上　一

金網の張ってある<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>に両手がかゝって――その指先きに力が入ったと思うと、男の顔が窓に浮かんできた。

昼になる少し前だった。「Ｈ・Ｓ<ruby><rb>製罐</rb><rt>せいかん</rt></ruby>工場」では、五ラインの<ruby><rb>錻刀切断機</rb><rt>スリッター</rt></ruby>、<ruby><rb>胴付機</rb><rt>ボデイ・マシン</rt></ruby>、<ruby><rb>縁曲機</rb><rt>フレンジャー</rt></ruby>、<ruby><rb>罐巻締機</rb><rt>キャンコ・シーマー</rt></ruby>、<ruby><rb>漏気試験機</rb><rt>エアー・テスター</rt></ruby>がコンクリートで固めた床を震わしながら、耳を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろう</span>する音響をトタン張りの天井に反響させていた。鉄骨の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>を渡っているシャフトの<ruby><rb>滑車</rb><rt>プレー</rt></ruby>の各機械を結びつけている幾条ものベルトが、色々な角度に空間を切りながら、ヒタ、ヒタ、ヒタ、タ、タ、タ……と、きまった調子でたるみながら廻転していた。むせッぽい小暗い工場の中をコンヴェイヤーに乗って、機械から機械へ移っていく空罐詰が、それだけ鋭く光った。――女工たちは機械の音に逆った大きな声で唄をうたっていた。で、窓は知らずにいた。

――あらッ！

「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストをしていた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。

女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間から紙を受取ると、耳に窓をあてた。

――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。

男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ塀を乗り越して行く<ruby><rb>悍</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい後姿が見えた。

昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たちの<ruby><rb>疳高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い声がやかましく目立ってきた。

――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター？

――ラヴ・レターの見本か？　馬鹿に<ruby><rb>太</rb><rt>で</rt></ruby>ッかいもんでないか。

それを見ていた男工も寄ってきた。

――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。

――そうかい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">出目</span>でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな？

皆が吹き出した。

田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。

――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。

――組合のビラよ。

失業労働者大会

・市役所へ押しかけろ！

・我等に仕事を与えよ！

・失業者の生活を市で保証せよ！

仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首筋から顔をゴシ〱こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが突ッこまされていた。

――よオッ！　<ruby><rb>鉄削</rb><rt>かなけづ</rt></ruby>りやッてきたな！

連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。

――何云ってるんだ。この罐々虫！

負けていなかった。

――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ば<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつおぶし</rt></ruby>みてえに削らねェ用心でもせ！

製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったように騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方へは行かないのだ。

相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ〱階段を食堂へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ〱という声が「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに聞えてきた。

この日、Ｙの「合同労働組合」のビラは「Ｈ・Ｓ工場」へ三百枚程入った。職場々々の「<ruby><rb>職長</rb><rt>おやじ</rt></ruby>」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。

飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ〲や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めた。

## 二

「Ｈ・Ｓ製罐会社」は運河に臨んでいた。――Ｙ港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が<ruby><rb>鑿</rb><rt>ほ</rt></ruby>られている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝ<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいた。発動機船や<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>のような平らべったい<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>が、水門の橋梁の下をくゞって、運河を出たり入ったりする。――「Ｈ・Ｓ工場」はその一角に超弩級艦のような灰色の図体を据えていた。それは全く軍艦を思わせた。罐は製品倉庫から運河の岸壁で、そのまゝ荷役が出来るようになっていた。

<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の人は「Ｈ・Ｓ工場」を「Ｈ・Ｓ王国」とか、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">Ｙのフォード</span>」と呼んでいる。――若い職工は帰るときには、ナッパ服を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いで、金ボタンのついた<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>の低い学生服と換えた。中年の職工や<ruby><rb>職長</rb><rt>おやじ</rt></ruby>はワイシャツを着て、それにネクタイをしめた。――Ｙ駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「Ｈ・Ｓ工場、――約十八町」と書かれている。

Ｙ市は港町の関係上、海陸連絡の運輸労働者――浜人足、仲仕が圧倒的に多かった。朝鮮人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Ｙではそれ等を指していた。彼等はその殆んどが半自由労働者なので、どれも<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな生活をしていた。「Ｈ・Ｓ工場」の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「Ｈ・Ｓ工場」に勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたのだ。

森本は仕事台に寄っても仕事に<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>が入らなかった。――彼は今日組合のビラが<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれることは知っていたし、又そのビラが撒かれたときの「Ｈ・Ｓ工場」内の動きについて、ある会合で報告しなければならないことになっていた。だが、見ろ、こんな<ruby><rb>様</rb><rt>ざま</rt></ruby>をオメ〱と一体誰に報告が出来るものか。職工の一人も問題にしないばかりか、巡査上りの守衛から、工場長さえ取り合いもしない。ビラの代りに、工場の中に<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>か蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。「虻」と「ビラ」か！　それさえ比較にならないのだ。――そこまでくると、彼はもう張り合いが感ぜられなくなった。

職場の片隅に取付けてある十馬力の<ruby><rb>発動機</rb><rt>モーター</rt></ruby>は絶え間なく陰鬱な<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りをたてながら、眼に見えない程足場をゆすっていた。停電に備えるガソリン・エンジンがすぐ側に据えつけられている。――そこは工場の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">心臓</span>だった。そこから幹線動脈のように、<ruby><rb>調帯</rb><rt>ベルト</rt></ruby>が職場の天井を渡っている<ruby><rb>主動軸</rb><rt>メエンシャフト</rt></ruby>の滑車にかゝっていた。そして、それがそこを基点として更にそれ〲の機械に各々ちがった幅のベルトでつながっていた。そのまゝが人間の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">動脈網</span>を思わせる。<ruby><rb>穿孔機</rb><rt>ボールバン</rt></ruby>、旋盤、<ruby><rb>穿削機</rb><rt>ミーリング</rt></ruby>……が鋭い音響をたてながら鉄を削り、<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>をうがち、火花を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めかせた。

働いている職工たちは、まるで縛りつけられている機械から一生懸命に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もがい</span>ているように見えた。腰がふん張って、厚い肩が据えられると、タガネの尻を押している腕先きに全身の力が微妙にこもる。生きた骨にそのまゝ<ruby><rb>鑪</rb><rt>やすり</rt></ruby>を当てられるような、不快さが<ruby><rb>直接</rb><rt>じか</rt></ruby>に腕に伝わる。刃先から水沫のように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よ</span>れた鉄屑が散った。鍛冶場から、<ruby><rb>鋲付</rb><rt>リベッティング</rt></ruby>の音が一しきり、一しきり機関銃のように起った。

こゝは製罐部のような<ruby><rb>小刻</rb><rt>こきざみ</rt></ruby>な、一定の<ruby><rb>調子</rb><rt>リズム</rt></ruby>をもった音響でなしに、図太い、グヮン〱した音響が細い鋭い音響と入り交り、<ruby><rb>汽槌</rb><rt>スチーム・ハンマー</rt></ruby>のドズッ、ドズッ！　という地響きと<ruby><rb>鉄敷</rb><rt>かなじき</rt></ruby>の上の疳高く張り上がった音が縫って……ごっちゃになり、一つになり、工場全体が<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>と唸りかえっていた。鍛冶場の火焔が送風器で勢いよく燃え上ると、仕上場にいる職工の片頬だけが、瞬間メラ〱と赤く燃えた。

天井を縦断している二条のレールをワイヤー・プレーをギリ〱と吊したグレーンが、皆の働いている頭のすぐ上を<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い音を立てゝ渡って行った。それは鋳物場で型上げしたばかりの、機関車の車輌の三倍もある大きな奴で、ワイヤー受けの溝をほるために、横<ruby><rb>穿孔機</rb><rt>ボールバン</rt></ruby>に据えつけるためだった。

――頼むどオ！　南部センベイは安いんだ！

身体を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けながら、上へ怒鳴っている。

――まず緊縮！　文句云うな。手前一人片付けば、サバ〱するァ！

ハンドルを握っていた職工が上で<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をひッかける真似をした。

――畜生々々！

下のは大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゲサ</span>に横へ<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねた。

――上から見れア、どいつもこいつも薄汚くゴミ〱してやがる。

――少し高いところさ上ったと思って、可哀相に畜生、すぐ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ブル</span>根性を出しやがる。

――ヘン、だ。手前らを<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で一度は使っても見たくならァ。

横ボール盤の側に、四五人の職工とパンパン帽をかぶった職長が集って、ワイヤー・プレーを<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>に吊したグレーンがガラ〱と寄ってくるのを見ていた。

――オーライ！

渡り職工の職長が手を挙げた。手先きを見ていたハンドルの職工がグイと手元にひいた。グレーンがとまると、ワイヤー・プレーは余勢でゆるく揺れた。その度にチエンが、ギーイ、ギーイときしんだ。<ruby><rb>周</rb><rt>ま</rt></ruby>わりを取巻いていた職工たちが、その揺れの拍子を捕えて、丁度足場の上へ押して行った。

――レッコ、レッコ！

職長は手先きをお出で〱をするように動かした。チエンがギクシャクしながら、延びてきた。エンヤ、コラサ、エンヤ、コラサ……皆は掛声をかけ始めた。ワイヤー・プレーは底を二つの滑車にのせ、<ruby><rb>穿孔機</rb><rt>ボールバン</rt></ruby>の腕にその軸と翼を締めつけて、固定された。グレーンが<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい音をたてゝ、チエンを捲き上げた。白墨を耳に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ彼等は、据えつけた機械のまわりを歩いたり、指先きでこすってみたり、ヤレ、ヤレという顔をした。

――森本のところからは、それが<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>が手におえない大きなものを寄って、たかって引きずッているように見えた。素晴しく大きな鉄の機械の前には、人間は汚れた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">鉄クソ</span>のように小さかった。彼は製罐部の<ruby><rb>護謨塗機</rb><rt>ライニング・マシン</rt></ruby>の壊れた部分品を、<ruby><rb>万力台</rb><rt>バイス</rt></ruby>にはさんで、<ruby><rb>鑪</rb><rt>やすり</rt></ruby>をかけていた。――足場の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">乗り</span>が一分ちがったとする。その時チエンがほぐれて……。と、あの大きなワイヤー・プレーはたった一つの音もたてずに、グイと手前にのめってくる。四人の職工の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばら</span>骨が障子の骨より他愛なくひッつぶされてしまう。たった一分のちがいだとしても。二円にもならない、そこそこの日給を稼ぐために、職工は安々と命をかけている。――だのに、この職工たちは「ビラ」を鼻紙にしてしまった！

彼はマシン油で汚れた手を、ナッパの尻にゴシ〱こすった。「ま、それでもいゝだろう……！」――そして彼はフン、と鼻をならした。

## 三

終業のボーが鳴ると、皆は仕事場から一散に洗面所へ<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け出した。狭いコンクリートの壁が、女湯のような喧ましさをグヮン〱響きかえした。顔の<ruby><rb>所々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>しか写らない剥げた鏡の前で、膚ぬぎになった職工たちが、<ruby><rb>石鹸</rb><rt>せっけん</rt></ruby>の泡とお湯をはね飛ばした。悍しい肩と上膊の筋肉がその度にグリ、グリッとムクレ上った。

――馬鹿野郎め、石鹸が泣きやがる、オイ鑪でゴシ〱やってくれ。

――田中絹代さんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふられ</span>たいってね。

――オヤ〱だ、この野郎。

割り込んで来る奴を、両方のが尻と尻をくッつけて邪魔をした。

――何んだ、大きくもない<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>を！　尻を割るど、此奴！

――へえ、済みませんね、エミちゃんのお尻でなくて。

――抱くにも、抱かれぬッてとこだな。ハハヽヽヽヽヽ。

その後で、皆は<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を首にまきつけて、つッ立ったり、白い<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>の浮石鹸を手玉にしたり、待っていた。

――こん畜生、だまってると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えゝ</span>気になりやがって、<ruby><rb>棒杭</rb><rt>ぼうぐい</rt></ruby>じゃないんだど。

と、云われた奴が石鹸で顔中をモグモグさせながら、

――へえ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>人間様になったかな。俺はまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">職工さん</span>だとばかり思っていたが！

見当ちがいの方を見て、云いかえした。

申訳程の仕切りがあって、女工たちの洗面所がすぐ続いていた。洗面所にしゃがむと、女工たちの腰から下が見えた。職工たちは腰から下だけの「格好」で、誰が誰かを見分けるのに慣れていた。顔を何時までも洗っている振りをして、職工たちはそれを見ていた。

――あの三番目が「モンナミ」の<ruby><rb>彩</rb><rt>あや</rt></ruby>ちゃんだど。

工場では、Ｙ市の有名なカフエーやバーのめずらしい名前をとってきて、「シャン」な女工を呼んでいる。

――どうだいあの腰の工合は！

――あいつ、この頃めっきり大人になってきたぞ。フン！

――腰がものを云うからな。

――こっちは誰だ？

――おッと、動いたぞ。足を交えた。……いゝなア、畜生！

――オイッ！

後に立っているものが、それを見付けて、いきなり二つ並んでいる頭を両方からゴツンとやった。

――出歯亀！

女の方で何か云いながら、一度にワッ、と笑い出した。すると、こっちでもわざと声をあげた。

洗面所を出ると、出口で両方から一緒になった。帰るとき、女たちはまるッきり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">別な人</span>になって出てきた。

――お前は誰だっけな？

煙筒や汽罐の<ruby><rb>打鋲</rb><rt>リベッティング</rt></ruby>をやっている六十に近い眼の悪い、耳の遠い職工には、本当に見分けがつかない。

――プッ！　お爺さん、色気なくなったね。

そして女に背中をたゝかれた。

――お婆さんを間違わないでね。

――こん畜生！

会社は、女工が帰りに「お嬢さん」になることにも、カフエーの「<ruby><rb>女給</rb><rt>ウエイトレス</rt></ruby>」になることにも、職工が「学生」になることにも、「会社員」になることにも、黙っていた。それだけの事が出来るから、そうするので、そこには少しの差支もある<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がない。Ｙ市を見渡してみても、職工にそれだけのことの出来る待遇を与えている工場はあるまい、工場長はそう云っていた。

洗面所を出ると、狭い廊下を肩で押し合いながら、二階の「脱衣室」に上って行った。両側が<ruby><rb>廃品</rb><rt>アウト</rt></ruby>倉庫になって居り、箱が何十階のビルジングのように、うず高く積まさっていた。そこは暗かった。――女がキャッ！　と叫んだ。そこへ来ると、誰か女によく<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>した。

――この、いけすかない男！

――オイ、今日は……？

――今日？　約束があるの。

――本当か。何んの約束だ。誰と？

――これでも、ちァんとね。

――こん畜生！

<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>では、何時でも手早い「やりとり」が交わされることになっていた。

職工はよく仕事をしながら、次の持場にいる女と夜会う約束をするために、コンヴェイヤーに乗って来る罐詰に、

「ハシ、六」

と書いてやる。男は手先きだけ動かしながら、その罐が機械の向うかげにいる女の前を通って行くのを見ている。女はチラッと見つけると、それを消して、そして男に<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んでみせる。

――「六時、何時もの橋のところ」というのが、その意味だった。そういうのが幾組もある。

森本は顔をしかめた。こういう中から一体自分たちの仕事の仲間になってくれるようなものが、何人出るのだ。それを思うと、胸の下が妙に不安になり、落付けなくなった。

脱衣所の入口に掲示が出ていた。森本は始め「ホオッ！」と思った。皆が服の袖に手を通しながら、その前に立っていた。

告

皆サンモ知ッテイル通リ、本日何者カヾ当工場ニ「失業者大会」ノ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ビラ</span>ヲ撒イテ行キマシタ。云ウマデモナク最近ノ不況ハドシ〱失業者ヲ街頭ニ投ゲ出シテ居リ、ソレハ全く見ルニ忍ビナイモノサエアルノデス。然シ我工場ハ幸イニシテ、皆サンノ勤勉努力にヨッテ、ソノ些々タル影響モ受ケテイナイノデアリマス。一度工場外ニ足ヲフミ出シテ見レバ分ル通リ、当工場ハマサニ「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">Ｙノフォード</span>」タル名ニ恥シクナイ充分ノ待遇ヲ、ソノ時間ノ点カラ云ッテモ、ソノ賃銀ノ上カラ云ッテモ、皆サンニ与エテ居ルノデアリマスカラ、コノ際決シテ、カヽル宣伝ニ附和雷同セザル様、呉々モ申述ベテ置ク次第デアリマス。

右工場長

森本はそれを読むのに何故か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あせり</span>を感じて、字を飛ばした。

――チエッ！　行きとゞいてやがる！

彼はその言葉が、自分ながら不覚にも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かぶと</span>を脱いだ心のゆるみを出しているのにハッとした。彼は油っぽい形のくずれた鳥打ちを無雑作にかぶった。

工場の前の狭い通りを、その幅を一杯にみたして、職工や女工が同じ方向へ流れていた。彼はその中に入りながら、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りであることのうそ寒さを感じていた。

運河の鉄橋を渡ると、税関や波止場、水上署、汽船会社、倉庫続きの浜通りだった。――浜人夫がタオ〱としわむ「<ruby><rb>歩板</rb><rt>あゆみ</rt></ruby>」を渡って、艀から荷降しをしていた。然し所々に何人もの人夫が固まって、立っていた。それ等の労働者は瀬戸を重ねた大きな弁当を、地べたにそのまゝ置いたり、ぶら下げたり、他の人達の働いているのを見ていた。――「あぶれた」人夫達だった。

<ruby><rb>夏枯</rb><rt>なつがれ</rt></ruby>時で、港には仕事らしい仕事は一つもないのだ。市役所へおしかけようとしている連中がそれだった。岸壁につながっている艀はどの艀も死んだ鰈を思わせた。<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>に近い道端に、<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>や夏<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐って見ていた。

その「あぶれた」人足たちは「Ｈ・Ｓ工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「Ｈ・Ｓ」の職工たちは「俺らはお前たちの仲間とは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うんだぞ」という態度をオッぴらに出して、サッサと彼等の前を通り過ぎてしまった。この事は然し脱衣室の前の貼紙がなくても、そうだったのだ。

浜人足――この運輸労働者達は「親方制度」とか「現場制度」とか、色々な小分立や封建的な苛酷な<ruby><rb>搾取</rb><rt>さくしゅ</rt></ruby>をうけ、頭をはねられ、追いつめられた生活をしているので、何かのキッカケでよくストライキを起した。Ｙ市の「合同労働組合」はこれ等の労働者をその主体にしていた。しかし「Ｈ・Ｓ工場」の職工は一人も入っていないと云ってよかった。

森本はその浜の労働者のうちに知った顔を幾つか見付けた。組合で顔を合せたことのある人達だった。然し彼は今、この職工たちの中にいては、その人達に言葉をかける「図々しさ」を失っていた。

## 四

父は帰っていなかった。――六十を越している父は、彼より朝一時間早く出て行って、二時間遅く帰ってくる。陸仲仕の「山三現場」に出ていた。耳が遠くなり、もう眼に「ガス」がかゝっていた。電話の用もきかず、きまった仕事の半分も出来ないので、親方から毎日露骨にイヤな顔をされていた。然し二十年以上も勤務している手前、親方も一寸どう手をつけていゝか困りきっているらしかった。

――つらいなア……！

フッとそれが出る。朝やっぱり<ruby><rb>出渋</rb><rt>でしぶ</rt></ruby>るのだ。

――仕事より親方の顔ば見てれば、とッても……なア！

まだ暗い出掛けに上り端で、仕事着の父親がゴリ〱ッと音をさして腰をのばす。それを聞く度に彼は居たまらない苦痛を感じた。――然し彼は、何時かこの父親をもっと、もっと惨めにしてしまわなければならない事を、フト考えた。――

家の中は一日中の暑気で湿ッ気と小便臭い匂いがこもり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ムレ</span>た畳の皮がブワ〱ふくれ上っていた、汗ばんだ足裏に、それがベタ〱とねばった。

猿又一つになって机の前に坐ると、手紙が来ていた。「中野英一」というのが差出人だった。それは工場の女工だった。その女を森本はようやく見付けたのだった。そのたった「一つ」をまず足場に、女工のなかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つながり</span>を作って行かなければならなかった。彼は組合の河田からその方針について、指令をうけていた。手紙は簡単に「トニカク、クワシイ事ヲオ話シマショウ。明日八時、石切山ノ下デマッテイマス。」――書くなと云った通り、自分の名前も、<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てた森本の名も書いてなかった。

夏の遅い日暮がくると、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきていた。白い、さらしの<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパン<ruby><rb>窯</rb><rt>かまど</rt></ruby>のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけて、<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>板をガタ〱させ、走り廻っていた。何時迄も<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆうばえ</rt></ruby>を残して、澄んでいる空に、その喚声がひゞきかえった。

――腹減らしの<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>どもだ！

父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。

――どうだった、<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>ちゃの方は？

――ン？

彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程の<ruby><rb>危</rb><rt>あやう</rt></ruby>さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの分らないことに引きずり込まれたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こと</span>だと思っているらしかった。

――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。

――組合のものだべ、あれア！

父は新聞の話でもするような無関心さで云った。

――<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>事でないど、父ちゃ。今に首になればな。

父は返事をしないで、薄暗い土間にゴソ、ゴソ音をさせた。少しでも暗いと、「ガス」のかゝった眼は、まるッきり父をどまつかせた。父は裏へまわって行った。便所のすぐ横に、父は無器用な棚をこしらえて、それに花鉢を三つ程ならべていた。その辺は便所の匂いで、プン〱していた。父は家を出ると、キット夜店から値切った安い<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>を買ってくる。

――この道楽爺！　飯もロク〱食えねえ時に！

母はその度に怒鳴った。その外のことでは、ひどい<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>になることがあっても、鉢のことだと父は不思議に、何時でもたゞニヤ〱していた。――父はおかしい程それを大事にした。帰ってくると、家へ上る前に必ず自分で水をやることにしていた。仕方なく誰かに頼んで、頼んだものが忘れることでもあると、父は本気に怒った。――可哀相に、奴隷根性のハケ口さ、と森本は笑っていた。

――今日の暑気で、どれもグンナリだ。

裏で<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云っているのが聞えた。

「Ｈ・Ｓ工場」にも、少し年輩の職工は小鳥を飼ってみたり、花鉢を色々集めてみたり、<ruby><rb>規帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>にそれの世話をしてみたり、公休日毎に、家の細々した造作を作りかえてみたりする人が<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>いた。職工の一人は工場へ鉢を持ってきて、自分の仕事台の側にそれを置いた。

――花のような<ruby><rb>美人</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>ッて云うべ。んだら、これ<ruby><rb>美人</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>のような花だべ。美人の花ば見て暮すウさ。

工場に置かれた花は、マシン油の匂いと鉄屑とほこりと轟々たる音響で身もだえした。そして、其処では一週間ももたないことが発見された。

――へえ！

皆は眼をまるくした。

――で、人間様はどういう事になるんだ？

居合わせた森本がフト冗談口をすべらした。――すべらしてしまってから、自分の云った大きな意味に気付いた。

<ruby><rb>胴付機</rb><rt>ボデイメエカー</rt></ruby>の武林が小馬鹿にして笑った。

――夜店で別な奴と取りかえてくるさ。労働者はネ、<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>りどり自由ときてらア、ハヽヽヽヽヽ。

新聞社の印刷工などに知り合いを持っているアナアキストの職工だった。――

父が裏口から何か云っている。声が聞えず、動く口だけが汚れた<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>から見えた。

――お前、十五銭ばかし持ってないかな。

具合悪そうに、そう云っているのだ。

彼は又かと思った。「うん」と云うと、父は子供のような喜びをそのまゝ顔に出した。

――えゝ鉢があってナ、<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>さ出るたびに眼ばつけてたんだどもナ……！

## 五

暗くなるのを待った。その「会合」は秘密にされなければならなかった。

――活動へ行ってくるよ。

家へはそう云った。昼のほとぼりで家の中にいたまらない長屋の人達は、夕飯が済むと、家を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けッ放しにしたまゝ、表へ台を持ち出して涼んだ。小路は<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の匂いで、プン〱している。それでも家の中よりはさっぱりしていた。大抵裸だった。近所の人たちと声高に話し合っていた。若い男と女は離れた暗がりに<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいた。団扇だけが白く、ヒラ〱動くのが見えた。森本はそのなかを、挨拶をしながら表通りへ抜けた。――この町は「工場」へ出ている人達、「港」へ出ている人達、「日雇」の人達と、それ〲何処かに別々な気持をもって住んでいる。

この一帯はＹ市の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>ずれになっていた。端ずれは端ずれでも、Ｙ市であることには違いなかった。然しこのＴ町の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Ｙへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もＴ町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ〱していて、<ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>くて、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けていた。労働者の街だった。つぶれた<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>のような長屋が、足場の<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>らないジュク〱した湿地に、床を埋めている。

森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配の急な階段がせまった。彼は爪先きで<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って――階段の<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みを一つ一つ登った。粗末な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。

――誰？

上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。

――森。

――あ、ご苦労。

室一杯煙草の煙がこめて、<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のそり</span>と身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人には<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すわり</span>があるんだ、と組合のものが云っていた。

<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けになって、バットの銀紙で台付コップを<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。

――よオッ！

石川はもと「Ｒ鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそういう方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。

もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかったので、森本にはまだ親しみが出ていなかった。彼は膝を抱えて、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波のような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ〱と、しっきりなしに人達が歩いている。その足音だった。<ruby><rb>多燈</rb><rt>スズラン</rt></ruby>式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んでいた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のちがった二本の幅広い<ruby><rb>調帯</rb><rt>ベルト</rt></ruby>のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目が来ない。

――暇な人間も多いんだな。

――鈴木君、顔を出すと危いど。

河田が謄写版刷りの番号を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えていたが、顔をあげた。

――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。

――じァ、やっちまうか……。

灰皿を取り囲んで四人が坐った。

――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。

河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。

――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるように製造されたわけだ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">工場に根を持っていなかった</span>という事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Ｙをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ〲細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思うんだ。然し何より<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">組織の点</span>から云ったら、<ruby><rb>零</rb><rt>ゼロ</rt></ruby>だった。チリ〱バラ〱のところから起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ〱バラ〱だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ〱させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。

河田が「臼」を<ruby><rb>一撫</rb><rt>ひとな</rt></ruby>でした。

――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク〱浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">沈んだ仕事</span>をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならなかったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は！　と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がな</span>ってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。

――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。

石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。

――ボロ船の<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きい</span>てくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">これは何んてたって強い</span>。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジミであればあるほどいゝのだから……仲々ね。――

――それは本当だ。でねえ、僕らが何故口をひらけば「工場の沈んだ組織」と七くどく云うかと云えば、仮りにＹのような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">浮かんだ</span>労働組合を千回作ったとしても、「三・一五」が同様に千回あれば、千回ともペチャンコなのだ。それじゃ革命にも、暴動にも同じく一たまりもないワケだ。話が大きいか。ところが、こうなのだ。最近戦争の危機がせまっていると見えて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">官営</span>の軍器工場では、この不況にも<ruby><rb>不拘</rb><rt>かかわらず</rt></ruby>、こっそり人をふやしてるらしい。Ｍ市のＳ工場などは三千のところが、五千人になっているそうだ。この場合だ。僕らが、その工場の中に組織を作って行ったとする。それは勿論、表面などに「活発にも」「花々しく」も出すどころか、絶対に秘密にやって行くわけだ。そこへ<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>戦争になる。その時<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">その組織が動き出すのだ</span>。ストライキを起す。――軍器製造反対だ。軍器の製造がピタリととまる。それが例えば大阪のようなところであり、そして一つの工場だけでなかったとしたら、戦争もやんでしまうではないか。こゝを云うのだ。――然しこんなことをＹ労働組合の誰かに云ったら、夢か、夢を見てるのかと云われそうだ。がこれだけは絶対に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">今から</span>やって行かないと、<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>の頭数を集めるように、その場になって、とてもオイそれと出来ることではないんだ。

――僕らはそれをやって行こうと思っているんだ。そのために……。

――俺も<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ったよ。

石川が云った。

――職場ば離れるんでなかった。な、河田君！

――然しあの頃と云ったら、組合へ必ず出てきて、謄写版を刷って、ビラをまくことしか「運動」と云わなかったもんだ。

――そうなんだ。正直に云って、工場にじっとしていることが、良心的にたまらなかったんだ、あの頃は。

森本は初めて口を入れた。

――然し工場は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">動き</span>づらいと思うんです。大工場になると「監獄部屋」のようなことはしないんですから……。

彼は今日の工場の様子を詳しく話した。河田たちは一つ、一つ注意深くきいていた。

――それはそうだ。

と河田が言った。

――だから今迄何時も工場が後廻わしになってきたのだ。

## 六

森本は河田に云われて、「Ｈ・Ｓ工場」の地図を書いた。河田はその他に、市内の色々な工場の地図を持っていた。それからＹ市の全図を拡げて「Ｈ・Ｓ」のところに赤い印をつけた。

――水上署とは余程離れてるだろうか。

――四……四町位でしょう。

――四町ね？

――悪いところに立ってるな。

石川が顔をあげた。

――この<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の水上は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ドウ</span>猛だからな。



森本は工場について一通り説明した。――工場Ａが製罐部で、罐胴をつくるボデイ・ラインと罐蓋をつくるトップ・ラインに分れている。ボデイの方は、ブリキを切断して、円く胴をつくり、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をくっツけて締めつけ、それが空気が<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れないか、どうかを調べる。<ruby><rb>切断機</rb><rt>スリッター</rt></ruby>、<ruby><rb>胴付機</rb><rt>ボデイ・マシン</rt></ruby>、<ruby><rb>罐縁曲機</rb><rt>フレンジャー</rt></ruby>、<ruby><rb>罐巻締機</rb><rt>キャンコ・シーマー</rt></ruby>、<ruby><rb>空気検査機</rb><rt>エアー・テスター</rt></ruby>などがその機械で、トップの方は<ruby><rb>錻力圧搾機</rb><rt>プレス</rt></ruby>、<ruby><rb>波形切断機</rb><rt>スクロール</rt></ruby>、と蓋の溝にゴムを巻きつける<ruby><rb>護謨塗機</rb><rt>ライニング・マシン</rt></ruby>がある。――工場Ｂは、階下はラッカー工場で、罐に<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>を塗るところで、作業は秘密にされていた。階上は罐をつめる箱をつくるネーリング工場で、側板、妻板、仲仕切りを作っている。――出来上った罐とこの空箱が倉庫の二階のパッキング・ルームに落ち合って、荷造りされるわけである。工場Ｃは森本たちのいる仕上場になっていた。

――その外の附属は？

河田がきいた。

――実験室。これはラバー（ゴム引き）の試験と漆塗料の研究をやっています。こゝにいる人は私らにひどく理解を持ってゝくれるんです。どッかの大学を首になったッて話です。

――自由主義者ッてところだろう。

――それから製図室と云って、産業の合理化だかを研究しているところがあります。

――ホ、産業の合理化？

河田が調子の変った響きをあげた。

――「Ｈ・Ｓ工場」が始めて完全なコンヴェイヤー組織にかえられたのも、こゝの部員があずかって力があったそうです。――その時は一度に人が随分要らなくなったので、とう〱ストライキになって、職工たちが夜中に工場へ押しかけて行って、守衛をブン<ruby><rb>殴</rb><rt>な</rt></ruby>ぐって、そのコンヴェイヤーのベルトを滅茶苦茶にしてしまったことがありました。何んしろ、作業と作業の間に一分の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もない程に連絡がとれて居り、職場々々の職工たちは、コンヴェイヤーに乗って徐々に動いて来る罐が、自分の前を通り過ぎて行く間に割り当てられた仕事をすればいゝというようになってしまったのですから、たまりません。<ruby><rb>縁曲機</rb><rt>フレンジャー</rt></ruby>なども、もとは職工がついていたが、今使っている機械は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">自動化</span>されて、一人も要らなくなったんです。

――ん。

――今工場ではブリキ板を運ぶのに、トロッコを使っていますが、あれも若しコンヴェイヤー装置にでもしてしまうような事があったら、そこでも<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>人がオッ出されるわけでしょう。

――なるだろう。なるね。

――なるんです。製図室や実験室の人達には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">懸賞金</span>がかけられているんです。

――うまいもんだ。

――その人達は何時でも、アメリカから取り寄せて、モーターやボイラーの写真の入った雑誌を読んでいます。

――これから色々僕たちの仕事を進めていく上に、職工のことゝは又別に、会社の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>「高等政策」ッてものも是非必要なのだ。で、上の方の奴をその意味で利用することを考えてもらいたいと思うんだ。

森本はうなずいた。

――工場のことでも、私らの知っていることは、ホンのちょッぴりよりありません。

――そうだと思うんだ。……それでと……。

眼が腕時計の上をチラッとすべった。

――そうだな……。

疲れたらしく、石川が口の中だけで、小さく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あくび</span>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだ。

――ン、それから工場の中の対立関係と云うかな……あるだろうね。

――え……職場々々で矢張りあります。仕上場の方は熟練工だし、製罐部の方はどっちかと云えば、女工でも出来る仕事です。それで…………。

森本がそう云って、頭に手をやった。河田は彼のはにかんだ笑い顔を初めてみたと思った。角ばった、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごッつい</span>顔だと思っていたのに、笑うと<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がほころんで、眼尻に人なつッこい柔味が浮かんだ。それは思いがけないことだった。

――私らなど、何んかすると……金属工なんだぜ、と……その方の大将なんです。それから日雇や荷役方は職工と一寸変です。事務所の社員に対しては、これは<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にでもあるでしょう。――女事務員は大抵女学校は出ているので、服装から違うわけです。用事があって、工場を通ることでもあると、女工たちの間はそれア喧しいものです。

森本は声を出して笑って、

――男の方だって、さアーとした服を着ている社員様をみるとね。ところが、会社には勤勉な職工を社員にするという規定があるんです。会社はそれを又実にうまく使っているようです。ずウッと前に一人か二人を思い切って社員にしたことがあります。然しそれはそれッ切りで、それからは仲々したことが無いんですが、そういうのが変に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>いてるらしいんです。

河田は誰よりも聞いていた。鈴木は然し最後まで一言もしゃべらなかった。<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>の爪を噛んだり、頭をゴシ〱やったり――それでも所々顔を上げて聞いたゞけだった。

森本は更に河田から次の会合までの調査事項を受取った。「工場調査票」一号、二号。

河田はこうしてＹ市内の「重要工場」を充分に細密に調査していた。それ等の工場の中に組織を作り、その工場の代表者達で、一つの「組織」と「連絡」の機関を作るためだった。「工場代表者会議」がそれだった。――河田はその大きな意図を持って、仕事をやっていたのだ。ある一つの工場だけに問題が起ったとしても、それはその機関を通じて、直ちにそして同時に、Ｙ市全体の工場の問題にすることが出来るのだ。この仕事を地下に沈ませて、強固にジリ〱と進めていく！　それこそ、どんな「弾圧」にも耐え得るものとなるだろう。この基礎の上に、根ゆるぎのしない産業別の労働組合を建てることが出来る。――河田は眼を輝かして、そのことを云った。

――ブルジョワさえこれと同じことを<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>にやってるんだ。工場主たちは「三々会」だとか、「水曜会」だとか、そんな名称でチャンとお互の連絡と結束を計ってるんだ。

暗い階段を両方の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">手すり</span>に身体を浮かして、降りてくると、河田も降りてきた。

――君は大切な人間なんだ。絶対に警察に顔を知られてはならないんだからね。

森本は頬に河田の息吹きを感じた。

――「工場細胞」として働いてもらおうと思ってるんだ。

彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。

彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度も<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いた。

――工場細胞！

彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ〱と底から興奮してくる自分を感じた。

## 七

この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。

……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。

前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。

――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>等だって、ちァんと俺たちの運動の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">方向</span>をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。

――フうん、やるもんだな。

――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。

――オイ〱頼むぜ。

石川がムキな声を出した。

――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。

――また気味の悪いことを云いやがるな。

河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ〱<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて笑った。それから、

――本当だぜ！

と云った。そして腕時計を見た。

――今日は俺が先きに帰るからな。

河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に力が入った。

男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">山</span>田です。

すると、背広の男は直ぐ

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">川</span>村。

と云った。

「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河<ruby><rb>端</rb><rt>ぶち</rt></ruby>を下りて行った。少し行くと、男が、

――何処か休む処がないですか。

と云った。

――そうですね。

河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。

テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。

河田はＹ地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。

## 八

鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない！　然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか？　河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう？　――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。

理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ〱と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。

――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。

その言葉の陰は「それでも<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であることを彼は知っていた。

――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。

彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。

――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。

特高主任が其処で薄く笑った。

――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。

――…………。

――……じゃ知らせようか。

特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。

――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に云える。<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。

――…………。

――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。

――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとても<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知ることの出来ないほど、深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それに</span>裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。

――勝手なことを云え！

胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。

特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。

――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。

それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ〱と指していた。

気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>が云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分ながら<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい程そわ〱して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の云うことに<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>の刃のような鋭い神経を使っているのだ。

少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。

――君は大分宿代を<ruby><rb>滞</rb><rt>とど</rt></ruby>こらせてるんだな。

と、ニヤ〱云った。

――じゃ、君か！

彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。

――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。

それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄い<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を正方形だけはやしたその男が、<ruby><rb>四囲</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻わした。

二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。

――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。

みんな云わせずに、

――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。

と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。

彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめる</span>程酔払ってしまった。――

「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ〱と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。

二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">フイ</span>に顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">知らずに</span>本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。

彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

中　九

――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ！

二階の<ruby><rb>函詰場</rb><rt>パッキング・ルーム</rt></ruby>で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた<ruby><rb>函</rb><rt>はこ</rt></ruby>は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。

――キイ公、じらすなよ！

お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。

――ア、暗い。

ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。

――こっちだ。

男の手が肩にかゝった。

――いや。

女が身体をひいた。

――何が「いや」だって。手ば<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けれよ。

――…………。

お君は男の胸を<ruby><rb>直接</rb><rt>じか</rt></ruby>に感じながら、身体をいや〱させた。

――手ば取れッたら。な。さ。ん？

女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。

――駄目だ、人が来るど！

男はあせって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のど</span>にからんだ声を出した。お君はとう〱声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。

――上手だなア。

男が云った。

――モチ！　癖になるから、あんたとはこれでお<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いよ！

男が自由にグイ〱引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひる</rt></ruby>がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。

お君は昼過ぎになってから、然し急に<ruby><rb>燥</rb><rt>はし</rt></ruby>ゃぐことをやめてしまった。

昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ〱と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。

――ねえ！

ワザ〱お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。

――驚いッちまった！

女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。

――それがねエ！

女は口を抑えて、もっと低い声を出した。

男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。

――お金よ！　男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう？

――…………⁉

――で、その女の人一体誰と思う？

いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。

――誰だか分ったの？

――それアもう！　そういうことはねえ。

――…………？

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">芳ちゃんさ</span>！

――馬鹿な！

お君は反射的にハネかえした。

――フン、それならそれでいゝさ。

女は肩をしゃくった。

お君は一寸だまった。

――相手は？

――相手？　お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。

何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。

――でも、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――<ruby><rb>淫乱</rb><rt>すき</rt></ruby>なら<ruby><rb>無償</rb><rt>ただ</rt></ruby>でやらせらアねえ！

お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。

――馬鹿にしてる！

## 十

午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。

――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か！　よくお似合いますこと！

女工たちは露骨な反感を見せた。

――口惜しいだろう！　――女学生が入ってくると、<ruby><rb>工場</rb><rt>ここ</rt></ruby>のお嬢さん方の眼付が変るから。<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いて！

――眼付きなら、どっちがね！

――オイ、あまりいじめるなよ。たまには<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">大学生様</span>だって参観に来るんだからな。

何時でもズケ〱と皮肉なことを云う職工だった。

――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>だ！

――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……！

「芸術職工」が口を入れた。

――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。

年老った職工が聞いていられないという風に云った。

――「友食い」はやめろって！　キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア！

どんづまりは？　で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">Ｙのフォード</span>」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「Ｈ・Ｓ会社」としては、工場の設備や職工の待遇をこの位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も、その効果は更に職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">自分の</span>工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に勤めている社員の前でも一つの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">キン</span><ruby><rb>恃</rb><rt>じ</rt></ruby>をもっている。そういう社員は従って決して三井を裏切るようなことをしない。「Ｈ・Ｓ」の専務はそのことを知っていたのだ。

伝令が来た。幼年工を使ってよこした。

――来たよ。シャンがいるよ。

――キイ公、聞いたか。シャンがいるとよ。

――どれ、俺も敵状視察と行ってくるかな。

同じパッキングにいる<ruby><rb>温</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい女工が、浮かない顔をしていた。

――ね、君ちゃん、私いやだわ。女学校なら、小学校のとき一緒の人がいるんだもの。

――構うもんかい！

お君は男のような云い方をした。

――こっちへ来たら、その間だけ便所へ行ってるわ、頼んで。――本当に、どんな気で他人の働いてるのを見に来るんだか。

――何が恥かしいッて。お嬢さん面へ空罐でも<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッつけてやればいゝんだ。動物園と間違ってやがる。

――よオ！　よオ！

――何がよオだい。働いた金でのお嬢さん面なら、文句は云わない。何んだい！

――へえ、キイ公も偉くなったな。どうだい、今晩活動をおごるぞ。行かないか。月形竜之介演ずるところの、何んだけ、斬人斬馬の剣か。人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る！　来いッ、参るぞオ――だ。行かないか。

――たまには、このお君さんにも約束があるんでね。

――キイ公めっきり切れるようになったな。

お君は今晩「仕事」のことで、森本と会わなければならなかった。――

階段を上ってくる沢山の足音がした。

――さア、来たぞ‼

## 十一

その昼、森本は笠原を誘って、会社横の<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に刈り込んだ芝生に長々とのびた。――彼はこういう機会を何時でも利用しなければならなかった。笠原は工場長の助手をしていた。甲種商業学校出で、マルクスのものなども少しは読んでいるらしかった。

そこからは、事務所の前で、ワイシャツの社員がキャッチボールをやっているのが見えた。力一杯なげたボールがミットに入るたびに、真昼のもの憂い空気に、何かゞ筒抜けていくような心よい響きをたてた。側に立っていた女事務員が、受け損じると、手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ってひやかした。

が、工場の日陰の方には、子供が負ぶってきた乳飲子を立膝の上にのせて、年増の女工が胸をはだけていた。それが四五組あった。

森本は青い空をみていた。仰向けになると、空は殊更に青かった。――その時、胸にゲブゲブッと来た。森本は口の中でそれを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み直した。

――オイ！

側にいた笠原が頭だけをムックリ挙げて、森本を見た。

――……？　<ruby><rb>反芻</rb><rt>はんすう</rt></ruby>か？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">嫌な奴</span>だな。

彼は極り悪げにニヤ〱した。

森本が会社のことを色々きくのは笠原からだった。

会社は今「産業の合理化」について、非常に綿密な調べ方をしていた。然し合理化の政策それ自体には大した問題があるのではなくて、その政策をどのような方法で実行に移すかということ――つまり職工たちに分らないように、憤激を買わないようにするには、どうすればいゝか、その事で頭を使っていた。

「Ｈ・Ｓ」では、新たに採用する職工は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">必ず</span>現に勤務している職工の親や兄弟か……でなければならなかった。専務は工場の一大家族主義化を考えていた。――然しその本当の意味は、どの職工もお互いが勝手なことが出来ないように、眼に見えない「責任上の<ruby><rb>連繋</rb><rt>れんけい</rt></ruby>」を作って置くことにあった。それは更に、賃銀雇傭という冷たい物質的関係以外に、会社のその一家に対する「恩恵」とも見れた。然し何よりストライキ除けになるのだった。で、今合理化の政策を施行しようとしている場合、これが役立つことになるわけだった。

会社は更に市内に溢れている失業労働者やすぐ眼の前で動物線以下の労働を強いられている半自由労働者――浜人足たちのことを、たゞそれッ切りのことゝして見てはいなかった。そういう問題が深刻になって来れば来るほど、それが又「Ｙのフォード」である「Ｈ・Ｓ」の職工たちにもデリケートな反映を示してくるということを考えていた。――そういう一方の「劣悪な条件」を必要な時に、必要な程度にチク〱と暗示をきかして、職工たちに強いことが云えないようにする。――「Ｈ・Ｓ」はだから、イザと云えば、そういう強味を持っていた。

合理化の一つの条件として、例えば労働時間の延長を断行しようとする場合、それが職工たちの反感を<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に買うことは分り切っている。然し、軍需品を作るＳ市の「製麻会社」や、Ｍ市の「製鋼所」などでは、それが単なる「営利事業」でなくて、重大な「国家的義務」であるという風に喧伝して、安々と延長出来た例があった。――「抜け道は何処にでもある。」だから、その工場のそれ〲の特殊性を巧妙につかまえれば、案外うまく行くわけだった。――「Ｈ・Ｓ」もそうだった。

自慢じゃ御座んせぬ

製罐工場の女工さんは

露領カムチャツカの寒空に

命もとでの罐詰仕事

無くちゃならない罐つくる。

羨ましいぞえ

製罐工場の女工さんは

一度港出て罐詰になって

帰りゃ国を富まして身を肥やす

無くちゃならない罐つくる。

自慢じゃ御座んせぬ

製罐工場の女工さんは

怠けられようか会社のために

油断出来ようかみ国のために

命もとでの仕事に済まぬ。

（「Ｈ・Ｓ会社」発行「キャン・クラブ」所載。）

そういう歌や文章が投稿されてくると、会社は殊更に「キャン・クラブ」で優遇した。又、会社がこっそり誰かに作らせて、それを載せることさえした。

「Ｈ・Ｓ会社」はカムサツカに五千八百万罐、蟹工船に七百八十万罐、千島、北海道、樺太に九百八十万罐移出していた。<ruby><rb>割合</rb><rt>パーセント</rt></ruby>にして、カムサツカは圧倒的だった。

笠原は工場長のもとで「<ruby><rb>科学的管理法</rb><rt>サエンテフィック・マネージメント</rt></ruby>」や「テイラー・システム」を読ませられたり、色々な統計を作らされるので、会社の計画を具体的に知ることが出来た。日本ばかりでなく、世界の賃銀の高低を方眼紙にひかされた。――世界的に云って、名目賃銀は降っていたし、生活必需品の価格と比較してみると、実質賃銀としても矢張り下降を辿っている。「Ｈ・Ｓ」だけが何時迄もその例外である筈がなかった。又、生産力の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">強度化</span>を計るために、現在行われている機械組織がモット分業化され、賃銀の高い熟練工を使わずに、婦女子で間に合わすことが出来ないか、コンヴェイヤーがもっと何処ッかへ利用出来ないか、まだ労働者が「油を売ったり」「息を継ぐ」暇があるのではないか、箇払賃銀にしたらどうか……。職工たちがせゝッこましい工場の中のことで、頭をつッこんでグズ〱しているまに、彼等は「世界」と歩調を合せて、その方策を進めていた。

「Ｈ・Ｓ工場」の五カ年の統計をとってみると、生産高が増加しているのに、労働者の数は減っている。これは二つの意味を持っていた。――一つは今迄以上に労働者が<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られたと云うこと、一つはそれだけが失業者として、街頭におッぽり出されているわけである。コンヴェイヤーが完備してから、「運搬工」や「下働人夫」が特に目立って減った。熟練工、不熟練工との<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">人数</span>の開きも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">賃銀</span>の開きも、ずッと減っている。驚くべきことは、何時のまにか「女工」の増加したことで、更に女工が増加した頃から、工場<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">一般</span>の賃銀が眼に見えない位ずつ低下していた。――工場長は、女を使うと、賃銀ばかりの点でなく、労働組合のような組織に入ることもなく、抵抗力が弱いから無理がきく、と云っていた。

然しこれ等のことは、どれもたゞ「能率増進」とか「工場管理法」の徹底とか云ってもいゝ位のことで、「産業の合理化」という大きな掛声のホンの内輪な一部分でしかなかった。――「産業の合理化」は本当の目的を別なところに持っていた。それは「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">企業の集中化</span>」という言葉で云われている。中や小のゴチャ〱した商工業を整理して、大きな奴を益々大きくし、その数を益々少なくして行こうというのが、その意図だった。

で、その窮極の目的は、残された収益性に富む大企業をして安々と独占の甘い汁を吸わせるところにあった。そして、その裏にいて、この「産業の合理化」の糸を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">実際に</span><ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っているものは「銀行」だった。

例えば銀行が沢山の鉄工業者に多大の貸出しをしている場合、自分の利潤から云っても、それ等のもの相互間に競争のあることは望ましいことではない。だから銀行は企業間の競争を出来るだけ制限し、廃止することを利益であると考える。こういう時、銀行はその必要から、又自分が債権者であるという力から、それ等の同種産業者間に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">協定</span>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">合同</span>を策して、打って一丸とし、本来ならば未だ競争時代にある経済的発展段階を独占的地位に導く作用を営むのだ。――合理化の政策は明かに「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">大</span>金融資本家」の利益に追随していた。

毎月三田銀行へ提出する「業務報告」を書かせられている笠原は、資本関係としての「銀行と会社」というものが、どんな関係で結びつけられているか知っていた。――「Ｈ・Ｓ工場」の監督権も、支配、統制権もみんな三田銀行が握っていること、営業成績のことで、よく会社へ文句がくること、専務が殆んど三田銀行へ日参していること、誇張して云えば、専務は丁度逆に三田銀行から「Ｈ・Ｓ」へ来ている出張員のようなものであること……。こういう関係は、いずれ面白いことになりそうだ……笠原がそんなことを話した。森本はだん〱青空を見ていなかった。

産業の合理化は更に購買と販売の方にもあらわれた。資本家同志で「共同購入」や「共同販売」の組合を作って、原料価格と販売価格の「統制」をする。そうすれば、彼等は一方では労働者を犠牲にして剰余価値をグッと<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やすことが出来ると同時に、こゝでは価格が「保証」されるわけだから、二重に利潤をあげることが出来るのだった。彼等の独占的な価格協定のために、安い品物を買えずに苦しむのは誰か？　国民の大多数をしめている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">労働者</span>だった。

――要らなくなったゴミ〱した工場は閉鎖される。労働者はドシ〱街頭におッぽり出される。幸いに首のつながっている労働者は、ます〱科学的に、少しの無駄もなく<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られる。他人事ではないさ。――こういう無慈悲な<ruby><rb>摩擦</rb><rt>まさつ</rt></ruby>を伴いながら、資本主義というものは大きな社会化された組織・独占の段階に進んで行くものなのだ。だから、産業の合理化というものは、どの一項を取り出してきても、結局資本主義を最後の段階まで発達させ、社会主義革命に都合のいゝ条件を作るものだけれども、又どの一項をとってみても、皆結局は「労働者」にその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">犠牲を強いて</span>行われるものなんだ。――「Ｈ・Ｓ」だって今に……なア……。

笠原は眼をまぶしく細めて、森本を見た。

――「Ｙのフォード」も何時迄も「フォード」で居られなくなるんでないか、と思うがな。

## 十二

始業のボウで、二人が跳ね上った。笠原はズボンをバタ〱と払って、事務所の方へ走って行った。

<ruby><rb>気槌</rb><rt>スチーム・ハンマー</rt></ruby>のドズッ、ドズッという地ゆるぎが足裏をくすぐったく揺すった。薄暗い職場の入口で、内に入ろうとして、森本がひょいと窓からゴルフへ行く専務の姿を見て、足をよどました。給仕にステッキのサックを背負わしていた。拍子に、中から出てきた佐伯と身体を打ち当てゝしまった。

――失敬ッ！

――ひょっとこ<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>！

佐伯？　何んのために、こっちへやって来やがったんだ、――森本は臭い奴だと思った。

――何んだ、手前の眼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">カスベ</span>か<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>か？

――何云ってるんだ。窓の外でも見ろ！

佐伯はチラッとそれを見ると、イヤな顔をした。

――あの格好を見れ。「昭和の花咲爺」でないか。ゴルフってあんな恰好しないと出来ないんか。

――フン、どうかな……。

あやふやな受け方をした。佐伯には痛いところだった。

――実はね、安部磯雄が今度遊説に来るんだよ。……それを機会に、市内の講演が終ってから、一時間ほど工場でもやってもらうことにしたいと思ってるんだ。これは専務も賛成なんだが……。

――主催は？　……君等が呼ぶのか？

――冗談じゃない、専務だよ。

――専務が⁉

森本が薄く笑った。

――へえ、馬鹿に大胆なことをするもんだな。

――偉いもんだよ。

佐伯は森本の意味が分らず、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>真面目に云った。

専務が「社民党」から市会議員に出るという噂を森本がきいたことがあった。そんな話を持ち出してきたのも矢張り佐伯だった。その時、森本は、

――じゃ、社民党ッて誰の党なんだ。「労働者の党」ではないのか。

と云った。

佐伯が顔色を動かした。そして

――共産党ではないさ。

と云ったことがある。

会社では、職工たちが左翼の労働組合に走ることを避けるために、内々佐伯たちを援助して、工場の中で少し危険と見られている職工を「労働総同盟」に加入させることをしていた。それは森本たちも知っている。――然しその策略は逆に「Ｈ・Ｓ」の専務は実に自由主義的だとか、職工に理解があって、労働組合にワザ〱加入さえさせているとか――そういうことで巧妙に隠されていた。それで働いている多くの職工たちは、その関係を誰も知っていなかった。工場の重だった分子が、仮りに「社民系」で固められたとすれば、およそ「工場」の中で、労働者にどんな不利な、酷な事が起ろうと、それはそのまゝ通ってしまう。分りきったことだった。――森本は其処に大きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">底意</span>を感ずることが出来る。会社がダン〱職工たちに対して、積極的な態度をもってやってきている。それに対する<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">何かの用意</span>ではないか？　――彼はます〱その重大なことが近付いていることを感じた。

彼はまだ「工場細胞」というものゝ任務を、それと具体的には知っていない。然し彼は今までの長い工場生活の経験と、この頃のようやく分りかけてきたその色々な<ruby><rb>機構</rb><rt>しくみ</rt></ruby>のうちに、自分の位置を知ることが出来るように思った。――

――で、この機会に、工場の中にも社民党の基礎を作ろうと思うんだ。……仕上場の方にも一通りは云ってきた。――その積りで頼むぜ。

佐伯はそれだけを云うと、トロッコ道を走って行った。走って行きながら、ブリキを積んだトロッコを押している女工の尻に後から手をやった。それがこっちから見えた。女がキャッ！　とはね上って、佐伯の背を<ruby><rb>殴</rb><rt>な</rt></ruby>ぐりつけた。

――ぺ、ぺ、ぺ！

彼はおどけた恰好に腰を振って、曲がって行った。

佐伯は労働者街のＴ町で、「中心会」という青年団式の会を作っていた。その七分までが「Ｈ・Ｓ」の職工だった。彼は柔道が出来るので、その会は半分その目的を持っていた。道場もあった。「Ｈ・Ｓ会社」から幾分補助を貰っているらしかった。何処かにストライキが起ると、「一般市民の利益のために」争議の邪魔をした。精神修養、心神錬磨の名をかりて、明かにストライキ破りの「暴力団」を養成していたのだ。会社で「武道大会」があると、その仲間が中心になった。

森本は職場へ下りて行きながら、自分の仕事の段取と目標が眼の前に、ハッキリしてくるのを感じた。

その日家へ帰ってくると、河田の持って来た新聞包みのパンフレットが机にのっていた。歯車の<ruby><rb>装幀</rb><rt>そうてい</rt></ruby>のある四五十頁のものだった。

・「工場新聞」

・「工場細胞の任務とその活動」

表紙に鉛筆で「すぐ読むこと」と、河田の手で走り書してあった。

## 十三

――女が入るようになると、気をつけなければならないな。運動を変にしてしまうことがあるから。

河田がよく云った。――で、森本もお君と会うとき、その覚悟をしっかり握っていた。

「石切山」に待ってゝもらって、それから歩きながら話した。

胸を張った、そり身のお君は男のような歩き方をした。工場で忙がしい仕事を一日中立って働いている女工たちは、日本の「女らしい」歩き方を忘れてしまっていた。――もう少し合理的に働かせると、日本の女で洋服の一番似合うのは女工かも知れない、アナアキストの武林が、武林らしいことを云っていた。

工場では森本は女工にフザケたり、笑談口も自由にきけた。然し、こう二人になると、彼は仕事のことでも仲々云えなかった。一寸云うと、まずく<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>った。淫売を買いなれていることとは、すっかり勝手がちがっていた。小路をつッ切って、明るい通りを横切らなければならないとき、彼はおかしい程<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた。お君が<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>で、クッ、クッと笑った。――彼は一人先きにドンドン小走りに横切ってしまうと、向い小路で女を待った。お君は落付いて胸を張り、洋装の人が和服を着たときのように、着物の裾をパッ、パッとはじいて、――眼だけが森本の方を見て笑っている――近付いて来た。肩を並べて歩きながら、

――森本さん温しいのね。

とお君が云った。

――あ、汗が出るよ。

――男ッてそんなものだろうか。どうかねえ……？

薄い<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>は円く、むっつりした女の身体の線をそのまゝ見せていた。時々肩と肩がふれた。森本はギョッとして肩をひいた。

――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない？

少し行くと、<ruby><rb>氷水</rb><rt>こおり</rt></ruby>店があった。硝子の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すだれ</span>が凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。

――おじさん、冷たいラムネ。あんたは？

――氷水にする。

――そ。おじさん、それから氷水一ツ。

森本を引きずッて、テキパキと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>をきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。

――で、ねえ……。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のど</span>仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。

――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。

お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。

――友達はその女が<ruby><rb>不仕鱈</rb><rt>ふしだら</rt></ruby>だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない？　――あんただって知ってるでしょう。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">会社</span>をやめて、バアーの女給さんになったり、たまには<ruby><rb>白首</rb><rt>ごけ</rt></ruby>になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社をやめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">逆に</span>、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし！

森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女！　それが女工である！

――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。

――そうかな。

――それから一銭二銭の日給の<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためしもないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。

――二人か出てるさ。

――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。

――ふウん。

――氷水お代り貰わない？

――ん。

――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。

お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">コリ</span>がとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」「――という<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そんな云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝ<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。

――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ〱よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……

お君がクスッと笑った。

――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。

――変形ヒステリーはよかった。

森本も笑った。

彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。

――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう！

お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。

氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬるく風を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。<ruby><rb>汽罐</rb><rt>ボイラー</rt></ruby>のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。

――へえ、シャンだな。

森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。

――何云ってるんだ。

お君が云いかえした。

彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のために、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い手柄の<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行くとか、日給を上げて貰うために、<ruby><rb>職長</rb><rt>おやじ</rt></ruby>と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るものがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。

坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。

――林檎、夏蜜柑、<ruby><rb>梨子</rb><rt>なし</rt></ruby>は<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>ですか。

道端の物売りがかすれた声で呼んだ。

――林檎喰べたいな。

独言のように云って、お君が寄って行った。

他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きながら、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で真赤な林檎の皮をツヤ〱にこすると、そのまゝ皮の上から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">カシュッ</span>とかぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。

――おいしい！　あんた喰べない？

林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。

――そうだな、一つ貰おうか……。

――一つ？　一つしか買わないんだもの。

女は<ruby><rb>堪</rb><rt>こ</rt></ruby>らえていたような笑い方をした。

――……人が悪いな。

――じゃ、こっち側を<ruby><rb>一噛</rb><rt>ひとかじ</rt></ruby>りしない？

女はもう一度袂で林檎を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>うと、彼の眼の前につき出した。

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>てしまった。

――じゃ、こっち？

女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。

――……。

――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。

彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。

其処から「Ｈ・Ｓ工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が<ruby><rb>舫</rb><rt>もや</rt></ruby>っているように見えた。

この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気がした。――そして、もう自分は、河田の注意していることに陥入りかけているのではないか、とおもった。

## 十四

どれもこれも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ロク</span>な職工はいない、みんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">マヒ</span>した奴ばかりだとか――又彼等も外からはそう見えたということは、本当ではなかった。「フォード」と云っても、矢張り労働者は労働者位しかの待遇を受けていないのだ。たゞ、どっちを向いても底の知れない不景気で動きがとれないので、とにかく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しがみついて</span>いなければならなかったし、それに彼等は矢張り「Ｙのフォード」だという自己錯覚の阿片にも少しは落とされていた。

――会社を離れて話してみると、皆ブツ、ブツよ。

お君が云ったことがある。これは当っていた。たゞ、いくらそんな工合でも、彼等は誰かゞ口火を切ってくれる迄は待っているものだ、ということだった。

森本は今迄は親しい仲間と会っても、工場の問題とか、政治上の話などをしゃべったことがなかった。それは仲のよかった石川が組合に入るようになってからだった。それまでの彼は見習からタヽキ上げられた、女工の尻を追ったり、白首を買ったり、女の話しかしない金属工でしかなかった。――然し、今度彼がその変った意識で以前のその仲間に話しかけると、不思議なことには、その同じ<ruby><rb>猥談</rb><rt>わいだん</rt></ruby>組の仲間とは思われない答を持ってやってきた。それを見ても、今迄誰も彼等のうちにある意識にキッカケを与えなかったことが分る。彼等は皆自分の生活には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">細かい計算</span>を持っていた。一日一銭のこと、会社の消費組合で買う<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">するめ</span>の値が五厘高いというので、大きな喧嘩になるほどの議論をするのだ。

月々の掛金や保険医の不親切と冷淡さで、彼等は「健康保険法」にはうんざりしていた。そればかりか、「健保」が施行されてから、会社は職工の私傷のときには三分の二、公傷のときには全額の負担をしなければならないのをウマク逃れてしまっていた。「健保は当然会社の全負担にさせなければならない<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>のもんだ。」――誰にも教えられずに、職工はそう云っていた。

「工場委員会」も職工たちには「狸ごッこ」だとしか思われていない。「おとなしい」「我ン張りのない」職工を会社が勝手にきめて、お座なりに開くそんな「工場委員会」に少しも望みをつないでいなかった。

今迄一人の女工も使っていないボデイ・ラインを、賃銀の安い女工で置きかえるかも知れないというので、職工は顔色をなくしていた。――

表面の極く何んでもなさにも不拘、たったこれだけを見ても森本はうちにムクレ上がっている、ムクレ上がらせることの出来る力を充分に感ずることが出来た。

森本は毎朝工場へ出掛けて行く自分の気持が、――今迄とは知らないうちに変ってきているのを発見した。寒い朝、肩を前にこごめ、首をちゞめて、ギュン〱なる雪を踏んで家を出るときは、彼は文字通り奴隷である惨めさを感じた。朝のぬくもっている床の中に、足をゆっくりのばして、もう一時間でいゝ寝て居れないものか、と思った。――朝が早いので、まだ細い雪道を同じ方向へ一列に、同じ生気のない恰好をして歩いている<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>のような労働者たちのくねった長い列をみていると、これが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">何時</span>、あの「ロシア」のような、素晴しい力に結集されるのか、と思われる。その一列にはたゞ鎖が見えないだけだった。陰気な囚人運動を思わせた。

だから彼は工場でも仕事には自分から気を入れてやった事がなかった。彼はもっと出世して「社員」になろうと、一生懸命に働いたことがあった。然しいくら働いても、社員にしてくれないので、彼は十九頃から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけ</span>を起していた。殊に、そこでは人間が機械を使うのではなくて、機械が何時でも人間をへばりつかせていた。人間様が機械にギュッ〱させられてたまるもんかい、彼はだらしなく、<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をしている方がましだと思っていた。――猫を何匹も飼っている婆の顔がだんだん猫に似てくるが、それと同じように、今にお前たちは機械に似てくるぞ、と森本はしゃべって歩いた。工場の轟音のなかで話している彼等は、<ruby><rb>金剛砥</rb><rt>グラインダー</rt></ruby>が鉄物に火花を散らすような声でしか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>が云えない。彼等の腰は機械の据りのようなねばりと適確さを持っている。彼等の厚い無表情は鉄のひやゝかな黒さに似ている。彼等の指の節々は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たがね</span>の堅さを持っている。彼らはそして<ruby><rb>汽槌</rb><rt>スチーム・ハンマー</rt></ruby>のような意志を持っていた。――この労働者の首ッ根にベルトがかゝれば、彼等は旋盤がシャフトを削り、ボール盤が穴を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ち、セーパーやステキ盤が鉄を平面にけずり、ミーリングが歯車を仕上げると同じそのまゝの力を出す。ハンドルを握った労働者の何処から何処までが機械であり、何処から何処までが労働者か、それを見分けることは誰にも困難なことだった。

そこでは、人間の動作を決定するものは人間自身ではない。コンヴェイヤー化されている製罐部では、彼等は一分間に何十回手先きを動かすか、機械の廻わりを一日に何回、どういう速度でどの範囲を歩くかということは、勝手ではない。機械の回転とコンヴェイヤーの速度が、それを無慈悲に決定する。工場の中では「職工」が働いていると云っても、それはあまり人間らしく過ぎるし、当ってもいない。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">働いているものは</span>機械しかないのだ。コンヴェイヤーの側に立っている女工が月経の血をこぼしながらも、機械の一部にはめ込まれている「女工という部分品」は、そこから離れ得る筈がなかった。

このまゝ行くと、労働者が機械に似てゆくだけではなしに、機械そのものになって行く、森本にはそうとしか考えられない。「人造人間」はこんな考えから出たのだろう。職工たちは「人造人間」の話をすると、イヤがった。――誰が機械になりたいものか。労働者はみんな人間になりたがっているのだ。――

森本は自分たちの「仕事」をやるようになり、色々なことが分ってくると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">その</span>工場が今更不思議な魅力を持ってきたのだ。――朝出るとき、今日は誰にしようかを決める。その仲間の色々な性質や趣味や仕事から、どういう方法で、どんな話から近付いて行ったらいゝか、家へブラッと遊びに行ったらいゝか……そんな事を考えながら家を出て行くと、自分の前や後を油で汚れたナッパ服を着て、急いでいる労働者がどれも何時か自分達の「仲間」になる者達ばかりだ、と思われる。――それは今迄のジメ〱と陰気な考えを、彼から捨てさせた。

彼は河田や石川の指導のもとに、班を二つに――男工と女工に分け、男工は彼が責任者になり、女工の方はお君が当り、その代表者だけが「二階」で河田たちと連絡をとり、そこで重要な活動の方法を決定して行くことにきめた。

その各班では基礎的な直ぐ役立つ経済上や政治上の知識を得るために、小さい「集り」を持つことにされた。

その初めに、河田が中央の指導者の書いた短い文章を森本に読んできかせた。――それはある地方の一小都市にいる同志に与えたその指導者の手紙の形をとっていた。

「……通信によれば、君は貴地で労働者の研究会を組織することに成功したと云うではないか。僕はすっかり嬉しくなっている。然かも××鉄工所の労働者が七名も参加しているとは何んと素晴しいことだ。たしかに、その××鉄工所は貴地に於ける一番大きな工場だ。大したもんだ。タッタ七名！　誰がそんな軽蔑した言葉を発するのだ。若し我々が何千名と云う工場で、而も懐柔政策と弾圧とで金城鉄壁のような工場に、一人でもいゝ資本の搾取に反対して<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>とうとする労働者を友人とすることが出来たら、我々はもうそれだけで、この工場の半ばを獲得したも同様なのだ。――要は如何にして、その獲得へ到達するかである。我々の与える政策が正しいなら、<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>は急速に開けて行くだろう……。

「で、その研究会だが、君は九人の労働者を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">物識り</span>に仕立てようとしているのではないだろう。若しそうだとすれば、それは一応労働運動や社会運動やマルクスの経済学を先ず理解させて、然る後組織し、闘争するというあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">有名な</span>、陳腐な、そして何時でもシタヽカの失敗と精力の濫費を重ねて来たようなやり方でなしに、――今、その地の労働者は、資本家に対して如何なる不平を持っているか。殊に××鉄工所の労働者の労働条件はどうか。現在持っている労働者の不平をどんな要求に結びつけて闘争を煽動すべきか、という形で進められるべきで、そうしたならばその集会は物識り研究会から、すっかり様子をかえてくる。現実に<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きた興味をもって活気が起きてくるのだ。」

――僕等はもうその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">有名な</span>失敗に足をふみ入れかけていたんではないかな。

それはもう少し続いていた。

「例えば、××鉄工所に闘争激発のために、アジテエションのビラ等を持ち込む場合、その七名の労働者を矢面に立てることは断じて得策でない。それはまだ事の初まらない前に、我々の工場に於ける芽を敵のために刈り取られることを意味しているからである。かゝる仕事は当該工場の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">外部のもの</span>が担当するのが最もいゝ。そして工場内の労働者はそのビラが工場内でどのような反響を起したか、何人の共鳴者があったかを、その晩の研究会での報告者の役目をつとめる。で、今日の工場内の動揺に対して、次にはどういう形で更にアジテエションが与えられねばならぬか、新たに出来た工場内の共鳴者は逃がさず捕えて、どんな風に組織を進めてゆくか……等、集会は全く活気を呈するに至るだろう……。」

――これは全く正しい。

と河田は云った。

――危なかったな。僕等もこの線に沿って行かけなればならない。

## 十五

ドンナ困難があろうと、何より先きに「工場新聞」が発行されなければならなかった。プロレタリアの新聞は「宣伝、煽動」の機関であるばかりでなく、同時に集合的な「組織者」の役目を持っていた。

工場新聞は工場内の労働者が自分で体得した日々の経験、工場内の出来事、偽瞞的な政策等を分り易く、具体的に暴露して、それにマルクス主義的な解答を与え、漸次彼等を階級意識に目覚めさせて行く任務を持っていた。――だが、この新聞の持つ究極の意味は、それによってプロレタリアの党（共産党）の影響を深く工場の労働者大衆の中に浸透させ、やがては党を工場の基礎の上に建設する目的をもっていた。河田の努力の本当の目的はこゝにあった。然しそれはまだ誰も知っていなかった。

「Ｈ・Ｓ工場」の場合、工場新聞は謄写版刷りで、「Ｈ・Ｓニュース」として出すことにした。河田は沢山の先輩の例で、自分のように離れた立場にいるものが、その目当てとしている工場の中の具体的な事実も知らずに、何時でも極まり文句の抽象的なことばかり書いて、それが工場の中の誰にも飽かれたことのあるのを知っていた。だが、彼は森本やお君と共同の知識を使って作れるのだった。河田は又、他の鉄工場、ゴム工場、印刷工場にも同じ計画を進めていた。

「Ｈ・Ｓニュース」が出る。それは小型でもいゝ。労働者にむさぼり読まれ、そして愛され、親しまれるようなものでなければならない。中に挿入されてある漫画や似顔絵は、労働者にニュースを取ッ付き易いものにするだろう。工場長の似顔が素晴しくそっくりだったら、どうだろう。長いクドイ、ゴツ〱した論文はやめよう。そんなものは労働者は読まないから……、河田は自分の子供でも産まれるのを、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>のグリ〱で数えるような喜びをもって、そのニュースを空想することが出来た。

「Ｈ・Ｓニュース」の発行で、森本と工場の多くの職工たちの関係が、今迄のような漠然とした、弱い不充分なものでなくなるし、更に優れた「工場細胞」をそれ等のなかゝら見付け出すことも出来るようになる。「ニュース」はその他にも大きな任務を持っていた。「Ｈ・Ｓ会社」は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">会社の</span>雑誌として、「キャン・クラブ」を定期に発行していた。それは何処の会社でもそうであるように、<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>には一人の職工をも加えず、集った原稿は社員だけで勝手に処理し、更に工場長が眼を通して、会社の利益に都合の悪いものを除ける。こういう御用新聞の持つ欺瞞的な記事、逆宣伝、ブルジョワ的な教化に対して、「Ｈ・Ｓニュース」は絶え間なく、抗争し、暴露し、それを逆に利用して「鼻をあかして」行かなければならなかった。

「キャン・クラブ」に投稿するには<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>でもいゝので、表立って云えないことをドシ、ドシ書いてくるらしかった。

――こんなことを考えている職工が居るのかと思うほど、凄いことを書いた原稿がくるんだ。と編輯をしている社員が云っている。

それがウソでないことは、河田も知っていた。Ｙ港に帝国軍艦が二十数隻入ったことがある。旗艦である「陸奥」はその艦だけの「新聞」を持っていた。新聞はこんなに色々な場合に使われる！　その編輯をしていた士官が、「原稿は余るほど集まるが、いゝ原稿が無いんで――埋合せに大骨だ。」と云っていた。「兵卒ッて無茶なことを書くんでね。」

河田はそれを聞いたとき、思わず俺の眼がギロリと光ったよ、と石川に云ったことがあった。

――帝国軍艦だぜ！　喜んだなア、中には矢張り居るんだ！

「ニュース」はその「凄いこと」を書く奴を、その「無茶なこと」を書く奴を、砂の中に交っていても、その中から鉄片を吸いつける磁石のように吸いつけなければならなかった。

三カ月すると、女工で集会に出てくるのが四人になった。男の方より一人しか少なくなかった。

お君と芳ちゃんがその中心だった。――「Ｈ・Ｓニュース」は、それで用心深く九枚しか刷られなかった。「集り」で、女工たちにちっとも退屈させないで、面白くやってのける鈴木がみんなに喜ばれた。

――鈴木は最近馬鹿に積極的になった。

と河田が云った。それから、

――女がいるからかな？

と笑った。

仲間が一人増せば、ニュースは一枚だけ増刷りされた。集会にきている職工たちから、「手渡し」で見当をつけた一人に渡された。――白蟻のように表面には出ずに、知らないうちに露台骨をかみ崩していて、気付いた時にはその巨大な家屋建築がそのまゝ倒壊してしまわなければならなくなる白蟻を、そのニュースは思わせた。

――これからの運動は、街へ出てビラを撒いたり、演説をしたりすることではないんだぞ。

河田は少し意識のついた若い職工が、ジリ〱し出すのを見ると、それを強調しなければならなかった。

――これからニュースを五年続けてゆく根気が絶対に必要なんだ。

「Ｈ・Ｓニュース」には安部磯雄と専務が握手をして、後手でこっそり職工の首を絞めている漫画が出た。「狐会議」が開かれている。大テーブルを囲んで、狐の似顔にされた工場長以下職長、社員が、職工に「馬の糞」の金を握らしている。それが「工場委員会」だった。「共済会」の基金や「健保」の掛金が何処にどう、誰の利益のために<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">流用</span>されているか。――<ruby><rb>香奠</rb><rt>こうでん</rt></ruby>や出産見舞に職工が一々「礼状」を書かせられて、食堂の入口に貼られるカラクリが嘲笑された……。

そのどれもが、会社を「Ｙのフォード」だと思っていた職工を驚かした。

## 十六

――嫌になるな、君。お君と河田が変なんだぜ。

集会の帰り、鈴木が不愉快げに云った。森本はフイに足をとめた。――彼は前から、工場でもお君にキッスをしたというものが二人もいるのを知っていた。然し、それは如何にも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>お君らしく思われ、不思議に気にならなかった。が、それが河田と！　と思うと、彼は足元が急にズシンと落ちこむのを感じた。

――河田ッて、実にそういうところがルーズだ。

――…………。

然しそういう鈴木が本当はお君を恋していた。彼は自分の「最後の<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>」がお君だと思っていたのだった。彼はもう警察の金を二百円近くも、ズル〱に使ってしまっていた。彼は自分の惨めさを忘れなければならなかった。あせった。然しその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もがき</span>は彼を更につき落すことしかしなかった。足がかりのない泥沼だった。――そして、今、彼は最後のお君までも失ってしまった。何んのために、自分は「集会」であんなに一生懸命になったのだ！　――こうなって彼は始めて自分の道が今度こそ本当に何処へ向いているかを、マザ〱と感じた。夜、<ruby><rb>盗汗</rb><rt>ねあせ</rt></ruby>をかいたり、恐ろしい夢を見るようになった。

四五日してからだった。

――芳ちゃんが、とても誰かに参っちまってるのよ。

とお君はいたずらゝしく笑った。

――そしてクヨ〱想い悩んでるの。それアおかしいのよ。で、私云ってやったの。あんた一体「お嬢さん」かッて。月を見ては何んとか思い、花を見ては……なんて、お嬢さんのするこッた。思ってることをテキパキと云って、テキパキと片づけてしまいなさいって、ね。

――君ちゃんらしいな！

と森本は淋しく笑った。

――そんなことで、仕事がおかしくなったら大変でしょう。私その人に云ってあげるから……キッスして貰いたかったら、キッスして貰おうし……そしたら仕事にも張り合いが出来るんでないの、と云ってやった。そしたら、とてもそんな事、恥かしくッてと。――どう？

お君は遠慮のない大きな声を出した。こういう云い方が、みんな河田から来ているのではないかと、フト思うと、彼は苦しかった。

――恥かしいなんて、芳ちゃん何だか、お嬢さん臭いとこあってよ。

お君を男にすれば河田かも知れない、森本はその時思った。――河田が若し恋愛をするとすれば、それは「仕事と同じ色の恋」をするだろうと皆冗談を云った。それは彼が恋をしたって、彼の感情の上にも、いわんや仕事の上にも少しの狂いも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずり</span>も起らないだろうという意味だった。

お芳の想っている相手が誰か、お君は云わなかった。

下　十七

その夏は暑かった。しかし秋は雨と氷雨が代り番に続いて、港街が荒さんだ。冬がくると、秋のあとをうけて、今度は天候がめずらしくよかった。が、天気が続けば、除雪の仕事もなくなって、労働者は<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せなければならない。

港の労働者の生活はその上、政府の緊縮政策のために、更にドン底に落ち込ませられた。――「親方制度」「歩合制度」の手工業的な搾取方法を昆布巻きのように背負込んでいる労働者たちは、仮りに港に出て稼げても、手取りは何重にも削り取られて、半分になって入ってきた。歩合制度になっていながら、親方は「水揚げ高」（取扱高）の公表もせずに、勝手にごまかして、そのゴマかした高の何割しかくれなかった。金菱が石炭現場に<ruby><rb>積込機械</rb><rt>コンヴェイヤー</rt></ruby>を据えつけてから、パイスキを担いでいたゴモが五十人も一かたまりに失業した。

女房たちは家の中にジッとして居れなくなった。然しポカンと炉辺に坐っていれば、坐ったきりで一日中そうしていた。呆けたようになっていた。何も考えていなかった。――台所に立って行く。然し台所に行けば、何んのために立って行ったのか、忘れていた。一所にいることが出来ない。何か心の底で終始せき立てられていた。――女房たちは、夫の稼いでいる運河のある港通りへ出てきた。

日暮れまでいて、帰りに女房たちは親方へ寄った。幾らでも貸して貰いたかった。

――<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>じゃない！

受付から親方が顔を出した。

――この不景気をみてくれ。こっちが第一喰えないんだ。

そう云われても、女房たちは受付の手すりに<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をかけたきり、だまっていた。帰ることを忘れていた…………。

「Ｈ・Ｓ工場」の窓から、澱んだ運河を越して、その群れが見えた。――浜が騒がしくなった。「Ｙ労働組合」はそれ等の間を縫って活動していた。不穏なストライキが起るのは、たゞ「きっかけ」だけあればよかった。組合はそれに備える充分の連絡と組織網を作って置かなければならなかった。

「工場代表者会議」が緊急に開かれた。それはこの場合二つの意味をもっていた。――運輸労働者が一斉に<ruby><rb>蹶起</rb><rt>けっき</rt></ruby>したとしても、Ｙ市の「工場労働者」がその闘争の外に立つことは、他の何処の市でもそうであるように分りきっていた。それをこの「工代」の力によって、全市のストライキに迄発展させなければならなかった。一つは「Ｈ・Ｓ工場」の最近の動揺についてゞあった。

四つの鉄工場から六人、三つの印刷工場から三人、二つのゴム工場から四人集った。それは各々背後にその工場の何十人かの意見を代表していた。

その中に、森本が見習工のとき廻って歩いていた鉄工場の仲間が二人もいた。

――やっぱり俺達はな……！

と云って、お互いに笑った。

「工代」をこのくらいのものにするのに、河田たちは半年以上ものジミな努力をしてきていた。――で、

「Ｈ・Ｓ会社」は<ruby><rb>戦々兢々</rb><rt>せんせんきょうきょう</rt></ruby>としていた。社員も職工も仕事が手につかなかった。――それは三田銀行が日本の一流銀行である金菱銀行に合同されることから起った。政府は金融機関の全国的統制――その集中をはかっていた。この合同もそれだった。銀行はます〱巨大な、数の少ないものに<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>められて行っている。で、今までの「Ｈ・Ｓ会社」に対する三田銀行の支配権は、当然金菱銀行にそのまゝ移って行った。

ところが、金菱銀行は自分の支配下に「Ｎ・Ｓ製罐会社」「Ｔ・Ｓ製罐会社」この二つの会社を持っていた。然し今まで製罐業では、金菱系の会社は何時でも「Ｈ・Ｓ会社」に圧倒されていた。だから、今「Ｈ・Ｓ」が一緒になれば、日本に於ける製罐業を安全に独占出来るのだった。――その製品を全国的に「単一化」して生産能率を挙げることも、技術や工場設備の共通的な改良整理も出来、人員の節約をし、殊にその販売の方面では、今迄無駄に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起された価格の低下を防いで、独占価格を制定し思う存分の利潤をあげることも出来るのだった。――だから、三田銀行が今迄とっていたような「単純な支配」ではなしに、金菱が積極的に事業そのものゝ中に、ドカドカと干渉してくることは分りきっていた。――これは職工たちの恐れていた「産業の合理化」が<ruby><rb>直接</rb><rt>じか</rt></ruby>に、そして極めて惨酷に実行されることを意味していた。工場はその噂で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ザワ</span>めいていた。

然し問題はもっと複雑だった。

――今度のことでは、君、専務や支配人、工場長こいつ等の方が<ruby><rb>蒼白</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になってるんだぜ。

と、引継のために新しい銀行に提出する書類の作成で、事務所に残って毎日夜業をやらせられている笠原が云った。

――金菱では自分の系統から重役や<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>だった役員を連れてきて、あいつ等を追っ払う積りらしいんだ。然しあゝなると、あいつ等も案外モロイもんだ。――然し問題は面白くなるよ。死物狂いで何か画策してるらしい。

然し何時でも側にいる笠原には、大体その見当がついていた。――彼等は、金菱の悪<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ラツ</span>な進出が如何に全工場の「親愛なる」職工を犠牲にし、その生活を低下させ、「Ｙのフォード」を一躍「Ｙの監獄部屋」にまで<ruby><rb>蹴落</rb><rt>けおと</rt></ruby>してしまうものであるか、と煽動し、全従業員の一致的行動によって、没落に傾いている自分達の地位を守ろうとでもするらしかった。

――どうも一寸ひッかゝりそうだな。

と笠原が云った。

――然し金菱にかゝったら、いくら専務がジタバタしようが、<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>から云ったって<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>にならない。これからは「金融資本家」と結びついていない「産業資本家」はドシ〱没落してゆくんだ。度々あるいゝ手本だよ。そう云えば<ruby><rb>￼</rb><rt>かなたつ</rt></ruby>鈴木だって、手はこれと同じ手を喰らわされたんだ。金融資本制覇の一つの過程だな。

そればかりでなく、「Ｈ・Ｓ」の製罐数の大部分は親会社である「日露会社」に売込まれて、カムチャツカに出ていた。それで、一方にはソヴエート・ロシアの「五カ年計画」の進出、他方には国内資本家間の無駄な競争に、何時でもおびやかされていた。漁区落札数の増減は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">テキ</span>面に生産高にひゞいた。――「Ｈ・Ｓ」はそれに備えるために、政府を動かして、国民一般の愛国心とソヴエート・ロシアに対する<ruby><rb>敵慨心</rb><rt>てきがいしん</rt></ruby>を煽り立てなければならなかった。

今年は更にロシアが組織的に、色々な手段を借りて、わが優良漁区の蚕食をやるという確実な噂さが立っていた。「日露」と「Ｈ・Ｓ」の株価は傾きかけた水のように暴落していた。

『Ｈ・Ｓ』のそういう情勢に対しては、河田は「工場細胞」の積極的な活動、「ニュース」による暴露、煽動、新しい「細胞」の獲得は云うまでもないとして、更にこの当面の「戦々兢々」たる動揺をつかんで、職工が労働者としての自分の立場と利益を擁護するために、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">工場委員会</span>」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">の自主化</span>

の闘争を起すように努力しなければならない事を提議した。

労働者がどんな資本の「攻勢」にもグイと持ちこらえ得るためには、何より工場全部の労働者が「足並」を揃えることだった。<ruby><rb>職場</rb><rt>もちば</rt></ruby>、職場で態度がチグハグなために、滅茶々々にされることはめずらしくないのだ。それは彼等が色々な問題について、工場の全部にわたって充分に討議する「機関」を持っていないところから来ていた。――その機関として、自主的な工場委員会が必要なのだ。今のところ、それは工場長や、社員できめた役付職工や去勢された職工によって、勝手にされている。我々はそれを労働者の利益のための機関として、労働者によって組織されることを要求しなければならない。――それが可決されて、時期、方法その他の具体案が長い時間かゝって、慎重に練られた。

それから他の代表者の情勢報告があった。

運輸労働者のストライキには、そのかゝげる「要求」の中に、必ず工場労働者をも動かし得るような「条項」を入れること。それには工場細胞が全力をあげて、それと工場独特の問題と結びつけて、宣伝、煽動をまき起すこと等が決議された。

終ると、河田は仰向けに後へひッくりかえった。

――これで俺三日ばかり<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に寝てないんだ。

河田は特に警察の追求をうけていた。転々と居場所をかえて、逃げまわっていた。そしてその先き〲で連絡をとって、組合や森本たちを指導していた。然し二十万に足りない小さい<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>では、それは殆んど不可能なほど危険なことだった。

## 十八

会合が終ると、外へは一人ずつ別々に出た。賑やかな通りをはずれて、Ｔ町の入口に来た頃、森本の後から誰か、すイと追いついてきて、肩をならべた。オヤッと思うと、それが河田だった。

――一寸これからＴ町へ用事があるんだ。

森本はその時フト変な予感を持った。――河田はお君のところへ行くのではないか。

河田は一緒に歩きながら、自分たちの運動のことを熱心な調子で話し出した。河田のその熱心な調子は何時でもそうだが、独断的なガムシャラなところを持っていた。それは初めての人に、無意識な反感さえ持たせた。然し森本はその調子を河田から聞いているときは、何時でも自分のしていることに、不思議な「安心」を覚えた。彼は力と云っていゝものさえ、そこから感じることが出来た。

――君はこの仕事に献身的になれるかい。

ときいた。森本は、なれるさ、と答えた。

――献身的の意味だが……。

河田はそう云って、一寸考えこんで間をおいた。――人通りはまだあった。自動車のヘッドライトが時々河田の顔を半分だけ切って――カーヴを曲がって行った。

――献身的と云っても、一生を捧げると云う位の気だな。

と云った。

足元で春に近いザラメのような雪がサラッ、サラッとなった。

――勿論俺だちの仕事は遊び半分には出来ることでもないし、それに俺だちのようなものが、後から後からと何度も出て来て、折り重なって、ようやく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>になるというようなものだから、分りきった事だが……。

森本は今更あらたまった云い方だ、と思った。

――「ニュース」だって半年のうちに、とにかくこの位になったという事は、一糸乱れない「組織」の力だったと思うんだ。――でねえ、俺だちの目的だな、社会主義の国を建てるということだ。そのためには鉄のような「組織」とそれを動かし、死守していく所謂その献身的な同志の力が要るわけだ……。

又そこで河田らしくなく言葉を切った。

――分るな？

――分ってるよ。変だな、今更……。

彼がそう云うと、河田は口の中だけで「ムフ」と笑ったようだった。

――その鉄のような組織というのは、工場細胞を通して工場労働者にしっかりと基礎を置き、労働者の最先端に立って闘う政党ということになる。――で、労働者の党と云えば、それは「共産党」しかないわけだろう。

然しそんなことも森本は飽きる程きかされていたことだった。だから、彼は「それアそうだ」と云った。

――鍋焼でも喰いたいな。

河田は立ち止って、その辺を見廻わした。すこし行くと、小さい<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>が眼についた。二人はそこで鍋焼を食った。――河田は森本の家の事情や、収入や係累のことを聞きながら、自分のことを話し出した。

こういう運動をやるようになった動機とか、スパイ三人を向うにまわして、鉛のパイプを持って大乱闘をやったことがある話とか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どん</span>底の生活をしている可哀相な女が時々金を自分に送ってきてくれる。それが自分のたった一人の女だとか、自家では然し母が彼のことを心に病んで、身体を悪くしているとか、そんなことを話した。彼は「お前にだけ親があると云うのか。」という詩を読んできかせた。それは聞いていると、胸をしめつけた。――何時でも冷やかに動いたことのない彼の瞳が、その詩を云い終ると潤んでいた。森本はこういう河田を初めてみたと思った。仕事をしている河田は一分もそういう彼を誰にも見せたことがなかったのだ。

――工場はまだ大丈夫かい。

と河田がきいた。彼は何時でも森本の「顔」のことを心配していた。

――少ォしは。長い間だから。

――ん、少ォしでも悪いな。

――会社の笠原さんの話だと、最近バカに工場長のところへ警察の高等係がきて、何か話してるそうだ。

鍋焼の熱いテンプラを舌の上で、あちこちやっていた河田が、眉毛を急にピクッと動かした。

――工場長が時々顔の知らない人をつれて、工場のなかを案内して歩くけれども、ひょっとすると、それが高等係かも知れない。それに君ちゃんの話だと、職工のなかには皆の動きを一々報告している、会社に買収された奴がいるそうだ。佐伯たちの手下と知らないで、鉢合せでもしたら事だからな！

――……⁉　注意しなけれアならないな。

――「ニュース」は矢張り分ってるんだ。参ってるらしい。何処で作って、どんな経路で入ってくるかを躍起になってるらしい。

――フン！

「ニュース」は初め厳密に手渡しされていた。然し、組織の根が広まり、それが可なりしっかりしたものになってくると、それを工場内の眼のつく所にワザと捨てゝ置いたり、小規模だが、バラ撒いたりするようになっていた。

――組合のものが作ってるんだッて、工場長は云ってる。「ニュース」の No\.16 かに、専務の一カ年間の精細な収入と家庭生活と一年間の芸者の線香代と妾のことを載せたアレ、とても人気を呼んで、とう〱グル〱廻ってしまった。あれで、女工のうちでは、これが本当なら、専務さんの「ナッパ服」に今迄だまされていたッて、泣いた奴が沢山いたそうだ。噂のような話だけど――

二人は声を出して笑った。

――何んしろ細大<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>さずだから、彼奴等も浮かぶ瀬が無いだろう。

外は人通りがまばらになっていた。二人は用心して歩いた。

森本の家の近くの坂に来たとき、河田が内ポケットから新聞の包みを出した。

――これ明日まで読んでおいてくれ。そして読んでしまったら、すぐ焼いてくれ。

森本はそれを受取った。

――じゃ、明日九時頃君のところへ行くから、家にいてくれ。

そう云って、河田が暗い小径を曲がって行った。

――彼はその足音を聞いて、立っていた。

次の日、森本は河田から「共産党」加入の勧誘をうけた。

## 十九

「Ｈ・Ｓ工場」の細胞が毎日々々集合した。手落ちのないように、細かい方法がそこで決められた。河田も顔を出した。

ビラの形で撒かれる大衆的なニュースが、本当に生きた働きをするためには、その「時期」が絶対に選ばれなければならなかった。工場委員会が開かれる少し前であって、それが同時に「金菱」の整理断行が確定した日でなければならなかった。

ビラを撒いてからの第二弾、第三弾の戦術、従業員大会開催の件などが、決議された。

こん度は、専務の方からも職工も利用しようとしていた。普通のストライキと異っていた。専務は没落しかけている。だから、闘争の相手は専務や工場長ではなかった。この大きな「動揺」をつかんで、職工の結束の機関を獲得することにあった。然し、専務たちのもくろんでいることも、職工を結束させるという点では、その形態は同じだった。――この同じ一点に向ってる丁度逆の二つの力がどのようにもつれ合うか？

ビラは大体次のような骨組を持った。

１。工場長が天下り的に工場委員会をきめるのでは何んになる。われ〱は全職工の選挙によって、全委員をきめることを要求する。２。今迄提出する議案は工場長は一応眼を通して、差支えのないものばかり出していた。こんなベラ棒なことがあってなるものか。労働者の本当の日常利害の問題をドシ〱出すこと。３。委員長には工場長が勝手になっていた。これでは職工の利益になる事項が決議されるわけがない、委員長は全委員の互選できめること。４。委員会で決めたことでも、決めッ放しのものがあるし、又工場内の大切な規約を改正する場合などは一度だって委員会に出したことがなく、専務や工場長だけで勝手に決めてしまう。結局どうでもいゝことだけ委員会に出す。これでは委員会は看板より劣る。我々はこんなゴマカシに全部反対だ。５。女工も働いている工場であるからには、女工からも委員を選ぶこと。６。「金菱」の惨酷な整理、労働者の虐使と首切りにそなえるたった一つの力は、この工場委員会の自主化を握って、足並をそろえ、全職工が結束することを措いて他にないこと。７。専務らが自分の地位にしがみつくために策動するかも知れない。それに乗せられてはならないこと。８。市内のゴム会社、印刷会社、鉄工場も同じ問題をひッさげて、立ちかけている。「Ｈ・Ｓ」の同志に握手を求めていること。９。浜の人夫の窮状はもはや対岸の火事ではない。同じ運命がわれ〱にも待ちかまえている。彼等とも我々は手を握って、共に立たなければならないこと…………等々。

色々のところから出る噂さや、憶測がグル〱廻わっているうちに、雪だるまのように大きくなった。それが職工たちを無遠慮に<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>廻</rb><rt>ま</rt></ruby>わした。皆は落付くことを忘れてしまった。休憩時間を待ちかまえて、皆が寄り集った。<ruby><rb>職長</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さえその仲間に首を差しこんできた。

何時でもこッそり工場長に色々な小道具を造ってやっていた仕上場の職工などは、今度は露骨に悪口をたゝきつけられた。職工は工場で自分のものを作ることは愚か、鉄屑、ブリキ片一つ持ち出しても首だったのだ。

――又新しい工場長にもか？　ハヽヽヽヽ、精々どうぞね！

上役にうまく取入って威張っていたもの等が、ガラ〱とその位置を<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>して行った。支え柱を一旦失うと、彼等は見事に皆の仲間<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れを食った。

――ざまア見ろ！

皆は大ッぴらに、唾をハネ飛ばした。

そんな関係を持っている職長などは顔色をなくして、周章てゝいた。が、早くも彼等は、職工の大会を開いて、対策を講じなければならないと云った。佐伯たちがその先頭に立った。「Ｈ・Ｓ危急存亡の<ruby><rb>秋</rb><rt>とき</rt></ruby>、諸君の蹶起を望む！」と、愛社心を煽って歩いた。――彼等はそんなときだけ、職工を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だし</span>に使うことを考えた。

昼休みに女工たちは、男工の話し込んでいる所をウロ〱した。

――どうなるの？

ときいた。

――男も女も半分首だとよ！

男工が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ヤケ</span>にどなった。

## 二十

ビラは深い用意から、女工の手によって工場に持ち込まれた。夜業準備のために、女工たちの帰えりが遅くなったとき「脱衣室」の上衣に一枚々々つッこまれた。十人近くの女工がそのために手早く立ち働いた。

朝、森本が工場の入り口で「タイム・レコーダー」を押していると、パンパン帽をかぶった仕上場の職長が、

――大変だぜ！

と云った。

――大変なビラだ。「ニュース」と同じ系統だ。

――へえ。

――今度は全部配られているんだ。何処から入るんかな。こゝの工場も小生意気になったもんだ。　職長は鶴見あたりの工場から流れて来た「渡り職工」だった。皆を「田舎職工」に何が分ると、鼻あしらいしていた。ストライキになったら、専務より先きに、この職長をグレエンにぶら下げて、下から突き上げしてやるんだ、と仕上場では云っていた。――「フン、今に見ろ！」森本は心の中で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ニッ</span>と笑った。

工場の中は、いよ〱朝刊に出た金菱の態度と、ビラの記事でザワついていた。一足ふみ入れて、それを感じとると、森本はしめたと思った。仕事の始まる少し前の時間を、皆は機械のそばに一かたまり、一かたまりに寄ってビラのことをしゃべっている。

――こうなったら、これが矢張り第一の問題さ。

森本は集りの輪の外へとんでくるそんな言葉をつかんだ。

製罐部に顔を出すと、トップ・ラインにいたお君が、素早く見付けて、こっちへ歩いてきた。何気ない様子で、

――大丈夫よ。委員会は選挙制にするのが理屈だって云ってるわ。あんたの方の親爺、あの<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>の頑固！　あいつ<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>だけが皆からビラをふんだくって歩いてるのよ。

それだけ云って、男のように走って行った。

アナアキストの武林が<ruby><rb>罐縁曲機</rb><rt>フレンジャー</rt></ruby>に油を差していた。ひょいと上眼に見て、

――お前だな。

と云った。

――何んだ、皆こうやって興奮しているのに、お前だけ工場長にでもなったように、ツウーンとしているんだな。

森本はギョッとして、キツ先を外した。

――指導精神が違いますだ。

――そうか。自分だけは喰わなくてもいゝッて指導精神か。結構だな。

――そ。正にそう。

森本は製罐部で見て置かなければならなかったのは、肉親関係をお互に持っている職工たちの動きだった。それはお君や、この方の同志にも殊更に注意して置いた。然しまだそれは見えていなかった。

たゞ心配なことは、工場全体の動きを早くも見てとって、工場長が「Ｈ・Ｓ」全体に利害を持つことだからと、「工場大会」か何かの形で「先手」を打って来ないか、ということだった。――工場内の動きのうちには、ハッキリ分ることだが、自分たちの立場、階級的な気持からではなくて、矢張り其処には「会社全体の大問題」だという興奮のあることを見逃すことが出来なかった。乗ぜられ易い機微を、彼はそこに感じた。

鋳物場では車輪の砂型をとってある側に、三四人立ち固まっていた。木型の大工も交っていた。すぐ下がってくる<ruby><rb>水洟</rb><rt>みずばな</rt></ruby>を何度も何度もすゝり上げていた。

――誰か思いきって、グイと先頭に立つものが居なかったら、こういうものは駄目なんだ。

云っているのは増野だった、――見習工のとき、彼は溶かした鉄のバケツを持って、溶炉から砂型に走って行く途中、足下に置き捨てゝあった木型につまずいて、顔の半分を焼いた。そのあとがひどくカタを残していた。

――各職場から一人か二人ずつ出るんだな。

森本は彼を「細胞」の候補者にしていた。

鋳物工の職工は、どれも顔にひッちりをこしらえたり、手に<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>をしていた。砂型に鉄を注ぎ込むとき、水分の急激な発散と、それと一緒に起る鉄の火花で皆<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけど</span>をしていた。

鍛冶場の耳の遠い北川爺は森本をみると、

――ビラの通りに何んか起るのか。どうしても、こういう工合にしなけア駄目なもんかなア、森よ！

と云った。

――そうだよ。そうなれば<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>ちゃだって、安心ッてもんだ。

北川爺は耳が遠いので、彼を見ながら、頭をかしげて、あやふやな笑い顔を向けた。

<ruby><rb>打鋲</rb><rt>リベッチング</rt></ruby>の山上は、

――やるど！

と云った。彼は同志の一人だった。

――仕上場はどうだい？

腕を少し動かしても、上膊の筋肉が、グル、グルッと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぶ</span>になった、堅い身体を持っていた。

――それア何たって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">本場</span>さ。

――本場はよかった。出し抜かれるなよ。

と笑った。

――出し抜かれて見たいもんだ。

熟練工のいる仕上場は「金菱」のことで、直接にそうこたえるわけではなかったが、製罐部のように直ぐ代りを入れることの出来ない強味を持っていたし、何より森本を初め「細胞」の中心がこゝにあったので、しっかりしていた。

ボールバンに白墨で円を描いていた仲間が森本をちらッと見ると、眼が笑った。白墨の粉のついた手をナッパの尻にぬぐって、

――「紙」は？

と、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

――朝すぐ。先手を打つ必要がある。

旋盤や<ruby><rb>平鑿盤</rb><rt>シカルバン</rt></ruby>や<ruby><rb>穿削機</rb><rt>ミーリング</rt></ruby>についている仲間が、笑いをニヤ〱含んだ顔でこっちを見ていた。機械に片足をかけて「金菱政策」を泡をとばして話していた。穿削機には昨日から歯を削っていた歯車が据えつけられたまゝになっていた。

大乗盤の側の空所に、註文の歯車やシャフトや鋲付する煙筒や鉄板が積まさっていた。仕上った機械の新鮮な赤ペンキの油ッ臭い匂いがプン〱鼻にきた。

就業のボーが波形の屋根を巾広くひゞかせた。職長は二人位しか工場に姿を見せていない。事務所に行ってるらしかった。――皆はいつものように、ボーがなっても、直ぐ機械にかゝる気がしていなかった。

ベルトがヒタ、ヒタ………と動き出すと、声高にしゃべっていた人声が、底からグン〱と迫るように高まってくる音に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて行った。シャフトにベルトをかけると、突然生物になったように、機械は歯車と歯車を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み合わせ、シリンダアーで風を切った。一定の間隔に空罐をのせたコンヴェイヤーが、映画のフイルムのように機械と機械の間を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行った。ブランク台で大板のブリキをトロッコから移すたびに、その反射がキラッ、キラッと、天井と壁と機械の横顔を刃物より鋭く射った。トップ・ラインの女工たちが、蓋を揃えたり、数えたりしながら何か歌っている声が、どうかした機械の轟音の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひけ</span>間に聞えた。――天井の<ruby><rb>鉄梁</rb><rt>ビーム</rt></ruby>が機械の力に<ruby><rb>抗</rb><rt>た</rt></ruby>えて、見えない程揺れた。

――あのニュースとかッて奴は共産党の宣伝をしてるんだろ、な。

職長が両手を後にまわしながら、機械の間を歩いていた。

――さア。

きかれた職工は無愛想につッぱねた。が、フト、ぎょッとした。――それは細胞の一人だった。「Ｈ・Ｓニュース」に漫画が多かったりすると、彼はよく<ruby><rb>糊付</rb><rt>のりづ</rt></ruby>けにぺったり機械へはったりした。

――後にはキッと共産党がいるんだ。どうもそうだ。

――然しあんなものが共産党なら、共産党ッてものも極く当り前のことしか云わないもんだね。

――だから恐ろしいんだよ。

彼は笑ってしまった。

――だから何んでもないッて云うのが本当でしょうや。

仕事が始まってから二十分もした。――働いていた職工が後から背を小突かれた。

――何処ッかゝら廻ってきた。

紙ッ切れをポケットの中にソッと入れられた。いゝことには、職長が二人位しかいないことだった。

「工場委員会」の選挙制協議のため時間後一人残らず食堂へ集合の事。危機は迫っている。団結の力を以って我等を守ろう。

――次へ廻わしてやるんだそうだ。変な奴には廻さないそうだど。

――ホ！　矢張りな。

同じ時に、それと同じ紙片が「仕事場」にも「鋳物場」にも、「ボデイ・ライン」にも、「トップ・ライン」にも、「<ruby><rb>漆塗工場</rb><rt>ラッカー</rt></ruby>」にも、「<ruby><rb>釘付工場</rb><rt>ネーリング</rt></ruby>」にも、「<ruby><rb>函詰部</rb><rt>パッキング</rt></ruby>」にも同じ方法で廻っていた。――

職長たちが話しながら、ゾロ〱事務所から帰ってきた。機械についていた職長がそれを見ると、周章てゝ走って行った。彼は工場の隅で立話を始めた。職工たちは仕事をしながら、それを横目でにらんだ。

仕上場の見張りの硝子戸の中から、「グレエン」職長が周章てゝ飛び出してきた。――<ruby><rb>金剛砥</rb><rt>グラインダー</rt></ruby>に金物をあてゝいた斉藤が、その直ぐ横の旋盤についていた職工から、何か紙片を受取って、それをポケットに入れた。それをひょッと見たからだった。神経が<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がっていた。――皆は何が起ったか、と思った。その「渡り職」の後を一斉に右向けをしたように見た。

――おいッ！

大きな手が斉藤の肩をつかんだ。然し振返った斉藤は落付ていた。

――何んですか？

ゆっくり云いながら、片手は素早くポケットの紙片をもみくしゃにして、靴の底で踏みにじっていた。

――あ、あッ、あッ、その紙だ！

職長がせきこんだ。

――紙？

砂地の床は水でしめっていた。斉藤は靴の先きで、紙片をいじりながら、

――どうしたんです。

――どうした？　<ruby><rb>太</rb><rt>ふて</rt></ruby>え野郎だ。

然しそれ以上職長にはどうにも出来なかった。「うらめし」そうに踏みにじられた紙片を見ながら、

――この野郎、とう〱誤魔化しやがった！　畜生め！

と云った。

機械から手を離して見ていた職工たちは、ざまア見やがれ、と思った。

――グレエンに<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>されるのも、もう少しだぞ。

職長は<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>外れから工合悪そうに、肩を振って帰って行った。職工たちの眼はそれを四方から思う存分<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>った。

――バーカーヤーロー。

ステキ盤でシャフトに軌道をほっていた仲間が、口を掌で囲んで、後から悪戯した。皆がドッと笑った。職長がくるりと振りかえって、職場を見廻わした。急に皆が真面目な顔をして、機械をいじる真似をした。我慢が出来なくて、誰か隅の方で、プウッと吹き出してしまった。

――いま〱しい奴だ！

硝子戸を乱暴に開けて、中へ入った。

――自分の首でも気をつけろ、馬鹿！

昼休みには、森本と重な仲間が四人同じ所に坐って、もう一度綿密に考えを練った。

――女の方はどうかな。

――戦術としてもな。ハヽヽヽヽ。

――そうだよ。

お君は余程離れた向う隅で、仲間に何か一生懸命しゃべっているのが見えた。顔全部を自由に、大げさに動かしながら、口一杯でものを云っている。お君がそこにすっかり出ていた。――森本はその女に自分の気持をチットモ云えないことを、フト淋しく思った。飯が終る頃、お君が食器を持ったまゝ皆のいる所を通った。

――どうだ？

――四分の一位。別に反対の人はないのよ。それでも女は一度も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">出つけ</span>ないでしょう。

――うん。

――でも、頑ん張ってみる。

――頼む。

――森さん、今日は「首」を投げてやってよ。首になったら、皆で養ってあげるから。

お君は明るく笑って、スタンドへ行った。

――それから「偉い方」はどうかな。

と森本が仲間にきいた。

――事務所ではまだ勿論「工場大会」のことには気付いてはいないんだが、対策はやってるだろう。――給仕が云ってた。自動車で専務がやってきたって。工場長が電話で呼んだらしい。ところが専務は気もでんぐり返えして、馳け廻ってるんだ。まだ〱工場どころでないらしいんだ、

――こゝは俺達の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>目さ。

脱衣場は集合場になる「食堂」と隣り合って、二階になっている。そして降り口は一つしかなかった。――で、帰るのにはどうしても二階に行って、食堂を通り、服を着かえて、その階段を又降りて来なければならない。それが偶然にも森本たちに、この上もない有利な条件を与えた。食堂の会合に出なければ、どうしても帰ることが出来ないようになっていた。――普段から職工仲間に信用のある「細胞」を階段の降り口に立たせて置いて、職工を引きとめた。

不賛成な職工や女工はしばらく下の工場で、機械のそばや隅の方を文句を云いながら、ブラブラしていた。帰るにも帰れなかったのだ。<ruby><rb>年老</rb><rt>としと</rt></ruby>った職工や女房のいるのが多かった。女工たちは所々に一かたまりになって、たゞ立っていた。女の方は別な理由はなかった。何んだか工合わるく、それに生意気に感じて<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>しているらしかった。

――ストライキの相談じゃないんだよ。委員を選挙にして下さい。これだけの事なんだよ。

森本がそれを云って歩くと、それだけの事なら、もっと穏やかな話し様もあるんでないかと云った。

――何処にか穏やかでない処でもあるかな。会社と一喧嘩をするわけでもないし、お願いなんだ。女工はお君やお芳に説かれると、五六人が身体を打ッつけ合うように一固りにして、階段を上がった。

職長たちは事が起ると見ると、事務所の方へ引き上げていたので、一人も邪魔にならなかった。

食堂には思いがけず、三分の二以上もの職工が押しつまった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">然し</span>その殆んどが、「会社存亡の問題」という考えから集まっていた。それは誤算すると、飛んでもないことだった。そうでなかったらこのフォードの職工がこれだけ集まる筈がなかった。然しそれをすかさず捉えて、強力な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">アジ</span>を使って、その方向を引き寄せて来なければならなかった。――

その時、薄暗い工場の中を影が突ッきって来た。工場の要所々々に立てゝ置いた<ruby><rb>見張</rb><rt>ピケット</rt></ruby>だった。

――森君、佐伯あいつ等が盛んに何んか材料倉庫で相談しているよ。それも柔道着一枚で！

――佐伯⁉

森本の顔がサッと変った。――暴力で打ッ壊しに来る？　それが森本の頭に来た。彼はそんなことになれていなかった。

――よし、じゃ仕上場の若手に、こゝに立ってゝ貰おう。――そして愚図々々しないで始めることだ！

森本は階段を上った。五百人近くの職工のこもったどよめきが、足踏みや椅子をずらす音と一しょになり、重い圧力のように押しかぶさって来た。手筈をきめて置いた激励の演説がそれを太くつらぬいた。離れていると、その一つ一つの言葉が余韻を引きずるように、ハッキリ職工たちをとらえている。潮<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>に似た群衆の勢いが――どよめきが分った。それによって、何より<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">会社</span>主義で集っている職工たちを、その演説で引きずり込まなければならないのだ。――彼は<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて覚えたことのない血の激しい流れを感じた。これからやってのけなければならない、大きな任務を考えると、彼はガタ〱と身体がふるえ出した。グイと後首筋に力を入れ、顎をひいてもとまらなかった。彼は内心あやふやな恐怖さえ感じていた。こんな時に、河田が側にいてくれたら、たゞいてだけくれても、彼は押し強くやれるのだが、と思った。

知った顔が振り返って、笑った。――しっかりやってくれ、笑顔がそう云っていた。

食堂の中はスチィムの熱気と人いきれで、ムンとむれ返っていた。油臭いナッパ服が肩と肩、顔と顔をならべ、腰をかけたり、立ったり――それが或いは腕を胸に組み、<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>をし、演説するものを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にら</span>んでいた。彼等はそして自分たちでも知らずに、職場別に一かたまりずつ固まっていた。アナアキストの武林の仲間は、一番後に<ruby><rb>不貞腐</rb><rt>ふてく</rt></ruby>された図太い恰好で、板壁に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかゝっていた。

左寄りの女工たちは、皆の視線を受けていることを意識して、ぎこちなく水<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たまり</span>のように固まっていた。今迄の会社のどんな「集会」にも、女工だけは除外していた。女たちは今、その初めてのことゝ、自分たちの引き上げられた地位に興奮していた――。

壇には鋳物場の増野が立っていた。「俺は何故顔の半分が鬼になったか」彼はそのことをしゃべっていた。身体を振って、ものを云う度に、赤くたゞれた顔がそのまゝ鬼になって、歪んだ。――初め、みんなの中に私語が起った。

――また、ひでえ顔をしてるもんだな！

時々小さい笑い声が交った。然しそれ等がグイ〱と増野の熱に抑えられて行った。

――我々はこれだけの危険を「毎日の仕事」に賭けている。こんな顔になって、諸君は笑うだろう。だが、可哀相な僕は顔だけでよかったと思っている。一日二円にもならない金で、我々は「命」さえも安々と賭けなければならない。ブリキ罐をいじっている製罐部の諸君に、私は何人指のない人間がいるかを知っている。――指の無い人間！　それが製罐工場が日本一だということをきいている。で、我々はそんな場合、会社の云いなりしかどうにも出来ない。何故だ？　我々は我々だけの職工の利益を擁護してくれる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">機関</span>を持っていないからではないか。――増野はもっと元気づいて続けた。

――金菱がどうのとか、産業の合理化がどうとか、面倒な理窟は知らない。たゞ我々のうちの半分以上も今首を――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">首を</span>切られようとして居り、賃銀は下がり、もっとギュウ、ギュウ働かされるそうだ。偉い人はもっと〱<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けなければならないのだそうだ。――

彼はそこで水をのむコップを探がした。

――で…………。

水の入ったコップが無かった。彼はそこで<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>ってしまった。カアッと興奮すると、彼は又同じことを云った。すると彼は何処までしゃべったか、見当を失ってしまった。無数の顔が彼の前で、重って、ゆがんで、揺れた。それが何かを叫んでいる。彼は仕方がなくなってしまった。彼は最後のことだけを怒鳴った。

――で、工場委員会です。彼奴等の勝手にされていた委員会を我々のものにしなければならない。その第一歩として、委員の選挙です。我々は全部結束いたしまして、この目的のために闘争されんことを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">コイ</span>希うものであります。――俺、何しゃべったかなア！

お<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いに独言ともつかない事をくッつけた。それが皆にきこえたので、ドッと笑った。

――よオッく分ったぞ！

ワザと誰かゞ手をたゝいた。

お君が森本の後に来ていた。ソッと背を突いた。お君は興奮している時によくある片方の頬だけを真赤にしていた。

――耳……。一寸。

――ん。

――あのね、<ruby><rb>芳</rb><rt>よっ</rt></ruby>ちゃんに出てもらう事にしたの。

――芳ちゃん？

あの「漂泊の孤児」がかい？　と思った。何でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>をズケ〱云う河田に従うと、お芳は「漂泊の孤児」だった。顔の膚がカサ〱と<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>がなく、何時でも寒そうな、肩の狭い女だった。無口であったが、思慮のあることしか云わなかった。お君がそばにいると、日陰になったように、その存在が貧相になった。

――え、真面目な人は案外思いきったことをするものよ。私でもいゝはいゝけれども、私ならそんな事を云うかも知れない女だってことが分ってるでしょう。だから、そうひどく感動は与えないと思うの。然し芳ちゃんなら、へえッ！　って皆がね。――煽動効果満点よ！　無理矢理出さすの。

お君はずるそうに笑った。しめった赤い唇が、耳のすぐそばにあった。

次に誰が出るか、それをみんな待った。然し人達は意外なものを見た。片隅から出て行ったのは、「女」ではないか、皆は急に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ナリ</span>をひそめた。――そして、それがあの「芳ちゃん」であることが分ったとき、抑えられた沈黙が、急に跳ねかえった。ガヤ〱とやかましくなった。

――あの女が‼

芳ちゃんは壇の上へ、あやふやな足取りで登ると、仲間の女たちのいる方へ少し横を向いて、きちんと両手をさげたまゝ、うつむいて立った。――顔が<ruby><rb>蒼白</rb><rt>そうはく</rt></ruby>だった。

――これだけの男の前だぜ。あれで仲々<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すれ</span>ッてるんだろう。

横で、ラッカー工場の職工が云っているのを、森本は耳に入れた。

芳ちゃんはそのまゝの恰好で、顔をあげずに云い出した。聞きとれないので、皆はしゃべることをやめた。耳の後に掌をあてゝ、みんな背延びをした。

――……こゝへ上るのに、どんなに覚悟が要るでしょう……私は生意気かも知れません……でも必死です……誰か矢張り先に立って生意気にならなければ、私たちはどうなって行きますか……。

――あの温しい芳公がな。

一句切れ、一句切れ毎に皆の言葉がはさまった。

――ねえ、どう？

お君は云った。

――しっかりしている。

――私たち皆と仕事をするようになってから、自分でも分るほど変ってきたわ。

――……私たちは男からも、会社からも……何時でも特別待遇をうけてきました……。

言葉が時々途切れた。

――女がこういう所に出て、こうやって話が出来るのは……この工場始まって以来のことかと思います……私たちも一人残らず一緒になり……お助けして行きたいと思っています。皆さんも……どうぞ……。

芳ちゃんが降りると、ワァーッという声と一緒に、拍手が起った。それが何時迄も続いた。お君の云った通り、男工たちに予想以上の反響を与えた。

――矢張り、少し温し過ぎる。

とお君が云った。

――芳ちゃんにしたら大出来だ。然し、よくやってくれた。聞いていると、こう涙が出て来るんだ。

――そうね。

お君は自分の眼をこすった。

――さ、行って、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてやらないと。

お君は女工たちの方へ走って行った。芳ちゃんは皆に取り巻かれていた。見ると、彼女は堪えていた興奮から、自分でワッ！　と泣き出してしまっていた。

――安心出来ないよ。廻って歩くと、こゝに集ってるのは矢張り「会社存亡組」が多いんだ。仲間の一人が森本に云った。

――然し<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>こう集ってしまえば、一つの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">勢い</span>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれて、案外大したことにならないかも知れない。

――然し、俺達も危ない機微をつかんで、成功したな。あとは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃり</span>無理、こっちへ引きずることだ。

次に各職場の代表者が一人ずつ、壇に上った。彼等は全部「細胞」だった。一人々々が火のような言葉を投げつけた。「会社存亡の<ruby><rb>秋</rb><rt>とき</rt></ruby>」を名として、全職工を売ろうとしている彼奴等の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からくり</span>をそこで徹底的にさらけ出した。――と、職工たちのなかに、風の当った<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>のような動揺がザワ〱と起った。森本はハッとした。然しそれが代る〲立つ容赦のない暴露で、見る〱別な一つの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うねり</span>のような動きに押され出した。

電燈がついた。薄暗がりの中に、たゞ灰一色に充満していた職工たちが――その集団が――悍しい肩と肩が、瞬間にクッキリと<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り上った。誰かゞ、

――そら、電燈がついたぞ！

と云った。

その意味のない言葉は、然し皆の気持ちを急にイキ〱とさせた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">結束</span>はアこの時ぞ。

突然四五人が足踏みをして歌い出した。バアーを飲み歩いている職工たちは、誰でもその歌位は知っていた。それが今少しの無理もなく口をついて出たのだ。皆が一斉にその方を見たので、彼等は少してれたように、次の歌が澱んだ。然し、太い揃わない声が続いた。

卑怯者去らばア去れエ。

森本が壇に上ったのは一番後だった。彼は何も云う必要がなかった。たゞ用意していた「決議文」と「要求書」の内容を説明して、皆の承諾を得ればよかったのだ。これ等のあらゆる細かい処に、河田たちの用意が含まっていた。

彼がまだ云い終らないうちだった。激しい云い争いが下の階段に起った。――職工は一度に腰掛けを<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>った。一つの勢いを持った集団の彼等は、そのまゝ狭い入口に押していた。

――邪魔するに入った奴なら、やッつけッちまえ！

その時、抑えられたように、下の争いがとまった。と、見張りの一人が、周章てゝ駈けあがってきた。

――佐伯の連中が上がるッて云うんだ。それで一もみしてるところへ、専務や工場長や職長が来たんだ。どうする？

――よし！

森本はキッパリ云った。

――専務と工場長だけ上げよう。職長や佐伯の連中は絶対に上げないことだ。

――そうだ。異議なし！

一挙に押し切るか、一挙に押しきられるか、そこへ来ている！

工場長が先に立って、専務が上ってきた。工場長は興奮した唇に力をこめて、キリッとしめていた。然し専務の顔には柔和なほゝえみが浮かんでいた。職工や代表者たちに<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に挨拶した。何時もの温厚な専務だった。女工と男工の一部が、さすがに動いた。――専務の持ってきた腹を読んでいる森本は、先手を打って出なければならないことを直感した。この動きかけている動き、先手！　これ一つで、この勝負がきまると彼は思っている。専務にたった一言<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">先きに</span>しゃべられることは、この集会をまんまと持って行かれることを、意味していた。――

彼は全職工の前で、ハッキリと、今迄の経過を述べ、一人も残らない賛成をもって「工場委員会」の委員選挙制が決議されたことを報告し、「決議文」と「要求書」を提出した。その瞬間、細胞の<ruby><rb>先頭</rb><rt>トップ</rt></ruby>で、一斉に拍手がされた。計画的なことだった。五百人の拍手が、少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">乱れて</span>、それに続いた。森本はハラ〱した。然し拍手は天井の低いトタン屋根を、硝子窓をゆるがし、響きかえった。その余韻はそれ等の中にいてたった一人しか味方を持っていない専務の小柄な身体を木ッ端のように頼りなくした。

専務は明かに周章てゝいた。「要求書」を手にもった専務はそれを持ったまゝ自分が今どうすればいゝかを忘れたように、あやふやな様子をした。――実は、彼はこの食堂に入るまで一つの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">明るい期待</span>を持っていたのだった。自分が今迄長い間、職工たちに与えてきた「Ｙのフォード」としての、過分な温情はそう安々と崩されるものでない。それを信じていた。たとえ、小部分の「忘恩な」煽動者たちに幾分いゝ加減にされていても、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">この自分さえ</span>其処へ姿をあらわせば、職工の全部は「<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち」自分のもとに<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>を打ってくるのは分りきったことだ、と。――然し、それがこんなに惨めになるとは本当だろうか⁉　そして一斉の拍手！　専務は何よりこの裏切られた自分自身の気持に打ちのめされてしまった。それにもっと悪いことには、専務は問題を両方から受けていた。一方には、自分自身の地位について！　これは充分に専務を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">気弱</span>にさせていた。「金融資本家」に完全に牛耳られて、没落しなければならない「産業資本家」の悲哀が、彼の骨を噛んでいた。そればかりか、今年ロシアが蟹工船の漁夫供給問題の復仇として、更にカムチャツカの、優良漁区に侵出してくることは分りきっていた。

けれども工場長が口をきった。――危い、と見てとったのだ。

――とにかく重大問題で、専務が全部の職工にお話ししたいことがあるんだから……それは、まずそれとして……。

――おッ！　一寸待ってくれ！

森本の後から、ラッカー工場の細胞が針のような言葉を投げつけた。

――お、俺だちば、ばかりの力でやったか、会ば……。それば、それば！

言葉より興奮が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>にきた。で、森本が次を取った。

――そんなわけで……一寸、貴方々の……勝手には……。

彼は専務や工場長に、而も彼等を三尺と離れない前において、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>を云うのは初めてだった。彼は赤くなって、何度もドギマギした。普段から、専務の顔さえも<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に見れない隅ッこで、鉄屑のように働いている森本だったのだ。それに顔をつき合わせると、専務は案外な威厳を持っていた。――だがそう云われて、この「鉄屑のような」職工に、工場長は言葉をかえせなかった。

――まず「確答」だ！

――要求を承諾して貰うんだ！　それからだ！

食堂をうずめている職工のなかゝら、誰かそれを叫んだ。上長に対して、そんな云い方は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">この</span>工場としては全くめずらしかった。こういう風に一つに集まると、彼等は無意識のうちにその力を頼んでいた。そして彼等は全く別人のようなことを平気で云ってのけた。

工場長とそれに森本も同時に眼をみはった。誰が何時の間に職工をこんな風に育てたのか？

――直ぐこゝでは無理でしょう。余裕を貰わなければなりますまい。

初めて専務は口を開いた。この言葉使いは「ナッパ服」とゝもに「Ｈ・Ｓ」の誇りだったのだ。

――余裕？　然しこの少しの無理のない決議はこれ以上どうにもならないのですから。

――然し、こっちの……。

森本は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くさび</span>を打ち込まなければならない。

――こんな困難な、どんなことになるか分らない時に、その日暮しゝか出来ない我々は、せめてこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">機関</span>だけを死守しなければならない所へ追いつめられているわけです。さっきから何人も何人もの職工がこゝの壇へ飛び上って、この要求が通らなかったら、全員のストライキに噛じりついても、獲得しなけア駄目だと云ってるのです。我々は勿論ストライキなど、望んでるわけではありません……。

ストライキ！　「今」この言葉が専務と工場長に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こたえ</span>ない筈がないのだ。カムチャツカの六千六百万罐の註文！

――……。

職工たちは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>をひそめた。

森本はもう一つ重要な先手を打たなければならなかった。

――勿論「金菱」のことでは、専務自身としても色々と一緒に御相談したいこともあることゝ思いますが……。

専務は急に顔を挙げた。森本は思わずニヤリ！　とした。然し、彼は無遠慮にその手元へ切り込んだ。

――然しそれがすべて、この要求書が承諾され、規約の中にハッキリそうと改正されてからの事にしたら、お互いに相談が出来ると思われます。……でなかったら私たちの方が全く可哀相です。

――………………。

専務はさっきのさっき迄、この「労働者大会」を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">自分のために</span>充分利用することを考えていた。自分に対する全職工の支持を決議させて「金菱」が新しく重役を入れることに対して全職工<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って反対させる。各自が<ruby><rb>醵金</rb><rt>きょきん</rt></ruby>して、職工と社員の「上京委員」を編成し、関係筋を歴訪、運動させる。――殊に、今度のことが自分一個人の問題でないことが好都合だった。その証拠には、職工たちでさえ自発的に集会を持つところまで来ているではないか。だから、専務は、職長から職工の集会のことを聞いたとき、彼等の周章てゝいるのとは反対に、かえって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほくそ</span>笑んだのだ。こう意気が合ってうまく行くもんでない。と。でなかったら、専務は直ぐにも警察へ電話をかけるがよかった。それをしなかったではないか。――が、今専務は明かに、職工の自分に対する気持を飛んでもなく誤算していたことに気付いた。又、こんな形でやって来られるとは思いもよらなかった。誰か後にいる！　然し「Ｙのフォード」はこうも<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>いものか。労働者って不思議なものだ。――してやられたのだ！　そして、もう遅かった！

――じゃ、二三日中……。

専務は自分でもその惨めな弱々しさに気付いた。

――二三日中！　然し「金菱」は二三日待ってくれるわけはありません。

――……。

森本は勝敗を一挙に決してしまわなければならない最後の「詰め手」をさしているのだ！

――……。

五百の労働者の耳は、専務のたった一つの言葉を待っている。専務の味方をするものも、飛んでもない会合に出てしまったと思う職工たちも、こゝへくるともう同じだった。五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった。

――………………。

誰か一番後で、カタッと靴の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を下した音が聞えた。

――明日の時間後まで……。

波のようなどよめきが起ったと思った。次の瞬間には、食堂をうちから跳ね上げるような轟音になって「万歳」が叫ばれた。

彼はたゞ、眼に涙を一杯ためて、手をガッシリと胸に握り合せ、彼の方を見つめているお君を、人たちの肩越しにチラリと見たと思った……。

## 二十一

河田がどんなに待っているだろう。あの「二階」で河田は居ても立っても居られないで、待っているだろう。――だが、森本は一体今日のこの素晴しい出来栄えを、どういう風に、どこから話したらいゝか分らなかった。お君も同じだった。

二人は河田に情勢報告をし、専務の返答如何による対策をきめ、すぐ帰って、仲間の家で開かれる細胞集会に出なければならなかった。「二階」に上る前には、必ず二度程家の前を通って、様子を見てからにされていた。――二人は道の反対側の暗いところを通りながら、二階をみた。電燈はついていた。別に人影はなかった。下の洋品店に、顔見知りのおかみさんが帳場に坐りながら、表を見ていた。――ひょいと、こっちが分ったらしく、顔が動いたようだった。

と、おかみさんは眼の前の煙でも払うように、手を振った。それは「駄目々々」という合図らしかった。

――変だな。

立ち止っていることが出来ないので、そのまゝ通り過ぎた。少し行って、又同じところを戻った。<ruby><rb>四囲</rb><rt>あたり</rt></ruby>に注意しなければならなかった。

――ね、君ちゃん、お客さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>をして、チリ紙でも買って来てくれ。

――そうね。変んだ。あすこが分ることなんて絶対にない筈だわ。

お君は小走りに明るい洋品店の中に入って行った。森本は少し行った空地の塀で待っていた。――一寸して、お君の店を出てくる姿が見えた。

――どうした？

――大変らしい。

お君は息をきっていた。

――おかみさんが声を出して云えないところを見ると、中に張り込んでいるらしいわ。お釣りを寄こすとき、私を早く出ろ、早く出ろという風に押すのよ。――

<ruby><rb>悪寒</rb><rt>おかん</rt></ruby>が彼の背筋をザアーッ、と走った。明るかったら、彼の顔は白ちゃけた鈍い土のように変ったのを、お君が見たかも知れなかった。それは専務をとッちめた彼らしくもなかった。

――フム、何んだろう。ストライキのことかな。彼の舌が不覚に粘った。

――何んにしても、この辺危いわ。

彼等は明るい大通りをよけた。集会のある仲間の家に一寸顔を出した。心配すると思って、そのことは云わなかった。二三人来ていた。皆興奮して、元気よく<ruby><rb>燥</rb><rt>はし</rt></ruby>ゃいでいた。――彼は自分の家が気になった。そして咽喉がすぐ乾いた。彼は二度も水を飲むために台所へ立った。

彼は出直してくることにして外へ出た。

――顔色が悪いな。大切なときだから用心してくれ。

仲間が出しなにそう云った。

お君も一緒だった。彼は全く何時もの彼らしくなく何も云わずに、そのまゝ歩いて行った。

――鈴木さんて変な人。

お君が何か考えていたらしく、フトそう云った。それに何時迄も、黙って歩いているのに堪えられないという風だった。

――あの人変なことを云うのよ。……お前は河田にも……キッスをさせたんだから、俺にだっていゝだろうッて！　そして酒に酔払って、眼をすえてるの。それから、とてもあの人嫌になった。何か誤解してるらしいの。私に誤解され易いところがあるッて云うけれどもね。……私ねえ、この仕事をするようになってから、もとのような<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>なこと、キッパリやめたのよ。第一そんな気がなくなったの、不思議よ。それに芳ちゃんの想いこがれている相手というのが、河田さんなんですもの。あの人まだ河田さんに云ってないらしいけど……。

彼はハッ！　とした。自分でもおかしい程、ドギマギした。だが、本当だろうか？　そう云えば、河田が、自分にはどん底の生活をしている可哀相な女がいる。それが自分のたった一人の女だ、と話したことがあった。

――鈴木さんに限らず、男ッて……。

お君がそう云って、――何時もの癖で、いたずらゝしく、クスッと笑った。

――あんたゞけはそれでも少ォし別よ……。

――それはね。

森本は自分でも変なハズミから、言葉をすべらした。然し、何んだか、今云わなければ、それがそれッ切りのような気がした。彼は恐ろしく真面目な、低い声を出した。

――それはね、君ちゃんを本当に……愛してるからさ！

「ま、おかしい！　何云ってるのさ、この男が！」――あの明るい、無遠慮に大きい笑い声が、この我ながら甘ッたるい、言葉を吹き飛ばしてしまうだろう、森本は云ってしまった瞬間、それに気付いて、カアッと赤くなった。――が、お君は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">フイ</span>に黙った。二人はそれっきり何も云わないで、<ruby><rb>撥</rb><rt>ばつ</rt></ruby>の悪い気持のまゝ歩いて行った。

橋の上へ来たとき、彼が気付いた。――彼はお君を一寸先きに行って貰って、服のポケットを全部調べた。内ポケットの中から、四つに折った、折目がボロ〱になった薄いパンフレットが出た。河田から貰った焼き捨てなければならないものだった。彼はそれを充分に細かく幾つにも切って河に捨てた。闇の澱んでいる暗い河の表に、その紙片がクッキリと白く浮かんで、ひらひらと落ちて行った。時間を置いて、何回かにそれを分けた。――そうしているうちに、彼は落着いてくる自分を感じた。

お君は厚いショウ・ウインドウの硝子に身体を寄りかけたまゝ、彼を待っていた。彼は矢張り何も云わなかった。

別れるところへ来て、立ちどまった時、森本は始めて女の手を握って云った。

――元気を出して、もう一ふんばり、ふんばろう！　「Ｙのフォード」が俺たちの力で、ピタリと止まることもあるんだからな！

お君はうつむいたまゝ、彼の顔を見ないで、――握りかえしていた。

森本は家の戸を開けたとき、ハッ！　とした。彼は然し何も見たわけではなかった、が、それはこんな時に、彼等だけが閃きのように持つ一つの直感だった。――ガラッと障子が開いた。見なれない背広が二人そこへ突ッ立った。――<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>ったと思った。彼には初めての経験だった。――だがこうなってしまった時、彼は不思議に落付きを失っていなかった。

――どなたです？

――フン。

背広の顔が皮肉にゆがんだ。

――本署のものだよ。

彼はだまって上へあがった。父はまだ帰っていないのか、居なかった。

――まア〱、お前！

母親は顔色をなくして、坐ったきりになっていた。待たしていた間、この可哀相な母親が背広にお茶を出したらしく、「南部せんべい」のお盆と<ruby><rb>湯呑茶碗</rb><rt>ゆのみちゃわん</rt></ruby>が二つ並んでいた。それを見ると、彼は胸をつかれた。彼は次を云えないでいる母親に、

――何んでもないんだ。直ぐ帰るよ。

と云った。

彼は二人の背広にポケットというポケットを全部しらべられた。家の中はすっかり「家宅捜索」をうけて散らばっていた。

土間で靴の紐を結びながら、背のずんぐりした方が、

――こんな所に関係しているものがいようとは思わなかったよ。

と云った。

彼はその言葉の中に、当り前でない意味を聞きとった。彼は河田に云われたことを守っていた。今迄一度だって、彼等に顔を知られたことがなかった筈だ。河田でも云ったのだろうか。そんなことは絶対にない。とすれば――。彼は何かあったんだ、と思った。

母親は坐ったきりだった。彼は何か云えば、それッ切り泣けてしまうような気がした。

――行ってくるよ。

彼はそして連れて行かれた。

## 二十二

初めての臭い留置場は森本を寝らせなかった。そこは独房だった。

彼は澱んだ空気の中に、背を板壁に寄らせたまゝ坐っていた。――色々な考えが、次ぎから、次ぎから頭をかすめて行く。然し不思議に恐怖が来なかった。ただ頭だけが<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えてくる一方だった。

明け方が近かった。然しまだ明けなかった。切れ〲に、それでも、お君のことを夢に見たと思った。寒かった。彼は顎を胸に折りこんで、背を円るめた。

コツ、コツ……コツ、コツ、コツ……。

冴えていた彼の耳が、何処から来るとも知れないその音を捉えた。耳をそばだてると、その時それが途絶えた。彼は息をひそめた。耳がジーンとなっていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>ゝすべてが<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てついていた。

コツ、コツ、コツ……コツ……コツ……。

彼は耳を板壁にあてた。――と、それは隣りからだった。然し何の音か分らなかった。彼は反射的に表へ気を配った。それから、ソッと拳をあて、低く、こっちから、コツ、コツ、コツと三つほど打ちかえしてみた。――向うの音がとまった。こんな事をして、だがよかったろうか、森本はフト<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>とした。しばらく両方がだまった。

コツ、コツ、コツ……。

又向うが打ち出した。が、今度はその打つ場所がちがっていた。彼はその方へ寄って行った。すると、其処から小さい光の束が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れていた。何処の留置場でもよくあるように、前に入れられた何人かによって、少しずつ開けられたらしく、そこだけ小さく板がはげて、穴になっていた。――いゝことには、そこは表からは奥になっていた。彼は思いきって、その同じ場所をコツ、コツ、コツと、打ってみた。

低い声がそこから洩れてきた！

彼はソロ〱と身体をずらして穴の丁度、そこへ耳をあてた。

――ダ…………。

はっきりしなかった。何度も耳をあてかえ直した。

――ダレダ……。

「誰だ？」――然し、そういうもの自身が一体誰だろう。彼は口を穴に持って行った。

――誰だ？

ときいた。そして、直ぐ耳をあてた。相手はだまったらしかったが、少ォし大きな声で、

――ダレダ？

と繰りかえした。

アッ！　その声は河田ではないか！　彼は急に血が騒ぎ出した。表の方へ気を配ってから、口をあてた。

――河田か？

相手は確かに<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したらしかった。

――ダレダ？

――森！

――モリカ？

相手も分ったのだ。彼は全身の神経を耳に持って行った。

――ゲン……

――げん？

――ゲンキカ。

――あ、元気か。元気だ。

…………。

何を云ったか、分らなかった。

――分らない、もう少し大きく！

――コーバ……。

――工場、ん。

――ダイジョウブカ。

――ん、うまく行った。

――アトハ……。

――後は？

――ドウダ。

――大丈夫だ。

――ヘ…………。

――ん？

――ヘコタレルナ。

――ん！

――イツ……。

――何時？

――イヤ、イツデモ。

――何時でも。

――ゲンキで……………。

――分った！

彼は、この不自由に話されているうちにも、いつもの河田を感じた。フウッと胸が熱くなった。彼はのどをゴクッとならした。

――ダレカ……、

――ん。

――ナカマデ……。

――ん？　中迄？

彼は一生懸命に耳をあてた。

――イヤ、ナカマ。

――あ、仲間。

――ウ……ラ……。

――う……ら……。

河田の言葉がハッキリしなかった。が彼はアッ！　と思った。

――裏切った？

思わず大きな声を出した。

――ン。

――本当か？

――ホントウ。

知らないうちに握りしめていた彼の掌は、ネト〱と汗ばんでいた。

――ワカル……。

――ん、分る。

――ハズノナイ……。

――ん？　ん？

――ワカルハズノナイコトマデ……。

――分る筈の……、ん。

――ミンナ……。

――皆、

――ワカッタ。

――……！

――ジケンハ……。

――事件？　ん。

――ジケンハ……。

――ん、分った。

――キョウサントウ！

――矢張り！

矢張りか、と思った。彼は胴締めをされたような「胸苦しさ」を感じた。

――サイ……。

――ん？

――サイゴマデ……。

――ん。

――ガンバレ。

――分った！

――アノ……。

その時、彼はギョッとして、身体を跳ね起した。廊下を歩いてくる靴音を聞いたと思ったからだ。

そしてそれは本当に靴音だった。――何か騒がしい事が、向う端で急に起ったらしかった。

形式だけの検束をうけて、留置場の中で特別の待遇をうけて居た鈴木が、この明け方、首を<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>っていたのを、看守の巡査が発見したのだった。

＊　　　　　　　　＊

次の日「Ｈ・Ｓ工場」の労働者たちは、予期していたように「工場委員会」の自主化を獲得した。たとえ、そのなかにはどんな専務の第二弾の魂胆が含められているとしても。――然し彼等は、次にくる今度こそは本物の闘争にたえるために「足場」を堅固に築いて置かなければならなかった。森本の後は残されていた。――

初めて二人を結びつけた握手が、別れるためのものだったことをお君は思った。それを考えると、胸が苦しくなった。――然し彼が帰ってくる迄、自分たちのして置かなければならない仕事をお君は知っていた。

お君は工場の帰り、お芳とそのことを話し合った。――お芳はそっと眼をぬぐった。

――泣くんじゃない！　泣いちゃ<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>！

お君は薄い彼女の肩に手をかけた。お芳は河田のことを考えていた。

春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。

（一九三〇・二・二四）