## 一

<ruby><rb>庸三</rb><rt>ようぞう</rt></ruby>はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしにサンタクロオスの仮面を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せられて当惑しながら、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸おうとして<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>から<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を少し出して、ふとマッチを<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>ると、その火が<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>き出そうとする、心の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>のなかの<ruby><rb>埃塗</rb><rt>ほこりまぶ</rt></ruby>れの甘い夢や苦い<ruby><rb>汁</rb><rt>しる</rt></ruby>の<ruby><rb>古滓</rb><rt>ふるかす</rt></ruby>について、人知れずそのころの<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>くさい道化姿を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、<ruby><rb>扮飾</rb><rt>ふんしょく</rt></ruby>され<ruby><rb>歪曲</rb><rt>わいきょく</rt></ruby>された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>しの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>っこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、一回だけトロットを踊ってみた時、「<ruby><rb>怡</rb><rt>たの</rt></ruby>しくない？」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わっている彼女を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましく思った。彼は<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えきってしまった<ruby><rb>古創</rb><rt>ふるきず</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>に触わられるような、心持ち<ruby><rb>痛痒</rb><rt>いたがゆ</rt></ruby>いような感じで、すっかり<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>かった。

今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。

その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わせるために、時々遊びに来ていた彼女――<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>葉子を誘った。

庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>な姿に何か圧倒的なものを<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>をして、<ruby><rb>古</rb><rt>いにし</rt></ruby>えの絵にあるような美しい<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>の持主であったし、連れて来た女の子も、お<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な<ruby><rb>悒鬱</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぶし</span>の花の盛りで、<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な書斎の縁先きが匂いやかな白い花の<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>から照りかえす陽光に、春らしい明るさを<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>せていた。

庸三は部屋の真中にある黒い卓の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>で、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間に<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>っているのを感じた。

「大変な情熱ですね。」

彼は感じたままを<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、後で読んでみることを約束した。

「大したブルジョウアだな。」

彼はそのころまだ生きていて、来客にお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>のよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>していようなどとは夢にも思いつかなかった。

翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>で子供と一緒に、原稿の運命を<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>っていた妻の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って行った葉子の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>は、彼女の自尊心を傷つけるのを<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。

「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一と<ruby><rb>錬</rb><rt>ね</rt></ruby>り錬らなくちゃあ。」

葉子は無論失望はしなかった。そしてその翌日独りで再び庸三の書斎に現われた。

「あれは大急ぎで書きあげましたの。字も書生が二三人で分担して清書したのでございますのよ。いずれ書き直すつもりでおりますのよ。――あれが出ませんと土地の人たちに<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>がございませんの。もう立つ前に花々しく新聞に書きたててくれたくらいなものですから。」

夫人は片手を畳について、少し顔を<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせていた。

庸三夫婦は気もつかずにいたが、彼女はその時妊娠八カ月だった。そして一度<ruby><rb>小樽市</rb><rt>おたるし</rt></ruby>へ引き返して、身軽になってから出直して来るように言っていたが、庸三も仕方なく原稿はそれまで預かることにしたのであった。

その原稿が彼女たちの運命にとって、いかに重大な役目を持ったものであるかが、その秋破産した良人や子供たちとともに上京して、<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもつことになった葉子の話で、だんだん<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>になったわけだったが、そっちこっちの人の手を<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、とにかくそれがある程度の訂正を経て、世のなかへ送り出されることになったのは、それからよほど後のことであった。ある時は庸三と、庸三がつれて行って紹介した流行作家のＣ氏と二人で、映画会社のスタジオを訪問したり、ある時はまた震災後の山の手で、芸術家のクラブのようになっていた、そのころの<ruby><rb>尖端的</rb><rt>せんたんてき</rt></ruby>な唯一のカフエへ紹介されて、集まって来る文学者や画家のあいだに、客分格の女給見習いとして、夜ごと姿を現わしたりしていたものだったが、彼女はとっくに裸になってしまって、いつも妹の派手なお召の<ruby><rb>一張羅</rb><rt>いっちょうら</rt></ruby>で押し通していた。ぐたぐたした派手なそのお召姿が、時々彼の書斎に現われた。彼女夫婦の没落の過程、最近死んだ父の<ruby><rb>愛娘</rb><rt>まなむすめ</rt></ruby>であった彼女の花々しかった結婚式、かつての恋なかであり、その時の媒介者であった彼女の<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の代議士と母と新郎の松川と一緒に、初めて落ち着いた松川の家庭が、思いのほか見すぼらしいもので、押入を開けると、そこには隣家の<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>が差していたこと、行くとすぐ、そっくり東京のデパアトで<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えた<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>が、葉子も納得のうえで質屋へ<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>ばれてしまったこと、やっと一つ整理がついたと思うと、後からまた別口の負債が出て来たりして、二日がかりで町を騒がせたその結婚が、初めから不幸だったことなどが、来るたびに彼女の口から話された。<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>で才気もある葉子が、どうして小樽くんだりまで行って、そんな家庭に納まらなければならなかったか。もちろん彼女が郷里で評判のよかった帝大出の秀才松川の、町へ来た時の演説と風貌に魅惑を感じたということもあったであろうが、父が望んでいたような縁につけなかったのは、多分女学生時代の彼女のロオマンスが<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りを成していたものであろうことは、ずっと後になってから、<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>の庸三にもやっと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けた。

「私たちを送って来た従兄は、一週間も小樽に遊んでいましたの。<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になって毎日芸者を呼んで酒浸しになっていましたの。」

彼女は涙をこぼした。

「このごろの私には、いっそ芸者にでもなった方がいいと思われてなりませんの。」

戦争景気の潮がやや<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった。

<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の子供に取りまかれながら、じみな家庭生活に閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっていた庸三は、自分の畑ではどうにもならないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていたし、こうした派手々々しい、若い女性のたびたびの訪問に、二人きりの話の持ちきれないことや、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>一重の茶の間にいる妻の<ruby><rb>加世子</rb><rt>かよこ</rt></ruby>にもきまりの悪いような気がするので、少し金まわりの好い文壇の花形を訪問してみてはどうかと、葉子に勧めたこともあった。葉子もそれを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだ。そしてだんだん渡りをつけて行ったが、それかと言って、何のこだわりもなく社交界を泳ぎまわるというほどでもなかった。

「……それにこれと思うような人は、みんな奥さん持ちですわ。」

そこで彼女は異性を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>ぶのに、便利な立場にある花柳界の女たちを<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましく思ったわけだったが、彼によって紹介された山の手のカフエへ現われるようになってから、彼女の気分もいくらか晴々して来た。

持越しの長篇が、松川の同窓であった、ある大新聞の経済記者などの手によって、文章を修正され、一二の出版<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>へまわされた果てに、庸三のところへ出入りしている、若い劇作家であり、出版屋であった<ruby><rb>一色</rb><rt>いっしき</rt></ruby>によって本になったのも、ちょうどそのころであった。ある晩偶然に一色と葉子が彼の書斎で、初めて顔を合わした。一色はにわかに妻を失って途方にくれている庸三のところへ、葬儀の費用として、大枚の札束を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろにして来て、「どうぞこれをおつかいなすって」と事もなげな調子で、そっと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で手渡しするようなふうの男だったので、たちどころに数十万円の資産を亡くしてしまったくらいなので、庸三がどうかと思いながら葉子の原稿の話をすると、言い出した彼が危ぶんでいるにもかかわらず、二つ返辞で即座に引き受けたものだった。

「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」

ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒に<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を告げた。

「あの二人はどうかなりそうだね。」

「かも知れませんね。」

後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>や子供と別れ田端の家を引き払って、<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>で<ruby><rb>素人家</rb><rt>しろうとや</rt></ruby>の二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>していた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気に<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いでいる芸術家仲間の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>も、<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てがたいものであった。

庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>もあまり<ruby><rb>香</rb><rt>かん</rt></ruby>ばしいものではなかった。

加世子の<ruby><rb>訃音</rb><rt>ふいん</rt></ruby>を受け取った葉子が、半年の余も閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。

加世子はその一月の二日に<ruby><rb>脳溢血</rb><rt>のういっけつ</rt></ruby>で<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうに<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性の<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れの的であった、画家の<ruby><rb>山路草葉</rb><rt>やまじそうよう</rt></ruby>のもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けることだったに違いなかった。

葉子は江戸ッ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby><ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>の一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の<ruby><rb>装釘</rb><rt>そうてい</rt></ruby>を頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼を<ruby><rb>怡</rb><rt>たの</rt></ruby>しませるに違いないという、自身の<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>への幻影が常に彼女の浮気心を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>りたてた。

ある夜も葉子は、山路と一緒に大川<ruby><rb>畔</rb><rt>ばた</rt></ruby>のある意気造りの家の二階の静かな小間で、<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>の音を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きながら、芸術や恋愛の話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないように<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で体を岸の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>に結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>くなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいた<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>で話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は<ruby><rb>鳥海山</rb><rt>ちょうかいさん</rt></ruby>の<ruby><rb>谿間</rb><rt>たにま</rt></ruby>に生えた一もとの<ruby><rb>白百合</rb><rt>しらゆり</rt></ruby>が、どうかしたはずみに、材木か何かのなかに紛れこんで、都会へ持って来られたように、自然の<ruby><rb>生息</rb><rt>いぶき</rt></ruby>そのままの姿態でそれがひとしお都会では<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>に見えるのだったが、それだけまた葉子は都会離れしているのだった。

山路と二人でそうしている時に、表の方でにわかに自動車の爆音がひびいたと思うと、ややあって誰か上がって来る<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>がして妹の声が廊下から彼女を呼んだ。――葉子はそっと部屋を出た。妹は<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になっていた。一色が来て、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい剣幕で、葉子のことを怒っているというのだった。

葉子は困惑した。

「そうお。じゃあ私が行って話をつける。」

「うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。」

そんな破滅になっても、葉子は一色と別れきりになろうと思っていなかった。たとい山路の家庭へ入るにしても、一色のようなパトロン格の愛人を、見失ってはいけないのであった。

葉子が妹と一緒に宿へ帰って来るのを見ると、部屋の入口で一色がいきなり飛びついて来た。――しばらく二人は離れなかった。やがて二人は差向いになった。一色は色がかわっていた。女から女へと移って行く山路の過去と現在を非難して、涙を流して熱心に彼女を阻止しようとした。葉子も黙ってはいなかった。優しい言葉で<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>め慰めると同時に、妻のある一色への不満を訴えた。しゃべりだすと油紙に火がついたように、べらべらと止め度もなく<ruby><rb>田舎訛</rb><rt>いなかなまり</rt></ruby>の能弁が薄い<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとば</rt></ruby>しるのだった。<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いに彼女は哀願した。

「ねえ、わかってくれるでしょう。私<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>を愛しているのよ。私いつでも貴方のものなのよ。でも田舎の人の口というものは、それは<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いものなのよ。私のことはいいにつけ悪いにつけすぐ問題になるのよ。母や兄をよくするためにも、山路さんと結婚しておく必要があるのよ。ほんとに私を愛してくれているのなら、そのくらいのこと許してよ。」

一色は顔負けしてしまった。

ちょうどそのころ、久しぶりで庸三の書斎へ彼女が現れた。彼女は小ざっぱりした<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着て、髪も無造作な引詰めの洋髪であった。

「先生、私、山路と結婚しようと思いますのよ。いけません？」

葉子はいつにない引き締まった表情で、彼の顔色を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

「山路君とね。」

庸三は少し難色を浮かべた。淡い<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>に似た感情の現われだったことは否めなかった。

「あまり感心しない相手だけれど……。」

「そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。」

「じゃあいいじゃないか。」

「山路が先生にお<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いしたいと言っておりますのよ。」

「一緒に来たんですか。」

「万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し<ruby><rb>食</rb><rt>あが</rt></ruby>りに、お<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でになって下さいません？」

庸三は<ruby><rb>日和下駄</rb><rt>ひよりげた</rt></ruby>を突っかけて門を出たが、祝福の意味で二人を劇場近くにある鳥料理へ案内した。しかし二人の結婚が決裂するのに三月とはかからなかった。庸三はその夏<ruby><rb>築地</rb><rt>つきじ</rt></ruby>小劇場で二人に出逢った。額に前髪のかぶさった彼女の顔も<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れていたし、無造作な<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の着流しでもあったので、すぐには気がつかなかった。しかし廊下で彼に<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みかけるようにしている彼女の顔が、何か<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どく目に立たない<ruby><rb>嬌羞</rb><rt>きょうしゅう</rt></ruby>を帯びていて、どこかで見たことのある人のように思えてならなかった。――やがて三人でお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むことになったのだったが、葉子のこのごろが、生活と愛に痛めつけられているものだということは、想像できなくはなかった。

ある日庸三が、<ruby><rb>鎌倉</rb><rt>かまくら</rt></ruby>の友人を訪問して来ると、その留守に珍らしく葉子がやって来たことを知った。

「何ですか大変困っているようでしたよ。山路さんとのなかが巧く行かないような口振りでしたよ。ぜひ逢ってお話ししたいと言って……。後でもう一度来るといっていましたから、来たらよく<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いておあげなさいよ。」

加世子は言っていたが、しかしそれきりだった。

庸三はその後一二度田舎から感傷的な彼女の手紙も受け取ったが、忘れるともなしにいつか忘れた時分にひょっこり彼女がやって来た。

葉子は潮風に色もやや<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>くなって、<ruby><rb>大々</rb><rt>だいだい</rt></ruby>しく<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っていた。彼女は最近二人の男から結婚の申込みを受けていることを告げて、その人たちの生活や人柄について、詳しく説明した後、そうした相手のどっちか一人を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んで田舎に落ち着いたものか、もう一度上京して創作生活に入ったものかと彼に判断を求めた。

「あんたのような人は、田舎に落ち着いているに限ると思うな。ふらふら出て来てみたところでどうせいいことはないに決まっているんだから。田舎で結婚なさい。」

瞬間葉子は肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>やかせて言い切った。

「いや、私は誰とも結婚なんかしようとは思いません。私はいつも独りでいたいと思っています。」

そういう葉子の言葉には、何か<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>とした田舎ものの気概と情熱が<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっていた。そして話しているうちに何か新たに真実の彼女を発見したようにも思ったが、ちょっと口には出せない慾求も<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>めないことはなかった。

彼は後刻近くの彼女の宿を訪ねることを約束して別れたのであったが、<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をして待っていた葉子は、彼の来ないのに失望して、間もなく田舎へ帰って行った。

一色と彼女のあいだに、その後も手紙の往復のあったことは無論で、月々一色から<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>の仕送りのあったことも考えられないことではなかった。

加世子の死んだ知らせに接してにわかに上京した葉子は、前にいた宿に落ち着いてから、電話で一色を呼び寄せた。そして二人打ち連れて庸三の家を訪れた。その時から彼女の姿が、しきりに彼の寂しい書斎に現われるようになったのだったが、庸三も親しくしている青年たちと一緒に、散歩の帰りがけにある暮方初めて彼女の部屋を訪れてみた。十畳ばかりのその部屋には、彼の<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい部屋とは似ても似つかぬ、何か<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさの<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>がそこはかとなく<ruby><rb>漾</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っていた。

## 二

葉子は何か意気な<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>のお召の<ruby><rb>中古</rb><rt>ちゅうぶる</rt></ruby>の羽織に、鈍い青緑と<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>い紫との<ruby><rb>鱗形</rb><rt>うろこがた</rt></ruby>の銘仙の不断着で、いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りゅうッ</span>とした<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を崩さない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなせ</span>なオールバック頭の、大抵ロイド眼鏡をかけている一色と一緒に、寂しい夜の書斎に独りぽつねんとしている庸三をよく訪れたものだったが、そのころにはいつまでも床の前に飾ってあった亡妻の<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>も仏壇に納められて、一時衰弱していた<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>もいくらかよくなっていた。妻の突然の死で、彼は<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れていた柱が不意に倒れたような感じだった。加世子は自分が生き残るつもりで庸三の死んだ後のことばかり心配していたのだったが、庸三も健康に自信がもてないので、大体そのつもりでいたが、無計画に初まったこの家庭生活はどこまでも無成算で、不安な心と心とが寄り合ってどうにかその日その日を生きていたものであった。最近少し余裕が出来たので、音楽好きの子供にねだられて、やっとセロを一<ruby><rb>梃</rb><rt>ちょう</rt></ruby>買ってやった妻に、彼はあまり好い顔をしなかった。ラブレタアが<ruby><rb>投函</rb><rt>とうかん</rt></ruby>されていたことを、何かのおりに感づいて、背広を着て銀座の喫茶店へなぞも入るらしい子供がいつの間にか父に<ruby><rb>叛逆的</rb><rt>はんぎゃくてき</rt></ruby>な態度を示すのに神経を痛めている折なので彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むき</span>になった。しかし加世子は怒りっぽい庸三を、子供に直面させることを<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、いつも庸三を抑制した。今は父子のあいだの緩衝地帯も撤廃されたわけだった。日蔭もののように暮らして来た庸三の視界がにわかに開けていた。<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入るとか、<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>に向かうとかいう場合に、どこにも妻の声も聞こえず、姿も見えないので、彼はふと片手が<ruby><rb>毮</rb><rt>も</rt></ruby>げたような心細さを感ずるのだったが、一方また思いがけなく若い時分の自由を取り戻したような気持にもなれた。彼は再婚を堅く否定していたので、さっそく何か世話しようと気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいる人の友情に、何の感じも起こらなかったが見知らぬ世間の女性を心ひそかに物色してもいた。女性の前に今まで<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>も崩さなかった儀容と隔心とが、自然に撤廃されそうであった。

葉子は下宿へ<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いに来る一色と<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>で二三度庸三の書斎に姿を現わしたが、ある晩到頭一人でやって来て机の前にいる彼に近づいた。

「私先生のところへ来て、家事のお<ruby><rb>助</rb><rt>す</rt></ruby>けしたいと思うんですけどどう？」

葉子は無造作に切り出した。庸三はその言葉が本当には耳へ入らなかった。

「あんたに家庭がやれますか。」

「私家庭が大好きなんですの。」

「それあ<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。」

「あら、そんな！　私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。」

「そうかしら。」

葉子は少し乗り出した。

「先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>く身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きます。」

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はどうするんですか。」

「私ですの？　私母からもらう財産がいくらかございますの。先生のお宅にいることになれば、着物や何かも仕送ってくれますの。今度来る時、母にもその話をしましたの。無論母も同意ですの。」

「さあ。何しろ僕は家内が死んで間もないことだし、ゆっくり考えてみましょう。そう軽率に決めるべきことでもないんですから。」

庸三も彼女も固くなってしまったところで、葉子を照れさせないために彼は蓄音機を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きに、裏にある子供の家へ案内した。地続きにあるその<ruby><rb>古家</rb><rt>ふるや</rt></ruby>は、二つに仕切って一方には震災のとき避難して来て、そのままになっている弁護士Ｔ氏の家族が住まい、三間ばかりの一方に庸三の上の子供たちが寝起きしていた。庭を<ruby><rb>横截</rb><rt>よこぎ</rt></ruby>って二人で上がって行くと、<ruby><rb>書棚</rb><rt>しょだな</rt></ruby>や<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>や額や、雑書雑誌などの雑然と積み重ねられたなかで、子供の庸太郎が、喫茶台の上と下に積んであるレコオドのなかから、彼女に向きそうなチャイコフスキイのアンダンテカンタビレイをかけてくれた。音楽のわからない父にも、それがエルマンの<ruby><rb>絃</rb><rt>げん</rt></ruby>であることくらい<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ることは庸太郎も知っていた。葉子は足を崩し細長い片手を畳みに突いて、しめやかな旋律を聴いていたが、庸三はこういう場合いつも庸太郎を仲間に引き入れる癖をもっていた。次ぎにファラアのジュエルソング――それからシュウマンハインクのウェルケニヒというふうに<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んだのであったが、庸三は庸太郎に恥ずかしいような気がしていたし、庸太郎は庸太郎で夜なかに葉子と二人で来た父に何の意味があるかも解らなかったし、葉子も若いもの同志親しい口を利きたいような気持を、妙に堅苦しい庸三の態度に気兼ねして、わざと慎しみぶかくしているので、あたかも<ruby><rb>三竦</rb><rt>さんすく</rt></ruby>みといった形で照れてしまった。間もなく書斎へ引き揚げた。庸三は一枚あけて行った雨戸を締めながら、暗い空を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていたが、

「静かな晩ですね。もう帰ってお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みなさい。」

「遅くまでお邪魔しまして。では先生もお寝みなさい。」

葉子はそう言って帰って行ったが、庸三は後で何だか好い気持がしなかった。自身が醜いせいか、男女に限らずとかく<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>に<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れがちな彼なので、初めて松川と一対でやって来た時のブルジョア夫人らしい葉子や、小劇場で見た時の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけの<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた彼女の姿――特にも<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>のあたりの<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい肉の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>など、印象は深かったが、彼女の過去と現在、それに二人の年齢の間隔なぞを考えると、直ちに今夜の彼女を受け<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れる気にもなれなかった。

多分葉子に逢っての帰りであろう、翌日一色がふらりとやって来た。庸三は少し中っ腹で昨夜の葉子を非難した。

「山路草葉から僕んとこへまで渡り歩こうという女なんだ。あれが<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まなくちゃ文学なんかやったって<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>駄目だぜ。」

「そいつあ困るな。実際悪い癖ですよ。いや、僕からよく言っときましょう。」

一色は自分が<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られでもしたように、あたふたと帰って行った。

それよりも庸三は、寂しい美しさの<ruby><rb>三須藤子</rb><rt>みすふじこ</rt></ruby>を近づけてみたいような気がしていた。三須は庸三のところへ出入りしていた若い文学者の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>と死に<ruby><rb>訣</rb><rt>わか</rt></ruby>れてから、世に出るに至らなかった愛人の志を継ぎたさに、長い間庸三に作品を見てもらっていた。男でも女でも、訪問客と庸三との間を、どうにかこうにか<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで行くのは、妻の加世子であった。時とすると<ruby><rb>目障</rb><rt>めざわ</rt></ruby>りでもあったが、しかし加世子がいなかったら、神経の疲れがちな庸三は、ぎごちないその態度で、どんなに客を<ruby><rb>気窮</rb><rt>きづま</rt></ruby>らせたか知れなかった。三須の場合も、お<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>をするのは加世子であった。藤子は入口の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>に、いつも吸いついたように坐っていた。このごろ庸三は彼女に少し<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎを見せるようになったが、<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>した彼女の良人三須春洋の幻が、いつも庸三の目にちらついた。その上彼女は同じ肺病同志が結婚したので、<ruby><rb>痰</rb><rt>たん</rt></ruby>が胸にごろごろしていた。<ruby><rb>片身</rb><rt>かたみ</rt></ruby>の子供もすでに大きくなっていた。彼女は加世子の生きていたころも今も、同じ距離を庸三との間に置いていた。

それともう一人まるきり未知の女性ではあったが、モデルとしてあまりにも多様の恋愛事件と生活の変化を持っているところから、裏の弁護士に紹介されて、そのころまだ床の前にあった加世子の<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>に線香をあげに来て、三人で彼女の芝の家までドライブして、晩飯を<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になって以来、何か心のどこかに<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>繋</rb><rt>かか</rt></ruby>りをもつようになった<ruby><rb>狭山小夜子</rb><rt>さやまさよこ</rt></ruby>も、そのままに見失いたくはなかった。彼女は七年間<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>していた<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>のある貴族の屋敷を出て、最近芝に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもって何を初めようかと思案していた。

庸三は毛のもじゃもじゃした細い腕、指に光っている素晴らしいダイヤ、大きな<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>、真珠など、こてこて<ruby><rb>箝</rb><rt>は</rt></ruby>めた指環、だらしなく締めた派手な帯揚げの中から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている、長い<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>のような金庫の二本の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>、男持の大振りな<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>――しかし飯を食べながら話していると、次第に昔、<ruby><rb>左褄</rb><rt>ひだりづま</rt></ruby>を取っていたらしい面影も浮かんで来て、何とも不思議な存在であることに気がついたのであった。彼女は庸三の年齢や家庭の事情などを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いたが、自身では「そうですね、いろんなこともありましたけれど、とにかくライオンが初めて出来た時、募集に応じて女給になったのが振出しですね」と目を天井へやったきり、何も話さなかった。

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>ものの庸三はいつかそこで、人を新橋駅に見送った帰りに、妻や子供や親類の<ruby><rb>暁星</rb><rt>ぎょうせい</rt></ruby>の先生などと一緒に、白と桃色のシャベットを食べて、何円か取られて驚いた覚えのある初期のライオンを思い出した。

「あれ三十五くらいでしょう。今五百円のペトロンがつきかけてるそうですが、多分<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>るでしょう。」

帰る途中弁護士は話していた。

庸三はあッとなったものだが、材料払底の折だったので、健康がやや<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したところで、もう一度同行するように弁護士に当たってみた。しかし何か金銭問題の引っかかりでもあるらしく、「先生一人の方がええですよ」と、彼は辞した。――それきりになっていた。

一日おいて葉子が書斎に現われた。彼女は不意に母に死なれて、手を延ばしてくれさえすれば誰にでも寄りついて行く、やっと九つになったばかりの、庸三の末の娘の<ruby><rb>咲子</rb><rt>さきこ</rt></ruby>を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にしていた。咲子はいつとなし手触りの好い葉子に<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いていた。葉子はぽたぽた涙を落としながら、自分に誠意があってのことだと訴え、一色から報告された庸三の非難の言葉に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みを述べ立てた。泣き落しという手のあることも知らないわけではなかったけれど、やっと二十六やそこいらの、お嬢さん育ちの女をそういうふうに見ることも、彼の趣味ではなかった。醜い涙顔に冷やかな目を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けるとは反対に、彼は瞬間葉子を見直した。彼女は一色に小ッぴどくやっつけられて、出直して来たものらしかったが、何か<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいようなその言葉も、大して彼の耳には立たなかった。

「時々来て家を見てくれるくらいは結構です。それ以外のことはいずれゆっくり考えましょう。」

茶の間で子供たちとしばらく遊んでから、葉子は帰って行った。

## 三

郊外のホテルのある一夜――その物狂わしい場面を思い出す前に、庸三はある日映画好きの彼女に誘われて、ちょうどその日は雨あがりだったので、<ruby><rb>高下駄</rb><rt>たかげた</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて浅草へ行く時、電車通りまでの間を、背の高い彼女と並んで歩くのも気がひけて「僕は自動車には乗りませんから」と断わって電車に乗ってからも、葉子が<ruby><rb>釣革</rb><rt>つりかわ</rt></ruby>に垂れ下がりながら先生々々と口癖のように言って何かと話しかけるのに<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>したことだの、映画を見ているあいだ、そっと<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の下をくぐって来る彼女の手に触れたときの<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>だの、ある日ふらりと彼女の部屋を訪ねると、真中に延びた寝床のなかに、熱っぽい顔をした彼女がいて、少し離れて坐った庸三が、今にも起き出すかと待っていると、彼女は赤い毛の肌着だけで、起きるにも起きられないことがやっと<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>って照れているうちに、畳のうえに延べられた手に顔をもって行くと、彼女は<ruby><rb>微声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で耳元に「行くところまで……」とか何とか言ったのであったが、彼はそういうふうにして<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>半分に彼女に触れたくはなかったこと、一夜彼女が自分が果して世間でいうような悪い女かどうかの判断を求めるために、初めから不幸であった結婚生活の破滅に陥った事情や、実家からさえも見放されるようになった<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>、それに最近の草葉との結婚の失敗などについて、哀訴的に話しながら、止め度もなく<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>すすりな</rt></ruby>いた後で、英国のある老政治家と少女との恋のロオマンスについて彼女特得の<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>の感傷と熱情とで、あたかもぽっと出の田舎ものの老爺に、若い娘がレヴュウをでも案内するようなあんばいで、長々と説明して<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かしたことなどが思い合わされるのであったが、ある日の午後彼はふと原稿紙やペンやインキを<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>につめて、差し当たっての仕事を片着けるために、郊外のそのホテルへ出ようとして、ちょうど遊びに来ていた葉子を誘ってしまったのであった。

「ほんと？　いいんですの？」葉子は念を押した。

そしてそうなると、彼は引き返すことができなかった。<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>しに宿へ帰った彼女に約束した時間どおりに、定めのプラットホオムへ行ってみると、葉子の姿が見えないので、彼は淡い失望を感じながらしばらく待ってみた。十分ばかり<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った。彼は外へ出て公衆電話をかけてみた。女中が出て来たが、葉子を出すように頼むと、三四分たってからようやくのことで彼女が出て来た。いつでも私が入用な時にと言い言いした彼女の意味と思い合わせて、今の場合事によると一色がやって来でもしたのか、それとも薬が利きすぎたのに恐れを<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いて当惑しているのか、いずれにしてもそこは庸三に思案の余地が十分あるはずなのに、仮装の登場人物はすでに引込みがつかなかった。間もなく新調の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着た葉子がせかせかとプラットホオムへ降りて来た。

「すみません。随分お待ちになったでしょう。」

彼女は電話のかかった時、あいにくトイレットにいたのだと弁解したのだったが、そこへがら<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>きの電車が入って来たので、急いで飛び乗った。

電車をおりると、駅から自動車で町の高台のあるコッテイジ風のホテルへ着いたが、部屋があるかないかを聞いている庸三が、合図をするまで出て来なかったことも、ちょっと気がかりであったが、洋館の長い廊下を右に折れて少し行くと、そこから石段をおりて、暗い庭の飛石伝いに、ボオイの案内で縁側から日本間へ上がって、やっと落ち着いたのは、二階の八畳であった。寒さを恐れる彼に、ボオイは電気ヒイタアのスウィッチを<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ってくれた。そして<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>で温まってから、大きな<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の卓に向かって、一杯だけ取った<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>のコップに<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>をつけるころには、葉子の顔も次第に幸福そうに輝いて、鉄道の敷けない前、<ruby><rb>廻船問屋</rb><rt>かいせんどんや</rt></ruby>で栄えていた故郷の家の屋造りや、庸三の故郷を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>させるような雪のしんしんと降りつもる冬の静かな<ruby><rb>夜深</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>の音や、世界の果てかとおもう北の荒海に、幻のような灰色の<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>が飛んで、<ruby><rb>暗鬱</rb><rt>あんうつ</rt></ruby>な空に日の目を見ない長い冬のあいだの楽しい<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>や――ちょっとした部屋の模様や庭のたたずまいにも、何か神秘めいた陰影を塗り立てて、そんなことを話すのであった。

夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて来た。やがて障子がしらしらと白むころに、二人は腐ったように熟睡に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちた。

<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐ</rt></ruby>らんだような薄暗さのなかに、庸三は魂を<ruby><rb>噛</rb><rt>く</rt></ruby>いちぎられたもののように、うっとりと<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>をかかえて卓の前にいた。葉子はお昼少しすぎに床を離れて風呂へ入ると、次ぎの間の鏡台にすわって、髪や顔を直してから、ちょっと庸三の子供たちを見て来るといって、<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>をも忘れずに裏木戸から<ruby><rb>幌</rb><rt>ほろ</rt></ruby>がけの<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で帰って行ったのであった。庸三は乾ききった心と衰えはてた肉体にはとても盛りきれないような青春を、今初めて感じたのだったが、そうしてぼんやり意識を失ったもののように、昨夜一夜のことを考えていると、今まで冬眠に入っていた情熱が一時に呼び<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>まされて来るのを感じた――それに堪えきれない寂しさが、彼を悲痛な<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えに追いこむのであった。――<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受け<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>、黒ダイヤのような美しい目と長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>、それに<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>から口元へかけての曲線の悩ましい<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>、それらがすべて彼の干からびた血管に<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れこむと同時に、若い彼女の魂がすっかり彼の心に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い入ってしまうのであった。庸三は不幸な長い自身の生涯を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いさえするのであった。

するうち部屋が薄暗くなって来た。電燈のスウィッチを<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ろうとおもって、ふと目を挙げると<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>が<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>に包まれてあった。瞬間庸三は心臓がどきりとした。やがて卓のうえに立ってそれを<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>いた。いつのまにそんなことをしたのか、少しも知らなかった。庸三は卓をおりてさもしそうに手巾を鼻でかいでみた。昨夜葉子はこの恋愛を、何か感激的な大したロオマンスへの彼の飛躍のように言うのだったが、そう言われても仕方がなかった。庸三は次第に彼女の帰って来るのが待遠しくなって来た。帰って来るかどうかもはっきりしなかった。彼は帰って来ないことを祈ったが、やはり苦しかった。するとその時ボオイが次の間の入口に現われて、

「<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>さんからお電話です。」

「そう。」

庸三は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて立ち上がった。

「先生ですの。何していらっしゃる。」

「君は。」

「私あれからお宅へ行って、子供さんたちと童謡なんか歌ってお相手していましたの。皆さんお元気よ。」

「今飯を食べようかと思っているんだけど、来ない？」

「先生のお仕事のお邪魔にならないようでしたら、すぐ行きますわ。」

三十分するかしないうちに、<ruby><rb>海松房</rb><rt>みるぶさ</rt></ruby>模様の絵羽の羽織を着た葉子が、<ruby><rb>廊縁</rb><rt>ろうべり</rt></ruby>の<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>にかけて、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしている彼のすぐ目の下の庭を通って、上がって来た。行きつけの美容院へ行って、すっかりお化粧をして来たものらしく、彼女の顔の白さが<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>のなかに匂いやかに<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいた。

ある日も庸三は葉子の部屋にいた。そこは他の部屋と<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>け離れた袋地のようなところで、廊下をばたばたするスリッパの音も聞こえず、旅宿人に顔を見られないで済むような部屋だった。寺の境内の立木の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>になっている窓に、彼女は感じの好い<ruby><rb>窓帷</rb><rt>カアテン</rt></ruby>の工夫をしたりして、そこに机や本箱を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えた。その部屋で、彼女のさまざまの思い出話を聞いたり、文学の話をしていると五時ごろにお寺の太鼓が鳴り出して、夜が白々と明けて来るので、びっくりして寝床へ入ることもあった。二三年したら結婚することになっている人が一人あるにはあるが、それを今考えることはないのだと、彼女は何かの折に言ったことがあったが、庸三にはそれが誰だか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るわけもなかった。一色じゃないかと聞くと、あの人には細君のほかに、何か古くからの有閑夫人もあるからと言うのだった。

「先生がそんなこと心配なさらなくともいいのよ。お気持悪ければいつでも清算することになっていますのよ。」

「もしかしてここへ来たら。」

「あの人決してそんなことしない人よ。」

葉子は<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>のかかった、綿のふかふかする友禅メリンスの丹前を着て机の前に坐っていたが、文房具屋で買った一輪<ruby><rb>挿</rb><rt>ざ</rt></ruby>しに、すでに早い花が生かっていて、通りの電車や人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が何か浮き立っていた。彼女はよく庸三の家の日当りのいい端の四畳半へ入って、すっかり彼女に<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いてしまった末の娘と遊んだものだが、一緒に<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へも入って、<ruby><rb>頸</rb><rt>えり</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ってやったり、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>を切ったりした。クリームや<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>なども<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いてやるのだった。九つになったばかりの咲子は、母の納まっている長い棺の下へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>りこんで、母を捜そうとして不思議そうに棺の底を眺めるのだったが、お母さんにはもう<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>えないのだし、世間にはそういう子供さんも沢山あるのだから、もうお母さんのことを言ってはいけない。その代り<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>には兄さんも姉さんも多勢いるのだと、庸三が一度言って聞かすとそれきりふっつり母のことは口へ出さなくなってしまった。しかしどうかするとむずかるらしく、<ruby><rb>剪刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>を投げられたりするから、あれは直さなければと葉子は笑いながら庸三に話すのであった。

「おばちゃんの足<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>ね。」

風呂で彼女は葉子の足にさわりながら言うのだったが、夜は葉子に寝かしつけられて、やっと寝つくことも多かった。彼女は茶の間や<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>に、人知れずしばしば母を捜したに違いないのであった。しかし庸三は、自分の不注意で、一夜のうちに死んでしまった長女のことを<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>うと、我慢しなければならなかった。恋愛にも仕事にも、ロオマンチックにも奔放にもなれない、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>にかじかんだ彼は、子供を突き放すこともできない代りに身をもって愛するということもできなかったが、生涯のこととか教育のこととか、一貫した誠意や思慮を要する問題は別として、差し当たり日常の家庭にできた<ruby><rb>空洞</rb><rt>くうどう</rt></ruby>は、どこにも捻くれたところのない葉子が一枚加わっただけでも、相当紛らされるはずであった。二十五年もの長いあいだ、同じ軌道を走りつづけていた結婚生活を、不自然にもさらに他の女性で継ぎ足して行くことの煩わしさは解っていたが、加世子の<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>を取り片着けて間もなく、彼は<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>を開けたような気もしたのであった。

「さっそく困るだろ。君だって<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の子供をかかえて、仕事をしなくちゃならない。――待ちたまえ、僕にも心当りがないことはない。」

葬儀委員長であった同じ年輩の<ruby><rb>鷲尾</rb><rt>わしお</rt></ruby>は言うのであった。庸三は彼が目ざしているらしいものよりか、少しは花やかな幻を、それとなく心に描いていたものだったが、それは単に描いてみたというにすぎなかった。彼は堅く結婚を否定していた。今からの結婚が経済的にも精神的にも、重い負担であるのはもちろんであった。子供だけで十分だった。

<ruby><rb>窓帷</rb><rt>カアテン</rt></ruby>をひいた<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>のところで、瀬戸の<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>に当たって小説の話をしていると、電話がかかって来て、葉子は下へおりて行った。

「一色？」

部屋へ入って来た時の葉子の顔で、庸三は感づいた。

「自動車を迎いによこすから、ちょっと附き合ってくれと言うんですのよ。先生さえ気持わるくなかったら、話をつけに行こうと思いますけど……。」

「そうね、僕はかまわないけど。」

「私悪い女？」

庸三は笑っていた。

「行ってもいい？　断わった方がいいかしら。」

「とにかく綺麗にしなけりゃ。」

「きっとそうするわ。ではお待ちになってね。九時にはきっと帰りますから、お<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みになっていてね。きっとよ。げんまん！」

葉子はそう言って指切りをして出て行った。

庸三は壁ぎわに女中の延べさしてくれた寝床へ潜りこんだが、間もなく葉子附きの、同じ秋田生まれの少女が御免なさいと言って<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けた。庸三は少しうとうとしかけたところだったが、目をあげて見ると、彼女は青いペイパアにくるんで<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で結わえた<ruby><rb>函</rb><rt>はこ</rt></ruby>を<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ持ち込んで来て、

「梢さんが今これを先生に差し上げて下さいとおっしゃったそうで。」

庸三が包装の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみると、<ruby><rb>萎</rb><rt>しな</rt></ruby>びた菜の花の葉先きが<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>みだしていて、それが走りの<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>だとわかった。――枕元においたまま、彼はまたうとうとした。いつかも彼女は<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ帰る少し前に、自動車で乗りつけて、美事な西洋花の植込みを持ち込んで来たものだったが、それがだんだんすがれて行く時分に、彼は珍らしく田舎の彼女に手紙をかいた。

「でも先生、あれは確かに先生のラブ・レタよ。」後に葉子に言われたものだったが、そんなこともあったにはあった。

葉子が一色と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っている場所は、行きがけの<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でほぼ見当がついていたが、今夜帰るかどうかは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。庸三は苺にあやされて、子供が母を待つように<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく寝ていたが、不用意な葉子の雑誌や書物や原稿の散らかったあたりに、ある時ふと一色の手紙を発見したことがあって、いつでも<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しなく葉子から呼出しをかけていることが解っているので、夫婦気取りの二人のなかは大抵想像できるのであった。

しかし葉子は約束の時間どおり帰って来た。

「すみません。あれからずっとお<ruby><rb>寝</rb><rt>よ</rt></ruby>っていらして。」

「少しうとうとしたようだが……よく帰って来れたね。」

庸三は<ruby><rb>白粉剥</rb><rt>おしろいは</rt></ruby>げのした彼女の顔を見ながら、

「それでどうしたの。」

「その話を持ち出したのよ。すると一色さん何のかのと感情が荒びて来て仕方がないものですから、私早く切り揚げようと思って、つい……。」

「君<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>があったら入ってくれない？」

「ええ、入って来るわ。」

葉子は追い立てられるように下へおりて行った。

## 四

ある時庸三が庭へ降りて、そろそろ青みがかって来た<ruby><rb>叡山苔</rb><rt>えいざんごけ</rt></ruby>を<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やすために、シャベルをもって砂を配合した土に、それを植えつけていると、葉子は<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだ<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>と紫の<ruby><rb>鱗型</rb><rt>うろこがた</rt></ruby>の<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の不断着にいつもの<ruby><rb>横縞</rb><rt>よこじま</rt></ruby>の羽織を着て、大きな<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>一杯に咲きみちた白<ruby><rb>木蓮</rb><rt>もくれん</rt></ruby>の花影で二三日にわかに明るくなった縁側にいた。葉子が松川と一緒に子供をつれて、<ruby><rb>嵩高</rb><rt>かさだか</rt></ruby>な原稿を持ち込んで来たのが、ちょうどこの木蓮の花盛りだったので、彼女はその季節が来ると、それを懐かしく思い出すものらしかったが、ちょうどその時、葉子に来客があって、それが郷里の代議士秋本であるというので、庸三はシャベルを<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて、縁側へ上がって来た。郷里の素封家である秋本は、トルストイやガンジーの崇拝者で、何か文学に関する著述もあったが、もともと歌人で、数ある葉子の歌をいつでも出版できるように整理してくれたのも彼であった。葉子はちょっと<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい顔をして「ちょっと逢って下さる？」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うので、手を洗って上がろうとすると、秋本がもう部屋へ入って来た。秋本は貴族的な立派な<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>の持主で、葉子の郷里の人が大抵そうであるように、骨格に<ruby><rb>均齊</rb><rt>きんせい</rt></ruby>があり手足が若い<ruby><rb>杉</rb><rt>すぎ</rt></ruby>のようにすらりとしていた。<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の卓のまわりに二人は向き合って坐ったが、互いに探り合うような目をして、簡単な言葉を交したきりであった。庸三は葉子の旅宿で、○や丶のついたその歌集の草稿を見せられたこともあったし、土を讃美した彼の著述をも読んだのであったが、葉子が結婚の約束をしたのが、この男であるような、ないような感じで、しかし何か優越感に似たものをもって彼と<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>していたのであったが、しばらくすると秋本は葉子にそこまで送られて帰って行った。ずっと後になって、秋本はそのうち郷里の財産を整理すると、子供の分だけを適度に残して、そっくりそれを東京へ持って来て、郊外に土地を買い、農園の経営を仕事とすると同時にそこに葉子と楽しい愛の巣を営もうというので、そうなると葉子にもすっかり文壇との交遊を絶ってもらいたいというのが、かねての彼の<ruby><rb>申出</rb><rt>もうしい</rt></ruby>でらしかったが、葉子は文壇に乗り出す手段としてこそ、そうしたペトロンも必要だったが、そこまで附いて行けるかどうかは彼女自身にも解っていなかった。

間もなく葉子が帰って来た。

「<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な男じゃないか。」

「そう思う？」

葉子は微笑した。

その時分彼女はまだすっかり宿を引き払っていなかったので、秋本に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのは、今日が初めかどうかは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかったし、玄関口で二人で何か話していたことも知っていたが、晴々しい顔をして<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ返って来た葉子を見ると、多少の陰影があるにしても、それは単に歌のことで指導を受けている間柄のようにしか見えなかった。

その時分庸三の周囲が少しざわついていた。新聞にも二人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が出ていて、時とすると<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>の葉書が飛びこんだり、署名して抗議を申しこんで来たものもあって、そのたびに庸三は気持を暗くしたり、神経質になったりするのだが、葉子はそろそろ耳や目に入って来るそれらの非難を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎるように、いつも彼を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>め宥めした。家庭の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>が<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しくなって来ると、すごすご宿へ引き揚げて行くこともあったし、彼女自身が嶮悪になって、ふいと飛び出して行くこともあった。庸三は何かはらはらするような気持になることもあったが、葉子はその後で手紙を少女にもたせて、彼を宿に呼び寄せたり、興味的に追いかけて行く子供と一緒に、<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの町をいつまでも歩いていることもあった。

ある日彼女はどこからか金が入ったとみえて――彼女は母からの月々の仕送りのように言っていた――何かこてこて買いものをしたついでに、美事なグラジオラスの一<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>を、通りの花屋から買って来て、庸三を<ruby><rb>顰蹙</rb><rt>ひんしゅく</rt></ruby>せしめたものだが、お節句にはデパアトから<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの人形を買って来て、子供の<ruby><rb>雛壇</rb><rt>ひなだん</rt></ruby>を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わせたり、時とすると映画を見せに子供を四人も引っ張り出して、帰りに何か食べて来たりするので、庸三はある日彼女の部屋を訪れて、彼女にお<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>を贈ろうとした。

「先生のお金――芸術家のお金なんて私とても<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>けませんわ。私そんなつもりで、先生んとこへ伺っているんじゃないのよ。どうぞそんな御心配なさらないで。」

彼女は再三押し返すのだったが、庸三の引込みのつかないことに気がつくと、

「それじゃ戴いときますわ。――思いがけないお金ですから、このお金で私質へ入っているものを請け出したいと思うんですけれど。」

「いいとも。君もそういうことを知っているのか。」

「そうですとも。松川と<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもっている時分は、それはひどい困り方だったのよ、松川は職を捜して、毎日出歩いてばかりいるし、私は私で原稿は物にならないし、映画女優にでもなろうかと思って、せっかく話をきめたには決めたけれど、いろいろ話をきいてみると、<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやき</rt></ruby>が差して……第一松川がいやな顔をするもんで……。」

葉子は出て行ったが、間もなくタキシイにでも載せて来たものらしく、息をはずませながら一包みの<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>を小女と二人で運びこんで来た。派手な晴着や帯や<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>がそこへ<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げられた。

「私これ一枚、大変失礼ですけれど、もしお気持わるくなかったら、お嬢さんに着ていただきたいと思うんですけれど。」

「そうね。学生で、まだ何もないから、いいだろう。」

二人は間もなく宿を出て、葉子自身は花模様の小浜の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>を一枚、<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>に包んで抱えて庸三の家へ帰って来た。彼女はなるべく金の問題から遠ざかっていたかった。庸三との附き合いを、生活問題にまで引き入れることは、何かにつけて体を縛られることにもなるし、庸三の気持を深入りさせることにもなるので、それは避けたいと思っていたのであったが、彼の気持はすっかり彼女の言葉どおりに、葉子に<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶさっていた。

## 五

葉子はそのころ庸三の娘たちをつれて、三丁目先きの名代の糸屋で、好みの毛糸を買って来て、栄子のためにスウェタアを編みはじめていたが、そんな時の彼女は子供たちのためにまことに好い友達であったが、彼女が庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来ていたり、一緒に外出したりすると、子供たちは寂しがった。そのころ加世子の死んだあと、独り残って勝手元を見てくれていた庸三の姉は、すでに<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ帰っていたし、葬式の前後働いていてくれた加世子の<ruby><rb>弟娵</rb><rt>おとうとよめ</rt></ruby>も、いつとなし遠ざかることになっていた。加世子にはやくざな弟が二人もあった。高等教育を受けて、年の若い割に<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>のある大きな寺に納まっている末の弟を除くほか、何かというと姉を頼りにするようなものばかりであった。それに子供の面倒を見てくれているのが、お人好しの加世子の母だったので、庸三はどうかすると養子にでも来ているような感じがした。そうした因縁を断ち切るのは、相当困難であった。子供が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えるにつれて、彼女も次第に先きを考えるようになり、末の弟を頼みにしていたのだったが、葉子が入って来てからそれらの人らは一時に姿を消してしまった。庸三は長いあいだの荷物を卸して、それだけでもせいせいした気持だったが、当惑したのは子供のために<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>ろうとした姉と葉子との<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>であった。もちろん一家の主婦が亡くなったあとへ来て、茶の<ruby><rb>室</rb><rt>ま</rt></ruby>に居坐るほどのものが、好意だけでそうするものとはきまっていなかった。<ruby><rb>放心</rb><rt>うっかり</rt></ruby>していると、ふわりと<ruby><rb>掩</rb><rt>お</rt></ruby>っ<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さって来るようなこともしかねないのであった。

「君いい家庭婦人になれると言うなら、食べもの<ruby><rb>拵</rb><rt>ごしら</rt></ruby>えもしてみるといいよ。」

秋田育ちの葉子は食べ物拵えにも相当趣味をもっている方であったが、その時台所へ出て拵えたものは、北海道料理の<ruby><rb>三平汁</rb><rt>さんぺいじる</rt></ruby>というのであった。葉子は庸三に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きに来られると、顔を赤くして、

「いやよ、見に来ちゃあ。」

お国風の懐石料理をいくらか心得ていた姉は、<ruby><rb>大鍋</rb><rt>おおなべ</rt></ruby>にうんと拵えた三平汁を見ると、持前の鋭い目をぎろつかせたものだったが、そうした場合に限らず、<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の傍に頑張っている姉の目の先きで、子供たちと一緒に食卓に坐るのは、葉子には堪えられないことだった。三度々々の食事の気分というものが、人間の生活にとってどんな影響を与えるかということは、普通世間の嫁<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby><ruby><rb>継母</rb><rt>ままはは</rt></ruby>継子のあいだにしばしば経験されることだった。もし葉子がいなかったとしても、後で庸三は姉に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>したことをきっと後悔したに違いなかった。彼はその時裏の家で、いつの間にかかなり大きい荷物の用意されてあることを見てから、一層不愉快になった。

しかし葉子は、子供の相手になって童謡を<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>ったり、咲子にお化粧をしてやったり、器用に編棒を使ったり、気が向くと時には手軽な西洋料理を作るとか、または恋愛小説に読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り、長男と新らしい文学や音楽映画の話をするのが、毎日の日課で、勝手元を働くのは、年の割りに体のかっ詰まったお鈴という女中だけであった。後に女中の手が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えて来たけれど、お鈴は加世子の生きている時からの<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>りを、曲りなりにも心得ていて、どこに何が仕舞ってあるのかもよく知っていた。しかし加世子も気づいていた持前の<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み癖がだんだん無遠慮になって来たところで、それもいつか遠ざけてしまった。

ある<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>のふる日、葉子は顔を作って、地紋の黒い<ruby><rb>錦紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>の紋附などを着て珍らしく一人で外出した。

「私写真<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>りに行ってもいい？」

彼女は庸三の机の側へ来て言った。

「いいとも。どこで……。」

「銀座の<ruby><rb>曽根</rb><rt>そね</rt></ruby>といって、素晴らしい芸術的な写真撮るところよ。すぐ帰って来るわ。先生<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にじっとしていなきゃいや。きっとよ。じゃあ、げんまん！」

そういう場合、大抵<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>と指切りを<ruby><rb>抵</rb><rt>かた</rt></ruby>において行くのが、思いやりのある彼女の手であった。庸三は昔、下宿時代に遊びに行って、女が他の部屋へまわる時、<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>お召の羽織をそこへ置いて行かれると、それが何かの気安めになったことを思い出したが、しかしその時は、どうかすると<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>くさい彼女が離れて行きそうな<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな不安を感じながらも、言われるままにじっと待っているのだった。後になって考えると、間もなく気取ったポオズの写真が届いたところを見ると、それが全部<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>でないにしても、真実ではなかった。多分一色を訪ねたか、秋本がその時まだ東京にいたものとすると、彼の旅宿へ立ち寄ったものだと思われた。庸三がしとしと雨の降り募って来たアスファルトの上を、彼女が軽い塗下駄の足を運んでいる銀座の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を目に浮かべている間に、彼女の<ruby><rb>僦</rb><rt>やと</rt></ruby>ったタキシイがどこをどう<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>っていたかも知れないのであった。女と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っているよりも、女を待っている時の方が、ずっと幸福なものだということは、もとより知る由もなかった。庸三は銀座の<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>る<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に和髪とも洋髪ともつかない葉子独特の髪で、紺の<ruby><rb>雨傘</rb><rt>あまがさ</rt></ruby>をさして、春雨のなかを歩いている彼女の幻を追っていた。が、するうち胸が<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されるようになって来た。庸三はしかしそう長く悩んでいなかった。やがて帰って来た葉子は彼の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ来て甘えた。

「私を<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てないでね。」

四月の風の荒いある日、玄関に人があって、出て行った葉子はやがてのこと、ちょっとした結び<ruby><rb>文</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>を手にして引き返して来た。彼女はそれを読むと、たちまち驚きの色を浮かべた。

「どうしたというんでしょう、あの男が来たのよ。」

それが北海道で破産したという松川であった。

「湯島の宿にいるのよ。すぐ立つんだから、ちょっとでいいから逢ってくれないかと言うんですけれど……。行かないわ、私。」

庸三は頭が重苦しくなって来た。どうにもならなくなって、田端へ来て身を潜めていた彼が、三人の子供と一緒に再び北海道へ帰って行ってから、もう二年近くになった。その間にいろいろの変化が葉子の身のうえにあった。葉子が田端の家ですっかり行き<ruby><rb>窮</rb><rt>づま</rt></ruby>ってしまった結婚生活を清算して子供にも別れたのは、その年の<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>の除夜の鐘の鳴り出した時であった。彼女は子供たちを<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入れてから旅の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をさせた。しばしば葉子は忘れがたいその一夜のことを話しては泣くのだった。

「でも私からは遠い子供たちですのよ、あの人たちはあの人たちでどうにかなって行くでしょうよ。思ったってどうにもならないことは思わないに限るのね。」

土地では運命を<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>にされた男の方に同情が多いものらしかったが、葉子に言わせると男の性格にも欠陥があった。<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>のこの一対が土地の社交界の<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>の的であっただけに、葉子のような妻を満足させようとすれば、派手な彼としては勢い危険な仕事に手を染めなければならなかったし、どんな生活の<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>が目の前に押し迫っている場合でも、彼女の夢を揺するようなことはできないのであった。若い技師の道楽半分に建ててくれた文化住宅の日本風の座敷に、何を感違いしたのか、床柱が一方にしかないのが不思議だと言って、怒り出した妻を、言葉優しく言い<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるくらいの寛容と愛情に事かかない彼だったが、田端時代になって愛の破局が本当にやって来た。それは、葉子がちょうどスタジオ入りの許しを得ようとした時であった。

「お前の<ruby><rb>容色</rb><rt>きりょう</rt></ruby>なら一躍スタアになれるに違いないが、その代り貞操を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けなきゃならないんじゃないかね。」

葉子はそれを否定する代りに、にやりと<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

今、葉子は思いがけなく上京した松川の手紙を見ると、一時に心が騒ぎ立った。いくらかの恐怖はあったにしても、どんな場合にも彼女は相手の愛を信じて疑わなかった。

「何だか気味が悪いから電話してみますわ。」

葉子はそう言って、不断電話を借りつけの裏の下宿屋へ行った。

相手が出て来たところで、彼女は気軽に話しかけた。

「もしもし私よ、<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>って？」

「うむ、僕だよ。都合上ちょっと遠いところへ行く途中、ごく秘密に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いたいと思って寄ったんだが、久しぶりでいろいろ話もあるし、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>のことも心配しているんだ。それでぜひ逢って渡したいものがあるから、ちょっとここまで来てもらいたいんだ。」

「そう、じゃすぐ行くわ。」

葉子は庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ返ってその通りを告げた。

「ひょっとしたら少し手間取るかも知れないのよ。だけど私を信じていてね。」

葉子は湯島に宿を取っている松川を見ると、いきなり飛びついて来る彼に<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を出した。松川は洋服も脱がずにいたが、田端で別れたころから見ると、<ruby><rb>身綺麗</rb><rt>みぎれい</rt></ruby>にしていた。彼は今顧問弁護士をしていた会社の金を三万円<ruby><rb>拐帯</rb><rt>かいたい</rt></ruby>して、留守中の家族と<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の手当や、のっぴきならない負債の始末をして、一旗揚げるつもりで<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>へ走るところであった。当分<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>っていて、足場が出来次第後妻や子供たちを呼び寄せることになっていた。葉子は涙ぐんだ。

「これは絶対秘密だよ。不自由してるだろうから、貴女にあげようと思って……これだけあれば当分勉強ができるだろう。」

松川はそう言って、ポケットの札束から大札十枚だけを数えて渡した。送らせて来た書生が席を外していたので、二人はいつも<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>している恋人同志のように話し合った。

「あの先生も君を好きだろう。始終傍にいるのかい。」

「ううん……それに先生はお年召していらっしゃるから。」

日の暮れ方になって、葉子は別れて来たが、外へ出てからも涙がちょっとは乾かなかった。

庸三は騒がしい風の音を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きながら、葉子の帰るのを待ち<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びていた。<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の底がじゃりじゃりするようで、口も乾ききっていた。彼は肉体的にも参っていた。

帰って来た葉子の目が<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んでいた。

「そのくらいのことは<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してもいい。」

庸三は仕方なしそういう気持にもなれたが、しかし葉子は否定した。

「あの人もう私をすっかり他人行儀の敬語を使ってるくらいよ。――私に千円くれたの。私<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って来たわ。秘密にしてね。」

「銀行へ預けときたまえ。」

「そうするわ。」

そうしたのか、しないのか、庸三は金のことに触れようとしないのであったが、大分たってから思い出して聞いてみると、もう一銭も残っていなかった。もちろん貰って来た翌日、少し買いものをしたので、さっそく手のついたことだけは解っていたが。

松川を東京駅へ送って行ったのは、その翌日の朝であったが、庸三にも、ちょっと見送ってくれないかと言うので、一緒に行きは行ったのだったが、彼は何か照れくさくもあったし、葉子も少し気持がかわって一人でプラットホームへ上がって行った。

「子供をせめて一人だけ私にくれてくれられないかと私言ったのよ。けど駄目らしいの。やっぱり上海へ引き取るらしいわ。それがあの人たちの運命なら仕方がないと思うわ。」

丸ビルの<ruby><rb>千疋屋</rb><rt>せんびきや</rt></ruby>で<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>クレイムを食べながら、葉子は涙ぐんでいた。

しかし一日二日たつと、そんな感傷もいつか消し飛んでしまって、葉子はその金でせめて<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>でも買いに行こうと庸三を促した。

「ねえ先生、私なんにもなくて不自由で仕様がないでしょう。お宅にいてもお茶もらいのように思われるのいやなの。松川さんのお金で箪笥と鏡だけ買いたいと思いますから、一緒に来て見てくれられない？」

二人はこのごろよく一緒に歩く通りから、切通しの方へおりて行った。そして仲通りで彼の金持の友人の買いつけの店へ誘って見た。<ruby><rb>手炙</rb><rt>てあぶ</rt></ruby>り、卓、<ruby><rb>茶棚</rb><rt>ちゃだな</rt></ruby>など<ruby><rb>桑</rb><rt>くわ</rt></ruby>や<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>で<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>された凝った好みの道具がそこにぎっしり詰まっていた。葉子は桑と塗物の二つか三つある中から、かなり上等な桑の鏡台を買ったが、そこの紹介で大通りの店で箪笥も<ruby><rb>一棹</rb><rt>ひとさお</rt></ruby>買った。二百円余り手がついたわけだったが、今の葉子には少しはずみすぎる感じでもあった。まだどこかに薄い陰のある四月の日を浴びながら、二人は池の<ruby><rb>畔</rb><rt>はた</rt></ruby>をまわって、東照宮の段々を上って行った。葉子は絶えず何か話していたが、人気の少ない場所へ来ると、どうかした拍子に加世子の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が出て、それから彼女は押しくら<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>をしながら、庸三を冷やかしづめだったが、その言葉のなかには、今まで家庭に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>もれていた彼には、ぴんと来るような若い時代らしい感覚も<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいていた。

「御免なさいね、奥さんのこと批判したりなんかして。でも、御近所で奥さん評判いいのよ。美容院のマダム<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>めていたわ。」

庸三は<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>まれているような感じだったが、ちょうどそのころ、庸三は目に異状が現われて来て、道が<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>してみえたり、光のなかにもやもやした波紋が浮いたりした。彼は年齢と肉体の隔りの多いこの恋愛に、初めから悲痛な恐怖を感じていたのだったが、ずっとうっちゃっておいた持病の糖尿病が今にわかに気にかかり出した。

「目が変だ。」

彼は昨日東京駅へ行く時、ふとそれを感じたのだった。

「じゃすぐ<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらわなきゃ。これから帰りに行きましょう。」

しかし<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れて来ると、それはそう大して不自由を感ずるほどでもなかったが、今ふと池の畔を歩いていると、それがちょうどＯ――眼科医院の裏手になっているのに気がついた。診察時は過ぎようとしていたが、院長が気安く診てくれた。そして暗室へ入ったり、血液の試験をしたり、結核の有無を調べたりして、一時間以上もかかって厳密な試験をした結果、やはりそれが糖尿病に原因していることが明らかになった。

「当分つづけてカルシウムの注射をやってごらんなさい。」

院長は言うのだった。

庸三は帰りにニイランデル氏液を買って来て、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけになっているアルコオル・ラムプと試験管とを取り出して、縁先きで検尿をやってみた。彼は病気発見当時、毎日病院へ通うと同時に、食料を一々<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>にかけていたものだが、その当時は日に幾度となく自身で検尿もやった。それがずっと打ち絶えていたのであったが、今<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い炎の熱に沸騰した試験管の液体が、みるみる<ruby><rb>茶褐色</rb><rt>ちゃかっしょく</rt></ruby>に変わり、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>のように真黒になって行くのを見ると、ちょっと気落ちがした。

「ほらほら真黒だ。」

彼は笑った。

「その皮肉そうな目。」

葉子も笑っていた。

庸三が葉子の勧めで、北の海岸にある彼女の故郷の家を見舞ったころには、沿道の<ruby><rb>遠近</rb><rt>おちこち</rt></ruby>に桐の花が匂っていた。葉子はハンドバックに<ruby><rb>日傘</rb><rt>ひがさ</rt></ruby>という気軽さで、淡い褐色がかった<ruby><rb>飛絣</rb><rt>とびがすり</rt></ruby>のお召を着ていたが、それがこのごろ<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りのして来た肉体を一層<ruby><rb>豊艶</rb><rt>ほうえん</rt></ruby>に見せていた。葉子はその前にも一度<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ帰ったが、その時は見送りに行った庸三の娘を二人とも、不意に<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>って行ってしまった。その日は土曜日だった。葉子に<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いている幼い子が先きへ乗ったところで、長女がそれに引かれた。

「おばちゃんの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>そんなでもない！」

自然の変化の著しい雪国に育っただけに、とかく詩情の多い葉子に自慢して聞かされていたほどではなかったので、子供は失望したのであった。

海岸線へ乗り替えてからは、多分花柳気分の多いと聞いている酒田へでも行くものらしく、芸人の一団と乗り合わせたので、いくらか気が安まった。事実葉子は昨夜寝台に納まるまで、警戒の目を見張っていた。<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったコムビなので、二人は行く先き先きで発見された。葉子で庸三がわかり、庸三で葉子が感づけるわけだった。非難と<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>のゴシップや<ruby><rb>私語</rb><rt>ささやき</rt></ruby>が、絶えず二人の神経を脅かしていた。――ここまで来る気はなかった。庸三の周囲も騒がしかった。

芸人たちは、その世界にはやる俗俳の廻し読みなどをして陽気に騒いでいた。汽車は<ruby><rb>鈍</rb><rt>のろ</rt></ruby>かった。

葉子は初め酒田あたりの風俗や、雪の里と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれる彼女の附近の<ruby><rb>廻船問屋</rb><rt>かいせんどんや</rt></ruby>の盛っていたころの古いロオマンスなどを話して聞かせていたが、するうち飽きて来て、うとうと眠気が差して来た。――六年間肺病と<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>っていた父の生涯、初めて秋田の女学校へ入るために、町から乗って行った古風な馬車の<ruby><rb>喇叭</rb><rt>ラッパ</rt></ruby>の音、同性愛で教育界に一騒動おこったそのころの学窓気分、美しい若い人たちのその後の運命、彼女の話にはいつも<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の感傷と余韻が伴っていた。

駅へは葉子の母と妹、縁続きになっている土地の文学青年の小山、そんな顔も見えた。家は真実そんなでもなかったけれど、美事な<ruby><rb>糸柾</rb><rt>いとまさ</rt></ruby>の<ruby><rb>杉</rb><rt>すぎ</rt></ruby>の太い柱や、<ruby><rb>木目</rb><rt>もくめ</rt></ruby>の好い天井や杉戸で、手堅い廻船問屋らしい構えに見受けられた。裏庭へ突きぬける長い土間を隔てて、子供の部屋や食堂や女中部屋や台所などがあった。<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>がすんでから、庸三は二階へ案内されたが、そこには広い縁側に古びた<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>もあった。そこの広間がかねがねきいている、二日二晩酒に浸っていた松川との結婚の夜の<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りらしかったが、彼女は多分草葉を連れて来た時もしたように、彼をその部屋に見るのが<ruby><rb>面羞</rb><rt>おもは</rt></ruby>ゆそうに、そっと寄って<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>づけをすると、ぱっと離れた。足音が<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>にした。

「母はちっとも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくないと言ってますのよ。」

高い窓をあけて、<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い海を見たりしてから下へおりた。葉子の着替えも入っている彼のスウトケイスが、井戸や<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を通って、土間から渡って行く奥の離れの次ぎの間にすでに持ち込まれてあった。

葉子はそこへ庸三を案内した。

「本当にお粗末な部屋ですけれど、父がいつけたところですの。父は誰をも近づけませんでしたの。ここで本ばかり読んでいましたの。冬の夜なんか<ruby><rb>咳入</rb><rt>せきい</rt></ruby>る声が私たちの方へも聞こえて、本当に<ruby><rb>可哀相</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>でしたわ。」

<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>に翻訳小説や詩集のようなものが詰まっていた。<ruby><rb>細々</rb><rt>こまこま</rt></ruby>した<ruby><rb>骨董品</rb><rt>こっとうひん</rt></ruby>も並べてあった。庸三は花園をひかえた六畳の縁先きへ出て、額なんか見ていた。

「裏へ行ってみましょう。」

誘われるままに、<ruby><rb>庭下駄</rb><rt>にわげた</rt></ruby>を突っかけて、裏へ出てみた。そこには果樹や野菜畑、花畑があった。ちょっとした木にも花にも、葉子は美しい懐かしさを感ずるらしく、梅の古木や<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の幹の側に立って、幼い時の思い出を語るのであった。幾つもの段々をおりると、そこに草の<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い茂った堤らしいものがあって、かなりな幅の<ruby><rb>川浪</rb><rt>かわなみ</rt></ruby>が漫々と<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えていた。その果てに夕陽に照り映える日本海が<ruby><rb>蒼々</rb><rt>あおあお</rt></ruby>と<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がっていた。<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声を立てて、無数の<ruby><rb>海猫</rb><rt>うみねこ</rt></ruby>が浪のうえに<ruby><rb>凝</rb><rt>かた</rt></ruby>まっていた。

その晩、庸三が風呂へ入って、食事をすましたところへ、もう二人の記者がやって来た。仕方なし通すことにした。

「福島の方から、ちょっとそんな通信が入ったものですから。」

文学的な情熱に燃えているような一人は、そう言って<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いだ。そして葉子を顧みて、

「ここにこんな風流な部屋があるんですか。」

そして葉子がビイルを<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いだりしているうちに、だんだん気分が<ruby><rb>釈</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れて、社会面記者らしい気分のないことも<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けて来た。

「先生の今度お<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でになったのは、結婚式をお挙げになるためだという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>ですが、そうですか。」

庸三は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。もっとも庸三にもしその意志があるなら横山の<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>が話しに来るはずだと、葉子は言うのであったが、庸三はそんな気にはなれなかった。

「僕は誰とも結婚はしません。」

彼はそう言って、自身の生活環境と心持を<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に説明した。記者は時代の青年らしい感想など、無遠慮に吐いて、やがて帰って行った。

## 六

雪国らしい<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさの海岸のこの町のなかでも、雪の里といわれるその辺一帯は、鉄道の敷けない前の船着場として栄えていたころの<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>を<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めているだけに、今はどこにそんな家があるのか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない遊女屋の<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな太鼓の音などが、相当歩きでのある明るい町の方へ散歩した帰りなどにふと耳についたりするのだったが、途中には奥行きの相当深いらしい<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>の<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の外に自動車が二三台も止まっていたりして、何か<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい気分もただよっていた。

「ここのマダム踊りの師匠よ。近頃は雪枝さんを呼んで、新舞踊もやっているのよ。」

葉子はそう言って、そのマダムが話のわかるインテリ婦人であることを話した。庸三は着いた日にさっそく来てくれた彼女の兄の家や、懇意にしている文学好きの医学士の邸宅などへも案内された。歯科医の兄は東京にも三台とはない器械を備えつけて、町の受けはよかった。ある晩は料亭で、つぶ貝などを食べながら、<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の美人の踊る<ruby><rb>音頭</rb><rt>おんど</rt></ruby>を見せられ、ある時はまた川向いにある彼女の<ruby><rb>叔母</rb><rt>おば</rt></ruby>の縁づき先であった町長の新築の屋敷に招かれて、広大な酒蔵へ案内されたり、<ruby><rb>勾欄</rb><rt>こうらん</rt></ruby>の下を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って流れる水に浮いている<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>を眺めながら、彼の舌にも<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>うような酒を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだりした。葉子はそんな家へ来ると、<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>われた猫のように<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくなって、黒の地紋に白の縫紋のある羽織姿で末席にじっと坐っているのだったが、昔から、その作品を読んだり、東京でも、一度<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったことのある青年が一人いたので、庸三は手持<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>ではなかった。葉子と<ruby><rb>又従兄</rb><rt>またいとこ</rt></ruby>くらいの関係にあるその青年は、町で本屋をしていたが、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>ら運動具の店をも持っていた。その細君はこの町長の養女であった。<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の急なその辺の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を流れている水の美しさが、酒造りにふさうのであった。その山地をおりて、例の川に<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>かった古風な木橋を渡ると、そこはどこの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にもあるような場末で、葉子の家もそう遠くなかった。

庸三が寝起きしている離れの前には、愛らしい百日草が咲き盛っていたが、夏らしい日差しの底にどこか薄い陰影があって、少しでも外気と体の温度との均衡が取れなくなると、彼は咳をした。葉子は取っ着きの家からシャツを取ってくれたりしたが、母親は母親で、蔵にしまってある古いものの中から、庸三が着ても<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくないような黄色いお召の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>や、手触りのざくりとした、濃い<ruby><rb>潮色</rb><rt>うしおいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>一重物</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>を取り出して来たりした。ある日はまたにわかに暑くなって、葉子は彼をさそって橋の下から出る<ruby><rb>蟹釣船</rb><rt>かにつりぶね</rt></ruby>に乗って、<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の風景画にでもあるような<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>の深いかなたの岩を眺めながら、深々した水のうえを<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いで行った。葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなって、浪に<ruby><rb>漾</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っている<ruby><rb>海猫</rb><rt>うみねこ</rt></ruby>の群れに近づくころには、そこは<ruby><rb>漂渺</rb><rt>ひょうびょう</rt></ruby>たる<ruby><rb>青海原</rb><rt>あおうなばら</rt></ruby>が、澄みきった<ruby><rb>碧空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>と<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>け合っていた。

「<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby><ruby><rb>蟹子</rb><rt>かにこ</rt></ruby>持って来るのよ。きっとよ。私の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>知っているわね。」

葉子は帯の間から<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>を出して、いくらかの金を舟子に与えたが、舟はすでに海へ乗り出していて、間もなく<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>に漕ぎ寄せられた。葉子は口笛を吹きながら、<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>セルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>蹇</rb><rt>かか</rt></ruby>げて上がって行くと、幼い時分から遊び<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた浜をわが物顔にずんずん歩いた。手招きする彼女を追って行く庸三の目に、焦げ色に<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>かれた<ruby><rb>青黛</rb><rt>せいたい</rt></ruby>の肌の所々に、まだ白雪の残っている鳥海山の姿が、くっきりと間近に映るのであった。その瞬間庸三は何か現世離れのした感じで、海に戯れている彼女の姿が山の精でもあるかのように思えた。庸三はきらきら<ruby><rb>銀沙</rb><rt>ぎんさ</rt></ruby>の水に透けて見える<ruby><rb>波際</rb><rt>なみぎわ</rt></ruby>に立っていた。広い浜に人影も差さなかった。

「僕の田舎の海よりも、ずっと<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>で明るい。」

「そう。」

彼は彼女の<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げる<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>のなかで、マッチを<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>って<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吹かした。

「君泳げる？」

「海へ入ると父が<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しかったもんで……。」

「何だか入ってみたくなったな。」

庸三は裸になって、昔、郷里の海でしたように、<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>な<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>――<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>にひたひた<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めつく<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>のなかへだんだん入って行って、十間ばかり出たところで、泳いでみたが、さすがに鳥肌が立ったので、やがて温かい砂へあがって、日に当たった。新鮮な日光が、潮の<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>の滑る白い肌に吸い込まれるようであった。

葉子は素直に伸びた白い脛を、浪に<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>らせては逃げ逃げしていた。

葉子が思いがけなく継母の手から取り戻した、長女の<ruby><rb>瑠美子</rb><rt>るみこ</rt></ruby>をつれに、再び海岸の家へ帰って行ったのも、それから間もないことであった。彼女は十六時間もかかる古里と東京を、銀座へ出るのと<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>らぬ気軽さで<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったり来たりするのであった。この前東京へ帰ろうとする時彼女はいざ切符売場へ差しかかると、少しこじれ気味になって、瞬間ちょっと庸三をてこずらせたものだった。二人は売場を離れて、仕方なしに線路ぞいの<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>について<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>くさい裏町をしばらく歩いた。ポプラの若葉が風に<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いて、雨雲が空に<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>かっていた。庸三が結婚形式を否定したので、母や親類の手前、ついて帰れないというようなことも多少彼女の心を<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>んだのであろうが、いつものびのびした<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に意の趣くままに暮らして来た彼女なので、手狭な庸三の家庭に低迷している険しい空気に堪えられるはずもなかった。けれど庸三は無思慮にもすっかり正面を切ってしまった。もともと世間からとやかく言われてややもするとフラッパの標本のようにゴシップ化されている彼女ではあったが、ふらつきがちな魂の<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>い場所を求めて、あっちこっち戸惑いしているような最近数年の動きには、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>から飛び出して来た文学少女としては、少し手の込んだ夢や熱があって、長年家庭に閉じこもって、人生もすでに<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>に近づいたかと思う庸三の感情が、一気に揺り動かされてしまった。何よりも彼女の若さ美しさが、<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たされないままに硬化しかけていた彼の魂を浮き揚がらせてしまった。涙を流して喰ってかかる子供の顔が醜く見えたり、飛びこんで来て面詰する、親しい青年の切迫した言葉が<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしいものに思われたりした。耳元にとどいて来る遠巻きのすべての非難の声が、かえって庸三に<ruby><rb>反撥心</rb><rt>はんぱつしん</rt></ruby>を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>った。彼は恋愛のテクニックには全く無教育であった。若い時分にすらなかった心の<ruby><rb>撓</rb><rt>たわ</rt></ruby>みにも事かいていた。<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>な彼の心は、次第に恥知らずになって、どうかすると卑小な見えのようなものも混ざって、引込みのつかないところまで釣りあげられてしまった。

引込みのつかなかったのは、庸三ばかりではなかった。すっかり自分のものになしきってしまった庸三からの逃げ道を見失って、今は彼女も当惑しているのであった。

「僕を独りで帰そうというんだね。」

庸三はすれすれに歩いている葉子を<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>った。<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>をたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。

「そうじゃないけど、少し話も残して来たし、私後から行っちゃいけない？」

「そうね。」

「先生はいいのよ。だけどお子さんたちがね。」

葉子は別居を望んでいたが、子供たちから離れうる彼ではないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。そして庸三の悩みもそこにあった。彼は「今までの先生の家庭の<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>り通りに……」と誓った葉子のかつての言葉を、とっこに取るにはあまりに年齢の違いすぎることも知っていたが、彼女に殉じて子供たちから離れるのはなおさら<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>かった。独りもののいつもぶつかるデレムマだが、同時にそれは当面の経済問題でもあった。何よりも彼は、葉子の苦しい立場に対する客観を欠いていた。

とにかく次ぎのＡ――市行きを待って、葉子も朗らかに乗りこんだ。そして東京行きの夜行を待つあいだ、タキシイでざっと町を見てまわった。<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でた藩公の銅像の立っている公園をも散歩した。

汽車に乗ってからも、庸三は滞在中の周囲の空気――自身の態度、何か気残りでもあるらしい葉子の素振りなどが気にかかった。町の写真師の撮影所で、記念写真を<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>られたことも何か気持にしっくり来なかった。撮影所は美しい<ruby><rb>楆垣</rb><rt>かなめがき</rt></ruby>の多い静かな屋敷町にあったが、葉子はかつての結婚式に着たことのある、長い<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>に、金糸銀糸で<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby>や松を縫い取った帯を締め、近いうち台湾にいる理学士のところへ<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐことになっている妹も、同じような式服で、写場へ乗りこんだものだった。姉妹の左右に母と<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>とが並んで腰かけ、背の高い兄と低い庸三が後ろに立った。――庸三は二度とここへ来ることもないような気がした。

瑠美子をつれて葉子の乗っている汽車が着いた時、庸三は長男と一緒に歩廊に立っていた。

何といっても葉子にとって、彼の大きい子供は鬼門であったが、若い同志の文学論や音楽、映画の話では、二人は好い仲間であった。彼は父には渋面を向けても、手触りの<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかな葉子には<ruby><rb>諧謔</rb><rt>かいぎゃく</rt></ruby>まじりに好意ある言葉を投げかけないわけに行かなかった。

ある時庸三は彼女と一緒に、本郷座の菊五郎の芝居を見に行ったことがあった。

「君芝居<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>い？」

「大好き。連れてって。」

入ってみると、出しものは忠臣蔵で、<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>の場が開いていたが、目の多いなかで二人きりでいるのが、庸三には<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しかった。それに彼は第三者のいることが、いつでも望ましいのであった。二人きりの差向いは、一人でいるよりも寂しかった。第三者が他人の青年か何かである場合が一番<ruby><rb>気易</rb><rt>きやす</rt></ruby>い感じであった。<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている二人――葉子をみているのが、とりわけよかった。相手が子供の場合には、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな不安が伴うのだったが、子供が近よらないよりも安心だった。

「子供をつれて来ればよかった。」

庸三が言うと、

「呼んで来ましょうか。」

と言って、葉子は立って行ったが、芝居がだんだん進展して行くのに、どうしたことか葉子は容易に帰ってこなかった。彼は<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>ついて来た。理由がわからなかった。彼は少し中っ腹で入口へ出てみた。そして廊下をぶらついているうちに、入って来る葉子の姿が目に入った。芝居よりかお茶でも<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>もうというので、喫茶店へ入っていたのだことを、葉子はそっと告げた。

ある時も、彼女はパリへ立つ友人を見送る子供と三四人の同窓と、外国航路の船を見いかたがた横浜へ行こうとして、庸三の許しを<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うた。

「行ってもいい？」

庸三は危ぶんだ。

「さあね、君が行きたいなら。」

「だからお<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きしたいのよ。先生がいけないというなら断わるわ。」

「僕は何ともいうわけにいかない。」

「じゃ断わるわ。」

「断わる必要はない。君が行きたいんだったら。」

その日が来たところで、結局葉子は子供たちと同行した。ちょうど庸三は<ruby><rb>用達</rb><rt>ようた</rt></ruby>しに外出していたが、夜帰ってみると、彼女は教養ある青年たちのナイトぶりに感激したような<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしていた。そのころ彼らもだろうが、彼の子供はボオドレイルの悪魔主義や、コクトオ一派の超現実主義を尊崇していた。そこから出て来る耳新しい文学論は、葉子にも<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>があった。

「いる、いる！」

窓から顔を出している瑠美子が目の前へ来た時、子供は<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましげに叫んだのだったが、庸三は何か冒険に狩り立てられるような不安を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いた。心は<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されていたが、しかしそれで葉子の落着きも出来そうに思えた。

父が<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>に<ruby><rb>遯</rb><rt>のが</rt></ruby>れてから、瑠美子と幼い妹と弟とは、継母とその子供と一緒に、小樽の家を畳んで、葉子の町からはちょっと距離のある、継母の実家のある町に移って来た。その動静が葉子の母親たちの耳へも伝わって、<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めに暮らしていることが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったところで、奪取が企てられた。金を葉子に贈るために、四月に松川が東京に立ち寄った時、葉子は初めて瑠美子だけでも<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>してくれるように哀願したのだったが、拒まれた――そう言って葉子は庸三に泣いていたものだったが、今その子供と一緒に庸三の家に落ち着いた彼女はたちまちにしてそこに別の庸三を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>した。

母親がわりの葉子の愛を見失うまいとして取り着いて来る、庸三の末の娘の咲子と、幾年ぶりかで産みの母の手に帰って来た瑠美子と、そのいずれもの幼い心を傷つけまいとして、葉子は万遍なく<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>の心と手を働かした。外へ出る時、大抵彼女は咲子の手を引いていたが、咲子はまた瑠美子と手を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで歩いた。夜寝るときも葉子は二人を<ruby><rb>両脇</rb><rt>りょうわき</rt></ruby>にかかえるか、眠るまで咲子だけを抱くようにして、童謡を<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>ったり、童話を聞かせたりした。――と、そういうふうに庸三の目にも見え、心にも感じられたが、微妙な子供たちの神経を扱いわけるのは、彼女にも重すぎる仕事であった。

ある日も咲子は、学校から<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けて来ると、彼女の帰るのを待っていた瑠美子と、縁側で<ruby><rb>翫具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>を並べて遊んでいた。細かい人形、お茶道具、お<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>に<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>やバケツに<ruby><rb>洗濯板</rb><rt>せんたくいた</rt></ruby>、それに色紙や<ruby><rb>南京玉</rb><rt>ナンキンだま</rt></ruby>、赤や黄や緑の<ruby><rb>麦稈</rb><rt>むぎわら</rt></ruby>のようなものが、こてこて取り出された。

「瑠美子にも分けてあげなさいね。」

<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に見ていた庸三が言うと、

「なに？　これ？」

咲子は色紙と麦稈とを、いくらか分けて与えたが、瑠美子は寂しそうで、色紙も麦稈もじき庭へ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>ててしまった。葉子は傍ではらはらするように、立ったり坐ったりしているのだったが、庸三はそのころから身のまわりのものを何かとよく整理しておく咲子のものを分けさせる代りに、瑠美子には別に同じようなものを買ってやった方がいいと思っていた。

死んだ姉から持越しの、咲子にとっては何より大切な大きい人形がまた瑠美子を寂しがらせ、母親の心を暗くした。

「先生のお子さんで悪いけれど、咲子さん少しわがままよ。あれを直さなきゃ駄目だと思うわ。」

「君が言えば<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>くよ。」

庸三は答えたが、彼自身の気持から言えば、死んだ久美子の愛していた人形を、物持ちのいいとは思えない瑠美子に<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>らせたくはなかったので、ある日葉子に瑠美子をつれてデパアトへ買いものに行ったついでに、中ぐらいの人形を瑠美子に買ってやった。咲子のより小さいので、葉子も瑠美子も<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばなかったが、庸三はそれでいいというふうだった。

庸三はずっと後になるまで――今でも思い出して後悔するのだが、ある日葉子と子供たちを連れ出して、青葉の影の深くなった上野を散歩して、動物園を見せた時であった。そのころ父親の恋愛事件で、学校へ通うのも<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>くなっていた長女も一緒だったが、ふと園内で<ruby><rb>出遭</rb><rt>であ</rt></ruby>った学友にも、面を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けるようにしているのを見ると、庸三も気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めてにわかに葉子から離れて独りベンチに腰かけていた。と、それよりもその時に限って、何かめそめそして<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>になった咲子を見ると、初めは慈愛の目で注意していたが、到頭<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>して思わず握り太な<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキで、後ろから頭をこつんと打ってしまったのであった。

それから間もなく、ある朝庸三が起きて茶の間へ出ると、子供はみんな出払って、葉子が独り<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の前にいた。細かい羽虫が<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>に<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がっていて、<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>げな十時ごろの日差しであった。いつもの癖で、起きぬけの庸三は顔の筋肉の<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばりが<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>れず、<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>そうな顔をして、長火鉢の側へ来て坐っていた。子供の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>になっている裏の家へ行っていると見えて、女中の影も見えなかった。が葉子は何か落ち着かぬふうで、食卓のうえに朝飯の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしていた。瑠美子はどうしたかと思っていると、大分たってから、腰障子で仕切られた四畳半から、母を呼ぶ声がした。葉子は急いで傍へ行って着物を着せ茶の間へつれ出して来た。

「おじさんにお早ようするのよ。」

瑠美子は言う通りにした。

「寝坊だな。」

庸三は言ったきり、むっつりしていた。葉子はちょっと台所へ出て行ったが、間もなく傍へ来て坐った。かと思うと、また立って行った。庸三は何かお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>の好い言葉をかけなければならないように感じながら、わざとむっつりしていた。そして瑠美子が<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取りあげるのを<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>に、見ているのが悪いような気もして、やがて立ちあがった。そして机の前へ来て<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしていた。と、いきなり葉子が<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がるように入って来たと思うと、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で顔を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>って畳に突っ伏して泣き出した。彼女は肩を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせ、声をあげて泣きながら、さっきから抑え抑えしていた不満を訴えるのだった。

「先生という人は何て冷たい人間なんでしょう。先生が気むずかしい顔だから、私がはらはらして瑠美子にお辞儀をさせても、先生はまるで凍りついたような表情をして、<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>一つ見せてくれようとはしないんです。あの幼い人が先生の顔を見い見いして神経をつかっているのに、先生は路傍の人の態度で<ruby><rb>外方</rb><rt>そっぽ</rt></ruby>むいているじゃありませんか。私は心が暗くなって、幾度となく台所へ出て涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>き拭きしていたのでした。私たち<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は先生のところのお茶<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いになぞなりたくはありません。」

葉子は途切れ途切れに言って、激情に体を<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>かせていた。庸三は驚き<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って、<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めの言葉をかけたが、<ruby><rb>効</rb><rt>かい</rt></ruby>がなかった。起きあがったと見ると、次の間で<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の前に立って何かがたがたやっていたが、そのまま瑠美子を引っ張って、旋風のごとく玄関へ飛び出した。

少し<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して、庸三は出て見たが、「二度と<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐな」と<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った声を浴びせかけて、ぴしゃりと障子を締め切った。

やがて学校を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けて来た咲子が、部屋から部屋を捜しあるいた果てに、父の書斎へ来て寂しそうに立っていた。庸三は何かせいせいした感じでもあったが、寂しさが次第に胸に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いひろがって来た。彼女の憤りを爆発させた今朝の態度の不覚を悔いてもいた。

「おばちゃんは？」

「おばちゃんは出て行った。」

「瑠美子ちゃんも？」

「そう。」

「もう帰ってこないの。」

「帰ってこないよ。」

庸三は言ったが、どこかそこいらを歩いている親子の姿が見えるように思えてならなかった。

しばらくすると彼は寂しそうにしている咲子の手をひいて、ふらりと外へ出て行った。

## 七

<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>はどこもかしこも墓地のように寂しかった。目に映るもののすべてが――軒を並べている商店も、狭い人道をせせっこましく歩いている人間も、ごみごみして見えた。<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>う女たちの顔も<ruby><rb>石塊</rb><rt>いしころ</rt></ruby>のように無表情だった。ちょうどそれは妻を失った<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>の味気ない感じを、もう一つ掘りさげたような<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさで、夏の太陽の光りさえどんよりしていた。新芽を吹くころの、または深々と青さを増して行くころの、それから<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>に黄ばんだ初冬の街路樹の<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>を、彼はその時々の思いで楽しく眺めるのだったが、今その<ruby><rb>下蔭</rb><rt>したかげ</rt></ruby>を通ってそういう時の快い感じも、失われた生の<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びを思い返させるに役立つだけのようであった。もう長いあいだ二十年も三十年もの前から慢性の神経衰弱に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれていて、外へ出ても、街の雑音が地獄の底から来るように<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>く聞こえ、たまたま銀座などへ出てみても目がくらくらするくらいであったが、葉子と<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>するようになってからは、彼は何か<ruby><rb>悽愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な感じと悲痛の念で、もしもこんなことが二年も三年も続いたならと、そぞろに灰色の人生を感ずるのであったが、しかし自身の生活力に信用がおけないながらに、ぶすぶす燃える情熱は感じないわけにいかなかった。異性の魅力――彼はそれを今までそんなに感じたこともなかったし、執着をもったこともなかった。

「おばちゃんどこへ行ったの？」

咲子がきいた。

「さあね。」

ちょうど彼女が宿泊していた旅館の前も通りすぎて、彼は三丁目の<ruby><rb>交叉点</rb><rt>こうさてん</rt></ruby>へ来ていた。旅館の前を通る時、そこの二階の例の部屋に彼女と子供がいるような気もして、帳場の奥へ目をやって見たのであったが、そこを通りすぎて一町も行ったところで、ちょうどその時お<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の小女が向うから来てお辞儀をした。彼女も葉子と同じ郷里の産まれで、髪を桃割に結って小ばしこそうに葉子の用を<ruby><rb>達</rb><rt>た</rt></ruby>していたものだが、お<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を下げたりするついでに、そこに坐りこんで、小説や映画の話をしたがるのであった。後に葉子ともすっかり遠くなってしまってから、彼は四五人のダンス仲間と一緒に入った「サロン春」で、偶然彼女に<ruby><rb>出遭</rb><rt>であ</rt></ruby>ったものだったが、二三年のあいだに彼女はすっかり好い女給になっていた。

「葉子君んとこへ行かなかった？」

「<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>さん？　いいえ。お宅にいらっしゃるんじゃないんですか？」

何か知っているのではないかと思ったが、そのままに別れた。

この辺は晩方妻とよく散歩して、庸三のパンや子供のお弁当のお菜や、または<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>とか<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>とか、食器類などの買い物をしつけたところで、<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>のよかった彼女にお辞儀する店も少なくなかったが、葉子をつれて歩くようになってから、下駄屋や豆屋も好い顔をしなくなった。庸三もその辺では買いものもしにくかった。葉子と散歩に出れば、きっと交叉点から左へ曲がって、本屋を軒並み<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたり、またはずっと下までおりて、デパアトへ入るとか、広小路で景気の好い食料品店へ入ったりした。気が向くとたまには<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へも入ってみた。活動の好きな彼女はシネマ・パレスへは大抵欠かさず行くので、彼も電車で一緒に行って見るのであったが、喫煙室へ入ると、いつもじろじろ青年たちに顔を見られ、時とすると彼女の名をささやく声も耳にしたりするので、彼は口も利かないようにしていた。「<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の光」、「復活」などもそこで彼女と一緒に見た無声映画であった。それに翻訳物も彼女はかなり読んでいて、話上手な薄い<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>から、彼女なりに色づけられたそれらの作品の<ruby><rb>梗概</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>くことも、読むのを<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>にしがちな庸三には、興味ある日常であった。

庸三は三丁目から電車に乗って、広小路のデパアトへ行ってみた。咲子に何か買ってやろうと思ったのだが、ひょっとしたら子供の手を引いて、葉子がそこに人形でも買っていはしないかという、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>げた望みももっていたのだった。彼は<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれた男のように、葉子の幻に取り憑かれていた。そして無論いるはずもないことに気がつくと、今度は一旦<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い出した心に拍車がかかって、急いでそこを出ると、今度は上野駅へ行ってみるのであったが、ちょうど東北本線の急行の発車が、夜の七時何十分かのほかにないことが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ると、自分のしていることがにわかに腹立たしくなって、急いでそこを出てしまった。

夜になってから、彼は葉子の母に当てて問合せの電報を打ってみたが、

ヨウコマダツカヌ

という返電の来たのは、その夜も大分<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてからであった。

ある晩庸三は子供の庸太郎と通りへ散歩に出た。彼はせっかく<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろへ飛びこんで来た小鳥を見失ったような気持で、それから先の、格別成算がついているわけでもないのに、ひたすら葉子の幻を探し求めてやまないのであった。庸三が今まで何のこともなく過ぎて来たのは、人間的の修養が積んでいるとか、理性的な反省があるからというのでは決してなかった。ただ<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い育って来た環境の貧弱さや、生まれつきの愚鈍と天分の薄さの痛ましい自覚に根ざしている<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>と、そういった寂しい人生が、彼の日常を薄暗くしているにすぎなかった。出口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれたような青春の情熱が<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>り、乏しい才能が<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに掘じくり返された。彼はいつとなし自身の<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>ばかり見ているような人間になってしまった。<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な愛の女神が<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れ<ruby><rb>走</rb><rt>ば</rt></ruby>せにもその情熱を<ruby><rb>挑</rb><rt>か</rt></ruby>き立て、悩ましい惑乱の火炎を吹きかけたのだったが、そうなると、彼にもいくらかの世間的な虚栄や好奇な芝居気も出て来て、ちょっと引込みのつかないような形だった。

庸三は昨夜もよく眠れなかったし、このごろの体の疲れも<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えてはいなかった。後になって葉子もたびたび逃げ出したし、庸三も<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い出したりして、別れた後ではきっと、床を延べて寝ることにしていたが、近所のドクトルに来てもらうこともあった。起きていると何か行動しなければならない衝動に駆られがちなので、静かに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>そべって気分の落ち着くのを待つことにしたのであったが、その時はまだそういうことにも<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れていなかった。後にしばしば彼の気持を支配して来た職業心理というものも混ざりこんではいなかった。ただ<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>のない生活意慾の、<ruby><rb>根柢</rb><rt>こんてい</rt></ruby>からの動揺でしかなかった。

子供は父を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わりながら、並んで歩いた。

「やっぱりここにいるんじゃないかな。」

例の旅館の前まで来かかった時、子供もその気がすると見えて、そう言うのだった。

「きいてみよう。」

庸三もその気になって、入口の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>の女中が店に立っていて、

「梢さんですか、あの方昨日ちょっと見えましたよ、いつもの<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ仕立物を取りにおいでになって……。」

「どこにいるでしょう。」

「さあ、それは知りませんですよ。」

いつもの仕立屋さんというのは、妻が長年仕立物を頼んでいた、近所の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>のお神さんのことで、庸三も<ruby><rb>疳性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>のそのお神さんの手に縫ったものを着つけると、誰の縫ったものでも、ぴたり気持に来ないのであった。葉子も二三枚そこで仕立てて腕のいいことを知っていた。

その話をきいているうちに、庸三はにわかに弱い心臓が止まるような感じだった。

「つい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の側まで来ていて……。」

それが一時に彼を絶望に突きやった。そしてふらふらとそこを出て来ると<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が急に暗くなって、子供の手にも支えきれず、酒屋の露地の石畳のところにぐんなり<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れてしまったのだった。脳貧血の発作は彼の少年期にもあったが年取ってからも歯の療治とか執筆に苦しむ時などに、起こりがちであった。病院の廊下で仆れたり<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の雑踏を耳にしながら、ややしばし路傍に横たわっていたりしたこともあった。しかし今彼はそう長くは仆れてもいなかった。夏の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>でのことで、誰か通りすがりの人の声が耳元でしたかと思うと、たちまち<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って歩き出した。

大分たってからある日葉子の手紙が届いた。咲子<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>のもので、彼女の名も居所も書いてなかった。何か厚ぼったいその封書を手にした瞬間、彼はちょっと暗い気持になったが、とにかく開けて見た。

咲子はちょうど三四日病気していた。時々発作的に来る病気で、何か先天的な心臓の弁膜か何かの故障らしく胸部に痛みを感ずるものらしかった。長いあいだ子供の病気や死には<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れている庸三だったが、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く母に<ruby><rb>訣</rb><rt>わか</rt></ruby>れた咲子の病気となると、一倍心が痛んだ。

「大きくなれば<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りますが、今のところちょっと……。」

医師は言うのであった。

「おばちゃん！　おばちゃん。」

そう言って泣く咲子の声が耳に<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みとおると、庸三の魂はひりひり<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>いた。彼女は一度言い聞かされると、その瞬間から慈母のことは一切口にしなくなったが、それだけに、葉子の愛情は一層必要となった。童謡や童話で、胸をさすられたり、出ればきっとチョコレイトか何かを買ってくれて、散歩にもつれて行けば、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>を切ったり、細かい面倒を見てくれる若い葉子の<ruby><rb>軟</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかい手触りは、ただそれだけですっかり彼女を幸福にしたものだったが、それが瑠美子の母として彼女をおいて出て行ったとなると、それは何といっても<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>い運命であった。

「咲子ちゃん、葉子さんの写真を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>の下へ入れているんですのよ。」

姉が庸三に話した。<ruby><rb>枕頭</rb><rt>ちんとう</rt></ruby>へ行って見るとその通りであった。葉子は瑠美子の母で、もう今までのようにお前を愛していることはできないのだ――庸三はそれを言い<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かすこともできなくて、ただ受動的に<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えているよりほかなかった。この子供と一緒に死ぬのも救いの一つの手だという気もした。

そこへ葉子の手紙だった。そして幾枚もの色紙に書かれた手紙と一緒に、咲子への贈りものの<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な色紙もどっさり入っていた。それを病床へ届けてから、彼は子供と二人で幾枚かの切手のべたべた<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>られた封筒の消印を透かして見た。

「スタムプは<ruby><rb>猿楽町</rb><rt>さるがくちょう</rt></ruby>の局ですよ。」

「ふむ――じゃ神田だ。しかし神田も広いから。」

「ひょっとしたら、<ruby><rb>一色</rb><rt>いっしき</rt></ruby>さんが知ってやしないかな。」

彼はまさかと思った。一色が知っているような気もしたが、黙って引き<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>っている一色を、<ruby><rb>年効</rb><rt>としがい</rt></ruby>もなく踏みつけにしていることを考えると、そう思いたくはなかった。葉子がどういうふうに一色を言いくるめたのか――それにも触れたくはなかった。彼は<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いても一色を見向かないことにしていたが、一色が<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>っているようにも思えた。あたかもそれは借金の証文を握っている友達の寛容に甘えて、わざと素知らぬふうをしていると同じような苦痛であった。

「奥さんのある人、私やっぱりいい気持しないのよ。それに一色さん有閑マダムが一人あるんですもの。」

葉子は気休めを言っていたが、庸三の弁解には役立ちそうもなかった。それどころか、庸三は今葉子の<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りを一色に求めようとさえしているのだった。

「お前ちょっと一色んとこへ行って、様子を見て来てくれるといいんだけど。」

「そうですね。行ってもいいけれど……じゃちょっと電話かけてみましょうか。」

庸太郎は近所へ電話をかけに行ったが、じきに<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来た。

「やはり行かないらしいですね。今来るそうです。あまり心配させてはいけないからって……一色さんいい人ですね。」

庸三は妻の死んだ時、金を持って来てくれたり、寂しい子供たちの気分を紛らせるために、ラジオを装置してくれたりした、一色の好意も思わないわけではなかったが、何か自我的な追求心も働いていた。<ruby><rb>撞着</rb><rt>どうちゃく</rt></ruby>が撞着のようにも考えられなかった。葉子への優先権というようなものをも、<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な計算のなかへそれとなく入れてもいたのであった。

一色はタキシイを飛ばして来た。

「葉子さんいないんですてね。」

庸三はわざと一色が知らないようなふうにして、葉子の出て行った前後の話をした。――郵便の消印のことも。

「それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。」

「南明座かしら。」

庸三は幾度も同伴したシネマ・パレスを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみようかと一度は思ったこともあったが、当てなしの捜索は<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに後の気持を寂しくするにすぎないのに気づいていた。もしかしたら誰か若い人とアベックだかも知れないという<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れもあった。

「もしそれでも知れなかったら、私、神田の警察に懇意な男がいますから、調べてもらえばきっと知れますがね。」

「いや、そんなにしなくたって……。」

「いずれそのうち現われるでしょうけれど。」

そう言って、一色はしばらく話しこんでから、警察の人への紹介を名刺に書いたりして、帰って行った。

翌日の午後、庸三は神田の方へ出向いて行った。何ということなし子供も一緒だった。そして猿楽町辺をぶらぶら歩きながら、二三軒の旅館を訪ねてみたが、子供に興味のあるはずもないので、古本屋をそっちこっち<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてから、<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>の盛り場へ出てお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで帰って来た。まだそのころは映画も思わせぶりたっぷりな弁士の説明づきで、スクリンに動く人間に声のないのも、ひどく表情を不自然なものにしていたので、庸三はわざわざ活動館へ入りたいとは思わなかったし、喫茶店にも興味がなかったが、子供とではたまにそういう<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へも足を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるのであった。

翌朝庸三は持越しの衝動的な気持で、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の旅館街を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>していた。

ずっと以前に、別れてしまった妻を追跡して、日光辺の旅館を<ruby><rb>虱潰</rb><rt>しらみつぶ</rt></ruby>しに尋ねて、血眼で宿帳を調べてあるき、到頭その情人の姓名を突き留め、二人が泊まったという部屋まで見届けたという、友人の狂気じみた情痴に<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れたものだったが、今はそれも笑えなかった。機会次第では彼もどんな役割を演じかねないのであった。

まず取っつきの横町の小さな下宿屋を二三軒きいてみた。ちょうど女中が<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>がけで<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>き掃除に働いている時間だったが、ある家では刑事と見られた感じを受けた。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の留学生の巣が、ごみごみしたその辺に軒を並べていた。

いい加減に切り揚げて、やがてその一<ruby><rb>区劃</rb><rt>くかく</rt></ruby>をぬけて、広い通りの旅館を二軒と、アパアト風の洋館を一軒当たってみたが、無駄であった。そして当てなしにぶらついているうちに、いつか<ruby><rb>小川町</rb><rt>おがわまち</rt></ruby>の広い電車通りへ出て来て、そこから神保町の<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>へと歩くのだったが、その辺は不断通っていると、別に何の感じもないのだったが、今そうやって特殊の目的のために気を配って歩いていると、昔その辺を毎晩のように散歩していた気軽な下宿生活の匂いが、その時代の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の気分と一緒に、<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>げて来るのであった。<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の近くにあった下宿の部屋が<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になって来ると、近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ入って、油紙に火がついたように、べらべら<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>る円蔵の八笑人や浮世床を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたものだった。そうしているうちに、彼は<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い胃のアトニイに<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>った。

「あれから何年になるか。」

彼は振り返った。

神保町の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の<ruby><rb>変貌</rb><rt>へんぼう</rt></ruby>は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されていた。透かして<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ると、その<ruby><rb>垠</rb><rt>はずれ</rt></ruby>に春光館と白く染めぬいた赤い旗が、目についたので、庸三はどうせ無駄だとは思ったが行って見た。するとその貧弱なバラック建の下宿兼旅館の石段を上がって、玄関へ入って行った彼の目の前に、ちょうど階段の裏になっている廊下の取っ着きの、開きの<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>があいていて、その部屋の入口に、セルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着て、頭の頂点で彼女なりに髪を束ねた葉子が、ちょこなんと坐っていた。ほっとした気持で「おい」と声かけると、彼女は振り返ったが、いくらか<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>気味で顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くした。そして<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキを上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に立てかけて、ずかずか上がろうとする庸三に、そっと首をふって見せたが、立ち上がったかと思うと、階段の上を指さして、二階へ上がるようにと目で知らした。庸三はどんどん上がって行った。彼女もついて来た。

「ここ私たちの部屋ですの。」

そう言って葉子は取っ着きの明るい部屋へ案内した。感じのわるくない六畳で、白いカアテンのかかった<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>の<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>のうえに、少女雑誌や<ruby><rb>翫具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>がこてこて置かれ、編みかけの緑色のスウェタアが紅い<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>のうえにあった。朝鮮ものらしい<ruby><rb>蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>の敷物も敷いてあった。

葉子は彼を坐らせておいて、一旦下へおりて行ったが、少し<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってから瑠美子を連れて上がって来た。

「おじさんにお辞儀なさい。」

瑠美子が手をついてお辞儀するので、庸三も頭を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ抱いてみた。

「どうしたんだい。誰かいるの、下の部屋に。」

「職人ですの。――あの部屋が落着きがいいもんですから、今壁紙を<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>ってもらっていましたのよ。」

「それでどうしたんだね。」

「近いうち一度お伺いしようと思っていましたの。私瑠美子を仏英和の幼稚園へ入れようと思うんですけれど、あすこからではこの人には少し無理でしょうと思って……。咲子ちゃんどうしています。」

「泣いて困った。それに病気して……。君は<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いじゃないか。僕が悪いにしても、出たきり何の<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>もしないなんて。」

庸三はハンケチで目を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた。葉子は少し横向きに坐って、編みものの手を動かしていた。

「でも随分大変だとは思うの。」

「やっと初まったばかりじゃないか。今に子供たちも仲よしになるよ。どうせそれは<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>もするよ。」

「瑠美子も咲子さんの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>していますの。」

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の子供だって、あんなにみんなで瑠美子を<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がっていたじゃないか。」

「貧しいながらも、私ここを自分の落着き場所として、勉強したいと思ってましたの。そして時々作品をもって、先生のところへ伺うことにするつもりでいたんですけれど、いけません。」

「駄目、駄目。君の過去を清算するつもりで、僕は正面を切ったんだから。」

「ここの主人夫婦も先生んとこ出ちゃいけないと言うんですの。――ここの御主人、先生のことよく知ってますわ。死んだ<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の三条の人で、呉服物をもってよく先生のとこへ行ったもんだそうですよ。その人は亡くなって、<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>さんが今の主人なんですの。」

「色の白い、<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい……。」

「いい人よ。」

「君はまたどうして……。」

「ここ秋本さんの宿ですもの。あの人に短歌の整理をしてもらったり何かしたのも、ここですもの。」

庸三はある時は<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>をつれて、しばしば重い荷物を持ち込んで来た、越後らしいごつい体格のあの商人を思い出したが、同時にあの貴公子風の情熱詩人と葉子との、ここでのロオマンスを想像してみた。それにしては現実の背景が少し貧弱で、何か物足りない感じであった。やがて圧倒的な、そして相当<ruby><rb>狡獪</rb><rt>こうかい</rt></ruby>な彼の激情に動かされて、とにかく葉子は帰ることに決めた。

「じゃ、もうちょっとしたら行きます。きっと行くわ。」

「そう。」

葉子は顔を<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>らせていた。そして庸三が出ようとすると<ruby><rb>壁際</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>にぴったり体を押しつけて立っていながら、「<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を！　唇を！」と呼んだ。

庸三は<ruby><rb>小返</rb><rt>こがえ</rt></ruby>りした。

葉子が車でやって来たのは、庭の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>にやや<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の色の這いよる時分で、見にやった庸太郎を先立ちに、彼女は手廻りのものを玄関に運ばせて、瑠美子をつれて上がって来た。

「庸太郎さんとお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだりしていたもんですから……。それからこんなものですけれど、もしよかったらこの部屋にお敷きになったらどうかと思って……。」

葉子はそう言って、持って来た敷物を敷いてみた。

「どうです、このネクタイ！」

縁側では、子供が葉子に買ってもらった、<ruby><rb>仏蘭西製</rb><rt>フランスせい</rt></ruby>の派手なネクタイを外光に透かして見ていた。

学校が休みになると、子供は<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って海へ行った。瑠美子も仲間に加わらせた。

読んだり書いたり、映画を見たりレコオドを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたり、晩は晩で通りの夜店を見に行ったり、時とすると上野辺まで散歩したり――しかしこの生活がいつまで続くかという不安もあって……続けば続く場合の不安もあって、庸三の心はとかく<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えがちであった。すべての人生劇にとっても、困難なのはいずれ大詰の一幕で、歴史への裁断のように見通しはつきにくいのであった。それに庸三は、すべての現象をとかく無限への延長に<ruby><rb>委</rb><rt>ま</rt></ruby>かせがちであった。

八月の末に、葉子は瑠美子を海岸から呼び迎えて、一緒に<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ立って行った。母の手紙によって、瑠美子の妹も弟も、継母の手から取り戻せそうだということが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったからであった。二人を上野駅に見送ってしまうと、庸三はその瞬間ちょっとほっとするのだったが、また<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の真空に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>ったような気持で、<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさが襲いかかって来た。

「先生にもう一度来てもらいますわ。その代り私がお<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせするまで待ってね。いい時期に手紙あげますわ。」

そうは言っても、葉子は夏中彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に本当に落ち着いていたわけではなかった。何も<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>しはしなかったが、庸三に打ち明けることのできない、打ち明けてもどうにもならない悩みを悩み通していた。彼女は自身の文学の慾求に燃えていたが、生活も持たなければならなかった。瑠美子への<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りも大切であった。最初のころから見ると、著しい生活条件の変化もあった。

二日ほどすると、葉子の手紙がとどいた。彼も書いた。それから大抵三日置きくらいには書いた。どろどろした彼の苦悩が、それらの手紙に吐け口を求めたものだったが、<ruby><rb>投函</rb><rt>とうかん</rt></ruby>した後ですぐ悔いるようなものもあった。葉子が<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>るものとも還らないものとも判断しかねるので、それの真実の探求への心の乱れであり、魂の<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>でないものはなかった。しばしば近くの友達を訪れて、話しこむこともあった。

雨の降るある日、彼はある女を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出した。妻の<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>に、あのころ線香をあげに来た、あの女性であった。その女から待合開業の通知を受け取ったのは、もう大分前のことであった。<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になり放しだったし、さまざまの世界を見て来た彼女の話も<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きたかった。<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い雨だったけれど、雨国に育った彼にはそれもかえってよかった。

タキシイで、捜し当てるのに少し暇を取ったが、場所は思ったより感じがよかった。

「お神さん御飯食べに銀座へ行っていますけれど、じき帰って来ますわ。まあどうぞ。」

庸三は<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>をそこにおいて、上がった。そして狭い中庭に<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>かった橋を渡って、ちんまりした部屋の一つへ納まった。薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える無気味な大きな橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に、<ruby><rb>幾棟</rb><rt>いくむね</rt></ruby>かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いていた。

「ひどい雨ですことね。」

渋皮のむけた二十二三の女中が、半分繰り出されてあった板戸を開けて、<ruby><rb>肱掛窓</rb><rt>ひじかけまど</rt></ruby>の<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>や何かを拭いていた。水のうえには舟の往来もあって、庸三は来てよかったと思った。

女中は<ruby><rb>煙草盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>や、お茶を運んでから、電話をかけていたが、商売屋なので、上がった以上、そうやってもいられなかった。

「お神さんじき帰りますわ。」

女中が言いに来た。

「誰か話の面白い<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>はいない。」

「いますわ。一人呼びましょうか。」

やがて四十を少し出たくらいの、のっぽうの女が現われた。芸者という感じもしないのだったが、打ってつけだった。話も面白かった。お母さんの病気だと言って、<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>を<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>して取った金で、京都で新派の俳優と遊んでいるところを、四条の橋で店の番頭に見つかって、旦那をしくじった若い芸者の話、公園の旧俳優と浮気して、根からぞっくり髪を切られた女の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>――花柳情痴の新聞種は尽きなかった。

そこへお神が入って来た。お神というよりかマダムといいたい……。春見た時はどこからしゃめん臭いところがあったが、今見ると<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>お召の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着て、髪もインテリ婦人のように後ろで<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねて、ずっと<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>であった。

## 八

お神の<ruby><rb>小夜子</rb><rt>さよこ</rt></ruby>は、<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしげにちろちろ動く美しい目をしていて、それだけでもその辺にざらに<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっている女と、ちょっと異った印象を与えるのであったが、彼女は一本のお<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>に<ruby><rb>盃洗</rb><rt>はいせん</rt></ruby>、通しものなぞの載っている食卓の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>っこへ遠のいて、<ruby><rb>台拭巾</rb><rt>だいぶきん</rt></ruby>でそこらを拭きながら、

「大変ですね、先生も葉子さんの問題で……。」

庸三は二三杯<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだ酒がもう顔へ出ていたが、

「僕も経験のないことで、君に少し聞いてもらいたいと思っているんだけれど。」

「<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかでいいじゃありませんか。」彼女はじろりと庸三を見て、

「まあ一年は続きますね。」

小夜子は見通しをつけるのであった。

「今お宅にいらっしゃいますの。」

「ちょっと田舎へ行っているんだがね。僕も実はどうしようかと思っている。」

「田舎へ何しにいらしたんですの。」

「子供を継母の手から取り戻すためらしいんだ。」

そして庸三はこの事件のデテールズについて、何かと話したあとで、

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はどうしてこんな商売を始めたんです。」

「私もいろいろ考えたんですの。クルベーさんも、もう少し辛抱してくれれば、もっとどうにかすると言ってくれるんですけれど、あの人も大きな山がはずれて、ちょっといけなくなったもんですから。」

クルベーという<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>の貴族は、新しい軍器などを取扱って盛大にやっていたものらしいが、支那の当路へ軍器を売り込もうとして、財産のほとんど全部を品物の購入や運動費に投じて、すっかりお<ruby><rb>膳立</rb><rt>ぜんだ</rt></ruby>てが出来たところで、政府筋と支那との直接契約が成立してしまった。そこまで運ぶのに全力を尽した彼の計画が一時に水の<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>となってしまった。その電報を受け取った時、彼はフジヤ・ホテルで卒倒してしまった。

しかし小夜子は今そんなことを初対面の彼に、打ち明けるほど不用意ではなかった。クルベーとの七年間の花々しい<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>生活については、彼女はその後折にふれて口の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>へ出すこともあったし、一番彼女を愛しもし、甘やかしもしてくれたのは何といってもその独逸の貴族だったことも、時々<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出すものらしかったが、今は彼女もその愛の<ruby><rb>囚</rb><rt>とりこ</rt></ruby>に似た生活から<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れ出た<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びで一杯であった。

「貴女の過去には随分いろいろのことがあったらしいね。」

「私？」

「新橋にいたことはないんか。」

「いました。あの時分文芸<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>に花柳界の人の写真がよく出たでしょう。私のも大きく出ましたわ。――けどどうしてです。」

「何だか見たような気がするんだ。いつか新橋から汽車に乗った時ね、クションに坐りこんで、しきりに<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>をやっている芸者が三人いたことがあるんだ。その一人に君が似ているんだ。まだ若い時分……。」

「刺繍もやったことはありますけれど……。何せ、私のいた<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんという人が、大変な人で、外国人の遺産が手に入って、すっかり財産家になってしまったんです。お正月のお座敷へ行くのに、<ruby><rb>正物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の小判や一朱金二朱金の<ruby><rb>裾模様</rb><rt>すそもよう</rt></ruby>を着たというんでしたわ。それでお座敷から帰ると、夏なんか大した<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰かけて、私たちに体を拭かせたり<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>がしたり、寝るときは体を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>む人に小説を読む人といったあんばいで……。」

「ああ、それで君なんかも……。」

小夜子は、三キャラットもあるダイヤの粒の大きいのと小さいのと、それに大振りな<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>のまわりに小粒の真珠を<ruby><rb>鏤</rb><rt>ちり</rt></ruby>ばめたのなど、細い指に<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>をでこでこ<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めていた。

「その人どうしたかね。」

「姐さんですか。それが先生あの有名な竹村先生と軽井沢で心中した芝野さんの<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>を<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>にしているんですよ。」

「なるほどね。」

「お金がうんとありますから、大森に立派な家を立てて、大した有閑マダムぶりですよ。」

「芝野というのを、君知っている？」

「ええ、時々三人で銀ぶらしますわ。こう言っちゃ何ですけれど、<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>な男よ。それあ<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の銀座マンのなかでも、あのくらいいい男はちょっと見あたらないかも知れませんがね。赤いネクタイなんかして<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>よ。それでショウウインドウなんかで、いいネクタイが見つかると腐るほどもってるくせに、買ってよう、ようなんて甘ったれてるの。醜いものね、あんなお<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんが若い燕なんかもってるのは。私つくづくいやだと思いますわ。」

庸三は苦笑して、

「耳が痛いね。」

「いいえ、男の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>はいいんですよ。男の方はいくらお年を召していらしても、決して<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいなんてことはありませんね。」

そうしているうちに、彼は何か食べたくなって来た。妻を失ってから、彼の<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>は妻のやり方を長いあいだ見て来ただけの、年喰いのチビの女中のやってつけの仕事だったので、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を執るのがとかく<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>でならなかった。

「銀水と<ruby><rb>浪花屋</rb><rt>なにわや</rt></ruby>とどっちにしましょうか。」

「そうね、どっちも知らないけれど……。」

「浪花屋の方が、お値段はお<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な割りに、評判がいいようですから。」

庸三は<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>魚田</rb><rt>ぎょでん</rt></ruby>に、お<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>や<ruby><rb>胡麻酢</rb><rt>ごます</rt></ruby>のようなものを三四品取って、食事をしてから、間もなくタキシイを<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>ってもらった。

ある朝庸三は、川沿いのその一室で目をさました。<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しいモオタアや川蒸気や<ruby><rb>荷足</rb><rt>にたり</rt></ruby>の往来が、すでに水の上に<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>になっていた。

昨夜彼は書斎の<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさに、ついタキシイを駆ったものだったが、客が二組もあって、小夜子も少し酒気を帯びていた。庸三は別に女を呼ぶわけではなかった。ずっと後に、友達と一緒に飯を食いに行く時に限って、芸者を呼ぶこともあったが、彼自身芸者遊びをするほど、気持にも<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろにも余裕があるわけではなかった。

「御飯を食べにいらして下さるだけで沢山ですわ。芸者を呼んでいただいても、私の方はいくらにもなりませんのよ。」

小夜子の目的はほかにあった。追々に彼の仲間に来てもらいたいと思っていた。それに彼女は開業早々の商売の様子を見いかたがた<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>から出て来ている姉を紹介したりして、何かと彼の力を<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>りるつもりらしかった。昨夜も彼女は彼の寝間へ入って来て、<ruby><rb>夜深</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の窓の下にびちゃびちゃ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いよる水の音を聞きながら、夜明け近くまで話していたが、それは文字通りの話だけで何の意味があるわけでもなかった。すれすれに横たわっていても指一つ触れるのではなかった。電気<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな光りのなかで、二人は仰むきに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ていた。<ruby><rb>真砂座</rb><rt>まさござ</rt></ruby>時代に盛っていて看板のよかったこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を買い取るのにいくらかかったとか、改築するのにいくらいくらいったとかその金の大部分が、今、中の間で寝ている姉の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>、つまり田舎の製茶業者で、多額納税者である義兄に借りたもので、月々利子もちゃんと払っているのであった。不思議と彼女に好い親類のあることがその後だんだんわかって来たのであったが、小夜子はそれを鼻にかけることもなかった。<ruby><rb>三菱</rb><rt>みつびし</rt></ruby>の理事とか、古河銅山の古参とか、または大阪の大きな工場主とか。彼女が暗い道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って来たのは、父が違うからだということも想像されないことではなかったが、それにしても彼女は十六か七で、最初のライオンの七人組の美人女給の一人として、生活のスタアトを切って以来、ずっと一本立ちで腕を<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>いて来ただけに、金持の親類へ寄って行く必要もなかったし、拘束されることも<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いであった。芝の<ruby><rb>神明</rb><rt>しんめい</rt></ruby>に育った彼女は、桃割時代から先生の手におえない茶目公であったが、そのころその<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の不良少女団長として、神明や<ruby><rb>金刀毘羅</rb><rt>こんぴら</rt></ruby>の縁日などを押し歩いて、天性のスマアトぶりを発揮したものだった。

庸三が床から起きて、廊下から薄暗い中の間をのぞいてみると、いつの間にか起き出した小夜子は、お燈明の<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と輝く仏壇の前に坐りこんで、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>のかかった<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を合わせて、殊勝げにお経をあげていた。庸三にとっては、この場合思いもかけなかった光景であったが、商売柄とはいえ、多くの異性にとかくえげつない振舞の多かった自身の過去を振り返るごとに、彼女はそぞろに心の<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>きを禁じ得ないものがあった。クルベーの厚い情愛で、長い<ruby><rb>病褥</rb><rt>びょうじょく</rt></ruby>中行きとどいた看護と金目を惜しまない手当を受けながら、数年前に死んで行った老母が「そんなことをしてよく殺されもしないものだ」と言って、彼女の成行きを憂えたくらい、彼女は<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どい離れ<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をして来たのであった。華族の若さまなどが入り浸っていた女給時代に、すでにそれが初まっていた。

仏壇のある中の間には、マホガニか何かのと、<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>とが<ruby><rb>三棹</rb><rt>みさお</rt></ruby>も並んでいて、<ruby><rb>三味線箱</rb><rt>しゃみせんばこ</rt></ruby>も<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方においてあった。ごちゃごちゃ小物の多い仏壇に、新派のある老優にそっくりの母の写真が飾ってあったが、壁に同じ油絵の肖像も<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>かっていた。小夜子は庸三が来たことも気づかないように、一心不乱に拝んでいた。

庸三は言わるるままに廊下をわたって、<ruby><rb>風呂場</rb><rt>ふろば</rt></ruby>の方へ行った。天井の高い風呂場は、化粧道具の備えつけられた脱衣場から二三段降りるようになっていた。そして庸三が一風呂つかって、顔を<ruby><rb>剃</rb><rt>あた</rt></ruby>っていると、そこへ小夜子も入って来た。男を扱いつけている彼女にとって、それは一緒にタキシイに乗るのと何の<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>りもなかった。

やがて小夜子は<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き口の方に立って、髪をすいた。なだらかな<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で<ruby><rb>肩</rb><rt>がた</rt></ruby>、<ruby><rb>均齊</rb><rt>きんせい</rt></ruby>の取れた手や足、その<ruby><rb>片膝</rb><rt>かたひざ</rt></ruby>を立てかけて、髪を束ねている図が、<ruby><rb>春信</rb><rt>はるのぶ</rt></ruby>の描く美人の型そのままだと思われた。しかしそんな場合でも、庸三は葉子の美しい幻を忘れていなかった。これも一つの美人の典型であろうが、自然さは葉子の方にあった。

「先生何か<ruby><rb>召</rb><rt>め</rt></ruby>し<ruby><rb>食</rb><rt>あが</rt></ruby>ります？　トストでも。」

「そうね。」

「私御飯いただいたんですよ。これからお山へお<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りに行くんですけれど、一緒に来て下さいません？」

「お山って。」

「<ruby><rb>待乳山</rb><rt>まつちやま</rt></ruby>ですの。」

「変なところへお詣りするんだね。何かいいことがあるのかい。」

「あすこは<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>さまが<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>ってあるんですの。あらたかな神さまですわ。舟で行くといいんですけれど。」

お昼ちかくになってから、不断着のままの小夜子と同乗して、庸三もお山の下まで附き合った。そしてタキシイのなかでお山の段々から彼女の降りて来るのを待っていたが、それからも彼は二三度お詣りのお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をして、ある時は段々をあがって、香煙の立ち昇っている御堂近くまで行ってみたこともあった。

ある日も庸三はこの水辺の家へタキシイを乗りつけた。

彼は三日目くらいには<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にいる葉子に手紙を書いた。書いたまま出さないのもあったが、大抵は<ruby><rb>投函</rb><rt>とうかん</rt></ruby>した。もう幾本葉子の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>にあるかなぞと彼は計算してみた。いずれいつかはそっくり取り返してしまうつもりであったし――またほとんど一本も残らずある機会に巧く言いくるめて取りあげてしまったのであったが、そんな予想をもちながらも、やはり書かないわけに行かなかった。今まで気もつかなかった、変に<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>けた自我がそこに発見された。葉子を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かすようなことも時には熱情的に書きかねないのであった。葉子のような文学かぶれのした女を楽しましめるような手紙は、無論彼には不得手でもあったし、気恥ずかしくもあった。

そうした時、ある日陰気な書斎に独りいるところへ、一人の女流詩人が詩の草稿をもって訪ねて来た。年の若い体の小さいその女流詩人は、見たところ小ざっぱりした<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>もしていなかったが、感じは悪くなかった。彼女の現在は<ruby><rb>神楽坂</rb><rt>かぐらざか</rt></ruby>の女給であったが、その前にしばらく庸三の親友の郊外の家で、家事に働いていたこともあった。彼女は今絶望のどん底にあるものらしかったが、客にサアビスする<ruby><rb>隙々</rb><rt>ひまひま</rt></ruby>に、詩作に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>るのであった。毎日々々の生活が、やがて彼女の<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりなき</rt></ruby>の詩であり、<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>い運命の行進曲であった。

彼女の持ち込んだ詩稿のなかにはすでに印刷されているものも沢山あったが、庸三はその一つ二つを読んでいるうちに、詩のわからない彼ではあったが、何か彼女の魂の苦しみに触れるような感じがして、つい<ruby><rb>目頭</rb><rt>めがしら</rt></ruby>が熱くなり、心弱くも涙が流れた。

「これをどこか出してくれる<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>がないものかと思いますけれど……。」

「そうね、ちょっと僕ではどうかな。」

「ほんとうは私自費出版にしたいと思うんですけれど、そのお金ができそうもないものですから。」

「そうね、僕も心配はしてみるけれど……。」

庸三は暗然とした気持で、彼女の生活を思いやるだけであった。

「先生も大変ですね。お子さまが多くて……。梢さんどうなさいましたの。」

「葉子は今田舎にいますけど……。」

「私のようなものでよかったら、お子さんのお世話してあげたいと思いますけれど。」

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>がね。それは有難いですが……。事によるとお願いするかも知れません。」

「ええいつでも……。」

彼女は机の上にひろげた詩稿を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて帰って行った。

彼はその日のうちに葉子に手紙を書いた。その詩を<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>めると同時に、子供の世話を頼もうかと思っている<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>と。すると三日目に葉子から返事がとどいて、長々しい手紙で、少しいきり立った文句で、それに反対の意見を書いて来た。でなくとも、女給をして来た人では、庸三の家政はどうかという意見もほかの人から出たので、彼もそれは思い<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まることにした。

庸三は<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>で汗を流してから、いつもの風通しのいい小間で、小夜子とその話をしていた。

この水辺の意気造りの家も、水があるだけに、来たてにはひどく感じがよかったが、だんだん来つけてみると、彼女の前生活を語るようなもろもろの道具――例えば二十五人の人夫の手で<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけたという、日本へ渡って来た最大の<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>製金庫の二つのうちの一つだという金庫なぞがそれで、何かそこらの有閑マダムのような<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>ではあったが、室内の装飾などは、何といってもあまり感じのいいものではなかった。

「そのうち追々取り換えるんだね。」

庸三は<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>に<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>そべっていた。小夜子も彼の頭とほとんど垂直に顔をもって来て、そこに長くなっていた。そうして話していると、彼女の目に何か異様な<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いものが走るのであった。

「私芝にいた時、ちょうど先生にお目にかかった時分、こういうことがあったんです。」

小夜子は語るのであった。

「ある人がね、私は<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>の屋敷を出たばかりで、方針もまだ決まらない時分なの。するとその人がね、君ももう三十を過ぎて、いろんなことをやって来ている。<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>でいえば<ruby><rb>舐</rb><rt>ねぶ</rt></ruby>りかすのあらみたいなもんだから、いい加減見切りをつけて、安く売ったらいいだろうって、私に五百円おいて行ったものなの。」

「それが君のペトロンなの。」

「ペトロンなんかないけど。」

「一体君いくつなの？」

「私ですか。そうね。」彼女の答えは<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>であった。彼に女の年を聞く資格もなかった。

「その男は？」

「それきりですの。」

「金は。」

「金は使っちゃいましたわ。」

それが一夜の彼女の貞操の代償というわけであった。彼女は今でもそれを千円くらいに踏んでいるものらしかった。

「その男は――株屋？」

「株屋じゃありません。株屋ならちょっと大きい人の世話に、この土地で出ていた時分にはなったこともありましたけれど、その人も震災ですっかりやられてしまいましたわ。」

そして彼女はその株屋の身のうえを話し出した。

「その人がまだお店の番頭時代――二十四くらいでしたろうか、ある時お座敷に呼ばれて、ちょっといいなあと思ったものです。たびたび<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っているうちに深くなって、店をわけてもらったら、一緒になろうなんて言っていたものでしたが、ほかにお客ができたものですから、それはそれきりになって、私も間もなく堅気になったものですから、ふつり忘れてしまっていたもんなんです。すると、十年もたって、私がまた商売に出るようになってから、株屋仲間のお座敷へ呼ばれて行くと、その中にその人のお友達もいて、おせっかいなことには、四五人で私を芝居につれて行って、同じ<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>でその男に逢わしたものです。その男も今は<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>が死んで、堅いのを見込まれて、<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>養子として<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>へ<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>わって、<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を振るっているという訳で、ちょっと悪くないから私もその気で、再び<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>りが戻ったんですの。私はそうなると、お神さんのあるのが<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>で帰してやるのがいやなんです。お神さんは三つも年上で、夜通し寝ないで待っているという<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>き方で、その人の手と来たら、紫色のあざが絶えないという始末なんです。到頭その店を飛び出して二人で<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもったんですけれど、それからはどうもよくありませんでしたね。私もいい加減見切りをつけて、クルベーさんの世話になったんですが、震災のあの騒ぎの時、よくせきのことだと見えて、その男が店のものを金の無心に<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>しましたわ。自分でもやって来ましたわ。僅かの金なんでしたけれど、私部屋へ帰って考えると、何だか馬鹿々々しくなって、クルベーさんに感づかれても困ると思って、五円やって<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>っ払っちゃいました。けれど、何しろその人は<ruby><rb>草鞋足袋</rb><rt>わらじたび</rt></ruby>か何かで見すぼらしいったらないんですの。顔見るのもいやでしたわ。」

ちょうど時間がよかったので、小夜子の望みで彼は久しぶりで<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみることにした。葉子の好きな言葉のない映画よりも、長いあいだ見つけて来た歌舞伎の鑑賞癖が、まだ彼の<ruby><rb>躰</rb><rt>からだ</rt></ruby>にしみついていた。暗くて陰気くさい映画館には<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>めなかった。

小夜子は帳場へ出て、電話で座席があるかないかを聞きあわせた。

「二階桟敷でしたら、五つ目がありますの。

「結構。」

「私<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>しますから、先生もお宅へ着物を取りにおやんなすっては。」

「そうね。」

その通りにして部屋で待っていると、女中がやって来て、

「何を着て行っていいか、お神さんが先生に来て見て下さいって。」

「そう。」

庸三が行ってみると、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>と<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>がいくつも開いていて、そこに敷いた<ruby><rb>青蓙</rb><rt>あおござ</rt></ruby>のうえにも外にも、<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>や<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>や帯が、花が散りしいたように取り散らかされていた。

「あまり派手じゃいけないでしょう。」

「そうね。あまり目立たない方がいいよ。」

結局何かの<ruby><rb>雨絣</rb><rt>あめがすり</rt></ruby>に、黒の地紋の羽織ということになった。顔もいつものこってりしない程度で、何かきりりと締りの好い、愛らしい形がそこに出来あがった。彼女は流行さえ気にしなければ、一生着るだけの<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>に事欠かないほどのものを持っていた。丸帯だけでも長さ一間幅四尺もある金庫に一杯あった。すばらしい支那服、古い型の洋服――そんなものも、その後何かのおりに、引っ張り出してみたが、それらは残らず震災後に造ったもので、無論クルベー好みのけばけばしいものばかりであった。

車が来たので、庸三は勝手口から降りた。小夜子はコムパクトを帯にはさみながら部屋を出て来た。

「ちょっと寄り道してもいいでしょう。手間は取りません。」

そう言って小夜子は<ruby><rb>永田町</rb><rt>ながたちょう</rt></ruby>へと運転士に命じた。

じきに永田町の静かな町へ来た。小夜子は<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>の<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まった長い<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>のはずれで車をおりて、その横丁へ入って行った。しゃなりしゃなりと彼女の涼しげな姿が、彼の目の先を歩いて行ったが、どんな<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ入って行ったかは、よく<ruby><rb>見極</rb><rt>みきわ</rt></ruby>められなかった。それがクルベーの邸宅であることは、ずっと後に<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った。

暑い盛りの歌舞伎座は、そう込んでいなかった。俳優の顔触れも寂しかったし、出しものもよくはなかった。庸三は入口で、顔見しりの芝居道の人に<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>ったが、廊下でも会社の社長の立っているのを見た。小夜子が紹介してくれというので、ちょいと紹介してから、二階へあがって行ったが、そうやって、前側にすわって扇子をつかっている小夜子の<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>は、広い場内でも<ruby><rb>際立</rb><rt>きわだ</rt></ruby>つ方であった。でも何の関係もないだけに、葉子と一緒の時に比べて、どんなに気安だか知れなかった。

二人は楽しそうに、追々入って来るホールの観客を見降ろしながら、木の入るのを待っていた。

到頭ある日葉子から電報が来た。月<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く水<ruby><rb>煙</rb><rt>けぶ</rt></ruby>る、君きませというような文句であった。

庸三はもう二週間もそれを待ちかねていた。絶望的にもなっていた。いきなり彼女の故郷へ踏みこんでいって、<ruby><rb>町中</rb><rt>まちなか</rt></ruby>に宿を取って、ひそかに動静を探ってみようかなぞとも考えたり、近所に住んでいる友人と一緒に、ある年取った坊さんの<ruby><rb>卜者</rb><rt>うらないしゃ</rt></ruby>に占ってもらったりした。彼はずっと後にある若い易の研究者を、しばしば訪れたものだったが、その方により多くの客観性のあるのに興味がもてたところから、自身に易学の研究を思い立とうとしたことさえあったが、老法師のその場合の見方も外れてはいなかった。占いの好きなその友人も、何か新しい仕事に取りかかる時とか、または一般的な運命を知りたい場合に、東西の人相学などにも<ruby><rb>造詣</rb><rt>ぞうけい</rt></ruby>のふかい易者に見てもらうのが長い習慣になっていた。支那出来の<ruby><rb>三世相</rb><rt>さんぜそう</rt></ruby>の珍本も支那の古典なぞと一緒に、その座右にあった。

「梢を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き出してもかまわない。おれが責任をもつ。」

そう言って庸三の子供たちを激励する彼ではあったが、反面では彼はまた庸三の温情ある<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き役でもあった。

老法師は庸三たちの方へ、時々じろじろ白い眼を向けながら不信者への当てつけのような言葉を、他の人の身の上を説明している時に、口にするのであったが、順番が来て庸三が<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行くと、不幸者を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わるような態度にかえって、<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に水晶の<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>を<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がし、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を繰るのであった。

「この人は、きっと<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ帰って来ます。慈父の手に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>るようにして帰って来ます。貴方がもし行くにしても、今は少し早い。月末ごろまで待っていなさるがいい。そのころには何かの知らせがある。」

卜者は言うのであった。

とにかく庸三は再び葉子の家を見舞うことにして返電をうった。そしてその翌日の晩、いくらかの<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>をトランクに詰めて、上野を立った。実はどこか福島あたりの温泉まで葉子が出て来て、そこで庸三と落ち合う約束をしたので、彼は今そうやって汽車に乗ってみると、またしても彼女の家族や町の人たちに逢うのが、<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>であった。しかし翌日の午後駅へついてみると、葉子<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>や弟たちも出迎えていて、初めての時と別に<ruby><rb>渝</rb><rt>かわ</rt></ruby>りはなかった。彼は再び例の離れの一室に落ちついた。瑠美子のほかに、ちょうど<ruby><rb>継母</rb><rt>ままはは</rt></ruby>の手から取り戻した二人の子供もいて、葉子は何かそわそわしていたが「ちょっと先生……」と言って、彼をさそい出すと、土間を渡って二階へ上がって行くので、彼も何の気なしについて上がった。

葉子は縁側の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を彼にすすめて、子供取り戻しの<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>を話した。ここからそう遠くはない山手の町の実家へ引き揚げて来ている継母は、自分の子がもう二人もできていて、とかく葉子の子供たちに<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>く当たるのであった。

「北海道時代に私が目をかけて使っていた女中なんですよ。その時分は子供にもよくしてくれて、醜い女ですけれど、忠実な女中だったんですのよ。松川は相当のものを預けて行ったものらしいんですの。<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>で落ち着き次第、呼び寄せることになっているらしいんですけれど、あの子たちは食べものもろくに食べさせられなかったんですの。」

「君がつれて来たのか。」

「私が乗り込んでいって、談判しましたの。私には頭があがらないんですの。」

「それでこれから……。」

「先生にご迷惑かけませんわ。」

「…………。」

「先生怒らないでね。私あの人に逢ったの。」

庸三はぎょっとした。それが庸三も一度逢って知っている秋本のことであった。

「誰れに？」

「私には子供を育てて行くお金がいるんですもの。」

庸三はいきなり恐ろしい剣幕で、葉子の肩を両手で<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく揺すり、壁ぎわへ小突きまわすようにした。

「御免なさい、御免なさい。そんなに怒らないでよ。私いけない女？」

やがて庸三は離れた。そして椅子に腰かけた。

そうしている処へ、瑠美子が「まま、まま」と声かけながら<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>をあがって来た。

「瑠美ちゃん下へ行ってるのよ。」葉子は優しく言って、

「まま今おじちゃんにお話があるの。」

やがて葉子はそのことはけろりと忘れたように、話を転じた。妹が近々<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の人のところに<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐために、母に送られて台湾へ行くことになったことだの、母の帰るまでゆっくり<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>していてかまわないということだの――。

庸三は灰色の行く手を感じながらも、朗らかに話している葉子の前にいるということだけでも、瞬間心は<ruby><rb>恰</rb><rt>たの</rt></ruby>しかった。すがすがしい海風のような感じであった。

## 九

庸三の今度の訪問は、滞在期間も前の時に比べてはるかに長かったし、双方親しみも加わったわけだが、その反面に双方が<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>を感じたのも事実で、<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いには何か<ruby><rb>居辛</rb><rt>いづら</rt></ruby>いような気持もしたほど、周囲の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>に暗い雲が低迷していることも<ruby><rb>看逃</rb><rt>みのが</rt></ruby>せないのであった。帰りの遅くなったのは、最近になってやっとはっきり自覚するようになった葉子の<ruby><rb>痔瘻</rb><rt>じろう</rt></ruby>が急激に悪化して、ひりひり神経を刺して来る<ruby><rb>疼痛</rb><rt>とうつう</rt></ruby>とともに、四十度以上もの熱に襲われたからで、彼はそれを<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てて帰ることもできかね、つい<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な日を一日々々と<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに送っていた。

最初着いた時分には、よく浜へも出てみたし、小舟で川の流れを下ったり、汽車で一二時間の美しい海岸へ、<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>でピクニックに行ったりしたものであった。いろいろの人が持ち込んで来る色紙や絹地に、いやいやながら字を書いて暮らす日もあった。その人たちのなかには、<ruby><rb>廻船問屋</rb><rt>かいせんどんや</rt></ruby>時代の番頭さんとか、葉子の家の田地を耕しているような<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんもあった。だだっ広い茶の間を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて歩いているのは葉子の別れた<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>によく<ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>ている、瑠美子の幼い妹や弟たちで、それに葉子の末の妹なども加わって、童謡の舞踊が初まることもあった。葉子はさも幸福そうに手拍子を取って<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>っていた。子供の手を引いて盛り場の方へ夜店を見にいくこともあれば、二人だけで暗い場末の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を歩いてみることや、通り筋の喫茶店でお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むこともしばしばであった。葉子の家では以前町の大通り筋に塩物や金物の店を出していたこともあって、<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の父は<ruby><rb>入婿</rb><rt>いりむこ</rt></ruby>であったが、商才にも<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けた実直な勤勉家で、田地や何かも<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やした方であったが、鉄道が敷けて廻船の方が挙がったりになってからも、<ruby><rb>病躯</rb><rt>びょうく</rt></ruby>をかかえて各地へ商取引をやっていた。瑠美子が産まれてから間もなくその父は死んだが、葉子を特別に愛したことは、その日常を語る彼女の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るのであった。学窓に<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>っていた学生同志の同性愛問題で、そのころ教育界を騒がしたほどの女学校だけに、そしてそれがまた生徒と教師との恋愛問題をも<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起こしただけに、多分処女ではなかったらしい彼女の派手な結婚の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>や、三日にわたった<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>に金を惜しまなかった張り込み方を考えても、父の愛がどんなに彼女を思い<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>らせたか想像できるのであった。

葉子の話では結婚の翌日、彼女は二階の一室で<ruby><rb>宿酔</rb><rt>ふつかよい</rt></ruby>のさめない松川に濃い<ruby><rb>煎茶</rb><rt>せんちゃ</rt></ruby>を勧めていた。体も魂も彼女はすっかり彼のものになりきった気持であった。彼女は畳に片手をついて<ruby><rb>吸子</rb><rt>きゅうす</rt></ruby>のお茶を<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いだ。彼の寝所へ入ったのは、すでに一時過ぎであった。その時まで彼は座敷で方々から廻って来る<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を受けていたので、窓が白むまで知らずに<ruby><rb>爛睡</rb><rt>らんすい</rt></ruby>していた。

朝のお化粧をして、葉子が松川と差向いでいるところへ、にわかに段梯子に<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、最初この結婚を取り持った葉子の<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>筋に当たる男が半身を現わした。

「いやどうもすっかり世話女房気取りだね。こいつは当てられました。」

県の議員なんかをやってる<ruby><rb>素封家</rb><rt>そほうか</rt></ruby>の<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>である従兄はそう言って、顔を赤くしている新夫婦に目を丸くした。葉子もこの従兄とのかつての恋愛模様と、新夫婦を母とともども小樽まで送って行った時の、三人の三角なりな気持の<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み合いは、何か美しい<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>の多い葉子の話しぶりによると、それは相当<ruby><rb>蠱惑的</rb><rt>こわくてき</rt></ruby>なローマンスで、モオパサンの小説にも似たものであった。途中のある旅館における雨の<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい晩に、従兄への葉子の素振りの<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさが、いきなり松川の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>を抑えがたいものに<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>りたてた。ちょっと話があると言って、にわかに葉子は薄暗い別室に<ruby><rb>拉</rb><rt>つ</rt></ruby>れこまれた。

「おれはお前の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>だぞ！」

彼はそう言って葉子が<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えあがるほど激情的に<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>した。

着いてからも、従兄はしばらくその町に滞在していた。そして毎夜のように酒と女に浸っていたものだった。

ある日離れで葉子と庸三とが文学の話などに<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていると、そこへ母親が土間の方から次ぎの間の入口へ顔を出して、今瑠美子たちの<ruby><rb>継母</rb><rt>ままはは</rt></ruby>と二人の書生とが、この古雪の町へ自動車で乗りこんで来たというから、多分子供たちを取り戻しに逆襲しに来たに違いない。と、あわただしく報告するのであった。

「そう！」

葉子はその時少し熱があって、<ruby><rb>面窶</rb><rt>おもやつ</rt></ruby>れがしていたが、子供のこととなると、<ruby><rb>仔猫</rb><rt>こねこ</rt></ruby>を取られまいとする親猫のように、急いで<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を突っかけて、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け出して行った。

庸三は何事が起こるかと、耳を<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>ててじっとしていたが、例の油紙に火のついたように、能弁に<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の<ruby><rb>聯絡</rb><rt>れんらく</rt></ruby>もわからないながらに、次第に耳に入って来た。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、頭から<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしてかかっているものらしく、何か松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とか言った<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>や毒が<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もないので、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>にもならずに、継母は仕方なしに<ruby><rb>俯</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き、書生たちは書生たちで、相かわらずやっとる！　ぐらいの気持で、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>な都会弁も、すっかり<ruby><rb>田舎訛</rb><rt>いなかなま</rt></ruby>り<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出しになって、お品の悪い言葉も薄い<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、それからそれへと果てしもなく連続するのであった。ふと物の<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れる音がして、<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の枝葉の<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っている地境の<ruby><rb>板塀</rb><rt>いたべい</rt></ruby>のうえに、隣家の人の顔が一つ見え二つ見えして来た。そこからは庸三の坐っている部屋のなかも丸見えであった。庸三はきまりがわるくなったので、にわかに茶の間へ出て行って見た。葉子は<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>のようなふうをして、<ruby><rb>炉側</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に<ruby><rb>片膝</rb><rt>かたひざ</rt></ruby>を立てて坐っていたが、

「お前なんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えばいつでも取ってみせる。」

という言葉が彼の耳についた。

するうち<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>が<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いで、書生はその辺を飛びまわっている男の子の<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を取るし、色の浅黒い、目の少しぎょろりとした継母は<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>にお辞儀をして出て行って、葉子は子供のふざけているのに顔を崩しながら、書生たちにもお愛相よくふるまっていた。やがて書生たちも、<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>の刺身や丸ごと盆に盛った<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>などを<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>にビールを二三杯も<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで、引き揚げていった。

その晩、庸三が<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>く虫の集まって来る電燈の下で、東京の新聞に送る短かいものを書いていると、その時から葉子は発熱して、茶の間の仏壇のある方から出入りのできる、店の横にある往来向きの部屋で床に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いてしまった。触ると額も手も火のように熱かった。顔も赤くほてって、目も充血していた。

「苦しい？」

「とても。熱が二度もあるのよ。それにお<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>のところがひりひり刃物で突つくように痛んで、息が切れそうよ。」

「やっぱり<ruby><rb>痔瘻</rb><rt>じろう</rt></ruby>だ。」

庸三にも痔瘻を手術した経験があるので、その痛みには十分同情できた。彼女はひいひい<ruby><rb>火焔</rb><rt>かえん</rt></ruby>のような息をはずませていたが、痛みが堪えがたくなると、いきなり<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねあがるように起き直った。それでいけなくなると、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>から出て、縁側に立ったり<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んだりした。

もちろんそれはその晩が初めての苦しみでもなかった。もう幾日も前から、<ruby><rb>肛門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>の痛みは気にしていたし、熱も少しは出ていたのであったが、見たところにわかに痔瘻とも判断できぬほど、やや<ruby><rb>地腫</rb><rt>じば</rt></ruby>れのした、ぷつりとした小さな<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>であった。

「痔かも知れないね。」

彼は言っていた。その後も時々気にはしていたが、少しくらいの発熱があっても、二人の精神的な悩みの方が、深く内面的に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>いこんでいたので、愛情も何かどろどろ<ruby><rb>滓</rb><rt>かす</rt></ruby>のようなものが停滞していて、葉子の心にも受けきれないほど、彼の<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt></ruby>み方も深刻であった。どうかすると彼女は妹に呼ばれて離れを出て、土間をわたって<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へ出て行くこともあって、しばらく帰って来ないのであったが、帰って来たときの素振りには別に変わったところもなかった。

「私を信用できないなんて、先生もよくよく不幸な人ね。」

葉子は言うのだったが、それかと言って、場所が場所だけに、争闘はいつも内攻的で、高い声を出して口論するということもなかった。

やがてその痔が急激に腫れあがって、<ruby><rb>膿</rb><rt>うみ</rt></ruby>をもって来たのであった。

庸三は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に寝そべっているのにも気がさして、蚊帳を出ようとすると、彼女は<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>のように熱に浮かされながら、

「もうちょっと居て……。」

と引き止めるのであった。

朝になると、彼女も少し落ち着いていて、狭い露路庭から通って来る涼風に、手や足やを<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>らせながら、うつらうつらと眠っているのだったが、それもちょっとの間の疲れ休めで、彼女がある懇意な婦人科のＫ氏に<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらいに行ったのは、まだ<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>でそろそろ行ける時分で、痛みも今ほど<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>びあがるほどではなかったし、熱も大したことはなかった。それがてっきり痔瘻だとわかったのは、その診察の結果であったが、今のうち冷し薬で腫れを散らそうというのが、差し当たっての手当であったが、腫物はかえって<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れひろがる一方であった。そこで、今日になって葉子は別に、これも日頃懇意にしている文学好きの内科の学士で、いつか庸三をつれて病院の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>続きのその邸宅へ遊びに行ったこともある院長にも来てもらうことにした。

その先生が病院の回診をすましてから、俥でやって来た。その時葉子の寝床は、不断母親の居間になっている、茶の間の奥の方にある中庭に臨んだ明るい六畳に移され、庸三も傍に附き添っていた。彼は診察の結果を聞いてから、ここを引き揚げたものかと独りで思い<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>っていたが、痛がる下の腫物を指で押したり何かしていた院長は、

「もう<ruby><rb>膿</rb><rt>う</rt></ruby>んでいる。これは痛いでしょう。」

と微笑しながら、

「あんた手術うけたことありましたかね。」

「北海道でお乳を切ったんですのよ。また手術ですの、先生。」

「これは<ruby><rb>肛門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>周囲炎というやつですよ。こうなっては切るよりほかないでしょうね。」

「外科の病院へ行って切ったもんでしょうかね。」

「それに越したことはないが、なに、まだそう大きくもなさそうだから、Ｋさんにも診てもらったというなら、二人でやって上げてもいいですね。」

「局所麻酔か何かですの？」

「さあね。五分か十分<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>が我慢できれば、それにも及ばないでしょう。じりじり<ruby><rb>疼痛</rb><rt>とうつう</rt></ruby>を我慢していることから思えば、何でもありませんよ。」

そんな問答がしばらく続いて、結局一と思いに切ってもらうことに決定した。

「痔は切るに限るよ。僕は切ってよかったと今でも思うよ。切って駄目なものなら、切らなきゃなお駄目なんだ。じりじり追い詰められるばかりだからね。」

何事なく言っているうちに、庸三は十二三年前に、胃腸もひどく悪くて、手術後の<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れはてた体を三週間もベッドに<ruby><rb>仰臥</rb><rt>ぎょうが</rt></ruby>していた時のことを、ふと思い出した。十三の長男と十一の長女とが、時々見舞いに来てくれたものだが、衰弱が<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しいので、半ば絶望している人もあった。神に祈ったりしていたその長女は、それから一年もたたないうちに死んでしまった。心配そうな<ruby><rb>含羞</rb><rt>はにか</rt></ruby>んだようなその娘の幼い面影が、今でもそのまま魂のどこかに<ruby><rb>烙</rb><rt>や</rt></ruby>きついていた。もしも彼女が生きていたとしたら、母の死の直後に起こった父親のこんな事件を、何と批判したであろうか。生きた子供よりも死んだ子供の魂に触れる感じの方が痛かった。それに比べれば、二十五年の結婚生活において、妻の愛は割合<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられていると言ってよかった。

翌日になって、三時ごろに二人打ち連れて医師がやって来た。彼らはさも<ruby><rb>気易</rb><rt>きやす</rt></ruby>そうな態度で、<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>に詰めて来た消毒器やメスやピンセットを縁側に敷いた防水布の上にちかちか並べた。夏もすでに<ruby><rb>末枯</rb><rt>うらが</rt></ruby>れかけたころで、ここは取分け<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光にいつも<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>があった。その光のなかで荒療治が行なわれた。

庸三はドクトルの<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>で、葉子の<ruby><rb>脇腹</rb><rt>わきばら</rt></ruby>を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>でしかと押えつける一方、両手に力をこめて、<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>を締めつけるようにしていたが、メスが腫物を<ruby><rb>刳</rb><rt>えぐ</rt></ruby>りはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした。

「痛た、痛た、痛た。」

瞬間<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>が額や鼻ににじみ出た。メスをもった婦人科のドクトルは驚いて、ちょっと手をひいた。――今度は内科の院長が、<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>の肉のなかへメスを入れた。葉子は息も絶えそうに<ruby><rb>呻吟</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていたが、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けていた庸三が身をひいた時には、すでに<ruby><rb>創口</rb><rt>きずぐち</rt></ruby>が消毒されていた。やがて<ruby><rb>沃度</rb><rt>ヨード</rt></ruby>ホルムの<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いがして、ガアゼが当てられた。

医師が器械を片着けて帰るころには、葉子の顔にも薄笑いの影さえ差していた。そしてその時から熱がにわかに下がった。

庸三は母や兄の親切なサアビスで、一日はタキシイを駆って、町から程合いの山手の景勝を探って、とある<ruby><rb>蓮池</rb><rt>はすいけ</rt></ruby>の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほと</rt></ruby>りにある<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>で、川魚料理を食べたり、そこからまた程遠くもない山地へ分け入って、微雨のなかを湖に舟を浮かべたり、中世紀の古色を帯びた洋画のように、<ruby><rb>幽邃</rb><rt>ゆうすい</rt></ruby>の趣きをたたえた<ruby><rb>山裾</rb><rt>やますそ</rt></ruby>の水の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>を歩いたりして、日の暮れ方に帰って来たことなどもあって、また二日三日と日がたった。

そんな時、庸三は今まで誰か葉子の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいたものがあったような影も心に差すのであったが、葉子はそれとは反対に、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の外に立膝している庸三に感激的な言葉をささやくのであった。

「これが普通の恋愛だったら、誰も何とも言やしないんだわ。年のちがった二人が<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったという偶然が<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>でなくて何でしょう。」

しかし庸三はまたその言葉が隠している、真の意味も考えないわけに行かなかった。三年か五年か、せいぜい十年も我慢すれば、やがて庸三もこの舞台から退場するであろう。そして一切が清算されるであろう。それまでに巧くジャーナリズムの潮を乗り切った彼女を、別の楽しい結婚生活が待っているであろうと。

庸三は今彼の書斎で、せっせと紙の上にペンを走らせていた。

書いているうちに、何か感傷が込みあげて、字体も見えないくらいに、熱い涙がにじんで来た。彼は<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>や手の甲で涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きながら、ペンを運んでいた。彼は次ぎの部屋で、すやすや明け方の快い<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りを眠っている幼い子供たちのことで、胸が一杯であった。<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>に受け取った葉子の電報が、机の端にあった。

アシタ七ジツク

というのであった。

病床にいる彼女と握手して帰ってから、もう二週間もの日が過ぎたが、その間に苦しみぬいた彼の心も、だんだん正常に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>ろうとしていた。ここですっかり自身を立て直そうと思うようになっていた。その方へ心が傾くと、にわかに荷が軽くなったような感じで、道が目の前に開けて来るのであった。

板戸も開け放したまま、<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>一枚で仕事をしていたのだったが、<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>の<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りが耳につく時分に書きおわったまま、消えやらぬ感激がまだ胸を引き締めていた。

電報を手にした時、彼は待っていたものが、到頭やって来たという感じもしたが、あわててもいた。

「……一年や二年、先生のお近くで勉強できるほどの用意もできましたので……」

そう言った彼女の手紙を受け取ったのも、すでに三日四日も前のことであったが、立て続けに二つもの作品を仕上げなければならなかったので、あれほど<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に手紙を彼女に書いていた庸三も、それに対する返辞も出さずにいた。真実のところ彼はこの事件に疲れ果てていた。享楽よりも苦悩の多い――そしてまたその苦悩が享楽でもあって、つまり享楽は苦悩だということにもなるわけだし、苦悩がなければ<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>するかもしれないのであったが、それにしても彼はここいらで、どうか青い空に息づきたいという思いに<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いていた。

この事件の<ruby><rb>幕間</rb><rt>インタアブアル</rt></ruby>として、彼は時々水辺の小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へも、<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさを紛らせに行った。その時分にはいつも中の間とか茶の間とかにいた、姉も<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ帰ってしまって、彼も座敷ばかりへ通されていなかった。時間になると小夜子は<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入って、それから鏡の前に坐るのであった。顔をこってり塗って、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>に軽く墨を<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>き、アイ・シェドウなどはあまり使わなかったが、<ruby><rb>紅棒</rb><rt>ルウジュ</rt></ruby>で<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の花のように染めた。目も眉もぱらっとして、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き鼻の<ruby><rb>鼻梁</rb><rt>びりょう</rt></ruby>が、附け根から少し不自然に高くなっているのも、そう気になるほどではなく、ややもすると惑星のように輝く目に何か不安定な感じを与えもして、<ruby><rb>奈良</rb><rt>なら</rt></ruby>で産まれたせいでもあるか、のんびりした<ruby><rb>面差</rb><rt>おもざ</rt></ruby>しであった。美貌の<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りというものもまだ失われないで、花々しいことがいくらも前途に待っているように思えた。彼女は何かやってみたくて仕方がなかった。小説を書くということも一つの願望で、庸三は<ruby><rb>手函</rb><rt>てばこ</rt></ruby>に一杯ある書き散らしの原稿を見せられたこともあった。

「私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。」

「男を手玉に取るような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>には行かない。」

「あら、そんなことしませんよ。」

化粧がすむと着物を着かえて、まるで女優の楽屋入りみたいな姿で、自身で見しりの客の座敷へ現われるのであった。座敷を一つ二つサアビスして廻ると、きまって酔っていた。<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>ったウイスキイの酔いで、目がとろんこになり、足も少しふらつき気味で、<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>も乱れがちに、でれんとした姿で庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に寄って来ることもあった。

「相当なもんだな。」

庸三は無関心ではいられない気持で、

「随分<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むんだね。そう呑んでいいの。」

「大丈夫よ、あれっぽっちのウイスキイ。私酔うと大変よ。」

「お神さん！」

廊下で呼ぶ声がする。

「今あの人たちみんな帰りますから。」

しかし、そんな晩、彼女がどこで寝たかも彼には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りようもなかったし、何か商売の邪魔でもしているような気もして、彼はタキシイを言ってもらうのだったが、時には電気<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>において、ギイギイという<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの水の上の<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>の音を耳にしながら話しこむことも珍らしくなかった。

ある日も庸三は小夜子と一緒に、彼女の門を出た。

「先生、今日お<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>でしたら、神田まで附き合ってくれません？　私あすこで<ruby><rb>占</rb><rt>み</rt></ruby>てもらいたいことがありますの。」

「いいとも、事によったら僕も。――君は何を占てもらうんだい。」

「差し当たり何てこともないんですけれど、私、妙ね。随分長いあいだの関係で、昔は一緒に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもったこともありましたの。今は別に何てこともないんです。だけど、相手が逃げるとこっちが追っ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け、こっちが逃げると、先方が追っ駈けて来るといったあんばいで、切れたかと思うと時たってまた<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がったりして……変なものですね。」

小夜子はいつになくしんみりしていた。

「どんな人？」

「それが近頃ずっとよくないんですの。」

庸三は小夜子の好くような男はどんな男かと、それを探りたかったが、彼女はただそう言っただけで、その相手の概念だも与えなかった。しかしそれから大分たってから庸三がある晩茶の間の大振りな<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の側にいると、その日はひどく客が立てこんで、勝手元も忙しく、間断なく料理屋へ電話をかけたりして、小夜子も不断着のまま、酒の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をしたり物を運んだりしていたが、ふと玄関の方の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて<ruby><rb>縕袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>姿で<ruby><rb>楊子</rb><rt>ようじ</rt></ruby>を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えながら入って来る男があった。

「ああ、これだな。」

瞬間、庸三の六感が働いたが、それを見ると、いきなり小夜子はにやにやしながら、その男を連れ出してしまった。

それからまた三年も四年も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って、彼は小夜子の二階の彼女の部屋で、その男ともしばしば花を引いたし、庸三の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へも遊びに来るようになったが、そのころには彼もかなりうらぶれた姿になって、見ちがえるほど<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けていた。そしてその時分になって、庸三はいろいろのことを知ることができた。ホン・クルベーの家から、彼女を引っ張り出したのも、かつては煮え湯を呑まされた彼の<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>だったことも解った。

今、小夜子は彼との新生活に入るつもりで、場合によっては結婚もして本国へもつれて行くつもりでいるクルベーを振り切って出て来たのであったが、誘い出されてみると、まるで当てがはずれてしまった。現在の彼と一脈の新生活を初めるには、小夜子の生活は少し派手すぎていたし、趣味がバタくさかった。そこで小夜子は思いどおりに、こんな水商売を初めたわけであった。

まだ態形も<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>わない金座通りへ出てから、小夜子は円タクを拾って、神田駅のガアド下までと決めた。

しかし一人ずつ二階へ呼びあげて<ruby><rb>占</rb><rt>み</rt></ruby>るので、小夜子が占てもらう間、庸三は下でしばらく待っていた。そのうちに小夜子がおりて来た。<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>わない前と表情に変りはなかった。やがて庸三も占てもらうことにした。

「合性は至極よろしい。しかしこの人は落ち着きませんね。よほど<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しく監督しないと、とかく問題が起こりやすい。」

占者は言うのであった。葉子のことであった。

そこを出ると、二人とも占いの結果については話す興味もなくて、少し通りをぶらついた果てに、二人で庸三の書斎へ帰ってみた。小夜子は<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の卓の前に坐って、雑誌など見ていたが、

「先生に私、何か書いていただきたいんですけれど。」

「書くけれど、僕のじゃ君んとこの部屋にうつらない。そのうち何かもって行って上げるよ。あれじゃ少し<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いからね。追々取り換えるんだね。」

それから彼女の家の建築の話に移って、譲り受けた時の値段や、ある部分は改築のある部分は新築の費用などの話も出た。

庸三は<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>しのかかった古い部屋を今更のように見廻した。

「この家もどうかしなきゃ。」

「そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の<ruby><rb>鳥八十</rb><rt>とりやそ</rt></ruby>お出入りの<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>ですの。」

大ブルジョアのその鳥料理屋が彼女の彼と、何かの縁辺になることも、その後だんだんに<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>って来た。

その時であった、凝ったその鳥料理屋の建築や庭を見いかたがた末の娘もつれて、晩飯を食べに行ったのは。美事な<ruby><rb>孟棕</rb><rt>もうそう</rt></ruby>の植込みを遠景にして、庭中に漫々とたたえた水のなかの岩組みに水晶<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>の滝がかかっていて、ちょうどそれが薄暮であったので、青々した寒竹の茂みから<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に透けて見えるのも涼しげであった。無数の<ruby><rb>真鯉</rb><rt>まごい</rt></ruby><ruby><rb>緋鯉</rb><rt>ひごい</rt></ruby>が、ひたひた水の浸して来る<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>の下を苦もなげに<ruby><rb>游泳</rb><rt>ゆうえい</rt></ruby>していた。桜豆腐、<ruby><rb>鳥山葵</rb><rt>とりわさ</rt></ruby>、それに<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>のようなものが、食卓のうえに並べられた。黒の<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の羽織を着て来た<ruby><rb>清楚</rb><rt>せいそ</rt></ruby>な小夜子の姿は、何か薄寒そうでもあったが、彼女はほんのちっとばかし<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>をつけただけであった。

咲子は人も場所も、何か勝手がちがったようで、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうでもなかったが、始終にこにこしていた。

「いつかクルベーさんと、何かのはずみで、急に日光へ行くことになって、上野駅へ来たのはよかったけれど、紙入れを忘れて来てしまったんですのよ。時間はないし、仕方がないから私がこの家へ来て事情を話すと、黙って三百円立て替えてくれたことがありましたっけ。」

そんな話も出たりして、帰りに三人で夜店の出ている広小路をあるいた。小夜子は子供の手を引いていたが、そうして歩くにも、何か人目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るらしいふうにも見えるのであった。

ふと葉子の話が出た。

「僕もつくづくいやになった。<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>そうと思う。」

「止しておしまいなさい。」

「あと君が引き請ける？」

頼りなさそうな声で、

「引き請けます。」

今、庸三は別にそれを当てにしているわけではなかったけれど、葉子と別れるには、そうした遊び相手のできた今が時機だという気もしていたので、葉子を迎えに行くのを<ruby><rb>怠</rb><rt>ずる</rt></ruby>けようとして、そのまま<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかへ入って、疲れた体を横たえた。彼はじっと眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>ってみた。

葉子とよく一緒に歩いた、深い松林のなだらかなスロオプが目に浮かんで来た。そこは町の人の春秋のピクニックにふさわしい、静かで明るい松山であった。暑さを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎる大きな松の<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>が<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え立っていた。幼い時の楽しい思い出話に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>まない葉子にとって、そこがどんなにか懐かしい場所であった。上の方の<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>ぎわの雑木に<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>が成っていて、<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>が<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い茂っていた。潮の音も遠くはなかった。松の枝葉を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる<ruby><rb>蒼穹</rb><rt>そうきゅう</rt></ruby>も、都に見られない清さを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えていた。庸三も<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>育ちだけに、大きい景勝よりも、こうしたひそやかな自然に親しみを感じた。二人は<ruby><rb>草履穿</rb><rt>ぞうりば</rt></ruby>きで、野生児のようにそこらを<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けまわった。

葉子の家の裏の川の向うへ渡ると、そこにも雪国の田園らしい、何か荒い気分のする場所があって、木立は深く、道は草に埋もれて、その間に農家とも町家ともつかないような家建ちが見られた。葉子はそうした家の貧しい一軒の土間へ入って行って、「御免なさい」と、奥を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。そこには<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の炎の<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>によって人の運命を占うという老婆が、じめじめした薄暗い部屋に坐りこんでいて、さっそく葉子の身の上を占いにかかった。彼女はほう<ruby><rb>気立</rb><rt>けだ</rt></ruby>った髪をかぶって、神前に祈りをあげると、神に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれているような目をして灯の揺らぎ方を見詰めていた。

「東の方の人をたよりなさい。その人が力を貸してくれる。」

<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>の言葉でそんな意味の暗示を与えた。ここから東といえば、それが当然素封家の詩人秋本でなければならなかった。

今、葉子が威勢よく上京して来るというのも、陰にそうしたペトロンを控えているためだとは、彼も気づかないではなかったが、その時の気持はやっぱり暗かった。

庸三は葉子の<ruby><rb>従兄筋</rb><rt>いとこすじ</rt></ruby>に当たる、町の青年文学者島野黄昏に送られながら、一緒に帰りの汽車に乗ったのであったが、何か行く手の知れない暗路へ迷いこんだような感じだった。

その悩みもやや<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>された今、彼はなお迎えに出ようか<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておこうかと惑っていた。しかし病床に<ruby><rb>仰臥</rb><rt>ぎょうが</rt></ruby>しながら、<ruby><rb>捲紙</rb><rt>まきがみ</rt></ruby>に奔放な筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って手術の予後を報告して来た幾つかの彼女の手紙の意気ごみ方を考えると、寝てもいられないような気にもなるのであった。

着物を着かえて、ステッキを<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで門を出ると、横町の角を曲がった。すると物の十間も歩かないうちに、にこにこ笑いながらこっちへやって来る彼女の姿に<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った。古風な小紋の<ruby><rb>絽縮緬</rb><rt>ろちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を来た、彼女のちんまりした形が、目に懐かしく<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みこんだ。

葉子は果して慈父に取り<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>るような、しおしおした目をして、しばらく庸三を見詰めていた。

「先生、若いわ。」

まだ十分恢復もしていないとみえて、<ruby><rb>蚕</rb><rt>かいこ</rt></ruby>のような<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔にぼうッと病的な血色が差して、目も<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んでいた。庸三は<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>ないふうもしかねていたが、葉子は<ruby><rb>四辻</rb><rt>よつつじ</rt></ruby>の広場の方を振り返って、

「私、女の子供たちだけ二人連れて来ましたの。それに女中も一人お母さんが附けてくれましたわ。さっそく家を探さなきゃなりませんわ。」

そう言って自動車の方へ引き返して行くと、その時車から出て来た幼い人たちと、トランクを<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げた女中とが、そこに立ち<ruby><rb>停</rb><rt>ど</rt></ruby>まっている葉子の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来た。

「さあ、おじさんにお辞儀なさい。」

子供たちはぴょこんとお辞儀して、にこにこしていたが、この子供たちを<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて来て、新らしい生活を初めようとする母親の苦労も容易ではなかった。それも物事をさほど<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>に考えない、夢の多い葉子の描き出した一つの芸術的生活構図にすぎなかった。

庸三が三十年も住み古しの狭い横町と並行した次ぎの横町に、すぐ家が見つかって、庸三の裏の家に片着けてあった彼女の荷物――二人で一緒に池の<ruby><rb>畔</rb><rt>はた</rt></ruby>で買って来たあの<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>と鏡台、それに<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>のガラスに桃色の<ruby><rb>裂</rb><rt>きれ</rt></ruby>を縮らした本箱や<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>、<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>唐草</rb><rt>からくさ</rt></ruby>模様の<ruby><rb>大風呂敷</rb><rt>おおぶろしき</rt></ruby>に包まれた<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>といったようなものを、庸三の頼みつけの車屋を<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>って運びこむと、葉子も子供たちを引き連れて、隣の下宿を引き揚げて行った。

大家族主義の田舎の家に育った葉子のことなので、そこに初めて子供たちと一つの新らしい自分の世界をもつことは、何といっても楽しいことに違いなかった。田舎の家もすでに母の心のままというわけにも行かない。相続者の兄家族は<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>にあるその家を離れて、町の要部の静かな住宅地域に開業していたが、どんなにこの妹を愛しているにしても、とかく、世間の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に上りがちな彼女の行動を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶはずもなかった。商売の資本くらい与えて、田舎にじっとしていてもらうか、どこか堅いところへ再縁でもして、落ち着いて欲しかったが、田舎に<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶっていられる葉子でないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。葉子がこの兄や母に心配をかけたこともたびたびで、今度出て来る時も、何かの費用を自身に支払ったくらいであった。病床にいる彼女が、よく<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろの財布から金を出していたことも、時には庸三の目に触れたのであった。滞在の長びいた庸三は、どうにかしなければならないくらいのことも感づかないわけではなかったが、一度少しばかりの<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>の勘定を支払った時でさえ、兄を術ながらせたほどだったので、どうしていいか解らなかった。

葉子たちの落ち着いたのは、狭い平屋であったが、南に坪庭もあって、明るい感じの造作であった。花物を置くによろしい<ruby><rb>肱掛窓</rb><rt>ひじかけまど</rt></ruby>もあって、白いカーテンにいつも風が<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いでいた。それに葉子は部屋を楽しくする<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知っていて、文学少女らしい好みで、<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>を縁側においてみたり、<ruby><rb>清楚</rb><rt>せいそ</rt></ruby>なシェドウのスタンドを机にすえたりして、色チョオク画のように、そこいらを変化させるのに器用であった。

しかし彼女は顔色もまだ蒼白く、長く坐っているのにも堪えられなかった。<ruby><rb>創口</rb><rt>きずぐち</rt></ruby>がまだ完全に<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えていないので、薬やピンセットやガアゼが必要であった。

「先生、すみませんが、鏡じゃとてもやりにくいのよ、ガアゼ取り替えて下さらない。」

「ああいいとも。」

庸三はそう言って、縁側の明るいところで、<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を当てがって、仰向きになっている彼女の創口を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見た。薄紫色に大体は<ruby><rb>癒着</rb><rt>ゆちゃく</rt></ruby>しているように見えながら、探りを入れたら、深く入りそうに思える穴もあって、そこから<ruby><rb>淋巴液</rb><rt>りんぱえき</rt></ruby>のようなものが<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいた。庸三は言わるるままに、アルコオルで消毒したピンセットでそっと<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いて、ガアゼを当てるとともに、落ちないように、細長く切ったピックで止めた。

ピンセットの先きが<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにでも触ると、「おお痛い！」と叫ぶのだった。

「どうもありがとう。」

葉子は起きかえるのだったが、来る日も来る日も同じことが繰り返されるだけで、はかばかしく行かなかった。

庸三は時とすると、奥の部屋で子供たちとも一緒に、窮屈な一つ<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかに<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>を並べるのだったが、<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>が彼女の世帯で、その上子供や女中もいるので、気持に落着きもなかったし、葉子も時には<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>に対するような目を向けるので、<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかというわけには行かなかった。彼は少し腹立ち気味で、ふいと出て来るのであったが、古い自分の書斎も心持を落ち着かせてはくれなかった。ある時などは引き返して行って、蚊帳のなかにいる彼女の白い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を引っぱたいて来ることすらあった。葉子はぽっかり彼を見詰めたきり<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をしていた。

それに葉子はいつも家にいるわけではなく、庸三が行ってみると、女中が一人留守居をしていることもあれば、戸が閉まっていることもあった。

庸三が自動車で買いものをして歩く彼女を、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のうえに載せて、よく銀座や神田あたりへ出たのも、そのころであった。柱時計を買うとか、<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>を作りかえるとか、または化粧品を買うとか。それに外で食事をする習慣もついて来て、一流の<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>へタキシイをつけることもしばしばあった。というのも、二人の女中まかせの庸三の台所は、ひどく不取締りで、過剰な野菜がうんと立ち流しの下に腐っていたり、結構つかえる器物がそこらへ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てられたり、下品な皿<ruby><rb>小鉢</rb><rt>こばち</rt></ruby>が、むやみに買いこまれたりして、遠海ものの<ruby><rb>煮肴</rb><rt>にざかな</rt></ruby>はいつも砂糖<ruby><rb>漬</rb><rt>づ</rt></ruby>けのように悪甘く、漬けものも<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>のように臭かった。それに紛失物もたびたびのことで、渡す小使の用途も不明がちであったが、女中の極度に払底なそのころとしては、目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>っているよりほかに手はなかった。

しかし料亭の払いは、いつも庸三がするとは決まっていなかった。むしろ大抵の場合、葉子が帯の間から<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>を出して、

「私に払わせて。」

と気前をよくしていた。彼女は無限の宝庫をでも持っているもののように見えた。

やがて涼風が吹いて来た。葉子は二度目に移って行った隣りの下宿屋の二階家から、今度はぐっと近よって、庸三のすぐ向う前の二階家に移っていた。そのころになると、彼女も庸三の口添えで、ある婦人文学雑誌に連載ものを書きはじめていたが、一時<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るとみえた<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>は癒らないで、今まで忘れていた痛みさえ加わって来た。何といっても内科と婦人科のドクトルのメスには、手ぬるいところがあった。思い切った手術のやり直しが必要であった。庸三は彼女を紹介する外科のある大家のこともひそかに考えていたが、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>での不用意な荒療治が、すっかり葉子を懲りさせていた。

「それよりも私温泉へ行こうと思うの。<ruby><rb>湯河原</rb><rt>ゆがわら</rt></ruby>どう？」

葉子はある日言い出した。

「そうだね。」

「お金はあるの。先生に迷惑かけませんわ、二人分四百円もあったら、二週間くらい居られない？」

庸三もいくらか用意して、東京駅から汽車に乗ったのは、翌日の午後であった。葉子は最近用いることになったゴム輪の当てものなどもスウト・ケイスのなかへ入れて、二人でデパアトで捜し出した変り織りの<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>に、黒い羽織を着ていたが、庸三もあまり着たことのない、<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>き妻の心やりで無断で作っておいてくれた晴着を身に着けて、目の多い二等車のなかに納まっていた。

## 十

湯河原ではＮ――旅館の月並みな部屋に落ち着いたが、かつて庸三が丘に<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>が実るころに、弟子たちを引き連れた友人とともに、一ト月足らずも滞在していたころの<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>はなくなって、位置も奥の方を切り開いて、すっかり一流旅館の体裁を備えていた。よく方々案内してくれた後取り<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>が、とっくに死んでいたり、友達が騒いでいた娘もよそへ片づいて幾人かの母親になっていた。酒も<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>めず弟子もいない庸三は、しばらくいるうちにすっかり孤独に陥って、酔って悪く<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まってくる友達を<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>するのに骨が折れ、神経がささくれ立ったように疲れて来たものだったが、今考えるとそれも過去の<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな彼の姿であった。後になってみれば、今<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>っていることは、それよりももっと醜いものかも知れなかった。

葉子は着いた当座ここへ連れて来たことを感謝するように、そわそわした様子で、一ト<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>あびて来ると、例のガアゼの詰め替えをした後で、橋を渡ってこの温泉町を散歩した。町の中心へ来て、彼は小懐かしそうに<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。そして<ruby><rb>小体</rb><rt>こてい</rt></ruby>なある旅館の前に立ち止まると、

「ここに玉突き場があったものだ。主人は素敵な腕を持っていて、僕はその男にキュウをもつことから教わったんだが、幾日来ても物にならずじまいさ、君はつけるかい。」

「北海道では<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>いたもんでしたけれど。あの時分は奥さん方のいろいろな社交もあって、ダンスなんかもやったものなのよ。Ｓ――さんの弟さんの農学士の人の奥さんに教わって。」

葉子はいつの場合でも、ロマンチックな話の種に事欠かなかった。グロなその夫人と、土地の商船学校にいた弟との恋愛模様とか、その弟に年上の一人の恋人があって、その弟とのあいだに出来た子供を抱えながら、生花やお茶で自活していることだの、または葉子が乳の<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>を切開するために入院したとき、刀を執った医学士が好きになって、後でふらふらとその男を病院に訪ねて拒絶されたことなど。そうかと思うと、原稿紙をもって不意に姿を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>まして人を騒がせ、新聞のゴシップ<ruby><rb>種子</rb><rt>だね</rt></ruby>になるようなことも珍らしくなかった。

町に薄暗い電気がつく時分に、宿へ帰って楽しい食卓に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。思い<ruby><rb>做</rb><rt>な</rt></ruby>しか庸三はここの玄関の出入りにも、何か重苦しいものを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こくめい</span>な番頭たちの目に感じるのだったが、葉子は水菓子を女中に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けるにも、使いつけの女中のような親しさで、ただ新聞記者でも来ていはしないかと、隣室の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>に気を配るだけであった。

しかし<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>のつよい湯は彼女にとって逆効果を現わした。三日ばかり湯に浸ってはガアゼの詰めかえをやっているうちに、痛みがだんだん募って来るばかりで、どうかすると昼間でも床を延べさせて横になるのであった。昨日まで時々やって来る少しばかりの苦痛を我慢して、大倉公園へ遊びに入って、色づいた木々のあいだを縫って段々を上ったり、岩組みの白い流れのほとりへ降りてみたり、<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>や鶏頭の乱れ咲いている花畑の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を歩いたり、または町の奥にある不動滝まで歩いて、そこからまた水のしたたる岩壁の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をめぐって、晴れた秋の空に<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>の煙の<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く、浅い山の姿を懐かしんだりしていた彼女は、飛んでもないところへ連れて来られでもしたように、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>のあいだに<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せて、すっかり<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>がわるくなってしまった。そしてそうなると、庸三も何か悪いことでもしたようで、ひそかに弱い心臓を痛めるのであった。<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ目をして、じっと黙りこくっているとか、または壁の方をむいて少しうとうとしたかと思うと、目を開いたりする彼女の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるのが、次第に<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になって来た。

ある晩方も、庸三はピンセットを使ってから、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入って、<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しげな電燈の下で食卓の前にすわった。葉子は傍に熱っぽい目をして<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>せっていた。<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>もぽっと<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くなっていた。こうなると彼女は母親から来るらしく見せて、実は<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の秋本に送らせた金で、彼と一緒に温泉へ来ていることも忘れて、平気でいるらしい庸三の顔さえ忌々しくなるのではないかと、彼は反射的に感じるのであったが、またそう<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>んで考えることもないのだという気もして、女中が目の前に並べる料理を眺めていた。

「何にも食べない。」

彼女は<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに目で食べないと答えたらしかったが、庸三が心持<ruby><rb>不味</rb><rt>まず</rt></ruby>そうに食事をしていると、葉子はひりひりした痛みを感ずるらしく、細い<ruby><rb>呻吟声</rb><rt>うめきごえ</rt></ruby>を立て、顔をしかめた。彼は<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い表情をして別のことを考えていたので、振り向きもしなかった。

「人がこんなに苦しんでいるのに、平気で御飯たべられるなんて、何とそれが老大家なの。」

庸三はぴりッとした。そしてかっとなった。彼は食事もそこそこに食卓を離れて、散らかった本や原稿紙と一緒に着替えをたたんで<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>に始末をすると、<ruby><rb>縕袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>をぬいで<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をした。

「おれも君の看護に来たんじゃないんだ。いい迷惑だ。独りでやるがいいんだ。」

庸三はぷりぷりして、電話で汽車の時間をきくと、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>にマッチを<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りつけた。番頭がやって来て、

「お帰りでございますか。」

「ちょっと用もできたから。」

番頭は急げば最終のに間に合うがと、少し首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げていたが、庸三はじっとしてもいられなかった。自動車の爆音がしたので、彼はインバネスを着て、あたふたと部屋を出たが、車が走りだしてから、彼は何か後ろ髪を引かれる感じで、この場の気まずさを十分知りながらも、汽車に間に合わないことを半ば心に念じた。<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>へでもドライブしようかとも考え、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って書斎に寝た方が楽しいようにも感じた。

<ruby><rb>石塊</rb><rt>いしころ</rt></ruby>の多い道を、車はガタガタと揺れながらスピイドを出した。庸三は時々<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がりそうになったが、風も吹いていたので、揺れる拍子に<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>に頭をぶちつけそうになって、その瞬間半分ガラスを卸してあった窓から帽子が飛んでしまった。ちょうどわざと飛ばしたように。

「君ちょっと帽子が飛んじゃったんだ。」

運転士は車を止めて風の強い<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>のなかに帽子を捜したが、しかしそれも物の二分とはかからなかった。

駅の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が間近に見えて来た。そして今ちょっとのところで駅前の広場へ乗り入れようとした時、汽車の動く音がした。

庸三は何か<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>でもしたようなふうで部屋へ戻って来た。

「先生オレンジをそう言って！」

やがて葉子も寝床から起きあがった。

入院するまでに葉子の支度はかなり手間取った。ちょうど婦人雑誌に小説を連載していたところなので、それも二月分ためる必要があったし、<ruby><rb>瑠美子</rb><rt>るみこ</rt></ruby>には何か花やかな未来を約束しておきたかったので、差し当たりいつも新しい道を切り開いて、世間の気受けもいい舞踊家の<ruby><rb>雪枝</rb><rt>ゆきえ</rt></ruby>に、内弟子として住みこませたい念願だったので、支度が出来次第、それも頼みに行かなければならなかった。何よりも母に来てもらわなければならなかった。

葉子は湯河原の帰りにも、汽車のクションで<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ていたくらいで、<ruby><rb>小田原</rb><rt>おだわら</rt></ruby>でおりた時は、顔が<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって、心臓が止まったかと思うほど、口も利けず目も見えなくなって、庸三の手に<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けられて、<ruby><rb>駅脇</rb><rt>えきわき</rt></ruby>の休み茶屋に連れこまれた時には、まるで死んだように、ぐったりしていたものだが、やっと男衆の手で、奥の静かな部屋へ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎこまれて、そこでややしばらく<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>んでいるうちに、額に<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>む冷たい<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>もひいて、<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い脈もいくらか<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まって来た。彼女はどうかして痛い手術を逃げようとして、かえって手術の必要を痛切に感ずるようになった。

ある日、葉子は、<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>い<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>に<ruby><rb>矢筈</rb><rt>やはず</rt></ruby>の<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がった<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>に、地の緑に赤や<ruby><rb>代赭</rb><rt>たいしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>唐草</rb><rt>からくさ</rt></ruby>をおいた帯をしめて、庸三の手紙を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろにして、瑠美子をつれて雪枝を訪問した。雪枝は内弟子に住みこませることを快く引き受けてくれたが、詩も作り<ruby><rb>手蹟</rb><rt>しゅせき</rt></ruby>も流麗で、文学にも熱意をもっているので、葉子も古い<ruby><rb>昵</rb><rt>なじ</rt></ruby>みのように話しがはずんだ。庸三が葉子につれられて、お<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いを見に行ったのも、それから間もないある日の晩方であった。

「私も小説が書きたくて<ruby><rb>為様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がなかったんですけどもね。」

何かごちゃごちゃ装飾の多い彼女の小ぢんまりした部屋で、気のきいた<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になりながら、庸三は彼女の芸術的<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>と、北の人らしい情熱のこもった言葉を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いていたが、芸で立つ人の心掛けや精力も並々のものではなかった。話がかつての彼女の恋愛に及んで来ると、<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しい目ににわかに情熱が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて来た。

しかし彼女は独りではなかった。庸三が前からその名を耳にしていた若い文学者の清川がそこにいて、下町の<ruby><rb>若旦那</rb><rt>わかだんな</rt></ruby>らしい柄の彼を、初め雪枝が紹介した時に、庸三はそれが彼女の若い愛人だと気づきながら、<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に双方の組合せがちょっと気になって、何か<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな不安を感ずるのであった。

「これこそ葉子に似合いだ。」

庸三はそう思った。

葉子が病室で着るつもりで作った、<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだ赤と紺との荒い<ruby><rb>棒縞</rb><rt>ぼうじま</rt></ruby>の<ruby><rb>縕袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>も、不断着ているので少し<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れが見えて来たが、十一月もすでに半ば以上を過ぎても、彼女はまだ二階の奥の間に寝たり起きたりしていた。そのころになると、ガアゼの詰めかえも及ばなくなって、どうかすると彼女は痛さを紛らせるために、断髪の頭を振り立て、じだんだ踏んで部屋中<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>びあるいた。彼女は間に合わせの塗り薬を用いて、いくらか痛みを緩和していた。庸三はしばしば彼女の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に寝たが、ある夜彼は彼女の口から、秋本が見舞いがてら上京するということを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「あの人時々東京へ来るのよ。」

葉子は気軽そうに言った。

「来てもほんの二三日よ。だけど、私お金もらってるから、一度だけ行かしてね。」

それが病気見舞かと思われ、葉子の動静を探るためかと思われたが、葉子の様子に変りはなかった。

その二階から見える庸三の庭では、<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>の煙が毎日あがっていた。もう冬も少し深くなって、増築の部分の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>あげもすんでいた。彼はぜひとも家をどうにかしなければならない羽目になっていた。

## 十一

ある日の午後、葉子は<ruby><rb>庸三</rb><rt>ようぞう</rt></ruby>の同意の下に、秋本の宿を訪問すべく、少し濃いめの<ruby><rb>銀鼠地</rb><rt>ぎんねずじ</rt></ruby>にお<ruby><rb>納戸色</rb><rt>なんどいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>矢筈</rb><rt>やはず</rt></ruby>の<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がっている、そのころ新調のお召を着て出て行った。多少結核性の疑いもあるらしい<ruby><rb>痔疾</rb><rt>じしつ</rt></ruby>のためか、顔が病的な美しさをもっていて、目に<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ底光りがしていた。少なからぬ生活費を遠くにいる秋本に送らせながら、身近かにいる庸三に奉仕しているということが、たといそれが小説修業という彼女の<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>みがたき大願のためであり、その目的のためには有り余る秋本の財産の少し減るぐらいは、大した問題ではないにしても、時々には秋本を欺いていることに自責の念の禁じ得ないこともあって、それが痔の痛みと一緒に、ひどく彼女の神経を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせた。同時に葉子の体を独占的に縛っているかのように思える庸三が、ひどく鈍感で<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>な男のように思えて、腹立たしくもなるのであった。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>からの目には、とかく不純だらけのように見えるであろう彼女の行為も、彼女自身からいえば、現われ方は<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んでいても、それは複雑で矛盾だらけの環境と運命のせいで、<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>は思いにまかせぬ現実の生活のために、弱い殉情そのものが無残に<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられているのだと思われてならなかった。いわば彼女の殉情と文学的情熱とは、現実の<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣にかかって<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えている、美しい弱い<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>のようなものであった。

「そんなに金を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ってもいいのか。」

二百三百と、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろがさびしくなると、性急に電報<ruby><rb>為替</rb><rt>がわせ</rt></ruby>などで金を取り寄せていることが、そのころにはだんだん露骨になって、見ている庸三も気が痛むのであった。

「いいのよ、有るところには有るものなのよ。」

「いや、もう大して無いという話だぜ。」

「ないようでも<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>っていうものは、何か<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>か有るものなのよ。」

葉子は楽観していたが、送ってくれる金の受取とか礼状とかいったようなものも、なかなか書かないらしいので、庸三はそれも言っていた。

「だから私困るのよ。手紙を出すとなると、あの人が満足するように、いくらか<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>っぽいことも書かなきゃならないし、書こうとすれば、先生の目はいつも光っているでしょう。」

そう言って葉子は苦笑していたが、わざと庸三の前で、達筆に書いてみせることもあった。その文句は庸三にも大抵想像がつくので、わざと見ぬふりをしていた。

するとちょうどその日は庸三も、田舎で世話になった葉子の母親に、<ruby><rb>歌舞伎座</rb><rt>かぶきざ</rt></ruby>を見せることになっていて、無論葉子も同行するはずで、三枚切符を買ってあった。

「先生はお母さんつれて、行っていてちょうだい。私秋本さんのホテルを訪ねて、三十分か――長くとも一時間くらいで切り揚げて行きますから。きっとよ。いいでしょう。」

葉子はあわただしく<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>をすると、そう言って一足先きに家を出た。

庸三と母親は、しばらくすると歌舞伎座の二階<ruby><rb>棧敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>の二つ目に納まっていた。それが<ruby><rb>鴈治郎</rb><rt>がんじろう</rt></ruby>一座の芝居で、初めが何か新作物の時代ものに、中が鴈治郎の十八番の<ruby><rb>大晏寺</rb><rt>だいあんじ</rt></ruby>であった。庸三はそのころまだ歌舞伎劇に多少の愛着をもっていただけに、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の葉子が一緒にいないのが何となく心寂しかった。母親も話はよくする方だったが、彼女の田舎言葉は十のうち九までは通じないのであった。

幕数が進むに従って、庸三はようやく落着きを失って来た。芝居を見たいことも見たかったが、<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いに行ったホテルの一室の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>も気にかかった。こんな享楽場で<ruby><rb>同伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>を待つということは、相手が誰であるにしても、とかく神経質になりがちなものだが、この場合の庸三は特にも観劇気分が無残に<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き乱された。彼はしばしば場席を出て、階段口まで出て行ったが、到頭入口まで出向いて行って、その時になってもなおたまには自動車を出て来る人を点検しながら、その辺をぶらついていた。そうしているうちに<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>しい時間が二時間も過ぎてしまった。果ては神経に疲れが出て来て、半分は<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの<ruby><rb>気易</rb><rt>きやす</rt></ruby>さから、わざと席に落ち着いていた。肝腎の中幕の大晏寺がすでに開幕に迫っていた。舞台裏の木の音が近づいて来た。

そこへ葉子がふらふらと入って来た。

「どうもすみません。待ったでしょう。」

葉子はそう言って庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に腰かけた。

「でもよかった。今中幕が開くところだ。」

「そう。」

葉子は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、顔も声も疲れていた。

庸三は<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れたその顔を見た瞬間、一切の光景が目に<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>して来た。葉子のいつも黒い<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は光沢を失って<ruby><rb>鳶色</rb><rt>とびいろ</rt></ruby>に乾き、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>にも生彩がなかった。そういう時に限って、彼女はまた別の肉体に愛情を感ずると見えて、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>の目が<ruby><rb>一齊</rb><rt>いっせい</rt></ruby>に舞台に集まっているなかで、その手が庸三にそっと触れて来るのであった。

鴈治郎の大晏寺は、庸三の好きなものの一つであった。役としての<ruby><rb>春藤某</rb><rt>しゅんとうなにがし</rt></ruby>の悲痛な運命の下から、彼の大きな<ruby><rb>箇性</rb><rt>こせい</rt></ruby>が、彼の大きな<ruby><rb>頭臚</rb><rt>あたま</rt></ruby>のごとく、愉快ににゅうにゅう首を持ちあげて来るのが面白かった。

「ふふむ！」

と葉子も<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れていた。

二番目の同じ人の<ruby><rb>忠兵衛</rb><rt>ちゅうべえ</rt></ruby>はすぐ真上から見おろすと、筋ばった白い首のあたりは、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がまざまざ目立って、肩から背へかけての後ろ姿にも、争えない寂しさがあった。庸三は大阪で初めて見た花々しい彼の三十代以来の舞台姿を、長いあいだ見て来ただけに、舞台のうえの人気役者に刻んで行く時の流れの<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が、反射的に<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しいものに思われてならなかった。

それから中二日ほどおいて、ある夕方葉子の二階の部屋に二人いるところへ、女中のお八重が「今運転士さんが、これを持って来て、お迎えに来ました。」と言って、結び<ruby><rb>文</rb><rt>ぶみ</rt></ruby>のようなものを、そっと葉子に手渡した。

葉子は<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>のホテルで<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って来て以来、秋本のことをあまりよくは<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>しなかった。彼の手が太く<ruby><rb>巌丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>なんでいやんなっちゃったとか、壁にかかっていた<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>が、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>紳士丸出しだとか、いまだにトルストイやガンジイのことばかり口にして、田舎くさい文学青年の稚気を脱していないとか、ちょうどその翌晩に彼女はある新聞社の催しに係る講演などを頼まれ、ある婦人雑誌にも長編小説を書いていたりしていたところから、にわかに花々しい文壇へのスタアトを切り、新時代の女流作家としての存在と、光輝ある前途とが、すでに確実に予約されたような感じで、久しぶりで逢った秋本の気分が、何か時代おくれの土くさいものに思われてならなかった。

庸三は自分への気安めのように<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き流していたが、いくらかは信じてもよいように思えた。

「今度もう一度逢いに行かしてね。わざわざ遠くから出て来ても、あの日は私も気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いて、しみじみ話もできなかったもんで、どこか静かな<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>で、一晩遊ぼうということになったの。」

庸三は頷いた。

「あの男、情熱家のようだね。」

「そうよ。私が部屋へ入ると、いきなり飛びついて天井まで抱きあげたりして……でもあの人何だか変なところがあるの。」

葉子は顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くして、<ruby><rb>俛</rb><rt>うつ</rt></ruby>むいていた。

「今度どこで逢うのさ。」

「どこか水のあるところがいいようなことを、あの人も言っていたけれど……。」

葉子は画家の<ruby><rb>草葉</rb><rt>そうよう</rt></ruby>と恋に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて行ったとき、夜ふけての水のうえに<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>む<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>の音を耳にしながら、楽しい一夜を明かしたかつての思い出のふかい、柳橋あたりの<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れたある家のことをよく口にしたものであったが、今度も多分その辺だろうかとも思われた。

「ちょっと見せてごらん。」

庸三はそう言ってその文を取ってみたが、場所はそれと反対の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>で、家の名も書いてあった。それに文句が古風に<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>で、「ようさままいる」としたのも感じがよくなかった。庸三は案に相違して、むしろ歯が浮くような<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を感じた。

「一つそっとその<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ上がって見てやろうかな。」

庸三は<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>らしく言ってみた。

「ええ、来たってかまわないことよ。」葉子は平気らしく言って、やがて立ちあがった。

「何時ごろ帰る？」

「十時――遅くも十一時には帰って来るわ。」

彼女は指切りをして降りて行った。

庸三は空虚な心のやり場をどこに求めようかと考えるまでもなく、いつも行きつけの同じ大川ぞいの<ruby><rb>小夜子</rb><rt>さよこ</rt></ruby>の家へタキシイを駆るのであった。するとちょうど<ruby><rb>交叉点</rb><rt>こうさてん</rt></ruby>のあたりまで乗り出したところで、その辺を散歩している長男と平田青年とに見つかって、二人はいきなり車に寄りついて来た。

「どこへ行くんです。」

「ううん、ちょっと飯くいに……。」

庸三は少し<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>気味で、「一緒に乗らない？」と言ってしまった。

得たり賢しと二人は入って来たものだった。

庸三は<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の子供のなかでも、幼少のころから長男を一番余計手にもかけて来たし、いろいろな場所へもつれて行った。珍らしい曲馬団が来たとか、世界的な鳥人が来たとか、曲芸に歌劇、時としてはまだ見せるのに早い<ruby><rb>歌舞伎劇</rb><rt>かぶきげき</rt></ruby>をも見せた。ある年<ruby><rb>向島</rb><rt>むこうじま</rt></ruby>に水の出た時、貧民たちの窮状と、救護の現場を見せるつもりで、息のつまりそうな炎熱のなかを、暑苦しい洋服に制帽を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った七八つの彼を引っ張って、到頭<ruby><rb>千住</rb><rt>せんじゅ</rt></ruby>まで歩かせてしまった結果、子供はその晩から九度もの熱を出して、黒い<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>のようなものを吐くようになった。

「それあ少し乱暴でしたね。」

庸三は小児科の先生に<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>われたが、子供をあまりいろいろな場所へ連れ行くのはどうかと、人に警告されたこともあった。しかし後に銀ぶらや喫茶店や、音楽堂入りを、かえってこの子供から教わるようになったころには、彼も自分の教育方法が、全然盲目的な愛でしかなかったことに気がついて、しばしば子供の日常に神経を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせなければならなかった。それに大抵年に一度か二度、胃腸の疾患とか、<ruby><rb>扁桃腺</rb><rt>へんとうせん</rt></ruby>とかで倒れるのが例で、中学から上の学校へ入るのに、二年もつづいて試験の当日にわかに高熱を出して、自動車で帰って来たりして、つい入学がおくれ、その結果中学時代に持っていた<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な学生気分にも、いつか<ruby><rb>懈怠</rb><rt>げたい</rt></ruby>が来ないわけに行かなかった。ここにも若ものの運命を狂わせる試験地獄の<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りがあったわけだが、それが庸三の不断の悩みでもあった。

けれど今になってみると、彼はむしろ自身の足跡を、ある程度彼にも知らせておいていいような気分もした。それがもし恋愛といったような特殊の場合であるとしても、老年の彼以上にも適当な批判を下しうるだけの、近代人相応の感覚や情操に事欠くこともあるまい――と、そう<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>には考えなかったにしても、少なくもそういった甘やかしい感情はもっていた。ルウズといえば庸三ほどルウズな頭脳の持主も珍らしかった。

ここは水に臨んでいるというだけでも、部屋へ入った瞬間、だれでもちょっと<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>っぽい<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>から遠ざかった気分になるのであったが、庸三たちには格別身分不相応というほどの構えでもなく、文学にもいくらか色気のある小夜子を相手に無駄口をききながら、手軽に食事などしていると、葉子事件に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>む苦難が、いくらか紛らせるのであった。

「いつかも伺ったけれど、小説てそんなにむずかしいもんですの。」

小夜子はこのごろも書いたとみえて、原稿<ruby><rb>挟</rb><rt>ばさ</rt></ruby>みを持ち出して来て、書き散らしの小説を引っくらかえしていたが、庸三はこの女は書く方ではなくて、書かれる方だと思っていたので、

「やっぱり五年十年と年期を入れないことには。何よりも文章から初めなくちゃ。」

と言って笑っていたが、今のように親しくなってみると、変化に富んだ彼女の過去については、何一つ<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった話の筋に触れることもできなかった。

子供と平田が交通<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>な水の上を見ていると、やがて夕方のお化粧を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らした小夜子が入って来た。そして<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を組んだまま、丸々した顔ににこにこしている子供を見ていたが、

「こちらいつかお宅でお目にかかった坊っちゃんですの。」

庸三も笑っていたが、あらためて平田青年をも紹介して、食べものの<ruby><rb>見繕</rb><rt>みつくろ</rt></ruby>いを頼んでから、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入った。

庸三はどこかこの同じ川筋の上流の家で、葉子が秋本と、今ごろ酒でも飲んで<ruby><rb>気焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>を挙げているであろうと思われて、それは打ち明けられたことだけに、別にいやな気持もしないのであったが、自身の妙な立場を考えると、何か<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい感じでもあった。すると廊下を一つ<ruby><rb>隔</rb><rt>へ</rt></ruby>だてた、同じ水に臨んだ<ruby><rb>小室</rb><rt>こべや</rt></ruby>の方で、やがて小夜子がお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>笑いしていると思ったが、しばらくすると再び庸三たちの方へ戻って来た時には、ビイルでも<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだものらしく、目の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>がやや<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くなっていた。庸三はこのごろ仲間の人たちで、ここを気のおけない遊び場所にしている人も相当多いことを考えていたので、隣りの客がもしかするとその組ではないかと思ったが、小夜子に聞いてみると、それは最近ちょくちょく一人でそっとやって来る、近所の医者だことが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った。彼も風変りなこのマダムのファンの一人で、庸三もある機会にちょっと<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらったこともあって、それ以来ここでも一度顔が合った。不思議なことには、それが女学校を出たての葉子がしばらく身を寄せていたという彼女の親類の一人であった。葉子が人形町あたりの勝手をよく知っていて、わざわざ<ruby><rb>伊達巻</rb><rt>だてまき</rt></ruby>など買いに来たのも理由のないことではなかった。そしてそう思ってみると、ぴんと<ruby><rb>口髯</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねたこのドクトルの、型で押し出したような顔のどこかに、<ruby><rb>梢家</rb><rt>こずえけ</rt></ruby>の血統らしい面影も<ruby><rb>見脱</rb><rt>みのが</rt></ruby>せないのであった。がっちりしたその寸詰りの<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>にも、どこか<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しみがあって、ダンスも巧かった。庸三は小夜子と人形町のホオルを見学に入ったとき、いかにも教習所仕立らしい<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なステップを踏んでいる、彼の勇ましい姿を群衆のなかに発見して、思わず微笑したものだった。

「どうです。運動に一つおやりになっては。初めてみるとなかなか面白いものですよ。」

ドクトルは<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来て勧めた。

そのドクトルが今夜も来ているのであった。小夜子はそれをことさら<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>がっているような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしていたが、庸三自身も<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>でどんなことを言われていたかは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのであった。

庸三は葉子がこのドクトルの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に身を寄せていたのを想像してみたりしたが、女学校卒業前後に何かいやな風評が立って、それを避けるために、ドクトルの家でしばらく預かることになったというのは、よくよくの悪い邪推で、真実は音楽学校の試験でも受けに来ていたというのが本当らしかった。庸三は葉子と交渉のあった間、もしくはすっかり手が切れてしまってからも、後から後からと耳に入るのは、いつも彼女の悪いゴシップばかりで、ある時は正面を切って、彼女を擁護しようと<ruby><rb>焦慮</rb><rt>あせ</rt></ruby>ったことが、二重に彼を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きこんで、手も足も出なくしてしまった。

約束の十時に、庸三は小夜子の家を引きあげた。そして、円タクを通りで乗りすてて家の近くまで来ると、そっと向う前にある葉子の二階を見あげた。二階は板戸が締まっていて、電燈の明りも差していなかったが、すぐ<ruby><rb>板塀</rb><rt>いたべい</rt></ruby>の内にある下の六畳から、母と何か話している彼女の声が洩れた。庸三はほっとした気持で<ruby><rb>格子戸</rb><rt>こうしど</rt></ruby>を開けた。

「一時間も――もっと前よ、私の帰ったのは。」

彼女はけろりとした顔で、二階へあがって来た。

「どうかしたの。」

「後でよく話すけれど、私<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>してしまったのよ。」

庸三は<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れもしなかった。

「約束の家で……。」

「うーん、家が気に入らなかったから、あすこを飛び出して、土手をぶらぶら歩いたの。そして別の家へ行ってみたの。それはよかったけれど、お酒飲みだすと、あの人の態度何だか<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>っぽくて、私<ruby><rb>忿</rb><rt>おこ</rt></ruby>って廊下へ飛び出しちゃったものなの。そうなると、私後ろを振り返らない女よ。あの人玄関まで追っかけて来たけれど。」

「それじゃまるで喧嘩しに行ったようなものじゃないか。」

「いいのよ、どうせ明日上野まで送るから。」

葉子はそう言って、寂しさを<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>していた。

翌日になると、葉子は時間を見計らって、家を出て行った。そして銀座で水菓子の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えると、上野駅まで自動車を飛ばした。しかもその時はもう遅かった。重い水菓子の籠を赤帽に持たせて、急いで歩廊へ出て行った時には、汽車はすでに動き出していた。

葉子はすごすご水菓子を自動車に載せて、帰って来た。そして着替える<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなく、その籠を彼の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の家へ送るために、母と二人で荷造りを初めた。籠は大粒の<ruby><rb>翡翠色</rb><rt>ひすいいろ</rt></ruby>した<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>の<ruby><rb>房</rb><rt>ふさ</rt></ruby>や、包装紙を透けて見える<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>のオレンジなどで詰まっていた。

「少しくらい<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>んでも、田舎ではこんなもの珍らしいのよ。」

葉子はさすがに度を失っていた。

しかし彼女のその夜の<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れな態度が、つまりどんなふうに今後の運命に差し響いたであろうかは、大分後になってから、やっと<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったことで、まれの<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>から帰って来た時の、前夜二回の葉子の<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>らしい報告が、事実であったことが、庸三に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けたのも、その時になってからであった。

## 十二

いよいよ葉子を病院へ送りこんでからの庸三は、にわかにこの恋愛生活の苦悩から解放されたような感じで一時ほっとした。それには永年の懸案であった家の増築ということも彼の気分転換に相当役立った。増築の出来<ruby><rb>栄</rb><rt>ば</rt></ruby>えが庸三の期待を裏切ったことはもちろんであったが、一旦請負師の要求に応じて少なからぬ金を渡し、貨車で運ばれた建築用材を庭の真中へ積みこまれてしまうと、その用材からしてすでに約束を無視したものだということに気がついていても、今更どうすることもできないのであった。庸三は持合せの金も少なかったし、それほどの建築でもないので、自分からかれこれ設計上の<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>を出すことを遠慮して、わざと大体の希望を述べるに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めておいたのだった。

「余計な細工はいらない。とにかくがっちりしたものを造ってもらいたいんで。」

「ようがす。ちょうど材木の割安なものが目つかりましたから。」

請負師はそう言って、金を持って行ったのであった。この請負師は庸三の懇意にしている<ruby><rb>骨董屋</rb><rt>こっとうや</rt></ruby>の近くに、かなり立派な事務所をもっていて、その骨董屋の店で時々顔が合っていた。同じ店頭へ来て、<ruby><rb>煎茶</rb><rt>せんちゃ</rt></ruby>の道具などを<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>っている、その夫人のどこか洗練された趣味から推しても、工学士であるその主人に十分建築を<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>しきってよいように考えられたものであったが、仕事は別の大工が下受けしたものだことがじきに解って来た。人を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めたようなやってつけ仕事がやがて初まり、ばたばた進行した。手丈夫ということは、趣味の粗悪という意味で充分認められないこともなかったが、形が出来るに従って彼は<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやけ</rt></ruby>が差して来た。しかしもう追っつかなかった。費用がほとんど倍加して来たことも仕方がなかった。<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>が広くなっただけでも彼は満足するよりほかなかった。そこには古い彼の六畳の書斎だけが、<ruby><rb>根太</rb><rt>ねだ</rt></ruby>や天井を修繕され、壁を塗りかえられて残されてあった。三十年のあいだ薄い頭脳と乏しい才能を絞って、その時々の創作に苦労して来たのもその一室であったが、いろいろな人が訪ねて来て、びっくりしたような顔で、貧弱な部屋を見廻わしたのも、その一室であった。そこはまた夫婦の寝室でもあり、病弱な子供たちの病室でもあった。わずか半日半夜のうちに、十二の夏<ruby><rb>疫痢</rb><rt>えきり</rt></ruby>で死んで行った娘の畳の上まで引いた豊かな髪を、味気ない気持で妻がいとおしげに<ruby><rb>梳</rb><rt>くしけ</rt></ruby>ずってやっていたのも、その一室であった。お迎いお迎えという触れ声が外にしていて、七月十七日の朝の<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな風が、一夜のうちに姿をかえた少女の透き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るような白い額を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でていた。そして気が狂わんばかりに、その時すっかり生きる楽しさを失ってしまった妻も、十数年の後の、ついこの正月の二日の午後には、同じ場所で、子供たちの母を呼ぶ声を後に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して冷たい<ruby><rb>空骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>となって横たわっていたのであった。この部屋での、そうした<ruby><rb>劃期的</rb><rt>かっきてき</rt></ruby>の悲しみは悲しみとしても、彼は何か小さい自身の人生の大部の<ruby><rb>痕迹</rb><rt>こんせき</rt></ruby>が、その質素な一室の<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>に<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>しつくされた天井や柱、所々骨の折れた障子、<ruby><rb>木膚</rb><rt>きはだ</rt></ruby>の<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだ縁や軒などに<ruby><rb>入染</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいるのを懐かしく感ずる以外に、とてもこれ以上簡素には出来ないであろうと思われるほど無駄を省いた落着きのよさが、今がさつな新築の書斎に坐ってみて、はっきりわかるような気がするほど、増築の部分がいやなものに思われた。しかし、今まで庭の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>になっていて、隣の三階の窓から見下ろされる場所に、突き出して建てた、床のやや高めになった六畳の新しい自分の部屋に机をすえていると、台湾<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の木の匂いなどもして、何か<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>じみた古い衣をぬぎすてて、物は悪くてもとにかく新しいものを身につけたような感じで、ここはやはりこれからの清浄な仕事場として、葉子に足を踏み入れさせないことにしようと、彼は思ったほどであった。

葉子はある時は、ほぼ形の出来かかった建築を見に来て、<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>の好いときは、二階の子供の書斎の窓などについて、自身の経験と趣味から割り出した意見を述べ、子供たちと一緒になって、例の<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>たっぷりの駄々っ子のような調子で、日本風の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の引戸の窓に、洋風の<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>を組み込んで開き窓に改めさせなどしたこともあったが、しかし子供たちのための庸三の家のこの増築は、彼女にとってはあまり愉快なものではなかった。

「いいもんだな先生んとこは、家が立派になって。」

葉子は<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>のように<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らすこともあったが、大枚の生活費を秋本に<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>がせながら、愛だけを独占しようとしている庸三の無理解な利己的態度が、時には腹立たしく思えてならなかった。たといそれが庸三自身の計画的な行動ではなく、彼女自身の<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>な<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>から割り出されたトリックであるにしても、葉子自身そうした苦しいハメに陥ったことに変りはなかった。彼女はどんな無理なことも平気でやって行けるような、無邪気といえば無邪気、甘いといえば甘い、自己陶酔に似たローマンチックな感情の持主で、それからそれへと始終巧妙に、自身の生活を塗りかえて行くのに抜目のない敏感さで、神経が働いているので、どうかすると何かしら絶えず陰謀をたくらんでいる油断も<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もない悪い女のように見えたり、<ruby><rb>刹那々々</rb><rt>せつなせつな</rt></ruby>に燃え揚がる情熱はありながらも、生活的に女らしい操持に乏しいところから、ややもすると<ruby><rb>娼婦型</rb><rt>しょうふがた</rt></ruby>の浮気女のような感じを与えたりするのであった。彼女は珍らしもの好きの子供が、初めすばらしい好奇心を引いた<ruby><rb>翫具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>にもじきに飽きが来て、次ぎ次ぎに新しいものへと手を延ばして行くのと同じに、ろくにはっきりした見定めもつかずに、一旦好いとなると、矢も<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>もたまらずに<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>いをつけた異性へと飛びついて行くのであったが、やがて生活が彼女の思い<ruby><rb>昂</rb><rt>あが</rt></ruby>った慾望に添わないことが苦痛になるか、または、もっと好きそうなものが身近かに目つかるかすると、抑えがたい慾望の<ruby><rb>燄</rb><rt>ほのお</rt></ruby>がさらに彼女を駆り立て、別の異性へと飛び<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>って行くのであったが、一つ一つの現実についてみれば、あまりにも神経質な彼女の気持に迫り来るようなものが、この狭い地上の生活環境のどこにも<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されようはずもないので、<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>るところ彼女の<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>のような希望は裏切られ、わがままな嘆きと悲しみが、美しい彼女の夢を<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に砕いてしまうのであった。しかし北の海の荒い<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>さの美しい自然の霊を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けて来た彼女の<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>な肉体を流れているものは、いつも新しい情熱の血と生活への絶えざる<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れであった。とかく生活と妥協しがたいもののように見える彼女の恋愛巡礼にも、あまりに神経的な打算があった。大抵彼女の産まれた北方には、詳しくいえばそれは何も北方に限ったことでもないが、女の貞操ほどたやすく物質に換算されるものはなかった。庸三は二度も行って見た彼女の故郷の家のまわり一体に、昔、栄えた船着場の<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りとしての、遊女町らしい<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうしょ</rt></ruby>の今も漂っているのと思いあわせて、近代女性の自覚と、文学などから教わった新しい恋愛のトリックにも<ruby><rb>敏</rb><rt>さと</rt></ruby>い彼女が、とかく盲目的な行動に走りがちである一方に、そこにはいつも貞操を物質以下にも安く見つもりがちな、ほとんど<ruby><rb>無智</rb><rt>むち</rt></ruby>といえば言えるほど<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な打算的感情が、あたかも過去の女性かと思われるほどの<ruby><rb>廃頽</rb><rt>はいたい</rt></ruby>のなかに見出されるのを感ずるのであった。もちろん<ruby><rb>末梢</rb><rt>まっしょう</rt></ruby>神経の打算なら、近代の人のほとんどすべてがそれを持っていた。庸三もそれに苦しんでいる一人であった。

庸三は葉子の<ruby><rb>痔疾</rb><rt>じしつ</rt></ruby>の手術に立ち会って以来、とかく彼女から遠ざかりがちな無精な自身を見出した。

もちろんそれは前々から彼の頭脳にかかっていた暗い雲のような形の、この不純でややこしい恋愛に対する<ruby><rb>嫌悪感</rb><rt>けんおかん</rt></ruby>ではあったが――そしてそれは激しい非難や、子供たちの不満のために<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>された、妙にねじけた反抗と意地のようなものと、今まで経験したことのない、強いというよりか、むしろ孤独な老年の弱気な寂しい愛慾の断ち切りがたさのために、とかく自己判断と省察とがなまくらになって、はっきり正体を認めることのできないようなものではあったが、刻々に<ruby><rb>化膿</rb><rt>かのう</rt></ruby>して行くような心の<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>きは<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>かったが、――差し当たって彼が自身の本心のようなものに、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにも触れることのできたのは、彼女の最近のヒステリックな心を、ともすると病苦と一つになってひどく険悪なものにして来る、彼への対立気分のためであった。時とすると、葉子は<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>からとどいた金を帯の間へ入れて、病室のベッドでかけるような、軽くて暖かい<ruby><rb>毛布団</rb><rt>けぶとん</rt></ruby>を買うために、庸三の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のうえに痛い体を載せて、銀座まで自動車を駆りなどした。彼女の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にした<ruby><rb>白狐</rb><rt>びゃっこ</rt></ruby>の毛皮の毛から、感じの柔軟な暖かさが彼の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にも触れた。この毛皮を首にしていれば、絶対に<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>はひきッこない。――彼はそう思いながら、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せっぽちの<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>の痛さを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えなければならなかった。またある時は、内弟子に預けてある葉子の愛嬢の瑠美子も出るという、年末の総ざらいの舞踊会が、雪枝の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で催されるというので、葉子は庸三にも来るようにと誘うので、あまり気の進まなかった庸三は、しばらく思案した果てに、やや遅れて青山の師匠の家を訪れたが、庸三が予覚していたとおり、彼の来たことを妙に<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>に感じているらしい彼女を、群衆のなかに発見した。庸三は舞台の正面の、少し後ろの方に坐って、童謡を踊る愛らしい少女たちを見ていたが、後ろの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方に、舞踊にも<ruby><rb>造詣</rb><rt>ぞうけい</rt></ruby>のふかい師匠の若い愛人の顔も見えた。葉子は始終紋附きの黒い羽織を着て、思いありげな目を伏せ、庸三の少し後ろの方に<ruby><rb>慎</rb><rt>つつ</rt></ruby>ましく坐っていたが、そうした明るい集りのなかで見ると、最近まためっきり顔や姿の<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れて来たのが<ruby><rb>際立</rb><rt>きわだ</rt></ruby>って見えた。葉子はいつかこの帰りがけに、省線の新宿駅のブリッジのところで、偶然この青年に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったとかで、帰ってから、感じのよかったことを庸三にも話して聞かしたものだったが、実際はそれよりもやや親しく接近しているらしいことが、彼女のその後の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でも推測できるのであった。庸三の頭脳にはどうかすると暗い影が差して来たが、師匠に対する葉子の立場を考えて<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いても安心しようとした。彼こそ彼女の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な相手だという感じは、葉子と一緒に師匠を初めて訪問した時の最初の印象でも明らかであり、この青年とだったら、いくら移り気の葉子でも、事によると最後の落着き場所として愛の巣が営めるのではないかという気もしたし、<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な葉子と好いモダアニストとして、今売り出しの彼とのあいだに、事が起こらなければむしろ不思議だという感じもしないことはなかったが、一つの頼みだけはあった。

「あれなら本当の葉子のいい相手だ。」

庸三はそれを口にまで出した。ちょうど文壇に評判のよかった「肉体の距離」というその青年の作品が、そうした葉子の感情を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>るにも、打ってつけであった。絶えず何かを求め探している葉子の心は、すでに娘の預り主の師匠にひそかに<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>を企てているに違いなかったが、庸三の曇った頭脳では、そこまでの見透かしのつくはずもなかった。たといついたにしても、病人が好い<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>の診断を<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるように、彼はできるだけその感情から逃避するよりほかなかった。結婚することもできないのに、始終風車のように廻っている葉子のような若い女性の心を、老年の、しかも生活条件の何もかもがよくないだらけの、庸三のような男が、永久に引き留めておける理由もないことは、運命的な彼の悩みであったが、また<ruby><rb>悽愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>なこの恋愛がいつまで続くかを考えるたびに、彼は悲痛な感じに<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>した。みるみる彼の短かい生命は刻まれて行くのだった。

お<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いが済んだ後で、その青年はじめ二三の淑女だちとともに、庸三と葉子も、軽い夜食の<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてなし</rt></ruby>を受けて、白いテイブル・クロオスのかかった食卓のまわりに坐って、才気ばしったお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>の好い師匠を中心に、しばし雑談に時を移したが、その間も葉子は始終<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きがちな<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔に、深く思い悩むらしい<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を浮かべて、黙りとおしていた。それが病気のためだとしても、そんなことは前後に珍らしかった。

それと今一つは、手術場での思いがけない一つの光景が、葉子の、しかしそれはすべての女の本性を、彼の目にまざまざ見せてくれた。

庸三はその時担架に乗って、病室から<ruby><rb>搬</rb><rt>はこ</rt></ruby>び出されて行く葉子について、つい手術室の次ぎの室に入って行った。ゴシップや世間の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>で、すでにそれらの医師だちにも興味的に知られているらしい葉子は、入院最初の一日の間に、執刀者のＫ――博士にも甘えられるだけの親しみを感じていたが、庸三と一言二言話しているうちに用意ができて、間もなく手術台のうえに載せられた。庸三は血を見るのもいやだったし、寄って行くのに気が差して、わざと次ぎの部屋に立っていたが、すっかり<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>のできた博士が、駄々ッ児の子供をでも見るような、<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みをたたえて手術台に寄って行くと、メスの冷たい<ruby><rb>閃光</rb><rt>せんこう</rt></ruby>でも感じたらしい葉子は、にわかに居直ったような<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な調子で叫ぶのであった。

「Ｋ――さん痛くしちゃいやよ。」

博士は<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と乱れた髪をしていたが、「よし、よし」とか何とか言って、いきなりメスをもって行った。

「ちょっと来て御覧なさい。」

やがて博士は庸三を振り返って、率直に言った。

見たくなかったけれど、庸三は手術台の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の方へまわって行った。ふと目に着いたものは<ruby><rb>白蝋</rb><rt>はくろう</rt></ruby>のような色をした彼女の肉体のある部分に、<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>に咲いたダリアの花のように、<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>大に<ruby><rb>刳</rb><rt>く</rt></ruby>り取られたままに、鮮血のにじむ<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もない深い<ruby><rb>痍</rb><rt>きず</rt></ruby>であった。<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>といえばこの上ない綺麗な肉体であった。その瞬間葉子は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を寄せて叫んだ。

「見ちゃいやよ。」

もちろん庸三は一目見ただけで、そこを去ったのであったが、手術の後始末がすんで、葉子が病室へ搬びこまれてからも、長くは<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいなかった。やがて不愉快な思いで彼は病院を辞した。そしてそれ以来二三日病院を見舞う気もしなかった。

庸三の足はしばしば例の川ぞいの家への向いた。ある書店でちょうど大量の出版が計画されたころで、彼もその一冊を<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けられることになっていたので、原稿を<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>がない時でも、金の融通はついたので<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろはそう寂しくはなかった。それにしても<ruby><rb>収穫</rb><rt>みいり</rt></ruby>の悪いのに慣れている彼の金の使いぶりは、神経的に<ruby><rb>吝々</rb><rt>けちけち</rt></ruby>したもので、計算に暗いだけになお<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>しみっ</rt></ruby>たれていた。それにしても<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を自分の懐ろにして、外へ出るということは、彼の生涯を通してかつて無いことであった。その日その日に追われながら、いきなりな仕事ばかりして来たのも、精根の続かない彼の弱い体としては仕方のないことかも知れなかったが、天性の怠けものでもあった。

「今夜のうちに、たとい一枚でも口を開けておおきになったら。」

幾日も幾日も気むずかしい顔をして、書き渋っている庸三の<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>そうな気分を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>りながら、妻はそう言って気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいたものだったが、庸三はぎりぎりのところまで追い詰められて来ると、仕方なし<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの気持でペンを執るのであった。書き出せば出したで、どうにか形はついて行くようなものの、いつも息が切れそうな仕事ばかりであった。収入も少なかったので、彼は自分の金をもつというような機会もめったになかった。妻はそれで結構家を楽しくするだけの何か気分的なものをもっていて、計算の頭脳もない代りに、彼女なりの趣味性ですべての設計を作って行った。教養があるのでもなく、本質的な理解もないながらに、彼の仕事や気分が<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこめるだけの勘はあったので、彼は仕事場の身のまわりまで<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せきりで、手紙一本の置場すら決まっていた。彼女の手にかかると、毎日の<ruby><rb>漬</rb><rt>つ</rt></ruby>けものの色にも水々した生彩があり、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>や野菜ものの目利きにも<ruby><rb>卒</rb><rt>そつ</rt></ruby>がなかった。庸三が小さい時分食べて来た<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の食べ物のことなどを話すと、すぐそれが工夫されて、間もなく<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>に上るのだった。それで彼は何かというと外で飯を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>うようなこともなかったし、小使の必要もなかったわけだが、長い下宿生活の慣習も<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みこんでいたので、そこらの善良な家庭人のような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>には行かなかった。育って来た環境も環境だったが、彼には何か無節制な怠けものの血が流れているらしく、そうした家庭生活の息苦しさも感じないわけに行かなかった。彼なりの小さい世俗的な家庭の幸福がまた彼の文学的野心にも影響しないわけに行かなかった。とかく庸三は茶の間の人でありがちであった。書斎にいる時も、客に接している時も、大抵の場合彼女もそこにあった。それに彼は<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の子供の世話をしてくれる妻の心を痛めるようなことは、絶対にできなかった。今庸三は孤独の寂しさ不便さとともに、自分の金を懐ろにし自分の時間と世界をもつことができた。狭い楽しい<ruby><rb>囹圄</rb><rt>れいご</rt></ruby>から広い寂しい世間への解放され、感傷の重荷を一身に背負うと同時に、自身の生活に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ることもできた。

その日も出癖のついた庸三は、ふらふらと家を出て、通りで自動車を拾ったが、憂鬱な葉子の病室を見舞う気もしなかったので、自然足は川ぞいの家へと向いた。何といっても家が広くなっていただけに気分の悪いはずもなかったが、出来あがってみると、どこもかしこもやってつけの仕事のあらが目について、どこから狩り立てて来たかも知れない田舎大工の無細工さが気になった。それに工事中ろくろく家財や書物の整理もできなくて、裏の家へ積み込んであったので、紛失したものも少なくなかった。近所の路次うちの悪太郎どもが、古<ruby><rb>板塀</rb><rt>いたべい</rt></ruby>を破って庭から<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>し、手当たり次第持ち出して行ったらしい形跡が、板塀の破れ目から縁側まで落ち散っている雑書や何かを見ても<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったが、昔ものの手堅い古建具、古畳、建築の余材、そんなものもいつの間にか亡くなってしまった。有るはずのものが見えないのに気がついて、いくら捜しても見つからないようなことも何か寂しい思いであった。好い女中がいなくて勝手元の<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>になったことも、庸三の神経を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせた。お鈴という古くからいる、<ruby><rb>童蒙</rb><rt>どうもう</rt></ruby>な顔の体のずんぐりした小女の、ちょくちょく物を持ち出して行くのにも困ったが、むやみといりもしないものを買いこむのが好きな新参のお光にも<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた。お鈴は強情で、みすみすこの小女のせいだとわかっていてもなかなか白状しなかったが、わがままなお光は何かといえばお暇を下さいと<ruby><rb>脹</rb><rt>ふく</rt></ruby>れるのであった。

## 十三

そのころには川沿いの家も大分<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わっていた。この商売にしては一風かわったマダム小夜子のサアビスぶりに、集まって来るのはことごとく文学者、画家、記者といったようなインテリ階級の人たちばかりであった。客種は開業当時と全然一変していた。しかしその間にも、たまには彼女のクルベー以前、お座敷へ出ていた時分の客も少しはあるものらしく、暮には何か裏までぼかし模様のあるすばらしい春着などを作って、<ruby><rb>嬝嫋</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>と<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を引きながら、べろべろに酔って庸三の部屋に現われることもあった。多分それは株屋か<ruby><rb>問屋筋</rb><rt>とんやすじ</rt></ruby>の<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>か、<ruby><rb>芳町</rb><rt>よしちょう</rt></ruby>に芸者屋をしていたころの引っかかりとしか思えなかったが、小夜子はそういうことについては、一切口を割らなかった。彼女は七年間の<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>貴族との<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>のあいだに、あまり身に染まなかった花柳気分からだんだん脱けて、町の商人にも気分が合わなくなっていた。今ごろ髪を七三などに結って、<ruby><rb>下卑</rb><rt>げび</rt></ruby>た<ruby><rb>笑談口</rb><rt>じょうだんぐち</rt></ruby>などきいて<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>っくりかえっているそこらのお神なぞも、鼻持ちのならないものであった。今では雑誌や新聞のうえで、遠いところにのみ眺めていた文壇の人たちと<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を附き合わせて、<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょく</rt></ruby>の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り取りしたり花を引いたりして、気取りも打算もない彼らと友達附き合いのできるのも面白かったし、地位や名前のある婦人たちの遊びに来るのも、感じがよかった。

庸三は十一月ごろ一度葉子をここへつれて来たことがあった。葉子が結婚生活の破局以来、今は遠くなってしまったあの画家との恋愛の初め、一夜を過ごしたことのある水辺の家のことを、折にふれて口へ出すので、それより大分川下になっている小夜子の家を見せがてら、彼女を紹介しようと思ったのであった。それは震災後山の手へ引っ越していたある<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>である晩二人で飯を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っての帰りに、興味的に庸三が言い出したのであった。彼は生活負担の多い老年の自分と若い葉子との、こうした関係が永く続く場合を考えてみて、目が<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>むような感じだったが、いつかは彼女を見失ってしまうであろう時のことを考えるのも<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>であった。もう今では――あるいは最初から小夜子が自分のものになろうとは思えなかったし、そうする時の、いつも高い相場のついていた<ruby><rb>商売人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>あがりの彼女が、自分に<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>いきれるはずもないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていながら、何かそういったものを<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>のなかに描いていないことには、葉子が遠く飛び去った時の、心のやり場がなかろうと、そうした気持も潜んでいたらしいのであったが、葉子を連れて行ったのは、ほんのその場の思い附きでしかなかった。大分前に小夜子と今一人小夜子の古い友達と三人で下の八畳で話しこんでいた時、葉子から電話がかかって来て、庸三はちょうど来たばかりのところだったので、電話へ出るのも気が進まなかった。このころ葉子の家は少し離れたところにあって、彼女は新調のジョゼットのワンピイスを着て、長女の瑠美子とよく外へ出たものであった。瑠美子のために、庸三が邪魔になることもしばしばであった。ある時などは、婦人文芸雑誌の<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>をしているＦ――氏の前で、はしなく二人の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>が険しくなり、庸三は帰って行くＦ――氏と一緒に玄関を降りぎわに烈しい言葉で彼女を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ったのだったが、そうして別れた後で、彼はやはり独りで苦しまなければならなかった。

その時も庸三の気持は、ちょっと葉子から遠くなっていた。彼は家政婦に出てもいいと言っているとかいう、小夜子の友達の一人の女の写真などを見ていた。家政婦といっても、双方よければ、それ以上に進んでもかまわないという意味も含まれているらしかった。

「写真より<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>ですよ。私の姉の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で家柄もいいんです。いい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ片づいていたんですけれど、御主人が商売に失敗して、家が離散してしまったんですの。」

小夜子は言っていたが、その女はしかし庸三の好みの型ではなかった。

そこへ葉子から電話がかかったのだったが、庸三は急いで帰る気もしなかった。

「先生があまり葉子さんに甘いからいけないのよ。うっちゃっときなさいよ。」

側にいた小夜子の別の友達が言うと、

「帰ってあげなさいよ。」

と小夜子は言うのであった。庸三はやがて小夜子の友達の女と一緒に乗って、白木の辺で彼女をおろして、葉子のところへ帰った。友達の女は、車のなかで鉛筆でノオトの片端に所と名前とを書いて、どうぞお遊びにと言って手渡した。

「ちょっといいから行ってみない？」

二人は食事をしまって、<ruby><rb>梨子</rb><rt>なし</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いていた。

「行ってもいいけれど……行きましょう、水を見に。」

葉子は<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさず言ったが、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>は気が進まなかった。

「何だかいやだな、そういう人。」

自動車に乗ってから、彼女は神経質になった。

「家を見るだけさ。」

「それならいいけれど。」

通された下座敷で、葉子は窓ぎわに立って水を見ていたが、彼女がここへ来るのに気が差したのは、あながち今までにもある意味の好い生活をして来たらしいマダムに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うのが憂鬱だったばかりでなかった。小夜子の門と向き合って、そこにかなり立派なコンクリートの病院のあることと、その<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が毎夜のように、小夜子の<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>がるのも<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>なしにそっと入り浸っていることは前にも書いた通りだが、そこが学校を出たての葉子が、音楽学校入学志望で、かつてしばらく身を寄せていた<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>であったということも、葉子を<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>させたものに違いなかった。

小夜子の家では、いつもと違って、サアビスぶりはあまりよくなかった。そして今上がりぎわに、ちょっと薄暗い廊下のところでちらとその姿を見かけた小夜子が、盛装して二人の前に現われるのに、大分時間がかかった。二人は照れてしまったが、葉子は部屋の空虚を<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たすために、<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めて話をしかけた。そこへ真白に塗った小夜子が、絵羽の羽織を着て<ruby><rb>嫻</rb><rt>しと</rt></ruby>やかに入って来た。そして入口のところに坐った。

「<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>さんでしょう。」

小夜子はそう言って、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>すると、今夜は少しお寒いからと、窓の<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>を閉めたりして、また入口の処にぴったり坐ったが、表情が<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>かった。

葉子は立って行って、小夜子と<ruby><rb>脊比</rb><rt>せいくら</rt></ruby>べをしたりして、親しみを示そうとしたが、いずれも気持が<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>かれずじまいであった。

「やっぱりそうかなあ。」

庸三は後悔した。するうち小夜子を呼びに来た。客が上がって来たらしかった。

「私今夜ここで書いてもいい？」

葉子は書く仕事を持っていることに、何か優越を感ずるらしく、庸三が<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと、じきに玄関口の電話へ出て行って、これも新調の絵羽の羽織や原稿紙などを、自動車で持って来るように、近所の下宿屋を通して女中に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けた。

しかし間もなく<ruby><rb>錦紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>の絞りの<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつ</rt></ruby>みが届いて、葉子がそのつもりで羽織を着て、独りで<ruby><rb>燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>ぎ気味になったところで、今夜ここで一泊したいからと女中を呼んで言い入れると、しばらくしてから、その女中がやって来て、

「今夜はおあいにくさまですわ。少し立て込んでいるんですのよ。」

庸三はその<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なさに葉子と顔を見合わした。やがて自動車を呼んで、そこを出てしまった。

「小夜子さん<ruby><rb>光一</rb><rt>ぴかいち</rt></ruby>でなきゃ納まらないんだ。」

葉子は車のなかで言った。

ある夜も小夜子はひどく酒に酔っていた。

酒のうえでの話はよくわからなかったけれど、<ruby><rb>片々</rb><rt>きれぎれ</rt></ruby>に口にするところから推測してみると、とっくに切れてしまったはずのクルベーが、新橋の一芸者を<ruby><rb>手懐</rb><rt>てなず</rt></ruby>けたとか、遊んでいるとかいうようにも聞こえたし、<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>すはずの金を、小夜子の掛引きでかクルベーの思い違いでか、いずれにしても彼の態度が気にくわぬので、押しかけて行って<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き返されるのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>だというように聞こえた。

クルベーはまだ十分小夜子に未練をもっていた。彼は今少し何とか景気を盛りかえすまで、<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>の屋敷に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まっているように、くどく彼女に<ruby><rb>勧説</rb><rt>かんぜい</rt></ruby>したのであったが、小夜子は七年間の不自然な生活も鼻についていた。クルベーのように、自分を愛してくれたものもなかったが、クルベーほど彼女のわがままを大目に見てくれたものもなかった。若い<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>俳優と<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>して夜おそく帰って来ると、彼はいつでもバルコニイへ出て、じっと待っているのだった。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>浮気して来ました。いけません。」

美しい大入道のクルベーはさすがに、顔を真赤にして怒っていた。

またある時は、病気にかこつけて、温泉場の旅館で、芳町時代から、関係の断続していた情人と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っているところへ、いきなりクルベーに来られて、男が洋服を<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>って、縁から<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がり落ちるようにして庭へ逃げたあとに、時計が<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていたりした。しかしクルベーは小夜子を憎まなかった。目に余るようなことさえしなければ、彼の<ruby><rb>目褄</rb><rt>めづま</rt></ruby>を忍んでの、少しばかりの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>は大目に見ようと思っていた。彼はその一人<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>が、自転車で<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をして死んでから、本国へ引き揚げる希望もなくなっていた。武器を<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>へ売りこもうとして失敗して以来、日本の軍部でも次第に独逸製品を拒むような機運が向いて来た。しかし小夜子が彼の屋敷を出たのには、切れても切れられない関係にあった、長いあいだの男の<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かしにも<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>るのであった。ようやくクールベから離れて来てみると、<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>へでも<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>らない限り、その男とも一緒に行けないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>って来た。

水ぎわの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を初めてからも、クルベーはそっとやって来て、この商売はやってもいいから、たまには逢うことにしようと言うのだったが、近所が<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さいし、人気商売だから、寄りついてくれても困ると言って、小夜子はぴったり断わった。――と小夜子はそういうふうに話していたが、まるきり縁が切れてしまったものとも思えなかった。

小夜子は今夜のように酔っていたこともなかったが、庸三も少し酔っていたので、何かの<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みで一緒に自動車に載せて家へつれて来た。小夜子が新らしい庸三の部屋へ入るのは、今夜に限ったことでもなかったが、葉子の留守宅の二階からすぐ見下ろされるような門を二人で入った時には、庸三も自身の<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れな行為に疑いが生じた。かつての庸三夫婦もお互いに<ruby><rb>牽制</rb><rt>けんせい</rt></ruby>され合っているにすぎなかったとは言え、口を利かないものの力も、まるきり無いわけには行かなかった。

小夜子を奥へ通すと、ちょうど遊びに来ていた青年作家の一人と一緒に、長男の庸太郎も出て来て、面白そうに酔った小夜子を見ていた。小夜子は握り<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の卓を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きながら、廻らない舌で何か熱を吹いていた。

「私は三十三なんだ。」

と、それだけが庸三の耳にはっきり<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き取れるだけで、何をきいても<ruby><rb>他哩</rb><rt>たわい</rt></ruby>がなかった。

間もなく彼女はふらふらと立ちあがった。

「お前ちょっと送ってくれないか。」

庸三は子供に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けたが、送って応接室まで出て行くと、小夜子はふと立ち<ruby><rb>停</rb><rt>ど</rt></ruby>まって、誰という意識もなしに、発作的に庸三の口へ口を寄せて来た。やがて玄関へおりて行った。

四十分もすると庸太郎が帰って来た。

「面白いや、あの女。」

「どうした。」

「番町の独逸人の屋敷へ行くというから、一緒に乗りつけてみると、ドアがぴったり締まっているんだ。いくら呼び鈴を押しても、叩いても誰も出てこないもんだから、あの人<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>を叩き破ったのさ。出て来たのは立派な<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>の独逸人でね、<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れこもうとするのを突き出すのさ。そして僕の顔を見て、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は紳士だから、この酔っぱらいを家まで連れて行ってくれ。こんなに遅く、戸を叩いたりして外聞が悪いからと言うもんだから、まあ<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めて家まで送りとどけたんだけれど、自動車のなかで<ruby><rb>滅茶</rb><rt>めちゃ</rt></ruby>苦茶にキスされちゃって……。手から血が流れるし、ハンケチで<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ってやったけれど。いや、何か癪にさわったことがあるんですね。――それにしても、あの独逸人は<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なお<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんだな。」

庸三は黙って聞いていた。

ある日古い友達の山村が、ふと庸三の部屋へ現われた。作家であった山村は瀬戸物の<ruby><rb>愛翫癖</rb><rt>あいがんへき</rt></ruby>があったところから、今は庸三の家からかなり離れた場所で、<ruby><rb>骨董品</rb><rt>こっとうひん</rt></ruby>を並べていた。手のもげかかった仏像、傷ものの陶磁器、エキゾチックな<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>や<ruby><rb>花瓶</rb><rt>かびん</rt></ruby>、刀剣や<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>や<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の珍らしい<ruby><rb>裂</rb><rt>きれ</rt></ruby>なども集めていた。芸術家同志の恋愛で、かつて三年ばかり結婚生活を営んでいた妻の女流作家と別れて、今の妻と<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>してからかなりの月日がたっていたが、どうかすると思わぬ時に、その作品を新聞の上に見ることもあった。新しい恋人を追って、アメリカへ渡って行った、その女流作家の消息も、すでに絶えがちであった。

彼はいつでも恋愛讃美者であったが、いつか庸三は小さい娘の咲子や瑠美子をつれて、葉子と一緒に上野辺を散歩している時に、ふとしばらくぶりで彼に出会ったのであったが、今彼はその時の葉子の印象を、彼流に率直に話すのだった。しばらく町なかの下宿に隠しておいた、純白な一少女との自身の恋愛告白に、しばし庸三も耳を傾けたが、その後で一緒に病室を見舞うことになった。

「あの時広小路で僕はふとあの人の姿が、目についたんだ。<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>もじみだしちっとも修飾しちゃいないんだけれど、何か<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに匂ってくるような<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>があってね、はてなと思ってその瞬間足を止めて見ていると、やがて<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる君に気がついたんだ。」

山村は話した。今まで庸三の耳に入り、目に映る葉子の批評は、どれも葉子を汚らわしい女として<ruby><rb>辱</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめるようなものばかりであったが、それは正直にそうとばかり取れないようなものであった。中には、庸三がもっている場合だけの彼女に当て<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>まるような種類のものも無くはなかった。もちろん<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>と淑徳とは別であったが、過去は過去として、後に葉子が<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>したさまざまの事件にぶつかるまでは、庸三の魂もその若い肉体美の発散に全く酔いしれていた。

病院はひっそりとしていた。「文学病患者と書いてある」と庸太郎がふざけたという、病名の記された黒板のかかっている壁の方をむいて、葉子は断髪の黒髪をふさふさ<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>に垂らして、赤と黒と<ruby><rb>棒縞</rb><rt>ぼうじま</rt></ruby>のお召の<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>を着たまま、何か本を手にしたまま<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていたのだが、やがてこっちを向き直った。

「山村さん。」

庸三は言うと、葉子は額にかかる髪を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き揚げながら、

「御免なさい、こんな風して。」

黒い髪の陰に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ色をした大きい目を見ながら、庸三は多分隔日くらいにガアゼを取り替えに来て、ずうと子供の時から知ってでもいた人のように、何かと甘えた口の利き方をする葉子に、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>い半分応酬しているであろうＫ――<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>のことが心に浮かんだ。

「先生今お忙しい？」

「いや格別。」

「先生という人薄情な人ね。」

葉子の顔は<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しくなった。

「どうして？」

「いいわ。先生の生活は先生の生活なんですから。」

庸三も<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>にさわったが、黙っていた。

「女が病院へでも入ってる場合には、男ってものはたまにお金くらい持って来るものよ。」

「金が必要だというんだね。」

「決まってるじゃないの。」

葉子があまり<ruby><rb>刺々</rb><rt>とげとげ</rt></ruby>しい口を利くので、<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>け<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>を感じていた庸三は、神経にぴりっと来た。

ちょうどそのころ彼女は、彼女の態度に失望して帰って行った秋本から、長い手紙を受け取っていた。今まで<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>にふるまっていた、彼女の月々の生活費の仕送りも、事によると途絶えるかも知れないのであった。彼女は気を腐らしていた。そこへ何も知らない庸三が初めて友達と一緒に現われた。<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>が爆発してしまった。

庸三は二度と彼女を見舞わない腹で、<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>白</rb><rt>ぜりふ</rt></ruby>をのこして病室を出た。彼は手術当時の彼女の態度にすっかり<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやけ</rt></ruby>が差していた。彼女を憎んでもいた。

「あいつは何か始終たくらんでいる女なんだ。」

庸三は<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>山村に話した。

「うむ、そうだ。ちょっと剣があるんだ。」

二三日してから、庸三はそれでも印税の前借りの札束を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろにして、再び病室を訪れた。彼はほかのことはともあれ、別れた場合金のことで葉子側の人たちからかれこれ非難されることを恐れた。それにもし書く場合があるとしたら……彼はそこまで考えていた。表面葉子は八方から非難の矢を浴びせられていたとは言え、非難する人たちのなかにも、葉子に関心をもつものの少なくないことも庸三に<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。

厚ぼったい束が、彼の懐ろから葉子の手に渡された。彼女はべらべらとそれをめくっていたが、二十枚も取ると、<ruby><rb>剰余</rb><rt>あと</rt></ruby>をそっくり庸三に返した。

「すみません。」

「どうしまして。」

庸三は病院中の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>になることを恐れていたし、また何か初まっていそうに思えたので、じきに病室を出た。

葉子が退院して来たのは、手術の日から四十日も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってからであった。もう二月の初めだったが、その間に彼女の二番目の女の子が感冒にかかって、肺炎になり<ruby><rb>損</rb><rt>そこな</rt></ruby>い、それがやっとのことで<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったかと思うと、今度は庸三の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で咲子が病床に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。

庸三はその後も二度ばかり、夜になってから病室を見舞ったのであったが、二度とも好い印象を受けなかった。一度は師匠にあずけてある瑠美子の春着を作るために、デパアトの外廻りの店員を呼び寄せて、派手な友禅ものを、部屋一杯にひろげていたし、一度はベッドの上から手拍子を取って、いつもの童謡を<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>いながら、瑠美子を踊らせていた。看護婦や宿直の若い医員だちを呼び集めて、陽気に騒いでいるのだったが、葉子は長い<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>まで垂らして、<ruby><rb>熔</rb><rt>と</rt></ruby>けるような声で謳っていた。

庸三はどこでもそんなふうにしなければ治まらないらしい彼女を、苦々しく思わないわけに行かなかったが、それを言う日になれば、能弁な彼女の弁解も<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かなければならなかった。

しかし退院して来てからの葉子には、そんな浮わついた気分はまるで無くなっていた。それに<ruby><rb>痍</rb><rt>きず</rt></ruby>もまだ充分ではなかった。

「当分通わなきゃならないのよ。」

彼女は畳や木の香の高い彼の部屋へ、そっとやって来て、そんなことを言っていた。

「結核じゃないか。」

「それも幾らかあるらしいわ。<ruby><rb>沃度剤</rb><rt>ヨードざい</rt></ruby>も買わせられたの。」

そしてその後で、葉子は病院で受け取った秋本の手紙を帯の間から出して、

「せっかく行ったのに、予期に反して、私が飛びついてもくれなかったといって怒っているの。今まで月々送ったお金の計算もしてあるの。もうすっかり人生がいやになったから、これから<ruby><rb>漂浪</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の旅に上る、というようなことも書いてある。」

そう言って長さ四五尺もある手紙を繰り<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて見せた。庸三はちょっと手に取って見た。熱情の<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れたような文字が、彼の目に痛く刺さるので、ろくに読む気にもなれなかった。秋本について今まで葉子の言っていたことは、すべて<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>でないことが、初めて確かめられた。葉子に<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>の目を向けていたのが、すまないような気がした。秋本に対しても彼も同罪だと観念した。

「金をくれる人がなくなって、困ったもんだな。」

葉子は立てた長い<ruby><rb>両膝</rb><rt>りょうひざ</rt></ruby>を手でかかえながら、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「また先生のとこへ来ようかな。子供をお母さんに預けて、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>して……。」

「来てもいいよ。」

庸三は答えた。また何か起こるに違いない、――彼はそれも思わないわけにはいかなかったが、差し当たりそうするよりほかなかった。毒気のない態度も感じが悪くなかった。

しかし葉子は前よりも、少し用心深かった。庸三の部屋へ入って来るにしても、朝から晩まで彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に居きりにすることは、何かと不便であった。まだ本統には見切りをつけていない秋本との交渉を、自分が直接に開始する場合にも、田舎へ還った母を通しての間接の場合にも、庸三に打ち明けられないことも出て来るに違いなかった。それでなくても息をぬく場所が、どこかに無くてはならなかった。そんな場合の用心に、葉子は隣りの下宿に一と部屋取っておくことにして、荷物をそっくり裏の家へ運びこんで来た。例の<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>と鏡台が庸三の部屋へ持ち込まれて、化粧品の香がその日から<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに部屋に漂った。

## 十四

葉子はそのころになっても、なお婦人雑誌の連載物を書きつづけていたが、初めの意気込みほど人気は<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き立たなかった。もともと雑誌の方では、とかく世間の問題をおこしがちな彼女の過去現在の、好いにつけ悪いにつけ、何か花やかな<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>を周囲に投げつつあるところに、ジャアナリステックな価値を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>そうとしたものであったが、一回二回と書かしてみると、思ったよりも好いので、一層<ruby><rb>力瘤</rb><rt>ちからこぶ</rt></ruby>を入れることにはなったが、庸三と取り組んでの恋愛事件がひどく世間の感情を害していた最中でもあったので、情熱的な彼女の作品も大向うから声はかからなかった。もちろん淡い夢のような作品その物にも、彼女独得の情熱と<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうしょ</rt></ruby>がいかに<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていたにしても、一般に受ける性質のものではなかった。ちょうど社会批評家としてすでに一地歩を占めている、ある婦人の作品と並んでいたが、葉子はそれを自分の作品と読み比べてみて、何となく<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>で古いと思っていたし、少しは悪くも言ってみたいこともあった。

無精な庸三のことなので、その作品に関して時々話をしかけられても、読んだのは一回きりで、<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないところを「これはどういうんだ」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみたりして、彼女の説明に微笑するくらいのことで、文学の質も立場も違うところから、格別注意を与えようともしなかった。短篇となると、彼女は<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく彼の前に坐って、師弟の礼儀というようなものを崩さず、目を通してもらうことを哀願した。そして読みおわってから庸三が二三批評の言葉を口にすると、彼女は「どうもすみません」と言って、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうにお辞儀をするのであった。庸三は自分の作風を模倣でもしたら、その人は大変損をするに違いないと考えていたし、教えらるるところがあろうとは思えなかった。でも彼女に才能がないわけではなかった。もっと骨格をつければ<ruby><rb>暢</rb><rt>の</rt></ruby>びて行くだろうとは考えていたので、それにはいくらか自身のレアレズムの畑へ引き込んでみるのも悪くはあるまいと思っていた。恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修行と世の中へ押し出してもらうことが彼女のかねがねの願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>もその瞬間消えてしまうのも当然だったが、作品の反響もこのごろ思わしくないのに、秋本の消息も途絶えて、せっかく捜しに行ってみても、どこに<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>っているかさえ解らなかったので、そんなこんなで葉子もすっかり気を腐らしていた。

しかし秋本の問題に、未練らしくいつまでもこだわっている葉子でもなかった。彼をそうした絶望に<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>いやったことも<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうに思えたし、好い金の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>を見失ったことも残念だったので、なおいくらかの自信と希望を失わないながらに、何か落し物でもしたような心寂しさを感じていた。

するうちに春が訪ずれて来た。大きな石が積み重ねられ、植木が片寄せられたままになっている庸三の狭い庭にも、<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>を<ruby><rb>猟</rb><rt>と</rt></ruby>りに来て、枝から枝を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>っている<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の<ruby><rb>軽捷</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>な姿が見られ、肌にとげとげしい余寒の風が吹いていた。庸三の好きな菜の花が机の上の一輪<ruby><rb>挿</rb><rt>ざ</rt></ruby>しに挿されるころになると、葉子の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>かった顔にもいくらか生気が出て来て、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の陰に<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んでいた目にも張りが出て来た。名伏しがたい仄かな魅力を潜めている、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>から<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>のあたりにも、<ruby><rb>脹</rb><rt>ふく</rt></ruby>らみが取り戻されて来た。どうにか用心ぶかく冬を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>いで来た庸三も、毎年このころになると、弱い気管の方にこびり着きやすい感冒にかかって床に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>くのが例になっていたが、どうした訳かその年はそんなこともなく、世間の非難や文学的な悩みはありながら、とにかく彼女に紛れてうかうかと日を送っていた。

葉子は二日おきぐらいに、病院へ行くと言っては出て行ったが、時には関係の婦人雑誌の<ruby><rb>編輯室</rb><rt>へんしゅうしつ</rt></ruby>をも訪れた。若い記者たちと銀座でお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで来ることもあれば、晩飯の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になることもあった。

「今日は××さんに御飯御馳走になって、<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>式部の話聞いて来たわ。」

葉子は聞いて来たことを、また庸三に話して聞かせるのだったが、書きはじめた時分から、ちょいちょい原稿のことで訪れて来た若い記者は、今でも時々やって来た。葉子は締切りが迫って来ると、下宿の部屋からも姿を消して、近くにある静かな旅館の一室に立て<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もることもあったが、ある時などは、どこを捜しても見つからないこともあった。庸三は気の許せないような彼女が、今はどんなに<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いて愛し合っているように見えていても、いつどこへ逃げて行くかわからないという不安は絶えずもっていた。

「東京というところは、居つけてみればみるほど広いのね。もしも先生がふと姿を消すようなことがあるとしても、とても捜し出せやしないでしょうね。」

葉子はいつかそんなことを口にしていたが、それは自分が逃げる時のことを考えてのことなのはもちろんであったが、一度失敗もしているので、この年取った男にかかっては、迂濶なこともできないとかねがね用心しているに違いなかった。しかし庸三は彼女が下宿にも旅館にもいないとなると、旅館で書いている間、来てはいけないと言われていることと照らし合わせて、彼女の態度が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>っていた。いつから旅館をあけているのか、それも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。ずっと部屋に籠もって勉強しているのか、それとも時には創作慾の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を求めにシネマ・パレイスや<ruby><rb>武蔵野館</rb><rt>むさしのかん</rt></ruby>へ行くとか、蓄音器を聞きながら、お茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みに喫茶店へ入ったりして感興を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>とうとしているのか。それくらいはいいとしても、誰か若い異性を部屋へ連れこんでいるのではないかという気もしたのだった。そういう時は彼も心のやり場を求めて、川ぞいの家へ遊びに行くのが習慣になっていた。小夜子はかつての失敗に懲りて、ふっつり<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を口にしなくなっていた。それどころか、彼女はずっとその前から牛や鶏の肉をも断っていた。お茶も呑まないことにしていた。それが単に花柳界に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む女たちのあいだにはやるちょっとした迷信的な<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>のようなものか、それとももっと深い動機に基づいた<ruby><rb>贖罪的</rb><rt>しょくざいてき</rt></ruby>なものか、花柳界の女たちよりか新らしく、一般的のモダアン・ガアルよりも古いところのある小夜子だとしても、酒をぴったり口にしなくなったことは、どこか心の奥にしっかりした錠の卸されてある証拠だと思うよりほかなかった。

小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は相変らず<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>っていた。<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>にお化粧した彼女は、帳場に坐って芸者屋へ電話をかけたり、酒のお<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をしたりしていたが、客の特別の<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えだといって、ウイスキイを<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>したりしていた。世間はまだそう行き詰まってはいなかった。世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思い切り大規模の<ruby><rb>清洲橋</rb><rt>きよすばし</rt></ruby>も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、<ruby><rb>真砂座</rb><rt>まさござ</rt></ruby>のあった時分の下町<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうしょ</rt></ruby>も影を潜め、水上の交通が<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。しかし環境の寂しい割りに小夜子の家はいつも<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかであった。花柳界離れのした彼女のマダムぶりに、原稿紙やパレットに親しんでいるような人たちが、<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がり合ってどかどか集まって来た。

小夜子はあまりお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>でもない座敷だと、少しサアビスをしてから、息ぬきに銀座辺へタキシイを飛ばすこともまれではなかった。庸三は時々銀座<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>で、いくらか知っている顔も見えるような家へ彼女をつれて行ったが、その中にはでくでく<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った断髪のマダムのやっているバアなどもあった。そこは銀座裏の小ぢんまりした店で、間接に来る照明が<ruby><rb>淡蒼</rb><rt>うすあお</rt></ruby>い光を漂わし、クションに腰かけて、アルコオル分の少ないカクテルを一杯作ってもらって、ちびちび<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めていると、自然に神経の<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>え<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まるような気分のバアであった。彼女はよほど以前に汽車のなかで、誰とかから庸三に紹介されたことがあると言っていたが、彼女の過去の閲歴や身分も<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ出そうとしても、そんな問題には皆目触れることができなかった。もちろん庸三は小夜子からも、ほんの<ruby><rb>梗概</rb><rt>こうがい</rt></ruby>だけしか解っていない過去を嗅ぎ出そうとして、油断なく神経を働かしているのだったが、過去どころか、現在の彼女の生活の裏さえ全く未知の世界であった。庸三にはとかく人に興味を持ちすぎる悪い習慣もあった。

そのころ銀座では、あまり趣味のよくない大規模のカフエが<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んに進出しはじめて、あの辺一帯の空気をあくどい色に塗りあげ、弱い神経の庸三などは、その強烈な刺戟に目が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>むほどだったが、高声機にかかったジャズの騒音も<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>るところ耳を<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>にした。ナンバワン級の女給の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>などが娯楽雑誌や新聞を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わせ、何か花々しい近代色が<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろの暖かい連中を泳がせていた。小夜子のところへ<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れこんで来るのも、時にはそういった連中の一部であったが、庸三も仲間の人たちと会か何かの崩れに、たまにはそういう新らしい享楽の世界へ入ることはあっても、カクテル一杯を呑むのに骨が折れるくらいなのに、性格的な孤独性と時代の距離があるので、いつも戸惑いしたような感じしかなかった。すべてそういった享楽の世界では、彼はいつもピエロの寂しい姿を自身に<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>すだけであった。肥ったマダムの家だけは、ほどよく静かに酒を呑んでいる、インテリ階級の少数の人と顔が合うだけだったので、銀ぶらには適当であったが、彼はそうたびたび川沿いの家へ足を運ぶことを、葉子に感づかれて、痛くもない腹を探ぐられるのもいやだったし、そうやって<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていても、心の落着きはどこにも求められなかった。

書斎に帰っていると、門の開く音がして、続いて玄関の<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>の開く音がした。庸三は、ちょうど子供を相手に、葉子の噂をしているところだったが、そこへ彼女が割り込んで来て、部屋がにわかに賑やかになった。葉子は今日も病院へ行って、入院中から懇意になった若い医員の二三の人たちと、神田まで食事をしに行って、やがてその連中と別れてから、シネマ・パレスで「<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の光」の映画を見て来たというのだった。見ようによっては何か怪しい興奮と疲労の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>かとも思われないこともないような紅潮が顔に差していたが、芸術の前にはとかく感激しやすい彼女のことなので、それは真実かも知れないのであった。

「Ｋ――<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>も一緒？」

庸三は葉子の手術のメスの<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えを見せたあの紳士のことを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。

「ううん、Ｋ――さん行かない。」

葉子は首をふった。

「あの人たちみんな罪がなくて面白いのよ。作家の人たちとまるで気分が違うわよ。」

子供と葉子のあいだに文学談が初まり、ジャアナリズムの表面へは出ない仲間の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>も出た。これからの文学を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ出そうとしている葉子は、しきりに興味を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>っていたが、彼の口にする青年学徒のなかには、すでに左傾的な思想に走っている者もあって、既成文壇を攻撃するその熱情的な理論には、彼も尊敬を払っているらしかった。

「それにあいつは素敵な好男子さ。」

葉子はそういう噂を聞かされるだけでも、ちょっと耳が熱して来るほどの恋愛空想家であったが、そのころはまだそんなに勢力をもつに至らなかったマルクス青年の、それが相当新鮮なものであったので、何か<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>たる風雲児が庸三にも想見されたと同時に、葉子がいつかその青年と相見る機会が来るような予感がしないでもなかった。庸三は心ひそかに少しばかりの<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>を感じないわけに行かなかったが、それが葉子にふさわしい相手らしいという感じもした。そして何か事件の起こるかも知れない時の自身の取るべき態度をも、その瞬間ちょっと想像してみたりした。

「何か食べに行かない？」

庸三は言い出した。

「私みつ豆食べたい。食べましょう。」

やがて三人<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がって外へ出た。

すると温かい<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>のこと、再び葉子が下宿から姿を消した。

出て行くその姿を、電車通りの角のフルウツ・パアラにいる長男の庸太郎がちらりと見た。

「どうもそうらしいんだ。黒い羽織を着て<ruby><rb>雨傘</rb><rt>あまがさ</rt></ruby>を差して、手に包みか何かもっているらしかった。原稿書きに行ったんかもしれない。」

彼は話した。

そのちょっと前に、今いつもの婦人雑誌記者と、自動車をおりて葉子が例の旅館へ入って行くところを、ふと通りがかりに見たといって、庸太郎がそれとなく報告するので、わざとしばらく近よらないようにしていた庸三が行ってみると、もうその時はその若い記者も帰ったあとで、葉子は夕刊を見ながらオレンジを食べていた。そして庸三の入って来るのを<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>て、好い顔をしなかった。

庸三の詰問に対する葉子の答えでは、彼女は記者をさそって、行きつけの支那料理屋で、晩飯を<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>しただけだというのだった。記者が葉子の讃美者であるだけに、庸三はちょっと疑念をもった。

「だってああいう人たちには、私などはたまにそういうことをしておく必要があるのよ。私原稿料の前借だってしているのよ。」

庸三はそれもそうかと思って、口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでしまったのだが、その晩もちょっとその辺を散歩するつもりで、二人で旅館を出ると、わざと大通りを避けて<ruby><rb>区劃</rb><rt>くかく</rt></ruby>整理後すっかり様子のかわった新花町あたりの新しい町を歩いた。そして天神の裏坂下から、広小路近くのお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の菓子屋が出している、<ruby><rb>汁粉屋</rb><rt>しるこや</rt></ruby>へも入ってみた。よく彼の書斎に現われる、英文学に<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい青年の兄の経営している、ちょっと風がわりの店であった。

そしてそうやって歩いていると、いつかまた別れる潮を見失って、彼は葉子の部屋で一夜を明かすのであった。

庸太郎と今一人、最近の英文学に興味をもっているその青年Ｈ――と一緒に、庸三の全集刊行の運動をしようとか何とか言って、葉子がまだ近所に一軒<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもちたての時分、いきなり訪問して来て以来、まるで内輪の人のようになって、今は何かに不自由がちな庸三の家政上のことに働いてくれる青年Ｋ――も、ちょうど庸三の部屋へ来ていて、少し顔色をかえながら下宿と旅館へ葉子を捜しに行ったのだったが、どこにも見えなかった。

やがてＫ――青年は、下宿に留守居をしている葉子の小間使のお八重を、庸三の部屋へつれて来た。去年の夏、子供たちについて、葉子の郷里から上京して来たお八重は<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>もよく<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>って、ふくよかな肉体もほどよく<ruby><rb>均齊</rb><rt>きんせい</rt></ruby>の取れた、まだ十八の<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な娘だったので、庸三のところへ来る若い人たちのあいだに時々噂に上るのであったが、今庸三の前へつれられて来ると、ひどく困惑して、どこか腹の<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>わったようなふうで、顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くして居ずまっていた。

「葉子さんどこへ行ったの？　八重ちゃん知ってるんだろう。」

Ｋ――青年は気軽に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。そして二三度<ruby><rb>詰</rb><rt>な</rt></ruby>じってみても彼女は迷惑そうに笑っているだけで、何とも答えなかった。そしてその態度で見ると、庸三の部屋で感ずることのできないような、下宿の部屋でのいろいろの事件を、あまりに知りすぎているので、そんな質問を発する庸三たちの方が、よほど<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいとでも思っているらしかった。葉子のところへ来る電話、葉子の方からかける電話――葉子が何をしているかは実際年の行かないお八重にも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るはずもなかったが、ほかに何か異性の友達があるくらいのことは解っていた。葉子は事によると、その異性との秘密を、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるお八重にも打ち明けているのかもしれないのであった。

庸三は原稿紙やコムパクトや何かの入った<ruby><rb>袱紗包</rb><rt>ふくさづつ</rt></ruby>みをもたせ、春雨のふる<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を黒塗りの<ruby><rb>高下駄</rb><rt>たかげた</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、円タクの流している<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>まで、お八重に送らせて行った葉子の断髪にお六<ruby><rb>櫛</rb><rt>ぐし</rt></ruby>を<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>した<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>な姿を、まざまざ目に浮かべながら、ちょっと見当もつきかねるのが、<ruby><rb>牴</rb><rt>もど</rt></ruby>かしくも<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>くもあったが、この少女をそれ以上苦しめることは無駄であった。葉子がこの侍女を絶対安全な<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>に仕立てあげるのは、何の<ruby><rb>雑作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もないことであった。

子供とＫ――青年とが、<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの街へ何か食べに出てから、庸三は半病人のように病床に横たわった。そして<ruby><rb>軟</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかいパンヤの<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のなかに独り体を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていると、疲れた頭脳も落ち着くのだし、衰えた神経の安めにもなるのであったが、彼にはこの<ruby><rb>醜陋</rb><rt>しゅうろう</rt></ruby>な情痴の世界をこえて、もっと重要な不安があった。そうした場合、もしも創作意慾が<ruby><rb>旺</rb><rt>さか</rt></ruby>んであり、ジャアナリズムの気受けがよかったら、彼の心意もそう<ruby><rb>沮喪</rb><rt>そそう</rt></ruby>しなくても済むはずであった。

庸三はいつごろまで仰向きになった目の上に「痴人の告白」を持ちこたえていたろうか、するうちに<ruby><rb>目蓋</rb><rt>まぶた</rt></ruby>が重くなって電燈を<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>くして<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>った。

すると部屋が白々としたころになって、誰かが彼のベッドの端へ来て坐る<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の重さを感じてほっと目がさめたと思うと、<ruby><rb>面窶</rb><rt>おもやつ</rt></ruby>れのした葉子が上から彼を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていることに気がついた。

「御免なさいね。――私昨夜こんなに書いたのよ。」

葉子はそう言って、原稿紙<ruby><rb>挟</rb><rt>ばさ</rt></ruby>みから十枚余りの原稿を出して、ぺらぺらと繰っていたが、疲れきった体に、感傷的な<ruby><rb>哀憐</rb><rt>あいれん</rt></ruby>の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を感じたものらしく、まだ全く眠りからさめきらない庸三の体を揺り動かした。

するうちある夜またしても葉子の姿を見失ってしまった。庸三も<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろげに感じている相手が誰であるかを、今なおはっきり突き留めたい好奇心に駆られた。彼女の患部にメスを<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>った<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>がまず彼の興味を刺戟したが、その他にも踊りの師匠の愛人、それから例の雑誌記者などにも疑惑は動いた。しかし何といっても、普通一般の思議を許さないあたりにも勤めている、<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた手腕と人格の持主である博士の生活に、ある新しい刺戟を感じているらしいことは、時々の彼女の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でも解るのであった。そうした地位の高い博士の愛を獲得することも、今まで気むずかしい芸術家ばかりを相手にしていた彼女にとっては、何か朗らかな<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びでなくてはならなかった。もしひょっとして博士が新しいペトロンの役割を演じてくれでもするとしたら、なおさらのことであった。

「また葉子がいなくなったよ。」

庸三は小夜子に報告した。密会や何かのことに、いろいろな場合の体験ももっているに違いない小夜子であった。

彼女はちょうど<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>から上がって、お化粧をすまして帳場に坐っていた。

「あの方どうしてそんなことなさるんでしょうね。先生というものがありながら。」

小夜子は帳場に立てかけた鏡のなかに<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れながら言った。

「先生を好きなんでしょう。」

「まあ……たまにはね。」

「いつからですの？　何とも言い置きもなさらないんですの。」

「昨夜かららしいね。」

そして博士のことを話すと、小夜子はにわかに興味を持ち出して来た。

「じゃあ秘密<ruby><rb>探偵</rb><rt>たんてい</rt></ruby>に頼んでみたらどうです。」

小夜子にもちょっと<ruby><rb>悪戯者</rb><rt>いたずらもの</rt></ruby>らしいところがあった。

「そうね。」

庸三は<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になったが、こういう場合一つ掘り下げはじめると、際限なく下へ下へと掘り下げてしまって、どうにも<ruby><rb>足悶</rb><rt>あが</rt></ruby>きのないのが、彼の性癖であった。そしてその刺戟と苦しみを彼にはだんだん享楽するように慣らされてしまうのだった。

「先生これから日本橋のＩ探偵社に行ってみません？」

「君も行く？」

「え。でも、ちょっと電話をかけてみましょう。」

小夜子は卓上電話の受話機を取った。そして探偵社と約束すると、ガレイジへも電話をかけた。

やがて絵羽の羽織を引っかけ、<ruby><rb>仏蘭西天鵞絨</rb><rt>フランスビロード</rt></ruby>のコオトに黒の<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>の<ruby><rb>衿巻</rb><rt>えりまき</rt></ruby>を肩に垂れた小夜子とハイヤアのクションに納まったが、庸三は何だか進まないような気がした。と言って小夜子のこの行動にも別に意志があるわけでもなかった。<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>いおりに<ruby><rb>悪気</rb><rt>わるげ</rt></ruby>のない不良少女団長であった彼女の、子供らしい思い附きにすぎないのであった。

自動車を<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>して、二人で探偵社の<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い応接室へ入って行ったが、しばらく待たされている間に小夜子は思いついたように、

「私何だか五反田の××閣あたりのような気がしますね。」

「××閣？　それは何さ。」

「震災後できた大きな料理屋ですの、連れ込みのね……あすこに<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっていれば絶対安全ですからさ。」

庸三はそんなことに暗かったが、葉子も実はそういろいろな世界を知っているわけでもなかった。しかし確信あるらしく小夜子にそう言われると、葉子と博士がそこへ乗り込んで行ったもののように思えても来た。

小夜子はそわそわしていたが、<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>しに××閣へ電話をかけてみようと言うので、あたふた廊下へ出て行って、受話機をはずした。庸三も<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に立っていた。

「もしもし、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のところに梢さんという女の方行っているはずですが……」

先方から女中の声が聞こえた。

小夜子はちょっと受話機の一方を手で<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで、

「図星らしいわ。」

と茶目ぶりな目を丸くしたが、再び電話口に現われた女中の返事では、やはりいないらしかった。

「初めいるような返事だったんですよ。梢さんなんて名前そうざらにあるはずじゃないんですもの。無駄だと思ってドライブしてみません？」

「そうね。」

<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>は電燈の世界になっていた。二人は何か引込みのつかないような気持で、酔興にもさらに料金を約束してタキシイを駆った。いつになく小夜子は興奮していたが、庸三もこの機会にそんな家も見ておきたかった。

「どうせ飯でも食うつもりなら……。」

「そうよ。」と小夜子は少し間をおいてから、

「でも私あすこ駄目なのよ。」

「ああ、そう。」

「私<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>の屋敷にいる時分、病気で一月の余もあすこにいたことがあるんですの。そこへある人が来て寝そべっているところへ、突然やって来たものなんですの。女中がそのことをしらせに、ばたばたとやって来たもんですから、彼は<ruby><rb>大狼狽</rb><rt>だいろうばい</rt></ruby>で、洋服を引っ抱えたまま庭へ飛び降りたのはよかったけれど、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の帽子が床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。」

「ある人とは？」

小夜子は<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>の貴族の屋敷に、老母もろとも<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。

話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>を結い<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の<ruby><rb>黒羅紗</rb><rt>くろラシャ</rt></ruby>のコオトに<ruby><rb>裹</rb><rt>くる</rt></ruby>まって、<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロード</rt></ruby>の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>ら顔が照らし出されていたが、<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおも</rt></ruby>の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きながら<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>にマッチを<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りつけていた。庸三は何か<ruby><rb>胸糞</rb><rt>むなくそ</rt></ruby>の悪いような感じで、この家の気分もおよそ<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るような気がした。今まで庸三は、あの<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>の立派な博士の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で、わざと原稿など書いて見せて、あるいは得意そうに読んでみせたりして、無邪気に女流作家の<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りを誇示しようとしている、葉子の顔や様子を、その一つの部屋のなかに幻想していたのだったが、それもあえなく形を消してしまった。

「こういう時は、こうでもしないとこの先生の気持はおさまらない。」

小夜子がそう言っているように思えた。

やがて二人は<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>が落ちたような気持で、帰路に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>らしい、十二円損してしまいましたね。」

川ぞいの家の門の前で自動車をおりる時、小夜子はそう言って笑った。

するとその夜おそく、庸三がＫ――青年と子供をつれて、春らしく<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めいた空の星を眺めながら、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>のしずまった通りを歩いたついでに、ふと例の旅館の重い戸を開けて、白い幕の陰にいた女中にきいてみると、梢さんがいるというのであった。

「もうお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みになっていますけれど……。」

それを聞きすてて、三人でどかどか上がって行った。

果して葉子は寝床に横たわっていた。髪に<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なウエイブがかかっていて、顔も寝る前に化粧したらしく、少し濃いめの<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>に冷たく塗られて、どんな夢を見ようとするのか、少しの<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>しも<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めない晴々しい麗しさであった。彼女は<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>紋綸子</rb><rt>もんりんず</rt></ruby>の<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>を着ていた。

庸三は何か荒々しく<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、いきなり頭と顔を三つ四つ打ってしまった。

葉子の黒い目がぽかりとしていた。

「私頭が大事よ。食って行かなきゃならないのよ。」

「何だ、そんな頭の一つ二つ。」

そして傍で<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れている若い人たちと一緒に引きあげようとした。

「ちょっと。」

寝ながらの葉子の声がした。庸三は瞬間後へ引き戻された。<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>ると葉子の表情がにわかに<ruby><rb>釈</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れて、<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けるような<ruby><rb>媚笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>が浮かんで来た。

「先生はいてよ。」

白い手が差し延べられた。場合が場合なので、彼も今夜は彼女の<ruby><rb>魅惑</rb><rt>みわく</rt></ruby>には<ruby><rb>克</rb><rt>か</rt></ruby>つ由もなかった。

## 十五

退院後の葉子の健康は、しかしそのころまだ十分というわけには行かなかった。そしてそういうことがあってから後も、どうかすると熱発を感じたが、外科ではあるが、Ｋ――<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>のくれる<ruby><rb>粉薬</rb><rt>こなぐすり</rt></ruby>は、ぴったり彼女の性に合っていると見えて、いつも<ruby><rb>手提</rb><rt>てさげ</rt></ruby>のなかに用意していたくらいだったので、少し暖かいところへ出てみたいと思っていた。庸三はちょうど新聞を書いていたから、一緒に行くのに都合がよかった。葉子も別に独りで行きたそうにも見えなかった。それに旅行というほどのことでもなかった。つい無思慮な二人の間の因縁の結ばれた郊外の質素なホテルで、余寒の<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>しい幾日かを過ごそうというだけのことであった。

けれどホテルへ乗りつけた時、葉子は決して楽しい気分で、部屋へ落ち着いたとは思えなかったが、サンルウムのような広いベランダを東と西に持ったサルンの<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>には、いつも赤々と石炭が燃やされ、部屋にもスチイムが通っていて、朝々の庭に霜柱のきらきらする外の寒さもしらずに、読んだり書いたりすることができた。それに日曜を除いては昼間は<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>も少なかったが、夜分になると、勤め先きから帰って来る男女の若い外人が、一杯サルンに集まって来て、そう<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しくない程度で、楽しげな談笑をつづけていた。葉子は人の少ない時黒い羽織を着てよくそこへ入って行った。そして<ruby><rb>煖房</rb><rt>だんぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>りから少し離れたところで、アメリカの流行雑誌などを見ていたものだが、外人たちの<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>も<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いではなかった。

「先生……。」

彼女はそう言って、時々人気のない煖房の前へ彼を誘い出すこともあったが、大抵二人きりでいる部屋が気詰りになって来ると、うそうそ廊下へ出て行くのであった。庸三はＫ――博士とのなかを、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げに感得していたものの、先きは人も知った人格者であり、<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>いあたりへも伺候して、限りない光栄を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>っている博士なので、もし葉子の<ruby><rb>嬌態</rb><rt>きょうたい</rt></ruby>に魅惑された人があるとしても、それは病院の他の若い人か、それとも、例の婦人雑誌の記者だろうかとも思ったり、または真実はやっぱり刀を執ってくれたＫ――博士のようにも想像されたりした。が、庸三も彼女の物質上のペトロンを失ったことに、多少の責任を感じてもいたし、物質的にまだ一度もこれという力を貸していないことに相当<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>け目も感じていたので、そんな点では決してぼんやりしていない彼女なので、何かの<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>を見つけて、その方の工作も進めつつあるのだろうという気もしながら、とかく不安や<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>に理性を失いがちな彼ではあったが、そうした<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な苦悩のなかにも、彼としては八方から襲いかかって来る非難のなかに、彼女の存在を少しでも文壇的に生かしたいと思った。恋愛も恋愛だが、この崩れかかって来た恋愛に、何か一つの目鼻がつき、<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>になった彼の<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>が多少なりとも立つものとすれば、それは彼女の才能を伸ばすことよりほかの手はなかった。

冬の日差しの暖かい静かな町へ、二人は時々散歩に出かけたが、庸三に寄り添って歩いている葉子はとかく神経的な感傷に陥いりがちで、鈍感な彼に何かを暗示するような<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>の言葉をかけることもあった。ちょっと特色のあるホテルの食事にも飽きると、遊びに来た若い人たちをも誘って、ガアドの先きにある<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな小路の小料理屋へ入って、海岸の町らしい新鮮な<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>や貝の料理を食べることもたびたびあった。ちょうどプロレタリア文学の<ruby><rb>萌芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby>が現われかけて来たころで、若い人々の文学談にもそんな影が差していたが、話の好きな葉子はことに若い人たちから何かを得ようと、神経を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせていた。去年の秋もたけなわなころ、まだ手術を思い立たない前の彼女をつれて、箱根までドライブしたことがあった。夜も大分遅くなって、<ruby><rb>痔</rb><rt>じ</rt></ruby>に悩んでいた彼女はクションの上に半身を横たえてぐったりしていたが、九時ごろに宮の下のある旅館の前へ自動車を着けさせてみると、酒に酔った学生たちが<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>、上がり口に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていてわあわあ言っていたので、庸三はにわかに<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>づいて、いきなりステップを降りかけようとしてまたクションに納まろうとした。そして運転士に方向を指そうとした途端に、四五人の学生はすでに車の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りを取りまいてしまった。

「××博士もいられます。あなたに<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>いたいそうですから。」

押問答をしているうちに、一人の青年がそう言って庸三を<ruby><rb>勧説</rb><rt>かんぜい</rt></ruby>した。彼は<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>に振り切るのも<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>くないと思ったので、彼らの好意に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せることにした。彼らは不意に目の前に現われた二人を<ruby><rb>弥次</rb><rt>やじ</rt></ruby>っていなかった。むしろその反対に「こんな恋愛を攻撃するのは封建思想ですよ。大いにおやんなさい」と言って、玄関へ上がって行った葉子を取りまいて、万歳を叫びながら胴あげしていた。庸三はきまりが悪くなって、その<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>にするするとそこをぬけて、番頭の案内で、二階の一室に納まったが、やがて部屋へ入って来た葉子の疲れた顔にも、興奮の色があった。

「困ったな。悪いところへ来てしまった。」

「あの人たちみんないい感じよ。帝大の人たちだわ。」

<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>のない葉子のことなので、それを好いことにしていた。

二人は一と<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>入ってから、食事を初めた。そこへ十人ばかりの学生が、前よりも<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な態度で、文学論を<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>わしに来たが、葉子はそれを一手に引き受けて、にやにや笑っている庸三をそっち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けに、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な手にまで表情をして、薄い<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>にべらべらと止め度もなく弁じ立てたものだったが、その時に限らず、青年たちの訪問する時、彼らの愉快な談話に対するのはいつでも葉子で、庸三は<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かぬでもなしに口数を利かなかった。どうかすると庸三の思いも及ばない美しい詩が、出任せな彼女の口から<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいたが、庸三にとってはそれが花か月のような女性の世界の神秘のような匂いもするのだった。

ある晩も二人は行きつけの小料理屋の一室で、食事をしていた。庸三はどこへ行っても、床の間の掛軸や<ruby><rb>花瓶</rb><rt>かびん</rt></ruby>などに目をつける習慣になっていて、花の生け方などで料理がひどく乱暴なものか否かを大体<ruby><rb>卜</rb><rt>ぼく</rt></ruby>するのであったが、今そこに<ruby><rb>蕪村</rb><rt>ぶそん</rt></ruby>と署名された南画風の古い軸がかかっていたので、それが偽物だということは、絵柄と場所柄でわかるにしても、ひょっとすると掘出し物ではないかという好奇心も手伝って、無下に<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てたものでもなさそうなその絵を幾度となく眺め返していた。彼は逃げようとして絶えず隙を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>ってでもいるような、何かぴったりとしない葉子の気分に、淡い<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>と腹立たしさを感じながら、それを追窮する勇気もなく、それかと言って器用に身を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>すだけの<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もなく、信じないながらにわざと信じているようなふうをして、苦悩の<ruby><rb>泥濘</rb><rt>でいねい</rt></ruby>に足を取られていた。それというのも、そういう場合の彼女の<ruby><rb>媚態</rb><rt>びたい</rt></ruby>が、常よりも一層神経的でもあり<ruby><rb>煽情的</rb><rt>せんじょうてき</rt></ruby>でもあって、嫉妬と混ざり合った憎悪と愛着の念が、彼を一種の不健康な慾情に駆り立てたからで、お互いに肉情的な<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>仕合いに<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れているのであった。

その夜も庸三は少し<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>になっていたが、どうかした拍子に、

「先生私をあまり重荷にお思いでしたら……。」

と葉子はふとそう言って、寂しそうな表情をしていた。

庸三は何か別のことを考えていたので、その言葉をはっきり<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き取ることもできず、その意味を問い返すだけの意識もなくて、押し黙っていたが、彼女の背後にあるものの影が、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かにぼかされていた。

サルンに人のいない時、葉子は時々読んでいる本を伏せて庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れた。庸三は高すぎるくらいの<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>に向かって、<ruby><rb>廻転椅子</rb><rt>かいてんいす</rt></ruby>にかけながらペンを執っているのだが、姿の見えぬ彼女の一挙一動を感知しようとするもののように、耳を澄ましていた。かつて彼女は、庸三の家へ入りたてのころに、独りで帝国劇場へ女優劇か何かを見に行ったことがあった。その時多分彼女のどうかした表情が、その結果を生んだものであろうが、隣に座席を取っていた米国人らしい若い一人の紳士が、<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない日本語で彼女に話しかけた。双方の言葉が通じるというわけには行かなかったが、同伴者があるかどうかくらいのことは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った。葉子はかねがね白色外人に興味をもっていたけれど、不良外人の多いことをも知っていたので、そんな観衆のなかで<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>く話しかけられるのがいやだった。彼女は座席を離れて廊下へ出た。そして売場の前を通ってバルコニイへ出て、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の夜景を見ていた。五月のころでもあったろうか、街路樹の葉はすでに<ruby><rb>蒼黒</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っていて、軽い雨がふっていた。それは外人から逃げるためか、それとも誘い出すためだったか、彼女の話だけでは本当のことは解る由もなかったが、多少の好奇心に駆られていたものと思っても、間違いではなかった。ずっと後にある<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>の青年学徒と、しばらく係り合っていたという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>と照らし合わせてみても、すべてのモダアンな若い女性の例に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れず、そうした外人にある<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>をもっていたものと見てもよかった。――とにかくバルコニイに立っている葉子は、何か訳のわからない恐怖に似た胸の<ruby><rb>戦</rb><rt>わなな</rt></ruby>きをもって、近づく廊下の靴音に耳を澄ましていたに違いなかった。果して青年は近づいて来た。そしてたどたどしい日本語で今下へおりて自動車を呼ぶから、一緒にドライヴしようと申し出た。無論相手がどんな種類の人間だかも解らなかったし、感違いの侮辱も感じたので、葉子は手まねで拒絶したが青年は<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。そして押問答しているうちに、案内女や通りすがりの観客の足がそこに止まったところで、葉子は先刻ちょっと廊下で偶然に会って立話をした草葉の知合いの、婦人運動などやっているＯ――女史に頼んで来てもらって、やっと自身の身分を知らせることができた。Ｏ――女史は彼女が有名な女流作家であることを、わざと宣言したのであった。

その後葉子は、銀座の<ruby><rb>曾根</rb><rt>そね</rt></ruby>のスタジオへ撮影に行った帰りに、飾り窓の前に立っていると、またしてもその青年外人が傍に立って、にやにやしているのに気づいたが、その時は目と目と<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>み合っただけで、二三町それとなく<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>をつけられた感じだったが、何のこともなかった。そのころの葉子には、まだ娘気の<ruby><rb>可憐</rb><rt>しおら</rt></ruby>しさや、文学少女らしい<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りもあった。

庸三は今外人のホテルに葉子と二人いて、そんなことも思い出さないわけに行かなかった。ここにいる若い外人は大抵官省や会社に勤めている技師のようであったが、中には着いたばかりで、借家を捜すあいだの仮りの宿として、<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かのトランクを持ち込んで来る新婚の夫婦もあった。庸三が一日に何度となく、<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むようにして、廊下へ出て行く葉子の動静に気を配ることを怠らなかったのも、一つはそのためでもあった。

ある時はまた、そっと玄関に近い事務室の傍にある電話口へ出て行って、どこかへそっと電話をかけているのではないかという彼女の気配が、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに感じられるような気がしたりしたが、夜はいつまでもラジオを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いていることもあった。

来客などのあった時とか、または少し離れたところに、名高い女流作家と<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>った愛の巣を造っている若い作家を訪れたりした時には、庸三はホテルの人たちが寝静まったころに、やっと原稿紙に向かうことができた。彼はしばしばサロンの外人たちの間に交じって、彼女と一緒にお茶やケイキを食べたが、彼自身も今少し度胸があったら、何か話したそうにも見えるそれらの人たちと言葉を交したい方であった。

するとある夜葉子は、いつもの神経的な発熱でベッドに横たわりながら、本を読んでいたが、うとうとしていたかと思うと、ヒステリカルに彼を呼んで白い手を伸ばした。昼間葉子は庸三の勧めで<ruby><rb>幌車</rb><rt>ほろぐるま</rt></ruby>に乗って町の医院を訪れ、薬を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って来たのであったが、医者は文学にも知識をもっているヒュモラスな<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>で、葉子の<ruby><rb>躰</rb><rt>からだ</rt></ruby>をざっと診察すると、もうすっかり<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>になってしまった。しかしこの場合葉子に利くのはその処方ではなかった。

庸三も何となしこの生活に疲れていた。新聞一回書くのにも気分が落ち着かなかった。葉子が病気になると一層<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>であった。彼は葉子を落ち着かせるために、側へ寄って行くのだったが、彼女はいつも<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣いているような表情で、目も<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んでいた。

「先生も<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうな人ね。」

葉子はそう言って、彼の手を取ったが、この重苦しい愛着の圧迫に苦しんでいる、それは彼女の<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の声でしかなかった。

「お察しの悪いったら……。」

彼女は心に<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いているのだった。

翌日も熱発が続いた。そして日の暮近くになってから、我慢しきれなくなった葉子の希望で、Ｋ――博士に来診を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うことにした。

<ruby><rb>縫紋</rb><rt>ぬいもん</rt></ruby>の羽織にごわごわした<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>で、博士がやって来たのは、間もなくであった。葉子は博士が来てくれることを知ってから、にわかに顔色が晴れた。ちょうど庸三は<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を買いに、事務室のところへ来ていたが、そこへ目の大きく光った博士がおずおず入って来て、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に言葉をかけた。

「お見舞いに上がったのですが……。」

「お忙しいところ恐縮でした。どうぞ。」

和服姿で<ruby><rb>肱掛椅子</rb><rt>ひじかけいす</rt></ruby>にかけたところは、博士はいかにもどっちりした<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な中年の紳士であった。

葉子はじめじめした<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>が<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、日光が差したように、<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>のうえに上半身を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、「先生！」とさも親しげに呼びかけながら、庸三をそっち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けの、朗らかな声で話しかけたが、博士は庸三に気を兼ねるように、むしろ話のはずむ彼女に<ruby><rb>目配</rb><rt>めくば</rt></ruby>せしたいような目つきで、穏やかに受け答えをしていた。話は大体博士の洋行中の生活に関することであった。

やがて紅茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>ってから、診察に取りかかった。患者として扱いつけられたという以上の焼きつくような、しかし博士の良心によって適当に節制された愛の目の<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>み合っていることは、少し薄暗い電気の光りでは、庸三の目にそれと明白に映るわけには行かなかったが、毛布の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をまくってとかく<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りのおそい<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>を見る時になって、彼は急いで部屋の外へ出てしまった。そしてどんな言葉が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかれたかは、知る由もなかった。

庸三は<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されたような気持で、廊下を歩いていたが、ちょうどその時、婦人文芸雑誌記者のＲ――がやって来た。

庸三がＲ――を誘って、部屋へ入って来たころには、久しぶりの創の手当も済んで、博士は<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の椅子にかえっていた。庸三は<ruby><rb>鑵入</rb><rt>かんい</rt></ruby>りのスリイ・キャッスルを勧めながら、ずっと以前、同じ病院で、院長によって<ruby><rb>痔瘻</rb><rt>じろう</rt></ruby>の手術をした時の話などした。その時博士は独逸から帰ったばかりであった。そうしているうちに、博士が自分に好意をもつと同時に、<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな葉子の熱病にも適当な診察が下されるであろうことも想像できるように思えた。何よりも博士には高い名誉と地位があった。彼は<ruby><rb>貴</rb><rt>とうと</rt></ruby>いあたりから差し廻される馬車にも、時には納まる身分であった。

しかし無反省な愛執に目を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた庸三にも、この<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>もない葉子の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>には、目を蔽っているわけには行かなかった。彼は少し興奮していた。そして彼への原稿の依頼をかねて、葉子にも何か短いものをと、記者が話し出した時にいきなり侮辱の言葉を浴びせた。

「こんなものに何が書けるものか。」

「いや、しかし先生の目が通れば……。」

「僕は御免ですよ。」

庸三はこの場合博士の前で、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>げた道化師にされた<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>を、それでいくらか晴らしたような気もしたが、記者につづいて、博士が辞して行ったあと、一層憤りが募って来た。彼はベッドの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったり来たりしながら、葉子を<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>った。葉子はそれについては、弁解がましいただの一言も口にしなかった。

やがて庸三は原稿紙や雑誌や、着替えのシャツのようなものを、無造作にトランクに詰めはじめた。そして錠をおろすと、ボオイを呼んでビルを命じた。

「Ｋ――さん名誉ある人ですから、それだけはお考えになってね。」

葉子は目に涙をためながら哀願した。

「それに先生も少し邪推よ。後で話しますわ。」

勘定をすますと、庸三は重い<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて、いきなり部屋を出ようとしたが、駅まで行くには車を呼ぶ必要もあった。懇意になりかけたマスタアやボオイたちの手前、病人の葉子を置き去りにするのも、体裁が悪かった。Ｋ――博士との関係が、どこまで進んでいるかも<ruby><rb>気懸</rb><rt>きがか</rt></ruby>りであった。何よりも適当な時機に、衷心から<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>け合うことは望めないにしても、表面だけでも来た時のようにして一緒に帰りたかった。一人帰れば、あの寂しい書斎でやる瀬のない一夜を、おちおち眠ることもできずに苦しみ通すに違いないのであった。

庸三はやがて食事を部屋へ持ちこませて、フォクを執ったが、葉子はコンソメの<ruby><rb>幾匙</rb><rt>いくさじ</rt></ruby>かを<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>って、オレンジを食べていた。

「御免なさいね。」

葉子はそう言って、またベッドに仰向きになった。庸三は赤々と石炭の燃えているサルンへと出て行った。

間一日おいて、ある日の午後葉子はしばらくぶりで、踊りの師匠に内弟子として預けてある瑠美子の様子を見に行きたいとかで、ちょうど遊びに来合わせていた二人の青年と一緒に出て行った。青年たちが省線で帰るにつけて、ふと思いついたふうにも見えたが、庸三もいつもの気持で送り出しもしなかったし、葉子も何か<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>台詞</rb><rt>ぜりふ</rt></ruby>めいた言葉を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して出て行った。庸三は二度とホテルへは帰って来るな、といった意味の言葉を送ったが、彼女は彼女で<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の一軒も建ててくれるだけの親切でもあるならと、差し当たっての彼女の要求をそれとなく匂わした。

独りになってみると、部屋がにわかに広々してみえ、<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>に混濁した空気が明るくなったように見えた。気もつかないうちに、春はすでに締め切った<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>のうちへもおとずれて来て、何かぼかんとした明りが差していた。いつか散歩のついでに町の花屋で買って来たサイネリヤが、雑誌や手紙や原稿紙の散らばった<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に、<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しく<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れかかっていた。

じきに夜になった。庸三は外へ出る興味もなく、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入ってから、照明のほのぼのした食堂へ入って行った。洋楽のレコオドがかかっていて、外人が四五人そっちこっちのテイブルに散らばっていた。

アメリカ帰りのマスタアが、ここにこのホテルを建てた当初から現在に至るまで、およそ十年余りのあいだ、ここに滞在している<ruby><rb>仏蘭西人</rb><rt>フランスじん</rt></ruby>の<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったプロフェッサが一人いることは、いつか初めて葉子をつれて、日本座敷に泊まっていた時、マネイジャ格の老ボオイから聞いた話だったが、庸三はそれがどんな男か、それらしい老紳士の姿を、廊下でもサルンでも一度も見たことはなかった。彼は部屋を決める時、半永久的に床を自分の趣味で張りかえ、壁紙や<ruby><rb>窓帷</rb><rt>カアテン</rt></ruby>も取りかえて、建築の基本的なものに触れない程度で、住み<ruby><rb>心地</rb><rt>ごこち</rt></ruby>の好いように造作を造りかえた。

生活もすこぶる厳格なもので、夜分に外出するということもほとんどなく、外で食事をするようなこともめったに聞かなかった。学校が休みになると彼は毎年行くことにしている、<ruby><rb>長崎</rb><rt>ながさき</rt></ruby>のお寺で一夏を過ごすのも長年の習慣であった。彼は庸三と大抵同じくらいの年輩らしかった。

庸三は<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>を一杯ついでもらって、<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しそうにちびちび口にしながら、ほんの<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>の一部しか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていないその外人の生活を、何かと<ruby><rb>煩累</rb><rt>はんるい</rt></ruby>の多い自身に引き<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べて思いやっていた。さりとて信仰なしに宗教の規範や形式に自身を<ruby><rb>鋳込</rb><rt>いこ</rt></ruby>むのも空々しかったし、何か学術の研究に没頭するというのも、柄にないことであった。彼は長いあいだの家庭生活にも<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>みきっていたし、この<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな恋愛にも疲れはてていた。心と<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>の<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いをどこかの山林に取りたいとはいつも思うことだが、そんな生活も現代ではすでに相当<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>なものであった。

<ruby><rb>一盞</rb><rt>いっさん</rt></ruby>の葡萄酒が、<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>された彼の霊ををとろとろした酔いに誘って、がじがじした頭に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな火をつけてくれた。そして食事をすまして、サルンのストオブの側に<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を取って<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしていると、幾日かの疲れが出たせいか、<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よく眠気が差して来た。

やがて彼は部屋へ帰って、着物のままベッドに入った。この場合広いベッドに自由に手足を伸ばして、体を休めることが、彼にとって何よりの安息であった。

庸三は葉子が帰って来るようにも思えたし、帰って来ないような気もして、初めはむしろ帰って来ない方がせいせいするような感じだったが、うとうと一と寝入りしてから、およそ一時間半も眠ったろうか、隣室の客が帰って来た<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>に、ふと目がさめると、その時はもう<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>を境とした一方の隣りにあるサルンにも人声が絶えて、ホテルはしんと静まりかえっていたので、事務室の大時計のセコンドを刻む音や、どこかの部屋のドアの音などが、一々耳につきはじめて、ふっと入口のドアの<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>く音などが聞こえると、それが葉子であるかのように神経が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めるのだった。

何時ごろであったろうか、病人のように<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>い神経が、ふと電話のベルに飛びあがった。りんりんと続けさまに鳴ったが、ボオイたちもすっかり寝込んでいると見えて、誰も出て行くものがなかった。宿泊人はいずれも朝の勤めの早いサラリーマンなので、こんな遅くに電話のかかって来るはずもなかった。庸三は多分葉子だろうという気がして、よほどベッドを降りようかと思ったが、意識がぼんやりしていたので、それも<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>であった。するうち彼はまたうとうとと眠ってしまった。

翌日庸三はそこを引き揚げて、しばらくぶりで書斎へ帰って来た。からりと悪夢からさめたような感じでもあったが、頭脳のそこにこびり着いた<ruby><rb>滓</rb><rt>かす</rt></ruby>は容易に取れなかった。そして机の前に坐っていると、不眠つづきの躯のひどく<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>していることも解った。彼は近所の<ruby><rb>渡瀬</rb><rt>わたせ</rt></ruby>ドクトルに来てもらって、躯を<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらった。ドクトルは彼のこのごろの生活をよく知っていたが、ずっと第二号と暮らしていたので、いつもよりシリアスな態度で聴診器を執ってくれた。

「まあ神経衰弱でしょうね。よく眠れるように薬を加減して差しあげましょう。」

「どうもこういう生活が<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いんですが、いけないんでしょうな。」

「それかと言って、この部屋も独りじゃ随分寂しいですからね。」

ドクトルが帰ってから、彼は夕方まで眠った。

四月の末になって、葉子は<ruby><rb>逗子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の海岸へ移ることになった。

そのころにはＫ――<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>との関係も、すでに公然の秘密のようなもので、双方の気分の<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな折々には、葉子も笑いながら、興味的なその秘密をちらちら<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らすのであった。

「ああいう人たちの生活は、本当に単純で罪のないものなのよ。私たちの生活がどんなにか花やかで面白いものだろうかと思っているの。あの人は職業上の関係で、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>のある芸者を知っていたの。私と同じ<ruby><rb>痔</rb><rt>じ</rt></ruby>の療治で入院していて、退院してからちょいちょい呼んでやったことがあったものよ。その人の<ruby><rb>面差</rb><rt>おもざ</rt></ruby>しが私によく<ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>ているというのよ。」

「ふむ。君との関係は、いつから？」

庸三はきいて見た。

「ううん、それももっと後になったら、詳しく話すけれど……。あの人の位置を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り換えさえすれば、書いてもいいわよ。いろいろ面白いこと教えてあげるから。でも、先生怒るから。」

庸三は苦笑した。

「初めは……どこへ行った？」

「夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。」

「退院してからね。」

「そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。」

そうしたシインも容易に彼に想像できるのであった。

「面白い手紙もあるわよ。人格者らしく<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>で、子供のように単純なのよ。」

「見せてごらん。」

「それももっと後に。」

しかし庸三は良心的に、あの博士のそうした秘密などにあまり触りたくはなかった。知れば知るほど自分の下劣さを掘り返すにすぎなかった。

「金があるのかしら。」

ちょっとそれにも触れてみた。

葉子はその収入を<ruby><rb>大掴</rb><rt>おおづか</rt></ruby>みに計算しはじめたが、財産がどのくらいのものかは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りようもなかった。もちろん二人で遊ぶ時の費用は、大体葉子が払っているものと見てよかったから、彼女に打算のありそうもなかった。それが多少あったにしても、純真な博士の前では問題にもならないはずであった。結果からみれば博士が少し<ruby><rb>上手</rb><rt>うわて</rt></ruby>だということになりそうだった。

葉子は患者として、博士の邸宅をも訪れたことがあるらしく、生活の程度を大体それで推測していた。

「けれどＫ――さんそう言ってたわ。先生はいい人だから大事になさいって。私が逗子へ行くのも、この事件を清算するのにいいからなのよ。」

庸三は黙って<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いていたが、遠いところに離れていれば、博士に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>う機会が自由に作れるのだという気もした。博士の方から手を引こうとしていることは解るが、葉子のあれほどの熱情が、水をかけた火のように消えるものかどうか、疑わしかった。

「私Ｋ――さんにお礼しようと思うけれど、何がいい？」

そんな関係にまで進んでいてそれにも及ばないという気がしたが、そうするといよいよ清算かなとも考えた。

「およそどのくらいのものさ。」

「あまり<ruby><rb>吝</rb><rt>けち</rt></ruby>なこともできないでしょう。<ruby><rb>葉捲</rb><rt>はまき</rt></ruby>どう？」

「よかろう。」

「三十円くらいで、相当なものある？」

「僕は知らんけど……。」

葉子が逗子へ<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を捜しに行ったのは、それから二三日してからであったが、そのころには奉書二枚に包んで水引をかけた葉捲の<ruby><rb>函</rb><rt>はこ</rt></ruby>も買い入れて、庸三の部屋へ来て見せたりしていた。

ちょうどそれと同時に、下宿の部屋の窓先きに、丸い<ruby><rb>鳥籠</rb><rt>とりかご</rt></ruby>がかかっていて、静かな朝などに愛らしいカナリアの<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声が、彼の部屋へも聞こえて来たが、それが葉子の引越しを祝って、彼女の弟が<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>にくれたものだというのは<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>で、実はＫ――博士の贈りものであったことを、<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な庸三も大分後になってやっと感づいて、それでともかくこのロオマンスに大詰が来たことも<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこめた。

庸三が葉子につれられて、初めて逗子へ行っていたのは、引き移ってから四五日してからであった。

庸三は実は行くのも<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>いような気がしていたが、その家へぜひ来て見てもらいたいような様子なので、つい行く気になった。これからの季節には、あの辺の海岸も<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>るころで、あのホテルに若い人たちも集まるはずであった。前から家をかりている若い流行作家のあることも知っていたし、長男の同窓でブルジョアの一人<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>である秀才のマルクシストの邸宅のあることも解っていた。葉子の家がそれらの青年たちにとって、気のおけない<ruby><rb>怡</rb><rt>たの</rt></ruby>しいサルンとなることも考えられないことではなかった。ぼろぼろになった恋愛を、今さらそんな<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>まで持ち廻るのも恥ずかしいことだったし、子供たちから遠く離れているのも不安だった。

葉子は借りた家の間取りや、玄関の見附き庭の構図などについて、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに説明していた。

「それが五十円なの。安いじゃないこと。」

そんな家を借りて、どうするのだろうと、小心な庸三は心配になった。連載ものを書いている間はいいとしても、それがいつまで続くものでもなかった。もちろん彼女はいつも<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をするとも決まってないので、本当に<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の好い主婦だという感じのする場合もあったが、<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>は世帯として、とかく金のかかるように出来ていた。メイ・牛山あたりで買って来る化粧品だって、相当のものであった。たまにはいくら庸三が補助するにしても、いつかは<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>が来るに決まっていた。

しかし葉子は、今までの生活を清算して、そこで真剣にみっちり勉強するつもりであった。瑠美子を人にあずけておいても気がかりなので、それも手元に置きたかった。移るについて、母親からいくらか金を送ってもらっていた。母はまだまだ葉子を<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>ててはいなかった。

庸三は<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>をさげて、ぶらりと家を出た。そしてタキシイで東京駅へ乗りつけたが、海岸の駅へ着いたころには、永くなった晩春の日もすでに暮れかけていた。

タキシイで通る海岸の町は<ruby><rb>閑寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>したもので、日暮れの風もしっとりと<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しかった。庸三は何かしら悪い予感もあったが、しばしばのゴシップに<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>もついていたので、とかく落ち着けない気分だった。葉子は珍らしく、家へ帰るとすぐ<ruby><rb>鱗型</rb><rt>うろこがた</rt></ruby>の<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の不断着に着かえ、髪も乱れたままで、ホテルの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にある<ruby><rb>肴屋</rb><rt>さかなや</rt></ruby>や、少し離れたところにある<ruby><rb>八百屋</rb><rt>やおや</rt></ruby>へ、女中のお八重をつれて買い出しに行ったりして、晩飯の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>に働いた。<ruby><rb>尻端折</rb><rt>しりっぱしょ</rt></ruby>りで<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みこみもした。

「こんな新しい<ruby><rb>海老</rb><rt>えび</rt></ruby>よ、<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>のお刺身も頼んで来たのよ。」

葉子は肴屋から届いた海老を、庸三の前へ持って来て見せた。

「ほんとうにやる気かしら？」

庸三はそんな気もしたが、郊外の町のホテルに彼を置き去りにした時の、何かに<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたような気分はどこにも見られなかった。花火線香のような情火が、いつまたどんな<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みで燃えあがるまいものでもなかったし、新らしい生活に一時飛びつくような<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を感じはしても、じきに飽きの来ることも解っていないことはなかったが、それはその時にならなければ、やはり解らないことであった。それに庸三は、生活の責任を回避しながら――それには現実に即しえられない彼女の本質的な欠陥があるという理由があるにしても――彼女の愛を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>もうとする利己心を、性格のどこかに我知らず包蔵していた。もっと悪いことには、自身の生活にある程度<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>がついても、知るだけのことは知りたいと思った。無論それも頭のうえの口実で彼の気持はもっと盲目的に動いていることも、争えなかった。葉子を通して、彼は<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな触れ合いで済んで来た、過去の幾人かの女性にも目が開いて来た。

二方庭に囲まれた奥の八畳で、何か取留めのない<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>がすんで、水菓子を食べながら、紅茶を飲んでいる間に、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>も<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来て、庸三は八重子に背中を流してもらいながら湯に浸った。

やがて瑠美子が寝てしまうと、環境もひっそりしてしまって、<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>の音が聞こえて来た。

「海へ出てみません？」

葉子が誘うので、ステッキをもって門を出た。ホテルの入口がすぐそこにあった。

「もしラジオをお<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きになりたかったら、ホテルで聴かれますのよ。」

葉子はそう言って、ホテルの裏の小路をぬけて浜へおりて行ったが、このホテルの内容や、マスタア夫妻の生活や人柄についても、すでに感じの細かい知識をもっていた。

海は暗かった。<ruby><rb>堆高</rb><rt>うずたか</rt></ruby>い沖の方が辛うじて空明りを反映させていた。それに海風も薄ら寒かった。葉子は口笛を吹きながら、のそりのそりと砂浜を歩いていたが、ふと振り返ると、マッチをつけかねていた庸三に寄り添って、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>で風を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎった。

「楽しくはない？」

「そうね。」

葉子は夢の中を歩いているような、ふわふわとどこまでも<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていたが、夜の海の<ruby><rb>憂愁</rb><rt>ゆうしゅう</rt></ruby>にも似た思いに沈みがちな彼女とは、全く別の世界に住んでいるような、相手が相手なので、何か飽き足りなそうであった。しかし葉子は再び彼によって、今少し確かな足を踏み出そうとはしているのだった。

## 十六

この平凡な内海に避暑客が来るにはまだ間があった。砂<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>や水<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>りをしたり、または海草とか<ruby><rb>小蟹</rb><rt>こがに</rt></ruby>とか<ruby><rb>雲丹</rb><rt>うに</rt></ruby>などを<ruby><rb>猟</rb><rt>あさ</rt></ruby>ってあるく子供や女たちの姿は、ようやく夏めいて来ようとしている渚に、日に日に<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えて来て、気の早い<ruby><rb>河童</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>どもの泳いでいるのも初夏の太陽にきらきらする波間に見られた。葉子も瑠美子と女中をつれて、潮の<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた岩を伝いながらせせらぎを泳いでいる小魚を追ったり<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の<ruby><rb>毬</rb><rt>いが</rt></ruby>のような貝を取ったりした。彼女はその毬のなかから生雲丹を掘じくり出すことも知っていた。庸三もステッキを突きながら所在なさに岩を伝って、葉子たちの姿の見えないような遠いところまで出て行って、岩鼻に<ruby><rb>蹲居</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んで<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな微風に<ruby><rb>頸元</rb><rt>くびもと</rt></ruby>を吹かれながら、持前のヒポコンデリアに似た、何か理由のわからない白日の憂愁に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われていた。そうやっているうちにも彼は一刻も生活を楽しんでいる気にはなれなかった。一方早く自身の生活に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>らなければならないという<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>に駆られながらも、危ない<ruby><rb>断崕</rb><rt>だんがい</rt></ruby>に追い詰められているような現実からどう転身していいかに迷っていた。彼は飛んでもない舞台へ、いつとなし登場して来たことを<ruby><rb>慚</rb><rt>は</rt></ruby>じながらも、<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>のいい引込みも素直にはできかねるというふうだった。<ruby><rb>浪子</rb><rt>なみこ</rt></ruby>不動がすぐその辺にあった。庸三は名所<ruby><rb>旧蹟</rb><rt>きゅうせき</rt></ruby>という名のついたところは、一切振り向くのが<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いだったが、時には葉子とそこまで登って行ったこともあった。ホテルへ来て物を書いている人気作家のＫ――氏と一緒のこともあって、Ｋ――氏とは撮影所へつれて行ってもらったりしていたし、人の<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>む新婚生活も、そのころはすっかり前途の幸福も保障され、そこからまた新らしい人気も<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いていたので、葉子もついに三人一緒に歩きながら、何かＫ――氏に訴えてみたいような気持を口にしがちであった。

「今のままで結構じゃありませんか。」

Ｋ――氏は言っていたものだが、そういう後では、葉子の気持にも何か動揺があった。彼女は<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>事件以来、ここへ引っ越して来てから、自身の<ruby><rb>不乱次</rb><rt>ふしだら</rt></ruby>を深く後悔しているように見えた。少なくとも今しばらく庸三との最初の軌道へ立ち戻っているよりほかないものと、虫を抑えているらしかったが、しかし考えようによっては清算しきれないものが残っているかも知れなかった。博士との関係をずっと持ち続けるには、かえって遠ざかっている方が、とかく名誉に傷つきやすい博士のために有利だと考え、擬装のためわざと庸三を利用しているように思われないこともなかった。そのころまだ博士の贈りものだとも気づかなかったので、<ruby><rb>捲毛</rb><rt>まきげ</rt></ruby>のカナリヤの<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の側で、庸三はよく<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>に腰かけながら、あまり好きでないこの<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>の動作を見守っていたものだが、いくらかの潜在的な予感もあったので、葉子のこの小禽に対する感情をそれとなく探るような気持もあった。彼は少年のころ小鳥を飼った経験があるが、枝にいる時ほど籠の小鳥は好きではなかった。この繊細なカナリヤも飼い<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない葉子の手で、やがて死ぬだろうと思うと、好い気持がしなかった。

やがて梅雨期にでも入ったのか、この海岸の空気も毎日<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>であった。葉子はある日のお昼過ぎ、婦人雑誌社を訪問する用事があって、一人で東京へ行った。庸三もそう続けてそこにいたわけでもなかった。葉子と生活をともにしていることも、決して楽ではなかった。自身の家庭に居馴らすことができてこそ、女も彼の日常の<ruby><rb>伴侶</rb><rt>はんりょ</rt></ruby>であり、朝夕の話相手でありうるのだったが、彼の生活に溶けこむこともできない生活条件の下では、かえって重荷を、あんな事件もあった後で、もうこの辺で卸してしまいたい気もしていた。若い彼女の生活に附き合って体や頭を痛めながら調子を合わしていることは、何と言っても苦痛であった。生活の負担も考えないわけに行かなかった。

東京へ帰ると、彼はまた<ruby><rb>大川端</rb><rt>おおかわばた</rt></ruby>の家へ行って、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>に入ったり食事をしたりして、やっと解放されたような気分になれるのであった。

入れかわりに長男に連れられて、子供たちが逗子へ行ったりしたが、そのころには博士との関係についての彼の疑いも、いつか<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな影のようなものになっていた。

二度三度行くうちに、何か<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>ましい感じだった逗子の町や葉山の海岸にも、いつとはなし淡い懐かしみも出来て、この一と夏を子供と一緒にここで過ごすのも悪くないという気もして、葉子と一緒に家を捜してみることもあった。

葉子はその日<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を出がけに、晩方にはきっと帰って一緒に御飯を食べるからと言いおいたので、庸三もそのつもりで待っていたが、すでに日が暮れそうになっても彼女は帰って来なかった。ちょうど女中のほかに、洋画修行の北山という北海道時代から葉子の原稿の手助けをしたり、東京ではまた踊りの師匠の内弟子である瑠美子の様子を、時々見に行ったりしている女も来ていたので、庸三も退屈はしなかったが、家に葉子がいないと、やはり花が<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んだような感じで、電燈の影さえ寂しかった。それに時間がたつに従ってだんだん<ruby><rb>餒</rb><rt>ひも</rt></ruby>じくもなって来た。

やがて八時も過ぎ九時にもなった。

狭いこの町に、ホテルへ客を送って来る自動車の警笛の音が幾度か響いて、夜も大分<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた時分に、門の前で自動車のエンジンの音がしたと思うと、メイ・ウシヤマで<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>にウエイブをかけた黒髪をてらてらさせて、濃いめな<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>やアイシェドウに、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>や目や<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>をくっきりさせながら、何か型にはまったような美しさで葉子が帰って来た。銀で千鳥をところどころ縫い取った黒い地紋の羽織を着ていたので、顔の感じが一層<ruby><rb>石膏</rb><rt>せっこう</rt></ruby>細工のように<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>かった。

「もう帰るだろう、もう帰るだろうと思って、僕は今まで飯も<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>わずに待っていたんだ。」

庸三は、腹を立てていた。

葉子は台所の方を背中にして坐っていたが、化粧のせいかいつものように、溶けるような目の表情もないかわりに暗い影もなかった。

「だって、あの人たちが久しぶりだから御飯をおごると言ってくれるし、<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>の人たちに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>えば女はそう事務的にばかりも行かないものなのよ。」

庸三はその<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>いやりながらも、それもそうかと思ったが、今度は髪や顔をくさしはじめた。葉子は半ば<ruby><rb>惘</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をしていたが、北山やお八重が<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>の目で、どこに陰影一つない<ruby><rb>粧</rb><rt>つく</rt></ruby>り立ての葉子の顔を見ていたので、庸三はなおさら虫が納まらなかった。そして到頭彼は座を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>るようにして立ちあがった。そして羽織を着ると<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>とステッキをもって外へ出た。彼はどこかでいくらか手のかかった晩飯も食べたいと思った。

葉子は北山を従えて後から<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た。

「私おもちします。」

北山はそう言って、彼の手から折鞄を取ろうとしたが、庸三はステッキを振り振り、暗い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を急ぎ足で歩いて行った。温かい雨がぽつりぽつり顔を打ちはじめた。そして日陰の茶屋まで来てみると彼もひどく息がはずんでいた。

二階の部屋に納まったころ、入口で葉子たちと女中との話し声がしていたが、下の<ruby><rb>風呂場</rb><rt>ふろば</rt></ruby>へおりて行った時分には何の気配もしなかった。

<ruby><rb>滋</rb><rt>しげ</rt></ruby>くなって来た雨の音を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>きながら、心の穏やかでなかった庸三は、うとうと<ruby><rb>微睡</rb><rt>まどろ</rt></ruby>んだと思うと目がさめたりして、そこに<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい一夜を過ごした。

## 十七

翌朝床を離れた庸三は、僅かの時間しか熟睡できなかったので、まだ目が渋く頭がもやもやしていた。夜来の雨に潤った新緑の鮮やかな庭木が、きらきら光って、底ふかい空の青さにも<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>しがなかったが、心臓の弱い庸三はいつもこういう場合の癖で、ひどく濁りっぽい気持になっていた。

葉子の入院の前後、隣りの下宿の部屋にいたり、庸三の書斎へ来ていたりしたころには、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をするたびに、葉子が部屋を飛び出して行くことになっていたが、今庸三は自分で追ん出た形で、何か<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>のつかない感じだった。潔くここを引き揚げたい気持もしながら、やっぱり思い切りが悪く、後ろ髪を引かれるのであった。一度かかった<ruby><rb>係蹄</rb><rt>わな</rt></ruby>から脱けるのは、彼にとってはとても困難であった。彼は自身の子供じみた<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>みっぽい<ruby><rb>魂情</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>を、いくらか悔いてもいたが、とかく苦悩と煩いの多いこの生活を、一気に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけるのも、彼女に新らしい恋愛もまだ初まっていない、こんな時だという気もしていた。しかしそういう時はまたそういう時で、とかく切り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てにくいのであった。<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>は第三者が現われたときに限るのではなかった。葉子のような天性の<ruby><rb>嬌態</rb><rt>きょうたい</rt></ruby>をもった女の周囲には、無数の無形の恋愛幻影が想像されもするが――それよりも彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>っているのであった。

不用意にも、ちょうど彼は財布が少し心細かった。葉子のところへ行けば何でもないことだったし、宿へ断わって出ればそれでもよいわけだったが、世間の非難と<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>を一身に集めたような葉子との関係にも、肩身の狭い思いがしているので、少しばかりのことで気まずい思いをするのもいやだった。<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なそんな<ruby><rb>拘泥</rb><rt>こうでい</rt></ruby>も手伝って、彼は朝飯もろくろく<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ通らなかった。しかも勘定を取ってみると、それを払ってチップをやっても汽車賃には事欠かないほどだった。彼は葉子のところへ行く口実もなくなったのに少し力を落としながら、やがて自動車を呼んでもらった。

表に爆音が聞こえて来た。庸三は葉子に黙って帰るのも悪いような気もしながら、彼女の家のある狭い通りを左に見て、今ごろは彼女たち三人と子供とで何をしているかと<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>ってみたりして、流れに沿った道を通って行った。

汽車に乗ってみると、彼の気持もようやく落ち着いて来た。いつものように<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に葉子のいないのを物足りなく感じながらも、<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な<ruby><rb>囹圄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>から遠のいて来た心安さもあった。

家へ帰って書斎へ入ると、彼は半病人のような体の疲れと衰えを感じて、何はともあれ床をのべさせて横たわると同時に、女中に命じて日頃かかりつけの<ruby><rb>渡瀬</rb><rt>わたせ</rt></ruby>ドクトルにいつものように来てもらった。

やがてドクトルは<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>に<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>った診察着でやって来て、ベッドの傍に<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をついて聴診器をつかいはじめた。

「私も女関係で苦しむものですから……。」

庸三がきまりわるそうに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと、ドクトルも苦笑して、

「なに、結構ですよ。」

「少し熱っぽい感じですが。」

庸三は前から気管が悪いので、五六年海岸で暮らすようにと、前からドクトルに言われていたものだが、ドクトルも胸部を<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>ていた。

「やっぱり神経衰弱ですね。薬をあげますから、よく眠るんですな。」

紅茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みながら少し話して、ドクトルが帰ってから、庸三はうとうと眠りに誘われた。悪夢にうなされているような日常は、ふつふついやだと思いながら、いつかまた彼女の夢を見ていたことに気がついた。

翌日になると、寝飽きた彼はもう床についてもいられなかった。彼は心の落着きを求めようと思って、乱雑に床の間に積み重なっている書物を引っくらかえしてストリンドベルグの小説を抜き出して来て開いてみた。彼は何か文学的な渇きをおぼえていたが、創作力の貧困にも気づいていたので、独りで書斎にいると、自分を支えきれないように寂しさに打たれた。世間ではモダアンな新興芸術が、花やかな行進曲を奏している一方、マルキシズムの研究が流行しはじめ、プロレタリアの文学が<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>るところに気勢を挙げていて、何かあわただしい潮が<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>をまいていた。

しばらく庸三は小夜子と、小夜子の仲好しの友達なぞと遊ぶ幾日かの昼や夜をもつことができた。

小夜子の仲間にも、いろいろの女がいた。家政婦に頼んだらどうかと言って、いつか小夜子が写真を見せてくれた女もその一人であった。小夜子と並んで歩いていると、むしろこの方が立派に見えることさえあったが、近よって話を交えてみると、げっそりするようなところもあった。笑うと出っ歯の<ruby><rb>齦</rb><rt>はぐき</rt></ruby>の露出するのも気になったが、お品が悪くはないながらに口の利き方や気分に、どこか<ruby><rb>肥料</rb><rt>こやし</rt></ruby>くさいようなところがあった。何かぎすついた粗硬な感じで、小夜子の言うように、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>では立派な財産家の奥さまであったらしい、品格もないことはなかったが、話題はいつも低級であった。庸三は時に小夜子の帳場で、お行儀よく坐っている彼女を見かけるのだったが、渋い作りの<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>もきちんとしていたが、ごつい金歯がひどく顔の感じを悪くしていた。

庸三は妻のある間は、どんな美しい女にも目が留まらなかったし、何か<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに引っかかるもののある感じのする<ruby><rb>売色</rb><rt>くろうと</rt></ruby>にも、その場きりの軽い興味をもち得る機会が、長いあいだにはたまにあったとしても、女を愛する資格があるとは思っていなかったので、自然恋愛を頭から否定してかかっていたのだったが、今葉子との恋愛が<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>百出の状態におかれてみると、何か意地の汚い目がとかく世間の女性へと注がれがちであった。

彼は小夜子につれられて、おけいさんというこの女の人の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へも一度遊びに行ってみた。おけいさんは<ruby><rb>三田</rb><rt>みた</rt></ruby>の方の、ある静かなところに門のある家を借りていた。十六七の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>が一人<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>から出て来ていて、二階には三田の学生が二人ばかり下宿していた。古風な中庭には泉水などがあって、<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いひろがり、<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の若葉がこんもりした陰影を作っていた。四畳半の床の間には、白い<ruby><rb>平鉢</rb><rt>ひらばち</rt></ruby>に、こってりした生花がしてあって、軸や<ruby><rb>雲板</rb><rt>うんばん</rt></ruby>もそうひどいものではなかった。おけいさんにはお茶の心得もあるらしかった。<ruby><rb>物綺麗</rb><rt>ものぎれい</rt></ruby>でこぢんまりしたところは、<ruby><rb>妾宅</rb><rt>しょうたく</rt></ruby>のような感じもするのだった。

<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>でお茶の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になってから、そこを出た。

「私なぞとてもお話相手にはなれませんけれど、これからちょいちょいどうぞお遊びに……。」

おけいさんはそう言って、通りへの出口まで送ってくれた。

「何かあるんだぜ。」

「そうね。今のところそれは無いでしょうよ。このごろ何だか少し変だけれど。エロ話なんか随分するのよ。」

静岡で大きな茶の問屋をしている小夜子の姉の家と親しいおけいさんの実家との関係から、二人は東京でも互いに親しくしているのであった。

「ハインツェルマンのお玉さんのところへ、ちょっと寄ってみません？」

通りへ出てから、小夜子が言った。

「ハインツェルマンって……。」

「先生はまだ御存じなかったんでしたっけ。ハインツェルマンという<ruby><rb>独逸人</rb><rt>ドイツじん</rt></ruby>と<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>している尼さんよ。」

「その独逸人は？」

「若い技師よ。」

小夜子が七年間同棲していた独逸のフォン・クルベーとの関係から、小夜子はいろいろな独逸人を知っているものとみえ、いつかも銀座を歩いていると、<ruby><rb>尾張町</rb><rt>おわりちょう</rt></ruby>の角のところで、五十年輩の、あまり上品でない独逸人に<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>って、小夜子がはずそうとするのを、何かと<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>がお</rt></ruby>でどこまでも附いて来たこともあった。

「あれは何さ。」

と聞いても、小夜子は「ううんいやな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>よ」と笑っているきりだった。

ハインツェルマンは、ちょっとした門構えの家に住んでいた。小綺麗にしている、<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>の母親が玄関にすわってお辞儀したが、お玉さんも小夜子の声を聞きつけて奥から出て来た。彼女は質素な洋服を着ていたが、まん丸な<ruby><rb>色沢</rb><rt>つや</rt></ruby>のあまりよくない顔が、寂しいなりににこにこしていた。髪は無論ボッブされていた。そしてどの部屋も、翻訳劇の舞台装置のようなものだったが、二階の八畳敷には、安ものの青い<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷かれて、簡素な<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>と<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が並んでおり、がっちりした大きな化粧台の上に、幾つかの洋酒の<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>も並んでいた。

見たところお玉さんは、単純と従順そのもののような女だったが、内心<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>け目を感じているらしく朗らかだとは言えなかった。

「カクテルでも<ruby><rb>召</rb><rt>め</rt></ruby>し<ruby><rb>食</rb><rt>あが</rt></ruby>りません？」

彼女は大事そうにしてある幾種かの酒の壜を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら、卓子でお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでいる二人を振り返った。

庸三は手をふって見せた。

小夜子とお玉さんの間に、仲間の独逸人の消息とか男女の関係とか、世間の<ruby><rb>噂話</rb><rt>うわさばなし</rt></ruby>が交されていたが、するうち三人で銀座へ出ることになった。

銀座でお玉さんは、行きつけの化粧品屋へ入って、ルウジュやクリイムなんかを取り出させて、あれこれと<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>していたが、結局何も買わずに出てしまうと、今度は帽子屋の店へもちょっと入ってみた。何といってもつつましやかな暮しぶりらしく、物質を少しも無駄にしないというふうであった。長く銀座をぶらつくということもなく、主人の帰る時刻になると、じきに電車で帰って行った。

そんな女たちを見ていると、庸三はいつもかえって葉子を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出すだけだったが、ある日も書斎で独りぽつねんとしていると、小夜子がまた一人の別の女をつれて来た。いかにも押し出しのいい<ruby><rb>芳子</rb><rt>よしこ</rt></ruby>というその女は、小夜子よりも少し若く、中高の美人型の顔で、黒い紋つきの羽織を着て、髪を水々した<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>にしていた。

「こちら先生のご近所よ。それにお国も同じだわね。」

小夜子はそう言って紹介した。

「はは。」

庸三は笑っていたが、後にはだんだんそのロマンチックな身のうえや、竹を割ったようにさっぱりした気性も呑みこめて来た。新橋にいたころの同じ<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の抱えだということ、ある有名な経済学の教授の屋敷の小間使をしているうちに、若さんと恋愛に陥り、その青年が地方の高等学校へ行くことになってから、そこを出て新橋で芸者になったこと、青年がやっとのこと捜しあてて来て、さらに新らしい魅力に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かされ、学校を出て結婚してからも、ひそやかな<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>の愛人として、関係の続いていることなど、古い通俗小説めいた過去も<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るようになった。それに<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>な洗い髪の束髪などで、セッタ種の犬を片手に抱きながら、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけで通りを歩いているのにも、時々出逢ったりして、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>では相当評判の美形だことも知るようになったし、花や<ruby><rb>麻雀</rb><rt>マージャン</rt></ruby>が道楽で、そうした遊びにかけては<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた頭脳の持主であると同時に、やり口がいつも鮮やかすぎて、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な負け方ばかりしているのにも感心させられた。小夜子とちがってどの道彼女は生活者ではなかった。

「一戦どう。」

小夜子は<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>そうな目をして、鼻頭へ人差し指をもって行った。

「そうね。また<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>にしようというんだろうが、おれも家内のいるうちは、どじばかり踏んで<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られたもんだが、このごろ少し性格に変化が来たようなんで。」

「元はもっと下手だったわけね。」

小夜子は笑った。

その晩庸三は、小夜子の家で遅くまで花を遊んだが、遊びに来ていたジャアナリストや漫画家も一緒だった。

ある晩庸三と葉子はデネションの舞踊を見に行って、そこで同窓の仲間と一緒に来ている庸太郎にも<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った。そのころ庸三はしばらく家をあけていた。あれきりにもなり得ないで、彼は何かのきっかけから、人目の少ない銀座のモナミの食堂で、葉子と晩飯を食ったり、新らしく出来あがった<ruby><rb>武蔵野</rb><rt>むさしの</rt></ruby>映画館へそっと入ったりしているうちに、また逗子へも行くことになった。

そのころ大戦後の疲弊から、西欧の一流芸術家が、まだしも経済状況の比較的良かった日本を見舞って、ちょうどレコオド音楽の普及しつつあった青年のあいだに、不思議な<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>を博していた。庸三も、ずっと前から軍楽隊の野外演奏の<ruby><rb>管弦楽</rb><rt>かんげんがく</rt></ruby>や、イタリイのオペラなど<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたり見たりしていたが、レコオドの趣味もようやく<ruby><rb>濁</rb><rt>だ</rt></ruby>みた日本の音曲が、美しい西洋音楽と入れかわりかけようとしていた。エルマンを聴いて、今まで<ruby><rb>甘酸</rb><rt>あまず</rt></ruby>っぱいような<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を感じていた提琴の音のよさがわかり、ジムバリスト、ハイフェツなどのおのおのの<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>き方の相違が感づけるくらいの、それが古い東洋式の鑑賞癖でしかなかったにしても、この年になって、やっと汗みずくで取り組みつつある恋愛学から見れば、まだしも地についていると言ってもよかった。家庭での庸三夫婦と子供との新しい<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い趣味のひところの衝突も、もうなくなっていた。上野の音楽学校で演奏された、ベエトヴェンの第九シムフォニイを聴きに行った庸太郎を、ちょうど何かの用事の都合で、夫婦で広小路まで出かけて行ったついでに、動物園の附近で、待ちあわせていたことがあったが、ちょうど演奏の<ruby><rb>了</rb><rt>お</rt></ruby>わる時刻だったので、やがて制服姿の彼が肩をすぼめながら、おそろしい厳粛な表情で、<ruby><rb>傍目</rb><rt>わきめ</rt></ruby>もふらずとっとと二人の前を行きすぎようとしたことがあったが、それももう古い過去となってしまった。

このデネションの前に、それは去年のことだったが、同じアメリカの舞踊団がやって来て、その時も庸三は庸太郎に前売切符を買わせて、座席を三人並べて<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>たものだったが、新調のシャルムウズの羽織などを着込んだ葉子が一番奥の座席で、隣りが庸太郎、それから庸三という順序で、オーケストラ・ボックス間近に陣取っていた。開演にはまだ時間が早く、下も二階も座席が所々<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らに<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がっているきりであった。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>に似た薄暗さの底に、三人はしばらくプログラムを見ていたが、葉子は中に庸太郎という隔てのあるのを<ruby><rb>牴牾</rb><rt>もどか</rt></ruby>しがるようなふうもしていた。

「出よう。」

庸三が<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしに廊下へ出ると、二人も続いて出た。震災のとき、やっと火を消しとめたこの洋風の劇場は、そのころようやく新装が仕揚がったばかりで、前の古典的な装飾が、ぐっと<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>なものになっていた。三人は婦人休憩室へ入って、赤い<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の壁紙などを見まわしていたが、ふと庸太郎が父に声かけた。

「二階のホール御覧になりましたか。」

「さあ、どうだったかしら。」

「それあ<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>ですよ。ここではあすこの趣味が一番いい。」

「そう、見たい。」

葉子は甘えるように言った。

「行ってみませんか。」

すると葉子も行きかけて、

「先生は？　いらっしゃらない。」

「いいや、見てくるといい。」

庸三は少し<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っていたが、やはりじっとしていられない<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>で、二人の影が階上へ消えてから、廊下をぶらぶら歩きはじめた。入口のホールへ出てみると、美々しいドレスの外人も二組三組そこここに立話をしていたが、まだそんなに込んでもいなかった。「私をもっていることに十分誇りをもっていて下さい」とでも言いそうな葉子と二人きりで、晴れがましい劇場の廊下など押し歩くのが気恥ずかしく、大抵の場合子供を加担させて擬勢するのが彼の手だったが、子供に<ruby><rb>委</rb><rt>ま</rt></ruby>かしきりにしておくのも何か不安であった。わざと危険に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>しながら、心は穏やかではなかった。

ちょうど知った顔もそこに見えて、彼は円形のクションに並んでかけながら、しばらく世間話をしていた。

「君は実に<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいよ、若い綺麗な恋人なんかもって。」

いつも<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>そうなその友達にそう言われて、庸三は寂しそうにうつむいた。

それからまた一人二人の仲間にも逢って、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>しているうちに、ふと目をあげると、そこに階段をおりて来る庸太郎と葉子の姿に気がついた。二人はぴったり肩を押しつけるようにして、<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>をそろえ、いくらかあらたまったような表情で、何か話しながらそろりそろりと降りて来た。庸三は見ては悪いものを見たような気持で、にわかに目をそらしたが、二人は多分気がつかずに、傍目もふらず彼のすぐ目の前をゆっくりゆっくり通って行った。

大分たってから席へ<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>ると、二人はもうそこにいて、

「どこへ行っていらして？」

と葉子はきいた。

「私たち先生を捜していたのよ。ここへ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってみると、いらっしゃらないもんだから、方々捜しまわりましたわよ。」

「まあいい。」

「よかないわ。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>になられて、ダンスを見る気分も壊れてしまったわ。だからお誘いしたら素直に来て下さるものよ。」

葉子は目を<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>ませたものだったが、その時分から見ると、退院後に起こった事件をも通りこして、二人の神経も大分荒くなっていた。今度は脚の運動のよく見える階上に席を取っていたが、<ruby><rb>幕間</rb><rt>まくあい</rt></ruby>に庸三は、ふと下の廊下で傷心な報告を子供から受け取った。

「ちょっとお父さんにお話ししたいことがあるんで……いや、別にそう心配なことじゃないんですけれど。」

庸太郎がそう言って、彼を円形のクションに誘うので、そうでなくてさえ留守のことが始終気にかかっていた庸三は、ちょいと神経が<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えた。

「話さない方がいいかとも思ったんですけど、ちょっとお父さんの耳へだけ入れておかないと……」

庸三はちょっと見当がつかなかった。いつも学校でみんなから変な目で見られて<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になっている長女の身のうえか、それとも<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>い次女に何か起こったのかと、瞬間目先きが<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>んだようだった。

「実は<ruby><rb>庄治</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が金を卸して、少し無茶をやったんですがね。」

庄治は庸三の二男であった。

「いくらくらい？」

「五百円おろして、うち三百円を一晩に使っちゃったんですがね。」

「どこで使ったんだ。」

「<ruby><rb>吉原</rb><rt>よしわら</rt></ruby>です。それも日本堤の交番から知らせがあったので、実は昨日小夜子さんと一緒に身元を証明して引き取って来たんですけれど、使い方が乱暴なので怪しいと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれたらしいんです。」

到頭そこまで来たかと、庸三もちょっと参った。彼から通帳を預かっていた庸太郎を責める気にもなれなかった。

ベルが鳴り響いたので、父子は上と下とに別れた。

その晩葉子を例の近所の旅館に残して、庸三は家へ帰ってみたが、庸太郎が<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の引出しに仕舞っておいたという残りの二百円を見に行ってみると、それももう無かった。金の代りに赤インキで何やら書きつけた<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>が<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>の封筒のなかに入っていた。

「いや、またやられた。」

庸太郎は笑いながら紙片をもって来て庸三にも見せた。この金一時拝借します――赤い文字でそう書いてあった。

ついこのごろ、上の学校の入学試験を受けるはずの庄治が、ちょうど葉子も<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる時、庸三の前へやって来て、今の時代にこの上の学問の無駄なことと、学校に何の興味もないこととを訴えて、庸三がいくら繰りかえし言い<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かしてみても、主張を曲げようとしなかったその時の<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔が、ふと庸三の目に浮かんで来た。

## 十八

ある<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>も小夜子が遊びに来ていた。庸三の末の娘をつれて二人で浅草へ<ruby><rb>天勝</rb><rt>てんかつ</rt></ruby>の魔術を見せに行った帰りに、上野で食事をしてからちょっと立ち寄ったのだったが、庸三は一般ジャアナリストの外からの排撃と、葉子の事件に関して長男の態度にも反感をもっていた二男の、家庭の内部からの火の手のあがり初めて来た<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>との十字砲火を浴びながら、彼の社会的信用に大抵<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しをつけながらも、新らしい<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>しかねている葉子からも離れかねていた。

ちょうどそのころ、彼はその海岸に住んでいるという、長男の同窓であるマルクス・ボオイの<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>をも、葉子のサルンでちょっと見る機会があった。宵のことであった。が、ホテルの<ruby><rb>撞球場</rb><rt>どうきゅうじょう</rt></ruby>で遊んでいるその青年を、葉子は庸三と一緒に来ている長男の庸太郎に初めて紹介されて、その場ですぐ友達になってしまった。そしてホテルを出てから、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ引っ張って来たのであった。鼻の<ruby><rb>隆</rb><rt>たか</rt></ruby>い、色白の、<ruby><rb>上脊</rb><rt>うわぜい</rt></ruby>のあるその青年は、例の電球二つを女の<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>のようにつけた<ruby><rb>仏蘭西製</rb><rt>フランスせい</rt></ruby>のスタンドの、憂鬱な色をしたシェドの<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に、<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き加減に腰かけていたものだったが、奥の座敷にいた庸三は、葉子がその青年をつれて来たというので、子供の同窓に対する父の礼儀として、サルンの方へ出て見た。庸太郎はちょうど<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>に入っていた。葉子は紹介者の庸太郎も乗り<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えて、すでにその青年と心持の接触を感じていたらしい折なので、風呂へ入っている庸太郎の方へも何か<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>を振りまいていた。

「お風呂のお加減いかが。」

などと湯殿の方へ声かけたりしていた。

<ruby><rb>含羞</rb><rt>はにか</rt></ruby>んだふうで<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>くなっている青年園田を見たとき、その俊秀な風貌と、すくすくした新樹のような若さに打たれながら、庸三の六感に何か<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな予感の影の差して来るのを感じはしたが、それはむしろ客観的な美しい幻影のようなもので、もし卑しい<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>という感情がいくらかあったとしても、それは理性の力で十分抑制しうる程度のものであった。この年下の純白な若ものを<ruby><rb>涜</rb><rt>けが</rt></ruby>すようなことは、さすがに葉子も差し控えなければならないことだし、何も事件の起こる<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>いはなさそうにも思えたが、この海岸へ来る時、すでにこの青年の存在が、彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に何らかの形で意識されていたに違いないのだし、撞球場での初めての印象を想像してみても運命のプログラムには、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに何らかの発作的な事件が用意されてあるようにも思えた。

しかしそれはそれとして、彼は今そのことをすっかり忘れたように、憂鬱で険悪な逗子の家からもしばらく離れていた。

「家へいらっしゃいよ。お花でもして遊びましょうよ。」

小夜子は言っていたが、そこへ門の開く音がして、昨日また逗子へ遊びに出かけて行った庸太郎がひょっこり帰って来た。彼は自分のことのように少し<ruby><rb>悄</rb><rt>しょ</rt></ruby>げた顔をしていた。

「どうしたんだい。」

庸三は不安そうに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「ちょっとお父さんの耳に入れておかなきゃならないことが起こったので……。」

「逗子で？」

「ええ。」

庸太郎の話では、今日も園田と葉子と彼と三人で遊んだのだったが、園田に仕かける葉子の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>が、すでに二人の接触が危険に陥っていることを語るに十分だというのであった。葉子はいつもの口笛を吹きながら、青年と手をつないで歩いたり、ステッキの柄を彼の<ruby><rb>衿</rb><rt>えり</rt></ruby>に引っかけて後ろから引っ張ってみたりなどなど。

「僕は二人に送られて、汽車に乗り込んだんですがね。」

「ふむ、やっぱりね。」

庸三は来るべきものが来たのだと思った。

「じゃあ……今何時だい。汽車はまだあるね。」

「あります。」

「今夜のうちに話をつけてしまおう。これから行こう。」

庸三は<ruby><rb>性急</rb><rt>せっかち</rt></ruby>に言い出した。

最近よく往復することになった<ruby><rb>横須賀</rb><rt>よこすか</rt></ruby>行きのこの列車は、葉子と同伴の時も一人の時も、庸三にとって決して楽しいものではなかったが、今夜も彼はどこかせいせいしたような気分の底に、一脈の寂しさを包みきれないで、帯同した庸太郎と一人の青年と並んで<ruby><rb>暗黙</rb><rt>だんまり</rt></ruby>でクッションに腰かけていた。乗客はいくらもなかった。

<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の逗子の町は<ruby><rb>閑寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していた。彼は、この挙動が何か心の余裕をもっているように見えて、その実<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>のないあさましいものだことに十分気がついていたが、思いのほか町の更けているのを見ると、一層それがはっきりするようで、内心来たことを悔いる心にもなっていた。むしろホテルで一泊して、明日のことにでもしようかと思ったのだったが、一旦行動に移された彼の荒い感情を抑制することは困難であった。

「お前はホテルで一部屋取って待っておいで。」

庸三は少し手前で自動車をおりてから、門の前まで来ると、庸太郎と青年<ruby><rb>権藤</rb><rt>ごんどう</rt></ruby>に言った。門にさわってみると、戸はもう<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されていた。庸三は近所を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るように二三度<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いてみたが返辞がないので少し<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>して来た。彼はいきなり戸の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>に手をかけると、器械体操で習練した身軽さで<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>びあがり、<ruby><rb>一跨</rb><rt>ひとまた</rt></ruby>ぎに跨いで用心ぶかく内側へおりて行った。そんな<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>ができようとは今の今まで想像もしなかったし、しようとも思っていなかった。

「おい、おい。」

庸三は暗い茶の間の窓の下から、<ruby><rb>袖垣</rb><rt>そでがき</rt></ruby>で仕切られた庭の方へまわって、縁側の板戸ぎわに身を寄せて、そっと声をかけたが、やがて、葉子の声がして板戸が一枚繰りあけられた。そこから庸三は座敷へあがった。

「こんな遅くにやって来て失敬。」

庸三はどかりと坐って、部屋を見まわしたが、別にかわったこともなかった。園田が今までそこらにいたらしい<ruby><rb>形迹</rb><rt>けいせき</rt></ruby>もなかった。湯殿と物置きと台所口へ通じる廊下があるとしても、そこまで考える必要はなかった。

葉子はどこか<ruby><rb>面窶</rb><rt>おもやつ</rt></ruby>れがしていたが、裏が廊下になっている、ちょうど縁側と反対の壁ぎわに延べられた寝床の<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>近くのところで、庸三を警戒するもののように離れて坐っていた。

「どうしたんだ。」

「いずれある時機に御相談しようとは思っていたことなんですけれど。」

「それで……。」

「先生にいつかお話ししましたかしら、メイ・ハルミのこと。」

「いや聞かない。」

「そうお。じゃあこれはごく<ruby><rb>内証</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>よ。お書きになったり何かしちゃ駄目よ。あの人たちの名誉に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>ることですから。」

「話してごらん、大丈夫だから。」

「ハルミさん一昨年の夏とかに、避暑かたがた軽井沢へ美容院の出張店を出していたのよ。そこへおばさんおばさんと言っちゃ、<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いて来る一人の慶応ボオイがあったんですって。するとあの人も、商売がああいうふうに発展すれば発展したで、無論やり手の<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>さまのリイドの仕方も巧いんでしょうけれど、それだけにまた内部に苦しいこともあるものらしいので、ついその青年に殉ずる気持になって、結婚しようと思ったんですって、それでそのことを旦那さまに打ち明けて、今までの夫婦生活を清算してから、一緒になろうとしたものなの。」

そんな話になると、彼女には彼女特有の表現の魅力もあって、切迫した庸三の今夜の気持にも、何かしら甘い<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎを与え、かつて彼女の口を通して<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いた外国の恋愛小説ほどの興味は望めなかったが、現実の問題にも何か<ruby><rb>関</rb><rt>かかわ</rt></ruby>りがありそうなので、聴くのに退屈はしなかった。

葉子の話では、その青年との結婚を、ハルミのマスタアも一応は承諾したのだったが、そのことはハルミの生涯にとっても重要な分岐点だから、慎重に考慮する必要もあるし、よしそれが決定的なことだとしても、マスタアの立場として、一応<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>のハルミの<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>の<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>をも得なければならないことだというので、その青年を加えて、間もなく三人でハルミの郷里を訪れ、ハルミの叔父や<ruby><rb>姉婿</rb><rt>あねむこ</rt></ruby>などにも立ち会ってもらって、マスタアとの結婚解消と青年との結婚とについて、協議を遂げることになったが、誰もこの新らしい恋愛結婚に賛成するものはなかった。その時マスタアは厳粛な態度で青年に詰問してみた。君たちが本当の熱情から愛し合っているのが事実なら、ハルミは今でも譲っていいが、責任をもってハルミを引き受けるだけの自信が、果して君にあるかどうか、この場で十分我々を納得させるだけの返辞を聴かしてくれたまえ――。とそう言われると青年はにわかに<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>んで、すみませんと言ったきり、首を<ruby><rb>俛</rb><rt>た</rt></ruby>れてしまった。そしてその瞬間、男性的なマスタアへのハルミの信頼が強められた。

「何の話かと思ったらそんなことか。」

庸三は<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい感じだった。

「夜があけたらあの人をここへ呼びますから、先生から聴いていただきたいと思うんですけれど……。」

「そんな芝居じみたことは僕にはできない。」

庸三は答えた。それが苦し紛れの葉子の口実なのか、それとも相手の態度がはっきりしないので、今夜来たのを幸いに、庸三に立ち会ってもらいたいのが本心か、そのいずれだかは彼にも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。いずれにしても、青年の家柄、父親の社会的地位などから考えて、とかく誠意を欠いた葉子との結婚が、すらすら運ぶものとは思えなかったし、運んだところで長続きがするか否かも疑問であった。葉子も自身の弱点は相当計算に入れているはずでもあった。

「いけません？」

「僕はそんな<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>なことは<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いだ。」

年齢はとにかく、園田の人格に対しても、そうしたお<ruby><rb>干渉</rb><rt>せっかい</rt></ruby>は無駄だと思った。

するうちに時計が二時をうった。庸三は頭の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>が疲れて来た。目の始終<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>みがちな葉子も疲れて来た。

「もう遅いから少しお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みになって……。」

庸三は<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にして横になったが、葉子も<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のうえに寝そべった。

「あの人体が大きいのよ。そのくせ<ruby><rb>尩弱</rb><rt>ひよわ</rt></ruby>いらしいの。胸の病気もあるようなのよ。氷で冷やしたり何かしていたのよ。」

葉子は<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しげに言った。

ぼそぼそ話しているうちに、いつか障子が白んで来た。

「もう一時間もしたら、あの人のところへ使いをやりますから、一度<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って下さらない。お願いしますわ。」

「あの男から何か話させようとでも言うのか。」

庸三はそうも思ったが、やがて葉子は車の<ruby><rb>丁場</rb><rt>ちょうば</rt></ruby>で、園田のところへ使いを頼むつもりで、出て行ったあとで、庸三はあらゆる理由を抜きにしても、この場合葉子の恋愛の相手としての子供の友達に顔を合わせたくなかったので、そっとそこをぬけてホテルへ引き揚げた。そして庸太郎たちを促して、朝の食事も取らずにそこを立ってしまった。

庸三はにわかに火が消えたような寂しさを感じた。書斎に独りいる時もそうだったが、小夜子の家で遊んでいる時にも、何か気持の<ruby><rb>空隙</rb><rt>くうげき</rt></ruby>を感じないわけには行かなかった。小夜子同伴で銀座へ出たり、足休みにバアやカフエへ入ったりして、動けば動くほど心の落着きが失われるのだった。心の動揺を抑制する手近な方法は、下凡な彼としては、まずふらつきやすい体を抑制することにあることを、彼はだんだん学んで来たので、<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しい宗教的な戒律というほどでなくとも、日常生活を何かそういった形式に<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>めこめるものなら、そうしたいという気持もありながら、ちょうど少し勤労以外の所得があったところから、二十五年封じこめられていた、貧困な結婚生活の償いをでも取ろうとするかのように、気持は<ruby><rb>吝々</rb><rt>けちけち</rt></ruby>しながら計算はルウズになりがちであった。ぽっと出の女中の手に成った、どうにも我慢のならない晩飯も一つの原因であったが、時のジャアナリズムから<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられた<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさも、とかく彼を書斎に落ち着かせようとはしなかった。しかしそうした不安な日常のあいだにも、逗子で起こったこのごろの事件から、うみただれた肉体にメスが当てられ、重苦しい苦悩の下から、燃えのこりの生命が<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>り出したような感じで、今まで<ruby><rb>余所事</rb><rt>よそごと</rt></ruby>のように読みすごして来た外国の作品などに、新らしい興味を覚え、もしも余生がこの先き十年もあるものなら、出直してみたいという欲望も、頭を持ちあげて来た。

それに庸三は、最近裏の平屋を取り払って、その<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>へ花畑や野菜畑を作ったり、泉水に<ruby><rb>水蓮</rb><rt>すいれん</rt></ruby>や<ruby><rb>錦魚</rb><rt>きんぎょ</rt></ruby>を入れて、<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>を<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>けたりした。<ruby><rb>碧梧</rb><rt>あおぎり</rt></ruby>の陰に、末の娘のために組み立てのぶらんこをも置いた。しかしそうして、女中に手伝わせて、ホースで水を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いたり、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>やシャベルを持ち出して、<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>の植え替えをしたり、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>やダリヤの手入れをしていると、老いた孤独の姿がますます侘しく心に反映して来て、縁側へ来て休んでいても、お茶一つくれるものもないのが物足りなかった。

逗子における葉子の事件は、庸三の近くにいる二三の青年を<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>半分<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>らせたり、寂しがらせたりはしたが、ジャアナリズムと一般の世界ではほっとしたようであった。

葉子の行動に、前から関心をもっていた、ある若い新聞記者から、ある時電話がかかって来た。その時も庸三は小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいた。小夜子の家でも、川沿いの部屋の窓近くに、幾株かの若い柳を植えたり、玄関先きの植込みのうえに変わった型の電気<ruby><rb>燈籠</rb><rt>どうろう</rt></ruby>を掲げたりして、座敷はいつも<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかであった。

庸三が帳場の卓上の受話機を取ってみると、今度の事件について、何か話が聞きたいというのであった。

「そうですね、僕は二人の結婚がどうかうまく行くようにと思うよりほか、別に何の感想もありませんよ。多少あっても、今は何も言いたくないんですが。」

それ以上<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いもしなかったが、庸三はそれを<ruby><rb>機会</rb><rt>きっかけ</rt></ruby>に、逗子事件のその後の進展について知りたいような好奇心もいくらか<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られた。このうえ葉子を手元へ引き寄せてみようとは思わなかったが、嫉妬まじりの興味がないこともなかった。

翌日庸三はしきりに洋装をしたがっている小夜子に言われて、<ruby><rb>布地</rb><rt>きれじ</rt></ruby>を見に、一緒にひつじ屋へ行ってみた。小夜子は身分のある婦人の着る、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な支那服ももっていたし、クルベーの持ちものとして、ホテルの夜会で踊ったこともあるので、ドレスや不断着ももっていたけれど、もう型が古くなっていた。

「さあね、洋服は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>した方がいいんじゃないかね。支那服ならいいがね。」

「<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った意味で、あの人もそう言ったのよ。日本の女が何も身についた和服を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて、洋服を着る必要ないって。でも着てみたいのよ。」

小夜子は多くの文壇人や画家や記者を知るようになってから、今まで附き合っていた株屋とか、<ruby><rb>問屋</rb><rt>とんや</rt></ruby>の<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>とかいった種類の男が、俗っぽいものに見え、花柳趣味の愛好者である彼らを飽き足りなく思っていた。出入りの芸者は仕方がないとしても、型にはまった一般の待合の<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>や女中などとも<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りが合わなかった。彼らの目から見れば、小夜子は毛色のかわった異端者であった。

ひつじ屋で、花模様のジョウゼットを買ってから、<ruby><rb>四谷</rb><rt>よつや</rt></ruby>に洋装学校をもっているあるマダムの邸宅を訪問した。庸三はこのマダムを、ある婦人雑誌社の手芸品展覧会で知ってから、一度その家を訪問して、それから一緒に小夜子の家へ飯を食べに行ったこともあった。マダムは落着きのいい手広い洋館に住んでいて、洋酒の用意などもあった。幾年前かに結婚生活を清算して、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>で洋裁の技術などを仕込んで来た。

がっちりした、<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>しのかかった家具の<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えつけられた客室で、メロンや紅茶の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になりながら、しばらく遊んでから、夕方になって三人で銀座へ出てみたが、生活内容を探り合うこともできないほど、何か互いに折合いのつかない気分であった。

翌日、庸三は庸太郎と権藤青年とを相手に、逗子の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をしていた。

「さあどうしたかね。」

「行ってみましょうか。」

権藤青年は言い出した。

「さっそく金に困ってるんじゃないかと思うがね。相手はブルジョウアの一人<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>だけれど、何しろ学生のことだからね。」

「どんな様子か、僕行ってみましょうか。」

「そうね、もし金が入用なら、少しぐらいやってもいいんだが……。」

庸三は今少し<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>をつけてみたいような気もした。

逗子へ行った権藤が帰って来たのは、その夜の八時ごろであった。庸三はちょうど<ruby><rb>寝転</rb><rt>ねころ</rt></ruby>んでストリンドベルグの戯曲を読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。

「葉子さん、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>と<ruby><rb>茶呑</rb><rt>ちゃの</rt></ruby>み台とを庭へ持ち出して、ベレイなんか<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、原稿書いてましたよ。僕が行くと、警戒したようでしたが、お金は欲しいらしいんです。明日あたりちょっと東京へ出る用事もあるから、その時先生にもお<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いしたいというんです。」

権藤はその場所と時間を決めて来たことをも報告した。

その日になって、庸三は少しばかり金を用意して、行きつけの上野の鳥料理へ行ってみた。そこには広い宴会席が二階にあって、下は漫々とした水のまわりに、様式に変化をもった小窓が<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>もあった。山がかりの巌から、滝が<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>き流れおち、<ruby><rb>孟宗竹</rb><rt>もうそうちく</rt></ruby>の植込みのあいだから、夏は<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が水の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>をあびて、涼しい風にゆらぐ寒竹や<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>のなかに沈んでいた。

庸三はその時、宴会場とちょうど反対の側にある、一室離れた二階の小間で持出し窓に腰かけながら、目の下に青黄色い孟宗の枝葉を眺めながら、葉子の来るのを待っていた。

やがて葉子がやって来たが、園田を銀座のモナミかどこかで待たせてあるというふうであった。ここは見えもないので、庸三はほんの少しばかり食べものを通したきりであった。葉子はそわそわ落ち着かなかった。

「権藤さんいやな人！　何か私たちの生活を<ruby><rb>内偵</rb><rt>ないてい</rt></ruby>しにでも来たように、それは横柄な態度なのよ。」

庸三は<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>そうにただ笑っていた。

「私たちのことは、当分新聞社へ何もお話しにならないようにね。」

「それは僕もそのつもりで……。」

「あの兄さんと言っても、<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>ですけれど――<ruby><rb>黒須</rb><rt>くろす</rt></ruby>という人がいるのよ。もと外務省畑の人で、今は政党関係の人らしいわ。<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>も<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>あるらしいの。でも立派な紳士よ。その人が園田家のことは、何でも相談に乗っているという関係から、今度のこともその人が引き受けてくれているの。いずれ時機を見てお父さんにも承諾させるが、差し当たり<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>にある家が売れると、そのうちの一万か二万かの金をそっと融通するから、当分それで家庭をもつようにしようと、そう言ってくれるのよ。その人、奥さんと<ruby><rb>鵠沼</rb><rt>くげぬま</rt></ruby>にいますけれど、ちょっといい暮しよ。奥さんも教養のある人よ。」

庸三の耳には、あまり愉快にも響かなかったが、葉子がそうした落着き場所を得たことは、悪い気持ではなかった。

「素敵だな。」

「でも今は困るの。あの人財布を投げ出して行ってくれはしますけれど、それに手を着けたかないの。何かがつがつしているようで、さもしい感じでしょう。あの人たちお金に苦労したことのない人だけに、なおさらなの。」

それから株や何かで暮らしている両親たちの生活の<ruby><rb>外廓</rb><rt>がいかく</rt></ruby>を、彼女なりの観察の仕方で話しながら、煮立っている鳥には、ろくろく<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>もつけなかった。そして金を受け取ると、無造作にハンドバッグのなかへ押しこんで、

「今度またゆっくりお話ししますわ。今日はこれで失礼さしていただいてもいいでしょう。」

庸三は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちかける葉子は彼の体に寄って来た。別れのキスでもしようとするように。庸三はあわてて両手でそれを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎりながら身をひいた。

## 十九

庸三がもしも物を書く人間でなかったら――言い換えれば常住人間を探究し、世の中の出来事に興味以上の関心を持つことが常習になっていない、普通そこいらの常道的な生活を大事にしている人間だったら、葉子に若い相手ができた後までも、こうも<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>に彼らの成行きを探ろうとはしなかったであろうが、彼はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰が来たのだし、自身の生活に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>るのに<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の時機だと知って、心持の整理は八分どおりついていながら、まだ何か葉子の匂いが体から抜けきらないような、<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな愛執もあって、それからそれへと新らしい恋愛を求めて行く彼女を追跡したいような好奇心に駆られていた。ある時は彼もぴったり心に錠を卸してしまい、あの<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な日常から解放された<ruby><rb>気易</rb><rt>きやす</rt></ruby>さで、庭へ出て花畑の手入れをしたり、<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>る雑草を刈り取ったり、読みさしの本を読んだりするのだったが、そうしているとまたつい独身ものの気弱さというようなものにも、襲われがちで、まだ記憶の新しい亡き妻の思い出を<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えて、ずっとその奥の方にぼやけている亡き愛嬢の面影や、死の前後のことが不意に彼を感傷の涙に誘うのであった。夜なかに目がさめてその娘のことが浮かんで来ると、いつでも胸が<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されるようになって、病的な涙が限りなくにじみ出て<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にまで伝わりおちるのであった。そしてその次ぎには、死ぬまで――いつもうっちゃりぱなしにしておいた母に<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びたいような弱さに引き入れられた。妻はといえば、十分愛したつもりの庸三には悔いるところもなかった。

庸三は昼間も床を延べさせて、うつらうつらとしているようなことも多かったが、葉子が庸三を裏切ったと言って憤慨している権藤青年の誘いもあって、今一度葉子に会う機会を作りはしたが、上野の鳥料理で金を渡して別れてしまってからは、急に遠い人になってしまった感じで、<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>きものが落ちたような空虚な自身を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>すのであった。彼は葉子たちの結婚が順調に行くことを祈る気持になるかと思うと、彼女が普通<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な家庭に納まりきれない性格の持主だというところから、持前の浮気な熱情でせっかく飛びついて行っても、じきにまた<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>が来るであろうことを、ひそかに<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>ったりしていたのも真実で、今後もし<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>う機会があっても、もう今までのような気持では逢ってもいられないだろうし、反動的な<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>の情が彼の総身に<ruby><rb>寒気</rb><rt>さむけ</rt></ruby>を立てさすであろうとは思ったが、それと同時に、何か<ruby><rb>腹癒</rb><rt>はらい</rt></ruby>せに彼女をさんざん<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでやりたいような悪魔的な野心も<ruby><rb>芽生</rb><rt>めば</rt></ruby>えないわけに行かなかった。

すると金をハンド・バッグに仕舞って、あれほど<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んで飛んで帰って行った葉子が、間三日もおかないうちに、近所の例の安栄旅館から電話をかけて来た。

まだ<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>のことで、彼は殺風景な応接室で、子供と一緒にお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みながらレコオドを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いていたが、そうした家庭人になってみると、母のない子供の日常にも、何かはかない感じがまざまざ感じられて来て、楽しい気持にもなれないのであった。

庸三は自分への電話だときいて、門を出ていつも取り次いでくれている下宿屋の電話室へ入って行った。多分小夜子が花でも引こうというのだろうと思って、受話機を取ってみると思いがけなくそれが葉子の声なのに驚いた。

「ああ、先生。私よ。」

「どうしたんだ。どこにいるんだい。」

「安栄旅館よ。先生にお話ししたいことがあって、今出て来たばかりよ。御飯食べながら聴いていただこうと思って。」

「何だろう。」

「来てよ。すぐよ。」

庸三は懲りずまに、また葉子に逢いに行った。

葉子は前二階の部屋にいた。スウト・ケイスやハンドバッグが床の間にあって、旅行からでも帰って来たようなふうで、髪も化粧も崩れていた。

「どうもすみません、お呼び立てして……。」

彼女は<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびょうぶ</rt></ruby>のところにあった<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>をすすめたりした。

「スウト・ケイスどうしたの。旅行？」

「そのつもりでしたのよ。私たちを保護してくれることになっている、園田の<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の黒須さんね。あの人がどうも不安なのよ。」

「どう不安なのさ。」

「あの人が私に色気をもつからいけないのよ。」

なるほど！　と庸三は思った。

「それにあの人こわいのよ。もと外務畑の人だそうだけれど、今は院外団か何かでしょうか、<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>も<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>あるらしいの。別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリでいい人なんだけれど、どうもあの人、私に対する態度が変なのよ。この間も縁側で園田の<ruby><rb>膚垢</rb><rt>ふけ</rt></ruby>を取ってやっていると、あの人が<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来て、冷やかし半分<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>を言ったりするの。」

「そんなこと気にすることないじゃないか。」

「それあそうだけれど……。」

葉子は少し顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>らめて、

「だけどあの人こんなこと言うのよ。世間の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>も<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いし、牛込の家を売るたって、今すぐというわけにもいかないから、人目にふれない<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に当分隠れていろというの。それにちょうどいいところがある。沼津とかの町<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れの高台の方に、懇意な古い宿屋とか別荘とかがあるから、そこへ行っていろと言うの。」

「二人で？」

「ううむ、私一人でよ。」

「引き分けるつもりなのか。」

「そうでもないらしいんだけれど、後から黒須さんが行くから、とにかく先きへ行っていろというの。何でも大分<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>らしいのよ。その時は私もその気になったんだけれど、黒須さんと園田さんに送られて駅へ来てから考えたの。行ったものか止したものかと。でも黒須さんが切符を買ってくれたものだから、まさか乗らないわけにも行かないでしょう。仕方なし乗ったは乗ったけれど、何だか気が進まないの。それでふと止す気になって、次ぎの駅でおりてしまったの。そこへちょうど上りが来たものだからそれに乗ってここへ来てしまったの。」

誰にも<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れやすくて<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>の好い葉子ではあったが、それだけにまた異性に対して用心深いことは、庸三もかねがね分かっていた。彼はその男の<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>や人柄を想像してみて、通俗小説にでもありそうな一つの色っぽい出来事と場面を描いてみたりしていた。

「それでここへ着いてから、私電話で黒須さんと話してみたのよ。そしてこの私たちの問題を、はっきり取り決めるために、一度先生に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ってもらいたいと言ったの。――御免なさい、お断わりしないで、先生を引っ張り出したり何かして。でもそうするよりほかなかったの。お願いですから、黒須さんにお逢いになってね。」

そういうことには、至ってあやふやの庸三ではあったが、娘の縁談を取りきめるというほどのことでもなかったし、一応先方の話を聴くくらいのことなら引き受けてもいいのではないかと思った。

「逢ってみてもいいね。こっちから行くのか、それともどこか会見の場所でも決めてあるんだったら……。」

「あの人がここへ来ることになっているのよ。それも明日のお昼ごろということにしたの。あの人、ほんとうに先生と手が切れているかどうか、それも心配らしいんだわ。なおさら先生に逢っていただく必要があるわけなのよ。」

「つまり君がその男に見込まれたというわけなんだね。」

「それもどうだか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないけれど……。」

「いずれにしても君がしっかりしていさえすればいいわけなんだが、しかしそういう人の取扱いじゃ園田君も<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうじゃないか。」

「しかし条件は園田本位でしょうから、私の立場があまり有利じゃないかもしれないのよ。あの人自身の気持の動きはまた別よ。それにあの人だって、私を不利益な立場に<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れて、そこに附けこんで来ようというほど非紳士的でもないでしょうけれど、そういう打算は別としても、とにかく、私に対する条件はあまりよくないでしょうと思うの。」

葉子の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>から察すると、黒須は結婚の話を進めるというよりも、その前提として、葉子自身の結婚生活に入ってからの心構えについて、しっかりしたことを確かめておきたいという希望であろうということは、庸三にも気のつかないことではなかった。果してほんとうに貞淑な家庭婦人となることができるか否か、当てがわれた金額の許す範囲以内で、節約的な生活ができるかどうか――そういった問題が、庸三をオブザアヴァとして黒須から提出されるのではないかと考えた。しかし庸三自身にしても、彼女に園田のような輝かしい前途をもっている青年との結婚生活に入るに当たっては、ぜひとも葉子に要望しなくてはならないはずのもので、その覚悟次第で、この問題を解決するわけだが、しかしそうした葉子の新生活への心構えや決心については、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>のところ庸三の手にも<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>が握られてあるわけではなかった。鍵は葉子自身のうちにあるはずであった。もしも庸三が保証の立場におかれるとしても、責任をもつわけにも行かないと同時に、葉子の生活の<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>を、無理な急角度で転向させようとすることも無意味であった。それは葉子という一人の存在を亡くするというのと同じことであり、従って現在の狂熱的恋愛の発生もないはずであった。

しかし一方また庸三は別の甘い考え方ももっていた。それは相手次第によっては、彼女もまた日常の万事に気のきいた楽しい家庭婦人となりうるのではないかと思われた。編み物に<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>、そんなことも好きであった。ちょっと雑誌を見ただけで、どんなむずかしい編み方も頭へ入れたし、部屋の装飾や料理にも彼女自身の趣味があった。読書も好きであった。文学の才能も、世間で見くびっているほど低劣ではなかった。庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、そうした才能や美徳も、泥土のように見くびられているが、それには群衆心理の意地の悪さがないとは<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えなかった。――今も庸三はそういうふうに葉子を買っていたので、園田との結婚でほんとうに彼女の生活が安定する暁には、彼女もするする世の中へ推し出して行けるのではないかという気もしていた。そうしてそれを望んだ。それだけが世間の<ruby><rb>嘲罵</rb><rt>ちょうば</rt></ruby>の彼の償いだと思っていた。恋愛に陥りさえしなかったら、ある程度彼の力で彼女を生かすこともできたはずだとも思えた。それにどんな場合にも文学に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついて生きて行こうと<ruby><rb>悶踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いている、葉子の気持も哀れであった。

翌日女中が黒須の名刺を取り次いで来たとき、二人は辛うじて目が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたばかりであった。昨夜二人で広小路あたりを散歩してから、庸三は再び彼女とともに旅館へ帰って来た。そして<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入ってからも、夜の化粧をした葉子と、水菓子を食べたりしているうちに夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてしまった。

「どうぞお通しして。」

そう言って、葉子はあわてて起きあがって、

「ほかに<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いた部屋ありますわね。」

「あいにく一杯でございますけれど……。」

若い女中が答えた。

葉子は当惑した。

「じゃあちょっと待っていただいて……。」

彼女は女中を手伝って、急いで寝道具を取り片づけ、ちょっと鏡台の前へ行って、顔を直してから、廊下へ出て来客を出迎えた。

朝の九時ごろであった。庸三はまだ全くは眠りから<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めないような気分で、顔の<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れぼったさと、顔面神経の<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>りとを感じながら、とにかく居住いを正して<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしていた。

<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>の高い背広服の紳士が入って来た。<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>たる風姿で、どこか、庸三が昔から知っている童話の老大家の面影に似通った印象を受けたが、彼は、自分流にずうずうしく落ちついていた。

茶盆や水菓子の<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>などが散らかっていた。それに一人の女中が、のろのろと<ruby><rb>敷布団</rb><rt>しきぶとん</rt></ruby>を廊下へ運び出していたらしいので、何かばつが悪かった。

「こちらが黒須さんですの。」

葉子の紹介につれて、二人は簡単な<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を取りかわしたが、何か<ruby><rb>妖気</rb><rt>ようき</rt></ruby>の漂っているような部屋を、黒須は落着きのない目で見まわしていたが、相当興奮もしていた。

「いや、実は葉子さん、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>が<ruby><rb>稲村</rb><rt>いなむら</rt></ruby>さんに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ってくれというもんだから、わざわざやって来たんですがね。」

これじゃどんなものだかと言った意味の断片的な言葉を口にしながら、険しい目で庸三を見おろしていた。

「そのつもりで、先生にも来ていただいて、お待ちしておりましたのよ。」

葉子はそう言って、お茶の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしていたが、黒須の低気圧に気がついていたので、さすがに<ruby><rb>気後</rb><rt>きおく</rt></ruby>れがしていた。

「どういうお話ですか、僕でよかったら伺いたいと思いますが……。」

庸三も口をきいたが、黒須は腹にすえかねることがあるように、何か<ruby><rb>威丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>な態度で、金属のケイスから、両切りを一本ぬいてふかしていた。

「無論結婚の取り決めでしょうと思いますが、それについて何か……。」

「いや、それもありますが、それに先立って、失礼ながら梢さんに果してそれだけの誠意があるか否かが問題なのであって、その<ruby><rb>見究</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めがつくまで、私も園田の後見役として、とくと梢さんのお心持なり態度なりを見届けなければならない立場にあるので。」

「そのことでしたら、今後葉子自身が証明するでしょうが、今が葉子の過去を清算するのに絶好の時機じゃないかと思うのです。」

それならこの<ruby><rb>為体</rb><rt>ていたらく</rt></ruby>は一体どうしたのかとでも言いたそうに、黒須は煙草をふかしながら、二人を見比べていたが、庸三という老年の文学者が、<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で葉子を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っている、何か<ruby><rb>狡獪</rb><rt>こうかい</rt></ruby>な敗徳漢のように思われてならなかった。

「とにかく今日は失礼しましょう。いずれまた機会があったら……。」

黒須は示唆的な表情を葉子に示して、あたふた座を立って部屋を出た。

黒須を送り出した葉子は、すぐに部屋へ帰って来たが、<ruby><rb>興醒</rb><rt>きょうざ</rt></ruby>めのした顔でぷりぷりしていた。

「悪かったな。」

庸三が<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと、

「だって先生が何も言ってくれないじゃありませんか。」

葉子の声には突き刺さるような<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>があった。

「だって先が何も言ってくれないじゃないか。僕として何も言うところはないんだ。」

「先生はいつだってそうなのよ。大切なことといったら何一つ考えてもくれなかったじゃありませんか。先生の落ち目になった社会的信用で、この上私を持って行こうったって、それは無理だわ。」

葉子はヒステリカルにしゃべり立てながら、<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方に散らかっていた庸三の<ruby><rb>単足袋</rb><rt>ひとえたび</rt></ruby>を取って、腹立ちまぎれに、ぴりっと引き裂いた。

庸三は<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>って来たが、葉子にしゃべりたてられると、それに刃向かう手のないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。抱擁は抱擁、二人の立場は立場と、はっきりした使いわけの器用さも、彼にはなかった。

やがて葉子は身支度して部屋を出たが、旅館の手前もあるので、少し間をおいてから、彼もそこを出た。葉子が黒須に追い<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、この<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>を縫い合わせに行ったことを想像しながら。

ある日庸三は、小夜子の家の、水に臨んだ部屋の一つで、ある大新聞の社会面記者と会談していた。

最近の葉子の事件について、記者の葉村氏はその前にも会見を申し込んで来たのであったが、迂濶な口を利いて、彼女の結婚に支障を来たすようなことがあってはと、遠のいていれば、そんなことも思われて、わざと断わったのであった。葉村氏の庸三と葉子に対する態度はいつも<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>で自然であった。興味的に掘じくるとか、<ruby><rb>揶揄的</rb><rt>やゆてき</rt></ruby>に<ruby><rb>皮肉</rb><rt>ひに</rt></ruby>くるとかいう種類ではなかった。その日も一応電話をかけて、庸三の<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>を確かめてからやって来たのであった。

「もし先生がお<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないようでしたら。」

「そうですね。今ならお話ししてもいいかと思うんですけど。」

葉村氏の姿を玄関口に見ると、帳場で小夜子と話していた庸三は、立ち上がって自身案内した。モダアンな葉村氏の質問はデリケートであったが、古い感覚の庸三は、<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>ぶった子供っぽいものでしかなかった。

「どうでしょう、今度の事件は巧く行くでしょうか。先生のお<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しは？」

「そうですね。僕にもわからないんですが、巧く行くようにと思っています。今度は本物かも知れませんよ。」

「そうですか。僕は葉子さんが、あの断髪にした時に、あの人の心の動きというか、機微というか、何かそういうものを感じましたよ。」

そんな話がしばらく続いた。

「お書きになるんだったら、この話が巧く進行するように書いて下さい。葉子は世間が言うほど悪い女でもないんですよ。もちろん打算もあるし、野心的なところもありますが、大体が最初の結婚の出発点が悪いんで、あんなふうに運命が狂って来ているんです。文学的才能だって、伸ばせば伸びるはずなんですが、夢というか慾望というか、いつもそれに負けてしまうんです。」

「しかし先生のお心持はどうですか。今までじっとあの人を見詰めておいでになって……。」

「いや、見詰めてもいなかったんですが、何か始終求めて<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まないものがあるんですね。」

庸三はそう言って、ぽつぽつ<ruby><rb>本音</rb><rt>ほんね</rt></ruby>の憎悪の言葉を口にし初めた。そして最後に、

「これはここだけのお話ですから、どうぞそのつもりで。私一<ruby><rb>箇</rb><rt>こ</rt></ruby>の批判ですから、書いちゃいけないんです。」

葉村氏はやがて帰って行った。

翌朝十時ごろに帳場へ出て行ってみると、そこに庸太郎がすでに起きていて、葉村氏の勤めている社の朝刊を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて読んでいた。小夜子はいつものことで、薄暗い中の間で<ruby><rb>明々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>と燈明のとぼっている仏壇の下にぴったりと坐って、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みながら一心にお経をあげていた。人生に多くの夢を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていることは彼女も葉子も同じだったが、長いあいだ職業的に鍛えあげられて来ているだけに、お嬢さん気質のぬけきらない葉子に比べて、心に一筋筋金が入っていた。信心は母に植えつけられた過去への<ruby><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>でもあったが、その日その日の彼女の自制と希望でもあった。ちょうどそれは毎朝の口を<ruby><rb>漱</rb><rt>すす</rt></ruby>いだり、歯を<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>いたりするのと同じに、それをしないと気持が一日散漫であった。

庸三は昨夜も遅くまで花を引いて、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>障子の白むころに疲れて寝たのであった。庸太郎も仲間に加わっていた。

「何か出ている？」

庸三はちょっと聞いただけで、新聞を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>く気にもなれなかった。好いにしろ悪いにしろ、その記事が彼と葉子のあいだに、いずれからも<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えがたい一線を引いたはずであった。

「ああ、これあ少し悪いな。」

庸太郎が言うので、彼も少し気になって記事にちょっと目を通してみた。確かにそれは葉村氏の理解に信頼して、庸三の個人的に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな憎悪の言葉が、<ruby><rb>粉飾</rb><rt>ふんしょく</rt></ruby>と誇張に<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られたもので、むしろ葉村氏の心持で<ruby><rb>忖度</rb><rt>そんたく</rt></ruby>された庸三の憎悪を、彼に代わって彼女に投げつけているようなものであった。

庸三は若い記者の思いやりを、一応感謝はしたものの、<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐったくもあった。にわかに庸三は<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になった。

「これじゃ何だか葉村君の<ruby><rb>呑込</rb><rt>のみこ</rt></ruby>みがよすぎたようだ。」

「葉子さんに気の毒ですよ。それに毒の花なんて出ているけれど、これはボオドレイルのあれだけれど、意味が全然違いますよ。」

そのころ庸太郎はその詩人の悪魔主義にも影響されていた。行動にもそれが<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われた。

しかし庸三は<ruby><rb>綺麗事</rb><rt>きれいごと</rt></ruby>で済まされないことも感じていたので、目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>るよりほかなかった。

小夜子は興味がなさそうに、やがて仏壇を離れて来ても、その問題には触れようともしなかった。ずっと後に気のついたことだが、小夜子はそのころすでに彼の子供の友達であった。

二三日してから、ある晩もまた庸三は小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で遊んでいた。

彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から<ruby><rb>清洲橋</rb><rt>きよすばし</rt></ruby>あたりの夜景を眺めていたが、にわかに廊下へ呼びこまれた。

「先生お電話ですよ、葉子さんですよ。」

このごろここへ来て手伝っている、小夜子の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>が<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で言うのであった。

「居ると言った？」

「え、坊っちゃんが……。」

庸太郎が帳場にいたのだった。

「そいつあ困ったな。」

当惑しながら庸三は降りて行った。受話機がはずしてあった。

「いないといってくれればいいのに。」

庸三は庸太郎に言った。

「だって……。」

庸太郎のそういう態度は、彼の気弱さだとも思えたが、強さだとも思えた。しかしそれはずっと後のことで、その時の彼の心理は鈍い庸三に<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るはずもなかった。

受話機を取ってみると、電話は少し遠かったが、熱っぽい葉子の声はだんだんはっきりして来た。かんかんに怒ってでもいて、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みを言うかと思っていると、反対に哀願的な態度に出た。庸三はもう遅いとか、明朝にしようとか二三押問答もして、もし新聞記事のことだったら、あれは自分も少し当惑しているところだと、弁解しようとしたが、葉子は興奮をおさえた泣くような声で、

「いいえ、そのことではなしに、どうしても今夜中にお<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いしなければならないことがあるんですの。今すぐ来て下さるわね。きっとよ。この間の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>よ。お待ちしてますわ。」

受話機を卸して、庸三は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いたが、自身にも収拾のつかない感じだった。

「どうしたんです。」

「来てくれと言うんだ。」

「行ったらいいでしょう。」

庸太郎が促すように言った。

「じゃ車言ってもらおう。」

小夜子が<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby>タキシイへ電話をかけた。

安栄旅館の路次口で車を降りてみると、今さら夜の<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けているのに気がついた。彼は近頃時間の観念を亡くしていたので、特に夜が短かった。

葉子が路次口から現われて来て、ふらふらと幻のように彼に近づいて来た。

「私今メイフラワにいるんですのよ。」

「どうして？」

「旅館ではちょっと都合が悪いのよ。先生だって危険よ。」

「どうしてだろう。」

「黒須さんが私たちを誤解しているのよ。先生も<ruby><rb>共謀</rb><rt>ぐる</rt></ruby>でやってる仕事だというふうに。」

「ヘえ。」

「でも、ちょっと上がって。マダムいい人よ。」

庸三は誘われるままに、その美容院の中へ入って行った。こちらにいる時分、時折葉子が来ていた家で、犬好きなマダムと懇意にしていた。レストオランのマネイジャをしている主人が、時々横浜からやって来るということも、庸三は彼女から<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かされていた。いつか生後三月ばかりのフォックステリアを、動物好きな咲子のために<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って来たこともあった。

マダムは<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>の方で、もう寝ていたが、弟子たちがお茶をもって来てくれたりした。

葉子は神経が<ruby><rb>亢</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶっていて、落着きがなかった。

「どこかへ行きましょうよ。私さっきちょっとお宅へも行ってみたのよ。すると一時間ほど前に権藤さんが旅館へやって来て、先生んとこの庄治さんが今お酒に酔って、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>をやっつけると言ってるというのよ。とにかく出ましょう。こちらも迷惑よ。」

二人はまた外へ出た。通りでは<ruby><rb>店屋</rb><rt>みせや</rt></ruby>はどこも締まっていた。横町のカフエや酒場からの電燈の光が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れているきりだった。スピイドをかけた自動車が、流星のように<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>の方へと通りすぎた。そのうちに空車が一台やっと駒込の方からやって来たので、急いでそれに乗った。

乗り入れたのは、西北の方角に当たる町なかの花柳地だったが、時間過ぎなのでどこも<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>としていた。葉子は広い通りに<ruby><rb>露出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>しになっている、一軒の家の前で車をおりて、勝手口の方へまわって、「おばさん、おばさん」と言って、木戸を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いていたが、しばらくしてから内から返辞があった。

「私来たことあるのよ。<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るでしょう。でも<ruby><rb>蔑視</rb><rt>さげす</rt></ruby>まないでね。」

そう言われて、庸三はたちまちあの青年<ruby><rb>一色</rb><rt>いっしき</rt></ruby>のことが思い出された。

「あの人芝居道の人なんかと、この家へ遊びに来たものなのよ。」

やがて玄関の方の戸があいたので、そこから上がって、奥二階の静かな部屋へ落ち着いた。

「何か食べたい。先生どう。」

「食べてもいいね。」

葉子は<ruby><rb>手提</rb><rt>てさげ</rt></ruby>のなかから、ペンとノオトの<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>を取り出して、三四品<ruby><rb>註</rb><rt>あつら</rt></ruby>えの料理を書いて女中に渡した。

「御酒は。」

女中が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くので、

「少し飲みたいの。一本でいいわ。遅くにすみませんけれど。」

四皿の洋食が来るまでには、少し<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もあった。庸三は痛いところに触られまいとして、わざと態度を崩さないように構えていたが、葉子はじりじりする気持をわざと抑えるようにしていながら、それとなし記事に触れて行こうとした。

「みんなそう言ってたわ、あの記事少し<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いって。日頃の先生にも似合わない仕打ちだって。」

「あれは葉村君の感違いだよ。」

「だからいつも言ってるじゃありませんか。新聞社の人には一切<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わないことにして下さらなくちゃ困りますって。」

「それも場合と相手によるんだ。葉村君ならきっと有利に書いてくれると思ったんだ。僕も繰りかえしてそれを言ったんだが、後で少しばかりの君の批評はしたんだ。しかしあれも今まで新聞に書かれた以上に悪いとも思えないな。」

「世間は何と言ってもいいのよ。先生の口から出たということが重大なのよ。」

「しかしそれが不当な悪口だったら、非難されるのは僕じゃないか。」

「先生は大家よ。私なんかと一つには言えないじゃありませんか。こんな時こそ、私を<ruby><rb>庇護</rb><rt>かば</rt></ruby>ってくれなきゃいけない人なのに、先生は私を突き落とすようなことをしたのよ。先生の言葉一つで、私の運命は狂わせることもできるのよ。」

「僕の言ったことに、そんなに悪意があるとは思わないな。」

そこへ洋食と酒が持ちこまれて来た。

「御免なさいね。こんな話よしましょうね。」

女中は<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の灰の散った食卓に<ruby><rb>台拭巾</rb><rt>だいぶきん</rt></ruby>をかけて、そこへ通しものと<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょく</rt></ruby>と<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>とを並べた。

初めから解りきったことだったが、葉子にまくし立てられては、防ぎの手はなかった。しかし今夜の彼女は、<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>し立てるには痛手を負いすぎていた。それに今の場合、葉子にとってもっとも大切なことは善後策であった。そしてそれには庸三をして庸三の<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちを償わせることが、何よりも必要だと思われた。

そうしているうちにも、葉子は時々聞こえる自動車のサイレンや爆音に<ruby><rb>聴耳</rb><rt>ききみみ</rt></ruby>を立てていた。彼女の神経に、それが黒須の<ruby><rb>追迹</rb><rt>ついせき</rt></ruby>のように思えてならなかった。世間のすべてが――庸三すらもが今は彼女を迫害するのであった。

## 二十

露骨な争いと、擬装の和解との息詰まるような一夜が明けた。葉子は庸三によって新聞の記事を何とかできるだけ有利に<ruby><rb>糊塗</rb><rt>こと</rt></ruby>しなければならなかったが、庸三もこうして彼女に<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まった以上逃げをうつ手はなかった。

十時ごろに目がさめると、葉子はトイレット・ケイスの中から化粧道具を取り出して、顔を直していたが、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>のなかから<ruby><rb>鏝</rb><rt>こて</rt></ruby>を取り出すと、カモフラジュの形で、わざと手のとどかないところを庸三に手伝わせたりした。庸三は前にも一度、どこかのホテルで鏝をかけさせられたことがあったが、葉子が耳にかぶさるまで<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と延びた彼の髪を彼女流に刈り込むようには器用に行かないので、熱い鏝の端が思わず<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に触って、彼女は飛びあがって絶叫したことがあった。葉子はいつも自身の幻影に酔っていたし、しばしば鏡にうつる黒い深い目にいとおしく<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れて「ちょっと見て。私今日美しいわ」などと無邪気に<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くのだった。庸三もそれはそうだと思いこんでいたが、しかし鏝にさわられて絶叫した時のような瞬間々々の表情の美しさをもちろん彼女自身に見ることはできなかった。庸三はもちろん他の男にも同じ表情をしあるいはもっと哀切<ruby><rb>凄婉</rb><rt>せいえん</rt></ruby>な<ruby><rb>眉目</rb><rt>びもく</rt></ruby>を見せるであろう瞬間を、しばしば想像したものだったが、昨夜のように気分の険しさの魅惑にも引かれた。

昨夜連れこまれた時から、庸三は何か<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>な気分をこの家に感じていた。ずっと後になってからここのお<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>の口から洩れたことだと言って、そのころ葉子は例の外科の<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>をここへ連れこんで来たものだが、他にも若い人と一緒にタキシイを乗りつけたりした。庸三はこの家が彼以前の葉子の愛人の遊び場所だことは、連れて来られた瞬間に気づいたことだったが、そこまで恥知らずの彼女とも思わなかった。しかし、彼は女中やお神に顔を見られるのがいやさに、わざと葉子を床の前にすわらせて、自身は入口を後ろにしていた。入口の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>に内から錠がかかるような仕掛になっていたが、部屋は物堅い感じの野暮くさいもので、何の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>もなかった。

残暑はまだ哀えなかった。<ruby><rb>煽風器</rb><rt>せんぷうき</rt></ruby>はもう片寄せられて、床の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>花生けに秋草が<ruby><rb>插</rb><rt>さ</rt></ruby>されてあったが、庸三は心も体も疲れていた。鏡を離れた葉子はしろしろした<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に<ruby><rb>淡紅</rb><rt>うすあか</rt></ruby>い紅を差して、昨夜の泣き<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた顔とは、まるで見違えるようになっていたが、額に悲痛な曇りを帯びていた。

やがてトオストに二皿ばかりの軽い食事を取った。

「これから新聞社へ行ってね。」

「そうね。行ったところで恥の上塗りをするようなことになるんじゃないかと思うけれど。それに取り消しを出すったってほんの形式だけだから。」

「じゃ私はどうすればいいんでしょう。先生の気持はよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るけれど、ジャアナリストの手に乗るということがありますかよ。あの人たちだって、まさか先生のしゃべりもしないことを書き立てはしないですもの。このままじゃ、私の運命は<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>だわ。先生のおしゃべり一つで、私が世の中から葬られるなんて<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めじゃないの。」

「しかし結婚は……。」

「それどこじゃないわ。私あの人たちに顔も合わせられないわ。それにああいうブルジョウアは、中へ入ってみるとやはりいやなものなのよ。あの人だってどこの株がどうだとか、そんな話しているのよ。」

すぐ昼になった。昨夜葉子は一時ひどくヒステリックになって、庸三の万年筆の軸を二つに折ってしまったので、彼は少し書くつもりで原稿紙を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げたのであったが、そのままになってしまった。葉子は折れた万年筆を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけて、インキの<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>も<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>ってしまった。インキがたらたら畳のうえにまで<ruby><rb>滾</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れた。庸三は<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>電車通りの文房具屋から万年筆を持ちこませて、一本買ったのであったが、ついでに軸の透明な女持を一本葉子にも取った。しかし今日起きてみても、原稿紙を拡げる気分にもなれなかったので、それはそれとしてとにかく新聞社へ電話ででも掛け合ってみるよりほかなかった。

電話は<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>をおりた<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>の、ちょっと入りこんだ薄暗い<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>部屋の外側の壁にあった。葉子も降りて来て<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で監視した。葉村氏はいなかったが、社会部の主任らしい人がやがて出て来たところが、庸三はあの記事が自分の本意でないことを訴えた。

「葉村君は私の気持を少し好意的に<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みすぎたんですよ。あれじゃ全然葉子を叩き<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すようなもので、私も<ruby><rb>寝醒</rb><rt>ねざ</rt></ruby>めが悪くて仕様がありませんから。一つ取り消していただきたいと思って……。」

「そうですかね。しかし取消しはどうですかね。社の方でもよくよくの間違いでもなければ、一度出したものは取り消しはしないことになっているんですがね。あれはあれでいいじゃありませんか。」

「いや、困るんです。葉子よりも僕の立場がなくなるんで。」

しばらく話が入り乱れたが、傍に葉子が耳を<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>させているので、庸三も少し逆上気味になっていた。それに電話が遠くなって、何か雑音が混じり込んだりしたので、急所がはっきりしかねた。やがて庸三は受話機を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いた。そして、廊下の端に誰か<ruby><rb>立聴</rb><rt>たちぎ</rt></ruby>きしているのに気がつくと、急いで二階へ上がった。

「駄目。」

庸三は投げ出すように言った。

葉子が黒須を動かして、彼の知っている、その新聞社の上層部の好意で、特別に記事の訂正かたがた葉子のために記事の載せられたのは、それから間もなくであった。

逗子の海岸にもいつしか秋風が吹いていた。

そのころになって、庸三はまたしても葉子の家に寝食することになった。

「当分またしばらく行っていてやらなけりゃならないからね、留守をよく気をつけて。」

庸三は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を出るとき、そう言って長男に後事を<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>した。訂正の記事は出したにしても、それは苦しまぎれの<ruby><rb>糊塗的</rb><rt>ことてき</rt></ruby>なもので、葉子は社会的には全く打ちのめされた形だった。

訂正記事は、新聞社の会議室で作られ、黒須もりゅうとした羽織<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>に<ruby><rb>黒足袋</rb><rt>くろたび</rt></ruby>という<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>で、そう言えばどこか院外団の親分らしい風姿で立ち会ったが、庸三にしてみれば、前の記事を塗りつぶすのは、そうたやすいことでもなかったし、葉子側に立っている黒須も来ている時に、記者に談話を取られるのは、あまり見よい図ではなかった。もちろん前もって葉子からその話はあった。彼女は庸三に屈辱感を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かせないために、細心の注意を払うことを忘れなかった。

約束の時間に、庸三が行った時には、葉子はまだ来ていなかったが、主任の木元氏としばらく話しているうちにやって来た。黒須もにこにこしながら入って来たが、庸三と悪気のない<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を交すと、間もなく姿を消した。

「さあ梢さん、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はこっちがいい。」

<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りに肥った丸顔の木元主任は、葉子を大きい<ruby><rb>肱掛</rb><rt>ひじか</rt></ruby>け椅子に腰かけさせた。彼は初めて見る葉子の美しさに魅せられた形で、

「いや、世間から何といわれても、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は幸福ですよ。」

と庸三にそっと<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。庸三は、これもずっと後に葉子が銀座の酒場へ現われたとき、この男も定連の一人で、何か葉子の親切な相談相手になってやっているという噂を耳にしたけれど、何か<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましい感じで、いやな気持がしなかった。

葉子も主任の問いに答えて、彼女一流の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>の含まれた言葉で、恋愛も恋愛だが、生活や母性愛の悩みもあって、今までの生活は行き<ruby><rb>塞</rb><rt>づ</rt></ruby>まりが来たので、打開の道を求めようとしたのが、何といっても文学が生命なのだし、新しい結婚問題がどうなるにしても、やはり庸三に頼って行くよりほかないのだといった意味を述べていた。彼女は黒い羽織で顔の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がひとしお鮮かで、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>まで垂れた黒髪の下から、<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかな<ruby><rb>黒耀石</rb><rt>こくようせき</rt></ruby>のような目が、長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の陰に大きく潤い輝いていた。

庸三も「現在の貴方の心境は」なぞと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かれて当惑した。

「こういうことになると、誰しも未練の残るのは当然でしょう。結婚が円満に運ぶようにというのは嘘じゃないですかね。やっぱり梢さんは貴方が持って行かれた方がいいのじゃないですか。」

主任は突っ込んだ。

「いや、この結婚は順調に運ぶようにというのが私の本心なのです。清算するつもりだからこそ批判もしたので。」

庸三はこの恋愛のわずかにはかない虚栄にすぎないことも知っていたが、それも<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな未練の変装だかも知れなかった。

電話のかかって来たとき、庸三はちょうど部屋にいて、今日あたり何か言って来そうな気がしていた。で、下宿の電話室へ行ってみるとやっぱり葉子の声だった。

「先生、私よ。今新橋にいるんですけれど、これからモナミへいらっしゃれない！」

その声はやはり耳に楽しかった。

「そう、行ってもいい。」

「じゃすぐね。きっとよ。」

葉子はおきまりを言って電話を切った。

庸三は部屋へ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしたが、しかし何となく<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>でもあった。火に<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を取られる虫のような<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>もいつか失われていたので、電話の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>はあったけれど、心は煮えきらなかった。いつまでこんなことがつづくのかと思われた。

ちょうど晩飯時分だったので、まだ店を開いて間もないほどのモナミは人が一杯であった。いつも二階なので、階段を上がりざまに下へ目をやると、そこに見知りの女の顔が<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったそうに笑っていた。庸三は<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みかえす余裕も失って、そのまま上がって行ったが、食堂はがらんとしていて、葉子もまだ来ていなかった。窓ぎわの食卓に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を一本ふかしたころに、やがて葉子が現われた。

「ごめんなさい、ちょっと、ハルミへ寄ったものだから。」

葉子はあの時のことを<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出しもしないふうだったが、いくらか気が置けるらしかった。庸三も気が<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>まなかった。

「結婚はどうなったかしら。」

「家がいつ売れるか知れないんですもの。その間私たち黒須さんの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へお預けでしょう。」

葉子は苦笑していたが、そこへ青磁色したスウブが運ばれた。ナプキンを腕にした、<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>の高い給仕が少し距離をおいて立っているので、話はそれきりになった。

「逗子の海ももうすっかりさびれてよ。もうあの人もやって来ませんから、先生お仕事をお持ちになってまたいらしてね。私の名誉<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>のためにも当分それが必要だとお思いにならない？　御飯たべたら活動でも見て、一緒に行って下さるわねえ。」

「行ってもいいけれど……。」

チキン・ソオテにフォクをつけながら、庸三は生返事をした。ああした事件の後の、葉子の海岸の家を考えるとなおさら<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>であった。

ちょうど葉子がパフをつかってから、二人で食卓を離れるころに、客が一組あがって来たので庸三は急いで階段をおりた。あの事件以来、彼は一層肩身の狭さを感じた。

この先き庸三との関係がどのくらい続くものかは、葉子にも見当がつかなかったが、どんな場合にも――たとい彼女と第三者とのあいだに、さらに新しい恋愛が発生したとしても、師は師として<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めると同時に、庸三も苦しいなりにもとにかく師父としての立場で愛情と保護を加えることを惜しまないであろうことを期待したのだったが、結果があんなふうになった以上、当分庸三を擬装の道具につかうよりほかなかった。彼女は<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れものに触るように庸三を取り扱ったが、ぷすぷす<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>る憎悪の念をどうすることもできなかった。庸三も、最後は<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎ</rt></ruby>よくするつもりで、ちょうど昔から女には好意をもたれないように生まれついているものと、自分で決めていたと同じ自己否定の観念や、年齢や生活条件もそれに加算してのうえで、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>を決めていたのであったが、そっと一言二言批判がましいことを、談話のあとで口にしたことが、葉村氏の筆であんなふうに誇張されてみると、葉子と差向いにいても、卑劣な<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>を見透かされるようで、いつも苦りきったような顔をしているよりほかなかった。

ある日鵠沼にいる例の黒須がひょっこり訪ねて来た。ちょうどその時葉子は<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>から逃げた一羽生きのこりのカナリヤの雄を追っかけて、スリッパのまま隣りの<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>まで捜しに出ていた。どうしたのか籠の戸口が少し透いていた。庸三も一緒に縁におりて、<ruby><rb>珊瑚樹</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>や、隣りの松や<ruby><rb>槻</rb><rt>けやき</rt></ruby>のような木の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を下から見あげていた。葉子が<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>と別れてここへ来るとき贈られたものだということが、頭に<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいて、それも一羽は一月前に死んだ後を独り<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しく暮らしていた哀れな雄の方が、広い自然を目がけて飛び出して行ったもので、<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>の自由が利くかどうかもわからなかった。葉子はあの短時日の単純で朗らかな恋愛の思い出を、今はこれまで経て来た数々の恋愛のなかでは、相手が相手だけにちょっと<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましいものにも思い、苦難の多い庸三との生活の途中における楽しい一つの<ruby><rb>插話</rb><rt>そうわ</rt></ruby>として、記念のカナリヤを眺めていたのだったが、逃げられてみると、はっとしてあわてたのであった。どこを捜しても、梢や草を渡る寂しい風の音ばかりで、どこかに立ち<ruby><rb>辣</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいるであろうとは思いながらも、思い切らないわけに行かなかった。

「死ぬより逃げられた方が増しだよ。」

庸三は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたが、葉子もこだわりはしなかった。

縁側へ上がって<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>についた草の実を払っているところへ、黒須が来たのであった。もうその時分は郷里からつれて来た女中もいなかった。彼女は新らしいハッピを着た、まだ四十にはならない職人風の父親が、わざわざ逗子まで来て連れ帰った。その時葉子は海岸の砂丘にいたが、今度の恋愛事件で、郷里の新聞がまたしても筆に火花を散らして書き立てた結果だということが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るし、母や兄がまたどんなに困っているかということも想像できるので、不断の葉子なら遠くからやって来たこの父親を、そのまま帰すはずもなかったが、彼の姿を見ると、ちょっと<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を染めただけで、顔も見せないようにしていた。少し離れていた庸三も見て見ぬふりをしていた。

「縁談があるんですって。」

葉子は言っていたが、東京では若い人たちに騒がれていた、いつも葉子に忠実であった彼女も、汽車の時間の都合で、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>する<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなく連れて行かれてしまったのであった。

葉子が玄関わきのサロンで黒須に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>っているあいだ、庸三は奥の座敷で<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしていた。二人の話し声が聞こえ、軽い葉子の笑い声もしたが、何を話しているかは解らなかった。

「カフエでも出すなら、金はどうにでもする。<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>ならきっとさかるに違いない。――あの人そんなこと言ってるの。」

黒須を帰してから葉子は庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ来て言うのであった。

「でもあの人たちとうっかり組めないくらいのことは、私にだって分かっているわ。」

葉子は笑っていた。

「そうそう、あの男あの事件の直後、僕の留守へ三四人でやって来て、ひどく子供を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かして行ったそうだよ。留守をつかうんだろうとか、お前の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の名声ももう地に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたとか言って……。あの朝の旅館の会見が、悪い印象を与えたんだ。あの恋愛も、僕が君の背後にいて画策したんだというふうに気を廻してしまったんだ。」

「今は何でもないんだけれど。」

庸三もあの時、新聞社の客間では、お互いに笑って会釈したくらいだった。

日暮方になると、二人は何か<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になった。二人きりの世界の楽しい瞬間もあるにはあったが、永く差し向いでいるときまってやり場のない<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しさを感ずるのが、庸三の習癖であった。理由もなく何か満ち足りない感じがいつもしていたし、世間からの<ruby><rb>呪詛</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>や、子供たちの悩みも思われて、彼の神経はいつも刃物をもって追い<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けられているにも<ruby><rb>比</rb><rt>ひと</rt></ruby>しい不安に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えていた。それでなくとも、<ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。

「ちょっとホテルヘ行ってみない？」

葉子は誘った。

庸三はホテルのサルンへ顔出しするのも<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>かられたが、ちょうど空腹も感じていたので、しばらくぶりで食堂へ入ってみたくもなった。ホテルではラジオも聞けたし、<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>すればバスも用意してくれた。

恋愛事件前後、瑠美子は師匠のところへ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>っていた。二人は内から門に錠をおろして、地続きの隣りの木戸から出た。そして砂地の道を横切ってだらだらした坂をのぼると、そこがホテルの玄関であった。ラジオは洋楽の演奏であった。庸三は震災前に、庸太郎によってやっと世界の偉大な音楽家の名や曲目を覚えはじめ、子供の時から聞き<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>んで来た<ruby><rb>義太夫</rb><rt>ぎだゆう</rt></ruby>や<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>が、ビゼイやモツアルトと交替しかけていた時分だったが、この音楽ほど新旧の時代感覚を分明に仕切っているものはなかった。

食堂の開くのにはまだ少し間があった。庸三はサルンの<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>に<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を取ったが、葉子も少し離れたところで、ラジオを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いていた。彼女は何かしらトリオらしい室内楽の美しい旋律のなかから、自身の夢想を引き出そうとするように耳を<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てていたが、楽器の音を聴いていると、少し<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が安まるくらいの程度であった。

<ruby><rb>撞球室</rb><rt>どうきゅうしつ</rt></ruby>の入口のドアの上部の<ruby><rb>磨硝子</rb><rt>すりガラス</rt></ruby>に明りがさして、球の音も<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて来た。庸三はどこかそこいらにかの青年の幻がいるような気もしたが、葉子が逗子に行かない前から彼の予感にあったあの恋愛も、現実面へ持ち来たらせられてみると、ひとたまりもなく砕けてしまったのであった。庸三がその結婚の実を結ぶことを<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>ったのは嘘ではなかったが、巧く行きそうもないことを望んだのも真実であった。

二人はやがて食堂にいた。

「君はマルクス勉強するつもりだったの。」

庸三は<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>のコップを手にしながら、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>がお</rt></ruby>で訊いてみた。

「私がお嬢さんすぎると言うんでしょう。あの人だって坊っちゃんよ。」

プロレタリヤ運動もまた目に立つほど<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>っていない時分のことで、庸三はマルクスの学説のどんなものだかも知らなかったが、そういった時代の一つの<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>には胸を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>かれた。かつて<ruby><rb>草葉</rb><rt>そうよう</rt></ruby>が<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>をかいてやると言って、葉子から白地の<ruby><rb>錦紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>の反物を取り放しにしているということから、あの人たちにはすでにそういった、有る<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>から取ってやるのが当然だという、生活の必要から割り出された<ruby><rb>太</rb><rt>ふ</rt></ruby>て腐れの感情があるのだと、葉子は話して、

「草葉さんはいつ約束の金をくれるんだと言って、よく催促したものよ。私が母からもらって持って行ったお金もみんな使ってしまって。」

しかしこのマルクス・ボオイもブルジョアの一人<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>だけに、葉子が想像したほど、内容にぶつかって行くのは容易でなかった。そうするのはやはり普通の世間の令嬢のような、<ruby><rb>舅姑</rb><rt>しゅうとしゅうとめ</rt></ruby>にも柔順で、生活も質素な幾年かを、じっと辛抱しなければならないのであった。恋愛だけを切り放して考えることもできなかった。

ある日の午後、庸三と葉子はまだ秋草には少し早い百花園を<ruby><rb>逍遙</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>していたが、<ruby><rb>楽焼</rb><rt>らくや</rt></ruby>きに二人で句や歌を書きなどしてから、すぐ近くの鳥金へ飯を食べに寄ってみた。そこは古くからある有名な<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、どこにいても誰とも顔の合うことのないように、廊下や小庭で仕切られた芝居の大道具のような古風な幾つかの部屋をもった落着きのいい家であった。

いつかも月の好い秋の晩に、水の好きな葉子に促がされて、<ruby><rb>濛靄</rb><rt>もや</rt></ruby>のかかった長い土手を<ruby><rb>白髯橋</rb><rt>しらひげばし</rt></ruby>までドライブして、ここで泊まったことがあったが、怪談物の芝居にあるような、天井の低い、<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>しのかかった薄暗い部屋で、葉子はわざと顔一杯に髪を振り乱して、彼にのしかかって来たりしたのだったが、すでに二つの恋愛事件で、自身も苦しみ庸三もさんざん苦い<ruby><rb>汁</rb><rt>しる</rt></ruby>をなめて、憎悪の言葉さえ投げつけたあとでは、気分の<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けあうはずもなかった。

名物の<ruby><rb>蜆汁</rb><rt>しじみじる</rt></ruby>だの看板の芋の煮ころがしに、刺身鳥わさなどで、酒も<ruby><rb>二猪口</rb><rt>ふたちょこ</rt></ruby>三猪口口にしたが、<ruby><rb>佞媚</rb><rt>ねいび</rt></ruby>な言葉のうちに、やり場のない怨恨を含んで、飲みつけもしない酒の酔いに目の縁をほんのりと<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くした葉子が、どうかするとあの時の新聞記事のことで、ちくちく愚痴をこぼすので、庸三は<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いにはただ卑屈に弁解ばかりもしていられなかった。

<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>に入ってから、二人はいつかの陰気な居間で休んだのだったが、しばらくすると葉子は<ruby><rb>細紐</rb><rt>ほそひも</rt></ruby>をもって彼にのしかかって来たかと思うと、悪ふざけとも思えない<ruby><rb>目色</rb><rt>めつき</rt></ruby>をして、それを庸三の首に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きつけてしまった。

「わたし先生を殺すかもしれないことよ。殺しても飽き足りないくらいよ。」

葉子はぎゅうぎゅう紐を締めた。

庸三は笑っているような泣いているような、目も口も引き釣った葉子の顔を下からじっと見詰めながら笑っていた。

「ああいいよ、殺したって。」

葉子は馬乗りになって、紐を少し<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めたり、強く締めたりしていたが、終いに庸三も呼吸が苦しくなって来たので、痛そうに顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて紐へ手をかけた。

紐をゆるめて<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね返るまでには、半分は本気で半分は<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>のような無言の争闘がしばらく続いたが、起きあがってみると、ぐったりとした<ruby><rb>吭笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>のところは、手でさわったり<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこんだりするたびに、<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>のような軽い痛みを感じた。

葉子の目に、そこに憎みきれない<ruby><rb>狡獪</rb><rt>わるごす</rt></ruby>い老人が、いくらか照れかくしに<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>ぜ撫ぜ坐っていた。

## 二十一

じりじり暑い西日が、庭木の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>や<ruby><rb>葦簾</rb><rt>よしず</rt></ruby>を洩れて、西だけしかあいていない<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な彼の書斎の畳に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い拡がるなかにいて、庸三はしばらく葉子と離れて暮らしていた。社会面記事から<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起こされた二人の醜悪な心情から、その後もいろいろ傍系的な不快な事件がおこって、ある時などは二人立ちあがって、部屋中押しつ押されつして争ったこともあった。どんな場合にも彼は腕力は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いであったし、剛情とか片意地とかいった、相手を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせるような、女性にありがちな気質上の欠点をもたない葉子のことなので、油紙に火がついたように<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>し立てるとか、あまりにも人を侮辱したような行動に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でない限り立ちあがって争うなぞということは、自発的にはできるはずもなかったが、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みくしゃにでもしてしまわなければ<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>が晴れないように、ヒステリックに<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ってかかられる場合には、その二つの腕を抑えて、じりじり壁に押しつけるくらいのことは仕方がなかったし、<ruby><rb>膝相撲</rb><rt>ひざずもう</rt></ruby>でも取るように、組んず<ruby><rb>釈</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れつして畳のうえをにじり這うこともやむをえなかった。

それはある時彼女のたっての要請に応じて、一つの誓文を書かされた時であった。と言っても恋の<ruby><rb>起請</rb><rt>きしょう</rt></ruby>誓紙といったような色っぽいものではなくて、今後一切彼女のことに関する限り、作品には書かないという誓いで、もし少しでもそれを書いた場合には、賠償金大枚千円なりを異議なく支払うべきものなりという、子供<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>しのような証書であった。

庸三は言わるるままに、それを原稿紙に無造作に書いた。

「これでいいね。」

「どうもありがとう。」

葉子はそれでいくらか安心したように、今まで悲痛な色をうかべていた顔に微笑の影が上って、証書を畳んでハンドバッグの中に仕舞いこんだものだったが、いつ<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>どういうことを書かれるか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないという不安が全く除かれたわけでもなかった。あの記事以来葉子の目に映るものは二重にも三重にも働き出して来る彼の性格であった。彼は悪党だとは思えないにしても、安心すべき善人でもなかった。こんな盲目的な情熱が、この男にあったのかと驚かれもし、今となってはある場合むしろそれが迷惑でもあり、彼女の身のうえの思い設けぬ不幸でさえもあると思わるるほど<ruby><rb>溺愛</rb><rt>できあい</rt></ruby>している恋慕の底に、何かしらいつも遊戯とかまたは冷たい批判とかいうものとは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った作家気質というようなもので、押し隠されていることを、彼女は感じ出していた。庸三は恋愛にかけては、まるで何のトリックも理性もない凡夫にすぎないのであったが、一度ならず二度ならず<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>へ引き寄せてみようとする<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>さには、かかる体験の副産物をも計算に入れていないわけではなかった。現実にいつも美しい薄もののベイルをかけて見ている葉子の目には、自身の幻影が、いつも反射的に、自身に対するあらゆる異性の目が、<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>と讃美に燃えているように見えた。今まで窮屈な家庭に閉じこもって、<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>姿の<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い型の一人の女性しか知らず、センセイショナルな世間の恋愛事件をも冷やかに看過して来た不幸な一人の老作家を、浮気な<ruby><rb>悪戯心</rb><rt>いたずらごころ</rt></ruby>にせよ打算にせよ、またはいくらかの純情があったにせよ、とにかくその冷たそうにみえる一と皮を<ruby><rb>毮</rb><rt>む</rt></ruby>しり取って、情熱の火を燃やしたてたということだけでも、葉子は<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい得意をひそかに感じていたのであったが、それがかえって逆作用を呈して自身に<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をなす結果となったことは、何としても心外であった。

庸三も証文を取られたことは、ちょっと不愉快であった。証文があるにせよ、無いにせよ書こうと思えぱどんなことでも書ける、書きたくないと思えば書かない――そんなことは自分の意志次第で、証文が<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>も同然だという気持が職業心理の憂鬱といった不快な感じを与えた。仮定的にもせよ、当座の思いつきにもせよ、金で彼を縛ろうとしている彼女の気持も愛らしいものとは思えなかった。

しかし、ちょっとした<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みで、その瞬間の平和が破れると、二人はまた<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>と犬のように争った。その果てに<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいた瑠美子まで泣き出して、庸三に打ってかかって来た。

やがて庸三は机のうえに散らかったものを、<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>に仕舞いこんで、外へ飛びだすと雨のふるなかを近所の車宿まで<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>ばきのまま歩いて行った。

庸三は汽車のなかで、その時の<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>な態度と、露骨な争闘とを思い出していたが、瑠美子を庸三から引きわけて胸に抱きしめながら、嘆いていた彼女の姿も目に浮かんだ。

「情熱の虫がこの体に<ruby><rb>巣喰</rb><rt>すく</rt></ruby>っている！」

<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>の果てに、葉子はそう言ってぽろぽろ涙を流しているのだった。

新興芸術、プロレタリヤ文学――そういった新らしい芸術運動の二つの<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った潮流が、<ruby><rb>澎湃</rb><rt>ほうはい</rt></ruby>として文壇に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って来たなかに、庸三は満身に<ruby><rb>創痍</rb><rt>そうい</rt></ruby>を受けながら、何かひそかにむずむずするようなものを感じていた。今まで受け<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れにくかった外国の作品などが、この年になっていくらか気持に<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けこんで来るようなものもあれば、貧弱な自分一人のカで創作することの愚かしさに、思い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>らないわけに行かなかった。時とすると生涯の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>がすでに迫って来て、このまま自滅するのではないかと思われもしたが、今においていくらかの取返しをつけるのに、まだ全く絶望というほどへたばってしまってはならないのだと思うこともあった。彼は若い時分とはまた違った興味と理解とで、それらの作品に対していた。

するとある日の午後、西日の<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い寄る机の前にすわっている彼の目の前に、久しく見なかった葉子の<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>な洋装姿がいきなり現われた。<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>のところに涼しげな白いレイスのついた愛らしい服装が、彼女の体をいくらか<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>いさく見せていたが、<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れも顔に見えていた。

「先生。」

いくらか<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>したような態度で、彼女は机の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来たが、手に半分開いたまま折り畳まれた小冊子をもっていた。

庸三ははっとした。見てはならないものが出現したような感じだったが、彼女は涙に<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んだ目をして、本を机のうえにおくと、

「私このごろこんなものばかり読んでいるのよ。<ruby><rb>懺悔録</rb><rt>ざんげろく</rt></ruby>ですのよ。トルストイも随分読んだのよ。そのお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、私もどうやら<ruby><rb>蘇生</rb><rt>そせい</rt></ruby>しそうなの。過去の一切を清算して、新らしい生活を踏み出すつもりなの。先生今までのことは御免なさいね。私これから<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な葉子になろうと思うの。真剣にやるつもりよ。」

葉子は哀切な言葉でしきりに訴えた。

ルッソオもトルストイも、彼はあまり読んでいなかった。読んで尊敬したものもあったが、読まず<ruby><rb>嫌</rb><rt>ぎら</rt></ruby>いと言う方が当たっていた。しかしそれがたとい浮気な、その時々の感激であるにしても、葉子の感傷的な情熱を<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>う理由もなかった。それに彼はかつて彼女流に語られるアンナ・カレニナの筋を彼女の口から聴かされたこともあった。ただトルストイやゲイテとなると、峰が高く大きすぎて<ruby><rb>与</rb><rt>く</rt></ruby>みしがたい感じだったが、今はそういうものも読んでみたいと思っていた。ちょうど彼の机の上にはバルザックとアランポオとが不思議な対照を成していた。

庸三は、昔そんな物も本箱の中にあったことを<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出しながら、懺悔録を二三章飛び読みしていたが、葉子はしきりに家庭の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>に気のおけるような気分で、落ちつきもなかった。

「先生、ほんとうにすみませんけれど、ちょっと外へ出て下さいません？　いろいろお話ししたいこともあるのよ。」

「いや、しかし……。」

庸三は言ったが、何か事ありげなので、心はすでに動きかけていた。

「ちょっとそこまでならいいでしょう。子供さんに<ruby><rb>秘密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で……。」

「それだったら。」

庸三は後にその意味がだんだんわかって来たけれど、その時はただあわただしい彼女の気分に誘われて表へ出た。

葉子はぐんぐん彼を引っ張らんばかりにして、電車通りへ急いだが、町の反対の側を流して行く空車を一つ見つけると、急いで手を振ってその方向へと<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて行くと、彼をさしまねいた。日が大分西に傾いた時刻で、路傍の<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>も薄黄色気味に<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えかけていた。葉子は庸三を押し込むように乗せて、自分も乗ってドアをがちゃんと締めた。庸三はいくらか薄気味わるくも感じたが、好奇心も働いたので黙ってするままにしていた。

「一体どこにいるの？　やっぱり逗子？」

「いいえ、あすこは最近引き払いましたのよ。それで今は<ruby><rb>渋谷</rb><rt>しぶや</rt></ruby>に一軒手頃な家をかりていますの。どうせ手狭なものですけれど、でもちょっと手のかかった落着きのいい座敷もございますのよ。お庭も隣りの植木屋さんのにつづいて、さざん花や<ruby><rb>碧梧</rb><rt>あおぎり</rt></ruby>や<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>など、ちょっと<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>がありますのよ。あすこでしたら、きっと落ち着いてお書きになれますわ。だからぜひ一度先生をお迎いしたいと思いまして……。これから行きましょう。」

「さあね。」

庸三は何か<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったい思いで、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしいあの事件の附け足しが初まるのではないかという不安と、どうして彼女の態度がこう<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>になって来たものかという不思議とで、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が一杯で、彼女の気持を判断するだけの余裕もなかった。この場合に限らず彼は元来直面した現実の意味をその時即座に理解するだけの<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>を欠いていた。それゆえ葉子が世間の風評に誤まられて、例の川沿いの家のマダムの小夜子と庸三とのあいだに、何か恋愛関係でもすでに生じているかのように考えたか、またそこまでではなくとも、二人のあいだに何かそういった事件が起こるであろうことを予測したか、いずれにしてもそれが由々しき大事件ででもあるように思って、さてこそ庸三を自分の家へ<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>し去ろうとしたのであったが、それは葉子の文学少女らしい思い過ごしにほかならないで、庸三と小夜子のあいだは、待合のマダムと客というにはやや親密すぎる程度の遊び友達という以上の何物でもなかった。もちろん庸三はそうした恋愛のトリックなどにも<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>いので、小夜子との交遊を、葉子<ruby><rb>牽制</rb><rt>けんせい</rt></ruby>のカモフラジュに役立てるようなこともなかったが、別に秘密にしておくほどのことでもなかった。

とにかく渋谷の家へ、彼は誘われた。通りを少し離れて<ruby><rb>樹立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の深い高みの場所にその家があった。そして葉子の言葉どおりちょっと住み<ruby><rb>心地</rb><rt>ごこち</rt></ruby>のいい間取りで、玄関を上がって、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>や<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>のほどよく配置されたサロンを廊下へ出て、奥の方へ行くと、そこに<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>の方と<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>け離れた十畳の座敷があり、木口がいいのと床の高いのが感じがよかった。カアテンとかテイブルセンタアとか、童話趣味の装飾も彼女らしい好みであったが、奥の一部屋だけは、不釣合いに<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>つい床や袋<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>などちょっと擬ったところがあった。

「さあどうぞ。」

葉子は縁に近い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を持ち出して、かつて自分の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の家へ招いた時以上にも気を配って、庸三を<ruby><rb>居馴染</rb><rt>いなじ</rt></ruby>ませようとした。例の<ruby><rb>小樽</rb><rt>おたる</rt></ruby>以来の<ruby><rb>乾児格</rb><rt>こぶんかく</rt></ruby>の女流画家や瑠美子もいた。

「小父ちゃん<ruby><rb>今日</rb><rt>こんち</rt></ruby>は。」

瑠美子は側へ来て、いつかのことも忘れたように、にこにこしていた。

ルッソオやトルストイの話もここでは出なかったし、晩飯の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>に働きながら、かつて逗子の家へ彼をつれて行った時と、少しもかわらない調子で、やがて<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の支度に立ち働いていたが、何か<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>け合えないことが、二人のあいだに<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まっていた。庸三はせっかく親しみかけて来た家庭や書斎を、またしても遠ざかって来たような感じで、<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぐ気持にもなれなかった。これからまたどういうことになるのか、その見透しさえもつかなかったが、差し当たりそれを考える必要もなかった。

やがて晩飯がはじまった。そしてそれがすむと、瑠美子の童謡舞踊なんかに笑い興じて、しばらく雑談に花が咲いた。新聞の小説の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>、文壇のゴシップ、円本の売れ高、等々。

「そのうち一度二日会のピクニックおやりになりません？」

「ああ、そうね。」

「玉川あたりどうですの。網船を<ruby><rb>僦</rb><rt>やと</rt></ruby>って一日楽しく遊びましょう。私もしばらく皆さんにお目にかからないわ。ぜひやりましょう。私通知出すわ。」

いつもの彼の<ruby><rb>姑息</rb><rt>こそく</rt></ruby>で、そうしているうちに幾日かの日がたってから、ある時葉子が思い出したように庸三を詰問した。

「いつか先生のところに、まつ屋の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>があったでしょう。あれどうなすって？　私一反ほしいわ。」

その浴衣地というのは、そのころ誰かの思いつきでデパアトとタイアップで工夫されたもので、作家たちの意匠に成るものであった。庸三も自作の俳句を図案にという<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>で、それを葉子が工夫したのであった。

詰問する葉子の顔は、たちまち険悪の形相をおびて来た。ちょうど昔しの愚かな大名の美しい思いものが、<ruby><rb>柳眉</rb><rt>りゅうび</rt></ruby>を逆立て、わがままを言い募る時の険しい美しさで。庸三はこれには手向かうことができなかった。

彼はデパアトから届いたその浴衣の一反を娘に、一反を小夜子に与えた。娘も小夜子もすでに仕立てて着ていた。庸三はその通り話した。娘に着せるのは当然だが、あの水ぎわの女などにやる法はないと言うので、葉子はヒステリイのように怒った。

「だって仕方がない。君とは別れていたのだから。」

「それにしても私が気持悪くおもうくらいのことは、考えてくれたってよかったじゃないの。あんな女にもったいないわよ。」

「じゃ一反買えばいい。」

「買ったのは欲しくはないわ。あれを取り戻してよ。」

「今でなくてもいいじゃないか。」

庸三は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながらも、仕方なし二三行書いたが、葉子は一応文句に目を通すと、やっと安心したように、封筒の表書のできるのを待って、画家の北山菊野に円タク賃をもたせて、小夜子のところへ使いにやった。

外は日盛りだったが、部屋のなかは涼しかった。庸三は床の<ruby><rb>黒柿</rb><rt>くろがき</rt></ruby>の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にしてしばらく頭を休めていたが、するうち葉子と瑠美子との次ぎの間の話し声を夢幻に聞きながらうとうと眠ってしまった。そして目がさめた時には、北山はもう浴衣をもって帰っていた。

「ちょうどあの人が外出しようとしているところだったんですて。芝の<ruby><rb>四国町</rb><rt>しこくまち</rt></ruby>まで行くから、あの辺までお乗りなさいといわれて、北山さん一緒に乗って来たんですて。」

そう言って葉子は包装紙にくるんで<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>した浴衣を、そこへ<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げていたが、

「あの人<ruby><rb>目容</rb><rt>めつき</rt></ruby>がなかなか油断ならないって、北山さんがそう言っていますよ。」

庸三もちらちら動きの多い小夜子の黒い<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>が、どうかすると冷たい光を放って、その瞬間昔の<ruby><rb>妖婦</rb><rt>ようふ</rt></ruby>を想像させるような美しさを見せることは知っていたが、それも、葉子などとはちがって、長いあいだのそうした職業から鍛えられた、どこか<ruby><rb>蕊</rb><rt>しん</rt></ruby>に鋼鉄のような堅固なところをもっているからのことで、不良少女団長時代の<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な性情は今でも残っていた。

「梢さんしっかりしなくちゃ駄目よなんて、今菊野さんに言われたわ。」

そう言う葉子の言葉のうちには、明らかに小夜子への敵対観念が含まれていたが、それも小夜子を<ruby><rb>恋敵</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>としての感情というより、文壇や画壇の人で、いつも<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかに<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わっている小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>が、何となく不安な感じを与えたからであった。

<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>は<ruby><rb>潮色</rb><rt>うしおいろ</rt></ruby>の地に、山の井の<ruby><rb>井桁</rb><rt>いげた</rt></ruby>と秋草とを白で抜いたものだったが、葉子にもよく映るような柄合いであった。彼女はちょっと肩にかけて見ていたが、一度でも小夜子の手を通したものだと思うと、<ruby><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りが傷つけられるとでも思ったらしく、いきなり<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みくしゃに揉みほごすと、ヒステリックな表情でつかつか庭へおり立って<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>で踏みつけた。庸三は<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られて見ていたが、彼女はそれでも飽き足らず、上へあがってマッチを取ると、再び庭へおりて火をつけはじめた。白い煙を<ruby><rb>颺</rb><rt>あ</rt></ruby>げて浴衣はめらめらと燃えて行ったが、燃えのこりの部分の<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>っているのを、さらに<ruby><rb>棒片</rb><rt>ぼうきれ</rt></ruby>で<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きたてていた。

<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いに葉子は少し空虚を感じ始めて来たものらしく、そっと灰を掻きあつめてから、すごすご縁へ上がって来た。

「私が先生を取るなんて、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>も随分<ruby><rb>妄想家</rb><rt>もうそうか</rt></ruby>ね。」

どこかでそう言って<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている小夜子のちらちらする目が、庸三の頭に浮かんで来た。

しかし五六日もいると、この生活もやがて<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>くなって来た。<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な暴君である葉子のとげとげしい神経に触れることも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしかった。それでいて彼はやっぱり彼女の黒い目や、惑わしい曲線の美しさをもった<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>や、日本画風の繊細な感じに富んだ手や脚に<ruby><rb>惑溺</rb><rt>わくでき</rt></ruby>していた。商売人あがりの小夜子には求められない魅力を惜しまないわけに行かなかった。<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>と愛執との交錯した、悲痛な思いに引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>られていた。時はすでに遠く過ぎ去っていることも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていたが、それだけに<ruby><rb>低徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>の情も断ち切りがたいものであった。

それなのに庸三はしばしば飽満の情に疲れて、救いの第三者の現われることを<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>った。自分の友達であると葉子の友達であるとにかかわらず、話相手の若い人や女性の座にいるときが望ましかった。そうした場合庸三はいつも無口で、葉子が客の朗らかな<ruby><rb>談敵</rb><rt>はなしあいて</rt></ruby>になるのであったが、差向いの時よりも、その方がかえって庸三の神経に、いくらかの余裕と<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>みが与えられるのであった。二人きりの部屋が息詰まるように退屈になって来ると、彼はまた環境の変化を求めないわけにいかなかった。<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な<ruby><rb>風呂場</rb><rt>ふろば</rt></ruby>や化粧室などの設備のあるところとか、日本風の落着きのいい部屋や庭のあるところとか、世間から隔絶されたひそやかな場所に潜んでいることが、家庭人であった彼の習性をすっかり変えてしまっていた。寄り場のない霊を、彼は辛うじてその<ruby><rb>刹那々々</rb><rt>せつなせつな</rt></ruby>の宿りに落ちつけようとしたが、それは単に気分の一時の変化を楽しむだけで、どこへ行っても<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>が彼を待っているにすぎなかった。

あるときも、体の縮まるような渋谷の葉子の家を<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れて、市外のそうした家の一つにいた。渋谷からそう遠くもなかったし、二三回来たこともあって、葉子をひどく好いている女中とも<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>になっていた。

ある涼しい夕ベ、その部屋に閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>められていることに、ようやく<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>を感じはじめていたところで、葉子の<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち足りない気分がまたしても険しくなって来た。折にふれて感情の<ruby><rb>小鬩合</rb><rt>こぜりあ</rt></ruby>いが起こった。庸三からいうと、すでに久しく<ruby><rb>膠</rb><rt>にかわ</rt></ruby>の利かなくなったような二人の間も、わずかに文学というものによって、つまり彼女の作家的野心というようなものによって<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がれているにすぎず、それさえ思い切れば、彼女はこの恋愛の苦しい擬装からいつでも解放されうるわけであったが、葉子から見れば、この世間しらずの老作家は、<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>もなく人にのしかかって来る、大きな<ruby><rb>駄々児</rb><rt>だだっこ</rt></ruby>であった。彼女は若い愛人を持って行く何の成算もなく、現実の生活について、何ら明確な方針もなしに、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに恋愛の<ruby><rb>泥濘</rb><rt>でいねい</rt></ruby>に<ruby><rb>悶踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いているにすぎない彼に絶望していたが、下手に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>けば、逗子事件の失敗を繰り返すにすぎないのであった。

庸三はここを切りあげようと思って、勘定を払って車の来るのを待っていたが、二人の気分には今にも暴風雨になりそうな低気圧が来ていた。

車を待っているあいだに、彼は葉子が女中と<ruby><rb>縁端</rb><rt>えんばな</rt></ruby>で立話をしている<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>にふと思いついて、小夜子の家へ電話をかけてみた。別に葉子に当てつけるわけでもなかったが、彼女の感情を<ruby><rb>庇護</rb><rt>かば</rt></ruby>う余地はなくなっていた。

「マダムいる？」

庸三が<ruby><rb>微声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>できくと、

「ああ、先生ですか。マダムは昨夜静岡へ立ちましたの。」

静岡には小夜子の種違いの、多額納税者の姉が、とかく病気がちに暮らしていた。

「でもいらっしゃいませんか。今どこですの。」

「そうね。」

いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。

「どこへかけたの。」

「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」

やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。

スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた葉子の顔の<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>ける番だった。

## 二十二

世間的にも私生活的にももはや収拾のつかなくなった二人の立場を、擬装的にでも落ち着かせようとして、二人のあいだに結婚<ruby><rb>談</rb><rt>ばなし</rt></ruby>の持ちあがったのもまたそのころのことであった。そんな心持は庸三が最初葉子の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ招かれた時にも、彼女の母たちにはあった。そして庸三の出方一つで母方の<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>が話しを決めに来るはずであった。しかし庸三の気持はそこまで進んでいないのであった。今庸三がその気になったのは、長いあいだの痴情の惰性で、利害を判別する理性の目が曇ったからでもあったが、恋愛の<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな<ruby><rb>頽勢</rb><rt>たいせい</rt></ruby>を多少なりとも世間的に持ち直そうとする愚かな虚栄と意地からであった。

「先生が亡くなっても、私がさっそく困らないように心配していただけるのでしたら、叔父も賛成してくれますわ。」

葉子は言うのだったが、庸三も三つの書店から来る印税の一番小額な分の残額くらいは、それに当てておいてもいいと思った。

そのころ葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳の方を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふ</rt></ruby>けり、その<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>にはわが家のように部屋を掃除したり、庭石や<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>に水を打ったりして、楽しげな毎日を送っていたが、子供たちが海岸から帰って来ると彼女の気分もがらりと変わるのだった。

庸三はこの結婚に必ずしも自信がもてると思ったわけでもなく、いずれは若い配偶者のもとに落ち着かなければならない彼女だとは思っていた。それは老年の彼の弱い心にとって、痛いことには違いなかったが、名誉のために結婚を<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>っているらしい彼女の女心を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わっておくことも差し当たっての一つの手ではあった。

ある時二人は高島屋へ行ってみた。卒業に近い女学生と小学生との二人の母なしの娘をひかえている庸三は、そんな場合決して平静ではいられなかった。長女が学校で無言の迫害を受けていることも知っていた。男の子は男の子だけに、消極的にしろ積極的にしろ自身の行動を取ることもできるのだったが、女の子はそういった<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>のなかにも、じっと堪え忍んで家を守らなければならなかった。その苦痛は庸三の神経にも刺さった。デパアトなぞへ来てみると一層心が痛み、自身の<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほうし</rt></ruby>を恥じ<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れた。しかし五月の花のように、幸福に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れた葉子を見ると、鉛のように重い彼の心にも何か<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みが出て来るのであった。そしてあれこれと式服の模様なぞ見ているうちに、それを着る時の彼女の姿が浮かんで来たりした。柄の選択はすぐ一致した。そしてその時庸三も質素な<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の紋服を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えた。

しかしそうしている間にも、二人の気持は絶えずぐらついた。庸三にもどうかして晴れがましい結婚の舞台へ登場することだけは避けたいという気持があり、葉子にもまるでほかのことを考えているような時もあった。

「今度別れるようだったら、またぐずぐずにならないように、誰かしっかりした人を間へ入れよう。」

庸三が言うと、

「誰がいい？」

葉子も今にでも別れるように、あっさりしていた。

「<ruby><rb>春日</rb><rt>かすが</rt></ruby>君に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せよう。あの人ならかねがね僕たちに好意を示してくれているのだし、別れた後も君のことは心配してくれるから。春日君が入ってくれたら、後をいさぎよくしたいから、千円ぐらい上げてもいい。」

「そうお。」

葉子はにっこりした。今にもその金が使えそうに思えるらしかった。

「でも人に話さないでね。」

「いいとも。僕だって甘すぎるようでいやだから。」

そうしているうちに、<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>の式服が、葉子の希望どおり二三箇所<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>を附け加えて出来あがって来た。庸三はいよいよ脚光を浴びることになりそうに思えて、<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されたような心に、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を当てた。

庸三はかつて葉子の故郷で、昔、先夫の松川と結婚の夜に着飾ったという、<ruby><rb>小豆色</rb><rt>あずきいろ</rt></ruby>した地のごりごりした小浜の<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>に、金糸銀糸で千羽<ruby><rb>鶴</rb><rt>づる</rt></ruby>を刺繍してある帯をしめた彼女と、兄夫婦に妹も加わって、写真を取ったことがあった。それは庸三を迎えた時の彼女の家庭の記念撮影であったが、事によるとそれが本式になるのではないかと思った。

しかしある時庸三は、長男の庸太郎にだけそのことを告げて、彼の意見を徴しようと思った。

「そうですね、梢さんは別に物質を望むような人でもないでしょうから、<ruby><rb>差閊</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えはないと思いますけれど、籍を入れるのだけはどうかな。」

「いけないと思う。」

「まあね。」

庸三も<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

庸三がそのことを葉子に打ちあけたところで、彼女の表情はにわかに険しくなった。

「庸太郎さんが相続者という立場て、そんなこと言うなら、私も止します。」

「しかし戸籍上の手続きをするというのは、お互いに縛ることだから、君にも不利益じゃないか。」

「それが先生の利己主義というものよ。私もうここにいられない。」

<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>つときの彼女の神経は、彼にはいつでも堪えがたいものであった。

「じゃ勝手にするさ。」

庸三の語調も荒かった。

葉子は旋風のごとく飛び出して行った。

春日は庸三の亡妻時代からの懇意な弁護士であった。<ruby><rb>数寄屋河岸</rb><rt>すきやがし</rt></ruby>に事務所をもち、かつて<ruby><rb>骨董癖</rb><rt>こっとうへき</rt></ruby>のある英人弁護士の事務所に働いたこともあるので、自分でも<ruby><rb>下手</rb><rt>げて</rt></ruby>ものの骨董品や、異国趣味の室内装飾品などが好きであったが、庸三はある連帯の債務を処理してもらったことから、往来するようになったものだった。それに<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>のその夫人がはからずも葉子の女学生時代の友達であるところから、葉子が庸三のところへ来てからも、同窓生の集りであるお茶の会に呼ばれたこともあり、<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きつけのカフエや芝居へ案内されたこともあった。<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>のことはいざ知らず、表面では彼らは二人に好意をもっていたので、この人が中へ入る以上、てこずりぬいたこの問題も何とかきまりがつき、葉子の処置もつくのではないかと思った。それにいくら自分の弱点を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まれても春日なら紳士だし、職業範囲外だからかまわないとも考えたのだった。

それにもかかわらず、葉子が離れて行ったとなると、庸三は何か心が落ち着かなかった。他の誰のところへ行ったよりも安心だとは思いながら、春日夫妻のところへ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けこんで行ったことを思うと、やっぱり心配であった。今度こそ<ruby><rb>有耶無耶</rb><rt>うやむや</rt></ruby>では済まされず、何か動きの取れない条件がつくものだろうと思うと、今さら寂しかった。夫人がその背後にあって、<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を握っているということも、想像されなくはなかった。そうでもしてこの際お互いを縛ることが最善の方法だとは承知していたが。――

間一日おいて、三日目の晩、果して春日がおとずれて来た。ちょうど遊びに来ていた小夜子の帰りがけで、彼女が門を出たとおもう時分に、春日が玄関へ入って来た。

二人はいつもの<ruby><rb>心易立</rb><rt>こころやすだ</rt></ruby>てでも行かなかった。何か重苦しい<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>のなかに向かい合っていたが、春日は切り出した。

「実は梢さんのことですが……。」

庸三の認識不足から、二人のあいだに大きな錯誤のあること、彼女自身の立場のますます苦しいことを、葉子が洗い<ruby><rb>浚</rb><rt>ざら</rt></ruby>い一夜泣きながら訴えたことが、春日の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>でも大体庸三に想像できた。

「どうです、先生もお困りでしょうから、ここいらで一つ<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に清算なすっちゃ。それに梢さんちっとも先生を愛しちゃいないようですよ。」

春日は率直に言うのであったが、約束の金のことも出た。

「それも先生の口から出たことですって？　梢さんはどうしても<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いたいと言ってるんですが――。」

「いや、僕も実は後をいさぎよくしたいと思うから。」

「そうですね。」

一両日うちに金を都合するように約束して、じきに二人は別れたのだったが、するとその翌日の晩、庸三が小夜子の家の、いつものぴたぴた水音のする下の小間にいると、思いがけなく大衆作家の神山と春日とがやって来たというので、二階座敷へ行ってみた。庸三は話のついでに葉子の問題に触れて行った。そして少しこだわりをつけた。

「葉子にやる金のことですが、無論やるにはやりますが、何か新しい相手ができているんだったら、ちょっと困るな。それを<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に保証してもらえると大変いいんだが。」

庸三はこの<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって、卑小にも春日の腹でも<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>っているようで不愉快だったし、先生も汚いなと思われでもしているようで気が差したが、いざとなるとやはり金も惜しかった。

「さあ、僕にもわからないが、そんなことないでしょう。しかし言っときましょう。」

「いずれにしても金は明日お届けします。」

庸三はその晩神山に送られて<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って来たが、<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>を見計らって庸三をさそい出した神山と小夜子の狂暴な恋愛も、ちょうどそのころが序曲であった。

春日夫妻という<ruby><rb>牆壁</rb><rt>しょうへき</rt></ruby>の後ろにある葉子を、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き見ようとしていろいろに位置をかえて覗こうとするにも似た心持で、事務所で春日に金を渡して別れてから、幾日かたった。春日に金を渡すとき庸三は<ruby><rb>泣面</rb><rt>べそ</rt></ruby>をかいていたが、しかしまた一面には今まで立ち迷っていた雲の割れ目から青い空が見えて来たような感じでもあった。

すると一週間ばかり過ぎたある日の午後、庸三はまたしても葉子から電話で呼び出された。彼は心に空虚のできたこんな場合の例にもれず、葉子と切れてからしばしば近所の友人の家で遊んでいた。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>丸出しの女中たちの<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてくれる<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>に向かうことも<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>だったが、出癖もついていたせいで、独りで書斎にいると、四面<ruby><rb>楚歌</rb><rt>そか</rt></ruby>のなかで生きている張り合いもないような気もした。しかしまた人知れぬ<ruby><rb>反撥心</rb><rt>はんぱつしん</rt></ruby>もあって、まだ全く絶望しているのではなく、今までの陰鬱な性格に変化が来るようにも思えた。本を読んでも、今までわからなかったことに新しい興味が出て来たり、熱に浮かされていた青年時代のそれと<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>って、しっくり心と心と取り組めるような感じだった。新規<ruby><rb>蒔直</rb><rt>まきなお</rt></ruby>しには年を取りすぎた嘆きがあり、準備をするには何から手をつけていいか、今さら見当もつきかねるのだったが、何らかの補足はできそうに思えた。未練がましく生きる醜さにも想い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>ったが、天才の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をし<ruby><rb>損</rb><rt>そこな</rt></ruby>いたくもなかった。そんな時生活の<ruby><rb>裕</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かな老友の書斎にいると、心境と環境がまるで異っているだけに、いくらか気分が落ちつくのだった。

「また何かあるよ。生活には困らないが、独りも寂しいといったような女も沢山いるよ。」

友人は言うのだったが、しかしちょうど家庭にはまるような、そんな女や結婚を考えるとやはり憂鬱であった。

ある時も、庸三はその友人につれられて、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>の方に住んでいる、庸三などとはまるで生活規模の<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>の異う婦人をおとずれてみた。婦人を見るというのは、附けたりの興味で、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>は売りたがっているその家を見るのが目的だったが、建築はなるほどすばらしいものだった。もちろんある大財閥の血統の一人のこれは隠宅なので、構えが<ruby><rb>宏壮</rb><rt>こうそう</rt></ruby>という種類のものではなく、<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>まで<ruby><rb>数寄</rb><rt>すき</rt></ruby>を凝らしたお茶趣味のものだったが、でっぷり肥った婦人の三年にわたった建築の苦心談を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>くだけでも、容易なものではなかった。奥にある洋館が坪三千円かかったというのも、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>ではないらしかったが、そこの壁にかかっている大礼服装の老人は、万事不自由のないように婦人の身のまわりを処理しておいて、今はまた新しい女に移って行ったのだった。下草に高山植物ばかり集めた庭も<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びたものだった。

「何ならここでお書きになったら。」

彼女はお<ruby><rb>愛相</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を言うのだったが、作家というもの、ことにこの資財家の友人である庸三なぞの生活が、どんなものだかという見当もつかぬものらしかった。

「あれ三十万円かかったというんだがね、株で損したりして、今となっては少し持て余しものだから、負けるにはぐっと負けるだろうが、僕らの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>にはこてこて凝りすぎて、何だか<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいね。」

帰りの自動車のなかで、友人は話すのだった。

葉子の今度の電話では、彼女は都合によって<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ帰ることになったから、立ちがけにちょっと話したいこともあるので、上野駅前の旅館<ruby><rb>大和屋</rb><rt>やまとや</rt></ruby>まできっと来てくれるようにというのだった。その時分になると、庸三の心持にも落着きが出来ていた。町はまだいくらか暑かった。庸三はいつもの<ruby><rb>塵除</rb><rt>ちりよ</rt></ruby>けを着て、握り太の<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキをもっていたが、二つ三つの荷物のごろごろしている狭い部屋に迎えられて、葉子と侍女の女美術生北山とのあいだにどっかと坐った。彼は今はすべてが夢だという気がしていた。田舎へ帰るというのも、さっぱりした感じだった。何かインチキがありそうに、今さら田舎へ引っ込むことになった心境と理由についての、涙まじりのくどくどしい説明も、取ってつけたような彼女の鼻元思案のように思えたが、彼はにやにやしながら、ただ<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いていた。

「今日はどうしてそんなに笑ってばかりいるの？」

葉子は神経質に<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>った。

「何でもないよ。何となくせいせいした気持なんだ。」

葉子の言うのでは、母も取る年だから、この上の苦労はさせたくない。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の収入も減ったので、かつての庸三のぺンを執ったあの<ruby><rb>離房</rb><rt>はなれ</rt></ruby>も、人に貸すことになったし、この際少しお金をあげたいと思う。瑠美子の健康にも田舎の暮しのいいことがつくづく思われる<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>。

庸三がわざと擬装しているとでも思ったらしく、葉子は外へ出てからも、ここで別れる彼を哀れむように自身もいつか自身の言葉に感傷を誘われたふうで話しつづけた。

「じゃもうお別れね。<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>って下すったわね。」

彼女は手を延べた。

「さようなら。」

塵除けの<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>を翻して、広小路の方へ歩いて行く彼の後ろに声がした。

しかし二日もたたないのに、庸三はまた呼出し電話の口で、彼女の朗らかな声を耳にした。

「すぐ来て。私お母さんと<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>して帰って来たの。」

たといどんな条件で別れたにしても、呼び出そうと思えばいつでも呼び出せる庸三だと、葉子は高を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>っていた。それに今度は金の問題があるだけに、取るには取ったが、後の気持に何か<ruby><rb>滓</rb><rt>おり</rt></ruby>が残った。上野で<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を別った時の彼の態度も気にかかった。庸三は一応春日の手前も考えてみなければならず、かかる事件の連続にも飽いていたが、別れた時の言葉はまるで忘れたような今の葉子の電話の<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかさには、自身に閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もってもいられないような衝動が感じられ、変転<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>まりない彼女の行動を、つけられるだけは<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けてみたくもあった。

朝はまだ早かった。秋らしい光線が、枝葉のやや<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えかかった<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の街路樹のうえに降り<ruby><rb>灑</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎ、円タクの<ruby><rb>颺</rb><rt>あ</rt></ruby>げて行く軽い<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>も目につくほどだった。旅館は新宿のカフエ街の<ruby><rb>垠</rb><rt>はず</rt></ruby>れの細かい小路にあったが、いつか一度泊まったこともあるので、すぐ円タクを手前まで乗りつけることができたが、車をおりて前まで歩いて行くと、上から葉子の呼ぶ声がした。見あげると<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>に両手をついて、下を見ながら笑っていた。

新しいだけに旅館の感じは悪くはなかった。それに彼女はどこへ行っても、番頭や女中に好感をもたれるのだった。

「びっくりした？」

「いや大して。」

見るとスウトケイスや、<ruby><rb>唐草</rb><rt>からくさ</rt></ruby>模様の<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつみ</rt></ruby>などが、大小幾つとなく<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方に積まれ、今着いたばかりだというふうだった。

「どうしたんだい。」

「ううん、着いて間もなくお母さんと喧嘩しちゃったのよ。手当り次第汚ない<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を突っかけたまま、飛び出して来たものなのよ。」

「瑠美子は？」

「泣いて追い<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って来るから、瑠美子も一緒よ。下で北山さんとお風呂に入っているところよ。」

<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>ると横に細長い<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れぬ時計が彼女の腕に虫みたいに光っていた。

「そんなもの買ったのか。」

庸三は<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるように言った。多分立ち<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>の買いものだと思われた。

「御免なさい。お金いただいて。でも、そんなに手が着いていないわよ。一緒に旅行しましょう。」

葉子は<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>あがりに言った。あれだけあってもどうせ何ができるものでもないから、一緒に<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に使おうといったふうだった。

「それよりか面白いことがあったのよ。汽車の中で女学校時代のお友達に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったの。市の大きな呉服屋の娘さんですけど、銀行なんか持っている多額納税者の<ruby><rb>小河内</rb><rt>おごうち</rt></ruby>さんとこへ片着いて、市でも評判なのよ。その小河内さんも一緒だったものだから紹介されたけれど、この人は三田の経済部出で<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>辺に家をもっているらしいの。一度遊びに来いとか言っていたっけが、洋服でもネクタイでも靴でも、それこそ五分の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もないシックな気取り方で、顔もきりっとした、あれが苦味走ったとでもいうんでしょうよ、ちょっと現代風のいい男なの。ああいう人はまたいい葉巻を吸ってるものなのね。ケイスを出して、私にも一本くれたけれど――。」

葉子の話のなかに、そこに通俗小説の主人公が一人浮かび出して来た。

「奥さんも、顔は少々二の町だけれど、派手な訪問着なんか着て、この人はただ人柄がいいというだけのものなの。小説や映画のことも私などと話のピントが合わないんだもの。あの<ruby><rb>旦</rb><rt>だん</rt></ruby>つくにしては少し退屈な奥さんかも知れないけれど、感じは大変いいの。」

「そんなのいいね。何とかならないものかね。」

「だって奥さんがあるんですもの、今さらどうにもならないわ。でも交際してみてもいいとは思うの。」

そこへ北山も子供も<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>から上がって来た。葉子は紅茶に水菓子なぞ取り、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろに金もあるので、がらりと世界が変わったように見えた。

人目もあるので、日が暮れても散歩に出られず、三人で雑談に夜を<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしたが、どうした拍子か北山の好きな酒が出て、子供や庸三が寝床へ入ってからも、女同志の話がつづいた。

葉子が庸三の近くに家を構えていた時分、よく北山を訪ねて来て、清純な恋愛を葉子にも訴え訴えしていた若い<ruby><rb>塑像家</rb><rt>そぞうか</rt></ruby>の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>も出た。北山さえ少し遠いのを我慢すれば、彼の父は<ruby><rb>神奈川</rb><rt>かながわ</rt></ruby>にある店の近くにアトリエを建ててくれるはずだったが、彼女は物堅い旧家の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>のなかへ入って行くのを<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>って、しばらく<ruby><rb>江古田</rb><rt>えごた</rt></ruby>の方に貧しい<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>生活をつづけていたこともあった。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>も一人目つけるのよ。」

葉子は少し酔っていた。

「ええ、でも目つからないのよ。」

「どうせ目つけるなら大物に限るのよ。」

「私じゃ駄目だわ。お姉さんの<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>できないわ。」

彼女は<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙を吐いていた。

「恐るべき女たち。」

庸三は思いながら<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかぶった。

秋もようやくたけなわなころに、二人は<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>を探りに二三日箱根へ旅してみたが、帰って来たころには、葉子の懐ろも大分寂しくなっていた。

二人は燃え立つ紅葉の<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まっている、<ruby><rb>小涌谷</rb><rt>こわくだに</rt></ruby>の旅館に落ちついたが、どうせそのうちに低気圧は来るものとして、今日の日は今日の日だと<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめている庸三も、どうかすると<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>の<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>のようなものの刺さって来るのを、いかんともすることができなかった。ある時は少年のように朗らかに<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるま</rt></ruby>い、朝の森に<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>が<ruby><rb>囁</rb><rt>さえず</rt></ruby>るような楽しさで話すのだったが、一々<ruby><rb>応</rb><rt>う</rt></ruby>け<ruby><rb>答</rb><rt>こた</rt></ruby>えもできないような多弁の噴霧を浴びせかけて、彼を<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>させることがあるかと思うと、北の国の<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な潮の音や、<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐ</rt></ruby>らんだ山の<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>みにも似た暗さ<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しさで、彼を<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>つかせることもあり、現実には<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>い文学少女でありながら、商売女のように、機敏に人を見透かしもするのであった。

どうかすると、愛人がこの旅館のどの部屋かに来ているような感じを<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かせる挙動を見せたり、後の思い出に、<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>の時をとにかくしばし楽しく過ごそうとしているような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしたりした。しょぼ降る雨のなかを一本の<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>で、石のごろごろしている<ruby><rb>強羅</rb><rt>ごうら</rt></ruby>公園を歩いている時も、ここで一夏一緒に暮らしてみたいように<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くかと思うと、次ぎの相手がもう側ちかく来てでもいるような気振りを見せるのだった。さながら彼女は自然に浮かれた夢遊病者であった。

「ああ、そう夢が多くちゃ。」

「私夢がなくちゃとても寂しい。」

葉子はもう涙ぐんでいた。

<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>が懐かしくなる時分になった。

その時分になると、葉子も<ruby><rb>神田</rb><rt>かんだ</rt></ruby>の下宿へ荷物と子供を持ちこんでいた。毎朝毎夜、クリームを塗ったりルウジュをつけたりしていた鏡台と<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>は今なお庸三の部屋にあった。というのも北海道の結婚生活時代に、前夫の松川と連帯になっている債務が、ここまで追いかけて来て、庸三の不在中、彼の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>などをも書き入れて差し押えられたからで、それを<ruby><rb>釈</rb><rt>と</rt></ruby>くのに少し手間がかかったが、それも春日の事務所にいる若い弁護士に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せてあった。

<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>へ逃げて行った松川からは、あれ以来何の<ruby><rb>音沙汰</rb><rt>おとさた</rt></ruby>もなかった。葉子より庸三の方が時々それを思い出し、元へかえるならいつでも<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>れそうな松川に足場が出来たら、そこへ落ち着くのもよくはないかと思ったが、上海くんだりまで行くようなふてぶてしさも、葉子にはなかった。

ある時東京会館の二階で、上方風のすき焼を食べたが、庸三の子供三人に瑠美子もいた。彼らは<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>の陰で<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の肉を小皿に取りわけ、子供に食べさせていたのだったが、ちょうどその時、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の人らしい毛皮づきの二重廻しを着た五十年輩の人と少し若い男と四人づれで、ゴルフやけでもしたような、色の浅黒い三十五六のシイクな濃い茶の背広服の男と、その夫人らしい派手な服装の女が入って来るのが、葉子の目についた。

「ちょっと、あれが小河内さん夫婦よ。」

葉子は庸三にささやいたが、ちょうど葉子の後ろにある衝立の<ruby><rb>斜向</rb><rt>はすむか</rt></ruby>いの<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に、彼らは席を取った。別にそれほど目立つ男ではなかったが、鼻筋の通った痩せぎすな顔に品があり、均勢の取れた姿もスマートであった。

葉子はちょっと衝立の端から半身を現わして、お辞儀したが、こっちはごたごた家庭的なので少し照れていた。

するとそれから一週間もたったかと思うころに、帝劇の音楽会で、またしても葉子は小河内夫妻と<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った。

演奏は<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>のピアニスト、ゴドウスキイであったが、いかにも露西亜人らしいがっちりした<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りの紳士で、演奏技術の上手下手は、いくらか聞きなれたヴァイオリンほどにも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのだったが、好きな<ruby><rb>義太夫</rb><rt>ぎだゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>三味線</rb><rt>しゃみせん</rt></ruby>などで、上手な<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>き手の軽々した<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>と糸とが<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れ合って離れないように、長く<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>み出した白いカフスの手が、どこまで霊妙に<ruby><rb>鍵盤</rb><rt>けんばん</rt></ruby>を<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>らしきっているかと思われた。

葉子は最初から小河内夫婦の存在に気づいていた。それがちょうど二人の座席から二列前の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>で、ちょうどこっちからその<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>と、耳と<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>と<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>が<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいに見えるような位置にあった。庸三は少し<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>りのある後頭部から、強い意志の表象でもありそうな<ruby><rb>顎骨</rb><rt>がっこつ</rt></ruby>のあたりを、辛うじて見ることができたが、時々そっちへ惹き着けられている葉子の目も何となく彼の感じに通った。やがて休憩時間がおわった時、二人の横を通って座席に帰って行く夫人と葉子と挨拶を交した。

静粛な演奏会がやがて終りを告げたところで、庸三は聴衆の<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れにつれて、ずんずん廊下へ出たが、振りかえってみると葉子の姿が見えなかった。多分オーケストラ・ボックスの<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>を通って、南側の廊下へでも出たのだろうと思って、その方へも行ってみたが、そのころにはそこにもすでに人影もみえなかった。しかし葉子が角のところへ姿を現わし、彼を呼んでいたのもその瞬間であった。

「私さっきから先生を捜していたのよ。立ちがけにちょっとあの人たちに挨拶している間に、ぐんぐん行っちゃって……。」

後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった。というのは、大新聞に小説でも書くようになった暁には、庸三の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を離れて、結婚生活に入りどこか静かな郊外で農園をもち、そこに愛の巣を営む約束で一年間月々生活費を送っていた秋本の定宿も、今はバラック建のその下宿であったが、歌など見てもらっていた葉子が、秋本に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うのもその家であった。それに、秋本には最近また小説的な一つの事件があった。彼はずっと前から夫人と別居して、夫人の姉が第二夫人のような形で<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>し、彼の家政を見かたがた子供の世話をしていたが、それが最近少なからぬ金を<ruby><rb>拐帯</rb><rt>かいたい</rt></ruby>して、元救世軍の士官だったという年輩の男のもとへ走っていたという事件は、その士官が左翼一方の頭領として、有名だっただけに、この夏ごろの新聞の社会面記事として、世間を<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしていた。

「秋本さんはとても<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>った人でして、どうも<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が変でしたよ。」

下宿の主人は言うのであった。秋本はその事件の<ruby><rb>勃発</rb><rt>ぼっぱつ</rt></ruby>とともに女を捜しに上京して来た。そしてここで幾度か女にも男にも逢ったが、女の決心は動かなかった。

葉子にいわせると、彼には郷里に遊びつけの芸者もあり、酒も強い方だったが、あれほどの物持でありながら、どの夫人にも逃げられるには、何か異ったところがあるらしかった。

「そう言えば私も思い当たることがある。」

しかし庸三はまた異った意味で、下宿の主人を知っていた。四五年前に死んだ<ruby><rb>越後小千谷</rb><rt>えちごおじや</rt></ruby>産まれの彼の父は、庸三の下宿時代から家庭生活時代へかけての幾年かに<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>って、越後の織物を売りに来たものだった。そのころまだ顔の生白い若者が、今子供二人の父親であるこの家の主人であった。

「先生と奥さんのことよく話しているわ。」

葉子は言うのだったが、初めて庸三の家を飛び出して、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましてしまった彼女を、偶然にも捜し当てたのも、またこの家であった。

新宿の旅館から荷物を持ちこんで来た葉子は、その当時壁紙など自分で張りかえた下の部屋に落ちついて、窓に子供っぽいカアテンを張り、二つの電球をもった、北海道時代から持ち越しの、例の仏蘭西製のスタンドも、こてこて<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>のある絹張りのシェイドに、異国の<ruby><rb>売淫窟</rb><rt>ばいいんくつ</rt></ruby>を思わせる<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>を浮かび出させるのであった。

庸三は時々瑠美子と並んで、<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>なその部屋に寝るのだったが、葉子も彼の書斎で夜を明かすこともあった。

するとある朝<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く――あいにくにもちょうど葉子が下宿の部屋を一晩明けた朝方に、電話がかかって来た。葉子はあわてて羽織を引っかけたまま、飛び出して行ったが、やがて帰って来ると、困惑した顔て<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしはじめた。

「秋本さんの番頭さんが来たのよ。」

このごろになって、葉子がいろいろに手を廻して、彼を引き戻そうとしていることは、庸三にも解っていた。そうなることをも希望していた。しかしまた葉子はどうかすると、庸三の<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かしに乗ったふうにして、小河内の自宅へ電話をかけ、夫人と辞礼を取り交すこともあった。

「何だい、<ruby><rb>旦</rb><rt>だん</rt></ruby>つくはお留守だ。」

葉子は<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>そうに首を<ruby><rb>悚</rb><rt>すく</rt></ruby>めながら、電話口を離れて来るのだった。

しかし何といっても秋本の方にまだしも脈がありそうに思えた。今秋本が彼女の動静を探らせに、わざわざ番頭を<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>したとなると、場合は葉子に不運であった。

やがて下宿の別室で、葉子は番頭に逢ったが、昨夜の彼女の居所を、すでに感づかれているようにも思えた。

「仕方ないからよそへ原稿書きに行っていたと言って<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>して、<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>して帰したわ。」

忘れものの<ruby><rb>手提</rb><rt>てさげ</rt></ruby>もあって、番頭を送り出すと、じきに舞い戻って来て庸三に報告するのだった。

「悪いところへやって来たもんだな。」

葉子は今起きたばかりの庸三の傍へ来て、<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な笑い声を立てたが、<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょんぼり</rt></ruby><ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>に<ruby><rb>頬肱</rb><rt>ほおひじ</rt></ruby>をついている姿も哀れにみえた。

やがて多事だったその年も、クリスマスが近づいて来た。庸三は時に葉子の下宿の方へ足の向くこともあったが、そのころになると、彼女の窓の<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>いカアテンに、例のスタンドの明りが必ず映っているとも決まらなかった。

「また何か初まる。」

庸三は六感を働かせながら、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな通りの方へ引き返すのだった。

## 二十三

表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具屋や、<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>料理などの<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダアニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並ベ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。庸三はせっかく行ってみても、葉子がいなかったりすると、張り合いがないので、なるべくなら行かないことにしていたが、彼女の動静はやっぱり気にかかった。狭い下宿の部屋で、瑠美子も加えて三人<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>を並べるのは、何と言っても<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>だったし、昼間下宿の飯を食いながら、そこにぼんやりしているのも<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしかったが、何かというとやはり足がそっちへ向いた。一緒に外へ出て支那料理を食べたり、昔し<ruby><rb>錦町</rb><rt>にしきちょう</rt></ruby>に下宿していた時分、<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>にいた画家で俳人である峰岸と一緒に、よく行ったことのある色物の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ入ってみたりした。昔しは油紙に火のついたように、べらべら<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>る円蔵がかかっていて「八笑人」や「花見の<ruby><rb>仇討</rb><rt>あだうち</rt></ruby>や、三馬の「浮世床」などを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いたものだったが、今来てみると、それほどの<ruby><rb>噺家</rb><rt>はなしか</rt></ruby>もいなかったし、<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>もがらりと変わっていた。あれからどのくらいの年月がたったか。日本にも大きな戦争があり、世の中のすべてがあわただしく変化したが、世界にも<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の惨劇があり、<ruby><rb>欧洲</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>文化に大混乱を来たした。思想界にも文学界にもいろいろのイデオロギイやイズムの<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざ</rt></ruby>ましい興隆と絶えざる変遷があったが、その波に<ruby><rb>漾</rb><rt>ただよ</rt></ruby>いながら独身時代の庸三の青壮年期も、別にぱっとしたこともなくて終りを告げ、二十五年の結婚生活にも大詰が来て、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の色が早くも身辺に迫って来た。彼は何か踊りたいような気持に駆られ、<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方で<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>い踊りを踊りはじめたのだったが、もとより足取りは狂いがちであった。独りで踊りを持て扱い引込みもつかなくて、さんざんに痴態を演じているうちにも、心は次第に白けて来たが、転身の契機もそうやすやすとは来ないのであった。

ある時も、彼は<ruby><rb>小肥</rb><rt>こぶと</rt></ruby>りに肥った下宿の主婦に、部屋に葉子がいないと言われて、入口の石段を降りて来たが、何か人の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>がしたようにも思われるし、お茶でも<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みに行ったか、行きつけの<ruby><rb>南明座</rb><rt>なんめいざ</rt></ruby>かシネマ・パレスヘでも行ったのなら、帰るのを待つのもいいような気もしたが、いつもの「上がってお待ちになっては……」とも言わないので、それも気になった。

ちょうど政友会の放漫政策の後を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けて、緊縮政策の浜口内閣の出現した時であった。ふと庸三の耳に総理大臣の放送が入って来た。ラジオは下宿から少し奥へ入ったところの、十字路の角の電気器具商店からだったが、聞きたいと思っていたところなので、彼はステッキに半身を支えてしばらく耳を傾けながら、葉子の姿がもしも見えはしないかと、下宿の方に目を配っていた。先きの目当てのつかない彼女の下宿生活が、彼からの少しばかりの補助でいつまで持ちつづけられるはずのものでもなかったし、ジャアナリストに見放された葉子の立場を持ち直すこれという方法もなかったので、打開の道を講ずるために、何らか行動を執っているであろうことも考えられないことではなかった。それはそうなるべきだと思いながら、庸三の心には今なお割り切れないものがあった。しかしまた、なまじいに正体を突き止めたり何かするよりかも、今度はぼやかしておいた方がいいとも思って、なるだけ足を運ばないようにして来たのだったが、来てみるとやはり気になるのであった。と言っても彼も<ruby><rb>妄動</rb><rt>もうどう</rt></ruby>のいけないことに、だんだん気がついていた。一度心が揺れはじめると、容易には揺れ<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まないので、そういう時は、部屋にじっとしているに限るのだった。そして光線を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うように二人で下宿の部屋に閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっている時の憂鬱さを考え、それがあたかも人生の究極絶対の法悦ででもあるかのように遊戯に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふ</rt></ruby>ける時の、不健康さの無駄な繰り返しを思ってみるに限るのであった。

首相の放送を終りまで聞かずに、庸三はやがて明るい表通りへ出て来た。そしてそういう時には、独りで歩くのもまた楽しかった。

葉子の身のうえに、今までにもかつてなかった、おそらく今後にもあるまいと思われる恋愛事件の発生したのは、翌年の春のことだったが、それは環境と年齢と柄合いから見て、二人にとってきわめて自然の成行きであり、魔の<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>のような予感は前から薄々影を落としていた。庸三はそれを<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>わないだけに、わざとしばしば擬装的な<ruby><rb>示唆</rb><rt>しさ</rt></ruby>を与えてみたのだった。

「あの男ならうまく行くに決まっている。」

しかし彼もまるきり否定しているわけでもなかった。どうせ離れて行くなら、つまらないものの<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>に落ちるよりも、行きばえのする相手に落ち着いた方がいいという考え方もないわけではなかった。利己的である一方、自分の息のかかったものを<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れさせたくないという気持もあった。それは<ruby><rb>鬩</rb><rt>せめ</rt></ruby>ぎ合うほど極端なものでもなかった。いずれも人間にありがちな感情だと言うよりほかなかった。

庸三にいやな予感を与えたのは、清川の年上の愛人<ruby><rb>雪枝</rb><rt>ゆきえ</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で催された、年暮のお<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いの納会の時であった。庸三は葉子の身のうえに今にも何か新しい事件が起こりそうな感じで、下宿の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐのも何か<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>になっていたが、納会に誘われた時も<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>まなかった。それもその前に、丸の内のあるビルディングの講堂で、高田夫妻の舞踊の公演のあった時も、帰る時に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はぐらか</span>されてしまって、気持を悪くしていたからで、せっかく熱心に誘われても、<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>につままれたようで、感じがよくなかった。しかし葉子の愛情に信用の置けようもないので、怒る張合いもなかった。

「そうね。僕が一々顔出すのもどうかね。」

「でも先生が行ってくれないと<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいわよ。お師匠さんも先生に見てもらいたがっているのよ。」

庸三もこの人の踊りをずっと前から見ていた。十二三年も前に、日本橋<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>で初めてその人を見た時は、彼女も若かったが、踊りも<ruby><rb>瑞々</rb><rt>みずみず</rt></ruby>していた。次第に彼女は新しい主題を取り扱い、自身の境地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて行った。庸三も踊りはわかるようで<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのだったが、見るのは好きであったので、舞踊にも<ruby><rb>造詣</rb><rt>ぞうけい</rt></ruby>のふかい若い愛人清川を得てからの新作発表の公演も<ruby><rb>見逃</rb><rt>みのが</rt></ruby>さなかった。

しかし今夜のはプライヴェトな催しであるだけに、踊りよりも集まる人たちの社交の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>に、巧く入って行けないような気もしたし、葉子と清川とのあれからの接近の度合いも何とはなし解るようにも思えたので、とかく気が進まないのであった。このごろの葉子の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でも、瑠美子を間に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでの二人の親愛が<ruby><rb>卜</rb><rt>ぼく</rt></ruby>されるので、今夜あたりどんな場面を見せつけられるかも知れないし、またそれが彼ら二人の準備行動なのかも知れないのであった。感の鈍い庸三はそれを分明に考えたわけではなかったけれど、<ruby><rb>敷衍</rb><rt>ふえん</rt></ruby>すればそうも言えるのであった。

最近移ったばかりの<ruby><rb>信濃町</rb><rt>しなのまち</rt></ruby>の雪枝の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の少し手前で、タキシイを乗り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て、白いレイスの<ruby><rb>衿飾</rb><rt>えりかざ</rt></ruby>りのある黒いサテンの洋服を着た葉子は、和装の時ほど顔も姿も<ruby><rb>栄</rb><rt>は</rt></ruby>えないので、何か寒々した感じだったが、気分も沈みがちであった。さほど広くもない部屋にざっと一杯の人で、やや入口に近い右側の壁を背にして、清川と見知りの若い人の顔が見えたが、舞台では子供の踊りも、大分番数が進んだところであった。やがて瑠美子たちの愛らしい一組の新舞踊も済み、親たちが自慢の<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>をつけて、年の割りにひどく<ruby><rb>熟</rb><rt>ま</rt></ruby>せた子も引っ込んで、<ruby><rb>見応</rb><rt>みごた</rt></ruby>えのある粒の大きいのも、数番つづいた。葉子は後ろの方にいたので、動静はわからなかったが、今夜の彼女はさながら<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>みきった花のように、ぐったりしていた。瑠美子を預かってくれている師匠の晴々した目と、すでに幾度も苦い<ruby><rb>汁</rb><rt>しる</rt></ruby>を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>ませられた庸三の警戒の目の下に、やり場のない魂の<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>きを忍ばせている彼女は、すでにこの恋愛の前にすっかり打ち<ruby><rb>踣</rb><rt>のめ</rt></ruby>されていた。

やがて庸三は師匠にいわれて二階へ上がってみた。そこにはお茶の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>も出来ていて、サンドウィッチや<ruby><rb>鮓</rb><rt>すし</rt></ruby>や菓子が<ruby><rb>饗応</rb><rt>ふるま</rt></ruby>われた。

「あの人たち、先生のお国の西新地の芸者衆ですよ。」

師匠が言うのでそっちを見ると仕切りを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>した次の部屋に、<ruby><rb>呆</rb><rt>ほう</rt></ruby>けた面相の年増が二人いた。

「あれでなかなか芸人ですのよ。お座敷がとても面白いんですの。」

師匠がおりて行ってからサンドウィッチを<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>みながら、庸三はしばらく清川たちと話していたが、葉子が呼びに来たので降りて行くと、師匠の素踊りがもう進行していた。そしてそれがすむと、食卓を連ねてひそやかな祝宴が催された。震災の時<ruby><rb>由井ヶ浜</rb><rt>ゆいがはま</rt></ruby>で<ruby><rb>海嘯</rb><rt>つなみ</rt></ruby>にさらわれたという恋愛至上主義者の未亡人、その姉だというある劇場の夫人、それに雪枝と名取りの弟子たちとが、鍵なりに座を取ると、反対側に庸三と葉子と清川とが、これも鍵なりに坐っていたが、晴れやかな話し手はいつも雪枝の組で、そらすまいとは<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めていたが、こっちの組はさながら<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れた半身のように白けていた。

庸三は息詰りを感じて、やがて<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>に外へ出た。葉子も清川とふざけている瑠美子を促して、続いたが、星の<ruby><rb>煌々</rb><rt>きらきら</rt></ruby>する夜空の下へ出ると、やっと彼女もほっとした。

それが<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>の晩であった。庸三はある時は葉子と清川とのあの晩の態度に<ruby><rb>絡</rb><rt>まつ</rt></ruby>わる疑問に悩みある時はそれを打ち消した。年は取ってもこの道には<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けたはずの雪枝のことなので、いくら葉子の情熱でも瑠美子との師弟の<ruby><rb>情誼</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>を乗り<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えてまで、恋愛には進まないであろうし、若いマルキストの清川が、やすやすそれを受け<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れもしないであろう。その理由はもちろん薄弱であった。何の<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>にもならないことも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りきっていたが、庸三はわざとその問題には顔を<ruby><rb>背向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けようとしていた。

そのころ葉子は美容師メイ・ハルミから持って来た、アメリカの流行雑誌のなかから、自分に似合いそうなスタイルを<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んでいたが、一つ気に入ったのがあったので、特に庸三に<ruby><rb>強請</rb><rt>ねだ</rt></ruby>って<ruby><rb>裂地</rb><rt>きれじ</rt></ruby>や<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>などをも買い、裁断に取りかかっていた。別に洋裁を教わってはいないのだったが、とにかく<ruby><rb>裁</rb><rt>た</rt></ruby>った。裂はオレンジ色のサティンだったが、全部細かい<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>から成り立ったスカアトに、特徴があると言えるのであった。葉子は清川に着てみせるのを楽しみに、縫っているのだったが、庸三はそんなこととも知らずに、その型にも地の色にも首を傾けながらも、けちをつける<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もなくて、黙って見ていた。

その時葉子は、庸三の家で年を越すつもりで、ちょうど瑠美子を連れて来ていた。庸三の長女は女中を相手に春の用意に忙しかったが、瑠美子は十畳の子供部屋で、栄子と<ruby><rb>羽子</rb><rt>はね</rt></ruby>をついていた。大きい子供たちの中には、銀座へ出て行ったものもあった。庸三は仕事をもってホテルヘ出ていた二年前の晦日を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出すまいとしていた。友人と一緒に<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねかえす人込みの銀座へ出て、風月で飯を食ったことや、元日に<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>で「関の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>」を見て、二日の朝<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くにけたたましいベルに起こされ、妻がにわかに<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れたことを知り、急いで帰ってみると、その午後はすでに泣き<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>る子供の声を後にして、死んで行く彼女であったことも、憶い出したくはなかった。しかし葉子が彼の部屋で、せっせと針を運んでいるの見ていると、何か<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしいものを感じるのだった。

葉子は静かに白い手を動かしていたが、しんみりした声で言いだした。

「今になってみると、よくここまで来たものだと思えてならないわ。私こうなるはずじゃなかったんですもの。自分の気持がはっきり見えるのよ。」

庸三はその瞬間はっとした。誰とも知れない彼女のなかにあるものが――背後の影が<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに感じられて来た。

「僕がここまで引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>って来たというんだろ。」

「そうじゃないのよ。私は結果を言ってんのよ。」

「そう、解ったよ。じゃ別れようよ。」

しかしそのままに過ごした夜も<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>け、<ruby><rb>遠近</rb><rt>おちこち</rt></ruby>におこる百八<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>の鐘の音も静まってから、縫いあがった洋服を着てみせて、葉子も寝床へ入ったのだったが、庸三は少しうとうとするかと思うと、また目が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えだして、一旦葉子の態度で静まりかけていた神経が、今度は二倍も三倍もの力で盛りかえして来るのだった。彼は床をはねおきると机の前へ来て坐った。葉子も目をさまして、彼の坐っているのに気づいて、白い手を伸べた。

「なに怒ってるのよ。寝てよ。意地悪ね。」

「早く下宿へ行って寝たまえ。」

葉子もむっくり床から起きだした。そしてぶつぶつ言いながら洋服を着ると、今度は子供部屋から瑠美子を引っ張って来た。

「こんな大晦日の夜なかに人を表へ追ん出すなんて、それで大家もないもんだ。」

泣き声で<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りながら、瑠美子に洋服を着せると、そのまま出て行った。玄関の<ruby><rb>硝子格子</rb><rt>ガラスごうし</rt></ruby>をしめる音につづいて、門をしめる音が、明け方ちかい彼の書斎にまで響いた。

## 二十四

正月になってから、別れた後をいくらか<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>くしておきたい気持で、かなり<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を舞踊の師匠を介して、今度は全く自発的に葉子に贈ることにした。それと云うのも、葉子と瑠美子の身のうえについて、師匠とその若い愛人の清川とが、何かと面倒を見てくれそうな形勢があり、葉子も一人には人生的に一人には文学的に<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>のあがらないところがあり、そこに一つの<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>の<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されているのを<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>て取ったからで、そうなると葉子親子の存在も、彼らグルウプの新らしい時代の社交範囲のなかに<ruby><rb>華々</rb><rt>はなばな</rt></ruby>しく復活するわけで、一人取り残された庸三の姿が、どんなに見すぼらしいものであるかは、彼には想像できないことでもなかった。もちろん今度に限らず、庸三の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>には、いつもそうした心理の裏附けがあり、葉子を文壇的に生かすために、軽率にも最初から正面を切ってしまった庸三の、それが世間的見えでもありはかない自尊心でもあった。この見えと打算とが、いつも庸三の腹のなかで<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>にかけられ、その双方が互いに上がったり下がったりしていた。

それに庸三は暮に師匠と清川の訪問を受け、何か思いがけないお歳暮まで<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>っていた。ちょうど葉子も来ている時で、その贈物が二人を祝福するようにも取れたが、少し<ruby><rb>感潜</rb><rt>かんぐ</rt></ruby>って考えると、すでに庸三から離れてしまっている、このごろの葉子の気持を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでか、事によると今一歩進んで、師匠の<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>によって、庸三の怒りを買うことなしに、穏和な解決を得ようとする手段の一つのようにも取れないこともなかった。もちろんその時の庸三に、そこまで<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しのつくはずもなかったし、朗らかな師匠の談話や態度にも、そんな影は少しも差していなかったが、清川の態度には暗示的なものがないとは言えなかった。彼の若さと正直さは、この老作家の前にいい加減なお座なりは言ってはいられなかった。

「もう少し何とか巧く行きそうなものだと思いますがね。」

清川は<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>そうに言うのであった。さながら清川自身だったら、もっと彼女を幸福にすることも、巧くリイドすることもできるはずだと言っているようであった。もしも庸三にもっと鋭敏な神経が働くか、理論的な頭脳があったら、多少挑戦的にも<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>らるる清川の言葉に<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく応酬したに違いないのであった。すると清川はあるいは進んで、<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>百出のこの不自然な恋愛の不合理を説き、庸三自身のためにも、葉子のためにも、彼女を解放することを力説したかもしれず、事によるとあるいはすでに納得ずくの師匠もそれに助勢して、清川と葉子との恋愛を彼女の口から代弁告白することに、プログラムがちゃんと出来あがっていなかったとも限らないのであった。その場合、師匠が一歩先きに、自ら二人の恋愛を承認していなければならないのは、もちろんであった。

しかし庸三は、その晩の彼らの真意を、そこまで深く探究する余裕はなかった。彼はただ<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>の前の木の葉の<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎを感じ、重苦しいその場の雰囲気のなかに、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに清川と葉子との気持を模索するにすぎないのだった。

やがて四人打ち<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って外へ出てみたのであったが、葉子は部屋にいたときと同じく、始終物思わしげに、<ruby><rb>俛</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きがちに歩いており、清川の靴の音だけが、すでに春の装いもできた<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>ぢかくの静かな町に、ぽかぽかと響くのであった。

間もなく大晦日の<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの出来事が起こった。それが一層彼らの行動に拍車をかけたであろうが、庸三の贈った金の行き<ruby><rb>途</rb><rt>ど</rt></ruby>についても、後にだんだん<ruby><rb>臆測癖</rb><rt>おくそくぐせ</rt></ruby>の強い庸三の心にはっきりした形を与えて来た。

ある日庸三は、ふと神田の下宿を訪ねてみた。横封に入れた金を、師匠に<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>してから、いくらかの日がたっていた。

金を師匠に届けに行った時、清川もちょうど彼女の側にいたが、師匠は取っていいものが悪いものかと、少し躊躇していた。

「まあ、そんなに？」

「しかし私も後の気持が悪いから。」

「ではお預かりしておきますわ。あの人のことですから、一時にあげてもどうかと思いますがね。」

「それも<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>にお任せします。」

「いや、それはやはり貴女の保管すべきものじゃないだろうね。」

清川が言うと、師匠も軽く<ruby><rb>額</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「そうね。」

そんな簡短な会話が取り交され、ちょうど地震があったので、庸三と師匠が踊りの床へ上がって、窓の方へ出て見たが、間もなく<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を告げた。

そのころ庸三の家に、年少の詩人が一人いた。小池史朗というその詩人は、その肉体から言っても性癖から言っても、不思議な存在であった。葉子との郷里の<ruby><rb>夤縁</rb><rt>いんえん</rt></ruby>で庸三を頼って来たものだったが、詩の天才的才分は、庸三も認めないわけに行かなかった。朝から晩まで着たきりの黒サアジの背広に<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>いネクタイ、それにベレイを<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った彼の<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>は、体の小さいせいもあったが、生白い皮膚も筋肉も気持のわるいほどふやふやしていて、大抵の人に男装の女子と<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>られるのに無理はなかった。彼は<ruby><rb>牝豹</rb><rt>めひょう</rt></ruby>の前の<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>のごとく、葉子を<ruby><rb>礼讃</rb><rt>らいさん</rt></ruby>し、屈従していた。処女のような<ruby><rb>含羞</rb><rt>はにかみ</rt></ruby>があるかと思うと、不良少年のような<ruby><rb>聡慧</rb><rt>そうけい</rt></ruby>さをもっていたが、結局人間的には哀れむべき不具者としか思えなかった。彼は傷ついた<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>のごとく、ややもすると狭心症の発作に悩まされがちなので、常住ポケットにジキタリスの<ruby><rb>小壜</rb><rt>こびん</rt></ruby>を用意することを忘れなかった。ある時彼は葉子について、そのころ銀座にあったメイ・ハルミヘ行ったが、ちょうどその<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>が理髪屋であったところから、葉子がウエイブをかけている間、彼も階下で髪を刈ることにした。しかし頭髪が出来あがった葉子が、いつまで待っていても上がって来ないので、降りて行ってみると、彼は<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>のうえに<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りかえって、マニキュアと<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れているのだった。

葉子の消息が絶えてからも、彼は時には彼女を訪ねるらしかったが、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>のことは何一つ口にしなかった。するうちに彼の姿も足も途絶えがちになってしまった。

葉子がどんな行動を取ろうと、それは手から難れた風船玉が雲へ入ったように、もうどうにもならないものであり、これで沢山だという気もしたが、何か<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>ににおちないものもなくはなかった。気を落ち着けていると、風のない湖水のように、波も立たないのであったが、心が少し揺れ出すと限りなく波が立ち騒ぎ、北を指す磁石のように、足が自然に下宿へ向いて行くのであった。多分もう下宿を引き揚げたであろうが、主人と話したら今まで知らなかった事実に触れることもできそうであった。

玄関口へ出たのは、お<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>であったが、

「ああ、先生ですか。まあこっちへお上がりになって。」

お神はあわただしげに庸三を二階へつれて行って、

「梢さん今日お引越しですよ。今荷車が来たばかりで、荷物を積むところですから、ちょっとこっちへ来て御覧なさい。」

<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どいところであった。庸三も下宿の前に荷車のあることは知っていたが、それが葉子の引越しの車とも思わず、その横を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>りぬけて石段を上がったのだったが、そう言われて廊下へ出て、そっと<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>から下を見下ろすと、ジャケツに薄汚い茶の中折を冠った運送屋の若い衆が、ちょうど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しおじ</span>の本箱を持ち出すところであった。

「はは、なるほど。」

庸三は苦笑したが、その時年少詩人の史朗がひょいと車の側へ出て来たので、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっ</span>と思って後ろへ<ruby><rb>跪坐</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでしまった。

「このごろ誰か来たでしょう。」

「え、来ました、二三度。」

「何て男です。」

「さあ、お名前はおっしゃいませんが、若い方です。鼻の<ruby><rb>隆</rb><rt>たか</rt></ruby>い目の大きい、役者みたいなねえ。」

「ふふむ、なるほど。」

いつも庸三の予感に上って来る存在が清川でありはしたが、金をもって師匠をおとずれた時から、その予感はひとまず消えてしまったのであった。庸三はにわかに興奮を感じ、なお硝子戸の引いてある<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>に<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、順々に荷物の積まれるのを見ていたが、小池の<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>ですっかり積みこまれ<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>がかけられるのを見澄ましてから、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を一本取り出して<ruby><rb>喫</rb><rt>ふか</rt></ruby>しはじめ、車の引き出されるのを待っていた。この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって、にわかに金も惜しくなったが、　二人の顔も見たかった。庸三は車の動く<ruby><rb>方嚮</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>を見澄まし、少し間をおいてから下へおりて行ったが、外へ出てみた時には、荷車はすでに水道橋から一つ橋へ通う大道路を突っ切っていた。

その辺は庸三も葉子と一緒に、しばしば自動車を乗り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てたり、呼び止めたりしたところで、夜おそくそのころ売り出しのブロチンやパンを買いに出たのもそこであった。

一二町の距離をおいて、庸三は見え隠れに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行ったが、車の後になり先になりして、従いて行くのは葉子のトイレット・ケイスをぶら下げた少年詩人ばかりではなく、<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>のように細い脚をした瑠美子もいたし、お<ruby><rb>傅</rb><rt>つき</rt></ruby>の北山も片手に<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつみ</rt></ruby>をもち、片手に瑠美子を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まらせて、あっち寄りこっち寄りして、ふざけながら歩いていた。町はもう日暮に近く、寒い風が庸三の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>の翼に吹いていた。

九段坂へ差しかかった時、荷車の後を押し押して、女連れに少しおくれて、えっちらおっちら登って行く少年詩人の姿がみえたが、そこまで来ると、庸三も何となし間が抜け、にわかに立ち止まった。これ以上追窮する必要はない。――庸三はそうも思ったが、やがてまた歩き出した。

車の止まったのは、坂を登りきってから、左と右とへ二回まがった、富士見町のある賑やかな通りであったが、行きついて見ると、それは花屋で、飾り窓の厚硝子の中に、さながら花氷のように薄桃のベコニヤが咲き乱れていた。

ふさわしい愛の巣だ――庸三は<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>ましげにも感じて、荷物の持ちこまれる露路を入って行った。花屋の勝手口がそこにあった。庸三は勝手元の廊下にある<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を上り、荷物の散らかっている上がり口の三畳を突っ切って、いきなり部屋へ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り込んでみたが、案に相違して、そこには瑠美子と北山がいるだけで、清川の姿も葉子も見えなかった。

「ヘえ、いないのか。」

庸三は新調のふかふかしたメリンスの<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>の<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の一つに、どかりと<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかくと、さも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうに笑っていた。

「母さんどうしたの。」

庸三は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来る瑠美子にきいてみた。瑠美子は<ruby><rb>悪怯</rb><rt>わるび</rt></ruby>れてもいなかった。

「あのね、ママは今日ね、私と一緒に銀ぶらに行ったの。だけどママはほかへまわることになったの。それで北山さんに電話をかけて私を連れに来てもらったの。」

何のことだか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。北山や史朗にきいてみるのも無駄であった。庸三は煙草をふかしながら、しばらく横になって目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>っていたが、<ruby><rb>太々</rb><rt>ふてぶて</rt></ruby>しくも思えて、やがてそこを出て来た。

葉子によって庸三に紹介された年少詩人のこの場合の立場の不利であったのはもちろんだが、しかし去就に迷うほどのことでもなかった。彼はそのころ、庸三に接近しているある大新聞の学芸欄記者に拾われて、その下に働いたことがあり、ほんの二三カ月だったが、とにかくジャアナリストとしての一役を当てがわれて、すっかり朗らかになっていたこともあった。やっと少し喫茶代や煙草賃に有りついたと思うと、印刷職工から相手にされず、主任も手を焼いて止させてしまったが、その代り文壇の先輩にいくらか知られるようになり、有名な大森の詩人に近づくこともできた。しかし一度失業すると、<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>取りの口に有りつくのは容易でなかった。そのうち庸三の長女に<ruby><rb>仏蘭西語</rb><rt>フランスご</rt></ruby>を教わり出したが、いつも寂しそうに見える庸三のために、葉子の近頃の消息を伝えたりもした。彼も久しく葉子を見ないと心が<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>くのであった。彼の話によると、葉子がまだ下宿している去年の冬時分、彼女は北山や瑠美子をつれて、時々番町にある清川の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を訪問していた。レコオドをかけたり、瑠美子を踊らせたり、いつも<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな談笑に花が咲いていた。そう聞くと、庸三も自分に対するひところの彼女の<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>った気持もわかるのであった。

ある日も史朗は葉子を見に行って来た。彼はたまには葉子に貰った小遣をポケットに入れているのだったが、庸三の想像では、清川の生活は相当豊富なもののように思えたし、今度の恋愛事件では、かなりな金を家から持ち出したに違いないと思っていた。庸三から見ると、二人の幻影は、それほどにも豪華に見えるのであった。コンビとしても申し分がなかった。もちろんそれは清川が、完全に家庭に<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>したと見られる場合のことであった。

史朗は庸三の書斎へ入って来ると、少し興奮した目をして、

「今日行ってみましたら、清川さん本を売るのだそうで、部屋中取り散らかしていました。」

「どうして？」

「あすこは先輩の山上さんの奥にある借家ですから、何かにつけ窮屈なんでしょうか、今度<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>の方へ家を見つけて、そこへ引き移るそうですから、金がいるんでしょう。」

庸三は<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちなかった。一月もたつか<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>たぬに、庸三の提供した金がもう無くなったのだろうか。もし清川がそれに手を着けるのを<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>しとしないにしても、本を売らなくては引越しもできないほど、手元が不自由なのだろうか。

「そんなことないだろう。」

「いや、そうです。重に舞踊や美術に関する書物で、売るのは実に惜しいと言っていました。」

それほど真剣なのかと庸三は悲痛な感じもした。

それからまた少し経ってから、ちょうど田端へ引っ越したところを、史朗はわざわざ見に行って来た。そこは木造の二階建の古い洋風住宅で、コスモスでも作るに<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさわ</rt></ruby>しい前庭もあった。

しかし史朗はその時、清川に<ruby><rb>頭臚</rb><rt>あたま</rt></ruby>を<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られ、泣き<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>かきながら<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>攘</rb><rt>はら</rt></ruby>われて来た。

「何だって？」

庸三が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、史朗は痛そうに頭臚をかかえて、

「<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん何か興奮しているんでしょう。それに僕がちょいちょい<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに行くもんで。しかしあれじゃ駄目だと思いますね。梢さん僕に<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びていましたけれど。」

史朗も憤慨したものらしく、清川が葉子に値いしないことを<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>いていたが、それきり葉子の消息も絶えてしまった。

## 二十五

三月になってから、ある日も小夜子が庸三の書斎に現われた。庸三は今も時々晩飯を食べに、川沿いの家へタキシイを駆った。たまには人をつれても行ったが、一人の方が<ruby><rb>気易</rb><rt>きやす</rt></ruby>かった。その時分になると庸太郎は小夜子と同伴でない限り、めったに父の書斎に姿を現わさなかったが、それもかえって庸三に都合の好いこともあった。庸三は初めひどくそれを警戒したのであったが、無駄であった。彼は子供の姿を見失わない限り、大抵のことは子供自身の判断に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せがちであった。それが子供に親切か不親切かはしばらく<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、子供たちをそれぞれの一人格として見る癖があった。それに彼の気持では若い時代は常に前時代より優れているはずであった。とかく彼は自身の生活圏内へ子供を引き入れすぎる形があった。葉子とのその時々の出来事についても、彼はあけすけに庸太郎に話しもし、見せもした。時とすると、見ていてスリルを感ずることもあったが、子供を信じようとした。小夜子の場合も、庸三自身その誘因を成しているとも言えるのであった。子供たちはみんな一様に母性愛に<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いていた。庸太郎にとって小夜子はいつとはなし半母性の役割を演じていた。遊ぶとき三人一緒のことも、まれではなかった。小夜子とだけの場合にも、庸三は庸太郎のいないのがかえって物足りない思いであった。

「先生に少し御相談したいことがあって伺ったんですの。」

小夜子は切り出したが、それはほんの女同志の友情の一<ruby><rb>些事</rb><rt>さじ</rt></ruby>にすぎなかった。と言うのは、葉子のことからこのごろ庸三も親しくなった舞踊の師匠が、昨夜ふと一人の友達をつれて川沿いの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に現われ、師匠も小夜子も、時代は違っても、昔しは同じ新橋に<ruby><rb>左褄</rb><rt>ひだりづま</rt></ruby>を取っていたこともあるので、話のピントが合い、楽しい半夜を附き合ったのであった。すると帰りがけに、小夜子の断わるのも聞かずに、無理に祝儀を置いて行ったのであった。

「ところが後で見るとそれが少し多すぎるんですよ。何もあんなに<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>く理由ないんですから、私何か品物でお返ししようと思うんですけれど、何がいいでしょうね。」

水商売の女としては、小夜子はいつも<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>であった。

「ハンドバッグか化粧品のようなものでも。」

「そうね。だけど、あの人<ruby><rb>支那服</rb><rt>シナふく</rt></ruby>着ていましたね。」

小夜子と庸太郎と三人で、ある夜銀座を散歩していた時、支那服の師匠に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのは、つい最近のことであった。庸三は、葉子の相手が清川とわかったあの時、すぐ近くの自動で、さっそくそれを師匠に報告したが、電話へ出た彼女の応答は思い<ruby><rb>做</rb><rt>な</rt></ruby>しかひどく<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>気味のように受け取れた。それから三四日して行ってみると、案じたほどではなく、弟子を集めてお<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>をしていた。庸三の方がかえって照れたくらい、彼女は落ち着き払って踊りの地をひいているのだった。<ruby><rb>撥音</rb><rt>ばちおと</rt></ruby>が寒い部屋に<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え返っていた。

次ぎの部屋で待っていると、師匠はやがて撥をおいてやって来たが、これも庸三の思い過ごしか表情が少し<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>く、警戒されてでもいるようで、いくらか心外な感じがしなくもなかった。しかしそれも、後になって考えてみると、清川と師匠の関係は、切れたようで真実は切れきりではなかったのかも知れないのであった。切れるために、庸三の金がいくらか役に立ったのではなかったか。瑠美子の恩師へのせめてもの償いとしても、葉子と清川とがそれだけの物資を提供したであろうことも、庸三の感じに映ったあの時の事象の<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>を合わせるのに、まるきり不必要な<ruby><rb>揣摩</rb><rt>しま</rt></ruby>でもなかった。しかしそれも時たってから、庸三の興味的にでっちあげた筋書で、事件の直後にはなんの影も差さなかった。

「えらいんだな、もう稽古なんか初めて。」

庸三が言うと、彼女は<ruby><rb>嫣然</rb><rt>にっこり</rt></ruby>して、

「え、今日から初めましたの。心持の整理もつきましたからね。それに負け惜しみじゃないけれど、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>を言うと、この方がさっぱりしていいのよ。」

そして三十分ほど話して、庸三は師匠の家を出たのだったが、銀座で食料品の店頭に、ふと支那服の彼女を見つけた時には、少女のように朗らかであった。庸三は小夜子と庸太郎を紹介して、四人歩きながらしばらく話してから別れたのだったが、それが<ruby><rb>契機</rb><rt>きっかけ</rt></ruby>となって川沿いの家の訪問となったものであった。

支那服は東洋風の麗人にふさわしいものだけに、師匠を若くもしていたし、魅力的にもしていた。そこで小夜子の案で靴を贈ることに決まったが、どうせ贈るなら好いものをあげたいから、遊びがてら浜まで行って一緒に見てくれまいかというのであった。

「それで、足の寸法もありますから、あの人にも行っていただきたいんですの。それとなくみんなで遊びに行くことにして。支那料理くらい<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>りますわ。」

「よかろう。」

## 二十六

さっそく電話で打合せをして、師匠の雪枝と新橋で落ち合って、小夜子と庸三父子と都合四人で半日遊ぶつもりで横浜へドライブしたのは、それから一日おいての午後のことであった。<ruby><rb>伊勢佐木町</rb><rt>いせざきちょう</rt></ruby>の手前でタキシイを乗り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て、繁華な通りをぶらついたが、<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>になっても気持の若い雪枝は、子供のように<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んで支那服姿で身軽に飛び歩いていた。やがて目的の元町通りを<ruby><rb>逍遙</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いて西洋家具屋や帽子屋の飾り窓を見てまわり、靴屋も見たのだったが、当の本人がいるのではやはり<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>がわるかった。何か目的でもありそうでもあり、<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れの散歩のようでもあり、雪枝はその意味がわからず、中ごろから少し<ruby><rb>興醒</rb><rt>きょうざ</rt></ruby>めの形であったが、町はずれまで来ると、小夜子は二階の自分の部屋に飾るような<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>の壁掛けを買い、庸三も妻が死んでからいろいろの物が無くなり、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テイブル</rt></ruby>掛けのジャバ<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>も見つからないので、機械刺繍の安物を一つ買って、それから<ruby><rb>波止場</rb><rt>はとば</rt></ruby>の方へも行ってみた。帰りに博雅で手軽に食事をすまし、ふじ屋へも入ってみたが、駅前へ引き返して来た時には、もう六時になっていた。

新橋へ着いてから、古くから知っている同郷の老婆のやっている家があるから、ぜひそこへ寄ってみようと雪枝がいうので、古風なその家へ入ることにしたが、酒好きな雪枝は<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしている料亭から料理を取り、酔いがまわって来るにつれて、話がはずみ<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の芸者をかけたりして、独りで朗らかになっていた。引き続き四面<ruby><rb>楚歌</rb><rt>そか</rt></ruby>の庸三は、若い愛人を失った年寄同志のうえに、何か悪いデマが飛びそうなので、いつも礼儀を正しく警戒したが、その晩も<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょく</rt></ruby>を口にする気にもならず、間もなく三人でそこを引き揚げた。

「どう、これから銀座へ出て、耳飾りでも買って贈ったら。」

「それもそうね。」

小夜子もそれにすることにした。

すると翌日の新聞に、果して雪枝と庸三のゴシップが載っていて、さっそく正規の取消を申し込んでやると、こんどは二人の写真まで載せて、意地わるく皮肉られてしまった。庸三は胸が悪くなり、腐ってしまった。

## 二十七

二月になって、葉子からまた電話がかかった。

庸三の<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろげな推量では、雪枝と清川との関係は多分絶えたようで絶えず、それに悩んで遠い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ引っ越すことに葉子の主張が通って、田端へ移ったからには、新生活もどんなにか幸福であろう。相手が相手だから、こんどこそ巧く行くに違いない――彼は一応そう信じたが、信じたくもなかった。浮気の虫も<ruby><rb>巣喰</rb><rt>すく</rt></ruby>っていたが、それも彼女の<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しない寂しさを<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たすに足りなかった。

電話へ出てみるとやはり葉子の声であった。

「私今三丁目にいますのよ。お会いして話しますからすぐ来て。」

ふらりと三丁目へ出て、そっちこっち見廻していると、葉子がひょっこり目の前に現われた。メイ・ハルミの手を経て横浜から買った、ヤンキイ好みの紺に<ruby><rb>淡</rb><rt>うす</rt></ruby>めな荒い<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>のある例の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>に<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>まっていたが、髪もそそけ顔もめっきり<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れていた。

じきにタキシイに飛びのって、行きつけの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ走らせたが、部屋へ納まっても、何か仮り着をしているようで、庸三は気が<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>けた。

時分時だったので、庸三は葉子の<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>もきいて料理を通した。

「少し<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せたね。」

「ぞうよ、毎日働くんですもの。ほら手がこんな。節々が太って。」

と言っても葉子はやっぱり美しかった。

「あの人が水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでくれたり、食器を洗ったりしてくれるけれど。」

「女中なし？」

「ええ。あの人このごろますますあれだもんだから、手の美しいのなんか<ruby><rb>真平</rb><rt>まっぴら</rt></ruby>だというのよ。労働者のように<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>くならなくちゃ駄目なんだって。」

「なるほど。君には少し無理だね。しかし生活はいいんだろ。」

「ところがあまりよくもないのよ。」

彼女の話では、清川の父は老大家に甘やかされて<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れている、そんな女を引き受けるのに不賛成で、父よりも好い身分に産まれつき、教養の高い母のみが理解してくれて、月々一定の額を先輩の山上の手を通して仕送ってくれ、それに彼自身いくらかの収入もあるにはあるが、家賃も出るので、そう楽でないと言うのであった。

「けどその程度でやって行かなくちゃあ。十分じゃないか。」

「でも私は寂しいの。何しろ<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>のことで、それは大して贅沢ではないにしても、食べたいものはお腹一杯食べて来たんですもの。」

話がだんだん<ruby><rb>賤</rb><rt>さ</rt></ruby>みしくなって来た。顔に似合わず、彼女もやはり女であった。清川の親たちや弟妹たち、家庭の経済状態や<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>にも繊細な神経が働いて、とかく葉子の苦手の現実面が、二人の恋愛を裏づけていた。

庸三は自分も今度のこの恋愛の初めには、同じように、むしろそれ以上にも<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の薄い彼女の口の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>にかかったであろうし、庸三にしたように、清川の前にも庸三ヘの不満を泣いて哀訴したであろうことも考えないわけにいかなかった。

「どこもそんなものだ。世の中に君の註文通りのものがありようもないから、そこにじっと腰をすえているんだね。」

庸三は<ruby><rb>悒鬱</rb><rt>じじむさ</rt></ruby>い自分の恋愛とは違って、彼らの恋愛をすばらしく<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たるものに評価し、ひそかに<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>を寄せていたのだったが、合理的な清川のやり口の手堅さを知ることができたと同時に、葉子の色もいくらか<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せて来たような感じだった。

「先生霊枝さんと何かありゃしない。」

「<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃない、何もないよ。」

「そう。」

葉子も<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、田端へ引っ越したのも、まだ本当に切れていない雪枝から、完全に清川を奪い取るためだことは、庸三も気がついていなかったので、葉子の質問が、それを庸三が知っているのではないかという不安から来たものだということも知るはずはなかった。

「あの人も<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうよ。番町にいる時、私一度飛び出したことがあるの。先生の処へ行こうと思って、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の電車に乗ったら、あの人も追い<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来たので、水道橋で降りててくてく<ruby><rb>真砂町</rb><rt>まさごちょう</rt></ruby>の方へ歩いて行ったの。そうするとあの人も見え隠れに後からついて来て、あの辺の横町でしばらく<ruby><rb>鼬鼠</rb><rt>いたち</rt></ruby>ごっこしているうちに、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて帰って行ったものなの。私よほど赤門前の自動で先生へお電話しようと思ったんですけれど、そうなると先生の家の雰囲気がふっと浮かんで来たりして、急いで番町へ引っ返したものなの。あの人はいなかったけれど、やがて帰って来て私を見ると、<ruby><rb>赭靴</rb><rt>あかぐつ</rt></ruby>のまんま上がって来ていきなり私に飛びついて泣いたのよ。<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんとこへ寄って泣いて来たらしいの。」

「お株がはじまったわけだ。」

庸三はちびちび<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>に、いくらか陶然としていたが、その情景を想像して少し<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>つき気味であった。

時間のたつのは<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>かった、庸三は<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>を少しやって、十時ごろに彼女を<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>した。

しかしそんなことも一度や二度ではなかった。ある時は同時ごろに、その家へ行くこともあったが、ある時は三十分も待たされることもあった。ぽつねんと独り待っているうちに、初夏の軽い雨が降り出し、<ruby><rb>瑠璃色</rb><rt>るりいろ</rt></ruby>のタイルで張られた露台に置き<ruby><rb>駢</rb><rt>なら</rt></ruby>べられた盆栽が、見る間に美しく<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて行った。ここは汽車の音も間近に聞こえ、<ruby><rb>夜深</rb><rt>よふけ</rt></ruby>には家を揺する貨車の響きもするのだったが、それさえ我慢すれば<ruby><rb>居心地</rb><rt>いごこち</rt></ruby>は悪くなかった。時とすると、そのころ一年ばかりも小夜子と<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ合っていた、大衆作家の同志が広間に陣取っていて、一晩中陽気に騒いでいることもあって、そういう時には葉子も庸三もいくらか警戒するのだったが、不断は気のおけない場所であった。葉子は途中で降り出されて髪を濡らしていたが、

「なかなか出て来る<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>がなかったもんで、八百屋へ買いものに行くふりして、途中で<ruby><rb>捩</rb><rt>も</rt></ruby>ぎ放して来たの。あの人は私が先生にお金もらうことを、大変いやがってるの。」

「話したの？」

「そうじゃないけれど。」

庸三は苦しい時の<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづか</rt></ruby>い<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎだという気もしながら、彼女の生活報告には興味があった。

「このごろ何か書いてる？」

「私たちは書く時は二階と下なのよ。私は下で書くのよ。清川は書けなくて困ってるの。私がぐんぐんペンが走るもんだから、なお<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>つくらしいの。」

「君が仕事させないんだろ。」

「ううん、書く時はやっぱり独りがいいと思うわ。」

「君の書くものは気に入るまい。ペしゃんこにやられるんじゃないか。」

「ううん、よく議論はするけれど――。」

見るたびに葉子は生活に<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れていた。<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>も薄切れていた。相変らず<ruby><rb>賤</rb><rt>さも</rt></ruby>しい愚痴も出て、たまに買って来る好きなオレンジも、めったに彼女の口へ入らず、肉や<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>も思いやりなく<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>われてしまうのだそうであった。<ruby><rb>継子</rb><rt>ままこ</rt></ruby>のように、葉子はそれが何より<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しげであった。

「こないだお金に困って、十掛けばかりある半襟を売ってもらおうと思って、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんに話したら、十円に買ってくれたの。あの中には一掛け十円するものもあるのにさ。」

もちろん葉子も<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>はそうお嬢さんなわけでもなかった。

「結婚してくれないのか。」

庸三が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、

「それもあの当時、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>なら似合いの夫婦だから、ちゃんと取りきめると言っていたものなのよ。でもお父さんが少し<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>なの。何しろあの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は、夫婦の<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りが合わないの。お父さんという人は下町の商人気質の堅い一方なところへ、阿母さんは読書の趣味もあるし、昔の江戸ッ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>風の教養や趣味があるもんで、清川兄弟が文学へ進むことにも共鳴があるわけなの。妹さんだって<ruby><rb>油画</rb><rt>あぶらえ</rt></ruby>かきだわ。みんな阿母さん系統なわけなのよ。それにしても私に<ruby><rb>覆</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さって来るあの人たちの<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>はいいとはいえないわ。この間も阿母さんが<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>おごったんだけれど、そういう時だって、私は妹さんの下座よ。タキシイに乗る時だって、やっぱり私が後よ。」

話しているうちに葉子はすぐ涙ぐんて来た。

「しかし結婚は女の墓場だからね。」

庸三は腹ん<ruby><rb>這</rb><rt>ば</rt></ruby>いになって<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしていたが、彼女の計算の不正確と、清川の認識不足との<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ違いも<ruby><rb>分明</rb><rt>わかり</rt></ruby>すぎる感じだった。

「瑠美子は。」

「あの人が<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>がるから、ここのところよそへ預けておきますけれど、あれほど愛していたのに<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>してみると、ちっとも<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>くないんですとさ。」

「はっきりしてるな。」

「<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>よ。このごろの若い人、みんながっちりしたものよ。先生なぞには想像もされないくらい。」

「そこへ君が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めそっこ</span>と来てるから。」

「それにあの人、このごろ皿洗いもしてくれないのよ。私も御飯たきしてると、本も読めなくて<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>がぱさぱさしてしまうでしょう。いっそ別れようかと思うけれど、どう、いけない？」

「そうね。君が僕の娘だったら辛抱させるけれど。」

「そう――。」

葉子も<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

## 二十八

その一夏もあわただしく過ぎて、やがて<ruby><rb>涼気</rb><rt>すずけ</rt></ruby>の立つころになると、持ち越しの葉子の別れ話も、急に具体化しそうになって来た。庸三は別に策動したわけでもなく、積極的に彼女を<ruby><rb>牽制</rb><rt>けんせい</rt></ruby>しようとしたのでもなかったが、少年詩人も双方を往来し、一旦下宿へ出ることに、いつとはなし話が決まりそうになった。彼女の素振りに何か煮えきらないものがあり、いつも用心深く二道かける彼女の手もあるので、思い切って乗り出す気にもなれなかったが、どうせぼろぼろになりついでに、大詰の一役を買うのもいいと思った。

その晩庸三に差し迫った仕事があったが、にわかの電話なので、原稿紙やペンを<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>に入れて行ってみた。

「今夜は忙しいんだ。話はしていられない。」

落ち着かない気持で彼は葉子の顔を見るなり、先月号の婦人雑誌を鞄から取り出した。彼はその雑誌に連載物を書いていた。葉子は珍らしく和服を着ていたが、何ということもなくしばらく差向いでお茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでいた。葉子の素振りにも落着きがなかったが、庸三も今夜書く場面の段取りが、まだはっきり<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に来ていないので、それに気も<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>ついていたが、彼女の言葉に何か煮えきらないところもあった。

「じゃ出るの止すの。」

「そうじゃないんですの。ただあの男が<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうなだけよ。」

<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>に断わるつもりなのかと思ったが、そうでもなかった。とにかく<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>を乱すのを恐れて今夜は追究しないことにした。一旦気持が揺れ出すと、容易に止まらない癖があるので、そうと決めておくよりほかなかった。

庸三は時間が惜しかったので、早く食事をしようと思って、その前に<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>に入ることにして、急いで風呂場の方へ出て行った。浴場は<ruby><rb>料亭</rb><rt>りょうてい</rt></ruby>としては豪華な方で、ドアで仕切られた、別室の化粧室の趣味も感じがよかった。

雨が強く降り出して来た。庸三は寂しい庭の雨音を耳にしながら、風呂場にしばらくいたが、葉子が来ないのに少し不安を感じはじめた。今しがた部屋にいる時も、ふいに電話がかかって女中の取次ぎで下へおりて行ったが、やがて部屋へ来て坐ったと思うと、間もなく廊下へ出て行き、しばらく帰って来ないので、庸三が<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>に思って出てみると、葉子は階段の降り口を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むようにして、うろうろしているのだった。しかし庸三は別に気にも留めず、後で聞こうと思って、彼女の部屋へ帰って来るのを待って、一足先きに風呂に入ったのだったが、今それがふと心に浮かんだので、急いで着物を着て二階へ上がってみた。

すると部屋の入口が内廊下になっていて、座敷も小さい次の間つきであったが、葉子はどこにもいなかった。内廊下の壁に彼の帽子と<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>が、間抜けな表情でぶらさがっているきりだった。

ちょうど女中が来合わせた。

「ちょっとそこまで行って来るとおっしゃって、そとへ出ていらしたばかりですよ。宅の<ruby><rb>庭下駄</rb><rt>にわげた</rt></ruby>を突っかけて、<ruby><rb>番傘</rb><rt>ばんがさ</rt></ruby>をお差しになって。」

「<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれたんだ。」

庸三は急いで外套を着た。

「そんなことないでしょうけれど。」女中も笑いながら送り出した。

明日の午後、庸三が史朗をつれて、再びその<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を訪問してみると、マダムも出て来て、葉子が<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>傘と下駄を返しに来たが、清川も一緒だったことを告げた後に、葉子はその一夜のことをグロテスクな色に塗り立て、あの<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>の中を呼び出されて外へ出てみると、興奮しきった清川のために<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに自動車に引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>りこまれ、そのまま<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>を走ったというのだったが、もちろん葉子がしばしば廊下へ立ったのは、庸三への計画的な<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>の筋書として、<ruby><rb>傀儡</rb><rt>かいらい</rt></ruby>を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っている清川が別室に来ていたのに違いなかった。

## 二十九

秋になってから、葉子は三丁目のアパアトメントの四階に移って来た。せっかく営んだ田端の愛の巣にもすでに<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>が来て、それ以来彼女は寛永寺橋に近い桜木町のある<ruby><rb>素人家</rb><rt>しろうとや</rt></ruby>の二階に移り住んでいるのだったが、その間庸三との連絡を取り、メッセンジャアの役割を演じていたのが例の少年詩人で、庸三を呼び出すのも彼なら、庸三が遊びに行く途中、横町の角でタクシイをおりて葉子を誘い出すのも彼であった。葉子が、田端の家を出た以上、愛人と別れたことが一応<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>のように思われもしたが、事実はまだ全く別れきりになっていないようにも思えた。庸三はかつて彼女から案内されたこともないその家を、一度は襲ってみようと思わなくもなかったが、彼女の秘密に触れることは、やはり避けておきたかった。そのころ庸三は根岸に住んでいる売り出しの作家小村の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を、<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うごとに葉子から聞かされた。その夫婦生活、愛人関係、または丸善から外国の小説を買って来ては<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>り読んでいる文学の精進ぶりなど、彼女は彼をニック・ネイムで呼び、いくらかヒウモラスな<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>で、いつも親しく出入りしている彼の家庭の<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかなモダアン気分を庸三の前に発散させるのだったが、それだけにその交際も何のこだわりもないものだことは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。庸三は葉子の思いつきで、小村夫婦と葉子と四人で、山王の料亭で晩飯を食べたことがあったが、帰りに誘われて、古くから上野辺に住んでいた小村には親の代から<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の深い、広小路の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ案内されたりした。このごろの葉子の交際が、この小村夫妻だけだとしたら、彼女の部屋へ、たまには庸三を案内しずにはいられないはずであった。それをしないところを見ると、例の用心ぶかい彼女の慣用手段として、庸三をまさかの時の突っかえ棒として連絡を保ちつつ、破綻に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>した清川との恋愛を辛うじて<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ止めているのに違いなかった。そしてそれでだんだん緩慢に庸三との交渉も絶えてしまうもののように見えた。

するとしばらく<ruby><rb>音沙汰</rb><rt>おとさた</rt></ruby>のなかった葉子から、またしても電話がかかって来た。

庸三はどんな場合にも、手をひろげて彼女を待っているものとしか思えなかった。

「先生、私よ。今<ruby><rb>燕楽軒</rb><rt>えんらくけん</rt></ruby>にいるのよ。ちょっと来て。すぐよ。」

彼女は命令するように言うのだったが、何か切迫した語調であった。庸三は拒むこともできずに、やっぱり部屋を出て行った。燕楽軒の広い土間のホールヘ入ってみると、洋装の葉子が右側の窓下のところにいて、近づいて行く彼に気づくと、かつて見たこともないような<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>いに<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちた顔をあげた。前側の椅子にかけると、彼女はヒステリックな表情で、

「ここでは話もできないの。出ましょう。」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、あわただしくコオヒ代を払って<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがった。

町はラッシュアワアだったが、秋の<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びしい光線が一層この十字街を無秩序なものにしていた。葉子は一緒に歩くことをも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るように、急いで向う側へ<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>ると、そこでガタ車を一台呼び止め、彼の来るのを待ってドアをしめた。

少し走り出すと、彼女はくしゃくしゃの<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた目から放して何か言おうとしたが、また顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>った。

「どうしたんだ。」

「私到頭清川さんに<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てられてしまったのよ。」

「ふうむ。」

庸三も声が<ruby><rb>喉元</rb><rt>のどもと</rt></ruby>に<ruby><rb>閊</rb><rt>つか</rt></ruby>えたようで、瞬間ちょっといやな感じだった。ひそかに予期していたことでもあったが、てこずった果てに<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出してしまった清川に同感はできても、投り出された葉子を今更<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたり冷笑したりする気にはなれなかった。

「僕はまたあれから巧く行っていることとばかり思っていた。」

「ええ、そうなの。そのことで最近<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>から兄もわざわざ出て来たくらいなのよ。何しろあの人なら三田の秀才だし、今度こそは過去を清算して名誉を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>するのにいい機会だからというので、結婚してもらうように清川さんに話しこんでくれたりしたの。あの人は二三日考えさしてくれということで、その返辞を今日まで待っていたんですよ。そうするとその返辞がこれでしょう。」

葉子はそう言って<ruby><rb>手提</rb><rt>てさげ</rt></ruby>のなかから、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みくしゃの半ぴらの<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>を出して見せた。庸三はちょっと手に取って見たが、その文面だけでは前後の係りがよくわからず、<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>い<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んで言うと、せっかくのお言葉だけれど、いろいろ考慮した結果、<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>ながら希望にそうわけには行かないから<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しからずという意味で、<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>に拒絶しているのだった。

「これだけでは何だかよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないけれど。」

葉子は紙片を畳んで手提のなかへ入れたが、泣いたあとではいくらか顔も晴れて来た。

「やっぱり私は悪い女なの？」

「さあ。君自身が判断しなくちゃ。」

「そうお。」

車は広小路から坂本の方へ出て行き、狭苦しい町の中の雑踏へ来てから、陸橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で<ruby><rb>駐</rb><rt>と</rt></ruby>まったが、その<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はいつ来ても庸三は気分がよかった。それにたといそれがどんな家庭であるにしても、葉子をおくのに<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさわ</rt></ruby>しいものではなかった。彼女の逃げようとしているものは、いつも求めていたものであった。望みはそう大きいものでも高いものでもないながらに、手に取った瞬間現実のいやな匂いが鼻につくのだった。彼女には自身を支える骨格がなかった。

「清川さん私を愛していたのかしら。それとも愛していなかったのかしら。」

その言葉はちょうど庸三とは反対に、愛に<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れた彼女の乱舞を許さない清川の<ruby><rb>理智的</rb><rt>りちてき</rt></ruby>であることを証明しているようなものだが、葉子の異性としての清川への愛情の尺度でもあった。

「あの人は兄にも言ったそうですの、葉子と一緒にいたんじゃ勉強ができないって。」

葉子は見えも外見もなく、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったそうに苦笑するのだったが、そうなると彼女も清川によって、<ruby><rb>無慚</rb><rt>むざん</rt></ruby>に路傍に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き<ruby><rb>踣</rb><rt>のめ</rt></ruby>された花束のようなものであった。

## 三十

三丁目のアパートは、震災後その辺に出来た最初のアパートであった。この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあらかた<ruby><rb>外貌</rb><rt>がいぼう</rt></ruby>を整えて来た。<ruby><rb>巌丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や<ruby><rb>袋戸棚</rb><rt>ふくろとだな</rt></ruby>も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>ばかりで、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>を開けると、広小路のデパアトの、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に<ruby><rb>巣喰</rb><rt>すく</rt></ruby>ったカフエの<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もったように<ruby><rb>閑寂</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>していた。

「私書きかけているものがあるのよ。出来あがったら見ていただくつもりで、一生懸命馬力をかけているの。」

葉子は大分前にも、ちょっとそれを<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めかしていたが、アパアトヘ立て籠もろうとしたのも、それを完成したいためであった。それは国民新聞の懸賞小説に応募するためで、彼女はその一作によって新しいスタアトを切り、文壇への更生を<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>ろうとして心血を<ruby><rb>灑</rb><rt>そそ</rt></ruby>いでいたもので、その衷情を訴えられてみると、庸三も一概に見切りをつける気にはなれず、打ち<ruby><rb>踣</rb><rt>の</rt></ruby>めされながらもまた起きあがろうと<ruby><rb>悶踠</rb><rt>もが</rt></ruby>いている彼女に、何か目鼻をつけてやりたくもなるのだった。彼は三月分の敷金も出してやり、保証人にもなって、毎日のようにその部屋をも見舞うのであった。

庸三はその部屋で、飯のかわりによくコーヒを飲み、パンをやいて食べたが、夜は外へ出て、葉子がいつの間にかお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>になっているおでんやだの、安直なレストランなどで食事を取ったりした。若いもの同志二人、共同で<ruby><rb>床店</rb><rt>とこみせ</rt></ruby>を出しているおでんやの一人は、昼間はある私立大学の文科へ通っている、町の文学青年だったが、<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>の産まれで、葉子とはすでに裏町の女王とナイトのような関係になっていた。そのころになると、大森のある詩人とそのマダムに愛されていた少年詩人も、<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>を<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>って病的な心臓を悪くし、寝るにも起きるにも着たきりの黒い洋服とともに<ruby><rb>憊</rb><rt>くたぶ</rt></ruby>れはてて、再縁している<ruby><rb>古里</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の母のもとへかえって行ってしまった。北山も江古田で一軒世帯を作って、<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>に精進していたし、瑠美子は最近往来の道が開けて来た、郊外の<ruby><rb>従姉</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の家へ、ずっと預けっ放しになっていた。それというのも、あれほど瑠美子を<ruby><rb>手懐</rb><rt>てなず</rt></ruby>けていた清川も、<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>生活が初まるとたちまち態度が<ruby><rb>豹変</rb><rt>ひょうへん</rt></ruby>して来たからで、それも彼ら二人の恋愛生活に幻滅を促した一つの原因であった。

葉子はデパアトから買って来た、コーヒ沸しのレトルトをもっていて、しきりにコーヒを沸かした。それは清川を監督している例の先輩が、<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>から沢山買って来て、床下に<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておいたというのは昔のことで、今はデパアトにも出ているのであった。葉子の本箱のなかには、別にハムやコオンビイフ、<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>、オレンジなどの食料品があり、もうだんだん寒くなって来たので、朝おきると顔も洗わずに、瓦斯ストオブをたきながら、軽い食事を取るのだったが、創作に悩んで来ると、庸三が邪魔になることもあった。それにアパアトを管理している薬局の主人は、どうかすると部屋を見に来る人に、四階に葉子のいることを、宣伝の役に立てようとしたりするので、庸三も裏口から出入りするようにしていたが、こちこち<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い階段を上りおりするのも相当骨が折れ、やっと部屋まで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いたと思うと、<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>がかかっていたりした。彼女の行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが、部屋をあけるのは、そのためばかりとも決められないようなものであった。

庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっているわけでもなかった。彼女の<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>ほどに彼女の文学に興味はもてなかったが、しかし風にも堪えない野の花のようなその情趣や感傷の純粋さは認めないわけに行かなかった。筋やテイマを話しながら、彼女は草稿を見せた。庸三はコーヒを<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みながら、一枚々々読んで行った。どうかすると驚嘆するような老劇作家と師弟関係の若い愛人の女優との<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>生活の新鮮な描写があるかと思うと、うらぶれて放浪の旅から帰って来て、先輩であるその老劇作家のもとに身を寄せている青年と、昔、恋愛模様のあったその女優との熱烈奔放な恋愛場景があったりして、ちょうどそれが雨のふるかつての一夜の出来事を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>させるような面白い芝居に出来ていた。モデルがはっきり誰であるとも示すこともできないように、彼女一流の想念の花で<ruby><rb>粉飾</rb><rt>ふんしょく</rt></ruby>されてあった。

「どう？」

葉子は庸三の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこむようにして<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「そうだね。」

「駄目？」

「でもあるまい。」

間もなく浄書がはじまり、一人の助手が部屋に現われた。助手は新進のブロレタリヤ作家の夫人で、その名は庸三も耳にしていたが、紹介されてみて、その純良な婦人であることが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>り、そういう仕事もいくらかの生活の補いになるのだと聞いて、その心掛けに敬意を払わないわけに行かなかった。ある時は女二人が一つ<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のなかで、<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>まじそうに話しながら寝ている<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で、庸三は頭のつかえる押入のベッドのうえに横たわっていた。

やがて応募作品が十篇二十篇と彼の書斎に持ちこまれて来た。

初め葉子は彼女の計画を庸三には一切秘密にしておくつもりであった。それというのも、あいにく二人の選者のうちの一人が庸三自身であったからで――しかしまた庸三が取捨の一半の権利をもっており、事によれば庸三が採点の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り繰り一つで、彼女の作品の運命を決定することも不可能ではなかったので、あらかじめ彼の批判を得ておきたくもあった。

「選者として先生をお苦しめするのは、私も良心に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めることですから、先生には秘密にしておきたかったのですの。でも先生は毎日のように来るでしょう。私全く困っちゃったの。もちろん<ruby><rb>栗原</rb><rt>くりはら</rt></ruby>さんも大変いいものだから、きっと当選するだろうと言って下さるし、私も<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>が乗ったものなの。つい秘密が保てなくなってしまったんですけれど、匿名なら先生の立場だって、別に悪くはないわけじゃない？　それも先生に<ruby><rb>贔屓分</rb><rt>ひいきぶん</rt></ruby>に点をいただこうとは思わないの。選者として公平な態度をお失いにならない限度で、もしかして二つ同点の作品があったというような場合に、私のをお採りになっていただけないこともないじゃないかと、そう思ったの。いけない。」

もちろん庸三も客観的な立場を守りたいに違いなかったが、作品が取れば取れるものであることも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。

庸三は応募作品を一つ一つ熱心に読みはじめたが、題材と舞台に関する限り、今までの文壇人には手のとどかないものもあったりして、彼も興味を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られた。<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな<ruby><rb>礦夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>の生活をかいたもの、北海道の終身刑囚の脱獄、<ruby><rb>金龍館</rb><rt>きんりゅうかん</rt></ruby>で、一時あれほど<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>っていた歌劇団の没落と俳優たちや周囲の不良群の運命、等々――そのなかでも、離散した歌劇団の歌手たちに<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んだ、<ruby><rb>頽廃的</rb><rt>たいはいてき</rt></ruby>な浅草の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>を濃い絵具で塗り立てた作品の、呼吸の荒々しさと<ruby><rb>脈搏</rb><rt>みゃくはく</rt></ruby>の強さには、庸三もすっかり参ってしまった。

「なかなかいいのがある。」

庸三は二三の作品を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろにして、葉子の部屋に現われた。

「そう――どれ私にも読ませて。」

葉子はそう言って、乱暴に書きなぐったその作品を読みはじめた。

「作品はいいんだが、新聞の読みものとしては、柄が少し悪いし、楽屋落ちも多いから、一般の読者には不向きかも知れない。それに後半がだれてる。」

「そう――。」

しかし庸三が採点に苦心した結果、<ruby><rb>依怙贔屓</rb><rt>えこひいき</rt></ruby>でない程度で、「地上の<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>」と題した彼女の作品が、どうにか二等くらいに当選すべき運命にまで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけた時になって、栗原夫人の名をつかったことが暴露した結果、それも到頭<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ葬られてしまった。

ある時も、庸三はアパアトを訪ねてみた。町はもうすっかり真冬の気分で、街路樹の<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>に<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>の葉の影もなかった。葉子の計画も惨敗におわり、立て直そうとした小説道への精進も<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けたとなると、彼女の運命も庸三の手には支えきれなかった。

「もういませんか。」

薬局に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いてきいてみると、その日も葉子は不在であった。部屋の空気が険悪になって、互いに<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>しい気持に駆り立てられ、激しい言葉を投げ合って別れてから、一週間になっていた。庸三は最近時々一緒に飯を食べたり、お茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだりしていた、<ruby><rb>藤子</rb><rt>ふじこ</rt></ruby>をその時もつれていた。

「もう居ませんよ。」

主人は答えたが、いつになくにこにこして、

「いや、どうも梢さんはいけませんよ。あの人は先生のような方がしっかり監督なさらないと、何をするか解りませんな。」

「何かやってますか。」

「それは解りませんけれど、どうもあの人は普通ではありませんね。」

「敷金は持って行きましたか。」

「いや、後で取りに来るとおっしゃって。」

「じゃあ、僕がもらっておきましょう。」

大した金でもなかったが、この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって彼はそれが惜しくなった。預り証もちょうど紙入れのなかにあった。敷金は二カ月分残っていた。

藤子は軽い雨のなかを、<ruby><rb>黒蛇</rb><rt>くろじゃ</rt></ruby>の目をさして、<ruby><rb>四角</rb><rt>よつかど</rt></ruby>に待っていた。彼女は久しく庸三のところへ出入りしている<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の未亡人で、いつも葉子に関する庸三の話のよき<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き手の一人であった。

やがて二人で小夜子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で晩飯を食べるつもりで、自動車を一台呼びとめた。

結局は清川との恋愛によって、彼の幻想も<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に砕かれたと言ってよかった。

大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。

その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>の的となっていたコレット女史を逆で行ったような<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の生活が発展しそうに見えた。

そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の気取りもかなぐり<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>すこともできた。そしてその時分から<ruby><rb>埃塗</rb><rt>ほこりまぶ</rt></ruby>れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。