Soranoha

東京八景

とうきょうはっけい

太宰 治

伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索寞さくばくたる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二箇月間、小説が全く書けなかったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私は、Hという女と共同の家を持っていた。田舎の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、ばかな二人は、贅沢ぜいたくを戒め合っていながらも、月末には必ず質屋へ一品二品を持運んで行かなければならなかった。とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団と、机と、電気スタンドと、行李こうり一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。それから二年経って、私は或る先輩のお世話で、平凡な見合い結婚をした。さらに二年を経て、はじめて私は一息ついた。貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌あいきょうも何も無い大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。

甚だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉しく思った。少くとも、もう一箇月間は、お金の心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚こうこつと不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。

東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉かなそれを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別けつべつの辞として、誰にも媚こびずに書きたかった。

あいつも、だんだん俗物になって来たね。そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、その度毎に心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと見てとった。私は、幽かに笑うばかりだ。万年若衆は、役者の世界である。文学には無い。

東京八景。私は、いまの此の期間にこそ、それを書くべきであると思った。いまは、差し迫った約束の仕事も無い。百円以上の余裕もある。いたずらに恍惚と不安の複雑な溜息ためいきをもらして狭い部屋の中を、うろうろ歩き廻っている場合では無い。私は絶えず、昇らなければならぬ。

東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米原まいばら行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生涯の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ、と繰返し繰返し、自分に教えた。熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影も無い山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることは無かろうと思った。憂鬱堪えがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ並んでいる。私は、Fという宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しましなところが、あるように思われたからである。意地の悪そうな、下品な女中に案内されて二階に上り、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きそうな気がした。三年まえに、私が借りていた荻窪おぎくぼの下宿屋の一室を思い出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代物しろものであったのである。けれども、この蒲団部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘わびしいのである。

「他に部屋が無いのですか」

「ええ。みんな、ふさがって居ります。ここは涼しいですよ」

「そうですか」

私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。

「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」

「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」

「ちょっと、お待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの、永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になって居りますけれど」

「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」

「さあ、いくらでも」と口ごもっている。

「五十円あげましょうか」

「はあ」

私は机の上に、紙幣を並べた。たまらなくなって来た。

「みんな、あげましょう。九十円あります。煙草銭だけは、僕は、こちらの財布に残してあります」

なぜ、こんなところに来たのだろうと思った。

「相すみません。おあずかり致します」

女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これ位の待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。

十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されて在ったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、怺こらえてここで仕事をはじめた。

遊びに来たのでは無い。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに拡げた。

幾年振りで、こんな、東京全図というものを拡げて見る事か。十年以前、はじめて東京に住んだ時には、この地図を買い求める事さえ恥ずかしく、人に、田舎者と笑われはせぬかと幾度となく躊躇ちゅうちょした後、とうとう一部、うむと決意し、ことさらに乱暴な自嘲じちょうの口調で買い求め、それを懐中し荒すさんだ歩きかたで下宿へ帰った。夜、部屋を閉め切り、こっそり、その地図を開いた。赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入った。隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。行こうと思えば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟きせきを見るような気さえした。

今では、此の蚕に食われた桑の葉のような東京市の全形を眺めても、そこに住む人、各々の生活の姿ばかりが思われる。こんな趣きの無い原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、汗だくで押し合いへし合い、一寸の土地を争って一喜一憂し、互に嫉視しっし、反目して、雌は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。頗すこぶる唐突に、何の前後の関聯かんれんも無く「埋木」という小説の中の哀しい一行が、胸に浮かんだ。「恋とは」「美しき事を夢みて、穢きたなき業わざをするものぞ」東京とは直接に何の縁も無い言葉である。

戸塚。──私は、はじめ、ここにいたのだ。私のすぐ上の兄が、この地に、ひとりで一軒の家を借りて、彫刻を勉強していたのである。私は昭和五年に弘前ひろさきの高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆たつのゆたか先生を、ぼんやり畏敬いけいしていた。私は、兄の家から三町ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室を借りて住んだ。たとい親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んで居れば、気まずい事も起るものだ、と二人とも口に出しては言わないが、そんなお互の遠慮が無言の裡うちに首肯せられて、私たちは同じ町内ではあったが、三町だけ離れて住む事にしたのである。それから三箇月経って、この兄は病死した。二十七歳であった。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にいた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖していたあの日蔭ひかげの仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟おおげさな身振りの文学には、軽蔑けいべつを以て接していた。私は、その一期間、純粋な政治家であった。そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区東駒形こまがたに一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪うしなった兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢きょうまんの弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまず田舎へ帰った。女は、始終ぼんやりしていた。ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗なめさせて迄まで、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は、絶望した。朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かった。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しずつ見えて来た。私は、二重に絶望した。銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。破れた時は、死ぬ時だと思っていたのである。れいの反神的な仕事にも破れかけた。肉体的にさえ、とても不可能なほどの仕事を、私は卑怯ひきょうと言われたくないばかりに、引受けてしまっていたのである。Hは、自分ひとりの幸福の事しか考えていない。おまえだけが、女じゃ無いんだ。おまえは、私の苦しみを知ってくれなかったから、こういう報いを受けるのだ。ざまを見ろ。私には、すべての肉親と離れてしまった事が一ばん、つらかった。Hとの事で、母にも、兄にも、叔母にも呆あきれられてしまったという自覚が、私の投身の最も直接な一因であった。女は死んで、私は生きた。死んだひとの事に就いては、以前に何度も書いた。私の生涯の、黒点である。私は、留置場に入れられた。取調べの末、起訴猶予になった。昭和五年の歳末の事である。兄たちは、死にぞこないの弟に優しくしてくれた。

長兄はHを、芸妓の職から解放し、その翌あくるとしの二月に、私の手許に送って寄こした。言約を潔癖に守る兄である。Hはのんきな顔をしてやって来た。五反田ごたんだの、島津公分譲地の傍に三十円の家を借りて住んだ。Hは甲斐甲斐かいがいしく立ち働いた。私は、二十三歳、Hは、二十歳である。

五反田は、阿呆の時代である。私は完全に、無意志であった。再出発の希望は、みじんも無かった。たまに訪ねて来る友人達の、御機嫌ばかりをとって暮していた。自分の醜態の前科を、恥じるどころか、幽かに誇ってさえいた。実に、破廉恥な、低能の時期であった。学校へもやはり、ほとんど出なかった。すべての努力を嫌い、のほほん顔でHを眺めて暮していた。馬鹿である。何も、しなかった。ずるずるまた、れいの仕事の手伝いなどを、はじめていた。けれども、こんどは、なんの情熱も無かった。遊民の虚無ニヒル。それが、東京の一隅にはじめて家を持った時の、私の姿だ。

そのとしの夏に移転した。神田・同朋町どうぼうちょう。さらに晩秋には、神田・和泉町いずみちょう。その翌年の早春に、淀橋よどばし・柏木かしわぎ。なんの語るべき事も無い。朱麟堂しゅりんどうと号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かった。それが皆の為に善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。Hは快活であった。一日に二、三度は私を口汚く呶鳴どなるのだが、あとはけろりとして英語の勉強をはじめるのである。私が時間割を作ってやって勉強させていたのである。あまり覚えなかったようである。英語はロオマ字をやっと読めるくらいになって、いつのまにか、止めてしまった。手紙は、やはり下手であった。書きたがらなかった。私が下書を作ってやった。あねご気取りが好きなようであった。私が警察に連れて行かれても、そんなに取乱すような事は無かった。れいの思想を、任侠にんきょう的なものと解して愉快がっていた日さえあった。同朋町、和泉町、柏木、私は二十四歳になっていた。

そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった。田舎の長兄に、出鱈目でたらめな事を言ってやって、二箇月分の生活費を一度に送ってもらい、それを持って柏木を引揚げた。家財道具を、あちこちの友人に少しずつ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って、日本橋・八丁堀の材木屋の二階、八畳間に移った。私は北海道生まれ、落合一雄という男になった。流石さすがに心細かった。所持のお金を大事にした。どうにかなろうという無能な思念で、自分の不安を誤魔化していた。明日に就いての心構えは何も無かった。何も出来なかった。時たま、学校へ出て、講堂の前の芝生に、何時間でも黙って寝ころんでいた。或る日の事、同じ高等学校を出た経済学部の一学生から、いやな話を聞かされた。煮え湯を飲むような気がした。まさか、と思った。知らせてくれた学生を、かえって憎んだ。Hに聞いてみたら、わかる事だと思った。いそいで八丁堀、材木屋の二階に帰って来たのだが、なかなか言い出しにくかった。初夏の午後である。西日が部屋にはいって、暑かった。私は、オラガビイルを一本、Hに買わせた。当時、オラガビイルは、二十五銭であった。その一本を飲んで、もう一本、と言ったら、Hに呶鳴られた。呶鳴られて私も、気持に張りが出て来て、きょう学生から聞いて来た事を、努めてさりげない口調で、Hに告げることが出来た。Hは半可臭はんかくさい、と田舎の言葉で言って、怒ったように、ちらと眉をひそめた。それだけで、静かに縫い物をつづけていた。濁った気配は、どこにも無かった。私は、Hを信じた。

その夜私は悪いものを読んだ。ルソオの懺悔録ざんげろくであった。ルソオが、やはり細君の以前の事で、苦汁を嘗めた箇所に突き当り、たまらなくなって来た。私は、Hを信じられなくなったのである。その夜、とうとう吐き出させた。学生から聞かされた事は、すべて本当であった。もっと、ひどかった。掘り下げて行くと、際限が無いような気配さえ感ぜられた。私は中途で止めてしまった。

私だとて、その方面では、人を責める資格が無い。鎌倉の事件は、どうしたことだ。けれども私は、その夜は煮えくりかえった。私はその日までHを、謂いわば掌中の玉のように大事にして、誇っていたのだということに気附いた。こいつの為に生きていたのだ。私は女を、無垢むくのままで救ったとばかり思っていたのである。Hの言うままを、勇者の如く単純に合点していたのである。友人達にも、私は、それを誇って語っていた。Hは、このように気象が強いから、僕の所へ来る迄は、守りとおす事が出来たのだと。目出度いとも、何とも、形容の言葉が無かった。馬鹿息子である。女とは、どんなものだか知らなかった。私はHの欺瞞ぎまんを憎む気は、少しも起らなかった。告白するHを可愛いとさえ思った。背中を、さすってやりたく思った。私は、ただ、残念であったのである。私は、いやになった。自分の生活の姿を、棍棒で粉砕したく思った。要するに、やり切れなくなってしまったのである。私は、自首して出た。

検事の取調べが一段落して、死にもせず私は再び東京の街を歩いていた。帰るところは、Hの部屋より他に無い。私はHのところへ、急いで行った。侘しい再会である。共に卑屈に笑いながら、私たちは力弱く握手した。八丁堀を引き上げて、芝区・白金三光町。大きい空家の、離れの一室を借りて住んだ。故郷の兄たちは、呆れ果てながらも、そっとお金を送ってよこすのである。Hは、何事も無かったように元気になっていた。けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草蓬々ほうほうの広い廃園を眺めながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見做みなしていた。いや、ドラマを人生と見做していた。もう今は、誰の役にも立たぬ。唯一のHにも、他人の手垢てあかが附いていた。生きて行く張合いが全然、一つも無かった。ばかな、滅亡の民の一人として、死んで行こうと、覚悟をきめていた。時潮が私に振り当てた役割を、忠実に演じてやろうと思った。必ず人に負けてやる、という悲しい卑屈な役割を。

けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割を以て登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈ともしがともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい。きょう迄の生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉の事件を書いて、駄目。どこかに手落が在る。さらに又、一作書いて、やはり不満である。溜息ついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔デモンに、私はそろそろ食われかけていた。蟷螂とうろうの斧おのである。

私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお詫びに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌るとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一聯の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮しょせん、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。芝の空家に買手が附いたとやらで、私たちは、そのとしの早春に、そこを引き上げなければならなかった。学校を卒業できなかったので、故郷からの仕送りも、相当減額されていた。一層倹約をしなければならぬ。杉並区・天沼あまぬま三丁目。知人の家の一部屋を借りて住んだ。その人は、新聞社に勤めて居られて、立派な市民であった。それから二年間、共に住み、実に心配をおかけした。私には、学校を卒業する気は、さらに無かった。馬鹿のように、ただ、あの著作集の完成にのみ、気を奪われていた。何か言われるのが恐しくて、私は、その知人にも、またHにさえ、来年は卒業出来るという、一時のがれの嘘をついていた。一週間に一度くらいは、ちゃんと制服を着て家を出た。学校の図書館で、いい加減にあれこれ本を借り出して読み散らし、やがて居眠りしたり、また作品の下書をつくったりして、夕方には図書館を出て、天沼へ帰った。Hも、またその知人も、私を少しも疑わなかった。表面は、全く無事であったが、私は、ひそかに、あせっていた。刻一刻、気がせいた。故郷からの仕送りが、切れないうちに書き終えたかった。けれども、なかなか骨が折れた。書いては破った。私は、ぶざまにもあの悪魔デモンに、骨の髄まで食い尽されていた。

一年経った。私は卒業しなかった。兄たちは激怒したが、私はれいの泣訴した。来年は必ず卒業しますと、はっきり嘘を言った。それ以外に、送金を願う口実は無かった。実情はとても誰にも、言えたものではなかった。私は共犯者を作りたくなかったのである。私ひとりを、完全に野良息子にして置きたかった。すると、周囲の人の立場も、はっきりしていて、いささかも私に巻添え食うような事がないだろうと信じた。遺書を作るために、もう一年などと、そんな突飛な事は言い出せるものでない。私は、ひとりよがりの謂わば詩的な夢想家と思われるのが、何よりいやだった。兄たちだって、私がそんな非現実的な事を言い出したら、送金したくても、送金を中止するより他は無かったろう。実情を知りながら送金したとなれば、兄たちは、後々世間の人から、私の共犯者のように思われるだろう。それは、いやだ。私はあくまで狡智佞弁こうちねいべんの弟になって兄たちを欺いていなければならぬ、と盗賊の三分の理窟りくつに似ていたが、そんなふうに大真面目に考えていた。私は、やはり一週間にいちどは、制服を着て登校した。Hも、またその新聞社の知人も、来年の卒業を、美しく信じていた。私は、せっぱ詰まった。来る日も来る日も、真黒だった。私は、悪人でない! 人を欺く事は、地獄である。やがて、天沼一丁目。三丁目は通勤に不便のゆえを以て、知人は、そのとしの春に、一丁目の市場の裏に居を移した。荻窪駅の近くである。誘われて私たちも一緒について行き、その家の二階の部屋を借りた。私は毎夜、眠られなかった。安い酒を飲んだ。痰たんが、やたらに出た。病気かも知れぬと思うのだが、私は、それどころでは無かった。早く、あの、紙袋の中の作品集を纒まとめあげたかった。身勝手な、いい気な考えであろうが、私はそれを、皆へのお詫びとして残したかった。私に出来る精一ぱいの事であった。そのとしの晩秋に、私は、どうやら書き上げた。二十数篇の中、十四篇だけを選び出し、あとの作品は、書き損じの原稿と共に焼き捨てた。行李一杯ぶんは充分にあった。庭に持ち出して、きれいに燃やした。

「ね、なぜ焼いたの」Hは、その夜、ふっと言い出した。

「要らなくなったから」私は微笑して答えた。

「なぜ焼いたの」同じ言葉を繰り返した。泣いていた。

私は身のまわりの整理をはじめた。人から借りていた書籍はそれぞれ返却し、手紙やノオトも、屑屋に売った。「晩年」の袋の中には、別に書状を二通こっそり入れて置いた。準備が出来た様子である。私は毎夜、安い酒を飲みに出かけた。Hと顔を合わせて居るのが、恐しかったのである。そのころ、或る学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。「青い花」という名前だったら、やってもいいと答えた。冗談から駒が出た。諸方から同志が名乗って出たのである。その中の二人と、私は急激に親しくなった。私は謂わば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。共に酔って、低能の学生たちを殴打した。穢けがれた女たちを肉親のように愛した。Hの箪笥たんすは、Hの知らぬ間に、からっぽになっていた。純文芸冊子「青い花」は、そのとしの十二月に出来た。たった一冊出て仲間は四散した。目的の無い異様な熱狂に呆れたのである。あとには、私たち三人だけが残った。三馬鹿と言われた。けれども此の三人は生涯の友人であった。私には、二人に教えられたものが多く在る。

あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。同居の知人にも、またHにも、私は近づく卒業にいそいそしているように見せ掛けたかった。新聞記者になって、一生平凡に暮すのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を驚愕きょうがくさせるのが何としても恐しくて、私は懸命に其の場かぎりの嘘をつくのである。私は、いつでも、そうであった。そうして、せっぱつまって、死ぬ事を考える。結局は露見して、人を幾層倍も強く驚愕させ、激怒させるばかりであるのに、どうしても、その興覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧かんぺきの瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死いしを企てた。

やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起してから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返したのである。私の首は、人並はずれて太いのかも知れない。首筋が赤く爛ただれたままの姿で、私は、ぼんやり天沼の家に帰った。

自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫なでた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の優しさに私は呆然とした。長兄も、田舎から駈けつけて来ていた。私は、長兄に厳しく罵倒ばとうされたけれども、その兄が懐しくて、慕わしくて、ならなかった。私は、生まれてはじめてと言っていいくらいの不思議な感情ばかりを味わった。

思いも設けなかった運命が、すぐ続いて展開した。それから数日後、私は劇烈な腹痛に襲われたのである。私は一昼夜眠らずに怺こらえた。湯たんぽで腹部を温めた。気が遠くなりかけて、医者を呼んだ。私は蒲団のままで寝台車に乗せられ、阿佐ヶ谷の外科病院に運ばれた。すぐに手術された。盲腸炎である。医者に見せるのが遅かった上に、湯たんぽで温めたのが悪かった。腹膜に膿うみが流出していて、困難な手術になった。手術して二日目に、咽喉のどから血塊がいくらでも出た。前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復かいふくして来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂きょうどうの内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私は特別に大事にされた。広い病室を二つ借りて家財道具全部を持ち込み、病院に移住してしまった。五月、六月、七月、そろそろ藪蚊やぶかが出て来て病室に白い蚊帳を吊りはじめたころ、私は院長の指図で、千葉県船橋町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。転地保養の意味であったのだが、ここも、私の為に悪かった。地獄の大動乱がはじまった。私は、阿佐ヶ谷の外科病院にいた時から、いまわしい悪癖に馴染んでいた。麻痺まひ剤の使用である。はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮める為に、朝夕ガアゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不眠の苦痛には極度にもろかった。私は毎夜、医者にたのんだ。ここの医者は、私のからだを見放していた。私の願いを、いつでも優しく聞き容れてくれた。内科病院に移ってからも、私は院長に執拗しつようにたのんだ。院長は三度に一度くらいは渋々応じた。もはや、肉体の為では無くて、自分の慚愧ざんき、焦躁しょうそうを消す為に、医者に求めるようになっていたのである。私には侘しさを怺える力が無かった。船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就いては、長兄も流石に拒否した。当然の事であった。私は、兄の愛情に報いようとする努力を何一つ、していない。身勝手に、命をいじくり廻してばかりいる。そのとしの秋以来、時たま東京の街に現れる私の姿は、既に薄穢い半狂人であった。その時期の、様々の情ない自分の姿を、私は、みんな知っている。忘れられない。私は、日本一の陋劣ろうれつな青年になっていた。十円、二十円の金を借りに、東京へ出て来るのである。雑誌社の編輯員へんしゅういんの面前で、泣いてしまった事もある。あまり執拗しつこくたのんで編輯員に呶鳴られた事もある。その頃は、私の原稿も、少しは金になる可能性があったのである。私が阿佐ヶ谷の病院や、経堂の病院に寝ている間に、友人達の奔走に依り、私の、あの紙袋の中の「遺書」は二つ三つ、いい雑誌に発表せられ、その反響として起った罵倒の言葉も、また支持の言葉も、共に私には強烈すぎて狼狽ろうばい、不安の為に逆上して、薬品中毒は一層すすみ、あれこれ苦しさの余り、のこのこ雑誌社に出掛けては編輯員または社長にまで面会を求めて、原稿料の前借をねだるのである。自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気附かなかった。あの紙袋の中の作品も、一篇残さず売り払ってしまった。もう何も売るものが無い。すぐには作品も出来なかった。既に材料が枯渇して、何も書けなくなっていた。その頃の文壇は私を指さして、「才あって徳なし」と評していたが、私自身は、「徳の芽あれども才なし」であると信じていた。私には所謂いわゆる、文才というものは無い。からだごと、ぶっつけて行くより、てを知らなかった。野暮天である。一宿一飯の恩義などという固苦しい道徳に悪くこだわって、やり切れなくなり、逆にやけくそに破廉恥ばかり働く類たぐいである。私は厳しい保守的な家に育った。借銭は、最悪の罪であった。借銭から、のがれようとして、更に大きい借銭を作った。あの薬品の中毒をも、借銭の慚愧を消すために、もっともっと、と自ら強くした。薬屋への支払いは、増大する一方である。私は白昼の銀座をめそめそ泣きながら歩いた事もある。金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借銭を、きれいに返してしまってから、死にたく思っていた。

私は、人から相手にされなくなった。船橋へ転地して一箇年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、板橋区の或る病院に運び込まれた。一夜眠って、眼が覚めてみると、私は脳病院の一室にいた。

一箇月そこで暮して、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来ていたHと二人で自動車に乗った。

一箇月振りで逢ったわけだが、二人とも、黙っていた。自動車が走り出して、しばらくしてからHが口を開いた。

「もう薬は、やめるんだね」怒っている口調であった。

「僕は、これから信じないんだ」私は病院で覚えて来た唯一の事を言った。

「そう」現実家のHは、私の言葉を何か金銭的な意味に解したらしく、深く首肯うなずいて、「人は、あてになりませんよ」

「おまえの事も信じないんだよ」

Hは気まずそうな顔をした。

船橋の家は、私の入院中に廃止せられて、Hは杉並区・天沼三丁目のアパートの一室に住んでいた。私は、そこに落ちついた。二つの雑誌社から、原稿の注文が来ていた。すぐに、その退院の夜から、私は書きはじめた。二つの小説を書き上げ、その原稿料を持って、熱海に出かけ、一箇月間、節度も無く酒を飲んだ。この後どうしていいか、わからなかった。長兄からは、もう三年間、月々の生活費をもらえる事になっていたが、入院前の山ほどの負債は、そのままに残っていた。熱海で、いい小説を書き、それで出来たお金でもって、目前の最も気がかりな負債だけでも返そうという計画も、私には在ったのであるが、小説を書くどころか、私は自分の周囲の荒涼に堪えかねて、ただ、酒を飲んでばかりいた。つくづく自分を、駄目な男だと思った。熱海では、かえって私は、さらに借銭を、ふやしてしまった。何をしても、だめである。私は、完全に敗れた様子であった。

私は天沼のアパートに帰り、あらゆる望みを放棄した薄よごれた肉体を、ごろりと横たえた。私は、はや二十九歳であった。何も無かった。私には、どてら一枚。Hも、着たきりであった。もう、この辺が、どん底というものであろうと思った。長兄からの月々の仕送りに縋すがって、虫のように黙って暮した。

けれども、まだまだ、それは、どん底ではなかった。そのとしの早春に、私は或る洋画家から思いも設けなかった意外の相談を受けたのである。ごく親しい友人であった。私は話を聞いて、窒息しそうになった。Hが既に、哀しい間違いを、していたのである。あの、不吉な病院から出た時、自動車の中で、私の何でも無い抽象的な放言に、ひどくどぎまぎしたHの様子がふっと思い出された。私はHに苦労をかけて来たが、けれども、生きて在る限りはHと共に暮して行くつもりでいたのだ。私の愛情の表現は拙いから、Hも、また洋画家も、それに気が附いてくれなかったのである。相談を受けても、私には、どうする事も出来なかった。私は、誰にも傷をつけたく無いと思った。三人の中では、私が一番の年長者であった。私だけでも落ちついて、立派な指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛倒てんとうし、狼狽し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽蔑されたくらいであった。何も出来なかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃腰になった。私は、苦しい中でも、Hを不憫ふびんに思った。Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やり切れなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水上温泉。その夜、二人は山で自殺を行った。Hを死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは、生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである。

私たちは、とうとう別れた。Hを此の上ひきとめる勇気が私に無かった。捨てたと言われてもよい。人道主義とやらの虚勢で、我慢を装ってみても、その後の日々の醜悪な地獄が明確に見えているような気がした。Hは、ひとりで田舎の母親の許もとへ帰って行った。洋画家の消息は、わからなかった。私は、ひとりアパートに残って自炊の生活をはじめた。焼酎を飲む事を覚えた。歯がぼろぼろに欠けて来た。私は、いやしい顔になった。私は、アパートの近くの下宿に移った。最下等の下宿屋であった。私は、それが自分に、ふさわしいと思った。これが、この世の見おさめと、門辺かどべに立てば月かげや、枯野は走り、松は佇たたずむ。私は、下宿の四畳半で、ひとりで酒を飲み、酔っては下宿を出て、下宿の門柱に寄りかかり、そんな出鱈目な歌を、小声で呟つぶやいている事が多かった。二、三の共に離れがたい親友の他には、誰も私を相手にしなかった。私が世の中から、どんなに見られているのか、少しずつ私にも、わかって来た。私は無智驕慢の無頼漢、または白痴、または下等狡猾こうかつの好色漢、にせ天才の詐欺師、ぜいたく三昧ざんまいの暮しをして、金につまると狂言自殺をして田舎の親たちを、おどかす。貞淑の妻を、犬か猫のように虐待して、とうとう之これを追い出した。その他、様々の伝説が嘲笑、嫌悪憤怒ふんぬを以て世人に語られ、私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けていたのである。私は、それに気が附き、下宿から一歩も外に出たくなくなった。酒の無い夜は、塩せんべいを齧かじりながら探偵小説を読むのが、幽かすかに楽しかった。雑誌社からも新聞社からも、原稿の注文は何も無い。また何も書きたくなかった。書けなかった。けれども、あの病気中の借銭に就いては、誰もそれを催促する人は無かったが、私は夜の夢の中でさえ苦しんだ。私は、もう三十歳になっていた。

何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。長兄が代議士に当選して、その直後に選挙違犯で起訴された。私は、長兄の厳しい人格を畏敬している。周囲に悪い者がいたのに違いない。姉が死んだ。甥おいが死んだ。従弟いとこが死んだ。私は、それらを風聞に依って知った。早くから、故郷の人たちとは、すべて音信不通になっていたのである。相続く故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起してくれた。私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持の子というハンデキャップに、やけくそを起していたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世えんせい的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑怯だ。立派に、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い賤民せんみんであった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れる筈だ。既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気魄きはくも失って寝ころんでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来たという事実をも、大いに重要な一因として挙げなければならぬ。なお又、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙かんげきが匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人はいつのまにか、ちがう野原を歩いている。

私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。思えば、晩おそい志願であった。私は下宿の、何一つ道具らしい物の無い四畳半の部屋で、懸命に書いた。下宿の夕飯がお櫃ひつに残れば、それでこっそり握りめしを作って置いて深夜の仕事の空腹に備えた。こんどは、遺書として書くのではなかった。生きて行く為に、書いたのだ。一先輩は、私を励ましてくれた。世人がこぞって私を憎み嘲笑していても、その先輩作家だけは、始終かわらず私の人間をひそかに支持して下さった。私は、その貴い信頼にも報いなければならぬ。やがて、「姥捨うばすて」という作品が出来た。Hと水上温泉へ死にに行った時の事を、正直に書いた。之は、すぐに売れた。忘れずに、私の作品を待っていてくれた編輯者が一人あったのである。私はその原稿料を、むだに使わず、まず質屋から、よそ行きの着物を一まい受け出し、着飾って旅に出た。甲州の山である。さらに思いをあらたにして、長い小説にとりかかるつもりであった。甲州には、満一箇年いた。長い小説は完成しなかったが、短篇は十以上、発表した。諸方から支持の声を聞いた。文壇を有りがたい所だと思った。一生そこで暮し得る者は、さいわいなる哉かなと思った。翌年、昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡では無かった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲府市のまちはずれに、二部屋だけの小さい家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一箇月六円五十銭であった。私は創作集を、つづけて二冊出版した。わずかに余裕が出来た。私は気がかりの借銭を少しずつ整理したが、之は中々の事業であった。そのとしの初秋に東京市外、三鷹みたか町に移住した。もはや、ここは東京市ではない。私の東京市の生活は、荻窪の下宿から、かばん一つ持って甲州に出かけた時に、もう中断されてしまっていたのである。

私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。

ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。あと七景を決定しようと、私は自分の、胸の中のアルバムを繰ってみた。併しこの場合、芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である。

戸塚の梅雨。本郷の黄昏たそがれ。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩ひぐらし。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍って、整理は至難であった。また、無理にこさえて八景にまとめるのも、げびた事だと思った。そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけてしまったのである。

ことし四月四日に私は小石川の大先輩、Sさんを訪れた。Sさんには、私は五年前の病気の時に、ずいぶん御心配をおかけした。ついには、ひどく叱られ、破門のようになっていたのであるが、ことしの正月には御年始に行き、お詫わびとお礼を申し上げた。それから、ずっとまた御無沙汰して、その日は、親友の著書の出版記念会の発起人になってもらいに、あがったのである。御在宅であった。願いを聞きいれていただき、それから画のお話や、芥川龍之介の文学に就いてのお話などを伺った。「僕は君には意地悪くして来たような気もするが、今になってみると、かえってそれが良い結果になったようで、僕は嬉しいと思っているのだ」れいの重い口調で、そうも言われた。自動車で一緒に上野に出かけた。美術館で洋画の展覧会を見た。つまらない画が多かった。私は一枚の画の前に立ちどまった。やがてSさんも傍へ来られて、その画に、ずっと顔を近づけ、

「あまいね」と無心に言われた。

「だめです」私も、はっきり言った。

Hの、あの洋画家の画であった。

美術館を出て、それから茅場町かやばちょうで「美しき争い」という映画の試写を一緒に見せていただき、後に銀座へ出てお茶を飲み一日あそんだ。夕方になって、Sさんは新橋駅からバスで帰ると言われるので、私も新橋駅まで一緒に歩いた。途中で私は、東京八景の計画をSさんにお聞かせした。

「さすがに、武蔵野の夕陽は大きいですよ」

Sさんは新橋駅前の橋の上で立ちどまり、

「画になるね」と低い声で言って、銀座の橋のほうを指さした。

「はあ」私も立ちどまって、眺めた。

「画になるね」重ねて、ひとりごとのようにして、おっしゃった。

眺められている風景よりも、眺めているSさんと、その破門の悪い弟子の姿を、私は東京八景の一つに編入しようと思った。

それから、ふたつきほど経って私は、更に明るい一景を得た。某日、妻の妹から、「いよいよTが明日出発する事になりました。芝公園で、ちょっと面会出来るそうです。明朝九時に、芝公園へ来て下さい。兄上からTへ、私の気持を、うまく伝えてやって下さい。私は、ばかですから、Tには何も言ってないのです」という速達が来たのである。妹は二十二歳であるが、柄が小さいから子供のように見える。昨年、T君と見合いをして約婚したけれども、結納の直後にT君は応召になって東京の或る聯隊にはいった。私も、いちど軍服のT君と逢って三十分ほど話をした事がある。はきはきした、上品な青年であった。明日いよいよ戦地へ出発する事になった様子である。その速達が来てから、二時間も経たぬうちに、また妹から速達が来た。それには、「よく考えてみましたら、先刻のお願いは、蓮葉はすっぱな事だと気が附きました。Tには何もおっしゃらなくてもいいのです。ただ、お見送りだけ、して下さい」と書いてあったので私も、妻も噴き出した。ひとりで、てんてこ舞いしている様が、よくわかるのである。妹は、その二、三日前から、T君の両親の家に手伝いに行っていたのである。

翌朝、私たちは早く起きて芝公園に出かけた。増上寺の境内に、大勢の見送り人が集っていた。カアキ色の団服を着ていそがしげに群集を掻かきわけて歩き廻っている老人を、つかまえて尋ねると、T君の部隊は、山門の前にちょっと立ち寄り、五分間休憩して、すぐにまた出発、という答えであった。私たちは境内から出て、山門の前に立ち、T君の部隊の到着を待った。やがて妹も小さい旗を持って、T君の両親と一緒にやって来た。私は、T君の両親とは初対面である。まだはっきり親戚しんせきになったわけでもなし、社交下手の私は、ろくに挨拶もしなかった。軽く目礼しただけで、

「どうだ、落ちついているか?」と妹のほうに話しかけた。

「なんでもないさ」妹は、陽気に笑って見せた。

「どうして、こうなんでしょう」妻は顔をしかめた。「そんなに、げらげら笑って」

T君の見送り人は、ひどく多かった。T君の名前を書き記した大きい幟のぼりが、六本も山門の前に立ちならんだ。T君の家の工場で働いている職工さん、女工さんたちも、工場を休んで見送りに来た。私は皆から離れて、山門の端のほうに立った。ひがんでいたのである。T君の家は、金持だ。私は、歯も欠けて、服装もだらしない。袴はかまもはいていなければ、帽子さえかぶっていない。貧乏文士だ。息子の許嫁いいなずけの薄穢い身内が来た、とT君の両親たちは思っているにちがいない。妹が私のほうに話しに来ても、「おまえは、きょうは大事な役なのだから、お父さんの傍に附いていなさい」と言って追いやった。T君の部隊は、なかなか来なかった。十時、十一時、十二時になっても来なかった。女学校の修学旅行の団体が、遊覧バスに乗って、幾組も目の前を通る。バスの扉に、その女学校の名前を書いた紙片が貼はりつけられて在る。故郷の女学校の名もあった。長兄の長女も、その女学校にはいっている筈である。乗っているのかも知れない。この東京名所の増上寺山門の前に、ばかな叔父が、のっそり立っているさまを、叔父とも知らず無心に眺めて通ったのかも知れない等と思った。二十台ほど、絶えては続き山門の前を通り、バスの女車掌がその度毎に、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのである。はじめは平気を装っていたが、おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。バルザック像のようにゆったりと腕組みした。すると、私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのである。一時ちかくなって、来た、来たという叫びが起って、間もなく兵隊を満載したトラックが山門前に到着した。T君は、ダットサン運転の技術を体得していたので、そのトラックの運転台に乗っていた。私は、人ごみのうしろから、ぼんやり眺めていた。

「兄さん」いつの間にか私の傍に来ていた妹が、そう小声で言って、私の背中を強く押した。気を取り直して、見ると、運転台から降りたT君は、群集の一ばんうしろに立っている私を、いち早く見つけた様子で挙手の礼をしているのである。私は、それでも一瞬疑って、あたりを見廻し躊躇ちゅうちょしたが、やはり私に礼をしているのに違いなかった。私は決意して群集を掻きわけ、妹と一緒にT君の面前まで進んだ。

「あとの事は心配ないんだ。妹は、こんなばかですが、でも女の一ばん大事な心掛けは知っている筈なんだ。少しも心配ないんだ。私たち皆で引き受けます」私は、珍しく、ちっとも笑わずに言った。妹の顔を見ると、これもやや仰向になって緊張している。T君は、少し顔を赤らめ、黙ってまた挙手の礼をした。

「あと、おまえから言うこと無いか?」こんどは私も笑って、妹に尋ねた。妹は、

「もう、いい」と顔を伏せて言った。

すぐ出発の号令が下った。私は再び人ごみの中にこそこそ隠れて行ったが、やはり妹に背中を押されて、こんどは運転台の下まで進出してしまった。その辺には、T君の両親が立っているだけである。

「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事は無い。東京名所は、更に大きい声で、

「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起じゃっきしたところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。

増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月の如くきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になったか。旅立ってから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿に居るようである。何をしている事やら。

底本 / Source edition

底本:「走れメロス」新潮文庫、新潮社
1967(昭和42)年7月10日発行
1985(昭和60)年9月15日40刷改版
1986(昭和61)年9月25日43刷
初出:「文学界」
1941(昭和16)年1月号
※誤植を疑った箇所を、1995(平成7)年5月30日58刷の表記にそって、あらためました。
入力:土屋隆
校正:野口英司
2006年6月21日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/001569_000035/

太宰 治「東京八景──(苦難の或人に贈る)」(新字新仮名)、底本『走れメロス』新潮文庫、新潮社、1967年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001569_000035, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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