Soranoha

侠客の種類

きょうかくのしゅるい

幸田 露伴

侠客と一口に言つても徳川時代の初期に起つた侠客と其の以後に出た侠客とは、名は同じ侠客でも余程様子が違つて居るやうである。初期のは市人の中の気慨のある者か或は武士の仕官の途に断念した者などが、武士の跋扈に反抗して之を膺懲し或は之に対抗する考へから起つたのであるらしいが、夫から以後、即ち天明前後から天保あたりへ懸けての侠客といふものは多くは博徒のやうな類である。即ち之を分類すれば、徳川初期のは強い圧迫に対する強い反抗の体現であつて、其の物の本当の意味からすれば、強い者に当る必要上真実に強きものたるを主とするは勿論であるが、真実に於ては寧ろ啻に強いことを見得として居る様な傾きのあつた、やゝ虚栄的衒耀的のものであつたらしい。然るに天明あたりからの博徒に至つては、夫れ自らが非常に強い、鷙悍当る可らざるものがあつた。然様判然とした区別は意識的には付かぬまでも、少くとも両時代の侠客には何分かの差違があつたのである。我国で乱離の世と云へば先づ足利の末世を指すのであるが、博奕が此時代から大に盛んになつた。元来戦争其ものが已に一つの大博奕であるからと云ふ訳でも無からうが、梟盧一擲と云ふ冒険的思想は、戦争にも博奕にも通じた同一の根本思想である。此の戦国時代に起つた博奕は、太平の世になつても引続いて勇気の多い、事を好む徒輩の間に盛んに行はれて居たので、尤も元文(吉宗)になつて一度禁制はされたものゝ天明前後(家治)から又た盛んになり、所謂侠客は隠然として博徒の巨魁たる観を呈して居た。

夫れから第三次の侠客は、諸大名の中に何か一つ事が起ると人夫が必要になる、二本指にほんざしの人間は使つて居ても之を雑役には使へぬし、又た俸禄の関係から云つても、平時用の無い時に万一を慮つて沢山の雇人を使つて置くといふことが出来ぬ。其処で臨時の用事が出来ると一時限りの人夫を雇ひ入れる、今日でも兵士の外に軍夫の必要があると同様で、平時でも士分以外のものなどの事故があつて引いたり居なくなつたり為た時分にも、夫れに代へる人間の必要もある、其の需要を満たす為に大名や武門と平民商人との間に、今の雇人口入業とも一緒には言へぬが所謂「人入れ」なる職業があつた。而して其の人入れ親方なるものは、職業の性質上どうしても侠客肌の者で無ければならぬ処から、斯う云ふ種類の親方なるものは大抵侠客の名を以て呼ばれたもので、たとへば近世の大侠客相政の如きも亦た土州侯の人入れであつたし、新門辰五郎の如きも矢張りたゞの博徒ではない。此等は寧ろ前述の博徒などとは全く訳が違ふのである。凡て侠客には此の一種類がある。以上で三種あつた訳だ。

夫れで古い書物に見える初期の侠客は、「武野俗談」などにあるのであるが、正確の事実は能く解らぬ。之は古の談話製造家が面白く書き出したもので、尤も多少の事実はあつたにした処が正確なことは解つて居らぬ。西鶴も武士とか商人とか色〻な階級を一つづゝに纏めて、其の特性気質かたぎをいかにも綿密に巧みに書き表はして居る「武道伝来記」とか「世間胸算用」とか、其他にも色〻あるが、どうも侠客を専門にまとめて書いたものは一つも無い。近松のものでも全く無いといふでは無いが、後の講談師の述べるやうな侠客は描いて居らぬ。之は一つは地方的関係もあらうが、兎に角初期の侠客の面目は解つて居らぬ。多少雑劇などに残つてる計りで、今日からは精確の状態は知り難いのである。

然るに天明以後に顕はれる博徒の事蹟になると、之は多少明白になつて来る。殊に講釈師の飯の種になつて居る博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州、常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである。之には一つの理由のあることで、博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が到る処にある。而して此等の山の上には山神のあるのみではない、山に相当した駅場のやうな町が建つて居て、其の盛んな所には、おじやれや遊女の様な者までがある。斯うした場所は皆な恰好な賭場の開かれる地であつて、夫れと共に山の上には山の神を祭つた祠がある、此の山の神の祭日は即ち大賭場の開かれる日で、此日は地方近在の博徒の親分子分が皆な集まる許りで無い、素人即ち所謂「客人」が大金を馬につけて運んで来て、賭博を茲に試みるのを楽しみにして居た。つまり中世乱離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。又山は上代にあつては所謂嬥歌かゞひや歌垣で、若い男女の縁結えんむすびの役目を勤めて居たものだが、末代になつては博徒のために男を磨く戦場の役目を務めて居る。斯かくて博奕を為すに適当な便宜のある山は極めて繁昌し、駅場も大きくなつた。夫れで若し山霊をして、当時其の山に開帳された大博奕の光景や各親分の性行を語らしめたならば、講釈師が張扇で叩き出すやうな作り話では無く、本当の面白い侠客伝が何程出来ることであらう。従つて今日存在して居る山の上に在る大きな町で、別に貨物集散の中枢となつた訳でも無く、又別に風景の勝れた為でも無く、神霊灼乎たるわけでもなくて猶ほ盛んなものがあつたならば、夫は大抵博奕の為に出来た町と想像が付く。甲州然り、武州然り、筑波、日光然り。夫れが今日は避暑や逍遥の地になつて居ると云ふも、又た時勢の変遷面白いものではない乎。

斯かうして到る処に博奕が盛んになり博徒が多くなると、自然他所他国の親分達の面を合せる場合も多いから、互に敵愾心も起らう、自負心も負けじ魂も湧かう、勢ひ親分でも子分でも互に人間を磨き、他の組には笑はれまいといふ、無言の中に一致した愛党心も出来る。つまりが互に一種の面目を重んじて、一種の男らしい精神を発揮して来る。所在の子分が亦其の風を聞いて、千里を遠しとせずして有名な親分の下に奔せ集まると云つた姿である。博奕其のものの善悪は論外として、其の親分なるものの性格には洵に迨および難い美点があつた。講釈師の捉へた侠客は即ち之れである、此の呼吸を張扇で叩き出して、聴客をして血湧き骨躍らしむるものである。之と違つて、人入れを専門とする者は、多少前者と関聯して居るにしても、表面だけは決して前者のやうな殺伐な振舞が無い、極めて穏かである。たゞ其の全精神は責任の完了、義務の負担を敢てして一歩も後へ退かぬといふことにある。国定忠次、飯岡助五郎、清水次郎長抔は前者の鷙悍なるものであるが、相政などになると後者の雄なるもので、自然其のやり口も形も違つて居る。然し第一流に居る者は大抵穏やかな、思慮も大きくて落着きのある人間で持つて居る。次郎長の如きは、賭場を或所で開く、勝つた人が大金を持つて帰ると途中に危険が多い、夫れを次郎長が心配して少しも危険の無いやうに子分の勇者をして之を護らしめ、行き届いて客人に色〻な世話をしたので、益〻侠名が隆〻と揚つたといふことである。又た後者になると、そんな華〻しい処が無いが、矢張り大勢の子分に親分と立てられるには夫れ相応の力量人格がなければならぬ。紺屋町の相政などは其方で名を為した。又た極く近いところの石定(人入れといふではないが)なども却〻なか〱名高く、彼は数年前に死んだが、之れなどは先づ侠客の打止めであらう。侠客も一度講釈師の手に懸ると、何でも火花を散らして戦つてばかりゐるやうになるが、皆が皆さうと云ふ事は無い。互に時勢の差、境遇の差に連れ得意の方面の其の特長を発揮して居るものゝ、其中に大をなして居る者は必ず張良、陳平の徒が多く、水火を踏んで辞せず、剣戟の林に入つて退かざる者は、寧ろ第三流第四流に居る処の樊噲、鯨布の徒である。之によつて見ても、若し侠客の本領は此の殺伐の点にのみ存する様に見るならば夫れは大なる間違ひである。たとへば石定などは釣が非常に好きで能く片舟忘機の楽を取つたものだが、船頭等にさへ其の物やさしい、察しのよい呼吸が如何にも穏かなのをなつかしがられた程であつた。然し当人は東京の盛り場を大抵其の縄張り地内として、その勢力の大したものなるは、其の葬の日に歌舞伎座を使用したに照してもわかる。

其処で今日になると、制度も社会状態も著しい変化を来して、昔の様に山上で賭博を公開する様なことは出来なくなり、各地共博奕は衰退の気運に向つて、先に公開的であつたものは今は奥座敷的になつてゐる。之れは一つは警察制度と関係をして居る。即ち昔の博徒の或者などは、一方で公儀の御用殊に警察の用を足して居て、夫れが引続いて明治に至つた。然るに近来は警察の方針が全く違つて来て、あゝ云ふ性質の者はどし〱圧迫して止まぬから、侠客は益〻窮境に居るが、自分は斯こんなに苦める結果は何様変形するかと危み思ふ。夫れは余談であるが、先づ大名や武士が無くなつて人入れの必要も無くなつて、其の方面の侠客は亡せ、賭博の公開が出来ぬやうになつて、在来の姿で往くことは出来ぬので博徒の巨豪は尽きて了つた。然し講釈師が之を唯一の材料として、国民少くとも市井の人〻の元気精神を鼓舞することは暫く止むまい。又た事実に於ても此侠客気質の幾部分は、形骸を土木の労働者、鉱山の人夫などに止とゞめて暫らくは存在しやう。彼等の間には彼等土木業者鉱夫の如きものの間にすら通有な、礼儀があり契約があり、若し之に背けば厳重な制裁を蒙る。まして真の侠客肌の親分子分の情誼などは実に篤いもので、又意気相許した親分の為とあらば如何なる事にも身を投ずることを辞せぬ。二十年も前であつたらう、桃川燕林が上野広小路の吹ぬきといふ寄席で次郎長の伝を演じた。すると毎日のやうに其の高座の前に、一見恐ろしい容貌をした男が六七人来て聞いて居る。怪んで之を質して見ると、夫れは次郎長の子分共で、若し少しでも間違つた事を云つたなら、直ぐ高座へ躍り上つて燕林を責め糺す気であつたらしいが、燕林の調査が行届いて居て余り間違ひの無いのに感服して帰つて行つたといふ事があつた位である。

尤も関東ばかりが侠客が跋扈したと云ふでは無い、京大阪にも侠客はある。又た所謂たゞの博徒の種類で侠客と称するには足らぬか知らぬが、十年も前には女の親分さへ山形にあつた位で、福島以北にも可なりの博徒はあつたらしいが、何を云つても関東が一番盛んであつた。今日講談師が地方を廻ると、やゝもすれば其土地の古侠客の話を望まれる。若し有名の親分の話を知らぬ者ならば直ぐ追出され兼ねもしない。所で講談師も商売柄、能く種〻の談を知つても居れば、また心ある者は土地の人に尋ねて種〻詮索もする。して見れば彼の講談と云ふ物も全く事実の無い事では無いのであるが、若し此処に本当の風俗家が居て、所〻を廻つて今の中に侠客や博徒の歴史を尋ねて歩行あるいたならば、余程宜しい材料が得られる事であらうと思ふ。之を要するに、若し徳川の文学や小説から侠客と仇討を除いたならば、其の余は極めて索寞たるものであらうと思はれる。

夫れから支那に侠客が在つたかの問題になると、之は何とも言ひ兼ねる。然し太史公の書いたものもあれば、又其の後のものにも劒侠などいふ者が出没して居るが、支那の劒侠は日本のに比すればどうも神仙的、且つは超世的で、其上之と云つた思想上の社会的の関係が薄い、系統がたしかで無い。然るに日本のは義勇任侠などの血脈が終始一貫して居る。武士に武士道の存するが如く、侠客には侠客道が儼然として居る。之は確かに日本人の間に生じた一特質として、他国に類の無い者と云つて宜しからう。唯だ日本の侠客、少くとも勇み肌の人間に対し、「水滸伝」が陰に陽に感化を与へた、其の勢力の莫大なことを看過する訳には往かぬ。「水滸伝」の翻訳したのは馬琴蘭山を待つて大に行はれたのであるが、其の後盛んに芝居にも行はれ、魯智深、史進、李逵、浪裡白跳張順など痛く彼等の理想に投じたものがあつたらしく、其の背に彼等の花繍などをせぬならば、大哥の面目を損じた様な風を形づくつた。徳川末期の市井の状態の書き物を見ると、斯んな風俗が盛んに行はれた事が解る。又た「水滸伝」に傚つて、「天保水滸伝」何水滸伝と云ふ類が盛んに出て来たことも多少は察せられる。之は偶然な事乍ら一寸面白い現象であつたと思ふ。

(明治四十四年一月)

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆 別巻94 江戸」作品社
1998(平成10)年12月25日発行
底本の親本:「露伴全集 第二四巻」岩波書店
1954(昭和29)年6月
入力:加藤恭子
校正:浦田伴俊
2000年12月12日公開
2012年5月12日修正
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幸田 露伴「侠客の種類」(新字旧仮名)、底本『日本の名随筆 別巻94 江戸』作品社、1998年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001448_000051, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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