Soranoha

寒の夜晴れ

かんのよばれ

大阪 圭吉

また雪の季節がやって来た。雪というと、すぐに私は、可哀そうな浅見三四郎あさみさんしろうのことを思い出す。

その頃私は、ずっと北の国の或る町の――仮にH市と呼んでおこう――そのH市の県立女学校で、平凡な国語の教師を勤めていた。浅見三四郎というのは、同じ女学校の英語の教師で、その頃の私の一番親しい友人でもあった。

三四郎の実家は、東京にあった。かなり裕福な商家であったが、次男坊で肌合の変っていた三四郎は、W大学の英文科を卒おえると、教師になって軽々かるがる諸国行脚の途についた。なんでも文学を志したというのだが、いまだ志成らずして、私とH市で落合った頃には、もう三十面づらをかかえて八つになる子供のいい父親になっていた。少しばかり気の短い男だったが、それだけに腹のないひどく人の好い男で、私は直ぐに親しくなって行った。もっとも、私が一番親しくしていたわけではない。誰れも彼も、三四郎を親しみ、三四郎に多かれ少かれ好意を持たない人はなかった。実家が裕福なためもあったろう、職員間でもなにかと心が寛ゆるく、交際も凡すべて明るくて、変に理窟めいたところが少しもなかった。どうして、文学などという暗い道の辿れる男ではない。私はわけもなく親しくなって行きながら、すぐにそのことに気づいてしまった。

わけても微笑ましいのは、家庭に於ける三四郎だった。どんなに彼が、美しい妻と一粒種の子供を愛していたか、それは女生徒達の、弥次気分も通り越した尊敬と羨望に現わされていた。事実私は、どの教師でも必らずつけられているニックネームを、三四郎に関する限り耳にした事がなかった。それはまことに不思議なことでさえあった。

いまから思うと、すべての禍根は、こうした三四郎の円満な性格の中に、既に深く根を下していたのかも知れない。

当時H市の郊外で、三四郎の住居の一番近くに住っていたのは私だった。それで恐ろしい出来事の最初の報せを私が受けたのであるが、悪い時には仕方のないもので、恰度その頃、当の三四郎が暫く家を留守にしていた間のことであったので、不意を喰くらって私はすっかり周章あわててしまった。三四郎が家を留守にしていたと云うのは、その頃県下の山間部に新しく開校された農学校へ、学務部からの指命を受けて学期末の一ヶ月を臨時の講師に出掛けていたのだった。その農学校は二十五日から冬の休暇に入る予定であった。それで二十五日の晩には、三四郎はH市の自宅へ帰って来る予定だった。ところが不幸な出来事は三四郎よりも一日早く、二十四日の晩に持上ってしまった。

その頃の三四郎の留守宅には、妻の比露子ひろこの従弟いとこに当る及川おいかわというM大学の学生が、月始めからやって来ていた。この男に関しては、私は余り詳しく知らない。ただ明るい立派な青年で、大学のスキー部に籍を置いていて、毎年冬になると雪国の従姉のところへやって来ることだけは知っていた。全くH市の郊外では、もう十二月にもなれば、軒下からスキーをつけることが出来る。その及川と比露子と、その年の春小学校へ入ったばかりの、三四郎の最愛の一粒種である春夫はるおの三人が、留守宅に起居していた。いってみれば及川は、三四郎の留守宅の用心棒と云った形だった。しかし奇怪な出来事は、それにもかかわらず降って湧いたように舞い下った。

さて、十二月二十四日のその晩は、朝からどんより曇っていた鉛色の空が夕方になって崩れると、チラチラと白いものが降りはじめた。最初は降るともなく舞い下っていたその雪は、六時七時と追々に量を増してひとしきり激しく降りつのったが、八時になると紗幕しゃまくをあげたようにパタッと降りやんで、不意に切れはじめた雪の隙間から深く澄んだ星空が冴え冴えと拡がっていった。こうした気象の急変は、しかし、この地方では別に珍しくも思われなかった。いつでも冬が深くなると、寒三十日を中心にして気象がヘンにいじけて来るのだった。いつもいつも日中はどんよりと曇りつづけ、それが夜になると皮肉にもカラリと晴れて、月や星が、冴えた紺色の夜空に冷く輝きはじめる。土地の人びとは、そのことを「寒かんの夜晴よばれ」と呼んでいた。

八時に遅がけの夕飯を済ました私は、もう女学校も休暇に入ったので、何処か南の方へ旅行に出掛ける仕度をしていた時だった。

三四郎が級主任をしている補習科A組の美木みきという生徒が、不意に転げ込んで来て、三四郎の留守宅に持上った兇事の報せを齎もたらして来た。私は寒空に冷水を浴びた思いで、それでもすぐにスキーをつけると、あわてふためいて美木と一緒に走りはじめた。

私達が家を出ると、直ぐに市内の教会から、クリスマス前夜イヴの鐘が鳴りはじめたので、もうその時は九時になっていたに違いない。

美木という生徒は、大柄な水々しい少女で、どこの女学校にもきまって二、三人はいる早熟組の一人だった。化粧することを心得、スカートの長さがいつも変って、ノートの隅に小さな字で詩人の名ばかり書き並べていようという。美木はまた、よく三四郎のところへ遊びに来ていた。「浅見先生に文学を教えて頂く」なぞと云いながら、三四郎の留守にも度々訪れたというのだから、その「文学」は三四郎でなく、及川にあったのかも知れない。いずれにしても美木は、その夜も三四郎の宅を訊ねて行ったという。けれども戸締りがしてないのに家の中に人の気配がないと、ふと不審を覚えていつもの軽い気持で玄関から奥へ通ずる扉ドアを開けてみた。そして家の中の異様な出来事をみつけると、一番近い私のところまで駈けつけて来たという。

さて、私の家から三四郎の家までは、スキーで行けば十分とかからない。

三四郎の住居は、丸太材を適度に配したヒュッテ風の小粋な住居すまいで、同じように三軒並んだ右端の家であった。左端の家はもう休んだのか窓にはカーテンが掛り、真中の家は暗くて貸家札が貼ってあった。三四郎の家の前まで来ると、美木はもう顫ふるえ上って動こうとしなくなった。それで私は、ここから程遠くない同じ女学校の物理教師の田部井たべい氏の家まで、彼女を求援に走らした。そして流石さすがに固くなりながら、思切って三四郎の家へ入っていった。

玄関の隣りは、子供の部屋になっていた。壁には幼いクレオン画で、「陸軍大将」や「チューリップの兵隊さん」が、ピン付けになっていた。部屋の中程には小さな樅の木の鉢植えが据えられて、繁った枝葉の上には、金線のモールや色紙で造られた、花形や鎖が掛り、白い綿の雪がそれらの上に積っていた。それは三四郎が、臨時講師に出る前から可愛い春夫のために買い植えてやったクリスマス・ツリーであった。

しかしその部屋に入った私が、まっ先に気づいたものは、部屋の片隅の小机の前に延べられた、クリスマス・ツリーの小さな主人あるじの寝床ベッドだった。その床は夜具がはねのけられて、寝ていた筈の子供の姿は、見えなかった。主人を見失ったクリスマス・ツリーの銀紙の星が、キラキラ光りながら折からの風に揺れ、廻りはじめていた。

けれども次の瞬間、私は、その部屋のもう一人の臨時の主人であった及川が、奥の居間へ通ずる開け放された扉ドア口のところに、頭をこちらへ向けて俯向うつむきに打倒れている姿をみつけた。私は期せずして息を呑みこんだが、開け放された扉ドア口を通して、向うの居間がなんとなく取り散らされた気配をさとると、すぐに気をとり直して境の扉ドア口へ恐る恐る爪先立ちに歩み寄り、足元に倒れた人と見較べるようにして居間の中を覗きこんだ。

そこには、トタンを張った板枠の上に置かれたストーブへ、頭を押付けるようにして、三四郎の妻の比露子が倒れていた。髪の毛が焦げていてたまらない臭気が部屋の中に漂っていた。

私は、恐れと意外にガタガタ顫えながら暫く立竦たちすくんでしまったが、必死の思いで気をとり直すと、屈みこんで恐る恐る足元の及川の体に触ってみた。が、むろんそれは、もう生きている人の体ではなかった。

及川も比露子もかなり烈しく抵抗したと見えて、ひどく取り乱した姿で倒れていた。二人とも額口から顔、腕、頸と、あらゆる露出個所に、何物かで乱打されたらしく紫色の夥しいみみず腫れが覗いていた。しかしすぐに兇器は眼についた。及川の足元に近く、ストーブの鉄の灰掻棒が、鈍いくの字型にひん曲って投出されていた。部屋の中も又、激しく散乱されていた。椅子は転び、卓子テーブルはいざって、その上に置いてあったらしい大きなボール紙の玩具箱は、長椅子の前の床の上にはね飛ばされ、濡れて踏みつぶされて、中から投げ出された玩具の汽車やマスコットや、大きな美しい独楽こまなどが、同じように飛び出したキャラメルや、ボンボン、チョコレートの動物などに入れ混って散乱し、そこにも小さな主人を見失った玩具達の間の抜けたあどけなさが漂っていた。

もしも私が、この場合まるで知らない人の家へ飛び込んで、そのような場面にぶつかったとしたなら、恐らくこんな細かに現場の有様に眼を通したりしてはいられなかったであろう。恐怖に魂消たまげて死人と見るや否や、そのまま飛び出して交番へ駈けつけたに違いない。しかしこの時の私には、目に見える恐怖よりももっと恐ろしい目に見えない恐怖があった。私はその家に飛び込むと、真っ先に大事な子供の姿の見えないのに気がついた。妙なことだが、眼の前に殺されている人よりも、奪われた子供の安否に焼くような不安を覚えた。私にも、及川や比露子と同じように、留守中の三四郎に対する責任があった。

三四郎の家は、皆で四部屋に別れていた。そこで私は、おびえる心を無理にも引立てるようにしながら、すぐに残りの部屋を調べはじめたのだが、しかし家中探しても何処にも子供の姿は見えなかった。

ところが、そうしているうちに私はふとあることを思い起して、思わずハッと立止った。それはあの、惨劇の部屋の窓が、引戸を開けられたままでいたことだった。考えるまでもなくこれは確かに可笑おかしい。この寒中の夜に部屋の窓のあけ放されている筈はない。二人の大人を叩き殺して子供を奪い取った怪しい男が、その窓から、あわてて戸も締めずに逃げ出して行く姿を私はすぐに思い浮べた。そこで私は、恐る恐る元の部屋に引返した。そして見えない敵に身構えるように壁によりそって、そっと窓の外を覗き見た。

窓の下の雪の上には、果して私の予期したものがみつかった。明らかにそこからスキーをつけたと思われる乱れた跡が、夜眼にもハッキリ残されていた。そしてその乱れた跡から二筋の条痕すじあとが滑り出して、生垣の隙間を通り越し、仄白い暗やみの中へ消え去っていた。その暗やみの向うの星空の下からはまだ鳴りやまぬクリスマスの鐘が、悪魔の囁きのように、遠く気味悪いほど冴え返って、ガラン、ゴロンと聞えていた。

私は猶予なく、決心した。そして直ちに玄関口へ戻ると、そこから自分のスキーをつけて戸外そとへ飛び出し、勝手口の方を廻って、裏側の、開放あけはなされた居間の窓の下までやって来た。

雪の上に残されていたスキーの跡は、確かに二筋で、それは一人の人の滑った跡に違いなかった。踏み消さないようにしながら、生垣の隙間を越して、私は直ちにその跡を尾行しはじめた。

ところが、歩きはじめて間もなく、私は有力な手掛りを発見した。というのは、そのスキーの跡は、平地滑走でありながら、両杖を突いていない。条痕すじあとの左側には、杖を突いていたと見えて、杖の先の雪輪リングで雪を蹴散らした痕あとが二、三間毎についているが、右側には全然ない。

私の胸は高鳴りはじめた。予想が適中したのだ。つまりそのスキーの主は、左手には杖を突きながら、右手には杖を突くことが出来なかったのだ。その手は、杖の代りに何ものかを抱えていたに違いない。怪しい男に抱えられて、藻掻もがきつづけながら運ばれて行った子供の姿が、瞼まぶたの裏に浮上って来た。私はいよいよ固くなりながら、前の方を絶えず透し見てはスキーの跡をつけて行った。

疑問のスキーは、生垣を越して空地を通り抜け、静かな裏通りへ続いて行った。この辺りはH市の郊外でも新開の住宅地で、植込の多い人家はまばらに点在して、空地とも畑ともつかぬ雪の原が多かった。

この雪は、夕方から八時まで降った処女雪で、美しい雪の肌には他のスキーの跡は殆んどなく、時たま人家の前で新しいスキーの跡と交叉したり、犬の足跡がもつれたりしている以外には、疑問のスキーを邪魔するものはなかった。なにしろ、相手が相手である。私は戦慄に顫えながらも、益々注意深く、森しんとした夜空の下を滑りつづけて行った。

疑問のスキーは、やがて裏通りを右手に折れて、広い雪の原へはいって行った。その空地の向うには、三四郎の家の前を通って市内へ通じている本通りがある。スキーの跡は市内の方へ向いてその空地を斜めに横切り、どうやら向うの本通りへ乗り換えるつもりらしい。この分では、途中で警官に応援を求めることが出来るかも知れない。私は急に元気づいて、かなり広いその原ッぱを、向うの通りへ斜めに向って走って行った。しかしその私の考えは、まるでトテツもない結果に終ってしまった。

最初私が、スキーの跡は本通りへ乗換えていると思い込んだのが、そもそもよくなかった。はじめそのつもりで斜めに雪の原を横切って行った私は、もうその原ッぱを半分以上も通り越したところで、ふと、いつの間にか疑問のスキーの跡を見失っていることに気がついた。びっくりした私は、あわててあたりを見廻した。が、雪の肌にはなんにもない。ただ私の通って来た跡だけが、少しずつ曲りくねりながら至極のんびりと残っているだけだ。

私は、自分で自分をどやしつけながら、あわてて廻れ右をした。あたりをせわしく見廻しながら、元の空地のはいり口へ向って、後もどりをはじめた。いくら戻っても、いくら見廻しても、しかし疑問のスキーの跡は、みつからない。こいつは妙だぞ、私は益々うろたえはじめた。

ところが、空地の入口の近くまで来て、やっと私は、仄白い雪の肌に、さっきのスキーの跡を再びみつけることが出来た。私はホッとして、今度こそは見失わぬように、ずっとその跡の近くまで寄添って、糸でも手繰たぐるようにしながら進みはじめた。こうしてつけて行くと、やっぱりその跡は、原ッぱを斜めに横切って、本通りのほうへ向っている。なんだってこいつを見失ったりしたのだろう。私は、再三自分で自分をどやしつけながら、注意深く跡を見詰めつづけて行った。ところが、そうして今度こそはと注意して進むうちに、とうとう私は、まことになんとも変テコなことに気がついてしまった。

というのは、原ッぱの真ン中近くまで来ると、どうしたことかその疑問のスキーの跡は、ひどく薄くなって、いや元々古い雪の上に積った新しい雪の上のその跡は、決して深くはなかったのだが、それよりも又浅くなって、なんと云うことだろう、進むにつれ、歩むにつれ、益々浅く薄く、驚く私を尻目にかけて、とうとう空地の真中頃まで来ると、まるでその上を滑っていたものが、そのままスウーッと夜空の上へ舞上ってしまったかのように、影がうすれ、遂にはすっかり消えてしまっているのだ。

その消え方たるや、これが又どう考えてもスキーの主に羽根が生えたか、それとも、あとから、その跡の上に雪が降って、跡を消してしまったか――それより他にとりようのない、奇怪にも鮮かな消えかただった。

私は、うろたえながらも、夢中になって考えた。しかし前さきにも述べたように、夕方からひとしきり降りつのった雪は八時になってバタッと止んでしまうとそのまま「寒の夜晴れ」で、あとから雪なぞ決して降らなかった。よし又、たとい降ったとしても、ここから先の跡を消した雪が、何故現場からここまでの跡を消さなかったのであろうか? 雪はあまねく降りつもって、凡ての跡は消されなければならない。――それでは、その原ッぱに奇妙な風雪かざゆきの現象が起って、風に舞い上げられた雪が降りつもって、その部分の跡が消されたのではあるまいか? しかしそのような風雪を起すほどの風は、決してその晩吹かなかった筈だ。――私は憑かれた人のように雪の原ッぱに立竦んでしまった。まだ鳴り止まぬ不気味な鐘の音が、悪魔の嘲笑あざけりのように澄んだ空気を顫わせつづける。

しかし、ここで私は、いつまでもボンヤリ立竦んでいるわけにはいかない。攫さらわれた子供の安否は急を告げている。家には二人の死人がある。もうこの上は、猶予なく警察へ報せなければならない。

やがて私はそう決心すると、そのまま一直線に市内へ向って走り出した。一番近い交番へ飛び込んで、事件を知らせ、そこの若い警官と一緒に再び元来た道を引返しながらも、しかし私は、雪の原ッぱの消失ばかり気にしなければならなかった。

やがて私達が、ひとまず三四郎の家まで辿りついた時には、もう出来事を嗅ぎつけたらしい近くの家の人達が二、三人、スキーをつけて、警察へ報せに出ようとしているところだった。三四郎の家の前には、その人達に混って度を失った美木が、泣き出しそうな顔で立っていた。家の中には、美木に呼びにやらした田部井氏が、恐らく私と同じ事を考えたのであろう、ガタピシ扉ドアを鳴らして部屋から部屋へ子供の行衛ゆくえを探していた。

警官は家の中へはいって現場をみると、直ぐに私と田部井氏へ、本署から係官が出張されるまで、現場の部屋を犯さないよう申出た。そして三四郎の書斎に充あてられた別室へ陣取ると、戸外おもての美木も呼び込んで、ひと通り事情を聴取しはじめた。

美木も私も、すっかりとりのぼせてしまって、前に述べたような発見の径路や、この家の家族についての説明を、横から口を出したり後戻りしたりしながら、喋っていった。しかし田部井氏はかなり落ついていて、口数も少なかった。

やがて、数人の部下を連れた肥ふとった上役らしい警官が到着すると、現場の調べが始まった。パッ、パッ、と二つも三つもフラッシュが焚かれて、現場の写真が撮られて行った。現場が済むと警官達は、家の外を廻って窓の下へ集まって行った。肥った上官は、さっきの若い警官から報告を受けたり、死体の有様を眺めたりしていたが、窓の外の警官達が、生垣の隙間を越して向うの空地へ、ざわめきながらスキーの跡をつけはじめると、じっとしていられないように、あとを若い警官にまかせて窓の外へ出て行った。

私は三四郎に当てて電報を書くと、それを美木に持たせて郵便局へ走らせた。そして始めて落ついた気持で、田部井氏と差向いになった。

田部井氏は、さっき私が警官に色々と説明していた頃から、もう既に落ついてはいたが、その頃には益々落つきを増して、落ついているというよりも、なにかしきりに考え込んでしまった様子だった。いったい何を考え込んでしまったのだろう?

何か特別な考えの糸口でもみつけたのだろうか?

「田部井さん」私は思い切って声をかけた。

「いったいあなたは、どう云う風にお考えになりますか?」

「どう云う風に、と云いますと?」

田部井氏は顔を上げると、眼をぱちぱちさせた。

「つまりですね」私は向うの部屋のほうを見ながら、「あなたもご覧になれば判ると思いますが、ああいう惨酷なことをして子供を奪いとって逃げ出した男の足跡が、なんしろ、まるで空中へ舞い上ったように消えてしまってるんですからね。妙な出来事ですよ」

「そうですね。確かに妙ですよ。しかし妙だと云えば、この事件は、始めっから妙なことばかりですよ」

「ほう、それはまた……」

「あなたは、あの部屋に散らばっている玩具やお菓子を、始めから、つまりこんな出来事の起らない先から、あの部屋にあったものと思っていますか?」

「さあ、やはり前からあの部屋にあって、食べたり遊んだりしていたものでしょうな」

「私は、そうは思わないんですよ。少くとも食べかけたものなら、キャラメルなりチョコレートの、銀紙や蝋紙が捨ててある筈なんですが、さっき警官の来ない先に、探してみた時にはなにもなかったですよ。それに、あそこに転っている玩具は、みんな新しい品ばかりですし、第一長椅子の前に投げ出されてやぶれていたボール紙の玩具箱が、お茶なぞのこぼれた跡もないのに濡れていたのは妙です……あれは、あの蓋の上に少しばかりの雪が積っていて、室内の温度で解けたのではないかと思います。……そうそう、こんなつまらない事は云わなくたって……」と田部井氏はここで語調を変えて、今度はジッと私の眼の中を覗き込むようにして、「……不思議の材料は、始めから揃っておりますよ……とにかく、クリスマスの晩にですね……雪の上を、スキーに乗って……窓から出入して……それから、天国へ戻って行く……」

田部井氏は、ふっと押黙って、もう一度私の眼の中を促すように見詰めながら、

「……いったい、何者だと思います?……」

「ああ」私は思わず呻いてしまった。「じゃアあなたは……あの、サンタ・クロースの事を、云っていられるんですか?」

「そうです。つまり、あの部屋へ……手ッ取早くいうと……サンタ・クロースが出現したわけです」

私は少からず吃驚びっくりしてしまった。

「しかし、随分惨酷なサンタ・クロースですね?」

「そうです。飛んでもないサンタ・クロースですよ……恐らく悪魔が、サンタ・クロースに化けて来たのかも知れません」とここで田部井氏は、急に真面目な調子に戻って、立上りながら云った。「……いや、しかし、どうやらその化けの皮も、剥がれかかって来ましたよ。……私には、この謎がもう半分以上、判って来ました。さア、これからひとつ、サンタ・タロースのあとを追ッ駈けましょう」

田部井氏は、居間の入口まで行って、その中で頻しきりに現場の情況をノートしていた警官へ、外出を断ると、私へ眼配めくばせしながら玄関口へ出て行った。私は、わけが判らぬながらも、自信のありそうな田部井氏の態度に惹かれて、ふらふらと立上った。そして、これから追跡しようとするあの奇怪なスキーの条痕あとや、そして又その条痕あとの終点で、さだめしいま頃、腕を組んで夜空を振仰いでいるに違いない肥っちょの係員の姿を思い浮べながら、田部井氏のあとに続いて行った。

けれども戸外そとに出た田部井氏は、どうしたことか、裏の窓口へは廻ろうとしないで、生垣の表門へ立って、前の通りをグルグル見廻しはじめた。そこの雪の上には、出入した幾つかの足跡が入り乱れ、近所の人達が、蒼い顔をして立っていた。いったいどうしたと云うのだろう。

「田部井さん。足跡は、裏の窓口からですよ」

「あああれですか」と田部井氏は振返って、

「あれはもう、用はありませんよ。私は、もう一つの条痕あとを探してるんです」

「もう一つの条痕あとですって?」

思わず私は、そう訊き返した。

「そうですとも」田部井氏は笑いながら、「窓の外には一人分の跡があっただけでしょう。ね、あれでは往復したことになりませんよ。あそこからサンタ・クロースが出て行ったのなら、もう一つ入った跡がなければなりませんし、あそこから入ったのなら、出た跡があるわけですよ」とそれから、浅見家の屋根のほうを見上げてニヤッと笑いながら、「いくらサンタ・クロースだって、まさかあの細い煙突から、はいったなんてことはないでしょう……こいつは、ただのお伽噺とぎばなしではないんですからね」

成る程、何処かから入って来た跡がなければならない筈だ。私は自分の迂濶さに気づいて、思わず顔がほてって来た。が、この時私は、ふと電光のように、或る思いつきが浮んで来た。

「ああ田部井さん。判りましたよ。……八時前には、雪が降っていたでしょう。それで、サンタ・クロースは八時前にここへ入って、八時過ぎて雪が止んでから、出て行ったのでしょう。だから、入った時の跡は雪に消され、出て行った時の跡だけ残ったのでしょう」

すると田部井氏は、意外にも静かに首を振った。

「それが、大違いなんですよ。成る程、その考え方も、一応もっともですね。私も、最初あの窓の下の条痕あとが一つだけなのを見た時に、そんな風にも考えて見ました。しかし、あとであなたから、あの条痕あとが消えてしまったことを伺った時に、それが間違っている事に気づきました。問題は、あの途中で消えてしまった足跡にあるんです」

「と云われると……?」

「じゃアやっぱり、雪が積ったんですか?」

「そうですよ」

「じゃア何故、その雪は、あんな斑むらな、不公平な降りかたをしたんです」

すると田部井氏は、私の肩に手をかけた。

「あなたは、推理の出発を間違えられたんです。いいですか――部屋の中で人が殺されて、大事な子供が奪われている。そして窓が明放あけはなされて、その外の雪の上に、確かに片手に子供を抱えて行ったらしい片杖のスキーの跡がある――と、ここまで観察されるうちに、もうあなたは、その窓から子供を奪った怪人が逃げ出して行った、と云うように推理されてしまったでしょう。それが、そもそもの間違いなんです」とここで田部井氏は調子を変えて、今度は手真似を加えながら、「じゃア、ひとつ、こういう場合を考えてみて下さい。……いいですか、こう、盛んに雪の降る中を、一人の人間が歩いていたとします。……ところが、その人が歩き続けているうちに、急に雪がやんで、カラリとしたお天気になったとしたら、その場合その人の足跡はどういう風に残りますか?……つまり、雪の降っている時には、足跡はつけられてもつけられる一方からすぐに消えてしまうが、その雪がバタッとやんでしまうと、その雪のやんだところから、始めて足跡がつきはじめるわけでしょう。その足跡を、その人の進行に逆らってこちらから辿って行けば、まるで人間がなくなってしまったように、その足跡は、薄れ、消えてしまうわけでしょう……つまり人が通ってしまったあとから雪が降ったのでもなければ、雪がやんでしまったあとから人が通ったのでもなく、実に人の歩いている最中に、その進行の途中で、いままで降っていた雪がやんだわけです……これでもう、あの消えた足跡の正体はお判りになったでしょう。つまりあの足跡の主は、この家の窓からあの時に出て行ったのではなくて、逆にはいって来たわけです。しかも今夜雪がやんだのは恰度八時頃でしたから、そのサンタ・クロースが町の方からやって来てこの家に窓からはいった時間も、まず八時頃と見当がつくわけです」

「なるほど、よくわかりました」私は頭をかきながらつけ加えた。「そうすると、あの片杖の跡はどういうことになりますか?」

「あれですか、あれはなんでもありません。あなたが始め考えられたように、やはりそのサンタ・クロースは荷物を片手に持っていたのです。しかしそれは、子供ではなくて、あの部屋に転っていた雪に濡れたボール紙の大きな玩具箱だったのです。サンタ・クロースの贈物だったのです……」とここで田部井氏は言葉を改めて、「さア、これでもう大分わかって来たでしょう。窓の足跡は確かに外から入って来たものであり、その足跡のほかに出て行ったらしい足跡もなく、家の中にもサンタ・クロースの姿はおろか子供の影もないと云えば、この表玄関からサンタ・クロースと子供は出て行ったに違いないのです……時に、あなたが最初ここへ駈けつけられた時に、表口ここにそれらしい足跡はありませんでしたか?……その連中はあなたより先にここを出て行ったのですよ」

「さア、そいつは。……なんしろあわてていましたので……」

「じゃア仕方がありません。ひとつ面倒でも、この沢山の跡の中から、片杖を突いた跡を探しましょう」

田部井氏は早速屈み腰になって、それらしい跡を探しはじめた。むろん私もその後に続いて、仄白い雪明りの中をうろつきはじめた。表通りの弥次馬連は、なに事が起ったのだろうと、好奇の眼を輝かして私達のしぐさを見守った。

雪の上には、私達や警官達のスキーの跡がいくつも錯綜して、なかなか片杖のスキーの跡はみつからない。例のスキーの跡の終点まで行った警官達が、やっと帰って来たとみえて、家の中がなんとなく賑かになった。

その時、田部井氏が私のところまで来て、不意に問いかけた。

「あなたより先にここへ来たのは、あのA組の美木でしたね……美木は大人用のスキーをつけていたでしょうね?」

私が頷くと、

「じゃアやっぱり子供のものだ」

とわけのわからぬことを云いながら、道路の生垣に沿ったところまで私を誘って行きそこに残されている二組のスキーの跡を指しながら云った。

「片杖の跡のないのも無理はないですよ。子供は、サンタ・クロースに抱えられて行ったのではなく、サンタ・クロースに連れられて、自分でスキーをはいて行ったんです」

成るほど雪の上には、大人のスキーと並んで、幅の心持狭いスキーの跡が、表通りを進んでいる。

「さア、訊問に呼び出されないうちに、急いでこの跡をつけて行きましょう」

私達は、直ぐに滑り出した。

もう大分時間もたっている事だから、どこまでその跡の主人あるじ達は進んでいるか判らない。最初私は、そう思って滑り出したのだが、ところが、生垣に沿って五十米突メートルも進んだ処で、不意にその条痕あとは、なにか向うから来たものを避けるようにして二つとも右側へ方向転換キックターンしている。私はギョッとなった。そこは隣りの空家である。二つの条痕は、ささやかな生垣の表からはいって玄関をそれ、暗い建物の横から裏のほうへ廻っているらしい。私達は固唾を飲んでつけだした。

「意外に近かったですね」田部井氏が歩きながら、蒼い顔をして云った。「どうも、不吉な結果になりそうです……ところで、あなたは、いったいサンタ・クロースを、誰だと思いますか?……もうお判りになったでしょう?」

私は顫えながら、烈しく首を振った。田部井氏は空家の庭へ踏み込みながら、

「判っていられても、云い憎いんじゃアないですか?……この場合、サンタ・クロースになって、窓から贈物を届けるほどの人は、誰でしょう?……しかも、子供は、引ッ抱えなくても、一人でスキーをはいてついて来るんです……確か、七時半頃に、このH市へ着く汽車がありましたね?……私はなんだかその汽車で、予定よりも一日早く、浅見さんが帰って来たんじゃないかと」

「えッ、なに三四郎が⁉」私は思わず叫んだ。「飛んでもない……よしんば、三四郎が帰ったにしても、なぜ又こんな酷惨むごたらしいことを……いいや、あんなに家庭を愛した男が、どうしてこんなことをするものですか!」

しかしもうその時、空家の裏側へ廻っていた田部井氏は、そこの窓の下に二組の大小のスキーが脱ぎ捨てられているのをみつけると、すぐに明放あけはなされた窓へ飛びつき、真暗な部屋の中へはいって行った。続いて窓枠に飛びついた私は、この時闇の中から顫え上るような、田部井氏の呻き声を聞いた。

「ああ……やっぱり遅かった……」

闇に眼が馴れるにつれて、やがて私も、天井に下げたカーテンのコードで、首を吊っている浅見三四郎の、変り果てた姿を見たのだった。その足元には、バンドで首を絞められた子供が、眠るように横わっていた。チョコレートの玉が、二つ三つ転っている。その側に、キチンと畳まれた紙片が置いてあったが、田部井氏はそれを拾い上げると、チラリと表紙おもてを見て、黙って私にそれを差出した。それは三四郎の、私にあてた、たった一つの遺書であった。雪明りを頼りに急ぎ認したためたものとみえて、荒々しい鉛筆の走書きであったが、窓際によって、私は顫えながらも、辛かろうじて読みとることが出来た。

鳩野君。

とうとう僕は、地獄へ堕ちた。しかし君にだけは、事の真相を知って貰いたい。

農学校は、雪崩なだれのために予定よりも一日早く休みになった。七時半の汽車で町についた僕は今夜がクリスマス・イーヴなのに気づいて、春夫の土産みやげを買って家路を急いだ。

君は、僕がどんなに平凡な男で、妻を、子供を、家庭を愛していたか、よく知っていてくれたと思う。僕は、妻や子供が、予定よりも一日早く帰ってくれた僕を、どんなに喜んでくれるか、そう思うと、いっそうその喜びを大きくしてやりたさに、ふと、サンタ・クロースを思いついた。僕は、幸福にはち切れそうな思いで、わざわざ家の裏へ廻って、跫音あしおとを忍ばせ、居間の窓粋へ辿りつくと、そうッとスキーを脱いで杖に突き、窓枠へ乗って、驚喜する家人の顔を心の中に描きながら、硝子ガラス扉を開けた。

ああ僕は、しかしそこで、絶対に見てはならないものを見てしまったのだ! 部屋へ入って僕は、長椅子の上に抱き合いながら慄えている及川と妻の前へ、僕のそれまでの幸福の塊かたまりみたいな、土産の玩具箱を投げつけてやった。

しかし鳩野君。どうしてそんなことで、沸たぎり立つ憎しみがおさまろう。それから僕が、涙を流しながら、灰掻棒でなにをしたか、もう君は知っている筈だ。僕は、隣室で眼を醒した春夫に、僕のした事を知らすまいとして春夫を騙して表へ連れて逃げだした。ああしかし、僕はもう逃げ場を失ってしまった。よしんば逃げ場があったとしても、どうして傷付いたこの心が救われよう。

鳩野君。僕は、僕のこの暗い旅の門出が、愛する春夫と二人であることに、せめてもの喜びを抱いて行こう。

では、左様なら。

三四郎

窓の外には、いつの間にか夜風が出て、弔花のような風雪が舞いしきり、折から鳴りやんでいた教会の鐘が、再び嫋々じょうじょうと、慄える私の心を水のようにしめつけていった。

(「新青年」昭和十一年十二月号)

底本 / Source edition

底本:「とむらい機関車」国書刊行会
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」
1936(昭和11)年12月号
初出:「新青年」
1936(昭和11)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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大阪 圭吉「寒の夜晴れ」(新字新仮名)、底本『とむらい機関車』国書刊行会、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001271_000236, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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