Soranoha

親子

おやこ

有島 武郎

彼は、秋になり切った空の様子をガラス窓越しに眺めていた。

みずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓りんかくを描いて白く光るあの夏の雲の姿はもう見られなかった。薄濁った形のくずれたのが、狂うようにささくれだって、澄み切った青空のここかしこに屯たむろしていた。年の老いつつあるのが明らかに思い知られた。彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。

「もう着くぞ」

父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟えりが首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。

停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩としかさな小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草たばこ道具と背負い繩なわとを腰にぶら下げていた。短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。

監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。

物の枯れてゆく香においが空気の底に澱よどんで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。

五、六丁線路を伝って、ちょっとした切崕きりざしを上がるとそこは農場の構えの中になっていた。まだ収穫を終わらない大豆畑すらも、枯れた株だけが立ち続いていた。斑まだら生ばえのしたかたくなな雑草の見える場所を除いては、紫色に黒ずんで一面に地膚をさらけていた。そして一か所、作物の殻を焼く煙が重く立ち昇り、ここかしこには暗い影になって一人二人の農夫がまだ働き続けていた。彼は小作小屋の前を通るごとに、気をつけて中をのぞいて見た。何処どこの小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火いろりびだけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびしく立っていた。

農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮けわしい赤土の坂を登らなければならない。ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見わきみもせずに足にまかせてそのあとに蹝ついて行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた。負けじ魂の老人だけに、自分の体力の衰えに神経をいら立たせていた瞬間だったのに相違ない。しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪しゃくにさわったのだ。

「おい早田」

老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。

「ここには何戸はいっているのか」

「崕地がけちに残してある防風林のまばらになったのは盗伐ではないか」

「鉄道と換え地をしたのはどの辺にあたるのか」

「藤田の小屋はどれか」

「ここにいる者たちは小作料を完全に納めているか」

「ここから上る小作料がどれほどになるか」

こう矢継ぎ早やに尋ねられるに対して、若い監督の早田は、格別のお世辞気もなく穏やかな調子で答えていたが、言葉が少し脇道にそれると、すぐ父からきめつけられた。父は監督の言葉の末にも、曖昧あいまいがあったら突っ込もうとするように見えた。白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。

彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当たるのだ。そして今年になって、農場がようやく成墾したので、明日は矢部もこの農場に出向いて来て、すっかり精算をしようというわけになっているのだ。明日の授受が済むまでは、縦令たとえ永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識が、父の胸にはわだかまっているのだ。いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。

一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓ふもとにかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳そびえて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光のように冴さえていた。一同は言葉少なになって急ぎ足に歩いた。基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道あぜみちをやや広くしたくらいのもので、畑から抛ほうり出された石ころの間なぞに、酸漿ほうずきの実が赤くなってぶら下がったり、轍わだちにかけられた蕗ふきの葉がどす黒く破れて泥にまみれたりしていた。彼は野生になったティモシーの茎を抜き取って、その根もとのやわらかい甘味を噛かみしめなどしながら父のあとに続いた。そして彼の後ろから来る小作人たちのささやきのような会話に耳を傾けた。

「夏作があんなだに、秋作がこれじゃ困ったもんだ」

「不作つづきだからやりきれないよ全く」

「そうだ」

ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論もくろまれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそれが結局小作人らにとって不為めにはならないのを小作人たちは知りぬいているらしかった。彼には父の態度と同様、小作人たちのこうした態度も快くなかった。東京を発たつ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦いらつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒はがゆく思った。

事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀おかみさんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡いろりの横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下の方から、禿はげ上がった両鬢りょうびんへとはげしくなで上げた。それが父が草臥くたびれた時のしぐさであると同時に、何か心にからんだことのある時のしぐさだ。彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩おそくなるなと思った。

二人が風呂から上がると内儀おかみさんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこまった。

父は風呂で火照ほてった顔を双手りょうてでなで上げながら、大きく気息いきを吐き出した。内儀おかみさんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。

「風呂桶をしかえたな」

父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰なじるように言った。

「あまり古くなりましたんでついこの間……」

「費用は事務費で仕払ったのか……俺わしのほうの支払いになっているのか」

「事務費のほうに計上しましたが……」

「矢部に断わったか」

監督は別に断わりはしなかった旨を答えた。父はそれには別に何も言わなかったが、黙ったまま鋭く眼を光らした。それから食膳の豊かすぎることを内儀おかみさんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘うまいのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息いきづまるように見えた。

食事が済むと煙草を燻くゆらす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。

監督は一抱かかえもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音あしおとがだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、恐らく父には聞こえていないであろうその跫音を彼は聞き送っていた。彼には、その人たちが途中でどんなことを話し合ったか、小屋に帰ってその家族にどんな噂うわさをして聞かせたかがいろいろに想像されていた。それが彼にとってはどれもこれも快いと思われるものではなかった。彼は征服した敵地に乗り込んだ、無興味な一人の将校のような気持ちを感じた。それに引きかえて、父は一心不乱だった。監督に対してあらゆる質問を発しながら、帳簿の不備を詰なじって、自分で紙を取りあげて計算しなおしたりした。監督が算盤そろばんを取りあげて計算をしようと申し出ても、かまいつけずに自分で大きな数を幾度も計算しなおした。父の癖として、このように一心不乱になると、きわめて簡単な理屈がどうしてもわからないと思われるようなことがあった。監督が小言こごとを言われながら幾度も説明しなおさなければならなかった。彼もできるだけ穏やかにその説明を手伝った。そうすると父の機嫌は見る見る険悪になった。

「そんなことはお前に言われんでもわかっている。俺わしの聞くのはそんなことじゃない。理屈を聞こうとしとるんではないのだ。早田は俺しの言うことが飲み込めておらんから聞きただしているのじゃないか。もう一度俺しの言うことをよく聞いてみるがいい」

そう言って、父は自分の質問の趣意を、はたから聞いているときわめてまわりくどく説明するのだったが、よく聞いていると、なるほどとうなずかれるほど急所にあたったことを言っていたりした。若い監督も彼の父の質問をもっとありきたりのことのように取っていたのだ。監督は、質問の意味を飲み込むことができると礑はたと答えに窮したりした。それはなにも監督が不正なことをしていたからではなく会計上の知識と経験との不足から来ているのに相違ないのだが、父はそこに後ろ暗いものを見つけでもしたようにびしびしとやり込めた。

彼にはそれがよく知れていた。けれども彼は濫みだりなさし出口はしなかった。いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合ぐあいに運ばれていたかを理解しようとだけ勉つとめた。彼は五年近く父の心に背そむいて家には寄りつかなかったから、今までの成り行きがどうなっているか皆目見当がつかなかったのだ。この場になって、その間の父の苦心というものを考えてみないではなかった。父がこうして北海道の山の中に大きな農場を持とうと思い立ったのも、つまり彼の将来を思ってのことだということもよく知っていた。それを思うと彼は黙って親子というものを考えたかった。

「お前は夕飯はどうした」

そう突然父が尋ねた。監督はいつものとおり無表情に見える声で、

「いえなに……」

と曖昧あいまいに答えた。父は蒲団ふとんの左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。

突然事務所の方で弾条ゼンマイのゆるんだらしい柱時計が十時を打った。彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。

「十時半ですよ。あなたまだ食わないんだね」

彼は少し父にあたるような声で監督にこう言った。

それにもかかわらず父は存外平気だった。

「そうか。それではもういいから行って食うといい。俺わしもお前の年ごろの時分には、飯も何も忘れてからに夜ふかしをしたものだ。仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘うまくゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」

そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇ねんごろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま父の言いつけを聞かねばならなかった。

監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処どこにも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲こらしめのためにひどい小言を与えたあとのような気まずい沈黙を送ってよこした。まともに彼の顔を見ようとはしなかった。こうなると彼はもう手も足も出なかった。こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵みじんもなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱ゆううつといってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人をまぎらすような物音も色彩もそこには見つからなかった。なげしにかかっている額といっては、黒住教くろずみきょうの教主の遺訓の石版と、大礼服を着ていかめしく構えた父の写真の引き延ばしとがあるばかりだった。そしてあたりは静まり切っていた。基石の底のようだった。ただ耳を澄ますと、はるか遠くで馬鈴薯をこなしているらしい水車の音が単調に聞こえてくるばかりだった。

父は黙って考えごとでもしているのか、敷島を続けざまにふかして、膝の上に落とした灰にも気づかないでいた。彼はしょうことなしに監督の持って来た東京新聞の地方版をいじくりまわしていた。北海道の記事を除いたすべては一つ残らず青森までの汽車の中で読み飽いたものばかりだった。

「お前は今日の早田の説明で農場のことはたいてい呑みこめたか」

ややしばらくしてから父は取ってつけたようにぽっつりとこれだけ言って、はじめてまともに彼を見た。父がくどくどと早田にいろいろな報告をさせたわけが彼にはわかったように思えた。

「たいていわかりました」

その答えを聞くと父は疑わしそうにちらっともう一度彼を鋭く見やった。

「ずいぶんめんどうなものだろう、これだけの仕事にでも眼鼻をつけるということは」

「そうですねえ」

彼はしかたなくこう答えた。父はすぐ彼の答えの響きの悪さに感づいたようだった。そしてまたもや忌わしい沈黙が来た。彼には父の気持ちが十分にわかっていたのだ。三十にもなろうとする息子をつかまえて、自分がこれまでに払ってきた苦労を事新しく言って聞かせるのも大人気おとなげないが、そうかといって、農場に対する息子の熱意が憐れなほど燃えていないばかりでなく、自分に対する感恩の気持ちも格別動いているらしくも見えないその苦々しさで、父は老年にともすると付きまつわるはかなさと不満とに悩んでいるのだ。そして何事もずばずばとは言い切らないで、じっとひとりで胸の中に湛たたえているような性情せいじょうにある憐れみさえを感じているのだ。彼はそうした気持ちが父から直接に彼の心の中に流れこむのを覚えた。彼ももどかしく不愉快だった。しかし父と彼との間隔があまりに隔たりすぎてしまったのを思うと、むやみなことは言いたくなかった。それは結局二人の間を彌縫びほうができないほど離してしまうだけのものだったから。そしてこの老年の父をそれほどの目に遇わせても平気でいられるだけの自信がまだ彼のほうにもできてはいなかった。だから本当をいうと、彼は誰に不愉快を感じるよりも、彼自身にそれを感じねばならなかったのだ。そしてそれがますます彼を引込み思案の、何事にも興味を感ぜぬらしく見える男にしてしまったのだ。

今夜は何事も言わないほうがいい、そうしまいに彼は思い定めた。自分では気づかないでいるにしても、実際はかなり疲れているに違いない父の肉体のことも考えた。

「もうお休みになりませんか。矢部氏も明日は早くここに着くことになっていますし」

それが父には暢気のんきな言いごとと聞こえるのも彼は承知していないではなかった。父ははたして内訌ないこうしている不平に油をそそぎかけられたように思ったらしい。

「寝たければお前寝るがいい」

とすぐ答えたが、それでもすぐ言葉を続けて、

「そう、それでは俺わしも寝るとしようか」

と投げるように言って、すぐ厠かわやに立って行った。足は痺しびれを切らしたらしく、少しよろよろとなって歩いて行く父の後姿を見ると、彼はふっと深い淋しさを覚えた。

父はいつまでも寝つかないらしかった。いつもならば頭を枕につけるが早いかすぐ鼾いびきになる人が、いつまでも静かにしていて、しげしげと厠に立った。その晩は彼にも寝つかれない晩だった。そして父が眠るまでは自分も眠るまいと心に定めていた。

二時を過ぎて三時に近いと思われるころ、父の寝床のほうからかすかな鼾が漏れ始めた。彼はそれを聞きすましてそっと厠に立った。縁板が蹠あしうらに吸いつくかと思われるように寒い晩になっていた。高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたてて壊こわれ落ちそうに冴さえ切っていた。

将来の仕事も生活もどうなってゆくかわからないような彼は、この冴えに冴えた秋の夜の底にひたりながら、言いようのない孤独に攻めつけられてしまった。

物音に驚いて眼をさました時には、父はもう隣の部屋で茶を啜すすっているらしかった。その朝も晴れ切った朝だった。彼が起き上がって縁に出ると、それを窺うかがっていたように内儀おかみさんが出て来て、忙しくぐるりの雨戸を開け放った。新鮮な朝の空気と共に、田園に特有な生き生きとした匂いが部屋じゅうにみなぎった。父は捨てどころに困こうじて口の中に啣ふくんでいた梅干の種を勢いよくグーズベリーの繁みに放りなげた。

監督は矢部の出迎えに出かけて留守だったが、父の膝許ひざもとには、もうたくさんの帳簿や書類が雑然と開きならべられてあった。

待つほどもなく矢部という人が事務所に着いた。彼ははじめてその人を見たのだった。想像していたのとはまるで違って、四十恰好かっこうの肥った眇眼すがめの男だった。はきはきと物慣れてはいるが、浮薄でもなく、わかるところは気持ちよくわかる質たちらしかった。彼と差し向かいだった時とは反対に、父はその人に対してことのほか快活だった。部屋の中の空気が昨夜とはすっかり変わってしまった。

「なあに、疲れてなんかおりません。こんなことは毎度でございますから」

朝飯をすますとこう言って、その人はすぐ身じたくにかかった。そして監督の案内で農場内を見てまわった。

「私は実はこちらを拝見するのははじめてで、帳場に任して何もさせていたもんでございますから、……もっとも報告は確実にさせていましたからけっしてお気に障さわるような始末にはなっていないつもりでございますが、なにしろ少し手を延ばして見ますと、体がいくつあっても足りませんので」

そう言って矢部は快げに日の光をまともに受けながら声高に笑った。その言葉を聞くと父は意外そうに相手の顔を見た。そして不安の色が、ちらりとその眼を通り過ぎた。

農場内を一とおり見てまわるだけで十分半日はかかった。昼少し過ぎに一同はちょうどいい疲れかげんで事務所に帰りついた。

「まずこれなら相当の成績でございます。私もお頼まれがいがあったようなものかと思いますが、いかがな思召おぼしめしでしょう」

矢部は肥っているだけに額に汗をにじませながら、高縁に腰を下ろすと疲れが急に出たような様子でこう言った。父にもその言葉には別に異議はないらしく見えた。

しかし彼は矢部の言葉をそのまま取り上げることはできなかった。六十戸にあまる小作人の小屋は、貸附けを受けた当時とどれほど改まっているだろう。馬小屋を持っているのはわずかに五、六軒しかなかったではないか。ただだだっ広く土地が掘り返されて作づけされたというだけで成績が挙がったということができるものだろうか。

玉蜀黍穀とうもろこしがらといたどりで周囲を囲って、麦稈むぎわらを積み乗せただけの狭い掘立小屋の中には、床も置かないで、ならべた板の上に蓆むしろを敷き、どの家にも、まさかりかぼちゃが大鍋に煮られて、それが三度三度の糧かてになっているような生活が、開墾当時のまま続けられているのを見ると、彼はどうしてもあるうしろめたさを感じないではいられなかったのだが、矢部はいったいそれをどう見ているのだろうと思った。しかし彼はそれについては何も言わなかった。

「ともかくこれから一つ帳簿のほうのお調べをお願いいたしまして……」

その人の癖らしく矢部はめったに言葉に締めくくりをつけなかった。それがいかにも手慣れた商人らしく彼には思われた。

帳簿に向かうと父の顔色は急に引き締まって、監督に対する時と同じようになった。用のある時は呼ぶからと言うので監督は事務所の方に退けられた。

きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からんだような言い振りで問いつめて行った。彼はこの場合、懐手ふところでをして二人の折衝を傍観する居心地の悪い立場にあった。その代わり、彼は生まれてはじめて、父が商売上のかけひきをする場面にぶつかることができたのだ。父は長い間の官吏生活から実業界にはいって、主に銀行や会社の監査役をしていた。そして名監査役との評判を取っていた。いったい監査役というものが単に員に備わるというような役目なのか、それとも実際上の威力を営利事業のうえに持っているものなのかさえ本当に彼にははっきりしていなかった。また彼の耳にはいる父の評判は、営業者の側から言われているものなのか、株主の側から言われているものなのか、それもよくはわからなかった。もし株主の側から出た噂うわさならだが、営業者間の評判だとすると、父は自分の役目に対して無能力者だと裏書きされているのと同様になる。彼はこれらの関係を知り抜くことには格別の興味をもっていたわけではなかったけれども、偶然にも今日は眼まのあたりそれを知るようなはめになった自分を見いだしたのだ。まだ見なかった父の一面を見るという好奇心も動かないではなかった。けれどもこれから展開されるだろう場面の不愉快さを想像することによって、彼の心はどっちかというと暗くされがちだった。

矢部は父の質問に気軽く答え始めた。その質問の大部分が矢部にとっては物の数にも足らぬ小さなことのように、

「さようですか。そういうことならそういたしても私どものほうではけっして差し支えございませんが……」

と言って、軽く受け流して行くのだった。思い入って急所を突くつもりらしく質問をしかけている父は、しばしば背負い投げを食わされた形で、それでも念を押すように、

「はあそうですか。それではこの件はこれでいいのですな」

と附け足して、あとから訂正なぞはさせないぞという気勢を示したが、矢部はたじろぐ風も見せずに平気なものだった。実際彼から見ていても、父の申し出の中には、あまりに些末さまつのことにわたって、相手に腹の細さを見透かされはしまいかと思う事もあった。彼はそういう時には思わず知らずはらはらした。何処どこまでも謹恪きんかくで細心な、そのくせ商売人らしい打算に疎うとい父の性格が、あまりに痛々しく生粋の商人の前にさらけ出されようとするのが剣呑けんのんにも気の毒にも思われた。

しかし父はその持ち前の熱心と粘り気とを武器にしてひた押しに押して行った。さすがに商魂で鍛きたえ上げたような矢部も、こいつはまだ出くわさなかった手だぞと思うらしく、ふと行き詰まって思案顔をする瞬間もあった。

「事業の経過はだいたい得心が行きました。そこでと」

父は開墾を委託する時に矢部と取り交わした契約書を、「緊要書類」と朱書きした大きな状袋から取り出して、

「この契約書によると、成墾引継ぎのうえは全地積の三分の一をお礼としてあなたのほうに差し上げることになってるのですが……それがここに認めてある百二十七町四段歩なにがし……これだけの坪敷になるのだが、そのとおりですな」

と粗あらい皺しわのできた、短い、しかし形のいい指先で数字を指し示した。

「はいそのとおりで……」

「そうですな。ええ百二十七町四段二畝歩せぶ也なりです。ところがこれっぱかりの地面をあなたがこの山の中にお持ちになっていたところで万事に不便でもあろうかと……これは私だけの考えを言ってるんですが……」

「そのとおりでございます。それで私もとうから……」

「とうから……」

「さよう、とうからこの際には土地はいただかないことにして、金でお願いができますれば結構だと存じていたのでございますが……しかし、なに、これとてもいわばわがままでございますから……御都合もございましょうし……」

「とうから」と聞きかえした時に父のほうから思わず乗り出した気配けはいがあったが、すぐとそれを引き締めるだけの用意は欠いていなかった。

「それはこちらとしても都合のいいことではあります。しかし金高の上の折り合いがどんなものですかな。昨夜早田と話をした時、聞きただしてみると、この辺の土地の売買は思いのほか安いものですよ」

父は例の手帳を取り出して、最近売買の行なわれた地所の価格を披露しにかかると、矢部はその言葉を奪うようにだいたいの相場を自分のほうから切り出した。彼は昨夜の父と監督との話を聞いていたのだが、矢部の言うところは(始終札幌にいてこの土地に来たのははじめてだと言ったにもかかわらず)けっしてけたをはずれたようなものではなかった。それを聞く父は意外に思ったらしかったが、彼もちょっと驚かされた。彼は矢部と監督との間に何か話合いがちゃんとできているのではないかとふと思った。まして父がそううたぐるのは当然なことだ。彼はすぐ注意して父を見た。その眼は明らかに猜疑さいぎの光を含んで、鋭く矢部の眼をまともに見やっていた。

最後の白兵戦になったと彼は思った。

もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかにするためにも、しばらくの休戦は都合のいいことだと思ったので、

「もうだいぶ晩おそくなりましたから夕食にしたらどうでしょう」

と言ってみた。それを聞くと父の怒りは火の燃えついたように顔に出た。

「馬鹿なことを言うな。この大事なお話がすまないうちにそんな失礼なことができるものか」

と矢部の前で激しく彼をきめつけた。興奮が来ると人前などをかまってはいない父の性癖だったが、現在矢部の前でこんなものの言い方をされると、彼も思わずかっとなって、いわば敵を前において、自分の股肱ここうを罵ののしる将軍が何処どこにいるだろうと憤ろしかった。けれども彼は黙って下を向いてしまったばかりだった。そして彼は自分の弱い性格を心の中でもどかしく思っていた。

「いえ手前でございますならまだいただきたくはございませんから……全くこのお話は十分に御了解を願うことにしないとなんでございますから……しかし御用意ができましたのなら……」

「いやできておっても少しもかまわんのです」

父は矢部の取りなし顔な愛想に対してにべなく応じた。父はすぐ元の問題に返った。

「それは早田からお聞きのことかもしれんが、おっしゃった値段は松沢農場に望み手があって折り合った値段で、村一帯の標準にはならんのですよ。まず平均一段歩二十円前後のものでしょうか」

矢部は父のあまりの素朴さにユウモアでも感じたような態度で、にこやかな顔を見せながら、

「そりゃ……しかしそれじゃ全く開墾費の金利にも廻りませんからなあ」

と言ったが、父は一気にせきこんで、

「しかし現在、そうした売買になってるのだから。あなた今開墾費とおっしゃったが、こうっと、お前ひとつ算盤そろばんをおいてみろ」

さきほどの荒い言葉の埋合せでもするらしく、父はやや面をやわらげて彼の方を顧みた。けれども彼は父と同様珠算というものを全く知らなかった。彼がやや赤面しながらそこらに散らばっている白紙と鉛筆とを取り上げるのを見た父は、またしても理材にかけての我が子の無能さをさらけ出したのを悔いて見えた。けれども息子の無能な点は父にもあったのだ。父は永年国家とか会社銀行とかの理財事務にたずさわっていたけれども、筆算のことにかけては、極度に鈍重だった。そのために、自分の家の会計を調べる時でも、父はどうかするとちょっとした計算に半日もすわりこんで考えるような時があった。だから彼が赤面しながら紙と鉛筆とを取り上げたのは、そのまま父自身のやくざな肖像画にも当たるのだ。父は眼鏡の上からいまいましそうに彼の手許をながめやった。そして一段歩に要する開墾費のだいたいをしめ上げさせた。

「それを百二十七町四段二畝歩にするといくらになるか」

父はなお彼の不器用な手許から眼を放さずにこう追っかけて命令した。そこで彼はもうたじろいでしまった。彼は矢部の眼の前に自分の愚かしさを暴露するのを感じつつも、たどたどしく百二十七町を段に換算して、それに四段歩を加え始めた。しかし待ち遠しそうに二人からのぞき込まれているという意識は、彼の心の落ち着きを狂わせて、ややともすると簡単な九々すらが頭に浮かび上がって来なかった。

「そこは七じゃなかろうが、四だろうが」

父はこんな差出口をしていたが、その言葉がだんだん荒々しくなったと思うと、突然「ええ」と言って彼から紙をひったくった。

「そのくらいのことができんでどうするのか」

明らかと怒号だった。彼はむしろ呆気あっけに取られて思わず父の顔を見た。泣き笑いと怒りと入れ交ったような口惜しげな父の眼も烈しく彼を見込んでいた。そして極度の侮蔑ぶべつをもって彼から矢部の方に向きなおると、

「あなたひとつお願いしましょう、ちょっと算盤そろばんを持ってください」

とほとほと好意をこめたと聞こえるような声で言った。

矢部は平気な顔をしながらすぐさま所要の答えを出してしまった。

もうこれ以上彼のいる場所ではないと彼は思った。そしてふいと立ち上がるとかまわずに事務所の方に行ってしまった。

座敷とは事かわって、すっかり暗くなった囲炉裡いろりのまわりには、集まって来た小作人を相手に早田が小さな声で浮世話をしていた。内儀おかみさんは座敷の方に運ぶ膳ぜんのものが冷えるのを気にして、椀わんのものをまたもとの鍋にかえしたりしていた。彼がそこに出て行くと、見る見るそこの一座の態度が変わって、いやな不自然さがみなぎってしまった。小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋わらじのままの足を炉ばたから抜いて土間どまに下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。

「若い且那だんな、今度はまあ御苦労様でございます」

その中で物慣れたらしい半白の丈たけの高いのが、一同に代わってのようにこう言った。「御苦労はこっちのことだぞ」そうその男の口の裏は言っているように彼には感じられた。不快な冷水を浴びた彼は改めて不快な微温湯を見舞われたのだ。それでも彼は能あたうかぎり小作人たちに対して心置きなく接していたいと願った。それは単にその場合のやり切れない気持ちから自分がのがれ出たかったからだ。小作人たちと自分とが、本当に人間らしい気持ちで互いに膝ひざを交えることができようとは、夢にも彼は望み得なかったのだ。彼といえどもさすがにそれほど自己を偽瞞ぎまんすることはできなかった。

けれどもあまりといえばあんまりだった。小作人たちは、

「さあ、ずっとお寄りなさって。今日は晴れているためかめっきり冷えますから」

と早田が口添えするにもかかわらず、彼らはあてこすりのように暗い隅っこを離れなかった。彼は軽い捨て鉢な気分でその人たちにかまわず囲炉裡いろりの横座にすわりこんだ。

内儀おかみさんがランプを座敷に運んで行ったが、帰って来ると父からの言いつけを彼に伝えた。それは彼が小作人の一人一人を招いて、その口から監督に対する訴訟と、農場の規約に関する希望とを聞き取っておく役廻りで、昨夜寝る時に父が彼に命令した仕事だった。小作人が次々に事務所をさして集まって来るのもそのためだったのだ。

事務所に薄ぼんやりと灯が点ともされた。燻製くんせいの魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡くりのようにがらんと黝くろずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦いら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中の広い空間に突っ立って思い存分の呼吸がしたくてたまらなくなった。壁訴訟じみたことをあばいてかかって聞き取らねばならないほど農場というものの経営は入り組んでいるのだろうか。監督が父の代から居ついていて、着実で正直なばかりでなく、自分を一人の平凡人であると見切りをつけて、満足して農場の仕事だけを守っているのは、彼の歩いて行けそうな道ではなかったけれども、彼はそういう人に対して暖かい心を持たずにはいられなかった。その人を除のけものにしておいて、他人にその噂うわさをさせて平気で聞いていることはどうしても彼にはできないと思った。

ともかく、彼は監督に頼んで執務室に火を入れてもらって、小作人を一人一人そこに呼び入れた。そして農場の経営に関する希望だけを聞くことにした。五、六人の人が出はいりする前に、彼は早くもそんなことをする無益さを思い知らねばならなかった。頭の鈍にぶい人たちは、申し立つべき希望の端くれさえ持ち合わしてはいなかったし、才覚のある人たちは、めったなことはけっして口にしなかった。去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂におわしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようとする人はなかった。彼はそれでも十四、五人までは我慢したが、それで全く絶望してもう小作人を呼び入れることはしなかった。そして火鉢の上に掩おおいかぶさるようにして、一人で考えこんでしまった。なんということもなく、父に対する反抗の気持ちが、押さえても押さえても湧き上がってきて、どうすることもできなかった。

ほど経てから内儀おかみさんが恐る恐るやって来て、夕食のしたくができたからと言って来た。食慾は不思議になくなっていたけれども、彼はしょうことなしに父の座敷へと帰って行った。そこはもうすっかりかたづけられていて、矢部を正座に、父と監督とが鼎座かなえざになって彼の来るのを待っていた。彼は押し黙ったまま自分の座についたが、部屋にはいるとともに感ぜずにはいられなかったのは、そこにただよっているなんともいえぬ気まずい空気だった。さきほどまで少しも物にこだわらないで、自由に話の舵かじを引いていた矢部がいちばん小むずかしい顔になっていた。彼の来るのを待って箸はしを取らないのだと思ったのは間違いらしかった。

矢部は彼が部屋にはいって来るのを見ると、よけい顔色を険けわしくした。そしてとうとうたまりかねたようにその眇眼すがめで父をにらむようにしながら、

「せっかくのおすすめではございますが、私は矢張り御馳走にはならずに発たって札幌さっぽろに帰るといたします。なに、あなた一晩先に帰っていませば一晩だけよけい仕事ができるというものでございますから……私は御覧のとおりの青造あおぞうではございますが、幼少から商売のほうではずいぶんたたきつけられたもんで……しかし今夜ほどあらぬお疑いを被って男を下げたことは前後にございますまいよ。とにかく商売だって商売道と申します。不束ふつつかながらそれだけの道は尽くしたつもりでございますが、それを信じていただけなければお話には継つぎ穂の出ようがありませんです。……じゃ早田君、君のことは十分申し上げておいたから、これからこちらの人になって一つ堅固にやってあげてくださいまし。……私はこれで失礼いたします」

とはきはき言って退のけた。彼にはこれは実に意外の言葉だった。父は黙ってまじまじと癇癪玉かんしゃくだまを一時に敲たたきつけたような言葉を聞いていたが、父にしては存外穏やかななだめるような調子になっていた。

「なにも俺わしはそれほどあなたに信用を置かんというのではないのですが、事務はどこまでも事務なのだから明らかにしておかなければ私の気が済まんのです。時刻も遅いからお泊りなさい今夜は」

「ありがとうございますが帰らせていただきます」

「そうですか、それではやむを得ないが、では御相談のほうは今までのお話どおりでよいのですな」

「御念には及びません。よいようにお取り計らいくださればそれでもう結構でございます」

矢部はこのうえ口をきくのもいやだという風で挨拶一つすると立ち上がった。彼と監督とは事務所のほうまで矢部を送って出たが、監督が急がしく靴をはこうとしているのを見ると、矢部は押しかえすような手つきをして、

「早田君、君が送ってくれては困る。荷物は誰かに運ばせてください。それでなくてさえ且那はお互いの間を妙にからんで疑っておいでになるのだ。しかし君のことはよくお話ししておいたから……万事が落着するまでは君は私から遠退とおのいているようにしてくれたまえ。送って来ちゃいけませんよ」

それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、

「六年間只奉公ただぼうこうしてあげくの果はてに痛くもない腹を探られたのは全くお初はつだよ。私も今夜という今夜は、慾もへちまもなく腹を立てちゃった。じゃこちらがすっかりかたずいたうえで、札幌にも出ておいでなさい。その節万事私のほうのかたはつけますから。御免」

「御免」という挨拶だけを彼に残して、矢部は星だけがきらきら輝いた真暗なおもてへ駈かけ出すように出て行ってしまった。彼はそこに立ったまま、こんな結果になった前後の事情を想像しながら遠ざかってゆく靴音を聞き送っていた。

その晩父は、東京を発たった時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では物足らない風で、彼を対手あいてに話を拡げて行こうとしたが、彼は父に対する胸いっぱいの反感で見向きもしたくなかった。それでも父は気に障さえなかった。そしてしかたなしに監督に向きなおって、その父に当たる人の在世当時の思い出話などをして一人興きょうがった。

「元気のいい老人だったよ、どうも。酔うといつでも大肌おおはだぬぎになって、すわったままひとり角力ずもうを取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締めておいて、ぷっぷっと唾つばきを霧のように吹き出すのには閉口した」

そんなことをおおげさに言いだして父は高笑いをした。監督も懐旧の情を催すらしく、人のいい微笑を口のはたに浮かべて、

「ほんとにそうでした」

と気のなさそうな合槌あいづちを打っていた。

そのうちに夜はいいかげん更ふけてしまった。監督が膳を引いてしまうと、気まずい二人が残った。しかし父のほうは少しも気まずそうには見えなかった。矢部の前で、十一、二の子供でも叱しかりつけるような小言を言ったことなどもからっと忘れてしまっているようだった。

「うまいことに行った。矢部という男はかねてからなかなか手ごわい悧巧者りこうものだとにらんでいたから、俺わしは今日の策戦には人知れぬ苦労をした。そのかいあって、先方がとうとう腹を立ててしまったのだ。掛引きで腹を立てたら立てたほうが敗け勝負だよ。貸し越しもあったので実はよけい心配もしたのだが、そんなものを全部差し引くことにして報酬共に五千円で農場全部がこちらのものになったのだ。これでこの農場の仕事は成功に終わったといっていいわけだ」

「私には少しも成功とは思えませんが……」

これだけを言うのにも彼の声は震えていた。しかし日ごろの沈黙に似ず、彼は今夜だけは思う存分に言ってしまわなければ、胸に物がつまっていて、当分は寝ることもできないような暴あばれた気持ちになってしまっていたのだ。

「今日農場内を歩いてみると、開墾のはじめにあなたとここに来ましたね、あの時と百姓の暮らし向きは同じなのに私は驚きました。小作料を徴収したり、成墾費が安く上がったりしたことには成功したかもしれませんが、農場としてはいったいどこが成功しているんでしょう」

「そんなことを言ったってお前、水呑百姓みずのみひゃくしょうといえばいつの世にでも似たり寄ったりの生活をしているものだ。それが金持ちになったら汗水垂らして畑をするものなどは一人もいなくなるだろう」

「それにしてもあれはあんまりひどすぎます」

「お前は百歩をもって五十歩を笑っとるんだ」

「しかし北海道にだって小作人に対してずっといい分割りを与えているところはたくさんありますよ」

「それはあったとしたら帳簿を調べてみるがいい、きっと損をしているから」

「農民をあんな惨みじめな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね」

「お前は全体本当のことがこの世の中にあるとでも思っとるのか」

父は息子の融通のきかないのにも呆あきれるというようにそっぽを向いてしまった。

「思ってはいませんがね。しかし私にはどうしても現在のようにうそばかりで固めた生活ではやり切れません。矢部という人に対してのあなたの態度なども、お考えになったらあなたもおいやでしょう。まるでぺてんですものね。始めから先方に腹を立てさすつもりで談判をするなどというのは、馬鹿馬鹿しいくらい私にはいやな気持ちです」

彼は思い切ってここまで突っ込んだ。

「お前はいやな気持ちか」

「いやな気持ちです」

「俺わしはいい気持ちだ」

父は見下だすように彼を見やりながら、おもむろに眼鏡をはずすと、両手で顔を逆さかなでになで上げた。彼は憤激ではち切れそうになった。

「私はあなたをそんなかただとは思っていませんでしたよ」

突然、父は心の底から本当の怒りを催したらしかった。

「お前は親に対してそんな口をきいていいと思っとるのか」

「どこが悪いのです」

「お前のような薄ぼんやりにはわかるまいさ」

二人の言葉はぎこちなく途切れてしまった。彼は堅い決心をしていた。今夜こそは徹底的に父と自分との間の黒白をつけるまでは夜明かしでもしよう。父はややしばらく自分の怒りをもて余しているらしかったが、やがて強いてそれを押さえながら、ぴちりぴちりと句点でも切るように話し始めた。

「いいか。よく聞いていて考えてみろ。矢部は商人なのだぞ。商売というものはな、どこかで嘘うそをしなければ成り立たん性質のものなのだ。昔から士農工商というが、あれは誠と嘘との使いわけの程度によって、順序を立てたので、仕事の性質がそうなっているのだ。ちょっと見るとなんでもないようだが、古人の考えにはおろそかでないところがあるだろう。俺わしは今日その商人を相手にしたのだから、先方の得手に乗せられては、みすみす自分で自分を馬鹿者にしていることになるのだ。といってからに俺わしには商人のような嘘はできないのだから、無理押しにでも矢部の得手を封ずるほかはないではないか」

彼はそんな手にはかかるものかと思った。

「そんならある意味で小作人をあざむいて利益を壟断ろうだんしている地主というものはあれはどの階級に属するのでしょう」

「こう言えばああ言うそのお前の癖は悪い癖だぞ。物はもっと考えてから言うがいい。土地を貸し付けてその地代を取るのが何がいつわりだ」

「そう言えば商人だっていくぶん人の便利を計って利益を取っているんですね」

理につまったのか、怒りに堪えなかったのか、父は押し黙ってしまった。禿はげ上がった額の生え際ぎわまで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘つまみ上げて囲炉裡いろりの火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨ててしまった。

ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、

「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝手というものだぞ……聞いていればお前はさっきから俺わしのすることを嘘だ嘘だと言いののしっとるが、お前は本当のことを何処どこでしたことがあるかい。人と生まれた以上、こういう娑婆しゃばにいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺わしの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺わしもお前に未練なく兜かぶとを脱ぐがな」

父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中まっただなかを割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興奮していた自分を後うしろめたく見いだした。父はさらに言葉を続けた。

「こんな小さな農場一つをこれだけにするのにも俺わしがどれほど苦心をしたかお前は現在見ていたはずだ。いらざる取り越し苦労ばかりすると思うかもしれんが、あれほどの用意をしても世の中の事は水が漏れたがるものでな。そこはお前のような理屈一遍ぺんではとてもわかるまいが」

なるほどそれは彼にとっては手痛い刃だ。そこまで押しつめられると、今までの彼は何事も言い得ずに黙ってしまっていた。しかし今夜こそはそこを突きぬけよう。そして父に彼の本質をしっかり知ってもらおうと心を定めた。

「わからないかもしれません。実際あなたが東京を発たつ前からこの事ばかり思いつめていらっしゃるのを見ていると、失礼ながらお気の毒にさえ感じたほどでした。……私は全くそうした理想屋です。夢ばかり見ているような人間です。……けれども私の気持ちもどうか考えてください。私はこれまで何一つしでかしてはいません。自体何をすればいいのか、それさえ見きわめがついていないような次第です。ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、とにかく嘘をしなければ生きて行けないような世の中が無我無性にいやなんです。ちょっと待ってください。も少し言わせてください。……嘘をするのは世の中ばかりじゃもちろんありません。私自身が嘘のかたまりみたいなものです。けれどもそうでありたくない気持ちがやたらに私を攻め立てるのです。だから自分の信じている人や親しい人が私の前で平気で嘘をやってるのを見ると、思わず知らず自分のことは棚に上げて腹が立ってくるのです。これもしかたがないと思うんですが、……」

「遊んでいて飯が食えると自由自在にそんな気持ちも起こるだろうな」

何を太平楽を言うかと言わんばかりに、父は憎々しく皮肉を言った。

「せめては遊びながら飯の食えるものだけでもこんなことを言わなければ罰ばちがあたりますよ」

彼も思わず皮肉になった。父に養われていればこそこんなはずかしめも受けるのだ。なんという弱い自分だろう。彼は皮肉を言いながらも自分のふがいなさをつくづく思い知らねばならなかった。それと同時に親子の関係がどんな釘に引っかかっているかを垣間かいま見たようにも思った。親子といえども互いの本質にくると赤の他人にすぎないのだなという淋しさも襲ってきた。乞食こじきにでもなってやろう、彼はその瞬間はたとそう思ったりした。自分の本質のために父が甘んじて衣食を給してくれているとの信頼が、三十にも手のとどく自分としては虫のよすぎることだったのだと省みられた。

おそらく彼のその心の動きが父に鋭く響いたのだろう、父は今までの怒りに似げなく、自分にも思いがけないようなため息を吐いた。彼は思わず父を見上げた。父は畳一畳ほどの前をじっと見守って遠いことでも考えているようだった。

「俺わしがこうして齷齪あくせくとこの年になるまで苦労しているのもおかしなことだが……」

父の声は改まってしんみりとひとりごとのようになった。

「今お前は理想屋だとか言ったな。それだ。俺わしはこのとおりの男だ。土百姓同様の貧乏士族の家に生まれて、生まれるとから貧乏には慣れている。物心のついた時には父は遠島になっていて母ばかりの暮らしだったので、十二の時にもう元服して、お米倉の米合を書いて母と子二人が食いつないだもんだった。それに俺わしには道楽という道楽も別段あるではなし、一家が暮らして行くのにはもったいないほどの出世をしたといってもいいのだ。今のようなぜいたくは実は俺わしにとっては法外なことだがな。けれどもお前はじめ五人の子を持ってみると、親の心は奇妙なもので先の先まで案じられてならんのだ。……それにお前は、俺わしのしつけが悪かったとでもいうのか、生まれつきなのか、お前の今言った理想屋で、てんで俗世間のことには無頓着だからな。たとえばお前が世過ぎのできるだけの仕事にありついたとしても、弟や妹たちにどんなやくざ者ができるか、不仕合わせが持ち上がるかしれたものではないのだ。そうした場合にこの農場にでもはいり込んで土をせせっていればとにもかくにも食いつないでは行けるだろうと思ったのが、こんなめんどうな仕事を始めた俺わしの趣意なのだ。……長男となれば、日本では、なんといってもお前にあとの子供たちのめんどうがかかるのだから……」

父の言葉はだんだん本当に落ち着いてしんみりしてきた。

「俺わしは元来がんらい金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが浮かんで来ん。お前たちから見たら、この年をしながら金のことばかり考えていると思うかもしらんが、人が半日で思いつくところを俺わしは一日がかりでやっと追いついて行くありさまだから……」

そう言って父は取ってつけたように笑った。

「今の世の中では自分がころんだが最後、世間はふり向きもしないのだから……まあお前も考えどおりやるならやってみるがいい。お前がなんと思おうと俺わしは俺わしだけのことはして行くつもりだ。……『その義にあらざれば一介も受けず。その義にあらざれば一介も与えず』という言葉があるな。今の世の中でまず嘘のないのはこうした生き方のほかにはないらしいて」

こう言って父はぽっつりと口をつぐんだ。

彼は何も言うことができなくなってしまった。「よしやり抜くぞ」という決意が鉄丸のように彼の胸の底に沈むのを覚えた。不思議な感激――それは血のつながりからのみ来ると思わしい熱い、しかし同時に淋しい感激が彼の眼に涙をしぼり出そうとした。

厠かわやに立った父の老いた後姿を見送りながら彼も立ち上がった。縁側に出て雨戸から外を眺めた。北海道の山の奥の夜は静かに深更へと深まっていた。大きな自然の姿が遠く彼の眼の前に拡ひろがっていた。

底本 / Source edition

底本:「カインの末裔」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年10月30日改版初版発行
1991(平成3)年7月20日改版25版発行
初出:「泉」
1923(大正12)年5月
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2006年5月18日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/001143_000025/

有島 武郎「親子」(新字新仮名)、底本『カインの末裔』角川文庫、角川書店、1969年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001143_000025, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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