Soranoha

旅行の今昔

りょこうのこんじゃく

幸田 露伴

旅行に就いて何か経験上の談話をしろと仰おっしゃるのですか。

どう致しまして。碌に旅行という程の旅行を仕た事も無いのですもの、御談し仕度くっても是といって御談し申上げるような事も有りません。いくら経験だと申して、何処其処の山で道に迷ったとか、或は又何処其処の海岸で寄宿のじゅくをしたとかいうような談は、文章にでも書いて其の文章に詩的の香があったらば少しは面白いか知れませぬが、ただ御話し仕たって一向おかしくもない事になりますから申し上げられません。

経験談の代りに「空想談」は何様です?。

旅行も日本内地は最早何等の思慮分別をも要せぬほどに開けてまいりました。で、鉄道や汽船の勢力が如何なる海陬山村にも文明の威光を伝える為に、旅客は何の苦なしに懐手で家を飛出して、そして鼻歌で帰って来られるようになりました。其の代りに、つい二三十年前のような詩的の旅行は自然おのずと無くなったと申して宜しい、イヤ仕様といっても出来なくなったのであります。

汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時むかしの御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切だいじにされまするので、山も坂も有ったものじゃあ有りません。特更ことさらあれは支那流というのですか病人流というのですか知りませんが、紳士淑女となると何事も自分では仕無いで、アゴ指図を極め込んで甚だ尊大に構えるのが当世ですネ。ですから左様いう人が旅行をするのは何の事は無い、「御茶壺」になって仕舞うようなものですテ。ハハハハ。「御茶壺」というのは、むかし将軍御用の御茶壺を江戸まで持って来る、其の茶壺は茶壺の事ですから眼も鼻も有りは仕ませんし手も脚も動かしは仕ませんが、それでも其の威勢は大したもので、「下に居ろ、下に居ろ」の格をやって東海道を江戸へ来たものだそうです。そこで古風の人がタマに当今の人に其の御茶壺の話を仕て聞かせると、誰も噴飯ふきだして笑うので有りますが、当今の紳士の旅行の状態を見ると、余り贅沢過ぎて何の事は無い、つまり御茶壺になって歩いて居るのだ、と或人が評を仕ましたのを聞いて、甚だおかしいと思って居ります。面白いものです。金が有って地位が有って、さて威張って見ると「御茶壺」になるのですナ。

で、其の御茶壺旅行の出来るようになったのは文明の庇陰おかげなのですから、今後はもう「きりをの草鞋」「紺の甲掛け」「三度笠」「桐油合羽」「振り分けにして行李を肩に」なんていう蛮カラ的の事は要せぬようになりまして、男子でも鏡、コスメチック、頭髪かみブラッシに衣服きものブラシ、ステッキには金物の光り美しく、帽子には繊塵も無く、靴には狗いぬの髭の影も映るというように、万事奇麗事で、ユラリユラリと優美都雅を極めた有様でもって旅行するようになるのですから、まして夫人方は「虫の垂れ衣ぎぬ」を被かぶった大時代や、「あづまからげ」に草履ばき、「引裂き紙で後ぐくり」なんという古めかしい事は夢に見ようといっても見られなくなり行きまして、母が真中で子供を左右にした「三宝荒神」などは浮世絵で見るほかには絵に見る事も無くなりましょう。で、万事贅沢安楽に旅行の出来るようになった代りには、芭蕉翁や西行法師なんかも、停車場で見送りの人々や出迎えの人々に、芭蕉翁万歳というようなことを云われるような理屈になって仕舞って、「野を横に汽車引むけよ郭公」とも云われない始末で、旅行に興味を与える主なる部分の「野趣」というものは甚だ減殺されて来たようです。と云って風雅がって汽車の線路の傍をポクポク歩くなんぞという事は、ヒネクレ過ぎて狂気きちがいじみて居ますから、とても出来る事では有りません。して見ると、いくら野趣が減殺されようが何様しようが、今日は今日で、何も今を難じ古を尚ぶにも当らないから、矢張り文明の利益は使うだけ使った方が宜さそうな事です。

だが、昔の俳人歌人の行脚といったようなことには、商買的の気味も有りましたろうが、其の中におのずから苦行的修練的の真面目な意味が何分か籠って居て、生やさしい戯談半分遊山半分ばかりでは出来無かった旅行なのでした。其の修業的旅行という事は、文明の威力で津々浦々山の奥谷の底までが開けた結果として、今日では先ず日本内地では殆ど成り立たない事になりました。修学旅行というが如きもなかなか修業的旅行とは云えません。すべてが発達し開明した結果、今日では日本内地の旅行は先ず昔の所謂「江の島鎌倉見物」「石尊参り」「伊勢詣」「大和めぐり」「箱根七湯めぐり」などという旅行と同様、即ち遊山旅と丁度同様になって居るかと思います。可愛い子に旅行をさせろなどという語がありますが、今日では内地の旅行はすべてが遊山旅行になって居ますから、可愛い子に旅をさせたところで何にもなりません。却って宿屋で酒を飲みおぼえたり女にからかったりする事を知り初める位が結局おちです。もし旅行を仕て真実に自然に接したり野趣の中に身を寘おいたり、幾分かにしろ修業的に得益しようと思ったなら、普通の旅行をしても左程面白い事は有りますまい。悪くすると天晴な好い若い者が、愍むべし「お茶壺」になって、ただ彼方あっちから此方こっちへ渡って歩く事になります。今後はもう国外旅行が宜さそうですネ。

底本 / Source edition

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
1954(昭和29)年12月4日発行
初出:「新聲」
1906(明治39)年8月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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幸田 露伴「旅行の今昔」(新字新仮名)、底本『露伴全集 第29巻』岩波書店、1954年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001444_000051, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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