## 一

――その第九話です。

とうとう江戸へ帰りました。絲の切れた<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>のような男のことであるから、一旦退屈の虫が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>して来たら最後、気のむくまま足のむくまま、風のまにまに、途方もないところへ飛んで行くだろうと思われたのに、さても強きは美しきものの愛、肉親の情です。予期せぬ事からはしなくも呼び寄せて、はしなくも半年ぶりに出会った<ruby><rb>愛妹</rb><rt>あいまい</rt></ruby><ruby><rb>菊路</rb><rt>きくじ</rt></ruby>と、そうして菊路が折々見せつけるともなく見せつけた愛人京弥との、いかにも睦じすぎる可憐な恋に、いささか退屈男も当てつけられて、ついふらふらと里心がついたものか、知らぬうちにとうとうふわふわと江戸へ帰り着きました。

江戸は<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>の<ruby><rb>元禄</rb><rt>げんろく</rt></ruby>、繁昌の真っ盛り。

だが風が冷たい。――吹き出せば止むことを知らぬ江戸名物冬の<ruby><rb>木枯</rb><rt>こがらし</rt></ruby>なのです。

木枯が江戸の名物とすれば、それにも劣らぬ江戸名物の退屈男が久方ぶりに帰って来たのであるから、眉間の三日月傷でその顔を見知り越しの駕籠人足共が、わが駕籠に乗せているのを自慢顔に、しきりと景気よく怒鳴りながら走ったからとて不思議のないことでした。

「ほらよう。<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いた！　退いた！　傷の御殿様がお帰りじゃ」

「早乙女の御前様が御帰りじゃ。ほらよう。退いた！　退いた！」

走る。走る。――実に途方もなく大きな声で自慢しながら、威張って走るのです。だから、一緒に駕籠をつらねて走っている妹の菊路が、<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えてもなかなかこんなに上等なのはたやすく出来そうにもないわが兄と共々、めでたく江戸へ帰ることの出来たのが限りなくも悦ばしかったと見えて、しきりにはしゃぎながら言ったとても、さらに不思議のないことでした。

「な！　京弥さま、京弥さま。うれしゅうござりまするな。ほんとうにうれしゅうござりまするな」

なぞと先ずうしろの駕籠の京弥によろしく先へ言っておいて、前の駕籠の兄へあとから呼びかけました。

「な！　御兄様！　ほら、ごろうじませ！　ごろうじませ！　灯が見えまする。江戸の灯が見え出しました。さぞかしおなつかしゅうござりましょう？」

「………」

「な！　お兄様！」

「………」

「江戸の灯でござります。久方ぶりでござりますもの、さぞかしおなつかしゅうござりましょう」

「………」

「お！　お兄様！」

「………」

「お兄様と申しますのに！　な！　――お兄様！」

ところが当の御兄様は、生きているのか死んでいるのか、音なき風の如く更に声がないのです。

「もし！　……駕籠屋さん！　駕籠屋さん！　御兄様がどうかしたかも知れませぬ。ちょッと乗り物をお止め下さりませ」

「え？」

「呼んでも呼んでもお兄様の御返事がござりませぬ。どうぞなされたかも知れませぬゆえ、早う止めて、ちょっと御容子を見て下さりませ」

「殿様え！　もし傷の御殿様え！」

少しうろたえて、ひょいと中をのぞくと、まことに、かくのごとく胆が坐っていたのでは<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>うものがない。うつらうつらといいこころ持ちそうに夢の国でした。通う夢路は京か三河か日光か。それとも五十四郡の仙台か。久方ぶりに帰って来た大江戸の灯も、そろそろ始まりかけた退屈ゆえに、一向なつかしくもないもののごとく、軽いまどろみをつづけたままなのでした。

「ま！　子供のような寝顔を遊ばして、可愛いお顔！　――でも、つまらなそうでござりますな。どうしたら、わたくし達のようにうれしくなることでござりましょう。な！　お兄様！　お兄様！……」

呼んでみたとて恋もない独り者が恋のありすぎる二人者のように、そう造作なくうれしくなる筈はないのです。――そのまま駕籠は千<ruby><rb>住</rb><rt>じゅ</rt></ruby><ruby><rb>掃部宿</rb><rt>かもんのしゅく</rt></ruby>を出払って、大橋を渡り切ってしまうと、小塚ッ原から新町、下谷通り新町とつづいて、左が<ruby><rb>浄願寺</rb><rt>じょうがんじ</rt></ruby>、右が石川日向、宗対馬守なぞのお下屋敷でした。真ッすぐいって三ノ輪、金杉と飛ばして行けば、上野のお山下から日本橋へ出て江戸の真中への一本道です。寺の角から新堀伝いの左へ下ると、退屈男とはめぐる因果の<ruby><rb>小車</rb><rt>おぐるま</rt></ruby>のごとくに、切っても切れぬ縁の深い新吉原の<ruby><rb>色街</rb><rt>いろまち</rt></ruby>でした。――もうここまで来れば匂いが強い。右も左も江戸の匂いが強いのです。

しかも、時刻はお誂え向の丁度宵下がり。

何ごとも知らないものの如く眠っていたかと思われたのに、その浄願寺角までやって来ると、俄然、カッと退屈男が息を吹き返した人のように、夢の国から放たれました。

「止めいッ。駕籠屋！」

「へ？」

「匂うて参った。身共はここで消えて失くなるぞ」

「何の匂いでござんす？　火事や江戸の名物だ。ジャンと来た奴なら今に始まッたこッちゃござんせぬ。年中<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げ臭せえですよ」

「匂い違いじゃ。吉原の<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りの匂いよ。名犬はよく十里を隔てて主人の匂いを嗅ぎ知る。早乙女主水之介夢の国にあって吉原の灯りの匂いを知るという奴じゃ。何はともあれ江戸へ帰ったとあらばな、ほかのところはともかく、<ruby><rb>曲輪</rb><rt>くるわ</rt></ruby>五丁町だけへは挨拶せぬと、眉間傷もおむずかり遊ばすと言うものじゃ。――菊！　別れるぞ。早う屋敷へ帰って、京弥とママゴトでもせい」

「ま！　変ったことばかりなさる御兄様！　おひとりでは御寂しいゆえに御出かけ遊ばしますなら、わたくしがどのようにでも<ruby><rb>御対手</rb><rt>おあいて</rt></ruby>致します。久方ぶりでござりますもの、今宵だけはこのまま御屋敷へ御帰り遊ばしましたがいいではござりませぬか」

「<ruby><rb>真平</rb><rt>まっぴら</rt></ruby>じゃ。うっかりそちの口車なぞに乗ったら、この兄の身体、骨と皮ばかりになろうわ。さぞかし手きびしく当てつけることであろうからな。わッはは。邪魔な独り者には吉原でよい<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>が待っておるとよ。京弥！　程よく可愛がってつかわせよ。――流水心なく風また寒し。遙かに<ruby><rb>華街</rb><rt>かがい</rt></ruby>の灯りを望んでわが胸独り寥々……」

<ruby><rb>微吟</rb><rt>びぎん</rt></ruby>しながら行くうしろ影の淋しさ。主水之介またつねにわびしく寂しい男です。――だが、行きついたその吉原は、<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい<ruby><rb>口説</rb><rt>くぜつ</rt></ruby>の花が咲いて、人の足、脂粉の香り、見るからに浮き浮きと気も浮き立つような華やかさでした。

「<ruby><rb>九重</rb><rt>ここのえ</rt></ruby>さん」

「何ざます？」

「御大尽がもうさき程からやかましいことをおっしゃってお待ち兼ねですよ」

「いやらしい。そう言ってくんなんし。わちきにも<ruby><rb>真夫</rb><rt>まぶ</rt></ruby>のひとりや二人はござんす。ゆっくり会うてから参りますと、そう言ってくんなんし」

「ちえッ。のぼせていやがらあ」

聞いて、つッかけ草履の江戸ッ児がっているのが、うしろの連れをふりかえりながら<ruby><rb>悲憤糠慨</rb><rt>ひふんこうがい</rt></ruby>して言った。

「きいたか。金の字！　真夫だとよ。あの御面相できいて呆れらあ。当節の女はつけ上がっていけねえよ」

その出会いがしらに、にょっきりとそこの町角から降って湧いたように姿を見せたは、傷の早乙女主水之介です。ちらりと認めてつッかけ草履がおどろいたように言いました。

「おい。金的！　見ねえ！　見ねえ！　<ruby><rb>長割下水</rb><rt>ながわりげすい</rt></ruby>のお殿様だ。傷の御前様が御帰りだぜ」

「違げえねえ。相変らずのっしのっしと頼もしい恰好をしていらっしゃるな。京へ上ったとかエゾへ下ったとかいろいろの噂があったが、もう御帰りになったと見えるな。六月前までや毎晩ここでお目にかかった御殿様だ。急に五丁町が活気づいて来やがったね」

言う下から、あちらの街々、こちらの街々に、<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>として活気づいたその声が揚がりました。

「ま！　見なんし！　見なんし！　<ruby><rb>豆菊</rb><rt>まめぎく</rt></ruby>さん！　蝶々さん！　お半さん！　殿様が御帰りでござんす！　早乙女の御前様が御帰りでありんすよ！」

「どこに！　どこに！　ま！……」

「やっぱりすうっと胸のすくような傷痕をしてでござんすな。今宵からまたみなさん気の揉める方がお出来でありんしょう。――わちきも水がほしゅうなりました」

呼ぶ声、言う声、いずれもひそかな恋を隠した渇仰の声です。――また無理もない。旅に出る前までは、まる三カ年間、夜ごと宵々ごとに五丁町のこうしたそぞろ歩きを欠かしたことのない主水之介でした。その早乙女の退屈男が半年ぶりにふうわりとまた<ruby><rb>天降</rb><rt>あまくだ</rt></ruby>って来たのです。しかも、あの三日月型の傷痕は、長の<ruby><rb>旅風</rb><rt>たびかぜ</rt></ruby>に洗われて愈々凄艶に冴えまさり、迫らず急がず、颯爽として行く姿の水際立った程のよさ！　――犬は尾を巻いてこそこそと逃げ隠れ、風も威風に打たれたものか、ピタリと鳴りを静めて、まばたく灯影も主水之介ゆえに、まぶしく輝き出したのではないかと思われるようなすばらしさでしたから、気の揉める者も出来るであろうし、胸が騒いで、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾いて、急に水のほしくなった者が二人や三人でたのは当り前でした。

しかし、当の主水之介は只黙々として、心の<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>までがいかにもしんしんと寂しそうでした。

覗くのでもない。

<ruby><rb>登</rb><rt>あが</rt></ruby>るのでもない。

漫然として当もなく只ぶらぶらと灯影の下を縫って行くのです。――さながらにその心は、ひとりわびしくしみじみと旅情をでも味わっているかのようでした。いや、旅情です。まさしくそれは旅情です。人影もない知らない土地をぶらぶらするのもよい味のする旅情だが、ざわめく雑沓の人の中を、自分ひとりのけ者となりながら、当もなくぶらぶらと歩いて行くのも、悲しくわびしく何とはなしに甘やかしい涙がほろりと湧いて、実にいい味のする旅情です。――退屈男が何をおいても、先ず第一にこの吉原へやって来たのも、その寂しい旅情にしみじみと<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>りたいために違いないのでした。

京町、江戸町、揚屋町と、曲輪五丁町の隅から隅をぐるりと廻って、そうして久方ぶりに長割下水へ帰りついたのは、木枯に星のまばたく五ツ半……。

「ま！　お早うござりました。御帰り遊ばしませ」

京弥と、兄主水之介の側にさえ居ったら、ほかにもう望みはないと言わぬばかりに、いそいそと迎えて手をついたのは妹菊路です。

「どうでござりました。吉原とやらは面白うござりましたか」

「それほどでもない。菊！」

「あい。何でござります」

「兄はまたどこぞ旅に出とうなった。江戸は思うたよりも寂しい。いや、思うたよりも退屈なところよな」

「ま！　お声までが悲しそうに！　――どうしたらよいのでござりましょう。どうしたら、どうしたらそれがお<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>り遊ばしますのでござりましょう」

言っているとき、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ただしく表門を叩いて、何ごとかうろたえながら訴える声が伝わりました。

「お願いでごぜえます！　お開け下さいまし！　早乙女のお殿様が御帰りときいて駈けつけました者でごぜえます！　おあけ下せえまし！　お願いでござります！　お願いでござります！」

## 二

「京弥！　京弥！」

きくや同時に退屈男の声は、俄然冴え渡りました。冴えたも当然、帰って来たほんのすぐからもう退屈の虫が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>して、旅に出ようかとさえ言ったその矢先に、何やら容易ならん声がしたのです。

「京弥！　京弥！　うろたえた声が表に致すぞ。何ぞ火急の用ある者と見える。<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>共に言いつけて、早う開けさせて見い」

「はッ。只今もう開けに参りましたようでござります」

事実もう出ていったと見えて、程たたぬまに庭先へ導かれて来たのは、<ruby><rb>眼</rb><rt>がん</rt></ruby>の配りにひと癖もふた癖もありげな<ruby><rb>胆</rb><rt>たん</rt></ruby>の坐りの見える<ruby><rb>町奴風</rb><rt>まちやっこふう</rt></ruby>の中年男と、その妻女であるか、ぞれとも知り合いの者ででもあるか、江戸好みにすっきりと垢ぬけのした町家有ちの若新造でした。

「ほほう。見たことも会うたこともない者共よ喃。苦しゅうないぞ、縁へ上がって楽にせい」

「いえ、もう、御殿様に御目通りさえ叶いますれば結構でござります。ようよう御会い申すことが出来まして、ほッと致しました。御庭先でも勿体ない位でござります」

容子ありげな町奴の不審な言葉に、退屈男の向う傷はピカリと光りました。

「異な事を申す奴よ喃。先程も表で怒鳴ったのをきけば、身共が帰って参ったと知ったゆえ駈けつけて来たとやら申しておったが、何ぞ用でもあって待っておったか」

「お待ち申していた段じゃござんせぬ。江戸へ御帰りなれば何をおいても吉原へお越し遊ばすだろうと存じまして、今日はおいでか明日はお越しかと、もうこの半月あまり、毎夜々々五丁町で御待ち申していたんでごぜえます。今晩もこちらのお絹さんと、――こちらはあッしの知り合いの<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>の御内儀さんでごぜえますが、このお絹さんと二人していつもの通り曲輪へ参りましたところ、うれしいことにお殿様が旅から御帰りなせえまして、今しがた、ひと足違げえに御屋敷へ御引き揚げ遊ばしましたとききましたゆえ、飛び立つ思いで早速御願げえに参ったのでごぜえます」

「毎夜吉原で待っておったとは、ききずてならぬ事を申す奴よ喃。飛び立つ思いで願いに参ったとやら申す仔細は一体どんなことじゃ」

「どうもこうもござんせぬ。あッし共<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>ッ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>者</rb><rt>もの</rt></ruby>じゃどうにも手に負えねえことが出来ましたんで、ぜひにも殿様にお力をお借りせずばと、ぶしつけも顧みずこうしてお願いに参ったのでごぜえます」

「なに！　主水之介の力が借りたいとのう。ほほう、左様か。相変らず江戸はちと泰平すぎて、<ruby><rb>傷供養</rb><rt>きずくよう</rt></ruby>らしい傷供養もしみじみと出来そうもないゆえ、事のついでに今宵にもまたどこぞ長旅へ泳ぎ出そうかと存じておったが、どうやら話しの<ruby><rb>口裏</rb><rt>くちうら</rt></ruby>を察するに、万更でもなさそうじゃな」

「万更どころじゃねえんですよ。あッしゃいってえお殿様が黙ってこの江戸を売ったッてえことが気に入らねえんです。御免なせえましよ。お初にお目にかかって、ガラッ八のことを申しあげて相済みませんが、こいつアあッしの気性だから、どうぞ御勘弁下せえまし、そもそもを言やア御殿様は、傷の御前で名を御売り遊ばした江戸の御名物でいらッしゃるんだ。その江戸名物のお殿様が、御自身はどういう御気持でのことか知らねえが、あッしとら殿様贔屓の江戸ッ児に何のひとことも御言葉を残さねえで、ぶらりとどこかへお姿を消してしまうなんてえことが、でえ一よくねえんですよ。何を言っても江戸は日本一御繁昌の御膝元なんだからね。こちらに御<ruby><rb>在</rb><rt>いで</rt></ruby>で遊ばしゃ遊ばしたで、是非にも御殿様でなくちゃというような事がいくらでもあるんです」

「ウフフ。あけすけと歯に<ruby><rb>衣着</rb><rt>きぬき</rt></ruby>せず申してずんと面白い気ッ腑の奴じゃ。どうやら<ruby><rb>眉間傷</rb><rt>みけんきず</rt></ruby>もチュウチュウと啼き出して参ったようじゃわい。そこでは話が見えぬ。上がれ。上がれ。何はともかく上がったらよかろうぞ」

「では、真平御免下せえまし。こうなりゃあッしもお殿様にその眉間傷を眺め眺め申し上げねえと、<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>に力が這入らねえから、御言葉に甘えてお端しをお借り申します。早速ですが、そういうことなら先ず手前の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>から申します。御覧のようにあッしゃ少しばかり<ruby><rb>侠気</rb><rt>おとこぎ</rt></ruby>の看板のやくざ者で、神田の<ruby><rb>小出河岸</rb><rt>こいでがし</rt></ruby>にちッちゃな<ruby><rb>塒</rb><rt>ねぐら</rt></ruby>を構え、<ruby><rb>御商人</rb><rt>おあきうど</rt></ruby>衆や御大家へお出入りの人入れ稼業を致しておりまする峠なしの権次と申す者でごぜえますが、御願いの筋と申しますのはこちらのお絹さんの御亭主なんですよ。これがついこの頃人に<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られましてね」

「奪られたと言うのは、他に隠し女でも出来て、その者に寝奪られたとでも申すか」

「どう仕りまして、そんな生やさしい色恋の出入りだったら、<ruby><rb>口憚</rb><rt>くちはば</rt></ruby>ッたいことを申すようですが、峠なしの権次ひとりでも結構片がつくんです。ところが悪いことに対手が少々手に負えねえんでね。殿様が旅に御出かけなすった留守の事なんだから、勿論御存じではござんすまいが、ついふた月程前に、あッしのところの小出河岸とはそう遠くねえ<ruby><rb>鼠屋横丁</rb><rt>ねずみやよこちょう</rt></ruby>へ、変な町道場を開いた野郎があるんですよ」

「なるほどなるほど、何の町道場じゃ」

「槍でござんす。何でも<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>じゃ一二を争う遣い手だったとか評判の、<ruby><rb>釜淵番五郎</rb><rt>かまぶちばんごろう</rt></ruby>という名前からして気に入らねえ野郎ですがね。それがひょっくり<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>からやって来て途方もなく大構えの道場を開いたんですよ。ところがよく考えて見るてえと開いた場所からしてがどうも少しおかしいんです。鼠屋横丁なんてごみごみしたところへ飛び入りに、そんな大きな町道場なんぞ構えたって、そうたやすく弟子のつく筈あねえんですからね。近くじゃあるし、変だなと思っているてえと、案の定おかしなことを始めたんですよ。開くまもなく職人を大勢入れましてね」

「何の職人じゃ」

「最初に井戸掘り人夫を十四人ばかりと、あとから大工が八人、その<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>の源七どんの<ruby><rb>御内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんがつまりこちらのお絹さんでごぜえますが、入れたはよいとして、いかにも不思議というのは、もうかれこれひと月の上にもなるのに、井戸掘り職人は言うまでもないこと、八人の大工もいったきりでいまだにひとりも――」

「帰らぬと申すか」

「そうなんでごぜえます。いくつ井戸を掘らしたのか知らねえが、十四人からの人夫がかかれば三日に一つは大丈夫なんですからね。それだのに行ったきりと言うのもおかしいが、通い職人がまた泊り込みでひとりも帰らず、四十日近くもこちら井戸ばかり掘っているというのも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちねえことなんですからね。少し気味がわるくなって、ひと晩でいいから<ruby><rb>宿下</rb><rt>やどさが</rt></ruby>りをさせておくんなせえましとお願いに参ったんでござんす。ところが変なことに、釜淵の道場の方ではもうとっくに井戸なんぞ掘りあげたから、人夫は十四人残らずみんな帰したと言うんですよ。帰したものなら帰って来なくちゃならねえのに一向帰らねえのは、愈々只事じゃあるめえというんで、つい色々と<ruby><rb>凶</rb><rt>わる</rt></ruby>い方にも気が廻ったんです。と言うのは、無論お殿様なんぞ御存じでごぜえましょうが、ひょっとするとあれじゃねえかと思いましてね。ほら、よくあるこッちゃござんせんか。お<ruby><rb>城普請</rb><rt>しろぶしん</rt></ruby>やお屋敷なんぞを<ruby><rb>造</rb><rt>こし</rt></ruby>らえる時に、秘密の抜け穴や秘密仕掛けの部屋をこっそり造らえて、愈々出来上がってしまうと外への秘密が洩れちゃならねえというんで、工作人夫を生き埋めにしたり、バッサリ首を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねたりするってことを聞いておりますんでね。もしやそんなことにでもなっていちゃ大変と、内々探りを入れて見たんです。するてえと――」

「あったか！　何ぞそれらしい証拠があったか！」

「あったどころか、どうも容易ならんことを耳に入れたんですよ。どんな抜け穴を掘ったか知らねえが、仕事が出来上がってしまってから、人夫を並べておいてやっぱり首を刎ね出したんでね、そのうちのひとりが怖くなって逃げ出したと言うんです。しかし逃げられちゃ道場の方でも大変だから、内門弟を六人もあとから追っかけさせて、とうとう首にしたとこう言うんですよ。だから、こちらのお絹さんもすっかり慌てておしまいなすったんです。井戸掘り人夫がそんなことになったとすりゃ、勿論棟梁達も無事で帰ることはむずかしかろうと大変な御心配で、あっしごとき者をもたったひとりの力と頼りにしておくんなせえましたんですが、悲しいことには向うは兎も角も道場の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>なんです。いくらあッしが掛け合いにいっても、打つ、殴る、蹴るの散々な目に会わせるだけで、一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby><ruby><rb>埓</rb><rt>らち</rt></ruby>が明かねえんでごぜえますよ。いいえ、命はね、決して惜しくねえんです。あッしとても人から<ruby><rb>男達</rb><rt>おとこだて</rt></ruby>だの<ruby><rb>町奴</rb><rt>まちやっこ</rt></ruby>だのとかれこれ言われて、仮りにも<ruby><rb>侠気</rb><rt>おとこぎ</rt></ruby>を看板にこんなやくざ稼業をしておって見れば、決して死ぬのを恐ろしいとも怖いとも命に未練はねえんですが、身体を投げ出して掛け合いにいって、斬り死してみたところで、肝腎の道場のその秘密を嗅ぎ出さずに命を落してしまったんでは結句犬死なんです。ひょっくり上方からやって来た工合から言っても、人夫を入れて変な真似をするあたりから察しても、どうやらあいつ只の鼠じゃねえと思いますんでね。なまじあッしなぞが飛び出すよりも、こういうことこそお殿様が<ruby><rb>肝馴</rb><rt>きもな</rt></ruby>らしには打ってつけと存じまして、実あ首長くしながら毎日々々お帰りをお待ち申していたんでごぜえますよ」

「なるほど喃。話の模様から察するに、いかさま何ぞ曰くがありそうな道場じゃ。いや、この塩梅ならばなかなかどうして、江戸もずんと面白そうじゃわい。では何じゃな、源七とやら申す棟梁は、いまだに止め置きになっておるが、まだ首は満足につながっておると申すのじゃな」

「そうなんでごぜえます。殿様がお帰り遊ばさねえうちに、バッサリとやられてしまったんじゃ、折角お待ち申してもその甲斐がねえと存じましたんで、毎日々々気を揉みながらこっそり乾児共を容子探りにやっておりましたんですが、今日もトントンカチカチと金槌の音がしておったと申しましたゆえ、大工の方は仕事が片付かねえ模様なんです」

「ならば乗り込み甲斐があると申すものじゃ。今からすぐにでも参ろうが、道場の方はどんな容子ぞ」

「今夜だったら願ったり叶ったりでごぜえます。今頃丁度済んだか済まない頃と存じますが、何の試合か宵試合がごぜえましてね、済んでから門弟共残らず集めて祝い酒かなんかを振舞うという話でごぜえましたから、その<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に乗り込んだらと存じまして、実はあッしも大急ぎに吉原から御あとを追っかけて参ったんでごぜえますよ」

「面白い！　門弟残らずが集っておるとあらば、傷供養もずんと<ruby><rb>仕栄</rb><rt>しば</rt></ruby>えがあると申すものじゃ、では早速に参ろうぞ。京弥！　京弥！」

ずいと大刀引き寄せながら、呼び招いたのは愛妹菊路の思い人京弥でした。

「そちも聞いたであろう。退屈払いが天から降って参った。吉原へも挨拶に参るものよ喃。そちらの雲行はどんな容子ぞ」

「は？」

「分らぬか。二人者はこういう折に兎角手数がかかってならぬと申すのじゃ。許しがあらばそちにも肝馴らしさせて得さするが、菊の雲行はどんなぞよ」

「またそのような御戯談ばッかり。菊どのもお聞きなさいまして、只今とくと手前に申されましてござります。御兄様の御気が<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れます事なら、怪我をせぬように、御無事で帰るように行って来て下さりませと、このように申されましてでござりますゆえ、どこへでもお伴致しまするでござります」

「ウフフ。陰にこもったことを申しておるな。怪我をせぬように、御無事で帰るようにとは、ほんのりとキナ臭い匂いが致して、兄ながら只ではききずてならぬ申し条じゃ。では、<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>に乗り物の用意せい」

すっくと立ち上がったのを、

「いえ、あの、ちょッとお待ち下せえまし」

慌てて何か不安げに呼びとめたのは峠なしの権次でした。

「御出かけ遊ばしますのは、御二人きりなんでごぜえますか」

「元よりそちも一緒じゃ。今になって<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じ<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>ついたか」

「どう仕りまして。ここらが峠なしの権次、命の棄て頃と存じますゆえ、一緒に来るなとおっしゃいましても露払いに参る覚悟でごぜえますが、三人きりでは少うし――」

「少し何じゃ。門弟共の数でもが多いゆえ、三人きりでは人手不足じゃと申すか」

「いいえ、弟子や門人達なら、三十人おろうと五十人おろうと、殿様のその眉間傷が一つあったら結構でごぜえますが、道場主番五郎のうしろ<ruby><rb>楯</rb><rt>だて</rt></ruby>にちょッと気になるお方がおいでのようでごぜえますゆえ、うっかり乗り込んで参りましたら、いかな早乙女の御前様でも事が面倒になりやしねえかと思うんでごぜえます」

「ほほう、番五郎の黒幕にまだそのような<ruby><rb>太夫元</rb><rt>たゆうもと</rt></ruby>がおると申すか。気になるお方とやら申すは一体何ものじゃ」

「勿論御名を申しあげたら御存じでごぜえましょうが、いつぞや大阪御城の<ruby><rb>分銅流</rb><rt>ふんどうなが</rt></ruby>し騒動でやかましかった、<ruby><rb>竜造寺長門守</rb><rt>りゅうぞうじながとのかみ</rt></ruby>様でごぜえます」

「なに！　竜造寺殿が糸を引いておるとのう。これはまた意外な人の名が出たものじゃな。どうしてまたそれが相分った。何ぞたしかな証拠があるか」

「証拠はねえんです。あったらまた御上でも棄てちゃおきますまいが、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の若けえ者達の話によると、竜造寺の殿様が二三度あの道場へこっそり御這入りなすったところをたしかに見かけた、と言うんでごぜえます。釜淵番五郎が大阪者だというのも気になるが、竜造寺のお殿様もまたその大阪とは因縁の深けえお方でごぜえますから、それこれを思い合わせて考えまするに、どうも何か黒幕で糸を操っていらッしゃるんじゃねえかと思うんでごぜえます。それゆえ、万ガ一の場合のことをお考え遊ばして、御殿様の御仲間のお旗本衆でも二三人御連れなすったらいかがでごぜえます」

「いかさま喃。竜造寺殿が蔭におるとはちと大物じゃな」

主水之介の面は、キリキリと俄かに引き締まりました。無理もない。話のその竜造寺長門守こそは、実に、人も知る戦国の頃のあの名将竜造寺家の流れを汲んだ、当時問題の人だったからです。城持ちの諸侯ではなかったが、名将の血を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けた<ruby><rb>後裔</rb><rt>こうえい</rt></ruby>というところから、捨て<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>二万石を与えられて、特に客分としての待遇をうけている特別扱いの一家でした。それゆえにこそ、名君を以て任ずる将軍綱吉公は、この名門の後裔を世に出そうという配慮から、異数の<ruby><rb>抜擢</rb><rt>ばってき</rt></ruby>をして問題の人長門守を大阪城代に任じたのが前々年の暮でした。然るに、この長門守が少しく常人でなかったが為に、はしなくもここに問題が起きたと言うのは、即ち峠なし権次が今言った大阪御城内の分銅流し騒動です。事の起ったのはついこの年の春でした。大阪冬の陣と共に<ruby><rb>豊家</rb><rt>ほうけ</rt></ruby>はあの通り悲しい没落を遂げて、世に大阪城の竹流し分銅と称されてやかましかった軍用金のうち、手づかずにまるまる徳川家の手中に帰したのは、実に六百万両という巨額でした。徳川領の関東八カ国だけを敵に廻したら<ruby><rb>裕</rb><rt>ゆう</rt></ruby>に二十カ年、関ガ原以東の諸大名を対手にしたら八カ年、六十余州すべてを敵に引きうけても、結構三カ年間は支え得られると称された程の大軍用金です。さればこそ、徳川家もまた大阪落城と共にこれを我がものとするや、豊家同様にこの竹流し分銅六百万両を以て、一朝有事の際の貴重なる軍用金として秘蔵せしめ、大阪城を預かる城代に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>っても、これを厳重に保管せしめたことは言うまでもないこと、年に一度宛、分銅改めの密使すらもわざわざ江戸から送って、つねに城内第一の貴品の取扱いを命じておいたものなのでした。だのに、人の信仰の度を越え、その常軌を逸したものは、普通人が持つ心の<ruby><rb>物尺</rb><rt>ものさし</rt></ruby>を以てしては計ることの出来ないものに違いないのです。問題の人竜造寺長門守がそれでした。ほかに批難すべきところはなかったが、極度の天台宗信者で、京都<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>の<ruby><rb>延暦寺</rb><rt>えんりゃくじ</rt></ruby>を以て海内第一の霊場と独り決めに決めている程、狂的に近い信仰を捧げていたために、大阪城代に就任するや間もなく比叡山から、内密の献金四万両の調達方を頼みこまれて、ついふらふらと御秘蔵第一の竹流し分銅を融通したのが騒動の初まりでした。額は百分の一にも足りない少額であったにしても、御封印厳重な<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く付きの竹流し分銅を他へ流通したとあっては、問題の大きくなるのも当り前のことです。しかもあと十日とたたぬ間もなく江戸から御分銅改めの密使が到着することをちゃんと知っていながら、そのうちの何本かを融通したため、騒ぎは愈々大きくなって、長門守は当然の結果のごとく厳罰に問われることになったのでした。だが、名門名家の末というものは、こういう時になると家の系図が存外に物を言うから不思議です。これが普通だったら<ruby><rb>秩禄没収</rb><rt>ちつろくぼっしゅう</rt></ruby>、御家は<ruby><rb>改易</rb><rt>かいえき</rt></ruby>、その身は勿論切腹と思われたのに、竜造寺家末流という由緒から<ruby><rb>名跡</rb><rt>みょうせき</rt></ruby>と徳川家客分の待遇が物を言って、幸運にも長門守は罪一等を減ぜられた上、即日城代の御役は御免、二万石を八千石に減額、九十日間の謹慎という寛大すぎる寛大な裁断が下ったのでした。さればこそ、勿論長門守は、江戸大公儀の慈悲あるその処断を感泣しないまでも内心喜んで御受けしただろうと思われたのに、変り者と言えば変り者、<ruby><rb>慷慨家</rb><rt>こうがいか</rt></ruby>と言えば一種気骨に富んだ慷慨家です。処罰をうけるや長門守は却ってこれに痛烈な批難を放ったのでした。

「<ruby><rb>明盲目共</rb><rt>あきめくらども</rt></ruby>にも程がある。この御代泰平に軍用金を貯蔵することからしてが、<ruby><rb>死金</rb><rt>しにがね</rt></ruby>を護るも同然の愚かな<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>じゃ。活かすべき時にこれを生かして費うと、後生大事に死金を護ると、いずれが正しき御政道か、それしきのけじめつかいで何とするか。徳川の御代はすでに<ruby><rb>万代不易</rb><rt>まんだいふえき</rt></ruby>の<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>も定まり、この先望むところは只御仁政一つあるのみじゃ。ましてや天台の教えは仏法八宗第一の尊い<ruby><rb>御教</rb><rt>みおしえ</rt></ruby>じゃ。さればこそ竜造寺長門、無用の死金預かるよりも、これを活かして費うことこそ御仁政第一と心得て、他へも融通したものを、事々しゅう罪に処するとは何のことじゃ。早々江戸に帰って上申しませい」

<ruby><rb>嚇怒</rb><rt>かくど</rt></ruby>してこれを<ruby><rb>斥</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けたために、事はさらに大きな波紋を起して、竜造寺長門の言を尤も至極となす者、断じて許すべからず厳罰に処すべしと憤激する者、二派に分れて揉みに揉んだ結果、遂に厳罰派が勝を制して、八千石に削られた秩禄をさらに半分の四千石に減らされた上、神君家康公以来の客分という待遇も、ついに停止の憂き目に会ったのでした。<ruby><rb>反逆児</rb><rt>はんぎゃくじ</rt></ruby>といえば反逆児、風雲児といえば風雲児と言うに憚らないその竜造寺長門守が、どうやら背後に糸を引いているらしいとあっては、主水之介、颯然として色めき立ったのは当然なことです。

「いかがでござります。道場に、どんなカラクリがあるか知らねえが、本当に、竜造寺のお殿様が黒幕にいらっしゃるとするなら、こいつも只の騒動じゃあるめえと存じますゆえ、万ガ一の場合の御用意に、二人三人御朋輩の御旗本衆をでも御連れなすった方がいいと思うんでごぜえます。およろしくばどこへなと御使いに参りますがいかがでごぜえます」

不安げに峠なしの権次が言ったのを、

「いや、参ろうぞ。参ろうぞ、独りで参ろうぞ。竜造寺長門守骨ある名物男ならば、早乙女主水之介の骨も一枚アバラのつもりじゃ。助太刀頼んで乗り込んだとあらば眉間傷が悲しがろうわ。京弥！」

颯爽として立ち上がると、時を移さずに命じました。

「このまにも手遅れとなってはならぬ。早う急ぎの乗物用意せい」

――長割下水のあたり、しんしんと<ruby><rb>小夜</rb><rt>さよ</rt></ruby>ふけて、江戸の名物木枯もどうやら少し鎮まったらしい<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>でした。

## 三

目ざした鼠屋横丁に乗りつけたのはかっきり四ツ――。

角に乗り物を待たしておいて、武者窓下へ近づいて見ると、なるほど峠なしの権次の言った通り、ちらちらと表へ灯りが洩れて、道場内では話のその宵試合が終ったあとの祝い酒が丁度始まったらしい容子なのです。

「ウフフ。安い酒がそろそろ廻り出した模様じゃな。傷もむずむずとむず<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くなって参ったようじゃ。まさかにこの祝い酒、大工共を首尾よく血祭りにあげた祝い酒ではあるまいな」

「いえ、その方ならば大丈夫でごぜえます。ほら、あれを御聞きなせえまし、<ruby><rb>夜業</rb><rt>よなべ</rt></ruby>でもしておりますものか、あの通り<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>の音が聞えますゆえ、<ruby><rb>棟梁達</rb><rt>とうりょうたち</rt></ruby>の首は大丈夫でごぜえます」

権次の言葉に耳を澄まして見ると、いかさましんしんと冴え渡る夜気を透して、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに裏口のあたりからトントンカチと伝わって来たものは、まさしく大工達の槌の音でした。

「首のない者が夜業も致すまい。では、久方ぶりに篠崎流の軍学小出しに致して、ゆっくり化物屋敷の正体見届けてつかわそうぞ。<ruby><rb>羅漢</rb><rt>らかん</rt></ruby>共は何名位じゃ。京弥、伸び上がって数えてみい」

「心得ました。――ひとり二人三人五人、十人十三人十六人、すべてで十九人程でござります」

「番五郎はどんなぞ？　一緒にとぐろを巻いているようか」

「それが手前にはよく分りませぬ。真中にふたり程腕の立ちそうなのが坐っておることはおりますが、どちらがどれやら、権次どの、そなた顔を覚えておいでの筈じゃ。ちょっと覗いて見て下さりませ」

「ようがす。しかと見届けましょう。――いえ、あいつらはどちらも釜淵の野郎じゃござんせぬ。恐らく番五郎めは奥で妾と一緒に<ruby><rb>暖</rb><rt>あった</rt></ruby>まってでもいるんでしょう。あの右のガッチリした奴は師範代の<ruby><rb>等々力門太</rb><rt>とどろきもんた</rt></ruby>とかいう奴で、左のギロリとした野郎はたしかに一番弟子の吉田兵助とかいう奴でごぜえます」

「ほほう、左様か。面倒な奴は先ず二人じゃな。どれどれ、事のついでにどの位出来そうか星をつけておいてつかわそう。――なるほど喃。右は眼の配り、体の構え先ず先ず京弥と五分太刀どころかな。左の吉田兵助とやらは少し落ちるようじゃ。では、一幕書いてやろうわい、京弥」

「はッ」

「もそっと耳を寄せい」

「何でござります？」

「そのように近づけいでもいい。のう、よいか。事の第一はこれなる化物道場のカラクリ<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>き出すが肝腎じゃ。それがためには抜いてもならぬ。斬ってもならぬ。手足まといな門人共を順々に先ず眠らしておいて、ゆるゆる秘密探り出さねばならぬゆえ、そのところ充分に心得てな、その腕ならばそちも二三度位は道場破りした覚えがあろう。その折の<ruby><rb>骨</rb><rt>こつ</rt></ruby>を用いて他流試合に参ったごとく持ちかけ、そちの手にあまる者が飛び出て参るまで、当て身、遠当て、程よく腕馴らしやってみい」

「心得ました。久方ぶりでの道場荒し、では思いのままに門人共を稽古台に致しまするでござります」

ほんのりと両頬に上気させて、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>と美しく笑みを残すと、

「頼もう。頼もう。物申す」

大振袖に揚心流小太刀の名手の恐るべき腕前をかくして、殊のほか白ばくれながら訪ないました。

「槍術指南の表看板只今通りすがりに御見かけ申して推参仕った。夜中御大儀ながら是非にも釜淵先生に一手御立会い所望でござる。御取次ぎ下さりませい」

「何じゃと、何じゃと、他流試合御所望でござるとな。このような夜ふけに参られたとはよくよく武道御熱心の御仁と見えますな。只今御取次ぎ仕る」

のっしのっしとやって来て、ひょいと見眺めるや対手は、この上もなく意外だったに違いない。そこに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいたのは紅顔十八歳、花も恥じらわしげな小姓だったのです。当然のごとく取次ぎの男は嘲笑ってあびせかけました。

「わはは。何じゃい何じゃい。今愉快の最中じゃ。当道場には<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の剣法のお対手仕る酔狂者はいち人もござらぬわ。<ruby><rb>御門</rb><rt>おかど</rt></ruby>違いじゃ。二三年経ってから参らッしゃい」

「お控え召されよ！」

見くびりながら取り合おうともしないで引返そうとしたのを、凛と一語鋭く呼びとめると、さすがに京弥、傷の早乙女主水之介がこれならばと見込んで、愛妹菊路に与えただけのものはあるつぶ選りの美少年です。

「武芸十八般いずれのうちにも、小姓ならば立会い無用との流儀はござらぬ筈じゃ。是非にも一手所望でござる。早々にお取次ぎ召されい」

「なに！　黄ろい奴が黄ろいことをほざいたな。<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って望みとあらば御対手せぬでもないが、当流釜淵流の槍術はちと手きびしゅうござるぞ。それにても大事ござらぬか」

「元より覚悟の前でござる。手前の振袖小太刀も<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いが自慢、文句はあとでよい筈じゃ。御取次ぎ召さりませい」

「ぬかしたな。ようし。案内しょうぞ。参らッしゃい。――各々、みい！　みい！　世の中にはずい分とのぼせ性の奴がいる者じゃ。この<ruby><rb>前髪者</rb><rt>まえがみもの</rt></ruby>が一手他流試合を所望じゃとよう。丁度よい折柄ゆえ、酒の肴にあしらってやったらどんなものじゃ」

「面白い。武芸自慢の螢小姓やも知れぬ。あとあと役に立たぬよう、股のあたりへ一本、変ったタンポ槍を見舞ってやるのも一興じゃ。杉山、杉山！　貴公稚児いじりは得意じゃろう。立ち合って見さッせい」

<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しくどっとさざめき嘲けった声と共に、にったり笑いながら現れたのは杉山と言われた<ruby><rb>大兵</rb><rt>だいひょう</rt></ruby>の門弟でした。得物はそのタンポ槍、未熟者の習い通り、すでに早く焦って突き出そうとしたのを、

「慌て召さるな」

静かに制して京弥殊のほかに落ちついているのです。

「手前の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みましたは揚心流小太刀でござる。そこの御仁、鉄扇をお持ちのようじゃ。暫時お借り申すぞ。――では、おいで召されよ。いざッ」

さッと身を引いて六寸八分南蛮鉄の只一本に、九尺柄タンポ槍の敵の得物をぴたりと片手正眼に受けとめたあざやかさ！　――<ruby><rb>双頬</rb><rt>そうきょう</rt></ruby>、この時愈々ほのぼのと美しく<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を散らして、匂やかな<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>の四肢五体、<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>として今や香気を放ち、<ruby><rb>紫紺絖小姓袴</rb><rt>しこんぬめこしょうばかま</rt></ruby>に大振袖の香るあたり、厳寒真冬の霜の朝に咲き匂う白梅のりりしさも、遠くこれには及ばない程のすばらしさでした。しかも、構え取ったと見るやたった一合、名もなき門弟なぞ大体物の数ではないのです。

「胴なり一本ッ。お次はどなたじゃ」

<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな京弥の声が飛んだとき、すでに対手はタンポ槍をにぎりしめたまま、急所の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>に当て身の一撃を見舞われて、ドタリ地ひびき立てながらそこに<ruby><rb>悶絶</rb><rt>もんぜつ</rt></ruby>したあとでした。

「稚児の剣法、味をやるなッ。よしッ。俺が行くッ」

怒って入れ替りながら挑みかかったのは、先程取次に出て来た名もない門人でした。

「ちと荒ッぽいぞッ。どうじゃッ。小わっぱ、これでもかッ」

力まかせに繰り出して来たのを、軽く払って同じ脾腹にダッと一撃！

「いかがでござる。お次はどなたじゃ」

涼しい声で言いながら、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>として三人目の稽古台を促しました。

「いい男振りだ。おどろきましたね」

武者窓の外からそれを見眺めて、悉く舌を巻きながら感に絶えたように主水之介に囁いたのは、峠なしの権次です。

「あれ程お出来とは存じませんでしたよ。まるで赤児の手をねじるようなものじゃござんせんか。いい男振りだ。実にいい男前だね。前髪がふっさり揺れて、ぞッと身のうちが熱くなるようですよ」

「ウフフ。そちも惚れたか」

「娘があったら、無理矢理お小間使いにでも差しあげてえ位ですよ」

「ところがもう先約ずみで喃。お気の毒じゃが妹菊めが<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>を出そうわ。――みい！　みい！　言ううちに三人目もまたあっさり芋虫にしたようじゃ。三匹並んで長くなっておるところは、どうみても一山百文口よ喃」

いかさまその言葉のごとく、三人目もすでに脾腹の一撃に出会って、手もなくそこへのけぞったところでした。四人目も元より一撃。疲労の色も見せずに、<ruby><rb>綽々</rb><rt>しゃくしゃく</rt></ruby>として京弥が五人目を促そうとしたとき、にたりと残忍そうに嘲笑って、矢庭にすっくと立ち現れたのは二の弟子の吉田兵助です。しかも彼、一二と指を屈せられる門人だけあって、目の利いていたのはさすがでした。

「味な稚児ッ小僧じゃ。貴様道場荒しじゃなッ。拙者が釜淵流の奥義を見せてやる。得物はこれじゃ。来いッ」

ぴいんと<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>の髄までひびき渡るような練り鍛えられた叫びと共に、さッと繰り出したのは、奇怪！　穂先もドキドキと磨ぎ澄まされた真槍なのです。――俄然、道場内は時ならぬ殺気に覆い尽されました。並居る門人達の色めき立ったのは言うまでもないこと、表の武者窓下に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>み忍んでいた峠なしの権次も思わずあッと目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、主水之介の袖を慌てて引きながら囁きました。

「大丈夫でごぜえましょうか。野郎なかなか出来そうですぜ。もしかの事があったらお嬢様に申し訳がねえんです。そろそろお出ましになったらどうでごぜえます」

「ウフフ。左様のう――」

だが退屈男は、別段に騒ぐ色もなく静かに打ち笑って見守ったままでした。いや、それ以上に落付き払っていたものは当の京弥です。さぞかしおどろくかと思いのほかに、ちらりと<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに<ruby><rb>笑窪</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>を見せながら、ずいとひと足うしろに退ると、不敵なことに得物は同じ鉄扇なのでした。しかも、声がまたたまらなく落付いているのです。

「少しお出来じゃな。胴、小手、面、お望みのところに参る。いずれが御所望じゃ」

言いつつ、穂先五寸のあたりへぴたりと鉄扇をつけたままで、一呼一吸、さながらそこに咲き出た美しい花のごとくに突ッ立ちながら、じいッと気合を計っていたかと見えたが、刹那！

「小手へ参りまするぞッ」

涼しく凛とした声が散ったかと思うや、早かった。ガラリ、兵助は手にせる真槍を叩きおとされて、片手突きの当て身に脾腹を襲われながら、すでにそこへのけぞっていたところでした。――しかし、殆んどそれと同時です。

「小わッぱ、やったなッ。代りが行くぞッ」

突如、門人溜りの中から、気合の利いた怒声が爆発したかと思われるや一緒に、兵助が叩き落された真槍素早く拾い取って、さッと不意に、横から襲いかかったのは師範代<ruby><rb>等々力門太</rb><rt>とどろきもんた</rt></ruby>でした。しかも、これが出来るのです。実に意外なほどにも冴えているのです。加うるに、京弥はすでに五人を倒したあとでした。疲労と不意の襲撃に立ち直るひまもなく、あわやプツリと太股へ不覚の穂先を見舞われたかと見えた刹那！　――一瞬早く武者窓の外から、咄嗟の目つぶしの小石つぶてが、矢玉のように飛来して門太の顔を襲いました。

「よッ。表に怪しき者がいるぞッ！　捕えい！　捕えい！　引ッ捕えい！」

下知の声と共に総立ちとなりながら、門人一統が<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>ッ<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>り刀で駈け出そうとしたところへ、三日月傷冴えやかな青白い面にあふれるばかりな微笑を湛えながら、もろ手を悠然と懐中にして、のっしと這入って来たのは退屈男です。

「揃うて出迎い御苦労じゃ。ウッフフ。揉み合って参らば頭打ち致そうぞ。――京弥、危ないところであった喃」

「はッ。少しばかり――」

「ひと足目つぶしが遅れて怪我をさせたら、菊めに兄弟の縁切られるところであったわい。もうよかろう。ゆるゆるそちらで見物せい。門太！」

「なにッ」

「名前を存じおるゆえぎょッと致したようじゃな。わッはは。左様に慄えずともよい。先ずとっくりとこの眉間傷をみい。大阪者では知るまいが、この春京まで参ったゆえ、噂位にはきいた筈じゃ。<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>ぞ？　どんな気持が致すぞ？　剥がして飲まばオコリの妙薬、これ一つあらば江戸八百八町どこへ参るにも提灯の要らぬという傷じゃ。貴公もこれが御入用かな」

「能書き言うなッ。うぬも道場荒しの仲間かッ」

「左様、ちとこの道場に用があるのでな、ぜびにも暫く頂戴せねばならぬのじゃ。こういうことは早い方がよい。あっさり眠らしてつかわすぞ」

京弥の手から鉄扇受け取って、殆んど無造作のごとくにずいずいと穂先の下をくぐりながらつけ入ると、ダッとひと突き、本当にあっさりと言葉の通りでした。見眺めて門人達が一斉に<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばみながら殺到しようとしたのを、

「京弥！　始末せい。用のあるのは釜淵番五郎じゃ。奥にでもおるのであろう。あとから参れよ」

ずかずかと襲い入ろうとしたとき、

「来るには及ばぬ。用とあらば出て行くわッ。何しに参った！　うぬが早乙女主水之介かッ」

不意に、錆のある太い声で罵りながら、ぬッとその奥から姿を見せたのは道場主釜淵番五郎です。

「ほほう、さすがはそちじゃ。身共を早乙女主水之介と看破ったはなかなか天晴れぞ。名が分ったとあらば用向きも改まって申すに及ぶまい。あの男を見れば万事分る筈じゃ。――権次！　権次！　峠なしの権次！」

「めえります！　めえります！　只今めえります！　――やい！　ざまアみろい！　一番手は京弥様。二ノ陣は傷の御前、<ruby><rb>後詰</rb><rt>ごづめ</rt></ruby>は峠なしの権次と、陣立てをこしれえてから、乗り込んで来たんだ。よもや、おいらの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を忘れやしめえ！　用はこの面を見りゃ分るんだ。よく見て返答しろい！」

「そうか！　うぬが御先棒か！　それで何もかも容子が読めたわ。あの大工がほしいと言うのか。ようし。ではこちらも泡を吹かしてやろうわッ。――殿！　殿！」

さぞかし驚くだろうと思われたのに、番五郎の方でも用意の献立てが出来ていたと見えて、にったりと嘲笑うと、不意に奥の座敷へ<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って呼び立てました。

「殿！　殿！　やっぱり察しの通りでござりました。後押しの奴も<ruby><rb>御目鑑</rb><rt>おめがね</rt></ruby>通り早乙女主水之介でござりまするぞ。御早く御出まし下さりませい」

「よし、参る」

静かに応じて騒ぐ色もなく悠然とそこへ姿を見せたのは誰でもない。これぞ問題の人竜造寺長門守です。しかも長門、犯信ゆえに栄誉ある大阪城代の職を<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ったとは言え、さすがに名家の<ruby><rb>末裔</rb><rt>まつえい</rt></ruby>、横紙破りの問題起した風雲児だけのものがあって、態度、おちつき、貫禄共に天晴れでした。恐らくは<ruby><rb>真向浴</rb><rt>まっこうあ</rt></ruby>びせにすさまじい<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>の声をでも浴びせかけるだろうと思われたのに、主水之介の姿を見眺めるや大きく先ず<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>として打ち笑ったものです。

引きとって退屈男また莞爾たり！

そうしてあとがたまらなかった。片やは横紙破りの風雲児、片やはまた江戸名物の退屈男と、両々劣らぬ大立者同士のその応対が実にたまらなかったのです。

「ウフフ。そちが早乙女主水之介か」

「わッはは。お身が竜造寺どのでござったか」

「珍しい対面よ<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>」

「いかにも」

「対手がそなたならば早いがよい。用は何じゃ」

「御身の謎を解きにじゃ」

「面白い！　長門の返答はこれじゃ。受けてみい！」

やにわにたぐりとってさッと繰り出したのは長槍でした。しかし、対手は傷の早乙女主水之介です。自若としながら莞爾として穂先を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>すと、静かに浴びせかけました。

「竜造寺長門と言われた御身も、近頃<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>召さったな」

「なにッ。では、どうあっても長門の秘密、嗅ぎ出さずば帰らぬと申すか！」

「元よりじゃ。横紙破りのお身が黒幕にかくれて、これだけの怪事企むからには、よもや只の酔狂ではござるまい。槍ならばこの眉間傷、胆力ならば身共も胆力、名家竜造寺の系図を以て御対手召さらば、早乙女主水之介も三河ながらの御直参を以て御手向い申すぞ。御返答いかがじゃ」

「ふうむ、そうか。さすがにそなただけのことはある喃。その言葉竜造寺長門、気に入った。よし。申してつかわそう。みなこれ天下のためじゃわ」

「なに！　何と申さるる！　近頃奇怪な申し条じゃ。承わろうぞ！　承わろうぞ！　その仔細主水之介しかと承わろうぞ！　怪しき道場を構えさせ、怪しき武芸者を使うて人夫共の首斬る御政道がどこにござるか」

「ここにあるゆえ仕方がないわ。びっくり致すな。井戸掘人夫を入れて掘らしたは<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>し穴じゃ。大工達に造えさせおるは釣天井じゃ。みなこれ悪僧<ruby><rb>護持院隆光</rb><rt>ごじいんりゅうこう</rt></ruby>めを亡き者に致す手筈じゃわ」

「なになに！　隆光とな！　護持院の隆光でござるとな！　――」

あまりの意外に主水之介の面にはさッと血の色が湧きのぼりました。当り前です。はしなくも竜造寺長門守が口にしたその護持院隆光とは、怪しき<ruby><rb>修法</rb><rt>すほう</rt></ruby>を以て当上様綱吉公をたぶらかし奉っている<ruby><rb>妖僧</rb><rt>ようそう</rt></ruby>だったからです。由なき理由を申し立てて、<ruby><rb>生類</rb><rt>しょうるい</rt></ruby>憐れみの令を施行したのもその護持院隆光だったからです。――退屈男の口辺には自ずと微笑がほころびました。

「意外じゃ！　意外じゃ、実に意外じゃ。いやさすがは長門守どの、<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>う対手がお違い申すわい、それにしても――」

「何じゃ」

「隆光はいかにも棄ておき難い奴でござる。なれども、これを亡き者と致すにかような怪しきカラクリ設けるには及びますまいぞ。何とてこのような道場構えられた」

「知れたこと、悪僧ながら彼奴は大僧正の位ある奴じゃ。ましてや上様御祈願所を支配致す<ruby><rb>権柄者</rb><rt>けんぺいもの</rt></ruby>じゃ。只の手段を以てはなかなかに討ち取ることもならぬゆえ、この二十五日、当道場地鎮祭にかこつけて彼奴を招きよせ、闇から闇に葬る所存じゃわ。その手筈大方もう整うたゆえ、今宵この通り前祝いさせたのじゃ」

「ウフフ。あはは！　竜造寺どの、お身も愈々<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>召さった喃」

「なにッ。笑うとは何じゃ。秘密あかした上からは、早乙女主水之介とて容赦せぬ。出様次第によってはこのまま生かして帰しませぬぞ」

「ウフフ。また槍でござるか。生かして帰さぬとあらば主水之介、傷に物を言わせて生きて帰るまでじゃが、隆光を憎しみなさるはよいとして、罪なき人夫を首にするとは何のことぞ。さればこそ、竜造寺長門守も耄碌召さったと申すのじゃ。いかがでござる。言いわけおありか」

「のうて何とするか！　隆光が献策致せし生類憐れみの令ゆえに命を奪られた者は数限りがないわ。京都叡山、天台の座首も御言いじゃ。護持院隆光こそは許し難き仏敵じゃ。彼を生かしておくは仏の教を誤る者じゃと仰せあったわ。さるゆえ竜造寺長門、これを<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めるに何の不思議があろうぞ。憎むべき仏敵斃すために、人夫の十人二十人、<ruby><rb>生贄</rb><rt>いけにえ</rt></ruby>にする位は当り前じゃわ」

「控えませい！」

「なにッ」

「十人二十人生贄にする位当り前とは何を申されるぞ。悪を懲らすに悪を以てするとは下々の下じゃ。隆光いち人斃すの要あらば正々堂々とその事、上様に上申したらよろしかろうぞ。主水之介ならばそのような<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しいこと致しませぬわ！」

「………」

「身共の一語ぐッと胸にこたえたと見えますな。そうでござろう。いや、そうのうてはならぬ。男子、事に当ってはつねに正々堂々、よしや悪を懲らすにしても女々しき<ruby><rb>奸策</rb><rt>かんさく</rt></ruby>を避けてこそ本懐至極じゃ。天下御名代のお身でござる。愚か致しましたら、竜造寺家のお名がすたり申しましょうぞ」

「………」

「いかがでござる！」

「………」

「主水之介は、かような女々しき、奸策は大嫌いじゃ。今なお槍をお持ちじゃが、まだ横車押されると申さるるか！　いかがでござる！」

「………」

「いかがじゃ！　返答いかがでござる」

「いや、悪かった。面目ない。許せ許せ」

さすがに長門守、一個の人物でした。ガラリ槍を投げすてると、悄然としながらうしろを見せてとぼとぼと歩み出しました。見眺めて主水之介、それ以上にうれしい男です。

「お分りか。なによりでござる。お帰りならばどうぞあれへ。むさくるしいが身共の駕籠が用意してござる。京弥！　御案内申しあげい。権次！　権次！」

案内させておくと峠なしの権次に命じました。

「棟梁共もさぞかし喜ぼうぞ。早う救い出して宿帰りさせい」

「心得ました。ざまアみろい」

脱兎のごとくに走り去ったのを見送りながら、突如、<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>として手にせる鉄扇を取り直すと、声と共に凄しい一撃が、呆然としてそこに佇んでいる道場主釜淵番五郎のところに飛んでいきました。

「武道を<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>む者が道を誤まるとは何ごとじゃッ。<ruby><rb>無辜</rb><rt>むこ</rt></ruby>の人命<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めし罪は免れまいぞ！　主水之介<ruby><rb>天譴</rb><rt>てんけん</rt></ruby>を加えてつかわすわッ。これ受けい！」

同時に番五郎の右腕はすさまじい鉄扇のその一撃をうけて、ボキリと不気味な音を立てながら二つに折れました。

「わッはは、こうしておかば当分槍も使えぬと申すものじゃ。元通りに<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>らば、もそッと正しき武道に精出せよ。京弥！　菊のところへ帰ろうぞ」

快然として打ち笑いながら、夜ふけの江戸の木枯荒れる闇の中に消え去りました。