Soranoha

半七捕物帳

はんしちとりものちょう

岡本 綺堂

一

文化九年――申さる年の正月十八日の夜である。その夜も四ツ半(午後十一時)を過ぎた頃に、ふたりの娘が江戸小石川の目白不動堂を右に見て、目白坂から関口駒井町ちょうの方角へ足早にさしかかった。

駒井町をゆき抜ければ、音羽おとわの大通りへ出る。その七丁目と八丁目の裏手には江戸城の御賄おまかない組の組屋敷がある。かれらは身分こそ低いが、みな相当に内福であったらしい。今ここへ来かかった二人の娘は、その賄組の瓜生うりゅう長八の娘お北と、黒沼伝兵衛の娘お勝で、いずれも明けて十八の同い年である。

今夜は関口台町の鈴木という屋敷に歌留多かるたの会があったので、二人は宵からそこへ招かれて行った。いつの世にも歌留多には夜の更ふけるのが習いで、男たちはまだ容易にやめそうもなかったが、若い女たちは目白不動の鐘が四ツを撞つくのを合図に帰り支度に取りかかって、その屋敷で手ごしらえの五目鮨ごもくずしの馳走になって、今や帰って来たのである。屋敷を出る時には、ほかにも四、五人の女連れがあったのであるが、途中でだんだんに別れてしまって、駒井町へ来る頃には、お北とお勝の二人になった。

夜更けではあるが、ふだんから歩き馴れている路である。自分たちの組屋敷まではもう二、三丁に過ぎないので、ふたりは別に不安を感じることも無しに、片手に提灯ちょうちんを持ち、片袖は胸にあてて、少し俯向うつむいて、足を早めて来た。

坂を降りると、右側は二、三軒の屋敷と町屋で、そのあいだには寺もある。左側は殆どみな寺である。屋敷は勿論、町屋も四ツ過ぎには表の戸を閉めているので、寺町ともいうべき此の大通りは取り分けて寂しかった。春とは云っても正月なかばの暗い夜で、雪でも降り出しそうな寒い風がひゅうひゅう吹く。二人はいよいよ俯向き勝ちに急いで来ると、お北は何を見たか、俄かに立ち停まった。

「あら、なんでしょう」

お勝も提灯をあげて透かして見ると、ふたりの行くさきに一つの白い影が舞っているのである。更によく見ると、それは白い蝶である。普通に見る物よりやや大きいが、たしかに蝶に相違なかった。蝶は白い翅はねをひるがえして、寒い風のなかを低く舞って行くのであった。二人は顔を見あわせた。

「蝶々でしょう」と、お勝はささやいた。

「それだからおかしいと思うの」と、お北も小声で云った。「今頃どうして蝶々が飛んでいるのでしょう」

時は正月、殊にこの暗い夜ふけに蝶の白い形を見たのであるから、娘たちが怪しむのも無理はなかった。二人はそのまま無言で蝶のゆくえを見つめていると、蝶は寒い風に圧おされるためか、余り高くは飛ばなかった。むしろ地面を掠かすめるように低く舞いながら、往来のまん中から左へ左へ迷って行って左側の或る寺の垣に近寄った。それは杉の低い生垣いけがきで、往来からも墓場はよく見えるばかりか、野良犬のらいぬなどが毎日くぐり込むので、生垣の根のあたりは疎まばらになっていた。蝶はその生垣の隙間すきまから流れ込んで、墓場の暗い方へ影をかくした。

それを不思議そうに見送っていると、二人のうしろから草履の音がきこえて、五十ばかりの男が提灯をさげて来た。彼は通り過ぎようとして見返った。

「御組屋敷のお嬢さん達じゃあございませんか」

声をかけられて、二人も見かえると、男は音羽の市川屋という水引屋みずひきやの職人であった。ここらは江戸城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから起こったのであると云う。その関係から昔は江戸城の大奥で用いる紙や元結もっといや水引のたぐいは、この音羽の町でもっぱら作られたと云い伝えられ、明治以後までここらには紙屋や水引屋が多かった。この男もその水引屋の職人で、源蔵という男である。多年近所に住んでいるので、お北もお勝も子供のときから彼を識っていた。

「今時分どこからお帰りです」と、源蔵はかさねて訊きいた。

「鈴木さんへ歌留多かるたを取りに行って……」と、お北は答えた。

「ああ、そうでしたか」と、源蔵はうなずいた。「そうして、ここで何か御覧になったんですか」

「白い蝶々が飛んでいるので……」

「白い蝶々……。ご覧になりましたか」

「こんな寒い晩にどうして蝶々が飛んでいるのでしょう」と、お勝が訊いた。

「わたくしももう三度見ましたが……」と、源蔵も不思議そうに云った。「まったく不思議ですよ。去年の暮頃から、時々に見た者があると云いますがね。この寒い時節に蝶々が生きている筈がありませんや、おまけに暗い晩に限って飛ぶというのは、どうもおかしいんですよ」

武家の子とはいいながら、若い娘たちはなんとなく薄気味悪くなって、夜風がひとしお身にしみるように感じられた。

「蝶々はどっちの方へ飛んで行きました」と、源蔵はまた訊いた。

「お寺のなかへ……」

「ふうむ」と、源蔵は窺うように墓地の方を覗いたが、そこには何かの枯れ葉が風にそよぐ音ばかりで、新らしい墓も古い墓も闇の底に鎮まり返っていた。

提灯の火が又ひとつあらわれた。拍子木ひょうしぎの音もきこえた。火の番の藤助という男がここへ廻って来たのである。三人がここに立ち停まっているのを見て、藤助も近寄って来た。

「なにか落とし物でもしなすったかね」

彼も三人を識っているのである。源蔵から白い蝶の話を聞かされて、藤助も眉をよせた。

「その蝶々はわたしも時々に見るがな。なんだか気味がよくない。今夜はこの寺の墓場へ飛び込んだかね」

「誰かの魂たましいが蝶々になって、墓の中から抜け出して来るんじゃないかね」と、源蔵は云った。

「なに、墓から出るんじゃない、ほかから飛んで来るんだよ。墓場へはいるのは今夜が初めてらしい」と、藤助は云った。

「だが、蝶々が何処から飛んで来て、どこへ行ってしまうか、誰も見とどけた者は無い。第一、あの蝶々はどうも本物ではないらしいよ」

「生きているんじゃ無いのか」

「飛んでいるところを見ると、生きているようにも思われるが……。わたしの考えでは、あの蝶々は紙でこしらえてあるらしいね。どうも本物とは思われないよ」

聴いている三人は又もや顔を見あわせた。

「わたしもそこまでは気が付かなかったが……」と、源蔵はいよいよ不思議そうに云った。「紙で拵こしらえてあるのかな。だって、あの蝶々売が売りに来るのとは、違うようだぜ」

「蝶々売が売りに来るのは、子供の玩具おもちゃだ。勿論、あんな安っぽい物じゃあないが、どうも生きている蝶々とは思われない。白い紙か……それとも白い絹のような物か……どっちにしても、拵え物らしいよ。だが、その拵え物がどうして生きているように飛んで歩くのか、それが判らない。なにしろ不思議だ。あんな物は見たくない。あんなものを見ると、なにか悪いことがありそうに思われるからね。といって、わたしは商売だから、毎晩こうして廻っているうちに、忌いやでも時々見ることがある。気のせいか、あの蝶々をみた明くる日は、なんだか心持が悪くって……」

こんな話を聴かされて、三人はますます肌寒くなって来た。お勝はお北の袂たもとをそっと曳いた。

「もう行きましょうよ」

「ええ、行きましょう」と、お北もすぐ同意した。

「そうだ。だんだんに夜が更ふけて来る。お嬢さんたちはお屋敷の前まで送ってあげましょうよ」と、源蔵が云った。

藤助に別れて、三人はまた足早にあるき出したが、音羽の通りへ出るまでに、蝶は再びその白い影をみせなかった。娘たちの組屋敷は音羽七丁目の裏手にあるので、源蔵はそこまで送りとどけて帰った。

お北の父の瓜生長八は、城中へ夜詰よづめの番にあたっていたので、その夜は自宅にいなかった。瓜生の一家は長八と、妻のお由と、長女のお北と、次女のお年と、長男の長三郎と、下女のお秋の六人暮らしで、男の奉公人は使っていない。長三郎は十五歳で、お年は十三歳である。お北の帰りが少し遅いので、長三郎を迎えにやろうかと云っているところへ、お北は隣家のお勝と一緒に帰って来た。水引屋の職人に送って貰ったと云うのである。

「唯今……。どうも遅くなりました」

茶の間へ来て、母のまえに手をついた娘の顔は蒼かった。

「お前、どうしたのかえ」と、母のお由は怪しむように訊きいた。

「いいえ、別に……」

「顔の色が悪いよ」

「そうですか」

白い蝶が若い娘たちを気味悪がらせたには相違なかったが、お北自身は顔の色を変えるほどに脅おびやかされてもいなかった。彼女は却って母に怪しまれたのを怪しむくらいであった。しかし、まんざら覚えのないわけでも無いので、白い蝶の一件を母や妹に打ち明けようと思いながら、なぜかそれを口に出すのを憚はばかるような心持になって、お北は結局黙っていた。

「この春は風邪が流行はやると云うから、気をお付けなさいよ」と、なんにも知らない母は云った。

夜も更ふけているので、妹のお年は姉の帰りを待たずに、さっきから次の間の四畳半に寝ていたのであるが、このとき突然に魘うなされるような叫び声をあげた。なにか怖い夢でも見たのであろうと、お由は襖ふすまをあけて次の間へ行った。

唸っているお年を呼び起こして介抱すると、少女のひたいには汗の珠たまがはじき出されるように流れていた。

お年の夢はこうであった。彼女が姉と一緒に広い草原をあるいていると、姉の姿がいつか白い蝶に化かして飛んでゆく。おどろいて追おうとしたが、とても追いつかない。焦じれて、燥あせって、呼び止めようとするところを、母に揺り起こされたのである。

その夢の話を聴かされて、お北ははっと思った。今度こそは本当に顔色を変えたのである。しかもそうなると、白い蝶の一件を洩らすことがいよいよ憚られるように思われて、彼女はやはり口を閉じていた。母も少女の夢ばなしに格別の注意を払わないらしかった。

「子供のうちはいろいろの夢をみるものだ。姉さんはここにいるから、安心しておやすみなさい」

お年は再び眠った。他の人々も皆それぞれ寝床にはいったが、その後にはなんの出来事もなく、瓜生の一家は安らかに一夜を過ごした。宵からの疲れで、お北も他愛なく眠った。

風は夜のうちに止んでいたが、明くる朝は寒かった。こんにちと違って、その当時の音羽あたりは江戸の場末であるから、庭にも往来にも春の霜が深かった。早起きを習いとする瓜生の家では、うす暗いうちから寝床を離れて、お由は下女に指図して台所に立ち働いていた。お北は表へ出て門前を掃いていると、隣家の黒沼でももう起きているらしく、お勝も箒ほうきを持って門前へ出てきた。ふたりの娘はゆうべの挨拶を終ると、お勝は摺り寄ってささやくように云った。

「あなた、ゆうべの事を誰かに話しましたか」

「いいえ。まだ誰にも……」

「わたしはお母さまに話したのですよ」と、お勝はいよいよ声をひくめた。「そうしたら、お母さまはもう白い蝶々のことを知っているのです」

「お母さまも見たのですか」

「自分は見ないけれども、その話は聞いているのだそうです。お父さまに話したらば、そんな馬鹿なことを云うなと叱られたので、それぎり誰にも云わなかったのだそうです」

御賄組などはその職務の性質上、どちらかと云えば武士気質さむらいかたぎの薄い人々が多いのであるが、お勝の父の黒沼伝兵衛は生まれつき武士気質の強い男で、組じゅうでも義理の堅い、意地の強い人物として畏敬されていた。その伝兵衛に対してお勝の母が何か怪談めいた事など話した場合、あたまから叱り飛ばされるのは知れ切っていた。

お勝の母の話によると、このごろ夜が更けると怪しい蝶が飛びあるく。それはお勝らが見たのと同じように、普通の物よりやや大きい白い蝶で、それが舞い込んだ家には必ず何かのわざわいがある。多くは死人を出すと云うのである。

「お母さまがどうしてそんな事を御存じなのでしょう」と、お北は又訊きいた。

「それはね」と、お勝は更に説明した。「四、五日前に白魚河岸しらうおがしのおじさんが御年始にきた時に、お母さまに話したので……。八丁堀でも内々探索たんさくしているのだそうです」

白魚河岸のおじさんと云うのは黒沼の親類で、姓を吉田といい、白魚の御納屋おなやに勤めている。吉田は土地の近い関係から、八丁堀同心らとも知合いが多いので、その同心の或る者から白い蝶の秘密を洩れ聞いたらしい。してみると、まんざら無根の流言りゅうげんとも云えないのであるが、伝兵衛は飽くまでもそれを否認していた。彼はこんなことまで云った。

「白魚河岸がそんな出たらめを云うのか。さもなければ、この頃はお膝元が太平で、八丁堀の奴らも閑ひまで困るもんだから、そんな、詰まらない事を云い触らして、忙がしそうな顔をしているのだ。ばかばかしい」

こう一と口に云ってしまえばそれ迄であるが、白魚河岸のおじさんは嘘を云うような人ではない。八丁堀の人たちが幾ら閑ひまだからといって、根も葉もないことに騒ぎ立てるはずもあるまいと、お勝の母は夫に叱られながらも、内心はそれを信じていた。

その矢さきに、お勝が現在その白い蝶の飛ぶ姿を見たと云うのであるから、母はいよいよそれを信じないわけには行かなくなった。

「それですから当分は夜歩きをしない方がいいと、お母さまは云っているのですよ」と、お勝はさらに付け加えた。

二

門前の掃除を仕舞ってお北はわが家へはいったが、今のお勝の話がなんとなく気にかかって、彼女は暗い心持になった。

お勝の父がいかにそれを否認しても、白い蝶の怪異はまんざら跡方のないことでも無いように思われた。

ことに妹のお年がゆうべの夢にうなされて、姉が白い蝶に化して飛び去ろうとしたと云う話が、また今更のように思い合わされて、お北は一種の恐怖を感じないわけには行かなかった。白い蝶と自分とのあいだに、何かの因縁が結び付けられているのではないかとも恐れられた。しかもそれを母や弟に打ちあけるのを憚はばかって、彼女はやはり黙って朝飯の膳にむかった。

「お前はゆうべからどうも顔の色が悪いようだが、まったく風邪かぜでも引いたのじゃあないか」と、母のお由は再び訊いた。

「いいえ、別に……」と、お北はゆうべと同じような返事をしていたが、自分でも少し悪寒さむけがするように感じられてきた。気のせいか、蟀谷こめかみもだんだん痛み出した。

弟の長三郎は朝飯の箸をおくと、すぐに剣術の稽古に出て行った。四ツ(午前十時)頃に、父の長八は交代で帰ってきたが、これも娘の顔をみて眉をよせた。

「お北、おまえは顔色がよくないようだぞ。風邪でも引いたか」

父からも母からも風邪引きに決められてしまった。お北はとうとう寝床にはいることになった。下女のお秋は音羽の通りまで風邪薬を買いに出た。

お北は実際すこし熱があるとみえて、床にはいると直ぐにうとうとと眠ったが、やがて又眼がさめると、茶の間でお秋が何事をか話している声がきこえた。お秋が小声で母と語っているのであるが、襖ひとえの隣りであるから、寝ているお北の耳にも大抵のことは洩れきこえた。

「わたくしが薬屋へまいりますと、丁度お隣りのお安さんもお薬を買いに来ていまして、お隣りのお勝さんもやはり寝ておいでなさるそうで……」

「じゃあ、どっちも夜ふかしをして風邪を引いたのだね」と、お由は云った。

「いいえ、それがおかしいので……」

お秋は更に声を低めたが、とぎれとぎれに聞こえる話の様子では、かの白い蝶の一件について訴えているらしい。いずれにしても、お勝も床に就いたのである。

「まあ、そんなことがあったのかえ。お北はなんにも云わないので、わたしはちっとも知らなかったが……」と、お由は不安らしく云った。「そうすると、お勝さんもお北も唯の風邪じゃあ無いのかしら」

それから後は又もや声が低くなったが、やがてお秋が台所へさがり、お由は立って父の居間へ行ったらしかった。そのうちに、お北は又うとうとと眠ってしまったので、その後のことは知らなかったが、ふたたび眼をさますと、もう日が暮れていた。

このごろの癖で、夕方から又もや寒い風が吹き出したらしく、どこかの隙間から洩れて来る夜の風が枕もとの行燈あんどうの火を時々に揺らめかしていた。

お北が枕から顔をあげると、行燈の下には母のお由がやはり不安らしい眼色をして、娘の寝顔を窺うように坐っていた。

「どうだえ、心持は……」と、お由はすぐに訊いた。「少しは汗が取れましたかえ」

云われて気がつくと、お北の寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。母は手伝って寝巻を着かえさせて、娘をふたたび枕に就かせたが、十分に汗を取ったせいか、お北の頭は軽くなったように思われた。それを聴いて、お由はやや安心したようにうなずいたが、やがて又ささやくように話し出した。

「それはまあ好かった。実はわたしも内々心配していたんだよ。どうも唯の風邪でも無いらしいからね。おまえの寝ているあいだに、お隣りの黒沼の小父さんが来て……」

「お勝さんも悪いんですってね」と、お北も低い声で云った。

「けさまでは何ともなかったのだが、お午ひるごろから悪くなって、やっぱりお前と同じように、風邪でも引いたような工合ぐあいで寝込んでしまったのだが、それには仔細しさいがあるらしいと云うので、黒沼の小父さんが家うちへ聞き合わせに来なすったのだよ。ゆうべの歌留多の帰りに、目白下のお寺の前で、白い蝶々を見たと云うが、それは本当かと云うことだったが、お前も病気で寝ているから、あとで好く訊いておくと返事をして置いたのさ。そうすると黒沼の小父さんは、それでは又来ると云って出て行ったが、その足で音羽の通りへ出て、あの水引屋の……市川屋の店へ行って、職人の源蔵に逢って、何かいろいろ詮議をした末に、源蔵を案内者にして、お寺の方まで行ったのだとさ」

黒沼伝兵衛は娘の病気から白い蝶の一件を聞き出したが、元来そういうたぐいの怪談を信じない彼は、一応その虚実を詮議するために、そのとき一緒に道連れになったと云う市川屋の源蔵をたずねたのである。その結果を早く知りたいので、お北は忙がわしく訊いた。

「それからどうして……」

「あの小父おじさんのことだからね」とお由は少しく笑顔を見せた。「なんでも源蔵を叱るように追いまわして、その蝶々を見たのはどの辺かということを厳重に調べたらしい。蝶々は生垣をくぐってお寺の墓場へ飛んで行ったと云うので、今度はお寺へはいって墓場を一々見てあるいたが、別にこれぞという手がかりも無く、蝶々の死骸らしい物も見付からなかったそうだよ。それでもまだ気が済まないと見えて、黒沼の小父さんはお寺の玄関へまわって、坊さんにも逢って、白い蝶々について何か心あたりはないかと聞き合わせてみたが、お寺の方ではなんにも知らないと云うので、とうとう思い切って引き揚げてきたそうだが……。なにしろ不思議なこともあるものさね。おまえも本当にその蝶々を見たのかえ」

もう隠してもいられなくなって、お北はゆうべの一件を母に打ち明けると、お由の顔はまた陰くもった。若い娘たちが夜ふかしをして、夜道をあるいて、ふたりが同時に風邪を引いた。――そんなことは一向にめずらしく無いのであるが、それに怪しい蝶の一件が絡からんでいるだけに、二人の病気には何かの因縁があるように思われないでもなかった。

「家うちのお父さまはね」と、お由は又云った。「ああいう人だから、今度のことについて別に嘘だとも本当だとも云わないけれど、わたしはなんだか気になって……。もしやお前が悪くでもなっては大変だと、内々案じていたのだが、この分じゃ仔細も無さそうだ。それにしても、お勝さんの見舞ながらお隣りへ行って、おまえも確かにその蝶々を見たと云うことを、小父さんに話して来なければなるまい。わたしはこれからちょっと行って来ますよ」

お由は有り合わせの菓子折か何かを持って、直ぐに隣りへ出て行った。その留守に、お北は妹を枕もとへ呼んで、ゆうべの夢のことに就いて更に詮議すると、お年は確かに姉さんが白い蝶々になった夢をみたと云った。子供の夢ばなしなど、ふだんは殆ど問題にもならないのであるが、今のお北に取っては何かの意味ありげにも考えられた。彼女はなんだか薄気味悪くなって、この部屋のどこかに蝶の白い影が迷っているのでは無いかと、寝ながらに部屋の隅々を見まわした。

半晌ばかりの後に、お由は帰って来て、娘の枕もとで又こんな事をささやいた。

「おまえとは違って、お勝さんはどうも容態ようだいがよくないようで、丁度お医者を呼んで来たところさ。お医者は質たちの悪い風邪だと云ったそうだけれど、小父さんはよっぽど心配しているようだったよ」

「小父さんは何と云っているのです」

「黒沼の小父さんはまだ本当にはしていないらしいのだがね。それでも自分の娘が悪くなったし、お前も確かにその蝶々を見たと云うのだから、少し不思議そうに考えているようだったが……。黒沼の小父さんの話では、それがもう町方まちかたの耳にもはいって、内々で探索をしていると云うことだから、嘘か本当かは自然に判るだろうけれど……。まあ当分は日が暮れてから外へ出ないに限りますよ。姉さんばかりじゃない、お年も気をおつけなさい」

娘たちを戒いましめて、その晩は早く寝床に就いたが、表に風の音がきこえるばかりで、ここの家には何事もなかった。明くる朝はお北の気分もいよいよ好くなったが、それでも用心してもう一日寝ていることにしたので、弟の長三郎が代って門前を掃きに出ると、となりの黒沼には男の子がないので、下女のお安が門前を掃いていた。

ここで長三郎は、お安の口から更に不思議なことを聞かされた。

ゆうべの夜なかに、病人のお勝が苦しそうに唸うなり声をあげたので、父の伝兵衛が起きて行ってうかがうと、お勝の部屋には燈火あかりを消してあって、一面に暗いなかに小さい白い影が浮いて見えた。それは白い蝶である。蝶は羽はねをやすめてお勝の衾よぎの上に止まっている。伝兵衛は床の間の刀を取って引っ返して来て、まずその蝶を逐おおうとしたが、蝶はやはり動かない。伝兵衛は刀の鞘のままで横に払うと、蝶はひらひらと飛んで自分の寝巻の胸にはいった。

伝兵衛は妻のお富をよびおこして手燭をともさせ、寝巻を払ってあらためたが、どこにも蝶の影は見えなかった。あなたの眼のせいでしょうとは云ったが、お富も一種の不安を感じないでもなかった。お勝をゆりおこして訊きいてみたが、お勝は別におそろしい夢に魘うなされたのでも無く、唯うとうとと眠っていて何事も知らないと云った。

話は単にそれだけのことで、しょせんは伝兵衛の眼の迷いと云うことに帰着してしまったのであるが、場合が場合であるだけに、どの人の胸にも消えやらない疑いが残っていた。臆病なお安は頭から衾よぎを引っかぶって夜の明けるまでおちおちとは眠られなかった。

「黒沼の小父さんも年を取ったな」と、長三郎はその話を聴きながら、肚はらのなかで笑った。

ふだんはそんな怪談をあたまから蹴散らしていながら、いざとなれば心の迷いからそんな怪しみを見るのである。年を取ったと云っても、四十を越してまだ間もないのに、人間はそんなにも弱くなるものかなどとも考えた。

「そんなことは誰にも話さない方がいい。わたしも黙っているから」と、長三郎はお安に注意するように云った。

「ええ。誰にも云っちゃあならないと、御新造ごしんぞうさまからも口止めされているんです」と、お安も云った。

口止めされながら、直ぐに他人にしゃべってしまうのである。長三郎は若い下女の口善悪くちさがないのを憎みながらいい加減にあしらって家へはいった。そうして、朝飯を食ってしまってから、素知らぬ顔で隣りの家へ見舞にゆくと、お勝の容態はやはり好くないらしかった。

「姉さんは……」と、母のお富が訊いた。

「姉はもう好くなりまして、きょう一日も寝ていたらば起きられるでしょう」

「それは仕合わせでしたな。家うちの娘はまだこの通りで……」

「御心配ですね」

そんな挨拶をしているうちに、主人の黒沼伝兵衛が奥から出て来た。

「長さん。こっちへ来てくれ」

長三郎を自分の居間へよび入れて、伝兵衛はしずかに云い出した。

「若い者の手前、まことに面目のないことだが、ゆうべは少し失策しくじりをやったよ」

「どんなことですか」

長三郎はやはり素知らぬ顔をしていると、伝兵衛は自分の口から白い蝶の話をはじめた。それはさっきお安が長三郎に洩らしたと同じ出来事であった。伝兵衛は正直にゆうべの失策を打ちあけた後に、みずから嘲るように苦笑にがわらいをした。

「わたしも小身ながら武士の端はしくれだ。世に不思議だの、妖怪だのと云うものがあろうとは思っていない。怪力乱神を語らずとは、孔子も説いている。かの白い蝶の一件は、先日も白魚河岸の親類が来て、何か家内に話して行ったそうだが、わたしは別に気にも掛けずにいた。いや、まったくばかばかしい話だと思っていたのだ。ところが、おとといの晩は家うちのお勝も見た。お前の姉さんも見たと云う。まだそればかりでなく、あの水引屋の……職人の源蔵も見たと云う。源蔵は正直者で、むやみに嘘を云うような男でもない。してみると、これには何か仔細があるらしく思われる。就いては、物は試ためしだ。わたしは今夜、目白坂の辺へ行って、果たしてその白い蝶が飛ぶかどうかを探索してみようと思うのだが、どうだ、お前も一緒に行ってみないか」

その頃の若侍のあいだには「胆きもだめし」と唱えて、あるいは百物語を催し、あるいは夜ふけに墓場へ踏み込み、あるいは獄門首の晒さらされている場所をたずねる、などの冒険めいた事がしばしば行なわれていた。伝兵衛が長三郎を誘ったのも、その意味である。長三郎のかよっている剣術の道場でも、これまで往々にそんな催しがあったが、彼はまだ十五歳の前髪であるので、とかくにその仲間から省はぶかれ勝ちであるのを、彼はふだんから残念に思っていた。その矢さきへ、この相談を持ち掛けられたのであるから、長三郎はよろこんで即座に承諾した。彼はぜひ一緒に連れて行ってくれと答えると、伝兵衛は然さもこそと云うようにうなずいた。

「むむ。お前ならばきっと承知するだろうと思った。では、今夜の五ツ頃(午後八時)から出かける事にしよう。だが親父やおふくろが承知するかな」

「夜学に行くことにして出ます」

長三郎は護国寺門前まで漢籍の夜学に通うのであるから、両親の手前はその夜学にゆくことにして怪しい蝶の探索に出ようと云うのである。その相談が決まって、彼は威勢よく我が家へ帰った。

「あなたはともかくも、年の若い長さんなぞを連れ出して、なにかの間違いがあると困りますよ」と、妻のお富は不安そうに云った。

「なに、あいつは年が行かないでも、なかなかしっかりしているから、大丈夫だよ」

伝兵衛は笑っていた。

三

廿日正月はつかしょうがつという其の日も暮れて、宵闇よいやみの空に弱い星のひかりが二つ三つただよっていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。

「寒い、寒い。この正月は悪く吹きゃあがるな。ほんとうに人泣かせだ」

この北風にさからって江戸川橋の方角から、押し合うように身を摺り付けて歩いて来たのは、二人の中間ちゅうげんである。どちらも少しく酔っているらしく、その足もとが定まらなかった。

「いくら寒くっても、ふところさえ温あったかけりゃあ驚くこともねえが、陽気は寒い。ふところは寒い。内そとから責められちゃあやり切れねえ」と、ひとりが云った。

「まったくやり切れねえ」と、他のひとりも相槌あいづちを打った。

「仕方がねえ。叱られるのを承知で、また御用人を口説くどくかな」

「いけねえ、いけねえ。うちの用人と来た日にゃあとてもお話にならねえ。それよりもお近ちかに頼んだ方がいい。たんとの事は出来ねえが、一朱や二朱ぐれえの事はどうにかしてくれらあ」

「お近に……。おめえ、あの女に借りたことがあるのか」

「ほかの者にゃあどうだか知らねえが、おれには貸してくれるよ」

「まさか情夫いろになった訳じゃあるめえな」

「情婦いろになってくれりゃあいいが、まだそこまでは運びが付かねえ」

「それにしても、不思議だな。あの女がおめえに金を貸してくれると云うのは……。どうして貸してくれるんだよ」

「はは、それは云えねえ。なにしろ、おれには貸してくれるよ。おれが口説けば、お近さんは貸してくれるんだ」

「それじゃあ、おれも頼んでみようかな」

「馬鹿をいえ。おめえなんぞが頼んだって、四文も貸してくれるもんか。はははははは」

こんなことを話しながら、押し合ってゆく二人のうしろには、又ひとつ黒い影が付きまとっていた。音羽の七丁目から西へ切れると、そこに少しばかりの畑地がある。そこへ来かかった時に、むこうから拍子木ひょうしぎの音が近づいて、火の番の藤助の提灯がみえた。

「今晩は」と、藤助が先ず声をかけた。

「やあ、御苦労だな」と、中間のひとりが答えた。「べらぼうに寒いじゃあねえか」

「お寒うございますな」

「いくら廻り場所だって、こんなところを正直に廻ることもあるめえ。ここらにゃあ悪い狐がいるぜ」と、他のひとりが笑いながら云った。

「なに、狐の方でもお馴染なじみだから大丈夫ですよ」と、藤助も笑いながら云った。「おまえさん方は今夜も御機嫌ですね」

「あんまり御機嫌でもねえ。無けなしの銭でちっとばかりの酒を飲んで、これから帰ると門番に文句を云われて、御用人に叱られて、どうで碌なことじゃあねえのさ」

「そう云っても、こいつにはお近さんと云ういい年増が付いているのだから仕合わせだよ」

「ええ、つまらねえことを云うな」

「お近さん……」と、藤助の眼は暗いなかで梟ふくろうのように光った。「お近さんと云うのは、お屋敷のお近さんですかえ」

「むむ、そうだ」

中間はなま返事をして、そのまま歩き出した。

他のひとりも続いて行った。藤助はまだ何か訊ききたそうな様子で、ふた足ばかり行きかけたが、又思い直したらしく、中間どものうしろ姿を見送ったばかりで引っ返して大通りへ出ようとするとき、彼は何かに驚かされたように、俄かに畑のかたを見返ると、そこには小さくうずくまっている物があった。それは狐ではない。人であるらしかった。

人は這うように身をかがめて、畑から往来へ忍び出たかと思うと、草履の音をぬすんで、かの中間共のあとを追って行くらしかった。それと同時に、藤助の提灯の火は風に吹き消されたのか、わざと吹き消したのか、たちまちに暗くなった。彼もまた抜き足をして、その黒い影のあとを追って行った。

一方にこういう事のあるあいだに、又一方には目白坂下の暗い寺門前に、二つの暗い影がさまよっていた。それは黒沼伝兵衛と瓜生長三郎で、かれらは昼間の約束通りに、白い蝶の正体を見とどけに来たのである。長三郎は小声で云った。

「小父さん。この辺ですね」

「この辺だ。きのう源蔵に案内させて、よく調べて置いた。蝶々はあの生垣をくぐって、墓場へ舞い込んだと云うことだ」と、伝兵衛は暗いなかを指さした。

「毎晩ここらへ出るのでしょうか」

「それは判らない。だが、まあ、ここらに網を張っているよりほかはあるまい。風を避よけるために、この門の下にはいっていろ」

「なに、構いません。わたしはそこらへ行って見て来ましょうか」

「むむ、犬もあるけば棒にあたると云うこともある。ただ突っ立っているよりも、少し歩いてみるかな」

「小父さんはここに待ち合わせていて下さい。わたしがそこらを見廻って来ます」

云うかと思うと、長三郎は坂の上へむかって足早に歩き出した。風はなかなか吹き止まないで、寺内の大きい欅けやきの梢をひゅうひゅうと揺すって通ると、その高い枝にかかっている破れ紙鳶だこが怪しい音を立ててがさがさと鳴った。

強い風をよけながら、暗いなかに眼を配って、長三郎は坂の上まで登り切ると、とある屋敷の横町から提灯の火がゆらめいて来た。どこをどう廻って来たのか知らないが、火の番の藤助はここへ出て来たのである。彼は拍子木を鳴らしていなかったが、その提灯のひかりで長三郎は早くも彼を知った。

「おい、火の番。今夜はここらで蝶々の飛ぶのを見なかったかね」と、長三郎は近寄って声をかけた。

「おお、瓜生の若旦那ですか」と、藤助は少しく提灯をかざして、長三郎のすがたを透かし視た。「あなたは蝶々を探しておいでなさるんですか」

「おとといの晩、うちの姉さんがここらで白い蝶々を見たと云うから、わたしも今夜さがしに来たのだ。おまえも見たことがあるそうだね」

藤助はそれに答えないで、また訊きいた。

「その蝶々をさがして、どうなさるんです」

「どうと云うことも無いが、その蝶々が何だかおかしいから、つかまえて見ようと思うのだ」

「つかまえて……どうなさるんです」

「唯、つかまえるだけの事だ」と、長三郎はその以上のことを洩らさなかった。

「それならばお止めなさい」と、藤助は諭さとすように云った。「白い蝶々の飛ぶことはあります。寒い時に蝶々が飛ぶ。……考えてみれば不思議ですが、それには又なにか仔細があるのでしょう。お武家のあなた方がそんなことにお係り合いなさらぬ方がよろしいんです」

「いや、少し訳があるので係り合うのだ。それで、おまえは今夜も見たのか」

藤助は首を振った。

「その蝶々の飛ぶのは、ここらに限ったことじゃありません。毎晩屹度きっとここらへ出ると決まっているんじゃありませんから、探してお歩きなすっても無駄なことですよ。今夜はあなたお一人ですか。それともお連れがあるんですか」

なんと答えてよいかと、長三郎はやや躊躇したが、やがて正直に云った。

「実は黒沼の小父さんと一緒に来たのだ」

「黒沼の旦那……」と、藤助は冷やかに云った。「その旦那はどこにおいでです」

「坂下の門前に待っているのだ」

「はあ、そうですか」

藤助の声はいよいよ冷やかに聞こえたばかりでなく、提灯の火に照らされた其の顔には冷やかな笑いさえ浮かんだ。

「今も申す通り、ここらを探しておいでになっても、白い蝶々はめったに姿を見せやあしませんよ。かぜでも引かないうちに、早くお引き揚げになった方が、よろしゅうございましょう」

彼はこう云い捨てて、軽く会釈えしゃくしたままで立ち去ったが、長三郎はまだ其処にたたずんでいた。

拍子木ひょうしぎの音は坂を横ぎって、向う横町の方へだんだんに遠くなるのを聞きながら、長三郎は考えた。藤助の話によると、白い蝶は毎晩ここらに出ると限ったわけでも無いと云う。それは自分も覚悟して来たのであるが、ここらを毎晩廻っている火の番がそう云う以上、めったに姿を見せない蝶をたずねて、いつまでも寒い風のなかに徘徊しているのは、なんだかばかばかしいように思われて来た。

「いっそ小父さんに相談して来ようか」

彼は引っ返そうとして、また躊躇した。折角ここまで踏み出して来ながら、まだ碌々の探索もしないで引っ返しては気怯きおくれがしたようにでも思われるかも知れない。長三郎は意気地なしであると、黒沼の小父さんに笑われるのも残念である。ともかく、もう少し歩いてみた上の事だと、長三郎は思い直して又あるき出したが、闇のなかには彼の眼をさえぎる物もなかった。

まだ五ツ半(午後九時)を過ぎまいと思われるのに、ここらの屋敷町はみな眠ってしまったように鎮まっていた。唯きこえるのは風の音ばかりである。

長三郎はあても無しに其処らを一巡して、坂の上まで戻って来ると、だんだんに更ふけてゆく夜の寒さが身に沁み渡った。

「小父さんも待っているだろう」

もうこのくらいで引っ返してもよかろうと思って、長三郎は坂を降りた。もとの寺門前へ来かかった時に、彼は俄かに立ちどまって、口のうちであっと叫んだ。大きい白い蝶が闇のなかにひらひらと飛んでゆくのを見たのである。彼は眼を据えて、その行くえを見定めようとする間に、怪しい蝶の影は忽ち消えるように隠れてしまった。

早くそれを小父さんに報告しようと、彼は足早に門前へ進み寄ったが、そこに伝兵衛のすがたは見いだされなかった。わたしの帰りの遅いのを待ちかねて、小父さんもどこへか出て行ったのかと、長三郎は暗い門前を見まわしているうちに、その足は何物にかつまずいた。それが人であるようにも思われたので、彼はひざまずいて探ってみると、それは確かに人であった。しかも大小をさしていた。

長三郎ははっと思って慌てて其の人をかかえ起こした。

「小父さんですか。黒沼の小父さん。……小父さん」

人はなんとも答えなかった。しかもそれが伝兵衛であるらしいことは、暗いなかにも大抵は推察されたので、長三郎はあわてて又呼びつづけた。

「小父さん……小父さん……。黒沼の小父さん」

その声を聞き付けたらしく、どこからか提灯の火があらわれた。それは火の番の藤助である。彼は提灯をかざして近寄った。

「どうかなすったんですか」

「あかりを見せてくれ」と、長三郎は忙がわしく云った。

その火に照らされた人は、まさしく黒沼伝兵衛であった。彼は刀の柄つかに手をかけたままで、息が絶えていた。慌てながらもさすがは武家の子である。長三郎は直ぐにその死骸をひきおこして身内みうちをあらためたが、どこにも斬り傷または打ち傷らしい痕も見いだされなかった。

「早く水を持って来てくれ」と、長三郎は藤助を見かえった。

藤助は提灯をかざした儘で、唯だまって突っ立っているので、長三郎は焦じれるように又云った。

「おい。この寺へ行って、早く水を貰って来てくれ」

「寺はもう寝てしまいましたよ」と、藤助はしずかに云った。

「それじゃあ井戸の水を汲んで来てくれ」

「水を飲ませたぐらいで、生き返るでしょうか」

「なんでもいいから、早く水を汲んで来い」と、長三郎は叱り付けるように叫んだ。

藤助は無言で寺の門内にはいった。提灯は彼と共に去ってしまったので、門前はもとの闇にかえった。その暗いなかで、長三郎は黒沼の小父さんの死骸をかかえながら、半分は夢のような心持で、氷った土の上に小膝をついていた。

その夢のような心持のなかでも、彼はかんがえた。小父さんが急病で仆たおれたので無いことは、刀の柄つかに手をかけているのを見ても判っている。小父さんは何物にか出会って、刀をぬく間もなしに仆たおれたのであろう。長三郎はかの白い蝶を思い出した。自分はたった今、こちらで怪しい蝶の影をみたのである。小父さんはかの蝶のために仆たおされたのではあるまいか。長三郎は一種の恐怖を感ずると共に、又一方にはおさえがたい憤怒ふんぬが胸をついた。

「畜生、おぼえていろ」

彼は肚はらのなかで叫びながらあたりの闇を睨んでいるとき、藤助の提灯の火が鬼火おにびのように又あらわれた。彼は片手に小さい手桶をさげている。

血のめぐりが悪いのか、あるいは意地が悪いのか、こういう場合にも彼はさのみに慌てている様子もみせず、いつもの足取りで徐しずかに歩いて来るらしいのが、又もや長三郎を焦燥いらだたせた。

「おい。早く……早く……」

呶鳴り付けられても、彼はやはり騒ぎもせず、無言で門へ出て来ると、長三郎は引ったくるようにその手桶を受け取った。手桶に柄杓ひしゃくが添えてあるので、長三郎はその柄杓に水を汲んで、伝兵衛の口にそそぎ入れた。

「小父さん……小父さん……。しっかりして下さい」

伝兵衛は答えなかった。柄杓の水も喉へは通らないらしかった。それが当然であると思っているかのように、藤助は黙って眺めていた。

「仕方がない。寺へ連れ込んで、医者を呼ぼう」と、長三郎は柄杓を投げ捨てながら云った。

藤助はやはり無言で立っていた。どこかで梟ふくろうの声がきこえた。

四

黒沼伝兵衛の死骸は寺内へ運び込まれた。とかくに落ち着き顔をしている火の番の藤助を追い立てるように指図さしずして、長三郎は近所の医者を迎えにやった。近所といっても四、五丁距はなれているので、藤助は直ぐに帰って来ない。そのあいだに、寺僧も手伝って種々介抱に努めたが、伝兵衛の死骸は氷のように冷えて行くばかりであった。

「お気の毒なことでござるな」と、住職ももう諦めたように云った。

長三郎は無言で溜め息をついた。飛んだことになってしまったと、今夜の企くわだてを今さら悔むような心持になった。しかもそんな愚痴を云っている場合ではない。しょせん蘇生そせいの望みがないと諦めた以上、医者の来るのを待っているまでもなく、一刻も早く黒沼の家へ駈け付けて、この出来事を報告して来なければなるまいと思ったので、彼は死骸の番を寺僧に頼んで表へ出た。

寺では提灯を貸してくれたので、長三郎はそれを振り照らして出たが、風が強いのと、あまりに慌てて駈け出した為に、寺の門を出てまだ三、四間も行き過ぎないうちに、提灯の火はふっと消えてしまった。また引っ返すのも面倒であるので、さきを急ぐ長三郎は暗いなかを足早に辿たどって行くと、どこから出て来たのか、突き当たらんばかりに、ひとりの男が小声で呼びかけた。

「あ、もし、もし……」

不意に声をかけられて、長三郎はぎょっとして立ち停まったが、相手のすがたは闇につつまれて見えなかった。

「あのお侍さんは死にましたか」と、男は訊きいた。

なんと答えていいかと、長三郎はすこし躊躇していると、男は重ねて云った。

「あのかたは何と仰しゃるんです」

長三郎はこれにも答えることは出来なかった。黒沼伝兵衛が往来なかで訳のわからない横死おうしを遂げたなどと云うことが世間に洩れきこえると、あるいは家断絶というような大事になるかも知れないのであるから、迂闊うかつな返事をすることは出来ない。殊に心の急せいている折柄、こんな男に係り合っているのは迷惑でもあるので、彼は無愛想に答えた。

「そんなことは知らない」

「お若いかたですか」

「知らない、知らない」

云い捨てて長三郎は又すたすたと歩き出すと、男は執念深く付いて来た。

「それから、あの……」

まだ何か訊こうとするらしいので、長三郎は腹立たしくなった。それには云い知れない一種の不安も伴って、彼は無言で逃げるように駈け出した。暗闇を駈けて、音羽の大通りの角まで来ると、彼はまた何者にか突き当たった。

「瓜生さんの若旦那ですか」と、相手は声をかけた。

それは藤助である。彼の持っている提灯も消えているらしい。

「医者は……」と、長三郎はすぐに訊いた。

「もう寝ているのを叩き起こしました。あとから参ります」

「じゃあ。頼むよ」

長三郎はそのまま駈けつづけて、自分の組屋敷へ帰った。もうこうなっては親たちに隠して置くことは出来ない。あとでどんなに叱られるにしても、万事を正直に報告して置かなければならないと思ったので、彼は先ず自分の家へ立ち寄ると、父も母も意外の報告におどろかされた。父の長八は慌てて身支度をして伜と一緒に表へ飛び出した。

二人はとなりの黒沼の門を叩くと、妻のお富も娘のお勝も玄関に出て来た。かれらも意外の報告におどろかされて、直ぐに其の場へ駈け付けることになった。主人のほかには男のない家うちであるから、お富とお勝が出て来た。

男ふたりと女ふたり、四つの提灯の火は夜風にゆらめきながら、凍った道を急いで目白坂下へゆき着くと、彼等よりも先きに医者が来ていた。医者はもう蘇生の見込みはないと云った。

しかし伝兵衛の死因は不明であった。身内になんの疵らしいものも見いだされず、さりとて急病ともおもわれず、まことに不思議の最期さいごであると、医者も首を傾かしげていた。刀に手をかけていたのを見ると、なにか怪しい物にでも出会って、異常の驚愕か恐怖のために心しんの臓を破ったのではあるまいかと、医者は覚束おぼつかなげに診断した。寺の住職も先ずそんなことであろうと云った。長八親子は途方に暮れたように歎息した。お富は泣き出した。

「さて、これからだ」

長八は膝に手を置いて、その太眉を陰くもらせた。長三郎も薄々あやぶんでいた通り、これが表向きになると黒沼の家に疵が付かないとも限らない。死んだ者は余儀ないとしても、その家の跡目が立たないようでは困る。長八は差しあたりその善後策を考えなければならなかった。

この時代の習いとして、こういう場合には本人の死を秘かくして、娘に急養子をする。そうして、まず養子縁組の届けをして置いて、それから更に本人急死の届けを出すことになる。一面から云えば、まことに見え透いた機関からくりではあるが、組頭もその情を察して大抵はその養子に跡目相続を許可することになっている。今度の事件もその方法によって黒沼家の無事を図はかるのほかは無い。

「あとあとのこともいろいろござるに因って、今夜のことは何分御内分に……」

と、長八は住職と医者に頼んだ。彼等もその事情を察しているので、異議なく承知した。

医者は承知、寺の方も住職が承知した以上、他の僧らも口外する筈はあるまい。残るは火の番の藤助である。彼にも口留めをして置く必要があるので、長八は伜に云いつけて藤助を探させたが、その姿は見えなかった。

寺の話によると、彼は医者を迎えに行ったままで帰らないと云う。彼は医者の門を叩いて急病人のあることを知らせ、その帰り途みちで長三郎に出逢ったことまでは判っているが、それから寺へも帰らずに何処へ行ってしまったのかと人々も少しく不審をいだいたが、この場合、その詮議に時を移してもいられないので、長八は住職と相談の上で近所の駕籠を呼ばせ、急病人の体ていにして伝兵衛の死骸を運び出すことにした。そうした秘密の処置を取るには、暗い夜更けが勿怪もっけの仕合わせであった。

これで先ず死骸の始末は付いたが、長八の一存で万事を取り計らうわけにも行かないので、彼は組じゅうでも特別に親しくしている四、五人に事情を打ち明けて、とりあえず急養子の手続きを取ることになった。

前にも云う通り、黒沼の親戚の吉田幸右衛門というのは京橋の白魚河岸に住んで、白魚の御納屋に勤めている。その次男の幸之助はことし廿歳はたちで、行くゆくは黒沼の娘お勝の婿になるという内相談も出来ていたのであるから、この際早速にその縁組を取り結ぶことにした。勿論それについてお富にもお勝にも異存はなかった。吉田の家でも不慮の出来事におどろくと共に、当然の処置として幸之助の養子縁組をこころよく承諾した。

すべての手続きはとどこおりなく運ばれて、黒沼の家には何のさわりもなく幸之助がその跡目を相続することになったので、関係者一同も先ずほっとした。伝兵衛の死も表向きは急死という届け出になっているのであるから、死骸の検視のことも無くて、そのまま菩提寺へ送られた。

こうして、この奇怪なる事件も闇から闇へ葬られてしまったが、解けやらない疑いの雲は関係者の胸を鎖とざしていた。長三郎は飛んだことに係り合った為に、勿論その両親から厳しく叱られたが、今さら取り返しの付かないことである。それよりも気にかかるのはかの藤助の身の上で、万一その口から当夜の秘密を世間に拡められては面倒である。長八はその翌朝、長三郎を遣わして藤助の在否をさぐらせたが、彼はゆうべから戻らないと云うので、むなしく引っ返して来た。

「どうもおかしいな」

長八はきょうもそれを云い出した。伝兵衛の葬式とむらいを済ませた翌日の朝である。かの一件以来、寒い風が意地悪く毎日吹きつづけていたのであるが、けさはその風も吹きやんで俄かに春めいた空となった。長八が自慢で飼っている鶯も、朝から籠のなかで啼いていた。

「もう一度、行ってみましょうか」と、長三郎は父の顔色をうかがいながら云った。

「むむ。あの晩ぎりで、藤助のゆくえが知れないと云うのは、どう考えてもおかしい。あいつも殺されたのかな」

「さあ」と、長三郎もかんがえた。「殺されたのでしょうか」

「殺されたかも知れないぞ」

「それならば、どこからか死骸が出そうなものですが……」

「それもそうだな……。といって、仔細もなしに姿を隠す筈もあるまい。係り合いを恐れたかな」

黒沼伝兵衛の横死について、自分もその場に居合わせた関係上、なにかの係り合いになることを恐れて逃げ去ったかとも思われるが、自分ひとりでなく、その場には長三郎も立ち会っていたのであるから、我が身に曇りのない申し開きは出来る筈である。女子供では無し、分別ふんべつ盛りの四十男がそれだけの事で姿を隠そうとも思われないが、案外の小胆者で唯一途いちずに恐怖を感じたのかも知れない。いずれにしても、もう一度詮議して置く必要があると、長八は思った。

「では、行って見て来い。やはり帰っていないようであったら、近所の者にも訊きいてみろ。だが、よく気をつけてこちらの秘密を覚られるなよ」

「承知しました」

長三郎はすぐに表へ出てゆくと、一月末の空はいよいようららかに晴れて、護国寺の森のこずえは薄紅うすあかく霞んでいた。音羽の通りへ出ると、市川屋の職人源蔵に逢った。

「黒沼の旦那様は飛んだことでございましたね」と、源蔵は挨拶をした。

「丁度いい所でおまえに逢った。火の番の藤助はこの頃どうしているね」と、長三郎は何げなく訊いた。

「いや、それが不思議で、この廿日正月の晩から行くえが知れなくなってしまったのです。近所でも心配しているんですが、まだ判りません」

火の番はいわゆる番太郎で、普通は自身番の隣りに住んで荒物屋などを開いているのであるが、この町の火の番は露路ろじのなかに住んでいた。藤助も以前は表通りに小さい店を持っていたのであるが、三年前に女房に死に別れて、店のあきないをする者がなくなったので、町内の人々の諒解を得て、店は他人にゆずり自分は露路の奥に引っ込んで、やはり町内の雑用ぞうようを勤めているのであった。

「藤助には娘があったね」と、長三郎は又訊いた。

「お冬という娘がございます」と、源蔵はうなずいた。「明けて十五で、人間もおとなしく、容貌きりょうもまんざらでないんですが、可哀そうに、子供の時に疱瘡ほうそうが眼に入ったもんですから、右の片眼が見えなくなってしまいました」

「その娘も心配しているだろうね」

「もちろん心配して、お神籤みくじを引いたり、占うらないに見て貰ったりしているんですが、どうもはっきりした事は判らないようです」

これだけ聞けば、その上に詮議の仕様もないように思われたが、ともかくも藤助の家の様子を一応は見とどけて帰ろうと思い直して、長三郎はその案内をたのむと、源蔵は先きに立って自身番に近い露路のなかへはいった。長三郎もあとに付いて、昼でも薄暗いような露路の溝板どぶいたを踏んで行った。

露路の入口は狭いが、奥には可なりに広いあき地があって、ここら特有の紙漉場かみすきばなども見えた。藤助の家にも小さい庭があって、桃の木が一本立っていた。

「ふうちゃん、居るかえ」

源蔵は表から声をかけたが、内には返事が無かった。三度つづけて呼ぶうちに、その声を聞きつけて、裏の井戸端からお冬が濡れ手を前垂れで拭きながら出て来た。

お冬は十五にしては大柄の方で、源蔵の云った通り、容貌はまず十人並み以上の色白の娘であった。右の眼に故障があるか無いかは、長三郎にはよく判らなかった。

「お父とっさんのたよりはまだ知れないかえ」と、源蔵は縁に腰をかけて訊いた。

お冬は無言で悲しそうにうなずいたが、源蔵のうしろに立っている前髪の侍をちらりと視たときに、彼女は慌てたように眼を伏せた。

「この若旦那は瓜生さんと仰しゃって、このあいだ亡なくなった黒沼さんのお屋敷の隣りにいらっしゃるのだ」と、源蔵はあらためて長三郎を紹介した。「お前のお父さんに逢って、なにか訊きたいことがあると云うので、ここへ御案内して来たんだが、お父さんがまだ帰らねえじゃあ仕様がねえな」

お冬はやはり俯向うつむいて黙っていた。藪うぐいすか籠の鶯か、ここでも遠く啼く声がきこえた。江戸といっても、ここらの春はのどかである。紙漉場の空地あきちには、子どもの小さい凧が一つあがっていた。それを見かえりながら、源蔵は又云い出した。

「だが、まあ、そのうちにはなんとか判るだろう。神隠しに逢ったにしても、大抵は十日か半月で帰って来るものだ。あんまり苦くにしねえがいい」

こんなひと通りの気休めで満足したかどうだか知らないが、お冬はやはり黙っていた。そうして時々、若い侍の顔をぬすみ視ているらしいのが源蔵の注意をひいた。

「ふうちゃん。煙草の火はねえかえ」

お冬は気がついたように立ち上がって、煙草盆に消し炭の火を入れて来ると、源蔵は腰から筒ざしの煙草入れを取り出して、一服喫すいはじめた。

五

ともかく藤助一家の様子を見届けて、もう此の上に詮議の仕様もないと思い切った長三郎は、源蔵を眼でうながして行きかかると、源蔵も早々に煙草入れをしまって立ち上がった。

「じゃあ、ふうちゃん、又来るからな」

お冬はやはり無言で会釈えしゃくした。唖でも無いのになぜ終始黙っているのかと、長三郎はすこし不審に思ったが、深くも気に留めずに表へ出ると、源蔵もつづいて出て来た。

「まったくあの娘も可哀そうですよ」

「そうだな」と、長三郎も同情するように云った。

「なにかまだほかに御用は……」と、源蔵は訊いた。

「いや、わたしももう帰る。忙がしいところを気の毒だったな」

「いえ、なに……。わたくし共の店も此の頃は閑ひまですから、毎日ぶらぶら遊んでいます。忙がしいのは暮の内で、正月になると仕事はありません」

「そうだろうな」

云いかけて、ふと見かえると、露路の入口にはお冬が立っていた。

彼女は濡れた前垂れの端はしを口にくわえながら、その片眼に何かの意味を含んでいるように、こちらをじっと窺っているらしかった。源蔵も気がついて見返ったが、別になんにも云わなかった。二人が道のまん中で別れるのを、お冬は暫く見送っていたが、やがて足早に引っ返して露路へはいった。

長三郎は家うちへ帰って、ありのままに報告すると、父の長八は唯だまってうなずいていた。この上は藤助が果たして何者かに殺されたのか、あるいは無事に何処からか現われて来るか、自然にその消息の知れるのを待つほかは無かった。長八は伜に注意して、今後も油断なく藤助の安否を探れと云い聞かせて置いた。

ことし十五歳で、まだ部屋住みの長三郎は、玄関に近い三畳の狭い部屋に机を控えていた。父の前をさがって、自分の部屋に帰って、彼は再び藤助の身の上について考えた。

藤助は生きているか、死んでしまったか。それにつけて思い出されるのは、当夜の彼の行動である。自分の近所に住んでいる御賄組の武士さむらいが怪しい変死を遂げたのを見て、火の番の彼は当然おどろき騒ぐべき筈であるのに、案外に彼は落ち着いていた。落ち着いていたと云うよりも、むしろ冷淡であるようにも見えた。長三郎が焦じれて指図するので、彼はよんどころ無しに働いているようにも見えた。これには何かの仔細があるのではないかと、長三郎は考えた。

彼は長三郎に追い立てられて、渋々ながら医者を呼びに行った。その帰り路にゆくえ不明となったのである。そのほかにも、暗いなかで長三郎に突き当たって、声をかけた者がある。彼は何者であろうか。心が急せくので碌々に返事もせずに別れてしまったが、彼もこの事件に何かの関係のある者ではあるまいか。あるいは彼が藤助を捕えて行ったのか、あるいは藤助を殺して、その死骸をどこへか隠したのかと、長三郎はまた考えた。しかも暗がりの出来事であるから、その相手の人相や風俗はちっとも判らなかった。

黒沼伝兵衛の死――藤助のゆくえ不明――暗がりの怪しい男――この三つを一つに結びつけていろいろ考えたが、何分にも世故せこの経験に乏しい長三郎の頭脳あたまでは、その謎を解くべき端緒たんちょを見いだし得なかった。

ひる過ぎになって、となり屋敷の黒沼幸之助が来た。

「このたびは一方ひとかたならぬ御厄介に相成りまして、なんともお礼の申し上げようもございません」と、彼は長八に対して丁寧に挨拶した。

同じ組の者は他に幾人もあるが、瓜生家とは隣り同士でもあり、多年特別に懇意にしていた関係上、今度の一件について長八が最も尽力したのは事実であった。

「いや、あなたこそ何かとお疲れでしたろう」と、長八も会釈した。

どこの家でも葬式などは面倒なものである。まして急養子の身の上で、家内の勝手もわからず、組内の人々の顔さえも碌々に知らない幸之助が、一倍の気苦労をしたことはよく察せられるので、長八もその点には同情していた。お疲れでしたと云う言葉も、形式一遍の挨拶ではなかった。

「ありがとうございます。おかげさまで、どうにかとどこおりなく片付きました」と、幸之助はふたたび挨拶をした。

「そこで、御新造は……」

「まだ臥ふせって居ります」

お勝は病中であるにも拘らず、父の急変におどろかされて、母と共に現場へ駈け着けたばかりか、その翌日も無理に起きていたので、病気はいよいよ重くなった。彼女は母のお富と、新らしい婿の幸之助とに看病されて、その後も床に就いているのである。彼女は父の葬式に列つらなることも出来なかった。葬式やら、病人やら、黒沼家の混雑は思いやられて、長八はますます同情に堪えなかった。

「就きましては、明日は初七日しょなのかの逮夜たいやに相当いたしますので、心ばかりの仏事を営みたいと存じます。御迷惑でもございましょうが、御夫婦と御子息に御列席を願いたいのでございますが……」

「いや、それは御丁寧に恐れ入ります。一同かならず御焼香ごしょうこうに罷まかり出でます」と、長八は答えた。

これで正式の挨拶も終ったところへ、娘のお北が茶を運んで来た。まだ馴染なじみの浅い仲とはいいながら、客と主人はやや打ち解けて話し出した。

「御承知でございますか。護国寺前の一件を……」と、幸之助はお北のうしろ姿を見送りながら少しく声を低めた。

「護国寺前……。何事か、一向に知りません」と、長八は茶を喫のみながら云った。「白い蝶でも又出ましたか」

「そうでございます」と、幸之助はうなずいた。

「え、ほんとうに出ましたか、白い蝶が……」

「護国寺前……東青柳町あおやぎちょうに野上佐太夫というお旗本がありますそうで……。わたくしは昨今こちらへ参りましたのでよくは存じませんが、三百石取りのお屋敷だとか承わりました。昨夜の五ツ過ぎに、大塚仲町なかまち辺の町家の者が二人連れで、その御門前を通りかかりますと、例の白い蝶に出逢いましたそうで……」

「ふうむ」

長八は唸るような溜め息をつきながら、相手の顔をながめていると、幸之助は更に説明した。

その二人連れは大塚仲町の越後屋という米屋の女房と小僧で、かの野上の屋敷の門前を通り過ぎようとする時に、暗闇のなかから一羽の蝶が飛び出した。そうしてひらひらと女房の眼のさきへ舞って来ると、女房は声も立てずに其の場に悶絶もんぜつした。小僧は途方に暮れてうろうろしている処へ、幸いに通り合わせた人があったので、共々に介抱して近所の辻番所へ連れて行くと、女房は幸いに正気に復かえったが、自分にもどうしたのかよくは判らない。ただ眼のさきへ大きい白い蝶が飛んで来たかと思うと、たちまち夢のような心持になってしまって、その後のことは何も知らないと云うのであった。

以上は世間の噂話を聴いたに過ぎないので、幸之助もくわしい事実を知らないのであるが、ともかくも奇怪な白い蝶が闇夜にあらわれて、往来の人をおびやかしたという噂が彼の注意をひいたのである。その話を終った後に、彼は又云った。

「白い蝶の噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索しているとか云うことでございましたが、こうしてみるとやはり本当かと思われます」

「本当でしょう」と、長八もうなずいた。「現にわたしの家うちの娘も見たと云います。あなたのお父さまの亡なくなられた晩にも、伜の長三郎がそれらしい物を見たとか云います。市川屋の職人も見たことがあると云う。一人ならず、幾人もの眼にかかった以上、それが跡方もないこととは云われますまい」

とは云ったが、さてそれがどういう訳であるか、長八にも説明することは出来なかった。幸之助にも判らなかった。いわゆる理外の理で、広い世界にはこうした不思議もあり得ると信じていた此の時代の人々としては、強しいてその説明を試みようとはしなかったのである。なまじいに其の正体を見とどけようなどと企てると、黒沼伝兵衛のような奇禍に出逢わないとも限らない。触さわらぬ神に祟たたり無しで、好んでそんな事件にかかり合うには及ばないと云うのが、長八の意見であった。

彼はその意見に基づいて伜の長三郎を戒いましめたが、今や幸之助に対しても同様の意見をほのめかして、若い侍の冒険めいた行動を暗に戒めると、幸之助もおとなしく聴いていた。

幸之助が帰ったあとで、お北は父にささやいた。

「東青柳町にまた白い蝶々が出たそうですね」

「お前は立ち聴きをしていたのか」と、長八はすこしく機嫌を損じた。「立ち聴きなぞするのは良くないぞ」

お北は顔を赤くして黙ってしまった。

その翌夜は黒沼の逮夜たいやで、長八夫婦と長三郎は列席した。他にも十五、六人の客があったが、大抵の人は東青柳町の噂を聞き知っていた。そうして、それは切支丹きりしたんの魔法ではないかなどと説く者もあった。今夜の仏の死が奇怪な蝶に何かの関係を持っているらしくも思われるので、遺族の手前、その噂をするのを憚はばかりながらも、奇を好む人情から何かとその話が繰り返された。父からきびしく叱られているのと、また二つには若年者じゃくねんものの遠慮があるので、長三郎は終始だまっていたが、諸人のうわさ話を一々聞き洩らすまいとするように、彼は絶えずその耳を働かせていた。

それから半月余りは何事もなくて過ぎた。二月に入っていよいよ暖かい日がつづいて、ほんとうの蝶もやがて飛び出しそうな陽気になった。その十二日の午ひる過ぎに、長三郎は父の使で牛込まで出て行ったが、先方で少しく暇取って、帰る頃には此の頃の春の日ももう暮れかかっていた。江戸川橋の袂まで来かかると、彼は草履の緒を踏み切った。

自分の家まではさして遠くもないのであるが、そのままで歩くのは不便であるので、長三郎は橋の欄干らんかんに身を寄せながら、懐紙かいしを小撚こよりにして鼻緒をすげ換えていると、耳の端はたで人の声がきこえた。それが何だか聞き覚えのあるように思われたので、長三郎は俯向いている顔をあげると、二人の男が音羽の方向へむかって、なにか話しながら通り過ぎるのであった。ひとりは屋敷の中間ちゅうげんである。他のひとりは町人ふうの痩形やせがたの男であった。どちらもうしろ姿を見ただけでは、それが何者であるかを知ることは出来なかった。その一刹那に長三郎はふと思い出した。

「あ、あの時の声だ」

黒沼伝兵衛の死を報告するために、暗やみを駈けてゆく途中で突きあたった男――その疑問の男の声が確かにそれであったことを思い出して、長三郎の胸は怪しく跳おどった。

二人はもう行き過ぎた後であるので、それが中間の声か、町人の声か、その判断は出来なかったが、ともかくも彼等のひとりが其の夜の男に相違ないと、彼は思った。しかも彼はあいにくに草履の鼻緒をすげているので、直ぐにその跡を尾つけて行くことも出来なかった。長三郎が焦じれて舌打ちしている間ひまに、二人は見返りもせずに橋を渡り過ぎた。

急いで鼻緒をすげてしまった頃には、二人のうしろ影はもう小半丁も遠くなっているのを、見失うまいと眼を配くばりながら、長三郎は足早に追って行った。音羽の大通りへ出て、九丁目の角へ来かかると、ひとりの女が人待ち顔にたたずんでいた。彼女は長三郎を待っていたらしく、その姿をみると小走りに寄って来たので、長三郎は思わず立ちどまった。女は火の番の娘お冬であった。

「先日は失礼をいたしました」と、お冬は小声で挨拶した。

そうして、うしろの横町を無言で指さした。その意味がわからないので、長三郎も無言でその指さす方角をながめると、横町の寺の門に立っている男と女のすがたが見えた。

まだ暮れ切らないので、ふたりの姿は遠目にも大かたは認められたが、男はかの黒沼幸之助で、女は自分の姉のお北であることを知った時に、長三郎は一種の不安を感じて無意識にふた足三足あるき出しながら、更に横町の二人を透かし視た。

幸之助と姉とは今頃どうして其処らに徘徊しているのであろう。途中で偶然に行きあって何かの立ち話をしているのか。あるいは約束の上でそこに待ち合わせていたのか。前者ならば別に仔細もないが、後者ならば容易ならぬ事である。幸之助は黒沼家の婿養子となって、いまだ祝言しゅうげんの式さえ挙げないが、お勝という定まった妻のある身の上である。その幸之助と自分の姉とが密会みっかいする――万一それが事実であって、その噂が世間にきこえたならば、二人は一体どうなることだろう。いずれにしても一と騒動はまぬがれまい。

それを考えながら、長三郎は暫く遠目に眺めていると、お冬は訴えるように又ささやいた。

「あのおふたりは、このごろ時々に……」

「きょうばかりでは無いのか」と、長三郎はいよいよ不安らしく訊きいた。

お冬はうなずいた。ゆうぐれの寒さが身にしみたように、長三郎はぞっとした。自分は中間と町人のあとを尾つけて来たのであるが、長三郎はもうそんな事は忘れてしまったように猶も横町をながめていると、その思案の顔に鬢びんのおくれ毛のほつれかかって、ゆう風に軽くそよいでいるのを、お冬は心ありげに見つめていた。

目白の不動堂で暮れ六ツの鐘を撞つき出したので、それに驚かされたように、幸之助とお北の影は離れた。男を残してお北ひとりは足早に引っ返して来るらしいので、姉に見付けられるのを恐れるように、長三郎もおなじく足早にここを立ち去った。

六

「考えると、不審のことが無いでもない」

長三郎は家うちへかえってから又かんがえた。黒沼の娘お勝はまだ全快しないで、その後も引きつづいて枕に就ついている。その見舞ながらに、姉のお北は殆ど毎日たずねて行く。勿論、隣家でもあり、ふだんから特別に懇意にしているのであるから、父も母も長三郎も別に不思議とも思わなかったのであるが、こうなると、お北が毎日の見舞もほかに意味があるらしく推量されないことも無い。

婿に来たとは云うものの、お勝が病気のために、幸之助はまだ祝言の式を挙げていない。そこへ姉が毎日入り込んで、幸之助と親しくする。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると、一種の疑いがいよいよ色濃くなる。姉に限って、まさかにそんな事はと打ち消しながらも、長三郎は全然それを否定するわけには行かなくなった。

さりとて、父や母にむかって迂闊うかつにそれを口外することは出来ない。いずれにしても更に真偽を確かめる必要があると思ったので、長三郎はきょうの発見についていっさい沈黙を守ることにした。お北もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。

音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈がない。そんな嘘をつく以上は、姉の行動はいよいよ怪しいと、長三郎は思った。

それから二、三日の後である。長三郎が夕飯をすませてから、いつもの如くに夜学に出ると、四、五間さきをゆく男のうしろ姿が隣家の黒沼幸之助であることを、薄月のひかりで認めた。彼はどこへ行くのであろう。又もや姉を誘い出して、かの寺門前で密会みっかいするのではあるまいかと思うと、長三郎はそのあとを尾つけてゆく気になった。彼は草履の音を忍ばせて、ひそかに幸之助の影を追ってゆくと、その影はかの横町の方角へはむかわずに、路ばたの狭い露路にはいった。

露路の奥には火の番の藤助の家がある。彼はその家をたずねるのか、それとも他の家をたずねるのか、長三郎は更に又新らしい興味に駆られて、つづいて露路のなかへ踏み込んだ。先日一度たずねた事があるので、長三郎は先ず藤助の家のまえに忍び寄って内の様子を窺うと、故意か偶然か、行燈あんどうの火は消えて一面の闇である。その暗いなかで女の声がきこえた。

それがお冬の声でないことを知った時に、長三郎はまた不思議に思った。女の声は低かったが、それでも力がこもっているので、外で聴いている者の耳にも切れぎれに響いた。

「あなたのような不人情な人はない、覚えておいでなさいよ」

幸之助は何かなだめているらしかったが、その声はあまりに低いので聴き取れなかった。暫くして女の声がまた聞こえた。

「忌いやです、いやです。……もういつまでも瞞だまされちゃあいません。いいえ、いけません。あなたのような人は……。いいえ、忌です。唯は置かないから、覚悟しておいでなさい。……わたしは死んでも構わない。……あなたもきっと殺してやるから……」

長三郎はおどろいた。その女はいったい何者で、幸之助になんの恨みを云っているのか。彼は息をつめて聴いていると女は嚇おどすように又云った。

「わたしの口ひとつで、あなたの命は無いと云う事は、かねて承知の筈じゃあありませんか。……黒沼家へ養子に行ったのは、まあ仕方がないとしても……。隣りの娘とまで仲よくして……。いいえ、知っています」

幸之助は又もや何か云い訳をしているらしかったが、やはり表までは洩れきこえなかった。長三郎はすこしく焦じれて、縁に近いところまでひと足ふた足進み寄ろうとする時に、うす暗い蔭からその袂をひく者があった。ぎょっとして見かえると、それはお冬であるらしかった。

「およしなさい」と、女は小声で云った。

それは果たしてお冬であった。

不意に声をかけられて長三郎もやや躊躇していると、暗い家のなかでは人の動くような音がきこえた。お冬は再び長三郎の袖をつかんで、無理に引き戻すように桃の木のかげへ連れ込むと、何者かが縁さきへ出て来た。暗いなかでも見当が付いているらしく、直ぐに下駄を穿はいて表へ出てゆく姿を薄月に透かして視ると、それはすっきりとした痩形の女であった。この女が幸之助を恨み、幸之助を嚇おどしていたのかと思ううちに、その姿は露路の外へ幽霊のように消えてしまった。

長三郎もお冬も無言でそれを見送っているうちに、やがて又静かに縁を降りて来る者があった。それは幸之助で、なにか思案しあんしているような足取りで、力なげに表へ出て行くのを、長三郎は殆ど無意識に尾つけて行こうとすると、お冬は又ひきとめた。

「およしなさい」

なぜ止めるのか、長三郎には判らなかった。それを諭さとすように、お冬はささやいた。

「あの人たちは怖い人です」

なぜ怖いのか、長三郎にはやはり判らなかった。しかし、かの女が「わたしの口ひとつで、あなたの命は無い」などと云ったのを考えると、それには恐ろしい秘密がひそんでいるらしくも想像された。

「なぜ怖いのだ」と、長三郎は訊いた。

「なんだか怖い人です。わたしのお父とっさんもあの人たちに殺されたのかも知れません」と、お冬は声を忍ばせて、若い侍にすがり付いた。

その一刹那に、又もや一つの影が突然にあらわれた。暗いなかでよくは判らなかったが、猫のように縁の下から這い出して来たらしく、頬かむりをした町人ふうの男が足早に表へぬけ出して行った。彼は、まったく猫のように素捷すばやかった。

長三郎も意外であったが、お冬も意外であったらしく、身をすくめて長三郎にしがみ付いていた。家のなかは暗闇くらやみであるが、外には薄月がさしている。それに照らし出された男のうしろ姿は、このあいだ江戸川橋で出逢った町人であるらしく思われたので、長三郎は又もや意外に感じた。と同時に、彼は殆ど無意識にお冬を突きのけて、その男のあとを追って出た。

薄月のひかりにうかがうと、女は大通りを北にむかって行く。幸之助はそのあとを追ってゆく。町人ふうの男は又そのあとを追って行くらしい。まだ宵であるから、両側の町屋も店をあけていて人通りもまばらにある。それを憚はばかって幸之助も直ぐに女に追いすがろうとはしない。男も相当の距離を取って尾つけて行くので、長三郎もその真似をするように、おなじく相当の距離を置いて尾行することにした。

女は途中から左に切れて、灯の無い横町へはいってゆくと、左右は農家の畑地である。そこまで来ると、幸之助は俄かに足を早めて女のうしろから追い付いた。その足音をもちろん知っていたのだろうが、女は別に逃げようとする様子もなく、しずかに振り向いて相手と何か話しているらしかった。

町人はそれを見て、身をかくすように畑のなかに俯伏したので、長三郎もまた其の真似をして畑のなかに俯伏していると、やがて女は幸之助を突き放してふた足三足あるき出した。幸之助は追いかけて、女の襟に手をかけた。引き倒そうとするのか、喉のどでも絞めようとするのか、男と女は無言で挑いどみ合っていた。

俯伏していた町人は畑のなかから飛び出して、飛鳥のごとくに駈け寄ると、それに驚かされて二つの影はたちまち離れた。女はあわてて逃げ去ろうとするのを、町人は駈け寄って押さえようとすると、幸之助は又それをさえぎるように立ち塞がった。男ふたりが互いに争っているあいだに、女は一目散に逃げ出した。

女はともあれ、眼のまえに争っている男ふたりをどう処置していいのか、長三郎も当座の分別ふんべつに迷った。本来ならば幸之助に加勢するのが当然であるが、今の場合、幸之助を助けるか町人を助けるか、どちらにするのが正しいか、長三郎にも見当が付かなかった。彼はいったん立ち上がりながらも、いたずらに息を呑んでその成り行きを眺めているうちに、町人は草履ぞうりをすべらせて小膝を突いた。幸之助はそれを突き倒して逃げ出した。男はすぐに跳ね起きて、そのあとを追ってゆくと、幸之助は畑のなかへ飛び込んで、路を択えらばずに逃げてゆく。追う者、追われる者、その姿は欅けやきの木立こだちのかげに隠れてしまった。

何がどうしたのか、長三郎にはちっとも判らなかった。彼はもうその跡を尾けてゆく元気もなくて唯ぼんやりと突っ立っていたが、さっきからの行動をみると、かの町人は唯者ではない。おそらく八丁堀同心の手に付いている岡っ引のたぐいであろうと想像された。かの女と幸之助とのあいだに何かの秘密がひそんでいることも、さっきの対話でうすうす想像された。それらを結び付けて考えると、彼等は一種の重罪を犯していて、岡っ引に付け狙われているのではあるまいか。

相手の女は何者であるか知らないが、幸之助は隣家に住んでいて、朝夕に顔を見あわせている仲である。それが重罪人であろうとは意外であるばかりか、自分の姉がその重罪人と親しくしているらしい事を考えると、長三郎はあたりが俄かに暗くなったように感じられた。彼はもう夜学に行く気にもなれなくなって、その儘わが家へ引っ返した。

彼は今夜の出来事を父にも母にも話さなかった。父には内々で話して置きたいと思ったのであるが、何分にも広くない家であるので、万一それを姉にでも立ち聴きされては困ると思ったので、その晩は黙って寝てしまった。

夜のあけるのを待ちかねて、彼は黒沼家の門前を掃いている下女のお安に聞きただすと、幸之助はゆうべ帰宅しないと云うのである。彼はついに岡っ引の手に捕われたのか、それとも逃げ延びて何処へか身を隠したのか、いずれにしても其の儘では済むまいと思われた。

父の長八は当番で登城した。長三郎はいつもの通りに剣術の稽古に行って、ひる頃に帰って来ると、母のお由は午飯ひるめしを食いながら話した。

「おとなりの幸之助さんはゆうべから帰らないそうだね」

「どうしたのでしょう」と、長三郎はそらとぼけて訊きいた。

「お友達と一緒に遊びにでも行ったのかも知れない」と、お由は笑いながら云った。「こっちへ来てはまだ昨今だけれど、京橋の方にはお友達が随分あるようだからね。なにしろ御納屋おなやの人たちには道楽者が多いと云うから」

「お婿むこに来て、まだ一と月にもならないのに、夜遊びなんぞしては悪いでしょう」

「悪いとも……」と、お由はうなずいた。「けれども、お婿と云っても相手のお勝さんがあの通りだからね。きっとお友達にでも誘われて、どこへか行ったのだろうよ」

姉のお北も、妹のお年も、そばで一緒に箸をとっているので、長三郎はこの対話のあいだに姉の顔をぬすみ視ると、気のせいか、お北の顔色はやや蒼白く見られた。

その日の夕方に、お北もゆくえ不明になった。

七

「きょうはお天気で好うござんしたね」と、二十四、五の小粋こいきな女房が云った。

「むむ。初午はつうまも二の午も大あたりだ。おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」と、三十二、三の亭主が答えた。

「それじゃあ、わたしも早くお参りをして、お神酒みきとお供え物をあげて来ましょう」

女房は帯をしめ直して、表へ出る支度に取りかかった。この夫婦は神田の三河町に住む岡っ引の吉五郎と、その女房のお国である。女中に神酒と供え物を持たせて、お国が表へ出てゆくと、それと入れちがいに、裏口から一人の男が顔を出した。

「親分。内ですかえ」

取次ぎの子分が居合わせないで、吉五郎は長火鉢の前から声をかけた。

「留とめじゃあねえか。まあ、あがれ」

「お早ようございます」

手先の留吉はあがって来た。

「誰もいねえから火鉢は出せねえ。ずっとこっちへ来てくれ」と、吉五郎は相手を長火鉢の向うに坐らせて、直ぐに小声で話し出した。「どうだ。例の件は……」

「面目がありません、このあいだの晩はどじを組んでしまって……」と、留吉は小鬢こびんをかいた。「だが、親分。もう大抵のところは見当が付きましたよ。お尋たずね者のお亀はお近と名を変えて、音羽の佐藤孫四郎という旗本屋敷に巣を作っているんです」

「佐藤孫四郎……。小ッ旗本だろうな」

「と云っても、四百石取りで……。三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に帰って来たんです。お亀のお近はそのあとから付いて来て、その屋敷へはいり込んだと云うことです」

「だれから訊いた」

「屋敷の中間にかまをかけて聞き出したんです。自分にうしろ暗いことがあるからでしょうが、中間なんぞには時々に小遣いぐらい呉れるらしいので、みんなの評判は悪くないようです」と、留吉はいったん笑いながら、又俄かに眉をよせた。「そこまでは判っているんだが、それから先きがまだどうも判らねえ。お近には内証ないしょの男がある。それが音羽の御賄屋敷の黒沼という家へ、このごろ婿に来た幸之助という若い奴らしいんですがね」

「幸之助の実家はどこだ」

「白魚河岸しらうおがしの吉田という御納屋おなやの次男です」

「そこで、そのお近や幸之助と、例の蝶々と、なにか係り合があると云うのか」と、吉五郎はまた訊いた。

「さあ、そこが難題でね」と、留吉は再び小鬢をかいた。「わっしの本役は蝶々の一件で、お近や幸之助の方はまあ枝葉えだはのような物なんですが、不意にこんな掘出し物をすると、ついそっちが面白くなって……。今のところじゃあ、あのふたりと蝶々の一件とが結び付いているような、離れているような……。親分はどう鑑定しますね」

「おれにもまだ判断が付かねえ」と、吉五郎はしずかに煙草をくゆらせた。「それから火の番の藤助というのはどうした。これも帰らねえか」

「帰って来ません。こいつは確かに蝶々に係り合いがあると睨んでいるんですが……。なにしろ忌いやにこぐらかっているんでね」

「どうで探索物はこぐらかっているに決まっているから、まあ落ちついて考えて見なけりゃあいけねえ」

吉五郎はつづけて煙草を喫すった。留吉も煙管筒きせるづつを取り出した。親分と子分は暫く無言で睨み合っていると、その考えごとの邪魔をするように、町内の午祭りの太鼓の音が賑やかにきこえた。

「幸之助はその晩から自分の家うちへ帰らねえのか」と、吉五郎は煙管をはたきながら訊いた。

「これも帰って来ないようです」と、留吉は答えた。「わっしに捕まりそうになったので、どこへか姿を隠したと見えますよ」

「だが、幸之助はともかくも侍だ。火の番の親爺とは身分が違うのだから、姿を隠したままで済む訳のものじゃあねえ。そんな事をすれば家断絶だ。黒沼という家うちでも飛んだ婿を貰ったものだな。ひょっとすると、白魚河岸の実家に忍んでいるんじゃあねえか」

「わっしもそう思ったので、けさも出がけにそっと覗いて来たんですが、どうもそんな様子も見えないようでしたが……。しかしまあ、よく気を付けましょう」

「しっかり頼むぞ」

「ようがす」

「手が足りなければ、誰か貸してやろうか」

「さあ」と、留吉はかんがえた。「大勢であらすと却っていけねえかも知れません。もう少し一騎討ちでやってみましょう」

他人ひとに功名を奪われたくないような口振りで、留吉は早々に出て行った。吉五郎は又もや煙管を取り上げて、しずかに煙りを吹いていたが、やがて何をかんがえたか、忙がしそうに煙管をはたいて立ちあがると、あたかも表の格子こうしのあく音がして、お国と女中が帰って来た。

「おい。着物を出してくれ」

「どっかへ行くの」と、お国は訊いた。

「むむ。留が今来たが、あいつ一人には任せて置かれねえ事が出来た。おれもちょいと出て来る」

吉五郎も早々に着物を着かえて、表へ出て行った。商売で出ると云うのであるから、女房ももう其の行く先きを訊こうとはしなかった。

その日の午後である。

旧暦二月のなかばの春の空は薄むらさきに霞んで、駿河町するがちょうからも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。男は問屋の若い衆しゅであるらしく、大きい鯛を青籠あおかごに入れて、あたまの上に載せていた。彼は人ごみの間をくぐり抜けて、日本橋を南へむかって急いで来たが、長い橋のまん中ごろまで渡ったかと思うときに、彼はどうしたのか俄かに足を停めた。と見る間もなく、彼は頭の魚籠びくを小脇に引っかかえて、欄干から川のなかへざんぶと飛び込んだので、往来の人々はおどろいた。

威勢のいい魚河岸の若い衆が、なんで突然日本橋から身を投げたのか。仔細を知らない人々は唯あれあれと騒いでいたが、そのなかで唯ひとり、その仔細を大抵推量したのは神田三河町の吉五郎であった。彼は何処をどう歩いていたのか知らないが、あたかもここへ来かかって此の椿事ちんじを目撃したのである。

若い衆が川へ飛び込んだのは、鯛を持っていたが為であろうと、吉五郎は思った。徳川家には御納屋という役人がある。それは将軍の食膳に上のぼせるべき魚類、野菜類を取り扱う役で、魚類だけでも鯛の御納屋、白魚の御納屋、鮎の御納屋などと、皆それぞれの専門がある。この御納屋の特権は、良い魚類とみれば勝手に徴発ちょうはつを許されていることである。御納屋の役人が或る魚を指さして、「これは御用だぞ」と云ったが最後、忌いやでも応でもその魚を納めなければならない。その代金も呉れるか呉れないか判らない。唯取りにされてしまう場合も往々ある。そんなわけであるから、河岸かしの人間は御納屋を恐れて大いに警戒しているのである。

かの若い衆は、どこかの註文で大きい鯛を持ち出した途中、あいにく日本橋のまん中で鯛の御納屋に出逢ったのである。これを取られては大変だと思ったのか、あるいは権力を笠かさに被きて強奪されるのを口惜くやしいと思ったのか、いずれにしても血気の若い衆は一尾の鯛を御納屋の手へ渡すまいとして、魚籠びくと共に川中へ飛び込んだのであろう。河岸の育ちであるから泳ぎも知っているであろう。殊に白昼のことであるから、溺死する気づかいもあるまいと、吉五郎は多寡をくくってさほどに驚きもしなかった。

彼は身を投げた若い衆よりも、身を投げさせた相手に眼をつけると、それは四十前後の人柄のいい侍で、これも身投げの仔細をおおかたは察したらしく、微笑を含みながら見返りもせずに行き過ぎた。

吉五郎は引っ返して、その侍のあとを追った。橋を渡り越えて室町むろまちのあたりまで来た時に、彼は小声で呼びかけた。

「もし、もし、今井の旦那……」

呼ばれて立ち停まった侍の前に、吉五郎は小腰をかがめて丁寧に会釈えしゃくした。

「旦那さま。御無沙汰をいたして居ります」

「三河町の吉五郎か」と、侍は又微笑した。「今のを見たか。おれ達はどうも憎まれ役で困るよ」

侍は鯛の御納屋に勤めている今井理右衛門であった。自分が何をしたという訳でもないが、自分のために若い衆が身を投げたのを、岡っ引の吉五郎に見付けられたかと思うと、彼はやや当惑に感じたのであろう、憎まれ役などと云い訳がましく云っているのを、吉五郎は軽く受け流してすぐに本題に入った。

「途中でこんなことをお尋たずね申すのも失礼でございますが、あなたは吉田の旦那と御懇意でございましたね」

「吉田……。白魚河岸か」

「左様でございます。それで少々伺いたいのでございますが、この吉田さんは音羽の佐藤さんという旗本を御存じでございましょうか」

「音羽の佐藤……」

「昨年の秋ごろ、長崎からお帰りになりましたかたで……」

「むむ。佐藤孫四郎どのか。わたしもちょっと識っているが、吉田はよほど懇意にしているらしい。吉田の家内はなんでも佐藤の親類だとか云うことだから……」

「はあ、御親類でございますか。それでは御懇意の筈で……」

「なんだ。その佐藤に何か用でもあるのか」と、理右衛門は相手の顔をながめながら訊いた。

吉五郎が唯の人間でないことを知っているだけに、彼は幾分の好奇心をそそのかされたらしくも見えた。

「いえ、別に用というほどの事でもございませんが……」と、吉五郎はあいまいに答えた。「先日あのお屋敷の前を通りましたら、吉田さんの御子息をお見かけ申しましたので……」

「次男の方だろう。あれは御賄組の黒沼という家へ急養子に行ったそうだから……」

「わたくしもそんなお噂を伺いました。いや、どうもお急ぎのところをお引き留め申しまして相済みませんでした。では、これで御免ください」

ふたたび丁寧に会釈えしゃくして立ち去る吉五郎のうしろ姿を、理右衛門は不審そうに見送っていた。往来なかで人を呼びとめて、単にそれだけのことを訊きいて行くのは少しくおかしいと思ったからであろう。しかも吉五郎に取っては、吉田の家と佐藤の屋敷との関係を聞き出しただけでも、一つの手がかりであった。佐藤の屋敷の前で吉田の伜のすがたを見たなどと云うのは、もとより当座の出たらめに過ぎないのである。

吉田と佐藤とが親戚の間柄である以上、吉田の次男幸之助がその屋敷へ出入りするに不思議はない。そうして、その屋敷にいるお近という女と親しくなったと云うのも、世にありそうなことである。唯その幸之助が留吉の虜とりことならずに、どこへ姿を隠したか、それを詮議しなければならないと吉五郎は思った。

彼はそれから京橋へ足を向けて、白魚河岸の吉田の家をたずねた。勿論、玄関から正面に案内を求めるわけには行かないので、彼は気長にそこらを徘徊して、その家から出て来る中間や女中らを待ち受けて、いろいろにかまを掛けて探索したが、幸之助は実家にひそんでいないらしかった。

「燈台下暗もとくらしで、やっぱり佐藤の屋敷に忍んでいるかも知れねえ」

吉五郎はいったん神田の家へ帰って、ゆう飯を食って更に出直そうとするところへ、留吉が忙がしそうにはいって来た。

「親分、出かけるんですかえ」

「むむ。今夜はおれが音羽へ出かけて、張り込んでみようと思うのだ」

「それじゃあ行き違いにならねえで好かった。実は又ひとつ事件が出来しゅったいしてね」と、留吉は眉をひそめた。

「黒沼の家うちの娘が死んだそうで……」

「家付き娘だな」

「そうです。お勝といって、ことし十八になります。親父が死んで、幸之助を急養子にしたんですが、お勝は病気で寝ているので、祝言も延びのびになっているうちに、幸之助は家出をして帰らない。それがもとで、お勝は自害したそうです」

「自害したのか」と、吉五郎も少しく驚いた。

「短刀だか懐剣だか知らねえが、なにしろ寝床の上に起き直って、喉のどを突いたんだと云うことです」と、云いかけて留吉は声を低めた。「それからまだおかしいことは、黒沼のとなりの瓜生という家うちでは、お北という娘が家出をしたそうです」

「幸之助が家出をする。女房になる筈のお勝という女が自害する。又その隣りの娘が家出をする。それからそれへと悪くごたつくな。それで、その女たちは、なぜ自害したのか、なぜ家出をしたのか。その訳はわからねえのか」

「なにぶん武家の組屋敷のなかで出来た騒動だから、くわしい事はとても判らねえ。これだけのことを探り出すのでも容易じゃあありませんでしたよ」

「そうだろうな」と、吉五郎もうなずいた。「そう聞いちゃあ猶さら打っちゃっては置かれねえ。御苦労だが、もう一度行ってくれ」

ふたりが神田を出る頃には、ようやく長くなったという此の頃の日も暮れていた。しかも夕方から俄かに陰くもって、雨を含んだようななま暖かい南風みなみが吹き出した。

「忌いやな晩ですな」

「忌な空だな。降られるかも知れねえ」

暗い空を仰ぎながら、ふたりは音羽の方角へ急いでゆくと、途中から風はいよいよ強くなった。

「黒沼伝兵衛という侍が死んでいたと云うのは、どの辺だ」

「そこの寺の前ですよ」

留吉が指さす方に或る物を見いだして、吉五郎は口のうちで叫んだ。

「あ、蝶々だ」

「むむ。蝶々だ」

ふたりは白い影を追うようにあわてて駈け出した。

八

闇にひらめく蝶のかげを追いながら、吉五郎と留吉は先きを争って駈け出したが、吉五郎の方が一と足早かった。彼はふところから四つ折りの鼻紙を取り出して、蝶を目がけてはたと打つと、白い影はそのまま消え失せてしまった。

「たしかに手応てごたえはあったのだが……」と、吉五郎はそこらを透かして見まわしたが、提灯を持たない彼は、暗い地上に何物をも見いだすことが出来なかった。

「そこらへ行って蝋燭を買って来ましょう」と、留吉は土地の勝手を知っていると見えて、すぐにまた駈け出した。

寺門前には小さい商人店あきんどみせが五、六軒ならんでいる。表の戸はもう卸おろしてあったが、戸のあいだから灯のひかりが洩れているので、留吉はその一軒の荒物屋の戸を叩いて蝋燭を買った。裸蝋燭では風に吹き消される虞おそれがあるので、小さい提灯を借りて来た。

その提灯のひかりを頼りに、ふたりはそこらの地面を照らして見たが、蝶らしい物の白い影はどこにも見あたらなかった。吉五郎は舌打ちした。

「仕様がねえ。風が強いので吹き飛ばされたかな。まさかに消えてなくなった訳でもあるめえ」

と云う時に、留吉は声をあげた。

「や、飛んでいる。あすこに……」

白い蝶は、三、四間距はなれた所に飛んでいるのである。それを見て、吉五郎はまた舌打ちした。

「畜生。ひとを玩具おもちゃにしやあがる」

ふたりは直ぐに駈け寄ると、蝶の影は消えるように見えなくなった。

留吉は提灯をふりまわして、しきりにそこらを照らして見たが、それらしい物の影もないので、彼は焦じれて無闇に駈け廻った。吉五郎も梟ふくろうのように眼を見張って、暗いなかを覗いて歩いたが、それもやはり無効であった。

往来の絶えた寺門前の闇のなかに、大の男ふたりが一生懸命駈け廻って蝶を追っているのは、どうしても狐に化かされたような図である。しかも今の彼等はそんなことを考えている暇はなかった。

「ほんとうに人を馬鹿にしていやあがる。忌々いまいましい奴だな」と、留吉は息をつきながら云った。

吉五郎も立ち停まって溜め息をついた。

いかに焦じれても、燥あせっても、怪しい蝶はもうその影を見せないのである。ふたりはあきらめて顔を見合わせた。

「親分。どうしましょう」

「仕方がねえ。又どっかで見付かるだろう」

「これからどうします」

「むむ。おれの考えじゃあ……」と、云いかけて、吉五郎は俄かに見返った。「留。あれを取っ捉まえろ」

見ると、うしろの寺の生垣いけがきの下に、犬か猫のようにうずくまっている小さい影がある。留吉は持っている提灯を親分に渡して、直ぐにその影を捕えに行った。影は飛び起きて、暗い坂の上へ逃げて行こうとするのを、留吉は飛びかかって押さえ付けた。吉五郎がさしつける提灯のひかりに覗いて見て、留吉はうなずいた。

「むむ。てめえか。このあいだからどうもおかしい奴だと思っていたのだ」

「おめえはその女を識っているのか」

「こいつは火の番の藤助のむすめで、お冬というんですよ」

「火の番の娘か」と、吉五郎もうなずいた。「おれもそいつを調べてみようと思っていたのだ」

「自身番へ連れて行きましょうか」

「いや、自身番なんぞへ連れて行くと、人の目に立っていけねえ。ここでおれが調べるから、おめえは提灯を持って往来を見張っていろ」

吉五郎はお冬の腕をつかんで、寺の門前へ引き摺って行ったが、正面は風があたるので、横手の生垣をうしろにしてしゃがんだ。

「おまえは今頃なんでこんな所に忍んでいたのだ」

お冬は黙っていた。

「おれ達は十手じってを持っている人間だ。おれ達の前で物を隠すと為にならねえぞ」と、吉五郎は嚇すように云い聞かせた。「そこでお前の親父はどうした。まだ帰らねえのか」

「はい」と、お冬は微かすかに答えた。

「ほんとうに帰らねえか。あすこの佐藤という旗本屋敷に隠されているんじゃあねえか」

お冬はやはり黙っていた。

「お前はそれを知っている筈だ。おまえの親父は訳があって、当分は佐藤の屋敷に隠れているから心配するなと、お近という女から云い聞かされている筈だが……。それでも知らねえと強情ごうじょうを張るか。又そのお近という女は、ときどきにお前の家へ忍んで来て、黒沼の婿の幸之助と逢曳あいびきをしている筈だが……。それでもお前は強情を張るか」

お冬はまだなんにも云わないので、吉五郎はほほえみながらその肩を軽く叩いた。

「おまえは年の割に、なかなかしっかり者だな。と云って、褒めてばかりはいられねえ。あんまり強情を張っていると、おれも少しは嚇かさなけりゃあならねえ。おまえは一体、なんでここへ来ていたんだよ。おまえにも色男でもあって、今夜ここへ逢いに来ていたのか」

お冬はあくまでも強情に口を閉じていた。

「それとも俺たちの後を尾つけて来て、何かの立ち聴きでもしようとしたのか。え、おい。なぜいつまでも黙っているんだよ」と、吉五郎は再びその肩を軽く叩いた。

前にも云う通り、門の正面には南風が強く吹き付けるので、吉五郎は横手の生垣をうしろにしてならんでいたのであるが、その時、その生垣の杉のあいだから一つの手があらわれて、暗いなかで吉五郎の襟髪を掴んだかと思うと、力任せに強く引いた。不意に掴まれたのと、その引く力が可なりに強かったのとで、吉五郎は思わず尻餅をついて仰向けに倒れると、その隙をみて忽ち立ちあがったお冬は、いわゆる脱兎だっとの勢いで駈け出した。

それに気がついて、留吉があわてて駈け寄ると、お冬は手早くその提灯を叩き落とした。かれは灯の見える大通りへ出るのを避けて、暗い目白坂を駈けのぼって行くのである。

それを追うよりも、まず親分を救わなければならないと思ったので、留吉はそのまま門前へ駈けつけると、吉五郎は倒れながら相手の腕を掴んでいた。

「留、早くそいつを取っつかまえろ」

留吉はこころえて、これも生垣越しに相手の腕をつかんで引き出そうとすると、相手は出まいと争ううちに、生垣の細い杉は二、三本ばらばらと折れて、内の人間は表へころげ出した。彼は必死にいどみ合ったが、捕り方ふたりの為に組み敷かれて、更に早縄をかけられて、門前に引き据えられた。

「なにしろ暗くっちゃあ、面つらが見えねえ」

今度は寺の門を叩いて、提灯の火を借りることにした。その火に照らされた男の顔を覗いて、留吉はうなずいた。

「俺もそんな事じゃあねえかと思った。親分。こいつは火の番の藤助ですよ」

「そうか」と、吉五郎もうなずいた。「こんな所で調べていると、又どんな邪魔がはいらねえとも限らねえ。やっぱり自身番へ連れて行こう」

云いも終らないうちに、果たして邪魔がはいった。おそらく門内にひそんでいたのであろう。ひとりの覆面の男が突然に跳り出て、まず留吉の提灯をばさりと斬り落とした。

「光る物を持っているぞ。気をつけろ」

留吉に注意しながら、吉五郎はふところから十手を出すと、留吉も十手を取って身構えした。覆面の男は無言で斬ってかかった。それが侍であると覚ったので、ふたりも油断は出来ない。縄付きの藤助をその儘にして、激しく斬って来る相手の刀の下を抜けつくぐりつ闘っていると、男はなんと思ったか、俄かに刃やいばを引いて暗い坂の方角へ一散いっさんに逃げ去った。

ふたりはつづいて追おうとしたが、逃げてしまった相手を追うよりも、既に捕えた相手を逃がさない工夫が肝腎かんじんであると思ったので、ふたりは云い合わせたように足を停めた。彼等は再び門前へ引っ返して来ると、暗いなかに藤助の姿は見えないらしかった。留吉は寺内へ駈け込んで更に提灯を借りて来ると、果たしてそこらに藤助の姿は見えなかった。

覆面の男は藤助を救うがために斬って出たのであろう。その闘いのあいだに彼は姿を隠したのであろう。しかも藤助は縄付きであるから、自由に遠く走ることは出来ない筈である。あるいは墓場に忍んでいるかも知れないと云うので、留吉が先きに立って石塔のあいだを縫ってゆくと、白い蝶が又ひらひらとその眼さきを掠かすめて飛んだ。

「又来やあがった」

ふたりは怪しい蝶の行くえを追って行くとき、留吉は足許あしもとに倒れている石塔につまずいて横倒しにどっと倒れた。

「あぶねえぞ」と、吉五郎は声をかけたが、留吉は直ぐに返事をしなかった。

留吉は倒れるはずみに、石塔の台石などで脾腹ひばらを打ったらしい。さすがに気を失うほどでも無かったが、彼は低い息をついているばかりで容易に起き上がられそうもないので、吉五郎は手を貸して扶たすけ起こすと、留吉はぐたりとしていた。

「留。どうした。しっかりしろ」

こうなると、蝶の詮議は二の次にして、子分を介抱しなければならないので、吉五郎は留吉を抱くようにして墓場を出た。寺の玄関へ廻って案内を乞うと、奥から納所なっしょが出て来た。留吉はさっき提灯を借りに行ったので、納所もその顔を識っていた。

「その人がどうかしたのですか」

「そこで転んで怪我をしたらしいんです。済みませんが、燈火あかりを拝借したいので……」

留吉を玄関に横たえて、納所が持って来た灯のひかりに照らして見ると、留吉は脾腹を打ったほかに、左の手も痛めているらしかった。吉五郎は自分の身許を明かして、直ぐに医者を呼んで貰いたいと頼むと、納所は異議なく承知して、寺男を表へ出してやった。

吉五郎らの身許を知ったので、寺でも疎略そりゃくには扱わなかった。住職もやがて奥から出て来た。彼は納所らに指図して、書院めいた座敷へ怪我人を運び込ませた。

「夜中お騒がせ申して、相済みません」と、吉五郎はあらためて住職に挨拶した。

「いや、どう致しまして……」と、住職は留吉の方を見返りながら、これも丁寧に会釈えしゃくした。「それにしても、夜中どうしてこの墓地へおはいりなされた。なにか御用でござるか」

住職の物云いは穏かであるが、その眼の怪しく光っているのを、吉五郎は見逃がさなかった。

初対面の住職はもう四十五、六歳であろう。色の蒼白い痩形の一種の威厳を具えたように見える人柄であった。彼は何事も知らないのであろうか、あるいは何かの秘密を知っているのであろうか。それを確かめない以上は、迂闊うかつな返事も出来ないので、吉五郎は用心しながら答えた。

「実はここの火の番の藤助という者の行くえを探して居りますと、今夜こちらの御門前でその姿を見付けましたので、取り押さえて一旦は縄をかけたのですが、又どこへか逃がしてしまいましたので、それを探しにお墓場の方へまいります途中、なにぶんにも暗いので、足許に倒れている石塔につまずきまして……」

「左様でござりましたか。火の番の藤助はわたくしも識って居りますが、あなた方のお縄にかかりながら又それを抜けて逃げるとは、見掛けによらない大胆者でござるな。して、藤助に何か御詮議の筋があるのでござりますか」

「藤助は先月以来、行くえが知れないのでございます」

「それはわたくしも聴いて居りますが……。では、藤助は何かうしろ暗いことでもあって、すがたを隠しているのでござりますな」

そらとぼけてそんなことを云うのか、或いはまったく知らないのか。吉五郎はその判断に苦しみながらあいまいに答えた。

「うしろ暗いことがあるか無いか、それは調べてみなければ判りませんが、いずれにしても駈落者かけおちものは一応の詮議を致さなければなりませんので……。まして世間へは駈け落ちと見せかけて、我が家の近所にうろ付いているなぞは、潔白な人間のおこないでは無いように思われますので、ともかくも取り押さえようと致しますと、案外に手向いを致しますので、よんどころなくお縄をかけたのでございます」

「ごもっともで……。そこで、その藤助がこの寺の墓地へ逃げ隠れたと仰しゃるのですか」と、住職はまた訊きいた。

「今も申す通り、なにぶん暗いので確かなことは判りませんが、もしやと思いまして……」

「では、確かにこの寺内へ逃げ込んだというお見込みが付いたわけでも無いのですな」

このとき納所が茶と菓子を運んで来たので、それを機しおに住職は又あらためて会釈した。

「甚だ勝手でござりますが、実は二、三日前から風邪で引き籠って居りますので、わたくしはこれで御免を蒙ります。どうぞゆるゆると御休息を……」

「御病ちゅう御迷惑をかけて恐れ入ります、御遠慮なくお休みください」

たがいに挨拶して、住職は納所と共に立ちあがった。そのうしろ姿を見送りながら、吉五郎は何か思案していると、今まで無言でころがっていた留吉は自由にならない体を少しく起こして、小声で話しかけた。

「親分、あの和尚おしょうは怪しゅうござんすね」

「おめえも見たか」

「さっきから寝ころびながら、あいつの顔色をうかがっていたんですが、あの和尚、なにか因縁いんねんがありそうですぜ」

「おれの思う壺にだんだん嵌はまって来る」と、吉五郎はほほえんだ。「全くあの和尚は唯の鼠じゃあねえ」

足音がきこえたので、ふたりは急に口をつぐむと、納所が医者を案内して来た。

九

岡っ引の吉五郎と、その子分の留吉は着々失敗して先ず第一に目的の白い蝶を見うしない、次にお冬を取り逃がし、次に火の番の藤助を取り逃がし、更に覆面の曲者を取り逃がし、最後に留吉は墓場でころんで負傷した。一夜のうちにこれほどの失敗が重なったのは、彼等に取ってよくよくの悪日あくびとも云うべきであった。

しかも不幸は彼等の上ばかりでなく、この事件に重大の関係を有する御賄組の人々の上にも、種々の不幸が打ち続いたのであった。黒沼の婿の幸之助がゆくえ不明になったかと思うと、つづいて瓜生の家でも娘のお北が姿をかくした。幸之助の家出、お北の家出、両家ともに努つとめて秘密にしていたのであるが、女中らの口からでも洩れたと見えて、早くも組じゅうに知れ渡ってしまった。

取り分けて、人々をおどろかしたのは、黒沼の娘お勝の死であった。前にも云う通り、お勝は先月以来引きつづいて病床に横たわっていて、急養子の幸之助とは名ばかりの夫婦であったが、その幸之助が家出すると又その跡を追うように隣家のお北が家出したことを知った時に、お勝は枕をつかんで泣いた。

「口惜くやしい」

そのひと言に深い意味のこもっていることは、母のお富にもよく察せられたが、まだ確かな証拠を握ったわけでもないので、表立って瓜生へ掛け合いにも行かれず、さしあたりいい加減に娘をなだめて置くと、お勝は母や女中の隙をみて、床の上に起き直って剃刀かみそりで喉のどを突き切った。お富がそれを発見した時には、娘はもう此の世の人ではなかった。別に書置らしい物も残していなかったが、その自害の原因が「口惜しい」の一句に尽くされているのは疑うまでもないので、お富も身をふるわせて口惜しがった。

まだ正式の祝言は済ませないでも、幸之助がお勝の婿であることは、組じゅうでも認めている。世間でも認めている。その幸之助と駈け落ちをしたとあれば、お北は明らかに不義密通ふぎみっつうである。確かな証拠を握り次第、お富は瓜生の親たちにも掛け合い、組頭にも訴えて、娘のかたき討ちをしなければならないと決心した。

お富が決心するまでもなく、瓜生の家でもそれに対して相当の覚悟をしなければならなかった。長八は妻のお由と伜の長三郎を自分の居間に呼びあつめてささやいた。

「どうも飛んだ事になってしまった。幸之助の家出、お北の家出、それだけならば又なんとか内済にする法もあるが、それがためにお勝までが自害したとあっては、事が面倒になる。黒沼の方ではどういう処置を取るか知らないが、どうも無事には済むまいと思われる。おれ達もその覚悟をしなければなるまいぞ」

「その覚悟と申しますと……」と、お由は不安らしく訊いた。

「おれも侍の端はしくれだ。こうなったら仕方がない、一日も早くお北のありかを探し出して、手打ちにして……。その首を持って黒沼の家へ詫びに行かなければ……。さもないと家事不取締りの廉かどで、おれの身分にも拘わるからな」と、長八は溜め息まじりで云った。

比較的に武士気質さむらいかたぎの薄い御賄組に籍を置いていても、瓜生長八、ともかくも大小をたばさむ以上、こういう場合にはやはり武士らしい覚悟を決めなければならなかった。

「それで、黒沼の家はどうなるでしょう」と、お由は又訊きいた。

「今度こそは断絶だろうな」と、長八は再び溜め息をついた。「先月の時にも表向きにすればむずかしかったのだが、伝兵衛急病ということにして先ず繋ぎ留めたのだ。それは組頭も知っている。その矢さきへ又今度の一件だ。養子は家出する、家付きの娘は自害する。それではどうにも仕様があるまい」

「いっそ先月の時に、おとなりの家が潰れてしまったら、こんな事にもならなかったのでしょうに……」と、お由は愚痴らしく云った。

「今更そんなことを云っても仕方がない。なにしろ娘が悪いのだ。幸之助も悪いが、お北も悪い。つまりは両成敗りょうせいばいで型を付けるよりほかないのだ。おれはもう覚悟している。おまえ達もそのつもりでいろ」

お由は無言で眼を拭いた。長三郎も黙って聴いていると、父はやがて伜の方へ向き直った。

「今も云い聞かせた通りの次第だが、おれは勤めのある身の上だ。御用をよそにして娘のゆくえを尋ね歩いてはいられない。おまえは部屋住みだ。これから江戸じゅうを毎日探し歩いて、姉の隠れ場所を見つけて来い。途中で出逢ったらば、無理に連れて帰って来い」

いかにこの時代でも、十五歳の小伜に対してこんな役目を云いつけるのは、少しく無理なようにも思われたが、これは迂闊うかつに他人にも頼まれない用向きであるから、長八もわが子に頼むよりほかはなかったのである。その事情を察しているので、長三郎も断わることは出来なかった。

「承知しました」

「けれども、おまえ……」と、お由は我が子に注意するように云った。「家うちの姉さんの家出したのはほかに仔細のあることで、おとなりの幸之助さんとは係り合いが無いのかも知れないからね。そのつもりで、むやみに手暴てあらな事をしちゃあいけませんよ」

「いや、それは未練だ」と、長八は叱るように云った。「お北が幸之助と裏口で立ち話をしているのを、妹も二、三度見たことがあると云うのだ。お秋も今まで隠していたが、これも二人の立ち話を時々に見たと云う。してみれば、証拠は十分だ。長三郎、決して容赦ようしゃするなよ。おまえは年の割合には剣術も上達している。万一、幸之助が邪魔をして、刀でも抜いて嚇おどかすようなことがあったらば、お前も抜いて斬ってしまえ」

内心はどうだか知らないが、父としては斯う命令するよりほかは無かったのであろう。

長八は更に我が子にむかって、探索たんさくの心あたり四、五カ所を云い聞かせると、長三郎は委細いさいこころえて、父の前を退いた。そうして、直ぐに表へ出る支度をしていると、母は幾らかの小遣い銭を呉れて、その出ぎわに又ささやいた。

「お父さまはああ云っているけれども、なにしろ総領むすめなんだからね。おまえに取っても姉さんなのだから……」

長三郎は無言でうなずいて出たが、なにぶんにも困った役目を云い付かったと、彼は悲しく思った。

姉を庇かばう母の心はよく判っているが、この場合、一刻も早く姉をさがし出して、なんとかその処分をしなければ、父の身分にも関かかわる、家名にも関わる。たとい母には恨まれても、姉を見逃がすようなことは出来ない。もし幸之助が一緒にいて、なにかの邪魔をするときは、父の指図通りにしなければならない。白い蝶の探索については、彼も一種の興味を持っていたが、今度の探索はなんの興味どころか、単に辛つらい、苦しい役目というに過ぎなかった。

それでも彼は奮発して出た。勿論、どこという確かな目当てもないのであるが、さしあたりは父に教えられた心あたりの四、五カ所をたずねることにした。それは母方の縁者や、多年出入りをしている商人あきんどなどの家で、あるいは青山、あるいは高輪たかなわ、更に本所深川などであるから、いかに若い元気で無茶苦茶に駈けまわっても、それからそれへと尋ね歩くのは容易ではなかった。

しかも行く先きざきで何の手がかりをも探り出し得ないので、彼はがっかりしてしまった。姉はどこへも立ち廻った形跡がないのである。

疲れた上に、日も暮れかかったので、長三郎はきょうの探索を本所で打ち切ることにした。本所の家は母方の叔母にあたるので、そこで夜食の馳走になって、六ツ半(午後七時)を過ぎた頃に出て来たが、本所の奥から音羽まで登るには可なりの時間を費した。江戸市中の地理に明るくない彼は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤どてに沿うて大曲おおまがりから江戸川橋にさしかかったのは、もう五ツ(午後八時)を過ぎていた。

雨催いの空は低く垂れて、生なまあたたかい風が吹く。本所で借りて来た提灯をたよりに、暗い夜道を足早にたどって、今や橋の中ほどまで渡り越えたとき、長三郎は俄かに立ち停まった。自分のゆく先きに白い蝶が飛んでいるように見えたからである。はっと思って再び見定めようとすると、その白い影はもう消え失せていた。

「心の迷いか」と、長三郎は独りで笑った。

蝶の影は彼の迷いであったかも知れないが、さらに一つの黒い影が彼の眼のさきにあらわれた。水明かりに透かして視ると、それは確かに人の影で、音羽の方角からふらふらと迷って来るのであった。

長三郎は油断なく提灯をさし付けて窺うと、それは火の番の娘お冬で、さも疲れたように草履をひき摺りながら歩いて来た。

「お冬か」

長三郎は思わず声をかけると、お冬はこちらを屹きっと見たが、忽ちに身をひるがえして元来た方へ逃げ去ろうとした。その挙動が怪しいので、長三郎は直ぐに追いかけた。追い捕えてどうするという考えもなかったが、自分を見て慌てて逃げようとする彼女の挙動が、いかにも胡乱うろんに思われたからであった。

疲れているらしいお冬は遠く逃げ去るひまも無しに、追って来る長三郎に帯ぎわをつかんで引き戻された。そのはずみに、彼女はよろめいて倒れた。

「なぜ逃げる。わたしを見て、なぜ逃げるのだ」と、長三郎は声を鋭くして訊いた。

お冬は黙っていた。

「お前はこれから何処へ行くのだ」

長三郎はかさねて詰問しながら提灯の火に照らして見ると、お冬は右の足に草履を穿はいて、左足は素足であった。片眼の女、片足の草履、それが何かの因縁でもあるように、長三郎の注意をひいた。

「おまえは片足が跣足はだしだな。草履をどうした」

お冬は黙っていた。

先日、水引屋の職人と一緒に藤助の家をたずねた時にも、お冬は始終無言であったが、今夜もやはり無言をつづけているので、長三郎はすこしく焦じれた。

「え、なぜ返事をしないのだ。おまえは何か悪いことでもしたのか」

長三郎はその腕をつかんで軽く揺り動かすと、お冬は地に坐ったままで男の手さきをしっかりと握った。

前髪立ちとはいいながら、長三郎も十五歳である。殊に今の人間とは違って、その時代の人はすべて早熟である。若い女に、自分の手を強く握られて、長三郎の頬はおのずと熱ほてるように感じられた。

彼はその手を振り払いもせずに暫く躊躇していると、お冬はいよいよ摺り寄ってささやいた。

「若旦那……。あなたこそ何処へお出ででした」

今度は長三郎の方が黙ってしまった。

「あなたは誰かを探して歩いているんじゃございませんか」

星をさされて、長三郎はなんだか薄気味悪くもなった。

この女はどうして自分の秘密の役目を知っているのであろう。もう一つには、今頃こんな取り乱したような姿をして、どうしてここらを徘徊しているのであろう。彼は謎のような女に手を握られたままで、やはり暫くは黙っていた。

一〇

お冬は長三郎の手を固く握ったままで、更にささやいた。

「あなたの探している人は見付かりましたか」

なんと答えようかと長三郎はまた躊躇したが、結局思い切って正直に云った。

「見付からない」

「教えてあげましょうか」

「おまえは知っているのか」

「知っています」

「ほんとうに知っているのか……。教えてくれ」と、長三郎は疑うように訊いた。

「あなたの探している人は……。御近所にかくれています」

「近所とは……。どこだ」

「佐藤さまのお屋敷に……」と、お冬は左右を見かえりながら声を低めた。

「佐藤……孫四郎殿か」と、長三郎は意外らしく訊き返した。「どうして知っている」

それにはお冬も答えないので、長三郎は摺り寄って又訊いた。

「そこには幸之助と……。まだほかにも隠れているのか」

自分の姉の名をあらわに云い出し兼ねて、長三郎は探るようにこう訊くと、お冬は頭かぶりをふった。

「いいえ、黒沼のお婿さんだけです」

長三郎は失望した。勿論、幸之助の詮議も必要であるが、さしあたりは姉のゆくえを探しあてるのが自分の役目である。その姉は佐藤の屋敷にいないと聞いて、彼は折角の手がかりを失ったようにおもった。それでも再び念を押した。

「黒沼幸之助だけは確かに佐藤の屋敷に忍んでいるな」

「はい」

長三郎は焦じれて来たので、とうとう姉の名を口にした。

「わたしの姉のお北は一緒にいないのか」

「おあねえさんは御一緒じゃありません」

「姉の居どころをおまえは知らないか」

お冬は又だまってしまった。あくまでも焦らされているように思われて、年の若い長三郎は苛々いらいらした。

「これ、正直に教えてくれ。頼む」

「お頼みですか」

「頼む、頼む」と、長三郎は口早に云った。

「わたくしもお頼み申したいことがありますが……」と、お冬は自分の顔を男の頬へ摺り付けるようにして、訴えるようにささやいた。

もうこうなっては前後を省かえりみる暇もないので、長三郎は素直に答えた。

「おまえの頼むこと……。なんでも肯きいてやる。早く教えてくれ」

「では、一緒においでなさい」と、お冬は立ち上がった。

彼女はやはり男の手を掴んで放さなかった。

この上は彼女の心のままに引き摺られて行くのほかは無いので、長三郎も無言で歩み出した時、宵からの生なまあたたかい風が往来の砂をまいてどっと吹き付けた。その砂を顔に浴びて、男も女もあわてて両袖を掩おおったので、繋がっている手と手が自然に離れた。長三郎の持っている提灯の火もあやうく吹き消されそうになった。

その風のうちに、お冬はなんの音を聞いたのか、俄かにうしろを見返ったかと思うと、長三郎のそばを颯さっと離れて、橋を南へむかって飛鳥のごとくに駈け去った。取り残された長三郎は呆気あっけに取られて、再びそれを追い捕える気力もなく、唯ぼんやりと其のゆくえを眺めていると、やがて草履の音が北の方から近づいて、頬かむりをした男がうしろから彼に声をかけた。

「あなたはあの女とお知合いでございますか」

相手が何者か判らないので、長三郎は突っ立ったまま睨んでいると、男は頬かむりの手拭を取って丁寧に会釈えしゃくした。

「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上かみの御用を勤めている吉五郎という者でございます。失礼ながらあなたは……」

長三郎も黙っていられなくなった。

「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」

「はあ、瓜生さんの御子息でございましたか」

丁度いい人に出逢ったと云うように、吉五郎は馴れなれしく摺り寄って来た。

「あの女は音羽の火の番の娘じゃございませんか」

長三郎はうなずいた。

「御近所ですから、前から御存じなんでしょうな」と、吉五郎はまた訊いた。

「知っています」

「そこで、くどくおたずね申すようですが、今ここでどんなお話をなすったんでしょう。いや、こんなことを申し上げてはたいへん失礼でございますが、これも御用とおぼしめして御勘弁をねがいます。実は先刻あの女を取り押さえて、少々取り調べて居ります処へ、思いもよらない邪魔がはいりまして……」

云いかけた時に、強い南風みなみが又もやどっと吹き寄せて来て、二人の顔をそむけさせたが、その風のなかで何を見付けたのか、吉五郎はあわててふた足三足かけ出した。一羽の白い蝶が風に吹き揚げられたように、地を離れてひらひらと空を舞って行くのである。長三郎もそれを見つけて、思わずあっと声をあげた。

「若旦那。つかまえて下さい」

吉五郎はすぐに蝶を追った。長三郎も一緒に追った。しかも、あいにくに強い風が又吹き付けたので、蝶は橋の上から斜めに飛んで、川の上に吹きやられてしまった。

「水に落ちたかな」と、長三郎は提灯をかざしながら、残念そうに云った。

「そうでしょう。川の方へ吹き飛ばされちゃあ仕様がありません」と、吉五郎も残念そうに水の上を覗いていた。「しかし若旦那。あなたは何か御覧になりませんでしたか」

「なにを見たかと云うのだ」

「あの蝶々の飛んで行くときに、何か御覧になりませんでしたか」

「いや、別に……」

「そうでしたか」と、吉五郎は微笑みながらうなずいた。

その一刹那に、長三郎はふと心付いた。怪しい蝶はよそから飛んで来たのでなく、そこらの地面から吹き揚げられたらしい。暗いなかで不意に起こったことであるから、もちろん確かには判らないが、地に落ちていた蝶が強い風のために空中へ吹き揚げられたのではあるまいか。生きた蝶か死んだ蝶か。あるいはお冬が怪しい蝶を袂にでも忍ばせていて、故意か偶然に落として行ったのではあるまいか。その疑いを解こうとして、彼は更に訊き返した。

「おまえは何か見たのか」

「いや、別に……」と、吉五郎は笑っていた。

自分の返事を鸚鵡おうむ返しにして、冷やかに笑っているような岡っ引の態度を、長三郎は小面こづらが憎いようにも思った。彼は何をか見付けたに相違ない。そうして、意地わるく秘かくしているのである。秘されるほど聞きたがるのが人情であるのに、まして今の場合、長三郎はあくまでもその秘密を探り知りたいので、忌々いまいましいのを堪こらえながらおとなしく訊きいた。

「おまえは何か見たらしい。見たなら見たと云って正直に教えてくれ。わたしもあの蝶々について詮議をしているのだから……」

「そうですか」と、吉五郎はすこし考えながら答えた。「折角ですが、それは申し上げられません。あなたも御覧になったのなら格別、わたくしの口からは申されません。こう申したら、定めて意地のわるい奴だとおぼしめすかも知れませんが、御用を勤めている者はみんなそうです。そこで、あなたはどういうわけで、あの蝶々を御詮議なさるんです」

「別にどうと云うこともないが、このごろ世間で評判が高いから……」

「唯それだけの事でございますか」と、吉五郎は相手の顔色をうかがいながら云った。「まだほかに、何か仔細があるのじゃあございませんか」

「ほかに仔細はない」と、長三郎は強く云い切った。

「仔細がなければよろしいのですが……」と、吉五郎は又もや意味ありげに云った。「時におあねえ様はもうお屋敷へお帰りになりましたか」

長三郎はぎょっとした。さすがは商売だけに、岡っ引は早くも姉の家出を知っているのである。さてその返答をどうしたものかと、彼も即座そくざの思案に迷っていると、吉五郎は諭さとすように云った。

「若旦那。わたくしは大抵のことを知っています。蝶々のことも大抵は見当が付きました。やっぱりわたくしの鑑定通りでした。近いうちにきっと埒らちをあけてお目にかけます。おあねえ様の御安否もやがて判りましょう。御姉弟ごきょうだいのことですから、おあねえ様のゆくえをお探しなさるのはあなたの御料簡次第ですが、蝶々の一件はあなた方がお手出しをなさらずに、どうぞわたくし共にお任せください。素人しろうとがたに荒らされると、かえって仕事が面倒になりますから……。お父とうさまにもよくそう仰しゃって下さい」

こうなると、多年の功を積んだ岡っ引と、前髪のある若侍とは、まったく相撲にならないのは判り切っているので、長三郎も意地を張るわけには行かなくなった。

「おまえは姉のありかを知っているのか」

「それは存じません。しかし探索の糸を手繰たぐって行けば、自然に判ることだと思います。もし知れましたらば早速におしらせ申します。自分の手柄をするばかりが能じゃあありません。お屋敷の御迷惑にならないようにきっと取り計らいますから、御安心ください。もうおいおいに夜が更ふけます。今晩はこれでお別れ申しましょう」

行きかけて、吉五郎はまた立ち戻った。

「唯今も申した通りですから、あなた方は決して蝶々の一件におかかわり合いなさるな。悪くすると、あなた方のおからだに何かの間違いが無いとも限りませんから……」

嚇おどすように云い聞かせて立ち去るうしろ姿を、長三郎は無言で見送っていた。

吉五郎が最後の一言はあながちに嚇しばかりでは無い、現に黒沼伝兵衛は目白の寺門前で怪しい横死おうしを遂げたのである。それを思うと、長三郎も今更のように一種の不安を感じて、どこにどんな奴が自分を付け狙っているかも知れないと、俄かに警戒するような心持にもなった。そうして、風の音にも油断なく耳と眼とを働かせながら、暗い夜道を提灯に照らして帰る途中、彼はいろいろに考えた。

今夜のことはすべて謎である。お冬の云うことも、吉五郎の云うことも、半分は判っているようで半分は判らない。お冬は自分をどこへ誘って行くつもりであったのか、吉五郎はなにを見付けたのか、長三郎にはよく判らないのである。彼は怪しい娘と岡っ引とに焦じらされているようにも感じた。

予想以上に帰りが遅かったので、瓜生の父も母もやや心配していたが、無事に戻って来た我が子の顔をみて、まず安心した。長三郎はきょうの探索の結果を報告して、どこにも姉の立ち廻ったらしい形跡のないことを説明すると、父の顔色は陰くもった。

「不孝者め。困った奴だ。あしたは非番ひばんだから、おれも探しに出よう。まだほかにも心あたりはある」

長三郎はお冬に出逢ったことを報告すると、長八の眉はまた皺しわめられた。

「してみると、お冬という女はお北のゆくえを知っているのか。おれも最初から火の番のことが気にかかっていたのだが、やはり何かの係り合いがあると見えるな。それにしても黒沼幸之助が佐藤孫四郎殿の屋敷に忍んでいるとはいいことを聞き出した。どういう訳があるか知らないが、本人をいったん隠まった以上、ひと通りの掛け合いでは素直に本人を渡すまい。存ぜぬ知らぬとシラを切るに相違ないから、なんとか手だてをめぐらして、無事に幸之助を受け取る工夫くふうをしなければなるまい。それまでは誰にも他言するなよ」

吉五郎に関する報告を聞いて、長八はまた云った。

「三河町の吉五郎の名はおれも聞いている。岡っ引仲間でもなかなかの腕利きだそうだ。それがもう大抵は見当を付けたと云う以上、蝶々の方はどうにか埒らちが明くのだろう。こうなると、蝶々はどうでもいい、一日も早くお北と幸之助をさがし出して、こっちの埒を明けなければならない」

父としてはこう云うのが当然であると、長三郎も思った。蝶の詮議などはしょせん一種の物好きに過ぎない。それよりも姉のゆくえ詮議が大事であると考えたので、彼は父とあしたの探索の打ち合わせをして寝床にはいった。しかも彼は眼が冴えて眠られなかった。どうでもいいとは思いながらも、やはり彼は蝶のことが気にかかってならない。お冬と白い蝶と、その二つを結び付けて、彼はなんとかしてその謎を解こうと試みたが、結局は無駄な努力に終った。

長三郎が眠られないあいだに、おなじく眠らない人があった。それは吉五郎の子分の留吉で、彼は寺のひと間に衾よぎをかぶって、そら寝入りをしながら寺内の様子を窺っていた。

一一

医者の診察によると、留吉の怪我は幸いに差したることでも無かった。しかし吉五郎は寺の納所なっしょにたのんで、あしたの朝は駕籠を迎いに遣よこすから、今夜だけはここへ寝かして置いてくれと云った。寺では少しく迷惑らしいようであったが、相手が相手であるから情すげなく断わるわけにも行かないので、結局承知して吉五郎を帰した。

さっきからよほどの時を費したので、今さら墓場の探索をするのも無駄だと諦めて、吉五郎はそのまま表へ出た。それから神田へ帰る途中、江戸川橋でお冬のすがたを認め、更に長三郎にも出逢ったことは、前に記しるした通りである。そこで吉五郎がどんな発見をしたかは、留吉はもちろん知らなかったが、親分が自分ひとりをここに残して行った料簡りょうけんはよく判っていた。

「あの医者は手軽そうなことを云ったが、なかなかそうは行かねえらしい。腕も足もずきずきと骨が痛んで、自由に身動きもならねえ。あしたは駕籠に乗って骨つぎの医者へ行って、よく診みて貰わなけりゃあならねえ」

寺の納所なっしょたちへ聞こえよがしに、彼はこんなことを云って、わざと苦しそうに顔をしかめていた。

そこに寝床を敷いてもらって、彼は頭から衾よぎを引っかぶってしまったが、自分には大事の役目のあることを承知しているので、今夜は眠らない覚悟をきめて、しずかに夜の更ふけるのを待っていると、目白不動の四ツ(午後十時)の鐘を聞いて、寺内もひっそりと鎮まった。

留吉はこのあいだからこのあたりを徘徊して、附近の様子を探っていたので、この寺の相当に大きいことを知っていた。建物は古いが手入れもよく行き届いていて、寺内には住職のほかに納所坊主が二人、小坊主が一人、若い寺男が一人、都合五人が住んでいる。寝床を敷きに来た小坊主に訊くと、住職の名は祐道ゆうどう、納所は善達と信念、寺男は弥七と云うのである。

「ほかの坊主はともかくも、和尚の面つらつきがどうも気に入らねえ」と、留吉は寝ながらに考えた。

外の風の音はまだ止まないで、枕もとの雨戸も時々に揺れるように響く。その庭さきで何やら人の争うような物音がきこえた。猫や犬が狂っているのではない。確かに人と人とが挑いどみ争っているのである。

留吉は寝床から這い出して、なおも聴き耳を立てていると、そとの人は息をはずませて争っている。さらに障子をそっとあけて、縁側まで這い出して雨戸越しに窺うと、外の人は二人であるらしく、一人は男、一人は女であることも、その息づかいで大かたは想像された。かれらは得物えものを取って闘っているのでなく、空手からての掴み合いであるらしかった。

夜ふけの寺の庭さきで、男と女が息を切って掴み合い、むしり合っている。それだけでも唯事ではない。留吉は雨戸の隙間すきまから覗いてみようと燥あせったが、何分にも戸締まりが厳重に出来ている上に、長い縁側の戸袋とぶくろは遠いところにあるので、そこまで這って行って雨戸を繰り明けるのは容易ではなかった。よんどころなく雨戸の隙間に耳を押し付けて、一心に外の物音を聴き澄ましていると、その物音は吹き消されたように忽ち鎮まって、風の音のほかには何んにも聞こえなくなった。

留吉は不思議に思った。なんだか気味が悪いようにも感じた。今まで聞こえていた物音は自分の空耳そらみみであったのか、あれほどの格闘かくとうが俄かにひっそりと鎮まる筈がない。一方が倒れたならば、尚更その物音がきこえる筈であるのに、何事も無しに忽ち鎮まってしまうのは可怪おかしい。しかも自分の耳にきこえたのは、風音でもなく、木の葉の摺れ合う音でもなく、たしかに人と人とが挑み合う音であった。

「変だぞ」

暫く縁側に這い屈かがんで、留吉は外の様子を窺っていたが、怪しい物音は再び聞こえなかった。根負けがして寝床へ戻ったが、彼はいよいよ眼が冴えて眠られなかった。

どうで夜明かしと度胸を決めているのであるから、眠られぬのは平気であったが、今夜の出来事について彼はいろいろに考えさせられた。男は誰か、女は何者か、なんのわけで夜更けに庭さきで、掴み合っていたのか。自分もその物音を聞いたばかりで、その正体を見とどけないのであるから、物に馴れている留吉にも見当けんとうが付かなかった。

張り詰めている気もゆるんで、彼は暁け方から思わずうとうとと眠った。再び眼をあくと、いつの間にか雨戸は開け放されて、縁さきには朝の光りが流れ込んでいた。手足のまだ痛むのを堪こらえながら、留吉は寝床の上に起き直ると、枕もとの煙草盆には新らしい火が入れてあった。自分の寝ているうちに、小坊主が覗きに来たものと見える。彼は自分の油断を後悔しながら、不自由の手で煙草を一服すった。

「寝首を掻かれねえのが仕合わせだった」と、彼は独りで苦笑にがわらいした。

寺では寝巻を貸してやろうと云ったのを断わって、彼はゆうべからごろ寝をしていたので、そのまま這い起きて羽織をかさねた。例の物音が気になるので、彼はそっと縁側へ出てみると、庭さきはもう綺麗に掃いてあって、そこで掴み合いのあったらしい形跡は残されていなかった。それでも彼は庭下駄を突っかけて、覚束おぼつかない足どりで庭に降りた。

ゆうべの風はいつか吹きやんで、今朝はうららかに晴れていた。庭のまん中にある桜の大樹も、もうひと雨でほころびそうに紅あからんで、春をよろこぶ小鳥の声が賑やかに聞こえた。よく見ると、その木の下には古い苔こけを踏み荒らした足跡が残っている。怪しい物音は自分の空耳そらみみでなかったことを確かめて、留吉は又もや独りで笑いながら、身を屈かがめてそこらあたりを見まわしたが、別にこれぞという物も見いだされなかった。

痛むからだを我慢して、さらに墓場の方へ行きかかる時、ふと見かえると住職の祐道が法衣ころもすがたで自分のうしろに突っ立っていたので、留吉はすこし慌てながら挨拶すると、祐道はその蒼ざめた顔に笑みを含みながら云った。

「お痛み所はいかがですな」

「おかげさまで、よほど楽になりました」

「それは結構でござる。まあ、ご大切になさい。昨夜も申し上げた通り、わたしも風邪かぜで引き籠って居りましたが、今朝はよんどころない法用で唯今から外出いたします。吉五郎どのが見えましたらば、宜しくお伝えください」

「行ってらっしゃい」と、留吉も丁寧に会釈した。

「では、御免」

祐道はそのまま立ち去った。そのうしろ姿が植え込みの八つ手の大きな葉かげに隠れるのを見送っているうちに、八つ手の葉が二、三枚新らしく折れているらしいのが留吉の眼についた。近寄って見ると、下葉は果たして折れていた。しかも何者かが無理に掴んで引き折ったらしく見えた。おそらく昨夜の格闘の際に、一方の相手が何かのはずみに下葉を掴んだのであろう。そう思いながら更に見まわすと、その折れかかった下葉の裏に白い糸屑が引っかかっていた。早朝に掃除をした者も、さすがにそこまでは気がつかなかったらしい。留吉はその糸屑をとって、朝のひかりに透かしてみると、糸の長さは四、五寸で、俗に菅糸すがいとという極めて細いものであった。

女の住んでいない寺中じちゅうでは、僧侶が針や鋏を持つことが無いとも云えない。その糸屑が庭さきに散っていたとて、さのみ怪しむにも足らないかも知れないが、留吉はゆうべの一件を思い合わせて、この糸屑にも何かの仔細があるらしく疑われたので、あたりを窺いながらそっと自分の袂に忍ばせた。

庭さきに余り長く徘徊はいかいしていて、他の僧らに怪しまれては何かの邪魔であると思ったので、留吉は縁側に這いあがって、再び元の寝床の上に坐っていると、やがて小坊主が朝飯を運んで来て、きょうは起きられるかと訊いたので、どうにか起きられるようにはなったが、まだ手足の自由が利かないから、迎いの駕籠の来るまでは斯こうして置いてくれと、留吉は頼んだ。小坊主はこころよく承知して、どうぞごゆっくりと答えて去った。

午ひるに近い頃に、吉五郎は迎いの駕籠を吊らせて来て、納所坊主や寺男に礼を云って、留吉を受け取って出た。出るときに、吉五郎は寺男の弥七に幾らかの銀かねをつつんでやった。

「親分。不動さまの境内けいだいまで駕籠をやってください」と、留吉は小声で云った。

駕籠は音羽の大通りへ出ないで反対の方角にむかって目白坂をのぼった。不動の門前に駕籠をおろさせて、駕籠屋をそこに待たせて置いて、留吉は親分に扶たすけられながら門内にはいったが、人目を憚はばかる彼等は、客をよぶ掛茶屋をよそに見て、鐘撞堂の石垣のかげに立った。

「どうだ、留。早速だが、なにか種は挙がったか」と、吉五郎は頬かむりの顔をすり寄せて訊いた。

「別に面白いこともありませんでしたが……。でも、一つ二つ……」

留吉は先ず夜なかの格闘の一件を話した。それから彼かの糸屑を出してみせると、吉五郎は一と目見て笑い出した。

「はは、これだ、これだ。実はこの菅糸をおれも見たよ」

「どこで見ました」

「江戸川橋の上で……。ゆうべおめえに別れてから、風の吹くなかを帰って行くと、橋の上で火の番の娘を見つけたんだ」

「お冬があんな所をうろついていましたか」

「一旦ここを逃げてから、どこをどう迂路うろついていたのか知らねえが、橋の上で若い侍と話していて、おれの足音を聞きつけると直ぐにまた逃げてしまった」

「その侍は何者です」

「その侍は御賄組の瓜生長三郎……。このごろ家出をしたお北という娘の弟だ。いや、それはまあ後あとのことにして、おれがその侍と話しているうちに、一つの白い蝶々がひらひらと舞いあがった」

「ふうむ。白い蝶々が又出ましたかえ」と、留吉も眼をみはった。

「おれの鑑定かんていでは、お冬の袂から地面に一旦落ちたのを、強い風に吹きあげられて……。まあ、そう思うより仕方がねえ」と、吉五郎は説明した。「侍の持っている提灯の火で透かして視ると、その蝶々には細い糸が付いている……。細くって、光っているのを見ると、これだ、この菅糸だ。中途で切れたと見えて、やっぱり七、八寸ぐらいしか付いていなかったが、おれの眼には確かに菅糸と見えたんだ」

「その蝶々はどうしました」

「つかまえようと思ううちに、風の吹きまわしで川のなかへ落ちてしまったが、蝶々も生き物じゃあねえ、薄い紙か絹のような物で上手に拵こしらえたんだろうと思う。暗いなかで光るのは、羽はねに何かの薬が塗ってあるんだな。早く云えばお化けのような物だ」

この時代には、子供の玩具おもちゃに「お化け」と云うものがあった。燐のたぐいを用いたもので、それを水に溶かして人家の板塀または土蔵の白壁などに幽霊や大入道のすがたを書いて置くと、昼ははっきりと見えないが、暗い夜にはその姿が浮いたように光って見えるのである。もちろん、子供の幼稚な悪戯いたずらに過ぎないので、それに驚かされる者は少ないのであるが、気の弱い娘子供などは、やはりこの「お化け」を恐れ嫌った。怪しい蝶が闇夜に光るのは、それに類似の手段を用いたのであろうと、吉五郎はひそかに想像していたのであった。

「そうかも知れませんね」と、留吉もうなずいた。「さもなけりゃあ、寒い時節に蝶々の飛び出す筈がありませんからね」

「そこで、その蝶々がどうして飛ぶか……。拵え物を飛ばせる以上、誰か糸を引く奴がなけりゃあならねえ。おれがだんだん調べてみると、その蝶々が飛び出すのは風の吹く晩に限っているらしい。そうなると、いよいよ怪しい。といって、小さい蝶々を飛ばせるには、どんな糸を使うのか、それとも何かの機関からくり仕掛けにでもなっているのか。おれは上野の烏凧からすだこから考えて、多分この菅糸を使うんだろうと鑑定していた。おめえも知っているだろう。花どきになると、上野じゃあ菅糸の凧を売っている。薄黒いから烏凧というのだ。あの凧は紙が薄い上に、糸が極細ごくぼその菅糸だから風のない日でもよくあがる。今度の蝶々にも菅糸をつけて、風の吹く晩に飛ばせるんだろう。そうして、暗い晩を狙ってやりゃあ自分の姿はみえねえ、蝶々だけが光る……。まあ、こんな手妻てづまだろうと思っていた。ところが案の通り、ゆうべの蝶々には菅糸が付いていた。おめえも寺の庭で菅糸を拾った。万事が符合する以上は、もう間違いはあるめえ。蝶々の正体は大抵判ったと云うものだ」

「そうです、そうです」と、留吉は又うなずいた。「成程、親分の云う通り、お化けと烏凧で、手妻の種はすっかり判った。ところで、それを使う奴は……」

「お冬という奴だろう」

「なぜそんな事をするんでしょう。唯の悪戯いたずらでもあるめえが……」

「唯のいたずらじゃあねえに決まっている。それにはお冬を使って、何かの仕事を目論もくろんでいる奴があるに相違ねえ。誰かがお冬の糸を引いて、お冬がまた蝶々の糸をひくと云うわけだから、順々に手繰たぐって行かなけりゃあ本家本元は判らねえ。それにしても、ここまで漕ぎ付けりゃあ大抵の山は見えているよ」と、吉五郎は笑っていた。

「そうすると、お冬はゆうべ又あの寺へ舞い戻って来たんでしょうか」と、留吉はまた訊いた。

「そうのようにも思われる。そうでねえようにも思われる。おれもそれを考えているんだが……」

「でも、その菅糸が落ちていたんですよ」

「この一件はお冬ばかりじゃあねえ。大勢の奴らが係り合っているらしいから、糸屑だけでお冬とも一途いちずに決められねえ」と、吉五郎はまだ考えていた。「だが、まあ、今の話はこれだけにしよう。来たついでと云っちゃあ済まねえが、不動さまにお詣りをして別れようぜ」

二人は本堂の方へ足を向けた。

一二

親分と子分は不動堂の門前で別れて、留吉を乗せた駕籠は神田へ帰った。吉五郎は頬かむりをして音羽の大通りへ出ると、水引屋の市川屋の店さきに、子分の兼松が人待ち顔に腰をかけていた。彼は親分のすがたを見つけて、小走りに寄って来た。

「もし、面白いことがありそうですよ」

「むむ、どんなことだ」

兼松は振り返って小手招ぎをすると、店から職人の源蔵が出て来た。吉五郎に引き合わされて、彼は丁寧に会釈えしゃくした。

「わたくしは市川屋の職人で源蔵と申します。なにぶんお見識り置きを……」

「わたしも今後よろしく願います。そこで、兼。この源蔵さんという人に何か手伝って貰うことでもあるのかえ」と、吉五郎は訊いた。

「実はね」と、兼松は声をひくめた。「この源蔵がゆうべ変なことを見たと云うんです」

「なにを見たね」

吉五郎は職人の方へ向き直ると、源蔵も小声で話し出した。

「実は昨晩、高田の四家町よつやまちまで参りまして、その帰り途に目白坂の下まで参りますと、寺の生垣いけがきの前に男と女が立ち話をして居りましたが、わたくしの提灯の火を見ると、二人ともに慌てて寺のなかへ隠れてしまいました。夜目遠目よめとおめで確かなことは申されませんが、男は火の番の藤助で、女はむすめのお冬のように思われたのでございます。お冬はともあれ、このあいだから行くえ知れずになっている藤助がこの辺にうろ付いていて、往来なかで娘と立ち話をしているのは何だか変だと思いましたが、その時はそれぎりにして帰ってまいりました。そこで、念のために今朝ほどお冬の家うちへ行ってみますと、お冬は留守でございました。もちろん、藤助のすがたも見えず、家はがら明きになって居りました」

「それは宵のことかえ」

「左様でございます。まだ五ツ(午後八時)にはならない頃でございました」

「それから、もう一つのことも話してしまいねえ」と、兼松は催促した。

「へえ」と、源蔵はやや当惑らしい顔色をみせたが、やがて思い切って又云い出した。

「わたくしももう五十で、年のせいでございましょうか、若い人たちのようにはどうも眠られません。昨晩も風の音が耳につきましておちおちと眠られずに居りますと、なんでも夜なかの事でございました。表で頻りに犬の吠える声がきこえるのでございます」

「むむ」と、吉五郎もそのあとを催促するように相手の顔をみつめた。

「夜なかに犬の吠えるのは珍らしくもございませんが、あんまり烈しく啼なきますので、わたくしも何だか気味が悪くなりまして、そっと起きて店へ出まして、雨戸の節穴から覗いてみますと、表は真っ暗でなんにも見えませんでしたが、犬の吠えているのは隣りの店のまえで、その犬の声にまじって人の声が聞こえるのでございます。低い声ですからよく判りませんが、ふたりで話しているらしいので……」

「男の声かえ、女の声かえ」

「どっちも男の声のようで……」

「その男が何を話していたえ」

「それがはっきりと判りませんでしたが……。ひとりがなぜ寺へ埋うめないのだと云っていたようでございました」

「その声に聞き覚えはなかったかね」

「何分はっきりとは聞き取れませんので……」

「それから其の二人はどうしたね」

「やがて何処へか行ってしまったようで、犬の声もだんだんに遠くなりました」

「どっちの方へ遠くなったえ」

「橋の方へ……」

「もうほかに話してくれることは無いかね」

「へえ」

「いや、大きに御苦労。この後も何か気のついたことがあったら教えてくんねえ」

「かしこまりました」

源蔵はほっとしたように立ち去った。それを見送って、吉五郎は子分にささやいた。

「正直そうな奴だな」

「小博奕こばくちぐらいは打つでしょうが、人間は正直者ですよ」と、兼松は答えた。「そこで、親分。今の話の様子じゃあ、ゆうべ此の辺で人間の死骸を運んだ奴があるらしゅうござんすね」

「むむ。まんざら心当たりがねえでもねえ。おれもたった今、留の野郎から聞いたんだが……。おい、耳を貸せ」

吉五郎は再びささやくと、兼松は顔をしかめながら幾たびかうなずいた。

「へえ、そんなことがあったんですか。夜なかに寺の庭さきで男と女がむしり合いをして……。じゃあ、その女が息を止められたんでしょうね」

「まあ、そうだろうな」

「女は誰でしょう。お冬でしょうか」

「さあ、それが判らねえ。この一件にはお冬と、御賄屋敷を家出したお北という女と、佐藤の屋敷に隠れているお近という女と、都合三人の女が引っからんでいるらしいので、どれだかはっきりとは判らねえが、まずこの三人のうちだろう。みんな殺されそうな女だからな」

「それにしても、まあ誰でしょう」

「執拗しつこく訊くなよ。それを穿索するのがおめえ達の商売じゃあねえか」と、吉五郎は笑った。「だが、まあ、おれの鑑定じゃあお近という女だろうな。なにしろ自分が殺されそうになっても、ちっとも声を立てずに争っていたのを見ると、よっぽどのしっかり者に相違ねえ。お北というのはどんな女か知らねえが、いくら武家の娘でも斯ういう時にはなんとか声を立てる筈だ。お冬もしっかり者らしいが、なんと云っても小娘だ。大の男を相手にして、いつまでも激しく争っていられそうもねえ。そうすると、まずお近だろうな」

「なるほど、そういう理窟になりますね。それで、これからどうしましょう」

「佐藤の屋敷へ踏み込むか、祐道という坊主を締め上げるか、それが一番早手廻しだが、なにぶん一方は旗本屋敷、一方は寺社の係りだから、おれ達が迂闊うかつに手を入れるわけにも行かねえので困る。まあ、気長に手繰たぐって行くよりほかはあるめえ、第一に突き留めなけりゃあならねえのは、その死骸の始末だが、寺で殺して置きながら墓場へ埋めてしまわねえのは、後日ごにちの証拠になるのを恐れたのだろう。川へ流したか、それとも人の知らねえような所へ埋めてしまったか。源蔵の話じゃあ、二人の男が橋の方へ行ったらしいと云うから、ひょっとすると何かの重しでも付けて、江戸川の深いところへ沈めたかも知れねえ。日が経って浮き上がったにしても、死骸がもう腐ってしまえば人相は判らねえからな」

「そうですね。殺した奴は誰でしょう」

「おればかり責めるなよ。おめえもちっと考えろ」と、吉五郎はまた笑った。「殺されそうな女も三人あるが、殺しそうな男も三人ある。火の番の藤助と、黒沼の婿の幸之助と……。もう一人は寺の住職……。まず三人のうちらしいな。いや、往来でいつまでも立ち話をしているのは良くねえ。そこらで午飯でも食いながら相談するとしよう。留はあの様子じゃあ、まだ当分は思うように働かれめえ。おめえが名代みょうだいにひと肌ぬいでくれ。頼むぜ」

「ようがす」

二人は連れ立って、そこらの小料理屋へあがると、時刻はもう午ひるを過ぎているので、狭い二階には相客もなかった。縁側に寝ころんでいた猫は人の影をみて早々に逃げて行った。

「あんまり居ごころのいい家うちじゃあねえな」と、兼松はつぶやいた。

「まあ仕方がねえ。こういう時には、繁昌しねえ家の方が都合がいいのだ」

親分も子分も少しは飲むので、取りあえず酒と肴をあつらえて猪口ちょこを取りかわした。

「今度の一件は留の受け持ちで、わっしは中途からの飛び入りだから、詳しいことが腹にはいっていねえんですが……」と、兼松は猪口を下に置いて云い出した。「いったい、佐藤の屋敷に忍んでいるお近という女は何者ですね」

「今はお近といっているそうだが、以前はお亀といって、深川の羽織をしていたんだ」

「むむ。芸者あがりかえ」

「容貌きりょうも好し、気前もいいとか云うので、まず相当に売れているうちに、金田という千石取りの旗本の隠居に贔屓ひいきにされて、とうとう受け出されて柳島の下しも屋敷へ乗り込むことになったのだ」と、吉五郎も猪口を置いて説明した。「それでまあ二年ほど無事に暮らしていたのだが、今から足かけ四年前の秋のことだ。十三夜の月見で、夜の更ふけるまで隠居と仲よく飲んでいた。……それまでは屋敷の者も知っているが、そのあとはどうしたのか判らねえ。夜が明けてみると、隠居は寝床のなかに死んでいた。酔って正体もなしに寝ているところを、剃刀かみそりのようなもので喉を突いたらしい。手箱のなかに入れてあった三十両ほどの金がなくなっている。お亀のすがたは見えねえ」

「隠居を殺して逃げたのか。凄い女だな」

「いくら隠居でも、妾に殺されたと云うことが世間にきこえちゃあ、屋敷の外聞にもかかわるから、表向きは急病頓死と披露して、それはまあ無事に済んだのだが、当主の身になると現在の親を殺されてそのままにゃあ済まされねえ。そこで、八丁堀の旦那のところへ内々で頼んで来て、お亀のゆくえを穿索して貰いたいと云うのだ。おれ達も旦那方の内意をうけて当分はいろいろに手を廻してみたが、お亀のありかは判らねえ。なかなか悧巧りこうな女らしいから、素早く草鞋わらじは穿はいてしまって、もう江戸の飯を食っちゃあいねえらしい」

「なんで隠居を殺したんだろう」

「隠居には随分可愛がられて、いう目が出ている身の上だから、三十両ぐらいの金が欲しさに、主殺しをする筈のねえのは判り切っている。三十両は行きがけの駄賃に持って行っただけのことで、ほかに仔細があるに相違ねえ。下屋敷は小人数だから、どうもよく判らねえのだが、女中たちの話によると、なんでも五、六日前に隠居と妾とが喧嘩をした事があるそうだ。その時は隠居もかなり激しく怒った様子で、お亀も蒼い顔をしていたというから、その喧嘩がもとでこんな事になったらしいが、どんな喧嘩をしたのか誰も知らねえから見当けんとうが付かねえ。なにしろちっとも手がかりがねえので、おれ達ももう諦めてしまった頃へ、この頃になってふと聞き込んだのは、お亀によく肖にた女を音羽辺で見かけた者があると云うのだ。そこで、留に云いつけて、この音羽から雑司ヶ谷の辺を探索させると、あいつもさすがに馬鹿じゃあねえ、それからそれへと手をのばして、とうとう其の佐藤の屋敷に忍んでいることを突き留めたのだが、さっきも云う通り、旗本屋敷に巣を食っているので、迂闊に手入れをすることが出来ねえ。しかし斯こうなりゃあ生洲いけすの魚うおだ。遅かれ早かれ、こっちの物よ」

吉五郎は冷えた猪口ちょこを飲みほして、自信があるように微笑ほほえんでいると、兼松もおなじく得意らしく笑った。

「まったく斯うなりゃあ生洲の魚だ。そのお亀……お近という奴は今まで何処に隠れていたんでしょう。初めから佐藤の屋敷に忍んでいたんでしょうか」

「そうじゃあるめえ」と、吉五郎は頭かぶりをふった。「それなら足かけ四年も知れずにいる筈はねえ。女は確かに草鞋を穿いていたに相違ねえ。おれもよく調べて見なけりゃあ判らねえが、佐藤という旗本はお近が深川にいる時からの馴染かも知れねえ。留の話によると、佐藤は三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に江戸へ帰って来ると、お近はそのあとから付いて来たと云うのだ。してみると、お近も長崎へ行っていて、佐藤と一緒に引き揚げて来たのだろう。おれ達が鵜の目鷹の目で騒いでも知れねえ筈よ、相手は遠い長崎の果てに飛んでいたのだ」

云いかけて、吉五郎は俄かに表へ耳をかたむけた。

「なんだか騒々しいようだぜ。火事かな」

兼松はすぐに立って往来にむかった肱掛け窓をあけると、うららかな春の町を駈けてゆく人々のすがたが乱れて見おろされた。

「弥次馬が駈け出すようですね。なんだろう。ちょいと見て来ます」

云いすてて兼松は階子はしごを降りて行ったが、やがて引っ返して来て仔細ありげにささやいた。

「江戸川橋の下へ死骸が浮き上がったそうですよ」

「死骸が……」と、吉五郎も眼をひからせた。「女か」

「若い女だそうです。何でも十八、九の……」

「十八、九か」

「なにしろ直ぐに行って来ましょう」

「むむ。おれも後から行く」

兼松を出してやって、吉五郎は忙がしそうに手をたたくと、女中が階子はしごをあがって来た。

「どうも遅くなりまして相済みません。御飯は唯今すぐに……」

「いや、飯の催促じゃあねえ」と、吉五郎は煙草入れを仕舞いながら云った。「姐さん。そこの川へ死骸が浮いたそうだね」

「そうだそうで……」と、女中は声をひくめた。「わたくしは見に参りませんけれど、まだ若い娘さんだそうです」

「十八、九というじゃあねえか」

「ええ。なんでもここらの人らしいという噂で……」

「ここらの人だ……。お武家かえ、町の人かえ」

「お武家さんらしいとか申しますが……」

「そうかえ。わたしたちは少し急用が出来たから、酒も飯もいらねえ。直ぐに勘定をしてくんねえ」

「はい、はい」

女中が早々に降りて行ったあとで、吉五郎は一旦しまいかけた煙草入れを取り出して、また徐しずかに一服吸った。

江戸川に発見された死骸は、十八、九の若い女で、武家らしい風俗である。瓜生の娘お北――それが直ぐに吉五郎の胸に浮かんだ。

「おれの鑑定は外はずれたかな」

寺で殺されて川へ流された女――それはお近ではなかったのか。お北か、お近か、彼はまだ半信半疑であった。

「こういうときには落ち着くに限る」

彼は更に二服目の煙草を吸った。表を駈けてゆく足音はいよいよ騒がしくきこえた。

一三

料理屋の勘定をすませて吉五郎は表へ出ると、江戸川の方角へむかって見物の弥次馬が駈けてゆく。吉五郎は目立たぬように頬かむりをして、その弥次馬の群れにまぎれ込んで行くと、江戸川橋から桜木町ちょうの河岸かしへかけて、大勢の人が押し合っていた。検視の役人がまだ出張しないので、死骸は岸の桜の下へ引き揚げたままで荒莚あらむしろを着せてあった。吉五郎はそっと眼をくばると、人込みのなかに兼松のすがたが見いだされた。市川屋の源蔵もまじっていた。

「御賄屋敷の娘さんと云うじゃありませんか」

「瓜生さんのお嬢さんだそうですよ」

「なんでも二、三日前から家出をしていたんだと云うことですがね」

「身投げでしょうか、殺されたんでしょうか」

口々に語り合っている弥次馬の噂を聴きながら、吉五郎はなおもあたりに眼を配っていると、十三、四歳らしい武家の娘と、十八、九ぐらいの女中らしい女とが息を切って駈け付けて来た。

「ちょっと御免ください」

諸人を押し分けて死骸のそばへ進み寄ると、あたりの人々は俄かに路を開いた。その様子をみて、吉五郎はすぐに覚さとった。ひとりは瓜生の妹娘で、ひとりは奉公人であろう。父や母は世間の手前、ここへ顔出しも出来ないので、娘と女中が取りあえず真偽を確かめに来たに相違ない。見物の人々もその顔を見識っているので、直ぐに路を開いて通したのであろう。さてこれからどうなるかと窺っていると、女中は死骸のそばに立っている自身番の男に会釈えしゃくした。

「この死骸をみせて貰うことは出来ますまいか」

「はい、どうぞ……」と、男は気の毒そうに云いながら、顔のあたりの莚むしろを少しくまくりあげて見せた。

二人の女はひと目のぞいて、たがいに顔を見あわせたが、それぎり暫くは何も云わなかった。やがて男に再び会釈して、二人は無言のままで立ち去ってしまった。

「家うちから云い付けられて来たんだろうが、さすがはお武家の女たちだな」

「ちっとも取り乱した様子を見せないぜ」

かれらのうしろ姿を見送って、人々はささやいていた。吉五郎は猶もそこにたたずんで、検視の来るのを待っていたが、役人は容易に来なかった。真昼の春の日を浴びて、人込みのなかに立っていて、彼は少し逆上のぼせて来たので、あとへさがって河岸端かしばたの茶店へはいると、兼松もつづいて葭簀よしずのうちへはいって来た。

「死骸は瓜生さんの娘に相違ないそうですよ」と、彼は小声で云った。

「むむ。あの女たちの様子で判っている」と、吉五郎もうなずいた。「だが、おれの鑑定もまんざら外はずれたわけじゃあねえ。あの死骸は寺で殺されたんじゃあねえ。自身番の奴が莚をまくったときに、おれもそっと覗いてみたが、死骸の顔にも頸のまわりにも疵らしい痕はなんにも見えなかった。第一、人に殺されたような顔じゃあねえ」

「じゃあ、唯の身投げでしょうか」

「まずそうだろうな。寺で殺された女はほかにある筈だ」と、云いかけて吉五郎は葭簀の外を覗いた。「おい。兼、あすこで源蔵と立ち話をしている中間ちゅうげんは、どこの屋敷の奴だか、そっと源蔵に訊きいてみろ」

「あい、あい」

兼松は駈け出して行ったが、やがて又引っ返して来た。

「あれは佐藤の屋敷の中間で、鉄造というのだそうです」

「そうか。留がいるといいんだが……」と、吉五郎は舌打ちした。「まあ、いい。おれが直じかに当たってみよう。おめえはここに残っていて、検視の来るまで見張っていてくれ」

吉五郎は茶店を出ると、かの中間はまだそこを立ち去らずに、あとからだんだんに集まって来る見物人の顔を、じろじろと眺めていた。そのそばへ摺り寄って、吉五郎は馴れなれしく声をかけた。

「おい、兄あにい、済まねえが、ちょいと顔を貸してくんねえか」

「おめえは誰だ」と、中間は睨むように相手の顔を見返った。

「おめえは三河町の留という野郎を識っているだろう」

「三河町の……留……」と、中間はその眼をいよいよ光らせた。「その留がどうしたんだ」

「留が少し怪我をしたので、おれが代りに来たんだ。野暮を云わねえで、そこまで一緒に来てくんねえ」

「むむ、そうか」

中間も相手の何者であるかを大抵推量したらしく、思いのほか素直に誘い出されたので、吉五郎は先きに立って彼を元の小料理屋へ連れ込むと、さっき余分の祝儀をやった効目ききめがあらわれて、女中はしきりに世辞を云いながら二人を二階へ案内した。

「おめえは三河町の吉五郎だろう。なんで俺をこんな所へ連れて来たんだ」と、中間の鉄造はおちつかないような顔をして云った。

「まあ、待ちねえ。だんだんに話をする」

酒と肴を注文して、女中を遠ざけた後に、吉五郎は打ちくつろいで話し出した。

「このあいだ中ちゅうから内の留がいろいろおめえの御厄介になっているそうだが……」

「なに、別にどうと云うこともねえんだが……」と、鉄造はまだ油断しないように眼をひからせていた。

「川へ揚がった死骸は、御賄屋敷の瓜生さんの娘だろうね」

「むむ」

「どうして死んだんだね」

「おらあ知らねえ」

「知らねえかえ」と、吉五郎は考えていた。「それはまあ知らねえとして、ゆうべの夜なかにおめえは何処へ行ったえ」

鉄造は黙っていた。

「あの風の吹く夜なかに、犬に吠えられながら二人連れで何処へ行ったんだよ」と、吉五郎はかさねて訊いた。

「おらあそんな覚えはねえ」と、鉄造は声を尖とがらせた。

「それじゃあ人違いかな。お近さんの死骸を運んで行ったのは、おめえ達じゃあなかったかな」

相手の顔色の変ったのを見て、吉五郎は畳みかけて云った。

「おめえ達はふだんからお近さんの世話になって、相当に小遣いも貰っていたんじゃあねえか。よんどころなく頼まれたとは云いながら、その死骸を捨てる役を引き受けちゃあ、あんまり後生ごしょうがよくあるめえぜ」

「なんと云われても、そんな覚えはねえよ」と、鉄造は再び声を尖らせた。

「そう喧嘩腰になっちゃあいけねえ。おたがいに仲よく一杯飲みながら話そうと思っているんだ」

あたかも女中が膳を運んで来たので、話はしばらく途切れた。女中に酌をさせて一杯ずつ飲んだ後に、ふたりは再び差しむかいになった。

「目白坂下の寺は、おめえの屋敷の菩提所ぼだいしょかえ」と、吉五郎は猪口ちょこを差しながら訊いた。

「そうじゃあねえ」

「それじゃあ、お近さんの識っている寺かえ」

「おらあ知らねえ」

「何を云っても知らねえ知らねえじゃあ、あんまり愛嬌が無さ過ぎるな」と、吉五郎は笑った。「もう少し色気のある返事をして貰おうじゃあねえか」

「色気があっても無くっても、知らねえことは知らねえと云うよりほかはねえ。木刀をさしていても、おれも屋敷の飯を食っている人間だ。むやみにおめえ達の調べは受けねえ」

素直にここまで出て来ながら、今さら喧嘩腰になって気の強いことを云うのは、俄かに一種の恐怖を感じて来たに相違ない。それがうしろ暗い証拠であると、吉五郎は多年の経験で早くも覚さとった。

「まったくおめえの云う通りだ。屋敷奉公のおめえ達をこんな所へ連れ込んで、むやみに調べるという訳じゃあねえ」と、吉五郎は諭さとすように云った。「留吉はおれの子分だ。おめえもその留吉と心安くしている以上、おれともまんざらの他人という筋でもねえ。それだから、ここまで来て貰って、おめえの知っているだけのことを……」

「その留吉だって昨日きのうきょうの顔なじみだ。別に心安いという仲じゃあねえ」

「どこまで行っても喧嘩腰だな」と、吉五郎はまた笑った。「それじゃあもうなんにも訊くめえが、おれの方じゃあおめえを他人と思わねえから、唯ひと言云って置くことがある。おめえ、あの屋敷に長くいるのは為にならねえぜ」

「なぜだ」

「白魚河岸の吉田幸之助というのは、おめえの主人とは縁つづきで、ふだんから出入りをしているうちに、お近さんと仲好くなった。それが又、不思議な廻めぐり合わせで、近所の御賄屋敷へ養子に来るようになった。女房になる筈のお勝という娘は病気で、直ぐには婚礼も出来ねえそのうちに、隣りの娘と出来合ってしまった。それがお近さんに知れたので、やきもち喧嘩で大騒ぎだ。まあ、それまではいいとしても、それが為に幸之助は身を隠す、お勝という娘は自害する、お北という娘は身を投げる、お近さんは殺される。これほどの騒動が出来しゅったいしちゃあ、唯済むわけのものじゃあねえ。積もってみても知れたことだ。お気の毒だが、おめえの主人も係り合いで、なにかの迷惑は逃のがれめえと思う。そんな屋敷に長居をすりゃあ、おめえ達もどんな巻き添えを喰わねえとも限らねえ。まあそうじゃあねえか」

鉄造は息を呑むように黙っていた。

「そればかりじゃあねえ。このごろ世間を騒がしている、白い蝶々の種もすっかり挙がっているんだ。火の番の娘のお冬という奴が、菅糸を付けて飛ばしているに相違ねえ」

「おめえはどうしてそんなことを云うんだ」と、鉄造はあわてたように訊き返した。

「そのくらいの事を知らねえようじゃあ、上かみの御用は勤まらねえ」と、吉五郎はあざ笑った。「もう斯うなったら仕方がねえ。方々に迷惑する人が出来るのだ。おめえも覚悟していてくれ」

「嚇おどかしちゃあいけねえ。おれはなんにも知らねえと云うのに……」と、鉄造は少しく弱い音をふき出した。

「おれは別に覚悟するほどの悪いことをしやあしねえ」

「これだけ云っても、おめえに判らなけりゃあ、もういいや。そんな野暮な話は止めにして、まあゆっくりと飲むとしようぜ」

吉五郎は手をたたいて酒の代りを頼んだ。肴もあつらえた。そうして、無言で酌をしてやると、鉄造もだまって飲んだ。吉五郎も黙って飲んだ。二人はややしばらく無言で猪口のやり取りをしていた。ただ時々に吉五郎は睨むように相手の顔を見た。鉄造も偸ぬすむように相手の顔色を窺った。

云うまでもなく、これは一種の精神的拷問ごうもんである。こうして無言の時を移しているあいだに、うしろ暗い人間はだんだんに弱って来て、果ては堪えられなくなるのである。元来が図太い人間は、更にそのあいだに度胸を据え直すという術すべもあるが、大抵の人間はこの無言の責め苦に堪え切れないで、結局は屈伏することになる。鉄造もこの拷問に堪えられなくなって来たらしく、手酌でむやみに飲みはじめた。

相手が思う壺にはまって来たらしいのを見て、吉五郎はいよいよ沈黙をつづけていると、鉄造も黙って飲んでいた。代りの徳利が三、四本も列べられた。

「どういうものか、きょうは酔わねえ」と、鉄造はひとり言のように云いながら、吉五郎の顔を見た。

吉五郎はじろりと見返ったが、やはり黙っていた。鉄造も黙って又飲んでいたが、やがて再び口を切った。

「おめえはもう飲まねえのか」

吉五郎は答えなかった。鉄造も黙って又飲んだが、やがて更に云い出した。

「おい、おれ一人で飲んでいちゃあ、なんだか寂しくっていけねえ。おめえも飲まねえかよ」

吉五郎はやはり答えなかった。鉄造も黙って手酌で又飲んだが、徳利や猪口ちょこを持つ手が次第にふるえ出した。彼は訴えるように云った。

「おい。なんとか返事をしてくれねえかよ。寂しくっていけねえ」

吉五郎は再びじろりと見返ったままで答えなかった。鉄造は彼自身も云う通り、きょうは全く酔わないのであろう、むしろ反対にその顔はいよいよ蒼ざめて来た。泣くように又訴えた。

「おい。おめえはなぜ黙っているんだよ」

「そりゃあこっちで云うことだ」と、吉五郎は初めて口を切った。「おめえはなぜ黙っているんだよ」

「黙っていやあしねえ。おめえが黙っているんだ」

「それじゃあ俺の訊くことを、なぜ云わねえ」と、吉五郎は鋭く睨み付けた。

「だって、なんにも知らねえんだ」と、鉄造は吃りながら云った。

「きっと知らねえか。知らなけりゃあ訊かねえまでのことだ。おれも黙っているから、おめえも黙っていろ」

「もう黙っちゃあいられねえ」

「それじゃあ云うか」

「云うよ、云うよ」と、鉄造は悲鳴に近い声をあげた。

「嘘をつくなよ」

「嘘はつかねえ。みんな云うよ」

「まあ、待て」

吉五郎は立って、階子はしごの下をちょっと覗いたが、引っ返して来て再び鉄造とむかい合った。

「さあ、おれの方からは一々訊かねえ。おめえの知っているだけのことを残らず云ってしまえ」

初めの喧嘩腰とは打ってかわって、鉄造はもろくも敵のまえに兜かぶとをぬいだ。それでも彼はまだ未練らしく云った。

「おれがべらべらしゃべってしまった後で、おめえは俺をどうするんだ」

「どうもしねえ、助けてやるよ」

「助けてくれるか」

鉄造はほっとしたような顔をした。吉五郎は彼に勇気を付けるために、徳利を取って酌をしてやった。

一四

姉のお北の死骸が江戸川に浮かびあがった時、弟の瓜生長三郎は向島の堤下どてしたをあるいていた。

彼はきのうも姉のゆくえを尋ねあるいて、本所まで来たのであるが、日が暮れたので途中から帰った。そうして、親子相談の末、きょうも、長三郎は小松川から小梅、綾瀬、千住の方面に向かい、父の長八も非番であるので、これは山の手の方角に向かうことになった。今と違って、その時代の人々は親類縁者の義理をかかさず、それからそれへと遠縁の者までもふだんの交遊をしているので、こういう場合には心当たりがすこぶる多く、殊に交通不便の時代であるから、親類縁者を一巡さがし廻るだけでも容易でなかった。

長三郎はまず小松川と小梅の縁者をたずねると、どこにも姉のすがたは見えなかった。かえって先方では寝耳に水の家出沙汰におどろかされて、長三郎にむかって前後の事情などを詳くわしく詮議した。それらのために案外に暇取って、小梅を出たのは、もう七ツ(午後四時)を過ぎた頃であった。

旧暦の二月なかばであるから、春の彼岸ひがんももう近づいて、寺の多い小梅のあたりは彼岸参りの人を待つかのように何となく賑わっていた。寺門前の花屋の店さきにも樒しきみがたくさん積んであった。それを横眼に見ながら、長三郎は綾瀬村の方角をさして堤下を急いでゆくと、堤の細路を降りて来る一人の侍に出逢った。侍は長三郎に声をかけた。

「瓜生の御子息ではないか」

呼ばれて見かえると、それは鯛の御納屋の今井理右衛門であった。瓜生の家と今井の家とは直接の交際はなかったが、同じ御納屋の役人同士であるから、今井と白魚河岸の吉田とは無論に懇意であった。その吉田と御賄屋敷の黒沼とは親戚関係であるので、瓜生の家でも自然に吉田を識り、それから惹ひいて今井をも識るようになったのである。長三郎もその人を見て会釈すると、理右衛門は笑いながら訊いた。

「どこへ行かれる。御墓参かな」

「いえ。綾瀬村まで……親類かたへ参ります」

「それは御苦労。わたしは墓参で白髯しらひげの辺まで行く。屋敷を遅く出たので、帰りは日が暮れるかも知れない。寺の遠いのは少し難儀だな……」と、理右衛門はまた笑った。

綾瀬へゆく人、白髯へゆく人、勿論おなじ方角であるので、二人は列ならんで歩き出した。

「ゆうべの空模様では雨になるかと思ったら、思いのほかにのどかな日和ひよりになった。堤の桜の咲くのももう直じきだ」と、理右衛門は晴れた空を仰ぎながら云った。「して、綾瀬の親類へはなんの用で……。遊びに行くのかな」

「いえ」とは云ったが、長三郎は少し返事に困った。

「もしや姉さんを尋たずねているのではないかな」と、理右衛門は小声で訊いた。

理右衛門がどうしてそれを知っているかと、長三郎は一旦おどろいたが、彼が白魚河岸の吉田と懇意である以上、そこから幸之助や姉の家出一件を聞き知っているのであろうと察したので、長三郎は正直に答えた。

「実は少し心配のことがありますので……」

「むむ。その件については白魚河岸でも心配しているようだ」と、理右衛門はうなずいた。

「きのうも私が日本橋をあるいていると、岡っ引の吉五郎が私を呼び留めて、吉田の家うちのことを訊いていたが、あいつも今度の一件についての何かの探索をしているらしい。どうか大事になってくれなければいいが……。そこで余計なことを云うようだが、これから綾瀬まではなかなか遠い。わざわざ尋ねて行っても無駄かも知れないぞ」

「無駄でしょうか」と、長三郎は相手の顔をみあげた。

「春の日が長いと云っても、綾瀬まで往復しては、どうしても暗くなるだろう」

「暗くなるのは構いませんが、行っても無駄でしょうか」と、長三郎は念を押した。

「無駄らしいな」

「では、あなたは姉の居どころを御存じなのですか」

「いや、知らない。わたしは知らない」と、理右衛門は迷惑そうに答えた。「だが、こんな遠方へは来ていそうもない。燈台下暗もとくらしと世のたとえにも云う通り、尋ね物というものは案外手近にいるものだ」

その口ぶりが何かの秘密を知っているらしいので、長三郎の胸はおどった。彼はあまえるように理右衛門に訊いた。

「あなたは御存じなのでしょう。どうぞ教えてください。幸之助はともかくも、姉の居どころだけを教えて下さい。お願いです」

「いや、知らない。まったく知らない」と、理右衛門はいよいよ迷惑そうに云った。「わたしはただ燈台下暗しという世のたとえを云ったまでだ。ともかくもここまで踏み出して来たのだから、無駄と思って綾瀬まで行ってみるのもいいかも知れない。綾瀬へはこれから真っ直ぐだ。わたしはこれから右へ切れるから、ここで別れるとしよう」

理右衛門は俄かに右へ切れて、田圃路たんぼみちを足早に立ち去った。

その逃げるような態度といい、さっきからの口ぶりといい、一種の疑念が長三郎の胸に湧いたので、彼も見えがくれに理右衛門のあとを尾つけて行こうと思った。しかも直ぐに歩き出しては、相手に覚られる虞おそれがあるので、暫くやり過ごしてからの事にしようと思案して、立ち停まって其処らを見まわすと、路ばたに小さい掛茶屋があった。

花見の時節ももう近づいたので、ここらの農家の者が急拵えの店を作ったらしいが、まだ商売を始めているわけではなく、ほんの型ばかりの小屋になっている。その小屋に隠れるつもりで長三郎は何ごころなく踏み込むと、そこに立てかけてある古い葭簀よしずのかげから人が現われた。

不意におどろかされて長三郎は思わず立ちすくむと、人は若い女で、かのお冬であった。時も時、場所も場所、ここでお冬に出逢って、長三郎は又おどろかされた。彼は無言で屹きっと睨んでいると、お冬は無遠慮に摺り寄って来た。その片眼は異様にかがやいていた。

「若旦那。又ここでお目にかかりました」

「どうしてこんな所に来ている」

「もう自分の家うちへも帰れませんから、ゆうべから方々をうろ付いていました」

「お前はゆうべ、わたしを姉さんのところへ連れて行ってやると云ったが、本当か」

お冬はだまった。

「嘘か」と、長三郎は詰なじるように云った。

「連れて行くと云ったのは嘘ですけれど……。お姉さんの居る所は知っています」

「知っているなら教えてくれ」

お冬は男の顔を見つめながら黙っていた。

「おまえは当ても無しにここらへ来たのか」と、長三郎は訊いた。

「もし自分のからだが危くなったら向島へ行けと、お父とっさんに云い聞かされているので……」

「向島の……なんという所へ行くのだ」

「五兵衛という植木屋の家うちです」

「そこに姉さんも幸之助もいるのか」

お冬は答えなかった。

「そうして、その五兵衛の家は知れたのか」

「ここらへは滅多に来たことが無いので、路に迷って四つ木の方へ行ってしまって、お午ひる頃にここまで引っ返して来ましたが、くたびれたのと眠いのとで、さっきから此の小屋へはいって寝ていました」

「では、その家は見付からないのか」と、長三郎は失望したように云った。

「これからあなたと一緒に探しましょう」と、お冬はその野生を発揮したように、いよいよ無遠慮に男の手を把とった。

こんな女に係り合っていて、理右衛門のすがたを見失ってはならないと思ったので、長三郎は把られた手を振り払って小屋の外へ出ると、ひと筋道の田圃には侍のうしろ姿が遠く見えた。それを慕って歩き出すと、田圃に沿うて小さい田川が流れている。その田川が右へ曲がったところに狭い板を渡して、一軒の藁葺わらぶきの家が見いだされた。周囲は田畑で、となりに遠い一軒家である。型ばかりのあらい籬まがきを結いまわして、あき地もないほどにたくさんの樹木が植え込んであるので、それが植木屋ではないかと長三郎は思った。門かどには一本の大きい桃が紅あかく咲いていた。

理右衛門はそこに立ち停まって、一旦うしろを振り返ったが、やがて狭い板を渡って内へはいった。それを見とどけて、長三郎は足早にあるき出すと、お冬もあとから付いて来た。

「気をおつけなさい。あの侍はあなたを見たかも知れませんよ」と、彼女は小声で注意した。

長三郎はそんなことに頓着とんぢゃくしていられなかった。彼は再びお冬をふり切って、一軒家を目ざして駈け出して、やがて門前へ行き着いて少しく躊躇した。理右衛門はともあれ、自分はここの家になんのゆかりも無いのであるから、案内も無しにつかつかと踏み込むわけには行かない。迂闊うかつに案内を求めたらば、相手にさとられて取り逃がす虞おそれが無いとも云えない。彼は桃の木の下に立って、どうしたものかと思案していると、内から五十前後の女が出て来て、若い侍を不安らしくじろじろと眺めていた。長三郎も黙っていると、やがて女は怪しむように声をかけた。

「あなたはどなたでございます」

なんと云っていいかと、長三郎はまた躊躇したが、思い切って訊き返した。

「今ここの家へ武家がはいったろうな」

「いいえ」

「このあいだから若い男と女が来ているだろうな」

「いいえ」

「誰も来ていないか」

「そんな方はどなたもお出でになりません」と、女は素気そっけなく答えた。

「隠すな。私はその人たちに用があって、わざわざ音羽の方から尋ねて来たのだ」

この押し問答のうちに、入口にむかった肘掛け窓をほそ目にあけて、竹格子のあいだから表を覗いていたらしい一人の男が、大小をさして、草履を突っかけて、門口かどぐちにその姿をあらわした。それが黒沼の幸之助であることを認めた時に、長三郎は尋ねる仇にめぐり逢ったように感じた。

「長三郎、貴公は何しに来た」と、幸之助は眼を嶮けわしくして云った。

「姉を探しに来ました」と、長三郎は悪びれずに答えた。

「姉はいない」

「きっと居ませんか」

「居ない。帰れ、帰れ」

「帰りません。姉を渡して下さい」

「姉はいないと云うのに……。強情ごうじょうな奴だな」

「ここにいなければ、どこにいるか教えてください」と、長三郎は一と足進み寄って訊いた。

「貴様……。眼の色をかえてどうしようと云うのだ」

そういう幸之助の眼の色もかわっていた。強しいて手向かいすれば斬ってしまえと、父からかねて云い付けられているので、長三郎は一寸も退ひかなかった。彼は迫るように又訊いた。

「姉はここにいるか、さもなければ、あなたが何処へか隠してある筈です。教えて下さい」

「知らない、知らない」と、幸之助は罵るように云った。

双方の声がだんだんに高くなったので、内から又ひとりの侍が出て来た。それは理右衛門であった。

「喧嘩をしてはいけない。双方とも待て、待て」と、彼はうしろから声をかけた。

その声を聞くと、幸之助は俄かに向き直った。

「さては今井氏うじ、貴公がこの長三郎を案内して来たのだな」

「いや、違う、長三郎は勝手に来たのだ」

「いや、そうでない。貴公らが申し合わせて、この幸之助を罠わなに掛けようとするのだ。その手は喰わないぞ」

幸之助はもう亢奮こうふんして、誰彼れの見さかいも無くなったらしい。誰を相手ということも無しに、腰の刀をすらりと抜き放した。

「これ何をするのだ」と、理右衛門は制した。「取り逆上のぼせてはいけない。まあ、鎮まれ、鎮まれ。どうも困った気ちがいだ」

「むむ、気ちがいだ」と、幸之助はいよいよ哮たけった。「こうなれば誰でも相手だ、さあ、来い」

理右衛門を相手にするには、少しく距離が遠いので、彼はまず手近かの長三郎を相手にするつもりであったらしい。突然向き直って長三郎に斬ってかかった。長三郎はこころえて身をかわしたが、それと同時に、きゃっという女の悲鳴がきこえた。

二挺の早駕籠が宙を飛ばせて来て、ここの門口かどぐちに停まった。

お冬は長三郎の身代りに斬られたのである。彼女は男のあとを追って来て、門口に様子を窺っていたのであるが、幸之助との掛け合いがむずかしくなって、相手が腰の物を抜き放したので、彼女も一種の不安を感じて男を庇うために進み入った時に、逆上のぼせあがった幸之助の刃やいばに触れたのであろう。長三郎を撃ち損じた切っさきに、彼女は左の頸筋を斬られて、男の足もとに倒れた。

それと見て、長三郎も刀をぬいて身構えする間もなく、理右衛門は駈けよって、幸之助をうしろから抱きすくめた。

「抜き合わせてはならぬ。待て、待て」と、彼は長三郎に声をかけた。

半狂乱の幸之助は哮たけり狂って、抱かれている腕を振り放そうと燥あせっているところへ、二人の男がはいって来た。岡っ引の吉五郎と兼松である。

「今井の旦那様。それはわたくし共にお渡しを願います」と、吉五郎は十手を把とり直しながら声をかけた。

「吉五郎か」と、理右衛門は猶なおも幸之助を抱きすくめながら耳に口をよせて云った。「幸之助、覚悟しろ。もう逃げる道はないぞ。侍らしく観念しろ。判ったか」

侍らしくという言葉に責められたのか、十手を持った二人が眼のまえに立ち塞がっているのに気怯きおくれがしたのか、もう逃のがれる道はないと諦めたのか、さすがの幸之助も俄かにおとなしくなって、持っている血刀をからりと投げ捨てて、理右衛門に抱かれたままで土の上に坐った。

「吉田の親たちに頼まれて、因果をふくめて腹を切らせようと思って来たのだが、もう遅かった」と、理右衛門は嘆息しながら云った。「こうなっては仕方がない。幸之助、尋常に曳かれて行って、御法ごほうの通りになれ」

幸之助は疲れ切ったように、無言で頭こうべを垂れていると、長三郎は待ち兼ねたように訊いた。

「姉もここに居りますか」

「いや」と、理右衛門は頭かぶりをふった。「さっきも云う通り、姉はここにいない。幸之助ばかりだ」

「もし、瓜生の若旦那」と、吉五郎は喙くちをいれた。「あなたのお姉さまは……死骸になって江戸川から……」

「江戸川から……」と、長三郎は思わず叫んだ。

理右衛門も幸之助も思い思いの心持で、悲痛の溜め息を洩らした。それに無関心であるのは片眼の少女ばかりで、彼女は幸之助のひと太刀に若い命を断たれて、しかも満足そうに其処に横たわっていた。故意か偶然か、彼女の片手は長三郎の袴の裾を掴んでいた。

一五

それから四日の後、音羽の旗本佐藤孫四郎は町奉行所へ呼び出された。寺の住職祐道は寺社奉行の名によって同じく呼び出された。祐道は出頭したが、孫四郎はその前夜に急病頓死という届け出があった。表向きは急病と云うのであるが、その死の自殺であることは後に判った。

お近という女の死骸も江戸川に浮きあがった。吉五郎の鑑定通り、寺内で殺された女はやはりこのお近であった。

中間の鉄造が吉五郎の罠にかかって、自分の知っている限りの秘密を口走った結果、黒沼幸之助のかくれ家が露顕ろけんしたので、吉五郎は子分の兼松と共に、早駕籠を飛ばせて向島の堤下へ駈け付けたことは、前に記しるした通りである。幸之助ももう観念したとみえて、これも自分の知っている限りの秘密をいっさい申し立てた。

祐道もさすがは出家だけあって、この期ごに及んでは悪びれずにいっさいを自白した。その他のお近、お冬、お北らはみな死んでいるので、女の側の事情はよく判らない点もあったが、ともかくも幸之助、祐道らの口供こうきょうを綜合して判断を下だすと、この事件の真相はまずは斯こう認めるのほかは無かった。

お近は前名をお亀といって、むかしは深川に芸妓勤めをしていた女である。それが金田という旗本の隠居に受け出されて、柳島の下屋敷に入り込んで、当座は何事もなく暮らしていたのであるが、お近は深川にいる頃から音羽の旗本佐藤孫四郎とも馴染なじみをかさねていた。佐藤は二十五、六の独身者ひとりもので、お近の心はそちらになびいていたが、何分にも金田にくらべると佐藤は小身であり、且は道楽者で身上しんしょうも悪いので、金田と張り合うだけの力はなく、お近は心ならずも柳島の屋敷へ引き取られてしまったのである。しかも二人の縁は切れないで、お近は柳島へ行った後も寺参りや神詣かみもうでにかこつけて、ひそかに佐藤と逢曳あいびきを続けていた。

その秘密を金田の隠居に発見されて、事が面倒になって来たのと、一方の佐藤は長崎出役を命ぜられて西国さいこくへ旅立つことになったのとで、お近は遂に金田の隠居を殺害してその手箱から盗み出した三十両の金を路用に、佐藤のあとを追って行った。勿論、表向きは佐藤の屋敷へ入り込むことは出来ないので、長崎の町はずれに隠まわれて外妾のように暮らしているうちに、三年の月日はいつか過ぎて、佐藤は江戸へ帰ることになった。帰府の道中も同道しては人目ひとめに立つので、お近は一と足おくれて帰って来て、そっと音羽の屋敷に忍び込んだ。

一種の治外法権ちがいほうけんともいうべき旗本屋敷に潜伏して、無事に月日を送っていれば、容易に町方まちかたの眼にも触れなかったのであるが、お近は江戸へ帰ると、間もなく更に新らしい恋人を見つけ出した。それは白魚河岸の吉田の次男幸之助である。吉田と佐藤とは母方の縁を引いている関係から双方が親しく交際していたので、お近も自然に幸之助と親しくなって、佐藤の眼をぬすんで新らしい恋人と逢曳きするようになったが、男は女よりも八歳の年下であるので、若い恋人に対するお近の愛情は猛火のように燃えあがった。彼女は男を逃がさない手段として、自分の秘密を幸之助に打ち明けて、万一変心するときは隠居殺しの共謀者としてお前を抱いてゆくと嚇した。こんにちと違って、この時代には斯こういう威嚇が案外に有効であったのである。たとい自分の無実が証明されるとしても、こんな女のかかり合いで奉行所の審問しんもんを受けたなどと云うことが世間に暴露ばくろすれば、長い一生を暗黒に葬らなければならない。年の若い幸之助は飛んだ者にかかり合ったのを悔みながら、お近の威嚇を恐れてともかくもその意に従っていた。

そのうちに黒沼伝兵衛の横死事件が起こった。かねて許嫁いいなずけのような関係になっているので、幸之助は黒沼のむすめお勝の婿と定められて、音羽の御賄屋敷へ来ることになった。お近は恋人が近所へ来たのを喜んで、火の番の藤助の家をその逢曳きの場所と定めて幸之助をよび出していた。一方にはお近があり、一方にはまだ祝言こそしないがお勝という正式の妻もありながら、意思の弱い幸之助はさらに隣家の瓜生の娘お北と新らしい関係を結ぶようになったので、一人の男をめぐる女三人の関係が甚だ複雑になった。しょせん無事には済むまいとは知りながら、幸之助も今更どうすることも出来なかった。

ここで住職祐道に就いて語らなければならない。彼は実はお近と同じ腹の兄であった。祐道が長男で、その次に女ひとり、男ひとり、お近は末子ばっしの四人兄妹きょうだいであったが、幼年のころに両親に死に別れて、皆それぞれ艱苦かんくを嘗なめた。なかの男と女は早く死んで、祐道とお近だけが残った。祐道は幼い頃から深川の或る寺の小僧となって、一心に修行を積んだ末に、この音羽でも相当に由緒ある寺の住職となったのであるが、妹のお近は深川の芸妓に売られて、いわゆる泥水を飲む商売となった。しかも運命は不思議なもので、この寺の近所に住む佐藤孫四郎とお近とが一種の悪因縁を結ぶことになって、お近は主殺しの大罪を犯したのである。

祐道は妹の罪を悔み嘆いて、彼女が再び江戸へ帰るのを待ち受けて、いさぎよく自首するように説き聞かせたが、この世に未練の多いお近は泣いて拒こばんだ。いっそ召連れ訴えをしようかとも思ったが、幼い時から共に苦労をして来た妹が自分の眼のまえに泣いている姿を見ると、祐道のこころもさすがに弱くなった。み仏に対して済まぬ事とは万々知りながら、彼は罪ある妹をそのまま見逃みのがして置くことにしたが、心は絶えずその呵責かしゃくに苦しめられていると、妹はさらに第二、第三の罪をかさねた。

寺社奉行の訊問に対して、祐道の申し立てたところによると、去年の秋以来、暗夜に白い蝶を飛ばしたのはお近の仕業しわざであると云うのである。お近はなぜそんな怪しいことを企てたか。何分にも死人に口無しで、単に祐道の片口かたくちに拠よるのほかは無いのであるが、彼は左のごとく陳述した。

「妹は長崎に居ります間に、唐人屋敷の南京なんきん人から或る秘密を伝えられたそうで、暗夜に白い蝶を飛ばして千人の眼をおどろかせれば、いかなる心願しんがんも成就じょうじゅすると云うのでござります。われわれの仏道から見ますれば、もとより一種の邪法に相違ござりませんが、妹は深くそれを信仰しまして、江戸へ帰りましてから其の邪法を行なって居りました。その心願はおのれが過去の罪を人に覚られず、黒沼幸之助と末長く添い遂げらるるよう、併あわせてその邪魔になる佐藤孫四郎の命を縮めるよう……詰まりは恋に眼が眩くらんで、白蝶の邪法を行なうことになったのでござります。佐藤にも罪はありますが、多年の馴染といい、殊に長崎以来、自分を隠まってくれた義理もありまするに、新らしい恋人の為にその命を縮めようと企てるなど、まことに如夜叉にょやしゃのたとえを其の儘でござります。しかし自分は女の身でありますから、暗夜に蝶を飛ばすなどと云うことは思うようにも参りませんので、火の番の藤助に金銭をあたえまして、風の吹く夜に蝶を飛ばせていたのでござります。藤助は火の番の役がありますので、夜中そこらを徘徊して居りましても、誰も怪しむ者もござりません。藤助にはお冬という片眼の娘がありまして、これが生まれ付き素ばしこい人間でありますので、蝶を飛ばす役はお冬が勤め、父の藤助はその後見こうけんを致して居ったようでござります。その蝶は……秘伝と申して誰にも洩らしませんでしたが、何か唐から渡りの薄い絹のような物で作りまして、それに一種の薬を塗ってありますので、暗いなかでも白く光るのでござります。音羽の近辺ばかりでは、人に覚られる虞おそれがありますので、時々には他の土地へも参ったようでござりました。右の次第で、その蝶に毒があろうとは思われません。それを見て病気に罹かかったなどと申しますのは、驚きの余りに発熱でも致したのでござりますまいか。それとも、その塗り薬に何かの毒でも混じてありましたか、それはわたくしも存じません。又お近が火の番の藤助とどうして心安くなりましたか。それもわたくしは存じません。佐藤の屋敷も以前は勝手不如意ふにょいでござりましたが、長崎出役以来、よほど内福になったとか申すことでござります」

黒沼伝兵衛は何者に殺されたか、わが寺門前の出来事ながら自分は一向に知らないと祐道は云った。しかし大かたは藤助親子の仕業しわざで、何かの毒薬を塗った針のような物で刺されたのであろうと彼は説明した。いずれにしても、自分の寺内の墓地を根城ねじろにして、世間をさわがすような事を繰り返すのは甚だ迷惑であるので、祐道はお近らに対して幾たびか意見を加えたが、彼等は一向に肯きかなかった。そのうちに、白い蝶の噂がいよいよ高くなって、町方からも探索の手が廻ったらしいので、祐道の心はますます苦しめられた。お近と幸之助が藤助の家から帰る途中で、町方らしい者に追われて危く逃のがれたなどという噂を聴くたびに、彼も毒針で胸を刺されるように感じた。

町方に追われて以来、気の弱い幸之助は自分の屋敷へ帰られなくなって、佐藤の屋敷に身を隠すことになったが、それを機会にお近はさらに一策を案出して、自分の恋がたきのお北を誘い出した。その使を頼まれたのは例の藤助で、彼は幸之助が佐藤の屋敷に忍んでいることをお北に告げて、本人もあなたに一度逢いたいと云っているから是非来てくれと巧みに欺いて連れ出したのである。連れ出されてお北はうかうかと佐藤の屋敷へ入り込むと、待ち受けていたお近はさらに彼女を奥の古土蔵のうちへ案内して、そこに押し籠めてしまった。自分の手もとに監禁して置けば、お北と幸之助の逢う瀬は絶えると思ったからである。

こうした悪業あくぎょうがそれからそれへと続くので、祐道ももう決心した。彼は妹が自分の寺へ来たのを捕えて、おまえのような悪魔はしょせん救うべき道はないから、どうでも自首して出ろと厳重に云い渡した。もし飽くまでも不得心ならば、帝釈たいしゃくが阿修羅あしゅらの眷族けんぞくをほろぼしたと同じ意味で、兄が手ずから成敗するからそう思えと、怒りの眼に涙をうかべて云い聞かせた。その決心の色が凄まじいので、お近も一旦は得心して、あしたは兄に連れられて奉行所へ自首して出ると答えた。

それでもまだ不安であるので、祐道は妹にむかって、その覚悟が決まった以上はふたたび佐藤の屋敷へ帰るな、今夜はこの寺へ泊まって行けと命令すると、お近は承知して泊まったが、果たして夜なかにそっと抜け出そうとしたので、大かたそんな事であろうと内々警戒していた祐道は、すぐに追いかけて庭さきで取り押さえようとした。たがいに世間を憚るので、なんにも口を利かなかったが、その無言の争いのうちに兄はいよいよ決心のほぞをかためて、阿修羅をほろぼす帝釈となった。兄は両手で妹の喉を絞めた。

それを窺っていたのは、藤助であった。彼は吉五郎らに追われて、墓場の奥に逃げ込んだが、留吉が途中で倒れた為に長追いをしないと見て、そっと庫裏くりへまわって、寺男に縄を解かせた。しかも迂闊うかつに表へ出るのは危険であるので、今夜は寺内に泊めて貰うことにした。自分ばかりでなく、手先も今夜ここに泊まることになったと云うので、彼は一種の不安を感じて、夜なかに庭さきへ様子を窺いに来ると、あたかもお近が最期さいごの場所へ行き合わせた。

住職に対する同情か、或いはこれを枷かせにして今後の飲み代しろをいたぶるつもりか、彼は死骸の始末を自分に任せてくれと云って、佐藤の屋敷から中間の鉄造を呼んで来た。お近の死骸は風の吹く真夜中に運び出されて、江戸川に沈められた。藤助は黒沼伝兵衛の横死以来、わが家に住むことの危険をさとって、ゆくえ不明と見せかけて、実は佐藤の屋敷に身をひそめていたのである。

祐道の陳述はこれで終った。次の問題はお北がどうして入水じゅすいしたかと云うことである。果たして自殺か、あるいは他殺か、いずれにしても、黒沼幸之助が唯一の関係者として厳重に吟味されたが、幸之助もそれに就いては何事も知らないと云い切った。ただ、お近が殺される日の夕刻、お北は夕飯を運んで来た女中の隙をみて、土蔵をぬけ出したことだけは知っていると申し立てた。

さらに探索すると、市川屋の職人源蔵も最初は隠していたが、その後の申し立てによると、お北は佐藤の屋敷をぬけ出したものの、直ぐに我が家へも帰られず、途中でうろうろしている時、あたかも彼かの源蔵に出逢って、隣家のお勝が自害のことを聞いたと云う。それに因って推察すると、お北はおのれの罪を悔いたか、或いはしょせん無事に済まぬと覚悟して、其処らをさまよい歩いた後、夜に入るを待って入水したのであろう。地理の関係とは云いながら、恋のかたきのお近もお北も、その死骸を同じ流れに浮かべたのは、何かの因縁であるかとも思われた。

向島の植木屋五兵衛は、親の代から佐藤と吉田の屋敷に出入りの職人である。この頃は町方の手が廻ったらしいので、白蝶の一件は暫く中止するように幸之助は注意したが、中途で止めては心願しんがんが破れると云ってお近は承知しないばかりか、却って幸之助に迫って、お冬らの警戒を命じた。寺門前で藤助を救った覆面の曲者は幸之助であった。しかも気の弱い彼は、いつまでもお近に脅迫されて、こんな仕事にかかり合っているに堪えられなくなったので、その夜のうちに音羽を立ち去って、夜ふけに白魚河岸の実家の門かどを叩くと、父の幸右衛門は一切の事情を聞いて、この上はこの屋敷に一と晩も泊めることはならぬ、おれにも考えがあるから、ともかくも向島の五兵衛の家うちへ行っていろと指図した。その指図通りに向島へゆくと、あくる日の夕方に今井理右衛門が来た。つづいて瓜生長三郎が来た。岡っ引の吉五郎と兼松が来た。お冬の死と共に、幸之助の運命もここに定まったのである。

佐藤孫四郎がなぜ自滅したか、この謎は遂に解けなかったが、それに就いて、幸之助はこんなことを洩らした。

「お近はわたくしに向かって、佐藤は長崎にいるあいだにいろいろの悪いことをしている。それをわたしは皆んな知っているから、わたしがどんな我が儘をしても、佐藤は何んとも云うことが出来ない筈だと申したことがございます」

佐藤は長崎に出役中、役向きのことに就いて何かの不正事件があったらしい。貧乏旗本の彼が内福になったと云うのも、その間の消息を語っている。お近はその秘密を掴んでいるので、佐藤の屋敷内では思うがままに振舞っていたらしい。今度の事件に関連して、その不正が発覚はっかくするのを恐れて、佐藤は自滅したのではないかと察せられた。

火の番の藤助は再び行くえ不明となった。彼を召捕ったならば、事件の真相が更に明瞭になるだろうと、吉五郎らもさまざまに手をまわして探索したが、遂になんの手がかりも無かった。それから三月ほどの後に、八王子の山のなかで彼に似たような縊死者を発見したが、死体はもう腐爛しているので、その人相もはっきりとは判らなかった。八王子は藤助の故郷であるが、どこへも尋ねて行ったという噂はきこえなかった。あるいは何かの係り合いになるのを嫌って、どこでも口を閉じていたのかも知れない。

この事件の探索に主として働いた岡っ引の吉五郎は、わたしが「半七捕物帳」でしばしば紹介した彼かの半七老人の養父である。

底本 / Source edition

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(六)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年12月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:おのしげひこ
2000年2月10日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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岡本 綺堂「半七捕物帳──69 白蝶怪」(新字新仮名)、底本『時代推理小説 半七捕物帳(六)』光文社時代小説文庫、光文社、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000964_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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