東京の下町と山の手の境い目といったような、ひどく坂や<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の多い街がある。

表通りの繁華から折れ曲って来たものには、別天地の感じを与える。

つまり表通りや新道路の繁華な<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>に疲れた人々が、時々、刺戟を<ruby><rb>外</rb><rt>は</rt></ruby>ずして気分を転換する為めに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れ込むようなちょっとした街筋――

福ずしの店のあるところは、この町でも一ばん低まったところで、二階建の銅張りの店構えは、三四年前表だけを造作したもので、裏の方は崖に支えられている柱の足を根つぎして古い住宅のままを使っている。

古くからある普通の<ruby><rb>鮨屋</rb><rt>すしや</rt></ruby>だが、商売不振で、先代の持主は看板ごと家作を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の両親に譲って、店もだんだん行き立って来た。

新らしい福ずしの主人は、もともと東京で屈指の鮨店で腕を仕込んだ職人だけに、周囲の状況を察して、鮨の品質を上げて行くに造作もなかった。前にはほとんど出まえだったが、新らしい主人になってからは、鮨盤の前や土間に腰かける客が多くなったので、始めは、主人夫婦と女の子の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>三人きりの暮しであったが、やがて職人を入れ、子供と女中を使わないでは間に合わなくなった。

店へ来る客は十人十いろだが、全体に<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>ては共通するものがあった。

後からも前からもぎりぎりに生活の現実に詰め寄られている、その間をぽっと外ずして気分を転換したい。

一つ一つ我ままがきいて、ちんまりした<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>ができて、そして、ここへ来ている間は、くだらなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>になれる。好みの程度に自分から裸になれたり、仮装したり出来る。たとえ、そこで、どんな安ちょくなことをしても云っても、誰も軽蔑するものがない。お互いに現実から隠れんぼうをしているような者同志の一種の親しさ、そして、かばい合うような<ruby><rb>懇</rb><rt>ねんごろ</rt></ruby>な眼ざしで鮨をつまむ手つきや茶を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>む様子を<ruby><rb>視合</rb><rt>みあ</rt></ruby>ったりする。かとおもうとまたそれは人間というより木石の如く、はたの神経とはまったく無交渉な様子で黙々といくつかの鮨をつまんで、さっさと帰って行く客もある。

鮨というものの生む<ruby><rb>甲斐々々</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しいまめやかな雰囲気、そこへ人がいくら<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り込んでも、<ruby><rb>擾</rb><rt>みだ</rt></ruby>れるようなことはない。万事が手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う。

福ずしへ来る客の常連は、元狩猟銃器店の主人、デパート外客廻り係長、歯科医師、畳屋の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>、電話のブローカー、<ruby><rb>石膏</rb><rt>せっこう</rt></ruby>模型の技術家、児童用品の売込人、兎肉販売の勧誘員、証券商会をやったことのあった隠居――このほかにこの町の近くの<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいるに違いない劇場関係の芸人で、劇場がひまな時は、何か内職をするらしく、脂づいたような絹ものをぞろりと着て、青白い手で鮨を器用につまんで喰べて行く男もある。

常連で、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に住んでいる暇のある連中は散髪のついでに寄って行くし、遠くからこの附近へ用足しのあるものは、その用の前後に寄る。季節によって違うが、日が長くなると午後の四時頃から灯がつく頃が一ばん落合って立て込んだ。

めいめい、好み好みの場所に席を取って、<ruby><rb>鮨種子</rb><rt>すしだね</rt></ruby>で融通して呉れるさしみや、<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>のもので酒を飲むものもあるし、すぐ鮨に取りかかるものもある。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の父親である鮨屋の亭主は、ときには仕事場から土間へ降りて来て、黒みがかった押鮨を盛った皿を常連のまん中のテーブルに置く。

「何だ、何だ」

好奇の顔が四方から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込む。

「まあ、やってご覧、あたしの寝酒の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>さ」

亭主は客に友達のような口をきく。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こはだ</span>にしちゃ味が濃いし――」

ひとつ<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>んだのがいう。

「<ruby><rb>鯵</rb><rt>あじ</rt></ruby>かしらん」

すると、畳敷の方の柱の根に横坐りにして見ていた<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の母親――が、は　は　は　は　と太り<ruby><rb>肉</rb><rt>じし</rt></ruby>を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>って「みんなおとッつあんに一ぱい喰った」と笑った。

それは塩さんまを使った押鮨で、おからを使って程よく塩と脂を抜いて、押鮨にしたのであった。

「おとっさん<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>いぜ、ひとりでこっそりこんな<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いものを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて食うなんて――」

「へえ、さんまも、こうして食うとまるで違うね」

客たちのこんな話が一しきりがやがや渦まく。

「なにしろあたしたちは、銭のかかる贅沢はできないからね」

「おとっさん、なぜこれを、店に出さないんだ」

「冗談いっちゃ、いけない、これを出した日にゃ、他の鮨が蹴押されて売れなくなっちまわ。第一、さんまじゃ、いくらも値段がとれないからね」

「おとッつあん、なかなか商売を知っている」

その他、鮨の材料を採ったあとの<ruby><rb>鰹</rb><rt>かつお</rt></ruby>の<ruby><rb>中落</rb><rt>なかおち</rt></ruby>だの、<ruby><rb>鮑</rb><rt>あわび</rt></ruby>の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>だの、<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>の白子だのを<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>に調理したものが、ときどき常連にだけ突出された。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>はそれを見て「飽きあきする、あんなまずいもの」と顔を<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>めた。だが、それらは常連から呉れといってもなかなか出さないで、思わぬときにひょっこり出す。亭主はこのことにかけてだけ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いこじ</span>でむら気なのを知っているので決してねだらない。

よほど欲しいときは、娘の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>にこっそり頼む。すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は面倒臭そうに探し出して与える。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は幼い時から、こういう男達は見なれて、その男たちを通して世の中を頃あいでこだわらない、いささか稚気のあるものに感じて来ていた。

女学校時代に、鮨屋の娘ということが、いくらか恥じられて、家の出入の際には、できるだけ友達を近づけないことにしていた苦労のようなものがあって、孤独な感じはあったが、ある程度までの孤独感は、家の中の父母の間柄からも染みつけられていた。父と母と喧嘩をするような事はなかったが、気持ちはめいめい独立していた。ただ生きて行くことの必要上から、事務的よりも、もう少し本能に喰い込んだ協調やらいたわり方を暗黙のうちに交換して、それが反射的にまで発育しているので、世間からは無口で比較的仲のよい夫婦にも見えた。父親は、どこか下町のビルヂングに支店を出すことに熱意を持ちながら、小鳥を飼うのを道楽にしていた。母親は、<ruby><rb>物見遊山</rb><rt>ものみゆさん</rt></ruby>にも行かず、着ものも買わない代りに月々の店の売上げ額から、自分だけの月がけ貯金をしていた。

両親は、娘のことについてだけは一致したものがあった。とにかく教育だけはしとかなくてはということだった。まわりに<ruby><rb>浸々</rb><rt>ひたひた</rt></ruby>と押し寄せて来る、知識的な空気に対して、この点では両親は期せずして一致して社会への競争的なものは持っていた。

「自分は職人だったからせめて娘は」

と――だが、それから先をどうするかは、全く茫然としていた。

無邪気に育てられ、表面だけだが世事に通じ、軽快でそして孤独的なものを持っている。これが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の性格だった。こういう娘を誰も目の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>にしたり邪魔にするものはない。ただ男に対してだけは、ずばずば応対して女の子らしい<ruby><rb>羞</rb><rt>はじ</rt></ruby>らいも、作為の態度もないので、一時女学校の教員の間で問題になったが、商売柄、自然、そういう女の子になったのだと判って、いつの間にか疑いは消えた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は学校の遠足会で多摩川べりへ行ったことがあった。春さきの小川の淀みの淵を覗いていると、いくつも<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>が泳ぎ流れて来て、新茶のような青い水の中に<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>おひれ</rt></ruby>を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めかしては、<ruby><rb>杭根</rb><rt>くいね</rt></ruby>の<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んで、また流れ去って行く。するともうあとの鮒が流れ溜って尾鰭を閃めかしている。流れ来り、流れ去るのだが、その交替は人間の意識の眼には留まらない程すみやかでかすかな作業のようで、いつも若干の同じ魚が、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に遊んでいるかとも思える。ときどきは不精そうな<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>も来た。

自分の店の客の新陳代謝は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>にはこの春の川の魚のようにも感ぜられた。（たとえ常連というグループはあっても、そのなかの一人々々はいつか変っている）自分は杭根のみどりの苔のように感じた。みんな自分に軽く触れては慰められて行く。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は店のサーヴィスを義務とも辛抱とも感じなかった。胸も腰もつくろわない少女じみたカシミヤの制服を着て、有合せの男下駄をカランカラン引きずって、客へ茶を運ぶ。客が情事めいたことをいって<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>うと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は口をちょっと<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らし、片方の肩を一しょに釣上げて

「困るわそんなこと、何とも返事できないわ」

という。さすがに、それには極く軽い<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びが声に<ruby><rb>捩</rb><rt>よじ</rt></ruby>れて消える。客は<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな明るいものを自分の気持ちのなかに点じられて笑う。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、その程度の福ずしの看板娘であった。

客のなかの<ruby><rb>湊</rb><rt>みなと</rt></ruby>というのは、五十過ぎぐらいの紳士で、濃い眉がしらから顔へかけて、憂愁の蔭を帯びている。時によっては、もっと老けて見え、場合によっては情熱的な壮年者にも見えるときもあった。けれども鋭い理智から来る一種の諦念といったようなものが、人柄の上に<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて、苦味のある顔を柔和に磨いていた。

濃く縮れた髪の毛を、程よくもじょもじょに分け<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby><ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を生やしている。服装は<ruby><rb>赫</rb><rt>あか</rt></ruby>い短靴を<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>まみれにしてホームスパンを着ている時もあれば、少し古びた<ruby><rb>結城</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>で着流しのときもある。独身者であることはたしかだが職業は誰にも判らず、店ではいつか先生と呼び馴れていた。鮨の食べ方は巧者であるが、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて通がるところも無かった。

サビタのステッキを床にとんとつき、椅子に腰かけてから体を斜に鮨の握り台の方へ傾け、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>箱の中に入っている材料を物憂そうに点検する。

「ほう。今日はだいぶ品数があるな」

と云って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の運んで来た茶を受け取る。

「カンパチが<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>がのっています、それに今日は<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>も――」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の父親の福ずしの亭主は、いつかこの客の潔癖な性分であることを覚え、湊が来ると無意識に<ruby><rb>俎板</rb><rt>まないた</rt></ruby>や塗盤の上へしきりに<ruby><rb>布巾</rb><rt>ふきん</rt></ruby>をかけながら云う。

「じゃ、それを握って貰おう」

「はい」

亭主はしぜん、ほかの客とは違った返事をする。湊の鮨の喰べ方のコースは、いわれなくとも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の父親は判っている。<ruby><rb>鮪</rb><rt>まぐろ</rt></ruby>の中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とろ</span>から始って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つめ</span>のつく煮ものの鮨になり、だんだんあっさりした青い<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>のさかなに進む。そして玉子と<ruby><rb>海苔</rb><rt>のり</rt></ruby>巻に終る。それで握り手は、その日の特別の注文は、適宜にコースの中へ加えればいいのである。

湊は、茶を飲んだり、鮨を味わったりする間、片手を頬に宛てがうか、そのまま首を下げてステッキの頭に置く両手の上へ<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を載せるかして、じっと眺める。眺めるのは開け放してある奥座敷を通して眼に入る裏の谷合の木がくれの沢地か、水を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いてある表通りに、向うの<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>から垂れ下がっている<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の葉の茂みかどちらかである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、初めは少し窮屈な客と思っていただけだったが、だんだんこの客の謎めいた眼の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り処を見慣れると、お茶を運んで行ったときから鮨を喰い終るまで、よそばかり眺めていて、一度もその眼を自分の方に振向けないときは、物足りなく思うようになった。そうかといって、どうかして、まともにその眼を振向けられ自分の眼と永く視線を合せていると、自分を支えている力を<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼか</rt></ruby>されて危いような気がした。

偶然のように顔を見合して、ただ一通りの好感を寄せる程度で、微笑して呉れるときは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は父母とは違って、自分をほぐして呉れるなにか暖味のある刺戟のような感じをこの年とった客からうけた。だから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は湊がいつまでもよそばかり見ているときは土間の隅の湯沸しの前で、<ruby><rb>絽</rb><rt>ろ</rt></ruby>ざしの手をとめて、たとえば、作り<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をするとか耳に立つものの音をたてるかして、自分ながらしらずしらず湊の注意を自分に振り向ける所作をした。すると湊は、ぴくりとして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の方を見て、微笑する。上歯と下歯がきっちり合い、<ruby><rb>引緊</rb><rt>ひきしま</rt></ruby>って見える口の線が、滑かになり、仏蘭西髭の片端が目についてあがる――父親は鮨を握り<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>らちょっと眼を挙げる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>のいたずら気とばかり思い、また不愛想な顔をして仕事に向う。

湊はこの店へ来る常連とは分け隔てなく話す。競馬の話、株の話、時局の話、碁、将棋の話、盆栽の話――大体こういう場所の客の間に交される話題に洩れないものだが、湊は、八分は相手に話さして、二分だけ自分が口を開くのだけれども、その<ruby><rb>寡黙</rb><rt>かもく</rt></ruby>は相手を見下げているのでもなく、つまらないのを我慢しているのでもない。その証拠には、盃の一つもさされると

「いやどうも、僕は身体を壊していて、酒はすっかりとめられているのですが、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>ですから、じゃ、まあ、頂きましょうかな」といって、細いがっしりとしている手を、何度も振って、さも敬意を表するように鮮かに盃を受取り、気持ちよく飲んでまた盃を返す。そして徳利を器用に持上げて酌をしてやる。その挙動の間に、いかにも人なつこく他人の好意に対しては、何倍にかして返さなくては気が済まない性分が現れているので、常連の間で、先生は好い人だということになっていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、こういう湊を見るのは、あまり好かなかった。あの人にしては軽すぎるというような態度だと思った。相手客のほんの気まぐれに振り向けられた親しみに対して、ああまともに親身の情を返すのは、湊の持っているものが減ってしまうように感じた。ふだん陰気なくせに、一たん向けられると、何という浅ましくがつがつ人情に<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>えている様子を現わす年とった男だろうと思う。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は湊が中指に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めている古代<ruby><rb>埃及</rb><rt>エジプト</rt></ruby>の<ruby><rb>甲虫</rb><rt>スカラップ</rt></ruby>のついている銀の指輪さえそういうときは嫌味に見えた。

湊の対応ぶりに有頂天になった相手客が、なお繰り返して湊に盃をさし、湊も釣り込まれて少し笑声さえたて乍らその盃の遣り取りを始め出したと見るときは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>はつかつかと寄って行って

「お酒、あんまり呑んじゃ体にいけないって云ってるくせに、もう、よしなさい」

と湊の手から盃をひったくる。そして湊の代りに相手の客にその盃をつき返して黙って行って仕舞う。それは必しも湊の体をおもう為でなく、妙な嫉妬が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>にそうさせるのであった。

「なかなか世話女房だぞ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも</span>ちゃんは」

相手の客がそういう位でその場はそれなりになる。湊も苦笑しながら相手の客に一礼して自分の席に向き直り、重たい湯呑み茶碗に手をかける。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は湊のことが、だんだん妙な気がかりになり、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、そしらぬ顔をして黙っていることもある。湊がはいって来ると、つんと済して立って行って仕舞うこともある。湊もそういう素振りをされて、却って明るく薄笑いするときもあるが、全然、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の姿の見えぬときは物寂しそうに、いつもより一そう、表通りや裏の谷合の景色を深々と眺める。

ある日、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>をもって、表通りの虫屋へ<ruby><rb>河鹿</rb><rt>かじか</rt></ruby>を買いに行った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>の父親は、こういう飼いものに凝る性分で、飼い方もうまかったが、ときどきは失敗して数を減らした。が今年ももはや初夏の季節で、河鹿など涼しそうに鳴かせる時分だ。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、表通りの目的の店近く来ると、その店から湊が<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>鉢を下げて出て行く姿を見た。湊は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>に気がつかないで硝子鉢をいたわり乍ら、むこう向きにそろそろ歩いていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、店へ入って手ばやく店のものに自分の買うものを注文して、籠にそれを入れて貰う間、店先へ出て、湊の行く手に気をつけていた。

河鹿を籠に入れて貰うと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>はそれを持って、急いで湊に追いついた。

「先生ってば」

「ほう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも</span>ちゃんか、珍らしいな、表で逢うなんて」

二人は、歩きながら、互いの買いものを見せ合った。湊は西洋の観賞魚の<ruby><rb>髑髏魚</rb><rt>ゴーストフィッシュ</rt></ruby>を買っていた。それは骨が寒天のような肉に透き通って、腸が<ruby><rb>鰓</rb><rt>えら</rt></ruby>の下に小さくこみ上っていた。

「先生のおうち、この近所」

「いまは、この先のアパートにいる。だが、いつ越すかわからないよ」

湊は珍らしく表で逢ったから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>にお茶でも御馳走しようといって町筋をすこし物色したが、この辺には思わしい店もなかった。

「まさか、こんなものを下げて銀座へも出かけられんし」

「ううん、銀座なんかへ行かなくっても、どこかその辺の空地で休んで行きましょうよ」

湊は今更のように<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>り亘る新樹の季節を見廻し、ふうっと息を空に吹いて

「それも、いいな」

表通りを曲ると間もなく崖端に病院の焼跡の空地があって、<ruby><rb>煉瓦塀</rb><rt>れんがべい</rt></ruby>の一側がローマの古跡のように見える。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>と湊は持ちものを<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の上に置き、足を投げ出した。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は、湊になにかいろいろ訊いてみたい気持ちがあったのだが、いまこうして傍に並んでみると、そんな必要もなく、ただ、霧のような匂いにつつまれて、しんしんとするだけである。湊の方が却って<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んでいて

「今日は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも</span>ちゃんが、すっかり大人に見えるね」

などと機嫌好さように云う。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は何を云おうかと<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く考えていたが、大したおもいつきでも無いようなことを、とうとう云い出した。

「あなた、お<ruby><rb>鮨</rb><rt>すし</rt></ruby>、本当にお好きなの」

「さあ」

「じゃ何故来て食べるの」

「好きでないことはないさ、けど、さほど喰べたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」

「なぜ」

何故、湊が、さほど鮨を喰べたくない時でも鮨を喰べるというその事だけが湊の慰めとなるかを話し出した。

――<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>くなって<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れるような家には妙な子供が生れるというものか、大きな家の潰れるときというものは、大人より子供にその脅えが予感されるというものか、それが激しく来ると、子は母の胎内にいるときから、そんな脅えに命を蝕まれているのかもしれないね――というような言葉を冒頭に湊は語り出した。

その子供は小さいときから甘いものを好まなかった。おやつにはせいぜい塩<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>ぐらいを望んだ。食べるときは、上歯と下歯を<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>え円い形の煎餅の端を規則正しく噛み取った。ひどく湿っていない煎餅なら大概好い音がした。子供は噛み取った煎餅の破片をじゅうぶんに<ruby><rb>咀嚼</rb><rt>そしゃく</rt></ruby>して<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へきれいに<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み下してから次の端を噛み取ることにかかる。上歯と下歯をまた叮嚀に揃え、その間へまた煎餅の次の端を挟み入れる――いざ、噛み破るときに子供は眼を薄く<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>り耳を澄ます。

ぺちん

同じ、ぺちんという音にも、いろいろの<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>があった。子供は聞き慣れてその音の種類を聞き分けた。

ある一定の調子の響きを聞き当てたとき、子供はぷるぷると<ruby><rb>胴慄</rb><rt>どうぶる</rt></ruby>いした。子供は煎餅を持った手を控えて、しばらく考え込む。うっすら眼に涙を溜めている。

家族は両親と、兄と姉と召使いだけだった。家中で、おかしな子供と云われていた。その子供の喰べものは外にまだ<ruby><rb>偏</rb><rt>かたよ</rt></ruby>っていた。さかなが嫌いだった。あまり数の野菜は好かなかった。肉類は絶対に近づけなかった。

神経質のくせに表面は大ように見せている父親はときどき

「ぼうずはどうして生きているのかい」

と子供の食事を覗きに来た。一つは時勢のためでもあるが、父親は臆病なくせに大ように見せたがる性分から、家の没落をじりじり眺め乍ら「なに、まだ、まだ」とまけおしみを云って潰して行った。子供の小さい膳の上には、いつものように<ruby><rb>炒</rb><rt>い</rt></ruby>り玉子と浅草<ruby><rb>海苔</rb><rt>のり</rt></ruby>が、載っていた。母親は父親が覗くとその膳を袖で隠すようにして

「あんまり、はたから騒ぎ立てないで下さい、これさえ気まり悪がって喰べなくなりますから」

その子供には、実際、食事が苦痛だった。体内へ、色、香、味のある<ruby><rb>塊団</rb><rt>かたまり</rt></ruby>を入れると、何か身が<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>れるような気がした。空気のような喰べものは無いかと思う。腹が減ると<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>えは充分感じるのだが、うっかり喰べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、頬をつけたりした。饑えぬいて、頭の中が澄み切ったまま、だんだん、気が遠くなって行く。それが谷地の池水を距ててＡ―丘の後へ入りかける夕陽を眺めているときででもあると（湊の生れた家もこの辺の地勢に似た都会の一隅にあった。）子どもはこのままのめり倒れて死んでも<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わないとさえ思う。だが、この場合は窪んだ腹に<ruby><rb>緊</rb><rt>きつ</rt></ruby>く締めつけてある帯の間に両手を無理にさし込み、体は前のめりのまま首だけ仰のいて

「お母さあん」

と呼ぶ。子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族じゅうで一番好きである。けれども子供にはまだ他に自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居そうな気がした。自分がいま呼んで、もし「はい」といってその女性が眼の前に出て来たなら自分はびっくりして気絶して仕舞うに違いないとは思う。しかし呼ぶことだけは悲しい楽しさだった。

「お母さあん、お母さあん」

薄紙が風に慄えるような声が続いた。

「はあい」

と返事をして現在の生みの母親が出て来た。

「おや、この子は、こんな処で、どうしたのよ」

肩を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>って顔を覗き込む。子供は感違いした母親に対して何だか恥しく<ruby><rb>赫</rb><rt>あか</rt></ruby>くなった。

「だから、三度々々ちゃんとご飯喰べてお呉れと云うに、さ、ほんとに後生だから」

母親はおろおろの声である。こういう心配の<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、玉子と浅草海苔が、この子の一ばん性に合う喰べものだということが見出されたのだった。これなら子供には腹に重苦しいだけで、穢されざるものに感じた。

子供はまた、ときどき、切ない感情が、体のどこからか判らないで体一ぱいに詰まるのを感じる。そのときは、酸味のある柔いものなら何でも噛んだ。生梅や<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>の実を<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>いで来て噛んだ。さみだれの季節になると子供は都会の中の丘と谷合にそれ等の実の在所をそれらを<ruby><rb>啄</rb><rt>ついば</rt></ruby>みに来る<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>のようによく知っていた。

子供は、小学校はよく出来た。一度読んだり聞いたりしたものは、すぐ判って乾板のように脳の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>に焼きつけた。子供には学課の容易さがつまらなかった。つまらないという冷淡さが、却って学課の出来をよくした。

家の中でも学校でも、みんなはこの子供を別もの扱いにした。

父親と母親とが一室で言い争っていた末、母親は子供のところへ来て、しみじみとした調子でいった。

「ねえ、おまえがあんまり<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて行くもんだから学校の先生と学務委員たちの間で、あれは家庭で衛生の注意が足りないからだという話が持上ったのだよ。それを聞いて来てお父つあんは、ああいう性分だもんだから、私に意地くね悪く当りなさるんだよ」

そこで母親は、畳の上へ手をついて、子供に向ってこっくりと、頭を下げた。

「どうか頼むから、もっと、喰べるものを喰べて、肥ってお呉れ、そうして呉れないと、あたしは、朝晩、いたたまれない気がするから」

子供は自分の<ruby><rb>畸形</rb><rt>きけい</rt></ruby>な性質から、いずれは犯すであろうと予感した罪悪を、犯したような気がした。わるい。母に手をつかせ、お<ruby><rb>叩頭</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をさせてしまったのだ。顔がかっとなって体に慄えが来た。だが不思議にも心は却って安らかだった。すでに、自分は、こんな不孝をして悪人となってしまった。こんな奴なら自分は滅びて仕舞っても自分で惜しいとも思うまい。よし、何でも喰べてみよう、喰べ馴れないものを喰べて体が慄え、吐いたりもどしたり、その上、体じゅうが濁り腐って死んじまっても好いとしよう。生きていてしじゅう喰べものの好き嫌いをし、人をも自分をも悩ませるよりその方がましではあるまいか――

子供は、平気を装って家のものと同じ食事をした。すぐ吐いた。口中や咽喉を極力無感覚に制御したつもりだが<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み下した喰べものが、母親以外の女の手が触れたものと思う途端に、<ruby><rb>胃嚢</rb><rt>いぶくろ</rt></ruby>が不意に逆に絞り上げられた――女中の裾から出る<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げた赤いゆもじや飯炊婆さんの横顔に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぞって</span>ある黒<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>つけの印象が胸の中を暴力のように掻き廻した。

兄と姉はいやな顔をした。父親は、子供を横顔でちらりと見たまま、知らん顔して晩酌の盃を傾けていた。母親は子供の吐きものを始末しながら、恨めしそうに父親の顔を見て

「それご覧なさい。あたしのせいばかりではないでしょう。この子はこういう性分です」

と嘆息した。しかし、父親に対して母親はなお、おずおずはしていた。

その翌日であった。母親は青葉の映りの濃く射す縁側へ新しい<ruby><rb>茣蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>を敷き、<ruby><rb>俎板</rb><rt>まないた</rt></ruby>だの庖丁だの水桶だの蠅帳だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。

母親は自分と俎板を距てた向側に子供を坐らせた。子供の前には膳の上に一つの皿を置いた。

母親は、腕捲りして、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>いろの掌を差出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りながら云った。

「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」

母親は、鉢の中で炊きさました飯に酢を混ぜた。母親も子供もこんこん<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せた。それから母親はその鉢を傍に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴み出して、両手で小さく長方形に握った。

蠅帳の中には、すでに鮨の<ruby><rb>具</rb><rt>ぐ</rt></ruby>が調理されてあった。母親は素早くその中から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひときれ</span>を取出してそれからちょっと押えて、長方形に握った飯の上へ載せた。子供の前の膳の上の皿へ置いた。玉子焼鮨だった。

「ほら、鮨だよ、おすしだよ。手々で、じかに<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで喰べても好いのだよ」

子供は、その通りにした。はだかの肌をするする<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あまみ</span>がほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ喰べて仕舞うと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちに湧いた。

子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。

「そら、もひとつ、いいかね」

母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握り、蠅帳から具の<ruby><rb>一片</rb><rt>ひとき</rt></ruby>れを取りだして押しつけ、子供の皿に置いた。

子供は今度は握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって

「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」

といった。

かくて、子供は、<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>というものを生れて始めて喰べた。<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>のような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。

母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいに<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>められたが、鼻を詰らせて、思い切って口の中へ入れた。

白く透き通る切片は、<ruby><rb>咀嚼</rb><rt>そしゃく</rt></ruby>のために、上品なうま味に<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>きくずされ、程よい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。

「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」

そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。

「ひ　ひ　ひ　ひ　ひ」

<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に<ruby><rb>疳高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。

「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」

子供は<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>って絶叫する。

「すし！　すし」

母親は、嬉しいのをぐっと堪える少し呆けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯忘れ得ない美しい顔をして

「では、お客さまのお好みによりまして、次を差上げまあす」

最初のときのように、薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてから鮨を握り出した。同じような白い身の魚の鮨が握り出された。

母親はまず最初の試みに注意深く色と生臭の無い魚肉を選んだらしい。それは<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>と<ruby><rb>比良目</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>であった。

子供は続けて喰べた。母親が握って皿の上に置くのと、子供が掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れた世界に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き入れた。五つ六つの鮨が握られて、掴み取られて、喰べられる――その運びに面白く調子がついて来た。<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>の母親の握る鮨は、いちいち大きさが違っていて、形も不細工だった。鮨は、皿の上に、ころりと倒れて、載せた<ruby><rb>具</rb><rt>ぐ</rt></ruby>を傍へ落すものもあった。子供は、そういうものへ却って愛感を覚え、自分で形を調えて喰べると余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃、内しょで呼んでいるも一人の幻想のなかの母といま目の前に鮨を握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致しかけ一重の姿に紛れている気がした。もっと、ぴったり、一致して欲しいが、あまり一致したら恐ろしい気もする。

自分が、いつも、誰にも内しょで呼ぶ母はやはり、この母親であったのかしら、それがこんなにも自分においしいものを食べさせて呉れるこの母であったのなら、内密に心を外の母に移していたのが悪かった気がした。

「さあ、さあ、今日は、この位にして置きましょう。よく喰べてお呉れだったね」

目の前の母親は、飯粒のついた薔薇いろの手をぱんぱんと子供の前で気もちよさそうにはたいた。

それから後も五、六度、母親の手製の鮨に子供は慣らされて行った。

ざくろの花のような色の赤貝の身だの、二本の銀色の地色に<ruby><rb>竪縞</rb><rt>たてじま</rt></ruby>のある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さより</span>だのに、子供は<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>むようになった。子供はそれから、だんだん平常の飯の菜にも魚が喰べられるようになった。身体も見違えるほど健康になった。中学へはいる頃は、人が振り返るほど美しく逞しい少年になった。

すると不思議にも、今まで冷淡だった父親が、急に少年に興味を持ち出した。晩酌の膳の前に子供を坐らせて酒の<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>をさしてみたり、玉突きに連れて行ったり、茶屋酒も飲ませた。

その間に家はだんだん潰れて行く。父親は美しい息子が<ruby><rb>紺飛白</rb><rt>こんがすり</rt></ruby>の着物を着て盃を<ruby><rb>銜</rb><rt>ふく</rt></ruby>むのを見て陶然とする。<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の女にちやほやされるのを見て手柄を感ずる。息子は十六七になったときには、結局いい道楽者になっていた。

母親は、育てるのに手数をかけた息子だけに、狂気のようになってその子を父親が台なしにして仕舞ったと怒る。その必死な母親の怒りに対して父親は張合いもなくうす苦く黙笑してばかりいる。家が傾く鬱積を、こういう夫婦争いで両親は晴らしているのだ、と息子はつくづく味気なく感じた。

息子には学校へ行っても、学課が見通せて判り切ってるように思えた。中学でも彼は勉強もしないでよく出来た。高等学校から大学へ苦もなく進めた。それでいて、何かしら体のうちに切ないものがあって、それを晴らす方法は急いで求めてもなかなか見付からないように感ぜられた。永い憂鬱と退屈あそびのなかから大学も出、職も得た。

家は全く潰れ、父母や兄姉も前後して死んだ。息子自身は頭が好くて、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行っても相当に用いられたが、何故か、一家の職にも、栄達にも気が進まなかった。二度目の妻が死んで、五十近くなった時、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>した投機でかなり<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>け、一生独りの生活には事かかない見極めのついたのを機に職業も捨てた。それから後は、<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>のアパート、あちらの貸家と、彼の一所不定の生活が始まった。

今のはなしのうちの子供、それから大きくなって息子と呼んではなしたのは私のことだと湊は長い談話のあとで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>に云った。

「ああ判った。それで先生は鮨がお好きなのね」

「いや、大人になってからは、そんなに好きでもなくなったのだが、近頃、年をとったせいか、しきりに母親のことを想い出すのでね。鮨までなつかしくなるんだよ」

二人の坐っている病院の焼跡のひとところに支えの<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちた藤棚があって、おどろのように<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>が宙から地上に這い下り、それでも蔓の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>の方には若葉を一ぱいつけ、その間から痩せたうす紫の花房が<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>のように咲き垂れている。庭石の根締めになっていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やしお</span>の<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が石を運び去られたあとの穴の側に半面、<ruby><rb>黝</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く枯れて火のあおりのあとを残しながら、半面に白い花をつけている。

庭の端の崖下は電車線路になっていて、ときどき<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>と電車の行き過ぎる音だけが聞える。

<ruby><rb>竜</rb><rt>りゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>のなかの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いちはつ</span>の花の紫が、夕風に揺れ、二人のいる近くに一本立っている太い<ruby><rb>棕梠</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>の木の影が、<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の上にだんだん斜にかかって来た。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>が買って来てそこへ置いた籠の河鹿が二声、三声、<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き初めた。

二人は笑いを含んだ顔を見合せた。

「さあ、だいぶ遅くなった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも</span>ちゃん、帰らなくては悪かろう」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は河鹿の籠を捧げて立ち上った。すると、湊は自分の買った骨の透き通って見える<ruby><rb>髑髏魚</rb><rt>ゴーストフィッシュ</rt></ruby>をも、そのまま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>に与えて立ち去った。

湊はその後、すこしも福ずしに姿を見せなくなった。

「先生は、近頃、さっぱり姿を見せないね」

常連の間に不審がるものもあったが、やがてすっかり忘られてしまった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は湊と別れるとき、湊がどこのアパートにいるか聞きもらしたのが残念だった。それで、こちらから訪ねても行けず病院の焼跡へ暫く<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだり、あたりを見廻し乍ら石に腰かけて湊のことを考え時々は眼にうすく涙さえためてまた茫然として店へ帰って来るのであったが、やがて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>のそうした行為も止んで仕舞った。

<ruby><rb>此頃</rb><rt>このごろ</rt></ruby>では、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ともよ</span>は湊を思い出す度に

「先生は、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ越して、また何処かの鮨屋へ行ってらっしゃるのだろう――鮨屋は何処にでもあるんだもの――」

と漠然と考えるに過ぎなくなった。