一

Ｙ君は語る。

先刻も十三夜のお話が出たが、わたしも十三夜に縁のある不思議な話を知つてゐる。それは影を踏まれたといふことである。

影を踏むといふ子供遊びは今は<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らない。今どきの子供はそんな詰らない遊びをしないのである。月のよい夜ならばいつでも好さゝうなものであるが、これは秋の夜にかぎられてゐるやうであつた。秋の月があざやかに<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え渡つて、地に敷く夜露が白く光つてゐる宵々に、町の子供たちは往来に出て、こんな<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>を歌ひはやしながら、地にうつる彼等の影を踏むのである。

――影や<ruby><rb>道陸神</rb><rt>どうろくじん</rt></ruby>、十三夜のぼた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>――

ある者は自分の影を踏まうとして<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けまはるが、大抵は他人の影を踏まうとして追ひまはすのである。相手は踏まれまいとして逃げまはりながら、<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>をみて巧みに敵の影を踏まうとする。また<ruby><rb>横合</rb><rt>よこあい</rt></ruby>から飛び出して行つて、どちらかの影を踏まうとするのもある。かうして三人五人、多いときには十人以上も<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>りみだれて、地に落つる<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の影を追ふのである。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、すべつて転ぶのもある。<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>や<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>の鼻緒を踏み切るのもある。この遊びはいつの頃から始まつたのか知らないが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>にかくに江戸時代を経て、明治の初年、わたし達の子どもの頃まで行はれて、日清戦争の頃にはもう<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>つてしまつたらしい。

子ども同士がたがひに影を踏み合つてゐるのは別に<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>もないが、それだけでは面白くないとみえて、往々にして通行人の影をふんで逃げることがある。<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に大人の影を踏むと<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られる<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるので、大抵は通りがかりの娘や子供の影を踏んでわつと<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し立てゝ逃げる。まことに他愛のない<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>ではあるが、たとひ影にしても、自分の姿の映つてゐるものを土足で踏みにじられると云ふのは余り愉快なものではない。それに<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>てこんな話が伝へられてゐる。

<ruby><rb>嘉永</rb><rt>かえい</rt></ruby>元年九月十二日の宵である。芝の<ruby><rb>柴井町</rb><rt>しばいちよう</rt></ruby>、<ruby><rb>近江屋</rb><rt>おうみや</rt></ruby>といふ糸屋の娘おせきが<ruby><rb>神明前</rb><rt>しんめいまえ</rt></ruby>の親類をたづねて、五つ（午後八時）前に帰つて来た。あしたは十三夜で、今夜の月も明るかつた。ことしの秋の寒さは例年よりも身にしみて、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby><ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>きが多いといふので、おせきは仕立ておろしの<ruby><rb>綿入</rb><rt>わたいれ</rt></ruby>の両<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>をかき合せながら、北に向つて足早に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>つてくると、<ruby><rb>宇田川町</rb><rt>うだがわちよう</rt></ruby>の大通りに五六人の男の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>が<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けまはつて遊んでゐた。影や<ruby><rb>道陸神</rb><rt>どうろくじん</rt></ruby>の<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>の声もきこえた。

そこを通りぬけて行きかゝると、その子供の群は一度にばら〱と駈けよつて来て、地に映つてゐるおせきの黒い影を踏まうとした。はつと思つて避けようとしたが、もう間にあはない。いたづらの子供たちは前後左右から<ruby><rb>追取</rb><rt>おつと</rt></ruby>りまいて来て、逃げまはる娘の影を思ふがまゝに踏んだ。かれらは十三夜のぼた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>を歌ひはやしながらどつと笑つて立去つた。

相手が立去つても、おせきはまだ一生懸命に逃げた。かれは息を切つて、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>へ腰をおろしながら横さまに<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>してしまつた。店には父の<ruby><rb>弥助</rb><rt>やすけ</rt></ruby>と小僧ふたりが居あはせたので、驚いてすぐに<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>を介抱した。奥からは母のお<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>も女中のおかんも<ruby><rb>駈出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>して来て、水をのませて、落着かせて、さて、その<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を問ひ<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>さうとしたが、おせきは胸の<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>がなか〱<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まらないらしく、しばらくは胸をかゝへて店さきに俯伏してゐた。

おせきは今年十七の娘ざかりで、<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりよう</rt></ruby>もよい方である。宵とは云へ、月夜とは云へ、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かい往来とは云つても、なにかの<ruby><rb>馬鹿者</rb><rt>ばかもの</rt></ruby>にからかはれたのであらうと親たちは想像したので、弥助は表へ出てみたが、そこらには<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>を追つて来たらしい者の影もみえなかつた。

「おまへは一体どうしたんだよ。」と、母のお由は待ちかねて又<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「あたし踏まれたの。」と、おせきは声をふるはせながら云つた。

「誰に踏まれたの。」

「宇田川町を通ると、影や<ruby><rb>道陸神</rb><rt>どうろくじん</rt></ruby>の子供達があたしの影を踏んで……。」

「なんだ。」と、弥助は張合ひ抜けがしたやうに笑ひ出した。「それが<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたといふのだ。そんなことを騒ぐ<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>があるものか。影や道陸神なんぞ珍しくもねえ。」

「ほんたうにそんな事を騒ぐにやあ及ばないぢやあないか。あたしは何事が起つたのかと思つてびつくりしたよ。」と、母も安心と共に少しく不平らしく云つた。

「でも、自分の影を踏まれると、悪いことがある……。寿命が縮まると……。」と、おせきは更に涙ぐんだ。

「そんな<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことがあるものかね。」

お由は<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に云ひ消したが、実をいふと<ruby><rb>其頃</rb><rt>そのころ</rt></ruby>の一部の人達のあひだには、自分の影を踏まれると好くないといふ伝説がないでもなかつた。七<ruby><rb>尺</rb><rt>しやく</rt></ruby>去つて師の影を踏まずなどと<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>でも云ふ。たとひ影にしても、人の形を踏むといふことは遠慮しろといふ意味から、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の伝説は生まれたらしいのであるが、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には踏む人の遠慮よりも踏まれる人の恐れとなつて、影を踏まれると運が悪くなるとか、寿命が縮むとか、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしきは三年の内に死ぬなどと云ふ者がある。それほどに怖るべきものであるならば、どこの親達も子どもの遊びを堅く禁止しさうなものであるが、それ程にはやかましく云はなかつたのを見ると、その伝説や迷信も一般的ではなかつたらしい。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>もそれを信じて、それを恐れる人達からみれば、それが一般的であると無いとは問題ではなかつた。

「馬鹿をいはずに早く奥へ行け。」

「詰らないことを気におしでないよ。」

父には<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られ、母にはなだめられて、おせきは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しよんぼり</span>と奥へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>つたが、胸一杯の不安と恐怖とは決して納まらなかつた。近江屋の二階は六畳と三畳の<ruby><rb>二間</rb><rt>ふたま</rt></ruby>で、おせきはその三畳に寝ることになつてゐたが、今夜は幾たびも強い<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>におどろかされて<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をさました。幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>つてゐる夢をみた。

あくる日は十三夜で、近江屋でも例年の通りに<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>や<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>を買つて月の前にそなへた。今夜の月も晴れてゐた。

「よいお月見でございます。」と、近所の人たちも云つた。

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>しおせきはその月を見るのが何だか怖しいやうに思はれてならなかつた。月が怖しいのではない、その月のひかりに映し<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>される自分の影をみるのが怖しいのであつた。世間ではよい月だと云つて、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は二階から仰ぎ、あるひは店先から望み、あるひは往来へ出て眺めてゐるなかで、かれ一人は奥に<ruby><rb>閉籠</rb><rt>とじこも</rt></ruby>つてゐた。

――影や道陸神、十三夜の<ruby><rb>牡丹餅</rb><rt>ぼたもち</rt></ruby>――

子ども<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>の歌ふ声々が、おせきの弱い魂を執念ぶかく<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かした。

二

それ以来、おせきは夜あるきをしなかつた。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に月の明るい夜には表へ出るのを恐れるやうになつた。どうしても夜あるきをしなければならないやうな場合には、努めて月のない暗い宵を選んで出ることにしてゐた。世間の娘たちとは反対のこの行動が父や母の注意をひいて、お前はまだそんな詰らないことを気にしてゐるのかと、両親からしば〱<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られた。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>もおせきの魂に深く<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>ひ入つた一種の恐怖と不安とはいつまでも消え失せなかつた。

さうしてゐる<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、不運のおせきは再び自分の影におどろかされるやうな事件に遭遇した。その年の<ruby><rb>師走</rb><rt>しわす</rt></ruby>の十三日、おせきの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で<ruby><rb>煤掃</rb><rt>すすはき</rt></ruby>をしてゐると、神明前の親類の店から小僧が<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来て、おばあさんが急病で倒れたと<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せた。神明前の親類といふのは、おせきの母の姉が縁付いてゐる<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、近江屋とは同商売であるばかりか、その次男の要次郎をゆく〱はおせきの<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>にするといふ<ruby><rb>内相談</rb><rt>ないそうだん</rt></ruby>もある。そこの老母が倒れたと聞いては<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>には済されない。誰かゞすぐに見舞に<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け付けなければならないのであるが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>にけふは煤掃の最中で父も母も手が離されないので、とりあへずおせきを出して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ることにした。

<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をはづして、髪をかきあげて、おせきが<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>つかはと店を出たのは、昼の<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby>つ（午後二時）を少し過ぎた頃であつた。ゆく先は大野屋といふ店で、こゝも今日は煤掃である。その最中に今年七十五になるおばあさんが突然<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つ倒れたのであるから、その騒ぎは一通りでなかつた。奥には四畳半の<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>があるので、急病人をそこへ運び込んで介抱してゐると、幸ひに病人は正気に戻つた。けふは取分けて寒い日であるのに、達者にまかせて老人が、早朝から若い者どもと一緒になつて立働いたために、こんな異変をひき起したのであるが、<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>のみ心配することはない。<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に寝かして置けば自然に<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ると、医者は云つた。それで<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>づ<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>安心したところへ、おせきが駈けつけたのである。

「それでもまあ好うござんしたわねえ。」

おせきも安心したが、<ruby><rb>折角</rb><rt>せつかく</rt></ruby>こゝまで来た以上、すぐに帰つてしまふわけにも行かないので、病人の枕もとで看病の手つだひなどをしてゐるうちに、師走のみじかい日はいつか暮れてしまつて、大野屋の店の煤はきも片附いた。<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>はされ、ゆふ飯を食はされて、おせきは五つ少し前に、こゝを出ることになつた。

「<ruby><rb>阿父</rb><rt>おとつ</rt></ruby>さんや<ruby><rb>阿母</rb><rt>おつか</rt></ruby>さんにもよろしく云つてください。病人も御覧の通りで、もう心配することはありませんから。」と、大野屋の<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>は云つた。

宵ではあるが、年の暮で世間が物騒だといふので、伯母は次男の要次郎に云ひつけて、おせきを送らせて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ることにした。お取込みのところをそれには及ばないと、おせきは一応辞退したのであるが、それでも間違ひがあつてはならないと云つて、伯母は無理に要次郎を附けて出した。店を出るときに伯母は笑ひながら声をかけた。

「要次郎。おせきちやんを送つて行くのだから、影や<ruby><rb>道陸神</rb><rt>どうろくじん</rt></ruby>を用心おしよ。」

「この寒いのに、誰も表に出てゐやしませんよ。」と、要次郎も笑ひながら答へた。

おせきが影を踏まれたのは、やはりこゝの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>から帰る途中の出来事で、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>がそれを気に病んでゐるらしいことは、母のお由から伯母にも話したので、大野屋<ruby><rb>一家</rb><rt>いつけ</rt></ruby>の者もみな知つてゐるのであつた。要次郎は今年十九の、色白の<ruby><rb>痩形</rb><rt>やせがた</rt></ruby>の男で、おせきとは<ruby><rb>似合</rb><rt>にあい</rt></ruby>の夫婦と云つてよい。その未来の夫婦がむつまじさうに肩をならべて出てゆくのを、伯母は<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みながら見送つた。

一応は辞退したものゝ、要次郎に送られてゆくことはおせきも実は<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかつた。これも笑ひながら表へ出ると、<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>はきを済せて今夜は早く<ruby><rb>大戸</rb><rt>おおど</rt></ruby>をおろしてゐる店もあつた。<ruby><rb>家中</rb><rt>うちじゆう</rt></ruby>に<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をとぼして何かまだ笑ひさゞめいてゐる店もあつた。その家々の屋根の上には、雪が降つたかと思ふやうに月のひかりが白く照り渡つてゐた。その月を仰いで、要次郎は夜の寒さが身にしみるやうに肩をすくめた。

「風はないが、なか〱寒い。」

「寒うござんすね。」

「おせきちやん、御覧よ。月がよく<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えてゐる。」

要次郎に云はれて、おせきも思はず振り仰ぐと、向う側の屋根の<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほし</rt></ruby>の上に、一輪の冬の月は、<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い鏡のやうに冴えてゐた。

「好いお月様ねえ。」

とは云つたが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちに一種の不安がおせきの胸に<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来た。今夜は十二月十三日で、月のあることは<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>り切つてゐるのであつたが、今までは何か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごた</span>〱してゐたのと、要次郎と一緒にあるいてゐるのとで、おせきはそれを忘れてゐたのである。明るい月――それと反対におせきの心は暗くなつた。急におそろしいものを見せられたやうに、おせきは慌てゝ顔をそむけて<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>くと、今度は地に映る二人の影があり〱と見えた。

それと同時に、要次郎も思ひ出したやうに云つた。

「おせきちやんは月夜の晩には表へ出ないんだつてね。」

おせきは黙つてゐると、要次郎は笑ひ出した。

「なぜそんなことを気にするんだらう。あの晩もわたしが一緒に送つて来ればよかつたつけ。」

「だつて、なんだか気になるんですもの。」と、おせきは低い声で訴へるやうに云つた。

「大丈夫だよ。」と、要次郎はまた笑つた。

「大丈夫でせうか。」

二人はもう宇田川町の通りへ来てゐた。要次郎の云つた通り、この<ruby><rb>極月</rb><rt>ごくげつ</rt></ruby>の寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されなかつた。むかしから<ruby><rb>男女</rb><rt>おとこおんな</rt></ruby>の影法師は憎いものに数へられてゐるが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落しながら、<ruby><rb>摺寄</rb><rt>すりよ</rt></ruby>るやうに<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んであるいてゐた。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、こゝらの大通りに往来は絶えなかつたが、二つの憎い影法師をわざわざ踏みにじつて通るやうな、意地の悪い通行人もなかつた。

宇田川町をゆきぬけて、柴井町へ踏み込んだときである。どこかの屋根の上で<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の鳴く声がきこえた。

「あら、鴉が……」と、おせきは声のする方をみかへつた。

「月夜鴉だよ。」

要次郎がかう云つた途端に、二匹の犬がそこらの<ruby><rb>路地</rb><rt>ろじ</rt></ruby>から<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け出して来て、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>もおせきの影の上で狂ひまはつた。はつと思つておせきが身をよけると、犬はそれを追ふやうに駈けあるいて、かれの影を踏みながら狂つてゐる。おせきは身をふるはせて要次郎に<ruby><rb>取縋</rb><rt>とりすが</rt></ruby>つた。

「おまへさん、早く追つて……」

「<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしよう</rt></ruby>。<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>つ、叱つ。」

犬は要次郎に追はれながらも、やはりおせきに<ruby><rb>附纏</rb><rt>つきまと</rt></ruby>つてゐるやうに、かれの影を踏みながら<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り狂つてゐるので、要次郎も<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしやく</rt></ruby>をおこして、足もとの小石を拾つて二三度<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけると、二匹の犬は悲鳴をあげて逃げ去つた。

おせきは無事に自分の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ送りとゞけられたが、その晩の夢には、二匹の犬がかれの枕もとで駈けまはるのを見た。

三

今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>は<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な人間となつた。

それが<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて、あくる年の三月頃になると、かれは<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>をも嫌ふやうになつた。月といはず、日と云はず、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>にも通はなくなつた。

「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき〲に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。

「まつたく困つた<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だ。」

弥助も<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。

「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。

「まあさうだな。」

それが大野屋の人々にもきこえて、<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。

「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られた。

おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は<ruby><rb>廿歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それも<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>づそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしてもおせきの病を<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>すことは出来なかつた。

なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つたのであるが、どこの医者にも<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>な診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり<ruby><rb>勝</rb><rt>がち</rt></ruby>の<ruby><rb>気鬱病</rb><rt>きうつびよう</rt></ruby>であらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の<ruby><rb>惣領息子</rb><rt>そうりようむすこ</rt></ruby>、すなはち要次郎の兄が<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>人から<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>に偉い<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎようじや</rt></ruby>があるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。

「あれは<ruby><rb>狐使</rb><rt>きつねつか</rt></ruby>ひだと云ふことだ。あんな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>に<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>を頼むと、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>つて狐を<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>けられる。」

「いや、その行者はそんなのではない。<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>の気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」

兄弟が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに云ひ争つてゐるのが母の耳にも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>つたので、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて来ることにした。それは<ruby><rb>嘉永</rb><rt>かえい</rt></ruby>二年六月のはじめで、今年の<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>のまだ明け切らない暗い日であつた。

行者の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は五条の<ruby><rb>天神</rb><rt>てんじん</rt></ruby>の裏通りで、<ruby><rb>表構</rb><rt>おもてがま</rt></ruby>へは<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>ほど広くもないが、<ruby><rb>奥行</rb><rt>おくゆき</rt></ruby>のひどく深い<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>には二本の<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、かれはしばらく<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をとぢて考へてゐた。

「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」

行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>つて出した。今夜の<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>（午後十二時）にその蝋燭の火を照して、壁か又は<ruby><rb>障子</rb><rt>しようじ</rt></ruby>にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの<ruby><rb>憑物</rb><rt>つきもの</rt></ruby>がしてゐるならば、その形は見えずとも<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>影があり〱と映る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を小さい<ruby><rb>白木</rb><rt>しらき</rt></ruby>の箱に入れて、なにか<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゆもん</rt></ruby>のやうなことを<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>へた上で、うや〱しく弥助にわたした。

「ありがたうござります。」

夫婦は<ruby><rb>押頂</rb><rt>おしいただ</rt></ruby>いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき〲に<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>の音がきこえた。これで<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。

前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>さなかつた。四つ（午後十時）には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に<ruby><rb>一物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>ある夫婦は<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>た<ruby><rb>振</rb><rt>ふり</rt></ruby>をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと<ruby><rb>階子</rb><rt>はしご</rt></ruby>をのぼつた。弥助は<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を持つてゐた。

二階の三畳の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>をあけて<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや〱と眠つてゐた。お由はしづかに<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の<ruby><rb>鼠壁</rb><rt>ねずみかべ</rt></ruby>に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐるからであつた。

夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に娘の影であつた。そこには<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>のある鬼や、口の<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>つてゐる<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>などの影は決して見られなかつた。

四

夫婦は安心したやうに<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>づほつとした。不思議さうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きよろきよろ</span>してゐる娘を再び<ruby><rb>窃</rb><rt>そつ</rt></ruby>と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。

あくる日は弥助ひとりで再び下谷の<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎようじや</rt></ruby>をたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。

「それでは私にも<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>の仕様がない。」

突き放されて、弥助も途方にくれた。

「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。

「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、<ruby><rb>折角</rb><rt>せつかく</rt></ruby>たび〱お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を<ruby><rb>燃</rb><rt>もや</rt></ruby>すのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはり<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>、お忘れなさるな。」

今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>をいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。

かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ〱それに服従するのほかは無かつた。

「夏の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親は<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>も、本人のおせきが外出を堅く<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むので、それも結局実行されなかつた。

ことしの夏の暑さは格別で、おせきの<ruby><rb>夏痩</rb><rt>なつや</rt></ruby>せは<ruby><rb>著</rb><rt>いちじ</rt></ruby>るしく<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>に立つた。日の目を見ないやうな奥の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にばかり<ruby><rb>閉籠</rb><rt>とじこも</rt></ruby>つてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ〱<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>を疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は<ruby><rb>癆症</rb><rt>ろうしよう</rt></ruby>であらうなどとも<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>してゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎようじや</rt></ruby>に教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。

それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに<ruby><rb>其日</rb><rt>そのひ</rt></ruby>を<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目が<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も満一年目の当日であるといふことが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かれ</rt></ruby>の<ruby><rb>父母</rb><rt>ちちはは</rt></ruby>の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>のひかりが何かの不思議を照し出すのではないかとも<ruby><rb>危</rb><rt>あやぶ</rt></ruby>まれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。

その九月十二日がいよ〱来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。

あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>少し前に弱い地震があつた。<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby>つ頃（午後二時）に大野屋の<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>が近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。

「おせきの百日目といふのは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>だつたのですよ。」

「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」

「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら<ruby><rb>摺寄</rb><rt>すりよ</rt></ruby>つた。「ゆうべも九つ（午後十二時）を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ぼけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>してゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると――壁には<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>の影が映つて……。」

お由の声は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐた。伯母も顔の色を変へた。

「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」

「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>にそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん〱に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」

「まあ。」と、伯母は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」

「ひどく<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>がつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>が映るなんて一体どうしたんでせう。」

「下谷へ行つて<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見たの。」と、<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>は訊いた。

「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、<ruby><rb>行者様</rb><rt>ぎようじやさま</rt></ruby>はたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」

「さあ。」

判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いことであれば隠す<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。

お由はやがて泣き出した。

「おせきは死ぬのでせうか。」

伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>も間にあはせの気休めを云つて置くの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はなかつた。

伯母は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。

「近江屋の<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんや<ruby><rb>叔母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんにも困るな。いつまで<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>つかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして<ruby><rb>此方</rb><rt>こつち</rt></ruby>をさん〲<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かして置いて、お<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しまい</rt></ruby>に高い<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>料をせしめようとする<ruby><rb>魂胆</rb><rt>こんたん</rt></ruby>に相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」

「そんなことを云つても、論より証拠で、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちようど</rt></ruby>百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。

「それは行者が狐を使ふのだ。」

又もや兄弟<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>げんか</rt></ruby>がはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しよせん</rt></ruby>は水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯を<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>つてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。

「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。

十三夜――それを考へると、要次郎はなんだか<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に落ついてゐられなかつた。彼はふら〱と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。

「おせきちやん、居ますか。」

「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。

「呼んで<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れませんか。」と、要次郎は云つた。

「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」

母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。

「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。

おそらく断るかと思ひの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちようど</rt></ruby>幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>つた。

若い男と女とは<ruby><rb>金杉</rb><rt>かなすぎ</rt></ruby>の方角にむかつて歩いてゆくと、<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い秋の夜風がふたりの<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をそよ〱と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。

「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。

おせきは黙つてゐた。

「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだり、からだが悪くなつたりして、お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さんや<ruby><rb>阿母</rb><rt>おつか</rt></ruby>さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」

「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。

――影や<ruby><rb>道陸神</rb><rt>どうろくじん</rt></ruby>、十三夜のぼた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>――

子どもの<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。

「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。

子供の群は十人ばかりが一組になつて<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちよう</rt></ruby>から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。

「お化けだ、お化けだ。」

かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎようじや</rt></ruby>を<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>つかひなどと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。

要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ<ruby><rb>引返</rb><rt>ひつかえ</rt></ruby>して逃げた。

その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け着けてみると、おせきは右の肩から<ruby><rb>袈裟斬</rb><rt>けさぎり</rt></ruby>に<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>られて往来のまん中に倒れてゐた。

近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に<ruby><rb>辻斬</rb><rt>つじぎり</rt></ruby>でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。

おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎようじや</rt></ruby>の<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>が<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>を<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>つた。しかし誰にも<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>な説明の出来る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はなかつた。<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。