声もよく聞き分けがつくだろう、声だけ聞いても米友の<ruby><rb>正物</rb><rt>しょうぶつ</rt></ruby>だということがわかるだろう、第一ムクがここまで俺らを引張って来たということが何よりの証拠だ」

「ああああ、ちっとも違いないよ。どうしてまあ友さん、この夜中にここへ尋ねて来たの。まあ早くお入りよ。ムクがわたしにこの木戸をあけろあけろというから、何か<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>なことがあるとは思ったけれど、友さん、お前が尋ねて来ようとは思わなかった、さあ早くお入り」

「入ってもいいかい、御主人に悪いようなことはないのかえ」

「そんなことはありゃしない、あったってお前さんのことだもの」

「俺らはいいけれど、連れが一人あるんだぜ」

「お連れが？」

「その連れが、いま生きるか死ぬかの境なんだ、俺らのことは後廻しでいいから、この背中に<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>っている人を助けるようにしてもれえてえのだ、君ちゃん頼むぜ」

「そりゃ大変。なんにしても、まあ早くお入り」

米友は、ぬっとその<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り木戸へ頭を突込みました。お君が<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>を差しつけて、入って来た米友を見ると、自分の身体よりも大きな男を一人背負って、手には棒を杖について、

「君ちゃん、久しぶりだな」

「友さん、よく尋ねて来てくれたねえ」

お君にとって米友が不意に訪ねて来てくれたことは、兄弟が訪ねて来たより以上の嬉しさでもあり頼もしさでもあります。米友をもてなす時のそわそわとした<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>を見れば、お君はほんとうに子供らしくなってしまうのでありました。

お君は打掛などは大急ぎで脱いでしまいました。それでも髪だけは片はずしであることが不釣合いだともなんとも気がつかないほどに、米友をもてなすことに一心になってしまいました。

お君が米友を案内して来たのは、自分の部屋とは離れた女中部屋の広い<ruby><rb>明間</rb><rt>あきま</rt></ruby>であります。

米友の背負って来た連れの大病人は<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>に二人で<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>って、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に寝かせて、薬を飲ませておきました。

「友さん、いつお前江戸を立ってどうして甲府へ来たの。来るならば来るように、飛脚屋さんにでも頼んで沙汰をしておいてくれればいいに」

「<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>言っちゃあ困る、飛脚屋に頼むにもなんにも、からきりお前の居どころが知れねえじゃねえか、それがためにずいぶん<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは心配したぜ。ほら、ほかの<ruby><rb>軽業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>の連中はみんな帰って来たろう、何かこっちで<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>め事があったとやらだが、でもみんな無事に帰って来て、両国でまた看板を上げてるのに、お前ばかりは帰って来ねえんだ。どうなったか、さっぱり様子がわからねえから、俺らはあの小屋まで聞きに行ったんだ。聞きに行くとお前、いつかの黒ん坊の<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじり</rt></ruby>があるだろう、それがために今でもあの親方が俺らをよく思っていねえんだ、それで追い払われちまったから腹が立ってたまらねえけれど、我慢してあの宿屋へ帰ってよ、それからこっちへ来る人があったから、その人のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をして連れて来てもらうまでの話はなかなか長いんだ」

「わたしだってお前、ずいぶん苦労をして死にかけたことが二度も三度もあったのよ。それでもムクがいてくれたり、また親切な人に助けられたりして、今ではお前、このお屋敷でずいぶん出世……をしているのよ。その間だって、友さんのことを心配していない日と言ってはありゃしない、どうかしてわたしの<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を知らせたいと思って、手紙を書いてもらって二度ばかり、両国のあの宿屋へ沙汰をしたけれども、さっぱりその返事がないから、わたしはどうしようかと思っていた」

「あれからの俺らというものは、あの宿屋にばかりいたんじゃあねえのだ。まあ追々ゆっくり話すよ、こうして会ってみりゃあ文句はねえのだが。そりゃあそうと気の毒なのはこの人だ、どこのどういう人だか知らねえが、口がまるきり利けねえのだ。ムクが案内するから俺らが天満宮の後ろの森の<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中から見つけ出して来たんだ、途中で冷たくなったから死ぬんじゃあねえかと心配して、俺らが急所へ活を入れてやって来たおかげで、どうやら持ち直した、この分なら<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は取留めるだろう。口が利けるようになりさえすれば占めたものだが」

「明日になったらお医者さんを呼んで上げましょう、今夜のところは寒くないようにして上げておいて……友さん、もう遅いからお前さんもここへお寝なさい、わたしも部屋へ帰って休みます、また明日ゆっくり話をしましょうよ、明日と限ったことはない、いつでもこれからは一緒にいて、あんまり離れて苦労しないことにしましょうよ」

お君はこう言って、また寝ている人に蒲団をかけ直してやろうとして、思わずその<ruby><rb>寝面</rb><rt>ねがお</rt></ruby>を見て<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、

「おやおや、この人は、これは幸内さんではないか知ら」

## 十一

駒井能登守はこの時、何かに驚かされて夜具の中からはねおきました。それはお君が米友を潜りの木戸から呼び入れた時よりも、ずっと後であって、あの場面は一通り済んでしまった時でしたから、無論それを聞き<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めての驚きではありません。

それは能登守がいま寝ている屋根の上で、たしかに人の歩むような物の音がするから、それに耳を傾けたのであります。そう思えば、たしかにそうであります。屋根の瓦を踏んでミシリミシリと音がする。時としてはその瓦が、踏み砕けたかと思われる音がするのでありました。

しかしながら、もしも怪しい者がその辺に来ているならば、能登守が驚く以前にムク犬が驚かねばならないのであります。しかるにムク犬はなんとも言わないで、今や寝入ろうとした能登守の耳を驚かしたものとすれば、ムク犬はまたしてもどこへか夜歩きをはじめて、この邸にはいなくなったものと見なければなりません。

能登守がなおも屋根の上の物音に耳を傾けている時に、今度は屋敷の外まわりでバタバタと駈ける人の足音が聞えました。その足音は一人や二人の足音ではなく、両方から来て<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ違うような足音でありました。

「や、これはこれは、御同役、お役目御苦労に存ずる」

という出会いがしらの挨拶が聞えました。

「なんにしても深い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>でござるな、鼻を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>まれても知れぬと言うけれど、これは鉢合せをするまでそれとは気がつかぬ、始末に悪い晩でござるわい。それはそうとこのお屋敷は、これは御支配の駒井能登守殿のお屋敷ではござらぬか」

「いかさま、これは能登守殿のお屋敷じゃ。実は我々共、たった今ここまで怪しいものを追い込んで参ったのでござるが、この辺でその跡が消えたのでござる」

「それはそれは。実は我々共も、お花畑の外よりどうやら怪しげな人の足音を追いかけて、ここまで来てみるとその足音が消え申した」

塀の外におけるこれらの問答が、いま、屋根の上の物音だけで耳を澄ましていた能登守の耳へ<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と聞えました。屋根の上のは何者とも知れないが、この塀の外のはまさしく<ruby><rb>捕方</rb><rt>とりかた</rt></ruby>の人数であります。捕方の人数というのは、<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>破牢のあったそれがために、まだまだこの辺を固めている役人の手配が、少しも<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>まないことが知れるのであります。

「次第によったら、この能登守殿のお屋敷の中へ忍び込んだかも知れぬ、御門番を起して案内を願うてみようか」

「この<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>、お騒がせ申しては相済まぬ、もう暁方も間近いほどに、このあたりを蟻も<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い出ぬように固めて待とうではないか、暁方にならば風が出るでござろう、風が出たならば自然に靄も吹き払われるでござろうから」

こんな申し合せの声も聞えます。そうして彼等はこの屋敷のまわりを固めているらしいのであります。

能登守はそれと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いている時に、暫らく静かにしていた屋根の上の足音がまた、ミシリミシリと聞えはじめました。つづいて<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>と<ruby><rb>庭前</rb><rt>にわさき</rt></ruby>へ落ちる物の音がしました。つづいて軒下を<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに走る者がある様子です。暫らくすると、どこをどうしたかそれらの足音が、たしかにこの家の中へ入って来ているのであります。しかも能登守のいま寝ているところから僅かの廊下を伝って行き得る、あの洋式の広間へ入り込んでいるらしいのであります。

この時に能登守は起き上って<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>の帯を締め直しました。寝衣の帯を締め直すと共に床の間にあった、銃身へ金と銀と<ruby><rb>赤銅</rb><rt>しゃくどう</rt></ruby>で竜の<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>をしてある秘蔵の室内銃を取り上げました。

室内銃というてもそれは拳銃ではありません。普通の火縄銃よりは少し短いものであって、やはり火縄銃ではありません。

これはコルトの五連発銃というのによく似たものであります。けれども舶来のものではありません。能登守自身が工夫して作らせた秘蔵のもので、五連発だけは充分に利くのです。

能登守はこの室内銃を携えて、寝間を抜け出して廊下伝いに離れの洋式の広間へと、そっと忍んで行きました。

廊下を突き当って、その洋式の研究室へ入るには、やはり洋式の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>であります。扉の傍の窓の隙から能登守はまず室内の様子を覗いて見ました。

火の気のなかるべきところに意外にも<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いています。それは真中の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>裸蝋燭</rb><rt>はだかろうそく</rt></ruby>を一本立てて置いてあるのであります。その裸蝋燭の光で<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>としてそこに<ruby><rb>二箇</rb><rt>ふたつ</rt></ruby>ばかりの人影が、卓子を囲んでいることを能登守は認めることができました。その何者であるかを、一見しては<ruby><rb>見極</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めることはできませんでしたけれども、二度目によく眼を定めて見れば、それが破牢人の片割れであることは直ぐに知れたのであります。

能登守は微笑しました。逃げ込むのにことを欠いて、この室内へ逃げ込んで来るとは、飛んで火に入る虫よりも無謀な者共であるわいと、腹の中でおかしいくらいに思いました。

しかしながら、それにしても彼等が存外、落着き払っていることが、能登守をして多少感心させないわけにはゆきません。それと知るや知らずや彼等は、世の常のお客に来たような心持で、椅子へ腰をかけて、物珍らしそうにこの室内を見廻しているのでありました。

「ははア、なんとこれは珍らしい一室である、見給え、壁の間には大きな黒船の額がかかっている、<ruby><rb>洋夷</rb><rt>ようい</rt></ruby>の調練している油絵がある、こちらの棚に並べてあるのはありゃ大砲の<ruby><rb>雛形</rb><rt>ひながた</rt></ruby>で、五大洲の地図もあれば地球儀もある、本箱に詰っているのはありゃみんな洋書で、あの机の上のは舶来の理学の器械や外科の道具と見ゆるわい、それにまたこの一室の全体が日本の造りではないわい、この板の間に敷きつめてあるのも、こりゃ<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>らしい。いったいこの部屋の持主はこりゃ何者だろう。こうして見ると我々は南蛮の国へでも流れついたようで、トンと甲州にいる気はしない。もし日本の者ならば、長崎の<ruby><rb>高島秋帆</rb><rt>たかしましゅうはん</rt></ruby>先生か、信州の<ruby><rb>佐久間象山</rb><rt>さくましょうざん</rt></ruby>先生あたりの部屋を見るようだわい」

こう言ってしきりに室内を見廻して興がっていたのは、それは獄中で<ruby><rb>紙撚</rb><rt>こより</rt></ruby>をこしらえていた奇異なる武士、すなわち仮りの名を南条と呼ばれていた破牢者でありました。彼は多年獄中にあっての<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる頭髪と<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる<ruby><rb>鬚髯</rb><rt>しゅぜん</rt></ruby>の間から、大きくはないが<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>と光る眼に物珍らしい色を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、しきりにこの室内を見廻しているのであります。

「なるほど、これは妙なところへ落着いた。昔大江山の奥に<ruby><rb>酒呑童子</rb><rt>しゅてんどうじ</rt></ruby>が住んでいた、それを<ruby><rb>頼光</rb><rt>らいこう</rt></ruby>が退治した。酒呑童子は鬼の<ruby><rb>化身</rb><rt>けしん</rt></ruby>だと俗説に唱えられていたが、近頃それはポルチュガルの漂流人が、あの山へ隠れていたのだと新奇な説を唱え出した学者がある。してみればこの部屋も、これは舶来の酒呑童子が甲州へ分家を出したのかも知れぬ、してみると我々は、さしむき渡辺の綱であり坂田の金時であるわけだが、実はうっかりすると退治られる方で、退治る方の役廻りでない」

<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ頬杖をつきながらこう言って笑っているのは、二番室にいた破牢の<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだつ</rt></ruby>で、これもその名を仮りに五十嵐と呼ばれていた壮士でありました。

この南条と五十嵐と二人の話しぶりは<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>でありました。実際<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に人はないのであったが、それにしてもこの夜中に人の家へ忍び込んだ者の態度としては、あまりに傍若無人でありました。

しかしながら駒井能登守は、この傍若無人をかえって興味を以て見、かつその会話を聞かないわけにはゆきません。彼等がこの上どんな挙動に出るかを<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めてみなければならなくなりました。それ故に能登守は扉をあけることもせずに、鉄砲を携えたままで、例の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っているのであります。そうすると南条は立ち上りました。立ち上って書棚の方へ行って、並べてある書物を一通り見て廻りましたが、最後にその中の一冊を抜き取って前の裸蝋燭のところまで持って来て、

「<ruby><rb>蘭書</rb><rt>らんしょ</rt></ruby>だ」

と言いました。

「何が書いてあるのだ」

と五十嵐が尋ねました。

「スメルトクルース、つまり<ruby><rb>鎔坩</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>のことだ、鉱物を<ruby><rb>鎔</rb><rt>と</rt></ruby>かす鎔坩のことを書いてある<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>の原書だ」

と南条が説明しました。

「それはますます<ruby><rb>珍</rb><rt>ちん</rt></ruby>だ、ここの主人は洋行した<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>でもあるのか」

「こりゃあ高島先生のお弟子か或いは<ruby><rb>江川坦庵</rb><rt>えがわたんあん</rt></ruby>の門下であろう。それにしても今時こんな書物を、甲州の山の中で読んでいるというのが変っている」

南条は首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りながらその蘭書を開いてパラパラと二三葉飛ばして見ていました。これによって見れば、ともかくもこの南条は蘭書が読める人らしいのであります。五十嵐の方は<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないと見えて、本をひっくり返している南条の手元ばかりをながめていましたが、

「とにかく、火を<ruby><rb>熾</rb><rt>おこ</rt></ruby>そうではないか、そこに火鉢がある」

能登守が<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>用ゆる大火鉢へ眼をうつしました。

「うむ」

南条の方は、まだ蘭書から眼をはなしません。五十嵐は立って火鉢のところへ来ました。そこにあったたきつけと炭とを利用して、

「ちょっと、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を借りるぜ」

<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上の<ruby><rb>裸蝋燭</rb><rt>はだかろうそく</rt></ruby>を取って火を焚きつけて、また元のところへ立てて置きました。

まもなく焚付の火が勢いよく燃え上ると、炭火もそれにつれて<ruby><rb>熾</rb><rt>おこ</rt></ruby>りはじめました。五十嵐はその火を盛んにするようにつとめていましたが、南条は足を踏み延ばして火鉢の縁へかけ、片手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>したままでその蘭書をながめていました。

「面白いか」

五十嵐がまた尋ねました。

「別に面白いというべきものではない、ただ鉄を<ruby><rb>鎔</rb><rt>と</rt></ruby>かす方法が書いてあるのだ。イギリスの<ruby><rb>鎔坩</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>は鋼鉄を鎔かすことができるとか、イプセルとはどうだとかいうことが書いてあるのだ」

「さあ、いい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に火が熾った、宇津木にもあたらせてやれ」

一方を顧みると、そこに<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>かが寝かされていて、その上には、能登守がここで日頃用ゆる<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>の羽織が覆いかけてあるのでありました。

能登守はそれと知って苦笑いし、いまさらにその室内の隅々までよく覗いて見ましたけれども、そのほかには人らしい影は見えません。つまりこの室内にあるのは、前から傍若無人に話していた二人と、別に寝かされている一人と、都合三人だけであることを確めました。

「それはそうと、南条、これから我々はどうするのじゃ」

と五十嵐は、火にあたりながら蘭書を見ている南条の横顔を覗きました。

「そうさなあ」

と南条は本を伏せて五十嵐と顔を見合せました。

南条と五十嵐とは椅子に腰をかけたまま、火鉢の火にあたって膝を突き合せて話をはじめました。

その話というのは、これからの身の振り方であります。

彼等はその挙動の傍若無人である如く、言語もまた傍若無人でありました。それは高談笑語でこそなけれ、ややはなれた能登守の立聞くところまで、尋常に聞える話しぶりでありました。

「実は、おれも弱っているのだ」

と言って、本を伏せた南条が弱音を吐きました。けれども格別弱ったような顔色ではありません。

「あの<ruby><rb>贋金使</rb><rt>にせがねづか</rt></ruby>いが万事を取りしきって、山へ逃げさえすれば、衣裳も着物も用意がしてある、食糧も充分で、直ぐに信州路へ立退くようにしてあると言うから、それを信用していたのだ。あの贋金使いという奴は心の利いた奴だから、それを信用して間違いないと思っていた、また事実、間違いはなかったのだろうけれど、途中で犬に吠えられたのが運の尽きでこんなことになってしまった。これから先はどうと言うて、拙者にもいっこう考えがつかぬ、五十嵐、君に何か思案があらば聞こうではないか」

「君に思案のないものを拙者において思案のあろうはずがない、ともかくも杖と頼んだあの贋金使いとハグれたのが我々の不運じゃ、悪い時に悪い犬めが出て来て邪魔をしたのがいまいましい」

「闇と靄との中から不意に一頭の猛犬が現われて出て、我々には飛びかからず、あの贋金使いに飛びかかった、贋金使いも身の軽い奴であったが、あの犬には驚いたと見えて逃げたようだ、それを犬が追いかけて行ったきり、どちらも<ruby><rb>音沙汰</rb><rt>おとさた</rt></ruby>がない、声を立てて呼ぶわけにはいかず、跡を追いかけるにもこの通りの闇、そのうち前後左右には破牢！　破牢！　という捕手の声だ、それを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って、やっとここへ忍び込んだけれど、これとても<ruby><rb>鮫鰐</rb><rt>こうがく</rt></ruby>の<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>の中で息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いているのと同じことだ」

「さあそれだから、いつまでもこうしてはいられぬ、まだ夜の明けぬうち、この靄と闇との深いうち、ここを逃げ出すよりほかに手段はあるまい。この場合ぜひもないから、この室に金銀があらば金銀、衣服があらば衣服、大小があらば大小、それらのものを借受けて出立致そうではないか」

「待て待て、外の様子に耳を傾けてみるがいい」

それで室内が<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>として静まると、外でする<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい声が、鳥の羽音のように聞え出しました。それは能登守が前に聞いたのと同じく、この屋敷のまわりを走り廻る捕手の者が罵り合う声であります。それに加うるに、この屋敷の長屋に住んでいた者までが、起きて加わって罵り<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>いでいる様子であります。

「なるほど」

五十嵐はそれを聞くと、観念をしたものらしくあります。

「これでは、外へ出られぬ」

二人は、またも暫く沈黙して室の中が静かになりました。

「よしや、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>に捕方に囲まれずとも、このままで逃げ<ruby><rb>了</rb><rt>おお</rt></ruby>せるものではない、山野を駈けめぐっているうちに、飢えと疲れが眼の前へ来て、やがて見苦しいザマで引戻されるにきまっている、どちらにしても袋の鼠になってしまったのだ。と言うて手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねて捕われるのも<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>な話、<ruby><rb>窮鼠</rb><rt>きゅうそ</rt></ruby>かえって猫を噛むというわけではないが、時にとっての非常手段を試みるよりほかはない。その非常手段というのは、ここへ逃げ込んだのが縁、何者か知らないが当家の主人を叩き起し、<ruby><rb>手詰</rb><rt>てづめ</rt></ruby>の談判をしてみるのだ」

南条はこう言って、強い決心を示して五十嵐を見ました。

「手詰の談判というのは？」

五十嵐もまた、南条のいわゆる非常手段の決心を呑込んでいるのでしょう。ただ手段の細かい方法を聞かんとするらしくあります。

「当分の間、我々を当家にかくまってくれるように、事をわけて歎願してみるのじゃ」

「しかし、それを聞き入れてくれぬ時には？」

「その時には、この宇津木だけを当家にかくまってくれるように頼み、我々は相当の路用と衣類とを借用して尋常に逃げてみるのだ」

「もしまた、それを聞き入れなかったその時には？」

「その時には気の毒ながら、最後の手段を取るよりほかはない、最後というのは血を見ることだ」

「よろしい、その決心で働こう。当家の主人という者はどこに寝ている、ほかの者には取合わず、まず用心して忍び、その主人の寝間を突留めねばならぬ」

「さあ、その用意をしろ、何か<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>はないか、あたりを探してみるがよい」

二人は同時に立ち上りました。そうして<ruby><rb>裸蝋燭</rb><rt>はだかろうそく</rt></ruby>は卓子の上から南条の手に取り上げられて、

「おい、宇津木、聞いていたろう、いま話したようなわけで我々は、これから非常手段の実行にかかるのじゃ。うまくいけばよいけれど、多分うまくはいくまいと思う。仕損じたらそれまでだ、我々は<ruby><rb>斬死</rb><rt>きりじに</rt></ruby>するか、或いは身を以て逃れるか二つに一つじゃ。自然、君にも充分に手が届かぬかも知れぬ。ともかく、君はこうして待っていろ、病気でもあるし、本来、君には何の罪もないのじゃ、君を捕えに来たものがあったら、その時、この場でよく申し開きをするがよい。いいか、眠っているうちに何者にか連れ出されたと、こう言ってしまえば理も非もない。また我々が首尾よく抜け出しさえすれば、明日とも言わず迎えの工夫をする、どっちにしても落着いて寝ていることが<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>じゃ」

この声を聞いて、寝台の上に能登守の筒袖羽織を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せられて寝ていた宇津木兵馬が、起き直ろうとして動きかけましたが、かの廊下の扉の方にあたって、トーンと一つの物音が聞えたのもその時です。この物音はさして大きな物音ではなかったけれど、さすがの二人の壮士を<ruby><rb>悸</rb><rt>ぎょっ</rt></ruby>とせしめて、その音のした扉の方を見つめさせ、

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ」

いま、起き上ろうとする宇津木兵馬を抑えてしまいました。

「今の物音は？」

「…………」

二人の壮士は<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見合せました。それは彼等を気にさせるのも道理で、その物音は能登守が鉄砲の<ruby><rb>台尻</rb><rt>だいじり</rt></ruby>を板の間に軽く落した物音でありました。やがて室内の四方へ眼を配った二人のうち南条は、能登守の机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から<ruby><rb>白鞘</rb><rt>しらさや</rt></ruby>の短刀一<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>を探し出しました。五十嵐は能登守が鎔鉱の試験用に使う三尺ばかりの鉄の棒を一本探し出しました。南条はその短刀の鞘を払って、それが充分用に堪えることを知っての上で、二人はその裸蝋燭を前にかざして進んで行きました。二人の進んで行く方向は、無論、能登守が立聞きをしているはずの廊下へ<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>う<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の方向でありました。

「<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>！」

「あ！」

と驚いた二人の壮士は、その行手の扉が風もないのに向うから開いて、そこから狼藉者呼ばわりの<ruby><rb>凜々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい声を聞きました。

不意に能登守の<ruby><rb>一喝</rb><rt>いっかつ</rt></ruby>に会うた時には、さすがの壮漢もピタリそこに足を留めてしまいました。

足を留めてから先に進んだ南条は、その手に持った裸蝋燭を高くさしかざして、その扉の方をじっと見つめました。後ろから進んだ五十嵐は鉄の棒を構えながら、同じく蝋燭の光で南条の袖の下から向うを見込んでおります。

扉を開いて能登守はそこに立っていました。例の五連発の室内銃を胸のあたりに取り上げて、銃口をこちらへ向けていましたが、その銃身に<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>した金と銀と<ruby><rb>赤銅</rb><rt>しゃくどう</rt></ruby>の雲竜が、蝋燭の光でキラキラとかがやきます。

双方は暫らく無言で<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>め合っていました。

「其方たちは<ruby><rb>破牢者</rb><rt>はろうもの</rt></ruby>だな」

能登守にこう言われて、

「お察しの通り」

南条は落着いたものです。

「神妙に致せ」

能登守は彼等が、無事に屈服することを待つかの如き言いぶりであります。

南条はその迫らざる様子を見て、自分も<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て進むことをせずに、能登守の人品を、なおしばらくうかがっていなければならないのです。

けれども、南条の後ろに控えていた五十嵐はそれをもどかしく思いました。鉄砲だとてなにほどのことかあらん、この場合においては機先を制して彼を打ち倒すよりほかはないと覚悟をしました。それで南条の後ろから、ひそかに鉄の棒を取り直して、

「や！」

と言って能登守めがけて打ってかかろうとすると、

「まあ待て」

南条はあわててそれを抑えました。

その時に能登守は銃を本式に構えて、いま飛びかかろうとする五十嵐の肩のあたりに<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを定めながら、

「一寸も動くことはならぬ、何者であるか、そこで名乗れ」

この時、南条は急に言葉を改めて、

「お察しの通り、我々は余儀なく甲府の牢を破って、追い詰められ、心ならずも御当家へ忍び入り申したる者、貴殿は当家の御主人でござるか」

「いかにも拙者が当家の主人」

「当家の御主人ならば、もしや……駒井甚三郎殿ではござらぬか」

「ナニ？」

「駒井甚三郎殿ならば、<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>得たいことがござる、よく拙者が<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を御覧下されたい」

と言って、南条は<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>で自分の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を焼くばかりにして、じっと能登守に振向けていました。

「おお、御身は<ruby><rb>亘理</rb><rt>わたり</rt></ruby>」

能登守は<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と南条の面を見つめた後に、言葉がはずみました。それと共に構えていた鉄砲を<ruby><rb>取卸</rb><rt>とりおろ</rt></ruby>して、

「君はここにいたのか、この甲府の牢内にいたのか、それとは少しも知らなかった、<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>牢を破った浪士の頭は南条、五十嵐という両人の者とは聞いていたが、その一人が君であろうとは思わなかった。君もまた、駒井甚三郎が能登守といってこの甲府の城にいるということは気がつかなかったろう。しかも知らずしてその屋敷まで逃げて来たことが、いよいよ奇遇じゃ。ともかくもこっちへ来給え」

この打って変った砕け様は、南条を驚かしたより多く五十嵐を驚かしてしまいました。<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られていた五十嵐を<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して、能登守が招くがままに、南条は旧友に会うような態度でその方へと進んで行きました。外はやっぱり靄で巻かれているのに、ここでも煙に巻かれるような出来事が起りました。

南条、五十嵐の二人は、宇津木兵馬をも<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて、能登守に導かれてこの廊下を渡って行ってしまった時分に、廊下の縁から黒い者が一つ、ひょっこりと現われました。

縁の下の役廻りは斧九太夫以来、たいてい相場がきまっているのであります。これは手拭で<ruby><rb>頬被</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りをしていましたけれど、その挙動によってもわかる通り、さいぜんからこの辺に忍んで、何か様子を探っていたものらしくあります。廊下の下から本邸の方を見上げて、なおキョロキョロしている面を見れば、それは役割の市五郎の手先をつとめている金助という折助でありました。

金助は廊下の縁の下から顔を出したけれども、また暗の中へ消えて姿が見えなくなりました。しばらくすると奥庭の方へそっと忍び入って、また縁の下へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ろうとする<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>であります。首尾よく縁の下へ潜り<ruby><rb>了</rb><rt>おお</rt></ruby>せたか、それともその辺に忍んで立聞きをしているのだかわかりませんが、とにかく、それっきり姿を消してしまいました。

ややあって、ウーとムク犬の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る声がしました。いったん米友をつれて帰って来たムク犬が再びどこかへ行って、また立戻って来たものと見えます。この唸る声を聞くと、あわてふためいて縁の下から転がり出したものがあります。それは以前の金助でありました。

金助の狼狽の仕方は夜目にもおかしいくらいであります。二三度ころがって、やっと塀まで行くと、塀際の柳の木へ一生懸命で走せ上ってしまいました。柳の木へ登ると共に、塀へ手をかけて飛び移って、塀を乗り越えて往来へ出て、それからあとをも見ずに一散に闇と靄との間を走りました。その勢いは脱兎の如くであります。

「ああ危ねえ、今夜という今夜は、犬もいねえし、首尾も大分いいから、思い通り忍び込んで、さあこれからという時分に、また犬が出やがった。ほんとにあん畜生、俺の<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>だ」

五六町も走ったあとで、とある町の角の火の見梯子の下に立って、金助はホッと胸を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で下ろしました。胸を撫で下ろしながら、またムク犬が追っかけて来やしないかと、キョロキョロと逃げて来た方向を見廻して、万一その辺からワッと面を出した時分には、直ぐにその火の見の半鐘のかかった梯子へかけ上ろうとする用心は、かなり抜からないものです。

「はははは、まず人に見られなくってよかった。<ruby><rb>夜這</rb><rt>よばい</rt></ruby>に出かけて犬に追っ飛ばされた図なんぞは、あんまりみっともいいもんじゃあねえ、仲間の折助どもに見られでもしてみろ、いいかげんお笑いの種だ」

と言って、金助は自分で自分を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>いをしました。この独白によって見ると、金助は誰かの頼みを受けて駒井能登守の挙動を探りに来たものではなく、その目的は全く別なところにあることがわかります。全く別なところというのは、つまりこの屋敷へ夜這に来たものなのでありましょう。毎晩のように夜這を目的に来てみたけれども、犬がいるために近寄れないのを、今夜は犬がいなかったために、屋敷の中へ忍び込むことにおいてある程度まで成功したものらしくあります。ところがその成功の途中で、また犬に追っ飛ばされたものと見なければなりません。

「ちょっ」

金助は舌打ちをして多少いまいましがったけれども、

「それでも何が仕合せになるか知れねえ、捨てる神があれば拾う神もあるもので、このおれに飛んだ拾い物を授けて下すったというのは、あの駒井能登守が牢破りを引張り込んで知らん面でかくまった一件を、すっかり見届けてしまったんだ、こいつをひとつ神尾様あたりへ売り込んでみろ、安い<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>じゃあねえ」

こう言って金助は、前の<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわらい</rt></ruby>と変ったホクホク笑いをしました。