<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><TEI xmlns="http://www.tei-c.org/ns/1.0" xmlns:snh="https://w3id.org/soranoha/ns/tei" snh:vocab-version="1">
  <teiHeader>
    <fileDesc>
      <titleStmt>
        <title type="main" xml:lang="ja">語られざる哲学</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">かたられざるてつがく</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>三木</surname><forename>清</forename><idno type="aozora-person-id">000218</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>みき</surname><forename>きよし</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Miki</surname><forename>Kiyoshi</forename></persName></author>
      </titleStmt>
      <publicationStmt>
        <publisher ref="https://w3id.org/soranoha/">Soranoha</publisher>
        <idno type="soranoha-work-identifier">001072_000218</idno>
        <idno type="aozora-work-id">001072</idno>
        <idno type="aozora-card-url">https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/card1072.html</idno>
        <date when="2014-09-17">2014-09-17</date>
        <availability status="free">
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/mark/1.0/">The underlying work is in the public domain; Soranoha asserts no rights over it.</licence>
          <licence target="https://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/">Soranoha's encoding of this work and the artifacts derived from it are dedicated to the public domain under CC0-1.0. Attribution is requested, not required. Full rights statement: <ptr target="https://w3id.org/soranoha/rights"/></licence>
        </availability>
      </publicationStmt>
      <sourceDesc>
        <bibl><title>語られざる哲学</title><publisher>講談社学術文庫、講談社</publisher><date>1977（昭和52）年6月10日</date><note type="input-edition">1978（昭和53）年2月10日第2刷</note><note type="proof-edition">1978（昭和53）年2月10日第2刷</note></bibl>
        <bibl><idno type="source-content-hash">sha256:8eb5ca9ec1f3c16cfa9cdd7ce6b81b5869b3e792d00e7da7f292796baedb9e2e</idno></bibl>
        <bibl><idno type="primary-text-hash">sha256:b4285f82e24741935f22777e41f9ba1f019376c62f2131dc97aea6a39437075a</idno></bibl>
      </sourceDesc>
    </fileDesc>
    <encodingDesc>
      <styleDefDecl scheme="css"/>
      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
      <charDecl>
        <char xml:id="gaiji-4-2-5-75">
          <mapping type="unicode">嫜</mapping>
          <localProp name="rawMarker" value="女＋章"/>
        </char>
        <char xml:id="gaiji-1-2-22">
          <mapping type="unicode">〻</mapping>
          <localProp name="rawMarker" value="二の字点"/>
        </char>
        <char xml:id="gaiji-3-1-93-6">
          <mapping type="unicode">鈸</mapping>
          <localProp name="rawMarker" value="金＋祓のつくり"/>
        </char>
        <char xml:id="gaiji-78-9">
          <mapping type="unicode">𠗕</mapping>
          <localProp name="rawMarker" value="冫＋俊のつくり"/>
        </char>
      </charDecl>
    </encodingDesc>
    <profileDesc>
      <langUsage>
        <language ident="ja">日本語</language>
      </langUsage>
      <textClass>
        <classCode scheme="#ndc">121 914</classCode>
        <classCode scheme="#aozora-orthography">新字新仮名</classCode>
      </textClass>
    </profileDesc>
  </teiHeader>
  <text>
    <body>
      <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-868-890">一</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-893-914"><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby><seg source="#source-914-1007">は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1007-1025"><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby><seg source="#source-1025-1148">ぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1148-1169"><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby><seg source="#source-1169-1969">とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称讃されることを求めるに反して、語られざる哲学はわずかの人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。それゆえに語られざる哲学は頭脳の鋭利を見せつけようとしたり名誉を志したりする人が試みない哲学である。なぜならば語られざる哲学の本質は鋭さよりも深さにあり巧妙よりも純粋にあるからである。またそれは名誉心を満足させるどころかかえってそれを否定するところに成立するものであるからである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1969-3080">私のいま企てようとする哲学は、論理的遊戯に慣れた哲学者たちが夢にも企てようとは思わない哲学である。私は自己の才能を試みんがためにこれを書くのではなく、自己の心情の純粋を回復せんがためにこの努力をするのである。そしてこの努力が本当に成功するならば、私はこの一篇を書き終るとともに全く新しい性格の人として見出されるであろう。私は今年二十三である。すべてを ab ovo（始めから）に始めるために過去を食いつくしてしまわなければならない。私は私の半生の生活を回顧してその精算書を作ることを要求されている。そして私の精算書はつぎのようなふしぎな形式をとるであろう。私は自分が何をもっているかまた何をもっていないかを正直に知らなければならない。そしてそれの正当な認識はきっと私の虚栄心を破壊するにちがいない。けれど真に生きることはそこから始るのだ。私の努力が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3080-3095"><rb>虚</rb><rt>むな</rt></ruby><seg source="#source-3095-3235">しく終るかあるいはよき実を結ぶか否かは私が本当に正直になりうるか否かによって決ることである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3235-3931">かつて私は同じような試みに悩ましいいく日かを送ったことがある。最初の試みは失敗して第二の試みがつづいた。第二の試みが失敗して第三の試みがつづいた。その当時私は失敗の原因を一方では私の体験の貧しさと思索の弱さと他方ではこうした仕事に専念することによって私は断片作者になりはしないかとの反省とに帰していた。私はいま私の失敗のさらに重要な原因を正しく見定めることができるように思う。体験の貧しさと思索の弱さとはいかにも失敗の原因には相違ないが、私がその失敗の後に非常な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3931-3958"><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby><seg source="#source-3958-4180">と不安とを感じたことをもって見れば私の企ての動機のなかに不純なものが含まれていたことは明らかである。原稿はその最初の十枚にもみたない前にいく度となく</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4180-4192"><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby><seg source="#source-4192-4432">かれたり焼かれたりした。私が草稿を作ろうとした動機の有力なものに、その草稿が人々によって読まれ称讃されることがなかったとは誰が保証することができよう。私の失敗は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4432-4453"><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby><seg source="#source-4453-4645">なく私のかくされていた虚栄心を暴露した。私は隠謀があばかれたもしくは野心がすっぱ抜かれた人のような心持で、腹立たしいそして不安な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4645-4669"><rb>憂欝</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby><seg source="#source-4669-4678">の中を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4678-4702"><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby><seg source="#source-4702-5374">した。私はその頃まだ私の仕事が決して他人を相手とすべきではなく私自身を相手とすべきことを知らなかったのであった。体験の貧しさと思索の弱さとは真の仕事の基礎となってそれを成就させるものでないことはいうまでもないが、それらについての正しき自覚と反省とは真によき仕事への必要な準備であることは疑いもないことである。体験の貧しさと思索の弱さとをしみじみと感ずることは私たちを決して不安と焦躁とに駆りはしないで、かえって静けさと安けさとに導く。不安と焦躁とは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5374-5398"><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby><seg source="#source-5398-5601">な心のことであり、静けさと安けさとは謙虚な心のことである。よき魂は謙虚な魂であり、そしてよき魂のみがよき仕事を成し遂げることができる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5601-5676">私の失敗が本当に私の体験の貧しさと思索の弱さとに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5676-5691"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-5691-6534">づいていないことは、それのみならず私のその後の生活が決して改善されなかった事実が確かに証明していることである。自己の貧しさと弱さとの真の自覚は私たちをよき生活への憧憬と精進とに向わせずにはおかないであろう。断片作者になってしまいはしないかとの懸念が、私の失敗の事実上の原因であるにしてもそれが正当な原因であり得ないことは無論である。事実、私には断片作者となりやすい可能性が十分にあり、それに対して周到な警戒が必要なのであるが、私の試みは本質的には事業の問題ではなくして心情の問題である。過去の生活の精算をするというのが主要なことであって、その精算書を作るや否やは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6534-6561"><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby><seg source="#source-6561-6630">従属的な、いわば方便上のことである。よき仕事を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6630-6642"><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby><seg source="#source-6642-6804">そうというのではなくして、それへの正しき準備をなすのである。あるいは結果を求めるのではなくして、結果への道を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6804-6819"><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby><seg source="#source-6819-7360">くのである。よき魂を作ること、さらにはよき魂となることが私たちに最も大切な仕事であることを知っている人は、過去の生活や思想や感情のまとまらない精算が正しく行われるときには、決して断片作者を作りはしないことを確信するであろう。私はいま以上の二点についてたぶん間違っていない考えを得たように思うから、これから私は大胆にそして正直に私の仕事に向わなければならない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-7360-7382">二</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7382-7848">語られる哲学においてと同じように、語られざる哲学において大切なことは、正しき問い方（Fragestellung）をすることと正しき出発点をとることとである。正しき問い方をなさないものは決勝点を見定めておかないで、かってな標的に向って走る選手のようなものである。彼のすべての努力は単に疲労をもたらすばかりであって、とうてい勝利を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-7848-7866"><rb>贏</rb><rt>かちえ</rt></ruby><seg source="#source-7866-8390">させはしないだろう。正しき出発点をとらないものは、あたかも誤ったコースに従って走る選手である。彼が一生懸命に走れば走るほど、彼は決勝点から遠ざかりつつあるのである。カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは哲学の正しき出発点を見出したものとして殊に称讃されている。語られざる哲学の問題は、一体、いかにして正しく提出され得るであろうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8390-8827">私は二つの問題の提出の仕方をもって極めて正当なものとして挙げ得ると思う。第一、いかにしてよき生活は可能であるか。第二、よき生活はいかなるものであるか。すなわち第一はよき生活の必然的制約 conditio sine qua non としての形式の問題であって、第二はよき生活の内容の問題である。まず最初に注意すべきは、私が</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-8827-8863"><seg source="#source-8827-8833">よき</seg></hi><seg source="#source-8863-8947">生活というのは単に道徳的な生活のみを主張するのではなく、</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-8947-8989"><seg source="#source-8947-8956">正しき</seg></hi><seg source="#source-8989-9001">もしくは</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-9001-9043"><seg source="#source-9001-9010">美しき</seg></hi><seg source="#source-9043-9232">生活をも含めて簡単な名をもって呼んだのに過ぎないということである。つぎに何故に生活一般の形式および内容が問題とならないで、特に</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-9232-9268"><seg source="#source-9232-9238">よき</seg></hi><seg source="#source-9268-9616">生活の形式と内容とがここでは問題となるかを注意しなければならない。生活一般の形式と内容とに関しては、生理学や心理学や社会学が論議するであろう。私の語られざる哲学は生きることではなく、正しく、よく、美しく生きることについて静かに思いを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-9616-9631"><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby><seg source="#source-9631-10162">らそうとする。語られざる哲学の学徒は必然的に自然主義者でなくして理想主義者である。さらに注意すべきは、私がいま提出した二つの問題すなわちよき生活はいかにして可能であるか、よき生活はいかなるものであるかとの問題は、畢竟従来の論理学が盛んに論議し来った問題と同一ではないかとの疑問である。この疑問は一応当然の疑問であるように見えるけれども、結局は事物の外観に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-10162-10177"><rb>泥</rb><rt>なず</rt></ruby>んでそれの本質を究めようとしない者の言に過ぎない。論議される倫理学は単に論理上斉合的な、いわゆる悟性必然的なよき生活に関する知識をもって満足する。これに反して語られざる哲学にとっては、生活を改造しない知識、現実を支配しない理想は、音ばかりして決して射殺することができない弾丸が猟夫にとって無意味であると同様に無意味である。それは知識よりも生活を重要視する。そしてそれは真理に関する知識はただ生活することによってのみ得られるという信念を棄てようとはしない。私はいまトルストイの『我が懺悔』の一節を引用することが適当であると思う。「私は自分の間違っていたことを知り、いかにしてその間違いができたかを会得した。私が間違いをしていたのは、私の考え方が正しくなかったというよりもむしろ、私が忌わしい生活をしていたからであることを知った。真理が私に隠されていたのは、私の推理が誤っていたというよりも、私が肉の煩悩を満足させようとして、法外な道楽者の生活を送っていたからであることを知った。」語られざる哲学が求める真理は全人格が肯定しまた全人格が喜ばしさに<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11590-11602"><rb>盈</rb><rt>み</rt></ruby><seg source="#source-11602-11605">ち</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11605-11620"><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby><seg source="#source-11620-11772">れつつ服従する生ける真理である。それは私たちにとって律法ではなくして愛の対象となるような真理である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11772-11881">私は語られざる哲学の正しき出発点について最初の思索を試みようと思う。</seg></p>
      <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-11881-11903">三</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11903-13025">有名なデカルトはその哲学の出発点に当ってすべてを疑った。単に伝統や証権やが教えるものばかりでなく自己の感官、進んでは自己の理性の指示するところのものをも疑った。De omnibus dubitandum.（あらゆるものを疑ってみなければならない）しかして彼が方法論的懐疑といわるるものの最後に到達した真理は Cogito ergo sum.（われ思う、ゆえにわれ在り）ということであった。この絶対に疑い得ないと信ぜられた真理から出発して彼は因果律を用いて神の存在を証明し、かくして最初には疑われたものを懐疑の中から救い得ることを論証しようとした。語られざる哲学の出発点もまた懐疑であるであろうか。多くの人々にとって自明であるこの事実を、私も一応は是認しなければならない。私たちが現に感じ知り欲しておるありのままの事実を、なんらの疑いもなくそのまま受容し承認する人々に、語られざる哲学のないことは論を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-13025-13037"><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby><seg source="#source-13037-14191">たない。現実に対して不満を感じ疑いを懐くところから私たちの哲学も始るのである。懐疑はふつう征服されるものであるが、それが征服されない形でとどまる場合には、私たちはそれを懐疑主義もしくは懐疑説の名で呼んでいる。批判哲学の学徒は懐疑主義の成立が不可能なるゆえんを論じて、懐疑主義は自殺である。懐疑主義が主張されるということは、すでに真理の存在を予想するものであるという。私は批判哲学のこの鋭い批判をも承認しなければならない。語られる哲学における懐疑説は、おそらくこの投ぜられた槍によってひとたまりもなく射殺されるであろう。けれども、語られざる哲学における懐疑説は頭脳の考えたものではなく、心臓の感ずるものであるがゆえに、単なる論理によって征服されるようなものではない。私たちはしばしば頭で反対しながら心臓で信ずる。それは概念上の懐疑主義ではなくして生活上の懐疑主義である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14191-14521">私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始った。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれらから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14521-14551"><rb>悪戯好</rb><rt>いたずらず</rt></ruby><seg source="#source-14551-14602">きで反抗的な子供であった。教室では</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14602-14623"><rb>傍視</rb><rt>わきみ</rt></ruby><seg source="#source-14623-14677">をしたり、隣の生徒に相手になったり、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14677-14701"><rb>楽書</rb><rt>らくがき</rt></ruby><seg source="#source-14701-15832">をしたりばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽して書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-15832-15847"><rb>譏</rb><rt>そし</rt></ruby><seg source="#source-15847-16497">られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった。私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記して、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16497-16605">私の懐疑は私自身の苦しい思索の結果というよりもむしろ私の断片的な知識の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-16605-16635"><rb>蒐集</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby><seg source="#source-16635-16638">に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-16638-16653"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>づいていた。しかしさらに悪いことは、私は私が懐疑主義者であるがゆえに私は他の人たちよりも優秀な人間であると思っていたことであった。私はひとかどの思想家のつもりで他のまじめに学業に励み教訓に忠実な人々を蔑んだ。私たちがそれらの人々を呼んだ名は「古い頭の男」もしくは「意気地のない男」というのであった。けれども懐疑主義はどんな理由からでも他人を攻撃することができないはずではないか。懐疑主義が売物にされることほど不合理なことはない。懐疑主義はそれが正当に解された場合においてさえ語られざる哲学においてのみ許され得る思想である。いまから考えてみればあの時代の私の懐疑は新思想を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-17508-17523"><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby><seg source="#source-17523-17601">ぎ廻って新しがらんがための懐疑であり、自己の虚栄心に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-17601-17613"><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby><seg source="#source-17613-17801">びんがための、あるいは人が自明のことと承認していることをも疑い得る能力が私にあることを示さんがための懐疑であったように思う。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">語られざる哲学の正しき懐疑主義者は謙遜であり、まじめでなければならないのであるが、その頃の私の心は傲慢であったし私の生活はふまじめであった。単に疑わんがために疑っていた私の不徹底な懐疑主義は、よく起るように自然主義と結びついてそれを弁護する役目をさえ演じた。語られる権利ももたず、またそれを欲しないはずの懐疑主義はそれが語られ主張され、さらにはそれが他を弁明し擁護するに従ってますます悪くなる。私が悪事をなしたとき私の魂は悲しんだ。けれど誰かが私の悪を詰責しようとしたとき私の傲慢な心は答えた、「一体何が善であり悪であるのか。伝統や因襲やに束縛されている人のほかは誰だって道徳の標準を示し得ないのだ。」何人も正直に考えるときには懐疑主義と自然主義との間になんら必然的な論理的連絡もないことを容易に発見するであろう。ただ自己の情慾に従って生活する自然主義者といわるるものの多くが懐疑説をもって自己の悪しき生活の弁護の具となしやすい事実は、いかに懐疑が徹底的にしかして正しき動機をもって始められ難いかを語っている。真の懐疑は単に古きものや一般的なるもののみでなく新しきもの、特殊的なるものにも向けられ、一切の外的と他律的とを排して純一なる内的と自律的とに向う努力において成立するのである。あるいは単に自己以外のもののみならず自己そのものをさえ疑い否定する努力において初めて見出されるのである。私たちが徹底的な懐疑と呼びうるものは、実にかくのごとき懐疑である。それゆえに徹底的な懐疑とはすべてのものを殺し、従って自己をも殺すことである。かくのごとき懐疑の後に再びすべてのものを生かし、従って自己をも生かすことができるか否かは、実際かくのごとき懐疑に生きた人のみが体得し得ることであろう。疑いを征服する仕方は疑いの対象となるものを<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-20087-20108"><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く否定してしまうよりほかにはない。懐疑が正当に結びつき得るものは一部分の否定ではなくして全体の否定である。懐疑の完成は使徒パウロが「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といったところにおいて見出されるのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20458-20488">自己の否定する心の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-20488-20509"><rb>犀利</rb><rt>さいり</rt></ruby><seg source="#source-20509-21709">を矜ったり、いたずらに他と標異することを好んだり、もしくは自己の不道徳な生活を弁護したりすることが懐疑の正当な動機であることができないのは明白なことである。懐疑は論理をもって戯れることではなくて魂のまじめなる悩みである。懐疑の正しき動機はかようにして、よき生活への意志でなければならない。現実の世界もしくは自己に満足せずしてさらに価値多き世界、もしくは自己に憧憬する心において初めて正しき懐疑は見出されるのである。現実と理想、価値なきもしくは価値少きものと、価値あるもしくは価値多きものとの対立や矛盾を感ずる懐疑、その対立と矛盾とを悲しみ悩む懐疑こそ正しき懐疑である。懐疑はそれ自身消極的、否定的態度であるにしても根本的には積極的、肯定的態度を予想する。絶対に光を見ず、また光の予感をもたずしてただ闇の中に住める人の心には懐疑はない。プラトンがいったような身は肉体の牢獄の中にありながらイデアの世界に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21709-21724"><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby><seg source="#source-21724-21919">ろうと憧がれ求めておる人間の魂においてのみ正しき懐疑はある。懐疑に伴う寂しさや悩しさは、それゆえに、意識されたもしくは意識されない</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-21919-21931"><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby><seg source="#source-21931-22228">みの悩みである。私のこの考察はまだ間違っているのではなかろうか。真にまじめなる懐疑はむしろなんらの動機をも含まない懐疑、換言すれば疑わないではいられないから疑うところの懐疑であるのであろう。彼の魂は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-22228-22246"><rb>瞬</rb><rt>まばた</rt></ruby><seg source="#source-22246-22306">きせざる眼をもって見詰めながら闇の唯中を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-22306-22330"><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby><seg source="#source-22330-22809">する。時に彼の眼が闇の中に光の幻覚を生ずることがあっても彼の魂は欺かれはしない。かくのごときなんらの動機をも含まない、従って殆んど宿命的に感ぜられる懐疑の特質は、それが徹底的であるということである。私はここにおいて真の懐疑とは徹底的な懐疑であるという前に得たと同様な結論に達した。しかして徹底的は全体の否定を意味する。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22809-23157">人々はしばしば次のように語る、懐疑は疲れ、傷つき、病める心のことであって、健康で活動する心の知らないことであると。私は彼らがこの言葉によって何を意味しようとしておるかを認識し、また彼らの意味することが事実であることを承認することを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23157-23172"><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby><seg source="#source-23172-23606">まない。彼らのいう懐疑は、私がここに正しきもしくは真の懐疑とよぶところのものでないことは明らかである。真の懐疑は柔弱ではなくて剛健な心、自分自身をも否定して恐れない心、ヘーゲルの言葉を用いるならば真理の勇気（Der Mut der Wahrheit）をもった心において可能である。それは戦士のような心のことであって、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23606-23624"><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby><seg source="#source-23624-23963">のような心のことではない。かようにして懐疑という言葉に伴いやすい種々の不純な意味を退けて、それが含まねばならぬ積極的な方面を特に高調するために、私は反省という言葉を選び反省をもって語られざる哲学のとらねばならない正当な出発点と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23963-23981"><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby><seg source="#source-23981-24255">そうと思う。反省ということに関しては後に再び考察する機会をもつはずである。私は私の過去の内的生活における懐疑の役目について、わずかばかりの回顧をなしておく必要があるように思われる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-24255-24277">四</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">全体の傾向からいうと私は決して世のいわゆる懐疑的ではない。私を懐疑的から遠ざけた第一のものは、私の友だちが私をよぶにしばしば用いた「エネルギッシュ」ということであった。人並以上の頑健な体格を恵まれ、かつて一度も病気と名づけられるほどの病気をしたことのない私の中には、元気が横溢して絶えざる活動を私に迫った。私は数人前の食事をすることができた。ゲーテは幾人もの友だちに次から次へとつき合って食事したといわれているが、この点では私も決してゲーテに劣らなかった。私はわずかの睡眠で済ますことができた。中学時代の頃私は別に必要に迫られているわけでもないのに、月に一回は徹夜して読書することに決めていたことがあった。私は私の精力を主として散歩と読書とに費した。私は大抵の人には負けずに歩くことができたし、読書の量もふつうの人に劣らなかった。精力はあり、知識慾は人一倍強く、それに虚栄心や野心も盛んであった私は、学問のあらゆる分科にわたって手当り次第に新しきものを求めた。しぜん私は吸収に没頭して消化の方面を顧みなかった。こうした外向的な活動に専念している人に懐疑の起る余裕のあるはずがない。時に疑いを生ずることがあっても、私は私が接するであろう新しき思想、新しき書物によって解決され得るものと漠然と考えて、これを自らに求めて解決しようなどとはしなかった。私は殆んど本能的な活動慾に駆られて私の目の前に現われる何物にでも手を動かした。その頃の私はちょうど執拗な鈍痛を頭に覚える男がそれを鎮めようとして無暗に頭をぶっつけ廻るようなものであった。内省の余裕のない限りない活動には懐疑に伴うような憂鬱は随ったが懐疑そのものは含まれていなかった。私も他の人もこのあくことを知らない活動を包む本能的な憂鬱をみて私を懐疑家であると思い誤っていたらしい。精力の過剰に悩む人の雰囲気を作っている暗くて寂しい陰影は、けれども、病弱なそしてひねくれた心に起りがちな懐疑に伴う淡いけれど鋭い感じのする憂愁でもなければ、またそれは正しき懐疑に随う安けさと静けさとを含んでもいない。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26898-28635">私はいま何が正しくそして何が誤っているかをはっきりと見定めることができるように思う。はたらくということ、そこにはなんらの非難さるべき誤りもない。人生の本質、一般に実在の本質は活動にある。それゆえにあるものが偉大なる力を発揮してはたらけばはたらくほど、そのものの実在性と価値とは大である。まことに眠れる獅子は吠ゆる犬に及ばない。誤りはその活動が正しき方向に向ってまたにおいて行われないというところに存する。誤っているのは活動そのものではなくして理想のない盲目的な活動である。頭で認識するよりも心で確信することがさらに大切であること、自己の良心で判断してみないことは無暗に受容したり排斥したりしないこと、虚栄心や名誉慾やは決して正しき真理に導かずしてただ真理に対する恐れざるしかしてやさしき愛のみがそれをなすこと、これらの点を体認して、外向的よりもむしろ内向的活動がいっそう重んずべきものであることを知っている人にとっては、活動はそれが大であればあるほどよき活動である。かようにして活動が理想の光によって照らされるとき、陰鬱な気持は晴れて快活となり、宿命的な感じは退いて自由創造的となり、悩しき反抗はやさしき抱擁に道を譲るのである。正しき懐疑はすべての否定であるがゆえに、それは絶大なる活動である。自己の魂のすべてをあげての奮闘である。けれどふしぎにもそこには</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-28635-28650"><rb>傲</rb><rt>おご</rt></ruby><seg source="#source-28650-28724">り高ぶる心がなくしてへりくだるやさしき心がある。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">第一のものと関連して私を懐疑的から遠ざけたものは私の反抗する心であった。私は剛情で片意地であった。それに悪いことには少しばかりの才能を持合せていたので、私は多くの人に起るように何にでも反対したり反抗したりして自己の才能を示そうとした。私は自分の意志することはなんでも成遂げられると信じていた。そして私は私の注目に値したすべての種類の人になることを次から次へと空想して行った。政治家、弁護士、法律学者、文学者、批評家、創作家、新聞記者、哲学者……。ただ私が初めからなってみようと思わなかったことが二つあった。それは商売人と軍人とである。後に私の反抗は習慣的になってしまって、なんらの動機もなく、またなんらの理由もなしに、ただ無暗と人に反対したり喰ってかかったりした。私はそうしたあとで本当にやるせない寂しさの中に自己の醜悪を感ずるのであったが、習慣から脱することは他から考えられるほど容易なことではなかった。私はあたかも傷ついた野獣のような姿をして、ただなんでもいいから自己を通そうとした。私の友だちは私のこの性質を「押しが強い」と名づけた。反抗は外に向う心であり物をそれに従って正直に理解することではないから、反抗が行われるところに正しき懐疑は存在しないのは明らかである。真の疑いはいつでも自己に反って求めるところから、事物をありのままに認識するところから始るのである。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">二、三の友だちは私にこういった、「君は不幸に逢わなければよくなれない。君は大きな打撃にぶっつかる必要がある。」私はいまそれらの言葉をもう一度はっきりと思い起して、その意味を自分で適当に解釈しながらしみじみと味ってみる必要がある。それは何より先に謙遜なる心の回復を意味するのでなければならない。しかるに謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道に<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-31090-31102"><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby><seg source="#source-31102-31412">り狭い門をくぐって私たちは天国に入るのである。この世の智恵を滅ぼすとき神の智恵は生れる。まことに天国は心の貧しき人のものである。私はいまさらに新なる感興をもってゲーテの有名なる詩の一句を誦せざるを得ない。</seg></p>
      <div type="layout" source="#source-31412-31885" style="padding-inline-start: 2em">
        <p><seg source="#source-31450-31489">Wer nie sein Brot mit Tränen ass,</seg></p>
        <p><seg source="#source-31492-31529">Wer nie die kummervollen Nächte</seg></p>
        <p><seg source="#source-31529-31561">Auf seinem Bette weinend sass,</seg></p>
        <p><seg source="#source-31564-31616">Der kennt euch nichţihr himmlischen Mächte!</seg></p>
        <p><seg source="#source-31616-31678">（涙ながらにパンを味わったことのない者、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31678-31716">悩みにみちた夜な夜なを</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31716-31784">ベッドに坐って泣きあかしたことのない者は、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31784-31849">おんみらを知らない、おんみら天の力よ！）</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-31887-32163" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第二巻一三章で、老人の</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">竪琴弾きが口ずさむ歌。高橋義孝・近藤圭一訳『ゲーテ全集』　第五巻）</p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32165-32660">かようにして私はここでもまた何が正しくしかして何が誤っているかをはっきりと見定めることができる。押しが強いということもしくは自己を主張することもしくは反抗するということがそれ自身誤っているのではない。誤っているのはいかなる点において押しが強いか、いかなる自己を主張するか、またいかなる事物に反抗するかに関係しているのである。私は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-32660-32684"><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>の大いなる言葉について思い廻らそう、「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-32954-33024"><rb><seg source="#source-32954-32957">姑</seg><g ref="#gaiji-4-2-5-75" source="#source-32957-33003">嫜</g></rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>より分たんためなり。」悪に対して剛き心はやがて善に対してやさしき心である。私は他人に対して反抗するまえに自分自身に対して反抗しなければならない。自己を否定し破壊し尽してのちにおいて初めて、他人に対して何を始むべきかを知るであろう。私は剛情な子供が<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-33393-33417"><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby><seg source="#source-33417-33600">を押し通そうとしたとき、賢しい母親に妨げられそれがよくないことであることを諭されて自分で会得したとき、一時に母親の膝に泣き</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-33600-33615"><rb>挫</rb><rt>くず</rt></ruby><seg source="#source-33615-33735">れる、その子供の無邪気なそして素直な心をもって大地に涙しながら私の高ぶり反く心を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-33735-33750"><rb>挫</rb><rt>くず</rt></ruby><seg source="#source-33750-33920">さなければならない。そのとき私の片意地はあたかも地平線に群る入道雲が夕立雨に崩れてゆくように崩れてゆくであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33920-34858">私の活動性と反抗性とが私を懐疑から遠ざけている間に、さらに第三のものが私の心に生れて懐疑を退けようとした。そのものは私が幾分かでもまじめになって哲学を研究するようになってから生れたものであって、現に私の心の中で成長しつつあるものである。永遠なるものの存在、それによっての現実の改造の確信、私はそれを一般にこうした形式で現わすことができるかも知れない。価値意識の存在、それの経験意識の支配の信頼、それはこうした形に書き換えることもできるであろう。自由とは良心が自然的なる思惟活動、感情活動および意志活動を規定し制御してゆくところに存するものであるとするならば、それは自由の可能の確信という言葉によっても現わされ得るであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34858-36442">文化的価値が自然的価値の中に次第に頭角を現わして行く過程を歴史と名づけるならば、一般に歴史的過程の存在の確信、しかしてそれの最後の完成への絶対の信仰こそ私の懐疑を退けた第三のものである。あるいはもっと通俗的な言葉を用いるならば、良心と理想との存在とそれの現実の規定力との確信が私がいわんとする当のものである。一度この確信が私の心に生れて以来、私は未来へのよき希望を失うことができなかった。たとい論理や経験やがいかほど反対しようとも、私のこの一度生れた信仰は決して破壊されないだけの力をもって私の中に宿っておるように思われる。アリストテレスはいった、驚きから哲学は始ると。またデカルトは考えた、哲学の首途は懐疑であると。しかしながら私自身に関していえば、私は前にいったように決して懐疑的傾向に富んだ男ではなかったし、また人々が自明のこととして学問上許容している事柄に不審を懐くほど鋭い思索力ももっていなかった。私を哲学へ導いたものは、実に、永遠なるものに対する憧憬、プラトンがエロスとよんだところのものである。私の魂は永遠なるものの故郷に対するノスタルジヤに悩んでいる。私はたぶん私の思索生活の全体を通じて理想主義者としてとどまるであろう。私は樹から落ちる</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-36442-36463"><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby><seg source="#source-36463-37117">を見て驚異を感ずる心よりも、空に輝く星を眺めて畏敬の情を催す心をもって生れた。幸福なことには、私は美しき芸術を感じ、正しき真理に驚き、よき行為を畏れる心を恵まれていた。私の哲学はこの心から出発するであろう。そしてこの心が私をして子供のような無邪気さをもって闇の空にではなく大きな青空に夢み出させた。また私の純粋さはこの夢において保たれて来た。人々はよく私を現実を知らない夢みる人であるといった。私を包む青い憂愁の中にあって唯一つほのかに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-37117-37138"><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby><seg source="#source-37138-37359">む白い花も実にこの心から生れたものであった。私は美しき芸術を味わいよき書物に接したときほど生甲斐を感じたことがない。私の夢と幼き心とに永き命あれ！</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37359-37578">しかしながら、私はそれにもかかわらずいま一度考え直してみる必要があると思う。文化への憧憬と確信とははたして正しき懐疑を排斥するであろうか。それは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-37578-37596"><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby><seg source="#source-37596-37611">しき病弱な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-37611-37623"><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby><seg source="#source-37623-37644">ねた心から出る</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-37644-37674"><rb>不具者</rb><rt>かたわもの</rt></ruby><seg source="#source-37674-37974">の懐疑を駆逐するであろうが、雄々しき剛健な直き心の悩む健全な懐疑とは親しげに握手するのではなかろうか。闇と光とが相容れないように善き心は決して悪き心に道を譲ろうとはしない。直き心とは妥協を知らざる心の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-37974-37989"><rb>謂</rb><rt>いい</rt></ruby><seg source="#source-37989-39739">である。しかして私たちが生きている現実の世界は、それが正直に考察されるとき誰でもが醜悪や不合理を見出さずにはいられないような世界である。理想を憧がれ求むる心には必ず懐疑が起らねばならないようなのが現実に私たちが経験する世界である。自己の良心に忠実であろうとするすべての人々は、必ず悩まねばならぬ世界に私たちは生存している。それゆえに私の中に生れた理想を憧がれ求むる心が安逸を欲しているとするならば、それはまだ本物でないか、まだ生れたばかりで力が足りないかのいずれかでなければならない。もし前者であるとするならば私は私の中に感ずるよきアーヌング（予感）に従って本物を見出すことに努力しなければならないし、もし後者であるとするならば、私はそれを培い育ててゆくことに骨折らねばならない。いずれにせよ懐疑や否定があり得ないほど現実の世界はよき状態に達していないのは事実である。そしてへりくだる心とは弱き心でなくして必然に強き心である。私はあまりに安逸を求め過ぎている。その門は大きく、その路は広く、これより入る者多きもこれを選ぶ人は悉く滅びに至るであろう。才能もあり智恵や徳もあった多くの人たちでさえ、もっと険しい道を通って来たのに、それらをもっていない私が安全な道に由って完全に至ろうということほど考え難いことがまたとあるであろうか。私は決して苦しみを恐れてはならない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-39739-39761">五</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39761-40220">私と哲学との関係は上に述べたことと関連してやはり三段階を経て発展した。よくあるように私も最初は哲学というものは非常に高遠で奇抜なもののように考え、そしてそのような深邃なもの新しいものを知ろうという好奇心と、そのような人が困難とするところのものを自分は理解し得ることを示そうとする虚栄心と、もっと根本的には</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-40220-40238"><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby><seg source="#source-40238-41225">ってあくことを知らない知識慾とから哲学に向った。およそ哲学と名のつくものは唯その名のためにたいへん偉いもののように思われた時代が私にも最初にやって来た。その頃私はなるべくたくさんの哲学者の名を暗記しようとしたり、またそれらの哲学者の書いた書物の題をできるだけ多く記憶しようとした。私は単に哲学者の名やその書物の題を知りもしくはその書物を買込み、高々それらについての簡単な紹介かあるいはその書物から断片的な章句を知れば、もうそれだけで自分もひとかどの哲学者になったつもりで思いあがっていたらしい。私はそれの正当な解釈も知らず、またそれが全体の哲学体系の中でいかなる位置と意味とを占むべき句であるかも知らないで、いたずらに先行思想家の言句を喋り廻った。スペンサー</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-41225-41240"><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby><seg source="#source-41240-41564">く、ミル曰く、ショーペンハウエル曰く、カント曰く、などということがたくさんにできれば私は得意であったし、またそんな断片的な知識で人を驚かすに十分であると信じていた。けれど真の哲学は他人相手の仕事ではなくして自己の魂の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-41564-41585"><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby><seg source="#source-41585-41833">なる労作である。私に哲学上の教養があったとするならば、それは“someone said”の哲学に関してであった。しかしながら貨幣の種類をたくさんに示し得る人が必ずしも金持ではない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-41833-41947">青春の日が爛熟して行って憂愁が重い翼を私の心の上に拡げた。捉え難い寂しさは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-41947-41962"><rb>盲</rb><rt>めし</rt></ruby><seg source="#source-41962-41989">いたる眼で闇の中を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-41989-42001"><rb>当</rb><rt>あ</rt></ruby><seg source="#source-42001-42004">て</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-42004-42016"><rb>途</rb><rt>ど</rt></ruby><seg source="#source-42016-42073">もなく見廻わそうとし、去り難い悩しさは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-42073-42085"><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby><seg source="#source-42085-42124">えたる手でいたずらに虚空を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-42124-42139"><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby><seg source="#source-42139-43177">もうとした。日の輝く広野の嬉戯よりも薄暗い小屋の孤独を欲するような頃がやって来た。私は多勢の人の手によって軽く頭を打たれるよりも唯一人の人の手によってしっかりと抱き締められることを求めた。私の活動性がいかに自己を忘れて外なるもの新しきものに向わせようとしても、私は私の裏に感ずる悩しい自我に対して全く無頓著であることができなかった。私は明るいものよりも暗いもの、知識的なものよりも意志的なものにいっそう多くの魅力を感ずるようになった。かようにして自我に執著してすべてのものに反抗する日は来った。明確なるもの、論理的なるもの、概念的なるものに興味を失って、非合理的なるもの意志的なるものに共鳴するようになった私が最初に得たのはショーペンハウエルの哲学であった。彼の書物から来る美しいけれど悩しい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-43177-43201"><rb>旋律</rb><rt>せんりつ</rt></ruby><seg source="#source-43201-43279">は私の心を奪い去るに十分適していた。生の無価値にして</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-43279-43294"><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby><seg source="#source-43294-43525">うべきことを説きながら、自らは疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルでは数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅した彼の哲学は、インド思想と共通な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-43525-43546"><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby><seg source="#source-43546-44565">を説きながら、その基調においては悩しき青春の爛熟期の哲学である。私は幾夜彼の書の上に涙したことであろう。しかしながら私の自我は押し通されることを要求し、私の活動性は奮闘的であることを迫り、私の意志は反抗的であることを欲していたから、否定的、静退的を説くショーペンハウエルの哲学とは私は別れて行かねばならない運命をもっていた。私はいつとはなしにニイチエに移って行った。文学の方ではその頃イブセンを好んで読んでいたように思う。私はツァラツストラを説きブランドを叫び、超人をいい第三帝国を語った。いまから考えてみれば、私はその時分それらの事柄の正当な意味を捉えていなかったのであるが、私の全体の気持としっくり合うように思われたために、私はそれをかってに解釈して振り廻していたのだった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44565-44997">当然来るべきはずの第三の時期はきわめて徐々としてではあるが確実にやって来た。けれどそれは、第二の段階に直接に連続しはしないで三ヵ年間に亘った永い切断の後にやって来た。高等学校へはいったとき、私はいよいよこれから正式に哲学の学徒として旅立つのだという嬉しさから、これまで親しんで来たものに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-44997-45009"><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby><seg source="#source-45009-45704">いて絶縁しようとした。ニイチエやショーペンハウエルやは退けられて心理学や論理学の書物が傍に積まれた。文学や芸術の本は哲学史や哲学概論の書物によって置換えられた。その時分私の興味の中心従って読書の中心を占めていたのは心理学であって、あるときなどはまじめに心理学者になろうかなどと考えたことさえあった。心理学に対する私の興味はそれから後いまに至るまで続いて来ているのであって、高等学校を卒業する間際まで私が心理学を専攻するものだと思っていた人さえあったくらいである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-45704-45878">けれども曲げられたものはいつかは反撥して来るであろう。無理に絶縁されていた文学に対する私の愛は機会を得て猛然として</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-45878-45899"><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。そしてその機会を作ったものは実に哲学における私自身の能力についての懐疑であった。私は疑った、「おまえの能力ははたして哲学に匹敵し得るか。おまえの粗雑な頭脳は？　おまえの綿密でない思索力は？　それよりもおまえの中に燃えていておまえが押え切れない情熱は？」実際私の情熱は私が冷静を装おうとすればするほど裏切る力を増してゆくように感ぜられて、私を限りなく苦しいものにした。そしてその頃私は哲学者の最大の条件は冷静ということにあると考えていたようであった。哲学者となろうとする私が自分の中に燃え上る情熱を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-46658-46676"><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby><seg source="#source-46676-47032">ることができない強さをもって感じたときの寂しさは、ちょうど若い尼僧がこれまで完全に征服してしまったと思っていた情熱を日も夜も感ぜずにはいられなくなったときの寂しさに似ていたであろう。そして私は論理的思索力についても全く自信を失っていた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-47032-47881">かようにして哲学の方面において自己の力を少しも信頼することができないようになった私は、再び文学の方へ懐しげに帰ってゆこうとした。私は文芸批評家になろうかとも、あるいは創作家になろうかとまでも思った。しかし哲学に対する顧慮は、私の文学に対する愛をふしぎに臆病にさせた。哲学書から離れて臆病になっていた私は、文学書に触れたりペンをとったりすることをまるで悪事でもするように恐れていた。来る日も来る日も私は二つの愛の中に彷徨して悩しい時を送らねばならなかった。私の心は巷の刺戟を恐れるほど弱くなっていた。弱い心は静かな自然の抱擁を求めるほか道を知らなかった。私が武蔵野を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-47881-47893"><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby><seg source="#source-47893-48106">うことはその頃からいよいよ繁くなって来た。自然はすべての不平と煩悶とを葬るにまことに適しき墓である。草原に寝転んで青い大空を仰ぐとき、雑木林に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-48106-48124"><rb>彳</rb><rt><app type="base-text-variant" source="#source-48124-48187"><lem>たたず</lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-48172-48181">ただず</seg></rdg></app></rt></ruby><seg source="#source-48187-48297">んで小鳥の歌に聞き入るとき、私の憂いたる心もいつとはなしに微笑んでいた。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">一方では自然にうちこむことによって私の心は次第に安静を得て来、他方では学校の学科の関係上倫理学や心理学や論理学やを勉強せねばならなかったが、それらのことは私にいま一度哲学的学科に対する興味を蘇らせる機会を与えることができた。初めは必要に迫られてやったことも後には自発的にやるようになり、また学問そのものに対する純粋な知的興味を私が感ずるようになったのもその頃からであったと思う。私が最も愛読した書物は西田先生の『善の研究』であったが、私はそこにおいてかつて感じたことのない全人格的な満足を見出すことができて<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-49059-49083"><rb>踊躍</rb><rt>ようやく</rt></ruby><seg source="#source-49083-50676">歓喜した。もしこれが哲学であるならば、そしてこれが本当の哲学であるべきであるならば、それは私が要求せずにはいられない哲学であり、また情熱を高めこそすれ決して否定しないところの哲学であると私は信ぜざるを得なかった。それと前後して私が接する幸福な機会をもつことができたスピノザ哲学は、私の心に自然が与えると同じような、けれどもっと純化され透明にされた安静を与えた。以上のすべてのことによっての私の哲学的生活の第三の段階への準備に最後の完成を与え、またある意味では第三の段階そのものに属していたともいうことができるのは、私のカント哲学との接触であった。自己の衷なる理性、もしくは真の自己そのものの自覚、しかしてそれより生れる人格の品位に対する畏敬、これらのことを正しく私に教えることを得たことが、私をなにより先にカント哲学の学徒たらしめた。カント哲学は、哲学は自己を顧みない論理的遊戯であり、情熱を否定する概念的知識であるところにそれの本質を有すると考えた私の無智な誤解を一掃した。なぜならば、理性とは真の自己そのものであり、無限にして永遠なるものを憧がれ求める情熱の源となるようなものであるから。かようにして哲学的生活の第三の段階、すなわち真に正しき形而上学的要求に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-50676-50691"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-50691-51160">づいた哲学的生活は、自己の本源に還るところ、永遠なるものに対する愛を感ずるところにおいて初めて成立する。これらの事柄に関しては、しかし、これから後幾度となく考うべき機会をもつに相違ない。私はたぶん正当に、第一の段階を個性前の段階、第二の段階を心理的個性の段階、第三の段階を哲学的個性の段階と名づけ得るであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-51160-51182">六</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51182-51839">私は私の過去の哲学的生活の簡単で殆んど形式的な回顧においてさえあまりに情熱的であったように思う。私の情熱が私をふしぎに寂しく悲しいものにする。私は外に向うべき眼をもって自己の内を見ているようだ。少くとも自分自身を説服しようという無邪気ならぬ心組から何物をも求めようという成心のなかるべき懺悔の心を失いつつあった。懺悔は内に翻された眼によって、そしてその眼は恐らく湿っているであろうが、しみじみと自己を眺めることである。それは他に対しては</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-51839-51854"><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-51854-52213">より自己に対してでさえ何物をも教えようとはしない絶対に謙虚なる心である。世のいわゆる哲学が集められ貯えられたる智恵に基礎をもつことを誇りげに語ろうとするとき、懺悔は自己が無智において成立する哲学であることをつつましやかに黙しつつ承認する。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52213-52539">けれど私はこの場合哲学がいかなるものであるべきか、厳密にいえば少くとも私の心が要求しまた私がそれを与える人でありたいと欲する哲学が、いかなるものであるべきかについて、二、三の考察を試みておくことが適当であると思う。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52539-52836">一般に哲学へのあり得べき正しき道として三つのものが指摘し得られる。第一は自己の深き体験から出て来、またそれに向う反省から哲学へ至る道である。私たちがふつう不注意と無感覚との中に投げ棄てている日常の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-52836-52857"><rb>瑣末</rb><rt>さまつ</rt></ruby>な出来事をさえも自己の魂の奥底へまで持来して感じ、人生において大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「いかに」経験するかに存するということを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である。彼は多き経験とともに深き経験を欲し、しかして深き経験とは彼にとっては必然的に反省的なる経験である。彼の体験は自ら反省にまで発展し、彼の反省は必然に体験にまで還って来る。哲学への第二の道は哲学史の徹底的な研究の道を通してである。事物の外観に迷わされずしてそれの根柢へはいって行ってそれの精神を体験し得る人、哲学史上の偉大なる人たちは、起伏する波の頂点であると考えてそれの基底をなす潮流の中へ自らを沈めようとする人、そしてそれらの体験と沈潜とから得来ったものを自己の形式において生かそうとする人は、哲学に対しては選ばれたる人である。彼の胸には思想史上の天才に対する尊敬と愛とが波打っているが、しかもそれらの天才において何が永遠なるもので何が一時的なるものであるかを本能的な確かさをもって感ずることができ、しかして彼の頭脳は感得されたものに新しき統一を要求する。彼の魂は単なる客観に没頭して自己を忘れるためにはあまりに力強いのである。最後に特殊科学の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-54423-54453"><rb>究竟</rb><rt>きゅうきょう</rt></ruby><seg source="#source-54453-55050">的な研究は哲学への第三の道として私たちの前に開けている。一般の人ばかりでなく専門家たちが自明の真理として許容し前提する事柄をもう一度根本的に疑ってみる大胆と勇気とがある人、個々の知識に満足せずしてそれの根柢を究めようとする人は、哲学のよき学徒たる資格を十分に具えた人である。彼は子供のような無邪気さと聡明さとをもって問い、強迫観念病者のような執拗とともに明るい直観をもって研究し洞察する。彼は大地の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55050-55071"><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby><seg source="#source-55071-55092">い堆積や限なき</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55092-55116"><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby><seg source="#source-55116-55227">よりも一瞬の間にせよ闇黒の深さを破って輝く星の光を愛することを知っている。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55227-55248"><rb>太初</rb><rt>はじめ</rt></ruby><seg source="#source-55248-55266">にあり、神と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55266-55281"><rb>偕</rb><rt>とも</rt></ruby><seg source="#source-55281-58520">にあり、そしてすなわち神であるロゴスこそ彼がすべてのものを棄ててまでも求め出そうとするところのものである。しからばこれらの三つの道に共通なるものは何であるか。私は哲学に対して起りやすい二つの疑問に答え、また哲学について伴いがちな二つの誤解を正すことによって、この問題は適切に解決されるのではないかと考える。人々はいう、一体哲学などというものがあり得るか、あるとしてもそれは要するに空中楼閣に過ぎないのではないかと。いかにもそのとおりである。その体験が反省的な根強さも深さももっていない人、哲学史の知識を自己の博学を矜る具に供したり社交場裡の話柄に用いたりして得意気に満足しておる人、ないしは特殊科学の知識を単に実用に役立てる利口な人やもしくはどこまでも専門学者としてとどまろうという人、それらの人々にとっては実際哲学がないのが事実であり、またそれが空中楼閣に過ぎないかのごとく見えるのが当然である。哲学は知られるものでもなければまた教えられるものでもない。哲学はただ実際にフィロゾフィーレン（哲学思索）する人、事実哲学に生き哲学を生きた人にとってのみ存在する。厳密な論理を辿る学問でありながら他の特殊科学と異なる特質、もしそれに含まれやすい誤解を除いて考えるならば、哲学があらゆる学問の王であるゆえんは、実にこの点に存するのである。さらに他の人々は気遣わしげに問う、哲学が論ずるような普遍的なもの、論理的なものはわれわれの人生には没交渉でありなんらの影響をも与えないものではないかと。これもまた疑われるとおりである、もし彼が現実についての反省されない粗雑な観察や認識に満足してそれの根柢を究めようとしないとき、事実経験され感受されるもの以上に超越しようとする要求をもたないとき、彼にとっては論理的、普遍的を取扱う哲学は、むしろ有害なものであるか、高々無聊なる時間をやる閑事業であるかに過ぎないであろう。しかしながらこれに反して自分自らフィロゾフィーレンする人、すなわち論理的なるもの、普遍的なるものに関して苦しく力強き思索に実際生きた人にとってはこれらの疑問ほど無意味なものはない。彼らにとってはかかる論理的なるもの普遍的なるものこそ人生を生きるために、いやしくも人生を正しく深く美しく生きるためにはなくてはならぬものである。イデーに生きまたイデーを生かそうとする生活、イデーの力に対する希望と信頼、そこに哲学的生活の本質はあり、そしてかかる哲学的生活からのみ真の哲学は誕生する。真理の勇気と精神の力の信仰とは、へーゲルがいったように哲学の第一の条件である。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-58520-58880">以上の二つの疑問に答える共通な一つの答、すなわち自らフィロゾフィーレンせよということは、以下の、前にあげた疑問に対応もしくは対立する二つの誤解を防ぐためにも十分であるであろう。私がここにいう二つの誤解の第一のものは、哲学をたいへんに高遠で</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-58880-58904"><rb>深邃</rb><rt>しんすい</rt></ruby><seg source="#source-58904-58967">なことと考えて、かような哲学をちょっとでも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-58967-58982"><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>ることを非常に偉大なことと心得て思いあがる人々に属するものである。人々が幽玄とし迂闊とする哲学を知っておくことは自己を他の人々から標異せしめ、自己の虚栄心を満足させるために最もつごうのいいことだと彼らは考える。あるいは彼らは哲学の秀れた点は主として人々が高遠とし深邃として遠ざけるちょうどその点にあると思惟する。けれども哲学の貴い点はそれが自己の外に尋ね求められるものでなく、かえって自己の内に還り見出される点にある。語られる哲学の根柢は語られざる哲学にある。そして語られざる哲学は必然的に虚しくへりくだる心の純粋において成立するのである。Les grands pensées vient de coeur.（偉大な思想は心情から生まれる。　ヴォヴナルグ『省察』八七）真の生ける真理を与うる哲学は語る口に見出されずして語らざる魂において成長する。哲学に関する第二の誤解はこれとあたかも反対した側面からすなわちそれがあまりに人生の実際と接近して感傷的もしくは病的になって、われわれの論理的要求から遠ざかっておるという批難においてぶっつかるものである。この考えを懐く人たちの想像する哲学者は、蒼白な<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-60412-60427"><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby><seg source="#source-60427-60673">め面をした、人生や自然におけるよきもの美しきものに無頓著な、すべての現実的に対して懐疑的もしくは厭離的になった人である。彼はやたらに涙を流す人かあるいは一滴の涙さえ</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-60673-60685"><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby><seg source="#source-60685-60729">れ尽してしまった人かである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60729-61083">しかしながら私の考えるところでは、哲学者にはいかにも感情が必要であるが、それは純化され透明にされない情緒ではなくして、永遠なる理想や価値や理念やに対する感激である。情緒と感激とは根本的に性質の異なったものであろうが、道徳を本能の一種と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61083-61101"><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby><seg source="#source-61101-61425">す心理学的立場から、それらが同一根柢にまで還元されることを許すならば、感激とは永遠なるものに関係する限りの情緒である。情緒はそれに伴う不安と焦躁とからわれわれを限りなき盲目的な運動にまで駆るに反して、感激はそれに随う</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61425-61446"><rb>安静</rb><rt>ルーエ</rt></ruby><seg source="#source-61446-61548">と平穏とからわれわれを光に照らされた、限りある従って完全な活動にまで</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61548-61566"><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby><seg source="#source-61566-62711">かせる。それゆえに情緒の運動が自ら外部的、身体的であるに反して、感激の活動は必然的に内部的、精神的である。前者は濁れる涙を猛烈に外に注ごうとするに反して後者は輝ける涙をもって自己の魂を洗い浄めようとする。しかのみならず私が永遠なるものとよぶところのものに純粋に概念的にして論理的なる真理が含まれていることを思い、またかくのごとき純粋に知識的にして思弁的なものに対してもはなはだ高き程度の感激があり得ることを認め、もっと根本的には情緒と感激との正当な区別を誤らない人は、哲学が一方では私たちの感情的要求を決して排斥するものでなく、他方では私たちの論理的要求を否定するものでないという二つのことが必ずしも矛盾しないことを容易に発見し得るであろう。哲学はいつでもフィロゾフィーレンする人にのみあり、またフィロゾフィーレンする人によってのみ正しく理解され得るものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-62711-63860">私がいま与えた解決にして誤っていないならば、私は真の哲学者の資格として次の二点を挙げても間違ってはいないであろう。第一、論理的思索力の鋭さと強さ。第二、永遠なるものに対する情熱の清さと深さ。このことと関係して私が哲学者と呼ばれておる人間を三つの型に分つとしても必ずしも虚妄として退けられないであろうと思う。すなわち頭のよい哲学者、魂の秀れた哲学者、および真に偉大なる哲学者がそれである。第一の型の人々を一体哲学者と呼んでいいのかどうか私は知らない。なぜなら彼らは真の哲学者の資格として私があげた第一の条件としての論理的思索力の鋭さと深さについて、単に鋭さを示すのみであって深さをもっていないからである。学校の秀才といわれるものの特質を担ったいわゆる講壇的哲学者には頭があっても魂がない。そして深さは、それが論理的、概念的に関係しておる場合においてさえ、いつでも魂に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63860-63875"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-63875-63959">づいておるからである。彼らは声高く教えようとする、彼らは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63959-63980"><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby><seg source="#source-63980-64457">き文献を作ろうとする。論理の巧妙と引証の該博と討究の周到とは彼らが得意気に人に誇示するところである。しかし惜しいことには彼らにはそれらの秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている。いわば彼らには積極的がない。彼らは人の驚きを買うことができても人の愛を得て人を感激せしめることができない。ファウストがワグネルを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-64457-64472"><rb>喩</rb><rt>さと</rt></ruby><seg source="#source-64472-64566">したそのままの言葉がちょうど適当であるのが彼らの哲学である。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-64566-64834" style="padding-inline-start: 2em">
        <p><seg source="#source-64601-64647">Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen,</seg></p>
        <p><seg source="#source-64647-64686">Wenn es euch nicht von Herzen geht.</seg></p>
        <p><seg source="#source-64686-64745">（どうせ君の肺腑から出た事でなくては、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64745-64798">人の肺腑に徹するものではない。）</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-64836-64949" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（ゲーテ『ファウスト』第一部五四四―五　森林太郎訳　岩波文庫）</p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64949-65255">彼らは人を教えもしくは説服しようという心に支配されていて、その根柢になくてはならない虚しくへりくだる心をもっていない。よき語られざる哲学の学徒のみがよき語る哲学の学徒たり得る。彼らの学問は恐らく地に這う</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-65255-65273"><rb>葛</rb><rt>かずら</rt></ruby><seg source="#source-65273-66229">のように広く拡ることができても、天に向って雄々しく伸びてゆくことができないであろう。なぜならば学才を伸ばしもしくは深めることができるものはただ秀れた魂のみであることを私は信ずるのであるから。彼らが、しばしば起るように、堕落して、純粋な知的興味からでなく名誉心や好奇心から、あるいは少くとも習慣的に雑誌や書物の数を殖やしたり文献の量を増したりするようになれば、彼らは単にそれによって自己の魂を高めることができないばかりでなく、またそれがために後に出ずべき正しき研究の道を塞ぎもしくは同僚や後輩の有効に用いらるべき時間を浪費する。こうなれば彼らは意識せずして不道徳を行いつつあるのである。学者的良心はいかなる場合でも鋭敏でなければならない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-66229-66493">魂の秀れたる哲学者とは永遠なるものに対する情熱の深き人々である。彼らの心は永遠なる理想や価値、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問の憧がれとそれらに対する努力とにおいて喜びに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-66493-66505"><rb>盈</rb><rt>み</rt></ruby>ち溢れつつ悩んでいる。彼らは外に向う心よりも内に還る心、人を教えようという心よりも自ら求めようとする心が真の哲学の根柢として尊ぶべきものであることを知っている。彼らは語られる真理よりも語られざる真理をさらに重んずる。ただ悲しいことには彼らは論理的な思弁に短であるがために彼らの清く深い体験を概念的に組織し統一する力を欠いている。けれど彼らの正しき心は、「自己の能うことはどこまでも研究し、自己の能わないことは静かに尊敬する」ことを心得ており、正直と無邪気とを失うことがいかに悪いことであるかを知っておるから、彼らは自己の魂とともに他人の魂をも高めることができる人々である。教えようとしない心は最もよく教うる心である。へりくだる心は最も鋭く人に迫る心である。いかにも彼らの哲学は論理の厳密と連絡の緊密とを欠いているであろう。けれどもそれらのすべてにかかわらず、彼らの哲学はふしぎに人を感動させずには措かないものをもっている。規則正しい序列を作って寄せて来る数限りない波よりも突然の風に天に冲するばかり高まった唯一つの波がいっそう速にまた確実に巌を砕く力を具えているのである。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67965-68226">真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えらるべき名である。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68226-68241"><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby><seg source="#source-68241-68442">されている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68442-68466"><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby><seg source="#source-68466-68502">との海を彼の性格の奥底に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68502-68517"><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby><seg source="#source-68517-68793">えておる。けれどその闇は絶対の無でなく積極的なるものに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱は持たざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。あるいはヒステリー</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68793-68811"><rb>女</rb><rt>おんな</rt></ruby><seg source="#source-68811-68844">の憂鬱ではなくて健康な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68844-68859"><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby><seg source="#source-68859-68862">み</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-68862-68874"><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby><seg source="#source-68874-69288">の憂鬱である。すなわち彼の衷に秘められた闇と憂鬱とは光と快活とを生みそして育てるところの闇と憂鬱とである。そのアーヌングに充ちた闇の中から時に巨光が輝き出て広い行手を示す。その深い憂鬱の海から華かな大きな花が咲き出でる。かくのごとく深くして根強い魂が発展して、自らとった論理の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-69288-69309"><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>や統一の完全こそ真に偉大なる哲学には決して欠けてはならないところの形式である。剛健な、それゆえに悩める魂の力強さが内面的に要求する論理は、いわゆる思想家と自称する人々が排斥するように哲学に不必要なものではなく、これがなくては真に偉大なる哲学があり得ないようなものである。かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば、彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識にせよ永遠なるものと関係しておるのであるから、その限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれがいかなるところにあろうとも、いつでも子供のように夢みている。世なれた利口な人たちは親切そうに私にたびたびいってくれた、「君はトロイメル（夢想家）だ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-70607-71083">私は私が観念し、そしてもし私が恵まれるならばそれでありたいような哲学者について語った。私はそれがはたして正しい真理であるか、また一般の人々が求めておるところのものであるか知らない。ただ私の要求するところを通俗な言葉で最も簡単に現わすならば、私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71083-71593">さて私がいま上に考えた哲学者の三つの型に相応して、私は哲学を現実的、浪曼的、古典的の三種類に分ち、それの特性をめいめい現実的、超越的、フマニスティッシュ humanistisch として考えることができるように思う。けれどこれらの形式的な分類や区別について立入った論議を試みることは、私の最初の目的でもなくまた私の現在の心の状態にも適しからぬことである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-71593-71615">七</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71615-72907">私の哲学的生活の発展についてはすでに語った。私はいま私の芸術的生活の変遷に関して前と同様に短い思い出を書いてみたい。そのことがこの一篇の統一と調和とを破壊しはしないだろうか、これまでにおいてでさえ、あまりに多かった全体の発展を妨害しそうな挿入が実際それを妨害するまで増されはしないだろうか、という懸念が一度私を躊躇させた。しかしながら体系を求めるために私はこの一篇を始めたのではない。私の仕事の目的は私が何であり何でなくそして何でありたいか、もしくは私が何をもち何をもたずそして何をもちたいかを正直に考えてみることにある、私は連絡のある記述よりも、私のいまなしつつある仕事が私の生活を全く新しくしてくれることを望んでいる、これらの思想が再び私を大胆にした。そればかりでなく私が私の心の奥底で考えたり感じたりしたことのほか一切を書かないという正直をさえ失わないならば、そのことがたとえ外形上の統一を破壊するにしても決して精神上の統一を破壊することはないだろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私の芸術的生活は無論私の哲学的生活よりずっと以前に始った。確か高等小学の一年、今の制度にすれば尋常科五年のことだったと覚えている。自分ではひとかどの俳人のつもりでいた私のクラスの担任の先生が、作文の時間に俳句の作法を例をあげたりして説明して後、生徒に句作をさせて出させたことがあった。そのとき私が書いて出した句が中で俳句らしいものになっていたと見えて、次の時間にそれを黒板に写したりなんかして、私に「あなたには確かに才能がある。これから後しっかり勉強し給え。高浜虚子という俳人がいるが、その人の名は<hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-73657-73687"><seg source="#source-73657-73660">清</seg></hi>といってあなたと同じだから、あなたも同じ筆法で『怯詩』と俳号をつけてはどうか」などといった。その先生は俳号さえもてばそれでもう立派な俳人のように心得る種類の人であった。そしてその頃私は<hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-73963-74011"><seg source="#source-73963-73975">少年世界</seg></hi><seg source="#source-74011-74014">や</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-74014-74062"><seg source="#source-74014-74026">日本少年</seg></hi>の投書欄の愛読者だった。私が先生からいただいた結構な俳号の「怯詩」は、私の友だちが私を呼びかけるときの綽名としてとどまって、私はかつて自らこの号を用いたことがない。その後中学の二年の頃私は友人に頼んで「柳蔭」という号をつけて貰ったが、それも私は用いることをあまり好まなかった。私自身が本当に文学に対して要求を感じ、そして時には自分で文学者になってみたいと考えるようになったのは、やはり同じ中学二年の時国語のＴ先生が副科に蘆花の『自然と人生』を読んでくださった時に始るといっていい。それと同時に私の乱読時代が始った。次第に深く目覚めつつある性的に伴う憂愁の悩しい活動がそれと結合した。Ｔ先生に親しんでいた友人があるとき、私にこういった、「Ｔ先生は君をたいへん有望なものに思っている。君はきっと立派な文士になれるといつも私たちに語っている。」自分の中に動く深い憂愁がある方向を求めようとするもののように、いたずらな活動に自らを苦しめているような状態にあった私は、その言葉に動かされずにはいられなかった。それに<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-75418-75442"><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby><seg source="#source-75442-75487">していた雑誌や新刊書が虚栄心を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-75487-75505"><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby><seg source="#source-75505-75733">かさずにはいなかった。私は創作家になろうと決心した。しかしながら統一のない衝動的な運動に限りなく駆ろうとしている盲目的な意志と、私の心の表面に明るく動く</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-75733-75757"><rb>小賢</rb><rt>こざかし</rt></ruby><seg source="#source-75757-76189">い智恵とが、その時分私が創作を試みることを妨げていた。功名心の焔が輝いて私の性格の奥に宿っている闇の海への沈潜を征服してしまった頃、Ｔ先生は私の中学を去って鹿児島へ移られた。私の虚栄心が自分自身を試みることを欲していた。私は鹿児島へ手紙を書いて、私がはたして文学者となる資格があるか否かを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-76189-76201"><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてやった。いまから思い廻らしてみれば、私はその手紙で私の大きな功名心が満足されることが確実であるかどうかを尋ねているにほかならなかった。Ｔ先生からさっそく返事が来て、私はこれまで大抵の場合には君と同様な問に対して「お止めなさい」といった、しかし君の場合に限って私は「おやりなさい」とお勧めする。君の才能と君の家の資産とが君を文学者にするに十分であると私は信ずるから、と書いてあった。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私の創作時代が始った。私は私の周囲にいくつかの廻覧雑誌を次から次へともって行った。文学好きの仲間が作っていた「サブライナ」の後を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-76974-76986"><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けて私が中心となった「<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-77019-77043"><rb>海妖</rb><rt>アヤカシ</rt></ruby>」が最初に生れた。四年級の者でこしらえたクラスの雑誌が次男であった。私たちの学友区で出した「南風」が三男であった。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-77214-77235"><rb>斑気</rb><rt>むらぎ</rt></ruby><seg source="#source-77235-77289">な次男がまず死んで、剛情な長男が次に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-77289-77304"><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby><seg source="#source-77304-77631">れ、意気地のない三男は神経衰弱にかかって活動を中絶した。けれど最初は三人の子供はともに豪い元気だった。私たちはただ文学が分り文学をやるということだけの理由で自分たちを何か特別に秀れた人間ででもあるように考えて、しきりに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-77631-77670"><rb>霊感</rb><rt>インスピレーション</rt></ruby><seg source="#source-77670-77673">と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-77673-77703"><rb>早熟</rb><rt>プレコシティ</rt></ruby><seg source="#source-77703-79803">とについて、それらをあたかも私たちが本当にもっておるものであるかのように語り合った。当時流行していた文学者の名とそれらの人々の著作とが秩序もなく私たちの話題に上った。世紀末の懐疑と頽廃とが私たちを誘惑した。私たちは古典的なるものの大さと深さ、健康と完全とよりも特性的なるものの珍しさと鋭さ、病的と奇形とにより多くの興味を見出した。心理的個性に目覚めてなにより第一に自我を他と異なったものとして感じまた主張する時代、自己の周囲に漂う雰囲気を真の自己と思い誤る時代、それらのことよりもいっそう根本的には虚栄心と功名心とが内向的な活動を忘れさせて限りを知らぬ外向的な運動に駆る時代が私の中学時代の後の二年間を占めていた。いわゆる近代人が私をひどく誘惑していた。けれどもそれにもかかわらず私が徹底的な近代人であることができなかったのは、もちろん私の魂の底に湛えた見透すことができない意志の憂鬱の本能的な感覚がそれらの特性的なものに全然の満足を見出し得ないことを感じたに因るであろうが、一面から見れば私の活動性が作った私の趣味の広さが私をその危険から救ってくれたのだともいうことができる。私は小説を書き、戯曲を試み、批評を草し、感想を物し、歌を作った。私はボードレール、ヴェルレエヌ、ワイルドなどとともにウォーズウォースやミルトン、マーテルリンクを読み、フローベルやモーパッサンのためにソフォクレス、シャックンタラなどを忘れなかった。しかのみならず、私の心は寂しく悲しくする意志と感情との強さのゆえにかえって明るく快活にする知識を求めずにはいられなかった。私は哲学的学科の書物ばかりでなく、自然科学上の述作をも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-79803-79818"><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby><seg source="#source-79818-80061">っていた。Ｈ先生に一週一回ずつ漢詩の添削をしていただいていた私が、生命論に関する医学上の書籍を読んだといって何のふしぎもないはずである。私の情意の直観的な識別力と</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-80061-80085"><rb>広袤</rb><rt>こうぼう</rt></ruby><seg source="#source-80085-80709">を求める私の知識慾の遠心力とが、ともすれば新しきもの奇らしきもの病的なるものと親しもうとする私の性格の雰囲気への耽溺と陶酔とを妨害することができた。最初はただアーヌングに導かれていた私の心が多少でも自覚的に健康なるものへ憧がれる時がきわめて緩かにやって来た。それと同時に私はその当時非常な勢いで流行していた自然主義や頽廃主義やの文学に対して反感を抱くようになって来つつあった。このときに乗じて私の哲学的要求が急に頭を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-80709-80724"><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby><seg source="#source-80724-81188">げて来て、中学五年の末期には私を哲学志望にかえていた。あるいは事実をいうと、その時分のだらしのない私の生活が私をして自分自身を非常に嫌なものに感じさせ、私はどうにかしてその沈滞した気持から逃れなければ当然精神的に破産せねばならないような運命にあった機会を私の哲学的要求が利用して成功したのであったに相違ない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-81188-81635">いずれにせよ私は文学者志望を断念した。そして運命が本能的な確かさをもって選ぶことは決して誤らない。高等学校の入学試験の準備、一高の生活、東京との接触、それらのことは一部分は必要上から、一部分は広い世界に出てたくさんの新しいものに接したという理由から私の頽廃的な生活と沈滞した気分とを一新させ、私が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-81635-81647"><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby><seg source="#source-81647-82496">いてまで求めていた世紀末の懐疑と頽廃とへの陶酔の余裕を奪ってしまって、私が正しき自覚に到達する準備をした。哲学的学科への没頭は私によき反省の機会を与えた。高等学校の寮生活は、最も感謝すべきことには私の浪曼的を解放させて、英雄的なるもの、剛健なるものに対する崇拝とともに非現実的なるもの、夢幻的なるものに対する憧憬を自由にのばしてくれた。私は初めて高踏的なもしくは超越的な気持を味った。どん底へ落ちてみようという心がいつしか非凡なもしくは夢幻的なものへの憧れに変って行った。センチメンタリストの涙が英雄的なものに感激する涙となった。小さい自我の周りに垣を作ってその中に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-82496-82520"><rb>蟄居</rb><rt>ちっきょ</rt></ruby>しようという心が、自己の中にある積極的なあらゆるものを自由に伸して湧き上る生命の泉に躍入ろうとする心に移って行った。要するに健康なるもの、自由なるもの、生命的なるものの豊かさに私は初めて目覚めさせられたのだといっていい。私はこれらのすべてに関して心からの感謝を一高に捧げる。やがて価値の転換と概念の改造とがすばらしい勢いで行われる時がやって来た。かつて新しいと考えられたものがかえって古いものとなり、かつて自由と思われたことがいまは窮屈として考えられるようになった。懐疑と憂愁とについて語った私が、夢と感激とを語るようになって来た。ロマンチストという言葉が、その頃の私を呼ぶに最も適しい名であったであろう。上にもいったように、哲学についての誤った概念に固執していたことと自己の哲学的才能に対して不安を感ずるようになったこととが、私をいま一度文学へ引戻そうとしたけれども、私はそのときでさえ文学において古典的なものを観念していた。哲学においてカントが私の師であったように芸術に関してはゲーテが私の師であった。私の中に次第に貯えられて来た音楽、絵画、彫刻などの観照が、私の芸術観の偏狭を少しずつ破ってそれを芸術的良心の源に尋ねることに貢献した。私はここに私の芸術論を試みることを必要だと考えない。けれど私がこれまでもしばしば用い、そして恐らくこれから後もたびたび用いるであろう「古典的」という言葉の意味について、簡単に考えておくことは必要なことだと思う。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-84397-85249">古典的ということは、これまで種々に正しくまた誤って解釈されて来たが、私はそれの特質として内容と形式との完全な一致、大さと深さとの高き程度における調和などということのほかに、特にその内容と関係してフマニスティッシュということを挙げたいと思う。しかしてフマニスティッシュとはいやしくも人間が生きたまた生きつつある生活、考えたまた考えつつある思想、感じたまた感じつつある感情、欲したまた欲しつつある意欲は、それがいかなる種類もしくは性質のものであるにしろそれらに深き興味と愛とを感じて、それらをそれらの深き根柢にまではいって理解しようとする心である。人間性の徹底的な理解に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-85249-85264"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-85264-85470">づいた愛は、哲学たると芸術たるとを問わずいやしくもそれが真に偉大なる哲学または芸術たらんがためにはなくてはならぬ重要な精神であると思う。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-85470-85696">私はもうこれ以上語ることを慎まなければならない。そして永い間断たれていた私の最初の思想との交りを、もはやなんらの迂廻もなく続けて行くべき時は来た。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-85696-85718">八</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">語られざる哲学の正しき出発点として反省をとるべきことは前にいったとおりである。しからば反省とはいかなることであるか。反省とは自分自身を知るということである。「汝自らを知れ」という古い昔から幾度となく繰返された、けれどそれを身に徹して行うことは非常に困難である一句を、いやしくも自分自身において深く生きようとするものは、まず何よりも謙虚な心とならなければならない。教会で説教する牧師の心よりも人無き所で祈る者の心こそ彼に望ましき心である。彼は功名心に<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-86393-86408"><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby><seg source="#source-86408-86462">られて真理の探求に向う心よりも大地に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-86462-86483"><rb>平伏</rb><rt>ひれふ</rt></ruby><seg source="#source-86483-86489">して</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-86489-86510"><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby><seg source="#source-86510-86683">する心を心としなければならない。ふまじめと傲慢とにおいてではなく、真摯と謙虚とにおいて自分自身は初めて知られ得る。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-86683-86824">しかしながらへりくだる心はまた必然的に強き心である。いかに深い闇の中に落されて行っても少しの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-86824-86848"><rb>眩暈</rb><rt>げんうん</rt></ruby><seg source="#source-86848-87085">をも催すことなく瞬きせざる眼をもって自分自身を見詰めて恐れない強い心において正しき自己認識は可能となるのである。反省は知れりということを知らず、弁解することは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-87085-87100"><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-87100-88072">より説明するということを知らない、絶対に無智にして貧しき心の智恵である。それは闇を恐れもしくは避ける論議し証明する学問の知識ではなくて、むしろ闇そのものの真理である。語られざる哲学に関係しては厳密を失う概念的な言葉をもってすれば、反省は知的興味からではなく道徳的もしくは宗教的な要求からなされる真理の探求である。それゆえに反省は私たちの知識慾が満足するような知識を与えるのではなくて、私たちの意志が要求するような生ける真理の認識を与えるところにその本質を見出す。心理学者は自己の意識の表面に去来する精神現象を分析して明るみへ持来すことによって満足するでもあろうが、反省は自己の奥底に潜む闇の中へどこまでも深く落ち込んで行って闇そのものを認識せずには</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-88072-88084"><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby><seg source="#source-88084-89322">かない。すなわち一は知的認識にして他は意的認識、一は外延的にして他は内向的である。心理学者が具体的な意識現象を抽象的に分析して認識しようとするに反して、反省はそれを具体的な意味と実在との結合としてあるいは象徴的として認識する。反省の対象となる心理現象は私たちが実際知り、感じ、欲するところの生きた心理現象である。それは個々の感覚、表象、感情、意志などの単に平面的な横の関係を知ろうとするのみでなくまたそれらの立体的な縦の関係を究めようとする。けだし私たちの精神現象は、それがいかに表面に浮んでいるがごとく感ぜられても、それは必然的に縦の関係を辿って内奥に潜めるものの象徴として考えらるべきものである。私たちが経験する個々の感覚、観念、感情、欲望などはすベて神の象徴でありまた悪魔の象徴である。要するに反省はセンチメンタリストの放蕩でもなければジレッタントの遊戯でもなく、謙虚なそしてそれがために勇敢な心のまじめな労作である。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">さて私の反省する心の前にはいかなる光景が展開されるであろう。いやしくも真に生きようとする人が自己の衷に見出さずにはいられない二つの心の対立もしくは矛盾の体験を語るものとして、私がしばしば引用したことのある二つの尊き書物からの章句をいままたここに掲げることは、少くとも私自身の反省にとっては非常に有益なことであると思う。ロマ書第七章においてパウロはいう、「われ内なる人については神の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-89895-89916"><rb>律法</rb><rt>おきて</rt></ruby><seg source="#source-89916-89955">を楽しめどもわが肢体に他の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-89955-89970"><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby><seg source="#source-89970-90009">ありてわが心の法と戦い我を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-90009-90027"><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby><seg source="#source-90027-90102">にしてわが肢体の内におる罪の法に従わするを悟れり。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-90102-90117"><rb>噫</rb><rt>ああ</rt></ruby>われ悩める人なるかな。この死の体より我を救わんものは誰ぞ。」またファウストを読む人は誰でも次の句を何の感動をも受けることなしに読み終ることは出来ないであろう。</p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-90358-91069" style="padding-inline-start: 2em">
        <p><seg source="#source-90393-90436">Zwei Seelen wohnen, ach! in meiner Brust,</seg></p>
        <p><seg source="#source-90436-90480">Die eine will sich von der andern trennen;</seg></p>
        <p><seg source="#source-90483-90525">Die eine hält, in derber Liebeslust,</seg></p>
        <p><seg source="#source-90525-90568">Sich an die Welt mit klammernden Organen;</seg></p>
        <p><seg source="#source-90568-90608">Die andre hebt gewaltsam sich vom Dust</seg></p>
        <p><seg source="#source-90608-90640">Zu den Gefilden hoher Ahnen.</seg></p>
        <p><seg source="#source-90640-90702">（あゝ。己の胸には二つの霊が住んでいる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90702-90770">その一つが外の一つから離れようとしている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90770-90818">一つは荒々しい愛惜の情を以て、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-90818-90836"><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby><seg source="#source-90836-90853">の足めいた</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-90856-90871"><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby><seg source="#source-90871-90927">み附く道具で、下界に搦み附いている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90927-90971">今一つは無理に塵を離れて、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90971-91033">高い霊どもの世界に登ろうとしている。）</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-91071-91172" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（ゲーテ『ファウスト』第一部一一一二―七　森林太郎訳）</p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-91172-91184">私は今</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-91184-91205"><rb>湿</rb><rt>うるお</rt></ruby><seg source="#source-91205-91451">える心をもってしみじみと自己の姿を眺めなければならない。私の頑健な肉体が限りなく私を不幸にする。私の眼は鷲のように漁ろうとし、私の口は虎のように貪ろうとし、私の手は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-91451-91469"><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby><seg source="#source-91469-91904">のように捕えようとする。私の肢体をとおしてあくことなき活動を求める私の強い盲目な本能と情緒とが私を憂鬱なものにしてしまおうとしている。敬虔な人々の断食と祈とについて読んで感動されて、一般に食をとるということ、殊に私のように余分に贅沢な食をとるということを深い罪のように意識した私は、一時間も</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-91904-91916"><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby><seg source="#source-91916-92171">たないうちに友人に誘われるままにレストーランで馬のように食っていた。あるとき一人の聖者の伝を目にして感激のあまり私は寮を飛び出して、広い武蔵野を限りもなくさまよった。私は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-92171-92189"><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby><seg source="#source-92189-92300">んだり寝転んだり仰いだり俯したりしながら、到る所私の過去の生活の罪の意識に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-92300-92312"><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby><seg source="#source-92312-92375">め苦しめられつつ、ただ何ということもなしに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-92375-92399"><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby><seg source="#source-92399-92537">に祈っていた。秩父の山に落ちる赤い夕日が一面に野を染めて木々の梢には安静が宿るとき、私は魂の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-92537-92561"><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby><seg source="#source-92561-92723">への旅人のような寂しいけれど安らかな気持につつまれて小さい声で祈の言葉を口にした。その夜美しい月は生の悩みを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-92723-92738"><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby><seg source="#source-92738-93239">ぐ地を明るく照らした。朝飛び出したまま少しの食事もしていなかったが、私はその夜は徹夜して野をさまよいつつ私の罪の浄めに従おうと決心した。とある小川の橋の上に立止ったとき、私は川に映る月の影を見て何と思ったか、それから十五分間ばかり大声で叫んでいたことをいまに至ってもはっきりと思い起すことができる。けれどサタンの誘惑はやって来た。私の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-93239-93260"><rb>当途</rb><rt>あてど</rt></ruby><seg source="#source-93260-93284">もない彷徨が餓え</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-93284-93299"><rb>渇</rb><rt>かつ</rt></ruby><seg source="#source-93299-93311">える私を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-93311-93332"><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby><seg source="#source-93332-93482">の小さい料理屋の前に導いたとき、私は一本のサイダーを求めようとした。中から出て来た女が私を無理に腰を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-93482-93497"><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby><seg source="#source-93497-94148">させさらに座敷へ上らせた。疲れていた私は初めは疲労を回復する心組でその誘惑に従ったのであるが、サイダーの代りに持って来られた酒が私の体を酔わすとともに私の魂をも麻痺させずにはおかなかった。無理やりに飲まされた二本目の酒が終ったとき、私は自ら進んで三本目の酒を求めていた。ついに酔い崩れて前後不覚にその場に倒れてしまった。けれども世界に光を齎らした日の出が私の心には光明を持来して私の眼からは悔恨の涙がとめどもなく流れた。私はかつて夜の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-94148-94166"><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby><seg source="#source-94166-94661">を海に向って自己の醜悪を嘆いた。あるときは小室に閉じ籠って終日を自己の心の分析に費した。しかしながら私の生活はそれらにかかわらずしてメフィストフェレスによって導かれることをやめなかった。私の健康な肉体は一方では私を悩しく醜い活動にまで追いやるとともに、他方では私の純粋な魂がなそうとする活動を妨げようとする。私の太い血管を勢いよく</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-94661-94676"><rb>循</rb><rt>めぐ</rt></ruby><seg source="#source-94676-94768">る血の快さが、私の清く正しき心に気持のよい寝床を与えている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は傲慢な態度をもって他の人々を蔑みつついった、「君たちは虚栄心に支配されている。金銭や名誉が何になるのだ。本当に自分自身に還って生きない生活は虚偽の生活に過ぎない。」なるほど、私のいうことは言葉どおりには正当である。けれども私の言葉にはそれを生かす魂の純粋が欠けていた。「たといわれ諸<g ref="#gaiji-1-2-22" source="#source-95200-95233">〻</g><seg source="#source-95233-95308">の人の言葉および天使の言葉を語るとも、もし愛なくば</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-95308-95332"><rb>鳴銅</rb><rt>なるかね</rt></ruby><seg source="#source-95332-95341">や響く</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-95341-95420"><rb><g ref="#gaiji-3-1-93-6" source="#source-95341-95399">鈸</g></rb><rt>にょうはち</rt></ruby>のごとし」といわれたように、それがいかに正しく、よく、美しき言葉であり忠告であったにしても、もしそれが謙虚な心と愛とから出たのでなかったならば、結局無意味なことであるに相違ない。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95689-95878">しかしながらさらに悪いことは、そういう私自身がいっそう強く虚栄心に燃えていたことである。他人の眼にある塵を見て自己の眼にある</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-95878-95899"><rb>梁</rb><rt>うつばり</rt></ruby><seg source="#source-95899-97173">を見ないのか、私はこう自分自身に向って叫びたい。財宝や栄爵を虚栄として退けた私は、自分の書物が広い世界において読まれ、永い時代に亘って称讃されることを求めはしなかったか。華美な住宅、贅沢な衣服、賑かな交際、騒しい娯楽が私が耽ることを好んだ空想の中に織り込まれることはなかったか。金銭や爵位やを卑んだ私の言葉の間には、自分がそれらのものを得る能力がないという自覚から生れた嫉妬の心がひそかに潜んではいなかったか。否、否、自分の知らないことを知っているかのように語ったり、自分の感じないことを感じているように話したり、自分の欲していないことを欲しているように告げたりすること、要するに自己の魂の奥底において体験しないことを口にするのがそもそも虚栄を求める心ではないであろうか。おまえの良心がおまえを叫ばさせずにはおかないまでおまえの唇に迫るまで、おまえはへりくだり虚くして待つがいい、そのときこそおまえは権威ある人として語り出でることができるであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-97173-97527">私は殊に多く愛について自ら考えまた人に教えた。けれど私の利己心や他を憎む心が私が愛から出たものとして考えた行為の裏においてさえせせら笑いをしていなかったか。猜疑と嫉妬とが私の心から全然放逐されていると保証してくれる人があるであろうか。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-97527-97539"><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby><seg source="#source-97539-97542">び</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-97542-97560"><rb>諂</rb><rt>へつら</rt></ruby><seg source="#source-97560-97671">う心から生れた親切や同情やを私自身において経験しなかったといえようか。人に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-97671-97686"><rb>矯</rb><rt>あま</rt></ruby><seg source="#source-97686-97713">えるような愛、人に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-97713-97725"><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby><seg source="#source-97725-97965">いるような愛、人を弱くしようとする愛、人をたかぶらせる愛、それらが私の生活になかったといえるか。私が最も純粋な愛としたものにおいてさえ、それが自己の優越の感じに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-97965-97983"><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby><seg source="#source-97983-98211">られようという動機によって濁らされていなかったと誇り得ないではないか。純粋で従って快活でありやすい友人や隣人に対しての愛において、すでに利己心や憎悪心や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-98211-98232"><rb>諂諛</rb><rt>てんゆ</rt></ruby><seg source="#source-98232-98766">や傲慢がそれの明るい拡りゆく自由さを失わせていたとすれば、婦人に対する愛や交りが本当に純潔であろうなどとは誰も信じないことである。私は二人の女において恋愛の関係に立ち、数人の女に対してそれに近い気持を味って来た。私の性的が動いて暗い影をそれらの恋愛や交際に蔽い被せた。かつて私を支配したデカダンがそれらにおいて頽廃の飽満を求めた。私の気紛れ、芝居気、皮肉、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-98766-98787"><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby><seg source="#source-98787-98862">が強いて作った快活さが、エロティッシュの気味の悪い</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-98862-98886"><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby><seg source="#source-98886-99462">や悩める本能の醸した暗く寂しい憂鬱と混って、非常に複雑な醜悪をそこに合成した。愛するものによって自己の魂を高めもしくは愛するものの魂を純粋に成長させてゆこうとする心よりも、愛する者によって自己の醜い心に媚びもしくは愛するものを誘惑して自己のところまで引きおろそうとする心が私の中に勝ってはいなかったか。常に否定する精神メフィストが私を征服して走せ廻ってはいなかったか。引込思案な臆病、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-99462-99483"><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby><seg source="#source-99483-99677">しくて功利的な知恵、それよりも根本的には私を善良な青年とみていた世間の評判が、ただ私を不道徳の実行者にならしめないのみであった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99677-100124">けれども積極的に善をなさないのは必然的に消極的には悪をなすことではないか。世のいわゆる悪をなさずまた積極的に善をなすこともない無気力で怠惰な精神よりも旺盛な心をもって悪に向って活動する精神の方が秀れているとはいえないだろうか。悪魔は怠け者より神に近いに相違ない。ただ悪魔が神になれないのは彼は悪を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-100124-100139"><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby><seg source="#source-100139-100564">って、へりくだる貧しき心を欠いているからであろう。私は幾度となく娼婦の姿を胸に抱いたのではなかったか。十八の夏初めは正しい動機から退けていた女に盲目的な本能のために近づけられて、夫ある女と通ずるという最も忌わしい罪悪にまで陥ろうという危機をやっと脱することができたのは誰であったか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100564-101098">虚栄心や利己心や性的本能が、あるときは私を呵々大笑させ、あるときは私を沈黙と憂鬱とに導きつつ私の生活を落着のない、流るるような自由と快活とを失ったものにしていたのは事実であるが、他方においては傲慢な心から発した弁解する心と神を試みる心との二つの心が私の生活を激越な、安静のないものとした。煩悩具足の私たちは罪を作らずにはいられないような状態にいる。いかに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-101098-101119"><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>な善を求める心でもこの世界では悪を全く避けることができないような有様である。私たちは本当に弱い葦のようなものだ。Es irrt der Mensch,so lang er strebt.（人は努めている間は、迷うに極ったものだからな。　ゲーテ『ファウスト』第一部三一七　森林太郎訳）　しかしながら真に罪悪といわるべきものは、私たちの悲しい運命が私たちを陥れずにはおかない罪悪そのものよりも、かかる罪悪を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-101648-101669"><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby><seg source="#source-101669-101789">しい智恵を弄して弁護し弁解しようという傲慢な心である。メフィストフェレスが人間を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-101789-101813"><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby><seg source="#source-101813-101841">っていった言葉、</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-101841-102151" style="padding-inline-start: 2em">
        <p><seg source="#source-101876-101919">Er nennt's Vernunft und braucht's allein,</seg></p>
        <p><seg source="#source-101919-101961">Nur tierischer als jedes Tier zu sein.</seg></p>
        <p><seg source="#source-101961-102041">（人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかというと、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102041-102115">どの獣よりも獣らしく振舞う為めに使うのです。）</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-102153-102251" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（ゲーテ『ファウスト』第一部二八五―六　森林太郎訳）</p>
      </div>
      <div>
        <p><seg source="#source-102251-102287">は、かくのごとき弁解する</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-102287-102353"><seg source="#source-102287-102308">こましゃくれた</seg></hi><seg source="#source-102353-102521">智恵を指していったものであろう。何故に私たちは私たちの罪を素直にそのまま受け容れることをしないで、それを見苦しい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-102521-102536"><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby><seg source="#source-102536-103558">をしながら弁解しようなどとするのだろう。なぜ素直な心の安静をすてて傲慢な心の焦躁を求めているのだろう。自己の行為の騒々しい弁解は、それが正当になさるべき権利をもっておる場合においてすら、決して相手を十分に説服することができないばかりでなく、自分自身の心にも平和を持ち来たすことは不可能である。それに多くの場合私は自己の思いあがっている自負心を傷つけないために、他人によく思われたいという虚栄心を損わないために、もしくはどんな行為でも弁解するような知識を示そうというために、自分自身の行為を弁解していた。しかしながら弁解は知能や弁舌においてではなく、ただ精神と行為とにおいてのみ成功するところのものである。絶対にへりくだる心とそれから出たよき行為とのみが雄弁に弁解することができる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-103558-103630">私は傲慢にも神を試みようとはしなかったか。私は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103630-103642"><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby><seg source="#source-103642-103852">いて罪悪に身を委せようとする偽悪家を気取ったことはないか。自己の性格の強さを試さんがために私は好んで誘惑に近づいたことがなかったか。好奇心や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103852-103885"><rb>敵愾心</rb><rt>てきがいしん</rt></ruby><seg source="#source-103885-104124">から無理に苦い酒に酔ってみようとはしなかったか。しかるに神を試みようという傲慢な心は、自ら求めて接触した悪魔の誘惑に反抗する剛健な心であることができたろうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-104124-104583">かようにして私は私がかつて経験したまた現に経験しつつある一々の感覚、観念、感情、意志のすべてを、詳細に吟味して行くに従ってそれのあるものは立派に神の装をしておるにかかわらず悪魔の象徴であることを発見した。あらゆる明るさが闇への方向を含んでおり、あらゆる色彩が黒への傾向を示しておるように、私の一切の経験が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-104583-104604"><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby><seg source="#source-104604-104781">く悪によって染められておることを発見した。しかしながら罪を感ずる心はまたやがて神を求める心でなかろうか。罪悪深重、煩悩</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-104781-104805"><rb>熾盛</rb><rt>しせい</rt></ruby><seg source="#source-104805-106194">の私たちがあればこそいよいよ仏の大悲大願のほども知られるのではなかろうか。闇を闇として感ずる心は光を見た心である。罪を罪として知る心は必ず神を知れる心でなければならない。私たちの魂はイデアの世界に生れてイデアの世界を知っておればこそ、身は肉体の牢獄の中にありながらイデアの世界を憧れ求めることもできるのである。私の中に失われないであるすべてのものに驚き得る心、現実の憂愁の間にはるかなるものを微笑みつつ夢み出すことができる心、白髪の長く伸びた苦悩の中に生きている快活な幼な心、それらは悉く神の姿の象徴、少くとも神への憧憬として考えることができないであろうか。私たちが経験する世界にあまり多く存在する不合理や罪悪のゆえに私は神の存在を信ぜざるを得ない。私は自己の衷に深く感ずる必然の運命のゆえに永遠なるものを希求せずにはいられない。寂しみや悲しさや運命などということが結局征服されてしまうことができるか否かを私は知らない。唯一つ私が知っているように思うことは、寂しみや悲しさや運命ということが本当に何を意味しているかは、私たちが</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-106194-106215"><rb>生血</rb><rt>なまち</rt></ruby><seg source="#source-106215-106487">の出るようなまじめな努力をしてそれらを滅ぼそうとした後において初めて理解されることである。単なる概念についてではなくそれらの本質に関しての論議はそれから後になされなければならない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">現実にあくまで執著しようとするものとそれを超越して永遠なるものを把捉しようとするものとの二つの魂の対立に関係して、私は私の衷に外へ拡ろうとする心と内へ掘ろうとする心との対立を感ぜずにはいられない。一は私の中に住む詩人であり他は私の中に宿る哲学者である。私の詩人はどこまでも延びて行って感覚の美しき戯れの観照に酔おうとしている。私の哲学者はあくまで深く掘り下げて行って闇そのものの真理を認識しようとする。前者は感覚的なるもの、特性的なるものの美しさに憧れ、後者は意志的なるもの、普遍的なるものの真理を求める。一は快活であり他は憂鬱である、一は冗舌であり他は沈黙する。私を知れる人は私についていろいろ異なったもしくは全く反対した判断を下した。一人はいう、「君は学究である、君から最初受ける感じはどうしてもプロフェッサーだ。」他の人はいう、「君の根本の素質は詩人だ。」あるいは一人は私を理性的だといい他の人は感情的だという。あるいは一人は私を利口な男だと考え他の人は<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-107780-107810"><rb>向不見</rb><rt>むこうみず</rt></ruby>だと思っている。また次の人はいった、「君は本当に伸び伸びと素直に育っている。」さらに他の人がいった、「君は全くフライ（自由）な人だ。」私は私に関してなされたこれらの多くの判断について、どれが正しく、どれが誤っているか、いずれがお世辞であっていずれが正直な批評であるかを区別することができない。そのどれでもが正しいようでもあり、またその悉くが誤っておるようにも思われる。ただ私が知っていることは、一個の個性はパラドキシカルな言葉を用いるならば一人の人間であって、同時に数人の人間として互に相対立し矛盾し衝突する心をもっておるものであること、個性はこれを分析したり抽象したり記述したり定義したりするときは、それの個性としての特質を失ってしまうこと、それゆえに個性の説明は終局は「ＡはＡである」という同一命題以上に出でることができず、個性の評価はそれの全体に向い得る直観においてのみ正当になされるということである。かようにして個性と個性との理解は、語られる点においてではなく語られざる点において深き根柢を見出すがごとき理解である。</p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-109200-109222">九</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109222-110271">心情の純粋を貴んで体系の完全を尊ばないこの一篇にもなんらかの統一と連絡とが必要であるため、私は最初この一篇に三つの問題を特に重要なものとして課しておいた。すなわち、第一、語られざる哲学の出発点は何であるか。第二、いかにしてよき生活は可能であるか。第三、よき生活とはいかなるものであるか。第一の点についてはすでに考えた。もし語られざる哲学があらゆる問題が遺さるることなく論ぜられ、しかしてそれが十分な連絡をなすことすなわち体系の完全を求めるのであるならば、もしまたそれが精密な論理と証明とによって人を説服しようというのであれば、私がいまここに考察しようとしておる第二の問題、すなわちよき生活の必然的制約としての形式の問題は、最も厳密な論証をもって詳細に論議されることを要する問題であるかも知れない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-110271-111609">しかしながら語られざる哲学が、概念的知識においてではなくてよき生活においてそれの枢軸を見出し、またそれは巷に売らるべきものではなくて自己の中に蔵せらるべきものであるとしてみれば、私はこの問題について長い論述を試みることはさほど重要なことではないと思う。なぜならば第一に私は、歴史上多くの思想家によってしばしば互に反対し批難しつつ論ぜられたこの困難な問題に関して、すべての人が承認するか否かを問わないにしても、私自身の主張をそれらの反対や批難の唯中に持来して立入って論ずることは、勢い私を抗弁的ならしめて私の態度を不純にしはしないかを恐れるからである。しかのみならず第二に私は、この問題の解決は結局は合理的にではなく非合理的において、あるいは論理にではなく信仰において与えられ、しかしてかくのごとき生ける信仰は単なる概念的思惟によってではなく、実際によき生活を生きることによって得られるものであることを確信するがゆえに、私のように貧しく醜く生きて来た者がそれに関して長々しい論議をなすことは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-111609-111636"><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby><seg source="#source-111636-112307">無意味なことでもあり、また不遜なことでもあると考えるからである。私は私の病的なるものの中に微笑む健康への憧れのよきアーヌングに従ってへりくだる心を保ちつつ、つつましやかに私の思想の最も簡単な叙述を試みたい。私と異なった立場が可能であるか、また私と別な考え方があり得るか、私はそれを知らない。もし実際に可能であり、あり得るとしても私はそれに対して反対したり、私の思想を弁護したりする権利も自由も少くとも現在の私はもっていないことを最初から承認する。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112307-112738">よき生活を可能ならしむる必然的制約は、私の信ずるとおりであれば、二つに別つことができる。第一、永遠なる価値の存在。第二、完成の可能。しかしてそれらと関係してそれらに安定を与える第三のものとして、もしくはそれらを抱合する唯一つのものとして、私は、絶対者の存在を挙げることができると思う。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112738-113134">永遠なる価値の存在の信仰にして虚妄であれば私たちのよき生活はあり得ない。私たちの驚嘆と畏敬とを喚起せずにはいない偉大なる科学者、芸術家、徳行家、哲学者、宗教家たちが日も夜も求めてやまなかった真や善や美や聖にしてもし妄想に過ぎないとするならば、私たちの生活も努力も</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-113134-113161"><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby><seg source="#source-113161-113419">無意味でなければならない。それに対する愛の純粋と熱誠とから、私たちにとっては驚異であり奇蹟であると感ぜられる天才者が、毒薬をあおぎ、十字架に懸けられ、焚刑に処せられ、追放に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-113419-113431"><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby><seg source="#source-113431-113755">い、貧困に苦しめられ、病魔に責められて顧みなかったところの永遠なる価値にして存在しないならば、私たちがそれらの天才者を尊敬し憧憬するということ、また彼らがなした事業、新しき真理、美しき芸術、高き思想、尊き宗教に感激し</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-113755-113779"><rb>欣幸</rb><rt>きんこう</rt></ruby><seg source="#source-113779-114078">するということもすべて滑稽な戯れとして終らなければならないであろう。もしまたそうであるとすれば、私たちが私たちの中に感ぜずにはいられない自己の無価値や弱小や罪悪の意識ほど笑うべきものはないであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-114078-115068">完成の可能の希望は、これなくては私たちのよき生活が不可能であるようなところのものである。私たちは私たちの中および周囲において限りなき不合理と罪悪とに遭逢せずにはいられない。悲しみや寂しさは私たちの運命には必然的なものであって、私たちはそれを単に自己の表面において感受するばかりでなく、自己の本然に還って行ったときにおいてすらそこに見出さずにはおられないようなものである。まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。意志が自由であるか否か、私たちは全く運命に支配されているものであるかどうかの問題は永い論争の歴史をもっておる。しかし概念上の解決が最も困難な問題が必ずしも実践上の解決が最も困難な問題であるというのではない。決定論と非決定論との</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-115068-115089"><rb>囂</rb><rt>かまびす</rt></ruby><seg source="#source-115089-115623">しい論争は、よき生活を実際に生きた人の体験においてはなんら疑うべき余地もないほど明瞭にまた容易に解決されておるのである。それは終局は語る論理においてではなく、語らざる魂において解決を求めねばならぬデリケイトな問題である。ところが意志が自由であるとするならば、その自由な意志の活動によって、もしまたそれが決定されておるとするならば、その決定から救済するものに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-115623-115638"><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby><seg source="#source-115638-115938">ることによって、私たちが終には絶対の完成に到達し得るという希望が空しいならば、私たちのよき生活もまた無意味もしくは不可能とならなければならない。自己の精進によるにせよ、他力の救済によるにせよ、もしくは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-115938-115965"><rb>聖道</rb><rt>しょうどう</rt></ruby><seg source="#source-115965-116189">の難行によるにせよ、浄土の易行によるにせよ、私たちの魂が最後の完成に至ることができないとすれば、私たちの活動や生活は全く意義を失わなければならない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-116189-117178">永遠なる価値を憧れ求める文化的生活は、それがいかに永い過程を経なければならないにしても、結局は自然的生活を全然征服するかもしくは自己の中に抱擁してしまわなければならない。生活への意志は最後には文化生活への意志にまで転生しなければならぬ。自然を駆逐しもしくは包摂して自己の領域を次第に拡げてゆく文化の歴史は、つまりは文化の絶対の支配への到達を可能ならしめるようなものでなければならない。美しき魂の憧憬とそれへ向っての精神とは決して空しくして終ることができない。もしそれらのことにして本当に不可能であるとするならば、私たちの生活は破壊され否定されてしまうのである。自由の完成、あるいは救済の完成は一般にそれがなくては私たちの生活もあり得ないところのものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-117178-118455">けれど私たちの永遠なる価値の信仰と完成の可能の希望とが空しくないためには、それらに最後の安定を与えるものとしての絶対者が存在しなければならない。絶対者とは、けだし、永遠なる価値の創造者にして支持者であり、また私たちの生活においてまたによって自己を顕現し私たちを最後の完成にまで可能ならしめるところのものである。かくのごとき絶対者をあるいは神とよびあるいは仏とよび、理性といいあるいは価値意識というは人々の自由である。ただかかる絶対者にしてなんらかの意味において存在していないならば、すべては虚妄として、従って私たち自身も私たちの生活も、学問や芸術や道徳も虚妄としてとどまらなければならないのである。それゆえに信仰は単なる好奇心や虚栄心や遊戯本能や社交慾などからなさるべきものではなくて、私たち自身と私たちの生活と、そしてまた私たちが愛する学問や芸術や道徳などとがいたずらで終らないためにはなくてはならぬから必然的になされねばならぬようなものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-118455-118497">あたかもそれが論理の正確を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-118497-118512"><rb>矜</rb><rt>ほこ</rt></ruby><seg source="#source-118512-118635">るものでもあるように、概念的な言葉によって現わされた上の思想が、真実は純粋な心情に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-118635-118650"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-118650-118821">づけらるべきものであることを示すためにも、それらの概念的な言葉を私が好んで用いる美しい言葉によって書き換えることは</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-118821-118839"><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby><seg source="#source-118839-118911">ち不必要なことでもないであろう。第一の思想を私は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-118911-118941"><seg source="#source-118911-118914">夢</seg></hi><seg source="#source-118941-119361">という言葉で現わそう。永遠なるものの存在を信ずる心はやがて夢みる心である。夢とは永遠なるものに酔う心である。不合理や悪に充ちた現実に満足せず、それを超越したしかもそれが到達すべき永遠なるものの存在を信じてそれに向って憧れる心のみが本当に美しい夢を見ることができる。第二の思想を私は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-119361-119397"><seg source="#source-119361-119367">素直</seg></hi><seg source="#source-119397-119904">という言葉で現わそう。素直とは謙虚なそしてそれゆえに剛健な心の特質である。そして運命の前にどこまでもへりくだって絶対に他を信頼する心、自由の獲得のためにはあくまで戦って大死一番して後甦るの工夫を忘れない剛健な心、それらに対してのみ救済の完成と自由の完成とは存在する。安静と活動との美しい調和は素直な心においてのみ成就する。第三の思想を私は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-119904-119934"><seg source="#source-119904-119907">愛</seg></hi><seg source="#source-119934-120646">という言葉で現わそう。愛とは主客の完全な合一である。しかるに私たちが絶対者を抱きまた絶対者が私たちを抱いてそこに深い合一が成立するときに初めて、私たち自身と私たちの生活とは完成に達することができ、私たちの憧れる永遠なる価値も支持者を得ることができるのである。あるいはまた絶対者は私たちと永遠なるものとの愛の媒介者である。かようにして夢と素直と愛とはよき生活が可能なるがために欠くことができない三つのものである。しかし私はもうこれ以上それらの点について語る必要はないと思う。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-120646-120671">一〇</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120671-120986">よき生活とはいかなるものかという私が提出しておいた第三の問題が非常に複雑であることは、一般に生活というものがいかに複雑であるかを、ちょっとでも反省してみる人の誰でもが、容易に考え及ぶことができることであろう。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-120986-121025"><rb>時処位</rb><rt>ときところくらい</rt></ruby><seg source="#source-121025-121541">に従って種々雑多に変化すべき具体的な生活をそのまま記述し分析し説明しようというのは全く不可能なことであり、またたとい可能であるにしても無意味なことである。私がここに試みようとするところのものが、かくのごときものでないことは明らかである。私はいま私がよき生活として想像する生活からそれの指導観念の特に重要なものを抽象して来て、それらについて思考を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-121541-121556"><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby><seg source="#source-121556-121654">らすことによって私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたいと思う。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">まず最初に注意すべきことは、私たちの生活において大切なのは、「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということであるということである。なんとなれば、経験の内容とよばるるもの自身がすでに、多くの人によって誤解されておるように、固定して動かすことができないように存在しておるものではなく、これを経験する魂によって創造されるものであるからである。外面的にみて同一の事柄もこれを経験する人の心に迫る形においては種々に異なっておるのである。同一の芸術作品の前に立って観照し評価する二人の人は根本的には同一の芸術作品を観照しまたそれについて評価しておるのではない。観照はやがて制作である。大家の秘密は形式によって内容を滅却するにあるとシルレルがいったように、秀れた魂はいかに<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-122671-122692"><rb>瑣細</rb><rt>ささい</rt></ruby><seg source="#source-122692-122997">に見える事柄にも深い意味を見出すふしぎな力をもっておる。これに反して鈍い心の所有者はどんなに大きな経験に遭逢してもこれを浸透して輝く光をもっていないから、それは彼にとって何の価値もない黒い塊に過ぎない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-122997-124719">私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠が次第に満ちて来るのを感じたとき、もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかなかったとき、彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに検べ始める。検べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと思って拾い上げたものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを発見して、一つとして取るに足るもののないのに絶望する。しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に</seg><app type="base-text-variant" source="#source-124728-124825"><lem><seg source="#source-124719-124728">浚って</seg></lem><rdg type="base-text"><g ref="#gaiji-78-9" source="#source-124767-124813">𠗕</g><seg source="#source-124813-124819">って</seg></rdg></app><seg source="#source-124825-125487">行くときは来ておるのである。ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を見出して拾い上げることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼び、強い波を死と呼び慣わしておる。かようにして私たちには多くの経験よりも深い体験がさらにいっそう価値あるものであることは明らかである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-125487-125781">もちろん私が経験する魂の方面のみを考えて経験される事柄を全く看却するというのであるならば、私はあたかも美学上のいわゆる形式説が陥ったと同様な誤りに陥っていることは疑いもないことであろう。いかなる</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-125781-125808"><rb>障礙</rb><rt>しょうがい</rt></ruby><seg source="#source-125808-126180">にも負かされることなく、かえってその障礙を利用して自己を高めてゆくことを知っておる秀れた魂は、それが遭遇する経験が多く、強く、大きくあればあるほどますます磨き出されるに違いない。天才者たちは深い悲しみや苦しみを身に徹して味うことによって、彼らの魂を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-126180-126204"><rb>弥増</rb><rt>いやまし</rt></ruby><seg source="#source-126204-126271">に高めまた浄めるという事実を私も承認する。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-126271-126589" style="padding-inline-start: 2em">
        <p><seg source="#source-126306-126349">Ein guter Mensch in seinem dunklen Drange</seg></p>
        <p><seg source="#source-126349-126393">Ist sich des rechten Weges wohl bewusst.</seg></p>
        <p><seg source="#source-126393-126438">（善い人間は、よしや暗黒な内の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-126438-126459"><rb>促</rb><rt>うながし</rt></ruby><seg source="#source-126459-126491">に動かされていても、</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-126491-126553">始終正しい道を忘れてはいないものだ。）</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-126591-126689" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（ゲーテ『ファウスト』第一部三二八―九　森林太郎訳）</p>
      </div>
      <div>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">けれどそれにもかかわらず私が上の思想を特に高調するゆえんは、多くの場合に誤解される次のような思想に対抗せんがためである。人々は自己の体験の深さと広さとを誇りつついう、「頭で考えられたことが何を知っておるか、凡てのものの本当の意味はそれを自ら体験した後に分ることだ。酒に狂ったことのない者、女に溺れたことのない者、それらの人の語る道徳に何の権威があるか。」いかにも彼らのいうとおりである。そして彼らの言葉はすべての悪を弁護し承認する<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-127337-127364"><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>的な言葉としての貴さをさえ持っておるように見える。しかし静かに考えてみるがいい、彼らの言葉の裏には――そして私自身がそうでなかったとは誰も保証のできないことだ。――自分自身の悪を自己の虚栄心や自負心やを損わないために、他人に対して弁解しようとする心が潜んでいないか。あるいは無暗に新しがったり、理由もなく古いものを排斥することそれ自身が非常に偉いことと考える思想が、彼らの言葉の間に隠れていないか。もしくは悪魔の誘惑に自らを強いて試みようという心、従って神を試みようという傲慢な心が、彼らの言葉の背後ではたらいてはいないか。私が思うに彼らの言葉はただへりくだる心においてなされた深き体験の発表としてのみ意味を有するものである。私が彼らと争おうというのは言葉そのものではなく、その後にはたらいている心情そのものに関してである。酒に狂い女に溺れることそのことを悉く排斥しようというのではない。ただそれらが好奇心や敵愾心や傲慢な心において経験される限り全く無意味であり、従って非難さるべきことであるというのである。「弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるはまた本願ぼこりとて往生かなふべからず。」といいあるいは「なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもころすべき<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-129077-129101"><rb>業縁</rb><rt>ごうえん</rt></ruby>なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。」という言葉、もしくは「父よ、若しみこゝろに<app type="base-text-variant" source="#source-129611-129671"><lem><seg source="#source-129599-129611">かなはば</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-129653-129665">かなわば</seg></rdg></app>この杯を我より離し給へ、されど我が意のまゝをなすにあらず、唯みこゝろのまゝになしたまへ。」という言葉などに現われた絶対に謙虚な心のみがすべての体験を意味あらしめることができる。自己の罪悪を<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-129953-129974"><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby><seg source="#source-129974-130255">しい智恵と言葉とを弄して弁解するよりも、人生の悪を身に徹して体験したトルストイが、晩年に性慾や結婚やを否定しあるいは額に汗して食うという主義を実行した心持の方がどれほど貴いものであろう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130255-130855">第二に私の思想は単に外に拡りゆく心よりも内に向って掘り下げてゆく心が私たちには特に必要であるということを主張せんがために力説されるのである。好奇心や虚栄心から自己の経験と知識の領域とを無暗に拡げつつ限りなき運動と動揺とに心を委せて、それらの経験や知識の表面に触れて、それらを自己の魂まで持来して味わない人をジレッタントと呼ぶならば、私はかくのごときジレッタントを退ける。これに反して秀れた魂はどんな</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-130855-130876"><rb>瑣末</rb><rt>さまつ</rt></ruby><seg source="#source-130876-132120">なことに関係してもその本質を体験することができる。それは私たちが無智から出た不注意と無頓着との間に投げ棄てておる事柄においても深い意味をしみじみと味うなおやかさを持っておる。世のいわゆるジレッタントは私に反対するときいつでも、レオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテやを指摘するに違いない。いかにもダ・ヴィンチやゲーテなどは生活の広い領域を征服し体験していたに相違ないが、彼らの驚くべき魂は彼らが関係した悉くの領分において一々普通人よりも深い理解をもつことができたのである。彼らの偉大は広さのために深さを失わず、拡張のために充実をなくせず、普及のために熱中に欠けるようなことがなかったのである。私たちは彼らにおいて少くともいわゆるジレッタントに共通な性格の弱さを見出さない。自己の中心を見失った、魂の根強さと心の旺盛な活動とをもっていないジレッタントには、ゲーテが自己発展は自己保存であるといった言葉の正当な意味は理解されそうにもない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132120-132144">また他の人々は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-132144-132168"><rb>気遣</rb><rt>きづかわ</rt></ruby>しげに問う、「一体大きな悪事を自分でなしたことがないものに悪の本当の意味は分っているであろうか。聖者たちの生活は罪の深い意味を見出すためにはあまりに清かったのではなかろうか。」けれど人生は完全としか思えない場合にも罪から全く自由になることができないほど悲しいもののように思われる。聖者たちの偉大なる魂は、私たちには最も正しく、美しく、よく見える生活の中からも罪と悪とを引出して感ぜずにはおられない深さと鋭さとをもっているように見える。それゆえに彼らの生活には私たちが感じ得る限りでは<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-132891-132918"><rb>偸盗</rb><rt>ちゅうとう</rt></ruby><seg source="#source-132918-132921">や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-132921-132945"><rb>姦淫</rb><rt>かんいん</rt></ruby><seg source="#source-132945-133097">がなくとも、彼らの魂の深さと鋭さとはそこに偸盗や姦淫を感じ出さずにはいられなかったのではなかろうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-133097-133412">罪と悪、寂しみと悲しみ、それらは単に私たちが感じ得る人生の表面においてでばかりでなく、秀れた魂が到り得る人生の本然においてでさえ見出されずにはいられないもののようである。もしそうでないとすれば他力の信仰は畢竟</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-133412-133439"><rb>空言</rb><rt>そらごと</rt></ruby><seg source="#source-133439-134423">でなければならぬ。しかのみならず、法律でさえ明かに罰するような大罪悪を実際に行った人でなければ真に罪の意識を得ることができず、従って大善人となることが絶対に不可能であるとするならば、人間は善であらんがために必然に悪をなさねばならないこととなり、しかしてその限り人間は決して完成に到達し得ないこととならなければならない。しかるにもし私たちに完成の可能が否定されねばならぬとすれば、私たちの善を求むるということ、一般に生活するということの意義が否定されねばならないと思う。私は現在の人生においては罪悪が避け難い運命であるという悲しい事実を安らかに認めるとともに、いつかは私たちの罪悪が悉く善にまで高められ、もしくは善によって抱擁されるという美しい希望をほのかに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-134423-134441"><rb>孚</rb><rt>はぐく</rt></ruby><seg source="#source-134441-134463">もうとする。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-134463-134488">一一</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134488-134830">よき生活を生きようとする人が最初に獲得しなくてはならぬものは素直な心である。そして素直な心の特質は謙虚と剛健とである。素直な心は何より第一に虚栄心と自負心とを退けつつ自己の正しき姿をへりくだる強さをもって眺めようとする。それの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-134830-134845"><rb>剛</rb><rt>つよ</rt></ruby>さはそこにいかなる醜さが展開されようとも少しも容赦することなく、それのへりくだりはそこに見出されるいかなる悪をも弁解しようなどとはしない。それゆえに真の懺悔は素直な心においてのみ可能である。それは自己の罪を正直に告白することによって、社会からばかりでなく愛する友だちや兄弟からまでも卑しめられ見離されようとも、自己の罪を大道で叫ばずにはいられない心である。それはパウロが「われは罪人の頭なり。」といった心を心とする。私たちのよき生活はかくのごとき素直な心の反省によって自己を正視して、すべての虚栄心と自負心とを棄てるところに本当に始るのである。かくて素直な心はジレッタンティズムとセンチメンタリズムとから区別されて必然的にそれらを排斥する。それはジレッタンティズムと異なってすべての経験を魂にまで持来して深く体験しようとする。またそれはセンチメンタリズムのような感情への惑溺と涙をもっての戯れとを知らない。ジレッタントが自己の才能の広さを矜り、センチメンタリストが自己の感情の鋭さを誇ろうとするとき、素直な心の所有者は<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-136222-136246"><rb>只管</rb><rt>ひたすら</rt></ruby><seg source="#source-136246-136368">に自己の心の純粋がアフェクテイション（気取り）によって失われざらんことを恐れる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-136368-137808">けれどどこにでも罪を感じ出さずにはいられない素直な心はまたやがて永遠なるもの、偉大なるものに驚き得る心、従ってそれらのものに対して信仰を有し得る心である。何物にも驚き得ない心は、私には単に貧しいものとして感ぜられるばかりでなく、むしろ非常に恐しいもののように思われる。何物にも驚き得ざる魂こそ私には本当の悪魔のように感じられる。そして驚く心こそ信仰の母である。素直な心はまたそれの永遠なるもの、偉大なるものに対する憧れと愛との無邪気と純粋とにおいて、美しき夢を夢みずにはいられない。けだし愛と純粋とはいかなる場合でも夢を生み出さずにはおかず、またその夢に酔わせずにはおかないものであるからである。あまりに懐疑的であり病的であるいわゆる近代人は偉大なるもの、健康なるものへの驚きを失い、従ってそれらへの愛と信仰とをなくしておる。彼らは偉大なるものよりも平凡なるもの、健康なるものよりも病的なるもの、古典的なるものよりも特性的なるもの、深きものよりも鋭きものにより多くの興味と関心とを見出す。彼らは無邪気な心をもってものをそのまま受け容れて味うことができないで、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-137808-137829"><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby><seg source="#source-137829-139563">の眼を見張って一切のものを分析し批評する。彼らは一冊の書物を読むとき何がその中で永遠なるものであり、また何が自己の魂を高めることに利益し得るかを知ることを顧みないで、その内容についていかなる点が自己の能力をもって指摘し批難し得る欠点であるかを見出すことに興味と努力とを向けておるのである。彼らは深く体得することよりも鋭く批評することを喜ぶ。彼らは一篇の論文を草する場合に何を本当に自己の心で深く体験したかを発表しようとするよりも、何を自己の頭脳で鋭く指摘し得るかを誇示しようとする。（懐疑する心が何故に傲慢であるかは正当には分らないことだ。）すなわち彼らは深き心よりも鋭き頭を欲する。また彼らは一人の人に接するとき、殊に偉大なる人に対するときにそうであるが、その人において何が長所であり何が自己の魂の高揚に貢献し得るかを正しく感じ出すことをおいて、まず何がその人にあって批難さるべき短所であるかに注意しようとする。彼らは博大な心をもって人を抱擁しようとはせず、猜疑の心をもって人を排斥しようとする。しかし根本的によくないことは、彼らがかくのごとく振舞うことが、彼ら自身絶えず不安と焦躁とを経験せずにはいられないのであるのに、それだけで非常に新しい従って彼らの評価に従えば非常に豪いことのように考えて思い上っているということである。一言にしていえば彼らの心は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-139563-139575"><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby><seg source="#source-139575-139592">ねている。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-139592-139838">けれど私たちが伸びやかな心を回復すべき時は来た。私たちの心では驚きと愛と夢とが純粋にそして健康に育たなければならない。番犬のような吠えつく心、刑事のような探る心、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-139838-139856"><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby><seg source="#source-139856-139904">のような狡い心を棄ててしまって、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-139904-139925"><rb>嬰児</rb><rt>えいじ</rt></ruby>のような無邪気で快活な心に還ることが私たちには絶対に必要である。そのとき私たちは偉大なるものに対する尊敬と憧憬とをもたずにはいられないであろう。そのとき私たちは他人に信頼する心を懐かずにはいられないだろう。そしてかような気持を本当に回復することができたときに私たちの生活は伸びやかであり、快活であり、また希望に輝くであろう。私は近頃特に痛切にそう感ぜずにはいられない。社会の人々がもっと正直で無邪気になっておのおの美しい夢に酔うことができたならば、私たちの社会はどれほど改善されるであろうかと。私には夢のない生活ほどつまらなく感ぜられるものはない。私は殊に多くギリシア人について好んで語った。私は何故に彼らに懐しさと親しみとを感ずるか。けだし「ギリシア人はあらゆる民族の中で生の夢を最も美しく夢みた」からである。無智や無頓着や屈従や<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-141023-141041"><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby><seg source="#source-141041-141047">めや</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-141047-141071"><rb>投遣</rb><rt>なげやり</rt></ruby><seg source="#source-141071-141317">から現実をそのままに受容れることをやめて、少しでも自分自身や社会をよくしようという希望と努力とがすべての人に生れてくるときに、初めて私たちは本当に人類の愛と平和とを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-141317-141332"><rb>贏</rb><rt>かち</rt></ruby><seg source="#source-141332-141361">え始めるのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141361-142540">私たちは地上に執着してばかりいないで天上を仰ぐかまたは地下を見透すかをしなければならない。美しい青空には永遠なるものが輝いてそれへの憧れは私たちを夢みさせずにはいないだろう。暗い闇の中にも私たちは永劫の光あるものにぶっつかってそれへの愛は私たちをまた夢みさせずにはおかないだろう。前者を私はイデアリストと呼び、後者を私はフマニストと名づける。前者はこの世のものを超越した永遠なるものを憧れ求めようとし、後者は醜悪なる人間性の中に宿る神性を見出そうという。もしまた誤解を招きやすい言葉をあえて用いるならば、前者の態度を貴族主義、後者の態度を民衆主義とも呼ぶことができるかも知れない。私は、いやしくもよき生活を生きんとするものは必ずイデアリストかフマニストかのいずれかでなければならないと思う。しかして彼らの生活態度に共通なものの多くの中で、私はいま特に空間的生活という特徴をみて私自身の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-142540-142561"><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby><seg source="#source-142561-142594">に拡りゆかんとする心を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-142594-142609"><rb>警</rb><rt>いま</rt></ruby><seg source="#source-142609-143007">しめたい。彼らの一人は天上を仰ぎ憧がれ、他の一人は地下に掘り入って求める。それゆえに彼らの精神の活動の領域は単に拡りと幅とをのみもっておる平面ではなく、深さをもったところの空間である。かくして健康な魂の空間における旺盛な活動によき生活はそれの本質を見出すのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-143007-143379">夢や憧れや信仰について多くを語った私は、ここにかつて非常な勢いで破壊された偶像を再興しようとしておるもののごとくに思われるであろう。なるほど、私は偶像を再興しようとしている。しかしながら私の偶像は、伝統や権威やに屈従する心が無意識的にもしくは恐れ</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-143379-143397"><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby><seg source="#source-143397-143601">きつつ建ててそれに自らを支配させようとするような種類のものでなく、素直な心が夢みつつ創造して自由な心からそれに自らを委せようとするような</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-143601-143619"><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby><seg source="#source-143619-143879">のものである。それは自己の外に建てられるようなものではなくて、自己の魂の堂奥に建てられるものである。それは固定した形式をもったものでなく自由に成長してゆく生きた偶像である。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-143879-144137">いうまでもなく謙虚にして剛健な心は、本質的に自由を求める。素直な心はあらゆる先入主見を一々自己の奥底へまで持来して吟味せずにはおかない正直さをもっている。利口な人、世故に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144137-144149"><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby><seg source="#source-144149-144407">けた人とふつう称讃されておる人たちを見るに、彼らは自ら少しの反省をなすこともなしに、人間はこんなもの、社会はこんなもの、女はこんなものなどと勝手に決めてしまい、そしてそれに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144407-144422"><rb>協</rb><rt>かな</rt></ruby><seg source="#source-144422-144440">った幾つかの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144440-144482"><rb>規矩準繩</rb><rt>きくじゅんじょう</rt></ruby><seg source="#source-144482-144494">を作って</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144494-144518"><rb>只管</rb><rt>ひたすら</rt></ruby><seg source="#source-144518-144746">にそれを実行しようとしておる。彼らの生活は要領のいいものであるが生命力がない、整っているが魂が欠けている、滑らかだが深みがない。しかも彼らは彼らの生活が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144746-144773"><rb>当前</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby><seg source="#source-144773-145223">の生活だと無造作に考えて、もし彼ら以外の生活を生きようとする人があればふしぎに感じながら嘲笑する。彼らが本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立返って人生を味おうとする人、真実の要求に従って生活しようとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼らは合点ができないといわぬばかりの顔をして</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-145223-145250"><rb>大人振</rb><rt>おとなぶ</rt></ruby><seg source="#source-145250-145262">った口の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-145262-145274"><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き方をしながらいう、「君たちはまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分っていないのだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-145417-146010">しかしながら何故に彼らが、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分らないことだ。むしろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか。それらの概念の本当の意味は先入主的に決定さるべきものではなくて実際まじめに人生を生きた人によって初めて味得さるべきものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-146010-146724">私はいまここに偶像を再興しようとしている。その偶像が第一にいわゆる近代人の懐疑や頽廃にどこまでも執著して、自己の源に還って素直な心になろうとしない心には全くあり得ないものであることは明らかである。けれども第二に私の再興しようという偶像が外観上いかほど伝統や証権やの打建てたところのものに似ていようともその精神において全く異なったものであることをあくまで私は主張する。私は利己的であれというよりも人を愛せよという。けれど私は本当に自由な心から人を愛せよと説明する。少しの魂をも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-146724-146736"><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby><seg source="#source-146736-146937">めることなくただ形式的に人を愛するがごとく振舞う人よりも私はむしろ本当に旺盛な魂をもって人を憎む人を好む。なぜなら私は怠惰ほど救済から</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-146937-146958"><rb>遠退</rb><rt>とおの</rt></ruby><seg source="#source-146958-147092">いているものはないと信ずるから。かようにして真に自由なる人こそ私のあこがれの対象である。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-147092-149705">私はこれまであたかも楽しみや嬉しさの意義と価値とを全く否定してしまいでもするように、あまりに多く苦しみと悲しみとについて語ったかのように思う。しかし私の根本思想はそれとはまるで正反対の傾向をとっておる。単にそれ自身として比較するとき、私は楽しみが苦しみよりも大なる価値をもつものであることを容赦もなく承認する。あるいはむしろ苦しみは消極的の価値もしくは手段的の価値しかもっていないもののように思われる。私は私たちが最後の完成に達する日すべての苦しみと悲しみとが征服されており、あらゆる人間性が美しき解放を得て円満に調和し、福と徳とが完全に一致すべきことを信ぜずにはいられない。それにもかかわらず私が特に苦しみと悲しみとを高調するゆえんは、一方では現実の人間性がいかに不完全にして罪悪に充たされておるかを感ぜざるを得ず、他方では世のいわゆる楽しみがいかに多くの悪の根源となっておるかを見ざるを得ないからである。私たちが尊敬する体験深き人々が幾度となく繰返しておるように、私たちは徹頭徹尾罪をもって汚された弱く小さいものであって救済を要求せずにはいられないようなものである。いやしくも真に生きようという人は自己の醜さを悲しみ嘆かずにはいられない。あるいは逆に苦しみ悲しむ人はまじめであることができるのである。そしてまじめな人のみが本当に自己を反省することができ、従ってよき生活を生きることができるのである。現実の人生はそれの本質上からいってまじめなものは苦しみを感ぜずにはいられず、苦しみを感ずるものはまじめにならざるを得ないのである。しかのみならずかくのごとき本質的な罪苦の意識ばかりでなく、世間の人々がふつう苦しみといっておるものでさえ、私たちをまじめにすることができる。病気、死、災難、不幸などを経験させられるとき、傲慢な心も謙虚にかえり、無反省な精神も反省的となり、外向的な人も内向的となり、遊惰な人間も活動的となる。要するに苦しみは人をまじめにならしめる。そして苦しみの価値は主としてここにある。しかしながら私たちはその反面の事実を見</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149705-149723"><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby><seg source="#source-149723-149774">してはならない。いかなる苦しみにも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149774-149786"><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby><seg source="#source-149786-149918">え忍びつつ、自己の精神を向上せしめる偉大な人々においてはもちろんあり得ないことであるが、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149918-149945"><rb>矮小</rb><rt>わいしょう</rt></ruby><seg source="#source-149945-150104">な私たちの魂にあっては、多くの事実が示しておるように、あまりに多くの悲しみや苦しみは私たちの心を曲げさせ、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-150104-150116"><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby><seg source="#source-150116-150611">ねさせ、卑屈にし、猜疑的にする。要するにそれは素直な心を伸びさせない。私が襲って来るかも知れぬ苦しみに対して恐れ戦くのは主としてこの理由からである。（けれどいっそう徹底的に考えるならば、恐れ戦くということがすでに間違っているのかも知れない。運命はすべてを知っているはずだ。そして私たちの良心はいつでも、私たちがもしそれに従うことを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-150611-150626"><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby><seg source="#source-150626-150715">わないならば私たちを正しき方向へ導いてくれるに相違ない。）</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-150715-151471">さて、あたかも私が楽しみを絶対に排斥するかのごとく見える理由は次の通りである。楽しみは多くの場合私たちを不まじめにする。それは私たちを事物の表面に軽く触れてゆくことに満足させてそれの内奥へはいって行って深く体験することを忘れさせる。それは私たちの反省の強さを失わせ従って私たちの性格の根強さをなくする。それは私たちを徹底と努力と活動とに励まさないでかえって不徹底と無気力と遊惰とに導く。けれどそれにも関せず私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-151471-151498"><rb>豊饒</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby><seg source="#source-151498-151510">な土地に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-151510-151525"><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby><seg source="#source-151525-152160">された種が伸びやかに生長して美しき花を咲かせやすいように、よき周囲の状態に置かれた心は純粋にまた正直に育って行って美しき夢を結びやすい。それは博大と自由との心に親しみやすい。かくして私の結論は次のような形をもって表わされても差支えないように思われる、私は楽しみを欲する、けれど弱小な楽しみよりも偉大なる苦しみを求める。しかしそれよりも以上に偉大なる楽しみを喜ぶ。あるいは私は偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみを憧れる。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-152160-152178">素直な心は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-152178-152190"><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby><seg source="#source-152190-152337">ねることを知らないから、それはまたナイーブで率直である。それは純粋と無邪気とを貴ぶがゆえに、皮肉や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-152337-152358"><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby><seg source="#source-152358-152694">やあてこすりがそれらのものを失わせはしないかを恐れる。自分が本当に感じたり考えたりしたことを率直にいったり行ったりするナイビテート（素直さ）によき魂の特質は見出される。率直な心の力は自己の利益や便宜を顧慮したり世間の思わくに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-152694-152721"><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby><seg source="#source-152721-152916">したりすることによって妨げられることを嫌うどころか、それらのものを全く顧みないところの強さをもっておる。それゆえに自分自身の利便を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-152916-152934"><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby><seg source="#source-152934-154514">って恐れず、時には自己の身命をも棄てて顧みない人の心において初めて、素直なもしくはナイーブで率直な心は成立する。私は私が尊敬し憧憬する多くの天才の思想や生活を考えるとき、常に彼らの単純さや率直さ、あるいは彼らのナイビテートを思わざるを得ない。彼らのある時には憎らしく思われるほどの、言行の大胆さや図々しさは、多くの人、殊に事物の外形のみを見てそれの本質に探り入ることを怠っている人によって誤解されておるように、彼らの傲慢な心から出たものではなくて、むしろ彼らの単純さと率直さ、あるいは彼らのナイビテートから出たもののように思われる。彼らは世慣れたと自称しまたそのことがたいへん立派なことであるように考えている人たちが重宝がる婉曲や紆説が、彼らの精神力の純粋とまじめと強さと相容れないものであることを無意識的に知っておる。皮肉や洒落や諷刺が無邪気で快活な心からよりも狡猾で陰険な心から生れやすく、またそれが無邪気で快活な心のものである場合においてさえ人をして往々素直に事物を観察し経験する心を曲げしめ、もしくは事物に対するまじめな態度を失わしめやすい事実を見定めることは、そして、鋭さに深さよりもいっそう多くの興味をもちたがる私たちには重要なことである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-154514-155442">もちろん私だって皮肉や洒落や諷刺を悉く否定しようというのではない。素直な心は微笑む快活な心であり、散文的なものよりも詩的なものを好む心であり、また人生には遊戯がなければならず、しかして遊戯は単に手段上の価値ばかりでなくそれ自身の価値をもっており、それゆえに喜劇は悲劇とともに価値があると信ずる私は、無邪気で快活な心の微笑みであり戯れである皮肉や洒落や諷刺の愛すべきことを知っているはずである。ただ私が恐れるのはそれらのものがあまりに多く繰返されるとき、事物を素直に見る心と事物にまじめに対する態度とを失わせやすいことである。私が求める快活や微笑や戯れは、いつでも健康な生命の活動から自ら流れ出るところのものである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 5em" rend="first-line-indent(5)"><seg source="#source-155442-155467">一二</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155467-155566">個性とは傲慢な心には知られないようなものである。それは反省のみが</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-155566-155584"><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby><seg source="#source-155584-155821">り得る知識であり、しかして反省は謙虚なる心においてのみ可能である。限りなきへりくだりをもって自己の正しき姿を観じまた他の人々を尊敬し愛するとともに、どこまでも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-155821-155836"><rb>剛</rb><rt>つよ</rt></ruby><seg source="#source-155836-155839">く</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-155839-155857"><rb>健</rb><rt>すこや</rt></ruby><seg source="#source-155857-156313">かな心の活動をもって本当に自己の衷に見出されたものを維持し発展することができる人は、真に個性の何たるかを理解することができる。個性の真の認識は心理学の知識ではなくて反省の知識である。そしてそれゆえに個性の正しき認識は概念をもってしては十分に現わすことができない闇そのものに関する真理の一部分に属しておる。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-156313-156334"><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby><seg source="#source-156334-156979">に外に向って内に向うことを知らない人、無暗に他人に対抗しようとして自己に還ることを忘れた人、それらの人に対しては個性の理解の扉は堅く閉されておる。なぜならば真に自分自身を理解しない人が他人の個性を理解し得ようなどとはとうてい信ずることができないから。自己に目覚める心はやがて他人に目覚める心である。自分自身に次第に深く目覚めてゆくに従って、私たちの他の人格を理解する深さと広さとはそれだけ次第に増大してゆくのである。いわゆる世故に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-156979-156991"><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby><seg source="#source-156991-157312">けた人、世慣れた人が自分らのみが他の人々を本当に理解しておりまた他の人々を愛する権利をもっておるかのように考えて振舞っておることほど私には滑稽なものはない。それらの人々は先生ぶった、先輩ぶったもしくは兄貴ぶった口の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-157312-157324"><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き方をしながら私にしばしばいった、「君の心はよく分っている。私がいいように計ってやるから心配することはない。」しかし私は彼らの<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-157513-157528"><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby><seg source="#source-157528-157822">うような態度や彼らの情熱のない口の利き方から、彼らが私を彼らの人間一般に対する先入主見に従って理解しており、彼らの愛や同情が他人の弱小を憐むことにおいて見出される自己の優越の感じを味うことの快さに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-157822-157837"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-157837-158118">づいておることを直感せずにはいられなかった。また本当の理解や愛がそんなところに決して成立しないものであることを私は信ぜざるを得ないから、どうしても心から彼らに感謝することができなかった。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158118-158196">個性の理解の強さと深さとは反省の力の強さと深さとに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-158196-158211"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-158211-158295">づき、しかして性格の強さと深さとは主としてそれらのものに</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-158295-158310"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-158310-158679">づくのである。私は陰鬱な型に属するセンチメンタリストがしばしば自分の性格を非常に深いもののように思っているのを見た。彼らは大抵いわゆる近代的の憂愁と敏感とを深い性格の人の特徴として考えているらしい。私も憂鬱をもって偉大なる性格の人の唯一ではないが</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-158679-158694"><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><seg source="#source-158694-160166">一つの特徴であると考えること、また彼らの性格の強さと深さとがそこに根柢をもっておるとすることを非難しようとは思わない。ただ私は私たちに陰鬱な感じを与える人に、浅くはあるが濁っているために暗く感ぜられる人とその人が奥底にもっておる深い闇のゆえに暗く感ぜられる人との二つの種類があることに注意したい。前者には素直さと純粋さとがない。彼らの心は拗ねて卑屈であり、自由を失って執拗であり、堕落させた感情の中へ自己を溺れさせて濁った涙を徒に外に向って流そうとする。私は感情や情調や気分や涙の価値を誰にも劣らず認めているつもりであるが、私自身が経て来た経験からそれらのものが純粋さを失うとき、いかに私たちを堕落させるものであるかを痛切に感ぜざるを得ない。また私は敏感がいかに多くの天才の特質であったかを誰よりも以上に承認する。しかし私はそれらの天才の感情や情調や気分や涙がいかに純粋であり、生命的であり、自由であるかを知っている。私はヒステリー女の感傷を退けて無邪気な子供の美しき感傷に憧れる。いわゆるセンチメンタリストには性格の強さがないのはもちろんであるが、彼らにはまたそれの深さもない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160166-161080">これに反して偉大なる人格の闇と憂鬱とは生命そのもの、私たちの奥底に横たわる意志そのものの純粋にして自由なる闇と憂鬱とである。あるいは彼らの深く掘り下げてゆく心がかかる闇と憂鬱とに面と向ったとき、もしくは彼らの強い直観力が殆んど無意識的にかかる闇と憂鬱とを感ずるときに自ら生れるところの闇と憂鬱とである。それらのものは彼らにおいて生命であり力であるがゆえに、時にはそれらのものは自分自身を否定して巨大なる光輝となって輝き出でる。それゆえに彼らの根柢にある闇と憂鬱の海はそれが白波となって砕けて表面を蔽う快活のために見誤られ見遁されることがしばしばある。彼らにおいてこそ性格の強さと深さとは見出されるのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-161080-161764">あたかも岐路へ踏み入ったかのごとく感ぜられる私の上の考察は、真の個性は自己の表面に漂うものよりもその根柢に厳存するもの、外に拡る心よりも内に潜む心にそれの本質を有するものであることを理解する上に幾分か役立つであろうと思う。自己に覚めたといい、自己に生きておるといって誇りげに振舞っておる世の多くのいわゆる新しき人を見るに、彼らは彼らにおいて特性的なもの、病的なもの、畸形なるもの、もしくは単に表面に漂う気分をあたかも真の個性のごとく考えて、それらのものを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-161764-161779"><rb>弥</rb><rt>いや</rt></ruby><seg source="#source-161779-162220">が上に主張しようとするのである。彼らの多くは剛情で片意地で尊大である。徒に他に対立し拮抗して行こうとする彼らの心は険しくて安静を欠いている。彼らは彼らの他に徒に対抗してゆこうとする険しい心が、彼らを駆らずにはおかない限りなき運動をもって旺盛な心の活動と思い誤り、彼らの不安と焦躁との中に動揺して</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-162220-162232"><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby><seg source="#source-162232-162768">まない気持を素敵に勇敢な気持だと考え誤っている。けれど真の活動には自由な安静が感ぜられ、真に勇敢な気持には反面に謙虚な気持が伴っている。また真の個性の本質は普遍的なるものが自ら分化発展してとったところの形において見出されるのである。個性の根柢は普遍的なるものにある。しかして普遍的なるものは己れ自身に具えた力によって内面的に発展して特殊の形をとるのである。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私はかつて「ライプニッツ哲学と個性概念」という論文を草して、ライプニッツ哲学の実体概念に関係して個性概念の幾分の論述を試みた。いまここにそれらの思想を繰返して書くことは、この一篇を完全な形にするためには必要なことかも知れないが、私自身にとっては無駄なことであるように考えられる。ただ私がそこにおいて個性概念を価値的同一と形而上学的同一との二つの観点から考察したことに関係して、私の意味する個性概念が心理学者の意味するそれと全く異なったものであることを注意するために次の事柄を指摘しておきたいと思う。私たちの生活の中に現われ出る感覚、感情、観念等は心理学者が説くように一々因果関係に束縛されておる。そしてそれらの感覚、観念、感情、欲望等の中のあるものは一般的なものとして他のものに増して執拗にまた力強く私たちの生活を支配しておる。しかるにある時現われ出た一つの新しいものが奇蹟的な力をもって私たちの日常生活をふつう支配しておるところの感覚、観念、感情、欲望等を駆逐し、征服し、もしくはそれらに新しき光を与えることがある。かかるものは私たちが日々の生活の中に殆んど感ぜられずにいてある機会に突然現われることもあろうし、また平生予感されていたものが<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-164334-164358"><rb>一時</rb><rt>ひととき</rt></ruby><seg source="#source-164358-165174">猛然として現われることもあろうし、もしくは日も夜も求めて止まなかったのがあるときに与えられることもあろう。いずれにせよかかるものは永遠なるものに関係しており、しかしてかかるものは私たちの生活において偉大なる勢をもって価値の転換を遂行する。そしてかかるものが完全に私たちの内部を一新し終るとき、私たちはそれを更生とよぶことができる。私の考によれば、真の個性はそのとき少しも蔽われない姿において輝き出でるのである。とにかく個性とは永遠なるものに与り、を求める限りにおいて成立するところのものである。私が個性概念の価値的同一の方面の根柢を意志の自由に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-165174-165189"><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby><seg source="#source-165189-165244">づけたのもかくのごとき意味である。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-165244-167345" style="padding-inline-start: 1em">
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165279-165678">私が最初ペンを取ったとき、私はこの一篇に少しの組織をも考え及ばなかったが、まもなく私の哲学の学徒としての要求がかかる種類のものにさえ何等かの秩序を求めた。そこで私は大体の計画を作りその計画に従って思索して得た結果を毎日十枚宛一ヵ月間記し続けて三百枚に至るの日ペンを</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-165678-165690"><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby><seg source="#source-165690-166707">こうと思った。しかし中途にして私は再び初めの正しき動機に立返ることが出来た。組織や体系やは現在の私の問題の中にあってはならない。私自身の心の改造が何よりも肝要なことである。かくて私は私がそれについて書いてみようと思った、友情、恋、愛、教育、社会、文化の諸概念の考察を思い止ることにした。これらの諸概念の中のあるものたとえば友情、恋、愛等については私はこれまでにたびたび反省してみる機会をもつことができたのであって、現在の私はそれらの概念をもう一度吟味してみることに迫られていないと思う。また他のものたとえば教育、社会、文化等については、それらが私の今の心の状態に直接の関係をもっていないばかりでなく、私のそれらに関する知識や経験の貧しさは第一に私がそれらについて語ることの僣越を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-166707-166722"><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby><seg source="#source-166722-167309">める。私は私が近頃それの悪を私の衷に特に感ぜざるを得なかった虚栄心、利己心、傲慢心の三者を排斥して素直な心をもって置換えることにこの一篇の中心目的を見出すのである。私の体系を求むる心が本当に私自身に迫るとき、もしくは私の生活がそれをさせずにはおかないようになったとき、私はいま私の考察から脱した、これまで幾度となく考えたあるいは未だかつて考えたことのない諸概念について思索を試みるであろう。</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-167347-167457" style="padding-inline-end: 2em; text-align: right">
        <p><seg source="#source-167377-167457">――千九百十九年七月十七日　　東京の西郊中野にて脱稿</seg></p>
      </div>
      <div type="layout" source="#source-167457-167556" style="padding-inline-end: 0em; text-align: right">
        <p>（『三木清著作集』第一巻所収　一九四六年刊　岩波書店）</p>
      </div>
    </body>
    <back>
      <div type="source">
        <note type="source-attribution" source="#source-167564-167743"><seg type="source-line">底本：「語られざる哲学」講談社学術文庫、講談社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1977（昭和52）年6月10日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1978（昭和53）年2月10日第2刷発行</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-167743-168248"><seg type="source-line">※混在している「憂欝」と「憂鬱」、「無頓着」「執着」と「無頓著」「執著」は底本通りとし、統一しませんでした。</seg><lb/><seg type="source-line">入力：大野晋</seg><lb/><seg type="source-line">校正：小林繁雄</seg><lb/><seg type="source-line">2000年10月2日公開</seg><lb/><seg type="source-line">2006年4月15日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
        <note type="source-span" xml:id="source-100124-100139" n="139"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-100139-100564" n="139"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-100564-101098" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1007-1025" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101098-101119" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-10162-10177" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101648-101669" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101669-101789" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101789-101813" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101813-101841" n="140"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101841-102151" n="142"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101876-101876" n="143"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101876-101919" n="143"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101919-101961" n="144"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-101961-102041" n="146"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102041-102115" n="147"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102153-102251" n="149"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102251-102287" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102287-102308" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102287-102353" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102353-102521" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1025-1148" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102521-102536" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-102536-103558" n="150"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-103558-103630" n="151"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-103630-103642" n="151"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-103642-103852" n="151"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-103852-103885" n="151"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-103885-104124" n="151"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-104124-104583" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-104583-104604" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-104604-104781" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-104781-104805" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-104805-106194" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-106194-106215" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-106215-106487" n="152"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-107780-107810" n="153"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-109200-109222" n="155"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-109222-110271" n="157"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-110271-111609" n="158"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-111609-111636" n="158"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-111636-112307" n="158"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-112307-112738" n="159"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-112738-113134" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113134-113161" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113161-113419" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113419-113431" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113431-113755" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113755-113779" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-113779-114078" n="160"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-114078-115068" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1148-1169" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115068-115089" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115089-115623" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115623-115638" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115638-115938" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11590-11602" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115938-115965" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-115965-116189" n="161"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11602-11605" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11605-11620" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-116189-117178" n="162"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11620-11772" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1169-1969" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-117178-118455" n="163"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11772-11881" n="34"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118455-118497" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118497-118512" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118512-118635" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118635-118650" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118650-118821" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11881-11903" n="36"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118821-118839" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118839-118911" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118911-118914" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118911-118941" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-118941-119361" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-11903-13025" n="38"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119361-119367" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119361-119397" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119397-119904" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119904-119907" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119904-119934" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-119934-120646" n="164"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-120646-120671" n="166"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-120671-120986" n="168"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-120986-121025" n="168"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-121025-121541" n="168"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-121541-121556" n="168"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-121556-121654" n="168"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-122671-122692" n="169"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-122692-122997" n="169"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-122997-124719" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-124719-124728" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-124728-124825" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-124767-124813" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-124813-124819" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-124825-125487" n="170"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-125487-125781" n="171"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-125781-125808" n="171"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-125808-126180" n="171"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126180-126204" n="171"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126204-126271" n="171"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126271-126589" n="173"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126306-126306" n="174"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126306-126349" n="174"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126349-126393" n="175"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126393-126438" n="177"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126438-126459" n="177"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126459-126491" n="177"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126491-126553" n="178"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-126591-126689" n="180"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-127337-127364" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129077-129101" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129599-129611" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129611-129671" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129653-129665" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129953-129974" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-129974-130255" n="181"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13025-13037" n="38"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-130255-130855" n="182"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-13037-14191" n="38"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-130855-130876" n="182"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-130876-132120" n="182"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132120-132144" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132144-132168" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132891-132918" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132918-132921" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132921-132945" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-132945-133097" n="183"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-133097-133412" n="184"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-133412-133439" n="184"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-133439-134423" n="184"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-134423-134441" n="184"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-134441-134463" n="184"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-134463-134488" n="186"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-134488-134830" n="188"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-134830-134845" n="188"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-136222-136246" n="188"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-136246-136368" n="188"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-136368-137808" n="189"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-137808-137829" n="189"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-137829-139563" n="189"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139563-139575" n="189"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139575-139592" n="189"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139592-139838" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139838-139856" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139856-139904" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-139904-139925" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141023-141041" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141041-141047" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141047-141071" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141071-141317" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141317-141332" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141332-141361" n="190"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-141361-142540" n="191"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14191-14521" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-142540-142561" n="191"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-142561-142594" n="191"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-142594-142609" n="191"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-142609-143007" n="191"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143007-143379" n="192"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143379-143397" n="192"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143397-143601" n="192"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143601-143619" n="192"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143619-143879" n="192"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-143879-144137" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144137-144149" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144149-144407" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144407-144422" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144422-144440" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144440-144482" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144482-144494" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144494-144518" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144518-144746" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144746-144773" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-144773-145223" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14521-14551" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-145223-145250" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-145250-145262" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-145262-145274" n="193"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-145417-146010" n="194"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14551-14602" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-146010-146724" n="195"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14602-14623" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14623-14677" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-146724-146736" n="195"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-146736-146937" n="195"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14677-14701" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-146937-146958" n="195"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-146958-147092" n="195"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-14701-15832" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-147092-149705" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149705-149723" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149723-149774" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149774-149786" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149786-149918" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149918-149945" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-149945-150104" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-150104-150116" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-150116-150611" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-150611-150626" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-150626-150715" n="196"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-150715-151471" n="197"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-151471-151498" n="197"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-151498-151510" n="197"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-151510-151525" n="197"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-151525-152160" n="197"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152160-152178" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152178-152190" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152190-152337" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152337-152358" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152358-152694" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152694-152721" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152721-152916" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152916-152934" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-152934-154514" n="198"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-154514-155442" n="199"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155442-155467" n="201"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155467-155566" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155566-155584" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155584-155821" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155821-155836" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155836-155839" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155839-155857" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-155857-156313" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-156313-156334" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-156334-156979" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-156979-156991" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-156991-157312" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-157312-157324" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-157513-157528" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-157528-157822" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-157822-157837" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-157837-158118" n="203"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158118-158196" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158196-158211" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158211-158295" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158295-158310" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158310-158679" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-15832-15847" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-15847-16497" n="39"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158679-158694" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-158694-160166" n="204"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-160166-161080" n="205"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-161080-161764" n="206"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-161764-161779" n="206"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-161779-162220" n="206"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-162220-162232" n="206"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-162232-162768" n="206"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-164334-164358" n="207"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-164358-165174" n="207"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-16497-16605" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165174-165189" n="207"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165189-165244" n="207"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165244-167345" n="209"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165279-165279" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165279-165678" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165678-165690" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-165690-166707" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-16605-16635" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-16635-16638" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-16638-16653" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-166707-166722" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-166722-167309" n="210"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-167347-167457" n="212"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-167377-167457" n="212"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-167457-167556" n="213"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-167564-167743" n="217"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-167743-168248" n="220"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17508-17523" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17523-17601" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17601-17613" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-17613-17801" n="40"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-1969-3080" n="26"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20087-20108" n="41"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20458-20488" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20488-20509" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-20509-21709" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21709-21724" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21724-21919" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21919-21931" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-21931-22228" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22228-22246" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22246-22306" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22306-22330" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22330-22809" n="42"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-22809-23157" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23157-23172" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23172-23606" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23606-23624" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23624-23963" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23963-23981" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-23981-24255" n="43"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-24255-24277" n="45"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-26898-28635" n="48"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-28635-28650" n="48"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-28650-28724" n="48"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3080-3095" n="26"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3095-3235" n="26"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31090-31102" n="50"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31102-31412" n="50"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31412-31885" n="52"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31447-31447" n="53"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31450-31489" n="53"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31492-31529" n="54"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31529-31561" n="55"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31564-31616" n="56"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31616-31678" n="58"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31678-31716" n="59"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31716-31784" n="60"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31784-31849" n="61"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31887-32163" n="63"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-31919-31919" n="64"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-32165-32660" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3235-3931" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-32660-32684" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-32954-32957" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-32954-33024" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-32957-33003" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33393-33417" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33417-33600" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33600-33615" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33615-33735" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33735-33750" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33750-33920" n="67"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-33920-34858" n="68"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-34858-36442" n="69"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-36442-36463" n="69"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-36463-37117" n="69"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37117-37138" n="69"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37138-37359" n="69"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37359-37578" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37578-37596" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37596-37611" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37611-37623" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37623-37644" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37644-37674" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37674-37974" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37974-37989" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-37989-39739" n="70"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3931-3958" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-3958-4180" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-39739-39761" n="72"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-39761-40220" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-40220-40238" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-40238-41225" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41225-41240" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41240-41564" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41564-41585" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41585-41833" n="74"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4180-4192" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41833-41947" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4192-4432" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41947-41962" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41962-41989" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-41989-42001" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42001-42004" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42004-42016" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42016-42073" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42073-42085" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42085-42124" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42124-42139" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-42139-43177" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43177-43201" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43201-43279" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43279-43294" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43294-43525" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43525-43546" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-43546-44565" n="75"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4432-4453" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4453-4645" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-44565-44997" n="76"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-44997-45009" n="76"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-45009-45704" n="76"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-45704-45878" n="77"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-45878-45899" n="77"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4645-4669" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-46658-46676" n="77"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-46676-47032" n="77"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4669-4678" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4678-4702" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-4702-5374" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-47032-47881" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-47881-47893" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-47893-48106" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-48106-48124" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-48124-48187" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-48172-48181" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-48187-48297" n="78"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-49059-49083" n="79"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-49083-50676" n="79"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-50676-50691" n="79"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-50691-51160" n="79"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-51160-51182" n="81"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-51182-51839" n="83"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-51839-51854" n="83"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-51854-52213" n="83"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-52213-52539" n="84"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-52539-52836" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-52836-52857" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5374-5398" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5398-5601" n="27"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-54423-54453" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-54453-55050" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55050-55071" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55071-55092" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55092-55116" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55116-55227" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55227-55248" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55248-55266" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55266-55281" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-55281-58520" n="85"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5601-5676" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5676-5691" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-5691-6534" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-58520-58880" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-58880-58904" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-58904-58967" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-58967-58982" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-60412-60427" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-60427-60673" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-60673-60685" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-60685-60729" n="86"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-60729-61083" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61083-61101" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61101-61425" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61425-61446" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61446-61548" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61548-61566" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-61566-62711" n="87"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-62711-63860" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-63860-63875" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-63875-63959" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-63959-63980" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-63980-64457" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64457-64472" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64472-64566" n="88"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64566-64834" n="90"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64601-64601" n="91"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64601-64647" n="91"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64647-64686" n="92"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64686-64745" n="94"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64745-64798" n="95"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64836-64949" n="97"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-64949-65255" n="98"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-65255-65273" n="98"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-65273-66229" n="98"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6534-6561" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6561-6630" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-66229-66493" n="99"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6630-6642" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6642-6804" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-66493-66505" n="99"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-67965-68226" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6804-6819" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-6819-7360" n="28"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68226-68241" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68241-68442" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68442-68466" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68466-68502" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68502-68517" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68517-68793" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68793-68811" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68811-68844" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68844-68859" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68859-68862" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68862-68874" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-68874-69288" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-69288-69309" n="100"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-70607-71083" n="101"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-71083-71593" n="102"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-71593-71615" n="104"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-71615-72907" n="106"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7360-7382" n="30"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-73657-73660" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-73657-73687" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7382-7848" n="32"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-73963-73975" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-73963-74011" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-74011-74014" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-74014-74026" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-74014-74062" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75418-75442" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75442-75487" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75487-75505" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75505-75733" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75733-75757" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-75757-76189" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-76189-76201" n="107"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-76974-76986" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77019-77043" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77214-77235" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77235-77289" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77289-77304" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77304-77631" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77631-77670" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77670-77673" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77673-77703" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-77703-79803" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7848-7866" n="32"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-7866-8390" n="32"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-79803-79818" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-79818-80061" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-80061-80085" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-80085-80709" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-80709-80724" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-80724-81188" n="108"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-81188-81635" n="109"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-81635-81647" n="109"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-81647-82496" n="109"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-82496-82520" n="109"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8390-8827" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-84397-85249" n="110"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-85249-85264" n="110"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-85264-85470" n="110"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-85470-85696" n="111"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-85696-85718" n="113"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86393-86408" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86408-86462" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86462-86483" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86483-86489" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86489-86510" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86510-86683" n="115"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86683-86824" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-868-890" n="23"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86824-86848" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-86848-87085" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-87085-87100" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-87100-88072" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-88072-88084" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-88084-89322" n="116"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8827-8833" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8827-8863" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8863-8947" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-890-893" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-893-914" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8947-8956" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8947-8989" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-8989-9001" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-89895-89916" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-89916-89955" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-89955-89970" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-89970-90009" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90009-90027" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9001-9010" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9001-9043" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90027-90102" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90102-90117" n="117"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90358-91069" n="119"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90393-90393" n="120"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90393-90436" n="120"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9043-9232" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90436-90480" n="121"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90483-90525" n="122"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90525-90568" n="123"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90568-90608" n="124"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90608-90640" n="125"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90640-90702" n="127"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90702-90770" n="128"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90770-90818" n="129"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90818-90836" n="129"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90836-90853" n="129"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90853-90856" n="130"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90856-90871" n="130"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90871-90927" n="130"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90927-90971" n="131"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-90971-91033" n="132"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91071-91172" n="134"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91172-91184" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91184-91205" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91205-91451" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-914-1007" n="25"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91451-91469" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91469-91904" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91904-91916" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-91916-92171" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92171-92189" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92189-92300" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92300-92312" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92312-92375" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9232-9238" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9232-9268" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92375-92399" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92399-92537" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92537-92561" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92561-92723" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9268-9616" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92723-92738" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-92738-93239" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93239-93260" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93260-93284" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93284-93299" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93299-93311" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93311-93332" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93332-93482" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93482-93497" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-93497-94148" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-94148-94166" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-94166-94661" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-94661-94676" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-94676-94768" n="135"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95200-95233" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95233-95308" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95308-95332" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95332-95341" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95341-95399" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95341-95420" n="136"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95689-95878" n="137"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95878-95899" n="137"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-95899-97173" n="137"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9616-9631" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-9631-10162" n="33"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97173-97527" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97527-97539" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97539-97542" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97542-97560" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97560-97671" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97671-97686" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97686-97713" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97713-97725" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97725-97965" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97965-97983" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-97983-98211" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98211-98232" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98232-98766" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98766-98787" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98787-98862" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98862-98886" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-98886-99462" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-99462-99483" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-99483-99677" n="138"/>
        <note type="source-span" xml:id="source-99677-100124" n="139"/>
      </div>
      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-0">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 8863,
  "end_line": 33,
  "line": 33,
  "start": 8833
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-0">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-1">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 8989,
  "end_line": 33,
  "line": 33,
  "start": 8956
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-1">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-2">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 9268,
  "end_line": 33,
  "line": 33,
  "start": 9238
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-2">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-3">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 73687,
  "end_line": 107,
  "line": 107,
  "start": 73660
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-3">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-4">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 118941,
  "end_line": 164,
  "line": 164,
  "start": 118914
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-4">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-5">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 119397,
  "end_line": 164,
  "line": 164,
  "start": 119367
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-5">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-6">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 119934,
  "end_line": 164,
  "line": 164,
  "start": 119907
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-6">bouten_target_ambiguous</note>
    </back>
  </text>
</TEI>