Soranoha

三浦老人昔話

みうらろうじんむかしばなし

岡本 綺堂

桐畑の太夫

一

今から二十年あまりの昔である。なんでも正月の七草すぎの日曜日と記憶している。わたしは午後から半七老人の家をたずねた。老人は彼の半七捕物帳の材料を幾たびかわたしに話して聞かせてくれるので、きょうも年始の礼を兼ねてあわ好くば又なにかの昔話を聞き出そうと巧らんで、から風の吹く寒い日を赤坂まで出かけて行ったのであった。

格子をあけると、沓くつぬぎには新しい日和下駄がそろえてある。この頃はあまり世間と交際つきあいをしないらしい半七老人の家うちにも、さすがは春だけに来客があると思っていると、わたしの案内を聞いておなじみの老婢ばあやがすぐに出て来た。広くもない家うちであるから、わたしの声が筒ぬけに奥へきこえたらしい。横六畳の座敷から老人は声をかけた。

「さあ、お通りください。あらたまったお客様じゃありませんから。」

わたしは遠慮なしに座敷へ通ると、主人とむかい合って一人の年始客らしい老人が坐っていた。主人も老人であるが、客は更に十歳とお以上も老けているらしく、相当に時代のついているらしい糸織りの二枚小袖に黒斜子くろなゝこの三つ紋の羽織をかさねて、行儀よく坐っていた。お定まりの屠蘇や重詰物もならべられて、主人も客もその顔をうすく染めていた。主人に対して新年の挨拶がすむと、半七老人は更にその客の老人をわたしに紹介した。

「こちらは大久保にお住居すまいの三浦さんとおっしゃるので……。」

初対面の挨拶が型の通りに交換された後に、わたしも主人から屠蘇をすゝめられた。ふたりの老人と一人の青年とがすぐに打解けて話しはじめると、半七老人は更に説明を加えて再び彼の客を紹介した。

「三浦さんも江戸時代には下谷に住まっていて、わたしとは古いお馴染ですよ。いえ、同商売じゃありませんが、まんざら縁のない方でもないので……。番所の腰掛では一緒になったこともあるんですよ。はゝゝゝゝ。」

三浦という老人は家主いえぬしで、その時代の詞ことばでいう大屋おおやさんであった。江戸時代にはなにかの裁判沙汰があれば、かならずその町内の家主が関係することになっているので、岡っ引を勤めていた半七老人とはまったく縁のない商売ではなかった。ことに神田と下谷とは土地つゞきでもあるので、半七老人は特にこの三浦老人と親しくしていたらしかった。そうして、維新以後の今日まで交際をつゞけているのであった。

「むかしは随分おたがいに仲好くしていたんですがね。」と、三浦老人は笑いながら云った。「このごろは大久保の方へ引込んでしまったもんですから、どうも、出不精になって……。いくら達者だと云っても、なにしろこゝの主人にくらべると、丁度一とまわりも上なんですもの、口ばかり強そうなことを云っても、からだやあんよが云うことを肯ききませんや。それだもんですから自然御無沙汰勝になってしまって、今日きょうもこゝまで出て来るには眼あきの朝顔という形なんですからね。いやもう意気地はありません。」

かれは持っている烟管きせるを握って、杖をつく形をしてみせた。勿論、そのころの東京にはまだ電車が開通していなかったのである。

「それでも三浦さんはまったく元気がいゝ。殊に口の方はむかしよりも達者になったらしい。」と、半七老人も笑いながらわたしを見かえった。「あなたは年寄りのむかし話を聴くのがお好きだが、おひまがあったら今度この三浦さんをたずねて御覧なさい。この人はなか〱面白い話を知っています。わたくしのお話はいつでも十手じってや捕縄とりなわの世界にきまっていますけれども、こちらの方は領分がひろいから、色々の変った世界のお話を聴かせてくれますよ。」

「いや、面白いお話なんていうのはありませんけれど、時代おくれの昔話で宜しければ、せい〲お古いところをお聴きに入れます。まことに辺鄙な場末ですけれども、お閑ひまのときには何うぞお遊びにおいでください。」と、三浦老人も打解けて云った。

今とちがって、その当時の大久保のあたりは山の手の奥で、躑躅つゝじでも見物にゆくほかには余りに足の向かないところであったが、わたしはそんなことに頓着しなかった。わたしは半七老人から江戸時代の探偵ものがたりを聴き出すのと同じような興味を以て、この三浦老人からも何かの面白い昔話を聴きたいと思った。新しい話を聴かせてくれる人は沢山ある、寧ろだん〱に殖えてゆくくらいであるが、古い話を聴かせてくれる人は暁方あけがたの星のようだん〱に消えてゆく。今のうちに少しでも余計に聴いて置かなければならないという一種の慾も手伝って、わたしはあらためて三浦老人訪問の約束をすると、老人は快く承知して、どうで隠居の身の上ですからいつでも遊びにいらっしゃいと云ってくれた。

その次の日曜日は陰くもっていた。底冷えのする日で、なんだか雪でも運び出して来そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町の家うちを出て、大久保百人町まで人車くるまに乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を幾たびか曲りまわって、よう〱に杉の生垣のある家を探しあてると、三浦老人は自身に玄関まで出て来た。

「やあ、よく来ましたね。この寒いのに、お強いこってすね。さあ、さあ、どうぞおあがりください。」

南向きの広い庭を前にしている八畳の座敷に通されて、わたしは主人の老人とむかい合った。

二

わたしは自分と三浦老人との関係を説くのに、あまり多くの筆や紙を費し過ぎたかも知れない。早くいえば、前置きがあまり長過ぎたかも知れないが、これから次々にこの老人の昔話を紹介してゆくには、それを語る人がどんな人物であるかと云うことも先ず一通りは紹介して置かなければならないのである。しかしこの上に読者を倦ませるのはよくない。わたしはすぐに本文に取りかゝって、この日に三浦老人から聴かされた江戸ものがたりの一つを紹介しようと思う。

三浦老人はこう語った。

今日の人たちは幕末の士風頽廃ということをよく云いますが、徳川の侍だって揃いも揃って腰ぬけの意気地無しばかりではありません。なかには今日でも見られないような、随分しっかりした人物もありました。併し又そのなかには随分だらしのない困り者があったのも事実で、それを証拠にして、さあ何どうだと云われると、まったく返事に詰まるわけです。そのだらしのないと云われる仲間のうちには、又こんな風変りのもありました。

これはわたくしが子供の時に聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。赤坂の桐畑きりばたけのそばに小坂丹下という旗本がありました。千五百石の知行取りで、その先代はお目附を勤めたとか聞いています。一口に旗本と云っても、身分にはなか〱高下があります。百石以上は旗本ですけれども、それらは所謂貧乏旗本で、先ずほんとうの旗本らしい格式を保ってゆかれるのは少くも三百石以上でしょう。五百石以上となれば立派なお歴々で、千石以上となれば大身たいしん、それこそ大威張りのお殿様です。そこで、この小坂さんの屋敷は千五百石というのですから、立派なお旗本であることは云うまでもありません。

当主の丹下という人は今年三十七の御奉公盛りですが、病気の届け出いでをして五六年まえから無役の小普請入りをしてしまいました。学問もある人で、若い時には聖堂の吟味に甲科で白銀三枚の御褒美を貰い、家督を相続してからも勤め向きの首尾もよく、おい〱出世の噂もきこえていたのですが、二十五六のときから此人にふと魔がさした。というのは、この人が芸事に凝り始めたのです。芸事も色々ありますが、清元の浄瑠璃に凝り固まってしまったのだから些ちっと困ります。なんでもその皮切りは、同役の人の下屋敷へ呼ばれて行ったときに、その酒宴の席上で清元の太夫と知合いになったのだと云いますが、その先代も赤坂あたりの常磐津の女師匠を囲いものにしていたとか云う噂がありますから、遊芸については幾らか下地したじがあるというほどで無くとも、相当の趣味はあったのかも知れません。いずれにしても、その清元の師匠を自分の屋敷へよんでお稽古をはじめたのです。

おなじような理窟ですけれども、これが謡うたいの稽古でもして、熊坂や船弁慶を唸るのならば格別の不思議もないのですが、清元の稽古本にむかっておかる勘平や権八小紫を歌うことになると、どうもそこが妙なことになります。と云って、これがひどく筋の悪いことゝ云うほどでもないので、奥様や用人も開き直って意見をするわけにも行かず、困った道楽だと苦々しく思いながらも、先ずそのまゝにして置くうちに、主人の道楽はいよ〱募って来て、もう一廉いっかどの太夫さん気取りになってしまったのです。

むかしから素人の芸事はあまり上達しないにきまったもので、俗に素人芸、旦那芸、殿様芸、大名芸などと云って、先ず上手でないのが当りまえのようになっているのですが、この小坂という人ばかりは例外で、好きこそ物の上手なりけりと云うのか、それとも一種の天才というのか、素人芸や殿様芸を通り越して、三年五年のうちにめき〱と上達する。第一に喉が好い。三味線も達者にひく。ふだんは苦々しく思っている奥様や用人も、春雨のしんみりと降る日に、非番の殿様が爪びきで明鴉あけがらすか何かを語っていると、思わずうっとりと聴き惚れてしまうと云うようなわけですから、師匠もお世辞を抜きにしてほんとうに褒める。当人は一心不乱に稽古する。師匠も身を入れて教える。それが自然と同役のあいだにも伝わって、下屋敷などで何かの酒宴でも催すというような場合には、小坂をよんで一段語らせようではないかと云うことになる。当人もよろこんで出かけてゆく。それが続いているうちに、世間の評判がだん〱に悪くなりました。

一方にこれほど浄瑠璃に凝りかたまっていながらも、小坂という人は別に勤め向きを怠るようなこともありませんでした。とんだ三段目の師直もろなおですが、勤めるところは屹きっと勤める武蔵守と云った風で、上かみの御用はかゝさずに勤めていたのですが、どうも世間の評判がよろしくない。まえにも云う通り、おなじ歌いものでも弁慶や熊坂とちがって、権八や浦里ではどうも困る。それも小身者の安御家人かお城坊主のたぐいならば格別、なにしろ千五百石取りのお歴々のお旗本が粋な喉をころがして、「情なさけは売れど心まで」などと遣っているのでは、理窟は兎もあれ、世間が承知しません。武士にあるまじきとか、身分柄をも憚からずとか云うような批難の声がだん〱に高くなってくるので、支配頭も聞きながしているわけにも行かなくなりました。勿論、親類縁者の一門からも意見や苦情が出てくるという始末。と云って、小坂丹下、家代々の千五百石の知行をなげ出しても、今更清元をやめることは出来ないので、結局病気と云い立てゝ無役の小普請組に這入ることになりました。

小普請に這入れば何をしてもいゝと云うわけでは勿論無いのですが、それでも小普請となると世間の見る目がずっと違って来ます。もう一歩すゝんで寧いっそ隠居してしまえば、殆ど何をしても自由なのですが、家督相続の子供がまだ幼少であるので、もう少し成長するのを待って隠居するという下心したごころであったらしく、先ずそれまでは小普請に這入って、やかましい世間の口を塞ぐ積りで、自分から進んで無役のお仲間入りをしたのでしょう。それについても定めて内外うちそとから色々の苦情があったことゝ察しられますが、当人が飽までも遊芸に執着しているのだから仕方がありません。小坂さんはとう〱自分の思い通りの小普請になって、さあこれからはおれの世界だとばかりに、大びらで浄瑠璃道楽をはじめることになりました。いや、もうその頃は所謂お道楽を通り越して、本式の芸というものになっていたのです。

こうなると、自分の屋敷内で遠慮勝に語ったり、友だちの家へ行って慰み半分に語ったりしているだけでは済まなくなりました。当人はどこまでも真剣です。だん〱と修業が積むにつれて、自然と芸人附合をも始めるようになって、諸方のお浚いなどへも顔を出すと、それがまったく巧いのだから誰でもあっと感服する。桐畑の殿様を素人にして置くのは勿体ないなどと云う者もある。当人もいよ〱乗気になって、浜町の家元から清元喜路きじ太夫という名前まで貰うことになってしまいました。勿論それで飯を食うというわけではありませんが、千五百石の殿様が清元の太夫さんになって、肩衣かたぎぬをつけて床ゆかにあがるというのですから、世間に類の少いお話と云っていゝでしょう。清元の仲間では桐畑の太夫さんと呼んでいました。道楽もこゝまで徹底してしまうと誰もなんとも云いようがありますまい。屋敷内の者も親類縁者の人達も、もう諦めたのか呆れたのか、正面から意見がましいことを云い出す者もなくなって、唯いたずらに当人の自由行動をながめているばかりでした。

さてこれからがお話の本文で、この喜路太夫の身のうえに一大事件が出来しゅったいしたのです。

三

まえにも申上げた通り、天保初年の三月末のことだそうです。芝の高輪たかなわの川与かわよという料理茶屋で清元の連中のお浚いがありました。今日とちがって、江戸時代の高輪は東海道の出入口というのでなか〱繁昌したものです。殊に御殿山のお花見が大層賑いました。お浚いは昼の八つ(午後二時)頃から夜にかけて催されることになって、大きい桜のさいている茶屋の門口かどぐちに、太夫の連名を筆太にかいた立看板が出ているのを見ると、そのうちに桐畑の喜路太夫の名も麗々しく出ていました。

このお浚いは昼のうちから大層な景気で、茶屋の座敷には一杯の人が押掛けています。日がくれると門口には紅い提灯をつける。内ばかりでなく、表にも大勢の人が立っている。そこへ通りかゝった七八人連の男は、どれも町人や職人風で、御殿山の花見帰りらしく、真紅まっかに酔った顔をしてよろけながらこの茶屋のまえに来かゝりました。

「やあ、こゝに清元の浚いがある。馬鹿に景気がいゝぜ。」

立ちどまって立看板をよんでいるうちに、その一人が云いました。

「おい、おい。このなかで清元喜路太夫というのは聞かねえ名だな。どんな太夫だろう。」

「むゝ。おれも聞いたことがねえ。下手か上手か、一つ這入って聴いて遣ろうじゃねえか。」

酔っているから遠慮はない。この七八人はどや〱と茶屋の門かどを這入って、帳場のまえに来ました。

「もし、喜路太夫と云うのはもうあがりましたかえ。」

「いえ、これからでございます。」と、帳場にいる者が答えました。なんと云っても幾らかの遠慮がありますから、小坂さんの喜路太夫は夜になってから床ゆかにあがることになっていたのです。

「じゃあ、丁度いゝ。わっし等にも聴かせておくんなせえ。」

「皆さんはどちらの方でございます。」

「わっし等はみんな土地の者さ。」

「どちらのお弟子さんで……。」

「どこの弟子でもねえ。たゞ通りかゝったから聴きに這入ったのよ。」

浄瑠璃のお浚いであるから、誰でも無暗に入れると云うわけには行かない。殊にどの人もみんな酔っているので、帳場の者は体よく断りました。

「折角でございますが、今晩は通りがかりのお方をお入れ申すわけにはまいりません。どうぞ悪しからず……。」

「わからねえ奴だな。おれ達は土地の者だ。今こゝのまえを通ると清元の浚いの立看板がある。ほかの太夫はみんなお馴染だが、そのなかに唯たった一人、喜路太夫というのが判らねえ。どんな太夫だか一段聴いて、上手ならば贔屓ひいきにしてやるんだ。そのつもりで通してくれ。」

酔った連中はずん〱押上ろうとするのを、帳場の者どもはあわてゝ遮りました。

「いけません、いけません。いくら土地の方でも今晩は御免を蒙ります。」

「どうしても通さねえか。そんならその喜路太夫をこゝへ呼んで来い。どんな野郎だか、面をあらためて遣る。」

なにしろ相手は大勢で、みんな酔っているのだから、始末が悪い。帳場の者も持余していると、相手はいよ〱大きな声で怒鳴り出しました。

「さあ、素直におれ達を通して浄瑠璃を聴かせるか。それとも喜路太夫をこゝへ連れて来て挨拶させるか。さあ、喜路太夫を出せ。」

この捫着の最中に、なにかの用があって小坂さんの喜路太夫が生憎に帳場の方へ出て来たのです。しきりに喜路太夫という名をよぶ声が耳に這入ったので、小坂さんは何かと思って出てみると、七八人の生酔いが入口でがや〱騒いでいる。帳場のものは小坂さんがなまじいに顔を出しては却って面倒だと思ったので、一人がそばへ行って小声で注意しました。

「殿様、土地の者が酔っ払って来て、何かぐず〱云っているのでございます。あなたはお構い下さらない方がよろしゅうございます。」

「むゝ。土地の者がぐずりに来たのか。」

むかしは遊芸の浚いなどを催していると、質たちのよくない町内の若い者や小さい遊び人などが押掛けて来て、なんとか引っからんだことを云って幾らかの飲代のみしろをいたぶってゆくことが往々ありました。世間馴れている小坂さんは、これも大方その仲間であろうと思ったのです。そう思ったら猶更のこと、帳場の者にまかせて置けばよかったのですが、そこが矢はり殿様で、自分がつか〱と入口へ出てゆきました。

「失礼であるが、今夜はこちらも取込んでおります。ゆっくりとこゝで御酒ごしゅをあげていると云うわけにも行かない。どうかこれで、ほかへ行って飲んでください。」

小坂さんは紙入から幾らかの銀かねを出して、紙につゝんで渡そうとすると、相手の方ではいよ〱怒り出しました。

「やい、やい。人を馬鹿にしやあがるな。おれたちは銭貰いに来たんじゃあねえ。喜路太夫をこゝへ出せというんだ。」

「その喜路太夫はわたしです。」

「むゝ。喜路太夫は手前てめえか。怪しからねえ野郎だ。ひとを乞食あつかいにしやあがって……。」

なにしろ酔っているから堪らない。その七八人がいきなりに小坂さんを土間へひき摺り下して、袋叩きにしてしまったのです。旗本の殿様でも、大小を楽屋にかけてあるから丸腰です。勿論、武芸の心得もあったのでしょうが、この場合、どうすることも出来ないで、おめ〱と町人の手籠めに逢った。帳場の者もおどろいて止めに這入ったが間に合わない。その乱騒ぎのうちに、どこか撲ぶち所が悪かったとみえて、小坂さんは気をうしなってしまったので、乱暴者も流石にびっくりして皆ちり〲に逃げて行きました。それを追っかけて取押えるよりも、先ず殿様を介抱しなければならないと云うので、家中うちじゅうは大騒ぎになりました。

すぐに近所の医者をよんで来て、いろ〱の手当をして貰いましたが、小坂さんはどうしても生き返らないで、とう〱其儘に冷くなったので、関係者はみんな蒼くなってしまいました。もうお浚いどころではありません。兎もかくも急病の体にして、死骸を駕籠にのせて、竊そっと赤坂の屋敷へ送りとゞけると、屋敷でもおどろきましたが、場所が場所、場合が場合ですから、なんとも文句の云い様がありません。旗本の主人が清元の太夫になって、料理茶屋のお浚いに出席して、しかも町人にぶち殺されたなどと云うことが表沙汰になれば、家断絶ぐらいの御咎めをうけないとも限りませんから、残念ながら泣寝入りにするより外はありません。今年十五になる丹三郎という息子さんは、お父さんが大事にしていた二挺の三味線を庭へ持ち出して、脇差を引きぬいてその棹を真二つに切りました。皮をずた〱に突き破りました。

「これがせめてもの仇討だ。」

小坂さんは急病で死んだことに届けて出て、表向きは先ず無事に済んだのですが、その初七日のあくる日、八人の若い男が赤坂桐畑の屋敷へたずねて来て、玄関先でこういうことを云い入れました。

「わたくし共は高輪辺に住まっております者でございますが、先日御殿山へ花見にまいりまして、その帰り途に川与という料理茶屋のまえを通りますと、そこの家に清元の浚いがございまして、立看板の連名のうちに清元喜路太夫というのがございました。ついぞ名前を聞いたことのない太夫ですから、一段聴いてみようと云って這入りますと、帳場の者が入れないという。こっちは酔っておりますので、是非入れてくれ、左もなければその喜路太夫というのをこゝへ出して挨拶させろと、無理を云って押問答をしておりますところへ、奥からその喜路太夫が出て来て、今夜は入れることは出来ないから、これで一杯飲んでくれと云って、幾らか紙につゝんだものを出しました。くどくも申す通り、こっちも酔っておりますので、ひとを乞食あつかいにするとは怪しからねえと、喧嘩にいよ〱花が咲いて、とう〱その喜路太夫を袋叩きにしてしまいました。それでまあ一旦は引きあげたのでございますが、あとでだん〱うけたまわりますると、喜路太夫と申すのはお屋敷の殿様だそうで、実にびっくり致しました。まだそればかりでなく、それが基で殿様はおなくなり遊ばしましたそうで、なんと申上げてよろしいか、実に恐れ入りました次第でございます。就きましては、その御詫として、下手人一同うち揃ってお玄関まで罷り出ましたから、なにとぞ御存分のお仕置をねがいます。」

小坂の屋敷でも挨拶に困りました。憎い奴等だとは思っても、こゝで八人の者を成敗すれば、どうしても事件が表向きになって、一切の秘密が露顕することになるので、応対に出た用人は飽までもシラを切って、当屋敷に於ては左様な覚えは曽て無い、それは何かの間違いであろうと云い聞かせましたが、八人の者はなか〱承知しない。清元喜路太夫はたしかにお屋敷の殿様に相違ない。知らないことゝは云いながら、お歴々のお旗本を殺して置いて唯そのまゝに済むわけのものでないから、こうして御成敗をねがいに出たのであるが、お屋敷でどうしても御存じないとあれば、わたくし共はこれから町奉行所へ自訴して出るより外はないと云い張るのです。

これには屋敷の方でも持てあまして、いずれ当方からあらためて沙汰をするからと云って、一旦は八人の者を追い返して置いて、それから土地の岡っ引か何かをたのんで、二百両ほどの内済金を出して無事に済ませたそうです。主人をぶち殺された上に、あべこべに二百両の内済金を取られるなどは、随分ばか〱しい話のようですけれども、屋敷の名前には換えられません。重々気の毒なことでした。

八人の者は勿論なんにも知らないで、たゞの芸人だと思って喜路太夫を袋叩きにして、それがほんとうに死んだと判り、しかもそれが旗本の殿様とわかって、みんなも一時は途方にくれてしまったのですが、誰か悪い奴が意地をつけて、相手の弱味につけ込んで、逆ねじにこんな狂言をかいたのだと云うことです。わたくしの親父も一度柳橋の茶屋で喜路太夫の小坂さんの浄瑠璃を聴いたことがあるそうですが、それはまったく巧いものだったと云うことですから、なまじい千五百石の殿様に生れなかったら、小坂さんも天晴れの名人になりすましたのかも知れません。そう思うと、たゞ一口にだらしのない困り者だと云ってもいられません。なんだか惜しいような気もします。いつの代にも斯ういうことはあるのでしょうが、人間の運不運は判りませんね。

「いや、根っから面白くもないお話で、さぞ御退屈でしたろう。」と、云いかけて三浦老人は耳をかたむけた。「おや、降って来ましたね。なんだか音がするようです。」

老人は起って障子をあけると、いつの間にふり出したのか、庭の先は塩をまいたように薄白くなっていた。

「とう〱雪になりました。」

老人は縁先の軒にかけてある鶯の籠をおろした。わたしもそろ〱帰り支度をした。

「まあ、いゝじゃありませんか。初めてお出いでなすったのですから、なにか温あったかいものでも取らせましょう。」

「折角ですが、あまり積もらないうちに今日はお暇いとまいたしましょう。いずれ又ゆっくり伺います。」と、私は辞退して起ちかかった。

「そうですか。なにしろ足場の悪いところですから、無理にお引留め申すわけにも行かない。では、又御ゆっくりおいで下さい。こんなお話でよろしければ、なにか又思い出して置きますから。」

「はあ。是非またお邪魔にあがります。」

挨拶をして表へ出る頃には、杉の生垣がもう真白に塗られていた。わたしは人車くるまを待たせて置かなかったのを悔んだ。それでも洋傘こうもりを持って来たのを仕合わせに、風まじりの雪のなかを停車場の方へ一足ぬきに辿って行った。その途中は随分寒かった。

春の雪――その白い影をみるたびに、わたしは三浦老人訪問の第一日を思い出すのである。

鎧櫃の血

一

その頃、わたしは忙しい仕事を持っていたので、兎かくにどこへも御無沙汰勝であった。半七老人にも三浦老人にもしばらく逢う機会がなかった。半七老人はもうお馴染でもあり、わたしの商売も知っているのであるから、ちっとぐらい無沙汰をしても格別に厭な顔もされまいと、内々多寡をくゝっているのであるが、三浦老人の方はまだ馴染のうすい人で、双方の気心もほんとうに知れていないのであるから、たった一度顔出しをしたぎりで鼬いたちの道をきめては悪い。そう思いながらも矢はり半日の暇も惜しまれる身のうえで、今日こそはという都合のいゝ日が見付からなかった。

その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび〱白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言わびごとを書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快よくなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ〱悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ〱路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。目おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。

「この路の悪いところへ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅つゝじの咲くまでは、江戸の人の足蹈ぶみするところじゃありませんよ。」

まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ〱病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に体からだの工合がいゝという話を聴かされて、わたしは嬉しかった。

「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」

こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色々のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。

このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場あげばに近いところに屋敷を有もっている今宮六之助という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚やかれたときに、そこにしまってある権現様の金の扇の馬標うまじるしを無事にかつぎ出して、天守の頂上から堀のなかへ飛び込んで死んだという、有名な中川帯刀たてわきもやはりこの番士の一人でした。

そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことではなかったので、今宮さんも大威張りで出かけて行ったのです。普通の旅行ではなく、御用道中というのですから、道中は幅が利きます。何のなにがしは御用道中で何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けていて、万事に不自由するようなことはありません。泊りは本陣で、一泊九十六文、昼飯四十八文というのですから実に廉やすいものです。駕籠に乗っても一里三十二文、それもこれも御用という名を頂いているおかげで、弥次喜多の道中だってなか〱こんなことでは済みません。主人はまあそれでもいゝとして、その家来共までが御用の二字を嵩かさにきて、道中の宿々しゅく〲を困らせてあるいたのは悪いことでした。

早い話が、御用道中の悪い奴に出っくわすと、駕籠屋があべこべに強請ゆすられます。道中で客が駕籠屋や雲助にゆすられるのは、芝居にも小説にもよくあることですが、これはあべこべに客の方から駕籠屋や雲助をゆするのだから怖ろしい。主人というほどの人は流石さすがにそんなこともしませんが、その家来の若党や中間ちゅうげんのたぐい、殊に中間などの悪い奴は往々それを遣って自分たちの役得と心得ている。たとえば、駕籠に乗った場合に、駕籠のなかで無暗むやみにからだを揺する。客にゆすられては担いでゆくものが難儀だから、駕籠屋がどうかお静かにねがいますと云っても、知らない顔をしてわざと揺する。云えば云うほど、ひどく揺する。駕籠屋も結局往生して、内所で幾らか掴ませることになる。ゆすると云う詞ことばはこれから出たのか何うだか知りませんが、なにしろ斯ういう風にしてゆするのだから堪りません。それが又、この時代の習慣で、大抵の主人も見て見ぬ振をしていたようです。それに余りにやかましく云えば、おれの主人は野暮だとか判らず屋だとか云って、家来どもに見限られる。まことにむずかしい世の中でした。

今宮さんは若党ひとりと中間三人の上下五人で、荷かつぎの人足は宿々で雇うことにしていました。若党は勇作、中間は半蔵と勘次と源吉。主人の今宮さんは今年三十一で、これまで御奉公に不首尾もない。勿論、首尾のわるい者では大阪詰にはなりますまいが、先ずは一通りの武家気質かたぎの人物。たゞこの人の一つの道楽は食い道楽で、食い物の好みがひどくむずかしい。今度の大阪詰についても、本人はたゞそれだけを苦にしていたが、どうも仕様がない。大阪の食い物にはおい〱に馴れるとしても、当座が困るに相違ない。殊に大阪は醤油がよくないと聞いているから、せめては当座の使い料として醤油だけでも持って行きたいという註文で、銚子の亀甲万一樽を買わせたが、扨さてそれを持って行くのに差支えました。

武家の道中に醤油樽をかつがせては行かれない。と云って、何分にも小さいものでないから、何かの荷物のなかに押込んで行くというわけにも行かない。その運送に困った挙句に、それを鎧櫃に入れて行くということになりました。道中の問屋場といやばにはそれ〲に公定相場と云うようなものがあって、人足どもにかつがせる荷物もその目方によって運賃が違うのですが、武家の鎧櫃にかぎって、幾らそれが重くても所謂「重た増し」を取らないことになっていましたから、鎧櫃のなかへは色々のものを詰め込んで行く人がありました。今宮さんも多分それから思い付いたのでしょうが、醤油樽は随分思い切っています。殊にその樽を入れてしまえば、もうその上に鎧を入れる余地はありません。鎧が大事か、醤油が大事かと云うことになっても、やはり醤油の方が大切であったとみえて、今宮さんはとう〱自分の鎧櫃を醤油樽のかくれ家ときめてしまいました。しかし鎧を持って行かないでは困るので、鎧の袖や草摺をばら〱に外して、籠手こても脛当すねあても別々にして、ほかの荷物のなかへ何うにか欺うにか押込んで、先ず表向きは何の不思議も無しに江戸を立つことになりました。

それは六月の末、新暦で申せば七月の土用のうちですから、夏の盛りで暑いことおびたゞしい。武家の道中は道草を食わないので、はじめの日は程ヶ谷泊り、次の日が小田原、その次の日が箱根八里、御用道中ですから勿論関所のしらべも手軽にすんで、その晩は三島に泊る。こゝまでは至極無事であったのですが、そのあくる日、江戸を出てから四日目に三島の宿しゅくを立って、伊賀越の浄瑠璃でおなじみの沼津の宿をさして行くことになりました。上下五人の荷物は両掛けにして、問屋場の人足三人がかついで行く。主人だけが駕籠に乗って、家来四人は徒歩かちで附いて行く。兎かく説明が多くなるようですが、この人足も問屋場に詰めているのは皆おとなしいもので、決して悪いことをする筈はないのです。もし悪いことをして、次の宿の問屋場にその次第を届け出られゝば、すぐに取押えて牢に入れられるか、あるいは袋叩きにされて所払いを食うか、いずれにしても手ひどい祟をうけることになっているのですから、問屋場にいるものは先ず安心して雇えるわけです。しかしこの問屋場に係り合のない人足で、彼の伊賀越の平作のように、村外れや宿はずれにうろ付いて客待をしている者の中には、所謂雲助根性を発揮して良くないことをする奴もありました。そんなら旅をする人は誰でも問屋場といやばにかゝりそうなものですが、問屋場には公定相場があって負引まけひきが無いのと、問屋場では帳簿に記入する必要上、一々その旅人の身許や行く先などを取りしらべたりして、手数がなか〱面倒であるので、少しばかりの荷物を持った人は問屋場の手にかゝらないことになっていました。勿論、お尋ね者や駈落者などは我身にうしろ暗いことがあるから問屋場にはかゝりません。そこが又、悪い雲助などの附込むところでした。

今宮さんの一行は立派な御用道中ですから、大威張りで問屋場の手にかゝって、荷物をかつがせて行ったのですが、間違いの起るときは仕方のないもので、その前の晩は、三島の宿しゅくに幾組かの大名の泊りが落合って、沢山の人足が要ることになったので、助郷すけごうまでも狩りあつめてくる始末。助郷というのは、近郷の百姓が一種の夫役のように出てくるのです。それでもまだ人数が不足であったとみえて、宿はずれに網を張っている雲助までも呼びあつめて来たので、今宮さんの人足三人のうちにも平作の若いようなのが一人まじっていました。年は三十前後で、名前はかい助と云うのだそうですが、どんな字を書くのか判りません。本人もおそらく知らなかったかも知れません。なにしろかい助という変な名ではお話が仕にくいから、仮りに平作と云って置きましょう。そのつもりでお聴きください。

人足どもはそれ〲に荷物をかつぐ。彼の平作は鎧櫃をかつぐことになりました。担ごうとすると、よほど重い。平作も商売柄ですから、すぐにこれは普通の鎧櫃ではないと睨みました。這奴こいつなか〱悪い奴とみえて、それをかつぐ時に粗相の振をしてわざと問屋役人の眼のまえで投げ出しました。暑い時分のことですから、醤油が沸いて呑口の筌せんが自然に弛ゆるんでいたのか、それとも強く投げ出すはずみに、樽に割れでも出来たのか、いずれにしても、醤油が鎧櫃のなかへ流れ出したらしく、平作が自分の粗相をわびて再びそれを担ぎあげようとすると、櫃の外へもその醤油の雫がぽと〱と零れ出しました。

「あ。」

人々も顔を見あわせました。

鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も呆気あっけに取られました。

二

まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、問屋場といやばの者もふだんから承知していましたが、紅い水が出るのは意外のことで、それが何であるか鳥渡ちょっと想像が付きません。こうなると役目の表、問屋といやの者も一応は詮議をしなければならないことになりました。今宮さんの顔の色が変ってしまいました。こゝで鎧櫃の蓋をあけて、醤油樽を見つけ出されたら大変です。鎧の身代りに醤油樽を入れたなどと云うことが表向きになったら、洒落や冗談では済まされません。お役御免は勿論、どんな御咎をうけるか判りませんから、家来達までが手に汗を握りました。

問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには岩永いわながも重忠しげたゞもあるのでしょうが、こゝの役人は幸いにみんな重忠であったとみえて、その一人がふところから鼻紙を出して、その紅い雫をふき取りました。そうしてほかの役人にも見せて、その匂いを鳥渡ちょっとかぎましたが、やがて笑い出しました。

「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」

入物いれものが鎧櫃であるから、それに取りあわせて紅い雫を血だという。ほんとうの血ならば猶更詮議をしなければならない筈ですが、そこが前にもいう重忠揃いですから、何処までもそれを紅い血だということにして、そのまゝ無事に済ませてしまったので、今宮さん達もほっとしました。

「重ねて粗相をするなよ。」

役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れましたが、どうも胸がまだ鎮まらない。問屋場の者は表向きは無事に済ませてくれたものゝ、蔭では屹きっと笑っているに相違ない。それにつけても、おれに恥辱をあたえた雲助めは憎い奴であると、今宮さんは駕籠のなかゝら駕籠屋に訊きました。

「おれの鎧櫃をかついでいるのは、矢はり問屋場の者か。」

「いえ。あれは宿しゅくはずれに出ているかい助というのでございます。」と、駕籠屋は正直に答えました。

「そうか。」

実は今宮さんも少し疑っていたことがあるのです。あの人足が鎧櫃を取り落したのは何うもほんとうの粗相ではないらしい、わざと手ひどく投げ出したようにも思われる――と、こう疑っている矢先へ、それが問屋場の者でないと聞いたので、いよ〱その疑いが深くなりました。一所不定ふじょうの雲助め、往来の旅人を苦しめる雲助め、おそらく何かの弱味を見つけておれを強請ゆすろうという下心であろうと、今宮さんは彼を憎むの念が一層強くなりましたが、差当り何うすることも出来ないので、胸をさすって駕籠にゆられて行くと、朝の五つ半(午前九時)前に沼津の宿に這入って、宿はずれの建場たてば茶屋に休むことになりました。朝涼あさすゞのあいだと云っても一里半ほどの路を来たので、駕籠屋は汗びっしょりになって、店さきの百日紅さるすべりの木の下でしきりに汗を拭いています。四人の家来たちも茶屋の女に水を貰って手拭をしぼったりしていましたが、三人の人足どもはまだ見えないので、若党の勇作は少し不安になりました。

「これ、駕籠屋。あの人足どもは確かなものだろうな。」

「はい。ふたりは大丈夫でございます。問屋場に始終詰めているものでございますから、決して間違いはございません。かい助の奴も、お武家さまのお供で、そばにあの二人が附いておりますから、どうすることもございますまい。やがてあとから追い着きましょう。しばらくこゝでお休みください。」と、駕籠屋は口をそろえて云いました。

「むゝ、こちらは随分足が早かったからな。」

「はい。こちら様のお荷物はなか〱重いと云っておりましたから、だん〱に後おくれてしまったのでございましょう。」

荷物が重い。――それが店のなかに休んでいる今宮さんの耳にちらりと這入ったので、今宮さんはまた気色を悪くしました。かの鎧櫃の一件を当付けらしく云うようにも聞き取れましたので、すこしく声を暴くして家来をよびました。

「勇作。貴様は駕脇についていながら、荷物のおくれるのになぜ気がつかない。あんな奴等は何をするか判ったものでない。すぐに引返して探して来い。源吉だけこゝに残って、半蔵も勘次も行け。あいつ等がぐず〱云ったら引っくゝって引摺って来い。」

「かしこまりました。」

勇作はすぐに出て行きました。二人の中間もつゞいて引返しました。どの人もさっきの鎧櫃のむしゃくしゃがあるので、なにかを口実に彼の平作めをなぐり付けてゞも遣ろうという腹で、元来た方へ急いでゆくと、二町ばかりのところで三人の人足に逢いました。平作は並木の松の下に鎧櫃をおろして悠々と休んでいるのを、ふたりの人足がしきりに急き立てゝいるところでした。

「貴様たちはなぜ遅い。宿しゅくを眼のまえに見ていながら、こんなところで休んでいる奴があるか。」と、勇作は先ず叱り付けました。

勇作に云われるまでもなく、問屋場の人足どもは正直ですから、もう一息のところだから早く行こうと、さっきから催促しているのですが、平作ひとりがなか〱動かない。こんな重い具足櫃は生れてから一度もかついだことが無いから、この暑い日に照らされながら然う急いではあるかれない。おれはこゝで一休みして行くから、おまえたちは勝手に先へ行けと云って、どっかりと腰をおろしたまゝで何うしても動かない。相手がお武家だからと云って聞かせても、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかと、空嘯そらうそぶいて取合わない。さりとて、かれ一人を置いて行くわけにも行かないので、人足共も持て余しているところへ、こっちの三人が引返して来たのでした。

その仔細を聴いて、勇作も赫かっとなりました。平作とても大して悪い奴でもない。鎧櫃の秘密を種にして余分の酒手でもいたぶろうという位の腹でしたろうから、なんとか穏かに賺すかして、多寡が二百か三百文も余計に遣ることにすれば、無事穏便に済んだのでしょうが、勇作も年が若い、おまけに先刻からのむしゃくしゃ腹で、この雲助めを憎い憎いと思いつめているので、そんな穏便な扱い方をかんがえている余裕がなかったらしい。

「よし。それほどに重いならばおれが担いで行く。」

かれは平作を突きのけて、問題の鎧櫃を自分のうしろに背負いました。そうして、ほかの中間どもに眼くばせすると、半蔵と勘次は飛びかゝって平作の両腕と頭髻たぶさをつかみました。

「さあ、来い。」

三

平作は建場茶屋へ引き摺って行かれると、さっきから苛々して待っていた今宮さんは、奥の床几を起って店さきへ出て来ました。見ると、勇作が鎧櫃を背負っている。中間ふたりが彼の平作を引っ立てゝくる。もう大抵の様子は推量されたので、この人もまた赫となりました。

「これ、そいつがどうしたのだ。」

この雲助めが横着をきめて動かないと云う若党の報告をきいて、今宮さんはいよ〱怒りました。単に横着というばかりでなく、こんなに重い具足櫃はかついだことが無いとか、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかとか云うような、あてこすりの文句が一々こっちの痛いところに触るので、今宮さんはいよ〱堪忍袋の緒を切りました。

「おのれ不埓な奴だ。この宿場の問屋場へ引渡すからそう思え。」

こゝへ来る途中でも、もう二三度は中間共になぐられたらしく、平作は散らし髪になって、左の眼のうえを少し腫らしていましたが、這奴こいつなか〱気の強い奴、おまけ中間どもに撲られて、これもむしゃくしゃ腹であったらしい。立派な侍に叱られても、平気でせゝら笑っていました。

「問屋場へでも何処へでも引渡して貰いましょう。わっしはその荷物が重いから重いと云ったゞけのことだ。わっしも十六の年から東海道を股にかけて雲助をしているから、具足櫃と云うものはどのくらいの目方があるか知っています。わっしを問屋場へ引渡すときに、その具足櫃も一緒に持って行って、どんな重い具足が這入っているのか、役人達にあらためて貰いましょう。」

こうなると、這奴こいつをうっかり問屋場へ引渡すのも考えもので、いわゆる藪蛇のおそれがあります。憎い奴だとは思いながら何どうすることも出来ない。そのうちに店の者は勿論、近所の者や往来の者がだん〱にこの店先にあつまって来て、武家と雲助との押問答を聴いている。中間どもが追い払っても、やはり遠巻きにして眺めている。見物人が多くなって来たゞけに、今宮さんもいよ〱そのまゝには済まされなくなりましたが、前にもいう藪蛇の一件があります。こゝの問屋場の役人たちも三島の宿とおなじような重忠揃いなら仔細はないが、万一そのなかに岩永がまじっていて野暮にむずかしい詮議をされたら、あべこべにこっちが大恥をかゝなければならない。今宮さんは残念ながら這奴こいつを追いかえすより外はありませんでした。

「貴様のような奴等にかゝり合っていては、大切の道中が遅くなる。きょうのところは格別を以てゆるして遣る。早く行け、行け」

もうこっちの内兜を見透しているので、平作は素直に立去らない。かれは勇作にむかって大きい手を出しました。

「もし、御家来さん。酒手をいたゞきます。」

「馬鹿をいえ。」と、勇作はまた叱り付けました。「貴様のような奴に鐚びた一文でも余分なものが遣られると思うか。首の飛ばないのを有難いことにして、早く立去れ。」

「さあ、行け、行け。」

中間どもは再び平作の腕をつかんで突き出すと、さっきからはら〱しながら見ていた駕籠屋や人足共も一緒になって、色々になだめて連れて行こうとする。なにしろ多勢に無勢で、所詮腕ずくでは敵わないと思って、平作は引き摺られながら大きい声で怒鳴りました。

「なに、首の飛ばないのを有難く思え……。はゝ、笑わせやあがる。おれの首が飛んだら、その具足櫃からしたじのような紅い水が流れ出すだろう。」

見物人が大勢あつまっているだけに、今宮さんも捨てゝ置かれません。この上にも何を云い出すか判らないと思うと、もう堪忍も容赦もない。つか〱と追って出て、刀の柄袋を払いました。

「そこ退け。」

刀に手をかけたと見て、平作をおさえていた駕籠屋や人足共は、あっと悸おびえて飛び退きました。

「えゝ、おれをどうする。」

ふり向く途端に平作の首は落ちてしまいました。今宮さんは勇作を呼んで、茶店の手桶の水を柄杓ひしゃくに汲んで血刀を洗わせていると、見物人はおどろいて皆ちり〲に逃げてしまう。駕籠屋や人足どもは蒼くなって顫えている。それでも今宮さんは流石に侍です。この雲助を成敗して、しずかに刀を洗い、手を洗って、それから矢立の筆をとり出して、ふところ紙にさら〱と書きました。

「当宿の役人にはおれから届ける。勇作と半蔵は三島の宿へ引返して、この鎧櫃をみせて来い。」

こう云いつけて、勇作は何かさゝやくと、勇作は中間ふたりに手伝わせて、彼の鎧櫃を茶屋のうしろへ運んで行きました。そこには小川がながれている。三人は鎧櫃の蓋をあけてみると、醤油樽の底がぬけているようです。その樽も醤油も川へ流してしまって、櫃のなかも綺麗に洗って、それへ雲助の首と胴とを入れました。今度は半蔵がその鎧櫃を背負って、勇作が附いて行くことになりました。

三島の宿の問屋場ではこの鎧櫃をとゞけられて驚きました。それには今宮さんの手紙が添えてありました。

先刻は御手数相掛過分に存候。拙者鎧櫃の血汐、いつまでも溢れ出して道中迷惑に御座候間、一応おあらための上、よろしく御取捨被下度くだされたく、右重々御手数ながら御願申上候。早々

今宮六之助

問屋場御中

問屋場では鎧櫃を洗いきよめて、使のふたりに戻しました。これで鎧櫃からこぼれ出した紅い雫も、ほんとうの血であったと云うことになります。沼津の宿の方の届も型ばかりで済みました。一方は侍、一方は雲助、しかも御用道中の旅先というのですから、可哀そうに平作は殺され損、この時代のことですから何うにも仕様がありません。

今宮さんはその後の道中に変ったこともなく、主従五人が仲よく上って行ったのですが、彼の一件以来、どうも気が暴あらくなったようで、左もないことにも顔色を変えて小言を云うこともある。しかしそれは一時のことで、あとは矢張り元の通りになるので、家来共も別に気にも留めずにいると、京ももう眼の前という草津の宿しゅくに這入る途中、二三日前からの雨つゞきで路がひどく悪いので、今宮さんの一行はみな駕籠に乗ることになりました。その時に、中間の半蔵が例の手段で駕籠をゆすぶって、駕籠屋から幾らかの揺すり代をせしめたことが主人に知れたので、今宮さんは腹を立てました。

「貴様は主人の面に泥を塗る奴だ。」

半蔵はさん〲に叱られましたが、勇作の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる。家来どもは人足にかつがせて来た荷物の始末をしている。その忙しいなかで、半蔵が人足にこんなことを云いました。

「おい、おい。その具足櫃は丁寧にあつかってくれ。今日は危なくおれの首を入れられるところだった。塩っ辛かれえ棺桶は感心しねえ。」

それが今宮さんの耳に這入ると、急に顔の色が変りました。草鞋をぬいで玄関へあがりかけたのが、又引返して来て激しく呼びました。

「半蔵。」

「へえ。」

何心なく小腰をかゞめて近寄ると、ぬく手も見せずと云うわけで、半蔵の首は玄関先に転げ落ちました。前の雲助の時とは違って、勇作もほかの中間共もしばらく呆れて眺めていると、不埓の奴だから手討にした、死骸の始末をしろと云いすてて、今宮さんは奥へ這入ってしまいました。

主人がなぜ半蔵を手討にしたか。勇作等も大抵は察していましたが、表向きは彼のゆすりの一件から物堅い主人の怒に触れたのだと云うことにして、これも先ず無事に片附きました。

それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めていました。かの鎧櫃は雲助の死骸を入れて以来、空のまゝで担がせて来て、空のままで床の間に飾って置いたのでした。なんでも九月のはじめだそうで、今宮さんは夕方に詰所から退って来て、自分の小屋で夕飯を食いました。たんとも飲まないのですが、晩酌には一本つけるのが例になっているので、今夜も機嫌よく飲んでしまって、飯を食いはじめる。勇作が給仕をする。黄きいろい行燈が秋の灯らしい色をみせて、床の下ではこおろぎが鳴く。今宮さんは飯をくいながら、今日は詰所でこんな話を聴いたと話しました。

「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」

「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。

「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は屹と命を取られると云うことだ。」

「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。

「そんなことが無いとも云えないな。」

「そうでござりましょうか。」

「どうもありそうに思われる。」

云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。

「論より証拠だ。あれ、みろ。」

勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。

「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」

主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた。だん〱仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。

人参

一

その日は三浦老人の家うちで西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと〱御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。

「わたしには構わずに喫たべてください。」

「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に嚥のみ込みながら云った。食道楽のために身をほろぼした今宮という侍に、こんな料理を食わせたら何というだろうかなどとも考えた。

「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、好いゝ加減の目方をつけて坦ぎ出させると、それが途中で転げ出して大騒ぎをしたことがあるそうです。これも困ったでしょうね。はゝゝゝゝゝ。」

老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。

「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん〱に少くなったばかりでなく、幕府でも私わたくしにかたき討をすることを禁じる方針を取っていましたし、諸藩でも表向きには仇討の願いを聴きとどけないのが多くなりましたから、自然にその噂が遠ざかって来ました。それでも確かに仇討とわかれば、相手を殺しても罪にはならないのですから、武家ばかりでなく、町人、百姓のあいだにも仇討は時々にありました。なにしろ芝居や講釈ではかたき討を盛に奨励していますし、世間でも褒めそやすのですから、やっぱり根切ねきりというわけには行かないで、とき〲には変った仇討も出て来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人の養父にあたる吉五郎という人もかゝり合った事件ですから。」

「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしょう。」と、わたしは子供らしく強請ねだった。

「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」

老人は笑いながら話しはじめた。

安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの好いいのは、もう本普請をすませて、みんな商売をはじめていました。猿若町の芝居も蓋をあけるという勢いで、よし原の仮宅かりたくは大繁昌、さすがはお江戸だと諸国の人をおどろかしたくらいでした。

なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見ふなみ桂斎という町医者がありましたが、診断みたても調合も上手だというのでなか〱流行っていました。小舟町三丁目の病家を見舞って、夜の五つ頃(午後八時)に帰ってくると、春雨がしと〱降っている。供の男に提灯を持たせて、親父橋おやじばしを渡りかゝると、あとから跟つけて来たらしい一人の者が、つか〱と寄って来て、先ず横合から供の提灯をたゝき落して置いて、いきなりに桂斎先生の左の胸のあたりを突きました。先生はあっと云って倒れる。供はびっくりして人殺し人殺しと呼び立てる。その間に相手はどこへか姿を隠してしまいました。

桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ〱大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな服装なりをしていたか、些ちっとも知らないと云うのですから、手がかりはありません。しかし前後の模様から考えると、どうも物取りの仕業ではないらしい。桂斎先生に対して何かの意趣遺恨のあるものだろうという鑑定で、町方まちかたでもそれ〲に探索にかゝりました。さあ、これからは半七さんの縄張りで、わたくし共にはよく判りませんが、なにか抜きさしのならない証拠が挙ったとみえて、その下手人は間もなく召捕られました。それを召捕ったのが前にもいう通り、半七さんの養父の吉五郎という人です。

その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚でっち小僧で久松というと、なんだか芝居にでも出て来そうですが、本人は明けて十五という割に、からだの大きい、眼の大きい、見るから逞しそうな小僧だったそうです。しかし運のわるい子で、六つの年に男親に死別れて、姉のおつねと姉弟きょうだいふたりは女親の手で育てられたのです。勿論、株家督かぶかとくがあるというでは無し、芳町のうら店だなに逼塞して、おふくろは針仕事や洗濯物をして、細々にその日を送っているという始末ですから、久松は九つの年から近所の糸屋へ奉公にやられ、姉は十三の年から芝口の酒屋へ子守奉公に出ることになって、親子三人が分れ〱に暮していました。そんなわけで、碌々に手習の師匠に通ったのでも無し、誰に教えられたのでも無く、云わば野育ち同様に育って来たのですが、不思議にこの姉弟は親思い、姉思い、弟思いで、おたがいに奉公のひまを見てはおふくろを尋ねて行く。姉は弟をたずねる。弟も姉の身を案じて、使の出先などからその安否をたずねに行く。まことに美しい親子仲、姉弟仲でした。

これほど仲が好いいだけに、親子姉弟が別々に暮していると云うことは、定めて辛かったに相違ありません。それでも行末をたのしみに、姉も弟も真面目に奉公して、盆と正月の藪入りにはかならず芳町の家にあつまって、どこへも行かずに一日話し合って帰ることにきめていたので、その日も暮れかゝって姉弟がさびしそうに帰ってゆくうしろ姿を見送ると、相あい長屋の人達もおのずと涙ぐまれたそうです。

「久ちゃんは男だから仕方もないが、せめておつねちゃんだけは家うちにいるようにして遣りたいものだ。」と、近所でも噂をしていました。

おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ〱我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。

ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ〱悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。

桂斎先生は流行はやり医者ですから、うら店などへはなか〱来てくれないのを、伝手つてを求めてよう〱来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。

「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」

医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場おおせわばというところです。

二

それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。

「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹きっと癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」

人参は高価の薬で、うら店だなずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉やすくとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか〱容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。

人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう〱その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡ちょっと可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂濶にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹きっと人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう〱思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。

おつねは長屋の人にたのんで、山谷さんやあたりにいる女衒ぜげんに話して貰って、よし原の女郎屋へ年季一杯五十両に売られることになりました。家の名は知りませんが、大町小店だいちょうこみせで相当に流行る店だったそうです。式かたのごとくに女衒の判代や身付みづきの代を差引かれましたが、残った金を医者のところへ持って行って、宜しくおねがい申しますと云うと、桂斎先生は心得て、そのうちから八両とかを受取って、すぐに人参を買って病人に飲ませてくれたが、おふくろの病気は矢はりよくならない。久松も心配して、色々に医者にせがむので、先生はまた十両をうけ取って人参を調剤したのですが、それも験げんがみえない。おふくろはいよ〱悪くなるばかりで、それから半月ほどの後にとう〱此世の別れになってしまったので、久松は泣いても泣き尽せない位で、とりあえず吉原の姉のところへ知らせてやりましたが、まだ初店はつみせですから出てくることは出来ません。長屋の人たちの手をかりて、久松は兎もかくもおふくろの葬式をすませました。

こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ苦界くがいの勤めをしなければならないのですから、姉思いの久松は身を切られるように情なさけなく思いました。それから惹いて、医者を怨むような気にもなりました。

「人参をのませれば屹きっと癒ると請合って置きながら、あの医者はおふくろを殺した。それがために姉さんまでが吉原へ行くようになった。あの医者の嘘つき坊主め。あいつはおふくろの仇だ。姉さんのかたきだ。」

今日こんにちはそんなこともありませんが、病人が死ぬとその医者を怨むのが昔の人情で、川柳にも「見す〱の親のかたきに五分礼ふんれい」などというのがあります。まして斯ういう事情が色々にからんでいるので、年の行かない久松は一層その医者を怨むようにもなり、自然それを口に出すようにもなったので、糸屋の主人は久松に同情もし、また意見もしました。

「人間には寿命というものがある。人参を飲んで屹きっと癒るものならば、高貴のお方は百年も長命する筈だが、そうはならない。公方くぼう様でもお大名でも、定命じょうみょうが尽きれば仕方がない。金の力でも買われないのが人の命だ。人参まで飲ませても癒らない以上は、もうあきらめるの外はない。むやみに医者を怨むようなことを云ってはならない。」

理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。

そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売忌敵いみがたきというような意味もまじっていたのでしょう。その後近所の人達にむかって、あの病人に人参をのませて何になる。いくら人参だと云っても万病に効のあるというものではない。利かない薬をあてがうのは、見す〱病家に無駄な金を使わせるようなものだ。高価な薬をあたえれば、医者のふところは膨らむが、病家の身代は痩せる。医は仁術で、金儲け一点張りではいけないなどと云う。それが自然に久松にもきこえましたから、いよ〱心持を悪くしました。それでは桂斎の医者坊主め、みす〱利かないのを知っていながら、金儲けのために高い人参を売り付けたのかも知れないという疑いも起ってくる。桂斎先生は決してそんな人物ではないのですが、ふだんから怨んでいるところへ前のような噂が耳にひゞくので、年の行かない久松としては、そんな疑いを起すのも無理はありません。商売の累わずらいと云いながら、桂斎先生も飛んだ敵かたきをこしらえてしまいました。

それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が出来しゅったいしたのです。それはその年十月の大地震――この地震のことはどなたも御承知ですから改めて申上げませんが、江戸中で沢山の家が潰れる、火事が起る、死人や怪我人が出来る。そのなかでも吉原の廓くるわは丸潰れの丸焼けで、こゝだけでもおびたゞしい死人がありました。おつねの勤めている店も勿論つぶれて、おつねは可哀そうに焼け死にました。久松の店も潰れたが、幸いに怪我人はありませんでした。桂斎先生の家は半分かたむいたゞけで、これも運よく助かりました。

おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人法師ぼっちになってしまいました。おふくろのない後は、たゞ一本の杖柱とたのんでいた姉にも死別れて、久松はいよ〱力がぬけ果てゝ、自分ひとりの助かったのを却って悔むようになりました。おまけに姉のおつねが以前奉公していた芝口の酒屋は、土台がしっかりしていたと見えて、今度の地震にも家根瓦をすこし震い落されたゞけでびくともせず、運よく火事にも焼け残ったので、久松はいよ〱あきらめ兼ねました。姉も今までの主人に奉公していれば無事であったものを、吉原へ行ったればこそ非業の死を遂げたのである。姉はなんのために吉原へ売られて行ったのか。高価の人参は母の病を救い得ないばかりか、却って姉の命をも奪う毒薬になったのかと思うと、久松は日本朝鮮にあらんかぎりの人参を残らず焼いてゞもしまいたい程に腹が立ちました。その人参を売りつけた医者坊主がます〱憎い奴のように思われて来ました。

糸屋の店では一旦小梅の親類の家うちへ立退いたので、久松も一緒に附いて行きました。場所柄だけに、店の方はすぐに仮普請に取りかゝって、十二月には兎もかくも商売をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬を過されまいというので、主人の女房や娘子供は矢はり小梅の方に残っていることになりました。それがために小僧もひとり残されることになったので、久松がその役にあたって、あくる年の正月を小梅で迎えました。そのうちに三月の花が咲いて、陽気もだん〱にあたゝかくなり、世間の景気も春めいて来たので、主人の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店へ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めのことが一層強く思い出されます。勿論、小梅にいるあいだも毎日忘れたことはなかったのですが、近間へ戻ってくると又一倍にその執念が強くなって来ました。

三月末の陰くもった日に、久松が店の使で表へ出ると、途中で丁度、桂斎先生に逢いました。はっと思いながらも、よんどころなしに会釈をすると、先生の方では気が注かなかったのか、それともそんな小僧の顔はもう見忘れてしまったのか、素知らぬ風でゆき過ぎたので、久松は赫かっとなりました。使をすませて主人の店へ一旦帰って、奥にいる女房のまえに出て、去年からあずけてある金のうちで一両だけを渡して貰いたいと云いました。なんにするのだと聞くと、おふくろの一周忌がもう近づいたから、お長屋の人にたのんで石塔をこしらえて貰うのだという返事です。久松の孝行は女房もかねて知っているので、それは奇特のことだと云ってすぐに一両の金を出してやると、久松はそれを持って再び表へ出ましたが、もとの長屋へは行かないで、近所の刀屋へ行って道中指のような脇差を一本買いました。

その脇差をふところに忍ばせて、久松は新乗物町へ行って桂斎先生の出入りをうかゞっていると、日のくれる頃から春雨が音もせずに降って来ました。先生の出て行くところを狙ったのですが、どうも工合が悪かったので、雨にぬれながら親父橋おやじばしの袂に立っていて、その帰るところを待ちうけて、今年十五の小僧が首尾よく相手を仕留めたのです。

久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのですが、間もなく吉五郎という人の手で召捕られました。町奉行所の吟味に対して、あの桂斎という藪医者はおふくろと姉の仇かたきだから殺しましたと、久松は悪びれずに申立てたそうです。なにぶんにもまだ十六にも足らない者ではあり、係りの役人達も大いにその情状を酌量してくれたのですが、理窟の上から云えば筋違いで、そんなことで一々かたき討をされた日には、医者の人種ひとだねが尽きてしまうわけですから、どうしても正当のかたき討と認めることは出来ないのでした。

「それにしても、母と姉との仇討ならば、なぜすぐに自訴して出なかったか。」と、係りの役人は聞きました。

かたきを討ってから、久松は川づたいに逃げ延びて、人の見ないところで脇差を川のなかへ投げ込んで、自分もつゞいて川へ飛び込もうとすると、暗い水のうえに姉のおつねが花魁おいらんのような姿でぼんやりあらわれて、飛び込んではならないと云うように頻りに手を振るので、死のうとする気は急に鈍った。かんがえてみると、今こゝで自分が死んでしまえば、おふくろや姉の墓まいりをする者はなくなる。迂濶に死急ぎをしてはならない。生きられるだけは生きているのがおふくろや姉への孝行だと思い直して、早々にそこを立去って、なに食わぬ顔をして主人の店へ戻っていたと、久松はこう申立てたそうです。姉のすがたが見えたか見えないか、それは勿論わかりませんが、或は久松の眼にはほんとうに見えたのかも知れません。

奉行所ではその裁き方によほど困ったようでした。唯の意趣斬にするのも不便、さりとて仇討として赦すわけにも行かないので、一年あまりもそのまゝになっていましたが、安政四年の夏になって、久松はいよ〱遠島ということにきまりました。島へ行ってから何うしたか知りませんが、おそらく赦しゃに逢って帰ったろうと思います。

置いてけ堀

一

「躑躅つゝじがさいたら又おいでなさい。」

こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸かめいどの藤、それから堀切ほりきりの菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざ〱上のぼってくる見物もなか〱多かった。藤や菖蒲は単にその風趣を賞するだけであったが、躑躅には色々の人形細工がこしらえてあるので、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。

ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の人車くるまが列んでいて、つい眼のさきの躑躅園まで客を送って行こうと、うるさいほどに勧めている。茶屋の姐さんは呼ぶ、車夫くるまやは附き纏う、そのそう〲しい混雑のなかを早々に通りぬけて、つゝじ園のつゞいている小道を途中から横にきれて、おなじみの杉の生垣のまえまで来るあいだに、私はつゝじのかんざしをさしている女たちに幾たびも逢った。

門をあけて、いつものように格子の口へゆこうとすると、庭の方から声をかけられた。

「どなたです。すぐに庭の方へおまわりください。」

「では、御めん下さい。」

わたしは枝折戸をあけて、すぐに庭先の方へまわると、老人は花壇の芍薬の手入れをしているところであった。

「やあ、いらっしゃい。」

袖にまつわる虻あぶを払いながら、老人は縁さきへ引返して、泥だらけの手を手水鉢ちょうずばちで洗って、わたしをいつもの八畳の座敷へ通した。老人は自分で起って、忙しそうに茶を淹いれたり、菓子を運んで来たりした。それがなんだか気の毒らしくも感じられたので、私はすゝめられた茶をのみながら訊いた。

「きょうはばあやはいないんですか。」

「ばあやは出ましたよ。下町にいるわたくしの娘が孫たちをつれて躑躅を見にくるとこのあいだから云っていたのですが、それが今日の日曜にどや〱押掛けて来たもんですから、ばあやが案内役で連れ出して行きましたよ。近所でいながら燈台下暗しで、わたくしは一向不案内ですが、今年も躑躅はなか〱繁昌するそうですね。あなたもこゝへ来がけに御覧になりましたか。」

「いゝえ。どこも覗きませんでした。」と、わたしは笑いながら答えた。

「まっすぐにこゝへ。」と、老人も笑いながらうなずいた。「まあ、まあ、その方がお利口でしょうね。いくら人形がよく出来たところで、躑躅でこしらえた牛若弁慶五条の橋なんぞは、あなた方の御覧になるものじゃありますまいよ。はゝゝゝゝゝ。」

「しかし、お客来きゃくらいのところへお邪魔をしましては。」

「なに、構うものですか。」と、老人は打消すように云った。

「決して御遠慮には及びません。あの連中が一軒一軒に口をあいて見物していた日にはどうしても半日仕事ですから、めったに帰ってくる気づかいはありませんよ。わたくし一人が置いてけ堀ぼりをくって、退屈しのぎに泥いじりをしているところへ、丁度あなたが来て下すったのですから、まあゆっくりと話して行ってください。」

老人はいつもの通りに元気よく色々のむかし話をはじめた。老人が唯たった今、置いてけ堀をくったと云ったのから思い出して、わたしは彼の「置いてけ堀」なるものに就いて質問を出すと、かれは笑いながら斯う答えた。

置いてけ堀といえば、本所七不思議のなかでも、一番有名になっていますが、さてそれが何処だということは確かに判っていないようです。一体、本所の七不思議というのからして、ほんとうには判っていないのです。誰でも知っているのは、置いてけ堀、片葉の芦、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には津軽家の太鼓を省いて、松浦家の椎の木を入れています。又ある人は足洗い屋敷を省いて、津軽と松浦と消えずの行燈とをかぞえているようです。この七不思議を仕組んだものには「七不思議葛飾譚かつしかものがたり」という草双紙がありましたが、それには何々をかぞえてあったか忘れてしまいました。所詮無理に七つの数にあわせたのでしょうから、一つや二つはどうでもいゝので、その曖昧なところが即ち不思議の一つかも知れません。

そういうわけですから、置いてけ堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心いまどうしんをたずねるようなもので、なか〱知れそうもありません。元来この置いてけ堀というにも二様の説があります。その一つは、その辺に悪わる旗本の屋敷があって、往来の者をむやみに引摺り込んでいかさま博奕をして、身ぐるみ脱いで置いて行かせるので、自然に置いてけ堀という名が出来たというのです。もう一つは、その辺の堀に何か怪しい主ぬしが棲んでいて、日の暮れる頃に釣師が獲物の魚をさげて帰ろうとすると、それを置いて行けと呼ぶ声が水のなかで微かにきこえると云うのです。どっちがほんとうか知りませんが、後の怪談の方が広く世間に伝わっていて、わたくし共が子供のときには、本所へ釣に行ってはいけない、置いてけ堀が怖いぞと嚇おどかされたものでした。

その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年酉歳とりどしの五月のことでした。本所入江町の鐘撞堂の近辺に阿部久四郎という御家人がありまして、非番の時にはいつでも近所の川や堀へ釣に出る。と云うと、大変に釣道楽のようにもきこえますが、実はそれが一つの内職で、釣って来た鯉や鮒はみんな特約のある魚屋へ売ってやることになっているのです。武士は食わねど高楊枝などと云ったのは昔のことで、小身の御家人たちは何かの内職をしなければ立ち行きませんから、みなそれぞれに内職をしていました。四谷怪談の伊右衛門のように傘を張るのもあれば、花かんざしをこしらえるのもある。刀をとぐのもあれば、楊子を削るのもある。提灯を張るのもある。小鳥を飼うのもあれば、草花を作るのもある。阿部という人が釣に出るのも矢はりその内職でしたが、おなじ内職でも刀を磨いたり、魚を釣ったりしているのは、まあ世間体のいゝ方でした。

五月は例のさみだれが毎日じめ〱降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、びくと釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本杭ぐいには鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので、このごろは専ら近所の川筋をあさることにしていました。そこで、五月のなかば、何でも十七八日ごろのことだそうです。その日は法恩寺橋から押上おしあげの方へ切れた堀割の川筋へ行って、朝から竿をおろしていると、鯉はめったに当らないが、鰻や鯰なまずが面白いように釣れる。内職とは云うものゝ、もと〱自分の好きから始めた仕事ですから、阿部さんは我を忘れて釣っているうちに、雨のふる日は早く暮れて、濁った水のうえはだん〱に薄暗くなって来ました。

今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてあるびくを引きあげると、ずっしりと重い。

きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。

「置いてけえ。」

阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、曽て一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。

「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる。」

平気でびくを片附けて、それから釣竿を引きあげると、鈎はりにはなにか懸っているらしい。川蝦でもあるかと思って糸を繰りよせてみると、鈎のさきに引っかゝっているのは女の櫛でした。ありふれた三日月型の黄楊つげの櫛ですが、水のなかに漬かっていたにも似合わず、油で気味の悪い程にねば〱していました。

「あゝ、又か。」

阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は午ひる前に一度、ひるすぎに一度、やはり阿部さんの鈎にかゝったので、その都度に川のなかへ投げ込んでしまったのです。それがいよ〱釣仕舞というときになって、又もや三度目で鈎にかゝったので、阿部さんも何だか厭な心持になって、うす暗いなかでその櫛を今更のように透して見ました。油じみた女の櫛、誰でもあんまり好い感じのするものではありません。殊にそれが川のなかから出て来たことを考えると、ます〱好い心持はしないわけです。隠亡堀おんぼうぼりの直助権兵衛という形で、阿部さんはその櫛をじっと眺めていると、どこからかお岩の幽霊のような哀れな声が又きこえました。

「置いてけえ。」

今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは屹きっと眼を据えてそこらを見まわしたが、暗い水の上にはなんにも見えない、細い雨が音もせずにしと〱と降っているばかりです。阿部さんは再び自分の臆病を笑って、これもおれの空耳であろうと思いながら、その櫛を川のなかへ投げ込みました。

「置いていけと云うなら、返してやるぞ。」

釣竿とびくを持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。

「置いてけえ。」

それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですた〱帰りました。

二

小身と云っても場末の住居すまいですから、阿部さんの組屋敷は大縄おおなわでかなりに広い空地を持っていました。お定まりの門がまえで、門の脇にはくゞり戸がある。両方は杉の生垣で、丁度唯今のわたくしの家うちのような恰好に出来ています。門のなかには正面の玄関口へ通うだけの路を取って、一方はそこで相撲でも取るか、剣術の稽古でもしようかと云うような空地あきち、一方は畑になっていて、そこで汁の実の野菜でも作ろうというわけです。阿部さんはまだ独身で、弟の新五郎は二三年まえから同じ組内の正木という家へ養子にやって、当時はお幾という下女と主従二人暮しでした。

お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで長年ちょうねんしているのでした。容貌きりょうはまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯のことを一手に引受けて、そのあいだには畑も作る。もと〱小身のうえに、独身で年のわかい阿部さんは、友だちの附合や何かで些ちっとは無駄な金もつかうので、内職の鯉や鰻だけではなか〱内証が苦しい。したがって、下女に払う一年一両の給金すらも兎角とゞこおり勝になるのですが、お幾は些とも厭な顔をしないで、まえにも云う通り、見得にも振りにも構わずに、世帯のことから畑の仕事まで精出して働くのですから、まったく徳用向きの奉公人でした。

「お帰りなさいまし。」

くゞり戸を推して這入る音をきくと、お幾はすぐに傘をさして迎いに出て来て、主人の手から重いびくをうけ取って水口の方へ持って行く。阿部さんも簑笠でぐっしょり濡れていますから、これも一緒に水口へまわると、お幾は蝋燭をつけて来て、大きい盥に水を汲み込んで、びくの魚を移していたが、やがて小声で「おやっ」と云いました。

「旦那さま。どうしたのでございましょう。びくのなかにこんなものが……。」

手にとって見せたのは黄楊つげの櫛なので、阿部さんも思わず口のうちで「おやっ」と云いました。それはたしかに例の櫛です。三度目にも川のなかへ抛り込んで来た筈だのに、どうしてそれが又自分のびくのなかに這入って来たのか。それとも同じような櫛が幾枚も落ちていて、何かのはずみでびくのなかに紛れ込んだのかも知れないと思ったので、阿部さんは別にくわしいことも云いませんでした。

「そんなものが何うして這入ったのかな。掃溜へでも持って行って捨てゝしまえ。」

「はい。」

とは云ったが、お幾は蝋燭のあかりでその櫛をながめていました。そうして、なんと思ったか、これを自分にくれと云いました。

「まだ新しいのですから、捨てゝしまうのは勿体のうございます。」

櫛を拾うのは苦を拾うとか云って、むかしの人は嫌ったものでした。お幾はそんなことに頓着しないとみえて、自分が貰いたいという。阿部さんは別に気にも止めないで、どうでも勝手にするがいゝと云うことになりました。きょうは獲物が多かったので、盥のなかには鮒や鯰やうなぎが一杯になっている。そのなかには可成りの目方のありそうな鰻もまじっているので、阿部さんもすこし嬉しいような心持で、その二三匹をつかんで引きあげて見ているうちに、なんだかちくりと感じたようでしたが、それなりに手を洗って居間へ這入りました。夕飯の支度は出来ているので、お幾はすぐに膳ごしらえをしてくる。阿部さんはその膳にむかって箸を取ろうとすると、急に右の小指が灼けるように痛んで、生血がにじみ出しました。

「痛い、痛い。どうしたのだろう。」

主人がしきりに痛がるので、お幾もおどろいてだん〱詮議すると、たった今、盥のなかの鰻をいじくっている時に、なにかちくりと触ったものがあるという。そこで、お幾は再び蝋燭をつけて、台所の盥をあらためてみると、鰻のなかには一匹の蝮まむしがまじっていたので、びっくりして声をあげました。

「旦那様、大変でございます。蝮が這入っております。」

「蝮が……。」と、阿部さんもびっくりしました。まさかに自分の釣ったのではあるまい。そこらの草むらに棲んでいた蝮がびくのなかに這入りこんでいたのを、鰻と一緒に盥のなかへ移したのであろう。お幾は運よく咬まれなかったが、自分は鰻をいじくっているうちに、指が触って咬まれたのであろう。これは大変、まかり間違えば命にもかゝわるのだと思うと、阿部さんも真青になって騒ぎ出しました。

「お幾。早く医者をよんで来てくれ。」

「蝮に咬まれたら早く手当をしなければなりません。お医者のくるまで打っちゃって置いては手おくれになります。」

お幾は上総かずさの生れで、こういうことには馴れているとみえて、すぐに主人の痛んでいる指のさきに口をあてゝ、その疵口から毒血をすい出しました。それから小切こぎれを持ち出して来て、指の附根をしっかりと縛くゝりました。それだけの応急手当をして置いて、雨のふりしきる暗いなかを医者のところへ駈けて行きました。阿部さんは運がよかったのです。お幾がすぐにこれだけの手当をしてくれたので、勿論その命にかゝわるような大事件にはなりませんでした。医者が来て診察して、やはり蝮の毒とわかったので、小指を半分ほど切りました。その当時でも、医者はそのくらいの療治を心得ていたのです。

大難が小難、小指の先ぐらいは吉原の花魁おいらんでも切ります。それで命が助かれば実に仕合せと云わなければなりません。医者もこれで大丈夫だと受合って帰り、阿部さんもお幾も先ずほっとしましたが、なるべく静かに寝ていろと医者からも注意されたので、阿部さんはすぐに床を敷かせて横になりました。本所は蚊の早いところですから、四月の末から蚊帳を吊っています。阿部さんは蚊帳のなかでうと〱していると、気のせいか、すこしは熱も出たようです。宵から雨が強くなったとみえて、庭のわか葉をうつ音がぴしゃ〱ときこえます。すると、どことも無しに、こんな声が阿部さんの耳にきこえました。

「置いてけえ。」

かすかに眼をあいて見まわしたが、蚊帳の外には誰もいないらしい。やはり空耳だと思っていると、又しばらくして同じような声がきこえました。

「置いてけえ。」

阿部さんも堪らなくなって飛び起きました。そうして、あわたゞしくお幾をよびました。

「おい、おい。早く来てくれ」

広くもない家ですから、お幾はすぐに女部屋から出て来ました。

「御用でございますか。」

蚊帳越しに枕もとへ寄って来たお幾の顔が、ほの暗い行燈の火に照されて、今夜はひどく美しくみえたので、阿部さんも変に思ってよく見ると、やはりいつものお幾の顔に相違ないのでした。

「誰かそこらに居やしないか。よく見てくれ。」

お幾はそこらを見まわして、誰もいないと云ったが、阿部さんは承知しません。次の間から、納戸から、縁側から、便所から、しまいには戸棚のなかまでも一々あらためさせて、鼠一匹もいないことを確かめて、阿部さんも先ず安心しました。

「まったくいないか。」

「なんにも居りません。」

そういうお幾の顔が又ひどく美しいようにみえたので、阿部さんはなんだか薄気味悪くなりました。まえにも云う通り、お幾は先ず一通りの容貌きりょうで、決して美人というたぐいではありません。殊に見得にも振りにもかまわない山出しで、年も三十に近い。それがどうしてこんなに美しく見えるのか、毎日見馴れているお幾の顔を、今さら見違える筈もない。熱があるのでおれの眼がぼうとしているのかも知れないと阿部さんは思いました。

門のくゞりを推す音がきこえたので、お幾が出てみると、主人の弟の正木新五郎が見舞に来たのでした。お幾は医者へ行く途中で、正木の家の中間に出逢ったので、主人が蝮に咬まれたという話をすると、中間もおどろいて注進に帰ったのですが、生憎に新五郎はその時不在で、四つ(午後十時)近い頃にようやく戻って来て、これもその話におどろいて夜中すぐに見舞にかけ着けて来たというわけです。新五郎は今年十九ですが、もう番入りをして家督を相続していました。兄よりは一嵩ひとかさも大きい、見るから強そうな侍でした。

「兄さん。どうした。」

「いや、ひどい目に逢ったよ。」

兄弟は蚊帳越しで話していると、そこへお幾が茶を持って来ました。その顔が美しいばかりでなく、阿部さんの眼のせいか、姿までが痩形で、如何にもしなやかに見えるのです。どうも不思議だと思っていると、阿部さんの耳に又きこえました。

「置いてけえ」

阿部さんは不図かんがえました。

「新五郎。おまえ今夜泊まってくれないか。いや、看病だけならお幾ひとりで沢山だが、おまえには別に頼むことがある。おれの大小や、長押なげしにかけてある槍なんぞを、みんな何処かへ隠してくれ。そうして万一おれが不意にあばれ出すようなことがあったら、すぐに取って押さえてくれ。おとなしく云うことを肯かなかったら、縄をかけて厳重に引っくゝってくれ。かならず遠慮するな。屹きっとたのむぞ。」

なんの訳かよく判らないが、新五郎は素直に受合って、兄の指図通りに大小や槍のたぐいを片附けてしまいました。自分はこゝに泊り込むつもりですから新五郎は兄と一つ蚊帳に這入る。用があったら呼ぶからと云って、お幾を女部屋に休ませる。これで家のなかもひっそりと鎮まった。入江町の鐘が九つ(午後十二時)を打つ。阿部さんはしばらくうと〱していましたが、やがて眼がさめると、少し熱があるせいか、しきりに喉が渇いて来ました。女部屋に寝ているものをわざ〱呼び起すのも面倒だと思って、阿部さんはとなりに寝ている弟をよびました。

「新五郎、新五郎。」

新五郎はよく寝入っているとみえて、なか〱返事をしません。

よんどころなく大きい声でお幾をよびますと、お幾はやがて起きて来ました。主人の用を聞いて、すぐに茶碗に水を入れて来ましたが、そのお幾の寝みだれ姿というのが又一層艶っぽく見えました。と思うと、また例の声が哀れにきこえます。

「置いてけえ。」

心の迷いや空耳とばかりは思っていられなくなりました。眼のまえにいるお幾は、どうしてもほんとうのお幾とは見えません。置いてけの声も、こうしてたび〱聞える以上、どうしても空耳とは思われません。阿部さんは起き直って蚊帳越しに訊きました。

「おまえは誰だ。」

「幾でございます。」

「嘘をつけ、正体をあらわせ。」

「御冗談を……。」

「なにが冗談だ。武士に祟ろうとは怪しからぬ奴だ。」

阿部さんは茶碗を把とって叩き付けようとすると、その手は自由に働きません。さっきから寝入った振りをして兄の様子をうかゞっていた新五郎が、いきなり跳ね起きて兄の腕を取押さえてしまったのです。押さえられて、阿部さんはいよ〱焦れ出しました。

「新五郎。邪魔をするな。早く刀を持って来い。」

新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。

「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」

さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ〱と弟に押さえられていました。

「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。

「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。

「はい、はい。」

お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊つげの櫛でした。

「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん〱に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」

「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。

「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう〱判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が可怪おかしいようだと思って、前以て弟に取押方をたのんで置いたのは大出来でした。左もなかったら、むやみ矢鱈に刀でも振りまわして、どんな大騒ぎを仕出来しでかしたかも知れないところでした。阿部さんはそれに懲りたとみえて、その後は内職の釣師を廃業したということです。」

なるほど老人の云った通り、この長い話を終るあいだに、躑躅見物の女連は帰って来なかった。

落城の譜

一

「置いてけ堀」の話が一席すんでも、女たちはまだ帰らない。その帰らない間にわたしは引揚げようと思ったのであるが、老人はなか〱帰さない。色々の話がそれからそれへはずんで行った。

「いや、あなたが昨日おいでになると、丁度こゝに面白い人物が来ていたのですがね。その人は森垣幸右衛門と云って――明治以後はその名乗りを取って、森垣道信みちのぶというむずかしい名に換えてしまいましたが――わたくしの久しいお馴染なんです。維新後は一時横浜へ行っていたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ帰って来てから時計屋をはじめて、それがうまく繁昌して、今では大森の方へ別荘のようなものをこしらえて、まあ楽隠居という体で気楽に暮しています。なに、わたくしと同じようだと仰しゃるか。どうして、どうして、わたくしなどは何うにか斯うにか息をついていると云うだけで、とても森垣さんの足もとへも寄附かれませんよ。その森垣さんが躑躅見物ながら昨日久しぶりで尋ねてくれて、色々のむかし話をしました。その人にはこういう変った履歴があるのです。まあ、お聴きなさい。」

わたくしはもうその年月を忘れてしまったのですが、きのう森垣さんに云われて、はっきりと思い出しました。それは文久元年の夏のことで、その頃わたくしは何うも毎晩よく眠られない癖が付きましてね、まあ今日こんにちならば神経衰弱とでも云うのでしょうか、なんだか頭が重っ苦しくって気が鬱ふさいで、なにをする元気もないので、気晴しのために近所の小さい講釈場へ毎日通ったことがありました。今も昔もおなじことで、講釈場の昼席などへ詰めかけている連中は、よっぽどの閑人ひまじんか怠け者か、雨にふられて仕事にも出られないという人か、まあそんな手合てあいが七分でした。

わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、家うちにいてもくさ〱する、さりとて的あてなしに往来をぶら〱してもいられないと云うようなことで、半分は昼寝をするような積りで毎日出かけていたのでした。それでも半月以上もつゞけて通っているうちに、幾人も顔なじみが出来て、家にいるよりは面白いということになりました。昼席には定連が多いので、些ちっとつゞけて通っていると、自然と懇意の人が殖えて来ます。その懇意のなかに一人のお武家がありました。

お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど閑ひまな体だとみえて、大抵毎日のように詰めかけている。しかもわたくしの隣に坐っていることも屡〻あるので、自然特別に心安くなりましたが、どこの何ういう人だか云いもせず聞きもせず、たゞ一通りの時候の挨拶や世間話をするくらいのことでした。ところが、ある日の高座で前講ぜんこうのなんとかいう若い講釈師が朝鮮軍記の碧蹄館へきていかんの戦いを読んだのです。

明みんの大軍三十万騎が李如松りじょしょうを大将軍として碧蹄館へくり出してくる。日本の方では小早川隆景、黒田長政、立花宗茂と云ったような九州大名が陣をそろえて待ちうける。いや、とてもわたくしが修羅場をうまく読むわけには行かないから、張扇はりおうぎをたゝき立てるのは先ずこのくらいにして、さて本文に這入りますと、なにを云うにも敵の大軍が野にも山にも満ち〱ているので、さすがの日本勢もそれを望んで少しく気怯おくれがしたらしい。大将の小早川隆景が早くもそれを看て取って、味方の勇気を挫かせないために、わざと後うしろ向きに陣を取らせた。こうすれば敵はみえない。なるほど巧いことをかんがえたと講釈師は云いますが、嘘かほんとうか、それはあなたの方がよく御承知でしょう。そこで小早川は貝をふく者に云いつけて、出陣の貝を吹かせようとしたが、こいつも少し怯おびえているとみえて、貝を持つ手がふるえている。これはいけない。勇気をはげます貝の音が万一いつもよりも弱いときは、ます〱士気を弱める基もといであると思ったので、小早川自身がその法螺貝を取って、馬上で高くふき立てると、それが北風に冴えて、味方は勿論、敵の陣中までもひゞき渡る。明の三十万騎は先ずこれに胆をひしがれて、この戦いに大敗北をするという一条。それを上手な先生がよんだらば定めて面白いのでしょうが、なにしろ前講の若い奴が、横板に飴で、途切れ途切れに読むのですから遣切れません。その面白くないことおびたゞしい。

おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと〱と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ〱貝をふくという件くだりになると、親の遺言を聴くか、ありがたい和尚様のお説教でも聴くときのように、じっと眼をすえて、息をのみ込んで、一心不乱に耳をすましているという形であるので、わたくしも少し不思議に思いました。しかし根がお武家であるので、こういう軍談には人一倍の興を催しているのかとも思って、深くは気にも留めませんでした。

七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり〱と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも些ちっとのあいだ雨やどりをしてお出でなさいと、相手が辞退するのを無理に誘って路地のなかにあるわたくしの家へ連れ込みました。連れて来ていゝ事をしました。ふたりが家の格子をくゞると、ゆう立はぶち撒けるように強く降って来ました。

「おかげさまで助かりました。」

お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ〱気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から厄介になっているとのことでした。そのうちに雨もやんで、涼しそうな星がちら〱と光って来たので、お武家は繰返して礼を云って帰りました。

唯それだけのことで、こっちでは左のみ恩にも被せていなかったのですが、そのお武家はひどく義理がたい人とみえて、あくる日の早朝に菓子の折を持って礼に来たので、わたくしもいさゝか恐縮しました。奥へ通して色々の話をしているうちに、双方がます〱打解けて、お武家は自分の身の上話をはじめました。このお武家が前に云った森垣幸右衛門という人で、その頃はまだ内田という苗字であったのです。

森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの時に法螺貝をふく役です。一口にほらを吹くと云いますけれど、本式に法螺を吹くのはなか〱むずかしい。山伏の法螺でさえ容易でない、まして軍陣の駈引に用いる法螺と来ては更にむずかしいことになっていました。やはり色々の譜があるので、それを専門に学んだものでなければ滅多に吹くことは出来ません。拙者は貝をつかまつると云えば、立派に武士の云い立てになったものです。森垣さんはその貝の役の家に生まれて去年の秋までは無事につとめていたのですが、人間というものは判らないもので、なまじいに貝が上手であったために、飛んでもないことを仕出来すようになったのです。

二

貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では大館おおだて宇兵衛という人が師範役でした。その人は貝の名人で、この人が貝を吹くと六里四方にきこえるとか、この人が貝を吹いたら羽黒山の天狗山伏が聴きに来たとか、いろ〱の云い伝えがあるそうです。年を取っても不思議に息のつゞく人でしたが、三年まえに七十幾歳とかいう高齢で死にました。この人に子はありましたが、歯が悪くて貝の役は勤められず、若いときから他の役にまわされていたので、その家にある貝の秘曲を伝え受けることが出来ませんでした。

わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣さんで、宇兵衛は自分の死ぬ一年ほど前に、森垣さんを自分の屋敷へよびよせて、貝の秘曲を伝授しました。伝授すると云っても、その譜をかいてある巻物まきものをゆずるのです。座敷のまん中にむかい合って、弟子はその巻物をひろげて一心に見ていると、師匠が一度ふいて聞かせる。たゞそれだけのことですが、秘曲をつたえられるほどの素養のある者ならば、その譜を見ただけでも十分に吹ける筈だそうです。笙の秘曲なぞを伝えるのも矢はりそれだそうで、例の足柄山で新羅三郎義光が笙の伝授をする図に、義光と時秋とがむかい合って笙を吹いているのは間違っていて、義光は笙をふき、時秋は秘曲の巻まきを見ているのが本当だということですが、どうでしょうか。

宇兵衛は三つの秘曲を伝授して、その二つだけは吹いて聞かせましたが、最後の一つは吹かないで、たゞその譜のかいてある巻物をあたえただけでした。

「これは一番大切なものであって、しかも妄りに吹くことは出来ぬものである。万一の場合のほかは決して吹くな。おれも生涯に一度も吹いたことは無かった。おまえも吹く時のないように神仏に祈るがよい。」

それは落城の譜というのでありました。城がいよ〱落ちるというときに、今が最後の貝をふく。なるほど、これは大切なものに相違ありません。そうして、めったに吹くことの出来ないものです。これを吹くようなことがあっては大変です。貝の役としては勿論心得ていなければならないのですが、それを吹くことの無いように祈っていなければなりません。

「万一の場合のほかに決して吹くな。」

師匠はくり返して念を押すと、森垣さんもかならず吹かないと誓を立てゝ、その譜の巻物をゆずられました。それも畢竟は森垣さんの伎倆が師匠に見ぬかれたからで、芸道の面目、身の名誉、森垣さんも人に羨まれているうちに、その翌年には師匠の宇兵衛が歿しました。こうなると森垣さんの天下で、ゆく〱は師匠のあとを嗣いで師範役をも仰せつけられるだろうと噂されていましたが、前にも云った通り、こゝに飛んでもない事件が出来しゅったいしたのです。

森垣さんは師匠から三つの秘曲をつたえられましたが、そのなかで最も大切に心得ろと云われた例の落城の譜――それはどうしても吹くことが出来ない。泰平無事のときに落城の譜をふくと云うことは、城の滅亡を歌うようなもので、武家に取っては此上もない不吉です。ある意味に於いては主人のお家を呪うものとも見られます。師匠が固く戒めたのもそこの理窟で、それは森垣さんも万々心得ているのですが、そこが人情、吹くなと云われると何うも吹いて見たくて堪らない。それでも三年ほどは辛抱していたのですが、もう我慢が仕切れなくなって来ました。うっかり吹いたらばどんなお咎めをうけるかも知れない、まかり間違えば死罪になるかも知れない。それを承知していながら、何分にも我慢が出来ない。どうも困ったことになったものです。

それでも初めのうちは一生懸命に我慢して、巻物の譜を眺めるだけで堪こらえていたのですが、仕舞にはどうしても堪え切れなくなって来ました。なんでも八月十四日の晩だそうです。あしたが十五夜で、今夜も宵から月のひかりが皎々と冴えている。森垣さんは縁側に出てその月を仰いでいると、空は見果てもなしに高く晴れている。露のふかい庭では虫の声がきこえる。森垣さんはしばらくそこに突っ立っているうちに、例の落城の譜のことを思い出すと、もう矢も楯も堪らなくなりました。今夜こそはどうしても我慢が出来なくなりました。

「その時は我ながら夢のようでござった。」と、森垣さんはわたくしに話しました。

まったく夢のような心持で、森垣さんは奥座敷の床の間にうや〱しく飾ってある革の手箱のなかから彼の巻物をとり出して、それを先ずふところに押込み、ふだんから大切にしている法螺の貝をかゝえ込んで、自分の屋敷をぬけ出しました。夢のようだとは云っても、さすがに本性は狂いません。城下でむやみに吹きたてると大変だと思ったので、なるべく遠いところへ行って吹くつもりで、明るい月のひかりをたよりに、一里あゆみ、二里あゆみ、とう〱城下から三里半ほど距はなれたところまで行き着くと、そこはもう山路でした。路の勝手はかねて知っているので、森垣さんはその山路をのぼって、中腹の平なところへ出ると、そこには小さい古い社やしろがあります。うしろには大木がしげり合っていますが、東南は開けていて、今夜の月を遮るようなものはありません。城の櫓も、城下の町も、城下の川も、夜露のなかにきら〱と光ってみえます。それを遠くながめながら、森垣さんは社の縁に腰をおろしました。

「こゝなら些ちっとぐらい吹いても、誰にも覚られることはあるまい。」

譜はもう暗記するほどに覚えているのですが、それでも念のためにその巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。

それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ〱明るくなる、吹く人もだん〱興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く〱吹き出すと、夜がおい〱に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。

その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす曲者くせものは、すぐ召捕れという下知があったところへ、家老のなにがしが俄に殿の御前へ出て、容易ならぬことを言上しました。

「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」

勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ〱大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。

そんなことゝは些ちっとも知らない森垣さんは、吹くだけ吹いて満足して、年来の胸のかたまりが初めて解けたような心持で、足も軽く戻って来る途中、召捕の人数に出逢いました。貝を持っているのが証拠で、なんとも云いぬけることが出来ず、森垣さんはその場から城内へ引っ立てられました。これはしまったと、森垣さんももう覚悟をきめたのですが、それでも途中で気がついて、ふところに忍ばせてある落城の譜の一巻を竊そっと路ばたの川のなかへ投げ込みました。夜のことで、幸いに誰にも覚られず、殊にそこは山川の流れがうず巻いて、深い淵のようになっている所であったので、巻物は忽ちに底ふかく沈んでしまいました。

三

城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと〱秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう〱強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。

森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。

「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。

こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん〱相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都合もよかろうと、わたくしが例のお世話焼きでこっちへも勧め、あっちをも説きつけて、この縁談は好い塩配にまとまりました。森垣さんはそれ以来、本姓の内田をすてゝ養家の苗字を名乗ることになったのです。

「朝鮮軍記の講釈で、小早川隆景が貝を吹く件くだりをきいている時には、自分のむかしが思い出されて、もう一度貝をふく身になりたいと思いましたが、それはその時だけのことで、武家奉公はもう嫌です。まったく今の身の方が気楽です。」と、その後に森垣さんはしみ〲と云いました。

そういう関係から森垣さんとは特別に近しく附合って、今日では先方は金持、こちらは貧乏人ですが、相変らず仲よくしているわけです。わたくしは世話ずきで、むかしから色々の人の世話もしましたが、森垣さんのような履歴を持っているのは、まあ変った方ですね。

森垣さんのお話はこれぎりですが、この法螺の貝について別に可笑しいお話があります。それはある与力のわかい人が組頭の屋敷へ逢いに行った時のことです。御承知でもありましょうが、旗本でも御家人でも、その支配頭や組頭には毎月幾度という面会日があって、それをお逢いの日といいます。組下のもので何か云い立てることがあるものは、その面会日にたずねて行くことになっているのですが、ほかに云い立てることはありません、なにかの芸を云い立てゝ役附にして貰うように頼みに行くのです。定めてうるさいことだろうと思われますが、自分の組内から役附のものが沢山出るのはその組頭の名誉になるので、組頭は自分の組下の者にむかって何か申立てろと催促するくらいで、面会日にたずねて行けば、よろこんで逢ってくれたそうです。

そこで、その与力は組がしらの屋敷に逢いに行ったのです。こう云うことを頼みに行くのは、いずれも若い人ですから、組頭のまえに出てやゝ臆した形で、小声で物を云っていました。

「して、お手前の申立ては。」と、組頭が訊きました。

「手前は貝をつかまつります。」

組頭は老人で、すこしく耳が遠いところへ、こっちが小声で云っているので能く聴き取れない。二度も三度も訊きかえし、云い返して、両方がじれ込んで来たので、組頭は自分の耳を扇で指して、おれは耳が遠いから傍へ来て大きい声で云えと指図したので、若い与力はすゝみ出てまた云いました。

「手前は貝をつかまつる。」

「なに。」と組頭は首をかしげた。

まだ判らないらしいので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。

「手前は法螺をふく。」

「馬鹿。」

与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲ぶたれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。

「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」

相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟けむにまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ〱の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく〱もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ〱しながら出て来ました。

「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」

だん〱聴いてみると、この組がしらの老人、ほらを吹くと云ったのを、俗に所謂ほらを吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほらを吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ〱使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。

組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほらをふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。

老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ〱帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。

権十郎の芝居

一

これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡〻こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。

老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から廃すたれてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一軒の大きい植木屋が残っているが、それはむかしの躑躅園の一つであるということを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もこゝから余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にどう変ったのか些ちっともわからない。老人の宅はむかしの百人組同心の組屋敷を修繕したもので、そこには杉の生垣に囲まれた家が幾軒もつゞいていたのを明かに記憶しているが、今日その番地の辺をたずねても杉の生垣などは一向に見あたらない。あたりにはすべて当世風の新しい住宅や商店ばかりが建ちつゞいている。町が発展するにしたがって、それらの古い建物はだん〱に取毀されてしまったのであろう。

昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり〱と眼のまえに浮んでくる。

いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向い合っている。老人は「権十郎の芝居」という昔話をしているのであった。

あなたは芝居のことを調べていらっしゃるようですから、今のことは勿論、むかしのことも好く御存じでしょうが、江戸時代の芝居小屋というものは実に穢い。今日の場末の小劇場だって昔にくらべれば遙かに立派なものです。それでもその当時は、三芝居だとか檜舞台だとか云って、むやみに有難がっていたもので、今から考えると可笑おかしいくらい。なにしろ、芝居なぞというものは町人や職人が見るもので、所謂知識階級の人たちは立ち寄らないことになっていたのですから、今日とは万事が違います。

それでは学者や侍は芝居を一切見物しないかと云うと、そうではない。芝居の好きな人は矢はり覗きに行くのですが、まったく文字通りに「覗き」に行くので、大手をふって乗り込むわけには行きません。勿論、武家法度はっとのうちにも武士は歌舞伎を見るべからずという個条はないようですが、それでも自然にそういう習慣が出来てしまって、武士は先ずそういう場所へ立寄らないことになっている。一時はその習慣もよほど廃れかゝっていたのですが、御承知の通り、安政四年四月十四日、三丁目の森田座で天竺徳兵衛の狂言を演じている最中に、桟敷に見物していた肥後の侍が、たとい狂言とはいえ、子として親の首を打つということがあろうかというので、俄に逆上して桟敷を飛び降り、舞台にいる天竺徳兵衛の市蔵に斬ってかゝったという大騒ぎ。その以来、侍の芝居見物ということが又やかましくなりまして、それまでは大小をさしたまゝで芝居小屋へ這入ることも出来たのですが、以来は大小をさして木戸をくゞること堅く無用、腰の物はかならず芝居茶屋にあずけて行くことに触れ渡されてしまいました。

それですから、侍が芝居を見るときには、大小を茶屋にあずけて、丸腰で這入らなければならない。つまり吉原へ遊びに行くのと同じことになったわけですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと云う熱心家は、芝居茶屋に大小をあずけ、羽織もあずけ、そこで縞物の羽織などに着かえるものもある。用心のいゝのは、身ぐるみ着かえてしまって、双子ふたこの半纏などを引っかけて、手拭を米屋かぶりなどにして土間の隅の方で竊そっと見物しているものもある。いずれにしても、おなじ銭を払いながら小さく見物している傾きがある。どこへ行っても威張っている侍が、芝居へくると遠慮をしているというのも面白いわけでした。

前置がちっと長くなりましたが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、阿母おっかさんと中間ちゅうげんと下女と四人暮しで、先ず無事に御役をつとめていたのですが、この人に一つの道楽がある。それは例の芝居好きで、どこの座が贔屓だとか、どの俳優やくしゃが贔屓だとか云うのでなく、どこの芝居でも替り目ごとに覗きたいというのだから大変です。ほかの小遣いはなるたけ倹約して、みんな猿若町へ運んでしまう。侍としてはあまり好いい道楽ではありません。いつぞやお話をした桐畑の太夫――あれよりはずっと優ましですけれども、やはり世間からは褒められない方です。

それでも阿母おっかさんは案外に捌けた人で、いくら侍でも若いものには何かの道楽がある。女狂いよりは芝居道楽の方がまだ始末がいゝと云ったようなわけで、さのみにやかましく云いませんでしたから、本人は大手をふって屋敷を出てゆく。そのうちに一つの事件が出来しゅったいした。というのは、文久二年の市村座の五月狂言は「菖蒲合仇討講談しょうぶあわせあだうちこうだん」で、合邦がっぽうヶ辻に亀山の仇討を綴じあわせたもの。俳優やくしゃは関三せきさんに団蔵、粂三郎、それに売出しの芝翫、権十郎、羽左衛門というような若手が加わっているのだから、馬鹿に人気が好い。二番目は堀川の猿まわしで、芝翫の与次郎、粂三郎のおしゅん、羽左衛門の伝兵衛、おつきあいに関三と団蔵と権十郎の三人が掛取りを勤めるというのですから、これだけでも立派な呼び物になります。その辻番附をみただけでも、藤崎さんはもうぞく〱して初日を待っていました。

なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の帷子かたびらをきて、大小に雪踏せったばきという拵え、しかし袴は着けていません。茶屋に羽織と大小をあずけて、着ながしの丸腰で木戸を這入る。兎も角も武家である上に、毎々のおなじみですから茶屋でも粗略には扱いません。若い衆に送られて、藤崎さんは土間のお客になりました。

たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論に割込みです。そのころの平土間一枡は七人詰ですから、ほかに六人の見物がいる。たとい丸腰でも、髪の結い方や風俗でそれが武家か町人か十分に判りますから、おなじ枡の人たちも藤崎さんに相当の敬意を払って、なるだけ楽に坐らせてくれました。ほかの六人も一組ではありません、四人とふたりの二組で、その一組は町家の若夫婦と、その妹らしい十六七の娘と、近所の人かと思われる二十一二の男、ほかの一組は職人らしい二人連でした。この二組はしきりに酒をのみながら見物している。藤崎さんも少しは飲みました。

いつの代の見物人にも俳優やくしゃの好き嫌いはありますが、とりわけて昔はこの好き嫌いが烈しかったようで、自分の贔屓俳優は親子兄弟のように可愛がる。自分の嫌いな俳優は仇のように憎がるというわけで、俳優の贔屓争いから飛んでもない喧嘩や仲違たがいを生じることも屡〻ありました。ところで、この藤崎さんは河原崎権十郎が嫌いでした。権十郎は家柄がいゝのと、年が若くて男前がいゝのとで、御殿女中や若い娘達には人気があって「権ちゃん、権ちゃん」と頻りに騒がれていたが、見巧者みごうしゃ連のあいだには余り評判がよくなかった。藤崎さんも年の割には眼が肥えているから、どうも権十郎を好かない。いや、好かないのを通り越して、あんな俳優は嫌いだと不断から云っているくらいでした。

その権十郎が今度の狂言では合邦がっぽうと立場たてばの太平次をするのですから、権ちゃん贔屓は大涎れですが、藤崎さんは少し納まりません。権十郎が舞台へ出るたびに、顔をしかめて舌打をしていましたが、仕舞にはだん〱に夢中になって、口のうちで、「あゝまずいな、まずいな。下手な奴だな。この大根め」などと云うようになった。それが同じ枡の人たちの耳に這入ると、四人連れのうちの若いおかみさんと妹娘とが顔の色を悪くしました。この女たちは大の権ちゃん贔屓であったのです。そのとなりに坐っていて、権十郎はまずいの、下手だのとむやみに罵っているのだから堪りません。おかみさんも仕舞には顳顬こめかみに青い筋をうねらせて、自分の亭主にさゝやくと、めん鶏勧めて雄鶏が時を作ったのか、それとも亭主もさっきから癪に障っていたのか、藤崎さんにむかって「狂言中はおしずかに願います。」と咎めるように云いました。

藤崎さんも逆らわずに、一旦はおとなしく黙ってしまったのですが、少し経つと又夢中になって「まずいな、まずいな。」と口のうちで繰返す。そのうちに幕がしまると、その亭主は藤崎さんの方へ向き直って、切口上で訊きました。

「あなたは先程から頻りに山崎屋をまずいの、下手だの、大根だのと仰しゃっておいでゝございましたが、どう云うところがお気に召さないのでございましょうか。」

前にも申す通り、その当時の贔屓というものは今日とはまた息込みが違っていて、たといその俳優やくしゃに一面識が無くとも、自分が蔭ながら贔屓している以上、それを悪く云う奴等は自分のかたきも同様に心得ている時節ですから、この男も眼の色をかえて藤崎さんを詰問したわけです。こういう相手は好いい加減にあしらって置けばいゝのですが、藤崎さんも年がわかい、おまけに芝居気ちがいと来ている。まだその上に、町人のくせに武士に向って食ってかゝるとは怪しからん奴だという肚もある。かた〲我慢が出来なかったとみえて、これも向き直って答弁をはじめました。むかしの芝居は幕間まくあいが長いから、こんな討論会にはおあつらえ向きです。

権十郎の芸がまずいか、拙くないか、いつまで云い合っていたところで、所詮は水かけ論に過ぎないのですが、両方が意地になって云い募りました。ばか〱しいと云ってしまえばそれ迄ですが、この場合、両方ともに一生懸命です。相手の連の男も加勢に出て、藤崎さんを云い籠めようとする。おかみさんや妹娘までが泣声を出して食ってかゝる。近所となりの土間にいる人達もびっくりして眺めている。なにしろ敵は大勢ですから、藤崎さんもなか〱の苦戦になりました。

ほかの二人づれの職人はさっきから黙って聴いていましたが、両方の議論がいつまでも果しがないので、その一人が横合から口を出しました。

「もし、皆さん。もう好い加減にしたらどうです。いつまで云い会った「云い会った」はママところで、どうで決着は付きやあしませんや。第一、御近所の方達も御迷惑でしょうから。」

藤崎さんは返事もしませんでしたが、一方の相手はさすがに町人だけに、のぼせ切っているなかでも慌てゝ挨拶しました。

「いや、どうも相済みません。まったく御近所迷惑で、申訳もございません。お聴きの通りのわけで、このお方があんまり判らないことを仰しゃるもんですから……。」

「うっちゃってお置きなせえ。おまえさんが相手になるからいけねえ。」と、もう一人の職人が云いました。「山崎屋がほんとうに下手か上手か、ぼんくらに判るものか。」

「そうさな。」と、前の一人が又云いました。「あんまりからかっていると、仕舞には舞台へ飛びあがって、太平次にでも咬くらいつくかも知れねえ。あぶねえ、あぶねえ。もうおよしなせえ。」

職人ふたりは藤崎さんを横目に視ながらせゝら笑いました。

二

この職人たちも権十郎贔屓とみえます。さっきから黙って聴いていたのですが、藤崎さんが飽までも強情を張って、意地にかゝって権十郎をわるく云うので、ふたりももう我慢が出来なくなって、四人連の方の助太刀に出て来たらしい。口では仲裁するように云っているが、その実は藤崎さんの方へ突っかかっている。殊に舞台へ飛びあがって太平次にくらい付くなどというのは、例の肥後の侍の一件をあて付けたもので、藤崎さんを武家とみての悪口でしょう。それを聞いて、藤崎さんもむっとしました。

いくら相手が町人や職人でも、一桝のうちで六人がみな敵では藤崎さんも困ります。町人たちの方では味方が殖えたので、いよ〱威勢がよくなりました。

「まったくでございますね。」と、亭主の男もせゝら笑いました。「なにしろ芝居とお能とは違いますからね。一年に一度ぐらい御覧になったんじゃあ、ほんとうの芸は判りませんよ。」

「判らなければ判らないで、おとなしく見物していらっしゃれば好いいんだけれど……。」と、若いおかみさんも厭いやに笑いました。「これでもわたし達は肩揚のおりないうちから、替り目ごとに欠さずに見物しているんですからね。」

かわる〲に藤崎さんを嘲弄するようなことを云って、しまいには何がなしに声をあげてどっと笑いました。藤崎さんはいよ〱癪に障った。もうこの上はこんな奴等と問答無益、片っ端から花道へひきずり出して、柔術の腕前をみせてやろうかとも思ったのですが、どうしても、そんなことは出来ない。侍が芝居見物にくる、単にそれだけならば兎もかくも黙許されていますが、こゝで何かの事件をひき起したら大変、どんなお咎めを蒙るかも知れない。自分の家にも疵が付かないとは限らない。いくら残念でも場所が悪い。藤崎さんは胸をさすって堪えているより外はありません。そこへ好い塩梅に茶屋の若い衆が来てくれました。

若い衆もさっきから此のいきさつを知っているので、いつまでも咬み合わして置いて何かの間違いが出来てはならないと思ったのでしょう。藤崎さんを宥めるように連れ出して、別の土間へ引越させることにしました。ほかの割込みのお客と入れかえたのです。藤崎さんもこんなところにいるのは面白くないので、素直に承知して引越しましたが、今度の場所は今までよりも三四間あとのところで、喧嘩相手のふた組は眼のまえに見えます。その六人が時々にこちらを振返って、なにか話しながら笑っている。屹度おれの悪口を云っているに相違ないと思うと、藤崎さんはます〱不愉快を感じたのですが、根が芝居好きですから中途から帰るのも残り惜しいので、まあ我慢して二番目の猿まわしまで見物してしまったのです。

芝居を出たのは彼是かれこれ五つ(午後八時)過ぎで、贅沢な人は茶屋で夜食を食って帰るものもありますが、大抵は浅草の広小路辺まで出て来て、そこらで何か食って帰ることになっている。御承知の奴やっこうなぎ、あすこの鰻めしが六百文、大どんぶりでなか〱立派でしたから、芝居がえりの人達はあすこに寄って行くのが多い。藤崎さんもその奴うなぎの二階で大どんぶりを抱え込んでいると、少しおくれて這入って来たのが喧嘩相手の四人で、職人は連でないから途中で別れたのでしょう。町人夫婦と妹娘と、もう一人の男とが繋がって来たのです。二階は芝居帰りの客がこみ合っているので、どちらの席も余程距れていましたが、藤崎さんの方ではすぐに気がつきました。

きょうの芝居は合邦ヶ辻と亀山と、かたき討の狂言を二膳込みで見せられたせいか、藤崎さんの頭にも「かたき討」という考えが余ほど強くしみ込んでいたらしく、こゝで彼の四人連に再び出逢ったのは、自分の尋ねる仇にめぐり逢ったようにも思われたのです。たんとも飲まないが、藤崎さんの膳のまえには徳利が二本ならんでいる。顔もぽうと紅くなっていました。

そのうちに、彼の四人連もこっちを見つけたとみえて、のび上って覗きながら又なにか囁きはじめたようです。そうして、時々に笑い声もきこえます。

「怪しからん奴等だ。」と、藤崎さんは鰻を食いながら考えていました。かえり討やら仇討やら、色々の殺伐な舞台面がその眼のさきに浮び出しました。

早々に飯を食ってしまって、藤崎さんはこゝを出ました。かの四人連が下谷の池の端から来た客だということを芝居茶屋の若い衆から聞いているので、藤崎さんは先廻りをして広徳寺前のあたりにうろ〱していると、この頃の天気癖で細かい雨がぽつ〱降って来ました。今と違って、あの辺は寺町ですから夜はさびしい。藤崎さんはある寺の門の下に這入って、雨宿りでもしているようにたゝずんでいると、時々に提灯をつけた人が通ります。その光をたよりに、来る人の姿を一々あらためていると、やがて三四人の笑い声がきこえました。それが彼の四人づれの声であることをすぐに覚って、藤崎さんは手拭で顔をつゝみました。

人は四人、提灯は一つ。それがだん〱に近寄ってくるのを二三間やり過して置いて、藤崎さんはうしろから足早に附けて行ったかと思うと、亭主らしい男はうしろ袈裟に斬られて倒れました。わっと云って逃げようとするおかみさんも、つゞいて其場に斬り倒されました。連の男と妹娘は、人殺し人殺しと怒鳴りながら、跣足になって前とうしろへ逃げて行く。どっちを追おうかと少しかんがえているうちに、その騒ぎを聞きつけて、近所の珠数屋が戸をあけて、これも人殺し人殺しと怒鳴り立てる。ほかからも人のかけてくる足音が聞える。藤崎さんも我身があやういと思ったので、これも一目散に逃げてしまいました。

下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって、俗に磯馴そなれの番所といいます。その番所前も無事に通り越して、もう安心だと思うと、藤崎さんは俄にがっかりしたような心持になりました。だんだんに強くなってくる雨に濡れながら、しずかに歩いているうちに、後悔の念が胸先を衝きあげるように湧いて来ました。

「おれは馬鹿なことをした。」

当座の口論や一分の意趣で刃傷沙汰に及ぶことはめずらしくない。しかし仮にも武士たるものが、歌舞伎役者の上手下手をあらそって、町人の相手をふたりまでも手にかけるとは、まことに類の少い出来事で、いくら仇討の芝居を見たからと云って、とんだ仇討をしてしまったものです。藤崎さんも今となっては後悔のほかはありません。万一これが露顕しては恥の上塗りであるから、いっそ今のうちに切腹しようかとも思ったのですが、先ず兎もかくも家へ帰って、母にもそのわけを話して暇乞いをした上で、しずかに最期を遂げても遅くはあるまいと思い直して、夜のふけるころに市ヶ谷の屋敷へ帰って来ました。

奉公人どもを先ず寝かしてしまって、藤崎さんは今夜の一件をそっと話しますと、阿母おっかさんも一旦はおどろきましたが、はやまって無暗に死んではならない、組頭によくその事情を申立てゝ、生きるも死ぬもその指図を待つがよかろうと云うことになって、その晩はそのまゝ寝てしまいました。夜があけてから藤崎さんは組頭の屋敷へ行って、一切のことを正直に申立てると、組がしらも顔をしかめて考えていました。

当人に腹を切らせてしまえばそれ迄のことですが、組頭としては成るべく組下の者を殺したくないのが人情です。殊に事件が事件ですから、そんなことが表向きになると、当人ばかりか組頭の身の上にも何かの飛ばっちりが降りかゝって来ないとも限りません。そこで組頭は藤崎さんに意見して、先ず当分は素知らぬ顔をして成行を窺っていろ。いよ〱詮議が厳重になって、お前のからだに火が付きそうになったらば、おれが内証で教えてやるから、その時に腹を切れ。かならず慌てゝはならないと、くれ〲も意見して帰しました。

母の意見、組頭の意見で、藤崎さんも先ず死ぬのを思いとまって、内心びく〱もので幾日を送っていました。斬られたのは下谷の紙屋の若夫婦で、娘はおかみさんの妹、連の男は近所の下駄屋の亭主だったそうです。斬られた夫婦は即死、ほかの二人は運よく逃れたので、町方でもこの二人について色々詮議をしましたが、何分にも暗いのと、不意の出来事に度をうしなっていたのとで、何がなにやら一向わからないと云うのです。それでも芝居の喧嘩の一件が町方の耳に這入って、芝居茶屋の方を一応吟味したのですが、茶屋でも何かのかゝり合を恐れたとみえて、そのお武家は初めてのお客であるから何処の人だか知らないと云い切ってしまったので、まるで手がかりがありません。第一、その侍が果して斬ったのか、それとも此頃流行る辻斬のたぐいか、それすら確かに見きわめは付かないので、紙屋の夫婦はとう〱殺され損と云う事になってしまいました。

それを聞いて、藤崎さんも安心しました。組頭もほっとしたそうです。それに懲りて、藤崎さんは好きな芝居を一生見ないことに決めまして、組頭や阿母おっかさんの前でも固く誓ったと云うことです。それは初めにも申した通り、文久二年の出来事で、それから六年目が慶応四年、すなわち明治元年で、江戸城あけ渡しから上野の彰義隊一件、江戸中は引っくり返るような騒ぎになりました。そのとき藤崎さんは彰義隊の一人となって、上野に立籠りました。六年前に死ぬべき命を今日まで無事に生きながらえたのであるから、こゝで徳川家のために死のうという決心です。

官軍がなぜ彰義隊を打っちゃって置くのか、今に戦争がはじまるに相違ないと江戸中でも頻りにその噂をしていました。わたくしも下谷に住んでいましたから、前々から荷作りをして、さあと云ったらすぐに立退く用意をしていたくらいです。そのうちに形勢がだん〱切迫して来て、いよ〱明日あすか明後日あさってには火蓋が切られるだろうという五月十四日の午ひる前から、藤崎さんはどこかへ出て行って、日が暮れても帰って来ません。

「あいつ気怯れがして脱走したかな。」

隊の方ではそんな噂をしていると、夜が更けてから柵を乗り越して帰って来ました。聞いてみると、猿若町の芝居を見て来たというのです。こんな騒ぎの最中でも、猿若町の市村座と守田座はやはり五月の芝居を興行していて、市村座は例の権十郎、家橘、田之助、仲蔵などという顔ぶれで、一番目は「八犬伝」中幕は田之助が女形で「大晏寺堤」の春藤次郎右衛門をする。二番目は家橘――元の羽左衛門です――が「伊勢音頭」の貢をするというので、なか〱評判は好かったのですが、時節柄ですから何うも客足が付きませんでした。藤崎さんは上野に立籠っていながら、その噂を聴いてかんがえました。

「一生の見納めだ。好きな芝居をもう一度みて死のう。」

隊をぬけ出して市村座見物にゆくと、なるほど景気はよくない。併しこゝで案外であったのは、あれほど嫌いな河原崎権十郎が八犬伝の犬山道節をつとめて、藤崎さんをひどく感心させたことでした。しばらく見ないうちに、権十郎はめっきり腕をあげていました。これほどの俳優やくしゃを下手だの、大根だのと罵ったのを、藤崎さんは今更恥しく思いました。やっぱり紙屋の夫婦の眼は高い。権十郎は偉い。そう思うにつけても藤崎さんはいよ〱自分の昔が悔まれて、舞台を見ているうちに自然と涙がこぼれたそうです。そうして、権十郎と紙屋の夫婦への申訳に、どうしても討死をしなければすまないと、覚悟の臍ほぞをかためたそうです。

そのあくる日は官軍の総攻撃で、その戦いのことは改めて申すまでもありません。藤崎さんは真先に進んで、一旦は薩州の兵を三橋のあたりまで追いまくりましたが、とう〱黒門口で花々しく討死をしました。それが五月十五日、丁度彼の紙屋の夫婦を斬った日で、しかも七回忌の祥月命日にあたっていたと云うのも不思議です。

もう一つ変っているのは、藤崎さんの死骸のふところには市村座の絵番附を入れていたと云うことです。彰義隊の戦死者のふところに経文をまいていたのは沢山ありました。これは上野の寺内に立籠っていた為で、なるほど有りそうなことですが、芝居の番附を抱いていたのは藤崎さん一人でしょう。番附の捨てどころがないので、何ということなしに懐中ふところへ捻じ込んで置いたのか、それとも最後まで芝居に未練があったのか、いずれにしても江戸っ子らしい討死ですね。

河原崎権十郎は後に日本一の名優市川団十郎になりました。

春色梅ごよみ

一

思い出すと、そのころの大久保辺はひどく寂しかった。躑躅つゝじのひと盛りを過ぎると、まるで火の消えたように鎮まり返って、唯やかましく聞えるのはそこらの田に啼く蛙の声ばかりであった。往来のまん中にも大きな蛇が蜿のたくっていて、わたしは時々におどろかされたことを記憶している。幾度もいうようであるが、まったくこゝらは著しく変った。

それでも幾分か昔のおもかげが残っていて、今でも比較的に広い庭園や空地を持っている家では、一種の慰み半分に小さい野菜畑などを作って素人園芸を楽しんでいるのも少くない。わたしの家うちのあき地にも唐もろこしを栽うえてあって、このごろはよほど伸びた長い葉があさ風に青く乱れているのも、又おのずからなる野趣がないでもない。三浦老人の旧宅にも唐蜀黍とうもろこしが栽えてあって、秋の初めにたずねてゆくと、老人はその出来のいゝのを幾分か御自慢の気味で、わたしを畑へ案内して見せたこともあった。焼いて食わせてくれたこともあった。家へのみやげにと云って大きいのを七八本も抱えさせられて、少々有難迷惑に感じたこともあった。

それも今では懐しい思い出の一つとなった。わたしはこのごろ自分の庭のあき地を徘徊して、朝に夕にめっきりと伸びてゆく唐もろこしの青い姿を見るたびに、三浦老人その人のすがたや、その当時はまだ青二才であった自分の若い姿などが見かえられて、今後更に二十余年を経過したらば、こゝらのありさまも又どんなに変化するかなどと云うことも考えさせられる。

これから紹介するのは、今から二十幾年前の秋、その唐もろこしの御馳走になりながら、縁さきにアンペラの座蒲団をしいて、三浦老人とむかい合っていたときに聴かされた昔話の一つである。その頃に比べると、こゝらの藪蚊はよほど減った。それだけは土地繁昌のおかげである。

老人は語った。

これはこゝから余り遠くないところのお話で、新宿の新屋敷――と云っても、あなた方にはお判りにならないかも知れませんが、つまり今日の千駄ヶ谷の一部を江戸時代には新屋敷と唱えていました。そこには大名の下屋敷もある、旗本の屋敷もある。ほかに御家人の屋敷も沢山ありましたが、なんと云っても場末ですから随分さびしい。往来のところ〲に草原がある、竹藪がある。うら手の方には田圃がみえる、田川が流れているという道具立ですから、大抵お察しください。その六軒町というところに高松勘兵衛という二百俵取りの御家人が住んでいました。

いつぞやは御家人たちの内職のお話をしたことがありましたが、この人は槍をよく使うので近所の武家の子供たちを弟子にとっている。流儀は木下流――木下淡路守利常としつねという人が槍術の一流をはじめたので、それを木下流というのです。この人は内職でなく、もと〱武芸が好きで、慾を離れて弟子を取立てゝいたのですから、人間は律儀一方で武士気質の強い人、御新造はおみのさんと云って夫婦のあいだに姉弟の子どもがある。姉さんはお近さんと云って二十四、弟は勘次郎と云って十八歳、そのまん中にまだひとり女の子があったのですが、それは早くに死んだそうです。お父とっさんはまだ四十五六の勤め盛りですから、息子の部屋住みは当然でしたが、姉さんのお近さんはもう二十四にもなってなぜ自分の家に居残っているかと云うと、これはこの春まで御奉公に出ていたからです。

武家の娘でも奉公に出ます。勿論、町人の家に奉公することはありませんが、自分の上役の屋敷に奉公するのは珍しくありません。御家人のむすめが旗本屋敷に奉公するなどは幾らもありました。一つは行儀見習いの為で、高松のお近さんも十七の春から薙刀の出来るのを云い立てに、本郷追分の三島信濃守という四千石の旗本屋敷へ御奉公にあがりまして、お嬢さま附となっていました。旗本も四千石となると立派なもので、殆ど一種の大名のようなものです。大名はどんなに小さくとも大名だけの格式を守って行かなければならず、参覲交代もしなければなりませんから、内証はなか〱苦しい。したがって、一万石や二万石ぐらいの木葉大名よりも、四千石五千石の旗本の方がその生活は却って豊なくらいでした。

三島の屋敷も評判の物堅い家風でした。高松さんもそれを知って自分の娘を奉公に出したのですが、まったく奥も表も行儀が正しく、武道の吟味が強い。お近さんはお嬢さまのお相手をして薙刀の稽古を励む。ほかの腰元たちも一緒になって薙刀や竹刀しない撃の稽古をする。まるで鏡山の芝居を観るようです。奥さまは勿論ですが、殿さまも時々に奥へお入りになって、女どもの試合を御覧になるのですから、女たちも一層熱心に稽古をする。女でさえも其通りですから、まして男でこの屋敷に奉公するほどのものは、足軽仲間にいたるまで竹刀の持ち様は確かに心得ているというわけで、まことに武張った屋敷でした。

「武家に奉公するものは武芸を怠ってはならぬ。まして今の時世であるから、なんどき何事が起らないとも限らぬ。男も女もその用心を忘れまいぞ。」

これが殿さまや奥さまの意見で、屋敷のもの一統へ常日頃から厳重に触れ渡されているのです。お近さんという娘は子供のときからお父とっさんの仕付をうけていますから、こういう屋敷にはおあつらえ向きで、主人の首尾もよく、自分も満足して、忠義一図に幾年のあいだを勤め通して、薙刀や竹刀撃に娘ざかりの月日を送っていました。これはお近さんに限らず、御殿奉公をする者はみなそうでしたろうが、取りわけてこの屋敷は武芸専門というのですから、勤め向きも余計に骨が折れたろうと思われます。併しどの奉公人もそれを承知で住み込んだものばかりですから、別に苦労とも思わなかったのです。お近さんなどは宿下りで自分の家へ帰ったときに、それを自慢らしく両親に吹聴し、親たちも一緒になって喜んでいたくらいでした。

それで済めば天下泰平、いや、些ちっとぐらいの騒動が起っても大丈夫であったのですが、こゝに一つの事件が出来しゅったいした。というのは、この屋敷のお嬢さまが病気になったのです。なにしろ殿さまも奥さまも前に云ったような気風の人たちですから、どうも今時のわかい者は気に入らない。したがって、今日までに縁組の相談があっても、あんな柔弱な奴のところへは嫁に遣れないとか、あんな不心得の人間を婿には出来ないとか、色々むずかしいことを云って断ってしまうので、自然に縁遠い形になって、お嬢さまは二十一になるまで親の手許にいて、相変らず薙刀や竹刀撃の稽古をつゞけている。そのうちに何という病気か判らない、その頃の詞ことばで云うとぶら〱病というのに罹って、どうも気分がすぐれない、顔の色もよくない。どっと寝付くほどの大病でもないが、なにしろ半病人のすがたで、薙刀のお稽古もこの頃は休み勝になりました。

「これは静かなところでゆる〱と御養生遊ばすに限ります。」

医者もこう勧め、両親もそう思って、お嬢さまはしばらく下屋敷の方に出養生ということになりました。大きい旗本はみな下屋敷を持っています。三島家の下屋敷は雑司ヶ谷にありました。お近さんもお嬢さまのお供をして雑司ヶ谷へゆくことになったのは、安政四年の桜の咲く頃で、そこらの畑に菜の花が一面に咲いているのをお嬢さまは珍しがったということでした。

二

どこでも下屋敷は地所を沢山に取っていますから庭も広い、空地も多い。庭には桜や山吹が咲きみだれている。天気のいゝ日にはお嬢さまも庭に出て、木の陰や池のまわりなどをそゞろ歩きして、すこしは気分も晴れやかになるだろうと思いの外、うらゝかな日に庭へ出て、あたゝかい春風に吹かれていると、却って頭が重くなるとか云って、お嬢様はめったに外へも出ない。たゞ垂れ籠めて鬱陶しそうに春の日永を暮している。殊に花時の癖で、今年の春も雨が多い。そばに附いている者までが自然に気が滅入って、これもお嬢さま同様にぶら〱病にでもなりそうになって来ました。医者は三日目に一度ずつ見まわりに来てくれるが、お嬢さまは何うもはっきりとしない。するとある日のことでした。きょうも朝から絹糸のような春雨が音も無しにしと〱と降っている。お嬢さまは相変らず鬱陶しそうに黙っている。お近さんをはじめ、そばに控えている二三人の腰元もたゞぼんやりと黙っていました。

こんなときには琴を弾くとか、歌でも作るとか、なにか相当の日ぐらしもある筈ですが、屋敷の家風が例の通りですから、そんな方のことは誰もみな不得手です。屋敷奉公のものは世間を知らないから世間話の種もすくない。勿論、こゝでは芝居の噂などが出そうもない。たゞ詰らなそうに睨み合っているところへ、お仙という女中がお茶を運んで来ました。お仙は始終この下屋敷の方に詰めているのでした。

「どうも毎日降りまして、さぞ御退屈でいらせられましょう。」

みんなも退屈し切っているところなので、このお仙を相手にして色々の話をしているうちに、なにかの切っかけからお仙はそのころ流行の草双紙の話をはじめました。それは例の種員たねかずの「しらぬひ譚ものがたり」で、どの人も生れてから殆ど一度も草双紙などを手に取ったこともない人達なので、その面白さに我を忘れて、皆うっとりと聴き惚れていました。

お嬢様もその草双紙の話がひどく御意に入ったとみえて、日が暮れてからも又その噂が出ました。

「仙をよんで、さっきの話のつゞきを聴いてはどうであろう。」

誰も故障をいう者はなくて、お仙はお嬢さまの前によび出されました。そうして、五つ(午後八時)の時計の鳴る頃まで、青柳春之助や鳥山秋作の話をしたのですが、それが病み付きになってしまって、それからはお仙が毎日「しらぬひ譚」のお話をする役目をうけたまわることになりました。お仙がどうしてこんな草双紙を読んでいたかというと、この女は三島家の知行所から出て来た者ではなくて、下谷の方から――実はわたくしの家の近所のもので、この話もその女から聞いたのです。――奉公にあがっている者ですから、家にいたときに草双紙も読んでいる。芝居もとき〲には覗いている。そういうわけですから、例の「しらぬひ譚」も知っていて、測らずもそれがお役に立ったのです。

一体お仙はどんな風にその話をしたのか知りませんが、なにしろ聴く人たちの方は薙刀や竹刀のほかには今までなんにも知らなかった連中ばかりですから、初めて聴かされた草双紙の話が馬鹿に面白い。みんなは口をあいて聴いているという始末。しかしお仙も「しらぬひ譚」を暗記しているわけでもないのですから、話に曖昧なところも出て来る。聴いている方では焦じれったくなる。それが高じて、とう〱その「しらぬひ譚」の草双紙を借りて読もうということになって、お仙がそのお使を云い付かって、牛込辺のある貸本屋を入れることになりました。

どこの大名でも旗本でも下屋敷の方は取締りがずっと緩ゆるやかで、下屋敷ではまあ何をしてもいゝと云うことになっていました。殊にそれがお嬢さまの気保養にもなると云うので、下屋敷をあずかっている侍達もその貸本屋の出入りを大目に見ていたらしいのです。くどくも云う通り、お嬢様をはじめ、お附の女たち一同は生れてから初めて草双紙などというものを手に取ったので、先ず第一に絵が面白い、本文も面白い。みんな夢中になって草双紙の話ばかりしている。貸本屋の方では好いお得意が出来たと思って、色々の草双紙を持ち込んでくる。それでもまあ「田舎源氏」や何かのうちは好かったのですが、だん〱進んで来て、人情本などを持ち込むようになる。先ず「娘節用むすめせつよう」が序開きで、それから「春色梅ごよみ」「春色辰巳園たつみのその」などというものが皆んなの眼に這入って、お近さんまでが狂訓亭主人の名を識るようになると、若い女の多いこの下屋敷の奥には一種の春色が漲って来ました。今迄は半病人であったお嬢さまの顔色も次第に生々して、とき〲には笑い声もきこえる。このごろは貸本屋があまりに繁く出入りをするので、困ったものだと内々は顔をしかめている侍たちも、それがためにお嬢さまの御病気がだん〱によくなると云うのですから、押切ってそれを遮るわけにも行かないで、まあ黙って観ているのでした。

そうして、夏も過ぎ、秋も過ぎましたが、お嬢さまはまだ本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行ったときには、好い加減の嘘をこしらえて、お嬢さまの御病気はまだほんとうに御本復にならないなどと云っている。本郷へ帰れば殿様や奥様の監視の下に又もや薙刀や竹刀をふり廻さなければならない。それよりも下屋敷に遊んでいて、夏の日永、秋の夜永に、狂訓亭主人の筆の綾をたどって、丹次郎や米八の恋に泣いたり笑ったりしている方が面白いというわけで、武芸を忘れてはならぬという殿様や奥様の教訓よりも、狂訓亭の狂訓の方が皆んなの身にしみ渡ってしまったのです。

そのなかでもその狂訓に強く感化されたのは、彼のお近さんでした。どうしたものか、この人が最も熱心な狂訓亭崇拝者になり切ってしまって、読んでいるばかりでは堪能が出来なくなったとみえて、わざ〱薄葉うすようの紙を買って来て、それを人情本所謂小本の型に切って、原本をそのまゝ透き写しにすることになったのです。お近さんは手筋が好い、その器用と熱心とで根気よく丹念に一枚ずつ写して行って、幾日かゝったのか知りませんが、兎も角もその年の暮までに梅暦四編十二冊、しかも口絵から插絵まで残らず綺麗に写しあげてしまったそうです。今のお近さんの宝というのは、御奉公に出るときにお父とっさんから譲られた二字国俊――おそらく真物ほんものではあるまいと思われますが――の短刀と、「春色梅ごよみ」十二冊の写本とで、この二つは身にも換えがたいと云うくらいの大切なものでした。

「どうも困ったものだ。」と、下屋敷の侍達はいよ〱眉をひそめました。

いくら下屋敷だからと云って、あまりに猥な不行儀なことが重なると、打っちゃって置くわけには行かない。殊に三島の屋敷は前にも申す通り、武道の吟味の強い家風ですから、そんなことが上屋敷の方へきこえると、こゝをあずかっている者どもの越度おちどにもなるので、もう何とかしなければなるまいかと内々評定しているうちに、貸本屋の方ではいよ〱増長して、このごろは春色何とかいうもの以上に春色を写してあるらしい猥な書物をこっそりと持ち込んで来るのを発見したので、侍達ももう猶予していられなくなって、貸本屋は出入りを差止められてしまいました。お仙もあやうく放逐されそうになったが、これはお嬢さまのお声がかりで僅かに助かりました。

貸本屋の出入りが止まるとなると、お近さんの写本がいよ〱大切なものになって、お近さんは内証でそれを読んで聞かせて皆んなを楽しませていました。――野にすてた笠に用あり水仙花、それならなくに水仙の、霜除けほどなる佗住居――こんな文句は皆んなも暗記してしまうほどになりました。そうしているうちに、こんなことが自然に上屋敷の方へ洩れたのか、或は侍たちも持て余して密告したのか、いずれにしてもお嬢様を下屋敷に置くのは宜しくないというので、病気全快を口実に本郷の方へ引き戻されることになりました。それは翌年の二月のことで、丁度出代り時であるのでお近さんともう一人、お冬とかいう女中がお暇いとまになりました。下屋敷の方ではお仙がとう〱放逐されてしまいました。

普通の女中とは違って、お近さんはお嬢さまのお嫁入りまでは御奉公する筈で、場合によってはそのお嫁入り先までお供するかも知れないくらいであったのに、それが突然にお暇になった。表向きはお人減ひとべらしというのであるが、どうも彼の貸本屋一件が祟りをなして、お近さんともう一人の女中がその主謀者と認められたらしいのです。それは彼のお仙の放逐をみても察しられます。

いつの代でもそうでしょうが、取分けてこの時代に主人が一旦暇をくれると云い出した以上、家来の方ではどうすることも出来ません。お近さんはおとなしくこの屋敷をさがるより外はないので、自分の荷物を取りまとめて新屋敷の親許へ帰りました。その葛籠つゞらの底には彼の「春色梅ごよみ」の写本が忍んでいました。

三

お父とっさんの高松さんは物堅い人物ですから、娘が突然に長の暇を申渡されたに就てすこしく不審をいだきまして、一応はお近さんを詮議しました。

「どうも腑に落ちないところがある、奉公中に何かの越度おちどでもあったのではないか。」

「そんなことは決してござりません。」と、お近さんは堅く云い切りました。「時節柄、お人減しと申すことで、それは奥様からもよくお話がござりました。」

まったくこの時節柄であるから、諸屋敷で人減しをすることも無いとは云えない。殊に三島の屋敷のことであるから、武具馬具を調えるために他の物入りを倹約する、その結果が人減しとなる。そんなことも有りそうに思われるので、高松さんも娘の詮議は先ずそのくらいにして置きました。阿母おっかさんも正直な人ですから、別にわが子を疑うようなこともなく、それで無事に済んでしまったのですが、それから三月四月と過ぎるうちに、お父さんの気に入らないようなことが色々出来たのです。

高松さんの屋敷では槍を教えるので、毎日十四五人の弟子が通ってくる。そのなかで肩あげのある子供達が来たときには、お近さんはその稽古場を覗いても見ませんが、十八九から二十歳ぐらいの若い者が来ると、お近さんは出て行って何かの世話を焼く。時には冗談などを云うこともあるので、お父さんは苦い顔をして叱りました。

「稽古場へ女などが出てくるには及ばない。」

それでも矢はり出て来たり、覗きに来たりするので、その都度に高松さんは機嫌を悪くしました。ある時、久振りで薙刀を使わせてみると、まるで手のうちは乱れている。もと〱薙刀を云い立てに奉公に出たくらいで、その後も幾年のあいだ、お嬢さまに附いて稽古を励んでいたというのに、これは又どうしたものだと高松さんも呆れてしまいました。そればかりでなく万事が浮ついて、昔とはまるで別の人間のようにみえるので、お父さんはいよ〱機嫌を悪くしました。

「どうも飛んだことをした。こうと知ったら奉公などに出すのではなかった。」

高松さんは時々に顔をしかめて、御新造に話すこともありました。そのうちに六月の末になる。旧暦の六月末ですから、土用のうちで暑さも強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手の井戸端へ出ました。場末の組屋敷ですから地面は広い。うらの方は畑になって矢はり唐蜀黍とうもろこしなどが栽えてある。その畑のなかに白地の単衣をきた女が忍ぶように立っている。それがお近さんであることは、高松さんにはすぐに判ったのですが、向うでは些ちっとも気が注かないで、何か一心に読み耽っているらしい。以前ならばそのまゝに見過してしまったのでしょうが、此頃はひどく信用を墜しているお近さんがわざ〱畑のなかへ出て、唐蜀黍のかげに隠れるようにして何か読んでいる。それがお父さんの注意をひいたので、高松さんは抜足をして竊そっとそのうしろへ廻って行きました。

日を避け、人目をよけて、お近さんが唐蜀黍の畑のなかで一心に読んでいたのは例の写本の一冊でした。こんなものが両親の眼に止まっては大変ですから、お近さんは自分の葛籠つゞらの底ふかく秘めて置いて、人に見付からないようなところへ持ち出して、そっと読んでいる。そこを今朝は運悪くお父さんに見付けられたのです。

「これはなんだ。」

だしぬけにその本を取り上げられてしまったので、お近さんはもう何うすることも出来ない。しかし「春色梅ごよみ」という外題を見ただけでは、お父さんにもその内容は一向わからないのですから、お近さんも何とか頓智をめぐらして、巧く誤魔かしたいと思ったのですが、困ったことには本文ばかりでなく、男や女の插絵が這入っている。それをみただけでも大抵は想像が付く筈です。お近さんも返事に支えておど〱していると、高松さんは娘の襟髪をつかみました。

「怪しからん奴だ。こんなものを何うして持っている。さあ、来い。」

内へ引摺って来て、高松さんは厳重に吟味をはじめました。お近さんは強情に黙っていたが、それでお父さんが免す筈がない。弟の勘次郎を呼んで、姉の葛籠をあらためて見ろという。もう斯うなっては運の尽きで、お近さんの秘密はみな暴露してしまいました。なにしろその写本があわせて十二冊もあるので、高松さんも一時は呆れるばかりでしたが、やがて両の拳を握りつめながら、むすめの顔を睨みつけました。

「いや、これで判った。三島の屋敷から不意に暇を出されたのも、こういう不埓があるからだ。女の身として、まして武家の女の身として、かような猥な書物を手にするなどとは、呆れ返った奴だ。」

さん〲叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。お近さんが丹精した「春色梅ごよみ」十二冊は、炎天の下で白い灰になってしまったのです。お近さんは縁側に手をついたまゝで黙っていましたが、それがみんな灰になってゆくのを見たときには、涙をほろ〱とこぼしたそうです。それを横眼に睨んで、お父さんは又叱りました。

「なにが悲しい。なにを泣く。たわけた奴め。」

阿母さんはさすがに女で、なんだか娘がいじらしいようにも思われて来たのですが、問題が問題ですから何とも取りなす術もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきかない。お近さんは自分の部屋に這入って泣いている。今日の詞ことばで云えば、一家は暗い空気に包まれているとでもいう形で、その日も暮れてしまいました。

その夜なかの事です。昼間の一件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明けるような音がきこえたので、もしや賊でも這入ったのかと、すぐに蚊帳をくゞって出て、長押なげしにかけてある手槍の鞘を払って、台所の方へ出てみると、一つの黒い影が今や雨戸をあけて出ようとするところでした。生憎に今夜は暗い晩でその姿もよくは判らないが、兎もかくも台所の広い土間から表へ出てゆく影だけは見えたので、高松さんはうしろから声をかけました。

「誰だ。」

相手はなんにも返事もしないで、土間に積んである薪の一つを把とって、高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽうで左の腕を強く打たれました。名をきいても返事をしない、しかも手向いをする以上は、もう容赦はありません。高松さんは土間に飛び降りて追いかけると、相手は素疾く表へぬけて出る。なにしろ暗いので、もし取逃すといけないと思ったので、高松さんはその跫音をたよりに、持っている槍を投げ付けると、さすがは多年の手練で、その投槍に手堪えがあったと思うと、相手は悲鳴をあげて倒れました。

この騒ぎに家中の者が起きてみると、ひとりの女が投槍に縫われて倒れていました。背から胸を貫かれたのですから、勿論即死です。それはお近さんで、着換え二三枚を入れた風呂敷づつみを抱えていました。

お近さんは家出をして、どこへ行こうとしたのか、それは判りません。併しお仙の話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近さんはひどく懐しそうに話しかけて、わたしは再び奉公に出たいと思うが、どこかに心当りはあるまいか。屋敷にはかぎらない、町家でもいゝと云うので、町家でもよければ心あたりを探してみようと答えて別れたことがあると云いますから、或いはお仙のところへでも頼って行く積りであったかも知れません。別に男があったというような噂はなかったそうです。

お父さんに声をかけられた時、こっちの返事の仕様によっては真逆に殺されもしなかったでしょうに、手向いをしたばっかりに飛んでもないことになってしまいました。しかしお近さんの身になったら、その薪ざっぽうを叩き付けたのが、せめてもの腹癒せであったかも知れません。

「これもわたしが種を蒔いたようなものだ。」

お仙はあとで切しきりに悔んでいました。三島のお嬢さまはその後どうしたか知りません。お近さんのお父さんは十五代将軍の上洛のお供をして、明治元年の正月、彼の伏見鳥羽の戦いで討死したと云うことです。

旗本の師匠

一

あるときに三浦老人がこんな話をした。

「いつぞや『置いてけ堀』や『梅暦』のお話をした時に、御家人たちが色々の内職をするといいましたが、その節も申した通り、同じ内職でも刀を磨といだり、魚を釣ったりするのは、世間体のいゝ方でした。それから、髪を結うのもいゝことになっていました。陣中に髪結いはいないから、どうしてもお互いに髪を結い合うより外はない。それですから、武士が他人の髪を結っても差支えないことになっている。勿論、女や町人の頭をいじるのはいけない。更に上等になると、剣術柔術の武芸や手習学問を教える。これも一種の内職のようなものですが、こうなると立派な表芸で、世間の評判も好し、上のおぼえもめでたいのですから、一挙両得ということにもなります。」

「やはり月謝を取るのですか。」と、わたしは訊いた。

「所詮は内職ですから月謝を取りますよ。」と、老人は答えた。

「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのは無いようです。武芸ならば道場が要る、手習学問ならば稽古場が要る。したがって炭や茶もいる、第一に畳が切れる。まだそのほかに、正月の稽古はじめには余興の福引などをやる。歌がるたの会をやる。初午うまには強飯こわめしを食わせる。三月の節句には白酒をのませる。五月には柏餅を食わせる。手習の師匠であれば、たなばた祭もする。煤はらいには甘酒をのませる、餅搗きには餅を食わせるというのですから、師匠は相当の物入りがあります。それで無月謝、せい〲が盆正月の礼に半紙か扇子か砂糖袋を持って来るぐらいのことですから、慾得づくでは出来ない仕事です。ことに手習子てならいこでも寄せるとなると、主人ばかりではない、女中や奥様までが手伝って世話を焼かなければならないようにもなる。毎日随分うるさいことです。」

「そういうのは道楽なんでしょうか。」

「道楽もありましょうし、人に教えてやりたいという奇特の心掛けの人もありましょうし、上かみのお覚えをめでたくして自分の出世の蔓にしようと考えている人もありましょうし、それは其人によって違っているのですから、一概にどうと云うわけにも行きますまい。又そのなかには、自分の屋敷を道場や稽古場にしていると云うのを口実に、知行所から余分のものを取立てるのもある。むかしの人間は正直ですから、おれの殿様は剣術や手習を教えて、大勢の世話をしていらっしゃるのだから、定めてお物入りも多かろうと、知行所の者共も大抵のことは我慢して納めるようにもなる。こういうのは、弟子から月謝を取らないで、知行所の方から月謝を取るようなわけですが、それでも知行所の者は不服を云わない。江戸のお屋敷では何十人の弟子を取っていらっしゃるそうだなどと、却って自慢をしている位で、これだけでも今とむかしとは人気が違いますよ。いや、その無月謝のお師匠様について、こんなお話があります。」

赤坂一ツ木に市川幾之進という旗本がありました。大身というのではありませんが、二百五十石ほどの家柄で、持明院流の字をよく書くところから、前に云ったように手跡しゅせき指南をすることになりました。この人はまことに心がけの宜しい方で、それを出世の蔓にしようなどという野心があるでも無し、蔵前取くらまえどりで知行所を持たないのですから、それを口実に余分のものを取立てるという的あてがあるでも無し、つまりは自分の好きで、自分の身銭を切って大勢の弟子の面倒をみていると云うわけでした。

市川さんはその頃四十前後、奥さんはお絹さんと云って三十五六、似たもの夫婦という譬の通り、この奥さんも深切に弟子たちの世話を焼くので、まことに評判がよろしい。お照さんという今年十六の娘があって、これも女中と一緒になって稽古場の手伝いをしていました。市川さんの屋敷はあまり広くないので、十六畳ほどのところを稽古場にしている。勿論、それを本業にしている町の師匠とは違いますから、弟子はそんなに多くない。町の師匠ですと、多いのは二百人ぐらい、少くも六七十人の弟子を取っていますが、市川さんなどの屋敷へ通ってくるのは大抵二三十人ぐらいでした。

そこで鳥渡ちょっとお断り申して置きますが、こういう師匠の指南をうけに来るものは、かならず武家の子どもに限ったことはありません。町人職人の子どもでも弟子に取るのが習いでした。師匠が旗本であろうが、御家人であろうが、弟子師匠の関係はまた格別で、そのあいだに武家と町人との差別はない。已に手跡を指南するという以上は、大工や魚屋の子どもが稽古に来ても、旗本の殿様がよろこんで教えたものです。それですから、こういう屋敷の稽古になると、武家の息子や娘も来る、町人や職人の子供も来るというわけで、師匠によっては武家と町人との席を区別するところもあり、又は無差別に坐らせるところもありましたが、男の子と女の子とは必ず別々に坐らせることになっていました。市川さんの屋敷では武家も町人も無差別で、なんでも入門の順で天神机を列べさせることになっていたそうです。

一体、町家の子どもは町の師匠に通うのが普通ですが、下町と違って山の手には町の師匠が少いという事情もあり、たといその師匠があっても、御屋敷へ稽古に通わせる方が行儀がよくなると云って、わざ〱武家の指南所へ通わせる親達もある。痩せても枯れても旗本の殿様や奥様が涎れくりの世話を焼いてくれて、しかもそれが無月謝というのだから有難いわけです。その代りに仕付方しつけかたはすこし厳しい。なにしろ御師匠さまは刀をさしているのだから怖い。それがまた当人の為にもなると、喜んでいる親もあるのでした。市川さんのところにも町の子どもが七八人通っていましたが、市川さんも奥さんも真直な気性の人でしたから、武家の子供も町家の子供もおなじように教えます。そのあいだに些ちっとも分け隔てがない。それですから、町家の親達はいよ〱喜んでいました。

それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯こわめしをたいて、なにかの煮染にしめものを取添えて、手習子たちに食べさせました。きょうは御稽古は休みです。土地のお祭りですから、どこの家うちでも強飯ぐらいは拵えるのですが、子供たちはお師匠さまのお屋敷で強飯の御馳走になって、それから勝手に遊びに出る。それが年々の例になっているので、今年もいつもの通りにあつまって来る。奥さんやお嬢さんや女中が手伝って、めい〱の前に強飯とお煮染めをならべる。いくら行儀がいゝと云っても、子供たちのことではあり、殊にきょうはお祭りだというのですから、大勢がわあ〱騒ぎ立てる。それでも不断の日とは違うから、誰も叱らない。子供たちは好い気になって騒ぐ。そのうちに、今井健次郎という今年十二になる男の児が三河屋綱吉という同い年の児の強飯のなかへ自分の箸を突っ込んだ。それが喧嘩のはじまりで、ふたりがとう〱組討になると、健次郎の方にも四五人、綱吉の方にも三四人の加勢が出て、畳の上でどたばたという大騒ぎが始まりました。

健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか〱鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。

「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」

いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が昂たっているのか、どっちもなか〱鎮まらない。市川さんは壁にかけてあるたんぽ槍を把とって、木刀をふりまわしている二三人を突きました。突かれた者はばた〱倒れる。これで先ず喧嘩の方は鎮まりました。突かれた者は泣顔をしているのを、奥さんがなだめて帰してやる。町家の組も叱られて帰る。どっちにも係り合わなかった者は、おとなしいと褒められて帰る。壁にかけてあるたんぽ槍は単に嚇しの為だと思っていたら、今日はほんとうに突かれたので、子供たちも内々驚いていました。

その日はそれで済みましたが、あくる朝、黒鍬くろくわの組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと云い込みました。黒鍬組は円通寺の坂下にありまして、御家人のなかでも小身者が多かったのです。市川さんは兎もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。

「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」

それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。

市川さんは黙って聴いていました。

二

質のわるい弟子どもを師匠が折檻するのはめずらしくはない、町の師匠でも弓の折れや竹切れで引っぱたくのは幾らもあります。かみなり師匠のあだ名を取っているような怖い先生になると、自分の机のそばに薪ざっぽうを置いているのさえある。まして、武家の師匠がたんぽ槍でお見舞い申すぐらいのことは、その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばって、武家の子どもばかりを折檻したかと詰問したいのです。どこの親もわが子は可愛い。現に自分のせがれは病人になるほどの酷ひどい目に逢っているのに、相手の方はみな無事に帰されたという。それはいかにも片手落ちの捌きではないかという不満が胸一ぱいに漲っているのです。もう一つには、なんと云っても相手は町人の子どもである。町人の子どもと武士の子どもが喧嘩をした場合に、武家の師匠が町人の贔屓をして、武士の子供を手ひどく折檻するのは其意を得ないという肚もあります。かた〲して大塚は早朝からその掛合いに来たのでした。

相手に云うだけのことは云わせて置いて、それから市川さんはその当時の事情をよく説明して聞かせました。自分は師匠として、決してどちらの贔屓をするのでもないが、この喧嘩は今井健次郎がわるい。他人の強飯のなかに自分の箸を突っ込むなどは、あまりに行儀の悪いことである。子供同士であるから喧嘩は已むを得ないとしても、稽古場でむやみに木刀をぬくなどはいよ〱悪い。お手前はなんと心得てわが子に木刀をさゝせて置くか知らぬが、子供であるから木刀をさしているので、大人の真剣もおなじことである。わたしの稽古場では木刀をぬくことは固く戒めてある。それを知りつゝ妄りに木刀をふりまわした以上、その罪は武家の子供等にあるから、わたしは彼等に折檻を加えたので、決して町人の子どもの贔屓をしたのではない。その辺は思い違いのないようにして貰いたいと云いました。

「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身に着けて居りませぬのでなあ。」

かれは忌いやな笑いをみせました。大塚に云わせると、所詮は子ども同士の喧嘩で、武家の子どもは木刀をさしていたから抜いたのである。町家の子供はなんにも持っていないから空手で闘ったのである。町家の子供とても何かの武器を持っていれば、やはりそれを振りまわしたに相違ない。木刀をぬいたのは勿論わるいが、それらの事情をかんがえたら、特に一方のみを厳しく折檻するのは酷である。こう思うと、かれの不満は依然として消えないのです。

もう一つには、こゝへ稽古にくる武家の子どもは、武士と云っても、貧乏旗本や小身の御家人の子弟が多い。町家の子どもの親達は、彼の三河屋をはじめとして皆相当の店持ですから、名こそ町人であるがその内証は裕福です。したがって、その親たちが平生から色々の附届けをするので、師匠もかれらの贔屓をするのであろうという、一種の僻ひがみも幾分かまじっているのです。それやこれやで、大塚は市川さんの説明を素直に受け入れることが出来ない。仕舞にはだん〱に忌味いやみを云い出して、当世は武士より町人の方が幅のきく世の中であるから、せい〲町人の御機嫌を取る方がよかろうと云うようなことを仄ほのめかしたので、市川さんは立腹しました。

くどくも云うようですが、黒鍬というのは御家人のうちでも身分の低い方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿で針を包んだようにちくり〱と遣りますから、正直な市川さんはすっかり怒ってしまったのです。

「わたしの云うことが判ったならば、それで好し。判らなければ以後は子供をこゝへ遣すな。もう帰れ、帰れ。」

こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げましたが、その足で近所の今井の屋敷へ出向きました。今井のせがれは喧嘩の発頭人ですから、第一番にたんぽ槍のお見舞をうけたのですが、家へ帰ってそんなことを云うと叱られると思って、これは黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為に寝付いてしまったが、御当家の御子息に御別条はござらぬかという。今井は初めてそれを知って、せがれの健次郎を詮議すると、当人も隠し切れないで白状に及びましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。

今井の屋敷の主人は佐久馬と云って、今年は四十前後の分別盛り、人間も曲った人ではありませんでしたが、今日の詞ことばでいえば階級思想の強い人で、武士は食わねど高楊枝、貧乏旗本と軽しめられても武士の家ということを非常の誇りとしている人物。したがって平生から町人どもを眼下に見下している。その息子が町人の子と喧嘩をして、師匠が町人の方の贔屓をして、わが子にたんぽ槍の仕置を加えたと云うことを知ると、どうも面白くない。おまけに大塚が色々の尾鰭をつけて、そばから煽るようなことを云いましたから、今井はいよ〱面白くない。しかし流石に大塚とは違いますから、子どもの喧嘩に親が出て、自分がむやみに市川さんの屋敷へ掛合いにゆくようなことはしませんでした。

「幾之進殿の仕付方、いさゝか残念に存ずる廉がないでもござらぬが、一旦その世話をたのんだ以上、兎やこう申しても致方があるまい。」

今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子がふたり減ったわけです。今井を煽動しても余り手堪ごたえがないので、大塚は更に自分の組内をかけまわって、市川の屋敷では町家の子供ばかりを大切にして、武家の子どもを疎略にするのは怪しからぬと触れてあるいたので、黒鍬の組内の子供達はひとりも通って来なくなりました。今井は流石に触れて歩くようなことはしませんが、何かのついでには其話をして、市川の仕付方はどうも面白くないと云うような不満を洩すので、それが自然に伝わって、武家の子どもはだん〱に減るばかり。二月三月の後には、市川さんと特別に懇意にしている屋敷の子が二三人通って来るだけで、その他の弟子はみな町家の子になってしまいました。なんと云っても武家の師匠ですから、武家の子どもがストライキを遣って、町家の子供ばかりが通って来るのでは少し困ります。それでも市川さんは無頓着に稽古をつゞけていました。

一ツ木辺は近年あんなに繁華になりましたが、昔は随分さびしいところで、竹藪などが沢山にありました。現に太田蜀山人の書いたものをみると、一ツ木の藪から大蛇があらわれて、三つになる子供を呑んだと云うことがあります。子供を呑んだのは嘘かほんとうか知りませんけれども、兎も角もそんな大蛇も出そうなところでした。その年の秋のひるすぎ、市川さんの屋敷から遠くないところの路ばたに、四五人の子供が手習草紙をぶら下げながら草花などをむしっていました。それはみな町家の弟子で、帰りに道草を食っていてはならぬ、かならず真直に家へ帰れよ、と師匠から云い渡されているのですが、やはり子供ですから然そうは行きません。殊にきょうは天気がいゝので、稽古の帰りに遊んでいる。そのなかには三河屋の綱吉もいました。ほかにもこの間の喧嘩仲間が二人ほどまじっていました。

この子供たちが余念もなしに遊んでいると、竹藪の奥から五六人の子供が出て来ました。どれもみな手拭で顔をつゝんで、その上に剣術の面をつけているので、人相は鳥渡ちょっとわからない。それが木刀や竹刀を持って飛び出して来て、町家の子供達をめちゃ〱になぐり付けました。そのなかでも三河屋の綱吉は第一に目指されて、殆ど正気をうしなうほどに打ち据えられてしまいました。

子供達はおどろいて泣きながら逃げまわる。それでも素疾ばしっこいのが師匠の屋敷へ逃げて帰って、そのことを訴えたので、居あわせた仲間ふたりと若党とがすぐに其場へ駈けつけると、乱暴者はもう逃げてゆくところでした。そのなかに餓鬼大将らしい十六七の少年が一人まじっている。そのうしろ姿が彼の大塚孫次郎の兄の孫太郎らしく思われたが、これは真先に逃げてしまったので、確かなことは判りませんでした。

こういうわけで、相手はみな取逃してしまったので、撲られた方の子供たちを介抱して屋敷へ一旦連れて帰ると、三河屋の綱吉が一番ひどい怪我をして顔一面に腫れあがっている。次は伊丹屋という酒屋の伜で、これも半死半生になっている。その他は幸いに差したることでもないので、それ〲に手当をして送り帰しましたが、三河屋と伊丹屋からは釣台をよこして子供を引取ってゆくという始末。どちらの親たちも工面が好いので、出来るだけの手当をしたのですが、やはり運が無いとみえて、三河屋の伜はそれから二日目の朝、伊丹屋のせがれは三日目の晩に、いずれも息を引取ってしまいました。

さあ、そうなると事が面倒です。いくら子供だからと云って人間ふたりの命騒ぎですから、中々むずかしい詮議になったのですが、なにを云うにも相手をみな取逃したので、確かな証拠がない。前々からの事情をかんがえると、その下手人も大抵は判っているのですが、無証拠では何うにも仕様がない。且は町人の悲しさに、三河屋も伊丹屋も結局泣寝入りになってしまったのは可哀そうでした。

それから惹いて、市川さんも手習の指南をやめなければならない事になりました。市川さんは支配頭のところへ呼び出されて、お手前の手跡指南は今後見合わせるようにとの諭達を受けました。理窟を云っても仕様がないので、市川さんはその通りにしました。

それで済んだのかと思っていると、市川さんはやがて又、小普請入りを申付けられました。これも手跡指南の問題にかゝり合があるのか無いのか判りませんが、なにしろお気の毒のことでした。いつの代にもこんなことはあるのでしょうね。

刺青の話

一

そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青ほりものをしている者があったという記事が掲げられたことがある。それが話題となって、三浦老人は語った。

「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって無暗むやみに刺青をしたものではありませんが、それでも今とは違いますから、銭湯にでも行けば屹きっと一人や二人は背中に墨や朱を入れたのが泳いでいたものです。中には年の行かない小僧などをつかまえて、大供が面白半分に彫るのがある。素人に彫られては堪らない。小僧はひい〱云って泣く。実に乱暴なことをしたものです。刺青をしているのは仕事師と駕籠屋、船頭、職人、遊び人ですが、職人も堅気な人間は刺青などをしません。刺青のある職人は出入りをさせないなどと云う家うちもありますから、好いい職人になろうと思うものは迂濶に刺青などは出来ないわけです。武家の仲間ちゅうげんなどにも刺青をしているものがありました。堅気の商人あきんどのせがれでありながら、若いときの無分別に刺青をしてしまって、あとで悔んでいるのもある。いや、それについて可笑おかしいお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何か一ひと趣向しようというので、町内の若い者たちが評議の末に、三十人ほどが背中をならべて一匹の大蛇を彫ることになったのです。三十人が鱗うろこのお揃いを着ていて、それが肌ぬぎになってずらりと背中を列べると、一匹の大蛇の刺青になるという趣向、まったく奇抜には相違ないので、祭礼の当日には見物人をあっと云わせたのですが、さあ其後が困った。三十人が一度に列んでいれば一匹の形になるが、ひとり一人に離れてしまうと何うにもならない。それでも蛇のあたまを彫った者はまあ可いいのですが、そのほかの者はみんな胴ばかりだから困る。背中のまん中を蛇の胴が横ぎっているだけでは絵にも形にもならない。と云って、一旦彫ってしまったものは仕方がない。図柄によって何とか彫り足して誤魔かすことも出来ますが、大蛇の胴ではどうも困ると洒落れたいくらいで、これらは一生の失策でしょう。併しこんな可笑しいお話ばかりではない、刺青の為には又こんな哀れなお話もあります。わたくしは江戸時代に源七という刺青師ほりものしを識っていまして、それから聴いたお話ですが……。その源七というのは見あげるような大坊主で、冬になると河豚ふぐをさげて歩いているという、いかにも江戸っ子らしい、面白い男でしたよ。」

老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。

あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に初島はつしまという駕籠屋がありました。なか〱繁昌する店で、いつも十五六人の若い者が転がっていて、親父は清蔵、むすこは清吉と云いました。清吉は今年十九で、色の白い、細面の粋いきな男で、こういう商売の息子にはおあつらえ向きに出来上っていたんですが、唯一つの瑕きずというのは身体からだに刺青ほりもののないことでした。なぜというのに、この男は子供のときから身体が弱くって、絶えず医者と薬の御厄介になっていたので、両親も所詮こゝの家の商売は出来まいと諦めて、子供の時から方々へ奉公に出した。が、どうも斯ういう道楽稼業の家に育ったものには、堅気の奉公は出来にくいものと見えて、どこへ行っても辛抱がつゞかず、十四五の時から家へ帰って清元のお稽古かなんかして、唯ぶら〱遊んでいるうちに、蛙の子は蛙で、やっぱり親の商売を受け嗣ぐようになってしまった。年は若し、男は好し、稼業が稼業だから相当に金まわりは好し、先ず申分のない江戸っ子なんですが、裸稼業には無くてならぬ刺青が出来ない。刺青をすれば死ぬと、医者から固く誡められているのです。

前にも申す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の衣服きもので、刺青のない身体をお客の前に持出すのは、普通の人が衣服を着ないで人の前に出るようなものです。まあ、それほどで無いとしても、刺青のない駕籠屋と、掛声の悪い駕籠屋というものは、甚だ幅の利かないものに数えられている。清吉は好い男で、若い江戸っ子でしたが、可哀そうに刺青がないから、どうも肩身が狭い。掛声なんぞは練習次第でどうにでもなるが、刺青の方はそうは行かない。体質の弱い人間が生身なまみに墨や朱を注さすと、生命にかゝわると昔からきまっているんだから、どうにも仕様がない。

背中一面の刺青ほりものをみて、威勢が好いとか粋いきだとかいう人は、その威勢の好い男や粋な大哥あにいになるまでの苦しみを十分に察してやらなければなりません。同じく生身をいじめるのでも、灸を据えるのとは少し訳が違います。第一に非常に金がかゝる。時間がかゝる。銭の二百や三百持って行ったって、物の一寸と彫ってくれるものではありません。又、どんなに金を積んだからと云って、一度に八寸も一尺も彫れる訳のものではありません。そんな乱暴なことをすれば、忽ちに大熱を発して死んでしまうと伝えられているのです。要するに少しずつ根気よく彫って行くのが法で、いくら焦っても急いでも、半月や一月で倶利迦羅紋々の立派な阿哥おあにいさんが無造作に出来上るというわけにも行かないのです。

刺青師は無数の細い針を束ねた一種の簓さゝらのようなものを用いて、しずかに叮嚀に人の肉を突き刺して、これに墨や朱をだん〱に注さして行くのですが、朱を注すのは非常の痛みで、大抵の強情我慢の荒くれ男でも、朱入りの刺青を仕上げるまでには、鬼の眼から涙を幾たびか零こぼすと云います。しかも大抵の人は中途で屹きっと多少の熱が出て、飯も食えないような半病人になる。こんな苦しみを幾月か辛抱し通して、こゝに初めて一人前の江戸っ子になるのですから、どうして中々のことではありません。

こんなわけだから、生きた身体に刺青などと云うことは、とても虚弱な人間のできる芸ではない。清吉も近来はよほど丈夫になったと人も云い、自分もそう信じているのですが、土台の体格が孱弱かよわく出来ているのですから、迚とても刺青などという荒行あらぎょうの出来る身体ではない。勿論、方々の医師いしゃにも診て貰ったが、どこでも申合わしたように、お前のからだには決して刺青なぞをしてはならぬ、そんな乱暴なことをすると命がないぞと、脅おどかすように誡められるのですが、当人はどうも思い切れないので、方々の刺青師にも相談してみたが、これも一応は清吉の身体をあらためて、お前さんはいけねえとかぶりを掉ふるのです。医師にも誡められ、刺青師にも断られたのだから、もう仕様がない。あたら江戸っ子も日蔭の花のように、明るい世界へは出られない身の上、これが寧いっそしがない半端人足だったら、どうも仕方がないと諦めてしまうかも知れないが、なまじい相当の家に生れて、立派な大哥あにさん株で世間が渡られる身体だけになお〱辛いわけです。

店に転がっている大勢の若い者は、みんなその背中を墨や朱で綺麗に彩色している。ある者は雲に竜を彫ってある。ある者は巖いわに虎を彫っている。ある者は義経を背負しょっている。ある者は弁慶を背負っている。ある者は天狗を描いている。ある者は美人を描いている。こういうのが沢山ごろ〱しているなかで、大哥と呼ばれる清吉ひとりが、生れたまゝの生白い肌を晒していると云うのは、幅の利かないことおびたゞしい。若い者だから無理はありません。清吉はひとに内証で涙を拭いていることもあったそうです。

この初島の近処に梅の井とかいう料理茶屋があって、これも可なりに繁昌していたそうですが、そこの娘にお金きんちゃんという美いい女がいました。清吉とは一つ違いの十八で……。と云ってしまえば、大抵まあお話は判っているでしょう。まあ、なにしろそんなことで、お金清吉という相合傘が出来たと思ってください。両方の親達も薄々承知で、まあ出来たものならばゆく〱は一緒にしてやろう位に思っていたのです。芝居でするように、こゝで敵役の悪わる侍なんぞが邪魔に這入らないんですから、お話が些ちっと面白くもないようですが、どうも仕方がありません。ところが、こゝに一つの捫着もんちゃくが起った。と云うのは、なんでも或日のこと、その梅の井の門口で酔っ払いが二三人で喧嘩を始めたところへ、丁度に彼の清吉が通りあわせて、見てもいられないから留男に這入ると、相手は酔っているので何かぐず〱云ったので、清吉も癪に障って肌をぬいだ。すると、相手はせゝら笑って、「へん、刺青もねえ癖に、乙う大哥あにいぶって肌をぬぐな。」とか、なんとか云ったそうです。

それを聞くと清吉は赫かっとなって、まるで気ちがいのようになって、穿いている下駄を把って相手を滅茶々々になぐり付けたので、相手も少し気を呑まれたのでしょう、おまけに酔っているから迚もかなわない。這々の体で起きつ転びつ逃げてしまったので、まあその場は納まりました。梅の井の家内の者も門に出て、初めからそれを見ていたのですが、その時に家の女房、即ちお金のおふくろがなんの気なしに、「あゝ、清さんも好い若い者だが、ほんとうに刺青のないのが瑕きずだねえ。」と、こう云った。それがお金の耳にちらりと這入ると、これもなんだか赫として、自分の可愛い男に刺青のないと云うことが、恥かしいような、口惜いような、云うに云われない辛さを感じたのです。

二

勿論、清吉が堅気の人でしたら、刺青のないと云うことも別に問題にもならず、お金もなんとも思わなかったのでしょうが、相手が駕籠屋の息子だけにどうも困りました。お金のおふくろも固もとより悪気で云ったわけではない、ゆく〱は自分の娘の婿になろうという人を嘲弄するような料簡で云ったのではない、なんの気も無しに口が滑っただけのことで、それはお金もよく知っていたのですが、それでもなんだか口惜いような、きまりが悪いような、自分の男と自分とが同時に嘲弄されたように感じられたのです。それもおとなしい娘ならば、胸に思っただけのことで済んだのかも知れませんが、お金は頗る勝気の女で、赫となるとすぐに門口へかけ出して、幾らかおふくろに面当ての気味もあったのでしょう、「清ちゃん、なぜお前さんは刺青をしないんだねえ。」と、今や肌を入れようとする男の背中を、平手でぴしゃりと叩いたのです。

事件は唯それだけのことで、惚れている女に背中を叩かれたと云うだけのことですが、何うもそれだけのことでは済まなくなった。前にもいう通り、梅の井の家内の者も大勢そこに出ている。喧嘩を見る往来の人もあつまっている。その大勢が見ているまん中で、自分の惚れている女に「刺青がない。」と云われたのは、胸に焼鉄やきがねと云おうか、眼のなかに錐と云おうか、兎にかくに清吉にとっては急処を突かれたような痛みを感じました。

お金のおふくろは清吉やお金を嘲弄するつもりで云ったのではなかったが、お金の耳にはそれが一種の嘲弄のようにきこえる。お金も亦、清吉を侮辱するつもりでは無かったのですが、清吉の身にはそれが嘲弄のように感じられる。つまりは感情のゆき違いと云ったようなわけで、左さらでも逆上のぼせている清吉はいよ〱赫となりました。そうなると男は気が早い。物をも云わずにお金の島田をひっ掴んで、往来へ横っ倒しに捻じ倒すと、あいにくに水が撤いてあったので、お金は可哀そうに帯も着物も泥まぶれになる。それでも、利かない気の女だから倒れながら怒鳴りました。

「清ちゃん、あたしをどうするんだえ。腹が立つなら寧いっそ男らしく殺しておくれ。」

清吉はもう逆上のぼせ切っていたと見えて、勿論、ほんとうに殺す気でもなかったのでしょうが、うぬっと云いながら又ぞろ自分の下駄を把とったので、梅の井の人達もおどろいて飛び出して、右左から清吉を抱き縮すくめてしまったが、こうなると又おふくろが承知しない。

「清ちゃん、なんだって家うちの娘をこんなひどい目に逢わせたんだえ。刺青ほりものが無いから無いと云ったのがどうしたんだ。お前さんはなんと思っているか知らないが、これはあたしの大事の娘なんだよ。指でも差すと承知しないから……。巫山戯ふざけた真似をおしでないよ。」

お金と清吉との関係を万々承知ではあるけれども、自分の見る前で可愛い娘をこんな目に逢わされては、母の身として堪忍ができない。こっちも江戸っ子で、料理茶屋のおかみさんです。腹立ちまぎれに頭から罵倒こきおろすように怒鳴り付けたから、いよ〱事件は面倒になって来ました。清吉も黙ってはいられない。

「えゝ、撲ろうが殺そうが俺の勝手だ。この阿魔はおれの女房だ。」

「洒落たことをお云いでない。おまえさんは誰を媒妁人なこうどに頼んで、いつの幾日に家のお金を女房に貰ったんだ。神明様の手洗い水で顔でも洗っておいでよ。ほんとうに馬鹿々々しい。」

おふくろは畳みかけて罵倒したのです。いくら口惜がっても清吉は年が若い、口のさきの勝負では迚とてもこゝのおふくろに敵わないのは知れている。それでも負けない気になって二言三言云い合っているうちに、周囲まわりにはいよ〱人立ちがして来たので、おふくろの方でも焦れったくなって来た。

「お前さんのような唐人を相手にしちゃあいられない。なにしろ、お金はあたしの娘なんだからね。当人同士どんな約束があるか知らないが、お金を貰いたけりゃあその背中へ立派に刺青をしておいでよ。」

おふくろは勝鬨のような笑い声を残して、奥へずん〱這入ってしまうと、お金はなんにも云わずに、つゞいて行ってしまった。取残された清吉は身顫いするほどに口惜がりました。

「うぬ、今に見ろ。」

その足ですぐに駈け込んだのが源七老爺じいさんの家でした。老爺さんはその頃宇田川横町に住んでいて、近所の人ですからお互いに顔は知っていたのです。

おなじ悪口でも、いっそ馬鹿とか白痴たわけとか云われたのならば、清吉も左ほどには感じなかったかも知れないのですが、ふだんから自分も苦に患やんでいる自分の弱味を真正面まともから突かれたので、その悪口が一層手ひどくわが身に堪えたのでしょう。源七にむかって、なんでも可いいから是非刺青ほりものをしてくれと頼んだのですが、老爺じいさんも素直に諾うんとは云わなかったそうです。

「お前さんはからだが弱いので、刺青をしないと云うことも予て聞いている。まあ、止したほうが可いでしょうよ。」

こんな一通りの意見は、逆上のぼせ切っている清吉の耳に這入ろう筈がありません、邪じゃが非ひでも刺青をしてくれ、それでなければ男の一分ぶんが立たない。死んでも構わないから彫ってくれと、斯う云うのです。源七も仕方がないから、まあ兎も角も念のためにその身体をあらためて見ると、なるほど不可いけない。こんな孱弱かよわいからだに朱や墨を注さすのは、毒を注すようなものだと思ったが、当人は死んでも構わないと駄々を捏ねているのですから、この上にもうなんとも云いようがない。それでも商売人は馴れているから、先ずこんなことを云いました。

「それほどお望みなら彫ってあげても可いいが、きょうはお前さんが酔っているようだからおよしなさい。」

清吉は酔っていないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。

「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何か喫たべたでしょう。少しでも酒の気があっては、彫れませんよ。」

酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきりとは判らない。これには清吉も些ちっと困った。

「味淋の気があっても不可ませんか。」

「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」

刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも不可いけない、あしたも不可ないと云って、二度も三度も追い返すと、しまいには相手も飽きて、来なくなる。それでも強情に押掛けてくる奴には、先ず筋彫りをすると云って、人物や花鳥の輪廓を太い線で描く。その場合にはわざと太い針を用いて、精々痛むようにちくり〱と肉を刺すから堪らない。大抵のものは泣いてしまいます。縦令よしんば歯を食い縛って堪えても、身体の方が承知しないで、きっと熱が発でる、五六日は苦しむ。これで大抵のものは降参してしまうのです。源七もこの流儀で、味淋の気があるを口実にして、一旦は先ず体よく清吉を追い返したのですが、なか〱この位のことで諦めるのではない。あくる日もその明くる日も毎日毎日根よく押掛けて来るので、源七老爺じいさんも仕舞には根負けをしてしまって、それほど執心ならば兎もかくも彫ってみましょうという事になりました。

そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や御室おむろ」の光国と滝夜叉を彫ってくれと云う注文を出しました。おなじ刺青でも二人立と来ては大仕事で、殊に滝夜叉は傾城けいせいの姿ですから、手数がなか〱かゝる。無論、手間賃は幾らでもいゝと云うのですが、この男の痩せた生白い背中に、それほど手の込んだ二人立が乗る訳のものではないので、もう些ちっと軽いものをと色々に勧めたのですが、清吉はどうしても肯かない。是非とも「嵯峨や御室」を頼むと強情を張るので、源七はまた弱らせられました。併しあとで考えると、それにも一応理窟のあることで、彼のお金は一昨年おととしのお祭に踊屋台に出た。それが右の「嵯峨や御室」で、お金は滝夜叉を勤めて大層評判が好かったのだそうです。そう云う因縁があるので、清吉は自分の背中にも是非その滝夜叉を彫って貰いたいと望んだわけでした。

源七もいよ〱根負けがして、まあなんでも可いい、当人の註文通りに滝夜叉でも光国でも彫ることにして、例の筋彫りで懲りさしてしまおうと云う料簡で、先ず下絵に取りかゝりました。それから例の太い針でちくり〱と突っ付きはじめたが、清吉は眼を瞑つぶって、歯を食いしばって、じっと我慢をしている。痛むかと訊いても、痛くないと答える。それでも元来無理な仕事をするのですから、強情や我慢ばかりで押通せる訳のものではありません。半月も立たないうちに幾度もひどい熱が出て、清吉は殆ど半病人のようになってしまったが、それでも根よく通って来ました。

当人の親たちも大変心配して、そんな無理をすると身体に障るだろうと、たび〱意見をしたのですが、清吉はどうしても肯かない。例の通り、死んでもかまわないと強情を張り通しているのだから、周囲まわりの者も手を付けることが出来ない。親たちも店の者もたゞ心配しながら日を送っているうちに、清吉はだん〱に弱って来ました。顔の色は真蒼になって、今年十九の若い者が杖をついて歩くようになった。それでも毎日かゝさず通って来るので、源七はその強情におどろくと云うよりも、なんだか可哀そうになって来ました。この上につゞけて彫っていれば、どうしても死ぬよりほかはない。最初からもう一月の余になるが、滝夜叉の全身の筋彫りがよう〱出来上ったぐらいのもので、これから光国の筋彫りを済まして、更に本当の色ざしを終るまでには、幾日かゝるか判ったものではない。清吉がその総仕上げまで生きていられないことは知れきっているので、なんとかしてこゝらで思い切らしたいものだと、源七も色々に考えていると、なんでも冬のなかばで、霙みぞれまじりの寒い雨が降る日だったそうです。清吉はもう歩く元気もない、殊に雨が降っているせいでもありましょう、自分の家の駕籠に乗せられて源七の家へ来ました。なんぼなんでも最もう見てはいられないので、半分死んでいるような清吉にむかって、わたしは医者ではないから、ひとの身体のことはよく判らないが、多年の商売の経験で大抵の推量は付く。おまえさんがこの上無理に刺青をすれば、どうしても死ぬに決まっているが、それでも構わずに遣る気か、どうだと云って、噛んで含めるように意見をすると、当人ももう大抵覚悟をしていたとみえて、今度はあまり強情を張りませんでした。

この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。

どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。

雷見舞

一

六月の末であった。

梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ〱云う音がきこえ出した。どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。

傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや〱と駈け込んで来たので、ぬれた傘と湿ぬれた袖とが摺れ合うように混雑していた。

わたしの額には汗がにじんで来た。

わたしのそばには老女が立っていた。老女はもう六十を越えているらしいが、あたまには小さい丸髷をのせて、身なりも貧しくない、色のすぐれて白い、上品な婦人であった。かれはわたしと肩をこすり合うようにして立っているので、なんとも無しに一種の挨拶をした。

「どうも悪いお天気でございますね。」

「そうです。急にふり出して困ります。」と、わたしも云った。

「きょう一日はどうにか持つだろうと思っていましたのに……。」

こんなことを云っているうちにも、雷らいはかなりに強く鳴って通った。その一つは近所へ落ちたらしかった。老女は白い顔を真蒼にそめ換えて、殆どわたしのからだへ倒れかゝるように倚よりかゝって眼をとじていた。雷の嫌いな女、それはめずらしくもないので、わたしはたゞ気の毒に思ったばかりであった。実はわたし自身もあまり雷は好きでないので、いゝ加減に通り過ぎてくれゝばいゝと内心ひそかに祈っていると、雨は幸いに三十分を過ぎないうちに小降りになって、雷の音もだん〱に東の空へ遠ざかったので、気の早い人達はそろ〱動きはじめた。わたしもやがて空をみながら歩き出すと、老女もつゞいて出て来た。かれも小さい洋傘こうもりを持っていた。

構外へ出ると、雲の剥げた隙間から青い空の色がところ〲に洩れて、路ばたの草の露も明るく光っていた。わたしも他の人達とあとや先になって、雨あがりの路をたどってゆくと、一台の人車くるまがわたしたちを乗り越して通り過ぎた。雨ももう止んで、その車には幌がおろしてなかったので、車上の人が彼の老女であることはすぐに判った。老女はわたしに黙礼をして通った。

三浦老人の家うちは往来筋にあたっていないので、その横町へまがる時には、もう私と一緒にあるいている人はなかった。往来が少いだけに、横町は殊に路が悪かった。そのぬかるみを注意して飛び渡りながら、ふと向うをみると、丁度彼の家の門前から一台の空車が引返して来るところであった。客はもう門をくゞってしまったので、そのうしろ姿もみえなかったが、車夫の顔には見おぼえがあった。かれは彼の老女をのせて来た者に相違なかった。

あの女も三浦老人の家へ来たのか。

わたしは鳥渡ちょっと不思議なようにも感じた。停車場で一緒に雨やどりをして、たとい一言でも挨拶した女が、やはり同じ家をたずねてゆく人であろうとは思わなかった。勿論そんな偶然はあり勝のことではあろうが、この場合、かれと我とのあいだに何か一種の糸が繋がってゞもいるように思われないこともなかった。かれはどういう人であろうかと、私はあるきながら想像した。かれは老人の親戚であろうか、知人の細君か未亡人であろうか。それとも――老人がむかしの恋人ではあるまいか――斯うかんがえて来たときに、わたしは思わず微笑して自分の空想を嘲あざけった。

いずれにしても、来客のあるところへ押掛けてゆくのは良くない。いっそ引返そうかとも思ったが、雨にふり籠められ、雷らいにおびやかされ、ぬかるみを辿ってこゝまで来たことを考えると、このまゝ空しく帰る気にもなれなかったので、わたしは邪魔をするのを承知の上で、思い切ってそのあとから門をくゞることにした。雨もやみ、傘を持っているにも拘らず、停車場から僅かの路を人車くるまに乗ってくるようでは、かの老女もあまり生活に困らない人であろうなどと、わたしは又想像した。

門を這入って案内を求めると、おなじみの老婢ばあやが出て来た。いつもは笑って私を迎える彼女が、きょうは少し迷惑そうな顔をして、その返事に躊躇しているようにもみえるので、わたしは今更に後悔して、やはり門前から引返せばよかったと思ったが、もう何うすることも出来ないので、奥へ取次ぎにゆく彼女のうしろ姿を気の毒のような心持で見送っていると、やがて彼女かれは再び出て来て、いつもの通りにわたしを案内した。

「御用のお客様じゃないのでしょうか。お邪魔のようならば又うかゞいますが……。」と、わたしは遅まきながら云った。

「いいえ、よろしいそうでございます。どうぞ。」と、老婢は先に立って行った。

いつもの座敷には、あるじの老人と客の老女とが向い合っていた。老女はわたしの顔をみて、これも一種の不思議を感じたように挨拶した。停車場で出逢った話をきいて、三浦老人も笑い出した。

「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか。」

「それでもこんなお婆さんではねえ。」

老女は声をあげて笑った。年にも似合わない華やかな声がわたしの注意をひいた。

「先刻さっきはまことに失礼をいたしました。」と、女はかさねて云った。「わたくしはかみなり様が大嫌いで、ごろ〱と云うとすぐに顔の色が変りますくらいで、若いときには夏の来るのが苦になりました。それに、当節とちがいまして、昔はかみなり様が随分はげしく鳴りましたから、まったく半病人で暮す日がたび〱ございました。」

「ほんとうにお前さんの雷らい嫌いは格別だ。」と、三浦老人も笑った。「なにしろ、それがために侍ひとりを玉無しにしたんだからね。」

「あゝ、もうその話は止しましょうよ。」と、女は顔をしかめて手を振った。

「まあ、いゝさ。」と、老人はやはり笑っていた。「こちらはそういう話が大変にお好きで、麹町からわざ〱この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいでなさるのだ。おまえさんも罪ほろぼしに一つお聞かせ申したら何うだね。」

「是非聴かして頂きたいものですね。」と、わたしも云った。この老女の口から何かのむかし話を聞き出すということが、一層わたしの興味を惹いたからであった。

「だって、あなた。別に面白いお話でもなんでも無いんですから。」と、女は迷惑そうに顔をしかめながら笑っていた。

「どうしても聴かして下さるわけには行かないんでしょうか。」と、私も笑いながら催促した。

「困りましたね。まったく詰まらないお話なんですから。」

「詰まらなくてもようござんすから。」

「だって、いけませんよ。ねえ、三浦さん。」と、かれは救いを求めるように老人の顔をみた。

「そう押合っていては果てしがない。」と、老人は笑いながら仲裁顔に云った。「じゃあ、一旦云い出したのが私の不祥で、今更何うにも仕様がないから、わたしが代理で例のおしゃべりをすることにしましょうよ。おまえさんも係り合だから、おとなしくこゝに坐っていて、わたしの話の間違っているところがあったら、一々そばから直してください、逃げてはいけませんよ。」

いよ〱迷惑そうな顔をしている女をそこに坐らせて置いて、老人はいつもの滑らかな調子で話しはじめた。

二

どこかに迷惑がる人がいますから、店の名だけは堪忍してやりますが、場所は吉原で、花魁おいらんの名は諸越もろこしとおぼえていて下さい。安政の末年のことで、その諸越のところへ奥州のある大名――と云っても、例の仙台様ではありません。もっと江戸に近いところの大名が通っていたのです。仙台や尾張や、それから高尾をうけ出した榊原などは、むかしから有名になっていますが、まだその外にも廓通いをした大小名は沢山あります。しかも遠い昔ばかりでなく、文化、文政から天保以後になっても、廓へ入込んだ殿様は幾らもありましたから、敢てめずらしいことでもないのですが、その諸越という女がおそろしく雷を嫌ったということがお話の種になるのです。そのつもりでお聴きください。

その大名は吹けば飛ぶような木葉こっぱ大名でなく、立派に大名の資格を具えている家柄の殿様でしたが、それがしきりに諸越のところへ通ってゆく。勿論、大名のお忍びですから、頻りにと云ったところで、月に二三度ぐらいのことでしたが、それでも殿様は大執心で、相方あいかたの女に取っても、その店に取っても、大変にいゝお客様であったのです。

諸越が雷を嫌うということは、殿様もよく知っている。そこで、雷が鳴ると、その屋敷から諸越のところへ御見舞の使者が来ることになっていました。随分ばか〱しいようなお話で、今日の人たちは嘘のように思うかも知れませんが、これは擬まがいなしの実録です。勿論小さい雷ならば構わないでしょうが、少し強い雷が鳴り出すと、屋敷の侍が早駕籠に乗ってよし原へ駈けつけて、お見舞の菓子折か何かをうや〱しく花魁に献上するというわけです。いかに主命でも、兎もかくも一人の武士が花魁のところへ雷らい見舞にゆくと云うのですから、重々難儀の役廻りで、相当の年配のものは御免を蒙って引き下りますから、この役目はいつも若侍がうけたまわることになっていました。

ところで、その年の夏は先ず無事に済んでいたのですが、どういう陽気の加減か、その年は十月の末に颶風はやてのような風がふき出して、石ころのような大きい雹が雨まじりに降る。それと一緒にひどい雷が一時ときあまりも鳴りひゞいたので、江戸中の者もびっくりしました。この屋敷でもおどろきました。もう大丈夫と油断していると、この大雷が不意に鳴り出したのです。殊に時ならぬ雷というのですから、猶さらお見舞を怠ってはならぬと、殿さまの御指図を待つまでもなく、屋敷からは倉田大次郎という若侍を走らせて、諸越花魁の御機嫌を伺わせることにしました。

大次郎はすぐに支度をして、さすがに裃かみしもは着ませんけれども、紋付の羽織袴というこしらえで、干菓子の大きい折をさゝげて、駕籠をよし原へ飛ばさせました。大次郎は今年二十二で、ふだんから殿さまのお供をして吉原へゆく者ですから、廓内の勝手はよく心得ています。たゞ困ったことには、この人も雷嫌いで、稲妻がぴかりと光ると、あわてゝ眼をつぶるという質ですから、雷見舞のお使にはいつも相役の村上という男をたのんでいたのですが、きょうは生憎にその村上が下屋敷の方へ行って、屋敷に居あわせない。今日とちがいますから、電話をかけて急に呼び戻すというわけには行かないので、よんどころなく自分が引受けて出ることになりました。大次郎も侍ですから、雷が怖いと云って役目を辞退することは出来ません。風が吹く、雨がふる、雹が降る、雷が鳴る、実にさん〲な天気の真最中に、大次郎は駕籠でのり出しました。本人に取っては、羅生門に向う渡辺綱よりも大役でした。

屋敷を出たのは、夕七つ(午後四時)少し前で、雨風はまだやまない。とき〲に大きい稲妻が飛んで、大地もゆれるような雷がなりはためく。駕籠のなかにいる大次郎はもう生きている心地もないくらいで、眼をふさぎ、耳をふさいで、おそらく口のうちでお念仏でも唱えていたことでしょう。本人の雷ぎらいと云うことは、屋敷でも大抵知っていたでしょうが、場所が場所だけに無暗の者を遣るわけには行かなかったのかも知れません。いずれにしても、雷ぎらいの人間を雷見舞に遣ろうというのですから、躄いざりを火事見舞に遣るようなもので、どうも無理な話です。その無理からこゝに一つの事件が出来しゅったいしたのは、まことによんどころないことでした。

浅草へかゝって、馬道の中ほどまで来ると、雷は又ひとしきり強くなって、なんでも近所へ一二ヵ所も落ちたらしい。雹はやんだが、雨風が烈しいので、駕籠屋も思うように駈けられない。駕籠のなかでは大次郎がふるえ声を出して、早く遣れ、早くやれと急きたてます。いくら急かれても、駕籠屋はいそぐわけには行かない。そのうちに大きい稲妻が又ひかる。大次郎はもう堪らなくなって、一生懸命に怒鳴りました。

「どこでもいゝから、そこらの家うちへ着けてくれ」

どこでもと云っても、まさか米屋や質屋へかつぎ込むわけにも行かないので、駕籠屋はそこらを見まわすと、五六軒さきに小料理屋の行燈がみえる。駕籠屋は兎もかくもその門口へおろすと、大次郎は待ちかねたように転げ出して、その二階へ駈けあがりました。駕籠に乗った侍が飛び込んで来たのですから、そこの家でも疎略にはあつかいません。女中共もすぐに出て来て、お世辞たら〱で御注文をうけたまわろうとしても、客は真蒼になって座敷のまん中に俯伏していて、しばらくは何にも云いません。急病人かと思って一旦はおどろいたが、雷が怖いので逃げ込んで来たということが判って、家でも気をきかして時候はずれの蚊帳を吊ってくれる。線香を焚いてくれる。これで大次郎もすこし人ごこちが付きました。そのうちに雷の方もすこし収まって来たので、大次郎もいよ〱ほっとしていると、わかい女中が酒や肴を運んで来ました。なにを誂えたのか、誂えないのか、大次郎も夢中でよく覚えていませんが、こういう家の二階へあがった以上、そのまゝに帰られないくらいのことは心得ていますから、大次郎は別になんにも云わないで、その酒や肴を蚊帳のなかへ運ばせました。

「あなた。虫おさえに一口召上れよ。」

女中も蚊帳のなかへ這入って来ました。大次郎も飲める口ですし、まったく虫おさえに一杯飲むのもいゝと思ったので、その女の酌で飲みはじめました。吉原の酒の味も知っている人ですから、まんざらの野暮ではありません。その女にも祝儀を遣って、冗談の一つ二つも云っているうちに、雨風もだん〱に静まって雷の音も遠くなりましたから、大次郎はいよ〱元気がよくなりました。相手も鳥渡ちょっと踏めるような御面相の女で、頻りにちやほやと御世辞をいう。それに釣り込まれて飲んでいるうちに、大次郎もよほど酔がまわって来ました。しかし生酔本性違わずで、雷見舞の役目のことが胸にありますから、大次郎もあまり落ちついて御神輿おみこしを据えているわけには行きません。好い加減に切りあげて帰ろうとすると、女はなんとか彼とか云って頻りにひき止めました。

三

大次郎は悪い家へ這入ったので、こゝの家の表看板は料理屋ですが内実は淫売屋じごくやでした。江戸時代に夜鷹は黙許されていましたが、淫売じごくはやかましい。とき〲お手が這入って処分をうけるのですが、やはり今日とおなじことで狩り尽せるものではありません。大次郎は無論にそんな家うちとは知らないで、夢中で飛び込んだのです。駕籠屋もおそらく知らないで普通の小料理屋と思って担ぎ込んだのでしょうが、家には首の白いのが四五人も屯していて、盛に風紀をみだしている。そこへ身綺麗な若い侍が飛び込んで来たので、向うでは好いい鳥ござんなれと手ぐすね引いて持ちかけると云うわけです。大次郎はふり切って帰ろうとする。女は無理にひきとめる。それがだん〱露骨になって来たので、大次郎も気がついて、あゝ飛んだところへ引っかかったと思ったが、今更どうすることも出来ない。あやまるようにして勘定をすませて、さて帰ろうとすると、自分の大小がみえない。

「これ、おれの大小をどうした。」

「存じませんよ。」と、女は澄ましていました。

「存じないことはない。探してくれ。」

「でも、存じませんもの。あなた、お屋敷へお忘れになったのじゃありませんか。」

「馬鹿をいえ。侍が丸腰で屋敷を出られるか。たしかに何処かにあるに相違ない。早く出してくれ。」

女は年こそ若いが、なか〱人を食った奴で、こっちが焦れるほどいよ〱落ちつき払って、平気にかまえているのです。小面こづらが憎いと思うけれど、こゝで喧嘩も出来ない。淫売屋というなかにも、こゝの家はよほど風ふうのわるい家で、大次郎の足どめに大小を隠してしまったらしい。いよ〱憎い奴だと思うものゝ、こゝへ飛び込んで来たときは半分夢中であったので、いつ何うして大小を取りあげられたのか些ちっとも覚えがない。こうなると水かけ論で、いつまで押問答をしていても果てしが付かないことになるので、大次郎も困りました。

勿論、たしかに隠してあるに相違ないのですから、表向きにすれば取返す方法がないことはない。町内の自身番へ行って、その次第をとゞけて出れば、こゝの家の者どもは詮議をうけなければならない。武士が大小をさゝずに来たなどというのは、常識から考えても有りそうもないことですから、こゝの家で隠したと云う疑いはすぐにかゝる。まして隠し売女を置いているということまでが露顕しては大変ですから、こゝで大次郎が「自身番へゆく」と一言いえば、相手も兜をぬいで降参するかも知れないのですが、残念ながらそれが出来ない。表向きにすれば、第一に屋敷の名も出る。ひいては雷見舞の一件も露顕しないとも限らないので、大次郎はひどく困りました。相手の方でも真逆に雷見舞などとは気がつきませんでしたろうが、たといどっちが悪いにせよ、侍が大小を取られたの、隠されたのと云って、表向きに騒ぎ立てるのは身の恥ですから、よもや自身番などへ持出しはしまいと多寡をくゝって、どこまでも平気であしらっている。こんな奴等に出逢ってはかないません。

こうなったら仕方がないから、金でも遣って大小を出して貰うか、それとも相手の云うことを肯いて遊んでゆくか、二つに一つより外はないのですが、可哀そうに大次郎はあまり沢山の金を持っていない上に、こゝで祝儀を遣ったり、法外に高い勘定を取られたりしたので、紙入れにはもう幾らも残っていないのです。ほかの品ならば、打っちゃった積りで諦めて帰りますが、武士の大小、それを捨てゝ丸腰では表へ出られません。大次郎も困り果てゝ、嚇したり賺すかしたりして色々にたのみましたが、相手は飽までもシラを切っているのです。年のわかい大次郎はだん〱に焦れ込んで来ました。

「では、どうしても返してくれないか。」

「でも、無いものを無理じゃありませんか。」

「無理でもいゝから返してくれ。」

「まあ、ゆっくりしていらっしゃいよ。そのうちには又どっかから出て来ないとも限りませんから。」

「それ、みろ。おまえが隠したのじゃないか。」

「だって、あなたがあんまり強情だからさ。あなたがわたしの云うことを肯いてくれなければ、わたしの方でもあなたの云うことを肯きませんよ。そこが、それ、魚心に水心とか云うんじゃありませんか。」

「だから、また出直してくる。きょうは堪忍してくれ。もう七つを過ぎている。おれは急いで行かなければならない。」

「七つ過ぎには行かねばならぬ――へん、きまり文句ですね。」

大次郎はいよ〱焦れて来ました。

「これ、どうしても返さないか。」

「返しません。あなたが云うことを肯かなければ……。」

云いかけて、女はきゃっと云って倒れました。そこにあった徳利で眉間をぶち割られたのです。大次郎は徳利を持ったまゝで突っ立ちました。

「さあ、どこに隠してある。案内しろ。」

女の悲鳴をきいて、下から亭主や料理番や、ほかに三四人の男どもが駈けあがって来ました。どうでこんな家うちですから、亭主はごろつきのような奴で、丁度仲間の木葉こっぱごろがあつまって奥で手なぐさみをしているところでしたから、すぐにどや〱と駈けつけて来たのです。来てみると、この始末ですから承知しません。大事の玉を疵物にされては、侍でもなんでも容赦は出来ない。取っ捉まえて自身番へ突き出せと、腕まくりをして掴みかゝる。それを突き倒して次の間へ飛び出すと、そこには夜具でも入れてあるらしい押入れがある。もしやと思って明けて見ると、果して自分の大小が夜具のあいだに押込んでありました。手早くひき摺り出して腰にさすと、又うしろから掴み付く奴がある。なにしろ多勢に無勢ですし、こっちも少し逆上のぼせていますから、もうなんの考えもありません。大次郎は掴みつく奴を力まかせに蹴放して、また寄って来ようとするところを抜撃ちに斬りました。

「わあ、人殺しだ。」

騒ぎまわる奴等をつゞいて二三人斬り倒して、大次郎は二階からかけ降りました。

びっくりしている駕籠屋にむかって、大次郎は叱るように云いました。

「いそいで吉原へやれ。」

駕籠屋も夢中でかつぎ出しました。

「実に飛んだことになったものですよ。」と、三浦老人はため息をついた。「大次郎という人はその足で吉原へ飛んで行って、諸越花魁に逢って、式かたのごとくに雷見舞の口上をのべて帰りました。帰っただけならばいゝのですが、屋敷へ帰ってから切腹したそうです。相手が相手ですから、あるいは殺し得で済んだかも知れなかったのですが、兎も角それだけの騒ぎを仕出来したので、世間の手前、屋敷でも捨てゝ置かれなかったのか。それともお使に出た途中で、こんなことを仕出来しでかしては申訳がないというので、当人が自分から切腹したのか。それとも表向きになっては雷見舞の秘密が露顕するというので、当人に因果をふくめて自滅させたのか。そこらの事情はよく判りませんが、いずれにしても一人の侍がよし原へ雷見舞にやられて、結局痛い腹を切るようになったのは事実です。料理屋の方でも二人は即死、ほかの怪我人は助かったそうです。」

「まったく飛んだことになったものでした。」と、わたしも溜息をついた。「その後もその大名はよし原へ通っていたのですか。」

「いや、それに懲りたとみえて、その後は一切足踏み無しで、諸越花魁も大事のお客をとり逃してしまったわけです。」

云いながら老人は老女の顔を横目にみた。わたしも思わず彼女の顔をみた。三人の眼が一度に出逢うと、老女はあわてゝ俯向いてしまった。しばしの沈黙の後に、老人は庭をみながら云った。

「さっきの雷で梅雨もあけたと見えますね。」

庭には明るい日が一面にかゞやいていた。

下屋敷

一

その次に三浦老人をたずねると、又もや一人の老女が来あわせていた。但し彼女はこの間の「雷見舞」の女主人公とは全く別人で、若いときには老人と同町内に住んでいた人だと云うことであった。

老人はかれを私に紹介して、この御婦人も色々の面白い話を知っているから、ちっと話して貰えと云うので、わたしはいつもの癖で、是非なにか聴かしてくださいと幾たびか催促すると、この老女もやはり迷惑そうに辞退していたが、とう〱私に責め落されて、丁寧な口調でしずかに語り出した。

はい。年を取りますと、近いことはすぐに忘れてしまって、遠いことだけは能く覚えているとか申しますけれど、矢はりそうも参りません。わたくし共のように年を取りますと、近いことも遠いこともみんな一緒に忘れてしまいます。なにしろもう六十になりますんですもの、そろ〱耄碌しましても致方がございません。唯そのなかで、今でもはっきり覚えて居りまして、雨のふる寂しい晩などに其時のことを考え出しますとなんだかぞっとするようなことが唯たった一つございます。はい、それを話せと仰しゃるんですか。なんだか忌いやなお話ですけれども、まあ、わたくしの懺悔ながらに、これからぼつ〱お話し申しましょうか。

それは安政五年――午うま年のことでございます。わたくしは丁度十八で、小石川巣鴨町の大久保式部少輔様のお屋敷に御奉公に上っておりました。お高は二千三百石と申すのですから、御旗本のなかでも歴々の御大身でございました。今のお若い方々はよく御存じでございますまいが、千石以上のお屋敷となりますと、それはそれは御富貴なもので、御家来にも用人、給人、中小姓、若党、中間のたぐいが幾人も居ります。女の奉公人にも奥勤めもあれば、表勤めもあり、お台所勤めもあって、それも大勢居りました。わたくしは十六の春から奥勤めにあがりまして、あしかけ三年のあいだ先ず粗相も無しに勤め通して居りました。

安政午年――御承知の通り、大コロリの流行った怖ろしい年でございました。併しそれは重おもに下町のことで、山の手の方には割合に病人も少のうございましたから、お屋敷勤めのわたくし共はその怖ろしい噂を聞きますだけで、そんなに怯えるほどのこともございませんでした。勿論、八月の朔日ついたちから九月の末までに、江戸中で二万八千人も死んだと云うのでございますから、その噂だけでも実に大変で、さすがの江戸も一時は火の消えたように寂しくなりました。そう云うわけでございますから、その十一月には例年の通り猿若町の三芝居に役者の入替りはありましたが、顔見世狂言は見合せになりました。これから申上げますのは、その役者のお話でございます。

一体わたくしのお屋敷では、殿様を別として、どなたもお芝居がお好きでございました。殿様は御養子で今年丁度三十でいらっしゃるように承って居りました。奥様は七つ違いの二十三で、御縁組になってから既もう六年になるそうですが、まだ御子様は一人もございませんでした。御先代の奥様は芳桂院様と仰せられまして、目黒の御下屋敷の方に御隠居なすっていらっしゃいましたが、このお方が歌舞伎を大層お好きでございまして、殊に御隠居遊ばしてからは世間に御遠慮も少いので、三芝居を替り目毎にかならず御見物なさると云うほどの御贔屓でございました。そのお血をお引きになったのかも知れません、奥様もやはりお芝居がお好きで、いつも芳桂院様のお供で御見物にお出掛けなさいました。殿様は苦々しいことに思召していたに相違ありませんが、なにぶんにも家柄の低い家から御養子にいらっしゃったと云う怯味ひけみがあるので、まあ大抵のことは黙って大目に見ていらしったようでございます。それでも、芳桂院様は一度こんなことを仰せられたことがございました。

「わたしの生きている中うちはよろしいが、わたしの亡い後には女どもの芝居見物は一切止めさせたい。」

鳥渡ちょっとうけたまわりますと、なんだか手前勝手のお詞ことばのようにも聞えます。自分の生きているうちは芝居を見ても差支えないが、自分の死んだあとには誰も芝居を見てはならぬ――それほどに見て悪いものならば、御自分が先ずお見合せになったら好さそうなものだと、誰もまあ云いたくなります。まして芝居見物のお供を楽みにしている女中達ですもの、誰だってそれをありがたく聞くものはありません。わたくしにしても、恐れながら御隠居様が手前勝手の仰せのように考えて居りましたのは、全くわたくしどもの考えが至らなかったのでございます。

芳桂院様は四月の末におなくなり遊ばして、目黒の方はしばらく空あき屋敷になって居りましたが、その八月の末頃から奥様が一時お引移りということになりました。それは例のコロリがだん〱に本郷小石川の方へも拡がってまいりましたので、今日で申せば転地というような訳で、御下おしも屋敷の方へお逃げになったのでございます。その当時、目黒の辺はまるで片田舎のようでございましたから、流石のおそろしい流行病もそこまでは追掛けて来なかったのでございます。奥様にはお気に入りの女中が二人附いてまいりました。それはお朝あさという今年二十歳の女と、わたくしとの二人で、さびしい御下屋敷へ参るのはなんだか島流しにでも逢ったような心持も致しましたが、御上おかみ屋敷よりも御下屋敷の方が御奉公もずっと気楽でございます、万事が窮屈でありません。もう一つには、例のコロリの噂を聞かないだけでも心持がようございます。かたがたして、わたくし共も別に厭だとも思わないで、奥様のお供をしてまいりました。御下屋敷には以前からお留守居をしている稲瀬十兵衛という老人のお侍夫婦のほかに、お竹とお清きよという二人の女中が居りました。そこへわたくし共がお供をして参ったのですから、御下屋敷の女中は四人になったわけで、急に賑やかになりました。

併しそのお竹とお清とは、どちらも御知行所ごちぎょうしょから御奉公に出ましたもので、江戸へ出るとすぐに御下屋敷の方へ廻されたのですから、まあ山出しも同様で江戸の事情などはなんにも知らないようでした。大勢の女中の中からわたくしども二人がお供に選まれましたのは、前にも申上げた通り、奥様のお気に入りで、いつも芝居のお供をしていたからでございましょう。目黒へまいってからも、奥様はわたくし共をお召しなすって、毎日芝居のお話をなすっていらっしゃいました。わたくし共も喜んで役者の噂などをいたして居りました。

わたしの亡い後は――と、芳桂院様が仰しゃっても矢はりそうはまいりません。芳桂院様がおなくなりになった後でも、奥様はたび〱お忍びで猿若町へお越しになりました。わたくし共もそれを楽みに御奉公致して居るようなわけでございました。目黒へまいりましてから、一月ばかりは何事もございませんでしたが、忘れも致しません、九月の二十一日の夕方でございました。わたくしがお風呂を頂いて、身化粧みじまいをして、奥へまいりますと、奥様は御縁の端はなに出て、虫の声でも聞いていらっしゃるかのように、じっと首をかしげていらっしゃいました。なにしろ、あの辺のことでございますし、御下屋敷の方は御手入れも自然怠り勝になって居りますので、お庭には秋草が沢山にしげっていて、芒すゝきの白い花がゆう闇のなかに仄ほのかに揺れていたのが、今でもわたくしの眼に残っております。

「町や。」と、奥様はわたくしの名をお呼びになりました。「朝はどうしています。」

「わたくしと入れ替って、お風呂を頂いて居ります。」

奥様はだまって首肯いていらっしゃいましたが、やがて低い声で、こう仰しゃいました。

「町や、お前は浅草に知合いの者が多かろう。踊の師匠も識っていますね。」

「はい、存じて居ります。」

わたくしは花川戸の坂東小翫という踊の師匠に七年ほども通いまして、それを云い立てに御奉公にあがったくらいでございますから、勿論その師匠をよく存じて居ります。師匠はもう四十二三の女で、弟子も相当にございました。その弟子のうちに市川照之助という若い役者のあることを、わたくしから奥様にお話し申上げたこともございました。奥様は今夜それを不意に仰せ出されまして、お前はその照之助を識っているかと云うお訊ねでございましたが、実のところ、わたくしはその照之助をよく識らないのでございます。いえ、舞台の上ではたび〱見て居りますけれども、わたくしが師匠をさがる少し前から稽古に来た人ですし、男と女ですから沁々と口を聞いたこともありませんし、唯おたがいに顔をみれば挨拶するくらいのことで、同じ師匠の格子をくゞりながらも、ほんの他人行儀に附き合っていたのですから、先方ではもう忘れているかも知れないくらいです。で、わたくしは其通りのことを申上げますと、奥様は黙って少し考えていらっしゃいましたが、又こう仰しゃいました。

「お前はよく識らないでも、その師匠は照之助をよく識っていましょうね。」

「それは勿論のことでございます。」

奥様はわたくしを頤でお招きになりまして、御自分のそばへ近く呼んで、その照之助に一度逢うことは出来まいかという御相談がありました。わたくしも一時は返事に困って、なんと申上げてよいか判りませんでしたが、唯今とは違いまして、その時分の人間は主命ということを大変に重いものに考えて居りましたのと、わたくしもまだ年が若し、根が浅薄あさはかな生れ附きでございますのとで、とう〱其役目を引受けてしまったのでございます。約つまりわたしから師匠の小翫にたのんで、師匠から照之助に話して貰って、照之助をこの御下屋敷へ呼ぼうと云うのでございます。

照之助というのは、そのころ二十一二の女形おやまで、二町目――市村座でございます――に出て居りましたが、年が若いのと家柄が無いせいでございましょう。余り目立った役も付きませんで、いつもお腰元か茶屋娘ぐらいが関の山でしたが、この盆芝居の時にどうしてか、おなじお腰元でも少し性根のある役が付きまして、その美しい舞台顔がわたくしどもの眼に初めてはっきりと映りました。奥様も可愛らしい役者だと褒めておいでになりました。今になって考えますと、この御下屋敷へ御引移りになりましたのも、コロリの為ばかりではなかったのかも知れません。全くその照之助と申しますのは、少し下膨れの、眼つきの美しい、まるでほんとうの女かと思われるような可愛らしい男でございました。

奥様は手文庫から二十両の金を出して、わたくしにお渡しになりました。これは照之助に遣るのではない、その橋渡しをしてくれる師匠に遣るのだと云うことでございました。そこへお朝が風呂から帰ってまいりましたので、お話はそのまゝになりました。

わたくしはその明る日、すぐに浅草の花川戸へまいりまして、むかしの師匠の家をたずねました。そうして、ゆうべの話しを竊そっといたしますと、小翫も一旦は首をかしげていました。それは相手が武家の奥方であるのと、もう一つには、わたくしの年がまだ若いので何をいうのかと疑っているので、すぐにはなんとも挨拶をしないらしく見えましたから、わたくしは袱紗につゝんだ金包みを出して師匠の眼の前に置きました。二十両――その時分には実に大金でございます。師匠もそれをみて安心したのでしょう。安心というよりも、その大金をみて急に慾心が起ったのでしょう。わたくしの云うことを信用して、それから真面目に相談相手になってくれました。

「照之助さんもこれから売出そうと云うところで、懐がなか〱苦しいんですからね。そこを奥様によくお話しください。」

どうせ金の要るのは判り切っていることですから、わたくしも承知して別れました。今おもえば実に大胆ですが、そのときには使者の役目を立派につとめ負おおせたという手柄自慢が胸一杯になって、わたくしは勇ましいような心持で目黒へ帰りました。帰って奥様に申上げると、奥様も大層およろこびで、その御褒美に縮緬のお小袖を下されました。

「朝に申しても宜しゅうございますか。」と、わたくしは奥様にうかがいました。ほかの女中は兎もあれ、お朝には得心させて置かないと、照之助を引き込むのに都合が悪いと思ったからでございます。奥様もそれを御承知で、朝にだけは話してもよいと仰しゃいました。お朝も奥様の前へ呼ばれまして、幾らかのお金を頂戴しました。

二

それから五日ほど経って、わたくしが花川戸へ様子を訊きにまいりますと、師匠はもう照之助に吹き込んで置いてくれたそうで、いつでも御都合のよい時にお屋敷へうかゞいますと云う返事でございました。では、あしたの晩に来てくれという約束をいたしまして、わたくしは今日も威勢よく帰って来ました。すぐに奥様にそのお話をして、それから自分の部屋へ退ってお朝にも竊そっと耳打ちを致しますと、お朝はなぜだか忌いやな顔をしていました。

その明る日――わたくしは朝からなんだかそわ〱して気が落着きませんでした。奥様は勿論ですが、自分も髪をゆい直したり、着物を着かえたり、よそ行きの帯を締めたりして、一生懸命にお化粧つくりをして、日の暮れるのを待っていました。お朝はきょうも厭な顔をしていました。

「わたしはなんだか頭痛がしてなりません。もしやコロリにでもなったんじゃ無いかしら。」

「まさか。」と、わたくしは笑いました。「今夜は照之助が来るんじゃありませんか。おまえさんも早く髪でも結い直してお置きなさいよ。照之助はおまえさんの御贔屓役者じゃありませんか。」

お朝は黙っていました。お朝も盆芝居から照之助を大変に褒めていることを知っていますから、わたくしも笑いながら斯う云ったのですが、お朝は莞爾にこりともしませんでした。お朝はどちらかと云えば大柄の、小ぶとりに肥った女で、色も白し、眼鼻立もまんざら悪くないのですが、疱瘡のあとが顔中に薄く残って、俗に薄いもという顔でした。とりわけて眉のあたりにその痕が多く残っているので、眉毛は薄い方でした。ほんとうのあばた面さえ沢山にある時代ですから、薄いもぐらいはなんでもありません。誰も別に不思議には思っていませんでしたが、当人はひどくそれを気にしているらしく、時々に鏡を見つめて悲しそうに嘆息ためいきをついていることがあるので、わたくしもなんだか可哀そうに思ったことも度々ありました。お朝は今日も、その鏡を見つめたときと同じような悲しい顔をして、いつまでも黙っていました。

「おまえさん。今夜は照之助が来るんですよ。」と、わたくしは少しはしゃいだ調子で、お朝の肩を一つ叩きました。なんという蓮葉なことでございましょう。今考えると冷汗が出ます。

「奥様のところへ来るんじゃありませんか。」と、お朝は口のうちで云いました。

「そりゃあたりまえさ。可いじゃありませんか。」と、わたくしは又笑いました。わたくしは朝から無暗に笑いたくって仕様がないので、お朝をその相手にしようと思って、さっきから色々に誘いかけるのですが、お朝はどうしても口脣くちびるを解ほぐしませんでした。わたくしが笑えば笑うほど、お朝の顔はだん〱に陰くもって来て、碌々に返事もしませんでした。

「今夜は四つ(午後十時)を相図に、照之助はお庭の木戸口へ忍んで来るから、木戸をあけてすぐに奥へ連れて行くんでよ。よござんすか。」と、わたくしは低い声で話しました。

「わたしは気分が悪くっていけないから、今夜の御用は勤められないかも知れません。お前さん、何分たのみます。」と、お朝は元気のない声で云いました。

気分が悪いと云うのですからどうも仕方がありません。わたくしもよんどころなしに黙ってしまいました。秋の日は短いと云いますけれども、きょうの一日はなか〱暮れませんので、わたくしは起ったり居たりして、日のくれるのを待っていました。どうも自分の部屋にじっと落着いていられないので、わたくしはお庭口から裏手の方へふら〱出て行きますと、うら手の井戸のそばにお朝がぼんやりと立っていました。時刻はもう七つ(午後四時)下りでしたろう。薄いゆう日が丁度お朝のうしろに立っている大きい柳の痩せた枝を照らして、うす白く枯れかゝったその葉の影がいよ〱白く寂しくみえました。そこらの空地には色のさめた葉鶏頭が将棋倒しに幾株も倒れていて、こおろぎが弱い声で鳴いていました。お朝は深い井戸を覗いているらしゅうございましたが、その澄んだ井戸の水には秋の雲が白く映ることをわたくし共は知っています。お朝も屹きっとその雲の姿をながめているのであろうと推量しましたので、別に嚇おどかして遣ろうという積りでもありませんでしたが、わたくしはなんという気もなしに抜足をして、そっと井戸の方へ忍んで行きますと、お朝は気がついて振向きました。薄いもの白い顔が洗われたように夕日に光っているのは、今まで泣いていたらしく思われたので、わたくしもびっくりしました。まさかに身を投げる積りでもありますまい。第一になぜ泣いているのか、その理窟が呑み込めませんでした。お朝はわたくしの顔をみると、すぐに眼をそむけて、黙って内へ這入ってしまいました。わたくしは少し呆気あっけに取られて、そのうしろ姿を見送っていました。

どうにか斯うにか長い日が暮れて、わたくしはほっとしました。併しこれから大切な役目があるのですから、どうしてなか〱油断はなりませんでした。わたくしはお風呂へ這入って、いつもよりも白粉を濃く塗りました。だん〱暗くなるに連れて、わたくしは自然に息が喘はずんで、なんだか顔が熱ほてって来ました。照之助が来る――それが無暗に嬉しいのですが、なぜ嬉しいのか判りませんでした。自分のところへお婿が来る――その時には丁度こんな心持ではないかと思われました。お朝はいよ〱気分が悪くなったと云って、夕方からとう〱夜具をかぶってしまいました。ほかの女中――お竹とお清とは、前にも申した通りの山出しですから心配はありませんが、ただ不安心なのは留守居の侍の稲瀬十兵衛夫婦でございます。女房の方は病身で、その上に至極おとなしい人間ですから、あまり気を置くこともないのですが、夫の方は――これも正直一方で、眼先の働く人間ではありませんが、それでも一人前の侍ですから、うっかり気を許すわけには行きません。わたくしは唯それを心配していますと、その十兵衛は宵からどこへか出て行ってしまいました。女房の話によると、なにか親類に不幸が出来たとかいうのです。なんという都合の好いことでしょう。わたくしは手をあわせて遠くから浅草の観音様を拝みました。そのことを奥様に申上げますと、奥様も黙って笑っておいでになりました。奥様はどんなお心持であったか知りませんけれども、わたくしは襟許がぞく〱して、生れてから今夜ぐらい嬉しいことはないように思われました。

そのうちに約束の刻限がまいりました。生憎に宵から陰くもって、今にも泣き出しそうな暗い空模様になりましたが、たとい雨が降っても照之助は来るに相違ありませんから、天気のことなどは余り深く考えてもいませんでした。不動様の四つの鐘のきこえるのを相図に、わたくしは竊そっとお庭に出て、木戸の口に立番をしていますと、旧暦の九月ももう末ですから、夜はなか〱冷えて来て、広いお庭の闇のなかで竹藪が時々にがさ〱と鳴る音が寒そうにきこえます。お屋敷の屋根の上まで低く掩いかゝった暗い大空に、五位鷺の鳴いて通るのが物すごく聞えます。これがふだんならば、臆病なわたくしには迚とても辛抱は出来そうもないのでございますが、今夜はいつもと違って気が一ぱいに張りつめています。幽霊の冷たい手で一度ぐらい顔を撫でられても驚くのではありません。わたくしは息をつめて、その人の来るのを今か今かと待設けていました。

振返ってみますと、奥様の御居間の方には行燈の灯がすこし黄く光っていました。その行燈の下で奥様はなにか草雙紙でも御覧になっている筈ですが、どんなお心持でその草雙紙を読んでいらっしゃるか、わたくしにも大抵思いやりが出来ます。それにつけても、照之助が早く来てくれゝば可いいと、わたくしも顔を長くして耳を引立てゝいますと、どこやらで犬の吠える声が時々にきこえますが、人の跫音らしいものは聞えません。勿論、日が暮れてからは滅多に往来のある所ではございませんから。

そのうちに、低い跫音――ほんとうに遠い世界の響きを聞くような、低い草履の音が微かに聞えました。わたくしははっと思うと、からだが急に赫かっと熱ほてってまいりました。些ちっとも油断しないで耳を立てゝいますと、案の通りその跫音は木戸の外へひた〱と寄って来ましたので、さっきから待兼ねていたわたくしは、すぐに木戸をあけて暗いなかを透して視ますと、そこには人が立っているようでございました。

「照之助さんでございますか。」

わたくしは低い声で訊きました。

「左様でございます。」

外でも声を忍ばせて云いました。

「どうぞこちらへ。」

照之助は黙って竊そっと這入って来ましたので、わたくしは探りながらその手を把とって、お居間の方へ案内してまいりました。照之助もなんだか顫えているようでしたが、わたくしは全く顫えまして、胸の動悸がおそろしいほどに高くなってまいりました。五位鷺がまた鳴いて通りました。

奥様はわたくしに琴を弾けと仰しゃいました。それは十兵衛の女房や、ほかの女中二人に油断させる為でございます。わたくしはあとの方に引き退って、紫縮緬の羽織の襟から抜け出したような照之助の白い頸筋を横目にみながら、おとなしく琴をひいて居りましたが、なんだか手の先がふるえて、琴爪が糸に付きませんでした。奥様は照之助と差向いで、芝居のお話などをしていらっしゃいました。

唯それだけのことでございます。全くそれだけのことでございました。それが物の半時とは経ちません中に、大変なことが出来しゅったいいたしました。いつの間にどうして忍んで来たのか知りませんが、彼の稲瀬十兵衛が真先に立って、ほかの四人の侍や若党がこのお居間へつか〱と踏み込んでまいりました。それはみんな御上屋敷の人達でございます。わたくしは眼が眩むほどに驚きまして、思わず畳に手をついてしまいますと、侍達は無言で照之助の両手を押さえました。もうどうする事も出来ません。わたくしは竊そっと眼をあげてうかゞいますと、奥様は真蒼な顔をして、口脣くちびるをしっかり結んで、たゞ黙って坐っておいでになりました。照之助の顔色はもう土のようになって、身動きも出来ないように竦んでいますのを、侍達はやはり無言で引立てゝ行きました。出てゆく時に、照之助は救いを求めるような悲しい眼をして、奥様とわたくしの方を二度見かえりましたが、わたくし共にも今更どうすることも出来ないので、唯だまって見送っていますと、侍たちは照之助を引立てゝ縁伝いにお庭口へ降りて、横手の方へ連れて行くようでございました。わたくしも不安心で堪りませんから、そっと起ち上ってお庭へ降りました。照之助がどうなるのかその行末が見とゞけたいので、跫音をぬすんで怖々にそのあとをつけて行きますと、なにしろ外は真暗なので、侍達もわたくしには気が注つかないらしゅうございました。

御座敷の横手には古い土蔵が二棟つゞいて居ります。照之助はその二番目の士蔵の前へ連れてゆかれますと、土蔵の中にはさっきから待受けている人があるとみえて、手燭の灯が小さくぼんやりと点っていました。わたくしも奥様の御用で二三度この土蔵のなかへ這入ったことがございますが、御屋敷の土蔵だけに普通の町家のよりもずっと大きく出来て居りまして、昼間でも暗い冷たい厭なところでございます。中には大きい蛇が棲んでいるとか云って、お竹やお清に嚇されたこともありましたが、その暗い隅にはまったく蛇でも棲んでいそうに思われました。照之助はその土蔵のなかへ引き摺り込まれたので、わたくしは少し不思議に思いました。

もしこの河原者を成敗するならば、裏手の空地へでも連れ出しそうなものです。なぜこの土蔵の中までわざ〱連込んだのかと見ていますと、侍のひとりが奥にある大きい長持の蓋をあけました。その長持はわたくしも知って居ります。全体が溜塗ためぬりのようになっていて、角々には厚い金物が頑丈に打付けてございます。わたくしも正面から平気でのぞく訳にはまいりません、壁虎やもりのように扉のかげに小さく隠れて、そっと隙見を致しているのですから、暗い土蔵の中はよく見えません。唯たった一つの手燭の灯が大勢の袖にゆれて、時々に見えたり隠れたりしているかと思ううちに、その長持の蓋を下す音が高くきこえました。つゞいて錠を下すらしい金物の音ががち〱と響きました。そのおそろしい音がわたくしの胸に一々強くひゞいて、わたくしはもう息も出ないようになりました。そのうちに侍達は自分の仕事を済ませて、奥からだん〱に出て来るようですから、わたくしは顫える足を引き摺って早々に逃げて帰りました。そうして、もとの御居間の縁さきから這い上って、怖々に内を覗いてみますと、燈火は瞬きもしないで静かに御座敷を照らしているばかりで、そこに奥様のお姿は見えませんでした。あとで聞きますと、奥様は彼の十兵衛が御案内して、御門の外に待っている御駕籠に乗せられて、すぐに御上屋敷の方へ送り帰されたのだそうでございます。

照之助は長持に押込まれて、土蔵の奥に封じ籠められてしまいました。奥様は上屋敷へ送られてしまいました。その次にはわたくしの番でございます。どうなることかとその晩はおち〱眠られませんでした。その怖ろしい一夜があけますと、又こゝに一つの事件が出来しゅったいしていました。お朝が裏手の井戸に身を投げて死んでいるのでございます。いつどうして死んだのか判りません。ひょっとすると、照之助のことが露顕したのは、お朝が十兵衛に密告したのではないかとも思われますが、証拠のないことですから、なんとも申されません。

わたくしはなんの御咎めも無しに翌日長のお暇になって、早々に親許へ退りましたが、照之助はどうなりましたか、それは判りません。生きたまゝで長持に封じ籠められて、それぎり世に出ることが出来ないとすれば、あまりに酷たらしいお仕置です。わたくしが奥様のお使さえ勤めなければ、こんなことも出来しなかったのでございましょう。ほんとうに飛んでもない罪を作ったと一生悔んでおります。それ以来、芝居というものがなんだか怖ろしくなりまして、わたくしはもう猿若町へ一度も足を踏み込んだことはございませんでした。師匠の小翫の話によりますと、照之助の美しい顔はそれぎり舞台に見えないと申します。

それから三年ほどの後に、わたくしは不動様へ御参詣に行きましたので、そのついでに御下屋敷の近所まで竊そっと行ってみますと、御屋敷は以前よりも荒れまさっているようでしたが、二棟の土蔵はむかしのまゝに大きく突っ立って、古い瓦の上に鴉が寒そうに啼いていました。その土蔵の長持の底には、美しい歌舞伎役者が白い骨こつになって横わっているかと思うと、わたくしは身の毛がよだって逃げ出しました。

こゝまで話して、老女はひと息つくと、三浦老人は代って註を入れてくれた。

「いつぞや梅暦のお話をしたことがあるでしょう。筋は違うが、これもまあ同じようないきさつで、むかしの大名や旗本の下屋敷には色々の秘密がありましたよ。」

矢がすり

一

ある時に、三浦老人は又こんな話をして聴かせた。それは近ごろ矢場やばというものがすっかり廃れて、それが銘酒屋や新聞縦覧所に変ってしまったという噂が出たときのことである。明治以後でも矢場は各所に残っていて、いわゆる左り引きの姐さん達が白粉の匂いを売物にしていたのであるが、日清以後からだん〱に衰えて、このごろでは殆どその後を絶ったなどという話も出た。その末に、老人はこう云った。

矢場女と一口に云いますけれど、江戸のむかしは、矢場女や水茶屋の女にもなか〱えらいのがありまして、何処の誰といえば世間にその名を知られているのが随分あったものです。これは慶応の初年のことですが、そのころ芝の神明の境内にお金きんという名代の矢場女がありました。店の名を忘れましたが、当人は矢がすりという綽名をつけられて、容貌きりょうのいゝのと、腕があるのとで近所は勿論、浅草あたりの矢場遊びの客までも吸いよせるという人気はすさまじいものでした。

この女がなぜ矢飛白やがすりという綽名をつけられたかと云うと、すぐれて容貌がよく、こんな稼業にはめずらしい上品な女なのですが、玉に疵というのは全くこのことでしょう。右の頬に薄いかすり疵のあとがあるのです。当人の話では、射垜あずちの下へ矢を拾いに行ったときに、悪戯いたずらか粗相か、客の射出した矢がうしろから飛んで来て、なにごころなく振向いたお金の頬をかすったのでこんな疵になったと云うのでした。矢とりの女の尻を射るのは時々に遣る悪戯ですが、顔を射るのはひどい。たとい小さい擦り疵にしても、あの美しい顔に疵をつけるとはとんだ罪を作ったものだと、贔屓連はしきりに同情する。それがまた人気の一つになって、誰が云い出したともなく、矢がすりという綽名をつけられるようになったのです。

そのうちに、当人が自分でかんがえ出したのか、それとも誰かが智恵をつけたのか、お金は矢飛白の着物を年中着ていることになりました。つまりは顔の矢がすりを着物の矢飛白に附会こじつけてしまったわけで、矢飛白の着物をきているから矢飛白お金というのだろうと、早呑込みをする人もだん〱多くなって、顔の矢がすりか、着物の矢飛白か、あだ名の由来もはっきりとは判らなくなってしまいました。いずれにしても、矢がすりお金といえば神明第一の売っ子で、この店はいつも大繁昌、楊弓ようきゅうの音の絶える間がないくらいでした。

そうなると又おせっかいに此女の身許を穿索せんさくするものがある。お金のおやじはこゝらの矢場や水茶屋へ菓子を売りにくる安兵衛という男で、そのひとり娘、そういう因縁から自分も肩あげの取れない時分から矢取女になったのだそうで、おやじは二三年前に世を去って、今ではおふくろだけが残っている。お金は今年二十歳だと云っているが、ほんとうは一つ二つぐらいも越しているだろうという評判。いや、年の方は一つや二つ違ったところで、差したる問題でもないのですが、一体このお金に亭主があるか無いか、勿論、表向きの亭主は無いにきまっているが、いわゆる内縁の亭主とか、色男とか旦那とかいうようなものがあるか無いか、それを念入りに探索する人もあったのですが、どうも確かなことは判らない。ところが、この慶応元年の正月頃から一人のわかい侍がこの矢場へ時々に遊びに来ました。

侍も次三男の道楽者などは矢場や水茶屋這入りをするのはめずらしくない。唯それだけでは別に問題にもならないのですが、その侍はまだ十八九で、人品も好い、男振りもすぐれて好い。そうして、彼のお金となんだか仲好く話しているというのですから、これは何うしても見逃されません。朋輩の女もすぐに眼をつける、出入りの客や地廻り連も黙ってはいない。あいつは何うも可怪おかしいという噂がたちまちに拡まってしまいました。

「あのお客はどこのお屋敷さんだえ。」と朋輩が岡焼半分に訊いても、お金は平気でいました。

「どこの人だか知るものかね。」

こう云って澄ましているのですが、どうも一通りの客ではないらしいという鑑定で、お金はあの若い侍と訳があるに相違ないと決められてしまって、「あん畜生、うまく遣っていやあがる。」とか、「あの野郎、なま若え癖に、太ふてえ奴だ。」とか、地まわり連のうちには随分憤慨しているのもありましたが、なにしろ相手は侍ですから無暗に喧嘩を吹っかけるわけにも行かないので、横眼で睨んで店さきを通りながら何か当てこすりの鼻唄でも歌って行くぐらいのことでした。そのうちにお金が神明から姿を消してしまったので、近所の騒ぎはまた大きくなりました。主人の家でもおどろいて、取りあえず片門前に住んでいるおふくろの所へ聞きあわせに遣ると、おふくろも知らないで、唯おどろいているばかりです。

「お金の奴め、とう〱あの侍と駈落をきめやあがった。」

近所ではその噂で持切っていました。なにしろ神明で評判者の矢飛白が不意に消えてなくなったのですから、やれ駈落だの心中だのと、それからそれへと尾鰭をつけて色々のことを云いふらす者もあります。とりわけて心配したのは矢場の主人あるじで、呼び物のお金がいなくなっては早速に商売に障るので、心あたりをそれ〲に詮議しましたが何うも判らない。勿論その若侍もそれぎり姿をみせない。それから考えると、どうしてもその若侍がお金をさそい出したものと思われるのも無理はありません。

それから一月あまりも過ぎて、三月はじめの暖かい晩のことです。彼の若侍がふらりと遣って来て、神明の境内をひやかして歩いて、お金の矢場の前に立ったのを、地廻り連が見つけたので承知しません。殊にそのなかには二三人のごろつきもまじっていたから、猶たまりません。

「ひとの店の女を連れ出せば拐引かどわかしだ。二本指でも何でも容赦が出来るものか。」

こんなことを云って嗾けしかけるから、いよ〱騒ぎは大きくなります。大勢は侍を取り囲んで、お金の店のなかへ引摺り込みました。侍はおとなしい人でしたが、町人の手籠め同様に逢っては、これも黙ってはいません。

「これ、貴様たちは何をするのだ。」

「なにをするものか。さあ、こゝの店の矢がすりを何処へ隠した。正直にいえ。」

「矢飛白をかくした……。それはどういうわけだ。」

「えゝ、白ばっくれるな。正直に云わねえと、侍でも料簡しねえぞ。早く云え、白状しろ。」

「白状しろとは何だ。武士にむかって無礼なことを申すな。」

「なにが無礼だ。かどわかし野郎め。ぐず〱していると袋叩きにして自身番へ引渡すぞ。」

相手が若いので、幾らか馬鹿にする気味もある。その上に大勢をたのんで頻りにわや〱騒ぎ立てるので、若い侍はだん〱に顔の色をかえました。店のおかみさんも見かねたように出て来ました。

「まあ。どなたもお静かにねがいます。店のさきで騒がれては手前共が迷惑いたします。」

口ではこんなことを云っていますが、その実は自分がごろつき共を頼んでこの若侍をひき摺り込ませたのですから、騒ぎの鎮まる筈はありません。大勢は若侍を取り囲んで、矢飛白のありかを云え、お金のゆくえを白状しろと責めるのです。そのうちに弥次馬がだん〱にあつまって来て、こゝの店さきは黒山のような人立になりました。

「あいつが矢飛白をかどわかしたのだそうだ。見かけによらねえ侍じゃあねえか。」

「おとなしそうな面をしていて、呆れたものだ。」

色々の噂が耳に這入るから、侍ももう堪らなくなりました。身分が身分、場所が場所ですから、初めはじっと我慢していたのですが、なにを云うにも年が若いから、斯うなると幾らか逆上のぼせても来ます。侍は眼を据えて、自分のまわりを取りまいている奴等を睨みつけました。

「場所柄と存じて堪忍していれば、重々無礼な奴。もう貴様たちと論は無益だ。道をひらいて通せ、通せ。」

持っている扇で眼さきの二三人を押退けて、そのまゝ店口から出て行こうとすると、押退けられた一人がその扇をつかみました。侍はふり払おうとする。そのうちに誰かうしろから侍の袖をつかむ奴があるから、侍は又それを振払おうとする。そのなかに悪い奴があって、侍の刀を鞘ぐるみに抜き取ろうとする。侍もいよ〱堪忍の緒を切って、持っている扇をその一人にたゝき付けたかと思うと、いきなりに刀をひきぬいて振りまわした。

「それ抜いたぞ。」

抜いたらば早く逃げればいゝのですが、大勢の中にはごろつきもいる。喧嘩好きの奴もいるので、相手が刀をぬいたと見てその腕をおさえ付けようとする者がある。下駄をぬいで撲ろうとする者がある。ひどい奴はどこからか水を持って来て、侍の顔へぶっかけるのがある。こうなると、若い侍は一生懸命です。もう何の容赦も遠慮もなしに、抜いた刀をむやみに振りまわして、手あたり次第に斬りまくる。たちまちに四五人はそこに斬り倒されたので、流石の大勢もぱっと開く。その隙をみて侍は足早にそこを駈け抜けてしまいました。

「人殺しだ、人殺しだ。」

たゞ口々に騒ぎ立てるばかりで、もうその跡を追う者もない。侍のすがたが見えなくなってから、騒ぎはいよ〱大きくなりました。なにしろ即死が三人手負が五人で、手負のなかにもよほど手重いのが二人ほどあるというのですから大変です。勿論、式かたの通りに届けて検視をうけたのですが、その下手人は誰だか判らない。場所が場所ですから、神明の八人斬というので、忽ち江戸中の大評判になりました。

二

お金のおふくろのお幸こうというのが今度の事件について先ずお調べを受けました。神明の境内で起った事件ですから、寺社奉行の係です。彼の若侍がお金を連れ出したという疑いから、こんな騒動が持ちあがったのですから、どうしてもお金とその侍との関係を詮議する必要がある。そうすれば、自然にお金のゆくえも判り、侍の身許もわかるに相違ないというので、お金のおふくろは片門前の裏借家から家主いえぬし同道で呼び出されました。

お金の主人から問い合せがあった時には、お幸はなんにも知らないようなことを云っていました。今度の呼び出しを受けても、最初はやはり曖昧のことを云っていたのですが、だん〱に吟味が重なって来ると、もう隠してもいられないので、とう〱正直に申立てました。お金は桜井衛守えもりという三百五十石取りの旗本のむすめで、彼の矢がすりには斯ういう因縁があるのでした。

桜井衛守というのは本所の石原に屋敷を持っていて、弓の名人と云われた人でした。奥さまはお睦むつと云って夫婦のあいだにお金と庄之助という子供がありました。衛守という人も立派な男振り、お睦も評判の美人、まことに一対の夫婦と羨まれていたのですが、どういう魔がさしたものか、その奥様が用人神原伝右衛門のせがれ伝蔵と不義を働いていることが主人の耳にも薄々這入ったらしいので、ふたりも落ちついてはいられません。伝蔵の身よりの者が奥州白河にあるので一先ずそこへ身を隠すつもりで、内々で駈落の支度をしていました。その時、伝蔵は二十歳、奥さまのお睦は二十三で、むすめのお金は年弱の三つ、弟の庄之助はこの春生れたばかりの赤ん坊であったそうです。

年下の家来と駈落をするほどの奥様でも、ふだんから姉娘のお金をひどく可愛がっていたので、この子だけは一緒に連れて行きたいという。これには伝蔵もすこし困ったでしょうが、なにしろ主人で年上の女のいうことですから、結局承知してお金だけを連れ出すことになりました。十二月の十三日、きょうは煤はきで屋敷中の者も疲れて眠っている。その隙をみて逃げ出そうという手筈で、男と女は手まわりの品を風呂敷づつみにして、お金の手をひいて夜なかに裏門からぬけ出しました。年弱の三つという女の児を歩かせてゆくわけには行きませんから、表へ出るとお睦はお金を背中に負いました。伝蔵は荷物を背負しょいました。大川づたいに綾瀬の上かみへまわって、千住から奥州街道へ出るつもりで、男も女も顔をつゝんで石原から大川端へ差しかゝると、生憎に今夜は月があかるいので、駈落をするには都合のわるい晩でした。おまけに筑波おろしが真向まともに吹きつけて来る。ふたりは一生懸命にいそいでゆくと、うしろで犬の吠える声がきこえる。人の跫音もきこえました。

脛に疵持つふたりは若もしや追手かと胸を冷したが、なにぶんにも月が明るいので何うすることも出来ない。むやみに急いで多田の薬師の前まで来ると、うしろから弦の音が高くきこえて、伝蔵は背中から胸へ射徹されたから堪りません。そのまゝばったり倒れました。お睦はおどろいて介抱しようとするところへ、二の矢が飛んで来てその襟首から喉を射ぬいたので、これも二言と云わずに倒れてしまいました。

不義者ふたりを射留めたのは、主人の桜井衛守です。かねて二人の様子がおかしいと眼をつけていたので、弓矢を持ってすぐに追いかけて来て、手練の矢先で難なく二人を成敗してしまったのです。伝蔵もお睦も急所を射られて、ひと矢で往生したのですが、おふくろに負われていたお金だけは助かりました。しかしお睦の襟首に射込んだ矢がお金の右の頬をかすったので、矢疵のあとが残りました。お金が真直に負おぶわれていたら、おふくろと一緒に射徹されてしまったかも知れなかったのですが、子供のことですから半分眠っていて、首を少しく一方へかしげていた為に、かすり疵だけで済んだのでした。

不義者を成敗したのですから、桜井さんには勿論なんの咎めもありません。用人の神原伝右衛門はわが子の罪をひき受けて切腹しました。これでこの一件も落着したのですが、さてそのお金という娘の始末です。わが子ではあるが、不義の母が連れ出した娘であると思うと、桜井さんはどうも可愛くない。殊にその頬に残っている矢疵を見るたびに忌いやな心持をさせられるので、思い切って屋敷から出してしまうことにしました。表面は里子に出すということにして、その実は音信不通の約束で、出入りの植木屋の万吉というものに遣ったのですが、その万吉も女房のお幸も気だての善いい者で、すべての事情を承知の上でお金を引き取って、うみの娘のように育てゝいるうちに、亭主の万吉が早く死んだので、お幸はお金を連子にして神明の安兵衛のところへ再縁しました。安兵衛は神明の矢場や水茶屋へ菓子を売りにゆくので、その縁でお金も矢場へ出るようになった。それは前にも申上げた通りです。

お幸は亭主運のない女で、前の亭主にも早く死別れ、二度目の亭主の安兵衛にも死別れて、今では娘のお金ひとりを頼りにしていましたが、昔の約束を固く守って、彼の矢疵の因縁はお金にも話したことはありません。子供のときに吹矢で射られたなどと好い加減のことを云い聞かせて置いたので、お金も自分の素性を夢にも知らなかったのです。そのうちに、今年の春になって突然彼の若侍がたずねて来ました。若侍はお金の弟の庄之助で、その当時はまだ当歳の赤児でしたが、だん〱生長するにつれて、母のことや姉のことを知りましたが、植木屋の万吉はもう此世を去り、その女房はどこへか再縁してしまったというので、姉のありかを尋ねる手がかりも無かったのです。この庄之助という人は姉弟思いで、子供のときに別れた姉さんに一度逢いたいと祈っていると、今年十九の春になって、神明の矢場に矢がすりお金という女があることを、不図聞き出しました。

頬に矢疵があると云い、その名前といい、年頃といゝ、もしやと思って竊そっと見にゆくと、どうもそれらしく思われたが、迂濶にそんなことを云い出すわけにも行かないので、たゞ一通りの遊びのように見せかけて、幾たびか神明通いをした上で、だん〱にお金とも馴染になって、その実家は片門前にあることや、おふくろの名はお幸ということなどを確かめたので、ある日片門前の家へたずねて行って、おふくろのお幸に逢いました。お幸も最初はあやぶんでいたのですが、庄之助の方から自分の屋敷の名をあかし、併せて一切の秘密をうち明けたので、お幸もはじめて安心して、これも正直に何も彼も打ちあけることになりました。お金は初めて自分の素性を知って驚いたわけです。そこで庄之助は姉にむかって云いました。

「お父さまは近ごろ御病身で、昨年の夏から御隠居のお届けをなされまして、若年ながら手前が家督を相続しております。つきましてはひとりのお姉あねえ様を唯今のようなお姿にして置くことはなりませぬ。表向きに屋敷へお連れ申すことは出来ませずとも、どこぞに相当の世帯をお持ちなされて、義理の母御と御不自由なくお暮しなさるゝように、手前が屹とお賄い申します。」

そうなればまことに有難い話で、お幸に勿論異存のあろう筈はありませんでしたが、お金はすこし返事に困りました。矢場女をやめて、弟の仕送りで気楽に暮して行かれるのは結構ですが、お金には内緒の男がいる。上手に逢曳をしているので今まで誰にも覚られなかったのですが、お金には新内松しんないまつという悪い男が附いているのです。以前は新内の流しを遣っていて、今の商売は巾着切り、そこで綽名を新内松という苦味走った大哥あにさんに、お金はすっかり打込んでいる。新内松と矢飛白おきん、その頃ならば羽左衛門に田之助とでも云いそうな役廻りですが、この方には大した芝居もなくて済んでいたところへ、十九年ぶりで弟の庄之助が突然にたずねて来て、自分の姉として世話をして遣ろうという。お金に取っては有難迷惑です。

たとい本所の屋敷へ引取られないでも、今の商売をやめて弟の世話になるのは、いかにも窮屈であり、又自分の男のかゝり合いから、どんなことで弟に迷惑をかけないとも限らない。さりとて新内松と手を切って、堅気に暮すなどという心は微塵もないので、お金はなんとかして庄之助の相談を断りたいと思ったが、まさかに巾着切りを男に持っていますと正直に云うことも出来ない。よんどころなく好い加減の挨拶をして其場は別れたのですが、もとより矢場の稼ぎを止めるでもなく、その後も相変らず神明の店に通っていると、庄之助はその後たび〱尋ねて来て、早く神明の方をやめてくれと催促する。おふくろのお幸も傍から勧める。お金ももう断り切れなくなって、男と相談の上で一旦どこへか姿を隠してしまったのです。

そんなことゝは知らないで、庄之助は又もや片門前の家へたずねてゆくと、姉はこの間から家出して行方が知れないということをお幸から聞かされて、庄之助もおどろきました。新内松のことはお幸も薄々知っていたのですが、そんなことを庄之助にうっかり云っていゝか悪いかと遠慮していたので、何がどうしたのか庄之助には些ちっとも判りません。それでも神明へ行って訊いてみたら、なにかの手がかりもあろうかと、何気ない風でお金の店へ出かけてゆくと、いきなり地廻りやごろつき共に取りまかれて、前に云ったような大騒動を仕出来しでかしたのです。桜井庄之助という若い侍は姉思いから飛んだことになって気の毒でした。

すべての事情が斯うわかってみると、庄之助の八人斬にも大いに同情すべき点があります。斬られた相手は皆ごろつきや地廻りで、事の実否もよく糺さず、武士に対して狼藉を働いたのですから、云わば自業自得の斬られ損ということになってしまいました。殊に幕末で、徳川幕府の方でも旗本の侍は一人でも大切にしている時節でしたから、庄之助にはなんの咎めも無くて済みました。稼ぎ人に逃げられたお幸は、桜井の屋敷から内々の扶助をうけていたとか云います。

新内松は品川の橋向うで御用になりました。お金はその時まで一緒にいたらしいのですが、そのゆくえは判りませんでした。それから一年ほど経ってから、神奈川の貸座敷に手取りの女がいて、その右の頬にかすり疵のあとがあると云う噂でしたが、それが彼の矢がすりであるか無いか、確かなことは知った者もありませんでした。くどくも申す通り、新内松に矢がすりお金――この方に一向面白いお芝居がないので、まことに物足らないようですが、実録は大抵こんなものかも知れませんね。

底本 / Source edition

底本:「大衆文学大系7 岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集」講談社
1971(昭和46)年10月20日第1刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林田清明
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/001304_000082/

岡本 綺堂「三浦老人昔話」(新字新仮名)、底本『大衆文学大系7 岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集』講談社、1971年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001304_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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