Soranoha

鉄鎚

かなづち

夢野 久作

――ホントウの悪魔というものはこの世界に居るものか居ないものか――

――居るとすればその悪魔は、どのような姿をしてドンナ処に潜み隠れているものなのか――

――その悪魔はソモソモ如何なる因縁によって胎生しつつ、どのような栄養物を摂とって生長して行くものなのか――

――その害悪と冷笑とを逞ましくし行く手段は如何――

斯様かような質問に対して躊躇ちゅうちょせずに答え得る人間は、そう余計には居るまいと思う。

然るに私はまだヤット二十歳はたちになったばかしの青二才である。だから聖人でも哲学者でもない筈であるが、しかしこの問いに対しては明白に答え得る確信を持っている。

――ホントウの悪魔とは、自分を悪魔と思っていない人間を指して云うのである――自分では夢にも気付かないまんまに、他人の幸福や生命をあらゆる残忍な方法で否定しながら、平気の平左で白昼の大道を濶歩して行くものが、ホントウの悪魔でなければならぬ。――

――だから真個ほんとの悪魔というものは誰の眼にも止まらないで存在しているのだ――

――そのような悪魔の現実社会に於ける生活とか、仕事とかいうものが如何に戦慄すべきものがあるかという事なぞも、滅多に考えられた事がないのだ――

……と……。

「彼奴あいつは悪魔だ。お前と俺の生涯をドン底まで詛のろって来た奴だ。今度彼奴に会ったら、鉄鎚かなづちで脳天を喰らわしてやるんだぞ。いいか。忘れるなよ」

親父おやじは私にこう云って聞かせるたんびに、煎餅蒲団せんべいぶとんの上で起き直った。蓬々ぼうぼうと乱れた髪毛かみと髯ひげの中から、血走った両眼をギョロギョロと剥むき出して、洗濯板みたいに並んだ肋骨あばらぼねを撫でまわしてゼイゼイゼイゼイと咳せきをした。そのうちに昂奮して神経が釣り上って来ると、その悪魔が眼の前に坐っているかのように、鼻の先の薄暗い空間を睨み付けてギリギリと歯ぎしりをしながら、骨と皮ばかりの手を振り上げて鉄鎚をグワンと打ちおろす真似をして見せる事もあったが、その顔の方がよっぽど恐ろしくて、活動に出て来る悪魔ソックリに見えたので、私はいつも子供心に一種の滑稽味を感じさせられた。親父は悪魔を取り違えているのじゃないか知らんと思って……。

親父が悪魔と云っているのは、親父の実の弟で、私にとってはタッタ一人の叔父に当る、児島良平という男であった。何でもその叔父というのは、よっぽどタチの悪い人間で、若いうちから放蕩に身を持ち崩したあげく、インチキ賭博の名人になって、親類や友達から見離されていたが、私が三つか四つの年に親父が喘息ぜんそくにかかって弱り込むと間もなく、上手に詫を入れて出入りをするようになった。……と思う間もなく今度は相場師になって身を立てるというので、言葉巧みに親父を誑たらし込んで、祖父じじいの代から伝わった田地田畠でんちでんぱたを初め銀行の貯金、親父の保険金なぞいうものを根こそげ捲き上げてしまったあげく、美しいばかりで智慧の足りない私の母親を連れてどこかへ夜逃げをして終しまったというのである。親父の結核性の喘息が非道ひどくなったのもその叔父のせいだし、親類や友達に見限られて、コンナ貧民窟に潜り込んで、死ぬのを待つばかりの哀れな身の上になったのもその叔父のお蔭だという。その中にどうにかこうにか私が育って、やっと十三になったと思うと、惜しい小学校を中途で止して、広告屋の旗担はたかつぎ、葬式の花持ち、活動のビラ配り、活版所の手伝いなぞと次から次へ転々して、親を養わなければならなくなったのもその叔父のせいだ……だから俺が生きているうちにその児島良平という叔父を見付け出したら、すぐに鉄鎚で頭をタタキ潰さなくちゃいけないぞ。良平という奴は生れながらに血も涙もない奴で、誰の家うちでも手当り次第に破滅させて、美味うまい汁を吸うのが専門の悪魔なのだ。生かしておけばおく程、国家社会のためにならない人間だからナ。彼奴あいつを殺せばどれくらい人助けになるか知れない……イイカ。キット遣やっつけるんだぞ。罪はみんな俺が引き受けてやるからナ……それが俺の人助けの仕納しおさめだ……なぞと親父は毎日のように云って聞かせたので、スッカリその文句を暗記してしまった。そうして子供心に、そんな悪魔みたいな人間が本当にこの世に居るものか知らん。もし居るものならば親父の云う通りにブチ殺したって構わないだろう。人間の頭を鉄鎚で殴ると眼が飛び出すって聞いていたが本当か知らん。本当だったら面白いナ。その時にはどんな気持ちがするだろう……なぞと、いろんな事を聯想しいしい、温柔おとなしくうなずいて聞いていた。その叔父がどんな顔をしているか、早く会って見たいような気持ちもした。

ところがその悪魔の叔父は、親父が死ぬと間もなくどこからかヒョッコリと現われて、私の眼の前に突立ったのであった。

何でも親父は、私が活版所に出かけた留守のうちに、台所の窓から帯を垂らして首を引っかけたまま死んでいたのだそうで、寝床の煎餅蒲団の下には、

「何事も天命です。誰も怨む者はありません。ただ年端としはの行かぬ倅せがれにこの上の苦労をかけるのが辛つらさに死にます。どうぞよろしくお頼み申します」

といったような開き封の遺書かきおきが、叔父宛にした密封の書類と一緒に置いてあった。その遺書かきおきは、巡査が私に見せてくれたが、昔風の曲りくねった字体で丸ッキリ読めなかった。又、親父の死に顔も、夜具の下に寝かしてあるのを覗いて見るには見たが、別に悲しくも何ともなかったので困ってしまった。近所の人達や、警官や、医者みたいな連中が、みんな眼をしばたたいたり泣いたりしているらしいのに、私一人だけはツクネンと坐ったまま、呑気のんきそうに口をポカンと開あいた親父の口もとを眺めて「咳が出なくなったから楽だろう」なぞと思ったりしているのが何となくバツが悪かった。するとそのうちにドカーンと大砲のような音がして、何かしら眼が眩くらむほど真白く光ったのでビックリした。あとから聞いてみると、それは新聞社から来た写真屋がマグネシュームというものを焚たいたので、あくる日になるとその写真が私の氏素性うじすじょうと一所に大きく新聞に出た。……大金持ちの遺児わすれがたみで、この上もない親孝行者で……とか何とかいうので、学校の成績のよかった事や、毎日活動のビラや古新聞の記事を親父に読んで聞かせた事まで無茶苦茶に賞め立てて書いてあった。

その新聞を持って、まだ薄暗いうちに飛び込んで来たのが悪魔の叔父で、親父の仏様の横に並んで寝ていた私を大きな声で「愛太郎愛太郎」と呼び起しながら、壊れかかった表の扉とをたたいたのであった。

叔父はその時が四十二三位であったろうか。眼の小さい、赤ら顔のデップリとした小男で、額の上に禿はげ残った毛を真中からテイネイに二つに分けて、詰襟つめえりの白い洋服を着ていたが、トテモ人のいい親切らしい風付ふうつきで、悪魔らしいところはミジンも見えなかったのでガッカリしてしまった。……あのまん丸く光る頭を鉄鎚で殴ってもいいのか知らん……と思うと可笑おかしくなった位であった。

「オオオオ。愛太郎か。大きくなったナ。十三だというんか。ウンウン。親類の人はまだ誰も来ないかナ。ウンそうか。俺はお前の父さんに誤解されたっ切りで、死に別れたのが残念で残念で……」

と云い云い私の頭を撫でて、白い半布ハンケチで涙か汗かを拭いているらしかったが、親父が遺書かきおきと一緒に置いていた叔父宛の密封書を見せると、中味を無造作に引き出して、証文みたようなものを一枚一枚叮嚀ていねいに検あらためて行くうちに、何ともいえず憎々しい冷笑を浮かめながら、みんな一緒にまとめて内ポケットに押し込んだようであった。そうして自分で葬儀屋を呼んで来たり、アルコールと綿を買って来て親父の身体からだを綺麗に拭き上げたりして、野辺送りを簡単に済ますと、親類や近所の人達に挨拶をして私を自分の店に引き取った。叔父はその挨拶の中うちで、

「死んだ兄貴に対する、せめてもの恩報じです……」

というような事を何度も何度も繰り返していたが、母親の事は一言も云わなかったようである。もっとも私の居る前で二三人、そんな事を詰問した人もあったが、叔父は馬鹿馬鹿しそうに高笑いしながら、

「そんな事は私が兄貴に追い出された後あとの出来事で、どんな事情があったのか知りもしませんし、何の関係もない事です。とにかくこのような場合ですからそのような御質問は後にして下さい。この児この教育のためにもなりませんから……」

とキッパリ云い切ったことを記憶おぼえている。あとで考えると叔父は私の母を連れ出して散々オモチャにした揚句あげくに、どこかへ売り飛ばすか、又は、人知れず殺すかどうかしたらしい……と思える節ふしがないでもないが、しかしその時の私は顔も知らない母親の事なぞはテンデ問題にしていなかった。それよりも叔父に買ってもらった古い洋服と、帽子と靴が、もの珍らしくて嬉しい位の事であった。

叔父の店は、今までいた貧民窟から半里ばかり距へだたったF市の中央まんなかの株式取引所の前にあった。両隣りとソックリの貸事務所になっている北向きの二間半間口まぐちで、表に「H株式取引所員……〔ユ-一〕善かねぜん……児島良平……電話四四〇三番」と彫り込んだ緑青ろくしょうだらけの真鍮看板を掛けて、入口の硝子扉ガラスどにも同じ文句を剥はげチョロケた金箔で貼り出していた。私は叔父がこんな近い処に住んでいようとは夢にも思わなかったので、子供心に不思議に思いながら叔父に跟ついて中に這入ると、上り口は半坪ばかりのタタキで、あと十畳ばかりの板の間に穴だらけのリノリウムを敷いて、天井には煤すすぼけた雲母紙うんもしが貼ってあった。その往来に向った窓の処に叔父の机と廻転椅子。その右手の壁に株の相場を書いたボールド。その又右手に電話機。その反対側の向い合った白壁には各地の米の相場を見せる黒板。汽車の時間表。メクリ暦ごよみなぞ……。その下に帳簿方と場況見ばきょうみと二人の店員の机が差し向いになっていた。

しかし、そんなものの中うちで立派だな……と思ったものは一つもなかった。すべてが現在の通りにドス黒くて、ホコリだらけで、汚ならしかった。ただ入口の正面の壁に並んだ店員の帽子と羽織の間から覗いている一枚の美人画だけが新しくて綺麗に見えているだけであった。その美人画は大東汽船会社のポスターで、十七八の島田髷まげの少女がこっち向きに丸卓子テーブルに凭もたれているところであったが、その肌の色や肉付きは云うまでもなく、髪毛かみのけの一すじ一すじから、花簪はなかんざしビラビラや、華やかな振袖の模様や、丸卓子テーブルの光沢に反映うつっている石竹せきちく色の指の爪まで、本物かと思われるくらい浮き浮きと描かれていた。瓜ざね顔の上品な生え際と可愛らしい腮あご。ポーッとした眉。涼しい眼。白い高い鼻。そうして今にも……あたしは、あなたが大好きよ……と云い出しそうに微笑を含んだ口元までも、イキナリ吸い付きたいくらい美しかった。

私はそれまでに、こんなポスターを何枚見たか知れなかったのだけど、この時ばかりは何故かしら特別のような気がした。……今から思うとこの時が私の思春期に入り初めで、同時にこの時こそ生涯の呪われ初めであったかも知れない。ちょうど昔の伝説の美しい悪魔から霊魂たましいを吸い取られる時のように、何ともいえず胸がドキドキして、顔がポッポとなって、気まりが悪るくてしようがなかったので、吾れ知らずうつむきながらソーッと上目うわめづかいに見ていたように思う。

しかし叔父は、そんな事には気付かなかったらしく、グングンと私の手を引っぱって電話機の横の扉とを開くと、その外にある狭い板張りの横手から暗い階段を昇って、店の真上に在る二階に出た。そこは一方が押入れになっている天井の低い八畳位の北向きの室へやで、取引所前の往来を見下した高さ四尺位の横一文字の一方窓に、真赤に錆びた鉄の棒と磨硝子すりガラスの障子が並んでいたが、そこからさし込む往来の照り返しで、室の中は息苦しい程蒸し暑かった。真黒い天井からブラ下がった十燭しょくの電球は蠅はえの糞ふんで白茶気しらちゃけていた。その下の畳はブクブクに膨れて、何ともいえない噎むせっぽい悪臭を放っていた。左右の壁や、襖ふすまや、磨硝子の窓には、青や赤のインキだの、鉛筆だの筆だので、共同便所ソックリの醜怪な楽書きが、戦争みたいに押し合いヘシ合いかき散らしてあった。

叔父は窓をあけてホコリ臭い風を入れた。それから押入れを一パイに開いて、そこに投げ込んである二三枚のボロ夜具だの、蚊帳かやだの、針金で鉢巻をした大きな瀬戸火鉢だの、古い新聞紙や古電球なぞをジロジロ見まわしているようであったが、やがて、今までとは丸で違った、底意地の悪い声を出しながら私をふり返った。

「……いいか……貴様は今夜からここで、店の帳簿方と一所に寝るんだぞ。蒲団はあとから俥屋くるまやが持って来る。貴様のオヤジのだけれども消毒してあるから大丈夫だ。虱しらみなんぞ一匹も居ない筈だ。便所はこの階段を降りると突き当りにある。便所の向うの扉とを開くと隣りの店に出るから気をつけろ。……貴様は夜中に寝ぼけたり、小便を垂れたりしはしまいナ」

私は黙ってうなずいた。けれども、それと一緒に、今の今まで、あたたかい親切な人間とばかり見えていた叔父が、急に鉄のポストみたいに冷たい態度にかわって、傲然ごうぜんと私を睨み下しているのに気が付いて、又もビックリさせられた。しかし怖い事はちっともなかった。そうしてコンナ楽書きを勝手にしていいのか知らん……なぞと考えながら、壁に描かれている変テコな絵や文字を、一つ一つに見まわしていた。

その間に叔父は、クルリと私に背中を向けて、サッサと階段を降りて行った。……と思うと、もう麦稈帽むぎわらぼうを頭に乗っけて、夕日のカンカン照る往来に出て行った。私はその眩まぶしいうしろ姿を見送りながら、

……やっぱし叔父は悪魔だったのかな。あの頭の真ン中のツルツル光っている処を、鉄鎚でコツンとやっても構わないのかナ……。

なぞと、ボンヤリ考えていた。

叔父は毎朝八時半頃から店に出て来た。そうして肥った身体からだを自分の椅子に詰め込んで、新聞を読んだり、手紙を書いたりしたあとは、入れ代り立ち代り電話をかけて来るお客や、店に押しかけてくる椋鳥むくどり連に向って、トテモ景気のいい……その癖、子供の私が聞いても冷汗の出るような嘘八百を並べては高笑いをするのが仕事の大部分であった。十分ばかり前に来たお客にむりやりに売らせた品物を、その次に来たお客に押し付けて買わせているような事がショッチュウであった。そのお客というのは、叔父が毎晩行く飯屋だの、宿屋だの、又は停車場の待合室や、旅行中の汽車で知り合いになった連中で大部分で、その中うちでも一番よけいに来るのは、叔父の上花客じょうとくいになっている田舎の田地持ちである事が、言葉の端々はしはしでよくわかった。中には叔父と花を引いて負けた金かねの埋合わせをしに来る馬鹿者も、チョイチョイ交っているようであったが、そんなのに対しては、特別に景気のいい話と高笑いを浴びせかけて、取っときの智慧を授けているかのように装った。しかし、そんな連中が居なくなったあとの叔父は、今まで放送し続けていた陽気な笑い声をピッタリ止めて、打ってかわった無口な、日陰の石塔を見るような冷たい人間になってしまうので、一層悪魔らしい感じがした。それにつれて二人の店員も、私も同じように無言のまま、その眼色を見て仕事をしなければならなかったので、お客の居ない間の店の中はまるで秘密の倶楽部くらぶか何ぞのように、陰気な静けさで充たされていた。

私はそこで給仕同様にコキ使われながら夜学校に通わされる一方に、毎日毎日相場の事ばかり見せられたり聞かされたりした。そのうちにいつからともなく相場の種類や、上り下りの理窟や、馳け引きのうらおもてなどが解って来るに連れて、世の中に相場ぐらい詰らない面白くないものはない、とシミジミに思うようになった。けれども亦また、そんなものに引きずられて、血眼ちまなこになっている人間を見るのは非常に面白かった。前にも書いた通り叔父は大変な嘘吐きで、よくお客に中華民国の暦と米相場の高低表を並べて見せて、この日は仏滅だからこの株が下った。この時は日柄が三リンボーだったけれども虎の日の友引きだったから、この株とこの株が後場ごばになって盛り返したのだ。元来この「友引き」とか「先負け」とかいう日取りの組合わせは聖徳太子の御研究で、人気の移りかわって行く順序をあらわしたものです……この相場の高低表と見比べて御覧なさい。一目瞭然でしょう……現に私はこの時にいくら儲もうけて……なぞと真面目腐って講釈をしていた。しかもその暦をよく見ると、いい運勢とわるい運勢とが同じ日に幾つも重なり合っていて、相場が上っても下っても理窟がつくようになっているのであったが、それを真剣になって聞いている素人のお客を見ると、トテモ滑稽で気の毒でしようがなかった。同時に叔父の口先のうまいのにいつも感心させられた。

こうして十六の年に簿記の夜学校を出ると、私は店の電話機の横に机を一個ひとつ貰って、各地から来る場況ばきょうや出米でまいをきく役目を云いつかった。同時に今まで毎晩私と一緒に寝ていた帳簿方が結婚をして家を持ったので、私が常設の宿直になった。午後四時から五時の間に叔父や店の者が相前後して店を引けて行くと、私は表を閉めて閂かんぬきを入れて後を掃除した。それから翌朝の六時か七時に起きて、近所の出前屋が配達する弁当を喰って、表に水を打って掃除を済まして、詰襟の洋服に着かえるまでのあいだ、私は小遣銭こづかいせんの許す範囲で、古雑誌を買ったり、貸本を取り寄せたりして、いろんな空想を湧かしつつ読み耽った。その中うちでも特に私の興味を惹いたのは「悪」の字を取扱った小説や講談で、悪党とか、悪魔とか名付けられる人物や、そんな思想を取り入れた読みものは何故だかわからないまま奇妙に惹き付けられて読まされた。皮肉と冷笑とで、あらゆるものを堕落させて行くメフィストフェレスや、人間の尊とい血と涙を片っ端から溝泥どぶどろの中に踏み込んで、見返りもせずに濶歩して行くドリアングレーなぞいう代表的な連中は、もう親友以上に心安くなって、スッカリ悪魔通になってしまったので、そんな連中に比べると、ケチな椋鳥むくどりを引っかけて身上しんじょうをハタカせるのを唯一の楽しみにしている叔父なぞは、オッチョコチョイの木こっ葉ぱ悪魔ぐらいにしか見えなくなって来た。

……この世には、もっとスバラシイ、偉大な悪魔が実在していないものか知らん……あの叔父のスベスベした脳天へ、鍛冶かじ屋の鉄鎚ハンマーを天降あまくだらせるか何かしたら、私は差し詰め悪魔以上の人間になれる訳だけど、しかし、一方から見ると、それは立派な親孝行にもなるのだから何にもならない。……第一私にはそんな悪魔になり得るだけの力と度胸がないから駄目だ。……ああ悪魔になりたい。そうしたらドンナにか面白いだろうにナア……。

なぞと飛んでもない事を考えたりした。そうかと思うと、あの大東汽船の美人画のポスターを、自分でも知らない間まに二階に持って来て暗い壁に貼り付けておいたものを、窓越しに向い合っているような気持ちで飽かず飽かず眺めたり、それを女主人公にして様々の甘ったるいローマンスを描いたり、又は、読んだ小説の中の可憐な少女に当てはめて、同情したりして楽しんだ。

時たま活動を見に行く事もあったが、その時は、隣家となりの店に居る泊り込みの小使い爺さんに留守を頼んで、表から南京錠をかけて行った。

叔父は着物と弁当以外に、毎月十円宛ずつくれた。

私の得意は簿記よりも電話であった。

叔父に電話をかけて来るお客の声を、モシモシのモの字一字で聞き分けたり、受話機の外し工合で男か女かを察したり、両方から一時に混線して来た用向きを別々に聞き分けて飲み込んだりする位の事はお茶の子サイサイであった。世間の人間はみんな嘘を吐つく中うちに、電話だけは決して嘘を伝えない。自分の持っている電気の作用をどこまでも、正直に霊妙にあらわして行くもの……というような、一種の生意気な哲学めいた懐かしみさえおぼえた。殊に電話は、あらゆる明敏な感覚を持つ名探偵のように、時々思いもかけぬ報道をしてくれるので面白くてしようがなかった。それは誰に話しても本当にしてくれまいと思われる電話の魔力であった。

受話機を耳に当てる瞬間に私の聴覚は、何里、もしくは何百里の針金を伝って、直接に先方の電話機の在る処まで延びて行くのであった。その途中からいろんな雑音が這入って来ると、このジイジイという音はこちらのF交換局の市外線の故障だ……あのガーガーという響きは大阪の共電式の電話機と、中継台との間に起っているのだ……というようなことが、経験を積むにつれて、手に取るように解って来た。その都度にそこの交換局の監督や、主事を呼び出して注意をしたり、手厳しく遣っ付けたりするのが愉快で愉快でたまらなかった。又それにつれて、各地の交換手の癖や訛なまりなぞは勿論、その局の交換手に対する訓練方針の欠点まで呑み込むと同時に、電線に感ずる各地の天候、アースの出工合、空中電気の有無まで通話の最中に感じられるようになった。電話口に向った時の頬や、唇や、鼻の頭、睫まつげなぞの、電流に対する微妙な感じによって、雨や風を半日ぐらい前に予知する事も珍らしくなかった。

その中うちでも面白かったのは相場の上り下りの予感が電話で来る事であった。

大阪の株式や米の相場なぞは、毎日青木という店から予約電話を通じて、前後数回に分けて知らせて来るので、その時分にそんな贅沢な真似をしているのは一軒隣りの「山長やまちょう」という大商店と叔父の処だけであった。叔父はそれが又、大得意で、来るお客毎ごとに吹聴しては店の信用を裏書きする材料にしていたが、何しろ距離が遠いのと雑音が烈しいのとで、並大抵の耳では相手の読む数字が聴き取れないのを、私の鼓膜は雑作ぞうさなしにハッキリと受け入れた。のみならず私の聴神経はもっと遠い処から来るほかの音響までも、同時に聴こうとしているのであった。

大阪の青木という店は取引所のすぐ近くにあるらしく、表の窓や扉とが密閉されていない限り、店の中の物音と往来の噪音とが、相場の読み声と一緒に送話機から這入って来た。各地の天候が好晴で、電話線がスッキリとした日には、立ち合いの物音や呼び声らしいドヨメキまでも聞えることがあった。勿論それは複雑を極めた雑音の奥の奥から伝わる波動で、音響とは感じられない程度の感じであったが、そんな物音と、青木の店員が一息に吹き込む場況とを重ね合わせて聞きながら、上り下りの数字を鉛筆で書き止めて行くと、その瞬間瞬間に、そんな米や株の景気に対するいろんな予感が理窟なしにピンピンと私の頭に感じて来た。この株は上るな……と思うと持っている鉛筆に力が籠もった。下るな……と感ずると字の力が抜ける位にまで敏感になって来た。その予感を後あとから配達して来る夕刊の相場面と照し合わせて見ると一々的中しているので、面白くてしようがなかった。的中していないのはF市の新聞社の誤植である事を翌る日の正午に来る大阪の新聞で発見した事も珍らしくない。

けれども私はこうした予感を叔父に知らせた事はなかった。知らせても滅多に信じない事はわかり切っていたし、第一面倒臭くもあったので、ただ数字の控えだけを恭うやうやしく手渡しすると、叔父は一眼でツラリと見渡して私に返した。それを私は、電話の横にかかったボールドにチョークで書き直すのであったが、それを見ながら叔父は腹の中でいろんな奸策かんさくを立て直しつつ、お客の株を売ったり買ったりして、悪銭をカスッている事が私によくわかった。あんなに苦心して危険な銭ぜにを掴んで、火の車に油を指し指しして行くのがこの叔父の一生かと思うと、いつも薄笑いが腹の底から浮かみ上って来た。いっその事、死んだ親父の遺言通りに、この叔父の禿げた脳天をタタキ破ってやった方が功徳くどくになりはしまいか……なぞと考えた事もあった。

けれども店を仕舞しまうと同時に、私はそんな事をキレイに忘れて終しまうのが常であった。そうして鼻歌を唄い唄い二階に上って、煙草の烟けむりと、小説と雑誌と、キネマの筋書の世界に寝ころんだ。活動も時々見た。

私は十円に満足していた。

ところが、こうした私の電話に対する特別の能力が、とうとう外に顕われる時機が来た。

それは私が十七の年であったと思うから大正十年頃の事である。青木の店員が一気に読み上げる前場ぜんばの数字の中で、製糖関係の株が一斉に二分乃至ないし五分方の暴落をしているのにビックリしながら鉛筆を走らせていると、どこから混線して来たものか、以前に声の調子を聞き覚えていた叔父の知人で、大阪随一の相場新聞浪華なにわ朝報社の主筆をやっている猪股いのまたという男の言葉が切れ切れに響いて来た。

「……買え買え。きょうの後場ごばはもっと下るかも知れないが構わずに買え……外電のキューバ島の空前の大豊作は嘘だ……」

私はこの意味がちょっと解らなかった。ただ、この頃、製糖会社の株をシコタマ背負い込んでいる叔父がどんな顔をするだろうと思いながら、そんな株の暴落した数字を心持ち大きく書いて示すと、叔父はいつもの通りに一渡り見まわしながら、何喰わぬ顔をしてゴクリと唾を飲み込んだ。この調子で行くと叔父は殆んど破産に近い打撃を受けるであろう事が、その石みたいに冷え切った表情で察しられた。

けれどもその表情をジッと凝視しながら、机の端を平手で撫でていると、何故ともなく私の頭の中で或る暗示が電光のように閃ひらめいたので、私は思わず鉛筆を取り上げて叔父が眼を落している机の上の便箋にこう書いた。

「今朝けさの各新聞に出ているキューバ糖の大豊作の予想は虚報だと思います。浪華朝報社では、キューバ糖が、何者かに依って大仕掛けに買い占められつつある事を探知しているようです。会社の相場主任猪股氏はきょうの後場で買いにまわっている事が、たった今電話の混線で……」

ここまで書いた時叔父は、私の手をピッタリと押えた。茫然と血の気けを失ったまま、素焼の瀬戸物みたいな表情で私の顔を見た。そうしてブルブルとふるえる手で、その便箋の一枚を掴んで空間を睨みつつ、腰を浮しかけたが、又、ドッカと椅子に腰を下して瞑目一番したと思うと、今度は猛虎のように決然として立ち上って、掴みかかるように私を押し除のけると自分自身に電話口へ獅噛しがみついた。各地の銀行や仲買店を次から次に汗だくだくで呼び出しつつ、資力の続く限り製糖株を買いにまわった。そうして店の者が呆あきれた眼を瞠みはっている中をフラフラと取引所へ出て行って、その日の後場でメチャメチャに暴落した製糖株を買って買って買いまくった。人々は叔父を発狂したと云っていたそうである。

けれども、それから中一日置いてあくる日の前場ぜんばの引け頃になると、取引所の中に一騒動が起った。叔父は寄ってたかって胴上げにされて、這ほう這うの体ていで店の中に逃げ込んで来た。そのあとから「万歳万歳」という声が大波のように雪崩なだれ込んで、店の中から表の往来まで一パイの人になった。私は私でそのさなかに電話口に突立って、八方からかかって来る吉報に転手児舞てんてこまいをしなければならなかった。

「……米国某新聞系大手筋のキューバ糖大買占め……紐育ニューヨークの砂糖が一躍暴騰して、砂糖節約デーの実施運動起る……」

という国際電報が掲載されたのは、その翌日の夕刊のことであった。

叔父は一躍して相場師仲間の大立物になった。出入りするお客の数すうは三倍位になった。田舎の出米でまいの相場を直接に聞くようになったために電話の忙がしさは数倍に達した。けれども叔父は電話機も殖ふやさなければ店も拡張しなかった。ただ私の手当てを一躍五十円に引き上げたほかに、私がトックの昔に忘れていた、親孝行に対する新聞社の同情金を叔父が保管していたものが、元利合計二百何円何十何銭かになっていたので、プラチナの腕時計を一個買って下げ渡してくれただけであった。

しかし叔父はそれから後のち、私に電話以外の用事を絶対に云いつけなくなった。新しい通勤の給仕を一人置いて今までの私の雑務を引き継がせると同時に、各地方の相場を聞く私の態度にすこしも眼を離さぬようになった。電話を伝わって来る相場に限って私が持っている……それこそ悪魔のような敏感さを、叔父がズンズン理解し始めている事が、私に又ズンズン感じられた。

「きょうはトテモ線がわるいんです。広島か岡山あたりで大雪が降って断線しそうになっているんです。きょうの後場ごばの大阪電話はこの調子だと来ないかも知れません」

と云っても叔父は以前のように「千里眼だ」なぞ云って冷笑しなくなった。

「オーイ、大新が落ちているぞ――オ。大新はいくらだア」

と私が大阪に怒鳴る時、叔父もその日の株界の興味の中心が、その株の上り下りに在る事を知って、熱心に注目している視線が、私の横頬に生あたたかく感じられる位にまで、二人の気持ちがピッタリとなって来た。

私は相場の書き取りを叔父に見せる時に、叔父が指で押える株の上り下りを眼顔で知らせた。上り下りの見当が附かないのはチョット頭を振った。又、客から売り買いの相談をかけられた時に、チラリと私の方を見ると、私は左右の眼を閉じたり開いたりして合図をした。その合図を叔父が取り違えると頭を掻いて訂正した。

こうした相場の上り下りに対する私の予感は夏冬の寒暖の変化や天候の工合なぞによって、余計に来る時と来ない時があった。電線の調子の良よし悪あしや、先方の読み方の上手下手に依っても違ったが、それでもこの予感のおかげで叔父の身代はメキメキと殖えて行った。何でも二三年の間に一千万円近くに達したとの事だが、叔父はそれを全部、大阪中の島の浜村銀行に預けているらしかった……というのは或る時、同銀行の支配人で井田という大阪弁丸出しの巨漢おおおとこがこの事務所を訪れて、事務員や私にまでピョコピョコ頭を下げまわったのに対して、赤ん坊位にしか見えない叔父が反そり身になりながら、こんな事を云ったので察しられる。

「僕は何でも相場式に行かなくちゃ気が済まない性分でね。儲けた金は方々の銀行にチョクチョク入れて、頭かくして尻かくさず式の安全第一を計はかるようなケチな真似はしないよ。大阪一流の浜村銀行が潰れた時に、日本中で店を閉めたのはこの薄キタナイ〔ユ-一〕善かねぜんの事務所一軒だけという事がわかれば、相場師としてこれ以上の名誉はないじゃないか。ハッハッハッハッハッ」

この財産と共に、叔父の肉体も亦、いよいよ丸々と脂切あぶらぎって、陽気な色彩を放って来た。その頭はますます禿げ上った。叔父はそれを撫で上げ撫で上げ人と話した。

私はそれと正反対に益々青白く瘠せこけて行った。そうして黒い髪毛かみのけばかりが房々と波打って幽霊のように延びて行ったが、それを両手で掴んだり引っぱったりして、何ともいえない微妙な手ざわりを楽しみつつ、金口きんぐちの煙草を吸って、小説や雑誌を読むのが私の無上の楽しみであった。私にとっては恋なぞいうものは、空想の世界の出来事に過ぎなかった。又は、錯覚と誇張とで性慾を飾ろうとする一種の芝居としか考えられなかった。私の初恋とも云えば云えるであろう彼かの、大東汽船の美人画に向って微笑し合っているうちに、時折り思い出したように感ずる胸のトキメキ以外には、本当の恋が存在しようなぞと夢にも思わなかった。私は純然たるなまけものになった。

一方に私の俸給はグングンとセリ上って、とうとう二百五十円まで漕ぎ付けた。叔父はそれを私独得の「相場の予感に対する口止め料」であるかのように云い聞かせていたが、実は、私という福の神に投げ与える極めて安価な足止め料に相違なかった。もっともそのおかげで、私は汚ない二階に寝ころんだまま、煙草と、弁当と、書物の三道楽に浮き身をやつし得るありがたい身分になったわけであるが、同時にその道楽の結果として、自分の頭と、胃袋と、肉体とが日に日に頽廃して行く有様ありさまを自分でジッと凝視みつめていなければならなくなったのには少々悲観させられた。煙草はマドロスパイプを使う舶来の鑵入りでなければ吸えないようになった。弁当は香料の利きいた、脂あぶら濃い洋食か支那料理に限られて来た。小説もアクドイ翻訳ものか好色本のたぐいでなければ手にしなくなった。しまいにはそれさえも飽きて来て、神経の切れ端はじを並べたような新体詩や、近代画ばかり買うようになった。それでも余った札束や銀貨の棒は、片っ端から押入れの隅にある本筥ほんばこの抽出しに投げ込んだ。

しかし遂にはそんな書物を買いに行く事すら面倒臭くなった。苦辛にがからい胃散の味を荒れた舌に沁み込ませながら、破れ畳の上に寝ころんで、そこいらの壁や襖の楽書きの文句や絵に含まれている異様に露骨な熱情や、拙劣な技巧によって痛切に表現されている心的の波動を、宇宙間無上の芸術ででもあるかのように飽かず飽かず眺めまわしつつ、あらん限りの空想や妄想を逞しくする時間が殖えて来た。私は自分の肉体と精神の弾力が、日に日にダラケて消え失せて行くのを感じた。しまいには壁の美人画の永久に若い、生き生きした微笑から、一種の圧迫を感ずるくらいにまで神経が弱って行った。……私は近いうちに死ぬかも知れない。病気にかかるか、それともキチガイになるか、自殺するかして……というような薄暗い予感に襲われ初めたのはこの頃からの事であった。叔父はこうして私を衰滅させるためにヤケに給料を殖やしているのではないか知らん。もしそうならば構う事はない。死にがけに叔父の頭を鉄鎚でなぐってお礼を云ってやろう……なぞと真面目に考えたりした。

そのうちに叔父は満五十歳になった。私は二十歳になった。

叔父が独身者である事を、私が初めて知ったのはこの頃の事であった。

二十歳になるまで七八年間も一緒に居た叔父が、独身者かどうか気付かなかったといったら笑う人があるかも知れない。しかしこれは私の正真正銘のところであった。私はそれほど左様さように実世間とかけ離れた世界に生きている人間であった。私は私の神経が、実世間のいかなる問題に触れても、すぐに縮み込む程に鋭いものであることをよく知っていた。私は現実の世界に在る太陽や、草木や、土や風なぞいうものが、空想の世界にあらわれる太陽や草木風景なぞよりも遥かに単調子な、平凡な、荒々しいものであることを知り過ぎる位知っていた。同様に、金かねとか、女とかいうものも実際に手に取ってみると存外下らない、飽き飽きしたものである上に、そんなものに対する慾望を持続して行くためには実に馬鹿馬鹿しい、たまらないほど夥しい苦労を続けなければならぬであろうことを考えるだけでもウンザリした。私は現実の一切に諦らめをつけて、空想の世界に寝ころんでいるのが、私に一番似合い相当した生活であると信じていた。

だから私はこの数年の間に、叔父の自宅らしい処から一遍も電話がかからないのを多少不思議に思いつつも、それについて探偵してみようなぞいう勇気を起した事はなかった。一方に月給を取る器械みたような店員たちも、この事に就ついて私と雑談するような事は絶無であった。

然るに…………

忘れもしない去年(大正十三年)の八月の初めの珍らしくドンヨリと曇った午後の事であった。店を仕舞しまってから給仕に窓や扉とを明け放させたまま、電話の前の自分の机に倚よりかかって、ずっと以前に読みさしたまま忘れていた翻訳物の探偵小説を読んでいると、肩の処で突然に電話のベルが鳴った。

私は読みさしの小説の中の事件を頭の中で渦巻かせながら立ち上って、受話機を耳に当てると、今までに一度も聞いた事のない、水々しい魅力を持った若い女の声が響いて来たので、私は思わず、顔に蔽いかかった髪毛かみのけを撫で上げた。本能的に全神経を耳に集中した。

「モシモシ……あなたは四千四百三番でいらっしゃいますか」

「そうです……あなたは……」

「……あの……児島はもう帰りましたでしょうか」

「……ハイ。主人は今しがた帰りました。失礼ですがあなたは……」

「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」

「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」

「……オホホホホホホホホ……」

……受話機のかかる音がした。

私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っていた。私の電話に対する敏感さをスッカリ面喰らわされてしまったまま……。

……千万長者の叔父を呼び棄てにする若い女が一人居る……その女は私の名前を知っている……否、もっともっと詳しく私について知っているらしい口ぶりである。……そうして何がなしに一寸ちょっと冷やかして見ようぐらいの考えで、私を電話口に呼び出してみたものらしい……。

という感じだけが、私の脳髄の中心にキリキリと渦巻き残ったまま……。

私は小説の続きも何も忘れて、表の窓や扉とをヤケに手荒く締めると、暗い階子はしご段を二階に上って、蠅の糞ふんで真白になった電球の下に仰向けに寝ころんだ。

「ホホホホホホホホ」

という……冷笑とも、皮肉とも、媚こびともつかぬ透きとおった笑い声を、いつまでもいつまでも耳の中で聞き味いつつ、室へや中が真白になるまでネーヴィカットの煙けむを吹き出していた。

その翌る朝、いつもより早く起きた私は、まだ開店まで一時間以上もあると思い思い、寝巻のまま叔父の椅子に腰をかけて、投げ込まれた新聞を読んでいると、思いがけなく店の前に大きな自動車が停まって、白いダブダブの詰襟を着たパナマ帽の叔父が、一人の令嬢の手を引いてニコニコしながら這入はいって来た。

それは二階の美人画とは全然正反対の風付ふうつきをした少女であったが、それでいてF市界隈は愚か、東京あたりにでも滅多に居ないシャンであろうことが、世間狭い私にも容易にうなずかれた。小男の叔父よりもすこし背が低くて、二重ふたえまぶたの大きな眼が純然たる茶色で、眉が非常に細長くて、まん丸い顔の下に今一つ丸まっちい腮あごが重なっていた。縮らした前髪を眉の上で剪きり揃えたあとを左右に真二まっぷたつに分けて、白い襟首の上にグルグル捲きを作って、大きな、色のいい翡翠ひすいのピンで止めたアンバイは支那婦人ソックリの感じであった。小ぢんまりした身体からだには贅沢なものらしい透かし入りの白い襦袢じゅばんと、ヴェールのように薄い、黒地の刺繍入りの着物を着込んで、その上から上品な銀色の帯と、血のように真赤な帯締めをキリキリと締めていたが、それが小さい白足袋しろたびに大きなスリッパを突っかけながら、叔父の蔭に寄り添ってオズオズと私の前に進んで来た時は、どう見ても大富豪の一人娘か何かで、十六か七ぐらいのろうたけた令嬢としか見えなかった。

私は新聞を手に持って、椅子に腰をかけたまま、唖然としてその姿を見上げ見下した。敏感な私の神経はこの令嬢が昨日きのう、電話で私に笑いかけた声の主である事を、とっくの昔に直覚していたのであったが、しかも、そうした私の直覚と、眼の前にしおらしく伏し眼になって羞恥はにかんでいる美少女の姿とは、どう考えても一緒にならないのであった。もしかしたら私の直覚が、今度に限って間違っているのではなかろうか……なぞと一人で面喰っているうちに叔父は帽子を脱いで汗を拭き拭き、反そり身みになって二人を紹介した。

「これは俺の拾い物だよ。お前の従妹いとこで俺の姪めいなんだ。俺たちには、もう一人トヨ子という腹違いの妹があったんだが、俺達の両親も、お前の死んだ親父おやじもそれを隠していたらしいんだ。そのトヨ子……つまりお前の叔母さんだね……それが生み残したのがこの友丸伊奈子ともまるいなこという娘で、早くから母に別れていろいろと苦労をしたあげく、長崎の毛唐けとうの病院の看護婦をしていたんだが、俺の名前が時々新聞に出るようになったもんだから、もしやと思って、昨日わざわざ長崎から尋ねて来たんだ……いいか……これが昨日話した愛太郎だ。お前たちは、ほかに肉親しんみの者が居ないからホントウの兄妹きょうだいみたようなもんだ。ハハハハハハ」

二人は叔父の笑い声の前で椅子から立ち上って「どうぞよろしく」と挨拶を交した。私は内心気味わるわると……彼女は上品に、つつましく……。

叔父はそれから如何にも得意そうに、脂肪でピカピカ光る顔を撫でまわしながら、伊奈子の母親に関するローマンスを話し始めた。それは……

……伊奈子が七歳の時であった。K市の富豪友丸家の第二夫人で、まだ若くて美しかった彼女の母親は、伊奈子も誰も知らない正体不明の情夫から夫を毒殺された後のちに、自分自身もその男から受けた梅毒に脳を犯されて発狂してしまった。そうして色々な事を口走り始めたので、その罪の発覚を恐れたらしい情夫は、或る真暗い晩に病室に忍び込んで、枕元の西洋手拭で絞殺すると同時に、一緒に寝ていた伊奈子を誘拐して行った事がその頃の新聞に出ていた。あとの財産はどうなったか解らないが、多分親類たちが勝手に処分したものらしく、正体不明の犯人も、いまだに正体不明のままになっている……。

というようなかなりモノスゴイ筋であった。叔父も一生懸命に力瘤ちからこぶを入れて喋舌しゃべっているようであったが、しかし、私はちっとも傾聴していなかった。それはシナリオや小説を飽きる程読んでいる私の耳には、頗すこぶるまずい、取って付けたような話としか響かなかったので、強いて想像を逞しくすれば……その美しい第二夫人というのは、私の実の母親の事ではないか。そうして正体不明の情夫の正体は取りも直さず叔父自身ではないか。叔父はそうした旧悪に対する一種の自白心理を利用して私たちを誤魔化ごまかそうと試みているので、友丸伊奈子と私とはその実、タネ違いの兄妹きょうだいとも、従兄妹いとこ同志ともつかぬ異様な間柄になっているのではないか……と疑えば疑い得る筋がないでもない位の事であった。

しかしそのうちにフト気が付いて、叔父の斜うしろに坐っている伊奈子の様子を見ると、こうした私の忌いまわしい疑いも無用である事がわかった。彼女は如何にもつつましやかな態度で、さしむきながら聞いているにはいたが、しかし内心は飽き飽きしているらしく、叔父の話が自分達母子おやこと全く無関係である事を、特に私にだけコッソリと知らせたがっている気持ちが、その溜め息のし工合いや、白い絹ハンカチの弄もてあそびようだけでもアリアリと察しられたので、私は何故かしらホッと安心させられたように思った。そうしてあとには大袈裟おおげさな身ぶりを入れて喋舌っている叔父の、滑稽なくらい真剣な表情だけが印象に残ってしまった。

「……だから……おれは近いうちに、伊奈子と二人で家を借りて住むつもりだ。今までみたいに待合まちあいにばかり泊っていちゃ、伊奈子のためにならないからナ。ハハハハハ」

叔父はお終しまいに、こう云って笑いながら壁に掛けたパナマ帽子の方へ手を伸ばした。

すると……その瞬間に、流石さすがの私もハッとさせられた事が起った。それは今の今までつつましやかにうつむいていた伊奈子が大きな眼で上眼うわめづかいに私を見て、頬をポッと染めながらニッコリと笑って見せたからであった。しかも、その眼つきや口元の表情が、ほんのチョットの間まではあったが、二階の美人画の表情以上に熱烈深刻な意味で、

「あたしは、あなたが大好きよ……」

と云ったように思えたので、私は思わず釣り込まれながらニッコリと微笑を返してしまったのであった。……が……しかし……そのあとで眼を閉じて、ゴックリと冷たい唾液つばを呑み込むと、その刹那せつなに彼女のすべてが電光のように私の頭の中へ閃めき込んだので、私は今一度ギョッとさせられない訳に行かなかった。

……驚いた……驚いた……この女はウッカリすると俺よりも年上だ。のみならず処女でもなければ令嬢でもない……叔父の妾めかけになりに来た女なのだ。……しかも、今まで読んだ小説の中にも滅多に出て来た事のないタイプの妖婦で、叔父から俺の事を聞くとすぐに、電話をかけて笑ってみたものらしい……チョット俺を面喰らわして、丸め込むキッカケを作っておこうぐらいの考えで……大変な阿魔あまッチョだぞ。こいつは……。

私はこう思いながら頭を上げた。昨日から持ち続けていた興味が見る見る醒めて行くのを感じつつ、改めて伊奈子を見たが、その時はもう彼女は鵜うの毛で突いた程もスキのない無垢の処女らしい態度にかわって、つつましやかに眼を伏せているのであった。

しかし何も知らない叔父は、如何にも二人の叔父らしい気取った身ぶりで、買い立てらしいパナマ帽を大切そうに頭に載せながら伊奈子を連れて出て行った。その自動車が店の前を辷すべり出すのを見送りながら、私は思わず薄笑いをした。

……阿婆摺あばずれめ……来るならこい……。

と思って……。けれども伊奈子はそれっきり、私にチョッカイを出さなかった。

私は又、平和に二階で寝ころんだ。

それから後のち、伊奈子が叔父を操った手腕は実に眼ざましいものがあった。

伊奈子はまず叔父に家を買わせた。それも普通の家ではないので、F市外の公園の入口に在る檜御殿ひのきごてんと呼ばれた××教の教会堂が、先年の不敬事件に関する信者の大検挙以来、空屋あきや同然になっていたのを自分の名前で買い取らせて、見事な住宅の形に手を入れさせたもので、そこに素敵な自動車や、大勢の女中を雇い込んで女王のように奉仕させた。同時に叔父の待合入りをピッタリと差し止めたので、私はその当時、八方の待合からかかって来る電話を聞かされてウンザリさせられたものであった。あんまり五月蠅うるさいので或るとき、

「……叔父さん。いくら僕が電話好きでもこれじゃトテモ遣り切れませんよ。済みませんが彼家あすこにも電話を引いて下さいナ」

と哀願してみたら叔父は怫然ふつぜんとして、

「馬鹿野郎……あの家うちに電話を取って堪たまるか……折角ノンビリと気保養している時間を、外から勝手に掻き廻わされるじゃないか」

とか何とか一ペンに跳ね付けられてしまったので、いよいよガッカリ、グンニャリした事もあった。

ところが不思議なことに、それから二た月ばかりも経つと、叔父は前よりも一層盛んに待合入りを始めるようになった。店の仕事も私に代理させる事が多くなった。おまけに今まで一滴も口にしなかった酒を飲むようになって、時々は伊奈子が作ったというカクテールの瓶を店まで持ち込んで来る事すらあるようになった。無論、それ等のすべては皆、彼女の手管てくだに違いなかったので、彼女はこうして叔父を翻弄しつつ、その魂と肉体を一分刻みに……見る見るうちに亡ぼして行こうと試みている事がわかり切っていた。叔父も亦、それを充分に承知していながら、彼女のために甘んじて骨抜きにされて行くのが何ともいえず嬉しくて、気持ちがよくて仕様がないという風で、つまり叔父は彼女に接してから後のち、一種の変態性慾である、マゾヒストの甘美な境界へズンズン陥って行きつつある……彼女の小さな赤い舌に全身の体液を吸い取られて、骨の髄までシャブリ上げられたら、どんなにかいい心持ちであろう……というような、たまらない慾望に憧憬あこがれつつある……そうして伊奈子のスゴ腕にかかって、自分の生命も財産も根こそぎ奪い去られるであろうドタン場を眼の前に夢想しつつ、スバラシイ加速度で生活状態を頽廃させて行きつつある……という叔父の心理状態がカクテールを入れた魔法瓶の栓を抜く刹那せつなの憂鬱を極めた表情を見ただけでも明らかに察しられるのであった。

しかし、同時に、そうした叔父の態度や表情を、毎日見せつけられて行くうちに、私はフト妙な事を考え初めたのであった。……彼女のそうした計画を、そのギリギリ決着のところで引っくり返してやったら、どんなにか面白いだろう……と……。そうするとその考えが、見る見るうちに云い知れぬ魅力をもって私の頭の中に渦巻き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなったのであった。

私は、いつの間にか新聞も小説も読まなくなって、二階の万年床に引っくり返りながら、葉巻ばかり吹かせるようになっている事に気が付いた。今までは架空の小説ばかり読んでいたのが、今度は、自分自身に怪奇小説の中に飛び込んで、名探偵式の活躍を演出しなければならぬ役廻りになって来た事を、ある必然的な運命の摂理ででもあるかのように繰り返し繰り返し考えた。そうするとその都度たびに胸が微かにドキドキして、顔がポーッと火熱ほてるような気がしたのは今から考えても不思議な現象であった。

私は叔父の財産を惜しいとも思わなければ、伊奈子の辣腕らつわんを憎む気にもなれなかった。あの真赤に肥った、脂肪あぶら光りに光っている叔父の財産が、小さな女の白い手で音もなくスッと奪い去られる。……あとで叔父がポカンとなって尻餅を突いている……という図は寧むしろ私にとって、小説や活動以上に痛快な観物みものに違いなかった。私が空想の世界でしか実現し得ない事を、彼女が現実世界でテキパキと実現して行く腕前の凄さに敬服する気持ちさえも、私の心の底に湧いて来るのであった。

けれども今一歩進んでその伊奈子が腕に縒よりをかけた計画を、その終極点のギリギリのところで引っくり返したら伊奈子はどんな顔をするだろう。そうして開いた口が閉ふさがらずにいる彼女に「天罰思い知れ」とか何とかいう、いい加減な文句をタタキ付けて、泥の中に蹴たおして、手も足もズタズタに切れ千切ちぎれるような眼に会わしたら、どんなにかいい心持ちだろう。こう思うと、私の身うちの方々が、不可思議な快感でズキズキして来るように感じた。

私はそれから毎日毎日その計画ばかり考えていた。けれども残念な事に、そうした色んな計画が、天井に吹き上げる煙草の烟けむりと共に、数限りなく浮かんでは消え、消えては浮かみして行くうちに、私はいつも失望しないわけに行かなかった。私があらん限りの智慧を絞って作り上げた伊奈子タタキ潰しの計画は、表面上どんなに完全に見えていても、どこかに空想らしい弱点や欠点が潜んでいることを、後で考え直して行くうちにキット発見するのであった。言葉を換えて云えば伊奈子が叔父を陥れて行きつつある変態性慾の甘美世界から、コッソリと叔父を救い出す方法が発見されない限り……又は、伊奈子がこの妖婦的な性格をスッカリなくして、初恋と同様の純真さをもって私に打ち込んで来ない限り、私の計画は絶対に、実行不可能と云ってよかった。

こうして伊奈子を血塗ちまみれにして、七転八倒させつつ冷笑していようという私の計画は、私の頭の中でいくつもいくつもシャボン玉のように完成しては、片っ端から、何の他愛もなく瓦解幻滅して行った。そうしてそのたんびに、

「ホホホホホホホホホホホホ」

と笑う伊奈子の声を幻覚するのであった。

十一月に入ると間もなく、私は今までにない寒さを感じ始めたので、高価たかい工賃を払って昼間線ちゅうかんせんを取って、上等の電気炬燵ごたつを一個、敷き放しの寝床の中に入れた。そうしてその日は仕事の始末をソコソコにして潜り込んでみるとその暖かくて気持ちのいい事、身体からだ中の血のめぐりがズンズンとよくなるのがわかる位で、私はツイ何もかも忘れてウトウト眠り初めたのであったが、間もなく階下でけたたましく電話のベルが鳴り出したようなので、私は又渋々起き上った。眠い眼をこすりこすり狭い階段をよろめき降りて電話にかかった、

「オーイオーイオーイ……モシモシイ……モシモシイ……わかったよわかったよ。オーイオーイオーイオーイ……」

といくら呼んでも頑強にベルを鳴らしていたが、やがてピタリと震動が止むと、

「オホホホホホホホホ」

という笑い声が、真っ先きに聞えた。

「……あなた愛太郎さん。御無沙汰しました。……叔父さんもう帰って?……」

「エエ……一時間ばかり前に……」

「あなた声が違うようね。お風邪でも召したの……」

「……寝ていたんです……」

「まあ……お昼寝……この寒いのに……」

「……エエ……まあそうです……」

「あたしあなたにお話したい事があるのよ……今から伺ってもいい?……」

「エエ……よござんす……キタナイ処ですよ」

「ええ。知ってますわ。誰も居ないでしょう?」

「ええ……僕一人です。しかし……何の用ですか……」

「オホホホホホホホホホ」

私は表の扉との閂かんぬきを外すと又二階に上って、あたたかい夜具にもぐり込んだ。しかし、不思議とこの時に限って、彼女に対する何等の期待も計画も浮ばなかった。ただ、頭の底にコビリ付いている残りの睡たさを貪りながら、いつの間にかグッスリと眠っているらしかったが、そのうちに小さな咳払いを耳にしてフッと眼を醒ますと間もなく、何ともいえない上品な香水の匂いが、悩ましい女の体臭と一緒にムーッと迫って来たので、一寸ちょっとの間ま狐に抓つままれたような気持ちになった。そうしてよく眼をこすって見ると、私の枕元の暗い電燈の下に、青い天鵞絨ビロードのコートと、黒狐の襟巻に包まれた彼女が、化粧を凝こらした顔と、雪白のマンショーを浮き出さして、チンマリと坐っているのであった。

「オホホホホホホホ」

「……………」

×          ×          ×

彼女は私を一気に、空想の世界から現実の世界へ引っぱり出してしまった。私は、それから後のち、殆んど毎日のように電話をかけて来る彼女の命令のまにまに、店を仕舞しまうとすぐに身じまいをして、隣家となりの裏口から抜け出して、そこいらで待ち合わせている彼女と肩を並べながら夜の街々を散歩するようになった。生れて初めての背広服を派手な格子縞で作らせられたのはその時であった。カンガルーとエナメルの高価たかい靴を買わされたのも同時であった。帽子もゴルフ用の鳥打ちや、ビバや、お釜帽かまぼうを次から次に冠らせられた。それにつれて本箱の抽斗ひきだしに突込んだままになっていた皺苦茶の紙幣や銀貨の棒がズンズンと減って行った。

私と彼女とが同じ家に這入る事は殆んど稀であった。彼女は、F市内の到る処に在る密会の場所を知っているかのように、いつも意外千万な処へ私を引っぱり込むことが次第に私を驚かし初めた。牡蠣かき船だの、支那料理屋の二階だの、海岸の空あき別荘だの、煙草屋の裏座敷だの……その中うちでも特に舌を捲いたのは、まだ明るいうちに或る大きな私立病院の玄関から、見舞人のような態度で上り込んで、奥の方に空あいていた特等病室の藁蒲団の上に落ち付いた時であった。その時に彼女は今までにない高い情熱に駆られたらしく、蝋ろうのように青褪めた中から潤んだ眼を一パイに見開きつつ、白い歯を誇らし気に光らして見せたのであったが、そうした彼女の嬌態きょうたいを、ポケットに両手を突込んだまま見下しているうちに、私はフト、形容の出来ないヒイヤリとした気持ちになった。

……この女は、こうした思い切った遊戯の刺戟によって、自分自身の美をあらゆる深刻な色彩に燃え立たせ得る術を心得ている。そうして異性の弱点をあらゆる方向から蠱惑こわくしつつ、その生血いきちを最後の一滴まで吸いつくすのを唯一の使命とし、無上の誇りとし、最高の愉楽と心得ている女である。

……叔父が彼女から逃げまわるようになったのも、こうした彼女のプライドに敵しかねたからである……。

……彼女は暗黒の現実世界に存在する、底無しの陥穽おとしあなである……最も暗黒な……最も戦慄すべき……。

……陥穽おとしあなと知りつつ陥らずにはいられない……。

というような感じが、みるみるハッキリして来たので……。

……けれども亦、一方に伊奈子には案外神経質な、用心深いところも、あるにはあった。彼女が私を引っぱり出してこんな事をして遊びまわるのは、叔父の待合に入浸いりびたっているか、又は旅行している間に限っていたので、公園前の自宅に私を引っぱり込むような事は絶対にしなかった。伊奈子のそうした態度の中には、男の嫉妬というものが如何に恐ろしいかを知っている気持ちがハッキリと現われていた。多分彼女は叔父に関係する以前に、そんな問題でヒドク懲こりさせられた経験があるらしいので、しかもその相手が西洋人ではなかったろうかという事までも同時に察せられた位であった。

ところが、彼女のこうした用心深さが物の見事に裏切られたのは、それから一箇月と経たない時分の事であった。

それは十二月の初めの割合いにあたたかい日であった。その前後の一週間ばかりというもの市場しじょうが頗すこぶる閑散であったために、これぞという仕事もなく、午後四時過になると店には叔父と私と二人切りしか居ないようになったが、その時に店のストーブの前で、カクテールを飲み飲みしていた叔父が突然に、こんな事を云い出して私をヒヤリとさせた。

「お前はこの頃伊奈子と散歩を始めたそうだな……ウン……それあいい事だ。俺もセッカクお前にすすめようと思っていたところだ。引けあとの電話は、大抵、明日あすの朝きいても間に合う事ばかりだからナ……しかし、あんまり夜更よふかしをすると身体からだに触さわるぞ」

これを聞いた時には流石さすがの私も、どう返事をしていいか解らないまま固くなって叔父の顔を見た。けれども、その次の瞬間にはホッと安心をすると同時に、又、それとは全く違った意味で驚きの眼を瞠みはらせられたのであった。……そう云い云い又も一杯傾けて、舌なめずりをしている叔父の横顔には、

……お前が何もかも知っている事を俺もよく知っているのだ。しかし俺はもう何とも云わない。伊奈子はお前の好き自由にしていい……。

という意味の表情が、力なくほのめいていたからであった。……のみならず、その叔父独得の陽気な響きを喪った声の中には、今までにない淋しい……如何にも親身しんみの叔父らしい響さえ籠こもっていた。そうして、そう思って見れば見るほど、叔父の横顔には、今までの悪魔らしい感じがなくなっているのに気が付いて来た。この夏時分に比べると、驚くほど青白くなっている頬や瞼には、ヨボヨボの老人に見るようなタルミさえ出来ているのであった。

しかし、それかといって今更のように叔父を憐れむ気には毛頭なれない私であった。すぐに、もとの私に帰ると同時に、一種の冷たい微笑が湧いて来るのを押え付けながら、トボトボと店を出て行く叔父を見送って、平生いつもよりイクラカ叮嚀ていねいに頭を下げただけであった。

……面白いな……まるでお伽噺とぎばなしか何ぞのように、小さな美しい悪魔が、大きな醜い悪魔をやっつけて、只の人間になるまで去勢してしまっている。しかも、あんまりやっつけ過ぎたために、相手は平々凡々のお人好しを通り越して、何もかも覚りつくした、諦め切った人間になってしまっている。叔父は彼女に対する愛着心を消耗しつくすと同時に、彼女の計画のすべてを覚ってしまいながら、それをどうする事も出来ない立場にいる事をまで自覚してしまっている。

……しかし……こうなったら却かえって彼女のために危険な事になりはしまいか。少くとも彼女が叔父に対して警戒している方向は、飛んでもない見当違いになってしまっているではないか……。

……面白いな……この結末がどうなるか……。

と心の中うちで楽しみながら……。

その月の中頃の、或る天気のいい日曜の朝早くであった。伊奈子は大急ぎの口調で私に電話をかけたが、それは叔父が三日ばかりの予定で、その朝早く大阪に発ったので、これからすぐにF市から二十里ばかりの処にあるU岳の温泉に行こうというのであった。その温泉は何に利きくのか知らないが、いろんな贅沢な設備をしたホテルや、待合兼業みたようなステキな宿屋がいくつもあると伊奈子は云ったが、そこで第一等という何とかホテルの大玄関に自動車で乗りつけて、特等室附属の浴場に案内された時には、私も生れて初めてなので一寸ちょっと眼を丸くした。

高い天井のステインドグラスから落ちて来る光線が、青ずんだ湯の底の底まで透きとおして、見事に彫刻した白大理石の浴槽から音も立てずに溢れ出していた。その中に私が先に走り込んで掻きまわすと、その光りが五色の鳥だの金銀の魚うおだのが入り乱れたように散らばって、その上から一面にモウモウと湧き立つ湯気のために、四方を鏡で張り詰めた室へやの中が薄暗くなってしまった。

私は、その湯の中にフンワリと身体からだを浮かして、いい心持ちにあたたまり初めた。その間に、のぼせ性の彼女は何度も何度も湯から出たり這入ったりしていたが、間もなく浴槽の外で男のように突立って、肉付きのいい身体をキュッキュッと洗いながら、突然にこんな事を云い出した。

「叔父さんは自分が死ぬまで、あなたに相場をやらせない……財産も譲らないって云っててよ……」

「当り前だ……」

と私は面倒臭そうに答えた。少々睡くなりかけたところを邪魔されたので……。

「……死んだってくれやしないよ……」

「そうじゃないわよ。あなたは正直で、頭がよくて……」

「馬鹿にするな……」

「いいえ。まったくよ……俺よりも仕事が冴さえている上に、今の財産は愛太郎のお蔭で出来たようなもんだから、跡を継がせるのは当り前だって……」

「……ウーン……そんなら早くくれりゃあいいのに……」

「……だけどね……まだ頭の固まらないうちに株だの、お金だのを持たせると慾がさして、株だのお米だのの上り下りがわからなくなるから、まだなかなか譲れない。俺も昔はかなり頭がよかったんだけど、あまり早くから慾にかかったせいかして、肝玉きもたまが小さくなって相場が当らなくなったんだ。それを助けてくれたのが貴方なんですって……」

「それあ本当だ。叔父の正直なところだろうよ」

「……でしょう。だから叔父さんは、あなたに感謝しててよ。あなたを電話の神様だって云っててよ」

「おだてちゃいけない……」

と私は投げ出すように云った。浴槽のふちに頭を載せて、手足を海月くらげのように漂わそうとこころみながら……。そうすると彼女はチョットそこらを見廻しながら、その私の頭のすぐ横に、青白い、大きな曲線美を持って来て、これ見よがしに腰をかけた。恰あだかもその肉体の魅力で私を脅迫するかのように、真珠色に濡れた乳をゆらめかせながら、私の顔をニッコリと覗き込んだ。声を低くして囁いた。

「おだてるのじゃないわよ。……あなた考えなくちゃ駄目よ。……ネ……叔父さんはこの頃、あなたを養子にする事にきめたのよ。そうして自分の財産を全部譲るっていう遺言状を昨日きのう書いてよ。今頃はもう公証人がどうかしているでしょう」

「フーン僕に呉くれるって……」

と私は平気な声で云った。そのウラに隠されている彼女の手管てくだを見透かしながら……。

「そうよ……」

と云いながら彼女は大きな眼で今一度そこいらを見まわした。気味悪く笑いながら前よりも一層低い声で云った。

「だけど、その遺言状を書かしたのは妾わたしよ」

「……………」

「わかって?……」

「……よけいな事を……」

私は思わず噛んで吐き出すようにこう云った。そうして、その私の横頬を急に唇を噛んだまま睨み付けている彼女の視線をハッキリと感じながら、私は静かに眼を閉じた。

湯気が一しきり濛々もうもうと湧き出した。その中に彼女はヒッソリとうなだれたまま、何かしらしきりに考えているようであったが、やがて深い、弱々しいため息を一つすると又口を利き出した。甘えるような……投げ出すような口調で……。

「……あなたって人は……ほんとに仕様しようのない人ね」

「……ウーン……どうせヤクザモノさ」

「だけど……」

「何だい……」

私は追いかけるようにこう云いながら心もち冷笑を含んで彼女を見上げた。その私の視線を彼女はチラリと流し眼に見返したが、やがてウッスリと眼を伏せると、独りでつぶやくように唇を動かした。

「叔父さんはね……もうじき死んでよ」

「フーン……どうして?……」

と、私は一層冷笑したい気持ちになって、彼女を見上げ見下した。こんな女にも何かしら直覚力があるのかと思って……。しかしその視線を横眼でジッと見返した彼女の全身には、私の冷笑と闘うべく、あらん限りの妖艶さが一時に夕栄ゆうばえのように燃え上って来たかのように見えた。彼女の頬は生娘きむすめのような真剣さのために火のように充血した。その眼は情熱に輝きみちみち、その唇は何とも形容の出来ない恨うらみに固く鎖とざされて、その撫で上げた前髪の生はえ際ぎわには汗の玉が鈴生すずなりに並んで光っていた。彼女がこれ程に深刻な魅惑力を発揮し得ようとは今までに一度も想像し得なかった程で、私は思わず心の中うちで……妖女……妖女……浴室の中の妖女……と叫んだほどに、烈しい熱情と、めまぐるしい艶美さとをあらわしつつ私の眼の前に蔽おおいかかって来たのであった。しかしそうした彼女の驚異的な表情をなおも冷やかに、批評的な態度で見上げながら、足の先の処にゴボゴボと流れ込んで来る温泉の音を聞いていると、そのうちに彼女の唇が次第次第に弛ゆるみかけて、生え際の汗が一粒一粒に消え失せ初めた……と思うと、やがて剃刀かみそりのようにヒイヤリとした薄笑いが片頬に浮き上って来たのであった。

「あなたはエライ方ね……」

私は悠々と自分の足の爪先に視線を返しながら答えた。

「どうして……」

「あまり驚かないじゃないの」

「驚いたって仕様がないさ。そっちで勝手にする事だもの……」

「マア……口惜しいッ……」

と不意に金切声をあげた彼女は、血相をかえて掴みかかりそうになった。私はそれを避けようとしてドブリと湯の中へ落ち込んだが、その拍子に鼻の穴から湯が這入ったのを吐き出そうとして、烈しく噎むせびながら湯の中に突立った。肩から胸へかけて薄い寒さを感じつつ、濡れた髪毛かみのけを撫で上げ撫で上げやっとの事で眼を見開いた。

見ると彼女は蛇紋石じゃもんせきの流し場に片手を支ついたまま、横坐りをして、唇をシッカリと噛んでいた。エバを取り逃がした蛇のように鎌首を擡もたげて、血走った眼で私を睨み上げていたが、やがて、怨うらめしそうに切れ切れに云った。

「……あたしの気持ちはわかっている癖に……あなたがソンナ悪党ってことは……妾あたし……きょうが今日まで知らなかったわ……にくらしい……」

こう云いながら彼女は又も、その大きな眼をグルグルさして、二三度入口の方を振り返った……と思うと不意に、スックリと立ち上って、無手むずと私の両手を掴みながら、抱き寄せるようにして湯の中から引っぱり出した。石甃いしだたみの上をダブダブと光り漂う湯の上に、膝を組み合わせる程近く引き寄せて、私の首に両の腕を絡ませると、興奮のために、ふるえる唇を、私の耳に近づけた。喘あえぐように囁やきはじめた。

「……あたしね……聞いてちょうだい……ずっと前、長崎で西洋人の小間使いになっているうちに、ソッと毒薬の小瓶を盗んでおいたのよ。……可愛らしい瀬戸物の真黒な小瓶よ。それはね……そのラマンさんという和蘭オランダ人のお医者の話によると、ジキタリスという草を、何とかいう六むつヶしい名前の石と一緒に煮詰めた昔から在る毒薬で、支那人が大切にする『鴆ちんの羽根』と『猫の頭』と『虎の肝臓きも』と『狼の涎よだれ』という四つの毒薬の中うちで『鴆の羽根』という白い粉と、おんなじものになっているんですってよ。……それをアブサントを台にして作ったコクテールの中に、竹の耳掻きで一パイか二ハイずつ混ぜて服のませると、その人間は間もなく中毒にかかって、いくらでもいくらでも飲みたくなるんですって……アブサントのおかげで青臭いにおいがスッカリ消されている上に、どことなくホロ苦くてトテモ美味おいしいんですって……だけど一度に沢山飲ませると、すぐに眼や鼻から血を噴き出しながらブッたおれて、十分と経たないうちに死んで終しまうから駄目なんですってよ……そうして二日目か三日目越しに、竹の耳掻き一ひと掬すくいずつ殖ふやして行って、その毒が心臓にすっかり沁み込んだ時に……つまり耳掻きに十杯以上……グラムに直して云うと三分の一グラムぐらい飲んでも、何ともないようになった時分に、急にその薬を入れるのを止よすと、四五日か一週間も経つうちにいつとも知れず、不意に、心臓痲痺とソックリの容態になって死んでしまうので、どんなにエライ博士が来て診察しても、わかりっこないんですってさあ…………ね………ステキでしょう……ね……わかって?……」

私は眼の前にモヤモヤと渦巻きのぼる温泉の白い湯気を見守りながら、夢を見るようないい気持ちになって、ウットリと彼女の囁やきに聞き惚とれていた。その湯気の中に入道雲みたように丸々と肥った叔父のまぼろしが、いくつもいくつも、あとからあとから浮き出しては消え、あらわれては隠れして行くのを見た。それを見守りながら私は、伊奈子の話が途切れてしまっても、暫くの間ムッツリと口を噤つぐんでいたが、そのうちにフト気が付いて伊奈子を振りかえった。

「……その薬を、僕にも服のましてくれないか……」

「……………」

彼女は、私がふり返った眼の前でサッと血の色を喪った。今にも失神しそうにゴックリと唾を飲み込んで、額からポタポタと生汗なまあせを滴たらしながら大きく大きく眼を瞠みはった。その眼を覗き込んで私は思い切り冷やかな笑みを浮かめた。

「……驚くこたあないよ。僕も死にたいんだから……僕は、今まで叔父に忠告しなかった事を後悔しているんだ。あんたがそんな女だっていう事をね……だけど、どうせ忠告したって同じ事だと思ったから黙っていたんだ」

「……………」

「……ね……あんたは、まだ、そんな事をするくらいだから、生き甲斐のある人間に違いないだろう……しかし僕や叔父はもう人間の癈物だからね。この世に生きてたって仕様のない人間だからね……」

「……………」

「構わないから、その薬を頒わけておくれよ……僕の財産の全部は内縁の妻伊奈子に譲る……っていう遺言書を書いといたら文句はないだろう……」

彼女はみるみる唇の色まで白くした。反対に私を睨んだ眼は、首を切られる鯛のように美しく充血した。今にも泣き出しそうにパチパチと瞬まばたきをして見せた。

「……アハハハハハハハハ……アッハッハッハッ……」

と私は不意打ちに笑い出した。彼女が眼まぐるしく瞬を続けるのを見返りながら、

「……アハアハアハアハ……嘘だよ……今のは……。アハハハハハ。まあ、お前さんの好きなようにするさ。おれは知らん顔をしといてやるから……」

彼女は湯冷めで真白になった全身を、ブルブルと慄ふるわせつつ、唇を血の出る程噛みしめた。……と思うとやがて、湯気に濡れた長い睫毛まつげを、ソッと蛇紋石の床の上に落した。

私は、勢いよく大理石槽の湯の中へ飛び込んだ。ザブリザブリと身体を洗いつつ、坐ったまま彫像のように固くなっている彼女を眺めた。たまらない可笑おかしさを笑いつづけた。

「アハハハハハ。アハハハハハ。ここへお這入りよ。風邪を引くよ。……今のは嘘だったら、アハハハハハハハ」

それから三日目の寒い晩であったと思う。

温泉行ゆき以来、音も沙汰もしなかった伊奈子が、何と思ったかお化粧も何もしない平生着ふだんぎのまま、上等の葉巻きを一箱お土産に持って日暮れ方にヒョッコリと遣って来た。そうして近所のカフェーから、不味まずい紅茶だの菓子だのを取り寄せながら、私の枕元で夜遅くまで芝居や活動の話をしいしい、何の他愛もなくキャッキャと燥はしゃいで帰って行ったので、私は妙に興奮してしまって夜明け近くまで睡れなかった。そうしてヤットの思いでウトウトしかけたと思う間もなく、長距離らしい烈しい電話のベルに呼び立てられたので、私は寝床に敷いていた毛布を俥屋くるまやのように身体に纏いながら、半分夢心地で階段を馳け降りると電話口に突立った。序ついでに寝ぼけ眼まなこで店の柱時計をふり返って見たら午前七時十分前であった。

「……モシモシ……モシモシ……四千四百三番ですか……大阪から急報ですよ……お話下さい……」

「……オーッ。青木かア!……何だア!……今頃……」

「……アアモシモシ。君は児島君かね……」

「イイエ違います。児島愛太郎です……」

「……ヤ……御令息ですか。失礼いたしました。私は青木商店の主人で藤太とうたと申します。まだお眼にかかりませんが、何卒どうぞよろしく……エエ……早速ですが、お父様のお宅にはまだ電話が御座いませんでしたね……ああ……さようで……では大至急お父様にお取次をお願いしたいのですが、実は大変にお気の毒な事が出来まして……」

「……ハア……どんな事でしょうか……」

「もうお聞きになったかも知れませんが、中ノ島の浜村銀行が今朝けさ、支払停止を貼り出しました……」

「ハア……そうですか」

「頭取の浜村君と、支配人の井田君は昨夜からその筋へ召喚されておりますので、預金者は皆途方に暮れているのです」

「ナルホド」

「あなたのお父様と同銀行とは、兼ねてから深い御関係になっておられる事を承っておりましたので、取りあえずお知らせ致しますが……実は折返して今一度、至急に御来阪願いまして、その事に就いて御相談致したいと存じますので」

「どうも有り難う御座います。すぐに取次ぎます」

「どうかお願い致します。そうして出発の御時間を、すぐにお知らせ願いたいのですが……甚はなはだ恐縮ですが……」

「かしこまりました。しかし叔父はまだ、昨夜まで自宅に帰っておりませんので……」

「ハハア。……ナルホド……それは困りましたな……エエトそれではどう致したら……」

「ハイ。けれども昨晩までには帰ると申しておったのですから、事によるともうじき店に来るかも知れません。そうしたら間違いなく……」

「……ハ……どうかお願い致します……では失礼を……」

青木氏の声は落ち付いてはいたが、その口調には明らかに狼狽した響きが含まれていた。ことに依ると青木氏も叔父と同様に浜村銀行に預金しているのかも知れない。面白いな……と私は微笑しつつ電話を切った。そうしてまだ睡い眼をコスリコスリ、今一ひと寝入りすべく二階へ帰ろうとすると、暗い梯子段に足を踏みかけぬうちに、又電話口に呼び返された。

「オーイ。交換手……切ってくれエ。話は済んだんだア」

「モシモシ……あなたは愛太郎さん?」

「ナアンだ……伊奈子さんか……ちょうどよかった……今どこからかけているの……」

「公園の中の自動電話よ」

「フーン。何の用?……」

「……あのね……昨夜ゆうべ妾わたしが帰ったらね……叔父さんが帰っていたの……」

「フーン。それで……」

「……あのね……そうしたらね……今朝けさから様子が変になったの」

「……どうして……」

「……あのね……妾……アノお薬を服のませるのを四五日前から止していたの……大阪へも何も入れないカクテールを持たして上げたの……そうして昨夜も同じのを、あたためて上げたのよ」

「……フーン……だから温泉で僕に打ち明けたんだね」

「……エエ……まあそうよ……そうしたら昨夜、夜中から胸が苦しいと云い出してネ、今朝、お隣りの山際っていうお医者さんに診みせたら心臓の工合がわるいって云うの。そうして先刻さっきまで何本も注射をしたけどチットも利かないで、物も云わずに藻掻もがきはじめたの……何を云ってもわからないのよ……もう駄目なんですってさあ」

「ちょうどよかった」

「ええ……だからあなた早く来て頂戴な。そうして何とか芝居をして頂戴な……あたし何だか怖くなったから……」

「……バカ……何が怖い……そんな事は覚悟の前じゃないか……初めっから……」

「だって医者が見ている前で口と鼻からダラダラ出血し初めたんですもの……あのお薬は妾が聞いたのと何だか違っているようよ。……お医者が青くなって妾の顔を見ながら、これは何かの中毒だって云ったから、妾身支度みじたくをして、うちにある現金と、銀行の通帳かよいちょうを持って、裏口からソッと脱け出してここへ来たの……あなたと一緒に預金を引き出して逃げようか、どうしようかと思って……」

「駄目だよ。浜村銀行は払やしないよ」

「……エッ……どうして?……」

「浜村銀行の頭取と支配人が昨夜大阪で拘引されたんだ。福岡の支店も支払停止にきまっている。叔父は破産しているんだよ。残っているのは待合の借りばかりだ」

「……………」

「みんなお前さんの自業自得さ。お気の毒様みたいなもんさ。……どこへでも行くがいい……」

「……ホント……」

「本当さ……今、大阪から電話が掛かって来たから知らせようと思ったところへ、お前さんが電話をかけたんだ。だから僕はすぐに電話口へ出たろう……ちょうどよかったんだ」

「……………」

「……ジャ左様さようなら……御機嫌よう……」

「待って頂戴……」

「……何だ……」

「……チョッと待ってネ。後生だから……あたし……」

「どうしたんだい」

「……………」

彼女が受話機を箱の上に置く音がした。そのあとから自動車らしい警笛がホンノリと通過すると間もなく、彼女が咳払いする音が聞えて来た。

「……モシモシ……モシモシ……時間ですよ……」

「……つないで……ちょうだい」

お金を入れる音がコチーンとした。

「オイオイ……どうしたんだ?」

「……あたし……今ね……叔父さんに上げたお薬の残りをアブサントに溶といといたのを……みんな飲んでしまったの」

「馬鹿……」

「……妾……今から帰って、お医者様にスッカリ白状するわ。みんな妾が一人でした事だって……ですから貴方あなたは……あなたは早く逃げて頂戴……同罪になるといけないから……店の金庫の合牒あいちょうはイナコよ……サヨウ……ナラ」

彼女が受話機を取り落す音がした。そのあとからゴトーンと人間の身体が倒おれるような音が響いた。

「……馬鹿め……勝手にしろ……」

と云い放って私は受話機をかけた。

「……チイ……芝居だ。畜生め……このまま俺が逃げ出したら、立派な犯人が出来上るって寸法だろう……ハハンだ……電話の神様を知らねえか……」

こう思いながら二階に上って、昨夜の吸いさしの葉巻に火を点つけたまま、暖かい蒲団にもぐり込むと、エタイの知れない薄笑いが自然おのずと唇にニジミ出した。

ウッカリするとそのうちに叔父が店にやって来るかも知れないと思い思い、グッスリと睡ってしまった。

×          ×          ×

警察でも検事局でも私は一切知らない知らないで頑張り通した。血を吐いた叔父と伊奈子の死骸を突きつけられた時も、彼女が叔父の妾めかけであったという事以外に何一つ知らないと云い切った。そうして未決監で正月を済ますと間もなく証拠不充分で釈放された。その間の寒さは私の骨身にこたえた。

霜の真白な町伝いに取引所前の店に帰ってみると、表の扉とは南京錠をかけたままになっていた。私はとりあえず支那料理屋に電話をかけると、すぐに二階に上ってなつかしい葉巻の煙に酔いつつこの遺書かきおきを書き始めた。

しかし私は、三週間ばかり前から大評判になっている「檜ひのき御殿」の謎を解く目的でこの筆を執とったのではない。同時に私が監房の中で自殺を決心したのは、一文無しになった自分の前途を悲観したからではない。

又は、

……叔父も伊奈子もシンカラの悪魔ではなかった。彼等を眩惑して悶死させながら、平気で冷笑していた私こそ……ホントウの……生れながらの悪魔であった……。

という事をシミジミ自覚したからでもない。

伊奈子の恐ろしい死に顔を見た瞬間に、彼女の真実を知ったからであった。

眼に見えぬ鉄鎚かなづちで心臓をタタキ潰されたからであった。

底本 / Source edition

底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社
1929(昭和4)年12月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:久保あきら
2000年6月17日公開
2006年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000922_000096/

夢野 久作「鉄鎚」(新字新仮名)、底本『夢野久作全集3』ちくま文庫、筑摩書房、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000922_000096, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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