Soranoha

青蛙堂鬼談

せいあどうきだん

岡本 綺堂

青蛙神せいあじん

一

「速達!」

三月三日の午ひるごろに、一通の速達郵便がわたしの家の玄関に投げ込まれた。

拝啓。春雪霏々ひひ、このゆうべに一会なかるべけんやと存じ候。万障を排して、本日午後五時頃より御参会くだされ度たく、ほかにも五、六名の同席者あるべくと存じ候。但し例の俳句会には無之これなく候。

まずは右御案内まで、早々、不一ふいつ。

三月三日朝

青蛙堂主人

話の順序として、まずこの差出人の青蛙堂主人について少し語らなければならない。井いの中の蛙かわずという意味で、井蛙せいあと号する人はめずらしくないが、青いという字をかぶらせた青蛙せいあの号はすくないらしい。彼は本姓を梅沢君といって、年はもう四十を五つ六つも越えているが、非常に気の若い、元気のいい男である。その職業は弁護士であるが、十年ほど前から法律事務所の看板をはずしてしまって、今では日本橋辺のある大商店の顧問という格で納まっている。ほかにも三、四の会社に関係して、相談役とか監査役とかいう肩書を所持している。まず一廉ひとかどの当世紳士である。梅沢君は若いときから俳句の趣味があったが、七、八年前からいよいよその趣味が深くなって、忙しい閑ひまをぬすんで所々の句会へも出席する。自宅でも句会をひらく。俳句の雅号を金華きんかと称して、あっぱれの宗匠顔をしているのである。

梅沢君は四、五年前に、支那から帰った人のみやげとして広東製の竹細工を貰った。それは日本ではとても見られないような巨大な竹の根をくりぬいて、一匹の大きい蝦蟆がまを拵らえたものであるが、そのがまは鼎かなえのような三本足であった。一本の足はあやまって折れたのではない、初めから三本の足であるべく作られたものに相違ないので、梅沢君も不思議に思った。呉れた人にもその訳はわからなかった。いずれにしても面白いものだというので、梅沢君はそのがまを座敷の床の間に這わせておくと、ある支那通の人が教えてくれた。

「それは普通のがまではない。青蛙というものだ。」

その人は清しんの阮葵生げんきせいの書いた「茶余客話」という書物を持って来て、梅沢君に説明して聞かせた。

それにはこういうことが漢文で書いてあった。

――杭州に金華将軍なるものあり。けだし青蛙の二字の訛りにして、その物はきわめて蛙に類す。ただ三足なるのみ。そのあらわるるは、多く夏秋の交こうにあり。降くだるところの家は秫酒じゅつしゅ一盂を以てし、その一方を欠いてこれを祀る。その物その傍らに盤踞ばんきょして飲み啖くらわず、しかもその皮膚はおのずから青より黄となり、さらに赤となる。祀るものは将軍すでに酔えりといい、それを盤にのせて湧金ゆうきん門外の金華太侯の廟内に送れば、たちまちにその姿を見うしなう。而して、その家は数日のうちに必ず獲うるところあり、云々うんぬん。――

これで三本足のがまの由来はわかった。それのみならず更に梅沢君をよろこばせたのは、その霊あるがまが金華将軍と呼ばれることであった。梅沢君の俳号を金華というのに、あたかもそこへ金華将軍の青蛙が這い込んで来たのは、まことに不思議な因縁であるというので、梅沢君はその以来大いにこのがまを珍重することになって、ある書家にたのんで青蛙堂という額を書いてもらった。自分自身も青蛙堂主人と号するようになった。

その青蛙堂からの案内をうけて、わたしは躊躇した。案内状にも書いてある通り、きょうは朝から細かい雪が降っている。主人はこの雪をみて俄かに今夜の会合を思い立ったのであろうが、青蛙堂は小石川の切支丹坂をのぼって、昼でも薄暗いような木立ちの奥にある。こういう日のゆう方からそこへ出かけるのは、往きはともあれ、復かえりが難儀だと少しく恐れたからである。例の俳句会ならば無論に欠席するのであるが、それではないとわざわざ断り書きがしてある以上、何かほかに趣向があるのかも知れない。三月三日でも梅沢君に雛祭りをするような女の子はない。まさかに桜田浪士の追悼会を催すわけでもあるまい。そんなことを考えているうちに、いい塩梅あんばいに雪も小降りになって来たらしいので、わたしは思い切って出かけることにした。

午後四時頃からそろそろと出る支度をはじめると、あいにくに雪はまたはげしく降り出して来た。その景色を見てわたしはまた躊躇したが、ええ構わずにゆけと度胸を据えて、とうとう真っ白な道を踏んで出た。小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる、この雪の日にはかなりに難儀な道中をつづけて、ともかくも青蛙堂まで無事にたどり着くと、もう七、八人の先客があつまっていた。

「それでも皆んな偉えらいよ。この天気にこの場所じゃあ、せいぜい五、六人だろうと思っていたところが、もう七、八人も来ている。まだ四、五人は来るらしい。どうも案外の盛会になったよ。」と、青蛙堂主人は、ひどく嬉しそうな顔をして私を迎えた。

二階へ案内されて、十畳と八畳をぶちぬきの座敷へ通されて、さて先客の人々を見わたすと、そのなかの三人ほどを除いては、みな私の見識らない人たちばかりであった。学者らしい人もある。実業家らしい人もある。切髪の上品なお婆さんもいた。そうかと思うと、まだ若い学生のような人もある。なんだか得体えたいのわからない会合であると思いながら、まずひと通りの挨拶をして座に着いて、顔なじみの人たちと二つ三つ世間話などをしているうちに、私のあとからまた二、三人の客が来た。そのひとりは識っている人であったが、ほかの二人はどこの何という人だか判らなかった。

やがて主人から、この天気にようこそというような挨拶があって、それから一座の人々を順々に紹介した。それが済んで、酒が出る、料理の膳が出る。雪はすこし衰えたが、それでも休みなしに白い影を飛ばしているのが、二階の硝子戸越しにうかがわれた。あまりに酒を好む人がないとみえて酒宴は案外に早く片付いて、さらに下座敷の広間へ案内されて、煙草をすって、あついレモン茶をすすって、しばらく休息していると、主人は勿体らしく咳しわぶきして一同に声をかけた。

「実はこのような晩にわざわざお越しを願いましたのは外ほかでもございません。近頃わたくしは俳句以外、怪談に興味を持ちまして、ひそかに研究しております。就きましては一夕いっせき怪談会を催しまして、皆さまの御高話を是非拝聴いたしたいと存じておりましたところ、あたかもきょうは春の雪、怪談には雨の夜の方がふさわしいかとも存じましたが、雪の宵もまた興あることと考えまして、急に思いついてお呼び立て申したような次第でございます。わたくしばかりでなく、これにも聴き手が控えておりますから、どうか皆さまに、一席ずつ珍しいお話をねがいたいと存じますが、いかがでございましょうか。」

主人が指さす床の間の正面には、かの竹細工の三本足のがまが大きくうずくまっていて、その前には支那焼らしい酒壺が供えてある。欄間には青蛙堂と大きく書いた額が掛かっている。主人のほかに、この青蛙を聴き手として、われわれはこれから怪談を一席ずつ弁じなければならないことになったのである。雛祭りの夜に怪談会を催すも変っているが、その聴き手には三本足の金華将軍が控えているなどは、いよいよ奇抜である。主人の注文に対して、どの人も無言のうちに承諾の色目をみせたが、さて自分からまず進んでその皮切りを勤めようという者もない。たがいに顔をみあわせて譲り合っているような形であるので、主人の方から催促するように第一番に出る人を指名することになった。

「星崎さん。いかがでしょう。あなたからまず何かお話し下さるわけには……。この青蛙をわたくしに教えて下すったのはあなたですから、その御縁であなたからまず願いましょう。今晩は特殊の催しですから、そういう材料をたくさんお持ちあわせの方々ばかりを選んでお招き申したのですが、誰か一番に口を切るかたがないと、やはり遠慮勝になってお話が進行しませんようですから。」

真っ先に引き出された星崎さんというのは、五十ぐらいの紳士である。かれは薄白くなっている髯ひげをなでながら微笑した。

「なるほどそう言われると、この床の間の置物にはわたしが縁のふかい方かも知れません。わたしは商売の都合で、若いときには五年ほども上海の支店に勤めていたことがあります。その後にも二年に一度ぐらいは必ず支那へゆくことがあるので、支那の南北は大抵遍歴しました。そういうわけで支那の事情もすこしは知っています。御主人が唯今おっしゃった通り、その青蛙の説明をいたしたのも私です。」

「それですから、今夜のお話はどうしてもあなたからお始めください。」と、主人はかさねて促した。

「では、皆さまを差措いて、失礼ながら私が前座を勤めることにしましょう。一体この青蛙に対する伝説は杭州地方ばかりでなく、広東地方でも青蛙神といって尊崇しているようです。したがって、昔から青蛙についてはいろいろの伝説が残っています。勿論、その多くは怪談ですから、ちょうど今夜の席上にはふさわしいかも知れません。その伝説のなかでも成るべく風変わりのものをちょっとお話し申しましょう。」

星崎さんはひと膝ゆすり出て、まず一座の人々の顔をしずかに見まわした。その態度がよほど場馴れているらしいので、わたしも一種の興味をそそられて、思わずその人の方に向き直った。

支那の地名や人名は皆さんにお馴染みが薄くて、却って話の興をそぐかと思いますから、なるべく固有名詞は省略して申上げることにしましょう。と、星崎さんは劈頭へきとうにまず断った。

時代は明みんの末で、天下が大いに乱れんとする時のお話だと思ってください。江南の金陵、すなわち南京の城内に張訓という武人があった。ある時、その城をあずかっている将軍が饗宴をひらいて、列席の武官と文官一同に詩や絵や文章を自筆でかいた扇子一本ずつをくれた。一同ひどく有難がって、めいめいに披ひらいてみる。張訓もおなじく押し頂いて披ひらいて見ると、どうしたわけか自分の貰った扇だけは白扇で、なにも書いてない。裏にも表にもない。これには甚だ失望したが、この場合、上役の人に対して、それを言うのも礼を失うと思ったので、張訓はなにげなくお礼を申して、ほかの人たちと一緒に退出した。しかし何だか面白くないので、家へ帰るとすぐにその妻に話した。

「将軍も一度にたくさんの扇をかいたので、きっと書き落したに相違ない。それがあいにくにおれに当ったのだ。とんだ貧乏くじをひいたものだ。」

詰まらなそうに溜息をついていると、妻も一旦は顔の色を陰らせた。妻はことし十九で三年前から張と夫婦になったもので、小作りで色の白い、右の眉のはずれに大きいほくろのある、まことに可愛らしい女であったが、夫の話をきいて少し考えているうちに、まただんだんにいつもの晴れやかな可愛らしい顔に戻って、かれは夫を慰めるように言った。

「それはあなたのおっしゃる通り、将軍は別に悪意があってなされた事ではなく、たくさんのなかですから、きっとお書き落しになったに相違ありません。あとで気がつけば取換えて下さるでしょう。いいえ、きっと取換えてくださいます。」

「しかし気がつくかしら。」

「なにかの機はずみに思い出すことがないとも限りません。それについて、もし将軍から何かお尋ねでもありましたら、そのときには遠慮なく、正直にお答えをなさる方がようございます。」

「むむ。」

夫は気のない返事をして、その晩はまずそのままで寝てしまった。それから二日ほど経つと、張訓は将軍の前によび出された。

「おい、このあいだの晩、おまえにやった扇には何が書いてあったな。」

こう訊かれて、張訓は正直に答えた。

「実は頂戴の扇面には何も書いてございませんでした。」

「なにも書いてない。」と、将軍はしばらく考えていたが、やがて、しずかにうなずいた。「なるほど、そうだったかも知れない。それは気の毒なことをした。では、その代りにこれを上げよう。」

前に貰ったのよりも遥かに上等な扇子に、将軍が手ずから七言絶句しちごんぜっくを書いたのをくれたので、張訓はよろこんで頂戴して帰って、自慢らしく妻にみせると、妻もおなじように喜んだ。

「それだから、わたくしが言ったのです。将軍はなかなか物覚えのいいかたですから。」

「そうだ、まったく物覚えがいい。大勢のなかで、どうして白扇がおれの手にはいったことを知っていたのかな。」

そうは言っても、別に深く詮索せんさくするほどのことではないので、それはまずそのままで済んでしまった。それから半年ほど経つと、かの闖賊ちんぞくという怖ろしい賊軍が蜂起して、江北は大いに乱れて来たので、南方でも警戒しなければならない。太平が久しくつづいて、誰も武具の用意が十分であるまいというので、将軍から部下の者一同に鎧一着ずつを分配してくれることになった。張訓もその分配をうけたが、その鎧がまた悪い。古い鎧が破れている。それをかかえて、家へ帰って、またもや妻に愚痴をこぼした。

「こんなものが、大事のときの役に立つものか。いっそ紙の鎧を着た方がましだ。」

すると、妻はまた慰めるように言った。

「それは将軍が一々あらためて渡したわけでもないでしょうから、あとで気がつけばきっと取換えて下さるでしょう。」

「そうかも知れないな。いつかの扇子の例もあるから。」

そう言っていると、果して二、三日の後に、張訓は将軍のまえに呼び出されて、この間の鎧はどうであったかと、また訊きかれた。張訓はやはり正直に答えると、将軍は子細ありげに眉をよせて、張の顔をじっと眺めていたが、やがて詞ことばをあらためて訊いた。

「おまえの家では何かの神を祭っているか。」

「いえ、一向に不信心でございまして、なんの神ほとけも祭っておりません。」

「どうも不思議だな。」

将軍のひたいの皺はいよいよ深くなった。そのうちに何を思い付いたか、かれはまた訊いた。

「おまえの妻はどんな女だ。」

突然の問いに、張訓はいささか面喰らったが、これは隠すべき筋でもないので、正直に自分の妻の年頃や人相などを申立てると、将軍は更に訊いた。

「そうして、右の眉の下に大きいほくろはないか。」

「よく御存じで……。」と、張訓もおどろいた。

「むむ、知っている。」と、将軍は大きくうなずいた。「おまえの妻はこれまで、二度もおれの枕もとへ来た。」

驚いて、呆れて、張訓はしばらく相手の顔をぼんやりと見つめていると、将軍も不思議そうにその子細を説明して聞かせた。

「実は半年ほど前に、おまえ達を呼んでおれの扇子をやったことがある。その明くる晩のことだ。ひとりの女がおれの枕もとへ来て、昨日張訓に下さいました扇子は白扇でございました。どうぞ御直筆のものとお取換えをねがいますと、言うかと思うと夢がさめた。そこで、念のためにお前をよんで訊いてみると、果してその通りだという。そのときにも少し不思議に思ったが、まずそのままにしておくと、またぞろその女がゆうべも来て、先日張訓に下さいました鎧は朽ち破れていて物の用にも立ちません。どうぞしかるべき品とお取換えをねがいますと言う。そこで、おまえに訊いてみると、今度もまたその通りだ。あまりに不思議がつづくので、もしやと思って詮議すると、その女はまさしくお前の妻だ。年ごろといい、人相といい、眉の下のほくろまでが寸分違たがわないのだから、もう疑う余地はない。おまえの妻はいったいどういう人間だか知らないが、どうも不思議だな。」

子細をきいて、張訓もいよいよ呆れた。

「まったく不思議でございます。よく詮議をいたしてみましょう。」

「いずれにしても鎧は換えてやる。これを持ってゆけ。」

将軍から立派な鎧をわたされて、張訓はそれをかかえて退出したが、頭はぼんやりして半分は夢のような心持であった。三年越し連れ添って、なんの変ったこともない貞淑な妻が、どうしてそんな事をしたのか。さりとて将軍の詞に嘘があろうとは思われない。家へ帰る途中でいろいろ考えてみると、なるほど思い当ることがある。半年前の扇子の時にも、今度の鎧の問題にも、妻はいつでも先を見越したようなことを言って自分を慰めてくれる。それがどうもおかしい。たしかに不思議だ。これは一と詮議しなければならないと、張訓は急いで帰ってくると、妻はその鎧を眼早く見つけてにっこり笑った。

その可愛らしい笑い顔は鬼とも魔とも変化へんげとも見えないので、張訓はまた迷った。しかし彼のうたがいはまだ解けない。殊に将軍の手前に対しても、なんとかこの解決を付けなければならないと思ったので、かれは妻を一と間まへ呼び込んで、まずその夢の一条を話すと、妻も不思議そうな顔をして聞いていた。そうして、こんなことを言った。

「いつかの扇子のときも、今度の鎧についても、あなたは大層心もちを悪くしておいでのようでしたから、どうかしてお心持の直るようにして上げたいと、わたくしも心から念じていました。その真心が天に通じて、自然にそんな不思議があらわれたのかも知れません。わたくしも自分の念がとどいて嬉しゅうございます。」

そう言われてみると、夫もその上に踏み込んで詮議の仕様もない。唯わが妻のまごころを感謝するほかはないので、結局その場はうやむやに済んでしまったが、張訓はどうも気が済まない。その後も注意して妻の挙動をうかがっているうちに、前にも言う通りのわけで世の中はだんだんに騒がしくなる。将軍も軍務に忙しいので、張訓の妻のことなどを詮議してもいられなくなった。張訓もまた自分の務めが忙しいので、朝は早く出て、夕はおそく帰る。こうして半月あまりを暮らしていると、五月にはいって梅雨が毎日ふり続く。それも今日はめずらしく午後から小やみになって、夕方には薄青い空の色がみえて来た。

張訓も今日はめずらしく自分の仕事が早く片付いて、まだ日の暮れ切らないうちに帰ってくると、いつもはすぐに出迎えをする妻がどうしてか姿をみせない。内へはいって庭の方をふとみると、庭の隅には大きい柘榴ざくろの木があって、その花は火の燃えるように紅く咲きみだれている。妻はその花の蔭に身をかがめて、なにか一心にながめているらしいので、張訓はそっと庭に降り立って、ぬき足をして妻のうしろに近寄ると、柘榴の木の下には大きいがまが傲然としてうずくまっている。その前に酒壺をそなえて、妻は何事をか念じているらしい。張訓はこの奇怪なありさまに胸をとどろかしてなおも注意して窺うと、そのがまは青い苔のような色をして、しかも三本足であった。

それが例の青蛙であることを知っていたら、何事もなしに済んだかも知れなかったが、張訓は武人で、青蛙神も金華将軍もなんにも知らなかった。かれの眼に映ったのは自分の妻が奇怪な三本足のがまを拝している姿だけである。このあいだからの疑いが初めて解けたような心持で、かれはたちまちに自分の剣をぬいたかと思うと、若い妻は背中から胸を突き透されて、ほとんど声を立てる間もなしに柘榴の木の下に倒れた。その死骸の上に紅い花がはらはらと散った。

張訓はしばらく夢のように突っ立っていたが、やがて気がついて見まわすと、三本足のがまはどこへか姿を隠してしまって、自分の足もとにころげているのは妻の死骸ばかりである。それをじっと眺めているうちに、かれは自分の短慮を悔むような気にもなった。妻の挙動は確かに奇怪なものに相違なかったが、ともかくも一応の詮議をした上で、生かすとも殺すとも相当の処置を取るべきであったのに、一途いちずにはやまって成敗してしまったのはあまりに短慮であったとも思われた。しかし今更どうにもならないので、かれは妻のなきがらの始末をして、翌日それをひそかに将軍に報告すると、将軍はうなずいた。

「おまえの妻はやはり一種の鬼であったのだ。」

二

それから張訓の周囲にはいろいろの奇怪な出来事が続いてあらわれた。かれの周囲にはかならず三本足のがまが付きまとっているのである。室内にいれば、その榻とうのそばに這っている。庭に出れば、その足もとに這って来る。外へ出れば、やはりそのあとから付いてくる。あたかも影の形にしたがうが如きありさまで、どこへ行ってもかれのある所にはかならず、青いがまのすがたを見ないことはない。それも最初は一匹であったが、後には二匹となり、三匹となり、五匹となり、十匹となり、大きいのもあれば小さいのもある。それがぞろぞろと繋つながって、かれのあとを付けまわすので、張訓も持てあました。

その怪しいがまの群れは、かれに対して別に何事をするのでもない。唯のそのそと付いて来るだけのことであるが、何分にも気味がよくない。もちろん、それは張訓の眼にみえるだけで、ほかの者にはなんにも見えないのである。かれも堪らなくなって、ときどきに剣をぬいて斬り払おうとするが、一向に手ごたえがない。ただ自分の前にいたがまがうしろに位置をかえ、左にいたのが右に移るに過ぎないので、どうにもこうにもそれを駆逐する方法がなかった。

そのうちに彼らはいろいろの仕事をはじめて来た。張訓が夜寝ていると大きいがまがその胸のうえに這いあがって、息が止るかと思うほどに強く押し付けるのである。食卓にむかって飯を食おうとすると、小さい青いがまが無数にあらわれて、皿や椀のなかへ片っ端から飛込むのである。それがために夜もおちおちは眠られず、飯も碌々には食えないので、張訓も次第に痩せおとろえて半病人のようになってしまった。それが人の目に立つようにもなったので、かれの親友の羊得というのが心配して、だんだんその事情を聞きただした上で、ある道士をたのんで祈祷を行なってもらったが、やはりその効はみえないで、がまは絶えず張訓の周囲に付きまとっていた。

一方、かの闖賊ちんぞくは勢いますます猖獗しょうけつになって、都もやがて危いという悲報が続々来るので、忠節のあつい将軍は都へむけて一部隊の援兵を送ることになった。張訓もその部隊のうちに加えられた。病気を申立てて辞退したらよかろうと、羊得はしきりにすすめたが、張訓は肯かずに出発することにした。かれは武人気質かたぎで、報国の念が強いのと、もう一つには、得体えたいも知れないがまの怪異に悩まされて、いたずらに死を待つよりも帝城のもとに忠義の死屍を横たえた方が優ましであるとも思ったからであった。かれは生きて再び還らない覚悟で、家のことなども残らず始末して出た。羊得も一緒に出発した。

その一隊は長江を渡って、北へ進んでゆく途中、ある小さい村落に泊ることになったが、人家が少ないので、大部分は野営した。柳の多い村で、張訓も羊得も柳の大樹の下に休息していると、初秋の月のひかりが鮮あざやかに鎧の露を照らした。張訓の鎧はかれの妻が将軍の夢まくらに立って、とりかえてもらったものである。そんなことを考えながらうっとりと月を見あげていると、そばにいる羊得が訊いた。

「どうだ。例のがまはまだ出て来るか。」

「いや、江を渡ってからは消えるように見えなくなった。」

「それはいいあんばいだ。」と、羊得もよろこばしそうに言った。

「こっちの気が張っているので、妖怪も付け込むすきがなくなったのかも知れない。やっぱり出陣した方がよかったな。」

そんなことを言っているうちに、張訓は俄かに耳をかたむけた。

「あ、琵琶の音ねがきこえる。」

それが羊得にはちっともきこえないので、大方おまえの空耳であろうと打ち消したが、張訓はどうしても聞えると言い張った。しかもそれは自分の妻の撥音ばちおとに相違ない、どうも不思議なこともあるものだと、かれはその琵琶の音にひかれるように、弓矢を捨ててふらふらとあるき出した。羊得は不安に思って、あわててそのあとを追って行ったが、張の姿はもう見えなかった。

「これは唯事でないらしい。」

羊得は引っ返して三、四人の朋輩を誘って、明るい月をたよりにそこらを尋ねあるくと、村を出たところに古い廟があった。あたりは秋草に掩われて、廟の軒も扉もおびただしく荒れ朽ちているのが月の光りに明らかに見られた。虫の声は雨のようにきこえる。もしやと思って草むらを掻きわけて、その廟のまえまで辿りつくと、さきに立っている羊得があっと声をあげた。

廟の前にはがまのような形をした大きい石が蟠わだかまっていて、その石の上に張訓の兜が載せてあった。そればかりでなく、その石の下には一匹の大きい青いがまがあたかもその兜を守るが如くにうずくまっているのを見たときに、人々は思わず立ちすくんだ。羊得はそれが三本足であるかどうかを確かめようとする間もなく、がまのすがたは消えるように失せてしまった。人々は言い知れない恐怖に打たれて、しばらく顔を見合せていたが、この上はどうしても廟内を詮索しなければならないので、羊得は思い切って扉をあけると、他の人々も怖々ながら続いてはいった。

張訓は廟のなかに冷たい体を横たえて、眠ったように死んでいた。おどろいて介抱したが、かれはもうその眠りから醒めなかった。よんどころなくその死骸を運んで帰って、一体あの廟には何を祭ってあるのかと村のものに訊くと、単に青蛙神の廟であると言い伝えられているばかりで、誰もその由来を知らなかった。廟内はまったく空虚で何物を祭ってあるらしい様子もなく、この土地でも近年は参詣する者もなく、ただ荒れるがままに打ち捨ててあるのだということであった。青蛙神――それが何であるかを羊得らも知らなかったが、大勢の兵卒のうちに杭州出身の者があって、その説明によって初めてその子細が判った。張訓の妻が杭州の生れであることは羊得も知っていた。

「これで、このお話はおしまいです。そういうわけですから、皆さんもこの青蛙神に十分の敬意を払って、怖るべき祟りをうけないよう御用心をねがいます。」

こう言い終って、星崎さんはハンカチーフで口のまわりを拭きながら、床の間の大きいがまを見かえった。

利根とねの渡わたし

一

星崎さんの話のすむあいだに、また三、四人の客が来たので座敷はほとんどいっぱいになった。星崎さんを皮切りにして、これらの人々が代る代るに一席ずつの話をすることになったのであるから、まったく怪談の惣仕舞そうじまいという形である。勿論、そのなかには紋切形のものもあったが、なにか特色のあるものだけを私はひそかに筆記しておいたので、これから順々にそれを紹介したいと思う。

しかし初対面の人が多いので、一度その名を聞かされただけでは、どの人が誰であったやら判然はっきりしないのもある。またその話の性質上、談話者の姓名を発表するのを遠慮しなければならないような場合もあるので、皮切りの星崎さんは格別、ほかの人々の姓名はすべて省略して、単に第二の男とか第三の女とかいうことにしておきたい。

そこで、第二の男は語る。

享保きょうほの初年である。利根川のむこう河岸がし、江戸の方角からいえば奥州寄りの岸のほとりに一人の座頭ざとうが立っていた。坂東太郎という利根の大河もここは船渡しで、江戸時代には房川ぼうかわの渡しと呼んでいた。奥州街道と日光街道との要所であるから、栗橋の宿しゅくには関所がある。その関所をすぎて川を渡ると、むこう河岸は古河の町で、土井家八万石の城下として昔から繁昌している。かの座頭はその古河の方面の岸に近くたたずんでいるのであった。

座頭が利根川の岸に立っている。――ただそれだけのことならば格別の問題にもならないかも知れない。かれは年のころ三十前後で、顔色の蒼黒い、口のすこしゆがんだ、痩形の中背の男で、夏でも冬でも浅黄の頭巾ずきんをかぶって、草鞋わらじばきの旅すがたをしているのであるが、朝から晩までこの渡し場に立ち暮らしているばかりで、かつて渡ろうとはしない。

相手が盲人であるから、船頭は渡し賃を取らず渡してやろうと言っても、彼は寂しく笑いながら黙って頭かぶりをふるのである。それも一日や二日のことではなく、一年、二年、三年、雨風をいとわず、暑寒を嫌わず、彼はいかなる日でもかならずこの渡し場にその痩せた姿をあらわすのであった。

こうなると、船頭どもも見のがすわけにはいかない。一体なんのために毎日ここへ出てくるのかと、しばしば聞きただしたが、座頭はやはり寂しく笑っているばかりで、さらに要領を得るような返事をあたえなかった。しかし彼の目的は自然に覚られた。

奥州や日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅びとは栗橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗り降りの旅人を座頭は一々に詮議しているのである。

「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」

野村彦右衛門――侍らしい苗字であるが、そういう人はかつて通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかかさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。

「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」

こうした質問も船頭どもからしばしばくり返されたが、彼はただいつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。彼は元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮らしていながら、顔は見えずとも声だけはもう聞き慣れているはずの船頭どもに対しても、かつて馴れなれしい詞ことばを出したことはなかった。こちらから何か話しかけても、彼は黙って笑うかうなずくかで、なるべく他人ひととの応答を避けているようにもみえるので、船頭どもも後には馴れてしまって、彼に向って声をかける者もない。彼も結局それを仕合せとしているらしく、毎日ただひとりで寂しくたたずんでいるのであった。

いったい彼はどこに住んで、どういう生活をしているのかそれも判らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざわざそのあとを付けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。ここの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだここに立ち暮らして、渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩までこうしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という爺じいさんが余りに気の毒に思って、あるとき大きい握り飯を二つこしらえてやると、その時ばかりは彼も大層よろこんでその一つを旨そうに食った。そうして、その礼だと言って一文銭を平助に出した。もとより礼を貰う料簡もないので、平助はいらないと断ったが、彼は無理に押付けて行った。

それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえてやると、彼はきっと一文の銭を置いて行く。いくら物価の廉やすい時代でも、大きい握り飯ひとつの値が一文では引合わないわけであるが、平助の方では盲人に対する一種の施しと心得て、毎日こころよくその握り飯をこしらえてやるばかりでなく、湯も飲ませてやる、炉の火にもあたらせてやる。こうした親切が彼の胸にもしみたと見えて、ほかの者とはほとんど口をきかない彼も、平助じいさんだけには幾分か打解けて暑さ寒さの挨拶をすることもあった。

往来のはげしい街道であるから、渡し船は幾艘も出る。しかし他の船頭どもは夕方から皆めいめいの家へ引揚げてしまって、この小屋に寝泊りをしているのは平助じいさんだけであるので、ある時彼は座頭に言った。

「お前さんはどこから来るのか知らないが、眼の不自由な身で毎日往ったり来たりするのは難儀だろう。いっそ、この小屋に泊ることにしたらどうだ。わたしのほかには誰もいないのだから遠慮することはない。」

座頭はしばらく考えた後に、それではここに泊らせてくれと言った。平助はひとり者であるから、たとい盲目でも話し相手の出来たのを喜んで、その晩から自分の小屋に泊らせて、出来るだけの面倒をみてやることにした。こうして、利根の川端かわばたの渡し小屋に、老いたる船頭と身許不明の盲人とが、雨のふる夜も風の吹く夜も一緒に寝起きするようになって、ふたりの間はいよいよ打解けたわけであるが、とかくに無口の座頭はあまり多くは語らなかった。勿論、自分の来歴や目的については、堅く口を閉じていた。平助の方でも無理に聞き出そうともしなかった。しいてそれを詮議すれば、彼はきっとここを立去ってしまうであろうと察したからである。

それでも唯一度、なにかの夜話のついでに、平助は彼に訊きいたことがあった。

「お前さんはかたき討かえ。」

座頭はいつもの通りにさびしく笑って頭かぶりをふった。その問題もそれぎりで消えてしまった。

平助じいさんが彼を引取ったのは、盲人に対する同情から出発していたには相違なかったが、そのほかに幾分かの好奇心も忍んでいたので、彼は同宿者の行動に対してひそかに注意の眼をそそいでいたが、別に変ったこともないようであった。座頭は朝から夕まで渡し場へ出て、倦うまず怠らずに野村彦右衛門の名を呼びつづけていた。

平助は毎晩一合の寝酒で正体もなく寝入ってしまうので、夜半よなかのことはちっとも知らなかったが、ある夜ふけにふと眼をさますと、座頭は消えかかっている炉の火をたよりに、何か太い針のようなものを一心に磨といでいるようであったが、人一倍に勘かんのいいらしい彼は、平助が身動きしたのを早くも覚って、たちまちにその針のようなものを押隠した。

その様子がただならないようにみえたので、平助は素知らぬ顔をして再び眠ってしまったが、その夜半にかの盲人がそっと這い起きて来て、自分の寝ている上に乗りかかって、かの針のようなものを左の眼に突き透すとみて、夢が醒めた。そのうなされる声に座頭も眼をさまして、探りながらに介抱してくれた。平助はその夢についてなんにも語らなかったが、その以来なんとなくかの座頭が怖ろしくなって来た。

彼はなんのために針のようなものを持っているのか、盲人の商売道具であるといえばそれまでであるが、あれほどに太い針を隠し持っているのは少しく不似合いのことである。あるいは偽盲にせめくらで実は盗賊のたぐいではないかなどと平助は疑った。いずれにしても彼を同宿させるのを平助は薄気味悪く思うようになったが、自分の方から勧めて引入れた以上、今更それを追出すわけにもいかないので、まずそのままにしておくと、ある秋の宵である。

この日は昼から薄寒い雨がふりつづいて、渡しを越える人も少なかったが、暮れてはまったく人通りも絶えた。河原には水が増したらしく、そこらの石を打つ音が例よりも凄まじく響いた。小屋の前の川柳に降りそそぐ雨の音も寂しくきこえて、馴れている平助もおのずと佗しい思いを誘い出されるような夜であった。肌寒いので炉の火を強く焚いて、平助は宵から例の一合の酒をちびりちびりと飲みはじめると、ふだんから下戸だといっている座頭は黙って炉の前に坐っていた。

「あ。」

座頭はやがて口のうちで言った。それに驚かされて、平助も思わず顔をあげると、小屋の外には何かぴちゃぴちゃいう音が雨のなかにきこえた。

「何かな。魚かな。」と、座頭は言った。

「そうだ。魚だ。」と、平助は起たちあがった。「この雨で水が殖えたので、なにか大きい奴が跳ねあがったと見えるぞ。」

平助はそこにかけてある蓑みのを引っかけて、小さい掬すくい網を持って小屋を出ると、外には風まじりの雨が暗く降りしきっているので、いつもほどの水明かりも見えなかったが、その薄暗い岸の上に一尾ぴきの大きい魚の跳ねまわっているのが、おぼろげにうかがわれた。

「ああ、鱸すずきだ。こいつは大きいぞ。」

鱸は強い魚であることを知っているので、平助も用心して抑えにかかったが、魚は予想以上に大きく、どうしても三尺を越えているらしいので、小さい網では所詮しょせん掬うことは出来そうもなかった。うっかりすると網を破られるおそれがあるので、彼は網を投げすててその魚をだこうとすると、魚は尾鰭を振って自分の敵を力強く跳ね飛ばしたので、平助は湿ぬれている草にすべって倒れた。

その物音を聞きつけて座頭も表へ出て来たが、盲目の彼は暗いなかを恐れるはずはなかった。彼は魚の跳ねる音をたよりに探り寄ったかと思うと、難なくそれを取抑えてしまったので、盲人として余りに手際てぎわがよいと、平助はすこし不思議に思いながら、ともかくも大きい魚を小屋の内へかかえ込むと、それは果して鱸であった。鱸の眼には右から左へかけて太い針が突き透されているのを見たときに、平助は何とはなしにぞっとした。魚は半死半生に弱っていた。

「針は魚の眼に刺さっていますか。」と、座頭は訊いた。

「刺さっているよ。」と、平助は答えた。

「刺さりましたか、確かに、眼玉のまん中に……。」

見えない眼をむき出すようにして、座頭はにやりと笑ったので、平助はまたぞっとした。

二

盲人は勘かんのよいものである。そのなかでもこの座頭は非常に勘のよいらしいことを平助もかねて承知していたが、今夜の手際てぎわをみせられて彼はいよいよ舌をまいた。もとより盲人であるから、暗いも明るいも頓着はあるまいが、それにしてもこの暗い雨のなかで、勢いよく跳ねまわっている大きい魚をつかまえて、手探りながらにその眼のまっ只中を突き透したのは、世のつねの手練でない。彼が人の目を忍んで磨ぎすましているあの針が、これほどの働きをするかと思うと、幾たびかうなされた。

「とんだ者を引摺り込んでしまった。」

平助は今さら後悔したが、さりとて思い切って彼を追い出すほどの勇気もなかった。却ってその後は万事に気をつけて、その御機嫌を取るように努めているくらいであった。

座頭がこの渡し場にあらわれてから足かけ三年、平助の小屋に引取られてから足かけ二年、あわせて丸四年ほどの年月が過ぎたのちに、彼は春二月のはじめ頃から風邪かぜのここちで患わずらい付いた。それは余寒の強い年で、日光や赤城から朝夕に吹きおろして来る風が、広い河原にただ一軒のこの小屋を吹き倒すかとも思われた。その寒いのもいとわずに、平助は古河の町まで薬を買いに行って、病んでいる座頭に飲ませてやった。

そんなからだでありながら、座頭は杖にすがって渡し場へ出てゆくことを怠らなかった。

「この寒いのに、朝から晩まで吹きさらされていては堪たまるまい。せめて病気の癒るまでは休んではどうだね。」

平助は見かねて注意したが、座頭はどうしても肯きかなかった。日ましに痩せ衰えてくる体を一本の杖にあやうく支えながら、彼は毎日とぼとぼと出て行ったが、その強情もとうとう続かなくなって、朝から晩まで小屋のなかに倒れているようになった。

「それだから言わないことではない。まだ若いのに、からだを大事にしなさい。」と、平助じいさんは親切に看病してやったが、彼の病気はいよいよ重くなって行くらしかった。

渡し場へ出られなくなってから、座頭は平助にたのんで毎日一尾ぴきずつの生きた魚を買って来てもらった。冬から春にかけては、ここらの水も枯れて川魚も捕れない。海に遠いところであるから、生きた海魚などはなおさら少ない。それでも平助は毎日さがしてあるいて、生きた鯉や鮒や鰻などを買ってくると、座頭はかの針をとり出して一尾ずつその眼を貫いて捨てた。殺してしまえば用はない、あとは勝手に煮るとも焼くともしてくれと言ったが、座頭の執念のこもっているようなその魚を平助はどうも食う気にはなれないので、いつもそれを眼の前の川へ投げ込んでしまった。

一日に一尾、生きた魚の眼を突き潰しているばかりでなく、さらに平助をおどろかしたのは、座頭がその魚を買う代金として五枚の小判を彼に渡したことである。午飯ひるめしに握り飯一つを貰っていた頃には、毎日一文ずつの代を支払っていたが、小屋に寝起きをするようになってからは、平助と一つ鍋で三度の飯を食っていながら、座頭は一文の金をも払わなくなった。勿論、平助の方でも催促しなかった。座頭は今になってそれを言い出して、お前さんにはたくさんの借りがある。ついてはわたしの生きているあいだはこの金で魚を買って、残った分は今までの食料として受取ってくれと言った。あしかけ二年の食料といったところで知れたものである。それに対して五枚の小判を渡されて、平助は胆きもをつぶしたが、ともかくもその言う通りにあずかっておくと、座頭は半月ばかりの後にいよいよ弱り果てて、きょうかあすかという危篤の容体になった。

旧暦の二月、あしたは彼岸の入りというのに、ことしの春の寒さは身にこたえて、朝から吹き続けている赤城颪あかぎおろしは、午過ぎから細かい雪さえも運び出して来た。時候はずれの寒さが病人に障ることを恐れて、平助は例よりも炉の火を強く焚いた。渡しが止まって、ほかの船頭どもは早々に引揚げてしまうと、春の日もやがて暮れかかって、雪はさのみにも降らないが、風はいよいよ強くなった。それが時々にごうごうと吼ほえるように吹きよせて来ると、古い小屋は地震のようにぐらぐらと揺れた。

その小屋の隅に寝ている座頭は弱い声で言った。

「風が吹きますね。」

「毎日吹くので困るよ。」と、平助は炉の火で病人の薬を煎じながら言った。「おまけに今日はすこし雪が降る。どうも不順な陽気だから、お前さんなんぞは尚さら気をつけなければいけないぞ。」

「ああ、雪が降りますか。雪が……。」と、座頭は溜息をついた。「気をつけるまでもなく、わたしはもうお別れです。」

「そんな弱いことを言ってはいけない。もう少し持ちこたえれば陽気もきっと春めいて来る。暖かにさえなれば、お前さんのからだも、自然に癒るにきまっている。せいぜい今月いっぱいの辛抱だよ。」

「いえ、なんと言って下すっても、わたしの寿命はもう尽きています。しょせん癒るはずはありません。どういう御縁か、お前さんにはいろいろのお世話になりました。つきましては、わたしの死にぎわに少し聴いておいてもらいたいことがあるのですが……。」

「まあ、待ちなさい。薬がもう出来た時分だ。これを飲んでからゆっくり話しなさい。」

平助に薬をのませてもらって、座頭は風の音に耳をかたむけた。

「雪はまだ降っていますか。」

「降っているようだよ。」と、平助は戸の隙間から暗い表をのぞきながら答えた。

「雪のふるたびに、むかしのことがひとしお身にしみて思い出されます。」と、座頭はしずかに話し出した。

「今まで自分の名をいったこともありませんでしたが、わたしは治平といって、以前は奥州筋のある藩中に若党わかとう奉公をしていた者です。わたしがここへ来たのは三十一の年で、それから足かけ五年、今年は三十五になりますが、今から十三年前、わたしが二十二の春、やはり雪の降った寒い日にこの両方の眼をなくしてしまったのです。わたしの主人は野村彦右衛門といって、その藩中でも百八十石取りの相当な侍で、そのときは二十七歳、御新造ごしんぞはお徳さんといって、わたしと同年の二十二でした。御新造は容貌きりょう自慢……いや、まったく自慢してもいいくらいの容貌よしで、武家の御新造としてはちっと派手過ぎるという評判でしたが、御新造はそんなことに頓着なく、子供のないのを幸いにせいぜい派手に粧つくっていました。その美しい女振りを一つ屋敷で朝に晩に見ているうちに、わたしにも抑え切れない煩悩ぼんのうが起りました。相手は人妻、しかも主人、とてもどうにもならないことは判り切っているのですが、それがどうしても思い切れないので、自分でも気がおかしくなったのではないかと思われるように、ただ無暗にいらいらして日を送っていると、忘れもしない正月の二十七日、この春は奥州にめずらしく暖かい日がつづいたのですが、前の晩から大雪がふり出してたちまちに二尺ほども積もってしまいました。雪国ですから雪に驚くこともありません。ただそのままにしておいてもよいのですが、せめて縁さきに近いところだけでも掃きよせておこうと思って、わたしは箒ほうきを持って庭へ出ると、御新造はこの雪で持病の癪気しゃくけが起ったということで、六畳の居間で炬燵こたつにあたっていましたが、わたしの箒の音をきいて縁さきの雨戸をあけて、どうで積もると決まっているものをわざわざ掃くのは無駄だからやめろというのです。それだけならばよかったのですが、さぞ寒いだろう、ここへ来て炬燵にあたれと言ってくれました。相手は冗談半分に言ったのでしょうが、それを聞いてわたしは無暗に嬉しくなりまして、からだの雪を払いながら半分は夢中で縁側へあがりました。灰のような雪が吹き込むので、すぐに雨戸をしめて炬燵のそばへはいり込むと、御新造はわたしの無作法に呆れたようにただ黙ってながめていました。まったくその時にはわたしも気が違っていたのでしょう。」

死にかかっている座頭の口から、こんな色めいた話を聞かされて、平助じいさんも意外に思った。

三

座頭はまた語りつづけた。

「わたしはこの途ずを外してはならないと思って、ふだんから思っていることを一度にみんな言ってしまいました。家来に口説かれて、御新造はいよいよ呆れたのかも知れません。やはりなんにも言わずに坐っているので、わたしは焦れ込んでその手を捉えようとすると、御新造は初めて声を立てました。その声を聞きつけて、ほかの者も駈けて来て、有無うむをいわさずに私を縛りあげて、庭の立木につないでしまいました。両手をくくられて、雪のなかにさらされて、所詮しょせんわが命はないものと覚悟していると、やがて主人は城から退さがって来ました。主人は子細を聞いて、わたしを縁先へ引出させて、貴様のような奴を成敗するのは刀の汚れだから免ゆるしてやるが、左様な不埒な料簡をおこすというのも、畢竟ひっきょうはその眼が見えるからだ。今後ふたたび心得違いをいたさぬように貴様の眼だまをつぶしてやると言って、小柄こづかをぬいてわたしの両方の眼を突き刺しました。」

今もその眼から血のなみだが流れ出すように、座頭は痩せた指で両方の眼をおさえた。平助もこのむごたらしい仕置しおきに身ぶるいして、自分の眼にも刃物を刺されたように痛んで来た。彼は溜息をつきながら訊いた。

「それからどうしなすった。」

「にわか盲にされて放逐されて、わたしは城下の親類の家へ引渡されました。命には別条なく、疵の療治も済みましたが、にわか盲ではどうすることも出来ません。宇都宮に知りびとがあるので、そこへ頼って行って按摩の弟子になりまして、それからまた江戸へ出て、ある検校けんぎょうの弟子になりました。二十二の春から三十一の年まで足かけ十年、そのあいだに一日でも仇かたきのことを忘れたことはありませんでした。仇は元の主人の野村彦右衛門。いっそ一と思いに成敗するならば格別、こんなむごたらしい仕置をして、人間ひとりを一生の不具者にしたかと思うと、どうしてもその仇を取らなければならない。といって、相手は立派な侍で、武芸も人並以上にすぐれていることを知っていますから、眼のみえない私が仇を取るにはどうしたらよいか、いろいろ考え抜いた揚句に、思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の太いのをこしらえておいて、不意に飛びかかってその眼玉を突く。そう決めてから、暇ひまさえあれば針で物を突く稽古をしていると、人の一心はおそろしいもので、しまいには一本の松葉でさえも狙いをはずさずに突き刺すようになりましたが、さて今度はその相手に近寄る手だてに困りました。彦右衛門は屋敷の用向きで江戸と国許のあいだをたびたび往復することを知っていましたので、この渡し場に待っていて、船に乗るか、船から降りるか、そこを狙って本意を遂げようと、師匠の検校には国へ帰るといって暇を貰いまして、ここへ来ましてから足かけ五年、毎日根気よく渡し場へ出て行って、上のぼり下くだりの旅人を一々にあらためていましたが、野村とも彦右衛門ともいう者にどうしても出逢わないうちに、自分の命が終ることになりました。いや、こんなことは自分の胸ひとつに納めておけばよいのですが、誰かに一度は話しておきたいような気もしましたので、とんだ長話をしてしまいました。かえすがえすもお前さんには御世話になりました。あらためてお礼を申します。」

言うだけのことを言ってしまって、彼はにわかに疲労したらく、そのまま横向きになって木枕に顔を押し付けた。平助も黙って自分の寝床にはいった。

夜半から雪もやみ、風もだんだんに吹きやんで、この一軒家をおどろかすものもなかった。利根の川水も凍ったように、流れの音を立てなかった。

河原の朝は早く明けて、平助はいつもの通りに眼をさますと、病人はしずかに眠っているらしかった。あまり静かなので、すこし不安に思って覗いてみると、座頭はかの針で自分の頸くびすじを突いていた。多年その道の修業を積んでいるので、彼は脈どころの急所を知っていたらしく、ただ一本の針で安々と死んでいるのであった。

他の船頭どもにも手伝ってもらって、平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、かの針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて永代えいたいの回向えこう料としてその寺に納めてしまった。

それから六年、かの座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に霖雨りんうが降りつづいたので、利根川は出水して沿岸の村々はみな浸された。平助の小屋も押し流された。それがために房川の船渡しは十日あまりも止っていたが、九月になって秋晴れの日がつづいたので、ようやく船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とにつかえていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて、さきを争って一度に乗り出した。

「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとうに引いていねえのに、どの船もみんないっぱいだからな。」

平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一艘の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横波のあおりをうけて、あれという間に転覆した。平助のいう通り水はまだほんとうに引いていないので、船頭どものほかにも村々の若い者らが用心のために出張でばっていたので、それを見ると皆ばらばらと飛び込んで、あわや溺れそうな人々を見あたり次第に救い出して、もとの岸へかつぎあげた。手当を加えられて、どの人もみな正気にかえったが、そのなかでただひとりの侍はどうしても生きなかった。身なりも卑しくない四十五六の男で、ふたりの供を連れていた。

供の者はいずれも無事で、その二人の口から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも禍わざわいに逢ったのである。盲目同様であるから、道中は駕籠に乗せられて、ふたりの家来にたすけられて来たのであるが、この場合、相当に水練の心得もあるはずの彼がどうして自分ひとり溺死したかと、家来も怪しむように語った。

それとはまたすこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪しんだ。ほかの乗合いがみんな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまたにわかにぞっとした。彼は供の家来にむかって、このお方には奥さまがあるかとひそかに訊くと、御新造さまは遠いむかしに御離縁になったと答えた。いつの頃にどういうことで離縁になったのか、そこまでは平助も押して訊くわけにはいかなかった。

旅先のことであるから、家来どもは主人のなきがらを火葬にして、遺骨を国許へ持ち帰ると言っていた。平助は近所の寺へまいって、かの座頭の墓にあき草の花をそなえて帰った。

兄妹きょうだいの魂たましい

一

第三の男は語る。

これは僕自身が逢着ほうちゃくした一種奇怪の出来事であるから、そのつもりで聴いてくれたまえ。僕の友だちの赤座という男の話だ。

赤座は名を朔郎といって、僕と同時に学校を出た男だ。卒業の後は東京で働くつもりであったが、卒業の半年ほど前に郷里の父が突然死んだので、彼はどうしても郷里へ帰って、実家の仕事を引嗣がなければならない事情ができて、学校を出るとすぐに郷里へ帰った。赤座の郷里は越後のある小さい町で、彼の父は○○教の講師というものを勤めていて、その支社にあつまって来る信徒たちに向ってその教義を講釈していたのであった。○○教の組織は僕もよく知らない。素人の彼が突然に郷里へ帰ってすぐに父の跡目を受嗣ぐことが出来るものかどうか、その辺の事情はくわしく判らなかったが、ともかくも彼が郷里へ帰ってから僕のところへよこした手紙によると、彼はとどこおりなく父のあとを襲って、○○教の講師というものになったらしい。

もっとも、彼は僕とおなじく文科の出身で、そういう家の伜だけに、ふだんから宗教についても相当の研究を積んでいたらしいから、まず故障なしに父の跡目相続が出来たのであろう。しかし彼はその仕事をあまり好んでいないらしく、仲のいい友だち七、八人が催した送別会の席上でも、どうしても一旦は帰らなければならない面倒な事情を話して、しきりに不平や愚痴をならべていた。

「なに、二、三年のうちに何とか解決をつけて、また出て来るよ。雪のなかに一生うずめられて堪るものか。」

こんなことを彼は言っていた。郷里へ帰った後もわれわれのところへ、手紙をしばしばよこして、いろいろの事情から容易に現在の職をなげうつことが出来ないなどと、ひどく悲観したようなことを書いて来た。

赤座の実家には老母と妹がある。このふたりの女は無論に○○教の信仰者で、右ひだりから無理に彼をおさえつけて、どうしてもその職を去ることを許さないらしい。それに対して、彼にも非常の煩悶はんもんがあったらしく、こんなことなら、なんのために生きているのか判らない。いっそ自分のあずかっている社やしろに火をつけて、自分も一緒に焼け死んでしまった方がましかも知れないなどと、ずいぶん過激なことを書いてよこしたこともあったように記憶している。送別会に列席した七、八人の友だちも職業や家庭の事情で皆それぞれに諸方へ散ってしまって、依然東京に居残っているものは村野という男と僕とたった二人、しかも村野はひどく筆不精ぶしょうな質たちで、赤座の手紙に対して三度に一度ぐらいしか返事をやらないので、自然に双方のあいだが疎うとくなって、しまいまで彼と手紙の往復をつづけているものは僕一人であったらしい。

赤座の手紙は、毎月一度ぐらいずつ必ず僕の手にとどいた。僕もその都度つどにかならず返事をかいてやった。こうして二年ほどつづいている間に、彼の心機はどう転換したものか、自分が現在の境遇に対して不満を訴えることが、だんだんに少なくなった。しまいには愚痴らしいことは一と言もいわず、むしろその教えのために自分の一生涯をささげようと決心しているらしくも思われた。○○教というのはどんな宗教か知らないが、ともかくも彼がその信仰によって生きることが出来れば幸いであると、僕もひそかによろこんでいた。

彼が郷里へ帰ってから三年目に母は死んだ。その後も妹と二人暮らしで、支社につづいた社宅のような家に住んでいることを僕は知っていた。それからまた二年目の三月に、彼は妹を連れて上京した。勿論、それは突然なことではなく、来年の春は教社の用向きでぜひ上京する。妹もまだ一度も東京を知らないから、見物ながら一緒につれてゆくということは、前の年の末から前触れがあったので、僕は心待ちに待っていると、果して三月の末に赤座の兄妹きょうだいは越後から出て来た。汽車の着く時間はわかっていたので、僕は上野まで出迎えにゆくと、彼が昔とちっとも変っていないのにまずおどろかされた。

○○教の講師を幾年も勤めているというのであるから、定めて行者ぎょうじゃかなんぞのように、長い髪でも垂れているのか、髯ひげでもぼうぼうと生やしているのか、冠のような帽子でもかぶっているのか、白い袴でも穿いているのか。――そんな想像はみんなはずれて、彼はむかし通りの五分刈り頭で、田舎仕立てながらも背広の新しい洋服を着て、どこにも変った点はちっとも見いだされなかった。ただ鼻の下にうすい髯ひげをたくわえたのが少しく彼をもったいらしく見せているだけで、彼はやはり学生時代とおなじように若々しい顔の持主であった。

「やあ。」

「やあ。」

こんな簡単な挨拶が交換された後に、彼は自分のそばに立っている小柄の娘を僕に紹介した。それが彼の妹の伊佐子というので、年は十九であるそうだが、いかにも雪国の女を代表したような色白のむすめで、可愛らしい小さい眼と細い眉とをもっていた。

「いい妹さんだね。」

「むむ。母がいなくなってから、家うちのことはみんな此女これに頼んでいるんだ。」と、赤座はにこにこしながら言った。

一緒に電車に乗って僕の家まで来るあいだにも、この兄妹が特別の親しみをもっているらしいことは僕にもよく想像された。それから約一カ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中から俄雨に出逢ったので、よんどころなしに或る料理屋へ飛び込んで、二時間ばかり雨やみを待っているあいだに、赤座は妹の身の上についてこんなことを話した。

「こんな者でも相応なところから嫁に貰いたいと申込んで来るが、何しろ此女これがいなくなると僕が困るからね。この女こも僕の家内がきまるまでは他へ縁付かないと言っている。ところで、僕の家内というのがまたちょっと見つからない。いや、今までにも二、三人の候補者を推薦されたが、どうも気に入ったのがないんでね。なにしろ、僕の家内という以上、どうしても同じ信仰をもった者でなければならない。身分や容貌きりょうなどはどうでもいいんだが、さてその信仰の強い女というのが容易に見あたらないので困っている。」

彼は最初の煩悶からまったく解脱げだつして、今ではその教義に自分の信仰を傾けているらしかった。しかし、とうてい教化の見込みはないと思ったのか、僕に対しては、その教義の宣伝を試みたことはなかった。東京の桜がみんな青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて上野を出発した。

それぎりで、僕はこの兄妹に出逢うことが出来なかったのか、それとも重ねて出逢っているのか、いまだに消えないその疑問が、この話の種だと思ってもらいたい。

二

郷里へ帰ると、赤座はすぐに長い礼状を書いてよこした。妹からも丁寧な礼状が来た。妹の方が赤座よりもずっと巧い字をかいているのを僕はおかしくも思った。その後も相変らず毎月一度ぐらいの音信たよりをつづけていたが、八月になって僕は上州の妙義山へのぼって、そこの宿屋で一と夏を送ることになった。妙義の絵葉書を赤座に送ってやると、兄妹から僕の宿屋へあてて、すぐに返事をよこした。暇があれば自分も妙義へ一度登ってみたいが、教務が多忙で思うにまかせないなどと、赤座の手紙には書いてあった。

九月のはじめに僕は一度東京へ帰ったが、妙義の宿がなんとなく気に入ったのと、東京の残暑はまだ烈しいのとで、いっそ紅葉の頃まで妙義にゆっくり滞在して、やりかけた仕事をみんな仕上げてしまおうと思い直して、僕はその準備をして再び妙義の宿へ引揚げた。妙義へ戻った翌あくる日に、僕は再び赤座のところへ絵葉書を送って、仕事の都合で十月の末ごろまではこっちに山籠りをするつもりだと言ってやった。しかしそれに対しては、兄からも妹からも何の返事もなかった。

十月のはじめに、僕は三たび赤座のところへ絵葉書を送ったが、これも返事を受取ることが出来なかった。赤座は教務でどこへか出張しているのかも知れない。それにしても、妹の伊佐子から何とか言って来そうなものだと思ったが、別に深くも気にとめないで、僕は自分の仕事の捗はかどるのを楽しみに、宿屋から借りた古机に毎日親しんでいた。その月も中ごろになると紅葉見物の登山客がふえて来た。ことに学生の修学旅行や、各地の団体旅行などが毎日幾組も登山するので、しずかな山の中もにわかに雑沓するようになったが、大抵はその日のうちに磯部へ下るか、松井田へ出るかして、ここに一泊する群れはあまり多くないので、夜はいつものように山風の音がさびしかった。

「お客さまがおいでになりました。」

宿の女中がこう言って来たのは、十月ももう終りに近い日の午後五時頃であった。その日は朝から陰っていて、霧だか細雨こさめだか判らないものが時どきに山の上から降って来て、山ふところの宿は急に冬の寒さに囲まれたように感じられた。丁度その時に僕は二階の座敷を降りて、入口に近いところに切ってある大きい炉の前に坐って、宿の者となにか例のおしゃべりをしている最中であったので、坐ったままで身体をねじむけて表の方を覗いてみると、入口に立っているのはかの赤座であった。彼は古ぼけた中折帽子をかぶって、洋服のズボンをまくりあげて、靴下の上に草鞋わらじを穿いて、手には木の枝をステッキ代りに持っていた。

「やあ。よく来たね。さあ、はいりたまえ。」

僕は片膝を立てながら声をかけると、赤座は懐かしそうな眼をして僕の方をじっと見ながら、そのまま引っ返して表の方へ出てゆくらしい。連れでも待たせてあるのかと思ったが、どうもそうではないらしいので、僕はすこし変に思ってすぐに起たって入口に出ると、赤座は見返りもしないで山の方へすたすた登ってゆく。僕はいよいよおかしく思ったので、そこにある宿屋の藁草履を突っかけて彼のあとを追って出た。

「おい、赤座君。どこへ行くんだ。おい、おい、赤座君。」

赤座は返事もしないで、やはり足を早めてゆく。僕は彼の名を呼びながら続いて追ってゆくと、妙義の社やしろのあたりで彼のすがたを見失ってしまった。陰った冬の日はもう暮れかかって、大きい杉の木立ちのあいだはうす暗くなっていた。僕は一種の不安に襲われながら、声を張りあげてしきりに彼の名を呼んでいると、杉のあいだから赤座は迷うように、ふらふらと出て来た。

「寒い、寒い。」と、彼は口の中で言った。

「寒いとも……。日が暮れたら急に寒くなる。早く宿へ来て炉の火にあたりたまえ。それとも先にお詣りをして行くのか。」

それには答えないで、彼は無言で右の手を僕のまえにつき出した。薄暗いなかで透かしてみると、その人差指と中指とに生血なまちがにじみ出しているらしかった。木の枝にでも突っかけて怪我をしたのだろうと察したので、僕は袂をさぐって原稿紙の反古ほごを出した。

「まあ、ともかくもこれで押さえておいて、早く宿へ来たまえよ。」

彼はやはりなんにも言わないで、僕の手からその原稿紙を受取って、自分の右の手の甲を掩ったかと思うと、またそのまますたすたあるき出した。あと戻りをするのではなく、どこまでも山の上を目ざして登るらしい。僕はおどろいてまた呼び止めた。

「おい、君。これから山へ登ってどうするんだ。山へはあした案内する。きょうはもう帰る方がいいよ。途中で暗くなったら大変だ。」

こんな注意を耳にもかけないように、赤座は強情に登ってゆく。僕はいよいよ不安になって、幾たびか呼び返しながらそのあとを追って行った。八月以来ここらの山路には歩き馴れているので、僕もかなりに足が早いつもりであるが、彼の歩みはさらに早い。わずかのうちに二間離れ、三間離れてゆくので、僕は息を切って登っても、なかなか追い付けそうもない。あたりはだんだんに暗くなって、寒い雨がしとしとと降って来る。勿論、ほかに往来の人などのあろうはずもないので、僕は誰の加勢を頼むわけにもいかない。薄暗いなかで彼のうしろ姿を見失うまいと、梟ふくろうのような眼をしながら唯ひとりで一生懸命に追いつづけたが、途中の坂路の曲り角でとうとう彼を見はぐってしまった。

「赤座君。赤座君。」

僕の声はそこらの森に谺こだまするばかりで、どこからも答える者はなかった。それでも僕は根こんよく追っかけて、とうとう一本杉の茶屋の前まで来たが、赤座の姿はどうしても見付からないので、僕の不安はいよいよ大きくなった。茶屋の人を呼んで訊ねてみたが、日は暮れている、雨はふる、誰も表には出ていないので、そんな人が通ったかどうだか知らないという。これから先は妙義の難所で、第一の石門はもう眼の前にそびえている。いくら土地の勝手を知っていても、この暗がりに石門をくぐってゆくほどの勇気はないので、僕はあきらめて立ち停まった。

路はいよいよ暗くなったので、僕は顔なじみの茶屋から提灯を借りて、雨のなかを下山した。雨具をつけていない僕は頭からびしょ濡れになって、宿へ帰りつく頃には骨まで凍りそうになってしまった。宿でも僕の帰りの遅いのを心配して、そこらまで迎えに出ようかと言っているところであったので、みんなも安心してすぐに炉のそばへ連れて行ってくれた。ぬれた身体を焚火にあたためて、僕は初めてほっとしたが、赤座に対する不安は大きい石のように僕の胸を重くした。僕の話をきいて宿の者も顔をしかめたが、その中には、こんな解釈をくだすものもあった。

「そういうお宗旨の人ならば、なにかの行ぎょうをするために、わざわざ暗い時刻に山へ登ったのかも知れません。山伏や行者のような人は時々にそんなことをしますから。」

二月の大雪のなかを第二の石門まで登って行った行者のあったことを宿の者は話した。しかしさっき出逢ったときの赤座の様子から考えると、彼はそんな行者のような難行苦行をする人間らしくも思われなかった。夜がふけても彼は帰って来なかった。彼は宿の者が言うように、どこかの石門の下でこの寒い雨の夜にお籠こもりでもしているのであろうか、なにかの行法を修しているのであろうか。

そんなことを考えつづけながら、僕はその一夜をおちおち眠らずに明かしてしまった。夜があけると雨はやんでいた。あさ飯を食ってしまうと、僕は宿の者ふたりと案内者一人とを連れて、赤座のゆくえを探しに出た。

ゆうべの一本杉の茶屋まで行きつく間、我れわれは木立ちの奥まで隈なく探してあるいたが、どこにも彼の姿は見付からなかった。ゆうべ無暗に駈け歩いたせいか、けさは妙に足がすくんで思うように歩かれないので、僕はこの茶屋でしばらく休息することにして、他の三人は石門をくぐって登った。それから三十分と経たないうちに、そのひとりが引っ返して来て、蝋燭岩から谷間へころげ落ちている男の姿を発見したと、僕に報告してくれた。僕は跳ねあがるように床几しょうぎを離れて、すぐに彼と一緒に第一の石門をくぐった。

茶屋の者は僕の宿へその出来事をしらせに行った。

三

宿からも手伝いの男が駈けつけて来て、ともかくも赤座の死体を宿まで運んで来たのは、午前十一時にちかい頃であった。雨あがりの初冬の日はあかるく美しくかがやいて、杉の木立ちのなかでは小鳥のさえずる声がきこえた。

「あ。」

こう言ったままで、僕はしばらくその死体を見つめていた。男の死体は岩石で額を打たれて半面に血を浴びているのと、泥や木の葉がねばり着いているのとで、今まではその人相をよくも見とどけずに、その服装によって一途いちずにそれが赤座であると思い込んでいたのであったが、宿へ帰って入口の土間にその死体を横たえて、僕もはじめて落着いて、もう一度その顔をのぞいてみると、それは確かに赤座でない、かつて見たこともない別人であった。そんなはずはないといぶかりながら、あかるい日光のもとで横からも縦たてからも覗いたが、彼はどうしても赤座ではなかった。

「どういう訳だろう。」

僕は夢のような心持で、その死体をぼんやり眺めていた。勿論、きのうはもう薄暗い時刻であったが、僕をたずねて来た赤座の服装はたしかにこれであった。死体は洋服をきて、靴下に草鞋わらじを穿いているばかりか、谷間で発見した中折帽子までも、僕がきのうの夕方に見たものと寸分違わないように思われた。それでもまだこんな疑いがないでもなかった。登山者の服装などはどの人もたいてい似寄っているから、あるいはきのう僕が見た赤座とは全く別人であるかも知れない。その事実をたしかめるために、僕はなにかの手がかりを得ようとして、死体のかくしをあらためると、まず僕の手に触れたものは皺だらけの原稿紙であった。

原稿紙――それは妙義神社の前で、赤座の指の傷をおさえるために、僕の袂から出してやった原稿紙ではないか。しかも初めの二、三行には僕のペンの痕がありありと残っているではないか。僕は更に死体の手先をあらためると、右の人差指と中指には、摺りむいたような傷のあとが残っている。原稿紙にも血のあとがにじんでいる。こういう証拠が揃っている以上は、ゆうべの男はたしかにこの死体に相違ない。それを赤座だと思ったのは僕のあやまりであろうか。しかし彼は僕をたずねて来たのである。うす暗がりではあったが、僕もたしかに彼を赤座と認めた。それがいつの間にか別人に変っている。どう考えてもその理屈がわからないので、僕はいよいよ夢のような心持で、手に握った原稿紙と死体の顔とをいつまでもぼんやりと見くらべていた。

駐在所の巡査も宿屋の者も、僕の説明を聴いて不思議そうに首をかしげていた。たしかに不思議に相違ない。この奇怪な死人は蟇口に二円あまりの金を入れているだけで、ほかには何の手がかりとなるような物も持っていなかった。彼は身許不明の死亡者として町役場へ引渡された。

これでこの事件はひとまず解決したのであるが、僕の胸に大きく横たわっている疑問は決して解決しなかった。僕はすぐに越後へ手紙を送って、赤座の安否を聞き合せると、兄からも妹からも何の返事もなかった。

疑いはますます大きくなるばかりで、僕はなんだか落着いていられないので、とうとう思い切って彼の郷里までたずねて行こうと決心した。幸いにここからはさのみ遠いところではないので、僕は妙義の山を降って松井田から汽車に乗って、信州を越えて越後へはいった。○○教の支社をたずねて、赤座朔郎に逢いたいと申入れると、世話役のような男が出て来て、講師の赤座はもう死んだというのであった。いや、赤座ばかりでない、妹の伊佐子もこの世にはいないというのを聞かされて、僕は頭がぼうとする程に驚かされた。

赤座の兄妹はどうして死んだか。その事情については、世話役らしい男もとかくに言い渋っていたが、僕があくまでも斬り込んで詮議するので、彼もとうとう包み切れないでその事情をくわしく教えてくれた。

この春、赤座が僕に話した通り、彼は妻を迎えようとしても適当な女が見あたらない。妹も兄が妻帯するまでは他へ嫁入りするのを見あわせて、兄の世話をしているという決心であった。こうして、兄妹は仲よく暮らしていた。そのうちに、町の或る銀行に勤めている内田という男がやはりおなじ信者である関係から、伊佐子を自分の妻に貰いたいと申込んだが、赤座はその人物をあまり好まなかったとみえて体ていよく断った。内田はそれでも思い切れないで、さらに直接伊佐子に交渉したが、伊佐子も同じく断った。

兄にも妹にも撥はね付けられて、内田は失望した。その失望から彼は根もないことを捏造ねつぞうして、赤座兄妹を傷つけようと企たくらんだ。彼は土地の新聞社に知人があるのを幸いに、○○教の講師兄妹のあいだに不倫の関係があるということをまことしやかに報告した。妹が年頃になっても他へ縁付かないのはそのためであると言った。おなじ信徒の報告であるから新聞社の方でもうっかり信用して、その記事を麗々しく掲げたので、たちまち土地の大評判になった。

信徒の多数はそれを信じなかったが、ともかくもこんな噂を伝えられるということは非常な迷惑であった。ひいては布教の上にも直接間接の影響をあたえるのは判り切っていた。支社の方では新聞社に交渉して、まずその記事の出所を確かめようとしたが、これは新聞の習いとして原稿の出所を明白に説明することを拒こばんだ。事実が相違しているならば、取消しは出すと言った。

それから幾日かの後に、その新聞紙上に五、六行の取消し記事が掲載されたが、そんな形式的の事では赤座は満足できなかった。しかし彼は決して人を怨まなかった。彼はそれを自分の信ずる神の罰だと思った。自分の信仰が至らないために○○教の神から大いなる刑罰を下されたのであると信じていた。彼は堪えがたい恐懼きょうくと煩悶とにひと月あまりをかさねた末に、彼は更に最後の審判をうけるべく怖ろしい決心を固めた。

彼はいつも神前に礼拝する時に着用する白い狩衣かりぎぬのようなものを身につけて、それに石油をしたたかに注ぎかけておいて、社の広庭のまん中に突っ立って、自分で自分のからだにマッチの火をすり付けたのであった。聞いただけでも実に身の毛のよだつ話で、彼はたちまち一面の火焔に包まれてしまった。それを見つけて妹の伊佐子が駈け付けた時はもう遅かった。それでも何とかして揉み消そうと思ったのか、あるいは咄嗟とっさのあいだに何かの決心を据えたのか、伊佐子は燃えている兄のからだを抱えたままで一緒に倒れた。

他の人々がおどろいて駈けつけた時はいよいよ遅かった。兄はもう焼けただれて息がなかった。妹は全身に大火傷おおやけどを負って虫の息であった。すぐに医師を呼んで応急手当を加えた上で、ともかくも町の病院へかつぎ込んだが、伊佐子はそれから四時間の後に死んだ。

その凄惨の出来事は前の記事以上に世間をおどろかして、赤座の死因についてはいろいろの想像説が伝えられたが、所詮しょせんはかの新聞記事が敬虔けいけんなる○○教の講師を殺したということに世間の評判が一致したので、新聞社でもさすがにその軽率を悔んで、半ば謝罪的に講師兄妹の死を悼むような記事を掲げた。それと同時におそらくその社のある者が洩らしたのであろう。かの新聞記事は内田の投書であるという噂がまた世間に伝えられたので、彼も土地にはいたたまれなくなったらしく、自分の勤めている銀行には無断で、一週間ほど以前にどこへか姿を隠した。

「その内田という男の居処はまだ知れませんか。」と、僕は訊いた。

「知れません。」と、それを話した世話役は答えた。「銀行の方には別に不都合はなかったようですから、まったく世間の評判が怖ろしかったのであろうと思われます。」

「内田はいくつぐらいの男ですか。」

「二十八九です。」

「家出をした時には、どんな服装をしていたか判りませんか。」と、僕はまた訊いた。

「銀行から家へ帰らずに、すぐに東京行きの汽車に乗り込んだらしいのですが、銀行を出た時には鼠色の洋服を着て、中折帽子をかぶっていたそうです。」

僕の総身そうみは氷のように冷たくなった。

「そうすると、妙義へ君をたずねて行ったのは、その内田という男なのかね。」

青蛙堂の主人はその話のとぎれるのを待ちかねたようにたずねると、第三の男は大きい溜息をつきながらうなずいた。

「そうだ。僕の話を聴いて、彼の親戚と銀行の者とが僕と一緒に妙義へ来てみると、蝋燭谷の谷底に横たわっていた死体は、たしかに内田に相違ないということが判った。しかし彼がなぜ僕をたずねて来たのか、それは誰にも判らない。僕にも無論わからなかった。それが怖ろしい秘密だよ。赤座兄妹の身の上にそんな変事があろうとは僕は夢にも知らないでいた。そこへ赤座――僕の眼には確かにそう見えた――が不意にたずねて来た。しかもそれは赤座自身ではない、却って赤座の仇かたきであって、原因不明の変死を遂げてしまった。その秘密を君はどう解釈するかね。」

「兄妹の魂がかれを誘い出して来たとでもいうのかね。」と、主人は考えながら言った。

「まずそうだ。僕もそう解釈していた。それにしても、赤座は僕に一度逢いたいので、そのたましいが彼のからだに乗りうつって来たのか。あるいは自分たちの死を報告するために、彼を使いによこしたのか。内田という男がどうして僕の居どころを知っていたのか。僕にはどうもはっきり判らないので、その後もいろいろの学者たちに逢ってその説明を求めたが、どの人も僕に十分の満足をあたえるほどの解答を示してくれない。

しかし大体の意見はこういうことに一致しているらしい。すなわち内田という人間は一種の自己催眠にかかって、そういう不思議の行動を取ったのであろう、というのだ。内田は一旦の出来ごころで、赤座の兄妹を傷つけようと企てたが、その結果が予想以上に大きくなって、兄妹があまりに物凄い死に方をしたので、彼も急におそろしくなった。彼もおなじ宗教の信者であるだけに、いよいよその罪をおそろしく感じたかも知れない。そうして、兄妹の怨恨がかならず自分の上に報むくって来るというようなことを強く信じていたかも知れない。その結果、彼は赤座に導かれたような心持になって、ふらふらと僕をたずねて来た。彼がどうして僕の居処を知っていたかというのは、おなじ信者ではあり、且かつは妹に結婚を申込むくらいの間柄であるから、赤座の家へも親しく出入りをしていて、僕が妙義の宿からたびたび送った絵葉書を見たことがあるかも知れない。僕が赤座の親友であることを知っていたかも知れない。自己催眠にかかった彼は赤座に導かれて赤座の親友をたずねるつもりで、妙義の山までわざわざ来たのだろう。

――と、こういうことになっているんだが、僕は催眠術をくわしく研究していないから、果してどうだか判らない。外国へ行ったときに心霊専門に研究している学者たちにも訊いてみたが、その意見はまちまちで、やはり正確な判断を下すまでに至らなかったのは残念だ。しかし学者の意見はどうであろうとも、実際、かの内田が自己催眠に罹かかっていたにしても――僕の眼にそれが赤座の姿と見えたのはどういう訳だろう。あるいは自己催眠の結果、内田自身ももう赤座になり澄ましたような心持になって、言語動作から風采までが自然に赤座に似て来たのだろうか。それとも僕もその当時、一種の催眠術にかかっていたのだろうか。」

猿さるの眼め

一

第四の女は語る。

わたくしは文久ぶんきゅう元年酉歳とりどしの生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解がかいになりました明治元年が八つの年で、吉原の切解きりほどきが明治五年の十月、わたくしが十二の冬でございました。御承知でもございましょうが、この年の十一月に暦こよみが変りまして、十二月三日が正月元日となったのでございます。いえ、どうも年をとりますとお話がくどくなってなりません。前置きはまずこのくらいに致しまして、本文ほんもんに取りかかりましょう。まことに下くだらない話で、みなさまがたの前で子細らしく申上げるようなことではないのでございますが、席順が丁度わたくしの番に廻ってまいりましたので、ほんの申訳ばかりにお話をいたしますのですから、どうぞお笑いなくお聴きください。

まことにお恥かしいことでございますが、その頃わたくしの家は吉原の廓内くるわうちにありまして、引手ひきて茶屋を商売にいたしておりました。江戸の昔には、吉原の妓楼ぎろうや引手茶屋の主人にもなかなか風流人がございまして、俳諧をやったり書画をいじくったりして、いわゆる文人墨客ぶんじんぼっかくというような人たちとお附合いをしたものでございます。わたくしの祖父や父もまずそのお仲間でございまして、歌麿のかいた屏風だとか、抱一ほういつ上人のかいた掛軸だとかいうようなものが沢山たくさんにしまってありました。

祖父はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と申しました。それが代々の主人の名だそうでございます。なにしろ急に世の中が引っくり返ったような騒ぎですから、世間一統がひどい不景気で、芝居町や吉原やすべての遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を引かれる。わたくしの父なぞは、いっそもう商売をやめてしまおうかなぞと言ったくらいでしたが、母や同商売の人にも意見されて、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は間もなくお取潰しになりまして、妓楼はみんな吉原へ移されることになりました。

これで少しは息がつけるかと思っていると、明治五年には前に申した通りの切解きで……。今までの遊女や芸妓は人身売買であるからよろしくないというので、一度にみんな解放を命ぜられました。こんにちでは娼妓しょうぎ解放と申しますが、そのころは普通一般に切解きと申しておりました。さあ、これがまた大変で、早くいえば吉原の廓がぶっ潰されるような大騒ぎでございました。

しかしその時代のことですから、何事もお上かみのお指図次第で、だれも苦情の申しようはございません。勿論、それで吉原が潰れっ切りになったわけではなく、ふたたび備えを立て直して相変らず商売をつづけて行くことになったのですが、前々から廃業したいという下心したごころがあったところへ、こんな騒ぎがまたもや出来しゅったいしたので、父の市兵衛はいよいよ見切りを付けまして、百何十年もつづけて来た商売をとうとうやめることに決心しました。さりとて不馴れの商売なぞをうっかり始めるのは不安心で、士族の商法という生きた手本がたくさんありますから、田町たまちと今戸いまど辺に五、六軒の家作があるのを頼りに、小体こていのしもた家暮らしをすることになりました。

父は若いときから俳諧が好きでして、下手か上手か知りませんが、三代目夜雪庵の門人で羅香と呼んでおりまして、すでに立机りゅうぎの披露も済ませているのですから、曲りなりにも宗匠格でございます。そこでこの場合、自分の好きな道にゆっくり遊びたいというのと、二つには芸が身を助けるというような意味もまじって、俳諧の宗匠として世を渡ることにしましたが、今までとは違って小さい家へ引籠るのですから、余計な荷物の置きどころがないのと、邪魔なものは売払ってお金にしておく方がいいというので、不用のがらくたは勿論のこと、祖父の代から集めていました、書画や骨董のたぐいも大抵売払ってしまいました。

御承知でもございましょうが、明治初年の書画骨董ときたらほんとうの捨て売りで、菊池容斎や渡辺崋山の名画が一円五十銭か二円ぐらいで古道具屋の店たなざらしになっている時節でしたから、歌麿も抱一上人もあったものでございません、みんな二束三文に売払ってしまったのでございます。その時分でも母などは何だか惜しいようだと言っておりましたが、父は思い切りのいい方で、未練なしに片っぱしから処分しましたが、それでも自分の好きな書画七、八点と屏風一双そうと骨董類五、六点だけを残しておきました。

その骨董類は、床の置物とか花生けとか文台とかいうたぐいの物でしたが、そのなかに一つ、木彫りの猿の仮面めんがありました。それは父が近いころに手に入れたもので、なんでもその前年、明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い筵むしろを敷いて、ちっとばかりの古道具をならべている夜店が出ていました。芝居に出る浪人者のように月代さかやきを長くのばして、肌寒そうな服装みなりをした四十恰好の男が、九つか十歳とおぐらいの男の子と一緒に、筵の上にしょんぼりと坐って店番をしています。

その頃にはそういう夜店商人がいくらも出ていましたので、これも落ちぶれた士族さんが家の道具を持出して来たのであろうと、父はすぐに推量して、気の毒に思いながらその店をのぞいて見ると、目ぼしい品はもう大抵売尽してしまったとみえて、店には碌な物も列ならんでいませんでしたが、そのなかにただ一つ古びた仮面がある。それが眼について父は立止りました。

「これはお払いになるのでございますか。」

相手が普通の夜店商人でないとみて、父も丁寧にこう訊きいたのです。すると、相手も丁寧に会釈えしゃくして、どうぞお求めくださいと言いましたので、父はふたたび会釈してその仮面を手に取って、うす暗い燈火あかりのひかりで透かしてみると、時代も相応に付いているものらしく、顔一面が黒く古びていましたが、彫りがなかなかよく出来ているので、骨董好きの父はふらふらと買う気になりました。

「失礼ながらおいくらでございますか。」

「いえ、いくらでもよろしゅうございます。」

まことに士族の商人あきんどらしい挨拶です。そこへ付け込んで値切り倒すほどの悪い料簡もないのと、いくらか気の毒だと思う心もあるのとで、父はそれを三歩ぶに買おうと言いますと、相手は大層よろこんで、いや三歩には及ばない、二歩で結構だというのを、父は無理にすすめて三歩に買うことにしました。なんだかお話が逆さかさまのようですが、この時分にはこんなことが往々あったそうでございます。

いよいよ売買の掛合いが済んでから、父は相手に訊ききました。

「このお面は古くからお持ち伝えになっているのでございますか。」

「さあ、いつの頃に手に入れたものか判りません。実はこんなものが手前方に伝わっていることも存じませんでしたが、御覧の通りに零落れいらくして、それからそれへと家財を売払いますときに、古長持の底から見つけ出したのです。」

「箱にでもはいっておりましたか。」

「箱はありません。ただ欝金うこんのきれに包んでありました。少し不思議に思われたのは、猿の両眼を白い布きれで掩って、その布の両端をうしろで結んで、ちょうど眼隠しをしたような形になっていることです。いつの頃に誰がそんなことをしておいたのか、別になんにも言い伝えがないので、ちっとも判りません。一体それが二歩三歩の値のあるものかどうだか、それすらも手前には判らないのです。」

売る人はあくまでも正直で、なにもかも打ち明けて話しました。

それだけのことを聞かされて、その仮面を受取って、父は吉原の家へ帰って来ましたが、あくる日になってよく見ると、ゆうべ薄暗いところで見たのとは余ほど違っていて、かなりに古いものには相違ないのですが、刀の使い方もずいぶん不器用で、さのみの上作とは思われません。これが三歩では少し買いかぶったと今さら後悔するような心持になったのですが、むこうが二歩でいいと言うのをこちらから無理に買上げたのですから、苦情の言いようもありません。「こんなものは仕方がない。まあ、困っている士族さんに恵んであげたと思えばいいのだ。」

こう諦めて、父はその仮面を戸棚の奥へ押込んでおいたままで、自分でももう忘れてしまったくらいでしたが、今度いよいよ吉原の店をしまうという段になって、いろいろの書画骨董類を整理するときに、ふと見つけ出したのが彼かの仮面で、もちろんほかの品々と一緒に売払ってしまうはずでしたが、いざという時になると、父はなんだか惜しくてならぬような気になったそうです。

そこで、これはまあこのままに残しておこうと言って、前に申した通り、五、六点の骨董のうちに加えて持ち出すことになったのでした。なぜそれが急に惜しくなったのか、自分にもその時の心持はよく判らないと、父は後になって話しました。

とにかくそういう訳で、わたくし共の一家が多年住みなれた吉原の廓を立退きましたのは明治六年の四月、新しい暦では花見月の中頃でございました。今度引移りましたのは今戸の小さい家で、間かずは四間よまのほかに四畳半の離はなれ屋がありまして、そこの庭先からは、隅田川がひと目に見渡されます。父はこの四量半に閉じこもって、宗匠の机を据えることになりました。

二

それから小こひと月ばかりは何かごたごたしていましたが、それがようよう落着くと五月のなかばで、新暦でも日中はよほど夏らしくなってまいりました。

父は今まで世間の附合いを広くしていたせいでございましょう、今戸へ引移りましてからも尋ねて来る人がたくさんあります。俳諧のお友だちも大勢みえます。吉原を立退いたらばさぞ寂しいことだろうと、わたくしも子供心に悲しく思っていたのですが、そういうわけで人出入りもなかなか多く、思ったほどには寂しいこともないので、母もわたくしも内々よろこんでおりますうちに、こんな事件が出来しゅったいしたのでございます。

前にも申した通り、今度の家は四間で、玄関の寄付きが三畳、女中部屋が四畳半、茶の間が六畳、座敷が八畳という間取りでございまして、その八畳の間に両親とわたくしが一緒に寝ることになっていました。そこへ一人の泊り客が出来ましたので、まさかに玄関へ寝かすわけにもいかず、茶の間へも寝かされず、父が机を控えている離れの四畳半が夜は明いているので、そこへ泊めることにしたのでございます。

その泊り客は四谷の井田さんという質屋の息子で、これも俳諧に凝こっている人なので、夕方からたずねて来て、好きな話に夜がふける。おまけに雨が強く降って来る。唯今とちがって、電車も自動車もない時代でございますから、今戸から四谷まで帰るのは大変だというので、こちらでもお泊りなさいと言い、井田さんの方でも泊めてもらおうということになったのです。

女中に案内されて、井田さんは離れの四畳半に寝る。わたくし共はいつもの通りに八畳に寝る。女中ふたりは台所のとなりの四畳半に寝る。雨には風がまじって来たとみえて、雨戸をゆするような音も聞えます。場所が今戸の河岸かしですから、隅田川の水がざぶんざぶんと岸を打つ音が枕に近くひびきます。なんだか怖いような晩だと思いながら、わたくしは寝床へはいっていつかうとうとと眠りますと、やがて父と母との話し声で眼がさめました。

「井田さんはどうかしたんでしょうか。」と、母が不安らしく言いますと、「なんだかうなっているようだな。」と、父も不審そうに言っています。

それを聴いて、わたくしはまたにわかに怖くなりました。夜がふけて、雨や風や浪の音はいよいよ高くきこえます。

「ともかくも行ってみよう。」

父は枕もとの手燭てしょくをとぼして、縁側へ出ました。母も床の上に起き直って様子をうかがっているようです。離れといっても、すぐそこの庭先にあるので、父は傘もささないで出て行って、離れへはいって何か井田さんと話しているようでしたが、雨風の音に消されてよくも聞えませんでした。そのうちに父は帰って来て、笑いながら母に話していました。

「井田さんも若いな。何かあの座敷に化物ばけものが出たというのだ。冗談じゃあない。」

「まあ、どうしたんでしょう。」

母は半信半疑のように考えていると、父はまた笑いました。

「若いといっても、もう二十二だ。子供じゃあない。つまらないことを言って、夜なかに人騒がせをしちゃあ困るよ。」

父も母もそれぎり寝てしまったようですが、わたくしはいよいよ怖くなって寝られませんでした。ほんとうにお化けが出たのかしら。こんな晩だからお化けが出ないとも限らない。そう思うと眼が冴えて、小さい胸に動悸を打って、とても再び眠ることは出来ません。

早く夜が明けてくれればいいと祈っていると、浅草の鐘が二時を撞く。その途端に離れの方では、何かどたばたいうような音がまた聞えたので、わたくしははっと思って、髪のこわれるのもいとわずに、あたまから夜具を引っかぶって小さくなっていますと、父も母もこの物音で眼をさましたようです。

「また何か騒ぎ出したのか。どうも困るな。」

父は口叱言くちこごとを言いながら再び手燭をつけて出ましたが、急におどろいたような声を出して、母をよびました。母もおどろいて縁側へ出たかと思うと、また引っ返してあわただしく行燈あんどんをつけました。どうも唯事ではないらしいので、わたくしも竦すくんでばかりいられなくなって、怖いもの見たさに夜具からそっと首を出しますと、父は雨にぬれながら井田さんを抱え込んで来ました。

井田さんは、真っ蒼になって、ただ黙っているのですが、離れから庭へころげ落ちたとみえて、寝衣ねまきの白い浴衣が泥だらけになっています。母は女中たちを呼びおこして、台所から水を汲んで来て井田さんの手足を洗わせる。ほかの寝衣を着かえさせる。暫くごたごたした後に、井田さんもようよう落ちついて、水を一杯くれという。水を飲んでほっとしたようでしたが、それでも井田さんの顔はまだ水色をしていました。

「おまえ達はもういいから、あっちへ行ってお休み。」

父は女中たちを部屋へさがらせて、それから井田さんにむかって一体どうしたのかと訊きますと、井田さんは低い声で言い出しました。

「どうもたびたび、お騒がせ申しまして相済みません。さっきも申した通り、あの四畳半の離れに寝かしていただいて、枕についてうとうと眠ったかと思いますと、急になんだか寝苦しくなって、誰かが髪の毛をつかんで引抜くように思われるので、夢中で声をあげますと、それがあなた方にも聞えまして、宗匠がわざわざ起きて来て下さいました。宗匠は夢でも見たのだろうとおっしゃいましたが、夢か現うつつか自分にもはっきりとは判りませんでした。それから再び枕につきましたが、どうも眼が冴えて眠られません。幾度も寝がえりをしているうちに、またなんだか胸が重っ苦しくなって、髪の毛が掻きむしられるように思われますので、今度は一生懸命になって、からだを半分起き直らせて、枕もとをじっと窺いますと、暗いなかで何か光るものがあります。はて、なにか知らんと怖ごわ見あげると、柱にかけてある猿の面……。その二つの眼が青い火のように光り輝いて、こっちを睨みつけているのでございます。わたしはもう堪らなくなりましてあわてて飛び出そうとしましたが、雨戸の栓がなかなか外はずれない。ようようこじ明けて庭先へ転げ出すと、土は雨に濡れているので滑って倒れて……重ねがさね御厄介をかけるようなことになりました。」

井田さんの話が嘘でないらしいことは、その顔色を見ても知れます。

洒落や冗談にそんな人騒がせをするような人でないこともふだんから判っているので、父も不思議そうに聴いていましたが、ともかくも念のために見届けようと言って起たちあがりました。母はなんだか不安らしい顔をして、父の袂をそっと引いたようでしたが、父は物に屈しない質たちでしたから、かまわずに振切って離れの方へ出て行きましたが、やがて帰って来て、うなるように溜息をつきました。

「どうも不思議だな。」

わたくしはまたぎょっとしました。父がそういう以上、それがいよいよ本当であるに相違ありません。母も井田さんも黙って父の顔をながめているようでした。

仮面は戸棚の奥にしまい込んでおいたのを、今度初めて離れの柱にかけたのですが、誰も四畳半に寝る者はないので、その眼が光るかどうだか、小ひと月のあいだも知らずに済んでいたのですが、今夜この井田さんを寝かしたために、初めてその不思議を見つけ出したというわけです。木彫りの猿の眼が鬼火のように青く光るとは、聞いただけでも気味のわるい話です。

なにしろ夜が明けたらばもう一度よく調べてみようということになって、井田さんを茶の間の六畳に寝かし付けて、その晩はそれぎり無事にすみましたが、東が白んで、雨風の音もやんで、八幡さまの森に明鴉の声がきこえる頃まで、わたくしはおちおち眠られませんでした。

三

夜が明けると、きょうは近頃にないくらいのいいお天気で、隅田川の濁った水の上に青々した大空が広くみえました。夏の初めの晴れた朝は、まことに気分のさわやかなものでございます。

ゆうべろくろく寝ませんので、わたくしはなんだか頭が重いようでございましたが、座敷の窓から川を見晴らして、涼しい朝風にそよそよ吹かれていますと、次第に気分もはっきりとなって来ました。そのうちに朝のお膳の支度が出来まして、父と井田さんとは差向いで御飯をたべる。わたくしがそのお給仕をすることになりました。

御飯のあいだにもゆうべの話が出まして、父はあの猿の仮面を手に入れた由来をくわしく井田さんに話していました。

「あなた一人でなく、現にわたくしも見たのですから、心の迷いとか、眼のせいだとかいう訳にはいきません。」と、父は箸をやすめて言いました。「それで思いあたることは、あの面を売った士族の人が、いつの頃に誰がしたのか知らないが、猿の面には白布をきせて目隠しをしてあったと言いました。そのときには別になんとも思いませんでしたが、今になって考えると、あの猿の眼には何かの不思議があるので、それで目隠しをしておいたのかも知れません。」

「はあ、そんな事がありましたか。」と、井田さんも箸をやすめて考えていました。「そういう訳では、売った人の居どころはわかりますまいね。」

「判りません。なにしろおとどしの暮れのことですから、その後にも広小路をたびたび通りましたが、そんな古道具屋のすがたを再び見かけたことはありませんでした。商売の場所をかえたか、それとも在所へでも引っ込んだかでしょうね。」

御飯が済んでから、父と井田さんは離れへ行って、明るい所で猿の仮面の正体を見届けることになりましたので、母もわたくしも女中たちも怖いもの見たさに、あとからそっと付いて行って遠くから覗いておりますと、父も井田さんも声をそろえて、どうも不思議だ不思議だと言っています。

どうしたのかと訊いてみると、その仮面がどこへか消えてなくなったというのです。井田さんが戸をこじ開けてころげ出してから、夜のあけるまで誰もその離れへ行った者はないのですから、こっちのどさくさまぎれに何者かが忍び込んで盗んで行ったのかとも思われますが、ほかの物はみんな無事で、ただその仮面一つだけが紛失したのは、どうもおかしいと父は首をかしげていました。しかしいくら詮議しても、評議しても、無いものはないのですから、どうも仕方がございません。ただ不思議ふしぎを繰返すばかりで、なんにも判らずじまいになってしまいました。

けさになっても井田さんは、気分がまだほんとうに好くないらしく、蒼い顔をして早々に帰りましたので、父も母も気の毒そうに見送っていました。

それが因もとというわけでもないでしょうが、井田さんはその後間もなくぶらぶら病いで床について、その年の十月にとうとういけなくなってしまいました。その辞世の句は、上五文字をわすれましたが「猿の眼に沁む秋の風」というのだったそうで、父はまた考えていました。

「辞世にまで猿の眼を詠むようでは、やっぱり猿の一件が祟たたっていたのかも知れない。」

そうは言っても、父は相変らず離れの四畳半に机をひかえて、好きな俳諧に日を送っているうちに、お弟子もだんだんに出来ました。どうにかこうにか一人前の宗匠株になりましたのでございます。

それから三年ほどは無事に済みまして、明治十年、御承知の西南戦争のあった年でございます。その時に父は四十一、わたくしは十七になっておりましたが、その年の三月末に孝平という男がぶらりと尋ねてまいりました。以前は吉原の幇間であったのですが、師匠に破門されて廓くるわにもいられず、今では下谷したやで小さい骨董屋のようなことを始め、傍らには昔なじみのお客のところを廻って野幇間のだいこの真似もしているという男で、父とは以前から知っているのです。それが久振りで顔を出しまして、実はこんなものが手に入りましたからお目にかけたいと存じて持参しましたという。いや、お前も知っている通り、わたしは商売をやめるときに代々持ち伝えていた書画骨董類もみんな手放してしまったくらいだから、どんな掘出し物だか知らないが、わたしのところへ持って来ても駄目だよ、と父は一旦断りましたが、まあともかくも品物をみてくれ、あなたの気に入らなかったらどこへか世話をしてくれと、孝平は臆面なしに頼みながら、風呂敷をあけてもったいらしく取出したのは、一つの古びた面箱でした。

「これはさるお旗本のお屋敷から出ましたもので、箱書には大野出目でめの作とございます。出どころが確かでございますから、品はお堅いと存じますが……。」

紐を解いて、蓋をあけて取出した仮面めんをひと目みると、父はびっくりしました。それはかの猿の仮面に相違ないのです。

孝平はそれをどこかで手に入れて、大野出目の作なぞといういい加減の箱をこしらえて、高い値に売込もうというたくらみと見えました。そんなことは骨董屋商売として珍しくもないことですから、父もさのみに驚きもしませんでしたが、ただおどろいたのは、その仮面がどこをどう廻りまわって、再びこの家へ来たかということです。

その出所をきびしく詮議されて、孝平の化けの皮もだんだんにはげて来て、実は四谷通りの夜店で買ったのだと白状に及びました。その売手はどんな人だと訊きますと、年ごろは四十六七、やがて五十近いかと思われる士族らしい男だというのです。男の児を連れていたかと訊くと、自分ひとりで筵の上に坐っていたという。その人相などをいろいろ聞きただすと、どうも上野に夜店を出していた男らしく思われるのです。いくらで買ったと訊きますと、十五銭で買ったということでした。十五銭で買った仮面を箱に入れて、大野出目の作でございなぞは、なんぼこの時代でもずいぶんひどいことをする男で、これだから師匠に破門されたのかも知れません。

なんにしても、そんなものはすぐに突き戻してしまえばよかったのですが、その猿の仮面がほんとうに光るかどうか、父はもう一度ためしてみたいような気になったので、ともかくも二、三日あずけておいてくれと言いますと、孝平は二つ返事で承知して、その仮面を父にわたして帰りました。

母はそのとき少し加減が悪くて、寝たり起きたりしていたのですが、あとでその話を聞いていやな顔をしました。

「あなた、なぜそんな物をまた引取ったのです。」

「引取ったわけじやない。まったく不思議があるかないか、試して見るだけのことだ。」と、父は平気でいました。

以前と違って、わたくしももう十七になっていましたから、ただむやみに怖い怖いばかりでもありませんでしたが、井田さんの死んだことなぞを考えると、やっぱり気味が悪くてなりませんでした。父は以前の通りその仮面を離れの四畳半にかけておいて、夜なかに様子を見にゆくことにしまして、母と二人で八畳の間に床をならべて寝ました。わたくしはもう大きくなっているので、この頃は茶の間の六畳に寝ることにしていました。

旧暦では何日にあたるか知りませんが、その晩は生なまあたたかく陰っていて、低い空には弱い星のひかりが二つ三つ洩れていました。おまえ達はかまわず寝てしまえと父は言いましたが、仮面の一件がどうも気になるので、床へはいっても寝付かれません。そのうちに十二時の時計が鳴るのを合図に、次の間に寝ていた父はそっと起きてゆくようですから、わたくしも少し起き返って、じっと耳をすましてうかがっていますと、父は抜足をして庭へ出て、離れの方へ忍んでゆくようです。

そうして四畳半の戸をしずかに開けたかと思う途端に、次の間であっという母の声がきこえたので、思わず飛び起きて襖をあけて見ましたが、行燈は消えているのでよく判りません。あわてて手探りで火をとぼしますと、母は寝床から半分ほどもからだを這い出させて、畳の上に俯伏うつぶしに倒れていましたが、誰かに髻たぶさをつかんで引摺り出されたように、丸髷がめちゃめちゃにこわれています。わたくしは泣き声をあげて呼びました。

「おっかさん、おっかさん。どうしたんですよ。」

その声におどろいて女中たちも起きて来ました。父も庭口から戻って来ました。水や薬をのませて介抱して、母はやがて正気にかえりましたが、その話によると誰かが不意に母の丸髷を引っ掴んで、ぐいぐいと寝床から引摺り出したということです。

「むむう。」と、父は溜息をつきました。「どうも不思議だ。猿の眼はやっぱり青く光っていた。」

わたくしはまたぞっとしました。

あくる日、父は孝平を呼んでその事を話しますと、孝平も青くなって慄ふるえあがりました。こんなものを残しておくのはよくないから、いっそ打毀ぶちこわして焚いてしまおうと父が言いますと、もともと十五銭で買ったものですから、孝平にも異存はありません。父と二人で庭先へ出て、その仮面をいくつにも叩き割って、火をかけてすっかり焼いた上で、その灰は隅田川に流してしまいました。

「それにしても、その古道具屋というのは変な奴ですね。あなたに面を売ったのと同じ人間だかどうだか、念のために調べて見ようじゃありませんか。」

孝平は父を誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処に出ていたと孝平の教えた場所は、丁度かの井田さんの質屋のそばであったので、さすがの父もなんだかいやな心持になったそうです。母はその後どうということもありませんでしたが、だんだんにからだが弱くなりまして、それから三年目に亡くなりました。

「お話はこれだけでございます。その猿の眼には何か薬でも塗ってあったのではないかと言う人もありましたが、それにしても、その仮面が消えたり出たりしたのが判りません。井田さんの髪の毛を掻きむしったり、母の髻たぶさを掴んだりしたのも、何者の仕業しわざだか判りません。いかがなものでしょう。」

「まったく判りませんな。」

青蛙堂主人も溜息まじりに答えた。

蛇精じゃせい

一

第五の男は語る。

わたしの郷里には蛇に関する一種の怪談が伝えられている。勿論、蛇と怪談とは離れられない因縁になっていて、蛇に魅みこまれたとか、蛇に祟たたられたとかいうたぐいの怪談は、むかしから数え尽されないほどであるが、これからお話をするのは、その種の怪談と少しく類を異ことにするものだと思ってもらいたい。

わたしの郷里は九州の片山里かたやまざとで、山に近いのと気候のあたたかいのとで蛇の類がすこぶる多い。しかしその種類は普通の青大将や、やまかがしや、なめらや、地もぐりのたぐいで、人に害を加えるようなものは少ない。蝮まむしに咬まれたという噂を折りおりに聞くが、かのおそろしいはぶなどは棲んでいない。蠎蛇うわばみにはかなり大きいのがいる。近年はだんだんにその跡を絶ったが、むかしは一丈五尺乃至ないし二丈ぐらいのうわばみが悠々とのたくっていたということである。

その有害無害は別として、誰にでも嫌われるのは蛇である。ここらの人間は子供のときから見馴れているので、他国の者ほどにはそれを嫌いもせず、恐れもしないのであるが、それでも蝮とうわばみだけは恐れずにはいられない。蝮は毒蛇であるから、誰でも恐れるのは当然であるが、しかしここらでは蝮のために命をうしなったとか、不具かたわになったとかいう例は甚だ少ない。むかしから皆その療治法を心得ていて、蝮にかまれたと気が付くとすぐに応急の手当を加えるので、大抵は大難が小難ですむらしい。殊に蝮は紺の匂いを嫌うというので、蝮の多そうな山などへはいるときには紺の脚絆きゃはんや紺足袋をはいて、樹の枝の杖などを持って行って、見あたり次第にぶち殺してしまうのである。ほかの土地には蝮捕りとか蛇捕りとかいう一種の職業があるそうであるが、ここらにそんな商売はない。蛇を食う者もない。まむし酒を飲む者もない。ただぶち殺して捨てるだけである。

蝮は山ばかりでなく、里にもたくさん棲んでいるが、馴れている者は手拭をしごいて二つ折りにして、わざとその前に突きつけると、蝮は怒ってたちまちにその手拭にかみつく。その途端にぐいと引くと白髪しらがのような蝮の歯は手拭に食い込んだままで、もろくも抜け落ちてしまうのである。毒牙をうしなった蝮は、武器をうしなった軍人と同じことで、その運命はもう知れている。こういうわけであるから、ここらの人間はたとい蝮を恐れるといっても、他国の者ほどには強く恐れていない。かれは一面に危険なものであると認められていながら、また一面には与くみし易きものであると侮られてもいる。蝮が怖いなどというと笑われるくらいである。

しかし、かのうわばみにいたっては、蝮と同日どうじつの論ではない。その強大なるものは家畜を巻き殺して呑む。あるときは、子供を呑むこともある。それを退治するのは非常に困難で、前にいった蝮退治のような手軽の事では済まないのであるから、ここらの人間もうわばみに対してはほんとうに恐れている。その恐怖から生み出された古来の伝説がまたたくさんに残っていて、それがいよいよ彼らの恐怖を募らせているらしい。

それがために、いつの代から始まったのか知らないが、ここらの村では旧暦の四月のはじめ、かのうわばみがそろそろ活動を始めようとする頃に、蛇祭りというのを執行するのが年々の例で、長い青竹を胴にしてそれに草の葉を編みつけた大蛇の形代かたしろをこしらえ、なんとかいう唄を歌いながら大勢がそれを引摺って行って、近所の大川へ流してしまう。その草の葉を肌守はだまもりのなかに入れておくと、大蛇に出逢わないとか、魅みこまれないとかいうので、女子供は争ってむしり取る。こんな年中行事が遠い昔から絶えず繰返されているのを見ても、いかにかのうわばみがここらの人間に禍いし、いかにここらの人間に恐れられているかを想像することが出来るであろう。

そのなかでただひとり、かのうわばみをちっとも恐れない人間――むしろうわばみの方から恐れられているかも知れない、と思われるような人間がこの村に棲んでいた。彼は本名を吉次郎というのであるが、一般の人のあいだにはその渾名あだなの蛇吉をもって知られていた。彼は二代目の蛇吉で、先代の吉次郎は四十年ほど前にどこからか流れ込んで来て、屋根屋を職業にしていたのであるが、ある動機からうわばみ退治の名人であると認められて、夏のあいだはうわばみ退治がその本職のようになってしまった。

その吉次郎は既に世を去って、そのせがれの吉次郎がやはり父のあとを継いで屋根屋とうわばみ退治とを兼業にしていたが、その手腕はむしろ先代をしのぐというので、二代目の蛇吉は大いに村の人々から信頼されていた。かれは六十に近い老母と二人暮らしで、ここらの人間としてはまず普通の生活をしていたが、いつか本職の屋根屋を廃業して、うわばみ退治専門になった。彼は夏の間だけ働いて、冬のあいだは寝て暮らした。

彼はどういう手段でうわばみを退治するかというと、それには二つの方法があるらしい。その一つは、うわばみの出没しそうな場所を選んで、そこに深い穴をほり、そのなかで一種の薬を焼くのである。うわばみはその匂いをかぎ付けて、どこからか這い出して来て、そのおとし穴の底にのたり込むと、穴が深いので再び這いあがることが出来ないばかりか、その薬の香に酔わされて遂に麻痺したようになる。そうなれば生かそうと殺そうと彼の自由である。ただしその薬がどんなものであるか、彼は堅く秘して人に洩らさなかった。

単にこれだけのことであれば、その秘密の薬さえ手に入れば誰にでも出来そうなことで、特に蛇吉の手腕を認めるわけにはいかないが、第二の方法は彼でなければ殆んど不可能のことであった。たとえばうわばみが村のある場所にあらわれたという急報に接して、今更にわかにおとし穴を作ったり、例の秘薬を焼いたりしているような余裕のない場合にはどうするかというと、彼は一挺の手斧ちょうなを持ち、一つの麻袋を腰につけて出かけるのである。麻袋の中には赭土あかつち色をした粉薬こなぐすりのようなものが貯えてあって、まず蛇の来る前路にその粉薬を一文字にふりまく。それから四、五間ほど引下がったところにまた振りまく。さらに四、五間離れたところにまたふり撒く。こうして、蛇の前路に三本の線を引いて敵を待つのである。

「おれはきっと二本目でくい止めてみせる。三本目を越して来るようでは、おれの命があぶない。」

かれは常にこう言っていた。そうして、かの手斧を持って、第一線を前にして立っていると、うわばみは眼をいからせて向って来るが、第一線の前に来てすこし躊躇する。その隙をみて、かれは猶予なく飛びかかって敵の真っ向をうち砕くのである。もし第一線を躊躇せずに進んで来ると、彼は後ろ向きのままで蛇よりも早くするすると引下がって、更に第二線を守るのである。第一線を乗り越えた敵も、第二線に来るとさすがに躊躇する。躊躇したが最後、蛇吉の斧はその頭の上に打ちおろされるのである。彼の言う通り、大抵のうわばみは第一線にほろぼされ、たとい頑固にそれを乗り越えて来ても、第二線の前にはかならずその頭をうしなうのであった。

口でいうとこの通りであるが、なにしろ正面から向って来る蛇に対してまず第一線で支え、もし危いと見ればすぐに退いて第二線を守るというのであるから、飛鳥といおうか、走蛇といおうか、すこぶる敏捷に立廻らなければならない。蛇吉の蛇吉たるところはここにあると言ってよい。

ところが、ある時、その第二線をも平気で乗り越えて来た大蛇があったので、見物している人々は手に汗を握った。蛇吉も顔の色を変えた。彼はあわてて退いて第三線を守ると、敵は更に進んで乗り越えた。

「ああ、駄目だ。」

人々は思わず溜息をついた。

蛇吉が退治に出るときは、いつでも赤裸あかはだかで、わずかに紺染めの半股引を穿いているだけである。きょうもその通りの姿であったが、最後の一線もいよいよ破られて万事休すと見るや、彼は手早くその半股引をぬぎ取って、なにか呪文のようなことを唱えて跳り上がりながら、その股のまん中から二つに引裂くと、そのうわばみも口の上下から二つに裂けて死んだ。蛇吉はひどく疲れたように倒れてしまったが、人々に介抱されてやがて正気にかえった。

その以来、人々はいよいよ蛇吉を畏敬するようになった。彼が振りまく粉薬も一種の秘薬で、蛇を毒するものに相違ない。その毒に弱るところを撃ち殺すという、その理屈は今までにも大抵判っていたが、今度のことは何とも判断が付かなかった。九死一生の場になって、彼がなにかの呪文を唱えながら自分の股引を二つに引裂くと、蛇もまた二つに引裂かれて死んだ。

こうなると、一種の魔法といってもよい。もちろん、彼に訊いたところで、その説明をあたえないのは知れ切っているので、誰もあらためて詮議する者もなかったが、彼はどうもただの人間ではないらしいという噂が、諸人の口から耳へとささやかれた。

「蛇吉は人間でない。あれは蛇の精だ。」

こんなことを言う者も出て来た。

二

人間でも、蛇の精でも、蛇吉の存在はこの村の幸いであるから、誰も彼に対して反感や敵意をいだく者もなかった。万一彼の感情を害したら、どんな祟りをうけるかも知れないという恐怖もまじって、人々はいよいよ彼を尊敬するようになった。かの股引の一件があってから半年ほどの後に、蛇吉の母は頓死のように死んで、村じゅうの人々からねんごろに弔とむらわれた。

母のないあとは蛇吉ひとりである。かれはもう三十を一つ二つ越えている。本来ならばとうに嫁を貰っているはずであるが、なにぶんにも蛇吉という名がわずらいをなして、村内はもちろん、近村からも進んで縁談を申込む者はなかった。彼は村の者からも尊敬されている。うわばみの種の尽きない限りは、その生活も保証されている。しかも彼と縁組をするということになると、さすがに二の足を踏むものが多いので、彼はこの年になるまで独身であった。

「今まではおふくろがいましたから何とも思わなかったが、自分ひとりになるとどうもさびしい。第一に朝晩の煮炊きにも困ります。誰か相当の嫁をお世話下さいませんか。」と、彼はあるとき庄屋の家へ来て頼んだ。

庄屋も気の毒に思った。なんのかのと陰口かげぐちをいうものの、かれは多年この村のためになってくれた男である。ふだんの行状も別に悪くはない。それが母をうしなって不自由であるから嫁を貰いたいという。まことに道理もっとものことであるから、なんとかしてやろうと請け合っておいて、村の重立った者にそれを相談すると、誰も彼も首をかしげた。

「まったくあの男も気の毒だがなあ。」

気の毒だとは言いながら、さて自分の娘をやろうとも、妹をくれようともいう者はないので、庄屋も始末に困っていると、そのなかで小利口な一人がこんなことを言い出した。

「では、どうだろう。このあいだから重助の家に遠縁の者だとかいって、三十五六の女がころげ込んでいる。なんでもどこかのだるま茶屋に奉公していたとかいうのだが、重助に相談してあの女を世話してやることにしては……。」

「だが、あの女には悪い病いがあるので、重助も困っているようだぞ。」と、またひとりが言った。

「しかし、ともかくもそういう心あたりがあるなら、重助をよんで訊いてみよう。」

庄屋はすぐに重助を呼んだ。彼は、水呑み百姓で、一家内四人の暮らしさえも細ぼそであるところへ、この間から自分の従弟いとこの娘というのが転げ込んで来ているので、まったく困るとこぼし抜いていた。娘といってもことし三十七で、若いときから身持が悪くて方々のだるま茶屋などを流れ渡っていたので、重い瘡毒かさにかかっている。それで、もうどこにも勤めることが出来なくなったので、親類の縁をたよって自分の家へ来ているが、達者なからだならば格別、半病人で毎日寝たり起きたりしているのであるから、世話が焼けるばかりで何の役にも立たない。と、かれは庄屋の前で一切いっさいを打明けた。

「半病人では困るな。」と、庄屋も顔をしかめた。「実は嫁の相談があるのだが……。」

「あんな奴を嫁に貰う人がありますかしら。」と、重助は不思議そうに訊いた。

「きっと貰うかどうかは判らないが、あの吉次郎が嫁を探しているのだ。」

「はあ、あの蛇吉ですか。」

蛇吉でも何でも構わない。あんな奴を引取ってくれる者があるならば、どうぞお世話をねがいたいと重助はしきりに頼んだ。しかし半病人ではどうにもならないから、いずれ達者な体になってからの相談にしようと、庄屋は彼に言い聞かせて帰した。

それから半月ほど経って、重助は再び庄屋の家へ来て、女の病気はもう癒ったからこのあいだの話をどうぞまとめてくれと言った。彼は余程その女の始末に困っているらしい。したがってその病気全快というのもなんだか疑わしいので、庄屋もその返事に渋っているところへ、あたかもかの蛇吉が催促に来て、まだなんにも心当りはないかと言った。

嫁にやりたいという人、嫁を貰いたいという人、それが同時に落ち合ったのは何かの縁かも知れないと思ったので、庄屋はともかくもその話を切出してみると、蛇吉は二つ返事で何分よろしく頼むと答えた。女は三十七で自分よりも五つ年上であること、女は茶屋奉公のあがりで悪い病気のあること、それらをすべて承知の上で自分の嫁に貰いたいと彼は言った。

こうなれば、もう子細はない。話はすべるように進行して、それから更に半月とは過ぎないうちに、蛇吉の家には年増としまの女房が坐り込んでいるようになった。女房の名はお年としというのであった。

庄屋の疑っていた通り、お年はまだほんとうに全快しているのではなかった。無理に起きてはいるものの、お年は真っ蒼な顔をして幽霊のように痩せ衰えていた。よんどころない羽目で世話をしたものの、あれで無事に納まってくれればいいがと、庄屋も内々心配していると、不思議なことには、それからまた半月と過ぎ、ひと月と過ぎてゆくうちに、お年はめきめきと元気が付いて来て、顔の色も見ちがえるように艶々つやつやしくなった。

「蛇吉が蛇の黒焼でも食わしたのかも知れねえぞ。」と、陰では噂をする者もあった。

それはどうだか判らないが、お年が健康を回復したのは事実であった。そうして、年下の亭主と仲よく暮らしているのを見て、庄屋もまず安心した。実際、かれらの夫婦仲は他人の想像以上にむつまじかった。多年大勢の男を翻弄して来た莫蓮女ばくれんおんなのお年も、蛇吉という男に対しては我れながら怪しまれるほどに濃厚の愛情をささげて仕えた。蛇吉も勿論かれを熱愛した。こうして三年あまりも同棲しているあいだに、蛇吉は自分の仕事の上の秘密を大かたは妻に打明けてしまった。

彼の家のうしろには屋根の低い小屋がある。北向きに建てられて、あたりには樹木が繁っているので、昼でも薄暗く、年中じめじめしている。その小屋の隅に見なれない茸きのこの二つ三つ生えているのをお年が見つけて、あれは何だと蛇吉にたずねると、それは蛇を捕る薬であると彼は説明した。大小幾匹の蛇を殺して、その死骸を土の底ふかく埋めておくと、二、三年の後にはその上に一種の茸が生える。それを陰干かげぼしにしたのを細かく刻み、更に女の髪の毛を細かく切って、別に一種の薬をまぜて煉り合せる。そうして出来上がった薬を焼くと、うわばみはその匂いを慕って近寄るのであると言った。ただし他の一種の薬だけは、蛇吉も容易にその秘密を明かさなかった。もう一つ、かのうわばみと戦うときに振りまく粉薬というのも、やはりその物に何物かを調合するのであった。たといその秘密をくわしく知ったところで、他人にはしょせん出来そうもない仕事であるから、お年もその以上には深く立入って詮議もしなかった。

夫婦の仲もむつまじく、生活に困るのでもなく、一家はまことに円満に暮らしているのであるが、なぜかこの頃は蛇吉の元気がだんだんに衰えて来たようにも見られた。彼は時々にひとりで溜息をついていることもあった。お年もなんだか不安に思って、どこか悪いのではないかと訊いても、夫は別に何事もないと答えた。しかし、ある時こんな事を問わず語りに言い出した。

「おれもこんなことを長くはやっていられそうもないよ。」

お年は別に現在の職業を嫌ってもいなかったが、老人になったらばこんな商売も出来ないであろうとは察していた。今のうちから覚悟して、ほかの商売をはじめる元手でも稼ぎためるか、廉い田地でも買うことにするか、なんとかして老後の生計たつきを考えておかなければなるまいと思って、それを夫に相談すると、蛇吉はうなずいた。

「おれはどうでもいいが、お前が困るようなことがあってはならない。そのつもりで今のうちに精々かせいでおくかな。」

彼はまた、こんなことを話した。

「村の人はみんな知っていることだが、家うちのおふくろが死ぬ少し前に、おれは怖しいうわばみに出逢って、あぶなくこっちが負けそうになった。相手が三本目の筋まで平気で乗り越して来た時には、おれももう途方にくれてしまったが、その時、ふっと思い出したのは、死んだ親父の遺言だ。おやじが大病で所詮むずかしいというときに、おれの亡い後、もし一生に一度の大難に出逢ったらば、おれの名を呼んでこういう呪文じゅもんを唱えろ。おれがきっと救ってやるよ。しかし二度はならない。一生に一度ぎりだぞと、くれぐれも念を押して言い残されたことがある。おれはそれを思い出したので、半分は夢中で股引をぬいで、おやじの名を呼んで呪文を唱えながら、それをまっ二つに引裂くと、不思議に相手もまっ二つに裂けて死んだ。どういう料簡で、おれが股引を引裂いたのか、自分にもわからない。たぶん死んだ親父がそうしろと教えてくれたのだろう。家へ帰ってその話をすると、おふくろは喜びもし嘆きもした。一生に一度という約束を果してしまったから、お父とっさんも二度とおまえを救っては下さるまい。これからはそのつもりで用心しろと言った。その当座はそれほどにも思わなかったが、このごろはそれが思い出されて、なんだか馬鹿に気が弱くなってならない。なに、おれ一人ならばどうにでもなるが、お前のことを考えると、うかうかしてはいられない。」

何につけても自分を思ってくれる夫の親切を、お年は身にしみて嬉しく感じた。

三

ふたりが同棲してから四度目の夏が来た。ことしは隣り村に大きいうわばみが出て、田畑をあらし廻るので、男も女もみな恐れをなして、野良のら仕事に出る者もなくなった。このままにしておいては田畑に草が生えるばかりであるから、なんとかしてうわばみ退治の方法をめぐらさなければならないと、村じゅうがあつまって相談の末に、かの蛇吉を頼んで来ることになった。首尾よく退治すれば金一両に米三俵を付けてくれるというのであったが、その相談を蛇吉は断った。

隣り村ではよくよく困ったとみえて、さらに庄屋のところへ頼んで来て、お前さんから何とか蛇吉を説得してもらいたいと言い込んだ。隣り村の難儀を庄屋も気の毒に思って、あらためて自分から蛇吉に言い聞かせると、彼はやはり断った。今度の仕事はどうも気乗りがしないから勘弁してくれと言ったが、庄屋はそれを許さなかった。

「おまえも商売ではないか。金一両に米三俵をくれるという仕事をなぜ断る。第一に隣り同士の好誼よしみということもある。五年前、こっちの村に水の出た時には、隣り村の者が来て加勢してくれたことをお前も知っているはずだ。言わばお互いのことだから、むこうの難儀をこっちがただ見物していては義理が立たない。誰にでも出来ることならば他の者をやるが、こればかりはお前でなければならないから、わたしもこうして頼むのだ。どうぞ頼まれて行ってくれ。」

こう言われると、蛇吉もあくまで強情を張っているわけにもいかなくなった。彼はとうとう無理往生に承知させられることになったが、家へ帰っても何だか沈み勝であった。あくる朝、身支度をして出てゆく時にも、なみだを含んで妻に別れた。

隣り村ではよろこんで彼を迎えた。彼は庄屋の家へ案内されていろいろの馳走になった上で、いつもの通り、うわばみ退治の用意に取りかかったが、彼がこの村へ足を踏み込んでから、かのうわばみは一度もその姿をみせなくなった。蛇吉の来たのを知って、さすがのうわばみも遠く隠れたのではあるまいかなどと言う者もあったが、相手が姿をみせない以上、それを釣り出すよりほかはないので、蛇吉は蛇の出そうな場所を見立てて、そこに例のおとし穴をこしらえて、例の秘密の一薬を焼いた。しかもそれは何の効もなかった。小蛇一匹すらもその穴には墜ちなかった。

折角来たものであるから、もう少し辛抱してくれと引留められて、蛇吉はここに幾日かを暮らしたが、うわばみは遂にその姿をあらわさなかった。おとし穴にもかからなかった。

「あまり遅くなると、家の方でも案じましょうから、わたしはもう帰ります。」と、彼は十一日目の朝になって、どうしても帰ると言い出した。

相手の方でもいつまで引留めておくわけにはいかないので、それではまたあらためてお願い申すということになって、村方から彼に二歩の礼金をくれた。うわばみ退治に成功しなかったが、ともかくも彼がここへ来てから、その姿を見せなくなったのは事実である。殊に十日以上の暇をつぶさせては、このまま空手からてで帰すことも出来ないので、その礼心にそれだけの金を贈ったのである。

「なんの役にも立たないでお気の毒ですが、折角のお志だから頂きます。」

彼はその金を貰って出ようとする時、村の者の一人があわただしく駈けて来て、山つづきの藪ぎわに大きいうわばみが姿をあらわしたと注進したので、一同はにわかに色めいた。

「もう一と足で吉さんを帰してしまうところであった。さあ、どうぞ頼みます。」

もともとそれがため来たのであるから、蛇吉も猶予することは出来なかった。彼はすぐに身ごしらえをして、案内者と一緒にその場へ駈けつけると、果して大蛇は藪から半身をあらわして眠ったように腹這っていた。

蛇吉は用意の粉薬を取出して、川という字を横にしたような三本の線を地上に描いた。彼は第一線を前にして突っ立ちながら、なにか大きな叫び声をあげると、今まで眠っていたようなうわばみは眼をひからせて頭をあげた。と思うと、たちまちに火焔ほのおのような舌を吐きながら、蛇吉の方へ向ってざらざらと走りかかって来たが、第一線も第二線もなんの障碍しょうがいをなさないらしく、敵はまっしぐらにそれを乗り越えて来た。第三線もまた破られた。

蛇吉は先度のように呪文を唱えなかった。股引も脱がなかつた。彼は持っている手斧をふりあげて正面から敵の真っ向を撃った。その狙いは狂わなかったが、敵はこの一と撃ちに弱らないらしく、その強い尾を働かせて彼の左の足から腰へ、腰から胸へと巻きついて、人の顔と蛇の首とが摺れ合うほどに向い合った。もうこうなっては組討のほかはない。蛇吉は手斧をなげ捨てて、両手で力まかせに蛇の喉首を絞めつけると、敵も満身の力をこめて彼のからだを締め付けた。

この怖ろしい格闘を諸人は息をのんで見物していると、敵の急所を掴んでいるだけに、この闘いは蛇吉の方が有利であった。さすがの大蛇も喉の骨を挫かれて、次第々々に弱って来た。

「こいつの尻尾しっぽを斬ってくれ。」と、蛇吉は呶鳴った。

大勢のなかから気の強い若者が駈け出して行って、鋭い鎌の刃で蛇の尾を斬り裂いた。尾を斬られ頸を傷められて、大蛇だいじゃもいよいよ弱り果てたのを見て、さらに五、六人が駈け寄って来て、思い思いの武器をふるったので、大蛇は蟻ありにさいなまれるみみずのようにのたうち廻って、その長いなきがらを朝日の下にさらした。

それと同時に、蛇吉も正気をうしなって大地に倒れた。

彼は庄屋の家うちへかつぎ込まれて、大勢の介抱をうけてようやくに息をふき返した。別に怪我をしたというでもないが、彼はひどく衰弱して、ふたたび起きあがる気力もなかった。

蛇吉は戸板にのせて送り帰されたときに、お年は声をあげて泣いた。村の者もおどろいて駈け付けて来た。自分が無理にすすめて出してやって、こんなことになったのであるから、庄屋はとりわけて胸を痛めて、お年をなぐさめ、蛇吉を介抱していると、彼は譫言うわごとのように叫んだ。

「もういいから、みんな行ってくれ、行ってくれ。」

彼は続けてそれを叫ぶので、病人に逆らうのもよくないから一とまずここを引取ろうではないかと庄屋は言い出した。親類の重助をひとりあとに残して、なにか変ったことがあったらばすぐに知らせるようにお年にも言い聞かせて、一同は帰った。

朝のうちは晴れていたが、午後から陰って蒸し暑く、六月なかばの宵は雨になった。お年と重助はだまって病人の枕もとに坐っていた。雨の宵はだんだんにさびしく更けて、雨の音にまじって蛙の声もきこえた。

「重助も帰ってくれ。」と、蛇吉はうなるように言った。

ふたりは顔を見合せていると、病人はまたうなった。

「お年も行ってくれ。」

「どこへ行くんです。」と、お年は訊いた。

「どこでもいい。重助と一緒に行け。いつまでもおれを苦しませるな。」

「じゃあ、行きますよ。」

ふたりはうなずき合ってそこを起たった。一本の傘を相合あいあいにさして、暗い雨の中を四、五間ばかり歩き出したが、また抜足をして引っ返して来て、門口かどぐちからそっと窺うと、内はひっそりしてうなり声もきこえなかった。ふたりは再び顔を見合せながら、さらに忍んで内をのぞくと、病人の寝床は藻ぬけの殻からで、蛇吉のすがたは見えなかった。

それがまた村じゅうの騒ぎになって、大勢は手分けをしてそこらを探し廻ったが、蛇吉のすがたはどこにも見いだされなかった。彼は住み馴れた家を捨て、最愛の妻を捨て、永久にこの村から消え失せてしまったのであった。

彼が妻にむかって、この商売を長くはやっていられないと言ったことや、隣り村へゆくことをひどく嫌ったことや、それらの事情を綜合して考えると、あるいは自分の運命を予覚していたのではないかとも思われるが、彼は果して死んでしまったのか、それともどこかに隠れて生きているのか、それはいつまでも一種の謎として残されていた。

しかし村人の多数は、彼の死を信じていた。そうして、こういう風に解釈していた。

「あれはやっぱりただの人間ではない。蛇だ、蛇の精だ。死ぬときの姿をみせまいと思って、山奥へ隠れてしまったのだ。」

彼が蛇の精であるとすれば、その父や母もおなじく蛇でなければならない。そんなことのあろうはずがないと、お年は絶対にそれを否認していた。しかも、なぜ自分の夫が周囲の人々を遠ざけて、その留守のあいだに姿を隠したのか。その子細は彼女にも判らなかった。

これは江戸の末期、文久年間の話であるそうだ。

清水しみずの井いど

一

第六の男は語る。

唯今は九州のお話が出たが、僕の郷里もやはり九州で、あの辺にはいわゆる平家伝説というものがたくさん残っている。伝説にはとかく怪奇のローマンスが付きまとっているものであるが、これなどもその一つだ。ただしこれは最近の出来事ではない。なんでも今から九十年ほども昔の天保てんぽう初年のことだと聴いている。

僕の郷里の町から十三里ほども離れたところに杉堂という村がある。そこから更にまた三里あまり引っ込んだところだというから、今日こんにちではともかくも、そのころでは、かなり辺鄙へんぴな土地であったに相違ない。そこに由井ゆい吉左衛門という豪家があった。なんでも先祖は菊池の家来であったが、菊池がほろびてからここに隠れて、刀を差しながら田畑を耕たがやしていたのだそうだが、理財の道にも長たけていた人物とみえて、だんだんに土地を開拓して、ここらでは珍しいほどの大おお百姓になりすました。そうして子孫連綿として徳川時代までつづいて来たのであるから、土地のものは勿論、代々の領主もその家に対しては特別の待遇をあたえて、苗字帯刀を許される以外に、新年にはかならず登城して領主に御祝儀を申上げることにもなっていた。

そんなわけで、百姓とはいうものの一種の郷士のような形で、主人が外出する時には大小を差し、その屋敷には武具や馬具なども飾ってあるという半士半農の生活を営んでいて、男の雇人ばかりでも三四十人も使って、大きい屋敷のまわりには竹藪をめぐらし、またその外には自然の小川を利用して小さい濠ほりのようなものを作っていた。土地の者がその門前を通るときは、笠をぬぎ、頬かむりを取って、いちいち丁寧に挨拶して行き過ぎるという風で、その近所近辺の村びとには大方ならず尊敬されていた。当主は代々吉左衛門の名を継ぐことになっていて、この話の天保初年には十六代目の吉左衛門が当主であったそうだ。

由井吉左衛門にふたりの娘があって、姉はおそよ、妹はおつぎといった。この姉妹きょうだいがある年の秋のはじめ頃からだんだんに痩せおとろえて、いわゆるぶらぶら病いという風で、昼の食事も進まず、夜もおちおちとは眠られないようになったので、両親もひどく心配して遠い熊本の城下から良い医師をわざわざ呼び迎えて、いろいろに手あつい療治を加えたが、姉妹ともにどうも捗々はかばかしくない。どの医師もいたずらに首をかしげるばかりで、一体なんという病症であるかも判らない。

おそよは十八、おつぎは十六、どっちも年頃としごろの若い娘であるから、世にいう恋煩こいわずらいのたぐいではないかとも疑われたが、ひとりならず、姉妹揃っておなじ恋煩いというのも少しおかしい。勿論、ふたりともにどっと寝付いているというわけでもなく、天気のいい日や、気分のいい日には、寝床から起き出して田圃たんぼや庭などをぶらぶら歩いているのであるが、それでも病人は病人に相違ないので、親たちの苦労は絶えなかった。

そうすると、親たちにもいろいろの迷いが出る。土地の者もいろいろのことを言いふらすようになる。由井の家の娘には何かの憑物つきものがしているか、さもなければ由井の家に何か祟っているのであろうという噂が、それからそれへと拡がって行くので、親たちもそれを気に病んで、神主や僧侶や山伏や行者ぎょうじゃなどを代るがわるに呼び迎えて、あらゆる加持祈祷をさしてみたが、いずれも効験がない。そのうちに、下男のひとりがこういう秘密を主人夫婦にささやいた。

その下男は夜半よなかに一度ずつ屋敷内を見まわるのが役目で、師走しわすの月の冴えた夜にいつもの通り見まわって歩くと、裏手の古井戸のそばに二人の女の立っている姿をみつけた。夜目遠目よめとおめではあるが、今夜の月は明るいので、その女たちが主人の娘ふたりに相違ないことを早くも知って、彼は不思議に思った。大きい木のかげに隠れて、なおもその様子をうかがっていると、姉妹は手を引合ってむつまじく寄り添いながら、一心に井戸の底をのぞいているらしかった。まさかに身を投げるのでもあるまいと油断なく窺っていると、やがて姉妹は嬉しそうに笑いながら、手を引合ったままで内へはいった。

下男の密告は単にそれだけに過ぎないが、考えてみると、不審は重々じゅうじゅうであると言わなければならない。若い女、ことに半病人の女たちが、なんの用があって寒い夜ふけに裏口へ出て、古井戸のなかを覗いているのかと、吉左衛門夫婦も眉をひそめた。そこで、その下男に言いつけて、あくる夜もそっと井戸のあたりに忍ばせておくと、その晩も夜のふけた頃にかの姉妹が手を引合って出て来た。そうして、ゆうべと同じように井戸をのぞいて、やはり嬉しそうに帰って行くのであった。

こういう不思議な挙動がふた晩もつづいた以上、親たちももう打ち捨てておくわけにはいかなくなった。しかし姉妹ふたりを一緒に詮議してはかえって実じつを吐くまいと思ったので、吉左衛門夫婦はまず妹のおつぎを問い糺ただすことにした。年が若いだけに、妹の方が容易に白状するであろうと思ったからであった。おつぎは奥のひと間へ呼び入れられて、両親が膝づめで詮議すると、最初は強情に口をつぐんでいたが、いろいろに責められてとうとう白状した。

その白状がまた奇怪なものであった。おそよとおつぎは奥の八畳の間に毎夜の寝床をならべるのを例としていたが、八月はじめのある夜のことである。おつぎが夜半よなかにふと眼をさますと、自分のとなりに寝ている姉がそっと起きてゆく。初めは厠かわやへでも行くのかと思っていると、おそよは縁先の雨戸をあけて庭口の方へ忍んで出るらしいので、おつぎもなんだか不思議に思った。一種の不安と好奇心とに誘われて、妹もそっと姉のあとをつけて出ると、おそよは庭口から裏手へまわった。そこには広い空地あきちがあって、古い井戸のほとりには大きい椿が一本立っている。おそよはその井戸のそばへ忍び寄って、月あかりに井戸の底を覗いているらしかった。

それから毎晩注意していると、おそよの同じ行動は四日も五日も続いて繰返された。おつぎはそれを両親に密告しようかとも思ったが、ふだんから仲好しの姉の秘密をむやみに訴えるのは好くないと考えて、ある晩、姉がいつものように出てゆくところを呼びとめて、一体なんのためにそんなことをするのかと聞きただすと、おそよは心願があるのだと言った。それがどうも疑わしいので、おつぎは更に根掘り葉ほり詮議すると、おそよもとうとう包み切れなくなって、初めてその秘密を妹に打明けた。

今から一と月ほど前の午ひるごろに、おそよがかの古井戸のほとりを通ると、二匹の大きい美しい蝶がもつれ合って飛んでいて、やがてその二つの蝶は重なり合ったままで井戸のなかへ落ちて行った。おそよはそのゆくえを見定めようとして井戸のそばへ寄って見おろすと、蝶の姿はもう見えなかった。水に落ちてしまったのかと、じっと底の方を覗いていると、水のうえに二つの美しい男の顔が映った。おどろいて左右を見返ったが、あたりには誰もいない。ふたつの蝶が二つの男の顔に変ったわけでもあるまい。不思議に思っていつまでも覗いていると、その男の顔はこっちを見あげてにっこりと笑ったので、おそよはぞっとして飛びのいた。

しかし薄気味の悪かったのは単にその一刹那だけで、おそよは再びその美しい男の顔が見たくなった。かれは左右を窺いながら、抜足をして井戸のそばへ立ち寄って、そっと水の上を覗いてみたが、男の顔はもう浮かんでいなかった。おそよは言い知れない強い失望を感じて、すごすごとそこを立去ったが、あくる日ふたたびその井戸端を通ると、かれは今日もその上にふたつの蝶のもつれて飛んでいるのを見た。蝶はどこへか姿を隠してしまったが、おそよはその蝶のゆくえを追うようにきょうも井戸のなかを覗いてみると、二つの顔はまたあらわれた。おそよはいつまでも飽かずにその顔を見つめていた。

それが始まりで、おそよは一日のうちに幾たびかその古井戸をのぞきに行った。そうしているうちに、明るい真昼には男の顔が見えなくなって、彼らの美しい顔は夜でなければ水の上に浮かばないようになった。夜ならば月夜はもちろん、闇の夜でも男の顔ははっきりと見えて、宵のうちよりも真夜中の方が一層あざやかに浮き出していた。

おそよがこのごろ夜ふけに寝床を抜け出してゆく子細はそれで判ったが、妹のおつぎにはまだ十分に信じられなかったので、かれは姉にたのんで一緒に連れて行ってもらうことになった。古井戸の水の上には果して二つの白い顔が映っていて、いずれも絵にかいたお公家くげさまのような、ここらではかつて見たこともない優美な若い男たちであったので、おつぎも暫くは夢のような心持で、その顔を見つめていた。そうして、姉が毎晩かかさずにここへ忍んで来るのも、なるほど無理はないとうなずかれた。

井戸の水に映る顔は二つで、今までは姉ひとりがそれを眺めていたのであるが、その後は二つの顔に向いあう女の顔も二つになつた。姉妹は毎夜誘いあわせて、その井戸端へ通いつづけていたのである。勿論、その顔を覗くだけのことで、ほかにはどうにも仕様がないのであるが、かの猿猴えんこうが水の月をすくうとおなじように、この姉妹も水にうつる二つの美しい顔をすくい上げたいような心持で、夜のふけるのを待ちかねて毎晩毎晩忍んで行った。そうして、身も痩せるばかりの果敢はかない、遣瀬やるせない思いに悩みつづけているのであった。

二

吉左衛門夫婦はさらに姉娘のおそよを呼出して詮議すると、妹がもういっさいを白状してしまったのであるから、姉も今更つつみ隠すことは出来なかった。おそよも親たちの前で正直に何もかも打明けたが、その申口はおつぎとちっとも変らないので、吉左衛門夫婦ももう疑う余地はなかった。念のために夫婦はその夜ふけに井戸をのぞきに行ったが、姉妹の父母の眼にはなんにも映らなかった。

「この井戸の底に何か怪しい物が棲んでいて、娘たちをまどわすに相違ない。底をさらってあらためてみろ。」と、吉左衛門は命令した。

師走のなかばではあるが、きょうは朝からうららかに晴れた日で、どこかで笹鳴きのうぐいすの声もきこえた。男女の奉公人がほとんど総がかりで、朝の五つ(午前八時)頃から井戸さらいをはじめたが、水はなかなか汲みほせそうもなかった。

由井の屋敷内には幾カ所の井戸があるが、この井戸はそのなかでも最も古いもので、由井の先祖が初めてここに移住した頃から、すでに井戸の形をなしていたというのであるから、遠い昔の人が掘ったものに相違ない。しかしこの井戸が最も深く、水もまた最も清冽で、どんな旱魃かんばつにもかつて涸かれたことがないので、この屋敷では清水の井戸といっていた。

その井戸を汲みほそうとするのであるから、容易なことでないのは判り切っていた。汲んでも、汲んでも、あとから湧き出してくる水の多いのに、奉公人どももほとほと持て余してしまったが、それでも大勢の力で、水嵩はふだんよりも余ほど減って来た。

底にはどんな怪物がひそんでいるか、池の主ぬしといったような鯉かなまずか、それともがまかいもりかなどと、諸人が想像していたような物の姿は、どうも見いだされそうもないので、吉左衛門は更に命令した。

「熊手くまでをおろしてみろ。」

鉄の熊手は太い綱をつけて井戸の底へ繰下げられた。なにか引っかかる物はないかと、幾たびか引っ掻きまわしているうちに、小さい割には重いものが熊手にかかって引揚げられたので、明るい日光の下もとで大勢が眼をあつめて見ると、それは小さい鏡であった。鏡はよほど古いものらしく、しかも高貴の人が持っていた品であるらしいのは、それに精巧な彫刻などが施してあるのを見ても知られた。まだ何か出るかも知れないというので、さらに熊手をおろして探ると、また一面の鏡が引揚げられた。これも前のと同じような品であった。

そのほかにはもうなんにも掘出し物はないらしいので、その日の井戸さらいはまず中止になって、さらにその二つの鏡の詮議に取りかかったが、単に古い物であろうというばかりで、いつの時代に誰が沈めたものか、ほとんど想像が付かなかった。しかし水に映る顔が二つで、今や二つの鏡を引揚げた以上、その顔の持主もちぬしとこの鏡の持主とのあいだに、なにかの関係があることだけは、誰にも容易に想像された。

吉左衛門は大家たいけに育っただけに、相当の学問の素養もあるので、この古い鏡の発見について少なからぬ興味をもった。且かつはその鏡に自分の娘ふたりを蠱惑こわくする不可思議な魔力がひそんでいるらしいことを認めたので、いよいよそのままには捨ておかれないと思って、まずその両面の鏡を白木の箱のなかへ厳重に封じこめた。それから城下へ出て行って有名な学者や鑑定家などを尋ねまわって、その鏡の作られた時代や由緒ゆいしょについて考証や鑑定を求めたが、それは日本で作られたものでない、おそらく支那から渡来したものであろうという以上には、なんの発見もなかったので、吉左衛門も失望した。

その鏡を引揚げて以来、井戸のなかには男の影が映らなくなった。それから考えても、その鏡には何かの秘密がひそんでいるに相違ないと信じられたので、吉左衛門は隣国まで手をまわして、いろいろに詮索せんさくした。なにしろ大家で金銭に不自由はないのと、由井の家の名は遠方までもきこえているのとで、こういう場合には何かの都合もよかったのであるが、それでもこの詮索ばかりは思うようにいかないで、あくる年の四、五月ごろまでむなしく月日を過してしまった。姉妹の娘もその後は夢から醒めたようで、なんとも知れない怪しい病気もだんだんに消え去って、もとの健康な人間に立ちかえった。

娘が元のからだに返って、その後なんの変事もない以上、もうそのままに打捨てておいてもよいのであるが、吉左衛門はまだ気がすまなかった。彼は金と時間とを惜しまずに幾年かかっても構わないから、どうしてもその鏡の由緒を探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種の研究所のようなものを作って、熱心にその研究をつづけていると、その年の暮れ、その鏡が世にあらわれてから丁度一年目に、いっさいの秘密がはじめて明白になった。

その発見の手つづきはまずこうであった。由井の家に集まった人々が協議の上で、鏡の由来その他の詮索よりも、まずその井戸がいつの時代に掘られたのか、また由井の先祖がここに移住する前には、何者が住んでいたのかということを詮索する方針を取ったのである。

それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智おち七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見した。七郎左衛門は源平時代からここに屋敷を構えていて、相当に有力の武士であったらしいのであるが、南北朝時代に菊池のために亡ぼされて、その子孫はどこへか立去ったということが判ったので、さらにその子孫のゆくえを詮議することになったが、何分にも遠い昔のことであるから、それも容易には判らない。いろいろに手を尽して詮索した末に、越智の家の子孫は博多へ流れて行って、今では巴屋という漆屋うるしやになっていることを突きとめた。口で言うと、単にこれだけの手つづきであるが、これだけのことを確かめるまでに殆んど一年間を費ついやしたのであった。

それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴屋にも別に記録のようなものは何にも残っていなかった。しかし遠い先祖のことについて、こういう一種の伝説があるといって、当代の主人が話してくれた。

それが何代目であるか判らないが、源平時代に越智の家は最も繁昌していたらしい。その越智の屋敷へ或る年の春の夕ぐれに、二人連れの若い美しい女がたずねて来た。主人の七郎左衛門に逢って、どういう話をしたか知らないが、その女たちはその夜からここに足をとどめて、屋敷内の人になってしまった。主人は一家の者に堅く口止めをして、かの女たちを秘密に養っておいたのである。女たちも人目を避けて、めったに外へ出なかった。

その人柄や風俗から察すると、かれらは都の人々で、おそらく平家の官女が壇の浦から落ちて来て、ここに隠れ家を求めたのであろうと、屋敷内の者はひそかに鑑定していた。主人の七郎左衛門はその当時二十二三歳で、まだ独身であった。そのふところへ都生れの若い女が迷い込んで来たのであるから、その成行きも想像するに難くない。やがてその二人の女は主人と寝食をともにするようになって、三年あまりをむつまじく暮らしていた。どっちが妻だかわからないが、家来らはその一人を梅殿といい、他のひとりを桜殿と呼んで尊敬していた。

そうしているうちに、ここに一つの事件が起った。それは近郷の滝沢という武士から七郎左衛門に結婚を申込んで来たのである。滝沢もここらでは有力の武士で、それと縁を組むことは越智の家に取っても都合がよかった。ことに滝沢の娘というのはことし十七の美人であるので、七郎左衛門のこころは動いた。実際はたといどういう関係であろうとも、梅殿と桜殿とは所詮しょせん、日かげの身の上であるから、表向きにはなんと言うことも出来なかった。縁談は故障なく運んで、いよいよ今夜は嫁御の輿入こしいれというめでたい日の朝である。越智の屋敷の家来らは思いもよらない椿事ちんじにおどろかされた。

主人の七郎左衛門はその寝床で刺し殺されていたのである。彼は刃物で左右の胸を突き透されて仰向けになって死んでいた。ひとつ部屋に寝ているはずの梅殿も桜殿もその姿をみせなかった。屋敷じゅうではおどろき騒いで、そこらを隈なく詮索すると、ふたりの女の亡骸なきがらは庭の井戸から発見された。前後の事情からかんがえると、今度の縁談に対する怨みと妬みとで、梅と桜とが主人を殺して、かれら自身も一緒に入水じゅすいして果てたものと認めるのほかはなかった。勿論、それが疑いもない事実であるらしかった。

しかもその二つの亡骸を井戸から引揚げたときに、家来らはまたもや意外の事実におどろかされた、今まで都の官女とのみ一途ずに信じていた梅と桜とは、まがうかたなき男であった。彼らはおそらく平家の名ある人々の公達きんだちで、みやこ育ちの優美な人柄であるのを幸いに、官女のすがたを仮りて落ちのびて来たものであろう。山家やまが育ちの田舎侍などの眼に、それがまことの女らしく見えたのは当然であるとしても、七郎左衛門までが欺かれるはずはない。彼は二人の正体を知りながら、梅と桜とを我がものにして、秘密の快楽にふけっていたのであろう。その罪はまた、かのふたりの手に因よって報いられた。

梅と桜とが身を沈めたのは、かの清水の井戸であった。二つの鏡はおそらくこの二人の胸に抱かれていたのを、引揚げる時にあやまって沈めてしまったのか、あるいは家来らが取って投げ込んだものであろう。主人の七郎左衛門をうしなったのち、越智の家は親戚の子によって相続された。そうして、前にもいう通り南北朝時代に至って滅亡した。それから幾十年のあいだは草ぶかい野原になっていた跡へ、由井の家の先祖が来たり住んだのである。後住者が木を伐り、草を刈って、新しい住み家を作るときに、測らずもここに埋もれたる古井戸のあるのを発見して、水の清いのを喜んでそのままに用い来たったものらしい。

源平時代からこの天保初年までは六百余年を経過している。その間、平家の公達のたましいを宿した二つの鏡は、古井戸の底に眠ったように沈んでいたのであろう。それがどうして長い眠りから醒めて、なんの由縁ゆかりもない後住者の子孫を蠱惑こわくしようと試みたのか、それは永久の謎である。鏡は由井家の菩提寺へ納められて、吉左衛門が施主となって盛大な供養の式を営んだ。

その鏡はなんとかいう寺の宝物のようになっていて、明治以後にも虫干むしぼしの時には陳列して見せたそうであるが、今はどうなったか判らない。由井の家は西南戦争の際に、薩軍の味方をしたために、兵火に焼かれて跡方もなくなってしまったが、家族は長崎の方へ行って、今でも相当に暮らしているという噂である。その井戸は――それもどうしたか判らない。今ではあの辺もよほど開けたというから、やはり清水の井戸として大勢の人に便利をあたえているかも知れない。

窯変ようへん

一

第七の男は語る。

明治三十七年八月二十九日の夕方である。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに楊家店ようかてんという小さい村に行き着いた。前方は遼陽攻撃戦の最中で、首山堡しゅざんぽうの高地はまだ陥らない。鉄砲の音は絶え間なしにひびいている。

僕たちは毎晩つづいて野宿同様の苦をしのいで来たので、今夜は人家をたずねて休息することにして、二、三人あるいは四、五人ずつ別れ別れになって今夜のやどりを探してあるいた。楊家店は文字通りに柳の多い村である。その柳のあいだをくぐり抜けて、僕たち四人の一組は石の古井戸を前にした、相当に大きい家をみつけた。

井戸のほとりには十八九ぐらいの若い男がバケツに綱を付けたのを繰りさげて、荷にない桶に水を汲みこんでいる。おまえはこの家の者かと、僕たちはおぼつかない支那語できくと、彼は恐れるように頭かぶりをふった。ここの家うちの姓はなんというかと重ねて訊くと、彼はそこらに落ちている木の枝を拾って、土の上に徐という字を書いてみせた。そうして、日本の大人たいじんらはそこへ何の用事でゆくのかと訊ききかえした。

今夜はここの家に泊めてもらうつもりであると僕たちが答えると、彼は再び頭をふり、手を振って、それはいけないというらしいのである。しかし僕たちは支那語によく通じていない上に、相手は満洲なまりが強いと来ているので、その言うことがはっきりと判らない。彼は何か我れわれをおどすような表情や手真似をして、そこへ泊るのは止せというらしいのであるが、その意味がどうも十分に呑み込めないので、僕たちも焦じれ出した。

「まあ、いい。なんでも構わないから、内へはいって交渉して見よう。」

気の早い三人は先に立って門内にはいり込んだ。僕も続いてはいろうとすると、かの男は僕の腰につけている雑嚢ざつのうをつかんで、なにか口早に同じようなことを繰返すのである。僕は無言でその手を振払って去った。

門はあいたが、内には人のいるらしい様子もみえない。四人は声をそろえて呼んだが、誰も答える者はなかった。

「あき家かしら。」

四人は顔をみあわせて、さらにあたりを見廻すと、門をはいった右側に小さい一棟の建物がある。正面の奥にも立木のあいだに母屋おもやらしい大きい建物がみえる。ともかくも近いところにある小さい建物の扉とびらを押して見ると、これもすぐにあいたが、内には人の影もなかった。

僕たちはもう疲れ切っているので、なにしろここで休もうということになって、破れたアンペラを敷いてある床ゆかの上に腰をかけた。腹はすいているが、食いものはない。せめては水でも飲もうと、四人は肩にかけている水筒をとって飲みはじめたが、午飯ひるめしのときの飲み残りぐらいでは足りないので、僕は門前の井戸へ汲みに出ると、かの男はまだそこの柳の下に立っていた。

僕が水をくれと言うと、彼は快くバケツの水を水筒に入れてくれたが、やはり何か口早にささやくのである。それが僕にはどうしても呑み込めないので、彼も焦れて来たらしく、再び木の枝を取って、「家有妖」と土に書いた。それで僕にも大抵は想像が付いた。僕は「鬼」という字を土に書いて見せると、それは知らない。しかしあの家には妖があると彼は答えた。この場合、鬼と妖とはどう違うのか判らなかったが、この家はなにか一種の化物屋敷とでもいうものであるらしいことだけはまず判った。要するに、あの家には妖があるから、うかつに入り込むのはよせというのである。僕は彼に礼をいって別れた。

引っ返してみると、僕の出たあとへ一人の老人が来て、しずかに他の人たちと話していた。四人のうちでは比較的支那語をよくするT君がその通訳にあたっていて、僕たちに説明してくれた。

「この老人はこの家に三十年も奉公している男で、ほかにも四、五人の奉公人がいるそうだ。このあいだから眼のまえで戦争がはじまっているので、家内の者はみな奥にかくれている。したがって、別段おかまい申すことは出来ないが、茶と砂糖はある。裏の畑に野菜がある。泊りたければここへ自由にお泊りなさいと、ひどく親切に言ってくれるのだ。泊めてもらおうじゃないか。」

「もちろんだ。多謝トーシェー、多謝トーシェー。」と、僕たちは口をそろえてかの老人に感謝した。

老人は笑いながら立去った。あとでT君は畑にどんなものがあるか見て来ようと言って出たが、やがて五、六本の見事な唐もろこしをかかえ込んで来た。それはいいものがあると喜んで、M君がまた駈け出して取りに行った。家の土間には土竈どべっついが築いてあるので、僕たちはその竈かまどの下に高粱コウリャンの枯枝を焚いて唐もろこしをあぶった。めいめいの雑嚢の中には食塩を用意していたので、それを唐もろこしに振りかけて食うと、さすがは本場だけに、その旨い味は日本の唐もろこしのたぐいでない。

僕たちは代るがわるに畑からそれを取って来てむさぼり食らっていると、かの老人は十五六の少年に湯わかしを持たせて、自分は紙につつんだ砂糖と茶を持って来てくれたので、僕たちは再び多謝トーシェーをくり返して、すぐに茶をこしらえる支度をして、その茶に砂糖を入れてがぶがぶと飲みはじめた。唐もろこしを腹いっぱいに食い、さらにあたたかい茶を飲んで、大いに元気を回復したのを、老人はにこにこしながら眺めていたが、やがてT君にむかって小声で言い出した。この一行のうちに薬を持っている人はないかというのである。

実は主人夫婦のあいだにことし十七になる娘があって、それが先頃から病気にかかっている。ここらでは遼陽の城内まで薬を買いに行かなければならないのであるが、この頃は戦争のために城内と城外との交通が絶えてしまったので、薬を求める法がない。日本の大人たいじんらのうちに、もし薬を持っている人があるならば、どうかお恵みにあずかりたいと彼は懇願するように言った。

彼が我れわれに厚意を見せたのは、そういう下ごころがあったためであることが判ってみると、我れわれの感謝も幾分か割引をしなければならないことになるが、その事情をきけば全く気の毒でもある。由来、ここらの人は日本人をみな医者か薬屋とでも心得ているのか、僕たちの顔を見ると、とかくに病気を診察してくれとか、薬をくれとか言う。今までにもその例はたびたびあるので、この老人の無心も別にめずらしいとは思わなかったが、病人の容体をよく聴かないで無暗に薬をやることは困る。現に海城の宿舎にいたときにも、胃腸病の患者に眼薬の精錡水せいきすいをやって、あとでそれに気がついて、大いに狼狽して取戻したことがある。その失敗にかんがみて、その後は確かにその病人を見届けない限りは、うかつに薬をあたえない事にしていた。

T君はその事情を彼に話して、ともかくもその病人に一度逢わせてもらいたいと言うと、老人はすこぶる難儀らしい顔をして、しばらく思い煩わずらっているらしかったが、こっちの言い分にも無理はないので、それでは主人とも一応相談してみようということになって、彼は他の少年と一緒に奥へ引っ返して行った。

僕たちはもちろん医者ではないが、それでもでたらめに薬をやるよりは、一応その本人の様子を見て、親しくその容体をきいた上で、それに相当しそうな薬をあたえた方が安全である。殊にその当時は僕たちもまだ若かったから、その病人が十七の娘であるというので、どんな女か見てやりたいというような一種の興味も伴っていたのであった。

「どんな女だろう。まだ若いんだぜ。」

「一体なんの病気だろう。」

「婦人病だと困るぜ。そんな薬は誰も用意して来なかったからな。」

「悪くすると肺病だぜ。支那では癆ろうとかいうのだそうだ。」

そんな噂をしているうちに、僕はかの「家有妖」の一件を思い出した。

「門の前の井戸で水を汲んでいた男……あの男の話によると、ここの家うちには化物が出るか、なにかの祟りがあるか、なにしろ怪しい家らしいぜ。あの男は家有妖と書いて見せたよ。」

「むむう。」と、ほかの三人も首をかしげた。

「それじゃあ、その娘というのも何かに取憑とりつかれてでもいるのかも知れないな。」とT君は言った。

「そうなると、我れわれの薬じゃあ療治は届かないぞ。」とM君は笑い出した。

僕たちも一緒に笑った。ふだんならばともかくも、いわゆる砲煙弾雨ほうえんだんうのあいだをくぐって、まかり間違えば砲弾のお見舞を受けないとも限らない現在の我れわれに取っては、家に妖ありぐらいは余り問題にならないのであった。

「それにしても、娘は遅いな。」

「支那の女はめったに外人に顔をみせないというから、出て来るのを渋っているのかも知れない。」

「ことに相手が我れわれでは、いよいよ渋っているのだろう。」

前面には砲声が絶えずとどろいているが、この頃の僕たちはもうそれに馴れ切ってしまったので、重砲のひびきも曳光弾えいこうだんのひかりも、さのみに我れわれの神経を刺戟しなくなった。僕たちはそこらに行儀わるく寝ころんで、しきりに娘の噂をしているあいだに、きょうの日ももう暮れかかって、秋の早い満洲のゆうべは薄ら寒くなって来たので、土間の隅に積んである高粱コウリャンを折りくべて、僕たちは霜を恐れるきりぎりすのように竈かまどの前にあつまった。

二

「敵もいい加減にしないかな。早く遼陽へ行ってみたいものだ。」

むすめの噂も飽きて来て、さらにいつもの戦争のうわさに移ったときに、足音をぬすむようにしてかの老人が再びここへ姿をあらわして、主人の娘を今ここへ連れて来るから何分よろしくおねがい申すと言った。それを聴いて、僕たちは待ちかねたように起たちあがって、老人のあとに付いて門口かどぐちに出ると、外はもう暗くなって、大きい柳の葉のゆるくなびいている影が星あかりの下に薄白く見えるばかりであった。そこらではこおろぎのむせぶ声もきこえた。

やがて奥の木立ちの間に一つの燈籠の灯ひがぼんやりと浮き出した。それはここらでしばしば見る画燈がとうである。僕はにわかに剪燈新話せんとうしんわの牡丹燈記を思い出した。あわせて円朝の牡丹燈籠を思い出した。そうして、その灯をたずさえて来るのが美しい幽霊のような女であることを想像して、一種の幽怪凄絶の気分に誘い出された。灯がだんだんに近寄って来ると、それに照らし出された影はひとつではなかった。問題の娘らしい若い女は老女に扶たすけられて、そのそばにはまたひとりの若い女が画燈をさげて附添っていたが、いずれも繍ぬいの靴をはいているとみえて、もう夜露のおりているらしい土の上を音もなしに歩いて来た。

老女はむすめの母でない。画燈をさげた若い女と共にこの家の召使であるらしいことは、その風俗を見てすぐに覚られたので、僕たちはかれらふたりを問題にはしないで、一斉に注意の眼をまん中の娘にあつめると、娘は十七というにしては頗るおとなびていた。痩せてはいるが背も高い方で、うすい桃色地に萌葱もえぎのふちを取った絹の着物を着て、片手を老女にひかれながら、片手の袖は顔半分をうずめるよう掩おおっていた。その袖のあいだからかなり強い咳の声が時どき洩れた。

画燈に照らされた三つの影がひと株の柳の下にとどまると、かの老人は静かに近寄って老女に何事かをささやいた。老女は彼の妻であるらしい。老人はさらに僕たちに向って、病人の娘が来ましたから、御診察をねがいたいと丁寧に言った。さあ、こうなると四人のうちで誰が進んで病人を診察するかと、僕たちも今更すこしく躊躇したが、なんといってもT君が比較的に支那語に通じているのであるから、これがお医者さまになるよりほかはない。T君も覚悟して進み出て、いよいよ病人の脈を取ることになった。T君は病人の顔を見せろと言うと、老人はあたかもそれを通訳するように老女にささやいて、青い袖の影に隠されている娘の顔を画燈の下にさらさせた。その娘は僕がひそかに想像していた通り、色の蒼白い、まったく幽霊のような美しい女であった。剪燈新話の女鬼――それが再び僕の頭にひらめいた。

T君は娘の顔をながめ、脈を取り、さらに体温器でその熱度をはかった。そのあいだにも娘は時どきに血を吐きそうな強い咳をして、老女に介抱されていた。T君は僕たちを見返って小声で言った。

「君。どうしても肺病だね。」

「むむ。」と、僕たちは一度にうなずいた。かれが呼吸器病の患者であることは、我れわれの素人眼にも殆んど疑うの余地がなかった。

「熱は八度七分ぐらいある。」と、T君はさらに説明した。「軍医部が近いところにあれば、その容体をいって薬を貰って来てやるのだが、今はどうすることも出来ない。まあ気休めに解熱剤げねつざいでもあたえておこうか。」

「まあ、そんなことだな。」と、僕も言った。

T君は雑嚢から解熱剤の白い粉薬こなぐすりを出して、その用法を説明してあたえると、老人は地にひざまずいて押し戴いた。それをみていて、僕はひどく気の毒になった。満洲の土人は薬をめったに飲んだことがないので、日本人にくらべると非常に薬の効目ききめがある。現に宝丹をのんで肺炎が癒ったなどという話もきいた。しかしこの娘の病気――殊にこの年頃でこの病気――それが普通の解熱剤ぐらいで救われようとは、とても想像の許さないところである。いっ時の気休めに過ぎない解熱剤の二日分や三日分を貰って、素人しろうと医者の前にひざまずいて拝謝する老人――彼は恐らくこの家の忠僕であろう。――その姿を見るに堪えないような悼いたましい心持になって、僕はおもわず顔をそむけた。

「夜風に長く吹かれない方がいい。」

T君から注意されて、娘たちはうやうやしく黙礼して引っ返して行った。女三人は、初めから一度も口を利かなかったが、画燈のかげが遠く微かに消えて行くあいだに、娘の咳の声ばかりは時どきにひびいた。それを見送って、老人も僕たちに敬礼して立去った。

「可哀そうだな。あの娘も長くは生きられないぜ。」

今までは、どんな娘だろうなどと一種の興味をもって待ち受けていたのであるが、さてその本人の悼ましい姿をみせられると、僕たちももう笑ってはいられなくなった。四人は顔を見合せて一度に溜息をついた。竈の下の高粱もたいてい燃え尽してしまったので、再びそれを折りくべていると、門の外で何か笑う声がきこえて、ここへはいって来る足音がひびいたので、誰が来たのかと表をのぞいて見ると、ひとりの男が戸の外に立っていた。

「従軍記者諸君はおいでですか。」

「はあ。」と、僕は答えた。「わたしです。」

それが通訳のS君であることを知って、僕たちは愛想よく迎えた。

「Sさんですか。どうぞおはいりください。」

S君は会釈えしゃくして竈の前に来た。S君は軍隊付の支那通訳であるが、ふだんから非常にまじめな人で、且は親切にいろいろの通信材料を我れわれに提供してくれるので、我れわれ従軍記者のあいだにも尊敬されていた。今夜は何かの徴発のためにこの村へ来たところが、ある支那人から妙な話をきいたので、ここには一体誰が泊っているのかと見届けに来たというのである。

「ある家の若い支那人が、今夜この村の徐という家に泊った日本人がある。わたしが注意したけれども、肯きかないではいってしまったと言うのです。それはどんな人たちだと訊くと、新聞とかいた白い布きれを腕にまいていたと言う。それでは従軍記者諸君に違いないが、いったい誰々だろうかと思って、ちょっとその顔ぶれを見に来たのですよ。」と、S君はまじめな顔に微笑を漂わせながら言った。

「若い支那人が……。」と、僕はすぐに思い出した。「では、家に妖ありと言うのじゃありませんか。」

「そうです。」と、S君はうなずいた。「支那人はしきりに止めたそうですが……。」

「止めたには止めたが、家に妖ありだけでは訳が判らないので、僕たちも取合わなかったのですが、その妖というのはどんな訳なのですかね。」と、僕は訊いた。

「では、その子細は御承知ないのですね。」

「彼はしきりにしゃべるのですが、僕たちは支那語が不十分の上に、相手は満洲なまりが強いと来ているので、なにを言っているのか一向わからないのです。要するに、ここの家には何か怪しいことがあるから泊るなと言うらしいのですが……。」

「そうです、そうです。」と、S君がまたうなずいた。「実はわたしも家に妖ありだけでは、なんのことだかよく判らなかったのです。それに、あなたの言う通り、あの若い支那人は訛りが強くて、わたしにもはっきりとは聴き取れなかったのですが、幸いにその祖父だという老人がいて、それがよく話してくれたので、その妖の子細が初めて判ったのです。」

如才じょさいのないT君が茶をこしらえて出すと、S君は、「やあ、御馳走さまです。」と喜んで飲んだ。実際、砂糖を入れた一杯の茶でも、戦地ではたいへんな御馳走である。S君はその茶をすすり終えて例のまじめな口調で「家有妖」の由来を説きはじめた。

夜になっても戦闘は継続しているらしい。天をつんざくような砲弾の音と、豆を煎るような小銃弾のひびきが、前方には遠く近くきこえている。それをよそにして、S君はこの暗い家のなかで妖を説くのである。我れわれ四人も彼を取巻いて、高粱の火の前でその怪談に耳をかたむけた。

三

「ここの家の姓は徐といいます。今から五代前、というと大変に遠い昔話のようですが、四十年ほど前のことだといいますから、日本では元治か慶応の初年、支那では同治三年か四年頃にあたるでしょう。丁度かの長髪賊の洪秀全こうしゅうぜんがほろびた頃ですね。」

S君はさすがに支那の歴史をそらんじていて、まずその年代を明らかにした。

「ここの家うちも現在は農ですが、その当時は瓦屋であったそうです。自分の家に竈かまどを設けて瓦を焼くのです。あまり大きな家ではない。主人と伜ふたりで焼いていた。それへ冬の日の夕方、なんでも雪の降っている日であったそうですが、二人の旅びとがたずねて来た。たずねて来たといっても、物に追われたようにあわただしく駈け込んで来たのです。その旅びとは主人にむかって、我れわれは捕吏に追われている者であるから、どうぞ隠まってもらいたい。その代りに我れわれの持っている金を半分わけてあげると言って、重そうな革袋を出して渡した。主人も欲に眼がくらんで、すぐによろしいと引受けた。が、さてそれを隠すところがないので、あたかも瓦竈かわらがまに火を入れてなかったを幸いに、ふたりをその竈のなかへ押込んで戸を閉めると、続いてそのあとから巡警が五、六人追って来て、今ここへ怪しい二人づれの旅びとが来なかったかと詮議したが、主人は空とぼけて何にも知らないと言う。しかし巡警らは承知しない、たしかにこの家へ逃げ込んだに相違ないといって、家探やさがしを始めかかったので、主人も困った。これは飛んでもないことをしたと、いまさら悔んでももう遅い。あわや絶体絶命の鍔際つばぎわになったときに、伜の兄が弟に眼くばせをして、素知らぬ顔でその竈に火を焚き付けてしまった。いや、どうも怖ろしい話です。

巡警らは家内を残らず捜索したが、どこにも人の姿が見あたらない。竈には火がかかっているので、まさかそのなかに人間が隠してあろうとは思わない。結局不審ながらに引揚げたので、主人はまずほっとしたが、さて気にかかるのは竈のなかの人間です。

瓦と同じように焼かれては堪らない。どうもひどい事をしたものだと言うと、せがれ達の言うには、あの二人は、なにか重い罪を犯したものに相違ない。それを隠まったということが露顕すれば、我れわれ親子も重い罰をうけなければならない。こうなったら仕方がないから、彼らを焼き殺して、我れわれの禍いを逃がれるよりほかはない。彼らとても追手に捕われて、苦しい拷問やむごたらしい処刑をうけるよりも、いっそ一と思いに焼き殺された方がましかも知れない。我れわれが早くに竈へ火をかけたればこそ、追手も油断して帰ったが、さもなければ真っ先に竈の中をあらためて、彼らは勿論、我れわれも今ごろは手枷てかせや首枷をはめられているであろうと言う。

それを聞くと主人も伜たちの残酷を責める気にもなれなくなって、そんなら思い切って十分に焼いてしまえというので、自分も手伝って、焚き物をたくさんに入れて、哀れな旅びとふたりを火葬にしてしまったのです。旅びとは何者だか判りませんが、おそらく長髪賊の余類だろうということです。江南の賊が満洲へ逃げ込んで来るのもおかしいように思われますが、ここらではそう言っているのです。

いずれにしても、旅びとは死んで金袋は残った。無事旅びとを助けてやれば、その半分を貰うはずでしたが、相手がみな死んでしまったので、その金は丸取りです。金高はいくらだか知りませんが、徐の家がにわかに工面くめんよくなったのは事実で、近所でも内々不思議に思っていると、その以来、徐の瓦竈にはさまざまの奇怪なことが起ったのです。

まず第一は瓦が満足に焼けないで、とかくに焼けくずれが出来てしまうことですが、さらに奇怪なのは窯変ようへんです。御承知でもありましょうが、窯変というのは竈の中で形がゆがんでさまざまの物の形に変るのをいうので、数ある焼物のうちに稀にそういうこともあるものだそうですが、徐の家の竈にはその窯変がしばしば続いて、もとより瓦を焼くつもりであるのに、それを竈から取出して見ると、たくさんの瓦がみな人間の顔や手や足の形に変っている。

それがまた近所の噂になって、徐のうちの窯変には何かの子細があるらしいと噂されているうちに、或る日その若いせがれが竈の中で焼け死んでいるのを発見した。弟が竈にはいっているのを知らないで、兄が外から戸をしめて火をかけたとかいうのです。つづいてその兄も発狂して死ぬというわけで、不幸に不幸が重なって来ました。

それでも主人は強情に商売をつづけていたが、相変らずの窯変がつづくのでどうすることも出来ない。結局根負けがして瓦屋を廃業して、土地や畑を買って農業を営むこととなったが、その後は別に異変もなく、むしろ身上しんしょうは大きくなる方で、それから十年あまりの後に主人は死んだ。その死にぎわにいろいろのことを口走ったので、瓦竈の秘密が初めて世間に洩れたというのですが、何分にも十年余の昔のことでもあり、確かな証拠もないことですから、それは単に重病人の譫言うわごとというだけで済んでしまったそうです。しかし、かの窯変といい、兄弟の死に方といい、それは事実に相違ないと近所の者は今でも信じているのです。

兄弟のせがれは父よりも早く死んだので、徐の家では女の子を貰ってそれに婿を取ったのですが、それも主人が死んでから二、三年の後には夫婦ともに死ぬ。つづいて養子、つづいて養女、それがみな七、八年とは続かないでばたばたと倒れてしまって、僅かのあいだに今の主人が六代目というわけだそうです。

今の主人もやはり養子で、年も若いので、三十年奉公している王という男が、万事の世話をしている。これはなかなかの忠義者で、家に妖ある事を知りながら、引きつづく不幸の中に立って、徐の一家を忠実に守護しているのだそうです。そういう次第で、近所でも王の忠義には同情しているが、家に妖ありとして徐の一家をひどく恐れ嫌っている。諸君はなんにも知らないで、うかうかその門をくぐろうとするのを見て、かの若い支那人は親切に注意したが、詞ことばがよく通じないので諸君は顧かえりみずして去ったと言って、あとでまだ不安に思っているようでした。」

「ははあ、そういうわけですか。実はもうその妖に逢いましたよ。」と、T君はまじめで言った。

「妖に逢った……。どんなことがあったのです。」と、S君もまじめで訊きかえした。

「いや、冗談ですよ。」と、僕は気の毒になって打消した。「なに、ここの家のむすめの病気を診みてくれと頼まれて、T君が例の美人療治をやったのですよ。」

「はあ、そうでしたか。」と、S君も微笑した。「娘というのはおそらく嫁でしょう。私はその娘のことを聴きました。徐の家は呪われているというので、近い処からは誰も嫁に来るものがない。忠僕の王が山東省まで出かけて行って、美人の娘をさがして来た。といっても、実は高い金を出して買って来たのでしょう。ところが、ここへ来るとすぐに病人になって、いつまでも癒らないので困っているということです。よその人に対しては、主人の妻というのを憚って、主人の娘といったのでしょう。病気はなんです。」

「たしかに肺病ですね。」と、T君は答えた。

「可哀そうですな。」と、S君も顔をしかめた。「まさかに、ここの家へ貰われて来たせいでもないでしょうが、遅かれ速かれ、家に妖ありの材料がまたひとつ殖えるわけですな。いや、どうも長話をしました。諸君はここにお泊りでしょうから、まあ注意して妖に祟られない方がいいですよ。女妖というのはなお怖ろしいですから。」

まじめな顔で冗談を言いながら、S君が我れわれのまどいを離れた頃には、高粱の薪まきももう大方は灰となって、弱い火が寂しくちろちろと燃えていた。僕たち四人も門前まで送って出ると、空には銀のような星が一面に光って、そこらにはこおろぎの声がみだれて聞えた。今夜はもう霜がおりたのかと思われるほどに、重い夜露が暗いなかに薄白く見えた。

「寒い、寒い。もう一度、高粱を焚こう。」

S君を見送ると僕たちは早々に内へはいった。

あくる朝ここを出るときに、かの老人は再び湯と茶と砂糖とを持って来てくれた。彼は愛想よく我れわれに挨拶していたが、気のせいかその顔には暗い影が宿っていた。ゆうべの薬をのませたら、病人もけさは非常に気分がいいと言って、彼は繰返して礼をいっていた。

前方の銃声がけさは取分けて烈しくきこえるので、僕たちもそれにうながされるように急いで身支度をした。S君のゆうべの話を再び考えるひまもなしに、僕たちは所属師団司令部の所在地へ駈けて行った。老人は門前まで送って来て、あわただしく出て行く我れわれに対して、いちいち会釈えしゃくしていた。

我れわれが遼陽の城外にゆき着いたのは、それから三日の後である。その後、僕は徐の家を訪問する機会がなかったが、かの老人はどうしたか、病める娘はどうしたか。妖ある家は遂にほろびたか、あるいは依然として栄えているか。今ときどきに思い出さずにはいられない。

蟹かに

一

第八の女は語る。

これはわたくしの祖母から聴きましたお話でございます。わたくの郷里は越後の柏崎で、祖父の代までは穀屋こくやを商売にいたしておりましたが、父の代になりまして石油事業に関係して、店は他人に譲ってしまいました。それを譲り受けた人もまた代替りがしまして、今では別の商売になっていますが、それでも店だけは幾分か昔のすがたを残していまして、毎年の夏休みに帰省しますときには、いつも何だか懐かしいような心持で、その店をのぞいて通るのでございます。

祖母は震災の前年に七十六歳で歿しましたが、嘉永かえい元年申さる歳の生れで、それが十八の時のことだと申しますから、たぶん慶応初年のことでございましょう。祖母はお初と申しまして、お初の父――すなわちわたくしの曽祖父ひいじじいにあたる人は増右衛門、それがそのころの当主で、年は四十三四であったとか申します。先祖は出羽でわの国から出て来たとかいうことで、家号は山形屋といっていました。土地では旧家の方でもあり、そのころは商売もかなり手広くやっていましたので、店のことは番頭どもに大抵任せておきまして、主人とはいいながら、曽祖父の増右衛門は自分の好きな俳諧をやったり、書画骨董などをいじくったりして、半分は遊びながら世を送っていたらしいのです。そういう訳でしたから、書家とか画家とか俳諧師という人たちが北国の方へ旅まわりして来ると、きっとわたくしの家へ草鞋わらじをぬぐのが習いで、中には二月も三月も逗留して行くのもあったといいます。

このお話の時分にも、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水やすいといい、ひとりは江戸の画家で文阿ぶんあという人で、文阿の方が二十日はつかほども先に来て、ひと月以上も逗留している。野水の方はおくれて来て、半月ばかりも逗留している。そこで、なんでも九月のはじめの晩のことだといいます。主人の増右衛門が自分の知人でやはり俳諧や骨董の趣味のあるもの四人を呼びまして、それに、野水と文阿を加えて主人と客が七人、奥の広い座敷で酒宴を催すことになりました。

呼ばれた四人は近所の人たちで、暮れ六つごろにみな集まって来ました。お膳を据える前に、まずお茶やお菓子を出して、七人がいろいろの世間話などをしているところへ、ぶらりとたずねて来たのは坂部与茂四郎よもしろうという浪人でした。浪人といっても、羊羹色の黒羽織などを着ているのではなく、なかなか立派な風をしていたそうです。

御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の飛地とびちであったそうで、町には藩の陣屋がありました。その陣屋に勤めている坂部与五郎という役人は、年こそ若いがたいそう評判のよい人であったそうで、与茂四郎という浪人はその兄あにさんに当るのですが、子供のときからどうもからだが丈夫でないので、こんにちでいえばまあ廃嫡というようなわけになって、次男の与五郎が家督を相続して、本国の桑名からここの陣屋詰を申付かって来ている。

兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立ちの先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いもたいそう上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、服装みなりも立派、人柄も立派、なんにも知らない人には、立派なお武家さまとみえるような人物でしたから、なおさら諸人が尊敬したわけです。

その人が諸国をめぐって信州から越後路へはいって、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄の与茂四郎とも自然懇意になりまして、時どきはこちらの家へも遊びに来ることがありました。今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。

「これはお客来の折柄、とんだお邪魔をいたした。」と与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。

「いや、お気の毒どころではない。実はお招き申したいくらいであったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところへ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論、そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。

よいところへよい客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役を勤めるはずになっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という老婢ばあやが受持ちで、ほかの男や女中たちを指図して忙しそうに働いていましたが、祖母の顔をみると小声で言いました。

「お客さまが急にふえて困りました。」

「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。

「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、ただ困るのは蟹でございますよ。」

増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出るはずになっているのですが、主人と客をあわせて七人前のつもりですから、蟹は七匹しか用意してないところへ、不意にひとりのお客がふえたのでどうすることも出来ない。

出入りの魚屋さかなやへ聞き合せにやったが、思うようなのがない。なにぶんにも物が物ですから、その大小が不揃いであると甚だ恰好が悪い。あとできっと旦那さまに叱られる。台所の者もみな心配して、半兵衛という若い者がどこかで見付けて来るといってさっきから出て行ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂濶うかつにほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っていると、お杉は顔をしかめて話しました。

「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂濶にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。

祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下に出て来ました。

「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」

催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。

「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ、今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに吹聴ふいちょうしてしまったのだ。蟹がなければ御馳走にはならないぞ。」

こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引っ返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、かの半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥では焦じれて催促する。

誰も彼も気が気でなく、ただうろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰ってきました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒袖を着て、古い魚籠さかなかごをかかえていました。それをみて皆まずほっとしたそうです。

その魚籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引合せて、それに似寄りの大きさのを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。

何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りにみな買ってやることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧は空からの籠をかかえてどこかへ立去ってしまいました。

「まずこれでいい。」

みなも急に元気が出て、すぐにその蟹を茹ゆではじめました。

二

お酒が出る、お料理がだんだんに出る。主人も客もうちくつろいで、いい心持そうに飲んでいるうちに、かの蟹が大きい皿の上に盛られて、めいめいの前に運び出されました。

「さっきも申上げた通り、今夜の御馳走はこれだけです。どうぞ召上がってください。」

こう言って、増右衛門は一座の人たちにすすめました。わたくしの郷里の方で普通に取れます蟹は、俗にいばら蟹といいまして、甲の形がやや三角形になっていて、その甲や足に茨いばらのような棘とげがたくさん生えているのでございますが、今晩のは俗にかざみといいまして、甲の形がやや菱形になっていて、その色は赤黒い上に白い斑ふのようなものがあります。海の蟹ではこれが一等うまいのだと申しますが、わたくしは一向存じません。

なにしろ今夜はこの蟹を御馳走するのが主人側の自慢なのですから、増右衛門は人にもすすめ自分も箸を着けようとしますと、上座に控えていましたかの坂部与茂四郎という人が急に声をかけました。

「御主人、しばらく。」

その声がいかにも子細ありげにきこえましたので、増右衛門も思わず箸をやめて、声をかけた人の方をみかえると、与茂四郎はひたいに皺をよせてまず主人の顔をじっと見つめました。それから片手に燭台をとって、一座の人たちの顔を順々に照らしてみた後に、ふところから小さい鏡をとり出して自分の顔をも照らして見ました。そうして、しばらく溜息をついて考えていましたが、やがてこんなことを言い出しました。

「はて、不思議なことがござる。この座にある人々のうちで、その顔に死相のあらわれている人がある。」

一座の人たちは蒼あおくなりました。人相見や占いが上手であるというこの人の口から、まじめにこう言い出されたのですから驚かずにはいられません。どの人もただ黙って与茂四郎の暗い顔を眺めているばかりでした。お給仕に出ていた祖母も身体じゅうが氷のようになったそうです。

すると、与茂四郎は急に気がついたように、祖母の方へ向き直りました。この人は今まで主人と客との顔だけを見まわして、この席でたった一人の若い女の顔を見落していたのです。それに気がついて、さらに燭台を祖母の顔の方へ差向けられたときには、祖母はまったく死んだような心持であったそうです。それでも祖母には別に変ったこともないらしく、与茂四郎も黙ってうなずきました。そうして、またしずかに言い出しました。

「折角の御馳走ではあるが、この蟹にはどなたも箸をおつけにならぬ方がよろしかろう。そのままでお下げください。」

してみると、この蟹に子細があるに相違ありません。死相のあらわれている人は誰であるか。あらわにその名は指しませんけれども、主人の増右衛門らしく思われます。殊に祖母には思い当ることがあります。というのは、前から準備してあった七匹の蟹は七人の客の前に出して、あとから買った一匹を主人の膳に付けたのですから、その蟹に何かの毒でもあるのではないかとは、誰でも考え付くことです。

主人もそれを聴いて、すぐにその蟹を下げるように言付けましたので、祖母も心得てその皿をのせたお膳を片付けはじめると、与茂四郎はまた注意しました。

「その蟹は台所の人たちにも食わせてはならぬ。みなお取捨てなさい。」

「かしこまりました。」

祖母は台所へ行ってその話をしますと、そこにいる者もみな顔の色を変えました。とりわけて半兵衛は、その蟹を自分が探して来たのですから、いよいよ驚きました。そこで念のために家の飼犬を呼んで来て、主人の前に持出した蟹を食わせてみると、たちまちに苦しんで死んでしまったので、みなもぞっとしました。それから近所の犬を連れて来て、試しにほかの蟹を食わせてみると、これはみな別条がない。こうなると、もう疑うまでもありません。あとから買った一匹の蟹に毒があって、それを食おうとした主人の顔に死相があらわれたのです。

与茂四郎という人のおかげで、主人は危ういところを助かって、こんな目出たいことはないのですが、なにしろこういうことがあったので、一座もなんとなく白けてしまって、酒も興も醒めたという形、折角の御馳走もさんざんになって、どの人もそこそこに座を起たって帰りました。

お客に対して気の毒は勿論ですが、怪しい蟹を食わされて、あぶなく命を取られようとした主人のおどろきと怒りは一と通りでありません。台所の者一同はすぐに呼びつけられて、きびしい詮議をうけることになりましたが、前に言ったようなわけですから、誰も彼もただ不思議に思うばかりです。ともかくも半兵衛は当の責任者ですから、あしたは早朝からその怪しい小僧を探しあるいて、一体その蟹をどこから捕って来たかということを詮議するはずで、その晩はそのまま寝てしまいました。

小僧は三匹の蟹を無理に売付けて行ったのですから、まだ二匹は残っています。これにも毒があるかないかを試してみなければならないのですが、もう夜もふけたので、それもあしたのことにしようといって、台所の土間の隅にほうり出しておきますと、夜の明けないうちに二匹ながら姿を隠してしまいました。死んでいると思っていた蟹が実はまだ生きていて、いつの間にか這い出したのか、それとも犬か猫がくわえ出したのか、それも結局わかりませんでした。

一体、蝦えびや蟹のたぐいにはどうかすると中毒することがあります。したがって、その蟹に毒があったからといって、さのみ不思議がるにも及ばないのかも知れませんが、この時には主人をはじめ、家うちじゅうの者がみな不思議がって騒ぎ立っているところへ、残った二匹もゆくえ知れずになったというので、いよいよその騒ぎが大きくなりまして、半兵衛は伊助という若い者と一緒に早朝からかの小僧のありかを探しに出ました。

半兵衛は勿論、台所に居あわせた者のうちで誰もその小僧の顔を見知っている者がないのです。浜の漁師の子供ならば、誰かがその顔を見知っていそうなはずであるから、あるいはほかの土地から来た者ではないかというのです。こんな事があろうとは思いもよらず、暗い時ではあり、こっちも無暗に急いでいたので、実はその小僧の人相や風体を確かに見届けてはいないのですから、こうなると探し出すのが余ほどの難儀です。

その難儀を覚悟で、ふたりは早々に出てゆくと、そのあとで主人の増右衛門は陣屋へ行って、坂部与五郎という人の屋敷をたずねました。兄さんの与茂四郎に逢って、ゆうべはお蔭さまで命拾いをしたという礼をあつく述べますと、与茂四郎は更にこう言ったそうです。

「まずまず御無事で重畳ちょうじょうでござった。但し手前の見るところでは、まだまだほんとうに禍わざわいが去ったとは存じられぬ。近いうちには、御家内に何かの禍いがないとも限らぬ。せいぜい御用心が大切でござるぞ。」

増右衛門はまたぎょっとしました。なんとかしてその禍いを攘はらう法はあるまいかと相談しましたが、与茂四郎は別にその方法を教えてくれなかったそうです。ただこの後は決して蟹を食うなと戒めただけでした。

大好きの蟹を封じられて、増右衛門もすこし困ったのですが、この場合、とてもそんな事をいってはいられないので、蟹はもう一生たべませんと、与茂四郎の前で誓って帰ったのですが、どうも安心が出来ません。といって、どうすればよいということも判らないのですから、家内の者に向ってどういう注意を与えることも出来ない。それでも祖母だけには与茂四郎から注意されたことをささやいて、当分は万事に気をつけろと言い聞かせたそうです。

一方の半兵衛と伊助は早朝に出て行ったままで、午頃ひるごろになっても帰らないので、これもどうしたかと案じていると、九つ半――今の午後一時頃だそうでございます――頃になって、伊助ひとりが青くなって帰って来ました。半兵衛はどうしたと訊いても、容易に返事が出来ないのです。その顔色といい、その様子をみて、みんなはまたぎょっとしました。

三

ぼんやりしている伊助を取巻いて、大勢がだんだん詮議すると、出先でこういう事件が出来しゅったいしていることが判りました。

半兵衛はゆうべ家をかけ出して、ふだんから懇意にしている漁師の家をたずねたのですが、どこの家にも、蟹がない。いばら蟹や高足蟹があっても、かざみがない。それからそれへと聞きあるいて、だんだんに北の方へ行って、路ばたに立っている小僧を見つけたのでした。

それですから、きょうも伊助と二人連れで、ともかくも北の方角――出雲崎の方角でございます――を指して尋ねて行きましたが、ゆうべの小僧らしい者の姿を見ない。知らず識らずに進んで鯖石川さばいしがわの岸の辺まで来ますと、御承知かも知れませんが、この川は海へそそいでおります。その海寄りの岸のところに突っ立って水をながめている小僧、そのうしろ姿がどうもそれらしく思われるので、半兵衛があわてて追っかけました。

一方は海、一方は川ですから、ほかに逃げ道もないと多寡たかをくくって、伊助はあとからぶらぶら行きますと、真っ先に駈けて行った半兵衛はそのうしろから掴まえて、なにかひと言ふた言いっていたかと思ううちに、どうしたのかよく判りませんが、半兵衛はその小僧にひきずられたように水のなかへはいっていってしまったのです。

それをみて、伊助もびっくりして、これも慌ててその場へ駈け付けましたが、半兵衛も小僧も、水に呑まれたらしく、もうその姿がみえないのです。いよいよ驚いてうろたえて、近所の漁師の家へ駈け込んで、こういうわけで山形屋の店の者が沈んだから早く引揚げてくれと頼みますと、わたくしの店の名はここらでも皆知っていますので、すぐに七、八人の者を呼び集めて、水のなかを探してくれたのですが、二人ともに見付からない。なにしろ川の落ち口で流れの早いところですから、あるいは海の方へ押しやられてしまったかも知れないというので、伊助も途方に暮れてしまいましたが、今更どうすることも出来ません。ともかくも出来るだけは探してくれと頼んでおいて、そのことを注進するために引っ返して来たというわけです。

家の者もそれを聴いて驚きました。取分けて主人の増右衛門はかの与茂四郎から注意されたこともありますので、いよいよ胸を痛めて、早速ひとりの番頭に店の者五、六人を付けて、伊助と一緒に出してやりました。画家の文阿も出て行きました。

前にも申上げた通り、わたくしの家には俳諧師の野水と画家の文阿が逗留していまして、野水はそのとき近所へ出ていて、留守でした。文阿は自分の座敷にあてられた八畳の間で絵をかいていました。文阿は文晃ぶんちょうの又弟子とかにあたる人で、年は若いが江戸でも相当に名を知られている画家だそうです。

主人は蟹が好きなので、逗留中に百蟹の図をかいてくれと頼んだところが、文阿は自分の未熟の腕前ではどうも百蟹はおぼつかない。せめて十蟹の図をかいてみましょうというので、このあいだからその座敷に閉じ籠って、いろいろの蟹を標本にして一心にかいているのでした。その九匹はもう出来あがって、残りの一匹をかいている最中にこの事件が出来しゅったいしたので、文阿は絵筆をおいて起たちました。

「先生もお出でになるのですか。」と、増右衛門は止めるように言いました。

「はあ。どうも気になりますから。」

そう言い捨てて、文阿は大勢と一緒に出て行ってしまいました。しいて止めるにも及ばないので、そのまま出してやりますと、それを聞き伝えて近所からも、また大勢の人がどやどやと付いてゆく。漁師町からも加勢の者が出てゆく。どうも大変な騒ぎになりましたが、主人はまさかに出てゆくわけにもまいりません。家にいてただ心配しているばかりです。

祖母をはじめ、ほかの者はみな店先に出て、そのたよりを待ちわびていますと、そこへかの坂部与茂四郎という人が来ました。途中でその噂を聴いたとみえまして、半兵衛の一件をもう知っているらしいのです。

「どうも飛んだことでござった。御主人はお出かけになりはしまいな。」

「はい、父は宅におります。」と、祖母は答えました。

それでまず安心したというような顔をして、与茂四郎は祖母の案内で奥へ通されました。

「どうも飛んだことで……。」と、与茂四郎はかさねて言いました。「しかし、たといどんなことがあろうとも、御主人はお出かけになってはなりませぬぞ。」

「かしこまりました。」と、増右衛門は謹んで答えました。「家内に何かの禍いがあるというお諭さとしでござりましたが、まったくその通りで驚き入りました。」

「お店からはどなたがお出でになりましたな。」

「番頭の久右衛門に店の者五、六人を付けて出しました。」

「ほかには誰もまいりませぬな。」と、与茂四郎は念を押すようにまた訊きました。

「ほかには絵かきの文阿先生が……。」

「あ。」と、与茂四郎は小声で叫びました。「誰かを走らせて、あの人だけはすぐに呼び戻すがよろしい。」

「はい、はい。」

おびえ切っている増右衛門はあわてて店へ飛んで出て、すぐに文阿先生を呼び戻して来い、早く連れて来いと言い付けているところへ、店の者のひとりが顔の色をかえて駈けて帰りました。

「文阿先生が……。」

「え、文阿先生が……。」

あとを聴かないで、増右衛門はそのまま気が遠くなってしまいました。今日こんにちでいえば脳貧血でしょう。蒼くなって卒倒したのですから、ここにまたひと騒動おこりました。すぐに医師をよんで手当をして、幸いに正気は付いたのですが、しばらくはそっと寝かしておけということで、奥の一と間へかつぎ入れて寝かせました。内と外とに騒動が出来しゅったいしたのですから、実に大変です。

そこで、一方の文阿先生はどうしたかというと、大勢と一緒に鯖石川の岸へ行って、漁師たちが死体捜索に働いているのを見ているうちに、どうしたはずみか、自分の足もとの土がにわかに崩れ落ちて、あっという間もなしに文阿は水のなかへ転げ込んでしまったのです。

ここでもまたひと騒ぎ出来して、漁師たちはすぐにそれを引揚げようとしたのですが、もうその形が見えなくなりました。半兵衛のときはともかくも、今度はそこに大勢の漁師や船頭も働いていたのですが、文阿はどこに沈んだか、どこへ流されたか、どうしてもその形を見付けることが出来ないので、大勢も不思議がっているばかりでした。その報告をきいて、与茂四郎は深い溜息をつきました。

「ああ、手前がもう少し早くまいればよかった。それでも御主人の出向かれなかったのが、せめてもの仕合せであった。」

そう言ったぎりで、与茂四郎は帰ってしまいました。主人の方はそれから一刻いっときほどして起きられるようになりましたが、文阿と半兵衛の姿はどうしても見付かりません。そのうちに秋の日も暮れて来たので、もう仕方がないとあきらめて、店の者も漁師たちも残念ながら一とまず引揚げることになりました。それらが帰って来たので、店先はごたごたしている。祖母も店へ出て大勢の話を聴いていますと、奥から俳諧師の野水が駈け出して来まして、誰か早く来てくれというのです。

野水という人はもう少し前に帰って来て、自分の留守のあいだにいろいろの事件が出来しているのに驚かされて、その見舞ながら奥へ行って主人の増右衛門と何か話していたのです。それがあわただしく駈け出して来たので、大勢はまたびっくりしてその子細を訊きますと、ただいま御主人と奥座敷で話しているうちに、何か庭先でがさがさという音がきこえたので、なに心なく覗いてみると、二匹の大きい蟹が縁の下から這い出して、こっちへ向って鋏をあげた。それを一と目みると、御主人は気をうしなって倒れたというのです。

それは大変だと騒ぎ出して、またもや医師を呼びにやる。それからそれへといろいろの騒動が降って湧くので、どの人の魂も不安と恐怖とに強くおびやかされて、なんだか生きている空もないようになってしまいました。それは薄ら寒い秋の宵で、その時のことを考えると今でもぞっとすると、祖母は常々言っていました。

まったくそうだろうと思いやられます。増右衛門は医師の手当で再び正気に戻りましたが、一日のうちに二度も卒倒したのですから、医者はあとの養生が大切だと言い、本人も気分が悪いと言って、その後は半月ほども床に就いていました。

二匹の蟹はほんとうに姿をあらわしたのか、それとも増右衛門のおびえている眼に一種の幻影をみたのか、それは判りません。しかし本人ばかりでなく、野水も確かに見たというのです。ゆうべからゆくえ不明になっている二匹の蟹が、あるいは縁の下に隠れていたのではないかと、大勢が手分けをして詮索しましたが、庭の内にはそれらしい姿を見いだしませんでした。家が大きいので、縁の下はとても探し切れませんでしたから、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。

今日の我れわれから考えますと、どうもそれは主人と野水の幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には墨や朱や雌黄しおうやいろいろの絵具を散らして、蟹が横這いをしたらしい足跡がいくつも残っていました。してみると、かの二匹の蟹が文阿のあき巣へ忍び込んで、その十蟹の絵絹の上を踏み荒らしたように思われます。

それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮きあがりました。ふたりともに顔や身体の内を何かに啖くい取られて、手足や肋あばらの骨があらわれて、実にふた目とは見られない酷むごたらしい姿になっていたそうです。漁師たちの話では、おそらく蟹に啖われたのであろうということでした。

これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここらでそんな小僧の姿を見た者はないから、多分ほかの土地の者であろうというのです。大方そんなことかも知れません。まさかに川や海の中から出て来たわけでもありますまい。

増右衛門はその以来、決して蟹を食わないばかりか、掛軸でも屏風でも、床の間の置物でも、莨たばこ入れの金物でも、すべて蟹にちなんだようなものはいっさい取捨ててしまいました。それでも薄暗い時などには、二匹の蟹が庭先へ這い出して来たなどと騒ぎ立てることがあったそうです。海の蟹が縁の下などに長く棲んでいられるはずはありませんから、これは勿論、一種の幻覚でしょう。

一本足いっぽんあしの女おんな

一

第九の男は語る。

わたしは千葉の者であるが、馬琴ばきんの八犬伝でおなじみの里見の家は、義実よしざね、義成なり、義通みち、実尭さねたか、義豊とよ、義尭たか、義弘ひろ、義頼より、義康やすの九代を伝えて、十代目の忠義ただよしでほろびたのである。それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保相模守さがみのかみの姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。

大久保相模守忠隣ただちかは相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保石見守いわみのかみ長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守父子おやこの讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、舅しゅうとの家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆ほうきの国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。

馬琴の口真似をすると、閑話休題あだしごとはさておき、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房あわの侍従と呼ばれた人で、慶長けいちょう八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前のことであるというから、慶長十年の晩秋か初冬の頃であろう。

当代の忠義に仕えている家来のうちに、百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と中間ちゅうげんとの三人づれで館山たてやまの城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。その帰り路に、夫婦は路傍にうずくまっている一人の少女をみた。

少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかの銭ぜにを恵んでやろうとしたのではない。今度の忠義の代になってから、乞食に物を恵むことを禁じられていた。乞食などは国土の費ついえである。ひっきょうかれらに施し恵む者があればこそ、乞食などというものが殖えるのであるから、ひと粒の米、一文の銭もかれらに与えてはならぬと触れ渡されていた。庄兵衛夫婦も勿論その趣旨に従わなければならないのであるから、今や自分たちの前に頭を下げているこの乞食をみても、素知らぬ顔をして通り過ぎるのが当然であったが、ここで彼ら夫婦が思わず足をとどめたのは、その少女がいかにも美しく可憐に見えたからであった。

少女はまだ八つか九つぐらいで、袖のせまい上総かずさ木綿の単衣ひとえもの、それも縞目の判らないほどに垢付いているのを肌寒そうに着ていた。髪はもちろん振り散らしていた。そのおどろ髪のあいだから現われているかれの顔は、磨かない玉のようにみえた。

「まあ、可愛らしい。」と、庄兵衛の妻はひとりごとのように言った。

「むむ。」と、夫も溜息をついた。

物を恵むとか恵まないとかいうのは二の次として、夫婦はこの可憐な少女を見捨てて行くのに忍びないような気がしたので、妻は立寄ってその歳としや名をきくと、歳は九つで名は知らないと答えた。

「生れたところは。」

「知りません。」

「両親の名は。」

「知りません。」

こういう身の上の少女が生国しょうこくを知らず、ふた親の名を知らず、わが名を知らないのは、さのみ珍しいことでもない。少女は妻の問いに対して、自分は赤児あかごのときに路傍に捨てられていたのを或る人に拾われたが、三つの年にまた捨てられた。それから又ある人に拾われたが、これも一年ばかりでまた捨てられた。拾われては捨てられ、捨てられては拾われ、その後二、三人の手を経るうちに、少女はともかくも七つになった。これまで生長すれば、乞食をしてもどうにか生きてゆかれるので、人のなさけにすがりながら今まで露命をつないでいると話した。

「まあ、可哀そうに……。」と、庄兵衛の妻は涙ぐんだ。「おまえのような可愛らしい子が、なぜ行く先ざきで捨てられるのか。」

「それはわたくしが不具者かたわものであるからでございます。」と、少女はその美しい眼に涙をやどした。「世にも少ない不具者を誰が養ってくれましょう。はじめは不憫を加えてくれましても、やがては愛想をつかされるのでございます。」

かれは年よりもませた口ぶりで言った。しかし見たところでは、人並すぐれた容形なりかたちで、別に不具者らしい様子もないので、妻も庄兵衛も不思議に思った。恥かしいのか、悲しいのか、少女は身をすくめ、身をふるわせて、ただすすり泣きをしているばかりであるのを、夫婦がいろいろになだめすかして詮議すると、かれが不具である子細が初めて判った。

土に坐っているので今までは気が付かなかったが、少女は一本足であった。かれは左の足をもっているだけで、右の足は膝の上から切断されているのであった。生れ落ちるとからの不具ではない。さりとて何かの病いのために切断したのでもない。おそらく何かの子細で路ばたに捨てられていたところを、野良犬か狼のような獣けもののために片足を啖い切られたらしいと、その疵口の模様によって庄兵衛は判断した。

こうなると、夫婦はいよいよ不憫が増して来て、どうしてもこのままに見捨ててゆく気にはなれなくなった。こういう美しい、いじらしい少女を乞食にしておくということが不憫であるばかりでなく、前にもいう通りのお触れが出ている以上、かれは何人なんぴとの恵みをも受けることが出来なくなって、早く他領へ立退くか、あるいはここでみすみす飢え死にしなければならないのである。庄兵衛は試みに少女に訊いた。

「おまえは乞食に物をやるなというお触れの出ているのを知らないのか。」

「知りません。」と、かれはまったく何にも知らないように答えた。

庄兵衛の妻はまた泣かされた。かれは夫を小蔭へまねいて、なんとかしてかの少女を救ってやろうではないかとささやくと、庄兵衛にも異存はなかった。しかし自分も里見家につかえる身の上で、この際おもて向きに乞食を保護するなどは穏かでないと思ったので、彼はきょうの供に連れて来た中間の与市を呼んで相談した。

与市は館山の城下から遠くない西岬にしみさきという村の者で、実家は農であるが、武家奉公を望んで二、三年前から庄兵衛の屋敷に勤めているのである。年は若いが正直律義りちぎの者で、実家には母も兄もある。庄兵衛はかの少女をひとまず与市の実家へあずけておきたいと思って、ひそかにその相談をすると、与市は素直に承知した。

「それではすぐに連れて行ってくれ。」

主人の命令にそむかない与市は、一本足の乞食の少女を背負って、すぐに自分の実家へ運んで行った。まずこれで安心して庄兵衛夫婦もそのまま自分の屋敷へ帰ると、日の暮れるころに与市は戻って来て、かれを確かに母や兄に頼んでまいりましたと報告した。

それから半月ほどの後に、庄兵衛の妻はその様子を見届けながらに西岬の家へたずねてゆくと、少女はつつがなく暮らしていた。与市の母や兄も律義者で、主人の指図を大事に心得ているばかりでなく、彼らは不具の少女に不便ふびんを加えて、心から親切に優しくいたわっているらしいので、妻もいよいよ安心して帰った。

それからふた月か三月ほど過ぎて、その年の暮れになると、更におどろくべき命令が領主の忠義から下された。さきに触れ渡して、乞食どもにはいっさい施すなと言い聞かせてあるのに、乞食どもはやはり城下や近在にうろうろと立ち迷っているのは、禁制きんぜいを破ってひそかに彼らに恵む者があるのか、あるいは彼らが盗み食いでもするのか、いずれにしても先度の触れ渡しの趣意が徹底しないのは、遺憾であるというので、さらに領内の宿無し又は乞食のたぐいに対して、三日以内に他領へ立退くべきことを命令した。その期限を過ぎてもなおそこらに徘徊しているものは、見つけ次第に打殺すというのである。

この厳重な触れ渡しにおびやかされて、乞食どもはみな早々に逃げ散ったが、中にはその触れ渡しを知らないで居残っていた者や、あるいは逃げおくれて捕われた者や、それらは法のごとくに打殺されるのもあった。生き埋めにされるのもあった。こうして、里見の領内の乞食や宿無しのたぐいは一掃された。

「早くにあの娘を助けてよかった。」と、庄兵衛夫婦はひそかに語り合った。

歩行も自由でない一本足の少女などは、この場合おそらく逃げおくれて最初の生贄いけにえとなったであろう。夫婦が少女を救ったことは幸いに誰にも知られなかった。勿論、与市には堅く口止めをしておいた。

二

幸運の少女は与市の実家で親切に養われていた。庄兵衛の妻も時どきにそっと彼女かれをたずねて、着物や小遣銭などを恵んでいた。なんとか名をつけなければいけないというので、少女をお冬と呼ばせることにした。そのうちに五年過ぎて、お冬もいつか十六の春を迎えた。

あめ風にさらされ、砂ほこりにまみれて、往来の土の上に這いつくばっていた頃ですらも、庄兵衛夫婦の眼をひいた程の少女は、だんだん生長するに連れて、玉の光りがいよいよ輝くようになった。子どもの時から馴れているので、杖にすがれば近所をあるくには差支えもなかった。人間も利口で、且かつは器用な質たちであるので、針仕事などは年にもまして巧者こうしゃであった。

「これで足さえ揃っていれば申分はないのだが……。」と、与市の母や兄も一層かれの不幸をあわれんだ。

不具にもよるが、一本足というのではまず嫁入りの口もむずかしい。殊にここらはみな農家で、男も女も働かなければならないのであるから、いかに容貌きりょうがよくても、人間が利口でも、一本足の不具者を嫁に貰うものはなさそうである。あたら容貌を持ちながら一生を日かげの花で終るのかと思うと、与市の母や兄ばかりでなく、時どきにたずねてゆく庄兵衛の妻も暗い思いをさせられた。

庄兵衛夫婦には子供がない。かれらが不具の少女を拾いあげたのも、勿論その不幸をあわれむ心から出たには相違ないが、子のない夫婦の子供好きということも半分はまじっていたので、妻は一面に暗い思いをしながらも、また一面にはだんだんに美しく生長してゆくお冬の顔をみるのを楽しみに、時どきに忍んで逢いに行くのであった。そうしていくらかの附金つけがねをしてやってもよいから、どこかで嫁に貰ってくれる家はあるまいかなどと、与市の母や兄に相談することもあったが、前にいったような訳であるから、この相談は容易に運びそうもなかった。

こうして、また一年二年と送るうちに、お冬はいよいよ美しい娘盛りとなって、いつも近所の若い男どもの噂にのぼった。中にはいたずら半分にその袖をひく者もあったが、利口なお冬は振向きもしなかった。かれは与市の母や兄を主人とも敬い、親兄弟とも慕って、おとなしくつつましやかに暮らしていた。

慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。

その子細は知らず、なにしろ青天の霹靂へきれきともいうべきこの出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火ともしびをうしなったように周章しゅうしょう狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも知れないという噂がそれからそれと伝えられて、不安の空気が城内にもみなぎった。

庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは洲先すのさき神社に参詣することになった。洲先は頼朝が石橋山の軍いくさに負けて、安房へ落ちて来たときに初めて上陸したところで、おなじ源氏の流れを汲む里見の家では日ごろ尊崇そんすうしている神社であるから、庄兵衛がそれに参詣して主家の安泰を祈るのは無理もないことであった。

神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の都度つどに与市の家をたずねるようになった。そのうちに江戸表から洩れて来る種々の情報によると、どうでも里見家に連坐まきぞえの祟りなしでは済みそうもないというので、一家中の不安はいよいよ大きくなった。庄兵衛は洲先神社へ夜詣りを始めた。

彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは道理もっともであるが、夜詣りをするようになってから、彼は決して供を連れて行かないということが妻の注意をひいた。まだそのほかにも何か思い当ることがあったと見えて、妻は与市を呼んでささやいた。

「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」

与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の路程みちのりがあるので、庄兵衛は日の暮れるのを待ちかねるように出てゆく。妻と与市とは少しくおくれて出ると、途中で五月の日はすっかり暮れ切って、ゆく手の村は青葉の闇につつまれてしまったので、かれらは尾つけてゆく人のすがたを見失った。

「どうしようか。」と、妻は立止まって思案した。

「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。

「そうしましょう。」

まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのに頗すこぶる困った。夫のあとを尾つけるつもりで出て来たのであるから、もとより松明たいまつや火縄の用意もない。妻はたまりかねて声をかけた。

「与市。手をひいてくれぬか。」

与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ龕燈がんどう提灯を二人の眼先へだしぬけに突きつけた。はっと驚いて立ちすくむと、相手はすぐに呼びかけた。

「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」

それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。

「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」

「あれ、飛んでもないことを……。」と、妻はおどろいて叫んだ。

「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」

もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。

あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく背後うしろから肩を斬られた。それでも彼は夢中で逃げ出すと、あたかも自分の家の前に出たので、やれ嬉しやと転げ込むと、母も兄もその血みどろの姿を見てびっくりした。与市は今夜の始末を簡単に話して、そのまま息が絶えてしまった。

あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。

それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な不埒ふらち者の宿許やどもとへお冬を預けておくことは出来ぬというので、迎いの乗物にお冬を乗せて帰った。その日から一本足の美しい女は庄兵衛の屋敷の奥に養われることになったのである。

何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。

三

不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば元和げんな元年である。その年の五月には大坂は落城して、いよいよ徳川家一統の世になった。今まで無事でいたのを見ると、或いはこのままに救われるかとも思っていたのは空頼みで、大坂の埒らちがあくと間もなく、五月の下旬に最後の判決が下された。里見の家は領地を奪われて、忠義は伯耆ほうきへ流罪を申付けられたのである。

主人の家がほろびて、里見の家来はみな俄浪人となった。そのなかで大滝庄兵衛は夫婦のほかに家族もなく、平生から心がけもよかったので、家には多少の蓄財もある。浪人しても差しあたり困るようなこともないので、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかった。彼にはお冬という女が付きまとっていた。庄兵衛もそれを振捨てて行こうとは思わないので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、便船びんせんをたのんで上総かずさへ渡り、さらに木更津から船路の旅をつづけてつつがなく江戸へはいった。

それは庄兵衛が不義者として妻と中間とを成敗してから一年の後で、庄兵衛は四十六歳、お冬は十九歳の夏であった。

かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺せんそうじに近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送っていた。安房の里見といえば名家ではあるが、近年はその武道もあまり世にきこえないので、里見浪人をよろこんで召抱えてくれる屋敷もなかった。お冬も武家奉公を好まなかった。一本足の女、しかも自分とは親子ほども年の違う女を、拙者の妻でござるといって武家屋敷へ連込むことは、庄兵衛もなんだか後うしろめたいようにも思ったので、かたがた二度の主取りは見合せることにしたが、いつまでもむなしく遊んではいられないので、彼は近所の人の勧めるがままに手習の師匠を始めると、その人が親切に周旋して、とりあえず七、八人の弟子をあつめて来てくれた。そうなると、庄兵衛も家のことの手伝いもしていられない。足の不自由なお冬だけでは何かにつけて不便なので、台所働きの下女を雇うことにしたが、どの女もひと月かふた月でみな立去ってしまった。

あまりに奉公人がたびたび代るので、近所の人たちも不思議に思って、暇を取って出てゆく一人の女にそっと訊きいてみると、こんなことを言った。

「若い御新造ごしんぞはあんな美しい顔をしていながら、なんだか怖い人です。その上に、あんまり旦那さまと仲が良過ぎるので、とても傍そばで見てはいられません。」

親子ほども年の違う夫婦が仲よく暮らしていることは近所の者も認めていたが、傍で見ているに堪えられないで奉公人らがみな立去るほどにむつまじいというのは、すこしく案外であった。

それから注意して窺うと、庄兵衛夫婦のむつまじいことは想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を赧あかくするようなことが度たびであった。十二三になる娘などは、もうあのお師匠さんへ行くのはいやだと言い出したものもあった。そんなわけで、多くもない弟子がだんだんに減って来るばかりか、貯えの金も大抵使い果してしまったので、仲のよい夫婦も一年あまりの後には世帯の苦労が身にしみて来た。

「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」

お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の師走しわすの夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家の奉公人で、どこへか懸取りに行ったらしく見えたので、庄兵衛は俄かにきざした出来ごころから不意にそのゆく手に立ちふさがった。

「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。御合力ごこうりょくくだされ。」

一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。

泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は赫かっとなった。斬ってしまって、いまさら悔む気にもなったが、毒食わば皿までと度胸をすえて、庄兵衛は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどはいっているだけであった。

「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。

しかし今の身の上では二貫文の銭ぜにも大切である。庄兵衛はその銭を懐ろにして家へ帰ったが、生れてから初めて斬取きりとり強盗を働いたのであるから、なんだか気が咎めてならない。万一の詮議に逢った時にその証拠を残しておいてはならないと思ったので、かれは燈火あかりの下で刀の血を丁寧に拭ぬぐおうとしていると、お冬がそばから覗き込んだ。

「もし、それは人の血ではござりませぬか。」

「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。

お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を嘗なめさせてくれと言った。これには庄兵衛もすこし驚いたが、自分の惑溺している美しい妻の要求をしりぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。

その夜の閨ねやの内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。

「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」

庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫こうじて来て、庄兵衛は袂に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血なまちをそそぎ込んで来るようになった。

彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責かしゃくを感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかりでなく、それが男の血であるか、女の血であるかを言い当てさせるのも、彼が一つの興味となった。

しかしこの時代でも、こうした悪鬼の跳梁跋扈ちょうりょうばっこをいつまでも見逃がしてはおかなかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそかにはしなかった。町奉行所ではこの頃しきりに流行るという辻斬りに対して、厳重に探索の網を張ることになった。庄兵衛も薄うすそれを覚らないではなかったが、今更どうしてもやめられない羽目になって、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。

牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。

「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」

彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。

いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の出張でばりはちっと仰山ぎょうさんらしいが、庄兵衛の申立てによって奉行所の方でも幾分か警戒したらしい。

それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。

一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに溝川みぞかわのようなものが幾すじも流れているのを、お冬はそれからそれへと飛ぶように跳り越えてゆくので、捕り方の者どももおどろかされた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢してかれのゆく手を遮ろうとした者もあったが、その物すごく瞋いかった顔をみると誰もみな飛びのいてしまった。

「早く舟を出せ。」

捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。

それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の堤どてを詮議したが、そこらでは誰もそんな女を見かけた者はないとのことで、捕り方もむなしく引揚げた。

牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。

「まったくあの女は唯物ただものではござらなんだ。あれが世にいう鬼女でござろう。」

それから十日とおかほど経つと、庄兵衛は牢役人にむかって、早くお仕置をねがいたいと申出た。実は昨夜かのお冬が牢の外へ来て、しきりに自分を誘い出そうとしたが、自分はかたく断って出なかった。みすみす魔性の者とは思いながらも、かれの顔をみるとどうも心が動きそうでならない。一度は断っても、二度が三度とたび重なると、あるいは再び心が狂い出して破牢を企てるようなことにならないとも限らない。それを思うと、我れながら怖ろしくてならないから、一刻も早く殺してもらいたいというのであった。

その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑はりつけにかけられた。

黄きいろい紙かみ

一

第十の女は語る。

近年はコレラなどというものもめったに流行しなくなったのは、まことに結構なことでございます。たとえ流行したと申したところで、予防も消毒も十分に行きとどきますから、一度の流行期間に百人か二百人の患者が出るのが精々でございます。ところが、以前はなかなかそういう訳にはまいりません。安政あんせい時代の大コレラというのはどんなでしたか、人の話に聴くばかりでよく存じませんが、明治時代になりましては、十九年のコレラが一番ひどかったと申します。

わたくしは明治元年の生れで丁度十九の夏でございましたから、その頃のことはよく知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出るというありさまで、まったく怖ろしいことでした。これから申上げるのはその時のお話でございます。

わたくしの家は小谷おだにと申しまして、江戸時代から代々の医師でございました。父は若い時に長崎へ行って修業して来ましたそうで、明治になりましてから軍医を志願しまして、西南戦争にも従軍しました。そのとき、日向ひゅうがの延岡で流弾にあたって左の足に負傷しまして、一旦は訳もなく癒ったのですが、それからどうも左の足に故障が出来まして、跛足びっこという程でもないのですが、片足がなんだか吊れるような具合いで、とうとう思い切って明治十七年から辞職することになりました。それでも幾らか貯蓄たくわえもあり、年金も貰えるので、小体こていに暮らしてゆけば別に困るという程でもありませんでしたが、これから無職で暮らして行こうとするには、やはりそれだけの陣立てをしなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。

御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。

わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七間まの家いえがあります。地面は五百二十坪とかあるそうで、裏手の方は畑になっておりましたが、それでもまだまだ広いあき地がありました。ここらには狸や狢むじなも棲んでいるということで、夜は時どき狐の鳴き声もきこえました。そういうわけで、父は静かでよいと言っておりましたが、母やわたくしにはちっと静か過ぎて寂しゅうございました。お富という女中がひとりおりましたが、これは二十四五の頑丈な女で、父と一緒に畑仕事などもしてくれました。

番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑し、辺鄙へんぴなところに住んでおりますので、めったに市内のまん中へは出ませんから、世間のこともよく判らないのでございますが、毎日の新聞を見ますと、市内のコレラはますます熾さかんになるばかりで、容易にやみそうもありません。

八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。

「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」

「まあ、馬鹿なことを……。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて……。冗談にも程がある。」

「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という家うちを御存じでしょう。」

と、お富はまじめで言いました。「あの家の御新造ごしんぞですよ。」

この時代には江戸のなごりで、御新造ごしんぞという詞ことばがまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。つまり奥さん、御新造さん、おかみさんという順序になるので、飯田さんという家うちはなかなか立派に暮らしているのですが、その女あるじが、囲い者らしいというので、近所では奥さんともいわず、おかみさんともいわず、中を取って御新造さんと呼んでいるのでした。

「なぜまた、あの御新造がそんなことを言うのかしら、やっぱり冗談だろう。」と、母はやはり笑っていました。

わたくしも、むろん冗談だと思っておりました。ところが、お富の言うところを聴きますと、それがどうも冗談ではないらしいというのでございます。

飯田さんというのは、わたくしの横町をはいりますと、その中ほどにまた右の方へ曲る横町がありまして、その横町の南側にある大きい家で、門の両わきは杉の生け垣になっておりますが、裏手にはやはり大きい竹藪がございまして、門も建物も近年手入れをしたらしく、わたくしどもの古家ふるいえよりもよほど立派にみえます。御新造さんというのは二十八九か三十ぐらいの粋いきな人で、以前は日本橋とかで芸妓をしていたとかいう噂でした。この人が女あるじで、ほかにお元お仲という二人の女中がおりました。お元はもう五十以上のばあやで、お仲はまだ十八九の若い女でしたが、御新造さんがコレラになりたいと言っていることは、そのお仲という女中がお富に話したのだそうでございます。

なぜだか知りませんけれど、御新造さんはこのごろ口癖のようにコレラになりたいと言う。どうしたらコレラになれるだろうなぞと言う。それがだんだんに劫こうじて来て、お元ばあやの止めるのをきかずに、お刺身や洗肉あらいをたべる。天ぷらを食べる。胡瓜きゅうりもみを食べる――この時代にはそんなものを食べると、コレラになると言ったものでした。それを平気でわざとらしく食べるのをみると、御新造さんは洒落や冗談でなく、ほんとうにコレラになるのを願っているように思われるので、年の若いお仲という女中はもう堪らなくなりました。万一コレラになったらば、それで御新造さんは本望かも知れないが、ほかの事とは違って傍はたの者が難儀です。御新造さんがコレラになって、それが自分たちにうつったら大変であるから、今のうちに早く暇を取って立去りたいと、お仲は泣きそうな顔をしていたというのでございます。

その話をきいて、母もわたくしもいやな心持になりました。

「あすこの家うちの奉公人ばかりじゃあない。あの家でコレラなんぞが始まったら近所迷惑だ。」と、母も顔をしかめました。「それにしても、あの御新造はなぜそんなことを言うのだろうね。気でも違ったのじゃあないかしら。」

「そうですね。なんだか変ですねえ。」と、わたくしも言いました。まったく正気の沙汰とは思われないからでございます。

「ところが、お仲さんの話では、別に気がおかしいような様子はみえないということです。」と、お富は言いました。「なんでも浅草の方に大層えらい行者ぎょうじゃがありますそうで、御新造はこの間そこへ何かお祷いのりを頼みに行って来て、それからコレラになりたいなんて言い出したらしいというのでございます。その行者が何か変なことを言ったのじゃありますまいか。」

「でも、自分がコレラになりたいと言うのはおかしいじゃないか。」

母はそれを疑っているようでございました。わたくしにもその理屈がよく呑み込めませんでした。いずれにしても、同町内のすぐ近所にコレラになりたいと願っている人が住んでいるなぞというのは、どうも薄気味の悪いことでございます。

「なにしろ、いやだねえ。」と、母は再び顔をしかめていました。

「まったくいやでございます。お仲さんはどうしても今月いっぱいでお暇をもらうと言っておりましたが、御主人が承知しますかしら。」と、お富も不安らしい顔をしていました。

そのうちに父が風呂から上がってまいりましたので、母からその話をしますと、父はすぐに笑い出しました。

「あの女中は何か自分にしくじりがあって、急に暇を出されるような事になったので、そのごまかしにいい加減なでたらめを言うのだ。嘘ももう少しほんとうらしいことを考えればいいのに……。やっぱり年が若いからな。」

父は頭から問題にもしないので、話もまずそれぎりになってしまいました。

成程そういえばそんな事がないとも言われません。自分に落度があって暇を出されても、主人の方が悪いように言い触らすのは奉公人の習いですから、飯田の御新造のコレラ話もどこまでが本当だかわからない。こう思うと、わたくし共もそれについてあまり深く考えないようになりました。

二

それから三日目の夕方に、わたくしはお富を連れて新宿の大通りまで買物に出ました。夕方といってもまだ明るい時分で、暑い日の暮れるのを鳴き惜しむような蝉せみの声が、そこらで忙しそうに聞えていました。

横町をもう五、六間で出ぬけようとする時に、むこうから二人づれの女がはいって来ました。お富が小声で注意するように、お嬢さんと呼びますので、わたくしも気がついてよく見ますと、それはかの飯田の御新造と女中のお仲です。

近所に住んでいながら、特別に親しく附合いもしておりませんので、わたくし共はただ無言で会釈えしゃくしてすれ違いましたが、お仲という女中はいかにも沈み切った、今にも泣き出しそうな顔をして主人のあとに付いてゆくのが、なんだか可哀そうなようにも見えました。

「お嬢さん。ごらんなさい。あの御新造の顔を……。」と、お富はふりかえりながら小声でまた言いました。

まったくお富の言う通り、飯田の御新造の顔容かおだちはしばらくの間にめっきりとやつれ果てて、どうしてもただの人とは思われないような、影のうすい人になっておりました。

「もうコレラになっているのじゃありますまいか。」と、お富は言いました。

「まさか。」

とは言いましたが、飯田の御新造の身の上について、わたくしも一種の不安を感ぜずにはいられませんでした。コレラは嘘にしても、なにかの重い病気に罹っているに相違ないとわたくしは想像しました。婦人病か肺病ではあるまいかなぞとも考えました。

そういうたぐいの病気で容易に癒りそうもないところから、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなって死んでしまいたいというような愚痴が出たのを、女中たちが一途に真まに受けて、御主人はコレラになりたいと願っているなぞと言い触らしたのであろうとも考えてみました。しかし生魚や天ぷらを無暗にたべるという以上、ほんとうにコレラになって死のうと思っているのかも知れないなぞとも考えられました。

九月になってもコレラはなかなかおしまいになりませんので、大抵の学校は九月一日からの授業開始を当分延期するような始末でした。おまけに今までは山の手方面には比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになってまいりました。

その当時は、コレラ患者の出た家には丁度かし家札のような形に黄いろい紙を貼り付けておくことになっておりましたので、往来をあるいていて、黄いろい紙の貼ってある家の前を通るのは、まことにいやな心持でございました。そういうわけで、怖ろしいコレラがだんだんに眼と鼻のあいだへ押寄せて来ましたので、気の弱いわたくし共はまったくびくびくもので、早く寒くなってくれればいいと、ただそればかりを念じておりました。

「飯田さんのお仲さんはやっぱり勤めていることになったそうです。」

ある日、お富がわたくしに報告しました。お仲はどうしても八月かぎりで暇を取るつもりでいたところが、御新造がお仲にむかって、お前はどうしてもこの家を出てゆく気か、わたしももう長いことはないのだからどうぞ辛抱していてくれ。これほど頼むのを無理に振切って出てゆくというなら、わたしはきっとおまえを怨むからそう思っているがいいと、たいへんに怖い顔をして睨まれたので、お仲はぞっとしてしまって、仕方なしにまた辛抱することになったというのでございます。

お富はまたこんなことを話しました。

「あの御新造はゆうべ狢むじなを殺したそうですよ。」

「むじなを……。どうして……。」と、わたくしは訊きました。

「なんでもきのうの夕方、もう薄暗くなった時分に、どこからかむじなが……。もっとも小さい子だそうですが、庭先へひょろひょろ這い出して来たのを、御新造がみつけて、ばあやさんとお仲さんに早く捉つかまえろと言うので、よんどころなしに捉まえると、御新造は草刈鎌を持ち出して来て、力まかせにその子むじなの首を斬り落してしまったそうで……。お仲さんはまたぞっとしたということです。全くあの御新造はどうかしているんですね。どうしても唯事じゃありませんよ。」

「そうかも知れないねえ。」

飯田の御新造は病気が募つのって来て、むやみに神経が興奮して、こんな気違いじみた乱暴な残酷なことをするようになったのかも知れないと、わたくしは何だか気の毒にもなりました。しかしそんな乱暴が増長すると、しまいにはどんなことを仕出しでかすか判らない。自分の家へ火でも付けられたら大変だ――わたくしはそんなことも考えるようになりました。

忘れもしない、九月十二日の午前八時頃でございました。使に出たお富が顔の色をかえて帰って来まして、息を切ってわたくし共にまた報告しました。

「飯田さんの御新造がとうとうコレラになりました。ゆうべの夜半から吐いたり下したりして……。嘘じゃありません。警察や役場の人たちが来て大騒ぎです。」

「まあ。大変……。」

わたくしも驚いて門の外まで出て見ますと、狭い横町の入口には大勢の人が集まって騒いでおりまして、石炭酸の臭においが眼にしみるようです。病人は避病院へ送られるらしく、黄いろい紙の旗を立てた釣台も来ておりました。なんだか怖ろしくなって、わたくしは早々に内へ逃げ込んでしまいました。

飯田の御新造は真症コレラで避病院へ運び込まれましたが、その晩の十時ごろに死んだそうでございます。御本人はそれで本望かも知れませんが、交通遮断やら消毒やらで近所は大迷惑でございました。それも自然に発病したというのならば、おたがいの災難で仕方もないことですが、この御新造は自分から病気になるのを願っていたらしいという噂が世間にひろまって、近所からひどく怨まれたり、憎まれたりしました。

「飛んでもない気ちがいだ。」と、わたくしの父も言いました。

ところが、その後にお仲という女中の口からこういう事実が伝えられて、わたくしどもを不思議がらせました。前にも申す通り、その当時は黄いろい紙にコレラと黒く書いて、新患者の出た家の門かどに貼り付けることになっておりました。飯田の御新造はいつの間にかその黄いろい紙を二枚用意していて、一枚は自分の家うちに貼って、他の一枚は柳橋のこうこういう家の門に貼ってくれと警察の人に頼んだそうです。

何を言うのかとも思ったのですが、警察の方から念のために柳橋へ聞合せると、果してその家にもコレラの新患者が出たというので、警察でもびっくりしたそうでございます。その新患者は柳橋の芸妓だということでした。

三

お仲は飯田の御新造が番衆町へ引っ越して来てからの奉公人で、むかしの事はなんにも知らないのでしたが、お元というばあやはその以前から長く奉公していた女で、いっさいの事情を承知していたのでございます。なにしろ病気が病気ですから誰も悔みに来る者もなく、お元とお仲との二人ぎりで寂しい葬式をすませたのですが、そのお通夜の晩にお元が初めて御新造の秘密をお仲に打明けたそうでございます。

御新造は世間の噂の通り、以前は柳橋の芸妓であったということで、ある立派な官員さんの御贔屓になって、とうとう引かされることになったのです。その官員さんという方は、その後だんだん偉くなって、明治の末年まで生きておいででして、そのお家いえは今でも立派に栄えておりますから、そのお名前をあらわに申上げるのは遠慮いたさなければなりませんので、ここではただ立派な官員さんと申すだけのことに致しておきましょう。その官員さんの囲いもの――そのころは権妻ごんさいという詞ことばが流行っておりました。――になって、この番衆町に地面や家を買ってもらって、旦那様はときどきに忍んで来たというわけでございました。

それで四、五年は無事であったのですが、この春ごろから旦那様の車がだんだんに遠ざかって、六月頃からはぱったりと足が止まってしまいました。飯田の御新造も心配していろいろ探索してみると、旦那様は柳橋の芸妓に新しいお馴染が出来たということが判りました。しかもその芸妓は、御新造が勤めをしているころに妹分同様にして引立ててやった若い女だと判ったので、御新造は歯がみをして口惜くやしがったそうでございます。

もっとも旦那様から月々のお手当はやはり欠かさずに届けて来るので、生活に困るというようなことはなかったのですが、妹分の女に旦那を取られたのが無暗に口惜しかったらしい。それは無理もないことですが、この御新造は人一倍に嫉妬ぶかい質たちとみえまして、相手の芸妓が憎くてならなかったのです。

旦那様が番衆町の方から遠のいたのは、わたくしの想像した通り、御新造に頑固な婦人病があったからで、これまでにもいろいろの療治をしたのですが、どうしても癒らないばかりか、年々に重ってゆくという始末なので、旦那様もふたたび元地の柳橋へ行って新しいお馴染をこしらえたような訳で、旦那様の方にもまあ無理のないところもあるのでございましょう。それでも月々のお手当はとどこおりなく呉れて、ちっとも不自由はさせていないのですから、御新造も旦那様を怨もうとはしなかったのですが、どう考えても相手の女が憎い、怨めしい。そのうちに一方の病気はだんだんに重って来る。御新造はいよいよ焦々いらいらして、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなってしまいたいと言い暮らしているうちに、いくらか神経も狂ったのかも知れません、ほんとうにコレラになる気になったらしく、お元ばあやの止めるのもきかないで、この際むやみに食べては悪いというものを遠慮なしに食べるようになったのでございます。

むじなの子の首を鎌でむごたらしく斬ったなどというのも、やはり神経が狂っているせいでしたろうが、むじながその芸妓にでも見えたのか、それともむじなをその芸妓になぞらえて予譲よじょうの衣きぬというような心持であったのか、そこまでは判りません。

いずれにしても、御新造はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか知りませんが、御新造はその行者に秘密のお祷りでも頼んで、自分の死ぬときには相手の女も一緒に連れて行くことが出来るという事を信じていたらしいのです。

それで、あらかじめ黄いろい紙を二枚用意しておいて、いざというときには、一枚を柳橋のこうこういう家の門かどに貼ってくれと頼むことにしたのであろうと思われます。御新造に呪われたのか、それとも自然の暗合か、とにかくその芸妓も同日にコレラに罹ったのは事実で、やはりその夜なかに死んだそうでございます。

お元というばあやは御新造の遺言ゆいごんで、その着物から持物全部を貰って国へ帰りました。このばあやは柳橋時代から御新造に仕えていた忠義者で、生れは相模さがみの方だとか聞きました。お仲はお元からいくらかの形見かたみを分けてもらって、またどこへか奉公に出たようでした。残っている地面と家作は御新造の弟にゆずられることになりましたが、この弟は本所辺で馬具屋をしている男で、評判の道楽者であったそうですから、半年と経たないうちに、その地面も家作もみな人手にゆずり渡してしまいました。

そうなると、世間では碌なことは言いません。あすこの家は、飯田の御新造の幽霊が出るの何のと取留めもないことを言い触らす者がございます。しかしその後に引移って来た藤岡さんという方の奥さんが、五年目の明治二十四年にインフルエンザでなくなり、またそのあとへ来た陸軍中佐の方が明治二十七年の日清戦争で戦死し、その次に来た松沢という人が株の失敗で自殺したのは事実でございます。

わたくしも二十年ほど前にそこを立退きましたので、その後のことは存じません。近年はあの辺がめっきり開けましたので、飯田さんの家というのも今はどこらになっているのか、まるで見当が付かなくなってしまいました。おそらく竹藪が伐り払われると共に取毀されたのでございましょう。

笛塚ふえづか

一

第十一の男は語る。

僕は北国の者だが、僕の藩中にこういう怪談が伝えられている。いや、それを話す前に、かの江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「耳袋みみぶくろ」の一節を紹介したい。

「耳袋」のうちにはこういう話が書いてある。美濃みのの金森兵部少輔の家が幕府から取潰されたときに、家老のなにがしは切腹を申渡された。その家老が検視の役人にむかって、自分はこのたび主家の罪を身に引受けて切腹するのであるから、決してやましいところはない。むしろ武士として本懐に存ずる次第である。しかし実を申せば拙者には隠れたる罪がある。若いときに旅をしてある宿屋に泊ると、相宿あいやどの山伏が何かの話からその太刀をぬいて見せた。それが世にすぐれたる銘刀であるので、拙者はしきりに欲しくなって、相当の価でゆずり受けたいと懇望したが、家重代いえじゅうだいの品であるというので断られた。それでもやはり思い切れないので、あくる朝その山伏と連れ立って人通りのない松原へ差しかかったときに、不意に彼を斬り殺してその太刀を奪い取って逃げた。それは遠い昔のことで、幸いに今日こんにちまで誰にも覚られずに月日を送って来たが、今更おもえば罪深いことで、拙者はその罪だけでもかような終りを遂げるのが当然でござると言い残して、尋常に切腹したということである。これから僕が話すのも、それにやや似通っているが、それよりも、さらに複雑で奇怪な物語であると思ってもらいたい。

僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、仕舞しまいぐらいは舞う者もある。笛をふく者もある。鼓をうつ者もある。その一人に矢柄喜兵衛という男があった。名前はなんだか老人らしいが、その時はまだ十九の若侍で御馬廻りをつとめていた。父もおなじく喜兵衛といって、せがれが十六の夏に病死したので、まだ元服したばかりのひとり息子が父の名をついで、とどこおりなく跡目を相続したのである。それから足かけ四年のあいだ、二代目の若い喜兵衛も無事に役目を勤め通して、別に悪い評判もなかったので、母も親類も安心して、来年の二十歳はたちにもなったならば、しかるべき嫁をなどと内々心がけていた。

前にいったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした嗜たしなみのある者がむしろ侍らしく思われるくらいであったから、彼がしきりに笛をふくことを誰もとがめる者はなかった。

むかしから丸年まるどしの者は歯並みがいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人ひとも褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。

天保てんぽうの初年のある秋の夜である。月のいいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒すすきや芦あしの穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下しもの方へ遠く降ってゆくと、自分のゆく先にも笛の音ねがきこえた。

自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。

笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように今夜の月に浮かれて出て、夜露にぬれながら吹き楽しむ者があるのか、さりとは心憎いことであると、喜兵衛はぬき足をして芒叢すすきむらのほとりに忍びよると、そこには破筵やれむしろを張った低い小屋がある。いわゆる蒲鉾かまぼこ小屋で、そこに住んでいる者は宿無しの乞食であることを喜兵衛は知っていた。

そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立停まった。

「まさかに狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」

こっちの好きに付け込んで、狐か川獺かわうそが悪いたずらをするのかとも疑ったが、喜兵衛も武士である。腰には家重代の長曽弥虎徹ながそねこてつをさしている。なにかの変化へんげであったらば一刀に斬って捨てるまでだと度胸をすえて、彼はひと叢しげる芒をかきわけて行くと、小屋の入口のむしろをあげて、ひとりの男が坐りながらに笛を吹いていた。

「これ、これ。」

声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。

月のひかりに照らされた彼の風俗はまぎれもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞もあらたまった。

「そこに笛を吹いてござるのか。」

「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。

「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまでまいった。」と、喜兵衛は笑みを含んで言った。

その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい、彼の詞も打解けてきこえた。

「まことにつたない調べで、お恥かしゅうござります。」

「いや、そうでない。せんこくから聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながらその笛をみせてくれまいか。」

「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」

とは言ったが、別に否いなむ気色けしきもなしに、彼はそこらに生えている芒の葉で自分の笛を丁寧に押しぬぐって、うやうやしく喜兵衛のまえに差出した。

その態度が、どうしてただの乞食でない。おそらく武家の浪人が何かの子細で落ちぶれたのであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。

「しからば拝見。」

彼はその笛を受取って、月のひかりに透かしてみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる名管めいかんであるので、喜兵衛はいよいよ彼を唯者でないと見た。自分の笛ももちろん相当のものではあるが、とてもそれとは比べものにならない。喜兵衛は彼がどうしてこんなものを持っているのか、その来歴を知りたくなった。一種の好奇心も手伝って、彼はその笛を戻しながら、芒を折敷いて相手のそばに腰をおろした。

「おまえはいつ頃からここに来ている。」

「半月ほど前からまいりました。」

「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。

「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大坂、伊勢路いせじ、近江路、所々をさまよい歩いておりました。」

「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然に訊いた。

男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり寄って訊いた。

「それほどの名笛を持ちながら、こうして流浪していらるるには、定めて子細がござろう。御差支えがなくばお聴かせ下さらぬか。」

男はやはり黙っていたが、喜兵衛から再三その返事をうながされて、彼は渋りながらに口を開いた。

「拙者はこの笛に祟られているのでござる。」

二

男は石見いわみ弥次右衛門という四国の武士であった。彼も喜兵衛とおなじように少年のころから好んで笛を吹いた。

弥次右衛門が十九歳の春のゆうぐれである。彼は菩提寺に参詣して帰る途中、往来のすくない田圃たんぼなかにひとりの四国遍路の倒れているのを発見した。見すごしかねて立寄ると、彼は四十に近い男で、病苦に悩み苦しんでいるのであった。弥次右衛門は近所から清水を汲んで来て飲ませ、印籠いんろうにたくわえの薬を取出してふくませ、いろいろに介抱してやったが、男はますます苦しむばかりで、とうとうそこで息を引取ってしまった。

彼は弥次右衛門の親切を非常に感謝して、見ず知らずのお武家さまが我れわれをこれほどにいたわってくだされた。その有難い御恩のほどは何ともお礼の申上げようがない。ついては甚だ失礼であるが、これはお礼のおしるしまでに差上げたいと言って、自分の腰から袋入りの笛をとり出して弥次右衛門にささげた。

「これは世にたぐいなき物でござる。しかし、くれぐれも心こころして、わたくしのような終りを取らぬようになされませ。」

彼は謎のような一句を残して死んだ。弥次右衛門はその生国しょうこくや姓名を訊いたが、彼は頭かぶりを振って答えなかった。これも何かの因縁であろうと思ったので、弥次右衛門はその亡骸なきがらの始末をして、自分の菩提寺に葬ってやった。

身許不明の四国遍路が形見かたみにのこした笛は、まったく世にたぐい稀なる名管であった。彼がどうしてこんなものを持っていたのかと、弥次右衛門も頗る不審に思ったが、いずれにしても偶然の出来事から意外の宝を獲たのをよろこんで、彼はその笛を大切に秘蔵していると、それから半年ほど後のことである。弥次右衛門がきょうも菩提寺に参詣して、さきに四国遍路を発見した田圃なかに差しかかると、ひとりの旅すがたの若侍が彼を待ち受けているように立っていた。

「御貴殿は石見弥次右衛門殿でござるか。」と、若侍は近寄って声をかけた。

左様でござると答えると、かれは更に進み寄って、噂にきけば御貴殿は先日このところにおいて四国遍路の病人を介抱して、その形見として袋入りの笛を受取られたということであるが、その四国遍路はそれがしの仇でござる。それがしは彼の首と彼の所持する笛とを取るために、はるばると尋ねてまいったのであるが、かたきの本人は既に病死したとあれば致し方がない、せめてはその笛だけでも所望いたしたいと存じて、先刻からここにお待ち受け申していたのでござると言った。

藪から棒にこんなことを言いかけられて、弥次右衛門の方でも素直に渡すはずがない。彼は若侍にむかって、お身はいずこのいかなる御仁ごじんで、またいかなる子細でかの四国遍路をかたきと怨まれるか、それを承った上でなければ何とも御挨拶は出来ないと答えたが、相手はそれを詳しく説明しないで、なんでもかの笛を渡してくれと遮二無二しゃにむに彼に迫るのであった。

こうなると弥次右衛門の方には、いよいよ疑いが起って、彼はこんなことを言いこしらえて大切の笛を騙かたり取ろうとするのではあるまいかとも思ったので、お身の素姓、かたき討の子細、それらが確かに判らないかぎりは、決してお渡し申すことは相成らぬと手強くはねつけると、相手の若侍は顔の色を変えた。

この上はそれがしにも覚悟があると言って、彼は刀の柄に手をかけた。問答無益むやくとみて、弥次右衛門も身がまえした。それからふた言三言いい募った後、ふたつの刀が抜きあわされて、素姓の知れない若侍は血みどろになって弥次右衛門の眼のまえに倒れた。

「その笛は貴様に祟るぞ。」

言い終って彼は死んだ。訳もわからずに相手を殺してしまって、弥次右衛門はしばらく夢のような心持であったが、取りあえずその次第を届け出ると、右の通りの事情であるから弥次右衛門に咎めはなく、相手は殺され損で落着らくちゃくした。彼に笛をゆずった四国遍路は何者であるか、のちの若侍は何者であるか、勿論それは判らなかった。

相手を斬ったことはまずそれで落着したが、ここに一つの難儀が起った。というのは、この事件が藩中の評判となり、主君の耳にもきこえて、その笛というのを一度みせてくれという上意が下くだったことである。単に御覧に入れるだけならば別に子細はないが、殿のお部屋さまは笛が好きで、価あたいを問わずに良い品を買い入れていることを弥次右衛門はよく知っていた。迂濶にこの笛を差出すと、殿の御所望という口実で、お部屋さまの方へ取上げられてしまうおそれがある。さりとて仮りにも殿の上意とあるものを、家来の身として断るわけにはいかない。弥次右衛門もこれには当惑したが、どう考えてもその笛を手放すのが惜しかった。

こうなると、ほかに仕様はない。年の若い彼はその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、彼は先祖伝来の家禄を捨てたのである。

むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が逼迫ひっぱくしているので、新規召抱えなどということはめったにない。弥次右衛門はその笛をかかえて浪人するよりほかはなかった。彼は九州へ渡り、中国をさまよい、京大坂をながれ渡って、わが身の生計たつきを求めるうちに、病気にかかるやら、盗難に逢うやら、それからそれへと不運が引きつづいて、石見弥次右衛門という一廉ひとかどの侍がとうとう乞食の群れに落ち果ててしまったのである。

そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとはしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽しむその音色を、測はからずも矢柄喜兵衛に聴き付けられたのであった。

ここまで話して来て、弥次右衛門は溜息をついた。

「さきに四国遍路が申残した通り、この笛には何かの祟りがあるらしく思われます。むかしの持主は何者か存ぜぬが、手前の知っているだけでも、これを持っていた四国遍路は路ばたで死ぬ。これを取ろうとして来た旅の侍は手前に討たれて死ぬ。手前もまたこの笛のために、かような身の上と相成りました。それを思えば身の行く末もおそろしく、いっそこの笛を売放すか、折って捨てるか、二つに一つと覚悟したことも幾たびでござったが、むざむざと売放すも惜しく、折って捨つるはなおさら惜しく、身の禍いと知りつつも身を放さずに持っております。」

喜兵衛も溜息をつかずには聴いていられなかった。むかしから刀についてはこんな奇怪な因縁話を聴かないでもないが、笛についてもこんな不思議があろうとは思わなかったのである。

しかし年のわかい彼はすぐにそれを否定した。おそらくこの乞食の浪人は、自分にその笛を所望されるのを恐れて、わざと不思議そうな作り話を聞かせたので、実際そんな事件があったのではあるまいと思った。

「いかに惜しい物であろうとも、身の禍いと知りながら、それを手放さぬというのは判らぬ。」

と、かれは詰なじるように言った。

「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦しめられております。」

「絶えず苦しめられる……。」

「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、所詮しょせんまこととは思われますまい。」

それぎりで弥次右衛門は黙だまってしまった。喜兵衛も黙っていた。ただ聞えるのは虫の声ばかりである。河原を照らす月のひかりは霜をおいたように白かった。

「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。

「もう夜がふけた。」

喜兵衛も鸚鵡おうむがえしに言った。彼は気がついて起ちあがった。

三

浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一刻ときほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討かたきうち襤褸錦つづれのにしき」の芝居でみる大晏寺堤だいあんじづつみの場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。

喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここへ襲ってきたのであった。

嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のうちの様子をうかがうと、笛の音はやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりとしている。

と思うと、内では低い唸うなり声がきこえた。それがだんだんに高くなって、弥次右衛門はしきりに苦しんでいるらしい。それは病苦でなくて、一種の悪夢にでもおそわれているらしく思われたので、喜兵衛はすこしく躊躇した。かの笛のために、彼はあしかけ十年のあいだ、絶えず苦しめられているという、さっきの話も思いあわされて、喜兵衛はなんだか薄気味悪くもなったのである。

息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦しみもがくような声が激しくなって、弥次右衛門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖ろしい夢はもう醒めたらしく、彼はほっと息をついてあたりを見まわした。

喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は、浪人の眼の前にありありと照らし出された。

こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。彼は持っている槍を取直してただひと突きと繰出すと、弥次右衛門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。

相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。彼は槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。

「いや、しばらく……。御貴殿は手前の笛に御執心か。」

星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかに言った。

「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」

弥次右衛門は小屋へはいって、かの笛を取出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。

「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心を配りなされ。」

「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。

「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように言った。

もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衛はその笛を押しいただいて殆んど機械からくりのように起ちあがって、無言で丁寧に会釈えしゃくして別れた。

屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の慚愧ざんきと悔恨とに打たれた。世にたぐいなしと思われる名管を手に入れた喜悦と満足とを感じながら、また一面には、今夜の自分の恥かしい行為が悔まれた。相手が素直にかの笛を渡してくれただけに、斬取り強盗にひとしい重々の罪悪が彼のこころにいよいよ強い呵責かしゃくをあたえた。それでもあやまって相手を殺さなかったのが、せめてもの仕合せであるとも思った。

夜があけたならば、もう一度かの浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、彼は足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。

夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで雁がんの鳴く声がきこえた。

芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。彼は喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我れとわが喉のどを突き貫いていた。

そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮らしていたが、前の出来事から七年目の秋に、彼は勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。彼は自宅の屋敷で最期さいごの用意にかかったが、見届けの役人にむかって最期のきわに一曲の笛を吹くことを願い出ると、役人はそれを許した。

笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は、怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。

九百九十年 終にしておわる       浜主

喜兵衛は斯道しどうの研究者であるだけに、浜主の名を知っていた。尾張おわりの連むらじ浜主はまぬしはわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。ことしは天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に笛を奏したという承和十二年から四年目に相当する。浜主は笛吹きであるが、初めのうちは自ら作って自ら吹いたのである。この笛に浜主の名が刻まれてある以上、おそらく彼の手に作られたものであろうが、笛の表ならば格別、細い管くだのなかにどうしてこれだけの漢字を彫ったか、それが一種の疑問であった。

さらに不思議なのは、九百九十年にして終るという、その九百九十年目があたかも今年に相当するらしいことである。浜主はみずからその笛を作って、みずからその命数を定めたのであろうか。今にして考えると、かの石見弥次右衛門の因縁話も嘘ではなかったらしい。怪しい因縁を持ったこの笛は、それからそれへとその持主に禍いして、最後の持主のほろぶる時に、笛もまた九百九十年の命数を終ったらしい。

喜兵衛は、あまりの不思議におどろかされると同時に、自分がこの笛と運命を共にするのも逃れがたき因縁であることを覚った。彼は見届けの役人にむかって、この笛に関する過去の秘密を一切うち明けた上で、尋常に切腹した。

それが役人の口から伝えられて、いずれも奇異の感に打たれた。喜兵衛と生前親しくしていた藩中の誰かれがその遺族らと相談の上で、二つに裂けたかの笛をつぎあわせて、さきに石見弥次右衛門が自殺したと思われる場所にうずめ、標しるしの石をたてて笛塚の二字を刻ませた。その塚は明治の後までも河原に残っていたが、二度の出水のために今では跡方もなくなったように聞いている。

龍馬りゅうめの池いけ

一

第十二の男は語る。

わたしは写真道楽で――といっても、下手の横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来ないので、忙しい仕事の暇をぬすんで各地方を随分めぐり歩きました。そのあいだにはいろいろの失策談や冒険談もあるのですが、今夜の話題にふさわしいお話というのは、今から四年ほど前の秋、福島県の方面へ写真旅行を企てたときの事です。

そのときに自分ひとりで出かけたのですが、白河しらかわの町には横田君という人がいる。わたしは初対面の人ですが、友人のE君は前からその人を知っていて、白河へ行ったならば是非たずねてみろと言って、丁寧な紹介状を書いてくれたので、わたしは帰り路にそこを訪ねると、横田君の家は土地でも旧家らしい呉服屋で、商売もなかなか手広くやっているらしい。わたしの紹介された人はそこの若主人で、これも写真道楽の一人ですから、初対面のわたしを非常に歓待してくれまして、別棟になっている奥座敷へ泊めていろいろの御馳走をしてくれる。まったく気の毒なくらいでした。

日が暮れてから横田君はわたしの座敷へ来て、夜のふけるまで話していましたが、そのうちに横田君はこんなことを言い出しました。

「どうもこの近所には写真の題になるようないい景色のところもありません。しかし折角おいでになったのですから、何か変ったところへ御案内したい。これから五里半以上、やがて六里ほどもはいったところに龍馬の池というのがあります。少し遠方ですが、途中までは乗合馬車がかよっていますから、歩くところはまず半分ぐらいでしょう。どうです、一度行って御覧になりませんか。」

「わたしは旅行馴れていますから、少しぐらい遠いのは驚きません。そこで、その龍馬の池というのは景色のいいところなんですか。」

「景色がいいというよりも、大きい木が一面に繁っていて、なんだか薄暗いような、物凄いところです。昔は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の不忍池しのばずのいけよりも少し広いくらいでしょう。遠い昔には龍が棲んでいた。――おそらく大きい蛇か、山椒さんしょうの魚うおでも棲んでいたのでしょうが、ともかくも龍が棲んでいたというので、昔は龍の池と呼んでいたそうですが、それが中ごろから転じて龍馬の池ということになったのです。それについて一種奇怪の伝説が残っています。今度あなたを御案内したいというのも、実はそのためなのですが……。あなたはお疲れでお眠くはありませんか。」

「いえ、わたしは夜ふかしをすることは平気です。その奇怪な伝説というのはどんなことですか。」と、わたしも好奇心をそそられて訊きました。

「さあ、それをお話し申しておかないと、御案内の価値がないようなことにもなりますから、一応はお耳に入れておきたいと思います。」

今夜も十時を過ぎて、庭には鳴き弱ったこおろぎの声がきこえる。九月の末でも、ここらでは火鉢を引寄せたいくらいの夜寒よさむが人に迫ってくるように感じられました。横田君は一と息ついて、さらにその龍馬の池の秘密を説きはじめました。

「なんでも奥州の秀衡ひでひらの全盛時代だといいますから、およそ八百年ほどもまえのことでしょう。かの龍の池から一町あまりも離れたところに、黒太夫という豪農がありました。九郎というのではなく、黒と書くのだそうです。御承知の通り、奥州は馬の産地で、近所の三春みはるには大きい馬市が立っていたくらいですから、黒太夫の家にもたくさんの馬が飼ってありました。それからまた、龍の池のほとりには一つの古い社やしろがありました。いつの頃に建てられたものか知りませんが、よほど古い社であったそうで、土地の者は龍神の社とも水神の社とも呼んでいましたが、その社の前に木馬もくばが立っていました。普通ならば御神馬ごしんめと唱えて、ほんとうの生きた馬を飼っておくのですが、ここのはほんとうの馬と同じ大きさの木馬で、いつの昔に誰が作ったのか知りませんが、その彫刻は実に巧妙なもので、ほとんど生きているかと思われるほどであったそうです。したがって、この木馬が時どきに池の水を飲みに出るとか、正月元日には三度いななくとか、いろいろの噂が伝えられて、土地の者はそれを信じていたのです。

ところがその木馬がある時どこへか姿を隠してしまった。前の伝説がありますから、おそらくどこへか出て行って、再び戻って来るものと思っていると、それが三月たっても半年たっても再び姿をみせない。元来が小さい社で神官も別当もいるわけではないのですから、馬がどうして見えなくなったか、その事情は勿論わからない。まさか盗まれたわけでもあるまい。盗んだところでどうにもなりそうもない。霊ある木馬はこの池の底へ沈んでしまったのではあるまいか、という説が多数を占めて、まずそのままになっていると、その年の秋には暴風雨があって、池の水が溢れ出して近村がことごとく水にひたされる。そのほかにも悪い病いが流行はやる。かの木馬の紛失以来、いろいろの災厄がつづくので、土地の者も不安に襲われました。

とりわけて心配したのはかの黒太夫で、なにぶんにも所有の土地も広く、家族も多いのですから、なにかの災厄のおこるたびに、その被害が最も大きい。そこで村の者どもとも相談して、黒太夫の一手でかの木馬を新しく作って、龍神の社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉ひらいずみには相当の仏師もいたのですが、今までのが優れた作であるだけに、それに劣らないような腕前の職人を物色するということになると、なかなか適当の人間が見あたらない。

これには黒太夫も困っていると、ある晩にひとりの山伏が来て一夜のやどりを求めたので、黒太夫もこころよく泊めてやる。そうして、なにかの話からかの木馬の話をすると、山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や番匠ばんじょうやいろいろの職人が下って来る。そのなかに祐慶という名高い仏師がいる。この人は仏ばかりでなく、花鳥や龍や鳳凰や、すべての彫刻の名人として知られているから、この人の通るのを待ち受けて、なんとか頼んでみてはどうだ。わたしは宇都宮で逢ったから、おそらく一日二日のうちにはここへ来るだろうというのです。

それをきいて黒太夫は非常によろこびました。山伏はあくる朝、ここを立ってしまいましたが、黒太夫はすぐに支度をして、家内の者四、五人を供につれて、街道筋へ出張って待ちうけていると、果してその祐慶という人が通りかかりました。黒太夫が想像していたのとは違って、まだ二十四五の若い男で、これがそれほど偉い人かと少しく疑われるくらいでしたが、ともかくも呼びとめて木馬の彫刻をたのみますと、祐慶は、先をいそぐからというので断りました。それをいろいろに口説いて、なにしろその場所を一度見てくれといって、無理に自分の屋敷まで連れて来ることになったのです。

祐慶は案内されて、かの龍神の社へ行って、龍の池のあたりを暫く眺めていましたが、それほどお頼みならば作ってもよろしい。しかし馬ばかり作ったのでは再び立去るおそれがあるから、どうしてもその手綱たづなを控えている者を添えなければならないが、それでも差支えないかと念を押したそうです。

もちろん、差支えはないと言うほかないので、万事よろしく頼むことになりますと、祐慶は彫刻をするために生きた人間と生きた馬を手本に貸してくれという。つまり今日こんにちのモデルといったわけです。前にも申した通り、黒太夫の家にはたくさんの馬が飼ってある。その中から裕慶は白鹿毛しろかげの大きい馬を選び出しました。そこで、その綱を取っている者は誰にしたらいいかという詮議になると、祐慶は大勢の馬飼いのうちから捨松というのを選びました。

捨松はことし十五の少年で、赤児のときに龍神の社の前に捨ててあったのを黒太夫の家で拾いあげて、捨て子であるから捨松という名をつけて、今日まで育てて来たので、ほんとうの子飼いの奉公人です。そういうわけで、親もわからない、身許も判らない人間ですから、黒太夫も不憫を加えて召使っている。当人も一生懸命に働いている。また不思議にこの捨松は馬をあつかうことが上手で、まだ年もいかない癖に、どんな悍かんの強い馬でも見ごとに鎮めるというので、大勢の馬飼うまかいのなかでも褒め者になっている。それらの事情から祐慶もかれを選定することになったのかも知れません。いずれにしても、青年の仏師は少年の馬飼と白鹿毛の馬とをモデルにして、いよいよかの木馬の製作に取りかかったのは、旧暦の七月の末、ここらではもうすっかりと秋らしくなった頃でした。」

二

「祐慶がどういう風にして製作に従事したかという事は詳しく伝わっていませんが、屋敷内の森のなかに新しく細工場を作らせて、モデルの捨松と白鹿毛のほかには誰も立入ることを許しませんでした。主人の黒太夫も覗くことは出来ない。こうして七、八、九、十、十一と、あしかけ五カ月の後に、人間と馬との彫刻が出来あがりました。時によると夜通しで仕事をつづけている事もあるらしく、夜ふけに鑿のみや槌の音が微かにきこえるのが、なんだか物凄いようにも感じられたということでした。

いよいよ製作が成就じょうじゅして、五カ月ぶりで初めて細工場を出て来た祐慶は、髪や髭は伸び、頬は落ち、眼は窪んで、にわかに十年も年を取ったように見えたそうですが、それでもその眼は生きいきと光りかがやいていました。モデルの少年も馬もみな元気がいいので、黒太夫一家でもまず安心しました。出来あがった木馬はもちろん、その手綱を控えている馬飼のすがた形もまったくモデルをそのままで、さながら生きているようにも見えたので、それを見た人々はみな感嘆の声をあげたそうです。

黒太夫も大層よろこんで手厚い礼物れいもつを贈ると、祐慶は辞退して何にも受取らない。彼は自分の長く伸びた髭をすこし切って、これをそこらの山のなかに埋めて、小さい石を立てておいてくれ、別に誰の墓ともしるすに及ばないと、こう言いおいて早々にここを立去ってしまいました。不思議なことだとは思ったが、その言う通りにして小さい石の標しるしを立て、誰が言い出したともなしにそれを髭塚と呼ぶようになりました。

そこで、吉日を選んでかの木馬を社前に据えつける事になったのは十二月の初めで、近村の者もみな集まるはずにしていると、その前夜の夜半からにわかに雪がふり出しました。ここらで十二月に雪の降るのは珍しくもないのですが、暁け方からそれがいよいよ激しくなって、眼もあけないような大吹雪となったので、黒太夫の家でもどうしようかと躊躇していると、ここらの人たちは雪に馴れているのか、それとも信仰心が強いのか、この吹雪をも恐れないで近村はもちろん、遠いところからも続々あつまって来るので、もう猶予してもいられない。午ひるに近いころになって、黒太夫の家では木馬を運び出すことになりました。いい塩梅に雪もやや小降りになったので、人々もいよいよ元気が出て、かの木像と木馬を大きい車に積みのせて、今や屋敷の門から挽き出そうとする時、馬小屋のなかでにわかに高いいななきの声がきこえたかと思うと、これまでモデルに使われていた白鹿毛が何かの物の怪けでも付いたように狂い立って、手綱を振切って門の外へ飛び出したのです。

人々も驚いて、あれあれというところへ、かの捨松が追って来ました。馬は龍の池の方へ向ってまっしぐらに駈けてゆく。捨松もつづいて追ってゆく。雪はまたひとしきり激しくなって、人も馬も白い渦のなかに巻き込まれて、時どきに見えたり隠れたりする。捨松は途中で手綱を掴んだらしいのですが、きょうは容易に取鎮めることが出来ず、狂い立つ奔馬に引きずられて吹雪のなかを転んだり起きたりして駈けてゆく。ほかの馬飼も捨松に加勢するつもりで、あとから続いて追いかけたのですが、雪が激しいのと、馬が早いのとで、誰も追い付くことが出来ない。ただうしろの方から、おういおうい、と声をかけるばかりでした。

そのうちに吹雪はいよいよ激しくなって、白い大浪が馬と人とを巻き込んだかと思うと、二つながら忽ちにその影を見失った。どうも池のなかへ吹き込まれたらしいのです。騒ぎはますます大きくなって、大勢がいろいろに詮議したのですが、捨松も白鹿毛も、結局ゆくえ不明に終りました。

やはり以前の木馬と同じように池の底に沈んだのであろうと諦めて、新しく作られた木像と木馬を龍神の社前に据えつけて、ともかくもきょうの式を終りましたが、もしやこれもまた抜け出すようなことはないかと、黒太夫の家からは朝に晩に見届けの者を出していましたが、木像も木馬も別条なく、社を守るように立っているので、まず安心はしたものの、それにつけても捨松と白鹿毛の死が悲しまれました。

誰が見ても、その木像と木馬はまったく捨松と白鹿毛によく似ているので、あるいは名人の技倆によって、人も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた付会ふかいして、今度の木馬も時どきにいななくとか、木像の捨松が口をきいたとか、いろいろの噂が伝えられるようになりました。

そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向に捗はかがゆかない。まるで気ぬけのした人間のように見えたので、いよいよ秀衡の機嫌を損じて、とうとう殺されてしまったという噂です。彼が立ちぎわに髭を残して行ったのから考えると、自分自身にも内々その覚悟があったのかも知れません。かの池を以前は単に龍の池と呼んでいたのですが、この事件があって以来、さらに馬という字を付け加えて、龍馬の池と呼ぶようになったのだそうです。」

「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。

「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、宋そうから渡来した者だそうです。日本人ならば髪を切りそうなところを、髭を切って残したというのから考えても、なるほど唐からの人らしく思われます。それから七八百年の月日を過ぎるあいだに、土地にもいろいろの変遷があって、黒太夫の家は単に黒屋敷跡という名を残すばかりで、とうの昔にほろびました。龍馬の池も山崩れや出水のためにいくたびかその形をかえて、今では昔の半分にも足らないほどに小さくなってしまいました。それでも龍神の社だけは江戸の末まで残っていたのですが、明治元年の奥羽戦争の際には、この白河が東軍西軍の激戦地となったので、社も焼かれてしまいました。もうその跡に新しく建てるものもないので、そこらは雑草に埋められたままです。」

「そうすると、かの木馬も一緒に焼けてしまったのですね。」

「誰もまあそう思っていたのです。したがって、そのゆくえを詮議する者もなかったのですが、それからおよそ四十年ほども過ぎて、日露戦争の終った後のことです。この白河出身の者で、今は南京に雑貨店を開いている堀井という男が、なにかの商売用で長江ちょうこうをさかのぼって蜀しょくへゆくと、成都の城外――と言っても、六、七里も離れた村だそうですが、その寂しい村の川のほとりに龍王廟というのがある。その古い廟の前に大きい柳が立っていて、柳の下に木馬が据えてある。木馬はともかくも、その馬の手綱を控えている少年の木像が確かに日本人に相違ないので、堀井も不思議に思いました。

もちろん堀井は明治以後に生れた男で、龍馬の池の木像も木馬も見たことはないのですが、かねて話に聴いているものによく似ているばかりか、その木像の顔容かおだちや風俗が日本の少年であるということが、大いに彼の注意をひきました。土地の者についていろいろ聞合せてみましたが、いつの頃にどうして持って来たのか一向にわからない。

結局、不得要領で帰って来たそうですが、どうしてもそれは日本のものに相違ないと堀井は主張していました。もし果してそれが本当であるとすれば、木馬や木像が自然に支那まで渡ってゆくはずがありませんから、戦争のどさくさまぎれに誰かが持出して、横浜あたりにいる支那人にでも売渡したのではあるまいかとも想像されますが、実物大の木像や木馬をどうして人知れずに運搬したか、それが頗る疑問です。それを作った仏師が支那の人であるからといって、木像や木馬が何百年の後、自然に支那へ舞い戻ったとも思われません。なにしろ堀井という男は龍馬の池の実物を見ていないのですから、いかに彼が主張しても、果してそれが本物であるかどうかも疑問です。」

それからそれへと拡がってゆく奇怪の物がたりを、わたしは黙って聞いているのほかはありませんでした。横田君は最後にまたこう言いました。

「今まで長いお話をしましたが、近年になって、かの龍馬の池に新しい不思議が発見されたのです。」

まだ不思議があるのかと、わたしも少し驚いて、やはり黙って相手の顔をながめていました。二人のあいだに据えてある火鉢の火がとうに灰になっているのをお互いに気がつかないのでした。

「あなたを御案内したいというのも、それがためです。」と、横田君は言いました。「今から七年ほど前のことです。宮城県の中学の教師が生徒を連れて来たときに、龍馬の池のほとりで写真を撮ってあとで現像してみると、馬の手綱を取った少年の姿が水の上にありありと浮かび出しているので、非常に驚いたといいます。その噂が伝わって、その後にもいろいろの人が来て撮影しました。東京からも三、四人来ました。土地でも本職の写真師は勿論、我れわれのアマチュアが続々押掛けて行って、たびたび撮影を試みましたが、めったに成功しません。それでは全然駄目かというと、十人に一人ぐらいは成功して、確かに馬と少年の姿が浮いてみえるのです。」

「なるほど不思議ですね。」と、わたしも溜息をつきました。「そうして、あなたは成功しましたか。」

「いや、それが残念ながら不成功です。六、七回も行ってみましたが、いつも失敗を繰返すので、わたくしはもう諦めているのですが、あなたのお出でになったのは幸いです。あしたは是非お供しましょう。」

「はあ、ぜひ御案内をねがいましょう。」

わたしの好奇心はいよいよ募って来ました。もう一つには、十人に一人ぐらいしか成功しないという不思議の写真を、見ごと自分のカメラに収めてみせようという一種の誇りも加わって、わたしはあしたの来るのを待ちこがれていました。

三

あくる朝は幸いに晴れていたので、わたしは早朝から支度をして、横田君と一緒に出ました。横田君も写真機携帯で、ほかに店の小僧ひとりを連れてゆきました。池の近所に飯を食わせるような家はないというので、弁当やビールなどをバスケットに入れて、それを小僧に持たせたのです。

三里ほどは乗合馬車にゆられて行って、それからは畑道や森や岡を越えて、やはり三里ほども徒歩でゆくと、だんだんに山に近いところへ出ました。横田君や小僧は土地の人ですから、このくらいの途は平気です。わたしも旅行慣れているので、別に驚きもしませんでした。小僧は昌吉といって、ことし十六だそうです。年の割には柄の大きい、見るから丈夫そうな、そうしてなかなか利口そうな少年でした。したがって、若主人の横田君にも可愛がられているらしく、横田君がどこへか出る時には、いつも彼を供に連れてゆくということでした。

「この昌吉も、ゆうべお話をした木像のモデルと同じような身の上なのです。」と、横田君はあるきながら話しました。「これも両親は判らないのです。」

昌吉という少年も、やはり捨て子で、両親も身もとも判らない。それを横田君の家で引取って、三つの年から育ててやったのだということでした。それを聴かされて、わたしもかの捨松という馬飼のむかし話を思い出して、きょうの写真旅行に彼を連れてゆくのも、なんだか一種の因縁があるように感じられましたが、昌吉はまったく利口な人間で、途中でも油断なく我れわれの世話をしてくれました。

午ひるに近い頃に目的地へゆき着きましたが、横田君の話で想像していたのとは余ほど違っていて、なるほど大木もありますが、昼でも薄暗いというような幽暗な場所ではなく、むしろ見晴らしのいい、明るい気分のところでした。

「また伐ったな。」と、横田君はひとりごとのように言いました。近来しきりにこの辺の樹木を伐り出すので、だんだんに周囲が明るくなって、むかしの神秘的な気分が著しく薄れて来たとのことでした。どこでも同じことで、これはやむを得ないでしょう。しかし龍神の社の跡だというところは、人よりも高い雑草にうずめられて、容易に踏み込めそうもありませんでした。

三人は池のほとりの大樹の下に一と休みして、それから昌吉が尽力して午飯ひるめしの支度にかかりました。横田君はいろいろの準備をして来たとみえて、バスケットの中から湯沸ゆわかしを取出して、ここで湯を沸かして茶をこしらえるというわけです。朝から晴れた大空は藍色に高く澄んで、そよとの風もありません。梢の大きい枯葉が時どきに音もなしに落ちるばかりで、池の水は静かに淀んでいます。岸の一部には芦や芒が繁っているが、ほかに水草らしいものも見えず、どちらかといえば清らかな池です。これがいろいろの伝説を蔵している龍馬の池であるかと思うと、わたしは軽い失望を感じて、なんだか横田君にあざむかれているようにも思われました。

「水を汲んで来ます。」

こう言って、昌吉は湯沸しを提げて行きました。池の北にある桜の大樹の下に清水の湧く所がある。その水がこの池に落ちるのだそうで、夏でも氷のように冷たいと、横田君は説明していました。

「さあ、茶の出来るあいだに、仕事をはじめますかな。」

横田君は写真機を取出しました。わたしも機械を取出して、ふたりはいろいろの位置から四、五枚写しましたが、昌吉はなかなか帰って来ません。

「あいつ、何をしているのかな。」

横田君は大きい声で彼の名を呼びましたが、返事がない。そのうちに気がつくと、かの湯沸しはバスケットの傍においてあって、中には綺麗な水が入れてありました。我れわれが写真に夢中になっているあいだに、昌吉はもう水を汲んで来たらしいのですが、さてその本人の姿が見えない。いつまで待ってもいられないので、横田君はそこらの枯枝や落葉を拾って来る。わたしも手伝って火を焚いて、湯を沸かす、茶を淹れる。こうして午飯を食い始めたのですが、昌吉はまだ帰らない。ふたりはだんだんに一種の不安をおぼえて、たがいに顔を見合せました。

「どうしたのでしょう。」

「どうしましたか。」

早々に飯を食ってしまって、ふたりは昌吉のゆくえ捜索に取りかかりました。ふたりは池を一とまわりして、さらに近所の森や草原を駈けめぐりました。龍神の社の跡という草むらをも掻きわけて、およそ二時間ほども捜索をつづけたのですが、昌吉はどうしても見付かりません。横田君もわたしもがっかりして草の上に坐ってしまいました。

「もう仕様がありません。家へ帰って出直して来ましょう。」と、横田君は言いました。

バスケットなどはそこにおいたままで、ふたりは早々に帰り支度をしました。日の暮れかかる頃に町へ戻って来てそのことを報告すると、店の人々もおどろいて、店の者や出入りの者や、近所の人なども一緒になって、二十人ほどが龍馬の池へ出てゆきました。横田君も先立ちになって再び出かけました。

「あなたはお疲れでしょうから、風呂へはいってゆっくりお休み下さい。」

横田君はこう言いおいて出て行きましたが、とても寝られるわけのものではありません。私もおちつかない心持で捜索隊の帰るのを待ち暮らしていますと、夜なかになって横田君らは引揚げて来ました。

「昌吉はどうしても見つかりません。」

その報告を聴かされて、私もいよいよがっかりしました。それと同時に、昌吉のゆくえ不明は、かの捨松とおなじような運命ではあるまいかとも考えられました。

わたしはその翌日もここに滞在して、昌吉の行く末を見届けたいと思っていますと、きょうは警察や青年団も出張して、大がかりの捜索をつづけたのですが、少年のゆくえは結局不明に終りました。いつまでもここの厄介になってもいられないので、わたしは次の日に出発して、宇都宮に一日を暮らして、それから真っ直ぐに帰京しましたが、何分にも昌吉のことが気にかかるので、横田君に手紙を出してその後の模様を問いあわせると、二、三日の後に返事が来ました。その文句は大体こんなことでした。

前略、折角お立寄りくだされ候ところ、意外の椿事出来しゅったいのために種々御心配相掛け、なんとも申訳無御座候。昌吉のゆくえは遂に相分り申さず、さりとて家出するような子細も無之、唯々不思議と申すのほか無御座候。万一かの捨松の二代目にもやと龍馬の池の水中捜索をこころみ候えども、これも無効に終り申候。

ここにまた、不思議に存じられ候は、当日小生が撮影五枚のうち、一枚には少年のすがた朦朧とあらわれおり候ことに御座候。それは影のように薄く、もちろんはっきりと相分り兼ね候えども、それがどうも昌吉の姿らしくも思われ申候。

貴下御撮影の分はいかが、現像の結果御しらせ下され候わば幸甚こうじんに存じ候。

まずこんな意味であったので、わたしも取りあえず自分の撮影した分を現像してみましたが、どこにも人の影らしいものなどは見いだされませんでした。横田君の写真にはどういう影があらわれているのか、その実物を見ないのでよく判りません。

底本 / Source edition

底本:「影を踏まれた女 岡本綺堂怪談集」光文社時代小説文庫、光文社
1988(昭和63)年10月20日初版第1刷発行
初出:青蛙神「苦楽」1924(大正13)年12月
利根の渡「苦楽」1925(大正14)年2月
兄妹の魂、不詳
猿の眼「苦楽」1925(大正14)年7月
蛇精「苦楽」1925(大正14)年5月
清水の井「写真報知」1924(大正13)年7月
窯変「苦楽」1925(大正14)年6月
蟹「苦楽」1925(大正14)年4月
一本足の女「苦楽」1925(大正14)年3月
黄いろい紙「苦楽」1925(大正14)年9月
笛塚「苦楽」1925(大正14)年1月
龍馬の池「苦楽」1925(大正14)年8月
※「不便」と「不憫」の混在は、底本通りです。
入力:和井府清十郎
校正:原田頌子
2002年3月25日公開
2014年6月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/001307_000082/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/001307_000082/

岡本 綺堂「青蛙堂鬼談」(新字新仮名)、底本『影を踏まれた女 岡本綺堂怪談集』光文社時代小説文庫、光文社、1988年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001307_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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