一　シャンハイ

四月一日

朝のうちには緑色をしていた海がだんだんに黄みを帯びて来ておしまいにはまっ黄色くなってしまった。船の歩みはのろくなった。<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>のほうでは引っ切りなしに測深機を投げて船あしをさぐっている。とうとう船が止まった。推進機でかきまぜた<ruby><rb>泥水</rb><rt>どろみず</rt></ruby>が恐ろしく大きな<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を作って潮に流されて行く。<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>に遠くねずみ色に低い陸地が見える。

日本から根気よく船について来た<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>の数がだんだんに減ってけさはわずかに二三羽ぐらいになっていたが、いつのまにかまた数がふえている。これはたぶんシナの鴎だろう。

四月二日

<ruby><rb>呉淞</rb><rt>ウースン</rt></ruby>で<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>している。両岸は目の届く限り<ruby><rb>平坦</rb><rt>へいたん</rt></ruby>で、どこにも山らしいものは見えない。

シナ人の<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>が小船でやって来て長い<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>の先に網を付けたのを甲板へさし出す。小船の<ruby><rb>苫屋根</rb><rt>とまやね</rt></ruby>は竹で編んだ円頂で黒くすすけている。艫に大きな飯たき<ruby><rb>釜</rb><rt>がま</rt></ruby>をすえ、たきたての飯を<ruby><rb>櫃</rb><rt>ひつ</rt></ruby>につめているのもある。その飯の色のまっ白なのが妙に目についてしようがなかった。そしてどういうものか悲しいようなさびしいような心持ちを起こさせた。

テンダーに乗って江をさかのぼる。朱や緑で塗り立てたジャンクがたくさんに通る。両岸の陸地にはところどころに柳が芽を吹き畑にも麦の緑が美しい。ペンク氏は「どこかエルベ河畔に似ている」と言う。……

……宿の小僧に連れられて電車で<ruby><rb>徐家滙</rb><rt>ジカウェイ</rt></ruby>の測候所を見に行く。郊外へ出ると麦の緑に菜の花盛りでそら豆も咲いている。百姓屋の庭に、青い服を着て坊主頭に豚の尾をたらした小児が羊を<ruby><rb>繩</rb><rt>なわ</rt></ruby>でひいて遊んでいる。道ばたにところどころ<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>があって、そのそばに<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>を三尺ぐらいの高さに長方形に積んだ低い家のような形をしたものがある。墓場だと小僧が言う。

測候所では二時に来いというからそれまで近所を見てあるく。向こう側にジェスウィトの寺院がある。僧院の廊下へはいって見ると、頭を大部分<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>って頂上に一握りだけ逆立った毛を残した、そして<ruby><rb>関羽</rb><rt>かんう</rt></ruby>のような顔をした男が腕組みをしてコックリコックリと廊下を歩いている。黙っておこったような顔をしてわき目もふらず歩いて行ってまた引き返して来る。……異国へ来たという事実がしみじみ腹の中へしみ込んだ。

寺院の鐘が晴れやかな旋律で鳴り響いた。会堂の窓からのぞいて見ると若いのや年取ったのやおおぜいのシナの婦人がみんなひざまずいてそしてからだを揺り動かして拍子をとりながら何かうたっている。

道ばたで薄ぎたないシナ人がおおぜい<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>を細かく砕いて<ruby><rb>篩</rb><rt>ふるい</rt></ruby>で<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>り分けている。雨が少し降って来た。柳のある土手へ<ruby><rb>白堊塗</rb><rt>はくあぬ</rt></ruby>りのそり橋がかかってその下に文人画の小船がもやっていた。なんだか落ち着いたいい心持ちになる。……

夜<ruby><rb>福州路</rb><rt>ふくしゅうろ</rt></ruby>の芝居を見に行った。恐ろしく美々しい衣装を着た役者がおおぜいではげしい立ち回りをやったり、<ruby><rb>甲高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い悲しい声で歌ったりした。<ruby><rb>囃</rb><rt>はやし</rt></ruby>の楽器の音が耳の痛くなるほど騒がしかった。ふたをした茶わんに茶を入れて持って来た。熱湯で湿した顔ふきを持って来た。……少しセンチメンタルになる。

帰りに<ruby><rb>四馬路</rb><rt>スマロ</rt></ruby>という道を歩く。油絵の額を店に並べて、美しく化粧をした童女の並んでいる家がところどころにある。みんな<ruby><rb>娼楼</rb><rt>しょうろう</rt></ruby>だという。<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいぎ</rt></ruby>が<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>に乗って美しい扇を開いて胸にかざしたのが通る。輿をささえる長い棒がじわじわしなっていた。活動写真の看板に「電光彩戯」と書いてある。

四月三日

電車で<ruby><rb>愚園</rb><rt>ぐえん</rt></ruby>に行く。雨に湿った園内は人影まれで静かである。立ち木の枝に<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の巣がところどころのっかっている。裏のほうでゴロゴロと板の上を何かころがすような音がしている。行って見るとインド人が四人、ナインピンスというのだろう、木の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>をころがして向こうに立てた<ruby><rb>棍棒</rb><rt>こんぼう</rt></ruby>のようなものを倒す遊戯をやっている。暗い<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>な顔をして黙ってやっている。棍棒が倒れるとカランカランという音がして、それが小屋の中から静かな園内へ響き渡る。リップ・ヴァン・ウィンクルの話を思い出しながら外へ出る。木のこずえにとまった一羽の鴉が頭を傾けて黙ってこっちを見ていた。……ゴロゴロ、カランカランという音が思い出したように響いていた。

（大正九年六月、渋柿）

二　ホンコンと九竜

夜の八時過ぎに<ruby><rb>呉淞</rb><rt>ウースン</rt></ruby>を出帆した。ここから乗り込んだ<ruby><rb>青島</rb><rt>チンタオ</rt></ruby>守備隊の軍楽隊が<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の甲板で奏楽をやる。上のボートデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた。十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。

四月四日

日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスディーンストがある。同じ事でも西洋の事は西洋人がやっているとやはり自然でおかしくない。

四月五日

朝甲板へ出て見ると右舷に島が二つ見える。窓ガラスの<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>をしているかわいらしい子供の船員に聞いてみたが島の名もわからない、<ruby><rb>福州</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>の沖だろうという。

甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われる。

黒服を着た顔色の赤い中年の保母が、やっと歩きだしたくらいの子供の手を引いて歩いている。そのあとを<ruby><rb>赫鬚</rb><rt>あかひげ</rt></ruby>をはやしたこわい顔の男がおもちゃの<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>を片手にぶら下げてノソリノソリついて歩く。ドイツ士官が若いコケットと腕を組んで自分らの前を行ったり来たりする。女は通りがかりに自分らのほうを<ruby><rb>尻目</rb><rt>しりめ</rt></ruby>ににらんで口の内で何かつぶやいた、それは Grob \! と言ったように思われた。

四月六日

昨夜雨が降ったと見えて甲板がぬれている。いかめしくとがった岩山が見える。ホンコンと<ruby><rb>九竜</rb><rt>くりゅう</rt></ruby>の間の海峡へはいるのだという。山の新緑が美しい。山腹には不規則にいろいろな建物が重なり合って立っている。みんな妙によごれくすんでいるが、それがまたなんとも言われないように美しい絵になっている。それは絵はがきや<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>の美しさではなくて、どうしても油絵の美しさである。……

植物園では<ruby><rb>仏桑花</rb><rt>ぶっそうげ</rt></ruby>、ベコニア、ダリア、カーネーション、それにつつじが満開であった。暑くて白シャツの胸板のうしろを汗の流れるのが気持ちが悪かった。両手を見るとまっかになって指が急に<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>ったように感じられた。

ケーブルカーの車掌は何を言っても返事をしないですましていた。話をしてはいけない規則だと見える。<ruby><rb>急勾配</rb><rt>きゅうこうばい</rt></ruby>を登る時に両方の耳が変な気持ちになる。気圧が急に下がるからだという。つばを飲み込むと直る。ピークで降りるとドンが鳴った。涼しい風が吹いて汗が収まった。頂上の測候所へ行って案内を頼むと水兵が望遠鏡をわきの下へはさんで出て来ていろいろな器械や午砲の装薬まで見せてくれる、一シリングやったら握手をした。……

夕飯後に甲板へ出て見るとまっ黒なホンコンの山にはふもとから頂上へかけていろいろの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともって、宝石をちりばめた王冠のようにキラキラ光っている。ルビーやエメラルドのような一つ一つの灯は濃密な南国の夜の空気の奥にいきいきとしてまたたいている。こんな景色は生まれて始めて見るような気がする。……シナ人が<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>寝台を売りに来たのを買って涼みながらＴ氏と話していると、浴室ボーイが船から出かけるのを見たから頼んで絵はがきを出してもらう。<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>へあやしげな小船をこぎよせる者があるから見ていると盛装したシナ婦人が出て来た。白服に着かえた船のボーイが桟橋の上をあちこちと歩いている。白のエプロンをかけた船のナースがシェンケでポルト酒かなにかもらってなめている。例のドイツ士官のコケットもきょうは涼しそうに着かえて歩きまわっている。

四月七日

朝食後に上陸して<ruby><rb>九竜</rb><rt>くりゅう</rt></ruby>を見に行く。……海岸に石切り場がある。<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の風化した柔らかい岩の中に<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の大きな<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>がはまっているのを火薬で割って出すらしい。石のくずを方七八<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ぐらいに砕いて<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>り分けている。これを道路に敷くのだと見えて蒸気ローラーが向こうに見える。その煙突からいらだたしくジリジリと出る煙を見ても暑くて<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>がかわく。道ばたを見るとそら色の朝顔が野生していた。……

美しい緑の草原の中をまっかな点が動いて行くと思ったらインド人の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>であった。……町の並み木の影でシナの女がかわいい西洋人の子供を遊ばしている。その隣では<ruby><rb>仏桑花</rb><rt>ぶっそうげ</rt></ruby>の燃ゆるように咲き乱れた門口でシャツ一つになった年とった男が植木に水をやっていた。

測候所の向かいは兵営で、インド人の兵隊が体操をやっている。運動場のすみの木陰では楽隊が<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。

船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>に来ていた。そしていかにもシナ人らしくなごりを惜しんでいるさまに見えた。中には若い美しい女もいた。そしてハンケチや扇にいろいろの表情を使い分けて見せるのであった。十二時過ぎに出帆するとき見送りの船で盛んに爆竹を鳴らした。

甲板へズックの日おおいができた。気温は高いが風があるのでそう暑くはない。チョッキだけ白いのに換える。甲板の<ruby><rb>寝椅子</rb><rt>ねいす</rt></ruby>で日記を書いていると、十三四ぐらいの女の子がそっとのぞきに来た。黒んぼの<ruby><rb>子守</rb><rt>こもり</rt></ruby>がまっかな上着に<ruby><rb>紺青</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>に<ruby><rb>白縞</rb><rt>しろじま</rt></ruby>のはいった<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着て二人の子供を遊ばせている。黒い素足のままで。

ホンコンから乗った若いハイカラのシナ人の細君が、<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>をふかしていた。夫もふかしていた。

（大正九年七月、渋柿）

三　シンガポール

四月八日

朝から蒸し暑い。甲板でハース氏に会うと、いきなり、<ruby><rb>芝</rb><rt>しば</rt></ruby>の<ruby><rb>増上寺</rb><rt>ぞうじょうじ</rt></ruby>が焼けたが知っているか、きのうのホンコン新聞に出ていたという。かなりにもう遠くなった日本から思いがけなくだれかが跡を追って来てことづてを聞かされるような気がした。

船客の飼っている小鳥が<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を放れて食堂を飛び回るのをつかまえようとして騒いでいた。鳥はここが果てもない大洋のまん中だとは夢にも知らないのだろう。

飛び魚がたくさん飛ぶ、油のようなうねりの上に潮のしずくを引きながら。そして再び波にくぐるとそこから細かい波紋が起こってそれが大きなうねりの上をゆるやかに広がって行く。

きのう日記をつけている時にのぞいた子供に、どこまで行くと聞いたらスペインへと言う、スペイン人かと聞くとそうだといった。

全部白服に着かえる。

四月九日

ハース氏と国歌の事を話していたら、同氏が「君が代」を訳したのがあると言って日記へ書き付けてくれた、そしてさびたような低い声で、しかし正しい旋律で歌って聞かせた。

きのうのスペインの少女の名はコンセプシオというのだそうな。自分ではコンチャといっている。首飾りに聖母の像のついたメダルを三つも下げている。

昼ごろサイゴンの沖を通る。

四月十日

朝十時の奏楽のときに<ruby><rb>西村</rb><rt>にしむら</rt></ruby>氏がそばへ来て楽隊のスケッチをしていた。ボーイがリモナーデを持って来たのを寝台の<ruby><rb>肱掛</rb><rt>ひじか</rt></ruby>けの穴へはめようとしたら、穴が大きすぎたのでコップがすべり落ちて割れた。そばにいた人々はだれも知らん顔をしていた。かえってきまりが悪かった。

午後には海が純粋なコバルト色になった。

四月十一日

きょうは<ruby><rb>復活祭</rb><rt>オステルン</rt></ruby>だという。朝飯の食卓には朱と緑とに染めつけたゆで玉子に<ruby><rb>蝋細工</rb><rt>ろうざいく</rt></ruby>の<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>を添えたのが出る。米国人のおばあさんは<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>とは知らずかじってみて変な顔をした。ハース氏に聞いてみると、これは純粋なドイツの古習で、もとはある女神のためにささげた供物だそうな。今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜させる、そしてこの玉子は<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>が来て置いて行ったのだと教えるという。

朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来ていた、そして強い<ruby><rb>驟雨</rb><rt>しゅうう</rt></ruby>が襲って来た。海の色は暗緑で陸近いほうは美しい浅緑色を示していた。みごとな<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>が立ってその下の海面が強く黄色に光って見えた。<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>の島の上には大きな<ruby><rb>竜巻</rb><rt>たつまき</rt></ruby>の雲のようなものがたれ下がっていた。ミラージュも見えた。すべてのものに強い強い熱国の光彩が輝いているのであった。

船はタンジョンパガールの<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>に横づけになる。右舷に見える<ruby><rb>懸崖</rb><rt>けんがい</rt></ruby>がまっかな<ruby><rb>紅殻色</rb><rt>べんがらいろ</rt></ruby>をしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。

西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出かける。祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる。つり橋のたもとの<ruby><rb>煙草屋</rb><rt>たばこや</rt></ruby>を見つけて絵はがきと切手を買う。三銭切手二十枚を七十五銭に売るから妙だと思って聞くと「コンミッシォン」だと言った。

<ruby><rb>九竜</rb><rt>くりゅう</rt></ruby>で見たと同じ道普請のローラーで<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>のくずをならしている。その前を赤い腰巻きをしたインド人が赤旗を持ってのろのろ歩いていた。

エスプラネードを歩く。まっ黒な人間が派手な色の布を頭と腰に巻いて歩いているのが、ここの自然界とよく調和していると思って感心した。

宝石屋の前を通ると、はいって見ろと無埋にすすめる。見るだけでいいからはいれという。自分の持っている<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>をほめて、売ってくれと言う。売るのがいやなら宝石と換えぬかという。Ｔ氏の傘を見て This no good\. というと、また一人が This good, but that the best\. と訂正した。

いわゆる日本街を人力車で行った。道路にのぞんだヴェランダに<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の寝巻のようなものを着た色の黒い女の物すごい<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>が見えた、と思う間に通り過ぎてしまう。

オテルドリューロプで昼食をくう。薬味のさまざまに多いライスカレーをくって氷で冷やしたみかん水をのんで、かすかな電扇のうなり声を聞きながら、白服ばかりの男女の外国人の客を見渡していると、頭の中がぼうとして来て、真夏の昼寝の夢のような気がした。

植物園へはいる。<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>の上に遊んでいた<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>はわれわれが近よるとそばの木にかけ上った。木の間にはきれいな鳥も見かける。ねむの花のような<ruby><rb>緋色</rb><rt>ひいろ</rt></ruby>の花の満開したのや、<ruby><rb>仏桑花</rb><rt>ぶっそうげ</rt></ruby>の大木や、扇を広げたような<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>の一種もある。背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を指さし「<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>が食います」と言った。<ruby><rb>人糞</rb><rt>じんぷん</rt></ruby>の臭気があるというドリアンの木もある。巡査は手を鼻へやってかぐまねをしてそして手をふって「ノー・グード」と言い、今度は食うまねをして「ツー・イート・グード」と言う。動物はいないかと聞いたら「<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>と<ruby><rb>尾長猿</rb><rt>おながざる</rt></ruby>、おしまい、finished」といった。たぶん死んだとでもいう事だろうと思った。

水道の貯水池の所は<ruby><rb>眺望</rb><rt>ちょうぼう</rt></ruby>がいい。暑そうな<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の奥に見える土地がジョホールだという。大きな枝を張った木陰のベンチに人相の悪い雑種のマライ人が三人何かコソコソ話し合っていた。

市場へ行く。玉ねぎや<ruby><rb>馬鈴薯</rb><rt>ばれいしょ</rt></ruby>に交じって椰子の実やじゃぼん、それから獣肉も干し魚もある。<ruby><rb>八百屋</rb><rt>やおや</rt></ruby>がバイオリンを鳴らしている。<ruby><rb>菓汁</rb><rt>かじゅう</rt></ruby>の飲料を売る水屋の小僧もあき<ruby><rb>罐</rb><rt>かん</rt></ruby>をたたいて踊りながら客を呼ぶ。

船へ帰るとやっぱり<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰ったような気がする。夕飯には小羊の乗った復活祭のお菓子が出る。夜は荷積みで騒がしい。

四月十二日

朝から汗が流れる。<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>にはいろいろの物売りが出ている。<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキ、<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>、貝がら、貝細工、菊形の<ruby><rb>珊瑚礁</rb><rt>さんごしょう</rt></ruby>、<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>貝など。

出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいになった。けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人あるとハース氏が言う。<ruby><rb>神戸</rb><rt>こうべ</rt></ruby>で乗った時は全体で九人であったのに。

マライ人がカノーのようなものに乗って、わが船のそばへ群がって来て口々にわめく。乗客が銭を投げると争ってもぐって拾い上げる。I say \! Herr Meister \! Far away, far away \! One dollar, all dive \! などと言っているらしい。自分はどうしても銭をなげる気になれなかった。

船が出る時<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>に立った見送りの一組が「オールド・ラング・サイン」を歌った。船の上でも下でも雪白の服を着た人の群れがまっ白なハンケチをふりかわした。

（大正九年八月、渋柿）

四　ペナンとコロンボ

四月十三日

……馬車を雇うて植物園へ行く途中で寺院のような所へはいって見た。祭壇の前には鉄の<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>がある。<ruby><rb>参詣者</rb><rt>さんけいしゃ</rt></ruby>はその背中に突き出た<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のようなものの上で<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>を割って、その白い粉を額へ塗るのだそうな。どういう意味でそうするのか聞いてもよくわからなかった。まっ黒な鉄の鳥の背中は油を浴びたように光っていた。壇に向かった回廊の二階に大きな張りぬきの異形な人形があって、土人の子供がそれをかぶって踊って見せた。堂のすみにしゃがんでいる年とった土人に、「ここに祭ってあるゴッドの名はなんというか」と聞いたら上目に自分の顔をにらむようにしてただ一言「スプロマニーン」と答えた――ようであった。しかしこれは自分の問いに答えたのか、別の事を言ったのだかよくわからなかった。ただこの<ruby><rb>尻上</rb><rt>しりあ</rt></ruby>がりに発音した奇妙な言葉が強く耳の底に刻みつけられた。こんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な事でも自分の異国的情調を高めるに充分であった。

立派なシナ商人の邸宅が土人の<ruby><rb>茅屋</rb><rt>ぼうおく</rt></ruby>と対照して何事かを思わせる。

<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>の林に野羊が遊んでいる所もあった。<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>が至るところにあって故国を思わせる。道路はシンガポールの<ruby><rb>紅殻色</rb><rt>べんがらいろ</rt></ruby>と違ってまっ白な<ruby><rb>花崗砂</rb><rt>かこうしゃ</rt></ruby>である。

植物園には<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>のような大木があったり、いったいにどこやら日本の大庭園に似ていた。

夜船へ帰って、甲板でリモナーデを飲みながら<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>を見ていると、そこに立っているアーク燈が妙なチラチラした青い光と煙を出している。それが急にパッと消えると同時に外のアーク燈も皆一度に消えてまっ暗になった。船の陰に横付けになって、清水を積んだ小船が三<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>、ポンプで本船へくみ込んでいた。その小船に小さな小さなねこ――ねずみぐらいなねこが一匹いた。海面には赤く光るくらげが二つ三つ浮いていた。

ハース氏夫妻と話していると近くの時計台の鐘がおもしろいメロディーを打つ。あれはロンドンの議事堂の時計を模しているのだとハース氏がいう。西欧の寺院の鐘声というものに関するあらゆる連想が雑然と頭の中に群がって来た。

きのうの夕食に出たミカドアイスクリームというのは少し日本人の気持ちを悪くさせる性質のものではないかとハース氏に言ったら、「そんな事はない、それより毒滅という薬の広告のほうがはるかにドイツ人にわるく当たる」と言って笑った。

四月十四日

夜甲板の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>によりかかってマンドリンを忍び音に鳴らしている女があった。下の食堂では独唱会があった。

四月十五日

自分らの隣の椅子へ子供づれの夫婦が来た。母親がどこかへ行ってしまうと、子供はマーンマーマーンマーと泣き声を出す。父親が<ruby><rb>子守</rb><rt>こも</rt></ruby>り歌のようなものを歌ったり、口笛を吹いたりしても効能がない。

四月十六日

喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。

四月十七日

きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。

四月十八日

顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた。Ｔ氏と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけた。市場でマンゴスチーンを買っていたら、子供がおおぜいよって来て銭をねだり、馬車を追っかけて来たがとうとう何もやらなかった。<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>から七マイルの仏寺へ向かう。途中の沼地に草が茂って水牛が遊んでいたり、川べりにボートを造っている小屋があったり、みんなおもしろい画題になるのであった。土人の女がハイカラな洋装をしてカトリックの教会からゾロゾロ出て来るのに会った。

寺へ着くと子供が<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の花を持って来て鼻の先につきつけるようにして買え買えとすすめる。<ruby><rb>貝多羅</rb><rt>ばいたら</rt></ruby>に彫った経をすすめる老人もある。ここの案内をした老年の土人は病気で熱があるとかいってヨロヨロしていたが<ruby><rb>菩提樹</rb><rt>ぼだいじゅ</rt></ruby>の葉を採ってみんなに一枚ずつ分けてくれた。カンジーにあるという仏足や仏歯の模造がある。本堂のような所にはアラバスターの仏像や、大きな<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>を彫って黄金を塗りつけた<ruby><rb>涅槃像</rb><rt>ねはんぞう</rt></ruby>がある。Ｔ氏はこれに花を供えて拝していた。

帰途に案内者のハリーがいろいろの人の推薦状を見せて自慢したりした。Ｎ氏の英語はうまいがＴ氏のはノーグードだなどと批評した。年を聞くと四十五だという。われわれは先祖代々の宗教を守っているのに、土人の中には少し金ができるとすぐイギリス人のまねをして<ruby><rb>耶蘇信者</rb><rt>やそしんじゃ</rt></ruby>になるのがある、あれはいけない、どの宗教でもつまり中身は同じで、悪い事をすな、ズーグードと言うだけの事だ、などと一人で論じていた。ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が<ruby><rb>貝多羅</rb><rt>ばいたら</rt></ruby>の葉で作った大きな<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、<ruby><rb>亭前</rb><rt>ていぜん</rt></ruby>の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。Ｎ氏がそれを<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>のボタン穴にさしたからＴ氏と自分もそのとおりにした。馬丁はうれしそうにニコニコしていた。

（大正九年九月、渋柿）

五　アラビア海から紅海へ

四月二十日

昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。

午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも<ruby><rb>燕尾服</rb><rt>えんびふく</rt></ruby>の連中がだんだんにやってくる。女も美しい<ruby><rb>軽羅</rb><rt>けいら</rt></ruby>を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。<ruby><rb>横浜</rb><rt>よこはま</rt></ruby>から乗って来た英人のＣがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。

反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。

四月二十二日

夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。

英国人で五十歳ぐらいの背の高い<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの<ruby><rb>独唱</rb><rt>ソロ</rt></ruby>はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。

自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>であった彼とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。

（この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。）

四月二十三日

朝食後に出て見ると<ruby><rb>左舷</rb><rt>さげん</rt></ruby>に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。

朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや<ruby><rb>平坦</rb><rt>へいたん</rt></ruby>なほうの内地は一面に暑そうな<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した<ruby><rb>砂漠</rb><rt>さばく</rt></ruby>があるらしい。この気味のわるい<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。

土人がいろいろの物を売りに来る。<ruby><rb>駝鳥</rb><rt>だちょう</rt></ruby>の卵や羽毛、羽扇、<ruby><rb>藁細工</rb><rt>わらざいく</rt></ruby>のかご、貝や<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の首飾り、かもしかの<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>、<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>の<ruby><rb>顎骨</rb><rt>がくこつ</rt></ruby>などで、いずれも相当に高い値段である。

船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で<ruby><rb>伝法肌</rb><rt>デスペラド</rt></ruby>といったような男がシェンケから大きな<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>り<ruby><rb>針</rb><rt>ばり</rt></ruby>を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの<ruby><rb>麻繩</rb><rt>あさなわ</rt></ruby>のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて<ruby><rb>舷側</rb><rt>げんそく</rt></ruby>から投げ込んだ。<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。

自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>はいつまでも釣れそうにはなかった。

土人が二人、甲板で手拍子足拍子をとって踊った。土人の中には大きな<ruby><rb>石鹸</rb><rt>せっけん</rt></ruby>のような格好をした<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。

一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかったので五時半ごろまで寝た。夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて<ruby><rb>船室</rb><rt>キャビン</rt></ruby>の中も涼しかった。

四月二十五日

十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。

一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。

四月二十六日

午後Ｔ氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た<ruby><rb>煎茶器</rb><rt>せんちゃき</rt></ruby>を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、<ruby><rb>神戸</rb><rt>こうべ</rt></ruby>からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のＮ氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケットであった。

（大正九年十月、渋柿）

六　紅海から運河へ

四月二十七日

午前<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>に<ruby><rb>双生</rb><rt>ツウイン</rt></ruby>の島を見た。一方のには燈台がある。ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い。地図で見ると<ruby><rb>兄弟島</rb><rt>デイブルーデル</rt></ruby>というのらしい、どちらが兄だかわからなかった。

アデンを出てから空には一点の雲も見ないが、空気がなんとなく濁っている。ハース氏の船室は後甲板の上にあるが、そこでは黒の帽子を一日おくと白く<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が積もると言っていた。どうもアフリカの内地から来る非常に細かい<ruby><rb>砂塵</rb><rt>さじん</rt></ruby>らしい。

午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやった。綱引きやら<ruby><rb>闘鶏</rb><rt>ハーネンカンプ</rt></ruby>――これは二人が<ruby><rb>帆桁</rb><rt>ほげた</rt></ruby>の上へ向かい合いにまたがって、<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>でなぐり合って落としっくらをするのである。それから Geld Suchen im Mehl というのは、<ruby><rb>洗面鉢</rb><rt>せんめんばち</rt></ruby>へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしかに奇観である。Aepfel Suchen im Wasser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>の感を少なからず助長するのであった。

船首の突端へ行って海を見おろしていると<ruby><rb>深碧</rb><rt>しんぺき</rt></ruby>の水の中に桃紅色の<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか<ruby><rb>蝦</rb><rt>えび</rt></ruby>だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。

<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は<ruby><rb>橙色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。<ruby><rb>紅海</rb><rt>こうかい</rt></ruby>は大陸の<ruby><rb>裂罅</rb><rt>れっか</rt></ruby>だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら<ruby><rb>実認</rb><rt>リアライズ</rt></ruby>されるような気がした。

四月二十八日

朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。

土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、<ruby><rb>橄欖樹</rb><rt>かんらんじゅ</rt></ruby>で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。

十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り<ruby><rb>砂漠</rb><rt>さばく</rt></ruby>でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに<ruby><rb>兀</rb><rt>ごつ</rt></ruby>とした岩山の<ruby><rb>懸崖</rb><rt>けんがい</rt></ruby>が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。<ruby><rb>苦海</rb><rt>ビッターシー</rt></ruby>では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけにはさすがに樹木の緑があって木陰には牛や<ruby><rb>驢馬</rb><rt>ろば</rt></ruby>があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって<ruby><rb>駱駝</rb><rt>らくだ</rt></ruby>が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った<ruby><rb>砂波</rb><rt>サンドリップル</rt></ruby>がみごとにできていたり、草のはえた所だけが<ruby><rb>風蝕</rb><rt>ふうしょく</rt></ruby>を受けないために<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>になっているのもあった。

夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって<ruby><rb>砂漠</rb><rt>さばく</rt></ruby>のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた<ruby><rb>北極星</rb><rt>ポーラリス</rt></ruby>が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。

スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。

（大正九年十一月、渋柿）

七　ポートセイドからイタリアへ

四月二十九日

昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い<ruby><rb>泥沼</rb><rt>どろぬま</rt></ruby>のような所に<ruby><rb>紅鶴</rb><rt>フラミンゴー</rt></ruby>の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。

<ruby><rb>神戸</rb><rt>こうべ</rt></ruby>からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。

「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の<ruby><rb>煙草売</rb><rt>たばこう</rt></ruby>りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。

音楽が水の上から聞こえて来る。<ruby><rb>舷側</rb><rt>げんそく</rt></ruby>から見おろすと一<ruby><rb>隻</rb><rt>せき</rt></ruby>のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>をあやつっている。その前には<ruby><rb>麦藁帽</rb><rt>むぎわらぼう</rt></ruby>の中年の男と、白地に赤い<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>のはいった<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に桃色リボンに束ねている。丸く<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そばかす</span>のある<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>のあたりにはまだらに<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の跡も見えた。それで精一杯の<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>を浮かべて<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の<ruby><rb>舷側</rb><rt>げんそく</rt></ruby>へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。

七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運河会社の<ruby><rb>円頂塔</rb><rt>キューポラ</rt></ruby>は朝日に輝いていた。

地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの<ruby><rb>瓶入</rb><rt>びんい</rt></ruby>りを買わされた。

四月三十日

朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。

午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。

ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N\. L\. D\. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……Ｔ氏と<ruby><rb>艙</rb><rt>ふなぐら</rt></ruby>へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。

五月一日

午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。

九時ごろから喫煙室でＮ君ハース氏らと<ruby><rb>袂別</rb><rt>けつべつ</rt></ruby>の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の<ruby><rb>綴音</rb><rt>シラブル</rt></ruby>「ボー」に強い<ruby><rb>揚音符</rb><rt>アクセント</rt></ruby>をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……

（大正九年十二月、渋柿）

八　ナポリとポンペイ

五月二日

朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が<ruby><rb>巌壁</rb><rt>がんぺき</rt></ruby>に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の<ruby><rb>片田舎</rb><rt>かたいなか</rt></ruby>に育った子供の自分が、好奇心にみちた<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。

検疫がすんで<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。Ｔ氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になることにした。<ruby><rb>無蓋</rb><rt>むがい</rt></ruby>の馬車にぎし詰めに詰め込まれてナポリの町をめぐり歩いた。

とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たる祭壇の<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>が、<ruby><rb>格子越</rb><rt>こうしご</rt></ruby>しに訴える信者の<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら<ruby><rb>牢屋</rb><rt>ろうや</rt></ruby>を思わせるような厳重な鉄の格子には、<ruby><rb>剛</rb><rt>かた</rt></ruby>く冷たくとがった<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。

ここを出て馬車は狭い<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。Ｔ氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。

停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。<ruby><rb>熔岩</rb><rt>ようがん</rt></ruby>が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な<ruby><rb>泥土塗</rb><rt>どろつちぬ</rt></ruby>りの<ruby><rb>田舎家</rb><rt>いなかや</rt></ruby>もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。

馬車が古い昔の町を通り抜けると<ruby><rb>馬鈴薯畑</rb><rt>ばれいしょばたけ</rt></ruby>の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。

ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>である。この荒涼な墓場の背景には、美しい<ruby><rb>円錐火山</rb><rt>えんすいかざん</rt></ruby>が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。

狭い町は石畳になって、それに車の<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>が深い<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ<ruby><rb>鏽</rb><rt>さ</rt></ruby>びて、あがった<ruby><rb>鰻</rb><rt>うなぎ</rt></ruby>を思わせるような無気味な<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>をさらしてうねっていた。

富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。<ruby><rb>脱衣棚</rb><rt>だついだな</rt></ruby>が日本の<ruby><rb>洗湯</rb><rt>せんとう</rt></ruby>のそれと似ているのもおもしろかった。<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>にはいっては<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ながいす</rt></ruby>に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと<ruby><rb>昼寝</rb><rt>シエスタ</rt></ruby>をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。

<ruby><rb>劇場</rb><rt>テアトロ</rt></ruby>の中のまるい広場には、緑の草の<ruby><rb>毛氈</rb><rt>もうせん</rt></ruby>の中に真紅の<ruby><rb>虞美人草</rb><rt>ぐびじんそう</rt></ruby>が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると<ruby><rb>鳥頭</rb><rt>とりかぶと</rt></ruby>の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>はぽろぽろになっているのに。

酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の跡や、粉をこねた<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>のようなものもころがっていた。<ruby><rb>娼家</rb><rt>しょうか</rt></ruby>の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene Stellungen を示したものだとハース氏が説明して聞かした。青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。

少し<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>やみらしい案内者が No time, Sir \! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も<ruby><rb>陳列館</rb><rt>ミュゼオ</rt></ruby>の中も落ち着いて見る暇はなかった。陳列館には二千年前の<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>の姿をそのままにとどめた<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた。

火山の名をつけた<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>で昼飯を食った。卓上に出て来た<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>の名もやはり同じ名であった。少しはなれた食卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハース氏が「アナタハニホンノカタデスカ」と話しかけると Ja \! といってうなずいて見せた。こちらがわざわざ日本語で話しかけるのに Ja \! はおかしいと言ってハース氏は私の耳につぶやいた。しかし自分はおかしいとは思えなかった。それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語るものだとしか思われなかった。名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のＮ氏であった。Ｎ氏の話によると自分の旧知のＫ氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら、そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおもしろくも思った。

旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった。その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさといったようなものに襲われたのであった。

ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをＴ氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。

（大正十年二月、渋柿）

九　ゲノアからミラノ

五月三日

朝モントクリストの島を見て通った。鯨が潮を吹いていた。地中海に鯨がいてはいけない埋由はないだろうがなんだか意外な感じがした。昼過ぎから前方に陸が見えだし五時ごろにいよいよゲノアに着いた。

三十五日間世話になった船員にそれぞれトリンクゲルトを渡さなければならないのに、ちょうど食事時でボーイらは皆食堂へ出ているのでぐあいが悪くて少し気をもんだ。狭い廊下で待ち伏せして一人一人渡すのに骨が折れた。彼らはそれをかくしにねじ込みながら、カイゼルひげの立派な顔をしゃくって Glückliche Reise \! などと言った。

ハース氏は、イタリアの人足はずるくて、うっかりしていると荷物なんかさらわれるからと言って、先に<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>へおりた自分らに見張り番をさせておいて船からたくさんのカバンや<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>をおろさせた。税関の検査は簡単に済んだ。自分がペンク氏から借りて持って来た海図の巻物を、なんだと聞かれたから、いいかげんのイタリア語でカルタマリーナと答えたら、わかったらしかった。

ホテル・ロアイヤールというのの馬車でハース氏の親子三人といっしょに宿へ着いた。ハース氏が安い<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をとかけ合ってくれて、No\.65 という三階の部屋へはいる。あまり愉快な部屋ではない。窓から見おろすとそこは中庭で、井戸をのぞくような気がする。下水のそばにきたない木戸があって、それに<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>らしいものがからんでいる。犬が一匹うろうろしている。片すみには<ruby><rb>繩</rb><rt>なわ</rt></ruby>を張って、つぎはぎのせんたく物が干してある。表の町のほうでギターにあわせて歌っている声もこの井戸の底から聞こえて来た。遠くの空のほうからは寺院の鐘の旋律も聞こえていた。夕食には自分らのほかにはたいして客もなかった。デセールの干し葡萄や干し<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>やみかんなどを、本場だからたくさん食えと言ってハース氏がすすめた。「エンリョはいりません」など取っておきの日本語を出したりした。

夜久しぶりで動かない陸上の寝室で寝ようとすると、窓の外の例の中庭の底のほうから男女のののしり合う声が聞こえて来て、それが妙に気になって寝つかれなかった。ことに女の甲高なヒステリックな声が中庭の四方の壁に響けて鳴っていた。夫婦げんかでもしているのか、それとも狂人だかわからなかった。

五月四日

朝八時四十分に立つハース氏を見送って停車場まで行った。「きょうからわれら二人は Waisen（みなし子）になる」と言ったら、「早くベルリンへついて、Weise Kinder（賢い子）におなりなさい」と言って笑った。

電車でカンポサントへ行った。もっとさびしみのある所かと思ったら意外であった。堅い感じのする回廊の床も壁も一面に棺で張りつめてあって、あくどい大理石像がうるさいほど並んでいた。しかし中庭の芝地の中に簡単な十字架の並んでいるのは気持ちがよかった。そこには日本で見るような雑草の花などが咲いていた。

十一時の汽車でミラノへ向かう。しばらくは山がかった地方のトンネルをいくつも抜ける。至るところの新緑と<ruby><rb>赤瓦</rb><rt>あかがわら</rt></ruby>の家がいかにも美しい。高い<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の上の家に<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>らしいものが咲き乱れているのもあった。やがてロンバルディの平原へ出る。桑畑かと思うものがあり、また麦畑もあった。牧場のような所にはただ一面の緑草の中にところどころ群がって黄色い草花が咲いている。小川の岸には<ruby><rb>楊</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>やポプラーが並んで続いていた。草原に派手な色の着物を着た女が五六人車座にすわっていて、汽車のほうへハンカチをふったりした。やがて遠くにアルプス続きの連山の雪をいただいているのも見えだした。とある踏切の所では<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>を積んだ荷馬車が木戸のあくのを待っていた。車の上の男は赤ら顔の肩幅の広い若者でのんきらしく<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をくわえているのも絵になっていた。魚網を肩へかけ、布袋を下げた<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>漁夫らしいのも見かけた。河畔の緑草の上で、紅白のあらい<ruby><rb>竪縞</rb><rt>たてじま</rt></ruby>を着た女のせんたくしているのも美しい色彩であった。パヴィアから先には水田のようなものがあった。どんな寒村でも、寺の塔だけは高くそびえているのであった。

二時ごろミラノ着。ホテル・デュ・パルクに泊まる。子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった。<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>を見物に行く。案内のじいさんを三リラで雇ったが、早口のドイツ語はよく聞き取れなかった。<ruby><rb>夏至</rb><rt>げし</rt></ruby>の日に天井の穴から日が差し込むという事だけはよくわかった。ステインドグラスの説明には年号や使徒の名などがのべつに出て来たが、別に興味を動かされなかった。塔の屋根へ登って見おろすと、寺の前の広場の花壇がきれいな模様になっている事がよくわかった。しかし寺院はやっぱり下から見るものだと思う。

ダヴィンチの像の近くのある店先に日本の水中花を並べてあった。それには Fiori magica という札を立ててあった。宿近くの公園を散歩する。新緑の美しさは西洋へ来て以来いちばん目についたものでまた予想以上のものである。何かしら薄紅の花が満開している。そこで子供がディアボロを回して遊んでいた。

夕飯はまずく、米粒入りのスープは塩からかった。夜またドームの広場まで行く。ちょうど満月であった。青ずんだ空にはまっ白な<ruby><rb>漣雲</rb><rt>れんうん</rt></ruby>が流れて、大理石の<ruby><rb>大伽藍</rb><rt>だいがらん</rt></ruby>はしんとしていた。そこらにある電燈などのないほうがよさそうにも思われた。ドーム前の露店で絵はがきやアルバムを買った。売り子は美しい若い女で軽快な仏語をさえずっていた。

（大正十年三月、渋柿）

十　ミラノからベルリン

五月五日

七時二十分発ベルリン行きの D\-Zug に乗る。うっかりバーゼル止まりの客車へ乗り込んでいたが、車掌に注意されてあわててベルリン直行のに乗り換えた。

コモやルガノの絵のような湖も見られた。ボートの上にカンバスをかまぼこ形に張ったのが日本の屋根舟よりはむしろ文人画中の漁舟を思い出させた。きれいな小蒸汽が青い水面に八の字なりに長い波を引いてすべって行くのもあった。

牧場の周囲に板状の岩片を積んだ低い<ruby><rb>石垣</rb><rt>いしがき</rt></ruby>をめぐらし、出入り口にはターンパイクがこしらえてあった。日当たりのいい山腹にはところどころに<ruby><rb>葡萄畑</rb><rt>ぶどうばたけ</rt></ruby>がある。そして道ばたにマドンナを祭るらしい<ruby><rb>小祠</rb><rt>しょうし</rt></ruby>はなんとなく地蔵様や馬頭観世音のような、しかしもう少し人間くさい優しみのある趣のものであった。西洋でもこんなものがあるかと思ってたのもしいような気もした。山腹から谷を見おろすと、緑の野にまっ白な道路が真一文字に開かれて、その両側には新緑の並み木が規則正しく並んでいるのが、いかにも整然と片付いた感じを与えるのであった。

オーストリア人で、日本へ遊びに行った帰りだという童顔白髪の男と話す。富士屋ホテルの案内記のような小冊子をカバンから出して見せたりした。隣席のドイツ人も話しかけて、これから通過する鉄路のループの説明をしてくれたりした。山の腹の中でトンネルが大きな輪を描いていて、汽車は今はいった穴の真上へ出て来るのである。Ｔ氏が特に興味をもって根ほり葉ほり聞いていたら、そのループのプランをかいた図面をくれてよこした。

だんだん山が険しくなって、峰ははげた岩ばかりになり、谷間の<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>やレルヘンの木もまばらになり、<ruby><rb>懸崖</rb><rt>けんがい</rt></ruby>のそこかしこには不滅の雪が小氷河になって凍った滝のようにたれ下がっていた。サンゴタールのトンネルを通ってから食堂車にはいるとまもなくフィヤワルドステッター湖に近づく。湖畔の低い丘陵の丸くなめらかな半腹の草原には草花が咲き乱れ、ところどころに<ruby><rb>李</rb><rt>すもも</rt></ruby>やりんごらしい白や薄紅の花が、ちょうど粉でも振りかけたように見える。新緑のあざやかな中に<ruby><rb>赤瓦</rb><rt>あかがわら</rt></ruby><ruby><rb>白壁</rb><rt>しらかべ</rt></ruby>の別荘らしい建物が排置よく入り交じっている。そのような平和な景色のかたわらには切り立った懸崖が物すごいような地層のしわを露出してにらんでいたりする。湖の対岸にはまっ黒な森が黙って考え込んでいる。

ルツェルンも想像のほかに美しかった。ここから先の地形が、なんとなく<ruby><rb>横浜</rb><rt>よこはま</rt></ruby><ruby><rb>大船</rb><rt>おおふな</rt></ruby>間の丘陵起伏の模様と似通っていた。とある農家の裏畑では、若い女が畑仕事をしているのを見つけた。完全に発育している腰から下に<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の広がった<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着けて、がんじょうな<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいて<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をふるっている、下広がりのスタビリティのよい姿は決して見にくいものではなかった。ここに限らず女の農作をしているのを途中でいくらも見かけたが、派手なあざやかなしかし柔らかな着物の色がいずれも周囲の天然によく調和していた。そして遠くから見ると日に焼けた顔の色がどれもこれもまたなんとなく美しく輝いて見えた。このへんの風物に比べると日本のはただ灰色や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>色ばかりであるような気がした。

バーゼルからいよいよドイツへはいるのである。やっと目ざす国の国境をはいった心持ちには、長い旅から故郷に帰った時のそれに似たものがあった。フォスゲンやシュワルツワルドを遠くに見て、ライン地方の低地を過ぎて行くのである。至るところの緑野にポプラや<ruby><rb>楊</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の並み木がある。日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月明かりはあったが景色は見えなかった。科学を誇る国だけに鉄路はなめらかで、汽車の動揺や振動は少ない。ただ大風のような音を立てて夜のラインランドを下って行った。フランクフルトで十時になった。Rrrreisekissen \! Die Decken \! と呼びあるく売り子の声が広大な停車場の<ruby><rb>穹状</rb><rt>きゅうじょう</rt></ruby>の屋根に響いて反射していた。そのｒの<ruby><rb>喉音</rb><rt>こうおん</rt></ruby>や語尾の自然な音韻が紛れもないドイツの<ruby><rb>生粋</rb><rt>きっすい</rt></ruby>の気分を旅客の耳に吹き込むものであった。パンとゆで玉子を買って食う。ここでおおぜい乗り込んだ人々が自分ら二人にいろんな話をしかける。言語がよくわからないと見てとってむやみにゆっくり一語一語を区切って話す老人もあったがそのためにかえってなんの事だかわからなくなるのであった。ヤパンでは男女混浴だというがほんとうかなどと聞いたりした。このいやな老人はまもなく下車する。取って代わって派手な制服を着た男が日本に対するお世辞のような事をいうから、こっちも答礼としてドイツの科学のすぐれている点をあげてやった。服装で軍人かと思ったらフルダの市吏員であった。おりる時に握手して、機会があったら遊びに来いなどと言った。やっと二人きりになったのでそのまま横になって一寝入りする。四時ごろ一人はいって来た客が、自分らが起き上がろうとするのを、ビッテビッテと言って押しとどめて腰掛けのすみのほうへ小さくなって腰かけていた。

五月六日

目がさめると、もう夜が明けはなれていた。自分ら二人の疲れた眠り足らない目の前に、最初のドイツの朝が目さめていた。ゆるやかに波を打つ地面には麦畑らしい<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>や<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>が見え、低い松林が見え、ポプラの並み木が見え、そして小高い丘の頂上には風車小屋があって、その大きな羽根がゆるやかに回転しながら朝日にキラキラしていた。それは自分の頭の中でさまざまな美しい夢と結びつけられているあの風車であった。自分の心は子供のようにおどった。そしてこの風車が何かしらいい事の前兆ででもあるような気がするのであった。

いつのまにか汽車はくすぶった大都会の裏町を通っていた。そして大きな数階の家の高い窓に干してあるせんたく物が目についたりした。午前七時三十五分にアンハルター停車場に着いた。Ｈ氏が迎いに来ていていきなり握手をした。それが西洋くさい事には最も縁の遠い地味なＨ氏であるだけに、妙な心持ちがしたが、これから自分らが入るべき新しい変わった生活の最初の経験として無意味な事とは思われなかった。ドロシケを雇ってシェーネベルヒの下宿へ行く途中で見たベルリンの家並みは、絵はがきや写真で想像したのに比べて妙に鈍い灰色をしていた。空気がなんとなくかすんだようで、日の光が眠っているようであった。そしてなんとなくさびしく空虚な頭の底によどんでいた長い長い旅の疲労が、今にも流れ出ようとしてすきまを求めていた。

（大正十年四月、渋柿）