<ruby><rb>逢</rb><rt>お</rt></ruby>う<ruby><rb>魔</rb><rt>ま</rt></ruby>が<ruby><rb>時刻</rb><rt>とき</rt></ruby>

秋も十一月に入って、お天気はようやく<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れはじめた。今日も<ruby><rb>入日</rb><rt>いりひ</rt></ruby>は姿を見せず、灰色の雲の<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ<ruby><rb>幕</rb><rt>まく</rt></ruby>の向う側をしのびやかに落ちてゆくのであった。時折サラサラと吹いてくる風の音にも、どこかに<ruby><rb>吹雪</rb><rt>ふぶき</rt></ruby>の小さな叫び声が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っているように思われた。

いま東京<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>ノ<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>のオアシス、<ruby><rb>日比谷</rb><rt>ひびや</rt></ruby>公園の中にも、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の色がだんだんと濃くなってきた。秋の黄昏れ<ruby><rb>時</rb><rt>どき</rt></ruby>は、なぜこのように淋しいのであろう。イヤ時には、ふッと恐ろしくなることさえある。云い伝えによると、街の<ruby><rb>辻角</rb><rt>つじかど</rt></ruby>や林の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>で魔物に逢うのも、この黄昏れ時だといわれる。

このとき公園の小径に、一人の怪しい<ruby><rb>行人</rb><rt>こうじん</rt></ruby>が現れた。怪しいといったのはその<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>ではない。彼はキチンとした背広服を身につけ、型のいい中折帽子を被り、細身の<ruby><rb>洋杖</rb><rt>ケーン</rt></ruby>を握っていた。どうみても、寸分の隙のない<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>で、なんとなく貴族出の人のように思われるのだった。しかし、その上品な風采に似ずその青年はまるで落付きがなかった。二三歩いってはキョロキョロ前後を見廻わし、また二三歩いっては耳を傾け、それからまたすこし行っては<ruby><rb>洋杖</rb><rt>ケーン</rt></ruby>でもって笹の根もとを突いてみたりするのであった。

「どうも分らない」

青年は小径の別れ道のところに立ち停ると吐きだすように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。そして帽子をとり、額の汗を白いハンカチーフで拭った。青年の<ruby><rb>白皙</rb><rt>はくせき</rt></ruby>な、女にしたいほど目鼻だちの整った顔が現れたが、その<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>の間には、隠しきれない大きな心配ごとのあるのが物語られていた。――彼はさっきから、懸命になって、何ものかを探し求めて歩いていたらしい。

「どうして、こんなに胸騒ぎがするのだろう」

青年は心の落付きをとりかえすためであろうか、ポケットから一本の<ruby><rb>紙巻煙草</rb><rt>シガレット</rt></ruby>をとりだすと口に<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えた。マッチの火がシューッと鳴って、青年の<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>のあたりを黄色く照らした。夕闇の色がだんだん濃くなってきたのだった。

いま青年の立っているところは、有名な鶴の噴水のある池のところから、洋風の花壇の裏に抜けてゆく途中にある深い繁みであった。小径の両側には、人間の背よりも高い<ruby><rb>笹藪</rb><rt>ささやぶ</rt></ruby>がつづいていて、ところどころに小さな丘があり、そこには<ruby><rb>八手</rb><rt>やつで</rt></ruby>や<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>が密生していて、隠れん坊にはこの上ない場所だったけれど、まるで谷間に下りたような気持のするところだった。――青年は何ともしれぬ恐怖に襲われ、ブルブルッと身を<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。気がつくと、銜えていた<ruby><rb>紙巻煙草</rb><rt>シガレット</rt></ruby>の火が、いつの間にか消えていた。

そのとき、何処からともなくヒューッ、ヒューッ、と<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しき口笛が響いてきた。<ruby><rb>無人境</rb><rt>むにんきょう</rt></ruby>に聞く口笛――それは<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しくなければならない筈のものだったけれど、なぜか青年の心を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かすばかりに役立った。聞くともなしに聞いていると、なんのことだ、それは彼にも聞き覚えのある<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディ</rt></ruby>であったではないか。それはいま小学生でも知っている「赤い<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>の実」の歌だった。この日比谷公園から程とおからぬ丸ノ内の<ruby><rb>竜宮劇場</rb><rt>りゅうぐうげきじょう</rt></ruby>では、レビュウ「赤い<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>の実」を三ヶ月間も続演しているほどだった。それは一座のプリ・マドンナ<ruby><rb>赤星</rb><rt>あかぼし</rt></ruby>ジュリアが歌うかのレビュウの主題歌だった。

「誰だろう？」

青年は耳を<ruby><rb>欹</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てて、その口笛のする方を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。それは繁みの向う側で吹きならしているものらしいことが分った。

「……あたしの大好きな

<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>の実

いずくにあるのでしょ

いま――

欲しいのですけれど」

青年は心配ごとも忘れて、その美しい<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディ</rt></ruby>の口笛に聞き惚れた。まるでローレライのように魅惑的な旋律だった、そして思わず彼も、「赤い苺の実」の歌詞を口笛に合わせて<ruby><rb>口吟</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>んだのであった。……しかし、やがて、その歌の中の恐ろしい暗示に富んだ歌詞に突き当った。

「……別れの<ruby><rb>冬木立</rb><rt>ふゆこだち</rt></ruby>

<ruby><rb>遺品</rb><rt>かたみ</rt></ruby>にちょうだいな

あなたの心臓を

ええ――

あたしは吸血鬼……」

赤い苺の実というのは、実は人間の心臓のことだと歌っているのである。ああ、あたしは吸血鬼！

青年紳士はハッと吾れにかえった。<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな竜宮劇場の客席で聞けば、赤星ジュリアの歌うこの歌も、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の花のように<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかに響くこの歌詞ではあったけれど、ここは場所が場所だった。黄昏の微光にサラサラと笹の葉が鳴っている藪蔭である。青年はその背筋が氷のようにゾッと冷たくなるのを感じた。

と、――

その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の出来ごとだった。

キ、キャーッ。

突如、絹を裂くような<ruby><rb>悲鳴</rb><rt>ひめい</rt></ruby><ruby><rb>一声</rb><rt>いっせい</rt></ruby>！

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、――」

それを聞くと青年紳士は、その場に棒立ちになった。悲鳴の起った場所は、いままで口笛のしていたところと同じ方向だった。大変なことが起ったらしい。青年紳士の顔色は<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になった。

彼は突然身を躍らせると、柵を越えて笹藪の中に飛びこんだ。ガサガサと藪をかきわけてゆく彼の姿が見られたが、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くするとそのまま引返して来た。そしてまた小径に出て、こんどはドンドン駈けだした。どうやら竹藪の中は行き停りだったらしい。口笛はまだ<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに鳴っている。

随分遠まわりをして、彼はやっと口笛のしていた場所へ出ることが出来た。それは悲鳴を聞いてから四五分ほど経ってのちのことだった。

「……？」

さて此処ぞと思う場所に出たことは出たけれど、そこには葉のよく繁った<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>がムクムクと両側に生えているばかりで、小径はいたずらに白く続き、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の人影はどこにも見当らなかった。彼はなんだか夢をみていたのではあるまいかという気がした。

しかし彼は確かに悲鳴を自分の耳底に聞いたのだった。そして悲鳴などは、いまの彼として聞いてはならぬものだった。なぜならこの青年紳士は、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から一人の肉親の弟を探しまわっているのであったから。

なぜこの紳士は、弟を<ruby><rb>探廻</rb><rt>さがしまわ</rt></ruby>らなければならなかったか？　それは後に判ることとして、今作者は、この場を語るにもっと急であらねばならないのだ。

彼はすこし気が落ちついたのであろうか、こんどはしっかりした態度に帰って、あたりを熱心に探しだした。ここの繁み、かしこの繁みと探してゆくうちに、とうとう彼は一番こんもりと繁った五月躑躅の蔭に、悲しむべき目的物を探しあてたのだった。それは小径の方に向いてヌッと伸びている靴を履いた一本の足だった。

「おお、――」

青年紳士は、その場に化石のようになって、<ruby><rb>突立</rb><rt>つった</rt></ruby>った。

<ruby><rb>二重</rb><rt>にじゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>致命傷</rb><rt>ちめいしょう</rt></ruby>

青年紳士は暫くしてから気を取り直すと、静かに芝草の中へ足を踏みいれた。そして<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>の方に近づいて、その青白い死顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

「おお、四郎……」

と、彼は<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>からふり絞るような声で、<ruby><rb>愛弟</rb><rt>あいてい</rt></ruby>の<ruby><rb>生前</rb><rt>せいぜん</rt></ruby>の名を呼んだ。

ああ、何という無惨！

<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>の葉蔭に、学生服の少年が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から<ruby><rb>胸許</rb><rt>むなもと</rt></ruby>にかけ<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な血を浴びて<ruby><rb>仰向</rb><rt>おあむ</rt></ruby>けに<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れていた。青年は芝草の上に膝を折って、少年の脈搏を調べ、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を開いて<ruby><rb>瞳孔</rb><rt>どうこう</rt></ruby>を見たが、もう全く事切れていた。そして身体がグングン冷却してゆくのが分った。

兄は悲しげにハラハラと<ruby><rb>落涙</rb><rt>らくるい</rt></ruby>した。

「死んでいる。……四郎、お前は誰に殺されたのだ」

屍体は肉親の兄<ruby><rb>西一郎</rb><rt>にしいちろう</rt></ruby>にめぐりあい、おのれを<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>った恨深い殺人者について訴えたいように見えたが屍体はもう一と口も返事することができなかった。

兄の一郎は涙を拭うと、血にまみれた屍体を覗きこんだ。そのとき彼は屍体の<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>のすぐ下のところに深い、<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>ができているのを発見した。よく見ると、その溝の中には細い<ruby><rb>鋼</rb><rt>はがね</rt></ruby>の針金らしいものが覗いていた。

「おや、これは不思議だ。絞殺されたのかしら」と一郎は目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>った。「それにしても、胸許を染めている<ruby><rb>鮮血</rb><rt>せんけつ</rt></ruby>はどうしたというのだろう」

絞殺に鮮血が<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>きでるというのは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しかった。なにかこれは別の傷口がなければならない。一郎は愛弟四郎の屍体に顔を近づけた。そして注意ぶかく、屍体の頭に手をかけると首をすこし曲げてみた。

「ああ、これは……」

屍体の咽喉部は、真紅な<ruby><rb>血糊</rb><rt>ちのり</rt></ruby>でもって一面に<ruby><rb>惨</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしく<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られていたが、そのとき<ruby><rb>頸部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>の左側に、突然パックリと一寸ばかりの傷口が開いた。それは何で<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けたものか、ひどく肉が裂けていた。その傷口からは、待ちうけていたように、また新しい血潮がドクドクと湧きだした。一郎はハッと屍体から手を離した。血潮は頸部を伝わって、スーッと走り落ちた。――何者かが<ruby><rb>頸動脈</rb><rt>けいどうみゃく</rt></ruby>を切り裂いたのに違いなかった。

「なんという惨たらしい殺し方だ。頸を締めたうえに、頸動脈まで切り裂くとは……」

だが、これは随分御丁寧な殺し方である。それほど四郎は、人の<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>みを買っていたのだろうか。いやそんな筈はない。誰にも好かれる彼に、そんな惨酷な手を加える者はない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だった。――一郎は、不審にたえない面持で、もう一度<ruby><rb>創傷</rb><rt>きりきず</rt></ruby>を覗きこんだ。その結果、彼は屍体の頸部に恐ろしいものを発見した。恐ろしい人間の歯の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を！

それは傷口に近い皮膚のうえに残っている深い歯の痕だった。一つ、二つ、三つと、三ヶ所についていた。もう一つの歯痕は見えなかった代りに、当然そこに歯痕のあるべき皮膚面が<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>ったように切れこんでいた。恐らく上顎の<ruby><rb>糸切歯</rb><rt>いときりば</rt></ruby>がここに喰いこんで、四郎少年の皮膚と肉とを破り、頸動脈をさえ喰い切ったのであろう。ああ、何者の仕業であろう。人間を傷つけるに<ruby><rb>兇器</rb><rt>きょうき</rt></ruby>にこと<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>いたのかはしらぬが、歯をもって<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>み殺すとは何ごとであるか。まるで<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のような殺し方である。大都会の真中にこんな恐ろしい<ruby><rb>獣人</rb><rt>じゅうじん</rt></ruby>が<ruby><rb>出没</rb><rt>しゅつぼつ</rt></ruby>するとは有り得ることだろうか。一郎は自分の眼を疑った。

「<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>い奴、<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い奴！――こんなむごたらしい殺し方をしたのは、何処の何者だッ」

このとき一郎は、さっき聞くともなしに聞いた口笛のことを思い出した。その口笛が弟の惨殺事件になにか関係のあるだろうということは、もっと早く思い浮べなければならなかったのだけれど、彼はあまりに悲しい場面に直面して、ちょっと忘れていたのであろう。

「そうだ、あの口笛は誰が吹いていたのだろう？」

「赤い苺の実」の歌――それは、ひょっとすると、殺された弟が吹いていたのかも知れないと思った。

「イヤ弟ではない――」

あの怪しい口笛は、弟の発したらしいキャーッという悲鳴の前にも聞えていたが、それからのち彼が繁みの小径を探そうとして一生懸命になっているときにも、どこからともなく耳にしたではないか。殺された人間が口笛を吹くはずがない。――では口笛を吹いていたのは何者だ。

「ウム、その口笛の主が、弟を殺した獣人に違いない！」

そうだ、あの「赤い苺の実」の歌というのは実は「吸血鬼」の歌なのだ。第五節目の歌詞には「あなたの心臓をちょうだいな、あたしは吸血鬼」といったような文句があるではないか。竜宮劇場の舞台から<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかな赤星ジュリアの歌を聴いているような気持で、あの悲鳴入りの口笛を聴き過ごすことはできない。吸血鬼の歌を口笛に吹いた奴が、あの殺人者に違いあるまい。ひょっとすると、あの妖しい歌に誘われ、<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のような<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>の生えた本物の吸血鬼がこの黄昏の中に現われて、その長い<ruby><rb>吸盤</rb><rt>きゅうばん</rt></ruby>のような<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った唇でもって、愛弟の血をチュウチュウと吸ったのではあるまいかと思った。とにかく悲鳴がしてから四五分経って駈けつけたのだから、まだその附近に、恐ろしい吸血鬼がひそんでいるかも知れない。

「よオし。<ruby><rb>愚図愚図</rb><rt>ぐずぐず</rt></ruby>していないで、その吸血鬼を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えてやらねばならん」

西一郎は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に決心を固めた。そして彼は身を起すと、芝草を踏んで、小径の方へ駈けだした。

「こーら、出てこい。人殺し<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、出てこい。……」

彼は<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>のようになって、ここの繁み、かしこの藪蔭に躍り入った。彼の上品な<ruby><rb>洋袴</rb><rt>ズボン</rt></ruby>はところどころ裂け、<ruby><rb>洋杖</rb><rt>ケーン</rt></ruby>を握る<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>には<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>ができて血が流れだしたけれど、一郎はまるでそれを意に留めないように見えた。

公園の東の隅には、元の<ruby><rb>見附跡</rb><rt>みつけあと</rt></ruby>らしい背の高い古い石垣が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。ここはあまりに陰気くさいので、いかに物好きな散歩者たちも近よるものがなかった。一郎は前後の<ruby><rb>見境</rb><rt>みさかい</rt></ruby>もなく、石垣の横手から<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いこんだ。そこには大きな<ruby><rb>蕗</rb><rt>ふき</rt></ruby>の葉が<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>え<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っていたが、彼が猛然とその葉の中に躍りこんだとき、思いがけなくグニャリと気味のわるいものを踏みつけた。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ――」

と、彼は其の場に三尺ほど飛び上った。

だが彼は、その叫び声に続いて、もう一つの驚きの声を発しなければならなかった。なぜなら、その密生した蕗の葉の中から、イキナリ一人の男が飛びだしたからであった。一郎が踏みつけたのは、その葉かげに寝ていたかの男の脚だったにちがいない。

「……」

一郎は、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をはずませて、相手の方を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。ああ、それは何という恐ろしい顔の男であったろう。背丈はあまり高くないが、肩幅の広いガッチリした体躯の持ち主だった。そして<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>ずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪は<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>のように乱れ、顔の色は<ruby><rb>赭黒</rb><rt>あかぐろ</rt></ruby>かった。しかしなによりも一郎の魂を奪ったものは、その男の赭顔の半面にチラと見えた恐ろしく大きな<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>であった。

「待て――」

一郎は相手を見てとると、勇敢に突進していった。痣のある男はヒラリと身体をかわして逃げだした。

「オイ、待たないか――」

その怪人は、はたして弟四郎を殺した彼の恐るべき吸血鬼であるのかどうかハッキリ分らない。しかし折も折、この<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>どきに人も通らぬ石垣裏の蕗の葉の下に寝ているとは、たしかに怪しい人物に違いなかった。追いついて、組打ちをやるばかりである。

怪人は物を云わず、ドンドンと逃げだした。その行動の<ruby><rb>敏</rb><rt>すばや</rt></ruby>いことといったら、どうも人間業とは思えなかった。高い石垣を見上げたと思うと、ヒョイと長い手を伸ばして、バネ仕掛けのように飛び越えた。まるで飛行機が曲芸飛行をしているような有様だった。一郎がようやく石垣を<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じのぼって、下の池の方を<ruby><rb>見下</rb><rt>みお</rt></ruby>ろすと、かの怪人はもう池の向う岸にいた。池の水面には小さなモーターボートでも通ったように、二条の波紋が長くあとを引いていた。どうして彼が池を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>り越えたのやら分らなかった。

一郎は池を大迂回しなければならなかった。しかし一郎の予想は当って、怪人はドンドン西の方に逃げてゆく。そっちの方には弟の惨殺屍体の転がっている竹藪があった。だから怪人はきっとその辺へ潜りこむつもりだろう。そうなれば怪人の正体もハッキリして来るというものだ。

「誰か、手を借して呉れーッ」

一郎は声をかぎりに叫ぼうとしたが、咽喉がカラカラに乾いて、<ruby><rb>皺枯</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた弱い声しか出なかった。そのうちに怪人は、弟の<ruby><rb>死霊</rb><rt>しりょう</rt></ruby>に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>きよせられるもののように、問題の藪だたみの方に足を向けると、ガサガサと繁みを分けて姿を消してしまった。それを見て一郎はムラムラと復讐心の燃えあがってくるのを感ぜずにはいられなかった。

彼は急に進路を曲げた。それは抜け道をして、弟の屍体の転がっている裏の方の繁みの中からワッと躍りでるつもりだった。それは怪人の不意を打つことになって、たいへん有利だと思ったからだった。

間もなく一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の<ruby><rb>欝蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は<ruby><rb>間近</rb><rt>まぢ</rt></ruby>かの筈だった。

「うん、あすこだ」

繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。

すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――

「あの怪人めが屍体にたかって、また<ruby><rb>破廉恥</rb><rt>はれんち</rt></ruby>なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ！」

彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。

「さあ来いッ」

彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。

「さあ来いッ――」

……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――

「アレーッ」

という若い女の悲鳴があった。

「おお、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は……」

一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。

<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>かれた日記帳

「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」

ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。

しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。

「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」

と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリアは軽く<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた身振りをして「あたくしは、いま劇場の昼の部と夜の部との間で、丁度身体が明いているのよ。一日中であたくしはそのときがいちばん楽しいの。……で、ドライヴしていたんですわ、ホラごらん遊ばせ、ここから見えるでしょう、あたくしの<ruby><rb>自動車</rb><rt>くるま</rt></ruby>が……」

なるほどジュリアの<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>す方に、一台の自動車が、小径を出たところに停っていて、座席には彼女の連れらしい、ずっと年の若い少女が乗っていた。それはジュリアの妹分にあたる<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>という踊り子であったけれど。

「貴女は自動車でここを通りかかったというのですか。よくこれが分りましたネ。……」

と弟の死骸を指した。

「ええ、それは誰かが叫んでいたからですわ。なにごとか大事件が起ったような叫び声でしたわ。だもんで、自動車を停めて、ここまで来てみると、この有様なんですのよ。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>、たいへんだわ。この学生さん、死んでいましてよ」

「そうです。死んでいるというよりも、殺されているといった方がいいのです。これは僕の本当の弟なのです」

「ええ、なんですって。貴方がこの方の兄さんだと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るのですか」

「そのとおりです。僕は四郎の兄の一郎なんです」

「アラマアあたくし、どうしましょう」とジュリアは美しい<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を曇らせたが「とんだお気の毒なことになりましたわネ」

といって目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>と</rt></ruby>じ、胸に十字を切った。

「そうだ、貴方はいまその辺に見なかったですか、怪しい男を……」

「怪しい男？　貴方以外にですか」

「ええ、もちろん僕のことではないです。こう顔の半面に恐ろしい<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>のある小さい牛のような男のことです」

「いいえ。あたくしは今、車を下りて、<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>にここまで歩いたばかりですわ」

ジュリアはまるでレビュウの舞台に立っているかのように、美しい<ruby><rb>台辞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>をつかった。側に立つルネサンス風の高い照明灯は、いよいよ明るさを増していった。

「その痣のある男がどうかしたのですか」

「いや、僕がいま<ruby><rb>追駈</rb><rt>おいか</rt></ruby>けていたのです。もしや犯人ではないかと思ったのでネ」と一郎は云ってあたりの木立を見廻わした。夕闇はすっかり蔭が濃くなって、これではもう追駈けてもその<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>がなさそうに見えた。

そこへバラバラと<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が入り乱れて聞えた。二人がハッと顔を見合わせる途端に、夕闇の中で定かに分らないが、十歳あまりの少年が駈けこんできた。そして<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>をクルリとふりむいて大声に叫んだ。

「オーイ、早くお出でよ、大辻さーん」

向うの方からも、別な跫音がバタバタと近づいてきた。

「待て待て、<ruby><rb>勇坊</rb><rt>いさぼう</rt></ruby>、ひとりで駈けだすと、危いぞオ」

そういう声の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、大入道のような五十がらみの肥満漢が、ゼイゼイ息を切りながら姿を現わした。――どうやら二人は<ruby><rb>連</rb><rt>つれ</rt></ruby>らしい。

「<ruby><rb>大辻</rb><rt>おおつじ</rt></ruby>さん。赤星ジュリアの外に、もう一人若い男が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたぜ」

と、少年は<ruby><rb>小慧</rb><rt>こざか</rt></ruby>しい口を利いた。

「ほう、そうじゃなア」

そういうところを見ると、既に二人はジュリアが屍体のところへ来たのを知っていたらしい。

「皆さん。そこにある屍体を見るのはかまわないけれど、手で触っちゃ駄目だよ。折角の殺人の証拠がメチャメチャになると、警官が犯人を探すのに困るからネ」と少年は<ruby><rb>大真面目</rb><rt>おおまじめ</rt></ruby>でいってから、大辻と呼ばれる大男の方に呼びかけた。「どうだい大辻さん。この殺人事件において、大辻さんは何を発見したか、それを皆並べてごらんよ」

「オイよさねえか、勇坊。みなさんが<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>っているぜ」

と大辻は頭を掻いた。

「まあ面白いこと仰有るのネ。あなた方は<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>ですの」

ジュリアは、眼のクルクルした少年に声をかけた。

「僕たちのことを怪しいと思ってるんだネ、ジュリアさん。僕たちは、ちっとも怪しかないよ。僕たちはこれでも私立探偵なんだよ。知っているでしょ、いま帝都に名の高い覆面探偵の<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せいりゅうおう</rt></ruby>ていうのを。僕たちはその青竜王の右の小指なんだよ」

「まあ、あなたが小指なの」

「ちがうよ。小指はこの大辻さんで、僕が右の腕さ」

「青竜王がここへいらっしゃるの？」

「ううん」と少年は急に<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>て、かぶりを振った。「<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>がいれば、こんな殺人事件なんか一と目で片づけてしまうんだけれど。だけれど、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>はどうしたものか、もう十日ほど行方が分らないんです。だから僕と大辻さんとで、この事件を解決してしまおうというの」

「オイオイ勇坊。つまらんことを云っちゃいけないよ」

「そうだ。それよりも早く結論を出すことに骨を折らなければ……」と<ruby><rb>勇</rb><rt>いさむ</rt></ruby>少年は再び大辻の方を向いていった。「大辻さんには分っているかどうかしらないけれど、この学生さんは始めその木の陰で向うを向いて腰を下ろしていたんだよ。するとネ、学生さんの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の繁った葉の間から、二本の手がニューッと出て、細い針金でもって学生さんの首をギューッと締めつけたんだ。それでとうとう死んじゃったんだ」

「そのくらいのことは分っているよ」と大辻が痩せ我慢をいった。

「どうだかなア。――そこで犯人は、表へ廻って、この屍体の側に近よった。そして咽喉のところを<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っ切って血を出してしまったのさ。こうすると全く生きかえらないからネ」

「それくらいのこと、わしにだって分らないでどうする」

「へーン、どうだかな。――殺される前に、学生さんは一人の美しい女の人と一緒に話をしていたのに違いない。その草の間にチョコレートの銀紙が飛んでいる中に、口紅がついたのが<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っている」

「ええ、本当かい、それは……」

「ほーら、大辻さんには分っていないだろう。――学生さんは女の人と話しているうちに、女の人はなにか用事が出来て、ここから出ていったのさ。すぐ帰ってくるから待っていてネといったので、学生さんはじっと待っていた。その留守に頸を締められちまったのさ」

「<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>の真似だけは上手な奴じゃ」

「それからまだ分っていることがある……」

勇少年の<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>は、まだ続いてゆく。赤星ジュリアは聞き飽きたものかスカートをひるがえして、待たせてあった自動車の方へ歩いていった。

西一郎の方は、さっきから黙って、青竜王の部下だという大男と少年の話を聞いていたが、これもジュリアの跡を追って、その場を立ち去った。彼はまだ怪人の行方をつきとめたい気があるのかも知れなかった。

勇少年と大辻とは、それに気づかない様子で、夢中になって<ruby><rb>饒</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りつづけていた。しかし二人の男女が立ち去ってしまうと、思わず顔を見合わせてニッコリと笑った。

「だが勇坊、お前はいけないよ、あんな秘密なことまで<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったりして」

「あんなこと秘密でもなんでもありゃしない。僕はもっと面白いことを二つも知っているよ」

「面白いことって？」

「一つは赤星ジュリアの耳飾りのこと、それからもう一つは、いまのもう一人の男の顔にある変な形の<ruby><rb>日焼</rb><rt>ひや</rt></ruby>けのことだよ」

「ほほう。早いところを見たらしいネ。だがそんなことが何の役に立つんだネ」

「それは大辻さんが発見した日記帳以上に役に立つかも知れない」

「ほう、日記帳！」大辻は何を思ったか、屍体のところへ飛んでいった。そして屍体の背中をすこし持ちあげると、その下に隠されていた小さな黒革の日記帳をとりだした。彼はその日記帳の頁をパラパラと<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>っていたが、突然<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、大声で叫んだ。

「ああ大変じゃ。――オイ勇坊、誰かこの日記帳から何十頁を切り裂いて持っていったぞ。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>調べたときには、こんなことがなかったのに……」

奇怪な挑戦状

その翌日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>さがり、警視庁の<ruby><rb>大江山</rb><rt>おおえやま</rt></ruby>捜査課長は、<ruby><rb>昨夜来</rb><rt>さくやらい</rt></ruby><ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>めかけている新聞記者団にどうしても一度会ってやらねばならないことになった。

その日の朝刊の社会面には、どの新聞でもトップへもって来て三段あるいは四段を<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>き、

「帝都に吸血鬼現る？

――日比谷公園の怪屍体――」

とデカデカに初号活字をつかった表題で、<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の怪事件を報道しているところを見ても、敏感な新聞記者たちは早くもこれが近頃珍らしい大々事件だということを見破ったものらしい。

大車輪で活動を続けている大江山課長は五分間だけの会見という条件でもって、新聞記者団を応接室へ呼び入れた。ドヤドヤと入ってきた一同は、たちまち課長をグルッと取巻いてしまった。

「五分間厳守！　あとは云わんぞ」

と、課長は先手をうった。

「すると本庁では事件を猛烈に重大視しているのですネ」

と、早速記者の一人が<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いた。

「犯人は精神病者だということですが、そうですか」

と、他の一人が<ruby><rb>鎌</rb><rt>かま</rt></ruby>をかけて<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「犯人はまだ決定しとらん」

課長は口をへの字に曲げていった。

「法医学教室で訊くと被害者の血は一滴も残っていなかったそうですね」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>！」課長は記者の見え透いた<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>を簡単にやっつけた。

「犯人は、被害者の実兄だと称している西一郎（二六）なのでしょう」

「今のところそんなことはないよ」

「西一郎の住所は？」

「被害者と同じ家だろう？」

「冗談いっちゃいけませんよ、課長さん。被害者は<ruby><rb>下宿住居</rb><rt>げしゅくずまい</rt></ruby>をしているのですよ。本庁はなぜ西一郎のことを特別に保護するのですか」

「特別に保護なんかしてないさ」

課長は椅子にふん<ruby><rb>反</rb><rt>ぞ</rt></ruby>りかえった。

しかし被害者の実兄の住所を極秘にしていることは、何か特別のわけがなければならなかった。課長がすこし弱り目を見せたところを見てとった記者団は、そこで課長の心臓をつくような質問の巨弾を放ったのだった。

「三年ほど前、大胆不敵な強盗殺人を連発して天下のお尋ね者となった<ruby><rb>兇賊</rb><rt>きょうぞく</rt></ruby><ruby><rb>痣蟹仙斎</rb><rt>あざがにせんさい</rt></ruby>という男がありましたね。あの兇賊は当時国外へ逃げだしたので捕縛を免れたという話ですが、最近その痣蟹が内地へ帰ってきているというじゃありませんか。こんどの殺人事件の手口が、たいへん惨酷なところから考えてあの痣蟹仙斎が始めた仕業だろうという者がありますぜ。こいつはどうです」

「ふーむ、痣蟹仙斎か」課長は眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った。「本庁でも、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の帰国したことはチャンと知っている。こんどの事件に関係があるかどうか、そこまで言明の限りでないが、近いうち捕縛する手筈になっている」

と云ったが、大江山課長は十分痛いところをつかれたといった面持だった。痣蟹仙斎の、あの顔半分を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う蟹のような形の痣が目の前に浮んでくるようだった。

「それでは課長さん。これは新聞には書きませんが、痣蟹の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>は目星がついているのですね」

「もう五分間は過ぎた」と課長はスックと椅子から立ちあがった。「今日はここまでに……」

課長が室を出てゆくと、記者連は大声をあげて露骨な意見の交換をはじめた。結局こんどの吸血事件と帰国した痣蟹仙斎のこととを結びつけて、本庁は空前の緊張を示しているが、実は痣蟹の手懸りなどが十分でなくて弱っているものらしいということになった。そしてこのことを今夜の夕刊にデカデカ書き立てることを申合せたのだった。

夕刊の鈴の音が<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく街頭に響くころ、大江山課長はにがりきっていた。

「しようがないなア。こう書きたてては、痣蟹のやつ、いよいよ警戒して、地下に潜っちまうだろう」

そこへ一人の刑事が入ってきた。

「課長さん。お手紙ですが……」

と茶色のハトロン紙で作った安っぽい封筒をさしだした。

課長は何気なくその封筒を開いて用箋をひろげたが、そこに書いてある簡単な文句を一読すると、異常な昂奮を見せて、たちまちサッと<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>くなったかと思うと、直ぐ逆に<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった。そこには次のような文句が<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>められてあった。

「大江山捜査課長殿

<ruby><rb>啓</rb><rt>けい</rt></ruby>。しばらくでしたネ。しばらく会わないうちに、<ruby><rb>貴下</rb><rt>きか</rt></ruby>の<ruby><rb>眼力</rb><rt>がんりき</rt></ruby>はすっかり曇ったようだ。日比谷公園の吸血屍体の犯人を痣蟹の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>とみとめるなどとは何事だ。痣蟹は吸血なんていうケチな殺人はやらない。嘘だと思ったら、今夜十一時、銀座のキャバレー、エトワールへ来たれ。きっと<ruby><rb>得心</rb><rt>とくしん</rt></ruby>のゆくものを見せてやる。必ず<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>れ！

痣蟹仙斎」

課長は<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて、手紙を持ってきた刑事を呼びもどした。誰がこのような手紙を持ってきたのかを訊ねたところ、受付に少年が現れてこれを置いていったということが分ったが、探してみてももう使いの少年の行方は知れなかった。だがこれは痣蟹の手懸りになることだから、<ruby><rb>厳探</rb><rt>げんたん</rt></ruby>することを命じた。そしてその奇怪な挑戦状を握って、総監のところへ駈けつけた。

その夜のことである。

銀座随一の豪華版、キャバレー・エトワールは日頃に増してお客が立てこんでいた。客席は全部ふさがってしまったので、<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ず、太い柱の陰にはなるが五六ヶ所ほど補助の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>や椅子を出したが、これも<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちふさがってしまった。

酒盃のカチ合う音、酔いのまわった紳士の胴間声、それにジャズの<ruby><rb>喧噪</rb><rt>けんそう</rt></ruby>な楽の音が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りただもう頭の中がワンワンいうのであった。

この喧噪の中に、室の一隅の卓子を占領していたのは大江山捜査課長をはじめ、手練の部下の一団に、それに特別に<ruby><rb>雁金</rb><rt>かりがね</rt></ruby>検事も加わっていた。いずれも制服や帯剣を捨てて、<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>たる服装に客たちの目を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ましていた。なお本庁きっての剛力刑事が、あっちの壁ぎわ、こっちの柱の陰などに、給仕や酔客や掃除人に変装して、蟻も洩らさぬ警戒をつづけていた。かれ等一行の待ちかまえているものは、奇怪なる挑戦状の主、痣蟹仙斎の出現だった。痣蟹はいずこから現れて、何をしようとするのであろうか。

ところがその夜の客たちは、検察官一行とは違い、また別なものを待ちかまえていた。それは今夜十時四十分ごろに、このキャバレーに特別出演する竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアを観たいためだった。ジュリアの舞踊と独唱とが、こんなに客を吸いよせたのであった。

夜はしだいに<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた。<ruby><rb>屋外</rb><rt>そと</rt></ruby>を行く散歩者の姿もめっきり<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らとなり、キャバレーの中では酔いのまわった客の吐き出す声がだんだん高くなっていった。時計は丁度十時四十五分、支配人が奥からでてきてジャズ音楽団の楽長に<ruby><rb>合図</rb><rt>あいず</rt></ruby>をすると、柔かいブルースの曲が突然トランペットの勇ましい響に破られ、軽快な行進曲に変った。<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>こそというので、客席から割れるような拍手が起った。客席の<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>がやや暗くなり、それと代って天井から強烈なスポット・ライトが美しい<ruby><rb>円錐</rb><rt>えんすい</rt></ruby>を描きながら降って来た。

「うわーッ、赤星ジュリアだ！」

「われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ！」

「うわーッ」

その声に迎えられて、真黒な<ruby><rb>帛地</rb><rt>きぬじ</rt></ruby>に銀色の装飾をあしらった夜会服を着た赤星ジュリアが、明るいスポット・ライトの中へ飛びこむようにして現われた。

そこでジュリアの得意の独唱が始まった。客席はすっかり静まりかえって、ジュリアの鈴を転ばすような美しい歌声だけが、キャバレーの高い天井を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すった。

「どうもあの正面の円柱が影をつくっているあたりが気に入りませんな」

と大江山捜査課長が隣席の雁金検事にソッと囁いた。

「そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな」

「イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります」

ジュリアの独唱のいくつかが終って、ちょっと休憩となった。嵐のような拍手を背にして彼女がひっこむと、客席はまた元の明るさにかえって、ジャズが軽快な間奏楽を奏しはじめた。警官隊はホッとした。

「きょうは貴下の御親友である名探偵青竜王は現われないのですか」

と大江山は<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>に火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けながら、雁金検事に尋ねた。

「さあ、どうですかな。先生この頃なにか忙しいらしく、一向出てこないです。しかし今夜のことを知っていれば、どこかに来てるかも知れませんな」

覆面の名探偵は、検事の親友だった。覆面の下の素顔を知っているものは、少数の検察官に止まっていた。青竜王に云わせると、探偵は素顔を事件の依頼者の前でも犯人の前でも<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>すことをなるべく避けるべきであるという。だから一度雑誌に出た彼の素顔の写真というのがあったが、あれももちろん他人の肖像だったのである。

再び、トランペットの勇ましい音が始まって、客席の<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>はまたもや薄くなった。いよいよこんどこそは、痣蟹が現れるだろう。

「もう十一時に五分前です」

課長は<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下で、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の安全装置を外した。

検察官一行の緊張を<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>に、客席ではまた嵐のような拍手が起った。美しい光の円錐の中に、ジュリアを始め三人の舞姫たちが、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>目を奪うような扮装して登場したのであったから。カスタネットがカラカラと鳴りだした。一座の得意な出しもの「赤い苺の実」のメロディが響いてくる。……

「こいつはいかんじゃないですか。三人の女優が、みな覆面をしとる」

と雁金検事が隣席の大江山課長に囁いた。

「これは舞台でもこの通りやるんです。それに<ruby><rb>真逆</rb><rt>まさか</rt></ruby>痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……」

「だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です」

「じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか」

そういった瞬間だった。予告なしに、突然室内の<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が一せいに消えて、真暗闇となった。客席からはワーッという叫びがあがった。そのとき出口の闇の中から、大きな声で<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>る者があった。

「皆さん、われ等は警官隊です、危険ですから、すぐに<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下に潜って下さアい！」

その声が終るが早いか、<ruby><rb>叫喚</rb><rt>きょうかん</rt></ruby>と共に卓子と椅子とがぶつかったり、転ったりする音が喧しく響いた。

（なにかこれは大事件だ！）

客の酔いは一時に醒めてしまった。

すると、こんどは騒ぎを<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしたようにパーッと室内の電灯が<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>とついた。

室内の風景はすっかり変っていた。客の多くは<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下に潜りこみ、ただすっかり酔っぱらって動けない連中が椅子の上にダラリとよりかかっていた。出口にはどこから現れたのか、武装した三十名ほどの警官隊がズラリと<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を<ruby><rb>擬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>して<ruby><rb>鉄壁</rb><rt>てっぺき</rt></ruby>のように並んでいる。

「頭を出すと危い！」

警官が注意した。

「あッはッはッはッ」

思いがけない高らかな<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>が、円柱の影から聞えた。

<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>！　雁金検事も大江山課長も、卓子を<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>にとって、無気味な哄笑のする方を注視した。

正面の太い円柱の陰から、<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のようにヒラリと空虚な舞台へ飛び出したものがあった。<ruby><rb>皮革</rb><rt>かわ</rt></ruby>で作ったような、黄色い奇妙な服を着た痩せこけた男だった。グッと出口の警官隊を睨みつけたその顔の醜怪さは、なにに<ruby><rb>喩</rb><rt>たと</rt></ruby>えようもなかった。左半面には物凄い蟹の形の大痣がアリアリと認められた。ああ、遂に痣蟹が現れたのだ！

意外な<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>

待ちに待たれていた大胆不敵な挑戦状の主は、とうとう皆の前に姿を現わしたのだった。怪賊痣蟹は二た目と見られない醜悪な面をわざと隠そうともせず、キッと武装警官隊の方を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。

武装隊を指揮しているのは<ruby><rb>金剛</rb><rt>こんごう</rt></ruby>部長だったが、ヌックと立って部下に号令した。

「あの怪物がすこしでも動いたら、撃ち殺してしまえッ」

痣蟹はそれを聴くと、薄い唇をギュッと曲げて冷笑した。そして突然、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に隠しもった彼の手慣れた武器をとりだした。それは恐るべき軽機関銃だった。彼が<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>にいたとき、そこの秘密武器工場に注文して特に作らせたという精巧なものだった。――その機関銃の<ruby><rb>銃口</rb><rt>つつ</rt></ruby>が、警官たちの胸元を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>った。

「急ぎ撃てッ」

武装隊長は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に射撃号令をかけた。

ドドーン。ドドーン。

カタ、カタ、カタ、カタ。

どっちが先へ撃ちだしたのか分らなかった。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち室内の電灯はサッと消えて、暗黒となった。<ruby><rb>阿鼻叫喚</rb><rt>あびきょうかん</rt></ruby>の声、器物の壊れる音――その中に嵐のように荒れ狂う銃声があった。正面と出口とに<ruby><rb>相対峙</rb><rt>あいたいじ</rt></ruby>して、パッパッパッと真紅な焔が物凄く<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いた。猛烈な射撃戦が始まったのだ。

警官隊は<ruby><rb>銃丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を浴びながら、ひるまず屈せず、勇敢に闘った。前方に火竜が火を噴いているような真赤な火の塊の陰に痣蟹がいる筈だった。それを目標に、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>の続くかぎり覘いうった。ときどき警官たちは胸のあたりを丸太ン棒で<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけられたように感じた。それは防弾衣に痣蟹の放った銃丸が命中したときのことだった。防弾チョッキがなかったら、彼等はとうの昔に、全身蜂の巣のように穴が明いてしまったであろう。

だが軽機関銃の偉力は素晴らしかった。物凄い速さで飛びだしてくる銃丸は、大部分防弾衣で防ぎとめられはしたものの、だんだんに防弾鋼の当っていない<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めたり手首に流れ当ったりして、さすがの警官隊もすこしひるみ始めた。<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の陰から、眼ばかり出してこの猛烈な暗黒中の射撃戦を凝視していた雁金検事や大江山捜査課長などの首脳部一行は、早くも味方の旗色の悪いのを見てとった。

「大江山君、この<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ」

「突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません」

「でもこのままでは……」と検事は悲痛な言葉をのんだ。

と、そのときだった。誰か、検事の腕をひっぱる者があった。

「雁金さん、雁金さん――」

「おう、誰だッ」

「落付いて下さいよ、僕です。分りませんか」

「ナニ……そういう声は」

と雁金検事は相手の男の腕をグイと握ってひきよせて、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「――青竜王だナ」

青竜王！　それはかねて雁金検事の親友として名の高い覆面探偵青竜王だったのである。どうしたわけか、このところ十日ほど、所在の不明だった探偵王だった。彼のところへやった通信が届いて、このキャバレーへやってきたものらしい。

青竜王は闇の中で雁金検事と何事かを<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で囁きあった。その<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、話がすんだと見えて、

「じゃ、しっかり頼むぞ」

という検事の激励の言葉とともに、青竜王はコソコソとまた闇の中に紛れこんでしまった。――検事はこんどは大江山課長を引きよせると、何かを耳打ちした。

「よろしい。命令しましょう」

課長はそういって、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の陰から<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いだした。彼は<ruby><rb>銃丸</rb><rt>たま</rt></ruby>の中をくぐりぬけながら、力戦している警官隊の方へ進んでいった。

間もなく何か号令が発せられて、武装警官隊の射撃は更に猛烈になった。天井から何かガラガラと<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちてくる物凄い音がした。

「<ruby><rb>前面</rb><rt>まえ</rt></ruby>を注視していろ！」

隊長が叫んでいる――

と、正面に怪物のように火を吐いていた痣蟹の軽機関銃が、どうしたものか急に目標を変えた。ダダダダダッと<ruby><rb>銃丸</rb><rt>たま</rt></ruby>は天井に向けられ、シャンデリアに当って、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の砕片がバラバラと墜ちてきた。

「おや？」と思う間もなく、ワッという悲鳴が聞えて、いままで<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りつづけていた機関銃の音がハタと停った。そしてドサリという重い機械が床上に叩きつけられる音がした。――これは勇敢な青竜王が、ひそかに痣蟹の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にまわり、機関銃を叩き落したのだった。痣蟹は正面から警察隊の猛射を受けていたので、その撃退に夢中になっていたところをやっつけられたのであった。しかし本当は警官隊は猛射をしていたことに違いないけれど、天井ばかり撃っていたのであった。それは突入した青竜王に怪我をさせることなく、しかも痣蟹を<ruby><rb>牽制</rb><rt>けんせい</rt></ruby>するためだった。すべては名探偵青竜王の策戦だったのである。

気味のわるい機関銃の響がハタと停った。警官隊の激しい銃声もいつの間にか<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>んでいた。暗黒の室内は、ほんの数秒であったが、一転して墓場のような静寂が訪れた。

「灯りを、灯りを……」

青竜王の呶鳴る声がした。

それッというので、室内の電灯スイッチをひねったが、カチリと音がしただけで、電灯はつかなかった。警官たちは懐中電灯を探ったが、いまの騒ぎのうちに壊れてしまったものが多かった。それでも二つ三つの<ruby><rb>光芒</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>が、暗黒の室内を<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ただしく<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたが、青竜王に近づいたと思う間もなく、ピシンと叩き消されてしまった。暗黒のなかには、物凄い<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り声を交えて、不気味な格闘が行われていることだけが分った。

警官隊は、倒れた卓子や、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げ<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>っているキャバレーの客たちを踏み越え掻き分けて、呻り声のする方へ近づいていった。が、また捲き起る混乱のために、その呻り声がどこかへ行ってしまった。

「どこにいるのだ、青竜王！」

「青竜王、声を出して下さーい！」

雁金検事たちは、大声で探偵の名を呼んだが、その応答は聞こえなかった。

「オーイ皆、ちょっと静かにせんかッ」

大江山課長が<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>れ<ruby><rb>鐘</rb><rt>がね</rt></ruby>のような声で呶鳴った。

その声が皆の耳に達したものか、一座はシーンとした。

「オイ、青竜王、どこにいるのだッ」

検事は暗黒の中に再び呼んだ。――

だが、誰も<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるものはなかった。一同は闇の中に高く<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>のうつ<ruby><rb>銘々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の心臓を感じた。

（どうしたのだろう？）

そのとき正面と思われる方向の闇の中から軽い口笛の音が聞えだした。

「あたしの大好きな

真紅な苺の実

とうとう見付かった

おお――

あなたの胸の中……」

ああ、いま流行の『赤い苺の実』の歌だ。竜宮劇場のプリ・マドンナ赤星ジュリアの得意の歌だった。――

「こら、誰だ。――」と大江山課長は叫んだ。「こんなときに<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>に口笛を吹く奴は、あとで厳罰に処するぞ」

呑気な口笛――と捜査課長は云ったけれど、それは決して呑気とは響かなかった。なぜなら口笛は、警官の制止の声にも応じないで、平然と吹き鳴っていた。墓場のような暗黒と静寂の中に……。

「こら、<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めんか。止めないと――」

と大江山課長が火のようになって暗がりの中を進みいでたとき、<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッという間もなく、足許に転がっている大きなものに突当り、イヤというほど足首をねじった。その途端に、足許に転がっていたものが解けるようにムクムクと起き上って、激しい怒声と共に格闘を始めたから、捜査課長は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>してハッと<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ下った。

「青竜王はここにいるぞッ」と格闘の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>の中から思いがけない声が聞えた。

「なにッ」

「痣蟹を早く<ruby><rb>押</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて――」

雁金検事はその声に活路を見出した。

「明りだ、明りだ。明りを早く持ってこい」出口の方から、やっと<ruby><rb>手提電灯</rb><rt>てさげでんとう</rt></ruby>が二つ三つ入ってきた。

「そっちだ、そっちだ」

すると正面の太い円柱のあたりで、ひどく物の衝突する音が聞えた。それから獣のような怒号が聞えた。

「<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えた捕えた。明りを早く早く」

それッというので、手提電灯が束になって飛んでいった。

「痣蟹、もう観念しろッ」

まだバタバタと格闘の音が聞えた。するとそのときどうした調子だったか、室内の電灯がパッと点いた。射撃戦に被害をのがれた半数ほどの電灯が一時に明るく点いた。――人々は悪夢から醒めたようにお互いの顔を見合わせた。

「痣蟹はここにいますぞオ」

それは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、暗闇の中に響いていた青竜王の声に違いなかった。警官隊もキャバレーの客も、言いあわせたようにサッとその声のする方をふり向いた。おお、それこそ覆面の名探偵青竜王なのだ。

「とうとう<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>えたかね」

と検事は<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びの声をあげて、青竜王に近づいた。

「青竜王！」

人々はそこで始めて、覆面の名探偵を見たのであった。彼はスラリとした長身で、その骨組はまるでシェパードのように<ruby><rb>剽悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>に見えた。ただ彼はいつものように眼から下の半面を覆面し、鳥打帽の下からギョロリと光る二つの眼だけを見せていた。

「さあこの柱の根元をごらんなさい。ここに見えるのが痣蟹の左足です。またこっちに<ruby><rb>挟</rb><rt>はさま</rt></ruby>っているのが彼の黄色い皮製の服です。始め痣蟹は、人知れずこの仕掛けのある柱から忍び出たのですが、いま再びこの仕掛け柱へ飛びこんでここから逃げようとしたのが運の尽きで、自ら廻転柱に挟まれてしまったんです。もう大丈夫です」

なるほどこの円柱は廻転するらしく、<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>せ<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>があった。そして根元に近く、黄色い皮服と、変な形の左足の靴とがピョンと<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>みだしていた。

大江山捜査課長は飛びあがるほど悦んだ。

「さあ、早くあの足を持って、痣蟹を引張りだせ！」

と命令した。

<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の警官たちはワッとばかりに柱の方へ飛びつくと、痣蟹の足を持ってエンヤエンヤと引張った。また別の警官は、黄色い皮服を引張った。――だが暫くすると、警官たちは云いあわせたように、<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッと悲鳴をあげると、将棋だおしに、<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へひっくりかえった。そして彼等の頭上に、途中から切断した皮服と左の長靴とがクルクルと廻ったかと思うと、ドッと下に落ちてきた。

「なアんだ、服と靴とだけじゃないか」

と捜査課長は叫んだ。

「ウーム」

と<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の覆面探偵も呻った。痣蟹に一杯喰わされたという形であった。

そのときであった。警官の一人が、顔色をかえて、捜査課長の前にとんできた。

「た、大変です、課長さん、あの舞台横の柱の陰に、一人のお客が殺されています」

「なんだ、いまの機関銃か<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>でやられたのだろう」

「そうじゃありません。その方の怪我人は片づけましたが、私の発見したそのお客の屍体は<ruby><rb>惨</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしく咽喉笛を喰い破られています。きっとこれは、例の吸血鬼にやられたんです。そうに違いありません」

「ナニ、吸血鬼にやられた死骸が発見されたというのか」

「そういえば、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>暗闇の中で『赤い苺の実』の口笛を吹いていたものがあった……」

人々は驚きのあまり顔を<ruby><rb>見合</rb><rt>みあわ</rt></ruby>せるばかりだった。

果してこれは痣蟹の仕業だろうか。それなれば検察官や覆面探偵はまんまとここまで<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>きだされたばかりでなく、吸血の屍体をもって、<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っても拭い切れない侮辱を与えられたわけだった。

自分は吸血鬼でないという痣蟹の宣言が本当か、それとも今夜のこの惨劇が、皮肉な自白なのであろうか。

赤星ジュリアは無事に引きあげたろうか。覆面の名探偵青竜王は<ruby><rb>雪辱</rb><rt>せつじょく</rt></ruby>の決意に燃えて、いかなる活躍を始めようとするのか。

そのうちに、どこからともなく、あの「恐怖の口笛」が響いてくるような気配がする。

吸血鬼の正体は、そも何者ぞ！

怪しい<ruby><rb>図面</rb><rt>ずめん</rt></ruby>

大胆不敵の<ruby><rb>兇賊</rb><rt>きょうぞく</rt></ruby><ruby><rb>痣蟹仙斎</rb><rt>あざがにせんさい</rt></ruby>が隠れ柱の中に逃げこもうとするのを、素早く覆面探偵青竜王がムズと<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>えたと思ったが、引張りだしてみると何のこと、痣蟹の左足の長靴と、そして洋服の裂けた一部とだけで痣蟹の身体はそこに見当らなかったではないか。これには痣蟹<ruby><rb>就縛</rb><rt>しゅうばく</rt></ruby>に<ruby><rb>大悦</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びだった雁金検事や大江山捜査課長をはじめ検察官一行は、網の中の大魚を逃がしたように落胆した。

しかし痣蟹はまだそんなに遠くには逃げていない筈だった。総指揮官の雁金検事は<ruby><rb>逡</rb><rt>たじ</rt></ruby>ろぐ気色もなく直ちに現場附近の捜査を命じたのだった。警官隊はキャバレー・エトワールの屋外と屋内、それから痣蟹の逃げこんだ隠れ柱との三方に分れて、懸命の大捜査を始めたのだった。

「おお、青竜王は何処へいったのか」

と、雁金検事は始めて気がついた様子で左右を見廻わした。

「青竜王？」

検事につきそっていた首脳部の人たちも同じように左右を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みた。だが彼の姿はどこにも見えなかった。

「さっきまでその辺にいたんだが、見えませんよ」と大江山課長は云った。

「また何処かへとびだしていったんだろう」

「イヤ雁金検事どの」課長は改まった口調で呼びかけた。「<ruby><rb>貴官</rb><rt>あなた</rt></ruby>はあの青竜王のことをたいへん信用していらっしゃるようですが、私はどうもそれが分りかねるんです」

と、暗に覆面探偵を疑っているらしいような口ぶりを示した。

「はッはッはッ。あの男なら大丈夫だよ」

「そうですかしら。――そう<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るなら申しますが、さっき暗闇の格闘中のことですが、いくら呼んでも返事をしなかったですよ。そして唯、あの『赤い苺の実』の口笛が聞えてきました。それから暫くすると、急に青竜王の声で（痣蟹はここにいますぞオ）と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きだしたではありませんか。その<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>、彼は何をしていたのでしょう。なにしろ暗闇の中です。何をしたって分りゃしません」

人殺しだって出来るとも云いかねない課長の言葉つきだった。

「あれは君、青竜王のやつが痣蟹に組み敷かれていたんで、それで声が出せなかったのだろう。それをやッと跳ねかえすことが出来て、それで始めて喚いたのだと思うよ」

「そうですかねえ。――第一私は青竜王のあの覆面が気に入らないのです。向こうも取ると都合が悪いのでしょうが、私たちは捜査中気になって仕方がありません。あの覆面をとらない間、青竜王のやることは何ごとによらず信用ができないとさえ思っているのです」

「それは君、思いすぎだと思うネ」

と検事は困ったような顔をして大江山捜査課長の顔を見た。

「ですから私は――」と課長は勝手に先を<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>った。「あの柱に服の裂けた一片と靴とが挟まっていましたが、あれは痣蟹が逃げこんだのではなくて、<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め痣蟹が用意しておいた二つを柱に挟んで、その中へ逃げたものと見せかけ、自分は覆面をして誰に見られても解るその痣を隠し、青竜王だと云っているかもしれないと思うのです」

「はッはッはッ。君は青竜王が覆面をとれば痣蟹だというのだネ。いやそれは面白い。はッはッはッ」

「私は何事でも、疑わしいものは証拠を見ないと安心しないのです。またそれで今日捜査課長の席を汚さないでいるんですから……」

「じゃ仕方がないよ。僕の身元引受けが役に立たぬと思ったら遠慮なく彼の覆面を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>してみたまえ、僕は一向構わないから」

「イヤそういうわけではありませんが……。しかし今夜はもう青竜王は出て来ませんよ。彼は逃げだせば、それでもう目的を達したんですから」

<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>は捜査課長だけあって、誰も考えつかないような疑点を示したのだった。だがそのときだった。例の隠れ柱が音もなくパックリと口を開き、その中から飛びだしてきたのが誰あろう、覆面の探偵だったから、気の毒な次第だった。

「うむ――」

と捜査課長は驚きのあまり、思わず<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った。

青竜王は検事たちの姿をみつけると、ズカズカと走りよった。

「雁金さん。痣蟹の逃げ路が、とうとう分りましたよ。このキャバレーの<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の下を通って、地階の物置の中へ抜けられるんです。そこからはすぐ表へとびだせます。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の号令がうまくいっていないのか、その物置の前には警官が一名も立っていないので、うまく逃げられた形ですよ」

「ナニこの柱から物置へ抜けて、表へ逃げちまったって」

検事は<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら大江山課長の方を向いて「そんな逃げ路のあることを何故前もって調べておかなかったのかネ、君。<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>キャバレーの主人を呼んできたまえ」

「はア――」

課長は面目ない顔をして、部下にキャバレーの主人を引張ってくることを命じた。

間もなく、奥から身体の大きなキチンとしたタキシードをつけた男が現れた。彼はどことなく日本人離れがしていた。それも道理だった。彼はオトー・ポントスと名乗るギリシア人だったから。

「わたくし、ここの主人、オトーでございます。――」

西洋人の年齢はよくわからないが、見たところ三十を二つ三つ過ぎたと思われるオトー・ポントスはニコやかに<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み<ruby><rb>手</rb><rt>で</rt></ruby>をしながら、六尺に近い巨体をちょっと<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。

「君が主人かネ」と検事はすこし<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの色を示しながら「怪しからん構造物があるじゃないか。この<ruby><rb>円柱</rb><rt>まるばしら</rt></ruby>が二つに割れたり、それから中に階段があったり、物置に抜けられたり、一体これは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる目的かネ」

「それはわたくし、知りません。この仕掛はこの建物をわたくし買った前から有りました」

「ナニ前からこの仕掛があった？　誰から買ったのかネ」

「ブローカーから買いました。ブローカーの名前、<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>えてありますから、お知らせします」

「うむ、大江山君。そのブローカーを調べて、本当の持ち主をつきとめるんだ。――それはいいとして何故こんな抜け路をそのままにして置いたのかネ。何故痣蟹に知らせて、利用させたのだ」

「わたくし痣蟹と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶミスター<ruby><rb>北見仙斎</rb><rt>きたみせんさい</rt></ruby>を信用していました。あの人、わたくし<ruby><rb>故国</rb><rt>くに</rt></ruby>ギリシアから信用ある紹介状もってきました」

「ギリシアから紹介状をもってきたって。ほほう、痣蟹はギリシアに隠れていたんだな。イヤよろしい。君にはゆっくり話を聞くことにしよう。しかしもし痣蟹から電話でも手紙でも来たら、すぐ本庁へ知らせるのだ。いいかネ。忘れてはいけない」

「よく分りました」

そこでオトー・ポントスはまた<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しげに敬礼をして<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>ろうとしたとき、

「ああ、ちょっと待って下さい」

と声を掛けた者があった。それは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から痣蟹の<ruby><rb>遺留</rb><rt>いりゅう</rt></ruby>した品物をひねくりながら、この場の話に耳を傾けていた<ruby><rb>覆面探偵</rb><rt>ふくめんたんてい</rt></ruby><ruby><rb>青竜王</rb><rt>せいりゅうおう</rt></ruby>だった。

「ポントスさん。これは貴方のものではありませんかネ」

といって、青竜王は何か小さい<ruby><rb>紙片</rb><rt>しへん</rt></ruby>を見せた。キャバレーの主人はそれを手にとってみたが、それは何か建築図の断片らしく、<ruby><rb>壁体</rb><rt>へきたい</rt></ruby>だの階段だの奇妙な<ruby><rb>小室</rb><rt>しょうしつ</rt></ruby>だのの符合が並んでいたが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>ごく<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の方だけを切取ったものらしく、何を示してある図か、この<ruby><rb>断片</rb><rt>だんぺん</rt></ruby>だけでは分らなかった。

「これ、何ですか。とにかく、わたくしのでは有りません」

ポントスは<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちぬ顔をして、紙片を青竜王に返した。

「もう一つ、お尋ねしますが、赤星ジュリアは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ここへ来たのが始めてですか」

「いえ、たびたび来て、歌わせました。もう七、八回も頼みました」

「たいへん<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>のようですね」

「そうです。ジュリア歌う――お客さま悦びます。わたくしも悦びます。なかなかよい<ruby><rb>金儲</rb><rt>かねもう</rt></ruby>けできますから、はッはッはッ」

ポントスは露骨な笑いを残して出てゆくと、大江山捜査課長は青竜王の腕をムズと<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。

「いまの建築図のようなものを出し給え。君はそれを<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にどこから手に入れたんだい」

青竜王は課長の手を静かに払いながら、

「これですか。これを御存知なかったんですネ。なアに、痣蟹の裂けた洋服の裏に縫いつけてあったんですよ」と事もなげに云うと、その紙片を恭しく差し出しながら「では確かに貴方様にお手渡しいたしますよ」

不可解なる紙片！　一体それはいかなる秘密を物語るものであろうか。

消えた<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>

何のためか十日間あまり、事務所を留守にしていた青竜王は、キャバレー・エトワール事件の次の日の昼ごろ、ブラリと探偵事務所に姿を現わしたのだった。覆面探偵の<ruby><rb>帰還</rb><rt>きかん</rt></ruby>！

その<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>を知って、奥から飛ぶように出て来たのは勇敢な少年探偵勇だった。

「ああ。<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>。――僕は今日きっと<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>が帰って来ると思ったんです」

といって、<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby>も変らず頭部にはピッタリ合った黒い<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、眼から下を<ruby><rb>三角帛</rb><rt>さんかくぎぬ</rt></ruby>で隠した覆面探偵を迎えたのだった。探偵は少年の肩を両手で優しく叩いた。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、素敵でしたネ。だけど、もう僕たちを呼んで下さるかと思っていたのに、ちっとも呼んで下さらないので、ガッカリしちゃった」

「勇君も大辻も来ていたのは知っていたが、昨夜の事件は危くて、手伝わせたくなかったのだよ」

「その代り僕は、いろいろな<ruby><rb>土産話</rb><rt>みやげばなし</rt></ruby>を<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>にあげるつもりですよ。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>舞台下で殺された男ネ、あれは竜宮劇場に毎日のように通っていた<ruby><rb>小室静也</rb><rt>こむろしずや</rt></ruby>という<ruby><rb>伊達男</rb><rt>だておとこ</rt></ruby>ですよ。いつも舞台に一番近いところにいて、ジュリアが出ると誰よりも先にパチパチ拍手を送るイヤナ奴ですよ。あの男のことは、竜宮劇場のファンなら誰でも知っていますよ」

「ああ、そうだったのか。それはいいことを聞いた」

「あの伊達男小室の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>にあった<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い切傷も、この前、日比谷公園で殺された学生の咽喉の傷も、どっちも同じことですね。つまりどっちも<ruby><rb>吸血鬼</rb><rt>きゅうけつき</rt></ruby>がやったんですよ」

「うむ」と青竜王はちょっと眼を輝やかせたが、すぐ元の<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい彼に帰った。「そうだ、その日比谷公園の話を詳しく君にして貰おうかな」

そこで勇少年は、<ruby><rb>前日</rb><rt>ぜんじつ</rt></ruby><ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の日比谷公園でみた<ruby><rb>惨劇</rb><rt>さんげき</rt></ruby>について知っていることをすべて語った。青龍王は<ruby><rb>曲</rb><rt>まが</rt></ruby>ったパイプで<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>み<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をうまそうに吸いながらじっとそれに耳を傾けていた。

「すると勇君の説によると、はじめ<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>の陰で恋人の少女と楽しく語っていた。その話<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばに、少女は何か用事ができて、学生を残したまま出ていった。吸血鬼は学生が<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りになったところを<ruby><rb>見澄</rb><rt>みす</rt></ruby>まして、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から咽喉を絞め、つづいて咽喉笛をザクリとやって血を吸ったというのだネ」

「その通りですよ、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>」

「それから、その恋人の少女は現場へ帰って来たかネ」

「いいえ」勇少年は頭を振って「僕はそれを考えて、長いこと待っていたんだけれど、とうとう帰って来なかったんです」

「それは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいネ。今の話なら、必ず帰って来る筈だと思うがネ。外に恋人らしい女は誰も通らなかったのかい」

「ええ、そうですよ」と勇は<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えたが、そのとき急に気がついた様子で「アッ、そういえば赤星ジュリアが近よってきたことは来たんです。でもあの人は、自動車で通りかかったんだといっていましたよ。それから自動車の中から出て来なかったけれど、ジュリアの友達の<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>も<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まできました。でもいくらなんでもこの二人が……」

「でもこの二人の外に誰も少女は帰って来なかったんだろう。一応そこを考えてみなくちゃいけない。それに<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の話では、四郎――イヤその学生の日記帳の数十<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>が、いつの間にか破られていたというし……」

「そのことは大辻さんがたいへん怒っていますよ。どうしても二人に尋ねるんだといって、今日出かけていったんです」

「ジュリアの<ruby><rb>耳飾</rb><rt>みみかざり</rt></ruby>右の方のはチャンとしていたけれど、左のは石が見えなくて<ruby><rb>金環</rb><rt>きんかん</rt></ruby>だけが<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぼ</rt></ruby>についていたというのは面白い発見だネ」

「僕は耳飾から落ちた石が、もしや吸血鬼の潜んでいた<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>に落ちていないかと思って探したんだけれど、見付からなかった。それからジュリアの歩いたと思う場所をすっかり探してみたんだけれど、やはり見付からなかった。それでジュリアの耳飾の青い石は、あの辺で落したものじゃないということが分ったんですよ。<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>」

少年はそういって、眼をパチパチ<ruby><rb>瞬</rb><rt>まばた</rt></ruby>いた。青竜王はパイプから盛んに<ruby><rb>紫煙</rb><rt>しえん</rt></ruby>を吸いつけていたが、やがて少年の方に向き直り、

「君は少年の屍体の辺もよく探してみたかネ」

「もちろん懐中電灯で探したんだけれど、<ruby><rb>何遍</rb><rt>なんべん</rt></ruby>やってみても見つからなかったんです」

「ほう、そうかネ」

少年は青竜王の顔をしげしげ見ていたが「まさか<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>は赤星ジュリアたちを怪しんでいるのじゃないでしょうネ」

青竜王はそれに応えようともせず、いつまでも黙ってパイプを吸いつづけていた。

そのとき卓上電話のベルがリリリンと<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく鳴り響いた。勇少年が受話器をとりあげて出てみると、向うは赤星ジュリアを<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねていった筈の大辻の声だった。

「ナニ丸ノ内で大騒ぎが始まったって？　<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>が帰っていられるから、いま代るから待っているんだよ」

といって、受話器を譲った。

青竜王はうむうむと聴いていたが、やがて電話を切った。

「どうしたんです、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>」

「なアに、痣蟹が竜宮劇場の裏口を通っていたのを発見して、また警官隊と<ruby><rb>銃火</rb><rt>じゅうか</rt></ruby>を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えたのだそうだ。痣蟹はとうとう逃げてしまったので、<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れ<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けだ。しかし痣蟹は竜宮劇場の外を歩いていたのか、それとも中から出て来たのか分らないそうだ」

竜宮劇場というと、誰でもすぐジュリアを思いうかべる、やはりジュリアは事件に関係があるのだろうか。

「でも変ですね。痣蟹はあの恐ろしい横顔を知られずに、どうして<ruby><rb>昼日中</rb><rt>ひるひなか</rt></ruby>歩いていられたのでしょう」

「ウン痣蟹は田舎者のような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をして、トランクを肩にかついで、たくみに痣をかくしていたそうだ」

「なるほど、うまいことを考えたなア。はははは」

「大辻はジュリアに会って日記帳のことを聞いたが、あたしは知りませんといわれたそうだ、まずいネ」

青竜王は自室に入ると、それから夕方までグッスリと睡った。

夕飯ができた頃、勇少年がベルを押すと、青竜王は起き出してきた。<ruby><rb>依然</rb><rt>いぜん</rt></ruby>たる覆面のため、顔色は<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うよしもないが、動作は明かに元気づいてみえた。そして大辻も加わって久し振りで三人が揃って食卓についた。しかし探偵談は一切ぬきであった。それが青竜王の日頃のお<ruby><rb>達</rb><rt>たっ</rt></ruby>しであったから。――夕飯が<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>むと、青竜王は行先も云わずブラリと事務所を出ていった。

痣蟹はどこへ逃げてしまったろう。いま<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に隠れているのだろう。覆面探偵青竜王は<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべき吸血鬼事件に対しいまや本格的に立ち向う<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>をみせている。彼の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>はいずれこの事件に関係のある方面であろうということは<ruby><rb>改</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うまでもあるまい。だがその行先は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>秘中</rb><rt>ひちゅう</rt></ruby>の秘として<ruby><rb>預</rb><rt>あずか</rt></ruby>ることとし、その<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>、大学の法医学教室に起った怪事件について述べるのが順序であろう。

―――――――――――――――

宏大な大学の構内は、森林に囲まれて静寂そのものであった。殊にこれは夜更の十二時のことであった。<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>がときどきホウホウと<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に鳴いて、まるで墓場のように無気味であった。<ruby><rb>木造</rb><rt>もくぞう</rt></ruby>の背の高い古ぼけた各教室は、納骨堂が化けているようであった。そしてどの窓も真暗であった。ただ一つ、消し忘れたかのように、また魔物の眼玉のように、黄色い光が窓から<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れている建物があった。それは法医学教室の<ruby><rb>解剖室</rb><rt>かいぼうしつ</rt></ruby>から洩れてくる光だった。

近づいてみても、カーテンが深く下ろしてあるので窓の中にはなにがあるのやら、様子が分らなかった。ただ<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>とした夜の幕を破ってときどきガチャリという金属の<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れあう音が聞えた。その<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい物音が、室内に今起りつつある光景をハッキリ物語っているのだった。

そこは<ruby><rb>馬蹄形</rb><rt>ばていがた</rt></ruby>の急な階段式机が何重にも高く<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている教室であった。中央の大きな黒板に向いあって、真白な解剖台がポツンと置かれてあった。その傍にはもう一つ小さい台があって、キラキラ光る大小さまざまのメスが並んでいた。解剖台の上には<ruby><rb>白蝋</rb><rt>はくろう</rt></ruby>のような屍体が横たわっているが、身長から云ってどうやら少年のものらしい。それを<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>んで二人の人物が、熱心に頭と頭とをつきあわさんばかりにしていた。一人は白い手術着を着て、メスだの<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>だのを取りあげ、屍体の<ruby><rb>咽喉部</rb><rt>いんこうぶ</rt></ruby>を<ruby><rb>切開</rb><rt>せっかい</rt></ruby>していた。もう一人は<ruby><rb>白面</rb><rt>はくめん</rt></ruby>の青年で、形のよい背広に身を包んでいた。この手術者は法医学教室の<ruby><rb>蝋山</rb><rt>ろうやま</rt></ruby>教授、白面の青年は西一郎と名乗る男だった。そこまで云えば、台の上に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>った屍体が、吸血鬼に<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt></ruby>まれた第一の犠牲者である西四郎のものだということが分るであろう。

「どうも<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>は功を急いでいかんネ」と蝋山教授がいった。「やはりこうして咽喉から<ruby><rb>胸部</rb><rt>きょうぶ</rt></ruby>を切開して食道から気管までを取出し、<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の方から充分注意して調べてゆかなけりゃ間違いが起る<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるのだ。急がば廻れの<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>どおりだて」

「時間のことは覚悟をしてきました。今夜は徹夜しても<ruby><rb>拝見</rb><rt>はいけん</rt></ruby>します」

「うん。時刻はこれから午前二時ごろまでが一番油の乗るときだ。君の時刻の選択はよかったよ。しかしいくら弟の屍体かは知らぬが、君は熱心だねえ。もしここから上にあるものならば、必ず君の目的のものを発見してあげるから安心するがいい。イヤどうも<ruby><rb>皮下脂肪</rb><rt>ひかしぼう</rt></ruby>が発達しているので、メスを使うのに骨が折れる。こんなことなら電気メスを持ってくるんだった……」

といっているとき、ジジジーンと、壁にかけてある大きなベルが鳴りひびいた。それはあまりに突然のことだったので、教授は、

「ややッ――」

とその場に飛び上ったほどだった。

「何でしょう、いまごろ？」

「ハテナ誰か来たのかな。この夜更に変だなア」と教授は頭を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。

そのとき、またベルがジジジーンと、喧しく鳴った。

「ちょっと見て来よう」

と教授はメスを下に置くと、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をあけて廊下へ出ていった。廊下は長かった。<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く入口のところへ出て、パッと電灯をつけた。

「誰だな。――」

と叫んだが、何の声もしない。

「誰だな。――」

そういって<ruby><rb>硝子越</rb><rt>ガラスご</rt></ruby>しに、暗い外を透してみていた教授は、何に<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたか、

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、これはいかん」といってその場に<ruby><rb>尻餅</rb><rt>しりもち</rt></ruby>をつくと、大声に西一郎を呼んだ。

その声はたしかに解剖室に聞えた筈だったけれど、西はどうしたのか、なかなか出て来なかった。蝋山教授は<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに恐怖のドン底に落ちて、急に口が出なくなって、手足をバタバタするだけだった。

「どうしたんです、先生！」

元気な声が奥から聞えると、やっと西一郎が駈けつけた。西にやっと聞えたらしい。

「いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りがわるいけれど……」

「ナニ怪しい奴ですって？」

一郎は勇敢にも<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>のところへ出て、暗い<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。しかし彼には別に何の怪しい者の姿も映らなかった。教授はきっと何かの幻影をみたのだろうということにして、彼は教授を<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>き<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>して、肩に<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えた。

「あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ」

「いえなに……」

「なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を<ruby><rb>犯</rb><rt>おか</rt></ruby>すと承知しないよ」

一郎は口だけは達者な教授をしっかり<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで廊下を元の解剖室の方へ歩いていった。

「おや、変だぞ」と一郎は叫んだ。

「なにが変だ」と教授は一郎の<ruby><rb>胸倉</rb><rt>むなぐら</rt></ruby>をとったが「うん、これは可笑しい。教室の<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が消えている。君が消したのか」

「いえ、僕じゃありません。僕は消しません。これは変なことだらけだから、静かに行ってみましょう。声を出さんで下さい。いいですか」

二人は静かに戸口に近づいた。そしてじっと真黒な室内を覗きこんだ。二人はもうすこしで、呀ッと声をたてるところだった。誰か分らぬが、解剖台の上を懐中電灯で照らしている者があった。が、それはすぐ消えて、室内はまた<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>の中に沈んだ。その代り、なにか重いものを<ruby><rb>引擦</rb><rt>ひきず</rt></ruby>るようにゴソリゴソリという気味のわるい音がした。

一郎は教授に耳うちして、室内の電灯のスイッチの<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。それは室を入ったすぐの壁にとりつけてあるということだった。彼は教授の<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めるのも聞かず、<ruby><rb>勇躍</rb><rt>ゆうやく</rt></ruby>飛んで出ると、スイッチを<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>の中に<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>ってパッと<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけた。たちまち<ruby><rb>室内</rb><rt>しつない</rt></ruby>は昼を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>くように<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>たる光にみちた。

「呀ッ、怪しい奴がッ！」

見ると黒板の左手にあたる窓が開いて、そこに一人の男が片足かけて逃げだそうとしていた。

「待てッ！」

と声をかけると、かの怪漢はクルリと室内に向き直った。ああ、その恐ろしい顔！　左の頬の上にアリアリと<ruby><rb>大痣</rb><rt>おおあざ</rt></ruby>のような形の物が現れていた。

「ああ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>だッ」

一郎はそう叫ぶと、なおも<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>って怪漢に飛びつこうとする蝋山教授の腰を<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>さえて、教壇の陰にひきずりこんだ。

ダダーン。

<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる銃声が聞えたと思うよりも早く、ピューッと<ruby><rb>銃丸</rb><rt>たま</rt></ruby>が二人の<ruby><rb>耳許</rb><rt>みみもと</rt></ruby>を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて、廊下の奥の硝子窓をガチャーンと破壊した。一郎の<ruby><rb>措置</rb><rt>そち</rt></ruby>がもう一秒遅かったとしたら、教授の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>には孔があいていたかもしれない。

それから五分間――二人は<ruby><rb>鮑</rb><rt>あわび</rt></ruby>のように固くなって、教壇の陰に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいた。もうよかろうというので<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>る<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>る頭をあげて窓の方をみると、窓は明け放しになったままで、もう怪漢の姿がなかった。ホッと息をついた蝋山教授は、このとき眼を解剖台の上に移して<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>とした。

「やられたッ。――屍体がなくなっている！」

なるほど、解剖台の上には屍体の<ruby><rb>覆布</rb><rt>おおい</rt></ruby>があるばかりで、さっきまで有った筈の屍体が影も形もなくなっていた。

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>が盗んでいったんですよ、ホラ御覧なさい」と一郎は<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>しながら「屍体を<ruby><rb>曳擦</rb><rt>ひきず</rt></ruby>っていった跡が窓のところまでついていますよ。屍体を窓から<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだして置いて、それから彼奴が窓を乗越えて逃げたんです」

「うん、違いない。早く追い駆けてくれたまえ」

「もう駄目ですよ。逃げてしまって……」

「何を云っているんだ。君の弟の屍体なんじゃないか」

「追いついても、ピストルで<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>たれるのが落ちですよ。それよりも<ruby><rb>警視庁</rb><rt>けいしちょう</rt></ruby>へ電話をかけましょう」

「君のような弱虫の若者には始めて会ったよ。駄目な奴だ」

教授はいつまでもブツブツ怒っていた。

昼間丸ノ内を<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>していた痣蟹が、<ruby><rb>深更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>になってなぜ屍体を盗んでいったのだろう。一郎はなぜ弟の屍体を追わなかったのだろう。果して彼は弱虫だったろうか。

<ruby><rb>麗</rb><rt>うる</rt></ruby>わしき<ruby><rb>歌姫</rb><rt>うたひめ</rt></ruby>

その翌日のこと、西一郎はブラリと丸ノ内に姿を現わした。そして開演中の竜宮劇場の<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>へノコノコと入っていった。赤星ジュリアの主演する「赤い<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>」が評判とみえて、真昼から観客はいっぱい詰めかけていた。いま<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、休憩時間であるが、散歩廊下にも喫煙室にも食堂にも、「赤い苺の実」の<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディ</rt></ruby>を口笛や足調子で<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>として追っている手合が<ruby><rb>充満</rb><rt>じゅうまん</rt></ruby>していた。これが流行とはいえ、実に恐るべき旋律であった。

「まア西さん、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くネ――」

とジュリアは一郎を快く迎えた。

「イヤ<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>、僕のお願いを聞きとどけて下すって有難うございます。これで僕も<ruby><rb>失業者</rb><rt>しつぎょうしゃ</rt></ruby>の仲間から浮び上ることができます」

一郎はジュリアに頼んで、レビュウ団の<ruby><rb>座員見習</rb><rt>ざいんみならい</rt></ruby>として採用してもらうこととなったのであった。彼は長身の好男子だったし、それに音楽にも<ruby><rb>素養</rb><rt>そよう</rt></ruby>があるし、タップ・ダンスはことに好きで多少の<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>があったので、この思い切った就職をジュリアに頼んだわけだった。日頃<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な<ruby><rb>気性</rb><rt>きしょう</rt></ruby>の彼女だったが、弟を殺された一郎に同情したものか、快くこの<ruby><rb>労</rb><rt>ろう</rt></ruby>をとって支配人の承諾を得させたのであった。

「あら、<ruby><rb>改</rb><rt>あらた</rt></ruby>まってお礼を<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>られると困るわ。――だけど勉強していただきたいわ、あたしが紹介した、その名誉のためにもネ」

「ええ、僕は<ruby><rb>気紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れ者で困るんですが、芸の方はしっかりやるつもりですよ」

「<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しいわ。早くうまくなって、あたしと組んで踊るようになっていただきたいわ」

「まさか――」

と一郎は笑ったが、ジュリアの方はどうしたのか笑いもせず、夢見るような瞳をジッと一郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>の上に<ruby><rb>濺</rb><rt>そそ</rt></ruby>いでいたが、暫くしてハッと吾れに帰ったらしく、始めてニッコリと<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

「ホ、ホ、ホ、ホ……」

一郎はジュリアの美しさを<ruby><rb>沁々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と見たような気がした。ただ美しいといったのではいけない、<ruby><rb>悩</rb><rt>なや</rt></ruby>ましい美しさというのは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>にジュリアの美しさのことだ。帝都に百万人のファンがあるというのも無理がなかった。一郎はいつか外国の名画集を<ruby><rb>繙</rb><rt>ひもと</rt></ruby>いていたことがあったが、その中にレオン・ペラウルの描いた「車に乗れるヴィーナス」という美しい絵のあったのを思い出した。それは<ruby><rb>波間</rb><rt>なみま</rt></ruby>に一台の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>づくりの車があって、その上に<ruby><rb>裸体</rb><rt>らたい</rt></ruby>の美の女神ヴィーナスが髪をくしけずりながら<ruby><rb>艶然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>と笑っているのであった。そのペラウルの描いたヴィーナスの<ruby><rb>悩</rb><rt>なやま</rt></ruby>しいまでの美しさを、この赤星ジュリアが持っているように感じた。それはどこか日本人ばなれのした異国風の美しさであった。ジュリアという<ruby><rb>洋風好</rb><rt>ようふうごの</rt></ruby>みの芸名がピッタリと似合う美しさを持っていた。

ジュリアは一郎のために受話器をとりあげて、支配人の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に電話をかけた。だが<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>支配人は、用事があってまだ劇場へ来ていないということだった。

「じゃここでお待ちにならない」

「ええ、待たせていただきましょう。その間に僕はジュリアさんにお<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>をさしあげたいと思うんですが――」

といって一郎はジュリアの顔をみた。

「お土産ですって。まア<ruby><rb>義理固</rb><rt>ぎりがた</rt></ruby>いのネ。――一体なにを下さるの」

「これですけれど――」

一郎はポケットから小さい<ruby><rb>紙箱</rb><rt>かみばこ</rt></ruby>をとりだして、ジュリアの前に置いた。

「あら、これは何ですの」

ジュリアは小箱をとって、蓋を明けた。そこには<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>な<ruby><rb>綿</rb><rt>わた</rt></ruby>の<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>いて、その上に青いエメラルドの宝石が一つ<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>っていた。

「これはッ――」

ジュリアの顔からサッと血の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>がなくなった。彼女はバネ仕掛けのように立ち上ると、入口のところへ飛んでいって、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>に背を向けると、クルリと一郎を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。

「あなたはあたしを……」

「ジュリアさん、誤解しちゃいけません。まあまあ落着いて、こっちへ来て下さい」

一郎はジュリアを元の席に坐らせたが、美しい女王は<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>に<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えていた。

「これは<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>耳飾</rb><rt>みみかざ</rt></ruby>りから落ちた石でしょう。これは僕が拾って持っていたのです、警官や探偵などに知れると<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんどう</rt></ruby>な品物です。お土産として、貴女にお返しします」

ジュリアは一郎に悪意のないのを認めたらしく、急いで青い宝石を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の中に握ってしまうと、激しい感情を<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>え切れなかったものか、ワッといって化粧机の上に泣き<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れた。それにしても一郎は落ちた耳飾の宝石を何時何処で拾って来たのだろう。

「ジュリアさん。云って聞かせて下さい。貴女は四郎と日比谷公園の<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>の陰で会っていたのでしょう」

「……」ジュリアは泣くのを<ruby><rb>停</rb><rt>や</rt></ruby>めた。

「僕はそれを察しています。つまり耳飾りの落ちていた場所から分ったのですが」

「これはどこに落ちていたのでしょう」とジュリアは顔をあげて叫んだ。

「それは四郎の倒れていた<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の中からです」

「嘘ですわ。あたしは<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>探したんですけれど、見当りませんでしたわ」

「それが土の中に入っていたのですよ。<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の人の靴に踏まれて入ったものでしょう」

「まあ、そうでしたの。……よかったわ」

それはすべて一郎の嘘だった。本当をいえば、彼は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、四郎の屍体からそれを発見したのだった。蝋山教授がベルの音を聞いて法医学教室の廊下へ出ていった<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に、一郎はかねて信じていたところを行ったのだった。彼は四郎の屍体の<ruby><rb>口腔</rb><rt>こうくう</rt></ruby>を開かせ、その中に手をグッとさし入れると咽喉の方まで<ruby><rb>探</rb><rt>さ</rt></ruby>ぐってみたのが、<ruby><rb>果然</rb><rt>かぜん</rt></ruby><ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りがあって、耳飾の宝石が出てきた。実は蝋山教授を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わして食道や気管を切開し、その宝石の<ruby><rb>有無</rb><rt>うむ</rt></ruby>をしらべるつもりだったけれど、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しいベルの音を聞くと、早くも<ruby><rb>切迫</rb><rt>せっぱく</rt></ruby>した事態を<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>り、<ruby><rb>荒療治</rb><rt>あらりょうじ</rt></ruby>ながら決行したところ、幸運にも宝石が<ruby><rb>指先</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>にかかったのであった。<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>にしては、まことに水ぎわ立った<ruby><rb>上出来</rb><rt>じょうでき</rt></ruby>の<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>だった。後から<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>して屍体を奪っていった痣蟹をみすみす見逃がしたのも、彼がこの耳飾りの宝石を手に入れた後だったから、その上危険な追跡をひかえたのであろうとも思われる。とにかくジュリアの耳飾の宝石は四郎の口腔から発見されたのだ。なぜそんなところに入っていたかは問題であるが、一郎がジュリアに発見の<ruby><rb>個所</rb><rt>かしょ</rt></ruby>をことさら<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>っているのは何故だろう。

「ジュリアさん。四郎は貴女に、誰からか<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>みをうけているようなことを云っていませんでしたか」

これでみると、一郎はやはり<ruby><rb>愛弟</rb><rt>あいてい</rt></ruby>四郎を<ruby><rb>殺害</rb><rt>さつがい</rt></ruby>した犯人を探しだそうとしているものらしい。

「ああ、一郎さん」とジュリアは苦しそうに顔をあげ「あたし何もかも申しますわ。そして貴方の弟さんの日記帳から破ってきた<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>をおかえししますわ」

ジュリアは<ruby><rb>衣裳函</rb><rt>いしょうばこ</rt></ruby>のなかから、引き<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いた日記をとりだして、一郎に渡した。それは四郎が殺された日、大辻が始めに屍体の側で発見し、二度目に見たとき裂かれていた四郎の<ruby><rb>自筆</rb><rt>じひつ</rt></ruby>の日記に<ruby><rb>相違</rb><rt>そうい</rt></ruby>なかった。一郎はそれを<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るように読み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>した。

「それをよく読んで下されば分るでしょうが、四郎さんとあたしとは、<ruby><rb>千葉</rb><rt>ちば</rt></ruby>の海岸で知合ってから、お友達になったんです。それは只の仲よしというだけで、あたしは恋をしていたんじゃありませんのよ、どうかお間違いのないように、ね。――その日も四郎さんはあたしに会いに来たんですわ。それで夕方になり、四郎さんと日比谷を散歩して、あの<ruby><rb>五月躑躅</rb><rt>さつき</rt></ruby>の陰でお話をしていたんですが、待たせてあった、あたしの自動車の<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>が聞えたので、ちょっと待っててネ、すぐ帰ってくるわといって四郎さんを残したまま、日比谷の<ruby><rb>東門</rb><rt>ひがしもん</rt></ruby>の方へ行ったんですの。そこで自動車を見つけたので、四郎さんも<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れてゆくつもりで自動車で迎えにゆき、再び五月躑躅の陰へいってみると、四郎さんが殺されていたのですのよ。あたしはハッとしたんですが、人気商売の悲しさにはぐずぐずしていると人に見つかって大変なことになると思ったので、<ruby><rb>引返</rb><rt>ひきかえ</rt></ruby>そうとしましたが、その日四郎さんに見せて貰った日記のなかにあたしのことが沢山書いてあったものですから、これを残しておいてはいけないと思って、いま差上げただけの頁を破ってきたんですわ。すると間もなく皆さんに見つかってしまったんです。それがすべてですわ」

「ああ、そうですか」と一郎は大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら「では耳飾の宝石も、そのときに落したんですね。これも拾われては<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いことになるから、後で探したというわけですね」

「<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るとおりですわ。宝石のことは、楽屋へ入ってから気がついたんですの。随分探しましたわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ」

「ええ、大丈夫です。その<ruby><rb>代</rb><rt>かわ</rt></ruby>り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい」

「犯人？　犯人らしいものは、誰もみなかったわ――」

といっているところへ、電話がかかってきた。それは出てきた支配人が、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ西一郎に会おうという電話だったのである。

それから一郎は、支配人の室に行った。ジュリアの<ruby><rb>口添</rb><rt>くちぞ</rt></ruby>えがあったから、すべて好条件で話が<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った。今日は見習かたがた「赤い苺の実」の三<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>ばかりへ顔を出して貰いたいということになった。そして<ruby><rb>大部屋</rb><rt>おおべや</rt></ruby>の人たちに紹介してくれた。

一郎はそれを報告のために、ジュリアの部屋に行ったが、鍵がかかっていた。それも<ruby><rb>道理</rb><rt>どうり</rt></ruby>で、ジュリアはいま舞台に出て<ruby><rb>喜歌劇</rb><rt>きかげき</rt></ruby>を演じているところだった。舞台の横のカーテンの陰には批評家らしい男が二人、肩を<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>ねんばかりにして、ジュリアの熱演に感心していた。

「ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの<ruby><rb>熱情</rb><rt>ねつじょう</rt></ruby>とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できば</rt></ruby>えだ」

「僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと<ruby><rb>真似手</rb><rt>まねて</rt></ruby>がない。――」

「ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い<ruby><rb>位</rb><rt>くらい</rt></ruby>だ」

「そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……」

「よく覚えているねえ」

「いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの<ruby><rb>吸血鬼</rb><rt>きゅうけつき</rt></ruby>が出たという<ruby><rb>号外</rb><rt>ごうがい</rt></ruby>や新聞が出た日なんだからネ」

「ははア、するとああいう事件が何かジュリアを<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が<ruby><rb>犠牲者</rb><rt>ぎせいしゃ</rt></ruby>を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぱい</rt></ruby><ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれたらしい。はッはッはッ」

「はッはッはッ」

一郎は批評家に<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>を<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>したのか、怒ったような顔をして、そこを去った。

<ruby><rb>痣蟹</rb><rt>あざがに</rt></ruby>の<ruby><rb>空中葬</rb><rt>くうちゅうそう</rt></ruby>

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>その頃、捜査本部では、雁金検事と大江山捜査課長とが<ruby><rb>六</rb><rt>むつ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>い顔をして向いあっていた。机の上には、青竜王が痣蟹の洋服の間から見付けた建築図の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>が<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>っていた。

「雁金さんはそう<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るですが、どうしてもあの覆面探偵は怪しいですよ」と大江山はまたしても、青竜王<ruby><rb>排撃</rb><rt>はいげき</rt></ruby>の火の手をあげているのであった。「第一あの覆面がよろしくない。<ruby><rb>本庁</rb><rt>ほんちょう</rt></ruby>の部下の間には猛烈な不平があります。このままあの覆面を許しておくということになると、<ruby><rb>統制上</rb><rt>とうせいじょう</rt></ruby><ruby><rb>由々</rb><rt>ゆゆ</rt></ruby>しき一大事が起るかもしれません」

「気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ」

「いまも電話をかけましたが、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>やつ</rt></ruby>は<ruby><rb>所在</rb><rt>しょざい</rt></ruby>が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった」

「まアいい。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>は悪いことの出来る人間じゃないよ」

「それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ<ruby><rb>相当</rb><rt>そうとう</rt></ruby>なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。<ruby><rb>留守番</rb><rt>るすばん</rt></ruby>のばあやは金を貰っていながら、<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>わるがっています。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>もそうです。蝋山教授を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>して、不明の目的のために四郎の<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>を解剖させているうちに、<ruby><rb>怪漢</rb><rt>かいかん</rt></ruby>を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは<ruby><rb>偽</rb><rt>に</rt></ruby>せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って<ruby><rb>死力</rb><rt>しりょく</rt></ruby>をつくして<ruby><rb>追駈</rb><rt>おいか</rt></ruby>けてゆきます」

「イヤあれは本当の兄だよ」

「私は<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>部下や新聞記者の前を<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです」

といっているところへ、給仕が入ってきて、雁金検事に電話が来ていると伝えた。

「はアはア、私は雁金だが、――」

と電話に出てみると、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>うは<ruby><rb>噂</rb><rt>うわ</rt></ruby>さの<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の覆面の探偵青竜王からだった。

「今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう」

「ほい、もう<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――」

と、検事は大江山との今の話を忘れてしまったように、秘密事件について話しだした。それは今日<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>すこし前、例の事件について調べることがあって<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>えのために警官をキャバレー・エトワールへ<ruby><rb>振出</rb><rt>ふりだ</rt></ruby>してみると、<ruby><rb>雇人</rb><rt>やといにん</rt></ruby>は揃っているが、主人のオトー・ポントスが行方不明であるという。そこでポントスの<ruby><rb>寝室</rb><rt>しんしつ</rt></ruby>を調べてみると、ベッドはたしかに人の寝ていた<ruby><rb>形跡</rb><rt>けいせき</rt></ruby>があるが、ポントスは見えない。<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>もよく調べると、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に<ruby><rb>人血</rb><rt>じんけつ</rt></ruby>の<ruby><rb>滾</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れたのを拭いた跡が二三ヶ所ある。<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にもう一つ<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいことは、室内にはポータブルの<ruby><rb>蓄音器</rb><rt>ちくおんき</rt></ruby>が掛け放しになっていたが、そこに掛けてあったレコードというのがなんと赤星ジュリアの吹きこんだ「赤い苺の実」の歌だったという。いまもってポントスの<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>は分らない。――

その話をして、雁金検事は青竜王の意見をもとめたところ、彼は電話の向うで、チェッと舌打ちをして云った。

「雁金さん、ポントスは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>から今日の昼頃までに殺されたんですよ」

「そう思うかネ。誰に殺された。――」

「もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>ですよ。発見されないというのは可笑しいなア」

「やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ」

「場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――」

と<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>までいったとき、何に<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたか、青龍王は電話の向うで、

「ウム、――」

と<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った。そして、

「検事さん、また後で――」

といって、電話はガチャリと切れた。

「午後四時十分。――」

と、検事は静かに時計を見た。すると待っていたように、大江山課長が声をかけた。

「青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>するため、<ruby><rb>職権</rb><rt>しょっけん</rt></ruby>をもって<ruby><rb>拘束</rb><rt>こうそく</rt></ruby>をいたしますから……」

「午後四時十分。――」

と検事は大江山の言葉が聞えないかのように、静かに同じ言葉を<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>した。

丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。

赤星ジュリアは喜歌劇に出演中だったが、彼女の持ち役である<ruby><rb>南海</rb><rt>なんかい</rt></ruby>の<ruby><rb>女神</rb><rt>めがみ</rt></ruby>はその途中で演技が済み、あとは終幕が開くので彼女を<ruby><rb>除</rb><rt>のぞ</rt></ruby>く一座は<ruby><rb>総出</rb><rt>そうで</rt></ruby>の形となって、ひとりジュリアは楽屋に帰ることができるのであった。彼女は自室に入って、女神の<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>しにかかった。いつもなら、<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>が手伝ってくれるのだが、彼女は臨時に終幕に持ち役ができて舞台に出ているので、ジュリアは<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぐほかなかった。

彼女は五枚折りの大きな化粧鏡の前で、まず女王の<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>を外した。それから腰を下ろすと下に<ruby><rb>跼</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んで長い靴と靴下とをぬぎ始めた。演技がすんで、靴下を脱ぎ、<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>になるときほど、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>いものはなかった。彼女は透きとおるように白いしなやかな<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>を静かに指先でマッサージをした。そして衣裳を脱ごうとして、再び立ち上ったその瞬間、<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>室内に人の気配を感じたので、ハッとなって<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振りかえった。

「静かにしろ。動くと撃つぞ。――」

気がつかなかったけれど、いつの間に現れたか、一人の怪漢がジュリアを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでヌックと立っていた。左手には古風な大型のピストルを持ち、その<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>は<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>のように物凄かった。彼の<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほほ</rt></ruby>には見るも恐ろしい<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>のような形をした<ruby><rb>黒痣</rb><rt>くろあざ</rt></ruby>がアリアリと浮きでていた。これこそ<ruby><rb>噂</rb><rt>うわ</rt></ruby>さに名の高い<ruby><rb>兇賊</rb><rt>きょうぞく</rt></ruby><ruby><rb>痣蟹仙斎</rb><rt>あざがにせんさい</rt></ruby>であると知られた。

ジュリアはすこし<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめただけだ。さして驚く<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>もなく、化粧鏡をうしろにして、キッと痣蟹を見つめたが、<ruby><rb>朱唇</rb><rt>しゅしん</rt></ruby>を開き、

「早く出ていってよ。もう用事はない筈よ」

「うんにゃ、こっちはまだ<ruby><rb>大有</rb><rt>おおあ</rt></ruby>りだ」と<ruby><rb>憎々</rb><rt>にくにく</rt></ruby>しげに<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>をしゃくり「貰いたいものを貰ってゆかねば、日本へ帰ってきた甲斐がねえや。――」

「男らしくもない。――」

「ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――」

痣蟹はジリジリとジュリアに近づくと、彼女が<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にかけた大きいメタルのついた頸飾りに手をかけ、ヤッと引きむしった。糸が切れて、<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>がバラバラと床の上に散った。痣蟹はそれには気も止めず、メタルを<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>にとって器用にも片手でその裏を開いた。中からは何やら小さい文字を書きこんだ紙片がでてきた。痣蟹はニッコリと笑い、

「やっぱり俺のものになったね。――」

「出ておゆき。ぐずぐずしていると人が来るよ」

「どっこい。もう一つ貰いたいものが残っているのだ。うぬッ――」

痣蟹はピストルを捨てると、<ruby><rb>猛虎</rb><rt>もうこ</rt></ruby>のように身を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>らせてジュリアに迫った。その太い手首が、ジュリアの<ruby><rb>咽喉部</rb><rt>いんこうぶ</rt></ruby>をギュッと絞めつけようとする。

「アレッ――」

と叫ぶ声の下に、化粧鏡がうしろに<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されて<ruby><rb>窓硝子</rb><rt>まどガラス</rt></ruby>に当り、ガラガラと物凄い音をたてて<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れた。

その<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>だった。入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をドンと蹴破って、飛びこんで来た一人の、青年――

「ああ、一郎さん、助けてエ――」

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>、なにをするかア、――」

青年は西一郎だった。彼はジュリアに返事をする<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく、彼に似合わしからぬ勇敢さをもって、いきなり痣蟹の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から組みついた。

「なにを生意気な<ruby><rb>小僧</rb><rt>こぞう</rt></ruby>め！」

痣蟹は落ちつき払って一郎を組みつかせていた。

「ジュリア、いまに思い知るぞオ」

という声の下に、彼はエイッと叫んで身体を振った。その<ruby><rb>鬼神</rb><rt>きじん</rt></ruby>のような力に、元気な一郎だったが、たちまち<ruby><rb>摚</rb><rt>どう</rt></ruby>と振りとばされてしまった。

「さあ皆で<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>れ、警官隊も来ているから、大丈夫だ」と声を聞きつけて、応援隊が飛びこんで来た。痣蟹は警官隊と聞くと舌打ちをして、入口に<ruby><rb>殺到</rb><rt>さっとう</rt></ruby>した劇場の若者を押したおし、廊下へ飛びだした。アレヨアレヨという間に、階段から下へ降りようとしたが、下からは駈けつけた大江山課長等がワッと上ってきたのを見ると、

「やッ」

と身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>してそこに開いていた窓を破って屋上へ逃げた。

「それ、<ruby><rb>逃</rb><rt>の</rt></ruby>がすなッ」

一同はつづいて、屋上に飛び出した。痣蟹は巨大な<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>に似合わず身軽に、あちこちと逃げ廻っていたが、とうとう一番高い塔の陰に姿を隠してしまった。

「さあ、<ruby><rb>三方</rb><rt>さんぽう</rt></ruby>から<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>を<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>んでしまうのだ。それ、懸れッ」

大江山課長は<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかに号令を下した。が、そのとき塔の向うにフラフラ動いていた竜宮劇場専用の広告気球の綱が妙にブルブルと<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えたかと思うと、塔の上に痣蟹の姿が見えたと思う間もなく、彼の身体はスルスルと宙に上っていった。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ。痣蟹が気球の綱を切ったぞオ」

と誰かが叫んだが、もう遅かった。<ruby><rb>華</rb><rt>はなや</rt></ruby>かな気球はみるみる<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>にグングン舞いのぼり、それにぶら下る痣蟹の黒い姿はドンドン小さくなっていった。

「うん、<ruby><rb>生意気</rb><rt>なまいき</rt></ruby>なことをやり<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>った<ruby><rb>哩</rb><rt>わい</rt></ruby>」と大江山捜査課長は天の一角を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいたが「よオし、誰か<ruby><rb>羽田航空港</rb><rt>はねだこうくうこう</rt></ruby>に電話をして、すぐに飛行機であの気球を追駈けさせろッ」と命令した。

一同はいつまでも空を見上げていた。

航空港からは、直ちに速力の速い旅客機と上昇力に富んだ練習機とが飛び上って、気球捜査に向ったという報告があった。それを聞いて一同は、広告気球の消え去った方角の空と羽田の空とを<ruby><rb>等分</rb><rt>とうぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めながら、いつまでも立ちつくしていた。

大江山課長は、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>を向いて、誰にいうともなく<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をいった。

「覆面探偵がたしかに来て居ると思ったのに一向に見つからず、その代りに痣蟹を見つけたが、また取逃がしてしまった。この上はあすこで見掛けた西一郎を引張ってゆくことにしよう」

しかし課長が下に下りたときには、その西一郎の姿もなくなっていた。

パチノ<ruby><rb>墓穴</rb><rt>ぼけつ</rt></ruby>の<ruby><rb>惨劇</rb><rt>さんげき</rt></ruby>

夜の幕が、帝都をすっかり包んでしまった頃、羽田航空港から本庁あてに報告が到着した。

「竜宮劇場の広告気球を探しましたが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>出発が遅かったので、三千メートルの高空まで昇ってみましたが、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に見つかりませんでした。そのうちに<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>になって、すっかり視界を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られてしまったのでやむなく下りてきました。まことに<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>です」

捜査本部に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>ても、それはたいへん遺憾なことであった。せっかく屋上に追いつめた痣蟹を逃がしてしまったことは<ruby><rb>惜</rb><rt>お</rt></ruby>しかった。しかしいくら<ruby><rb>不死身</rb><rt>ふじみ</rt></ruby>の痣蟹でも、そんな高空に吹きとばされてしまったのでは、とても無事に生還することは<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なかろうと思われた。<ruby><rb>結局</rb><rt>けっきょく</rt></ruby>それが痣蟹の空中葬であったろうという者も出て来たので、本部はすこし明るくなった。

「吸血鬼事件も、これでお<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いになるでしょうな。どうも訳が分らないうちにお仕舞いになって、すこし惜しい気もするけれど」

それを聞いていた大江山捜査課長は、<ruby><rb>奮然</rb><rt>ふんぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を叩いた。

「吸血鬼事件が片づいても、まだ片づかぬものが沢山ある。帝都の<ruby><rb>安寧</rb><rt>あんねい</rt></ruby><ruby><rb>秩序</rb><rt>ちつじょ</rt></ruby>を<ruby><rb>保</rb><rt>たも</rt></ruby>つために、この際やるところまで<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りをつけるのだ。ここで安心してしまう者があったら、承知しないぞ」

一座はその<ruby><rb>怒声</rb><rt>どせい</rt></ruby>にシーンとなった。

それから大江山課長は経験で叩きあげたキビキビさでもって、捜査すべき当面の問題を一々数えあげたのだった。

「第一に、<ruby><rb>生死</rb><rt>せいし</rt></ruby>のほども確かでないキャバレー・エトワールの主人オトー・ポントスを探しだすこと。第二に、痣蟹の乗って逃げた竜宮劇場の気球がどこかに<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちてくる筈だから、全国に手配して注意させること。それと同時に痣蟹の<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>が、気球と一緒に墜ちているか、それともその近所に墜ちているかもしれぬから注意すること。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し<ruby><rb>従来</rb><rt>じゅうらい</rt></ruby>の経験によると四十八時間後には、気球は自然に降下してくるものであること。第三に、覆面探偵を見かけたらすぐ課長に報告すること。以上のことを行うについて、次のような人員配置にする。――」

といってその担当主任や係を指名した。一同は<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>でも<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>でも、それを突きとめて、課長の<ruby><rb>賞讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>にあずかりたいものと考えた。

そんな<ruby><rb>物騒</rb><rt>ぶっそう</rt></ruby>な話が我が身の上に懸けられているとも知らぬ覆面探偵青竜王は、竜宮劇場屋上の<ruby><rb>捕物</rb><rt>とりもの</rt></ruby>をよそに、部下の勇少年と電話で話をしていた。

「それで勇君が、ポントスの部屋の<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>し<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>から発見した<ruby><rb>古文書</rb><rt>こもんじょ</rt></ruby>というのはどんなものだネ」

「僕には<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの<ruby><rb>文書</rb><rt>ぶんしょ</rt></ruby>は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ<ruby><rb>頻々</rb><rt>ヒンピン</rt></ruby>タル火災ト時代ノ推移ノタメニ<ruby><rb>詳</rb><rt>ツマビラ</rt></ruby>カナラザルニ至リ、<ruby><rb>唯</rb><rt>タダ</rt></ruby>『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子（姓不詳）ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴<ruby><rb>廓内</rb><rt>カクナイ</rt></ruby>ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>」

「イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その<ruby><rb>一方</rb><rt>いっぽう</rt></ruby>、痣蟹もたまたまこの秘密を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか<ruby><rb>存</rb><rt>ぞん</rt></ruby>じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし<ruby><rb>何事</rb><rt>なにごと</rt></ruby>も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――」

「待って下さい。<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>はいま<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にいるのです。これから何処へ行くのですか」

「僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――」

そういって青竜王は受話器をかけた。心配でたまらない勇少年は、電話局に問いあわせると、なんと不思議なことに、青竜王のかけた電話は、やはり竜宮劇場の中のものだった。彼は一体どこに姿を秘めているのだろう。

それから空しく二日の日が過ぎた。

事件は一向思うように解決しなかったが、その代り、新たな吸血鬼事件も起らなかった。とうとう吸血鬼は<ruby><rb>滅</rb><rt>ほろ</rt></ruby>んだのであろうか。

<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく云うと七日の午後になって、痣蟹の乗って逃げた気球が、<ruby><rb>箱根</rb><rt>はこね</rt></ruby>の山林中に落ちているのが発見された。しかし変なことに、その気球は枯れ葉の下から発見されたのであった。そして問題の痣蟹の死体はどこにも見当らなかったという。――この報告に管下の警察は一斉に痣蟹の屍体発見に活動を開始した。

同じくその夜のことであった。赤星ジュリアの楽屋に西一郎が来合せているとき、どこからともなく電話がジュリアの許に懸ってきた。電話口へ出てみると、相手は覆面探偵の青竜王だといった。

「青竜王ですって。まあ、あたくしに何の御用ですの」とジュリアは<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>った。

すると電話の声は、痣蟹の気球が発見されたが、屍体の見当らないこと、それから夕暮に箱根の山下である<ruby><rb>湯元</rb><rt>ゆもと</rt></ruby>附近の<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>で痣蟹らしい男が水を飲んでいるのを見かけた者のあること、そして念のために後から河原へ行ってみると、<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>が落ちていて、開いてみると<ruby><rb>血書</rb><rt>けっしょ</rt></ruby>でもって「パチノ墓穴を征服」としたためてあったことを知らせた。

「パチノの墓穴を征服ですって」とジュリアはひどく<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたらしく思わず声を高らげて問いかえした。

電話の声は、そうです、なんのことか分らないが、確かにパチノと書いてありますよ、と<ruby><rb>返辞</rb><rt>へんじ</rt></ruby>をして、その電話を切った。ジュリアは倒れるように、<ruby><rb>安楽椅子</rb><rt>あんらくいす</rt></ruby>に身を投げかけた。

西一郎は、電話の終るのを待ちかねていたように、ジュリアに云った。

「青竜王本人が電話をかけて来たんですか」

「ええ、そうよ。――なぜ……」

「はッはッ、なんでもありませんけれど」

そういった一郎の態度には、<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かに動揺の色が見えたが、ジュリアは気がつかないようであった。

青竜王の懸けた電話とは違って、本庁の方へは<ruby><rb>深更</rb><rt>しんこう</rt></ruby>に及んでも「痣蟹ノ屍体ハ依然トシテ見当ラズ、マタ<ruby><rb>管下</rb><rt>カンカ</rt></ruby>ニ痣蟹ラシキ人物ノ<ruby><rb>徘徊</rb><rt>ハイカイ</rt></ruby>セルヲ発見セズ」という報告が入ってくるばかりで、大江山課長の<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>を刺戟するに役立つばかりだった。

その<ruby><rb>真夜中</rb><rt>まよなか</rt></ruby>、時計が<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>十二時をうつと間もなく、今は営業をやめて住む人もなく<ruby><rb>化物屋敷</rb><rt>ばけものやしき</rt></ruby>のようになってしまったキャバレー・エトワールの地下室の方角にギーイと、<ruby><rb>堅</rb><rt>かた</rt></ruby>い物の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>るような物音が聞えた。エトワールの表と裏とには、制服の警官が張りこんでいるのだったけれど、この地底の小さい<ruby><rb>怪音</rb><rt>かいおん</rt></ruby>は、彼等の耳に達するには余りに<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かであった。<ruby><rb>一体</rb><rt>いったい</rt></ruby>誰がその<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい音をたてたのだろう。

このとき<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し地下室を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた者があったとしたら、<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>んだ<ruby><rb>空樽</rb><rt>あきだる</rt></ruby>の山がすこし変に<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じれているのに気がついたであろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えた<ruby><rb>壁体</rb><rt>へきたい</rt></ruby>の隅が<ruby><rb>縦</rb><rt>たて</rt></ruby>に<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>けて、その割れ目に一つの黒影が<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りこんだのを認めることができたであろう。

そこは隠されたる秘密階段で、さらにまた深い地底へ続いていた。用心ぶかくソロソロと降りてゆく黒影の人物の手は休みなしに懐中電灯の<ruby><rb>光芒</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の壁体を照らしていた。そのうちにどうした<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>かその<ruby><rb>反射光</rb><rt>はんしゃこう</rt></ruby>でもって<ruby><rb>顔面</rb><rt>がんめん</rt></ruby>がパッと照らしだされたが、それを見ると、この黒影の人物は、かなりがっちりした<ruby><rb>骨組</rb><rt>ほねぐみ</rt></ruby>の巨人で、眼から下を黒い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>でスッポリと覆い、頭には帽子の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を深く下げていた。覆面の怪漢――そういえば、これは例の問題男の青竜王と寸分ちがわぬ服装をつけていた。おお、いよいよ青竜王が乗りこんで来たのであろうか。

彼は静かに階段を下りていった。下はかなり広いらしい。江戸時代の<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>し<ruby><rb>蔵</rb><rt>ぐら</rt></ruby>というのはこんな構造ではなかったか。――下では何をしているのか、ときどきゴトリゴトリという物音が聞えるばかりで、いつまで<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っても彼は出てこなかった。恐ろしい<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>、恐ろしい地底の一刻！

そのとき、どこかで微かに口笛の音がしたと思った。それは気のせいだったかも知れないと人は<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>ったろう。しかしそれは確かに口笛に違いなかった。次第に<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>になる<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディ</rt></ruby>。ああそれは赤星ジュリアの得意な「赤い苺の実」の旋律――しかしこの場合、なんという恐ろしい口笛であったろう。暗い壁が魔物のように、かの怪しい旋律を伴奏した。……と、突如――まったく突如として、<ruby><rb>魂切</rb><rt>たまぎ</rt></ruby>るような悲鳴が地底から響いて来た。

「きゃーッ、う、う、う……」

しかし、それきりだった。悲鳴は一度きりで、再び聞えてこなかった。

<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべき惨劇が、その地底で行われたのだった。その<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>へ行ってみよう。

これはまた何という無惨なことだ。――そこはもう<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>止</rb><rt>どま</rt></ruby>りらしい地底の<ruby><rb>小室</rb><rt>こべや</rt></ruby>だった。一人の男が、<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>をつかんでのけ<ruby><rb>反</rb><rt>ぞ</rt></ruby>るように<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れている。その傍には大きな箱が<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出してある。蓋を明け放しだ。中から白いものがチラと覗いているが、よく見れば気味の悪い<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>だった。そしてそのまわりには丸い金貨がキラキラと輝いている。金貨は地面にもバラバラと散乱している。その<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>には一片のひきちぎれた建築図が落ちている。それは痣蟹の<ruby><rb>秘蔵</rb><rt>ひぞう</rt></ruby>の<ruby><rb>図面</rb><rt>ずめん</rt></ruby>に違いなかった。――それ等の<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な光景は、一つの懐中電灯でまざまざと照らし出されているのであった。

懐中電灯は静かに動く。――そして函の陰へ隠れている<ruby><rb>斃死者</rb><rt>へいししゃ</rt></ruby>の顔面を照らし出す。まず、目につくのは、鋭い刃物で<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>ったような<ruby><rb>咽喉部</rb><rt>いんこうぶ</rt></ruby>の深い傷口――うん、やっぱりさっき口笛が聞えたとき、<ruby><rb>残虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>きわまりなき吸血鬼が出たのだ。帽子は飛んでしまっているが、グッと<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>きだした白眼の下を覆う黒い覆面の布。おお、これは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>この地底へ下っていった黒影の人物だった。そして知っている人ならば、誰でもこれがいま<ruby><rb>都下</rb><rt>とか</rt></ruby>に名高い覆面探偵青竜王だと云い当てたろう。ああ、青竜王は殺されたのだ。なぜこんな地底でムザムザと殺されてしまったのだろう。

「いいですか。この覆面を取ってみましょう」

闇の中から男の声がした。それは懐中電灯を持っている人物の声だろう。

光芒の中に、一本の腕がヌッと出てきた。それは屍体の覆面の方に伸び、黒い布を握った。ずるずると覆面は<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれていった。そして<ruby><rb>果然</rb><rt>かぜん</rt></ruby>その下から生色を失った一つの顔が出て来た。ああ、その顔、その顔、<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>のようなその顔の、その頬には<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い蟹の形をした<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>が……

「おお、これは<ruby><rb>痣蟹仙斎</rb><rt>あぎがにせんさい</rt></ruby>……」

なんということだ。覆面探偵というのは、痣蟹仙斎だったのか。しかし不思議だ。そんなことが有り得るだろうか。だがここに無惨なる<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げているのは、正に<ruby><rb>兇賊</rb><rt>きょうぞく</rt></ruby>痣蟹に違いなかった。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は失踪中のポントスのことを云うが、しかし誰でも貴女の釈明を要求しますよ」

と懐中電灯の男はいう。どっかで聞いた<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>である。

「いいえ、あたしは犯人じゃありません。このジュリアは貴方の電話でうまく<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>いだされたのです。<ruby><rb>陥穽</rb><rt>わな</rt></ruby>です、恐ろしい陥穽なんです。ああ、あたし……」

と、よよと泣き崩れる声は、意外にも今を時めく、龍宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアに違いなかった。

それで解った。ここはパチノの墓穴なのだ。この<ruby><rb>深夜</rb><rt>しんや</rt></ruby>、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアを<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>める男は<ruby><rb>誰人</rb><rt>だれ</rt></ruby>？　そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>める？

生か死か、覆面探偵

帝都の暗黒界からは<ruby><rb>鬼神</rb><rt>きしん</rt></ruby>のように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざ</rt></ruby>めを<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>えた。それは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の静かな雨のせいだった。それとも痣蟹仙斎が<ruby><rb>空中葬</rb><rt>くうちゅうそう</rt></ruby>になって既に四日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>、それで吸血鬼事件も片づくかと安心したせいだったかもしれない。――課長は<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のまま、<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>に立ち出でた。

「――手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ！」

ラジオが叫ぶ<ruby><rb>一</rb><rt>イチ</rt></ruby>イ<ruby><rb>二</rb><rt>ニ</rt></ruby>イ<ruby><rb>三</rb><rt>サン</rt></ruby>ンの号令に合わせて、課長は巨体をブンブンと振って、ラジオ体操を始めた。彼は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の底からこみあげて来るのを感じた。

「よしッ！　この元気でもって、帝都市民の生活を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かすあらゆる悪漢どもを<ruby><rb>一掃</rb><rt>いっそう</rt></ruby>してやろう」

課長はその悪漢どもを叩きのめすような手附きで、オ<ruby><rb>一</rb><rt>イ</rt></ruby>チ<ruby><rb>二</rb><rt>ニ</rt></ruby>イと体操を続けていった。しかしその楽しさも永くは続かなかった。そこには大江山捜査課長の自信をドン底へつき落とすようなパチノ<ruby><rb>墓地</rb><rt>ぼち</rt></ruby>の<ruby><rb>惨劇</rb><rt>さんげき</rt></ruby>が控えていたのであった。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>さくや</rt></ruby>起ったそのパチノ墓地事件の知らせは、雁金検事からの電話となって、ジリジリと<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく鳴るベルが、課長のラジオ体操を<ruby><rb>無遠慮</rb><rt>ぶえんりょ</rt></ruby>に中止させてしまった。

「お早ようございます。ええ、私は大江山ですが……」

「ああ、大江山君か」と向うでは雁金検事の叩きつけるような声がした。――御機嫌がよくないナ、「君の部下はみんな睡眠病に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>っているのかネ。もしそうなら、皆病院に入れちまって、憲兵隊の応援を<ruby><rb>申請</rb><rt>しんせい</rt></ruby>しようと思うんだが……」

検事の言葉はいつに似合わず針のように鋭かった。

「え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……」

「知らない？　知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を<ruby><rb>検分</rb><rt>けんぶん</rt></ruby>したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ」

ガチャリと、電話は切れてしまった。こんなに検事が怒った例を、大江山は過去に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て知らなかった。エトワールの張番がどうしたというのだろう。パチノ墓地というのは何のことだろう？

彼は狐に鼻をつままれたような気持で<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていたが、やがてハッと<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>にかえって、急いで制服を身につけ短剣を下げると、門前に待たせてあった<ruby><rb>幌型</rb><rt>ほろがた</rt></ruby>の自動車の中に転がりこむように飛び乗った。

「オイ大急ぎだ。銀座のキャバレー・エトワールへ。――十二分以上かかると、貴様も病院ゆきだぞ！」

運転手は何故そんなことを云われたのか<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せなかったが、病院へ入れられては<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らないと思って、猛烈なスピードで車を飛ばした。

キャバレーには雁金検事が既に<ruby><rb>先着</rb><rt>せんちゃく</rt></ruby>していて、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の白く積ったソファに腰を下ろし、盛んに「朝日」の<ruby><rb>吸殻</rb><rt>すいがら</rt></ruby>を製造していた。そして大江山課長が顔を出すと、

「ああ大江山君、<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいいよ。<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>たちはまた夕刊新聞に書きたてられて一段と有名になるよ。<ruby><rb>全</rb><rt>まった</rt></ruby>く君の<ruby><rb>怠慢</rb><rt>たいまん</rt></ruby>のお陰だ」

鬼課長はこれに応える言葉を持っていなかった。それで<ruby><rb>現場検分</rb><rt>げんじょうけんぶん</rt></ruby>を申出でた。検事は<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けたばかりの煙草を灰皿の中へ捨てながら、「儂は君が検分するときの顔を見たいと思っていたよ」と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いたが、そこで急に声を落して、日頃の雁金検事らしい口調になり、「全く、君のために特別に作られた舞台のようなのだ。しかし先入主はあくまで<ruby><rb>排撃</rb><rt>はいげき</rt></ruby>しなけりゃいかん」

妙なことを云われると思いつつ、課長は雁金検事の先に立って、地下の秘密の通路から、地底に下りていった。地底には無限の<ruby><rb>魅惑</rb><rt>みわく</rt></ruby>ありというが、その魅惑がよもやこのさんざん<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べあげたキャバレーの地底にあろうとは思いもつかなかったことであった。――崩れかかったような細い<ruby><rb>石造</rb><rt>せきぞう</rt></ruby>の階段が<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きていよいよ例のパチノ墓穴に入ると、そこには<ruby><rb>急設</rb><rt>きゅうせつ</rt></ruby>の電灯が、<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と輝いて金貨散らばる<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>の隅から隅までを照らし、棺桶の中の<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>も<ruby><rb>昨夜</rb><rt>さくや</rt></ruby>そのまま、それから<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで<ruby><rb>絶命</rb><rt>ぜつめい</rt></ruby>している痣蟹仙斎の屍体もそのままだった。ただ<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の場面に比べると、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアと、それに寄りそって懐中電灯を照らしていた疑問の男とが、居ないところが違っていた。

「やっぱりそうだ！」

と、大江山課長はその場へ飛びこむなり叫んだ。

「覆面探偵の青竜王は、やはり痣蟹だったのだ」と倒れている痣蟹仙斎の服装を指しながら「どうですか検事さん。覆面探偵が怪しいと申上げておいたことも、無駄ではなかったですネ」

「いいや、やっぱり無駄かも知れない。これは痣蟹の屍体とは認めるけれど、青竜王の屍体と認めるのにはまだ早い。……君のために作られたような舞台だといったのは、実はこれなのだ。つまり青竜王の覆面を取れば痣蟹であるという<ruby><rb>誤</rb><rt>あやまり</rt></ruby>が起るように用意されてある。……」

「では検事さんは、これを見ても、痣蟹が青竜王に化けていたとは信じないのですか」

「それはもちろん信じる。しかし真の青竜王が痣蟹だったということとは別の問題だ」

といった検事は、痣蟹を青竜王とは信じない<ruby><rb>面持</rb><rt>おももち</rt></ruby>だった。

「大江山君、その問題は後まわしとして、この痣蟹は、明らかに吸血鬼にやられているようだが、君はどう思うネ」

「ええ、確かに吸血鬼です。この<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>りとられたような<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>もとの傷、それから<ruby><rb>紫斑</rb><rt>しはん</rt></ruby>が非常に薄いことからみても、恐ろしい吸血鬼の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>に違いありません」

「すると、痣蟹が吸血鬼だという君のいつかの<ruby><rb>断定</rb><rt>だんてい</rt></ruby>は<ruby><rb>撤回</rb><rt>てっかい</rt></ruby>するのだネ」

捜査課長は検事の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を黙って見詰めていたが、しばらくして顔を近づけ、

「おっしゃる通り、痣蟹が吸血鬼なら、こんな殺され方をする<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がありません。吸血鬼は<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の者だと思います」

「では撤回したネ。――すると本当の吸血鬼はどこに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるのだ。もちろん大江山君は、吸血鬼が覆面探偵・青竜王だとはいわないだろう」

「もちろんです。――実をいえば、私は最初吸血鬼は痣蟹に違いないと思い、次に青竜王かも知れぬと思ったんですが、両方とも違うことが分りました。外に<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しいと睨んでいるのは、最初の犠牲者四郎少年の兄だと名乗る、西一郎だけになるのですが……」と、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで云った課長は急に口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、あたりを見廻わした。それは冒険小説に出てくる<ruby><rb>孤島</rb><rt>ことう</rt></ruby>の洞窟のような実に異様な光景だった。「このパチノ墓地とかが飛び出して来たのでは、見当もなにもつかなくなりましたよ。一体これはどうしたことですかな」

そこで雁金検事は、パチノ墓地について、既に<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>したとおりの<ruby><rb>伝奇的</rb><rt>でんきてき</rt></ruby>な物語をして聞かせ、「つまりパチノは皇帝の命令をうけ、<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な<ruby><rb>財宝</rb><rt>ざいほう</rt></ruby>を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて、日本へ遠征してきたが、<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby><ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばにして不幸な死を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げたというわけさ」

大江山課長は、あまりにも奇異なパチノ墓地の物語に、しばらくは耳を<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>ったほどだったが、彼の<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっている骸骨や金貨を見ると、それがハッキリ現実のことだと<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>みこめた。

「その物語にある莫大な財産というのは、僅かこればかりの<ruby><rb>滾</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れ残ったような金貨だの宝石なのでしょうか」

と大江山課長は<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>げに云った。

「そうだ、儂が来たときから、この通り荒らされているのだが、もちろん既に何者かが財宝を他へ移したのに違いない。そいつは吸血鬼か、それとも痣蟹の先生だかの、どっちかだろう」

「イヤまだ重大な<ruby><rb>嫌疑者</rb><rt>けんぎしゃ</rt></ruby>があります」と大江山は叫んだ。

「誰のことかネ」

「それはこのキャバレーの主人オトー・ポントスです。あいつがやっていたのでしょう」

「ポントスはどこかに殺されているのじゃないか。いつか部屋に血が流れていたじゃないかネ」

「そうでした。でも私はあのときから別のことを考えていました。それが今ハッキリと思い当ったんですが、ポントスは殺されたように見せかけ、実はこの莫大な財産とともに何処かへ<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>してしまったのじゃないでしょうか。悪い<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>のよくやる手ですよ」

「そういう説もあるにはあるネ」

と雁金検事は、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかに云った。大江山は検事の反対らしい面持を眺めていたが、

「――それで検事さんは、この事件をどうして知られたのですか。それから今お話のパチノ墓地の物語などを……」

検事はそれを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かれるとニヤリと<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みを浮べ、「それは今朝がた、もう死んだものと君が思っている青竜王が<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へやって来て、<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい話をしていったよ」

「なんですって、アノ青竜王が……」

大江山は検事の言葉が信じられないという面持だった。青竜王すなわち痣蟹は、そこに死んでいるではないか。

「そうだよ。彼は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>さくや</rt></ruby>十二時、ここへ忍びこんだそうだ。すると、例の恐怖の口笛を聞きつけた。これはいけないと思う途端に、おそろしい悲鳴が聞えた。近づいてみると、痣蟹が自分の服装をして死んでいたというのだ」

「ああ青竜王！　するとこれは<ruby><rb>偽</rb><rt>に</rt></ruby>せ物で、本物の方は、やっぱり生きていたのか」

大江山課長はそういって、大きな<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。

ゴルフ場にて

大江山捜査課長は後を部下に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せて、一旦本庁へかえったが、覆面探偵がまだ健在だと聞いて、立っても<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>ってもいられなかった。なんという恐ろしい相手だろう。彼は自分の部下の警戒線をドンドン破って<ruby><rb>潜入</rb><rt>せんにゅう</rt></ruby>し、それからパチノ墓地の秘密などをテキパキと調べてゆくことなど、実に<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かだった。雁金検事が彼の云うことを信用しているのもどっちかというと、無理はなかった。

「<ruby><rb>強敵</rb><rt>きょうてき</rt></ruby>の覆面探偵よ？」

大江山は今や決死的覚悟を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めた。このままでは、これから先、彼の<ruby><rb>後塵</rb><rt>こうじん</rt></ruby>ばかりを<ruby><rb>拝</rb><rt>おが</rt></ruby>んでいなければならないだろう。

「よオし、やるぞ！」と課長は思わず<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>をドンと叩いた。「第一になすべきことはポントスの<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を探しあてることだ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が吸血鬼であるか、さもなければ吸血鬼を知っているに違いない。覆面探偵の方はいずれ仮面をひっ<ruby><rb>剥</rb><rt>ぱ</rt></ruby>いでやるが、彼からポントスのことやパチノ墓地のことを十分吐きださせた後からでも遅くはないであろう」

課長はポントスの行方に、彼の首をかけた。<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに特別捜査隊を編成して、それに<ruby><rb>秘策</rb><rt>ひさく</rt></ruby>を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けて出発させた。そして彼は<ruby><rb>勇</rb><rt>ゆう</rt></ruby>を<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>して、単身、青竜王の探偵事務所を訪ねた。――

「<ruby><rb>青竜王</rb><rt>せんせい</rt></ruby>は不在ですよ、課長さん」出て来た勇少年は気の毒そうな顔もせず、むき出しに答えた。

「何処へ行くといって出掛けたのかネ」

「<ruby><rb>玉川</rb><rt>たまがわ</rt></ruby>の方です。<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>のパチノとお<ruby><rb>澄</rb><rt>すみ</rt></ruby>という日本の女との間に出来た子供のことについて調べに行くと云っていましたよ」

「なんだって？」課長は頭をイキナリ<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>で<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたような気がした。一体青竜王はどこまで先まわりをして調べあげているのだろう。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>勇気を出したものの、これでは<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby><ruby><rb>太刀打</rb><rt>たちう</rt></ruby>ちが出来ないと思った。しかしまだ間に合うかも知れない。「その子供というのはポントスのことじゃないのかネ」

「ポントスは本当のギリシア人ですよ。あいつはパチノ墓地を探しに来て、その墓地の上だとは知らずに、あのキャバレーを開いていたのです」

「ポントスでなければ誰だい。それとも痣蟹かネ」

「痣蟹は日本人ですよ。青竜王が探しているのは混血児ですよ」

混血児を探しに玉川へ行った――ということを聞きだした大江山は、鬼の首でも取ったような気がした。これなら或いは分らぬこともあるまい。

大江山課長は玉川へ自動車を飛ばした。しかし玉川という地域は、人家こそ<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らであったが、なにしろ広い土地のことだから、どこから調べてよいか見当がつかない。そこで彼は、なるべく混血児の<ruby><rb>出没</rb><rt>しゅつぼつ</rt></ruby>しそうなところはないかと思ったので、<ruby><rb>秋晴</rb><rt>あきばれ</rt></ruby>の停留場の前に立っている土地の名所案内をズラリと眺めまわしたが、そこで目に<ruby><rb>留</rb><rt>とま</rt></ruby>ったのは、「玉川ゴルフ場」という文字だった。

ゴルフ場に混血児――はちょっと似つかわしいと思った。彼は雁金検事に<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>われて、いささかゴルフを<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>んだ。この秋晴れにゴルフは<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しいスポーツであったが、なんの<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>か、今日は懐しいどころか、わざわざお苦しみのためにゴルフ場を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに行かねばならないことを悲しんだ。

車を玉川ゴルフ場に走らせたまではよかったけれど、クラブの玄関をくぐるなり、

「いよオ、大江山君。これはどうした風の吹きまわしだい」

と背中を叩く者があった。ハッと思って後をふりかえってみると、そこには思いがけなくも、雁金検事がゴルフ・パンツを履いてニヤニヤ笑っていた。そればかりではない。検事の後には、彼の<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の顔がズラリと並んでいたので<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた。それは蝋山教授、西一郎、赤星ジュリア、<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>という面々で、これでは吸血鬼事件の関係者大会のようなものだった。ただ<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の覆面探偵青竜王とキャバレーの主人ポントスとが不足していたが、この二人もどこからか現れてきそうであった。

「<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>いい。一緒にホールを廻ろうじゃないか」と検事は腕を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。

「ぜひそう遊ばせな。――」とジュリアたちも<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めた。

結局大江山課長は、その仲間に入った。背広を着てきたので、恥をかかずに<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>んだのは何よりだった。

最初の競技は二組に分れることになった。ジャンケンをすると、第一組は雁金検事、蝋山教授に矢走千鳥、第二組は大江山と西一郎に赤星ジュリアと決まった。

まず第一組が<ruby><rb>球</rb><rt>ボール</rt></ruby>をティに置いては、一人一人クラブを振って打ち出していった。それから五分ほど遅れて、第二組がティの上に立った。

「課長さんのお相手をしようなどとは、夢にも思っていませんでしたわ」

とジュリアが笑った。

「課長さん――は競技の間云わないことにしましょうよ、お嬢さん」

「あら――ホホホホ」

大江山はすっかりいい気持になってしまった。――ジュリアが最初に打ち、次に大江山が打った。一番あとを西一郎が打つと、三人はキャデーを連れて、青い芝地の上をゾロゾロ<ruby><rb>球</rb><rt>ボール</rt></ruby>の落ちた方へ歩きだした。

「君たちに会おうとは思いがけなかった」

と、課長は一郎の方を向いて<ruby><rb>破顔</rb><rt>はがん</rt></ruby>した。

「雁金さんのお誘いなんです。丁度ジュリア君も元気がないときだったんで、たいへんよかったですよ」と一郎が答えた。

「ほう、お嬢さんはどこか悪いのかネ」

「あら、嘘。――このとおり元気ですわよ」

といったが、第一の球はジュリアが一番成績が出なかった。

第二のティで球を打つと、ジュリアの球は横に<ruby><rb>曲</rb><rt>まが</rt></ruby>って、一時二人に離れた。

「オイ西君」と課長は冗談ともなくそっと連れに<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。「このあたりに混血児はいないかネ」

「混血児で一番近いのは、アレですよ」と一郎はジュリアの方を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した。

「なにジュリアか」とハッとした風であったが、「そう云われると、なるほどジュリアは混血児みたいなところがあるが……私の云っているのは、この玉川附近にもう七十歳ぐらいになる混血児が住んでいるのを知らないかというのだ」

「そんなのは居ませんよ」

「いないというのかネ。君はハッキリ云うから愉快だ、何も知らない<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>に……」

と<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>の課長は、<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>ならざる機嫌に見えた。しかし後に分るようにこれらの会話は決して冗談ではなかった。それが持つ重大な意味が今課長に分っていたとしたら、彼はそんなに<ruby><rb>恵比寿顔</rb><rt>えびすがお</rt></ruby>ばかりはしていられなかったであろう。――ジュリアは<ruby><rb>球</rb><rt>ボール</rt></ruby>をグリーンに入れて、二人の方へ手をさしあげた。

第三のコースでは、また三人が一緒になって球を打っていった。

「君たちはだいぶ仲がいいようだが、まだ私に<ruby><rb>媒酌</rb><rt>なこうど</rt></ruby>を頼みに来ないネ」と課長は更に機嫌がよかった。

「よして下さい。ジュリア君の人気に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りますよ」と一郎が打ち消すのを、ジュリアは、

「あら、あたしは課長さんにぜひお願いしたいわ。でも一郎さんは、あたしがお嫌いなのよ。どうせあたしは独りぽっちで、地獄へ<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちてゆくのだわ――」

とジュリアはヒステリックに云って、ハンカチーフを鼻に当てた。彼女の<ruby><rb>打数</rb><rt>だすう</rt></ruby>はいよいよ荒れていった。

そんな風にして、コースを一<ruby><rb>巡</rb><rt>じゅん</rt></ruby>した結果は、大江山がズバ抜けて成績がよく、ずっと落ちて普通の成績を示したのが蝋山教授と矢走千鳥で、雁金検事も西一郎も更に振わず、ジュリアに至っては荒れ切った悪成績だった。

「イヤ恐ろしい成績表だ。全く恐ろしい」

と雁金検事は首を振って一郎の顔をみた。

「全く、こんなに恐ろしく打てようとは、当人の方で<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>っているところですよ」

と大江山課長は自分のことが問題にされているんだと<ruby><rb>早合点</rb><rt>はやがてん</rt></ruby>して、<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>り<ruby><rb>悪</rb><rt>わ</rt></ruby>る<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>にいった。

「時間があれば、もっと廻りたいのだが……」

と検事が云ったが、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い当りをみせた大江山も<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby><ruby><rb>同感</rb><rt>どうかん</rt></ruby>だった。しかしジュリア達の出演時刻のこともあるので、時間が足りないから<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めにした。その代り検事と課長は練習場で、<ruby><rb>球</rb><rt>ボール</rt></ruby>を<ruby><rb>戞</rb><rt>か</rt></ruby>ッ飛ばしに出ていった。ジュリアと千鳥とは、その間にクラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>の奥にある<ruby><rb>噴泉浴</rb><rt>ふんせんよく</rt></ruby>へ出かけた。蝋山教授と一郎とは、青々としたグリーンを眺められる休憩室の<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>に腰を下ろして、紅茶を注文した。こうして六人の同勢は三方に別れた。

大江山課長は人気のない練習場でクラブを振りながら、雁金に話しかけた。

「検事さん。今日の集りの<ruby><rb>真意</rb><rt>しんい</rt></ruby>はどこにあるのですかなア」と<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から聞きたかったことを<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うん――」と雁金は振りかけたクラブを止めて、「<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>にもよく分らぬが、これは青竜王の注文なのだ」

「えッ、青竜王の注文？」と課長はサッと青ざめた。

「彼はゲームの結果を知りたがっていた。さし<ruby><rb>当</rb><rt>あた</rt></ruby>り、君の大当りなんか、何といって彼が説明するだろうかなア。はッはッはッ」

外国の名探偵が、真犯人を探し出すために、<ruby><rb>嫌疑者</rb><rt>けんぎしゃ</rt></ruby>を一室にあつめてトランプ競技をさせ、その勝負の模様によって判定したという話を聞いたことがあるが、青竜王はそれに似たことをやるのではあるまいか。とにかく課長は<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になって、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに<ruby><rb>球</rb><rt>ボール</rt></ruby>が飛ばなくなった。

「検事さん。青竜王は貴方がたにゴルフをさせて置いて、自分はこの玉川でパチノの遺族を探しているそうですが、御存知ですか」

「そうかも知れないネ」

「では青竜王の居るところを御存知なんですネ。至急会いたいのです。教えて下さい」

「教えてくれって？　君が行って会えばいいじゃないか」

検事は妙な返事をした。課長は検事が機嫌を<ruby><rb>損</rb><rt>そん</rt></ruby>じたのだと思って、あとは口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。

丁度そのときだった。クラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>の方で、俄かに人の立ち騒ぐ声が聞えた。課長がふりかえると、クラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>のボーイが大声で叫んだ。

「皆さん、早く来て下さーい。御婦人が襲われていまーすッ」

御婦人？――検事と課長とはクラブを投げ捨て、クラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>へ駈けつけた。

<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>われた<ruby><rb>裸女</rb><rt>らじょ</rt></ruby>

この突発事件が起ったところは、クラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>の中の<ruby><rb>噴泉浴室</rb><rt>ふんせんよくしつ</rt></ruby>のあるところだった。

それより三十分ほど前、その婦人用の浴室の二つが契約された。もちろんそれは赤星ジュリアと矢走千鳥の二人が、汗にまみれた身体を噴泉で洗うためだった。当時この広い浴場は、二人の外に誰も使用を契約していなかった。

ジュリアは第四号室を、千鳥の方はその隣りの第五号室を借りた。その浴室は、<ruby><rb>公衆電話函</rb><rt>こうしゅうでんわばこ</rt></ruby>を二つ並べたようになっていて、入口に近い<ruby><rb>仕切</rb><rt>しきり</rt></ruby>の中で衣類を脱ぎ、その奥に入ると、白いタイルで張りつめた洗い場になっていて、<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>をひねると天井からシャーッと<ruby><rb>温湯</rb><rt>おんとう</rt></ruby>が<ruby><rb>滝</rb><rt>たき</rt></ruby>のように降ってくるのであった。婦人たちのためには、セロファンで作った透明な袋があって、これを頭から<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ってやれば、髪は湯に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れずに<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>んだ。

二人はゴトゴトと音をさせながら、着物を脱いだ。

「お姉さま」と千鳥が<ruby><rb>隣室</rb><rt>りんしつ</rt></ruby>から呼んだ。

「なーに、<ruby><rb>千</rb><rt>ち</rt></ruby>いちゃん」

「あたし、何だか怖いわ。だってあまり静かなんですもの」

「おかしな人ネ。静かでいい気持じゃないの」

そういってジュリアは奥に入ると、シャーッと白い噴泉を真白な<ruby><rb>裸身</rb><rt>らしん</rt></ruby>に<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びた。

「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。

「お姉さまが黙っていると、なんだか、<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと？」

「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」

そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の<ruby><rb>十八番</rb><rt>おはこ</rt></ruby>の「赤い苺の実」の歌だった。

千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた<ruby><rb>四肢</rb><rt>しし</rt></ruby>を洗いはじめた。

それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として<ruby><rb>魂消</rb><rt>たまぎ</rt></ruby>るような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>にガチャーンといって<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>れるような<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい音がして、これにはクラブ<ruby><rb>館</rb><rt>ハウス</rt></ruby>の誰もがハッキリと<ruby><rb>変事</rb><rt>へんじ</rt></ruby>に気がついたのだった。

いつもは男子絶対<ruby><rb>禁制</rb><rt>きんせい</rt></ruby>の婦人浴場だったけれど、<ruby><rb>誰彼</rb><rt>だれかれ</rt></ruby>の差別なく、入口から<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れこんだ。

「どうしましたッ」

と<ruby><rb>真先</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に入ったのは、クラブの事務長の<ruby><rb>大杉</rb><rt>おおすぎ</rt></ruby>だった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。

彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎ<ruby><rb>放</rb><rt>ぱな</rt></ruby>しになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。

彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>した。そこには派手な千鳥の衣類が花を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>いたように<ruby><rb>床上</rb><rt>ゆかうえ</rt></ruby>に<ruby><rb>散乱</rb><rt>さんらん</rt></ruby>していた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ！」

と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸も<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>わないジュリアが、<ruby><rb>大理石彫</rb><rt>だいりせきぼ</rt></ruby>りの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。

「オイ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いた<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いた」

と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。

噴泉を停め、ジュリアを抱き起すと、彼女は<ruby><rb>失心</rb><rt>しっしん</rt></ruby>からやっと気がついた。

「どうしたのです。そして千鳥さんは……」

「ああ、<ruby><rb>千</rb><rt>ち</rt></ruby>いちゃんは、……」とジュリアは白い腕を頭の方にあげて何か考えているようだったが、

「――誰かが<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>って……」といって入口の方を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>したと思うと、ガックリと頭を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れた。ジュリアはまた失心してしまったのだった。

「ナニ、千鳥さんは攫われたというのか」

課長はジュリアを検事に預けて、自分は浴室を飛びだした。見ると正面の窓硝子が上に開いて、しかも硝子が<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れている。さっきの<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い音はこれだったのだ。怪人物は千鳥を奪って、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から逃げたのに違いない。

彼はヒラリと窓を飛び越して、外へ出た。

そしてあたりを見廻わしたが、クラブの<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いの外は、<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる草原が見えるばかりで、怪人物の姿は何処にも見えなかった。ただ<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か向うを、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる<ruby><rb>砂塵</rb><rt>さじん</rt></ruby>が移動してゆくのが目に入った。

「ああ、あれだッ。自動車で逃げたナ」

彼は玄関に廻ってみると、そこで<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来た運転手とバッタリ出会った。

「課長さん。自動車を盗まれてしまいました」

と運転手は青くなって云った。

後には自動車が一台もなかった。だから向うを怪人物が<ruby><rb>裸身</rb><rt>らしん</rt></ruby>の矢走千鳥を乗せたまま逃げてゆくのを望みながらも、何の追跡する方法もなかった。

「そうだ、電話をかけよう」

事務室に飛びこんだ課長は、まどろこしい郊外電話に<ruby><rb>癇癪玉</rb><rt>かんしゃくだま</rt></ruby>を爆発させながら、それでも<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く警察署を呼び出し、自動車<ruby><rb>取押</rb><rt>とりおさ</rt></ruby>え<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>の手配をするとともに、また<ruby><rb>至急</rb><rt>しきゅう</rt></ruby>自動車をゴルフ場へ廻すように頼んだ。そして検事の待っている方へ歩いていった。

ジュリアは事務室の中で、<ruby><rb>急拵</rb><rt>きゅうごしら</rt></ruby>えのベッドの上に寝かされていた。<ruby><rb>枕頭</rb><rt>ちんとう</rt></ruby>には医学博士蝋山教授が法医学とは勝手ちがいながら何くれとなく世話をしていた。雁金検事は腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>いて<ruby><rb>沈思</rb><rt>ちんし</rt></ruby>していたが、課長の入ってくるのを見るなり、

「矢走<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>は見つかったかネ」

と聞いた。課長は<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を報告して、見失ったのを残念がった。

「ジュリアさんは、何か話をしましたか」

と課長の問うのに対し、検事は<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>い<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>まんで話をした。――ジュリアの話によると、彼女は噴泉を浴びているうちに、隣室の千鳥が只ならぬ悲鳴をあげたので、<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて隣室へ飛びこんでみると、どこから入ったか、一人の怪漢が千鳥を襲っているので、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から組みついたところ、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち振り倒されて気を失った。気がついたら、こんなところに寝ていたというのであった。

「その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか」

「<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の出来ごとで、何も分らないそうだ。<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から組みついたので、顔も見えないというのだよ」

そのときジュリアは目をパッチリ明いて、もう大丈夫だから、竜宮劇場の出場に間に合うよう帰りたい。西一郎を呼んでくれるようにと云った。

「ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです」

「一郎君が見えないネ。――」

と<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>をうっているところへ、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が明いて、彼がヌッと入って来た。

「オイ君はこの騒ぎの中、どこにいたのだい」

と課長は目を光らせていった。

「ちょっと外へ出て、畠を見ていたのです。都会人はこんなときでなければ、野菜の生えているところなんか見られませんよ」と云ったけれど、何だかわざとらしい弁解のように聞えた。

ジュリアは西の声を聞くと、<ruby><rb>一層</rb><rt>いっそう</rt></ruby>帰りたがった。そこで西の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に検事が附添って帰ることになり、大江山課長と蝋山教授は残ることになった。丁度警察から差し廻しの自動車が来ていたので、三人は直ぐ東京へ出発することが出来た。

「どうも西という男は<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>だて」と、蝋山教授は頭を大きく左右へ振った。

「まさか西一郎が、千鳥を襲撃したのじゃあるまいな」と課長は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をいった。

「それは何とも云えぬ。――」

といっているところへ、<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>をプーッと吹き鳴らしつつ、紛失した大江山の自動車が帰って来た。課長は愕いて玄関へ走りだしたが、中からは意外にも、彼の連れていた運転手の<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔が現れた。

「自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです」

「フーン」

と大江山は<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った。一体何者の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>か。西一郎がやったのか、それとも例のポントスが現れたのか、或いはまたその辺を<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>している筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天に<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>けたか地に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>ったか、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として消息が入らなかった。

だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は<ruby><rb>多摩川</rb><rt>たまがわ</rt></ruby>を<ruby><rb>眼下</rb><rt>がんか</rt></ruby>に見下ろす、某病院の<ruby><rb>隔離病室</rb><rt>かくりびょうしつ</rt></ruby>のベッドの上で、院長の手厚い<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>をうけていた。

「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」

「あたくし、誰かに逢いたいのですが」

「イヤ<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もです。そのうち<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>か見えましょう」

そんな会話が<ruby><rb>繰返</rb><rt>くりかえ</rt></ruby>されているうちに、<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。

「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」

西はただニコニコ笑うだけだった。

「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」

「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」

「ええ、貴方が<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」

「なんです、千鳥さん」

「あたくし、<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」

「感謝？――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りますよ。何ごとも<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってはいけません。千鳥さんは当分、<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>ける<ruby><rb>屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」

「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」

といってニッコリ微笑んだが、<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。

覆面探偵の<ruby><rb>危難</rb><rt>きなん</rt></ruby>

<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>の<ruby><rb>誘拐事件</rb><rt>ゆうかいじけん</rt></ruby>は、なんの<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りもなく、それから一日過ぎた。

雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。

「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の<ruby><rb>神隠</rb><rt>かみがく</rt></ruby>しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの<ruby><rb>半径</rb><rt>はんけい</rt></ruby>の中なら、一軒一軒当っていっても<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が<ruby><rb>六</rb><rt>むつ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>いと思うが……」

「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいて、<ruby><rb>別途</rb><rt>べっと</rt></ruby>から犯人を探しています」

「別途からというと、君の<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>っている犯人というのは誰だい」

「ポントス――つまりキャバレーの<ruby><rb>失踪</rb><rt>しっそう</rt></ruby>した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。<ruby><rb>今明日中</rb><rt>こんみょうにちじゅう</rt></ruby>にきっと発見してみせますから」

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>はもう死んでいるのじゃないか」

「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」

「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え」

大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。

「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」

「ほほう。イヤこれは<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>んなことだ」

「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」

「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>りだ」

「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」

「うん、それはお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え<ruby><rb>向</rb><rt>む</rt></ruby>きだ。では<ruby><rb>新選組</rb><rt>しんせんぐみ</rt></ruby>を百名ばかり貸そうかネ」

「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」

「そんな勝手な条件なんか、<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>したまえ」

「そうはいかないですよ。――で僕は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」

「なんだ、手紙が入っているんだって？」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ明けられるじゃないか」

「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今<ruby><rb>御覧</rb><rt>ごらん</rt></ruby>になっても<ruby><rb>白紙</rb><rt>はくし</rt></ruby>ですよ」

チェッと雁金検事が舌打ちをした<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、相手の受話機がガチャリと掛った。

その日の夕刻、丁度<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、<ruby><rb>前代未聞</rb><rt>ぜんだいみもん</rt></ruby>の奇妙な会見が行われていた。

まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>があり、それを<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで二人の人物が<ruby><rb>相対</rb><rt>あいたい</rt></ruby>していた。

入口に遠い方にいる人物は<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>、身体を椅子ごと太い<ruby><rb>麻縄</rb><rt>あさなわ</rt></ruby>でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>をスッポリ<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた。そして右手には鋭い<ruby><rb>薄刃</rb><rt>うすば</rt></ruby>のナイフを<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>えて、イザといえば飛び掛ろうという<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。

「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は<ruby><rb>皺枯</rb><rt>しわが</rt></ruby>れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。

「……」青竜王は無言で、石のように動かない。

「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と<ruby><rb>憎々</rb><rt>にくにく</rt></ruby>しげに云った。

「約束を<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>えるなんて、<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。

「お前は<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>だよ。――<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」

と、まるで芝居がかりの<ruby><rb>妖婆</rb><rt>ようば</rt></ruby>のような口調でいった。そして短刀を<ruby><rb>擬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。

「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」

「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」

「僕はこれまで、かなり君を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」

「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」

と、<ruby><rb>悪鬼</rb><rt>あっき</rt></ruby>は<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を固めて、青竜王を<ruby><rb>丁々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>と<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。探偵は歯を喰い縛って<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えた。

「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」

ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。

「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。探偵はウムと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>って<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えた。

「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが<ruby><rb>官憲</rb><rt>かんけん</rt></ruby>に知れると、立ち<ruby><rb>所</rb><rt>どころ</rt></ruby>に君は殺人魔として<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>されるところだった。僕はそれを西一郎の手を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て君の手に戻してやった」

「<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は<ruby><rb>剰</rb><rt>あま</rt></ruby>すところ一分だよ」

「君に<ruby><rb>悔</rb><rt>く</rt></ruby>い<ruby><rb>改</rb><rt>あらた</rt></ruby>めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」

「<ruby><rb>感傷</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>はよせよ。みっともない」

「ああ、<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて殺されよう。だが只一つ最後に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」

「そんなことなら、あの世への<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」

「そうか、パチノが先祖から<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けついだ吸血病か、そうして<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に君にまで伝わったのか、パチノの<ruby><rb>曾孫</rb><rt>そうそん</rt></ruby>にあたる<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が……」

「お黙り！――」と、悪鬼は足を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げて、青竜王の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>をドンと蹴った。

「ウーム」

と彼が呻きながら、その場に<ruby><rb>悶絶</rb><rt>もんぜつ</rt></ruby>した。

「ああ、それ以上の<ruby><rb>悪罵</rb><rt>あくば</rt></ruby>に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの<ruby><rb>頸笛</rb><rt>くびぶえ</rt></ruby>から吸わせて貰おうよ」

と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた<ruby><rb>黒布</rb><rt>こくふ</rt></ruby>に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>、意外にも意外、それは金髪を美しく<ruby><rb>梳</rb><rt>くしけず</rt></ruby>った若い洋装の女だった。その顔は――<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>横向きになっているので、<ruby><rb>見定</rb><rt>みさだ</rt></ruby>めがたい！

毒の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>のような<ruby><rb>妖女</rb><rt>ようじょ</rt></ruby>の手が動いて、黄昏の空気がキラリと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひか</rt></ruby>ったのは、彼女の<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。

「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、<ruby><rb>今際</rb><rt>いまわ</rt></ruby>の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」

そう<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>をいって、彼女はサッと覆面を引き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも<ruby><rb>端正</rb><rt>たんせい</rt></ruby>な容貌！

「ああ、貴下は……西一郎！」

そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の場合、作り声ではなく、彼女の<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>の声――<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のように澄んだ若々しい<ruby><rb>美声</rb><rt>びせい</rt></ruby>だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を<ruby><rb>博</rb><rt>はく</rt></ruby>している名探偵青竜王の正体は、<ruby><rb>白面</rb><rt>はくめん</rt></ruby>の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>られた四郎少年こそは、彼と血を分けた<ruby><rb>愛弟</rb><rt>あいてい</rt></ruby>だったのだ！

「ああ、あたしは……」と妖女は胸を<ruby><rb>大濤</rb><rt>おおなみ</rt></ruby>のように、はげしく<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。思いがけない大きな驚きに全く<ruby><rb>途方</rb><rt>とほう</rt></ruby>に暮れ果てたという形だった。

「やっぱり、刺し殺すのだ！」

と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。

「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ！」

そういった妖女は、青竜王の身近くによると、<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。

かくて<ruby><rb>風前</rb><rt>ふうぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ともしび</rt></ruby>のように<ruby><rb>危</rb><rt>あやう</rt></ruby>かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。

<ruby><rb>大団円</rb><rt>だいだんえん</rt></ruby>、死の<ruby><rb>舞踊</rb><rt>ぶよう</rt></ruby>

「――検事さん！　雁金さんは何処へ行かれた？」

と、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。

「おう、どうしたかネ、大江山君」

検事は<ruby><rb>書見</rb><rt>しょけん</rt></ruby>をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。

「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」

「ポントスを生捕りにしたのかネ」

「いえ<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」

「ほほう、それは出かしたネ」

「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れ<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは生きていたらしいですネ」

「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」

「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」

といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>べて、静かに読み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>した。

「ほほう、――」と彼は<ruby><rb>感歎</rb><rt>かんたん</rt></ruby>の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」

と検事は<ruby><rb>悲痛</rb><rt>ひつう</rt></ruby>な<ruby><rb>面持</rb><rt>おももち</rt></ruby>で、あらぬ方を見つめた。

「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」

そこで課長はもどかしそうに叫んだ。

「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの<ruby><rb>惨劇</rb><rt>さんげき</rt></ruby>で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは<ruby><rb>夜陰</rb><rt>やいん</rt></ruby>に<ruby><rb>乗</rb><rt>じょう</rt></ruby>じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの<ruby><rb>独唱</rb><rt>どくしょう</rt></ruby>を聞かせられながら、<ruby><rb>頸部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」

検事は<ruby><rb>黙々</rb><rt>もくもく</rt></ruby>として<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。

「よろしい。――が、いま時刻は……」

「もう三分で午後九時です」

「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>が待っている電話があるのだから」

大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、<ruby><rb>正</rb><rt>しょう</rt></ruby>九時を知らせる時計が鳴りだした。

「<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に電話は来ない。――」と検事は低い声で<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」

そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の<ruby><rb>書簡箋</rb><rt>しょかんせん</rt></ruby>を取出すと、開いてみた。そこには淡い<ruby><rb>小豆色</rb><rt>あずきいろ</rt></ruby>のインキで、

「赤星ジュリア！」

という文字が浮きだしていた。

「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>する者だ！」

といって検事は、大江山課長の手を強く握った。

「それで青竜王はどうしたんです」

と大江山が不審がるので、雁金検事は<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を手短かに物語り、九時までに彼の電話が<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>って来る筈だったのだと説明した。

「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>している場合ではありません。<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに私たちに踏みこませて下さい」

「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」

そういって雁金検事は椅子から立ち上った。

検察官は重大な決心を固めて、<ruby><rb>奮</rb><rt>ふる</rt></ruby>い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。

一行の自動車が日比谷の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の<ruby><rb>唯中</rb><rt>ただなか</rt></ruby>に、<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>輝</rb><rt>かがや</rt></ruby>く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の<ruby><rb>大殿堂</rb><rt>だいでんどう</rt></ruby>は、どこに<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている白色の円い<ruby><rb>壁体</rb><rt>へきたい</rt></ruby>の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の<ruby><rb>舞姫</rb><rt>まいひめ</rt></ruby>赤星ジュリア一座」とか「堂々<ruby><rb>続演</rb><rt>ぞくえん</rt></ruby>十七週間――赤き苺の実！」などと<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かな文字で<ruby><rb>大書</rb><rt>たいしょ</rt></ruby>してあるのが見えた。ああ真に一代の<ruby><rb>妖姫</rb><rt>ようき</rt></ruby>ジュリア！

大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべき<ruby><rb>魔神</rb><rt>まじん</rt></ruby>なりとも、もう袋の鼠同様だった。

「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」

と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。

「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」

「そうかネ、フーム……」

と検事は大きな<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をした。そして<ruby><rb>秘</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>った座席の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に、見覚えのある「赤い苺の実」の<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる舞台面が展開していた。<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の隙間を通じて、

「あたしの大好きな

<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な苺の実

いずくにあるのでしょう

いま――

欲しいのですけれど……」

と、<ruby><rb>豊潤</rb><rt>ほうじゅん</rt></ruby>な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に<ruby><rb>急調</rb><rt>きゅうちょう</rt></ruby>なステップを踏んでいた。

「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び<ruby><rb>掛</rb><rt>かか</rt></ruby>るんですか……」

「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。

「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>いかねますよ。――」

と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。

「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>のことなら、まあ大丈夫だよ」

と検事は<ruby><rb>先刻</rb><rt>せんこく</rt></ruby>とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。

それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている<ruby><rb>燕尾服</rb><rt>えんびふく</rt></ruby>の俳優は、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。

だが青竜王は、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが<ruby><rb>蜉蝣</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の生命よりももっと<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき<ruby><rb>罪障</rb><rt>ざいしょう</rt></ruby>をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって<ruby><rb>浄化</rb><rt>じょうか</rt></ruby>したいと願っている。――一つは<ruby><rb>大洪水</rb><rt>だいこうずい</rt></ruby>のような司法の力、一つは<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>で作った<ruby><rb>羽毛</rb><rt>うもう</rt></ruby>のようにまことに<ruby><rb>脆弱</rb><rt>ぜいじゃく</rt></ruby>な魂――その二つの間に<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれた彼、青竜王の心境は実に<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>かった。

――なんとかして、最後の舞台を力一杯に<ruby><rb>勤</rb><rt>つと</rt></ruby>めさせたい！

と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。

「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」

「あたしも<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」

――ジュリア、どうした！

と、三階席から<ruby><rb>無遠慮</rb><rt>ぶえんりょ</rt></ruby>な声が飛んだ。

それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。

――ジュリア、帰って<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ってこい！

と、続いて二階から<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声が響いた。

ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な<ruby><rb>鴕鳥</rb><rt>だちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>羽毛</rb><rt>はね</rt></ruby>で作った大きな<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>がブルブルと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。

「別れの<ruby><rb>冬木立</rb><rt>ふゆこだち</rt></ruby>

<ruby><rb>遺品</rb><rt>かたみ</rt></ruby>にちょうだいな

あなたの心臓を

ええ――

あたしは吸血鬼……」

という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙を<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いだ。――そこで曲目は<ruby><rb>断層</rb><rt>だんそう</rt></ruby>をしたかのように変化し、<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>にして<ruby><rb>妖艶</rb><rt>ようえん</rt></ruby>かぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの<ruby><rb>無気力</rb><rt>むきりょく</rt></ruby>では、その辺で<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りもなく舞台の上に<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議！　彼女は生れ変ったように<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>として舞台の上を踊り狂った。

ウワーッ！　という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く<ruby><rb>大天井</rb><rt>だいてんじょう</rt></ruby>も<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>ぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からも<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き起った。

「ジュリア！　世界一のジュリア！」

「われらのプリ・マドンナ、ジュリア！」

「殺してくれい、ジュリア！」

「百万ドルの女優！」

と、後はなにがなんだか、<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>れかえるような騒ぎで、合唱も器楽も<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み消されてしまった。実に<ruby><rb>空前</rb><rt>くうぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>大喝采</rb><rt>だいかっさい</rt></ruby>、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか？

一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。

「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>れる！」

しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の<ruby><rb>絶頂</rb><rt>ぜっちょう</rt></ruby>に、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんぱつ</rt></ruby>を入れず、舞台監督の機転で、大きな<ruby><rb>緞帳</rb><rt>どんちょう</rt></ruby>がスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。

青竜王の西一郎は、誰よりも<ruby><rb>真先</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に飛んで来て、ジュリアを抱き起した。

「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」

ジュリアはまるで意識がなかった。

「早く医者を呼んで……」

青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアを<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。

<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>がフワリと掛けてあった。

「ああ、これがジュリアの<ruby><rb>覚悟</rb><rt>かくご</rt></ruby>だったんです」

そういって青竜王は、ジュリアをソッとその<ruby><rb>白絹</rb><rt>しろぎぬ</rt></ruby>の上に横たえた。――右の<ruby><rb>上膊</rb><rt>じょうはく</rt></ruby>に、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血を<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>いているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>にとって、何の足しにもならなかった。

近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語も<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ろうとはしなかった。

「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」

といって、青竜王はジュリアの額を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやった。その声が感じたのか、ジュリアは<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、

「千鳥さんにも、<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」

とまで云ったかと思うと、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。

「ああ、お気の毒なことをしました。<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>、<ruby><rb>御臨終</rb><rt>ごりんじゅう</rt></ruby>です」

と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの<ruby><rb>遺骸</rb><rt>いがい</rt></ruby>に向い<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく敬礼をした。

先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき<ruby><rb>目交</rb><rt>めくば</rt></ruby>せをすると、静かにジュリアの<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に歩をうつして、ジュリアの冥福を<ruby><rb>祈念</rb><rt>きねん</rt></ruby>した。

「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。

二人は軽く<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>ろうとは思っていなかったでしょうに……」

といって、一郎は<ruby><rb>暗然</rb><rt>あんぜん</rt></ruby>と涙を<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。そして懐中を<ruby><rb>探</rb><rt>さ</rt></ruby>ぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。

「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になりました」

そういって青竜王ならぬ一郎は、<ruby><rb>卓越</rb><rt>たくえつ</rt></ruby>した<ruby><rb>手腕</rb><rt>しゅわん</rt></ruby>を<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら惜し気もなく捨ててしまった。

ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった<ruby><rb>舞姫</rb><rt>まいひめ</rt></ruby>たちが、何処からともなく持ってくる白い<ruby><rb>百合</rb><rt>ゆり</rt></ruby>やカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちに<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>もれていった。

＊　　　＊　　　＊

一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを<ruby><rb>矢走千鳥</rb><rt>やばせちどり</rt></ruby>に伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて<ruby><rb>円満</rb><rt>えんまん</rt></ruby>である。

「君は（――と一郎は<ruby><rb>愛妻</rb><rt>あいさい</rt></ruby>のことを今もこう呼んでいた）青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなった時まで知らなかったろう」

「アラ<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」

「へえ、そうかネ」

「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは<ruby><rb>薄目</rb><rt>うすめ</rt></ruby>を開いてみたんですの。<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」

「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を<ruby><rb>妻君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>にしたことは大成功だろう。はッはッはッ」