

この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を<ruby><rb>曲尽</rb><rt>きょくじん</rt></ruby>して、<ruby><rb>大乗遊戯</rb><rt>だいじょうゆげ</rt></ruby>の境に参入するカルマ<ruby><rb>曼陀羅</rb><rt>まんだら</rt></ruby>の面影を<ruby><rb>大凡下</rb><rt>だいぼんげ</rt></ruby>の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、<ruby><rb>一染</rb><rt>いっせん</rt></ruby>の好憎に執し給うこと勿れ。<ruby><rb>至嘱</rb><rt>ししょく</rt></ruby>。著者謹言

  


一

<ruby><rb>大菩薩峠</rb><rt>だいぼさつとうげ</rt></ruby>は江戸を西に<ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>る三十里、甲州裏街道が<ruby><rb>甲斐国</rb><rt>かいのくに</rt></ruby>東山梨郡<ruby><rb>萩原</rb><rt>はぎわら</rt></ruby>村に入って、その最も高く最も<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。

標高六千四百尺、昔、貴き<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>が、この<ruby><rb>嶺</rb><rt>みね</rt></ruby>の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは<ruby><rb>笛吹</rb><rt>ふえふき</rt></ruby>川となり、いずれも流れの末永く人を<ruby><rb>湿</rb><rt>うる</rt></ruby>おし田を<ruby><rb>実</rb><rt>みの</rt></ruby>らすと申し伝えられてあります。

江戸を出て、武州八王子の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>を右にとって<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くこと十三里、武州<ruby><rb>青梅</rb><rt>おうめ</rt></ruby>の宿へ出て、それから山の中を甲斐の<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>へ出る、これがいわゆる甲州裏街道（一名は青梅街道）であります。

青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に<ruby><rb>日本武尊</rb><rt>やまとたけるのみこと</rt></ruby>、中世に日蓮上人の<ruby><rb>遊跡</rb><rt>ゆうせき</rt></ruby>があり、<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>って慶応の頃、<ruby><rb>海老蔵</rb><rt>えびぞう</rt></ruby>、<ruby><rb>小団次</rb><rt>こだんじ</rt></ruby>などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の<ruby><rb>郡内</rb><rt>ぐんない</rt></ruby>あたりは人気が悪く、ゆすられることを<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。

「<ruby><rb>上野原</rb><rt>うえのはら</rt></ruby>へ、<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>が入りましたそうでがす」

「ヘエ、上野原へ盗人が……」

「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」

「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>ることやら」

<ruby><rb>妙見</rb><rt>みょうけん</rt></ruby>の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば<ruby><rb>焼畑</rb><rt>やきばた</rt></ruby>も作るという人たちであります。

これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。

萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て<ruby><rb>小菅</rb><rt>こすげ</rt></ruby>から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して<ruby><rb>魚塩</rb><rt>ぎょえん</rt></ruby>を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。

右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、

「どろぼうが<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いのは<ruby><rb>物持</rb><rt>ものもち</rt></ruby>の<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅう</rt></ruby>のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて逃げるわ」

ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の<ruby><rb>武州路</rb><rt>ぶしゅうじ</rt></ruby>の方から青葉の茂みをわけて登り来る<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>があります。

「あ、人が来る、お武家様みたようだ」

二人は少しあわて気味で、炭俵や<ruby><rb>糸革袋</rb><rt>いとかわぶくろ</rt></ruby>が結びつけられた<ruby><rb>背負梯子</rb><rt>しょいばしご</rt></ruby>へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の裏路を<ruby><rb>黄金沢</rb><rt>こがねざわ</rt></ruby>の方へ切れてしまいます。

二

ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>でありました。黒の着流しで、<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>は<ruby><rb>放</rb><rt>はな</rt></ruby>れ<ruby><rb>駒</rb><rt>ごま</rt></ruby>、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>の帯を締めて、<ruby><rb>朱微塵</rb><rt>しゅみじん</rt></ruby>、<ruby><rb>海老鞘</rb><rt>えびざや</rt></ruby>の刀<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>をさし、<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>はつけず、<ruby><rb>脚絆草鞋</rb><rt>きゃはんわらじ</rt></ruby>もつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>をかたげて、甲州路の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>を見廻しました。

歳は三十の前後、<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>で色は白く、身は<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せているが骨格は<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、<ruby><rb>青嵐</rb><rt>あおあらし</rt></ruby>が<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。

妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いてキャッキャッと<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。

柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは<ruby><rb>珍</rb><rt>めず</rt></ruby>らしいことではないが、それを珍らしがって<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります。人の<ruby><rb>弱味</rb><rt>よわみ</rt></ruby>を見るに<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>なこの群集動物は、相手を見くびると<ruby><rb>脅迫</rb><rt>きょうはく</rt></ruby>する、<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない時は<ruby><rb>味方</rb><rt>みかた</rt></ruby>を呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅に<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れた人は、その虚勢を知って<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>らそれに処するの道があるのであります。

右の武士は、慣れた人と見えて、<ruby><rb>一目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>猿を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに<ruby><rb>擬勢</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>を示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。

さりとて容易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして<ruby><rb>小半時</rb><rt>こはんとき</rt></ruby>もたつと、木の葉の繁みを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて、かすかに人の声がします。その声を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、<ruby><rb>羊腸</rb><rt>ようちょう</rt></ruby>たる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。

「お<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さん――」

よく澄んだ子供の声がします。見れば一人は<ruby><rb>年寄</rb><rt>としより</rt></ruby>で半町ほど先に、それと<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れて十二三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。

右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。

「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」

年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて<ruby><rb>跪</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まると、

「お爺さん、ここが頂上かい」

<ruby><rb>面立</rb><rt>おもだち</rt></ruby>の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。

「これからは下り一方で、日の暮までに<ruby><rb>河内泊</rb><rt>かわちどま</rt></ruby>りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」

<ruby><rb>老爺</rb><rt>ろうや</rt></ruby>は<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、

「お爺さん、その<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでまいりましょう」

「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」

腰なる瓢箪を抜き取ると、

「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」

女の子は、老人の手から<ruby><rb>瓢</rb><rt>ふくべ</rt></ruby>を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて<ruby><rb>山路</rb><rt>やまじ</rt></ruby>をかけ下ります。

老人は<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から人の足音が起ります。

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>」

それはさいぜんの武士でありました。

「はい」

老爺は、あわただしく居ずまいを直して<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、

「ここへ出ろ」

編笠も取らず、用事をも言わず、<ruby><rb>小手招</rb><rt>こてまね</rt></ruby>きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、

「はい、何ぞ御用でござりまするか」

<ruby><rb>小腰</rb><rt>こごし</rt></ruby>をかがめて進み寄ると、

「あっちへ向け」

この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという<ruby><rb>無残</rb><rt>むざん</rt></ruby>なことでしょう、あっという間もなく、<ruby><rb>胴体</rb><rt>どうたい</rt></ruby>全く二つになって青草の上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめ</span>ってしまいました。

三

「お<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さん、水を汲んで来てよ」

瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、

「お爺さんはどこへ行ったろう」

お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、

「あれ――」

<ruby><rb>瓢</rb><rt>ふくべ</rt></ruby>を投げ出して<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついたのは老人の<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>でした。

「お爺さん、誰に殺されたの――」

亡骸をかき抱いて泣きくずれます。

ここにこの不慮の<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>を平気で<ruby><rb>高見</rb><rt>たかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>見物</rb><rt>けんぶつ</rt></ruby>をしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かの<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の木の上の猿です。

猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました。老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>がいきなり飛び出して、少女の<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>にさしてあった小さな<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>をちょっとツマんで引き抜き、したり<ruby><rb>顔</rb><rt>がお</rt></ruby>に仲間のものに見せびらかすような<ruby><rb>身振</rb><rt>みぶり</rt></ruby>をする。それを見た、も一つの小猿は負けない気で、少女の頭髪から<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を抜き取って振りかざす。その間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の<ruby><rb>握飯</rb><rt>にぎりめし</rt></ruby>を引き出して口々に<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>ばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。

我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、

「あれ――」

と飛びのいたが、<ruby><rb>気丈</rb><rt>きじょう</rt></ruby>な子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります。

年配は四十ぐらいで、<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>をかぶって<ruby><rb>竪縞</rb><rt>たてじま</rt></ruby>の<ruby><rb>風合羽</rb><rt>かざがっぱ</rt></ruby>を着、<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>を一本さしておりましたが、手に持っていた<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火を振り廻すと、今まで<ruby><rb>驕</rb><rt>おご</rt></ruby>っていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へと<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ上ります。

旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>うべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します。獣類のなかでも猿はことに火を<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、

「<ruby><rb>姉</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>はなかったかね」

近く寄って見て、

「おやおや、人が斬られている！」

少女を掻き分け<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>へ手をかけ、その<ruby><rb>斬口</rb><rt>きりくち</rt></ruby>を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べて見て、

「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」

旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りの<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。

四

大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の<ruby><rb>御岳山</rb><rt>みたけさん</rt></ruby>と多摩川を隔てて向き合ったところに、<ruby><rb>柚</rb><rt>ゆず</rt></ruby>のよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、<ruby><rb>冠木門</rb><rt>かぶきもん</rt></ruby>の左右に<ruby><rb>長蛇</rb><rt>ちょうだ</rt></ruby>の如く走る白壁に黒い腰をつけた<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>と、それを越した<ruby><rb>入母屋風</rb><rt>いりもやふう</rt></ruby>の大屋根であって、これが<ruby><rb>机竜之助</rb><rt>つくえりゅうのすけ</rt></ruby>の邸宅であります。

机の家は<ruby><rb>相馬</rb><rt>そうま</rt></ruby>の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。

「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に<ruby><rb>辻斬</rb><rt>つじぎり</rt></ruby>があったそうにござります」

「ナニ、大菩薩に辻斬が……」

「年とった巡礼が一人、<ruby><rb>生胴</rb><rt>いきどう</rt></ruby>をものの見事にやられたと甲州から来た人の<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>でござりまする」

「やれやれ年寄の巡礼が、<ruby><rb>無残</rb><rt>むざん</rt></ruby>なことじゃ」

「近頃の<ruby><rb>盗人沙汰</rb><rt>ぬすびとざた</rt></ruby>と言い、またしても辻斬、<ruby><rb>物騒千万</rb><rt>ぶっそうせんばん</rt></ruby>なことでございますな」

「<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>、なにしろこの<ruby><rb>街道筋</rb><rt>かいどうすじ</rt></ruby>は申すに及ばず、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがや</rt></ruby>から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」

「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の<ruby><rb>腹切</rb><rt>はらきり</rt></ruby>ものだ」

「それにしても、この沢井村<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」

沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。

「さて、道具無しの一本」

「心得たり、若先生の<ruby><rb>型</rb><rt>かた</rt></ruby>を」

門弟二人が左右に分れると、

「沢井道場<ruby><rb>名代</rb><rt>なだい</rt></ruby>の<ruby><rb>音無</rb><rt>おとな</rt></ruby>しの勝負」

<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>まがいで叫ぶ者がある。

沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>わしで、<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの<ruby><rb>太刀先</rb><rt>たちさき</rt></ruby>に向っては、いずれの剣客も<ruby><rb>手古摺</rb><rt>てこず</rt></ruby>らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。

その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、

「頼む」

中では返事がない。

「頼みましょう」

まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの<ruby><rb>立合</rb><rt>たちあい</rt></ruby>は、一方が<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れて<ruby><rb>小手</rb><rt>こて</rt></ruby>を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。

「お頼み申します」

勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから<ruby><rb>無遠慮</rb><rt>ぶえんりょ</rt></ruby>に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。

「<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>が応対して参ろう」

いま立合をして負けた方のが、道場から<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>へつづいた廊下をスタスタと<ruby><rb>稽古着</rb><rt>けいこぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>のままで出てゆくと、

「安藤さん、若い<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>のお客と見たら<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>なしに応対にお出かけなすった」

皆々笑っていると、

「ドーレ」

安藤の太い声。ややあって女の<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい声で、

「あの、手前は和田の<ruby><rb>宇津木文之丞</rb><rt>うつきぶんのじょう</rt></ruby>が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」

「ハハ<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>でござるか」

姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。

「その若先生はな」

いよいよ安藤は四角ばって、

「ただいま御不在でござるが」

「竜之助様はお<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>……」

女はハタと当惑したらしく、

「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」

「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>いも致し兼ぬるで……」

「遅くとも<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>はお帰りでございましょう」

「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」

安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れ聞いておりましたが、

「若先生に<ruby><rb>直談判</rb><rt>じかだんぱん</rt></ruby>というて美しい<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>が乗り込んで来た、<ruby><rb>前代未聞</rb><rt>ぜんだいみもん</rt></ruby>の道場荒し」

「見届けて参りましょうか」

<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めて<ruby><rb>斥候</rb><rt>ものみ</rt></ruby>の役を承ろうとする者がある。

「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」

ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>って、

「見届けて参りました、<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに見届けて参りました」

息を切っての<ruby><rb>御注進</rb><rt>ごちゅうしん</rt></ruby>です。

「どのような女子じゃ」

「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」

「ナニ、和田の宇津木の<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>か、さいぜん妹だというたではないか」

「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>とお見かけ申しました」

「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ」

「あ、若先生のお帰り」

無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>もその時のままで。

五

竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>間着</rb><rt>あいぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>鶸色繻子</rb><rt>ひわいろじゅす</rt></ruby>の帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。

「お浜どのとやら、御用の<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>は？」

竜之助の問いかけたのを待って、

「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」

歳にはませた<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>ぶりで、

「ほかでもござりませぬ、五日の日の<ruby><rb>御岳山</rb><rt>みたけさん</rt></ruby>の大試合のことにつきまして……」

竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、

「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」

「大事の試合なれば、そのお心づかいも<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もに存じ申す、我等とても油断なく」

<ruby><rb>素気</rb><rt>すげ</rt></ruby>なき答え方。女は少し<ruby><rb>焦</rb><rt>せ</rt></ruby>き込んで、

「いえいえ、兄は<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>あなた様の敵ではござりませぬ、同じ<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>でなりませぬ」

「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、<ruby><rb>甲源一刀流</rb><rt>こうげんいっとうりゅう</rt></ruby>の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」

「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の<ruby><rb>太刀先</rb><rt>たちさき</rt></ruby>に<ruby><rb>刃向</rb><rt>はむか</rt></ruby>う腕はないと、このように申し切っておりまする」

「それは<ruby><rb>御謙遜</rb><rt>ごけんそん</rt></ruby>でござろう」

竜之助は<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>の像を置いたようにキチンと坐って、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>一つ動かさず、色は例の通り<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>いくらいで、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく<ruby><rb>躍起</rb><rt>やっき</rt></ruby>となるような調子で、頬にも<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>がさし、眼も少しかがやいてきたが、

「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで<ruby><rb>推参</rb><rt>すいさん</rt></ruby>致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」

女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと<ruby><rb>結立</rb><rt>ゆいた</rt></ruby>ての髪を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がしての歎願です。

竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、

「これはまた<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>でも<ruby><rb>誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>でもござるまい、まして一家の破滅などとは<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>なり<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>き」

<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかな返事です。

女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、<ruby><rb>一方</rb><rt>ひとかた</rt></ruby>ならぬ<ruby><rb>色香</rb><rt>いろか</rt></ruby>を添えつ、

「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に<ruby><rb>召抱</rb><rt>めしかか</rt></ruby>えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>を致す心組みでおりましたところ……」

「それは重ねがさね<ruby><rb>慶</rb><rt>めで</rt></ruby>たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」

「それが<ruby><rb>折悪</rb><rt>おりあ</rt></ruby>しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば<ruby><rb>生々</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、<ruby><rb>差出</rb><rt>さしで</rt></ruby>がましくも折入ってのお願いでござりまする」

この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その<ruby><rb>心根</rb><rt>こころね</rt></ruby>に対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>がいよいよ蒼白く見えるばかりで、

「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>が初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りました。されど、武道の試合はまた格別」

格別！　と言い切って、口をまた固く結んだその<ruby><rb>余音</rb><rt>よいん</rt></ruby>が何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して、

「<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>ならば、あの、お聞入れは……」

声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、

「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、<ruby><rb>入魂</rb><rt>じっこん</rt></ruby>の友達とても、試合とあれば<ruby><rb>不倶戴天</rb><rt>ふぐたいてん</rt></ruby>の敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」

竜之助はこういう<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっこく</rt></ruby>なことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は<ruby><rb>戦慄</rb><rt>みぶるい</rt></ruby>するほどに怖れたので、

「それはあまりお強い、人情知らずと申すもの……」

涙をたたえた<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みの眼に、じっとお浜は竜之助の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見やります。

竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の血が通うと見えましたが、それも<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>で、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、

「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物に<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>うれば我等が武術の道は女の<ruby><rb>操</rb><rt>みさお</rt></ruby>と同じこと、たとえ親兄弟のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」

「それとても親兄弟の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>にかかわる時は……」

「その時には女の操を破ってよいか」

六

宇津木の妹を送り出したのは<ruby><rb>夕陽</rb><rt>ゆうひ</rt></ruby>が御岳山の裏に落ちた時分です。しばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。

「与八！　与八！」

夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光。

「誰だい」

まだるい返事。

「竜之助だ、ここをあけろ」

「へえ、今……」

やや狼狽の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>。やがて中からガラリと戸が開かれると、<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>は子供のようで、形は牛のように<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った若者です。

「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」

「へえ」

この若者は、竜之助を見ると<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまうのが<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>です。

「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」

耳に口をつけて何をか<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くと、与八は<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>え上って返事ができない。

「いやか」

「だって若先生」

「いやか――」

竜之助から圧迫されて、

「だって若先生」

与八は歯の根が合わない。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>をお斬りなさる気かえ」

「いやか――」

「行きます」

「行くか」

「行きます」

「よし、ここに縄もある、手拭もある、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかり</span>やれ、やりそこなうな」

七

竜之助の父<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>が江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>の者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、<ruby><rb>物心</rb><rt>ものごころ</rt></ruby>を覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言って<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>められるのを<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>がって、この水車小屋へばかり遊びに来ました。その時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとを<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで水車番になったのです。

与八の<ruby><rb>取柄</rb><rt>とりえ</rt></ruby>といっては馬鹿正直と馬鹿力です。与八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている。荷車が道路へメリ込んだ時、<ruby><rb>筏</rb><rt>いかだ</rt></ruby>が岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。

「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」

「うん」

そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放される。お礼心に<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>などを出しても与八は<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>がらない、米の飯を食わせれば限りなく<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶ、それに<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>の切身でもつけてやろうものなら一<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたげ</span>に三升ぐらいはペロリと<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>げてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を食わせずに<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>まそうとする、二度三度<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>なると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します。

与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の<ruby><rb>御機嫌伺</rb><rt>ごきげんうかが</rt></ruby>いに行きます。

「<ruby><rb>大先生</rb><rt>おおせんせい</rt></ruby>の御機嫌はいいのかい」

女中や<ruby><rb>雇男</rb><rt>やといおとこ</rt></ruby>が、

「ああ好いよ」

と答えると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっこり</span>して帰ってしまう。竜之助の父弾正は老年の上、<ruby><rb>中気</rb><rt>ちゅうき</rt></ruby>をわずらって永らく床に就いています。

竜之助から<ruby><rb>脅迫</rb><rt>きょうはく</rt></ruby>されて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が一つ、<ruby><rb>巴</rb><rt>ともえ</rt></ruby>のように舞って谷底に落ちてゆく。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八に<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります。

それからまた<ruby><rb>程経</rb><rt>ほどへ</rt></ruby>て、河沿いの<ruby><rb>間道</rb><rt>かんどう</rt></ruby>を、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。

竜之助が万年橋の<ruby><rb>詰</rb><rt>つめ</rt></ruby>のところまで来かかると、ふと<ruby><rb>摺違</rb><rt>すれちが</rt></ruby>ったのが<ruby><rb>六郷下</rb><rt>ろくごうくだ</rt></ruby>りの<ruby><rb>筏師</rb><rt>いかだし</rt></ruby>とも見える、旅の<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に頭を下げて、

「静かな<ruby><rb>晩景</rb><rt>ばんげ</rt></ruby>でござりやす」

竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、

「少し待て」

「へい」

「お前はどこから来た」

「へい、<ruby><rb>氷川</rb><rt>ひかわ</rt></ruby>の方から」

「氷川？　氷川の何というものだ、名は……」

「へい、七兵衛と申します筏師で」

「待て、待てと申すに」

「何ぞ御用で……」

立ち止まるかと思うとかの男は身を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して逃げようとするのを、竜之助は<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>に手をかけて<ruby><rb>手練</rb><rt>しゅれん</rt></ruby>の抜打ち。

<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>り切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った<ruby><rb>刃先</rb><rt>はさき</rt></ruby>をどう<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ったか、旅の男は<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>ひちょう</rt></ruby>の如く逃げて行きます。竜之助は自分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と、逃げ行く人影をみつめて立っている。

早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>はまるで宙にあるので、竜之助はその<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>さにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。

脇差の<ruby><rb>切先</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>りが小指で<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>したほどずつ<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>を引いてこぼれております。竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど心外であるらしく、<ruby><rb>歯咬</rb><rt>はが</rt></ruby>みをして我家の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>をさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が<ruby><rb>右往左往</rb><rt>うおうさおう</rt></ruby>に飛びます。

「あ、若先生、大変でござります、賊が入りました」

「賊が？」

邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>三百両と秘蔵の<ruby><rb>藤四郎</rb><rt>とうしろう</rt></ruby>一<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>。

「届けるには及ばぬ、このことを世間へ<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>するな」

なにゆえか竜之助は家の者に口留めをします。

八

宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります。

お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、家のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の急を救わんと試みたわけです。

宇津木の家は代々の千人同心で、山林<ruby><rb>田畑</rb><rt>でんぱた</rt></ruby>の産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場と<ruby><rb>双</rb><rt>なら</rt></ruby>び立つほどの剣術の道場を開いております。

竜之助の剣術ぶりは、<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>の如く<ruby><rb>悪辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>で、文之丞が門弟への扱いぶりは<ruby><rb>柔</rb><rt>やわら</rt></ruby>かい、その<ruby><rb>世間体</rb><rt>せけんてい</rt></ruby>の評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>のなかの評判に聞いて、お浜の<ruby><rb>気象</rb><rt>きしょう</rt></ruby>では納まり切れずにいたところを、このたび御岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>いのであります。お浜は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。

その晩、お浜は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくて口惜しくて、寝ても寝つかれません。

憎い憎い竜之助、<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>い歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中で<ruby><rb>卍</rb><rt>まんじ</rt></ruby>となり<ruby><rb>巴</rb><rt>ともえ</rt></ruby>となって入り乱れておりますが、ここでもやはり<ruby><rb>勝目</rb><rt>かちめ</rt></ruby>は竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>です。

縁を結ぶ前には、門弟は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます。夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫を<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>る心の起ったほど不幸なことはない。

もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操。竜之助のかけた<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>が<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として今も耳の端で鳴りはためくのです。

邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助。その水車小屋では、穀物をはかる<ruby><rb>斗桶</rb><rt>とおけ</rt></ruby>に腰をかけていた竜之助。神棚の上には<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣に<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>のくっついた間からお<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>がボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと<ruby><rb>見据</rb><rt>みす</rt></ruby>えた竜之助。

冷やかな<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色、白い光の眼、人の苦しむのを見て<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よさそうに、

「試合の勝負と女の操」

と言って板の間を踏み鳴らした。

それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎い<ruby><rb>念</rb><rt>おもい</rt></ruby>が、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。

「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」

という一言。それを思い出すごとにお浜の胸の中で<ruby><rb>早鐘</rb><rt>はやがね</rt></ruby>が鳴ります。

その夜、竜之助は<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が室に<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby><ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>くるまで<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>として、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。

人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盗まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです。与八をそそのかして、宇津木のお浜を<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>にまでかけて<ruby><rb>引捕</rb><rt>ひっとら</rt></ruby>えさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつねん</rt></ruby>として起ったので――竜之助の心には石よりも<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>なところと、理窟も筋道も通り越した<ruby><rb>直情径行</rb><rt>ちょくじょうけいこう</rt></ruby>のところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理を<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>いて説き伏せたところが、あとはまるで<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>なしのことをやり出した。

それでやはり女のことを考えてみています。

九

机の家に盗難のあったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の<ruby><rb>裏宿</rb><rt>うらじゅく</rt></ruby>の尋常の百姓家の中で、

「おじさん、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はどこへ行ったの」

炉の火を<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>で<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、

「ナニ、どこへも行きはしないよ」

その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見れば、これはかの峠で火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて猿を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。

「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」

こう言われて主人は横を向いて、

「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を運んでおいたのだ」

「そう」

と言って少女は<ruby><rb>得心</rb><rt>とくしん</rt></ruby>したが、

「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」

たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、

「お線香をモ一本上げましょう」

たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>え、

「お<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さん、わたしが大きくなったらば、きっと<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ちますからね」

<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、

「お松坊、ちょっとここへおいで」

女の子は横を向いて、そっと眼の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>を払い、

「はい」

主人の前に<ruby><rb>跪</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まると、

「おまえは口癖に<ruby><rb>敵々</rb><rt>かたきかたき</rt></ruby>というが、それはいけないよ、<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>ということは<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>を願っておればよいのだ」

「でもおじさん、あんまり<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいもの」

また横を向いて、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>るる涙を払います。

「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしてな」

「エッ、怪我を！」

「ナニ、大した事じゃねえ、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>それ、薪を運ぶとって<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」

「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」

「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」

主人は<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の下を探って取り出したのが、<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>の袋に入れた短刀ようのもの。

「おじさん、これは何」

「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」

「これは短刀ではないの」

「うむ、そうだ、用心に<ruby><rb>肌身</rb><rt>はだみ</rt></ruby>をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」

少女は何だか<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がゆきません。ようよう寝床を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>を引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、

「七兵衛さん、七兵衛さん」

表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。

「これは<ruby><rb>嘉右衛門</rb><rt>かえもん</rt></ruby>さん、朝っぱらからどちらへ」

「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」

「お見舞に？　どこへ」

「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」

「材木屋のあの藤三郎さんが？」

「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>だよ」

「それはまあ、どうしたわけで」

「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」

「盗賊のかかり合い？」

七兵衛は思わず小首を傾けながら、

「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」

「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」

「ナニ、上野原のお陣屋へ？」

「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」

「書付を拾われた？」

七兵衛は思わず自分のふところを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてみる。

「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと<ruby><rb>印形</rb><rt>いんぎょう</rt></ruby>まで<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>わっている」

「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」

「怪我をなすった？」

「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」

「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」

嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、

「お松坊、今から江戸へ行こうや」

「でも、おじさんお怪我は？」

「なあに、馬も<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>もあらあな」

「<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいこと」

お松は<ruby><rb>大欣</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。

十

今日は五月の五日、御岳山上へ<ruby><rb>関八州</rb><rt>かんはっしゅう</rt></ruby>の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。

机竜之助はこの朝、<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。

「ああよい天気」

白い雲の山にかかる時は、かえって<ruby><rb>五月晴</rb><rt>さつきば</rt></ruby>れの空の色を<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかにします。

「<ruby><rb>奉納日和</rb><rt>ほうのうびより</rt></ruby>でござりまするな」

門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。

竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で<ruby><rb>生胴</rb><rt>いきどう</rt></ruby>を<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>してその<ruby><rb>切味</rb><rt>きれあじ</rt></ruby>に覚えのある武蔵太郎安国の<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>えた<ruby><rb>業物</rb><rt>わざもの</rt></ruby>を横たえて、門弟下男ら<ruby><rb>都合</rb><rt>つごう</rt></ruby>三人を引きつれて、いざ<ruby><rb>出立</rb><rt>しゅったつ</rt></ruby>の<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。

「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」

与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも<ruby><rb>女文字</rb><rt>おんなもじ</rt></ruby>。

「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>したあの<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>の、これが心か。

竜之助は<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。

十一

この日、宇津木文之丞もまた<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が居間に招いて、

「浜、誰もおらぬか」

人を嫌った<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は別段に改まって、<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>いと決心とが現われている。

「誰も見えませぬ」

「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」

「それは何でござりましょう」

「今日の<ruby><rb>門出</rb><rt>かどで</rt></ruby>に、これをそなたに<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わします」

机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は<ruby><rb>不審顔</rb><rt>ふしんがお</rt></ruby>に手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう<ruby><rb>三行半</rb><rt>みくだりはん</rt></ruby>でありましたから、

「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」

<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られて夫の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をみつめていましたが、開き直って、

「お<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れも過ぎましょう。何の<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>で私が<ruby><rb>去状</rb><rt>さりじょう</rt></ruby>いただきまする」

「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」

「まあ、何がどうしたことやら、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>も聞かずに去状もらいましたと<ruby><rb>親許</rb><rt>おやもと</rt></ruby>へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」

「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」

「思い当ることとおっしゃるは……」

「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が<ruby><rb>手込</rb><rt>てごめ</rt></ruby>に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>って帰ったな」

「エッ、竜之助殿に手込？」

「隠すより現わるる。下男の久作が<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>と言い、その夜のそなたが<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>、<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しい限りと思うていたが、人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>で思い当った」

「人の噂？　人がなんと申しました」

お浜は<ruby><rb>嚇</rb><rt>かっ</rt></ruby>となり、

「あられもない噂を言いがかりに私を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」

「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わします」

「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいッ」

お浜は、どうするつもりか夫の<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かぬ<ruby><rb>気象</rb><rt>きしょう</rt></ruby>であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に口惜しい口惜しいで<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>しつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>り泣いているのです。

宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。

和田村から山の麓までは三里。文之丞は<ruby><rb>禊橋</rb><rt>みそぎばし</rt></ruby>の滝茶屋で駕籠を捨て、<ruby><rb>小腋</rb><rt>こわき</rt></ruby>には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>が円く<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>えて、一帯に真黒な大杉を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、その間から青葉若葉が威勢よく<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>り上って、その下蔭では<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった<ruby><rb>尾根</rb><rt>おね</rt></ruby>と谷間の<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と雲に<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んでいる。文之丞はしばしここに<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいると、黒門<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>の<ruby><rb>掛茶屋</rb><rt>かけぢゃや</rt></ruby>で、

「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」

女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みながら、ふと<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>を見ると、茶屋から<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>け出した妙に<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った庵室まがいの小屋に、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、<ruby><rb>算木筮竹</rb><rt>さんぎぜいちく</rt></ruby>が置いてある。

「<ruby><rb>易</rb><rt>えき</rt></ruby>を立てて<ruby><rb>進</rb><rt>しん</rt></ruby>ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」

老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めようともしません。

おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。

「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」

「休んで行こうかな」

竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は<ruby><rb>何気</rb><rt>なにげ</rt></ruby>なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんだが、幸いに<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。

先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、

「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」

竜之助は老人の面を見て頼むとばかり<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと、老人は<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>を取り上げて、

「そもそも愚老の<ruby><rb>易断</rb><rt>えきだん</rt></ruby>は、<ruby><rb>下世話</rb><rt>げせわ</rt></ruby>に申す当るも<ruby><rb>八卦</rb><rt>はっけ</rt></ruby>当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと当ると保証も致さぬ代り、きっと<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れると<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>いも致さぬ。愚老は<ruby><rb>卦面</rb><rt>けめん</rt></ruby>に現われたところによりて、聖人の道を人間にお伝え申すのが務め、当ると当らぬとは愚老の<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>ではござらぬでな……」

<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>らしく筮竹を捧げて、じっと<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>を鎮めるこなしよろしくあって、老人は筮竹を二つに分けて一本を左の小指に、数えては算木をほどよくあしらって、首を傾けることしばらく、

「さて<ruby><rb>卦面</rb><rt>けめん</rt></ruby>に現われたるは、かくの通り『<ruby><rb>風天小畜</rb><rt>ふうてんしょうちく</rt></ruby>』とござる、<ruby><rb>卦辞</rb><rt>かじ</rt></ruby>には『密雲雨ふらず我れ<ruby><rb>西郊</rb><rt>さいこう</rt></ruby>よりす』とある、これは陽気なお盛んなれども、小陰に<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げられて雨となって地に下るの功未だ成らざるの<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>じゃ」

老人は<ruby><rb>白髯</rb><rt>はくぜん</rt></ruby>を左右に振分けて易の講釈をつづけます。

「されども、西郊と申して陰の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>より、陰雲盛んに起るの形あれば、やがて雨となって地に下る、それだによって、このたびの試合はよほどの<ruby><rb>難場</rb><rt>なんば</rt></ruby>じゃ、用心せんければならん。が、しかし、結局は雨となって地に下る、つまり目的を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げてお前様の勝ちとなる、まずめでたい」

それから老人は<ruby><rb>易経</rb><rt>えききょう</rt></ruby>を二三枚ひっくり返して、

「めでたいにはめでたいが、また一つの難儀があるで、よいか、よく聞いておきなされ。<ruby><rb>象辞</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>にこういう文句がござる、『夫妻反目、室を正しゅうする<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わざるなり』と。ここじゃ、それ、前にも陽気盛んなれども小陰に妨げらるるとあったじゃ、ここにも夫妻反目とあって、どうもこの卦面には<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>がちらついている」

門弟連はまた興に乗って、妙な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして老人の講釈を聞いていると、

「細君に用心さっしゃれ、お前様の奥様がよろしくないで、どうもお前様の邪魔をしたがる<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>じゃ。夫妻反目は妻たるものの不貞不敬は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>なれども、その夫たるものにも罪がないとは申し難い。で、細君をギュッと締めつけておかぬとな、二本棒ではいけない……」

これを聞いて門弟の安藤がムキになって怒り出しました。

「たわけたことを申すな、二本棒とは何じゃ、先生にはまだ奥様も細君もないのだ。若先生、こんなイカサマ<ruby><rb>売卜</rb><rt>うらない</rt></ruby>を聞いているは暇つぶし、さあ頂上に一走り致しましょう」

これに応じて、若干の茶代と<ruby><rb>見料</rb><rt>けんりょう</rt></ruby>とを置いて一行はこの茶屋を立ち去ります。

あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。

これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が<ruby><rb>肩臂</rb><rt>かたひじ</rt></ruby>を怒らして続々と登って参ります。

十二

東国の中でも武蔵の国は武道に<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>の多い国柄であります。

武蔵という国号からが、そもそも<ruby><rb>武張</rb><rt>ぶば</rt></ruby>った歴史を持ったもので、<ruby><rb>日本武尊</rb><rt>やまとたけるのみこと</rt></ruby>が秩父の山に武具を<ruby><rb>蔵</rb><rt>おさ</rt></ruby>めたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「<ruby><rb>男具那峰</rb><rt>おぐなのみね</rt></ruby>」がそれだとあって、これを俗に<ruby><rb>甲籠山</rb><rt>こうろうざん</rt></ruby>とも申します。御岳神社に納められたる、いま国宝の一つに数えられている<ruby><rb>紫裾濃</rb><rt>むらさきすそご</rt></ruby>の<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>は、これも在来は日本武尊の<ruby><rb>御鎧</rb><rt>おんよろい</rt></ruby>と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。

さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと<ruby><rb>並々</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>ならぬものがあります。八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱心のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの人、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の<ruby><rb>御師</rb><rt>おし</rt></ruby>の家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。

以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>を張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式が<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かに済まされると、それより試合は始まります。

さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西の<ruby><rb>詰</rb><rt>つめ</rt></ruby>から幔幕を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>の折目を正し、口を結び目を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて<ruby><rb>物厳</rb><rt>ものおごそ</rt></ruby>かに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、<ruby><rb>首座</rb><rt>しゅざ</rt></ruby>の方に見ていた同流の<ruby><rb>高足</rb><rt>こうそく</rt></ruby>広沢<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>が招きますから、<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>して<ruby><rb>延</rb><rt>ひ</rt></ruby>かるる座につき、木刀を広沢に預けて、さて机竜之助はいずれにありやと場内を見廻したが、姿が見えません。

組の順によって試合が行われます。いずれも力のはいる<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>で、三十余組の勝負に時はようやく移って正午に一息つき、日のようやく傾く頃、武州<ruby><rb>高槻</rb><rt>たかつき</rt></ruby>の<ruby><rb>柳剛流</rb><rt>りゅうごうりゅう</rt></ruby>師範<ruby><rb>雨</rb><rt>あま</rt></ruby><ruby><rb>ヶ瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>某と、相州小田原の田宮流師範大野某との老練な<ruby><rb>型比</rb><rt>かたくら</rt></ruby>べがあって後、

「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞<ruby><rb>藤原光次</rb><rt>ふじわらみつつぐ</rt></ruby>」

審判が呼び上げる。この声を聞くと、少しだれかかった場内が引締まって黒ずんできます。

宇津木文之丞は生年二十七、<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>り<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>ついた小袖に、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>どり<ruby><rb>茶宇</rb><rt>ちゃう</rt></ruby>の袴、三尺一寸の<ruby><rb>赤樫</rb><rt>あかがし</rt></ruby>の木刀に牛皮の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>打ったるを携えて、雪のような白足袋に<ruby><rb>山気</rb><rt>さんき</rt></ruby>を含んだ軟らかな広場の土を踏む。少しの<ruby><rb>間隔</rb><rt>あわい</rt></ruby>を置いて審判が、

「元甲源一刀流、机竜之助<ruby><rb>相馬宗芳</rb><rt>そうまむねよし</rt></ruby>」

と呼び上げます。

机竜之助と宇津木文之丞、この勝負が今日の見物であるのは、それは机竜之助が剣客中の最も不思議なる注意人物であったからで、この中にも竜之助の「音無しの構え」に会うて、どうにもこうにも<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を脱いだ先生が少なくないのです。

今日はこの晴れの場所で、<ruby><rb>如何様</rb><rt>いかよう</rt></ruby>の<ruby><rb>手並</rb><rt>てなみ</rt></ruby>を彼が現わすかということが<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>仲間の<ruby><rb>研究物</rb><rt>けんきゅうもの</rt></ruby>であったということと、もう一つは、机竜之助は甲源一刀流から出でて別に一派を開かんとする野心がある、甲源一刀流から言えば危険なる<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>で、それが同流の最も<ruby><rb>手筋</rb><rt>てすじ</rt></ruby>よき宇津木文之丞と組み合ったのだから、他流試合よりももっと皮肉な組合せで、故意か偶然か世話人の役割を不審がるものが多かったくらいだから、ああこれは遺恨試合にならねばよいがと老人たちは心配しているものもあったのです。

呼び上げられて東の<ruby><rb>詰</rb><rt>つめ</rt></ruby>から、幔幕をかき上げて姿を現わした机竜之助は、<ruby><rb>黒羽二重</rb><rt>くろはぶたえ</rt></ruby>に<ruby><rb>九曜</rb><rt>くよう</rt></ruby>の定紋ついた小袖に、<ruby><rb>鞣皮</rb><rt>なめしがわ</rt></ruby>の襷、<ruby><rb>仙台平</rb><rt>せんだいひら</rt></ruby>の袴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、寸尺も文之丞と同じことなる木刀を携えて進み出る。両人首座の方へ<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。

この老人は富士<ruby><rb>浅間</rb><rt>せんげん</rt></ruby>流という一派を開いた人で、試合の<ruby><rb>見分</rb><rt>けんぶん</rt></ruby>には熟練家の誉れを得ている人でありました。

一心斎は麻の<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>に<ruby><rb>鉄扇</rb><rt>てっせん</rt></ruby>を持って首座の少し前のところへ歩み出る。

首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の<ruby><rb>逸見利恭</rb><rt>へんみとしやす</rt></ruby>の姿が目に立って、このたびの試合の<ruby><rb>勧進元</rb><rt>かんじんもと</rt></ruby>の格に見える。

宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの<ruby><rb>間合</rb><rt>まあい</rt></ruby>をとって、木刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。

山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われる。たがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。その<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。

竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも<ruby><rb>相青眼</rb><rt>あいせいがん</rt></ruby>。これは肉づきのよい面にポッと<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を<ruby><rb>潮</rb><rt>さ</rt></ruby>して、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を<ruby><rb>真向</rb><rt>まっこう</rt></ruby>に見合せて、これも甲源一刀流<ruby><rb>名</rb><rt>な</rt></ruby>うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。

しかし、この勝負は実に<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なる勝負です。かの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちで<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れてきます。

こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。

一心斎老人は<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>なく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長く<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが<ruby><rb>上分別</rb><rt>じょうふんべつ</rt></ruby>とは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図の<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>みようもないくらいです。

そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>さを増します。両の<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>のあたりは汗がボトボトと落ちます。今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>の尾のように動き出してきました。<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をするつもりであろうと、一心斎は<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべき<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しさに変っておりました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。

逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振って<ruby><rb>肯</rb><rt>うけが</rt></ruby>いません。一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない。今や<ruby><rb>毫厘</rb><rt>ごうりん</rt></ruby>の<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>も為し難いと見たから、

「分け！」

これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、

「突き！」

文之丞から出た<ruby><rb>諸手突</rb><rt>もろてづ</rt></ruby>きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に<ruby><rb>突伏</rb><rt>つっぷ</rt></ruby>してしまいました。

机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています。

十三

<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんはつ</rt></ruby>を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、

「この立合、勝負なし、分け！」

と宣告しました。

分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にやや不服の色が<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われました。

机竜之助の白く光る眼は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と一心斎の面に<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎまして、

「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」

片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、

「いかにも分け、勝負なし」

竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、

「さらば当の相手をこれへ出し候え」

「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が<ruby><rb>見分</rb><rt>けんぶん</rt></ruby>に不服があらば申してみられい」

「申さいでか。突いて来た刀を前に進んで<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお<ruby><rb>見損</rb><rt>みそこな</rt></ruby>いか」

試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。

しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>えば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、

「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」

分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もないようであるが、分けて考えれば三つになる。

竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、

「しからば再勝負を<ruby><rb>所望</rb><rt>しょもう</rt></ruby>する」

「奉納の試合に意趣は禁物」

一心斎が取合わぬのを竜之助は固く<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って屈せず、

「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」

明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かぬ気の<ruby><rb>一徹者</rb><rt>いってつもの</rt></ruby>で、

「再試合なり申さぬ、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」

「これは近ごろ面白い」

竜之助は冷やかな微笑を浮べて、

「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」

「心得たり、年は老いたれど高慢を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>く太刀筋は衰え申さぬ」

<ruby><rb>武芸者気質</rb><rt>ぶげいしゃかたぎ</rt></ruby>で、一心斎は竜之助の剛情が<ruby><rb>赫</rb><rt>かっ</rt></ruby>と<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ<ruby><rb>物言</rb><rt>ものいい</rt></ruby>になったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそ<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けものと、一同は手に汗を握っていると、

「机氏、机氏、控えさっしゃれ」

たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。

十四

<ruby><rb>逸見利恭</rb><rt>へんみとしやす</rt></ruby>は甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。

そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎<ruby><rb>景久</rb><rt>かげひさ</rt></ruby>で、その<ruby><rb>衣鉢</rb><rt>いはつ</rt></ruby>を受けたのが<ruby><rb>神子上典膳忠明</rb><rt>みこがみてんぜんただあき</rt></ruby>（小野治郎左衛門）です。この人、<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳<ruby><rb>忠也</rb><rt>ただなり</rt></ruby>が忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と<ruby><rb>瓶割刀</rb><rt>かめわりとう</rt></ruby>とを許される。それを<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門<ruby><rb>忠雄</rb><rt>ただお</rt></ruby>で、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに<ruby><rb>溝口</rb><rt>みぞぐち</rt></ruby>派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。

<ruby><rb>武蔵国</rb><rt>むさしのくに</rt></ruby>秩父小沢口の<ruby><rb>住人</rb><rt>じゅうにん</rt></ruby>逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて学び、ついにその<ruby><rb>奥義</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えたのは当然の<ruby><rb>貫禄</rb><rt>かんろく</rt></ruby>があります。

「検審に向い近ごろ<ruby><rb>過言</rb><rt>かごん</rt></ruby>なり、早々刀を引き候え」

逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>する、その他の者は刀に手をかけて、眼を<ruby><rb>瞋</rb><rt>いか</rt></ruby>らして竜之助を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、いざといわば飛びかからん<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>に見えます。

竜之助はこの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。

宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。

机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの<ruby><rb>諸手突</rb><rt>もろてづ</rt></ruby>きが<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ったならば、竜之助の<ruby><rb>咽喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた<ruby><rb>不審千万</rb><rt>ふしんせんばん</rt></ruby>で、無慈悲残忍の<ruby><rb>一本槍</rb><rt>いっぽんやり</rt></ruby>で竜之助を責めるわけにはゆかないのです。

よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。

あとの試合には<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>の<ruby><rb>宮道</rb><rt>みやみち</rt></ruby>の方へブラリと出かけました。

十五

<ruby><rb>随神門</rb><rt>ずいしんもん</rt></ruby>を入って、<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>の<ruby><rb>御坂</rb><rt>みさか</rt></ruby>を登り、右の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を行くと奥の宮<ruby><rb>七代</rb><rt>ななよ</rt></ruby>の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込んで行く。

見返れば社殿に上げられた<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>、<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。

立ち尽していると<ruby><rb>頭上</rb><rt>ずじょう</rt></ruby>で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は<ruby><rb>高野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の奥に鳴くという仏法僧。

ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。

「竜之助様か」

それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。

「お浜どのか」

「あい」

「…………」

「御用心あそばせ、<ruby><rb>暗討</rb><rt>やみうち</rt></ruby>がありまする」

「暗討？」

「お前様を討とうとて同流の<ruby><rb>手利</rb><rt>てきき</rt></ruby>が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」

女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。

「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」

目の前なる<ruby><rb>塞</rb><rt>さい</rt></ruby>の<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>しますと、

「竜之助様、あなたは<ruby><rb>斬死</rb><rt>きりじに</rt></ruby>をなさる気か」

お浜は竜之助の<ruby><rb>行手</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>るようにして、

「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」

「なに？」

「文之丞は死にました」

お浜の声は<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて低い。

「宇津木の妻は去られて来ました」

竜之助はなんとも言いません。

「どこへ行きましょう」

御祈祷鳥がまた鳴く。

「甲州へは帰られません」

お浜の身は<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>く、そして強くだんだんに竜之助の身を<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>して来ます。

御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。

「<ruby><rb>不如帰</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>ではないかしら」

お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。

「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」

竜之助はまだなんとも言いません。

「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」

お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は<ruby><rb>無言</rb><rt>むごん</rt></ruby>。

夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ<ruby><rb>爽</rb><rt>さわや</rt></ruby>かに響き渡ります。

霧の御坂でまたしても人の声。

「ああ人が来ます、敵が来ます」

竜之助は勇躍する。

「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」

お浜は身を以て竜之助にすがりつく。

雲と霧とが<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>として全山をこめた時、<ruby><rb>剣鳴</rb><rt>つるぎな</rt></ruby>りがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。

十六

<ruby><rb>本郷元町</rb><rt>ほんごうもとまち</rt></ruby>に土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の前では小僧がしきりに<ruby><rb>打水</rb><rt>うちみず</rt></ruby>をやっていると、

「御免下さいまし」

入って来たのは百姓<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の<ruby><rb>裏宿</rb><rt>うらじゅく</rt></ruby>の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。

「いらっしゃい……」

お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、

「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」

「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」

小僧はいささか拍子抜けの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>でポカンと立っていると、

「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」

「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」

「ヘエ、実は御当家の御親類のお<ruby><rb>娘子</rb><rt>むすめご</rt></ruby>をお連れ申しましたので」

小僧は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、

「手前どもの<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>の娘子をお連れ下さいましたとな」

「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお<ruby><rb>娘御</rb><rt>むすめご</rt></ruby>がそれでございます」

七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をしていましたが、小僧を呼んで、

「長松、なんせ旦那様はお<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」

「は――い」

小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。

「まあお掛け……」

番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、<ruby><rb>不愛想</rb><rt>ぶあいそう</rt></ruby><ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>まる<ruby><rb>面付</rb><rt>かおつき</rt></ruby>をしながら、

「番頭さん、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」

これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、

「そんなはずはないのよ」

面を真赤にして眼は<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>みきって、

「そんなはずはありませんよ、こちらのお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」

お松は<ruby><rb>精一杯</rb><rt>せいいっぱい</rt></ruby>にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、

「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」

「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」

小僧は口を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らします。

「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」

七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり<ruby><rb>律儀</rb><rt>りちぎ</rt></ruby>な百姓の<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>で、

「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも<ruby><rb>頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>る<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」

<ruby><rb>克明</rb><rt>こくめい</rt></ruby>に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ<ruby><rb>厄介者</rb><rt>やっかいもの</rt></ruby>と言わぬばかりに小僧に<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を向け、

「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」

小僧は<ruby><rb>不承不承</rb><rt>ふしょうぶしょう</rt></ruby>にまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、

「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが<ruby><rb>草鞋銭</rb><rt>わらじせん</rt></ruby>だから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」

番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、

「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>で、これを持ってお帰り下さい」

紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>にこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えます。このときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」

小僧たちの雷のような<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>の<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>、ちょっと見れば大名か旗本の<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>のようで、よく見れば<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>の出らしい<ruby><rb>婀娜</rb><rt>あだ</rt></ruby>なところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草の<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>にしたのを持っておりましたが、

「あの、この間の<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>をもう一度見せて下さいな」

「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から<ruby><rb>新柄</rb><rt>しんがら</rt></ruby>が届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」

番頭小僧もろともにペコペコお<ruby><rb>低頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をして、棚から盛んに<ruby><rb>反物</rb><rt>たんもの</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ出して切髪の女の前に<ruby><rb>塁</rb><rt>とりで</rt></ruby>を築き立てると、

「ついでがあったものだから」

女は<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、

「おい、番頭さん、こりゃ何だい！」

<ruby><rb>閑却</rb><rt>かんきゃく</rt></ruby>されていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い<ruby><rb>権幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>を見てゾッとする。

「お<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>をいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」

七兵衛は<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をポンと叩いて、

「御当家の御親類のお<ruby><rb>娘子</rb><rt>むすめご</rt></ruby>をお連れ申しただけのことで、それを<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆすり</rt></ruby>かなんぞのように<ruby><rb>銭金</rb><rt>ぜにかね</rt></ruby>で追っ払いなぞは恐れ入ります」

そろそろ七兵衛の言い分が<ruby><rb>巽上</rb><rt>たつみあが</rt></ruby>りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、

「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」

といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、

「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」

七兵衛が存外おとなしくて、

「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」

こういって七兵衛は<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を筒の中に納めて、お松を顧み、

「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」

三百両の金を<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>って立ち上ろうとする。お松は情けない<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>をして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さな<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>にうずめて<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きます。

夏の夕風がうすら<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と振返って山岡屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけ、暫く立去れない<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、

「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」

七兵衛はお松を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して連れて行く。

十七

二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。

「もしもしあの、お<ruby><rb>爺</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんにお娘さん」

あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って<ruby><rb>人懐</rb><rt>ひとなつ</rt></ruby>こく、

「あの、<ruby><rb>無躾</rb><rt>ぶしつけ</rt></ruby>ながらお前さんは山岡屋の御親類なそうな」

「はい、<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>でございます、この子が山岡屋の御親類で。私は縁もゆかりもない百姓でございますが」

「そう、わたしもあの店でちょいとお聞き申しました、それでお前さん方がお困りのようだから、だしぬけに声をかけてみましたの」

品のよいわりに口の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きようが慣れ過ぎた女だと思って、七兵衛は、

「左様でございましたか……」

「わたしはね」

女はちょいと横の方を向いて、

「ついそこの横町に住んでいます者、こんなところで申し上げては失礼ですが、もしなんならそのお娘さんを、わたしがお預かり申し上げても苦しゅうござんせぬ」

「へえ、そりゃ御親切に……」

七兵衛も、あまり変った救い舟が<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の中から不意に飛び出して乗せて上げようというのだから<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>って、

「御親切は有難う存じますが、見ず知らずのあなた様にお<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り申しては何が何でもあまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>でございますから」

「いいえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>というのはわたしの言うことよ。世間は妙なもので、お前さんのさっきお言いなさる通り、親類呼ばわりをして来たものを<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>から追い返すものもあれば、赤の他人でもずいぶん<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>ずくで力にもなったりなられたりするものもあります。ほかにどこぞ頼る所でもおありなされば格別、そうでなかったら、ちょうど私の家が手不足で困っておりますから……」

世間にはなかなか世話好きの女もあるものだと思って、七兵衛がまだ返答もしきらないうちに、女は先に立って、

「まあまあ、わたしの家へお寄りなさい、どちらに致せ今晩はお泊りなすっておいで、ナニ、<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>いなものは一人もおりませんよ」

「それでは、せっかくの御親切に甘えまして」

七兵衛とお松は<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>に捲かれて、あとをついて行くと、湯島の高台に近い<ruby><rb>妻恋坂</rb><rt>つまこいざか</rt></ruby>の西に<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れた裏のところ、<ruby><rb>三間間口</rb><rt>さんげんまぐち</rt></ruby>を二間の<ruby><rb>黒塀</rb><rt>くろべい</rt></ruby>で、一間のあいだはくぐりの<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>で、塀の中には<ruby><rb>見越</rb><rt>みこし</rt></ruby>の松から二階の手すりなども見えて、気取った作りの家の前まで来ると女が先に格子をあけて案内した時、表にかけた松月堂古流<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>の看板で、この女がべつだん<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いものではなく、花の師匠であることを知りました。

「さあ、お入りなさい、ここはわたしの家で、<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>やと猫が一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>いるばかり」

十八

甲州本街道の方は、新宿から八王子まで行く間に五宿、府中、日野まで相当の<ruby><rb>宿々</rb><rt>しゅくじゅく</rt></ruby>もありますけれど、裏街道ときてはただ<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる武蔵野の原で、青梅までは人家らしい人家は見えないと言ってもいいくらいです。

ことにこの青梅街道の中で丸山台というところあたりは<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>が常に出没して、日の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に心強い人連れでもなければ<ruby><rb>屈強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な男でさえ容易にここを通りません。まして日の暮や夜は無論のこと。それを今日は珍らしく、まだ<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の月が空に残っているうちに、馬の鈴の音がこの丸山台のあたりで聞えます。そして<ruby><rb>朝露</rb><rt>あさつゆ</rt></ruby>をポクポクと馬の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>に<ruby><rb>蹴払</rb><rt>けはら</rt></ruby>って、笠を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った一人の若い<ruby><rb>馬子</rb><rt>まご</rt></ruby>が平気でこの丸山台を通り抜けようとしております。大方、江戸を<ruby><rb>夜前</rb><rt>やぜん</rt></ruby>に出て近在へ帰る百姓でありましょう。

それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは<ruby><rb>今時分</rb><rt>いまじぶん</rt></ruby>ここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですから<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いもの知らずです。

馬の背中には大きな<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>が三つばかり<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>に結びつけられて、その真中に<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>三尺ばかりのお地蔵様の木像、どこから持って来たか、大分に<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げて、<ruby><rb>錫杖</rb><rt>しゃくじょう</rt></ruby>の先や<ruby><rb>如意宝珠</rb><rt>にょいほうじゅ</rt></ruby>なども少々欠けておりますが、それを馬の背の真中へキチンと<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけて、それを<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>でほどよく結びつけておきますから、遠くから見ればお地蔵様が馬に乗ってござるようです。

与八は<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を引張りながら、時々後ろを顧みて地蔵様を打仰ぎ、

「はア、地蔵様ござらっしゃるな」

と声をかけて進んで行きます。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>は子供の時分、なんでもこの街道へ<ruby><rb>打棄</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>られたのを<ruby><rb>大先生</rb><rt>おおせんせい</rt></ruby>が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>の人に<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃん</rt></ruby>というものとおっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>というものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな――海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を<ruby><rb>信心</rb><rt>しんじん</rt></ruby>していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も<ruby><rb>四谷</rb><rt>よつや</rt></ruby>の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづけえ</rt></ruby>をぶちまけて買って来た――これを持って帰って家で毎日信心をする」

与八はこんな<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をいって歩きます。

「俺もひとり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼっち</span>だあけれど、うちの大先生も運の悪い人だ、五年も六年も御病気で、体が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きなさらねえ、たった一人の若先生はあの大試合の日から<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>知れずになっておしめえなさるし――今は親類の衆が寄って世話をしてござらっしゃるが、やはり<ruby><rb>親身</rb><rt>しんみ</rt></ruby>の人が恋しかんべえ……」

与八の独言は涙まじりになってきます。

「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を<ruby><rb>勘当</rb><rt>かんどう</rt></ruby>しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の<ruby><rb>親御</rb><rt>おやご</rt></ruby>じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ――いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>も<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」

与八はしきりなく<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、

「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」

独言が<ruby><rb>途絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。

ややあって与八はまた独言です。

「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで来た、<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>あの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生に<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがには<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せねえ女だ」

こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>に<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>でもあろうか火の光を認めました。

「やあ、火が燃えてるな」

与八は何の気なく<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を取って行くと、その火のあたりで<ruby><rb>物騒</rb><rt>ものさわ</rt></ruby>がしい人声です。

「朝っぱらから人声がするな」

近づいて行くにしたがって人声はますます<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しいので、

「黙って歩いたらよかんべえ、まるで<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>みたような、でけえ声をして」

ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと<ruby><rb>輪形</rb><rt>わがた</rt></ruby>に突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切って中なる人を<ruby><rb>脅迫</rb><rt>きょうはく</rt></ruby>している様子です。

「お前たちは何してるだあ」

丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる<ruby><rb>工夫</rb><rt>くふう</rt></ruby>をすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。

「何だ何だ、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>は」

悪者の方がかえって驚きます。

「朝っぱらから<ruby><rb>賭博</rb><rt>ばくち</rt></ruby>でもしてるのかと思えば、この小さい人を<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>めえて<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>を言っているのかい」

<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。

「馬鹿だ、こいつは」

「叩きなぐっちまえ」

悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び廻る下級の<ruby><rb>長脇差</rb><rt>ながわきざし</rt></ruby>、<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>もやれば<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>も<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ごうという程度の連中で、今、中に取捲いて<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しているのは、これは十二三になる<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>の子と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>で、道のまん中に坐り込んだまま、刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に手をかけて寄らば斬らんと身構えてはいるが、見たところ疲れきって痛々しいばかりです。

「ああわかった、お前たちはなんだな、この子を<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>めえて追剥をすべえというのだな。そんならよした方がいい、人の物を取るのはよくねえだからな」

悪者どもは吹き出したくなるくらいです。何となれば<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の抜けた<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をこの<ruby><rb>難場</rb><rt>なんば</rt></ruby>へぬっと突き出して、後ろを見れば地蔵様が馬上ゆたかに立たせ給うのである、ばかばかしくて喧嘩にもならない。

「さきほどより申す通り、わしは大事を控えた身なれば、ここにありたけの<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>をそちたちに<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わすゆえ見のがせと事を分けて申すに、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って衣類腰の物まで欲しいとならば是非もないから刀を抜く」

少年は坐りながら、涙ぐんだ眼に彼等を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>めてキッパリと言う。

「その大小が<ruby><rb>金目</rb><rt>かねめ</rt></ruby>と睨んだのだ、たかの知れたお前たちの小遣銭なんぞに目はくれねえ。よ、痛い目をしねえうちに投げ出しちめえねえ。お前がいくら光るものをひねくったって、こっちは甲州筋で鳴らした<ruby><rb>兄</rb><rt>にい</rt></ruby>さんたち五人のお揃いだ、<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に渡して鼻でも拭いて行きねえ」

手に持った棒を少年の頭の上で振る、一人は手を伸ばして少年の抱えた刀を奪い取ろうと、うつむいた<ruby><rb>浮腰</rb><rt>うきごし</rt></ruby>を横の方から、ひょいと突き飛ばしたのが与八です。

「よくねえことをしやがる」

悪者の一人は<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>をころがしたようにのめると、

「この野郎」

馬鹿と見た馬方が意外の腕立て。

十九

与八の力は底知れずですから、悪者どもを手もなく追い払ってしまいました。

それから与八は少年の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来て、

「どうだお前様、あぶねえところだったな」

「おかげで助かりました、お礼を申します」

「お前様一人で来なすったのかえ」

「一人で」

「どこから」

「江戸から……」

「お江戸から……そうしてどこへ行きなさるだ」

「青梅の先まで」

「青梅の先……俺も青梅の方へ行くだ、一緒に行くべえ」

「それでは……」

少年は坐っていたのを、刀を<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>に立ち上ろうとしたが、よろよろと足が定まりませぬ。そのはず、今朝江戸を出て来たものとすれば、子供の足で七里の道、足が<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ上って動けないらしい、そこを悪者どもに<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>されたものと見えます。それでも<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>して、痛いとも疲れたともいわず、与八と連れ立って歩こうとする、その痛々しさは与八も気がつかずにはいられなかったので、

「お前様、足が大分<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れたようだなあ、待てよ……」

与八は馬の背中を見上げて、首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かた</rt></ruby>げることしばし、

「こうと、荷物はいくらでもねえが、地蔵様を横っちょの方へお廻し申しては<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないし――お地蔵様と相乗りというわけにもゆくめえし」

腕を組んでお地蔵様と首っ引きに<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに考えていましたが、

「おおそうだ、そうだ」

にわかに両手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>って、馬に近寄って、背中に安置した地蔵尊の木像を<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>る怖る取り下ろし、それを有合せの細帯で後ろへ廻し、子供をおぶうと同じことに自分の背中へ結びつけて、

「これでよし、さあお前様、この馬へ乗っておいでなさい、なに、遠慮しなくてもいいだ、その足で歩けるもんでねえ」

少年は心から有難そうに、すすめられるままに馬上に<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>がります。

与八はお地蔵様をおぶったまま、手綱を取り上げて馬を引きだす。その<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>のおかしさ。それでも当人はいっこう平気で、

「お前様はお侍様の子供のようだが、青梅はどこまでござらっしゃるかね」

朝の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がすっかり晴れて、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>は高く舞い、林から畑、畑から遠く農家の屋根、それから木々の絶え間には、試合のあった御岳山あたりの山々が、いま眠りから<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたように<ruby><rb>遥々</rb><rt>ようよう</rt></ruby>として見え渡ります。

「和田というところへ行きます」

「和田へ……」

「和田の宇津木というところまで」

「和田の宇津木様？」

与八は歩きながら、思わず少年の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見上げて、

「宇津木様へ……そりゃお前様の御親類でもあるのかえ」

「宇津木は、わしの<ruby><rb>実家</rb><rt>うち</rt></ruby>じゃ」

「お前様の実家……それではお前様は、文之丞様の弟さんかえ」

「弟の<ruby><rb>兵馬</rb><rt>ひょうま</rt></ruby>という者です」

「ああそうでございましたかい、そうとはちっとも知らなかった」

この少年こそ、宇津木文之丞の実の弟の兵馬であったのです。

兵馬は幼少の頃から番町の旗本の<ruby><rb>片柳</rb><rt>かたやなぎ</rt></ruby>という叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者に<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>されたものでありました。

宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、

「馬子どの、お前もあちらの人か」

「エエわしも」

といったが与八はポキリと言葉の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>を折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、

「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」

「兄上のことを御承知か」

「はあ、よく知ってますだ」

「そんなら机竜之助のことも」

「はあ、その竜之助様のことも」

「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」

「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」

「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」

兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、

「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」

「尋常の勝負ではなかったはず」

「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいやら……」

与八は泣き出してしまいました。

「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」

「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」

「お前に……あの試合が？」

「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」

「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の<ruby><rb>仇討</rb><rt>あだうち</rt></ruby>に出て来たのだものを」

「お前様が仇討に――誰を<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>にお討ちなさるだ」

「机竜之助を」

「机竜之助様を？」

与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる<ruby><rb>眼許</rb><rt>めもと</rt></ruby>より<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>が頬を伝うて流れるのを見かけます。

二十

七兵衛とお松とを<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>から追い払ったその晩のことです。

主人は商用で<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、

「あ、人の足音」

「猫でも来たのだろうよ」

「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」

「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」

「おや」

そこにはまさしく人が立っていたので、

「あれ、お前さんは誰だえ」

「誰でもございません、さきほど<ruby><rb>店前</rb><rt>みせさき</rt></ruby>で追っ払いを食いました百姓で……」

「ええ！」

「まず御免なせえまし」

そこへ入り込んで、どっかと<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて黒い<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を投げ出したのは、なるほど<ruby><rb>裏宿</rb><rt>うらじゅく</rt></ruby>の七兵衛でありました。

七兵衛は<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。

「お、お金がお<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」

「お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」

「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」

「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」

お滝は<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>え上りながら、やっと気がついたらしく、

「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から<ruby><rb>又聞</rb><rt>またぎ</rt></ruby>きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」

「遅いやい遅いやい、いまさら<ruby><rb>夜迷言</rb><rt>よまいごと</rt></ruby>をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが<ruby><rb>貰</rb><rt>もれ</rt></ruby>え受けたんだ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めい</rt></ruby>たちに縁もゆかりもねえ」

「それでは養育料としまして」

「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るか」

「どうぞ命ばかりはお助け――」

「命まで取ろうとは言わねえ」

「それでは命をお助け下さる……」

「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」

「それではお金を……」

「金は要らねえ」

「では……」

お滝は絶体絶命の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を、七兵衛は<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかに笑って、

「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」

「恥を……」

お滝は唇の色まで<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になったのを、七兵衛は<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よげに、

「そんなに驚くことはねえ、恥と言ったって、なにもお前さんを<ruby><rb>弄</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>み<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>にするわけじゃねえのだ、おれは子供の時分から虫のせいで、善い事にしろ悪い事にしろ仕返しをしなくっちゃあ<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>まらねえ<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>だ、それでさきほどのお礼にやって来たわけだが――実はお内儀さん、少し手荒いかも知れねえが、お前さんを<ruby><rb>裸</rb><rt>はだか</rt></ruby>にして……」

「えッ？」

「お前さんに裸になってもらって、それをわっしが痛くねえように縛って上げるから、それでもってお内儀さん、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>わっしがお松と一緒に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されたお店の先へ明日の朝まで<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>して立っていてもらうんだ。いいかえ、<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>になったら人も通るだろう、そうなるといいお内儀さんが<ruby><rb>素裸</rb><rt>すっぱだか</rt></ruby>で立っているのを見過ごしもできめえから、何とかして上げるだろう、お<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しくもあろうが<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>しの辛抱だ、幸いここに<ruby><rb>二歳</rb><rt>にさい</rt></ruby>がいる、こいつをお<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>に……」

「お助け下さい――」

二人は声を合せて<ruby><rb>号泣</rb><rt>ごうきゅう</rt></ruby>する――そのあとはお滝がひいひいと<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>ぶ音。

七兵衛は変った盗賊です。

この物語の最初以来、甲州から武州、ならびに関八州を荒し廻った盗賊というのは大方はこの七兵衛の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>でした。

七兵衛は盗みの天才で、子供のうちからすでに大人の舌を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>かしたものです。

十か十一の頃でもあったろう、同じ青梅の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>名主</rb><rt>なぬし</rt></ruby>の家に雇われていた時分、主人の物をはじめ近所あたりの物をちょいちょい盗みます、盗んでどうするかといえば、直ぐにそれをほかの子供らにやってしまう。親たちが見つけてこれは誰に貰ったと聞けば、七ちゃんに貰ったと答える。それから七兵衛の泥棒根性と、その手腕はようやく世間の認めるところとなって問題になりかけた時に、主人が七兵衛を呼びつけて、

「お前はよくねえ癖がある、今のうちは子供で済むが年を取るとそうはいかぬ、その癖をやめろ、やめねえけりゃこの家を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い出すからそう思え」

「旦那様、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは何か見ると盗みたくなってたまらねえ、盗んでしまえば気が済みます、だからみんな子供にやっちめえます、悪い気で盗むじゃねえから、どうか<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>して下さい」

「あきれた野郎だ、悪い気でなく、善い気で盗まれてたまるものか――よし、それほど盗みたいなら七公」

主人は言葉を改めて、

「今夜おれの座敷へ忍んで来て、俺の<ruby><rb>膝元</rb><rt>ひざもと</rt></ruby>へ金包を置くから、それを盗んでみろ、もし見つけたら俺がこの刀で叩き切っちまうがどうだ」

こう言われて七兵衛はかえって平気、

「いいとも旦那、明け方までにはきっと盗んで見せまさあ」

「生意気なことを言う奴だ――いいか、盗み<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねたらホントに命はないぞ」

名主は<ruby><rb>苗字帯刀御免</rb><rt>みょうじたいとうごめん</rt></ruby>の人だから、切ってしまうというのはことによると<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>ではあるまい。

「もし首尾よく盗んだら旦那様、どうしてくれます」

<ruby><rb>逆捻</rb><rt>さかねじ</rt></ruby>を喰わす口ぶりに、主人もあいた口が<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がらず、

「その時は勝手にしろ」

「そんなら勝手に泥棒してもいいか」

「馬鹿！　どうでも今夜は切っちまうからそのつもりで来い」

主人はその晩、一包みの金を自分の膝のところへ置いて、長い刀の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払い、七兵衛が来たら切らぬまでもこれで<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>しつけて、その手癖を直してやろうと、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>の下へ右の<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>を置いて、机を持って来て夜長のつれづれに書物を読み出していましたが、なかなか七兵衛は来ない。

「やつめ、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなりやがったな」

と主人も微笑していましたが、やがて<ruby><rb>一番鶏</rb><rt>いちばんどり</rt></ruby>が鳴きました。

ふと見れば、膝元に置いた金の包がない。

「はて」

主人はびっくりして、机の下、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の蔭、<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>まで振って見たけれど、差置いた金包は更に見えません。

「ああ<ruby><rb>盗</rb><rt>や</rt></ruby>られた」

急いで人を起して、

「七兵衛はいないか、七兵衛はどこへ行った」

どこへ行ったやら影も形も見えないので、主人は<ruby><rb>中</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>っ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>で、それから日のカンカンさすまで寝込んでしまうと、

「旦那様、七兵衛が見えました」

「ここへ連れて来い」

主人の寝床の前へ七兵衛は平気な<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>でやって来て、

「旦那様、お<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>を買って来ました」

とて<ruby><rb>経木</rb><rt>きょうぎ</rt></ruby>の皮に包んだ<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>を差出しました。<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られた主人が、

「七兵衛、お前は昨夜どこへ行った」

<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みつくように<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>るのを七兵衛は抜からず、

「旦那様からお金をいただいたから、欲しいと思っていた網とウケ（魚を捕る道具）を買いに八王子まで行って来ました」

「八王子へ？」

主人が眼を<ruby><rb>白黒</rb><rt>しろくろ</rt></ruby>したのも道理で、八王子までは六里からあります。昨夜いつごろ金を盗んだかわからないが、それから往復十二里の道を子供のくせに平気で歩いて来たと聞いただけで、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶす<ruby><rb>価値</rb><rt>ねうち</rt></ruby>が充分あるのです。

「こういう奴は末が怖ろしい、勝手に出て行け」

それで主人の家をお<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>い<ruby><rb>箱</rb><rt>ばこ</rt></ruby>になってしまいました。

それからの七兵衛は自分の家へ帰ってコツコツと少しの畑を耕したり、賃雇いに出たりして暮していたが、その後、世話をする者があって隣村から<ruby><rb>嫁</rb><rt>よめ</rt></ruby>を貰った、この嫁が尻の軽い女で、初めから男があったとかなかったとかいう者もあったが、ようよう一人の男の子を生むと、女房の姿が見えなくなった、近所の人は男と<ruby><rb>駈落</rb><rt>かけおち</rt></ruby>をしたものだろうと言っています。

子供を一人残されて女房に逃げられた時は、七兵衛も大分弱ったようでしたが、その後、子供は里へ預けて来たと言って、それからは一人で暮して、昼は<ruby><rb>山稼</rb><rt>やまかせ</rt></ruby>ぎ畑稼ぎをして、夜になっては大概早く戸を締めて人とも交際しません。七兵衛は固くなった固くなり過ぎたと、人々は評判をしておりましたけれど、実はこの時分から、持って生れた<ruby><rb>泥棒癖</rb><rt>どろぼうへき</rt></ruby>が再び<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>しはじめたものです。

昼のうちは<ruby><rb>克明</rb><rt>こくめい</rt></ruby>に働いて、夜分になると戸を締め切っておいて盗みに出かけます。盗みは決して近いところではしない、上州とか甲州とか数十里を隔てたところへ行っては盗んで来て、その<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>までに青梅へ帰って、昼はまたなにくわぬ面で山稼ぎ畑打ちです。それで盗んだ金は名も現わさず散らしてしまう、女狂い<ruby><rb>賭博狂</rb><rt>ばくちぐる</rt></ruby>いをするでもなければ身の廻りを飾るでもないから、誰も<ruby><rb>怪</rb><rt>あやし</rt></ruby>むものがない、それでいよいよ捕われるまでは七兵衛の大罪を知るものはなかったわけです。

二十一

竜之助の父<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>の枕元に、宇津木兵馬と与八とが坐っております。

「兵馬殿、せっかく剣術を修行なさるなら正しい剣術を修行なされよ」

弾正は言葉を改めてこう言い出しました。

憎い<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の家、竜之助の父、兵馬はこう思い込んで来たものの、事実、弾正に会うて見れば、その病気に対する同情と、寸分の<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てなく慈愛を以て自分を訓戒する<ruby><rb>真心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>に動かされてしまったのです。それで神妙に膝に手を置いて弾正の言うところを聞いていると、

「あの竜之助がよい見せしめ、あれも初めは見込みのある剣術であった、わしも最初のうちは<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいたが、わしが病気になって以来、すっかり術が<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちてしまったでな」

「術が堕ちたとおっしゃるのは」

「何も知らぬ者は竜之助がメキメキ腕を上げたと評判するげな。わしが眼で見れば日増しに術が堕ちてゆく。ああ残念な、この身が丈夫であったらあの腕を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き直してやろうものをと思わぬ日はなかったが、何を言うにもこの不自由で、みすみす<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>を邪道に落した」

弾正の眼からは竜之助の剣術の進歩を進歩と見ないので、

「あのような剣術が<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の<ruby><rb>仕儀</rb><rt>しぎ</rt></ruby>になるは眼に見えたものじゃ、わしはもう世に望みのない<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>、兵馬殿、どうか拙者になり代って竜之助を<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らして下さい」

弾正は疲れを休めて後、

「とは言え、今の<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>では、いかに心が<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>っても竜之助の向うに立つことはおぼつかない、ようござるか、修行が<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>じゃ」

「修行します、立派に修行しませいでか」

「ああよいお覚悟じゃ。時に、正しい修行には正しい師匠を取らねばならぬ……わしがその正しい剣道の師匠を其許に<ruby><rb>推薦</rb><rt>すいせん</rt></ruby>する、その人について修行なさるがよい」

弾正が推薦する正しき剣道の師とは何者か。

「下谷の<ruby><rb>御徒町</rb><rt>おかちまち</rt></ruby>に島田虎之助という先生がある、流儀は<ruby><rb>直心陰</rb><rt>じきしんかげ</rt></ruby>、拙者が若いうちからの<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>で、今でも折々は<ruby><rb>消息</rb><rt>たより</rt></ruby>をする、この人はまさに剣道の師たるべき達人じゃ」

「島田虎之助先生、お名前も承わったように覚えまする」

「上泉伊勢守の正統を伝えたものは当代にこの人であろう」

<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れが子竜之助の剣道を邪道と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るにひきかえて、島田虎之助を弾正が推薦することは極度であります。

「正しい代りに修行が<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しい――厳しい修行で弟子が少ない、もと<ruby><rb>名聞</rb><rt>みょうもん</rt></ruby>を好む性質でないから世間からは多く知られていないが、わしとは若い頃から気が合うてよく<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>わった――せっかく剣道を学ぶならこの人に就いて学びなされ」

弾正の話の中には、別におのずから見識があって、兵馬にはよくわからないながら、この老人が尋常の人と思えない、もしこんな病気にかからないならば、どんなエライ人になったろうかと、そぞろに尊敬の心を起させるようです。

二十二

「今日は五月のお節句ですねえ」

障子を少しあけて、初夏の<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい日光と風とを入れ、その膝のところに、ようやく<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>うばかりになった男の子を遊ばせて、自分はその子の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を縫っている若い女房は、ちょっと<ruby><rb>眉根</rb><rt>まゆね</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて男の方を見やりました。

「四年目の五月の節句じゃな」

<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>を前にして何かを読んでいた男の人は、女房の話しかけたのをこう受けてちらと見向きますと、余念なく<ruby><rb>衣</rb><rt>きもの</rt></ruby>を縫うている女房の<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>のあたりが見えます。

「来年もお山に試合がございましょうねえ」

「ある」

「どなたが勝ちましょう」

「誰が勝つか」

「お前様このごろは根っから試合をあそばしませぬ……」

「<ruby><rb>日蔭者</rb><rt>ひかげもの</rt></ruby>の身ではなあ」

こういって男がなんとなく深く歎息をした時に、女は針の手をとどめて、

「ほんとにもう、日蔭者になってしまいましたわねえ」

男の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見て淋しく笑います。

「いつまでもこうしてはおれぬ」

男の所在なげに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>く時、女は持っていた縫物を投げ出して、

「坊や、<ruby><rb>抱</rb><rt>だっ</rt></ruby>こをおし」

膝にまつわる可愛らしい男の子を抱き上げて、

「ほんにお前様のお腕なら、この広い江戸表へ道場を開きなされても立派に師範で通ろうものを……こうしていつまでも日蔭者同様の身ではねえ」

「いまさら<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を言っても追っつかぬ、みんな身から出た<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>じゃ」

「でもお前様……」

女は子を抱いたなり男の方へ膝を向け、

「私たちは日蔭者でも、この子だけはねえ」

「うむ――」

男は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて物を考えている様子です。

「この子のために何とかして下さいな、わたしはどうなっても構いませんけれど、坊やだけは世に出したいと思いますわ」

「それはお前に言われるまでもない」

男は少しく<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>に触ったらしく、

「よく日蔭者日蔭者とお前は<ruby><rb>口癖</rb><rt>くちぐせ</rt></ruby>に言うが、日蔭者の拙者といるがいやになったか」

「どうしてまあ――」

女は<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうに男の横顔を見つめて、

「こうして四年越し、<ruby><rb>晴々</rb><rt>はればれ</rt></ruby>と明るい世間へ出たこともなし、御近所のお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんたちが、やれ花見のお芝居のと誘って下すっても、ついぞ一日お仲間入りをしたこともないし、それというも、みんなお前さんへの<ruby><rb>心中立</rb><rt>しんじゅうだ</rt></ruby>てではありませぬか、そんなことを言われるとホントにいやになってしまうわ」

「いやになったら花見にでも芝居にでも行け！」

男の言葉が荒くなったので、女も<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんで、

「あれ、お前さんお<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>りなすったの」

男は机竜之助で、女はお浜で、子供というのは二人の中に去年生れた<ruby><rb>郁太郎</rb><rt>いくたろう</rt></ruby>で、この三人が住んでいるのは、芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内のささやかな長屋です。

あれから四年後、二人の生活はこんなふうに変化して、いわゆる日蔭者のその日の暮しは、江川邸内の足軽らに竜之助が剣術の一手を教えるのと、邸内を守ることによって支えられているわけです。

「ほんとにつまらない」

お浜は郁太郎を抱きながら投げ出したような<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>です。

「何がつまらない」

「なんですか、しみじみ世の中が<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>らなくなりましたわ」

「尼にでもなれ」

「ほんとに<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>になるならば<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>か巡礼にでもなりたい……」

竜之助は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>り切って、その<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>には負けず根性の中に<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>え難い<ruby><rb>鬱屈</rb><rt>うっくつ</rt></ruby>が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っている、それを無理に抑えつけて、半ば<ruby><rb>不貞返</rb><rt>ふてかえ</rt></ruby>った気味のお浜の言い分を黙って聞き流しているが、折にふれて夫婦の間には、こんな不愉快な空気がこの二三年来<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>うて、今日はその雲行きがいつもよりは<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しいのです。

「ねえ坊や、お前さえなければお母さんはどこへでも行けるのだよ、坊やのお父様という人はねえ、お母さんに尼になれだとさ、お父さまに<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を尽かされても、坊やがあるためにお母さんは何とも口答えができないし、出て行くところもないのだよ」

お浜は郁太郎の面をじっと見つめながら、

「今日は五月の五日といって、男の子のお祝いの日なのよ、坊やも<ruby><rb>初子</rb><rt>ういご</rt></ruby>だからお父さんに祝っておもらい、<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>を立てておもらい。お母さんは器量がないから人形一つ買って上げることはできないのだよ」

竜之助は横を向いて取合わないでいるのを、お浜は畳みかけて、

「お節句のお祝いができないから、仏様に線香でも上げましょうねえ坊や、四年前の今日死んだ文之丞という人にお線香を上げてやりましょう、坊やは悪い<ruby><rb>月星</rb><rt>つきほし</rt></ruby>の下に生れたねえ」

こう言いながら、前に住んでいた人がこしらえておいた仏壇の方へ立って行こうとするのを、竜之助はこらえ兼ねた<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>で、

「これ浜、少し待て」

「お線香を上げては悪いのですか」

「そこへ坐れ」

「はい」

「お前は<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>の悪い女じゃ」

「はい、もとより悪い女でござんす、悪い女なればこそこうしてみじめな……」

「身を誤ったはお前ばかりではない、この机竜之助もお前のために身を誤った、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、悪縁と<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めがつかぬものか」

「悪縁……もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うの昔に悪縁とは諦めておりますが」

「さあ、悪縁と思えば辛抱の仕様もある、わしもお前からさんざんの<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を並べられ、人でないようにこき下ろされても、悪縁と思えばこそ何も言わぬ」

「悪縁なら悪縁のように少しは浮いた花やかな暮しもあろうものを、お前様と添うて四年越し、ついぞホッとした息をついたことがない」

お浜はつんと横を向いて、

「ああ、文之丞殿と添うていたら」

この一語は竜之助の<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>をふっと切ったようです。

「浜、そういうことが今更わしの前で言えるか」

竜之助の唇がピリリと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えます。

「はい、どこでも申します、今となってわたしは文之丞が恋しい」

「ナニ！」

「あのまま添うていたら、この子にもこんな苦労をさせずに済もうものを」

お浜はハラハラと涙をこぼします。

「うむ――」

竜之助は<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りを<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>まで送り返すために<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>にまで力が入って、

「よう、あの頃のことを考えてみい、罪はわしにあるか、ただしお前にあるか」

「さあ、水車小屋で<ruby><rb>手込</rb><rt>てごめ</rt></ruby>にした悪者は誰でしょう」

お浜は<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れ<ruby><rb>毛</rb><rt>げ</rt></ruby>をキリリと<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み切って、

「あれが悪縁のはじまり、あのことさえなくばわたしは宇津木文之丞が妻で、この子にもこんな苦労はさせず」

「ああ、女は魔物じゃ」

ここに至って竜之助は女の怖るべきことを初めて悟ったかの如く、深い歎息のほかには<ruby><rb>言句</rb><rt>ごんく</rt></ruby>も<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>げなかった有様でしたが、ややあって<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように、

「おれが方から言えば、あの試合に殺気を立てたのはみんな浜という女のなす<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>じゃ、文之丞が突いた<ruby><rb>捨身</rb><rt>すてみ</rt></ruby>の<ruby><rb>太刀先</rb><rt>たちさき</rt></ruby>には、たしかに恋の<ruby><rb>遺恨</rb><rt>いこん</rt></ruby>が見えていた、それを打ち返したこっちの刀にも悪女の一念が乗り移っていたに違いない、事の行きがかりはみな浜という女の一念から起る」

「ようもまあ、そんなことが」

お浜は飛びつくように詰め寄せて、

「お前様というものがなければ文之丞は無事、わたしも無事、宇津木の家にも机の家にも、何の騒ぎも起るまいに、それをみんなわたしのなす業とは、どうしてまあ、そんなことがお前様の口から……」

「いいや、お前という魔物のなす業に違いない」

「まあまあ、わたしが魔物！」

「宇津木文之丞を殺したも、机竜之助が男を<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>らせたも、あれもこれもみな浜、お前の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>に違いない」

「まあ、あれもこれもみなわたし？」

「それに違いない、お前の怖ろしさがいま知れた」

竜之助は騎虎の勢いで、言うだけ言ってのけるほかはなかったので、お浜は狂乱の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>にまでのぼせ上り、

「おお、よくおっしゃった、わたしが悪魔なら、どこまでも悪魔になります」

<ruby><rb>郁太郎</rb><rt>いくたろう</rt></ruby>を投げ出して竜之助の脇差を取るより、

「坊や、お前も死んでおくれ、わたしも」

竜之助はその手を<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しく抑えた。郁太郎は火のつくように泣き叫びます。

「死ぬとも生きるとも勝手にせよ」

竜之助は脇差を奪い、刀を取って腰に差し、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>を拾ってかぶるなり縁側からふいと表へ出てしまいました。

二十三

どこをどうして来たか机竜之助は、その日、<ruby><rb>夕陽</rb><rt>ゆうひ</rt></ruby>の斜めなる頃、上野の山下から<ruby><rb>御徒町</rb><rt>おかちまち</rt></ruby>の方を歩いていました。

ふと、鼓膜に触れた物の音で、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と歩いていた竜之助はハタと歩みを留めたのでありました。

見上ぐればそこには<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しからぬ構えの道場がある。その中からは<ruby><rb>戞々</rb><rt>かつかつ</rt></ruby>と響き渡る<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>の音、それと大地を突き<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>す気合の叫びが、おりおり洩れて来るのです。

ああ竹刀の音、気合の声、それを忘れてよいものか。竜之助は<ruby><rb>釘付</rb><rt>くぎづ</rt></ruby>けられたように立ちつくして、そうして道場の武者窓のあたりへと近寄りました。

その道場の表札も古く黒ずんで、道場の主が果して何者であるやもよくわからなかったけれども、好きな道で我を忘れて武者窓から編笠越しにのぞき込むと、主座に坐っているのは五十ぐらいの年配で、色の少し黒い、<ruby><rb>頬骨</rb><rt>ほおぼね</rt></ruby>がやや高くて、口は結んで、<ruby><rb>脊梁骨</rb><rt>せきりょうこつ</rt></ruby>がしゃんと<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え、腰はどっしりと落着いて、じっと眼をつぶって、さながら<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ったように見える人物。左右に並んだ弟子たちが十余人、いま<ruby><rb>場</rb><rt>じょう</rt></ruby>の真中で行われつつある稽古ぶりを見ている熱心さ。

竜之助はこの緊張した道場内の空気、先生の態度、弟子の作法を見て、おのずから他の町道場と選を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にするものあるを知って、はてこの道場の主は何者であろう、どれほどの手腕がある人であろうと再び主座の方を見ると、その人物がちらりと自分の方、武者窓のあたりに眼をつけたと見えた時、竜之助はなんとなくまぶしい感じがしました。

いま道場の真中で行われつつある稽古か試合か、一方はすぐれて<ruby><rb>大兵</rb><rt>だいひょう</rt></ruby>な男、一方はまだ十五六の少年。大兵の男の<ruby><rb>朱胴</rb><rt>しゅどう</rt></ruby>はまだ新しく燃え立つばかりに見えるのが、竹刀は中段にとって、気合は<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>に相応してなかなか<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじいものです。相対した少年は質素な竹の胴に、これも同じく中段に構えているが、釣合いが妙ですから上段と下段くらいのうつりに見えます。

主人の位を見た竜之助は、この立合もまた興味を以て見はじめました。

「エーイ！」

大の男が鋭い気合と共に、

「足！」

足を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>うは<ruby><rb>柳剛流</rb><rt>りゅうごうりゅう</rt></ruby>に限る。少年は<ruby><rb>真影流</rb><rt>しんかげりゅう</rt></ruby>に見る人の形。

「他流試合か」

竜之助がこう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた時、少年はちょっと板の間を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>るようにして左の足をはずして、飛び込んで、

「胴！」

主座の人はなんとも合図なし。両人は分れて、またも同じく中段の構えです。

竜之助はかの<ruby><rb>大兵</rb><rt>だいひょう</rt></ruby>の男よりは、この少年に眼をつけざるを得なかった、というのは、あとの「すくい胴」はとにかく、前の足をはずす巧妙さ、自分にも覚えがあるが、柳剛流の足は<ruby><rb>難物</rb><rt>なんぶつ</rt></ruby>で、これをはずすは一流の達人でも<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>しとするところ、それをこの少年は平然としてその足をはずして直ちに腹へ行く余裕がある。

「これは出来る」

竜之助はひとり感歎しつつ一倍の興味に誘われていると――

大兵の男は上段に取って、ウナリを生ずるほどの竹刀に押しかぶせて少年の面上へ打ち下ろす、それを左へ払って面へ打ち返したがそれは不幸にして届かなかった。盛り返した大兵は呼吸をはかって突きを入れる、一歩進んでそれをはずした少年は、またしてもかいくぐって胴、これは届いたけれども浅かった。

とにもかくにも二本まで腹へ<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>られて大兵の男は<ruby><rb>苛</rb><rt>いらだ</rt></ruby>って、<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>、<ruby><rb>籠手</rb><rt>こて</rt></ruby>、腹のきらいなく盛んな気合で畳みかけ畳みかけ、<ruby><rb>透間</rb><rt>すきま</rt></ruby>もなく攻め立てる。竜之助は大兵の男の荒っぽい剣術ぶりを<ruby><rb>笑止</rb><rt>しょうし</rt></ruby>がって見ているうちに、少年は右へ左へ前へ後ろへ、ほどよく<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>なす<ruby><rb>手練</rb><rt>しゅれん</rt></ruby>と身の軽さ。そのうちになんと<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を見出したか、

「突き！」

細い、<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな少年の声は道場の板の間を矢の如く走ると見れば<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れむべし、大兵の男は板の間も砕くる響きを立ててそこに<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をついて、<ruby><rb>鳥羽絵</rb><rt>とばえ</rt></ruby>にあるような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をして見せたので、並み居る連中は吹き出しそうなのを、主座の方に気兼ねをしてやっとの我慢です。

机竜之助は久しぶりで<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よい見物をしたと、その瞬間には今朝よりの不愉快なこともすっかり忘れ去って、少年の<ruby><rb>手並</rb><rt>てなみ</rt></ruby>の<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かなのに感心をすると共に、自分はいかに、我が<ruby><rb>手腕</rb><rt>うで</rt></ruby>の程はいかにという自負心が<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつねん</rt></ruby>として頭を上げ<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>ったのです。

思えば四年以前、御岳山上で試合をしたことの以来、試合らしい試合をしたことがない、日蔭者の身で<ruby><rb>平侍</rb><rt>ひらざむらい</rt></ruby>や<ruby><rb>足軽</rb><rt>あしがる</rt></ruby>どもを相手に腕を腐らせていたのみで、退くとも進むはずはあるまいが、さりとて世間並みの剣客や師範に劣ろうとは思わない、ここの先生はどれほどの人か知らん、とにかく今の少年と一手を争い、次にこの先生のお手の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>を拝見するも一興であろうと、竜之助は<ruby><rb>矢</rb><rt>や</rt></ruby>も<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>もたまらなくなりました。

二十四

改めて玄関から案内を乞うて道場内へと入りました。

主座の先生はちらと、入り来る竜之助の姿を見たばかり。竜之助は門人に導かれてその人の前に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>き、

「<ruby><rb>拙者事</rb><rt>せっしゃこと</rt></ruby>は江川太郎左衛門の配下にて吉田竜太郎と申す<ruby><rb>未熟者</rb><rt>みじゅくもの</rt></ruby>」

竜之助は我が名を表向き名乗る場合には、それ以来、吉田竜太郎の名を以てします。

「拙者は島田虎之助でござる」

この一語、さすがの机竜之助をして<ruby><rb>胴震</rb><rt>どうぶる</rt></ruby>いをさせるほどに驚かせました。

名にし<ruby><rb>負</rb><rt>お</rt></ruby>う島田虎之助とはこの人のことであったか、父の弾正が剣術の話といえば必ずこの人の名を呼ぶ、父の弾正は当時この人でなければ剣術はないように言う。

竜之助はその話を聞かされるごとに、一たびは冷笑し、一たびは<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>にさわり、折あらばその虎之助なる者と立合ってみたい、老いぼれた父の<ruby><rb>鑑識</rb><rt>めがね</rt></ruby>を我が新鋭の手練を以て打ち砕いてやるも面白かろうと、<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>はこんなに思っていたが、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までその人に会う機会もなかったのを、今日、<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>らずその道場に飛び込んで他流試合を申し入れるとは奇妙な<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>でもあり、この上もなき好機会でもある。一度は胴震いするほどに驚かされたが、好き敵<ruby><rb>御参</rb><rt>ごさん</rt></ruby>という自負心は高鳴りをして、久しく鬱屈していた勇気が十倍の勢いで反抗してきました。

さりながら、法に従ってまず門人衆と立合わねばならぬ。

「当道場門人の末席を<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>す<ruby><rb>片柳兵馬</rb><rt>かたやなぎひょうま</rt></ruby>と申す未熟者」

三人は手もなく打ち込んで四人目がかの少年。今は仮に<ruby><rb>外戚</rb><rt>がいせき</rt></ruby>の姓を名乗る宇津木兵馬でありました。あれから四年目、兵馬は十六歳。再び道具を着ける。竜之助のは道場から借受けた道具。

門人どもはこの新来の他流の客の流風に、心中<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>るるところあって見ているうちに、場の真中に立ち出でた両人は、互いにしばし席を譲って、やがて相引き、机竜之助は西に向って構えたのが例の「音無し」です。

島田虎之助はこの時、両人の構えをちらと見て、机竜之助の音無しの構えの位に少しく奇異の感を起したと見えて、再び<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>とその方を見ています。

宇津木兵馬は中段に取って気合を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めているうちに、不思議なのは先方の呼吸で、サッパリ張合いがありません。

引いて構えたまま、気合もかけねば打っても突いても来ない、さりとて<ruby><rb>焦</rb><rt>せ</rt></ruby>き立つ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えないで、立合としてこんなのは初めて。先の心を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り兼ねますから、やむなく自分も仕掛けて行きません。二人は道場の中に、竹刀と竹刀、眼と眼を合せたきりで静かなものです。

もし島田虎之助という人が<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あなたこなた</rt></ruby>の試合の場を踏む人であったなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或いはその評判を聞いたりして、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くにさる者ありと感づいたであろうが、そういう人でなかったからこの場合、ただ奇妙な剣術ぶりじゃとながめているばかりです。

兵馬は無論、これが敵と<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>う机竜之助であろうとは夢にも知るはずがない、ただ扱いにくい竹刀かなと内心にいささか<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れ気味です。そこで兵馬は思い切って一声、竹刀を返して竜之助が面をめがけて打ち込まんとする時、

「<ruby><rb>籠手</rb><rt>こて</rt></ruby>！」

竹刀の動く瞬間に、竜之助の竹刀は兵馬の籠手を打ったのです。

「籠手、よろし」

島田虎之助は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。

宇津木兵馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>飛び<ruby><rb>退</rb><rt>しさ</rt></ruby>って、また中段に構え直しました。

竹刀の先わずかに動いたのみで兵馬の籠手を取った竜之助は、更に飛び込んで来るかと思うとそうではなく、前の通りの音無しの構えでじっと動かず。

兵馬は小手調べを見事に<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>って、こっちから仕かけた<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>に負けて一時ハッとしたが、この一手でおおよそ敵の手段のあるところがわかったらしく、<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>って中段に構えたなり動かず。

かの御岳山上で、兵馬の兄とこの人とが決死の立合をした時の瞬間がやはりこれです。兵馬はこんなジリジリした太刀先に立つのがいやになった、得意中の得意の一手、

「突き！」

兵馬の得意は<ruby><rb>諸手突</rb><rt>もろてづ</rt></ruby>きです。今も最後に他流の大兵を突き倒したあの一手。

と見れば竜之助の竹刀、突いた兵馬の竹刀を左に払って面！　兵馬の竹刀それよりも速きか遅きか突き！　これは前のよりも一層深かった。尋常ならば相打ち。問題はいずれの刀がどれほど深いか浅いかであって、島田虎之助はそれを何とも言いません。

それからはいつまで<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っても静かな音無し。ついに二人の立合は分けで終りました。

「島田先生に一太刀の御教導を願わしゅう存じまする」

竜之助は面、籠手をはずした後、虎之助の前に<ruby><rb>膝行</rb><rt>にじ</rt></ruby>り出でて言葉を<ruby><rb>卑</rb><rt>ひく</rt></ruby>うして申し入れると、島田虎之助は、

「いや吉田氏とやら、貴殿は妙な剣術をつかいなさる、どこで修行なされた」

「親共につきまして小野派の一刀流を少しく学びました、それよりは別に師と頼みたる者もなく……」

「ははあ」

島田虎之助は眼をつぶって夢を見ている<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらく。

「御高名の一手を御教授下し置かれたく……」

「…………」

島田先生、いっこう竜之助の<ruby><rb>懇願</rb><rt>こんがん</rt></ruby>に取合いがなく、閉眼沈思の姿でありますから、

「未熟者ながら先生の一太刀を……」

繰返して願ってみても、何とも返事がなく、これもさっぱり張合いがありません。

二十五

宇津木兵馬が入門の初め、島田先生はこういうことを教えました。

剣術は自得である。筑後<ruby><rb>梁川</rb><rt>やながわ</rt></ruby>の藩に大石進という者がある。性質愚に近いほどの<ruby><rb>鈍根</rb><rt>どんこん</rt></ruby>で、試合に出ては必ず負ける。後輩年下の者にさえさんざんに打ち込まれる。そのたびごとに笑われ<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>られる。或る時、非常なる<ruby><rb>辱</rb><rt>はずかし</rt></ruby>めに会ってから、さすがの<ruby><rb>鈍物</rb><rt>どんぶつ</rt></ruby>も藩の道場に姿を見せなくなった。それより門を<ruby><rb>杜</rb><rt>と</rt></ruby>じて、天井より糸で<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>をつるし、それを突くこと三年間、ついに天下無敵の突きの一手を発明してしまった。再び道場に現われた時は藩中はおろか、天下その突きの前に立ち得るものがない。（島田虎之助に、<ruby><rb>男谷下総守</rb><rt>おたにしもうさのかみ</rt></ruby>、それにこの大石進を加えて当時天下の三剣客という。）

島田先生からこの話を聞いた兵馬は、同じ方法と同じ熱心を以て突きの手を工夫し、今や同じような成功を見るに至ったわけです。

兵馬がそれとは知らずに机竜之助と竹刀を合せてから、ほぼ一カ月余りのことで、夏の日盛りを御徒町の道場から牛込のある友人のもとへ試合に行こうと、空模様が<ruby><rb>険呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>であったのに、道具を肩にして出かけると、はたして<ruby><rb>御成</rb><rt>おなり</rt></ruby>街道から五軒町の裏を<ruby><rb>妻恋坂</rb><rt>つまこいざか</rt></ruby>にのぼりかけた時分に、夕立の空からポツリポツリ。

どこか雨宿りをと坂を上りつめた時分には、一天<ruby><rb>墨</rb><rt>すみ</rt></ruby>の如く、ガラス玉のようなのが矢を射るように落ちて来ます。

「ここで<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>しの雨やどり」

兵馬は、とある家の<ruby><rb>門側</rb><rt>かどわき</rt></ruby>に<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>み、空をながめて、雲の走り去り雨の降りおわるのを待っていると、やがて盆を<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>す勢いで風雨が殺到して来ました。

「婆や、早く二階を締めて下さい」

この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の中で若い女の声。

「お松様、引窓の紐が切れてしまいました」

これは婆さんの声。

「それは困ったね、ではわたしが二階を締めるから」

こういって若い女は、あわてて二階へ<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ上って、かいがいしく雨戸を繰りはじめましたが、兵馬はなにげなく二階を見上げますと、いま戸を立てた女は、最後の一枚を残してそこから<ruby><rb>驟雨</rb><rt>しゅうう</rt></ruby>の空と往来とを見ていましたのと、ちょうど両方の間が斜めに向って、見上げても見下ろしても、ぜひ眼のぶっつかる地位でありました。

兵馬は少女を見上げて、何となくはっと心を打たれました。女も兵馬の姿から、しばらく眼を放しませんでしたが、そのうちに戸はピタリと立て切って、兵馬はそれなりまた雨の降る勢いを見て立ちつくしています。

わずかの小門の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>だけに身を寄せたのですから、好いあんばいに風は少し向うへ吹いて行く分のこと、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の裾や衣服の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>には<ruby><rb>沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>がしとしととかかります。と、くぐり戸ががらりとあいて、半身と傘の首だけを兵馬の前に突き出したのは以前の婆さんで、

「もし、あなた様、中へ入ってお休みなさいませ」

「はい、有難う存じまする」

「おっつけ晴れましょうから、どうぞ御遠慮なくお入りなさいませ」

「はい……」

兵馬は遠慮して、まだ入り兼ねていると、

「さあ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れます濡れます、あなた様も濡れます、この<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>も濡れますほどに」

こういわれて兵馬は、好意を有難く思ってこの家の中へ入りました。

「さあどうぞ、お上りあそばして」

兵馬が中へ一足入れると、障子のところに立っていたのはいま二階からちらと見合った少女、見れば髪も<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>も眼の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めるような<ruby><rb>御守殿風</rb><rt>ごしゅでんふう</rt></ruby>に作っておりました。

雨はなかなか<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>みそうもなく、風も少しずつ加わってくるようです。再三辞するもきかず一室に<ruby><rb>招</rb><rt>しょう</rt></ruby>ぜられた兵馬は、そこに坐って<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶさた</rt></ruby>に待っていながら、つらつらこの家の有様を見ると、別に男の<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>も見えないし、茶道具とか花とか風流がかったもののみ並べてありますが、しばらくすると絹ずれの音がさやさやと、

「お客様、御退屈でござりましょう」

さきの女は、しとやかに入って来たので、

「いや別に――」

兵馬は取って附けたような返事。

「もう歇みそうなもの」

「ごゆっくりあそばしませ」

戸外では松の枝が折れたらしい。風雨の容易に止みそうもないのをもどかしがっている兵馬には、この女と<ruby><rb>差向</rb><rt>さしむか</rt></ruby>いのように坐っていることが気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるようでなりません。

ここはいかなる人の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>で、この少女は娘であろうか、それにしてもこの花やかな御守殿風は……とようやく不審にも思われてきましたが、深く推量すべき必要はないことで、雨が<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れてしまうと兵馬は厚く礼を述べて、この家を立ち出でました。

二十六

雨が上って兵馬を帰してから<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくたって、

「お松や、さっきの若いお方はお前の知合いなのかい」

「いいえ、雨に降り込められて門前で困っておいでのようでしたから……」

「可愛ゆい<ruby><rb>若衆</rb><rt>わかしゅ</rt></ruby>でしたね」

お松はこう言われて、何のわけもなく真赤になりました。

お松は大菩薩峠で七兵衛に助けられたお松。それを前に呼び寄せて話しているのは、七兵衛の手からお松を預かった<ruby><rb>切髪</rb><rt>きりがみ</rt></ruby>の<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>でありました。

「それはそうと、明日はお邸へ上らなくてはなりませぬ」

「はい」

「お邸へ上りましたなら、かねて申してある通り、わたしに代って<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>して、殿様のお気に入るようにして下さい」

「わたしのような慣れないものが、お気に入るようになられましょうやら、それが心配でございます」

「殿様はお酒をおあがりなさるとお気が荒いけれど、<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>は親切なお方だから、<ruby><rb>御機嫌</rb><rt>ごきげん</rt></ruby>の取りにくいことはありませぬ」

「お<ruby><rb>手荒</rb><rt>てあら</rt></ruby>なことをなさることはございますまいか」

「まあそんなことがあっても、<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかにとりなすのが御奉公と申すもの」

「それでも、かよわいわたくし<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>の力で殿様の御機嫌が直りませぬ時は……」

お松が心配そうに言うのを切髪の婦人は笑って打消し、

「なにも殿様が、きっと手荒いことをなさるときまったわけではなし、また<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>もたくさんあることだから……朋輩といえばお松や、殿様や家来方の御機嫌よりも朋輩同士の仲が<ruby><rb>小面倒</rb><rt>こめんどう</rt></ruby>なのよ、よく気をつけないと<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>まれたり<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>まれたり――」

「わたしはそれも心配でございます」

「お殿様にもお気に入り、朋輩衆にも嫉まれず、それが女の腕というもの。まあ<ruby><rb>初陣</rb><rt>ういじん</rt></ruby>と思うて乗り込んでごらん」

「お師匠様の御恩報じのつもりで、きっと勤めまする覚悟」

お松の頼もしい言葉は、お師匠様と呼ばれた切髪の婦人の心を非常に満足せしめたようでありましたが、やや小声になって、

「それにねお松や、お前が女中衆のうちでいちばん年も若いしするから、何でもまず殿様を丸めてしまわなくては……ホホホ、丸めるというと恐れ多いけれど、やっぱり何とかして殿様をこっちのものにするのさ、ね、おわかりかえ」

「まあ、わたしにそんなことが――」

耳まで真赤にしてお松が<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>くのを、

「ホントにお前はまだ子供で困ります」

お松がここで行けと言われている家は、四谷の<ruby><rb>伝馬町</rb><rt>てんまちょう</rt></ruby>の神尾という三千石の<ruby><rb>旗本</rb><rt>はたもと</rt></ruby>であります。この切髪の婦人というのは<ruby><rb>先殿様</rb><rt>せんとのさま</rt></ruby>の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>であったので、殿様が<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなって<ruby><rb>殊勝</rb><rt>しゅしょう</rt></ruby>らしく髪を切って、仮りに花の師匠となり、弟子というものもさっぱりないけれども、先代からの<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>やその他で<ruby><rb>裕福</rb><rt>ゆうふく</rt></ruby>に暮らし、院号やなにかで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合います。

神尾の邸の中では、旗本の<ruby><rb>放蕩息子</rb><rt>ほうとうむすこ</rt></ruby>らが日夜<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>りびたりで<ruby><rb>賭博</rb><rt>とばく</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ると言い、十人も<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な女中がいて、それやこれやの聞きにくい<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>があります。お松はこれから、恩義の<ruby><rb>枷</rb><rt>かせ</rt></ruby>でその中へ送られて行かねばならぬ。言いようのない<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>さ。こんな時に兄弟でもあったらと思うにつけて、雨宿りした兵馬の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>、かりそめの縁ながら、目先にちらついて忘るることができません。

兵馬もまたこの家を出でてから、なんとなくかの少女が<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>に思われて、その後もしばしばこの家の前を通りかかったことはありましたけれど、その折の少女の姿は再びそこに現われることがありませんでした。

二十七

それから一カ月ばかり後のことで、もう秋の夜長のさびしさがうっすら身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みる頃、伝馬町の神尾の邸の湯殿に火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いている大男があります。それは水車番の与八でした。例の<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を聞いていると、与八がどうしてこの邸へ来たかがわかります。

「<ruby><rb>大先生</rb><rt>おおせんせい</rt></ruby>がおなくなりなすって<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>はつまらなくなったから、お江戸へでも出てみたらと当家様へ御奉公に上ったわけだが、やっぱり水車小屋にいた方が俺が<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>に合ってる、あれほど親類の衆も言って下すっただから水車番をしていればよかったに、俺モウいちど水車小屋へ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>るべえか……」

与八は今の境遇よりも水車小屋の昔が<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>かしいと見えて、

「あのガタンピシンという<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>の音や、ユックリユックリ廻る<ruby><rb>万力</rb><rt>まんりき</rt></ruby>や、前の川をどんどと威勢よく流れる水の音なんぞが、なんぼう好い心持だか。お地蔵様も小屋の中へ押立て申して、あとの人によく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">信心のう</span>するように頼んでおいたが、御岳様や<ruby><rb>貧乏山</rb><rt>びんぼうやま</rt></ruby>なんぞも紅くなりはじめたことだんべえ。俺が水車にいると、よく前の川へ鹿の野郎が水飲みに来たっけ。モ一ぺん水車小屋へ帰るべえか。帰ったところで大先生がいねえことにゃつまらねえな」

与八の独言はここで一段落になって、あとがしばらく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>と――ぷしぷしと火の燃える音のみが聞えます。

おりから、本邸の方でどっと人の笑う声、それも一人二人ではなく、男の声に<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>を切るような女の声が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って騒がしい。

「ああまた始まった、ここのお邸はまるで<ruby><rb>化物屋敷</rb><rt>ばけものやしき</rt></ruby>だ」

与八は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>り切っていると、引続いてキャッキャッとひっくり返るような女の笑い声。

「侍たちも侍たちだが女中たちも女中たちだ、女の子にお邸奉公なんぞさせるもんでねえ、ああしてみんな<ruby><rb>自堕落</rb><rt>じだらく</rt></ruby>になっちまう……ついこの間も、若いお女中が入って来なすったが、いじらしいことだ、あんなしおらしい女の子もやがて滅茶滅茶に<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れからしちまうだんべえ」

この時またもひとしきり男女の<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎ返る声、ドーッと笑い崩れてまたひっそりとしてしまいました。

「どれ、水でもちっと汲んどくべえ」

与八は<ruby><rb>手桶</rb><rt>ておけ</rt></ruby>をさげて井戸端へ出かけます。

主人の<ruby><rb>神尾主膳</rb><rt>かみおしゅぜん</rt></ruby>というのは三十越したばかりで、父が死んでの後はいい気になって、旗本の次男三男という始末の悪いやくざ者を集めて来ては、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が家を<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>にしてさんざんの<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>ですが、<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>も八人の道楽仲間を呼び集めて、これに七人の女中が<ruby><rb>総出</rb><rt>そうで</rt></ruby>で広間を昼のように明るくし、

「これより竹の子勝負」

と聞いて女中たちは<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>見合せ、

「まあいやな」

眉をしかめていぶかしげな笑い方をする。

「さあ円くなれ、おのおの方、組を合せ給え、読みは拙者がする」

侍どもと女中たちは夜会の席のような具合に一人ずつ<ruby><rb>席割</rb><rt>せきわり</rt></ruby>をして円く組み合いましたが、女中どもはこんなことに慣れきっていると見えて恥かしがりもせず。

「ああつまらん、<ruby><rb>身共</rb><rt>みども</rt></ruby>ばかりは独り者」

投げ出すように言い出したのは、<ruby><rb>芳村</rb><rt>よしむら</rt></ruby>という若い侍。

「おおこれは、芳村氏が男やもめ、<ruby><rb>笑止</rb><rt>しょうし</rt></ruby>」

すべての人が奇数であったために男やもめがひとり出来てしまったのを、主人は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を打って、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>が見えぬ、みどりを呼べ」

みどりとは、三日前にこの屋敷へ見習奉公に来たお松のことです。

「みどりさん、みどりさん」

高萩と花野と、もひとり月江という女中が<ruby><rb>都合</rb><rt>つごう</rt></ruby>三人で、お松のみどりの部屋へ駈け込んで来て、

「殿様のお召しでござりまする、直ぐにいらっしゃい」

「はい……」

「ただいま百人一首が始まったところ」

「あの、せっかくではございますが気分がすぐれませぬ故」

「気分がお悪いとや。<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な不快はあの面白い遊びで<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ってしまいまする、さあさあ早く」

「それでも、わたくしには歌が取れませぬ」

「なんのまあ、お前様ほどの<ruby><rb>物識</rb><rt>ものし</rt></ruby>りが」

「いいえ、まだ百人一首の取り方も存じませぬ、<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>なお席へ出ましては、かえって失礼に存じまする故」

女中たちは左右から、みどりの手を取り抱き上げんばかりにして、

「殿様のお言いつけでござりまするぞ、そのような<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>は通りませぬ」

一人が言えば、

「ほんに、みどりさん、お前はいつもいつもこのような折は、不快じゃの<ruby><rb>不調法</rb><rt>ぶちょうほう</rt></ruby>じゃの言いくるめて引込んでばかり。今日は許しませぬ」

花野は<ruby><rb>躍起</rb><rt>やっき</rt></ruby>になって、みどりの手を引張りながら、

「あれ、あのように殿様のお声が聞えまする、早うせぬとあとでどのようなお<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りに会うことやら」

みどりはどうにも<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ません、三人に引きずられるようにして広間へ来て見ると、<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>のような有様で。

「やあ、みどり見えたか、芳村殿の右へ坐れ、そちも勝負に加わるのじゃ」

主人はこう命令すると、女中どもはみどりを芳村の隣席へ押据える。

「みどり殿、遠慮してはいけない、さあ、この札をよく見て、それから自分の前へ<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>なあんばいに並べてお置きなされ、よいか、あれにて神尾殿が読み上げたなら、遠慮なく拾い取り<ruby><rb>候</rb><rt>そうら</rt></ruby>え」

芳村はそう言いながら札を取って、みどりの前に並べてくれます。

「わたくし、まだ札の取り方も<ruby><rb>一向</rb><rt>いっこう</rt></ruby>に存じませぬ」

「いいや、むつかしいことはない、自分の前だけ守っておれば<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>はない、その代り、自分の前を人に拾われたら一大事じゃ」

みどりは百人一首の歌だけは覚えておりますけれど、こんなふうに札の取り合いをしたことがないので、ただもじもじしていると、

「よろしいか、はじめるぞよ」

主膳は<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いして席を見廻し、

あらざらむ……

「しめた！」

芳村は手を伸べて、太田という隣席の札を一枚とんと指の先で<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げました。一枚とられた太田は何のためか、締めていた帯を解いてポンと向うへ投げ出す。

みどりが<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れている間に、

夜をこめて……

眼も少々<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ずっていた高萩が<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声を出して、

「ありました」

身を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り出して押えたのが、みどりの前の札でした。

「さあ、みどりさん」

みんなの眼がみどりの方に向く。左右の二人は、

「帯をお取りなさい」

みどりの帯へ手をかける。

「まあ、何をなさいます」

「そんなに驚くことはない、これは竹の子勝負というて、一枚とられたら一枚ぬぐというきまり、それで最初には帯から……」

みどりは驚いてしまって、その手を振り払おうとする間に、かえってこんなのを面白がる連中は、寄ってたかって<ruby><rb>無残</rb><rt>むざん</rt></ruby>にもみどりの帯を解いて、あちらに投げ出す。

みどりは身も世にあられぬあさましさを感じてポーッとしていると、

春の夜の……

「ありました」

花野は高萩の前にあったのを横の方にポンと飛ばし、

「みどりさんの<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>を討ちました」

夕されば……

「しめた！」

最初にやられた太田が飛び出したのは、運悪くまたしてもみどりの前でした。

「やれお気の毒な、いざ<ruby><rb>一皮</rb><rt>ひとかわ</rt></ruby>むき給え」

寄って来て、みどりの<ruby><rb>上着</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>に手をかける。

「どうぞ御免あそばして」

必死にいやがるを、けっく一倍おもしろがる。

「みどり、そんなにむずかるものではない、ほんの座興じゃ」

上着を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がるれば下は<ruby><rb>間着</rb><rt>あいぎ</rt></ruby>。

もろともに……

「ありました」

またしても意地の悪い高萩は、みどりの弱味をつけ込んで<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>っていた図が当る。

「みどりさん、かさねがさねお気の毒」

間着を脱げば下は<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>。

「どうぞ御免あそばして」

みどりは腕を組んで固くそこに<ruby><rb>突伏</rb><rt>つっぷ</rt></ruby>してしまいました。

「何という騒ぎだ」

水汲みに出た与八は、手桶を井戸側に置いて、奥庭の彼方に見える広間の障子に入り乱れた影法師を見ながら突立っていると、庭の石燈籠の蔭で、人らしいものの形が動く。

「はて誰だんべえ、あんなところに人のいるはずがねえ」

与八はつるべ縄へ掛けた手を休めて見ていると、その人の影は<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>の池のほとりから奥殿の廊下の方へと進んで行きます。<ruby><rb>泥棒</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>だ、泥棒に違えねえ、

「泥棒！」

与八が大きな声で叫ぶと、その声は外なる<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しの男よりも、家の中の大一座を驚かして、障子を<ruby><rb>蹴開</rb><rt>けひら</rt></ruby>いて廊下へ走り出でます。

二十八

その翌日の朝、与八は<ruby><rb>竹箒</rb><rt>たけぼうき</rt></ruby>で庭を掃いていますと、ほかの女中は昨夜の疲れで寝ているのに、みどりの部屋のみは障子があいて、もう起きているようです、それとも夜通し寝なかったものか。

それとは知らずに掃いて来た与八は、

「これは、みどり様、お早うございます」

箒の手を休めて、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りをちょいと<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>してお<ruby><rb>辞儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をする。

「与八さん、たいそう早く<ruby><rb>御精</rb><rt>ごせい</rt></ruby>が出ますね」

「エエ、どう致しまして。わしらあ別に早いこともありましねえが、お<ruby><rb>前様</rb><rt>めいさま</rt></ruby>こそエラク早起きで」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は御苦労でしたねえ。まあ少し、ここでお休み」

みどりは障子をあけて親切に与八を<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わり、

「お茶を一つおあがり」

茶と菓子とを縁側のところへ持って出ます。

「こりゃどうも恐れ入ります」

与八は<ruby><rb>大悦</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びで、

「お前様はいつも、わしらにそんなに親切をして下さるから有難えと思います、ほんとに済みましねえ」

悦びながら相当に遠慮をしているのを、

「さあそこへお掛け。与八さん、わたしはお前さんにお礼を言わねばなりませぬ」

「なんの、お前様にお礼を言われるようなことをすべえ、行届かねえ<ruby><rb>田舎者</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>ですから、<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんどう</rt></ruby>を見てやっておくんなさいまし」

与八は頬冠りを取って手拭を<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>づかみにして、しきりにお辞儀をしています。

「お茶がはいりました、遠慮をしないで」

「はい、どうも済みましねえでございます」

与八は、やっとのことで縁側へ腰をかけ、<ruby><rb>無器用</rb><rt>ぶきよう</rt></ruby>な手つきをして、恐る恐る茶碗を取り上げておしいただきます。

「甘いものはお好きかえ、ここに<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>があります」

「どうも済みましねえ、こんな結構なお菓子をいただいてどうも済みましねえ」

与八は片手に茶碗、片手に羊羹をいただいて、幾度もお礼を繰返す。

「与八さん、お前はずいぶん立派な体格ねえ」

「ええ、<ruby><rb>大</rb><rt>でか</rt></ruby>くばかりあってこの世の<ruby><rb>穀</rb><rt>ごく</rt></ruby>つぶしみたようなものでございます」

「その<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>では力もありましょうね」

「力ならたいがいの人に負けましねえ」

無邪気なる自負の色を浮ばせて、

「力ずくなら誰にも負けねえけれど、<ruby><rb>昨晩</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の泥棒みたようなすばしっこい奴には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わねえ、幽霊みたようだ、そこにいたかと思うとスーッと消えてしまうだ、あんな泥棒はつかめえどころがねえでがすから力ずくにゃいかねえ、それでとうとう取逃がしてしまった」

与八、少々残念らしく見えます。

みどりのためには昨夜の泥棒は、<ruby><rb>虎口</rb><rt>ここう</rt></ruby>を救うてくれた恩人であります。この与八があの時、泥棒！　と叫んでくれたればこそ、おかげで恥かしい目をのがれたものです。みどりはそれとは言わずに、話を別の方へ持って行って、

「あの、与八さん、お前のお国はどちら」

与八は羊羹を<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>ばった口をゆがめて、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>が生れ土地はどこだか知らねえ」

「ホホ、生れ土地を知らないの」

「俺、<ruby><rb>棄児</rb><rt>すてご</rt></ruby>だからな、<ruby><rb>物心</rb><rt>ものごころ</rt></ruby>を知らねえうちに<ruby><rb>打棄</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>られただから、どこで生れたか知らねえ」

「まあ、お前さんは棄児……」

「そうだあ、青梅街道というところへ打棄られて、人に拾われて育っただから、生れ土地は知りましねえ」

「かわいそうに。そうして、育てられたのは？」

「それはね、この玉川上水を二十里も<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>へのぼると沢井という所がありまさあ、その沢井の机弾正という先生に拾われて育ててもらったでがす」

「それでは多摩川の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方。わたしも子供の時分、あのへんを通ったことがありました」

「そうかね、あの街道は甲州の大菩薩峠というのへ抜ける街道だ」

「大菩薩峠……」

「大菩薩峠というのは上り下りが六里からあるで、<ruby><rb>難渋</rb><rt>なんじゅう</rt></ruby>な道だ」

「ああ、そうでござんす、あの大菩薩には猿がたんといて、峠の頂上には観音様のお堂がありましたなあ」

「お<ruby><rb>前様</rb><rt>めいさま</rt></ruby>よく知ってござるが、あの峠を越したことがおありなさるのかえ」

「エエ、四五年前に」

「四五年前……それではやっぱり<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>があの水車小屋にいた時分だ」

「与八さん、いつか一度あの大菩薩峠へ、わたしをつれて行って下さいな」

「あんな山奥へかい」

「わたしは、モ一ぺんあの峠へ行ってみたい」

「俺もお前様、ほんとうの話は、この頃こちらで奉公をしているけれども、やっぱり昔の山ん中がいいと思うからお邸を<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>を貰い申して帰るべえかと思ってるところでがす」

「まあお前、奉公が飽きたの」

「ああ、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になっちまった、<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>がには水車番が<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>に合ってるだあ」

「そんなことは言わないで、いつまでも一緒に御奉公をしていておくれ、そして帰る時には、わたしを大菩薩峠まで連れて行って下さい」

みどりの眼には涙が宿ります。与八はしばらく考えていましたが、

「お前様にそう言われると、俺もなんだかお前様を残してこのお邸を出かけるのが気がかりになるだ」

与八は、みどりのために<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>になり<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>になって力を添え、みどりは与八与八と<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいつ</rt></ruby>の頼みにして、二人は<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>のように親しみを加えてゆきます。

幸いにしてその後、みどりの身の上には格別の<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>ないこともなく、ほかの<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>どもが主人の<ruby><rb>寵</rb><rt>ちょう</rt></ruby>を<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らにしておりますので、引込みがちで隠れた仕事をのみして日を送っておりました。

二十九

「<ruby><rb>新徴組</rb><rt>しんちょうぐみ</rt></ruby>」という壮士の団体は、徳川のために諸藩の注意人物を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>える機関でありました。まず江戸市中に入り込む志士或いは浮浪の徒を捕縛し、<ruby><rb>手剛</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いのは暗殺する、これが「新徴組」の役目であります。

神田柳原の金子という同志の家の一間で、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い目つきをした十余人の新徴組が、朝から寄り集まってはささやき合い、一人出て行き、二人出て行き、また一人戻り二人戻り、何か打合せをしている。十一月の末で、今日はよほど寒い、天も朝から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どんより</span>としていたが、夕方からははたして粉のような雪が降りはじめました。

寛永寺の<ruby><rb>暮六</rb><rt>くれむ</rt></ruby>ツが鳴ると、最後に出かけた一人が立帰って、

「隊長、首尾は上々じゃ」

「それは大儀」

隊長と呼ばれたのは水戸の人、<ruby><rb>芹沢鴨</rb><rt>せりざわかも</rt></ruby>。

「杉山左京が邸を乗り出した<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>が二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>、その後ろのがまさしく清川八郎」

「<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と？」

「相違ない、拙者は<ruby><rb>武兵衛</rb><rt>ぶへえ</rt></ruby>にあとを頼んでおいた、急ぎ用意あって<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべし」

「心得たり」

十余人が<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り立って用意の<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>。

一方には<ruby><rb>大盃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>になみなみと酒を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、

「待て、後ろなるはめざす清川八郎、前なるは何者じゃ」

<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>から<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>え出したのは、新徴組の副将で、鬼と言われた<ruby><rb>近藤勇</rb><rt>こんどういさみ</rt></ruby>。

「おお、それでござるが」

<ruby><rb>斥候</rb><rt>ものみ</rt></ruby>から帰って来た武士は近藤の方へ向いて、

「それはたしかに高橋<ruby><rb>伊勢守</rb><rt>いせのかみ</rt></ruby>」

「ナニ、高橋！」

一座が<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>を見合せる。

高橋伊勢守は後の<ruby><rb>泥舟翁</rb><rt>でいしゅうおう</rt></ruby>、<ruby><rb>槍</rb><rt>やり</rt></ruby>を取っては当時<ruby><rb>海内</rb><rt>かいだい</rt></ruby>の<ruby><rb>随一人</rb><rt>ずいいちにん</rt></ruby>。

その頃、丸の内の杉山左京という旗本の邸に、月二三回ぐらいずつ毛色の変った人々が集まって、<ruby><rb>四方山</rb><rt>よもやま</rt></ruby>の話をする会があった。集まる人は高橋伊勢守、山岡鉄太郎、石坂周造、<ruby><rb>安積</rb><rt>あづみ</rt></ruby>五郎、清川八郎、金子与三郎、それに島田虎之助の面々で、幕臣もあれば勤王家もある、大した人数ではなかったけれど、この会合は新徴組からヒドクめざされていました。ことに清川八郎こそ<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きっかい</rt></ruby>なれ、彼はいったん新徴組の幹部となった身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ<ruby><rb>二股者</rb><rt>ふたまたもの</rt></ruby>、まず清川を斬れとその計画がいま熟しつつあるので、昼のうちより杉山邸へ放った<ruby><rb>斥候</rb><rt>ものみ</rt></ruby>が、いま上々首尾の報告を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>したわけです。

「高橋何者ぞ、彼ももろともに叩き斬れ」

隊長芹沢の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ははげしい。

「伊勢守は幕府の重臣じゃ」

口を<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだのは近藤勇とは同郷、武州多摩郡石田村の人<ruby><rb>土方歳三</rb><rt>ひじかたとしぞう</rt></ruby>。

「幕臣でありながら<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ふろうもの</rt></ruby>と往来する高橋伊勢め、幸いの折だ、清川もろともに叩き斬るがよい、それとも<ruby><rb>従五位</rb><rt>じゅごい</rt></ruby>の槍が<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いかな」

芹沢はこういって近藤、土方の面を意地悪く見廻すと、<ruby><rb>勃然</rb><rt>むっ</rt></ruby>としたのが近藤勇です。愛するところの抜けば必ず人を斬るという<ruby><rb>虎徹</rb><rt>こてつ</rt></ruby>の一刀を引き寄せて、

「近藤勇が虎徹ここにあり、高橋伊勢、槍を取っての鬼神なりともなんの怖るるところ」

<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>たる意気を示して芹沢を睨め返す。

「待て待て」

土方歳三は<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに気の立つ芹沢と近藤とを<ruby><rb>和</rb><rt>なだ</rt></ruby>めて、

「今夜めざすは清川一人、<ruby><rb>余人</rb><rt>よにん</rt></ruby>を突っついて無駄の骨折りするも面白からず、二人の駕籠が離るるまで待って、やすやすと清川の首を挙ぐるが労少なくして功が多い、いかがでござるな」

「うむ――」

芹沢も近藤も一座も僅かに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて土方を見る。

「これより見え隠れに二人が駕籠の跡を追い、高橋が乗物の離れたる折を見て清川を血祭りにする、もしその折を得ずば二人もろとも」

「よし、それも一策じゃ、しからばこの仕事の<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を土方氏、貴殿に願おうか」

芹沢にいわれて土方歳三は<ruby><rb>言下</rb><rt>げんか</rt></ruby>に引受け、

「承知致した、貴殿ならびに近藤氏はこれに待ち給え、<ruby><rb>仕留</rb><rt>しと</rt></ruby>めて参る」

「総勢十三人、よいか」

「よし」

このとき近藤勇は、ふと一座の<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>を振返って、

「吉田、吉田氏」

少し酔うてさきほどから眠っていたらしい一人を呼びかけて、押しゆすると、むっくり起きてまばゆき眼を見開いたのは机竜之助でした。

机竜之助は近藤、土方らとは同国のよしみで、しばらく新徴組に姿を隠しております。呼び<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>されて、

「眠り過ごした」

刀を取って一座の方へ進み寄ると、土方歳三が、

「吉田氏、いずれもかくの通り用意が整うた」

「ほう、拙者も<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>を致そう」

竜之助は、身ごしらえ、足ごしらえ、黒い<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を取って<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ろうとしながら、

「相手は清川一人か」

「さいぜんも申す通り、別に<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>が一人」

「苦手とは？」

「槍の高橋伊勢守が同行」

「さらば二人もろとも<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>るか」

「いや、めざすは清川一人なれども、<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り<ruby><rb>違</rb><rt>ちが</rt></ruby>えば高橋もろとも」

「うむ」

竜之助は土方の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>と岡田の面とを等分に<ruby><rb>見比</rb><rt>みくら</rt></ruby>べながら、

「もし高橋を相手に取る時のその<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>は？」

「拙者はおのおのと<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに清川に向い申さん、高橋<ruby><rb>邪魔立</rb><rt>じゃまだ</rt></ruby>て致さば吉田氏、貴殿と岡田氏とにて」

「心得た」

土方は<ruby><rb>手勢</rb><rt>てぜい</rt></ruby>をまとめて清川に向い、まんいち高橋その他の邪魔立てもあらば、机竜之助と岡田弥市とがこれに当るという<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>をここにきめました。

新徴組は野武士の集団である。<ruby><rb>野</rb><rt>や</rt></ruby>にあって腕のムズ<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>さに堪えぬ<ruby><rb>者共</rb><rt>ものども</rt></ruby>を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目ですから、毒を以て毒を制すると<ruby><rb>謂</rb><rt>いい</rt></ruby>つべきものです。

近藤勇は<ruby><rb>野猪</rb><rt>やちょ</rt></ruby>のような男である。感情に走りやすく、意気に<ruby><rb>殉</rb><rt>じゅん</rt></ruby>じやすい代りに、事がわかれば敵も味方もなくカラリと<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れる、その剣の荒いこと無類、術よりは気を以て勝つ。

土方歳三はこれに比べると陰忍の男である。落着いていたが<ruby><rb>荒</rb><rt>あば</rt></ruby>れる時は近藤以上に荒れる。怨みはよく覚えていて、根に持っていつまでも忘れない。近藤は<ruby><rb>御</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>し<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>し土方は御し<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>しと<ruby><rb>有司</rb><rt>ゆうし</rt></ruby>も怖れていた。隊長の芹沢は性質がことに<ruby><rb>僻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>けていた。後に京都で近藤勇に殺される。芹沢死して後の新徴組は、近藤勇を隊長として改めて「新撰組」となる。それは後の話。

雪はチラチラと降りつづき、夜は四ツ過ぎて、風がないからわりあいに寒くはないようなものの、時節柄ですから人通りなどはほとんどありません。

<ruby><rb>練塀小路</rb><rt>ねりべいこうじ</rt></ruby>あたりで<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>の笛、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の方でびょうびょうと犬が吠える。物の音はそのくらいのもので、そこへ二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の駕籠が前後して神田昌平橋にさしかかる。

前の<ruby><rb>駕籠側</rb><rt>かごわき</rt></ruby>には一人の供が槍を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでついている、後ろの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の紋は<ruby><rb>抱茗荷</rb><rt>だきみょうが</rt></ruby>。

二つの駕籠が雪の昌平橋を無事に渡りきると、<ruby><rb>棒鼻</rb><rt>ぼうばな</rt></ruby>の向きが少し変って、前のは講武所の方へ向き、同時に駕籠の中から何か声高に言うのが聞えると、それに応じて後ろなる駕籠の中からも、前のよりは少し低い調子で<ruby><rb>一言二言</rb><rt>ひとことふたこと</rt></ruby>言い出すのが聞えます。

そこで二つの駕籠は別れて、前のは槍を持たせたまま、講武所から聖堂の方を指して行く。後ろなる抱茗荷のは、そのまま一直線に外神田から上野の方面をさして進んで行きます。

その時、昌平橋のこっちに海坊主の<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>のようにかたまって、その乗物にちっとも眼を離さなかった連中が、今や前後の乗物が別れたと見るとスーッと<ruby><rb>爪先立</rb><rt>つまさきだ</rt></ruby>って橋を渡り、太刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を握り締めた十余人は、いわずともかの土方歳三を大将とする新徴組の一団です。

かの槍を持たせて講武所から聖堂の方へ別れた乗物は、疑いもなく高橋伊勢守で、高橋の邸は牛込<ruby><rb>神楽坂</rb><rt>かぐらざか</rt></ruby>で、邸内には<ruby><rb>名代</rb><rt>なだい</rt></ruby>の<ruby><rb>大楠</rb><rt>おおくすのき</rt></ruby>があって俗に楠のお屋敷という、それへ帰るものに相違ないのです。案の如く高橋をイナすことができて、めざす清川八郎ただ一人。新徴組の壮士は刀の<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>を切って駕籠をめがけて一時に飛びかかろうとするのを、土方は、

「<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>！」

と制する。大将の許しがないので、腕は鳴り刀は<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を走ろうとするのを抑えて、土方を先に十余人が乗物のあとをついて、五軒町、末広町と過ぎて広小路へかかろうとするが、土方はまだ斬れとも<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>れとも言いません。

こんなことを知ろうはずのない清川の乗物は、ずっと上野の山下へ入って行きます。

「<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>を避けて山へ追い込み、そこで充分に<ruby><rb>仕遂</rb><rt>しと</rt></ruby>げるつもりだな」

こう思って<ruby><rb>各々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>は同じく山下へ入り込んで行きましたが、<ruby><rb>究竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>と思う<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby><ruby><rb>山蔭</rb><rt>やまかげ</rt></ruby>をも無事に通り抜けさして、ついに<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>、<ruby><rb>新坂</rb><rt>しんざか</rt></ruby>の下まで乗物を送って来てしまいました。

何のことだ、ここを過ぐれば山は尽きる。

三十

新坂から鶯谷へかかる所、後ろはものすごい上野の森、離れては根岸から浅草へわたり、寺院や武家屋敷の屋根が所まばらに見えるくらいのものです。

清川八郎を乗せた駕籠がいよいよ新坂下の原までかかった時に、雪は降ることが大分薄くなって、おりから月のあるべき夜でしたから空はいちじるしく明るく見えました。

「その駕籠、待て！」

今まで息を殺していた土方歳三が<ruby><rb>大喝一声</rb><rt>だいかついっせい</rt></ruby>、<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と太刀を引き抜くと、<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>の如く十余人抜きつれて乗物を囲む。

<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごかき</rt></ruby>はそれと見て立ちすくみ、

「誰だ、誰だいッ、ふ、ふざけたまねをするない」

<ruby><rb>振舞酒</rb><rt>ふるまいざけ</rt></ruby>の余勢で<ruby><rb>巻舌</rb><rt>まきじた</rt></ruby>をつかってみましたが、からきり物になりません。提灯を切り落されると地面に<ruby><rb>突伏</rb><rt>つっぷ</rt></ruby>して、

「御免、お助け、命」

「行け！」

ほしいままに駕籠舁<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>の命を取ることを好まなかった。こけつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ彼等が上野の山蔭に逃げて行くに任せて、さて十五人の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>は一つの乗物に向う。

駕籠の中はヒッソリして、ほとんど血の通う人の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>はあるまじき様子です。眠っていたならば覚めねばならぬ、覚めていたならば起きねばならぬ。

「出ろ！」

呼ばわってみましたけれども、相も変らずヒッソリとしたものです。土方歳三は一人の黒と<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>き合うと、スーッと左の方から進み寄って太刀を取り直す。

同時に、いま頷き合った黒の一人は、右の駕籠<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>に廻って太刀を振りかぶる。

残る十余人はやや退いて、<ruby><rb>透間</rb><rt>すきま</rt></ruby>もなく遠巻きにしていると、土方が取り直した太刀は矢の如く、<ruby><rb>巌</rb><rt>いわ</rt></ruby>も<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>れと貫いた――が、やっぱり手答えもなんにもない。

と見れば、太刀を振りかぶっていた黒の一人は、何に驚いてか、

「あっ！」

と叫んで柳の葉の落つるように太刀を振捨てて、身は<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>を倒すように雪の中に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめ</span>ってしまいました。

土方をはじめ一団がこれはと驚くときは遅く、北の方にめぐらされた寺の垣根を後ろにとって、<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>は早くも<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>に結ばれ、太刀の構えは<ruby><rb>平青眼</rb><rt>ひらせいがん</rt></ruby>。

「無礼をするな、拙者は<ruby><rb>御徒町</rb><rt>おかちまち</rt></ruby>の島田虎之助じゃ、<ruby><rb>果</rb><rt>はた</rt></ruby>し<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>いならば時を告げて<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>れ、恨みがあらばその<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>を言え」

「しまった！」

思わず叫び出でたのは土方歳三です。

<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>を突いて蛇ではなく、駕籠を突いて虎を出してしまった。

これより先、清川八郎は、丸の内の杉山邸を出づる時、取違えて島田の駕籠に乗って出てしまったので、島田は清川の駕籠で帰ることになったのです。

<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>の達人には、おのずから<ruby><rb>神</rb><rt>しん</rt></ruby>に通ずるところのものがある。この途中、島田虎之助はフト怪しい<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>に打たれたので、もとより新徴組がかく精鋭を尽して来ようとは思わなかったが、心得ある乗り方で乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備え、待てと土方の声がかかった時分には、既に刀の下緒は襷に<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>どられ、愛刀志津三郎の<ruby><rb>目釘</rb><rt>めくぎ</rt></ruby>は<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>されていた。<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を突かした刀の下から同時にサッと<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>の一太刀で、外に振りかぶって待ち構えていた<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の黒の一人の足を切って飛んで出でたものです。

これを見て大将の土方歳三が、しまった！　と叫んだのも、もとより<ruby><rb>当</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべきところで、人違いの失策もあろうが、島田虎之助がそのころ一流の剣法であったことを知らないはずはない。

しかしながら新徴組に集まるほどの者で、名を聞いたばかりで<ruby><rb>聞怖</rb><rt>ききお</rt></ruby>じするような者は一人もなかったのです。またここまでやりかけて、人違いでしたかそうでしたかと引込むような人間は一人もなかったのです。彼等はみな一流一派に傑出した者共で、無事に苦しんでその腕の<ruby><rb>悪血</rb><rt>あくち</rt></ruby>が取りたさにこの団体に入ったくらいでしたから、人違いなどは大した問題ではなく、むしろ剣法において当代一の<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>め<ruby><rb>付</rb><rt>つき</rt></ruby>の島田虎之助を突き出したことを<ruby><rb>勿怪</rb><rt>もっけ</rt></ruby>の幸いと感じたくらいのものであります。

その中にも、岡田弥市と共に<ruby><rb>後詰</rb><rt>ごづめ</rt></ruby>の役を引受けた机竜之助は、またしても思いがけず島田虎之助と聞いて、親の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>に出会ったように肉がブリブリと動きます。彼はやや離れた物蔭に、島田の構えをじっと睨んで立っている。

なんにしても人違いは人違いに相違ない、先方の名乗りを受けて土方は何と言うか。

「<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>れ！」

土方歳三は<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>ならぬ決断で火蓋を切ったものです。

「エイ！」

銀山鉄壁を裂く響、<ruby><rb>山谷</rb><rt>さんこく</rt></ruby>に答え<ruby><rb>心魂</rb><rt>しんこん</rt></ruby>に徹して、なんとも形容のできないすさまじき気合ともろとも、夜の如く静かであった島田虎之助は、<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>の如く飛ぶよと見れば、ただ一太刀で、僅かに一歩を踏み出した新徴組の水島某は肩先より、雪を血に染めて<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>は浄土へ飛ぶ。

島田虎之助は水島を切って落して、飛び抜けて<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の立木を後ろに平青眼。

げに<ruby><rb>夜深</rb><rt>よふか</rt></ruby>くして猛虎の声に山月の高き島田の気合に、さしも新徴組の荒武者が五体ピリピリと<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>します。

と見れば、大塚某は片手を打ち落されて折重なって雪に<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>るる時、島田の身は再びもとの<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>を後ろに平青眼、ほとんど<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きをする間に剛の者二人を斬って捨てたのです。

島田虎之助は剣禅一致の<ruby><rb>妙諦</rb><rt>みょうてい</rt></ruby>に参じ得た人です。もと<ruby><rb>豊前</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>中津の人。若い時は気が荒く、ややもすれば人を<ruby><rb>凌辱</rb><rt>りょうじょく</rt></ruby>し<ruby><rb>軽佻</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>と思われるくらいでしたが、剣の筋は天性で、二十歳の頃はすでに免許に達していたということであります。

藩を浪人して諸国を修行し、武術に限ることはなく、およそ一芸一道に<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でた者は<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなく訪ねて練り上げたもので、流儀の根本は<ruby><rb>直心陰</rb><rt>じきしんかげ</rt></ruby>です。

その後、剣道の至り尽せぬところに禅機の存することを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って、それから品川の或る<ruby><rb>禅宗寺</rb><rt>ぜんしゅうでら</rt></ruby>へ参禅しはじめたのが三十歳前後のことであったと申します。それから五年の間、一日も欠かすことなく、気息を調え<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>を練り、ついに大事を<ruby><rb>畢了</rb><rt>ひつりょう</rt></ruby>しました。

参禅以後は人間が一変したということで、以前の軽佻粗暴はその<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>もなく、おのずから<ruby><rb>至人</rb><rt>しじん</rt></ruby>の妙境が現われて来たそうです。

剣を取る時は<ruby><rb>平青眼</rb><rt>ひらせいがん</rt></ruby>にじっとつけて、相手の眼をみつめながらジリリと進む、それに対するといかなる<ruby><rb>猛者</rb><rt>もさ</rt></ruby>も身の毛が<ruby><rb>竪</rb><rt>た</rt></ruby>ったそうであります。ジワリジワリと柔かな剣のうち測り知られぬ力が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>って、もしも当の相手が<ruby><rb>不遜</rb><rt>ふそん</rt></ruby>な挙動をでも示そうものなら、その柔かな衣が一時に<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>して、鬼神も避け難き太刀先が現われて来るので、みている人すら<ruby><rb>屏息</rb><rt>へいそく</rt></ruby>して手に汗を握るという。おそらくこの人は、その当代随一の剣であったにとどまらず、古今を通じての大名人の一人であったと信じておいてよかろうと思う。

飛び込んで斬って飛び抜ける、或いは飛び込んで斬られて<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れる、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な場合において刀の働きはこの二つよりほかはない。

「エイ！」

例の気合のかかる時は島田虎之助の身は囲みを破って敵の裏に出でた時で、その時はすでに新徴組の一人二人は斬られているのです。

敵も人形ではない、命知らずの荒武者にしかも一流の腕を充分に備えた<ruby><rb>血気盛</rb><rt>けっきざか</rt></ruby>りです。それが二太刀と合すことなくズンと斬り落される、あまりといえば<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ないことです。

すでに五人を斬って捨てた島田虎之助は、またかの<ruby><rb>塀際</rb><rt>へいぎわ</rt></ruby>に飛び戻って<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>たる平青眼の構え。

しかし感心なのは、さすがに新徴組で、眼の前にバタバタと同志が枕を並べて<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>されても、一人として逃げ腰になって<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れの気勢を示すものがないことです。島田虎之助を虎にたとうれば、これはまさに肉を争う狼の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>です。

ひとり机竜之助は、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と立ってこの有様を少し離れた物蔭から<ruby><rb>他事</rb><rt>よそごと</rt></ruby>のように見ています。

島田虎之助と別れた高橋伊勢守は、神楽坂の屋敷へ帰って清川八郎と話しているところへ、この注進が伝わりました。

「はて不思議じゃ、今の世に島田を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>う命知らずありとも覚えぬに」

清川八郎がこの時ハタと膝を打って、

「さあその黒装束の一隊こそまさしく新徴組、これは片時も<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>なり難し」

「新徴組なりゃ島田を覘うはずがない、こりゃ人違いじゃな」

「乗物の取違えから、拙者を恨む新徴組の<ruby><rb>奴輩</rb><rt>やつばら</rt></ruby>が、誤って島田先生を襲うたに相違ござらぬ」

清川は一刻もこうしてはおれぬ。

「人に斬られる島田ではないが……」

と言って高橋伊勢守も静かに立ち上る。

まもなく楠屋敷の門を、陣笠に馬乗羽織、馬に乗った伊勢守の<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>に清川八郎がついて、雪を蹴立てて走り出すと、従五位の槍の<ruby><rb>槍持</rb><rt>やりもち</rt></ruby>がそれに<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れじと飛んで行く。

三十一

高橋伊勢守と清川八郎とが<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せつけた時は、新坂下は戦場のような光景で、気合の声は肉を争う猛獣の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>ゆるが如く、谷から山に<ruby><rb>徹</rb><rt>こた</rt></ruby>える、雪と泥とは<ruby><rb>縦横</rb><rt>じゅうおう</rt></ruby>に踏みにじられた中に、右に左に折重なって<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れた人の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が五つ六つは一目に数えられる、血の香いはぷんとして鶯谷に満つるの有様です。

塀を背後に平青眼に構えて、前には少なくともまだ十人の敵を控えた島田虎之助の姿を見るや、清川八郎が太刀を抜いて新徴組の中へ切り込もうとするのを、馬から下りて従五位の槍を槍持の手から受取った高橋伊勢が、

「人に斬られる島田でない、ここにて見物せられい、<ruby><rb>差出</rb><rt>さしい</rt></ruby>でては邪魔になる」

清川を制して、

「仙助、この<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持て」

提灯を上げると、そこらあたりが<ruby><rb>薄月</rb><rt>うすづき</rt></ruby>の出たほど明るくなる。

「エイ！」

島田の気合。バタバタと雪に倒れるもの二人。

「エイヤ！」

新徴組の入り乱れた気合。一旦パッと離れてまた取囲んだ人の数を数えてみれば<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろに六個はたしかです。

島田虎之助の斬り捨てたのがこの時すでに七人です。いかに達人なりとも七人の人を斬れば多少の疲れを隠すことはできまい、またいかに名刀なりとも、これほどの斬合いに<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>まぬはずはあるまい。不思議なことには島田虎之助は、一人斬っても二人斬っても構えがちっとも崩れない、三人斬っても四人斬っても呼吸に少しの変りがないのです。もし明るい日で見たら、彼の<ruby><rb>面</rb><rt>かお</rt></ruby>の色も<ruby><rb>余裕綽々</rb><rt>よゆうしゃくしゃく</rt></ruby>として子供を相手にしているほどに見えたかも知れません。

しかしながら新徴組もやはり<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>ことは豪い、これほどにならぬ前に逃げ出すのがあたりまえです。島田虎之助とても逃げる敵を追いもすまい。しかるに<ruby><rb>味方</rb><rt>みかた</rt></ruby>の過半数を斬られて一人も逃げず一歩も引かない、この分では最後の一人が斃れるまでこの斬合いは続くであろう。それというのが彼等はみな抜群の使い手で、我こそ島田を斬らん我こそ我こそという自負があったからです。

こちらから見ていると<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>じっと静まり返って、しばらく天地が<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>として<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え渡ると、

「エイ！」

たがいの気合が<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>き返る、人は<ruby><rb>繚乱</rb><rt>りょうらん</rt></ruby>として飛ぶ、火花は散る、刃は<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>く、飛び違い<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ違って、また<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>納まった時、<ruby><rb>寄手</rb><rt>よせて</rt></ruby>の人の影はもう三つばかりに減っています。

島田虎之助はと見れば、これは前と変らず平青眼。

地に斃された人の数はこの時すでに十一を数えられて、そして残るところの新徴組は<ruby><rb>都合</rb><rt>つごう</rt></ruby>四人。この四人はみな名うての者です。

机竜之助と共に高橋伊勢守に当る手筈であった岡田弥市というのは小野派一刀流で、そのころ有数の剣客です。いまひとり加藤<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>というは<ruby><rb>溝口</rb><rt>みぞぐち</rt></ruby>派で、有名な道場荒し、江戸中に響いていた達者で<ruby><rb>剛力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>です。いざや島田を斃すは我一人と、井上<ruby><rb>真改</rb><rt>しんかい</rt></ruby>の太刀を振り<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して飛び込んで来たのを、島田虎之助の志津三郎は軽くあしらって<ruby><rb>発止</rb><rt>はっし</rt></ruby>と両刀の合うところ、ここに<ruby><rb>鍔競合</rb><rt>つばぜりあい</rt></ruby>の形となりました。

加藤主税は<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を吐くような呼吸と<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>のような気合で、力に任せて鍔押しに押して来ると、島田虎之助はゆるゆると左へ廻る。とにもかくにも、今までの斬合いで島田と太刀を合せて鍔競合まで来たのは加藤ひとりです。それを見ていた岡田弥市は何と思ったか、太刀を振りかぶってちょうど島田虎之助の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ廻り、やッと<ruby><rb>拝</rb><rt>おが</rt></ruby>み<ruby><rb>討</rb><rt>うち</rt></ruby>。

見ていた高橋伊勢守がこの時はじめて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひやり</span>としました。

島田虎之助は前後に剛敵を受けてしまったのです。前なる加藤主税がエイと一押し、鍔と鍔とが<ruby><rb>揉砕</rb><rt>もみくだ</rt></ruby>けるかと見えたるところ、

「エイ！」

組んだる太刀が島田の気合で<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れたかと思えば電光<ruby><rb>一閃</rb><rt>いっせん</rt></ruby>、

「うむん――」

井上真改の一刀は<ruby><rb>鍔元</rb><rt>つばもと</rt></ruby>から折れて<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に飛び、水もたまらず島田の一刀を肩先に受けて、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじき絶叫をあとに残して雪に斃れる。それと<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんはつ</rt></ruby>を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れず後ろから廻った岡田弥市の拝み討。島田虎之助は、加藤主税を斬ったる刀をそのまま身を沈めて<ruby><rb>斜横</rb><rt>しゃおう</rt></ruby>に後ろへ引いて<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と払う。理窟も議論もない、人間を腹部から上下に分けた<ruby><rb>胴切</rb><rt>どうぎ</rt></ruby>りです。

一太刀を以て前後の敵を一時に斬る、これを鬼神の働きと言わずして何と言おう、高橋伊勢守がこの時はもうすっかり島田の手腕に敬服してしまって、ここは剣ではない禅であると、生涯歎称して<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まなかったとのこと。

机竜之助は何をしている。心おくれたか、逃げ出したか。いやいや、まださいぜんのところに立っている。竜之助が出なければ、残るところは大将の土方歳三ただ一人です。

土方歳三もかねて島田の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>は聞いていたが、これほどの人とは思わなかった。しかしこうなっても、持って生れた<ruby><rb>気象</rb><rt>きしょう</rt></ruby>は屈することなく、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かさず斬り込んで来た<ruby><rb>度胸</rb><rt>どきょう</rt></ruby>には島田虎之助も感心しました。

「ははあ、あれが土方歳三じゃ」

高橋が清川を顧みて言う。

「いかにも土方、惜しいものじゃ」

清川八郎は土方歳三をよく知っている、日頃<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の人物と見ているところから、ここで島田のために斬られることが、<ruby><rb>自業自得</rb><rt>じごうじとく</rt></ruby>とは言いながら惜しいと思うのも人情です。

二人が土方の噂をしている<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>、

「おう――」

絶望の叫びで土方は島田のために太刀を打ち落されてたじろぐところを、犬の子を<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がすように引き倒され、起き上ろうとした時は、島田の膝は背の上にさながら<ruby><rb>盤石</rb><rt>ばんじゃく</rt></ruby>を置いたようです。

「汝は何者じゃ」

「…………」

「名乗れ！」

「斬れ！」

「汝が<ruby><rb>主謀</rb><rt>しゅぼう</rt></ruby>と見ゆる、血気に任せて<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ<ruby><rb>腕立</rb><rt>うでだ</rt></ruby>て、心なくもこの島田に<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>させた、ここに枕を並べた者共もみな<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の剣術じゃ、むざむざ<ruby><rb>犬死</rb><rt>いぬじに</rt></ruby>させて何と<ruby><rb>言訳</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>が立つ、<ruby><rb>愚者</rb><rt>おろかもの</rt></ruby>め」

「一生の不覚、一生の不覚」

土方歳三は血の涙をこぼして、

「幼少より剣を学んで……御身ほどの達人を見分ける眼がなかったは……それが残念！」

島田虎之助はこの時、<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えた膝を<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めて、

「剣は心なり、心正しからざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」

こう言いながら土方歳三の<ruby><rb>襟髪</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>を取って突き放すと、よろよろと<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に飛んで<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>と倒れます。

三十二

高橋と島田と清川とが談笑しつつ行く後ろ影を見送って、やはり呆然として立っているのが机竜之助でした。

竜之助は術も魂も打込んで<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れてしまったのです。前にも後にもこのような鮮やかな手筋を見たことがない、見ようとて見られるわけのものでもない。最初にはなにを島田が！　次には、ああ思ったより<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えた腕！　その次は<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い！　最後には神か人か！

だんだんに変化して行く心のうつり目が、かの前後の敵を一刀に斬り捨てたところに至って言句も思慮も及ばなくなりました。そうして最後に到着した結論は「我ついにこの人に及ばず」です。

この結論は竜之助にとって生命を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むしり</span>取られるほどに<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い、けれども、どの手を行ってもこのほかに打つ手はない。

この時ようよう起き上ったのが土方歳三で、彼は悲憤の涙で男泣きの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>です。打ち落された刀を拾い取って同志十三人の<ruby><rb>死屍</rb><rt>しし</rt></ruby>縦横たる中へ坐り直し、刀を取り直して腹に突き立てようとする。

<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めた机竜之助は、走り寄って土方の刀を押えます。