一

初秋の夜で、<ruby><rb>雌</rb><rt>めす</rt></ruby>のスイトが<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>敷居</rb><rt>しきい</rt></ruby>の溝の中でゆるく触角を動かしていた。針仕事をしている母の前で<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>にもたれている子は頭をだんだんと垂れた。<ruby><rb>鉄壜</rb><rt>てつびん</rt></ruby>の手に触れかかると半分眼を開けて急いで頭を上げた。

「もうお寝。」

母は<ruby><rb>縫目</rb><rt>ぬいめ</rt></ruby>をくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>の<ruby><rb>取手</rb><rt>とって</rt></ruby>を指で廻し始めた。母はまたいった。

「明日また遅れると先生に叱られるえ。」

子はやはり黙っていた。そして長らくして、

「<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>たいわア。」といった。

「そうやでお<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>っていうのやないの。」

「いやや。」

「お<ruby><rb>可</rb><rt>か</rt></ruby>しい子やな、<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>ようお眠んかいな。」

子は立上って母の肩の上へ負われるようにのしかかると、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>にしていたが、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に両足で畳を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>り飛び上った。母は前へ<ruby><rb>蹲</rb><rt>かが</rt></ruby>むようにして「重たいがな、これ、針でつくえ。」肩の子を見向きながらいった。子は再び静になった。

「ええ、お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さん、眠たいわア。」

「そやでお眠たらええやないか、重たい重たい。」

子は「いやーや」というと母の肩から<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りて<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上へ顔を埋めた。

「あぶないがな、針が<ruby><rb>刺</rb><rt>ささ</rt></ruby>っているやないか。」

母は膝の上の<ruby><rb>布切</rb><rt>きれ</rt></ruby>を前の方へ押しやった。子の頭の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>から<ruby><rb>首条</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>へかけて片手で<ruby><rb>撫手下</rb><rt>なでお</rt></ruby>ろしながら低い声で、

「ほんとにもうお寝、え。」といった。

「お母さんも寝ないや。」

「人が笑うわ、九つもなってるくせに一人で寝んなんて。」そして母は<ruby><rb>些</rb><rt>ち</rt></ruby>っと黙っていたが、「お前の頭はほんとうにええ格好や。」と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ<ruby><rb>高声</rb><rt>たかごえ</rt></ruby>が聞えて来た。子は夕暮前に、<ruby><rb>井戸傍</rb><rt>いどばた</rt></ruby>で隣家の主人が<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>をつぶしていたのを眼に浮べた。

「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。

「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の開く音がすると、縁側の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ近所の<ruby><rb>兼助</rb><rt>かねすけ</rt></ruby>という男が赤い顔をして立っていた。

「お<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>さん、<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごっそ</rt></ruby>だすぜ、さアお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。

母は<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>って「え、大きに。」といった。

「さア、早ようやなけりゃ<ruby><rb>駄目</rb><rt>いけ</rt></ruby>まへんぜ。」

「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。

「何アに、<ruby><rb>米</rb><rt>よね</rt></ruby>さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、<ruby><rb>独人</rb><rt>ひと</rt></ruby>り寝てるわのう。」と男は顔を少し突き出した。

子は男から顔をそむけて黙って母の顔を見上げた。

「お前ひとり寝てる？」と母は<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

子は顔を横に振った。

「あんなにいうておくれはるのやで、お前ひとり寝てな、え、<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>きにお母さんが帰って来るで。」

「<ruby><rb>好</rb><rt>え</rt></ruby>えさ好えさ、<ruby><rb>赤子</rb><rt>あかご</rt></ruby>じゃあるまいし。」そういうと男は「どっこいしょ。」と背後へ<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>がないわ。」と呟いた。

「下駄のような物<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るものか。」

と男はいうと彼女の手首を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「<ruby><rb>険</rb><rt>あぶな</rt></ruby>い険い。」と笑い声でいった。

子は縁側へ走り<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>って<ruby><rb>戸袋</rb><rt>とぶくろ</rt></ruby>からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。

「丁度好えぞ、兼さん。」

赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして<ruby><rb>淡笑</rb><rt>うすわら</rt></ruby>いをした。

子は<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。

暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。母が兼の横に坐って<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方を長らく見ていた。母は銚子を持ったまま何か話している主人の顔を見続けていた。そして<ruby><rb>時々顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を動かした。しかし<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までたっても子の方を向かなかった。

子は悲しくなった。で、顔を戸袋からひっこめて「お母さん。」と呼んだ。

「はいはい。」

そう母はいった。ほど<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て母が何かいって帰ってくるらしいけはいがしたので子は<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の傍へ走り込んだ。

母は眼の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>を少し赤くして帰って来ると、

「まだ眠てやないの。」と微笑っていった。子は黙って母の手を引張って<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いた。

「さアもう寝な。また明日学校が遅れるえ。」

子は口を<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がらせて母の手の指を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>んだ。母は「痛ッ」といって手を引っこめた、そして<ruby><rb>些</rb><rt>ちょ</rt></ruby>っと<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>を眺めてから「まアこの子ったら。」といった。子は黙って母を<ruby><rb>睥</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいた。そして、「お母さんの<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>。」というと母の手を掴んでもう一度咬もうとした。母は子の背中を押すようにして「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>をかたづけたら直ぐ寝るでなお前は<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へ寝てなえ、ほんとにお前は賢いえ。」そういうと子を寝床の方へ連れて行った。

二

その日は<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>の先生の<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>から村へ廻って来るのが遅れていた。

米の母は、六年前にアメリカヘ行った<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>から病気という<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せを受けとって以来半年余り送金が絶えているにもかかわらず、まだ刺繍を習っているということについて、親戚側からとやかくいわれた。しかし彼女は、少々の金を<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>してもこれさえ覚えておけばまさかの時に役立つといって習い続けた。

刺繍の先生は遠い市から月に一回<ruby><rb>欠</rb><rt>かか</rt></ruby>さず村へ廻って来た。米の村では母だけが刺繍を習っていた。これを習う最初にあたって先ず、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でも、その習う期間は先生を自分の家に宿泊させる約束をしなければならなかった。米の家でもその約束を守っていた。初めのほどは、十五になった米の姉と母とが習っていた。しかし、父から送金が絶えると共に母は娘を看護婦の<ruby><rb>見習生</rb><rt>みならいせい</rt></ruby>として市へやって自分独り習い続けることにした。

米はその時から自分の家が非常に貧しくなったのだと知った。しかし、何処が前よりも貧しくなったのかは分らなかった。また、ただ、姉が彼と一緒の家にいないという事以外に生活の様子は前とは少しも変っていなかった。

米は姉に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いたいと思った。殊に二人が<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>した時のことを想い出すと<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らなく逢いたくなった。しかし彼は姉へ手紙を出す時、かばんと<ruby><rb>小刀</rb><rt>こがたな</rt></ruby>とを帰りに買って来てくれとは必ず忘れずにいつも書いたが、逢いたくてならぬとか、早く帰ってくれとかは決して書かなかった。というのは、自分の愛情を現すことを<ruby><rb>羞</rb><rt>はずか</rt></ruby>しく思いもしたし、また、そのことを母に見られるのをきまり悪く思ったからでもあった。

三

学枚の門を出る時、米は白墨を拾った。帰る<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>、彼は何処か<ruby><rb>楽書</rb><rt>らくがき</rt></ruby>をするに都合の好さそうな処をと捜しながら歩いた。<ruby><rb>土蔵</rb><rt>どぞう</rt></ruby>の墨壁は一番魅力を持っていた。けれども余り<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な壁であると<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>ほどの線を引いて満足しておいた。

村端まで来て、道の片側に沿って流れている小川にかかった<ruby><rb>御陰石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の橋を見た時、米は此処が最も楽書するのに適していると思った。そして最初に<ruby><rb>滑</rb><rt>なめら</rt></ruby>かそうな処を<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>んで本という字を懸命に書いてみた。<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>は<ruby><rb>拭物</rb><rt>ふきもの</rt></ruby>の代りをした。彼は短い白墨が<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>って来ると<ruby><rb>上目</rb><rt>うわめ</rt></ruby>をつかって、暫く空を見ていてから

「カネサント、オカサントユウベ」

と書いた。彼はその次を書かなかった。なぜかというと昨夜眼を<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>した時、真暗な自分の横で母と男とが低い声で話していたのはもしかしたなら夢であったのかもしれぬと思ったから。しかし、男の堅い手がそっと自分の手を強く<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて直ぐひっこめたのは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に夢ではなかったと思った。そして、彼はそれ以外に何も記憶になかった。

彼は立ち上って石橋の上から去ろうとした、が、十歩ほど行くと後へ戻って橋の上の字を草履で消した。そしてもう一度書いてみたけれどもやはり消した。後はぶらぶら歩き出すと急に走り出した。走り出ると<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>って白墨を高く頭の上へ投げて<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>した。そしてまたぶらぶら五、六歩あるくと走り出した。

村へは入った処で<ruby><rb>染物屋</rb><rt>そめものや</rt></ruby>があった。米はそこの<ruby><rb>雨垂落</rb><rt>あまだれおち</rt></ruby>に溜っている美しい砂を見ると<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>み<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでそれを両手で<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>ってはばらばら落してみた。<ruby><rb>終</rb><rt>つ</rt></ruby>いには両足を投げ出した。そして、大きな砂粒をかき<ruby><rb>去</rb><rt>の</rt></ruby>けると人差指でオカサンハ、と書いた。もう昨夜の事は夢だとは思えなかった。急に母を<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけたくなった。その時彼は砂の中に透明な桃色をしたゴマの砂粒を見付けた、彼はそれを手の平で<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてよく眺めていると何か貴い石にちがいないと思った。

「<ruby><rb>金剛石</rb><rt>ダイヤモンド</rt></ruby>や！」

フと彼はそう思うとほんとうの金剛石のような気がした。するといよいよ金剛石だと思われた。彼はそれをすかして見てからもとあった砂の上へ置いてみた。しかし、暫く<ruby><rb>見詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていると<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の砂と入り交って分らなくなりそうになったので<ruby><rb>直</rb><rt>いそ</rt></ruby>いでまた取り上げた。眼が些っと痛かった。

彼はだんだん嬉しくなって来た。小刀が買える、カバンが買える、とそう思った。が、直ぐその後に姉のことを思い浮べると、小刀もカバンも飛び去って、ただこの金剛石を持っているということばかりで姉が家へ帰って来られるような気がして来た。もうじっとしていられなかった。

そこへ米より三つ上の<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>という子が帰って来た。

「金剛石やぞ、これ。」

米は些っと砂粒を差し出すと直ぐ背後へ廻した。

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>いえ。」と辰はいった。

米は金剛石を見せずにはいられなかった。

辰はその砂粒を取ると暫く眺めていて

「こんな金剛石あるか。」

といった。そして、不意に半分手を差し出している米の傍から、<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>した。米は、三、四<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>後を追いかけたが急に<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な顔をして走り止まると大声で泣いた。

辰は米を見返って溝の中へ捨てる真似をして<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>の材木の上へ金剛石を乗せて、赤目を一度してそのまま帰った。

米は辰の姿が見えなくなると<ruby><rb>徐々</rb><rt>そろそろ</rt></ruby>材木の方へ歩いて行った。金剛石は材木の浅い割目の中で二重に見えていた。彼はそれを<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上へ乗せると笑えて来た。

家へ帰ると彼は中へは入らずに直ぐ裏へ廻って、流し元の水を受ける<ruby><rb>槽</rb><rt>おけ</rt></ruby>を埋めた<ruby><rb>水溜</rb><rt>みずため</rt></ruby>の縁の湿っぽい土の中へ金剛石を浅く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いけ</span>た。そこには<ruby><rb>葉蘭</rb><rt>はらん</rt></ruby>が沢山<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えていたので、その一本の茎を中心に小さい円を描いておいた。彼は、こうしておけば直きに金剛石が大きくなるにちがいないと思われた。それに此処は水をやらなくてもいいと思った。

四

その夕方、米は昨日見付けた<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の<ruby><rb>根株</rb><rt>ねかぶ</rt></ruby>の蜂の巣を遂に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>して帰って来た。そこへ母が奥から出て来て魚屋の通帳を彼に渡して牛肉の<ruby><rb>鑵詰</rb><rt>かんづめ</rt></ruby>を買って来いと命じた。米は母の顔が少し赤いと思った。そして外へ出る時庭に<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れない綺麗な下駄を一足見付けた。彼は畳のような下駄だと思って<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>こうとすると、母は「これ。」と顎を引いた。

米の家と魚屋とは親戚であったし、馴れていた。それでそこの魚屋の主人は米は障子を開ける前に、きっと<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>常日</rb><rt>いつ</rt></ruby>ものように笑っているだろうと思って覗いて見たが、<ruby><rb>独人</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで恐い顔をして庭の同じ処を見詰めていた。米は今日は膝の上へ乗れないと思ったが、障子を開けると直ぐ叔父はニコニコした。

「鑵詰、牛肉のや今日は。」

米がそういうと叔父は笑いながら立って鑵詰棚へ手を延ばして「どうしたのや、先生が来たんやな。」といった。

米は家の庭にあった畳のような下駄は刺繍の先生のだなと思った。「どうや知らん。」と答えた。

叔父は鑵詰の口を開けながら<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ入れてやろうかといった。米は「やめや。」といった。すると叔父は突然、「どうや米、お前先生とお<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>つァんとどっちが好きや、うん。」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「知らんわい。」

米は<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>きになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻の<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>ぜ黒いのだろうと考えた。

「知らん、阿呆なこといえ、お父つァんはもう嫁さん<ruby><rb>貰</rb><rt>もろ</rt></ruby>うてござるぞ、どうする、ん？」と叔父は覗き込んだ。

米は腹を波形に動かして「ちがうわい、ちがうわい。」といった。しかし叔父のいう事は真実のように思われて、もう父は帰って来ないような気がして来た。母とさえ一緒にいる事が出来れば父の帰って来る来ないはそう心にかからなかった。すると、黙って叔父の手の皮膚を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>まみ<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げていた彼は急に母が昨夜男と寝た事を自分が知っているのを気使って自分の留守に死んでいはすまいかと思われた。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に涙が出て来た。で、草履を<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててはいて黙って帰ろうとすると、叔父は「何んじゃ米。」といった。けれど彼はやはり黙って表へ出ると馳け出した。

家へ帰った時母は鑵詰を米から受け取って「お前まアこの間<ruby><rb>着返</rb><rt>きが</rt></ruby>えた着物やないか。」

と<ruby><rb>睥</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。彼の着物の胸から腹へかけて鑵詰の汁が<ruby><rb>飛白</rb><rt>かすり</rt></ruby>の白い部分を汚していた。

母が自分を見たなら抱いてくれるとばかり思っていた米は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>ぜだか急に他家の母の傍にいるような気がした。そして、身体をあちこちに廻しながら物を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>蹂</rb><rt>にじ</rt></ruby>るような格好をして母を見い見い外へ出て行こうとした。「<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>いは？」と母が訊いた。米は忘れて来たのを知ったが悲しくなって来たので黙って表へ出た。しかし、直ぐ金剛石のことを思い出すと裏へ廻って行って、<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>の迫った<ruby><rb>葉蘭</rb><rt>はらん</rt></ruby>の傍へ<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って、昼間描いておいた小さい円の上を指で<ruby><rb>些</rb><rt>ち</rt></ruby>っと<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えてみた。すると、間もなく、姉が帰って来て、家の者らがちりちりに生活しなくてもいいようになると思われた。しかし金剛石ではないと思うと金剛石ではないような気がして淋しくなった。

外が<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>になってから家の中へ入った。やはり来ていたのは刺繍の先生であった。米のその夜の<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の様は常日とは変っていた。<ruby><rb>餉台</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>は奥の間へ持って行かれたし、母が先生の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へつききりなので彼は台所の畳の上で<ruby><rb>独人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>あてがわれた<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>やっこい方の御飯をよそって食べ始めた。初めの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>は牛肉を食べたかったので、母が持って来てくれるまでに御飯を食べてしまわないようと少しずつ遅くかかって食べ出したが、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にかお腹が<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れて来た。

彼が食べ終った頃、母が奥から米の傍へ皿を取りに出て来た。

「お<ruby><rb>漬物</rb><rt>ここ</rt></ruby>は。」と米は<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うむ？　うむ。」と母はいった。

「お<ruby><rb>漬物何処</rb><rt>ここどこ</rt></ruby>、お母さん。」と少し米が大きな声を出すと母は「はいはい、今あげますよ。」といって奥へ行った。しかし幾ら待っても母は出て来なかった。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に米はもう<ruby><rb>漬物</rb><rt>つけもの</rt></ruby>の事を忘れてしまって<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>のさきを濡らしては板の間へせっせと兵隊の画を描き初めた。どうしてこう幾度画いても<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>が小さくなるのだろうと苦しんだ。

奥から餉台や汚れた食器が台所へ帰って来た。鑵詰の牛肉はもう皿の上から消えていた。米は牛肉をどうしたかと母に訊ねたかったが、そのことを奥の客に聞かれては<ruby><rb>羞</rb><rt>はずか</rt></ruby>しいと思った。そして、間もなく母は再び客に奪われた。

米はあきらめて黙って<ruby><rb>紙石盤</rb><rt>かみせきばん</rt></ruby>を出して来ると<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになって画をかき始めた。一頁に一つずつ先ず前の軍人から始めて二枚目に<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>を落している馬を描いた。しかし、馬の尾を高く上げていいかどうかと迷わされた。そして、結局、細い勢の好い滝のような曲った尾を付けて納得した。次には姉の顔を画いた。<ruby><rb>下頬</rb><rt>したほお</rt></ruby>の膨らんだ円い<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>を幾度も画き直してから眼鼻をつけて最後に鼻柱の真中へ<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>を一つ打った。そうして出来上った<ruby><rb>南瓜</rb><rt>かぼちゃ</rt></ruby>のような顔の横へ「ネーサンノカオ」と書いておいた。その顔を眺めていると、姉の黒子は黒いが画の方は白いと気が付いた。そして、それを黒くすると姉の顔に一層似つかわしくなるであろうと考えたけれどどうすれば黒くなるかという方法が分らなかったのでそのままにしておいた。

九時が打つともう米は眠たくなった。奥から母の笑い声が聞えて来た。いつも奥で寝ている彼は、今夜は何処で寝て好いのか知らなかった。すると、また、昨夜眼を醒した時の母と男との<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きを思い出した。そして、学校の帰り道に石橋の上へ書いた<ruby><rb>楽書</rb><rt>らくがき</rt></ruby>を消したかどうかと気がかりになって来た。それは消したようでもあるし消さないようにも思われた。

母が奥から出て来たとき、

「何処で寝るの。」

と米は訊いた。

「アそうそ、お前もう眠な。」

母はそういうと直ぐ奥へ引き返して行った。そして奥の間で「<ruby><rb>些</rb><rt>ち</rt></ruby>っと失礼します。」といって<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を米の横へ持って出て来てから、楕円形の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>に火を<ruby><rb>照</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>は四<ruby><rb>寸</rb><rt>すん</rt></ruby>ほどもあった。

「お前提灯持って二階へお上り。」

と母はいった。子が階段を昇ると母はその後から蒲団を<ruby><rb>擁</rb><rt>かか</rt></ruby>えて昇った。

母が蒲団を敷いている間、子は<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が消えないように提灯をさげていた。「お母さんも寝な<ruby><rb>恐</rb><rt>こ</rt></ruby>わい。」と子はいった。

「直ぐ来るえ。<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>っきや。」と母はいった。子はそれきり何ともいわなかった。母は<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>の中頃まで降りると「寝る時灯を消しな、え。」といった。子は「うん。」といって灯のついたままの提灯を畳んで枕もとに置いてから、母について降りた。そして鉢へ<ruby><rb>冷</rb><rt>さ</rt></ruby>めた<ruby><rb>鉄壜</rb><rt>てつびん</rt></ruby>の湯をいっぱい<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、それを再び二階へ持って来て枕元の提灯の傍へおいた。寝巻を<ruby><rb>着返</rb><rt>きが</rt></ruby>えて蒲団の中へは入ると子は<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>せになって、川の水でも飲むような格好で一口鉢の湯を呑んだ。それから、母と自分との蒲団の領分を<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めようと思って母の<ruby><rb>木枕</rb><rt>きまくら</rt></ruby>を捜したが見あたらなかった。で、身体を蒲団の片方へよせてまた鉢の湯を一口呑んだ。そして彼は<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を枕にあてると母の笑い声が下から聞えて来た。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>母は寝に来るのかしらと思ったが母の来るまで楽しみに一口ずつ長らくかかって鉢の湯を減らそうと心に決めた。湯は三口目に一<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ほど減った。しかし四口目の頭は何時までたっても枕の上から上らなかった。

その夜の一時過ぎに子は眼が醒めた。すると、寝巻を着た母が蒲団の上に坐って彼をしっかりと抱いているのを知った。母の背後にはランプを持った刺繍の先生が黙って立っていた。あたりに煙が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていた。そして、真黒に焼けて輪をはじけさせている提灯を中心に、枕元の畳の焦げた黒い部分が子の寝ていた枕の直ぐ傍で<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がって来ていた。鉢は焼け残った子の着物の上にひっくり返っていた。子は<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>りかけた眼で焦げた畳を眺めていた。そして首を些っと横に振ると、母の<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がっている<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>もとへ顔を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>りつけるようにしてかすれた声で

「早よう眠よう。」

といってまた眼を閉じた。母は黙っていた。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に彼女の眼が<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>んで来た。

「ランプはもう<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りませんか。」

と先生がいった。母はやはり黙って少し前へ身体を動かした。

先生も黙って下へ降りて行った。<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中が暗くなると、母は子を一層強くだいた。そして長らくして、

「虫が<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせたのやわ。」

と小さい声で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。子はもういびきを立てていた。