Soranoha

聴雨

ちょうう

織田 作之助

午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首えりくびが急に寒い。雨戸を閉しめに立つと、池の面がやや鳥肌立つて、冬の雨であつた。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手ふところでのまま、すこし反そり身みになつてゐると、

「火鉢にあたるやうな暢気のんきな対局やおまへん。」といふ詞ことばをふと私は想ひ出し、にはかに坂田三吉のことがなつかしくなつて来た。

昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。

全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ如何いかやうに天下無敵を豪語しても構はないやうなものの、けれど現に将棋家元の大橋宗家そうけから名人位を授けられてゐる関根といふ歴れつきとした名人がありながら、もうひとり横合ひから名人を名乗る者が出るといふのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社といふ背景があつてみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきはめて、その挙句あげく坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問はず、一切の対局から遠ざかつてしまつた。人にも会はうとしなかつた。

彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは遂つひに見ることが出来なくなつた。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くといふ奇想天外の手を指したことがある。果し合ひの最中に草鞋わらぢの紐を結ぶやうな手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々ふてぶてしい男かと呆あきれるくらゐの、大胆不敵な乱暴さであつた。棋界は殆んど驚倒した。一事が万事、坂田の対局には大なり小なりこのやうな大向おほむかふを唸うならせる奇手が現はれた。その彼が急に永い沈黙を守つてしまつたのである。功成り遂とげてからといふならまだしも、坂田将棋の真価を発揮するのはこれからといふ時であつた。大衆はさびしがつた。

けれど、坂田の沈黙によつて、棋界がさびれた訳ではない。木村・金子たち新進が擡頭し、花田が寄せの花田の名にふさはしいあつと息を呑むやうな見事な終盤を見せだした。定跡ぢやうせきの研究が進み、花田・金子たちは近代将棋といふ新しい将棋の型をほぼ完成した。さうして、棋界が漸やうやく賑にぎはつたところへ、関根名人が名人位引退を宣言した。名人一代の制度が廃止されて、名人位獲得のリーグ戦が全八段によつて開始された。大阪からは木見八段が参加した。神田八段も中途から加はつた。が、ただひとり坂田は沈黙してゐる。坂田の実力はやがて棋界の謎となつてしまつた。隆盛期の棋界に、そこだけがぽつんとあいた穴のやうな感じであつた。

この穴を埋めることは、棋界に残された唯一の、と言はないまでも、かなり興味深い大きな問題である。自然大新聞社は殆んど一ツ残らず、坂田の対局を復活させようと、さまざまに交渉した。新聞社同志の虚々実々の駆引かけひきは勿論である。けれど、坂田と東京方棋士乃至将棋大成会との間にわだかまる感情問題、面目問題はかなりに深刻である。大成会内部の意見を纏まとめるのさへ、容易ではなかつた。おまけに肝腎の坂田自身がお話にならぬ難物であつた。

たいていの新聞社はこの坂田の口説くどき落としだけで参つてしまつたのだ。

「銀が泣いてゐる。」といふ人である。――ああ、悪い銀を打ちました、進むに進めず、引くに引かれず、ああ、ほんまにえらい所へ打たれてしもたと銀が泣いてゐる。銀が坂田の心になつて泣いてゐるといふのだ。坂田にとつては、駒の一つ一つが自分の心であつた。さうして、将棋盤のほかには心の場所がないのだ。盤が人生のすべてであつた。将棋のほかには何物もなく、何物も考へられない人であつた。無学で、新聞も読めない、交際も出来ない。それ故、世間並の常識で向つても、駄目であつた。対局の交渉を受けて、

「そんならひとつ盤に相談しときまひよ。」といふ詞は伊達だてではない。それを聴いては、もうどんな道理を持つて行つても空むなしかつた。交渉に行つた記者はかんかんになつて引き下つた。

名人気質などといふ形容では生ぬるい。将棋のほかには常識も理論もない人、――といふだけでも相当難物だが、しかもその将棋たるや、第一手に角頭の歩をつくといふ常識外れの、理論を無視したところが身上の人である。あれやこれやで、十六年間あらゆる新聞社が彼を引きださうとして失敗したのも、無理はなかつた。それを、読売新聞社が十個年間、春秋二回づつ根気よく攻め続けて、到頭口説き落したのである。

十六年振りの対局といふだけでも、はや催し物としての価値は十分である。おまけに相手は当代の花形棋士、木村・花田両八段である。この二人は現に続行中の名人位獲得戦で第一、二位の成績ををさめ、名人位は十中八九この二人の間で争はれるだらうといふ情勢であつた。もし、この二人が坂田に敗れるとすれば、折角争ひ獲とつた名人位も有名無実なものとなつてしまふだらう。つまりは、坂田対両八段の対局は名人位の鼎かなへの軽重を問ふものであつた。花田・木村としては負けるに負けられぬところであつた。一方、坂田にしても、十六年間の沈黙を破つて、いはゆる坂田将棋の真価をはじめて世に問ふ対局である。東京方への意地もあらう。一生一代の棋戦と言つても、あながちに主催新聞社の宣伝ばかりではなかつた。

「十六年間、一切の対局から遠ざかつてましたけど、その間一日として研究をせん日はおまへなんだ。ま、坂田の将棋を見とくなはれ。」と戦前豪語した手前でも負けられぬ将棋である。六十八歳の老人とは思へぬこの強い詞は、無論勝つ自信をほのめかした詞であらう。が、ひとつにはそれは、木村・花田を選手とする近代将棋に対して、坂田がいかに奇想天外の将棋を見せるか、見とくなはれといふ意味も含んでゐた。大衆はこの詞に唸つた。

ともかく、昭和の大棋戦であつた。持時間からして各自三十時間づつ、七日間で指し終るといふ物々しさである。名人位獲得戦でさへも、持時間は十三時間づつ、二日で勝負をつけてゐる。対局場も一番勝負二局のうち、最初の一局の対木村戦は、とくに京都南禅寺の書院がえらばれて、戦前下見をした坂田が、

「勿体もつたいないこつちや、勿体ないこつちや、これも将棋を指すおかげだす。」と言つたといふくらゐ、総檜木ひのき作りの木の香かも新しい立派な場所であつた。

けれども、私も京都に永らく居たゆゑ知つてゐるが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えといふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚たかれ、なほ左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個づつ用意された。

それを、六十八歳の坂田は、

「火鉢にあたるやうな暢気のんきな対局やおまへん。」と言つて、しりぞけたのである。このことを私は想ひ出したのだ。何故とくに想ひだしたのだらうか。

木村には附添ひはなかつたが、坂田には玉江といふ令嬢が介添役として大阪から同行して来てゐた。妻に死なれたあとずつとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やつて来たといふひとである。対局中の七日間、両棋士はずつと南禅寺に罐詰めといふ約束であつた。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁とつぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあつた。

「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛つろうてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考へがあつて、来て貰もろたんやぜ。わいはお前らの父親や言ふもんの、何ひとつ残してやる財産いふもんがない。せめて、お父つあんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたつた一つの遺産やさかい……」

一手六時間といふまるで乾いた雑巾ざふきんから血を絞り出すやうな、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になつてしまつたといふ玉江に、坂田はこんな風に言つた。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかつたのではなからうか。細君の代りにせめて娘にでもと思つたのではなからうか。

それと言ふのも、昔は現在と違つて、棋士の生活は恵まれてゐない。ことに修業中は随分坂田は妻子に苦労を掛けた。明治三年堺市外舳松村の百姓の長男として生れ、十三歳より将棋に志し、明治三十九年には関根八段より五段を許されて漸く一人前の棋士になつたが、それまでの永い歳月、いや、その頃でさへ、坂田には食ふや呑まずの暮しが続いてゐたのである。自分は将棋さへ指して居れば、食ふ物がなうても、ま、極楽やけれど、細君や子供たちはさうはいかず、しよつちゆう泣き言を聞かされた。その都度たんびに、

「わいは将棋やめてしもたら、生きてる甲斐かひがない。将棋さすのんがそのくらゐ気に入らなんだら、出て行つたらええやろ。どうせ困るちふことは初めから判つてるこつちや。そやから、子供が一人の時、今のうちに出て行けと、あれほど言うたやないか。」と言つて叱りつけてゐたが、ある夜掃つて見ると、誰もゐない。家の中ががらんと洞ほこらのやうに、しーんとして真暗だ。をかしいなと思ひ、お櫃ひつの蓋を取つて見ると、中は空つぽだつた。鍋の中を覗のぞくと、水ばかりじやぶじやぶしてゐる。急にはつといやな予感がした。暗がりの中で腑抜ふぬけたやうになつてぼんやり坐つてゐると、それからどのくらゐ時が経たつたらうか、母子四人が乞食のやうな恰好かつこうでしよんぼり帰つて来た。ああ、助かつたと、ほつとして、

「どこイ行つて来たんや、こんな遅おそまで……」と訊くと、

「死に場所探しに行て来ましてん。……」

高利貸には責めたてられるし、食ふ物はなし、亭主は相変らず将棋を指しに出歩いて、銭をこしらへようとはしないし、いつそ死んだ方がましやと思ひ、家を出てうろうろ死に場所を探してゐると、背中におぶつてゐた男の子が、お父つちやん、お父つちやんと父親を慕うて泣いたので、死に切れずに戻つて来たと言ふ。

「…………」涙がこぼれて、ああ、有難いこつちや、血なりやこそこんなむごい父親でも、お父つちやんと呼んで想ひ出してくれたのかと、また涙がこぼれて、よつぽど将棋をやめようと思つたが、けれど坂田は出来なんだ。そんな亭主を持ち、細君は死ぬまで将棋を呪のろうて来たが、けれど十年前いよいよ息を引き取るといふ時「あんたは将棋がいのちやさかい、まかり間違うても阿呆な将棋は指しなはんなや。」と言つた。この詞にはげまされて十年、そしていま将棋指しとしての一生を賭けた将棋を指さうとして、坂田のたつた一つの心残りは、わいもこんな将棋指しになつたぜと細君に言つてきかせられないことではなからうか。細君にその将棋を見て貰へないことではなからうか。

して見れば、対木村の一戦は坂田にとつては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当つてゐられないのは、当然であつたらう。――さう思へば、坂田のあの詞もにはかに重みが加はつて、悲壮である。ところが対局がはじまつて三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかへこんでゐる、これはなんとしたことであらうか。

観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に薦すすめたのか、それとも、強いことを言つてゐたけれど、さすがに底冷える寒さにたまりかねて、自分から火鉢がほしいと言ひだしたのであらうか。「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」と自分から強く言ひだした詞を、うつかり忘れてしまふくらゐ耄碌まうろくしてゐたのか。

あるひはまた、火鉢にもあたるまいといふのは、かへつて勝負にこだはり過ぎてゐるのではないかと、思ひ直したのかも知れない。かねがね坂田はよく「栓ぬき瓢箪へうたん」のやうな気持で指さんとあかんと言つてゐる。

ある時、上京するために大阪駅のプラットホームまで来ると、雑閙ざつたうのなかに一人の妙な男が立つてゐた。乗り降りの客が忙しく動いてゐる中に、ひとり懐手をしてぽかんと突つ立つてゐるのだ。汽笛が鳴り、汽車が動きだしても、素知らぬ顔で、気抜けしたやうにぱくんと口をあけて、栓ぬき瓢箪みたいな恰好で空を見上げたまま、プラットホームにひとり残されてゐる。なんや、けつたいな奴ぢやな、あいつ阿呆かいなとその時は思つたが、あとで自分の将棋が悪くなり、気持が焦あせりだすと、不思議にその男の姿を想ひ出すのだ。ぽかんと栓ぬき瓢箪のやうな恰好で突つ立つてゐる姿、丁度ゴム鞠まりの空気を抜いたふわりとした気持、何物にもとらはれぬ、何物にもさからはぬ態度、これを想ひ出すのである。余り眼前の勝負に焦りすぎてかんかんになり、余裕を失つてしもうては到底よい将棋は指せないぞ、栓ぬき瓢箪の気持で指さなあかんと、思ふと不思議に気持が落着く――といふのである。

つまりは、火鉢のことにこだはつた時は、丁度、眼前の勝負にかんかんになり過ぎて、気持が焦りに浮き立つてゐた。そこに気がついて、これではいけないと、火鉢を要求したのではなからうか。

けれど、こんな臆測はすべて私の思ひ過しだらう。観戦記録を見ると、対局開始の二月五日といふ日は、下見をした前日と打つてかはつて、京にめづらしいポカポカと暖かい日であつたといふ。それを読んで、私は簡単にすかされてしまつた。その人の弱みにつけこんで言へば、暖かいから火鉢を敬遠したまでのこと、それを「火鉢にあたるやうな……」云々と悲壮めかすのは芝居が過ぎる。あるひは、坂田自身が自分の気持に欺かれてゐたのだらうか。けれども私はかういふところに、かへつて坂田の好ましさを感ずる。寒くなつたら、あわてて前に言つた詞を取り消して火鉢をほしがつたのだらうと断定を下し、しかも私はそこにこの人の正直さをぢかに感じようと思ふのである。

それはともかく、坂田が火鉢を要求した時には、はや栓ぬき瓢箪の気持を想ひ出す必要が来てゐたことは、事実である。その時にはつまり対局開始後三日目にはもう坂田の旗色は随分わるかつたのだ。対局が済んでから令嬢は観戦記者に、

「父は四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました。」と語つたといふが、四日目とは坂田が一日言ひそびれてゐただけのこと、実は三日目からもういけなかつたことは、坂田自身でも判わかつてゐたのではなからうか。が、敢て三日目といはなくとも、勝負ははや戦ふ前についてゐたのかも知れない。もつとも、かういふのは何も「勝敗は指さぬうちから決つてます。」といふ彼の日頃の持論をとりあげて言ふのではない。いふならば、坂田は戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と言つた瞬間に、もう負けてしまつたのではなからうか。

対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。

木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。

駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするやうな、平凡の手はもう指せるものかといふ気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見てをれ、あつといふやうな奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に憑つかれて、坂田はふと眼を窓外にそらした。南天の実が庭に赤い。山清水が引かれてゐて、水仙の一株が白い根を洗はれ、そこへ冬の落日が射してゐる。

十二分経つた。坂田の眼は再び盤の上に戻つた。さうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のやうな特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすつと盤の右の端の方へ伸ばした。

その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思つた。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛つた。さうして、音もなくすーつと九四歩と突き進めて、ぢつと盤の上を見つめてゐた。駒のすれる音もせぬしづかな指し方であつた。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思へぬしづけさだつた。

普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を敲たたきつける人がおますけど、あらかなひまへん。音を立てるちふのは、その人の将棋がまだ本物になつてん証拠だす。ほんたうの将棋いふもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切つてしもて、自分いふもんが魂の脱け殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言ふ風になつてしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残つてる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘蛛くもの糸よりまだ細い糸が出まつしやろ。その細い糸の上に人間が立つてるちふやうな将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸ひこまれてしまふちふと、細い糸の上にも立てます――さういふ将棋でないとほんたうの将棋とは言へまへん。さういふ将棋になりますちふと、もう打つ駒に音が出て来る筈はずがおまへん。」

ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。

九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。

木村はあつと思つた。なるほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。

「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。

木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。

いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋倶楽部くらぶへ、浮かぬ表情で通つてゐた。地下室特有の重く澱よどんだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかつたが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかつた。

察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに蠢うごめいてゐるひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想ひ出したことがあるが、ほんたうにその頃の私の生活は、耳かきですくふほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであつた。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちよろちよろ焼かれてゐたのである。

さうした私を僅わづかに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢てあかと脂で黝くろずんでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のやうな青春を失つた病人だとか、さういふ連中が集まるのにふさはしかつた。私はその中にまじつて、こはれ掛つた椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のやうに窮地に陥おちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しよんぼり悲しんでゐたのだつた。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげてゐると、いやな熱が赤く来て、私はもうぐつたりとして、駒を投げ出す、――そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。

その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで舐なめんばかりにして眺め「雌伏しふく十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ。」といふ見出しの文句を、誇張した言ひ方だとも思はなかつた。私は眼がぱつと明るくなつたやうな気がして、

「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して呟つぶやき、初めて感動といふものを知つたのである。私は九四歩つきといふ一手のもつ青春に、むしろ恍惚くわうこつとしてしまつたのだ。

私のこの時の幸福感は、かつて暗澹あんたんたる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。私の将棋の素人であることが、かへつて良かつた。木村はこの九四歩にどう答へるだらうか、九六歩と同じく端の歩を突いて受けるか。それとも一六歩と別の端の歩を突くだらうかなどと、しきりに想像をめぐらし、翌日の新聞を待ち焦れた。六十八歳の老齢で、九四歩などといふ天馬の如き溌剌はつらつとした若々しい奇手を生み出す坂田の青春に、私はぴしやりと鞭打たれたやうな気がし、坂田のこの態度を自分の未来に擬したく思ひながら、その新聞を見ることが、日日愉たのしみとなつたのである。けれど、私にとつては何日間かの幸福であつたこの手は、坂田にとつて幸福な手であらうか。

素人考へでいへば、局面にもあるだらうが、まづ端の歩を突く時は相手に手抜きをされる惧おそれがある。いはば、手損になり易いのだ。してみれば、後手の坂田は中盤なら知らず、まづはじめに九四歩と端を突いたことによつて、そして案の定相手の木村に手抜きをされたことによつて二手損をしてゐるわけである。けれど、存外これが坂田の思ひであつたのかも知れない。はじめにぼんやり力を抜いて置いて、敵に無理攻めさせて、その隙に反撃を加へるといふ覘ねらひであつたかも知れない。最初の一手で、はや自分の将棋を栓ぬき瓢箪のやうなぼんやりしたものにして置かうとしたとも考へられる。「敵に指させて勝つ」といふ理論を、彼一流の流儀で応用したのだと言へないこともない。

けれど、結果はやはり二手損が災わざはひして、坂田は木村に圧倒的に攻められて、攻撃に出る隙もなく完敗してしまつたのだ。攻撃の速度を重要視してゐる近代将棋に、二手損をもつて向つたのは、さすがに無謀だつたのだ。無理論の坂田将棋は無理論に頼り過ぎて、近代将棋の理論の前に敗れてしまつたのである。

木村は「奇異な感に打たれた」といふ感想に続いて、

「――が、それと同時に、九四歩を見てからの私は、自分でも不思議な位に、グッと気持が落着いて、五六歩と突く時は相当な自信を得てゐた。そして五五歩の位勝からは、これが攻撃的に必ず威力を発揮し得るもの、と確信づけられた。」と言つてゐる。

五六歩は七六歩、九四歩に次ぐ第三手目である。五五歩は五手目。つまりは木村は三手指した時に、はや勝つたと確信したのである。いや、九四歩を見た途端に、さう思つたのであらう。

さうしてみれば、坂田は九四歩を突いた途端に、もう負けてゐたのである。一手六時間といふ長考を要するやうな苦しい将棋をつくりあげた原因は、この九四歩にあつたのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費してゐない。予定の行動だつたのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と大見得切つた時に、はや彼はこの手を考へてゐたのではなからうか。

「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか辛抱しんぼうがいります。」対局場での食事の時間に、ふと彼は呟いたといふ。はや苦戦を自覚してゐたのであらう。九四歩のやうな奇手をもつて戦ふのは、なるほど棋士の本懐にはちがひないだらうが、それだけに滝に打たれる苦痛も味ははねばならなかつたのだ。けれど、それも自業自得だつた、と言つては言ひ過ぎだらうか。変つた手を指してあつと言はせてやらうといふ心に押し出されて、自ら滝壺の中へ飛び込んでしまつたのではなからうか。

変つた将棋は坂田にとつてはもう殆ど宿命的なものだつた。将棋に熱中した余り、学校で習つた字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、――ある時上京して市電に乗らうとしたが、電車の字が読めぬ、弱つてゐるうちにやつと品川行といふ字だけが、品川の川といふ字が坂田三吉の三を横にした形だつたおかげでそれと判つて、助かつた――といふ程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶといふことが出来ない。おまけに師匠といふものがなかつたので、自分ひとりの頭を絞つた将棋を考へだすより仕様がなかつたのだ。自然、自分の才能、個性だけを頼りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の舳へさきをもつてぐるりとひつくり返すやうな我流の将棋をつくるやうになつた。無学、無師匠の上に、個性が強すぎたのだ。ひとつには、泉州の人らしい茶目気もあつたらう。が、それ故に、坂田将棋は一時覇はを唱へ、また人気も出た。自信も湧いて来た。角頭の歩を突いたり、名人を自称したり、いはば横紙を破る強気も生じたのだ。が、この強気の故に彼は永い間沈黙を守らねばならぬ破目になつた。さうして、三年間といふもの、彼は人にも会はず外出もせず駒を手にせず、ひたすら自分の心を見つめて来た。何を考へ、何を発見したか、無論私には判らない。が、しかし「その時の坐蒲団がいまだにへつこんでゐます。」といふくらゐの沈思黙考の間に、彼が栓ぬき瓢箪の将棋観をいよいよ深めたであらうことは、私にも想像される。我の強気を去らなくては良い将棋は指せないといふ持論をますます強くしたのではなからうか。さうして、その現はれが、攻め勝たうとする速度を急ぐ近代将棋に反抗する九四歩だつたのではなからうか。つまりは、九四歩は我を去らうとする手であつたのではなからうか。けれど、一面これくらゐ坂田の我を示す手はないのだ。坂田は依然として坂田であた。彼は九四歩の手損を無論知つてゐたに違ひない。が、平手将棋は先後いづれも駒が互角だから、最初の一手をどう指さうと、隙のないやうには組めるものだ、最初の一手ぐらゐで躓つまづくやうな坂田の将棋ではない、無理な手を指しても融通無碍ゆうづうむげに軽くさばくのが坂田将棋の本領だといふ自信の方が強かつたのだ。この自信があつたから、彼は十六年振りに立つたのである。さうして、彼は生涯の最も大事な将棋に最も乱暴な手を指したのである。

これはもう魔がさしたといふやうなものではなかつたのだ。坂田といふ人にとつては、もうこれほど自然な手はなかつたのである。自分の芸境を一途いちづに貫いたまでの話である。なんの不思議もない。けれど、その時彼がかつて大衆の人気を博したいはゆる坂田将棋の亡霊に憑つかれてゐたことは確かであらう。おまけに、なんといつても六十八歳である。さうまで人気を顧慮しなくてもと思はれる。なにか老化粧の痛ましさが見えるのである。

大衆は勿論喝采かつさいした。が、いよいよ負けたと判ると、なんだいといふ顔をした。

「あんな莫迦ばかな手を指す奴があるか。」と薄情な唇で囁いた。専門の棋士の中にもさういふことをいふ者があつた。

対局の終つたのは、七日目の紀元節であつた。前日からの南禅寺の杉木立に雨の煙つてゐる朝の九時五分にはじめて、午に一旦休憩し、無口な昼食のあと午後一時から再開して、一時七分にはもう坂田は駒を投げた。雨はやんでゐなかつた。

対局者は打ち揃つて南禅寺の本堂に詣り、それから宝物を拝観した。坂田は、

「おほきに御苦労はんでござります。」と、びつくりするほど丁寧なお辞儀をして歩いた。五十五年間、勝負師として生きて来た鋭さがどこにあらうかと思はれるくらゐの丁寧なお辞儀であつた。

書院で法務部長から茶菓を饗された時も、頭を畳につけて、

「おほけに御馳走ごつとはんでした。」と言つた。特徴のある太短かい首が急にげつそりと肉を落して、七日間の労苦がもぎとつて行つたやうだつた。

迎への自動車に乗らうとする時、うしろからさした傘のしづくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にはかに胸が熱くなつた。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想ひがした。

坂田は不景気な顔で何やらぽそぽそ呟いてゐたが、自動車くるまが急にカーヴした拍子に、

「あ、そや、そや。……」と叫んだ。

「えツ、何だす?」玉江は俄にはかに生々として来た父の顔を見た。

「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想ひついたんや。」と、坂田は言はうとしたが、何故か黙つてしまつた。さうして、その想ひつきのしびれるやうな幸福感に暫らく揺られてゐた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だつたとは思はなかつたのである。さうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだらうとは、夢にも思はなかつたのである。

雨は急にはげしくなつて来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いてゐた。

(昭和十八年八月)

底本 / Source edition

底本:「現代日本文學大系70」筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日初版第1刷
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年8月5日公開
2005年9月29日修正
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書誌 / Bibliography
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織田 作之助「聴雨」(新字旧仮名)、底本『現代日本文學大系 70 武田麟太郎・島木健作・織田作之助・檀一雄集』筑摩書房、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000862_000040, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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