１　鼠

一等戦闘艦××の<ruby><rb>横須賀</rb><rt>よこすか</rt></ruby>軍港へはいったのは六月にはいったばかりだった。軍港を囲んだ山々はどれも皆雨のために煙っていた。元来軍艦は<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>したが最後、<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>の<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えなかったと云うためしはない。――××もまた同じことだった。<ruby><rb>長雨</rb><rt>ながあめ</rt></ruby>の中に旗を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らした二万<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の××の<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の下にも鼠はいつか手箱だの<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>いのう</rt></ruby>だのにもつきはじめた。

こう云う鼠を狩るために鼠を一匹<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えたものには一日の上陸を許すと云う副長の命令の下ったのは碇泊後<ruby><rb>三日</rb><rt>みっか</rt></ruby>にならない頃だった。勿論水兵や機関兵はこの命令の下った時から熱心に<ruby><rb>鼠狩</rb><rt>ねずみが</rt></ruby>りにとりかかった。鼠は彼等の力のために見る見る<ruby><rb>数</rb><rt>すう</rt></ruby>を<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らして行った。従って彼等は一匹の鼠も争わない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かなかった。

「この頃みんなの持って来る鼠は<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>八つ<ruby><rb>裂</rb><rt>ざ</rt></ruby>きになっているぜ。寄ってたかって引っぱり合うものだから。」

ガンルウムに集った将校たちはこんなことを話して笑ったりした。少年らしい顔をしたＡ中尉もやはり彼等の一人だった。つゆ空に近い人生はのんびりと育ったＡ中尉にはほんとうには何もわからなかった。が、水兵や機関兵の上陸したがる心もちは彼にもはっきりわかっていた。Ａ中尉は<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>をふかしながら、彼等の話にまじる時にはいつもこう云う返事をしていた。

「そうだろうな。おれでも八つ裂きにし兼ねないから。」

彼の言葉は<ruby><rb>独身者</rb><rt>どくしんもの</rt></ruby>の彼だけに言われるのに違いなかった。彼の友だちのＹ中尉は一年ほど前に妻帯していたために<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>水兵や機関兵の上にわざと冷笑を浴びせていた。それはまた何ごとにも<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に弱みを見せまいとするふだんの彼の態度にも<ruby><rb>合</rb><rt>がっ</rt></ruby>していることは確かだった。褐色の<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>の短い彼は<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぱい</rt></ruby>の<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>に酔った時さえ、テエブルの上に<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>をつき、時々Ａ中尉にこう言ったりしていた。

「どうだ、おれたちも鼠狩をしては？」

ある雨の晴れ上った朝、<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>士官だったＡ中尉はＳと云う水兵に上陸を許可した。それは彼の小鼠を一匹、――しかも<ruby><rb>五体</rb><rt>ごたい</rt></ruby>の整った小鼠を一匹とったためだった。人一倍体の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しいＳは珍しい日の光を浴びたまま、幅の狭い<ruby><rb>舷梯</rb><rt>げんてい</rt></ruby>を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>って行った。すると仲間の水兵が<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>身軽に舷梯を登りながら、ちょうど彼とすれ違う<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に<ruby><rb>常談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>のように彼に声をかけた。

「おい、<ruby><rb>輸入</rb><rt>ゆにゅう</rt></ruby>か？」

「うん、輸入だ。」

彼等の問答はＡ中尉の耳にはいらずにはいなかった。彼はＳを呼び戻し、甲板の上に立たせたまま、彼等の問答の意味を尋ね出した。

「輸入とは何か？」

Ｓはちゃんと直立し、Ａ中尉の顔を見ていたものの、明らかにしょげ切っているらしかった。

「輸入とは<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>から持って来たものであります。」

「何のために外から持って来たか？」

Ａ中尉は勿論何のために持って来たかを承知していた。が、Ｓの返事をしないのを見ると、急に彼に<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさを感じ、力一ぱい彼の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけた。Ｓはちょっとよろめいたものの、すぐにまた不動の姿勢をした。

「誰が外から持って来たか？」

Ｓはまた何とも答えなかった。Ａ中尉は彼を見つめながら、もう一度彼の横顔を張りつける場合を想像していた。

「誰だ？」

「わたくしの<ruby><rb>家内</rb><rt>かない</rt></ruby>であります。」

「面会に来たときに持って来たのか？」

「はい。」

Ａ中尉は何か心の中に微笑しずにはいられなかった。

「何に入れて持って来たか？」

「菓子折に入れて持って来ました。」

「お前の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はどこにあるのか？」

「<ruby><rb>平坂下</rb><rt>ひらさかした</rt></ruby>であります。」

「お前の親は<ruby><rb>達者</rb><rt>たっしゃ</rt></ruby>でいるか？」

「いえ、家内と二人暮らしであります。」

「子供はないのか？」

「はい。」

Ｓはこう云う問答の中も不安らしい<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を改めなかった。Ａ中尉は彼を立たせて<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いたまま、ちょっと<ruby><rb>横須賀</rb><rt>よこすか</rt></ruby>の町へ目を移した。横須賀の町は山々の中にもごみごみと屋根を積み上げていた。それは日の光を浴びていたものの、妙に見すぼらしい<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>だった。

「お前の上陸は許可しないぞ。」

「はい。」

ＳはＡ中尉の黙っているのを見、どうしようかと迷っているらしかった。が、Ａ中尉は次に命令する言葉を心の中に用意していた。が、しばらく何も言わずに<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の上を歩いていた。「こいつは罰を受けるのを恐れている。」――そんな気もあらゆる上官のようにＡ中尉には愉快でないことはなかった。

「もう<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>い。あっちへ<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>け。」

Ａ中尉はやっとこう言った。Ｓは挙手の礼をした<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、くるりと彼に<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>しないように努力しながら、Ｓの五六歩<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにまた「おい待て」と声をかけた。

「はい。」

Ｓは咄嗟にふり返った。が、不安はもう一度<ruby><rb>体中</rb><rt>からだじゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って来たらしかった。

「お前に言いつける用がある。<ruby><rb>平坂下</rb><rt>ひらさかした</rt></ruby>にはクラッカアを売っている店があるな？」

「はい。」

「あのクラッカアを一袋買って来い。」

「今でありますか？」

「そうだ。今すぐに。」

Ａ中尉は日に焼けたＳの<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に涙の流れるのを見のがさなかった。――

それから二三日たった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、Ａ中尉はガンルウムのテエブルに女名前の手紙に目を通していた。手紙は桃色の<ruby><rb>書簡箋</rb><rt>しょかんせん</rt></ruby>に<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないペンの字を並べたものだった。彼は一通り読んでしまうと、一本の巻煙草に火をつけながら、ちょうど前にいたＹ中尉にこの手紙を投げ渡した。

「<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>だ、これは？　……『<ruby><rb>昨日</rb><rt>さくじつ</rt></ruby>のことは夫の罪にては<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>、皆浅はかなるわたくしの心より起りしこと故、何とぞ<ruby><rb>不悪</rb><rt>あしからず</rt></ruby>御ゆるし下され<ruby><rb>度</rb><rt>たく</rt></ruby><ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>。……なおまた<ruby><rb>御志</rb><rt>おこころざし</rt></ruby>のほどは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のちまでも忘れまじく』………」

Ｙ中尉は手紙を持ったまま、だんだん<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>の色を浮べ出した。それから<ruby><rb>無愛想</rb><rt>ぶあいそう</rt></ruby>にＡ中尉の顔を見、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>かすように話しかけた。

「<ruby><rb>善根</rb><rt>ぜんこん</rt></ruby>を積んだと云う気がするだろう？」

「ふん、多少しないこともない。」

Ａ中尉は軽がると受け流したまま、<ruby><rb>円窓</rb><rt>まるまど</rt></ruby>の外を眺めていた。円窓の外に見えるのは雨あしの長い海ばかりだった。しかし彼はしばらくすると、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに何かに<ruby><rb>羞</rb><rt>は</rt></ruby>じるようにこうＹ中尉に声をかけた。

「けれども妙に寂しいんだがね。あいつのビンタを張った時には可哀そうだとも<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>とも思わなかった癖に。……」

Ｙ中尉はちょっと疑惑とも<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>ともつかない表情を示した。それから何とも返事をしずにテエブルの上の新聞を読みはじめた。ガンルウムの中には<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>のほかにちょうど誰もい合わせなかった。が、テエブルの上のコップにはセロリイが何本もさしてあった。Ａ中尉もこの水々しいセロリイの葉を眺めたまま、やはり巻煙草ばかりふかしていた。こう云う<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>っ気ないＹ中尉に不思議にも親しみを感じながら。………

２　三人

一等戦闘艦××はある海戦を終った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、五隻の軍艦を従えながら、静かに<ruby><rb>鎮海湾</rb><rt>ちんかいわん</rt></ruby>へ向って行った。海はいつか<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>になっていた。が、<ruby><rb>左舷</rb><rt>さげん</rt></ruby>の水平線の上には大きい<ruby><rb>鎌</rb><rt>かま</rt></ruby>なりの月が一つ赤あかと空にかかっていた。二万<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の××の中は勿論まだ落ち着かなかった。しかしそれは勝利の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>だけに<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きとしていることは確かだった。ただ<ruby><rb>小心者</rb><rt>しょうしんもの</rt></ruby>のＫ中尉だけはこう云う中にも疲れ切った顔をしながら、何か用を見つけてはわざとそこここを歩きまわっていた。

この海戦の始まる前夜、彼は<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>を歩いているうちにかすかな<ruby><rb>角燈</rb><rt>かくとう</rt></ruby>の光を見つけ、そっとそこへ歩いて行った。するとそこには年の若い<ruby><rb>軍楽隊</rb><rt>ぐんがくたい</rt></ruby>の<ruby><rb>楽手</rb><rt>がくしゅ</rt></ruby>が<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>甲板の上に腹ばいになり、敵の目を避けた角燈の光に聖書を読んでいるのであった。Ｋ中尉は何か感動し、この楽手に優しい言葉をかけた。楽手はちょいと驚いたらしかった。が、相手の上官の<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>を言わないことを発見すると、たちまち女らしい微笑を浮かべ、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ず<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>ず彼の言葉に答え出した。……しかしその若い楽手ももう今ではメエン・マストの根もとに<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った砲弾のために<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>になって横になっていた。Ｋ中尉は彼の死骸を見た時、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに「死は人をして静かならしむ」と云う文章を思い出した。もしＫ中尉自身も砲弾のために<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を失っていたとすれば、――それは彼にはどう云う死よりも幸福のように思われるのだった。

けれどもこの海戦の前の出来事は感じ易いＫ中尉の心に<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だにはっきり残っていた。戦闘準備を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>えた一等戦闘艦××はやはり五隻の軍艦を従え、<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>の高い海を進んで行った。すると<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>の大砲が一門なぜか<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を開かなかった。しかももう水平線には敵の艦隊の挙げる煙も幾すじかかすかにたなびいていた。この手ぬかりを見た水兵たちの一人は砲身の上へ<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>るが早いか、身軽に砲口まで<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>って行き、両足で<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を押しあけようとした。しかし蓋をあけることは<ruby><rb>存外</rb><rt>ぞんがい</rt></ruby>容易には出来ないらしかった。水兵は海を下にしたまま、何度も両足をあがくようにしていた。が、時々顔を挙げては白い歯を見せて笑ったりもしていた。そのうちに××は大うねりに進路を右へ曲げはじめた。同時にまた海は<ruby><rb>右舷</rb><rt>うげん</rt></ruby>全体へ<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>を浴びせかけた。それは勿論あっと言う<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に大砲に跨った水兵の姿をさらってしまうのに<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>るものだった。海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちの<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る声と一しょに海の上へ飛んで行った。しかし勿論××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろす<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>には<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かなかった。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ<ruby><rb>溺死</rb><rt>できし</rt></ruby>するのに<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっていた。のみならず<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>はこの海にも決して少いとは言われなかった。……

若い<ruby><rb>楽手</rb><rt>がくしゅ</rt></ruby>の戦死に対するＫ中尉の心もちはこの海戦の前の出来事の記憶と対照を作らずにいる<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>はなかった。彼は兵学校へはいったものの、いつか一度は自然主義の作家になることを空想していた。のみならず兵学校を卒業してからもモオパスサンの小説などを愛読していた。人生はこう云うＫ中尉には薄暗い一面を示し勝ちだった。彼は××に乗り組んだ<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、エジプトの<ruby><rb>石棺</rb><rt>せっかん</rt></ruby>に書いてあった「人生――<ruby><rb>戦闘</rb><rt>せんとう</rt></ruby>」と云う言葉を思い出し、××の将校や下士卒は勿論、××そのものこそ言葉通りにエジプト人の格言を鋼鉄に組み上げていると思ったりした。従って楽手の死骸の前には何かあらゆる戦いを終った静かさを感じずにはいられなかった。しかしあの水兵のようにどこまでも生きようとする苦しさもたまらないと思わずにはいられなかった。

Ｋ中尉は<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の汗を拭きながら、せめては風にでも吹かれるために<ruby><rb>後部甲板</rb><rt>こうぶかんぱん</rt></ruby>のハッチを登って行った。すると十二<ruby><rb>吋</rb><rt>インチ</rt></ruby>の<ruby><rb>砲塔</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>の前に<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に顔を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>った<ruby><rb>甲板士官</rb><rt>かんぱんしかん</rt></ruby>が<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>両手を<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろに組んだまま、ぶらぶら甲板を歩いていた。そのまた前には<ruby><rb>下士</rb><rt>かし</rt></ruby>が<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby><ruby><rb>頬骨</rb><rt>ほおぼね</rt></ruby>の高い顔を半ば<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>け、砲塔を後ろに直立していた。Ｋ中尉はちょっと不快になり、そわそわ甲板士官の側へ歩み寄った。

「どうしたんだ？」

「何、副長の点検前に便所へはいっていたもんだから。」

それは勿論軍艦の中では余り珍らしくない出来事だった。Ｋ中尉はそこに腰をおろし、スタンションを取り払った<ruby><rb>左舷</rb><rt>さげん</rt></ruby>の海や赤い鎌なりの月を眺め出した。あたりは甲板士官の<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の音のほかに人声も何も聞えなかった。Ｋ中尉は幾分か気安さを感じ、やっときょうの海戦中の心もちなどを思い出していた。

「もう一度わたくしはお願い致します。<ruby><rb>善行賞</rb><rt>ぜんこうしょう</rt></ruby>はお取り上げになっても仕かたはありません。」

<ruby><rb>下士</rb><rt>かし</rt></ruby>は<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に顔を挙げ、こう甲板士官に話しかけた。Ｋ中尉は思わず彼を見上げ、薄暗い彼の顔の上に何か真剣な表情を感じた。しかし快活な甲板士官はやはり両手を組んだまま、静かに甲板を歩きつづけていた。

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことを言うな。」

「けれどもここに起立していてはわたくしの部下に顔も合わされません。進級の遅れるのも覚悟しております。」

「進級の遅れるのは一大事だ。それよりそこに起立していろ。」

甲板士官はこう言った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、気軽にまた甲板を歩きはじめた。Ｋ中尉も理智的には甲板士官に同意見だった。のみならずこの下士の名誉心を感傷的と思う気もちもない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではなかった。が、じっと頭を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れた下士は妙にＫ中尉を不安にした。

「ここに起立しているのは<ruby><rb>恥辱</rb><rt>ちじょく</rt></ruby>であります。」

下士は低い声に頼みつづけた。

「それはお前の招いたことだ。」

「罰は甘んじて受けるつもりでおります。ただどうか起立していることは」

「ただ恥辱と云う立てまえから見れば、どちらも<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>同じことじゃないか？」

「しかし部下に威厳を失うのはわたくしとしては苦しいのであります。」

甲板士官は何とも答えなかった。下士は、――下士もあきらめたと見え、「あります」に力を入れたぎり、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も言わずに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。Ｋ中尉はだんだん不安になり、（しかもまた一面にはこの下士の感傷主義に<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されまいと云う気もない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではなかった。）何か彼のために言ってやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に変っていた。

「静かだな。」

「うん。」

甲板士官はこう答えたなり、今度は<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>をなでて歩いていた。海戦の前夜にＫ中尉に「昔、<ruby><rb>木村重成</rb><rt>きむらしげなり</rt></ruby>は……」などと言い、特に<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>っていた<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>を。……

この下士は罰をすました<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、いつか<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>不明になってしまった。が、投身することは勿論<ruby><rb>当直</rb><rt>とうちょく</rt></ruby>のある限りは絶対に出来ないのに違いなかった。のみならず自殺の<ruby><rb>行</rb><rt>おこな</rt></ruby>われ易い<ruby><rb>石炭庫</rb><rt>せきたんこ</rt></ruby>の中にもいないことは半日とたたないうちに明かになった。しかし彼の行方不明になったことは確かに彼の死んだことだった。彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。Ｋ中尉は<ruby><rb>小心</rb><rt>しょうしん</rt></ruby>ものだけに人一倍彼に同情し、Ｋ中尉自身の飲まない<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を何杯も<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなかった。

「何しろあいつは意地っぱりだったからなあ。しかし死ななくっても<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないか？――」

相手は<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>からずり落ちかかったなり、何度もこんな<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を繰り返していた。

「おれはただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって、……」

××の<ruby><rb>鎮海湾</rb><rt>ちんかいわん</rt></ruby>へ<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>した<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>煙突</rb><rt>えんとつ</rt></ruby>の<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>にはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじの<ruby><rb>鎖</rb><rt>くさり</rt></ruby>に<ruby><rb>縊死</rb><rt>いし</rt></ruby>していた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>だけだった。こう云う話はガンルウムにいたＫ中尉にも伝わらない<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>はなかった。彼はこの下士の砲塔の前に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた姿を思い出し、まだどこかに赤い月の鎌なりにかかっているように感じた。

この三人の死はＫ中尉の心にいつまでも暗い影を投げていた。彼はいつか彼等の中に人生全体さえ感じ出した。しかし<ruby><rb>年月</rb><rt>ねんげつ</rt></ruby>はこの<ruby><rb>厭世</rb><rt>えんせい</rt></ruby>主義者をいつか部内でも評判の<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>い海軍少将の一人に数えはじめた。彼は<ruby><rb>揮毫</rb><rt>きごう</rt></ruby>を<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>められても、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に筆をとり上げたことはなかった。が、やむを得ない場合だけは必ず<ruby><rb>画帖</rb><rt>がじょう</rt></ruby>などにこう書いていた。

<ruby><rb>君看双眼色</rb><rt>きみみよそうがんのいろ</rt></ruby>

<ruby><rb>不語似無愁</rb><rt>かたらざればうれいなきににたり</rt></ruby>

３　一等戦闘艦××

一等戦闘艦××は<ruby><rb>横須賀</rb><rt>よこすか</rt></ruby>軍港のドックにはいることになった。<ruby><rb>修繕工事</rb><rt>しゅうぜんこうじ</rt></ruby>は容易に<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>どらなかった。二万<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>の××は高い<ruby><rb>両舷</rb><rt>りょうげん</rt></ruby>の内外に無数の職工をたからせたまま、何度もいつにない<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たしさを感じた。が、海に浮かんでいることも<ruby><rb>蠣</rb><rt>かき</rt></ruby>にとりつかれることを思えば、むず<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>い気もするのに違いなかった。

横須賀軍港には××の友だちの△△も<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>していた。一万二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だった。彼等は広い海越しに時々声のない話をした。△△は××の年齢には勿論、造船技師の手落ちから<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>の狂い易いことに同情していた。が、××を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>るために一度もそんな問題を話し合ったことはなかった。のみならず何度も海戦をして来た××に対する尊敬のためにいつも敬語を用いていた。

するとある曇った午後、△△は火薬庫に火のはいったために<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに恐しい爆声を挙げ、半ば海中に横になってしまった。××は勿論びっくりした。（もっとも<ruby><rb>大勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>の職工たちはこの××の<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>えたのを物理的に解釈したのに違いなかった。）海戦もしない△△の急に<ruby><rb>片輪</rb><rt>かたわ</rt></ruby>になってしまう、――それは実際××にはほとんど信じられないくらいだった。彼は努めて驚きを隠し、はるかに△△を励したりした。が、△△は傾いたまま、<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>や煙の立ち<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る中にただ<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声を立てるだけだった。

それから三四日たった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、二万噸の××は両舷の水圧を失っていたためにだんだん<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>も<ruby><rb>乾割</rb><rt>ひわ</rt></ruby>れはじめた。この<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見た職工たちはいよいよ修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にか彼自身を見離していた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまった。こう云う△△の運命を思えば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め尽していた。××はもう昔になったある海戦の時を思い出した。それは旗もずたずたに<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>ければ、マストさえ折れてしまう海戦だった。……

二万噸の××は白じらと乾いたドックの中に高だかと艦首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げていた。彼の前には巡洋艦や駆逐艇が何隻も<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>していた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかった。しかしそれ等は××には<ruby><rb>果</rb><rt>はか</rt></ruby>なさを感じさせるばかりだった。××は照ったり曇ったりする横須賀軍港を見渡したまま、じっと彼の運命を待ちつづけていた。その<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>もやはりおのずから甲板のじりじり<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り返って来るのに幾分か不安を感じながら。……

（昭和二年六月十日）