Soranoha

道綱の母

みちつなのはは

田山 花袋

一

呉葉は瓜の出來る川ぞひの狛の里から、十の時に出て來て、それからずつと長く兵衞佐の家に仕へた。そこには娘達が多かつたが、中でも三番目の窕子とは仲が好くつて、主從の區別はあつても、しん身に劣らぬほどの心を互ひに取りかはした。後には窕子のためにつけられた侍女のやうになつて了つた。

かの女にはいろいろなことが思ひ出される。まだ來たばかりで、朝に夕に故郷の母のことを思つて打しをれてゐると、そこにその時分丁度十三四で、年のわりに聰明で歌を詠むことが上手で、多い同胞の中ではことに器量の好い窕子がそつと寄つて來て、『お前、泣いてゐるの……。何うしたのさ……。母者がこひしいの……。もっともだとは思ふけども、あまり考へると體をわるくするからね、あまり考へない方が好いよ。それとも誰かいぢめたか何うかしの! あの仲姉さんが意地わるか何かをしたんぢやない?』その時呉葉は俄かに頭を振つたことを今でもはつきりと覺えてゐる。それから窕子のやさしい心持がかの女の體中に染みわたつて、たよる人はこの君ばかりといふ風に益々しん身になつて行つたことを覺えてゐる。

窕子と呉葉とはその時分よくこんな話をした。

『お前の國に行って見たいね……。大きな川があるんだッてね』

『え、え、それは大きな河……鴨川のようなあんな小さな川ぢやない。もつと大きい、大きい、大きい帆がいくつも通る……。舵の音が夜中でもきこえる。それはそれは大きな河……。それに、河原の畠には瓜が澤山出來てゐるんですから……』

『もっと大きくなつたら、二人きりで行かうね。二人きりで……。仲姉さんとも誰とも一緒でなしに……。そしてお前の母者や姉妹とも逢はうね。そしてその次手に、昔の奈良の都にも行つて見ようではないか!』

『さういふことが出來たら、それこそ何んなに嬉しいことか……』

呉葉はさうした話の出る度毎にいつも雲の白く山の青い故郷のことを頭に浮べた。

それは西洞院の二條を少し下つたところにある邸――兵衞佐ぐらゐの人の住んでゐる家であるから、さう大してひろくも大きくもなかつたけれども、それでも築土が長く取廻してあつて、栗や柿の樹などがその上から見えて、秋は赤い木の實が葉の落ちたあとの枝に鈴生に着いてゐるのを路行く人はよく眺めて通つて行つた。それからちよつと出ると、そこはもう西洞院の大通りで、馬車、さき追ふ人の聲に雜つて下司どもの罵り騷ぐ聲や、行縢を着けた男や、調度掛をつれた騎馬の侍や、つぼ裝束をした女達の通つて行くのがそれと手に取るやうに展けられて見えた。呉葉は幼いころ、ものの使ひに行つた歸りなどに、一の殿のすさまじく仰々しい行列に逢つて、何うすることも出來ずに、片側の塀にぴたりとその小さき身を寄せてある期間じつとしてゐたりしたことを今でもをりをり思ひ起した。そしてそれを眞直に北に行くと、大宮の築土に突當つて、そこには大きな門があつて、直垂姿や騎馬姿の絶えず出入するのを怖いものでも見るやうな心持でじつと眺めたことを思ひ起した。

兵衞佐の邸はさう綺麗に掃除されてはゐなかつたけれども、それでもかなりに廣く、竹藪があつたり、池があつたり、その池には家鴨が放たれてあつたり、厨を出たところには、溝の中に夏は杜若が色濃く鮮かに咲いてゐたりなどしたのをはつきりと覺えてゐる。……それにしてもかの女が十三から十五ぐらゐまでの間に、窕子の美しくなつたことは! 指は白魚を竝べたやうに、肌は白く透き徹るばかりに、家の内から滅多にその姿をあらはしたことはなかつたのであるけれども、それでもその美しさはいつか世間に知られて、公達だちの間には喧しく品定めされてゐるといふことが常に呉葉の耳に入つた。

呉葉は主從ではあつたけれども、しん身の同胞か何かのやうに思つてゐる窕子がさういふ風に日増に美しくなつて行くのを不思議な心持で眺めた。ある時には今までとは全く違つた窕子になつて了つたやうな氣がして、靜かに筆を手に几帳のかげに坐つてゐるのを近寄り難くじつと見守つてゐたことなどもあつた。『お前何してるのさ……そんなところにさつきからぼんやり立つて!』その時だしぬけにかう言はれて、呉葉は何と言つて好いか言葉がなくて困つた。さうかと言つて、『あんまりお美しいから、私、見てゐたのです』とも言へなかつた。もはやその頃には、窕子の二人の姉は皆なそれぞれ然るべきところへと嫁いで行つてゐた。意地のわるい仲の姉は越の國の司のもとに嫁して、かへる山を經て遠く有磯海の方へとつれられて行つてゐた。

二

窕子は半ば笑を含むやうに言つた。

『呉葉までそんなことを言ふの?』

『でも、さう言はずにはゐられませんもの……。行く末は一の人になるべき人がこの御歌! お父さまだつて、お母さまだつて、お兄さまだつて、お喜びにならないものは一人だつてないのですもの……誰だつて目を睜らないものはないのですもの……』

『…………』

『お返しあそばせ――』

『…………』

窕子は几帳の蔭に身を寄せて、じつとしたまゝ默つてゐた。何とも言へず美しく神々しく見えた。いつもの窕子――その身が長い間一緒に住んで來た窕子とは何うしても思へない姿がそこにあつた。一ところをじつと見詰めたまゝ目じろぎもせずに窕子は深く考へ込んでゐた。

『本當に……』

『もう少し待つて……』

『でも使のものが待つてをりまするほどに――』

『かへしなどはとても――』

『出來ぬとおつしやいますのですか。行末は一の人となるべき人で御座るのに……』

『呉葉――』

『お母さまも喜びの涙にひたされてゐられます……お父さまも……お兄さまも……』

『…………』

窕子はじつとしたまゝ長い間何も言はなかつたことを呉葉は今でもはつきりと覺えてゐる。その時は、窕子のその態度を寧ろ不思議に、何うしてさういふ風に進まないのであらう、これほど目出たい嬉しいことはないのにと思つたが、今ではさう思つたこの身が淺はかで、窕子の容易に心を起さなかつた心がはつきりそれと指さゝれるやうな氣がするのであつた。しかしその時には呉葉にはそれはわからなかつた。

何も返しをやつたからとて、それが何う彼うなるといふのではない。そのためすぐ身を任せなければならなくなるといふのではない。二度三度歌の贈答をして、それでいけなければ、いくらでも斷ることが出來る。兎に角、さう言つて歌まで下すつたものを無下にかへし歌もせずにかへすといふわけにも行くまい。かへし歌だけは何うしてもしなければ無禮にあたる。かう父も母も兄も言ふので、たうとう窕子は筆を執つて次の歌を書いた。

語らはん人なき里に

時鳥

かひなかるべき聲な古しそ

全く振向いても見ないやうなつれない歌だ。これでは餘りにひどいではないか。『音にのみきけばかひなし時鳥こと語らはん思ふ心あり』といふ先方の歌に對して餘りに無禮にはあたりはしないか。かう思つて父母は心配し、呉葉は呉葉で、意味もわからすに、共に共に勸めたけれども、窕子はそれ以外には默つて何も言はなかつた。爲方なしに、そのつれない歌でも、かへし歌をしないよりはする方がまだましだといふので、それを文使のものに持たせてやることにした。

その時のことを呉葉は一年後の今になつてありありと思ひ出した。

三

歌の贈答が絶たれようとしてしかも絶たれず、男心の切なる戀に弱い女心が次第にそれとなしに引寄せられて行くさまがそこに細かな美しい巴渦を卷いた。切な男の戀心を女の身として誰が受げ容れずにゐられようか。何んなに石の心でもそこにさゝれ波の微かな濃淡の影を湛へずにはゐられるものではあるまい。靜かに靜かに音を立てるせゝらぎ、そのせせらぎにさし添つて來る日の影、何んなに深い樹のかげでも、それがさゝやかな光を反映させずには置かぬやうなところにその戀のまことの心の影が微妙な美しい綾を織つた。

後には窕子はそのかへし歌をすらすらと美しい假名でみちのく紙の懷紙に書いた。

時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。

それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を褰げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。

その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の方から窕子のゐる西の對屋の方へと二三歩足をすゝめたばかりであるが、見てはならないものを見たやうな氣がしてかの女はじつとそこに立盡した。

かの女の眼に映つたのは他でもなかつた。その築土の崩れのところを誰が見てもそれと點頭かれる狩衣姿の上品な若い男が童姿の供を一人つれて、そこを乘り越えて此方へと入つて來ようとしてゐる形であつた。その人はその向うの物かげに呉葉が立つてゐて、息を殺してそれを見てゐるなどとは夢にも知らず、薄暮の空氣があたりを名殘なく蔽ひ包んでゐるので、もはや人目にかゝる恐れもないといふやうに、何の躊躇もなしに、その崩れを乘り越して、草原の亂れがましい中をそのまゝ一歩一歩西の對屋の東の口へと近寄つて行つた。童姿の供の太刀の薄暮の中に動くのもそれと微かに透いて見えた。

呉葉はじっとして蹲踞んでゐた。これはかうなるのが當り前だ! といふ風にかの女は思つた。かうなるのを邸の人達も皆な望んでゐる。その身とてさう望んでゐた筈である。これでもし縁が結ばれるならば、むしろそれは目出たいことである。さう思ひながらも、何となく胸がドキドキして、何う女君はするだらう。もしかしたら、それを拒むかも知れない。入って行くのを膠もなく拒むかも知れない………。かう思つて見てゐると、童姿の供はそこにぼんやりとその輪郭を薄暮の空氣の中に色濃く見せてゐるけれども、その男の方の姿は、いつかすひ込まれるやうにその内に消えてなくなつて了つてゐる。否、その少し前にその入口のところに女君が出て來たやうである。此方がさう思つてゐるためにさう見えたのかも知れないけれども、たしかにそこにその輪郭が見えたやうな氣がする。しかも耳を聳てゝきいてゐても、別に今入つて行つた男を拒むやうな氣勢も何もきこえて來ない。もし何か女君が聲を立てるやうなことがあつたら、すぐ入つて行かうと身構えしてゐても、さうした氣勢は少しもきこえて來ない……。爲方なしに、呉葉もじつとしてそこに蹲踞んでゐた。

始めはむしろそれを拒んでゐた歌の贈答がいつの間にかさうでなくなつてゐたのであるのがそれとはつきり呉葉の胸に響いて來た。あたりはしんとしてゐる。竹に當る風すらもない。何處かで下司の醉つて罵つてゐる聲がきこえてゐるが、それが大通であるかそれとも此方の家の内であるかはつきりとわからない。崩れた築土を越して向うに明るく闇に見えてゐる窓がある。次第に夜になれば夜になつたで、星あかりのやうなものが微かにも地上に及んでゐると見えて、さつき見た時よりも、童姿の供のそこに待つてゐる輪郭がそれとはつきりするやうになつた。

突然、呉葉の前に立つた一つの黒い影があつた。

『誰ぢや?』

その聲でそれは窕子の兄の攝津介であることがわかつた。

『…………』

『お、呉葉か……。それにしても、このやうなところに何をしてをる?』

手でその高い聲を押へるやうにして、

『殿が……』

『何と……?』呉葉の指さす方向に眼を移しながら、『殿が……あの堀川の殿が……。それはまことか……いつ? もうさつきにか? 今か?』その聲は壓し潰されたやうに低くなつた。

攝津介も默つてじつと立つてゐたが、

『別に窕子はそなたを呼びはせざつたか?』

『別に……』

『それなら、それで好い……。こんなところに立つて居なくとも好い。こつちに來やれ。目出たいことを母者に知らせて喜ばねばならぬ……』

攝津介はそのまゝかの女を伴うて向こうに行つて了しまつたので、呉葉はその後のことを知らなかつた。それから一時ほどして呉葉が入つていつた時には、窕子はいつものやうに几帳のかげにその身を置いたままで、あたりには誰もゐず、結燈臺の灯が微かに隙間洩る夜風に瞬いてゐるばかりだつた。呉葉は見ぬようにしてじつと窕子を見詰めた。窕子も眼を下に落としたまゝで深い深い物思ひに沈んでゐた。暫くそのまゝで經つた。

最初に窕子は言つた。

『何處に行つていたの? お前……?』

しかもその聲は微かで、眼は同じところを見たまゝであつた。

『向こうに居りました……』

『………』窕子は何か言はうとしたが、何う言つて好いかわからないといふやうに默つて了つた。

『何か御用でしたか?』

『別に……』

かう言つたが、急に、『この身は困つた――』

しかしその表情はそれほど困つたとも見えはしなかつた。

『何うかなさいましたか?』

『…………』

『え?』

『今、思ひもかけぬ客人があって……』

『客人が?』

呉葉はわざとしらばくれるようにして言つた。

『困つた、此身は?』

『客人はどなたで御座いましたか?』

『そなたの好きな堀川どの……』

『え!』

呉葉はわざと驚いたやうに見せかけて聲を立てた。

窕子が物思ひに沈んでゐたのは、悲しい心に屬するものではないといふことが次第に呉葉にも飮み込めて來た。同じ性の身の嫉妬に近い心持も起つて來ないことはなかつたのであるが、それも向けやうに由つては、反感にならずにはゐられないやうな質のものであつたが、呉葉はそれをすぐ奉仕の感情の方へと持つて行つてくつ付けて了つた。呉葉は窕子のために喜びの感情と祝賀の感情とを一緒にしたものをそこに漲らせた。『それときいたら誰だつて羨ましく思はないものはないでせう。堀川の殿が此處に! あの堀川の殿が。京の姫達でさうした好運に附かれたのは御身ばかり……』かう言ふ風に呉葉はその感情をそこに露骨に打出すやうにして言つた。窕子はじつとしてゐたが、急に堪らなくなつたと言ふやうに、さうした侍女の祝賀の言葉の驟雨の中にも悲しい女の身の悲哀を深く感ぜずにはゐられないといふやうにその顏に衣の袖を押し當てゝ身もだえして泣いた。呉葉もしたゝかに泣いた。

四

呉葉が始めてその堀川の殿を目にしたのは、それからいくらも日數も經たないほどのことだつた。かの女はそこに肥えてはゐるけれど下品でない、眼尻の下つた、やさしい眼附をした、鼻の丸味勝な、口の大きな莞爾したその人の顏を見出した。女の好くといふほどの顏ではなかつたけれども――ことに女君の美貌と比べてはとてもしつくり合ひさうにも見えない種類の風采であつたけれども、それでも鷹揚な、靜かな態度の中に何處かに生れついて持つた威が働いてゐて、見ようによつては、好く思はれないこともないほどの器量を持つてゐた。その人はにこにこしながら、他人でないやうにやさしい言葉を呉葉にかけた。そしてその次にやつて來た時には、高價な蒔繪の香奩を手づからそのかづけものにしたりなどした。

美貌では京でも名高く、殿上人の姫達の中にもそれほどの美しさはないとまで言はれ、その上に和歌にすぐれて、萬葉や古今の女の作者達にも一歩もひけを取らないとまで言はれた窕子の戀も、他で思つたほど思ひあがつたものではなく、やはり普通の多くの女達と同じやうに靜かに押移つて行くのを人々は見た。やはり女は女だけしかない。何んなに學問があつても、何んなに美しく生れ附いても、また何んなに怜悧で且つ聰明であつても、男と一緒にゐるやうになつては、やはり女だけのことしかない。これは世間がさう思つたばかりでなく、平生常にその傍に侍してゐる呉葉にもさういふ風に見えることを何うすることも出來なかつた。呉葉は次第に女の心が男の方に引寄せられて行くのをまざまざと見た。勿論それは張りも悶えも苦しみも何もなしに、わけなくそれに引寄せられて行つたのではなかつた。その中には細かい心の悶えや、その身の若さ美しさの日毎に喪はれて行くことに對する苦しみや、權勢といふものに理由なしに踏みにじられて行くのに堪へ難くなやむ心や、時にはその美しさといふことだけをその武器にしてさうした權勢に對抗しようとするほどの心の張を見せたことなどもないではなかつたが、しかも男にその身を任せた上は、もはや何うにもならずに、次第にさうした積極的な心持から離れて來るやうな形になつて行くのを誰も見遁すものはなかつた。窕子の父母の眼にもはつきりとそれが映つた。同胞達も次第に堀川の邸にその身を近づけて行くことの出來るのを喜ぶやうな形になつて行つた。

西の對屋が手狹だといふので、堀川の裏のさゝやかな流れに臨んだ世離れた閑靜な邸――それも通りからもさう大して離れてゐない邸に、その年の師走近く、寒い風が北山から雪を齎して來る頃に移轉して行つが、その頃には、窕子の心も全く崩折れて、父母のためまたは同胞のため、といふばかりではなしに、男の心にその身を、その心を大方任せるやうになつてゐるのを誰も彼も見た。

しかし幸福の唯中にその身が浸されてゐるとばかり思はれてゐる時、綾や錦や美しい調度に包まれて、ざれ言雜りの歌の贈答や、輕いお互同士の戀の玩弄や、他の目にも餘るやうな甘たるい抱擁や、身も心も溶けるばかりの繪のやうな光景や、さうしたものばかりがそのあたりに想像されてゐる時、窕子と呉葉との間にかうした次のやうな對話が取交はされてゐようなどとは誰も想像することが出來なかつた。

『何うしてそんなことを仰有いますのですか?』

『だつて、お前……』

『世間では、あなたほどお仕合せな方はないと申してをります。それは北の方にはおなりあそばされない……。それは圓滿具足した貴い器の一つのきずと申せば疵で御座いますけれど、かしこいあたりでもそれは止むを得ないことでは御座りませぬか。それは生れで御座いますもの。何うにもならないもので御座いますもの……。あなたのお身にしても、關白どのの家にお生れなされさへすれば、北の方にでも何にでも心のまゝであらせらるゝでせうけれども……それはしかし何うにもならないことで御座いますもの……。それをいくら仰有られてもむだで御座りはしませぬか』

『だつて、お前、何故この身はひとりを守つてゐるのに、男はさうでなくて好いといふのかえ?』

『そら、またいつものお話がはじまりました――』

呉葉はかう言つて笑ひ出した。

『そんなにこの身の言ふことが可笑しいかしら? そなただつて、いつかさう言つたではないか。都にゐなくとも好い。都の殿御に見える機會がなくとも好い。田舍の土の中に埋れても、思うた男子と二人だけで住まうて居ればそれで好い。女子はその男子だけを思ひ、その男子はこの身だけを思うて呉れたら、それでこの女としての願ひは足りる。何んなに賤しう暮しても、少しも苦しいとは思はない。かうそなたも言うたことがあるのではないか。何うしてそれが可笑しいのか?』

『そのやうなことを言うたこともあるにはありました』かう言つて呉葉はまた笑つて、『でも、そのやうなことはこの今の世には通りは致しはせぬもの……。この身とて狛のさとにでも住んで居れば、さういふことを考へられるかも知れませねど、とてもこの都では、そのやうなことは考へられは致しはせぬもの……』

『そなたはそれですましてをられるから仕合せだ……』

窕子はじつと深く悲哀に浸つたやうな心持で言つた。若さに別るゝ悲哀が今しも急に押し寄せて來たらしく、眼には一杯に涙がたまつた。

呉葉は笑つたりなどしたことを悔いるやうに、眞面目な顏をして急にだまつて了つた。

窕子の眼からはたうとう涙がこぼれて落ちた。

『…………』

『この身の心は誰も知つて呉れるものはない。父君にも、母君にも、この身の心はわからない。それはそなたにしても、父母にしても、この身に幸多かれと祈つて呉れる心はようわかる。それはありがたいと思うてをる。しかし、この心――この身の持つた心は誰にもわからない……』涙を溜めた眼は夜の星でもあるかのやうに美しくかゞやくやうに見えた。

『そのやうなことは――』

『そなただけは知つてゐて呉れると思つてゐたが、やはりそなたにも本當のことはわからなかつたのだ………。女子といふものは何うしてかうもてあそびものになるものやら! 女子といふものは罪が深うてとても男子とはひとつに言へないものだ。先の世からさうした魂を持つて生まれて來たものだ。かうしたことを佛の教はよう言うたが、あれはこの身は本當とは思はなかつた。愚なことを言ひをると思ふて居つたのだが、やはりさうでも言はなければならないのかしらといふことが段々わかつて來た……。この心は何うなるのだらう。何う埋められるのだらう?』急にたまらなくなつたといふやうに窕子は衣の袖を顏に當てた。

『わるう御座いました。笑うたりなどしてわるう御座いました……』慌てゝ呉葉は言つた。

窕子の欷歔げる聲が夕暮の空氣の中に微かに雜り合つた。

『そなたがわるいのぢやない。そなたがわるいのぢやない……』暫くしてから、やつと思ひ返したといふやうに窕子は衣の袖を顏から離した。

暫くした後では、それとは違つて、今度は公の宮の中のことが主從の間に話されてゐた。きさいの宮のことだの、藤壺の女御のことだの、好者の大納言のことだの、つゞいては目ざましきものにいつも引合に出される唐土の楊貴妃の話などがつぎつぎに出て行つた。后でなくてもさうまで深く帝王の心をつかむことが出來る話などが出た時には、窕子は深く考へずにはゐられなかつた。北の方とか后の宮とか言つても、それにばかり男の愛があつまるものではなくて、何んなはした女との仲にも戀さへ芽ぐめば純な深いものとならない限りでないことがそれからそれへと考へられて來た。古今集の中にある深草に住んでゐる女が、男が女に飽きて、もう來ないつもりで、『年を經て住み來しやどをいでゝいなばいとど深草野とやなりなん』と捨ぜりふ言つたのに對して、『野とならばうづらとなりて泣きをらん狩りにだにやは君は來ざらん』と言つてその眞心を示したので、男はそれに感じて再びそこに來るやうになつたといふ物語などもそこに繰返された。

『だからそれを言ふのよ。さういう眞心があれば好いのよ。男にしても、女にしても……。しかし今のこのみだらな世では、とてもさういふ心は男にも女にも望まれない。男はたゞ女をおもちやにしてゐる。美しくさへあれば好いと思うてゐる。いゝえ、その美しいのを玩弄しさへすれば好いと思うてゐる。それに對して、女は唯捨てられたまゝでだまつてをる。それは女の弱味で爲方がないと思うてをる。それが悲しいことゝは思はないか……。』こんなことを染々した調子で窕子は言つた。窕子はそのまごころを深く相手の心の中に打込みたいと思つてゐても、その相手が當世の時めき人で、女に對してもさうした深い考へを持つてゐないといふことをこの頃深く感じて來てゐた。身の内に漲りわたるその心を何うしたら好いか、それに窕子は朝に夕に惑つてゐた。

窕子は既にたゞならぬ身になつてゐたのである。

五

呉葉にはまだこゝに移つて來ない以前、家の殿が陸奧守に昇進して遠くへ旅立たなければならなくなつた時のさまがありありと眼に映つて見えた。泣いた窕子の顏がそこにある。この身も父君と共に陸奧に下らう。女の身とて行けぬことはよもあるまい。かうして玩弄ものになってゐるよりは、暫しなりとも都を離れて新しい生活に入る方が何のくらゐ好いかしれない。さうすればあの堀川の殿の心もこの身を離れて他の女子のもとに行くであらう。窕子はさうとはつきり言ひはしなかつたけれども、唯一の頼みとするその父君に別れることの悲しさ心細さに心が亂れ、またその行末の身のほどなども深く案じられて、それで一層さうした心になつたのであつた。それに、歌まくらに聞いた白河の關や安達の鬼塚や武隈の松などをも窕子は見たいと思つたのである。それは神無月の時雨が降る頃で、まだ向うの西の對にゐて、その窕子の居るところからは、裏の垣に烏瓜の赤いのなどが見えたり、彩ある小鳥の翅が樹の枝がくれに飛んだり下りたりするのがそれと指さゝれたりするほどだつたが、その窕子の願ひを押しとどめるためには、呉葉ばかりではない父君もまたその堀川の殿も何んなに口を酸くしてなだめたり慰めたりしたか知れないのであつた。『それではお前はこの身がこれまでに思ふてゐるのを何とも思はずに何うしてもそんなに遠くへ行くと言ふのか? 思ひとゞまつて呉れ! 何うぞ思ひとゞまつて呉れ! お前がゐなくなつては、この都も何もあつたものではない、それこそ業平の朝臣のやうに、お前を追うて東下りをせねばならぬほどに、な、これ、さう泣かずに、父君を快よう立たせて呉れ!』かう言つて堀川の殿は几帳のかげに身を隱した女君の衣の袖に何遍その顏を當てたか知れなかつた。

父君も度々來てなだめた。『この身も伴れて行きたいけれど、女の身ではさうもならぬほどに、さう長いことではない、二とせか三とせ!』

窕子はよく涙をこぽした。そのやうな氣の弱いうまれつきではなかつた筈なのに――誰れにも負けてゐることのきらひな質であつたのに――またしても涙に袖を濡らすのを呉葉は眼にした。『だつて、呉葉、この身はこれまで父君をのみ頼りにして來たのに……父君にさへ離れて、この身がひとりこの都にとどまらねばならぬのではないか? 笑はずに置いてくれ!』かう言つてはまた欷歔げた。

呉葉にはそれとはつきりとはわからなかつたけれども、今日になつて考へて見れば、巣立の雛鳥が始めてつめたい世の空氣に觸れるための悲哀がそこに渦を卷いてゐたのであつた。親の手から背の君へ! その背の君もその身ひとりが縋ることの出來る人ならば、その悲しみもいくらかは慰めることが出來たであらうが、否、幸福に運好く生れ附いた女子ならば、誰でもそのひとりに寄り附き縋りついて、眼と眼とが相合ふやうに、手と手とが相觸れるやうに心と心とがぴたりとひとつになつて、むしろ古巣の親達の情は忘れ果つるほどであるのが慣ひであるのに、さうした幸福はとても望むことの出來ないその身のはかなさ! 縋り附きたいにもその身ひとりで縋り附くことの出來ない悲しさ! これも生中に人並にすぐれて生れついた身の悲しさではないか。『何うしてこの身は堀川の殿などに見出されたか?』またしても窕子はそれを言出すのであつた。

家の殿の立つて行かるゝ日――それは昨夜の雨が晴れて、北山も愛宕も大比叡もくつきりと寒い晩秋の空に貼されたやうに見える朝だつた。三條からずつと河原を通つて東山の麓を越して向うへ。逢坂の山。志賀の海。それから向うはずつと長い長い旅路が限なく續いて行つてゐるのだつた。國の司の行列の群。馬の鞍。下衆の持つた雨具や炊事具。名高い寺や社のあるところは其處にやどりを求めて屋根の下に眠ることが出來たけれども、さびしいところに行暮れては、それこそ草の露を結ばねばならぬ長い長い旅。その支度も出來て、いよいよ別れをつげるべき時が來た。いざとなれば、さすがにわかれかねて、雄々しい家の殿の心もともすれば涙に浸されずにはゐられないのであつた。

窕子の眼の縁は赤く赤くなつてゐた。

『では!』

『御機嫌よく』

かう別れをつげた後でも猶ほかれ等は別れかねた。

『お父さん!』

『窕子!』

かれ等はまたもどつて來ては互ひに涙を流した。

最後に、父親は硯を持つて來させて、みちのく紙にすらすらとわかれの歌を書いて、そしてそれをそこに置いたまゝ、今度こそは思ひ切つたといふやうにして後をも見ずにすたすたと對屋の階段を下りて行つた。

窕子はひたと打伏したまゝ暫くは身を起さうとはしなかつた。

呉葉はその時其處にはゐなかつた。家の殿の旅立を見送るために――内に住んでゐる人達はその取亂したさまを他に見られることをきらつて、階段の下から此方へは出て來なかつたけれど、下司や僕や男達はずつと表まで行つて見送ることが出來たので、それで呉葉も通りまで出て見たのであつたが、見てゐると、多勢の人達に見送られたその一行の人達は、行縢をつけ、藁靴をはき、包みを負つたり雨具を持つたりして、一歩一歩河原の方へと遠ざかつて行くのであつた。呉葉は橋のほとりまで行つて、その家の殿の馬や雨具の向うに見えなくなるのを見送つて涙組ましい悲しい心持で家の方へと戻つて來た。それには少くともひと時ぐらゐの時間は經つた。それでも窕子は几帳のかげにつつ伏したまゝ身を起さうともしなかつた。

呉葉は急いで傍に行つた。

辛うじて頭をあげた窕子の顏は涙に泣きぬれてゐた。

『…………?』

呉葉は何と言つて好いかわからなかつた。

『父君は?』あとの言葉は涙に礙えられて窕子の口から出て來なかつた。

『もうお立ちになられました!』

『もはやお立ちに――』

さう言つたまゝまた引被ぐやうにして泣き伏した。

しかし何んな悲哀でもさういつまでも續いてはゐなかつた。暫く經つたあとでは、窕子は眼を赤くしながらも、そこに父親が書いて置いて行つた別れの歌を手に取り上げた。

そこにはかういふ歌が書いてあつた。

君をのみ

頼む旅なる心には

行く末遠く

おもほゆるかな

それはかの女へではなくて、堀川の殿へ寄せたものであるといふことが一目見ただけですぐわかつた。『殿ばかりが頼りだ。我儘な娘ですけども、何うか捨てずに行く末長く眼をかけてやつて下さい』たのみ甲斐もないやうな堀川の殿を頼んで、その可愛い娘をその手に托して、何うか無事であれ幸福であれと祈つてわかれ難い別れをわかれて、ひとり遠く旅立つて行つた父親の心が歴々とそこに指さゝれた。窕子はまた泣かずにはゐられなかつた。

その時誰か來た氣勢がしたと思ふと、妻戸がそつと明いて、狩衣姿の堀川の殿の莞爾した顏がひよつくりそこにあらはれた。

『もう立たれたさうぢやな……』

入つて來て、そこに呉葉の侍してゐるのを目にして、

『もう少し早う來て、見送りしたいと思うたが、つい殿上まで行かねばならぬ用事があつておくれた……』少し途切れて、『おゝさうか、呉葉は行つて來たか? 何處まで? 河原まで? それで無事に立たれたか』

『御無事で、御機嫌よく……』呉葉はかしこまつて答へた。

『あ、それは好かつた……。二年や三年ぢき立つて了ふ……。それは別れはつらかつたらうが、なアに、ぢき月日は立つて了ふよ。泣いたのか、それはもつともぢや』かう言つたが、窕子の出した父親の歌を一わたり讀んで見て、『やつぱりお前が心配になると見えるな!』

『白河の關はたうとう見ることが出來ませんでした』

『女子の身ではそれは無理だ……。何しろ遠いところだからな』

『女子だとて行かれないことは御座いませぬのに――』

『でも、よう留つて呉れた……。お父さんも心にかけて行かれたが、お前が留つてさへ呉れれば、何も案ずることはないな。な、呉葉』傍にかしこまつてゐる呉葉を振り返つて、『そなたも安心して呉れ! この身がついてゐさへすれば何も案ずることはない』

『忝なう……』

呉葉は頭を下げた。

そこにまた人が來た氣勢がしたと思ふと、今度は日の岡のところまで送つて行つた兄の攝津介が行縢のまゝで入つて來た。

殿の來てゐるのを見て、その姿のあまりに無作法なのに氣附いたといふやうに慌てゝあとに戻らうとした。すると、

『攝津介か、構はん、構はん……此方へ――』

かう兼家が言ふので、

『でも……』

『構はん、構はん、それにしても早う戻つて來たな。何處まで行つたのぢや……?』

『日の岡まで參りました』

『陵の此方のところか?』

『さやうでござります……』

『無事で立つて行かれたな?』

『勇んで立つて參りました。これも皆殿のお蔭だと申して、よろしく傳へて呉れと申殘して行きました……』

『それで、關まで見送つて行つたものもあるかな』

『父のもございましたが、それよりも殿! 介の女房になるものが何處までもおくると申して、壺裝束してついて行きましたが、あれなどはあはれでございました……。何でも、介になる男は、名高い好者で、女子なども澤山あるときいて居りましたが、あゝいふ熱心なものがあるとは思ひませんでした』

『それは面白いな』

兼家は莞爾笑つた。

『何でも、男の方ではこれを好い機會に女と離れるつもりらしいのです……。その女といふのがえらう嫉妬やきで、とても何うにもならないのぢやさうでございます。それに、女の方でも、三年も逢はずに別れてゐては、とても二人の仲が切れずにはゐまいといふので、それでその心を見せようといふのださうでございます。行けるところまでは行くと申してをりました。えらいことでございます』

『それはしかしもつともだらうな。惚れた身になれば、三年はおろか一年でも半年でも逢はずにゐては、その仲が疎うなるのが心配になるだらうからな……。三年離れてゐて猶思うてゐるといふことは男にも女にもむつかしいことぢや。それは妻ならば別ぢやが……』

『男子には出來ぬかも知れませんが、女には――』

傍から窕子がだしぬけに言つた。

堀川の殿は驚いたやうにしてそつちを見たが、笑つて、

『女子には出來るといふのか?』

『その女子の心持もよくわかるではござりませんか?』

『それはようわかる……。氣の毒ぢや。しかし攝津介、戀といふものはさういふものではない。三年も逢はずにゐては、どのやうに思ひ合ふたものでも、たよりなう思ふのは當り前ぢやな……。それも雁の便りでも出來ればぢやが、みちのくでは、便りらしい便りも取りかはすことは難かしいでな……』

『さやうでございます』

『それで、關までついて行くのか。まア關までは他について行くものもあらうから、女でも行けるには行けようが、それから先はとてもむつかしいな……』

『行けるところまで行くと申してをりました……』

『美しい女子かな』

『三十路ほどの女子で、眉目の好い方でござりました……。見てゐてあはれでござりました』

皆は申合せたやうに默つた。それといふのもその女のことから、遠く旅行く人達の一行のさまがそれとはつきりその前に描かれて見えたからであつた。その國の司の乘つてゐる斑白毛の馬を中心に七八人ごたごたと渦を卷いてゐるその一行の群が、見馴れた山にも、湖水にも、橋にも、または最後まで別れかねて見送つて來た人達にも別れ別れて、遠く遠くさびしい悲しい野山の旅をして行くさまが、何のことはない、屏風の繪か何かのやうにかれ等の眼の前に動いて行くのであつた。ことに、窕子の眼にははつきりと……。

六

時雨が降つたり木枯が吹いたり、北山に白く雪の來るのが見えたり、鴨河の土手の日あたりに薄や萱がガサコサと靡いたり、加茂の霜月の祭の競馬に棧敷が出來て、きさいの宮が美しい出し車の行列で御參詣になつたり、一の殿とその同胞の殿とが仲がわるくて殿上でもう少しで爭ひするところであつたといふ噂があつたりする間を窕子は旅をしてゐる人達の身の上を微かに遠く思ひやるやうな心持で靜かに過ごした。かの女は東の國にあるといふ、幾日も幾日も行つても盡きない濶い濶い野を頭に浮べたり、その野の果に青く布を敷いたやうに川が流れてゐて、そこに黄色い嘴をした鳥がゐるといふことを想像したり、さうかと思ふと、さうしたさびしい野に野盜がゐて、もしかしてそれがその父親の一行に何か害でも與へはせぬかと心配したり、その間には殿がやつて來て、わざとかの女をからかつて怒らせて見たり、また時にはかねて言つてゐたことが賓行されて、その西の對屋から堀川の邸近くのとある家に移轉して行つたりなどした。その新しい家には母が來て、『これは日あたりの好い家だ……。これでは冬知らずだ』などと言つて、兎にも角にもさういふ家に住まはれる身になつたかの女の幸福を喜んだりした。それにその新居の庭のさまが、その周圍を取廻いた築土の奧の方に竹藪があつてそれに夕日がさびしく當つたりするさまが、やつぱり細かくかの女の心に雜り合つた。

『もう父君は、東の國を通り越したでせうね』

何うかすると、かの女は物思はしさうにかう傍のものに言つたりした。さうかと言つて旅の人達のことばかりを常にその念頭に置いてゐるのでもなかつた。時には世間の噂なども靜かなその胸をかき亂した。何でもその噂では、殿にはいろいろなことがあるらしかつた。女子などもあちこちにあるといふことだ。現にある女のことではその兄上と爭つたりしてゐる。しかし來た時に持出してそれをきいて見ても、巧みにそれを打消してしらばくれてゐる。しらばくれないまでも笑つてゐる。そして『誰がゐたつて、これに越すものはない。このいとしさに越すものはない。大丈夫だよ。そんなに心づかひをしなくとも……。このやさしい美しい心を誰が他所にするものかね……』かう言つてやさしくかの女の涙をその手で拭いたりなどした。窕子はそれにわけなく引寄せられるといふわけではなかつたけれども、しかもさう言はれて見れば、それを信ぜずにはゐられなかつた。兎に角この身を思うて呉れさへすれば好い。縋り効のないものでさへなければ好い……。逢つた當座はたしかにさう思つて滿足してゐるのであるけれども、それが不思議にも一日來ず、二日來ず、三日來ないとなると、次第に何處からともなく不安が萠して來て、さう信じてゐたその身の愚さが繰返されると同時に、男の心の頼りなさが深く深く考へられて來るのであつた。その身がさういふ風に感ぜられてゐるだけそれだけ男はやつぱり同じやうに他の女を愛してゐはしないか。その身に言つたやうなことを他の女に言つてゐはしないか。あの手がこの身を卷いたやうに他の女を卷いてゐはしないか。さう思ふと、ゐても立つてもゐられない焦立しさと不安さと物悲しさと心細さとが感じられた。さういふ時には窕子はその身を持てあつかひでもしたやうに、垣の傍に行つて竹藪に夕日のさし込むのを眺めたり、池に小さな魚の石につくやうになつて微かに動いてゐるのを覗いたり、またその不安と心細さに雜り合つて、もはや白河の關あたりまで行つたであらうと思はれる父親の一行のことをいろいろに思ひ浮べたりなどした。たまには昔の歌の友達――かういふ身の上になつてからは誰も來るものとてはなくなつたのに、その友達ばかりは捨てもせずにたづねて來て呉れるのであるが、その時には琴をかき鳴らしたり歌合をしたりしてのどかに一日を遊び暮した。

師走になると、都の街にも寒い風が吹いて、人の足並も凍つた地に響き、夜は店を明けて灯をつけてゐる家などはなかつた。その十日にかの女は親しい僧のゐるのをたよりに、母に伴れられて横川の彌勒講へと出かけた。

七

横川の中堂はさうした深い山の中であるにも拘らず、香の煙があたりに一杯に籠めるばかりに立靡き、參籠者はそろそろと山みちを傳ひ、岨を傳つて、そのありがたい御堂へと一齊につめかけた。壺裝束をして藺綾笠をかぶつた女達だの、杖をついてあの老人がよくやつて來たと思はれるやうな人達だの、さうかと思ふと、宮中からおつかはしの布施の携帶した頭中將の一行の仰々しい姿なども見えた。佛法と王法とがひとつになつて、この深い山の御堂にこの上もない有難さをひろげてゐるやうに見えた。

御堂の内には、僧が何十人となく兩側に列をなして立竝んでこ香烟の漲りわたつた、むつとするほど參籠者の呼吸の立ちこもつた、その奧には大きい小さい、中にも二三百目もあらうといふやうな赤く青く或は黄に彩色した蝋燭が煌々と人の目を眩せしむるばかりの佛具の間に何本となく點されて、それがチラチラと言ふに言はれない壯嚴さをあたりに展げたばかりではなく、何年にも開かれたことがない立派な龕の扉が左右にはつと押し開かれて、その本尊の如來の額からは金光が赫々とあたりに輝きわたるかのやうに仰がれた。讀經の聲と共に何遍となく僧が腰を屈めて禮拜すると、『有難や……有難や……』といふ聲がそこからも此處からも起つた。

その大勢の參籠者の右の角のところに、小さな念珠を右の手にかけて、その白い顏を半群集の中に際立たせながら、じつと本尊の方を見てゐるのは、それはまがふべくもない窕子であつた。その傍にはもはやかなりに年を取つた髮の白い小づくりなやさしさうな母親が竝んで坐を取つてゐた。『有難や……』の聲のあちこちに起る時には、母も娘も共に念珠を繰つて禮拜した。

窕子ははるばる山を越してやつて來た効があるやうな氣がした。それは都の巷のそここゝに有難い御堂がないではない。かの女の苦しい悲しい悶えを托するに足るやうな本尊もないではない。しかしそこでは手を合はせ、珠數をつまぐつてゐる中こそ清淨な心になつてゐられるけれども、そこを、御堂を外に一歩でも出て了へば、忽ち煩惱が身に纏つて來るばかりではなく、眼にはさまざまの悲しいあはれな世のさま人のさま、心をときめかすやうな美しい色彩までがまざまざと映り、耳にはまたさまざまの誘惑やらまよはしが片時もその力を振はずにはゐないのであつた。それに比べたらこの御堂の有難さは! この御堂の壯嚴さは! またこの本尊の尊さは! 實際窕子には昔の佛の力が今にもまざまざと存在して、その功徳をはつきりとそこにひろげてゐるかのやうに見えた。かの女はとてもそなたには行かれまいといふのを強ゐて頼んでやつて來たことを繰返した。丁度その時、殿との間に深い爭ひが起つてゐて――それもいつものとは違つて、窕子が昔親しくした大學のひとりの書生の許から手紙がやつて來て、むかしの心に火がつくまでには到らなかつたけれども此方からかへしの歌などを贈つたことを殿に知られて、『何故それがわるいのです……。何も事があつたのではない。その歌をかへしたのがわるいと言はるゝが、何故それがわるいのです……。男は何のやうなことをしても好く、女子はそれほどのことをしてもわるいと言はるゝのか?』などと言ひ合つたばかりではなく、父親に遠く別れた悲しさが添つたりして、それで暫しはこの苦しさやら悲しみやら悶えやらを忘れたいと思つてそして無理に母親について來たことをくり返した。それでも殿のことが忘れられるのではなかつた。途中では心強くかうして家を明けて出て來たことを悔ゐたりなどしたことをくり返した。

僧はまた一齊に法衣の袖をひるがへして禮拜した。

『有難や……』

さうした聲は益々盛になるばかりであつた。

深く經に讀み耽れば耽るほどその聲の調子には一層眞面目な物狂ほしさが加はつて、僧ばかりではなく、その御堂の空氣の内にもこの世ではないやうな何物にか憑かれたやうな重苦しさと眞面目さとがあたりに滿ちた。

一しきりの讀經が濟んで、親しくしてゐる僧の房へともどつて來た時には、窕子はほつとしてため息をつくほどだつた。かの女は誰か同じ參籠者が持つて來て壁に頼りつけた畫障などをあちこちと見て廻つた。その室からは深い谷が覗かれて、下では谷が微かに鳴つてゐる。冬の山はさびしく、樹の枝もあらはに、若い僧の話では、鹿がついそこの山まで出て來て、その鳴く聲がいつも笛のやうにきこえるなどと話した。

『かういふところにゐたら、身の苦しみもあるまい……』

こんなことを思はず窕子が言ふと、若い僧は笑つて、

『この身はまた都にゐたら、何んなに好いかと思ひます……。それはこの二三日は賑かですけれども……誰もゐない時は、冬は……それは山はさびしうございますでな……。あなた方は都にゐられて羨しい』

かう言つて笑つた。それは眉の美しい、可愛い、色の白い、莞爾しながら絶えず無邪氣に話すやうな若僧であつた。母子の間には先きの帝の内親王がさうした若い僧の佛に仕へてゐるのに感激して、何うかしてその身もさういふ淨い身になりたいと言つて、帝にも誰にも告げずに單身で大比叡にのぼつて髮を剃られた話などが出た。そして、『あゝいふ若い可愛い僧がゐるのだから、さう思はれたのも無理はない』などと母親は言つた。窕子はそれは母親には言はなかつたけれども、その身にしても、もしさういふ淨い身になることの出來る身だつたら、それこそ何んなに好いだらう、何んなにすがすがしくつて好いだらうなどと思つた。

夜の御堂に出かけて行つて、そこで同じやうな讀經を一ときほど聽聞したが、あまりに夜の山が寒いので、房へ引返して寢るつもりで、そこを出た時には、雪がもう盛に降り出して、一緒に案内して呉れた僧の持つた松明に小さい大きい雪片が黒く落ちては消え落ちては消えた。

『えらい雪になりました……』

『本當に……』

『これは困つたのう? これでは、あすは何うなるやら? 雪に降られてはもどれぬかも知れぬ』

これは窕子のあとから出て來た母親だつた。

『これはあすは大雪だ』

松明を先へ翳し翳し、若い僧は足場のわるい路を先に立つた。雨具の支度はして來なかつたので、房まで行く間はいくらもないのであつたけれども、それでも窕子の髮も衣も白くなつた。房の扉のところに來て窕子はそれを母親に拂つて貰つた。

果して明くる朝は大雪だつた。山も谷も埋むばかりに雪は降り頻つた。樹の枝はたわわに、溪の水の音も微に微に谷の底に鳴つてゐるばかりだつた。戸をあけた縁の中まで雪はふり込んで來た。

『まア、大事ぢや』

母親は困つたといふやうにしてじつとそこに立盡した。

『まア』

窕子もかう聲を立てた。

しかし見たいと思つたとて見られぬ山の雪ではないか。深い山が既にこの世のもだえを、くるしみを、悲しみを隔てゝ來てゐるのに、更にこの大雪がそれを遠く隔てゝ了つたのは、窕子に取つて一層嬉しいやうな氣がした。かの女は始めて思ひのまゝにならない世間以上に更に思ひのまゝにならないもののあることを感じた。⦅何うにもならない、何うにもならない! いくら思つたつて、いくらもだえたつて何うにもならない、人間は、人間は小さな、小さな身なのだ……⦆窕子はその身の哀れさを――遠くに行つた父親を慕つて何うにもならず、微かに昔の戀心をたづねても何うにもならないその身のあはれさをつくづくと身に染みて感じた。かの女はその心もその苦しみもそのもだえもその悲しみも皆なこの大雪の中に埋めつくされて了つたやうな氣がした。

氷るらん

横川の水に

降る雪も

わかごと消えて

物は思はし

かの女の胸に簇り上るやうにしてかうした歌が出て來た。雪は降り頻つた。

八

『だつて二日も三日も待つても、あなたはお出なさらなかつたぢやありませんか』窕子の顏には男に對する勝利の色が歴々と上つて見られた。

『それで何處に行つたのだえ?』

『何處でせうかしら? 屹度、屹度、あなたなどの御存じない好いところでせう。』

いつもに似合ず女のわるくはしやいでゐるのを不思議にして、兼家は何か言はうとしたが、よして、そのまゝじつと窕子の顏を見詰めた。

『…………?』

『だつて、ちやんと書いて置いたでせう。いくら鶯が好い聲で歌はうと思つて待つてゐたつて、それを聞いてくれる人が來なければ、何處か他に行つて、それをきいて貰ふより他に爲方がないぢやありませんか……』

『それはわかつてゐるよ、お前の歌でわかつてゐるよ。知られねば身を鶯のふり出て啼きてこそ行け野にも山にも……。その心待はよくわかつてゐるよ。だからすまないつて言つてゐるぢやないか』言葉を強くして、『本當に何處に行つたんだ?』

『知らない……』

『自分の行つたところを知らずにゐるものがあるものか? 洞院の辻?』

『さうかも知れませんね……』

窕子はまた勝利者のやうにして笑つた。洞院の辻には、かの女が曾てラブしたその大學生が失戀してから伯母の家に深く籠つてゐるのであつた。

兼家の頭には、まさかとは思つてゐるけれども、それでもその崩れた築土の奧にある家の一間の中が眼の前にそれと映つて見えた。そこにかの女がゐる。この身には話すことを敢てしないことをかれに綿々として話してゐるかの女がゐる。曾てちよつと加茂の霜月の祭の時に通りすがりにその男を見たことはあるが、それは地位から言つてもとてもその身とは競走出來ないのはわかり切つてゐるけれども、そこにはまた普通では言へない細かい心持などがあつて却つてさうした富貴やら地位やらで強いて女の心を自由にしてゐる身であるだけその相手に對して此方の弱さを感じた。女は――ことに窕子はさういふところに殉情的になる質であるだけ一層それが氣になつた。

兼家は昨夜來て、窕子がゐないので、いくらかやけ氣味で、女のゐないところにこの樂しい正月を寢たつてしようがないなどと言つて、これからすぐ何處かに行きでもするやうに呉葉達を困らせたが、夜がもはや子の刻を過ぎてゐて何うにもならないので、そのまゝ靜まつて、いつもの一間に夜のものを暖く、裏の竹むらに夜風の騷ぐのを聞きながら窕子の殘して行つた鶯の歌のかへしなどを考へて一夜をすごした。鶯のあたに率て行かん山邊にも啼く聲きかばたつぬばかりぞ。これほど此身はそなたのことを思つてゐるのに、かうしてこゝにひとりこの身を殘して、その美しい聲音をあだし男に聞かせてゐるとは! しかしこの身にもわるいところがないではなかつた。一昨日來れば好かつた。あゝいふ女の僞り心にひかれなければよかつた。あゝいふ女は――あゝいふ女は、そこまで考へて行つて、兼家は男にも女を責める資格のない身であることを深く考へた。曉近く厠に出て行つた時には、月が明るく竹むらを照して、手水盤の水が銀の匝器のやうに厚く氷つてゐた。

そのあくる日であつただけに、窕子が午前に莞爾しなから歸つて來たのがかれはことに嬉しかつたのであつた。

『教へて上げませうか?』

『教へて呉れ!』

『やつぱりあそこよ。洞院の辻よ。あそこで大勢集つて詩の會をしたのよ。』兼家の顏のわるくむづかしげになつて來るのを可笑しげに見やつてゐたと思ふと、急に噴き出して、『本當はうそ! 稻荷に行つたのですよ。そしてあそこの禰宜の伯父の家に母と泊つたのですよ』

『本當か?』

『本當ですとも……。それだましてやつた! あの顏は! 呉葉も見よ?』窕子は聲を立てゝ笑つた。身を崩さぬばかりにして呉葉も笑つた。

『人を馬鹿にしてゐる!』

『だつて……』女達は餘程可笑しかつたもののやうに猶も止めずに笑ひ立てた。

九

さうした笑ひやら悲しみやら戀ひしさやらもだえやらの中にも、いつか新しい生はそのさゝやかな呼吸をその美しい母親の體の中で息つき始めた。と、母親の蛾のやうな黛にはいつか深い惱みが添ひ、人知れず几帳のかげでため息が出で、當然味はなければならないこととは言ひながら、その身にもたうとうさうした女子の運命が來たといふやうなことがたまらなくかの女を感情的にした。かの女は春から夏になつて行く間の期間をその靜かな一間で憂鬱に暮した。曇つた日のもだえ、雨の日の悲しみ、おぼろ月夜の花の下のうれひ、ことに、何うしてか山吹の花の黄色いのが深く身に染みて、縁に近くそれの花びらの白くなつて散つて行くのを見ると、たまらなく悲しい氣がした。何うしてかういふことがあのやうに母親や兄達を喜ばせたのだらう。さういふ人達は身がはつきりときまつたと言つて喜ぶのだけれども、何うしてこれがそのやうに目出度いだらう。この身の若い春は忽ち過ぎて行つて了ふではないか。それも、公に脊と呼び妻と呼ばるゝ身ならば――お互にそれを認めるばかりではなく世間の人達にもそれと認められて、互に縋つたり縋られたり、心が十のものならば互にその半をしつかりと握り持つて、見かはす眼にも、取り合ふ手にも、竝んで行く姿にも、朝夕の起居ふるまひにも、片時もさうした心の添はずにゐないことのない身ならば――それならば、この生るゝ兒も仕合せに、目出度いと祝はれても好いけれども、その身は浮萍のやうに、根がついてゐながら何處についてゐるのやらわからず、またいつ根が絶たれて了ふのやらわからず、縋るべき人には他にも澤山にさういふ人達がゐて、口では眞面目なことを言つてこの身を慰めて呉れるけれども、門外一歩を出れば、何處に何ういふ美しい人がゐて、かの人の心を忽ちに蕩かせて了ふやらわからず、それを思ふと、その身ばかりか、生れて來る兒もやはり不仕合せであることを思はずにはゐられなかつた。かの女は何ぞと言つてはよく眼の縁を赤くしてゐた。

それに、つはりが人一倍強くかの女を襲つた。手水盥のところに行つて物をもどした。また物のにほひがわるく鼻につくと言つては厨の人達を驚かした。沈丁花の咲く時分から、平生好きであつたそのにほひが反對におびたゞしく嫌ひになつて、『呉葉、この花のにほひは昔からこんなにいやなかをりであつたかしら? あの廉いわるい香にそのまゝではないか』などと言つた。

從つて身じまひなどもおろそかになつて、殿の來た時にもわるく髮を取亂してゐたりなどした。それでも殿には別にそれが氣にもならないらしかつた。否、むしろさうした取揃はない美しい女子の惱みは、海棠の雨に逢ひでもしたやうにかへつてその心を惹くらしく、またその體の中にその戀心のかたまりの呼吸つきつゝあるのを思ふとたまらなくいとしさがまさつてでも來るらしく、ひたしめに窕子をしめたりなどすることもあつた。

『男子といふものは、何うしてさう我儘で、薄情で、他のことなど何とも思はないのでせうね?』

窕子はある時じつと兼家の顏を見つめるやうにして言つた。

『何うしてそんなことを言ふのだえ?』驚いたやうに兼家は言つた。

『私達の心は男子とは違ひますね……。もつと眞面目で、そして清淨ですね。何んなに戀しくつたつて、それを押へられないといふやうなことはありませんからね。……』窕子は深く思ひ沈むやうに、『でも女といふものは、さういふ風に生れる時から出來てゐるのかも知れません。綺麗な美しいことばかり考へてゐるのですから……。男女の仲にしても、心だけで十分に戀が出來るやうに出來てゐるのかも知れませんから……』かう言ひかけてたまらなく悲しくなつたといふやうに、衣の袖をかつぐばかりにして泣き伏した。

『何うしたのだ!』

兼家はむしろあつけに取られたといふやうにしてその傍に身を寄せた。

窕子の涙は容易にとゞまらうともしなかつた。たしかにかの女はヒステリカルになつてゐた。呉葉などがやつて來てやつとなだめて身を起した時には、眼は赤く腫れ、髮は夥たゞしく亂れ、惱ましげな姿が一層男に愛着の念を誘つた。『お中の子が私に似て泣虫なのかも知れませんね』こんなことを言つて窕子は莞爾笑つて見せた。

一〇

梅雨が幾日か續いたあとには、くわつと夏の日が照つて紫陽花がその驕女らしい姿をそのあたりにはつきりと見せた。

もとの右大臣の御靈がゆくりなく京のひとりの少女子に憑いて、紫野の向うの北野の小松原の中に住みたいといふ託宣があつたので、それが大宮の奧をも動かして、その年の秋に取敢へず小さやかな宮をそこにつくることになつたが、今年は始めて天滿天神といふ謚號が贈られ、社も宏壯に改築されて、皆人がぞろぞろとそこにお詣りに出かけた。窕子は是非そこにお詣りしたいと思つたけれども、もはやお中が大きくなつて、とても牛車では行かれぬので、たゞその賑ひの氣勢のみを他から聞くことに滿足しなければならなかつた。そこに、窕子の代りにお詣りに出かけて行つた呉葉はもどつて來て、『それは賑かでございました。野道が一杯人で埋まつて、御社のあたりには、餘ほど何うかしないと近寄れないくらゐでした。それに、今日源民の判官が家の子郎黨をあつめて參詣に來て居りましたので、鎧兜が見事で、キラキラと日に光つて、それは本當に見物でした』などと話した。

それに窕子に取つて嬉しかつたのは、遠くに行つた父の許から安着の報知の來たことだつた。その中には白河の關や安達の鬼塚のことが書いてあつて、とても女子の身では來たいにも來られぬところだなどと書いてあつた。

八月になると、さしもに凌ぎがたかつた炎暑も次第に凉しくなつて、愛宕から北山にかけて秋の白き雲が靡き、垣根には虫の聲がすだくばかりにきこえた。中秋近い頃には、大内裏で歌會や詩會があつたりして、兼家は忙しさうにあちこちと出かけたが、それでも大抵はちつとでも來てかの女を見舞ふことを例にしてゐた。

ある夜兼家が行くと、呉葉は飛んで出て來て、

『あ、ちやうどいらしつた。今、お使ひをさし上げようと致してをりましたところでございます……』

『物したか?』

『すこやかな、美しい、それはそれは玉のやうな……』

『男子か?』

『さやうで御座ります』

『それは好かつた……何うかと思うて案じてゐた……。母君は?』

『あちらにゐらつしやれます』

『苦しみはせざつたか?』

『あまりさう深くはお苦しみにもなりませんでした。巳の刻あたりから、さうした氣ざしはございましたけれど……ほんにさし込んでゐらせられたのは申の刻あたりからでございます』

『好かつた、好かつた――』

そこに母親がやつて來た。母親の顏にもよろこびが溢れてゐた。

『別に……』

『二人ともすこやかで、今よく眠つてをります……。今、使を出さうと存じましたところでした……』

眠つてゐても、こつそりでもそれを覗はずにはゐられないといふやうに、母親や呉葉の頻りに氣を揉むにも拘らず、兼家はそつとその産室を覗いて見た。そこには几帳が兩方から重なるやうに置いてあるが、灯の光がさう大して明るくないので、そこらに置いてある夜のものなどははつきりとは見えなかつた。たゞかれは髮のいつもに似ず白い紙で結ばれてあるのと、向うむきになつてぐつすり眠つてゐるのと、その襟から横顏だけがほのかに白く見えてゐるのと、その向うに今生れたばかりの小さな色の白い、それこそ本當に玉のやうな、髮の毛の黒く濃い赤兒が、その方は少しさめて、眼こそまだ明かぬが、口をもがもがさせてゐるのを兼家は眼にした。已にかれには邸の妻にも、女房にも子供がないではなかつたけれども、それでもその愛してゐる窕子であるために一層その生れた兒がもつと詳しく見たいやうな氣がした。

かれは几帳の中まで入つて、いぎたなく眠つてゐる窕子を覗いた。

『殿! 殿!』

そこに呉葉が來てとめた。かれは微笑を浮べながら引返した。

一一

産室から出てまだ一月とは經たないほどのことであつた。窕子は兼家の何處かに出かけたあとで思ひもかけないものを發見してはつとした。

それは螺鈿の文箱の中に、ごたごたと懷紙やら短册やら紙やらが一緒に亂雜に入つてゐるのを、別に疑ふといふやうな氣持もなしに、むしろあまり散ばつてゐるからそれを整理しようぐらゐの心持でその中をあれこれとそろへてゐたのであつた。そこにはかの女の書いた反古もある。兼家の達者な字で書いた文もある。ふと、氣が附いた時には、窕子の眼はその文に燒附きでもするやうにぴたりと留つた。

女は誰だかわからないが、その文言は何う考へ直してもラブ・レターであつた。それもかなり此方から打ち込んでゐるらしく、例の、この身の時にもさうであつたやうなうまい言葉が、歌が流るゝやうに出て行つてゐるのであつた。いつもなら、何んなことでも呉葉に見せるのが習慣であるのに、今日はそれすら出來なかつた。自分ひとりでこの思ひを深く包んで、兼家が顏を見せたならば、そのまゝ何うにもごまかすことが出來ないやうに、眞劔にそれを打ちつけて、いやでも應でもその女を知らなければならないと思つた。窕子は下唇を何遍も何遍もかたく噛んだ。

ところが生憎に秋雨が降つたり、大内裏に宮の用事があつたりして、兼家は容易にそこにその姿を見せなかつた。窕子は憂欝な顏をして、いらいらしながら暮した。

『何うかなさりましたか?』

呉葉は心配した。

ところが、三日目の午後にそんなことが家に待つてゐようなどとは夢にも知らずに、莞爾しながら機嫌よく兼家がやつて來ると、いきなり、

『あなた、これは?』

と言つて、嫉妬と恚りとで半ばもみくちやにされた、緑色の文をそこに出した。

『何だえ?』

『おわかりでせう! 覺えがあるでせう?』

それの何であるかを知つた兼家は急に狼狽へて、

『何うしたのだ……』

『何うしたもないではござりませぬか。かういふ女子が何處にゐるのでございます……』

『それはいたづらに書いたのだよ。そんな女はゐやしないのだよ』

『うそをおつしやいませ、ちやんとやるばかりになつてゐたのでございますもの……』

『何處にあつた?』

かう言つた時には、兼家の顏にはいくらか笑ひが上つて來てゐた。

『それ、御覽なさい……』

『本當に何處にあつたのだ』兼家はその女にやる文を何處かに亡して了つたので、その時あちこちをさがしてもないので、それに途にでも落して了つたのだくらゐに思つてゐたのであつた。

『さうか、此處の文箱にあつたのか。それはわるかつた……』

かう言つて手早く窕子の持つてゐる文を奪はうとした。

『駄目ですよ。』

窕子は笑つて、『それよりも本當に誰です? この人は? 何かまた身分のわるいものにでも出會したのではありませんか』

『大丈夫だよ』

いくら窕子が責めても流石に兼家はその女のことを言はなかつた。

しまひには窕子の眼から涙が流れた。そこに呉葉がやつて來た。その話をきいて呆れたやうな顏をして兼家を見詰めた。

『あんなお可愛い男のお子がお生れあそばしたのに……殿達といふものは……』

『女は何うせおもちやにされてゐるのですから……だから、呉葉、この間もそちには打明けなかつたが、つくづく思うた。女にはやはり子供ばかり……かう母者人がよく言はれたが、不思議なことを言ふと思うてゐたが、やはりその通りぢゃ。今はじめて思ひあたつた……』窕子は呉葉の手からその可愛い道綱を抱き取つた。

『まアそのやうなことをきつう言うて呉れな……かういふ可愛い男の子さへ出來たのだから、もう案ずることは少しもない……』

『それはさうでございませう。案ずることはございますまい……。女子を餓えさせて置くやうな殿達もございますまいほどに……。しかしそれだけで滿足してゐる女はありませうか? のう呉葉、お互に深く思ひ合ふほど、さうしたことは出來ない筈でございますのに』窕子の言葉には深い絶望の調子が加はつて行つた。

『殿はそのつもりで居られたのではござりませぬか。唯一たよりにする父親には遠く離れて、不憫だとは思召さぬのですか。この身はいかやうにもこの眞心を殿に捧げてゐるつもりですのに……』

『まア、好いよ』

兼家の額には汗がにじみ出した。かれにしても窕子を腹立たせたり悲しがらせたりすることは、ほんのわづかなら好いけれども――却つて愛情の暴漲を來たすよすがとなるけれども、さういふ風に泣かれたり口説かれたりすることは男に取つて餘り好いことではなかつた。窕子の怨みや嫉妬を買はない程度でかれは他の女とも遊んで見たいのであつた。

それから二三日經つたある夜のこと、呉葉は外から入つて來て、窕子の几帳のところに坐つた。

『何うした?』

『やつぱりさうださうでございます。留がそつとついて行つて何處に殿の車は入るかと思つてゐると、坊の小路の家に入つて行つたさうでございます』

『思つた通りだね』

『何うして殿はあゝいふ風に水心でゐられることか!』

『その坊の小路の女なら、そちは見たことがあるといふたね?』

『え、ちよつと……』

『何んな女子?』

『ちつとも好いことなんかございませんのです。色は白うございますけれど、容色は好いといふ方ではございません、……にくいではございませんか、留がそつと見てゐると、その女子が平氣で殿の車のところに出て來て、何か言つて居つたさうでございます……』

しかしいくら憂鬱に閉されてゐても、窕子は何うすることも出來なかつた。それに、兼家が久しく見えないこともかの女には氣になつた。思詰めると、このまゝ此身は秋の扇と捨てられて了ふのではないかといふやうにすら思はれた。

殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。

兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。

二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。

頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもどして行くやうである……窕子は半ば身を起して、その車の音の向うに微かになつて行くのにじつと耳を傾けた。何とも言はれないかなしさが強くかの女の全身に襲つて來た。

たしかにあそこに行つたに相違ない。それと知つたならば、じらせなどせずに、そのまゝすぐ戸を明けてやればよかつた。この身もわるかつたのだ。かう思ふと一層ひとり寢のさびしさが身に染みた。

歎きつゝ

ひとりぬる身の

あくる間は

いかに久しき

ものとかはしる

夜が明けたらば、この歌を書いて兼家のもとに送らうなどと思ひながら、窕子は明方まで眠れなかつた。

一二

朝になつてそれを見事に短册に書いて、うつろつた菊にさして使のものに持たせてやつたが、兼家からはかへしがなかつた。それから猶一日經つてからであつた。實にやげに冬の夜ならぬ槇の戸もおそくあくるに苦しかりけり。そうした歌につづけて、『あの時もう少し叩いて待つて居れば屹度明けるにはちがひないとは思つたけれども、丁度その時急な用を言つて來た使のものがあったので、それで引返して了つた。わるく思つて呉れな……』と書いてある。いつもながら男は勝手なことばかり言ふものだと思ふと、腹が立つて、我知らず下唇を噛んだりしたが、しかも何うにもならなかった。そんなことを荒立てゝ言つて見たところで、男の心を此方へ移すことが出來るではなく、かへつてその状態をわるくするばかりなのはよく知れきつてゐた。それが窕子には心外でもあり悲しくもあり腹立たしくもあつた。此間、内裏に仕へてゐる歌の昔の友達がひよつくりたづねて來て、帝ときさいの宮との間に、此頃みにくい爭ひがあることなどを話して行つたことを窕子は自分の身の上に比べて思ひ出した。それは窕子とはうらはらのことで、何方かと言へばその女御の方にこそより多く同情さるべき位置にかの女はその身を置いてゐたのであつたけれども、それでもきさいの宮の方に一も二もなく同情させられて行つた。『それはきさいの宮がお腹立にならるゝのも當り前だ……。その前でさういふことをされては、誰だとて腹立たしく思わないものはござりますまい……。一體、その女御が餘り出しやばりすぎるからいけないんです。帝も帝だけれども、その帝の寵愛を好いことにして勝手に振舞ふからいけないのです。きさいの宮だつて、平生さういふことはちやんとお心得になつてゐらつしやるのだから、よくよくでなければそんなことはなさらない筈です』などと言つたことをくり返した。何でも帝はその小一條の女御を寵愛のあまり、おん手づから筝をお教へになつたり、歌を賜はつたりするばかりでなく、殆ど目にあまるやうなことをするので、それできさいの宮はいつもそれを夥しく憎んでゐられるとのことであつた。何處に行つても、さういふことは止むを得ないものか。帝やきさいの宮の仲にもさういふことは免れがたいものか。やつぱり女はさういふ時に出會したら、だまつて知らぬ顏をしてゐるより他爲方がないのか。その時その大内裏につとめてゐる友達とこんな話をしたことを窕子は續いて思ひ出した。

『それであなたは宮仕?』

『さういふわけぢやないけども……』

『宮仕はまた宮仕で忘れられない面白いことかあるさうですからね。つまらなく身をかためて了ふよりは、その方が好いでせうけども……』

『でも内裏は面白いこともあるにはありますけれどね』

その友達は窕子の言葉を半ば否定するやうに、『やつぱり、女子といふものは、嫉妬に苦しんで命をなくすやうな苦しい目に逢ふても、それでもひとりでゐるものではないと思ひますね。色戀は出來ても誰も持たぬといふさびしみ、誰もしつかりつかんでゐないといふ孤獨、さういふことを考へると、内裏などで行はれてゐる色戀はそれこそ水の上に書いた字のやうなものですからね。だから、何んな人でも構はぬ。殿上人でなくてはいけないなど言つたのは、あれは昔、娘であつた時分の虚榮、今はもう何でも構ひませんよ。何方かと言へば、誰も知らぬやうな、唯毎日つとめるところにつとめて、夕方になるとそればかりを樂しみにして歸つて來るやうなさういふ夫だつたら一層好いと思ひますね』

『でも、それは駄目よ。それに滿足してゐられるあなたなもんですか。』

『それはまア、さうかも知れませんけども、まア話にして、さういふ風に考へることがよくありますよ。またあの御門あたりにつとめてゐる男子にさういふのがいくらもあるんですからね……。それを思ふと、平等に出來てゐるのね。』

窕子は今またそれを繰返してこゝに考へ出さずにはゐられなかつた。

一三

兼家もしまひには笑ひながら、『何もそんなに案ずることはあるまい、この身はこれほどそなたのことを思うて居るではないか。普通の道端の花とは思つてはゐないのだから……』

『でも……』

『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』

『それはわかつてをりますけども、それでも……』

『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、

『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』

『相手をなさる女子は?』

『大勢居るよ』

『でも、殿の御氣に召した女子は……?』

『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』

『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』

兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれども、その闇の巷路を五六歩入ると、そこに全く違つた夜の光景がひらかれて、其處にも此處にも置かれた結び燈臺の光が、髮の長い、色のくつきりとぬけるやうに白い、普通上流の女達の着けるものとは違つた、派手な襲ね色の或は紫に、或は紅に、縹色に、銀色にかゞやいた衣裳を着けて、それもだらしなく、几帳などは横さまにして、戸口まで出て迎へて行つたりする女達を見るのであつた。否、もう少し中に入つて行くと、室が奧から奧へと二つも四つも連つてゐて、その室毎にさうした女と狩衣の袖を亂した男とがゐて、たまには女が聲張上げて歌をうたひ、それにつれて傍にゐるやゝ年老いた女が琵琶を彈き、男は男でその頃流行る小曲を歌つた。

挿櫛は十まり七つありしかど、

たけくの縁の朝にとり

ようさりにとり、

取りしかは、

挿櫛もなしや。

これに似た小曲がいくつもいくつも男の口から出て來た。後には男と女と一緒に立つて舞つたりなどした。あとからあとへと女童は提銚子に酒を入れたものを運んで來た。窕子は何うしてさういふ坊の小路の光景を知つてゐるかと言へば、かの女はつい今から二月ほど前、兼家がそこで現をぬかして遊んでゐるといふのを聞いて、家の男の子につれて行つて貰つて、そつとその闇の中に俄かに蜃氣樓か何かのやうにあらはれて來る賑かなさまを覗いたのであつた。成ほど男達が坊の小路、坊の小路と言つてそれを大騷ぎするのは無理もない、女の身で見てさへこのやうに面白いのだものとその時窕子は思つたことをくり返した。

で、男はそこで女を相手に終夜遊び散すらしいのだが、女房達の局の内や、琴、笛の夜の會などとはまた違つて、碎けた、氣の置けない、のんきな歡樂のそこにあるらしいのが窕子にもわかつた。窕子はそこを通る時、面がほてつて爲方がなかつたことを思ひ起した。じろじろと見られたゞけで、別にわる口らしい放言は浴びせかけられなかつたけれども、何うして女の身でこんなところまで入つて來たらうと後悔したことを思ひ起した。ことに、暗い一室に、結び燈臺も細々としかともつてゐない一室に、二人の男女が身を寄せ合うて打伏すやうにしてゐたさまが、今でもはつきりと眼の前に浮んで來た。窕子はいくらか心が焦立つて來た。

『あなたには、あそこでも、もう、ちやんときまつた方があるのでせう?』

『ありはせぬよ』

兼家の笑顏は却つてその反對な心持を裏切つた。

『隱さなくとも好いではございませんか。今度、この身をもそこに伴れて行つて逢はせて下さい………』

『よし、よし、そんなに行つて見たいなら伴れて行つて逢はせてやらぬこともない』などと言つて、兼家は却つてそれを肯定するやうに言つた。

これに限らず、ずつと前から、兼家の好色の噂を、窕子は何彼と聞いて知つてゐるのであつた。兄の攝津介は此頃は伴につれて行かれたりなどするので、もはや此方ばかりの味方にして置くことは出來なかつたけれども、それでもその言葉の端からいろいろなことがわかつた。女房の局の方にあるのは、もはやかなりに深いらしく、その女は地位もその身よりは好く、何ぞと言つては却つて窕子のことを問題にしてゐるらしく、此方に可愛い男の兒が生れたのを兼家はそこにはひたかくしにかくして置いたのを、ある時誰れかがそれを知らずについ口を滑らして了つたので、それを死ぬほど嫉妬して、しまひには此方を呪はうとさへしてゐるのを窕子は耳にした。しかしその局の女に對してはかの女はさう大してやきもきしてはゐなかつた。かの女はその女を曾てそつと見たことかあつた。美しいには美しいにしても、とてもこの身に及ぶべくもないと思つた。窕子は優越感を十分に感じた。この他にも藤壺の侍女の中に兼家が深く思をかけた女のあることを窕子は聞いた。

可愛い子供が出來ればそんなことはなくなる。それは兼家の方のことを言つたのか、それとも自分の方の心のことを言つたのか。まだ子供が出來ない中には、それは無論兼家の方のことを言つたので、さうなればひとり手に愛情が此方に移つて來る。可愛い子の愛にひかされてひとり手に足が此方に向くやうになる。さう思つてばかりゐたのに、子供が出來てからは、それはさういふ意味ではなくて、單に此方の心持――子供の愛に慰められて、さうした男の好色をも堪へ忍ぶやうになるといふことであるといふことが窕子にも次第に飮み込めて來るやうになつた。⦅男の心には女があるばかりだ……⦆窕子はひとり寢の夜など唇を噛んでかう獨語した。この人の世のことが年を經るにつれて次第にぴたりと身に觸れて來るのを感じた。

一四

兼家の行列はいつも大内裏から西洞院へと下つて行つた。それは普通は東三條の邸へと行くのが常であるが、ともすると、それが堀川の方へ行つたり、また時には西の京の荒れ果てた町の方へと行つたりした。窕子の邸に來る時には、それがすぐ向うの長く續いた築土のところで一先その警衞の聲が留つて、そこで列を碎いて、先に立つたものが二三人、それも大抵はいつもきまつて鼻の際立つて大きい肥つた下司がふくみ聲で、『お出でます、お出でます……』と先觸するのが例になつてゐた。と、いままでひつそり火の消えたやうになつてゐた家の中が俄に活氣づいて、下司も侍女も厨の女も忽ちにして忙しくなるばかりでなく、呉葉もそはそはと門のあたりを行つたり來たりして、そこに靜かに鷹揚に一人二人の供を伴れて兼家が狩衣姿で入って來るのを迎へた。

『お出でます――』

かう言つて呉葉は丁寧に、さもさも自分のことでもあるやうに嬉しさうに莞爾して迎へるのが常であつた。

奧にゐる窕子にもその來る來ないがよくわかつた。申の下刻をすこし過ぎたと思ふ頃には、きまつてその大内裏から下つて來る警衞の懸聲がそれとなくはつきりきこえるのであつたが――他にも九條殿だの、小三條の殿だのの警蹕もないではなかつたけれども、それは長年の習慣で、その懸聲の調子や何かで、今のは誰? といふことがはつきりとわかるのであつたが、その角のところでとまるか何うかといふことがいつもひそかに窕子の頭を惱ました。從つて窕子は内の誰よりも先に――主人に此上なく忠實な呉葉よりも先に殿の來るか來ないかがわかつた。

『あ! 行つて了つた……今宵も來ない』かう何遍かの女は口に出して言つて失望したか知れなかつた。その行列がサツサと行つて了へば、それが最後で、あとは秋の長夜を、さびしい獨寢の長夜を、虫がすだいたり月がさしたりまた時には雨が烈しく心細く降つたりする夜をひとりさびしく送らなければならないのである。かの女はそれを考へるといつもうんざりした。また一夜眼をさましていろいろなことを考へなければならないのか。それもたゞ眠られぬといふだけならまだしもだけれども、あだし女子と何處で何うして寢てゐるであらうか、またあの坊の小路だらうか、それともまたこの頃出來たといふ河原の邸だらうか、そんなことを考へると、自分の家にとまつた時のことに引きくらべて、忽ち赫とならずには居られないのであつた。此の身の當然すべきことを他の女子がやつてゐる。それだけでたまらなく身内が削られるやうに業が煮えて爲方がないのに、この虫の音をも向うではさびしとはきかず、この月の光をも盃に受けて竝んで夜を更してゐると思ふと、ゐても立つてもゐられないやうな氣がした。

であるから、そこで、その角で、その警衞が留るか否かといふことは窕子に取つては大きな問題だつた。かの女はじつとしてその時の來るのを待ち、またその時の過ぎるのを待つた。そして過ぎて了ふとかの女はがつかりした。後には呉葉と顏を合わせることがきまりわるくなり、それが昂じて、さう深く自分の身のことでもあるかのやうに案じて呉れることに一種の腹立たしさを感じて、ある時などは、『お前、もうそんなにハラハラ思はないでおいておくれよ、だつて、お前のことぢやなし、私のことなんだから。來たつて來なくたつて、一々そんなことを氣にしては生きてゐられはしないよ……。來たくなければ來なくつたつて、何もそんなに氣を揉むことはないよ』などと不機嫌に當り散らした。そのくせ、窕子は來ない日の續くのをいかにもさびしさうにたれこめてのみ暮すのだつた。

それでも何うかすると、その警衞の行列がぴたりと留つて、鼻の大きいその含み聲の下司が、『お出ます、お出ます……』と言つてバタバタと入つて來た。

しかし此頃では窕子の心はわるくすねるやうな形になつて行つてゐた。來て貰つて嬉しくないことはないのだけれども、それを無邪氣に面にあらはし喜ばしさうにするといふのは、何となく自分の心を卑くすることで、それでは女としての意地も張りも何もないやうな氣がして、わざとツンとしたやうな顏を見せることが多くなつた。さうでなければわるく素氣なく取扱つて一夜後向きになつてすゝりあげて見せたりなどした。

さういふ夜でも窕子はいつか兼家の腕にまかれて、すゝり上げながらだらりと長い黒髮を屍でもあるやうに亂がましく下に垂らしたりなどした。

朝になつて兼家は呉葉に言つた。

『何うも困る女だね』

『だつて、殿がおわるいのですもの……』

『それはさうだらうけれども、よく言つて置いて呉れ……。決して何うのかうのと言ふのではないのだから、此頃は少し忙しいのだから、それに、此間は物忌になつたりして、こもり勝ちに暮してゐたものだから……』

『でも、お忘れないやうに――近うお出下さるやうに――』

『わかつた! わかつた』

他の女のことをあまり手ひどく嫉妬されるのはそれは好ましいことではなかつたけれども、しかしさうした女のヒステリカルな感情が、男に一種の興味を齎らすことには間違ひがなかつた。兼家に取つては、何處に行つても窕子のやうな女は見出せなかつた。從順と謙遜と虚僞とのみにかれは倦んでゐた。

かれはそのあくる日大内裏のあるところである若い殿上人にこんなことを言つた。『御身なんかにはまだ女のことなんかわからないね……。局の女房達のところだつて大したものではないしね。坊の小路だつてちよつとは面白いけれども、あれだつて、しまひには底がわかつて了ふし、やつぱり戀は向うの相手の如何だと思ふ。御身はまだ女の一夜泣いたのを介抱したことがあるかね? あるまい? さういふ面倒なところに面白味があるのが戀だよ。やつぱり女は女だからね。いくらすねて見せたつて、やつぱり男のものだからね。だから、嫉妬する女にも面白い一面があるよ。たうとう一夜一睡も取れなかつた……。それで今日眠うていかん』

『河原でござるか?』若い殿上人は笑つて訊いた。

『まア、そんなことはまア何處でも好いけれど……』

かう言つて兼家も笑つた。女がヒステリカルに振舞つた美しいその態度は、その時になつても一種の深い男性的愛着を兼家に感じさせずには置かないのであつた。

また數日經つた後にはその同じ若い殿上人に兼家が話した。

『何うも、女子といふものは面倒なものぢや』

『何うかなさりましたか』

『別に何うといふことないが、もう少し離れてゐて呉れれば好いと思ふことがござるな……』

『またよべ御介抱なされましたか』

『さうぢやない、今度のは別じゃがのう……。何うしてあゝ女子というものは嫉妬深いものかなう……。いくら申してきかせてもわかり居らぬ……』

『殿は果報者でござるほどに……この身などは、この若さに、まだひとりすらさういふものを持ちてだにあらぬに………殿は――』

『局のは何うし居つた?』兼家は笑ひながら言つた。

一五

幼ない道綱はいつの間にか數へ年の三つになつて、此頃は片語雜りの言葉を可愛い口から言ふやうになつた。窕子に取つてはそれがせめてもの慰藉であつた。普通館の人達は子が生れると北山あたりに好い乳母をもとめて、そこに數年里子に出して置くのを常としてゐたけれども――兼家もそれを希望しないではなかつたけれども、窕子はこの私の小さい珠玉だけは片時も自分の胸から離すことが出來ないと言つて、ひたとそれをかき抱いたので、それでそこで育てらるゝことゝなつた。しかし里の母親などは、昔人だけにそれをひどく心配して、殿の足の此頃間遠に編まれた簾のやうになつたのは、その幼い兒をそのまゝそこに置くためではあるまいか。子を持てば女子の姿はあさましくなると言はれて、好色の殿達はそれをひとつの邪魔者のやうに、また子の愛に執着してそれから離れて來られない女子はもはや色戀の對照ではないといふ風に思はれてゐるのに、それを平氣で對屋で養つてゐるので、それで殿は來られなくなつたのではあるまいか。今からでも遲いことはない。いつそ世間並に北山へやるやうにしては――? かう母親は絶えてそれを氣にして言ふのであつたけれども、しかも窕子はそれに耳を留めようとはしなかつた。そのやうな薄い情のために、この大切な珠玉を失くして何うなるものぞ! そのやうなことは別にしてそなたを思うて慈しんでくれるのでなうては、父親と言つても、それは單に名ばかりではないか。何うして! 何うして! この身の姿がいかにあさましうならうとも、この身がそのため何のやうに痩せてみにくくならうとも、この身は單なる男の子のもてあそびものでない上は、この子を手放すことではない。窕子は強く強くその可愛い子を抱きしめた。

呉葉もそれには同情せずにはゐられなかつた。何ぞと言つては、道綱を伴れてはその女君のゐる几帳の方へと行つた。

『おゝ、よう參つた! あこは好い子になつたのう!』

かう言つて窕子はこつちへとそれを引寄せた。

『あこは本當にうつくしう――』引寄せてたまらなくなつたと言ふやうに、その身の苦しみやら男に對する嫉妬やら體の平均しない感情やらに堪へられなくなつたといふやうに、その赤い滑かな小さな頬にあつい口をぴたりと當てた。思はず涙が底から溢れ漲つて來た。

その頬の吸ひざまがいつもとは違つて強く烈しかつたので、小さき道綱は急に聲を立てゝ泣き出した。

『お、よし、よし、母があまりつよう吸うた! 許して呉れ! 許して呉れ、さうつよう吸うたつもりではなかつたのに! お、よし、よし』

窕子は慌てゝ引起して、それを一生懸命になだめた。

『よし、よし、本當に、この母がわるかつたのう、わびた、わびた、これこの通りにわびた!』

泣き出した道綱はしかも容易に泣き止まうとはしなかつた。

呉葉が抱き寄せて、

『何ともなつてゐはせぬのでございますのに……。おゝ、母者が吸うた。わるかつた。わるかつた。母者のとこに伴れて來ずばよかつた……。でも、なう、男子は強うならねばならぬ。そのやうに弱う泣いては何うにもなりませぬ。もう大丈夫! もう治つた!』かう言つて若い母親の悲しい口づけのあるあとを呉葉は經く撫でゝやつた。

それで道綱の泣聲は漸くとまつた。

秋はそんなことをして暮してゐる中にもいつか長けて、西山のもみぢも過ぎ、鳴瀧の奧の御寺の御講も濟んで、やがては北山の奧の峰に雪が白く見えるやうになつた。

さびしい寒い冬は來た。窕子は日ましに兼家との仲が遠くなつて行くのを悲しまずにはゐられなかつた。それはたまさかにはたよりがあり、歌があり、曾ては、十日ばかりも來ずに、だしぬけに几帳の柱にかけて置きわすれて行つた小弓の矢を使の者して取りに寄こしたので、『思ひ出づる時もあらじと思へどもやといふにこそおどろかれぬれ』などとわる洒落を言つてやつたりなどしたことかあつたが、次第にさうして馴々しい心持なども稀れになつて、その歌のおとづれすらも次第に間遠になつて行くのだつた。

ある夜は道綱をかたく抱きしめて、『何うなすつたのでせうね、そちのお父さまは……。網代の氷魚にでもきいて見たらわかるだらうかね。何うして此頃はちつともそちのところに來ないだらうかツて………』かう言つて窕子はまたしたゝかに涙を流した。

一六

ひとつの噂が傳つて來た。

何でもその話では、去年あたりから堀川の殿に新しい寵が出來て、それが河原に近いところに對屋を造へて圍はれてあつたが、その人にも今度はめでたい話があつたといふのであつた。噂としては別にさう大したことでもなかつた。その女の圍はれてあることは、たうから知つてゐた。その女にいつかさういふ話のあるのは當然のことであつて、別にめづらしいことではなかつた。しかし世間では窕子の時にも目を睜るやうにしてその噂をして、中にはそれをあさましいと言つてわるい方に言つたものもあるにはあつたが、大抵は大臣になる人の寵になつたのを果報に羨ましく思つたものが多かつたので、忽ちにして秋の扇と捨てられた形を世間でも由々しいものにして噂は噂を生むのであつた。その世間といふものが窕子にも強く強く感じられた。

『本當でござるか』

『さやうか』

『男心といふものはそのやうなものかのう? あれほど心を籠められてゐても、いざとなると、さうなるものかのう』

さうした言葉は窕子の周圍にゐる人達の中にも起つた。窕子はしかし默々として暮した。それについては何も言はなかつた。呉葉が何か言ひかけるのにすら不機嫌な表情をした。

それでもその出來事の一伍十什については、誰よりもその身が一番詳しく知らなければならないのであつた。從つてその問題に觸れられることは身を切らるゝよりも痛さを感ずるけれども、また此上もなくこの身の誇りを傷つけらるゝやうにも感じられるけれども、しかしそれから耳を塞いで、何うともなれ! と言ふやうに平氣にすましてゐるわけには行かなかつた。否、むしろ此方から進んで、さういふ敵と戰ふばかりか、自分のためにも、またこの幼いもののためにも、飽までも男の心を此方へ取戻して來なければならなかつた。窕子は徒らに嘆いたり女々しく悔んだりばかりしてはゐられないやうな氣がした。

母親もあまり世間の噂が高いので、心配になつたと見えて、それとなしに、そのことを言ひに來たのではないといふ風をして、そつとそこにその顏を見せた。その時、兼家からの使のものが文箱をとゞけて來た。

箱をあけて、文をひろげて見ると、久しく行かなかつたのは、まことにすまなかつた。しかし、わるう思つては呉るゝな。此方にも今までは知らせずにしてあつたが、少し手放されぬ厄介なことがあつて、それでかういふ風に無沙汰になつた。それもやつと昨日すんだ。しかし身も穢れて居るので、當分は宅に籠もつてゐるより他に爲方がない。非常にあさましう、つめたく思ふかも知れぬが、そなたのことは忘れたのではないからなどといつもよりも細々しくやさしく筆を走らせてゐるのを窕子は見た。使のものもいつもの下衆とは違つて、自分の下につかつてゐる史生見たいなものだつた。で、それとなく呉葉にきかせた。

やがて呉葉はもどつて來たが、窕子の傍に寄添つて來た。

『え?』

窕子は耳を寄せた。

『さうなの? 男の子なの? ふむ……』かう言つたきりだつた。窕子の顏は急に赤くなつた。

呉葉にはその窕子の心の動搖がよくわかつた。しかし何うすることも出來なかつた。二人はそのまゝにだまつた。

暫くしてから、

『おかへしは?』

かう呉葉が訊くと、

『ないと言つてお呉れ……』

かう言つたまゝ窕子は向うむきになつて了つた。

そこに母規も近寄つて來た。

『何うかしましたか?』

『いゝえ、別に……』つとめてその心持を押へようとしたけれども、しかしその一伍十什を母親からかくして了ふことは出來なかつた。

母親も昔氣質の腹を立てずにはゐられないやうに見えた。それが男の兒であるときいた時には、見る見るその顏の色も變つて行つた。

『殿も殿だ……』

かう母親は口癖のやうに言つた。

一七

七月になつてからであつた。ある日、使のものが古い衣と新しいのと一領づゝ物に包んで、急いでそれを仕立直すやうにとて持つて來た。

まさかことはるわけには行かないので、呉葉はそれを受取るには受取つたけれども、窕子に見せたら、何と言ふだらう。そのやうなけがらはしいものは手に觸れるのもいやだといふだらう。さういふことをする人は他にあるだらうといふだらう。否、感情に強い窕子はそれを見たら、赫となつて、それをピリピリ破つて捨てゝ了ふかも知れない。呉葉は間に立つて困つてゐると、ちやう度そこに母親が來た。

『まア、殿は少しも來もせずに、何といふ――』

母親も呆れた。

『何ういたしませうか?』

『さア、何うしたら――』

『兎に角一度お目にかけた方が宜しいでせうか』

『さうぢやなう、見せた方が好いぢやらう……。しかしあんまり好い氣ぢや』流石の母親もいつものやうに殿のため殿のためとばかりは言つてゐなかつた。

窕子はしかしそれを見ても、たゞそれをひつくり返して、その古い方の衣裳を曾てその身が眞心こめて縫つた時のことなどを思ひ出して、今の身の悲しさをそこに深く深く感じただけであつた。別にそれを何うしようとも言はなかつた。かの女の戀もその衣裳のやうに古びた。かの女はその汚れた衣をひろげて、その肩のところの縫目などを一つ一つ仔細に調べてゐたが、急にたまらなくなつたといふやうにはらはらと涙をその衣の上に落した。

⦅この縫目はこのやうにしつかりとしてゐるのに……⦆さう思ふと、かの女はたまらなくなつたのである。

『何うしたのだぞえ?』

母親はびつくりしたやうに窕子の方を見た。

涙は益々繁く霰でもあるかのやうにその衣の上に落ちた。

『さア、此方におよこし……。だから、そちに見せて好いかわるいかと呉葉も心配して言うてゐたのぢやけれど……。なう、窕子、そのやうに泣いたとて、何うにもなるのでもない……。さア、その衣裳を……』母親は窕子の手からその涙に霑された衣裳を強ゐて取つた。そこに呉葉も入つて來た。そして引被ぐばかりにして泣入つてゐる窕子を幾重にもなだめた。

兼家の衣は爲方なしにもどしてやることにした。

一八

さびしい秋が續いた。野分がすさまじく始終吹いたり、虫の音が悲しく枕近くきこえたりした。窕子は深くたれこめてのみ暮した。

いくらこひしいと言つても、その身の矜持までも捨てゝかれの來るのを待つわけには行かなかつた。此身を思うて呉れればこそそこに縋つて行く心持も起つて來るのである。思ひもして呉れないのに……坊の小路の女達や河原の人などと同じづらに持てあつかはれて、たゞ玩弄品か何かのやうに見られてゐるのに、いくら此方でばかり深く思つて見たところで効がなかつた。窕子はそこに深い深い失望を感じた。そしてそれは今まで感じて來た輕い失望のやうなものではなかつた。かの女はその悲しみと失望との中に、さびしい秋の自然が、山にたなびきわたつて眺められ雲のたゝずまひが、野分に吹きなびけられてゐる尾花が、夜もすがらきこえて來る虫の音が、またはさびしく降しきる軒の雨がすべて細かに織り込まれて來るやうな氣がした。

二三年前までならば、たとへ何んな苦しみがあつたにしても、また何んな悲しみがあつたにしても、いろいろなことでそれをまぎらせることも出來たであらう。此方からもさう深く思ひ込まずに、容易に男の胸にこの身を投げかけて行くことも出來たであらう。また呉葉の慰藉も、母の意見もそれをまぎれさせるに十分力があつたであらう。しかし今度の失望は、さうした生やさしい心の傷痍ではなかつた。窕子は既にあらゆる希望の憑むに足らないものであることを知つた。自分の眼の前に頼みにもし、力にもし、なぐさめにもして來たさまざまの幻影は、それは實際幻影で、到底手にすることの出來ないものであるといふことをかの女はつくづく感じた。青春の失はれて行く怨み、それも悲しかつたには相違ないが、しかしそこにはまだ慰めもあれば、縋るべきものもあつた。今度のやうに魂の底まで搖ぶられるやうなものではなかつた。

呉葉が何か言ひかけても、窕子はたゞ低頭いてだまつてゐるやうなことが多かつた。

『本當に、もう少し氣を引立てゝ下さらなくつては……』

呉葉はある日、兼家がやつて來て、一晌ほどゐてそゝくさと歸つて行つたあとで言つた。

『そのやうに言はずにおいてお呉れ……。お前の心持はよくわかつてゐるから』

『でも……見てゐても、お傷はしうございますもの……』

『だつて、しようがない……』

『殿は?』

その交情が呉葉には心配になるのであつた。

『別に何でもない……』

『でも……』

早くそゝくさと歸つて行つたのを呉葉は心配した。

『だつて、お前、さういふことは成行にまかせるより他爲方がないぢやないか……』

『でも……』

『もつとお前は私に殿の機嫌を取れと言ふの?』

窕子はじつと呉葉を見詰めた。

『さういふわけではございませんけれど……』

『だつてお前……私の心が言ふことをきかないから仕方がない。昔から女子はそのやうに出來てゐると言うたとて、男に玩弄具のやうに取扱はれて、それで言ふことはきいて居られるか、何うか。そちにもそれはわからぬことはよもあるまい――』窕子の眼には涙が光つた。

『それはわかつてをりますけども……』

『坊の小路なら、さういふことも出來るだらうけれども、この身は……この身は……さういふ女子とは違ふほどに……』

『それは、それは――』

呉葉も後には困つた。

『それはそちの心はわかる。そちは、この身を思ふあまりに、さう言うてその身のことのやうに心配して呉れるのだらう。それはようわかる……。この身とて……この身とて……それを望まぬではない……。なう、呉葉、この身とて……』あとは言はずに涙が堰を切るやうに窕子の眼から溢れ落ちた。

一九

陸奧の

つゝしか岡の

馬鞭草

來るほどをだに

待たてやは

よすかを絶ゆべき

阿武隈の

相見てだにと……

かう書いて來てかの女は遠い遠い父親を思つた。父親が行つてからもはや四たび年を重ねた。そのあとで生れた道綱も大きくなつた。母親は絶えず心配しては呉れる。しかし……しかし……。窕子はいつも遠い遠い父親を思つた。

父親のたよりは、一年に二三度は來たが、しかもそれは長い月日をかけたものだつた。梅の花の咲く頃に向うを出たものが、卯の花も散りはて、子規の聲の老けた頃でなければ此方の手には入つて來なかつた。また秋出したものは、年の暮れでなければそれを見ることが出來なかつた。父親は容易に都に歸て來さうにも見えなかつた。初めの年は白河の關から大方二日路のところに留つて、むかしの山の井の物語のある安積の府のことだの、安達の鬼塚のことだの、阿武隈川がその近くを流れてはゐるが、まだ狹くて、流れも小さくて、とても歌枕に詠まれたやうな大河ではないなどと詳しく書いてよこしたりしたが、二年目からは、それよりも猶ほ五日路も六日路も奧に入つて、武隈の府から多賀の府の方へと出かけて行つたらしく、その消息さへ容易に手にすることは出來なくなつて了つたのであつた。

かの女はたまさかに來るその手紙を唯一の戀人か何ぞのやうにして待つた。またその來た手紙は、何遍も何遍も出して來ては讀むので皺にされたり汚れたりするのであつたが、しかしそれを丁寧に疊んで、一つ一つ來た日をかきつけて、貝の蒔繪の文箱の中に重ねて藏つて置いた。此頃では何うしてかことにその父親のあたりが戀ひしかつた。何故あの時無理にでもそのあとについて歌枕を見に行かなかつたかと思つた。かの女の眼には、その父親が遠く遠く薄を分けて蝦夷の地近くまで入つて行くさまがはつきりと見えた。武隈の二木松などもそれと見えた。父親の手紙にはいろいろなことが書いてある。この多賀の府からは歌枕の千松島はもはやさして遠くない。今までは用事が忙しいので行つて見ることが出來ずにゐるが、秋にもなつなら、是非とも暇をこしらへて行つて見るつもりだ……などとも書いてある。窕子は父親をその松島の中に置いて、いろいろに想像して見たりなどした。

さもやこまつの

みとり兒の

絶えずまゐるを

きく毎に

人やなくなる涙のみ

我身を海とたゝふとも

海松もよせぬ……

實際、窕子に取つては、その遠くにある父親と、その周圍に纏つて來てゐる幼い道綱とがその心をたまらなく悲しくさせるのであつた。道綱は今年數へ年の四つの可愛い盛りで、何ぞと言つて呉葉の手から窕子の膝へと凭りかゝつて來るのだつた。兼家のことなどをもよく覺えて、『殿……殿……』などと小さな手で指さしたりなどした。

『まア、此子が……』

兼家が歸る時にいつも口ぐせのやうに言ふ言葉の一つを、それを誰も教へも何もせぬのに、室の隅で玩具を持つて獨あそびをしながら、獨言のやうに眞似てゐるのをきいた時には、窕子はあきれてさう言はずにはゐられなかつた。

『あこは好い子ぢや……今言うたことをもう一度言うて見や……』

『…………』

幼ない道綱はじつと母親の顏を見るやうにした。

『言うて見や……』

『すぐもどる……すぐもどる……きつとぢや……』

『まア、さう言うたか? 殿が?』

『きつとぢや、きつとぢや、すぐもどるほどに、のう……』

二度目には母親がきいてゐるのなどはもはや頓着しないといふやうに、玩弄具をもてあそびなから、頻りに節をつけて歌でもうたふやうにして言ふのだつた。

『呉葉來て見や』

かう窕子は呼んだ。

呉葉も流石にそれには驚いたといふやうに、

『まア……まア、あこさまの聰明なこと……』

『だつてあんまりぢやないかねえ……。皆なきいて知つてゐるのだねえ――』窕子はたまらなく道綱が可愛相になつた。それはたとへ無意識であつたにしても、さういふ言葉を、いつとなく覺えて、それを歌か何ぞのやうに節をつけて眞似てゐるといふことは、何とも言へない一種の悲しさと心細さとを誘つた。その後兼家がやつて來た時、その話をして泣いたことを窕子は繰返した。

かひもあらじと

知りながら

命あらばと

たのめ來し

言ばかりこそ

白波の

立ちも寄り來ば

問はまほしけれ

かの女はその長い歌を例の巧みな假名で懷紙に書いて、それを丸るくして、向うにある厨子の上の段へと載せて置いた。二三日經つて、兼家がやつて來たけれども、かの女は顏をもそこに出さなかつた。兼家はそれをそつと取つて歸つて行つた。つゞいてそれに對するかへしの長い歌が來た。

その長い歌には何が書いてあつたらう。やつぱり男子の浮いた心が體裁よくかくされてありはしなかつたか。⦅お前は何故それでは打解けないのぢや。この身はお前を忘れたことはない。お前のことばかりを思うてをる。それをお前は何のわけもなしに、此身を袖にばかりしてゐるではないか。――寢覺の月の槇の戸に光殘さず洩れて來る影だに見えずありしより疎き心ぞつきそめし――二人の仲がこのやうになつたのはお前にも責任があるではないか⦆かういふ風にその長歌は詠まれてあるのであつた。窕子はじつとそれを深く考へた。

二○

互に打解けても打解けられないやうな月日が長く長く續いた。さうかと言つて兼家は全くその姿をそこに見せぬといふのでもなかつた。またその身はやつて來なくとも、歌やら消息やらは常に使にもたせてよこした。

いくら悶えたからと言つて何うともならないといふやうな心持が次第に窕子の身の周圍に來た。苦しい時には默つてゐるより他爲方がない。いくら思ひのまゝにしようとしたとてそれは出來るものではない。また、何んなにつらいと思ふことでも、悲しいと思ふことでも、時には身も亡びるかと思はれるくらゐいらいらすることでも、じつと落附いてさへ居れば次第にそれが薄らいで行くものだといふことなどもそれとなく飮み込めるやうになつた。⦅これがこの人の世といふものだ……。誰にでもそれほどのことはあるものだ。單に自分にばかりそれがあるのではない。現に、その證據には、あの后の宮にもその苦しみがあるではないか。またその妹の登子の君にも、それにもました戀の苦しみがあるではないか⦆かの女は次第にその身の悶えをあたりの人達に比べるやうになつた。

『本當だね、何處に行つたつて思ふまゝにならないのだねえ?』

ある日窕子はこんな風に呉葉に話しかけた。

『…………』

呉葉は點頭いただけで、何も言はずに、そのまゝ窕子の言はうとするところを待つた。

『御門でさへ……そのやうなことをなさるのですもの』

言葉を長く、いかにも歎かはしいやうにして窕子は言つた。

『何の宮のことでござりますか?』

『そら、そちも知つてゐるではないか、登子……きさいの宮?……』

『あ、お妹さま――』

『あの方のことなど考へると、この身などはまだ好い方かも知れぬ……』

『あの登子さまが何うかなさりましたか?』

『そちは知らぬか?』

『式部卿の宮さまのことではござりませぬか?』

『それはさうだけれども……それは誰も知つてるけれど……』

『何か他に?』

『御門が何うしてもお許しにならぬので……』

『御門が……』

登子の姿を垣間見てから、何うしてもそれを大内裏に召すと言つて言ふことをきかなかつた。しかしそれにはその姉のきさいの宮の思わくもあることだし、またその一方では式部卿のこともあるので、それだけはたつて兼家の父がおことはり申上げたのであつたが、しかも御門は何うしてもその御心をひるがへさうとはせぬといふのであつた。

『まア……』

呉葉も流石に驚かずにはゐられないといふやうに聲を立てた。

『殿がおつしやいましたのですか』

『これはお前、誰にも言つてはならぬことだよ……』

窕子は聲をひそめた。

『お心安う……。それは決して他言などは致しませぬが、それにしても、あまりのことではございませぬか。つい、此間も小一條の女御のことであのやうに后の宮がお腹立におなり遊ばしたのに……それにもお懲りあそばさずに――』

『姉はまだそんなことは少しも知らぬのだなどと殿は申してをられたれど……』

『だつて知れずには居るものですか』

『だから困ると申して居るのだけれど――』窕子が殿から聞いたところでは、それが登子の棲んでゐる東三條の邸の裏の空地の新しい對屋での出來事だといふのであつた。そこは邸の内ではあるけれど、ずつと奧深く人目の遠いところなので、裏から入つて來れば、誰も知るものはないといふのであつた。呉葉の眼にもその新しい登子のゐる對屋ははつきりと映つた。かの女はつい此間も窕子の用事でその對屋へと出かけて行つた。そこにはいつも赤い鼻をした召使の女がゐて、それが呉葉の持つて行つた文箱を受取つた。時には口で傳へねばならぬ用事があるほどに、此方まで來よなどと言はれて、一二度はその登子の几帳の陰のところまで入つて行つたことなどもあつた。それはその美しさに目も睜られるやうな君であつた。姉の后の宮も決して美しくないことはなかつたけれど、しかもその髮といひ、眼といひ、眉といひ、この妹君の方が幾段かすぐれてゐるのを否むことは出來なかつた。呉葉は昔の物語にある竹取の姫といふのもかういふ君であつたであらうなどと思ひつゝ歸つて來たことをくり返した。それに、かの女はいつもその裏の方から入つて行くのが例になつてゐたので、そこの竹むらに薄く夕日のさし込んで來てゐるさまなどをもはつきりと知つてゐた。それだけその話は一層かの女の心を惹いた。

『それに、もつと困ることがあるのよ……』

聲をはづませて窕子は眼を大きく睜るやうにした。

『…………』

『あの卿の君も始終あそこから入つて行くのだからね……』

『まア……』

『何でも殿の話では、それが一つにならぬとは限らぬといふのだから……』

『それは本當でございますか?』

『殿がさう言はれるのだから、まさかつくりごとでもあるまい……』

『さやうでございますね』

『殿はのんきなことを言つて居られたけれども、登子の君がさぞお困りになつてゐらつしやるだらうと思つて、それを考へると、お氣の毒で……』

『本當でございますねえ』

『それにつけても、つくづく女子といふものほどはかないものはないと思うた……』

『そのやうなことはございませぬけれど……』

『登子の君が何んなに困つてゐられるかと思うて……。それも普通のことなら消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。

『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』

呉葉は問うた。

『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』

『まア、さやうでございますか?』

『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』

さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。

『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』

『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』

『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』

『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』

『本當でございます』

『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』

『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』

『そんな話だねえ――』

『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』

『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか……。』

『そんなことを申してをりますねえ! 世間の人は?』

呉葉はこんなことを言つて笑つた。此頃でも殿と窕子との間はまださう打解けたやうには見えなかつたけれども、それでもさうしたいろいろな事件から離れたその二つの心が再び近寄つて行くやうになることを呉葉は願はずにはゐられなかつた。かの女はつとめて窕子を慰めるやうにした。

二一

呉葉の國のもので、幼い頃から此處に來て仕へてゐた藤といふのが、今度縁談がきまつて、里から母が迎へに來たので、そのまゝ暇を取つて歸つて行くことになつた。

呉葉は何年にも故郷に歸つたことはなかつたが、むしろ一生その身は此處につとめるつもりでゐたが、母に迎へられて國に歸つて行く藤を見ると、流石にそれを羨まずにはゐられないやうな氣がした。かの女の眼の前には何年にも目にしたことのない川に添つた、雲の白く靡いてゐる故郷の藁屋のさまがはつきりとあらはれて見えた。

そこでは今時分はもはや麥は刈られて、暑い日影が山ぞひ路の卯の花の白い叢を照してゐるだらう。藁家の屋根のぐしの上には葉の大きい蛇よけの草などが一杯に茂つてゐるだらう。だらだらとそこから川へ下りて行つたところには、葭や眞菰が青々としげつて、その向うに鰻を獲る舟が餌を置くためにあちこちと徐かに動いて行つてゐるだらう。水が葭の根元のところにさゝやかな音を立てゝ紋を成して流れて行つてゐるだらう。夜は眞闇で、あたりに何もないやうに見えるけれども、村の男や娘達は却つてそれを好いことにして、手を組み合はせたり肩を竝べたりしてゐるだらう。靜かな川ぞひの里。螢の里。夏になつてから名高い瓜の出來る里。あの畠から取つて來た熟して半ば赤くなつた瓜は、何んなにうまい漿をかれ等の口に漲らすだらう。それは都と比べては、派手な賑かな樂みはないだらう。くらべ馬の日の棧敷の賑はひ、祭のかへさの賑はひ、あの引出しの車の裾の美事さ、さういふものはそれは田舍にはない。しかし都の人達の内部のわづらはしさ! 悲しさ! つらさ! ほこりの多さ! あのやうに美しく派手につくつて居りながら片時も休む時のない心のみだれ! それを思ふと、田舍がこひしい。水のほとりの里がこひしい。弟にはもはや嫁が出來て、それが髮に赤い布をかけて、弟と一緒に田に畠に鋤や鎌を持つて出かけて行つてゐるさうだが、さういふあたりのさまがなつかしい。父も母も達者ではあるが、もう老いて、かなりに白髮も多くなつたさうだが、その白髮がなつかしい。几帳だの、かさね衣だの、廊下だの、蒔繪の文箱だの、花の枝につけた消息だの、口で言ふべきところを懷紙に書いてそれを厨子の上に置いたりする生活だの――さういふものに曾ては深くあこがれてそしてその野山を見捨てゝはるばる出かけて來たのであるけれども、今では却つてそこに戻つて行く藤母子がたまらなく羨しいのであつた。⦅やつぱり田舍に生れたものは田舍でくらすが好い。その方が氣安い。苦勞もない。よしまた苦勞があつたにしても、都の人達のやうにさういふ風にわるくこだはらない。その日その日をわびしく見詰め合つて暮すやうなことはない……⦆こんな風に思ふにつけても、都の生活が、上は大内裏の局達の生活から、下は羅生門あたりに住んでゐる乞食や盜人のさままで歴々とそこに浮んで來るのだつた。

藤はしかし田舍に戻ることを好んではゐなかつた。また田舍の土くれ男を夫に持つことについても餘り進んではゐなかつた。

廊下の暗いところで涙などを流してゐた。

『何を泣いてゐるの……。京などいつまでゐたとてしようがないではないか。それよりも田舍の方が何んなに好いか?』

『でも……』

『でも、お前は京の方が好いと言ふの?』

『だつて折角京のことがわかつてまゐつたのですもの……』

『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』

藤はそれでも頭を振ることを止めないのであつた。藤は何んな生活でも、田舍の草深い中にくらしてゐるより京の方が好いと言ふのであつた。御門や后の宮の御車を見ることか出來るだけでも好いといふのであつた。かの女は別れて行くことを悲しんだ。

思ひのまゝにならない世の中だといふことを呉葉はつくづく感じた。何處に行つたつて思ひ通りに幸福に滿ち足りて暮してゐる人達はない。そこにも此處にも悶えがある。不滿がある。悲哀がある。御門をはじめとして、后の宮にも、局にゐる人達にも、また大きな邸を構へて前を追うて暮してゐる人達にも、やはり滿ち足らぬ悶えがある。呉葉は藤の心持の中にその身の悲哀が深く雜り合つてゐることを思はずにはゐられなかつた。曾て窕子が『それがお前、この人間の世の中といふものだよ』と言つた言葉が染々呉葉にも思ひ出された。

『それでは――』

『健かに』

かう互に言ふ言葉がやがて藤と呉葉との間に取交された。

藤は母親に寄添つて、止むを得ずに、窕子にも家の人々にもわかれを告げて出て行つた。

窕子もそれを廊下のところまで見送つて行つたが、やがてそこからもどつて來た呉葉に向つて、『うらやましいね、田舍の靜かなところに行けるのは?』ふと呉葉の眼に涙が一杯にたまつてゐるのに目をとめて、『お前も、田舍に歸りたくなつたのね?』

『…………』呉葉の眼からは涙がほろほろとこぼれ落ちた。

『お前の心持はよくわかるよ……。でも、私を捨てゝ行つてお呉れでない、ね、ね……』と窕子はその顏を覗くやうにした。野から山へと青嵐をわけて歩いて行く藤母子の姿が今しもはつきりと二人の眼に映つて見えた。

『本當にお前は私を捨てないでお呉れ……』

『…………』

『ね、ね』

窕子は重ねて言つて、『いつか、その中一緒に觀音さまにお詣りする時が來るだらうから、その時はお前の田舍にも行つて見たいと思つてゐるのだから……』

呉葉は涙を歛めて、

『勿體ない……』

『お前にゐなくなられたら、それこそこの身は何うしたら好いかわからなくなるのだから。それは母者はよう見舞うて呉れるけれども、本當に私の心を知つてゐて呉れるのはお前ばかりだからね。……田舍も戀ひしいだらうけども……』

『勿體ない……』

呉葉は別な意味でまた涙組ましい心持になつて行つた。主從と名には呼ばれてゐるけれども、同胞にも劣らないやうな窕子の平生のいつくしみがそこにありありとくり返されて來た。

『その中にはお前にだつて好いこともあるだらうし……、あのやうな殿でも、今に一の人にならぬとも限らぬし……』

呉葉は言ひかけた窕子を遮つて、

『もう、もう、そのやうなことは仰有らずにゐて下さいまし……。この身は初めからさう思つて此處に參つて居るのでございますから……。この身は一生お傍は離れないつもりで居りますほどに……。ただ藤の母親に逢つて、あちらのことをきいたりしたので、田舍がこひしうなつたのですけれども、それは深く思うてゐるわけでもござりませぬほどに……』

『ほんに、さうしてお呉れ……。お前なしでは、とてもこの世の中の心の荒波はわたつて行けないのだから。……とても……とても……』

窕子も袖を面にあてた。

『本當に心安うおぼせ――私のやうなものが今になつて田舍にかへつて行つたとて何になりますものか。田舍のものがもはや相手にしては呉れませぬほどに――この身はいつまでもお傍に――』呉葉もいろいろなことを思ひ出したといふやうにして泣いた。

二二

長雨が降り續いて、町の通りも深い泥濘になり、網代車や絲毛車の大きな輪が、牛かひや牛やそこらを通る人だちに泥を飛ばせた。通りは跣足でなければ歩けないので、めつきりと人通りが減つた。大比叡の裾が少し明るくなつたと思つたのも、それもほんの纔の間で、また雲が蔽ひかゝつて、しとしとと雨が降り頻つた。

窕子は物忌を違へるために、里の家の方へと出かけて行つたが、その雨のために容易に戻つて來ることが出來なくなつた。

『もはや雨師の杜に勅使が立つさうだ――』

『ほんに、かう長雨がつゞいては、洪水が出て困る……』

さうした話がそこでも此處でもくり返された。何でも山崎の向うの方は、水と岸とが同じぐらゐの高さになつて、今にも土手が切れさうなので、舟の往來すらも禁められてあるなどといふ噂が傳へられた。折角植ゑた稻が全く水の中に浸つてしまつたところなども到るところにあるといふことであつた。

不圖窕子はある事を耳にした。

『それはほんと?』

『ほんたうでございます』

何處からか聞いて來た呉葉は、かう言つてあとを殘した。

『でも登子の君がそのやうなところにゐるといふのは?』

『ですから、この身も何うかと思つて始めは本當にしなかつたのでございますが……やつぱりまことでございます。何でも、一時、身を忍ばせてゐらるゝのださうでございます……』

『でも、西の邸と言へば、すぐそこぢやないか。それに、あそこは大殿がおかくれになつてから、草が茫々と生えたまゝにしてあるといふぢやないか。それなのに……』

兼家や中宮の妹で、御門にさへ思はれてゐる登子の君が、そのやうな廢屋に來てゐようとは窕子には容易に信じられなかつた。

『でも本當でございます』

『お前、誰に聞いた?』

『さつき、下のものが何かこそこそと話しては、大事でもあるやうに致してをりますから、何うしたのかと思つてきいたのでございます。さうしたら、末の君だつて申すぢやございませんか。それも内所にして置かなければいけないので……それで――』

呉葉は聲を落した。

つい今から一月ほど前、式部卿の宮の突然の死は、京の人達の耳を驚かした。窕子は中でもことに驚いたもののひとりであつた。かの女は一番先きに登子のことを考へた。つゞいて兼家がやつて來た時、それとなしに聞いて見た。しかし何うしてか兼家もはつきりしたことを言はなかつた。『さア、それはわからぬが、そのやうなことはあるまいと思ふな? 平生がお弱い方だつたから、急に風邪を引いたのがもとになつたのらしいな。そのやうなことはあるまい。失戀して自づから死んだなどいふことはあるまい……。宮はさういふ風に意志の強い方ではなかつた』などといくらか他にそらすやうにして言つた。登子のことに關しては、『まア、そのやうなことはあまりに深くきかぬ方が好いな……』かう言つただけで兼家はそのまゝ口を噤んで了つた。

しかし世間ではいろいろなことを噂した。御門の戀の犧牲になつたのだなどと言つた。宮の死はおそれ多いが自ら藥を飮ませられたのだなどと言つた。またその末の君がそれがため絶望のどんぞこに墮ちて氣も狂ひさうになつてゐるのを、無理に内裏に上げるやうにしてゐるので、そこにもまた一悲劇持上るに違ひないなどと評判した。窕子にしても眞相がわからぬので、ひそかに心を痛めてゐるのであつた。それが――その末の君の登子がひそかにその西の邸の廢宅のやうになつてゐるところに來てゐるといふのだから、窕子の容易に本當にしないのも無理はなかつた。

『それで、お前はそこに行つて見たと言ふのかね?』

『さやうでございます』

『何うかなすつていらした? 別におかはりもない御樣子だつたか?』

『ちよつと後姿をお見かけ致しただけですから、それまではつきり致してをりませんけれど、皆人の言ふところでは、別にこれと言つておかはりもないさうでございます……』

『それはうれしい……』かう言つたが、窕子は立つて厨子の上から硯箱を取り出して、それに例の美しい假名で歌を書いて、それをそのまゝ西の邸へと持たせてやつた。

すぐ折かへして返事が來た。それには登子の上手な手で、

天の下

さわぐ心も

大水に

誰も戀路に

ぬれさらめやは

と見事に認められてあつた。窕子はそのまゝじつとしてはゐられなかつた。廢址のやうな中にその失戀の身を埋めてゐる登子を目のあたりに見ずにはゐられないやうな氣がした。皆なの留めるのもきかずに、呉葉をつれて、そつとその廢宅に行つて見ることにした。

さみだれが降り頻つた。容易に止みさうにもなかつた。卯の花の白く籬に咲いてゐるのがそれと夕暮近い空氣の中にくつきりと出てゐた。わざと他に知れないやうに、裏道になつてゐる草の露の中をかれ等はそつと拾ふやうにしてたどつた。古い藺笠。小さな裏。ともすれば女沓が泥濘の中に埋れさうになるのを辛うじて縫ふやうにして二つの姿は半ば潰れた門の方へと入つて行つた。

門に入つてからも、かれ等は足場のわるいのに苦しまずにはゐられなかつた。そこにはつい此間まで庭の一部分であつた池があつて、藻だの萍だの芦だのに雨が頻に降りかゝつてゐるのを見た。あたりはひつそりしてるた。成ほどこゝいらはちよつと他にはわかりさうにも思はれなかつた。茂つたまゝ延びたまゝに樹が一面にあたりを暗くしてゐた。

池の周圍をぐるりと廻つて、やつとその對屋の階段のところへ行つて、そこにそのかぶつて來たぬれた藺笠を脱いだ。かれ等はあたりを見廻した。

誰も出て來るものもなかつた。それも理だつた。今時分、降りしきる雨を侵してこんなところにやつて來るものがあるなどとは誰も思ひもかけないことだつた。かれ等は爲方なしに、そつとその階段をのぽつて行つた。夕暮はいつか夜にならうとしてゐた。

『お前、そつと入つて行つて、きいて見て御覽……』

窕子は小聲で言つた。

呉葉は入つて行つた。廊下の小さな欄干に添つてその影はすぐ向うに消えた。

窕子はひとりじつと立盡した。雨がかなり強く音を立てゝ降つてゐる。さつきまで見えてるた卯の花の白さも、もはや夜の空氣の中にぼんやりと微かになつて了つた。窕子は何とも言へないさびしさと悲しさと心細さとに襲はれて、戀といふものの闇が、そこに恐ろしく悲しくひろげられて來たやうな氣がした。

雨の縱縞がその闇の中に微に線を引いてゐるのが覗かれた。

靜かな足音がした。呉葉がもどつて來た。

小聲で言つた。

『びつくりしてゐらつしやいました……』

『さうだらうね?』

『別におかわりにもなつてゐないやうでございます――』

『それで――』

そこに登子のおつきの常葉といふ中年の侍女が出て來た。

『何うぞ――』

『よろしいのですか?』

で、三つの影は音も立てずに、周圍を取卷いた小欄干に添つて靜かに動いて行つた。

そつと妻戸を明けて入つて行くと、そこは周圍の廊下を几帳でしきつたやうなところで、小さな結燈臺が既に明るく點されてあつた。そこは侍女の常葉のゐるところだつた。

輕い裳づれの音がしたと思ふと、いきなりそこに登子がその美しい顏を出した。

『まア、よく……』

『まア――』

二つの美しい聲がそこに取り交はされた。

かれ等はすぐ奧の明るい室の方へと行つた。

『本當に、どんなに心配したかわからないのでございますよ』

『それでもよくこんなところがわかりましたね』

『家がすぐそこなものですから……』

『あゝさう、それでわかつたの? それでいつから來てるの?』

『忌違へに來たのですけども、この雨で、とても………』

『ほんに、此雨は……』

短かい言葉しか二人とも話せないやうな時間が暫しつゞいた。

窕子は思ひ做しか此間逢つた時とはぐつとやつれて元氣がなくなつてゐる登子を見た。

『お痩せになりましたねえ?』

『さう……』

登子は微かに笑つた。

相對してゐる中に、いろいろなことが次第に飮み込めて來た。式部卿の宮の死は、さうだとは登子は決して言はなかつたけれども、しかし藥を仰いでの死であるといふことはそれと察しられた。また登子がかうして他に知られないやうに廢宅に身を忍ばせてゐるといふことは、やつぱり世間でも言ひ窕子も想像してゐたやうに、内裏からの迎へを一時避けなければならないやうな位置に登子が身を置いてゐるからであるといふことがわかつた。窕子は何う慰めて好いかわからないやうな氣がした。

『思ふまゝにはならぬもので……』

言ひかけて止した登子の眼には涙が光つた。

『…………』

『でも、かういふさだめでござらうほどにのう!』

言ひかけて、急にその時のことを再びまざまざとそこに思ひ出したやうに、『でも窕子どの、あはれと思つて下さい……。あの時にもお目にかゝることが出來ず、はふりの日にも――』

『ことはりでござります、ことはりでございます』

窕子はかう早口に言ふより他爲方がなかつた。

『それはのう……』登子は裳の下から袖を引出して目に當てたが、暫くしてから、『よう、今まで生きてゐたとこの身も思つてゐるのです、腑甲斐なき此身、生きてゐたとて何うすることも出來ない此身……なぜ、此身はともかくもならなかつたのかしら?』

『まア、そのやうには――』

『窕子どの、ほんたうに何遍死なうと思つたか知れない……。一度はすでのこと刄をこの咽喉に當てようとした時に母者にとめられた――』

『まア……』

窕子も流石に驚かずにはゐられなかつた。

『でも、死きれぬ身、何うしても死きれぬ身……それが、窕子どの、この身のつたない運命なのだから……。何うすることも出來ない身だから……』つまり御門でなければどうにでもなるが、さういふさだめの身になつた上は、いくら考へて見たところで、またいくらもだえて見たところで徒勞だといふのだつた。否、姉の中宮に對する心づかひなども細かくその中に籠められてあるのだつた。やはり窕子が兼家のために無理に其方に伴れて行つたのと同じことだつた。

『女子といふものは、さだめつたなく生れたものなればのう――』

『ほんに――』

窕子も身につまされずにはゐられなかつた。

『女子といふものは、何のやうに思ひ込んだところで、何うにもならぬし、いくら望ましくないと言つても、それが通るわけでなし――』

それは窕子と兼家との關係とは比すべくもないけれども、それでもまゝにならないといふ心持は似てゐるので、窕子には登子の心持がよくわかつた。後には窕子は登子を透してひろい人生に對するやうな氣がした。

登子は式部卿の宮の歌やら詩やらを出して見せた。一番最後によこしたといふ手紙などを蒔繪の文箱の底から出して見せた。詩は當時にあつても名高い作者だつたので、墨色といひ、字のくばり方と言ひ、また詩の出來榮といひ、何ひとつそつがなかつた。歌も行成流の假名が見事だつた。

手紙には別に大したことも書いてなかつた。逢ふつもりでゐた日に止むを得ない用事か出來て、その美しい眉に接することが出來ないのは悲しい。しかし悲しいことの多いのは――思ひのまゝにならないことの多いのは、この世の中の習ひだ。何もくやむことはない。心長く時の來るのを待つより他爲方がない……。さういふ意味のことがたゞ短かく書いてあるのだつた。しかし登子には、その思ひのまゝにならないといふことがたまらなく悲しかつた。宮はその生れこそ一の人の家柄ではなかつたけれども、御門とはすぐその上の兄君に當つてゐられたのであつた。母方の一族さへ時めいてゐたならば、御門よりも先きに位に即くべき資格を持つてゐられたのだつた。それに、宮は先帝に可愛がられたので、一時は今の御門の母方の人達が、何のぐらゐ眉を蹙めたかしれないのだつた。登子はその思ひのまゝにならないといふ言業の中にさうした事實を持つて行つてあてはめた。泣いても泣いても盡きずに涙が出て來た。

後には窕子は慰めるのに言葉がなくなつた。

暫くの間、沈默があたりを領した。

そこに常葉が高つきに羊羮を入れて運んで來た。

『他の人なら、とてもこんな眞似は出來ないのなれど、御身ゆえ、何も彼もさらけ出して、このやうに泣いて了うた……。他の人が見たら、何うかしたと思ふに違ひない……』登子はさびしく笑つた。

『まア、あまりに心をつかひあそばすな。御心配の時には、いつにてもすぐ參上致しますほどに――』

『さぞ見にくかつたでせうね……』登子は繰返して言つた。

『そんなこと何とも思ひも致しません。誰れだつてさういふ場合には泣かずにはゐられませんもの……』

『さういふて呉れるのはあなたばかりですからね……。本當に力になつて呉れるものなんかないのですから……』

登子は實際さびしいらしかつた。姉の中宮からもその時以來わるく嫉妬の眼で見られるやうになつたばかりでなく、いろいろな方面からいろいろな壓迫を強く受けた。御門はまた御門で、式部卿の宮が薨去せられてから、一度も登子の姿を見ないので、もしや何か事があつたのではないかと頻りに内意を九條の家へと傳へた。

母や兄やまたはその周圍にゐる人達は表面では困つたことが出來たやうにも言つてゐるが、内心では小一條の女御に對する御門の愛が、中宮には戻つて行かなくても、この末の君に移つて行つたことを寧ろ祝福するやうな態度でゐるのであつた。それを登子は徐かにしみじみと窕子に話した。

雨は降り頻つた。軒から落ちるあまだれがすさまじくあたりにきこえて、サツと風が物凄く樹を鳴らした。何か物の怪でも來はしないかと思はれるやうな氣勢があたりにした。

結燈臺の灯はチラチラした。

二人は思はず顏を見合せて戸外にざわついてゐる物音を聞いた。

暫く經つた。二人は何も言はなかつた。

登子が始めて口を開いたのは、猶ほそれから暫く經つてからであつた。

『あまりに泣いたので、宮の御魂が來られた!』

『…………』

『たしかにさうだ……。たしかに宮の足音がきこえた――』

『………』

また二人は默つて耳を欹てた。サツと風雨がまた庭の樹を鳴らした。それと同時に、微かに人の忍び寄つて來るやうな氣勢がした。それは窕子にもわかつた。普通ならば、さうした風や雨や樹木の葉ずれや竹の葉のなびきに埋められて、とてもきこえる筈はない物の音が靜かにそこに寄つて來るのであつた。

登子の顏のわるく青白く、眼がじつと一ところを凝視してゐるのを窕子は見た。おそらく自分の顏もそれと同じく蒼ざめてゐるのだらうと思つた。すさまじく風雨が戸外に荒れて居るのがはつきりとわかりながら、その中に沓の音の近づいて來るやうな音は猶ほきこえた。

急に登子は恐ろしい物の怪にでも襲はれたやうに裳の袖を頭から引被いて了つた。近くにある方の結び燈臺は風もありはしないと思はれるのに、ふつと消えた。窕子も思はず、あ! と聲を立てた。

同じやうにしてかの女も裳を被いて了つた。

それから何のくらゐ經つたか、半晌ほども經つたか、それとももつと長く經つたか、二人が氣がついた時には、呉葉と常葉とがこれもやつぱり何物にか襲はれでもしたやうにしてそこに來ておどおどしながら坐つてゐるのを見た。それでも外のざわつきはもはや靜かになつたらしく、たゞ風雨の氣勢だけがそれと遠くきこえるのだつた。

『何うしやつた?』

登子は始めて我にかへつたといふやうにして常葉に訊いた。

かれ等の言ふところに由ると、何か奧で人の叫ぶやうな氣勢がしたので、何事かと思つて常葉を先きに、そのあとから呉葉がつゞいて驅けるやうにして入つて來ると、結び燈臺が消えてゐて、登子と窕子と引被いて打伏して了つてゐるのに度膽をぬかれて、かれ等もそのまゝそこに打伏してしまつたといふのであつた。『こわや、こわや……』常葉の顏はまだ蒼青だつた。

あとからついて來た呉葉にはそれは見えなかつたが、常葉には白いふわふわした焔のやうなもの――よく見ればそれは衣冠であつたかも知れなかつたやうなものがそこにひろがつてゐたのが見えたといふのだつた。それを見て常葉はすぐ打伏したといふのだつた。呉葉は呉葉で、二人のみならず常葉までがさうして引被いて了つたので、かの女も急に恐ろしくなつてそのまゝ隅のところに身を寄せたといふのだつた。

『たしかにそれに違ひない……宮が來られたに……』

登子は確信したやうに言つた。

『こわや――』

常葉はブルブル身を顫はすやうにした。たしかにあれが、あの白いものが宮だつたと思ふと、後から水でもかけられるやうな氣がするのだつた。『あまり泣いたものだから……』それで宮がやつて來られたのだ。登子は次第に元の心の状態になつて行つた。

窕子にしても呉葉にしても、この物の怪のすだく風雨の闇の夜を、いくら近くともとても歸つて行くことは出來ないといふので。――また登子の方にしても、さびしくてとても常葉と二人きりでは居られないからと言ふので、僕を使にやつてその旨ことはらせて、二人は一夜をそこに過すことにした。それから窕子はまた一しきり話に耽つて、太秦の蜂岡寺の丑の刻の鐘が風雨の中にきこえる頃まで起きてゐたが、たうとうそこに蚊帳を低く吊つて夜のものを竝べて眠つた。

二三

雨は猶ほ幾日も止まなかつた。芦や藺は高く繁り、それに雜つて名も知れない黄い花が咲いた。杜若の厚い緑葉には、白いまたは紫の花が咲き添つた。夜は螢が人の魂か何かのやうに一つ二つ青白いひかりをあたりに流して行つた。

此方の裏門のところにはよく窕子の姿が見えた。小降になつた時を選んでは、かの女はいつもそつと隣の廢宅へ行くのだつた。かくれ家では多くは歌などを詠んだりして世離れて暮した。幸ひに誰もかれ等の靜かな生活の邪魔をしなかつた。兼家も物忌で館にばかり引込んでゐるらしかつた。たまには歌を入れた文箱などが屆けられては來るけれども、たゞ雨のわびしさが歌はれてあるくらゐなもので、別にかの女に逢ひたいとも思つてゐなかつた。道綱はもはや七つになつたので、母のあとを追はず、おとなしく廊下で竹馬などをして遊んで暮した。

少しくらゐ鳴らしても差支あるまいといふので、時には爪音を低くして登子と二人で箏の琴を彈いたりなどした。欝陶しい空合が絶えず眺められた。蝸牛が階段から廊下へとのぼつて來る丸い欄干に二つも三つも貼されてあつたりした。

ある時登子は言つた。

『今はかうして世離れて、誰にも礙げられずに暮してゐることが出來るけれど……これもいつまでかうしてゐられることやら――』

『ほんとに――』

窕子はかう言つて登子の方を見て、『何か、そんなことでも――』

『兎に角いつまでも此處にかうしてゐられないのは、わかつてゐるのよ。それが、この身の運命ですもの』

『…………』

『今日もそんなことをつくづく考へた……』

窕子は何とも言へないのだつた。他から見たら、むしろ羨むべきことで、何うしてさういふ風に悲觀されるのだらうと思はれるくらゐなのだが、しかもその心持は窕子にはそれとはつきりわかるのだつた。そこに女の悲しみと苦しみとがあつた。かの女もさうした苦しみを經て來たことをくり返した。『何うしてかう女子といふものは虐げられてゐなければならないのだらう。女子は生れた時からさういふ風に運命づけられてゐるのか?』その話はいつもそこへと落ちて行くのだつた。

あれ果てた池には蛙が頻りに聲を立てゝ鳴いた。それはよく雨に伴つてきかれた。蓮や麥の葉に水がたまつて、それが珠でも轉ばしてゐるやうに見えることもあつた。ある夜は頻りに時鳥が闇を破つて鳴いて行つた。大比叡でも雨の晴れる護摩を此頃毎日あげてゐるといふ。『山でも少し見えて呉れると氣が晴れるのですけれどもね』廊下のところで常葉がこんなことを鼻の大きい下衆に言つてゐるのも窕子だちには佗しかつた。それでも何うかすると、薄ぼんやりと夜中に月が出て、草に亂れた廢宅がさびしく微かに照されてゐたりなどした。

二四

登子と窕子との間にはをりをりこんな話が交換されるのだつた。

『何うしてかう女子は虐げられなければならないのでせう?』

『これと申すのも、女子が内にのみかくれて居るからではないでせうか。もつと世の中に出て行かなければならないのではござりますまいか。……それは慣習と申せば、それまででございますけれども……その慣習にばかり從つてゐるからいけないのではございますまいか……』

『それはほんにさう思ふけれど』

登子は深く考へるやうにして、『でも、それは運命のやうなものぢやほどに……。何うにもならないものぢやほどに。難有い彌勒の世といふのにでもならなければ、とても望まれないことではないか?』

『それはたしかにさうでございますけれども……さうかと申して、その彌勒の世と申すやうな世の中は、いつ參るのでございませう? 放つて置いても、ひとり手に參るのでござりませうか……?』

『さういふことは、無明の身にはわかりませぬが……』

『しかし、やはりそれは私どもがしなければさういふ風になつて行かないのではござりますまいか。私どもが築き上けることが必要で、さういふことをしなければ、いつになつたとてさういふ世の中はやつて來ないと思ふのですが……さういふ風に、お考へにはなりませぬか?』

急に登子は悲しさうに、

『御身は宮と同じやうなことを言ひやる!』

『宮と申すは?』

『卿の宮……』

『まア、さやうでございますか。宮はそのやうなことを申して居られましたか。そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』

『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。

二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。

『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』

暫くしてから窕子は訊いた。

『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそれで蔽うてゐるが、それは佛の本當の道ではない……とよう言うてをられた。佛はわれぢや。この身ぢや。そなたぢや。とよく言うてをられました……』

『ほんに、そのやうに新しい方でございましたか。それなら、一度でも御目にかゝつて置きたうございました。この身はまたこの身で、今の世の中には、そのやうなことを考へて居らるゝ方はない。詩歌管絃……蹴鞠……酒……女子……さういふものより他心にかけて居るものはないと思うてゐましたのに……。』

『宮はこの世には事なくて生きてゐらるゝ方ではなかつた……』

登子はいろいろなことを思ひあつめたといふやうにして言つた。登子の眼には、網代車を夜暗に細い巷に引入れる人だちだの、大内裏の局の女房に人知れず通つてる人だの、夜もすがら詩歌管絃に遊蕩のかぎりをつくしてゐる人だちだのが――またはこつそりと姫を圍うてゐる坊主や、宮女に花のやうに取卷かれてゐる人だちなどが、はつきりとそこに映つて見えるのだつた。ことに、何も知らない女子が、長い間の慣習のためにそれをあたり前と考へてゐるばかりではなく、女子といふものはそれで好いもの、いかやうに男にもてあそびものにされても好いもの、むしろそれを利用して、その身も快樂と贅澤とに耽るべきものと思つてゐる今の世の中のさまがそこに一つの繪になつて展けられて來るのだつた。

『情ないことぢやのう……』

『ほんに――』

二人はかう深く歎かずにはゐられなかつた。

しかしかうした二人にしても、さういふことばかりを問題にしてはゐられないのだつた。やつぱりその生れ出でて來た今の世の中に雜り合つて、悲しみには泣き、喜びには笑ひ、爭ひには爭はなければならないのだつた。

『それは、私のやうなものがいくら申したとて、そんなことは小さなこと――何うにもならないことで、一すぢの烟を立てるにすらあたひしないものですけども……それでも、この心持は捨てずに持つてゐたいと思つてゐるのでございます……』などと靜かな調子で窕子は言つた。

ある時は登子はまたこんなことを言つた。

『でも、さう言ふと、あなたなどには効ないものに思はれるかも知れねど、この身などの運命は、もはやちやんときまつてゐるのだから……。慨いたとて、悲しんだとて、何うにもならないのだから………。』

『……………』

『この世のためなどといふことは、口ではいかやうにも言へるけれども、かよはい女子の身では何うにもならないことなのだから……。やはりこの身とてはかない醉生夢死……』

『……………』

『やはり、運命に從うといふことより他に、女子の行く道があらうとは思はれぬ……』

その言葉のかげには、大内裏からの強い壓迫がそれとなくきかれるのだつた。窕子は何う慰めて好いかわからなかつた。

『それは世間では羨しいと思うたとて、それが何? え、窕子さん、あなたはさうは思はない。内裏に入つて、あの藤壺の一室に大勢に侍かれるといふことは、それはこの身の得がたい出世として、また一方では小一條どのや向う側にゐる人たちに對する兄達の立場として喜ばれることかも知れないけども、この身としては何が喜び? え、窕子さん。私にとつてはこの身を葬るつか穴ではありませんか。一度入つたら、もう再び出て來ることの出來ない墓場と同じではありませんか……』

『…………』

何も言ひ得ない窕子の眼からはひとり手に涙が流れて來た。

『でも、ね……。窕子さん、泣かずにきいて下さい。あなたの他には、誰ひとりかうした私の心をきいて呉れるものなどはないのだから……。窕子さん、この身はもう心はきめてをるのです……。さうなる身とあきらめて居るのです……。何うせ、宮のあとについて行くことすら出來ない身――』かう言ひかけて登子は急にたまらなく悲しくなつて來たといふやうに、いつもなら引被くのが慣ひであるのに、顏を上に向けて、ひとり手に涙が兩方の眼から行をなして落ちて來るのに任せた。

『何うせ……何うせ……この身は生きた屍も同じ身……窕子さん、つか穴の中に入つて行くのも、この身にふさはしい……』言葉が涙にさゝえられて滿足には出て來なかつた。

その悲しさが窕子にもつくづく思ひ當つた。自分の時にはその身だけがさうした悲しい運命に落ちたと思つたのであつたが、今では、それがすべての女子の悲しみであるといふことがわかつた。

二五

使のものが文箱を持つて來た。それを明けて見た窕子は、すぐ筆を取つて、返事を書いてそれをその文箱の中に入れた。

『これをわたして下さい』

持つて行つて戻つて來た呉葉に、

『お前も一緒に行つてお呉れ……。いよいよおわかれになるのかも知れないから……』

『そんな御樣子でございますか』

『いゝえ、別に手紙には、さう詳しいことも書いてなかつたけれども、もう一度ちよつとなりと、お目にかゝりたいなどと書いてあつたから……』

『それでは、いよいよその時がまゐりましたのでございませうかねえ!』呉葉にしても胸がとゞろかずにはゐられないのであつた。

『兎に角支度をしてお呉れ!』

やつぱり雨が頻りに降つてゐた。今年は何うして雨が降りつゞくのだらう。普通ならば、もはや五月も終りに近く、雲の縫ひ目もところどころ綻びそめ、山の裾なども見えそめ、時に由つては明るい月影が野にも山にもさしわたつて、青空が人の顏にも衣にも、車にも、または騎馬の侍にも、調度掛を携へた大宮人にも、ところどころ崩れた築土にも快よく映るのであるのに、またしても雨、雨、雨。容易に晴れようとはしないのであつた。

窕子だちは別に變つたことを見出さなかつた。此間などとは違つて登子は靜かに落附いて話した。

始めの中は、これはこつちの考へ方が間違つてゐたので、たゞ無聊のまゝにかうして呼ばれたのに過ぎないのではないかといふ風にすら思はれた。

しかしその靜かさは、嵐の中にふくまれてある一つの靜けさであるといふことがやがてわかつて來た。窕子は胸の轟くのを感じた。

『でもね、御身が度々たづねて下すつたので、何んなに慰められて暮したかわからないのです……本當に、何うお禮を申したら好いか……?』

落ちついた登子の言葉には、別れを潔くしようとするやうな努力がはつきりと讀まれた。

『それでは……』

窕子はじつと登子の顏を見つめるやうにして言つた。

『いつまでも此處にはゐられないやうなわけで……』

『では、内裏に……』

『え……』

登子はたゞ點頭いた。それだけでもかなりの努力であるらしかつた。

『…………』

『まア!』とか『それは……』とか窕子は言ひたかつたのだけれども、言葉は口から出て來なかつた。

暫く經つた。

『それで、こゝをお出ましになるのは、いつでございますか?』

窕子はやつと訊いた。

『それが、もう慌たゞしいので……。出來ることなら、もう一夜くらゐ、御身とわかれを惜しみたいなどと思つたのですけれども、それも出來ない……』もはや内裏から迎への車さへ來れば、いつでも出かけて行かなければならないと言ふのであつた。

『まア、そんなに早く……』

『でも、何うせ、行かなければならないものなら、いつそ早く行つて了ふ方が……?』

『…………?』

『これはほんにつまらぬものだけれども、このわびずまひにあなたがよく來て下さつたといふ記念に……』かう言つて、登子は自分が平生用ゐてゐた蒔繪の硯箱をそこに持ち出した。

『そのやうなこと……』

と窕子が辭退するのを押して、

『蒔繪はこれでも好いのだし、螺鈿もいくらか入つてるのだから……。いいえ、これは言はずにさし上げるつもりだつたけれども……』急に登子は顏を低頭かせて、『これは、……これは……宮が特にこの身のためにつくられて賜はつたものなのだが、窕子さん、これはあなたが持つて行つて下さい……。よくこの身の心をよく知つてゐて下さるあなたが――』あとはもう言へなかつた。

『…………』

窕子は眼を裳の下袖で拭いた。

『あまり氣持がよくないかも知れないけれども……』

『そんなことがございますものか……。』窕子は慌てゝ打消して、『それでは頂戴して、いつまでも、いつまでも、このかくれ家の記念として思ひ出すやうに致します……』

と言つて、そこに取出された蒔繪の硯箱を押戴くやうにした。すぐつゞけて、

『然し、あまりいろいろなことを思召さないやうに……』

『もう大丈夫……』悲しい氣分がいつか通り過ぎて行つたといふやうに、登子はいくらか晴れやかに、『いくら考へたつて、しやうがないから……何うせ、なるやうにしかならないのだから……』

『さうですとも………』

『どうせ、女子はかうなるものだから……』

窕子は言ひたいことが山ほどあるけれども、言へばすぐ涙が出て來さうになるので――つとめてそれを抑へて別れをつげて來ることにした。

何うにもならないものに對する悲哀――何と言つてもそれは悲しいものであらねばならなかつた。死でなければ別離――そのわかれのつらさがひしと窕子の體に逼つて來た。

登子も多くを言はなかつた。窕子が立つて來ると、かの女もその妻戸の外まで送つて出て來た。雨は荒れ果てた池の上に殼紋をつくつて降り頻つてゐた。

『それでは……』

窕子は暇を告げた。

『健かで……』

『おん身も……』

いつまで惜しんでもとても惜しみきれない別れだ! と思つて、窕子は心を強くして向うに行つた。しかも何うしても振返らずにはゐられなくなつて、もう一度振返つた時には、白い顏を大理石像か何ぞのやうにやゝ薄暗い空氣の中に見せて、登子がじつとして此方を見送つて立つてゐるのを眼にした。

二六

呉葉が慌たゞしく入つて來た。それに由ると、内裏からの迎へが今來たらしいといふのであつた。つい今そこから歸つて來たばかりなのに……。まだ一晌くらゐしか經つてゐないのに……。窕子は慌てゝ古い藺笠をかぶつて呉葉のあとについて行つた。

雨の降りしきる中に、果たしてそこに内裏から來たらしい雨つゝみをした網代車が二輛――白い黒い斑牛も、笠をかぶつて雨具をしてゐる牛飼の男子もすべて深い泥塗にまみれて、その車臺すらも半ばは泥濘に汚されてゐるのを眼にした。一つの車は勅を受けて迎へに來た代官が乘つて來たらしかつた。

これでも雨さへ降らなかつたならば、いくら秘密にしておいても、何處からかそれをきゝつけて、あたりの人達がそれを見に少しはやつて來たであらうけれども、いかにしても路が泥濘になつてゐる上に、上からも片時も止む時なく雨が降りしきつてゐるので、そこにはその二輛の車が置かれてあるだけで、誰も人の姿は見えなかつた。窕子にはそれがさびしかつた。

かれ等は雨の中に立つてゐるわけにも行かず、さうかと言つてまたそこに近く寄つて行くのも出來ないので、對屋の階段からは十間ほど離れてゐる庇の下のところに身を寄せて、降しきる雨を纔かに凌ぎながら、じつとそつちの方に眼を注いでゐるのだつた。

呉葉はわくわくしながら、

『まア、ねえ……』

『何うしたの?』

『だつて、この降りに……、御氣の毒ですわねえ……』

で、かれ等は成るたけ高い庇から落ちて來る雨滴に裳をぬらさぬやうに、廊下の下のところに身を寄せて、奧から皆なの出て來るのを待つた。

窕子の頭には對屋の中の光景――流石に登子も驚いてゐるであらうと思はれるさまや、勅ゆえに拒むことが出來ずに裳を着改へたりしてゐるさまなどがはつきりと映つて見えた。⦅それにしても誰が勅使になつて來たのだらう? 兼家でないのはわかつてゐるが、誰か身内のものが一人は來てゐるであらうと思ふが、誰だらう? 内裏の侍女と誰が來たらう⦆しかもこんなことを頭に描いてゐるのもさう大して長い間ではなかつた。ふと窕子は向うの廊下に五六人の人だちの氣勢のするのを耳にしたと思ふと、その階段のところに、兼家の腹ちがひの弟で、式部の副官をしてゐる政兼が勅使の衣冠をつけて、侍者二人に扈從されながら徐かにその姿をあらはして來るのを目にした。はつと心を躍らしてそれを見てゐると、内裏の藤壺に長い間つとめてゐるので名を知られてゐる桂といふ老女が、喪服でもあるかのやうに黒味がゝつた裳をつけて、際立たしく眞白な端麓な顏をいくらか下向加減にしてゐる登子の手を取らぬばかりにして先に立つて階段の方へと歩いて來るのが見えた。

窕子も呉葉も唾の口にこもるやうな氣持で、じつとして一心に眼をそれに据ゑた。先に下りた衣冠に笏を持つた政兼が廂の下に立つて上を仰いだ時には、その老侍女が一足下りて、そのあとから登子が續くのであつた。徐かに徐かにかれ等は階段を下りた。

登子はそこに來て初めてその眼を擧げて、縱縞を成して盛に降つてゐる雨とついその近くまで寄せて來てある二輛の網代車とを眺めた。一層白いその顏があたりに際立つて見られた。

こつちを見て下されば好い。かうしてお見迭りに出てゐるこの身を見て下されば好い……。かう窕子が思つた時にその登子の眼が動いて、たしかにそれが此方を見た。否、見たばかりではなかつた。それと知ると、一種言ふに言はれない感謝の表情をその顏にあらはして、瞬きもせずにじつと窕子の方にその視線を注いだ。

しかしこの場合、何方からも聲をかけたり別離を惜んだりすることは出來なかつた。たゞじつとさうして雨の夕暮の空氣の中に相對して立つてゐるだけだつた。成るべくその距離を近くさせるべく命令されて牛飼どもは頻りに鞭を鳴らしたり、綱を引いたりして努力したけれども、あたりは全く地が膿んで、ともすれば半分以上車の輪がはまり込みさうになるので、やむなくその人達はそこまで歩いて行かなければならなくなつた。

形ばかりに藁だの俵だの板だのが持つて來て敷かれた。しかも完全な雨具とても用意してないので、衣冠束帶の勅使と喪服を着たやうな登子とが長柄の傘を後からさしかけられただけで、あとは皆なびしよぬれなるのを何うすることも出來なかつた。勅使の副使をしてゐる同じく束帶の大官は、やむなく長い間その降りしきる雨の中に立ちつくしてゐた。

しかしさうした混雜もたゞ一時あたりに際立つて見えただけで――登子が老侍女に扶けられてそのほつそりとした姿を前の方にある車の内に入れて了ひ、勅使と副使とがそれをはつきりと見ただけで後の車に乘つて了ふと、あたりは車の齒の泥濘の中に深く喰ひ込んだのを牛飼どもが押したり動かしたりする光景だけになつて了つて、それも崩れた中門の方へ近づくにつれて、段々その動いて行き方が早くなつて、たうとうあとにはその大きな轍の縱横につけられた上にザンザン降り頻る雨の佗しく暮れて行くのを見るばかりになつた。

窕子は何とも言はれないさびしい悲しい心持で、身動きもせずに暫しそこに立つてゐたが、いつまでもさうしてゐられないので、そのまゝ階段の方へと歩いて來た。

『まア、何て悲しいことだらうね』

そこに行くと、窕子はわれを忘れたやうにべたりとその階段のところに腰を下して了つた。窕子は兩手をこめかみのところに當てゝじつと深く考へ込んだ。暫く經つた。

『でも、此方を御覽になつたね……』

『えゝ……』

呉葉はかう言つて、『隨分長いこと、此方を見ていらつしやいました……』

『せめてものなぐさめだね……』暫らくだまつて、『この人の世には、かういふ悲しいこともあるのだね!』

『本當でございますね』

話聲をきゝつけてそこに常葉が下りて來た。

『まア、何方かと存じたら、窕子さまでございましたか……』

『常葉どの……』

またたまらなく悲しくなつたといふやうにして窕子は顏に手を當てた。

呉葉は常葉に訊いた。

『今日、勅使が來るといふことがわかつて居りましたの?』

『いゝえ』

『では、だしぬけに……?』

『え、え、だしぬけでございますとも……それはいづれはさういふことになるだらうとは申してをりましたけれども、さう急なこととは存じて居りませんでした……。ですから姫もおどろかれて、一時は突伏したまゝ、お顏も上げられませぬでした……それはそれは、泣くくらゐのことではございません。姫は何んなに悲しうあらせられたことか……しかし、何と申しても勅でございますゆゑ……』

『まア、何と申したら好いのでございませうね』

『でも、平生やさしい上に雄々しいところもある姫のことでございますから、すぐ御決心あそばしまして、晌とたゝぬ中に十分御支度をなすつて御出立なさいました……』

『悲しい女子のさだめ!』

皆はそこに顏を合はせて泣くのだつた。あたりは次第に薄暮の空氣につゝまれて行つた。窕子と呉葉とは、再び古びた藺笠をかぶつて、泥濘の中をとぼとぼと自分の家の方へと行つた。林に添つた路を通る時には、雨だれがばらばらとその笠の上に落ちた。

二七

兼家の方のことも心配にはなつたけれども、物忌が明けない中は、そつちの方へもどつて行くことも出來ないので、幼い道綱を相手に――むしろたゞそれにのみたよるやうにして窕子はわびしい雨の幾日かを過した。

⦅それでもまだこの身にはこのいとしい道綱がある……⦆窕子はさうした心持が此頃一層深くなつて來ることを感じた。否、そこに人生が微ながらも覗かれて來るやうな氣がした。かの女はその心持の次第に深められて行くのををりをり飜つて考へて見たりなどした。昔は道綱などは可愛いには可愛いにしても――また誰かが來てそれを奪つて行かうとでもすれば極力それを拒いだには相違ないけれども、しかもその問題が直接にかの女につゞいて來てゐるのではないやうな氣がしてゐた。かの女にはそれ以上にもつともつと大きなことが澤山に澤山にあるやうに思はれた。蹂躙された戀。異性に侮辱せられた戀。青春の徒らに過ぎ去つて行く悲しみ。玩弄品のやうに家にのみ閉ぢこめられていつの間にか老いて行かねばならぬ慘めさ。日毎に退屈に過ぎて行かねばならぬ佗しさ。ことに兼家の愛してゐる他の女に對する嫉妬。火は幾度燃えて、またいく度消されて行つたか知れなかつた。そしてさういふ時には、道綱などのことを考へてゐるひまなどはないくらゐだつた。⦅何うしてお前のやうな不仕合せなものがこの世に生れて來たのか。このやうな母を持つたお前は何といふ不幸な星のもとに生れ出て來たのか⦆などとその柔かな頬にその身の頬を押しつけて涙を流したことも一度や二度ではなかつた。しかし、次第にその小さな道綱の存在がかの女に深い意味を感じさせるやうになつて來たのであつた。

何と言つても道綱だけがその身のものである。それだけは他のものが何うすることも出來ない。切つても切れない。離れようとしても離れられない。次第にそこにかの女は人生を感じて來た。

窕子は登子が内裏に入つて行くのを見送つて歸つて來て、ひしと道綱を抱き上げて、吃驚して逃げようとするのを無理に押へてきつく抱緊めたり口づけしたりしたことを思ひ起した。『まア、おとなにしてこゝにゐよ……あこだけはこの母のものではないか。何時まで經つても、この身から離れて行かぬのはあこだけぢや……』かう口に出してまで言つて、母の膝から逃れようとする道綱を押へたことを思ひ起した。⦅まだそれでもこの身にはなぐさめられるものがある……それから思ふと、あの末の君は悲しい⦆こんなことをつゞけて言つたことを思ひ起した。

『母者、母者……』

などと言つて、道綱は遠くから走つて來て、その小さな體をかの女に投げつけるやうにしたりなどした。

『まア、この子は! 何處に行つてゐたのか。この足は、この手は? 呉葉や、拭くものを持つて來や……』

さうした窕子の聲がともすればその一室の中からきこえて來た。

それに、この頃は窕子はわるく咳などをした。あの時、雨の中に立つてゐたりしてそのための風邪でも引いたのだらうなどと初めは言つてゐたが、何うも思ふやうに治らぬので、忌みの中にあまり出歩いたりしたので物の怪でもついたのではあるまいかといふ氣がして、いつもの僧を呼んで加持などをして貰つたりしたが、何うも本當には治らないので、その僧のすゝむるまゝに山寺にでも行つて見たら何うかといふことになつた。で、晴れ間を見て、京から北の方へ當る山合の寺へと窕子は出かけて行つた。

二八

兄の長能も一緒に出かけた。

それは京からずつと北山に入つて行くやうなところだつた。鞍馬とは谷を二つも三つも隔てゝゐて、入つて行く路も、標野あたりを眞直に山の翠微に向つて進んで行くやうなところだつた。祈祷などで驗のある名高い僧がかの唐の地からやつて來て、その寺に留つてゐるので、それで評判になつて皆ながそこに出かけて行くのだつた。

出て來る前、そのことを兼家の方に言つてやると、返事も呉れないので、いくらか氣になつてまた追かけて文箱を持たせてやつた。返事は來るには來たが、そこにはやさしいことも書いてなく、たゞ行つて來ることについての承認を與へてよこしたばかりだつた。かれの方にもいろいろなことがあるらしく、一族のあらそひにも氣を腐らせて、内裏にも出かけて行かないやうなことが多いらしいやうなことを使のものは匂はせた。窕子はそれをなぐさめたいにも、その周圍にはいろいろな女だちがゐて、素直にそれが實行出來ないことを悲しんだ。何でも此頃では、また南の坊の方へ行き出して、夜は殿の車がおそくまでその角に置かれてあるなどといふ噂を耳にした。

たゞ窕子に取つて喜ばしいことは、武隈の府から多賀の府へ轉任になつて行つて、今年で八年になる父親が來年は久々で京にもどつて來ることが出來るといふ報知を受取つたことだつた。『まア、父さんがもどつてゐらつしやる!』かう言つて家の人たちは皆な喜びの聲を擧げた。中でも長能の妻のかをるは、父親が任所に赴いた後に母だの伯父だのが相談して貰つたものなので、まだ見ぬ父親に對して一種のあくがれを持つてゐるので、一層なつかしさうに見えた。

『父さんがもどつて來ると、また家が賑かになる……。それにしても、父さんは何んなになられたことやら。今年歸るか、來年もどるか。一刻も早うもどらして貰ひたい。かういくら殿に頼んでも、さういふことはこの身にも自由にならぬとばかりで、何うにもならぢやつたが、やつともどつて來らるゝか……。死なぬ中に逢はるゝがうれしい……』その消息を手にした夜には、母親はかう言つておちおち眠ることすら出來ないくらゐに喜んだ。

窕子にしても里の家が急に明るくなつたやうな氣がした。

標野から山に向つて入つて行く路は暑かつた。一方の車には窕子と道綱と呉葉、一方の車には長能とその妻のかをると母親とが乘つて、カタカタとわるい路を搖られながら行つた。ところどころにある大きな樗の木蔭には、この暑い原を越して行く人だちの牛車や絲毛車が澤山に休憩してゐるのを眼にした。

原を越して、これから山にかゝらうとするところには、冷たい清水がちよろちよろとわき出してゐて、そこに近所の百姓の嚊がむしろなどを持ち出して、山で採れた木いちごや、しどめなどをそこに竝べてゐた。皆なそこで車を下りて休むことにした。

かをるの方が窕子よりは年が二つ下なのだけれども、窕子はそれを『姉者、姉者』と呼んでゐた。

『姉者は肥えてゐるで、何うしても他よりも暑いぢやらうな?』

こんなことを窕子が言ふと、

『暑いにも、暑いにも……』かう輕くおどけた風にかをるは言つて、その細い筧からちよろちよろと落ちる清水を茶椀に受けて、それを道綱にも飮ませ自分にも飮んだ。

『つめたい?』

窕子は此方から訊いた。

『口もきるゝやう――』

窕子も立つてその筧の落ちる傍に行つた。

急いであとからついて行つた呉葉が茶椀に滿たした水を窕子に出した。

『おゝこれはつめたい!』

皆ながかはるがはる口に當てて飮んだ。暑い原を通つて來た苦しさがそれでよほど除れたやうにお互にのんびりした氣特になつた。それにそこは已にいくらか高くなつてゐた。京の町がそれと手に取るやうに見えた。

『これでやつと凉しうなつた!』母親もいつもと違つて、父親の歸京の消息を得た喜びがあるので、いかにも心が伸々としたやうに言つた。

晝飯にはまだ少し早いけれども、これから先きには水のあるところはあつても休む設備の出來てゐるところはないと言ふので、持つて來た行厨をそのまゝそこで開くことにした。重ねた上の方の箱には、煮つけたものなどが入れられてあつて、下には今朝早くから起きて拵へた饅頭などが一杯に入れられてあつた。

『ひとついかゞ……』

かをるはそれを呉葉にまで持つて行つて取らせた。

『うまく出來ましたね、姉者……』

窕子は言つた。

『うまいどころではありませんでせうけども……。それでも、お中が減つては爲方がないから――』

『上手に出來てゐますよ』

窕子は饅頭を一つ手に取つてそれを道綱にやつたりした。

窕子にはかうした郊外の團欒がたまらなく樂しいやうな氣がした。これを平生の京の生活と比べたなら? 人が人と爭ひ、心が心と爭ひ、片時もその苦しさをやすめることが出來ないやうな生活と比べたなら? あのやうな無理な壓制が行はるゝやうな生活と比べたなら? またその身が不斷にやつてゐるやうな愼恚と嫉妬の生活と比べたなら? 大勢の妃を竝べて、美しい裳を着せて、それに酒の相手をさせたところでそれが何んだらう? また坊に行つて夜もすがら騷いであそび𢌞つたとて、それが何だらう? やつぱりこの人生にもかういふ靜かな樂しさがあるからそれで生きてゐられるのではないか。こんなことを考へながら、窕子はじつとして立つてゐた。

兄の長能は窕子の多情多恨な性質を知つてゐるので、傍に寄つて來て、

『何うかした?』

『いゝえ……』

『また、何か考へ出したのかと思つて……』

『いゝえ、たゞ、かうしてゐれば好いなアと思つたんです!……。かういふ生活もあるのに、何うして人間はあゝいふ爭ひの生活をつゞけてゐるのかと思つたんです!……。かういふ山の中に住んでゐる人だちは、さばさばとして何んなに好いだらうと思つたんですの!』

『だつて爲方がない……。さういふ生活があるんだから――』

『だから、それを亡くさうといふんぢやないの……。亡くしたいたつて、それは私の力では出來ないことですからねえ。たゞ、かういふ樂しい、自然のまゝの生活もあるのだと思つただけなの……』

兄の長能は餘りに深く入りすぎて、また氣持でもわるくさせてはと思つてそのまゝ口を噤んで了つた。

『ぢやそろそろ行かうかね……。もうこれからは山で凉しいから』

『さうしませう』

かをると呉葉とはそこらにあるものを片附けにかゝつた。

やがて皆なはてんでに自分の車に乘つて、またガタガタと山深く輾らせて行くのだつた。

二九

『だつて、お前、そんなことを考へたつて爲方がない……』

母親はつとめて窕子をなだめるやうにして言つた。

『母者の言ふことはそれはよくわかるのよ。何うせ、人間はあきらめ――自分のことでさへ自分で自由にならないのに、何うして他のことまで自分の思ふやうにすることが出來よう。それはよくわかつてゐる。しかし、さうだからと言つて、それを放つたらかして置くといふことは出來るでせうか。何うかしてそれをよくしたいと思ふから、それで苦しむのではないでせうか?』

『苦しむからいけないのぢや。苦しむことはない――』

『でも苦しまずにはゐられないのですもの……。あゝして道綱があそんでゐるのを見ても、すぐ苦しくなつて來るんですもの……』

『それがわるい癖ぢや……。それをやめねば、そちの病氣は治らぬと阿闍梨も言うたぢやないか? 何も思はぬ。何んなこともつらいとは思はぬ。眼の前を通り過ぎる雲ぢやと思うてゐる。でなければ、魔が一しきりついたのぢやと思うて知らぬ顏をしてをる……さうでなければ治らぬと言うたぢやないか――』

『…………』

だまつてうつむいた窕子の眼からは涙がはらはらと流れた。

『困つた人ぢやのう?』

『母者……』窕子はあることを急に思ひ出したやうに、『母者はあの前の大納言どののつれてゐた人を見て何う思はれた?』

『あの向うの坊の方でお目にかゝつた人かや?』窕子の點頭くのを見て、『別に何うツていふことも思はせなかつたが?』

『此身は涙が出て、涙が出て……』

『何うしてぢや?』

『母者はあの女子のことをよう知らぬのかも知れない……』

『よう知りをる……美しいので名高い姫ぢやつた――』

『母者、この身はあの人があゝいふ病に取憑れたので、それで氣の毒だといふのではない……。それよりも、それよりも』急にたまらなくなつたやうに、『あの、あの大納言どのが……』

『大納言どのが何うしたのや?』

『あの體の大きい、心の大きい、その愛してゐた女子のためには、あゝして職もやめ、つとめもやめて、この山の中までついて來てゐるのを見て……ウ、ウ……この身は、この身は――』

涙が言葉を遮つた。

今度は母親がこまつて了つた。窕子の心がはつきりと飮み込めて來た。

暫くしてから、窕子はやつとその言葉をつぐといふやうに、『母者……母者にもそれがわからないことはなかつたと思ふ。あの大きな體、男らしい物の言ひ振、あれほどまでにして貰ふ仕合せな! その病人の傍を片時も去らずに看護する男子……。さういふ男子もあるんだから……。それを考へると、この身は悲しい。この身は悲しい。この身は涙が出て涙が出て……』

『ようわかつた……。しかし、さう一概に男のことをきめて言ふのはわりい。それはあの大納言どののやつてゐられることは尊い。それはわるいと言はぬ。この身も涙を催うした……。しかし、他の男の子がさうしないからと言つて、それをわるう言ふのは、あまりに物事をきめすぎてゐていけない……。この世の中といふものはさういふものではない。』

『それはさうでせうけれども……あゝされる女子は仕合せだ……。』

それに比べたら、この身などは何うだと窕子は言ふのだつた。一度だつて見舞にも來て呉れたことはない、行くなら行くで放つて置く、そして自分は勝手に振舞つてゐる……。それはまア好いとしても、さういふ男の子にさういふことを望むは望む方がまちがつてゐるのかも知れぬから、それは好いにしても、それでは此身が可哀相ではないか。何一つつかんだもののないこの身が悲しいではないか。

『ようわかつた、ようわかつた』

逆らつてはかへつていけぬと思つたので、母親はつとめて窕子の氣を迎へるやうにして言つて、

『その中には好いこともある……。さうわるいことばかりあるものではない……。道綱だつて、さういつまでも子供ではゐない。來々年に殿上することの出來る年ぢや……』

『そんなこと、あてになるものですか? 道綱のことなんか、少しでも考へてゐるんではないから……』

『そんなことはない、それは決してそんなことはない。それは安心しておいで! 殿だつて、そんなに人情のない方ではないのだから……』

母親が強く壓しつけるやうに言つた。

窕子にはしかしそれだけでは物足らなかつた。かの女は一つの戀愛と言つたやうなものにあくがれた。二つの心がひとつになつてそれが何ものにも動かされないやうになる戀! 何ものに打突つても決して決して打壞されない戀! 金剛不壞な戀! 十年逢はなくつても一生逢はなくつてもかはらない戀! さうしたものをかの女は常に眼の前に描いた。手を合せる佛の體の中にもそのまことの戀がかくされてあるやうな氣がした。

三〇

兄の長能の言つた言葉を窕子は思ひ起した。

――『だつて、それは無理だ。殿はさういふ質の人ぢやないんだもの……。殿はそんなことを女子に望んでゐはしないんだもの。殿に取つては、女子は尊いものではないんだもの……。それはおもちやだとは思つてはゐない。さういふ風に一段低くは見てはゐない。更に言ひ換へれば、女子は生活を面白くして呉れるものだくらゐに思うてゐる。だから、とてもお前の言ふやうなわけには行かない。さうかと言つて、それが薄情とか何とかいふのではない。殿だつてつまらなく女を傍によせつけてばかりはゐない……。あれでひとりでつまらなさうな顏をしてゐることもあるんです……。しかし、かういふ氣はあるな。窕子の考へ方と殿の考へ方は正反對で、とてもそれはひとつにはならない……。それが運がわりいといへばわりいのだらうが、たとへそれがひとつになつても、運が好いかわりいかわからない……。こいつは何うも一概には言へないな』――昨夜話してゐる中にこんな言葉が雜つてゐた。母親と兄の長能とかをると窕子と、この四人がおそくまで結燈臺を取卷いて四方山の話をした。中宮のことも出れば登子のことも出た。大納言が昔ひどい遊蕩者であつたことなども出た。長能が此頃ぴたりと女のあそびをやめたことになつて行つた時には、『いや、それはかをるがえらいんぢやない……。世間ではさう言つてゐたにしても、それはさうでない。世間なんて表面きり見ないものだが……つまり一言で言へば女がおもしろくなくなつたんだよ……。いつまでやつてゐたつて、ひとつだつて本當につかめやしないし、際限がないといふ風に何處かで考へはじめたんだよ。何處かで? 本當に何處かでだよ。自分でもはつきりそこが言へないんだよ。そこにうまくかをるがぶつつかつたんだ――そこが運が好いと言へば好いんだ……』などと言つて笑つた。そしてそれからそのつぎつぎへと殿や窕子のことなどが出て行つたのだつた。殿などでもいつまでもあゝしてゐらるゝものではない……。もう好い加減飽きてをられる。こんなことをも長能は言つた。窕子はさうした言葉を頭にくり返しながら、寺の塔のあるところから谷川の見える方へと行つた。そこらには坊が二つも三つもつゞいて、その一つは崖の上から谷を見下ろすやうな位置にあつた。

谷川の瀬の鳴る音が下の方できこえた。

かの女はもはや三十に近くなつてゐたけれども、その美しさは少しも衰へず、別におつくりをしなくとも、あたりの眼を惹くに十分だつた。かの女はあちこちから此方を見てゐる眼に出會した。

それに誰が話すともなく、東三條殿のおもひものだといふことが參籠に來てゐる人だちの間にもそれと知られてゐるらしく、時々そのうしろの方で、さう言つて囁いてゐる氣勢を聞いた。

殿上人ではないがちよつとしたことから懇意になつたある若い妻は、かの女が歌道に名高い人であることを知つて、かういふ時でなければ教へを乞ふことが出來ないといふやうに、ちよいちよいその坊をたづねて來た。それは名を梅尾と言つてゐた。

ひよいと氣が附くと、その向うのところに、その梅尾が、藏人頭の下にでもつかはれてゐるやうな、若い、意氣な、縹色の柔かな烏帽子を頭に載せた男と睦しさうに竝んで話しながら歩いてゐるのを目にして『おや!』と窕子は思つた。

餘程背後から聲をかけようとしたが、きまりをわるがるだらうと思ひ返して、わざとゆる〱と靜かに歩いた。

かれ等は何う見てもたゞの關係ではなかつた。

またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。

大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。

少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。

しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。

かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。

何のくらゐゐたか、小半晌くらゐゐたか、それとも半晌くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。

向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。

梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。

『まア……』

『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。

梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。

『好いの?』

『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』

『私の方は構はなくつても好いのよ。』

『いゝえ。』

梅尾はまた顏を赤くした。

『從兄が來たもんですから――』

『從兄?』

人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。

『…………』

『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』

『まア……』

梅尾は聲を立てた。

『あの塔の下のところで、ひよつと見ると、あなたなんでせう。それから餘程聲をかけようかと思つたんだけども、何だか……』

言ひかけて窕子は半分言葉を引込めて了つた。

『まア、聲をかけて下されば好かつたのに――』

『でも……』

窕子は笑つた。

『だつて、私、困つて了つたんですの……。聲をかけて下されば好かつた――』

『そんなに申しわけをしなくつても好うございますよ』

『まア』

しかも窕子は別にそれより深く立入つてその話をきくでもなかつた。むしろ立入つてその話をきくことを恐れた。かれ等は靜かに踵をあとにめぐらした。

三一

谷に凭つた座光坊には窕子はよくその庭の方から入つて行つた。そこにはかの女は母親とも行けば兄の長能とも行つた。道綱と呉葉と三人して行つたことなどもあつた。

『あの老僧は高徳の方だけあつて、ひとり手に頭がさがるが――あの今のあるじの僧も氣が置けなくつて好い。この深い山の奧で幼いころを過したやうな人だけに、何處か並でないところがござるな』

こんなことを母親も長能も言つた。呉葉も、『好い法師さんですこと……。それに男前が好い!』かう言つたが、あとの一句は自分でもあまり言ひ過ぎたと言ふやうにソツと舌を出した。

『まア、あきれた……』

『だつて、さうですもの、好い法師さんですもの……』

『だつて舌を出さなくつたつて好いぢやないの?』

『御免なさい!』

呉葉は自分のはしたなさを悔ゐるやうにして言つた。

『この山で幼い時をすごし、それから横川で行をなすつて、高野にも室生にも行つて、密教の方も十分になすつた方だからねえ……。このお山でもめづらしい法師さんだ――』窕子に取つても、異性がさういふ風に童貞をずつと守つて、一心に佛に奉仕してゐる形が、端麗な姿をしてゐるだけ、一層傷ましいやうな尊いやうな心持を誘ふのだつた。『あれで、あゝいふ風にして一生清く行ひすまして行かれるのかねえ!』時には窕子はこんなことを呉葉に言つたりした。

ある日は道綱と二人で行つて、小半日もその坊で過した。あるじの方の僧は、却つてそれを名譽にして、何彼と道綱の機嫌を取つて、羊羹を高坏に載せて出したり、葛を溶いた湯を出したりして歡待した。無論それは東三條殿の愛兒であるといふ點もあるのだが、當代で評判な美しい女の歌人を歡迎する意味もあつたのだつた。

『我々もたまには歌にして見たいといふ考も起るのですが、こればかりは別才だと見えまして、何うもうまい具合にまとまりません……』

『いゝえ、そんなことは――?』

『お上手な方がおつくりになりますと、それがすらすらと單純に出る。ちつともこだはりなしに――。何うもそれが眞似が出來ません。我々のやうな鈍根なものには何うも材料ばかりが多くなりまして、何を言つた歌だかわからなくなりますので……』

『いゝえ……』

『さうかと申して、それぢや材料が多すぎるのだからいけないのだからと思つて、今度はひとつのことをよまうとすると、それが短かすぎて歌にならない……。何業でも皆なさうでござるが、中でも歌はむづかしい……』

こつちから般若心經の中心になつてゐる心持をきかうなどと思つて出かけて行くと、その先を越して、向うから歌の話を持ち出すといふ風なので、窕子は一層その僧に親しさを感ぜすにはゐられなかつた。時にさうして清くひとりで住んでゐる僧の上にそれに似た自分の生活を持つて行つてくつつけて、いろいろと深い感慨に耽ることもあつた。

『私などにはとても深いことはわかりませんけれども……それでも歌の心持を押しつめて參れば、やはり佛に近づく心が致しますので……』

ある日は窕子はこんなことをそのあるじの僧に言つたりなどした。

それにしても世の中といふものは不思議なものだ――窕子はその坊から下りて來る石段を一歩々々拾ひながらこんなことを常に考へるのだつた。あゝいふ清らかな端麗な異性もある。さうかと思ふと殿のやうに女を女と思はず自分さへ歡樂を恣にすればそれで好いと思つてゐる人もある。情の赴くまゝにまかせてしたい三昧のことをしてゐる人だちもある。未來のことなどは少しも思はずに、人の夫であらうが、人の妻であらうが、そんなことには頓着せずに、たゞ愛慾にのみ耽つてゐる人だちもある。何が何だかわからない。さういふのが罪なのか、それともさういふ風に考へるだけでも罪なのか。この尊いお山に參籠してゐる人だちの中にも、こゝを歡樂の庭のやうに心得てゐるものさへある。あの梅尾などにしてもそのひとりではないか。そしてそれが罪になるのか、それともならないのか。さういふことをするのは人間の心の持前で、何うにもならないのか。自分ながら自分のことがわからなくなつてむしろ自分が可哀相になつて――窕子はじつとそこに立盡したりなどした。

三二

窕子の參籠してゐる室から、すぐ眼の前に山の裾が落ちて來てゐて、下では何方かと言へば靜かな、せゝらぎのやうな水の音が微かにきこえてゐた。

杜鵑がキヨ、キヨ、キヨとすぐ前を啼いて通つた。

來た時に咲いてゐた卯の花の白いのももう見えなくなつて、水ぎはに名の知れない紫の細かい花などが咲き出した。此頃窕子はその若いあるじの僧のことを考へてゐることが著しく多くなつたのを自分でも不思議に微笑まるゝやうな心持でじつと見守るのだつた。本を展げてゐる時にもいつとなくかの女はその僧のことを考へてゐるのに氣が附いた。

三三

唐の僧の祈祷の席にも窕子はたびたび出かけた。かの女はそこにも大勢の參籠者がさまざまの願望を抱て手を合せてゐるのを目にした。子に對する苦しみ。子の病に對する苦しみ。妻の夫に對するもだえ。夫の妻に對する悲しみ。さういふ苦みやらもだえやらを持つた人だちは皆なそこに來て坐つた。位記や官名を持つた人だちのためには、別に設けられた席などもあつて、あの肥つた大納言夫妻の姿も常にそこに見られた。

窕子もいつもそこに案内されるのだが、かの女はその姿の人の目に立つことを嫌つて、わざとあまり派手々々しくない裳を着て、大勢の群の中に雜つてその祈祷の讀經を聞くやうにした。その唐の僧といふのは、昔の鐡眞和尚を思はせるやうな半ば眼の盲いた高徳で、背もさう高い方ではないが、その態度にもその擧動にも何處となく立派なすぐれたところがあつて、それが五六人の僧だちと一緒に入つて來ると,誰も頭を下げて佛の名號を唱へないものはなかつた。何でも世間の噂では、その高僧の一つの祈祷は人間のあらゆる苦痛を和らげ、あらゆる病を醫やし、あらゆる煩悶を輕くするといふことに於いて他に比ぶべきものがないといふほどの功徳を持つてゐるといふことだつた。窕子は少くとも毎日一晌以上小さな珠數をつまさぐりながらじつとしてその光景と相對した。讀經――何とも言はれない冴えて澄んだ聲。長く引張るやうに末は磬のやうに御堂の高い天井にひゞいてきえて行く聲。ひとりの僧の時に觸れ折にふれて鳴らすけたゝましい鉦の響。ことに、その高徳の聖のひとり高く張り上げる聲は高くあたりに、窕子の心の底までもじつと深く染み入るやうにきこえた。

ある日、座光坊のあるじの僧とかの女との間にこんな話が出た。

『あのしまひのところが、密教の行ひと申すのでございませうか?』

『さやうでございます……。あのしまひの方で磬を鳴らすところがござりませう。あそこがあの祈祷の眼目になつてゐるのです……』

『本當に、あそこは難有い心持が致しますの……。やはり、あゝいふところになりますと、心はずつと靜まつて、いろいろな煩惱は皆な小さな、小さなもののやうになつて了ひます……』

『今度の大徳は密教には中々深く通じて居られますから、信用してあの行を見ることが出來るやうな氣が致します、……。さうです、高野の眞言とはいくらか違つてゐるやうです。もつと天臺の智者大師のひろめられたものの方に近いやうでございます……。ですから、密教と申しても餘程初期の感じがまだ殘つてゐるやうでございます……。そこが尊い……そこが他の御堂では味はれないところだと思ひます……』あるじの僧はこんなことを言つて、靜かな調子で、にこやかに笑ひながら、かなり深く難かしいところまで密教の話を持つて行つた。

窕子は益々そつちへと引かれて行くやうな氣がした。自分たちの生活とこの靜かな生活と。瞋恚と煩悶と嫉妬と爭鬪とで滿たされた生活とこの高遠な普通ではわからない學問にのみ精進してゐる生活と。一つは火花を散らしたやうでもすぐ消えてなくなつて了ふ生活と、一つはいつまでもいつまでも人の心に深い教へを殘して行く生活と……。窕子は自分等の平生目にしてゐる殿上人あたりの自墮落な生活をかうした靜かな學問にのみ精進して來た人だちの生活に比較して考ヘずにはゐられなかつた。

かういふ人だちは世間のことなどについては何も知らないのであつた。男女のことも、妻妾のことも、三つの心の巴渦のことも、御門が愛慾におぼれて末の君を無理に宮中に召されたことも、坊の町の細い巷路に結び燈臺が夜おそくまでついてゐてその角に牛車が待つてゐることも何も彼も……。そしてたゞ谷川の水の音を伴侶に深い高遠な學問にのみ心を注いでゐるのだつた。それが窕子には尊く感じられた。窕子はそのあるじの僧から法華經の一番中心を成してゐる思想を聞いたりなどした。

『さうしますと、何ういふことになるのでございませうか?』

と、その僧はにこやかに笑つて、さて少し考へるやうにして、

『歌で申して見ますと、つまりそのひとり手に巧まずに出て來るといふ心持――そこいらに歌は滿ちてゐますけれども、それをつかまうとすると、つかむことが出來ない……何うしても出來ない。學べば學ぶほどむづかしくなる。それでゐながら、ひとり手に出て來る段になると、何の面倒もなくすぐそこにある……。あなたがいつか歌といふものについてさうおつしやられた……。法華經の中心を成してゐるものはやはりそれだと思ひます……』

『つまり、さうしますと、その高遠な思想が何處にでもあるといふことになるのでございますか?』

『さうなります……。何處にでもある。それだから難有いのでございます。たゞ一心といふこと――ひとつの心を持するといふこと、さう言つて了つては或ひは言ひすぎるかも知れませんけれども、つまり他には何もない。その經文を持してゐさへすれば好い。それより他に理窟はない。さういふところに非常に深いところがあるのでございます……あらゆる經文が皆なそこに入つてゐるのでございます――』

『さうしますと、あのお經に書いある字とか、理由とか、方則とか、さういふことよりももつと別なところにその中心がございますのですね』

『まア、さうですな……』

聰明な窕子にもそれだけではまだはつきりとはわからないらしかつた。『その一心といふこと、その一心を持するといふこと――それと佛とは何ういふ關係になりますのでせうか?』などと訊ねた。

一月もゐる中には、その僧と窕子との交際は次第に親しさの度を増して行つた。窕子は一日でもそこに行かなければさびしいやうな氣がした。その癖、それが何うの彼うのといふのではなかつた。かの女はをりをり望まれてそこで短册に歌を書いたりした。ある時には、御堂に行く途中、向うから緋の僧衣を着た僧が二三人やつて來るのに出會つて、初めはさうだとは思ひもしなかつたのに、そのひとりがそのあるじの僧であるのをやがて知つて、急にきまりがわるく、顏がわれながら不思議に思はれるくらゐにサツと染められたことなどもあつた。母親と一緒に行つた時には、いつもの佛の話とは違つて、自分が叡山に登つて修行した時のことや、奈良の唐招提寺に律を研究に一年ほど行つてゐた時の話などをかれはそこに持ち出した。『奈良の寺は方則がきびしいので一番つらうございました。朝は寅の刻に起きて、坐禪をやつたり、讀經をしたり、その間には、教義の議論をしたり、ほとほとひまといふひまはないのですから……。それは皆さんは、私どもなどはのんきに暮してゐるとお考へでせうが、中々これで忙しいのでございます……』などと笑ひながら話した。

ある時、呉葉と二人でゐると、

『京の方がこひしくおなりにまだなりませんか?』

『何うして?』

『何うしてツて言ふこともございませんけども……』

呉葉はいくらか笑を含んだやうな表情だつた。

『でも、今月一杯ゐるつもりで來たんだもの……』

『それはさうでございますけども……家のことだつて心配になりますから……』

『大丈夫だよ』

『でも、殿のことでも、あまり放つてお置きになつては?』

『だつて……』

呉葉の心配する心持がよくわかつてゐるので、窕子は言ひかけてよした。

『この頃、お消息がちつともございませんでせう?――」

『ゐなくつて、うるさくなくつて好いと思つてゐるのよ』

『まさか――』

呉葉は笑つて見せた。

『さうでなけりや――少しでも此方を思つて呉れるのなら、何とか消息くらゐよこしてくれたつて好いんだもの……』

『でも、こちらからおあげになる方が本當ですもの……』

『…………』窕子はこれに對して何か言はうとして、よして、『それよりも、お前、もうあきた?』

『かをるさまやお兄さまは、もうとうに歸りたいやうに仰しやつてでございました……。』

『さう……』

窕子は別にこゝに思ひを殘してゐるわけではなかつた。あるじの僧のことにしても、逢つたり話したりしてゐることの上には多少の興味を感じてゐるけれども、さうかと言つて、こゝに深く心を留めてゐるわけでも何でもなかつた。たとへそれがもつと深く、此方からも心を寄せ、向うからも進んで出て來たにしても、それは何うにもなる間柄ではなく、やつぱり山を出た雲は山に歸り、流れ落ちる谷川は里に向つて出て行かなければならないのだつた。窕子は自分の身の何うにもならないことを今更のやうに感じた。

かをるがそこにやつて來た。百合の花を三本も四本も手に持つてるた。

『まア、好い花! 何處で採つて來ましたの』

『ぢき向うの山――』

かをるは振返つて指した。

『よく、こんなのがありましたね……。まだあるなら、私、採りに行かうかしら?』

『まだ、あるにはありますけども……女の手ではちよつとむりかも知れませんね。長能が取つて呉れたんですの……』

『まア、兄さんが?』

窕子は羨しさうに。

『この下の谷でございますか?』

呉葉は問うた。

『この谷をずつと下まで下りて行つたところです……。とても、私には行けないといふのを無理に伴れて行つたのですの……石なんかいくつもいくつもわたつて行くんですもの……私、始めの中は、ついて行きましたけれども、しまひには行けなくなつて了つたんですの……。何故ツて、蛇なんか澤山ゐるなんておどかすんですもの……。やつとのことで、手を曳いて行つて貰つたりして、この大きい方のあるところまで行つたんです……』

『まアね』

『それから、あとはみんな長能が採つてくれたんですの……。男でなくつては何うしてもだめね……』

『まア、私も兄さんに伴れて行つて貰はうかしら?』

窕子はいかにも羨しさうにその白い百合の花を眺めた。

『それをさし上げませう! それでは――』

『いただいたのではまだ足りないんですよ。やつぱり男の人につれて行つて貰つて、女ではとゞかないところにあるものを採つて來ればこそ羨しいんですよ。ねえ、呉葉、さうは思はない?』

『お仲が好いですからね』

呉葉も笑つて見せた。

『また、あんなことを……仲が好いなんて……? そんなことちつともないわ。私、無理やり伴れて行かれたんですもの……。あそこ、少し行くと、ひどいところがあるんです。石につかまつて行かなくつちやならないやうな……。私、それから先きには何うしても行けないからツて言つたんですの……。私、待つてゐるつもりだつたの……。ところが、何うしても向う岸にわたれツて言ふんでせう。私、此方にゐると、向うは先にわたつて、その石から私の手を引張るツていふ騷ぎなんですもの……。容易にはあそこには行かれやしませんよ』

『だから羨しいツていふんですよ』

そこに兄の長能がやつて來て、その谷にはまだそれよりも美しい百合がいくらもあるといふ話しをした。

三四

ある日、呉葉がにこにこしながら入つて來た。

『たうとう參りました……』

『…………』

窕子は谷に臨んだ坊の室で、凉しい麻の裳ばかりを着て机に向つて歌の本を讀んでゐたが、いくらかいぶかるやうな顏つきで、急いで此方へと入つて來た呉葉の方を見た。

『殿から……』

『あ……さう……』かう言つて窕子はその消息を入れた文箱を受取つた。

かの女は別にうれしいといふやうな表情は見せなかつた。しかもそれを手にするとそのまゝその消息を取り出して、それをすぐひろげた。すらすらと讀んで行くのが此方に坐つて控へてゐる呉葉にも氣持好く感じられた。

讀みおはるのを待つて、

『別に、おかはりはござりませぬのですか?』

『お前の言つた通り……あまり長くなる……道綱も退屈してゐるだらう……もう歸つて來いツて書いてあるよ』窕子はそれを卷き收めつゝ笑ひながら言つた。

『それはさやうでございませうとも……殿だとて、お待ちかねでいらつしやるには違ひありませぬ……』

『やつぱり道綱はしばらく見ないでゐると、逢ひたうならるると見える……』

『それはさうでございませうとも……』呉葉はかう言つたけれども、にこにこと別なことを考へながら、『それに、何と申しても、眞心と申すものは、最後の勝利者でございますから……』

『…………』

『何處に行つたつて、こちらのやうな眞心を持つたものはございませんから……』

『何うだかわからないね。こつちにだつて、そんなものは持合せてゐるか何うかわからないよ……』

『あんなことを仰しやる!』

『だつて、さうは思はない? いくら此方が眞心を持つてゐても、向うでさうでなければ、さういつまでもその心を持つてゐることは出來なくなるのではない? やつぱりそれはお互ひのことではない……? それはね、その間に何も起つて來なければ好い。誘惑が起つて來なければ好い。しかしさういふ時には、得てさういふ誘惑が起つて來るものだからね。さういふ情に薄い一方の人に比べて、一方の人は實際以上に情に深いやうに見えるのが慣はしだからね……』

『でも……この間、法華經のお話をうかゞひました。そら、一つの心を固く持つてゐて動かない? さういふお話をうかゞひました……。あれとは違ふのでございますか?』

『…………』

窕子はぴたりとそこに行きつまつて了つた。暫くだまつてゐたがやがて笑ひながら、

『お前、よく覺えてゐたね』

『だつて好い話だと思つて心に銘してをりましたのですもの……』

『それにつけても、その一心を持つといふことは難かしいことなんだね。お話できけば、わけはないことだけども、實際にそれを行ふといふことになると、大變なことなのだね……。今、考へた――お前に言はれて考へた。それはさういふ兩方を比べる心持などとは非常に違つてゐるのだツていふことを。もつともつとずつと先きのことなんだね。すぐそんな風に報酬的に考へるやうな心持では、とてもその境地に達することは出來ないのだね……』

『さやうでございませうか?』

『あ、お前に言はれて、好いことを考へた――一言の師と言ふことがあるが、お前はそれだ!』

『そんなことはございませんけど……』

『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』

そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。

『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』

『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』

かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。

暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。

不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。

三五

ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。

路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。

道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。

『つまらないなア……本當につまらないなア!』

道綱が言ひつゞけた。

『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』

『だつて、あんなにゐるんだもの』

こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。

『や、くちなは!』

道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。

『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』

道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。

『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』

誰に言ふともなく窕子が言ふと、

『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』

傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。

『伯母者、さつきのくちなはびつくりした?』

『びつくりしたにも何にも……伯母者ふるえ上つた……』

『今度、出たら、麿が生かしては置かない……』

『麿はきついな』

こんなことを言ひながら三人は山の岨のやうなところを通つて行つた。

向うから重さうに粗朶を負うて女がひとり下りて來た。

かをるはそれにきいた。

『尼寺は?』

『尼寺かな……。もうぢきだ……。この林を越すと、もう見えるだ。若い方の尼さん、つい、そこに出てゐたつけ……』

『まだ十町ぐらゐあるかね?』

『そないあるもんか……』

こんなことを言つてすれ違つて行つたが、少し行つて窕子が振返つた時には、その女がその背負つた粗朶をそこに下して、じつと立ちつくしてこつちを見送つてゐのを目にした。

『あゝいふ人にも樂しみといふものはあるんでせうね?』

これはかをるだ。

『それは同じことよ。家にはちやんと立派な男子がひとりゐて、あゝして里に出て粗朶を賣つて來るのを待つてゐるのよ。あなたと同じやうに男子に可愛がられてゐるのよ』

『まア、あのやうなことを――』

『あの粗朶を賣つて、歸りには洒を買うて來る……それを居爐裏の側で男の子が待つてゐる。さういふ生活もこの身には羨ましい……』

『結局、のんきで好いには好いでせうね!』

『こら、こら! そんなところに行つてはいけません!』ちよつと窕子が眼を離してゐる間に、道綱はずつと向うの方へと行つて崖の上見たいなところで頻りに松蟲か何かを搜してゐるのであつた。

『本當にしやうがないねえ!』

『麿!』

かをるも呼んだ。

『もう、行つて了ひますよ』

そしてかれ等は林の中へと路を取つて行くと、やがてその尼寺の屋根が見え出して來た。

その時、道綱はやつとあとから走つて追ついて來たが左の掌につかんだものをそのまゝそつと少しあけて見せて、

『母者! 母者!これ松蟲ね?』

『どれ?』

窕子は覗いて見て、『まア、この子が? 本當に松蟲だ!』

『松蟲! 松蟲!』

と道綱は左の掌を持上げて、そのあたりを飛廻つた。

『待つておいで! 伯母者がよくして上るから――』かをるはつねに用意して持つてゐる紙を胸のあたりから取出して、それを袋のやうにして、『さ! こゝにお入れ!』と言つて、それをそつちへとやつた。道綱は拳の中から巧みにそれをその紙に入れて、その末をひねるやうにした。

『もうこれで大丈夫ね』

道綱はそれを手にしたまゝうれしさうに先に立つた。かれは猶ほ草むらを搜すことをやめなかつた。

やがてその尼寺の前のところへ來た。

そこにゐた小さな女の童は不思議さうにして林の中を此方へとやつて來る三人づれの客を見てゐたが、そのまゝ奧に入つて行つたと思ふと、今度はそのたしか歌のよめるといふ人らしい二十二三の若い尼が出て來た。

それと知ると、その若い尼の顏が急に赤くなつた。まさかに、今の世にきこえてゐる東三條殿の窕子といふ名高い女の歌人がわざわざこの山の中までやつて來ようとは夢にも思ひがけないことであつたからであつた。かの女はすぐ奧へと入つて行つた。

あたふたと老尼も出て來て、下にも置かぬやうにしてそれを迎へた。

『まア、好うこそ、このやうなところにお出くだされました……。坊のおんあるじからお話は承つて居りましたけれど、わざわざ御出下されやうとはゆめ更存じませぬで……』

『まア……ようこそ』若い方の尼もいかにも喜ばしさうな感激したやうな聲を立てた。

窕子だちの眼には、全く世離れたさびしい庵が映つた。ついそこが竹の縁になつてゐて、その向うに筧から清水のちよろちよろと落ちてゐるのが繪卷の中の一つの光景であるやうに見えた。そしてその向うは少しの場所が畠になつてゐて、もはやかなりに丈が高くなつてゐるもろこしが風にガサガサと動いてゐた。庵の中央には大きな厨子があつて、そこに二尺五寸ほどの釋迦如來の木像が据ゑられてあつた。香爐だの、香皿だの卷物だのが一面にその前の經机の上に置かれてあるのを窕子は見た。

道綱は挨拶がすむかすみもしないのに、逸早くそこを飛び出して、『遠くに行くんではありませんよ』と言ふのをも耳に入れずに、そのまゝ向うの草原の中へと入つて行つた。

『生中ひとつでも松蟲を取つたもんですから……』

『まア、さやうでございますか。松蟲や鈴蟲なら、此處にも澤山をりますほどに、あとでいくらでも取つてさし上げてもよろしうございます……』

かうした山の中の庵室にまでも、かの女と道綱とが、東三條殿で名高くなつてゐるといふことは、一面不思議な心持を窕子に誘つた。都にゐれば、さういふ風に他から取扱はれるといふことは、一種の屈辱を感ずることであつたけれど――ことに殿の女性に對しての振舞が世間に知れわたつてゐるので、一層さういふ氣持を味はずにはゐられないのであつたけれど――そのためその身の女の歌人としての名譽すら全く汚されたやうな心持さへするのであつたけれども、こゝではそれと反對に、殿の威光がさういふ形にまで大きくひろがつてゐるのがそれとわかるので、その爲めかの女の肩身がひろくこそなれ、決して狹くはならないのであつた。⦅まア、かういふ美しい方!⦆と言ふやうに誰の眼にも映るのが得意といふまでではないにしても、決して不愉快ではないのであつた。

『それでも、よく徒歩から御出でになられましたな?』

老尼はそこに冷たい清水を持つて來て勸めたりしながら言つた。

『でも、かなりにあるにはありましたね……もう少し近いところかと思うた――春ならばこのくらゐの路は、かへつて徒歩より來る方が樂しみで好いのでござれど……姉者はくたびれた?』

『それほどでもない……。そんなに遠くはありませんもの……。あの丘ひとつ越しただけですもの……』

かをるもあたりがめづらしいといふやうにして言つた。

窕子はそのゐるところが比較的高い位置にありながら、またかなりにひろい平地でありながら、四面が全く山で取圍まれたやうになつてゐるのをさもめづらしさうに、あつちへ行つて立つたり此方へ來て立つたりして眺めた。⦅いつそかういふところに來て靜かに住んでゐたら……⦆窕子はこんなことを胸に浮べた。

若い方の尼は、つめたい清水に糖を入れた茶椀などを持つて來て、それをそのめづらしいお客の前に竝べた。

『何にもさし上けるものはございませんけど、この清水だけは、それは冷たうございますから……。室のこほりのやうでございますから』

『おう、つめたい』窕子はぐつとそれを飮み干して、『もう一杯! 今度は糖を入れずに――』

若い尼はそのまゝそれを持つて向うの方に行つて、山よりのところにもくもくと湧き出してゐる綺麗な清水にその椀を入れて汲んだ。窕子は氣輕に立つてそれを縁のところからのぞくやうにしたが、『そこに湧いてゐるんですね……。まア、何て好いんでせう!』かう言つて、たまらなくなつたといふやうにそこにあつたわら沓をつゝかけてそつちへと行つた。

若い尼の手から茶椀を取つてそれをまた一口に飮み干した。

『姉者來て見やな……』

かをるもその聲をきいてそつちへと下りて行つた。二人はやがてそこに立つて、そのもくもくと漲るやうにわき出してゐる清水を眺めた。

『まア綺麗ねえ!』

『山はこれだから好いのねえ! 私にもその椀貸して?』

かをるも自分で茶椀をその中に入れて二杯も三杯もつゞけて飮んだ。

『坊のあるじもこれだけは羨しいつて、參る度に申してをります!』

若い尼は傍から言つた。

『さうでせうね。坊にも清水はあるにはあるけれども、こんなに好いのはございませんもの……』

『本當ね』

かをるも言つた。

『ですから、夏は始終此方に來てゐたら、さぞ好いだらうなどと申してをるのでございますの』若い尼はこんなことを言つたが、そのまゝ厨の方へと行つて、そこからさつきの里の女が持つて來て置いて行つた黄く熟した甜瓜を五つ六つ持つて來てそこに浸けた。

『すぐ冷えますでのう』

冷えたら、京のめづらしいお客さまにさし上げようといふのであつた。

老いた尼は晝前の讀經を小聲で始めた。香の烟が靜かに颺る――をりをり鳴らす鉦が靜かに鳴つた。やつぱり山の中にかくれた優婆塞であるといふ氣が窕子達にもした。

此方では若い尼と窕子とが歌の話を始め出した。初めに若い尼の方が歌を書いて見せると、今度はそこにあつた檀紙に綺麗な手跡で窕子が昨日詠んだ歌を書いて見せたりした。話は容易に盡きようとはしなかつた。内裏で歌のうまい人達の話などもそこに出た。道綱がやがて松蟲を三疋も四疋も捕つて戻つて來た。つめたくなつた甜瓜の皮も厚く剥かれた。

三六

『え?』

びつくりしたやうな調子で窕子は聲を立てた。かの女はそれとも知らずにこの話をそこに持ち出した若い尼の顏をじつと見詰めた。すぐつゞけて、

『それは本當ですか?』

『本當でございますとも……。私などは詳しいことは存じませんけれども、今から五十年も前のことださうでございます。大變なことだつたさうでございます……』

『それではその六條どのの姫君と申すのは、現にそこにゐるその老尼さまだと仰しやるのでございますか?』

『さやうでございます』

窕子の言葉につれて若い尼の言葉も丁寧に改められて行つた。

『まア――』

窕子はかう言ふより他爲方がなかつた。かの女は佛間に向うむきに坐つて讀經してゐる老尼の方に目を遣らずにはゐられなかつた。

『まア、本當でございますかねえ? 六條の四の姫君、先々代の御門の女御に上がるばかりになつて身をかくした? ――下司の建禮門につとめてゐるものと身をかくした?』あとの一句は窕子も流石に聲を低くした。

『さやうでございます……。』

『まア、ねえ、思ひもかけぬこと――ほんに思ひもかけぬこと――』かの女の頭には、幼い頃祖母から聞いたその時の騷ぎやら噂やらが今更のやうにそこにはつきり浮び出すのだつた。

祖母の話では、それは非常な騷ぎであつたといふ。名高い美しい姫で、其當時のあらゆる姫だちの中でも群を拔いてゐたといふ。また御門がその姫の美しいのを知つてゐられたばかりでなく、その女御として内裏に入つて行くのを指折り數へて待つて居られたので、何うすることも出來ないので非常に困つたといふ。否、そればかりではない、その姫は死んだか生きたかその行方がわからない。當時の御門の力で、または六條殿の力で、あらゆることをして搜したけれども、何うしてもわからない……。それで長い長い月日が經つた。世間ではいつかそのことを忘れた。その髮の長い黛の美しい姫のことを忘れた。六條殿でも、かうわからぬのでは、もうこの世に生きてゐるのではあるまい、地の下に穩かに眠つてゐるのであらう。かう思つてそれを搜すことをあきらめた。そればかりではない、間もなく六條の大殿がおかくれになり、その北の方も、平生四の君、四の君と可愛がつてゐられただけに、それを苦に、そのあとを追つて行かれた。時がまた經つて行つた。その御門さへ位をお讓りになつて二三年して崩御になつた。世の中も丸で遷り變つた。もはやさうした戀愛の話をするものもなければ記憶するものもなかつた。新しい時代の人達も同じいやうに苦しい戀をし、逢はれぬ苦しさを嘆き、思はぬ相手に添はなければならない涙を流してゐるにはゐるのだけれども、しかも過ぎ去つたことはもはやその心に響いては來なかつた。ところが、窕子にその話をしてきかせた祖母が死んでからまた五六年經つて、かの女が殿の許に來るやうになつた時分、ひよつくりひとつの物語が傳はつた。それは四の君がまだ生きてゐるといふことだつた。それもその一緒にゐる男は、その建禮門につとめてゐた同じ下司で、年はもはや六十に近く、女の方は五十を越してゐて、その時分にも睦まじく暮してゐるといふことだつた。そしてそれが何うしてわかつたかといふと、東國に下つたある侍の下司、その男の父親がその建禮門につとめてゐた下司と朋輩だつたので、よく互に出入りしたので、子供心にもそれを記憶してゐた。ところが、何でも武藏野の奧、それもずうつと秩父の方に寄つたところに用事があつて、そこに行く途中、日が暮れたので、無理に頼んである茅屋に泊めて貰つた。ところが、そこにゐた爺がその子供の時に父親のもとに出入りした下司の男によく似てゐる。非常によく似てゐる。何うも不思議だ……。顏もさうだが、聲がそつくりだ。『太郎は今に大きうなつてえらうなるの? 院の武士になるのう?』などと言つて頭を撫でたりした下司にそのまゝだ。しかしその彼が何うしてもこんなところにゐるとは思へない。他人のそら肖といふこともある。大方それだらう。滅多なことは言ひ出せないなどと思ひ返しても見たが、何うしてもそれに違ひない。それにはその時分子供心にも不思議なものがあると思つて見てゐた耳のところに出來てゐる小さな疣もそのまゝそこにある……。それでかれはたうとうそれを言ひ出した。ところがその爺は、おお、さうぢやつたか、あの時の太郎ぢやつたか? と言つて、ぽろ〱涙を流してその素生を打明けた。そしてそこにゐる婆は、その評判な四の君で、それ以來かれ等は此處に來て一生を送つたといふことだつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。

『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』

『まアねえ』

さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。

『よくそれでもねえ!』

窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、

『それでも昔の話などをなさることがございますか?』

『ちつとも……』

若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』

『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』

『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』

『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』

『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部卿にかたづいてゐらつした方、あの方が一年ほどはよくおたづねになりましたが、昨年おかくれになりましたので、もう何方もお出でになる方がございません。皆な孫、曾孫にあたる方ばかりですから……』

『一體おいくつにおなりでございますか?』

『今年七十五とかになると申してをりました。』

『それではまだそれほどお年を召したと云ふでもございませんね……』

『え、え、まだ、お達者でございますとも。齒などもまだ下の方は半分は殘つてゐらつしやいますから……』

窕子は深く打たれずにはゐられなかつた。面白い話をきいたといふ以上に大きな人生をそこにまざまざと見せられたやうな氣がした。かの女は遠い東國を頭に浮べた。その身も行つて見たいやうな氣もした。

『まア、ね、面白いお話ね……。よくそれでわからずにゐましたことねえ?』

傍できいてゐたかをるも心を動かされたといふやうにして言つた。

『何しろ、武藏野と申しても、その普通旅人などの通るところではなしに、ずつとわきに入つたところださうでございますからねえ!』

若い尼は説明した。

『さういふことが、今でも出來るでせうか。出來たら、こがれ死に死んだり、一緒に死んだりするよりもその方が好うございますねえ……? それで、子供は出來なかつたんでございませうか?』

『ひとりもなかつたさうでございます』

『まアねえ』窕子はまたその遠い昔の巴渦の中にその身を見出すといふやうにして、『それでもよくその男の人が京にとゞまつてゐずに、その美しい人を東國につれて行く氣になつたと思ひますね。誰か東國に知つてゐるものでもあつたのでせうね? さうでなくては、とても知れずに、そこまで行くことは出來ないでせうからね……。それにつけても、京では大變な騷ぎだつたつて言ひますからね。内裏はその話でしんとなつて了ふくらゐだつたさうですから。祖母がその話になるといつも眞劍になつて、その人だちは今でも生きてゐるだらうか。それとももう死んで了つただらうか。何處か深い山の中か何かで首を縊つてでもゐたのを誰も知らずにそのまゝ埋めて了つたのではないだらうかなんてよく言つてゐましたからねえ。祖母だつてその話に深い興味を持つたからこそさういつまでもその話をしたんですね。それにその建禮門につとめてゐた人にも、ちやんとした妻もあり子もあつたんださうですから。その妻が泣いて外を歩いてゐたのを祖母が見たことがあるなんて言つてゐたことがありました。それを考へて見ても、戀といふことは不思議ですね。何ういふわけで、さういふことになつたか結局はわからないんですからね』かう言つた窕子の頭には、この梅雨ころに強いて御門に内裏に伴れて行かれた末の君のことだの、それを思ひ死に死んで行つた式部卿のことだの、ことにあの雨の夜の恐ろしかつた光景などがそれとはつきり浮んで來るのだつた。否、さうしたいろいろな戀愛のシインの中にかの女の戀のやうなものが雜つてゐるのもやつぱり不思議な心持をかの女に誘はずには置かなかつた。窕子はあたりを見廻すやうな心持の益々多くなつて行くのを感じた。またそれほど關係があるのでも何でもないけれども、もしその身とあの坊のあるじの僧と戀にでも落ちて、さういふ風に身をかくすやうな形にでもなつたら、それこそ何んなに世間で騷ぐことだらうなどと窕子は想像した。

そんな話をしながら甜瓜などを食つたりしてゐる中に、老尼のおつとめもすんで、やがて莞爾しながら皆なのゐる方へと出て來た。別に話をするでもなく、たゞ靜かに珠數をつまさぐるやうにして坐つてるた。窕子は成るたけ見ないやうにしながらも、しかも、それを見ずにはゐられないやうな氣がした。A Great Love とは言へないまでにも、娘の時代から白髮になるまで全く世間から離れて暮した戀愛生活――それだけでも非常に大きなことのやうに窕子には思へた。評判の美人であつたといふ當年の面影も、その端麗な顏の輪廓や、恰好の好い鼻つきや、眉や口元などにそれと指さゝれるのもなつかしかつた。

かをるも何か聞けるなら聞きたいといふやうにして、しつこくその老尼の顏を眺めた。

たうとう窕子が訊ねた。

『今、こちらからお伺ひしたんですが、長らく東國にゐらしつたさうでございますねえ?』

しかも老尼は今は最早それについては、別に多くを考へてはゐないらしかつた。或はそれは遠い夢か何ぞのやうになつてゐるのかも知れなかつた。

『武藏野には逃水といふことがございますさうですね?』

『ひろい野原でございますでのう……。三日も四日もその原を歩かねばならぬやうなところで、逃水などと申して、土地のものはいろいろに申すのでのう。あれはさういふ水があるのではない。霧か何かの加減で、かげろふか何かのやうになつて見えるのだなどと申してゐますで……』

『それでは別に、さういふ名所があると申すのではないのでございますね?』

『さう土地のものは申してをりますのう……』老尼は一つ一つ珠數を數へながら段々話し出すのだつた。『それに、花などもめづらしい花が多うござる。紫の一もと! そら古歌になどもござるのう。それもいろいろに言ふが、綺麗な花も澤山にあるやうなところぢやのう。しかもこの身の居つたところは、武藏野は武藏野でも、ずつと奧の方で、それは山の裾のやうなところでのう。すみだ川といふ川もあるさうぢやが、そこにもよう行つて見ることが出來ざつた……』

『めづらしいことでございますねえ!』

『食ふものなどには別に不自由はせざつたのう。鳥などは雉や山鳥が澤山にゐた。その頃はまだ佛の道に入らざつたものぢやで、罪といふことも知らずに、つれ添ふ人がさういふことが好きぢやつたために、よく狩りに行つてさういふ鳥や獸を捕つて來たものぢや。猪なども澤山に來をつた。冬になると、夜中には狼がようやつて來た。ガサガサツて落葉を踏んでのう。何も食ふものがなくなるぢやろ……。あゝいふ獸は鼻でよく物の臭を嗅いで來るものぢやで、にほひのするものは置いてはならん、味噌汁などことに禁物ぢや。そのにほひがすると、戸を壞してまで入つて來ようとするぢや……。でも馴れぢやのう。さういふものにも馴れると、人間は別に怖うも思はなくなるものぢや。また昨夜狼が來をつたなどと言つて何とも思はぬやうになるものぢや。近所にだつて、それは家はないことはない。やはり同じやうな人だちが住んでゐる。稗だつて、食ひなれれば、馨しうてうまいものぢや……』

いつもはそんな話をしたことさへないのに、今日はすらすらと話し出すのを若い尼もたゞめづらしいことにして、じつとその顏を打眺め眺めた。

『それでも退屈ではござりませぬでしたか?』

『退屈なこともあつたが、人間は何處にゐるも同じぢやのう。退屈もすれば、おもしろいこともある……。それはのう、今は佛の道に入つて、何も彼も懴悔の身ぢやが、あゝいふ昔のくらしも樂しかつたと言へば樂しかつたのう……』その時を思ひ出すといふやうにして老尼は話した。

まさかにその話にまで持つて行くわけには行かなかつたけれども、その周圍のことについて、いろいろと訊いたり話したりした。そこらに住んでゐるものは、高麗から移住して來たものでなければ、昔からずつと百姓として住んでゐる人だちだつた。秩父の方には大きな深い山があつて、その向うに町などがあるなどと聞いたが、そつちには行つたことはなかつた。高麗から移住して來た人達の方が、農事にも巧みに、文化も進んでゐて、もとからゐた百姓には馬鹿にされながらも却つて收穫などを多く貯へてゐるといふことだつた。話の間々には、老尼は念珠を手まさぐりつゝ佛の名を唱へた。

そこで一日あそんで、夕日がいくらか凉しくなつた頃から、窕子だちはその尼寺からもとの坊の方へと戻つて來るのだつた。道綱は鈴蟲や松蟲を澤山捕つて、それを母親に拵へて貰つた紙袋に入れて、喜ばしさうに手から離さずに持つて歩いた。かをると窕子とはこんな話をした。

『年を取ると、あのやうになるものでござるかのう!』

『ほんに、何も彼も忘れて了うものと見える……』窕子は考へながら、『あれでもいろいろと苦勞があつただらうに――その父母のことも考へたらうに――その父母や叔父伯母などが亡くなつてからずつと年月が經つて後にやつともどつて來たのぢやから、ほんにそら水の江の浦島が子と同じぢやのう………』

『ほんに同じぢや』

『不思議なことがあるものだ……。過ぎ去つたあとで考へたのでは、もうその時の心持は本當にはわからなくなつて了つてゐるものぢやで……。夢のやうぢやと言つたがほんにさうぢや』

『それでも、その男のことを忘れてはをらぬらしい。やつぱり佛の御名の間々にはその男のことを思ひ出してゐるやうでござつた……。戀とは不思議なものだといふ氣がした……』

『ほんに、浦島ぢやのう』窕子も深く感ずるやうに言つた。それから比べると、自分の戀などはまだやつとその戸口に入りかけたもののやうに思へた。殿は本當は此身より他にないやうなことを言ふのであるけれど、それが何處まで信じて好いかわからないやうな氣がした。

窕子だちは坊に歸つてから猶ほ十日ほどゐたが、盂蘭盆が近づいて來たので、一度京の家の方へと戻つて來ることにした。山から出て來る小川の岸には、さゝやかなみぞ萩などが水にぬれて咲いてゐるのを目にした。標野に來ると、今まで籠つてゐた山の峽に雲が白く徐かに靡いてゐるのがそれと振返へられた。

三七

それから二年經つた。その間にはいろいろなことがあつた。その中でも窕子に取つて印象の深かつたことは、父親が陸奧から歸つて來たことだつた。父親は八年の間にいたくも老いた。話をするにもわくわくするやうな表情をした。多賀の府に留つてゐることが出來れば好かつたのだが、それが出來ないので、言ふに言はれない艱難を嘗めた話などを父親はした。しかしそれといふのも小野の宮の機嫌をそこなつたからで、それも奧を探つて見ればやつぱり窕子が兼家の許に行つたことに起因してゐるらしく、小野の宮が失脚してから、やつとその身が浮ぶやうになつたなどと父親は話した。『それにしても結構なことぢや……。殿の世になるのも、もはや程近い。目の前に見えて來た……。これからは、そなたも運がひらけるばかりぢや』こんなことをも言つた。

それにつけても母親の喜びは何んなであつたらう。八年の長い月日を離れてゐてしかも一刻も心に思はないことはなかつたのであるから、窕子の眼にもこの世の喜びとは思へぬやうな喜びが映つた。母親はたゞわくわくしてゐた。何から話して好いかといふやうにたゞ默つてじつとして顏を見合せてゐたりした。窕子は出かけて行つては、『母者、この頃、何うかしたやうだ……もう昔のやうに物を言はなくなつた……』などと言つた。

政治上の兼家はまだ正面に出て行つたといふわけではないので、それほど自由がきくわけでもなかつたけれども、長い間虐げられて左遷されてゐた窕子の父親を然るべきところにすゝめるくらゐの力は持つてゐた。兵部省の輔に任命されて、やがて、そつちの方ヘと勤めるやうになつた。

もう一つ窕子に取つて喜ばしいことがあつた。それは他でもない、道綱が童殿上したことであつた。さすがに兼家も道綱が可愛ゆく、東三條にも、堀川にも子供は大勢ゐないことはなかつたけれども――また童殿上してゐるものもふたりほどあるにはあるのだつたけれども、しかも一番道綱が可愛ゆいらしく、その當座は日ごとそこにやつて來て、いろいろとその世話を燒いた。時には自ら自分の乘る牛車の内に入れて、そして一緒に參内することなどもめづらしくはなかつた。窕子はその始めて童殿上した時の道綱の扮裝のさまをいつまでも忘るゝことが出來なかつた。

幅のひろい狩衣に小さな冠をして、沓をはいて父親に伴れられて牛車へと入つて行くのを見た時には、母親らしい涙が胸一杯溢れ漲つて來るのをとゞめることが出來なかつた。

いつかは憎んで憎んでも足りないやうに思つた兼家すら、さういふ風にして道綱を伴れて出て行くのを見ると、何とも言はれない愛情が――肉體でなければ味ふことの出來ない愛情がそこに體に滿ち溢れて來るのを感じた。――何んなに遊蕩に身を持ち崩してゐたにしても、今でもその癖はやまずに、新らしい女が出來たりなどしてゐるのをはつきりと知つてはゐたにしても、それが深くこんがらかつて、何處までが憎だか、何處までが愛だか自分にもわからないやうな氣がした。否、さういふ女が他にあるがために、そのために一層不思議な愛情が漲つて行くのを感じた。口惜しさ、腹立しさ――それすらそこに愛となつて絡み合つてゐるやうな氣がした。

ある日は道綱が話した。『だつて、へんな美しい人が來て、この身を伴れて行くのだもの……。そしてね、母者、その人が貴い女の人なの……局の人たちがその人のことを大騷ぎしてゐるの……。この身もびつくりしちやつた……。ずんずん奧の方へつれて行つて了ふんだもの……。母者、あの宮知つてゐるのかえ……。いろいろなものを呉れたよ。羊羹だの栗だの高つきにのせて……。それから母者にもよく言うてくれと言はれてぢや。あんな美しいけだかい人この身は見たことはない……。』

『そちは知らぬかのう……あの堀河の家にゐた宮――?』

『知らぬ――』

『さうかのう。知らぢやつたかのう? その宮ぢやらう?』

『さうか――それぢや、母者よく知つてゐるんぢやな……。この身はそれと知らないからびつくりしちやつた。女子のゐるところぢやのう? 澤山々々女子がゐた。そしてこれがあの東三條殿の歌よみの人の子だなんて、皆なしてこの身をおもちやにするのだもの……しまひには睨めてやつた――』

『まア、この子が……』

『だつて、宮はにこにこして何もせられぬのだけども――その女房たちが人を何の彼のと言ふのだもの……』

窕子の眼には大内裏の藤壺のさまがそれとはつきりと映つて見えるのだつた。女の歌人としてこの身がさうした社會にも認められてゐることが――その子の道綱の口からもさういふことがきかれるといふことが、かの女に一種の愉快を感じさせた。

『宮はそれから何うなされた――』

『宮のゐらるゝところまで伴れて行かれた……。そこでいろんなことをきかれた。……父上のこともきかれた。……母者のこともきかれた。そして母者に孝をつくさなければいけないと言はれた……』

『まア……』

『それから歸る時、また今度來よと言はれた……。母者、あそこはずゐぶんひろいところね。幾曲りいく曲りと曲るんだもの……。わからなくなるくらゐね……?』

『…………』

窕子は末の宮の戀のことを頭に浮べずにはゐられなかつた。あの東國に走つた老尼の戀愛のことも不思議にもそれに引くらべて考へられた。

『それからずつともどつて來た?』

『え……』

道綱は可愛く點頭いて見せた。

『さういふところでは、しやんとしなけれはいけませぬよ。行儀をよくしなければ、でなくつては、殿上がつとまりはしないんだから……』

『大丈夫……』

『それから、一緒にゐる友だちと爭ひごとをしてはなりませぬよ』

『大丈夫……』

かう輕く言つてそして表の方へと出て行くのだつた。

その年は何方かと言へば窕子は幸福だつた。夏になってから宮から消息があつて――この間は道綱どのに逢へてうれしかつた。お身をまのあたり見たやうな氣がした。眉から額のところがよう似てゐる……。また今度逢はせていたゞきませう。禊の時には、棧敷が空いてゐるから來るなら來ては見ぬか。運好ければお目にかゝることが出來るかも知れない……などと書いてあつた。で、禊には母と道綱とを伴れて出かけて行つた。不幸にして宮には逢ふことは出來なかつたけれども、そのめづらしい儀式をまざまざと見ることが出來たのは嬉しかつた。

父母もいつも樂しさうに睦じさうにしてゐた。やはりいろいろな境を經て來たのでなければ人間は何うしても靜かなむつまじい心持になることは出來ないといつかも山の坊のあるじが言つたがそれが今はつきりとかの女にも點頭かれるやうな氣がした。二三年前から比べたら、かの女は何んなにいろいろな瞋恚や嫉妬や不平や悔恨を捨てゝ來たか知れなかつた。それと共に生きてゐるといふことのたうとさが次第に飮み込めて來た。生きてゐさへすればいつかは好くなつて來る。いつかはさうした苦しみを捨て去るやうな時が來る。さういふことが生きてゐるといふことである。殿の遊蕩にしてもやつぱりその通りだ。その時にははつと思つて吐胸をつくが――この身の戀などは一顧にも値ひせずに捨てられて了ひさうに悲觀されるが、じつとして見てゐると、そんなものではなくて、そこにも不滿足と不幸と不運とがいつでも渦を卷いてゐて、いつか春の雪のやうにあとなく消えて了つてゐるのを見た。あの時それを堪へ忍ばなければ自分は何うなつてゐたかわからない。自分で自分の戀を破壞するやうな形になつて行たに相違ない。あとで後悔したつて追ひつかないやうなことになつたに相違ない。これが古の人のいふ耐へ忍ぶといふことか。忍耐が人間には一番肝心だといふことか。しかし耐へ忍ぶといふ心持ともいくらかは違ふやうである。それよりももつと努力の要らない、そのまゝそつとして置く心持――まづ暫くそれをわきにやつて置くといふ心持、むしろさういふ心持に近いやうなのを窕子はこの頃染々と感ずるやうになつた。

母親は何うしてかこの頃丸で違つたやうな人になつた。もとは何方かと言へばいろいろなことを氣にしたり、殿のことについても時には窕子以上やきもきしたり、かをるに對してもわるくこだはるやうな心持を見せたりする人だつたが、父親が歸つて來てからは全く靜かな落附いた愛情に富んだ母親になつて了つた。嫁に對してわるい顏などを見せたことなどもなく、殿のことにしても、『何と言つたつて、お前、立派な人なのだからね……。堅いお方なのだからね。だからお前が始終からかはれてゐるやうなものなのだよ。お前がむきになつて怒つたりするので、一層さういふ氣になるのだよ。好い方なんだからねえ』などと言つて、もう心づかひすることはないといふやうな任せ切つた心持で話した。

かをるもやつぱり窕子の言ふ通りだといふのだつた。此頃では險しい言葉などをかけられたことは一度もないといふのだつた。

『やつぱりひとりでゐたので、さういふ風になつたのかしら?』

『さうかもしれない……』

こんなことを二人は話した。道綱などが行つても、『あこ來たか、よう來た、よう來た!』などといかにも嬉しさうであつた。羊羹などを高つきに載せて出した。

ところが二年目の春の祭の濟むころから、何となく胸がつかえるなどと母親は言ひ出した。その癖その祭見には、棧敷が取つてあつたので、窕子を始めかをるや呉葉などと一緒に出かけて行つたのであつた。そして風が吹いて塵埃の立つ日に御輿の赤牛にひかれながらねるやうにして行列の徐かにやつて來るのを見たのだつた。中宮の出し車の美しさがその時あたりの眼を惹いた。さまざまの色……さまざまの模樣……その中でたしか藤色なのが中宮だつた。忘れもしない、その日の夕方から、母親は何うも胸が變だと言ひ出したのだつた。

しかし窕子は別に深くそれを心配しなかつた。一時のことだと思つた。物でも取りすぎたのだと思つた。丁度そのころ殿が續けて來たので、二三日無沙汰して行って見ると、奧の對屋に几帳して寢てゐて、思ひもかけないほどやつれてゐた。醫者にもかけて見たが、何うも本當のことはわからないといふ。何か憑物でもしたのではないかと言つてそれを落すために修驗者などを呼んで見たが、何うもそれでも驗が見えない。『なアにそんなに案ずるには及ばない。いまにぢきに治る……。お前が今日來るまでには起きるつもりでゐたのだが……』などと病人は手輕に言つてゐるのであるが、何うもいつもの風邪とは違つてゐるらしいので、窕子は急に慌て出して、早速殿のかゝりつけの醫者を招んで來て見せたり、寺でごまを焚いて貰ふやうにわざわざ使者を北山に出したりした。それから梅雨の節が來て、往つたり來たりするのも路が泥濘で困つたりしたが、しかも心配してやつて來る度に、『もう好い。今日は大分好い。北山のごまがきいたと見えて、氣分がさつぱりした……』などと言つてゐるに拘はらず、次第にその體のやつれて行くのを目にした。そればかりではなかつた、さみだれが晴れて京の町が日影にかゞやく頃になると、急に胸が強くさし込むやうになつて、左の脇腹のところが非常に痛んだ。『かをる! 氣の毒だが、またこゝを押して呉れ!』かう呼んでそこを強く強く押して貰つた。

窕子は呉葉に言つた。

『何うも、いつもとは違ふのでね……。あの痛みが何うもわからない……。何かお中のうちに腫れたものでも出來てゐるのではないかと醫者は言うのなれど……』

『それだと困りますねえ』

呉葉も窕子の心を知つてゐるだけに、ひと事とは思へぬのだつた。

急に思ひ附いたやうに、

『腫物ならば私はちよつと行つて參じませう。大原野に、それによくきく地藏さまがございますから……。そこにさへお參りすれば、どんな難かしい腫物でも、三日が内に口があいてよくなると申しますから……』

『でも、本當に腫物だか何だかわからないのだけれど……』

『それでも、私、行つて參じませう。わけはありませぬから』

呉葉はさう言つて、桂川の土手に添つた長い路を遠く遠く歩いて行つた。大原野の春日の社のあるところからはもつと南で、昔、都が一度そこにあつたなどと言はれるところだつた。そこには竹むらの蔭に小さな地藏堂があつて、そこに大勢腫物のために參詣する人だちが來てゐた。

窕子は此頃はまた大きな壁見たいなものに打つかつたやうな氣がするのだつた。折角いくらか人間のことがわかつて來て、いくらか落附いた氣持になつてゐたのに、それさへ再び夏草のやうに亂れ勝になつた。かの女には母親なしの自分の生活を考へて見ることは出來ないやうな心持に滿たされた。苦しいことがあると言つては、腹立たしいことがあると言つては、わからないことがあると言つては、すぐ母親のもとにかけつけたものであるのに――母親はそれを自分のことのやうにして心配もすれば慰めもして呉れたものであるのに――母親があればこそ今まで死にもせずに生きて來ることが出來たと思はれてゐるのに――あのやさしいにこにこした顏があるために何も彼も慰められて來たのに――もしものことがあつたりしたら? 窕子はそこまで行くと深い憂欝に閉ぢられずにはゐられなかつた。かの女はじつと妻戸のところに立つて竹むらに夕日の影の消えて行くのをたまらなくさびしい心持で見詰めた。

時にはひとりでに涙が流れて來た。孤獨の涙が。今度は治ることがあつてもいつか一度はわかれて行かなければならない涙が。豫想したことのないひとつの事件がその眼の前に起りつゝあるといふことが。その暁にはその身は何うなるであらうと思はれるやうなことが。それにしてもかの女は一度だつてそのやうなことを想像したことがあるだらうか。母親がゐなくなるなどといふことを考へただらうか。あのやさし莞爾した顏が、この世になくなるなどといふことを思つて見たことすらあつたらうか。窕子は涙ばかりではなく――それ以上にじつと空間の一ところを見詰めるやうな心持になつた。

何うかして一度は治つて呉れるやうにと祈つた効もなく、次第に母親の病氣のわるくなつて行くのを窕子は何うすることも出來なかつた。此頃では夥しく脇腹が痛んで、その内部に出來てるる腫物が外部から觸つて見てもそれとわかるくらゐになつて行つてゐるのを見た。醫者の罨法も役に立たず、修驗者のやつてゐる祈祷も後には徒らに病人を焦立たせるのみとなつた。窕子は毎日のやうに出かけて行つたが、その間は十町ぐらゐあつて、それは半ばは小野宮の邸の築地に傍ひ半ばは草むらになつてゐるところについて曲つて行つた。かの女は常に深い憂愁に滿たされながら、時には歩き、また時には網代車に乘つて出かけて行つた。草むらには暑い日影に晝顏が咲いてゐたり、阜斯が人の足音につれて草の中に飛んで行つたりした。蟋蟀なども頻りに啼いた。小野宮の築地の壞れの中からは四の君らしい琴の音が頻りにきこえた。

何うかするといんち打ちの童の群の中を通つて行かなければならないやうな時もあつた。さういふ時には、つとめてそれを避けるやうにして、危いところは驅足で通つた。時にはそれが飛んで來て車の窓に當つたりなどした。牛飼は大きな聲で怒鳴つてその童の群を追ひ散らした。

いくらか氣分が好いといふ時には、窕子は非常に元氣づけられたやうにして戻つて來た。『いくらかは小さくなつた……それもお前が大原野に參つてくれる御利益だらう。あれで小さくなつて行けば、それこそ優曇華の花が咲いたやうなものぢや……』などと呉葉に言つた。呉葉は今でも三日おきに行縢をつけ藺綾笠をかぶつて、わざわざその遠い地藏堂へと參詣に行つた。

兼家の眼にも、その憂愁のために窕子の頬が此頃夥たゞしくやつれて來てゐるのが映つた。『何うかして、何うかしてあの母者の病氣を治したいものぢやが………あの内裏の醫師に見せて貰うてつかはさうか』などと兼家は言つた。兼家はやがてそれを取計つて呉れた。當代に名高い醫師の車はやがてその邸の西の對屋まで奧深く入つて行つた。しかし何うにもならなかつた。窕子の憂愁はつひに除かれなかつた。

ある夜はこんな話が兼家と窕子の間に出た。

『だつて、母者にもしものことがあるといふことは私には考へられない……。もしそんなことがあつたら、とてもこの身も生きてゐられない……』

『こまつたことぢやのう……。何うかして、もう一度もとにもどしたいものぢやが……あの醫師にかかつてさへ、驗が見えないとなると、他に何うもならないからのう……困つたものぢや』

『七年も八年も父上と離れてゐて、やつともどつて來て、これから少しは樂しい暮らしも出來ると思うてゐたのに……それなのに、こんな病氣に取つかれて……』

『何うも困つたものぢや。さうかと言つて、天命ばかりは何うにもならんでな。何のやうに尊い方でも、いざとなつては止むを得ないぢやでな……』

『この身は、この身は――』

窕子は泣き沈むのだつた。――今日もかの女はその母親の枕邊に長い間坐つた。痛みだけでも何うかしたいと思つて、せつせと罨法を手傳つて取替へてやつた。かをるも一生懸命に世話をした。父親も今日は内裏を休んで一日そこに顏を出してゐた。長い間の病氣に母親は非常に衰へて、顏などは丸きり別な人のやうになつて了つた。それに、此頃ではおも湯すら十分に取ることが出來なかつた。少し入つたと思ふと、すぐまたそれをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。

ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。

道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。

『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』

『…………』

さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。

『何うかしたの?』

窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』

『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。

『何でもない、何でもない……』

窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。

『…………』

不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。

『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』

『おばアさんの病氣!』

『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』

『本當だね……』

道綱はそれでもいくらか安心したといふやうにして母親の顏を見詰めた。と、それと同時に窕子の頭にはいろいろなことが一杯に漲るやうにあつまつて押寄せて來た。兼家のことについてこれまで長く苦しんで悶えて來たこともあるが――今でもそのために苦しんでゐないことはないのだが、しかもそれ以上にこの人生のことが深く大きくかの女の頭にひろげられ逼つて來るのを感じた。今までのかの女の心持のやうな氣分ではゐられないやうな氣がした。道綱と自分のことがそれとはつきり思ひ出されると共に、兼家と自分と道綱のことがはつきりその眼の前に浮んで來た。自分も一度はさうした悲哀をこの道綱に味ははせなければならないのである。母子の別れは何うしたつて否定することは出來ないのである。さう思ふと、戀といふものに對する考へ方も、愛といふことに對する考へ方も、今までとは違つて、すつかりそこにその全面をあらはして來たやうな氣がした。何んなに人間に悲哀があつても――その愼恚と嫉妬とのために身も魂も亡びさうになるやうなことがあつても、そんなことには少しも頓着せずに、人生と自然とはその微妙な空氣をつくつて、徐かにその歩んで行くべきところへと歩いて行つてゐるのだつた。さう思つた時には窕子はたまらなく悲しくなつて來た。自分のその身が悲哀と共に何か大きな空間にでも漂つてゐるやうな氣がした。窕子は道綱に知れぬやうにそのこみ上けて來る涙の潮を咽喉のところで堰きとめるやうにした。

三八

窕子は裏の築地の出口のところに立つて、もはやそろそろ秋にならうとしてゐる草原の方を眺めた。小さな野萩、それにポツポツと露が置いてあつた。そしてそれも時の間に日影に乾いて行くのだつた。水引の花などもさゝやかなくれなゐをそこに見せて、これでも花だといふやうにツンツン草の中に雜つて見えた。何故か窕子の心はさうしたはかないものの方にのみ寄つて行つた。誰もめづる花も好いだらう。大きな美しい花も好いだらう。しかしそれよりもあるかないかの花――微かにそこに草原のみだれの中にその小さな存在を示してゐるやうな花、さういふものが何とも言へずなつかしいやうな氣がした。さういふ花さへある。二日と咲いてゐない花さへある。さうした存在でさへひとつの立派な存在である。こんなことを考へながら窕子はじつとそこに立盡した。

そこに呉葉が行縢姿でその參詣から歸つて來た。

主人思ひの呉葉は、心配さうに傍に寄つて來た。

『御苦勞だつたね……』

呉葉の姿にしても此頃次第に年を取つて來てゐるのを窕子は見落さなかつた。かの女は言ふに言はれない感謝をそこに感じた。母親についでの自分の同情者! 自分のためにその半生を奉仕しようとするその同情者! 母親がゐず、呉葉がゐなかつたら、その身はとてもこゝまで無事に來ることは出來ないに相違なかつた。

『今日は?』

いつも引いて貰つて來るみくじのことを窕子はそこに持ち出した。

『今日のは、あまり好い方ではございませんでした――』

袖のところから、呉葉はそれを出して見せた。

『二十九凶』としてあつた。窕子はだまつてじつとそれを見詰めた。

母親にこれまで何のやうに心配をかけたであらうといふことが、その時何故かはつきりと胸に浮び上つて來た。

『でも、そんなにわるいおみくじではないさうでございます……』

『…………』

『きいて見ました……ところが、この凶は同じ凶でも吉に向う方の凶だと申しました。御心配なさることはござりますまいと申しました――』

『御苦勞だねえ、本當に……』

かう言つて窕子は呉葉がいつものやうに向うに歩いて行くのをじつと見詰めた。かの女は自分ながら不思議な氣がした。何うしてかう物を見つめる氣になつたか。何うして小さな野の花に眼をつけたり、愛宕の山の上に白くふわふわと靡いてゐる一片の雲に心を惹かれたりするのか。これもそのためか。その大きな悲哀の壁を前にしたためか。その日の夕暮には、兄の長能がやつて來て、父親もさびしさうにしてゐる話などをした。

人の噂では兼家はこのごろまた新しい女に沈湎してゐるといふことであつたけれども、窕子に對しては、そんな形は少しも見せなかつた。昔はさういふことがあつたりすると、わざとそれをその前ににほはせて、半分は嫉妬をやかせて見るといふやうな態度に出るのが常であつたけれども、今はそんな風は面に表はさずに、却つて常よりもやさしい態度に出るやうになつた。そしてその心持は窕子にもよくわかつた。しかも窕子はそれに取り合はうとしなかつた。今更何うにもならない運命を窕子は感じた。

ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出した。此の葬式は表の通りは通らずに、内裏の裏からぐつと大廻りに廻つて、鴨河をわたつて、鳥部野へと行くのだつた。何故かそのあはれな葬式の棺がそこに立つてゐる窕子の眼を惹いた。標野の向うには、小さな丘を二つ三つ前景にして、北山の起伏が碧く碧く見えた。葬式の棺はさびしい野をトボトボと丘の方へと遠く動いて行つた。

三九

『使がまゐりました!』

かう言つて入つて來た呉葉の聲は震へてゐた。

『何うしたの?』

『何だか、御病人の樣子が變でございますから、すぐにお出で下さいますやうに――』

『オ、それは――』

かう言つて窕子は慌たゞしく身を起した。それはもはや申の下刻になる頃だつた。かの女は今朝から向うに行つてゐて一時何うかと思つたのが一先づおさまつて、また平常のやうに口をきくやうにもなり、腹の内部の痛みもそれほど烈しく訴へなくなつたので、ちよつと用事のあるのを足しに家の方へもどつて來て、それもすまして、ほつと息をついたばかりのところだつた。かの女はいつもならさうした端近なところまで出て行くやうなことはないのであつたけれども、慌てゝ飛出して、その使のものが來てゐるところまで行つた。

『御樣子はよく存じませぬけれど、殿がすぐお出を願ふやうにとおん申附けでござりまするゆゑ………』

走つて來たと見えて、息をきらしながら言つた。

取るものも取り敢へず、呉葉と倶に窕子は急いで出かけた。

裏の階段から慌たゞしく入つて行くと、そこに兄の長能が事ありげに出て來て、あぶなく兩方で突き當らうとした。

『何うかしたのですか?』

『…………』

兄の長能はそれには答ヘずに、急いで行けといふ手まねをして、そのまゝ用ありげに向うへと走つて行つた。

さつき此處から出て行つた時には、まださうした慌たゞしさはなかつたのであるが、そこの一室に入ると、家の中の人といふ人は皆なそこに集つて、その向うには眞面目な顏をして手を拱いて坐つてゐる父の姿が見え、その此方にかをるが覗くやうにして何かしてゐるのがそれと眼に入つた。窕子の胸は大きな氷塊にでも塞がされたやうに一種何とも言はれない冷めたさと嚴そかさとに撲たれた。窕子は顛倒しさうな頭を抱いて、滑り込むやうにして纔かにその傍に行つた。

窕子は天にも地にも替へ難いたゞひとり力と頼んだ母親が、その衰へ果た顏を仰向け加減にしてじつとしてゐるのを眼にして、われを忘れたやうに、『母者! 母者!』と二聲呼んだ。

母親はもはやずつと以前から、誰が何と言つても、顏を押しつけて呼ぶやうにしても、更に答へようともしなかつたがこの時ひよつくりと眼を明けて、そして驚いたやうに、一度立去つた元の世界にまたもどつてでも來たやうに窕子の顏をじつと見詰めた。『母者! この身!』かう窕子はつゞけて言つたが、母親はちよつとうなづいただけで、そのまゝ何も口がきかずに、もはやこれで滿足した、この世には思ひ殘すところはないといふやうに、次第にその眼が閉じられて行つた。誰れの眼にも臨終が來たのであるのがそれとわかつた。

『母者! 母者!』

この窕子の叫びにはもはや何の反響もなかつた。

窕子の涙はほろほろとその母親の顏の上に落ちた。佛の唱名がその周圍から起つた。――急に人だちは慌て出した。今度はそりかへるやうになつて窕子が昏倒した。

『窕子さん、窕子さん!』

かをるがいきなり飛んで來て、一度横に倒れた窕子を抱え起した。父親もその傍に寄つて來た。『水! 水!』と誰かが叫んだ。

慌たゞしい光景が一室を占領した。皆な總立ちになつて此方へと寄つて來た。兄の長能は誰かが持つて來た水をいきなりその顏へと吐きかけた。『窕子! 窕子! しつかりしなくてはいけない、窕子! 窕子!』と叫んだ。窕子はかをるの膝に身をもたらせて、解けた髮を半ば亂したまゝ、全く喪心したもののやうにぐたりとなつてゐた。長能は猶ほしきりに水を顏の面にかけた。

『窕子!』

父親の聲がはじめてその耳に入つたやうに見えた。窕子は薄く薄く眼を開いた。『オ、窕子さん、氣がつきましたか! しつかりしなくつちやいけませんよ。あなたは、大切な人なんですよ、ね、窕子さん!』とかをるは叫んだ。呉葉は唯オドオドしてゐた。

『本當にしつかりしてくれ……。まだこの身がゐるのぢやから……。のう、この身より先に世を早くしては不孝ぢや……。それはそなたの悲しみはわかるが……そなたにもしものことがあつては――』父親は窕子の顏を覗くやうに言つた。窕子はかをるや呉葉たちの手で、やがて別な靜かなところの方へとつれて行つて寢かされ、た。窕子はまだ本當にその意識を恢復したとは言はれないやうにして、眼をぱつちりとは明けてはゐるが、時々痙攣するやうにその手や口を震はせた。呉葉は布を水に浸してそれをその額の上に置いた。

その話をきいて道綱がやつて來た。その時にはそれでも窕子はその手を取るやうにした。微かな笑ひもその口のあたりに上つた。『そら、母者はもう大丈夫! 安心なさいませ!』呉葉はかう言つて道綱をなだめた。夜になつて兼家もやつて來てその枕邊に坐つた。

底本 / Source edition

底本:「田山花袋全集 第十二巻」文泉堂書店
1974(昭和49)年1月20日発行
入力:柳沢成雄
校正:松永正敏
2003年4月8日作成
2014年4月23日修正
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書誌 / Bibliography
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田山 花袋「道綱の母」(旧字旧仮名)、底本『田山花袋全集 第十二巻』文泉堂書店、1974年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001670_000214, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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