一

富士山の北麓、吉田町から南へ一里の裾野の山中に、誰れが建てたのか一軒のものさびた別荘風の館がある。その名を、<ruby><rb>岳陰荘</rb><rt>がくいんそう</rt></ruby>と呼び、灰色の壁に這い拡がった<ruby><rb>蔦葛</rb><rt>つたかずら</rt></ruby>の色も深々と、後方遙かに<ruby><rb>峨々</rb><rt>がが</rt></ruby>たる<ruby><rb>剣丸尾</rb><rt>けんまるび</rt></ruby>の怪異な熔岩台地を背負い、前方に山中湖を取<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>る鬱蒼たる樹海をひかえて、小高い尾根の上に絵のように静まり返っていた。――洋画家の<ruby><rb>川口亜太郎</rb><rt>かわぐちあたろう</rt></ruby>が、辻褄の合わぬ奇妙な一枚の絵を描き残したまま卒然として怪しげな変死を遂げてしまったのは、この静かな山荘の、東に面した二階の一室であった。

それは春も始めの珍しく晴渡った日の暮近い午後のことである。この辺りにはついぞ見かけぬ三人の若い男女が、赤外線写真のような裾野道をいくつかの荷物を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げながら辿り辿りやって来た。見るからに画家らしい二人の男は川口亜太郎とその友人の<ruby><rb>金剛蜻治</rb><rt>こんごうせいじ</rt></ruby>、女は亜太郎の妻<ruby><rb>不二</rb><rt>ふじ</rt></ruby>、やがて三人が岳陰荘の玄関に着くと、あらかじめ<ruby><rb>報</rb><rt>しらせ</rt></ruby>のあったものと見えて山荘に留守居する年老いた夫婦の者が一行を迎え入れた。

やがて浴室の煙突からは白い煙が立上り、薪を割る斧の音が<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の樹海に冴え冴えと響き渡る。けれどもそれから二時間としないうちに、山荘へは黒革の鞄を提げた医者らしい男が慌だしく駈けつけたり、数名の警官が爆音もけたたましくオート・バイを乗りつけたりして、岳陰荘はただならぬ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>に包まれてしまった。それはまるで三人の訪問者が、静かな山の家へわざわざ騒ぎの種を持ちこんだようなものだ。

恰度美しい夕暮時で、わけても晴れた日のこの辺りは、西北に聳え立つ<ruby><rb>御坂</rb><rt>みさか</rt></ruby>山脈に焼くような入日を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られて、あたりの尾根と云い谷と云い一面の樹海は<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>にとざされそれがまた火のような西空の余映を受けて鈍く<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>赤く<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>の毒気のように映えかえり、そこかしこに点々と輝く鏡のような五湖の冷たい水の光を<ruby><rb>鏤</rb><rt>ちりば</rt></ruby>めて鮮かにも奇怪な一大裾模様を織りなし、寒々と彼方に屹立する富士の姿をなよやかな薄紫の腰のあたりまでひッたりとぼかしこむ。東の空にはけれどもここばかりは<ruby><rb>拗者</rb><rt>すねくれもの</rt></ruby>の本性を現わした箱根山が、どこから吹き寄せたか薄霧の枕屏風を立てこめて、黒い姿を隠したまま<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>の中へ陥ちこんで行く。やがて山荘の窓には灯がともった。その窓に慌だしげな人影がうつる。云い忘れたが岳陰荘は二階建の洋館で、北側に門を構え、階下は五室、二階は東南二室からなり、その二室にはそれぞれ東と南を向いて一つずつの大きな窓がついていた。川口亜太郎の死はこの二階の東室で発見された。

まだ旅装も解かぬままにその上へ<ruby><rb>仕事着</rb><rt>ブルーズ</rt></ruby>を着、右手には絵筆をしっかりと握って、部屋の中央にのけぞるように倒れている亜太郎の前には、小型の<ruby><rb>画架</rb><rt>イーゼル</rt></ruby>に殆ど仕上った一枚の小さな<ruby><rb>画布</rb><rt>カンバス</rt></ruby>が仕掛けてあり、<ruby><rb>調色板</rb><rt>パレット</rt></ruby>は乱雑に投げ出されて油壺のリンシード・オイルは床の上に<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ、多分倒れながら亜太郎がその油を踏み滑ったものであろう、くの字なりに引掻くように着いていた。

急報によって吉田町から駈けつけた医師は、検屍の結果後頭部の打撲による脳震盪が死因であると鑑定し、警官達は早速証人の調査にとりかかった。

最初に訊問を受けた金剛蜻治は、自分達の先輩であり恩師にあたる<ruby><rb>津田白亭</rb><rt>つだはくてい</rt></ruby>が<ruby><rb>半歳</rb><rt>はんとし</rt></ruby>程前にこの岳陰荘を買入れた事、最近川口と二人で岳陰荘の使用を白亭に願い出たところが快く承諾を得たので、当分滞在のつもりで三人して<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>ここへ着いたばかりである事、死んだ川口は一行が白亭夫妻に送られて<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>東京を発った時から、なにか妙に腑に落ちぬような顔をしてひどく<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ込んでいたが、それでもこの家へ着いた頃からいくらか元気が出た事、事件の起きた頃には自分は風呂に這入っていた事、尚川口夫婦は二階の二室を使用し自分は別荘番の老夫婦と一緒に階下を使うようになっていた事などを割に落付いた態度で答えた。

続いて亜太郎の妻不二は、金剛と同じように川口が東京を出た時からの憂鬱について語ったが、夫の事でありながら打明けてくれなかったのでその憂鬱の中味がどんなものであるか少しも判らない事、それでもこの家へ着くと始めて見るこの<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の風景が気に入ったのか割に元気になって、自分の部屋にきめた東室へ道具を持ち込むと、金剛へ、早速一枚スケッチしたいから先に入浴してくれるよう云い置いて自室へとじこもってしまった事、自分はその隣りの南室で荷物の整理をしたり室内の飾付をしていた事、五時頃に東室で人の倒れるような物音を聞いて駈けつけ、そこで夫の死を<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>けた事などを小さな声で呟くように答えた。

別荘番の老人<ruby><rb>戸田安吉</rb><rt>とだやすきち</rt></ruby>は、事件の起きた五時頃の前後約一時間と云うものは、浴室の裏の広場で薪を割り続けていたと云い、その妻の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とみ</span>は吉田町まで買出しに出ていたと答えた。

四人の陳述は割合に素直で、一見亜太郎の死となんの関係もないように思われたが、先にも述べたように、絵筆を握ったまま倒れた亜太郎の傍らに描き残された妙な一枚の写生画が、その場に居合せた洋画趣味の医師の注意を少からず惹きつけたのだ。

さて、その問題の絵と云うのは、六号の風景カンバスに、直接描法の荒いタッチで描かれた富士山の写生画であるが、カンバスの中央に大きく薄紫の富士山が、上段の夕空を背景にクッキリと聳え立ち、下段に目前五、六十<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>の近景として一群の木立が一様に白緑色で塗り潰されていた。画面も小さく構図も平凡で絵としてはごくつまらない習作であるが、元来川口亜太郎は、その属している画会のひどく急進的なのに反して、亜太郎自身の画風はどちらかと云うと穏健で、写実派の白亭の門人だけに堅実な写実的画風を以てむしろ特異な新人として認められていた。ところが度々云うようにこの岳陰荘の位置は、富士山の北麓であり、二階に於ける室の配置は、東南二室に分れその各々に東と南を向いてそれぞれ一つずつの大きな窓が切開かれていた。が、それにもかかわらず、この土地へ始めて来たと云う写実派の亜太郎は、その東側に窓の開いた東室にとじこもって夕暮時の富士山をスケッチしたと云うのだ。早い話が川口亜太郎は、東方の景色しか見えない東の室にいて、南方に見える筈の富士山を写生していたのだ。つまり直ぐ隣りの南室へ行けば充分見る事の出来る富士の風景を、わざわざ箱根山しか見えない東室にとじこもって写生していたと云うのだ。これは確かに<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。ここへ洋画趣味の医師が疑点を持ったのだ。すると、たとい写実派の川口でも、時には写実を離れて頭だけで描くこともあろうではないか、と金剛蜻治が横槍を入れた。けれども医師は、この絵が決して頭だけで描かれた絵でない証拠として、彼が先刻この家に着いたばかりに、この二階の隣室との境の廊下で、恰度開け放たれていた南室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を通して、まだ暮れ切らぬ南室の窓の外に、この油絵と全く同じ風景を見たと云い出した。そして呆気にとられている人々を尻目にかけ、鞄を片付けて抱え込むと帽子を無雑作に<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りながら、振り返って吐き出すように云った。

「……ですからこの絵は、この室の窓から見えるべき絵ではないと同時に、明かにあちらの、南の室の窓からのみ見える絵なんです。ま、明日にでもなったら、試みに調べて御覧なさい」

二

医師の主張は、翌朝見事に確められた。

二階の南室の窓からは、成る程医師の云う通り、川口亜太郎の描き残した写生画と寸分違わぬ風景が明かに眺められた。中天に懸った富士の姿と云い、目前五、六十<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>の近景にある白緑色の木立と云い、朝と夕方とでは色彩の上に多少の変化があるとは云え、全く疑うことの出来ない風景だった。しかも一方、明かに亜太郎の描き残した写生画は、先にも云ったように色々の絵具を幾層にも塗り上げて行って最後に仕上げをする下塗描法ではなく、一見して最初から大胆直截に描者の最後の目的の色で描き上げた直接描法であるから、この絵はこれで殆んど完成されたものであり、色彩の上にも明かに疑いをさしはさむ余地はなかった。

もっとも亜太郎の倒れていた東室の窓からも、目前五、六十<ruby><rb>米突</rb><rt>メートル</rt></ruby>のところに南室の窓から見えるのと同じような形の一群の木立があるにはあるが、これは明かに白緑色ではなく、明るい日光の下にハッキリと暗緑色を呈していた。そしてその木立の彼方には、疑いもなく箱根山の一団がうねうねと横たわっていた。

もはや事態は明瞭である。警官はこの絵が描かれた時の亜太郎の所在に対して疑いを集中して行った。

死人に足が生える――このような言葉があるとすれば、まさにこの場合には適当で、南室で死んだ亜太郎が一人で東室まで歩いて来たなどと云うことがないかぎり、どうしてもこの場の事態をとりつくろうためには、まず誰れかが、南室で窓の外を写生していた亜太郎の後頭部を鈍器で殴りつけ、亜太郎の死を認めると、何かの目的で屍体を東室に移しかえ、描きかけていた絵の道具もそっくりそのまま東室へ運び込んで、いかにも亜太郎が東室で変死したかの如く装わした、としか考えられなくなる。すると亜太郎の屍体を運んだり、そのようないかがわしい装いを凝らしたのはいったい誰れか？　と開き直る前に当然警官達の疑惑は、事件の当時ずっと南室にいたと云う亜太郎の妻不二の上へ落ちて行った。

不二は怪しい。

川口不二の陳述に嘘はないか？

亜太郎が南室で殺された時に、その妻の不二はいったい<ruby><rb>南室</rb><rt>そこ</rt></ruby>でなにをしていたのか？

そこで<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っちょの司法主任は、もう一度改めて厳重な訊問のやり直しを始めた。

ところが二度目の訊問に於ても、川口不二の陳述は最初のそれと少しも違わなかった。続いてなされた金剛蜻治も別荘番の戸田夫婦も、やはり同じように前回と変りはなかった。それどころか金剛と戸田安吉は、川口不二が事件の起きた当時、確かに南室を離れずに<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に窓際で荷物の整理をしていたのを、一人は裏庭の浴室の湯にひたりながら、一人はその浴室の裏の広場で薪を割りながら、二階の大きな窓越しに見ていたと云い合わせたように力説した。そして暫くしてその姿が急に見えなくなったかと思うと、<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に再び現われて下にいた自分達に大声で亜太郎の死を知らせたのだと戸田がつけ加えた。すると川口不二は、荷物の整理をしながら亜太郎を殴り殺す位の余裕は持てたとしても、とてもその屍体を折曲がった廊下を隔てて隣りの東室へ運び込み、あまつさえ写生の道具などをも運んで<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>の現場を作り上げるなどと云う余裕は持てないことになる。けれどもこれとても二人の証人の云う事を頭から信じてしまう必要はない。仮に信用するとしても、湯にひたったり薪を割りながら、少しも眼を離さずに二階ばかり見ていたなどと云うことがありよう筈はない。では、ひとまず仮りに不二を潔白であったとすれば、いったい誰れが亜太郎を殺して運んだのか？　不二と亜太郎の以外に、もう一人の人物が二階にいたと考える事は出来ない？

司法主任はウンザリしたように、椅子に腰を下ろしながら不二へ云った。

「奥さん。もう一度伺いますが、あなたが南室で荷物の整理をしていられた時に、御主人は、あなたと同じ南室で、絵を描いていられなかったですか？」

「主人は南室などにいませんでした。そんな筈はありません」

「では、廊下へ通じる南室の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は開いていましたか？」

「開いていました」

「廊下に御主人はいませんでしたか？」

「いませんでした」

「御主人以外の誰れか」

「誰れもいません」

「ははア」

司法主任は割に落付きすました美しい不二の<ruby><rb>眼隈</rb><rt>めくま</rt></ruby>の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見詰めながら、これでこの女が嘘をついているとすればまるッきりなんのことはない、と思った。そして決心したように立上ると、参考人と云う名目で、金剛と不二の二人を連行して、本署へ引挙げることにした。

苦り切って一行に従った金剛蜻治は、警察署のある町まで来ると、昨日東京を発った時に見送ってくれた別荘主の津田白亭に、まだ礼状の出してなかったことに気がついた。そこで郵便局へ<ruby><rb>寄途</rb><rt>よりみち</rt></ruby>して礼状ならぬ事件突発の長い電報を打った。

白亭からは、いつまで待っても電報の返事は来なかった。が、その代り、その日の暮近くになって、白亭自身、一人の紳士を連れて<ruby><rb>蒼徨</rb><rt>そうこう</rt></ruby>としてやって来た。紳士と云うのは、白亭とは中学時代の同窓で、いまは<ruby><rb>錚々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>たる刑事弁護士の<ruby><rb>大月対次</rb><rt>おおつきたいじ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>愛弟子</rb><rt>まなでし</rt></ruby>の変死と聞いて少からず驚いた白亭が、多忙の中を無理にも頼んで連れて来たものであろう。

やがて二人は司法室に出頭して、主任から詳細な事件の顛末を報告された。けれども話が亜太郎の描き残した疑問の絵のところまで来ると、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か白亭はハッとして見る見る顔色を変えると、眉根に皺を寄せて妙に苦り切ってしまった。

三

司法主任は<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に白亭の微妙な変化を見逃さなかった。

事件の報告は急転して、猛烈な、陰険な追求が始まった。が、白亭も流石に人物だ。あれこれと取り<ruby><rb>繕</rb><rt>つく</rt></ruby>ろって、執拗な主任の追求を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>すようにしていたが、けれども、とうとう力尽きて、語り出した。

「……どうかこのことは、死んだ者にとっても、生きている者にとっても、大変不名誉なことですから、是非とも此処だけの話にして置いて下さい。……川口と金剛とは、二人とも十年程前から私が世話をしていますので、私共と二人の家庭とは、大変親しくしていましたが、……これは最近、私の家内が、知ったのですが……川口の細君の不二さんと、金剛とは、どうも……どうも、ま、手ッ取早く云えば、面白くない関係にある、らしいんです。で大変私共も気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んだのですが、当の川口は、あの通りの非常な勉強家でして、仕事にばかり没頭していて、サッパリ気がつかないのです。それにあの男は、大変神経質で気の小さな男ですから、うっかり注意してやっても、<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て悪い結果を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>してはと思いまして、それとなく機会を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていたのです。ところが、つい四、五日前に、二人で岳陰荘を使いたいからと申込まれましたので、早速貸してやりました。けれども、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>東京を出発の際、私共夫婦で見送りに出たんですが、てっきり二人だけと思っていたのに、川口の細君も同行するのだと云ってついて来ているので、少からず驚いた次第でした。何も知らない川口は川口で、当分滞在するのだなどと、すっかり無邪気に<ruby><rb>躁</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いでいますし、私共は大変心配しました。……で、こちらへ移って、三人だけの生活がどんなになるかと思うと、うっかり私も堪らない気持になりまして、発車間際の<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>の隙をとらえて、ついそれとなく川口に『あちらへ行ったら、不二さんに注意しなさい』と言ってやりました。……後で、後悔したのですが、やっぱりこれが悪かったのです」

「と<ruby><rb>被仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ると？」

司法主任の声は緊張している。

「つまり……私が……」

白亭は一寸戸惑った。

すると主任がすかさずたたみかけた。

「いや、判りました……つまり、富士山は、不二さん、に通ず……なんですね」

「いいえ、そう云うわけでは」

「ああいや、よく判りました……こりゃ、すっかり考え直しだ」

そう云って司法主任は、椅子の中へそり反りながら、

「お蔭で、何もかも判り始めました。あの疑問の中心の妙な油絵も、こう判って見れば、まことに理路整然として来ますよ……そうだ、全く今になって考えてみれば、あの富士山の絵も、やはり南室で描かれたものではなく、最初の発見通り東室で、被害者の死際に描かれたものですね……あの東室の床の上の油の<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ工合と云い、その上を被害者の足の滑った跡の工合と云い、全くあれは、贋物にしては出来過ぎていますよ。あの屍体は南室から運ばれたのではなく、始めから東室にあったんですね。……つまり、今あなたの<ruby><rb>被仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ったように、金剛氏と不義関係にあった被害者の妻が、南室で荷物の整理をしながら、一寸の隙を見て東室へ忍び入り、これから写生をしようとしていた被害者を、後から殴り殺して、再び南室に戻り知らぬ顔をしている……一方断末魔の被害者は、倒れながら自分に危害を加えた妻を見て、恐怖にひっつりながらも死物狂いで目の前のカンバスへ、恰度持合わせた絵筆をふるって、加害者の名前を描く……いや、これは傑作だ……不二は富士、に通ずる……全く傑作です！」

司法主任は、相手にかまわず独りで満足している。こうして白亭の意外な陳述は、忽ち不二の立場を、真ッ暗な穴の中へ陥入れてしまった。屍体の運搬説は転じて奇妙な遺言説？　となり、警察司法部は俄然色めき立って来た。

一方津田白亭は、自分の証言が意外な波紋を惹き起したのにすっかり狼狽してしまい、事態の収拾を大月弁護士に投げ出してしまった。

そこで大月は色々と策戦を練った上、容疑者の検挙に何等の物的証拠のないのを主要な武器として、今度は直接警察署長に向って猛烈な運動をしはじめた。

この折衝は翌日の<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>まで続けられた。そしてその結果、これは大月の名声も大いに<ruby><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby>って力あった事は<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>めないのだが、ひとまず容疑者の検束は延期になり、やがて一行は岳陰荘へ引挙げて来た。

そしてその翌日、東京へ解剖に送られる亜太郎の屍体と一緒に、津田白亭と川口不二は葬儀、その他の準備のために私服警官付添の上で上京し、一方弁護士の大月対次は岳陰荘に踏み留まって、金剛蜻治を表面助手として、内心では「こいつも同じ穴の<ruby><rb>貉</rb><rt>むじな</rt></ruby>だわい」とひそかに監視しながら、事件の解釈と新しい証拠の拾集に没頭しはじめた。

亜太郎の残した奇怪な油絵については、大月はその絵をひと目見た瞬間から、司法主任の遺言説に深い疑惑を抱いていた。

もしも亜太郎が、その断末魔に臨んで、自分を殺した者が妻の不二であることを第三者に知らせるために、あのような富士山の絵を描き残した、と解釈するにしては、余りにもあの絵には余分な要素が多過ぎる。

例えば木立だとか、空だとか……そうだ。もしも亜太郎が、妻の名前を表わすために描いた絵であったなら、富士山ひとつで充分だ。あのようないくつかの余分な要素を、しかもあれだけ純然たる絵画の形式に纏め上げるだけの意力が、既に死期に臨んだ亜太郎にあったのならば、もっと直截に、文字で例えば「不二が殺した」とか、或は「犯人は不二だ」とか、まだまだいくらでも表わしようはある。いやなによりも、窓際に飛び出して、絶叫することすら出来る筈だ。――問題は、もっと別なところにあるに違いない。

二階の東南二室の間を、コツコツと<ruby><rb>往復</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>しながら、終日大月は考え続けた。けれども一向曙光は見えない。

翌日は、別荘番の老夫婦を、改めてひそかに観察してみた。が、これとても何の得るところもなく終った。

大月の巧妙な束縛を受けて、鎖のない囚人のように岳陰荘にとどめられた金剛はと云えば、割に平気で、時々附近の林の中へ出掛けては、なにかと写生して来たりしていた。けれどもその絵を見ると、それはこの地方が地形上特に曇天の日の多いせいか、大体は金剛の画風にもよるであろうが、いやに陰気で、妙にじめじめした感情が画面に盛り上っているのだ。大月はその度に、画家と云うものの神経を疑いたくなった。

次の日の午後、来合わせた警官から、東京に於ける亜太郎の解剖の結果を聞かされた。けれどもそれは、先に挙げた平凡な後頭部の打撲による脳震盪が死因であると云う以外に、変ったニュースは<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>されなかった。そして大月は、ふと犯人が亜太郎を殴りつけた鈍器を探すことを思いついて、二階へ上っていった。

けれどもこの仕事はなかなか六ヶ敷かった。亜太郎の後頭部は、兇器に判然と附着するほど出血したのでもなければ、また兇器の何たるかを示す程の骨折をしたのでもない。この場合恐らくステッキでも棍棒でも、又花瓶でも木箱でも兇器となり得る。――大月弁護士は日暮時まで、二階の床をコツコツと鳴らし続けていた。

が、やがてどうしたことか急に階段を降りて来ると、別荘番の戸田を大声で呼びつけた。そして<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に首を<ruby><rb>傾</rb><rt>か</rt></ruby>しげながら、

「……妙だ……」

「……妙だ……」

と呟きはじめた。

が、やがて安吉老人がやって来ると、幾分<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを帯びた声で、

「おい君、変なことを訊くがね……二階の東室の窓から、三十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>程向うに、一寸した木立が見えるだろう？」

「はい」

と安吉老人は恐る恐る答えた。

すると、

「あの木立は、今日、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の木と植替えたのかね？」

「そ、そんな馬鹿な筈はありません。第一、旦那様」と安吉は目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>りながら「あれだけのものを植替えるなんて、とても一日や二日で出来ることではありません」

「ふうム……妙だ」

「ど、どうかいたしましたか？　木でもなくなったんですか？」

「違う……いや確かに妙だ。……時に金剛さんは何処にいる？」

「只今、お風呂でございます」

「そうか」

大月はそのまま二階へ上ってしまった。

四

その翌日は珍しく上天気だった。

司法主任を先頭にして数名の警官達がこれでもう何度目かの兇器の捜査にやって来た。

大月にまでも援助を申出た彼等は、二階の洋服箪笥の隅から階下の台所の流しの下まで、所謂警察式捜査法でバタリピシャリと<ruby><rb>虱潰</rb><rt>しらみつぶ</rt></ruby>しにやり始めた。

が、今日は殆ど一日かかって、午後の四時頃、とうとう司法主任は歓声を上げた。それは、もういままでに何度も何度も手に取って見ていた筈の、事件の当時亜太郎の屍体の側に転がっていた細長い一個の絵具箱であった。

慧眼の司法主任は、ついにこの頑丈な木箱の金具のついた隅の方に、はしなくも一点の針で突いたような血痕を発見したのだ。

主任は、岳陰荘を引挙げながら、勝誇ったように大月へ云った。

「どうやらこれで物的証拠も出来上ったようですな」

弁護士は軽く笑って受け流した。

けれどもやがて一行が引挙げてしまうと、なに思ったのか大月はさっさと二階へ上っていった。そして東室の窓を開けると、手摺に腰掛けて、阿呆のように外の景色に<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れはじめた。

いつ見ても、晴れた日の樹海の景色は美しい。細かな、柔かな無数の起伏を広々と<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しもなく押し拡げて、彼方には箱根山が、今日もまた<ruby><rb>狭霧</rb><rt>さぎり</rt></ruby>にすっぽりと包まれて、深々と眠っていた。

裏庭の広場からは、薪を割る安吉老人の斧の音が、いつもながら冴え冴えと響きはじめ、やがて静かな宵闇が、あたりの木陰にひたひたと這い寄って来る。浴室の煙突からは、白い煙が立上り、薪割りをしながら<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の金剛と交しているらしい安吉老人の話声が、ボソボソと呟くように続く。おとみ婆さんは、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の仕度に忙しい。

間もなく岳陰荘では、ささやかな食事がはじまった。が、大月弁護士はまだ二階から降りて来ない。心配したおとみ婆さんが、階段を登りはじめた。と、重い足音がして、大月が降りて来た。

けれどもやがて食卓についた彼の顔色を見て、おとみ婆さんは再び心配を始めた。

僅か一時間ばかりの間に、二階から降りて来た大月は、まるで人が変ったようになっていた。血色は優れず、両の眼玉は、あり得べからざるものの姿でも見た人のように、<ruby><rb>空</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろに見開かれて、食器をとる手は、内心の亢奮を包み切れずか絶えず<ruby><rb>小刻</rb><rt>こきざみ</rt></ruby>に顫えていた。

大月は黙ってそそくさと食事を進めた。

食事が済むと、なに思ったのかステッキを<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて、闇の戸外へ出て行った。そして東側の林の方へ、妙な散歩に出掛けはじめた。が間もなく帰って来ると、人々の相手にもならず、黙り込んで二階へとじこもってしまった。皆は口もきかずに顔を見合わせる。

翌朝――

司法主任が元気でやって来た。

昨日の家宅捜査で見事に物的証拠を挙げた彼は、東京に於ける亜太郎の葬儀が済み次第、不二を検挙する旨を満足げに話した。けれども大月は一向浮かぬ顔をして、うわの空で聞いていたが、やがて主任の話が終ると、突然意外なことを云いだした。

「あなたはまだ、川口が殴り殺されたのだと思っていられますね」

「な、なんですって？……立派な証拠が」

「勿論、その証拠に狂いはないでしょう。川口の致命傷は、確かにあの絵具箱の隅でつけられたものに違いありますまい。けれども川口は、あの絵具箱で殴り殺されたのではないのですよ」

「と云うと？」

「独りで転んだ時に、絵具箱の隅に触れたんです」

「飛んでもない？　川口は立派な遺言を残して……」

「ありゃあそんな遺言じゃ有りません。もっと外に意味があります」

「と云うと？」

「それが非常に妙なことで、とにかくあの事件の起きた日の日没時に、この東室の窓に、実に意外な奴が現れたんです。そいつは、私達にとっても、確かに一驚に値する奴なんだが。特に川口にとってはいけなかったんです。で、<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した川口は、思わずよろよろと立上った途端に、左手に持ったままの<ruby><rb>調色板</rb><rt>パレット</rt></ruby>の油壺から<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ落ちた油を、うっかり踏み滑って、後にあった絵具箱へ、後頭部をいやと云う程打ちつけたのです。これが、川口亜太郎の、疑うべきもない直接の死因です」

「一寸待って下さい。……あなたは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、何か<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>に話していられるようだが、私にはさっぱり判りません。先日、私が川口不二を容疑者として連行した時に、あなたは、私が物的証拠を掴んでいないのを責められた。で、恰度あの場合と同様に、いま、あなたの云われる話について、なにか正確な証拠を見せて頂きたい」

「判りました」と大月もいささかムキになった。「必ずお眼に掛けましょう。が、いま<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>にと云う訳には参りません。私の方からお招きに上るまで、待って下さい。必ずお眼に掛けます」

「……」

司法主任は、くるりと後を振り向くと、足音も荒く、さっさと帰ってしまった。

五

さて、大月弁護士が、司法主任への約束を果したのは、それから二日目の、天気のよく晴れ渡った日暮時のことであった。

大月と司法主任は、東室の<ruby><rb>長椅子</rb><rt>ソファー</rt></ruby>に腰掛けて、窓の方を向いてお茶を飲んでいた。

司法主任は、相変らず御機嫌が悪い。<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしげに舌打ちしながら、やがて大月へ云った。

「まだですか？」

「ええ」

「まだ、出ないんですか？」

「ええ、もう少し待って下さい」

そこで司法主任は改めてお茶を飲みはじめた。が、暫くすると、一層焦立たしげに、

「いったい、その怪しげな奴とやらは、確かに出て来るんですか？」

「ええ、確かに出て来ますとも」

「いったい、そ奴は何者です？」

「いや、もう間もなく出て来ます。もう少し待って下さい」

「……」

司法主任は、不機嫌に外を向いてしまった。

空は美しい夕日に映えて、彼方の箱根山は、今日もまた薄霧の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>に隠れている。

裏庭の広場では、どうやら安吉老人が<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を割り始めたようだ。きっと浴室の煙突からは、白い煙が立上っているに違いない。

と、不意に司法主任が立上った。右手にコーヒー茶碗を持ったまま、呻くように、

「こ、こりゃあ、どうしたことだ！」

「……」

「あんなところに……」司法主任の声は顫えている。「あんなところに……むウ、富士山が出て来た！……こ、こりゃあ妙だ？」

見ればいつのまにか、箱根山を包んだ薄霧の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>の上へ、このような方角に見ゆべきもない薄紫の富士の姿が、夕空高く、裾のあたりを<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>にぼかして、クッキリと聳えていた。

「あなたは、こう云う影の現象を、いままでにご存じなかったのですか？」

大月が微笑みながら云った。

「いや私は、最近こちらへ転勤して来たばかりです！……ふうム、成る程。つまりこりゃあ、入日を受けて霧の上へ写った、富士山の影ですね」

「では、<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に」と大月は前方を指差しながら、「どうです、ひとつ、あの近景の木立を見て頂きましょうか」

「……」

司法主任は黙ってそちらを見た。

「……あれは、なかなか恰好のいい木立でして……」

「やややッ！」と主任は奇声を張りあげた。「むウ……色が変ってしまった！」

成る程、薄暗の中に一層暗くなっていなければならない筈の暗緑色の木立は、なんとした事か疑いもなく南室から見える木立と同じように、明かに白緑色を呈している。

「先晩、調べてみましたがね」大月が云った。「あれは<ruby><rb>合歓木</rb><rt>ねむ</rt></ruby>の木立でしたよ。そら、昼のうちは暗緑色の<ruby><rb>小葉</rb><rt>こば</rt></ruby>を開いていて、夕方になると、眠るように葉の表面をとじ合わせて、白っぽい裏を出してしまう……」

「成る程……判りました。いや、よく判りました。つまり川口は、あの時、この景色を描いていたんですね」

「そうです」

「じゃあ、それからどうなったんです？」

「……ねえ、主任さん」と大月が開き直った。「私達は始めての土地へ来ると、よく方位上の錯覚を起して、どちらが東か南か、うっかり判らなくなることがありますね。……当時の亜太郎も、きっとそれを経験したのです。で、東京を出る時に、見送りに来た白亭氏から、妙な注意をされて、なにも知らない川口氏は、なんのことかさっぱりわからず、持ち前の小心でいろいろと苦に病み、金剛氏等の云うようにすっかり<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ込んでしまったのでしょう。けれども目的地に着いて、この地方の美しい夕方の風光に接すると、画家らしい情熱が涌き上って来て、心中の疑問も暫く忘れることが出来、早速<ruby><rb>東室</rb><rt>このへや</rt></ruby>へやって来ると、この窓に恰度こんな風に現れていた影富士を見て、<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に方位上の錯覚を起し、感興の涌くままに、本物の富士のつもりで、この薄紫の神秘的な影富士を素速く写生しはじめる……」

「成る程」

「けれども、勿論これは、入日のために箱根地方の霧に写った影富士ですから、当然間もなく消えてしまいます。そこで、ふとカンバスから視線を離した川口氏は、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>の間に富士が消えてしまったのに気づいて、始めから本物だと思い込んでいただけに、この奇蹟的な現象に直面して、ひどく<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したに違いありません。するとその瞬間、川口氏の頭の中にその朝東京を出るときに白亭氏から与えられた妙な注意の言葉が、ふと浮びます。あれは、確か……あちらへいったら、ふじさんにきをつけなさい……と云うような言葉でしたね？……」

「むウ、素晴しい。……つまり、やっぱり私が、最初から睨んでいた通り、不二さんは、富士山に、通ずる……ですな……ふム、確かにいい。実に、完全無欠だ！」

司法主任はすっかり満悦の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で身を反らし、小鼻をうごめかしながら、おもむろに窓外を眺め<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。

そこには、夕風に破られた狭霧の隙間を通して、恰度主任の小鼻のような箱根山が、薄暗の中にむッつり眠っているだけで、もう富士の姿は消えたのか、影も形も見えなかった。

（「ぷろふいる」昭和十一年一月号）