Soranoha

赤外線男

せきがいせんおとこ

海野 十三

1

この奇怪きかい極きわまる探偵事件に、主人公を勤める「赤外線男せきがいせんおとこ」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に於おいて、いまだ曾かつて認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在――それを説明する前に筆者は是非ぜひとも、ついこのあいだ東都とうとに起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一迷宮めいきゅう事件について述べなければならない。

これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、識しっている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の摩訶不思議まかふしぎな「赤外線男」事件を解とく一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、尚更なおさら逸いっすることのできない話である。

なんかと云って筆者わたくしは、話の最初に於て、安薬やすぐすりの効能こうのうのような台辞せりふをあまりクドクドと述べたてている厚顔こうがんさに、自分自身でも夙とくに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの彼かの大きな駭おどろきと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの言草いいぐさも、結局大した罪にならないと考えられる。――

さてその日は四月六日で、月曜日だった。

ところは大東京だいとうきょうで一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。

それは丁度ちょうど午前十時半ごろだった。この時刻には、流石さすがの新宿駅もヒッソリ閑かんとして、プラットホームに立ち並ぶ人影も疎まばらであった。

あの六番線のホームには、中央あたりに荷物上あげ下さげ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な囲かこいが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ布きれなどの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、傍そばに青い帽子を被かぶった駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。

このエレヴェーターとレールとの間のホームの幅はばは、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の明あいているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が凭もたれているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、其その美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「佐用媛さよひめの巌いわ」と呼び慣わしていた。かの松浦佐用媛まつうらさよひめが、帰りくる人の姿を海原うなばら遠くに求めて得ず、遂に巌いわに化したという故事こじから名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。

その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。鶯色うぐいすいろのコートに、お定りの狐きつねの襟巻えりまきをして、真赤まっかなハンドバッグをクリーム色の手袋の嵌はまった優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には小紋こもんらしい紫むらさきがかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、白足袋しろたびにはフェルト草履ぞうりのこれも鶯色の合あわせ鼻緒はなおがギュッと噛かみついていた――それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。尤もっともホームは至って閑散かんさんで、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの品川しながわ廻まわり東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の硝子ガラス窓の中には、まだ昨夜の夢の醒さめきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。

「呀あッ!!」

運転手は弾はじかれたように、座席から立ちあがった。彼の面おもてはサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。

ゴトリ。……ゴトリ。……

車輪とレールとの間に、確かな手応てごたえがあった。あのたまらなくハッキリした轢音れきおんが……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸めがけて飛びこんだのだ!

それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。

現場の落花狼藉らっかろうぜきは、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。

「……というような着衣ちゃくいの上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円札さつで九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢としですか。それがどうも明瞭めいりょうでありませぬ。何なんしろ、顔面かおを滅茶滅茶めちゃめちゃにやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄がらや、四肢ししの発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」

係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥のみこんだ。

やがて鶯色のコートを着た轢死婦人れきしふじんの屍体したいは、その最期さいごを遂げた砂利場じゃりばから動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書すじがきだったが、どうしたものか何時いつまで経たっても引取人ひきとりにんが現れない。告知板こくちばんに掲示けいじをしてある外ほか、午後一時のラジオで「行路病者こうろびょうしゃ」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更さらに引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議千万せんばんだと署員が噂うわさし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後れきしご、丁度ちょうど十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。

それは隅田乙吉すみだおときちと名乗る東京市中野区の某ぼう料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子テーブルの上に拡ひろげられた数々の遺留品いりゅうひんを一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末すえの妹だったのだ。

「このコンパクトですがネ、梅子うめこ――これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋ふたをあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良ふりょうの方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達同胞きょうだいもいけなかったんです。何なにしろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末すえッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣こづかいヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩かさでした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石さすがの同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭しりぬぐいに耐たえきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又また金の無心むしんです。これが最後だというので百円呉くれてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨むごたらしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」

顔面かおは判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々肯定こうていしたので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝しゃし、屍体は持参じさんの棺桶かんおけに収おさめ所持品は風呂敷ふろしきに包んで帰りかけた。

「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係しほうがかりの熊岡くまおかという警官が席から立ち上って来た。

「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又卓子テーブルの上に置いて振りかえった。

「君はこんなものを知らんか」

警官は掌ての上に、ヨーヨーを横に寝かしたような紙函かみばこを載せて、乙吉の方にさしだした。

「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物こうぶつの標本ひょうほんを入れるのに使う平べったい円形えんけいのボール函ばこで、上が硝子ガラスになっていた。硝子の窓から内部なかを覗のぞいてみると、底にはふくよかな脱脂綿だっしめんの褥しとねがあって、その上に茶っぽい硝子屑くずのようなものが散らばっている。

「判らんかネ」と警官は再び尋たずねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」

「どこに御座いましたのですか」

「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅すみからゴミと一緒に拾い出したのだ」

「さあ、どうも見当けんとうがつきませんが……」

どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上追究ついきゅうしたり、また今とりつつある上官じょうかんの処置に異議いぎを挿はさもうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。

隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到さっとうして来た。

「とうとう、新宿の轢死美人れきしびじんの身許みもとが判ったてじゃありませんか。誰だったんです」

「自殺の原因は何です」

「全然素人しろうとじゃないという噂うわさもありましたが……」

当直とうちょくは、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿はげ頭を掻かいた。

「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」

本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸おおあくびした。記者連きしゃれんもこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤あやまりだったような気がして、一緒に欠伸を催もよおしたほどだった。

しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互たがいに血相けっそうをかえて「怪事件発生」を喚わめきあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。

2

それから二十四時間ほど経った。

同じ警察署の夜更よふけである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑かんとしていた。

そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。

ギーッ、ギーッという音に、不図ふと気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚ぶあつな犯罪文献はんざいぶんけんらしいものから、顔をあげて入口を見た。

「だッ誰かッ」

夜勤やきんの署員たちは、熊岡の声に、一斉いっせいに入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って巌いわのように動かない。

「うぬッ」

熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして扉ドアに手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには外面とのもの黒手くろてのような暗闇やみばかりが眼に映うつった。

「オヤー」

熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に躍おどり出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒……。空間も時間も化石かせきした。

風船がパンクするように戸口がサッと開いた。

「さア、こっちへ這入はいれ!」

熊岡警官の怒号どごうと諸共もろとも、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」

昨夜ゆうべとは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、駭おどろいたのは熊岡警官だった。

「なあーンだ。君は妹の轢死体れきしたいを引取って行った男じゃないか」

「うん、隅田乙吉だな」見識みしり越しの刑事も呻った。「どうしたのか」

たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の悠然ゆうぜんたる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている様子ようすだった。

「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の戸口とぐちを覗うなんて、何事かッ」

「いや申します、申上げます」熊岡警官の追窮ついきゅうに隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」

「うむ」

「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴ちょうだいいたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死しに様ようでございますから、お通夜つうやも身内だけとし、今日の夕刻ゆうこく、先祖せんぞ代々伝つたわって居ります永正寺えいしょうじの墓地ぼちへ持って参り葬ほうむったのでございます」

「それから……」

「葬とむらいもすみまして、自宅の仏壇ぶつだんの前に、同胞きょうだいをはじめ一家のものが、仏ほとけの噂さをしあっていますと、丁度ちょうど今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて……仏が帰って来たのでございます」

「なにーッ、仏が帰って来た?」警官の顔がサッと緊張した。いやな顔をして背中の方に首を廻した刑事もあった。

「死んだ筈はずの梅子が帰ってきたんです。こりゃ、てっきり化けて出たのだと思い、一同しばらくは寄よりつきませんでしたが、いろいろ観察したり押問答おしもんどうをしているうちに、どうやら生きている梅子らしい気がして来ました。そこで寄ってたかって聞いてみますと、梅子のやつ情夫じょうふと熱海あたみへ行っていたというのです。それを聞いて同胞は、夢のように喜び合ったわけでございますが、一方に於おきまして、真まことにどうも……」と隅田乙吉は下を向いて恐おそれ入いった。

「莫迦ばかな奴ッ」と宿直が呶鳴どなった。「では昨夜本署から引取っていった若い女の轢死体というのは、お前の妹ではなかったというのだな」

「どうも何ともはや……」

「何ともはやで、済すむと思うかッ」宿直はあとでジロリと一座の署員を睨にらみまわした。昨夜の当直の名を大声で云って、(馬鹿野郎)と叩きつけたい位だった。他人の死骸を引取って行った奴も奴なら、引取らした奴も奴である。

「昨夜この男がデスナ」と側かたわらの刑事が弁解らしく口を挿はさんだ。「轢死婦人の衣類や所持品を一々点検てんけんしまして、これは全部妹の持ち物に違いない。このコンパクトがどうの、この帯どめがどうのと本当らしいことを云っていったのです。ですから昨夜の当直も信じられたのだと思います」

「イヤ全まったく、あれは本当なのです」と隅田乙吉がたまりかねて声をあげた。「あれは出鱈目でたらめでなくて間違いないのです。妹のものに違いないのですが、さっき漂然ひょうぜんと帰宅した本物の妹も、あれと同じ衣類を着、同じハンドバッグや、コンパクトなどを持っているのです。つまり同じ服装をし、同じ持ち物をした婦人が二人あったという事になるので、これは私どもには不思議というより外ほか、説明のつかないことなのです」

これを聞いていた一座は、ギクリと胸に釘くぎをうたれたように感じた。どうやらこれは単純な轢死事件ばかりとは云えぬらしい。

「しかし隅田」と当直は口を開いた。「兎とに角かく、お前は他人の屍体を処分してしまったことになるネ。あの轢死婦人の骨は持ってきたか」

「いや、それがです。実は火葬にしなかったのです」

「火葬にしなかった?」

「はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々土葬どそうということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の遺骸いがいも、白木しらきの棺かんに納おさめまして、そのまま土葬してございますような次第しだいです」

「ううん、土葬か」当直は、なあンだというような顔をした。「では直ぐに掘り出して、本署へ搬はこんで来い。警官を立ち合わせるから、その指揮しきを仰あおぐのだ。よいか」

熊岡警官は、隅田乙吉について現場げんじょうへ出張することを命ぜられた。

どうも、粗忽そこつにも程ほどがあるというものだ。いくら独ひとり歩あるきをさせてある妹だからといって、顔面かおが粉砕ふんさいしてはいるが、身体の其の他の部分に何か見覚えの特徴があったろうし、また衣類や所持品が同じだといっても、そんなに厳密に同じものがあろう筈がない。これは警察の方でも屍体を持てあまし、早く処分したいと考えていたので、よくも検しらべず下さげ渡わたしたもので、引取人の乙吉が生れつきの粗忽者であることを知らなかったせいであると、当直とうちょくは断定した。そして熊岡警官が、婦人の屍体を掘りだしてくれば、再検査をすることによって、どこの誰だか判明するだろうと考えた。

皆が出ていってから時間が相当経った。もう今頃は、隅田家すみだけの墓地へ着いて暗闇の中に警察の提灯ちょうちんをふっているころだろう。掘りだした屍体がここへ帰ってくるまでには、まだ暇ひまがあった。今のうちに喰べるものは喰べて置かないと、たとい若い婦人にしても、顔面のない屍体を見ると食慾がなくなるだろうと考えて、当直は夜食やしょくの親子丼おやこどんぶりの蓋ふたをとった。

二箸ふたはし、三箸みはしつけたところへ、署外からジリジリと電話がかかって来た。

「当直へ電話です」と電話口へ出た見習みならい警官が云った。

「おお」当直は急いでもう一と箸、口の中に押しこむと、立って卓子テーブル電話機をとりあげた。

「はアはア。……うん、熊岡君か。どうした……ええッ、なッなんだって? 墓地を掘ったところ白木の棺が出た。そして棺の蓋を開いてみると、中は藻抜もぬけの殻からで、あの轢死婦人の屍体が無くなっているッて! ウン、そりゃ本当か。……君、気は確かだろうネ。……イヤ怒らすつもりは無かったけれど、あまり意外なのでねェ……じゃ署員を増派ぞうはする。しっかり頼むぞッ」

ガチャリと電話機を掛けると、当直は慌あわただしくホールを見廻した。そこには一大事いちだいじ勃発ぼっぱつとばかりに、一斉いっせいにこっちを向いている夜勤署員の顔とぶっつかった。

「署員の非常召集ひじょうしょうしゅうだッ」

ピーッと警笛けいてきを吹いた。

ドヤドヤと階段を踏みならして、署員の下おりて来る跫音あしおとが聞えてきた。

当直は気がついて、喰べかけの親子丼に蓋をした。

――とうとう、本当の事件になってしまった。隅田乙吉の妹梅子に間違えられた轢死婦人は一体、どこの誰であるか。どうして、地下に葬った筈の屍体が棺の中から消え失せてしまったか。

熊岡警官が保管している「茶っぽい硝子ガラスの破片かけらのようなもの」は何であるか。何故それが、轢死婦人のハンドバッグの底から発見されたか。

さて筆者は、この辺でプロローグの筆を擱おいて、いよいよ「赤外線男せきがいせんおとこ」を紹介しなければならない。

3

Z大学に附属している研究所ラボラトリーに深山楢彦みやまならひこという理学士が居る。この理学士は大学の方の講座を持ってはいないが、研究所内では有名の人物である。専攻しているのは光学オプティックスであるが、事務的手腕もあるというので、この方の人材じんざい乏とぼしい研究所の会計方面も見ているという働き手であった。色は白い方で、背丈も高からず、肉附もふくらかであったので、何となく女性めき、この頃もてはやされるスポーツマンとは凡およそ正反対の男であった。

深山理学士が目下研究しているものは、赤外線であった。

赤外線というのは、一種の光線である。人間は紫、藍あい、青、緑、黄、橙だいだい、赤の色や、これ等の交まじった透明な光を見ることが出来る。この赤だの青だのは、ラジオと同じような電波であるが、ラジオの電波よりも大変波長が小さい。そのうちでも紫は一番短く、赤は比較的波長が長い。長いといっても一センチメートルの千分の一よりもまだ短い。ラジオの波は三百メートルも四百メートルもあって較くらべものにならない。

ところで光線と名付なづけられるものは、この紫から赤までだけではない。紫よりももっと波長の短い波があって、これを紫外線しがいせんとよんでいる。紫外線療法りょうほうといって、紫外線を皮膚にあてると、人体の活力はメキメキと増進ぞうしんすることは誰も知っている。一方、赤よりも波長の長い光線があって、これを赤外線せきがいせんと呼んでいる。赤外線写真というのが発達して軍事を助けているが、山の頂上から向うの峠を目懸めがけて写真をうつすにしても、普通の写真だとあまり明瞭めいりょうにうつらないが、普通の光線は遮さえぎり、その風景から出ている赤外線だけで写真をとると、人間の眼では到底とうてい見透みとおしができない遠方までアリアリと写真にうつる。人間が飛行機に乗って、千葉県ちばけんの霞かすみヶ浦うらの上空から西南せいなんを望んだとすると、東京湾が見え、その先に伊豆半島いずはんとうが見える位が関の山だが、赤外線写真で撮すと、雲のあなたに隠れて見えなかった静岡湾しずおかわんを始め伊勢湾いせわんあたりまでが手にとるように明瞭めいりょうに出る。

この紫外線も赤外線も、同じ光線でありながら、普通ふつう、人間の眼には感じない。つまり人間の網膜もうまくにある視神経ししんけいは、紫から赤までの色を認識することが出来るが、紫外線や赤外線は見えないといえる。

見えないといえば、色盲という眼の病気がある。これは赤が見えなくて、赤い日の丸も青い日の丸としか感じない人達がいる。それは視神経の疾患しっかんで、生れつきのものが多い。ひどいのになると、七つの色のどれもが色として見えず、世の中がスクリーンにうつる映画のように黒と灰色と白の濃淡にしか見えない気の毒な人がいて、これを全色盲ぜんしきもうと呼んでいる。軽い色盲でも、赤と青とが判別出来ないのであるから、うっかり円タクの運転をしていても、「進め」の青印と、「止れ」の赤印とをとりちがえ、大事故を発生する虞おそれがある。現に十年ほど前英国えいこくで、列車大衝突れっしゃだいしょうとつの大椿事だいちんじをひきおこしたことがあったが、そのときのぶっつけた方の運転士は、色盲しきもうだったことが後に判明して、無期懲役の判決をうけたのが無罪になった。人間の視力なんて、まことに不思議なものであり、又デリケートなものである。そして紫から赤までしか見えないなんて、貧弱きわまる視力ではある。

話が色盲の方へ道草をしてしまったが、この赤外線という光線は、人間の眼に感じないとされているだけに、秘密の用をつとめるとて、重宝ちょうほうされている。甲賀三郎こうがさぶろう氏の探偵小説に「妖光ようこう殺人事件」というのがあるが、それに赤外線を用いた殺人法が述のべられている。それは赤外線警報器を変形したもので、殺そうという人の通路に赤外線を左の壁から右の壁へ、噴水ふんすいを横にとばしたように通して置くのだ。右の壁の中には光電管といって赤外線を感ずる真空管のようなものが秘密に仕掛けてある。人の通らぬときは、赤外線がこの光電管に入って電気を起こし、ピストルの引金をひっぱろうとするバネを動かないように止めている。ところがもしこの廊下に人が通って赤外線を遮さえぎると、どうなるかというのに、赤外線は人体で遮られ、光電管には今まで流れていた電気がハタと止るから、従ってピストルの引金を動かないように圧おさえていた力がぬけ、即座そくざにズドンとピストルが発射され、その人間を斃たおす……という中々面白い方法だ。赤外線だから、その被害者の眼に見えなかったので、仕方がない。

満洲の重要な橋梁きょうりょうの東橋脚きょうきゃくから西橋脚の方へ向け、この赤外線を通し、西の方に光電管をとりつけ、光電管から出る電気で電鈴でんれいの鳴る仕掛しかけを圧おさえておく。若もし匪賊ひぞくが出て、この橋脚に近づき、赤外線を遮さえぎると、直ちに光電管の電気が停るから、電鈴を圧えていた力は抜け、電鈴はけたたましく匪賊襲来しゅうらいを鳴り告げる。これも赤外線が見えないところを利用したものである。

深山みやま理学士の研究問題は、この不可視光線ふかしこうせんと呼ばれる赤外線が人間にも見える装置を作ることにあった。彼は、これを近頃流行のテレヴィジョンに組合わすことに眼をつけた。

テレヴィジョンは、実験室に居て、その映写幕の上へ、例えば銀座街頭きんざがいとうに唯今現に通行している人の顔を見ることが出来るという器械だ。これが室内の様子を見るとなると、写真撮影場で使うような眩まぶしい電灯を点じ、マネキン嬢の顔を強照明きょうしょうめいすることによって、実験室でその顔を見ることが出来る。これが普通のテレヴィジョンであるが、それを赤外線で照らすことにし、この実験室にうつし出そうというのである。

深山理学士は、あの奇怪な轢死れきし婦人事件のあった日と前後して、この装置の製作にとりかかった。

それは丁度ちょうど新学期であった。この研究所内も上級の大学生や、大学院学生、さては助手などの配属の変更があって、ゴッタがえしをしていた。

赤外線研究の彼の仕事も、従来は助手も置かず唯一人でやっていたが、今度は赤外線テレヴィジョン装置を作ったり、ロケーションにゆかねばならなくなることも判り切っていたので、助手が一人欲しいと予算を出したところ、元来がんらい経済難のZ大学なので、助手案は一も二もなく蹴飛けとばされたが、その代り大学部三年の学生で、是非ぜひ赤外線研究をやりたいというひとがいるから、助手がわりにそれを廻そう、当分我慢して、それを使えという所長からの話であった。

それは四月のたしか十日か十一日の午前九時ごろだった。深山理学士の研究室を外からコツコツとノックするものがあった。

「ちょっと待って下さい」

学士は室内から声をかけた。

五分ほど経って、学士はやっと戸口に近づいた。

「まだ居ますか?」

と妙みょうな、そしてどっちかというと失礼きわまる質問の言葉を、扉ドアを距へだてて向うへ投げかけた。――学士の出てくるのに痺しびれをきらして帰ってゆく人も多かったので、こういうのが学士の習慣だった。人を待たすことに一向頓着とんじゃくしないのも有名なる学士の習慣だった。

「はア――」

というような返辞へんじと、カタリと靴の鳴る音が、扉ドアの彼方あっちでした。

学士はそこで渋々しぶしぶとポケットから鍵を出すと戸口の鍵孔かぎあなに入れ、ガチャリと廻して扉を開いた。そこには思いがけなくもピンク色のワン・ピースを着た背の高い若い婦人が立っていた。

「あ――」

「深山先生でいらっしゃいましょうか」若き女性は云った。

「そうです、深山ですが……」

「あたくし、理科三年の白丘しらおかダリアです。先生のところで実習するようにと、科長かちょうの御命令で、上りましたのですけれど」

「ああ、実習生。――実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい」

男の学生だと思っていたのに、やって来たのは、意外にも女学生だった。しかし何という逞たくましい女性なんだろう。近代の女性は、スポーツと洋装とのお蔭で、背も高くなり、四肢ししも豊かに発達し、まるで外国婦人に劣らぬ優秀な体格の持ち主になったという話だったが、それにしてもこの健康さはどうだ。これが女性というものなんだろうか。深山理学士は早くもこのピンク色の物体が発散はっさんするものに当惑とうわくを感じた。

「ダリアという名前だが」と学士は訊たずねた。

「失礼ながら君は混血児なのかい」

「まあ、いやな先生!」彼女は仰山ぎょうさんに臂ひじを曲げ腰をゆがめてカラカラと笑った。「これでも日本人としては、純種サラブレッドですわヨ」

「純種サラブレッドか! イヤ僕は、君があまりにデカイもので、もしやと思ったんだよ」

「先生は、小さくて可愛いいんですのネ」彼女は肥った露あらわな二の腕を並行にあげて、取って喰うような恰好かっこうをしてみせた。

そんなことから、先生の深山理学士と生徒の白丘ダリアとは、何でもずかずかと云い合う間柄あいだがらになった。しかしこの少女が、まだ十八歳であるとは、学士の容易に信じかねるところであった。

赤外線研究室は、この先生と生徒とによって、昼といわず夜といわず、乱雑にひっかきまわされた。精密な部分品が、さまざまの実験を経へて一つ又一つと組立てられていった。二人の熱心さは大変なものだった。入口の扉ドアにはいつものように鍵がかかっていた。食事を搬はこんでくるときと、白丘ダリアが夜更よふけて自分の住居へ帰るときの外は、滅多めったに開ひらかれはしなかった。深山理学士は独り者の気楽さで、いつもこの研究室に寝泊りしていた。

「アラ先生、まあ面白いことを発見しましたわ」ネジ廻しを握って、器械のパネルに木ネジをねじこんでいたダリアが、頓狂とんきょうな声を張りあげた。

「どうしたんだい」深山学士は増幅器ぞうふくきの向うから顔を出した。

「とても面白いですわ。先生のお顔を右の眼で見たときと左の眼で見たときと、先生のお顔の色が違うんですわ」

「変なことを云い出したネ」学士は自分の顔色のことを云われたので鳥渡ちょっといやな顔をした。

「右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ」

「なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え」

学士はダリアを引っぱって、色盲検査図の前につれて来た。それは七色の水珠すいじゅが、円形えんけいに寄りあっているのだが、色の配列具合によって、普通の視力をもっているものには「1」という数字が見える場合にも、色盲には「4」と見えたりするという簡単な検査図だった。ダリアの眼を、片っぽずつ閉とじさせて、沢山ある検査図を色々とめくって調べてみた。しかし結果はどういうことになったかというのに、ダリアは色盲ではないということが判明したのだった。

「色盲でも無いようだが……気のせいじゃないか」

「いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?」

「莫迦ばか云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの眼病がんびょうだよ」

「そうでしょうか、あたし困ったわ」と白丘ダリアは一向困ったらしい様子も見せずに云った。「ンじゃ先生、あたしが今視みている右の眼の風景と、左の眼の風景と、どっちの色の風景が本当の風景なんでしょうか。どっちかの眼が本当のものを見て、どっちかの眼が嘘を視ているのですね」

「そりゃ困った質問だ」と今度は深山理学士の方が本当に弱ってしまった。「どうも君の網膜もうまくのうしろに僕の眼をやってみることも出来ないからネ」

そういって理学士は考え込んだ。

こんな調子で、二人はいつの間にか十年の知己ちきのようになってしまった。

白丘しらおかダリアの入所後にゅうしょごはやくも五日のちには、赤外線テレヴィジョン装置がもう一と息で出来上るというところまで漕こぎつけた。

ところが其その朝に限って、いつもなら午前七時には必ず出てくる筈はずの白丘ダリアが、十時になっても姿を現わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう気力きりょくが無くなったと見え、ペンチを機械台の上に抛ほうり出してしまった。

(どうして、白丘は出てこないんだろう?)

いろいろなことが、追懐ついかいされた。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに頼たよりすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。

(莫迦ばかなッ。あんな小娘に……)

彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。

「ああ、桃枝ももえから手紙が来ていたっけ」

今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「岡見桃助おかみとうすけ」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸卓子テーブルの上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変寂さびしがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに耐たえないような文句が縷々るるとして続いていた。桃枝は学士の内妻ないさいに等しい情人じょうじんだった。彼は手紙を畳たたむと、ポケットへねじこんだ。

(今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)

深山みやま理学士が実験衣を脱いで、卓子テーブルの上へポーンと抛ほうり出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた跫音あしおとがして、白丘ダリアがやって来た。

「先生、先生」

扉ドアをあけてやると、ダリアは兎うさぎのように飛びこんできた。

「先生済すみませんでした。急用が出来たものですから……」

「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な面持おももちで聞いた。

「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……」

「なに、警視庁へ」

「あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母おばさんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分ずいぶんこの事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……」

ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を喋しゃべり出した。

簡単に云うと、失踪しっそうした伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。

例の身許みもとの知れぬ轢死れきし婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって外ほかに年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から重かさねての呼び出しが来たので今朝、姪めいのダリアを介添かいぞえに桜田門さくらだもんへ行ったというのだ。

本庁では、伯父に対して、どんな些細ささいなことでもよいから、夫人について腑ふに落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。

伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。

「そういえば思い出しましたが、妻あれの居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。江戸川乱歩えどがわらんぽさんの有名な小説に『陰獣いんじゅう』というのがありますが、あの内容なかに紳商しんしょう小山田夫人おやまだふじん静子しずこが、平田ひらた一郎という男から脅迫状きょうはくじょうを毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に詳細しょうさいに書き綴つづってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない内緒ないしょごとでした。それにも係かかわらず、平田一郎という陰険いんけんな男は、一体どこから見ているのか、実に詳くわしく、実に正確に、夫婦間の秘事ひじを手紙の上に暴露ばくろしてある。――この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の変態性へんたいせいがこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な刺戟しげきを与えたというのでした。――私の妻あれは、最後にこんなことを訊きいたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった筈はずです。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の駭おどろきは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は莫迦ばかなことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」

係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が円まるい小箱こばこをもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の硝子屑ガラスくずのようなものであった。勿論もちろん二人には思いもよらぬ品物だった。

「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが燃焼ねんしょうを始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」

それは二人にとって更さらに見当けんとうのつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を辞去じきょした、というのであった。

「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が尋たずねた。

「黒河内尚網くろこうちひさあみという是これでも子爵ししゃくなのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」

「黒河内京子――君の伯母さんか」

「先生、伯母をご存知ですの」

「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」

そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の袖そでをとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。

ダリアの眼は悪戯者いたずらものらしく爛々らんらんと輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。

4

「赤外線男せきがいせんおとこというものが棲すんでいる!」

途方とほうもない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外ほかならぬ深山みやま理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。

大胆だいたんといおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭おどろいたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早いちはやく帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識しらざるとを問わず、どこからどこの隅々すみずみまで、一大センセイションが颶風ぐふうの如く捲まきあがった。

「赤外線男というものが棲すんでいるそうだ」

「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」

「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」

などと、人の噂は千里を走った。

なにが「赤外線男」だ?

深山理学士の言うところによれば斯こうだ。

「予よはかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此この程ほど完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子きゅうしゅうガラスで除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾てっとうてつび、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。

「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗のぞくことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗ほのくらくハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼はくちゅうと変らない明るさであった。それは太陽の残光ざんこうが多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人ごじんが既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白まっしろにうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力みりょくであるか。

「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒きょうとうせしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍はいまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗のぞいてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼かの生き物は直立ちょくりつした。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥こえている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡ちょっと悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺ながめられる人の姿でありながら、一度元の肉眼にくがんにかえると、薩張さっぱり見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男――というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。

しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走いっそうを始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡うちに、視界の外に出てしまった。駭おどろいてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早もはや駄目だった。しかし兎とも角かくも、予は初めて『赤外線男』の棲すんでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲すんでいるとは、何という駭おどろくべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」

深山みやま理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。

「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近みぢかに現われるかと思って戦々恟々せんせんきょうきょうとしていた。

そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業しわざと思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。

郊外の文化住宅の卓子テーブルの上に、温く湯気ゆげの立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。

ギンザ、ダンスホールの夜更よふけ。ジャズに囃はやされて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際かべぎわの椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々やや年増としまのダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭おどろいてダンスを止やめて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆たおれてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋たずねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠みはっているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中むがむちゅうだったという。――何が幸さいわいになるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝がちだったのが急に流行はやりっ児こになって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。

こうなると何事も、暗闇くらやみだからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時いつ赤外線男にアリアリと覗のぞかれてしまうか知れなかったのである。

これに類する報告は、日一日と殖ふえていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧いたずらこぞう又は軽い痴漢ちかんみたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼ぎしんあんきから出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚さっかくであって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待外はずれを口にする人も少くはなかった。

だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如とつじょとして赤外線男の魔手ましゅは伸び、帝都全市民の面おもては紙のように色を喪うしなって、「赤外線男」恐怖症きょうふしょうに罹かからなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山理学士の研究室が不可解な襲撃しゅうげきをうけたことだった。

これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の噂うわさの高い折柄おりからでもあったので、直ただちに幾野いくの捜査課長、雁金かりがね検事、中河予審判事なかがわよしんはんじ等、係官一行が急行した。

取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の扉ドアが破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に壊こわされているばかりか、室内のあらゆる戸棚とだなや引出しが乱雑に掻かき廻まわされ、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい有様ありさまだった。

襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な狼藉ろうぜきが行われているのみか、壁の中に仕掛けられた額がくのうしろの隠かくし金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。

さて当の深山理学士は、当夜とうや例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも猿轡さるぐつわをはめられ両手を後うしろに縛しばられて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに抛ほうりあげられて、パジャマ一枚で震ふるえていた。これを発見したのは係官の一行だった。

「この事件を真先まっさきに発見したのは、誰かネ」

と幾野捜査課長は、走はせ集った研究所の一同を見廻みまわしていった。

「儂わしでございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」

「発見当時のことを残らず述のべてみなさい」

「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番よばんの室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇やみの戸外そとへ一歩踏み出した途端とたんに、脾腹ひばらをドスンと一つきやられて、その儘まま何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂わしは元の室の土間どまの上に転ころがっているという始末しまつ。それから駭おどろいて窓から外へ飛び出すと、門衛もんえいのいますところまで駈けつけて、大変だと喚わめきましたようなわけです」

「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」

「それが何にも見えませんでございました」

「序ついでに聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」

「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に臆気おくきがついてブルブル慄ふるえ出した。

課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。

「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」

「どうも面目次第めんぼくしだいもないことですが」と学士はまず頭を掻かいて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に不図ふと眼を醒さましてみますと、どうでしょうか。室の入口の扉ドアの上半分がポッカリ大孔おおあなが明いています。これは枕許まくらもとのスタンドを点つけて寝るものですから、それで判ったのです。私は吃驚びっくりして跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと独ひとり手でに揺ゆれ始めました。オヤと思う間もなく、装置の蓋ふたが呀あッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が呆然ぼうぜんとしていますと、今度はガチャーンと物凄ものすごい音がして、あの装置が破裂したんです。真空管しんくうかんの破片はへんが飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが壊こわれて、頑丈がんじょうなケースが、薪まきでも割るようにメリメリと引裂かれる。私は胆きもを潰つぶしましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る可べからざるものを視た私への復讐ふくしゅうなのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、寝床ねどこから滑すべり下おりようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の周まわりには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉くれ』と怒鳴どなりました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒こんとうしてしまったのです。それから途中、全然記憶が欠かけているのですが、イヤというほど横よこッ腹ぱらに疼痛とうつうを覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載のっているのです。それが先刻せんこく、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡さるぐつわを噛かませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢あくむのように眼に映ります。実験戸棚の扉ドアが、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚たなに並べてあった沢山の原書げんしょが生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙ようしや薬品の小壜こびんなどが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視せいしするのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃唱となえたこともなかったお念仏ねんぶつを口誦くちずさんだほどでした」

理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍れんびんを求めるように見えた。

「それから、どうしたです」課長は尚なおも先を促うながした。

「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊こわれた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音あしおとがして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響ひびきがしはじめました。掛矢かけやでもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経たつうちに段々静かになり、軈やがて何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂たましいも消し飛ばしてガタガタ慄ふるえていましたが、幸さいわいにもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」

そういって深山理学士は、大きい溜息ためいきをついたのであった。

「君は、そのとき、何か扉ドアの閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋たずねた。

「そうです。そういえば、跫音あしおとらしいものが空虚な反響はんきょうをあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」

「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻うなった。

「どうでしょうか、ちょっとお尋たずねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山みやま先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」

「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」

そのとき一人の刑事と何か囁ささやき合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。

「君、一つ発見したよ。この室へやの戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」

「靴の跡ですか」

「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室へやのダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵かかとの摩滅具合まめつぐあいから云ってこれは血気盛けっきさかんな青年のものだと思うよ」

「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌あわて気味ぎみに云った。

「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」

「それは勿論もちろん、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」

「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽こっけいじゃないでしょうか」

「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の重力じゅうりょくをうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、大地だいちに接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」

「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」

課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの畠はたけではないことに気がついた。

「ねえ、君」と検事が鼻に小皺こじわをよせて囁ささやくように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」

「そうですヨ」と課長も苦笑した。

「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六ほむらそうろくをサ」

「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」

二人の意見は直ぐに纏まとまった。そして新あらたに呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。

こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩もれてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵ひぞうしていた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意こいに学士の心に秘ひめたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。

とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態せいたいというものが、大分はっきりしてきた。

5

帆村探偵を交まぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという其その日の夕刻のことだった。折角せっかく作った一台は、無惨むざんにも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の白丘しらおかダリアも大いに失望したが、その筋すじの希望もあって、二人は更さらに設計をやり直し、新しい装置を昼夜兼行ちゅうやけんこうで組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、住居じゅうきょにしている伯父おじ黒河内子爵くろこうちししゃくのところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。碌ろくに睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い日数にっすうのうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは益々ますます健康に輝き頸くびから胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような肉塊にくかいといい、まるで張りきった太い腸詰ちょうづめを連想れんそうさせる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの精力せいりょくに負うところが多かった。

研究室の扉ドアをコツコツと叩くと、直ぐに応こたえがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯繃帯ほうたいをして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。先登せんとうに立っていた課長は、

(これは部屋が違ったかナ)

と思った位だった。

「さあ、皆さんどうぞ」

そういう声は、紛まぎれもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに黒眼鏡くろめがねなんか掛けて……と不思議に思った。

一行中の新顔しんがおである帆村探偵が、深山みやま理学士と白丘ダリアとに、先まず紹介された。

「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃いんぎんに挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と尋たずねた。

課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに呆あきれ顔だった。

「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり怪我けがをしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」

「どうして怪我をしたんですか」

「いいえ、アノ一昨晩いっさくばん、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸りゅうさんの壜が破裂をしたのです。その拍子ひょうしに、棚たなが落ちて、上に載のっていたものが墜落ついらくして来て、頭を切ったのです」

「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」

「何しろ疲れていたもので、直すぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図ぐずぐずしているうちに、頭髪かみについていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」

ダリアは黒眼鏡を外はずして見たが、左眼さがんはまるで茹ゆでたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血じゅうけつしている位でまず無事な方であった。

「全く危いところでしたよ。連日れんじつの努力で、もう身体も頭脳あたまも疲れ切っているのです。神経ばかり、高たかぶりましてネ」と理学士も側そばへよって来て述懐じゅっかいした。彼の眼の色も、そういえば尋常じんじょうでないように見えた。

「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」

ダリアは独ひとり言ごとのように云った。

一同は此の室に何だか唯ただならぬ妖気ようきが漂ただよっているような気がした。

「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室あんしつにして呉くれ給たまえ」

「はい、畏かしこまりました」

ダリアは割合わりあいに元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式ちょうつがいしきにとりつけてある雨戸あまどを合わせてピチンと止とめ金がねを下おろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯とうが一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅すみによっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯ひの下へゾロゾロと集ってきた。

「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。

「何だか、頭の上から圧おさえられるようだ」そういったのは白髪はくはつの多い中河予審判事だった。

「このネオン灯とうも消します。そうしないと巧うまく見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有おっしゃって下されば、いつでも点つけます」

「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴ひめいに近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」

幹部だけが、スクリーンを包囲ほういして、椅子に席をとった。

「いいですか」

「いいよ」

パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気おぼろげな映像があらわれた。

「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。

「ピントが外はずれているのです。増幅器ぞうふくきもまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」

なるほど映像はすこし明瞭度めいりょうどを加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。

「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」

「これは、こっちのレンズからお覗のぞき遊ばして……」捜査課長の耳許みみもとでダリアの声がした。

「呀あッ」と課長は慌あわてたが「いやなるほど、よく見えます。――なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」

まず赤外線男ではなかったので安心した。

「この辺あたりのところですから、さあ誰方どなたも変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。

「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。

ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。

「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟つぶやきながら視みている。

そのとき真暗まっくらだった室内へ、急に煌々こうこうたる白光はっこうがさし込んだ。

「呀あッ!」

「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。

一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩まぶしい光に会ってクラクラとした。

「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。

「困るじゃないか」深山は云った。

「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触さわりましたのよ。吃驚びっくりして、窓をあけたんですの」

「ああ、もう出たかッ――」

「赤外線男!」

「窓を皆、明けろッ!」

そのとき白丘ダリアは朗ほがらかな声で云った。

「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀しりでしたわ。ホホホ」

「なあーンだ」

一座はホッと溜息ためいきをついた。

「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」

「済すみません」

カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の網膜もうまくには白光が深く浸しみこんでいて、闇黒あんこくがぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。

ウームというような低い呻うなり声が聞えたと思った。ドタリ……と、大きな林檎りんごの箱を仆たおしたような音が、それに続いて起った。

素破すわ、異変だ!

「どッどうした」

「まッ窓だ窓だ窓だッ」

「ランプ、ランプ、ランプ!」

さーッと、窓から白光はっこうが流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。

「キャーッ」と喚わめいてカーテンに縋すがりついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、両眼りょうがんを剥むきだし、口を大きく開けて仆れていた。

もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には生色せいしょくがなかった。

「赤外線男!」

「ああ、あいつの仕業しわざだ」

いまにも自分の身体に、赤外線男の猿臂えんぴがムズと触ふれはしないかと思うと、恐ろしい戦慄せんりつが電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして其その魔手ましゅから遁のがれればいいのだ。

そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を抱かかえ起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。

「呀あッ、こりゃ非道ひどい!」

帆村は呟つぶやいた。幾野課長の頸くびの真まうしろに一本の銀鍼ぎんばりがプスリと刺さっていた。

一同は吾われにかえると、赤外線男のことを鳥渡ちょっと忘れて、課長の死骸しがいの周囲に駈けあつまった。

「延髄えんずいを一と突つきにやられている……」

「太い鍼はりだッ」

「指紋を消さないように、手帛ハンケチでも被かぶせて抜けッ」

「これは抜けますまい」と帆村が云った。

なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が搦からみついてしまったものらしい。

「一体これは、どうして検しらべようか」判事が当惑とうわくの色をアリアリと現わして云った。

「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。

「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。

そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に怪あやしい点は何一つ発見されなかった。

結局、赤外線男の仕業ということが裏書うらがきされたようなものだった。流石さすがの帆村探偵も手も足も出せなかった。

6

捜査課長の殺害さつがい事件は、俄然がぜん日本全国の新聞紙を賑にぎわした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目めんもくはまるつぶれだった。

四谷よつやに赤外線男が出た。三河島みかわしまにも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁わきまえぬ出現ぶりだった。尤もっともそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸ちょっと話を聞いただけで偽にせ赤外線男だと看破かんぱ出来るようなものもあった。

帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋うずめると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故こ幾野氏の惨死ざんし事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論もちろん出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。

雁金検事、中河判事――この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。

警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。

熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但ただしいろいろと探偵眼のあるところが、平ひら警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。

残るは深山みやま理学士だ。これは確かに怪あやしくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑けんぎは薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛ほうり上げられていた被害者ででもある。感心しない。

然しからば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂はつらつたる肉体美から云って信じられない。殊ことに課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。

いや凡およそ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒あんこくの中に沈澱ちんでんしていたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄えんずいを刺すということは、誰にも出来ない筈だ。

残る嫌疑者けんぎしゃは自分であるが、これとても同じことが云える。

然らば、誰が課長を殺したか?

ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。

帆村は呻うなりながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳あたまをふり絞った。

有るには有る。あの延髄えんずいを刺した鍼はりだ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼はりの上にのった幅はばのない指紋なんて何になるのだ。

それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。

次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要いるとは可笑おかしい。しかし靴を履はいていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張やっぱり金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈せたけ肉付にくづきもわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡ひろがらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若もしや赤外線男に手下てしたがあるのではあるまいか。

世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死れきしした婦人の身許みもともわからないし、地下に葬ほうむった筈はずの死骸が紛失ふんしつした不思議さを、今も尚なお覚おぼえていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜ほりょにし、その皮を剥はいで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛まぎれこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面かおは滅茶滅茶めちゃめちゃだった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度インドや土耳古トルコなら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。

それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼やけ屑くずだ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。

赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子すみだうめこという婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵くろこうちししゃく夫人が、行方不明で、今も尚なお生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩らんぽ氏の「陰獣いんじゅう」のことを言い出したという事――よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。

帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子テーブルの灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。

そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。

「帆村君を願います」性急せいきゅうな声が聞えた。

「帆村は私ですが、貴方は?」

「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進しんしんの警部だった。

「大江山さんですか。また何かありましたか」

「ええ、あったどころじゃないです。唯今ただいま総監閣下が殺害さつがいされました」

「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」

「困ったことですが、本当です」

「一体どうしたのです。どこでやられたのです」

「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念たんねんに赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方あなたにもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻さっき総監閣下が急に見たいと仰有おっしゃるので到頭とうとうご覧に入れちまったのです」

「そりゃ拙まずかったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。

「私ども始めはお止とめしたのです。しかし閣下は他出そとでされる約束があって、その日の三時にはご覧らんになれないのです。それで強しいてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」

例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線発生灯はっせいとうを点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮とる。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静どうせいを赤外線映画に収めてしまう。斯こうすれば、その中で怪あやし気げな行動をする者がフィルムの上に映うつった筈だから、後で現像すればそれと判る――こんな仕掛けを予あらかじめ作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲ぎせいになられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍ぐどんさに、帆村は呆あきれる外ほかなかった。

「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」

「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器きょうきは鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」

「現像は……」

「今やっています。直すぐこれからおいで願いたいのです」

「ええ、参ります」

帆村は憂鬱ゆううつな返辞へんじをした。

駆かけつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺やられる人に事欠ことかいて、総監閣下が苟かりそめの機会から非業ひごうの死を遂とげたというのだから、これは大変なことである。

「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先まっさきに訊きいた。

「出来たのですが……」

「どうしたんです?」

「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心かんじんのところは真暗で、何にも写ってやしません」

課長は、面目めんぼくなげに下俯うつむいた。

「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」

「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈くまなく調べ、繃帯ほうたいもすっかり取外とりはずさせるし、眼鏡もとられて眼瞼まぶたもひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得うるところもありません」

「ダリア嬢の眼はどうです」

「ますますひどいようですよ。左眼さがんは永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」

「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」

「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳くわしく説明していた最中さいちゅうなのです。深山氏が喋しゃべっているのに、閣下はウーンといって仆たおれられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼はりを突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」

「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」

「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲こりて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室あんしつ内へは行かないと云っていますよ」

「では犯人は一体誰なんです」

「赤外線男――でしょうナ」

「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」

「今となっては満足しています。昨日までは稍やや信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業しわざと信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」

「しかし、レンズは室内を睨にらませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」

帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉ひにくを飛ばした。

7

その次の朝のことだった。

帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛きまぐれか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装ふんそうになった。

しかし別にクラブ・バッグを引張ひっぱり出すわけでもなく、細い節竹ふしだけのステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌いまわしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗うららかな陽春の空だった。

彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。

「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹はれぼったくなった顔を見ると、斯こう声をかけた。

「駄目です」と課長は不機嫌に喚わめいてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報しらせて来ました」

「なに、又誰かやられたんですか」

「こうなると、私は君まで軽蔑けいべつしたくなるよ」

「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾はずませながら問いかえした。

「浅草の石浜いしはまというところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝おかみももえという女で、男というのが……」

「男というのが?」

「深山みやま理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」

課長は余程よほど口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪なみだをポロポロ滾こぼした。

「そうですか」帆村も泪を誘さそわれそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」

「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」

「大いに同感ですな」

「視みえもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其その本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」

「僕は兎とに角かく、見に行って来ます。あれは日本堤署にほんつつみしょの管内かんないですね」

課長は黙って肯うなずいた。

警察へ行ってみると、現場げんじょうはまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰もらうと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。

そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程みちのりではなかった。彼は捷径ちかみちをして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町たなかまちの方へ足を向けた。震災前しんさいぜんには、この辺は帆村の縄張なわばりだったが、今ではすっかり町並まちなみが一新いっしんしてどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行ゆく手てを見えなくした。彼は忌々いまいましそうに舌打ちをして、大田中おおたなかアパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。

見ると、アパートの高い非常梯子ひじょうばしごに、近所の人らしいのが十四五人も載のって、何ごとか上と下とで喚わめきあっているのだ。

「どうしたんです」

帆村は道傍みちばたに立っている人のよさそうな内儀おかみさんに訊たずねた。

「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉まゆを顰しかめると、赤い裏のついた前垂まえだれを両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦ばかに臭くさい臭くさいと云ってましたが、その死骸しがいのせいなんですよ。まあ、いやだ」

内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾つばをはいた。

「じゃ、よっぽど永く経たった死骸なんですネ」

「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」

「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁みのがせないぞと、心の中で叫んだ。

「そこは、その女の人の借りている室なんですか」

「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮うしおさんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」

「その潮さんというのは、若もしや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」

「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻かき合あわせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」

帆村は苦笑した。

「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」

「えッ」と帆村は駭おどろいて、内儀さんの視線の彼方を見た。

「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」

その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々ひょうひょうとやってくる潮らしき人物の袂たもとを抑おさえていた。

「潮君」

「呀あッ」

青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天いだてんを追駈おいかけた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂ついに組打ちが始まった。そのとき青年の懐中ふところから、コロコロと平べったい丸缶まるかんのようなものが転げ出て、溝みぞの方へ動いていった。

「ああ――それは……」

と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損ぞんをしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。

ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死れきし婦人のハンドバッグに、フィルムの焼やけ屑くずがあったではないか。

帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁にげたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘つぐんで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力きょくりょく否定した。

あとは本庁で調べることとし、意気昂然いきこうぜんたる老判事は、潮十吉と帆村とを伴ともなって、警視庁へ引上げた。

今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。

「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画検閲室けんえつしつで試写ということにするのですね」

「そう決めましょう。じゃ万事ばんじよろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。

8

帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵くろこうちししゃくを訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態じゅうたいで、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。

「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤あごを指先でつまんだ。

「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」

「そうですか。じゃ子爵の御了解ごりょうかいを得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」

「ええ、いくわ」

ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直すぐコートと帽子とを持ってあらわれた。

「さあ、お伴しますわ」

三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。

「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」

「退屈ですわネ」

「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内射的場しゃてきばがつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」

「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」

「じゃいい。行ってみましょう」

呑気千万のんきせんばんにも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃ピストルを並べてある高い台があって、遥はるか向うの壁には、大きな掛図かけずのような的まとがかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠みずたまを寄せたように、茶椀ちゃわんほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円まるが、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。

「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃ピストルをとって、覘ねらいを定さだめると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円あかまるに、小さい穴がプスリと明いた。

「どうです。相当なものでしょう」

そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。

「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦すすめた。

「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。

「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」

「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」

そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。

まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁むぎわらの管くだでチュウチュウ吸った。

「警視庁なんてところ、随分ずいぶん開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。

「それはそうですよ。貴女あなたみたいな方をお招きすることもありますのでネ」

「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」

半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管すいくだを置いた。

そんなことをしている裡うちに時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。

階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配けはいだったが、しかし仄暗ほのぐらいながら電灯がついているから停電でもしない限り先まず大丈夫だろう。

映画検閲用の試写室は、思いの外ほか、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。

もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。

そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉うしおじゅうきちが手錠てじょうをガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列さいぜんれつに席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度ちょうどその横だった。

「もうこれで皆さん全部お揃いですか」

警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。

「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」

帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。

「じゃ始めます。あれを演やる前に、一つ調子をつけるために、実写じっしゃものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」

スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗こぐらい蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入みいっていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強くっきょうな地下室ではないか。

しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。

「さあ、いよいよこの次だ」

「一体どんな映画なのだろう」

人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。

「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。

「いや、ならん」

警官の声はあっけなかった。

さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許みもと不明の轢死れきし婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張やはり同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑けんぎの深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露ばくろするのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒あいぼうでもあるか。

カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒こうぼうが走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中まんなかに小さくうつった。

「ああ、これは……」

「ウム……」

画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻うなった。誰かが、いやらしい咳払せきばらいをした。

いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。

「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。

「ああ、あれは伯母おば様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」

といったきり、白丘ダリアは口を噤つぐんだ。

さて画面に、それから如何なる情景じょうけいが展開していったか、その内容についてはここに記しるすことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯たわむれだった。斯かかる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚なおも仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭めいりょうだった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。

恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係かかわらず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵ししゃく夫人黒河内京子と青年潮十吉!

さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。

潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を掩おおうたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息ためいきと共に、パッと電灯がついた。

「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」

「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦みやまならひこ――彼奴あいつがやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而しかも夫人に恋をしていたのです。彼奴あいつは私達の深夜の室をひそかに窺うかがって暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐かれんなる子爵夫人を幾度となく脅迫きょうはくしました。一度は夫人があのフィルムの一端いったんを奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密ひそかに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢ちかんです。しかし飽あくまで夫人に未練みれんをもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅おびやかしたのです。夫人は凡すべてを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許みもとのわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並つきなみの衣類なり所持品です。それがうまく効こうを奏して隅田すみだ氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸もろに砕くだけたのは、神も夫人の心根こころねを哀あわれみ給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入ちんにゅうして、あのフィルムを奪回だっかいしたのです。彼奴かやつを探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」

このとき白丘ダリアは、先刻さっきから耐えていた尿意にょういが、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌あわてて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近まぢかに、赤い灯火ともしびが点ともっていて、それに「便所」という文字が読めた。

彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉ドアを押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠ようふうかわやだった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。

大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯ほうたいを気にしながら、硫酸りゅうさんの焼け跡のある顔へ粉白粉こなおしろいを叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端とたんにダリアはハッと駭おどろいて、

「呀あッ」

と声をあげた。

そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構みがまえをしていた。

「まア、どうしたんです。帆村さん」

ダリアの救いを求めた帆村は、最早もはや、先刻、射的しゃてきで遊んだ帆村とは別人べつじんのようであった。

「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」

言下げんかに大江山課長はヌッと前へ出た。

「白丘ダリア。いま汝なんじを逮捕する」

「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」

「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化ごまかされんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛ほばくする。それッ」

ワッと喚わめいて、選えりぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁にげる道もなければ、方法もなかった。

「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。

*   *   *

事件が一段落だんらくついた後の或る日、筆者わたくしは南伊豆みなみいずの温泉場で、はからずも帆村探偵に巡めぐりあった。彼は丁度ちょうど事件で疲れた頭脳を鳥渡ちょっとやすめに来ていたところだった。仄ほのかに硫黄いおうの香かおりの残っている浴後よくごの膚はだを懐なつかしみながら、二人きりで冷いビールを酌くみ交かわした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末てんまつを聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調くちょうで、こんな風に最後の解決を語った。

「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上べんぎじょう拵こしらえた創作的観念であって、実在ではなかった。

何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀あッと云わせて虚名きょめいを博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費つかいこんだ大金おおがねの穴埋あなうめに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早いちはやく彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。

しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦じょうふという評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分貢みついだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。

もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交ひこうを赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑いどむことよりも莫大ばくだいな金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済すんだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。

そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々ひひのような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆そそのかしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。

しかしダリアの使嗾しそうに乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦じょうふ桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好かっこうになった。其その後ごに来るもの――それを考えると彼は安閑あんかんとしていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸さいわい、水素瓦斯ガスを使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒さまされ、不成功に終ってしまったのだ。

ダリアはこの事を勿論もちろん感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立あらだてる代りに、一層いっそう深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳ぎゅうじってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼うがんは大した損傷そんしょうもなかったが、左眼さがんはまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰つぶれたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵おかされて駄目になると、のこりの一方の肺が代償だいしょうとして急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明めいを失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼いちがんになって異常な視神経の発達により、普通の人には到底とうてい見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜もうまくには映えいずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視みえる。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜きょうきぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者さつじんいんらくしゃという恐ろしい犯罪者に堕おちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露ひみつばくろの鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」

そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色こはくいろの液体をグーッと呑のみ乾ほした。筆者わたくしは壜びんをとりあげると、静かに酌ついでやった。

「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害そがいされた。誰があの暗黒あんこくのなかで、選よりに選よって非常に正確を要する延髄えんずいの真中に鍼はりを刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人ちょうじんでなければ、到底とうてい想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然しかりその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼ぎんばりをシャープペンシルの軸じくの中に隠して持っていたのだった。

これに対して僕の探偵力は、全く貧弱ひんじゃくなものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外ほかに仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気ばかげたことがと排斥はいせきしていたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。

『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極ごく最近のことだ。以前に於おいては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索たんさくの結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化ばけの皮を剥はいでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交ひこうの赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴つかむ計画を樹たてた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。

最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠みずたまのように円まるい標的ひょうてきを二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟さとって拳銃ピストルをとりあげようとはしなかった。若もしあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山みやまの別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映うつるからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱のがれた。しかし射撃を拒こばんだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能ききめはあった。

さて、最後のトリック――それには鬼才きさいダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑げびた話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意にょういを催もよおしたのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否いなやダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相そそうを演ずることになる。彼女は極度に狼狽ろうばいしていたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯あかりがついている。彼女は扉ドアを押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲ここに彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。

それは、この『便所』と書いた赤い灯あかりは、普通の視力をもった人間には、到底とうてい発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作むぞうさに通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予かねて張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石さすがのダリア嬢もこうなっては策の施ほどこしようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」

底本 / Source edition

底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1933(昭和8)年5月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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海野 十三「赤外線男」(新字新仮名)、底本『海野十三全集 第2巻 俘囚』三一書房、1991年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001245_000160, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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