Soranoha

水

みず

幸田 露伴

一切の味あぢはひは水を藉からざれば其の味を発する能はず。人若し口の渇くこと甚しくして舌の燥かわくこと急なれば、熊の掌たなそこも魚の腴あぶらみも、それ何かあらん。味は唾液の之を解き之を親ましむるによつて人の感ずるところとなるのみ。唾液にして存せざれば、五味もまた無用のものたらん。唾液は水なり、ムチンの存在によつて粘ねばきも、其実は弱アルカリ性の水にして、酵素のプチアリンを含めるのみ。此中プチアリンは消化作用の一助をなすに止まり、ムチンは蓋し外物の強烈の刺激を緩和する為に存せりと覚しく、味を解きて人に伝ふるものは、実に水の力なり。体内の水の用是かくの如し。而して身外の水も亦、味を解きて人に伝ふるの大作用をなす。譬へば青黄赤黒の色も畢竟水の力を得て素しろを染むるが如し。水無ければ、絢爛の美、錦繍の文あや、竟つひに成らざるなり。こゝに於て善く染むるものは水を論じ、善く味はふものは水を品す。蜀の錦の名あるは、蜀の水の染むるに宜しければなり。加茂の水ありて、京染の名は流るゝなり。染むる者の水に藉よるも亦大なりといふべし。而して味の水に藉る、亦いよ〱大なり。

中に就て酒と茶とは殊に水の力に藉る。酒は水に因つて体を成し、茶は水に縁よつて用を発す。灘の酒は実に醸醞の技の巧を積み精を極むるによつて成ると雖いへども、其の佳水を得るによつて、天下に冠たるに至れるもまた争ふべからず。醸家の水を貴び水を愛し水を重んじ水を吝をしむ、まことに所以ゆゑある也。剣工の剣を鍛ひて之を焠さいするや、水悪ければ即ち敗る。醸家の酒を醸す、法あり技あり材あり具ありと雖、水佳ならざれば遂に佳なるを得ざるなり。豆腐は醞醸の事無しと雖、水に因つて体を成すこと猶酒の如し。故に水佳なれば佳品を得、水佳ならざれば佳品を得ず。京の祇園豆腐も蓋し其の水の佳なるによつて名を得るなり。茶に至つては、其味もと至微の間に在り。こゝに於て水に須まつ処のもの甚深甚大なり。東山氏は園内の清泉を用ゐ、豊臣氏は宇治の橋間に汲ましむ。予むしろ豊臣氏に左袒せん。小泉清しと雖、長流或は勝らんなり。堅田の祐菴は水の味を知るに於て精くはし。琵琶湖の水、甲処に於て汲む者と乙処に於て汲む者とを弁じて錯あやまらざりしといふ。茶博士たるもの、固まことに是の如くなるべき也。支那に於ては西冷の水、天下に名あり。士の特に此を汲むもの、文の特に此を記するもの、甚だ多し。長江の水、おのづから又佳処あり不佳処ありて、而して郭墓くわくぼの辺あたり、もつとも佳なるならん。凡そ水味を論ずるの書、唐の張又新ちやういうしん、盧仝ろどう等より始まりて、宋元明清に及び、好事の士、時に撰著あり。蘇東坡の真君泉を賞し、葛懶真かつらいしんの藍家井を揚ぐるが如き、詩詞雑述のこれに及ぶもの、また甚はなはだ少からず。我邦に於ては、乗化亭じようくわていの書以外、寥〻聞くところ無し。千氏片桐氏等、茶技を以て名あるもの、水を品せざるにあらずと雖、面授して而して筆伝せず。故に其の言散見するありて、其書の完成せる無きならん。

江戸の盛さかんなるに当つて、泉井以外、西に玉川の水あり、北に綾瀬の水あり。玉川の水、今猶市民これによりて活く。而れども明澄はこれ有り、真味は乏し。味に精くはしき者曰く、水道の水、礬気ばんきありと。綾瀬の水、今は飲むに堪へず、溷濁汚腐、昔日の地志の此を称せしを疑はざるを得ざるなり。江戸川の水、久旱雨無ければ、御熊野の辺、今猶古人の評の我を欺かざるを覚ゆ。然れども上流漸く人家多くして、亦漸く綾瀬のごとくならんとするの虞おそれあり。好事の人の就て汲む者の如き、終つひに往時の一夢たらんのみ。利根川の水、「がまん」甚だ佳なり。がまんは忍耐の義にして、流ながれ急に水駛はやく、忍耐せざれば舟を溯さかのぼらしむる能はざるを以て名づく。地は三ッ堀に属し、鬼怒川の利根川に入り、両水衝撃滾混して流るゝの処たり。水品の美、真に赤松氏利根川図志の記するところの如し。予かつて数しば〱これを試みしに、山本氏の「清風」は茶の至美なる者にあらずと雖、神味頓とみに加はりて、霊気心胸に沁むものあるを覚ゆ。而して今鬼怒川の河口、河身改修によりて下つて一里余に在り、知らず我慢の水の味の旧に依るや否やを。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆33 水」作品社
1985(昭和60)年7月25日初版発行
1987(昭和62)年8月10日3刷
底本の親本:「露伴全集 第三一巻」岩波書店
1956(昭和31)年8月初版発行
入力:とみ~ばあ
校正:門田裕志
2001年9月12日公開
2012年5月12日修正
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書誌 / Bibliography
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幸田 露伴「水」(新字旧仮名)、底本『日本の名随筆33 水』作品社、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001451_000051, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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