## 一

――第七話です

三十五反の帆を張りあげて行く<ruby><rb>仙台</rb><rt>せんだい</rt></ruby><ruby><rb>石</rb><rt>いし</rt></ruby>の巻とは、必ずしも<ruby><rb>唄空事</rb><rt>うたそらごと</rt></ruby>の誇張ではない。ここはその磯節にまでも歌詞滑らかに豪勢さを<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われた、関東百三十八大名の<ruby><rb>旗頭</rb><rt>はたがしら</rt></ruby>、奥羽五十四郡をわが庭に、今ぞ栄華威勢を世に誇る仙台<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>の青葉城下です。出船入り船帆影も繁き石の巻からそのお城下までへは、<ruby><rb>陸前浜街道</rb><rt>りくぜんはまかいどう</rt></ruby>を一本道に原ノ町口へ抜けて丁度十三里――まさかと思ったのに、およそ退屈男程気まぐれな風来坊も稀でした。身延から江尻の港へふらふらと降りて見たところ、三十五反の真帆張りあげた<ruby><rb>奥地通</rb><rt>おうちがよ</rt></ruby>いの千石船が、ギイギイと帆綱を<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>の風に鳴らしていたので、つい何とはなしに乗ったのが持病の退屈払い。石の巻に来て見るとこれがまた、そぞろ旅情もわびしく、なかなかにわるくないのです。ないところから、のっしのっしと浜街道を十三里ひと日にのし切って、<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>なす旅人の影に交りながら、ふらりふらりとお城下目ざして原ノ町口に姿を現しました。

<ruby><rb>陸奥路</rb><rt>むつじ</rt></ruby>は丁度夏草盛り。

しかし<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>ゆえに、夏草の上を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて夕陽を縫いながら吹き渡る風には、すでに<ruby><rb>荒涼</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>として秋の心がありました。――背に吹くや五十四郡の秋の風、と、のちの人に<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>まれた、その秋の風です。

城下に這入って、<ruby><rb>釈迦堂脇</rb><rt>しゃかどうわき</rt></ruby>から二十人町、<ruby><rb>名掛町</rb><rt>なかけまち</rt></ruby>と通り過ぎてしまえば、<ruby><rb>独眼竜伊達</rb><rt>どくがんりゅうだて</rt></ruby>の<ruby><rb>政宗</rb><rt>まさむね</rt></ruby>が世にありし日、恐るべきその片眼を以て奥地のこの一角から、雄心勃々として天下の風雲をのぞみつつ、遙かに日之本六十余州を<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>していたと伝えられる、不落難攻の青葉城は、その天守までがひと目でした。町もまたここから急に広く、繁華もまた城下第一と見え、随って旅人の群も虫の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に集るごとくに自ずと<ruby><rb>集</rb><rt>つど</rt></ruby>うらしく、両側は殆んど軒並と言っていい程の<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>ばかりです。

だから旅籠の客引きが、ここを先途と客を呼ぶのに不思議はないが、それにしてもその騒々しさと言うものはない。

「いかがでござります。エエいかがでござります。手前のところは当城下第一の旅籠屋でござります。夜具は上等、お泊り貸は格安、いかがでござります。エエいかがでござります」

「いえ、わたくしの方も勉強第一の旅籠でござります。座スクはツグの間付きの離れ造り、お米は秋田荘内の飛び切り上等、御菜も二ノ膳つきでござります。それで御泊り賃はたった百文、いかがでござります。エエいかがでござります」

「いえいえ、同ズことならわたくス共の方がよろしゅうござります。揉み療治按摩は<ruby><rb>定雇</rb><rt>じょうやと</rt></ruby>い、<ruby><rb>給仕</rb><rt>きゅうズ</rt></ruby>の女は痩せたの肥ったのお好み<ruby><rb>次第</rb><rt>スだい</rt></ruby>の<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>ばかり、物は試スにござりますゆえ、いかがでござります。<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されたと思うて御泊りなされませ。エエいかがでござります」

だが、少し奇怪でした。ほかの旅人達には、歩行も出来ぬ程客引き共がつけ廻って、うるさく呼びかけているのに、どうしたことかわが早乙女主水之介のところへは、ひとりも寄って来ないのです。客としては元より上乗、身分素姓は言うまでもないこと、お茶代宿料およそ金銭に関わることなら、お直参旗本の極印打った金の茶釜が掃く程もあるのに、目の高かるべき筈の客引き共が、この折紙つきの由々敷上客を見逃すというのは、まことに不思議と言わねばならないことでしたから、退屈男はいぶかしく思って番頭のひとりのところへのっそり近づくと、

「のう、こりゃ下郎！」

ジロリとやって貫禄豊かに、のうこりゃ下郎、とやりました。海越え山越え坂越えて、奥州仙台陸奥のズウズウ国までやって来ても、自ずと言うことが大きいから<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないのです。

「のう、こりゃ下郎！」

「………？」

「下郎と申すに聞えぬか。のう、これよ町人！」

「へ？……」

「へではない、なぜ身共ばかりを袖にするぞ？　いずれはどこぞへ一宿せねばならぬ旅の身じゃ。可愛がると申さば泊ってつかわすぞ」

「えへへ。<ruby><rb>御笑談</rb><rt>ごじょうだん</rt></ruby>で……。御縁がありましたらどうぞ。――あのもスもス！　<ruby><rb>商人衆</rb><rt>あきんどしゅう</rt></ruby>！」

対手にもせずに退屈男を鼻であしらっておいて、碌でもなさそうな商人達が通りかかったのを見かけると、

「お泊りはいかがでござります。堅いがズ慢の宿でござります。<ruby><rb>御相宿</rb><rt>おあいやど</rt></ruby>なら半値に致スまするがいかがでござりまする」

しきりと<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に揉み手をしながら、天下の御直参もまるで眼中にないもののような容子でした。

「わははは。言葉もズウズウで少し人間放れが致しておるが、旅籠もちと浮世放れ致しおる喃。いやよいわよいわ。泊めぬと申すなら泊める<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>まで参ろうぞ。――これよ。そちらの町人！　西田屋の番頭！」

襟に西田屋と染めぬいた隣りの客引きを<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にさし招くと、これもまた一興というように打ち笑みながら呼びかけました。

「そちのところも身共ばかりには、色目一つ使わぬようじゃが、やはり泊めぬと申すか。泊めて見ればこのお客、なかなかによい味が致すぞ。どうじゃ。いち夜泊めて見るか」

「いえ、あの、御勘弁下さいまし。滅相もござりませぬ。どうぞこの次に願いとうござります」

「異なことを申す奴等じゃ喃。わははは。さてはこの<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>の疵に顫えておると見ゆるな。よいよい。それならほかをばきいてやろうぞ。――白石屋！　白石屋！　そちらの下郎！」

「へえ……！」

「その方のところはどうじゃ。眉間に少し<ruby><rb>怕</rb><rt>こわ</rt></ruby>そうな疵痕があるにはあるが、優しゅうなり出したとならば、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>よりも優しゅうなる<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>ゆえ怕がらないでもよい。宿銭も二三百両が程は所持致しておるぞ。どうじゃ、泊めて見るか」

「いえ、あの相済みませぬ。どうぞ御見逃し下さいまし。手前共もこの次にお泊り願いとうござります」

なぜかしどろもどろとなって、うろたえ<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えながら、逃げるように向うへ走り去りました。――まことに奇怪と言うのほかはない。ひとりならず居合わした客引きはいずれもみな、何のかのと逃げを張って泊めようとすらもしないのです。主水之介の不審は急に高まりました。

何か仔細がなくてはならぬ。

何か秘密がなくてはならぬ。

いぶかっているとき――、

「お気の毒なことでござりまするな。旦那様、旦那様」

不意にうしろから呼びかけた声があったかと思われるや同時に、その横丁へ曲り角の<ruby><rb>千種屋</rb><rt>ちぐさや</rt></ruby>と<ruby><rb>灯行燈</rb><rt>あかりあんどん</rt></ruby>の見える旅籠の中から、揉み手をしいしい腰を低めて近づいて来たのは、すっきり垢ぬけのした年の頃もまだ若そうな番頭です。――はッと思って見眺めた刹那！　揉手はしているが眼の配りが尋常でない。腰もいんぎんに低めているが体の構えにも隙がない。しかし、そう見えたのは気のせいだったか、<ruby><rb>僻目</rb><rt>ひがめ</rt></ruby>だったか、番頭は人のよさそうな顔つきでにこにこしながら退屈男の傍へ近づいて来ると、物軟かに言いました。

「折角お越しなさいましたのに、宿がのうて御困りでござりましょう。およろしかったら手前のところにどうぞ――」

「………？」

「いえ、あの決して<ruby><rb>胡乱</rb><rt>うろん</rt></ruby>な旅籠ではござりませぬ。遙々御越しなさいました旅のお方が御泊りの宿ものうては、さぞかし御困りと存じまして申すのでござります。およろしかったら手前のところでお宿を致しまするでござります」

言うのを黙然として退屈男はじッと見守りました。やはり気のせいでもない。<ruby><rb>僻目</rb><rt>ひがめ</rt></ruby>でもない。番頭のまなざしのうちにはたしかに鋭い嶮があるのです。咄嗟のうちにそれを看破った主水之介の眼光も恐るべきだが、しかし男はさらに巧みでした。どう見ても人のよい番頭としか見えぬような、物軟かさでいんぎんに腰を低めながら促しました。

「いかがでござりましょう！　お殿様方に<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>願いますのも<ruby><rb>烏滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>がましいようなむさくるしい宿でござりまするが、およろしくば御案内致しまするでござります」

「泊るはよい。泊れと申すならば泊ってつかわすが、それにしてもちと不審じゃな」

「何が御不審でござります」

「他の旅籠では申し合わせたように身共を袖に致しておるのに、そちの宿ばかり好んで泊めようと言うのが不審じゃと申すのよ。一体どうしたわけじゃ」

「アハハハ。そのことでござりまするか。御尤も様でござります。いえなに仔細を打ち割って見れば他愛もないこと、御武家様をお泊め申せばお届けやら手続きやら、何かとあとで面倒でござりますゆえ、それをうるさがってどこの宿でも体よくお断りしているだけのことでござりまするよ」

「異な事を申すよ喃。二本差す者とても旅に出て行き暮れたならば宿をとらねばならぬ。武家を泊めなば何が面倒なのじゃ。それが昔から当仙台伊達家の家風じゃと申すか」

「いえ、御家風ではござりませぬ。そのような馬鹿げた御家風なぞある筈もござりませぬが、どうしたことやら、近頃になって俄かに御取締りがきびしゅうなったのでござります。御浪人衆は元より御主持ちの御武家様でござりましょうとも、他国より御越しのお侍さまはひとり残らず届け出ろときつい御達しでござりましてな、御届け致しますればすぐさま御係り役人の方々が大勢してお越しのうえ、宿改めやら御身分改めやら、何かと手きびしく御吟味なさったあげ句、少しなりとも御不審の節々がおありの御武家は容赦なく引っ立て、あまつさえ宿の亭主も巻添え喰って入牢させられたり、手錠足止めに出会いましたり、兎角に迷惑なことばかりでござりますゆえ、<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>らぬ神に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りなしとみなお侍様と見れば、ああして逃げを張っているのでござります」

「ヘゲタレよ喃」

「は？……」

「京ではそのような食べ物のよろしくない者共をヘゲタレと申すとよ。折があったら伊達侯に申し伝えい。時々<ruby><rb>鰻</rb><rt>うなぎ</rt></ruby>位用いたとても六十五万石の<ruby><rb>大身代</rb><rt>おおしんだい</rt></ruby>では減るようなこともあるまいゆえ、三日に一度位は油の乗った<ruby><rb>大串</rb><rt>おおぐし</rt></ruby>を充分に食して、もッと胆を練るようにとな。いずれにしても、仙台伊達と言えば加賀島津につづく大藩じゃ。ましてや独眼竜将軍の流れを汲む者が、そのようにせせこましゅうしてどうなるものぞ。では、何じゃな。そちのところはあとの迷惑面倒も覚悟の前で身共に一夜の宿を貸すと申すのじゃな」

「へえい。一夜も百夜もお貸しする段ではござりませぬ。お殿様に御不審の<ruby><rb>廉</rb><rt>かど</rt></ruby>なぞあろう筈もござりませぬゆえ、およろしくば御案内致します」

「面白い。伊達侯よりそちの方が喰い物がよろしいと見えてなかなか話せるわ。事起らばなお望むところじゃ。千夜程も逗留してつかわそうぞ。さそくに<ruby><rb>案内</rb><rt>あない</rt></ruby>せい」

だが、<ruby><rb>誘</rb><rt>いざ</rt></ruby>なっていったその千種屋が、番頭の言葉だとあまり上等ではなかろうと思われたのに、どうしてなかなか容易ならぬ上宿なのです。しかもそこの帳場に居合わした<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>なるものがまた穏かでない。年の頃は二十五六。顔から肩、肩から手、身につけている帯紐までがしいんと透き通るような寂しさを湛えて、つつましやかに乳房をのぞかせながら、二つ位のみどり児に愛の露を含ませている容子が、清楚な美しさと言うよりも、変に冷たく<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えとして、むしろ不気味な位でした。いやそればかりではなく、退屈男を番頭が案内していったのを見眺めると、ちらりと冷たく目元に不安げな色を浮べて、何か物に<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えでもしたかのごとくに眉を寄せました。

だのに番頭がまた奇怪でした。

「大事ない。大事ない。心配するな」

すぐに応じて言った言葉の横柄さ、ぞんざいなところは、番頭と思いのほかにどうやら主人らしくもあるのです。――退屈男の不審はぐっと高まりました。

他国者の武家ばかりをきびしく吟味すると言う不審。

よその宿はみな恐れをなしているのに、この千種屋ばかりは好んで客とした不審。

いざなっていった男が只の客引きかと思われたのに、亭主らしい不審。

その不審な男のひと癖ありげな眼の配り、体の構えの油断なさ。

そうして年若い<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>のしんしんと冷え渡るような寂しさに、今の脅えた<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>ざし。

「どうやら火の手はこの家から揚りそうじゃな。のう番頭！」

「は？……」

「いや、こちらのことよ。食物は諸事ずんと<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>をつくしてな。なに程<ruby><rb>高価</rb><rt>こうじき</rt></ruby>なものとても苦しゅうない。充分に用意いたせよ」

事起らばそれまた一興、不審の雲深ければさらに一興、いっそ退屈払いになってよかろうぞと言わぬばかりに、のっしのっしと通って行くと、不敵な<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>さを示して命じました。

「当家第一の座敷がよかろう。上段の間へ<ruby><rb>案内</rb><rt>あない</rt></ruby>せい」

「は。おっしゃりませいでもよく心得てでござります」

然るに対手は心得ていると言うのです。宿改め身分調べに伊達家家中の面々が押し入って来たら、直参旗本の威権を以て、その上段の間に悠然と陣取りながら、眼下に<ruby><rb>陪臣共</rb><rt>またものども</rt></ruby>を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>して、一喝の下にこれを撃退してやろうと思って命じたのに、亭主とも見え番頭とも思われるその男はさながらに、主水之介の何者であるかもちゃんと知っているかのごとくに、よく心得ていると言うのでした。いや心得ていたばかりではない、極彩色したる一間通しの四本襖に物々しく仕切られた、その上段の間へ導いて行くと、事実何もかも心得ているかのように取り出したのは、綿の十貫目も這入っているのではないかと思われるような<ruby><rb>緞子造</rb><rt>どんすづく</rt></ruby>りの、ふっくらとした<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>です。それから<ruby><rb>刀架</rb><rt>とうか</rt></ruby>に<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>――。

「その方なかなかに心利いた奴じゃな。小姓共のおらぬがちと玉に<ruby><rb>瑾</rb><rt>きず</rt></ruby>じゃ。ふっくらいたして、なかなか坐り心地がよいわい」

気概五十四郡の主を呑むかのごとくに、どっかと座を占めると、何思ったかふいッと命じました。

「板を持てッ。看板に致すのじゃ。何ぞ一枚白木の板を持って参れッ」

程たたぬまにそこへ命じた<ruby><rb>白木</rb><rt>しらき</rt></ruby>の板が運ばれたのを見すますと、たっぷり筆に墨を含ませて書きも書いたり、<ruby><rb>奔馬</rb><rt>ほんば</rt></ruby><ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を行くがごとき達筆で、<ruby><rb>墨痕</rb><rt>ぼっこん</rt></ruby><ruby><rb>淋漓</rb><rt>りんり</rt></ruby>と自ら退屈男の書きしたためたのは実に次のごとき大文字です。

「直参旗本早乙女主水之介様御宿」

「ウワハハハ、わが文字ながらなかなかに見事よ喃。これならば陪臣共もひと泡吹こうぞ。遠慮は要らぬ。なるべくひと目にかかるような店先へ早う立てい」

おどろくかと思いのほかに謎の番頭は、にたりと意味ありげな微笑をのこすと、<ruby><rb>洒然</rb><rt>しゃぜん</rt></ruby>としてかつぎ去りました。

## 二

しかし、来ないのです。

来たら退屈払いにひと泡吹かしてやろうと、<ruby><rb>朱緞子</rb><rt>しゅどんす</rt></ruby>の大座布団にふっくらと陣取りながら今か今かと待っていたのに、どうしたことか宿改めの係り役人達は、待てど暮らせどそれらしい者の姿すらも見せないのです。しかし、その夜ばかりではなく翌朝になっても、やがてかれこれもうお午近くになっても、不思議なことに退屈男の、手ぐすね引いているその上段の間を訪れた者は皆無でした。

「ほほう、ちと奇態じゃな。亭主！　亭主！　いや番頭！　番頭！」

「………」

「番頭と申すにきこえぬか」

「………」

「あい……」

やさしく消え入るように答えてそこに三ツ指ついたのは、前夜のあのいぶかしい若者ならで、ちまちまッとした<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>でした。

「そちではない。ゆうべの番頭はどこへいった」

「あの……」

「<ruby><rb>怕</rb><rt>こわ</rt></ruby>がらいでもよい。番頭に用があるのじゃ！　どこへ参った」

「ゆうべからずッとどこぞへ出かけまして、まだ帰りませぬ」

「なにッ、……異なことを申すな。あの男、時折夜遊びでも致すのか」

「いえあの、この頃になりまして、どこへ参りますやら、ちょくちょく家をあけまするようでござります」

「ほほう喃。だんだんと不思議なことが重なって参ったようじゃな。いや、よいわよいわ。掛り役人共とやらも番頭も何を致しおるか存ぜぬが、長引くだけにいっそ楽しみじゃ。ならば一つ身共も<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>してつかわそうぞ。ゆうべのあの看板を今一度ここへはずして参れ」

<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>に持参させると、前夜自ら筆をとりながら、直参旗本早乙女主水之介様御宿と書きしたためたその隣りへもっていって、墨痕あざやかに書き加えた文句というものが、また大胆というか、不敵というか、実になんとも言いようがない程に痛快至極でした。

「喧嘩口論、悪人成敗、命ノヤリトリ、<ruby><rb>白刄</rb><rt>シラハ</rt></ruby>クグリ、ヨロズ退屈凌ギトナルベキ<ruby><rb>荒事</rb><rt>アラゴト</rt></ruby>ナラバ何ナリトモ御相談ニ応ズベク候間、遠慮ノウ<ruby><rb>当館</rb><rt>トウヤカタ</rt></ruby>ヘ申出デ<ruby><rb>可然候</rb><rt>シカルベクソロ</rt></ruby>。但シ金銭謝礼ハ一切無用之事」

「わははは。これでよいこれでよい。この大網ならば夕刻あたりまでに、小鰯の一匹位かかろうわい。そのまにゆるゆる御城下見物でも致して参ろうぞ。女！　遠慮のうこの看板、元のところへ立て掛けい」

言いすてておくと、大刀をずっしりと腰にしながら、ふらりふらりと城下の街に現れました。

秋！……

秋！……

そぞろ、悲しい秋の声！　秋の色！　そうして秋の心！

颯々として背を吹きなでるその初秋のわびしい街風をあびながら、風来坊の退屈男は<ruby><rb>飄々乎</rb><rt>ひょうひょうこ</rt></ruby>としてどこというあてもなくさ迷いました。

人が通る……。

馬が通る……。

犬と駕籠が連れ立って駈けすぎました。何の不思議もないことでしたが、しかし通りすぎていった人の顔に、通りすぎていった馬の蹄に、犬にも駕籠にも<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>と言うか、緊張と言うか、言いがたい重苦しさが見えるのです。

――嵐の前の不気味な静寂！

――危機を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだ暗い殺気！

いや静寂ばかりではない。殺気ばかりでもない、不気味なその静寂の奥に、危機を孕んだ暗いその殺気の奥に、なにかこう物情騒然とした慌ただしさがほの見えました。しかも街全体が、城下全体が、何とはなく変に色めき立って見えるのです。殊に退屈男の目を強く射たものは、町々辻々を固めている物々しい人の影です。何か只ならぬ詮議の者でもがあるらしく、市中警固の係り役人共と覚しき藩士の面々が、いずれも異様な緊張ぶりを示して、あちらに一団、こちらに一隊、行く先の要所々々に佇んでいるのが見えました。

否！　否！　そればかりではない。あてもなく廻り廻って、伊達家菩提所の<ruby><rb>瑞鳳寺前</rb><rt>ずいほうじまえ</rt></ruby>までいったとき、ふと気がつくと、たしかに自分の尾行者と覚しき若侍の影がちらりと目につきました。それも三人！　五人！　八人！

「ほほう。味な御供が御警衛じゃな。だんだんと面白うなって参ったわい。――これよ！　人足！　人足と申すに！　苦しゅうない。近う参れッ。供先き許してとらすぞ。近う参れッ」

くるりうしろを向くと、あの眉間疵を冴えやかに光らして、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>するように呼びかけました。しかしその刹那！　どこかへかくれたか、もういない。

と見えたのは束の間、――ふらりふらりと歩き出すと、影を追う影のごとくに、にょきにょきとまたいずれからか姿を現して尾行し始めました。

右に廻れば右に廻り、左に廻ればうしろの影もまた左に追って、奇怪な尾行者を随えながら、のっしのっしとさしかかったのが青葉城大手前の大橋――。そこから宿のある伝馬町までへは、大町通りの広い町筋をまっすぐに一本道です。いつのまにか落ちかかった夕陽をまともに浴びながら、その通りをなおも悠然と行く程に、尾行の藩士達はだんだんと数を増して、八人が十人となり、十人が十三人となり、やがて全部では十七八人の一団となりました。しかも、いった先いった先で、伝令らしいものが<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>のごとくに駈け近づくと、何か尾行者に囁きながら、そのたびに尾行の藩士達が色めき立って、刻々に穏かならぬ気勢が高まりました。

何かは知らぬが、およそ不思議というのほかはない。謎を秘めたあの番頭が、ゆうべから姿を消したというのも不審の種です。それに関わりがあるのかないのか、宿改めの係りの役人達が姿を見せないのも大いに奇怪です。あまつさえ、城下の町々は物情騒然としているのでした。その上に何のためにか何の目的あってか、見えつ隠れつ次第に数を増して、それも血気ざかりの屈強そうな若侍達ばかりが、行く方動く方へと尾行するのです。だが、退屈男は実に不敵でした。刻一刻に高まる殺気を却って楽しむかのように、ふらりふらりと帰っていったのは宿の千種屋――。

ふと見るとその辺にも、夕陽の散り敷く町角の彼方此方に七八人の影がちらと動きました。

「ほほう、大分御念入りな御見張りじゃな。この分ならば、あの触れ看板にも二三匹何ぞ大物がかかっているやも知れぬ。――亭主！　亭主！　いや番頭！」

ずいと這入った出合い<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>――、不気味ににっこり笑って奥から姿を見せたのは、いつのまに帰って来たのか前夜のあの謎を秘めた若者です。

「御かえりなさいまし。御遊行でござりましたか」

「遊行なぞと気取った事を申しおるな。番頭風情が心得おる言葉ではなかろうぞ。そちこそゆうべからいずれを泳ぎおった」

「恐れ入ります。えへへへへへ。ちと<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>すじな向きでござりましてな。殿様も大分御退屈のようでござりまするな」

「退屈なら何といたした。身共にもゆうべのその粋筋な向きとやらを、一人二人世話すると申すか」

「御所望でござりましたら――」

「こやつ、ぬらりくらりとした事を申して、とんと<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>のような奴よ喃。退屈なればこそ、このように触れ看板も致したのじゃ。るす中に誰も参らぬか。どうぞよ」

「は、折角ながら――。それゆえおよろしくばその御眉間疵にひと<ruby><rb>供養</rb><rt>くよう</rt></ruby>――。いえ御退屈凌ぎにはまたとないところがござりますゆえ、およろしくば御案内致しまするでござります」

「奥歯に物の挟まったようなことを申しおるな。面白い。どこへなと参ろうぞ。つれて行けい」

愈々奇怪と言うのほかはない。おびき出して危地にでも陥し入れようと言うつもりからか、それとも他に何ぞ容易ならぬ計画でもあるのか突然宿の男はにったりと笑うと、退屈凌ぎに恰好な場所へ案内しようと言うのです。――出ると同時のように、あちらから二人、こちらから三人、全部では二十名近くの面々が、いずれも異常な緊張を示してにょきにょきと姿を現しながら、互いに<ruby><rb>目交</rb><rt>めま</rt></ruby>ぜをしつつ、再び退屈男のあとをつけ始めました。

それらの尾行者達をうしろに随えながら、胸にいちもつありげな宿の男が、やがて主水之介を導いていったところは、あまり遠くもない裏通りの大弓場です。

「英膳先生、御来客ですよ」

声をかけて、<ruby><rb>矢場主</rb><rt>やばぬし</rt></ruby>が出て来たのを見迎えると、宿の男が何かこそこそと囁いていましたが、――刹那、姿を見せた五十がらみのでっぷりとしたその矢場主の目の底に、きらり、鋭く光った光りの動きが見えました。しかもその体の構え、ひと癖ありげな眼の配り。――あれです。あれです。奇怪な番頭が前夜主水之介を呼びかけたとき、ちらりと見せたあの同じ鋭い眼光なのです。

だが、それと退屈男が見てとったのは束の間でした。奇怪な宿の男が、殊更に腰低く会釈しながら、自分の用はこれでもう足りたと言うように、足早く立ち去ったのを見すますと、その名を英膳と呼ばれた第二の謎の矢場主は、いかにも弓術達者の武芸者といった足取りでにこやかに近づきながら、主水之介ならぬ尾行者達に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って、不意に呼びかけました。

「丁度よいところへお越しで何よりにござります。今日は当大弓場が矢開き致しましてから満四カ年目の当り日でござりますゆえ、いつもの通り、諸公方に御競射を願い、十本落ち矢なく射通したお方を首座に、次々と順位を定め、いささかばかりの心祝いの引き出物を御景品に進上致しとうござるが、いかがでござりましょう。これから宵にかけては心気も澄んで丁度<ruby><rb>射頃</rb><rt>いごろ</rt></ruby>、御よろしくばすぐ様支度にかかりまするが、いかがでござります」

不思議な言葉でした。なにから何までがおよそ不審なことばかりです。

この大弓場にどんな退屈払いがあると言うのか？

競射をさせて、何を一体どうしようと言うのか？

いぶかっている退屈男の方をじろりじろりと流し目に見眺めながら、矢場主英膳がやがてそこに取り出したのは、それらを引き出物の景物にするらしく、先ず第一に太刀がひと<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>、つづいて小脇差が二腰、飾り巻の弓が三張り、それに<ruby><rb>南蛮鉄</rb><rt>なんばんてつ</rt></ruby>の鉄扇五挺を加えて都合十一品でした。

いずれも水引奉書に飾り立てた品々が、ずらずらとそこに並べられたのを見眺めると、胡散げに退屈男を遠巻きにしながら監視していた若侍の面々が、期せずしてざわざわとざわめき立ちました。――と見るやまもなく、つかつかと列を割って出て来たのは、一見尾行隊の隊長と覚しき分別ありげな三十がらみの藩士です。

「よし、引こう！　引いてやろうよ」

「ならば拙者も――」

言い難い誘惑だったに違いない。それをきっかけに二人三人とつづいてあとから列を割って進み出ると、いずれも競って目を輝かしながら、弓を手にとりあげました。

矢は各十本。

的は五寸。

落ちかかった夕陽が赤々と<ruby><rb>土壇</rb><rt>どたん</rt></ruby>のあたりに散り敷いて、心気もまたしんしんと澄み渡り、まことに競射にはこの上もなくお誂えの夕まぐれです。

最初にキリキリと引きしぼったのは、あの隊長らしい藩士でした。

## 三

「当り一本！」

スポッと冴え渡った音と共に、高々と呼び立てる声が揚がりました。

「当り二本！」

つづいて三本。

つづいて四本。

さすがは奥地第一の雄藩に禄を<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>む若侍だけあって、どうやらこの道の相当<ruby><rb>強</rb><rt>ごう</rt></ruby>の者らしいのです。と見えたのはしかし四本目までのことでした。五本、六本、七本目とつづいて三本は途方もないところへ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れ飛んで、八本目にようやく的中、九本目十本目は、<ruby><rb>弓勢</rb><rt>ゆんぜい</rt></ruby>弱ったか、へなへなと地を這いながら、<ruby><rb>的下</rb><rt>まとした</rt></ruby>二尺あたりのところへ果敢無いむくろを<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>しました。

入れ代って現れたのは片目の藩士です。しかし、これが射当てたのは四本でした。

「御腑甲斐のない。然らば拙者が見事にあの飾り太刀せしめてお目にかけようよ」

引き出物の景品にそそのかされでもしたかのごとく、三人目が飛び出して引きしぼったが、的中したのは同じ四本です。

「今度は手前じゃ」

「いや、拙者が早いよ。年の順じゃ。お手際見事なところを見物せい」

先を争いながら出て来た四人目がまたやはり四本でした、五人目が少し出来て五本。

「口程もない方々じゃな。お気の毒じゃが、然らば拙者があの引き出物頂戴致そうよ。指を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて見ていさっしゃい」

広言吐きながらのっしのっしと現れたのは、<ruby><rb>鎮西</rb><rt>ちんぜい</rt></ruby>の八郎が再来ではないかと思われる、六尺豊かの大兵漢です。<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>また衆に秀でていると見えて、ひと際すぐれた<ruby><rb>強力</rb><rt>ごうきゅう</rt></ruby>を満月に引きしぼりながら、気取りに気取って射放ったまでは大層もなく立派だったが、何とも笑止千万なことに的中したのはたった二本でした。その途端！

「ウフフフ。アハハハハ。笑止よ<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>。ウフフフ、アハハハ」

爆発するような笑い声があがりました。誰でもない。退屈旗本の早乙女主水之介です。同時に目色を変えて競射に夢中になっていた面々が、さッと色めき立ちました。無理もない。笑ったその笑い声というものが、直参笑いと言うか、早乙女笑いと言うか、いかにもおかしくてたまらないと言った、豪快無双の高笑いだったからです。中でも隊長と覚しき最初の射手のあの若侍が、ぐッと<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>にこたえたと見えて、<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばみながらつかつかと近づいて来ると、俄然、火蓋を切って放ちました。

「な、なにがおかしゅうござる！」

「………」

「返答聞きましょう！　何がおかしゅうてお笑い召さった」

「身共かな」

言いようがない。まことにその<ruby><rb>飄々</rb><rt>ひょうひょう</rt></ruby>悠々泰然とした落ち付きぶりというものは、何ともかとも言いようがないのです。のっそりと歩み寄ると、声からしてごく静かでした。

「御用のあるのは身共かな」

「おとぼけ召さるなッ。尊公に用あればこそ尊公に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って物を申しているのじゃ。何がおかしゅうて無遠慮な高笑い召さった」

「アハハハ。その事かよ。人はな――」

「なにッ」

「静かに、静かに。そのような<ruby><rb>力味声</rb><rt>りきみごえ</rt></ruby>出さば腹が減ろうぞ。もっとおとなしゅう物を申せい。人はな、笑いたい時笑い、泣きたい時泣くものと、<ruby><rb>高天原</rb><rt>たかまがはら</rt></ruby><ruby><rb>八百万</rb><rt>やおよろず</rt></ruby>の御神達が、この世をお造り給いし時より相場が決ってじゃ。身共とて人間ぞよ。笑ったのに何の不思議があろうかい。それとも仙台の方々は一生お笑い召さらぬかな」

「そのようなこときいているのではござらぬわッ。手前達の何がおかしゅうて馬鹿笑い召さったのじゃ」

「ははん、そのことか。江戸ではな」

「江戸が何だと申すのじゃ」

「弓は射るもの当てるもの、江戸で引いても当らぬものは<ruby><rb>富籤</rb><rt>とみくじ</rt></ruby><ruby><rb>位</rb><rt>ぐらい</rt></ruby>じゃ。第一――」

「第一何だと申すのじゃ。何が何だと申すのじゃッ」

「おぬし達のことよ。見ればそれぞれ大小二腰ずつたばさんでおいでじゃが、まさかに似せ侍ではござるまいてな」

「なにッ。似せ侍とは何を申すかッ。どこを以って左様な<ruby><rb>雑言</rb><rt>ぞうごん</rt></ruby>さるるのじゃッ。怪しからぬことほざき召さると、仙台武士の名にかけても許しませぬぞッ」

「ウフフフ。その仙台武士がおかしいのよ。ナマリ<ruby><rb>節</rb><rt>ぶし</rt></ruby>じゃかズウズウ武士じゃか存ぜぬが、まこと<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>ならば武士が表芸の弓修業に<ruby><rb>賭物</rb><rt>かけもの</rt></ruby>致すとは何ごとぞよ。その昔<ruby><rb>剣聖</rb><rt>けんせい</rt></ruby><ruby><rb>上泉伊勢守</rb><rt>こうずみいせのかみ</rt></ruby>も武人心得おくべき条々に遺訓して仰せじゃ。それ、武は<ruby><rb>覇者</rb><rt>はじゃ</rt></ruby>の道にして、心、王者の心を以て旨となす。明皎々として一点の<ruby><rb>邪心</rb><rt>じゃしん</rt></ruby>あるべからず。されば<ruby><rb>賭仕合</rb><rt>かけじあい</rt></ruby>い、賭勝負、およそ武道の本義に<ruby><rb>悖</rb><rt>もと</rt></ruby>るべき所業は夢断じて致すべからず、とな。弓は即ち剣に次ぐの表芸。さるを何ぞよ。おぬし達が先刻よりの<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby><ruby><rb>道断</rb><rt>どうだん</rt></ruby>な所業は何じゃ。笑うぞ、<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>うぞ。よろしくばもッと笑おうかい。アハハハ。ウフフ。気に入らぬかな」

<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby><ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>として士道の本義を説いての傍若無人な高笑いに、<ruby><rb>躪</rb><rt>にじ</rt></ruby>り寄った若侍は返す言葉もなく、ぐッと二の句につまりました。しかし、つまりながらもちらりと何か目交ぜを送ったかと見るまに、笑止です。居合わした二十名近くの藩士達が、いずれもプツリプツリと鯉口切りつつ、それが最初からの手筈ででもあるかのごとくに、じりじりと主水之介の周囲を取り巻きました。

「ほほう、おいでじゃな。何かは知らぬが退屈払いして下さるとは<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けない。しかしじゃ。<ruby><rb>十箭</rb><rt>とうや</rt></ruby>のうち五本も射はずすナマリ武士が、人がましゅう鯉口切るとは片腹痛かろうぞ」

「言うなッ、ほざくなッ」

つつうと進み出ると、噛みつくように言ったのは<ruby><rb>擬</rb><rt>まが</rt></ruby>い<ruby><rb>鎮西</rb><rt>ちんぜい</rt></ruby>八郎のあの大兵漢です。

「広言申して、ならばおぬし、見事に十本射当てて見するかッ」

「身共かな」

「気取った物の言い方を致さるるなッ。射て見られいッ。見事射当てるならば射て見られいッ」

「所望とあらばあざやかなところ、見物させてとらそうぞ。あるじ！　弓持てい」

然るにそのあるじ英膳が奇怪でした。仲裁でもするかと思いのほかに、用意をしながらにやりにやりと薄気味わるく笑っているのです。ばかりではない。<ruby><rb>溜漆重籐飾</rb><rt>ためぬりしげとうかざ</rt></ruby>り巻のけっこうやかなひと張りを奥から持ち出すと、ギラリ、目を光らしながら小声で囁きました。

「早乙女の御前。昔ながらのお手並、久方ぶりで存分に拝見致しまするでござります」

「なにッ」

「いえ、さ、早く御前様、お引き遊ばせと申しただけでござります。――いえ、ちょッとお待ちなされませ。陽が落ち切りましたか、急に暗うなりましたゆえ、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>の用意を致しまするでござります」

巧みに言葉を濁すと、あるじ英膳はついと身をそらしながら、灯の支度を始めました。まことに不審です。宿の表に<ruby><rb>麗々</rb><rt>れいれい</rt></ruby>と触れ看板を掲げたからには、早乙女主水之介と知っているに不審は起らないが、昔ながらのお手並久方ぶりに拝見とは、いかにも不審でした。

しかし、そのまに<ruby><rb>土壇</rb><rt>どたん</rt></ruby>のまわりは、数本の百目ろうそくが立て廻されて、赤々と輝くばかり――。

いぶかりつつも主水之介は、さッと片肌はねてのけると、おもむろに手にしたは飾り重籐、<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>としたその英姿！　<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>としたその<ruby><rb>弓姿</rb><rt>ゆんすがた</rt></ruby>！　土壇のあたり、<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>としてまばゆく照り栄え、矢場のここかしこ仙台藩士の色めき立って、打ち睨むその目、にぎりしめる<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>、一抹の殺気妖々としてたなびきながら、主水之介が手にせる重籐、キリキリとまた音もなく引き<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られたかと思われるや、ヒュウと弦音高く切って放たれたかと見るまに的は五寸、当りは黒星――。

「お見事！」

冴え冴えとした声は英膳でした。

同時に<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>としながら言った主水之介の声もわるくない。

「まずざッとこんなものじゃ。五寸の的などに十本射通すがものはなかろうぞ。あるじ、的替えい」

「はっ」

寸を縮めてつけ替えたのは三寸。

エイ、ヒョウ、サッと射て放たれた矢は、同しくプツリとまた黒星でした。

「御見事、さすがにござります！」

「何の、他愛もない。今一度寸を縮めい」

「はっ。――的は二寸――」

サラリ、土壇近くの焔がゆらめいたかと見るまに、同じくプツリ黒星！

「天晴れにござります」

「まだ早い。事のついでじゃ。一条流秘芸の重ね<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>を見せてとらそうぞ。的替えい」

英膳、<ruby><rb>鞠躬如</rb><rt>きくきゅうじょ</rt></ruby>としてつけ替えたのは一寸角の金的です。

ぐッと丹田に心気をこめて、狙い定まったか、射て放たれた矢は同しくプツリ、返す弓弦に二ノ矢をついだかと見るまに、今的中したその一ノ矢の矢筈の芯に、ヒョウと射て放たれた次のその矢が、ジャリジャリと音立てて突きささりました。

「お見事！　お見事！　英膳、言葉もござりませぬ」

「左様のう。先ず今のこの重ね矢位ならば賞められてもよかろうぞ」

莞爾としながら静かにふりむくと、自若として<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>しつつ言ったことでした。

「どうじゃ見たか。スン台武士のお歴々。弓はこうスて射るものぞ。アハハハ。江戸旗本にはな、この早乙女主水之介のごとき弓達者が掃くほどおるわ。のちのちまでの語り草にせい」

途端！――不意です。

隊長らしいあのいち人が目配せもろ共さッと一同を引き具して主水之介の身辺近くに殺到すると、突然鋭く叫んで言いました。

「隠密じゃッ。隠密じゃッ。やはり江戸隠密に相違あるまい。素直に名乗れッ」

「なに！」

まことに意外とも意外な言葉です。主水之介はにったり微笑すると泰然として問い返しました。

「なぜじゃ。身共が江戸隠密とは何を以て申すのじゃ」

「今さら<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>を切るなッ。千種屋に宿を取ったが第一の証拠じゃ。あの宿の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>こそは、われら一統が前から江戸隠密と疑いかけて見張りおった人物、疑いかかったその千種屋にうぬも草鞋をぬいだからには、旗本の名を<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>る同じ隠密に相違あるまいがなッ」

「ほほう、左様であったか。あれなる若者、何かと<ruby><rb>心利</rb><rt>こころぎ</rt></ruby>いて不審な男と思うておったが、今ようやく謎が解けたわい。なれど身共は正真正銘の直参旗本、千種屋に宿を取ったは軒並み旅籠が身共を袖にしたからじゃ。隠密なぞと軽はずみな事呼ばわり立てなば、あとにて面々詰め腹切らずばなるまいぞ。それでもよいか」

「言うなッ。言うなッ。まこと旗本ならばあのような<ruby><rb>戯</rb><rt>ざ</rt></ruby>れ看板せずともよい筈、喧嘩口論白刄くぐりが何のかのと、無頼がましゅう<ruby><rb>飄</rb><rt>ひょう</rt></ruby>げた事書いて張ったは、隠密の素姓かくす<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>であったろうがッ。どうじゃどうじゃ！　まだ四の五の申さるるかッ」

「ウフフフ、左様か左様か。笑止よ喃。あれまでもその方共には尾花の幽霊に映りおったか。あれはな、そら見い、この眉間疵よ。退屈致すと時折りこれが夜啼きを致すゆえ、疵供養にと寄進者の御越しを待ったのじゃ。慌てるばかりが能ではなかろうぞ。もそッと目の肥えるよう八ツ目鰻なとうんとたべい」

「申したなッ。ならばなにゆえ<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>げに市中をさ迷いおった。それも疑いかかった第三の証拠じゃ。いいや、それのみではない。今のひと癖ありげな弓の手の内といい、なにからなにまでみな疑わしい所業ばかりじゃ。もうこの上は吟味無用、故なくして隠密に這入ったものは召捕り成敗勝手の掟じゃ、じたばたせずと潔よう<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>に就けいッ」

「わッははは。さてさて慌てもの達よ喃。道理でうるさくあとをつけおったか。馬鹿者共めがッ。頭が高い！　控えおろうぞ！　<ruby><rb>陪臣</rb><rt>またもの</rt></ruby>の<ruby><rb>分際</rb><rt>ぶんざい</rt></ruby><ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て縛につけとは何を申すかッ。それとも参らばこの傷じゃ。幸いの夕啼き時刻、江戸で鳴らしたこの三日月傷が鼠呼きして飛んで参るぞッ」

「申すなッ、申すなッ。広言申すなッ。陪臣呼ばわりが片腹痛いわッ。われらは捕って押えるが役目じゃッ。申し開きはあとにせいッ。それッ各々！　御かかり召されッ」

<ruby><rb>下知</rb><rt>げち</rt></ruby>と共に笑止や仙台藩士、わが退屈旗本早乙女主水之介を飽くまでも隠密と疑い信じて、今ぞ重なる秘密と謎を割りながら、さッと競いかかりました。しかし笑止ながらもその陣立て陣形はさすがに見事、兵家のいわゆる<ruby><rb>黒白構</rb><rt>こくびゃくがま</rt></ruby>え、半刀半手の<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>め捕りという奴です。即ち、その半数を抜いて払って半数は無手の居捕り、左右にパッと分れながら、じりじりと詰めよりました。

だのに、今なお気味わるく不審なのはあの矢場主英膳です。敵か味方か、味方か敵か、おのが道場に今や血の雨が降らんとするのに、一向おどろいた<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見せず、何がうれしいのかにやりにやりと薄笑っているのでした。否！　それよりも不気味な位に自若としていたのは退屈男です。

「ウフフフ。黒白構えか。なかなか味な戦法よ喃。何人じゃ。ひと、ふた、みい……、ほほう、こちらに抜き身が十人、<ruby><rb>挙捕</rb><rt>こぶしど</rt></ruby>りは十一匹か。久方ぶりの退屈払いには先ず頃合いじゃ。――行くぞッ」

ズバリと叫んで、今こそまことに冴え冴えと冴えやかに冴えまさったあの眉間<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>に、<ruby><rb>凄婉</rb><rt>せいえん</rt></ruby>な笑みを<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>べつつ、ずいと前なるひとりにつめよろうとした刹那！　ばたばたと慌ただしげに駈け近づいて来た足音があったかと思うまもなく、矢場の向う横から呼び叫んだ声がありました。

「お願いでござります！　御前様！　早乙女のお殿様！　お願いでござります！　お願いでござります！」

## 四

声は誰でもない千種屋のあの青白く冷たい、<ruby><rb>秋時雨</rb><rt>あきしぐれ</rt></ruby>のような若女房でした。<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>は、その冷たく青白い面を、恐怖に一層青めながら、愛児を必死に小脇へかかえて、<ruby><rb>凝然</rb><rt>ぎょうぜん</rt></ruby>とおどろき怪しんでいる黒白隊の間をかいくぐりつつ、退屈男のところへ駈け近づくと、おろおろとすがりついて訴えました。

「お願いでござります！　夫が、夫が大変でござります。御力お貸し下されませ！　お願いでござります！」

「……⁉」

「夫が、夫が、早乙女のお殿様へ早うお伝えせいと申しましたゆえ、おすがりに参ったのでござります。今、只今、宿の表で捕り方に囲まれ、その身も<ruby><rb>危</rb><rt>あやう</rt></ruby>いのでござります。お助け下さりませ。お願いでござります！　お願いでござります！」

「捕り方に囲まれおるとは、何としたことじゃ」

「かくしにかくしておりましたなれど、とうとう江戸隠密の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>が露見したのでござります。宿改め素姓詮議のきびしい中をああしてお殿様にお泊り願うたのは、御眉間傷で早乙女の御前様と知ってからのこと、いいえ、かくしておいた隠密が露見しそうな模様でござりましたゆえ、万一の場合御力にすがろうとお宿を願うたよし申してでござります。ほかならぬ江戸で御評判の御殿様、同じ江戸者のよしみに御助け下さらばしあわせにござります。わたくし共々しあわせにござります」

「よし、相分った！　そなたが夫とは、あの客引きの若者じゃな」

「はい。三とせ前からついした縁が<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>の初めとなって、かようないとしい子供迄もなした仲でござります。お助け、お助け下さりまするか！」

「眉間傷が<ruby><rb>夕啼</rb><rt>ゆうな</rt></ruby>き致しかかったばかりの時じゃ、参ろうぞ！　参ろうぞ！　きいたか！　ズウズウ国の<ruby><rb>端侍共</rb><rt>はざむらいども</rt></ruby>ッ、直参旗本早乙女主水之介、ちと久方ぶりに退屈払いしてつかわすぞッ！　来るかッ。馬鹿者共よ喃。ほら！　この通りじゃ！　よくみい！　うぬもかッ。並んでいっぷくせい」

右へ二人、左へ三人、行く手を塞いだ四五人に、あっさり揚心流当て身の拳あてて片づけながら道を開いておくと、

「女つづけッ」

にったり打ち笑みながら、さッと駈け出しました。やらじと、前、横、うしろから藩士の面々が<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れかかろうとしたとき、――実に以外です。謎の矢場主英膳が、あの重籐の弓構えとって、突如矢場の切り戸わきに仁王立ちとなると、天にもひびけとばかり呼ばわりました。

「者共ッ、きけッきけッ。同志の身が危ういときくからは、われらも素姓知らしてやろうわ。何をかくそう、この英膳も同じその隠密じゃッ。三とせ前からこうして矢場を開き、うぬら初め家中の者共の弓の対手となっていたは、みな御老中の命によって当藩の秘密嗅ぎ出すための計りごとじゃ。――御前！　早乙女の御前！　あとは拙者がお引きうけ申したぞッ。あちらを早く！　同志を早く！　――者共ッ、一歩たりともそこ動かば、江戸で少しは人に知られた早矢の英膳が仕止め矢、ひとり残らずうぬらが<ruby><rb>咽喉輪</rb><rt>のどわ</rt></ruby>に飛んで参るぞッ」

言いつつ、射て放ったはまことに早矢の達人らしく一<ruby><rb>箭</rb><rt>せん</rt></ruby>！　二箭！　飛んだかと見るまにヒュウヒュウと藩士の身辺におそいかかりました。不意を打たれて<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>れ立つともなく足並みが紊れ立ったその隙に乗じながら、主水之介はわが意を得たりとばかりに、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>かんじ</rt></ruby>としながら女共共一散走り！

角を曲ると同時に、なるほど目を射ぬいたものは、そこの千種屋の前一帯に群がりたかる捕り方の大群でした。

街は暗い。

道も暗い。

いつしかしっとりと秋の宵が迫って、行く手は<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>は<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>れ時の夕闇でしたが、しかしその宵闇の中にたばしる剣光を縫いながら、必死とあの宿の若者の力戦奮闘している姿が見えました。――ダッと走り寄って、捕り手の小者達のうしろに颯爽として立ちはだかると、叫んだ声のりりしさ爽やかさ、退屈男の面目、今やまさに躍如たるものがありました。

「宿の若者！　助勢致してつかわすぞッ。――木ッ葉役人、下りませい！　下りませい！　直参旗本早乙女主水之介が将軍家のお手足たる身分柄を以て助勢に参ったのじゃ。わが手は即ち公儀のおん手、要らざる妨げ致すと、五十四郡が五郡四郡に減って行こうぞッ。道あけい！」

言葉の威嚇もすばらしかったが、<ruby><rb>胆</rb><rt>たん</rt></ruby>の冴え、あの眉間傷の圧倒的な威嚇が物を言ったに違いない。さッとどよめきうろたえながら雪崩れ散るように波を打って道を開いたその中を、ずいずいと若者のところへ歩み寄ると、莞爾たり！

「三とせ越し上手によく化けおったな。怪我はないか」

「おッ……。ありがとうござります。ありがとうござります。実は、実は手前、御前と同じ江戸の……」

「言わいでもいい、妻女からあらましは今きいた。何ぞよ、何ぞよ。隠密に参った仔細はいかなることじゃ」

「居城修復と届け出して公儀御許しをうけたにかかわらず、その実密々に増築工事進めおりまする模様がござりましたゆえ、矢場主英膳どのと拙者の二人が御秘命蒙り、うまうまと、三年前から当城下に入り込みまして、苦心を重ね探りましたところ、石の巻に――」

始終を語り告げているその隙に乗じて、七八名の捕り手達がうしろから襲いかかろうとしたのを、

「身の程知らずがッ、この眉間傷、目に這入らぬかッ」

ぐっとふり向いて一喝しながら威嚇しておくと、自若としながらきき尋ねました。

「石の巻に何ぞ秘密でもあったか」

「秘密も秘密、公儀<ruby><rb>御法度</rb><rt>ごはっと</rt></ruby>の<ruby><rb>兵糧倉</rb><rt>ひょうろうぐら</rt></ruby>と武器倉を二カ所にこしらえ、巧みな<ruby><rb>砦塞</rb><rt>とりで</rt></ruby>すらも築造中なのでござります。そればかりか城内二ノ<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>にも多分の兵糧弾薬を秘かに貯え、あまつさえ素姓怪しき浪人共を盛んに召し抱えまする模様でござりましたゆえ、ようやく今の先その動かぬ証拠を突きとめ、ひと飛びに江戸表へ発足しようと致しましたところを、先日中より手前の身辺につきまとうておりました藩士共にひと足早く踏みこまれ、かくは窮地に陥入ったのでござります」

「左様か、左様か、お手柄じゃ。では、先程身共を英膳の矢場へ案内していったのも、うるさくつきまとう藩士達を身共共々追っ払って、その間に動かぬ証拠突き止めようとしてのことか」

「は。その通りでござります。御前は手前等ごとき御見知りもござりますまいが、手前等英膳と二人には、江戸におりました頃からお<ruby><rb>馴染深</rb><rt>なじみぶか</rt></ruby>いお殿様でござりますゆえ、この城下にお越しを幸いと、万が一の折のお力添え願うために、お引き合せかたがたあの矢場へ御つれ申したのでござります。それもこれも藩の者共が、江戸に城内の秘密嗅ぎ知られてはとの懸念から、宿改め、武家改めをやり出しましたが御縁のもと、かく御殿様のうしろ楯得ましたからには、もう千人力にござります」

「よし、それにて<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>謎は解けた。――者共ッ、もう遠慮は要らぬぞ。これなる眉間傷の接待所望の者は束になってかかって参れッ。――来ぬかッ。笑止よ<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>。独眼竜将軍政宗公がお手がけの城下じゃ。ひとり二人は人がましい奴があろう。早う参れッ」

しかしかかって参れと促されても、三日月傷が邪魔になってそうたやすく行かれるわけがないのです。進んでは退き、尻ごみしては小者達がひしめきどよめきつつ構え直しているとき、タッ、タッ、タッと宵闇の向うから近づき迫って来たのは、まさしく蹄の音でした。知るや、どッと捕り方達の気勢があがりました。

「お目付じゃ。村沢様じゃ。お目付の村沢様お自ら出馬遊ばされましたぞッ。かかれッ。かかれッ。捕って押えろッ」

色めき立った声と共に、いかさま馬上せわしく駈け近づいて来たのは、七八人の<ruby><rb>屈強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な供侍を引き随えた老職らしいひとりです。同時に馬上から声がありました。

「捕ったかッ、捕ったかッ。――まごまご致しおるな。たかの知れた隠密ひとりふたり、手間どって何ごとじゃッ。早う召し捕れッ、手にあまらば斬ってすてろッ」

「………」

「よッ。見馴れぬ素浪人の助勢があるな！　構わぬ！　構わぬ！　そ奴もついでに斬ってすてろッ」

「控えい！　控えい！　素浪人とは誰に申すぞ。下りませい！　下りませい！　馬をすてい！」

きいて、ずいと進み出たのは主水之介です。

「無役ながらも千二百石頂戴の天下お直参じゃ！　<ruby><rb>陪臣</rb><rt>またもの</rt></ruby>風情が馬上で応待は無礼であろうぞ。ましてや素浪人とは何ごとじゃ。馬すてい！」

「なにッ？」

お直参の一語に、ぎょッとなったらしいが、しかし馬はそのままでした。と見るや退屈男は、ついと身を泳がして、傍らの捕り手が<ruby><rb>斜</rb><rt>しゃ</rt></ruby>に構えていた六尺棒を手早く奪いとるや、さっと狙いをつけて馬腹目ざしながら投げつけたのは咄嗟の早業の棒がらみです。――唸って飛んで栗毛の足にハッシとからみついたかと見えるや、馬は竿立ち、笑止にも乗り手は地に叩きつけられました。

「みい、当藩目付とあらば少しは分別あろう。早う下知して捕り方退かせい」

「………」

「まだ分らぬか。わからば元より、江戸大公儀<ruby><rb>御差遣</rb><rt>ごさけん</rt></ruby>の隠密に傷一つ負わしなば、伊達五十四郡の存亡にかかろうぞ。<ruby><rb>匆々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>に捕り方退かせて、江戸へ申し開きの謝罪状でも書きしたためるが家名のためじゃ。退けい。退かせい」

「申すなッ。隠密うける密事があらば格別、何のいわれもないのになにゆえまた謝罪するのじゃ。紊りに入国致した隠密ならば、たとい江戸大公儀の命うけた者とて、斬り棄て成敗勝手の筈じゃわッ。構わぬ、斬ってすてろッ」

「馬鹿者よ喃。まだ分らぬかッ。石の巻のあの不埒は何のための工事じゃ」

「えッ――」

「それみい、叩けばまだまだ埃が出る筈、この早乙女主水之介を鬼にするも仏にするも、その方の胸一つ出方一つじゃ。とくと考えて返答せい」

「………」

「どうじゃ。それにしてもまだ斬ると申すか。主水之介眉間に傷はあるが、由緒も深い五十四郡にたって傷をつけるとは申さぬわッ。探るべき<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>あったればこそ探りに這入った隠密、斬れば主水之介も鬼になろうぞ。素直に帰さば主水之介も仏になろうぞ。どうじゃ。とくと分別して返答せい」

「…………」

ぐっと言葉につまって油汗をにじませながら打ち考えていたが、さすが老職年の功です。

「<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けッ。者共騒ぐではない。早う退けいッ」

「わッははは、そうあろう。そうあろう。素直に退かばこの隠密とても江戸者じゃ。血もあり涙もある上申致そうぞ。さすれば五十四郡も安泰じゃ。早う帰って江戸への謝罪の急使、追い仕立てるよう手配でもさっしゃい。――若者、旅姿してじゃな。身共もそろそろ退屈になりおった。秋の夜道も一興じゃ。ぶらりぶらり参ろうかい」

「は。何から何まで忝のうござります」

歩き出そうとしたのを、ふと、しかし退屈男は気がついて呼びとめました。

「まてッ。まてまて。妻女がそこに泣いてじゃ。いたわって江戸まで一緒に道中するよう、早う支度させい」

「いえ！」

泣き濡れていた面をあげながら、<ruby><rb>凛</rb><rt>りん</rt></ruby>として言ったのはその妻女です。

「いえあの、わたくしはあとへのこります」

「なに？　なぜじゃ。末始終離れまじと誓った筈なのに、そなたひとりがあとへ残るとは何としたのじゃ」

「誓って馴れ<ruby><rb>初</rb><rt>そ</rt></ruby>めました仲ではござりますなれど、わたくしは家つきのひとり娘、御領主様の御恩も忘れてはなりませぬ。親共が築きましたる宿の差配もせねばなりませぬ。いいえ、いいえ、祖先の位牌をお守りせねばならぬわたくし、三とせ前に契るときから、江戸隠密とは承知の上で、こうした悲しい別れの日も覚悟の上で思い染め馴れ染めた仲でござります。――俊二郎さま！　お身お大切に！　坊は、この児はあなたと思うて、きっとすこやかに育てまする……。では、さようなら……、さようなら……」

「天晴れぞや。――俊二郎とやら、<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>の秋風はまたひとしお身にしみる喃」

そこへのっしのっしと来合わしたのは英膳です。

「おう。こちらも御無事で！」

「そちもか。英膳、悲しい別れをそちも泣いてつかわせ」

ひと目でことの仔細を知ったか、早矢の達人の目にも、キラリ露の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>が光りました。――吹くは風、吹くは五十四郡の秋風である