Soranoha

相撲

すもう

寺田 寅彦

一

一月中旬のある日の四時過ぎに新宿の某地下食堂待合室の大きな皮張りの長椅子の片すみに陥没して、あとから来るはずの友人を待ち合わせていると、つい頭の上近くの天井の一角からラジオ・アナウンサーの特有な癖のある雄弁が流れ出していた。両国の相撲の放送らしい。野球の場合とちがって野天ではなく大きな円頂蓋えんちょうがい状の屋根でおおわれた空間の中であるだけに、観客群衆のどよみがよくきこえる。行司の古典的荘重さをもった声のひびきがちゃんと鉄傘下てっさんかの大空間を如実に暗示するような音色をもってきこえるのがおもしろい。観客のどよみも同じく空間を描き出す効果があるのみならず、その音の強弱緩急の波のうち方で土俵の上の活劇の進行の模様が相撲に不案内なわれわれにもよくわかるような気がする。それでこの放送では、むしろ観客群集のほうが精神的に主要な放送者であって、アナウンサーのほうは機械的な伴奏者だというような気もするのである。そんな気のするのは畢竟ひっきょう自分が平生相撲に無関心であり、二三十年来相撲場の木戸をくぐった事さえないからであろう。それほど相撲に縁のない自分が、三十年ほど前に夏目漱石先生の紹介で東京朝日新聞に「相撲の力学」という記事を書いて、掲載されたことがある。切り抜きをなくしたので、どんな事を書いたか覚えていないが、しかし相撲四十八手の裏表が力学の応用問題として解説の対象となりうることには違いはないので、その後にだれか相撲好きの物理学者が現われ、本格的な「相撲の力学」を研究し開展させて後世に対する古典文献を著述するであろうと思って期待していたが、自分の知る限りまだそうした著書はおろか論文も見当たらない。そんなものを書いても今の日本では学位も取れず金ももうからないためかもしれない。しかし昨今のように国粋的なものが喜ばれ注意される傾向の増進している時代では、あるいはこうした研究もそれほどに異端視されなくてもすむかもしれないと思われる。「囲碁」や「能楽」のように西洋人に先鞭せんべんをつけられないうちにだれか早く相撲の物理学や生理学に手をつけたらどうかと思うのである。

相撲の歴史については相当いろいろな文献があると見えて新聞雑誌でそれに関する記事をしばしば見かけるようであるが、しかしそれはたいていいつもお定まりの虫食い本を通して見た縁起沿革ばかりでどこまでがほんとうでどこからがうそかわからないもののような気がする。この歴史についてもも少し違った見地からの新しい研究がほしい。たとえば世界各地方の過去から現在までに行なわれた類似の角力戯との比較でもしてみたら存外おもしろい結果が得られはしないかと思われる。

二

少し唐突な話ではあるが、旧約聖書にたしかヤコブが天使と相撲を取った話がある。

その相手の天使からイスラエルという名前をもらって、そうしてびっこを引きながら歩いて行ったというくだりがあったようである。その「相撲」がいったいどんなふうの相撲であったかさっぱりわからない。しかし、ヘブライ語の相撲という言葉の根幹を成す「アバク」という語は本来「塵埃じんあい」の意味があるからやはり地べたにころがしっこをするのであったかもしれない。そうして相撲の結果として足をくじいてびっこを引くこともあったらしい。それから、これは全く偶然ではあろうが、この同じヘブライ語が「撲」の漢音「ボク」に通ずるのが妙である。一方で和音「すまふ」はこれは相撲の音から転じたものであるに相違ない。bはmに、kはhに変わりやすいからである。ついでにもう一歩脱線すると、相撲の元祖と言われる野見のみの宿禰すくねの「スクネ」とよく似たヘブライ語の「ズケヌ」は「長老」の意味があるのである。

このヤコブと天使との相撲の話は、私にはまた子供の時分に郷里の高知でよく聞かされた怪談を思い出させる。

昔の土佐には田野の間に「シバテン」と称する怪物がいた。たぶん「柴天狗しばてんぐ」すなわち木の葉天狗の意味かと想像される。夜中に田んぼ道を歩いているとどこからともなく小さな子供がやって来て、「おじさん、相撲取ろう」といどむ。これに応じてうっかり相手になると、それが子供に似合わず非常な怪力があって結局ひどい目にのされてしまう、というのである。これと並行してまたエンコウ(河童かっぱの類)と相撲を取ってのされたという話もある。上記のシバテンはまた夜釣りの人の魚籠びくの中味を盗むこともあるので、とにかく天使とはだいぶ格式が違うが、しかし山野の間に人間の形をした非人間がいて、それが人間に相撲をいどむという考えだけは一致している。

自分たちの少年時代にはもう文明の光にけおされてこのシバテンどもは人里から姿を隠してしまっていたが、しかし小学校生徒の仲間にはどこかこのシバテンの風格を備えた自然児の悪太郎はたくさんにいて、校庭や道ばたの草原などでよく相撲をとっていた。そうして着物をほころばせたり向こう脛ずねをすりむいては家へ帰ってオナン(おふくろの方言)にしかられていたようである。自分なども一度学校の玄関の土間のたたきに投げ倒されて後頭部を打って危うく脳震盪のうしんとうを起こしかけたことがあった。

三

高等小学校時代の同窓に「緋縅ひおどし」というあだ名をもった偉大な体躯たいくの怪童がいた。今なら「甲状腺」などという異名がつけられるはずのが、当時の田舎力士の大男の名をもらっていたわけである。しかし相撲は上手でなく成績もあまりよくなかったが一つだれにもできぬ不思議な芸をもっていた。それは口を大きくあいて舌を上あごにくっつけておいて舌の下面の両側から唾液を小さな二条の噴水のごとく噴出するという芸当であった。口から外へ十センチメートルほどもこの噴水を飛ばせるのはみごとなものであった。一種のグロテスクな獣性を帯びたこの芸当だけはだれにもまねができなかった。これを噴きかけられるのを恐れて皆逃げ出したものである。

中学時代に相撲が好きで得意であったような友人の大部分は卒業後陸軍へはいったが、それがほとんど残らず日露戦役で戦死してしまって生き残った一人だけが今では中将になっている。海軍へはいった一人は戦死しなかった代わりに酒をのんでけんかをして短剣で人を突いてから辞職して船乗りになり、シンガポールへ行って行くえがわからなくなり、結局なくなったらしい。若くて死んだこれらの仲よしの友だちは永久に記憶の中に若く溌剌として昔ながらの校庭の土俵で今も相撲をとっている。いちばん弱虫で病身でいくじなしであった自分はこの年まで恥をかきかき生き残って恥の上塗りにこんな随筆を書いているのである。

中学の五年のとき、ちょうど日清戦争時分に名古屋に遊びに行って、そこで東京大相撲を見た記憶がある。小錦という大関だか横綱だかの白晳はくせきの肉体の立派で美しかったことと、朝潮という力士の赤ら顔が妙に気になったことなどが夢のように思い出されるだけである。

高等学校時代には熊本の白川の川原で東京大相撲を見た。常陸山ひたちやま、梅ヶ谷、大砲などもいたような気がする。同郷の学生たち一同とともに同郷の力士国見山のためにひそかに力こぶを入れて見物したものである。ひいきということがあって始めて相撲見物の興味が高潮するものだということをこの時に始めて悟ったのであった。夜熊本の町を散歩して旅館研屋とぎや支店の前を通ったとき、ふと玄関をのぞき込むと、帳場の前に国見山が立っていて何かしら番頭と話をしていた。そのときのこの若くて眉目秀麗びもくしゅうれいな力士の姿態にどこか女らしくなまめかしいところのあるのを発見して驚いたことであった。

四

大学生時代に回向院えこういんの相撲を一二度見に行ったようであるがその記憶はもうほとんど消えかかっている。ただ、常陸山、梅ヶ谷、大砲、朝潮、逆鉾さかほことこの五力士のそれぞれの濃厚な独自な個性の対立がいかにも当時の大相撲を多彩なものにしていたことだけは間違いない事実であった。それぞれの特色ある音色をもった楽器の交響楽を思わせるものがあった。皮膚の色までがこの五人それぞれはっきりした特色をもっていたような気がするのである。これとは直接関係のないことであるが、大学などでも明治時代の教授たちには、それぞれに著しくちがったしかもそれぞれに濃厚な特色をもった人が肩を比べていたような気がするが、近ごろではどちらかと言えばだんだん同じような色彩の人ばかりがそろえられるといったような傾向がありはしないかという気がする。これは自分だけのひが目かもしれないが、しかしそうなるべき理由はあると思われる。昔は各藩の流れをくんで多様な地方的色彩を帯びた秀才が選ばれて互いに対立し競争しまた助け合っていた。しかし後にはそうではなくて先任者が順々に後任者を推薦し選定するようになった。従って自然に人員の個性がただ一色に近づいて来るという傾向が生じたのではないかという気がする。どちらがいいか悪いかは別問題であるが、昔の人選法も考えようによってはかえって合理的であるかもしれない。学風の新鮮を保ち沈滞を防ぐためにはやはりなるべく毛色のちがった人材を集めるほうがかえっていいかもしれないのである。同じことは他のあらゆる集団についても言われるであろう。

それはとにかく、ある時東海道の汽車に乗ったら偶然梅ヶ谷と向かい合いの座席を占めた。からだの割合にかわいい手が目についた。みかんをむいて一袋ずつ口へ運び器用に袋の背筋をかみ破ってはきれいに汁を吸うて残りを捨てていた。すっかり感心して、それ以来みかんの食い方だけはこの梅ヶ谷のまねをすることにきめてしまった。

ラジオの放送を聞きながらこんな取り止めもないことを考えていたのであった。

相撲と自分との交渉は洗いざらい考えてみてもまずあらかたこれだけのものに過ぎない。相撲好きの人から見たら実にあきれ返るであろうと思われるほどに相撲の世界と自分の世界との接触面は狭小なものである。しかしむしろそういう点で自分らのようなもののこうした相撲随筆も広大な相撲の世界がいかなる面あるいは線あるいは点において他の別世界と接触しうるかということを示す一例として、一部の読者にはまた多少の興味があるかもしれないと思った次第である。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆 別巻2 相撲」作品社
1991(平成3)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第九巻」岩波書店
1961(昭和36)年6月初版発行
初出:「時事新報」
1935(昭和10)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:富田倫生
校正:かとうかおり
2003年3月6日作成
2011年4月19日修正
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書誌 / Bibliography
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寺田 寅彦「相撲」(新字新仮名)、底本『日本の名随筆 別巻2 相撲』作品社、1991年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001689_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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