Soranoha

運命

うんめい

幸田 露伴

世おのずから数すうというもの有りや。有りといえば有るが如ごとく、無しと為なせば無きにも似たり。洪水こうずい天に滔はびこるも、禹うの功これを治め、大旱たいかん地を焦こがせども、湯とうの徳これを済すくえば、数有るが如くにして、而しかも数無きが如し。秦しんの始皇帝、天下を一にして尊号そんごうを称す。威燄いえんまことに当る可べからず。然しかれども水神ありて華陰かいんの夜に現われ、璧たまを使者に托して、今年祖龍そりゅう死せんと曰いえば、果はたして始皇やがて沙丘しゃきゅうに崩ぜり。唐とうの玄宗げんそう、開元は三十年の太平を享うけ、天宝てんぽうは十四年の華奢かしゃをほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨いちぎょうあじゃり、陛下万里に行幸して、聖祚せいそ疆かぎり無なからんと奏したりしかば、心得がたきことを白もうすよとおぼされしが、安禄山あんろくざんの乱起りて、天宝十五年蜀しょくに入りたもうに及び、万里橋ばんりきょうにさしかゝりて瞿然くぜんとして悟り玉たまえりとなり。此等これらを思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録ていめいろく、続定命録ぞくていめいろく、前定録ぜんていろく、感定録かんていろく等、小説野乗やじょうの記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭いんたくしょうこくも、悉ことごとく天意に因よるかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令たとえ数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏おそれて、巫覡卜相ふげきぼくそうの徒の前に首こうべを俯ふせんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教おしえの下もとに心を安くせんには如しかじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命めいを称して歎たんじ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋ろうとすべし。事敗れて之これを吾わが徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ゆだねなば、其その人ひと偽らずして真しん、其器き小ならずして偉なりというべし。先哲曰いわく、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或あるいは能よく数を知らん。

古いにしえより今に至るまで、成敗せいばいの跡、禍福の運、人をして思おもいを潜ひそめしめ歎たんを発せしむるに足たるもの固もとより多し。されども人の奇を好むや、猶なお以もって足れりとせず。是ここに於おいて才子は才を馳はせ、妄人もうじんは妄もうを恣ほしいいままにして、空中に楼閣を築き、夢裏むりに悲喜を画えがき、意設筆綴いせつひってつして、烏有うゆうの談を為つくる。或は微すこしく本もとづくところあり、或は全く拠よるところ無し。小説といい、稗史はいしといい、戯曲といい、寓言ぐうげんというもの即すなわち是これなり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈あに図はからんや造物の脚色は、綺語きごの奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能あたわざるの巧緻こうちあり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試こころみに看みよ建文けんぶん永楽えいらくの事を。

我が古こ小説家の雄ゆうを曲亭主人馬琴きょくていしゅじんばきんと為なす。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝はっけんでんの雄大、弓張月ゆみはりづきの壮快、皆江湖こうこの嘖々さくさくとして称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優まさるあるも劣らざるものを侠客伝きょうかくでんと為なす。憾うらむらくは其の叙するところ、蓋けだし未いまだ十の三四を卒おわるに及ばずして、筆硯ひっけん空しく曲亭の浄几じょうきに遺のこりて、主人既に逝ゆきて白玉楼はくぎょくろうの史しとなり、鹿鳴草舎はぎのやの翁おきなこれを続つげるも、亦また功を遂げずして死せるを以もって、世其その結構の偉い、輪奐りんかんの美を観みるに至らずして已やみたり。然しかれども其の意を立て材を排する所以ゆえんを考うるに、楠氏なんしの孤女こじょを仮かりて、南朝の為ために気を吐かんとする、おのずから是これ一大文章たらずんば已やまざるものあるをば推知するに足るあり。惜おしい哉かな其の成らざるや。

侠客伝は女仙外史じょせんがいしより換骨脱胎かんこつだったいし来きたる。其の一部は好逑伝こうきゅうでんに藉よるありと雖いえども、全体の女仙外史を化かし来きたれるは掩おおう可べからず。此これの姑摩媛こまひめは即すなわち是これ彼かれの月君げっくんなり。月君が建文帝けんぶんていの為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本らんぽんたらずんばあらず。此こは是これ馬琴が腔子裏こうしりの事なりと雖いえども、仮かりに馬琴をして在らしむるも、吾わが言を聴かば、含笑がんしょうして点頭てんとうせん。

女仙外史一百回は、清しんの逸田叟いつでんそう、呂熊りょゆう、字あざなは文兆ぶんちょうの著あらわすところ、康熙こうき四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒おわる。其その書の体たいたるや、水滸伝すいこでん平妖伝へいようでん等に同じと雖いえども、立言りつげんの旨しは、綱常こうじょうを扶植ふしょくし、忠烈を顕揚するに在りというを以もって、南安なんあんの郡守陳香泉ちんこうせんの序、江西こうせいの廉使れんし劉在園りゅうざいえんの評、江西の学使楊念亭ようねんていの論、広州こうしゅうの太守葉南田しょうなんでんの跋ばつを得て世に行わる。幻詭猥雑げんきわいざつの談に、干戈かんか弓馬の事を挿はさみ、慷慨こうがい節義の譚だんに、神仙縹緲しんせんひょうびょうの趣しゅを交まじゆ。西遊記さいゆうきに似て、而しかも其の誇誕こたんは少しく遜ゆずり、水滸伝に近くして、而も其その豪快は及ばず、三国志の如ごとくして、而も其の殺伐はやゝ少すくなし。たゞ其の三者の佳致かちを併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝まさる所以ゆえんにして、其の大体の風度ふうどは平妖伝に似たりというべし。憾うらむらくは、通篇つうへん儒生じゅせいの口吻こうふん多くして、説話は硬固勃率こうこぼっそつ、談笑に流暢尖新りゅうちょうせんしんのところ少すくなきのみ。

女仙外史の名は其の実じつを語る。主人公月君げっくん、これを輔たすくるの鮑師ほうし、曼尼まんに、公孫大娘こうそんたいじょう、聶隠娘しょういんじょう等皆女仙なり。鮑聶ほうしょう等の女仙は、もと古伝雑説より取り来きたって彩色となすに過ぎず、而しこうして月君は即すなわち山東蒲台さんとうほだいの妖婦ようふ唐賽児とうさいじなり。賽児の乱をなせるは明みんの永楽えいらく十八年二月にして、燕えん王の簒奪さんだつ、建文けんぶんの遜位そんいと相関するあるにあらず、建文猶なお死せずと雖いえども、簒奪の事成って既に十八春秋を経へたり。賽児何ぞ実に建文の為ために兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠ほふり、安遠侯あんえんこう柳升りゅうしょうをして征戦に労し、都指揮としき衛青えいせいをして撃攘げきじょうに力つとめしめ、都指揮劉忠りゅうちゅうをして戦歿せんぼつせしめ、山東の地をして一時騒擾そうじょうせしむるに至りたるもの、真に是これ稗史はいしの好題目たり。之これに加うるに賽児が洞見どうけん預察の明めいを有し、幻怪詭秘きひの術を能よくし、天書宝剣を得て、恵民けいみん布教の事を為なせるも、亦また真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟じっせき既に是かくの如ごとし。此これを仮かり来きたりて以もって建文の位を遜ゆずれるに涙を堕おとし、燕棣えんていの国を奪えるに歯を切くいしばり、慷慨こうがい悲憤して以て回天の業を為なさんとするの女英雄じょえいゆうとなす。女仙外史の人の愛読耽翫たんがんを惹ひく所以ゆえんのもの、決して尠少せんしょうにあらずして、而して又実に一篇ぺんの淋漓りんりたる筆墨ひつぼく、巍峨ぎがたる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。

賽児さいじは蒲台府ほだいふの民たみ林三りんさんの妻、少わかきより仏を好み経を誦しょうせるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之これを郊外に葬ほうむる。賽児墓に祭りて、回かえるさの路みち、一山の麓ふもとを経たりしに、たま〱豪雨の後にして土崩れ石露あらわれたり。これを視みるに石匣せきこうなりければ、就ついて窺うかがいて遂ついに異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪きって人馬となし、剣けんを揮ふるって咒祝じゅしゅくを為なし、髪を削って尼となり、教おしえを里閭りりょに布しく。祷いのりには効あり、言ことばには験げんありければ、民翕然きゅうぜんとして之に従いけるに、賽児また饑者きしゃには食しを与え、凍者には衣を給し、賑済しんさいすること多かりしより、終ついに追随する者数万に及び、尊とうとびて仏母と称し、其その勢いきおい甚はなはだ洪大こうだいとなれり。官之これを悪にくみて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲とうげんこう、劉俊りゅうしゅん、賓鴻ひんこう等、敢然として起たって戦い、益都えきと、安州あんしゅう、莒州きょしゅう、即墨そくぼく、寿光じゅこう等、山東諸州鼎沸ていふつし、官と賊と交々こもごも勝敗あり。官兵漸ようやく多く、賊勢日に蹙しじまるに至って賽児を捕え得、将まさに刑に処せんとす。賽児怡然いぜんとして懼おそれず。衣を剥はいで之を縛ばくし、刀とうを挙げて之を砍きるに、刀刃とうじん入る能あたわざりければ、已やむを得ずして復また獄に下し、械枷かいかを体たいに被こうむらせ、鉄鈕てっちゅうもて足を繋つなぎ置きけるに、俄にわかにして皆おのずから解脱げだつし、竟ついに遯のがれ去って終るところを知らず。三司郡県将校さんしぐんけんしょうこう等ら、皆寇あだを失うを以て誅ちゅうせられぬ。賽児は如何いかがしけん其後踪跡そうせき杳ようとして知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京ほくけい山東さんとうの尼姑にこは尽ことごとく逮捕して京に上せ、厳重に勘問かんもんし、終ついに天下の尼姑という尼姑を逮とらうるに至りしが、得る能あたわずして止やみ、遂に後の史家をして、妖耶ようか人耶ひとか、吾われ之これを知らず、と云いわしむるに至れり。

世の伝うるところの賽児の事既に甚はなはだ奇、修飾を仮からずして、一部稗史はいしたり。女仙外史の作者の藉かりて以もって筆墨を鼓こするも亦また宜むべなり。然しかれども賽児の徒、初はじめより大志ありしにはあらず、官吏の苛虐かぎゃくするところとなって而しこうして後爆裂迸発へいはつして燄ほのおを揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索もとむる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮きんきゅうして戈ほこを執とって立つに及び、或あるいは建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其その実じつを知るを得ん。永楽簒奪さんだつして功を成す、而しかも聡明そうめい剛毅ごうき、政まつりごとを為なす甚だ精、補佐ほさまた賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽たちまちにして跡を潜むと雖いえども、若もし秦末しんまつ漢季かんきの如ごときの世に出いでしめば、陳渉ちんしょう張角ちょうかく、終ついに天下を動かすの事を為なすに至りたるやも知る可べからず。嗚呼ああ賽児も亦奇女子きじょしなるかな。而して此この奇女子を藉かりて建文に与くみし永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其その奇を求めずして而しておのずから然しかるあらんのみ。然りと雖も予よ猶なお謂おもえらく、逸田叟いつでんそうの脚色は仮かにして後纔わずかに奇なり、造物爺々ややの施為しいは真にして且かつ更に奇なり。

明みんの建文けんぶん皇帝は実に太祖たいそ高こう皇帝に継ついで位に即つきたまえり。時に洪武こうぶ三十一年閏うるう五月なり。すなわち詔みことのりして明年を建文元年としたまいぬ。御代みよしろしめすことは正まさしく五歳にわたりたもう。然しかるに廟諡びょうしを得たもうこと無く、正徳しょうとく、万暦ばんれき、崇禎すうていの間、事しば〱議せられて、而しかも遂ついに行われず、明みん亡び、清しん起りて、乾隆けんりゅう元年に至って、はじめて恭憫恵きょうびんけい皇帝という諡おくりなを得たまえり。其その国の徳衰え沢たく竭つきて、内憂外患こも〲逼せまり、滅亡に垂なりなんとする世には、崩じて諡おくられざる帝みかどのおわす例ためしもあれど、明の祚そは其その後猶なお二百五十年も続きて、此この時太祖の盛徳偉業、炎々えんえんの威を揚げ、赫々かくかくの光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後のちなれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其その是かくの如ごとくなるに至りし所以ゆえんは、天意か人為かはいざ知らず、一波ぱ動いて万波動き、不可思議の事の重畳ちょうじょう連続して、其の狂濤きょうとうは四年の間の天地を震撼しんかんし、其の余瀾よらんは万里の外の邦国に漸浸ぜんしんするに及べるありしが為ためならずばあらず。

建文皇帝諱いみなは允炆いんぶん、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父おんちち懿文いぶん太子、太祖に紹つぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢おんとし六十五にわたらせ給たまいければ、流石さすがに淮西わいせいの一布衣いっぷいより起おこって、腰間ようかんの剣けん、馬上の鞭むち、四百余州を十五年に斬きり靡なびけて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭しょくを失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎しおれたもう。翰林学士かんりんがくしの劉三吾りゅうさんご、御歎おんなげきはさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君ちょくんと仰せ出されんには、四海心を繋かけ奉らんに、然さのみは御過憂あるべからず、と白もうしたりければ、実げにもと点頭うなずかせられて、其その歳としの九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即すなわち後に建文の帝みかどと申す。谷氏こくしの史に、建文帝、生れて十年にして懿文いぶん卒しゅっすとあるは、蓋けだし脱字だつじにして、父君に別れ、儲位ちょいに立ちたまえる時は、正まさしく十六歳におわしける。資性穎慧えいけい温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘わたりて昼夜膝下しっかを離れたまわず、薨かくれさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠やせ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾なんじまことに純孝なり、たゞ子を亡うしないて孫を頼む老いたる我をも念おもわぬことあらじ、と宣のたまいて、過哀に身を毀やぶらぬよう愛撫あいぶせられたりという。其の性質の美、推して知るべし。

はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏しょうそうを決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於おいて宥なだめ軽めらるゝこと多かりき。太子亡うせたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍あまねく礼経れいけいを考え、歴代の刑法を参酌さんしゃくし、刑律は教おしえを弼たすくる所以ゆえんなれば、凡およそ五倫ごりんと相あい渉わたる者は、宜よろしく皆法を屈して以もって情じょうを伸ぶべしとの意により、太祖の准許じゅんきょを得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大おおいに喜びて徳を頌しょうせざる無し。太祖の言ことばに、吾われは乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝なんじは平世を治むるなれば、刑おのずから当まさに軽かろうすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌ぶしょうを平らげたる呉ごの元年に、李善長りぜんちょう等らの考え設けたるを初はじめとし、洪武六年より七年に亙わたりて劉惟謙りゅういけん等らの議定するに及びて、所謂いわゆる大明律たいみんりつ成り、同じ九年胡惟庸こいよう等ら命を受けて釐正りせいするところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰へんせんを経て、終ついに洪武の末に至り、更定大明律こうていたいみんりつ三十巻大成し、天下に頒わかち示されたるなり。呉の元年より茲ここに至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精くわしくして、一代の法始めて定まり、朱氏しゅしの世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視くらぶれば簡覈かんかく、而しかして寛厚は宗そうに如しかざるも、其の惻隠そくいんの意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦わがくにに及び、徳川期の識者をして此これを研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此これに採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦また人君の度ありて、明律因よりて以もって成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即つきたもうや、刑官に諭さとしたまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕ちんに命じて細閲せしめたまえり。前代に較くらぶるに往々重きを加う。蓋けだし乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前さきに改定せるところは、皇祖已すでに命じて施行せしめたまえり。然しかれども罪の矜疑きょうぎすべき者は、尚なお此これに止とどまらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順したがう。民を斉ととのうるに刑を以てするは礼を以てするに若しかず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇たっとび、疑獄を赦ゆるし、朕が万方ばんぽうと与ともにするを嘉よろこぶの意に称かなわしめよと。嗚呼ああ、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰たれがこれを然らずとせんや。

是かくの如きの人にして、帝みかどとなりて位を保つを得ず、天に帰して諡おくりなを得うる能あたわず、廟びょう無く陵無く、西山せいざんの一抔土いっぽうど、封ほうせず樹じゅせずして終るに至る。嗚呼ああ又奇なるかな。しかも其の因縁いんえんの糾纏錯雑きゅうてんさくざつして、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或あるいは刻毒こくどくなる、或は杳渺ようびょうたる、奇も亦また太甚はなはだしというべし。

建文帝の国を遜ゆずらざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋そう元げん傾覆の所以ゆえんを考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆おおく四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以もって帝室に藩屏はんべいたらしめ、京師けいしを拱衛きょうえいせしめんと欲せり。是これ亦また故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥しょうすい外に傲おごり、奸邪かんじゃ間あいだに私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能あたわず、宗廟そうびょう祀まつられざるに至るべし。若もし夫それ衆おおく諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢いきおいを得るの隙すき無し。こゝに於おいて、第二子樉そうを秦しん王に封ほうじ、藩に西安せいあんに就つかしめ、第三子棡こうを晋しん王に封じ、太原府たいげんふに居おらしめ、第四子棣ていを封じて燕えん王となし、北平府ほくへいふ即すなわち今の北京ぺきんに居らしめ、第五子橚しゅくを封じて周しゅう王となし、開封府かいほうふに居らしめ、第六子楨ていを楚そ王とし、武昌ぶしょうに居らしめ、第七子榑ふを斉せい王とし、青州府せいしゅうふに居らしめ、第八子梓しを封じて潭たん王とし、長沙ちょうさに居おき、第九子杞きを趙ちょう王とせしが、此こは三歳にして殤しょうし、藩に就くに及ばず、第十子檀たんを生れて二月にして魯ろ王とし、十六歳にして藩に兗州府えんしゅうふに就かしめ、第十一子椿ちんを封じて蜀しょく王とし、成都せいとに居おき、第十二子柏はくを湘しょう王とし、荊州府けいしゅうふに居き、第十三子桂けいを代だい王とし、大同府だいどうふに居き、第十四子楧えいを粛しゅく王とし、藩に甘州府かんしゅうふに就かしめ、第十五子植しょくを封じて遼りょう王とし、広寧府こうねいふに居き、第十六子〔「木+旃」の「丹」に代えて「冉」〕せんを慶けい王として寧夏ねいかに居き、第十七子権けんを寧ねい王に封じ、大寧たいねいに居らしめ、第十八子楩べんを封じて岷びん王となし、第十九子橞けいを封じて谷こく王となす、谷王というは其その居おるところ宣府せんふの上谷じょうこくの地たるを以てなり、第二十子松しょうを封じて韓かん王となし、開源かいげんに居らしむ。第二十一子模ぼを瀋しん王とし、第二十二子楹えいを安あん王とし、第二十三子桱けいを唐とう王とし、第二十四子棟とうを郢えい王とし、第二十五子𣟗いを伊い王としたり。藩しん王以下は、永楽えいらくに及んで藩に就きたるなれば、姑しばらく措おきて論ぜざるも、太祖の諸子を封ほうじて王となせるも亦また多しというべく、而しこうして枝柯しか甚はなはだ盛んにして本幹ほんかん却かえって弱きの勢いきおいを致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝きんさつきんほうを授けられ、歳禄さいろくは万石まんせき、府には官属を置き、護衛の甲士こうし、少すくなき者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服べんぷく車旗しゃき邸第ていだいは、天子に下くだること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦また至れりというべし。且つ元げんの裔えいの猶なお存して、時に塞下さいかに出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中こくちゅうに専制し、三護衛の重兵ちょうへいを擁するを得せしめ、将を遣やりて諸路の兵を徴めすにも、必ず親王に関白して乃すなわち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦また大なりというべし。太祖の意に謂おもえらく、是かくの如ごとくなれば、本支ほんし相あい幇たすけて、朱氏しゅし永く昌さかえ、威権下しもに移る無く、傾覆の患うれいも生ずるに地無からんと。太祖の深智しんち達識たっしきは、まことに能よく前代の覆轍ふくてつに鑑かんがみて、後世に長計を貽のこさんとせり。されども人智は限かぎり有り、天意は測り難し、豈あに図はからんや、太祖が熟慮遠謀して施為しいせるところの者は、即すなわち是れ孝陵こうりょうの土未いまだ乾かずして、北平ほくへいの塵ちり既に起り、矢石しせき京城けいじょうに雨注うちゅうして、皇帝遐陬かすうに雲遊するの因とならんとは。

太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙つとに之これを論じて、然しかる可べからずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其その歳とし閏うるう九月、たま〱天文てんもんの変ありて、詔みことのりを下し直言ちょくげんを求められにければ、山西さんせいの葉居升しょうきょしょうというもの、上書して第一には分封の太はなはだ侈おごれること、第二には刑を用いる太はなはだ繁しげきこと、第三には治ちを求むる太はなはだ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈たいしを論ずるに曰いわく、都城百雉ひゃくちを過ぐるは国の害なりとは、伝でんの文にも見えたるを、国家今や秦しん晋しん燕えん斉せい梁りょう楚そ呉ご閩びんの諸国、各其その地ちを尽して之これを封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜つぎ、之に賜たまうに甲兵衛士の盛さかんなるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世すうせいの後は尾大びだい掉ふるわず、然しかして後に之が地を削りて之が権を奪わば、則すなわち其の怨うらみを起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則すなわち険けんを恃たのみて衡こうを争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚はなはだしければ則ち間かんに縁よりて而して起たたんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景こうけい皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗どうそう父兄弟ふけいてい子孫しそんなり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫しんしそんなり。然るに世を易かうるの後は迭たがいに兵を擁して、以て皇帝を危あやうくせり。昔は賈誼かぎ漢の文帝に勧めて、禍を未萌みぼうに防ぐの道を白もうせり。願わくば今先まず諸王の都邑とゆうの制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里きょうりを限りたまえと。居升きょしょうの言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正まさに太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中ごくちゅうに終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験しるしありて、漢の七国の喩たとえ、眼まのあたりの事となれるぞ是非無き。

七国の事、七国の事、嗚呼ああ是れ何ぞ明室みんしつと因縁の深きや。葉居升しょうきょしょうの上書の出いずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂たいほんどうというを建てたまい、古今ここんの図書を充みて、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注ききょちゅうの魏観ぎかん字あざなは杞山きざんというもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書かんじょの七図漢に叛そむける事を講じ聞きかせたりと答え白もうす。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰いずれに在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対こたう。時に太祖肯がえんぜずして、否あらず、其そは講官の偏説なり。景帝けいてい太子たりし時、博局はくきょくを投じて呉王ごおうの世子せいしを殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯ちょうさくの説を聴きて、諸侯の封ほうを削りたり、七国の変は実に此これに由る。諸子の為ために此この事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓ひゃくせいを撫ぶし、国家の藩輔はんぽとなりて、天下の公法を撓みだす無かれと言うべきなり、此かくの如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦とんぼくし、親しきを親しむの恩を隆さかんにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼きょうよくし、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此この太祖の言は、正まさに是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙はやくより此この意ありたればこそ、其それより二年ほどにして、洪武三年に、樉そう、棡こう、棣てい、橚しゅく、楨てい、榑ふ、梓しん、檀たん、杞きの九子を封じて、秦しん晋しん燕えん周しゅう等に王とし、其その甚はなはだしきは、生れて甫はじめて二歳、或あるいは生れて僅わずかに二ヶ月のものをすら藩王とし、次ついで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而しこうして又夙はやくより此意ありたればこそ、葉居升しょうきょしょうが上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文いぶん太子に、七国反漢の事を喩さとしたりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯かばかり思いしことの、其その身み死すると共に直ただちに禍端乱階かたんらんかいとなりて、懿文いぶんの子の允炆いんぶん、七国反漢の古いにしえを今にして窘くるしまんとは。不世出の英雄朱元璋しゅげんしょうも、命めいといい数すうというものゝ前には、たゞ是これ一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。

七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承うけて其その御子おんこ允炆皇太孫の位に即つかせたもう。継紹けいしょうの運まさに是かくの如くなるべきが上に、下しもは四海の心を繋かくるところなり。上かみは一人にんの命めいを宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲こうちょとなりたまえる上は、齢よわい猶なお弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或あるいは功あり或は徳ありと雖いえども、遠からず俯首ふしゅして命めいを奉ずべきなれば、理に於おいては当まさに之これを敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟はさみ、大封の勢いきおいに藉より、且かつは叔父しゅくふの尊きを以もって、不遜ふそんの事の多かりければ、皇太孫は如何いかばかり心苦しく厭いとわしく思いしみたりけむ。一日いちじつ東角門とうかくもんに坐して、侍読じどくの太常卿たいじょうけい黄子澄こうしちょうというものに、諸王驕慢きょうまんの状を告げ、諸しょ叔父しゅくふ各大封重兵ちょうへいを擁し、叔父の尊きを負たのみて傲然ごうぜんとして予に臨む、行末ゆくすえの事も如何いかがあるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰のたまいたもう。子澄名は湜てい、分宜ぶんぎの人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖いえども、世故せいこに練達することは未いまだ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其その昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔わずかに身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛そむきたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰たれか能よく之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心みこころ安く思召おぼしめせ、と七国の古いにしえを引きて対こたうれば、太孫は子澄が答を、げに道理もっともなりと信じたまいぬ。太孫猶なお齢とし若く、子澄未だ世に老いず、片時へんじの談、七国の論、何ぞ図はからん他日山崩れ海湧わくの大事を生ぜんとは。

太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同どう閏うるう五月西宮せいきゅうに崩ず。其その遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度いくたびと無く畏おそるべき危険の境を冒して、無産無官又無家むか、何等なんらの恃たのむべきをも有もたぬ孤独の身を振い、終ついに天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮おもい竭つくして民を済すくい、而しこうして礼を尚たっとび学を重んじ、百忙ぼうの中うち、手に書を輟やめず、孔子の教おしえを篤信し、子しは誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此これに依拠し、又蚤歳そうさいにして仏理に通じ、内典を知るも、梁りょうの武帝の如く淫溺いんできせず、又老子ろうしを愛し、恬静てんせいを喜び、自みずから道徳経註どうとくけいちゅう二巻を撰せんし、解縉かいしんをして、上疏じょうその中に、学の純ならざるを譏そしらしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚こうしょうせず、嘗かつて宗濂そうれんに謂いって、人君能よく心を清くし欲を寡すくなくし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々皡々ききこうこうとして自みずから知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰いい、詩文を善よくして、文集五十巻、詩集五巻を著あらわせるも、詹同せんどうと文章を論じては、文はたゞ誠意溢出いっしゅつするを尚たっとぶと為し、又洪武六年九月には、詔みことのりして公文に対偶文辞たいぐうぶんじを用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵そうかいを事とするを遏とどめたるが如き、まことに通ずること博ひろくして拘とらえらるゝこと少すくなく、文武を兼かねて有し、智有を併あわせて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう皇帝の諡号しごうに負そむかざる朱元璋しゅげんしょう、字あざなは国瑞こくずいの世よを辞じして、其その身は地に入り、其神しんは空くうに帰せんとするに臨みて、言うところ如何いかん。一鳥の微びなるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可べく考う可べきもの無からんや。遺詔に曰く、朕ちん皇天の命を受けて、大任に世に膺あたること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何いかんせん寒微かんびより起りて、古人の博智無く、善を好よみし悪を悪にくむこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼きくす、慮はかるに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得う、其それ奚いずくんぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允炆いんぶん、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜よろしく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、以もって吾わが民を福さいわいせよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異ことにする勿なかれ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川さんせんは、其の故ふるきに因りて改むる勿なかれ、天下の臣民は、哭臨こくりんする三日にして、皆服を釈とき、嫁娶かしゅを妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨なげきて、京師に至る母なかれ。諸もろもろの令の中うちに在らざる者は、此令を推して事に従えと。

嗚呼ああ、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺あたること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是これ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕あいあいじんじょの情景、百歳の下しも、人をして欽仰きんごうせしむるに足るものあり。奈何いかんせん寒微より起りて、智浅く徳寡すくなし、といえるは、謙遜けんそんの態度を取り、反求はんきゅうの工夫に切に、諱いまず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕たんせきに在り、といえるは、英雄も亦また大限たいげんの漸ようやく逼せまるを如何いかんともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚いずくにぞ哀念かこれ有らん、と云いえる、流石さすがに孔孟仏老こうもうぶつろうの教おしえに於おいて得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少すくなきは、世間の常態なるが、太祖は是れ真しん豪傑、生きて長春不老の癡想ちそうを懐いだかず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容しょうようとして逼せまらず、晏如あんじょとして惕おそれず、偉なる哉かな、偉なる哉。皇太孫允炆いんぶん、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言げんや鉄の鋳られたるが如ごとし。衆論の糸の紛もつるゝを防ぐ。これより前さき、太孫の儲位ちょいに即つくや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖いえども、太孫の人となり仁孝聡頴そうえいにして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚はなはだ欠く。此これを以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其その詩婉美柔弱えんびじゅうじゃく、豪壮瑰偉かいいの処ところ無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句しくの属対ぞくたいをなさしめしに、大おおいに旨しに称かなわず、復ふたたび以て燕王えんおう棣ていに命ぜられけるに、燕王の語は乃すなわち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌ようぼう偉いにして髭髯しぜん美うるわしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖に肖にたること多かりしかば、太祖も此これを悦よろこび、人も或あるいは意こころを寄するものありたり。此ここに於おいて太祖密ひそかに儲位ちょいを易かえんとするに意い有りしが、劉三吾りゅうさんご之これを阻はばみたり。三吾は名は如孫じょそん、元げんの遺臣なりしが、博学にして、文を善よくしたりければ、洪武十八年召されて出いでゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡おうえい、朱善しゅぜんと与ともに、世よ称して三老ろうと為なす。人となり慷慨こうがいにして城府を設けず、自ら号して坦坦翁たんたんおうといえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平せいへい実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与あずかりて定むる所多く、帝の洪範こうはんの注成るや、命を承うけて序を為つくり、勅修ちょくしゅうの書、省躬録せいきゅうろく、書伝会要しょでんかいよう、礼制集要れいせいしゅうよう等の編撰へんせん総裁となり、居然きょぜんたる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節たいせつに臨むに至りては、屹きつとして奪う可べからず。懿文いぶん太子の薨こうずるや、身を挺ぬきんでゝ、皇孫は世嫡せいちゃくなり、大統を承うけたまわんこと、礼也なり、と云いて、内外の疑懼ぎくを定め、太孫を立てゝ儲君ちょくんとなせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言げん無からん、乃すなわち曰いわく、若もし燕王を立て給たまわば秦王しんおう晋王しんおうを何の地に置き給わんと。秦王樉そう、晋王棡こうは、皆燕王の兄たり。孫そんを廃して子しを立つるだに、定まりたるを覆かえすなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世よ豈あに事無くして已やまんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其その事止やみけるなり。是かくの如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏とどめて、特ことに厳しく皇太孫允炆宜よろしく大位に登るべしとは詔を遺のこされたるなるべし。太祖の治ちを思うの慮りょも遠く、皇孫を愛するの情も篤あつしという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如ごとくせよ、と云える、天下の臣民は哭臨こくりん三日にして服を釈とき、嫁娶かしゅを妨ぐる勿なかれ、と云える、何ぞ倹素けんそにして仁恕じんじょなる。文帝の如くせよとは、金玉きんぎょくを用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故もとに因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福さいわいあらしめんとなり。諸王は国中に臨なげきて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋けだし其その意い諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺孽いげつ、辺土の黠豪かつごう等、或あるいは虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原りょうげんの勢を成すに至らんことを虞おそるるに似たり。此こも亦また愛民憂世の念、おのずから此ここに至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼ああ、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。

然しかりと雖いえども、太祖の遺詔、考う可べきも亦また多し。皇太孫允炆いんぶん、天下心を帰す、宜よろしく大位に登るべし、と云いえるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当まさに大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或あるいは皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少わかく勇ゆう乏しき、自ら謙譲して諸王の中うちの材雄に略大なる者に位を遜ゆずらんことを欲する者ありしが如ごときをも猜すいせしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明みんの世を治むる、纔わずかに三十一年、元げんの裔えい猶なお未いまだ滅びず、中国に在るもの無しと雖いえども、漠北ばくほくに、塞西さいせいに、辺南へんなんに、元の同種の広大の地域を有して蹯踞ばんきょするもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和こうわに寇あだするあり。国外の情じょう是かくの如し。而しこうして域内の事、また英主の世を御せんことを幸さいわいとせずんばあらず。仁明孝友は固もとより尚たっとぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或あるいは恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、以もって吾わが民を福さいわいせよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼おそるゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶か、非ひ耶か。諸王は国中に臨なげきて京けいに至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其その封国ほうこくを空むなしゅうして奸驁かんごうの乗ずるところとならんことを虞おそるというも、諸王の臣、豈あに一時を托たくするに足る者無からんや。子の父の葬そうに趨はしるは、おのずから是これ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為なさんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔みことのりは、果して是れ太祖の言に出いづるか。太祖にして此この詔を遺のこすとせば、太祖ひそかに其その斥しりぞけて聴かざりし葉居升しょうきょしょうの言の、諸王衆を擁して入朝し、甚はなはだしければ則すなわち間かんに縁よりて起たたんに、之これを防ぐも及ぶ無き也なり、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼ああ子にして父の葬に会するを得ず、父の意いなりと謂いうと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦また疎そにして薄きの憾うらみ無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中あたらん、而しかも実に人情に遠いかな。凡およそ施為しい命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚はなはだしきものは、意は善なるも、理は正しきも、計けいは中あたるも、見けんは徹するも、必らず弊に坐ざし凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則すなわち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高こう皇后の崩ずるや、奏しん王晋しん王燕えん王等皆国に在り、然しかれども諸王喪もに奔はしりて京けいに至り、礼を卒おえて還れり。太祖の崩ぜると、其后きさきの崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此これも亦人を強いて人情に遠きを為なさしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈あに弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端じたんは先まずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将まさに淮安わいあんに至らんとせるに当りて、斉泰せいたいは帝に言もうし、人をして勑ちょくを賚もたらして国に還かえらしめぬ。燕王を首はじめとして諸王は皆悦よろこばず。これ尚書しょうしょ斉泰せいたいの疎間そかんするなりと謂いいぬ。建文帝は位に即つきて劈頭へきとう第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父しゅくふなり、尊族なり、封土ほうどを有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯しか、皇室の藩屏はんぺいたるも何かあらん。嗚呼ああ、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑そも又遺詔にあるか、諸王にあるか、之これを知らざる也。又飜ひるがえって思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止とどむるの語ありしや否や。或あるいは疑う、太祖の人情に通じ、世故せいこに熟せる、まさに是かくの如きの詔を遺のこさゞるべし。若もし太祖に果して登遐とうかの日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就つくの時に於おいて、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦また発駕奔喪はつがほんそうの際に於て、半途にして擁遏ようかつせらるゝの不快事に会う無く、各〻おのおの其その封に於て哭臨こくりんして、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此ここに出いでず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可べからず。人の情屈すれば則すなわち悦ばず、悦ばざれば則ち怨うらみを懐いだき他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之これを知るの明めい無からん。故に曰いわく、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止とどむる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄こうしちょうの輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯たむるの事も、世其例に乏しからず、是かくの如きの事、未だ必ずしも無きを保ほせず。然れども是これ推測の言のみ。真しん耶か、偽ぎ耶か、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為いか、為にあらざる耶か、将又はたまた斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏とどめざる能あたわざるの勢の存せしか、非耶か。建文永楽の間かん、史に曲筆多し、今新あらたに史徴を得るあるにあらざれば、疑うたがいを存せんのみ、確たしかに知る能あたわざる也。

太祖の崩ぜるは閏うるう五月なり、諸王の入京にゅうけいを遏とどめられて悦よろこばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけいというもの、密疏みっそを上たてまつる。卓敬字あざなは惟恭いきょう、書を読んで十行倶ともに下ると云いわれし頴悟聡敏えいごそうびんの士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究きわめざること無く、後に成祖せいそをして、国家士しを養うこと三十年、唯ただ一卓敬を得たりと歎たんぜしめしほどの英才なり。鯁直慷慨こうちょくこうがいにして、避くるところ無し。嘗かつて制度未いまだ備わらずして諸王の服乗ふくじょうも太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶ちゃくしょ相あい乱みだり、尊卑序無くんば、何を以もって天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾なんじの言げん是ぜなり、と曰いわしめたり。其その人となり知る可べきなり。敬の密疏は、宗藩そうはんを裁抑さいよくして、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟ついに寝やみぬ。敬の言、蓋けだし故無くして発せず、必らず窃ひそかに聞くところありしなり。二十余年前の葉居升しょうきょしょうが言は、是ここに於おいて其その中あたれるを示さんとし、七国の難は今将まさに発せんとす。燕えん王、周しゅう王、斉せい王、湘しょう王、代だい王、岷みん王等、秘信相通じ、密使互たがいに動き、穏やかならぬ流言ありて、朝ちょうに聞えたり。諸王と帝との間、帝は其その未いまだ位に即つかざりしより諸王を忌憚きたんし、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君ちょくんを侮り、叔父しゅくふの尊を挟さしばんで不遜ふそんの事多かりしなり。入京会葬を止とどむるの事、遺詔に出いづと云うと雖いえども、諸王、責せめを讒臣ざんしんに托たくして、而しこうして其の奸悪かんあくを除のぞかんと云い、香こうを孝陵こうりょうに進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋けだし辞柄じへい無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼ああ、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ睽離かいりせざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔そかくせざらん。疎隔し、睽離す、而して帝の為ために密ひそかに図るものあり、諸王の為に私ひそかに謀るものあり、況いわんや藩王を以もって天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於おいてをや。事遂ついに決裂せずんば止やまざるものある也。

帝の為ために密ひそかに図る者をば誰たれとなす。曰いわく、黄子澄こうしちょうとなし、斉泰せいたいとなす。子澄は既に記しぬ。斉泰は溧水りっすいの人、洪武十七年より漸ようやく世に出いづ。建文帝位くらいに即きたもうに及び、子澄と与ともに帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏とどめたる時の如き、諸王は皆謂おもえらく、泰皇考たいこうこうの詔を矯ためて骨肉を間へだつと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。

諸王の為に私ひそかに謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄ゆうを燕王となす。燕王の傅ふに、僧道衍どうえんあり。道衍は僧たりと雖いえども、灰心滅智かいしんめっちの羅漢らかんにあらずして、却かえって是これ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就つく時、道衍躬みずから薦すすめて燕王の傅ふとならんとし、謂いって曰く、大王だいおう臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽いちはくぼうを奉りて大王がために戴いただかしめんと。王上おうじょうに白はくを冠すれば、其その文ぶんは皇なり、儲位ちょい明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是かくの如ごときの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而しこうして燕王是かくの如きの怪僧を延ひいて帷幙いばくの中に居おく。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲そうこうも毒ありというべし。道衍燕邸えんていに至るに及んで袁珙えんこうを王に薦む。袁珙は字あざなは廷玉ていぎょく、鄞きんの人にして、此これ亦また一種の異人なり。嘗かつて海外に遊んで、人を相そうするの術を別古崖べつこがいというものに受く。仰いで皎日こうじつを視みて、目尽ことごとく眩げんして後、赤豆せきとう黒豆こくとうを暗室中に布しいて之を弁べんじ、又五色の縷いとを窓外に懸け、月に映じて其その色を別って訛あやまつこと無く、然しかして後に人を相す。其法は夜中を以て両炬りょうきょを燃もやし、人の形状気色きしょくを視みて、参するに生年月日げつじつを以てするに、百に一謬びょう無く、元末より既に名を天下に馳はせたり。其の道衍どうえんと識しるに及びたるは、道衍が嵩山寺すうざんじに在りし時にあり。袁珙えんこう道衍が相をつく〲と観みて、是これ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎びょうこの如し。性必かならず殺を嗜たしなまん。劉秉忠りゅうへいちゅうの流りゅうなりと。劉秉忠は学がく内外を兼ね、識しき三才を綜すぶ、釈氏しゃくしより起おこって元主を助け、九州を混一こんいつし、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼よると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮攉きかくの宜よろしきを得るに因よるもの亦また鮮すくなからず。秉忠は実に奇偉卓犖きいたくらくの僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処ようしょに爬着はちゃくするもの。是れより二人、友とし善よし。道衍の珙こうを燕王に薦むるに当りてや、燕王先まず使者をして珙こうと与ともに酒肆しゅしに飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑まじわり、おのれ亦また衛士の服を服し、弓矢きゅうしを執とりて肆中しちゅうに飲む。珙一見して即すなわち趨はしって燕王の前に拝して曰いわく、殿下何ぞ身を軽んじて此ここに至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩わがはい皆護衛の士なりと。珙頭こうべを掉ふって是ぜとせず。こゝに於て王起たって入り、珙を宮中に延ひきて詳つばらに相そうせしむ。珙諦視ていしすること良やや久しゅうして曰いわく、殿下は龍行虎歩りゅうこうこほしたまい、日角にっかく天を挿さしはさむ、まことに異日太平の天子にておわします。御年おんとし四十にして、御鬚おんひげ臍へそを過すぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位たいほういに登らせたまわんこと疑うたがいあるべからず、と白もうす。又燕府えんふの将校官属を相せしめたもうに、珙一々指点して曰く、某ぼうは公こうたるべし、某は侯こうたるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語ことばの洩もれんことを慮はかり、陽うわべに斥しりぞけて通州つうしゅうに至らしめ、舟路しゅうろ密ひそかに召して邸ていに入る。道衍は北平ほくへいの慶寿寺けいじゅじに在り、珙は燕府えんふに在り、燕王と三人、時々人を屏しりぞけて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。珙は柳荘居士りゅうそうこじと号す。時に年蓋けだし七十に近し。抑そも亦また何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹ちゅうてつの伝うるところの柳荘相法、今に至って猶なお存し、風鑑ふうかんの津梁しんりょうたり。珙と永楽帝と答問するところの永楽百問の中うち、帝鬚ていしゅの事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書ろうしょとなすと雖も、尽ことごとく斥しりぞく可べからざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著あらわすところ、今古識鑑ここんしきかん八巻ありて、明志みんし採録す。予よ未だ寓目ぐうもくせずと雖も、蓋けだし藻鑑そうかんの道を説く也。珙と忠徹と、偕ともに明史方伎伝ほうぎでんに見ゆ。珙の燕王に見まみゆるや、鬚ひげ長じて臍へそを過すぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾わが年将まさに四旬ならんとす、鬚豈あに能よく復また長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠きんちゅうというものを薦すすむ。金忠も亦鄞きんの人なり、少わかくして書を読み易えきに通ず。卒伍そつごに編せらるゝに及び、卜ぼくを北平ほくへいに売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神しんとなす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦けを得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸ようやくにして固かたし。忠後のちに仕えて兵部尚書ひょうぶしょうしょを以て太子たいし監国かんこくに補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。

帝の側かたえには黄子澄こうしちょう斉泰せいたいあり、諸藩を削奪さくだつするの意、いかでこれ無くして已やまん。燕王えんおうの傍かたえには僧道衍どうえん袁珙えんこうあり、秘謀を醞醸うんじょうするの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是かくの如ごとし、風声鶴唳ふうせいかくれい、人相あい驚かんと欲し、剣光火影かえい、世漸ようやく将まさに乱れんとす。諸王不穏の流言、朝ちょうに聞ゆること頻しきりなれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔ちゅうせきの東角門とうかくもんの言を憶おぼえたもうや、と仰おおす。子澄直ちに対こたえて、敢あえて忘れもうさずと白もうす。東角門の言は、即すなわち子澄七国しちこくの故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰せいたいと議す。泰曰いわく、燕えんは重兵ちょうへいを握り、且かつ素もとより大志あり、当まさに先まず之これを削るべしと。子澄が曰く、然しからず、燕は予あらかじめ備うること久しければ、卒にわかに図り難し。宜よろしく先ず周しゅうを取り、燕の手足しゅそくを剪きり、而しこうして後燕図るべしと。乃すなわち曹国公そうこくこう李景隆りけいりゅうに命じ、兵を調して猝にわかに河南に至り、周王橚しゅく及び其その世子せいし妃嬪ひひんを執とらえ、爵を削りて庶人しょじんとなし、之これを雲南うんなんに遷うつしぬ。橚は燕王の同母弟なるを以もって、帝もかねて之を疑い憚はばかり、橚も亦また異謀あり、橚の長史ちょうし王翰おうかんというもの、数々諫いさめたれど納いれず、橚の次子じし汝南じょなん王有㷲ゆうどうの変を告ぐるに及び、此この事ことあり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月いくばくげつを距さらざる也。冬十一月、代王だいおう桂けい暴虐ぼうぎゃく民を苦くるしむるを以て、蜀しょくに入りて蜀王と共に居らしむ。

諸藩漸ようやく削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍ぜんぐん都督府断事ととくふだんじ高巍こうぎ書を上たてまつりて政を論ず。巍は遼州りょうしゅうの人、気節を尚たっとび、文章を能よくす、材器偉ならずと雖いえども、性質実に惟これ美び、母の蕭氏しょうしに事つかえて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表せいひょうせらる。其その立言正平せいへいなるを以て太祖の嘉納するところとなりし又また是これ一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍ぎと御史ぎょし韓郁かんいくとは説を異にす。巍の言に曰いわく、我が高皇帝、三代の公こうに法のっとり、嬴秦えいしんの陋ろうを洗い、諸王を分封ぶんぽうして、四裔しえいに藩屏はんぺいたらしめたまえり。然しかれども之これを古制に比すれば封境過大にして、諸王又率おおむね驕逸きょういつ不法なり。削らざれば則すなわち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親しんを親したしむの恩を傷やぶる。賈誼かぎ曰く、天下の治安を欲ほっするは、衆おおく諸侯を建てゝ其その力を少すくなくするに若しくは無しと。臣愚しんぐ謂おもえらく、今宜よろしく其その意いを師とすべし、晁錯ちょうさくが削奪の策を施す勿なかれ、主父偃しゅほえんが推恩の令れいに効ならうべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権けんは、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々ますます親親しんしんの礼を隆さかんにし、歳時さいじ伏臘ふくろう、使問しもん絶えず、賢者は詔を下して褒賞ほうしょうし、不法者は初犯は之を宥ゆるし、再犯は之を赦ゆるし、三犯ぱん改めざれば、則ち太廟たいびょうに告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈あに服順せざる者あらんやと。帝之これを然さなりとは聞召きこしめしたりけれど、勢いきおい既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満みちみちたりければ、高巍こうぎの説も用いられて已やみぬ。

建文元年二月、諸王に詔みことのりして、文武の吏士りしを節制し、官制を更定こうていするを得ざらしむ。此こも諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯せいへいこう沐晟もくせい、岷王びんおう梗こうの不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟そうりんを誅ちゅうし、王を廃して庶人となす。又湘王しょうおう柏はく偽いつわりて鈔しょうを造り、及び擅ほしいままに人を殺すを以て、勅ちょくを降くだして之を責め、兵を遣やって執とらえしむ。湘王もと膂力りょりょくありて気を負う。曰く、吾われ聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈あに能よく僕隷ぼくれいの手に辱はずかしめられて生活を求めんやと。遂ついに宮きゅうを闔とじて自ら焚死ふんしす。斉王せいおう榑ふもまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂けいもまた終ついに廃せられて庶人となり、大同だいどうに幽せらる。

燕王は初はじめより朝野の注目せるところとなり、且かつは威望材力も群を抜けるなり、又其その終ついに天子たるべきを期するものも有るなり、又私ひそかに異人術士を養い、勇士勁卒けいそつをも蓄たくわえ居おれるなり、人も疑い、己おのれも危ぶみ、朝廷と燕と竟ついに両立する能あたわざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王橚しゅくの執とらえらるゝを見て、燕王は遂に壮士そうしを簡えらみて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容ゆるす能わず。たま〱北辺に寇警こうけいありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞さいを出いでしめ、其の羽翼うよくを去りて、其の咽喉いんこうを扼やくせんとし、乃すなわち工部侍郎こうぶじろう張昺ちょうへいをもて北平左布政使ほくへいさふせいしとなし、謝貴しゃきを以もって都指揮使としきしとなし、燕王の動静を察せしめ、巍国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ、曹国公そうこくそう李景隆りけいりゅうをして、謀はかりごとを協あわせて燕を図はからしむ。

建文元年正月、燕王長史ちょうし葛誠かつせいをして入って事を奏せしむ。誠せい、帝の為ために具つぶさに燕邸えんていの実を告ぐ。こゝに於おいて誠を遣やりて燕に還かえらしめ、内応を為なさしむ。燕王覚さとって之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲にゅうきんす。皇道こうどうを行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史かんさつぎょし曾鳳韶そうほうしょうこれを劾がいせしが、帝曰く、至親ししん問う勿なかれと。戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけい、先に書を上たてまつって藩を抑え禍わざわいを防がんことを言う。復また密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平ほくへいは、形勝の地にして、士馬しば精強に、金きん元げんの由って興るところなり、今宜よろしく封ほうを南昌なんしょうに徒うつしたもうべし。然しからば則すなわち万一の変あるも控制こうせいし易やすしと、帝敬けいに対こたえたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此これに及ぶことあらんやと。敬曰く、隋ずい文揚広ぶんようこうは父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑しいす。燕王の傲慢ごうまんなる、何をか為なさゞらん。敬の言、敦厚とんこうを欠き、帝の意、醇正じゅんせいに近しと雖いえども、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲かなしむ可べきかな、敬の言却かえって実に切なり。然れども帝黙然たること良やや久しくして曰く、卿けい休せよと。三月に至って燕王国に還かえる。都御史とぎょし暴昭ぼうしょう、燕邸えんていの事を密偵して奏するあり。北平の按察使あんさつし僉事せんじの湯宗とうそう、按察使あんさつし陳瑛ちんえいが燕の金こがねを受けて燕の為に謀ることを劾がいするあり。よって瑛えいを逮捕し、都督宗忠そうちゅうをして兵三万を率ひきい、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下きかに隷れいし、開平かいへいに屯とんして、名を辺に備うるに藉かり、都督の耿瓛こうけんに命じて兵を山海関さんかいかんに練り、徐凱じょがいをして兵を臨清りんせいに練り、密ひそかに張昺ちょうへい謝貴しゃきに勅して、厳に北平ほくへいの動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視み、国に帰れるより疾やまいに托たくして出でず、之これを久しゅうして遂に疾やまい篤あつしと称し、以て一時の視聴を避さけんとせり。されども水あるところ湿気無き能あたわず、火あるところは燥気そうき無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒げいりょうというもの変を上たてまつり、燕の官校于かんこうう諒周鐸りょうしゅうたく等らの陰事を告げゝれば、二人は逮とらえられて京けいに至り、罪明らかにして誅ちゅうせられぬ。こゝに於て事こと燕王に及ばざる能わず、詔みことのりありて燕王を責む。燕王弁疏べんそする能わざるところありけん、佯いつわりて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食しゅしを奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或あるいは土壌に臥ふして、時を経ふれど覚めず、全く常を失えるものゝ如ごとし。張昺ちょうへい謝貴しゃきの二人、入りて疾やまいを問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐ろを囲み、身を顫ふるわせて、寒きこと甚はななだしと曰いい、宮中をさえ杖つえつきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂おもう者もあり、朝廷も稍ややこれを信ぜんとするに至りけるが、葛誠かつせいひそかに昺と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩ゆるくして、後日の計けいに便にせんまでの詐いつわりに過ぎず、本もとより恙無つつがなきのみ、と知らせたり。たま〱燕王の護衛百戸の鄧庸とうようというもの、闕けつに詣いたり事を奏したりけるを、斉泰請こいて執とらえて鞠問きくもんしけるに、王が将まさに兵を挙げんとするの状をば逐一に白もうしたり。

待設まちもうけたる斉泰は、たゞちに符を発し使しを遣わし、往ゆいて燕府の官属を逮捕せしめ、密ひそかに謝貴しゃき張昺ちょうへいをして、燕府に在りて内応を約せる長史ちょうし葛誠かつせい、指揮しき盧振ろしんと気脈を通ぜしめ、北平都指揮としき張信ちょうしんというものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執とらえしむ。信しんは命を受けて憂懼ゆうく為なすところを知らず、情誼じょうぎを思えば燕王に負そむくに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能あたわず、進退両難にして、行止こうしともに艱かたく、左思右慮さしゆうりょ、心終ついに決する能わねば、苦悶くもんの色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝なんじの深憂太息することよ、と詰なじり問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大おおいに驚いて曰く、不可なり、汝が父の興こう、毎つねに言えり王気おうき燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能よく擒とりこにするところにあらざるなり、燕王に負そむいて家を滅することなかれと。信愈々いよいよ惑まどいて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂ついに怒って曰く、何ぞ太甚はなはだしきやと。乃すなわち意を決して燕邸に造いたる。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径ただちに門に至りて見まみゆることを求め、ようやく召入めしいれらる。されども燕王猶なお疾やまいを装いて言ものいわず。信曰く、殿下爾しかしたもう無かれ、まことに事あらば当まさに臣に告げたもうべし、殿下もし情じょうを以て臣に語りたまわずば、上命あり、当まさに執とらわれに就きたもうべし、如もし意あらば臣に諱いみたもう勿なかれと。燕王信の誠まことあるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子しなりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍どうえんを召して、将まさに大事を挙あげんとす。

天耶か、時とき耶、燕王の胸中颶母ばいぼまさに動いて、黒雲こくうん飛ばんと欲し、張玉ちょうぎょく、朱能しゅのう等らの猛将梟雄きょうゆう、眼底紫電閃ひらめいて、雷火発せんとす。燕府えんぷを挙こぞって殺気陰森いんしんたるに際し、天も亦また応ぜるか、時抑そも至れるか、颷風ひょうふう暴雨卒然として大おおいに起りぬ。蓬々ほうほうとして始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然はいぜんとして至り、澎然ほうぜんとして瀉そそぎ、猛打乱撃するの雨と伴ともなって、乾坤けんこんを震撼しんかんし、樹石じゅせきを動盪どうとうしぬ。燕王の宮殿堅牢けんろうならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦えんが吹かれて空くうに飄ひるがえり、砉然かくぜんとして地に堕おちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆ちょうぞ。さすがの燕王も心に之を悪にくみて色懌よろこばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹き裂くる声、物凄ものすさまじき天地を睥睨へいげいして、惨として隻語無く、王の左右もまた粛しゅくとして言ものいわず。時に道衍どうえん少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆しょうちょうや、と白もうす。本もとより此この異僧道衍は、死生禍福の岐ちまたに惑うが如き未達みだつの者にはあらず、膽きもに毛も生おいたるべき不敵の逸物いちもつなれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何いかん、とありけるに、昂然こうぜんとして答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦えんがを堕おとす。時に取っての祥さがとも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言きょうげんに聞えければ、燕王も堪こらえかねて、和尚おしょう何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵ののしる。道衍騒がず、殿下聞きこしめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以もってすと申す、瓦かわら墜おちて砕けぬ、これ黄屋こうおくに易かわるべきのみ、と泰然として対こたえければ、王も頓とみに眉まゆを開いて悦よろこび、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼かの邦くにの制、天子の屋おくは、葺ふくに黄瓦こうがを以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易かわるべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然ぼつぜん凛然りんぜん、糾々然きゅうきゅうぜん、直ただちにまさに天下を呑のまんとするの勢いきおいをなさしめぬ。

燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛まもらしめぬ。矢石しせき未いまだ交まじわるに至らざるも、刀鎗とうそう既に互たがいに鳴る。都指揮使謝貴しゃきは七衛しちえいの兵、并ならびに屯田とんでんの軍士を率いて王城を囲み、木柵ぼくさくを以て端礼門たんれいもん等の路みちを断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔みことのり、及び王府の官属を逮とらうべきの詔至りぬ。秋七月布政使ふせいし張昺ちょうへい、謝貴しゃきと与ともに士卒を督して皆みな甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言げんの支吾しごあらんには、巌石がんせき鶏卵けいらんを圧するの勢を以て臨まんとするの状を為なし、昺貴へいきの軍の殺気の迸はしるところ、箭やをば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡すくなく、彼の軍は甚だ多し、奈何いかにせんと。朱能進んで曰く、先まず張昺謝貴を除かば、余よは能よく為す無き也と。王曰く、よし、昺貴へいきを擒とりこにせんと。壬申じんしんの日、王、疾やまい癒いえぬと称し、東殿とうでんに出で、官僚の賀を受け、人をして昺と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復また内官を遣つかわして、逮とらわるべき者を交付するを装う。二人乃すなわち至る。衛士甚だ衆おおかりしも、門者呵かして之これを止とどめ、昺と貴とのみを入る。昺と貴との入るや、燕王は杖つえを曳ひいて坐ざし、宴を賜い酒を行やり宝盤に瓜うりを盛って出いだす。王曰く、たま〱新瓜しんかを進むる者あり、卿けい等らと之を嘗こころみんと。自ら一瓜かを手にしけるが、忽たちまちにして色を作なして詈ののしって曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族けいていそうぞく、尚なお相あい互たがいに恤あわれぶ、身は天子の親属たり、而しかも旦夕たんせきに其命めいを安んずること無し、県官の我を待つこと此かくの如し、天下何事か為す可べからざらんや、と奮然として瓜を地に擲なげうてば、護衛の軍士皆激怒して、前すすんで昺と貴とを擒とらえ、かねて朝廷に内通せる葛誠かつせい盧振ろしん等らを殿下に取って押おさえたり。王こゝに於おいて杖を投じて起たって曰く、我何ぞ病まん、奸臣かんしんに迫らるゝ耳のみ、とて遂に昺貴等を斬きる。昺貴等の将士、二人が時を移して還かえらざるを見、始はじめは疑い、後のちは覚さとりて、各おのおの散じ去る。王城を囲める者も、首脳已すでに無くなりて、手足しゅそく力無く、其兵おのずから潰ついえたり。張昺ちょうへいが部下北平都指揮ほくへいとしきの彭二ほうじ、憤慨已やむ能あたわず、馬を躍らして大おおいに市中に呼よばわって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門たんれいもんに殺到す。燕王の勇卒龐来興ほうらいこう、丁勝ていしょうの二人、彭二を殺しければ、其兵も亦また散じぬ。此この勢いきおいに乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北さいほくに転戦して元兵げんぺいと相あい馳駆ちくし、千軍万馬の間に老い来きたれる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明れいめいに至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門せいちょくもんをも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余瑱よてんは、走って居庸関きょようかんを守り、馬宣ばせんは東して薊州けいしゅうに走り、宋忠そうちゅうは開平かいへいより兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢あえて進まずして、退いて懐来かいらいを保ちたり。

煙は旺さかんにして火は遂に熾もえたり、剣けんは抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔せいさくを奉ぜず、敢あえて建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍どうえんを帷幄いあくの謀師とし、金忠きんちゅうを紀善きぜんとして機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福きゅうふくを都指揮僉事せんじとし、張昺部下にして内通せる李友直りゆうちょくを布政司ふせいし参議さんぎと為なし、乃すなわち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣かんしんの為に謀害せらる。祖訓に云いわく、朝ちょうに正臣無く、内に奸逆かんぎゃくあれば、必ず兵を挙げて誅討ちゅうとうし、以もって君側の悪を清めよと。こゝに爾なんじ将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王せいおうを輔たすくるに法のっとらん。爾なんじ等らそれ予が心を体せよと。一面には是かくの如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上たてまつりて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固きょうこにして、盤石の計を為なしたまえり。然しかるに奸臣かんしん斉泰せいたい黄子澄こうしちょう、禍心を包蔵し、橚しゅく、榑ふ、栢はく、桂けい、楩べんの五弟、数年ならずして、並びに削奪さくだつせられぬ、栢はくや尤もっとも憫あわれむべし、闔室こうしつみずから焚やく、聖仁上かみに在り、胡なんぞ寧なんぞ此これに忍ばん。蓋けだし陛下の心に非ず、実に奸臣の為なす所ならん。心尚なお未いまだ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩はんを燕に守ること二十余年、寅つつしみ畏おそれて小心にし、法を奉じ分ぶんに循したがう。誠に君臣の大分たいぶん、骨肉の至親なるを以て、恒つねに思いて慎つつしみを加う。而しかるに奸臣跋扈ばっこし、禍を無辜むこに加え、臣が事を奏するの人を執とらえて、箠楚すいそ刺縶ししつし、備つぶさに苦毒を極め、迫りて臣不軌ふきを謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張昺等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢がいくに馳突ちとつし、鉦鼓しょうこは遠邇えんじに喧鞠けんきくし、臣が府を囲み守る。已すでにして護衛の人、貴昺きへいを執とらえ、始めて奸臣欺詐ぎさの謀を知りぬ。窃ひそかに念おもうに臣の孝康こうこう皇帝に於おけるは、同父母兄弟なり、今陛下に事つかうるは天に事うるが如きなり。譬たとえば大樹を伐きるに、先ず附枝ふしを剪きるが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷しゃしょく危あやうからん。臣伏ふして祖訓を覩みるに云いえることあり、朝ちょうに正臣無く、内に奸悪あらば、則すなわち親王兵を訓して命を待ち、天子密ひそかに諸王に詔みことのりし、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏ふふくして命を俟まつ、と言辞を飾り、情理を綺いろえてぞ奏しける。道衍少わかきより学を好み詩を工たくみにし、高啓こうけいと友とし善よく、宋濂そうれんにも推奨すいしょうされ、逃虚子集とうきょししゅう十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或あるいは又金忠の輩や詞ことばを綴つづりけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐いだき、己おのれを護まもりて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此この書しょのみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情じょう無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可べきを覚ゆ。されども擅ほしいままに謝張を殺し、妄みだりに年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑こうえんに軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分ぶんに循したがうにあらず。君側の奸を掃はらわんとすと云うと雖いえども、詔無くして兵を起し、威を恣ほしいままにして地を掠かすむ。其その辞じは則すなわち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦また理に於て欠け、情に於て薄し。夫それ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐いだいて諸王に臨むは、上かみは太祖の意を壊やぶり、下しもは宗室の親しんを破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土ほうど未だ乾かわかず、直ただちに其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是これ理に於おいて欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是かくの如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏しりぞくるも亦また削奪罪責を免まぬかれざらんとす。太祖の血を承うけて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首べんしゅして寃えんに服するに忍びんや。瓜うりを投じて怒罵どばするの語、其中に機関ありと雖いえども、又尽ことごとく偽詐ぎさのみならず、本もとより真情の人に逼せまるに足るものあるなり。畢竟ひっきょう両者各おのおの理あり、各非理ひりありて、争鬩そうげい則すなわち起り、各情じょうなく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰たれか能よく其の是非を判せんや。高巍こうぎの説は、敦厚とんこう悦よろこぶ可べしと雖も、時既に晩おそく、卓敬たくけいの言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回かえし難く、朝旨の酷責すると、燕師えんしの暴起すると、実に互たがいに已やむ能あたわざるものありしなり。是れ所謂いわゆる数すうなるものか、非ひ耶か。

燕王えんおうの兵を起したる建文元年七月より、恵帝けいていの国を遜ゆずりたる建文四年六月までは、烽烟ほうえん剣光けんこうの史しにして、今一々之これを記するに懶ものうし。其その詳しょうを知らんとするものは、明史みんし及び明朝紀事本末みんちょうきじほんまつ等らに就きて考うべし。今たゞ其概略がいりゃくと燕王恵帝の性格風丰ふうぼうを知る可べきものとを記せん。燕王もと智勇天縦ちゆうてんしょう、且かつ夙つとに征戦に習う。洪武こうぶ二十三年、太祖たいその命を奉じ、諸王と共に元族げんぞくを漠北ばくほくに征す。秦王しんおう晋王しんおうは怯きょにして敢あえて進まず、王将軍傅友徳ふゆうとく等を率いて北出し、迤都山いとさんに至り、其将乃児不花ナルプファを擒とりこにして還かえる。太祖大おおいに喜び、此これより後屡しばしば諸将を帥ひきいて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大おおいに振ふるう。王既に兵を知り戦たたかいに慣なる。加うるに道衍どうえんありて、機密に参し、張玉ちょうぎょく、朱能しゅのう、丘福きゅうふくありて爪牙そうがと為なる。丘福は謀画ぼうかくの才張玉に及ばずと雖いえども、樸直ぼくちょく猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦たたかい終って功を献ずるや必ず人に後おくる。古いにしえの大樹たいじゅ将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之これを知る、と歎美たんびせしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其その首しゅたり、淇国公きこくこうに封ほうぜらる。其その他た将士の鷙悍驁雄しかんごうゆうの者も、亦また甚はなはだ少すくなからず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋けだし胸算きょうさんあるなり。燕王の張昺ちょうへい謝貴しゃきを斬きって反を敢あえてするや、郭資かくしを留とどめて北平ほくへいを守らしめ、直ただちに師を出いだして通州つうしゅうを取り、先まず薊州けいしゅうを定めずんば、後顧の患うれいあらんと云いえる張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次ついで夜襲して遵化じゅんかを降くだす。此これ皆開平かいへいの東北の地なり。時に余瑱よてん居庸関きょようかんを守る。王曰く、居庸は険隘けんあいにして、北平の咽喉いんこう也、敵此ここに拠よるは、是これ我が背はいを拊うつなり、急に取らざる可からずと。乃すなわち徐安じょあん、鐘祥しょうしょう等らをして瑱てんを撃うって、懐来かいらいに走らしむ。宗忠そうちゅう懐来かいらいに在あり 兵三万と号す。諸将之を撃つを難かたんず。王曰く、彼衆おおく、我寡すくなし、然しかれども彼新あらたに集まる、其心未いまだ一ならず、之を撃たば必かならず破れんと。精兵八千を率い、甲こうを捲まき道を倍して進み、遂ついに戦って克かち、忠と瑱とを獲えて之を斬る。こゝに於おいて諸州燕に降くだる者多く、永平えいへい、欒州らんしゅうまた燕に帰す。大寧たいねいの都指揮としき卜万ぼくばん、松亭関しょうていかんを出いで、沙河さがに駐とどまり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢いきおいやゝ振う。燕王反間はんかんを放ち、万の部将陳亨ちんこう、劉貞りゅうていをして万を縛し獄に下さしむ。

帝黄子澄の言を用い、長興侯ちょうこうこう耿炳文こうへいぶんを大将軍とし、李堅りけん、寧忠ねいちゅうを副そえて北伐せしめ、又安陸侯あんりくこう呉傑ごけつ、江陰侯こういんこう呉高ごこう、都督ととく都指揮としき盛庸せいよう、潘忠はんちゅう、楊松ようしょう、顧成こせい、徐凱じょがい、李文りぶん、陳暉ちんき、平安へいあん等らに命じ、諸道並び進みて、直ただちに北平を擣つかしむ。時に帝諸将士を誡いましめたまわく、昔むかし蕭繹しょうえき、兵を挙げて京けいに入らんとす、而しかも其その下しもに令して曰く、一門の内うち自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾なんじ将士、燕王と対塁するも、務めて此この意いを体して、朕ちんをして叔父しゅくふを殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹しょうえきは梁りょうの孝元こうげん皇帝なり。今梁書りょうしょを按あんずるに、此事を載せず。蓋けだし元帝兵を挙げて賊を誅ちゅうし京けいに入らんことを図る。時に河東かとう王誉おうよ、帝に従わず、却かえって帝の子方ほう等らを殺す。帝鮑泉ほうせんを遣やりて之を討たしめ、又王おう僧弁そうべんをして代って将たらしむ。帝は高祖武帝ぶていの第七子にして、誉よは武帝の長子にして文選もんぜんの撰者せんじゃたる昭明太子しょうめいたいし統とうの第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔じんじゅうの性、宋襄そうじょうに近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖いえども、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器きょうきを弄ろうし王師に抗す、其罪本もとより誅戮ちゅうりくに当る。然しかるに是かくの如ごときの令を出征の将士に下す。これ適たまたま以もって軍旅の鋭えいを殺そぎ、貔貅ひきゅうの胆たんを小にするに過ぎざるのみ、智ちなりという可べからず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或あるいは勝つあるも、此この令あるを以もって、飛箭ひせん長槍ちょうそう、燕王を殪たおすに至らず。然りと雖も、小人の過あやまちや刻薄こくはく、長者の過あやまちや寛厚かんこう、帝の過を観みて帝の人となりを知るべし。

八月耿炳文こうへいぶん等ら兵三十万を率いて真定しんていに至り、徐凱じょがいは兵十万を率いて河間かかんに駐とどまる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠ちょうしせいに当りて、長興ちょうこうを守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終ついに士誠をして志を逞たくましくする能あたわざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列ほうれつするや、炳文を以て大将軍徐達じょたつに付ふして一等となす。後又、北は塞さいを出でゝ元の遺族を破り、南は雲南うんなんを征して蛮を平らげ、或あるいは陝西せんせいに、或は蜀しょくに、旗幟きしの向う所、毎つねに功を成す。特ことに洪武こうぶの末に至っては、元勲宿将多く凋落ちょうらくせるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹き老いて材愈いよいよ堅く、将老いて軍益々ますます固し。然れども不幸にして先鋒せんぽう楊松、燕王の為ために不意を襲われて雄県ゆうけんに死し、潘忠はんちゅう到いたり援すくわんとして月漾橋げつようきょうの伏兵に執とらえられ、部将張保ちょうほ敵に降りて其の利用するところとなり、遂に滹沱河こだかの北岸に於おいて、燕王及び張玉、朱能、譚淵たんえん、馬雲ばうん等らの為に大おおいに敗れて、李堅りけん、寗忠ねいちゅう、顧成こせい、劉燧りゅうすいを失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而しかも潰ついえず、真定城しんていじょうに入りて門を闔とじて堅く守る。燕兵勝かちに乗じて城を囲む三日、下す能あたわず。燕王も炳文が老将にして破り易やすからざるを知り、囲いを解いて還かえる。

炳文の一敗は猶なお復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄こうしちょうの言によりて、李景隆りけいりゅうを大将軍とし、斧鉞ふえつを賜たまわって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は紈袴がんこの子弟、趙括ちょうかつの流りゅうなればなり。趙括を挙げて廉頗れんぱに代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此これに本づく。炳文の子璿えいは、帝の父懿文いぶん太子の長女江都公主こうとこうしゅを妻とす、璿えい父の復また用いられざるを憤ること甚はなはだしかりしという。又璿の弟瓛けん、遼東りょうとうの鎮守ちんじゅ呉高ごこう、都指揮使としきし楊文ようぶんと与ともに兵を率いて永平えいへいを囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡そとうばが所謂いわゆる善よく奕えきする者も日に勝って日に敗やぶるゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児きょうじを挙ぐ。燕王手を拍うって笑って、李九江りきゅうこうは膏梁こうりょうの豎子じゅしのみ、未だ嘗かつて兵に習い陣を見ず、輙すなわち予あたうるに五十万の衆を以てす、是これ自ら之これを坑あなにする也なり、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回かえらしめたる、まことに歎たんずべし。

景隆小字しょうじは九江きゅうこう、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦すすむるに因よるも、又別に所以ゆえ有るなり。景隆は李文忠りぶんちゅうの子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経けいを治め、其その家居するや恂々じゅんじゅんとして儒者の如く、而しかも甲を擐ぬき馬に騎のり槊ほこを横たえて陣に臨むや、踔厲たくれい風発、大敵に遇あいて益ますます壮さかんに、年十九より軍に従いて数々しばしば偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重あいちょうするところとなれるのみならず、西安せいあんに水道を設けては人を利し、応天おうてんに田租を減じては民を恵めぐみ、誅戮ちゅうりくを少すくなくすることを勧め、宦官かんがんを盛さかんにすることを諫いさめ、洪武十五年、太祖日本懐良王かねながおうの書に激して之を討たんとせるを止とどめ、(懐良王、明史みんしに良懐に作るは蓋けだし誤あやまり也。懐良王は、後醍醐ごだいご帝の皇子、延元えんげん三年、征西大将軍に任じ、筑紫つくしを鎮撫ちんぶす。菊池武光きくちたけみつ等ら之これに従い、興国こうこくより正平しょうへいに及び、勢威大おおいに張る。明の太祖の辺海毎つねに和寇わこうに擾みださるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以もって威嚇いかくするや、王答うるに書を以てす。其その略に曰く、乾坤けんこんは浩蕩こうとうたり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪かんこうなり、諸邦を作なして以て分守す。蓋けだし天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也なり。吾われ聞く、天朝戦たたかいを興おこすの策ありと、小邦亦また敵を禦ふせぐの図とあり。豈あに肯あえて途みちに跪ひざまずいて之を奉ぜんや。之に順したがうも未いまだ其生せいを必せず、之に逆さからうも未だ其死を必せず、相あい逢あう賀蘭山前がらんさんぜん、聊いささか以もって博戯はくぎせん、吾何をか懼おそれんやと。太祖書を得て慍いかること甚だしく、真しんに兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和こうわ元年に当る。時に王既に今川了俊いまがわりょうしゅんの為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝ごむらかみていの皇子良成ながなり王に譲り、筑後ちくご矢部やべに閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務つとめをば執りたまわず、年代齟齬そごするに似たり。然れども王と明みんとの交渉は夙つとに正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此この事こと我が国に史料全く欠け、大日本史だいにほんしも亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚ふだんにあらず。)一個いっか優秀の風格、多く得う可べからざるの人なり。洪武十七年、疾やまいを得て死するや、太祖親しく文を為つくりて祭まつりを致し、岐陽王きようおうに追封し、武靖ぶせいと諡おくりなし、太廟たいびょうに配享はいきょうしたり。景隆は是かくの如き人の長子にして、其父の蓋世がいせいの武勲と、帝室の親眷しんけんとの関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統すぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀びもくそしゅう、雍容都雅ようようとが、顧盻偉然こべんいぜん、卒爾そつじに之を望めば大人物の如くなりしかば、屡しばしば出いでゝ軍を湖広ここう陝西せんせい河南かなんに練り、左軍都督府事さぐんととくふじとなりたるほかには、為なすところも無く、其その功としては周王しゅうおうを執とらえしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮こひにして羊質ようしつ、所謂いわゆる治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を蹀ふみ剣を揮ふるいて進み、創きずを裹つつみ歯を切くいしばって闘たたかうが如き経験は、未いまだ曾かつて積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其その真を得たりしなり。

李景隆は大兵を率いて燕王を伐うたんと北上す。帝は猶なお北方憂うるに足らずとして意こころを文治に専らにし、儒臣方孝孺ほうこうじゅ等らと周官の法度ほうどを討論して日を送る、此この間かんに於て監察御史かんさつぎょし韓郁かんいく(韓郁或あるいは康郁こういくに作る)というもの時事を憂いて疏そを上たてまつりぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒じゅじゅとなし、諸王は太祖の遺体なり、孝康こうこうの手足しゅそくなりとなし、之これを待つことの厚からずして、周王湘しょう王代だい王斉せい王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為ために計る者の過あやまちにして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為なし、諺ことわざに曰いわく、親者しんしゃ之を割さけども断たず、疎者そしゃ之を続つげども堅かたからずと、是これ殊ことに理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜びし兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈ゆるし、湘王を封ほうじ、周王を京師けいしに還かえし、諸王世子せいしをして書を持し燕に勧め、干戈かんかを罷やめ、親戚しんせきを敦あつうしたまえ、然らずんば臣愚ぐおもえらく十年を待たずして必ず噬臍ぜいせいの悔くいあらん、というに在あり。其の論、彝倫いりんを敦あつくし、動乱を鎮しずめんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既すでに去り、勢いきおい既に成るの後に於て、此この言あるも、嗚呼ああ亦晩おそかりしなり。帝遂ついに用いたまわず。

景隆の炳文へいぶんに代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆はいちょうを具せるを指摘し、我之これを擒とりこにせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平ほくへいを世子せいしに守らしめ、東に出でゝ、遼東りょうとうの江陰侯こういんこう呉高ごこうを永平より逐おい、転じて大寧たいねいに至りて之を抜き、寧ねい王を擁して関かんに入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥ひきいて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲りじょう、梁明りょうめい等ら、世子せいしを奉じて防守甚だ力つとむと雖いえども、景隆が軍衆おおくして、将も亦また雄傑なきにあらず、都督ととく瞿能くのうの如き、張掖門ちょうえきもんに殺入して大おおいに威勇を奮い、城殆ほとんど破る。而しかも景隆の器きの小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟まちて倶ともに進めと令し、機に乗じて突至せず。是ここに於て守る者便べんを得、連夜水を汲くみて城壁に灌そそげば、天寒くして忽たちまち氷結し、明日に至れば復また登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予あらかじめ景隆を吾が堅城の下に致して之を殱つくさんことを期せしに、景隆既に彀やごろに入り来きたりぬ、何ぞ箭やを放たざらんや。大寧より還かえりて会州かいしゅうに至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬りひんを右軍ゆうぐんに、徐忠じょちゅうを前軍に、降将房寛ぼうかんを後軍に将たらしめ、漸ようやく南下して京軍けいぐんと相対したり。十一月、京軍の先鋒せんぽう陳暉ちんき、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷もくとうして曰く、天若もし予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果はたして合す。燕の師勇躍して進み、暉きの軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃きょうげきし、遂に連しきりに其七営を破って景隆の営に逼せまる。張玉等らも陣を列つらねて進むや、城中も亦また兵を出して、内外交こもごも攻む。景隆支うる能あたわずして遁のがれ、諸軍も亦粮かてを棄すてゝ奔はしる。燕の諸将是ここに於て頓首とんしゅして王の神算及ぶ可べからずと賀す。王曰いわく、偶中ぐうちゅうのみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙けんす。燕王が英雄の心を攬とるも巧たくみなりというべし。

景隆が大軍功無くして、退いて徳州とくしゅうに屯す。黄子澄其その敗はいを奏せざるを以もって、十二月に至って却かえって景隆に太子たいし太師たいしを加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌こうしょうを攻めて之を降す。

前に疏そを上たてまつりりて、諸藩を削るを諫いさめたる高巍こうぎは、言用いられず、事遂ついに発して天下動乱に至りたるを慨なげき、書を上たてまつりりて、臣願わくは燕に使つかいして言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上たてまつりりたり。其その略に曰く、太祖たいそ升遐しょうかしたまいて意おもわざりき大王と朝廷と隙げきあらんとは。臣おもえらく干戈かんかを動かすは和解に若しかずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見まみえん。昔周公流言を聞きては、即すなわち位を避けて東に居いたまいき。若もし大王能よく首計しゅけいの者を斬きりたまい、護衛の兵を解き、子孫を質しちにし、骨肉猜忌さいきの疑うたがいを釈とき、残賊離間の口を塞ふさぎたまわば、周公と隆さかんなることを比すべきにあらずや。然しかるを慮おもんぱかりこゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇きょううを襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉しくことを得て、殿下文臣を誅ちゅうすることを仮りて実は漢の呉ご王の七国に倡となえて晁錯ちょうさくを誅せんとしゝに効ならわんと欲したもうと申す。今大王北平に拠よりて数群を取りたもうと雖いえども、数月すうげつ以来にして、尚なお蕞爾さつじたる一隅の地を出いづる能わず、較くらぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其その一いつをも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統すべたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則すなわち君臣たり、親しんは則ち骨肉たるも、尚なお離れ間へだたりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍ぎが念おもいこゝに至るごとに大王の為に流涕りゅうていせずんばあらざる也。願わくは大王臣が言ことばを信じ、上表じょうひょう謝罪し、甲を按おき兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥かんゆうあり、天人共に悦よろこびて、太祖在天の霊も亦また安んじたまわん。倘もし迷まよいを執りて回かえらず、小勝を恃たのみ、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為なす可からざるの悖事はいじを僥倖ぎょうこうするを敢あえてしたまわば、臣大王の為に言もうすべきところを知らざる也なり。況いわんや、大喪の期未だ終らざるに、無辜むこの民驚きを受く。仁を求め国を護まもるの義と、逕庭けいていあるも亦また甚はなはだし。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪さんだつするの批議無きにあらじ。もし幸さいわいにして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何いかんの人と謂いい申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣ふゆうの微命びめい、もとより死を畏おそれず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩ぎょおんを蒙こうむりて、臣が孝行を旌あらわしたもうを辱かたじけなくす。巍既すでに孝子たる、当まさに忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見まみゆるを得ば、巍も亦以て愧はじ無かるべし。巍至誠至心、直語して諱いまず、尊厳を冒涜ぼうとくす、死を賜うも悔くい無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚はばかるところ無く白もうしける。されど燕王答えたまわねば、数次しばしば書を上たてまつりけるが、皆効かい無かりけり。

巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此これに対して如何いかんの感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦たたかいを開く、巍の言ことば善よしと雖も、大河既に決す、一葦いちいの支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言げんと、忠孝敦厚とんこうの人たるに負そむかず。数百歳の後、猶なお読む者をして愴然そうぜんとして感ずるあらしむ。魏と韓郁かんいくとは、建文の時に於て、人情の純、道理の正まさに拠りて、言げんを為せる者也。

年は新あらたになりて建文二年となりぬ。燕えんは洪武こうぶ三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州いしゅうを下し、大同だいどうを攻む。景隆けいりゅう師を出して之これを救わんとすれば、燕王は速く居庸関きょようかんより入りて北平ほくへいに還かえり、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼だったんの兵来きたりて燕を助く。蓋けだし春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮はかりて、燕王の請えるなり。春闌たけなわにして、南軍勢いきおいを生じぬ。四月朔さく、景隆兵を徳州とくしゅうに会す、郭英かくえい、呉傑ごけつは真定しんていに進みぬ。帝は巍国公ぎこくこう徐輝祖じょきそをして、京軍けいぐん三万を帥ひきいて疾馳しっしして軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等ら、軍六十万を合がっし、百万と号して白溝河はくこうがに次じす。南軍の将平安へいあん驍勇ぎょうゆうにして、嘗かつて燕王に従いて塞北さいほくに戦い、王の兵を用いるの虚実を識しる。先鋒せんぽうとなりて燕に当り、矛ほこを揮ふるいて前すすむ。瞿能くのう父子も亦また踴躍して戦う。二将の向むかう所、燕兵披靡ひびす。夜、燕王、張玉ちょうぎょくを中軍に、朱能しゅのうを左軍に、陳亨ちんこうを右ゆう軍に、丘福きゅうふくを騎兵に将とし、馬歩ばほ十余万、黎明れいめいに畢ことごとく河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛ぼうかんの陣を擣ついて之を破る。張玉等之これを見て懼色くしょくあり。王曰く、勝負しょうはいは常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為ために敵を破らんと。既すなわち精鋭数千を麾さしまねいて敵の左翼に突入す。王の子高煦こうこう、張玉等の軍を率いて斉ひとしく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声かんせい天に震い 飛矢ひし雨の如し。王の馬、三たび創きずを被こうむり、三たび之を易かう。王善よく射る。射るところの箭や、三箙ふく皆尽く。乃すなわち剣を提ひっさげて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒けんぽう折れ欠けて、撃うつに堪たえざるに至る。瞿能くのうと相あい遇あう。幾ほとんど能の為に及ばる。王急に走りて隄つつみに登り、佯いつわって鞭むちを麾さしまねいで、後継者を招くが如くして纔わずかに免まぬかれ、而して復また衆を率いて馳はせて入る。平安善よく鎗刀そうとうを用い、向う所敵無し。燕将陳亨ちんこう、安の為に斬られ、徐忠亦創きずを被こうむる。高煦こうこう急を見、精騎数千を帥ひきい、前すすんで王と合がっせんとす。瞿能くのうまた猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま〱旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相あい視みて驚き動く。王これに乗じ、勁騎けいきを以て繞めぐって其その後うしろに出で、突入馳撃しげきし、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏うちに殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵ゆつうえん、勝聚しょうしゅう等ら皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼せまり火を縦はなつ。急風火を扇あおる。是ここに於おいて南軍大おおいに潰ついえ、郭英かくえい等らは西に奔はしり、景隆は南に奔る。器械輜重しちょう、皆燕の獲うるところとなり、南兵の横尸おうし百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此この戦たたかい、軍を全くして退く者、徐輝祖じょきそあるのみ。瞿能、平安等、驍将ぎょうしょう無きにあらずと雖いえども、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦てんしょうの豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以もってす。北軍の克かち、南軍の潰ついゆる、まことに所以ゆえある也。

山東参政さんとうさんせい鉄鉉てつげんは儒生より身を起し、嘗かつて疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石ていせきという字あざなを賜わりたる者なり。北征の師の出いづるや、餉しょうを督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰ついえて、諸州の城堡じょうほ皆風ふうを望みて燕に下るに会い、臨邑りんゆうに次やどりたるに、参軍高巍こうぎの南帰するに遇あいたり。偕ともに是これ文臣なりと雖いえども、今武事の日に当り、目前に官軍の大おおいに敗れて、賊威の熾さかんに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上たてまつりしも効かい無かりしを歎たんずれば、鉉は忠臣の節に死する少すくなきを憤る。慨世の哭なげき、憂国の涙、二人相あい持じして、泫然げんぜんとして泣きしが、乃すなわち酒を酌くみて同ともに盟ちかい、死を以て自ら誓い、済南せいなんに趨はしりてこれを守りぬ。景隆は奔はしりて済南に依よりぬ。燕王は勝かちに乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚なお十余万の兵を有せしが、一戦に復また敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈いよいよ旺さかんにして城を屠ほふらんとす。鉄鉉、左都督さととく盛庸せいよう、右都督ゆうととく陳暉ちんき等らと力を尽して捍ふせぎ、志を堅うして守り、日を経ふれど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使さんとうふせいししと為なし、盛庸を大将軍と為なし、陳暉を副将軍に陞のぼす。景隆は召還めしかえされしが、黄子澄こうしちょう、練子寧れんしねいは之を誅ちゅうせずんば何を以もって宗社そうしゃに謝し将士を励まさんと云いいしも、帝卒ついに問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂ついに下くだすこと能あたわず。乃すなわち城外の諸渓しょけいの水を堰せきて灌そそぎ、一城の士しを魚とせんとす。城中是ここに於て大おおいに安んぜず。鉉曰く、懼おそるゝ勿なかれ、吾われに計ありと。千人を遣やりて詐いつわりて降くだらしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予かねて壮士を城上に伏せて、王の入るを侯うかがいて大鉄板を墜おとして之これを撃ち、又別に伏ふくを設けて橋を断たしめんとす。燕王計はかりごとに陥り、馬に乗じ蓋がいを張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟にわかに下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易かえて馳はせて出いづ。橋を断たんとす。橋甚はなはだ堅かたし。未いまだ断つに及ばずして、王竟ついに逸し去る。燕王幾ほとんど死して幸さいわいに逃る。天助あるものゝ如し。王大おおいに怒り、巨礟きょほうを以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈いよいよ屈せず、太祖高皇帝の神牌しんぱいを書して城上に懸けしむ。燕王敢あえて撃たしむる能あたわず。鉉又数々しばしば不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅おびやかさしむ。燕王憤いかること甚はなはだしけれども、計の出づるところ無し。道衍どうえん書を馳はせて曰く、師老いたり、請う暫しばらく北平に還かえりて後挙を図りたまえと。王囲かこみを撤して還る。鉉と盛庸等らと勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大おおいに振う。鉉是ここに於て擢ぬきんでられて兵部尚書へいぶしょうしょとなり、盛庸は歴城侯れきじょうこうとなりたり。

盛庸は初め耿炳文こうへいぶんに従い、次ついで李景隆りけいりゅうに従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦ぼうぎょ、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕へいえん将軍となり、陳暉ちんき、平安へいあん、馬溥ばふ、徐真じょしん等の上に立ち、呉傑ごけつ、徐凱じょがい等と与ともに燕を伐うつの任に当りぬ。庸乃すなわち呉傑、平安をして西の方定州ていしゅうを守らしめ、徐凱をして東の方滄州そうしゅうに屯たむろせしめ、自ら徳州に駐とどまり、猗角きかくの勢を為なして漸ようやく燕を蹙しじめんとす。燕王、徳州の城の、修築已すでに完まったく、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰ついえ圯くずるゝこと久しくして破り易やすきを思い、之これを下して庸の勢を殺そがんと欲す。乃すなわち陽ように遼東りょうとうを征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津てんしんより直沽ちょくこに至り、俄にわかに河かに沿いて南下するを令す。軍士猶なお知らず、其その東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途みちに偵騎ていきに遇あえば、尽ことごとく之これを殺し、一昼夜にして暁あかつきに比およびて滄州に至る。凱の燕師の到いたれるを覚さとりし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能あたわず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂ついに抜かれ、凱と程暹ていせん、兪琪ゆき、趙滸ちょうこ等皆獲えらる。これ実に此この年とし十月なり。

十二月、燕王河に循したがいて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清りんせいに至り、館陶かんとうに屯たむろし、次ついで大名府たいめいふを掠かすめ、転じて汶上ぶんじょうに至り、済寧せいねいを掠かすめぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其その後のちを躡ふみ、東昌とうしょうに営したり。此この時とき北軍却かえって南に在あり南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢いきおい成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初はじめは官軍の先鋒せんぽう孫霖そんりん、燕将えんしょう朱栄しゅえい、劉江りゅうこうの為ために敗れて走りしが、両軍持重じちょうして、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ〱東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛うしを宰して将士を犒ねぎらい、義を唱となえ衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密ひそかに火器毒弩どくどを列つらねて、粛しゅくとして敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟こそうして薄せまる。火器電でんの如ごとくに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟ころうしきょう、皆傷ついて倒る。又平安へいあんの兵の至るに会う。庸是ここに於て兵を麾さしまねいて大おおいに戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝つく。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝つく。庸陣を開いて王の入るに縦まかせ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚はなはだ力つとむれども出いづることを得ず、殆ほとんど其の獲うるところとならんとす。朱能しゅのう、周長しゅうちょう等、王の急を見、韃靼だったん騎兵を縦はなって庸の軍の東北角を撃つ。庸之これを禦ふせがしめ、囲かこみやゝ緩ゆるむ。能のう衝いて入って死戦して王を翼たすけて出づ。張玉ちょうぎょくも亦また王を救わんとし、王の已すでに出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝かちに乗じ、残獲万余人、燕軍大おおいに敗れて奔はしる。庸兵を縦はなって之を追い、殺傷甚だ多し。此この役えきや、燕王数々しばしば危あやうし、諸将帝の詔みことのりを奉ずるを以て、刃じんを加えず。燕王も亦之これを知る。王騎射尤もっとも精くわし、追う者王を斬きるを敢あえてせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々たまたま高煦こうこう、華衆かしゅう等を率いて至り、追兵を撃退して去る。

燕王張玉の死を聞きて痛哭つうこくし、諸将と語るごとに、東昌とうしょうの事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾われ今に至って寝食安からずと。涕なみだ下りて已やまず。諸将も皆泣く。後のち功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間かかん王を追封ついほうす。

初め燕王えんおうの師の出いづるや、道衍どうえん曰いわく、師は行ゆいて必ず克かたん、たゞ両日を費ついやすのみと。東昌とうしょうより還かえるに及びて、王多く精鋭を失い、張玉ちょうぎょくを亡うしなうを以もって、意稍やや休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌也なり、東昌の事了おわる、此これより全勝ならんのみと。益々ますます士を募り勢いきおいを鼓こす。建文三年二月、燕王自ら文を撰せんし、流涕りゅうていして陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍ほうを脱して之これを焚やき、以て亡者ぼうしゃに衣きするの意をあらわし、曰く、其それ一糸しと雖いえどもや、以て余が心を識しれと。将士の父兄子弟之これを見て、皆感泣して、王の為ために死せんと欲す。

燕王遂ついに復また師を帥ひきいて出いづ。諸将士を諭さとして曰く、戦たたかいの道、死を懼おそるゝ者は必ず死し、生せいを捐すつる者は必ず生く、爾なんじ等ら努力せよと。三月、盛庸せいようと來河きょうがに遇あう。燕将譚淵たんえん、董中峰とうちゅうほう等ら、南将荘得そうとくと戦って死し、南軍亦また荘得そうとく、楚知そち、張皀旗ちょうそうき等を失う。日暮れ、各おのおの兵を斂おさめて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼せまって野宿やしゅくす。天明あく、四面皆敵なり。王従容しょうようとして去る。庸の諸将相あい顧かえりみて愕おどろき眙みるも、天子の詔、朕をして叔父しゅくふを殺すの名を負わしむる勿なかれの語あるを以て、矢を発はなつを敢あえてせず。此この日ひ復また戦う。辰たつより未ひつじに至って、両軍互たがいに勝ち互に負く。忽たちまちにして東北風大おおいに起り、砂礫されき面おもてを撃つ。南軍は風に逆さからい、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊とっかん鉦鼓しょうこの声地を振ふるい、庸の軍当る能あたわずして大おおいに敗れ走る。燕王戦罷やんで営に還かえるに、塵土じんど満面、諸将も識しる能わず、語声を聞いて王なるを覚さとりしという。王の黄埃こうあい天に漲みなぎるの中に在あって馳駆奔突ちくほんとつして叱咜しった号令せしの状、察す可べきなり。

呉傑ごけつ、平安へいあんは、盛庸せいようの軍を援たすけんとして、真定しんていより兵を率いて出いでしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧かてを取り、営中備そなえ無しと言わしめ、傑等を誘いざなう。傑等之を信じて、遂に滹沱河こだかに出づ。王河かわを渡り流ながれに沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城ごうじょうに遇う。実に閏うるう三月己亥きがいなり。翌日大おおいに戦う。燕将薛禄せつろく、奮闘甚はなはだ力つとむ。王驍騎ぎょうきを率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍箭やを飛ばす雨の如ごとく、王の建つるところの旗、集矢しゅうし蝟毛いもうの如く、燕軍多く傷つく。而しかも王猶なお屈せず、衝撃愈いよいよ急なり。会たまたままた暴飇ぼうひょう起り、樹きを抜ぬき屋おくを飜ひるがえす。燕軍之に乗じ、傑等大おおいに潰ついゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将ぎょうしょう鄧戩とうしん、陳鵰ちんちゅう等を擒とりこにし、斬首ざんしゅ六万余級、尽ことごとく軍資器械を得たり。王其その旗を北平ほくへいに送り、世子せいしに諭さとして曰く、善よく之これを蔵し、後世をして忘る勿なからしめよと。旗世子の許もとに至る。時に降将こうしょう顧成こせい、坐ざに在ありて之を見る。成は操舟そうしゅうを業とする者より出づ。魁岸かいがん勇偉、膂力りょりょく絶倫、満身の花文かぶん、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗かつて太祖に随したがって出でし時、巨舟きょしゅう沙すなに膠こうして動かず。成即すなわち便舟を負いて行きしことあり。鎮江ちんこうの戦たたかいに、執とらえられて縛ばくせらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀とうを持てる者を殺して脱帰し、直ただちに衆を導いて城を陥おとしゝことあり。勇力察す可べし。後のち戦功を以もって累進して将となり、蜀しょくを征し、雲南うんなんを征し、諸蛮しょばんを平らげ、雄名世に布しく。建文元年耿炳文こうへいぶんに従いて燕と戦う。炳文敗れて、成執とらえらる。燕王自ら其その縛を解いて曰く、皇考の霊、汝なんじを以もって我に授くるなりと。因よって兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰きし、遂ついに世子を輔たすけて北平を守る。然しかれども多く謀画ぼうかくを致すのみにして、終ついに兵に将として戦うを肯がえんぜす、兵器を賜たまうも亦また受けず。蓋けだし中年以後、書を読んで得るあるに因よる。又一種の人なり。後のち、太子高熾こうしの羣小ぐんしょうの為ために苦くるしめらるるや、告げて曰く、殿下は但ただ当まさに誠を竭つくして孝敬こうけいに、孳々ししとして民を恤めぐみたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措おくに足らずと。識見亦高しというべし。成は是かくの如き人なり。旗を見るや、愴然そうぜんとして之を壮そうとし、涙下りて曰く、臣少わかきより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴へたること多きも、未いまだ嘗かつて此かくの如きを見ざるなりと。水滸伝すいこでん中の人の如き成をして此この言を為なさしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬とる所以ゆえんのもの、実に王の此この勇往邁進まいしん、艱危かんきを冒して肯あえて避けざるの雄風ゆうふうにあらずんばあらざる也。

四月、燕兵大名だいみょうに次じす。王、斉泰せいたいと黄子澄こうしちょうとの斥しりぞけらるゝを聞き、書を上たてまつりて、呉傑ごけつ、盛庸せいよう、平安へいあんの衆を召還せられんことを乞こい、然しからずんば兵を釈とく能あたわざるを言う。帝大理少卿たいりしょうけい薛嵓せつがんを遣やりて、燕王及び諸将士の罪を赦ゆるして、本国に帰らしむることを詔みことのりし、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以もって其その後あとに躡つかしめんとす。嵓がん到りて却かえって燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語直ちょくにして意誠まことなるを奏し、皇上権奸けんかんを誅ちゅうし、天下の兵を散じたまわば、臣単騎たんき闕下けっかに至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺ほうこうじゅに語りたまわく、誠に嵓の言の如くならば、斉黄せいこう我を誤るなりと。孝孺悪にくみて曰く、嵓の言、燕の為ために游説ゆうぜいするなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮しき武勝ぶしょうを遣やりて、朝廷兵を罷やむるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔ぜんしょうと背馳はいちすと奏す。帝書を得て兵を罷やむるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康こうこう皇帝同産どうさんの弟なり、朕ちんの叔父しゅくふなり、吾われ他日宗廟そうびょう神霊に見まみえざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚あつむ可からず。彼長駆して闕けつを犯さば、何を以て之これを禦ふせがん、陛下惑いたもうなかれと。勝しょうを錦衣獄きんいごくに下す。燕王聞きいて大おおいに怒る。孝孺の言、真まことに然しかり、而して建文帝の情じょう、亦敦あつしというべし。畢竟ひっきょう南北相戦う、調停の事、復また為なす能わざるの勢いきおいに在あり、今に於おいて兵戈へいかの惨さんを除かんとするも、五色しきの石、聖手にあらざるよりは、之を錬ねること難きなり。

此この月つき燕王指揮しき李遠りえんをして軽騎六千を率いて徐沛じょはいに詣いたり、南軍の資糧を焚やかしむ。李遠、丘福きゅうふく、薛禄せつろくと策応して、能よく功を収おさめ、糧船数万艘そう、糧数百万を焚やく。軍資器械、倶ともに煨燼かいじんとなり、河水尽ことごとく熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭しんがいす。

七月、平安へいあん兵を率いて真定より北平に到り、平村へいそんに営す。平村は城を距さる五十里のみ。燕王の世子せいし、危あやうきを告ぐ。王劉江りゅうこうを召して策を問う。江乃すなわち兵を率いて滹沱こだを渡り、旗幟きしを張り、火炬かきょを挙げ、大おおいに軍容を壮さかんにして安と戦う。安の軍敗れ、安還かえって真定に走る。

方孝孺の門人林嘉猷りんかゆう、計はかりごとをもって燕王父子をして相あい疑わしめんとす。計けい行われずして已やむ。

盛庸等、大同だいどうの守将房昭ぼうしょうに檄げきし、兵を引いて紫荊関しけいかんに入り、保定ほていの諸県を略し、兵を易州えきしゅうの西水寨せいすいさいに駐とどめ、険けんに拠よりて持久の計を為なし、北平を窺うかがわしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平危あやうしとて、遂ついに令を下して師を班かえす。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併あわせて寨を破る。房昭走りて免のがる。

十一月、駙馬都尉ふばとい梅殷ばいいんをして淮安わいあんを鎮守ちんしゅせしむ。殷は太祖の女じょの寧国ねいこく公主こうしゅに尚しょうす。太祖の崩ぜんとするや、其の側かたえに侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝なんじ老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢あえて天に違たがう者あらば、朕が為ために之これを伐うて、と言い訖おわりて崩かくれたまえるなり。燕の勢いきおい漸ようやく大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃すなわち淮南わいなんの民を募り、軍士を合がっして四十万と号し、殷に命じて之を統すべて、淮上わいじょうに駐とどまり、燕師を扼やくせしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣おくり、香こうを金陵きんりょうに進むるを以て辞と為なす。殷答えて曰く、進香は皇考こうこう禁あり、遵したがう者は孝たり、遵したがわざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻じびを割さき、峻厳しゅんげんの語をもて斥しりぞく。燕王怒ること甚はなはだし。

燕王兵を起してより既に三年、戦たたかい勝つと雖いえども、得るところは永平えいへい・大寧たいねい・保定ほていにして、南軍出没して已やまず、得るもまた棄すつるに至ること多く、死傷少すくなからず。燕王こゝに於おいて、太息たいそくして曰く、頻年ひんねん兵を用い、何の時か已やむ可べけん、まさに江に臨みて一決し、復また返顧せざらんと。時に京師けいしの内臣等、帝の厳げんなるを怨うらみて、燕王を戴いただくに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間かんに乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。

四年正月、燕の先鋒せんぽう李遠、徳州とくしゅうの裨将ひしょう葛進かっしんを滹沱河こだかに破り、朱能しゅのうもまた平安の将賈栄かえい等らを衡水こうすいに破りて之これを擒とりこにす。燕王乃ち館陶かんとうより渡りて、東阿とうあを攻め、汶上ぶんじょうを攻め、沛県はいけんを攻めて之を略し、遂に徐州じょしゅうに進み、城兵を威おどして敢あえて出でざらしめて南行し、三月宿州しゅくしゅうに至り、平安が馬歩兵ばほへい四万を率いて追躡ついせつせるを淝河ひがに破り、平安の麾下きかの番将火耳灰ホルフイを得たり。此この戦たたかいや火耳灰ホルフイ矟ほこを執とって燕王に逼せまる、相あい距さるたゞ十歩ばかり、童信どうしん射って、其その馬に中あつ。馬倒れて王免のがれ、火耳灰ホルフイ獲えらる。王即便すなわち火耳灰ホルフイを釈ゆるし、当夜に入って宿衛しゅくえいせしむ。諸将これを危あやぶみて言ものいえども、王聴きかず。次ついで蕭県しょうけんを略し、淮河わいかの守兵を破る。四月平安小河しょうかに営し、燕兵河北かほくに拠よる。総兵そうへい何福かふく奮撃して、燕将陳文ちんぶんを斬きり、平安勇戦して燕将王真おうしんを囲む。真しん身に十余創そうを被こうむり、自ら馬上に刎くびはぬ。安あんいよいよ逼せまりて、燕王に北坂ほくはんに遇あう。安の槊ほこほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮ばんきしき王騏おうき、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武ちょうぶ悪戦して敵を却しりぞくと雖いえども、燕軍遂に克かたず。是ここに於て南軍は橋南きょうなんに駐とどまり、北軍は橋北に駐まり、相あい持じするもの数日、南軍糧かて尽きて、蕪ぶを採って食う。燕王曰く、南軍飢うえたり、更に一二日にして糧かてやゝ集まらば破り易からずと。乃すなわち兵千余を留とどめて橋を守らしめ、潜ひそかに軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞めぐって敵の後うしろに出づ。時に徐輝祖じょきその軍至る。甲戌こうじゅつ大おおいに斉眉山せいびざんに戦う。午うまより酉とりに至りて、勝負しょうはい相あい当あたり、燕の驍将ぎょうしょう李斌りひん死す。燕復また遂に克かつ能あたわず。南軍再捷さいしょうして振ふるい、燕は陳文ちんぶん、王真おうしん、韓貴かんき、李斌等を失い、諸将皆懼おそる。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土わいど湿蒸に、疾疫しつえき漸ようやく冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦ばくまさに熟せんとす。河を渡り地を択えらみ、士馬を休息せしめ、隙げきを観みて動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進しんありて退たい無し。勝形成りて而して復また北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣こうれんするのみと。乃すなわち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨はしる。王大おおいに怒って曰く、公等みずから之を為なせと。此この時ときや燕の軍の勢いきおい、実に岌々乎きゅうきゅうことして将まさに崩れんとするの危きに居おれり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠りょうえんにして、而しかも本拠の四囲亦また皆敵たる也。燕の軍戦って克かてば則すなわち可、克たずんば自ら支うる無き也。而しこうして当面の敵たる何福かふくは兵多くして力戦し、徐輝祖じょきそは堅実にして隙ひま無く、平安へいあんは驍勇ぎょうゆうにして奇を出いだす。我軍わがぐんは再戦して再挫さいざし、猛将多く亡びて、衆心疑懼ぎくす。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽ことごとく廃すたりて、不振の形勢新あらたに見あらわれんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離かいり、不測の変を生ずる無きを保ほせず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦また宜むべなりというべし。然しかれども此この時ときの勢いきおい、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容いれずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看みる明確、事を断ずる勇決、実に是これ豪傑の気象、鉄石の心膓しんちょうを見あらわせるものならずして何ぞや。時に坐ざに朱能しゅのうあり、能は張玉ちょうぎょくと共に初はじめより王の左右の手たり。諸将の中うちに於て年最も少わかしと雖いえども、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長たけ八尺、年三十五、雄毅開豁ゆうきかいかつ、孝友敦厚とんこうの人たり。慨然として席を立ち、剣を按あんじて右に趨おもむきて曰く、諸君乞こうらくは勉つとめよ、昔漢高かんこうは十たび戦って九たび敗れぬれど終ついに天下を有したり、今事を挙げてより連しきりに勝かちを得たるに、小挫しょうざして輙すなわち帰らば、更さらに能よく北面して人に事つかえんや。諸君雄豪誠実、豈あに退心あるべけんや、と云いければ、諸将相あい見みて敢あえて言ものいうものあらず、全軍の心機しんき一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能後のちに龍州りゅうしゅうに死して、東平王とうへいおうに追封ついほうせらるゝに至りしもの、豈あに偶然ならんや。

燕軍の勢いきおい非にして、王の甲よろいを解かざるもの数日なりと雖いえども、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷さいしょうすと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中うちに、燕今は且まさに北に還かえるべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖じょきそを召還めしかえしたもう。輝祖きそ已やむを得ずして京けいに帰りければ、何福かふくの軍の勢いきおい殺そげて、単糸たんしの紉しない少すくなく、孤掌こしょうの鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突ちとつに備うる為に塹濠ざんごうを掘り、塁壁を作りて営と為なすを常としければ、軍兵休息の暇いとま少すくなく、往々虚むなしく人力を耗つくすの憾うらみありて、士卒困罷こんひ退屈の情あり。燕王の軍は塹塁ざんるいを為つくらず、たゞ隊伍たいごを分布し、陣を列して門と為なす。故に将士は営に至れば、即すなわち休息するを得、暇いとまあれば王射猟しゃりょうして地勢を周覧し、禽きんを得うれば将士に頒わかち、塁を抜くごとに悉ことごとく獲うるところの財物を賚たまう。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是かくの如し。一は人役えきに就つくを苦くるしみ、一は人用ようを為なすを楽たのしむ。彼此ひしの差、勝敗に影響せずんばあらず。

かくて対塁たいるい日を累かさぬる中うち、南軍に糧餉りょうしょう大おおいに至るの報あり。燕王悦よろこんで曰いわく、敵必ず兵を分ちて之を護まもらん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何いかで能よく支えんや、と朱栄しゅえい、劉江りゅうこう等らを遣やりて、軽騎を率いて、餉道しょうどうを截きらしめ、又游騎ゆうきをして樵採しょうさいを妨げ擾みださしむ。何福かふく乃すなわち営を霊壁れいへきに移す。南軍の糧五方、平安へいあん馬歩ばほ六万を帥ひきいて之を護まもり、糧を負うものをして中うちに居おらしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮さえぎらしめ、子高煦こうこうをして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出いでゝ撃つべしと命じ、躬みずから師を率いて逆むかえ戦い、騎兵を両翼と為なす。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍ほぐんを麾さしまねいて縦撃しょうげきし、其その陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂ついに乱れたり。何福等此これを見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之これを却しりぞけしが、高煦は南軍の罷つかれたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還かえして掩おおい撃ちたり。是ここに於おいて南軍大おおいに敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪うしない、糧餉りょうしょう尽ことごとく燕の師に獲えらる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞ふさぎて堅守しけるが、福此この夜よ令を下して、明旦めいたん砲声三たびするを聞かば、囲かこみを突いて出で、糧に淮河わいかに就くべし、と示したり。然しかるに此これも亦また天か命めいか、其その翌日燕軍霊壁れいへきの営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此これを我わが砲となし、争って急に門に趨おもむきしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞ふさがりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾ふんじょうし、人馬滾転こんてんす。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷びんしょうを極む。南軍こゝに至って大敗収む可べからず。宗垣そうえん、陳性善ちんせいぜん、彭与明ほうよめいは死し、何福は遁のがれ走り、陳暉ちんき、平安へいあん、馬溥ばふ、徐真じょしん、孫晟そんせい、王貴おうき等、皆執とらえらる。平安の俘とりことなるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等われら此これより安きを獲えんと。争って安あんを殺さんことを請う。安が数々しばしば燕兵を破り、驍将ぎょうしょうを斬きる数人なりしを以もってなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、淝河ひかの戦たたかい、公の馬躓つまずかずんば、何以いかに我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽くちきを拉とりひしぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好よく壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善よく之を視みせしむ。安後のち永楽七年に至りて自殺す。安等を喪うしないてより、南軍大おおいに衰う。黄子澄こうしちょう、霊壁れいへきの敗を聞き、胸を撫ぶして大慟たいどうして曰く、大事去る、吾輩わがはい万死、国を誤るの罪を贖つぐなうに足らずと。

五月、燕兵泗州ししゅうに至る。守将周景初しゅうけいしょ降くだる。燕の師進んで淮わいに至る。盛庸せいよう防ぐ能あたわず、戦艦皆燕の獲うるところとなり、盱眙くい陥おとしいれらる。燕王諸将の策を排して、直ただちに揚州ようしゅうに趨おもむく。揚州の守将王礼おうれいと弟宗そうと、監察御史かんさつぎょし王彬おうひんを縛して門を開いて降くだる。高郵こうゆう、通泰つうたい、儀真ぎしんの諸城、亦また皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓きこ天を蔽おおうに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為なして、復また立って争わんとする者無し。方孝孺ほうこうじゅ、地を割さきて燕に与え、敵の師を緩ゆるうして、東南の募兵の至るを俟またんとす。乃すなわち慶城けいじょう郡主ぐんしゅを遣やりて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉じゅうしなり。燕王聴きかずして曰く、皇考の分ちたまえる吾わが地ちも且かつ保つ能あたわざらんとせり、何ぞ更に地を割さくを望まん、たゞ奸臣かんしんを得るの後、孝陵こうりょうに謁えっせんと。六月、燕師浦子口ほしこうに至る。盛庸等之を破る。帝都督ととく僉事せんじ陳瑄ちんせんを遣りて舟師しゅうしを率いて庸を援たすけしむるに、瑄却かえって燕に降くだり、舟を具そなえて迎う。燕王乃ち江神こうじんを祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫じくろ相あい銜ふくみて、金鼓きんこ大おおいに震ふるう。盛庸等海舟かいしゅうに兵を列せるも、皆大おおいに驚き愕おどろく。燕王諸将を麾さしまねき、鼓譟こそうして先登せんとうす。庸の師潰ついえ、海舟皆其の得るところとなる。鎮江ちんこうの守将童俊どうしゅん、為なす能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為なし、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱ゆううつして計はかりごとを方孝孺に問う。孝孺民を駆かりて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆りけいりゅう等ら燕王に見まみえて割地の事を説くも、王応ぜず。勢いきおいいよ〱逼せまる。群臣或あるいは帝に勧むるに淅せつに幸こうするを以てするあり、或あるいは湖湘こしょうに幸するに若しかずとするあり。方孝孺堅く京けいを守りて勤王きんのうの師の来きたり援たすくるを待ち、事若もし急ならば、車駕しゃが蜀しょくに幸みゆきして、後挙を為さんことを請う。時に斉泰せいたいは広徳こうとくに奔はしり、黄子澄は蘇州そしゅうに奔り、徴兵を促うながす。蓋けだし二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴めさんとして果はたさず。燕将劉保りゅうほ、華聚かしゅう等ら、終ついに朝陽門ちょうようもんに至り、備そなえ無きを覘うかがいて還りて報ず。燕王大おおいに喜び、兵を整えて進む。金川門きんせんもんに至る。谷王こくおう橞けいと李景隆りけいりゅうと、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂ついに門を開いて降る。魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ屈せず、師を率いて迎え戦う。克かつ能あたわず。朝廷文武皆倶ともに降って燕王を迎う。

史を按あんじて兵馬の事を記す、筆墨も亦また倦うみたり。燕王えんおう事を挙げてより四年、遂ついに其その志を得たり。天意か、人望か、数すうか、勢いきおいか、将又はたまた理の応まさに然しかるべきものあるか。鄒公すうこう瑾きん等ら十八人、殿前に於おいて李景隆りけいりゅうを殴うって幾ほとんど死せしむるに至りしも、亦また益無きのみ。帝、金川門きんせんもんの守まもりを失いしを知りて、天を仰いで長吁ちょうくし、東西に走り迷まどいて、自殺せんとしたもう。明史みんし、恭閔恵きょうびんけい皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏ばしは火に赴いて死したもう。丙寅へいいん、諸王及び文武の臣、燕王に位に即つかんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣ぐんしん、頓首とんしゅして固く請う。王遂ついに奉天殿ほうてんでんに詣いたりて、皇帝の位に即く。

是これより先建文けんぶん中、道士ありて、途みちに歌って曰いわく、

燕えんを逐おふ莫なかれ、

燕を逐ふ莫れ。

燕を逐へば、日に高く飛び、

高く飛びで、帝畿ていきに上のぼらん。

是ここに至りて人其その言の応を知りぬ。燕王今は帝ていたり、宮人内侍ないじを詰なじりて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬ば皇后の死したまえるところを指して応こたう。乃すなわち屍かばねを煨燼中かいじんちゅうより出して、之これを哭こくし、翰林侍読かんりんじどく王景おうけいを召して、葬礼まさに如何いかんすべき、と問いたもう。景対こたえて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。

建文帝の皇考おんちち興宗孝康こうそうこうこう皇帝の廟号びょうごうを去り、旧もとの諡おくりなに仍よりて、懿文いぶん皇太子と号し、建文帝の弟呉王ごおう允熥いんとうを降くだして広沢王こうたくおうとし、衛王えいおう允熞いんけんを懐恩王かいおんおうとなし、除王じょおう允凞いんきを敷恵王ふけいおうとなし、尋ついで復また庶人しょじんと為なししが、諸王後のち皆其その死しを得ず。建文帝の少子しょうしは中都ちゅうと広安宮こうあんきゅうに幽せられしが、後のち終るところを知らず。

魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終しじゅう帝を戴いただくの意無し。帝大おおいに怒れども、元勲国舅こくきゅうたるを以て誅ちゅうする能あたわず、爵を削って之を私第していに幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王ちゅうさんおう徐達じょたつの子にして、雄毅ゆうき誠実、父達たつの風骨あり。斉眉山せいびざんの戦たたかい、大おおいに燕兵を破り、前後数戦、毎つねに良将の名を辱はずかしめず。其その姉は即すなわち燕王の妃ひにして、其弟増寿ぞうじゅは京師けいしに在りて常に燕の為ために国情を輸いたせるも、輝祖独り毅然きぜんとして正しきに拠よる。端厳の性格、敬虔けいけんの行為、良将とのみ云いわんや、有道の君子というべきなり。

兵部尚書へいぶしょうしょ鉄鉉てつげん、執とらえられて京けいに至る。廷中に背立して、帝に対むかわず、正言して屈せず、遂に寸磔すんたくせらる。死に至りて猶なお罵ののしるを以もって、大鑊たいかくに油熬ゆうごうせらるゝに至る。参軍断事さんぐんだんじ高巍こうぎ、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願ねがいなりと。京城けいじょう破れて、駅舎に縊死いしす。礼部尚書れいぶしょうしょ陳廸ちんてき、刑部けいぶ尚書暴昭ぼうしょう、礼部侍郎れいぶじろう黄観こうかん、蘇州そしゅう知府ちふ姚善ようぜん、翰林かんりん修譚しゅうたん、王叔英おうしゅくえい、翰林かんりん王艮おうごん、淅江せっこう按察使あんさつし王良おうりょう、兵部郎中へいぶろうちゅう譚冀たんき、御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう、谷府長史こくふちょうし劉璟りゅうけい、其他数十百人、或あるいは屈せずして殺され、或は自死じしして義を全くす。斉泰せいたい、黄子澄こうしちょう、皆執とらえられ、屈せずして死す。右副都御史ゆうふくとぎょし練子寧れんしねい、縛ばくされて闕けつに至る。語不遜ふそんなり。帝大おおいに怒って、命じて其その舌を断きらしめ、曰く、吾われ周公しゅうこうの成王せいおうを輔たすくるに傚ならわんと欲するのみと。子寧しねい手をもて舌血ぜっけつを探り、地上に、成王せいおう安在いずくにあるの四字を大書たいしょす。帝益ますます怒りて之を磔殺たくさつし、宗族そうぞく棄市きしせらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史させんとぎょし景清けいせい、詭いつわりて帰附し、恒つねに利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣ひいして入る。是これより先に霊台れいだい奏す、文曲星ぶんきょくせい帝座を犯す急にして色赤しと。是ここに於おいて清の独り緋を衣きるを見て之を疑う。朝ちょう畢おわる。清せい奮躍して駕がを犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清せい志の遂とぐべからざるを知り、植立しょくりつして大に罵ののしる。衆其その歯を抉けっす。且かつ抉せられて且かつ罵り、血を含んで直ただちに御袍ぎょほうに噀ふく。乃すなわち命じて其その皮を剥はぎ、長安門ちょうあんもんに繋つなぎ、骨肉を砕磔さいたくす。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞めぐる。帝覚さめて、清の族を赤せきし郷きょうを籍せきす。村里も墟きょとなるに至る。

戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけい執とらえらる。帝曰く、爾なんじ前日諸王を裁抑さいよくす、今復また我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝若もし敬が言に依よりたまわば、殿下豈あに此ここに至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而しかも其その才を憐あわれみて獄に繋つなぎ、諷ふうするに管仲かんちゅう・魏徴ぎちょうの事を以もってす。帝の意こころ、敬を用いんとする也なり。敬たゞ涕泣ていきゅうして可きかず。帝猶なお殺すに忍びず。道衍どうえん白もうす、虎とらを養うは患うれいを遺のこすのみと。帝の意遂ついに決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容しょうようとして嘆じて曰く、変宗親そうしんに起り、略経画けいかく無し、敬死して余罪ありと。神色自若じじゃくたり。死して経宿けいしゅくして、面おもて猶なお生けるが如ごとし。三族を誅ちゅうし、其その家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故もとより隙げきありしと雖いえども、帝をして方孝孺ほうこうじゅを殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文ふぶんの人にあらざるを看みるべし。建文の初はじめに当りて、燕を憂うるの諸臣、各おのおの意見を立て奏疏そうそを上たてまつる。中に就ついて敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王蓋けだし志を得ざるのみ。万暦ばんれきに至りて、御史ぎょし屠叔方としゅくほう奏して敬の墓を表し祠しを立つ。敬の著すところ、卓氏たくし遺書五十巻、予未いまだ目を寓ぐうせずと雖いえども、管仲かんちゅう魏徴ぎちょうの事を以て諷ふうせられしの人、其の書必ず観みる可べきあらん。

卓敬たくけいを容いるゝ能あたわざりしも、方孝孺ほうこうじゅを殺す勿なかれと云いいし道衍どうえんは如何いかんの人ぞや。眇びょうたる一山僧の身を以もって、燕王えんおうを勧めて簒奪さんだつを敢あえてせしめ、定策決機ていさくけっき、皆みずから当り、臣しん天命を知る、何なんぞ民意を問わん、というの豪懐ごうかいを以もって、天下を鼓動し簸盪ひとうし、億兆を鳥飛ちょうひし獣奔じゅうほんせしめて憚はばからず、功成って少師しょうしと呼ばれて名いわれざるに及んで、而しかも蓄髪を命ぜらるれども肯がえんぜず、邸第ていだいを賜い、宮人きゅうじんを賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝ちょうすれども、退けば即すなわち緇衣しい、香烟茶味こうえんちゃみ、淡然として生を終り、栄国公えいこくこうを贈おくられ、葬そうを賜わり、天子をして親みずから神道碑しんどうひを製するに至らしむ。又一箇この異人いじんというべし。魔王の如ごとく、道人どうじんの如く、策士の如く、詩客しかくの如く、実に袁珙えんこうの所謂いわゆる異僧なり。其その詠ずるところの雑詩の一に曰いわく、

志士は 苦節を守る、

達人は 玄言げんげんに滞とどこおらんや。

苦節は 貞かたくす可べからず、

玄言 豈あに其それ然しからんや。

出いづると処おると 固もとより定さだまり有り、

語るも黙するも 縁無きにあらず。

伯夷はくい 量りょう 何なんぞ隘せまき、

宣尼せんじ 智 何ぞ円えんなる。

所以ゆえに 古いにしえ の君子、

命めいに安んずるを 乃すなわち賢と為なす。

苦節は貞かたくす可べからずの一句、易えきの爻辞こうじの節の上六しょうりくに、苦節、貞かたくすれば凶なり、とあるに本もとづくと雖いえども、口気おのずから是これ道衍の一家言なり。況いわんや易の貞凶ていきょうの貞は、貞固ていこの貞にあらずして、貞𠧩ていかいの貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘せまきというに至っては、古賢の言に拠よると雖も、聖せいの清せいなる者に対して、忌憚きたん無きも亦また甚はなはだしというべし。其その擬古ぎこの詩の一に曰く、

良辰りょうしん 遇あひ難きを念おもひて、

筵えんを開き 綺戸きこに当る。

会す 我が 同門の友、

言笑 一に何ぞ膴あじわいある。

素絃そげん 清きよき商しらべを発おこし、

余響よきょう 樽爼そんそを繞めぐる。

緩舞かんぶ 呉姫ごき 出いで、

軽謳けいおう 越女えつじょ 来きたる。

但ただ欲ねがふ 客かくの滉酔へんすいせんことを、

觥籌さかずきのかず 何なんぞ肯あえて数へむ。

流年 猋はやく馳はしるを嘆く、

力有るも誰たれか得て阻とどめむ。

人生 須すべからく歓楽すべし、

長とこしえに辛苦せしむる勿なかれ。

擬古の詩、もとより直ただちに抒情じょじょうの作とす可べからずと雖いえども、此これ是これ緇くろきを披きて香を焚たく仏門の人の吟ならんや。其その北固山ほっこざんを経て賦ふせる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧宗泐そうろく一読して、此これ豈あに釈子しゃくしの語ならんや、と曰いいしという。北固山は宋そうの韓世忠かんせいちゅう兵を伏せて、大おおいに金きんの兀朮ごつじゅつを破るの処ところたり。其詩また想おもう可き也なり。劉文りゅうぶん貞公ていこうの墓を詠ずるの詩は、直ただちに自己の胸臆きょうおくを攄のぶ。文貞は即すなわち秉忠へいちゅうにして、袁珙えんこうの評せしが如く、道衍の燕えんに於おけるは、秉忠の元げんに於けるが如く、其の初はじめの僧たる、其の世に立って功を成せる、皆相あい肖にたり。蓋けだし道衍の秉忠に於けるは、岳飛がくひが関張かんちょうと比ひとしからんとし、諸葛亮しょかつりょうが管楽に擬したるが如く、思慕して而しこうして倣模ほうもせるところありしなるべし。詩に曰く、

良驥りょうき 色 羣ぐんに同じく、

至人 迹あと 俗に混ず。

知己ちき 苟いやしくも遇あはざれば、

終世 怨うらみ讟うらまず。

偉なる哉かな 蔵春公ぞうしゅんこうや、

箪瓢たんぴょう 巌谷がんこくに楽たのしむ。

一朝 風雲 会す。

君臣 おのづから心腹しんぷくなり。

大業 計はかりごと 已すでに成りて、

勲名 簡牘かんとくに照る。

身退しりぞいて 即すなわち長往し、

川流れて 去つて復かえること無し。

住城じゅうじょう 百年の後のち、

鬱々うつうつたり 盧溝ろこうの北。

松まつ楸ひさぎ 烟靄えんあい 青く、

翁仲いしのまもりびと 蘼蕪かおりぐさ 緑なり。

強梁あばれものも 敢あえて犯さず、

何人なんぴとか 敢て樵きこり牧うまかいせん。

王侯の 墓累々るいるいたるも、

廃はいすること 草宿わずかのまをも待たず。

惟ただ公こう 民望みんぼうに在あり、

天地と 傾覆けいふくを同じうす。

斯この人ひと 作おこす可べからず、

再拝して 還また一哭こくす。

蔵春は秉忠へいちゅうの号なり。盧溝は燕の城南に在り。此この詩し劉文貞に傾倒すること甚はなはだ明らかに、其の高風大業を挙げ、而しこうして再拝一哭いっこくすというに至る。性情行径こうけい相あい近ちかし、俳徊はいかい感慨、まことに止やむ能あたわざるものありしならん。又別に、春日しゅんじつ劉太保りゅうたいほの墓に謁するの七律しちりつあり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游とうゆうせんとして郷中きょうちゅう諸友しょゆうに別るゝの長詩に、

我生うまれて 四方しほうの志あり、

楽たのしまず 郷井きょうせいの中うちを。

茫乎ぼうこたる 宇宙の内、

飄転ひょうてんして 秋蓬しゅうほうの如し。

孰たれか云ふ 挾さしはさむ所無しと、

耿々こうこうたるもの 吾わが胸に存す。

魚うおの濼いけに止とどまるを為なすに忍びんや、

禽とりの籠かごに囚とらはるゝを作なすを肯がえんぜんや。

三たび登ると 九たび到いたると、

古徳ことくと与ともに同じうせんと欲す。

去年は 淮楚わいそに客かくたりき、

今は往ゆかんとす 浙水せっすいの東。

身を竦そばだてゝ 雲衢くものちまたに入る、

一錫ひとつのつえ 游龍うごけるりゅうの如し。

笠かさは衝つく 霏々ひひの霧、

衣いは払ふ 颼々そうそうの風。

の句あり。身を竦そばだてゝの句、颯爽さっそう悦よろこぶ可べし。其その末すえに、

江天こうてん 正に秋清く、

山水 亦また容すがたを改む。

沙鳥はまじのとりは 烟けむりの際きわに白く、

嶼葉しまのこのはは 霜の前に紅くれないなり。

といえる如ごとき、常套じょうとうの語なれども、また愛す可べし。古徳と同じゅうせんと欲するは、是これ仮かにして、淮楚わいそ浙東せっとうに往来せるも、修行の為ためなりしや游覧ゆうらんの為なりしや知る可からず。然しかれども詩情も亦また饒おおき人たりしは疑う可からず。詩に於おいては陶淵明とうえんめいを推おし、笠沢りゅうたくの舟中しゅうちゅうに陶詩とうしを読むの作あり、中うちに淵明を学べる者を評して、

応物おうぶつは趣おもむき 頗すこぶる合がっし、

子瞻しせんは 才 当るに足る。

と韋い、蘇その二士を挙げ、其その他たの模倣者もほうしゃを、

里婦りふ 西せいが顰ひそみに効ならふ、

咲わらふ可し 醜しゅう愈いよいよ張る。

と冷笑し、又公暇こうかに王維おうい、孟浩然もうこうぜん、韋応物いおうぶつ、柳子厚りゅうしこうの詩を読みて、四子しを賛する詩を為なせる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫へんらんならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓こうけいを重んじ、交情また親しきものありしは、奉レ答二高季迪一こうきてきにこたえたてまつる、寄二高編脩一こうへんしゅうによす、賀二高啓生一レ子こうけいのこをうめるをがす、訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽こうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす、雪夜読二高啓詩一せつやこうけいのしをよむ等の詩に徴して知るべく、此この老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集とうきょしゅう十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖いえども、時に逸気あり。今其集に就ついて交友を考うるに、袁珙えんこうと張天師ちょうてんしとは、最も親熟しんじゅくするところなるが如く、贈遺ぞういの什じゅう甚はなはだ少すくなからず。珙こうと道衍とは本もとより互たがいに知己たり。道衍又嘗かつて道士席応真せきおうしんを師として陰陽術数いんようじゅっすうの学を受く。因よって道家の旨しを知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七まきのしちに、挽二席道士一せきどうしをべんすとあるもの、疑うらくは応真、若もしくは応真の族を悼いためるならん。張天師は道家の棟梁とうりょうたり、道衍の張を重んぜるも怪あやしむに足る無きなり。故友に於ては最も王達善おうたつぜんを親したしむ。故に其の寄二王助教達善一おうじょきょうたつぜんによすの長詩の前半、自己の感慨行蔵こうぞうを叙じょして忌いまず、道衍自伝として看みる可し。詩に曰く、

乾坤けんこん 果して何物ぞ、

開闔かいこう 古いにしえより有り。

世を挙こぞって 孰たれか客かくに非あらざらん、

離会 豈あに偶たまたまなりと云いはんや。

嗟ああ予われ 蓬蒿ほうこうの人、

鄙猥ひわい 林籔りんそうに匿かくる。

自みずから慚はづ 駑蹇どけんの姿、

寧なんぞ学ばん 牛馬の走るを。

呉山ござん 窈ふかくして而しこうして深し、

性を養ひて 老朽を甘んず。

且かつ 木石と共に居おりて、

氷檗ひょうばくと 志こころざし 堅く守りぬ。

人は云ふ 鳳ほう 枳からたちに栖すむと、

豈あに同じからんや 魚の〔网/卯〕やなに在あるに。

藜藿れいかく 我わが腸はらわたを充みたし、

衣い蔽やぶれて 両肘りょうちゅう露あらはる。

虁龍きりゅう 高位に在り、

誰たれか来きたりて 可否を問はん。

盤旋ばんせんす 草莾そうもうの間あいだに、

樵牧しょうぼく 日に相あい叩たたく。

嘯詠しょうえい 寒山かんざんに擬し、

惟ただ 道を以て自負す。

忍びざりき 強ひて塗抹とまつして、

乞こい媚こびて 里婦さとのおんなに効ならふに。

山霊 蔵かくるゝことを容ゆるさず、

辟歴はたたがみ 岡阜こうふを破りぬ。

門を出いでゝ 天日を睹みる、

行也こうや 焉いずくにぞ 肯あえて苟いやしくもせん。

一挙して 即ち北に上のぼれば、

親藩 待つこと惟これ久しかりき。

天地 忽たちまち 大変して、

神龍 氷湫ひょうしゅうより起る。

万方 共に忻よろこび躍おどりて、

率土そっと 元后げんこうを戴いただく。

吾われを召して 南京なんけいに来らしめ、

爵賞加恩 厚し。

常時 天眷てんけんを荷になふ、

愛に因よって 醜しゅうを知らず。(下略)

嘯詠寒山しょうえいかんざんに擬すの句は、此この老ろうの行為に照てらせば、矯飾きょうしょくの言に近きを覚ゆれども、若もし夫それ知己に遇あわずんば、強項きょうこうの人、或あるいは呉山ござんに老朽を甘あまんじて、一生世外せいがいの衲子とっしたりしも、また知るべからず、未いまだ遽にわかに虚高きょこうの辞を為なすものと断ず可べからず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦しょうえいぎんが、或あるいは獅子ししの繍毬しゅうきゅうを弄ろうして日を消するが如ごとくに、其その身を終ることは之これ有るべし、寒山子かんざんしの如くに、蕭散閑曠しょうさんかんこう、塵表じんぴょうに逍遙しょうようして、其身を遺わするゝを得う可きや否あらずや、疑う可き也。虁龍きりゅう高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容ゆるさず以下数句、燕王えんおうに召出めしいだされしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起くっきの事をいう。道いい得て佳かなり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身わがみを世に徇となうるを言えるもの、亦また善よく標置ひょうちすというべし。

道衍どうえんの一生を考うるに、其その燕えんを幇たすけて簒さんを成さしめし所以ゆえんのもの、栄名厚利の為ためにあらざるが如ごとし。而しかも名利めいりの為にせずんば、何を苦くるしんでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴いただかしめしぞ。道衍と建文帝けんぶんていと、深仇しんきゅう宿怨しゅくえんあるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可べからざるある也なり。道衍己おのれの偉功によって以もって仏道の為にすと云いわんか、仏道明朝みんちょうの為に圧逼あっぱくせらるゝありしに非あらざる也。燕王覬覦きゆの情じょう無き能あたわざりしと雖いえども、道衍の扇せんを鼓こして火を煽あおるにあらざれば、燕王未いまだ必ずしも毒烟どくえん猛燄もうえんを揚げざるなり。道衍抑そも又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚りょしょう、范増はんぞう、皆老いて而しこうして後立つと雖いえども、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教おしえを奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼ああ又解すべからずというべし。若もし強しいて道衍の為に解さば、惟ただ是これ道衍が天に禀うくるの気と、自ら負たのむの材と、莾々もうもう、蕩々とうとう、糾々きゅうきゅう、昂々こうこうとして、屈す可べからず、撓たわむ可からず、消しょうす可からず、抑おさう可からざる者、燕王に遇あうに当って、砉然かくぜんとして破裂し、爆然として迸発へいはつせるものというべき耶か、非ひ耶か。予其その逃虚子集とうきょししゅうを読むに、道衍が英雄豪傑の蹟あとに感慨するもの多くして、仏灯ぶっとう梵鐘ぼんしょうの間に幽潜するの情の少すくなきを思わずんばあらざるなり。

道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門しゃもんを以て目す可からずと雖も、而しかも文を好み道の為にするの情も、亦また偽ぎなりとなす可からず。此この故ゆえに太祖たいそ実録じつろくを重修ちょうしゅうするや、衍えん実に其その監修を為なし、又支那しなありてより以来の大編纂だいへんさんたる永楽大典えいらくだいてんの成れるも、衍実に解縉かいしん等らと与ともに之これを為なせるにて、是これ皆文を好むの余よに出で、道余録どうよろくを著し、浄土簡要録じょうどかんようろくを著し、諸上善人詠しょじょうぜんじんえいを著せるは、是れ皆道の為にせるに出いづ。史に記す。道衍晩ばんに道余録を著し、頗すこぶる先儒を毀そしる、識者これを鄙いやしむ。其その故郷の長州ちょうしゅうに至るや、同産の姉を候こうす、姉納いれず。其その友王賓おうひんを訪とう、賓も亦また見まみえず、但ただ遙はるかに語って曰く、和尚おしょう誤れり、和尚誤れりと。復また往ゆいて姉を見る、姉これを詈ののしる。道衍惘然ぼうぜんたりと。道衍の姉、儒を奉じ仏ぶつを斥しりぞくるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝でん無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善おうたつぜんならんか。声を揚げて遙語ようごす、鄙いやしむも亦甚はなはだし。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之これを悪にくむも、亦また過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩さきに僧たりし時、元季げんきの兵乱に値あう。年三十に近くして、愚庵ぐあんの及きゅう和尚に径山けいざんに従って禅学を習う。暇いとまあれば内外の典籍を披閲ひえつして以もって才識に資す。因って河南かなんの二程先生にていせんせいの遺書と新安しんあんの晦庵朱先生かいあんしゅせんせいの語録を観みる。(中略)三先生既に斯文しぶんの宗主そうしゅ、後学の師範たり、仏老ぶつろうを攘斥じょうせきすというと雖も、必ず当まさに理に拠よって至公無私なるべし、即すなわち人心服せん。三先生多く仏書を探さぐらざるに因って仏ぶつの底蘊ていおんを知らず。一に私意を以て邪詖じゃひの辞ことばを出して、枉抑おうよく太はなはだ過ぎたり、世の人も心亦また多く平らかならず、況いわんや其その学を宗そうする者をやと。(下略)道余録は乃すなわち程氏ていし遺書いしょの中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目もくして、極めて謬誕びょうたんなりと為なし、条を逐おい理に拠って一々剖柝ぼうせきせるものなり。藁こう成って巾笥きんしに蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵たいてい禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋けだし明道めいどう、伊川いせん、晦庵かいあんの仏ぶつを排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如ごとき、本もと是これ弁じ易やすきの事たり。膽たんを張り目を怒らし、手を戟ほこにし気を壮さかんにするを要せず。道衍の峻機しゅんき険鋒けんぼうを以て、徐しずかに幾百年前の故紙こしに対す、縦説横説、甚はなはだ是これ容易なり。是れ其の観みる可き無き所以ゆえんなり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道めいどうの言を罵ののしって、豈あに道学の君子の為わざならんやと云いい、明道の執見しっけん僻説へきせつ、委巷いこうの曲士の若ごとし、誠に咲わらう可き也、と云い、明道何ぞ乃すなわち自ら苦くるしむこと此かくの如くなるや、と云い、伊川いせんの言げんを評しては、此これは是れ伊川いせんみずから此この説を造って禅学者を誣しう、伊川が良心いずくにか在ある、と云い、管かんを以て天を窺うかがうが如しとは夫子ふうしみずから道いうなりと云い、程夫子ていふうし崛強くっきょう自任じにんす、聖人の道を伝うる者、是かくの如くなる可からざる也、と云い、晦庵かいあんの言を難なんしては、朱子の寱語げいご、と云い、惟ただ私意を逞たくましくして以て仏を詆そしる、と云い、朱子も亦また怪なり、と云い、晦庵此かくの如くに心を用いば、市井しせいの間の小人の争いて販売する者の所為しょいと何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄ぐろう嘲笑ちょうしょうすること太はなはだ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋けだし其その姉の納いれず、其その友の見ざるに至れる所以ゆえんならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大槩たいがい禅宗ぜんしゅうに依り、楞伽りょうが、楞厳りょうごん、円覚えんがく、法華ほっけ、華厳けごん等の経に拠って、程朱ていしゅの排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然しかれども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於おいて、抗争反撃の弁を逞たくましくす。書の公おおやけにさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰いうと雖も、亦争あらそいを好むというべし。此こも亦道衍が莾々蕩々もうもうとうとうの気の、已やむ能わずして然るもの耶か、非ひ耶か。

道衍は是かくの如きの人なり、而して猶なお卓侍郎たくじろうを容いるゝ能わず、之これを赦ゆるさんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素もとより相あい善よからざるの私わたくしありしに因よるとは云え、又実に卓の才の大にして器きの偉なるを忌いみたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭たくいきょうもまた雄傑の士というべし。

道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮かりて之を評すれば、道衍量りょう何ぞ隘せまきやと云う可きなり。然しかるに道衍の方正学ほうせいがくに対するは則すなわち大おおいに異なり。方正学の燕王に於おけるは、実に相あい容いれざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃はらわんとするを名として、其の目もくして以て事を構え親しんを破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方せいこうれんほうの四人なりき。斉は斉泰せいたいなり、黄は黄子澄こうしちょうなり、練は練子寧れんしねいなり、而しかして方は即ち方正学ほうせいがくなり。燕王にして功の成るや、もとより此この四人を得て甘心かんしんせんとす。道衍は王の心腹しんぷくなり、初はじめよりこれを知らざるにあらず。然しかるに燕王の北平ほくへいを発するに当り、道衍これを郊こうに送り、跪ひざまずいて密ひそかに啓もうして曰いわく、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺ほうこうじゅあり、学行がくこうあるを以もって聞きこゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降くだらざらんも、幸さいわいに之を殺したもう勿なかれ、之を殺したまわば則すなわち天下の読書の種子しゅし絶えんと。燕王これを首肯しゅこうす。道衍の卓敬に於おける、私情の憎嫉ぞうしつありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂そうれんの門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋けだし文字の交あり。道衍の少わかきや、学を好み詩を工たくみにして、濂の推奨するところとなる。道衍豈あに孝孺が濂の愛重あいちょうするところの弟子ていしたるを以て深く知るところありて庇護ひごするか、或あるいは又孝孺の文章学術、一世の仰慕げいぼするところたるを以て、之これを殺すは燕王の盛徳を傷やぶり、天下の批議を惹ひく所以ゆえんなるを慮はかりて憚はばかるか、将はた又真に天下読書の種子の絶えんことを懼おそるゝか、抑そもそも亦孝孺の厳厲げんれいの操履そうり、燕王の剛邁ごうまいの気象、二者相あい遇あわば、氷塊の鉄塊と相あい撃うち、鷲王しゅうおうと龍王りゅうおうとの相あい闘たたかうが如き凄惨狠毒せいさんこんどくの光景を生ぜんことを想察して預あらかじめ之を防遏ぼうあつせんとせるか、今皆確知する能あたわざるなり。

方孝孺は如何いかなる人ぞや。孝孺字あざなは希直きちょく、一字は希古きこ、寧海ねいかいの人。父克勤こくきんは済寧せいねいの知府ちふたり。治を為すに徳を本もととし、心を苦くるしめて民の為ためにす。田野でんやを闢ひらき、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚とんこう人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘こううん暇いとまあらず、何ぞ又畚鍤ほんそうに堪えんと。中書省ちゅしょしょうに請いて役えきを罷やむるを得たり。是より先さき久しく旱ひでりせしが、役の罷むに及んで甘雨かんう大おおいに至りしかば、済寧の民歌って曰く。

孰たれか我が役を罷やめしぞ、

使君しくんの 力なり。

孰たれか我が黍しょを活いかしめしぞ、

使君の 雨なり。

使君よ 去りたまふ勿なかれ、

我が民の 父なり 母なり。

克勤の民意を得うる是かくの如くなりしかば、事を視みること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足じょうそくし、男女怡々いいとして生を楽たのしみしという。克勤愚菴ぐあんと号す。宋濂そうれんに故こ愚庵先生方公墓銘文ほうこうぼめいぶんあり。滔々とうとう数千言すせんげん、備つぶさに其の人となりを尽す。中うちに記す、晩年益ますます畏慎いしんを加え、昼の為なす所の事、夜は則すなわち天に白もうすと。愚庵はたゞに循吏じゅんりたるのみならざるなり。濂又曰く、古いにしえに謂いわゆる体道たいどう成徳せいとくの人、先生誠に庶幾焉ちかしと。蓋けだし濂が諛墓ゆぼの辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦てんぷも厚く、庭訓ていきんも厳なりしならん。幼にして精敏、双眸そうぼう烱々けいけいとして、日に書を読むこと寸に盈みち、文を為なすに雄邁醇深ゆうまいじゅんしんなりしかば、郷人呼んで小韓子しょうかんしとなせりという。其の聰慧そうけいなりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉ことごとく称して太史公たいしこうとなして、姓氏を以てせず。濂字あざなは、景濂けいれん、其その先せん金華きんかの潜渓せんけいの人なるを以て潜渓せんけいと号ごうす。太祖濂れんを廷ていに誉ほめて曰く、宋景濂朕ちんに事つかうること十九年、未いまだ嘗かつて一言げんの偽いつわりあらず、一人いちにんの短たんを誚そしらず、始終二に無し、たゞに君子のみならず、抑そもそも賢と謂いう可しと。太祖の濂を視みること是かくの如し。濂の人品想おもう可き也なり。孝孺洪武こうぶの九年を以て、濂に見まみえて弟子ていしとなる。濂時に年六十八、孝孺を得て大おおいに之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還かえるを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直きちょくを得たり、其の人となりや凝重ぎょうちょうにして物に遷うつらず、穎鋭えいえいにして以て諸これを理に燭しょくす、間まま発はっして文を為なす、水の湧わいて山の出いづるが如し、喧啾けんしゅうたる百鳥の中うち、此の孤鳳皇こほうおうを見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重ぎょうちょう穎鋭えいえいの二句、老先生眼裏がんりの好学生を写し出いだし来きたって神しん有り。此の孤鳳皇こほうおうを見るというに至っては、推重すいちょうも亦また至れり。詩十四章、其二に曰く、

念おもふ 子しが 初めて来りし時、

才思 繭糸けんしの若ごとし。

之を抽ひいて 已すでに緒いとぐちを見る、

染めて就なせ 五色ごしきの衣い。

其九に曰く、

須すべからく知るべし 九仭きゅうじんの山も、

功 或あるいは 一簣きに少かくるを。

学は 貴ぶ 日に随したがつて新あらたなるを、

慎んで 中道に廃する勿なかれ。

其十に曰く、

羣経ぐんけい 明訓めいくん 耿こうたり、

白日 青天に麗かかる。

苟いやしくも徒ただに 文辞に溺おぼれなば、

蛍爝けいしゃく 妍けんを争はんと欲するなり。

其十一に曰く、

姫きも 孔こうも 亦何人なんぴとぞや、

顔面 了ついに異ことならじ。

肯あえて 盆盎ぼんおうの中うちに墮だせんや、

当まさに 瑚璉これんの器きとなるべし。

其終章に曰く、

明年 二三月、

羅山らざん 花 正まさに開かん。

高きに登りて 日に盻望べんぼうし、

子しが能よく 重ねて来きたるを遅またむ。

其その才を称しょうし、其学を勧め、其その流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮ふるって聖賢の域に至らんことを求め、他日復また再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓せんけいが孝孺に対する、称許しょうきょも甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼ああ、老先生、孰たれか好学生を愛せざらん、好学生、孰たれか老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳ていし、経けいを執って浦陽ほように潜渓に就つきぬ。従学四年、業大おおいに進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下しもに出で、先輩胡翰こかんも蘇伯衡そはくこうも亦また自みずから如しかずと謂いうに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之これを送る五十四韻いんの長詩あり。其その引いんの中うちに記して曰く、細つまびらかに其の進修の功を占とうに、日々に異ことなるありて、月々に同じからず、僅わずかに四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著えいはつこうちょや斯かくの如し、後のち四春秋ならしめば、則すなわち其の至るところ又如何いかなるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿おうようしょうけい、蘇長公そちょうこうの輩はいは、姑しばらく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場じょうに角逐かくちくせば、孰たれか後となり孰いずれか先となるを知らざる也。今此この説を為なす、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当まさに其の知言にして、生せいに許す者の過かに非あらざるを信ずべき也。然しかりと雖いえども予の生に許すところの者、寧なんぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜おしみ、為ために是この詩を賦ふす、既に其の素有の善を揚げ、復また勗つとむるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞ことばを行やる自在じざいにして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

生せいは乃すなわち 周しゅうの容刀たまのさや。

生は乃ち 魯ろの璵璠よきたま。

道真しんなれば 器き乃ち貴し、

爰なんぞ須もちゐん 空言を用ゐるを。

孳々じじとして 務めて践形せんけいし、

負そむく勿なかれ 七尺の身に。

敬義 以もって衣いと為なし、

忠信 以て冠かんと為し、

慈仁 以て佩はいと為し、

廉知れんち 以て鞶かわおびと為し、

特ひとり立つて 千古を睨にらまば、

万象 昭あきらかにして昏くらき無からむ。

此この意こころ 竟ついに誰たれか知らん、

爾なんじが為ために 言ことば諄諄じゅんじゅんたり。

徒いたずらに 強しいて聒ものいふと謂おもふ勿なかれ、

一一 宜よろしく紳しんに書しょすべし。

孝孺後のちに至りて此詩を録して人に視しめすの時、書して曰く、前輩せんぱい後学こうがくを勉つとめしむ、惓惓けんけんの意こころ、特ひとり文辞のみに在あらず、望むらくは相あい与ともに之を勉めんと。臨海りんかいの林佑りんゆう、葉見泰しょうけんたい等ら、潜渓の詩に跋ばつして、又各みな宋太史そうたいしの期望に酬むくいんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負そむかざりき。

孝孺こうじゅの集しゅうは、其その人ひと天子の悪にくむところ、一世の諱いむところとなりしを以もって、当時絶滅に帰し、歿後ぼつご六十年にして臨海りんかいの趙洪ちょうこうが梓しに附せしより、復また漸ようやく世に伝わるを得たり。今遜志斎集そんしさいしゅうを執って之これを読むに、蜀王しょくおうが所謂いわゆる正学先生せいがくせんせいの精神面目奕々えきえきとして儼存げんそんするを覚ゆ。其その幼儀ようぎ雑箴ざっしん二十首を読めば、坐ざ、立りつ、行こう、寝しんより、言げん、動どう、飲いん、食しょく等に至る、皆道に違たがわざらんことを欲して、而して実践躬行底きゅうこうていより徳を成さんとするの意、看取すべし。其その雑銘を読めば、冠かん、帯たい、衣い、屨くより、箠すい、鞍あん、轡れん、車しゃ等に至る、各物一々に湯とうの日新にっしんの銘に則のっとりて、語を下し文を為なす、反省修養の意、看取すべし。雑誡ざっかい三十八章、学箴がくしん九首、家人箴かじんしん十五首、宗儀そうぎ九首等を読めば、希直きちょくの学を為なすや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋いたらんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視まっしし、恒つねに王道を明らかにし太平を致すを以て己おのが任と為すと。(是これ鄭暁ていぎょうの方先生伝ほうせんせいでんに本もとづく)真まことに然しかり、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯しんしなる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微びなるは、四蠹しと之これを害すればなり。姦言かんげんを文かざり、近事きんじを摭とり、時勢を窺伺きしし、便べんに趨はしり隙げきに投じ、冨貴ふうきを以て、志と為なす。此これを利禄りろくの蠹とと謂いう。耳剽じひょうし口衒こうげんし、色いろを詭いつわり辞ことばを淫いんにし、聖賢に非あらずして、而しかも自立し、果敢かかん大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是これを名を務むるの蠹とという。鉤摭こうせきして説を成し、上古に合がっするを務め、先儒を毀訾きしし、以謂おもえらく我に及ぶ莫なき也なりと、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁くんこの蠹とという。道徳の旨を知らず、雕飾ちゅうしょく綴緝てっしゅうして、以て新奇となし、歯を鉗かんし舌を刺さして、以て簡古と為し、世に於おいて加益するところ無し。是を文辞ぶんじの蠹とという。四者交々こもごも作おこりて、聖人の学亡ほろぶ。必ずや諸これを身に本もとづけ、諸を政教に見あらわし、以て物ものを成す可き者は、其それ惟ただ聖人の学乎か、聖道を去って而しこうして循したがわず、而して惟ただ蠹とにこれ帰す。甚しい哉かな惑えるや、と。孝孺の此この言げんに照てらせば、鄭暁ていぎょうの伝うるところ、実に虚むなしからざる也。四箴ししんの序の中うちの語に曰く、天に合がっして人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生せんけいせんせいが謂いえる所の、特ひとり立って千古を睨にらみ、万象昭てらして昏くらき無しの境きょうに入れるを看みるべし。又其その克畏こくいの箴しんを読めば、あゝ皇おおいなる上帝、衷ちゅうを人に降くだす、といえるより、其の方まさに昏くらきに当ってや、恬てんとして宜よろしく然しかるべしと謂いうも、中夜ちゅうや静かに思えば夫それ豈あに吾が天ならんや、廼すなわち奮って而して悲かなしみ、丞すみやかに前轍ぜんてつを改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿なかれ、嗜たしなむ所を嗜む勿れ、といい、表裏交々こもごも修めて、本末一致せんといえる如き、恰あたかも神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流ちょうりゅうせるを見る。父克勤こくきんの、昼の為せるところ、夜は則すなわち天に白もうしたるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟こうもうの正大純粋の教おしえの徳光とくこう恵風けいふうに浸涵しんかんして、真に心胸しんきょうの深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看みるべき也。

孝孺既に文芸を末視まっしし、孔孟の学を為なし、伊周いしゅうの事に任ぜんとす。然しかれども其その文章亦またおのずから佳、前人評して曰く、醇龐博朗じゅんほうばくろう、沛乎はいことして余あまり有り、勃乎ぼっことして禦ふせぐ莫なしと。又曰く、醇深雄邁じゅんしんゆうまいと。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋けだし其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観みる可し。其の王仲縉感懐おうちゅうしんかんかいの韻いんに次じする詩の末に句あり、曰く

壮士 千載せんざいの心、

豈あに憂へんや 食しと衣いとを。

由来 海かいに浮うかばんの志、

是これ 軒冕けんべんの姿にあらず。

人生 道を聞くを尚たっとぶ、

富貴 復また奚なに為するものぞ。

賢にして有り 陋巷ろうこうの楽たのしみ、

聖にして有り 西山せいざんの饑うえ。

頤おとがいを朶たる 失ふところ多し、

苦節 未いまだ非とす可からず。

道衍どうえんは豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子とうきょしは歌って曰く、苦節貞かたくすべからずと。遜志斎そんしさいは歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量はくいりょう何ぞ隘せまきと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑うえと。孝孺又其の瀠陽えいようを過よぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因よって首陽しゅようを念おもう、西顧せいこすれば清風せいふう生ずと。又乙丑中秋後いっちゅうちゅうしゅうご二日兄あにに寄する詩の句に曰く、苦節伯夷はくいを慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、觥籌こうちゅう又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直きちょくは俗にして、飲いんの箴しんに、酒の患うれいたる、謹者きんしゃをして荒すさみ、荘者をして狂し、貴者をして賤いやしく、存者そんしゃをして亡ほろばしむ、といい、酒巵しゅしの銘には、親しんを洽あまねくし衆を和するも、恒つねに斯ここに於おいてし、禍わざわいを造り敗はいをおこすも、恒つねに斯ここに於てす、其悪あくに懲り、以て善に趨はしり、其儀を慎つつしむを尚たっとぶ、といえり。逃虚子は仏ぶつを奉じて、而しかも順世じゅんせい外道げどうの如く、遜志斎は儒を尊んで、而しかも浄行者じょうぎょうしゃの如し。嗚呼ああ、何ぞ其の奇なるや。然しかも遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳じょうし南楼なんろうに登るの詩に曰く、

昔時せきじ 喜んで酒を飲み、

白さかずきを挙げて 深きを辞せざりき。

茲ここに中歳ちゅうさいに及んでよりこのかた、

已すでに復また 人の斟くむを畏おそる。

後生わかきもの ゆるがせにする所多きも、

豈あに識しらんや 老おいの会臨かいりんするを。

志士は 景光を惜おしむ、

麓ふもとに登れば 已すでに岑みねを知る。

毎つねに聞く 前世ぜんせいの事、

頗すこぶる見る 古人の心。

逝ゆく者 まことに息やすまず、

将来 誰たれか今に嗣つがむ。

百年 当まさに成る有るべし、

泯滅びんめつ 寧なんぞ欽うらやむに足らんや。

毎つねに憐あわれむ 伯牙はくがの陋ろうにして、

鍾しょう 死して 其その琴ことを破れるを。

自みずから得うるあらば 苟まことに伝ふるに堪へむ、

何ぞ必ずしも 知音ちいんを求めんや。

俯ふしては観みる 水中の鯈こうお、

仰いでは覩みる 雲際うんさいの禽とり。

真楽しんらく 吾われ 隠さず、

欣然きんぜんとして 煩襟はんきんを豁ひろうす。

前半は巵酒ししゅ 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外そとに待つ無きをいう。伯牙を陋ろうとして破琴を憐あわれみ、荘子そうじを引きて不隠ふいんを挙ぐ。それ外より入る者は、中うちに主しゅたる無し、門より入る者は家珍かちんにあらず。白さかずきを挙げて楽たのしみとなす、何ぞ是これ至楽ならん。

遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神夐はるかに殊ことなり。意気の俊邁しゅんまいなるに至っては、互たがいに相あい遜ゆずらずと雖いえども、正学先生せいがくせんせいの詩は竟ついに是れ正学先生の詩にして、其の帰趣きしゅを考うるに、毎つねに正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側きそく詭詖きひの言を為なさず、放逸ほういつ曠達こうたつの態たい無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋けだし壮時の作と雖も、其の本色ほんしょくなり。談詩だんし五首の一に曰く、

世よを挙こぞって 皆宗そうとす 李杜りとの詩を。

知らず 李杜の 更に誰たれを宗とせるを。

能よく 風雅 無窮の意を探さぐらば、

始めて是れ 乾坤けんこん 絶妙の詞しならん。

第二に曰く、

道徳を 発揮して 乃すなわち文を成す、

枝葉 何ぞ曾かつて 本根ほんこんを離れん。

末俗ばつぞく 工を競ふ 繁縟はんじょくの体たい、

千秋の精意 誰たれと与ともに論ぜん。

是これ正学先生の詩に於おけるの見けんなり。華かを斥しりぞけ実じつを尚たっとび、雅を愛し淫いんを悪にくむ。尋常一様詩詞ししの人の、綺麗きれい自ら喜び、藻絵そうかい自ら衒てらい、而しこうして其の本旨正道を逸し邪路に趨はしるを忘るゝが如きは、希直きちょくの断じて取らざるところなり。希直の父愚庵ぐあん、師潜渓せんけいの見も、亦また大略是かくの如しと雖いえども、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。

孝孺こうじゅの父は洪武こうぶ九年を以て歿ぼっし、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年呉沉ごちんの薦すすめを以て太祖に見まみゆ。太祖其その挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂いって曰く、此この荘士、当まさに其その才を老いしめて以て汝なんじを輔たすけしめんと。閲えつ十年にして又薦すすめられて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非あらずと。太祖が孝孺を器重きちょうして、而しかも挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於おいて慮りょを致すもの多し。然しかれども此これは強いて解す可べからず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間あいだに於おいて、たま〱仇家きゅうかの為ために累るいせられて孝孺の闕下けっかに械送かいそうせられし時、太祖其その名なを記し居たまいて特ことに釈ゆるされしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳漸ようやく高くして、太祖の第十一子蜀王しょくおう椿ちん、孝孺を聘へいして世子の傅ふとなし、尊ぶに殊礼しゅれいを以もってす。王の孝孺に賜たまうの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲けみす孔はなはだ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に

謙けんにして以て みづから牧ぼくし、

卑ひくうして以て みづから持じす。

雍容ようよう 儒雅じゅが、

鸞鳳らんぽうの 儀あり。

とあり。又其の賜詩しし三首の一に

文章 金石を奏し、

衿佩きんぱい 儀刑ぎけいを覩みる。

応まさに世々よよ 三輔ぽに遊ぶべし、

焉いずくんぞ能よく 一経けいに困こんせん。

の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦また知るべし。王孝孺の読書の廬ろに題して正学せいがくという。孝孺はみずから遜志斎そんしさいという。人の正学先生というものは、実に蜀しょく王の賜題に因よるなり。

太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々こもごも孝孺を薦すすむ。乃すなわち召されて翰林かんりんに入る。徳望素もとより隆さかんにして、一時の倚重きちょうするところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢しじゅんを承うくること殆ほとんど間ひま無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄しょうげき皆孝孺の手に出いづ。三年より四年に至り、孝孺甚はなはだ煎心せんしん焦慮しょうりょすと雖も、身武臣にあらず、皇師数々しばしば屈して、燕兵遂ついに城下に到いたる。金川門きんせんもん守まもりを失いて、帝みずから大内たいだいを焚やきたもうに当り、孝孺伍雲ごうん等らの為ために執とらえられて獄に下さる。

燕王志を得て、今既に帝たり。素もとより孝孺の才を知り、又道衍どうえんの言を聴きく。乃すなわち孝孺を赦ゆるして之これを用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋つなぎ、孝孺の弟子ていし廖鏞りょうよう廖銘りょうめいをして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯とくけいこう廖権りょうけんの子なり。孝孺怒って曰く、汝なんじ等ら予に従って幾年の書を読み、還かえって義の何たるを知らざるやと。二人説く能あたわずして已やむ。帝猶なお孝孺を用いんと欲し、一日に諭ゆを下すこと再三に及ぶ。然しかも終ついに従わず。帝即位の詔みことのりを草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃すなわち召して獄より出いでしむ。孝孺喪服そうふくして入り、慟哭どうこくして悲かなしみ、声殿陛でんへいに徹す。帝みずから榻とうを降くだりて労ねぎらいて曰く、先生労苦する勿なかれ。我周公しゅうこうの成王せいおうを輔たすけしに法のっとらんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在あると。帝曰く、渠かれみずから焚死ふんしすと。孝孺曰く、成王即もし存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君ちょうくんに頼よる。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕ちんが家事なり、先生はなはだ労苦する勿なかれと。左右をして筆札ひっさつを授けしめて、おもむろに詔みことのりして曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大おおいに数字を批して、筆を地に擲なげうって、又大哭たいこくし、且かつ罵ののしり且哭こくして曰く、死せんには即すなわち死せんのみ、詔しょうは断じて草す可からずと。帝勃然ぼつぜんとして声を大にして曰く、汝いずくんぞ能よく遽にわかに死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ〱奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何いかにせんやと、声甚はなはだ厲はげし。帝もと雄傑剛猛なり、是ここに於て大おおいに怒いかって、刀を以て孝孺の口を抉えぐらしめて、復また之を獄に錮こす。

孝孺の宋潜渓そうせんけいに知らるゝや、蓋けだし其その釈統しゃくとう三篇ぺんと後正統論こうせいとうろんとを以もってす。四篇の文、雄大にして荘厳、其その大旨、義理の正に拠よって、情勢の帰きを斥しりぞけ、王道を尚たっとび、覇略を卑み、天下を全有して、海内かいだいに号令する者と雖いえども、其その道に於おいてせざる者は、目もくして、正統の君主とすべからずとするに在あり。秦しんや隋ずいや王莾おうもうや、晋宋しんそう・斉梁せいりょうや、則天そくてんや符堅ふけんや、此これ皆これをして天下を有せしむる数百年に踰こゆと雖いえども、正統とす可べからずと為なす。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈あに其の天下を有するを謂いわんやと。又曰く、天下を有して而しかも正統に比す可からざる者三、簒臣さんしん也なり、賊后ぞくこう也、夷狄いてき也と。孝孺篇後へんごに書して曰く、予が此この文を為つくりてより、未いまだ嘗かつて出して以て人に示さず。人の此この言を聞く者、咸みな予を訾笑ししょうして以て狂と為なし、或あるいは陰いんに之これを詆詬ていこうす。其の然しかりと謂いう者は、独り予が師太史公たいしこうと、金華きんかの胡公翰ここうかんとのみと、夫それ正統変統の論、もとより史の為ためにして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈あに其の天下を有するを謂わんやと為なす。是かくの如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪さんだつの君に面し、其の天下に誥つぐるの詔みことのりを草せんことを逼せまらる。嗚呼ああ、運命遭逢そうほうも亦また奇なりというべし。孝孺又嘗かつて筆の銘を為つくる。曰く、

妄みだりに動けば 悔くいあり、

道は 悖もとる可からず。

汝なんじ 才ありと謂いふ勿なかれ、

後に 万世あり。

又嘗かつて紙の銘を為る。曰く、

之これを以もって言を立つ、其の道を載のせんを欲す。

之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。

之を以て教おしえを施す、其の義ならんを欲す。

之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。

此これ等らの文、蓋けだし少時の為つくる所なり。嗚呼、運命遭逢そうほう、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴ふうき我を遅まつこと久し、これに臨みて命めいを拒まば、刀鋸とうきょ我に加わらんこと疾とし。嗚呼、正学先生せいがくせんせい、こゝに於おいて、成王せいおういずくに在ありやと論じ、こゝに於て筆を地に擲なげうって哭こくす。父に負そむかず、師に負そむかず、天に合がっして人に合がっせず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々りんりんれつれつとして、屈せず撓たゆまず、苦節伯夷はくいを慕わんとす。壮なる哉かな。

帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎ごとに輙すなわち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃すなわち之を殺す。孝孺の妻鄭氏ていしと諸子しょしとは、皆先まず経死けいしす。二女逮とらえられて淮わいを過ぐる時、相あい与ともに橋より投じて死す。季弟きてい孝友こうゆうまた逮とらえられて将まさに戮りくせられんとす。孝孺之を目して涙なんだ下りければ、流石さすがは正学の弟なりけり、

阿兄あけい 何ぞ必ずしも 涙潜々さんさんたらむ、

義を取り 仁を成す 此この間かんに在り。

華表かひょう 柱頭ちゅうとう 千歳せんざいの後のち、

旅魂りょこん 旧に依よりて 家山かざんに到らん。

と吟じて戮りくせられぬ。母族林彦清りんげんせい等ら、妻族鄭原吉ていげんきつ等ら九族既に戮せられて、門生等まで、方氏ほうしの族として罪なわれ、坐死ざしする者およそ八百七十三人、遠謫えんたく配流はいるさるゝもの数う可からず。孝孺は終ついに聚宝門外しゅうほうもんがいに磔殺たくさつせられぬ。孝孺慨然がいぜん、絶命の詞しを為つくりて戮に就つく。時に年四十六、詞に曰く、

天降二乱離一兮孰知二其由一てんらんりをくだしてたれかそのよしをしらん。

奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ。

忠臣発レ憤兮血涙交流ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる。

以レ此殉レ君兮抑又何求ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん。

嗚呼哀哉兮庶不二我尤一あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ。

廖鏞りょうよう廖銘りょうめいは孝孺の遺骸いがいを拾いて聚宝門外しゅうほうもんがいの山上に葬りしが、二人も亦また収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷りんかゆうは、かつて燕王父子の間に反間の計はかりごとを為なしたるもの、此これ亦戮せられぬ。

方氏一族是かくの如くにして殆ほとんど絶えしが、孝孺の幼子徳宗とくそう、時に甫はじめて九歳、寧海県ねいかいけんの典史てんし魏公沢ぎこうたくの護匿ごとくするところとなりて死せざるを得、後のち孝孺の門人兪公允ゆこういんの養うところとなり、遂ついに兪氏ゆしを冒おかして、子孫繁衍はんえんし、万暦ばんれき三十七年には二百余丁よていとなりしこと、松江府しょうこうふの儒学の申文しんぶんに見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏二子及び門人王稌おうじょ等ら拾骸しゅうがいの功また空むなしからず、万暦に至って墓碑祠堂しどう成り、祭田さいでん及び嘯風亭しょうふうてい等備わり、松江しょうこうに求忠書院きゅうちゅうしょいん成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈あに後無く祠無くして泯然びんぜんとして滅せんや。

節せつに死し族を夷いせらるゝの事、もと悲壮なり。是ここを以て後の正学先生の墓を過よぎる者、愴然そうぜんとして感じ、泫然げんぜんとして泣かざる能あたわず。乃すなわち祭弔さいちょう慷慨こうがいの詩、累篇るいへん積章せきしょうして甚だ多きを致す。衛承芳えいしょうほうが古風一首、中うちに句あり、曰く、

古来 馬を叩たたく者、

采薇さいび 逸民を称す。

明みんの徳 詎なんぞ周しゅうに遜ゆずらん。

乃すなわち其の仁を成す無からんや。

と。劉秉忠りゅうへいちゅうを慕うの人道衍どうえんは其の功を成して秉忠の如くなるを得え、伯夷はくいを慕うの人方希直ほうきちょくは其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任おうしじん二律の一に句あり、曰く、

十族 魂たまの 暗き月に依よる有り、

九原きゅうげん 愧はじの 青灯に付する無し。

と、李維楨りいてい五律六首の中うちに句あり、曰く、

国破れて 心 仍なお在あり、

身危あやうふして 舌 尚なお存す。

又句あり、曰く、

気は壮さかんなり 河山かざんの色、

神しんは留とどまる 宇宙の身み。

燕王えんおう今は燕王にあらず、儼げんとして九五きゅうごの位くらいに在り、明年を以もって改めて永楽えいらく元年と為なさんとす。而しこうして建文皇帝は如何いかん。燕王の言に曰く、予よ始め難に遘あう、已やむを得ずして兵を以て禍わざわいを救い、誓って奸悪かんあくを除き、宗社を安んじ、周公しゅうこうの勲を庶幾しょきせんとす。意おもわざりき少主予が心を亮まこととせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史みんしには記す、帝終る所を知らずと。又記す、或あるいは云いう帝地道ちどうより出いで亡にぐと。又記す、滇黔てんきん巴蜀ばしょくの間かん、相あい伝つたう帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言ことばを二三にするものなり。帝果して火に赴おもむいて死せるか、抑そもそも又髪かみを薙ないで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先ぎゅうけいせんの伝の後に、忠賢奇秘録ちゅうけんきひろくおよび致身録ちしんろく等の事を記して、録は蓋けだし晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡しゅつぼう、諸臣庇護ひごの事を否定するの口気あり。然しかれども巻三百四、鄭和伝ていかでんには、成祖せいそ、恵帝けいていの海外に亡にげたるを疑い、之これを蹤跡しょうせきせんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記しるせり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即すなわち永楽三年なり。永楽三年にして猶なお疑うあるは何ぞや。又給事中きゅうじちゅう胡濙こえいと内侍ないし朱祥しゅしょうとが、永楽中に荒徼こうきょうを遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人せんにん張三丰ちょうさんぼうを索もとめんとすというを其その名なとすと雖いえども、山谷さんこくに仙を索もとめしむるが如き、永楽帝の聰明そうめい勇決にして豈あに真に其その事ことあらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可べき也。蓋けだし此この時に当って、元の余孽よけつ猶なお所在に存し、漠北ばくほくは論無く、西陲南裔せいすいなんえい、亦また尽ことごとくは明みんの化かに順したがわず、野火やか焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢いきおいあり。且つや天てん一豪傑を鉄門関辺の碣石けっせきに生じて、カザン(Kazan)弑しいされて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児チモル(Timur)と為す。西人せいじんの所謂いわゆるタメルラン也。帖木児チモルサマルカンドに拠より、四方を攻略して威を振ふるう甚だ大だいに、明みんに対しては貢みつぎを納いると雖も、太祖の末年に使つかいしたる傅安ふあんを留とどめて帰らしめず、之これを要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度いんどを掠かすめて、デリヒを取り、波斯ペルシヤを襲い、土耳古トルコを征し、心ひそかに支那しなを窺うかがい、四百余州を席巻して、大元たいげんの遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北さいほくに出征して、よく胡情こじょうを知る。部下の諸将もまた夷事いじに通ずる者多し。王の南みなみする、幕中ばくちゅうに番騎ばんきを蔵す。凡およそ此これ等らの事に徴して、永楽帝の塞外さくがいの状勢を暁さとれるを知るべし。若もし建文帝にして走って域外に出いで、崛強くっきょうにして自大なる者に依よるあらば、外敵は中国を覦うかがうの便べんを得て、義兵は邦内ほうないに起る可べく、重耳ちょうじ一たび逃れて却かえって勢を得るが如きの事あらんとす。是これ永楽帝の懼おそれ憂うれうるところたらずんばあらず。鄭和ていかの艦ふねを泛うかめて遠航し、胡濙こえいの仙せんを索もとめて遍歴せる、密旨を啣ふくむところあるが如し。而しこうして又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡こは実に異を幽境に詢とえるや論無し。善よく射る者は雁影がんえいを重ならしめて而して射、善よく謀はかる者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭せん二雁がんを獲えずと雖いえども、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智ち、豈あに敢あえて建文を索もとむるを名として使つかいを発するを為なさんや。況いわんや又鄭和は宦官かんがんにして、胡濙こえいと偕ともにせるの朱祥しゅしょうも内侍ないしたるをや。秘意察す可きあるなり。

鄭和ていかは王景弘おうけいこう等らと共に出いでて使つかいしぬ。和の出いづるや、帝、袁柳荘えんりゅうそうの子の袁忠徹えんちゅうてつをして相そうせしむ、忠徹曰いわく可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶ふね長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州そしゅう劉家河りゅうかかより海かいに泛うかびて福建ふくけんに至り、福建五虎門ごこもんより帆を揚げて海に入る。閲えつ三年にして、五年九月還かえる。建文帝の事、得る有る無し。而しかれども諸番国しょばんこくの使者和かに随したがって朝見し、各々おのおの其その方物ほうぶつを貢こうす。和か又三仏斉国さんぶつせいこくの酋長しゅうちょうを俘とりことして献ず。帝大おおいに悦よろこぶ。是これより建文の事に関せず、専もはら国威を揚げしめんとして、再三和かを出いだす。和の使つかいを奉ずる、前後七回、其その間、或あるいは錫蘭山セイロンざん(Ceylon)の王阿烈苦奈児アレクナルと戦って之を擒とりこにして献じ、或あるいは蘇門答剌スモタラ(Sumotala)の前の前の偽王ぎおうの子蘇幹剌スカンラと戦って、其その妻子を併あわせて俘とりことして献じ、大おおいに南西諸国に明みんの威を揚げ、遠く勿魯漠斯ホルムス(Holumusze ペルシヤ)麻林マリン(Mualin? アフリカ?)祖法児ズファル(Dsuhffar アラビヤ)天方てんほう(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史みんし外国伝がいこくでん西南方のやゝ詳つまびらかなるは、鄭和に随行したる鞏珍きょうちんの著わせる西洋番国志せいようばんこくしを採りたるに本もとづく歟かという。

胡濙こえい等らもまた得る無くして已やみぬ。然しかも張三丰ちょうさんぼうを索もとめしこと、天下の知る所たり。乃すなわち三丰の居おりし所の武当ぶとう 大和山たいかざんに観かんを営み、夫ふを役えきする三十万、貲しを費ついやす百万、工部侍郎こうぶじろう郭𤧫かくつい、隆平侯りゅうへいこう張信ちょうしん等ら、事に当りしという。三丰嘗かつて武当の諸しょ巌壑がんがくに游あそび、此この山やま異日必ず大おおいに興おこらんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。

建文帝けんぶんていは如何いかにせしぞや。伝えて曰いわく、金川門きんせんもんの守まもりを失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修かんりんいんへんしゅう程済ていせい白もうす、出亡しゅつぼうしたまわんには如しかじと。少監しょうかん王鉞おうえつ跪ひざまずいて進みて白もうす。昔高帝こうてい升遐しょうかしたもう時、遺篋いきょうあり、大難に臨まば発あばくべしと宣のたまいぬ。謹んで奉先殿ほうせんでんの左に収め奉れりと。羣臣ぐんしん口々に、疾とく出いだすべしという。宦者かんじゃ忽たちまちにして一の紅くれないなる篋かたみを舁かき来きたりぬ。視みれば四囲は固かたむるに鉄を以てし、二鎖さも亦また鉄を灌そそぎありて開くべくも無し。帝これを見て大おおいに慟なげきたまい、今はとて火を大内たいだいに放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此この時とき程済は辛くも篋かたみを砕き得て、篋中きょうちゅうの物を取出とりいだす。出いでたる物は抑そも何ぞ。釈門しゃくもんの人ならで誰たれかは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒どちょうというもの三張ちょうありたり。度牒は人の家を出いでて僧となるとき官の可ゆるして認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文おうぶんの名の録ろくされ、一には応能おうのうの名あり、一には応賢おうけんの名あり。袈裟けさ、僧帽、鞋くつ、剃刀かみそり、一々倶ともに備わりて、銀十錠じょう添わり居いぬ。篋かたみの内に朱書あり、之これを読むに、応文は鬼門きもんより出いで、余よは水関すいかん御溝ぎょこうよりして行き、薄暮にして神楽観しんがくかんの西房せいぼうに会せよ、とあり。衆臣驚き戦おののきて面々相あい看みるばかり、しばらくは言ものいう者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰おおせあり。帝の諱いみなは允炆いんぶん、応文おうぶんの法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明みんの基もといを開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉たまいたれ、元げんの順宗じゅんそうの至正しせい四年年とし十七におわしける時は、疫病大おおいに行われて、御父おんちち御母兄上幼き弟皆亡うせたまえるに、家貧にして棺槨かんかくの供そなえだに為なしたもう能あたわず、藁葬こうそうという悲しくも悲しき事を取行とりおこなわせ玉わんとて、仲なかの兄と二人してみずから遺骸いがいを舁かきて山麓さんろくに至りたまえるに、綆なわ絶えて又如何いかんともする能あたわず、仲の兄馳はせ還かえって綆を取りしという談だに遺のこりぬ。其の仲の兄も亦また亡せたれば、孤身依よるところなく、遂ついに皇覚寺こうかくじに入りて僧と為なり、食しを得んが為ために合淝ごうひに至り、光こう固こ汝じょ頴えいの諸州に托鉢たくはつ修行し、三歳の間は草鞋そうあい竹笠ちくりゅう、憂うき雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因にょぜいん、如是縁にょぜえん、今また袈裟けさ念珠ねんじゅの人たらんとす。不思議というも余あまりあり。程済即すなわち御意に従いて祝髪しゅくはつしまいらす。万乗の君主金冠を墜おとし、剃刀ていとうの冷光翠髪すいはつを薙なぐ。悲痛何ぞ能よく堪たえんや。呉王ごおうの教授揚応能ようおうのうは、臣が名度牒どちょうに応ず、願わくは祝髪して随したがいまつらんと白もうす。監察御史かんさつぎょし葉希賢しょうきけん、臣が名は賢けん、応賢おうけんたるべきこと疑うたがい無しと白もうす。各おのおの髪を剃そり衣いを易かえて牒ちょうを披ひらく。殿でんに在りしもの凡およそ五六十人、痛哭つうこくして地に倒れ、倶ともに矢ちかって随したがいまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾さしまねいて去らしめたもう。御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後のち果して燕王の召めしに応おうぜずして自殺しぬ。諸臣大おおいに慟なげきて漸ようやくに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟いっしゅうの岸に在あるあり。誰たれぞと見るに神楽観しんがくかんの道士王昇おうしょうにして、帝を見て叩頭こうとうして万歳を称となえ、嗚呼ああ、来きたらせたまえるよ、臣昨夜の夢に高こう皇帝の命を蒙こうむりて、此ここにまいり居いたり、と申す。乃すなわち舟に乗じて太平門たいへいもんに至りたもう。昇しょう導きまいらせて観かんに至れば、恰あたかも已すでに薄暮なりけり。陸路よりして楊応能ようおうのう、葉希賢しょうきけん等ら十三人同じく至る。合ごう二十二人、兵部侍郎へいぶじろう廖平りょうへい、刑部侍郎けいぶじろう金焦きんしょう、編修へんしゅう趙天泰ちょうてんたい、検討けんとう程亨ていこう、按察使あんさつし王良おうりょう、参政さんせい蔡運さいうん、刑部郎中けいぶろうちゅう梁田玉りょうでんぎょく、中書舎人ちゅうしょしゃじん梁良玉りょうりょうぎょく、梁中節りょうちゅうせつ、宋和そうか、郭節かくせつ、刑部司務けいぶしむ馮㴶ひょうかく、鎮撫ちんぶ牛景先ぎゅうけいせん、王資おうし、劉仲りゅうちゅう、翰林侍詔かんりんじしょう鄭洽ていこう、欽天監正きんてんかんせい王之臣おうししん、太監たいかん周恕しゅうじょ、徐王府賓輔じょおうふひんほ史彬しひんと、楊応能ようおうのう、葉希賢しょうきけん、程済ていせいとなり。帝、今後はたゞ師弟を以もって称し、必ずしも主臣の礼に拘かかわらざるべしと宣のたまう。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於おいて人々に謂いって曰く、諸人の随したがわんことを願うは、固もとよりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累るい無くして、膂力りょりょくの捍ふせぎ衛まもるに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余よは倶ともに遙はるかに応援を為なさば、可ならんと。帝も、然しかるべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘びくと称し、程済は道人どうじんと称して、常に左右に侍し、馮㴶ひょうかくは馬二子ばじしと称し、郭節かくせつは雪菴せつあんと称し、宋和そうかは雲門僧うんもんそうと称し、趙天泰ちょうてんたいは衣葛翁いかつおうと称し、王之臣おうししんは補鍋ほかを以もって生計を為さんとして老補鍋ろうほかと称し、牛景先ぎゅうけいせんは東湖樵夫とうこしょうふと称し、各々おのおの姓を埋うずめ名を変じて陰陽いんように扈従こしょうせんとす。帝は滇南てんなんに往ゆきて西平侯せいへいこうに依よらんとしたもう。史彬しひんこれを危ぶみて止とどめ、臣しん等らの中の、家いさゝか足りて、旦夕たんせきに備う可べき者の許もとに錫しゃくを留とどめたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白もうす。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽ていこう、郭節、王資、史彬しひん、梁良玉の七家を、かわる〲主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉しょう、楊、牛、馮ひょう、宋、史なり。余よは皆涙を揮ふるって別れまいらす。帝は道を溧陽りつように取りて、呉江ごこうの黄渓こうけいの史彬の家に至りたもうに、月の終おわりを以て諸臣また漸ようやく相あい聚あつまりて伺候しこうす。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位くらいに即つきて、諸官員の職を抛なげうって遯去のがれさりし者の官籍を削る。呉江ごこうの邑丞ゆうじょう鞏徳きょうとく、蘇州府そしゅうふの命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且かつ曰く、聞く君が家建文けんぶん皇帝をかしずくと。彬ひん驚いて曰く、全く其その事こと無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出いで、舟に上のぼりて京口けいこうに至り、六合ろくごうを過ぎ、陸路襄陽じょうように至り、廖平が家に至りたもうに、其その後あとを訊とう者ありければ、遂ついに意を決して雲南うんなんに入りたもう。

永楽えいらく元年、帝雲南うんなんの永嘉寺えいかじに留とどまりたもう。二年、雲南を出いで、重慶じゅうけいより襄陽じょうように抵いたり、また東して、史彬しひんの家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州こうしゅう、天台てんだい、雁蕩がんとうの遊ゆうをなして、又雲南に帰りたもう。

三年、重慶の大竹善慶里たいちくぜんけいりに至りたもう。此この年とし若もしくは前年の事なるべし、帝金陵きんりょうの諸臣惨死さんしの事を聞きたまい、泫然げんぜんとして泣きて曰く、我罪を神明に獲えたり、諸人皆我が為ためにする也なりと。

建文帝けんぶんていは今は僧応文おうぶんたり。心の中うちはいざ知らず、袈裟けさに枯木こぼくの身を包みて、山水に白雲の跡を逐おい、或あるいは草庵そうあん、或は茅店ぼうてんに、閑坐かんざし漫遊したまえるが、燕王えんおう今は皇帝なり、万乗の尊に居おりて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼だったんの兵、遼東りょうとうを犯し、永平えいへいに寇あだし、二年には韃靼だったんと瓦剌わら(Oirats, 西部蒙古)との相あい和せる為に、辺患無しと雖いえども、三年には韃靼の塞下さくかを伺うあり。特ことに此この年としはタメルラン大兵を起して、道を別失八里ベシバリ(Bisbalik)に取り、甘粛かんしゅくよりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京けいを距さる遠しと雖いえども、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可べし。此この事こと明史みんしには其の外国伝に、朝廷、帖木児チモルの道を別失八里ベシバリに仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛かんしゅく総兵官そうへいかん宋晟そうせいに勅して儆備けいびせしむ、とあるに過ぎず。然しかれども塞外さくがいの事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々しばしば漠北ばくほくを親征せしほどの帝の、帖木児チモル東せんとするを聞きては、奚いずくんぞ能よく晏然あんぜんたらん。太祖の洪武こうぶ二十八年、傅安ふあん等らを帖木児チモルの許もとに使つかいせしめて、安あん等ら猶なお未いまだ還かえらず、忽たちまちにして此この報を得、疑虞ぎぐする無きを得んや。帖木児チモル、父は答剌豈タラガイ(Taragai)、元げんの至元二年を以もって生る。生れて跛ひなりしかば、悪にくむ者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛ひの義の波斯ペルシヤ語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅ゆうき、兵を用い政まつりごとを為なすを善よくす。太祖たいその明みんの基もといを開くに前後して大おおいに勢いきおいを得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加アフリカ、欧羅巴ヨウロッパに及ぶ。帖木児チモルは回教を奉ず。明の初はじめ回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児チモルの領土に帰きす。帖木児チモルの甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児チモルの許もとに在ありしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記しるす、タメルラン、支那しな帝使を西班牙スペイン帝使の下しもに座せしめ、吾わが児こたり友たる西帝せいていの使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使しの下に坐ざせしむる勿なかれと云いいしと。又同時タメルラン軍営に事つかえしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢しんこうを求む、タメルラン怒って曰く、吾われ復また進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来きたれと。乃すなわち使つかいを発して兵を徴し、百八十万を得、将まさに発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯ペルシヤを征したりしが、其その冬ふゆ明の太祖及び埃及エジプト王の死を知りたりと也なり。帖木児チモルが意を四方に用いたる知る可し。然しからば則すなわち燕王の兵を起ししより終ついに位くらいに即つくに至るの事、タメルラン之これを知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在ある五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還かえりぬ。カスチリヤの使しと、支那の使とを引見したるは、即すなわち此この歳としにして、其その翌年直ただちに馬首を東にし、争乱の余よの支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此この報を得るや、宋晟そうせいに勅ちょくして儆備けいびせしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可べし。宋晟は好将軍なり、平羌将軍へいきょうしょうぐん西寧侯せいねいこうたり。かつて御史ぎょしありて晟せいの自ら専もっぱらにすることを劾がいしけるに、帝聴きかずして曰く、人に任ずる専せんならざれば功を成す能あたわず、況いわんや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能よく文法に拘かかわらんと。又嘗かつて曰く、西北の辺務は、一に以もって卿けいに委ゆだぬと。其の材武称許せらるゝ是かくの如し。タメルランの来きたらんとするや、帝また別に虞おそるゝところあり。蓋けだし燕の兵を挙ぐるに当って、史之これを明記せずと雖いえども、韃靼だったんの兵を借りて以もって功を成せること、蔚州いしゅうを囲めるの時に徴して知る可し。建文未いまだ死せず、従臣の中うち、道衍どうえん金忠きんちゅうの輩の如き策士あって、西北の胡兵こへいを借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和ていか胡濙こえいの出いづるある、徒爾とじならんや。建文の草庵そうあんの夢、永楽の金殿きんでんの夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試こころみに之を問わんと欲する也。幸さいわいにしてタメルランは、千四百〇五年即すなわち永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄相あい下らずして龍闘虎争りゅうとうこそうするの惨禍さんかを禹域ういきの民に被こうむらしむること無くして已やみぬ。

四年応文おうぶんは西平侯せいへいこうの家に至り、止とどまること旬日、五月庵いおりを白龍山はくりゅうざんに結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為つくりて之これを哭こくしたもう。朝廷帝ていを索もとむること密みつなれば、帝深く潜ひそみて出いでず。此この歳とし傅安ふあん朝ちょうに帰る。安の胡地こちを歴游れきゆうする数万里、域外に留とどまる殆ほとんど二十年、著す所西遊勝覧詩せいゆうしょうらんしあり、後の好事こうずの者の喜び読むところとなる。タメルランの後のちの哈里ハリ(Hali)雄志ゆうし無し、使つかいを安あんに伴わしめ方物ほうぶつを貢こうす。六年、白龍庵災さいあり、程済ていせい募つのり葺ふく。七年、建文帝、善慶里ぜんけいりに至り、襄陽じょうように至り、滇てんに還かえる。朝廷密ひそかに帝を雲南うんなん貴州きしゅうの間に索もとむ。

八年春三月、工部尚書こうぶしょうしょ厳震げんしん安南あんなんに使つかいするの途みちにして、忽たちまち建文帝に雲南に遇あう。旧臣猶なお錦衣きんいにして、旧帝既すでに布衲ふとつなり。震しんたゞ恐懼きょうくして落涙止とどまらざるあるのみ。帝、我を奈何いかんせんとするぞや、と問いたもう。震対こたえて、君は御心みこころのまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申もうす。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其その夜よ駅亭にみずから縊くびれて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬しひん、程亨ていこう、郭節かくせつたま〱至る。三人留まる久しくして、帝これを遣やりたまい、今後再び来きたる勿なかれ、我安居あんきょす、心づかいすなと仰おおす。帝白龍庵を舎すてたもう。此この歳とし永楽帝は去年丘福きゅうふくを漠北ばくほくに失えるを以て北京ほくけいを発して胡地こちに入り、本雅失里ベンヤシリ(Benyashili)阿魯台アルタイ(Altai)等らと戦いて勝ち、擒狐山きんこざん、清流泉せいりゅうせんの二処に銘を勒ろくして還りたもう。

九年春、白龍庵有司ゆうしの毀こぼつところとなる。夏建文帝浪穹ろうきゅう鶴慶山かくけいざんに至り、大喜庵たいきあんを建つ。十年楊応能ようおうのう卒し、葉希賢しょうきけん次ついで卒す。帝因よって一弟子いちていしを納いれて応慧おうえと名づけたもう。十一年甸てんに至りて還り、十二年易数を学びたもう。此この歳とし永楽帝また塞外さくがいに出いで、瓦剌オイラトを征したもう。皇太孫九龍口きゅうりゅうこうに於おいて危難に臨む。十三年建文帝衡山こうざんに遊ばせたもう。十四年、帝程済ていせいに命じて従亡伝じゅうぼうでんを録せしめ、みずから叙じょを為つくらる。十五年史彬しひん白龍庵に至る、庵あんを見ず、驚訝きょうがして帝を索もとめ、終ついに大喜庵たいきあんに遇あい奉る。十一月帝衡山こうざんに至りたもう、避くるある也。十六年、黔きんに至りたもう。十七年始めて仏書を観みたもう。十八年蛾眉がびに登り、十九年粤えつに入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此この歳とし阿魯台アルタイ反す。二十年永楽帝、阿魯台アルタイを親征す。二十一年建文帝章台山しょうだいさんに登り、漢陽かんように遊び、大別山たいべつざんに留とどまりたもう。

二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬しひんと旅店に相あい遇あう。此この歳とし阿魯台アルタイ大同だいどうに寇あだす。去年阿魯台アルタイを親征し、阿魯台アルタイ遁のがれて戦わず、師空むなしく還る。今又塞さいを犯す。永楽帝また親征す。敵に遇あわずして、軍食ぐんし足らざるに至る。帰路楡木川ゆぼくせんに次じし、急に病みて崩ず。蓋けだし疑う可べきある也なり。永楽帝既に崩じ、建文帝猶なお在あり、帝と史彬しひんと客舎かくしゃ相あい遇あい、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位さんこくだついの叔父しゅくふの死を聞く。世事せいじ測る可からずと雖いえども、薙髪ちはつして宮きゅうを脱し、堕涙だるいして舟に上るの時、いずくんぞ茅店ぼうてんの茶後に深仇しんきゅうの冥土めいどに入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦また奇なりというべし。知らず応文禅師おうぶんぜんじの如何いかんの感を為なせるを。即すなわち彬ひんとゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山てんだいさんに登りたもう。

仁宗じんそうの洪凞こうき元年正月、建文帝観音大士かんおんだいしを潮音洞ちょうおんどうに拝し、五月山に還りたもう。此この歳とし仁宗また崩じて、帝を索もとむること、漸ようやくに忘れらる。宣宗せんそうの宣徳せんとく元年秋八月、従亡じゅうぼう諸臣を菴前あんぜんに祭りたもう。此この歳とし漢王かんおう高煦こうこう反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝せんとくていの叔父しゅくふなり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従したがって力戦す。材武みずから負たのみ、騎射を善よくし、酷はなはだ燕王に肖にたり。永楽帝の儲ちょを立つるに当って、丘福きゅうふく、王寧おうねい等らの武臣意こころを高煦に属するものあり。高煦亦また窃ひそかに戦功を恃たのみて期するところあり。然しかれども永楽帝長子ちょうしを立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々おうおうたり。仁宗立って其その歳とし崩じ、仁宗の子大位に即つくに及びて、遂ついに反す。高煦の宣徳帝せんとくていに於おけるは、猶なお燕王の建文帝に於けるが如きなり。其その父反して而しかして帝たり、高煦父の為なせるところを学んで、陰謀至らざる無し。然しかれども事発するに至って、帝親征して之を降くだす。高煦乃すなわち廃せられて庶人しょじんとなる。後鎖縶さしつされて逍遙城しょうようじょうに内いれらるゝや、一日いちじつ帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出いで、一足いっそくを伸のばして帝を勾こうし地に踣ばいせしむ。帝大おおいに怒って力士に命じ、大銅缸だいどうこうを以もって之を覆おおわしむ。高煦多力たりきなりければ、缸こうの重き三百斤きんなりしも、項うなじに缸こうを負いて起たつ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃もやす。高煦生きながらに焦熱地獄に堕だし、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢あえてし、身幸さいわいにして志を得たりと雖も、終ついに域外の楡木川ゆぼくせんに死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕おつ。如是果にょぜか、如是報にょぜほう、悲かなしむ可べく悼いたむ可く、驚く可く嘆ずべし。

二年冬、建文帝永慶寺えいけいじに宿しゅくして詩を題して曰く、

杖錫じょうしゃく 来きたり遊びて 歳月深し、

山雲 水月 閑吟に傍そふ。

塵心じんしん 消尽しょうじんして 些子さしも無し、

受けず 人間の物色の侵すを。

これより帝優游自適ゆうゆうじてき、居然として一頭陀いちずだなり。九年史彬しひん死し、程済ていせい猶なお従う。帝詩を善よくしたもう。嘗かつて賦ふしたまえる詩の一に曰く、

牢落ろうらく 西南 四十秋、

蕭々しょうしょうたる白髪 已すでに頭こうべに盈みつ。

乾坤けんこん 恨うらみあり 家いづくにか在ある。

江漢 情じょう無し 水おのづから流る。

長楽 宮中きゅうちゅう 雲気散じ、

朝元ちょうげん 閣上 雨声収まる。

新蒲しんぽ 細柳さいりゅう 年々緑に、

野老やろう 声を呑のんで 哭こくして未いまだ休やまず。

又嘗かつて貴州きしゅう金竺きんちく長官司羅永菴しらえいあんの壁へきに題したまえる七律二章の如き、皆誦しょうす可し。其二に曰く、

楞厳りょうごんを閲けみし罷やんで 磬けいも敲たたくに懶ものうし。

笑って看みる 黄屋こうおく 団瓢だんぴょうを寄す。

南来 瘴嶺しょうれい 千層逈はるかに、

北望 天門 万里遙はるかなり。

款段かんだん 久しく 忘る 飛鳳ひほうの輦れん、

袈裟けさ 新あらたに換かわる 兗龍こんりゅうの袍ほう。

百官 此この日ひ 知る何いずれの処ところぞ、

唯ただ有り 羣烏ぐんうの 早晩に朝する。

建文帝是かくの如くにして山青く雲白き処ところに無事の余生を送り、僊人せんにん隠士いんしの踪跡そうせき沓渺ようびょうとして知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵しんえんに潜ひそめども案に上るの日あり、禽とりは高空に翔かくれども天に宿しゅくするに由よし無し。忽然こつぜんとして復また宮きゅうに入るに及びたもう。其その事ことまことに意表に出いづ。帝の同寓どうぐうするところの僧、帝の詩を見て、遂ついに建文帝なることを猜知すいちし、其その詩を窃ぬすみ、思恩しおんの知州ちしゅう岑瑛しんえいのところに至り、吾われは建文皇帝なりという。意こころ蓋けだし今の朝廷また建文を窘くるしめずして厚く之これを奉ず可きをおもえるなり。瑛えいはこれを聞きて大おおいに驚き、尽ことごとく同寓どうぐうの僧を得て之を京師けいしに送り、飛章ひしょうして以聞いぶんす。帝及び程済ていせいも京けいに至るの数すうに在り。御史ぎょし僧を糾ただすに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵りょうの旁かたわらに葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武こうぶ十年に生れたまいて、正統せいとう五年を距へだたる六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其その偽ぎなるを断ず。僧実じつは鈞州きんしゅう白沙里はくさりの人、楊応祥ようおうしょうというものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍まもらしめんとす。帝其その中うちに在あり。是ここに於おいて已やむを得ずして其その実を告げたもう。御史また今更に大おおいに驚きて、此この事を密奏す。正統帝せいとうていの御父おんちち宣宗せんそう皇帝は漢王高煦こうこうの反に会いたまいて、幸さいわいに之を降したまいたれども、叔父しゅくふの為ために兵を動うごかすに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其その宣宗せんそうに紹つぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何いかんの感をや為なしたまえる。御史の密奏を聞召きこしめして、即すなわち宦官かんがんの建文帝に親しく事つかえたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮ごりょうというものあり、建文帝に事つかえたり。乃すなわち亮をして応文の果して帝なるや否あらぬやを探らしめたもう。亮の応文おうぶんを見るや、応文たゞちに、汝なんじは呉亮にあらずや、と云いたもう。亮猶なお然しからざるを申せば、帝旧ふるき事を語りたまいて、爾なんじ亮に非あらずというや、と仰おおす。亮胸塞ふさがりて答うる能あたわず、哭こくして地に伏す。建文帝の左の御趾おんあしには黒子ほくろありたまいしことを思ひ出いでゝ、亮近づきて、御趾おんあしを摩まし視みるに、正まさしく其のしるし御座おわしたりければ、懐旧の涙遏とどめあえず、復また仰ぎ視みること能あたわず、退いて其その由よしを申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内せいだいに入れたてまつる。程済ていせいこの事を聞きて、今日こんにち臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵あんを焚やき、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏ろうぶつを以て呼ばれたまい、寿じゅをもて終りたまいぬという。

女仙外史じょせんがいしに、忠臣等名山幽谷に帝を索もとむるを記きする、有るが如ごとく無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣ひょうびょうゆうしゅの文を為なす。永楽亭えいらくてい楡木川ゆぼくせんの崩ほうを記する、鬼母きぼの一剣を受くとなし、又野史やしを引いて、永楽帝楡木川ゆぼくせんに至る、野獣の突至するに遇あい、之これを搏ばくす、攫かくされてたゞ半躯はんくを剰あますのみ、殮れんして而しかして匠を殺す、其その迹あとを泯滅びんめつする所以ゆえんなりと。野獣か、鬼母か、吾われ之これを知らず。西人せいじん或あるいは帝胡人こじんの殺すところとなると為す。然しからば則すなわち帝丘福きゅうふくを尤とがめて、而して福と其その死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦危あやうきを冒おかす、楡木川ゆぼくせんの崩、蓋けだし明史みんし諱いみて書せざるある也。

数すうか、数か。紅篋こうきょうの度牒どちょう、袈裟けさ、剃刀ていとう、噫ああ又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝ぎょこうの片舟へんしゅう、噫ああ又何ぞ奇なるや。吾われ嘗かつて明史みんしを読みて、其その奇に驚き、建文帝と共に所謂いわゆる数すうなりの語を発せんと欲す。後のち又道衍どうえんの伝を読む。中うちに記して曰く、道衍永楽えいらく十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧そう溥洽ふこうというもの繋つながるゝこと久し。願わくは之を赦ゆるしたまえと。溥洽ふこうは建文帝の主録僧しゅろくそうなり。初め帝の南京なんきんに入るや、建文帝僧となりて遁のがれ去り、溥洽状じょうを知ると言うものあり、或あるいは溥洽の所に匿かくすと云いうあり。帝乃すなわち他事を以て溥洽を禁いましめて、而しかして給事中きゅうじちゅう胡濙こえい等らに命じて徧あまねく建文帝を物色せしむ。之これを久しくして得ず。溥洽坐ざして繋つながるゝこと十余年、是ここに至りて帝道衍の言を以もって命じて之を出いださしむ。衍頓首とんしゅして謝し、尋ついで卒すと。篋中きょうちゅうの朱書、道士の霊夢、王鉞おうえつの言、呉亮ごりょうの死と、道衍の請こいと、溥洽の黙もくと、嗚呼ああ、数たると数たらざると、道衍蓋けだし知ることあらん。而しかして楡木川ゆぼくせんの客死かくし、高煦こうこうの焦死しょうし、数たると数たらざるとは、道衍袁珙えんこうの輩はいの固もとより知らざるところにして、たゞ天之これを知ることあらん。

底本 / Source edition

底本:「日本の文学 3 五重塔・運命」ほるぷ出版
1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「幽秘記」改造社
1925(大正14)年6月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては、底本の親本と、「露伴全集 第六卷」岩波書店、1953(昭和28)年12月20日発行を参照しました。
※底本の「凡例」に「韻文の作品は、原表記・歴史的仮名づかいのままとした。ただし、振仮名は現代表記に改めた。」と記載されています。
※「懐来《かいらい》に在《あ》り 兵三万と」「天に震い 飛矢《ひし》雨の如し。」「城を撃たしむ 城壁破れんとす。」「前半は巵酒《ししゅ》 歓楽、」「武当《ぶとう》 大和山《たいかざん》に」の空白は、底本通りです。
入力:kompass
校正:しだひろし
2004年11月17日作成
2014年7月3日修正
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/001452_000051/

幸田 露伴「運命」(新字新仮名)、底本『日本の文学 3 五重塔・運命』ほるぷ出版、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001452_000051, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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