Soranoha

非凡人と凡人の遺書

ひぼんじんとぼんじんのいしょ

岡本 一平

牛や魚は死ぬ時遺言しない。鳥や松の木も死ぬ時遺言しない。遺言するのは人間だけである。死ぬ時自分以外に他あるを顧みて其処に何か責任上の一言を遺して置く。これ人間が万物の霊長たる由縁であらう。

毎年正月元日に筆を改めて遺言状を書き直すといふ用意周到の人が僕の知つてる範囲で二人ある。然も二人共可成り永生きの方なので何通書き直したか判らぬ。年々そう書き直す必要があるだらうかと訊いたら一人は『葬儀車だつて年々進化するだらう?』一人は『年々遺言状の思想が旧くなつて行くから』といつた。二人共遺言状を書く真剣さを用ゐて自分の魂をあらため験るのだつた。中々ずるい。

禅の方で遺言の詩を遺偈といふのだがこれには大概型がある。生涯の間、一秒間も三昧から外れた事も無く一生涯も一爪弾きの間も同じだつた、と自分の悟境を述べたものがその一である。徒に眠り徒に食ひ戯れの世の中を戯れに終つたと自嘲めく口調で述べたものがその一である。自嘲めくとは雖もやはりその裏に悟の心境を誇示してゐる事は勿論である。もう一つは死の世界に入つて行く態度を示したものである。地獄も天堂も総そうに踏み破り去らんといふやうな調子のものである。

右からみるとずつと離れて、全く凡夫の心に立帰つて遺偈を示した僧もある。近世では釈宗演氏なぞがそうである。『死に度く無い〱』といつて死んで行く臨終の仕方である。これも幾多の前例はあるが可成り洒脱のものとみられて居る。

桃水和尚は凡夫に如同する事に於て可成り垢抜あかぬけしたところまで行つたがそれでも臨終に鷹峯風清月白とか何とかいふ遺偈を遺し片鱗を露してる。

遺言といふとすぐ芭蕉が門下に遺言の句を訊かれて平常の句みな遺言の句にあらざるなしといつたのを思ひ出すが前掲数項の遺言の仕方やこの詩人の遺言に対する態度やはあまり立優り過ぎ模範的過ぎてわれ等にはピッタリ来ない。

死に際には病苦や人生に対する愛惜の念やでわれ等凡人はとんだ考になつたり逆に反抗的に気取つて見たりしてとても本当の事は述べられまいと思ふ。よつて平常死後の事は洗ひざらゐ喋つてしまつて置く方がよいと思ふ。そして死病にかゝつた後にいふ事は取り上げないやうに近親に頼んで置くのがよいと思ふ。

遺言といふと却つて改つた気になつて考への平康を失ひはしまひかと思ふ。

死ぬ人でよく家の家憲を定めたりなぞしてその為め家といふ形骸は遺命の力で何代か保つか知れないが家の内容の人間の生命は試錬される機会が少なくなり死物になる事が多い。これは家憲を定めるより人憲を定めた方がいゝ。先祖の中で自分は家系中の巨石だと信じた人は自分の善悪両面の体験を書き遺し子孫の実力生活の参考にするがよい。

凡人としてはそう遺言はくどくあるものではないと思ふ。自分で自慢して書き遺す程の生活も思想も持たなかつたし、子孫を導く程のそれも持つてるとは自信出来ないし、自分の生涯に於ての人世に対する感想のやうなものも大概誰かゞいつて呉れてるものの中に入るだらうし――

まあ身の廻りの捌きに就て家族に少し説明して置けば一人前の責任は済むと思ふ。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆 別巻17 遺言」作品社
1992(平成4)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「中央公論」
1927(昭和2)年9月号
初出:「中央公論」
1927(昭和2)年9月号
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年11月13日公開
2005年12月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/001277_000239/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/001277_000239/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/001277_000239/

岡本 一平「非凡人と凡人の遺書」(新字旧仮名)、底本『日本の名随筆 別巻17 遺言』作品社、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001277_000239, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite