一

数日前本欄（東京朝日新聞の文芸欄）に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の<ruby><rb>思索</rb><rt>しさく</rt></ruby>的生活の半面――<ruby><rb>閑却</rb><rt>かんきゃく</rt></ruby>されている半面を比較的<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に指摘した点において、注意に<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる<ruby><rb>検覈</rb><rt>けんかく</rt></ruby>がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く<ruby><rb>解剖</rb><rt>かいぼう</rt></ruby>し、<ruby><rb>検覈</rb><rt>けんかく</rt></ruby>することを、そうしてそれが彼らの<ruby><rb>確執</rb><rt>かくしつ</rt></ruby>を最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間<ruby><rb>間断</rb><rt>かんだん</rt></ruby>なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに<span data-tei-rend="bouten 白三角傍点 right" style="text-emphasis-style: open triangle; text-emphasis-position: over right">純粋自然主義がその理論上の最後を告げている</span>にかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の<ruby><rb>反駁</rb><rt>はんばく</rt></ruby>とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の<ruby><rb>渦中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。

自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向（純粋自然主義）と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来（純粋自然主義が彼の<ruby><rb>観照</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>論において実人生に対する態度を一決して以来）の傾向は、ようやく両者の間の<ruby><rb>溝渠</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる<ruby><rb>誤謬</rb><rt>ごびゅう</rt></ruby>が彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての<span data-tei-rend="bouten 白三角傍点 right" style="text-emphasis-style: open triangle; text-emphasis-position: over right">自然主義</span>」を説くために、我々に向って一の<ruby><rb>虚偽</rb><rt>きょぎ</rt></ruby>を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の<ruby><rb>共棲</rb><rt>きょうせい</rt></ruby>を我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を<ruby><rb>捏造</rb><rt>ねつぞう</rt></ruby>していることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の<ruby><rb>怨敵</rb><rt>おんてき</rt></ruby>たるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。

それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して<ruby><rb>是正</rb><rt>ぜせい</rt></ruby>を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。

今日我々のうち誰でもまず心を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい<ruby><rb>疎隔</rb><rt>そかく</rt></ruby>（不和ではない）の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねた結果として、過去四十年の間一に男子の<ruby><rb>奴隷</rb><rt>どれい</rt></ruby>として規定、訓練され（法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも）、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては（それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと）、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは<ruby><rb>便宜</rb><rt>べんぎ</rt></ruby>によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の<ruby><rb>脳裡</rb><rt>のうり</rt></ruby>に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。

二

むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――<ruby><rb>富有</rb><rt>ふゆう</rt></ruby>なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の<ruby><rb>租税</rb><rt>そぜい</rt></ruby>の<ruby><rb>費途</rb><rt>ひと</rt></ruby>なども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由<ruby><rb>討究</rb><rt>とうきゅう</rt></ruby>を始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。

しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを<ruby><rb>阻害</rb><rt>そがい</rt></ruby>すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ！」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう<ruby><rb>明晰</rb><rt>めいせき</rt></ruby>になっている。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか！」

かの早くから我々の間に<ruby><rb>竄入</rb><rt>ざんにゅう</rt></ruby>している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

かくて魚住氏のいわゆる共通の<ruby><rb>怨敵</rb><rt>おんてき</rt></ruby>が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合（矛盾せる両思想の）は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。（後段参照）

魚住氏はさらに同じ<ruby><rb>誤謬</rb><rt>ごびゅう</rt></ruby>から、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。

すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる<ruby><rb>検覈</rb><rt>けんかく</rt></ruby>を加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的<ruby><rb>妄想</rb><rt>もうそう</rt></ruby>から来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。

三

むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。

見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実<ruby><rb>暴露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>、無解決、平面描写、<ruby><rb>劃一</rb><rt>かくいつ</rt></ruby>線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって<ruby><rb>推讃</rb><rt>すいさん</rt></ruby>の辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">一見して矛盾に見える</span>ばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、<ruby><rb>刻一刻</rb><rt>こくいっこく</rt></ruby>に身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや？　その中心はどこにありや？」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。

さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を<ruby><rb>肯</rb><rt>がえん</rt></ruby>じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>える人と主観の<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>を説く自然主義者との心境にどれだけの<ruby><rb>扞格</rb><rt>かんかく</rt></ruby>があるだろうか。<ruby><rb>淫売屋</rb><rt>いんばいや</rt></ruby>から出てくる自然主義者の顔と<ruby><rb>女郎屋</rb><rt>じょろうや</rt></ruby>から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている<ruby><rb>醜悪</rb><rt>しゅうあく</rt></ruby>の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">肉霊合致の全我的活動</span>なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。

魚住氏はこの一見<ruby><rb>収攬</rb><rt>しゅうらん</rt></ruby>しがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、「この奇なる結合（自己主張の思想とデターミニスチックの思想の）名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を<ruby><rb>犯</rb><rt>おか</rt></ruby>さねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という<ruby><rb>冠詞</rb><rt>かんし</rt></ruby>をつけて呼ばねばならなくなるのである。

この論者の<ruby><rb>誤謬</rb><rt>ごびゅう</rt></ruby>は、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった（一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった）ことに<ruby><rb>起因</rb><rt>きいん</rt></ruby>していたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通（一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた）に起因しているのである。そうしてさらに<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。

かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その<ruby><rb>同棲者</rb><rt>どうせいしゃ</rt></ruby>が無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。

四

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間<ruby><rb>鬱積</rb><rt>うっせき</rt></ruby>してきたその自身の力を独りで<ruby><rb>持余</rb><rt>もてあま</rt></ruby>しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている<ruby><rb>内訌</rb><rt>ないこう</rt></ruby>的、自滅的傾向は、この理想<ruby><rb>喪失</rb><rt>そうしつ</rt></ruby>の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「<ruby><rb>時代閉塞</rb><rt>じだいへいそく</rt></ruby>」の結果なのである。

見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から<ruby><rb>奉職口</rb><rt>ほうしょくぐち</rt></ruby>の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が<ruby><rb>漸次</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>その数を増しつつある。今やどんな<ruby><rb>僻村</rb><rt>へきそん</rt></ruby>へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

我々青年を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いぎょう</rt></ruby>する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く国内に行わたっている。現代社会組織はその<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する<ruby><rb>欠陥</rb><rt>けっかん</rt></ruby>の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか<ruby><rb>饑饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と<ruby><rb>売淫婦</rb><rt>ばいいんふ</rt></ruby>との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実（微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が<ruby><rb>拘禁</rb><rt>こうきん</rt></ruby>する場所がないために半公認の状態にある事実）は何を語るか。

かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙（現代社会組織の欠陥）に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが<ruby><rb>女郎買</rb><rt>じょろうがい</rt></ruby>、淫売買、ないし<ruby><rb>野合</rb><rt>やごう</rt></ruby>、<ruby><rb>姦通</rb><rt>かんつう</rt></ruby>の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。

そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する<ruby><rb>回顧</rb><rt>かいこ</rt></ruby>がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度<ruby><rb>遭遇</rb><rt>そうぐう</rt></ruby>した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>なくその美しさを発揮しているかを。

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代<ruby><rb>閉塞</rb><rt>へいそく</rt></ruby>の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に<ruby><rb>傾注</rb><rt>けいちゅう</rt></ruby>しなければならぬのである。

五

明日の考察！　これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。

その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の<ruby><rb>先蹤</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>として一部の間に認められているごとく、<ruby><rb>樗牛</rb><rt>ちょぎゅう</rt></ruby>の個人主義がすなわちその第一声であった。（そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている）

樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的（日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく）であった。そうしてその思想が魔語のごとく（彼がニイチェを評した言葉を借りていえば）当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。

この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその<ruby><rb>跳梁</rb><rt>ちょうりょう</rt></ruby>に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは<ruby><rb>正鵠</rb><rt>せいこく</rt></ruby>を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき<ruby><rb>希求憧憬</rb><rt>ききゅうどうけい</rt></ruby>の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして<ruby><rb>九皐</rb><rt>きゅうこう</rt></ruby>の天に<ruby><rb>飛翔</rb><rt>ひしょう</rt></ruby>することを許さなかったのである。

第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆<ruby><rb>虚偽</rb><rt>きょぎ</rt></ruby>である！」

かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を<ruby><rb>峻拒</rb><rt>しゅんきょ</rt></ruby>して、そこに残るただ一つの真実――「必要」！　これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。

文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を<ruby><rb>覚</rb><rt>さま</rt></ruby>してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>くるからである。時代に<ruby><rb>没頭</rb><rt>ぼっとう</rt></ruby>していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。