## 一

半七老人の家には小さい<ruby><rb>三毛</rb><rt>みけ</rt></ruby>猫が飼ってあった。二月のあたたかい日に、私がぶらりと訪ねてゆくと、老人は南向きの<ruby><rb>濡縁</rb><rt>ぬれえん</rt></ruby>に出て、自分の膝の上にうずくまっている小さい動物の柔らかそうな背をなでていた。

「可愛らしい猫ですね」

「まだ子供ですから」と、老人は笑っていた。「鼠を捕る知恵もまだ出ないんです」

明るい<ruby><rb>白昼</rb><rt>まひる</rt></ruby>の日が隣りの屋根の古い瓦を照らして、どこやらで猫のいがみ合う声がやかましく聞えた。老人は声のする方をみあげて笑った。

「こいつも今にああなって、猫の恋とかいう名を付けられて、あなた方の<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>の種になるんですよ。猫もまあこの位の小さいうちが一番可愛いんですね。これが化けそうに大きくなると、もう可愛いどころか、憎らしいのを通り越して何だか薄気味が悪くなりますよ。むかしから猫が化けるということをよく云いますが、ありゃあほんとうでしょうか」

「さあ、化け猫の話は昔からたくさんありますが、嘘かほんとうか、よく判りませんね」と、わたしはあいまいな返事をして置いた。相手が半七老人であるから、どんな生きた証拠をもっていないとも限らない。迂濶にそれを否認して、飛んだ揚げ足を取られるのも口惜しいと思ったからであった。

しかし老人もさすがに猫の化けたという実例を知っていないらしかった。彼は三毛猫を膝からおろしながら云った。

「そうでしょうね。昔からいろいろの話は伝わっていますが、誰もほんとうに見たという者はないんでしょうね。けれども、わたしはたった一度、変なことに出っくわしましたよ。なに、これもわたしが直接に見たという訳じゃないんですけれど、どうも嘘じゃないらしいんです。なにしろ其の猫騒動のために人間が二人死んだんですからね。考えてみると、恐ろしいこってす」

「猫に<ruby><rb>啖</rb><rt>く</rt></ruby>い殺されたのですか」

「いや、啖い殺されたというわけでもないんです。それが実に変なお話でね、まあ、聴いてください」

いつまでも膝にからみ付いている小猫を追いやりながら、老人はしずかに話し出した。

文久二年の秋ももう暮れかかって、芝神明宮の<ruby><rb>生姜市</rb><rt>しょうがいち</rt></ruby>もきのうで終ったという九月二十二日の夕方の出来事である。神明の宮地から遠くない<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>に住んでいる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おまき</span>という婆さんが頓死した。おまきは寛政<ruby><rb>申</rb><rt>さる</rt></ruby>年生まれの今年六十六で、七之助という孝行な息子をもっていた。彼女は四十代で夫に死に別れて、それから女の手ひとつで五人の子供を育てあげたが、総領の娘は奉公先で<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>をこしらえて何処へか駈け落ちをしてしまった。長男は芝浦で泳いでいるうちに沈んだ。次男は<ruby><rb>麻疹</rb><rt>はしか</rt></ruby>で命を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られた。三男は子供のときから手癖が悪いので、おまきの方から追い出してしまった。

「わたしはよくよく子供に運がない」

おまきはいつも愚痴をこぼしていたが、それでも末っ子の七之助だけは無事に家に残っていた。しかも彼は姉や兄たちの孝行を一人で引き受けたかのように、肩揚げのおりないうちからよく働いて、年を<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>った母を大切にした。

「あんな孝行息子をもって、おまきさんも仕合わせ者だ」

子供運のないのを悔んでいたおまきが、今では却って近所の人達から羨まれるようになった。七之助は<ruby><rb>魚商</rb><rt>さかなや</rt></ruby>で、盤台をかついで毎日方々の得意先を売りあるいていたが、今年<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>になる若いものが見得も振りもかまわずに真っ黒になって稼いでいるので、<ruby><rb>棒手振</rb><rt>ぼてエふ</rt></ruby>りの小商いながらもひどい不自由をすることもなくて、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>ふたりが水いらずで仲よく暮していた。親孝行ばかりでなく、七之助は気のあらい稼業に似合わない、おとなしい素直な<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>で、近所の人達にも可愛がられていた。

それに引き替えて、母のおまきは近所の評判がだんだんに悪くなった。彼女は別に人から憎まれるような悪い事をしなかったが、人に嫌われるような一つの癖をもっていた。おまきは若いときから猫が好きであったが、それが年をとるにつれていよいよ烈しくなって、この頃では親猫子猫あわせて十五六匹を飼っていた。勿論、猫を飼うのは彼女の自由で、誰もあらためて苦情をいうべき理由をもたなかった。そのたくさんの猫が狭い家いっぱいに群がっているのが、見る人の目には薄気味の悪いような一種不快の感をあたえることがあっても、それだけではまだ飼主に対して苦情を持ち込む有力の理由とは認められなかった。併したくさんの動物は決して狭い家の中にばかりおとなしく<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んではいなかった。彼等はそこらへのそのそ這い出して、近所隣りの台所をあらした。おまき婆さんが幾ら十分の食い物を<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>がって置いても、彼等はやはり盗み食いを止めなかった。

こうなると、苦情の理由が立派に成り立って、近所からたびたびねじ込まれた。その都度おまきも詫びた。七之助もあやまった。併しおまきの家のなかの猫の啼き声はやはり絶えないので、誰が云い出したとも無しに、彼女は近所の口の悪い人達から猫婆という<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>を与えられてしまった。本人のおまきはともあれ、七之助は母の異名を聴くたびにいやな思いをさせられるに相違なかった。が、おとなしい彼は母を<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めることも出来なかった。無論、近所の人と争うことも出来なかった。彼は畜生の群れと一緒に寝て起きて、黙っておとなしく稼いでいた。

この頃は七之助が商売から帰ってくる時に、その盤台にかならず幾<ruby><rb>尾</rb><rt>ひき</rt></ruby>かの<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>が残っているのを、近所の人達が不思議に思った。

「七之助さん、きょうもあぶれかい」と、ある人が訊いた。

「いいえ、これは<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の猫に持って帰るんです」と、七之助はすこし極りが悪そうに答えた。<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>から仕入れて来た魚をみんな売ってしまう訳には行かない。飼い猫の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>として必ず幾尾かを残して帰るように、母から云い付けられていると彼は話した。

「この高い魚をみんな猫の餌食に……。あの婆さんも勿体ねえことをするな」と、聴いた人もおどろいた。その噂がまた近所に広まった。

「あの息子もおとなしいから、おふくろの云うことを何でも素直にきいているんだろうが、この頃の高い魚を毎日あれほどずつ売り残して来ちゃあ、いくら稼いでも追いつくめえ。あの婆さんは生みの息子より畜生の方が可愛いのかしら。因果なことだ」

近所の人達は孝行な七之助に同情した。そうして、その反動として誰も彼も猫婆のおまきに反感をもつようになった。近所から嫌われていたおまきが此の頃だんだんと近所から憎まれるようになって来た。猫はいよいよ其の反感を挑発するように、この頃はいたずらが烈しくなって、どこの家でも遠慮なしにはいり込んだ。障子を破られた家もあった。魚を盗まれた家もあった。その啼き声が夜昼そうぞうしいと云うので、南隣りの人はとうとう引っ越してしまった。北隣りには大工の若い夫婦が住んでいるが、その女房も隣りの猫にはあぐね果てて、どこかへ引っ越したいと口癖のように云っていた。

「何とかしてあの猫を追い払ってしまおうじゃないか。息子も可哀そうだし、近所も迷惑だ」

長屋のひとりが堪忍袋の緒を切ってこう云い出すと、長屋一同もすぐに同意した。直接に猫婆に談判しても容易に埓があくまいと思ったので、<ruby><rb>月番</rb><rt>つきばん</rt></ruby>の者が<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>のところへ行って其の事情を訴えて、おまきが素直に猫を追いはらえばよし、さもなければ<ruby><rb>店立</rb><rt>たなだて</rt></ruby>を食わしてくれと頼んだ。家主ももちろん猫婆の味方ではなかった。早速おまきを呼びつけて、長屋じゅうの者が迷惑するから、お前の家の飼い猫をみんな追い出してしまえと命令した。もし不承知ならば即刻に店を明け渡して、どこへでも勝手に立ち退けと云った。

家主の威光におされて、おまきは素直に承知した。

「いろいろの御手数をかけて恐れ入りました。猫は早速追い出します」

しかし今まで可愛がって育てていたものを、自分が手ずから捨てにゆくには忍びないから、御迷惑でも御近所の人たちにお願い申して、どこかへ捨てて来て貰いたいと彼女は嘆いた。それも無理はないと思ったので、家主はそのことを長屋の者に伝えると、おまきの隣りに住んでいる<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の大工のほかに二人の男が連れ立って、おまきの家へ猫を受け取りに行った。猫は先頃子を生んだので、大小あわせて二十匹になっていた。

「どうも御苦労さまでございます。では、なにぶんお願い申します」

おまきはさのみ未練らしい顔を見せないで、家じゅうの猫を呼びあつめて三人に渡した。その猫どもを三つに分けて、ある者は炭の空き俵に押し込んだ。ある者は大風呂敷に包んだ。めいめいがそれを小脇に引っかかえて路地を出てゆくうしろ姿を、おまきは見送ってニヤリと笑った。

「わたしは見ていましたけれど、その時の笑い顔は実に凄うござんしたよ」と、大工の女房のお初があとで近所の人達にそっと話した。

猫をかかえた三人は思い思いの方角へ行って、なるべく寂しい場所を選んで捨てて来た。

「まずこれでいい」

そう云って、長屋の平和を祝していた人達は、そのあくる朝、大工の女房の報告におどろかされた。

「隣りの猫はいつの間にか帰って来たんですよ。夜なかに啼く声が聞えましたもの」

「ほんとうかしら」

おまきの家を覗きに行って、人々は又おどろいた。猫の<ruby><rb>眷族</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>はゆうべのうちに皆帰って来たらしく、さながら人間の無智を嘲るように家中いっぱいに啼いていた。おまきに訊いても要領を得なかった。自分もよく知らないが、なんでもゆうべの夜中にどこからか帰って来て、縁の下や台所の<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>窓からぞろぞろと入り込んだものらしいと云った。猫は自分の家へかならず帰るという伝説があるから、今度は二度と帰られないようなところへ捨てて来ようというので、かの三人は行きがかり上、一日の商売を休んで品川のはずれや王子の果てまで再び猫をかかえ出して行った。

それから二日ばかりおまきの家に猫の声が聞えなかった。

## 二

神明の<ruby><rb>祭礼</rb><rt>まつり</rt></ruby>の夜であった。おなじ長屋に住んでいる<ruby><rb>鋳掛</rb><rt>いかけ</rt></ruby>錠前直しの職人の女房が<ruby><rb>七歳</rb><rt>ななつ</rt></ruby>になる女の児をつれて、神明のお宮へ参詣に行って、四ツ（午後十時）少し前に帰って来ると、その晩は月が冴えて、明るい屋根の上に露が薄白く光っていた。

「あら、<ruby><rb>阿母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さん」

女の児はなにを見たか、母の袂をひいて急に立ちすくんだ。女房もおなじく立ち停まった。猫婆の屋根の上に小さい白い影が迷っているのであった。それは一匹の白猫で、しかも前脚二本を高くあげて、後脚二本は人間のように突っ立っているのを見た時に、女房も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と息をのみ込んだ。かれは娘を小声で制して、しばらくそっと窺っていると、猫は長い尾を引き摺りながら、踊るような足取りで<ruby><rb>板葺</rb><rt>こけら</rt></ruby>屋根の上をふらふらと立ってあるいた。女房は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっ</span>として<ruby><rb>鶏肌</rb><rt>とりはだ</rt></ruby>になった。猫が屋根を渡り切って、その白い影がおまきの家の引窓のなかに隠れたのを見とどけると、彼女は娘の手を強く握って転げるように自分の家へかけ込んで、引窓や雨戸を厳重に閉めてしまった。

亭主は夜遅く帰って来て戸をたたいた。女房がそっと起きて来て、今夜自分が見とどけた怪しい出来事を話すと、祭礼の酒に酔っている亭主はそれを信じなかった。

「べらぼうめ、そんなことがあるもんか」

女房の<ruby><rb>制</rb><rt>と</rt></ruby>めるのもきかずに、彼はおまきの台所へ忍んで行って、内の様子を窺っていると、やがておまきの嬉しそうな声がきこえた。

「おお、今夜帰って来たのかい、遅かったねえ」

これに答えるような猫の啼き声がつづいて聞えた。亭主も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>として、酒の酔いが少しさめて来た。彼はぬき足をして家へ帰った。

「ほんとうに立って歩いたか」

「あたしも芳坊も確かに見たんだもの」と、女房も顔をしかめてささやいた。小さい娘のお芳もそれに相違ないとふるえながら云った。

亭主もなんだか薄気味が悪くなって来た。ことに彼は猫を捨てに行った一人であるだけに、いよいよ好い心持がしなかった。彼はまた酒を無暗に飲んで酔い倒れてしまった。女房と娘とはしっかり抱き合ったままで、夜のあけるまでおちおち睡られなかった。

おまきの家の猫はゆうべのうちにみな帰っていた。ことに鋳掛屋の女房の話を聴いて、長屋じゅうの者は眼をみあわせた。普通の猫が立ってあるく筈はない、猫婆の家の飼猫は化け猫に相違ないということに決められてしまった。その噂が家主の耳へもはいったので、彼も薄気味が悪くなった。彼は再びおまき親子にむかって立ち退きを迫ると、おまきは自分の夫の代から住み馴れている家を離れたくない。猫はいかように御処分なすっても好いから、どうか<ruby><rb>店立</rb><rt>たなだて</rt></ruby>をゆるして貰いたいと涙をこぼして家主に嘆いた。そうなると、家主にも不憫が出て、たってこの親子を追い払うわけにも行かなかった。

「ただ捨てて来るから、又すぐ戻って来るのだ。今度は二度と帰られないように<ruby><rb>重量</rb><rt>おもし</rt></ruby>をつけて海へ沈めてしまえ。こんな化け猫を生かして置くと、どんな禍いをするか知れない」

家主の発議で、猫は幾つかの空き俵に詰め込まれ、これに大きい石を縛りつけて芝浦の海へ沈められることになった。今度は長屋じゅうの男という男は総出になって、おまきの家へ二十匹の猫を受け取りに行った。重量をつけて海の底へ沈められては、さすがの猫ももう再び浮かび上がれないものとおまきも覚悟したらしく、人々にむかって嘆願した。

「今度こそは<ruby><rb>長</rb><rt>なが</rt></ruby>の別れでございますから、猫に何か食べさしてやりとうございます。どうぞ少しお待ち下さい」

彼女は二十匹の猫を自分のまわりに呼びあつめた。きょうは七之助も商売を休んで家にいたので、おまきは彼に手伝わせて何か<ruby><rb>小魚</rb><rt>こざかな</rt></ruby>を煮させた。飯と魚とを皿に盛り分けて、一匹ずつの前にならべると、猫は鼻をそろえて一度に食いはじめた。彼等は飯を食った。肉を食った。骨をしゃぶった。一匹ならば珍らしくない、しかも二十匹が一度に喉を鳴らし、牙をむき出して、めいめいの餌食を忙がしそうに<ruby><rb>啖</rb><rt>くら</rt></ruby>っているありさまは、決して愉快な感じを与えるものではなかった。気の弱いものにはむしろ<ruby><rb>凄愴</rb><rt>ものすご</rt></ruby>いようにも思われた。<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>の多い、頬骨の高いおまきは、伏目にそれをじっと眺めながら、ときどきそっと眼を拭いていた。

おまきの手から引き離された猫の運命は、もう説明するまでもなかった。万事が予定の計画通りに運ばれて、かれらは生きながら芝浦の海の底へ葬られてしまった。それから五、六日を経っても猫はもう帰って来なかった。長屋じゅうの者は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>とした。

併しおまきは別にさびしそうな顔もしていなかった。七之助は相変らず盤台をかついで毎日の商売に出ていた。その猫を沈められてから丁度七日目の夕方におまきは頓死したのであった。

それを発見したのは、北隣りの大工の女房のお初で、亭主は仕事からまだ帰って来なかったが、いつもの<ruby><rb>慣習</rb><rt>ならい</rt></ruby>で彼女は格子に錠をおろして近所まで用達に行った。南隣りは当時<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>であった。したがって、おまきの死んだ当時の状況は誰にも判らなかったが、お初の云うところによると、かれが外から帰って来て、路地の奥へ行こうとする時に、おまきの家の入口に魚の盤台と天秤棒とが置いてあるのを見た。七之助が商売から戻って来たものと推量した彼女は、その軒下を通り過ぎながら声をかけたが、内には返事がなかった。秋の夕方はもう薄暗いのに、内には灯をともしていなかった。暗い家のなかは墓場のように<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>と沈んでいた。一種の不安に襲われて、お初はそっと内をのぞくと、入口の土間には人がころげているらしかった。<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>ながら一と足ふみ込んで透かして視ると、そこに転げているのは女であった。猫婆のおまきであった。お初は声をあげて人を呼んだ。

その叫びを聞き付けて近所の人も駈けて来た。猫婆が死んだという噂が長屋じゅうから裏町まで伝わって、家主もおどろいて駈け付けた。一と口に頓死というけれど、実際は病気で死んだのか、人に殺されたのか、それがまだ<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しなかった。

「それにしても息子はどうしたんだろう」

盤台や天秤棒がほうり出してあるのを見ると、七之助はもう帰って来たらしいが、どこに何をしているのか、この騒ぎのなかへ影を見せないのも不思議に思われた。ともかくも医者を呼んで来て、おまきの死骸をあらためて貰うと、からだに異状はない、頭の脳天よりは少し前の方に一ヵ所の打ち傷らしいものが認められるが、それも人から打たれたのか、あるいは上がり<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>から転げ落ちるはずみに何かで打ったのか、医者にも確かに見極めが付かないらしく、結局おまきは<ruby><rb>卒中</rb><rt>そっちゅう</rt></ruby>で倒れたということになった。病死ならば別にむずかしいこともないと、家主もまず安心したが、それにしても七之助のゆくえが判らなかった。

「息子はどうしたんだろう」

おまきの死骸を取りまいて、こうした噂が繰り返されているところへ、七之助が蒼い顔をしてぼんやり帰って来た。隣り<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>に住んでいる同商売の三吉という男もついて来た。三吉はもう三十以上で、見るからに気の利いた、威勢の好い男であった。

「いや、どうも皆さん。ありがとうございました」と、三吉も人々に挨拶した。「実は今、七之助がまっ蒼になって駈け込んで来て、商売から帰って家へはいると、おふくろが土間に転がり落ちて死んでいたが、一体どうしたらよかろうかと、こう云うんです。そりゃあ俺のところまで相談に来ることはねえ、なぜ早く<ruby><rb>大屋</rb><rt>おおや</rt></ruby>さんやお長屋の人達にしらせて、なんとか始末を付けねえんだと<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>を云ったような訳なんですが、なにしろまだ年が若けえもんですから、唯もう面喰らってしまって、夢中で私のところへ飛んで来たという。それもまあ無理はねえ、ともかくもこれから一緒に行って、皆さんに宜しくおねがい申してやろうと、こうして出てまいりましたものでございますが、一体まあどうしたんでございましょうね」

「いや、別に仔細はない。七之助のおふくろは急病で死にました。お医者の診断では卒中だということで……」と、家主はおちつき顔に答えた。

「へえ、卒中ですか。ここのおふくろは酒も飲まねえのに、やっぱり卒中なんぞになりましたかね。おっしゃる通り、急死というのじゃあどうも仕方がございません。七之助、泣いてもしようがねえ、寿命だとあきらめろよ」と、三吉は七之助を励ますように云った。

七之助は窮屈そうにかしこまって、両手を膝に突いたままで俯向いていたが、彼の眼にはいっぱいの涙を溜めていた。ふだんから彼の親孝行を知っているだけに、みんなも<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>のあわれを誘われた。猫婆の死を悲しむよりも、母をうしなった七之助の悲しみを思いやって、長屋じゅうの顔は陰った。女たちはすすり泣きをしていた。

その晩は長屋じゅうの者があつまって通夜をした。七之助はまるで気抜けがしたようにぼんやりとして、隅の方に小さくなっているばかりで碌々口も利かなかった。それがいよいよ諸人の同情をひいて、<ruby><rb>葬式</rb><rt>とむらい</rt></ruby>一切のことは総て彼の手を煩わさずに、長屋じゅうの者がみんな始末してやることにした。七之助はおどおどしながら頻りに礼を云った。

「こうして皆さんが親切にして下さるんだから、何もくよくよすることはねえ。猫婆なんていうおふくろは生きていねえ方が却って好いかも知れねえ。お前もこれから一本立ちになってせいぜい稼いで、みなさんのお世話で好い嫁でも持つ算段をしろ」と、三吉は平気で大きな声で云った。

仏の前で掛け構い無しにこんなことを云っても、誰もそれを咎める者もないほどに、不運なおまきは近所の人達の同情をうしなっていた。さすがに口を出して露骨には云わないが、人々の胸にも三吉とおなじような考えが宿っていた。それでも一個の人間である以上、猫婆は飼猫とおなじような残酷な水葬礼には行なわれなかった。おまきの死骸を収めた早桶は長屋の人達に送られて、あくる日の夕方に麻布の小さな寺に葬られた。

それは<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>のような夕霧の立ち迷っている夕方であった。おまきの棺が寺へゆき着くと、そこにはほかにも貧しい葬式があって、その見送り人は徐々に帰りかかるところであった。おまきの葬式は丁度それと入れ違いに本堂に繰り込むと、前に来ていた見送り人はやはり芝辺の人達が多かったので、あとから来たおまきの見送り人と顔馴染みも少なくなかった。

「やあ、おまえさんもお見送りですか」

「御苦労さまです」

こんな挨拶が方々で交換された。そのなかに眼の大きな、背の高い男がいて、彼はおまきの隣りの大工に声をかけた。

「やあ、御苦労。おまえの<ruby><rb>葬式</rb><rt>とむれえ</rt></ruby>は誰だ」

「長屋の猫婆さ」と、若い大工は答えた。

「猫婆……。おかしな名だな。猫婆というのは誰のこった」と、彼はまた訊いた。

猫婆の綽名の由来や、その死にぎわの様子などを詳しく聴き取って、彼は仔細らしく首をかしげていたが、やがて大工に別れを告げて一と足さきに寺の門を出た。かれは手先の湯屋熊であった。

## 三

「どうもその猫ばばあの死に様がちっと変じゃありませんかね」

湯屋熊の熊蔵はその晩すぐに神田の三河町へ行って、親分の半七のまえできょう聞き出して来た猫婆の一件を報告した。半七は黙って聴いていた。

「親分、どうです。変じゃありませんかね」

「むむ、ちっと変だな。だが、てめえの挙げて来るのに碌なことはねえ。この正月にもてめえの家の二階へ来る客の一件で飛んでもねえ汗をかかせられたからな。うっかり油断はできねえ。まあ、もうちっと<ruby><rb>掘</rb><rt>ほじ</rt></ruby>くってから俺のとこへ持って来い。猫婆だって生きている人間だ。いつ頓死をしねえとも限らねえ」

「ようがす、わっしも今度は真剣になって、この正月の埋め合わせをします」

「まあ、うまくやって見てくれ」

熊蔵を帰したあとで、半七はかんがえた。熊蔵の云うことも馬鹿にならない、家主の威光と大勢の力とで、猫婆が生みの子よりも可愛がっていたたくさんの猫どもを無体にもぎ取って、それを芝浦の海の底に沈めた。それから丁度七日目に猫婆が不意に死んだ。猫の執念とか、なにかの因縁とかいえば云うものの、そこに一種の疑いがないでもない。これはそそっかしい熊蔵一人にまかせては置かれないと思った。彼はあくる朝すぐに愛宕下の熊蔵の家をたずねた。

熊蔵の家が湯屋であることは前にも云った。併し朝がまだ早いので、二階にあがっている客はなかった。熊蔵は黙って半七を二階に案内した。

「大層お早うごぜえましたね。なにか御用ですか」と、彼は小声で訊いた。

「実はゆうべの一件で来たんだが、なるほど考えてみるとちっとおかしいな」

「おかしいでしょう」

「そこで、おめえは何か睨んだことでもあるのか」

「まだ其処までは手が着いていねえんです。なにしろ、きのうの夕方聞き込んだばかりですから」と、熊蔵は頭を掻いた。

「猫婆がまったく病気で死んだのなら論はねえが、もしその脳天の傷に何か曰くがあるとすれば、おめえは誰がやったと思う」

「いずれ長屋の奴らでしょう」

「そうかしら」と、半七は考えていた。「その息子という奴がおかしくねえか」

「でも、その息子というのは近所でも評判の親孝行だそうですぜ」

評判の孝行息子が親殺しの大罪を犯そうとは思われないので、半七も少し迷った。しかし猫婆がともかくも素直に猫を渡した以上、長屋の者がかれを殺す筈もあるまいと思われた。息子の仕業でも無し、長屋の者どもの仕業でもないとすれば、猫婆の死は医者の診断の通り、やはり卒中の頓死ということに決めてしまうよりほかはなかったが、半七の疑いはまだ解けなかった。いくら年が若いといっても、息子はもう<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>にもなっている。母の死を近所の誰にも知らせないで、わざわざ隣り町の同商売の家まで駈けて行ったということが、どうも彼の腑に落ちなかった。と云って、それほどの孝行息子がどうして現在の母を残酷に殺したか、その理窟はなかなか考え出せなかった。

「なにしろ、もう一度頼んでおくが、おめえよく気をつけてくれ。五、六日経つと、おれが様子を訊きに来るから」

半七は念を押して帰った。九月の末には雨が毎日降りつづいた。それから五日ほど経つと、熊蔵の方からたずねて来た。

「よく降りますね。早速ですが例の猫ばばあの一件はなかなか当りが付きませんよ。息子は相変らず毎日かせぎに出ています。そうして、商売を早くしまって、帰りにはきっとおふくろの寺参りに行っているそうで、長屋の者もみんな褒めていますよ。それにね、長屋の奴らは猫婆が<ruby><rb>斃死</rb><rt>くたば</rt></ruby>って好い気味だぐらいに思っているんですから、誰も詮議をする者なんぞはありゃしません。家主だって自身番だって、なんとも思っていやあしませんよ。そういうわけだから、どうにもこうにも手の着けようがなくなって……」

半七は舌打ちした。

「そこを何とかするのが御用じゃあねえか。もうてめえ一人にあずけちゃあ置かれねえ。あしたはおれが直接に出張って行くから案内してくれ」

あくる日も秋らしい陰気な雨がしょぼしょぼ降っていたが、熊蔵は約束通りに迎いに来た。二人は傘をならべて片門前へ出て行った。

路地のなかは思いのほかに広かった。まっすぐにはいると、左側に大きい井戸があった。その井戸側について左へ曲がると、また<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>の手に幾軒かの長屋がつづいていた。しかし長屋は右側ばかりで、左側の空地は<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こうや</rt></ruby>の<ruby><rb>干場</rb><rt>ほしば</rt></ruby>にでもなっているらしく、所まだらに生えている低い秋草が雨にぬれて、一匹の野良犬が寒そうな顔をして餌をあさっていた。

「此処ですよ」と、熊蔵は小声で指さした。猫婆の南隣りはまだ空家になっているらしかった。二人は北隣りの大工の家へはいった。熊蔵は大工を識っていた。

「ごめん下さい。悪いお天気です」

外から声をかけると、若い女房のお初が出て来た。熊蔵は<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に腰をかけて挨拶した。途中で打ち合わせがしてあるので、熊蔵はこの頃この近所へ引っ越して来た人だと云って半七をお初に紹介した。そうして、今度引っ越して来た家はだいぶ<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>んでいるので、こっちの棟梁に手入れをして貰いたいと云った。その尾について、半七も丁寧に云った。

「何分こっちへ越してまいりましたばかりで、御近所の大工さんにだれもお馴染みがないもんですから、熊さんに頼んでこちらへお願いに出ましたので……」

「左様でございましたか。お役には立ちますまいが、この<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>ともに何分よろしくお願い申します」

得意場が一軒ふえることと思って、お初は笑顔をつくって如才なく挨拶した。二人を無理に内に招じ入れて、煙草盆や茶などを出した。外の雨の音はまだ止まなかった。昼でも薄暗い台所では鼠の駈けまわる音がときどきに聞えた。

「お宅も鼠が出ますねえ」と、半七は何気なく云った。

「御覧の通りの古い家だもんですから、鼠があばれて困ります」と、お初は台所を見返って云った。

「猫でもお飼いになっては……」

「ええ」と、お初はあいまいな返事をしていた。彼女の顔には暗い影がさした。

「猫といえば、隣りの婆さんの家はどうしましたえ」と、熊蔵は横合いから口を出した。「息子は相変らず精出して稼いでいるんですか」

「ええ、あの人は感心によく稼ぎますよ」

「こりゃあ此処だけの話だが……」と、熊蔵は声を低めた。「なんだか表町の方では変な噂をしているようですが……」

「へえ、そうでございますか」

お初の顔色がまた変った。

「息子が天秤棒でおふくろをなぐり殺したんだという噂で……」

「まあ」

お初は眼の色まで変えて、半七と熊蔵との顔を見くらべるように窺っていた。

「おい、おい、そんな詰まらないことをうっかり云わない方がいいぜ」と、半七は制した。「ほかの事と違って、親殺しだ。一つ間違った日にゃあ本人は勿論のこと、かかり合いの人間はみんな飛んだ目に逢わなけりゃあならない。滅多なことを云うもんじゃあないよ」

眼で知らされて、熊蔵はあわてたように口を結んだ。お初も急に黙ってしまった。一座が少し白らけたので、半七はそれを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に座を起った。

「どうもお邪魔をしました。きょうはこんな天気だから棟梁はお内かと思って来たんですが、それじゃあ又出直して伺います」

お初は半七の家を訊いて、亭主が帰ったら直ぐにこちらから伺わせますと云ったが、半七はあしたまた来るからそれには及ばないと断わって別れた。

「あの女房がはじめて猫婆の死骸を見付けたんだな」と、路地を出ると半七は熊蔵に訊いた。

「そうです。あの嬶、猫婆の話をしたら少し変な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をしていましたね」

「むむ、大抵判った。お前はもうこれで帰っていい。あとは俺が引き受けるから。なに、おれ一人で大丈夫だ」

熊蔵に別れて、半七はそれから他へ用達に行った。そうして、夕七ツ（午後四時）前に再び路地の口に立った。雨が又ひとしきり強くなって来たのを幸いに、かれは頬かむりをして傘を傾けて、猫婆の南隣りの空家へ忍び込んだ。彼は表の戸をそっと閉めて、しめっぽい畳の上にあぐらを掻いて、時々に天井裏へぽとぽとと落ちて来る<ruby><rb>雨漏</rb><rt>あまもり</rt></ruby>の音を聴いていた。くずれた壁の下にこおろぎが鳴いて、火の気のない空家は薄ら寒かった。

ここの家の前を通る傘の音がきこえて、大工の女房は外から帰って来たらしかった。

## 四

それから又半<ruby><rb>晌</rb><rt>とき</rt></ruby>も経ったと思う頃に、濡れた草鞋の音がこの前を通って、隣りの家の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に止まった。猫婆の息子が帰って来たなと思っていると、果たして籠や盤台を卸すような音がきこえた。

「七ちゃん、帰ったの」

お初が隣りからそっと出て来たらしかった。そうして、土間に立って何か息もつかずに<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いているらしかった。それに答える七之助の声も低いので、どっちの話も半七の耳には聴き取れなかったが、それでも壁越しに耳を引き立てていると、七之助は泣いているらしく、時々は<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をすするような声が洩れた。

「そんな気の弱いことを云わないでさ。早く三ちゃんのところへ行って相談しておいでよ。いいえ、もう一と通りのことはわたしが話してあるんだから」と、お初は小声に力を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて、なにか<ruby><rb>切</rb><rt>しき</rt></ruby>りに七之助に勧めているらしかった。

「さあ、早く行っておいでよ。じれったい人だねえ」と、お初は渋っている七之助の手を取って、曳き出すようにして表へ追いやった。

七之助は黙って出て行ったらしく、重そうな草鞋の音が路地の外へだんだんに遠くなった。それを見送って、お初は自分の家へはいろうとすると、半七は空家の中から不意に声をかけた。

「おかみさん」

お初は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょっ</span>として立ちすくんだ。空家の戸をあけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬっ</span>と出て来た半七の顔を見た時に、彼女の顔はもう灰色に変っていた。

「外じゃあ話ができねえ。まあ、ちょいと此処へはいってくんねえ」と、半七は先に立って猫婆の家へはいった。お初も無言でついて来た。

「おかみさん。お前はわたしの商売を知っているのかえ」と、半七はまず訊いた。

「いいえ」と、お初は微かに答えた。

「おれの身分は知らねえでも、熊の野郎が湯屋のほかに商売をもっていることは知っているだろう。いや、知っているはずだ。お前の亭主はあの熊と<ruby><rb>昵近</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>だというじゃあねえか。まあ、それはそれとして、お前は今の<ruby><rb>魚商</rb><rt>さかなや</rt></ruby>と何をこそこそ話していたんだ」

お初は俯向いて立っていた。

「いや、隠しても知っている。おめえはあの魚商に知恵をつけて、隣り町の三吉のところへ相談に行けと云っていたろう。さっきも熊蔵が云った通り、その晩にあの七之助が天秤棒でおふくろをなぐり殺した。それをおめえは知っていながら、あいつを<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>って三吉のところへ逃がしてやった。三吉がまた好い加減なことを云って白らばっくれて七之助を引っ張って来た。さあ、どうだ。この<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>いがはずれたら銭は取らねえ。長屋じゅうの者はそれで誤魔化されるか知らねえが、おれ達が素直にそれを承知するんじゃあねえ。七之助は勿論のことだが、一緒になって芝居を打った三吉もお前も同類だ。片っ端から<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎにするからそう思ってくれ」

嵩にかかって、嚇されたお初は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わっ</span>と泣き出した。かれは土間に坐って、堪忍してくれと拝んだ。

「次第によったら堪忍してやるめえものでもねえが、お慈悲が願いたければ真っ直ぐに白状しろ。どうだ、おれが睨んだに相違あるめえ。おめえと三吉とが<ruby><rb>同腹</rb><rt>ぐる</rt></ruby>になって、七之助の兇状を庇っているんだろう」

「恐れ入りました」と、お初はふるえながら土に手をついた。

「恐れ入ったら正直に云ってくれ」と、半七は声をやわらげた。「そこで、あの七之助はなぜおふくろを殺したんだ。親孝行だというから、最初から巧んだ仕事じゃあるめえが、なにか喧嘩でもしたのか」

「おふくろさんが猫になったんです」と、お初は思い出しても<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とするというように肩をすくめた。

半七は笑いながら眉を寄せた。

「ふむう。猫婆が猫になった……。それも何か芝居の筋書きじゃあねえか」

「いいえ。これはほんとうで、嘘も<ruby><rb>詐</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りも申し上げません。ここの家のおまきさんはまったく猫になったんです。その時にはわたくしも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっ</span>としました」

恐怖におののいている其の声にも顔色にも、詐りを包んでいるらしくないのは、多年の経験で半七にもよく判った。かれも釣り込まれてまじめになった。

「じゃあ、おまえもここの婆さんが猫になったのを見たのか」

確かに見たとお初は云った。

「それがこういう訳なんです。おまきさんの家に猫がたくさん飼ってある時分には、その猫に喰べさせるんだと云って、七之助さんは商売物のお<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>を毎日幾<ruby><rb>尾</rb><rt>ひき</rt></ruby>ずつか残して、家へ帰っていたんです。そのうちに猫はみんな芝浦の海へほうり込まれてしまって、家には一匹もいなくなったんですけれど、おふくろさんはやっぱり今まで通りに魚を持って帰れと云うんだそうです。七之助さんはおとなしいから何でも素直にあいあいと云っていたんですけれど、<ruby><rb>良人</rb><rt>うちのひと</rt></ruby>がそれを聞きまして、そんな馬鹿な話はない、家にいもしない猫に<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>い魚をたくさん持って来るには及ばないから、もう止した方がいいと七之助さんに意見しました」

「おふくろはその魚をどうしたんだろう」

「それは七之助さんにも判らないんだそうです。なんでも台所の戸棚のなかへ入れて置くと、あしたの朝までにはみんな<ruby><rb>失</rb><rt>なく</rt></ruby>なってしまうんだそうで……。どういうわけだか判らないと云って、七之助さんも不思議がっているので、良人が意地をつけて、物は試しだ、魚を持たずに一度帰ってみろ、おふくろがどうするかと……。七之助さんもとうとうその気になったと見えて、このあいだの夕方、神明様の<ruby><rb>御祭礼</rb><rt>おまつり</rt></ruby>の済んだ明くる日の夕方に、わざと盤台を<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>にして帰って来たんです。わたくしも丁度そのときに買物に行って、帰りに路地の角で逢ったもんですから、七之助さんと一緒に路地へはいって来て、すぐに別れればよかったんですが、きょうは盤台が空になっているからおふくろさんがどうするかと思って、<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に立ってそっと覗いていると、七之助さんは土間にはいって盤台を卸しました。すると、おまきさんが奥から出て来て……。すぐに盤台の方をじろりと見て……おや、きょうはなんにも持って来なかったのかいと、こう云ったときに、おまきさんの顔が……。耳が押っ立って、眼が光って、口が裂けて……。まるで猫のようになってしまったんです」

その恐ろしい猫の顔が今でも覗いているかのように、お初は薄暗い奥を透かして息をのみ込んだ。半七も少し<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>にまかれた。

「はて、変なことがあるもんだな。それからどうした」

「わたくしもびっくりして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思っていますと、七之助さんはいきなり天秤棒を振りあげて、おふくろさんの脳天を一つ打ったんです。急所をひどく打ったと見えて、おまきさんは声も出さないで土間へ転げ落ちて、もうそれ<ruby><rb>限</rb><rt>ぎ</rt></ruby>りになってしまったようですから、わたくしは又びっくりしました。七之助さんは怖い顔をしてしばらくおふくろさんの死骸を眺めているようでしたが、急にまたうろたえたような風で、台所から出刃庖丁を持ち出して、今度は自分の喉を突こうとするらしいんです。もう<ruby><rb>打捨</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>っては置かれませんから、わたくしが駈け込んで止めました。そうして訳を訊きますと、七之助さんの眼にもやっぱりおふくろさんの顔が猫に見えたんだそうです。猫がいつの間にかおふくろさんを喰い殺して、おふくろさんに化けているんだろうと思って、親孝行の七之助さんは親のかたきを取るつもりで、夢中ですぐに<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち殺してしまったんですが、殺して見るとやっぱりほんとうのおふくろさんで、<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>も出さなければ毛も生えないんです。そうすると、どうしても親殺しですから、七之助さんも覚悟を決めたらしいんです」

「婆さんの顔がまったく猫に見えたのか」と、半七は再び念を押すと、お初は自分の眼にも七之助の眼にも確かにそう見えたと云い切った。さもなければ、ふだんから親孝行の七之助が親の頭へ手をあげる道理がないと云った。

「それでも其のうちに正体をあらわすかと思って、死骸をしばらく見つめていましたが、おまきさんの顔はやっぱり人間の顔で、いつまで経っても猫にならないんです。どうしてあの時に猫のような怖い顔になったのか、どう考えても判りません。死んだ猫の魂がおまきさんに<ruby><rb>乗憑</rb><rt>のりうつ</rt></ruby>ったんでしょうかしら。それにしても七之助さんを親殺しにするのはあんまり可哀そうですし、もともと良人が知恵をつけてこんなことになったんですから、わたくしも七之助さんを無理になだめて、あの人がふだんから仲良くしている隣り町の三吉さんのところへ一緒に相談に行ったんですが、隣りは<ruby><rb>空店</rb><rt>あきだな</rt></ruby>ですし、路地を出這入りする時にも好い塩梅に誰にも見付からなかったんです。それから三吉さんがいろいろの知恵を貸してくれて、わたくしだけが一と足先へ帰って、初めて死骸を見つけたように騒ぎ出したんです」

「それでみんな判った。そこできょうおれ達が繋がって来たので、お前はなんだかおかしいぞと感づいて、さっき三吉のところへ相談に行ったんだな。そうして七之助の帰って来るのを待っていて、これも三吉のところへ相談にやったんだな。そうだろう。そこで其の相談はどう決まった。七之助をどこへか逃がすつもりか。いや、おまえに訊いているよりも、すぐに三吉の方へ行こう」

半七は雨のなかを隣り町へ急いでゆくと、七之助はけさから一度も姿を見せないと三吉は云った。隠しているかとも疑ったが、まったくそうでもないらしいので、ふと或る事が半七の胸に浮かんだ。彼はそこを出て、更に麻布の寺へ追ってゆくと、おまきの墓の前には新しい<ruby><rb>卒塔婆</rb><rt>そとば</rt></ruby>が雨にぬれているばかりで、そこらに人の影も見えなかった。

あくる日の朝、七之助の死骸が芝浦に浮いていた。それはちょうど長屋の人達がおまきの猫を沈めた所であった。

七之助はもう三吉のところに行かずに、まっすぐに死に場所を探しに行ったのであろう。いくらお初が証人に立っても、母の顔が猫にみえたという奇怪な事実を<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>にして、親殺しの<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>を逃がれることはできない。<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>に逢わないうちに自滅した方が、いっそ本人の仕合わせであったろうかと半七は思った。自分もまたこうした不運の親孝行息子に縄をかけない方が仕合わせであったと思った。

「お話はまあこういう筋なんですがね」と、半七老人はここで一と息ついた。「それからだんだん調べてみましたが、七之助はまったく孝行者で、とても正気で親殺しなんぞする筈はないんです。隣りのお初という女も正直者で、嘘なんぞ<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>くような女じゃありません。そうすると、まったくこの二人の眼にはおまきの顔が猫に見えたんでしょう。猫が<ruby><rb>乗憑</rb><rt>のりうつ</rt></ruby>ったのかどうしたのか不思議なこともあるもんですね。それからおまきの家をあらためて見ますと、縁の下から腐った魚の骨がたくさん出ました。猫がいなくなった後も、おまきはやっぱりその食い物を縁の下へほうり込んでいたものと見えます。なんだか気味が悪いので、家主もとうとうその家を取り毀してしまったそうですよ」