新らしき声のもはや響かずなった時、人はその中から法則なるものを<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>び<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ず。されば階級といい習慣といういっさいの社会的法則の形成せられたる時は、すなわちその社会にもはや新らしき声の死んだ時、人がいたずらに過去と現在とに心を残して、新らしき未来を忘るるの時、保守と執着と老人とが夜の<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>跋扈</rb><rt>ばっこ</rt></ruby>して、いっさいの生命がその新らしき希望と活動とを抑制せらるる時である。人性本然の向上的意力が、かくのごとき休止の状態に陥ることいよいよ深くいよいよ動かすべからずなった時、人はこの社会を称して文明の域に達したという。一史家が鉄のごとき断案を下して、「文明は保守的なり」といったのは、よく<ruby><rb>這般</rb><rt>しゃはん</rt></ruby>のいわゆる文明を冷評しつくして、ほとんど余地を残さぬ。

予は今ここに文明の意義と特質を論議せむとする者ではないが、もし叙上のごとき状態をもって真の文明と称するものとすれば、すべての人の誇りとするその「文明」なるものは、けっしてありがたいものではない。人は誰しも自由を欲するものである。服従と自己抑制とは時として人間の美徳であるけれども、人生を司配すること、この自由に対する慾望ばかり強くして大なるはない。歴史とは大人物の伝記のみとカーライルの<ruby><rb>喝破</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>した言にいくぶんなりともその理を認むる者は、かの慾望の偉大なる権威とその壮厳なる勝利とを否定し去ることはとうていできぬであろう。自由に対する慾望とは、<ruby><rb>啻</rb><rt>ただ</rt></ruby>に政治上または経済上の<ruby><rb>束縛</rb><rt>そくばく</rt></ruby>から個人の意志を解放せむとするばかりでなく、自己みずからの世界を自己みずからの力によって創造し、開拓し、司配せんとする慾望である。我みずから我が王たらんとし、我がいっさいの能力を我みずから使用せんとする慾望である。人によりて強弱あり、大小はあるが、この慾望の最も<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んな者はすなわち天才である。天才とは<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>創造力の意にほかならぬ。世界の歴史はようするに、この自主創造の猛烈な個人的慾望の、変化極りなき消長を語るものであるのだ。嘘と思うなら、かりにいっさいの天才英雄を歴史の上から<ruby><rb>抹殺</rb><rt>まっさつ</rt></ruby>してみよ。残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>のみではないか。

自由に対する慾望は、しかしながら、すでに<ruby><rb>煩多</rb><rt>はんた</rt></ruby>なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに<ruby><rb>蛇蠍</rb><rt>だかつ</rt></ruby>のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、幾十年もしくは幾百年幾千年の<ruby><rb>因襲的</rb><rt>いんしゅうてき</rt></ruby>法則をもって個人の権能を束縛する社会に対して、我と我が天地を造らむとする人は、勢いまず<ruby><rb>奮闘</rb><rt>ふんとう</rt></ruby>の態度を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り侵略の行動に出なければならぬ。四囲の抑制ようやく烈しきにしたがってはついにこれに反逆し破壊するの挙に出る。階級といい習慣といい社会道徳という、我が作れる縄に縛られ、我が作れる狭き獄室に<ruby><rb>惰眠</rb><rt>だみん</rt></ruby>を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>る<ruby><rb>徒輩</rb><rt>とはい</rt></ruby>は、ここにおいて<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>し、<ruby><rb>奮激</rb><rt>ふんげき</rt></ruby>し、あらん限りの手段をもって、<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。かくて人生は<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>の戦場である。個人が社会と戦い、青年が老人と戦い、進取と自由が保守と執着に組みつき、新らしき者が旧き者と<ruby><rb>鎬</rb><rt>しのぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>る。勝つ者は青史の天に星と化して、<ruby><rb>芳</rb><rt>かん</rt></ruby>ばしき天才の輝きが万世に<ruby><rb>光被</rb><rt>こうひ</rt></ruby>する。敗れて地に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめる。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。

ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の<ruby><rb>風雲児</rb><rt>ふううんじ</rt></ruby>は、相<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>いて無人の境に入り、我みずからの新らしき歴史を我みずからの力によって建設せんとする。植民的精神と新開地的趣味とは、かくて驚くべき勢力を人生に植えつけている。

見よ、ヨーロッパが<ruby><rb>暗黒時代</rb><rt>ダアクエージ</rt></ruby>の深き眠りから<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて以来、幾十万の勇敢なる風雲児が、いかに男らしき遠征をアメリカアフリカ濠州および我がアジアの大部分に向って試みたかを。また見よ、北の方なる<ruby><rb>蝦夷</rb><rt>えぞ</rt></ruby>の島辺、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲児を内地から吸収して、今日あるに到ったかを。

我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。<ruby><rb>劫初</rb><rt>ごうしょ</rt></ruby>以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ<ruby><rb>蓊鬱</rb><rt>おううつ</rt></ruby>の大森林、<ruby><rb>広漠</rb><rt>こうばく</rt></ruby>としてロシアの田園を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに<ruby><rb>雄心勃々</rb><rt>ゆうしんぼつぼつ</rt></ruby>たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先<ruby><rb>墳墓</rb><rt>ふんぼ</rt></ruby>の地を捨てて、勇ましくも津軽の海の速潮を乗りきった。

予もまた今年の五月の初め、<ruby><rb>漂然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>として春まだ浅き北海の客となった一人である。年若く身は<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて心のままに風と来り風と去る漂遊の児であれば、もとより<ruby><rb>一攫千金</rb><rt>いっかくせんきん</rt></ruby>を夢みてきたのではない。予はただこの北海の天地に充満する自由の空気を呼吸せんがために、津軽の海を越えた。自由の空気！　自由の空気さえ吸えば、身はたとえ枯野の草に犬のごとく寝るとしても、空長しなえに<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く高くかぎりなく、自分においていささかの<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>もないのである。

初めて杖を留めた<ruby><rb>凾館</rb><rt>はこだて</rt></ruby>は、北海の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>といわれて、内地の人は函館を見ただけですでに北海道そのものを見てしまったように考えているが、内地に近いだけそれだけほとんど内地的である。新開地の北海道で内地的といえば、説明するまでもなく種々の死法則のようやく<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>されつつあることである。青柳町の百二十余日、予はついに満足を感ずることができなかった。

八月二十五日夜の大火は、函館における背自然の悪徳を残らず焼き払った天の火である。予は新たに建てらるべき第二の函館のために祝福して、秋風とともに焼跡を見捨てた。

札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を味うことができた。日本一の大原野の一角、木立の中の家<ruby><rb>疎</rb><rt>まばら</rt></ruby>に、幅広き街路に草<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>でゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおいなる田舎町の趣きがある。しめやかなる恋のたくさんありそうな都、詩人の住むべき都と思うて、予はかぎりなく喜んだのであった。

しかし札幌にまだ一つ足らないものがある、それはほかでもない。生命の続く限りの男らしい活動である。二週日にして予は札幌を去った。札幌を去って<ruby><rb>小樽</rb><rt>おたる</rt></ruby>に来た。小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>るる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である。

内地の大都会の人は、落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。焼け<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せた函館の人もこの卑い根性を真似ていた。札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、<ruby><rb>突貫</rb><rt>とっかん</rt></ruby>するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

小樽の活動を数字的に説明して他と比較することはなかなか面倒である。かつ今予はそんな必要を感じないのだから、手取早くただ男らしい活動の都府とだけ呼ぶ。この活動の都府の道路は人もいうごとく日本一の悪道路である。善悪にかかわらず日本一と名のつくのが、すでに男らしいことではないか。かつ他日この悪道路が改善せられて市街が<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>するとともに、他の不必要な整頓――階級とか習慣とかいう死法則まで整頓するのかと思えば、予は一年に十足二十足の下駄をよけいに買わねばならぬとしても、<ruby><rb>未来永劫</rb><rt>みらいえいごう</rt></ruby>小樽の道路が日本一であってもらいたい。

北海道人、特に小樽人の特色は何であるかと問われたなら、予は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もなく答える。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、執着心のないことだと。執着心がないからして都府としての公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一事ならずんばさらに他の一事、この地にてなし<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わずんばさらにかの地に行くというような、いわば天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>を、<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を挙げて讃美する者である。自由と活動と、この二つさえあれば、べつに刺身や<ruby><rb>焼肴</rb><rt>やきざかな</rt></ruby>を注文しなくとも飯は食えるのだ。

予はあくまでも風のごとき漂泊者である。天下の流浪人である。小樽人とともに朝から晩まで突貫し、小樽人とともに根限りの活動をすることは、足の弱い予にとうていできぬことである。予はただこの自由と活動の小樽に来て、目に強烈な活動の海の色を見、耳に壮快なる活動の<ruby><rb>進行曲</rb><rt>マーチ</rt></ruby>を聞いて、心のままに筆を動かせば満足なのである。世界貿易の中心点が太平洋に移ってきて、かつて<ruby><rb>戈</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を交えた日露両国の商業的関係が、日本海を斜めに小樽対ウラジオの一線上に集注し来らむとする時、予がはからずもこの小樽の人となって日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは、予にとって何という理由なしにただ気持がいいのである。