Soranoha

機械

きかい

横光 利一

初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼をいやがるからといって親父をいやがる法があるかといって怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れるといきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すということがあるかという。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。少し子供が泣きやむともう直ぐ子供を抱きかかえて部屋の中を馳け廻っている四十男。この主人はそんなに子供のことばかりにかけてそうかというとそうではなく、凡そ何事にでもそれほどな無邪気さを持っているので自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ。家の中の運転が細君を中心にして来ると細君系の人々がそれだけのびのびとなって来るのももっともなことなのだ。従ってどちらかというと主人の方に関係のある私はこの家の仕事のうちで一番人のいやがることばかりを引き受けねばならぬ結果になっていく。いやな仕事、それは全くいやな仕事でしかもそのいやな部分を誰か一人がいつもしていなければ家全体の生活が廻らぬという中心的な部分に私がいるので実は家の中心が細君にはなく私にあるのだがそんなことをいったっていやな仕事をする奴は使い道のない奴だからこそだとばかり思っている人間の集りだから黙っているより仕方がないと思っていた。全く使い道のない人間というものは誰にも出来かねる箇所だけに不思議に使い道のあるもので、このネームプレート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事の中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざわざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上っているのである。この穴へ落ち込むと金属を腐蝕させる塩化鉄で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、臭素の刺戟で咽喉を破壊し夜の睡眠がとれなくなるばかりではなく頭脳の組織が変化して来て視力さえも薄れて来る。こんな危険な穴の中へは有用な人間が落ち込む筈がないのであるが、この家の主人も若いときに人の出来ないこの仕事を覚え込んだのも恐らく私のように使い道のない人間だったからにちがいないのだ。しかし、私とてもいつまでもここで片輪になるために愚図ついていたのでは勿論ない。実は私は九州の造船所から出て来たのだがふと途中の汽車の中で一人の婦人に逢ったのがこの生活の初めなのだ。婦人はもう五十歳あまりになっていて主人に死なれ家もなければ子供もないので東京の親戚の所で暫く厄介になってから下宿屋でも初めるのだという。それなら私も職でも見つかればあなたの下宿へ厄介になりたいと冗談のつもりでいうと、それでは自分のこれから行く親戚へ自分といってそこの仕事を手伝わないかとすすめてくれた。私もまだどこへ勤めるあてとてもないときだしひとつはその婦人の上品な言葉や姿を信用する気になってそのままふらりと婦人と一緒にここの仕事場へ流れ込んで来たのである。すると、ここの仕事は初めは見た目は楽だがだんだん薬品が労働力を根柢から奪っていくということに気がついた。それで明日は出よう今日は出ようと思っているうちにふと今迄辛抱したからにはそれではひとつここの仕事の急所を全部覚え込んでからにしようという気にもなって来て自分で危険な仕事の部分に近づくことに興味を持とうとつとめ出した。ところが私と一緒に働いているここの職人の軽部は私がこの家の仕事の秘密を盗みに這入はいって来たどこかの間者だと思い込んだのだ。彼は主人の細君の実家の隣家から来ている男なので何事にでも自由がきくだけにそれだけ主家が第一で、よくある忠実な下僕になりすましてみることが道楽なのだ。彼は私が棚の毒薬を手に取って眺めているともう眼を光らせて私を見詰めている。私が暗室の前をうろついているともうかたかたと音を立てて自分がここから見ているぞと知らせてくれる。全く私にとっては馬鹿馬鹿しい事だが、それでも軽部にしては真剣なんだから無気味である。彼にとっては活動写真が人生最高の教科書で従って探偵劇が彼には現実とどこも変らぬものに見えているので、このふらりと這入って来た私がそういう彼にはまた好箇の探偵物の材料になって迫っているのも事実なのだ。殊に軽部は一生この家に勤める決心なばかりではない。ここの分家としてやがては一人でネームプレート製造所を起そうと思っているだけに自分よりさきに主人の考案した赤色プレート製法の秘密を私に奪われてしまうことは本望ではないにちがいない。しかし、私にしてみればただこの仕事を覚え込んでおくだけでそれで生涯の活計を立てようなどとは謀たくらんでいるのでは決してないのだが、そんなことをいったって軽部には分るものでもなし、また私がこの仕事を覚え込んでしまったならあるいはひょっこりそれで生計を立てていかぬとも限らぬし、いずれにしても軽部なんかが何を思おうとただ彼をいらいらさせてみるのも彼に人間修養をさせてやるだけだとぐらいに思っておればそれで良ろしい、そう思った私はまるで軽部を眼中におかずにいると、その間に彼の私に対する敵意は急速な調子で進んでいてこの馬鹿がと思っていたのも実は馬鹿なればこそこれは案外馬鹿にはならぬと思わしめるようにまでなって来た。人間は敵でもないのに人から敵だと思われることはその期間相手を馬鹿にしていられるだけ何となく楽しみなものであるが、その楽しみが実はこちらの空隙になっていることにはなかなか気附かぬもので私が何の気もなく椅子を動かしたり断裁機を廻したりしかけると不意に金槌が頭の上から落おっこって来たり、地金の真鍮板が積み重ったまま足もとへ崩れて来たり安全なニスとエーテルの混合液のザボンがいつの間にか危険な重クロムサンの酸液と入れ換えられていたりしているのが初めの間はこちらの過失だとばかり思っていたのにそれが尽く軽部の為業しわざだと気附いた時には考えれば考えるほどこれは油断をしていると生命まで狙われているのではないかと思われて来てひやりとさせられるようにまでなって来た。殊に軽部は馬鹿は馬鹿でも私よりも先輩で劇薬の調合にかけては腕があり、お茶に入れておいた重クロム酸アンモニアを相手が飲んで死んでも自殺になるぐらいのことは知っているのだ。私は御飯を食べる時でもそれから当分の間は黄色な物が眼につくとそれが重クロムサンではないかと思われて箸がその方へ動かなかったが、私のそんな警戒心も暫くすると自分ながら滑稽になって来てそう手容たやすく殺されるものなら殺されてもみようと思うようにもなり自然に軽部の事などはまた私の頭から去っていった。

或る日私は仕事場で仕事をしていると主婦が来て主人が地金を買いにいくのだから私も一緒について行って主人の金銭を絶えず私が持っていてくれるようにという。それは主人は金銭を持つと殆ど必ず途中で落してしまうので主婦の気使いは主人に金銭を渡さぬことが第一であったのだ。いままでのこの家の悲劇の大部分も実にこの馬鹿げたことばかりなんだがそれにしてもどうしてこんなにここの主人は金銭を落すのか誰にも分らない。落してしまったものはいくら叱ったって嚇したって返って来るものでもなし、それだからって汗水たらして皆が働いたものを一人の神経の弛みのために尽く水の泡にされてしまってそのまま泣き寝入に黙っているわけにもいかず、それが一度や二度ならともかく始終持ったら落すということの方が確実だというのだからこの家の活動も自然に鍛錬のされ方が普通の家とはどこか違って生長して来ているにちがいないのだ。いったい私達は金銭を持ったら落すという四十男をそんなに想像することは出来ない。譬えば財布を細君が紐でしっかり首から懐へ吊しておいてもそれでも中の金銭だけはちゃんといつも落してあるというのであるが、それなら主人は金を財布から出すときか入れるときかに落すにちがいないとしてみてもそれにしても第一そう度々落す以上は今度は落すかもしれぬからと三度に一度は出すときや入れるときに気附く筈だ。それを気附けば事実はそんなにも落さないのではないかと思われて考えようによってはこれは或いは金銭の支払いを延ばすための細君の手ではないかとも一度は思うが、しかし間もなくあまりにも変っている主人の挙動のために細君の宣伝もいつの間にか事実だと思ってしまわねばならぬほど、とにかく、主人は変っている。金を金とも思わぬという言葉は富者に対する形容だがここの主人の貧しさは五銭の白銅を握って銭湯の暖簾をくぐる程度に拘らず、困っているものには自分の家の地金を買う金銭まで遣ってしまって忘れている。こういうのをこそ昔は仙人といったのであろう。しかし、仙人と一緒にいるものは絶えずはらはらして生きていかねばならぬのだ。家のことを何一つ任かしておけないばかりではない、一人で済ませる用事も二人がかりで出かけたりその一人のいるために周囲の者の労力がどれほど無駄に費されているか分らぬのだが、しかしそれはそうにちがいないとしてもこの主人のいるいないによって得意先のこの家に対する人気の相異は格段の変化を生じて来る。恐らくここの家は主人のために人から憎まれたことがないにちがいなく主人を縛る細君の締りがたとい悪評を立てたとしたところでそんなにも好人物の主人が細君に縛られて小さく忍んでいる様子というものはまた自然に滑稽な風味があって喜ばれ勝ちなものでもあり、その細君の睨みの留守に脱兎のごとく脱け出してはすっかり金銭を振り撒いて帰って来る男というのもこれまた一層の人気を立てる材料になるばかりなのだ。

そんな風に考えるとこの家の中心は矢張り細君にもなく私や軽部にもない自ら主人にあるといわねばならなくなって来て私の傭人根性が丸出しになり出すのだが、どこから見たって主人が私には好きなんだから仕様がない。実際私の家の主人はせいぜい五つになった男の子をそのまま四十に持って来た所を想像すると浮んで来る。私たちはそんな男を思うと全く馬鹿馬鹿しくて軽蔑したくなりそうなものにも拘らずそれが見ていて軽蔑出来ぬというのも、つまりはあんまり自分のいつの間にか成長して来た年齢の醜さが逆に鮮かに浮んで来てその自身の姿に打たれるからだ。こんな自分への反射は私に限らず軽部にだって常に同じ作用をしていたと見えて、後で気附いたことだが、軽部が私への反感も所詮はこの主人を守ろうとする軽部の善良な心の部分の働きからであったのだ。私がここの家から放れがたなく感じるのも主人のそのこの上もない善良さからであり、軽部が私の頭の上から金槌を落したりするのも主人のその善良さのためだとすると、善良なんていうことは昔から案外良い働きをして来なかったにちがいない。

さてその日主人と私は地金を買いにいって戻って来るとその途中主人は私に今日はこういう話があったといっていうには自分の家の赤色プレートの製法を五万円で売ってくれというのだが売って良いものかどうだろうかと訊くので、私もそれには答えられずに黙っていると赤色プレートもいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう仲間達が必死にこっそり研究しているので製法を売るなら今の中だという。それもそうだろうと思っても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかくいう権利もなしそうかといって主人ひとりに任しておいては主人はいつの間にか細君のいうままになりそうだし、細君というものはまた目さきのことだけより考えないに決っているのを思うと私もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になって来た。家にいても家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかのように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のように見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来た弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなった。しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しく私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私から眼を放さなくなったのを感じ出した。思うに軽部は主人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部に私を監視せよといいつけたのかどうかは私には分らなかった。しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとこっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないかと思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんなに誤魔化していられるものではない。そこで私もそれらの疑いを抱く視線に見られると不快は不快でも何となく面白くひとつどうすることか図々しくこちらも逆に監視を続けてやろうという気になって来て困り出した。丁度そういうときまた主人は私に主人の続けている新しい研究の話をしていうには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わしくいかないのでお前も暇なとき自分と一緒にやってみてくれないかというのである。私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされようなどとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信徒みたいに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわけだ。奇蹟などというものは向うが奇蹟を行うのではなく自身の醜さが奇蹟を行うのにちがいない。それからというものは全く私も軽部のように何より主人が第一になり始め、主人を左右している細君の何に彼に反感をさえ感じて来て、どうしてこういう婦人がこの立派な主人を独専して良いものか疑わしくなったばかりではなく出来ることならこの主人から細君を追放してみたく思うことさえときどきあるのを考えても軽部が私に虐つらくあたってくる気持ちが手にとるように分って来て、彼を見ていると自然に自分を見ているようでますますまたそんなことにまで興味が湧いて来るのである。

或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので這入っていくと、アニリンをかけた真鍮の地金をアルコールランプの上で熱しながらいきなり説明していうには、プレートの色を変化させるには何んでも熱するときの変化に一番注意しなければならない、いまはこの地金は紫色をしているがこれが黒褐色となりやがて黒色となるともうすでにこの地金が次の試練の場合に塩化鉄に敗けて役に立たなくなる約束をしているのだから、着色の工夫は総て色の変化の中段においてなさるべきだと教えておいて、私にその場でバーニングの試験を出来る限り多くの薬品を使用してやってみよという。それからの私は化合物と元素の有機関係を験べることにますます興味を向けていったのだが、これは興味を持てば持つほど今迄知らなかった無機物内の微妙な有機的運動の急所を読みとることが出来て来て、いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気附き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となって来た。しかし軽部は前まで誰も這入ることを許されなかった暗室の中へ自由に這入り出した私に気がつくと、私を見る顔色までが変って来た。あんなに早くから一にも主人二にも主人と思って来た軽部にも拘らず新参の私に許されたことが彼に許されないのだからいままでの私への彼の警戒も何の役にも立たなくなったばかりではない、うっかりすると彼の地位さえ私が自由に左右し出すのかもしれぬと思ったにちがいないのだ。だから私は幾分彼に遠慮すべきだというぐらいは分っていても何もそういちいち軽部軽部と彼の眼の色ばかりを気使わねばならぬほどの人でもなし、いつものように軽部の奴いったいいまにどんなことをし出すかとそんなことの方が却って興味が出て来てなかなか同情なんかする気にもなれないので、そのまま頭から見降ろすように知らぬ顔を続けていた。すると、よくよく軽部も腹が立ったと見えてあるとき軽部の使っていた穴ほぎ用のペルスを私が使おうとすると急に見えなくなったので君がいまさきまで使っていたではないかというと、使っていたってなくなるものはなくなるのだ、なければ見附かるまで自分で捜せば良いではないかと軽部はいう。それもそうだと思って、私はペルスを自分で捜し続けたのだがどうしても見附からないのでそこでふと私は軽部のポケットを見るとそこにちゃんとあったので黙って取り出そうとすると、他人のポケットへ無断で手を入れる奴があるかという。他人のポケットはポケットでもこの作業場にいる間は誰のポケットだって同じことだというと、そういう考えを持っている奴だからこそ主人の仕事だって図々しく盗めるのだという。いったい主人の仕事をいつ盗んだか、主人の仕事を手伝うということが主人の仕事を盗むことなら君だって主人の仕事を盗んでいるのではないかといってやると、彼は暫く黙ってぶるぶる唇をふるわせてから急に私にこの家を出ていけと迫り出した。それで私も出るには出るがもう暫く主人の研究が進んでからでも出ないと主人に対してすまないというと、それなら自分が先きに出るという。それでは君は主人を困らせるばかりで何にもならぬから私が出るまで出ないようにするべきだといってきかせてやっても、それでも頑固に出るという。それでは仕方がないから出ていくよう、後は私が二人分を引き受けようというと、いきなり軽部は傍にあったカルシュームの粉末を私の顔に投げつけた。実は私は自分が悪いということを百も承知しているのだが悪というものは何といったって面白い。軽部の善良な心がいらだちながら慄えているのをそんなにもまざまざと眼前で見せつけられると、私はますます舌舐めずりをして落ちついて来るのである。これではならぬと思いながら軽部の心の少しでも休まるようにと仕向けてはみるのだが、だいいち初めから軽部を相手にしていなかったのが悪いので彼が怒れば怒るほどこちらが恐わそうにびくびくしていくということは余程の人物でなければ出来るものではない。どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計っているような気がして来て終いには自分の感情の置き場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのか分らなくなって来た。全く私はこのときほどはっきりと自分を持てあましたことはない。まるで心は肉体と一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよくも名付けたと思えるほど心がただ黙々と身体の大きさに従って存在しているだけなのだ。暫くして私はそのまま暗室へ這入ると仕かけておいた着色用のビスムチルを沈澱さすため、試験管をとってクロム酸加里を焼き始めたのだが軽部にとってはそれがまたいけなかったのだ。私が自由に暗室へ這入るということがすでに軽部の怨みを買った原因だったのにさんざん彼を怒らせた揚げ句の果に直ぐまた私が暗室へ這入ったのだから彼の逆上したのももっともなことである。彼は暗室のドアを開けると私の首を持ったまま引き摺り出して床の上へ投げつけた。私は投げつけられたようにして殆ど自分から倒れる気持ちで倒れたのだが、私のようなものを困らせるのには全くそのように暴力だけよりないのであろう。軽部は私が試験管の中のクロム酸加里がこぼれたかどうかと見ている間、どうしたものか一度周章あわてて部屋の中を駈け廻ってそれからまた私の前へ戻って来ると、駈け廻ったことが何の役にもたたなかったと見えてただ彼は私を睨みつけているだけなのである。しかしもし私が少しでも動けば彼は手持ち無沙汰のため私を蹴りつけるにちがいないと思ったので私はそのままいつまでも倒れていたのだが、切迫したいくらかの時間でもいったい自分は何をしているのだと思ったが最後もうぼんやりと間の脱けてしまうもので、ましてこちらは相手を一度思うさま怒らさねば駄目だと思っているときとてもう相手もすっかり気の向くまで怒ってしまった頃であろうと思うとつい私も落ちついてやれやれという気になり、どれほど軽部の奴がさきから暴れたのかと思ってあたりを見廻すと一番ひどく暴あらされているのは私の顔でカルシウムがざらざらしたまま唇から耳へまで這入っているのに気がついた。が、さて私はいつ起き上って良いものかそれが分らぬ。私は断裁機からこぼれて私の鼻の先にうず高く積み上っているアルミニュームの輝いた断面を眺めながらよくまア三日の間にこれだけの仕事が自分に出来たと驚いた。それで軽部にもうつまらぬ争いはやめて早くニュームにザボンを塗ろうではないかというと、軽部はもうそんな仕事はしたくはないのだ、それよりお前の顔を磨いてやろうといって横たわっている私の顔をアルミニュームの切片で埋め出し、その上から私の頭を洗うように揺り続けるのだが、街に並んだ家々の戸口に番号をつけて貼りつけられたあの小さなネームプレートの山で磨かれている自分の顔を想像すると、所詮は何が恐ろしいといって暴力ほど恐るべきものはないと思った。ニュームの角が揺れる度に顔面の皺や窪んだ骨に刺さってちくちくするだけではない。乾いたばかりの漆が顔にへばりついたまま放れないのだからやがて顔も膨れ上るにちがいないのだ。私ももうそれだけの暴力を黙って受けておれば軽部への義務も果したように思ったので起き上るとまた暗室の中へ這入ろうとした。すると軽部はまた私のその腕をもって背中へ捻じ上げ、窓の傍まで押して来ると私の頭を窓硝子へぶちあてながら顔をガラスの突片で切ろうとした。もうやめるであろうと思っているのに予想とは反対にそんな風にいつまでも追って来られると、今度はこの暴力がいつまで続くのであろうかと思い出していくものだ。しかしそうなればこちらもたとえ悪いとは思っても謝罪する気なんかはなくなるばかりでいままで隙があれば仲直りをしようと思っていた表情さえますます苦々しくふくれて来て更に次の暴力を誘う動因を作り出すだけとなった。が、実は軽部ももう怒る気はそんなになくただ仕方がないので怒っているだけだということは分っているのだ。それで私は軽部が私を窓の傍から劇薬の這入っている腐蝕用のバットの傍まで連れていくと、急に軽部の方へ向き返って、君は私をそんなに虐いじめるのは君の勝手だが私がいままで暗室の中でしていた実験は他人のまだしたことのない実験なので、もし成功すれば主人がどれほど利益を得るかしれないのだ。君はそれも私にさせないばかりか苦心の末に作ったビスムチルの溶液までこぼしてしまったではないか、拾え、というと軽部はそれなら何ぜ自分にもそれを一緒にさせないのだという。させるもさせないもないだいたい化学方程式さえ読めない者に実験を手伝わせたって邪魔になるだけなのだが、そんなこともいえないので少しいやみだと思ったが暗室へ連れていって化学方程式を細く書いたノートを見せて説明し、これらの数字に従って元素を組み合せてはやり直してばかりいる仕事が君に面白いならこれから毎日でも私に変ってして貰おうというと、軽部は初めてそれから私に負け始めた。

軽部との争いも当分の間は起らなくなって私もいくらか前よりいやすくなると暫くして、仕事が急激に軽部と私に増して来た。ある市役所からその全町のネームプレート五万枚を十日の間にせよといって来たので喜んだのは主婦だが私たちはそのため殆ど夜さえ眠れなくなるのは分っているのだ。それで主人は同業の友人の製作所から手のすいた職人を一人借りて来て私たちの中へ混えながら仕事を始めることにした。初めの間は私たちは何の気もなくただ仕事の量に圧倒されてしまって働いていたのだが、そのうちに新しく這入って来た職人の屋敷という男の様子が何となく私の注意をひき始めた。無器用な手つきといい人を見るときの鋭い眼つきといい職人らしくはしているがこれは職人ではなくてもしかしたら製作所の秘密を盗みに来た廻し者ではないかと思ったのだ。しかし、そんなことを口にでも出して饒舌しゃべったら軽部は屋敷をどんな目に逢わすかしれないので暫く黙って彼の様子を見ていることにしていると、屋敷の注意はいつも軽部の槽バットの揺り方にそそがれているのを私は発見した。屋敷の仕事は真鍮の地金をカセイソーダの溶液中に入れて軽部のすませて来た塩化鉄の腐蝕薬と一緒にそのとき用いたニスやグリューを洗い落す役目なのだが、軽部の仕事の部分はここの製作所の二番目の特長の部分なので、他の製作所では真似することは出来ないのだからそこに見入る屋敷とて当然なことは当然だとしても疑っているときのこととてその当然なことがなお一層疑わしい原因になるのである。しかし、軽部は屋敷に見入られているとますます得意になって調子をとりつつ槽バットの中の塩化鉄の溶液を揺するのだ。いつものことなら私を疑り出したように軽部とて一応は屋敷を疑わねばならぬ筈だのにそれが事もあろうか軽部は屋敷に槽バットの揺り方を説明して、地金に書かれた文字というものはいつもこうしてうつ伏せにするもので、すべて金属というものは金属それ自身の重みのために負けるのだから文字以外の部分はそれだけ早く塩化鉄に侵されて腐っていくのだと誰に聞いたものやらむずかしい口調で説明して屋敷に一度バットを揺すってみよとまでいう。私は初めはひやひやしながら黙って軽部の饒舌っていることを聞いていたのだがしまいには私は私で誰がどんな仕事の秘密を知ろうと知らせるだけ良いのではないかと思い出し、それからはもう屋敷への警戒もしないことに定めてしまったが、すべて秘密というものはその部分に働く者の慢心から洩れるのだと気がついたのはそのときの何よりの私の収穫であったであろう。それにしても軽部がそんなにうまく秘密を饒舌ったのも彼のそのときの調子に乗った慢心だけではない、確に彼にそんなにも饒舌らせた屋敷の風丰ふうぼうが軽部の心をそのとき浮き上らせてしまったのにちがいないのだ。屋敷の眼光は鋭いがそれが柔ぐと相手の心を分裂させてしまう不思議な魅力を持っているのである。その彼の魅力は絶えず私へも言葉をいう度に迫って来るのだが何にせよ私はあまりに急がしくて朝早くから瓦斯で熱した真鍮へ漆を塗りつけては乾かしたり重クロムサンアンモニアで塗りつめた金属板を日光に曝して感光させたりアニリンをかけてみたり、その他バーニングから炭とぎからアモアピカルから断裁までくるくる廻ってし続けねばならぬので屋敷の魅力も何もあったものではないのである。すると五日目頃の夜中になってふと私が眼を醒すとまだ夜業を続けていた筈の屋敷が暗室から出て来て主婦の部屋の方へ這入っていった。今頃主婦の部屋へ何の用があるのであろうと思っているうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで眠ってしまった。翌朝また眼を醒すと私に浮んで来た第一のことは昨夜の屋敷の様子であった。しかし、困ったことには考えているうちにそれは私の夢であったのか現実であったのか全く分らなくなって来たことだ。疲れているときには今までとてもときどき私にはそんなことがあったのでなおこの度の屋敷のことも私の夢かもしれないと思えるのだ。しかし、屋敷が暗室へ這入った理由は想像出来なくはないが主婦の部屋へ這入っていった彼の理由は私には分らない。まさか屋敷と主婦とが私たちには分らぬ深い所で前から交渉を持ち続けていたとは思えないのだしこれは夢だと思っている方が確実であろうと思っていると、その日の正午になって不意に主人が細君に昨夜何か変ったことがなかったかと笑いながら訊ね出した。すると細君は、お金をとったのはあなただぐらいのことはいくら寝坊の私だって知っているのだ。盗とるのならもっと上手にとって貰いたいと澄ましていうと主人は一層大きな声で面白そうに笑い続けた。それでは昨夜主婦の部屋へ這入っていったのは屋敷ではなく主人だったのかと気がついたのだがいくらいつも金銭を持たされないからといって夜中自分の細君の枕もとの財布を狙って忍び込む主人も主人だと思いながら私もおかしくなり、暗室から出て来たのもそれではあなたかと主人に訊くと、いやそれは知らぬと主人はいう。では暗室から出て来たのだけは矢張り屋敷であろうかそれともその部分だけは夢なのであろうかとまた私は迷い出した。しかし、主婦の部屋へ這入り込んだ男が屋敷でなくて主人だということだけは確に現実だったのだから暗室から出て来た屋敷の姿も全然夢だとばかりも思えなくなって来て、一度消えた屋敷への疑いも反対にまただんだん深くすすんで来た。しかし、そういう疑いというものはひとり疑っていたのでは結局自分自身を疑っていくだけなので何の役にもたたなくなるのは分っているのだ。それより直接屋敷に訊ねて見れば分るのだが、もし訊ねてそれが本当に屋敷だったら屋敷の困るのも決っている。この場合私が屋敷を困らしてみたところで別に私の得になるではなしといって捨てておくには事件は興味があり過ぎて惜しいのだ。だいいち暗室の中には私の苦心を重ねた蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物や、主人の得意とする無定形セレニウムの赤色塗の秘法が化学方程式となって隠されているのである。それを知られてしまえばここの製作所にとっては莫大な損失であるばかりではない、私にしたっていままでの秘密は秘密ではなくなって生活の面白さがなくなるのだ。向うが秘密を盗もうとするならこちらはそれを隠したってかまわぬであろう。と思うと私は屋敷を一途に賊のように疑っていってみようと決心した。前には私は軽部からそのように疑われたのだが今度は自分が他人を疑う番になったのを感じると、あのとき軽部をその間馬鹿にしていた面白さを思い出してやがては私も屋敷に絶えずあんな面白さを感じさすのであろうかとそんなことまで考えながら、一度は人から馬鹿にされてもみなければとも思い直したりしていよいよ屋敷へ注意をそそいでいった。ところが屋敷は屋敷で私の眼が光り出したと気附いたのであろうか、それから殆ど私と視線を合さなくてすませる方向ばかりに向き始めた。あまり今から窮屈な思いをさせては却って今の中に屋敷を逃がしてしまいそうだしするので、なるだけのんきにしなければならぬと柔いでみるのだが眼というものは不思議なもので、同じ認識の高さでうろついている視線というものは一度合すると底まで同時に貫き合うのだ。そこで私はアモアピカルで真鍮を磨きながらよもやまの話をすすめ、眼だけで彼にも方程式は盗んだかと訊いてみると向うは向うでまだまだと応こたえるかのように光って来る。それでは早く盗めば良いではないかというとお前にそれを知られては時間がかかってしょうがないという。ところが俺の方程式は今の所まだ間違いだらけで盗とったって何の役にも立たぬぞというとそれなら俺が見て直してやろうという。そういう風に暫く屋敷と私は仕事をしながら私自身の頭の中で黙って会話を続けているうちにだんだん私は一家のうちの誰よりも屋敷に親しみを感じ出した。前に軽部を有頂天にさせて秘密を饒舌らせてしまった彼の魅力が私へも次第に乗り移って来始めたのだ。私は屋敷と新聞を分け合って読んでいても共通の話題になると意見がいつも一致して進んでいく。化学の話になっても理解の速度や遅度が拮抗しながら滑めらかに辷すべっていく。政治に関する見識でも社会に対する希望でも同じである。ただ私と彼との相違している所は他人の発明を盗み込もうとする不道徳な行為に関しての見解だけだ。だが、それとて彼には彼の解釈の仕方があって発明方法を盗むということは文化の進歩にとっては別に不道徳なことではないと思っているにちがいない。実際、方法を盗むということは盗まぬ者より良い行為をしているのかもしれぬのだ。現に主人の発明方法を暗室の中で隠かくそうと努力している私と盗もうと努力している屋敷とを比較してみると屋敷の行為の方がそれだけ社会にとっては役立つことをしている結果になっていく。それを思うとそうしてそんな風に私に思わしめて来た屋敷を思うと、なおますます私には屋敷が親しく見え出すのだが、そうかといって私は主人の創始した無定形セレニウムに関する染色方法だけは知らしたくはないのである。それ故絶えず一番屋敷と仲好くなった私が屋敷の邪魔もまた自然に誰より一番し続けているわけにもなっているのだ。

あるとき私は屋敷に自分がここへ這入って来た当時軽部から間者だと疑われて危険な目に逢わされたことを話してみた。すると屋敷はそれなら軽部が自分にそういうことをまだしない所から察すると多分君を疑って懲り懲りしたからであろうと笑いながらいって、しかしそれだから君は僕を早くから疑う習慣をつけたのだと彼は揶揄からかった。それでは君は私から疑われたとそれほど早く気附くからには君も這入って来るなり私から疑われることに対してそれほど警戒する練習が出来ていたわけだと私がいうと、それはそうだと彼はいった。しかし、彼がそれはそうだといったのは自分は方法を盗みに来たのが目的だといったのと同様なのにも拘らず、それをそういう大胆さには私とて驚かざるを得ないのだ。もしかすると彼は私を見抜いていて、彼がそういえば私は驚いてしまって彼を忽ち尊敬するにちがいないと思っているのではないかと思われて、此奴こいつ、と暫く屋敷を見詰めていたのだが、屋敷は屋敷でもう次の表情に移ってしまって上から逆に冠かぶさって来ながら、こんな製作所へこういう風に這入って来るとよく自分たちは腹に一物あっての仕事のように思われ勝ちなものであるが君も勿論知ってのとおりそんなことなんかなかなかわれわれには出来るものではなく、しかし弁解がましいことをいい出してはこれはまた一層おかしくなって困るので仕方がないから人々の思うように思わせて働くばかりだといって、一番困るのは君のように痛くもない所を刺して来る眼つきの人のいることだと私をひやかした。そういわれると私だってもう彼から痛いところを刺されているので彼も丁度いつも今の私のように私から絶えずちくちくやられたのであろうと同情しながら、そういうことをいつもいっていなければならぬ仕事なんかさぞ面白くはなかろうと私がいうと、屋敷は急に雁首を立てたように私を見詰めてからふッふと笑って自分の顔を濁してしまった。それから私はもう屋敷が何を謀たくらんでいようと捨てておいた。多分屋敷ほどの男のことだから他人の家の暗室へ一度這入れば見る必要のある重要なことはすっかり見てしまったにちがいないのだし、見てしまった以上は殺害することも出来ない限り見られ損になるだけでどうしようも追っつくものではないのである。私としてはただ今はこういう優れた男と偶然こんな所で出逢ったということを寧ろ感謝すべきなのであろう。いや、それより私も彼のように出来得る限り主人の愛情を利用して今の中に仕事の秘密を盗み込んでしまう方が良いのであろうとまで思い出した。それで私は彼にあるときもう自分もここに長くいるつもりはないのだがここを出てからどこか良い口はないかと訊ねてみた。すると彼はそれは自分の訊ねたいことだがそんなことまで君と自分とが似ているようでは君だって豪そうなこともいっていられないではないかという。それで私は君がそういうのももっともだがこれは何も君をひっかけてとやこうと君の心理を掘り出すためではなく、却って私は君を尊敬しているのでこれから実は弟子にでもして貰うつもりで頼むのだというと、弟子かと彼は一言いって軽蔑したように苦笑していたが、俄に真面目になると一度私に、周囲が一町四方全く草木の枯れている塩化鉄の工場へ行って見て来るよう万事がそれからだという。何がそれからなのか私には分らないが屋敷が私を見た最初から私を馬鹿にしていた彼の態度の原因がちらりとそこから見えたように思われると、いったいこの男はどこまで私を馬鹿にしていたのか底が見えなくなって来てだんだん彼が無気味になると同時に、それなら屋敷をひとつこちらから軽蔑してかかってやろうとも思い出したのだが、それがなかなか一度彼に魅せられてしまってからはどうも思うように薬がきかなくただ滑稽になるだけで、優れた男の前に出るとこうもこっちが惨めにじりじり修業をさせられるものかと歎かわしくなってくるばかりなのである。ところが、急がしい市役所の仕事が漸く片附きかけた頃のこと、或る日軽部は急に屋敷を仕事場の断裁機の下へ捻じ伏せてしきりに白状せよ白状せよと迫っているのだ。思うに屋敷はこっそり暗室へ這入ったところを軽部に見附けられたのであろうが私が仕事場へ這入っていったときは丁度軽部が押しつけた屋敷の上へ馬乗りになって後頭部を殴りつけているところであった。とうとうやられたなと私は思ったが別に屋敷を助けてやろうという気が起らないばかりではない。日頃尊敬していた男が暴力に逢うとどんな態度をとるものかとまるでユダのような好奇心が湧いて来て冷淡にじっと歪む屋敷の顔を眺めていた。屋敷は床の上へ流れ出したニスの中へ片頬を浸したまま起き上ろうとして慄えているのだが、軽部の膝骨が屋敷の背中を突き伏せる度毎にまた直ぐべたべたと崩れてしまって着物の捲れあがった太った赤裸の両足を不恰好に床の上で藻掻かせているだけなのだ。私は屋敷が軽部に少なからず抵抗しているのを見ると馬鹿馬鹿しくなったがそれより尊敬している男が苦痛のために醜い顔をしているのは心の醜さを表しているのと同様なように思われて不快になって困り出した。私が軽部の暴力を腹立たしく感じたのもつまりはわざわざ他人にそんな醜い顔をさせる無礼さに対してなので、実は軽部の腕力に対してではない。しかし、軽部は相手が醜い顔をしようがしまいがそんなことに頓着しているものではなくますます上から首を締めつけて殴り続けるのである。私はしまいに黙って他人の苦痛を傍で見ているという自身の行為が正当なものかどうかと疑い出したが、そのじっとしている私の位置から少しでも動いてどちらかへ私が荷担をすればなお私の正当さはなくなるようにも思われるのだ。それにしてもあれほど醜い顔をし続けながらまだ白状しない屋敷を思うといったい屋敷は暗室から何か確実に盗みとったのであろうかどうかと思われて、今度は屋敷の混乱している顔面の皺から彼の秘密を読みとることに苦心し始めた。彼は突っ伏しながらも時々私の顔を見るのだが彼と視線を合わす度に私は彼へだんだん勢力を与えるためにやにや軽蔑したように笑ってやると、彼もそれには参ったらしく急に奮然とし始めて軽部を上から転がそうとするのだが軽部の強いということにはどうしようもない、ただ屋敷は奮然とする度に強くどしどし殴られていくだけなのだ。しかし、私から見ていると私に笑われて奮然とするような屋敷がだいいいちもうぼろを見せたので困ったどん詰りというものは人は動けば動くほどぼろを出すものらしく、屋敷を見ながら笑う私もいつの間にかすっかり彼を軽蔑してしまって笑うことも出来なくなったのもつまりは彼が何の役にも立たぬときに動いたからなのだ。それで私は屋敷とて別にわれわれと変った人物でもなく平凡な男だと知ると、軽部にもう殴ることなんかやめて口でいえば足りるではないかといってやると、軽部は私を埋めたときのようにまた屋敷の頭の上から真鍮板の切片をひっ冠せて一蹴り蹴りつけながら、立てという。屋敷は立ち上るとまだ何か軽部にせられるものと思ったのか恐わそうにじりじり後方の壁へ背中をつけて軽部の姿勢を防ぎながら、暗室へ這入ったのは地金の裏のグリューがカセイソーダでは取れなかったらアンモニアを捜しにいったのだと早口にいう。しかし、アンモニアが入用なら何ぜいわぬか、ネームプレート製作所にとって暗室ほど大切な所はないことぐらい誰だって知っているではないかといってまた軽部は殴り出した。私は屋敷の弁解が出鱈目だとは分っていたが殴る軽部の掌の音があまり激しいのでもう殴るのだけはやめるが良いというと、軽部は急に私の方を振り返って、それでは二人は共謀かという。だいたい共謀かどうかこういうことは考えれば分るではないかと私はいおうとしてふと考えると、なるほどこれは共謀だと思われないことはないばかりではなくひょっとすると事実は共謀でなくとも共謀と同じ行為であることに気がついた。全く屋敷に悠々と暗室へなど入れさしておいて主人の仕事の秘密を盗まぬ自身の方が却って悪い行為をしていると思っている私である以上は共謀と同じ行為であるにちがいないので、幾分どきりと胸を刺された思いになりかけたのをわざと図太く構え共謀であろうとなかろうとそれだけ人を殴ればもう十分であろうというと今度は軽部は私にかかって来て、私の顎を突き突きそれでは貴様が屋敷を暗室へ入れたのであろうという。私は最早や軽部がどんなに私を殴ろうとそんなことよりも今まで殴られていた屋敷の眼前で彼の罪を引き受けて殴られてやる方が屋敷にこれを見よというかのようで全く晴れ晴れとして気持ちが良いのだ。しかし私はそうして軽部に殴られているうちに今度は不思議にも軽部と私とが示し合せて彼に殴らせてでもいるようでまるで反対に軽部と私とが共謀して打った芝居みたいに思われだすと、却ってこんなにも殴られて平然としていては屋敷に共謀だと思われはすまいかと懸念され始め、ふと屋敷の方を見ると彼は殴られたものが二人であることに満足したものらしく急に元気になって、君、殴れ、というと同時に軽部の背後から彼の頭を続けさまに殴り出した。すると、私も別に腹は立ててはいないのだが今迄殴られていた痛さのために殴り返す運動が愉快になってぽかぽかと軽部の頭を殴ってみた。軽部は前後から殴り出されると主力を屋敷に向けて彼を蹴りつけようとしたので私は軽部を背後へ引いて邪魔をすると、その暇に屋敷は軽部を押し倒して馬乗りになってまた殴り続けた。私は屋敷のそんなにも元気になったのに驚いたが幾分私が理由もなく殴られたので私が腹を立てて彼と一緒に軽部に向ってかかっていくにちがいないと思ったからであろう。しかし、私はもうそれ以上は軽部に復讐する要もないのでまた黙って殴られている軽部を見ていると軽部は直ぐ苦もなく屋敷をひっくり返して上になって反対に彼を前より一層激しく殴り出した。そうなると屋敷は一番最初と同じことでどうすることも出来ないのだ。だが、軽部は暫く屋敷を殴っていてから私が背後から彼を襲うだろうと思ったのか急に立上ると私に向かって突っかかって来た。軽部と一人同志の殴り合いなら私が負けるに決っているのでまた私は黙って屋敷の起き上って来るまで殴らせてやると、起き上って来た屋敷は不意に軽部を殴らずに私を殴り出した。一人でも困るのに二人一緒に来られては私ももう仕方がないので床の上に倒れたまま二人のするままにさせてやったが、しかし私はさきからそれほどもいったい悪行をして来たのであろうか。私は両腕で頭をかかえてまん丸くなりながら私のしたことが二人から殴られねばならぬそれほども悪いかどうか考えた。なるほど私は事件の起り始めたときから二人にとっては意表外の行為ばかりをし続けていたにちがいない。しかし、私以外の二人も私にとっては意外なことばかりをしたではないか。だいいち私は屋敷から殴られる理由はない。たとえ私が屋敷と一緒に軽部にかからなかったからとはいえ私をもそんなときにかからせてやろうなどと思った屋敷自身が馬鹿なのだ。そう思ってはみても結局二人から、同時に殴られなかったのは屋敷だけで一番殴られるべき責任のある筈の彼が一番うまいことをしたのだから私も彼を一度殴り返すぐらいのことはしても良いのだがとにかくもうそのときはぐったり私たちは疲れていた。実際私たちのこの馬鹿馬鹿しい格闘も原因は屋敷が暗室へ這入ったことからだとはいえ五万枚のネームプレートを短時日の間に仕上げた疲労がより大きな原因になっていたに決まっているのだ。殊に真鍮を腐蝕させるときの塩化鉄の塩素はそれが多量に続いて出れば出るほど神経を疲労させるばかりではなく人間の理性をさえ混乱させてしまうのだ。その癖本能だけはますます身体の中で明瞭に性質を表して来るのだからこのネームプレート製造所で起る事件に腹を立てたりしていてはきりがないのだがそれにしても屋敷に殴られたことだけは相手が屋敷であるだけに私は忘れることは出来ない。私を殴った屋敷は私にどういう態度をとるであろうか、彼の出方でひとつ彼を赤面させてやろうと思っているといつ終ったとも分らずに終った事件の後で屋敷がいうにはどうもあのとき君を殴ったのは悪いと思ったが君をあのとき殴らなければいつまで軽部に自分が殴られるかもしれなかったから事件に終りをつけるために君を殴らせて貰ったのだ、赦してくれという。実際私も気附かなかったのだがあのとき一番悪くない私が二人から殴られなかったなら事件はまだまだ続いていたにちがいないのだ。それでは私はまだ矢っ張りこんなときにも屋敷の盗みを守っていたのかと思って苦笑するより仕方がなくなりせっかく屋敷を赤面させてやろうと思っていた楽しみも失ってしまってますます屋敷の優れた智謀に驚かされるばかりとなったので、私も忌々しくなって来て屋敷にそんなにうまく君が私を使ったからには暗室の方も定めしうまくいったのであろうというと、彼は彼で手馴れたもので君までそんなことをいうようでは軽部が私を殴るのだって当然だ、軽部に火を点けたのは君ではないのかといって笑ってのけるのだ。なるほどそういわれれば軽部に火を点けたのは私だと思われたって弁解の仕様もないのでこれはひょっとすると屋敷が私を殴ったのも私と軽部が共謀したからだと思ったのではなかろうかとも思われ出し、いったい本当はどちらがどんな風に私を思っているのかますます私には分らなくなり出した。しかし事実がそんなに不明瞭な中で屋敷も軽部も二人ながらそれぞれ私を疑っているということだけは明瞭なのだ。だがこの私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである。そうして私達は互に疑い合いながらも翌日になれば全部の仕事が出来上って楽々となることを予想し、その仕上げた賃金を貰うことの楽しみのためにもう疲労も争いも忘れてその日の仕事を終えてしまうと、いよいよ翌日となってまた誰もが全く予想しなかった新しい出来事に逢わねばならなかった。それは主人が私たちの仕上げた製作品とひき換えに受け取って来た金額全部を帰りの途に落してしまったことである。全く私たちの夜の目もろくろく眠らずにした労力は何の役にも立たなくなったのだ。しかも金を受け取りにいった主人と一緒に私をこの家へ紹介してくれた主人の姉があらかじめ主人が金を落すであろうと予想してついていったというのだから、このことだけは予想に違わず事件は進行していたのにちがいないが、ふと久し振りに大金を儲けた楽しさからたとえ一瞬の間でも良い儲けた金額を持ってみたいと主人がいったのでつい油断をして同情してしまい、主人に暫くの間その金を持たしたのだという。その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。勿論落した金額がもう一度出て来るなどと思っている者はいないから警察へ届けはしたものの一家はもう青ざめ切ってしまって言葉などいうものは誰もなく、私たちは私たちで賃金も貰うことが出来ないのだから一時に疲れが出て来て仕事場に寝そべったまま動こうともしないのだ。軽部は手当り次第に乾板をぶち砕いて投げつけると急に私に向って何ぜお前はにやにやしているのかと突きかかって来た。私は別ににやにやしていたと思わないのだがそれがそんなに軽部に見えたのなら或いは笑っていたのかしれない。確にあんまり主人の頭は奇怪だからだ。それは塩化鉄の長年の作用の結果なのかもしれないと思ってみても頭の欠陥ほど恐るべきものはないではないか。そうしてその主人の欠陥がまた私たちをひき附けていて怒ることも出来ない原因になっているということはこれは何という珍稀な構造の廻り方なのであろう。しかし、私はそんなことを軽部に聞かせてやっても仕方がないので黙っていると突然私を睨みつけていた軽部が手を打って、よしッ酒を飲もうといい出すと立ち上った。丁度それは軽部がいわなくても私たちの中の誰かがもう直ぐいい出さねばならない瞬間に偶然軽部がいっただけなので、何の不自然さもなく直ぐすらすらと私たちの気分は酒の方へ向っていったのだ。実際そういう時には若者達は酒でも飲むより仕方のないときなのだがそれがこの酒のために屋敷の生命までが亡くなろうとは屋敷だって思わなかったにちがいない。

その夜私たち三人は仕事場でそのまま車座になって十二時過ぎまで飲み続けたのだが、眼が醒めると三人の中の屋敷が重クロム酸アンモニアの残った溶液を水と間違えて土瓶の口から飲んで死んでいたのである。私は彼をこの家へ送った製作所の者達がいうように軽部が屋敷を殺したのだとは今でも思わない。勿論私が屋敷の飲んだ重クロム酸アンモニアを使用するべきグリュー引きの部分にその日も働いていたとはいえ、彼に酒を飲ましたのが私でない以上は私よりも一応軽部の方がより多く疑われるのは当然であるが、それにしても軽部が故意に酒を飲ましてまで屋敷を殺そうなどと深い謀みの起ろうほど前から私たちは酒を飲みたくなっていたのではないのである。酒を飲みたくなったときより私が重クロム酸アンモニアを造っておいた時間の方が前なのだから疑い得られるとすると私なのにも拘らず、それが軽部が疑われたというのも軽部の先ずひと目で誰からも暴力を好むことを見破られる逞しい相貌から来ているのであろう。しかし、私とても勿論軽部が全然屋敷を殺したのではないと断言するのではない。私の知り得られる程度のことは彼が屋敷を殺したのではないといい得られるほどのことであるより仕方がないのだ。もともと軽部は屋敷が暗室へ忍び込んだのを見ているからは、彼を殺害する以外に彼に秘密を知られぬ方法はないと一度は私のように思ったであろうから。そうして私が屋敷を殺害するのなら酒を飲ましておいてその上重クロム酸アンモニアを飲ますより仕方がないと思ったことさえあることから考えても、彼もそのように一度は思ったにちがいないであろうから。だが、酒に酔っていたのは私と屋敷だけではなくて軽部とて同様に酔っていたのだから彼がその劇薬を屋敷に飲まそうなどとしたのではないであろう。よしたとえ日頃考えていたことが無意識に酔の中に働いて彼が屋敷に重クロム酸アンモニアを飲ましたのだとするならそれなら或いは屋敷にそれを飲ましたのは同様な理由によって私かもしれないのだ。いや、全く私とて彼を殺さなかったとどうして断言することが出来るであろう。軽部より誰よりもいつも一番屋敷を恐れたものは私ではなかったか。日夜彼のいる限り彼の暗室へ忍び込むのを一番注意して眺めていたのは私ではなかったか。いやそれより私の発見しつつある蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物に関する方程式を盗まれたと思い込みいつも一番激しく彼を怨んでいたのは私ではなかったか。そうだ。もしかすると屋敷を殺害したのは私かもしれぬのだ。私は重クロム酸アンモニアの置き場を一番良く心得ていたのである。私は酔いの廻らぬまでは屋敷が明日からどこへいってどんなことをするのか彼の自由になってからの行動ばかりが気になってならなかったのである。しかも彼を生かしておいて損をするのは軽部よりも私ではなかったか。いや、もう私の頭もいつの間にか主人の頭のように早や塩化鉄に侵されてしまっているのではなかろうか。私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖せんせんがじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

底本 / Source edition

底本:「定本 横光利一全集 第三卷」河出書房新社
1981(昭和56)年9月30日初版発行
底本の親本:「機械」白水社
1931(昭和6)年4月10日
初出:「改造 第十二卷第九號」
1930(昭和5)年9月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、次の書き換えを行いました。
「云う→いう 此の→この 然も→しかも 了う→しまう 此処→ここ 尤も→もっとも 又→また 是→これ」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
※「人人」など漢字の繰り返しは、漢字繰り返し記号を用いて「人々」などと書き換えました。
入力:佐藤和人
校正:かとうかおり
1998年8月13日公開
2014年8月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/000907_000168/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/000907_000168/

横光 利一「機械」(新字新仮名)、底本『定本 横光利一全集 第三卷』河出書房新社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000907_000168, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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