Soranoha

半七捕物帳

はんしちとりものちょう

岡本 綺堂

一

半月ばかりの避暑旅行を終って、わたしが東京へ帰って来たのは八月のまだ暑い盛りであった。ちっとばかりの土産物を持って半七老人の家をたずねると、老人は湯から今帰ったところだと云って、縁側の蒲莚がまござのうえに大あぐらで団扇をばさばさ遣つかっていた。狭い庭には夕方の風が涼しく吹き込んで、隣り家の窓にはきりぎりすの声がきこえた。

「虫の中でもきりぎりすが一番江戸らしいもんですね」と、老人は云った。「そりゃあ値段も廉やすいし、虫の仲間では一番下等なものかも知れませんが、松虫や鈴虫より何となく江戸らしい感じのする奴ですよ。往来をあるいていても、どこかの窓や軒できりぎりすの鳴く声をきくと、自然に江戸の夏を思い出しますね。そんなことを云うと、虫屋さんに憎まれるかも知れませんが、松虫や草雲雀くさひばりのたぐいは値が高いばかりで、どうも江戸らしくありませんね。当世の詞ことばでいうと、最も平民的で、それで江戸らしいのは、きりぎりすに限りますよ」

老人はしきりに虫の講釈をはじめて、今日こんにちでは殆ど子供の玩具おもちゃにしかならないような一匹三銭ぐらいの蟋蟀きりぎりすを大いに讃美していた。そうして、あなたも虫を飼うならきりぎりすを飼ってくださいと云った。虫の話がすんで風鈴の話が出た。それから今夜は新暦の八月十五夜だという話が出た。

「暦が違いますから八月でもこの通り暑うござんすよ。これが旧暦だと朝晩はぐっと冷えて来るんですがね」

老人は又むかしのお月見のはなしを始めた。そのうちにこんな話が出て、わたしの手帳に一項の記事をふやした。

文久二年八月十四日の夕方であった。半七がいつもより早く家うちへ帰って、これから夕飯をすませて、近所の無尽むじんへちょいと顔出しをしようと思っていると、小さい丸髷に結った四十ばかりの女が苦労ありそうな顔を見せた。

「親分。どうも御無沙汰をいたして居りました。いつも御機嫌よろしゅう、結構でございます」

「おお、お亀さんか。久しく見えなかったね。お蝶坊も好い新造しんぞになったろう。あの子もおとなしく稼ぐようだから阿母おっかあもまあ、安心だ」

「いえ、実はそのお蝶のことに就きまして、今晩お邪魔にあがりましたのでございますが、どうもわたくし共にも思案に余りましてね」

四十女のひたいの皺をみて、半七は大抵想像がついた。お亀は今年十七になるお蝶という娘を相手に、永代橋の際きわに茶店を出している。お蝶は上品な美しい娘で、すこし寡言むくちでおとなし過ぎるのを疵にして、若い客をひき寄せるには十分の価あたいをもっていた。お亀もこの美しい娘を生んだことを誇りとしていた。その娘について何か苦労が出来たといえば、半七でなくても大抵の見当は付く。親孝行のお蝶が親よりも更に大事な人を見付けだしたという紛糾いざこざに相違ない。稼業が稼業だけに、それをやかましく云うのも野暮やぼだと半七は思った。

「じゃあ、なんだね。お蝶坊が何かこしらえて、阿母に世話を焼かせるというわけだね。まあ、ちっとぐらいのことは大目おおめに見てやる方がいいぜ。若い者のこった、ちっとは面白いこともなけりゃあ稼ぐ張り合いがねえというもんだ。阿母だって覚えがあるだろう。あんまりやかましく云わねえがよかろうぜ」と、半七は笑っていた。

お亀は莞爾にこりともしないで、相手の顔をじっと見つめていた。

「いいえ、おまえさん。なかなかそんな訳じゃございませんので……。なに、情夫おとこでもこしらえたとかいうような浮いたお話なら、おっしゃる通り、わたくしも大抵のことは大目に見て居りますけれども、どうもそれがまことに困りますので……。当人もふるえて泣いて居りますような訳で……」

「おかしな話だな。一体そりゃあどうしたというんだね」

「娘がときどき影を隠しますので……」

半七はやはり笑って聴いていた。若い茶屋娘が時々に影をかくす――そんなことは殆ど問題にならないというような顔をしているので、お亀もすこし急せき込んだ。

「いいえ、それが情夫や何かのこととはまるで訳が違いますので……。まあお聴きくださいまし。丁度この五月の川開きの少し前でございました。一人のお供を連れた立派なお武家がわたくしの店のまえを通りかかりまして、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。それからお茶を飲んでしばらく休んで、お茶代を一朱置いて行きました。まことに好いお客様でございます。それから三日ほど経つと、そのお武家がまたお出でになりましたが、今度は三十五六ぐらいの品の好い御殿風の女の方かたと一緒でございました。どうも御夫婦ではないようでした。そうして、その女の方がお蝶の名を訊いたり、年をきいたりして、やっぱり一朱のお茶代を置いて行きました。それから又三日ばかり経ちますと、お蝶の姿が見えなくなったんでございます」

「むむ」と、半七はうなずいた。

かれらは一種のかどわかしで、身分のありそうな武士や女に化けて来て、容貌きりょうのいい娘をさらって行ったに相違ない、と半七は鑑定した。

「娘はそれぎり帰らねえのかえ」

「いいえ。それから十日とおかほど経つと、夕方のうす暗い時分に真っ蒼な顔をして帰って来ました。わたくしもまあほっとして其の仔細を訊きますと、娘が最初に姿を隠しましたのも、やっぱり夕方のうす暗い時分で、わたくしが後に残って店を片付けておりまして、娘は一と足先へ帰りますと、浜町河岸はまちょうがしの石置き場のかげから、二、三人の男が出て来まして、いきなりお蝶をつかまえて、猿轡さるぐつわをはめて、両手をしばって、眼隠しをして、そこにあった乗物のなかへ無理に押し込んで、どこへか担いで行ってしまったんだそうでございます。娘も夢中で揺られて行きますと、それから何処をどう行ったのか判りませんが、なんでも大きな御屋敷のようなところへ連れ込まれたんだそうで……。それも遠いか近いか、ちっとも覚えていなかったそうでございます」

お蝶はそれから奥まった座敷へつれて行かれた。三、四人の女が出て来て、かれの眼隠しや猿轡をはずして、両手の縛いましめをも解いてくれた。やがてこの間の女が出て来て、さぞびっくりしたろうが、決して案じることもない、怖がることもない、唯おとなしくして、わたし達の云う通りになっていれば好いと、優しくいたわってくれた。年の若いお蝶はただおびえているばかりで捗々はかばかしい返事もできないのを、女はなおいろいろ慰めて、まずしばらく休息するがいいと云って、茶や菓子を持って来てくれた。それから風呂へはいれと云って、ほかの女たちに案内させた。お蝶はやはり夢中で湯殿へ行った。

風呂が済むと、また別の広い座敷へ案内された。そこには厚い美しい座蒲団が敷いてあった。床の間の花瓶には撫子なでしこがしおらしく生けてあって、壁には一面の琴が立ててあったが、もう眼が眩くらんでいるお蝶には何がなにやら能よくもわからなかった。

この間の女が再び出て来て、お蝶に髪をあげろと云った。ほかの女たちが寄って彼女の髪をゆい直すと、今度は着物を着かえろと云った。女たちがまた手伝って、衣桁いこうにかけてある艶あでやかなお振袖を取って、お蝶のすくんでいる肩に着せかけた。錦のように厚い帯をしめさせた。まるで生まれ変ったような姿になって、お蝶は自分のからだの始末に困って唯うっとりと突っ立っていると、女たちは彼女の手をひいて座蒲団のうえに押し据えた。それから経脚のようになっている小さい机を持ち出して来て彼女のまえに置いた。机のうえには二、三冊の立派な本がのせてあった。女たちは更に香炉を持って来て机のそばへ置くと、うす紫の煙がゆらゆらと軽く流れて、身にしみるような匂いにお蝶はいよいよ酔わされた。秋草を画いた絹行燈がおぼろにとぼされて、その夢のような灯の下に彼女も夢のような心持でかしこまっていた。

女たちは一冊の本を机の上にひろげて、お蝶にすこし俯向いて読んでいろと云った。魂はもう半分ぬけているようなお蝶は、なにを云われても逆らう気力はなかった。かれは人形芝居の人形のように、他人の意志のままに動いているよりほかはなかった。彼女はおとなしく本に向っていると、さぞ暑かろうと云って、一人の女が絹団扇で傍から柔かにあおいでくれた。

「口を利いてはなりませんぞ」と、このあいだの女がそっと注意した。お蝶はただ窮屈そうに坐っていた。

やがて縁伝いに軽い足音が静かにきこえて、三、四人の人がここへ忍んで来るらしかったが、顔をあげてはならないと、この間の女がまた注意した。そのうちに縁側の障子が音も無しに少しあいたらしく思われた。

「見てはなりませぬぞ」と、女はおどすように小声でまた云った。

どんな恐ろしいものが窺っているのかと、お蝶はいよいよ身をすくめて、ただ一心に机を見つめていると、障子は再び音も無しにしまって、縁側の足音はしだいに遠くなってゆくらしかった。お蝶はほっとすると、腋の下から冷たい汗が雨のように流れ落ちた。

「御苦労でありました」と、女はいたわるように云った。「もう当分は打ちくつろいでいてもよかろう」

今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ空腹ひもじかったであろうと女たちが丁寧に給仕して、お蝶は蒔絵の美しい膳のまえに坐らせられたが、かれは胸が一ぱいに詰まっているようで、なんにも咽喉のどへ通りそうもなかった。かずかず列べられた見事な御料理にも彼女は碌々箸をつけなかった。ともかくも食事が済むと、また少し休息するがよかろうと云って、このあいだの女はしずかにその席を起った。ほかの女たちも膳を引いてどこへか消えてしまった。

たった一人そこに取り残されて、はじめて幾らかの人心地のついたお蝶は、どう考えても夢のようで何がなにやら見当が付かなかった。もしや狐に化かされているのではないかとも思った。一体ここの人達は、どういう料簡で自分をここへ連れて来て、美しい着物をきせて、旨いものを食わせて、こんな立派な座敷に住まわせて、みんなが大切そうに侍かしずいてくれるのであろう。芝居や浄瑠璃にあるように、わたしを誰かの身代りにして首でも打って渡すのではあるまいか、とお蝶はまた疑った。

なにしろ、こんな薄気味の悪いところは一刻いっときも早く逃げ出したいと思ったが、どこからどう抜け出していいか、彼女にはとても方角が立たなかった。

「庭へ出たらどこか逃げ路が見付かるかも知れない」

お蝶は一生の勇気をふるい起して、息を殺しながらそろりそろりと滑すべっこい畳の上を忍んであるいた。ふるえる手先が障子にかかると、出会いがしらに一人の女がはいって来た。お蝶ははっと立ちすくむと、便所はばかりならば御案内すると云って彼女が先に立って行った。縁側へ出ると広い庭が見えた。月のない夜で、真っ暗な木立のあいだに螢のかげが二つ三つ流れていた。遠いところで梟ふくろうの声もさびしく聞えた。

もとの座敷へ帰ってくると、いつの間にか其処には寝床が延べられて、雁金かりがねを繍ぬった真っ白な蚊帳かやが涼しそうに吊ってあった。このあいだの女がまた何処からか現われた。

「もうお休みなさるがよい。ことわって置きますが、たとい夜なかにどんなことがあっても、かならず顔をあげてはなりませぬぞ」

手を取るようにして蚊帳のなかへ押し込まれて、お蝶は雪のように白い衾よぎにつつまれた。どこかで四ツ(午後十時)の鐘がひびいた。幽霊のような女たちは足音もせずに再びそっと消えてしまった。

その晩がおそろしかった。

二

神経のふるえているお蝶はとても安々と寝つかれる筈はなかった。生まれてから一度も寝たことのない衾や蒲団の柔か味が、却ってかれに異様の肌障りをあたえて、ふわふわと宙に浮いているような一種の不安を感じさせた。おまけに其の晩は蒸し暑かったので、かれの額や首筋には粘ねばるような気味の悪い汗がにじみ出した。お蝶は長い紅い総ふさのついている枕のうえに、幾たびか重い頭の置きどこを取り替えてみた。

そのあいだに何刻なんどきほど経ったか。かれは固もとより記憶していなかったが、唯さえ静かな家中がしんとして、夜ももう余ほど更けているらしいと思う頃に、次の間の畳を滑るような足音が微かに響いた。お蝶は惣身そうみの血が一度に凍るように感じられて、あわてて衾を深くかぶって枕の上に俯伏してしまうと、墨塗りの縁ふちをつけた大きい襖がさらりとあいたらしく思われて、着物の裾を永く曳いているような響きが枕に薄く伝わった。お蝶は息をのみ込んでいた。

はいって来たものは薄暗い行燈の傍わきにすうと立って、白い蚊帳越しにお蝶の寝顔を覗いているらしかった。生き血を吸いに来たのか、骨をしゃぶりに来たのかと、お蝶はもう半分死んだもののようになって、一心に衾の袖にしがみ付いていると、やがてその衣摺きぬずれの音は次の間へ消えて行ったらしかった。怖い夢から醒めたように、お蝶は寝衣ねまきの袂で額の汗をふきながらそっと眼をあいて窺うと、襖は元のように閉まっていて、蚊帳のそとには蚊の鳴き声さえも聞えなかった。

明け方になって陽気がすこし涼しくなると、宵からの気疲れでお蝶はさすがにうとうとと眠った。眼がさめると枕もとにはゆうべの女たちが行儀よく控えていて、さらにお蝶に着物を着替えさせてくれた。蒔絵の手水盥ちょうずだらいを持って来て顔を洗わせてくれた。あさ飯が済むと、このあいだの女がまた出て来た。

「さぞ窮屈でもあろうが、もう少しの辛抱でござりますぞ。退屈であろう、ちっとお庭でも歩いてみませぬか。わたし達が案内します」

女たちに左右を取りまかれて、お蝶は庭下駄をはいて広い庭に降りた。植込みの間をくぐってゆくと、そこには物凄いような大きい池が青い水草を一面にうかべて、みぎわには青い芒すすきや葦が伸びていた。この古池の底には大きい鯰なまずの主ぬしが住んでいると、一人の女が教えてくれたのでお蝶はぞっとした。

「しッ」と、例の女が急に注意をあたえた。「池の方を見ておいでなさい。傍視わきみをしてはなりませぬぞ」

何者かが何処かで自分を窺っているのだと気がついて、お蝶も急に身を固くした。主のひそんでいるという恐ろしい池を覗いたままで、彼女はしばらく突っ立っていると、やがてその警戒も解けたらしく、女たちはまた打ちくつろいでしずかにあるき出した。

もとの座敷へ戻ると、お蝶はまた一刻いっときばかりの休息をあたえられた。女たちは草双紙などを持って来て貸してくれた。午飯がすむと、一人の女が来て琴をひいた。六月はじめの暑い日に、決して縁側の障子をあけることは許されなかった。襖も無論に閉め切ってあった。お蝶は体ていの好い座敷牢のようなありさまで長い日を暮した。夕方になると、ゆうべの通りに湯殿へ案内されて、帰ってくると今夜は別の着物に着かえさせられた。あかりがつくと、机の前にまた坐らせられた。今夜は誰も忍んで来て窺っているらしい様子は見えなかったが、それでもお蝶はまだまだ油断ができなかった。

「今夜もまた何か来るかしら」

おびえた魂をかかえて、彼女は今夜も四ツ頃から蚊帳にはいると、その晩は宵から細かい雨がしとしとと降り出して池の蛙がしきりに鳴いていた。お蝶はやはり眠られなかった。夜もだんだんに更ふけて来たと思われる頃になると、自然か、人の仕業しわざか、枕もとの行燈がしだいにうす暗くなって来たので、お蝶は眼をかすかに明いてそっと窺うと、白い襖から抜け出して来たような一種の白い影が、白い蚊帳のそとをまぼろしのように立ち迷っていた。

「あ、幽霊……」と、お蝶は慌てて衾をかぶってしまった。そうして、ふだんから信仰する観音様や水天宮様を口のうちで一心に念じていた。小半刻も経ってから彼女は怖々のぞいて見ると、白いまぼろしはいつか消えていて、どこかで一番鶏の鳴く声がきこえた。

夜があけると、すべてきのうの通りに、顔を洗って、髪をあげて、化粧をして、あさ飯が済むと庭へ連れ出された。夜になると、机のまえに坐らせられて、蚊帳にはいると、今夜も幽霊のようなものが枕もとへ迷って来た。そうした窮屈と恐怖とに夜も昼も責められて、それが七日八日とつづくうちにお蝶は自分が幽霊のように痩せ衰えて来た。

「こんな苦しみをするくらいならば、いっそ死んだほうがましだ」

彼女はしまいにはこう覚悟して、このあいだの女にむかって是非一度は家へ帰してくれと泣いて頼んだ。女もひどく困ったらしい顔をしていたが、悪くすると古池へ身でも投げそうなお蝶の決心に動かされたらしく、十日目の夕方には、とうとう一旦は帰れという許可をあたえた。

「併しこの事は決して他言はなりませぬぞ。またそのうちに迎いに行くかも知れませぬが、その時はどうぞ来てくれるように……。今から頼んで置きますぞ」

さもなければ帰すことはならないと云うので、お蝶もよんどころ無しに承知して、きっとまたまいりますと心にもない誓いを立てた。女はいろいろ心配をかけて気の毒であったと云って、奉書の紙につつんだ目録をくれた。日が暮れてあたりが薄暗くなった頃に、お蝶は目隠しをさせられた。口には猿轡を食はまされた。来た時とおなじような乗物に乗せられた。人通りの少ないところを選んで浜町河岸まで揺られてくると、石置き場のまえで彼女を乗物からおろして、空からの乗物をかついだ男達は逃げるように何処へか立ち去った。

お蝶は狐が落ちた人のようにぼんやりと突っ立っていたが、急にまた何だか怖くなって一散にかけ出して、家へ駈け込んで母の顔を見るまでは、彼女もまだ半分は夢のような心持であった。狐に化かされたのだろうとお亀は云ったが、ふところに入れて来た目録は木の葉ではなかった。迷子札まいごふだのような新しい小判がまさに十枚はいっていた。

「まあ、十両あるよ」と、お亀は眼をまるくして驚いた。いくら正直でも慾のない人間はすくない。この頃の相場では、妾奉公をしても月一両の給金はむずかしいのに、別になにをするでも無しに、美しい着物を着せられて、旨いものを食わされて、一日一両の手間賃になる。こんなありがたい商売はないとお亀は喜んでいたが、お蝶は身ぶるいして忌いやがった。一両はさておいて、一日十両の給金を貰ってもあんな怖いところへ二度とゆくことはまっぴらだと、かれはその後半月ばかりは病人のような蒼い顔をして暮していた。小判の顔をみてお亀も一旦は喜んだものの、よくよく考えてみると彼女もなんだか不安になって来た。お蝶が忌がるのも無理はないと思われた。

「十両の金があれば店は閑ひまでも困らない。おまえはまあ当分は家に隠れていて、店へ顔を出さない方がよかろうよ」

いつまた連れに来るかも知れないという懸念があったので、お亀は娘を店へ出さないことにした。すると、その月の末の夕方に、お亀が店をしまってくると、留守番をしている筈のお蝶が姿をかくしていた。近所で訊いても誰も知らないと云った。かならずこの間のところに連れて行かれたことと察したが、そのゆく先はもとより判らなかった。お亀は思案ながらに其の日その日を送っていると、今度も十日目にお蝶はぼんやり帰って来た。ふところにはやはり十両の目録包みを持っていて、すべてがこの間の話をくり返すに過ぎなかった。

「なるほど、好い商法のようだが、こいつはちっと変だね。お蝶坊が忌がるのも無理はねえ」と、この不思議な話を聞いて半七はひたいに小皺をよせた。

「すると、先月の末から娘がまた見えなくなったんでございます。いつもわたくしの留守を狙って来て、否応なしに担いで行ってしまうんだそうで……。外へ出れば乗物が待っていて、眼かくしをして乗せて行くんですから、どこへ連れて行かれるのか見当が付きません」

「そこで今度も無事に帰って来たのかい」

「いいえ。それが帰って来ませんの」と、お亀は顔を陰らせた。「今度はもう十日の余になりますけれども、何のたよりもございませんので、わたくしもいろいろ心配しておりますと、けさ早くに一人の女がわたくしの家へ見えまして……。それはこの間の御殿風の女でございます。仔細あって娘を当分は音信不通の約束でこちらへ貰いたいと、こう云うんです。勿論、その代りに二百両の金を渡すというんですが、わたくしもまことに困りましてね。何んぼわたくしだって、可愛い娘を金で売るわけにはまいりません。まして娘があれほど忌がっているものを、あんまり可哀そうでもございますから、一旦は断わりましたんですけれど、相手の方はなかなか承知しないんでございます。無理でもあろうが肯きいてくれと、立派なお女中が手をついて頼むんでしょう。わたくしも実に当惑してしまいまして、なにしろすぐに御返事はできないから、まあ一日二日考えさせてくれと申して、ようようその人を帰したんでございますが……。ねえ、親分さん。こりゃあまあ、一体どうしたもんでございましょう」

お亀は声をふるわせて、いかにも途方に暮れているらしかった。

三

「そりゃあ心配だろうね。今の話の様子じゃあ相手はいずれ大きい御旗本か御大名だろうが、なぜそんなことをするんだろう。茶店の娘だって容貌きりょうのぞみで大名の御部屋様にもなれねえとも限らねえが、それなら又そのように打ち明けて召し抱えの相談もありそうなもんだが、少し理窟が呑み込めねえな」と、半七はしばらく考えていた。「それになにしろ肝腎の玉が向うに引き揚げられているんじゃあ、どうにもならねえ。おまけにその屋敷もどこだか判らねえじゃ手の着けようがねえ。困ったもんだ」

半七に腕を組まれて、お亀はいよいよ頼りのないような顔をしていた。

「娘がこれぎり帰って来ませんようだったら、どうしましょう」と、彼女は二、三度も水をくぐったらしい銚子縮ちぢみの袖で眼を拭いていた。

「だが、その御守殿風の女とかいうのが、いずれ一日二日のうちにまた出直して来るだろうから、ともかくも俺が行って、それとなく様子を見てあげよう。その上で又なんとか好い知恵も出ようじゃねえか」と、半七は慰めるように云った。

「親分がいらしって下されば、わたくしもどんなに気丈夫だか判りません。では、まことに勝手がましゅうございますが、あしたにもちょいとお出でを願いとうございます」

お亀はしきりに念を押して頼んで帰った。あくる日は十五夜で、晴れた空には秋風が高く吹いていた。朝早くから薄すすきを売る声がきこえた。半七は午前ひるまえにほかの用を片付けて、八ツ(午後二時)頃からお亀の家をたずねた。お亀の家は浜町河岸に近い路地の奥で、入口の八百屋にも薄や枝豆がたくさん積んであった。近所の大きい屋敷のなかでは秋の蝉が鳴いていた。

「おや、親分さん。どうも恐れ入りました」と、お亀は待ち兼ねたように半七を迎えた。「早速でございますが、娘がゆうべ戻ってまいりましてね」

ゆうべお亀が半七をたずねている留守に、お蝶はいつもの通りの乗物にのせられて、河岸の石置き場まで送りかえされていた。詳しいことは阿母おっかさんに話してあるから、おまえも家へ一度帰ってよく相談をして来いと、お蝶はかの女から云い聞かされて来たのであった。

こういう場合に本人を素直に帰してよこすというのは、いかにも物の判った仕方で、先方に悪意のないことは能く判っていた。気疲れで奥の三畳にうとうと眠っているお蝶を呼び起させて、半七は彼女から更に詳しい話を聴きとったが、やはり確かな見当は付かなかった。お蝶の話によって考えると、その屋敷はどうも然るべき大名の下屋敷であるらしく思われたが、その場所も方角も知れないので、それがどこの屋敷だか見当が付かなかった。

「今に誰か来るかも知れないから、まあ、待っていて見ようよ」と、半七も腰をおちつけて、そこに居坐っていることにした。

この頃の日晷ひあしはよほど詰まって、ゆう六ツの鐘を聴かないうちに、狭い家の隅々はもう薄暗くなった。お亀は神酒みき徳利や団子や薄すすきなどを縁側に持ち出してくると、その薄の葉をわたる夕風が身にしみて、帷子かたびら一枚の半七は薄ら寒くなってきた。殊にもう夕飯の時分になったので、半七はお亀にたのんで近所から鰻を取って貰った。自分一人で食うわけにも行かないので、お亀とお蝶の母子おやこにも食わせた。

飯を食ってしまって、半七は楊枝ようじをつかいながら縁先に出ると、狭い路地のかさなり合った庇ひさしのあいだから、海のような碧い大空が不規則に劃しきられて見えた。月はその空の上にかかっていなかったが、東の方の雲の裾がうす黄色くかがやいているので、今夜の明月が思いやられた。露はいつの間にか降りているらしく、この頃ではもう邪魔物のように庭さきにほうり出されている二鉢の朝顔の枯れた葉が、薄白くきらきらと光っていた。

「みんなも出て拝みなせえ。もうじきお月様があがるぜ」と、半七は声をかけた。

この途端に溝板を踏む足音がきこえて、一人の男がここの格子のまえに立った。お亀がすぐに出てみると、それは見識らない武士さむらい姿であったが、かれはお蝶母子が家にいることを確かめて、唯今お女中が逢いに来られると伝えて行った。

「まあ、おれはいない積りにして置いてくんねえ」と、半七はあわてて草履をつかんで、お蝶と共に奥の三畳にかくれた。そうして襖の隙き間からそっと窺っていると、やがてはいってきたのは三十歳前後のやはり奥勤めらしい女であった。

「初めてお目にかかります」と、女はお亀にむかって丁寧に挨拶した。お亀もおどおどしながら相当の挨拶をしていた。

「早速でございますが、こちらの娘のお蝶どのの身の上について、昨日さくじつもほかの御女中がまいって詳しいお話をいたしました筈。親御も御得心ならば、今夜からすぐにお越し下さるように、わたくしがお迎いにまいりました」

女は切り口上で云った。お亀はすこしその威に打たれたらしく、唯もじもじしていて、はっきりした挨拶もできなかった。

「今さら御不承知と申されては、わたくしどもの役目が立ちませぬ。まげて御承知くださるように重ねておねがい申します」

「娘はゆうべ帰りまして、それからなんだか気分が悪いとか申して、きょうも一日臥ふせって居りますので、まだ碌々に相談いたす暇もございませんで……」

お亀は一寸遁のがれの口上で、なんとか此の場を切り抜けるつもりらしかったが、相手はなかなか承知しなかった。女は嵩かさにかかって又云った。

「いえ、それはなりませぬ。篤とくと御相談くださるように、昨夜わざわざ戻してあげましたに、いま以て何の御相談もないというは、こちらの志を無にしたような致され方、それではわたくしもおめおめ引き取るわけにはまいりませぬ。娘御をここへ呼び出して、わたくしと三みつ鼎がなえであらためて御相談いたしましょう。お蝶どのをすぐこれへ」

凛とした声できめ付けられて、お亀はいよいようろたえていると、女は袱紗ふくさにつつんで来た小判のつつみを出して、うす暗い行燈の前へ二つならべた。

「御約束の御手当ては二百両、封のままで唯今お渡し申します。さあ、どうぞ娘御をこれへ」

「は、はい」

「あくまでも御不承知か。お役目首尾よく相勤めませねば、わたくし此の場で自害でもいたさねば相成りませぬ」

彼女は更に帯のあいだから袋に入れた懐剣のようなものを把とり出して見せた。その鋭い瞳ひとみのひかりに射られて、お亀は蒼くなってふるえ出した。掛け合いはもう手詰めになって来た。

「あの女はおまえ識っているか」と、半七は小声でお蝶にきくと、お蝶は無言で首を振った。半七はすこし考えていたが、やがて三畳から台所へ這い出して、水口みずぐちからそっと表へぬけた。

路地のそとは月が明るかった。角から四、五軒さきの質屋の土蔵のまえには、一挺の駕籠が下ろされて、そこには二人の駕籠舁かごかきと先刻の武士らしい男が立っていた。半七はそれを見とどけて、今度は表の格子からはいって来た。そうして、黙って女のまえに坐った。女は受けあごの細おもてに薄化粧をして、眼の涼しい、鼻のたかい、見るからに男まさりとでもいいそうな女振りで、髪は御殿風の片はずしに結っていた。

「御免くださいまし」

半七は何げなく挨拶すると、女は黙って鷹揚に会釈えしゃくした。

「わたくしはこのお亀の親戚みよりの者でございますが、うけたまわりますれば、こちらの娘を御所望とか申すことで。なにぶんにも婿取りの一人娘ではございますが、それほど御所望と仰しゃるからは、御奉公に差し上げまいものでもございません」

お亀はびっくりして半七の顔を見ると、彼はつづけてこう云った。

「勿論、あなたの方にもいろいろの御都合もございましょうが、いくら音信不通のお約束でも、せめて御奉公の御屋敷様の御名前だけでも伺って置きたいと存じますのが、こりゃあ親の人情でございます。どうぞそれだけをお明かし下さいましたら……」

「折角でありますが、御屋敷の名はここでは申されません。ただ中国筋のある御大名と申すだけのことで……」

「あなた様のお勤めは……」

「表使を勤めて居ります」

「左様でございますか」と、半七は微笑ほほえんだ。「では、まことに申しにくうございますが、この御相談はお断わり申しとう存じます」

女の眼はじろりと光った。

「なぜ御不承知と云われます」

「失礼ながら御屋敷の御家風が少し気に入りませんから」

「異なことを……。御屋敷の御家風をどうしてお前は御存じか」と、女は膝をたて直した。

「奥勤めの御女中の右の小指に撥胝ばちだこがあるようでは、御奥も定めて紊みだれて居りましょうと存じまして」

女の顔色は急に変った。

「御免くださりませ。たのみます」

格子の外で案内あないを頼む女の声がきこえた。

四

「お出で遊ばしませ。まあ、どうぞこちらへ」

入口へ出たお亀がうろうろしながら、新しい女客を奥へ招じ入れようとすると、案内を頼んだ女は少しためらっているらしかった。

「どうやら御来客の御様子でござりますな」

「はい」

「では、重ねてまいりましょう」

引っ返そうとするらしい女を、半七は内から呼びかえした。

「あの、恐れ入りますが、しばらくお控えくださいまし。ここにあなたの偽物がまいって居りますから、どうか御立ち会いの上で御吟味をねがいとう存じますが……」

はじめの女はいよいよ顔色を変えたが、彼女はもう度胸を据えたらしく、急ににやにや笑い出した。

「親分。お見それ申して相済みません。さっきからどうも唯の人でないらしいと思っていましたが、おまえさんは三河町の親分さんでございましたね。もういけません。頭巾をぬぎましょうよ」

「そんなことだろうと思った」と、半七も笑った。「実は表へまわって見ると、御大名の御屋敷のお迎いが辻駕籠もめずらしい。奥女中の指には撥胝がある。どうもこれじゃあ芝居にならねえ。おめえは一体どこから化けて来たんだ。偽迎いも偽上使もいいが、役者の好い割にゃあ舞台がちっとも栄はえねえじゃあねえか」

「どうも恐れ入りました」と、女は頭をすこし下げた。「この芝居はちっとむずかしかろうと思ったんですが、まあ度胸でやってみろという気になって、どうにかこうにか段取りだけは付けて見たんですが、親分に逢っちゃ敵かないませんよ。こうなりゃあみんな白状してしまいますがね。わたくしは深川で生まれまして、おふくろは長唄の師匠をしていましたんです」

彼女の名はお俊といった。母は自分のあとを嗣つがせるつもりで、子供のときから一生懸命に長唄を仕込んだが、お俊は肩揚げの下りないうちから男狂いをはじめて、母をさんざん泣かせた挙句に、深川の実家を飛び出して、上州から信州越後を旅芸者でながれ渡って、二、三年前に久し振りで江戸に帰ってくると、深川の母はもう死んでいた。それでも近所には昔の知人が残っているので、彼女はここで長唄の師匠をはじめて、少しは弟子もあつまるようになったが、道楽の強い彼女はとてもおとなしくしていられなかった。詰まらない男に引っかかって、金が欲しさに女囮つつもたせもやった。湯屋の板の間もかせいだ。そのうちにお俊はこの近所の魚屋さかなやからふとお蝶の噂を聞き込んだ。

魚屋はお俊が懇意の家で、そこの娘はお亀とも心安くしているので、お蝶がときどきに怪しい使いに誘拐されてゆくという噂が自然にお俊の耳に伝わった。お蝶の容貌きりょう好しをかねて知っている彼女は、この怪しい使いを利用して、娘を更に自分の手へ誘拐しようという悪い料簡を起した。ふだんから自分の手先につかっている安蔵という奴に云いふくめて、二、三日まえからお亀の家の近所をうろついて、内の様子を窺わせているうちに、その屋敷からお蝶を一生奉公にかかえたいという掛け合いに来たことも判った。お蝶がゆうべ戻って来たことも判った。彼女は安蔵を供の武士に仕立てて、自分は奥女中に化けてお蝶を受け取りに来たのであった。彼女がお蝶の前にならべた二百両は無論に銅脈の偽物であった。

「なにしろ急仕事の偽迎いだもんですからね。ぐすぐずしていると、ほんものの方が乗り込んで来るかも知れないというので、無暗に支度を急いだもんですから、乗物までは手がまわらないで、飛んだ唯今のお笑い草となってしまいましたよ」と、お俊はさすがに悪党だけに何もかも思い切りよくしゃべってしまった。

「それでみんな判った」と、半七はうなずいた。「お前もこんなことで食らい込んじゃあ嬉しくあるめえが、半七が見た以上は、まさかに御機嫌よろしゅう、はい左様ならと云うわけには行かねえ。気の毒だが一緒にそこまで来て貰おうぜ」

「どうも仕方がありませんよ。まあ、いたわっておくんなさいまし」

併しこんな姿で引っ張って行かれるのは、乞食芝居のようで困るから、どうぞ家から浴衣ゆかたを取り寄せてくれとお俊は云った。半七も承知したが、ここではどうにもならないから、ともかくも番屋まで来いと云って、お俊を引っ立てて出ようとするところへ、さっきから入口に立っていた女がはいって来た。

「これが表沙汰になりましては、御屋敷の名前にもかかわります。幸いに事を仕損じて誰に迷惑がかかったというでもなし、この女の罪はわたくしに免じてどうか御勘弁を願わしゅう存じます」

女がしきりに頼むので、半七は無下むげに跳ねけ付けることも出来なくなった。彼は女の苦しそうな事情を察して、とうとうお俊を赦してやることになった。

「親分さん。どうも有難うございました。いずれお礼にうかがいます」

「礼なんぞに来なくても好いから、この後あんまり手数を掛けねえようにしてくれ」

「はい、はい」

お俊は器量を悪くしてすごすご帰って行った。これで偽物の正体はあらわれたが、ほんものの正体はやはり判らなかった。併しもうこういう破目はめになっては、なまじいに包み隠しても仕方があるまい、いよいよ相手の疑いを増すばかりで、まとまるべき相談も却って纏まとまらないかも知れないと覚ったらしく、女はお亀と半七にむかって自分の秘密を正直に打ち明けた。

彼女はお俊のような偽物でなく、たしかに或る大名の江戸屋敷につとめている奥女中であった。主人の殿様は江戸から北の方にある領地へ帰っているが、奥方は無論に江戸屋敷に残されていた。奥方には最愛の姫様ひいさまがあって、容貌きりょうも気質もすぐれて美しいお方であったが、その美しい姫様は明けて十七という今年の春、疱瘡ほうそう神に呪われて菩提所の石の下へ送られてしまった。あまりの嘆きに取りつめて母の奥方は物狂おしくなった。祈祷や療治も効がなかった。明けても暮れても姫の名を呼んで、どうぞ一度逢わせてくれと泣き狂うので、屋敷中の者も持て余した。その痛ましさと浅ましさを見るに堪えかねて、用人と老女が相談の末に、姫様によく肖にた娘をどこからか借りて来て、姫様に仕立ててお目にかけたらば、奥方のお気も少しは鎮まろうかということになった。併しそんなことが世間に洩れては御屋敷の恥じである。あくまで秘密にこの役目を仕遂げなければならぬというので、二、三人の人が手わけをして心当りを探してあるいた。

その頃の人は気が長い。そうして、根こんよく探しているうちに、用人の一人が永代橋の茶店で図らずもお蝶を見つけ出した。年頃も顔かたちも丁度註文通りに見えたので、かれは更に奥女中の雪野というのを連れて来て眼利きをさせた。誰の眼もかわらないで、幸か不幸かお蝶は合格した。

いよいよその本人が見付かると、それをどうして連れてくるかということについて、屋敷内では議論が二つに分かれた。ひとの娘を無得心に連れて来るというのは拐引かどわかし同様の仕方であるから、内密にその仔細を明かしておとなしく連れてくるがよかろうと云う温和な意見もあった。しかし一方には又これに反対して、なにを云うにも相手は茶店の女どもである。いくら口止めをして置いても、果たして秘密を守るかどうか頗る不安心である。また後日ごにちにねだりがましい事など云いかけられても面倒である。すこしうしろ暗いやり方ではあるが、いっそ不意に引っさらってくる方が無事であろう。何事も御家の外聞にはかえられぬと云う者もあった。結局、後の方の説が勢力を占めて、その役目を云いつけられた武士どもは、身分柄にもあるまじき拐引同様の所行しょぎょうをくり返すことになったのである。

それほど苦心した甲斐があって、その計略は見ごとに成功した。物狂おしい奥方は、替え玉のお蝶を夜も昼もときどき覗のぞきに来て、死んだ姫の魂が再びこの世に呼び戻されたものと思っているらしく、それからは忘れたようにおとなしくなった。併しそれは一時のことで、お蝶の姿が幾日もみえないと、彼女は姫にあわせろと云って又狂い出した。さりとて人の娘を際限もなく拘禁して置くことはできないので、屋敷の者もまた困った。

その矢先に又一つの新しい問題が起った。それは此の年の七月から新しい布達ふれがあって、諸大名の妻女も帰国勝手たるべしということになったので、どこの藩でも喜んだ。一種の人質ひとじちとなって多年江戸に住んでいることを余儀なくされた諸大名の奥方や子息たちは、われ先にと逃げるように国許くにもとへ引きあげた。勿論この屋敷でも奥方を領地へ送ることになったが、乱心同様の奥方が道中に狂い出したらばどうするか、国許へ帰っても今のありさまであったらばどうするか。それがみんなの胸に横たわる苦労の重い凝塊かたまりであった。そこで評議がまた開かれた。その評議の結論は、どうしてもお蝶を遠い国許まで連れて行くよりほかはないということに帰着した。

併し今度は殆ど永久的の問題で、さすがに無得心で連れ出すわけには行かないので、ともかくも本人や親許にも相談の上、一生奉公の約束で連れて行くことになった。奥女中の雪野がその使をうけたまわって、きのうも親許へたずねて来たのであった。いっそ最初からあからさまに事情を打ち明けたら、こっちもまた分別のしようがあったかも知れなかったが、ひたすらに御家の外聞という事ばかり考えていた雪野は、何事も秘密ずくめで相談をまとめようと焦あせっていた為に、こっちの疑いはいよいよ深くなった。おまけに横合いからお俊のように偽迎いがあらわれた為に、事件はますます縺もつれてしまった。

そのわけを聴いてみると、半七も気の毒になった。子ゆえに狂う母の心と、その母を取り鎮めようと努めている家来どもの苦心と、それに対しても余りに強いことも云われない破目になった。

三畳の隠れ家からお蝶はそろそろ這い出して来た。かれは貰い泣きの眼を拭きながら云った。

「これで何もかも判りました。阿母おっかさん、わたくしのような者でもお役に立つなら、どうぞそのお国へやってください」

「え。ほんとうに承知して行ってくださるか」と、雪野はお蝶の手をとって押し頂かないばかりにして礼を云った。

明月は南の空へまわって来て、庭から家のなかまで一ぱいに明るく映さし込んだ。

「おふくろもとうとう承知して、娘を奉公にやることに決めましたよ」と、半七老人は云った。

「それから又話が進んで来て、いっそ阿母おふくろも一緒に行ったらどうだということになりました。江戸には近しい親戚も無し、自分もだんだんに年をとって来るもんですから、お亀も娘のそばに行った方が好いという料簡りょうけんになって、世帯をたたんで一緒に遠いお国へ行きましたよ。なんでも御城下に一軒の家を持たせて貰って、楽隠居のようなふうで世を終ったそうです。明治になって間もなく、その奥方も亡くなったもんですから、お蝶は初めてお暇いとまが出て、その屋敷から立派に支度をして貰って、相当の家へ嫁とついだという噂ですが、多分まだ生きているでしょう。お俊という奴は江戸を食いつめて駿府すんぷへ流れ込んで、そこでお仕置になったとか聞いています」

底本 / Source edition

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:湯地光弘
1999年6月4日公開
2012年6月12日修正
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書誌 / Bibliography
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岡本 綺堂「半七捕物帳──07 奥女中」(新字新仮名)、底本『時代推理小説 半七捕物帳(一)』光文社時代小説文庫、光文社、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001009_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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