僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――<ruby><rb>井伊掃部頭直弼</rb><rt>いいかもんのかみなおすけ</rt></ruby>の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に<ruby><rb>倶不戴天</rb><rt>ぐふたいてん</rt></ruby>の仇敵で、安政の<ruby><rb>大獄</rb><rt>たいごく</rt></ruby>に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の<ruby><rb>恩怨</rb><rt>おんえん</rt></ruby>を消してしまって谷<ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより<ruby><rb>醇乎</rb><rt>じゅんこ</rt></ruby>として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った<ruby><rb>剛骨</rb><rt>ごうこつ</rt></ruby>の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>今日の日本を<ruby><rb>造</rb><rt>つく</rt></ruby>り出さんがために、反対の方向から<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。

諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を六十幾つに<ruby><rb>劃</rb><rt>しき</rt></ruby>って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶんげん</rt></ruby>があり、<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではないか。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>に世界を流るる一の大潮流は、暫く<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>した日本の水門を乗り越え<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けて<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>と<ruby><rb>我</rb><rt>わが</rt></ruby>日本に流れ入って、維新の革命は一挙に六十藩を掃蕩し日本を挙げて統一国家とした。その時の<ruby><rb>快豁</rb><rt>かいかつ</rt></ruby>な気もちは、何ものを<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>てするも比すべきものがなかった。諸君、<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>は苦痛である。しかして最大愉快である。人間が懺悔して<ruby><rb>赤裸々</rb><rt>せきらら</rt></ruby>として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に<ruby><rb>素裸</rb><rt>すっぱだか</rt></ruby>で立つ時、その<ruby><rb>雄大光明</rb><rt>ゆうだいこうみょう</rt></ruby>な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって行く明治初年の日本の意気は実に<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじいもので、五ヶ条の<ruby><rb>誓文</rb><rt>せいもん</rt></ruby>が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えた</span>が平民になる、自由平等革新の空気は<ruby><rb>磅礴</rb><rt>ほうはく</rt></ruby>として、その空気に蒸された。日本はまるで<ruby><rb>筍</rb><rt>たけのこ</rt></ruby>のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸士志士である。いわゆる（二字不明）<ruby><rb>多</rb><rt>おおし</rt></ruby>で、新思想を導いた<ruby><rb>蘭学者</rb><rt>らんがくしゃ</rt></ruby>にせよ、局面打破を事とした<ruby><rb>勤王</rb><rt>きんのう</rt></ruby><ruby><rb>攘夷</rb><rt>じょうい</rt></ruby>の処士にせよ、時の権力からいえば謀叛人であった。彼らが<ruby><rb>千荊万棘</rb><rt>せんけいばんきょく</rt></ruby>を<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふま</rt></ruby>えた艱難辛苦――中々<ruby><rb>一朝一夕</rb><rt>いっちょういっせき</rt></ruby>に説き尽せるものではない。明治の今日に生を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>くる我らは維新の志士の苦心を十分に<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>まねばならぬ。

僕は世田ヶ谷を通る<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>に<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四十何年、維新の<ruby><rb>立者</rb><rt>たてもの</rt></ruby>多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になった。彼らは老いた。日本も成長した。子供でない、大分<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>になった。明治の初年に狂気のごとく<ruby><rb>駈足</rb><rt>かけあし</rt></ruby>で来た日本も、いつの間にか足もとを見て歩くようになり、内観するようになり、回顧もするようになり、内治のきまりも<ruby><rb>一先</rb><rt>ひとま</rt></ruby>ずついて、二度の戦争に領土は広がる、新日本の統一ここに一段落を劃した観がある。維新前後志士の苦心もいささか酬いられたといわなければならぬ。しからば新日本史はここに完結を告げたか。これから守成の歴史に移るのか。局面回復の要はないか。最早志士の必要はないか。飛んでもないことである。五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ一<ruby><rb>簸</rb><rt>あお</rt></ruby>りに<ruby><rb>推流</rb><rt>おしなが</rt></ruby>して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>まず<ruby><rb>息</rb><rt>やす</rt></ruby>まず<ruby><rb>澎湃</rb><rt>ほうはい</rt></ruby>として流れている。それは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を実現せんとする人類の心である。今日の世界はある意味において五六十年前の徳川の日本である。どの国もどの国も陸海軍を拡げ、税関の隔てあり、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を<ruby><rb>推倒</rb><rt>おしたお</rt></ruby>して一にならなければ<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まぬ。一にせん、一にならんともがく。国と国との間もそれである。人種と人種の間もその通りである。階級と階級の間もそれである。性と性の間もそれである。宗教と宗教――数え立つれば際限がない。部分は部分において一になり、全体は全体において一とならんとする大渦小渦<ruby><rb>鳴戸</rb><rt>なると</rt></ruby>のそれも<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>ならぬ波瀾の<ruby><rb>最中</rb><rt>さなか</rt></ruby>に我らは立っているのである。この大回転大<ruby><rb>軋轢</rb><rt>あつれき</rt></ruby>は無際限であろうか。あたかも明治の初年日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱又解脱、狂気のごとく自己を<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>ったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に<ruby><rb>抱擁</rb><rt>ほうよう</rt></ruby><ruby><rb>握手</rb><rt>あくしゅ</rt></ruby><ruby><rb>抃舞</rb><rt>べんぶ</rt></ruby>する<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>は来ぬであろうか。あるいは夢であろう。夢でも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い。人間夢を見ずに生きていられるものでない。――その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ば、長い長い旅の辛苦も償われて<ruby><rb>余</rb><rt>あまり</rt></ruby>あるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつある。我らの<ruby><rb>衷心</rb><rt>ちゅうしん</rt></ruby>が<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>囁くのだ。しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて<ruby><rb>贖</rb><rt>あがな</rt></ruby>わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの<ruby><rb>排水樋</rb><rt>はいすいひ</rt></ruby>を夜<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く間に総崩れに<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ち込んでしまった、ということが書いてある。旧組織が崩れ出したら案外<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>にばたばたいってしまうものだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らは出て来るに違いない。僕はかく思いつつ常に世田ヶ谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年の<ruby><rb>劈頭</rb><rt>へきとう</rt></ruby>において、我々は早くもここに十二名の謀叛人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である。

諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに<ruby><rb>尽</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く真剣に<ruby><rb>大逆</rb><rt>たいぎゃく</rt></ruby>を<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>で、はずみにのせられ、足もとを見る<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく<ruby><rb>陥穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに<ruby><rb>死物狂</rb><rt>しにものぐるい</rt></ruby>になって、天皇陛下と無理心中を<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「<ruby><rb>一無辜</rb><rt>いちむこ</rt></ruby>を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の<ruby><rb>企</rb><rt>くわだて</rt></ruby>があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは<ruby><rb>有為</rb><rt>ゆうい</rt></ruby>の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を<ruby><rb>献</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ<ruby><rb>狂</rb><rt>きょう</rt></ruby>に近いとも、その志は<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>むべきではないか。彼らはもと社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い？　世界のどこにでもある。しかるに狭量神経質の政府は、ひどく気にさえ出して、ことに社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うるとにわかに圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者はとうとう犬猿の間となってしまった。諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。最上の政府は存在を忘れらるる様な政府である。帽子は上にいるつもりであまり頭を押つけてはいけぬ。我らの政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君らの頭にひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしもうた。無政府主義が何が恐い？　それほど無政府主義が恐いなら、事のいまだ大ならぬ内に、下僚ではいけぬ、総理大臣なり内務大臣なり自ら幸徳と会見して、<ruby><rb>膝詰</rb><rt>ひざづめ</rt></ruby>の懇談すればいいではないか。しかし当局者はそのような<ruby><rb>不識庵流</rb><rt>ふしきあんりゅう</rt></ruby>をやるにはあまりに武田式家康式で、かつあまりに高慢である。得意の<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>のように長い手足で、じいとからんで彼らをしめつける。彼らは今や堪えかねて鼠は虎に変じた。彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような<ruby><rb>企</rb><rt>くわだて</rt></ruby>がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でもない、賊子でもない、志士である。皇天その志を憐んで、彼らの企はいまだ熟せざるに失敗した。彼らが企の成功は、素志の<ruby><rb>蹉跌</rb><rt>さてつ</rt></ruby>を意味したであろう。皇天皇室を憐み、また彼らを憐んで、その企を失敗せしめた。企は失敗して、彼らは<ruby><rb>擒</rb><rt>とら</rt></ruby>えられ、さばかれ、十二名は政略のために死一等を<ruby><rb>減</rb><rt>げん</rt></ruby>ぜられ、<ruby><rb>重立</rb><rt>おもだち</rt></ruby>たる余の十二名は天の恩寵によって立派に絞台の露と消えた。十二名――諸君、今一人、土佐で亡くなった多分自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。

かくのごとくして彼らは死んだ。死は彼らの成功である。パラドックスのようであるが、人事の法則、負くるが勝である、死ぬるが生きるのである。彼らはたしかにその自信があった。死の宣告を受けて法廷を出る時、彼らの或者が「万歳！　万歳！」と叫んだのは、その証拠である。彼らはかくして<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を含んで死んだ。悪僧といわるる内山愚童の<ruby><rb>死顔</rb><rt>しにがお</rt></ruby>は平和であった。かくして十二名の無政府主義者は死んだ。数えがたき無政府主義者の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>は<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた。彼らは立派に犠牲の死を遂げた。しかしながら犠牲を造れるものは実に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>なるかな。

諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである。天皇陛下は剛健質実、実に日本男児の標本たる御方である。「とこしへに民安かれと祈るなる<ruby><rb>吾代</rb><rt>わがよ</rt></ruby>を守れ伊勢の<ruby><rb>大神</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>」。その<ruby><rb>誠</rb><rt>まこと</rt></ruby>は天に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>るというべきもの。「取る<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>の心長くも<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ寄せん<ruby><rb>蘆間小舟</rb><rt>あしまのおぶね</rt></ruby>さはりありとも」。国家の元首として、堅実の向上心は、三十一文字に看取される。「浅緑り澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」。実に立派な<ruby><rb>御心</rb><rt>おんこころ</rt></ruby>がけである。諸君、我らはこの天皇陛下を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていながら、たとえ親殺しの非望を企てた<ruby><rb>鬼子</rb><rt>きし</rt></ruby>にもせよ、<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>にその十二名だけ<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>されて、<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>の十二名を殺してしまわなければならなかったか。陛下に仁慈の御心がなかったか。御愛憎があったか。断じて<ruby><rb>然</rb><rt>そう</rt></ruby>ではない――たしかに<ruby><rb>輔弼</rb><rt>ほひつ</rt></ruby>の<ruby><rb>責</rb><rt>せめ</rt></ruby>である。もし陛下の御身近く忠義<ruby><rb>鯁骨</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>の臣があって、陛下の<ruby><rb>赤子</rb><rt>せきし</rt></ruby>に差異はない、なにとぞ二十四名の者ども、罪の浅きも深きも一同に御宥し下されて、反省改悟の機会を御与え下されかしと、身を以て懇願する者があったならば、陛下も<ruby><rb>御頷</rb><rt>おんうなず</rt></ruby>きになって、我らは十二名の革命家の墓を建てずに<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>んだであろう。もしかような時にせめて山岡鉄舟がいたならば――鉄舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時英気にまかせやたらに臣下を投げ飛ばしたり遊ばすのを<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>えて、ある時イヤというほど陛下を投げつけ<ruby><rb>手剛</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い意見を申上げたこともあった。もし木戸松菊がいたらば――明治の初年木戸は陛下の御前、三条、岩倉以下<ruby><rb>卿相</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>列座の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、すでに外国には君王を廃して共和政治を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>きたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと<ruby><rb>凜然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじょう</rt></ruby>し、陛下も<ruby><rb>悚然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>御容</rb><rt>おんかたち</rt></ruby>をあらため、列座の卿相皆色を失ったということである。せめて元田宮中顧問官でも生きていたらばと思う。元田は真に陛下を敬愛し、君を<ruby><rb>堯</rb><rt>ぎょう</rt></ruby><ruby><rb>舜</rb><rt>しゅん</rt></ruby>に致すを<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の精神としていた。せめて伊藤さんでも生きていたら。――<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>、もし皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら、陛下は<ruby><rb>御考</rb><rt>おかんがえ</rt></ruby>があったかも知れぬ。皇后陛下は実に聡明恐れ入った御方である。「浅しとてせけばあふるゝ<ruby><rb>川水</rb><rt>かわみず</rt></ruby>の心や民の心なるらむ」。陛下の御歌は実に為政者の金誡である。「浅しとてせけばあふるゝ」せけばあふるる、実にその通りである。もし当局者が<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>かなかったならば、数年前の日比谷焼打事件はなかったであろう。もし政府が神経質で<ruby><rb>依怙地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>になって社会主義者を堰かなかったならば、今度の事件も無かったであろう。しかしながら不幸にして皇后陛下は沼津に御出になり、物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらり頭を<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき<ruby><rb>千載一遇</rb><rt>せんざいいちぐう</rt></ruby>の大切なる機会を見す見す看過し、国家百年の大計からいえば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種を播いてしもうた。<ruby><rb>忠義立</rb><rt>ちゅうぎだて</rt></ruby>として謀叛人十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された十二名はかえって死を以て我皇室に前途を警告し奉った真忠臣となってしもうた。忠君忠義――忠義顔する者は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、<ruby><rb>進退伺</rb><rt>しんたいうかがい</rt></ruby>を出して<ruby><rb>恐懼</rb><rt>きょうく</rt></ruby><ruby><rb>恐懼</rb><rt>きょうく</rt></ruby>と米つきばったの真似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想をふりまく悧口者はあるが、どこに陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ玉うように<ruby><rb>希</rb><rt>こいねが</rt></ruby>う真の忠臣があるか。どこに不忠の嫌疑を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>しても陛下を<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>め奉り陛下をして敵を愛し不孝の者を<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し玉う仁君となし奉らねば<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まぬ忠臣があるか。諸君、忠臣は孝子の門に出ずで、忠孝もと一途である。孔子は孝について何といったか。<ruby><rb>色難</rb><rt>いろかたし</rt></ruby>。<ruby><rb>有事弟子服其労</rb><rt>ことあればていしそのろうにふくし</rt></ruby>、<ruby><rb>有酒食先生饌</rb><rt>しゅしあればせんせいにせんす</rt></ruby>、<ruby><rb>曾以是為孝乎</rb><rt>すなわちこれをもってこうとなさんや</rt></ruby>。行儀の好いのが孝ではない。また<ruby><rb>曰</rb><rt>い</rt></ruby>うた、<ruby><rb>今之孝者是謂能養</rb><rt>いまのこうはこれよくやしのうをいう</rt></ruby>、<ruby><rb>至犬馬皆能有養</rb><rt>けんばにいたるまでみなよくやしのうあり</rt></ruby>、<ruby><rb>不敬何以別乎</rb><rt>けいせざればなにをもってかわかたん</rt></ruby>。体ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事のごときこそ真忠臣が<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本にも無政府党が出て来た。恐ろしい企をした、西洋では皆打殺す、日本では<ruby><rb>寛仁大度</rb><rt>かんじんたいど</rt></ruby>の皇帝陛下がことごとく罪を<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>して反省の機会を与えられた――といえば、いささか面目が立つではないか。皇室を民の心腹に打込むのも、かような機会はまたと得られぬ。しかるに彼ら閣臣の<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>は<ruby><rb>事前</rb><rt>じぜん</rt></ruby>にその企を<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>すに<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>なからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と<ruby><rb>引括</rb><rt>ひっくく</rt></ruby>って、<ruby><rb>二進</rb><rt>にっちん</rt></ruby>の<ruby><rb>一十</rb><rt>いんじゅう</rt></ruby>、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――もし二十五人であったら十二人半<ruby><rb>宛</rb><rt>ずつ</rt></ruby>にしたかも知れぬ、――二等分して、格別物にもなりそうもない足の方だけ死一等を減じて牢屋に追込み、<ruby><rb>手硬</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い頭だけ絞殺して地下に追いやり、あっぱれ恩威<ruby><rb>並</rb><rt>ならび</rt></ruby>行われて候と陛下を<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>に五千万の見物に向って気どった<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>は、何という醜態であるか。<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>に政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをして一人として聖明のために<ruby><rb>弊事</rb><rt>へいじ</rt></ruby>を除かんとする者もない。出家僧侶、宗教家などには、一人位は逆徒の<ruby><rb>命乞</rb><rt>いのちごい</rt></ruby>する者があって宜いではないか。しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、<ruby><rb>大狼狽</rb><rt>だいろうばい</rt></ruby>で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我々五千万人<ruby><rb>斉</rb><rt>ひと</rt></ruby>しくその<ruby><rb>責</rb><rt>せめ</rt></ruby>を負わねばならぬ。しかしもっとも責むべきは当局者である。総じて幸徳らに対する政府の<ruby><rb>遣口</rb><rt>やりくち</rt></ruby>は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、<ruby><rb>引</rb><rt>ひっ</rt></ruby>かかるが最期網をしめる、<ruby><rb>陥穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも<ruby><rb>暗中</rb><rt>あんちゅう</rt></ruby>にやってのけて――諸君、議会における花井弁護士の言を記臆せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人もただの一度も傍聴に来なかったのである――死の判決で国民を<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打の死刑――<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>、死刑ではない、暗殺――暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位は持っても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いではないか。それにあの執念な追窮しざまはどうだ。死骸の引取り、会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死体の解剖すら大学ではさせぬ。できることならさぞ十二人の霊魂も殺してしまいたかったであろう。<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>、幸徳らの躰を殺して無政府主義を殺し得たつもりでいる。彼ら当局者は無神無霊魂の信者で、無神無霊魂を<ruby><rb>標榜</rb><rt>ひょうぼう</rt></ruby>した幸徳らこそ真の<ruby><rb>永生</rb><rt>えいせい</rt></ruby>の信者である。しかし当局者も<ruby><rb>全</rb><rt>まった</rt></ruby>く無霊魂を信じきれぬと見える、彼らも幽霊が恐いと見える、死後の干渉を見ればわかる。恐いはずである。幸徳らは死ぬるどころか活溌溌地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていたかくいう僕を曳きずって来て、ここに永生不滅の証拠を見せている。死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。死減一等の連中を地方監獄に送る途中警護の<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>さ、始終短銃を囚徒の頭に差つけるなぞ、――その恐がりようもあまりひどいではないか。幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てして、数うるほどもない、しかも手も足も出ぬ者どもに対する<ruby><rb>怖</rb><rt>おび</rt></ruby>えようもはなはだしいではないか。人間弱味がなければ<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に恐がるものでない。幸徳ら<ruby><rb>瞑</rb><rt>めい</rt></ruby>すべし。政府が君らを締め殺したその前後の<ruby><rb>遽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てざまに、政府の、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>、君らがいわゆる権力階級の<ruby><rb>鼎</rb><rt>かなえ</rt></ruby>の軽重は分明に暴露されてしもうた。

こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。諸君、我らは決して不公平ではならぬ。当局者の苦心はもとより察せねばならぬ。地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。廟堂の諸君も昔は若かった、書生であった、今は老成人である。残念ながら<ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>ふるい。<ruby><rb>切棄</rb><rt>きりす</rt></ruby>てても思想は<ruby><rb>皦々</rb><rt>きょうきょう</rt></ruby>たり。白日の下に駒を<ruby><rb>駛</rb><rt>は</rt></ruby>せて、政治は馬上提灯の<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないあかりにほくほく<ruby><rb>瘠馬</rb><rt>やせうま</rt></ruby>を歩ませて行くというのが古来の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。いわゆる責任ある地位に立って、慎重なる態度を以て国政を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>る方々である。当路に立てば<ruby><rb>処士横議</rb><rt>しょしおうぎ</rt></ruby>はたしかに厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなるはず。統一統一と目ざす鼻先に、謀叛の禁物は知れたことである。老人の<ruby><rb>￼</rb><rt>むね</rt></ruby>には、花火線香も爆烈弾の<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。<ruby><rb>斉一統一</rb><rt>せいいつとういつ</rt></ruby>は美観である。小学校の運動会に小さな手足の<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>うすら心地好いものである。「一方に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに<ruby><rb>余所目</rb><rt>よそめ</rt></ruby>立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記臆せなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すはすなわち生命を殺すのである。今度の事件でも彼らは始終皇室のため国家のためと思ったであろう。しかしながらその結果は皇室に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>し、無政府主義者を殺し得ずしてかえって<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい騒擾の種子を蒔いた。諸君は謀叛人を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>るるの度量と、青書生に聴くの謙遜がなければならぬ。彼らの中には維新志士の腰について、多少先輩当年の苦心を知っている人もあるはず。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府に<ruby><rb>窘</rb><rt>いじ</rt></ruby>められた経験がある閣臣もいるはず。窘められた嫁が<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>になってまた嫁を窘める。古今同嘆である。当局者は初心を点検して、書生にならねばならぬ。彼らは幸徳らの事に関しては自信によって涯分を尽したと弁疏するかも知れぬ。<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやったつもりでいるかも知れぬ。しかしながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治<ruby><rb>昇平</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>の四十四年に十二名という陛下の赤子、しかのみならず<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すところあるべき者どもを窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じてこれが責任を負わねばならぬ。麻を着、灰を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って不明を陛下に謝し、国民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。死ぬるが生きるのである、殺さるるとも殺してはならぬ、犠牲となるが奉仕の道である。――人格を重んぜねばならぬ。負わさるる名は何でもいい。事業の成績は必ずしも問うところでない。最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に負わし奉るごときは、不忠不臣のはなはだしいものである。

諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えらえたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぎ棄てねばならぬ時がある、それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついてはならぬ。「もし<ruby><rb>爾</rb><rt>なんじ</rt></ruby>の右眼爾を<ruby><rb>礙</rb><rt>つまず</rt></ruby>かさば<ruby><rb>抽出</rb><rt>ぬきだ</rt></ruby>してこれをすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して<ruby><rb>曰</rb><rt>い</rt></ruby>う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。

諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>くことを怠ってはならぬ。