Soranoha

朱日記

しゅにっき

泉 鏡花

一

「小使こづかい、小ウ使。」

程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静しずかに教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面ひげづら……というが頤あご頬ほおなどに貯えたわけではない。不精で剃刀かみそりを当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭ごましおあたまで、眉の迫った渋色の真正面まっしょうめんを出したのは、苦虫と渾名あだなの古物こぶつ、但し人の好いい漢おとこである。

「へい。」

とただ云ったばかり、素気そっけなく口を引結んで、真直まっすぐに立っている。

「おお、源助か。」

その職員室真中まんなかの大卓子おおテエブル、向側の椅子いすに凭かかった先生は、縞しまの布子ぬのこ、小倉こくらの袴はかま、羽織は袖そでに白墨摺ずれのあるのを背後うしろの壁に遣放やりぱなしに更紗さらさの裏を捩よじってぶらり。髪の薄い天窓あたまを真俯向まうつむけにして、土瓶やら、茶碗やら、解ときかけた風呂敷包、混雑ごったに職員のが散ちらばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱すずりばこを右手めてへ引附け、一冊覚書らしいのを熟じっと視ながめていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆たかい、髯の無い、頤おとがいの細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所ざいしょという教頭心得きょうとうこころえ。何か落着かぬ色で、

「こっちへ入れ。」

と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。

意味ありげな体ていなり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注させ、では無さそうな処から、小使もその気構きがまえで、卓子テエブルの角かどへ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、

「御用で?」

「何は、三右衛門さんえもんは。」と聞いた。

これは背の抜群に高い、年紀としは源助より大分少わかいが、仔細しさいも無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附そりつけた青道心あおどうしんの、いつも莞爾々々にこにこした滑稽おどけた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。

「同役(といつも云う、士さむらいの果はてか、仲間ちゅうげんの上りらしい。)は番でござりまして、唯今ただいま水瓶みずがめへ水を汲込くみこんでおりまするが。」

「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」

と云う。閉込しめこんだ硝子窓がらすまどがびりびりと鳴って、青空へ灰汁あくを湛たたえて、上から揺ゆすって沸立たせるような凄すさまじい風が吹く。

その窓を見向いた片頬かたほに、颯さっと砂埃すなほこりを捲まく影がさして、雑所は眉を顰ひそめた。

「この風が、……何か、風……が烈はげしいから火の用心か。」

と唐突だしぬけに妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。

「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」

と例の渋い顔で、横手の柱に掛かかったボンボン時計を睨にらむようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経たっていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻みつめたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。

そう言えば、全校の二階、下階した、どの教場からも、声一つ、咳しわぶき半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午ひるになる一時間ほど、寂寞ひっそりとするのは無い。――それは小児こどもたちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静しずかなほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻みつめても針はソッとも響かぬ。羅馬数字ロオマすうじも風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺ゆすって見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。

「もう、これ午餉おひるになりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸たぎらせましたが――いや、どの小児衆こどもしゅも性急で、渇かし切ってござって、突然いきなりがぶりと喫あがりまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷やけどを。」

「火傷を…うむ。」

と長い顔を傾ける。

二

「同役とも申合わせまする事で。」

と対向さしむかいの、可なり年配のその先生さえ少わかく見えるくらい、老実な語くち。

「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様あなたさま、水をフト失念いたしましたから、精々せっせと汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門さんえむにお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」

と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭かぶりを掉ふった。

「いや、三右衛門でなくってちょうど可いいのだ、あれは剽軽ひょうきんだからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」

出方が出方で、源助は一倍まじりとする。

先生も少し極きまって、

「もっとこれへ寄らんかい。」

と椅子をかたり。卓子テエブルの隅を座取って、身体からだを斜はすに、袴はかまをゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。

「卓子の向う前でも、砂埃すなッぽこりに掠かすれるようで、話がよく分らん、喋舌しゃべるのに骨が折れる。ええん。」と咳しわぶきをする下から、煙草たばこを填つめて、吸口をト頬へ当てて、

「酷ひどい風だな。」

「はい、屋根も憂慮きづかわれまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風ならいのこう烈はげしい事は、十年以来このかたにも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様あなたさま、もうこれ布子から単衣ひとえものと飛びまする処を、今日こんにちあたりはどういたして、また襯衣しゃつに股引ももひきなどを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠ふるつづらを引覆ひっくりかえしますような事でござりまして、ちょっと戸外おもてへ出て御覧ごろうじませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌しのぎ切れませんではござりますまいか。

三右衛門なども、鼻の尖さきを真赤まっかに致して、えらい猿田彦さるだひこにござります。はは。」

と変哲もない愛想笑あいそうわらい。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅べにが染にじむ。

「実際、厳きびしいな。」

と卓子テエブルの上へ、煙管きせるを持ったまま長く露出むきだした火鉢へ翳かざした、鼠色の襯衣しゃつの腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立ひったてるようにぐいと擡もたげて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張ふんばり、両腕をずいと扱しごいて、

「御免を被こうむれ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰ぶさただ。源助、当れ。」

「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日きのうにも塞ふさごうと思いました、部屋(と溜たまりの事を云う)の炉ろにまた噛かじりつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸かなひばしで炭を開あらけて、五徳を摺ずって引傾ひっかたがった銅の大薬鑵おおやかんの肌を、毛深い手の甲でむずと撫なでる。

「一杯沸たぎったのを注さしましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」

「源助、その事だ。」

「はい。」

と獅噛面しかみづらを後へ引込ひっこめて目を据える。

雑所は前のめりに俯向うつむいて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首がんくびを取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込つっこみ、

「閉込んでおいても風が揺ゆすって、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」

とまた一つ灰を浴あびせた。瞳ひとみを返して、壁の黒い、廊下を視ながめ、

「可いい塩梅あんばいに、そっちからは吹通さんな。」

「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達こだちの歩行あるいた跡は、平一面たいらいちめんの足跡でござりまするが。」

「むむ、まるで野原……」

と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、

「源助、時に、何、今小児こどもを一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜こづかいだまりへ遣やったっけが、何は、……部屋に居るか。」

「居おりまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」

三

「嬢ちゃん坊ちゃん。」

と先生はちょっと口の裡うちで繰返したが、直ぐにその意味こころを知って頷うなずいた。今年九歳ここのつになる、校内第一の綺麗きれいな少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?……

「しょんぼりしている。小使溜こづかいだまりに。」

「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有おっしゃったとばかりで、悄しおれ返っておりまする。はてな、他ほかのものなら珍らしゅうござりませぬ。この児こに限って、悪戯いたずらをして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐あぐらを掻かいて、火をほじりほじり、仔細しさいを聞きましても、何も言わずに、恍惚うっとりしたように鬱込ふさぎこみまして、あの可愛げに掻合かきあわせた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋あごを附着くッつけて、頻しきりとその懐中ふところを覗込のぞきこみますのを、じろじろ見ますと、浅葱あさぎの襦袢じゅばんが開はだけまするまで、艶々つやつや露も垂れるげな、紅べにを溶いて玉にしたようなものを、溢こぼれまするほど、な、貴方様あなたさま。」

「むむそう。」

と考えるようにして、雑所はまた頷く。

「手前、御存じの少々近視眼ちかめで。それへこう、霞かすみが掛かかりました工合ぐあいに、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」

「茱萸ぐみだ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体ていであった。

「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児こどもが夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。

青梅もまだ苦い頃、やがて、李すももでも色づかぬ中うちは、実際苺いちごと聞けば、小蕪こかぶのように干乾ひからびた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空あおぞらの下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々たわわな処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。

「家うちから持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児このお詫わびを、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日こんにちの処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀かわいや、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手もみでをする。

「どうだい、吹く事は。酷ひどいぞ。」

と窓と一所に、肩をぶるぶると揺ゆすって、卓子テエブルの上へ煙管きせるを棄すてた。

「源助。」

と再度更あらたまって、

「小児こどもが懐中ふところの果物なんか、袂たもとへ入れさせれば済む事よ。

どうも変に、気に懸かかる事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可いいが、と思うんだ。

昨日夢を見た。」

と注ついで置きの茶碗に残った、冷つめたい茶をがぶりと飲んで、

「昨日な、……昨夜ゆうべとは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」

「山道の夢でござりまするな。」

「否や、実際山を歩行あるいたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自おのずから得ている。私は本と首引くびッぴきだが、本草ほんぞうが好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々うかうかと谷々へ釣込まれて。

こりゃ途中で暗くならなければ可いいが、と山の陰がちと憂慮きづかわれるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」

四

「山時分じゃないから人ッ子に逢あわず。また茸狩たけがりにだって、あんなに奥まで行ゆくものはない。随分路みちでもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上よじのぼり、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜ゆうべは野宿かと思ったぞ。

でもな、秋とは違って、日の入いりが遅いから、まあ、可よかった。やっと旧道に繞めぐって出たのよ。

今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛きゃはんがけで、すたすた来ると、幽かすかに城が見えて来た。城の方にな、可厭いやな色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。

その内に、物見の松の梢こずえの尖さきが目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽みはらしの丘へ出る。……後は一雪崩ひとなだれにずるずると屋敷町の私の内へ、辷すべり込まれるんだ、と吻ほっと息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場ひとちょうばが、一方谷、一方覆被おっかぶさった雑木林で、妙に真昼間まっぴるまも薄暗い、可厭いやな処じゃないか。」

「名代なだいな魔所でござります。」

「何か知らんが。」

と両手で頤あごを扱しごくと、げっそり瘠やせたような顔色かおつきで、

「一ひとッきり、洞穴ほらあなを潜くぐるようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄もやも、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。

ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖がけの中腹ぐらいな処を、熊笹くまざさの上へむくむくと赤いものが湧わいて出た。幾疋いくひきとなく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱うろつくように……皆みんな猿だ。

丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王さんのうの社やしろがある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面つらの赤いのに不思議はないがな、源助。

どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤まっかだろう。

しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群むらがり続いて、裏山の峰へ尾を曳ひいて、遥はるかに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜くぐってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。

で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻あかありの行列を山へ投懸けて視ながめるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。

夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」

源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤あごの毛をすくすくと立てた。

「はあ。」

と息を内へ引きながら、

「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」

「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。

そこへな、背後うしろの、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨おおまたに前へ抜越ぬけこしたものがある。……

山遊びの時分には、女も駕籠かごも通る。狭くはないから、肩摺かたずれるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停たちどまる処を、抜けた。

下闇したやみながら――こっちももう、僅わずかの処だけれど、赤い猿が夥おびただしいので、人恋しい。

で透かして見ると、判然はっきりとよく分った。

それも夢かな、源助、暗いのに。――

裸体はだかに赤合羽あかがっぱを着た、大きな坊主だ。」

「へい。」と源助は声を詰めた。

「真黒まっくろな円い天窓あたまを露出むきだしでな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張しゃちこばらせる形に、大おおきな肱ひじを、ト鍵形かぎなりに曲げて、柄の短い赤い旗を飜々ひらひらと見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……

旗はたは真赤まっかに宙を煽あおつ。

まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手あいての僧形そうぎょうにも何分なにぶんか気が許されて、

(御坊、御坊。)

と二声ほど背後うしろで呼んだ。」

五

「物凄ものすごさも前さきに立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。

顔は覚えぬが、頤あごも額も赤いように思った。

(どちらへ?)

と直ぐに聞いた。

ト竹を破わるような声で、

(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許あしもとへ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲まいたようにな、源助。」

「…………」小使は口も利かず。

「その時、旗を衝つと上げて、

(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然ひらりと返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢こずえへ颯さっと飛移ったかと思う、旗の煽あおつような火が松明たいまつを投附けたように𤏋ぱっと燃え上る。顔も真赤まっかに一面の火になったが、遥はるかに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭ちょうじがしらが揺れるように見て、気が静しずまると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状さまになくなったんだ。

小児こどもが転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯おびえた声を出して、

(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路やまみちの方へ宙を飛んで遁出にげだしたと思え。

はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目わきめも触ふらず、坊主が立ったと思う処は爪立足つまだちあしをして、それから、お前、前の峰を引掻ひっかくように駆上かけあがって、……ましぐらにまた摺落ずりおちて、見霽みはらしへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視ながめている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白あおじろい中に、松の樹はお前、大蟹おおがにが海松房みるぶさを引被ひっかずいて山へ這出はいでた形に、しっとりと濡れて薄靄うすもやが絡まとっている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽かすかに聞えようというのじゃないか。

話にならん。いやしくも小児こどもを預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅つままれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。

帰って湯に入って、寝たが、綿わたのように疲れていながら、何か、それでも寝苦ねぐるしくって時々早鐘を撞つくような音が聞えて、吃驚びっくりして目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。

明方からこの風さな。」

「正寅しょうとらの刻からでござりました、海嘯つなみのように、どっと一時いっときに吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言ことばつき、あたかも口上。何か、恐入っている体ていがある。

「夜があけると、この砂煙すなけぶり。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本とくほんの課目なんだ。

な、源助。

授業に掛かかって、読出した処が、怪訝おかしい。消火器の説明がしてある、火事に対する種々いろいろの設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経たったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児こが入って来たんだ。」

「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」

「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓がらすまどの並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。

また、箸はしの倒れた事でも、沸返にえかえって騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪あやしいよ。

ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺どよめいたが、その音も戸外おもての風に吹攫ふきさらわれて、どっと遠くへ、山へ打ぶつかるように持って行ゆかれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等こどもらの声は幽かすかに響いた。……」

六

「私わしも不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児こを見たよ。

密そっと椅子の傍そばへ来て、愛嬌あいきょうづいた莞爾にっこりした顔をして、

(先生、姉さんが。)

と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞はやじまいにしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家うちへ帰らして下さい、と云うんです。含羞はにかむ児だから、小さな声して。

風はこれだ。

聞えないで僥倖さいわい。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜ぶちぬく騒動だろう。

もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。

騒がぬ顔して、皆みんなには、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静しずかにしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。

処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」

と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻みまもるばかり、一時ひとしきり、屋根を取って挫ひしぐがごとく吹き撲なぐる。

「気が騒いでならんが。」

と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭かかりに、背中を摺着すりつけるばかり、びたりと構えて、

「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。

はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日なぬかばかり前だそうだ。

授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……

すると、この頃塗直した、あの蒼あおい門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児こどもの事で形は知らん。頭髪かみの房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目ふしめながら清すずしゅう瞪みはって、列を一人一人見遁みのがすまいとするようだっけ。

物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。

私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍そばへ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。

(宮浜の浪ちゃんだねえ。)

とこの国じゃない、本で読むような言ことばで聞くとさ。頷うなずくと、

(好いいものを上げますから私と一所に、さあ、行ゆきましょう、皆みんなに構わないで。)

と、私等を構わぬ分に扱ったは酷ひどい! なあ、源助。

で、手を取られるから、ついて行ゆくと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸ぐみの樹の林のような中へ連れて入った。目の眶ふちも赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。

(沢山たんとお食あがんなさいよ。皆みんな、貴下あなたの阿母おっかさんのような美しい血になるから。)

と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父おやじにそう言いましょうと、聞くと、

(貴下のお亡なくなんなすった阿母おっかさんのお友だちです。)

と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈はずだ。

が、ここまではとにかく無事だ、源助。

その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」

源助は、びくりとして退さがる。

「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆みんな駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様あねさまの顔を描かいていると、硝子戸越がらすどごしに……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」

七

「宮浜はな、今日は、その婦人が紅あかい木この実の簪かんざしを挿していた、やっぱり茱萸ぐみだろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児こどもの目だもの、珊瑚さんごかも知れん。

そんな事はとにかくだ。

直ぐに、嬉々いそいそと廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。

源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔あおごけが生えて、石垣も崩れたというので、井戸側いどがわを取替えるに、石の大輪おおわが門の内にあったのを、小児だちが悪戯いたずらに庭へ転がし出したのがある。――あれだ。

大人なら知らず、円くて辷すべるにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児こを連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違はすっかいに転がり出した。

(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄どっと吶喊ときを上げて、小児が皆みんなそれを追懸けて、一団ひとかたまりに黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。

横手の土塀際の、あの棕櫚しゅろの樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背せなかを撫なでなぞしてな。

そこで言聞かされたと云うんだ。

(今に火事がありますから、早く家うちへお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯ききなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可ようござんす。怪我けがには替えられません。けれども、後で叱られると不可いけませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。

時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟けむに捲まかれませんから。)

とそう云ってな。……そこで、袂たもとから紙包みのを出して懐中ふところへ入れて、圧おさえて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合かきあわせてくれたのが、その茱萸ぐみなんだ。

(私がついていられると可いいんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)

と云う中うちにも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸かかる、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……

けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎いいにくい、と宮浜が頭かぶりを振ったそうだ。

(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)

こりゃ小児こどもに返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。

(先生のお言ことばに嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思おもいの叶かなわない仇あだに、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当つらあてにしますんだから。

まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体からだはどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。

殿方の生命いのちは知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。

まだ私たち女の心は、貴下あなたの年では得心が行ゆかないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。

いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)

と繰返して、

(女の操というものは。)と熟じっと顔を凝視みつめながら、

(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅あかい木の実を沢山たんと食べて、血の美しく綺麗な児こには、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体からだも大切な日ですから。)

と云う中うちにも、裾すそも袂も取って、空へ頭髪かみながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子まどがらすが波を打つ、あれ見い。」

八

雑所先生は一息吐ついて、

「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可いい処を、母のない児こだ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦あんしょうをするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚はだに粟あわが立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。

そりゃ分らんが、しかし詮せんずるに火事がある一条だ。

(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜こづかいだまりへ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)

額を撫なでて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣やってよ。

さあ、気になるのは昨夜ゆうべの山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」

「緋ひ、緋の法衣ころもを着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾たしなめるように言う。

「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。

(城下を焼きに参るのじゃ。)

源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓あたまを引抱ひっかかえて、こう、風の音を忘れるように沈じっと考えると、ひょい、と火を磨するばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」

と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書かいしょで細字さいじに認したためたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫かッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字もんじである。

「へい。」

「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。

昨日きのうは日曜で抜けている。一週間。」

と颯さっと紙が刎はねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外おもての風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子テエブルを飛ぶ気勢けはいする。

「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風ぐふう)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……

しかも変な事には、何を狼狽うろたえたか、一枚半だけ、罫紙けいしで残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」

と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。

「読本が火の処……源助、どう思う。他ほかの先生方は皆みんな私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少わかい。

こんな相談は、故老ころうに限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児こどもたち――その過失あやまちで、私が学校を止やめるまでも、地韛じだんだを踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委ゆだねる学校の分として、婦おんな、小児こどもや、茱萸ぐみぐらいの事で、臨時休業は沙汰さたの限りだ。

私一人の間抜まぬけで済まん。

第一そような迷信は、任にんとして、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市瓦かわらは数えるほど、板葺屋根いたぶきやねが半月の上も照込んで、焚附たきつけ同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切みずぎれがしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜やきぬけるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。

思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後おくれて驚破すわと言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時いっときはんじを争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮かんがえは。」

「尋常ただ、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子テエブルに拳こぶしを掴つかんで、

「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」

と半分目を眠って、盲目めくらがするように、白眼しろまなこで首を据えて、天井を恐ろしげに視ながめながら、

「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐からの都の大道を、一時あるとき、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌さばいて、何と、骨だらけな蒼あおい胸を岸破々々がばがばと開けました真中まんなかへ、人ひ、人ひとという字を書いたのを掻開かっぱだけて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆みんなが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」

「源助、源助。」

と雑所大きに急せいて、

「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。

「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可ようございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」

風の、その慌あわただしい中でも、対手あいてが教頭心得の先生だけ、もの問とわれた心の矜ほこりに、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣しゃつの鈕ぼたんをはずして、ひくひくとした胸を出す。

雑所も急心せきごころに、ものをも言わず有合わせた朱筆しゅふでを取って、乳を分けて朱あかい人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪こらえたが、突込む筆の朱が刎はねて、勢いきおいで、ぱっと胸毛に懸かかると、火を曳ひくように毛が動いた。

「あ熱々つつ!」

と唐突だしぬけに躍り上って、とんと尻餅を支つくと、血声を絞って、

「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚わめく。

「何だ。」

と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、

「なぜ、投げる。なぜ茱萸ぐみを投附ける。宮浜。」

と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲なげうつと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子まどがらすを映さす火の粉であった。

途端に十二時、鈴りんを打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦すりばん、早鐘。

早や廊下にも烟けむりが入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼あおい門が、真紫に物凄ものすごい。

この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹おおでらの本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時みときが間に市の約全部を焼払った。

烟は風よりも疾とく、火は鳥よりも迅はやく飛んだ。

人畜の死傷少からず。

火事の最中、雑所先生、袴はかまの股立ももだちを、高く取ったは効々かいがいしいが、羽織も着ず……布子の片袖引断ひっちぎれたなりで、足袋跣足たびはだしで、据眼すえまなこの面おもて藍あいのごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉ひょろひょろと歩行あるいていた。

屋根から屋根へ、――樹の梢こずえから、二階三階が黒烟りに漾ただよう上へ、飜々ひらひらと千鳥に飛交う、真赤まっかな猿の数を、行ゆく行く幾度も見た。

足許あしもとには、人も車も倒れている。

とある十字街へ懸かかった時、横からひょこりと出て、斜はすに曲り角へ切れて行ゆく、昨夜ゆうべの坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確しかとした足取であった。

が、赤旗を捲まいて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡しゅんじゅんの体ていして、

「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」

と口の裡うちで呟つぶやいた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。

垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠いしどうろうの大おおきなのがある。何某なにがしの邸やしきの庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下もとに、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。

学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。

と見ると、恍惚うっとりした美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸ふりかかる火の粉を、霰あられは五合ごんごと掬すくうように、綺麗な袂たもとで受けながら、

「先生、沢山に茱萸が。」

と云って、﨟長ろうたけるまで莞爾にっこりした。

雑所は諸膝もろひざを折って、倒れるように、その傍かたわらで息を吐ついた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛かかっても、払えば濡れもしないで消えるのであった。

明治四十四(一九一一)年一月

底本 / Source edition

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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泉 鏡花「朱日記」(新字新仮名)、底本『泉鏡花集成4』ちくま文庫、筑摩書房、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001177_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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