上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>より近き頃まで<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>もこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>のさしひきするところ、船の上り下りするところ、一<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>二条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>の月をいひけん、今は八百八町に家〻立ちつゞきて四里四方に門〻相望めば、東京の月は<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>に家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。東は<ruby><rb>三枚洲</rb><rt>さんまいず</rt></ruby>の<ruby><rb>澪標</rb><rt>みおつくし</rt></ruby>遥に霞むかたより、満潮の潮に乗りてさし上る月の、西は芝高輪白金の森影淡きあたりに落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、<ruby><rb>斯</rb><rt>かく</rt></ruby>の如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに当りては、如何で脱漏錯誤のなきを必するを得ん。たゞ大南風に<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>のぐらつくをも怖るゝ如き船嫌ひの人〻の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>かこの大都の水上の一般を示さんとするに過ぎねば、もとより水上に詳しき人〻のためにするにはあらず。<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>るものいたづらにその備はらざるを責むるなかれ。

東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、<ruby><rb>赤羽川</rb><rt>あかばねがわ</rt></ruby>と汐留堀とのほか<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>もなし。されば東京の水を<ruby><rb>談</rb><rt>かた</rt></ruby>らんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるの<ruby><rb>領</rb><rt>えり</rt></ruby>なり。先づ綱を挙ぐれば網の細目はおのづから挙がり、先づ領を挙ぐれば衣の<ruby><rb>裙裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>はおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後に<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くその他の諸流に及ぼして<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ<ruby><rb>水経</rb><rt>すいけい</rt></ruby>の百川を説かんとして先づ黄河を説くが如し、説述の次第おのづから<ruby><rb>是</rb><rt>かく</rt></ruby>の如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横に<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れて枝路に入ること多きは、これまた<ruby><rb>黄序</rb><rt>こうじよ</rt></ruby>に言ひけん如く、<ruby><rb>伊洛</rb><rt>いらく</rt></ruby>を談ずるものは必ず<ruby><rb>熊外</rb><rt>ゆうがい</rt></ruby>を連ね、<ruby><rb>漆沮</rb><rt>しつしよ</rt></ruby>を語るものは遂に<ruby><rb>荊岐</rb><rt>けいぎ</rt></ruby>に及ぶ、また自然の<ruby><rb>偶属</rb><rt>ぐうぞく</rt></ruby>にして半離すべからざるものなればなり。

○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは<ruby><rb>隅田</rb><rt>すだ</rt></ruby>を流るゝを<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。<ruby><rb>水源</rb><rt>みなもと</rt></ruby>は秋の日など隅田堤より遠く西の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>に青み渡りて見ゆる秩父郡の山〻の間にて、大滝村といへるがこの川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしゝ『秩父紀行』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島の<ruby><rb>渡</rb><rt>わたし</rt></ruby>あたりよりなり。

○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事<ruby><rb>僅少</rb><rt>わずか</rt></ruby>にして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの<ruby><rb>眺望</rb><rt>ながめ</rt></ruby>好き向島堤の続きにして、千住駅を<ruby><rb>歴</rb><rt>へ</rt></ruby>てこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。豊島の渡より川はかへつて西南に向つて流れて、やがて

○<ruby><rb>石神川</rb><rt>しやくしがわ</rt></ruby>を収めてまた東に向つて去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、<ruby><rb>錦繍</rb><rt>きんしゆう</rt></ruby>の眺め、人をして車を停めて<ruby><rb>坐</rb><rt>そぞろ</rt></ruby>に愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。この川<ruby><rb>舟楫</rb><rt>しゆうしゆう</rt></ruby>の利便は<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>へざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。<ruby><rb>古昔</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>は水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、この川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石剣の如きもその一なり。

○<ruby><rb>尾久</rb><rt>おぐ</rt></ruby>の渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。この辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は<ruby><rb>卑湿</rb><rt>ひしゆう</rt></ruby>の地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の<ruby><rb>新蘆</rb><rt>しんろ</rt></ruby>栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、<ruby><rb>川面</rb><rt>かわも</rt></ruby>の眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。<ruby><rb>鱸</rb><rt>すずき</rt></ruby>その他の川魚を漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟を<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>めて遊ぶも少からず。蚊さへなくば夏の夕の月あかき時なんどは、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に川中に一杯を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りて<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>にまた本流に合する一<ruby><rb>渠</rb><rt>きよ</rt></ruby>あり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。

○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、<ruby><rb>荷足</rb><rt>にたり</rt></ruby>、小舟の類の帆を張り<ruby><rb>艫櫂</rb><rt>ろかい</rt></ruby>を使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の<ruby><rb>暑熱</rb><rt>あつさ</rt></ruby>を川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側に<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の<ruby><rb>樹立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の連なれるあたりの樹蔭に船を<ruby><rb>纜</rb><rt>もや</rt></ruby>ひて遊ぶが多し。橋の上下<ruby><rb>少</rb><rt>すこし</rt></ruby>の間は両岸とも材木問屋多ければ、<ruby><rb>筏</rb><rt>いかだ</rt></ruby>の岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭の<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>、機関の響、いと勇ましくも<ruby><rb>忙</rb><rt>せ</rt></ruby>はしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向つて川の流るゝこと<ruby><rb>少許</rb><rt>しばし</rt></ruby>にして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に

○塩入村の<ruby><rb>茅舎竹籬</rb><rt>ぼうしやちくり</rt></ruby>を見、左に<ruby><rb>蘆葭</rb><rt>ろか</rt></ruby>の茂れるを見ながら一折して、終に南に向つて去る。このあたりは河水東西に流れて両岸の地もまた<ruby><rb>幽寂</rb><rt>ゆうじやく</rt></ruby>空疎なれば、三秋月を賞するのところとして最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山におけるより水におけるを<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れりとす。月東山を離るといふの句は<ruby><rb>詞客</rb><rt>しかく</rt></ruby>の套語となれりといへども、実は水に近き<ruby><rb>楼台</rb><rt>ろうだい</rt></ruby>の先づ清輝を看るを得るの多趣なるに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かず。また止水におけるは流水におけるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上とこの川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。さてまた同じ流水にても、南北の流れにおけるは東西の流れにおけるのをかしきに如かず。南北の流れにては月の出づるところ東岸に迫られて妙ならねど、東西の流れにては月は<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に河水の水面よりさし昇るところなれば、見渡す眺めも広〻として、浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきら〱と輝くなど、いふにいはれぬ趣きあり。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>にこの辺りは川幅も<ruby><rb>濶</rb><rt>ひろ</rt></ruby>くかつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りて<ruby><rb>輾</rb><rt>きし</rt></ruby>り出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるを<ruby><rb>瞻</rb><rt>み</rt></ruby>る、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、<ruby><rb>加之</rb><rt>しかも</rt></ruby>月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もし<ruby><rb>試</rb><rt>こころみ</rt></ruby>に仲秋船を<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>めてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も<ruby><rb>平生</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>の河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝを<ruby><rb>憾</rb><rt>うら</rt></ruby>むるならん。<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>より文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。

○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、<ruby><rb>呉春</rb><rt>ごしゆん</rt></ruby>なんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。

○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通ずべく、眺めもこれといふところはなけれどもまた棄てがたき節なきにあらず。その上流は小菅より浮塚に至りて、なほ遠く荒川より出で、こゝにて<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>荒川の下流の隅田川には入るなり。上流には支流ありて中川にも通ずるをもて船の往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おのづから<ruby><rb>小幀</rb><rt>しようとう</rt></ruby>の画を為す。

○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>の訛にして、<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>御前栽畑ありし地なりしを以てなるべし。

○鐘が淵は紡績会社の<ruby><rb>地先</rb><rt>ちさき</rt></ruby>にして、隅田綾瀬の二水相会するところのやゝ下の方をいふ。<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>普門院といふ寺の鐘この淵に沈みたればこの名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、けだし恐らくは信ずるに足らざるの談ならん。およそ鐘が淵と名づくるの深潭諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以てのみ名づけんや。予の考をもてすれば鐘が淵は<ruby><rb>曲尺</rb><rt>かね</rt></ruby>が淵にて、川の形<ruby><rb>曲尺</rb><rt>まがりがね</rt></ruby>の如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず。こは諸所の同じ名を負へるところの地形を考へて悟るべく、なほまた明かに曲り金と<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>ふる地名の川沿の地に多く存するをも併せ考ふべし。

○関屋の里は定めてこれと指すべきところなし。鐘が淵附近の地一帯をいふにや、近き人の著しゝ『隅田川叢誌』には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の下にまた大川より東に入る渠あり、奥行いと浅けれど紡績会社のために漕運の便を与ふること少なからず。それよりまた下に

○水神の森あり。水神の社地を浮島といひて、洪水にも浸さるゝことなき由をもて名あり。このあたり皆川の東の方は深くして西の方は浅し。水神の森の<ruby><rb>対</rb><rt>むかい</rt></ruby>の方に

○隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に至る汽車のために水運陸運を連絡すといふまでにはあらねど、石炭その他を供給するためいと大なる効をなせり。これより下流は川の深処東より移りて漸く西の岸に沿ひ、有名なる

○真先稲荷前を過ぐる頃は、東は甚だ浅く西は大に深きに至る。石浜神社は小社なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川を<ruby><rb>控</rb><rt>ひかえ</rt></ruby>て、遥に上は水神の森鐘が淵のあたりより下は長堤十里白くして痕なき花の名所の向島を一望の中に収むるをもて名あり。稲荷より下の方一町ほどにして

○思川といふ潮入りの小溝あれど、船を通ずるに至らねば取り出でゝいふべくもあらぬものなり。思川の南数十歩して

○橋場の渡あり。橋場といふ地名は<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>隅田川に架したる大なる橋ありければ呼びならはしたりとぞ。石浜といへるは西岸の<ruby><rb>此辺</rb><rt>ここ</rt></ruby>をさしていへるなるべし。むかし業平の都鳥の歌を<ruby><rb>咏</rb><rt>よ</rt></ruby>みしも<ruby><rb>此地</rb><rt>ここ</rt></ruby>のあたりならんといふ。こゝより下は、左に小野某の小松島園あり、右に小松宮御別邸あり。小松島園より下は<ruby><rb>少許</rb><rt>しようきよ</rt></ruby>の草生地を隔てゝ墨田堤を望む花時の眺めおもしろく、白髯の<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の森も少しく見ゆ。

○寺島の渡は寺島村なる<ruby><rb>平作河岸</rb><rt>へいさくがし</rt></ruby>より橋場の方へ渡る渡なり。平作河岸とは大川より左に入りて<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に堤下に至る小渠に<ruby><rb>傍</rb><rt>そ</rt></ruby>へる地をいふ。平作河岸より下流に、また桜組製革場に沿ひて堤下に至るの小渠あり。これより東は今戸、西は寺島の間を流れて河水漸く南に去り、西深く東浅かりし勢変じて東深く西浅きに至る。

○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に深くして、いはゆる

○墨田の長堤もまた<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に水を臨むをもて、陽春三月の頃は水の洋〻たると花の灼〻たると互に相映発して、絶好の画趣と詩興とを生ず。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に此辺より吾妻橋上流までの間は府内各学校の生徒ならびに銀行会社の役員等の端艇競争の場となるを以て、春秋の好季には堤上と水面とは共に士女<ruby><rb>闐噎</rb><rt>てんえつ</rt></ruby>して、歓笑の声絶ゆる間もなく湧くに至る。

○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の<ruby><rb>渡船場中</rb><rt>わたしばちゆう</rt></ruby>最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること<ruby><rb>半途</rb><rt>なかば</rt></ruby>にして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等の<ruby><rb>動</rb><rt>やや</rt></ruby>もすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは

○<ruby><rb>山谷堀</rb><rt>さんやぼり</rt></ruby>にして、その幅甚だ濶からずといへども<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に日本堤の下に至るをもて、<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>は<ruby><rb>吉原通</rb><rt>よしわらがよい</rt></ruby>をなす遊冶郎等のいはゆる<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちよきぶね</rt></ruby>を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。今もなほ南岸の人家に<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>の船宿のおもかげ少しは残れるがなきにあらず。

○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの<ruby><rb>茂睡</rb><rt>もすい</rt></ruby>の歌の碑は知らぬ人もなく、……の多き文章を嘲つて、待乳山の五丁の碑ぢやアあるめえし、と某先生が戯れたまひしその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を<ruby><rb>俯視</rb><rt>ふし</rt></ruby>すべくして、月夜の<ruby><rb>眺望</rb><rt>ながめ</rt></ruby>四季共に妙に、雪のあしたに<ruby><rb>瓢酒</rb><rt>ひさござけ</rt></ruby>を酌んで、詩を吟じ歌を案ぜんはいよ〱妙なり。仙骨あるものは登臨の快を取りて予が言の欺かざるを悟るべし。待乳山の対岸のやゝ下に

○<ruby><rb>三囲</rb><rt>みめぐり</rt></ruby>祠あり。中流より望みてその<ruby><rb>華表</rb><rt>とりい</rt></ruby>の上半のみ見ゆるに、初めてこれを見る人も<ruby><rb>猜</rb><rt>すい</rt></ruby>してその三囲祠たるを知るべし。この祠の附近よりは川を隔てながら、<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に近〻と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、上は柳畑辺より下は三囲祠前の下流十間までの間は有名なる

○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客の<ruby><rb>綸</rb><rt>いと</rt></ruby>を垂るゝもの甚だ少からず。川はこれより山の宿町、花川戸、小梅町、新小梅町の間を下りて吾妻橋に至るなるが、東岸の方の深かりしは漸く転じて、中流もしくは西の方の深からんとするの勢をなす。新小梅町と<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>との間、一渠東に入るもの

○枕橋、<ruby><rb>源森橋</rb><rt>げんもりばし</rt></ruby>の下を過ぎて業平町に至る。この水路は狭けれども深くして、やゝ大なる船を通ずべく、業平町に至りて後左すれば、いはゆる

○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる

○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ南して木場に至る。されば源森川の一路はその関するところ甚だ少からざる重要の一路たり。他日市区改正の成らん暁には、この源森川と押上の六間川（あるいは十間川ともいふ）との間二町ほどの地は<ruby><rb>鑿</rb><rt>うが</rt></ruby>たれて、二水たゞちに聯絡せらるべきはずなり。もし二水相通ずるに至れば、この川<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に隅田川と中川とを連ぬることとなりて、<ruby><rb>加之</rb><rt>しかも</rt></ruby>その距離竪川小名木川に比して甚だ短ければ、人〻の便利を感ずること一方ならざるべし、さて枕橋を左に見捨てゝ大川を南に下り

○花川戸への渡場を過ぎ

○吾妻橋の下を経、左に中の郷、右に材木町を見て下れば、水漸く西岸に沿ふて深く東岸の方浅し。遊女の句に名高き

○駒形の駒形堂を右に見、駒形の渡船場を過ぎ、左には長屋<ruby><rb>越</rb><rt>ごし</rt></ruby>に番場の多田の薬師の<ruby><rb>樹立</rb><rt>こだち</rt></ruby>を望みて下ること<ruby><rb>少許</rb><rt>しばし</rt></ruby>すれば

○<ruby><rb>厩橋</rb><rt>うまやばし</rt></ruby>に至る。厩橋の下、右岸には<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の米廩の跡なほ存し、唱歌にいはゆる「一番堀から二番堀云〻」の小渠数多くありて、渠ごとに皆水門あり。首尾の松はこのあたりに尋ぬべし。<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちよきぶね</rt></ruby>の製は既に詳しく知りがたく、小蒸気の煽りのみいたづらに烈しき今日、遊子の旧情やがては詩人の想像にも<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>らざるに至るべし。米廩敷地の内の一処に電燈会社拠りて立ち、天に<ruby><rb>冲</rb><rt>ちゆう</rt></ruby>する烟突を<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えしめて黒烟を揚ぐ。本所側にありては電燈会社対岸の下に当りて東に入るの小渠あり。<ruby><rb>御蔵橋</rb><rt>みくらばし</rt></ruby>これに架りて陸軍倉庫の構内に入る。米廩の下、浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり。

○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる

○<ruby><rb>新堀</rb><rt>しんぼり</rt></ruby>にして、<ruby><rb>栄久町</rb><rt>えいきゆうちよう</rt></ruby>三筋町等に沿ひ、菊屋橋合羽橋等の下に至る。この一条の水路は甚だ<ruby><rb>狭隘</rb><rt>きようあい</rt></ruby>にしてかつ甚だ不潔なれども、不潔物その他の運搬には重要なる位置を占むること、その不快を極むるところの一路なるをも忌み厭ふに<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>あらずして渠身不相応なる大船の<ruby><rb>数〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>出入するに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にして<ruby><rb>燥</rb><rt>かわ</rt></ruby>きがたきも、この一水路によりて間接に乾燥せしめらるゝこと幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる

○<ruby><rb>三絃堀</rb><rt>しやみせんぼり</rt></ruby>なるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大<ruby><rb>瀦水地</rb><rt>ちよすいち</rt></ruby>となるの観を呈す。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。されば三味線堀は今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、なほこれを修治拡大して立派なる渠となし、また一路を分岐せしめて、竹町仲徒士町等を経て南の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも衛生上の益は決して<ruby><rb>尠少</rb><rt>せんしよう</rt></ruby>ならざるべし。さて隅田川いよ〱下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、

○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天<ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>める秋の朝なんど、あるいは黒〻と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと<ruby><rb>神〻</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しくして、さすがに<ruby><rb>少時</rb><rt>しばし</rt></ruby>は<ruby><rb>塵埃</rb><rt>じんあい</rt></ruby>の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。

○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち

○神田川なり。幅は<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>のみ<ruby><rb>濶</rb><rt>ひろ</rt></ruby>からぬ川ながら、船の往来のいと多くして、前船後船<ruby><rb>舳艫</rb><rt>じくろ</rt></ruby>相<ruby><rb>啣</rb><rt>ふく</rt></ruby>み船舷相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて<ruby><rb>加之</rb><rt>しかも</rt></ruby>遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地として有名なる

○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は

○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に

○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、<ruby><rb>栄橋</rb><rt>さかえばし</rt></ruby>、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の諸橋は架れるなり。材木町、東福田町地先にてこの水路と会する一水は即ち

○今川橋下を流るゝ神田堀にして、<ruby><rb>御城</rb><rt>おしろ</rt></ruby><ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>より竜閑橋その他諸橋の下を経て来れるものなり。

○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>橋下を経て<ruby><rb>俎</rb><rt>まないた</rt></ruby>橋下に至り、いはゆる飯田川となりて堀留に窮まり、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上

○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。

○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より

○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水<ruby><rb>蹙</rb><rt>しじま</rt></ruby>りて、樹木鬱蒼、<ruby><rb>幽邃</rb><rt>ゆうすい</rt></ruby>閑雅の佳趣なきにあらず。<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>聖堂文人によりて<ruby><rb>茗渓</rb><rt>めいけい</rt></ruby>と呼ばれたるは即ち<ruby><rb>此地</rb><rt>ここ</rt></ruby>なり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また<ruby><rb>大概</rb><rt>おおよそ</rt></ruby>旧に依りて存せらるゝを以て、<ruby><rb>塩谷</rb><rt>しおのや</rt></ruby><ruby><rb>宕陰</rb><rt>とういん</rt></ruby>二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下

○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。

○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、<ruby><rb>寺門静軒</rb><rt>てらかどせいけん</rt></ruby>が記しゝ<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>も今も異りなし。橋の下流<ruby><rb>少許</rb><rt>しばし</rt></ruby>にして東に入るの一水あり。これを

○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流に出づる一水路にして、甚だ重要なる一渠なり。<ruby><rb>特</rb><rt>こと</rt></ruby>にその隅田川と中川とを連結するの中間において、松井町にては南に入りて小名木川に達するの一渠（この一水は中途二岐となりて、その一は<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に南に去つて小名木川に達すれども、他の一は<ruby><rb>数〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>曲折して後富川町にて小名木川に会す）を併せ、菊川町にては北辻橋南辻橋の間の横川を貫き、四之橋の東少許のところにてはまた

○天神川と十字をなして会するを以て、その交通往来し得る区域甚だ広く、従つて漕運の功をなすこと甚だ大なり。天神川は亀戸天神祠前に流るゝを以て名づけられたる一水にして、南は砂村より北は<ruby><rb>請地村</rb><rt>うけじむら</rt></ruby>に至るまでの間を南北に流るゝ一渠にして、丁字形をなして請地にて会する一水は、西中の郷にて堀溜となれど、東は境橋下を過ぎて中川に達する六間川これなり。されば天神川は横川と同じやうなる位置を占めて同じやうなる功をなすといふべし。竪川は是の如き天神川横川等を貫きて<ruby><rb>加之</rb><rt>しかも</rt></ruby>隅田川と中川とを連結することなれば、他日この川沿岸一帯は工場相隣りするの地となるべし。この竪川の隅田川と相会するところより矢の倉町に至るの渡船をば

○千歳の渡といふ。このあたり川は南東に向つて流れ、水は西岸の方深く、<ruby><rb>安宅町</rb><rt>あたけちよう</rt></ruby>地先に至つては川の東部に洲を<ruby><rb>見</rb><rt>あら</rt></ruby>はすに及ぶ。

○安宅の渡は、洲の下流、浜町と安宅との間にあり。渡船場の下数町にして

○新大橋あり。川はこゝに至つて<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>一転折して南西に向つて流る。新大橋の下<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に

○<ruby><rb>中洲</rb><rt>なかず</rt></ruby>ありて川の西部に横たはり、儼として一島をなし、酒楼の類のこゝに家するもの少からず。中洲の対岸一水遠く東に入るものを

○小名木川とす。芭蕉の居を卜せしは即ちこの川の北岸にして、満潮の潮がしらに川角へさし来る水の勢に乗つて照り渡れる月に句を按じ、あるいは五本松あたり、一川の上下に同じ観月の友を思へるなど、皆こゝに居たるよりの風雅のすさびなりけんと想はる。

○万年橋はこの川の口に架れる橋にして、<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>は匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>と永代橋の畔より船を出すを例とし、かつこゝよりするものは帰期あるものと予定し、永代橋よりするものは帰期なきものと予定する習ひなりしといふ。橋より東少許のところに竪川に通ずる小渠あり。なほ東して<ruby><rb>高橋</rb><rt>たかばし</rt></ruby>及び新高橋下を過ぐれば、扇橋猿江橋の間の横川に会す。なほ東して<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まざれば天神川と十字を為して、終に中川に会す。

○<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかわ</rt></ruby>はあたかもこの川に接続するものの如く中川より東南に入るの流なるをもて、なほ東して遠く去れば、利根の分流たる江戸川の妙見島上流に出づ。江戸川はこれを溯つて利根の本流に出づべく、利根川はこれを下つて銚子に至るべし。水路の通ずること是の如くなるを以て、小名木川は実に<ruby><rb>縷</rb><rt>いと</rt></ruby>の如き小渠なるにもかゝはらず、荷足行き、伝馬行き、達磨行き、蒸汽船行き、夜〻日〻<ruby><rb>艪声檣影</rb><rt>ろせいしようえい</rt></ruby>絶ゆる間なし。小名木川は実に重要なる一流といふべし。今既にこの川一帯の地は工業者の占有するところとなれるが多し、他日の発達測り知るべきなり。小名木川の大川に会するところより下少許にして、また一水の大川より東南に入るあり。

○仙台堀といふはこれにして、あるいは十間川とも呼び、いよ〱東しては二十間川ともいふ。<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>橋</rb><rt>はし</rt></ruby>相生橋亀久橋等の下を経て、木場の北に至り、<ruby><rb>要橋</rb><rt>かなめばし</rt></ruby>崎川橋下を過ぎて横川に会し、なほ東して<ruby><rb>石小田新田</rb><rt>いしおだしんでん</rt></ruby>、<ruby><rb>千田新田</rb><rt>せんだしんでん</rt></ruby>の間を通り天神川に会して終る。この川より天神川に出でゝ少しく北し、あるいはまた小名木川より天神川に出でゝ少しく南すれば、東海に入るの一渠を得。これ即ち

○砂村川と称するものにして、砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは無用に似たれども、風潮の都合によりて時に舟夫の便とするところとなることあり。仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の大和橋及び鶴歩橋の架れる一渠その他の小渠は、一〻記するに<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>あらざるを以て省く。けだし木場の如きは溝渠縦横、水多くして地少く、一〻これを記する<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>はざればなり。仙台堀入口より中洲へ渡るの

○中洲の渡船場あり。渡船場の下一町余にして<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>小渠の東南に入るあり。いはゆる

○油堀はこれにして、これもまた仙台堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、（既説）中洲の背後より箱崎と蠣殻町との間に存する一水あり、油堀と大川との会するところより下流に豊海橋の下を潜りて西北に入る一水あり。流に由りて溯れば、先づ

○豊海橋湊橋の下を経て

○鎧橋下に至る。鎧橋下の上流、思案橋親父橋下を過ぎて堀留に至る一支、<ruby><rb>荒布橋</rb><rt>あらめばし</rt></ruby>中橋下を経て同じく堀留に至る。一支に入らずして本流を追ひて上れば、江戸橋下に至り

○日本橋下に至り、終に<ruby><rb>一石橋</rb><rt>いつこくばし</rt></ruby>下に至りて御濠に出づ。御濠は西の方滝の口に至り、南の方呉服橋八重洲橋鍛冶橋数寄屋橋に至るまで船を通ずべし。豊海橋より一石橋に至るの水路の中、南西に<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れて霊岸島と亀島町との間に去るものは、新亀島橋亀島橋及び高橋の下を下りて<ruby><rb>本澪</rb><rt>ほんみよ</rt></ruby>に入り、兜町地先にて岐れて南西に去るものは、兜橋海運橋久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合す。

○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋あることなし。（後、相生橋成る。）橋下水深く流れ濶くして、遠く海上を望む風景おのづから浩大にして、大河の河口たるに<ruby><rb>負</rb><rt>そむ</rt></ruby>かざるの趣致あり。橋の下流、佃島石川島月島の一大島をなして横たはるあり。こはいはゆる三角洲に人為の修築を加へたるものにして、これがために川おのづから分岐して海に入るの勢を生ず。

○三ッ叉の名はこれより起り、一は築地に沿ひて西南に流れ、一は越中島に沿ひて東南に流る。西南に流るゝは即ち本流にして

○本澪と呼ばる。本澪は水深くして大船海舶の来り泊するもの甚だ多し。永代橋より下流は川幅甚だ濶く、かつ上に説けるが如く分岐して二となるを以て、便宜上先づ西流東流の二つに分ちて記すべし。先づ西岸の方より記せば、永代橋より下流幾許ならずして西に入るの一小渠あり、三の橋二の橋一の橋の三ツの橋の下を過ぎて亀島橋下を流るゝ一水に会す。

○大川口の渡はこの小渠の下に当りて、深川と越前堀との間を連結す。渡船場より下、町余にして二水の北西より来るを見る。その右なるは高橋下の流れにして即ち亀島橋下より来るもの、その左なるは即ち

○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、京橋の東炭谷橋白魚橋の下に出で、こゝにて南は真福寺橋下より来る一水と会し、北は兜橋より弾正橋下を経来れる一水と会し、桜橋東にてまた南より来る小渠と会し、遂に中の橋稲荷橋下を過ぎてこゝに来れるなり。この流れより下流、本湊町船松町の間に一水あり。明石町居留地の間を南して新栄橋下の一水に通ず。船松町佃島の間には渡船場あり。明石町の南

○明石橋下の一流は、築地一丁目二丁目三丁目を<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りて流るゝ<ruby><rb>釆女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>橋万年橋祝橋亀井橋合引橋築地橋軽子橋備前橋小田原橋三の橋等の下の一水に通ずる流れにして、栄橋新栄橋の下を過ぎてこゝに落つるなり。

○南小田原町の南、海軍省用地の北、安芸橋の架れる一水は三の橋の下流にして、三の橋上流より南の方海軍省用地に沿ひて尾張橋下を過ぎ、浜離宮脇より澪に入るの水と通ず。

○浜離宮の北、離宮と海軍省用地との間の一水は前に説きたる如し。別に離宮の西、汐留町との間を流れて<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に海に入るの流れは、土橋難波橋

○新橋蓬莱橋汐先橋の下を流るゝ水の末ともいふべし。

○三十間堀即ち真福寺橋の流れの続きにして、豊倉橋紀国橋豊玉橋朝日橋三原橋木挽橋出雲橋等の下を流るゝ一水は、前の一水と新橋の下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠は御濠に通ずるを以て土橋以西に至るべからざるにはあらねど、地勢高低懸隔するを以て土橋以西には船を通ぜず。汐留堀以南は品川に至るまでの間たゞ一の

○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く<ruby><rb>幡谷</rb><rt>はたがや</rt></ruby>の方より来るといへども、その漕運の功をなすは<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>会社と芝新浜町との間の落口より溯つて金杉橋将監橋芝園橋赤羽根橋中の橋辺までにして、中の橋以上は辛うじて一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島の北の方を、富岡門前町と並行して木場に至り、またその南の方を東して遠く洲崎の遊廓に達するの一渠あり。けだし

○内川といひしはこれか。<ruby><rb>振鷺亭</rb><rt>しんろてい</rt></ruby>が意妓の口に、大河の恋風は浮気な頬をなぐり、内川の旭は眼が覚めてから<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>しといひたるも、おもふに古石場町富岡門前町などの間を行くこの一水を指したるなるべし。別に一水の熊井町中島町の間を北に行きて油堀仙台堀を連ぬるあり。深川側の川渠は<ruby><rb>大概</rb><rt>おおよそ</rt></ruby>かくの如し。

佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各〻小渠ありて、本澪の方と上総澪の方との間の往来の便とす。

東京諸溝渠の大概は上記の如し。たゞ

○下田川と称する名称のことを未だ説かざりしが、明治以前の雑書に時に下田川の名を記すものは、別に一水の流れをなすありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。

川渠の大概は既に記したれば、これより<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か海上の状を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに伴つて発達したるところなれば、芝区及び品川の西南にありて海を抱いて湾曲なせるの外は、一丘一<ruby><rb>砂嘴</rb><rt>さし</rt></ruby>の突出して眼を遮るものだになし。されば大川の水のおのづからに土砂を流出するもの、極めて自然の状態をなして遠浅の海底を形づくるが中に、佃島の東の本澪の遠く南品川の沖に達すると、佃島西の上総澪の月島下流に至るとの二線がやゝ深き水路をなすあるのみ、岩礁の伏在するもなく、特別の潮路の去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然に堆積せるがためなれば、その砂洲の意外に広大にして、前に挙げたる二条の澪の外に大船巨艦を往来せしめがたきの観あるも怪むに足らずと言ふべし。本澪は第五第二の砲台の間を南へ通ずるなるが、その深さ大抵二<ruby><rb>尋</rb><rt>ひろ</rt></ruby>以上、上総澪はその深さにおいて及ばざること遠し。是の如くなるを以て北品川の<ruby><rb>陸嘴</rb><rt>りくし</rt></ruby>より東北に向つて海上に散布されたる造船所、第一台場、第五台場、第二台場、第六台場、第三台場、未成のままにて終りし第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎遊廓沖も砂村沖も、皆大抵春末の大干潮には現れ出づるほどの砂洲にして、これらの砂洲の上は即ち満都の士女等が

○汐干狩の楽地として、春末夏初の風<ruby><rb>和</rb><rt>のど</rt></ruby>かに天暖かなる頃、あるいは<ruby><rb>蛤蜊</rb><rt>こうり</rt></ruby>を<ruby><rb>爪紅</rb><rt>つまくれない</rt></ruby>の手に<ruby><rb>撈</rb><rt>と</rt></ruby>るあり、あるいは<ruby><rb>銛</rb><rt>もり</rt></ruby>を手にして<ruby><rb>牛尾魚</rb><rt>こち</rt></ruby><ruby><rb>比目魚</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>を突かんとするもあるところなり。釣魚の場、投網の場もまた多くはこれら砂洲の上にあり。海苔を収むるがために「ひゞ」と称して<ruby><rb>麁朶</rb><rt>そだ</rt></ruby>を海中に柵立するところも、またこの砂洲の上もしくはその附近の地なり。中川の澪は洲崎の沖の方に東より来りて<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>はれるなるが、本澪、上総澪、台場附近と共にこれらの澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝の略説甚だ尽さゞるありといへども<ruby><rb>大概</rb><rt>おおよそ</rt></ruby>はけだし叙し去りたるならん。<ruby><rb>往時</rb><rt>むかし</rt></ruby>後魏の<ruby><rb>酈善長</rb><rt>れきぜんちよう</rt></ruby>は<ruby><rb>峻峭耿介</rb><rt>しゆんしようこうかい</rt></ruby>にして博覧彊記、天下の奇書を読破して水経の註四十巻を著しゝが、後終に陰磐駅に囲まれて水を得ずして力屈し、賊のために殺さるゝに至りしことあり。予今水の東京を<ruby><rb>談</rb><rt>かた</rt></ruby>るといへども、談つて甚だ詳しからず、必ずや水を得ざるの惨にあふことなからん。呵〻。（明治三十五年二月）