一

池水に夜な夜な影は映れども

水も濁らず月も汚れず

はなはだ面白い歌である。しかし、――

池水に夜な夜な映る月影の

水は濁れど影の汚れぬ

としたら――私は松葉屋瀬川を、近世名妓伝の第一に持って行ってもいいと思う。

この作は、浅草<ruby><rb>再法庵</rb><rt>さいほうあん</rt></ruby>に、<ruby><rb>行</rb><rt>おこな</rt></ruby>い澄ましていた、元吉原松葉屋の抱え瀬川の作であって、<ruby><rb>庵</rb><rt>いおり</rt></ruby>の壁に書いてあった一首の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>だというのである。

「宮城野<ruby><rb>信夫</rb><rt>しのぶ</rt></ruby>」なる話が全然架空の事実で、大田蜀山人の例の手紙――手紙などは全く偽物であって、暇に任せて拵えたものらしいが、この瀬川の話なども、延享から宝暦へかけての、江戸時代でも一番退屈であった盛りの時に、<ruby><rb>欠伸除</rb><rt>あくびよ</rt></ruby>けに造られたものらしい。

「翁草」にこの瀬川の仇討を、通信文で<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしく書いているが、この文の出所というものが全然不明で調べるによしが無い。と云ってこの外に記録は無いから、<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>ともいえぬが、本当とも云えぬ。後段の、

「江戸なる<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>、江戸なる哉、天明三年吉原松葉屋今の瀬川を千五百両にて身請せし大尽あり、諸侯の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>かと聞くに<ruby><rb>不然</rb><rt>しからず</rt></ruby>、尋常の町家なりとぞ」

位は信じられるが、とにかく譃八百の瓦版が出たり、役所の報告に出鱈目を云ってきたりした時分だから、

「年々色をかえ品をかえたる流言の<ruby><rb>妄説</rb><rt>うそばなし</rt></ruby>、<ruby><rb>懲</rb><rt>こり</rt></ruby>も無く毎年<ruby><rb>化</rb><rt>ばか</rt></ruby>されて、一盃ずつうまうまと喰わさるる衆中」

という風で、譃吐きが念を入れて<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>って居たから「瀬川の仇討」など、当時の手紙一本位を証拠に信じる事は出来ない。

従って、瀬川が仇討をしてから、再法庵へ移ったのも嘘であるし、和歌も勿論、後世の人の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>となってしまう。然し、悪戯にしても、中々味のある歌で、男を水、己れを月として、夜ごと夜ごとに枕を代えているが、悟ると月も水も汚れない――というよりも、私のつくり<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>え、男は汚れても女は汚れぬと、男はこう悟るが、中々女の諦めきれぬのをよく<ruby><rb>諦悟</rb><rt>ていご</rt></ruby>させた歌である。

二

そこで、譃としておいても、この話は有名なもので、<ruby><rb>秋篠</rb><rt>あきしの</rt></ruby>の助太刀と共に遊女武勇伝として双璧とすべきものである。譃を譃としておいて書いて行っても興味――極めてお芝居的な興味の多い物語である。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も譃を吐くのに余り面白くないものはいけない。それにこの話は可成り狂言作者が手を加えているらしいから、従ってお芝居的な技巧が多すぎもする。興味が或は薄いかも知れぬ。興味の有無は読者にもよる。私はとにかく、書いてみる位の興味はもっている位にしておいて――。

「歌浦さん、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>」

と、<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>が呼んだから、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>が膝に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れていた客が、いやいや柱へ凭れ直した。歌浦が立って行くと、

「<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>けるから」

と、瀬川が笑っている。

「まあ」

瀬川が襖を開けると、客は真赤な顔をしながら、浄瑠璃を語っていた。床柱へ凭れて赤い顔をしながら語っている浄瑠璃に余り上手なものは無い。瀬川は<ruby><rb>打懸</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を引きながら入ってきたが、その客の前へきて、すらりと脱捨てると、右手に閃く<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>。

「敵」

と云って肩日へぐさと突きさすと力を込めて斬下げた。

「あっ」

と、締められたような声を出して、客が床の間へ倒れたとき、

「父の敵、源八」

と叫びつつ又振上げた匕首の手を一人の他の客が握って、

「何をする、危い」

「離して、離して」

もう一人と三人の客の残った一人が、大丈夫とみて<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から抱かかえ、

「誰か来いよう」

と叫んだ。<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>と歌浦とが内所へ馳込んだので、五六人も登ってくると、髪を乱して瀬川は身もだえしている。客の一人が、肩を押えながら、倒れて唸っている。

「瀬川」

「親方、離してこの人を、御父さんの敵を討ちます」

「敵討か――敵討なら瀬川、証拠を御役人に見せて」

「いいえ、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は殺されても」

「これ――」

と、親方、目で源八の方を差すと、

「済みません、<ruby><rb>御内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんも勘弁して、もう大丈夫、離して下さい。さ刀も」

と坐ってしまった。役人はすぐきた。そして南町奉行中山出雲守の手から、<ruby><rb>曲淵治左衛門</rb><rt>まがりぶちじざえもん</rt></ruby>と広瀬佐之助の二人が群がる人々を分けながら両三人の<ruby><rb>目明</rb><rt>めあかし</rt></ruby>を連れて入ってきた。

三

享保七年四月二日の事である。客が三人、松葉屋へ<ruby><rb>登</rb><rt>あが</rt></ruby>った。前々からの馴染とみえて、

「これは、御珍らしい」

と<ruby><rb>御主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>が云った。

「又、四五日御邪魔するで」

と、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の人らしいが二三日<ruby><rb>流連</rb><rt>いつづけ</rt></ruby>をしていて、

「もう<ruby><rb>流連</rb><rt>いつづけ</rt></ruby>も飽いたな」

大抵、<ruby><rb>流連</rb><rt>いつづけ</rt></ruby>というものは二三日もすると飽き飽きする。いくら惚れた<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>とでも、妓と茶屋とは又別である。

「どや、江の島から鎌倉へでも廻ろうか」

「ええな」

亭主を呼んで、

「金をあずけとくわ、たんとも無いけど」

と、出した胴巻、中々重そうである。一目にみても、小千両あると判るやろ、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>持っていても此位と、<ruby><rb>流連客</rb><rt>いつづけきゃく</rt></ruby>ふんぞり返っている。

「道中が恐いよってな」

「何云うてんね、太夫の方が恐いで、<ruby><rb>胡摩</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>なら金だけや、太夫は尻の毛まで抜きよる、な、歌浦」

「知りんせん、御口の悪い」

「そこで二三十両ここに持ってるが、もし足らなんだら途中からでも使を出すよって渡してんか」

「かしこまりました。では――何分大切な御金の事で御座いますから、飛脚の参りました節に何か証拠が御座いませんと」

「そやそや、印鑑で割符をしとこか」

「ではこの紙へ」

と、亭主の懐中している紙入から抜出す紙一折。

「はい、確かに」

「一つやりんか」

「有難う存じます――御返盃、長居は不粋と申しまして手前はこれで」

「長居は不粋か、皮肉やな」

「とんでも無い。この<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>が」

とぴしゃりと亭主自分の頭を叩いて引きさがってしまう。

内所へきて、胴巻に封印をし、印鑑の紙をみていると、

「親方、瀬川ざます」

と、襖の外で声がしたから、

「さあ、御入り」

女房が、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をはたいて、

「御苦労だね、一つ御頼みしようか。これ、鏡台をもっておいで」

と、昔の女郎、女房の髪まで結ってやったが、今は芸者は半襟をかけても、皺をよせる。

「主人やろな、番頭にしては外の人と話振りもちがうし。中々上方者にしてはよく遊んでいる」

と、亭主、印を見ながら女房に云っていると、髪を<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>きながら眺めていた瀬川が、

「まあ、珍らしい印形、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>のとよく似ていますが」

「ふん、わしもそう思ってるが、こりゃ町家のと違うらしいな」

「親方<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>拝見してもよざますか」

手にとって見ると、夫<ruby><rb>久之進</rb><rt>きゅうのしん</rt></ruby>の所持していた物と寸分の違いも無い。はやる胸を押隠して、

「一寸拝借させて頂きましても……」

「いいとも」

髪を結上げて、部屋へ戻り、印形を較べてみると全く同である。<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>を呼んで、その客の脇差を取寄せると、間違いも無い<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え、<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の竹に虎、<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>の同じ模様、<ruby><rb>蝋塗</rb><rt>ろうぬり</rt></ruby>の鞘、糸の色に至るまで、朝夕自分が持たせて出した夫の腰の物である。

さらさらと書流す一通の手紙、金七という己が宿元へ。

「敵が判ったから今討取るつもり」

後の事色々と頼んで使を出してから身拵え。用意の短刀を懐に、歌浦を呼んで立たせてから斬りつけたのである。

四

奈良へ行くと猿沢の池の次が、十三<ruby><rb>鐘</rb><rt>しょう</rt></ruby>、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>「<ruby><rb>石子詰</rb><rt>いしこづめ</rt></ruby>」の有ったと云われている所であるが、一時間名所を廻って一円の車屋や、名所一廻り三十銭の案内人が、

「鹿を殺した罪で憐れや十三の子供が一丈二尺の穴へ埋められ、生ながらの石子詰」

と、出鱈目の説明をする。

瀬川の父、大森右膳が奈良の産。京都で<ruby><rb>富小路家</rb><rt>とみのこうじけ</rt></ruby>に<ruby><rb>侍奉公</rb><rt>さむらいぼうこう</rt></ruby>していたが、<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>あって故郷に帰り、大森通仙と名を更えて、怪しげな医師になっていた。

この「故あって」、実は富小路家の女中と不義を働き、手をとって戻ってきたのであるが、多分いい女であったにちがいない。瀬川こと本名たかは、この二人の間へ生れた子であった。

「不義は御家の<ruby><rb>御法度</rb><rt>ごはっと</rt></ruby>」で、危いと首にかかわるし、第一若い男と奥女中との間、余程取締りの厳重であるべき筈だのに、出来たのだから通仙もいい男にちがいない。従って、たかは父に似たか母に似たかは知れぬがいい女である。

「二人のいい所だけを取るともっといい女だったのに」

と、通仙、藪医だからメンデリズムの法則なんか知らなかったのだろう。子供という者は母に似るか父に似るか、祖父母に似るかで、母のいい所と父のいい所だけをとったり、二人の悪い所だけに似たりして生れるもので無い。母親が小ぢんまりとした<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の美人で、父親が眉の太い、大きい鼻だと、きまって親爺に似て出来てくるものである。

たかが十二三の時分から、そろそろ近所で噂が高くなった。

「医者坊主の娘にしておくのは<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないな。鹿の角細工店でも出して看板娘にすると、よう儲かるで」

と、諸国遊覧客の懐を相手に暮している奈良町人碌な事を云わない。

奈良町奉行の与力、玉井与一右衛門の若党の源八というのが、このたかに惚込んだ。通仙の下男に頼んでは艶書を送る。下男の方では、

「旦那又参りました」

と、庭にでも落ちていたような顔をして、忠実そうに通仙に手渡す。

「うるさい奴じや」

と気にもとめない。源八その内にそれと知って、一日酒の勢をかりて、通仙に申込むと頭ごなしに叱られてしまった。

「畜生め、御嬢さんに聞いてみろ。二つ返事で、あの源八ならと来るのだ、覚えてやがれ坊主め」

と、怨んでいたが思出すのは例の石子詰である。<ruby><rb>神鹿</rb><rt>しんろく</rt></ruby>を殺す者は、人殺しよりも重い罪になるというのが、とにかく掟らしく<ruby><rb>云触</rb><rt>いいふら</rt></ruby>されていたから、源八夜中に一頭ぽかりとやっておいて、死骸を通仙の門口へ置いておいた。

私はこの話を誰かの作り事であると云っておいたが、この鹿殺しなどもよく出てくる手である。

「やあ鹿が死んでいる」

落語で云うと、門口へ鹿でも死んでいると大変だというので、奈良では競って早起きしたと云うが、冬寒くって夏暑い所、夜中までも起きている必要のない所だから早起きをしたのだろう。

「鹿め通仙さんに見て貰いにきて、叩いても起きないうちに死んだのやろ」

「阿呆抜かせ」

「それでも<ruby><rb>春日</rb><rt>かすが</rt></ruby>さんの使姫の神鹿や、その位のことは判るで」

「神鹿の<ruby><rb>死損</rb><rt>しにそこね</rt></ruby>てこの事や」

「洒落か、そら」

「しんどの仕損いって、どや上手やろ」

役人が来て調べたが勿論下手人は判らない。下手人が判らないと、門口にあったという理由で通仙は処払いに処せられる。これも判らない処分であるが、こうしないと松葉屋瀬川の話はおもしろくならない。

この時代より以前、板倉伊賀守が奉行をして居た頃、ひどくこの鹿に<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>ての処分法が苛酷であったから、寺社奉行と相談の上改めた事よりも、講談俗書では矢張り、厳刑のままの方が名高い。

通仙仕方がないから又京都へ行く。ここも面白くないから大阪へ出て山脇通仙と改めていたが、何の因果か奈良程繁昌しない。繁昌はしないが、元が武家で今が医者だから相当の交際はできる。その上に、これを事実らしくする為に持出してきた友人が、<ruby><rb>鯛屋</rb><rt>たいや</rt></ruby><ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>、号を貞柳という狂歌の名人である。上本町五丁目の寺に墓があるが、この人を引張り出してきて通仙の友人にしてしまった。通仙もいい友人が出来たから、貧乏の棒が次第に太くなり、というような狂歌を作っている内に病気になって死んでしまったが。とにかく、仇討物語もいろいろとある中に、この位経歴のよく知れた人は無い。

当時の大阪城代内藤豊前守の家中百五十石勘定方小野田久之進へ、この貞柳が、たかを嫁入らせた。母親は年増だがいい女、娘は後の松葉屋瀬川、久之進も悪い気持でない。

五

享保三年、内藤豊前守御役御免になって、領地越後の国村上へ帰る事になった。久之進も勿論同道、一旦深川の上屋敷へ戻ったが、後片附の為、同十月藩金四百五十両を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて大阪へ上る事になった。

東海道で、悪馬子の出るのは箱根、盗賊の出るのは<ruby><rb>薩陀峠</rb><rt>さつたとうげ</rt></ruby>ときめてある。この御きまりの薩陀峠へ、小野田久之進不覚にも一人で差しかかった。大抵旅人は五六人、七八人も一緒になって由井を出て薩陀へかかるのであるが、大事な役目を控えながら、ただ一人、白昼にしても夕方にしても山中深い所へきたから、

「旅人まて」

と人相の悪いのが三四人出てきた。人相の悪い盗賊なんてものは大抵下っ端である。<ruby><rb>頭分</rb><rt>かしらぶん</rt></ruby>になると皆人相がいい。何んとかという殺人鬼など、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も深切な銀行員、小間物屋の如くであったと云うし、今でも大きい泥棒は大抵堂々と上流に住んでいる。

「何を小癪な」

と、ちゃんちゃんとやったが、久之進殺されてしまった。勿論藩の金もとられるし、大小も奪われた。前段の如く、この大小から手がかりになっているが、昔の盗人にしても可成り間抜けた奴である。一本しかない刀でもあるまいし奪った刀を、日本中で尤も役人の目の光っている吉原へ<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>にして行くなど、盗人心得を知らない事も<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい。

たか親子、久之進が不意の死の為追放に処せられた。殿様が、たかを一目見たならこんな事にもならなかったであろうが仕方も無い。

「どうして二人はこう不幸だろう」

と嘆いていると、出入の商人の若松屋金七というのが、

「何御二人位」

と、見ていても一貫や二貫の値打はあると、美しい女の幸い、すぐ引取ってくれたから、何処かへ後妻にでもと思っていると、金七の住んでいた富沢町に火事があって、金七の家も類焼してしまった。女郎になるのもこの位手数をかけぬとなれないから、昔は律義であった。

今度は金七夫婦とたかの母子と四人で今戸の竹本君太夫という義太夫語りの家へ世話になる事になったが、これは金七の弟である。今でも君太夫などと云う名は、義太夫よりも安女郎にありそうな名であるが、この君太夫も貪乏である。そして根が芸人である。

「太夫になると素敵ですぜ、ねえおたかさん。おい<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>、どう思う」

「そう<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も思っていたよ。惜しいもんだよ、こんな長屋に捨てておくのは」

「どうです、御母さん。私の口でなら松葉屋って、吉原で一二の大店へ話が<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まるが」

と、金七が居ないと云うし、母子にしてもここまで来ると、それより外に途がない。一夜泣きながら話をきめて、

「それでは一つ御頼み申します」

「しめた」

「ええ」

「いえ、こっちの事」

と云って一走り松葉屋へ。

「宵の中から君さん」

「今日は流しじゃ<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えんで、これ居ますかい」

「居るよ、無心かい」

「へん、時々はこっちから儲けさして差上げる事もあるんだ。まあーっ、高尾か玉菊か、<ruby><rb>照手</rb><rt>てるて</rt></ruby>の姫か弁天か」

「トテシャン」

「洒落ちゃいけねえ、大した代物で、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に居るんだ」

「ぷっ、手前の女房じゃ、金をつけても嫌だよ」

主人が逢って、とにかく玉を見よう。連れてくると、

「成程義太夫の御師匠の見つけた玉だけあってトテシャンだ」

と、二百五十年を経て、洒落になるのだから、作り話でもこういう風にしておかぬといけない。

十年で百二十両。今の値として三千円位のものらしいが今十年で三千円というのは大した<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>でない。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も娼妓なら中々いい代物であるから、松葉屋瀬川も娼妓並としておいていいか。それとも君太夫が五十両も<ruby><rb>刎</rb><rt>はね</rt></ruby>たか。散茶の相場としてこんな物であったかも知れない。

松葉屋で代々瀬川という名になっている。そして丁度この前の瀬川が受出されて名のみ残っている折である。主人と女房とで、礼式、遊芸のたしなみを聞くと、

「一通りは」

と云う。君太夫が<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざん</rt></ruby>「武家出」と云っていたが、怪しいと思って、茶の手前をみると、通仙の娘である。貞柳の友人の子だから上手である。

「三味は」

と、弾かすと、義太夫の<ruby><rb>食客</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>、トテシャンと弾く。

「琴は」

「矢張り、トテシャンと弾きます」

「うむ、洒落まで出来る」

とすっかり気に入って、八畳と六畳の二間を与え、新造一人に<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>をつけて、定紋付きの調度一揃え、

「初店瀬川」

と改良半紙二枚を飯粒でつないで、悪筆を振ったのを、欄間へ張る。――とにかく店を張る事になったが、瀬川の心の中では、

「池の水に夜な夜な月は映れども」

である。諸国諸人の集まり場所、もしや夫の敵の手がかりでもあろうかと、母に与えられた短刀を<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>に秘めている内に、

「<ruby><rb>割符</rb><rt>わりふ</rt></ruby>か、よし押してやろ」

と、ぺたりと御念入りにも盗んだ、人の印形まで、大べらぼうの盗人は押してしまったのである。

六

この盗賊、誰あろう。奈良で鹿を殺して通仙の門口へおいた若党源八であるから、この名高い松葉屋瀬川の仇討も譃であるとしか思えなくなる。事実は小説より奇なりとあるから、本当にしておいてもいいが、第一章の如く、官文書にまで譃をかいた時世である。手紙の<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>しやかな偽造位訳は無い。

取調べると、源八の旧悪<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く露見したから、

「年来の<ruby><rb>大科人</rb><rt>おおとがにん</rt></ruby>の知れたのも、瀬川の手柄である。<ruby><rb>傾城奉公</rb><rt>けいせいぼうこう</rt></ruby>を免じてつかわす」

と沙汰が下るし、まだまだ都合のいい事には、

「源八所持の金子は、内藤家より当時届出がないによって、公儀へ召上げた上改めて瀬川に与える」

と、久之進の殺されたのが享保三年。この決定が享保七年。足掛け五年の間、源八が使いもせずに持っていたと云うのだから、心掛けのいい泥棒もあったものである。

瀬川は、その金で母の養育を金七に頼み、<ruby><rb>幡随院</rb><rt>ばんずいいん</rt></ruby>の弟子となって名を<ruby><rb>自貞</rb><rt>じてい</rt></ruby>と改め、再法庵に住んで例の歌を作ったというのであるが父の大森通仙の方が詳しく判っている。この話はこの後に至って、自貞がどうしたか、何時死んだか、再法庵というのはどの辺にあったか、その外の歌はどういうのか、主人公の事が少しも判らない。

とにかく、文化三年、<ruby><rb>司馬芝叟</rb><rt>しばしそう</rt></ruby>が「新吉原<ruby><rb>瀬川復讐</rb><rt>せがわのあだうち</rt></ruby>」という浄瑠璃をかき、続いて「<ruby><rb>傾城買虎之巻</rb><rt>けいせいかいとらのまき</rt></ruby>」となっていよいよ面白くされ、吉原遊女の仇討として人の好奇心をそそったのである。