父の誕生日に<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>マスクの贈物

「やあ、くたびれた、くたびれた」<ruby><rb>家中</rb><rt>いえじゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>きわたるような大声をあげて、大旦那の<ruby><rb>長造</rb><rt>ちょうぞう</rt></ruby>が帰って来た。

「おかえりなさいまし」お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお<ruby><rb>妻</rb><rt>つま</rt></ruby>は、夫の手から、<ruby><rb>印鑑</rb><rt>いんかん</rt></ruby>や<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>の入った小さい<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>をうけとると、<ruby><rb>仏壇</rb><rt>ぶつだん</rt></ruby>の前へ載せ、それから<ruby><rb>着換</rb><rt>きが</rt></ruby>えの羽織を<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>から取って、長造の背後からフワリと着せてやった。「すこし時間がおかかりなすったようね」

「ウン。――」長造は、言おうか言うまいかと、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>考えたのち「こう世間が不景気で<ruby><rb>萎</rb><rt>しな</rt></ruby>びちゃっちゃあ、何もかもお<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>いだナ」

「また、いい日が廻ってきますよ、あなた」お妻は、夫の商談がうまく行かなかったらしいのを察して、<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>め<ruby><rb>顔</rb><rt>がお</rt></ruby>に云った。

「……」長造は、無言で<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の前に<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた「おや、ミツ坊が来ているらしいね」

小さい毛糸の靴下が、伸した手にひっかかった――<ruby><rb>白梅</rb><rt>しらうめ</rt></ruby>の入った<ruby><rb>莨入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>の代りに。

「いま、かアちゃんと、お<ruby><rb>湯</rb><rt>ぶう</rt></ruby>に入ってます。一時間ほど前に、<ruby><rb>黄一郎</rb><rt>きいちろう</rt></ruby>と三人連れでやって来ました」

「ほう、そうか、この片っぽの靴下、持ってってやれ。<ruby><rb>喜代子</rb><rt>きよこ</rt></ruby>に、よく云ってナ、春の<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>は、赤ン坊の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>取りだてえことを」

「それが、あの児、両足をピンピン跳ねて直ぐ脱いでしまうのでね、あなた今度見て御覧なさい、そりゃ太い足ですよ、<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>と同じ位に太いんです」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>云いなさんな、胴中と足とが、同じ位の太さだなんて」

「お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>さんは、見ないから嘘だと思いなさるんですよ。どれ持ってってやりましょう」

お妻は、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上に、片っぽの短い靴下を、ブッと<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らませて<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せた。それがお妻には、まるでおもちゃの軍艦の形に見えた。

「おい、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なに</span>は……」と長造はお妻を呼び止めた。

「<ruby><rb>弦三</rb><rt>げんぞう</rt></ruby>はもう帰っているかい」

「弦三は、アノまだですが、今朝よく云っときましたから、もう直ぐ帰ってくるに違いありませんよ」

「あいつ近頃、ちと帰りが遅すぎるぜ、お妻。もうそろそろ危い年頃だ」

「いえ、会社の仕事が忙しいって、云ってましたよ」

「会社の仕事が？　なーに、どうだか判ったもんじゃないよ、この不景気にゴム<ruby><rb>工場</rb><rt>こうば</rt></ruby>だって同じ『ふ』の字さ。<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>なんざ、お前が<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざん</rt></ruby>甘やかせていなさるようだが、今の中学生時代からしっかりしつけをして置かねえと、あとで<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>するよ」

「まア、今日はお<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>デーなのね、おじいさん。ちと<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>のことでも言いなすったらどう？　<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>の五十回目のお誕生日じゃありませんか」

「五十回目じゃないよ、四十九回目だよ」

「五十回目ですよ。おじいさん、五十になるとお<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>忘れですか、ホホホホ」

「てめえの<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の悪いのを<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>にあげて笑ってやがる。いいかいおぎゃあと、生れた日にはお誕生祝はしないじゃないか、だから、五十から引く一で、四十九回さ」

「なるほど、そう云えば……」

「そう云わなくても四十九回、<ruby><rb>始終</rb><rt>しじゅう</rt></ruby><ruby><rb>苦界</rb><rt>くがい</rt></ruby>さ。そこでこの機会に於て、<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>代りに、子沢山の子供の上を案じてやってるんだあナ」

「まあ、およしなさいよ、遺言なんて、<ruby><rb>縁起</rb><rt>えんぎ</rt></ruby>でもない、<ruby><rb>鶴亀鶴亀</rb><rt>つるかめつるかめ</rt></ruby>」

「お前は実によく産んだね、オイばあさん。ちょいと六人だ。六人と云やあ<ruby><rb>半打</rb><rt>はんダース</rt></ruby>だ。これがモルモットだって六匹函の中へ入れてみろ、騒ぎだぜ」

「やあ、お父さん、お帰りなさい」長男の<ruby><rb>黄一郎</rb><rt>きいちろう</rt></ruby>が入ってきた。

「モルモットをどうするとかてえのは、一体なんです」

長造とお妻とが顔を見合わせて、ぷッと吹きだした。

「お父さんは、お前たちのことをモルモットだって云ってなさるよ。よくお前は六匹も生んだねえ、なんて」お妻はおどけて<ruby><rb>嗾</rb><rt>け</rt></ruby>しかけるように云った。

「私達がモルモットなら、お父さんは親モルモットになりますね、ミツ坊は孫モルモットで……」

「そうそう、ミツ坊に、この靴下を持ってってやらなきゃあ。おじいさんは、靴下を早く持って行けと云っときながら、あたしのことを<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>えてモルモットの話なんだからねえ」

お妻は、いい機嫌で室を出て行った。

「お父さん、今日はお<ruby><rb>芽出</rb><rt>めで</rt></ruby>とう<ruby><rb>御座</rb><rt>ござ</rt></ruby>います」

「うん、ありがとう」

「きょうは、店を頼んで、三人一緒に、早く出てきました」

「おお、そうかい」

「久しぶりに、モルモットが皆集まって<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かに、御馳走になります」

「うん、――」

長造は何か別のことを考えている様子だった。黄一郎には、直ぐそれが判ったのだった。

「もっとも清二はいませんけれど……<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>なにか<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りを<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>しましたか」

<ruby><rb>清二</rb><rt>せいじ</rt></ruby>は、黄一郎の直ぐの弟だった。その下が、ゴム工場へ勤めている<ruby><rb>弦三</rb><rt>げんぞう</rt></ruby>で今年が<ruby><rb>徴兵</rb><rt>ちょうへい</rt></ruby><ruby><rb>適齢</rb><rt>てきれい</rt></ruby>。その下に、みどりと<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>という姉妹があって、<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>の<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>は、やっと十五歳の中学三年生だった。

「清二のやつ、一週間ほど前に珍らしく<ruby><rb>横須賀軍港</rb><rt>よこすかぐんこう</rt></ruby>から、手紙なんぞよこしやがった」

「ほう、そりゃ感心だな。どうです、元気はいい<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>でしたか」

「別に心配はないようだ。今度、<ruby><rb>演習</rb><rt>えんしゅう</rt></ruby>に出かけると云った。ばあさんには、なんだか、軍艦のついた<ruby><rb>帛紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>をよこし、皆で喰えと云って、<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>せんべいの、でかい缶を送って来たので驚いたよ。いずれ後で出してくるだろう」

「そりゃいよいよ感心ですね」

「うちのばあさんは、これは清二にしちゃ変だと云って<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>ぐむし、みどりはみどりで、どうも気味がわるくて喰べられないというしサ、わしゃ、<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りつけてやった。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>買ってよこしたのに喜んでもやらねえと云ってナ」

「なるほど、多少変ですかね」

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、紅子と素六とは、<ruby><rb>清</rb><rt>せい</rt></ruby>兄さんも話せるようになった、だがこれは日頃の<ruby><rb>罪滅</rb><rt>つみほろ</rt></ruby>ぼしの<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>なんだろう、なんて<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らず<ruby><rb>口</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を叩きながら、盛んにポリポリやってたようだ」

「清二は乱暴なところがあるが、根はやさしい男ですよ」

「そうかな、お前もそう思うかい。だが潜水艦乗りを志願するようなところは、無茶じゃないかい。後で聞くと、飛行機乗りと潜水艦乗りとは、お嫁の<ruby><rb>来手</rb><rt>きて</rt></ruby>がない<ruby><rb>両大関</rb><rt>りょうおおぜき</rt></ruby>で、このごろは飛行機乗りは安全だという評判で大分いいそうだが、潜水艦のほうは、ますます悪いという話だよ」

「それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の<ruby><rb>伊号</rb><rt>いごう</rt></ruby>一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ」

「だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ」

そこへ廊下をバタバタ駈けてくる<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が聞こえてきた。ヒョックリ真ンまるい顔を出したのは中学生の素六だった。

「お父様も、兄ちゃんも、あっちへ来て下さいって、<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>ができたからサ」

「そうか、じゃお父様、参りましょう」黄一郎は、腰を起して、父親を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>した。

「うン、――よっこらしょい」と長造は<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をポンと一つ、長火鉢の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>で叩くと、立ち上った。「今日は下町をぐるッと廻って大変だったよ。品物が動かんね、お前の方の店はどうだい」

「駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<ruby><rb>甲府</rb><rt>こうふ</rt></ruby>方面へ出ます。この<ruby><rb>鼻緒商売</rb><rt>はなおしょうばい</rt></ruby>も、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね」

「第一、この<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>に問屋が多すぎるよ」

長造は<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>左右</rb><rt>さゆう</rt></ruby>にしゃくって、表通に<ruby><rb>鼻緒問屋</rb><rt>はなおどんや</rt></ruby>の多いのを<ruby><rb>指摘</rb><rt>してき</rt></ruby>した。この浅草の<ruby><rb>大河端</rb><rt>おおかわばた</rt></ruby>の一角を占める<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>は、古くから<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の鼻緒と<ruby><rb>爪革</rb><rt>つまかわ</rt></ruby>の手工業を以て、日本全国に知られていた。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に、東京好みの<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な鼻緒は<ruby><rb>断然</rb><rt>だんぜん</rt></ruby>この花川戸でできるものに限られていた。鼻緒の<ruby><rb>下請負</rb><rt>したうけおい</rt></ruby>は、同じ区内の<ruby><rb>今戸</rb><rt>いまど</rt></ruby>とか<ruby><rb>橋場</rb><rt>はしば</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>隣町</rb><rt>となりまち</rt></ruby>の、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい家庭工場で、<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>を固めたり、<ruby><rb>麻縄</rb><rt>あさなわ</rt></ruby>を通したり、その上から色彩さまざまの<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>になった鼻緒を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せたり、それが出来ると、真中から二つに折って<ruby><rb>前鼻緒</rb><rt>まえばなお</rt></ruby>で<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>め、それを百本ずつ集めて、前鼻緒を<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>ね、垂れ下った毛のような麻をとるために、火をつけて<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>焼く――そうしたものを、問屋に持ちこむのだった。問屋には、数人の職人が居て、品物を<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>り<ruby><rb>別</rb><rt>わ</rt></ruby>けたり、特別のものを作ったりして、その上に<ruby><rb>商標</rb><rt>しょうひょう</rt></ruby>のついた帯をつけ、重い<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>を天井に一杯釣り上げ、別に箱に<ruby><rb>収</rb><rt>おさ</rt></ruby>めて積みあげるのだった。地方からの<ruby><rb>買出</rb><rt>かいだ</rt></ruby>し人が来ると、商談を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>め、大きい木の箱に<ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>めて、<ruby><rb>秋葉原</rb><rt>あきはばら</rt></ruby>駅、<ruby><rb>汐留</rb><rt>しおどめ</rt></ruby>駅、<ruby><rb>飯田町</rb><rt>いいだまち</rt></ruby>駅、<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>駅などへそれぞれ送って貨車に積み、広く日本全国へ発送するのだった。長造は昔ながらの花川戸に、<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>を張っていた。長男の黄一郎は、思う<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があって、東京一の盛り場と云われる新宿を、すこし郊外に行ったところに店を作っていたのだった。そこには<ruby><rb>妻君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>の喜代子と、二人の間にできたミツ子という赤ン坊との三人の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に三人の雇人がいた。今日は<ruby><rb>本家</rb><rt>ほんけ</rt></ruby>の大旦那長造の誕生日であるから、店を頼んで、浅草へ出て来たのだった。

「さア、おじいちゃま、今晩は、お<ruby><rb>辞儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>なさいよ、ミツ子」

お湯から出て来て、廊下で<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしているらしい喜代子の声がした。

「やあ、ミツ坊、よく来たね。はッは」長造が大きな声であやしているらしかった。「お湯が熱かったのかい、<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>のような<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby>ッぺたをしているね。どれどれ、おじいちゃんが抱っこしてやろう。さあ、おいで、アッパッパ」

「やあ、笑った、笑った」赤ン坊の珍らしい素六が、横から<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>てた。

今夜は、客間をつかって、大きなお膳を中央に並べ、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお妻と姉娘のみどりが腕をふるった御馳走が、所も狭いほど並べられてあった。

長造が席につくと、<ruby><rb>神棚</rb><rt>かみだな</rt></ruby>にパッと<ruby><rb>灯明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>がついて、皆が「お<ruby><rb>芽出</rb><rt>めで</rt></ruby>とうございます」「お父さん、お芽出とう」と、四方から声が懸った。

長造は、盃をあげながら、いい機嫌で一座をすっと見廻わした。

「全く一年毎に、お前たちは大きくなるね、孫も出来るし、これで清二が居て――あいつはまだ帰ってこないね」と、弦三の姿のないのに<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めたが、直ぐ元のよい機嫌に直って、

「<ruby><rb>弦</rb><rt>げん</rt></ruby>も並ぶとしたら、この<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>じゃもう狭いね、来年はミツ坊も坐って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとと</span>を喰るだろうし、なア坊や、こりゃ<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>のでかいのを<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えなくちゃいけねえ」

「この室が、第一<ruby><rb>狭</rb><rt>せも</rt></ruby>うござんすねえ」お妻も夫の眼のあとについて、しげしげ一座を見廻わしながら云った。

「来年は、隣りの間も、ぶちぬいて使うんですね」黄一郎が<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>をうった。

「それじゃ、宴会みたいになるね」長造は、癖で指先で丸い<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>をグルグル撫でまわしながら云った。

「お父<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>、こんな家よしちまって、郊外に大きい<ruby><rb>分離派</rb><rt>ぶんりは</rt></ruby>かなんかの文化住宅を、お建てなさいよウ」<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>が、ボッブの頭を振り振り云った。

「洋館だね、いいなア、僕の部屋も<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてくれるといいなア」素六は、もう文化住宅が出来上ったような気になって、喜んだ。

ミツ坊までが、若いお母アちゃんの膝の上で、ロボットのようにピンピン跳ねだした。

「<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を云いなさんな」長造は<ruby><rb>微苦笑</rb><rt>びくしょう</rt></ruby>して、末ッ子達を<ruby><rb>押</rb><rt>おさ</rt></ruby>えた。

「お父様は、お前達を大きくするので、一杯一杯だよ。皆が、もすこししっかりして、心配の種を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>かないで呉れると、もっと働けて、そんなお金が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>るかもしれない。これ御覧、お父様の頭なんざ、こんなに毛が薄くなった」

父親が見せた頭のてっぺんは、成る程、毛が薄くなって、アルコールの廻りかけているらしい<ruby><rb>地頭</rb><rt>じがしら</rt></ruby>が、赤くテラテラと、透いて見えた。

「お父<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>、そりゃ、お酒のせいですよ」黄一郎がおかしそうに口を出した。

「ほんとにね」お妻が同意して云った。「あなた、この頃、ちと<ruby><rb>晩酌</rb><rt>ばんしゃく</rt></ruby>が過ぎますよ」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>ッ。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の<ruby><rb>訓辞</rb><rt>くんじ</rt></ruby>が、<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>なしに、なっちまったじゃないか！」口のところへ持ってゆきかけた<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を途中で停めて、長造は<ruby><rb>破顔</rb><rt>はがん</rt></ruby>した。

「はッはッは」

「ふ、ふ、ふ」

「ほッほッほ」

それに釣りこまれて、一座は<ruby><rb>花畑</rb><rt>はなばたけ</rt></ruby>のように笑いころげた。

どよめきが、やっと<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まりかけたとき、

「それにしても、弦三は大変遅いじゃないか。昨夜は、まだ早かった。この間のように、十二時過ぎて帰ってくる<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>なんじゃ無いかなあ」と、長造が云った。

「お母ア<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>、<ruby><rb>工場</rb><rt>こうば</rt></ruby>へ電話をかけたらどうです」黄一郎が云った。

「それもそうだが、弦の居るところは、<ruby><rb>夜分</rb><rt>やぶん</rt></ruby>は電話がきかないらしいんだよ」

「なーに、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>清二の二の舞いをやりかかってるんだよ。うちの子供は、不良性を帯びるか、さもなければ、皆気が弱い」

父親はウッカリ、平常思っていることを、<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>け<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>したのだった。今日は云うのじゃなかった、と気のついたときは既に遅かった。一座は急に白けかかった。紅子は、<ruby><rb>断髪頭</rb><rt>だんぱつあたま</rt></ruby>を、ビューンと一振りふると、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の前から腰をあげようとした。

「唯今――」

<ruby><rb>詰襟服</rb><rt>つめえりふく</rt></ruby>の弦三が、のっそり<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってきた。なんだか、新聞紙で包んだ大きなものを、小脇に<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えていた。

「まあ大分ひまが<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>ったのね。さァ、こっちへお坐り。お父様がお待ちかねだよ」母親が<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>うようにして、弦三の席に<ruby><rb>刺身醤油</rb><rt>さしみしょうゆ</rt></ruby>の小皿などを寄せてやった。

「――」弦三は無言のまま、席についた。

「弦おじちゃん、大変でしたね」<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>の<ruby><rb>喜代子</rb><rt>きよこ</rt></ruby>も、お妻について弦三を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>った。「さあ、ミツ子、おじちゃん、おかえんなさいを、するのですよ」

ミツ子は母の膝の上で、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った首を、弦三の方にかしげ、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な面持で<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

「弦三、お前の帰りが遅いので、お母アさんが心配してるぞ」父親は、<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りたいのを我慢して、やっと、そう云った。

「弦ちゃん、明日の晩でも、うちへ来ないか、すこし手伝ってもらいたいものもあるんだが……」黄一郎が、兄らしい心配をして、引きよせて意見をしようという心らしかった。

「このごろ、ずっと<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいんですよ、兄さん」弦三は、はっきり<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>った。

「なにが、そんなに忙しいんだい」父親が、痛いところへ<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>られたように<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

「工場が忙がしいんです」

「工場が忙がしい？　お前の仲間に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いたら、<ruby><rb>一向</rb><rt>いっこう</rt></ruby>忙しくないって云ってたぜ」

「お父さん、僕だけ、忙しいことをやっているんですよ」

「あなた、もういいじゃありませんか、お誕生日ですから、ほかの事を<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いよ」母親が危険とみて口を出した。

「うん、大丈夫だよ」父親は<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて笑顔をつくった。セメントのように硬い<ruby><rb>笑顔</rb><rt>わらいがお</rt></ruby>だった。

「今夜は遅くなったとは思ったんですが、今夜中に仕上げて、お父さんのお誕生祝にあげようと思って、ホラこれ！　これをあげますよ」そう云って弦三は、新聞紙包みを、父親の方へヌッと差出した。

「なに、誕生祝だって」長造はすっかり<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>ってしまった。

「それを呉れるというのかい。ほほう」

「まア、きたないわ」と<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>が<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。「お膳の下から出すものよ。<ruby><rb>夜店</rb><rt>よみせ</rt></ruby>でバナナを買ってきたんでしょう」

「なに、バナナか？」父親は手を引込めた。

「バナナじゃありませんよ、僕が工場で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてきたんですよ」

「僕知ってらあ。きっとゴム靴だよ。もうせん、僕に拵えてくれたねえ、<ruby><rb>弦</rb><rt>げん</rt></ruby>兄さん」

「ゴム靴だって？」父親は顔を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせた「<ruby><rb>鼻緒屋</rb><rt>はなおや</rt></ruby>の<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が、ゴム靴を作る時代になったか」

「黙って開けてごらんなさい、お父さんは、きっと驚くでしょうよ」

新聞紙の包みは、<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>の手から隣へ廻って、父親の膝の上へ順おくりに送られた。

長造が、新聞紙をバリバリあける<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に、一座の<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は<ruby><rb>聚</rb><rt>あつま</rt></ruby>った。<ruby><rb>二重三重</rb><rt>ふたえみえ</rt></ruby>の包み紙の下から、やっと引出されたのは、ゴムと<ruby><rb>金具</rb><rt>かなぐ</rt></ruby>とで出来たお<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>のようなものだった。

「こりゃ、お前が造ったのかい、一体、これは何だい」父親は<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に鼻を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>まれたような顔を弦三の方に向けた。

「それは、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>マスクですよ。毒瓦斯<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けに使うマスクなんです」

「瓦斯マスク！　ほほう、えらいものを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたものだね。近頃、こんな<ruby><rb>玩具</rb><rt>がんぐ</rt></ruby>が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りだしたってえ訳かい」

「<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>じゃありませんよ、本物です。お父さん使って下さい。顔にあてるのはこうするのです」

一座が<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としている<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、弦三は大得意で立ちあがった。

「いや、もう沢山、もう沢山」長造は、そのお面みたいなものを、弦三が本気で<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せそうな様子を見てとって、<ruby><rb>尻込</rb><rt>しりご</rt></ruby>みしたのだった。「わしはもういいから、素六にでも呉れてやれ、あいつ、野球のマスクが欲しいってねだっていたようだから丁度いい」

「野球のマスクと違いますよ、お父さん」弦三は<ruby><rb>躍起</rb><rt>やっき</rt></ruby>になって<ruby><rb>抗弁</rb><rt>こうべん</rt></ruby>したのだった。「いまに日本が外国と戦争するようになるとこの<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>マスクが、是非必要になるんです。東京市なんか、敵国の爆撃機が飛んできて、たった五<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の爆弾を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>せば、それでもう、大震災のときのような<ruby><rb>焼土</rb><rt>しょうど</rt></ruby>になるんです。そのとき敵の飛行機は、きっと毒瓦斯を投げつけてゆきます。この瓦斯マスクの無い人は、非常に危険です。お父さんは、家で一番大事な人だから第一番に、これを作ってあげたんですよ」

「うん、その<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>は有難い」と長造は一つペコンと頭を下げたが、それは<ruby><rb>申訳</rb><rt>もうしわけ</rt></ruby>に過ぎないようだった。「だが、この東京市に敵国の飛行機なんて、飛んで来やしないよ。心配しなさんな」

「そんなことありませんよ。東京市位、空中襲撃をしやすいところは無いんですよ。僕は雑誌で読んだこともあるし、軍人さんの<ruby><rb>講話</rb><rt>こうわ</rt></ruby>も聴いた――」

「大丈夫だよ、お前」長造は、呑みこみ<ruby><rb>顔</rb><rt>がお</rt></ruby>に云った。「日本の陸軍にも海軍にも飛行機が、ドッサリあるよ。それに<ruby><rb>俺等</rb><rt>わしら</rt></ruby>が<ruby><rb>献納</rb><rt>けんのう</rt></ruby>した愛国号も百台ほどあるしサ、そこへもってきて、日本の軍人は強いぞ、<ruby><rb>天子様</rb><rt>てんしさま</rt></ruby>のいらっしゃるこの東京へなんぞ、一歩だって敵の飛行機を近付けるものか。お前なんぞ、知るまいが、軍備なんて巧く出来ているんだ」

「空の固めは出来てないんだって、その軍人さんが云いましたよ」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>、そんなことを大きな声で云うと、お<ruby><rb>巡</rb><rt>まわ</rt></ruby>りさんに叱られるぞ。お前なんか、そんな余計な心配なぞしないで、それよか工場がひけたら、ちと早く帰って来て、お湯にでも入りなさい」

「弦ちゃん、お前は、こんなことで毎日帰りが遅かったのかい」<ruby><rb>黄一郎</rb><rt>きいちろう</rt></ruby>が、<ruby><rb>横合</rb><rt>よこあい</rt></ruby>から口を出した。

弦三は、黙って<ruby><rb>点</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「瓦斯マスクなんてゴムで作ってあるから永く置いてあると、ボロボロになって、いざというときに役に立たないんだぜ。どうせゴム商売で<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けようと云うんだったら、マスクよりも<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>りゴム靴の方がいいと思うね」

「儲けなんか、どうでもいいのです」弦三は<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうに兄を見上げた。「いまに東京が空襲されたら大騒ぎになるから、市民いや日本国民のために、瓦斯マスクの研究が大事なんです」

「瓦斯マスクのことなんか、軍部に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>しといたら、いいじゃないか。それに<ruby><rb>此後</rb><rt>このご</rt></ruby>は戦争なんて無くなってゆくのが、人間の考えとしたら自然だと思うよ。聯盟だって、もう大丈夫しっかりしているよ。聯盟直属の<ruby><rb>制裁軍隊</rb><rt>せいさいぐんたい</rt></ruby>さえあるんだからね」

「戦争なんて、野蛮だわ」紅子が叫んだ。

「でも万一、外国の爆撃機がとんできたら、恐ろしいわねエ」

と云ったのは姉娘のみどりだった。

「もう五年ほど前になりますけれど、<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>事変の活動で、爆弾の跡を見ましたけれど、随分おそろしいものですねエ。あんなのが<ruby><rb>此辺</rb><rt>このへん</rt></ruby>に落ちたら、どうでしょう」<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>の喜代子が、恐怖派に入った。

「きっと、爆弾の音を聞いただけで、気が遠くなっちまうでしょうよ。おお、そんなことのないように」みどりが、身体を<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせて叫んだ。

「大丈夫、戦争なんて起こりゃせん」黄一郎が<ruby><rb>断乎</rb><rt>だんこ</rt></ruby>として言い放った。

「ほんとかい」今まで黙っていた母親が口を出した。「あたしゃ<ruby><rb>清二</rb><rt>せいじ</rt></ruby>の様子が、気になってしようがないのだよ」

「<ruby><rb>清</rb><rt>せい</rt></ruby>兄さんはネ、お母さん」<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>が呼びかけた。「この前うちへ帰って来たとき、また近く戦争があるんだと云ってたよ」

「おや、清二がそう云ったかい。あの子は、演習に行くと云ってきたが、もしや……」

「お母さん、もう戦争なんて、ありませんよ。<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>から云ったって、日本は戦争をしない方が勝ちです。それが世界の動きなんだから」

「戦争があると、商売は、ちと、ましになるんだがなァ。このままじゃ、商人はあがったりだ」

「なんだか、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>のお誕生日が、戦争座談会のようになっちまったね。さア私はお酒をおつもりにして、赤い御飯をよそって下さい」

黄一郎が、盃を伏せて、茶碗を出した。

「じゃ、お汁をあげましょう」お妻はそう云って、姉娘の方に目くばせした。「みどり、ちょっと、お勝手でお汁のお鍋を<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>めといで」

「はい」

みどりは勝手に立った。

ミツ坊は、いつの間にか、喜代子の胸に乳房を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えたまま、スウスウと大きな<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>をかいて睡っていた。

「可愛いいもんだな」長造が<ruby><rb>膳越</rb><rt>ぜんご</rt></ruby>しに、お人形のような孫の寝顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

「今日は、皆の<ruby><rb>引張</rb><rt>ひっぱ</rt></ruby>り<ruby><rb>凧</rb><rt>だこ</rt></ruby>になったから、疲れたんですよ。まあこの可愛いいアンヨは」

お妻が、ミツ子の足首を軽く撫でながら、口の中にも入れたそうにした。

「ミツ坊が産れたんで、家の中は倍も<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かになったようだね」

長造は上々の御機嫌で、また盃を口のあたりへ運ぶのだった。一家の誰の眼も、にこやかに<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>き、床の間に投げ入れた、<ruby><rb>八重桜</rb><rt>やえざくら</rt></ruby>が重たげな<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を、静かに解いていた。まことに<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな春の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>だった。

そこへ絹ずれの音も高く、姉娘のみどりが飛びこんで来たのだった。

「大変ですよ、お父さま。ラジオが、今、臨時ニュースをやっていますって！」

「なに、臨時ニュースだって？」

「<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の受信機のスイッチを入れて下さい。また<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>事変ですって！」

「また上海事変だって？」

長造は、床の間に置いてある<ruby><rb>高声器</rb><rt>こうせいき</rt></ruby>のプラグを入れた。ブーンと唸って、高声器に、電気がきた。

「では、もう一度、くりかえして申し上げます」高声器の中から、杉内アナウンサーの声が聞こえた。その声は、隠しきれない程、興奮の<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを帯びていたのだった。

「本日午後五時半、上海市の共同<ruby><rb>租界</rb><rt>そかい</rt></ruby>内で、我が<ruby><rb>滝本総領事</rb><rt>たきもとそうりょうじ</rt></ruby>が○国人の一団により、<ruby><rb>惨殺</rb><rt>ざんさつ</rt></ruby>されましたお話であります。

兼ねて租界管理に関し、日○両国間に協議を開いて居りましたが、我が滝本総領事は、常に正々堂々の論陣を張って、○国の暴論を圧迫していましたところ、其の新規約も八分通り片がついた今日になって、会議から<ruby><rb>帰途</rb><rt>きと</rt></ruby>についた総領事の自動車が、議場の門から二百<ruby><rb>米</rb><rt>メートル</rt></ruby>ほど行ったところで物蔭にひそんでいた○国人約十名よりなる一団に襲撃され、軽機関銃を窓越しに乱射され、総領事は全身蜂の巣のように弾丸を打ちこまれ、<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>に<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>まって即死し、同乗して居りました工藤書記長、小柳秘書及び相沢運転手の三人も同様即死いたしました。兇行の目的は、<ruby><rb>協議妨害</rb><rt>きょうぎぼうがい</rt></ruby>にあることは<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かであります。以上。

次は<ruby><rb>居留邦人</rb><rt>きょりゅうほうじん</rt></ruby>の<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>のお話。

この報至るや、居留邦人は非常に激昴しまして、其の場に於て、決死団を組織し、暴行団員が引上げたと思われる共同租界内のホテル・スーシーを包囲した<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>を破壊し、団員四名を射殺し、一名を捕虜といたしました。他は<ruby><rb>其場</rb><rt>そのば</rt></ruby>より<ruby><rb>遁走</rb><rt>とんそう</rt></ruby>いたしました。これに対して○国人側も非常に怒り、復讐を誓って、唯今準備中であります。両国の外交問題は、<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby><ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>となりました。以上。

<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>追加ニュースがある筈でございますから、この次は、どうぞ八時三十分をお待ち下さいまし。ＪＯＡＫ」

アナウンサーの声は、高声器のなかに消えた。一座は急にざわめき立った。

「えらいことになったね」黄一郎が<ruby><rb>真先</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。「これは<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>解決しませんぜ」

「また戦争かい」母親が心配そうに云った。

「シナ相手の戦争は儲らんで困るね」父親が浮かぬ顔をした。

「まア、お父様は慾ばってんのねえ」と紅子が、わざとらしく眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いた。

「○国てどこなの、兄さん」と素六が弦三の腕をゆすぶった。

「僕には解らないこともないが……」弦三は唇をゆがめて小さい弟に答えた。

「どうせ日本の相手はアメリカだよ」黄一郎が、ずばりと云った。

「お父さん、この<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>マスクを、新しい意味で受取って下さい」

弦三の顔は、緊張にはちきれそうだった。

「そんなに云うなら」

と長造は、自分のお尻のそばに転っている不恰好な愛児の製作品をとりあげて云った。

「お父<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>はお礼を云ってしまっとくよ」

そのとき、戸外では、号外売りの、けたたましい呼声が鈴の音に交って、聞こえ始めた。そして、また別な号外売りがあとからあとへと、<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>れ<ruby><rb>代</rb><rt>かわ</rt></ruby>り<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>ち<ruby><rb>換</rb><rt>かわ</rt></ruby>り、<ruby><rb>表通</rb><rt>おもてどおり</rt></ruby>を流していった。

晴やかな笑声に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まれていた一座は、急に沈黙の群像のように黙りこくって<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

下田家の奥座敷には、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>とはまるで異った空気が流れこんだように思われた。誰もそれを口に出しては云わなかったが、一座の家族の背筋になにかこうヒヤリとするものが感ぜられるのだった。

<ruby><rb>不吉</rb><rt>ふきつ</rt></ruby>な<ruby><rb>予感</rb><rt>よかん</rt></ruby>……

<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて説明をつけると、それに近いものだった。

我が潜水艦の行方

――遂に<ruby><rb>国交断絶</rb><rt>こっこうだんぜつ</rt></ruby>――

横須賀の軍港を出てから、もう二<ruby><rb>旬</rb><rt>じゅん</rt></ruby>に近い日数が流れた。

清二の乗組んだ潜水艦<ruby><rb>伊号</rb><rt>いごう</rt></ruby>一〇一が、出航命令をうけ、<ruby><rb>僚艦</rb><rt>りょうかん</rt></ruby>の一〇二及び一〇三と、直線隊形をとって、太平洋に乗出したのは正確に云えば四月三日のことだった。<ruby><rb>伊豆沖</rb><rt>いずおき</rt></ruby>まで来たときに、三艦は、予定のとおり、隊形を解き、各艦は僚艦にそれぞれ別れの挨拶を取交わして、ここに、別々の行動をとることになった。

いつもであると、<ruby><rb>訣別</rb><rt>けつべつ</rt></ruby>に際し、各艦は水平線上に浮かびあって、甲板上に整列し、<ruby><rb>答舷礼</rb><rt>とうげんれい</rt></ruby>を以て、お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>の<ruby><rb>武運</rb><rt>ぶうん</rt></ruby>と無事とを祈るのが例であった。しかし今回に限り三艦は、艦体を水面下に隠したまま、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、潜望鏡をチラチラと動かすに<ruby><rb>停</rb><rt>とどま</rt></ruby>り、水中通信機で、メッセージを交換し合ったばかりだった。

「何処へ行くのであろう」

清二は推進機に近い電動機室で、<ruby><rb>界磁抵抗器</rb><rt>かいじていこうき</rt></ruby>のハンドルを握りしめて、出航命令が出た以後の、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちないさまざまの事項について不審をうった。

「どうやら、いつもの演習ではないようだ」

二等機関兵である清二には、何の事情も判っていなかった。彼は上官の命令を守るについて不服はなかったけれど、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>でもよいから、出動方面を教えてもらいたかった。<ruby><rb>水牛</rb><rt>すいぎゅう</rt></ruby>のように大きな<ruby><rb>図体</rb><rt>ずうたい</rt></ruby>をもった艦長の胸のなかを、一センチほど、<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>りひらいてみたかった。

<ruby><rb>舳手</rb><rt>じくしゅ</rt></ruby>のところへは、なにか<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>と、命令が下されているのがエンジンの響きの間から聞こえたが、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んな種類の命令だか判らなかった。

だが、間もなくジーゼル・エンジンがぴたりと停って、清二の居る電動機室が急に、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しくなった。

「界磁抵抗開放用意！」

<ruby><rb>伝声管</rb><rt>パイプ</rt></ruby>から、伝令の太い声が、聞こえた。

清二は、開閉器の一つをグッと押し、抵抗器の丸いハンドルを握った。そしていつでも廻されるように<ruby><rb>両肘</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>を左右一杯に開いた。

「界磁抵抗開放用意よし！」

<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>喇叭</rb><rt>ラッパ</rt></ruby>口の中に、思いきり<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りこんだ。

「開放徐々に始め！」

推進機に<ruby><rb>歯車結合</rb><rt>ギーア・カップリング</rt></ruby>された電動機の呻りは、次第に高くなって行った。艦体が、明かに、グッと下方に傾斜したのが判った。深度計の指針が静かに右方へ廻りだした。

「十メートル、十五メートル、……」

深度計の指針は、それでもまだ、グッグッと同じ方向に傾いて行った。

艦底の<ruby><rb>海水出入孔</rb><rt>かいすいしゅつにゅうこう</rt></ruby>は、全開のまま、ドンドンと海水を艦内に呑みこんでいるらしかった。

このままでは海底にドシンと<ruby><rb>衝突</rb><rt>ぶつ</rt></ruby>かるばかりだと思われた。清二は、界磁抵抗のハンドルを、全開の位置に保持したまま、早く元への命令が来ればよいがと、気を<ruby><rb>焦</rb><rt>あ</rt></ruby>せらせたのだった。疑いもなく、唯今の状態は、<ruby><rb>全速力沈降</rb><rt>ぜんそくりょくちんこう</rt></ruby>を続けているものであって、海岸を十キロメートルと出ていないところで、こんな操作をするのは、<ruby><rb>前代未聞</rb><rt>ぜんだいみもん</rt></ruby>のことだった。

「どこかで吾が潜水艦の行動を監視している者があるのかも知れない」

清二は<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>、そんなことを考えたのだった。

それから後は、話にならないほどの、単調な日が続いた。

昼間は、絶対に水上へ浮びあがらなかった。その<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>、電動推進機には、いつも全速力がかかっていた。夜間になると、時々ポカリと水面に浮かんだが、それも極く短時間に限られていた。それはまるで乗組員を甲板に出して、深呼吸をさせるばかりが目的であるとしか思えなかった。だがその目的も充分には達せられなかったようだった。というのは、なにか見えるだろうと喜び<ruby><rb>勇</rb><rt>いさ</rt></ruby>んで甲板に出てみても、いつも周囲は真暗な洋上で、灯台の灯も見えなかった。或る晩は、<ruby><rb>銀砂</rb><rt>ぎんさ</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いたように星が出ていたし、また或る夜はボッボツと、冷い雨が頬の辺を打った、それが一番著しい変化だった。<ruby><rb>長大息</rb><rt>しんこきゅう</rt></ruby>を一つすると、もう昇降口から、艦内へ呼び戻されるという次第だった。

夜間の航行は、実に骨が折れた。艦長は、精密な時計と、<ruby><rb>水中聴音機</rb><rt>すいちゅうちょうおんき</rt></ruby>とを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、或るときは全速力に走らせるかと思うと、また或るときは、急に推進機を全然停止させて、一時間も一時間半も、洋上や海底に、フラフラと<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているというわけだった。

こんなわけで、横須賀軍港以来、<ruby><rb>二旬</rb><rt>にじゅん</rt></ruby>の日数が経った。

そして或る日のこと、艦長は乗組員一同を集めて、驚くべき<ruby><rb>訓令</rb><rt>くんれい</rt></ruby>を発した。

「本艦は、本日を以て、<ruby><rb>米国加州沿岸</rb><rt>べいこくかしゅうえんがん</rt></ruby>に接近することができたのである」艦長の頬は<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>と<ruby><rb>紅潮</rb><rt>こうちょう</rt></ruby>していた。「本艦の任務は、僚艦一〇二及び一〇三と同じく、米国の大西洋艦隊が太平洋に廻航して、祖国襲撃に移ろうというその直前に、出来るだけ多大の損害を与えんとするものである。其の目標は、主として十六<ruby><rb>隻</rb><rt>せき</rt></ruby>の戦艦及び八隻の航空母艦である」

乗組員は、思わず「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ」と声をあげかけて、やっとそれを呑みこんだ。

艦長の訓令で、いままでの不審な事実は、殆んど<ruby><rb>氷解</rb><rt>ひょうかい</rt></ruby>した。航路が複雑だったのは、米国の西部海岸に備えつけられた水中聴音機や其の辺を<ruby><rb>游戈</rb><rt>ゆうよく</rt></ruby>している監視船、さては太平洋航路を何喰わぬ顔で通っている堂々たる<ruby><rb>間諜船舶</rb><rt>かんちょうせんぱく</rt></ruby>の眼と耳とを<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すためだったのだ。昨夜見たあの暗い海は、すでに敵国の領海だったのであるかと、清二はそれを思い出して興奮せずには居られなかった。

帝国海軍の潜水艦伊号一〇一は、この日から、加州沿岸を去る二十キロメートルの海底の、<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねて、計画をしてあった<ruby><rb>屈竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の隠れ場所に、ゴロンと横たわったまま、昼といわず夜といわず、睡眠病息者のように眠りつづけていた。しかし艦内の一角では、<ruby><rb>極超短波</rb><rt>きょくちょうたんぱ</rt></ruby>による秘密無線電話機が、鋭敏な<ruby><rb>触角</rb><rt>しょっかく</rt></ruby>を二十四時間、休みなしに働かせて、本国からの指令を、ひたすら<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れていた。

丁度その頃、東洋方面には、有史以来の険悪な空気が、渦を巻いていた。

わが日本の<ruby><rb>上海駐在</rb><rt>シャンハイちゅうざい</rt></ruby>の総領事惨殺事件と、そのあとに続いた在留邦人の復讐事件とは、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ずお互の官憲の手によって鎮まった。だがそれは無論、表面だけのことであった。東京と、<ruby><rb>華府</rb><rt>かふ</rt></ruby>との二ヶ所では、政府当局と相手国の全権大使とが、<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に往復した。外交文書には、次第に薄気味のわるい言葉が<ruby><rb>織</rb><rt>お</rt></ruby>りこまれて行った。お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>の国の名誉と<ruby><rb>権益</rb><rt>けんえき</rt></ruby>のために、往復文書には、強い意識が盛られていった。

その外交戦の直ぐ裏では、日米両国の戦備が、驚くべき速度と量と形とに於て、進められて行った。鉄工場には、官設といわず、民間会社と云わず、三千度の溶鉱炉が真赤に燃え、ニューマティック・ハンマーが<ruby><rb>灼鉄</rb><rt>しゃくてつ</rt></ruby>を叩き続け、<ruby><rb>旋盤</rb><rt>せんばん</rt></ruby>が<ruby><rb>叫喚</rb><rt>きょうかん</rt></ruby>に似た音をたてて同じ形の軍器部分品を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>りあげて行った。

東京の街角には、たった一日の間に、千<ruby><rb>本針</rb><rt>ぼんばり</rt></ruby>の腹巻を通行の<ruby><rb>女人達</rb><rt>にょにんたち</rt></ruby>に求める出征兵士の家族が<ruby><rb>群</rb><rt>むらが</rt></ruby>りでて、街の形を、変えてしまった。だが其の腹巻の多くは、間に合わなかったのだった。それは通行の女人達が、不熱心なわけでは無く、東京に属する師団の動員が、余りに速かったのである。

或る者は、交番の前に、青物の車を置いたまま、<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>で、<ruby><rb>営門</rb><rt>えいもん</rt></ruby>をくぐった。また或る者は、手術のメスを看護婦の手に渡したまま、聯隊<ruby><rb>目懸</rb><rt>めが</rt></ruby>けて、飛び出して行った。

事態は、市民の思っている以上に切迫していた。<ruby><rb>品川駅頭</rb><rt>しながわえきとう</rt></ruby>を出発して東海道を下っていった出征兵員一行の消息は、いつの間にか、全く不明になってしまった。

其のあとについて、品川駅を通過してゆく東北地方の出征軍隊の乗った列車は一々数えきれなかった。夜間ばかりでは運搬しきれないものと見え、真昼間にも<ruby><rb>陸続</rb><rt>りくぞく</rt></ruby>として<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>って行った。東北地方の兵営が、<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になるのではないかと、心配になるほどあとからあとへと、出征列車が<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>りこんできたのだった。

帝都の辻々に貼り出される号外のビラは、次第に大きさを加え、<ruby><rb>鮮血</rb><rt>せんけつ</rt></ruby>で描いたような○○が、二百万の市民を、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く緊張の<ruby><rb>天頂</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>へ、<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>いあげた。ラジオの高声器は臨時ニュースまた臨時ニュースで、早朝から真夜中まで、ワンワンと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らしていた。

そして遂に、其の日は来た。

昭和十×年五月一日、日米の国交は断絶した。

両国の大使館員は、駐在国の首都を退京した。

同時に、<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かな宣戦の<ruby><rb>詔勅</rb><rt>しょうちょく</rt></ruby>が下った。

東京市民は、血走った眼を、宣戦布告の号外の上に、幾度となく走らせた。彼等は、同じ文句を読みかえして行く度毎に、まるで別な新しい号外を読むような気がした。

「太平洋戦争だ！」

「いよいよ日米開戦だ！」

宣戦布告があると、新聞やラジオのニュースの内容は一変したのだった。

「<ruby><rb>米国</rb><rt>べいこく</rt></ruby>の太平洋艦隊は、今や大西洋艦隊の廻航を待ちて<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>に合せんとし、<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の主力艦は既に<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>パール湾に集結を<ruby><rb>了</rb><rt>りょう</rt></ruby>したりとの報あり！」

「<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>の日系米人、騒がず」

「<ruby><rb>墨西哥</rb><rt>メキシコ</rt></ruby>の首都附近に、<ruby><rb>叛軍</rb><rt>はんぐん</rt></ruby><ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>る、一両日中に、クーデター起るものと予測さる」

「<ruby><rb>英</rb><rt>えい</rt></ruby>、<ruby><rb>仏</rb><rt>ふつ</rt></ruby>両国は中立を宣言す」

「注目すべきレニングラードの反政府運動」

「中華民国も<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず中立宣言か」

「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>に市街戦起る、○○師団、先ず火蓋を切る。米国空軍は<ruby><rb>杭州</rb><rt>こうしゅう</rt></ruby>地方に集結」

東京市民は、我が軍に関するニュースの少いのに不満であった、それは恐らく、全国民の不満であるに違いなかった。ことに、太平洋方面に戦機を<ruby><rb>覘</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている筈の、帝国海軍の行動について、一行のニュースもないのを物足りなく思った。

どこからともなく、<ruby><rb>流言</rb><rt>りゅうげん</rt></ruby>が伝わり出した。東京市民の顔には不安の色が、次第にありありと現われて来た。誰しも、同じような云いたいことを持っていたが、云い出すのが恐ろしくて、互に押黙っていた。

国民の不安が、もう<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えきれない程、<ruby><rb>絶頂</rb><rt>ぜっちょう</rt></ruby>にのぼりつめたと思われた其の日の夜、東京では、ＪＯＡＫから、実に意外な臨時ニュースの放送があった。

<ruby><rb>警戒管制</rb><rt>けいかいかんせい</rt></ruby><ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ず！

ＪＯＡＫのある<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>は、東京の中心、丸の内を、僅かに南に寄ったところに<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>った。それは山というほど高いものではない。下から石段を登ってゆくと、ザッと百段目ぐらいを数える頃、<ruby><rb>山頂</rb><rt>さんちょう</rt></ruby>の愛宕神社の前に着くのだった。<ruby><rb>毬栗</rb><rt>まりぐり</rt></ruby>を半分に切って、ソッと東京市の上に置いたような此の愛宕山の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただ</rt></ruby>きは<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らかで、公園ベンチがあちこちに並び、そこからは、東京全市はもちろんのこと、お天気のよい日には肉眼ででも、<ruby><rb>房総半島</rb><rt>ぼうそうはんとう</rt></ruby>がハッキリ見えた。「五分間十銭」の木札をぶらさげた貸し望遠鏡には、いつもなら東京見物の衆が、おかしな腰付で<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついていた筈だった。しかし、今日ばかりは、そんな<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な光景は見えず、貸し望遠鏡はどこかへ姿を隠し、その位置には代りあって、精巧を誇る<ruby><rb>測高器</rb><rt>そっこうき</rt></ruby>と<ruby><rb>対空射撃算定器</rb><rt>たいくうしゃげきさんていき</rt></ruby>とが、がっしりした<ruby><rb>三脚</rb><rt>さんきゃく</rt></ruby>の上に<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えられ、それからやや<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>ったところには、巨大な高射砲が<ruby><rb>金網</rb><rt>かなあみ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、夕暗が次第に濃くなってくる帝都の空の一角を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいた。

「少尉殿」突然叫んだのは算定器の<ruby><rb>照準手</rb><rt>しょうじゅんしゅ</rt></ruby>である<ruby><rb>飯坂</rb><rt>いいさか</rt></ruby>上等兵だった。

「友軍の機影観測が困難になりましたッ」

「うむ」

高射砲隊長の東山少尉は、<ruby><rb>頤紐</rb><rt>あごひも</rt></ruby>のかかった<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をあげて、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>その時刻、帝都防護飛行隊が<ruby><rb>巡邏</rb><rt>じゅんら</rt></ruby>している筈の品川上空を注視したが、その方向には、いたずらに霧とも煙ともわからないものが濃く<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れ<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めていて、無論飛行機は見えなかった。

「それでは、観測やめィ」

照準手と、<ruby><rb>測合手</rb><rt>そくごうしゅ</rt></ruby>とは、<ruby><rb>対眼鏡</rb><rt>アイピース</rt></ruby>から、始めて眼を離した。<ruby><rb>網膜</rb><rt>もうまく</rt></ruby>の底には、赤く<ruby><rb>〇</rb><rt>ゼロ</rt></ruby>と書かれた目盛が、いつまでも消えなかった。少尉はスタスタと、<ruby><rb>社殿</rb><rt>しゃでん</rt></ruby>の<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>へ入って行った。その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>大喇叭</rb><rt>おおラッパ</rt></ruby>を<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>にして、天に向けたような聴音器が据えつけられていたのだった。夜に入ると、この聴音器だけが、飛行機の<ruby><rb>在処</rb><rt>ありか</rt></ruby>を云いあてた。

「Ｊ、Ｏ、Ａ、Ｋ！」

神社の隣りに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え立った、ＪＯＡＫの空中線鉄塔のあたりから、アナウンサーの声が大きく響いた。

<ruby><rb>弾薬函</rb><rt>だんやくばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>跼</rb><rt>うずくま</rt></ruby>っている兵士の群は、声のする鉄塔を見上げた。鉄塔を五メートルばかり登ったところに、真黒な函みたいなものがあるのが、薄明りのうちに認められたが、あれが、声の出てくる高声器なんだろうと思った。

本物の杉内アナウンサーは、鉄塔の向うに見える<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かなＪＯＡＫビルの中にいた。スタディオの、黄色い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる窓を通して、<ruby><rb>彼氏</rb><rt>かれし</rt></ruby>の短く苅りこんだ頭が見えていた。

「唯今から午後六時の子供さんのお時間でございますが……」

と云ったは云ったが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に老練なアナウンサーも、これから放送しようとする事項の重大性を考えて、そこでゴクリと<ruby><rb>唾</rb><rt>つばき</rt></ruby>を<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>みこんだ。

「……エエ、当放送局は、時局切迫のため、陸軍省令第五七〇九号によりましてこの時間から、東京警備司令部の手に移ることとなりました。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って既に発表しましたプログラムは、すべて中止となりましたので、あしからず御承知を願います。それでは唯今より、東京警備司令官<ruby><rb>別府</rb><rt>べっぷ</rt></ruby>大将の<ruby><rb>布告</rb><rt>ふこく</rt></ruby>がございます」

杉内アナウンサーは、マイクロフォンの前で、<ruby><rb>恭々</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく一礼をして下った。すると反対の側から、年の頃は<ruby><rb>六十路</rb><rt>むそじ</rt></ruby>を二つ三つ越えたと思われる半白の<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>と<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>、<ruby><rb>凛々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい将軍が、六尺豊かの長身を、静かにマイクロフォンに近づけた。

「東京及び東京地方に居住する帝国臣民諸君」将軍の声は<ruby><rb>泰山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>の如くに落付いていた。「本職は東京警備司令官の職権をもって広く諸君に一<ruby><rb>言</rb><rt>げん</rt></ruby>せんとするものである。吾が帝国は、<ruby><rb>曩</rb><rt>さき</rt></ruby>は<ruby><rb>北米</rb><rt>ほくべい</rt></ruby>合衆国に対して宣戦を布告し、吾が陸海軍は東に於て太平洋に戦機を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い、西に於ては<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>、<ruby><rb>比律賓</rb><rt>フィッリピン</rt></ruby>を攻略中であるが、従来の<ruby><rb>日清</rb><rt>にっしん</rt></ruby>、<ruby><rb>日露</rb><rt>にちろ</rt></ruby>、<ruby><rb>日独</rb><rt>にちどく</rt></ruby>、或いは近く昭和六七年に勃発せる満洲、上海事変に於ては、戦闘区域は外国内に限られ、吾が日本領土内には敵の<ruby><rb>一兵</rb><rt>いっぺい</rt></ruby>も侵入することを許さなかったのである。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに、今次の<ruby><rb>日米戦役</rb><rt>にちべいせんえき</rt></ruby>に於ては、全く事情を異にして戦闘区域は国外に限定を許されず、吾が植民地は勿論、東京大阪等の内地まで、戦闘区域とするの<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むなきに立至った。これは諸君に於て既に御承知の如く、主として航空機による攻撃力が増大したる結果である。当局は、敵国航空機の日本本土侵略に対し、充分なる準備と重大なる覚悟とを有するものであるが、元来航空機の侵入を百パーセントに<ruby><rb>阻止</rb><rt>そし</rt></ruby>することは、理窟上不可能と証明せられていることであるからして、敵機の完全なる撃退は保証しがたい。<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に本職は、各人が此辺の事情を理解し、指揮者の命に<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>い、官民一体となって此の重大事に善処せんことを望むものである。吾が国の家屋は火災に弱く、敵機の爆撃によって相当の被害あるべく、又非常時に際して種々の<ruby><rb>流言蜚語</rb><rt>りゅうげんひご</rt></ruby>あらんも、国民は始終冷静に<ruby><rb>適宜</rb><rt>てきぎ</rt></ruby>の行動をとることによりて其の被害程度を縮少し、空襲<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>るるに足らずとの自信を持ち得るものと確信する。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らなる<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>は、国難をして遂に<ruby><rb>収拾</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>すべからざる状態に導くものである。<ruby><rb>皇国</rb><rt>こうこく</rt></ruby>の<ruby><rb>興廃</rb><rt>こうはい</rt></ruby>は諸君の<ruby><rb>双肩</rb><rt>そうけん</rt></ruby>に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>れり、それ奮闘努力せよ。右布告す。昭和十×年五月十日。東京警備司令官陸軍大将別府<ruby><rb>九州造</rb><rt>くすぞう</rt></ruby>」

ＪＯＡＫが聞える五十キロの範囲の住民たちは、この布告を聴くと、老いたるも若きも、共にサッと顔色を変えた。

夕闇深い帝都の空の下には、異常なる光景が出現した。

ラジオの高声器のある戸毎家毎には、近隣の者や、見も知らぬ通行人までが、飛びこんで来て、警備司令部の放送がこれから如何になりゆくかについて、耳を<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てるのだった。

街を<ruby><rb>疾駆</rb><rt>しっく</rt></ruby>する洪水のような円タクの流れもハタと止り、運転手も客も、自動車を<ruby><rb>路傍</rb><rt>ろぼう</rt></ruby>に捨てたまま、先を争うて高声器の前に突進した。

電車も、軌道の上に停車したまま、明るい車内には人ッ子一人残っていなかった。

高声器の近所で<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぐもの、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>く者は、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち群衆の手で、のされてしまった。

トーキーをやっている映画館の或るものでは、即時映画を中止し、ラジオをトーキーの器械へ<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ、応急放送を観客に送って、非常に感謝された。

<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>劇場では、演劇をやめ、あの大きな舞台の上に、道具方が自作した貧弱な受信機を、支配人が<ruby><rb>平身低頭</rb><rt>へいしんていとう</rt></ruby>して借用したのを持ち出した。血の気の多い観客さえ、石のように黙りこくってその聴きづらい高声器の音に耳を澄したのだった。

「別府閣下の布告は終りました」杉内アナウンサーは、幾分上り気味だった。「次は塩原参謀より東京警報があります」

「東京警備一般警報第一号、発声者は東京警備参謀塩原大尉！」キビキビした参謀の声が聴えた。

帝都二百万の住民は、この一語も、聞き<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>すまいと、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を詰めた。

「信ずべき筋によれば」参謀の声は、<ruby><rb>余裕綽々</rb><rt>よゆうしゃくしゃく</rt></ruby>たるものがあった。「<ruby><rb>比律賓</rb><rt>フィリッピン</rt></ruby>第四飛行聯隊の主力は、オロンガボオ軍港を脱出し、中華民国<ruby><rb>浙江省</rb><rt>せっこうしょう</rt></ruby><ruby><rb>西湖</rb><rt>せいこ</rt></ruby>に集結せるものの如く、<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して<ruby><rb>此後</rb><rt>このご</rt></ruby>の行動は、数日後を期して、大阪<ruby><rb>若</rb><rt>もしく</rt></ruby>は東京方面を襲撃せんとするものと信ぜらる。<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>に、<ruby><rb>該主力</rb><rt>がいしゅりょく</rt></ruby>は、百十人乗の爆撃飛行艇三台、攻撃機十五台、偵察機三十台、戦闘機三十台及び空中給油機六台より編成せられ、根拠地<ruby><rb>西湖</rb><rt>せいこ</rt></ruby>と大阪との距離は千五百キロ、東京との距離は二千キロである。終り」

参謀が発表した驚くべき空中襲撃の警報は、帝都全市民にとって、<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>がわたす<ruby><rb>引導</rb><rt>いんどう</rt></ruby>にひとしかった。高声器の前に鼻を並べた誰も彼もは、お互に顔を見合わせ、同じように大きな<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついたのだった。

ああ、敵機の空中襲撃！

いよいよ帝都の上空に、米国空軍の姿が現れるのだ。

あの<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い眼玉をした赤鬼たちが、吾等の愛すべき家族を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って爆弾を投じ、<ruby><rb>焼夷弾</rb><rt>しょういだん</rt></ruby>で灼きひろげ、<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>で<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>の根を停めようとするのだ。

「いよいよ来るねッ」丸の内の会社から退けて、郊外中野へ帰ってゆく若い<ruby><rb>勤人</rb><rt>つとめにん</rt></ruby>が、一緒に高声器の前に駆けこんだ<ruby><rb>僚友</rb><rt>りょうゆう</rt></ruby>に呼びかけた。

「うん」その友人は、鼻の頭に、<ruby><rb>膏汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>を<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>ませていた。「警備司令部なんてのが有るのは、始めて知ったよ。驚いたネ」

「一般警報だというが、敵機の<ruby><rb>在処</rb><rt>ありか</rt></ruby>や、台数など、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しすぎるじゃないか。民衆には、敵機襲来すべしとだけアナウンスする方が、無難ではないかしら」

「いや、そうじゃないよ」彼は自由にならぬ顔を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて振った。「敵機が爆弾を落として見ろ、この東京なんざ、震災当時のような混乱に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>ることは<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>いだよ。流言は今でも盛んだ。非常時には更に輪をかけて甚だしくなるよ。その流言を止めるには、戦闘の内容を或る程度まで詳しく、軍部が発表して、市民に戦況を理解させて置かにゃいかん。正しい理解は、混乱を救う<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいつ</rt></ruby>の手だ」

「それもそうだが……」と、何か云おうとしたときに、ラジオがまた鳴り出した。

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ、叱ッ」

ざわめいていた群衆は、再び<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>に還った。彼等は、耳慣れない陸軍将校の言葉に、やや頭痛を覚えるのだった。

「東京警備一般警報第二号！」<ruby><rb>先刻</rb><rt>さき</rt></ruby>ほどの将校の声がした。「発声者は東京警備参謀塩原大尉。唯今より<ruby><rb>以降</rb><rt>いこう</rt></ruby>、東京地方一円は、警戒管制を実施すべし。東京警備司令官陸軍大将別府九州造。終り」

警戒管制に入る！

おお、これは此の前に東京全市で行われたあの防空演習ではないのだ。この警戒管制には、市民の生命が、<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>か<ruby><rb>半</rb><rt>はん</rt></ruby>かの<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>ころの目に懸けられているのだ！

警戒管制が敷かれると、訓練された<ruby><rb>在郷軍人会</rb><rt>ざいごうぐんじんかい</rt></ruby>、青年団、ボーイ・スカウトは、<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに出動した。

一番目覚ましい<ruby><rb>飛躍</rb><rt>ひやく</rt></ruby>を伝えられたのは、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り、光の世界と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれている東京は下町の、<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>区だったという。

「おい<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>、どこへ行く？」

店の前まで来たときに、<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>の<ruby><rb>鼻緒問屋</rb><rt>はなおどんや</rt></ruby>の主人<ruby><rb>下田長造</rb><rt>しもだちょうぞう</rt></ruby>は<ruby><rb>遽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて駈けだす三男の素六を認めたので、イキナリ声をかけたのだった。

「あ、お父さん」ボーイ・スカウトの服装に身を固めた素六は、緊張の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>輝</rb><rt>かがや</rt></ruby>かせて、<ruby><rb>立止</rb><rt>たちどま</rt></ruby>った。「いよいよ警戒管制が出ましたから、僕働いてきます！」

「なに、警戒管制！」長造は目をパチクリとした。「警戒管制てなんだい」

「いやだなア、お父さんは」少年は体をくの字に曲げて<ruby><rb>慨歎</rb><rt>がいたん</rt></ruby>したのだった。「警戒管制てのは、敵の飛行機が東京の上空にやって来て、街の明るい電灯を見ると、ははァ此の下が東京市だなと知るでしょう。そこで爆弾をボンボンおっことすから、大変なことに、なっちゃう。だから空襲のときには、電灯をすっかり消して、山だか海だか、判らないようにして置くことが大切でしょう」

「そんなことァ知ってるよ」長造は、顔を<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らましてみせた。

「皆で、電灯のスイッチをパチンとひねれば、いいじゃないか」

「だけど、スイッチを誰がひねるか判っていないのですよ。電柱についている電灯だとか、お<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>やさんの<ruby><rb>看板灯</rb><rt>かんばんび</rt></ruby>なんかは、よく忘れるんですよ。ですから、警戒管制になると空から見える<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>は、いつでも命令あり次第に、手早く消せるように用意をして置くんです。あっても、なくてもいいような電灯は、前から消して置く。これが警戒管制です。僕、受持は、水の公園と、あの並び一町ほどの<ruby><rb>民家</rb><rt>みんか</rt></ruby>なんです」

「民家！」長造はニヤニヤ笑い出した。「生意気な言葉を知ってるネ。じゃ、行っといで。遊びじゃないんだから、乱暴したり、無理をしちゃ、駄目だよ」

「うん、大丈夫！」

少年は、ニッと笑うと、そのまま<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>の如く駈け出して行った。

長造が<ruby><rb>店頭</rb><rt>てんとう</rt></ruby>を入ると、そこにはお<ruby><rb>妻</rb><rt>つま</rt></ruby>が、伸びあがって、往来を眺めていた。

「おや、おかえりなさい」

「うん」

「外は大変らしいのね」

「そうよ、お前」長造は、ふりかえって店の前を眺めたが、警戒場所に急ぐらしい<ruby><rb>若人</rb><rt>わこうど</rt></ruby>の姿を、幾人も認めた。

「なんしろ、警戒管制になったんだもの」

「警戒管制では、まだ電灯を消さなくていいのでしょうか」

お妻が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「そりゃ、ソノお前、警戒管制という奴は、だッ……」

そこへバラバラと少年が駈けこんできた。

「警戒管制ですから、不用の電灯は消して置いて下さい。この門灯は直ぐ消えるようになっていますかッ」

「ええ、直ぐ消えるように、なってますよ。おや、<ruby><rb>波二</rb><rt>なみじ</rt></ruby>さんじゃないの」

「ああ、<ruby><rb>下田</rb><rt>しもだ</rt></ruby>のおばさんの家だったネ」波二と呼ばれた少年は、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>顔を赤くした。「こっちから見ると、電灯の影で判らなかった」

「あら、そう。御苦労さまだわネ。うちの素六もさっきに出掛けましたよ」

「僕も一生懸命、やっているんですよ、おばさん。この前の演習のときと違って、しっかりした大人は<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby><ruby><rb>出征</rb><rt>しゅっせい</rt></ruby>しているんで手が足りないの」

「貴方の家の<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃんも、出征なすったんだってネ」

「兄さんは立川の飛行聯隊へ<ruby><rb>召集</rb><rt>しょうしゅう</rt></ruby>されて行ったんだけれど、どうしているのかなア、その後なんとも云って来ないんです」

「心配しないで、<ruby><rb>観音</rb><rt>かんのん</rt></ruby>さまへ、お願い申しときなさい。きっと守って下さるから……」

お妻も、同じような思いだった。二男の清二が潜水艦に乗組んで演習に出たきり、消息の知れないこと、もう四十日に近い。彼女は、母の<ruby><rb>慈愛</rb><rt>じあい</rt></ruby>をもって、幼時から信仰を捧げている浅草の<ruby><rb>観世音</rb><rt>かんぜおん</rt></ruby>の前に、毎朝毎夕ひそかに<ruby><rb>額</rb><rt>ぬかず</rt></ruby>き、おのれの寿命を縮めても、愛児の武運を守らせ給えと、念じているのだった。

「誰の家も、同じようなことがあるんだネ」波二少年は暗い顔を、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてふり払うように云った。「ンじゃ、僕もしっかり働きます、さようなら、おばさん」

「ああ、いってらっしゃい。波二さんも、気をつけてネ……」

少年は、高いところに<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いている電灯の<ruby><rb>電球</rb><rt>たま</rt></ruby>を、ねじって消すために、長い<ruby><rb>竿竹</rb><rt>さおだけ</rt></ruby>の<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>を、五つほどに割って、<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>で止めてある<ruby><rb>長道具</rb><rt>ながどうぐ</rt></ruby>を担ぐと、急いで駈け出していった。

「あれは、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の子だい」長造が訊いた。

「あれは、ほら」お妻は首をふって思い出そうと努力した。「亀さんちの、区役所の用務員さんで、そうそう、<ruby><rb>浅川亀之助</rb><rt>あさかわかめのすけ</rt></ruby>という名前だった、あの亀さんの<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>ッ子ですよ」

「おォ、おォ、亀之助ンとこの子供かい。どうりで<ruby><rb>見覚</rb><rt>みおぼ</rt></ruby>えがあると思った。暫く見ないうちに大きくなったもんだネ」

「あの<ruby><rb>惣領息子</rb><rt>そうりょうむすこ</rt></ruby>が、<ruby><rb>岸一</rb><rt>きしいち</rt></ruby>さんといって、社会局の事務員をしていたのが、いまの話では、立川飛行聯隊へ召集されたんですって」

「ふン、ふン、岸ちゃんてのは知っているよ。よく妹なんか連れて、うちの清二のところへ遊びに来たっけが、もうそうなるかなア」

そこへまた、ノコノコと入って来た人影があった。それは、古くから浅草郵便局の集配人をやっている<ruby><rb>川瀬郵吉</rb><rt>かわせゆうきち</rt></ruby>だった。

「下田さん、書留ですよ」

「おう、郵どん、御苦労だな」長造が、古い<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の集配人を<ruby><rb>労</rb><rt>ねぎら</rt></ruby>った。「<ruby><rb>判子</rb><rt>はんこ</rt></ruby>を、ちょいと、出しとくれ」

「あい」お妻は、奥へ<ruby><rb>認印</rb><rt>みとめいん</rt></ruby>をとりに行った。

「旦那」郵吉は、大きい鞄の中から、出しにくそうに、白い角封筒を取り出した。「海軍省からの、でございますよ」

「なに、海軍省から！」

長造の顔は、サッと青ざめた。

「うむ」

彼は封筒の頭を<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>ると、<ruby><rb>一葉</rb><rt>いちよう</rt></ruby>の海軍<ruby><rb>罫紙</rb><rt>けいし</rt></ruby>をひっぱり出した。長造の眼は、釘づけにでもされたように、その紙面の一点に止っていたが、<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>てしずかに両眼は閉じられた。その合わせ目から、透明な<ruby><rb>水球</rb><rt>みずたま</rt></ruby>がプツンと躍りだしたかと思うと、ポロリポロリと<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>へ転落していった。

その紙面には、次のような文句があった。

戦死認定通知。

潜水艦伊号一〇一<ruby><rb>乗組</rb><rt>のりくみ</rt></ruby>

海軍一等機関兵　下田清二

右は去る五月十日午後四時頃、<ruby><rb>北米合衆国</rb><rt>ほくべいがっしゅうこく</rt></ruby>メーヤアイランド軍港附近に於て、<ruby><rb>爆雷</rb><rt>ばくらい</rt></ruby>を受け<ruby><rb>大破損</rb><rt>だいはそん</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、行方不明となりたる乗組艦と、運命を共にしたるものと信ぜらる。よりて<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に本官は戦死認定通知書を<ruby><rb>送付</rb><rt>そうふ</rt></ruby>し、その<ruby><rb>忠烈</rb><rt>ちゅうれつ</rt></ruby>に対し<ruby><rb>深厚</rb><rt>しんこう</rt></ruby>なる敬意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>するものなり。

昭和十×年五月十三日

聯合艦隊司令長官

海軍大将男爵　大鳴門正彦

（とうとう、清二は<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたか！）

「旦那」郵吉が、おずおずと声を出した。「もしや、悪い<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せでも……」

郵吉は、陸海軍から出した戦死通知を、何十通となく、区内に配達してあるいた経験から、充分それと承知をしているのだったが……。

「なァに――」

長造は、何も知らぬお妻が、奥から<ruby><rb>印鑑</rb><rt>いんかん</rt></ruby>をもって来るのを見ると、グッと唇を噛んで<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えた。

「大したことじゃないよ。郵どん」

「……」郵どんは、長造の胸の中を察しやって、無言で頭を下げた。そして配達証に判を貰うと逃げるように、店先を出ていった。

「あなた――」その場の様子に、早くも気付いたお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>は、恐ろしそうに、やっと夫の名を呼んだだけだった。

「おお、お妻、一緒に、奥へ来な」

長造は、スタスタ奥の間へ入っていった。

店の前の、警戒管制で暗くなった路面を、一隊の青年団員が、喇叭を吹き吹き、通りすぎた。

<ruby><rb>空襲警報</rb><rt>くうしゅうけいほう</rt></ruby>！

時刻は、時計の外に、一向判らぬ地下室のことであった。それは相当に規模の大きい地下室だった。天井は、あまり高くないけれど、この部屋の面積は四十畳ぐらいもあった。そして、この<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>を中心として、隣りから隣りへと、それよりやや小さい室が、まるで<ruby><rb>墜道</rb><rt>トンネル</rt></ruby>のように拡がっているのだった。そして部屋の外には、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>広いアスファルト路面の廊下が、どこまでも続いていて、なにが通るのか、<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>が敷いてあった。地面を<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>える鉄筋コンクリートの太い柱は、ずっと遠くまで重なり合って、ところどころに<ruby><rb>昼光色</rb><rt>ちゅうこうしょく</rt></ruby>の電灯が、<ruby><rb>縞目</rb><rt>しまめ</rt></ruby>の影を斜に落としているのが見えた。どこからともなく、ヒューンと発電機の<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りに似た音響が聴こえているかと思うと、エーテルの<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>な<ruby><rb>芳香</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>が、そこら一面に<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているのだった。時々、大きな岩石でも<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出したような物音が、<ruby><rb>地響</rb><rt>じひびき</rt></ruby>とともに聞えて来、その度毎に、地下道の壁がビリビリと鳴りわたった。

このような大仕掛けの地下室というよりは、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ地下街というべきところは、いつの間に造られ、一体どこをどう<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いまわっているのであるか、仮りに<ruby><rb>物識</rb><rt>ものし</rt></ruby>りを誇る東京市民の一人を、そこに連れこんだとしても、決して言いあてることは出来ないであろうと思われた。――この地下街こそは、東京警備司令部が、日米開戦と共に、引移った本拠だった。

この地下街については、詳しく述べることを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るが、大体のことを云うと、丸の内に近い某区域にあって、地下百メートルの探さにあった。この地下街に入るには、東京市内で六ヶ所の<ruby><rb>坑道入口</rb><rt>こうどういりぐち</rt></ruby>が設けられてあった。いずれも、<ruby><rb>偽装</rb><rt>ぎそう</rt></ruby>をこらした秘密入口であるために、入口附近に居住している連中にも、それと判らなかった。唯一つ、日本橋の某百貨店のエレベーター坑道の<ruby><rb>底部</rb><rt>ていぶ</rt></ruby>に開いているものは、エレベーター故障事件に発して、<ruby><rb>炯眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>なる私立探偵<ruby><rb>帆村荘六</rb><rt>ほむらそうろく</rt></ruby>に感付かれたが、軍部は<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>くそれを<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>ると、数十万円を投じたその地下道を<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>もなく<ruby><rb>取壊</rb><rt>とりこわ</rt></ruby>し、改めて某区の出版会社の倉庫の中に、新道を造ったほど、<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しいものだった。

この地下室の中には、地上と連絡する電話も完成していた。食糧も弾薬も豊富だった。大きくないが精巧な機械工場も設けられてあった。地下街の空気は、絶えず送風機で<ruby><rb>清浄</rb><rt>せいじょう</rt></ruby>に保たれ、地上が毒瓦斯で包まれたときには、数層の<ruby><rb>消毒扉</rb><rt>しょうどくひ</rt></ruby>が自動的に閉って、地下街の人命を保護するようになっていた。

さらに驚くべきは、この地下街にいながらにして、東京附近の重要なる三十ヶ所に於ける展望が出来、その附近の音響を聞き分ける仕掛けがあった。例えば、<ruby><rb>芝浦</rb><rt>しばうら</rt></ruby>の<ruby><rb>埋立地</rb><rt>うめたてち</rt></ruby>に、鉄筋コンクリートで出来た背の高い<ruby><rb>煙突</rb><rt>えんとつ</rt></ruby>があったが、そこからは、一度も煙が出たことがないのを、附近の人は知っていた。その煙突こそは、東京警備司令部の眼であり、耳であったのだった。すなわち、その煙突の頂上には、鉄筋コンクリートの中に隠れて、仙台放送局の<ruby><rb>円本</rb><rt>まるもと</rt></ruby>博士が発明したＭ式マイクロフォンが<ruby><rb>麒麟</rb><rt>きりん</rt></ruby>のような聴覚をもち、<ruby><rb>逓信省</rb><rt>ていしんしょう</rt></ruby>の青年技師<ruby><rb>利根川保</rb><rt>とねがわたもつ</rt></ruby>君が設計したテレヴィジョン回転鏡が<ruby><rb>閻魔大王</rb><rt>えんまだいおう</rt></ruby>のような視力を持っていたのだった。

この地下街には、別に、東と西とへ続く、やや狭い<ruby><rb>坑道</rb><rt>こうどう</rt></ruby>があったが、その西へ続くものは、重々しい<ruby><rb>鉄扉</rb><rt>てっぴ</rt></ruby>がときどき開かれたが、その東へ通ずる坑道は<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>か、<ruby><rb>厳然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>と閉鎖されたまま、その扉に近づくことは、司令部付のものと<ruby><rb>雖</rb><rt>いえど</rt></ruby>も禁ぜられていた。それは一つの大きい謎であった。司令部内で知っていたのは、司令官の<ruby><rb>別府</rb><rt>べっぷ</rt></ruby>大将と、その信頼すべき副官の<ruby><rb>湯河原</rb><rt>ゆがわら</rt></ruby>中佐とだけであった。

この物々しい地下街の中心である警備司令室では、真中に青い<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>のかかった大きい<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>が置かれ、広げられた<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>大地図を囲んで、司令官を始め<ruby><rb>幕僚</rb><rt>ばくりょう</rt></ruby>の、緊張しきった顔が集っていた。

「すると、第一回の<ruby><rb>比律賓</rb><rt>フィリッピン</rt></ruby>攻略は、結果失敗に終ったということになりますな」<ruby><rb>参謀肩章</rb><rt>さんぼうけんしょう</rt></ruby>の金モール美しい将校が、声を呑んで唸った。

「うん、そうじゃ」司令官の別府大将は、<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>をキュッと<ruby><rb>扱</rb><rt>しご</rt></ruby>いて、目を閉じた。「第一師団は、マニラの北方二百キロのリンガイエン湾に敵前上陸し、三日目にはマニラを去る六十キロのバコロ附近まで進出したのじゃったが、そこで勝手の悪い<ruby><rb>雨中戦</rb><rt>うちゅうせん</rt></ruby>をやり、おまけに山一つ向うのオロンガボオ軍港からの四十<ruby><rb>糎</rb><rt>センチ</rt></ruby>の列車砲の集中砲火を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>って、その半数以上が一夜のうちにやられたということじゃ。何しろ強風雨のうちだから、空軍は手も足も出ず、さぞ無念じゃったろう」

「閣下。オロンガボオ<ruby><rb>要塞</rb><rt>ようさい</rt></ruby>は、まだ占領出来ませんか」別の将校が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>呉淞砲台</rb><rt>ウースンほうだい</rt></ruby>のように、簡単にはゆかんようじゃ。海軍でも、早く<ruby><rb>陥落</rb><rt>かんらく</rt></ruby>させて、太平洋に出なけりゃならんのじゃ、何しろ、連日のように最悪の気象に<ruby><rb>阻止</rb><rt>そし</rt></ruby>せられて、頼みに思う空軍は全く役に立たず、そうかと云って、無理に進むと、それ、あの<ruby><rb>金剛</rb><rt>こんごう</rt></ruby>や<ruby><rb>妙高</rb><rt>みょうこう</rt></ruby>のように、機雷をグワーンと喰わなきゃならんで、今のところ低気圧の散るのを待たねば、艦隊は損傷が多くなるばかりじゃ。それがまた、あまり永くは待てんでのう。どうも困ったものじゃ」

「中部シナ方面の戦況は、大分発展を始めたらしいですな」前の参謀が、短い<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>に手を持っていった。

「だが、どうも感心できん」別府将軍は、トンと<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を叩いた。「こうなると、戦線が伸びるばかりで、結局要領を得にくくなる。<ruby><rb>杭州</rb><rt>こうしゅう</rt></ruby>や<ruby><rb>寧波</rb><rt>ニンポー</rt></ruby>などに、米軍がいつまでも、のさばっていたんでは、今後の戦争が非常に、やり<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>い」

「米国の亜細亜艦隊は、通称『犠牲艦隊』じゃというわけじゃったが、中々やりますなア」

「犠牲艦隊じゃったのは四五年前までのことじゃ。日本が東シナ海を、<ruby><rb>琉球</rb><rt>りゅうきゅう</rt></ruby>列島と台湾海峡で封鎖すれば、どんなに強くなるかということは、米国がよく知っている。この辺は、日本の新生命線じゃ。そいつを亜細亜艦隊でもって、何とか再三破ってやらなければ、米国海軍は安心して、主力を太平洋に向けることができない。艦齢は新しいやつばかりで、ことに航空母艦が二隻もあるなんて、中々犠牲艦隊どころじゃない」

「昨日詳細なる報告が海軍からありましたが」と、又別な参謀が口を切った。「米国の太平洋沿岸で暴れた帝国潜水艦隊の損得比較は、どういうことになりましょうか」

「これはやや出来がよかった」別府将軍は、始めて<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>と、<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。「伊号一〇二は巧く引揚げたらしいが、行方不明の一〇一と、戦艦アイダホの胴中に衝突して自爆した一〇三とを<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ったのに対し、米国聯合艦隊側では、アイダホとアリゾナを<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くし、約六万<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>を失った上、航空母艦サラトガに多大の損傷を受けたというから、まず帝国海軍の筋書程度までは成功したと云ってよいじゃろう。これで米国聯合艦隊も、相当<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>したと思う。金剛と妙高とを、南シナ海で喪った帝国海軍も、これで戦前と<ruby><rb>同率海軍力</rb><rt>どうりつかいぐんりょく</rt></ruby>を保てたというわけじゃ」

「伊号一〇一は、爆雷にやられて、海底にもぐりこんだそうですが、特務機関の報告によると、海面に<ruby><rb>湧出</rb><rt>ゆうしゅつ</rt></ruby>した重油の量が、ちと少なすぎるという話ですな」

「ほほう、そうかの」将軍は初耳らしく、その参謀の方に顔を向けた。「だが重油が流れ出すようでは、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>助かるまい」

「いや、それが<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>面白い解釈もあるんです。というのは……」

そこへ<ruby><rb>遽</rb><rt>あわ</rt></ruby>ただしく、伝令兵が大股で近よると、司令官の前に<ruby><rb>挙手</rb><rt>きょしゅ</rt></ruby>の礼をした。

「お話中でありますが」と伝令兵は大きな声で<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。「唯今第四師団より報告がありました」

司令官の側に、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から一言も吐かないで沈黙の<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>を続けていた有馬参謀長が<ruby><rb>佩剣</rb><rt>はいけん</rt></ruby>をガチャリと音させると、「よオし、読みあげい」と命じたのだった。

「はッ」伝令兵は、左手に握っていた白い紙をツと目の前に上げると、声を張りあげて、電文を読んでいった。「昭和十×年五月十五日午後五時三十分。第四師団司令部発第四〇二号。和歌山県<ruby><rb>潮岬</rb><rt>しおのみさき</rt></ruby>南方百キロの海上に駐在せる<ruby><rb>防空監視哨</rb><rt>ぼうくうかんししょう</rt></ruby>の報告によれば、<ruby><rb>米軍</rb><rt>べいぐん</rt></ruby>に属する重爆飛行艇三台、給油機六台、攻撃機十五台、偵察機十二台、戦闘機十二台合計四十八機よりなる<ruby><rb>大空軍</rb><rt>だいくうぐん</rt></ruby>は、<ruby><rb>該</rb><rt>がい</rt></ruby>監視哨の位置より更に南南西約五キロメートルの空中を、戦闘機は二千五百メートルの高度、他はいずれも二千メートルの高度をとり、各隊毎に<ruby><rb>雁行形</rb><rt>がんこうけい</rt></ruby>の編隊を以て、東北東に向け飛行中なり。終り」

「うむ、御苦労」参謀長は、伝令の手から、電文を受取って、云った。

伝令兵は、再び挙手の礼をすると、同じ<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>の、一方の壁に並んだ、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい通信パネルの傍へ帰っていった。そのパネルの前には、通信兵員が七八名も並び、<ruby><rb>戴頭受話機</rb><rt>たいとうじゅわき</rt></ruby>をかけて、赤いパイロット・ランプの<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>くジャックを<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>ってはプラグを圧しこみ、符号のようなわけのわからない言葉を送話器の中に投げこんでいた。

その<ruby><rb>壁体</rb><rt>へきたい</rt></ruby>と丁度反対の壁には、配電盤やら監視机や、遠距離<ruby><rb>制御器</rb><rt>せいぎょき</rt></ruby>などが並んで、一番右によった一角には、真黒な紙を貼りつけた<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き眼鏡のような丸い窓が上下左右に、三十ほども並んで居たが、これはテレヴィジョン廻転鏡だった。

「第三師団から報告がありました」別の伝令が、司令官の前に飛んで来た。

「浜松飛行聯隊の戦闘機三十機は、隊形を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>えて、直ちに南下せり。一戦の後、太平洋上の敵機を<ruby><rb>撃滅</rb><rt>げきめつ</rt></ruby>せんとす」

「よし、御苦労」

報告は俄然、<ruby><rb>輻輳</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>して来たのだった。司令官と幕僚とは、年若い参謀が指し示す刻々の敵機の位置に、視線を集中した。

海上に配列してあった防空監視哨は、手にとるように、刻々と敵国空軍の行動を報告してきた。それが<ruby><rb>紀州</rb><rt>きしゅう</rt></ruby>沖から、<ruby><rb>志摩</rb><rt>しま</rt></ruby>半島沖、更に東に進んで<ruby><rb>遠州灘</rb><rt>えんしゅうなだ</rt></ruby>沖と、だんだん帝都に接近してきた。

それに反して、第四師団のある大阪方面では、空襲から脱れたので、解除警報を出したことなどを報告して来た。

<ruby><rb>果然</rb><rt>かぜん</rt></ruby>、マニラ飛行第四聯隊の目標は、帝都の空にあったのだった。

東京警備司令部内は、眼に見えて、緊張の度を高めていった。

浜松の飛行聯隊が、<ruby><rb>折柄</rb><rt>おりから</rt></ruby>のどんより曇った<ruby><rb>銀鼠色</rb><rt>ぎんねずみいろ</rt></ruby>の太平洋上に飛び出していった頃から、第三師団司令部からの報告は、直接に高声器の中に入れられ、別府大将の前に据えつけられた。将軍は、<ruby><rb>胡麻塩</rb><rt>ごましお</rt></ruby>の硬い髯を撫で撫で、目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>と</rt></ruby>じて、諸報告に聞き<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れているかのようであった。

この場の将軍の様子を、遠くから<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていたのは、高級副官の湯河原中佐だった。彼は何事かについて、しきりに<ruby><rb>焦慮</rb><rt>しょうりょ</rt></ruby>している<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>でもあった。だが其の様子に気付いていたものは、唯の一人も無いと云ってよい。なぜならば、中佐を除いたこの室の全員は、刻々にせまる太平洋上の空中戦の結果はどうなるか、という問題に、注意力の全体を吸収せられていたからだった。

<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、中佐は何事かを決心したものらしく、ソッと立つと、入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を静かに押して、外に出た。

アスファルトの廊下には、人影がなかった。

中佐は、壁に背をつけた<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>スルスルと、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>の<ruby><rb>横匍</rb><rt>よこば</rt></ruby>いのように<ruby><rb>壁際</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>を<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>っていった。そして軈て中佐がピタリと止ったのは、「司令官室」と黒い札の上に白エナメルで書かれた室だった。

奇怪な湯河原中佐は、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の鍵穴に、なにものかを挿し入れてガチャガチャやっていたが、やっと扉が開いた。

ものの五分と時間は懸らなかった。司令官室で何をやったのであるかは判らぬけれど、再び中佐が姿をあらわしたときには、非常な決心をしているらしく、<ruby><rb>顔面神経</rb><rt>がんめんしんけい</rt></ruby>がピクピク動いているのが、<ruby><rb>廊下灯</rb><rt>ろうかとう</rt></ruby>によって写し出されたほどであった。このとき、中佐の両手は、ポケットのうちにあった。

彼は再び、元来た路を、とってかえすと、司令部広間の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の前を素早く通り、それから後はドンドン駈け出して行った。

中佐の身長が、その先の階段に跳ねあがった。十段ばかり上ると、そこに<ruby><rb>巌丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な<ruby><rb>鉄扉</rb><rt>てっぴ</rt></ruby>があって、その上に赤ペンキで、重大らしい<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>が<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に書かれてあった。中佐はそれには眼も呉れず、扉のあちらこちらを、押えたり、グルグル指を廻したりしているうちに、サッとその重い鉄扉を開くと、ちょっと後を振返り、誰も見てないのを<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>めた上で、ヒラリと<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の中に姿を消してしまったのだった。

「……」

誰もいないと思った階段の下から、ヌッと<ruby><rb>坊主頭</rb><rt>ぼうずあたま</rt></ruby>が出た。しばらくすると、全身を現した。<ruby><rb>襟章</rb><rt>えりしょう</rt></ruby>は<ruby><rb>蝦茶</rb><rt>えびちゃ</rt></ruby>の、通信員である一等兵の服装だった。彼は中佐の姿の消えた扉の前に、躍り出ると、手袋をはいたまま、力を籠めて<ruby><rb>把手</rb><rt>とって</rt></ruby>をひっぱってみたが、扉はゴトリとも動かなかった。

そこで彼はニヤニヤと笑うと、扉の前を<ruby><rb>淡白</rb><rt>たんぱく</rt></ruby>に離れ、廊下の上をコトコトと駈け出していった。そして何処かに、姿は見えなくなった。

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>そのころ、大東京は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしか</span>にでも<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>ったように、あちらでも、こちらでも、騒然としていた。号外の鈴は、<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく、街の辻々に鳴りひびいていた。夜になった<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>りの帝都の路面が、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に暗いのは、警戒管制で、不用な<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が消され、そしてその時間が続いているせいだった。

警戒員の外には、往来を歩いている者も、無いようであった。誰もが、それぞれの家屋に落付いて、刻々にＪＯＡＫが放送してくる時事ニュースを一語のこらず聞いているせいだったであろう。

ラジオ受信機のない家こそ、<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めであった。区役所の用務員、浅川亀之助一家は、その種類に入る家だった。

「おい、おつる」亀さんが、暗い<ruby><rb>露路</rb><rt>ろじ</rt></ruby>から声をかけた。

「どうなったい、お前さん」勝手元に働いていた女房のおつるは、十<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>の電灯を逆光線に背負って顔を出した。

「いま聞いたところによるとナ」亀さんは、はァはァ<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しない呼吸をつきながら云った。

「いよいよアメリカの飛行機は静岡辺まで、やって来たらしいんだ。浜松の飛行隊で、追駈け廻しているけれど、敵の<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>を<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く<ruby><rb>喰止</rb><rt>くいとめ</rt></ruby>ることが出来ないらしいんだ。それでも五つ六つ<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>っことしたらしいってことだ」

「まア、大変だわネ。ンじゃ、今夜のうちにも、東京へ飛んでくるかい」

「来るだろうッて話だ」そこで亀さんは、鼻の下をグイとこすりあげると、駈け出しそうにした。「じゃ、もっとラジオを聞いてくるからな」

「ちょいと、待っとくれよ、お前さん」おつるは<ruby><rb>遽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、亭主を呼びとめた。「お舟は、ダンスホールがお休みになったといって帰って来たけれど、<ruby><rb>笛坊</rb><rt>ふえぼう</rt></ruby>の方は、まだ電話局から戻ってこないんだよ。いつもなら、もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに帰って来てなきゃならないんだがね」

「うむ」亀さんは首を傾けて、去年の秋、交換手をしている娘の案内で見に行った東京中央電話局の建物を思いうかべていた。「ひょっとすると、忙しいのかも知れねえぜ」

「波二も、少年団へ出かけたっきりで、うちには、おばァさんとお舟としか居なくて不用心だから、なるたけ早く帰ってきとくれよ、お前さん」

「あいよ、判ってるよ」

亀さんは、また、あたふたと、<ruby><rb>町角</rb><rt>まちかど</rt></ruby>のパン屋の高声器を目懸けて、かけ出して行った。

パン屋の軒先は、附近の下層階級の代表者が、黒山のように、だが水をうったように<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>に、アナウンサーの読みあげる臨時ニュースに耳を傾けていた。

「<ruby><rb>唯今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>午後七時三十分、米国空軍の主力は、伊豆七島の南端、三宅島の上空を通過いたして居ります<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>、同島の防空監視哨から報告がございました。以上」

高声器の前の群衆は、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に興奮して、ザワザワと身体を動かした。

「次に、いよいよ帝都に於きましては、空襲警報が発せられる模様であります。敵機の帝都空襲は、全く確実となり、帝都との距離は最早二百キロメートルに短縮せられましたので、東京警備司令部では、いよいよ『空襲警報』を出す模様であります。空襲警報が布告されますと同時に、<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねて御知らせ申上げてありましたように、当ＪＯＡＫの放送は、戦闘終了の時期まで、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず中断いたすことになって居りますので、<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>ご承知下さいまし」

人々の顔には、次第に不安の色が深く刻まれて行った。

「<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>、くりかえして申上げますが、空襲警報が出ました節は、兼ねての手筈によりましていつでも<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を外に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなくすることが出来るよう準備をし、消防及び<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>防護係の方は、直ちに、その持ち場持ち場に、おつき下さることを御忘れないように願います。そして、いよいよ敵機が襲来して参りますと、非常管制警報が発せられまするからして、その時は、<ruby><rb>即刻</rb><rt>そっこく</rt></ruby>、<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を御始末下さいまし。<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、いよいよ空襲警報が発せられる模様であります」

杉内アナウンサーの声は、ぱたりと、<ruby><rb>杜断</rb><rt>とぎ</rt></ruby>れた。

<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>の<ruby><rb>山顛</rb><rt>さんてん</rt></ruby>には、闇がいよいよ濃くなって来た。月のない空には、三つ四つの星が、高い夜の空に、ドンヨリした<ruby><rb>光輝</rb><rt>こうき</rt></ruby>を放っていた。やや冷え冷えとする、風のない夜だった。

警報隊長の<ruby><rb>四万</rb><rt>しま</rt></ruby>中尉は、兵員の間に交って、いつもは東京全市に正午の時刻を報せる大サイレンの<ruby><rb>真下</rb><rt>ました</rt></ruby>に立っていた。

「中尉殿、報告」

<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの松の木の蔭に、<ruby><rb>天幕</rb><rt>テント</rt></ruby>を張り、地面に座っている一団から、飛び出して来た兵士だった。小さい鐘を横にしたような中に、細いカンテラの灯が動いている、その<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>の周囲に三四人の兵士が<ruby><rb>跼</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた。よく見ると一人は真黒な函に入った器械の傍で卓上電話機のようなものを、耳と口とに、圧しあてていた。これは司令部との間を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐ有線電話班の一隊に、違いなかった。

「おう」

四万中尉が、声をかけた。

「司令部より命令がありました。空襲警報用意！　終り」

「うん。<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>待て」中尉は、つかつかと、サイレンの開閉器のところへ歩みよって、そこに立っている兵士に訊いた。「空襲警報用意があった。準備はいいようだな」

「はッ。用意は、よいであります」

中尉は軽く<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと云った。「よいか、ぬかるな」

「おい佐島一等兵。電話で司令部へ、報告せい。空襲警報用意よし！」

「はいッ」一等兵は身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して、<ruby><rb>天幕</rb><rt>テント</rt></ruby>のところへ帰った。「空襲警報用意よし」

天幕の中の通信員は、送話器の中に、歯切れのよい声を送りこんだ。

「愛宕山警報所。空襲警報用意よゥし！」

やがて、一分、二分。

電話機のある天幕から、大サイレンの間までには、ズラリと兵員が立並んで、いずれも及び腰で、報告が電話機の上に来れば、直ちに警報が出せるように身構えた。

そして、突如――

「空襲警報ゥ！」

電話機を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んでいる兵士が、大声で怒鳴った。

「空襲警報！」

「サイレン鳴らせィ！」

命令の声が、消えるか消えない内に、

「ンぶうッ――う、う、う」

と<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>の大サイレンが鳴り出した。<ruby><rb>雄壮</rb><rt>ゆうそう</rt></ruby>というよりも、悲壮な音響だった。

東京市内の電灯という電灯は、パッと消えて、全市は暗黒になった。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ」

覚悟をしていた人でさえ、驚きの声をあげた。

「十五秒して、又電灯が点いたら、空襲警報なんだよ」

小学生たちは、学校の先生に教わったとおりに、電灯が消えたので、面白がっていた。

電灯が消えると、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに聴力が鋭敏になったのだった。いままで聞こえなかった<ruby><rb>半鐘</rb><rt>はんしょう</rt></ruby>の音が、サイレンに交って、<ruby><rb>遠近</rb><rt>えんきん</rt></ruby>いろいろの音色をあげていた。

「ジャーン、ジャンジャンジャン」

「ボーン、ボンボンボン」

下町の木工場の、貧弱なサイレンも、負けず劣らず、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きつづけていた。

「呀ッ、電灯が点いたッ」

誰の目も、電灯の光を見上げて、嬉しそうに笑った。ほんとに光りは、人間にとって、心強いものだった。

下町の表通りを、バラバラと駈け出す一隊があった。

「火を消す用意をして下さい。不用な灯は消して下さい。空襲警報ですよォ」

竿竹と、メガフォンと、赤い布を捲きつけた懐中電灯とで固めた一隊が、町の辻々を、練りまわった。

今、帝都は、敵機の襲撃をうける！

浜松の戦闘機隊は、どうしたであろうか。

<ruby><rb>追浜</rb><rt>おっぱま</rt></ruby>の海軍航空隊は、既に上空めがけて、舞いあがったであろうか。

立川の飛行聯隊の用意は、<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>ったであろうか。

東京市民が、<ruby><rb>醵金</rb><rt>きょきん</rt></ruby>をし合って<ruby><rb>献納</rb><rt>けんのう</rt></ruby>した十五機から成る東京愛国飛行隊は、どうしているであろうか。

嵐の前の<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>！

帝都の夜空は、<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>のように、いよいよ<ruby><rb>黝々</rb><rt>くろぐろ</rt></ruby>と<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けていった。

<ruby><rb>空襲葬送曲</rb><rt>くうしゅうそうそうきょく</rt></ruby>

非常管制の警報が出たのは、それから三十分ほど、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことだった。

一等速く、民家に達したのは、電灯による警報だった。

「おい、お妻」と鼻緒問屋の主人、長造は暗闇の中で云った。

「お前、今、時計を見なかったか」

「いいえ、暗くなったんで、判りませんわ」

「非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな」

「お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっと<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>くのですよ」

「感心なもんだな、覚えているなんて――」

三十秒経ったのか、電灯がパッとついた。

「今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ」

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、消えましたわ」

お妻の声には恐怖の音調が交っていた。

間もなく、電灯は再び点いた。

「ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ」

「誰か、表の電灯を消して下さい」

「もう消しましたよオ」真暗な店の方から、返事があった。

「お父さん。ここの電灯も消して、ちょうだい。あたし、怖いわ」長女のみどりが、奥の間へやってきた。

「ここは見えやしないよ」

「だって、戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から、見えちまうじゃないの」

「じゃ、こうしとこうかな。<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん<ruby><rb>被</rb><rt>かむ</rt></ruby>りにさせて」

「ああ、それで、いいわ」あとから附いて来た<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>が云った。

「家の中を皆、真暗にしてしまうんですもの。暗くちゃ、怖いわ」

そこへ、店の方から、ドカドカと<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>りこんで来た者があった。

「お父さん」

「おお、弦三か。よく帰って来た」

「この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ」

「うん」長造は<ruby><rb>感慨探</rb><rt>かんがいふか</rt></ruby>そうに云った。「あまりいいことじゃない。それにマスクは一つじゃなア」

「お父<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>」弦三は、電灯の下へ、大きな包みをドサリと置いた。

「いよいよ、皆の分を作ってきましたよ。姉さんはいますか、姉さん」

「あい、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>よ」後に下っていたみどりが顔を出した。

「ここに、鉛筆で使用法を書いときましたから、大急ぎで、消毒剤を<ruby><rb>填</rb><rt>つ</rt></ruby>めて、皆に附けてあげて下さい」

「弦三、お前まだどっかへ行くのかい」

母親が尋ねた。

「僕は直ぐ出懸けます」

「この最中に、どこにゆくんだ」長造が問いかえした。

「<ruby><rb>淀橋</rb><rt>よどばし</rt></ruby>の、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです」

「なに、黄一郎のところへか」

「ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>ツ<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の分」

「なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな」

「よく気がついたね」母親が、長男一家のことを思って、涙を拭いた。

「それにしても今頃、危険じゃないか。いつ爆弾にやられるか、しれやしない。あっちでも、相当の用意はしてるだろうから、見合わしたら、どうだ」

「いえ、いえ、お父さん」弦三は、首を振った。

「僕は、もっと早く作って、届けたかったのです。だが、お金もなかったし、僕の腕も進んでいなかった……」

長造は、弦三のことを、<ruby><rb>色気</rb><rt>いろけ</rt></ruby>づいた<ruby><rb>道楽者</rb><rt>どうらくもの</rt></ruby>と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ったことを思い出して、暗闇の中に、<ruby><rb>冷汗</rb><rt>ひやあせ</rt></ruby>をかいた。

「それが、今夜になって、やっと出来上ったのです」弦三は嬉しそうに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。「僕は、東京市民の防毒設備に、サッパリ安心が出来ないのです。行かせて下さい。いつも僕のこと想っていてくれる兄さんに、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっこく</rt></ruby>も早く、この手製のマスクを、あげたいんです」

感激の<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>むせび</rt></ruby>が、静かに時間の軸の上を走っていった。

「よォし。行って来い」長造がキッパリ云った。「いや、兄さん達のために、行ってやれ。だが、気をつけてナ……」

あとには言葉が無かったのだった。

「じゃ、行ってまいります」

これが、弦三と一家との永遠の別れとなったことは、後になって、思い合わされることだった。

「弦――」

母親のお妻が、我児を呼んだときには、弦三の姿は、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の闇の中に消えていた。

非常管制の警報は、いつしか<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>んでいた。

外は<ruby><rb>咫尺</rb><rt>しせき</rt></ruby>を<ruby><rb>弁</rb><rt>べん</rt></ruby>じないほど<ruby><rb>闇黒</rb><rt>まっくら</rt></ruby>だった。

弦三は、背中に、兄に贈るべきマスクを入れた包みを、斜に背負い、自分のマスクは、腰に吊し、歩きづらい道を、どうかして早くすすみたいと気を<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>った。

市内電車は、路面に停車し、車内の電灯は真暗に消されていた。これは、<ruby><rb>架空線</rb><rt>かくうせん</rt></ruby>とポールとが触れるところから、青い火花が出て、それが敵機に発見される<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるからだった。

それは弦三の<ruby><rb>目算違</rb><rt>もくさんちが</rt></ruby>いだった。彼は、<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>まで出ると、地下鉄の中に、もぐり込んだ。

地下鉄の中には、<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と昼を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>くような明るい灯がついていた。だが、暗黒恐怖症の市民が、後から後へと、ドンドン<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>りこんでいて、見動きもならぬ混雑だった。

「ここん中へ入っとれば、爆弾なんか、大丈夫ですよ」五十近い唇の厚い老人が、たった一人で、こんなことを<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていた。

「<ruby><rb>全</rb><rt>まった</rt></ruby>くですネ。近頃のお金持は、てんでに自分の屋敷の下に一間や二間の地下室を持っているそうですが、<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>たちプロレタリアには、そんな気の利いたものが、ありませんのでねえ」

そう云ったのは、長髪の、薄気味わるい眼付の男だった。

「お蔭さまで、助りますよ」歯の抜けたお婆さんが、<ruby><rb>臍繰</rb><rt>へそく</rt></ruby>り<ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>の財布を片手でソッと抑えながら、これに和した。

「だが、<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>が来ると、この<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>の中は駄目になるぜ。駅長に云って、早く入口の<ruby><rb>鉄扉</rb><rt>てつど</rt></ruby>を下ろさせようじゃないか」会社の帰りらしい洋服男が、アジを始めた。

「駅長、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を下ろせ！」

「扉を、し、め、ろッ」

そろそろ、空気は<ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>になって来た。

片隅では、<ruby><rb>渋皮</rb><rt>しぶかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けた娘をつれた母親が眉を釣りあげて怒っていた。

「あなた、女連れだと思って、馬鹿にしちゃいけませんよ」

「いッヒ、ヒ、ヒ、ヒッ。こういう際です。仲よくしましょう。今に、えらい騒ぎになりますぜ、そのときは……」

酒を呑んでいるらしい<ruby><rb>羽織袴</rb><rt>はおりはかま</rt></ruby>の代書人といったような男が、汚い<ruby><rb>歯列</rb><rt>はなみ</rt></ruby>を見せて、ニヤニヤと笑った。

「皆さん。<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>にして下さい。さもないと、出ていって頂きますよ」

駅長が高いところから怒鳴った。

「出ろ！　とはなんだッ」

「もう一度、言ってみろッ！」

「<ruby><rb>愚図愚図</rb><rt>ぐずぐず</rt></ruby>ぬかすと、のしちまうぞ」

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の怪しい一団が、駅長の声を沈黙させてしまった。

そこへ地下電車が、やっと来た。

弦三は、背筋になにか、こう<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>やりとするものを感じたが、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>、車内の人となった。

新宿まで、この地下鉄で行けると思ったことも、<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>りだった。<ruby><rb>須田町</rb><rt>すだちょう</rt></ruby>までくると、無理やりに下ろされちまった。コンクリートの、狭い階段をトコトコ上ってゆくと、地上に出た。

「横断する方は、こっちへ来て下さい」

「自動車は、警笛を鳴らしながら走って下さい。警笛は、飛行機に聞えないから、いくら鳴らしても、いいですよ」

「懐中電灯は、そのままでは明るすぎますから、ここに赤い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>がありますから、それを附けて下さァい」

あちこちに、メガフォンの太い声が<ruby><rb>交叉</rb><rt>こうさ</rt></ruby>して、布を被せた警戒灯が、ブラブラと左右に揺れていた。すべて秩序正しい警戒ぶりだった。

（それにしても、さっき見たのは、あれは夢だったかしら。<ruby><rb>悪夢</rb><rt>あくむ</rt></ruby>！　悪夢！）

弦三は、雷門の地下道に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>る<ruby><rb>不穏</rb><rt>ふおん</rt></ruby>な群衆のことを、この須田町の秩序正しい青年団に対比して、悪夢を見たように感じたのだった。しかし、それは果して夢であったろうか。いやいや弦三は、確かに、あの<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いにみちた悪魔の声をきいたのだった。

弦三は、一つ自動車を呼びとめて、新宿の向うまで、走らせようと考えた。弦三は、二十一になる唯今まで、誰かに自動車に乗せて貰ったことはあるが、自分ひとりで、自動車を呼び止めた経験がなかったので、ちょっとモジモジしながら、須田町の広場に、突立っていた。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ！」

「やったぞオ！」

突然に、悲鳴に似た<ruby><rb>叫声</rb><rt>きょうせい</rt></ruby>が、手近かに起った。

ハッとして、弦三は空を見上げた。

鉄が熔けるときに流れ出すあの<ruby><rb>灼</rb><rt>や</rt></ruby>けきったような<ruby><rb>杏色</rb><rt>あんずいろ</rt></ruby>とも<ruby><rb>白色</rb><rt>はくしょく</rt></ruby>とも区別のつかない<ruby><rb>暈光</rb><rt>きこう</rt></ruby>が、一尺ほどの<ruby><rb>紐状</rb><rt>ひもじょう</rt></ruby>になって、急速に落下してくる。

「爆弾にちがいない」

高さのほどは、見当がつかなかった。

見る見る、火焔の紐は、大きくなる。

爆弾下の帝都市民は、その場に<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んでしまった。

悲鳴とも<ruby><rb>叫喚</rb><rt>きょうかん</rt></ruby>ともつかない市民の声に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って、低い、だが押しつけるようなエネルギーのある爆音が、耳に入った。

ぱッと、空一面が明るくなった。

弦三は、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>して、思わず、戸を閉じた商店の板戸に、うわッと、しがみついた。

敵機の投げた光弾が、頃合いの空中で、<ruby><rb>炸裂</rb><rt>さくれつ</rt></ruby>したのだった。

ドーン。

やや間を置いて、大きい花火のような音響が、あたりに、響き<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>った。

光弾は、須田町の、地下鉄ビルの横腹に、真黄色な光線を、べたべたになすりつけた。

弦三は、商店の<ruby><rb>軒下</rb><rt>のきした</rt></ruby>から飛び出して、<ruby><rb>万世橋</rb><rt>まんせいばし</rt></ruby>ガードの下を目懸けて走っていった。

ガードの上と思われるあたりで、物凄い音響がした。

「ドッ、ドッ、ドッ、グワーン」それは<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく、高射砲隊の撃ちだした音だった。悠々と<ruby><rb>天下</rb><rt>あまくだ</rt></ruby>りながら、帝都の屋根を照らしていた光弾が、一瞬間にして、粉砕されてしまった。

帝都の空は、又もや、元の暗黒に還った。

と、思ったのは、それも一瞬間のことだった。

サッと、<ruby><rb>紫電一閃</rb><rt>しでんいっせん</rt></ruby>！　どこから出したのか、幅の広い照空灯が、ぶっちがいに、大空の真中で、<ruby><rb>交叉</rb><rt>こうさ</rt></ruby>した。

「呀ッ、敵機だッ」

真白い、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>の腹のような機影が、ピカリと光った。

そこを<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って、<ruby><rb>釣瓶撃</rb><rt>つるべう</rt></ruby>ちに、高射砲の砲火が、耳を<ruby><rb>聾</rb><rt>ろう</rt></ruby>するばかりの<ruby><rb>喚声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>をあげて、集中された。

照空灯は、いつの間にか、消えていた。

その次の瞬間、弦三の眼の前に、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>タンクほどもあるような太い<ruby><rb>火柱</rb><rt>ひばしら</rt></ruby>が、サッと<ruby><rb>突立</rb><rt>つった</rt></ruby>ち、爪先から、骨が砕けるような地響が<ruby><rb>伝</rb><rt>つたわ</rt></ruby>って来た。そして人間の耳では、測量することの出来ない程大きい音響がして、真正面から、空気の波が、イヤというほど、弦三の顔を打った。

爆弾が落ちたのだ！

イヤ、敵機が、爆弾を投げつけたのだった。

バラバラッと、<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>のようなものが、<ruby><rb>身辺</rb><rt>しんぺん</rt></ruby>に降って来た。

照空隊の<ruby><rb>光芒</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>は、<ruby><rb>異分子</rb><rt>いぶんし</rt></ruby>の侵入した帝都の空を嘗めまわした。

その合間、合間に、高射砲の音が、猛獣のように、恐ろしい呻り声をあげた。

それは、人間の反抗感情というのでもあろうか。爆弾の音を聞かされ、照空灯のひらめきを見せられた弦三は、自分の使命のことも何処へか忘れてしまい、

「畜生！　畜生！」と<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>を云いだしたかと思うと、矢庭に側の太い電柱にとびつき、危険に気がつかぬものか、

「わッしょい、わッしょいッ」と、背の高い、その電柱の<ruby><rb>天頂</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで、人技とは思われぬ速さで、<ruby><rb>攀</rb><rt>よじのぼ</rt></ruby>っていった。

そこは、帝都のあっちこっちを見下ろすに、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>いい場所だった。眺めると、帝都の<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>かなたこなた</rt></ruby>には、三四ヶ所の火の手が上っていた。

次の爆弾が、空から投げ落とされる<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>に、物凄い火柱が立って、それは<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい真白な煙となって、空中に<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>している有様が、夜目にもハッキリと見えた。そして、その次に、浮び出す景色は、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て関東大震災で経験したところの火焔の幕が、見る見るうちに、四方へ拡がってゆくのであった。

弦三は、地響きのために、いまにも振り落されそうになる吾が身を、電柱の上に、しっかり<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えている<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、やっと<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>に還ったようであった。

彼は、こわごわ、電柱を下りた。

地上に降り立ってみると、そこには又、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>と違った光景が展開しているのだった。

どこで、やられて来たものか、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き苦しんでいる負傷者が、ガードの下に、十五六人も寝かされていた。

「ヒューッ」どこからともなく、<ruby><rb>警笛</rb><rt>けいてき</rt></ruby>が鳴った。

「<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>だ、毒瓦斯だッ！」

「瓦斯がきましたよ、逃げて下さい」

「<ruby><rb>風上</rb><rt>かざかみ</rt></ruby>へ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい」

<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の××町というのが、サッパリ聞きとれなかった。

広瀬中佐の銅像の向うあたりに、うち固って<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>する一団の群衆があった。

「やッ、ホスゲンの<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いだ！」

弦三は、腰をさぐって、彼の手製になる防毒マスクを外した。そのうちにも、ホスゲン瓦斯特有の<ruby><rb>堆肥小屋</rb><rt>たいひごや</rt></ruby>のような悪臭が、だんだんと、<ruby><rb>著明</rb><rt>ちょめい</rt></ruby>になってきた。彼は、防毒マスクをスッポリ被ると、すこしでも兄達の住んでいる方へ近づこうと、風下である危険を侵し、避難の市民群とは反対に、<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>から、<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>を目がけて、駈け出していった。

だが、神保町を、駈けぬけきらぬうちに、弦三は運わるく、近所に落ちた爆弾の破片を左脚にうけて、どうとアスファルトの路面に倒れてしまった。

「なに糞、こんなところで、死んでなるものか！」

彼は歯を喰いしばった。

路面に転っていると、群衆に踏みつぶされる<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるので彼は<ruby><rb>痛手</rb><rt>いたで</rt></ruby>を<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えて、じりじりと、<ruby><rb>商家</rb><rt>しょうか</rt></ruby>の軒下へ、虫のように<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>っていった。

右手を伸ばして、傷口のあたりをさぐってみると、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いに、脚の形はあったが、まるで<ruby><rb>糊壺</rb><rt>のりつぼ</rt></ruby>の中に足を突込んだように、そのあたり一面がヌルヌルだった。湧き出した血の赤いのが、この暗さで見えないのが、せめてもの幸いだったと、弦三は思った。

「おお、これは――」

その家の窓下で、弦三は不思議な音楽を耳にした。

それは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、この家の中から、しているのだった。

雑音のガラガラいう、あまり<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>でない音楽だったけれど、<ruby><rb>曲目</rb><rt>きょくもく</rt></ruby>は正しく、ショパンの「<ruby><rb>葬送行進曲</rb><rt>ヒューネラル・マーチ</rt></ruby>」

<ruby><rb>嗚呼</rb><rt>ああ</rt></ruby>、葬送曲！

一体、誰が、いま時分「<ruby><rb>葬送行進曲</rb><rt>そうそうこうしんきょく</rt></ruby>」をやっているのだろう。

彼は<ruby><rb>痛手</rb><rt>いたで</rt></ruby>を忘れて、窓の<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>につかまりながら、家の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

おお、そこには<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に照し出されて、一人の青年が倒れていた。その前には、小さいラジオ受信機が、ポツンと、座敷の真中に、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されていた。

音楽は、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく、そのラジオ受信機から出ているのだった。

（ＪＯＡＫが、葬送曲をやっているのだろうか、物好きな！）

弦三は、むかむかとして、脚の痛みも忘れ壊れた窓の中へ、もぐり込んだ。

入って来た人の<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>に気付いたものか、死んでいると思った青年が、白い眼を、すこし開いた。

そして<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように言った。

「君、あれを聞きましたか。アメリカの飛行機のり<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、飛行機の上から、あの曲を放送しているのですよ。無論、故意にＪＯＡＫと同じ波長でネ。しゃれた真似をするメリケン野郎……」

弦三は、それを聞くと、ムクムクッと起きあがって、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>で受信機を頭上高くもちあげると、

「やッ！」

と壁ぎわに、叩きつけた。

「うぬ、空襲葬送曲まで、米国のお世話になるものか、いまに見ておれ、この空襲葬送曲は、<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつけて、立派に米国へ、返してやるから……」

死にかかっている青年にも、それが通じたものか、燃えのこった蝋燭の灯の蔭で、満足そうに、ニッと笑った。

<ruby><rb>爆撃下</rb><rt>ばくげきか</rt></ruby>の<ruby><rb>帝都</rb><rt>ていと</rt></ruby>

<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きつつ、喚きつつ、どッどッと流れてゆく真黒の、大群衆だった。

彼等は、大きなベルトの上に乗りでもしたように、同じ速さで、どッどッと、流れてゆくのだった。

「やっと、<ruby><rb>新宿</rb><rt>しんじゅく</rt></ruby>だッ」

誰かが、隊の中から、叫んだ。

「甲州街道だッ。もっと早く歩けッ！」

「中野の電信隊を通りぬけるまでは、安心ならないぞォ！」

<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた、空虚な<ruby><rb>叫喚</rb><rt>きょうかん</rt></ruby>が、暗闇の中に、ぶつかり合った。

群衆の半数を占める女達は、疲労と恐怖とで、なんにも口が利けないのだった。唯、母親の背で、赤ン坊が、ヒイヒイと絶え入りそうな悲鳴を、あげていた。

この大群衆は、東京を逃げだしてゆく市民たちだった。爆弾と、毒瓦斯と、火災とに追われて、生命を助かりたいばっかりに、めいめいの家を後に、逃げだしてゆく人々だった。

何万人という群が、あの広い新宿の大通にギッシリ<ruby><rb>填</rb><rt>つま</rt></ruby>って、押しあい、へしあい、<ruby><rb>洪水</rb><rt>こうずい</rt></ruby>の如く、流れ出てゆくのだった。すべては、徒歩の人間ばかりだった。円タクやトラックの暴力をもってしても、この真黒な人間の流れは、乗り切れなかった。無理に割りこんだ自動車もあったが、たちまち、人波にもまれて、橋の上から、突き落されたり、米軍の爆弾が<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>りとっていった<ruby><rb>大孔</rb><rt>おおあな</rt></ruby>の底に転がりおとされたりして、車も人も、滅茶滅茶になった。

避難民の頭上には、姿は見えないが、絶えず、飛行機のプロペラの唸りがあった。叩きつぶすような、機関銃の響が、聞えてくることもあった。何が落下するのか、屋根の上あたりに、キラキラと火花が光って、やがてバラバラと、<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のようなものが、避難民の頭上に降ってきた。

「ウ、ウ、グわーン、グわあーン」

大地が裂けるような物音が、あちらでも、こちらでもした。それは、ひっきりなしに、米軍が投げおとす爆弾の、<ruby><rb>炸裂</rb><rt>さくれつ</rt></ruby>する響だった。その<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>ごとに、

「キャーッ」

「こ、こ、こ、殺して<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れッ」

「あーれーッ」

と、此の世の声とは思えぬ恐ろしい悲鳴が聞えた。<ruby><rb>阿鼻叫喚</rb><rt>あびきょうかん</rt></ruby>とは、正に、その夜のことだったろう。

その狂乱の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の真ッ唯中に、これは、ちと風変りな会話をしている二人の男があった。

「旦那、もし、旦那」<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>を着ていることが、<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の<ruby><rb>香</rb><rt>かおり</rt></ruby>で、それと判った。

「ウ、なんだネ」

こっちは、<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>がある――向う側のビルディングの<ruby><rb>窓硝子</rb><rt>まどガラス</rt></ruby>が照空灯の反射で、ピカリと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたので、その<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>が見えた。

「いま、何時ごろでしょうかネ」熱ッぽい、調子<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れの声が、きいた。

「そうだナ――」頤髯男は、どッと、ぶつかってくる避難民の一人を、ウンと突き戻すと、クルリと後を向いて、夜光時計の文字盤を眼鏡にスレスレに近づけた。

「ああ、午後九時だよ」

「九時ですかい」<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>は、間のぬけた声をだした。

「今夜は、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に、夜が永いネ」

「ほほう」髯は、暗闇の中で、眼を丸くしたのだった。

「君は、ずいぶん、落付いてるナ」

「旦那は、どこへ逃げなさるんで……」

「僕かい？」髯は、湖のような静かな調子で云った。

「僕は、これから、研究室へ、出勤するんだ」

「冗談じゃありませんぜ、旦那」印袢纏が呆れたような声をだした。「<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の九時に、出勤てのは、ありませんよ。それに、旦那の行くところはどちらです」

「<ruby><rb>神田</rb><rt>かんだ</rt></ruby>の<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>だよ」

「へへえ、すると旦那は、お医者さまかネ」印袢纏は、駿河台に病院の多いのを思い出したのだった。

「ちがうよ」と、あっさり云った。「君は、どこへ逃げるのかい」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>のことかネ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は、逃げたりなんぞ、するものか。今夜は<ruby><rb>閑暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>になったもんだから、一つ市中へ出てみようと思うんで」

「ナニ、<ruby><rb>閑暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>だから、市中へ出る――」髯は、髯をつまんで、苦笑した。「それにしては、すこし、空中も、地上も騒がしいぞ」

その言葉を、裏書するように、どーンと又一つ、火柱が立った。赤坂の方らしい。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は、平気ですよ」印袢纏が言った。「ねえ旦那、アメリカの飛行機が、攻めて来たかは知らねえが、東京の人間たちのこの<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>て加減は、どうです。震災のときにも、ちょいと騒いだが、今度は、それに輪を十本も掛けたようなものだ。青年団が何です。消防隊が何です。交通整理も、在郷軍人会も、お巡りさんも、なっちゃいない。第一、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>達の<ruby><rb>献納</rb><rt>けんのう</rt></ruby>した愛国号の働きも、一向無いと見えて、この爆弾の落っこちることァ、どうです。防護隊というのがあるということだが、死人同様だァな、畜生」

髯は無言で、場所を出てゆこうとしたが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>、又ピカリと窓硝子が光ったので、<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>に発見されてしまった。

「旦那、行くんなら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も、お伴しますぜ。どうせ、今夜は、仕事が休みなんで」

「僕は、早く研究室へ行きたい――」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>が力を貸しましょう。皆、向うから、こっちを向いてくるのに、先生と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>だけは、逆に行くんだ。裏通をぬけてゆかなくちゃ、<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も、進めませんぜ」

「君は、防毒マスクを持ってるかい」

「持ってませんよ、そんなものは」

「それでは、毒瓦斯がやってくると、やられちまうぞ。悪いことは云わぬ。その辺の、毒瓦斯避難所へ、隠れていたまえ。生命が無くなるぞ」

「毒瓦斯かネ」印袢纏は、やや悲観の声を出した。「先生、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>では駄目かネ」

「手拭じゃ駄目だ」

「手拭に、水を<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>しては、どうかネ」

「そんなことで、永持ちするものか」

「そいつは、弱ったな」

二人が、押問答をしているとき、新宿の大通りでは、突如として、<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>が、演出された。

うわーッという群衆の<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>が、市外側の方に起った。それに交って、ピリピリと、警笛が鳴った。

「瓦斯弾が、落ちたぞオ」

「毒瓦斯がきたぞオ」

どッと、避難民の群は、崩れ立った。

避難路の前面に、瓦斯弾が落ちたらしく、群衆は悲鳴をあげて、吾勝ちに、引っ帰してきた。それが、市内の方から、押しよせてくる何万、何十万という、まだ<ruby><rb>瓦斯弾</rb><rt>ガスだん</rt></ruby>の落ちたことを知らない<ruby><rb>後続</rb><rt>こうぞく</rt></ruby>の避難民と、たちまち正面衝突をした。老人や、女子供は、<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッという間もなく、押し倒され、その上を、何千人という人間が、踏み越えていった。<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く間に、新宿の大通には、千四五百名の死骸が転った。その死骸は、どれもこれも、眼玉はポンポン飛び出し、<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>は折れ、肉と皮とは破れて、誰が誰やら判らない有様になった。すこしでも強い者、すこしでも運のいい者が、前に居る奴の背中を乗越え、頭を踏潰して、前へ出た。腰から下半身一帯は、遭難者の身体から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出た血潮で、ベトベトになった。まるで、赤ペンキを、一面に、なすりつけたような恐ろしい<ruby><rb>色彩</rb><rt>いろどり</rt></ruby>だったが、暗黒の中の出来事とて、それに気のつく者が無かったのは、不幸中の<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>だった。もしその血の池から匍い出してきたような下半身が、お互いの目に映ったなら、幾万人の避難民は、あまりの浅間しさに、一時に錯乱してしまったことだろう。

そんなにまで一心になって、迫りくる毒瓦斯から脱れようと人々は<ruby><rb>藻掻</rb><rt>もが</rt></ruby>いたが、一尺逃げると二尺押返えされ、一人を<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>すと、二人が押して来、そのうちに、咽喉のあたりが、チカチカ痛くなった。

「瓦斯だッ」

と気のついたときには、既に遅かった。魚の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>が腐ったような異臭が、身の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りに<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているのだった。胸の中は、<ruby><rb>灼鉄</rb><rt>やきがね</rt></ruby>を突込まれたように痛み、それで<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>が<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に出て、一層苦しかった。胸から咽喉のあたりを締めつけられるような気がした。金魚のように、大きく口をパクパクやったが、呼吸はますます苦しくなった。頭がキリキリと痛くなり、<ruby><rb>眩暈</rb><rt>めまい</rt></ruby>がしてきた。前の人間の肩をつかもうとするが、もう駄目だった。地球が一と揺れゆれると、堅い大地が、イヤというほど腰骨にぶつかった。全身が、木の箱か、なんかになってしまったような感じだった。

「うー、痛ッ」

誰かが、太股を踏みつけた。

「うーむ」

腹の上を、靴で歩いている奴がいる。

「うわーッ」

胸の上で躍っているぞ。肋骨が折れる、折れる。

「ぎゃーッ」

頭を<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>にされた。腹にも<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>った。<ruby><rb>胸元</rb><rt>むなもと</rt></ruby>を踏みつけては、駆けだしてゆく。あッ、<ruby><rb>口中</rb><rt>こうちゅう</rt></ruby>へ泥靴を……。

あとは、なにがなんだか判らなかった。

パタリパタリと、群衆は、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を倒すように、折重なって倒れていった。

街の片端から、メラメラと火の手があがった。<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と<ruby><rb>淡黄色</rb><rt>たんこうしよく</rt></ruby>を帯びた毒瓦斯が、霧のように渦を巻いて、路上一杯に<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>ってゆく。<ruby><rb>死屍累々</rb><rt>ししるいるい</rt></ruby>、<ruby><rb>酸鼻</rb><rt>さんび</rt></ruby>を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めた街頭が、ボッと赤く照しだされた。市民の<ruby><rb>鮮血</rb><rt>せんけつ</rt></ruby>に濡れた、アスファルト路面に、燃えあがる焔が、ギラギラと映った。<ruby><rb>横丁</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>から、バタバタと駈け出した一隊があった。彼等は、いずれも、防毒マスクを、頭の上から、スッポリ<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた。隊長らしいのが、高く手をあげると、煙りの中に突進していった。後の者も、遅れずに、隊長のあとを追った。それは任務に忠実な、生き残りの青年団員でもあろうか。

近くに、サイレンの響がした。毒瓦斯の間からヒョックリ顔を出したのは、真赤な消防自動車だった。だが、車上には、運転手の外に、たった二人の消防手しか、残っていなかった。その中の一人は、マスクの上から、白い布で、いたいたしく、頭部をグルグル<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きにしていた。

消防自動車は、ヨロヨロよろめきながら、燃えあがる建物めがけて、<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>していった。二人の消防手は、いつの間にか、<ruby><rb>舗道</rb><rt>ほどう</rt></ruby>の消火栓の前で、力をあわせて、重い<ruby><rb>鉄蓋</rb><rt>てつぶた</rt></ruby>をあけようと試みていた。

郊外へ<ruby><rb>遁</rb><rt>に</rt></ruby>げようと、洪水のように押出してきた、さしもの大群衆も、前面から襲ってきた毒瓦斯に捲きこまれて、<ruby><rb>一溜</rb><rt>ひとたまり</rt></ruby>もなく、<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れてしまった。<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>は、五分と経たぬ間に、<ruby><rb>無人郷</rb><rt>ノーマンズ・ランド</rt></ruby>に変ってしまった。その<ruby><rb>荒涼</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>たる光景は、関東大震災の夜の比ではなかった。

大通りのところどころには、それでも、三人、五人と、異様な防毒マスクを<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めた人達が集結して、ゴソゴソやっていた。

「どんな人を、救護しますか」

<ruby><rb>大蜻蛉</rb><rt>おおとんぼ</rt></ruby>の化物のような感じのする防毒マスクが二つ<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>って、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて、こんな意味を通じた。

「救護して、あとで戦闘ができそうな人を選べ！」

一方が、<ruby><rb>赤色手提灯</rb><rt>あかいろてちょうちん</rt></ruby>の薄い光の下に、手帖を<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて、読みにくい文字を書いた。

他の一人が、それを見て、隊長らしいのをグングン向うへ引張っていった。彼は手真似で、隊長に話をした。

「そこの横丁の<ruby><rb>塵箱</rb><rt>ごみばこ</rt></ruby>の中から赤ン坊の泣声がするが、助ける必要はないか？」

<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>すところに、真黒な<ruby><rb>大塵箱</rb><rt>おおごみばこ</rt></ruby>があって、明かに、赤ン坊の泣き声がする。後から駈けつけた一人が、近づいて、イキナリ、塵箱の蓋を開けようとした。隊長らしい男が、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた風で、塵箱にかかった男の腕を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。そして部員を促して、毒瓦斯の沈澱する向うの闇へ、前進していった。

（開けば、塵箱の中の赤ン坊は、直ぐ死ぬだろう。開かないのが、せめてもの情けだ）

そんなことを、隊長は、考えていた。

また一つ、崩れるような大きな爆発音がして、新宿駅の方が急に明るく火の手があがり、それが、水でも流したように、見る見るうちに四方八方へ拡がり、あたり近所が、一度に、メラメラと燃え出した。<ruby><rb>焼夷弾</rb><rt>しょういだん</rt></ruby>が落ちたらしい。

焔に追われたような形で、最前の、マスクを被った<ruby><rb>髯男</rb><rt>ひげおとこ</rt></ruby>と、マスクの代りに<ruby><rb>手拭様</rb><rt>てぬぐいよう</rt></ruby>のもので顔の下半分を隠した例の<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>の男とが兎のように<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねながら、こっちへ、やってきた。

赤ン坊の泣き声がするという塵箱の傍まで来たときに、印袢纏の男は、急にガクリと、地上に膝をついた。

「く、く、苦しい。先生、ク、ク、薬を、もっと、もっと、入れて下さいィ――」

印袢纏の男は、始めの元気を何処かへ振り落していた。彼は自分の<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を掻きむしるように<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すと、髯男の方へ、片手を伸ばした。どうやら、髯男が、持ち合わせの<ruby><rb>漂白粉</rb><rt>ひょうはくふん</rt></ruby>と<ruby><rb>活性炭素</rb><rt>かっせいたんそ</rt></ruby>を利用して、応急のマスクを作ってやったのが、もう利かなくなったらしい。

髯男は、マスクの硝子越しに、連れの顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、マスク！　マスク！」

印袢纏の男は、何を見たのか、猛然と上半身を起こして、すぐ目の前に<ruby><rb>転</rb><rt>ころが</rt></ruby>っている一個の死体にとびついた。彼は、死体の顔に<ruby><rb>嵌</rb><rt>はま</rt></ruby>っている防毒マスクを、力まかせに、もぎとろうとした。

髯男は、あまりの浅間しさに、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>もう、あきれ顔に立っていた。

マスクは、死体から、ポクリと外れた。マスクの下には、若い男の、苦悶にみちた死顔があった。

印袢纏は、奪ったマスクに狂喜して、自分の顔に充てたがどうしたものか、その場に<ruby><rb>昏倒</rb><rt>こんとう</rt></ruby>してしまった。髯男は、すぐさま駈けよって、防毒マスクを被せてやった。印袢纏は、その<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>動かず、地上にながながと伸びていた。

髯男は、マスクを外された若い男の傍に近よった。その青年は、もう<ruby><rb>疾</rb><rt>とっ</rt></ruby>くに死んでいた。それは勿論、瓦斯中毒ではないことは一と目で判った。下半身が滅茶滅茶にやられているのだった。次第に燃えさかってくる一帯の火災は、<ruby><rb>無惨</rb><rt>むざん</rt></ruby>にも血と泥とにまみれた青年の腹部を、あかあかと照しだした。

死んだ青年は、背中に大きい包みを背負っていた。<ruby><rb>髯男</rb><rt>ひげおとこ</rt></ruby>は、それが、なんとなく<ruby><rb>気懸</rb><rt>きがか</rt></ruby>りになったので、手早く解いてみた。その中から、ゴロリと転りだしたのは、真黒の、三つの防毒マスクだった。

「ほう、防毒マスク？」

髯男は、不審そうに、あたりを見廻した。

「ヒイヒイ」

そのとき、枯れきったような赤ン坊の泣き声がした。

「おお、このゴミ箱に、人間がいるッ！」

ゴトリゴトリ、<ruby><rb>大塵箱</rb><rt>おおごみばこ</rt></ruby>の内部で、赤ン坊にしては大きい物音がした。

イキナリ、箱の蓋が、ガタリと開いて、真黒の顔をした男がヌッと、上半身を出した。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、髯男は気がついて、死んだ青年が、背負っていたマスクの一つを、その男の頭に、スッポリ、被せてやった。それはまさしく時機に適したことだった。周りにはホスゲンの<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>な<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いが、いまだプンプンとしていた。

その男は、防毒マスクに気がついたのでもあろうか、<ruby><rb>側</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らを指さした。髯男が見ると、そこには、若い女が、彼女の子供でもあろうか、赤ン坊を、しっかり胸に抱いていた。髯男は<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて、機を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>さず、残りの二つのマスクをめいめいに被せてやった。その一つは、偶然にも、当歳の赤ン坊用のマスクだった。

「なんという不思議な暗合だろう。親子三人に、親子三人用のマスク！」

髯男は、<ruby><rb>六</rb><rt>むず</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>い数学解法を発見でもしたかのように、<ruby><rb>驚嘆</rb><rt>きょうたん</rt></ruby>した。

だが、この親子三人が、<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>の<ruby><rb>鼻緒問屋</rb><rt>はなおどんや</rt></ruby>下田長造の長男、<ruby><rb>黄一郎</rb><rt>きいちろう</rt></ruby>親子であり、マスクを背負っていた死青年は、同じく長造の三男にあたる弦三であり、弦三は死線を越えて、兄達に手製のマスクを届けようと、負傷の身を<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えてどうやら此の場所まで来たところを、自制のない群衆のため、無残にも踏み殺されたものであって、弦三は死んだが、その願いは、<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>どいところで達せられたことを髯男が知ったなら、彼はどんな顔をして<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたことであろうか。いや、あとで、黄一郎親子が、マスクの裏に記された「<ruby><rb>弦三作</rb><rt>げんぞうさく</rt></ruby>」の<ruby><rb>銘</rb><rt>めい</rt></ruby>に気がついたなら、どのように<ruby><rb>叱驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>することだろうか。

しかし、そのときは、一切が夢中だった。黄一郎親子は、仮りの避難所である<ruby><rb>塵箱</rb><rt>ごみばこ</rt></ruby>の中に居たたまらず、一と思いに死ぬつもりで蓋を払ったところを、思いがけなく防毒マスクを被されたので「助かるらしい」と感じた外は他を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえりみ</rt></ruby>る<ruby><rb>余裕</rb><rt>よゆう</rt></ruby>もなかったのだった。しかも、背後には、恐ろしい火の手が迫っていた。黄一郎親子は、感謝すべき肉身の死骸の直ぐ傍に立っておりながらも、遂にそれと気付かず、蒸し焼きにされそうな苦痛から脱れるため、後をも見ずに逃げだした。

それに続いて、髯男が、やっと気がついたらしい<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>の男を、引立てながら、これも逃げだしたのだった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は、<ruby><rb>恥</rb><rt>はず</rt></ruby>かしい！」

死人の顔から、防毒マスクを奪いとろうとした浅間しい行為を恥じるものの如く、<ruby><rb>印袢纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>氏は、マスクの中で、幾度も、幾度も、<ruby><rb>苦吟</rb><rt>くぎん</rt></ruby>を繰返した。

大通りの<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>を境に、火焔と毒瓦斯とが、上下に入り乱れて、噛み合っていた。

<ruby><rb>咄</rb><rt>とつ</rt></ruby>！　売国奴

<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>の上では、暗黒の中に、高射砲が鳴りつづいていた。照空灯が、水色の<ruby><rb>暈光</rb><rt>うんこう</rt></ruby>をサッと上空に<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げると、そこには、必ず敵機の<ruby><rb>機翼</rb><rt>きよく</rt></ruby>が光っていた。<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>の中に星が一つ――それが、米国空軍のマークだった。

「グわーン、グわーン」

高射砲の砲口から、<ruby><rb>杏色</rb><rt>あんずいろ</rt></ruby>の火焔が、はッはッと息を吐いた。敵機は、クルリと、<ruby><rb>横転</rb><rt>おうてん</rt></ruby>をすると、たちまち闇の中に、姿を消して行った。異様なプロペラの<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>が、明らかに、耳に入った。

照空灯は、サッと、光を収めた。

「ラッ、タッ、タッ」

頭上に、物凄いエンジンの響が、襲いかかった。

「ラッ、タッ、タッ」こっちでも、高射機関銃が打ちだした。

ぱッ――。くらくらッとする鋭い光に照された。

「ど、ど、ど、ど、どーン」

ゆらゆらと、<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>が<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>いだ。

「少尉殿、少尉どのォ！」

誰かが、<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>を<ruby><rb>限</rb><rt>かぎ</rt></ruby>りに呼んでいる。

「オーイ」<ruby><rb>社殿</rb><rt>しゃでん</rt></ruby>の<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>で、元気な返事があった。

「少尉殿。聴音機第一号と第三号とが破壊されましたッ」

「第四号の修理は出来たかッ」

「まだであります」

「早く修理して、第二号と一緒に働かせい」

「はいッ。第四号の修理を、急ぐであります」

兵は、バタバタと帰っていった。

（聴音機が、たった一台になっては、この山の任務も、これまでだナ）

東山少尉は、暗闇の中に、唇を噛んだ。七台の聴音機は、六台まで壊れ、先刻の報告では、高射砲も三門やられ、のこるは二門になっていた。

兵員は？

もともと一小隊しか居なかった兵員は、四分の一にも足らぬ人数しか、残っていなかった。

「ピリピリ。ピリピリ」

<ruby><rb>振笛</rb><rt>しんてき</rt></ruby>が、けたたましく鳴り響いた。毒瓦斯が、また、やってきたらしい。

何か、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>く声がする。<ruby><rb>胡椒臭</rb><rt>こしょうくさ</rt></ruby>い、<ruby><rb>刺戟性</rb><rt>しげきせい</rt></ruby>の<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>が、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに、<ruby><rb>鼻粘膜</rb><rt>びねんまく</rt></ruby>を、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>った。

（<ruby><rb>塩化</rb><rt>えんか</rt></ruby>ピクリンか！）

東山少尉は、腰をひねると、防毒マスクをとりあげた。

「<ruby><rb>催涙瓦斯</rb><rt>さいるいガス</rt></ruby>だぞオ、催涙瓦斯だぞオ！」

瓦斯<ruby><rb>警戒哨</rb><rt>けいかいしょう</rt></ruby>が、大声に、<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>っていた。

東山少尉は、そのとき、何を思ったのか、ツと、二足、三足前方にすすんだ。

「どうも、おかしいぞ」

前方の、放送局の<ruby><rb>松林</rb><rt>まつばやし</rt></ruby>あたりに、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby><ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい人数が移動している様子だった。演習慣れした少尉の耳には、その雑然たる靴音が、ハッキリと判った。

どこの部隊だろうか？

司令部が寄越した<ruby><rb>援兵</rb><rt>えんぺい</rt></ruby>にしては、無警告だし、地方の師団から救援隊が来るとしても、おかしい。

軍隊ではないのかも知れない。

少尉は、背後に向って、携帯用の懐中電灯を、<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>め<ruby><rb>十字</rb><rt>じゅうじ</rt></ruby>に振った。それは下士官を呼ぶ信号だった。

　コトコトと<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、軍曹の<ruby><rb>肩章</rb><rt>けんしょう</rt></ruby>のある下士官が、少尉の側にピタリと身体を寄せた。

「<ruby><rb>吉奈軍曹</rb><rt>よしなぐんそう</rt></ruby>であります」

軍曹は、マスクの中で、できる限りの声を張りあげたのが、少尉の耳に、やっと入った。

「おう、吉奈軍曹。至急偵察を命ずる。放送局裏に、<ruby><rb>不可解</rb><rt>ふかかい</rt></ruby>の部隊が集結しているぞ。<ruby><rb>突入</rb><rt>とつにゅう</rt></ruby><ruby><rb>誰何</rb><rt>すいか</rt></ruby>しろ。友軍だったら、<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を二発射て。怪しい奴だったら、三発うて。避難民だったら、四発だ。時節がら、怪しい奴かも知れぬから、臨機応変、細心に観察して、判ったら直ぐ知らせろッ」

軍曹は、わかったと見えて、首を上下に振った。

「では、行け」

軍曹は、右手に、<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を握ると、放送局舎目懸けて、<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>した。

少尉は、直ちに、別の信号をして、兵員の急速集結を命じた。部署に最少限度の兵員を残して、あと二十名ばかりのものが集ってきた。彼等は、取敢えず、三門の機関銃を<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>いた。

「少尉殿」耳の側で、伝令兵が叫んだ。

少尉は首を振って、応答した。

「警備司令部との連絡電話が切断したであります」

「なにッ」少尉は、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて、伝令兵の腕を握った。「無線電話はどうかッ」

「無線電話にも、司令部の応答が、無いであります」

「無線も駄目か。はあて――」

途端に、前方で、銃声が響いた。

「パ、パ、パン！」

うむ、さては、怪しい者だ。

三発の<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の音に、<ruby><rb>堤</rb><rt>つつみ</rt></ruby>をきられたように、向うの方に、銃声が起った。バラバラと、弾丸が飛んでくる！

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、そのとき、異様な響をたてて、一台の飛行機が、火焔に包まれ、<ruby><rb>錐揉</rb><rt>きりも</rt></ruby>みになって、落下してきた。焼けのこった機翼の<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>に、チラリと、真赤な日の丸が見えた、と思った。次の瞬間には、<ruby><rb>囂然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる音響をあげて放送局裏の松林の真上に、機首をつっこんだ。パチパチと、物凄い音がして、松林が、ドッと燃えあがった。急に、あたりは、赤々と照し出された。そこは、吉奈軍曹が、突入したあたりだった。

見よ、局舎のまわりには、四五百名近い人間が集っていた。彼等の半分は、陸軍々人だった。のこりの半分は、背広だの、学生服だの、雑然たる服装をしていた。顔は、マスクで見えない。<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くの人間が、防毒マスクをしていた。軍隊と市民との混成隊とでも云いたいものであった。

（なぜだ。なぜだッ）

東山少尉は、不思議な軍隊を向うに廻して不審をうった。彼等は、こちらの陣地を認めて、小銃を乱射し、<ruby><rb>手榴弾</rb><rt>しゅりゅうだん</rt></ruby>を投げつけた。小銃はとどいたが、手榴弾は、ずっと遠方で<ruby><rb>炸裂</rb><rt>さくれつ</rt></ruby>した。

軍隊を<ruby><rb>狙撃</rb><rt>そげき</rt></ruby>する軍隊なのである。そのような、不可解な軍隊を向うに廻して、東山少尉の部下は、<ruby><rb>敵慨心</rb><rt>てきがいしん</rt></ruby>を起す前に、<ruby><rb>悒鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>にならないわけにゆかなかった。

向うの集団は、二手に別れた。一隊は、局舎の周囲を、グルグル廻っては、しきりに発砲していた。他の一隊は、地に<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い局舎を<ruby><rb>掩護物</rb><rt>えんごぶつ</rt></ruby>にして、ジリジリと、こっちを向いて進撃してきた。

少尉の部下は、イライラしてきたが、少尉は、まだ発砲の号令を出さなかった。

（たしかに、おかしい。あの兵士等の、<ruby><rb>鉄冑</rb><rt>てつかぶと</rt></ruby>の<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>は<ruby><rb>怪</rb><rt>あやし</rt></ruby>い。姿勢も、よろしくない。うン、これは、<ruby><rb>真正</rb><rt>ほんと</rt></ruby>の軍隊ではない。それならば、よオしッ）

「<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ち<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>用意！」東山少尉は、マスクを取ると、大声に叫んだのだった。「敵は陸軍々人の服装をしているが、<ruby><rb>不逞群衆</rb><rt>ふていぐんしゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>仮装</rb><rt>かそう</rt></ruby>であると認める。十分に撃ちまくれ、判ったな。――左翼、中央の両隊の目標は、敵の<ruby><rb>散開線</rb><rt>さんかいせん</rt></ruby>、右翼は横を見て前進、放送局の守備隊と連絡をとれイ。撃ち方、始めッ」

猛烈な機関銃隊の射撃ぶりだった。

敵は、最初のうちは、明かに、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>の色を見せたが、暫くすると、<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>を<ruby><rb>盛返</rb><rt>もりかえ</rt></ruby>し、手榴弾を、ポンポンと<ruby><rb>擲</rb><rt>な</rt></ruby>げつけては、機関銃を、一門又一門と、破壊していった。

東山少尉は、<ruby><rb>振笛</rb><rt>しんてき</rt></ruby>を吹いて、残りすくない部下を、非常召集した。だが、敵は<ruby><rb>多勢</rb><rt>たぜい</rt></ruby>で、服装に似ず、戦闘力は強かった。局舎守備隊も苦戦と見えて、連絡は、どう頑張っても、とれなかった。最後の任務を果たすために、<ruby><rb>飯坂</rb><rt>いいさか</rt></ruby>上等兵と<ruby><rb>姥子</rb><rt>うばこ</rt></ruby>一等兵を選抜して、東京警備司令部へ、<ruby><rb>火急</rb><rt>かきゅう</rt></ruby>の報告に出発させた。少尉が、腹部を射ちぬかれたのは、それから五分と<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>たない後だった。愛宕山高射砲隊は、ここに一兵も余さず、全滅を遂げてしまった。

放送局の守備隊も、それよりずっと前に、同じような悲惨な運命を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っていた。局舎内には、警備司令部の塩原大尉を首脳として、司令部付の警報班員が数名いて、最後まで<ruby><rb>頑強</rb><rt>がんきょう</rt></ruby>に抵抗したが、数十倍に達する暴徒を向うに廻しては、勝てよう筈がなかった。軍人たちは、<ruby><rb>赤色灯</rb><rt>せきしょくとう</rt></ruby><ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>る局舎のあちらこちらに、<ruby><rb>射斃</rb><rt>いたお</rt></ruby>され、非戦闘員である機械係りや、アナウンサーは、<ruby><rb>不抵抗</rb><rt>ふていこう</rt></ruby>を表明した。こうして、ＪＯＡＫは、不可解な一隊に、占領されてしまったのだった。

しかし、どうしたものか、局舎のうちには、塩原参謀と、杉内アナウンサーの姿が見当らなかった。死骸の中にも、無論のこと、二人を探しあてることは、出来なかった。

「さあ、皆さん」陸軍の将校の服装をした男が、案外やさしい声で、第一演奏室の真中に立って叫んだ。「放送局の衆は、こっちへ並んで下さい。同志は、あっちの方へ固まって下さい」

彼は、軍帽を、床の上に<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げ捨てた。<ruby><rb>房々</rb><rt>ふさふさ</rt></ruby>した頭髪が、軍人らしくもなく、ダラリと額にぶら下った。それから彼は、胸の<ruby><rb>金釦</rb><rt>きんボタン</rt></ruby>を一つ一つ外していって、上衣をスッポリ脱ぎすてた。軍服の下に現われたものは、<ruby><rb>焦茶色</rb><rt>こげちゃいろ</rt></ruby>のルパシカだった。

「放送局の<ruby><rb>方々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>よ」彼は団長らしい落付を見せて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だが</span>鋭く、呼びかけた。「われわれは、戦争否定主義の者です。戦争は、即時やめさせなければならない。そうでないと、世界の平和は来ない。それには、第一に、日本が武装を捨てることだ。私が今、軍服を脱いだように。――で皆さん、僕達同志は、そういう意味に於て、この機会に世に出たのである。<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>を中心とし、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>、<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>、<ruby><rb>深川</rb><rt>ふかがわ</rt></ruby>の方面では、同志が三万人から出来た。貴方たちも、加盟して<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きたい。どうです！」

局員は、申合わせたように、黙っていた。

「返事がなければ」と、例の男が、たちまち恐ろしい<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>輝</rb><rt>かがやか</rt></ruby>していった。「主義反対と見なしますぞ。われわれが、道々<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って来たと同じ方法により、主義反対の者の解消を要求する」

キラリと、ルパシカ男の手に、<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>が光った。

「……」

誰も彼もが、一せいに、両手をあげた。

「それなら、よろしい。はッはッはッ」

ルパシカ男は、短銃をポケットに収めた。

「では、戦争否定同盟の同志として、<ruby><rb>新</rb><rt>あら</rt></ruby>たに命令する。大至急で、全国放送の用意をして呉れ給え」

局員は、たじたじとなった。

「帝都の空中襲撃が終るまで、放送するのは危険です。まるで電波で、帝都の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を報らせるようなものですから」

「いいから、用意をし給え」

「それに軍部の命令……」

「もう一度、云って見給え。同盟の一員として判らなければ、物を云わせるぞ、君」

ルパシカ男は、頑強に反対する一局員の<ruby><rb>胸元</rb><rt>むなもと</rt></ruby>に、短銃の口を、圧しつけた。

局員は、歯を喰いしばって、大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「承知しました。では皆、命令に従って、放送機のスイッチを入れよう」

局員は、団員に守られて、機械室の方へ出ていった。

「おや、まだマスクを掛けている人があるじゃないか」団長はギョロリと、眼を光らせた。「もう瓦斯はないから、脱ぎ給え」

団員は、てんでに、マスクを脱いだ。

すると、そこには、驚くべき新事実が<ruby><rb>曝露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>したのだった。団員の中には、多数の婦人と、中学生女学生も交っていた。全体として見ても、団員は三十歳どまりの若い者ばかりだった。その中には、<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>った者もいた。だが、彼等は、語ることを、団長達の前に、さしひかえなければならなかった。

更に、驚くべきことは、この一団のうちに、<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>の<ruby><rb>鼻緒問屋</rb><rt>はなおどんや</rt></ruby><ruby><rb>下田長造</rb><rt>しもだちょうぞう</rt></ruby>の妹娘の紅子と、<ruby><rb>末子</rb><rt>すえっこ</rt></ruby>の中学生、素六とが、<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>に慄えていることだった。

そもそも、あの善良なる<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>少年と、モダン娘の<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>とは、一体どうした訳で、こんな一団に加わっているのであろうか。

それについては、空襲下の<ruby><rb>下町方面</rb><rt>したまちほうめん</rt></ruby>の情況について、少しばかり述べて置かねばならない。

<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>の<ruby><rb>侵入</rb><rt>しんにゅう</rt></ruby>

下町方面は、古くから、空襲教練が、たいへん行届いている模範的の区域だった。たびたびの防空演習に、町の人々は、いつも総出で参加した。すこし芝居好きのところは、あったにしても、あれほど熱心に、灯火管制の用意に<ruby><rb>黒色</rb><rt>こくしょく</rt></ruby>電灯カバーを作ったり、<ruby><rb>押入</rb><rt>おしいれ</rt></ruby>を改造して、防毒室を設けたり、配電所に特別のスイッチを<ruby><rb>設</rb><rt>もう</rt></ruby>けたりして、骨身を<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>まないのは、感心にたえなかった。

それが、あの本物の空襲下に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されて、どこの区域よりも二三倍がた、混乱ぶりのひどかったことは、まことに意外の出来ごとだった。そのような大混乱の元は、なんであるかというと第一に、いつもの演習は、<ruby><rb>少壮気鋭</rb><rt>しょうそうきえい</rt></ruby>の在郷軍人会の手で演じていたのが、本物の空襲のときには、その在郷軍人たちの殆んど全部が、召集されて、某国へ出征していたために、残っている連中だけでは、どうもうまく行かなかったこと。第二には、しっかりした信念がなくて、<ruby><rb>流言蜚語</rb><rt>りゅうげんひご</rt></ruby>に、うまうまと捲きこまれ秩序が立たなかったこと。この二つの原因が混乱の渦巻を作ってしまった。

鼻緒問屋、下田長造の三男で、防毒マスクの研究家だった弦三が、自作のマスクを背負って、新宿附近に住む長兄黄一郎親子に届けるために、花川戸を出たのは、敵の飛行隊が帝都上空に達するほんの直前のことだった。

弦三は、なんのことはない、死の一歩を踏みだしたようなものだった。まず駈けつけた地下鉄の中で、彼は、避難群衆に、<ruby><rb>不穏</rb><rt>ふおん</rt></ruby>の気が、みなぎっていることを、<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く見てとったのだった。弦三の乗りこんだ地下電車が、構内を離れて間もなく、不穏分子の<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>は、<ruby><rb>露骨</rb><rt>ろこつ</rt></ruby>になって行った。

<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねて、手筈ができていたものと見え、地下鉄の駅長は、避難してくる群衆を、無制限に地下構内へ入れすぎるという、極くつまらない<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>をもって、群衆の<ruby><rb>袋叩</rb><rt>ふくろだた</rt></ruby>きに合ったのだった。暴徒の一味は、群衆が、興奮した様子につけこんで、今度は、切符売場を襲撃したのだった。金庫は、みるみる破壊され、銀貨や紙幣が、バラバラと撒き散された。群衆は恐さも忘れて、<ruby><rb>慾心</rb><rt>よくしん</rt></ruby>まるだしに、金庫を目懸けて突進した。五十銭銀貨を一枚でも、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の中につかんだものは、強奪の快感の捕虜となって、ますます興奮を、つのらせて行った。五円紙幣を手に入れたものは、顔までが、悪魔の弟子のようになった。<ruby><rb>獣心</rb><rt>じゅうしん</rt></ruby>が、檻を破り、ムラムラと、飛びだした。一味の者は、細心の注意をもって、機会を見ては、巧みに、煽動した。居合わせた婦女子は、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きのあまりに、<ruby><rb>失心</rb><rt>しっしん</rt></ruby>する者が多かった。正義人道を口にするものが、四五人もいて頑張れば、群衆の冷静さを、幾分とりもどせたろうと思われたが、誰もが<ruby><rb>呆然自失</rb><rt>ぼうぜんじしつ</rt></ruby>していて、適当な処置を<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>ったのだった。一味の計画は、すっかり、図に当った。

「××人が、本当に暴れだしたぞォ」

「東京市民は、<ruby><rb>愚図愚図</rb><rt>ぐずぐず</rt></ruby>していると、毒瓦斯で、全滅するぞ。兵営に、防毒マスクが、沢山貯蔵されているから、押駆けろッ」

「デパートを襲撃して、吾等の払った利益をとりかえせ」

「国防力がないのなら、戦争を中止しろッ」

「放送局を占領しろッ」

などと、さまざまな、<ruby><rb>不穏指令</rb><rt>ふおんしれい</rt></ruby>が、街頭に<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>された。

警官隊も、青年団も、敵機の帝都爆撃にばかり、注意力が向いていて、暴徒が芽をだしはじめたときに、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>苅りとることに気がつかなかった。

暴徒一味の煽動は、さまざまの<ruby><rb>好餌</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を、市民の中にひけらかし、善良な人達までが、羊の皮を被った狼に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されて、襲撃団の中に参加したのは、物事が間違う頃合いにも程があると、後になって<ruby><rb>慨</rb><rt>なげ</rt></ruby>かれたところだった。

若い青年男女は、<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも釣</span>のようなわけで、深い意味もわからず、その団体に暴力を以て加盟させられた。一味幹事の統制ぶりは、実に美事であった。いろいろな別働隊が組織され、各隊は<ruby><rb>迅速</rb><rt>じんそく</rt></ruby>に、行動に移った。

長造の妹娘の<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>と、末ッ子の<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>とは同じような手で、参加を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられた。

長造とお妻が、涙をもって止めたが、それは何の役にも立たなかった。<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の誰々さんも入っている――たったそれだけのことで、若い人達の参加を決心させるに充分だった。「放送局を襲撃しろッ」

ハッキリと、加盟団の指令が出たときには若い人達は、やっと気がついた。だが、それは、もう遅かった。幹部の手には、物々しい武器が握られていた。反抗したが最後、その兇器が物を云うことは、いくら若い連中にもよく解った。

紅子と素六とは、恐怖と反省とに責められながら、放送室の一隅に、突立っていた。

放送局襲撃隊の指導者は、<ruby><rb>鬼川壮太</rb><rt>おにかわそうた</rt></ruby>といった。

「放送準備は、まだ出来ないのかネ」鬼川は団員の一人に訊いた。

「もう直ぐです」団員は答えた。「いま、<ruby><rb>水冷管</rb><rt>すいれいかん</rt></ruby>に冷却水を送り始めました」

「電気は、来ているのですか」

「<ruby><rb>猪苗代水電</rb><rt>いなわしろすいでん</rt></ruby>の送電系統は、すっかり同志の手に保持されています。万事オーケーです」

指導者鬼川は、満足そうに<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「放送準備が出来ましたよ」

奥の方から、これも電気係りの団員が、大声で報せて来た。

「よおし。では、始めよう」

鬼川は、チラリと時計を出して、云った。

「午後九時四十分か。<ruby><rb>保狸口</rb><rt>ほりぐち</rt></ruby>君、手筈どおり全国アナウンスをして<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え」

保狸口と呼ばれた団員は、ニヤニヤと笑うと、ポケットから細く折った半紙をとり出して、マイクロフォンの前に立った。

「Ｊ、Ｏ、Ａ、Ｋ」

素六や紅子たちは、その声を、何処かで、聞き覚えのある声だと思った。

「大変お待たせをいたしました」保狸口は云うのだった。「唯今やっと、放送許可が出ましたような次第でございます」

素六は、やっと、気がついた。保狸口という男は、<ruby><rb>地声</rb><rt>じごえ</rt></ruby>か、<ruby><rb>声帯模写</rb><rt>せいたいもしゃ</rt></ruby>かはしらないが、声だけ聞いていると、なんのことはない、放送局の杉内アナウンサーと、区別のつかない程似た声音をもって居り、その音の<ruby><rb>抑揚</rb><rt>よくよう</rt></ruby>に至っては、よくも真似たものだと、感心させられた。この放送を聞いたものは、ＪＯＡＫが例の調子で、放送をやっているものと、簡単に信じるだろうと思われた。

それにしても、保狸口は、これから一体何事を喋ろうというのだ。

「第一に、申上げますことは、皆さん、御安心下さい。マニラ飛行聯隊の帝都空襲は、一と先ず一段落をつげました。敵機はだんだんと、帝都を後にして、引揚げてゆく模様であります。以上」

強制団員の中には、この<ruby><rb>真面</rb><rt>まとも</rt></ruby>な放送に、大満足の意を表したものさえあった。だが、敵機は、本当に、帝都の上空から、引揚げていったのだろうか？

「次に、某筋からの命令が参りましたから、お伝えします。東京地方は、警戒解除を命ず。東京警備司令官、<ruby><rb>別府九州造</rb><rt>べっぷくすぞう</rt></ruby>。繰り返して読みます、エエと――」

素六は、窓際に立っていたので、不用意に開け放たれた窓から、帝都の空を眺めることが出来た。その真暗な空には、今も<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>、照空灯が、青白い光芒を、縦横無尽に、うちふっていた。高射砲の砲声さえ、別に<ruby><rb>衰</rb><rt>おとろ</rt></ruby>えたとは思われなかった。なんだか、怪しい放送である。

「次に、灯火を、早くお点け下さいという命令。目下帝都内は暗黒のために、大混乱にありまして、非常に危険でございますので、敵機空襲も片づきましたることでありますからして、市民諸君は、大至急に電――」

「<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されてはいけない、市民諸君、これは<ruby><rb>偽放送</rb><rt>にせほうそう</rt></ruby>だッ」

大きな声で、保狸口のアナウンスを圧倒した者があった。

ズドーン。

銃声一発。

ドタリと、マイクロフォンの前に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れたのは、素六だった。

指導者<ruby><rb>鬼川</rb><rt>おにかわ</rt></ruby>の手にしたピストルの銃口からは、<ruby><rb>紫煙</rb><rt>しえん</rt></ruby>が静かに舞いあがっていた。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>、素六。しっかり、おしよ。素六ちゃーん」

鬼川は、断髪女が、仆れた少年を抱いて、大声で呼び戻しているのを見ると、又もや、ズドンと、第二発目を、紅子に向けた。しかし、それは<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>が狂って当らなかった。

死んだのかと思った素六が、ムクムクと起き上った。

「電灯をつけては、いけない。まだ敵の飛行機は――」

そこまで云うと、素六の頭部は、ガーンとして、何にも聞こえなくなった。保狸口が飛出して、素六を殴りつけたのだった。

そのとき、突然、局内の電灯が、一時に消えた。

「同志、配電盤を、配電盤を……」鬼川の叫ぶ声がした。

携帯電灯の薄明りで、室内が、<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて眺めまわされたとき、素六の身体も、紅子の姿も見当らなかった。それに代って、大きな図体の男が、長々と伸びていた。その額からは、絹糸をひっぱり出したような血のあとが認められた。

「誰だッ」

「やッ。保狸口がやられたッ」

「保狸口が、やられたかッ。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>、アナウンサーの<ruby><rb>換玉</rb><rt>かえだま</rt></ruby>に、ひっぱって来たのに……」

同志は、口々に、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

「射った奴を探せ！」

「同志の顔を、一々調べて見ろ！」

そこへ、ドタドタと駈けこんで来たものがあった。

「市内に、電灯が点きはじめたぞ。僕たちの放送は、うまく行ったらしい。同志、出て来て見ろ！」

ワッというと、誰も彼もが、表へとびだした。

なるほど、今まで<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>としていた空間に、あちこちと、<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>のある電灯が、輝きだした。電灯が点いてみると、全市を<ruby><rb>焦土</rb><rt>しょうど</rt></ruby>と化してしまったかと思われた火災も案外、局部に限られていることが、判った。

「ラジオが、聞えたぞ」

「電灯も点いたぞ」

市民は、聞きなれたアナウンサー（だと思った）の声を聞き、母の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>のようになつかしい電灯の光を浴びて俄かに元気をとりかえしたのだった。

<ruby><rb>愛宕山</rb><rt>あたごやま</rt></ruby>の上では、暴徒の指導者、鬼川が、一人で<ruby><rb>恐悦</rb><rt>きょうえつ</rt></ruby>がっていた。

「見ろ、市民は、うまうま一杯、かつがれてしまったじゃないか。これで、大東京の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>が、はっきり浮び上るのだ。米国空軍の目標は、これで充分だ。あとは、約束の賞金にありつく<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>り。では、今のうちに、こっそり、失敬するとしよう。それにしても、米軍の攻撃は、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に、ゆっくりしているじゃないか」

彼は、裏口へ<ruby><rb>遁</rb><rt>に</rt></ruby>げようとしては、不審の<ruby><rb>面持</rb><rt>おももち</rt></ruby>で耳を澄した。だが、彼の予期するような爆弾投下の爆音は、一向に、響いてこなかった。

「おかしいぞ。どうしたのだろう」

そのとき、<ruby><rb>囂然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる爆声が起った。一発又一発。それに交って、カタカタという機関銃の響きだった。

「やったナ。だが、爆弾と、すこし音が違うようだ」

彼は、逃げ腰になった。

「鬼川君は、いないですか、鬼川君」

誰かが、向うの放送室で呼んでいる。返事をしようか、どうしようか。

「……」

「鬼川君、軍隊だッ。救援隊らしいのが、山を登って来ますぞ。早く指揮をして下さい。鬼川くーン」

鬼川は、物も言わずに、裏口へ急いだ。

「やッ」

カーテンの蔭から、太い<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい腕がニューッと出た。鬼川は横腹をおさえて、もろくも、転倒した。

カーテンの蔭から、ルパシカ姿の巨漢が現れた。

「中佐どの、片附けました」

彼は、カーテンの蔭に言葉をかけた。

カーテンが、揺れて、思いがけなく、司令部の、湯河原中佐が、顔を出した。

「塩原参謀」と中佐は、呼んだ。ルパシカ男は、いつの間にか局舎から姿を消していた塩原参謀の仮装だった。

「この男を、吾輩に預けてくれんか」

「おまかせいたします」参謀は、直立して言った。「ですが、中佐殿は、これから、どうされます」

「吾輩は、司令部の<ruby><rb>穴倉</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>へ、こいつを隠して置こうと思う。司令官に報告しないつもりじゃから、<ruby><rb>監禁</rb><rt>かんきん</rt></ruby>の点は、君だけの胸に畳んで置いてくれ給え」

「しかし、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くの如き重大犯人を、司令官に報告しないことはどうでありましょうか」

「吾輩を信じて呉れ。二十四時間後には、この事件について、必ず君に報告するから」

「判りました。では、急速に、御引取下さい」中佐は、大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと、鬼川の身体を肩に担いで、カーテンの蔭に、かくれてしまった。

そのころ、放送局の表口では、暴徒の一団と、警備軍の救援隊とが、物凄い<ruby><rb>白兵戦</rb><rt>はくへいせん</rt></ruby>を展開していた。

全市に、点灯を命令して、米軍に帝都爆撃の目標を与えるという放送局襲撃の第一目標が、どういう手違いか、すっかり外れ、生き残りの団員は、戦闘の間々に、爆弾の<ruby><rb>炸裂音</rb><rt>さくれつおん</rt></ruby>を聞きたいものだと<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>ったが、その期待は、空しく消えてしまった。

彼等の地位は、だんだんと悪くなって、元気は氷のように<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けていった。

折角うまくやったつもりの放送局占領が、筋書どおりの効目がなく、いや<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って逆の結果となり、東京市民を恐怖のドン底へ追いやる代りに、ラジオと光とは、市民たちの元気を恢復させるに役立ったのだった。同志は、それにやっと気がつくと急に、パタパタと<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れる者が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えてきた。

放送局<ruby><rb>奪還</rb><rt>だっかん</rt></ruby>は、もう間もないことであった。

某地域の地下街を占めた警備司令部では、別府司令官をはじめ、兵員一同が、血走った眼を、ギラギラさせて、刻々に報告されてくる戦況に、憂色を増していった。

「立川飛行聯隊では、大分<ruby><rb>脾肉</rb><rt>ひにく</rt></ruby>の<ruby><rb>嘆</rb><rt>たん</rt></ruby>に、たえかねているようでは、ありませんか」

一人の参謀が、有馬参謀長に、<ruby><rb>私語</rb><rt>しご</rt></ruby>した。

「九六式の戦闘隊のことだろう」参謀長は、さもあろうという顔付をした。「だが、司令官閣下は、出動には大反対じゃ」

「海軍の<ruby><rb>追浜</rb><rt>おっぱま</rt></ruby>飛行隊でも、同じような不満があるらしいですな」

とうとう「不満」という言葉を使って、参謀は有馬参謀長に、<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に警告を発した。

「うん、判ってる」参謀長は、言葉をのんだ。「だが、気をつけて、口をきけよ」

「はッ」参謀は、<ruby><rb>粛然</rb><rt>しゅくぜん</rt></ruby>として、<ruby><rb>挙手</rb><rt>きょしゅ</rt></ruby>の礼をした。（参謀長も、飛行隊の出動命令に、不満を持っていられるんじゃ）と思った。

「司令官の御心配は、近くに起る太平洋方面からの襲撃を<ruby><rb>顧慮</rb><rt>こりょ</rt></ruby>されてのことじゃ」

「そうでもありましょう。しかし、快速をもった敵機に対して、性能ともに劣った九二式や九三式で、<ruby><rb>太刀打</rb><rt>たちう</rt></ruby>ちが出来る道理がありません。帝都の撃滅は、予想以外に深刻であります」

「……」参謀長は、答えなかった。

伝令が、パタパタと駈けてきた。

「<ruby><rb>川口町</rb><rt>かわぐちまち</rt></ruby>防空隊からの報告でありますッ」

「閣下」有馬参謀長は、司令官の前に直立した。「川口町からの報告が入りました。読みあげさせましょうか」

「いや、よろしい」司令官は、不機嫌に、頭を左右に振った。

「その報告書を、こっちへ、寄越し給え」将軍は、ひったくるようにして、報告の紙片を、手にとった。

「敵国航空軍と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき約十数機よりなる飛行隊は、<ruby><rb>本町</rb><rt>ほんちょう</rt></ruby>上空を一万メートルの高度をとって、午後九時五十分、北北西に向け飛行中なり。以上。川口町防空隊長、<ruby><rb>網島</rb><rt>あみじま</rt></ruby>少尉」

司令官は、紙片を、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>のうちに握り<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すとポイと<ruby><rb>屑籠</rb><rt>くずかご</rt></ruby>の中に、投げ入れた。

「閣下」参謀長が、やや<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんで、問いかけた。「唯今の報告は、なんでありましたか」

「<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>じゃ」司令官は、吐き出すように云った。「それより君は、部下を、ちと静かにさせては、どうか」

「はッ」参謀長は、静かに挙手の礼をすると、元の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>へ帰ってきた。

（閣下は、どうかして居られる）

参謀長は、湯河原高級副官の姿を探しもとめたが、室内には見えなかった。

（副官までが、どうかしているナ）

ムラムラと湧きあがってくる<ruby><rb>焦燥感</rb><rt>しょうそうかん</rt></ruby>を、グッと<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつけ、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>を見ると、年若い参謀は、満面を<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>にして、拳を握っていた。参謀長は、はッと気を取直した。

「草津参謀」彼は一人の参謀に呼びかけた。

「帝都の火災は、どういう状況にあるか」

「はいッ」参謀は、大東京区域図をバリバリ音させて、その上に、太い指を動かした。「<ruby><rb>淀橋</rb><rt>よどばし</rt></ruby>区、<ruby><rb>四谷</rb><rt>よつや</rt></ruby>区は、大半焼け尽しました。<ruby><rb>品川</rb><rt>しながわ</rt></ruby>区、<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>区は、<ruby><rb>目下</rb><rt>もっか</rt></ruby><ruby><rb>延焼中</rb><rt>えんしょうちゅう</rt></ruby>であります。<ruby><rb>下町</rb><rt>したまち</rt></ruby>方面は、むしろ、小康状態に入りました」

「放送局との連絡は、ついたろうか」

「無線連絡が、もう間もなく恢復するでありましょう」

「空中襲撃の解除警報を出す用意は、出来ているな」

「はいッ。すこし、困難はありますが、やれる見込みです」

「では、閣下に、お願いして見よう」

参謀長は、又立って、司令官の前に出た。

「閣下、解除警報を出したいと考えます」

「解除警報！」司令官は、大きく眼を開いた。「まだ早すぎる。<ruby><rb>確乎</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる報告が集らぬではないか」

「閣下。例の怪放送者は、すでに先手を打って、敵機の退散をアナウンスして居ります。<ruby><rb>況</rb><rt>いわ</rt></ruby>んや、唯今、川口町の報告によれば、敵軍は、明かに、機首を他へ向けています」

「君は、今の報告を盗み見たかッ」

「閣下、盗み見たとは、残念な<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せです。参謀長は、あらゆる報告に、一応目をとおす職責がございます」

「ウム」

「<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の上は、速かに解除警報の御許可を、お与え下さい。市民は、軍部の、正しいアナウンスを、<ruby><rb>渇望</rb><rt>かつぼう</rt></ruby>して居ります。一刻おくれると、市民の混乱は拡大いたします」

「敵国空軍が、川口の上空から、引返して来たとしたら、どうするかッ」

「そのときは、又、警報を出します。しかし以前の監視哨の報告三種を合わせて、敵軍は日本海方面に引揚を開始していることは、明瞭であります」

「確証がつかないのに、司令官として、解除警報を出すわけにはゆかぬ」

「どうあっても？」

「くどい、参謀長！」

俄然、司令部の広間は、<ruby><rb>殺気立</rb><rt>さっきだ</rt></ruby>った。

将校連は、二派に別れて、司令官と、参謀長の背後に、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みあった。

何という<ruby><rb>不祥</rb><rt>ふしょう</rt></ruby>な出来ごとだろう。帝都の運命が<ruby><rb>累卵</rb><rt>るいらん</rt></ruby>の危きにあるのに、その生命線を握る警備司令部に、この醜い争闘が起るとは。

<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に、教養のある将校たちのこととて、無暗に、拳銃を<ruby><rb>擬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>したり、軍刀をひらめかしたりはしなかったが、司令官か、参謀長かの一言さえあれば、<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、司令部の広間には、流血の大惨事が、捲きおこるという、非常に緊迫した重大な危機に、立至った。

司令官の顔は、紙のように蒼ざめて、唇がワナワナと震えて来た。

参謀長は、<ruby><rb>満面</rb><rt>まんめん</rt></ruby><ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>を塗ったように<ruby><rb>怒張</rb><rt>どちょう</rt></ruby>し、その爆発を、紙一枚手前で、堪えているようであった。

コツ、コツ。

<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>にノックの響があった。

室内の、息づまるような緊張が、爆発の直前に、ちょっと<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだという形であった。

やがて、扉は、静かに開いた。

高級副官、<ruby><rb>湯河原</rb><rt>ゆがわら</rt></ruby>中佐の円い顔が、あらわれた。この室内の光景を見ると、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くかと思いの外、ニヤリと、薄ら笑いを、口辺に浮べたのだった。

中佐は、ツカツカと司令官の傍に近づいた。

「申上げます。唯今、御面会人で、ございます」

「面会人。誰だッ」

「はッ、唯今、御案内いたします」副官は、入口の方を向いて大声を張上げた。「閣下、どうか、おはいり下さい」

扉の蔭から、閣下と呼ばれた人物の、カーキ色の軍服が、チラリと見えた。ガチャリと<ruby><rb>佩剣</rb><rt>はいけん</rt></ruby>が鳴って、一人の将校が、全身をヌッと現わした。

「呀ッ」

「おお！」人々は、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と、其の場に、<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んだ。

そこへ現われた人物は、紛れもなく、<ruby><rb>別府</rb><rt>べっぷ</rt></ruby>司令官であった。

ところが、別府司令官は、<ruby><rb>直前</rb><rt>ちょくぜん</rt></ruby>まで、参謀長を、激しい語調で<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>っていた筈だった。おお、これはどうしたことだろう。参謀長の前には、たしかに、先刻から立っている別府司令官が居られるのだった。

二人の、別府司令官。

同じ服装の、同じ顔の、司令官。

どっちかが、<ruby><rb>贋者</rb><rt>にせもの</rt></ruby>であろうと思われる。

二人の司令官の、相違した点は、湯河原中佐の案内した司令官は、軍帽の下から、頭部に捲いた、白い<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>が、チラリと見えている点だった。

「両手を、おあげ願いたい」

中佐は、室内の司令官の背後に、軍用拳銃の銃口を、さしつけた。

「<ruby><rb>売国奴</rb><rt>ばいこくど</rt></ruby>！」中佐の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>にいた将校が、イヤというほど中佐の横面を張り<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>した。

室内の司令官は、サッと身を、壁際に移した。

「中佐を、保護せい。<ruby><rb>向</rb><rt>むか</rt></ruby>う奴は、射殺してよしッ」参謀長は、若い参謀に、早口で命令した。

三人の将校と、二人の下士官とが、室内の司令官を、守った。

若い参謀たちは、勇敢に、彼等に、飛びかかっていった。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の場合とて、ピストルよりも、肉弾が物を言った。

大格闘の末、五人の者は、<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えられた。しかし<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の贋司令官の姿は、いつの間にか見えなくなった。

「その壁が、怪しいぞ」

贋司令官は、見ているうちに、そこの壁の中に、吸いこまれてしまったのだ。コツコツと叩いてみると、それは、たしかに空虚であった。

司令部の人達が、誰も知らない<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>を発見するまでには、やや時間が、かかった。追跡して行ったものも、遂に得るところがなかった。

頭部に、白い<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>を捲いた本物の別府司令官は、静かに、<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>を下ろした。

「閣下」参謀長が、<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>な表情をして云った。「どうなされましたのですかッ」

「うん、心配をさせたのう。夕方、放送局から帰り、この地下室へ到着してから、洗面所へ、手を洗いに行ったところを、やっつけられた。なっていないナ。別府にも、焼きが、まわったようじゃ」

「相手は、何者でありますか」参謀長は、<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>みこむように、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「湯河原中佐に、聞け。<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>の仕業じゃということじゃ」

「なに、<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>！」

<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>というのは、労農ロシアの警察隊のことだった。その<ruby><rb>峻辣</rb><rt>しゅんらつ</rt></ruby>なる直接行動と、驚歎すべき<ruby><rb>探訪組織</rb><rt>たんぼうそしき</rt></ruby>とをもって有名な特務機関だった。日本国内に、<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>が、潜入しているという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が、前々からあったけれど、まさか警備司令部までにその<ruby><rb>魔手</rb><rt>ましゅ</rt></ruby>が伸びていようとは、<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>も想像できないところだった。

そこへ、伝令兵が、重要なる二通の暗合報告を持ってきて、司令官と参謀長の間へ、置いていった。

「いよいよ、筋書どおりですな」参謀長が、低く呻った。

「うん、早く読あげて、一同に聞かせてやれ」

「はッ」

参謀長は、すっかり、冷静さをとり戻して<ruby><rb>幕僚</rb><rt>ばくりょう</rt></ruby>を集めた。

「労農ロシア軍は、北満及び朝鮮の国境に於て日本守備隊へ発砲した。吾が守備隊は、<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に応戦し、敵を撃退中である」

参謀たちは、めいめい<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>き合った。

「次に、アラスカ飛行聯隊は、午後十時、北海道、<ruby><rb>根室湾</rb><rt>ねむろわん</rt></ruby>を、占領した。聯隊は、更に、<ruby><rb>津軽海峡</rb><rt>つがるかいきょう</rt></ruby>を征服し、青森県<ruby><rb>大湊要港</rb><rt>おおみなとようこう</rt></ruby>を<ruby><rb>占拠</rb><rt>せんきょ</rt></ruby>せんものと、機会を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている模様である」

（ああ、内地までも、敵機の<ruby><rb>蹂躪</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>に合うのか！）参謀たちは、唇を噛んだ。

「もう一つ、帝都を襲撃したマニラ飛行第四聯隊は、十七機を集結し、<ruby><rb>浦塩斯徳</rb><rt>ウラジオストック</rt></ruby>に向け、引揚中である」

一座は、興奮を越えて、水を打ったように静まり<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

米国の太平洋、大西洋両艦隊は、圧倒的な大航空軍を、航空母艦に積みこんで、今や、<ruby><rb>舳艫相含</rb><rt>じくろあいふく</rt></ruby>んで、<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>を出航し、我が領海に近づきつつある。

<ruby><rb>露国</rb><rt>ろこく</rt></ruby>は、五ヶ年計画完成し、世界第一の大陸軍を<ruby><rb>擁</rb><rt>よう</rt></ruby>して、<ruby><rb>黒竜江</rb><rt>こくりゅうこう</rt></ruby>を渉り、日本の生命線満洲一帯を脅かそうとしている。

第一次の帝都空襲に、予想以上の<ruby><rb>大痛手</rb><rt>おおいたで</rt></ruby>をうけた祖国日本は近く第二次の大空襲を、太平洋と<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>大陸両方面から、<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ちの形で受けようとしている。既に<ruby><rb>満身創痍</rb><rt>まんしんそうい</rt></ruby>の観ある日本帝国は、果して<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねかえすだけの力があるだろうか。

建国二千六百年の大日本の運命は、死か、はたまた生か！

それは<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>として、今、帝都の空は、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く薄明りがさして来た。もう一時間と経たないうちに、空襲によって<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>を一変した重病者「<ruby><rb>大東京</rb><rt>だいとうきょう</rt></ruby>」のむごたらしい姿が、<ruby><rb>曝露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>しようとしている。<ruby><rb>白光</rb><rt>はっこう</rt></ruby>の下に、その<ruby><rb>惨状</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>正視</rb><rt>せいし</rt></ruby>し得る市民は、何人あることであろうか。

<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>の<ruby><rb>偵察</rb><rt>ていさつ</rt></ruby>

昭和十×年五月十五日の夜、帝都は、<ruby><rb>米国軍</rb><rt>べいこくぐん</rt></ruby>のために、爆撃さる――

と、日本国民は、建国二千六百年の、<ruby><rb>光輝</rb><rt>こうき</rt></ruby>ある<ruby><rb>国史</rb><rt>こくし</rt></ruby>の上に、これはまた決して書きたくはない文句を、血と涙と泥を<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねあわせて、<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>さねばならなかった。

かくて、カレンダーは、ポロリと一枚の日附を落とし、やがて、東の空が、だんだんと白みがかってきた。あまりにも<ruby><rb>悽惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>なる暁だった。生き残った帝都市民にとって、それは残酷以外の何物でもない夜明けだった。

一夜のうちに、さしも豪華を誇っていたモダーン銀座の高層建築物は、跡かたもなく姿を消し、そのあとには、<ruby><rb>赭茶</rb><rt>あかちゃ</rt></ruby>けた<ruby><rb>焼土</rb><rt>しょうど</rt></ruby>と、崩れかかった壁と、どこの誰とも判らぬ<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>とが、到るところに見出された。その間に、<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>う市民たちは、たった一晩のうちに、<ruby><rb>生色</rb><rt>せいしょく</rt></ruby>を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>い、どれを見ても、まるで<ruby><rb>墓石</rb><rt>はかいし</rt></ruby>の下から出て来たような顔色をしていた。

風が出てきて、<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>がスーと横に長引くと、<ruby><rb>異臭</rb><rt>いしゅう</rt></ruby>の籠った白い煙が、意地わるく避難民の行手を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで、その度に、彼等は、また<ruby><rb>毒瓦斯</rb><rt>どくガス</rt></ruby>が来たのかと思って、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。

市街の、あちこちには、真黒の太い煙が、モクモクとあがり、いつ消えるとも判らぬ火災が辻から辻へと、燃え拡がっていた。

<ruby><rb>射墜</rb><rt>うちおと</rt></ruby>された敵機の周囲には、激しい<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>に燃えあがった市民が<ruby><rb>蝟集</rb><rt>いしゅう</rt></ruby>して、プロペラを折り、<ruby><rb>機翼</rb><rt>きよく</rt></ruby>を裂き、それにも<ruby><rb>慊</rb><rt>あきた</rt></ruby>らず、機の<ruby><rb>下敷</rb><rt>したじき</rt></ruby>になっている<ruby><rb>搭乗将校</rb><rt>とうじょうしょうこう</rt></ruby>の死体を引張りだすと、ワッと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ち<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>った。「<ruby><rb>死屍</rb><rt>しし</rt></ruby>を<ruby><rb>辱</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめず」という<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>を忘れたわけではなかったが、非戦闘員である彼等市民の上に加えられた<ruby><rb>昨夜来</rb><rt>さくやらい</rt></ruby>の、米国空軍の暴虐振りに対して、どうにも我慢ができなかったのだった。

<ruby><rb>戒厳令下</rb><rt>かいげんれいか</rt></ruby>に、銃剣を握って立つ、<ruby><rb>歩哨</rb><rt>ほしょう</rt></ruby>たちも、横を向き、黙々として、声を発しなかった。彼等にも、生死のほどが判らない親や、兄弟や、妻子があったのだ。

次第に晴れあがってくる空に、プロペラの音が聞えてきた。<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>こそと、見上げる市民の瞳に、機翼の長い偵察飛行機の姿がうつった。

「なんだ、陸軍機か」

彼等は、噛んで吐き出すように、云った。この帝都の惨状を、振りかえっては、あまりにも無力だった帝都の空の護りへの<ruby><rb>落胆</rb><rt>らくたん</rt></ruby>を、その飛行隊の機影に向って<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げつけたのだった。

だが、しかし、その偵察機の上にも、同じ<ruby><rb>悲憤</rb><rt>ひふん</rt></ruby>に、唇を噛みしめる軍人たちが、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて冷静を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>って、<ruby><rb>方向舵</rb><rt>ほうこうだ</rt></ruby>を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>っていた。

「おい、<ruby><rb>浅川曹長</rb><rt>あさがわそうちょう</rt></ruby>！」操縦士の耳へ、将校の太い声が、響いた。

「はい。何でありますか」曹長は、左手で、胸のところに釣ってある伝声管をとりあげると、やや<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽい声で返事をした。

「機首を左へ曲げ、<ruby><rb>隅田川</rb><rt>すみだがわ</rt></ruby>に<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby><ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>の上空へやれ。高度は、もっと下げられぬか」そう云ったのは、警備司令部付の、<ruby><rb>塩原参謀</rb><rt>しおばらさんぼう</rt></ruby>だった。

「はいッ、では、もう二百メートル、<ruby><rb>下降</rb><rt>かこう</rt></ruby>いたしましょう」

浅川曹長は、左手を頭上に高くあげると、僚機の注目を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>し、それから腕を<ruby><rb>左水平</rb><rt>ひだりすいへい</rt></ruby>に倒すと、手首を二三度振った。<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、彼の乗っている司令機は、<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げ<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>をとって、静かに機首を左へ廻したのだった。あとに<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>う二機も、グッと<ruby><rb>旋回</rb><rt>せんかい</rt></ruby>を始めたらしく、プロペラが重苦しい<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>り声をあげているのが、聞えた。

「これは、ますます、ひどいな」そう云ったのは、側の<ruby><rb>湯河原</rb><rt>ゆがわら</rt></ruby>中佐だった。

「敵の計画では、<ruby><rb>焼夷弾</rb><rt>しょういだん</rt></ruby>と<ruby><rb>毒瓦斯弾</rb><rt>どくガスだん</rt></ruby>とで一気に、帝都を<ruby><rb>撲滅</rb><rt>ぼくめつ</rt></ruby>するつもりだったらしいですな。爆弾は、割に<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>い。<ruby><rb>弾痕</rb><rt>だんこん</rt></ruby>と被害程度とを比較して、判ります」塩原参謀は、指先で、コツコツと窓硝子をつついた。

「なにしろ、帝都の市民は、今日になって、防空問題に、<ruby><rb>目醒</rb><rt>めざ</rt></ruby>めたことだろうが、こんなになっては、もう既に遅い。彼等は、飛行機の飛んでくるお祭りさわぎの防空演習は、大好きだったが、防毒演習とか、避難演習のように、<ruby><rb>地味</rb><rt>じみ</rt></ruby>なことは、嫌いだった。満洲事変や<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>事変の、<ruby><rb>真唯中</rb><rt>まっただなか</rt></ruby>こそ、高射砲や、愛国号の献金をしたが、<ruby><rb>半歳</rb><rt>はんとし</rt></ruby>、一年と、月日が経つに従って、興奮から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めてきた。帝都の防空施設は、不徹底のままに、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されてあった。雨が降れば、人間は傘をさして、濡れるのを防ぐ。が、帝都には、爆弾の雨が降ってこようというのに、これを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>る<ruby><rb>雨具</rb><rt>あまぐ</rt></ruby>一つ、備わっていないのだ……」湯河原中佐は、<ruby><rb>慨然</rb><rt>がいぜん</rt></ruby>として、腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>いた。

「そう云えば、防空演習にしても、<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>な点が多かったですね。東京の小さい区だけの、防空演習だって、なかなか、やるというところまで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけるのに骨が折れた。<ruby><rb>市川</rb><rt>いちかわ</rt></ruby>とか、<ruby><rb>桐生</rb><rt>きりゅう</rt></ruby>とか、前橋とかいう小さい町までもが、苦しい<ruby><rb>町費</rb><rt>ちょうひ</rt></ruby>をさいて、一と通りは、防空演習をやっているのに、大東京という帝都が、<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った防空演習を、唯の一度もやっていなかったということは、何という遺憾、何という<ruby><rb>恥辱</rb><rt>ちじょく</rt></ruby>だったでしょう」

「<ruby><rb>貴君</rb><rt>きくん</rt></ruby>の云うとおりだ。もしも、帝都として防空演習を充分にやって置いたら、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のような空襲をうけても、あれほどの大事にはならなかったろう。火災も、もっと少かったろう。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に、<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>いへし合い、郊外へ逃げ出すこともなかったろうから、<ruby><rb>人命</rb><rt>じんめい</rt></ruby>の犠牲も、ずっと少かったろう。<ruby><rb>流言蜚語</rb><rt>りゅうげんひご</rt></ruby>に迷わされて<ruby><rb>浅間</rb><rt>あさま</rt></ruby>しい行動をする人も、<ruby><rb>真逆</rb><rt>まさか</rt></ruby>、あれほど多くはなかったろう」

湯河原中佐と、塩原参謀は、偵察機上から、思わず<ruby><rb>悲憤</rb><rt>ひふん</rt></ruby>の<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>を流したことだった。

「<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>の上空です」浅川曹長が、伝声管から注意した。

「うん、浅川曹長。お前の家は、浅草にあると云ったな」中佐が、<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>気がついて云った。

「そうであります」曹長の声は、すこし<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを帯びていた。「<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>附近の、<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>というところであります」

「どうだ、お前の家の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は、見えるかね」

中佐は、胸にかけていたプリズム双眼鏡を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、曹長の方へ、さし出した。

「はッ」曹長は、一礼してそれを受けとると、機上から上半身を乗りだして、遥かの下界を向いて双眼鏡のピントを<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>せた。

「見えないか」

「判りましたッ」

「どうだ」

「<ruby><rb>焼土</rb><rt>やけつち</rt></ruby>ばかりです。附近に、家らしいものは、一軒も見えません」

「戦争じゃからナ」中佐は、気の毒に耐えぬといった調子で、今から一と月程前までは、社会局の名事務員だった浅川岸一を<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めたのだった。

「浅川は、司令部の御命令で、昨夜は、立川飛行聯隊の宿舎に閉じこめられ、<ruby><rb>切歯扼腕</rb><rt>せっしやくわん</rt></ruby>していました。この上は、早く敵機に、めぐり逢いたいであります」

小さいけれど、彼の懐しい裏長屋は、影すら見えなかった。そこには、用務員をしている父<ruby><rb>亀之助</rb><rt>かめのすけ</rt></ruby>と、年老いた祖母と、優しい母と、ダンサーをしている直ぐ下の妹<ruby><rb>舟子</rb><rt>ふなこ</rt></ruby>と、次の妹の<ruby><rb>笛子</rb><rt>ふえこ</rt></ruby>と、中学生の弟<ruby><rb>波二</rb><rt>なみじ</rt></ruby>とが、居た筈だった。彼等は、憎むべき敵機の爆弾に、蹴散らされてしまったのだった。今頃は、どこにどうしていることやら。生か、それとも死か。彼は、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>飛行命令が出たのに、求める敵機の、姿も影も見当らないのを、残念がった。

「おお、あれは何だろう！」

突然、眼のいい塩原参謀が、<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「なに⁉」中佐は、参謀の指す<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>を、注視した。

「御覧なさい、中佐殿。お<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>水</rb><rt>みず</rt></ruby>の<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の中から、何か、キラキラ<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いているものがあります」

「なるほど、何か閃いているね。おお、君あれは、信号らしいぞ」

「信号ですか」参謀は、双眼鏡をあてて、その閃いているものを注目した。

ピカ、ピカ、ピカ、ピカーッ、ピカ。それを繰返している。それは<ruby><rb>聖橋</rb><rt>ひじりばし</rt></ruby>と、お茶の水との中間にあたる<ruby><rb>絶壁</rb><rt>ぜっぺき</rt></ruby>の、<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の中からだった。

「応答して見ましょうか」参謀は、尋ねた。

「やって見給え」

「はッ」参謀は、浅川曹長に命令を伝えた。

司令機の尾部から、白い煙がスー、スーッと、断続して、空中を流れた。

それが、判ったものか、ピカピカ光るものは、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、動かなくなったが、間もなく今度は、前よりも激しく、<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きはじめた。

「確かに、こちらを呼んでいるのですね。あれは、<ruby><rb>硝子板</rb><rt>ガラスいた</rt></ruby>を応用した<ruby><rb>閃光通信</rb><rt>せんこうつうしん</rt></ruby>です。おい通信兵、頼むぞ」

背後の座席にいた通信兵は、このとき大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から用意していた白紙に、鉛筆を走らせていた。

<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、地上の信号を、翻訳し終ったものと見え、一枚の紙が、中佐のところへ、届けられた。さて、そこに書き綴られた文章は――

「レイノジケンニツキ、シキユウ、セキガイセンシヤシンサツエイタノム。サツエイハンイハ、ヒジリバシヨリスイドーバシニイタルソトボリエンガン一タイ。コウドウニ、チユウイアレ。エム一三」

（例の事件につき、至急、赤外線写真撮影を頼む。撮影範囲は、<ruby><rb>聖橋</rb><rt>ひじりばし</rt></ruby>より<ruby><rb>水道橋</rb><rt>すいどうばし</rt></ruby>に至る<ruby><rb>外濠沿岸</rb><rt>そとぼりえんがん</rt></ruby>一帯。行動に注意あれ。Ｍ<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">13</span>）

「これは容易ならぬ通信ですね」参謀が、キッと口を結んで中佐の顔を見た。

「うん――」中佐は、何か考えている風だった。「Ｍ<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">13</span>て、誰です？」

「――赤外線写真撮影用意！」湯河原中佐は、参謀の<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>に答えないで、通信兵に、命令を発した。「それから、浅川曹長、機首を右に曲げ、航路外に出で、二分間したら、元の場所へ帰って来るんだ。それから空中撮影を始めるから、外濠について、廻ってゆくこと。速度は五十キロまで下げるんだぞ」

「判りました」曹長は、ハッキリ答えて、急旋回の合図を、後についてくる僚機の方にした。

「塩原君」と、中佐は始めて、参謀の方を向いて、<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>とした。「今夜あたり、面白い話が聞けるかも、知れないよ」

<ruby><rb>帆村探偵</rb><rt>ほむらたんてい</rt></ruby><ruby><rb>対</rb><rt>たい</rt></ruby><ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>

<ruby><rb>神田駿河台</rb><rt>かんだするがだい</rt></ruby>は、俗に、<ruby><rb>病院街</rb><rt>びょういんまち</rt></ruby>といわれる。それほど、××産婦人科とか、××胃腸病院とか、××耳鼻医院とか、一々名を挙げるのに<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしいほど、<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の病院が、建てこんでいた。しかし事実は、病院だけでなく、学校と研究所も少くないところであった。それ等の建物は、多くは三層又は四層の建築となっていて、病室の多い病院と間違えられるような恰好をして並んでいた。しかし数の方からは何と云っても病院の方が多く、そこから白いシーツなどがヒラヒラと乾されているのが、<ruby><rb>兎角</rb><rt>とかく</rt></ruby>通行人の目につきやすく、病院街と呼ばれることになったらしい。

その駿河台の、ややお<ruby><rb>茶</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>水</rb><rt>みず</rt></ruby><ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>りの一角に、「<ruby><rb>戸波</rb><rt>となみ</rt></ruby>研究所」と青銅製の<ruby><rb>門標</rb><rt>もんひょう</rt></ruby>のかかった大きな建物があった。今しも、そこの扉が、外に開いて、背の高い若い男が姿を現わした。

「此の辺一帯は、うまく助かって、実に幸運でしたね」そう云って、後を振りかえった。

「そうですかねえ」

とんちんかんの答をしたのは、若い男を送って来た中年の、もしゃもしゃした<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えている男であった。それは、どこかで、見覚えのある顔、見覚えのある<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>だった。

「では先生、お大事に」青年は云った。

「いや、有難とう」

と頤髯先生が、頭を下げた<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、いきなり、先生の身体は内部へ<ruby><rb>引擦</rb><rt>ひきず</rt></ruby>りこまれてしまって、代りに、がっしりした大きな<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>が、ニュッと出た。

「あんた、先生様を、連れだしたりして、困るじゃねえか。早く、帰って下せえ」

青年は、一向悪びれた様子もなく、階段を下って行った。

「先生様も、ちと注意して下せえよ」と背後を振りかえり、それから又往来の方を向いてそこらにブラブラしている四五人の男に向って、「おい、皆の衆。お前ら駄目じゃねえか」と<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

その四五人のうちの一人が、グッとこっちを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みかえしたのを見ると、彼は、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて入口の扉のうちに、姿を隠した。その<ruby><rb>頓間</rb><rt>とんま</rt></ruby>男も、どこかで、見た男だった。

それも道理だった。頤髯男は、ここの研究所長の<ruby><rb>戸波俊二</rb><rt>となみしゅんじ</rt></ruby>博士。大八車のように大きい男は、<ruby><rb>山名山太郎</rb><rt>やまなやまたろう</rt></ruby>といって、<ruby><rb>印半纏</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>のよく似合う、郊外の<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>さんで、この二人は、帝都爆撃の夜、新宿の暗がりの中で知合いになり、助け助けられつつ、この駿河台の研究所まで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたのが<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>で、唯今では、鍛冶屋の山さん、変じて、博士の用心棒となり、<ruby><rb>無頓著</rb><rt>むとんちゃく</rt></ruby>な博士の<ruby><rb>身辺護衛</rb><rt>しんぺんごえい</rt></ruby>の任にあたっているのだった。戸波博士は、いま軍部の依頼によって、或る秘密研究に従事している国宝のように<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>い学者だった。さてこそ、門前には、<ruby><rb>便衣</rb><rt>べんい</rt></ruby>に身体を包んだ<ruby><rb>憲兵隊</rb><rt>けんぺいたい</rt></ruby>が、それとなく、厳重な警戒をしている有様であった。

戸波研究所を立出でた青年は、<ruby><rb>私服</rb><rt>しふく</rt></ruby>憲兵との間に、話がついていたのでもあろうか、別に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められる風もなかった。彼は、往来を、急ぐでもなく、ブラブラと歩き出した。大通りに出てみると、避難民や、軍隊が、土煙をあげて、はげしく往来していた。

青年は、<ruby><rb>駿河台下</rb><rt>するがだいした</rt></ruby>の方へ、下って行った。そこは、学生の多い神田の、<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の場所であって、書店や、ミルクホールや、喫茶店や、カフェや、<ruby><rb>麻雀</rb><rt>マージャン</rt></ruby>倶楽部や、活動館や、雑貨店や、ダンスホールが、軒に軒を重ねあわせて並んでいた。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に、今日は、店を閉めているところが、少くはなかったが、中には、東京人特有の<ruby><rb>度胸太</rb><rt>どきょうふと</rt></ruby>さで、半ば犠牲的に、避難民のために、<ruby><rb>便宜</rb><rt>べんぎ</rt></ruby>をはかっている家も、見うけられた。

キャバレ・イーグルも、そのうちの一軒だった。

このキャバレ・イーグルという家は、カフェとレビュー館との、中間みたいな家だった。お酒を呑んだり、チキンの皿を抱えながら、美しい踊り子の舞踊が見られたり、そうかと思うと、お客たちが、てんでに席を立って、ダンスをしたりすることが出来た。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って、ここの客は、若い婦人と、三十過ぎの男とが多かった。そして、どちらかというと、不良がかった色彩を帯びていることも、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>めなかったのである。

<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の青年は、何の<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もなく、イーグルの入口をくぐった。

支配人が、<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>に、さも<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた恰好をすると、急いで近よった。

「まあ、ようこそ。<ruby><rb>男爵</rb><rt>だんしゃく</rt></ruby>さま。――」

支配人は、<ruby><rb>恭々</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく手を出して、青年の帽子を受けとった。

「誰か、来てないか」

「どなたも、見えませんです。なにしろ、この騒動の中ですからナ」

「手紙も、来てないかしら」

「手紙といえば、<ruby><rb>真弓</rb><rt>まゆみ</rt></ruby>が、なにかビール<ruby><rb>樽</rb><rt>だる</rt></ruby>から、ことづかったようでしたが……」

「そうか。真弓を呼べ」

支配人は、奥の方を向いて、

「真弓さアーん」

と声をかけた。

「はーイ」

と返事がして、派手な訪問着を着たウェイトレスがパタパタと駈けてきた。

「まあ、男爵。よく来たわネ」

「てめぃ、ビール<ruby><rb>樽</rb><rt>だる</rt></ruby>から、なんか、ことづかったろうが」男爵と呼ばれる青年は、姿に似ぬ<ruby><rb>下等</rb><rt>かとう</rt></ruby>な言葉を、はいた。

「ええ、ことづかってよ。こっちへ、いらっしゃいよォ」

真弓は、広間の片隅の、<ruby><rb>函</rb><rt>ボックス</rt></ruby>・<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>へ、男爵を引っぱって行った。

「今日は、ゆっくりして行ってネ。あたしも是非、あんたに、相談したいことがあるのよ」

「それよか、手紙を、早く出せったら」

「まあ、ひどい人。あたしのことより、あんなビール樽の手紙がいいなんて、あたし、失礼しちゃうわ」そういって、彼女は、帯の間から真白い四角な封筒をとりだした。

「ほう、ビール樽からの手紙じゃなくて、これは『<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>』からのだな」

<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>といい、ビール樽というところを見ると、男爵というのも、大分怪しいことだった。青年のキリリとした<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>姿が「男爵」という通称を与えたのかも、知れなかった。

「おい、真弓。手紙を読む間、あっちへいっとれ」男爵は、真弓の頬っぺたを、指の先で、ちょいと、つついた。

「うん――」真弓は、だしぬけに、男爵の首ッ玉に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りつくと、<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッという間に、チュッと音をさせて、<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>を盗んだ。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>――」男爵は、<ruby><rb>満更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>でもない様子で、ニヤリと笑って、真弓の逃げてゆくあとを、見送った。

それから男爵は、急いで、入口のカーテンを引いた。次に彼は、驚くべき<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>さでもって、<ruby><rb>内懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から、黄色い手袋を出して<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>め、そしてどこに隠してあったのか、マスクをひょいと被ると、例の封筒を指先で<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>みあげて、端の方を、<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>で、静かに<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>り<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた。封筒の中からは、四つに<ruby><rb>折畳</rb><rt>おりたた</rt></ruby>んだレターペーパーと、百円紙幣とが出て来た。紙幣の方は、そのまま、封筒にかえし、彼は手紙の方をとりあげて、おそるおそる開いた。

（ちえッ。<ruby><rb>白紙</rb><rt>しらがみ</rt></ruby>でやがる！）

彼は、何にも文字の書いてない白紙を<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に拡げると、<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>ポケット</rt></ruby>の中から、青い液体の入った小さい壜を取出した。その<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>をぬいて紙面に、ふりかけようとした。<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、そのときだった。

「ピューッ、ピューッ」

と、窓外に、口笛が鳴った。

青年は、ひどく<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、席を立とうとしたが、卓上の、手紙などを、懐中に入れようか、どうしようかと、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。が結局、手紙も、金も、小壜まで、そのままにして、カーテンの外へ、駈け出していった。

それと入れちがいに、大きな坊主頭が、ニュッと、カーテンの中に入ってきた。彼は素早く、封筒の中へ、フッと息を入れ百円紙幣を抜き出すと、封筒だけは、元の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。ところが、運わるくそれが、小壜に触れて、パタリと倒してしまった。青い液体が、ドクドクと白紙の上に流れ出した。怪漢は、ひどく<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して、壜を指先に摘むと、起した。白紙の上には、青い液体が拡がって、<ruby><rb>沸々</rb><rt>ふつふつ</rt></ruby>と白い泡を立てていた。彼は、<ruby><rb>半帛</rb><rt>ハンカチ</rt></ruby>で、それを<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>おうとして、紙面に顔を近づけた瞬間、ウムと<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くと、われとわが咽喉を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしるようにして、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>、<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>えた身体を、卓子の上に、パタリと伏せ、やがて、ダラリと動かなくなった。

もしも、男爵と呼ばれた青年が、マスクも懸けないで、それと同じことをやったなら、彼もこの坊主頭の男と、同じ運命に落入る筈だった。それは、手紙の発信人「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」という人物の、<ruby><rb>目論</rb><rt>もくろ</rt></ruby>んだ恐ろしい計画に外ならなかった。

物音に、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて駈けつけた人々は、カーテンを開いてみて、二度<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>をした。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、これはビール樽だ」

「なんだか、おかしいぞ。危いから、近よっちゃいけない」

人々は、ビール樽の死体を遠巻きにして、ワッワッと、騒いでいた。

「男爵が、居ないぞ」

「真弓も、どこかへ行った」

その騒ぎの中に、チリチリと、電話が懸かって来た。

「それどころじゃございません」支配人が<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>かんばかりの声を出して、電話口へ訴えていた。「ビール樽が、殺されちまったんです。ええ、男爵とは、違います。ビール樽の野郎ですよ。どうか直ぐ来て下さい。私は、大将の命令がなけりゃ、店を<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>みたいのですよ。どうかして下さいな、『<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>』の親分！」

その頃、男爵とウェイトレス真弓とは、<ruby><rb>御成街道</rb><rt>おなりかいどう</rt></ruby>を自動車で走っていた。二人は、こんな会話をしていた。

「では、<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>の大将は、今朝がた、イーグルへやって来たというのだな」

「そうですわ。そこへ、<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>さんという、浅草の不良モガが、一人でやって来たのよ。<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>は、紅子さんと、手を取って、帰って行きましたわよ」

「紅子が、ねえ――」

「ビール樽は、そのころから、お店の周囲をうろついてたんだわ。あいつ、百円紙幣に釣られて、あんたの<ruby><rb>身代</rb><rt>みがわ</rt></ruby>りになったのね」

「では、真弓。これから、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰ったら、二三年は、東京へ顔を出しちゃ、危いぞ」

「もう、お降りになるの。いまお別れしたら、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>お目に懸かれるか、判らないわネ」

「お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に、どうなるか、判らない人生だ。帰ったら、お父さんや、子供を、大事にしろ」

「これでも、あたし、古い<ruby><rb>型</rb><rt>かた</rt></ruby>の女よ。帰ったら、いいママになりますわ」

「それがいい」男爵は、運転手の方へ向いて停車を命じた。

「では、所長」と運転手は、降り立った男爵に声をかけた。「たしかに、御婦人を、<ruby><rb>茨城県</rb><rt>いばらぎけん</rt></ruby><ruby><rb>磯崎</rb><rt>いそざき</rt></ruby>まで、送りとどけて参ります」

「どうか、頼んだぞ」

「それじゃ、サヨナラ。あたしの、男爵さま――では無かった、<ruby><rb>帆村荘六</rb><rt>ほむらそうろく</rt></ruby>様」

「<ruby><rb>御健在</rb><rt>ごけんざい</rt></ruby>に――」

青年は、小さくなってゆく、自動車の方に手を振った。「男爵」というのは、無論、<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>であって、<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>の日本派遣隊の集合所と<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれるキャバレ・イーグルに於ける<ruby><rb>不良仲間</rb><rt>ふりょうなかま</rt></ruby>としての呼び名だった。そこで、彼は巧みに、<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>を隊長とする<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の一団に近づき、国際的陰謀の謎を、解きつつあった。「男爵」と呼ばれる彼の本名は、帆村荘六。軍部に属する特務機関としての記号をＭ<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">13</span>という。このところ、数年の間に、めきめきと売出した若手の私立探偵であった。

記憶のよい読者は、彼が、いつの間にか、東京警備司令部の地下街に忍びこんでいたことや、今朝方のこと、お茶の水附近で、湯河原中佐や塩原参謀の乗っていた<ruby><rb>偵察機</rb><rt>ていさつき</rt></ruby>に、赤外線写真の撮影を依頼したことを、思い出されるに違いない。

帆村探偵の任務は、大日本帝国の体内に潜行している<ruby><rb>労農</rb><rt>ろうのう</rt></ruby>ロシアの特別警察隊、<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>の本拠をつき、「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」といわれる団長以下を、<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>するのにあった。その「狼」は<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>を伴って歩いているらしい話であったが、彼こそは、先に、東京警備司令官<ruby><rb>別府九州造</rb><rt>べっぷくすぞう</rt></ruby>に変装してマニラ飛行聯隊空襲の夜の、帝都警備権を、自分の掌中に握っていた怪人物だった。

帆村探偵対「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の、<ruby><rb>血飛</rb><rt>ちと</rt></ruby>び<ruby><rb>肉裂</rb><rt>にくさ</rt></ruby>けるの争闘は、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く機が熟してきたようであった。

飛行船隊を発見す

地下街の司令部では、印刷電信機が、リズミカルな響をあげて、各所の要地から集ってくる<ruby><rb>牒報</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>を、<ruby><rb>仮名文字</rb><rt>かなもじ</rt></ruby>に打ち直していた。

事態は、刻々に、うつりかわって、北満、朝鮮国境からの通信が、いつもの二倍になり三倍になり、<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>もグングン殖えて行った。電信機は、火のように熱して来た。側に立っている通信兵員はシリンダーや、歯車のあたりに、絶えず<ruby><rb>滑動油</rb><rt>マシンゆ</rt></ruby>を、さしてやるのであった。

「次は北満軍司令部からの、報告であります」有馬参謀長は、本物の別府司令官の前に、直立した。「金沢、字都宮、<ruby><rb>弘前</rb><rt>ひろさき</rt></ruby>の各師団より成る北満軍主力は、本日午後四時をもって、<ruby><rb>興安嶺</rb><rt>こうあんれい</rt></ruby>を突破せり。これより、<ruby><rb>善通寺</rb><rt>ぜんつうじ</rt></ruby>支隊と呼応し、<ruby><rb>海拉爾</rb><rt>ハイラル</rt></ruby>、<ruby><rb>満州里</rb><rt>マンチュリ</rt></ruby>方面に進撃せんとす。終り」

別府司令官は、静かに<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「今一つは、極東軍の報告であります」有馬参謀長は、もう一枚の紙を、とりあげた。「<ruby><rb>仙台</rb><rt>せんだい</rt></ruby>、<ruby><rb>姫路</rb><rt>ひめじ</rt></ruby>、<ruby><rb>竜山</rb><rt>りゅうざん</rt></ruby>各師団よりなる極東軍主力は、国境附近の労農軍を撃破し、本日四時を以てニコリスクを去る十五キロの地点にまで進出せり。目下、<ruby><rb>彼我</rb><rt>ひが</rt></ruby>の空軍並に機械軍の間に、激烈なる戦闘を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えつつあり。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>、右翼<ruby><rb>竜山師団</rb><rt>りゅうざんしだん</rt></ruby>は一時苦戦に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>りたるも、左翼<ruby><rb>仙台</rb><rt>せんだい</rt></ruby>師団の<ruby><rb>急遽</rb><rt>きゅうきょ</rt></ruby>救援砲撃により、危機を脱することを得たり。終り」

「労農軍は、いよいよ味なことを、やりよるのう」司令官は、髯のところに、手をやった。

「閣下」と呼んだのは、草津参謀だった。「<ruby><rb>市川町</rb><rt>いちかわまち</rt></ruby>附近の準備は唯今を以て、完成いたしました。連絡通信の方も、故障なく<ruby><rb>働作</rb><rt>どうさ</rt></ruby>いたします」

「そうか」と将軍は顔をあげて云った。「<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>の考えでは、今夜が最も危険じゃ。もう一度、宇都宮以北の防空監視哨へ、警告を発して置け」

「はッ、承知いたしました」

そこへ、バタバタと、伝令が、電文を握ってきた。

「報告です」

「よオし。こっちへ貸せ」有馬参謀長は、多忙であった。「おお、これは……」

参謀長は、キッと唇を噛んだ。

「閣下。海軍からの報告です。<ruby><rb>北緯</rb><rt>ほくい</rt></ruby>四十一度<ruby><rb>東経</rb><rt>とうけい</rt></ruby>百四十度を航行中なる第五潜水艦隊の報告によれば、本日午後四時十五分、東北東に向って三十五キロの距離に於て、米国空軍に属する飛行船隊の航空せるを発見せり。<ruby><rb>該</rb><rt>がい</rt></ruby>飛行船隊は、アクロン、ロスアンゼルス、パタビウス、サンタバルバラの順序を以て、高度七千メートル、時速百八十キロ、<ruby><rb>略西方</rb><rt>ほぼせいほう</rt></ruby>に向けて航空中なり。<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>、<ruby><rb>該隊</rb><rt>がいたい</rt></ruby>には、先導偵察機五機、戦闘機十四機を、<ruby><rb>随行</rb><rt>ずいこう</rt></ruby>せしめつつあり。終り」

これを聞いた将校たちは、<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に顔を見合わせたのだった。いよいよ、恐ろしい怪物が、<ruby><rb>襲来</rb><rt>しゅうらい</rt></ruby>してくるのだった。飛行船といえば、ツェッペリン<ruby><rb>伯</rb><rt>はく</rt></ruby>号を、帝都上空に仰いだことのある日本国民だった。ロスアンゼルス号はツェッペリン伯号の姉妹船、アクロン号、サンタバルバラ号は、それよりも二倍近い、巨大なもの、パタビウス号に至っては、空の帝王と呼ばれる途方もなく<ruby><rb>尨大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>な全鋼鉄の怪物で、爆弾だけでも、五十<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>近く、積みこんでいるという<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い飛行船だった。

日本陸軍にも、海軍にもこれに<ruby><rb>比敵</rb><rt>ひてき</rt></ruby>する飛行船は、一<ruby><rb>隻</rb><rt>せき</rt></ruby>もなかった。<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く小さい軟式飛行船が、二三隻海軍にあったが、それは、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>の側によった<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>にも及ばなかった。

<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねて、襲来するかもしれないと思われていたのであるが、いま<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うして、北海道と、青森県の、ほぼ中間を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って、大挙襲来しているのを知っては、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に、<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を感じないわけに行かなかった。

（あの<ruby><rb>尨大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>な爆弾を、どこに落すのだろうか？）

<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく合計して百<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の上にのぼる、爆弾だった。帝都でさえ五<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の爆弾で、<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>になる筈であった。百噸を一度に投下するときは、<ruby><rb>房総半島</rb><rt>ぼうそうはんとう</rt></ruby>なんか、<ruby><rb>千切</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れて飛んでしまいそうに、思われた。

この<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>に<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>する報告書を前に、司令部の幕僚は、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に黙して、何も語らなかった。果して彼等の胸中には、勝算ある作戦計画が秘められているのであろうか。それとも、戦慄の前に<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>言葉も<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でないのであろうか。

そのとき、卓上電話のベルが、ジリジリと鳴った。

「なに、帆村君か」

湯河原中佐が、大きい声を出した。

「閣下も、お待ちかねだ。早く来給え」

帆村探偵が、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>に、姿を現わしたのは、それから五分と経たない後だった。

「赤外線写真は、どうでした？」彼は、司令官達に、敬礼を済ませるが早いか、気になることを<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うまく出たようだ。ここにある」湯河原中佐が、クルクルと<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いてある細長い<ruby><rb>印画紙</rb><rt>いんがし</rt></ruby>を机の上に、<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて見せた。

「ははァ、よく判りますね」と、帆村探偵はお茶の水に近い<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の、ある地点を指して、云った。「肉眼で見たのでは、なんの変りもない<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>つづきですが、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うして、赤外線写真にとって見ると、どこに、坑道の入口があるか、直ぐ判りますね」

「だが、よくまア、坑道のあることが、判ったものだね」司令官が、感心をした。

「それは、帆村君の手腕ですよ」中佐が、代りに説明した。「空襲の夜、放送局を占領した<ruby><rb>不逞団</rb><rt>ふていだん</rt></ruby>の頭目に<ruby><rb>鬼川</rb><rt>おにかわ</rt></ruby>という男が居りました。これを<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>して、帆村君に預けたのです。すると帆村君は、<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>という少女を使って、鬼川が知っている団の秘密をすっかり聞いてしまったのです」

「少女紅子を使ったというのは？」

「それは、帆村君が研究している読心術ですな。<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、塩原参謀が、その少女と、<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の重傷を負っていた弟の<ruby><rb>素六</rb><rt>そろく</rt></ruby>というのを、放送局舎の中から助け出したんです。帆村君は、その少女を見て、<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたそうです。何でも前から知合いだったそうで……。紅子という少女は、非常に感動しやすい、どっちかというと、<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>も強い方の女性でした。そんな人は、読心術の<ruby><rb>霊媒</rb><rt>れいばい</rt></ruby>に使うと、非常に、うまく働くんだそうです。早く云うと、帆村君は、紅子を<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>状態に陥し入れ、その側へ、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>をした鬼川を連れて来、紅子を通じて、鬼川の秘密を探らせたのです」

「そんなことが、出来るものかな」司令官は不思議そうに云った。

「帆村君に云わせると、いい<ruby><rb>霊媒</rb><rt>れいばい</rt></ruby>を得さえすれば、わけのない事だそうです。いわば、鬼川の身体は、<ruby><rb>不逞団</rb><rt>ふていだん</rt></ruby>の秘密という<ruby><rb>臭気</rb><rt>しゅうき</rt></ruby>を持っているのです。紅子の方は、それを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎわける、鋭い鼻のようなものです。常人には、嗅いでもわからないのに、特異性をもった紅子のような霊媒を使うと、わかるんです」

「帆村君は、それで、何を発見したのじゃ」

「彼は、第一に、閣下の<ruby><rb>偽物</rb><rt>ぎぶつ</rt></ruby>が、司令部に頑張っていることを知りました。これは、わたくしも、既に気がついていたことだったので、<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>と、信用が出来たのです」

「ほほう、君も、偽司令官を知っていたのかい」司令官は、意外な話に、驚いたのだった。

「それは閣下」湯河原中佐は、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をグッと<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。「帝都が空襲されるに当って、閣下が第一に、なさらなければならない或る重大な任務がおありだったのに、非常時が切迫しても、閣下は、お忘れのように見受けました。わたくしはそれを怪しく思いました」

「では<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しや……」司令官は、何に<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたのか、その場に、直立不動の姿勢をとり、湯河原中佐の<ruby><rb>憐愍</rb><rt>れんびん</rt></ruby>を求めるかのように見えた。

「閣下、御安心下さい」中佐は、<ruby><rb>語尾</rb><rt>ごび</rt></ruby>を強めて云った。

「それは、閣下に代って、わたくしが<ruby><rb>遂行</rb><rt>すいこう</rt></ruby>いたしました。閣下から信頼を受けてあの重大任務をおうちあけ願っていなかったら、わが国史上に、一大汚点を印するところでありました」

「それは、よかった――」

司令官は、沈痛な面持をして、遥かな地点に、陳謝と祈りを、捧げるもののようであった。そういえば、湯河原中佐が、秘かに、司令官の室内に忍びこみ、鍵らしいものを盗んで、地下街の一隅に設けられた秘密の<ruby><rb>鉄扉</rb><rt>てっぴ</rt></ruby>を開き、その中に姿を一時隠したことがあった。彼は、誰にも話の出来ない或る重大任務を、遂行して、国家の危機を、間一髪に、救ったのだった。その内容については、司令官と中佐と、外に数名の当事者以外には、誰も知らないことで、<ruby><rb>筆者</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も、それ以上、書くことを許されないのである。

<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、それは、三千年の昔より、<ruby><rb>神国</rb><rt>しんこく</rt></ruby>日本に、しばしば現れたる<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>の一つであった。

「帆村君は、もう一つ、大きな秘密を、<ruby><rb>探</rb><rt>さ</rt></ruby>ぐり出したのです」中佐は、夢から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたように、語をついだ。

司令官は、静かに、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いだ。

「それは、<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>が、次に計画しつつあるところの陰謀であったのです。だが、鬼川自身も、こっちの方については、あまり詳しいことを知っていなかったのです。<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、戸波博士の研究所が<ruby><rb>覗</rb><rt>ねら</rt></ruby>われていること、研究所襲撃の手段として、坑道を掘り、地下から、爆破しようという計画のあるのを、知ることが出来たのです。帆村君は、思う<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があって、今朝、紅子と手を取って、勇敢にも、大混乱の市内へ、飛び出して行ったのです。正午近くになって、わたくし達の、偵察機が、神田上空を通るとき、運よく、帆村君の、反射鏡信号を、発見したというわけです」

中佐は、語り終って、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の汗を、拭った。

「帆村君」司令官は、<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>な態度のうちに、感激を見せて、名探偵の名を呼んだ。「いろいろと、御苦労じゃった。なお、これからも、お骨折りを、願いまするぞ」

「はいッ。愛する日本のためであれば、ウーンと、<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>りますよ」

日頃冷静な帆村探偵も、このときばかりは、両頬を、少女のように、紅潮させていた。

「それでは、戸波博士のことは、よくお願いいたしますよ」

「わかりました」司令官は、大きく<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。「草津参謀。君は、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>第三聯隊の一個小隊を指導して、直ちに、お茶の水へ出発せい」

「はいッ。草津大尉は、<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに、お茶の水の<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>より、不逞団の坑道を襲撃いたします。終り」

「うむ、冷静に、やれよ」

草津大尉は、<ruby><rb>側</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの<ruby><rb>架台</rb><rt>かだい</rt></ruby>から、拳銃の入ったサックを下ろして、胸に、斜に懸けた。それから、<ruby><rb>鉄冑</rb><rt>てつかぶと</rt></ruby>を被り直すと、同室の僚友に、軽く会釈をし、静かに<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けて出て行った。

<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>に<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>くもの

「おい、<ruby><rb>蘭子</rb><rt>らんこ</rt></ruby>氏、えらいことになったぞ」

暗闇の小屋の一隅から、若い男の声がした。

「<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させちゃ、いやーよ」

手を伸ばすと、届くようなところで、やや鼻にかかった、甘ったるい少女の声がした。

「いよいよ、これァ、大変だ」

「オーさんたら。自分ばかりで、感心してないで、早く教えてよ」

「うん。もうすこしだ――」

<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、カチャカチャと、軽い音がした。若いオーさんという男が、頭から、受話器を外したのだった。

「いま放送局から、アナウンスがあったがね、アラスカ飛行聯隊と、飛行船隊とが、共同戦線を張って、とうとう、青森県の<ruby><rb>大湊要港</rb><rt>おおみなとようこう</rt></ruby>を占領しちまったそうだぜ」

「あら、まア、あたし、どうしましょう」

「どうするテ、仕様がないじゃないか。相手は、強すぎるんだ」

「だって、青森県て、東京の地続きでしょう。アメリカの兵隊の足音が、響いてくるようだわ」

「もっと、えらいことが、あるんだぜ」

「早く言ってしまいなさいよ。オーさん」

「飛行船隊の中から、一隻、アクロン号というのが、<ruby><rb>陸奥湾</rb><rt>むつわん</rt></ruby>を横断して、唯今、<ruby><rb>野辺地</rb><rt>のへじ</rt></ruby>の上空を通っているのだ」

「どこへ、逃げてゆくのかしら」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>だなア、君は。アクロン号は、東京の方へ、頭を向けているのだよ」

「じゃ、また東京は、空襲を受けるの」

「どうやら、そうらしいというのだ。警戒しろということだ」

「いやァね。あたし爆弾の光が、嫌いだわ」

「誰だって嫌いだよ」

「でも、今夜は、大丈夫なんでしょうね」

「ところが、今夜が危いのだ。一時間百キロの速度で飛んでいるから、真夜中の十二時から一時頃までには、帝都の上空へ現れるそうだよ」

「どうして、途中で、やっつけちまわないんでしょうね」

「あっちは、飛行機では、<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せられないような、大きな機関砲を、沢山持っているんだ。こっちの飛行機が、近づこうとすると、遠くからポンポンと射ち落しちまうんだ」

「高射砲で、下から射ったら、どう」

「駄目だ。ウンと高く飛んでいるから、中々届かない」

「じゃ、上から<ruby><rb>逆落</rb><rt>さかおと</rt></ruby>しかなんかで、バラバラと撃っちまえば、いいじゃないの」

「そこにぬかりが、あるものか。あっちには、有力な戦闘機が飛行船の上に飛んでいて、近づく飛行機を射落してしまう」

「まア、くやしい。それじゃ、敵の飛行船をみすみす通してしまうことになるじゃありませんか」

「だから、東京市民は注意をしろ、とサ」

「オーさんは、いやに、米国空軍の肩を持つのネ。怪しいわ」

「おいおい、人聞きの悪いことを云うなよ。これでも、愛国者だよ」

「どうだか判りゃしない。あたし、明日になったら、お別れするわ」

「じょ<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>、云うな。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>、この機会に、<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を持ったのじゃないか」

「世帯って、なにが世帯さア。こんな、<ruby><rb>焼</rb><rt>やけ</rt></ruby>トタンの<ruby><rb>急造</rb><rt>きゅうぞう</rt></ruby>バラックにさ。<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>けた茶碗が二つに、半分割れた<ruby><rb>土釜</rb><rt>どがま</rt></ruby>が一つ、たったそれっきり、あんたも、あたしも、着たきりじゃないの」

「まだ有るぞ。ほらラジオ受信機」

「……」

「半焼けの<ruby><rb>米櫃</rb><rt>こめびつ</rt></ruby>、焼け米、そこらを掘ると、<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>け<ruby><rb>卵子</rb><rt>たまご</rt></ruby>が出てくる筈だ。みんなこの際、立派な食料品だ」

「そりゃ、お別れしたくはないのよ、本当は。あんたは、失業者で、あたしはウェイトレス。こんな騒ぎになったればこそ、あんたも<ruby><rb>大威張</rb><rt>おおいば</rt></ruby>りで、物を拾って喰べられるしサ……」

「オイオイ」

「あたしも、お店が焼けちゃったから、出勤しないであんたの傍にいられるしサ、嬉しいには、違いないけれど……」

「嬉しいところで、いいじゃないか」

「でも、あんたには、愛国心が、見られないのが、残念よ」

「弱ったな。僕だって、愛国心に、燃えているんだぞ」

「アクロン号が、来るというから、あたし、考えたのよ」

「何を、考えたのだい」

「日本が<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>るか<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>ぶかという非常時に、お<ruby><rb>飯事</rb><rt>ままごと</rt></ruby>みたいな<ruby><rb>同棲生活</rb><rt>どうせいせいかつ</rt></ruby>に、酔っている場合じゃないと、ね」

「同棲生活⁉　同棲まで、まだ行ってないよ。六時間前にバラックを建てて、入ったばかりじゃないか」

「あたし達、若いものは、こんな場合には、お国のためにウンと働かなきゃ、日本人としてすまないんだわ」

「そりゃ、僕だって、働いても、いいよ」

「じゃ、こうしない」

「ウン」

「あたしは、サービスに<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>があるから、これから、<ruby><rb>毒瓦斯避難所</rb><rt>どくガスひなんじょ</rt></ruby>へ行って、老人や子供の世話をするわ」

「僕は、どうなるんだ」

「あんたは、外に立っていて、ヨボヨボのお婆さんなんかが、逃げ遅れていたら、背中の上にのせて、避難所へ連れて来る役を、しなさいネ」

「君が働いている避難所へなら、何十人でも何百人でも、爺さん婆さんを拾ってゆくよ」

「そして、日本が戦争に勝って、そのとき幸運にも、あたし達が生きていたら……」

「生きていたら……」

「そのときは、大威張りで、あんたの所へ行くわ」

「ふうーん」

「あんた、約束して呉れる？」

「条件がいいから、約束すらァ」

「まア、いやな人ね」

<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>の中の男女の声は、パタリとしなくなった。

暗闇の千葉街道を、<ruby><rb>驀地</rb><rt>まっしぐら</rt></ruby>に、疾走しているのは、<ruby><rb>世田</rb><rt>せた</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>の自動車大隊だった。<ruby><rb>囂々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>たる<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>の響は並木をゆすり、ヘッド・ライトの前に、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる土煙をあげていた。

「もう七時を廻ったぞ、山中中尉」

そういったのは、<ruby><rb>先導車</rb><rt>せんどうしゃ</rt></ruby>の中に、夜光時計の文字盤を探っている将校の一人だった。

「那須大尉どのは、この車で、先行されますか」隣りにいた将校が、<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「先行したいのは、山々だが、本隊との連絡が、つかなくなるのを<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>れる」

「なにしろ、電灯器具材料を積んでいますから、四十<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>以上の<ruby><rb>速度</rb><rt>スピード</rt></ruby>を出すと、壊れてしまう<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れが、あるのです」

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、弱ったね。すこし準備が、遅すぎたようだ」

「ですが、目的地の<ruby><rb>市川</rb><rt>いちかわ</rt></ruby>へは、八時までには充分着きますから、アクロン号の襲来するのが、十二時として、四時間たっぷりはございますですが」

「四時間では、指揮をするだけでも、大変だぜ」

「<ruby><rb>松戸</rb><rt>まつど</rt></ruby>の工兵学校は、もう仕事を終えている頃ですから、直ぐ応援して貰ってはどうです」

「工兵学校も、いいが、俺は、千葉鉄道聯隊の連中を、あてにしているのだ」

何事だか、まだ判らないけれど、とにかく帝都から、<ruby><rb>程遠</rb><rt>ほどとお</rt></ruby>からぬ市川町附近へ、多数の<ruby><rb>特科</rb><rt>とっか</rt></ruby>隊が、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい材料をもって、集合を開始しているものらしい。

「大尉どの」闇の中から、山中中尉の声がした。

「うん」

「思い出しましたが、村山貯水池の方は、誰か行くことになっていましたでしょうか」

「村山貯水池は、臨時に、中野電信隊が出動したそうだ」

「ああ、そうですか」

「あの広い貯水池の水面に、すっかり、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を<ruby><rb>敷</rb><rt>し</rt></ruby>くのは、想像しただけでも、容易ならん仕事だと思うね」

「でも、藁を敷いて、水面の反射を消すとは、誰が考えたのかしりませんが、実に名案ですな」

「隅田川へ敷くのについて、非常に幸運だったというのは、今夜十二時頃から、次第に、上げ潮になって来るそうで、<ruby><rb>水面</rb><rt>すいめん</rt></ruby>へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんだ藁が、流出せずに、済むそうだ」

「なるほど、そうですか。これも<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>の一つでしょうな」自動車隊は、暗闇の中を、なおもグングンと、<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>して行った。

「大尉どの、いよいよ、穴の奥まで、近づいたらしいですよ」

「そういえば、だんだんと天井が、低くなってきたね」

「入口で、三人、やっつけたばかりで、ここまで来ても、更に<ruby><rb>敵影</rb><rt>てきえい</rt></ruby>を<ruby><rb>認</rb><rt>みと</rt></ruby>めず、ですな」

「ちと、おかしいね。どこか、逃げ道が、<ruby><rb>慥</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてあるのだろうか」

「いままでのところには、探さない<ruby><rb>別坑</rb><rt>べつこう</rt></ruby>は、一つもなかったのですが」

「おや、地盤が、急に変ったじゃないか。これは、<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>みたいに硬い岩だ」

草津大尉の声のする方に、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>少尉が、懐中電灯を照しつけてみると、なるほど、今までの<ruby><rb>赭茶</rb><rt>あかちゃ</rt></ruby>けた<ruby><rb>泥土層</rb><rt>でいどそう</rt></ruby>は無くなって、濃い水色をした、硬そうな<ruby><rb>岩層</rb><rt>がんそう</rt></ruby>が、冷え冷えと、<ruby><rb>前途</rb><rt>ぜんと</rt></ruby>を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>っていた。

「こんなところに、<ruby><rb>鑿岩機</rb><rt>さくがんき</rt></ruby>が、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出してあります」

「こっちの方にも、一台、<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっているぞ」

「地盤が、固くなったので、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、引上げたのでしょうか」

「それにしては、おかしい。その辺の壁を、叩いてみよう」

泥が、バラバラと、崩れ落ちた。

「おお、これは⁉」<ruby><rb>壁体</rb><rt>へきたい</rt></ruby>に、ポカリと、孔が開いた。

懐中電灯を、さし入れて見ると、その孔は上り気味になっている。

草津大尉は、道後少尉を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>も恐れず、前進して行った。

「<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>停</rb><rt>どま</rt></ruby>りだ」

「押して見ましょう」

ガラガラと音がして、<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い風が、スーと入ってきた。

「いよいよ地上へ出たらしい」

「敵の奴、ここから逃げたらしいですね」

「うむ。――あれを見ろ、灯りが、さしているぞ」

「これは、建物の内部です」

「よオし、部下を集結するんだ。一度に、飛び出そう」

「承知しました」少尉は、合図の懐中電灯を<ruby><rb>波形</rb><rt>なみがた</rt></ruby>に、うちふった。ゾロゾロと部下が、集って来た。

<ruby><rb>頃合</rb><rt>ころあい</rt></ruby>はよかった。

「<ruby><rb>突撃</rb><rt>とつげき</rt></ruby>だッ。<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>イ、<ruby><rb>二</rb><rt>ふ</rt></ruby>ウ、<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>ッ！」

ワッと<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>をあげて、一同は手に手に、拳銃を持って、飛び出した。扉らしいものを、いきなり<ruby><rb>蹴破</rb><rt>けやぶ</rt></ruby>ると、地下室の広い廊下が、現れた。

薄暗い廊下灯の蔭に、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を噛まされ手足を<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>されて転っている一人の男があった。その<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、人影は、見えなかった。道後少尉は、倒れている男を起して、猿轡をとってやった。それは、戸波研究所に、博士の身辺を守っている筈の山名山太郎だった。

「早く階上へあがって、窓を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べて下さい」

山太郎は、泣かんばかりに<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

ドヤドヤと、一同が、階段を駈け上ってみると、三階の西窓が、そこだけは歯が抜けたように、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>窓が開いて居り、頑丈な一条の<ruby><rb>綱</rb><rt>ロープ</rt></ruby>が、真向うの××産婦人科院の、物乾台のところへ架け渡されているのが発見された。

――用事があって、地下室へ降りて来た戸波博士は、待ち構えていた怪しい一団の手によって、何の苦もなく、<ruby><rb>誘拐</rb><rt>ゆうかい</rt></ruby>されたことは、山太郎の説明によって、間もなく、明かになった。

軍部は、この<ruby><rb>凶報</rb><rt>きょうほう</rt></ruby>を受取ると、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と色を失ってしまった。

アクロン号の<ruby><rb>襲来</rb><rt>しゅうらい</rt></ruby>

「モンストン君、まだ何にも、見えないのかい」

アクロン号の船長、リンドボーン大佐は、<ruby><rb>航空羅針儀</rb><rt>こうくうらしんぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>から眼を離すと、背後を振りかえって、爆撃隊長モンストン少佐に声をかけた。

「大佐殿、いよいよ、大東京です」少佐は、地上観測鏡の対眼レンズから、眼を離そうともせずに、叫んだ。「<ruby><rb>猫眼石</rb><rt>ねこめいし</rt></ruby>のように美しい輪廓が、空中に、ぼッと、浮かびあがっています」

「<ruby><rb>羅針儀</rb><rt>らしんぎ</rt></ruby>も正確だ」大佐は、<ruby><rb>硝子蓋</rb><rt>ガラスぶた</rt></ruby>の上を、指先で、コツコツと叩いた。「時間も、予期したとおり午前一時、<ruby><rb>淋代</rb><rt>さびしろ</rt></ruby>から、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に六時間半、<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った」

「左の方には、正しくカスミガウラの湖面が光っています」少佐は、やっと面をあげて、ゴンドラの外を、指さした。

「爆撃の用意は、いいのだろうな」

「勿論です。二十<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の爆弾は、お<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>みによって、一瞬間の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に本船から離してもよろしい」

「ふ、ふ、ふ」大佐は、軽く笑った。

「ですが、船長。大東京の輪廓が、すこし、明るすぎるように思いますが……」

「なアに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の経験によると、湿気の多い五月の天候では、地上の光が、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>に輝いてみえるのだよ」

大佐は、長身を折って、机上の東洋大地図の上に、静かに、眼を走らせた。その紙面には、先の世界一周のときに観測したデータが、赤インキで、詳細に、書き入れられてあった。

「航空長、大東京への、距離は？」

「西十一キロ丁度です」

<ruby><rb>舵器</rb><rt>だき</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っている航空長は、答えた。

「呀ッ。船長――」観測鏡を握っている爆撃隊長が、叫び声をあげた。

「どうした。モンストン君」

「大東京が、<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を、消したんです」

「やっと気がついたものと見える」大佐は、通信兵と<ruby><rb>銘</rb><rt>めい</rt></ruby>をうった伝声管の前に立って、叫んだ。「戦闘機隊へ通報せい。襲撃陣形をとり、戦闘準備にうつれ」

アクロン号は、大胆にも、三千メートルの高度まで、下降した。アクロン号をとりまく偵察機や戦闘機は、行進隊形を解いて、それぞれ、襲撃隊形にうつった。偵察機は、ぐっと、後へ引返して、アクロン号の、両翼と、後方とを守った。戦闘機は更に一千メートルの高度をとり、見る見る、速度を早めて、アクロン号の前方に、進出して行った。

予期した霞ヶ浦の海軍航空隊に属する空軍は、どうしたものか、どの方面からも、襲撃して来なかった。

「船長、ごらんなさい」モンストン少佐が云った。「下に、電車らしいものが、走っていますよ」

「なるほど、スパークも見えるし、ヘッド・ライトも、ぼんやり見えるようだね」

「向うの方には、ボッと、ギンザらしい灯が見えますよ」

「そんなことは無いだろう」

「でも、左手に見えるのがシナガワ湾です。ずっと、海と陸との境界線が見えるでしょう」

「すこし、早く来すぎたような気がする」大佐は、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、首をかしげた。

「いよいよ、大東京の位置が、はっきり判りました。こっちに、ムラヤマ貯水池が、明るく光っています」

「うん。地形は、ちゃんと合っている。爆撃して呉れと、いわぬ<ruby><rb>許</rb><rt>ばか</rt></ruby>りだ。では、モンストン君、<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねての作戦どおり、思うが<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>に、爆撃出来るね」

「そうです、大佐どの。第一に、マルノウチ一帯へ、一<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>爆弾を三個、半噸爆弾を十二個、叩きつけます。それから、シナガワ附近シンジュク附近とを中爆弾で爆撃し、頃合いを計って、ホンジョ、フカガワ附近の工業地帯を爆破し、<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>、余裕があれば、ウエノ停車場を、やっつけて仕舞います」

「よろしい」リンドボーン大佐は、このとき長身を、すっくり伸して、直立し、<ruby><rb>厳然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>と、命令を発した。「爆撃用意！」

「爆撃用意！」モンストン少佐は、伝声管の中に、割れるような声を、吹きこんだ。「マルノウチ爆撃用意！」

アクロン号の、中央部に配置せられた、爆弾は、電気仕掛けで、安全装置が、バタバタと外されて行った。爆撃手は、<ruby><rb>照準</rb><rt>しょうじゅん</rt></ruby>鏡のクロス・ヘアーに、丸の内の中心部が、静かに動いてくるのを待った。

「<ruby><rb>適宜</rb><rt>てきぎ</rt></ruby>、爆撃始め！」

リンドボーン船長は、いよいよ、敵国の都に、二十噸の爆弾を、叩きこむことを、命じたのだった。

照準手のところへは、<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>がえしに、高声器が、モンストン少佐の号令を、送ってきた。

「爆撃始めッ！」

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、その途端に、照準は、ピタリと、丸の内の中心に落ちた。

「ううん――」

照準手は、<ruby><rb>把手</rb><rt>ハンドル</rt></ruby>を、カチャリと、下に引いた。微かに、船体が、グッと持ちあげられたように感じた。三個の重爆弾が、<ruby><rb>発射孔</rb><rt>はっしゃこう</rt></ruby>を通って、サーッと、落下して行った。

一秒、二秒、三秒――

地上に、パッと、ダリアの花が、開いたように感じた。<ruby><rb>真黄</rb><rt>まっきい</rt></ruby>ろな、<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる、毒々しい<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>だった。そこへ、

「だ、だ、だーン、だーン」

と、眼の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めるような大きな音がして、船体が、ギシギシと鳴り響いた。

続いて、第二弾、第三弾――

爆弾室は、見る見る<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、空っぽになって行った。

「ううん、美事な命中率だ。素晴らしいぞ、照準手！」船長は<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby><ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を巻いて湧きあがる地上を見て、<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおど</rt></ruby>りせんばかりに、喜んだのだった。

「いよいよ、敵の戦闘機が、現れましたぞッ」モンストン少佐は、ゴンドラの窓から、空中に、パッ、パッと、赤い息を吐きだすような機関銃の乱射ぶりを、注目した。

地上からは、噴水のように、青白い<ruby><rb>光芒</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>を持った照空灯が、飛び上ってきた。ゴンドラの、防弾<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>で張った窓が、チカチカと、その光芒に、射すくめられた。

高射砲から、撃ちだした砲弾が、美しく、空中で、<ruby><rb>炸裂</rb><rt>さくれつ</rt></ruby>した。そして、その照準は、見る見る正確になり、アクロン号の附近に、集まって来た。

飛行船の<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>からも、重機関銃や、機関砲が、オレンジ色の焔を吐いて、敵機に、いどみかかった。

「ご、ご、ごーン」

と音がして、アクロン号の船体が、グラグラと、揺れた。その途端に、ゴンドラと、すれすれに、日の丸のマークのついた日本軍の飛行機が、激しい火焔に包まれて、どっと下に落ちて行った。

「ジャップの飛行機を、寄せつけるやつがあるものか。危くて仕様がないじゃないか」大佐は、チョッと舌打をした。

その言葉の終らないうちに、又、前よりも一層、激しい動揺が起って、大佐は、スルリと滑りそうになったのを、やっとのことで、<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>にすがりついて、事なきを得た。

日の丸のマークのついた日本の飛行機が、火焔に包まれて、又、墜落して行った。そのあとから、別な飛行機が、又一台、吠えるような、異様な響をあげて……。

「おい、モンストン」大佐は、たまりかねて爆撃隊長の肩をつかんだ。「われ等の、戦闘機隊は、何をしているのだ」

「<ruby><rb>阻塞気球</rb><rt>そさいききゅう</rt></ruby>の中へ、引っぱり込まれたらしいです。半数は、気球から垂れている綱に、機体を<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>めつけられ、進退の自由を失っているらしいです」

「なに、阻塞気球⁉」

「ほら、御覧なさい。あすこに、ヒラヒラしているのがあります」

「おお、――」と大佐は、窓のところに、駈けよった。「あれは、大グランド大尉の、赤鬼号じゃないか」

「や、やッ」モンストン少佐も、探照灯に照し出された、見覚えのある、<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な胴体をもった飛行機を見付けて、のけぞる位に<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた。「グランド君が、敵の阻塞気球に……」

「航空長、本船を、<ruby><rb>浦塩</rb><rt>ウラジオ</rt></ruby>へ、向けろ」大佐は、<ruby><rb>皺枯</rb><rt>しわが</rt></ruby>れ声で、叫んだ。

「日本の飛行機は、爆弾と同じことだ」

「ああ、日本の軍人は、気が変だッ」

自分の墜落することを一向気にとめず、猛然と、機体を、爆弾代りに、うちつけて来る日本軍の勇猛さに、大佐は、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてしまった。

そのとき、空の一角から、立川飛行聯隊の<ruby><rb>重爆撃隊</rb><rt>じゅうばくげきたい</rt></ruby>が、三機<ruby><rb>雁行</rb><rt>がんこう</rt></ruby>の隊形をとって、しずしずと、アクロン号の真上に、あらわれた。そこには、既に、アクロン号を守る敵機の姿も、見えなかった。重爆撃機は、アクロン号の上を、グルリと一とまわりした後、鮮かに、十二個の、爆弾を切って放した。

それは、アクロン号にとって、最後の<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めであった。

百雷の落ちるような響がしたかと思うと、空中の巨船は、一団の、真黄色な煙と化し、やがて、物凄い音響をあげ、全身を、真紅な火焔に包んで、墜落を始めた。空中の怪魚の、<ruby><rb>断末魔</rb><rt>だんまつま</rt></ruby>は、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に<ruby><rb>豪胆</rb><rt>ごうたん</rt></ruby>な帝国の飛行将校も、<ruby><rb>正視</rb><rt>せいし</rt></ruby>するに、たえなかった。或いは、船首を下にし、或いは胴中を二つに<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>め、或いは、転々と苦悩し、焔を吹き、怪音をあげ、焼け<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れたるアクロン号は、<ruby><rb>武蔵野平野</rb><rt>むさしのへいや</rt></ruby>の、真唯中に、墜落していった。

まことに、哀れなアクロン号の最後だった。

船長リンドボーン大佐以下四十五名の乗組員は、敵国の首都を、<ruby><rb>完膚</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>なきまでに爆撃した彼等の武勲を、<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>の<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めとしてアクロン号と運命を共にした。

だが、本当のことを云うなら、気の毒なことに、リンドボーン大佐以下は、大きな<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>をしていたのだった。それは、大東京だと思って、爆弾の雨を降らせた一廓は、帝都とは似てもつかぬ草原と田畑だったのだ。それは帝都を、二十キロほど、東へ行ったところにある<ruby><rb>市川</rb><rt>いちかわ</rt></ruby>町の附近を択んで、軍部が急造した<ruby><rb>偽都市</rb><rt>にせとし</rt></ruby>だったのであった。その市川の草原には、<ruby><rb>松戸</rb><rt>まつど</rt></ruby>工兵学校や、千葉鉄道聯隊や、<ruby><rb>世田</rb><rt>せた</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>自動車隊が、一夜のうちに急造した電灯装置ばかりの偽東京が、影も形もないほど、爆撃しつくされてあった。

偽都市が成功したその反面には、其の夜、帝都の、灯火管制が、如何に巧みに行われて敵機の眼から脱れることに成功したかを、雄弁に物語っているので、その夜の勲功の半分は軍部が<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>い、他の半分は、帝都市民が貰うのが至当であると面白いことを云ったのは、外ならぬ東京警備司令官、<ruby><rb>別府九州造</rb><rt>べっぷくすぞう</rt></ruby>氏であった。

<ruby><rb>戦雲</rb><rt>せんうん</rt></ruby><ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>し太平洋

わが海軍の主力、聯合艦隊は、<ruby><rb>小笠原</rb><rt>おがさわら</rt></ruby>諸島の東方、約一千キロの海上を、真北に向って進撃中であった。

珍らしや、聯合艦隊！

日米国交<ruby><rb>断絶</rb><rt>だんぜつ</rt></ruby>の直ぐ後、南シナ海から、台湾海峡の方へ出動し、米国アジア艦隊と一戦<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えたまでは判っていたが、<ruby><rb>其後</rb><rt>そのご</rt></ruby>はどこに何をしているのやら、国民には<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として消息の判らない聯合艦隊だった。

それも道理、アジア艦隊との一戦に、残念にも<ruby><rb>妙高</rb><rt>みょうこう</rt></ruby>と<ruby><rb>金剛</rb><rt>こんごう</rt></ruby>とを喪い、外に駆逐艦と飛行機を少々、<ruby><rb>尊</rb><rt>たっと</rt></ruby>い犠牲とすることによって、どうやら、アジア艦隊の始末をつけることが出来たのであった。<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>生残った敵艦隊を<ruby><rb>掃尽</rb><rt>そうじん</rt></ruby>し、更に進んでは、陸軍のフィリッピン攻略を援助すべきではあったが、太平洋方面の戦略が重大であるために、あとは第三艦隊と特務潜水艦隊とに<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せここに吾が聯合艦隊は、針路を東に向け直したのだった。先ず<ruby><rb>手近</rb><rt>てぢ</rt></ruby>かの、グアム島を占領して、これで西太平洋の制海権を収めると、いよいよ艦隊は、最後の一戦を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>える準備として、南洋群島へ引上げ、待機の姿勢を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ることとなった。

その間に、米国側では、どうにかして、わが聯合艦隊を、不利な状況下に引張り出そうとして、<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>マニラ飛行隊を帝都へ送って空襲をさせ、或いはアクロン号の夜襲、北海道、青森県の<ruby><rb>占拠</rb><rt>せんきょ</rt></ruby>まで、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>の犠牲をかけて、日本艦隊の釣出しを試みたのであったが、わが聯合艦隊司令長官<ruby><rb>大鳴門正彦</rb><rt>おおなるとまさひこ</rt></ruby>大将は無念の唇を噛み、<ruby><rb>悪口</rb><rt>あっこう</rt></ruby>を耳より聞き流し、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、決戦の最も有利な機会の来るのを待った。

そして、いよいよ其の日は近づいたのだ。<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>のパール軍港に集結していた敵艦隊の主力は、とうとう日本艦隊を待っている辛抱ができなくなり、ついウカウカと、有力な根拠地<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>を離れる気になった。<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うして太平洋上の二大艦隊は、相手を求めて刻一刻と、相互の距離を<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>めて行った。

「いよいよ、永年憧れていた恋人が、やって来たぞ」そういったのは、<ruby><rb>旗艦</rb><rt>きかん</rt></ruby><ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の<ruby><rb>士官室</rb><rt>ガン・ルーム</rt></ruby>に、其の人ありと聞えた<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な<ruby><rb>千手</rb><rt>せんじゅ</rt></ruby>大尉であった。

「ほほう、どの位、近づいたのか」バットの煙を輪に吹きながら、戦略家の藤戸大尉が<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「主力の位置は、本日の唯今、北緯四十二度、東経百六十五度。北海道の<ruby><rb>真東</rb><rt>まひがし</rt></ruby>、千八百キロというところだ」

「すると、敵艦隊は、今日になって、進路を急に西の方へ、向け直したことになるぞ」

「<ruby><rb>藤戸</rb><rt>ふじと</rt></ruby>の云うとおりだ」横から<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打ったのは、先刻から黙々として、探偵小説に読みふけっていた<ruby><rb>紙洗</rb><rt>かみあらい</rt></ruby>大尉だった。「<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>から、ミッドウェーの東方<ruby><rb>沖合</rb><rt>おきあい</rt></ruby>を、北西に進んでいた筈だから今日になって、進路を真西に向けたとなると……」

「そりゃ、こうサ」藤戸大尉が即座に引取って答えた。「いよいよ敵艦隊は、吾が艦隊と決戦を覚悟したのだ。これから敵艦隊は、南西へ下りて来るぞ。決戦の日の位置は北緯四十度東経百五十度附近と決った」

「青森県の東方一千キロ足らずの海上ということになるね」紙洗大尉は、探偵小説を伏せて、いつの間にか、その代りに、海図を拡げ、その上にキャラメルの艦隊を動かしていた。

「俺は大したことは望まんが」千手大尉は、ワザと神妙な顔をして云った。「大航空母艦レキシントン、アルカンター、シルバニアの<ruby><rb>飛行甲板</rb><rt>ひこうかんぱん</rt></ruby>を、蜂の巣のように、<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>をあけてやりたい」

「ウフ、それが大したことでなくて、何が大したことなんだ、あッはッはッ」

「うわッはッはッ」

聞いていた二人の士官が、腹を抱えて笑い出した。

「何しろ相手は、<ruby><rb>輪形陣</rb><rt>リング・フォーメーション</rt></ruby>だ、その中心の、そのまた中心にいる航空母艦だ。<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、手軽にはゆくまいな」

「<ruby><rb>輪形陣</rb><rt>りんけいじん</rt></ruby>が、破れまいと、確信しているところが、こっちの附け目さ。ナニ構うことはないから、平気でドンドン、飛行機を進めて行くさ、輪形陣の中に、こっちが入って行けば自信を裏切られて<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>する。そこへ、着弾百パーセントという特選爆弾を一発、<ruby><rb>軽巡奴</rb><rt>けいじゅんめ</rt></ruby>に御馳走して、マスト飛び、大砲折れサ、ヤンキーが血を見て、いよいよ腰をぬかしている<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に、<ruby><rb>長駆</rb><rt>ちょうく</rt></ruby>、大航空母艦の上に、五百キロ爆弾のウンコを落とす」

「うわーッ、<ruby><rb>千手</rb><rt>せんじゅ</rt></ruby>の奥の手が始まった。もう判った。やめィ」

「おい千手。それが本当なら、念のために、<ruby><rb>貴公</rb><rt>きこう</rt></ruby>に<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>報告のあった米国聯合艦隊の陣容を、教えといてやろう」紙洗大尉は笑いながら、ポケットから、ガリ<ruby><rb>版刷</rb><rt>ばんずり</rt></ruby>の「<ruby><rb>哨戒隊</rb><rt>しょうかいたい</rt></ruby>報告」を拡げて読み出した。

「第六哨戒艦報告」

「判っとる。俺も覚えているよ」千手大尉が悲鳴をあげた。

「まァいい、聞け。――本艦搭載の偵察機を<ruby><rb>飛翔</rb><rt>ひしょう</rt></ruby>せしめ、赤外線写真を以て撮影せしめたる米国聯合艦隊の陣容を報告すべし。先ずメリーランド、コロラド、ウェスト・バージニア、セントルイス、ソルトレーキ以下二十<ruby><rb>隻</rb><rt>せき</rt></ruby>の主力艦を中心に、その前方に、大航空母艦レキシントン、アルカンター、シルバニア、レンジァーの四隻、大巡洋艦のポートランド、ニューオリアンス、イリノイ、フェニックス以下の八隻を配列し、又後方には多数の特務艦を従え、その周囲三十キロの円周海上は、四十キロの快速を持つ小航空母艦の感ある七千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>巡洋艦二十五隻を以て固め、更にその五キロの<ruby><rb>外輪</rb><rt>がいりん</rt></ruby>を、二百隻の駆逐艦隊を配置し、別に八十隻の潜水艦を奇襲隊として引率し、<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の輪形陣の上空六千メートルの高度に於て、メーコン、ラオコンの両飛行船隊を浮べ、飛行機全台数二千機中六百台の偵察機は各母艦より<ruby><rb>飛翔</rb><rt>ひしょう</rt></ruby>して輪形陣の進航前方を、<ruby><rb>交互</rb><rt>こうご</rt></ruby>警戒し、時速三十キロにて北西に向い航行中なり……」

「それが本当なら、こっちも全く、<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>い<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>があるというものサ」千手大尉は、まだ<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らず<ruby><rb>口</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めなかった。

「敵機三台に対し、こっちは一台の割だな。<ruby><rb>敢</rb><rt>あ</rt></ruby>えて恐れるわけではないけれど、数理に合っているとは、考えられない」藤戸大尉は頭の中に数字を浮べているらしく、独りで<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>った。

「そりゃ訳があるのサ」又、千手大尉が<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>を盛りかえして、籐椅子からスックリ立上った。

「いいかね、敵機二千機、そりゃいいサ。それが一時に飛上ろうとしたって飛び上れるものじゃない。いくら空が広いからって、ページェントじゃないから、<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>が飛ぶようなわけには行かない。まァ<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>三分の一の六百機だ。六百機が、飛び上ったとしても、彼等の着艦は、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る困難になる。そういうことは、彼等がよく知っているから、自然<ruby><rb>尻込</rb><rt>しりご</rt></ruby>みをしてサ、実際現れる飛行機はそのまた三分の一で、二百機サ。ところが、我が飛行将校は、飛行甲板なり、カタパルトから飛び出すことは知っているが、着艦しようなどというケチ<ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>い根性は持ち合わしていない。二百機が飛び出せば、二百機がフルに働く。ボーイング機が如何に速くともカーチス機が如何に<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた性能を持っているにしても、最後の勝利はこっちのものだ」

「そりゃ、<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>すぎる説明じゃ」藤戸大尉が、本気になって反対した。

「俺に一説がある」紙洗大尉が、その後について云った。「三対一の比率は、あまりに<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい。しかし軍令部が、見す見す負けるような計画を作る筈もない。そうかと云って、いくら吾が飛行機の優秀を見積り、兵員の技能を過信してもこの比率は、あまりに<ruby><rb>桁外</rb><rt>けたはず</rt></ruby>れすぎる。そこで問題の解答は、こうだ。何かこう新兵器があって、敵機の三分の二を充分に圧迫することの出来る見込みが立っているのだ、トナ」

「いよいよもって、<ruby><rb>甘過</rb><rt>うます</rt></ruby>ぎる話じゃ」藤戸大尉は<ruby><rb>慨歎</rb><rt>がいたん</rt></ruby>した。「俺の考えを最後に附加えるとこうじゃ。空軍として一時に参加出来るのは六百機、<ruby><rb>乃</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち我れと同数に過ぎぬ。しかし米国艦隊が日本沿岸何百キロの距離に近寄ったところで戦争をするとなると、日本の海岸警備隊や、陸軍機が、戦争に参加することとなる。それに対しても充分の圧倒が出来る台数をというので、あの台数が出て来たのだ。又そうなると、日本の陸地の一部を占領することが出来れば、別に元の軍艦へ戻らなくてもいいわけサ。この辺に、三対一の比率が出ていると思う」

「<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>ねエ――」

三人三様の議論が<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby><ruby><rb>一巡</rb><rt>いちじゅん</rt></ruby>したところへ、後の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>がコツコツと鳴って、三等水兵の、真紅な顔が現れた。

「紙洗大尉どの、<ruby><rb>井筒</rb><rt>いづつ</rt></ruby>副長どのが、至急お呼びであります」

「おお、そうか。直ぐに参りますと、そう御返事申上げて呉れい」

紙洗大尉は、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>の帽子掛けから、帽子と<ruby><rb>帯剣</rb><rt>たいけん</rt></ruby>とを取ると、身<ruby><rb>繕</rb><rt>づくろ</rt></ruby>いをした。

「直ぐ帰って来るからな、一服しとれよ」

そう云って彼は<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>に、部屋から出て行った。

だが<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の紙洗大尉は、二十分経っても、三十分経っても、帰って来なかった。一時間の時間が流れても、彼の靴音は、聞えなかったので、二人の同期の友人は、云い合わせたように立上った。

「どれ、部屋へ帰って、今のうちに、<ruby><rb>辞世</rb><rt>じせい</rt></ruby>でも考えて置こうかい」

「俺は、いまのうちに、たっぷり睡って置こうと思うよ」

そこへ、紙洗大尉が、飛ぶようにして、帰って来た。

「おいどうした」

「大いに深刻な顔をしているじゃないか」

紙洗大尉は、二人の友人の問を、<ruby><rb>其儘</rb><rt>そのまま</rt></ruby>聞き流して、ジッと立っていた。

「おい、どうしたのかと云ったら！」

そういった友人の、情深い手は、紙洗大尉の肩にかけられた。

「うん、大したことでは無い」彼は<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に口を開いた。「<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>というものが今度の場合にも、お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に必要なのだ。いずれ判るだろうがね」

「ははァ、そんなことか」と、千手大尉。

「天佑は迷信ではない。忍耐と努力との<ruby><rb>極致</rb><rt>きょくち</rt></ruby>じゃ」

藤戸大尉は、帯剣を釣る手を<ruby><rb>憩</rb><rt>やす</rt></ruby>めて何か重大命令を受けて来たらしい僚友に、哲学じみたことを言った。

外へ出ると、大分風が出ていた。

雲間からヌッと顔を出した<ruby><rb>弦月</rb><rt>げんげつ</rt></ruby>の光に、高く盛りあがった<ruby><rb>濤頭</rb><rt>なみがしら</rt></ruby>が、夜目にも白々と映った。

僚艦も<ruby><rb>稍難航</rb><rt>ややなんこう</rt></ruby>の体で、十度ほど傾斜しながら、艦首から、ひどい浪を被っていた。

<ruby><rb>鹿島灘</rb><rt>かしまなだ</rt></ruby>の<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>り

いよいよ米国大空軍の来襲は、確かになった。

早ければ今夕、遅くとも明日の夕刻までには、敵影が<ruby><rb>鹿島灘</rb><rt>かしまなだ</rt></ruby>に現れることになろうと云うことであった。これは全国一斉に、ラジオによってアナウンスされた。新聞記者は、命懸けのテレヴィジョン<ruby><rb>送影機</rb><rt>そうえいき</rt></ruby>を、モーターボートに積んで、沖合遥かに出て行った。それの後からはボコボコと、エンジンの音を立てて、幾百<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>となく、うす汚れた<ruby><rb>和船</rb><rt>わせん</rt></ruby>が、同じ方角に出ていったが、これには各々、防空監視員が乗りこんでいた。防空監視員と云っても、完全な男子は出征して国内には居なかったので、四十過ぎの中老組か、二十歳以下の少年か、さもなければ、血気盛んなる<ruby><rb>妙齢</rb><rt>みょうれい</rt></ruby>の婦人達であった。それは見るからに、重大任務をやりとげるのに充分な人達とは、お世辞にも、云えなかったが、壮年男子は、<ruby><rb>予備</rb><rt>よび</rt></ruby><ruby><rb>後備</rb><rt>こうび</rt></ruby>といわず補充兵役にあるものまでが召集され、北満、極東方面に労農ロシア軍と戦い、或いはフィリッピン群島、東北地方北海道に、米国軍と対峙している今日、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を云うわけにはゆかなかった。

さて問題の、鹿島灘の、一番北の端に、<ruby><rb>磯節</rb><rt>いそぶし</rt></ruby>で有名な<ruby><rb>三磯</rb><rt>みいそ</rt></ruby>の一つ、<ruby><rb>磯崎町</rb><rt>いそざきまち</rt></ruby>というところがあった。ここは、家数が四五十しかない、至って小さい町だった。町というのが多くは漁師の家で、その外には、数年前からジュラルミン工場が建てられたので、その職工達の家と、それ等の人々のために存在しているような感のあるお湯や、郵便局、<ruby><rb>荒物屋</rb><rt>あらものや</rt></ruby>、<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby><ruby><rb>醤油</rb><rt>しょうゆ</rt></ruby><ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>を売る店、米屋などが、一軒ずつ細々と暮しを立てているだけだった。その中で、最も新しい店の一つとして、小さなラジオ店が一軒あった。

「浩さんは、居なさらぬかな」そういって、店先を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだのは、この小さな町の町長である<ruby><rb>吉田清左衛門</rb><rt>よしだせいざえもん</rt></ruby>だった。

「あ、兄は先刻、<ruby><rb>平磯</rb><rt>ひらいそ</rt></ruby>無線まで、出掛けたんでございますよ」そう云いながら顔を出したのは、ここの店をやっている<ruby><rb>夏目浩</rb><rt>なつめひろし</rt></ruby>の妹にあたる真弓という若い女だった。記憶のよい読者は、彼女が神田のキャバレ・イーグルで、そこが<ruby><rb>Ｇ</rb><rt>ゲー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｐ</rb><rt>ペー</rt></ruby>・<ruby><rb>Ｕ</rb><rt>ウー</rt></ruby>の秘密会合所と知らないで勤めているところを、団員を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>って入り込んでいた帆村探偵に助け出され、この<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>の磯崎へ、送りかえしてもらったことを覚えていられるだろう。

「ああ、それでは――」と、町長の吉田老人は独りで<ruby><rb>合点</rb><rt>がってん</rt></ruby>をしながら「防空監視哨の電話設備を、平磯無線へ借りにいって下すったのだね。いや、こんどは、浩さんが居なかったら、わし<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>は、どうしてよいやら、途方に暮れることじゃった」

「いよいよ防空監視哨が出来るんですの」

「お国のために、やらなけりゃならんことになりました<ruby><rb>哩</rb><rt>わい</rt></ruby>。この磯崎は、鹿島灘の一番北の端を占め、しかも町全体が、ズーッと海の真中へ突き出ているから、監視哨には持ってこいの土地ですよ」

「場所は、どこなんですの」

「三ヶ所、作れというお<ruby><rb>達</rb><rt>たっ</rt></ruby>しでナ、岬に一つ、<ruby><rb>磯崎</rb><rt>いそざき</rt></ruby>神社の林の中に一つ、それから<ruby><rb>磯合寄</rb><rt>いそあいよ</rt></ruby>りに一つ、と都合三ヶ所、作りましたよ。作ったのはよいが、監視哨に立つ人が、足りないので、弱っています<ruby><rb>哩</rb><rt>わい</rt></ruby>」

「でも、ジュラルミン工場には、職工さん達が大勢いなさるから、一人や二人……」

「ところが、そうはならぬのですテ。ジュラルミンの工場は、なんでも国防用の機械を全速力で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えていましてナ、こっちを手伝って貰うことは、出来ないのですよ。監視哨をやってもらうことにすると、それだけ軍需品の補充が遅れることになるそうじゃ」

「まア、そうですの。皆さん、案外に<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>にやっていらっしゃるようですが」真弓は、あの工場の職工たちが、勤務時間中でも、その辺をウロウロして、自分の顔をジロリと覗きにくることを思い出して云った。

「向うは何しろ軍需品工場ということだからこっちから無理に頼むことは出来ないのですテ」

「じゃ、あたしが、監視哨になりましょうか」

「ええッ、貴女が……」町長が驚いて云った。「貴女がなって下されば、<ruby><rb>勤</rb><rt>つと</rt></ruby>まると思いますが、実は兄さんにもお願いしてあったのですが、むしろ貴女には、救護所の方でお手助けが願いたいのです。この方には、貴女のような<ruby><rb>気丈夫</rb><rt>きじょうぶ</rt></ruby>な方が、是非必要です。監視哨は、高い<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の上に、昼といわず夜といわず上って、眼と耳とを、十二分に働かしていなければならぬのです。誰かいい人を<ruby><rb>思付</rb><rt>おもいつ</rt></ruby>かれたら、どうか教えて下さい。では、兄さんにはよろしく」

そういって町長は、帰って行った。

（誰か、目と耳との鋭い人は居ないものかしら？）

真弓は、そのまま奥の間にも引込まず、店先で、ぼんやり考えていた。

すると、遠くで、自動車の警笛が聞えた。聞くともなしに聞いていると、どうやら、こっちへ近づいて来るらしい。この辺では、あまり見懸けない自動車らしい<ruby><rb>音色</rb><rt>ねいろ</rt></ruby>だった。

「ほーン、ほーン」

街道の砂煙りを、パッと一時に、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と立ち昇らせて、果せるかな、立派な<ruby><rb>幌型</rb><rt>ほろがた</rt></ruby>自動車が、二台も続いて、家の前を通りすぎた。

「オヤ⁉」

彼女は、首を振った。

「あれは、どうやら……」

そこへ、<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>から、七つばかりの男の子が駈けこんできた。

「お母ァちゃん。――」

「まア、三吉。お前、どこで遊んでいたの。いまみたいな自動車が通るところへ、出ちゃ駄目よ」

「ああ、僕出ないよ。――そいで、あの自動車、こんないいものを落としていったよ」

そう云って三吉は、美しい外国製のチョコレートの函を母親の前に見せびらかした。

「あら、そんなものを拾ってきちゃ、いけませんよ」

真弓は、チョコレートの箱を、子供の手から一旦とりあげたが、<ruby><rb>不図</rb><rt>ふと</rt></ruby>気付いて、中をあけて検べた。中には、<ruby><rb>錫箔</rb><rt>すずはく</rt></ruby>に包んだ丸いチョコレートが、たった一個、入っていたばかりだった。彼女は、その錫箔を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしてみた。すると、錫箔の下に、<ruby><rb>栗色</rb><rt>くりいろ</rt></ruby>のチョコレートは無くて、白い紙でもう<ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>、包んであった。その白い紙を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がして、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を伸ばしてみると、果して<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には、鉛筆の走り書がしてあった。

「東京警備司令部付、帆村荘六氏へ、次のことを、至急電報して下さい。三三二六九二七五、四三六八、四三二九、四八六九、四三二七、……<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>」

「ああ、矢張り紅子さんだったんだ！」

真弓は<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な叫び声をあげて、その小さい紙片を握りしめた。さっき、自動車の<ruby><rb>幌</rb><rt>ほろ</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、チラリと見せた<ruby><rb>片面</rb><rt>かたおも</rt></ruby>が、どうも紅子に似ていると思ったが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>りそうだったんだ。

「母アちゃん、紅子さんて、誰？」

「紅子さんて、母アちゃんのお友達なのよ」

真弓は、紅子から帆村へ宛てた、訳のわからぬ暗号めいたものに、自分でも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいほど、何だかイヤな気がしたが、次の瞬間、そんなものは何処かに吹きとばしていた。

ひょっとすると、帆村の探しているものが紅子の手に入った<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せなのかも知れないと思ったので、紅子の頼みどおり、一時も早く、東京の帆村へ知らせてやらなくてはなるまいと思った。

そこへ兄の浩が、フウフウ云いながら、帰ってきた。真弓は手短かに、一部始終を兄に話し、紅子の手紙を東京へ電報することを相談した。

「そりゃ訳はないよ」浩は云った。

「<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>いま、磯崎の防空監視哨と東京の中央電話局との直通電話を架設して来たばかりだ。あれで話せば、直ぐ東京が出る」

「じゃ、あたし直ぐに行ってみますわ」

「うん」

真弓が外出の支度に、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>帯を締め直していると、奥の間から、

「<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、待ってくれんか」

と声をかけたのは、浩と真弓との父親だった。やがて、建てつけの悪い障子を、ガタガタと開いて、ぎごちない恰好で現れたのは、今年五十九歳になる、両眼の不自由な老父だった。

「お父さん、危いわよ」

真弓が立って、気の毒な父の手をとった。

「お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>ちゃん。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、大きな自動車が二つも続いて通ったよ。そいでネ、綺麗な箱を、おっことして行ったんだけど、母アちゃんがいけないって、とっちゃったよ」

「おお、そうか、そうか」盲目の祖父は、三吉の声のする方へ手を伸ばした。「三坊、お祖父さんのお膝の上へおいで」

「お父さん、どうかしましたか」浩が<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な眼を見張って尋ねた。

「おお、浩も、真弓も、聞いて貰いたいことがあるんだ。<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもないが、いよいよアメリカの飛行機が、この浜の上へ沢山攻めてくるということだが、聞けば、監視に立つ人数が足りないと、町長さんの話じゃ。何でも、防空監視哨というのは、眼と耳とが確かならば<ruby><rb>勤</rb><rt>つとま</rt></ruby>るそうじゃが、其処で考えたことがある。お前達も知っているとおり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>は元、<ruby><rb>海軍工廠</rb><rt>かいぐんこうしょう</rt></ruby>に勤めていたものの、不幸にもウィンチが切れ、<ruby><rb>灼鉄</rb><rt>しゃくてつ</rt></ruby>が高い所から、工場の床にドッと墜ち、それが火花のように飛んで来て眼に入り、退職しなけりゃならなくなって、それからこっち、お前達にも、ひどい苦労を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めさせた。おれはいつも済まんと思っているよ」

「お父さん、<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>なら、云わん方がいいですよ」浩が心配して口を<ruby><rb>挿</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ。

「いや、今日は愚痴ばかり並べるつもりじゃないのじゃ」<ruby><rb>老父</rb><rt>ろうふ</rt></ruby>は強く首を振って云った。「そんなわけで、わしは、海軍工廠をやめたが、お国のために<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>そうという気持は、更に変らないのじゃ。変らないばかりじゃあ無い。<ruby><rb>先刻</rb><rt>せんこく</rt></ruby>のように、折角大事の防空監視哨に立つ人が無いと聞くと、残念で仕方がないのじゃ。そこでわしは考えた。何とかして自分がお役に立つ方法はないものかと。わしは眼こそ見えないが、耳は人一倍に、よく聞こえる。盲目になってから、特によく聞こえるような気持がするのじゃ。だがいくら耳が聞こえるからといって、盲目ではお役に立たない。そこでわしは、相談をするのじゃが、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に真弓に考えて貰いたいと思うのじゃが、わしは孫の三吉を連れて監視哨の物見台へ上ろうと思うのだよ」

「ああ、お父さん、そんなこと、いけないわ」

「なあに、わしのことは、心配いらぬよ。こんな身体でお役に立てば死んでも<ruby><rb>本望</rb><rt>ほんもう</rt></ruby>だ。ただ三吉を連れて行くのは、可哀想でもあるけれど、あれは案外平気で、行って呉れるだろうと思う」

「そうだよ。お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>ちゃんとなら、どこへでも連れてって貰うよ」無心の三吉が、嬉しそうな声をあげた。

「三吉は、まだ七つだけれど、恐ろしく目のよく利く奴さ。三吉の目と、わしの耳とを一つにすると、<ruby><rb>一人前</rb><rt>いちにんまえ</rt></ruby>の若者よりも、もっといいお役に立つかと思う位だよ」

「三吉は、小さいときから、父親のない不幸な子だ。それを又ここで苦しめるのは、伯父として忍びないです」

「ああ、兄さんも、お父さんも、ありがとう。どっちも、三吉の身の上を、それぞれ思っていて下さるのです。あたしは決心しました。三吉も、お祖父さんと行きたいと云っている位だから、あたしは母親として、それを許しますわ。今は、日本の国の、一つあっても二つあるとは考えられない非常時です。この磯崎では、一人の三吉を<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>がっていますけれど、あすこから電話線を<ruby><rb>伝</rb><rt>つた</rt></ruby>って行ったもう一つの端の東京には、三吉みたいな可愛いい子供さんが何十万人と居て、同じようにアメリカの爆弾の下に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えさせられようとしているんです。そのお子さん達の親たちは、お父さんも、あたしのような母親も、どんなにかせめて子供達だけにでも、空襲の恐怖から救ってやりたいと考えていらっしゃるか知れないんです。あたしはそれを思うと、その大勢の同胞のために、喜んで三吉を、防空監視哨の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の上に送りたいと思います。いいでしょう、兄さん」

「それは立派な覚悟だ」浩は熱い<ruby><rb>眼頭</rb><rt>めがしら</rt></ruby>を、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いながら返事をした。「建国二千六百年の日本が滅亡するか、それとも生きるかという重大の時機だ。私はお前の覚悟に感心をした。それと共に、年老いたお父さんの御決心にも頭が下るのを覚える。では、お父さん、三ちゃん、行って下さいますか」

「よく判ってくれて、こんなに嬉しいことは無い」老父も<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に、<ruby><rb>感極</rb><rt>かんきわ</rt></ruby>まって泣いていた。

「なア、三坊、お祖父さんと一緒に、日本の敵のやってくるのを<ruby><rb>張番</rb><rt>はりばん</rt></ruby>してやろうな」

「ウン、あの<ruby><rb>磯崎神社</rb><rt>いそざきじんじゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>なら、さっきよく見てきたよ。お祖父ちゃんと一緒に昇れるのなら、僕、嬉しいな。アメリカの飛行機なんか、直ぐ見付けちゃうよ。ねえ、お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>さん」

「おお、そうだ、そうだ」

三吉の無邪気な笑いに、一家は喜んだり、泣いたりした。

「真弓、もう時間もないことだ。さァ急いでお前は、東京へ電話をかけるんだ。僕は町長さんのところへ行って、お父さんと三ちゃんの志願のほどを伝えて来よう」

「そう、<ruby><rb>愚図愚図</rb><rt>ぐずぐず</rt></ruby>してられないわねエ」

二人は、<ruby><rb>弾条仕掛</rb><rt>ばねじか</rt></ruby>けのように、立上った。

太平洋の<ruby><rb>大海戦</rb><rt>だいかいせん</rt></ruby>

正確にいうと、昭和十×年五月二十一日の午前十一時五十分日米両艦隊は、いよいよ真正面から衝突したのであった。地点は、正しく北緯四十度、東経百五十度附近の海上で、青森県を東へ行くこと九百キロのところだった。

主力の距離は、まだ五万メートルからあって、火蓋を切るところまでは行かなかったけれど、隊形は、米国艦隊が飽くまで南西の進路を<ruby><rb>固執</rb><rt>こしつ</rt></ruby>し、一挙<ruby><rb>鹿島灘</rb><rt>かしまなだ</rt></ruby>から東京湾を突こうというのに対し、我が日本艦隊は真南から襲い懸って、一艦一機を<ruby><rb>剰</rb><rt>あま</rt></ruby>さず、太平洋の底に送り込もうというのであった。

航空母艦から飛び出して、敵艦隊の動静を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていた両軍の偵察機隊が、<ruby><rb>定石通</rb><rt>じょうせきどお</rt></ruby>りぶっつかって行った。真先に<ruby><rb>火蓋</rb><rt>ひぶた</rt></ruby>を切ったのは、米国軍だった。シャボン玉でも吹き出した<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>に、パッパッと、真白な機関銃の煙が空中を流れた。わが偵察機は、容易に応射の<ruby><rb>気配</rb><rt>けはい</rt></ruby>もなく、無神経に突入して行った。

<ruby><rb>真下</rb><rt>ました</rt></ruby>の海上では、米軍の偵察艦隊が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く陣形をかえ、戦闘隊形へ移って行く様子であった。これに対して米軍の駆逐艦隊は<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>高い<ruby><rb>波浪</rb><rt>はろう</rt></ruby>にひるんだものか、それとも長い航洋に疲れを見せたものか、ずっと<ruby><rb>側面</rb><rt>そくめん</rt></ruby>に引返して行った。

日本艦隊の<ruby><rb>加古</rb><rt>かこ</rt></ruby>、<ruby><rb>古鷹</rb><rt>ふるたか</rt></ruby>、<ruby><rb>衣笠</rb><rt>きぬがさ</rt></ruby>以下の七千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>巡洋艦隊は、その快速を利用し、<ruby><rb>那智</rb><rt>なち</rt></ruby>、<ruby><rb>羽黒</rb><rt>はぐろ</rt></ruby>、<ruby><rb>足柄</rb><rt>あしがら</rt></ruby>、<ruby><rb>高雄</rb><rt>たかお</rt></ruby>以下の一万噸巡洋艦隊と、並行の<ruby><rb>単縦陣型</rb><rt>たんじゅうじんけい</rt></ruby>を作って、<ruby><rb>刻々</rb><rt>こくこく</rt></ruby>に敵艦隊の<ruby><rb>右側</rb><rt>うそく</rt></ruby>を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って突き進んだ。

その背後には、<ruby><rb>摩耶</rb><rt>まや</rt></ruby>、<ruby><rb>霧島</rb><rt>きりしま</rt></ruby>、<ruby><rb>榛名</rb><rt>はるな</rt></ruby>、<ruby><rb>比叡</rb><rt>ひえい</rt></ruby>が<ruby><rb>竜城</rb><rt>りゅうじょう</rt></ruby>、<ruby><rb>鳳翔</rb><rt>おうしょう</rt></ruby>の両航空母艦を<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>え、これまた全速力で押し出し、その両側には、帝国海軍の奇襲隊の花形である潜水艦隊が十隻、大胆にも<ruby><rb>鯨</rb><rt>くじら</rt></ruby>の背のような<ruby><rb>上甲板</rb><rt>じょうかんぱん</rt></ruby>を海上に現わしながら勇しく進撃してゆくのであった。

そのまた左翼にやや遅れて、我が艦隊の誇るべき主力、旗艦<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>以下<ruby><rb>長門</rb><rt>ながと</rt></ruby>、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひゅうが</rt></ruby>、<ruby><rb>伊勢</rb><rt>いせ</rt></ruby>、<ruby><rb>山城</rb><rt>やましろ</rt></ruby>、<ruby><rb>扶桑</rb><rt>ふそう</rt></ruby>が、千七百噸級の駆逐艦八隻と航空母艦<ruby><rb>加賀</rb><rt>かが</rt></ruby>、<ruby><rb>赤城</rb><rt>あかぎ</rt></ruby>とを前隊として堂々たる陣を進めて行くのであった。

別動隊の、大型駆逐艦隊は、やや右翼前方に独立して、米国潜水艦隊を警戒すると共に機会さえあれば、敵陣の真唯中へ、<ruby><rb>魚雷</rb><rt>ぎょらい</rt></ruby>を叩きこもうとする気配を示していた。

艦数に於ては劣っているが、永年全世界の驚異の的である此の「怪物艦隊」は、待ちに待ったる決戦の日を迎え、艦も砲も飛行機も兵員もはちきれるような、元気一杯に見えた。

<ruby><rb>旗艦</rb><rt>きかん</rt></ruby><ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の<ruby><rb>檣頭</rb><rt>しょうとう</rt></ruby>高く「戦闘準備」の信号旗に並んで、もう<ruby><rb>一連</rb><rt>いちれん</rt></ruby>の旗が、するすると上って行った。

「うむ」

「おお」

艦隊の戦士たちは、言葉もなく、<ruby><rb>潮風</rb><rt>しおかぜ</rt></ruby>にヒラヒラとひらめく信号旗の文句を、心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に幾度となく、繰返し読んだ。

「建国二千六百年のわが帝国の<ruby><rb>存亡</rb><rt>そんぼう</rt></ruby><ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の一戦に懸る。各兵員<ruby><rb>夫</rb><rt>そ</rt></ruby>れ奮闘せよ」

おお、やろうぜ！

さア、闘おうぞ！

大和民族の腕に覚えのほどを見せてやろう。

一死報国！

<ruby><rb>猪口才</rb><rt>ちょこざい</rt></ruby>なりメリケン艦隊！

――各艦の主砲は、一斉にグングン<ruby><rb>仰角</rb><rt>ぎょうかく</rt></ruby>を上げて行った。

弾薬庫は開かれ、砲塔の内部には、水兵の背丈ほどある巨弾が、あとからあとへと、ギッシリ<ruby><rb>鼻面</rb><rt>はなづら</rt></ruby>を並べた。

カタパルトの上には、攻撃機が、今にも飛び出しそうな姿勢で、海面を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいた。

艦橋の上に、器用に足を踏まえている信号兵は、目にも止まらぬ速さで、手旗を振っていた。

高い<ruby><rb>檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>の上からは、戦隊と戦隊との連絡をとるために、秘密の光線電話が、目に見えない光を送っていた。

ぶるン、ぶるン、ぶりぶりぶり――

航空母艦の飛行甲板からは、一台又一台と、殆んど垂直の急角度で、戦闘機が舞い上ってゆくのであった。<ruby><rb>灰白色</rb><rt>かいはくしょく</rt></ruby>の機翼に大きく描かれた真赤な日の丸の印が、グングン小さく、そして遠くなって行った。

一隊又一隊と、空中では<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか、三機、五機、七機と見事な編隊を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>え、敵の空中目指して突入して行った。

<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か後方からは、爆撃機の一隊が、千百メートル、千二百メートルと、だんだん高度を高めて行くのが見えた。厚いフロートのついた大きな飛行艇は、やっと波浪の高い海面から離れ、主力艦の列とすれすれに飛んでいた。

一秒一秒と、両軍の陣形は、目に見えて<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しい変化を示して行った。息づまるような緊張が、兵員たちの胸を、ビシビシと圧しつけて行った。

ぱッ、ぱッ、ぱッ、ぱッ――

敵軍の偵察艦隊から、殆んど同時に、<ruby><rb>真黄色</rb><rt>まっきいろ</rt></ruby>な煙が上った。十門<ruby><rb>宛</rb><rt>ずつ</rt></ruby>の八<ruby><rb>吋</rb><rt>インチ</rt></ruby><ruby><rb>砲</rb><rt>ほう</rt></ruby>が、一斉に火蓋を切ったのだった。

ど、ど、ど、どーン。

ぐわーン、

<ruby><rb>加古</rb><rt>かこ</rt></ruby>、<ruby><rb>古鷹</rb><rt>ふるたか</rt></ruby>、<ruby><rb>青葉</rb><rt>あおば</rt></ruby>、<ruby><rb>衣笠</rb><rt>きぬがさ</rt></ruby>の艦列から千メートル手前に、真白な、見上げるように背の高い水煙が、さーッと、<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>した。どれもこれも、一定の間隔を保って、見事に整列していた。もう千メートルほど、近かったら、我が軍の精鋭なる巡洋艦隊は、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>大きい損傷を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>る筈であった。

五秒、十秒、十五秒、煙りが、斜横に、静かにずれて行った。

シカゴ、ルイズヴィル、ハウストン、イリノイ、フェニックスの砲口は、次の射撃に備えるために、じわじわと<ruby><rb>仰角</rb><rt>ぎょうかく</rt></ruby>をあげて行くのが見えた。

司令艦衣笠の司令塔からは、全艦へ向って<ruby><rb>急遽</rb><rt>きゅうきょ</rt></ruby>命令が伝達された。

「全速力三十六<ruby><rb>節</rb><rt>ノット</rt></ruby>！」

驚くべき命令が発せられた。

給油管は全開となり、<ruby><rb>喞筒</rb><rt>ポンプ</rt></ruby>はウウーンと<ruby><rb>重苦</rb><rt>おもくる</rt></ruby>しい<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りをあげ激しい勢いで重油がエンジンに<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>きこまれて行った。ビューンとタービンは、甲高い響をあげて速力を増した。機関室の温度計の赤いアルコール柱はグングン<ruby><rb>騰</rb><rt>あが</rt></ruby>って行った。

<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、艦列を斜めに<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて、又一連の水煙りが上った。二度目の砲弾が降って来たのだった。照準は、最初よりも狂いがひどく入って来たので、敵艦隊は、明かに<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>の色を見せはじめた。

「<ruby><rb>取舵</rb><rt>とりかじ</rt></ruby>一杯」

司令艦の<ruby><rb>衣笠</rb><rt>きぬがさ</rt></ruby>から<ruby><rb>青葉</rb><rt>あおば</rt></ruby>、<ruby><rb>古鷹</rb><rt>ふるたか</rt></ruby>という順序で見る見るうちに、艦首が左へ、ググッと曲って行った。

キリキリキリー

それに応じて、六門の主砲が、右舷の方へ旋回して行った。

<ruby><rb>測距儀</rb><rt>そっきょぎ</rt></ruby>に喰い下っている士官は、忙しく数字を怒鳴っていた。砲術長は、高声器から、射撃命令を受けとると腕時計を見守りながら電気発火装置の<ruby><rb>主桿</rb><rt>しゅかん</rt></ruby>を、ぐッと握りしめた。

（もうあと、五秒、四秒、三秒、二秒……）

もう一秒だッ。

「そこだッ！」

ううーンと主桿を倒した瞬間に、くらッくらッと<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>むような閃光が<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と、続いてずしーンと司令塔が真二つに裂けるような、音とも振動ともつかない<ruby><rb>大衝動</rb><rt>だいしょうどう</rt></ruby>が起った。

「うう、見事に命中！　おお、シカゴは、弾薬庫をやられて、爆発を始めたぞオ」

「うわーッ、万歳」

「万歳はまだ早い。<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めの一弾を、早く用意せいッ」

主砲係りの兵員は、火薬の煙に吹かれた真黒な顔の中から、キリリと白い歯列を見せて、一弾又一弾と、重い砲弾を<ruby><rb>装填</rb><rt>そうてん</rt></ruby>していった。

敵の最前列を占めていた巡洋艦隊は、次第に列を乱して行った。

その<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>目懸</rb><rt>めが</rt></ruby>けて、<ruby><rb>摩耶</rb><rt>まや</rt></ruby>を司令艦とする<ruby><rb>高雄</rb><rt>たかお</rt></ruby>、<ruby><rb>足柄</rb><rt>あしがら</rt></ruby>、<ruby><rb>羽黒</rb><rt>はぐろ</rt></ruby>などの一万噸巡洋艦は、グングン接近して行った。<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>と<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>うは、レキシントン級の、大航空母艦であった。

しかし、米国の誇りとする軽巡洋航空母艦隊は<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>くその<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てを知って、ますます空中に数を増す空軍の中から、快速力と爆撃力とに優れたカーチスの攻撃機隊の六隊四十二機に命令して、那智、羽黒の艦上に襲いかからしめた。

これを見て取った我が<ruby><rb>竜城</rb><rt>りゅうじょう</rt></ruby>に属する三六式戦闘機隊は、二十四機が翼を揃えて、見る見る<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にカーチス機隊の上空を指して急行した。

敵のボーイング機隊が、北方に流れる<ruby><rb>浮雲</rb><rt>うきぐも</rt></ruby>の中から現われて、これを圧迫する態度を示した。

その隙に大航空船メーコン号、ラオコン号の側面に我が飛行艇隊が近づいて行った。メーコンとラオコンとの<ruby><rb>艦腹</rb><rt>かんぷく</rt></ruby>に開く強力なる機関砲は、鼻を並べて、<ruby><rb>殷々</rb><rt>いんいん</rt></ruby>たる砲撃を開始した。

日米両艦隊の戦闘は、いまや順序を捨て、予測を裏切り、いずれが進むか<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くか、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに計り知ることの出来ない疑問符号に包まれた。

胸をふさぐような<ruby><rb>煙硝</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の臭い、叫び声をあげて<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ける砲弾、悪魔が大口を開いたような砲弾の炸裂、<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>に飛び散る真紅な鮮血と<ruby><rb>肉塊</rb><rt>にくかい</rt></ruby>、白煙を長く残して海中に墜落してゆく飛行機、<ruby><rb>波浪</rb><rt>はろう</rt></ruby>に<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まれて沈没してゆく艦艇から立昇る真黒な重油の煙、<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>に<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>を<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>し<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>すような砲声、壁のように眼界を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>る真黄色の煙幕、――戦闘は刻々に狂乱の度を加えて行った。

その頃、米国艦隊の主力は、十六隻の<ruby><rb>単横陣</rb><rt>たんおうじん</rt></ruby>を作り、最も後方にいたが、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く三万五千メートルの<ruby><rb>射程</rb><rt>しゃてい</rt></ruby>に入ろうとして、<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら注意力を、前方に送っていた。

<ruby><rb>旗艦</rb><rt>きかん</rt></ruby>セントルイスの司令塔の奥深く、聯合艦隊司令長官ブラック<ruby><rb>提督</rb><rt>ていとく</rt></ruby>は、移りゆく戦況を、主要なる艦艇から送られているテレヴィジョンによって、注目していた。

「戦況を、五分五分に保ち得ているところを考えると、最後の勝利は、わがアメリカに在ることが<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>じゃ」提督は静かに<ruby><rb>幕僚</rb><rt>ばくりょう</rt></ruby>を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みて云った。

「同感申しあげます、我等の閣下」

「わが空軍の活躍は、アクロン号、いや、こいつは、間違った――ロスアンゼルス、バタビウス、サンタバーバラの飛行船隊と<ruby><rb>合</rb><rt>がっ</rt></ruby>することによりて、絶頂に達することじゃろう。この空軍だけでも日本全土を、征服してしまうことは、訳のないことじゃ。艦隊の主力たる我が艦列の、彼に<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>ること一倍半なることは、<ruby><rb>此後</rb><rt>このご</rt></ruby>の戦況に、大発展を予約しているものじゃ。要するに日本海軍というも、日本人というも、栄養不良のヒステリー見たいなものだ。<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>を見い。あれだけの日本人が居ってグウの音も出ないじゃないか。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も我が米軍の警戒も、完全にやっているせいもあるが、そこへ持ってきて、此の海戦地点たるや日本の海岸を去る七百キロという近さじゃ。ちょいと手を伸ばせば、日本の本土に手が届く。艦上機も、着艦の心配は無用じゃ、一と思いに、日本の飛行場を占領して降りればよい」

「ですが、閣下、日本の飛行場は、<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>我等の飛行機全部を収容しきれんだろうと考えますが……。例えばハネダ飛行場にしましても……」

ここまで<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってきたとき、けたたましいベルが鳴り渡ると<ruby><rb>共</rb><rt>とも</rt></ruby>に、コロラドと書いた名札の下に、赤いパイロット・ランプが点いて、専属高声器が、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てふためいた人声を発した。

「<ruby><rb>提督閣下</rb><rt>ていとくかっか</rt></ruby>。わがコロラドは、急速に沈下しつつあります。機雷に懸ったものか、魚雷を受けたものか、附近の兵員からの報告がありませんので、目下取調べ中であります」

「なに、コロラドが、沈没を始めた。何を油断していたのじゃ」

そこへまた、チリリリリとベルが、鳴って、其の隣りのウェスト・バージニアのところに、赤いランプがついた。

「こちらは、ウェスト・バージニアです。唯今潜水艦から、魚雷を喰ったようであります。<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに救援隊を御派遣ねがいたい」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な奴じゃ」提督は、いよいよ<ruby><rb>苦虫</rb><rt>にがむし</rt></ruby>を噛んだような顔をした。演習ではあるまいし、救援が出来るものか。それにしても潜水艦とは、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいな、敵の潜水艦は、先刻からみているが始めの位置を動いたのは、<ruby><rb>一隻</rb><rt>いっせき</rt></ruby>も居ない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>じゃが……

提督が、不審顔で、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>に手を当てた其の瞬間だった。

めり、めり、めりッ――

司令塔が、馬の背から振り落されでもしたかのように、ひどい傾斜と共に、ガラガラと器物が転落を始めた。

「ど、どうしたッ」提督は、思わず椅子の上から突立って、サッと顔色を変えた。

「日本の潜水艦だッ」

「もう二分と経たない間に沈んでしまうぞ」同室の将校達は、<ruby><rb>奇声</rb><rt>きせい</rt></ruby>をあげて、非常梯子の<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>り<ruby><rb>金棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>に飛びつくと<ruby><rb>吾勝</rb><rt>われが</rt></ruby>ちに、第一<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の方を目懸けて、降りて行った。

提督は一人残されてしまった。高声器が間に合う筈だったのに、今日に限って、ウンともスンとも鳴らない。彼は<ruby><rb>覚悟</rb><rt>かくご</rt></ruby>を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めて、安全<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の貼ってある窓の傍に駈けつけた。そのとき下から、三等水兵が、真赤な顔をして上ってきた。

「閣下、本艦は日本潜水艦に、<ruby><rb>舵器</rb><rt>だき</rt></ruby>を半数破壊されました。<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って速力が半分に減じまするから、至急、隣に居りますソルトレーキへ御移りを願います」

「なに、本当に潜水艦か！　おお、あすこの水面へ浮び上った。<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ、イ型一〇一号⁉　すると<ruby><rb>曩</rb><rt>さき</rt></ruby>にカリフォルニアの沖合で、襲来した自由艦隊の生き残りじゃな。あのとき一〇一号は射ち止めたと思ったのに……」

「閣下、お早くねがいます」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことを云え。砲術長は何をしているのじゃ。あの潜水艦を、何故早く射撃しないのじゃ。あれがマゴマゴしている<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、<ruby><rb>旗艦移乗</rb><rt>きかんいじょう</rt></ruby>なんて、どうして出来るものか」

司令塔の外へ出てみると、混乱は更にひどかった。主力艦の列を、背後から不意に、まったく勘定に入れてなかった幽霊潜水艦隊から攻撃をうけたものであるから、驚くのも無理ではなかった。

ひょっくり現れた伊号一〇一潜水艦は、大胆不敵にも、大混乱を始めている主力艦の後方に浮び上り、永らく中絶していた味方の艦隊との連絡をつけるために、<ruby><rb>搭載</rb><rt>とうさい</rt></ruby>していた飛行機を送り出すと、<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>も<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに、再び水底深く潜航して行った。

潜水艦から離れた艦上機の操縦席についていたのは、<ruby><rb>別人</rb><rt>べつじん</rt></ruby>ならぬ<ruby><rb>花川戸</rb><rt>はなかわど</rt></ruby>の<ruby><rb>鼻緒問屋</rb><rt>はなおどんや</rt></ruby>の二番息子の<ruby><rb>直二</rb><rt>なおじ</rt></ruby>であった。前に戦死と<ruby><rb>認知</rb><rt>にんち</rt></ruby>されて、死亡通知の発せられた<ruby><rb>幽霊人</rb><rt>ゆうれいじん</rt></ruby>だった。しかし彼は<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>いた艦と共に、辛苦を分かち、<ruby><rb>墨西哥</rb><rt>メキシコ</rt></ruby>の<ruby><rb>某港</rb><rt>ぼうこう</rt></ruby>によって秘かに艦の修理に従事し、その完成を待って、再び太平洋の海底にもぐり、僚艦と一緒に、秘密の行動についていたのであった。

直二と先任将校の乗っている艦上機は、予定通り、近所を航進中の、駆逐艦<ruby><rb>山風</rb><rt>やまかぜ</rt></ruby>に救い上げられた。山風は直ちに隊列を離れて、<ruby><rb>旗艦陸奥</rb><rt>きかんむつ</rt></ruby>に向けて急航して行った。やがて彼等は、<ruby><rb>大鳴門</rb><rt>おおなると</rt></ruby>司令長官の前に立って、米国艦隊の退路を絶つ機雷の<ruby><rb>敷設</rb><rt>ふせつ</rt></ruby>状況と、なお<ruby><rb>布哇</rb><rt>ハワイ</rt></ruby>攻略の機が如何に熟しているかを、<ruby><rb>審</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さに報告することであろう。

それは後のこととして、主力艦を<ruby><rb>瞬時</rb><rt>しゅんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、三隻までも失った米艦隊は、やっと東洋遠征に誤算のあったことを気付いた。と云って、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで来て引上げることは許されないことであった。ブラック提督は、海軍の敗戦を、何とかして、空軍の強襲によって、取戻そうと決心した。

彼は<ruby><rb>厳然</rb><rt>げんぜん</rt></ruby>たる威容を、とりもどして、即時全空軍に命令を発した。

「今より吾が米国聯合艦隊所属の空軍二千機は、一機をも<ruby><rb>剰</rb><rt>あま</rt></ruby>すところなく直ちに艦上を離れ、空中に於て強行戦闘隊形を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>え日本艦隊及びそれに属する空軍とを撃破し、以て吾が艦隊の不利なる戦績を<ruby><rb>救済</rb><rt>きゅうさい</rt></ruby>すべし。<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>余力</rb><rt>よりょく</rt></ruby>あるに於ては、長駆カシマ<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>よりトーキョー湾に進撃し、首都トーキョー及びヨコハマの重要地点を攻撃すべし。ブラック提督」

この一大決心を含めた命令が各隊に伝わると、飛行隊の将卒は、非常なる感激に打たれた。六対十の比率に安心していたのも<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく、今自分達が出て奮戦しないと、この<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>懐しい故郷へ帰れないことになるらしいのであった。残された唯一つのチャンスを<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むことについて、不熱心になるものは誰一人として無かった。

「さア、ジャップの奴を、のしてしまえ」

「行こう、行こう。メリーのために」

<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち米艦隊の真上には、<ruby><rb>蜜蜂</rb><rt>みつばち</rt></ruby>の巣を<ruby><rb>突</rb><rt>つつ</rt></ruby>いたように、二千台の戦闘、偵察、攻撃、爆撃のあらゆる種類を集めた飛行機が一斉に飛び上った。天日は俄かに暗くなった。

これに対して、精鋭を<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われた皇軍の飛行機は、三百台ばかりが飛んでいたが敵の大空軍に較べて、なんと<ruby><rb>見窄</rb><rt>みすぼら</rt></ruby>しく見えたことであったか。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に沈着剛毅な海軍軍人たちもこの明かな数量の上の不釣合に重苦しい圧力を感ぜずにはいられなかった。

勝敗は、<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>へ行く？

愛国者よ<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>れ

千葉県を横断して、茨城県に通ずる幅の広い県道を、風を<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>って<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>する一台の幌自動車があった。スピード・メーターの指度は四十<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>と四十五哩との間に<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>めいているほどの恐ろしい高速度であった。

「もう水戸が見える筈だ」そう云ったのは、賊を追って、お茶の水の<ruby><rb>濠傍</rb><rt>ほりわき</rt></ruby>から、戸波研究所の地下道を突撃して行ったことで<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじみ</rt></ruby>の、参謀<ruby><rb>草津</rb><rt>くさつ</rt></ruby>大尉であった。

「まだ飛行機は見えないようですな」<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>り<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>されるような<ruby><rb>窓外</rb><rt>そうがい</rt></ruby>へ首を出したのは、例の私立探偵帆村荘六に<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならなかった。

「ねえ帆村さん」もう一つの声が、隅ッ子のクッションから聞こえた。大きな<ruby><rb>図体</rb><rt>ずうたい</rt></ruby>の男、それは戸波博士の用心棒だった筈の山名山太郎であった。「先生は、大丈夫でしょうな」

「なんとも云えない」帆村は、唇を僅かに<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>ばして云った。「なにしろ用心棒の山名山太郎氏が傍にいないものだからネ」

「もうそいつは言いっこなしにしましょう」

山太郎は<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りわるそうに頭を抱えた。

どうやら一行の目的は、国宝の科学者戸波博士を捜し出そうということにあるらしい。

「茨城県磯崎に『<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>』の巣を見付け出したのは、何といっても<ruby><rb>驚嘆</rb><rt>きょうたん</rt></ruby>すべきお手柄だ」草津大尉は、前方を注視しながら、<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように云った。

「いやそれは二人の女性の手柄なんです。一人は危険を覚悟で『<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>』の<ruby><rb>身辺</rb><rt>しんぺん</rt></ruby>につきまとっている<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>というモダン娘、もう一人は、紅子の密書を拾って<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く僕のところへ通報して寄越した<ruby><rb>真弓</rb><rt>まゆみ</rt></ruby>という若い女」

「ほほう、密書を拾って通報したのは女性なのかい。しっかりした女だなア」

「……」探偵は無言で<ruby><rb>微苦笑</rb><rt>びくしょう</rt></ruby>をした。「僕は結局大した働きもしませんでしたよ。<ruby><rb>磯崎</rb><rt>いそざき</rt></ruby>のジュラルミン工場のオヤジが、<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>であることを偶然発見したこと位です」

「あれは特筆すべきお手柄だったが、よく判ったものだね」

「草津大尉どの。太平洋戦争の其後の模様はどうなりました？」

「偵察機隊が火蓋を切ったそうだ。海軍の<ruby><rb>策戦</rb><rt>さくせん</rt></ruby>が図に当って、敵軍は<ruby><rb>稍疲</rb><rt>ややつか</rt></ruby>れが見えるそうだ。しかし勝敗はまだどこへ行くとも判っていない。だが少くとも戸波博士を、ここ一二時間の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に奪還できない限り、帝国の勝算は<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない」

「先生を悪人が殺すようなことは、<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>ぇでしょうか」

山太郎が又心配した。

このとき前方に注目していた帆村探偵が、突然叫んだ。

「草津さん、妙なものが、向うからやって来ますぞッ」

「ほほう、ありゃ牛乳運搬自動車らしいな」

「ところが大尉どの、御覧なさい、牛乳車の癖に<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にスピードを出していますよ」

「五十<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>は出していますよ」運転手が云った。「すこし危いですが、この調子でつっぱしらせてようございますか」

「構わん、やれッ」

「承知しましたッ」運転手は巧みに<ruby><rb>把手</rb><rt>ハンドル</rt></ruby>を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>った。彼の<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>には、<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>が浮んで<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>てタラタラ流れ出した。

距離はだんだん迫って来た。

二千メートル、千メートル、五百メートル……。

「呀ッ、『<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>』の奴だ！」帆村が躍りあがって叫んだ。

「なに、ウルフかッ」大尉は叫んだ。「後藤、力一杯ブレーキをかけて左側の<ruby><rb>水田</rb><rt>すいでん</rt></ruby>の中へ自動車を入れろッ」

そう命令すると、大尉は座席の横から一<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えもある<ruby><rb>鎖</rb><rt>くさり</rt></ruby>を、<ruby><rb>車外</rb><rt>しゃがい</rt></ruby>に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>した。途端に、車体はぐぐッと曲った。そして、大きな水煙りをあげると、どすンと水田の中に、急停車した。

「それッ、皆、飛び出せッ」

出てみると、そこから三百メートルと<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>っていないところに「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の乗っていた牛乳自動車が車輪に<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>の出ている<ruby><rb>鎖</rb><rt>くさり</rt></ruby>を<ruby><rb>搦</rb><rt>からま</rt></ruby>せ水田の中に頭部を突入して動かなくなっていた。

駈けつけてゆく<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、牛乳車の<ruby><rb>函車</rb><rt>はこぐるま</rt></ruby>が内からパクリと開いて牛乳缶の代りに、四五人の怪漢が、ドッと飛び出して来た。言わずと知れた「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の配下の者だった。

「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」も運転台から、泥まみれになって降りて来た。その手には、ブローニング<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を握って、こっちを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで立った。

こっちには、後藤運転手の手に、<ruby><rb>軽機関銃</rb><rt>けいきかんじゅう</rt></ruby>が握られていた。

「手をあげろッ」大尉は<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

いくら大胆不敵な<ruby><rb>者共</rb><rt>ものども</rt></ruby>であっても、機関銃には<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>う筈が無かった。彼等は、静かに手をあげた。

「オイ<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」大尉は降服者の前に立った。「いよいよお気の毒な運命になったネ。ところで戸波博士を渡して貰いたい」

「戸波博士は<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなられた」<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>が沈痛な面持をして答えた。

「えッ、博士は亡くなられたというのか。帝国の運命は、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>にああ……」

「莫迦を云うなッ、<ruby><rb>卑劣漢</rb><rt>ひれつかん</rt></ruby>」<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>のうしろから帆村が<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「大尉どの、博士は健在です。牛乳車の奥に、監禁されていましたぞォ」

「なに、博士が……」

なるほど<ruby><rb>頤髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>に<ruby><rb>見覚</rb><rt>みおぼ</rt></ruby>えのある戸波博士が、帆村の手によって牛乳車の中から助け出されていた。

「やッ」どこに<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>を見出したのか、「狼」は大尉の脇の下をくぐって、猛然と博士の方へ飛び掛った。

「なにをッ」山太郎が横合いからムズと組付いた。

この機会を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>してはというので「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の配下は、一度に反抗してきた。<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>機関銃もピストルも間に合わなかった。敵味方は肉体を以て相手の上に迫って行った。

乱闘、<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>、大乱闘。

どこから飛んで来たのか、乱闘の現場に近く、一台の偵察機が、低く<ruby><rb>舞</rb><rt>ま</rt></ruby>い<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>って来た。誰も気付かぬ<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、機体からスルスルと、<ruby><rb>縄梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>が下ろされ、やがて飛行服に身を固めた人が、機上から姿を現わすと、一段一段と、梯子を下りて行った。とうとう一番下の段まで来たときに、上を向いて合図をした。

この不思議な飛行機は、宙乗りの人物を釣り下げた儘、乱闘の<ruby><rb>真唯中</rb><rt>まっただなか</rt></ruby>を目懸けて、いよいよ低く舞い下ってきた。プロペラを急に停めたのは、速度を下げるためだと思われたが、何という大胆な<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>であろう。一体、何をしようというのか。

敵も味方も、突然飛びこんで来た怪物に、ソレと気がついて<ruby><rb>逡</rb><rt>たじろ</rt></ruby>いだ。

「<ruby><rb>呀</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ」

という瞬間に、宙乗りの人物は、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>を横にグッと伸ばすと、戸波博士をヤッと抱きあげた。博士の両足は、地上を離れた。

それを合図のように、飛行機は、又<ruby><rb>漠々</rb><rt>ばくばく</rt></ruby>たるプロペラの響をあげ、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられている「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の一団を尻目に、悠々と空中へ舞い上っていった。

「これで、祖国は救われたッ」

草津大尉が、沈痛な声を発して、ハラハラと涙を流した。

「さア、これで安心して、やっつけてやるぞオ」山太郎が「<ruby><rb>狼</rb><rt>ウルフ</rt></ruby>」の腕をねじあげた。

「大尉どの、磯崎へ急ぎましょう。どんなものを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えているか、心配です」そういったのは帆村探偵だった。

陸軍偵察機の縄梯子の上では、戸波博士と警備司令部の快漢塩原参謀とが、感激の色を浮べて、挨拶を<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わしていた。

<ruby><rb>空襲葬送曲</rb><rt>くうしゅうそうそうきょく</rt></ruby>

<ruby><rb>磯崎</rb><rt>いそざき</rt></ruby>神社前の<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>に組立てられた高さ五十尺の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の上には、薄汚れた一枚の<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を敷いて、<ruby><rb>祖父</rb><rt>そふ</rt></ruby>と孫とが、抱き合っていた。

「三ちゃんや、まだ何にも見えないかい」眼の不自由な老人が、優しく<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うん、まアだ、何にも見えないよ。おじいちゃんのお耳にはまだ飛行機の音は聞えないの」

三吉は大きな黒眼をグルグル動かして、下から祖父の顔を見上げた。

「飛行機の音はしないけれどネ、大砲の音はだんだん近くなって来たよ。プロペラの音は小さいから、飛んでいても中々区別がつかないのだよ。三ちゃん、見落さないように、左から右へと、ソロソロ見廻わしているのだよ」

「ああ、いいよ。僕、早く見付けて、伯父さんの<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えたこの電話機でネ、東京に住んでいる人と話をしたいの」

「そうか、そうか」

「さっき僕と話をした東京の人は、お姉ちゃんだったよ」

「電話局の交換手さんだからネ、交換手はお姉ちゃんに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っているのだよ」

「そのお姉ちゃんに僕、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみたの。お姉ちゃんには、お母ちゃんと、そいからお父ちゃんもいるのッて<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたらネ……」

「うん」

「お父ちゃんも、お母ちゃんも居る筈なんだけれどネ、アメリカの飛行機が爆弾を落として、お家を焼いちゃったもんだからネ、どこへ行っちゃったか、判らないのッて云ってたよ。<ruby><rb>可哀想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>だねーェ」

「――オヤ、これは……。おう、プロペラの音が聞こえる」

「ああ、見える、見える。一つ、二つ、三つ……」

「方角は、<ruby><rb>真東</rb><rt>まひがし</rt></ruby>。おや、こっちの方にも聞こえる。三ちゃん。<ruby><rb>船神磯</rb><rt>せんじんいそ</rt></ruby>の方には、何か見えないかい」

「船神磯の方？　ああ、来たよ来たよ。飛行船が三つ――随分高く飛んでいるよ。おじいちゃん、電話を懸けていい！」

「そうじゃ、そうじゃ。間違うといけないから、落着いて掛けるのだよ」

<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>うえ</rt></ruby>に、リリリリンと、可愛いい<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>よびりん</rt></ruby>の音がした。盲目の老人と、幼い子供の協力によって、警報は発せられた。真東から襲いかかるは、太平洋戦<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れの、爆撃隊であろう。北の方から、しずしずと下って来るのは、アラスカを通ってきた飛行船隊に違いない。<ruby><rb>磯崎岬</rb><rt>いそざきみさき</rt></ruby>の、この<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なる防空監視哨は、思い懸けない大手柄を<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>てた。少くとも三百万の帝都人は、直ちに、避難と防毒の手配に着手することができた。<ruby><rb>所沢</rb><rt>ところざわ</rt></ruby>と<ruby><rb>立川</rb><rt>たちかわ</rt></ruby>との飛行聯隊、<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>と<ruby><rb>追浜</rb><rt>おっぱま</rt></ruby>の海軍航空隊、それから東京愛国防空隊の二十機は、一斉に飛行場から空高く舞い上った。

<ruby><rb>白日</rb><rt>はくじつ</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>の大空襲！

二千機に余る精鋭なる米国空軍の襲来！

十五万<ruby><rb>瓩</rb><rt>キロ</rt></ruby>の爆弾を抱えた悪魔空中艦隊！

この大空襲の報を耳にした帝都の住民の顔色は、其の場に紙の如く<ruby><rb>青褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>めたであろうか。

<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>！　否！

先の空襲で、全市に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>る爆撃をうけたときは、覚悟していた以上の<ruby><rb>惨害</rb><rt>さんがい</rt></ruby>を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ったので、一時は気が変になったほどだった。しかし、自分の懐かしい家は無くなり、美しい<ruby><rb>背広</rb><rt>せびろ</rt></ruby>も、<ruby><rb>丹精</rb><rt>たんせい</rt></ruby>した<ruby><rb>盆栽</rb><rt>ぼんさい</rt></ruby>も、振りなれたラケットもすべて赤い<ruby><rb>焼灰</rb><rt>やけばい</rt></ruby>に変ってしまったことがハッキリ頭に入ると、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って不思議にも<ruby><rb>胆力</rb><rt>たんりょく</rt></ruby>が<ruby><rb>据</rb><rt>すわ</rt></ruby>ってきた。

こうなったら、非戦闘員も、戦闘員もあるものか。男も女も無い。子供も老人もない。障害者も病人もない。銃の引金を引く力の残っている者は、銃をとって前線に出ろ！　防毒薬のバケツを下げる力のある者は、救護班に参加しろ！

――こうして、第一回の空襲によって<ruby><rb>大和魂</rb><rt>やまとだましい</rt></ruby>を取戻した市民たちは、眼の寄るところへ<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>の<ruby><rb>比喩</rb><rt>たとえ</rt></ruby>で、だんだんと集り、<ruby><rb>義勇隊</rb><rt>ぎゆうたい</rt></ruby>を組織して行った。それには出征に、取残された男は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>のこと、女もあれば、老人もあった。帝都の秩序は、平時以上に恢復した。涙を流している者は、一人も見当らなかった。皆が皆、燃えるような愛国心、鉄のような忍耐心を持って兇暴な敵の空襲に立ち向ったのであった。

国民のこの盛んなる意気は、敵艦敵機を向うに廻して奮戦している太平洋上のわが兵員の上にも、響いていった。

攻撃力の弱い旧型<ruby><rb>駆逐艦</rb><rt>くちくかん</rt></ruby>の如きは、敵の航空母艦に撃沈されるのは覚悟の上で、それでも万一<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>があって撃沈までの時間が伸びるようだったら、その機を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>さず、<ruby><rb>下瀬火薬</rb><rt>しもせかやく</rt></ruby>のギッシリ<ruby><rb>填</rb><rt>つま</rt></ruby>った<ruby><rb>魚雷</rb><rt>ぎょらい</rt></ruby>を敵艦の<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>に叩き込もうと、突進して行った。

潜水艦の機関兵員は、<ruby><rb>熱気</rb><rt>ねっき</rt></ruby>に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>された真赤な<ruby><rb>裸身</rb><rt>らしん</rt></ruby>に疲労も<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず、エンジンに全速力をあげさせ、<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>のように<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な運動を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>りながら、五度六度と、敵の艦底を潜航し、沈着な水雷手に都合のよい射撃の機会を与えたのだった。

<ruby><rb>砲熕</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>の前へ、ノコノコ現われて、敵弾から受けた損傷の程度を調べに行った水兵があった。

一番砲手も、二番砲手も、皆倒れてしまうと、その後から信号兵が一人現れて、<ruby><rb>不慣</rb><rt>ふなれ</rt></ruby>な砲撃を続けたという話もあった。

だが、どうにもならなくなったのは、敵の空軍の圧倒的<ruby><rb>偉力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>だった。

敵艦を沈没させるのは自信があったが、敵機を射ち落すことは、中々うまくゆかなかった。そのうちに、味方の飛行隊の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>って押し寄せた爆撃隊から、多量の爆弾が切って落されると、<ruby><rb>偉力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>を誇る十六<ruby><rb>吋</rb><rt>インチ</rt></ruby>砲も、<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>のように曲ってしまった。

この調子が永く続くと、敵艦隊を圧迫した我が艦隊は、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に反対の悲運に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>らなければなるまいと思われた。

「見ちゃいられんな」<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の艦上三千メートルの上空に、戦闘機を操縦し、防戦につとめている千手大尉が舌打ちした。

「いまいましいメリケン空軍の<ruby><rb>奴原</rb><rt>やつばら</rt></ruby>だ」

その<ruby><rb>慄悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>なる敵機の一隊は、目標を旗艦<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>に向けて、突入してきた。

「やってきたなッ。吾輩の射撃の腕前を知らないと見えるな」

千手大尉は、照準を敵機の司令機の重油タンクの附近につけた。出来るなら、陸奥の艦上から、敵機を離したいと思ったが、それは<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って容易に、敵の爆撃に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せるようなものであった。万一のことを思うと、<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>としないわけに行かなかった。

（<ruby><rb>旗艦</rb><rt>きかん</rt></ruby><ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>が、爆沈されたらば、わが艦隊の士気は、どんなに<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>われることだろう！）楽天家の大尉も、今日ばかりは、不安に思わずにはいられなかった。

だが、事ここに至って、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>はいけない。

「戦闘用意！」大尉は、僚機の方へ、手を振って合図をした。

「戦闘始めイッ！」

エンジンを全開にして、宙返りの用意を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>えながら、全速力で敵機へ突入した。

敵は早くも機首を下げて、襲撃の形を示した。

そのとき、極めて不思議なことが起った。まだ二<ruby><rb>聯装</rb><rt>れんそう</rt></ruby>の機関銃の引金を引かないのに、向ってきた敵機は、爆弾でも叩きつけられたかのように、機翼全体に拡がる真赤な火焔に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まれ、木の葉のように、海上目懸けて、墜落して行った。大尉は、まるで狐につままれたような気がした。始めて気がついて、すこし遠くの空間を見廻わすと、これはどうしたというのだろう。あちらでもこちらでも、まるで<ruby><rb>松明行列</rb><rt>たいまつぎょうれつ</rt></ruby>を見るように、米軍の大小の飛行機が、火焔に包まれ、真黒な煙を<ruby><rb>蒙々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と空中に噴き出しながら、海面へ向けて、落ちて行くのが見えた。

途端に――

「ぶわーッ」

大尉は<ruby><rb>機胴</rb><rt>きどう</rt></ruby>に、恐ろしい衝動を感じた。

「やられたかッ」

大尉は、それでも、反射的に<ruby><rb>水平舵</rb><rt>すいへいだ</rt></ruby>を引いた。

「おお、あれはメーコン号だッ」

覚悟をした大尉の戦闘機は、何の苦もなく<ruby><rb>平衡</rb><rt>へいこう</rt></ruby>をとりかえし、何事も無かった。

大尉を驚かせたのは、米艦隊の<ruby><rb>最上</rb><rt>さいじょう</rt></ruby>の空に、<ruby><rb>守</rb><rt>まも</rt></ruby>り<ruby><rb>神</rb><rt>がみ</rt></ruby>のように<ruby><rb>端然</rb><rt>たんぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>游泳</rb><rt>ゆうえい</rt></ruby>をつづけていたメーコン号が、一団の火焔となって、焼け墜ちてゆくのを発見したことだった。

「うん、判ったぞオ。これは<ruby><rb>怪力線</rb><rt>かいりょくせん</rt></ruby>に違いない。<ruby><rb>噂</rb><rt>うわ</rt></ruby>さに聞いた怪力線の出現。ああ、そうだ。紙洗大尉の奴、井筒副長から何か言われてたっけが、あれが『<ruby><rb>天佑</rb><rt>てんゆう</rt></ruby>』の<ruby><rb>正体</rb><rt>しょうたい</rt></ruby>なんだな」

真下を見ると、陸奥の<ruby><rb>艦橋</rb><rt>かんきょう</rt></ruby>に、何だか見慣れない奇妙な形の器械が、クルクルと廻転しているのが見えた。そうだ。<ruby><rb>佐世保</rb><rt>させぼ</rt></ruby>軍港で、<ruby><rb>得態</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れぬ兵器を<ruby><rb>搬入</rb><rt>はんにゅう</rt></ruby>したことがあったが、あれに違いない。

ああ、新兵器、怪力線！

<ruby><rb>皇国</rb><rt>こうこく</rt></ruby>は美事に<ruby><rb>救</rb><rt>すく</rt></ruby>われた。

怪力線の発明者は誰だ。

<ruby><rb>千手</rb><rt>せんじゅ</rt></ruby>大尉は、旗艦陸奥を呼ぶために、短波のラジオ受信機のスイッチを入れた。

するとどうした具合であったか、感激に満ちた若い女性の声が聞えて来た。

「おや、この戦争の<ruby><rb>真唯中</rb><rt>まっただなか</rt></ruby>だというのに、婦人が一体何を放送しているのだろう？」

人一倍、<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>ものの千手大尉は、それをよく聞いてみるつもりで、ダイヤルをグッと廻した。厚い飛行帽の中にとりつけられた受話器には、手に取るような、その女性の言葉が聞えてきたのだった。

「――皆さん、わが帝国は、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に勝ちました。さしも世界に誇った米国の太平洋大西洋の聯合艦隊も、わが海軍の沈着な戦闘によって、半数は、太平洋の海底深く沈み、残りの半数は戦闘力を失い、或は<ruby><rb>白旗</rb><rt>はっき</rt></ruby>をあげて降服いたしました。遠く北満ではわが精鋭なる陸軍の奮戦によりまして労農ロシア軍を、<ruby><rb>興安嶺</rb><rt>こうあんりょう</rt></ruby>の彼方遠く撃退することが出来ました。それから、米国の大艦隊に従い、日本へ攻め寄せて来た二千台の大空軍はどうなったでしょうか。又アラスカ半島から襲来して参りました大飛行船隊はどうなったでございましょうか。それは、わが陸海軍の航空隊と、私達の持って居ります愛国防空隊との活躍によって多大の<ruby><rb>損傷</rb><rt>そんしょう</rt></ruby>を与えることが出来ましたが、しかし最後の一戦を<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>んで帝都へ押寄せて来ました飛行船飛行機の数は、<ruby><rb>無慮</rb><rt>むりょ</rt></ruby>一千五百機。これを撃破するには、あまりに手薄いわが空軍の勢力でございました。ところが、皆さんが唯今帝都の上空に於て、<ruby><rb>親</rb><rt>した</rt></ruby>しく御覧になりましたとおり、あの巨人のようなロスアンゼルス以下の飛行船も、ボーイング、カーチスの優秀飛行機も、ボール紙が燃えるように一瞬の間に焼け落ちてしまったのでございます。ああ、これは何という奇蹟でございましょう。しかし皆さん、これは奇蹟などという馬鹿げたものではございません。これこそ吾が科学界の<ruby><rb>明星</rb><rt>みょうじょう</rt></ruby>、戸波博士の御発明になる<ruby><rb>怪力線</rb><rt>かいりょくせん</rt></ruby>の<ruby><rb>偉力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>でございます。しかし博士は<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>されて申されます。怪力線はほんのお手伝いをしたのに過ぎない。本当に<ruby><rb>外敵</rb><rt>がいてき</rt></ruby>を撃退し得た力は、伝統を誇るわが陸海軍々人の勇敢なる戦闘力と、その背後に控えた国民の覚悟と協力、ことに防空問題についての理解と準備とが十二分に行われた結果であると申されます。その辺の判断は、皆さんのお<ruby><rb>心委</rb><rt>こころまか</rt></ruby>せとし、いまや太平洋を征服し、東洋民族の<ruby><rb>盟主</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>として仰がれることになりました新日本の<ruby><rb>光輝</rb><rt>こうき</rt></ruby>ある<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>を迎えるに当り、その<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>き犠牲となったわが戦士と不幸な市民たちを<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>い、又アメリカ主義に<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされて西太平洋の鬼となった米軍の空襲勇士たちのために、前に聞かせて頂いた空襲葬送曲を、<ruby><rb>唯今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>放送を以て、遠く米国本土にまで、お返ししようと思うのでございます。――」

ショパンの、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>つような、悲痛なメロデーに充ちた葬送行進曲が、ピアノの<ruby><rb>鍵盤</rb><rt>キイ</rt></ruby>の上から、静かに響いて来た。

涙をソッと押さえてＪＯＡＫのスタディオに<ruby><rb>弾</rb><rt>だん</rt></ruby>ずるのは、奇しい運命の下に活躍した<ruby><rb>紅子</rb><rt>べにこ</rt></ruby>だった。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か<ruby><rb>一旬</rb><rt>いちじゅん</rt></ruby>のうちに、弦三と素六の兄弟と、優しい母と姉とを<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>った彼女は、この次の、父の誕生日に集るであろうところの、僅か半数になった家族のことを想って、胸のせまるのを覚えた。

しかし戦死したと思った伊号一〇一乗組の、紅子の大好きな<ruby><rb>直二</rb><rt>なおじ</rt></ruby>兄が、無事な姿をひょっくり現わすだろうことを思えば、いつとはなしに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>まれて来るのであった。