元の天暦年間のことであった。<ruby><rb>隴西</rb><rt>ろうせい</rt></ruby>に<ruby><rb>李生</rb><rt>りせい</rt></ruby>という若い男があった。名は<ruby><rb>徳逢</rb><rt>とくほう</rt></ruby>、年は二十五、剛胆な生れで、馬に<ruby><rb>騎</rb><rt>の</rt></ruby>り、弓を射るのが得意であったが生産を事としないので、郷党の排斥を受けて、<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>も相手になってくれる者がない。しかたなしに父の友達で桂州の監郡をしている者があるので、その人に依って身を立てようと思って、はるばると桂州へ往ってみると、折角頼みにしていた人が<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなっていて、世話になることができない。故郷へ帰ろうにも旅費がないので困ったが、その辺は山国で有名な山が多いので、李生はその山へ眼を<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、猟をして自活をすることに定め、毎日弓を持って山の中へ出かけて往った。

ある日<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>のように弓を持って山へ往ったところで、一匹の鹿が林の中から出てきた。李生は好い獲物と思ったので、急いで矢をつがえて射ようとした。獣は驚いて山の方へ逃げだしたが、その逃げ方が非常に早いので、矢を放すことができない。それでも李生は逃がしてたまるものかという気で、どんどん追っ駈けて往った。獣の姿は木の陰になったり草の中になったりして、李生に矢を放す機会を与えなかった。

山のうねりがあり、岩の並んでいる谷底があり、雑木の林があった。李生はどこまでもとその獲物を追っ駈けた。落ちかけた夕陽がひょろ長い赤松の幹に射しているのが見えた。獣は見えなくなってしまった。李生はその獲物の姿の隠れて往った谷の下の林の方を見て立った。

いつの間にか陽が入っていた。紫色に煙って見える遠山の空に一抹の夕映の色が残っていた。李生は驚いて急いで山をおりようとした。方角は判らないが、夕映から見当をつけて、南と思われる方へおりて往った。林の下はうっすらと暮れていた。鳥や獣の啼く物凄い声が谷々に木魂をかえした。山のうねりが来た。李生はそのうねりを登って往った。古廟の屋根が見えた。李生はそれを見ると、そこで夜を明かして朝になって家へ帰ろうと思いだした。彼はその廟を目がけて登って往った。

古廟は柱が傾き、<ruby><rb>簷</rb><rt>のき</rt></ruby>が破れ、落葉の積んだ廻廊には、獣の足跡らしい物が乱雑に<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。李生は気味が悪いが他にどうすることもできないので、<ruby><rb>廡下</rb><rt>のきした</rt></ruby>へ腰をおろし、手にしていた弓を傍へ置いて、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>に注意しながら休んでいた。廟の前の黒い大木の梢には、二つ三つの星の光があった。

人の声とも獣の声とも判らない声が聞えてきた。李生は耳を傾けた。それは国王や大官の路を往く時に<ruby><rb>警蹕</rb><rt>けいひつ</rt></ruby>するような声であった。その声はしだいに近くなってきた。

どうも不思議な事だと李生は思った。こうした深山の中で、しかも夜になって警蹕する者は何者であろう。大胆不敵な強盗か、それとも妖怪の類か、とても普通の貴族大官ではあるまい。もしそうだとすると、こうしておることは危険である。これはどこかへ身を隠して、それを見届けたうえで、それに対する手段を考えなければならないと思った。彼はちょっと考えた後で、弓を持ってそこの柱へすらすらと登って、欄間から梁の上へ往った。

警蹕の声がすぐ入口に聞えて、紅い二つの燈が見えてきた。その燈に続いて数人の怪しい人影が見えたが、やがてそれが<ruby><rb>脚下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>の方で渦を捲いて静まった。李生は<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をころしてのぞいた。紅燈の燈はとろとろと燃えていた。三山の冠を被り、<ruby><rb>淡黄袍</rb><rt>たんこうほう</rt></ruby>を著けて、玉帯をした者が神座へ坐って、<ruby><rb>神案</rb><rt>しんあん</rt></ruby>に拠りかかり、その従者であろう十人あまりの者が、手に手に<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を持って階下の左右に別れて立っていた。冠を著た者の顔は蒼黒い大きな猿の顔であった。李生は階下の者の顔にも眼をやった。それも皆猿の顔であった。

果して妖怪の類であった。李生は矢を抜いて弓に添え、冠を著た妖怪を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って放した。矢は妖怪の一方の<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に当った。と、おそろしい混乱がそこに起って、紅燈が消えてしまった。李生は二本目の矢をつがえて下の方へ注意していたが、真暗で何も見えないけれども、もう四辺がひっそりして妖怪もいそうにないので、矢を著けた妖怪は朝になって探すことにして、下へおりて仮睡に就いた。

朝になった。冷たい霧が朝風に吹かれて切れ切れになって飛んで往った。李生は起きて神座の<ruby><rb>辺</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に注意した。たまっている朽葉の上に赤黒い血の<ruby><rb>滴点</rb><rt>したたり</rt></ruby>があった。李生はその血の滴点をつけて廟を出た。血の滴点は山の南の<ruby><rb>畝</rb><rt>うね</rt></ruby>りに沿うて著いていた。

五里ぐらいも往ったところで、大きな穴があった。深い深い底の見えない穴の口に、出たばかりの朝陽があたっていた。血の滴点はその穴まで往って消えていた。李生はその穴を覗き込んだ。そして、その後で後ろの方を見返った。足をやっていた土が崩れて、彼は穴の中へ陥ちてしまった。

李生は意識がめぐってきた。彼はまず自分の体がどこにあるかということを考えてみた。自分は仰向けになって、固いごつごつした石の上に横たわっている。それでは自分はべつにたいして体も痛めずに、あの穴の底へ陥ち込んだものだと思った。彼は眼を開けた。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>のような暗さがあった。彼は起きあがって体のまわりに手をやってみた。体には別に異常もなかったが、持っていた弓も、背負っていた矢も矢筒ぐるみなくなって、僅に矢尻に浸める毒を盛った小さな皮袋が残っているばかりであった。矢と弓はとても手に返らないと思ったが、それでも惜しいので俯向いて四辺を見廻した。やはり弓と矢は見えなかった。

恐ろしい不安がその後からきた。李生はどうしてこの穴から出て往ったものだろうと思いだした。彼は足の向いている方へと<ruby><rb>微闇</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>の中を歩いて往った。百歩ばかり往ったところで<ruby><rb>微白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>い光が見えた。そこには大きな岩がでっぱっていた。岩に<ruby><rb>随</rb><rt>つ</rt></ruby>いて廻ると明るい昼の世界があった。一筋の路が苔の中に見えていた。李生はその路を歩いて往った。

大きな<ruby><rb>石室</rb><rt>いしむろ</rt></ruby>があって、その入口に番兵らしい二三の者が戟を持って立っていた。李生はその前へ往った。戟を持った者は猿の顔をしていた。それは昨夜古廟の中で見た姿であった。石室の入口には「<ruby><rb>申陽之洞</rb><rt>しんようのどう</rt></ruby>」という扁額が<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っていた。李生は昨夜自分が矢を著けた三山の冠を着た妖怪は、この内にいるのだなと思った。

「その方は何者だ、どうしてここへやってきた」

番兵の一人が驚いたように眼をきょろきょろとさした。

「私は、府城の中に住む医者でございますが、薬を取りにきて、あっちこっちと歩いているうちに、足を滑らして、陥ちて困っておるところでございます」

李生は<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく礼をしながらでまかせを言った。

「では、お前は医者か、医者なら手創の療治ができるか」

李生はうっかりすると<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に逢うから、ここが大切だと思った。そう思う心の下から、ある皮肉な考えがちらと浮んできた。

「私は好い薬をもっております、手創が治るばかしでなしに、それを飲むと、不老不死が得られます」

「そうか、それは天が神医を与えてくだされたのじゃ、大王申陽侯が昨日遊びに往かれて、流矢に当って苦しんでおられる、お前の薬を頼みたい、こっちへきてくれ」

その番兵は李生を連れて石室の中へ入って往った。石室の中にも昨夜古廟で見た姿の者が、そこにもここにも眼を光らして腰を掛けていた。

「ここで、控えておってくれ、大王に伺うてくる」

番兵は奥の方へ入って往った。李生はそこにあった<ruby><rb>牀</rb><rt>こしかけ</rt></ruby>に腰をかけて待っていた。

間もなく番兵が引返してきた。

「大王が非常に<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでおられる、早く往って療治をしてあげてくれ」

李生は番兵に随いて往った。そこに二重門があって、それを入ると錦繍の<ruby><rb>帷</rb><rt>とばり</rt></ruby>をした<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>があって、その真中に石の<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>を据え、その上に大きな老猿が仰向けに寝てうんうんと唸っていた。榻の傍には三人の綺麗な女が腰をかけていた。

「あれにいらるるが大王であらせられる、早くお前の持っておる霊薬を差しあげてくれ、お前のことをお聞きになって、大王も非常にお喜びになっておられる」

番兵はこう言って李生の顔を見た。そこで李生は大王の方へ向って<ruby><rb>拝</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をしてから進んで往った。

「お創を拝見いたします」

大王は返事の代りに唸り声をたてた。傍にいた女の一人が傍へ寄って創を捲いている布をそろそろと解いた。毛もくじゃらの臂に血の生々した創があった。李生は近々と寄って往ってその創のまわりに指を触れた。

「私の持っておる薬は、仙薬でございますから、病をなおすばかりでなく、年も取らなければ死にもいたしません、こんな創ぐらいは、一度に癒ってしまいます」

大王はまた唸り声を立てた。李生は腰の皮袋をはずしてその中から石綿に浸した薬液を取りだし、その小部分を<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>みとって大王の一方の手へ乗せた。

「これをさしあげます」

大王はいきなりそれを口へ持って往った。李生は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>としたが、それでも部下の者がどんなことをするかも判らないので気を許さなかった。

いつの間に集まってきたのか、三十個ばかりの部下の者が、目白押しに入口の処へ集まって、李生のくるのを待ち兼ねているようにしていた。李生は気味悪く思いながら寄って往った。

「私にも霊薬をいただかしてくだされ」

「あなたは神様だ、どうかその霊薬をくだされ」

「どうぞ、それを分けてくだされ」

彼らは口々に言いながら手を出した。李生は喜んだ。彼は石綿を片端から撮みとって、漏れなく皆の手へ渡してやった。

榻の上では大王が悶絶をはじめた。李生は飛んで往って榻の後ろの壁に懸けた二振の刀を執って、それを抜きながら振り返った。部下の者も皆悶絶をはじめてのた打っていた。

大王はもう動かなかった。李生はその刀を大王の首へ当てた。大王の首はころりと落ちた。李生は部下の方へ進んで往った。部下も片端から李生の刀を受けた。それが三十六個もあった。

三人の女は榻の傍へつっ伏して震えていた。李生はそれも妖怪であろうと思ったので、刀を持ってそれに迫って往った。

「助けてください、私達は怪しい者ではありません、ここへ連れられてきた者でございます」

一人の女が一生懸命の声を出して叫んだ。

「怪しい者ではありません、助けてください」

他の一人の女も叫んだ。李生は刀を控えた。

「お前達は、どこからきた者だ」

「私は府城からきた者でございます」

二ばん目に叫んだ女が言った。李生は数ヶ月前にいなくなった豪家の<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>という家の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>のことを思いだした。その女はある夜不意にいなくなったので、銭家では大騒ぎして人をやって探さしたが、どうしても見つからなかった。そこで銭家では、もし女を見つけてきた者があれば、財産の一半を分けたうえに、女をやろうと言いだしたが、それでも女の行方が判らなかった。

「では、銭家の者か」

「そうでございます、どうか助けて、私を家へ送ってくださいますなら、どんなお礼でもいたします」

女は涙を流して言った。

「もう、心配することはない、皆連れて往ってあげる」

五六人の髭の長い老人が入ってきた。その老人の中に一人白い<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>を着た老人が混っていた。その老人が前へ出て李生に<ruby><rb>拝</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をした。

「私達は<ruby><rb>虚星</rb><rt>きょせい</rt></ruby>の精でございます、もとここに住んでおりましたが、この猿どもがやってきて追い出されましたので、どうかしてそれを取り戻したいと思っているところへ、あなたがおいでくださいまして、斃してくださいましたので、今日からまたここへ帰ることができます、まことにありがとうございます、これはそのお礼でございます」

白い衣服の老人は、袂から黄金や<ruby><rb>海珠</rb><rt>かいしゅ</rt></ruby>の類を出して前へ置いた。

「あなた達は、神通力がありながら、何故こんな者どもに住居を取られたのです」

李生は不審をした。

「それは、私達は五百歳でございますが、この猿は、八百歳でございましたから、とても<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いません、しかし、この猿も天の咎を受ける時がきましたから、あなたに殺されました、天の咎がないと、とても、あなたの手にかかる者ではありません」

李生はその老人達に路を訊いて帰ろうと思った。

「お礼などはいらない、その代り、帰る路を教えておくれ」

「それは、訳のないことでございます、眼をおつむりになるがよろしゅうございます」

李生と三人の女は、老人の言葉に従って眼をつむった。恐ろしい風の音と雨の音が聞えた。そして、その声が止んだので眼を開けた。自分達の立っている前を一匹の大きな白鼠が数疋の鼠を連れて歩いていた。李生達はその白鼠を見ていた。

鼠は見付の丘へ往って横穴を掘りはじめた。窓のような穴がすぐ開いた。李生達はその穴の処へ往った。穴の外には別の世界があった。李生達はその穴を抜けて往った。そこには見覚えのある山路があった。

李生は銭家へ女を送って往った。銭翁は大いに喜んで李生を婿にした。他の二人の女もいっしょにいたいと言いだしたので、李生はそれも置くことにした。

昨日まで無一物の旅の青年は、一度に三婦人を娶って富貴の人となった。李生はその後思いだして穴の出口のあった処へ往ってみたが、草木が茂っていて判らなかった。