Soranoha

日本三文オペラ

にほんさんもんオペラ

武田 麟太郎

白い雲。ぽつかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光つてゐる有様は、近代的な都市風景だと人は云つてゐる。よろしい。我々はその「天勝大奇術」又は「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどつて下りて行かう。歩いてゐる人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがつてゐて、風に大様に揺れてゐる。これが我々を導いてくれるだらう。すると、我々は思ひがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇つてゐるかなぞと考へて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。

浅草公園の裏口、田原町の交番の前を西へ折れて少しばかり行くと、廃寺になつたまま、空地として取残された場所がある。数多くの墓石は倒れて土に埋まつてゐ、その間に青い雑草がのぞいてゐるのが、古い卒塔婆そとばを利用して作つた垣の隙間から見られる。さらに眼を転じると、この荒れた墓地に向つてひどく傾斜した三階建の家屋に気がつくだらう。――軽気球の繋がれてゐるのは、この三階の物干台で、朝と夕方には、縞銘仙しまめいせんの筒つぽの着物を着たここの主人が蒼白あをじろい顔を現して操作を行ふ。即ち、彼は、萎しぼんだ軽気球が水素ガスを吹込まれると満足げに脹ふくれあがつて、大きな影を落しながら、ゆるゆると昇つて行くのを眺めたり、大綱を巻いて引くと屋根一ぱいにひつかかりさうになつて下りて来るのを、たぐり寄せたりするのである。

云ふまでもなく、これがこの四十すぎの男の本職ではない。東京空中宣伝会社から、こちらの地域の代理人として幾ばくかの手当は受取り、それも彼の重要な収入になつてゐるのだらうが、表向の商売は別にあるし、その他多くの副業も営んでゐるのである。――

墓地から我々の見た彼の三階建の家は裏側に当つてゐるので、表の方へ廻つて彼の店を見るならば、彼が日に二合づつの牛乳を呑むに拘らず、乾操した皮膚をして、兎のやうに赤い眼の玉をキヨロキヨロさせ、身体中から垢の臭を発散させてゐる理由も、何だか了解できるやうな気がするだらう。それ程、彼の店は陰気で埃つぽく不衛生である。動いたことのない古物が――鍋釜なべかま、麦稈むぎわら帽子、靴、琴、鏡、ボンボン時計、火鉢、玩具、ソロバン、弓、油絵、雑誌その他が古ぼけて、黄色く脂じみて、黴かびに腐つてゐる。唯、これらの雑然とした道具と道具との狭い間を生き生きと動いてゐるのは、主人の子供たちだけである。――細君はやはり赤茶けた栄養の悪い髪の毛を束ね、雀斑そばかすだらけの疲労した表情をしてゐるが、恐しく多産で年子に困つてゐる。かつて、あるテキヤに口説くどかれたことがあつたが、そして、もう少しのところで誘惑されて了ふところであつたが、彼女は思ひとどまつて次のやうに言訳をした程である。――自分は関係するとテキメンに子供を産む性質だから、後になつてこのことが露顕するかもしれない、その時には足腰の立たぬ位ぶん撲なぐられて追ひ出され、食べ物にも困り、しかし、あなたは浮気な色事師だから世話なんぞ見てはくれまい、そんな結果を思ふとどうしてもできない、と断つたのであつた。

――主人は他に周旋業、日歩貸ひぶがし等もやつてゐる。この後者のために、新聞の朝刊三行案内欄に「手軽金融 あづま商会」の広告を出してゐるが、これは貸出の回収不能なんかで手間取るよりもと、簡単に「調査料」詐取の方法を採つてゐる。即ち申込者から、普通一円、市外二円の割で、信用担保たんぽ等の調査料を取立てるのであつて、その調査の結果は、御融通できないと云ふことになるのである。それは貸さない口実を見つけ出すための調査料のやうな観を呈してゐる。――たとへば、担保の有無、保証人の信用工合、細君が入籍してあるか、子供があるかなぞの中にその口実は幾らでもころがつてゐたし、条件が揃つてゐても、現住所にどれ程ゐますかとの問ひに、哀れな申込者が六ヶ月と答へれば、商会では一年以上同一場所に居住してゐる人でないと貸出さないと云ひ、よしんば一年以上であつても、いや二ヶ年以下の御家庭は困るのですと――何とでも理由はつけて、調査料を捲きあげ得られるのである。

以上の二つの副業が、この主人の全体としては陰欝な表情のうちで、眼だけを生き生きとしたものにしてゐる。赤い瞳であるが、これを上眼使ひにしよつちゆう動かす時に、白眼がチラチラと冷く光るのである。調査に出かける場合にはどんな遠いところでも自転車に乗つて行き、脂じみた朴歯ほおばの下駄で鈍重に動作し、ぽつりぽつりともの云つて口数も少い。ところが、家に帰つて来ると、実にキビキビとして、一階から三階の間を馳かけ廻り、部屋々々の様子をうかがつて、逢ふ人ごとに如才なく弁舌を振ふのである。――これは、彼のもう一つの副業がしからしめてゐるのであつて、すでに想像できるやうに、彼の三階建の家屋はアパートとして経営されてゐるのである。

三階は、細君がお神楽かぐら三階は縁起が悪いと反対したのを押切つて、あとから建て増されたものだ。このことは主人の金の貯つて来たのを語ると共に、我々が墓地側から望む時、この家が傾いてゐるやうに見え、また、土の焜炉こんろや瀬戸引の洗面器、時には枯れた鉢植の置かれてある部屋々々の窓が規則正しく配列されてなくて、大小三つある物干台と一しよに雑然と乱暴に積み重ねたやうな印象を与へられる原因をなしてゐる。

アパートと云つても――いや、そんな何となく小綺麗で、設備のよくととのつた西洋くさい貸部屋を意味する言葉を使つてはいけないだらう。何故かと云へば、卒塔婆そとばの破やれ垣がきの横を通つてその入口に達すると「あづまアバート」と書いた木札がかかつてゐて、ちやんと、アパートではないとことわつてゐる。

そこで、このアパートが普通の下宿屋乃至ないし木賃宿とそんなにちがつたものでないと云つても、あやしむことなく理解されるだらう。それでも、下の入口の下駄箱の側にはスリッパが――アパートの主人はこれをスレッパと呼んでゐる――乱雑にぬぎすてられてあるし、廊下の両側の部屋には、褐色のワニス塗りのドアがついてゐ、中からも外からも鍵がかけられるやうになつてゐて、幾分西洋くさいアパートに近づかうとはしてゐる。けれども一旦部屋にはひると、部屋の境目がどう云ふわけか、襖ふすまやガラス障子でくぎられてゐるので――もちろん、これらは釘で打ちつけられてあけ閉たてできぬやうにはしてあるが、お互ひの生活は半ば丸出しと云つてよいのである。畳も壁も、それから乾からびてしよつちゆう割れる音のしてゐる柱も、人間の色んな液汁が染みこんでゐて汚く悪臭を発散してゐる。表通に自動車が警笛をならして走るたびに部屋の振動するのは云ふまでもなく、べとべとしてゐて足裏に埃のいやにくつつく廊下や階段を誰かが歩いただけで、部屋全体が響けるのである。

油虫の多い炊事場は、二階階段の上あがり端はなに、便所と隣りあつてあるが、流しもとは狭くて水道栓は一つ、ガス焜炉は二つしかないので、支度時には混雑して、立つて空くのを待つてゐなければならない。

こんな不潔で不便でも、貸賃が安く、交通に都合がよいので、大抵の部屋はふさがつてゐるやうだ。六畳が十円で、ガス、水道、電燈料が一円五十銭――合計十一円五十銭の前家賃になつてゐる。多くは浅草公園に職を持つてゐるのであるが、彼らの借室人としての性質はどんなものであるか。

彼らはその家賃が部屋の設備からして高いと考へてゐる。できれば値下すべきであり、殊に最近の不景気で以前と同じ金を取るのはひどいと考へる。そして、そのことは一人一人で交渉するよりも、全体としてアパートの主人に談合すべきであると考へる。――ある夜、多くの者たちは十二時すぎまで仕事があるので、一時頃から三時前までもかかつて、協議して一円の値下を要求することに決めた。そして翌日は晦日みそかになつてゐるのだが、誰も払はずに、交渉を引受けた小肥りの映画説明者の返答を待つことになつた。ところが、翌朝早く、主人は部屋々々を起して廻つて部屋代を取立てた。誰か昨夜のことを彼に告げたものがあつたのだらうが、皆も申合せを忘れたやうに、主人の剣幕に恐れをなして払ふのであつた。そのくせ、お互ひにはそんなことをしたとは顔色にも出さず、知らぬ顔でゐた。――朝寝坊の説明者は次から次へとひつきりなしに電話に呼出されるので出て見ると、決定を裏切つたものたちが、実は昨夜あの仲間にはひると云つたが、あの時はすでに家賃は払つてあつたんで、と云つた風な見え透いた言訳を出先きからするのであつた。そこで説明者も独りでは力もないし、主人に憎まれても仕方がないと、彼も亦また、定額を支払つたのである。

――そんな彼らであるので、共同生活の訓練は少しもない。掃除番が順次に廻つてくるのであるが、炊事場でも、それから夏を除いては隔日に立てられる風呂でも、出来るだけ汚くしようとしてゐるやうにさへ見える。野菜の切れはしや、魚の骨や塵芥はそこいらにちらばつてゐるし、風呂なんかは二三人はひると、白い垢や石鹸の糟かすが皮膚にくつつく程浮いて小便臭くなつて了ふ。他の部屋に要事があつて入る時も、ノックなしにドアを突然あけるし、鍵のこはれてゐる便所なぞも平気で扉を押し開いて、先に入つてうづくまつてゐるものを狼狽らうばいさせたりする。

そのうちでも、最もうるさいのは、暇のある女たちだらう。その中心には、吉原遊廓の牛太郎の女房が二人ゐて、彼女たちは昼は亭主がゐるので部屋に閉ぢこもつてゐるが、夜はお互ひの部屋を菓子鉢を提げて行き来し、女たちを集めて晩おそくまで噂ばなしに時をすごすのである。部屋の前には女のスリッパや草履が重なりあつて、彼女たちの高い笑ひ声はどこの部屋にあつても聞くことができる。

最近の彼女たちの話題は、六十すぎの爺さんと婆さんとの恋愛はどんな風に行はれ得るかと云ふことであるらしい。――その婆さんはずつと以前から、三階の一号室に住んでゐるが、そこへ近頃同年配の老人が亭主として入つて来たのである。彼はよほど遠慮深い性質で、婆さんのところへ婿入りしたと云ふことが強く頭にあると見えて、いつも帰つて来る時には「今日は」とか「今晩は」とか云つてから部屋にはひる。すると婆さんはやさしい声で、

「何ですか、自分の家へもどつてくるのに、今晩は、と云ふ人がどこの世界にありますか。唯今、とか、今帰つたよとかおつしやい」と叱つてゐるのが、部屋の外まで洩れてくる。それに対して爺さんは、

「うん」と幸福さうに答へて、女の子のために土産に買つて来た食べ物なり、遊び道具をそこへ置くのである。――七つになつてこの四月から小学校にあがつてゐるその子供は、婆さんの妹の私生児で、養育を託されてゐるのである。

それでも次の日はやつぱり爺さんは、

「今晩は」とそつと部屋に入つて来、婆さんは同じ苦情を繰りかへす。随分永い間、この対話は二人の間に飽かず続けられてゐるのが、女たちの噂ばなしで笑ひの種になつてゐるが、何もをかしがることはないのである。

彼らは義太夫の寄席よせで知合になつた。婆さんはそこで仲売の女として働いてゐるので、爺さんは竹本駒若と云ふ義太夫語りが好きで毎晩聴きに出かけてゐるうち、お互ひに馴染なじみあつて了つた。

そこで、爺さんはそれまでゐた息子の家を中学生のやうな昂奮と決心とで、少しばかりの小遣銭を持つて、飛出して婆さんのところへやつて来たわけである。

息子の家にゐるのが彼の苦痛であつたのは、何も息子夫婦が彼を虐待ぎやくたいしたからでもなく、物質的に苦労させたからでもない。それどころか、彼らは老人をいたはり、豊富に着せ、食はせてゐた。何故ならば、息子は仲買人であつて長距離のも含めて電話を三本も持つてゐるやうな物持であつたからだ。だけれど、爺さんには何か物足りないものがあつた。嫁は亭主の父親としてつくしてくれるだけではないか。それにはむしろ利己的なものがある。息子は仕事にかまけて、金に追はれてゐる。老人が生活のうちに欲しいものは誰も考へてくれず、与へてもくれない。それは愛情であつた。

その親身な愛情を彼は今、最近の知合の他人のうちに見つけ出してゐる。彼はその中に浸り、気持の結ぼれを揉みほぐしてゐる。

婆さんも彼を得たことを悦んでゐる。そこで、つらいことではあらうが、爺さんがあんなにも好きな義太夫の寄席へも、ひよつとして息子の家から探しに来ないものでもないと、断然行くことを禁じて了つた。そして、日本物の活動写真か、布ぎれ一枚だけが舞台装置である安歌舞伎を見ることを彼にすすめるのであるが、爺さんも、そのことをもつともと思つて、子供の遊び友だちになつてやつたり、それが寝て了ふと、公園をぶらりと歩いて日本酒を一本だけ飲んで帰ると云ふ風である。そして、横びんからつづいて銀色のヒゲのはえてゐる顔を、首すぢまでも真赤にして、今晩は、とおとなしく部屋に入つて来るのである。

女の子が学校へ行くやうになつてから、朝早く起きる必要があるので、彼は考へて眼ざまし時計を買つて来た。それは、指定の時刻が来ると、「煙も見えず雲もなく」をうたひ出す小型のものである。――それを、七時のところに眼ざましの針を廻してゐると、茶を入れてのんでゐた婆さんは云ふのであつた。

その言葉は若い女が情夫に対して云ふやうな意味合のもので、どんなことがあつても、自分たちから離れないでくれ、しかし、息子さんは探偵を使つて私たちのところにあなたがゐることを嗅ぎつけることができるかも知れぬ、それが私は心配だ、と云つたのである。

「家から迎へに来ても帰らない? 爺さん、本当に帰つちやダメですよ」と、艶のある声で云つたのである。

すると、爺さんは、自分が今どんなに居心地よくゐるかと云ふことを語つて、決して帰宅はしない、死水はこちらでとつて貰ふ決心でゐると云つてきかせた。そして、近頃は新聞を見ても広告欄には全然眼を触れないやうに努めてゐる。何故かと云へば、そこに「父居所を知らせ」とかその他の巧い文句で彼を探す広告が出てゐたら、魔がさして、こちらを離れて了はないものでもないからである、と附加へるのであつた。

これらの対話は、聞耳を立ててゐたヒステリーの牛太郎の女房が、次の爺さんの述懐と婆さんの同情と共に、みんなに披露して、哄笑こうせうしたのであるが、何もをかしがることはないのである。

婆さんは爺さんの今までの女との交渉なぞを質問したりした。爺さんは淡泊に答へて、三十の時に女房に死別れてからは、余り接触がないと云つて、婆さんを安心させた。その女房は「早発性何とか云ふ気違ひになつてね、狂ひ死しましたがね。医者はあまり気苦労がすぎたからだと云つてたが。――当時、わたしたちの貧乏は随分はげしかつたので、貧乏があいつを殺したんでせう、きつと」

この言葉が終るか終らぬうちに、爺さんは驚かされて了つた。隣の部屋できいてゐた牛太郎の女房も驚いた、と云つた。それは、突然、婆さんが泣き出したからであつた。婆さんは泣きながら云つた。

「わかりますよ、わかりますよ」それから嗚咽をえつで声を震はせて――「貧乏がすぎて気が狂つて、それで若死して――お神さんの気持も、その時のあなたの気持も、わたしにはよく分りますよ」

それから二人とも黙つて了つた。爺さんは階下にわざわざ下りて行くのが大変なので、蒲団の裾の方に尿瓶しびんが置いてあるが、そこで小便をした。それから、褐色の斑点の出来てゐる太い腕を拱こまねいて横になつたが、――そのまま、永い間眠れなかつた。

爺さんは眼ざといので、いつも六時前にはさめるのであつた。だから、本当を云へば、眼ざまし時計なぞは要らないのである。しかし、彼は窓際から射して来る白々とした朝の光のうちに、枕もとの時計の針が廻つて七時になるのを待つてゐた。もう追つけうたひ出すぞ、と考へてゐると、チクタクの音を消して、突然、時計は陽気に「煙も見えず、雲もなく」と音楽を奏しはじめた。爺さんは安心したやうな表情で、横に枕を外して寝てゐる女の子を揺り動かした。

「さア、チイ坊や、時計がうたつてるから起きるんだよ、チイ坊、お起きよ、学校だよ」と、朝で痰がのどにたまつてゐるので、皺嗄しわがれた声を出して、彼は云つた。

ちやうど、この時刻に隣り部屋の女房は寝つく習慣なのであるが、毎朝、眼ざまし時計に眠りを妨げられることになつて了つた。もちろん、今までにだつて、彼女の昼寝をかき乱すものがあつたのである。それは四号室の蓄音器である。

そこにはカフェーの女給が情夫と一しよに住んでゐるのだが、男はしよつちゆう家をあけて他処よそに寝泊りしてゐる。それは他に女をこしらへるからである。

女は店に出る前にきつと数枚のレコードをかけてきく。よほどの音楽好きと見えるが、それもゆつくり聴き楽しむと云ふ風には見えない。一枚を半分ばかりでよすと、次には騒々しいのをかけて見、それも途中でよして、他のとかへると云つた有様である。彼女はいらいらするので音楽を聴き、そのために一層いらいらし出すやうである。だから、暇のある女房たちが――ほら、ヒスがはじまつたよ、と云ふのも当つてゐないこともない。

男は呉服物のせり売りの桜をやつてゐる。色事師で――ニキビが少し眼立つが、色白の好い男である。アパートの主人の細君に云ひ寄つたのはこの男だ。あの場合は、奇妙な理由から失敗したが、そんなことは今までに殆どなかつたと云つてよい。しかし、如何どうして女と云ふものはこんなに脆もろいかと云ふことを知ることは人生の上で大きな損をしたことだと彼は考へてゐる。そして、このことは彼を憂鬱にするが、情勢として女漁をんなあさりに耽ふけるより仕方がない。だから、彼の場合は、女に選び好みの感情は失はれてゐる。どの女も一様に見えるとすれば、勢ひさうなるではないか。――この人生の損は、益々彼にあつて、拡がつて行くものと見られる。何故ならば、女は定評のある色魔に対しては、一種の親愛な情を持つし、好んで接近して来るからである。それは、主として快楽が一切無責任だと予あらかじめ分つてゐることと、女同士の競争意識が掻き立てられるに拘かかはらず容易にその男が獲得できると云ふ安心からであらう。――

このことは、アパートの暇のある女房たちの間にも起つてゐる。彼女たちは彼に誘惑されることを待ち、しかし、口では、アパート一番の好い男であるが、誰でも構はず関係するなんて嫌なこつた、それが玉に瑕きずだなぞと云つてゐる。

そして、四号室の女給を嫉妬するわけだが、それは全然意識しないで、彼女の悪口を盛んに云ふのである。女給の女房れんに評判の悪い原因は主としてこの点にある。

――かうした人生の損をしてゐる彼はもう一つ悲劇を背負つてゐる。それは、彼が女給である情婦を心から愛して了つたことである。女を全体として信用できない男が、一人の女を愛するとは!

彼は他の女との交渉中に、烈しく情婦の女給に対して嫉妬を感じることがある。この脆い女と同性である情婦も亦、このやうな姿態を他の男に示すのではないか、と云ふ考へが突然彼を苦しめるのである。自分の好色漢的な行為が却つて、嫉妬をひき起す動因になるなぞは救はれないことだ。

更にこの悲劇が単なる悲劇として終つてゐるのであるが、それはこの顛倒てんたうした嫉妬に当るだけの行為が、情婦に少しもないことである。彼が接した数千の女性のうちで最も物堅いのが自分の情婦であつたことは、彼を救はないばかりか、益々疑ひ心の迷路に彼をひきずりこんでゐる。

かつて、暴力団狩のあつた時、彼の仲間も挙げられたのであるが、彼はその男の情婦で四号室の女と同じカフェーに働いてゐるのに電話をかけて呼びよせた。女は少しく自棄気味やけぎみなところもあつて、泥酔して彼の誘惑に辷すべりこんで来た。彼は深夜、この女を見るのに堪へられなくなつて、あづまアパートに帰つて来た。彼は情婦が外泊してゐるか何かの裏切行為があるかと、恐れながら、実は期待してゐたが、女は四号室に平穏に眠つて居り、彼を見ると寝場所を作つてくれるのであつた。――彼は張りつめて来た気持が折れると、自分に腹が立つて来て、急に女に対して怒り出した。そして、手前は、俺がサツへあげられたりなんぞしたら、安心して浮気しやがるだらう、と罵り言葉を繰りかへして撲なぐるのであつた。撲りながら、自分が情けなくなつたのも事実であるが、このやうな彼の倒錯した気持は、この後もずつと続いてゐる。

最近のこと、彼はバクチ場で負けたので、情婦を抵当として、彼女に気を寄せてゐる某に金を借りたことがある。その時は、すぐ回収し得たので何の変化も二人の関係に起らなかつたわけだが、彼は徹夜のバクチから帰ると、また例の癖が出て、手前は某に好意を持つてるんだらう、さうにちがひない、さうでなければ、やつがあんなに手前を抵当に金を貸すはずがないんだと難じはじめ、遂には流血の騒ぎを起しかねない始末であつた。

そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒はうらつな日々の行為はやはり続けられてゐるのである。四月になつてから、金沢の博覧会にテキヤの一行と稼ぎに行つてゐるが、毎日のやうに情婦のところへ手紙を送つて来る。それは半ば脅迫じみた文句に充たされてゐて、その地方で浪費されてゐるにちがひない彼の愛慾の顛倒した姿を映し出してゐる。――

そして、このことを十分に知つてゐる四号室の情婦は、焦躁に駆られた表情で、店に出る支度をすると、あれやこれやのレコードを手あたり次第にかけてゐる。彼女の音楽好きは益々嵩かうじて来た様子であるが、云ふまでもなく、彼女自身はその理由をつきとめてはゐないのである。

この呉服物せり売りの桜である色男に反して、一人の女のために――それも生れてはじめて知つた女のために背負投を食はされ、すつかり鬱ふさぎ込んで、女嫌ひになつて了つたコックが二階の便所の横、七号室にゐる。

見るから気の弱さうな顔つきで、眼は近眼鏡のために神経質に瞬またたいてゐる。彼の部屋から外出するためには炊事場の前を通らねばならないが、そこに女房れんが塊つてゐる時なぞは、少しうつむき加減に眼を伏せて、人に眺められるのを恐れるやうに、そそくさと出て行く。――暇のある女房たちも奇妙に彼を問題にしない。その白い料理服を着た猫背のうしろ姿をちらと見送る時は、律儀な男だ、もう郵便貯金が随分できたことだらうとか、何て風采のあがらない男だらうとか云つた短い感想が彼女たちの頭をかすめるだけである。独身のくせに、男として少しも話の種にならなかつたのを見ると、所謂いはゆる性的魅力と云ふものに欠けてゐるのだらう。

だから、浅草公園の安酒場の司厨場で働いてゐながら、女とのいざこざが少しもなかつたのである。誰も相手にしない萎しなびた男――この男のところへ、性しやうの悪い女ではあるが、事件屋と一しよに呶鳴どなり込んで来ると云ふやうな出来ごとがあつたので、少からず驚いて、アパートの人たちは珍しげに、眼を見はるのであつた。

――三十すぎまで、女を知らずにゐた彼の永い間の平穏な生活。毎月八日は、彼の勤め先である安酒場――お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極めた――女たちの客を呼び込む声、泥酔した客たちの議論、演説、浪花節なにはぶし、からかひと嬌声けうせい、酒のこぼれ流れてゐる長い木の食卓、奥の料理場から、何々上り! と知らせる声なぞの雑然とした――安酒場の給料日であるが――夜更けて、四辺は静かになり、料理場の電燈も消されて、仲間のものが打ち揃つて風呂に行き、それから遊びに出かける時、彼だけは一人になつて、夜更けの公園を出て、アパートにもどつて来るのである。給料の三十円はそこで、鉛筆を握つた彼の前に色々と分割される。彼は諸支払の合計を新聞に入つて来た呉服屋大売出しの広告紙の裏に記して見る。残りのうちから、一ヶ月の小遣銭幾ら、貯金幾らと予定を作る。そして、この予定は決して破らうとはしなかつた。だから、何かのことがあつて、早く使ひ果して了つた場合は、残りの日数中、煙草銭もなしで、すごすのが常である。

郵便貯金の通帳の記入高はもう二百円を越えてゐたのである。いつか、身をかためて独立する場合には、これが必要になつて来る、それまでに、せめて五百円にしたいと念願して、どんなことがあつても、これだけは手をつけまいと決めてゐたのである。

皆はこの堅い男を変人だと呼んで特別扱ひをしてゐて、それは彼を益々孤独にし、人づきあひを下手にさせて行くのに役に立つたのであるが――彼とても、気のあつた相手があれば大いに談ずるだけの熱情は持つてゐる。かつて一人の板場いたばが病気になつたので、助すけに来た若い男があつたが、お互ひに久保田万太郎の愛読者であることを発見して、二人して大いに彼の芸術を論じたことがある。彼は自分がなかなか饒舌ぜうぜつであることを知つて驚いた程であつた。そして、知らず識らずに昂奮して来、声も上づつて眼がしらにも涙をためて、如何に料理すると云ふことも芸術であるか、これを客に提出するための配合を考へるのも芸術的な悦びを味はさせるものかと力説したのである。そして、相手の遠慮するにも拘らず、ビールをおごらねば気がすまなかつた。彼自身は一滴も口にせず、飲めよとすすめるのであつた。

しかし、自分も時にはそのやうに快く昂奮できるのだと知つた悦びは、翌日冷静になつた時、今月分の小遣銭をすでに費消して了つた後悔のために相殺さうさいされてゐた。そして、暫くの間、そのことをクヨクヨと、つまらないことをしたものだと思つてゐた。

その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧やかましい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉のどはつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談じようだんを云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄しはがれて太くなつた声で応酬して驚かすのである。――そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄ひよりげたで湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝こやうじで歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。――

彼の知つた女はその中に雑まざつて立ち働いてゐた小娘だ。多くの女性に対して彼は好意は持つてゐたが、彼女たちの方では彼を無視してゐるので、いつか、誰それを特別に好くと云ふやうな気持は失ひ、漫然とどの女も自分とは関係のないものとして、同一に眺める習慣がついて了つてゐる。ところが、その小娘が彼に馴々しく近寄つて来たので、彼は少しく狼狽したのである。そして、女に対してずつと持つて来た冷淡な気持は、勝手なことにはすつかり消え失せて、熱心にすべての女を親愛の情を以て見はじめた程であつた。

女は彼に相談したいことがあると云つた。彼は落ちつきを失つて、どんなことを持ちかけられても、すぐに応じて了ふほど、心構へをなくしてゐた。また、何でもしてやりたいと云ふ、甘い気持になつてゐたのも事実である。

彼は女の話を聞いて、をかしい程、すつかり昂奮して了つた。一人の女が自分の前にゐて、それが田舎ゐなかの達磨茶屋だるまぢややに売られて行くと云ふ、自分はそれを救はうと思へば、できないこともない、一人の女をむごたらしい運命から防いでやれる、大きなことだ、――なぞと、頭の中で繰りかへした。彼はとつさに、女をさうした逆境に突き落す金がいくらであるかを聞いた、その時は、すぐにそれを出してやりたいと云ふ気持に駆られてゐた。

女は泣いて答へた。――彼は、たつた二百円で女の一生が傷けられなくて済むのかと、咏嘆したのである。そして、それ位の金ならば、自分が如何どうかしよう、と云つてから、だが、それは決してへんな野心からではない、唯見るに忍びないからだ、と気障きざつぽいことを附加へるのであつた。もちろん、彼は今まで余り接したことのない女の媚態が彼をさうした激情に追ひ込んだのだとは気がつかなかつたのである。

この言訳が嘘であつたことは、彼が貯金を引き出した時に、彼の頭に浮んだ三つちがつた考へをここに記せば分るだらう。――永い間の苦心であるこの金を一度に使用して了ふのが実に惜しく思はれるのと同時に、それを打ち消すやうな、浮雲みたいな人道主義的な昂奮――これで、一人の女を泥沼から救へるのだと云ふ強い気持、それから、この二つの考への間に、ちよいと頭をのぞけてゐる、これ程にしてやるんだから、あの女はどれくらゐ自分に感謝するだらうか、と云ふ甘い期待。――これらが交互に、熱病に冒をかされた時のやうにとりとめもなく、脳の中を行つたり来たりしたわけである。

女に金を渡してやると彼は急に疲れを覚えて、誰も自分がこんな大金を惜しげもなく投げ出してやつたことを知らないのは、少し残念にも思はれた。

果して、女は彼の深切に酬むくいて来たのである。だが、彼には珍しさが先に立つて了つて、唯、浮ついた気持に終止してゐた。しかし、夢があつて、彼は家庭を営むことを描き出してゐた。

――結果は恐しいものとして終つた。何と云ふ性悪しやうわるの女だつたのだらう。その情夫と一しよにやつて来て、彼を脅迫するのであつた。彼は泣き出しさうな顔で下を向き、姦通とか誘拐いうかいとか貞操とか云ふ言葉をきいてゐた。それから、震へ声で、自分は決して悪いつもりでやつたのでないことを弁護しはじめたのであるが、顛倒して了つて、十分云ひ現すこともできなかつた。相手は彼の生命を脅おびやかすから、そのつもりでゐろ、と断言した。さうなると、彼は自分の正しさを主張するすべも失つて、唯悪かつたと謝るより仕方がなくなつて来た。彼は繰りかへして、赦ゆるしを乞うた。実にみじめな態度であつたので、彼らの去つた後は、アパートの人たちの聞耳を立ててゐるのにもはつきり分る位、悲しくなつて泣いたのである。

情夫は幾度もやつて来て、手切金を請求した。百円とふつかけて来たのだが、金のことになると、彼は死物狂ひになつて交渉するだけの勇気が出て来る。そして、遂に五十円、五円づつの月賦で支払ふと云ふことに決着して、情夫の持つて来た紫の収入印紙の貼つてある妙な証書に、署名を強ひられたのである。

この事件のために、毎夜晩くまでかかり、眠れぬ夜が続いて、めがねの下の骨は出ばつて来た。余計陰欝な元気のない顔になつてゐる。

面白くもなく、毎日猫背の身体を料理場に運んで行く。女たちの声が喧しく店の中に響き渡つてゐるが、もうあの恐しい奴はどこかへ行つて了つた。――

毎月八日の給料日になると、あの女の父親が鶴見の方から、彼のところへ月掛けの五円を受取りに来る。百姓をしてゐた爺さんだが、彼は何か娘が料理人に金を立てかへてやつたので、その取立を自分がしてゐるのだと信じてゐるらしい。性悪の女はそのやうに云つて、父親に月々五円の権利を与へたのだらう。

料理人はこの不愉快な訪問者と少しでも一しよに話してゐるのに堪へられない。しかし、鈍感な老爺はゆるゆると煙草を吸ひ、茶を所望して、休み込んで色々と世間話をはじめるのである。そして、娘のことをかう語つた。

「どうせ、もう堅気の女ぢやねえんですから、誰か莫迦ばかな男で、金のあるやつをだまかして、絞つて少し仕送りしてくれるといいんですがね――今のところ、取つても自分だけでぱつぱと使つて、ちつとも廻してくれないんでね」

料理人は苦りきつてゐる。彼は酸つぱい気持で、もう女なんか相手にすまいと決めて、すつかり女嫌ひになつてゐるが、かう云ふ人のいい男はまた誰かに好意を示されると、有頂天になるかも知れないのである。

この隣りの八号室にゐる映画説明者も、実に人がよささうに見える。脊は低い方で、よく肥えてゐるのでまるまつちく指なんかも太く短く、美しいヒゲをのばしてゐる。そして、いつも白足袋、羽織姿で、身綺麗にしてゐる。そこで、暇のある女房たちも騒ぐし、人当りがよく如才もなく、世話好きに見えるので、いつか部屋代値下要求運動の時には代表者に選ばれた位である。もちろん、説明者だから口が巧く交渉なぞも円滑に行くだらうと、みんなが考へたためでもあつた。

ところが、この男は見かけによらず人が悪くて、小才を弄するのである。

たとへば、今度、彼は自分の細君の臨月が近づいて来たので、実家へ産みに帰らせた。

アパートの主人がいつも、ここで一しよになられた方はきつとすぐおめでたがありますよ、と云つてゐるが、説明者の場合もその通りで、それはかの多産の雀斑そばかす細君の影響かも知れぬ。もちろん、説明者は以前からここにゐて、細君の方から押しかけて来たのである。そして、実を云へば、その時すでに三ヶ月の腹をしてゐたのだが、これは誰も知らないことである。

ちやうどこの頃、説明者のつとめてゐる映画常設館で争議が起つてゐた。それはトーキーになつたため、説明者、伴奏音楽師なぞの馘首くわくしゆの問題、解雇手当等の問題から、技師、表方おもてかた、テケツをも含めた争議にまでなつて了つたのである。――そして、このよく肥えた説明者は幹部級なので、勢ひ争議団でも指導的な部分にはひつてゐたが、彼は争議団員に激励演説をした。

「諸君、私は昨日、妻を実家の茨城県に帰して了つた。私は独りの軽い身になつて勇敢に戦ふためにはさうせざるを得なかつたのである。諸君も、我々の生命線を守るため、あくまでも戦ふ決意をかためていただきたいのである!」

このやうに、あらゆるものを自分のために利用しようとするのが、彼の特徴である。

こんどの争義にしても、さうであつた。彼は決して、他の多くの説明者や音楽師たちのやうに死にもの狂ひに戦ふ必要はなかつたのである。――彼は解雇の後は、その常設館の事務員として使はれることになつてゐたから。

しかし、彼には全従業員とはちがつた意味で争議に参加する必要があつた。それは、どんなことであつても、この問題では従業員が闘争を始める。会社としては出来るだけ争議団の敗北に導かねばならないが、それには内部のダラ幹の力に待つところが多いのである。闘争が激化しないやうに安全弁の役目をつとめることが一つ、それからもう一つの必要は、全然、彼の個人的な問題だが、その常設館の営業主任がどうも彼とは合はないので、争議をここから始めるならば、主任はその責任上解職又は他の館へ転任させられるだらう。それを彼は目的としたのである。

そして、闘争はダラ幹の表面的な煽動をまつまでもなく起つた。けれども、肥えた白足袋の説明者なぞは、さうした大衆の蹶起けつきは、自分たちの指一本でなされたものと、自分たちの力を誇張して考へてゐる。

争議団は楽屋を占領して、そこにこもつた。館では楽屋と舞台との通路をふさいで、閉場後は観客席に暴力団を入れて対峙たいぢさせた。

一方、七人の交渉委員は会社重役と会見する。三人の委員がそこで――「我々は」と口を開いた瞬間に検束される。と、他の四人は重役と待合に出かけて行く。重役は早く解決してくれれば、争議費用として諸君にもお礼しようと云ふ。そして、アメリカでは、トーキーも行きづまつて来たから、今度の争議も意味のないことになるだらう、解雇手当を二年分も要求してるが六ヶ月もすれば、もとのやうにサイレント映画になつて、説明者、音楽師も復業できると思ふ、と云ふ。白足袋の指導者は尤もつともと考へて、この意見を大衆化しなければと決心する。

そして、次の夜の従業員大会で、彼は重役の意見をそのままにのべるのであつた。

すると、誰かが、莫迦ばか云ふな、トーキーは必然なんだ、しかし、我々の闘つてゐるのは、今まで我々を搾取さくしゆして今になつて我々をわづかの涙金で追つぱらはうとする資本家なんだ、と叫んだ。

彼はすつかり憂欝になつた。しかし、持ち前の愛想よい態度で、その野次も受取つて、

「さうだ、とにかくこの戦ひは、我々の死活を司つかさどるものである。最後まで頑張らう!」と云つて降壇したのである。

彼らはできるだけ要求を縮めなければ、この不況時代には会社もきき入れることはできまいと、主張するのであつたが、ちやうどその時、江東の常設館が四つも一度に同情ストライキに入つたと報じて来た。そこで従業員の元気は盛り返して、どんなことがあつても今の要求のまま闘へ、と云ふ声が支配的になつてきた。

白足袋の指導者のところへ使が来る。彼が争議団本部を抜け出して行つて見ると、それは会社の支配人だつた。

この調子だと、浅草中のゼネストになるかも知れない、その前にゼヒ解決するやうに骨折つて貰ひたいと云ふ話なのである。

指導者はニコニコ愛想よくしながら、そのためには、楽屋を占領してゐることを家屋侵入として主謀者をひつぱり、他を追ひ出す必要がある。それは警察の力を借りてもいいし、暴力団の撲り込みの噂を流布して、表方、女給の連中に恐怖心を起させ、主だつた連中は保護検束して貰つて、それから突然、襲撃するのがよろしからう、と説明するのである。――

支配人は腕を組んで考へてゐたが、ふん、と云つた。「ぢや、何分よろしく尽力をお願ひする。今日はこれで失敬しよう、君も忙しいだらうから」と、何かまだ云ひたさうにしてゐる白足袋の指導者を残して、ひつこんで了つた。

指導者は支配人の顔色の随分悪かつたことを考へる。やはり、このやうに争議が大きくなつて来ると眠れないのだらう、と思ふ。そして、自分たちの力が足りないからこんな始末になるので、支配人は機嫌を害してゐたのではないかと心配になつて来るのである。もし、さうならば、事務員の職をくれると云ふ約束も危くなつてくるわけである。

――そこへ持つて来て、また二つの常設館が動揺しはじめたと報知がある。指導者はうろたへるのである。

暴力団との衝突の噂がひろがつて、警察で保護検束と、籠城解散を命じた。そのドサクサに、ダラ幹だけが残つてゐる交渉委員は解決へと急いで了つた。

云ふまでもなく争議は惨敗に終つてゐる。解雇手当は出さず、争議費用として金一封、勤続手当を一ヶ年について二ヶ月、以上一ヶ年毎に一ヶ月、と云ふ有様であつた。

ダラ幹たちは悲壮な演説をした。

白足袋の指導者は、深く意を決するところがあると云つて、平常の態度に似ず、蒼白の顔をして腰を下してゐる。

――その夜、指導者は日頃飲み友だちの新聞記者と会つた。そして、彼は冗談のやうに云ふのである。

「俺が自殺したら、何段抜きで取扱ふかね」

それから、彼は実は自分は、争議惨敗の責任を団員に感じて、睡眠薬を飲まうと思つてゐると語つた。

新聞記者は相手の眼をぢつと見てゐたが、その眼の光がニヤリと動いたやうに思はれた。そこで彼も亦ニヤリとして、

「いつやるんだ」

「あす昼、解団式の直後にでも決行する」

「そりや、まづい」と新聞記者は云つた。

「それぢや、俺んとこの特種にならん。夜の二時すぎは如何だ。みんな朝刊の締切がすぎてからの方が都合がいいね。君のアパートでやるんだね、――と、かう云ふ記事でいいだらう、トーキー争議の指導者責任感から自殺を計る、か。つまり何だな、某氏は今暁、ベロナールを飲下して自殺をはかつたが、幸少量であつたため苦悶中発見され、手当を受けた、と。生命は取とめられる見込である。原因については、争議団にあてた遺書が発見され、それに依れば、今日のトーキー争議が惨敗に終つて、従業員を路頭に迷はすに到つた責任を、指導者として痛感した結果であると見られてゐる。尚最近、不眠不休の活動のため、少しく神経衰弱の気味もあつた、と親近者は語つてゐる、か。このあとは附加へない方がいいかな。――この原稿を君がベロナールを飲む前に送つて置くぜ、ありがたう、これで、特種料で一ぱいのめるわけだ」

白足袋の指導者は、それから二通の遺書を書いた。一つは、新聞記者がすでに記事としたやうに争議団にあてたもの、他は郵送した、それは、会社の支配人始め重役にあてたものである。後者に於ても、責任を痛感した結果、死を以て御詫するとなつてゐるのだが、それは争議を永びかし、又、あちらこちらに飛火させたことについての責任である。

これで、二つの側に、彼の愛嬌ある顔は立つことになる。そこで、今度はベロナールの致死量をよく調べて、たとひ手当がおくれても、大丈夫、死なぬやうに計つて置かねばならない、と彼は考へた。

それから、彼はあの飲み友だちの新聞記者にだけ特種としてやるのは惜しくなつて来たのである。すべての新聞に大きく載りたいのだ。そこで、まさか死ぬとは云へないが、争議団の最後の記事をとりに来た記者たちに、自分は重大な決意をした、と云つたりした。そして夕刊の記事になるやうに、やはり昼頃がよかろうと考へた。

彼の前の五号室には、安来節やすきぶしの女が弟子二人と住んでゐたが、家賃の払ひが悪いので、赤い眼玉の主人は出て行つてくれるやうに云つた。弟子の二人は仲が悪くて、しよつちゆう口喧嘩をしてゐるのであるが、その日も引越だと云ふのに、お前さんは舞台でツンとしてるから人気がないんですよ、とか、へつ、お前さんのやうに、淫売みたいにニヤニヤできるもんか、私は安来節だけで御客さんの御機嫌を取つてるんだからね、なぞと云ひ争ひながら、道具類を階下したへ運んでゐた。――

そのあとには、越後からやつて来た毒消し売りの少女たちが入ることになり、わざわざ送つて来た炊事道具やら商売道具を運び入れてゐた。彼女たちは全部で十人なので、白足袋の指導者の隣り部屋、九号室にも分宿することになつてゐる。

この日焼した少女たちは――彼女たちが、ここの風呂に入つたあとは、湯が陽なた臭く、塩つぽくなるのである――大体、去年と同じ顔触れだが三人ばかり馴染みなのがゐない。それらは、すでに嫁入りをしたのであらう。その代り、小学校を出たばかりの少女が新しく加つてゐる。

彼女たちは、暖かすぎるほどの日なので、襦袢と腰巻だけになり、その上にメリンスの帯を結んで、この二三ヶ月住む場所に道具の整理をしてゐた。その時、誰かが苦しさうに唸つてゐるのが聞えてきたが、彼女たちの陽気な人もなげな饒舌と物音のために掻き消されたやうである。

夕方、主人は広告軽気球を下すために物干台に昇つて来る。物干台は雨風に腐つて黒くなり、彼の歩くたびにギシギシと音を立てる。彼は一度、東の方に風で吹寄せられてゐる軽気球の方へ眼をやつてから、昨日まで争議のあつた映画常設館を眺める。そして下の荒れた墓地へ唾を吐いた。――物干台の下は指導者の部屋にあたつてゐるが、彼は昼前から眠つたまま、まださめない。夕刊の締切は云ふまでもなく、とつくにすぎ、もう配達もされてゐる。しかし、別に珍しい記事もなかつたやうである。――結局、白足袋の愛嬌ある指導者は、もう誰にも起されずに、いつまでも眠りつづけるのだらう。

(昭和七年六月)

底本 / Source edition

底本:「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」筑摩書房
1967(昭和42)年3月
入力:山根鋭二
校正:伊藤時也
1999年12月15日公開
2012年9月12日修正
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書誌 / Bibliography
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武田 麟太郎「日本三文オペラ」(新字旧仮名)、底本『現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集』筑摩書房、1967年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001002_000189, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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