## 一

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声を出して駆け込んで来て、いきなり<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>をぬいだと思ったら背中にお<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>のあとがいっぱいあったので、<ruby><rb>三四郎</rb><rt>さんしろう</rt></ruby>の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。

女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい<ruby><rb>九州色</rb><rt>きゅうしゅういろ</rt></ruby>であった。

<ruby><rb>三輪田</rb><rt>みわた</rt></ruby>のお<ruby><rb>光</rb><rt>みつ</rt></ruby>さんと同じ色である。国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった。そばを離れるのが大いにありがたかった。けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くはない。

ただ顔だちからいうと、この女のほうがよほど上等である。口に締まりがある。目がはっきりしている。額がお光さんのようにだだっ広くない。なんとなくいい心持ちにできあがっている。それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。じいさんが女の隣へ腰をかけた時などは、もっとも注意して、できるだけ長いあいだ、女の様子を見ていた。その時女はにこりと笑って、さあおかけと言ってじいさんに席を譲っていた。それからしばらくして、三四郎は眠くなって寝てしまったのである。

その寝ているあいだに女とじいさんは懇意になって話を始めたものとみえる。目をあけた三四郎は黙って<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の話を聞いていた。女はこんなことを言う。――

子供の<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>はやっぱり広島より京都のほうが安くっていいものがある。京都でちょっと用があって降りたついでに、<ruby><rb>蛸薬師</rb><rt>たこやくし</rt></ruby>のそばで玩具を買って来た。久しぶりで国へ帰って子供に会うのはうれしい。しかし夫の仕送りがとぎれて、しかたなしに親の里へ帰るのだから心配だ。夫は<ruby><rb>呉</rb><rt>くれ</rt></ruby>にいて長らく海軍の職工をしていたが戦争中は<ruby><rb>旅順</rb><rt>りょじゅん</rt></ruby>の方に行っていた。戦争が済んでからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また<ruby><rb>大連</rb><rt>たいれん</rt></ruby>へ出かせぎに行った。はじめのうちは<ruby><rb>音信</rb><rt>たより</rt></ruby>もあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。不実な<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>ではないから、<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>だけれども、いつまでも遊んで食べているわけにはゆかないので、安否のわかるまではしかたがないから、里へ帰って待っているつもりだ。

じいさんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないとみえて、はじめのうちはただはいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと言いだした。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、<ruby><rb>物価</rb><rt>しょしき</rt></ruby>は高くなる。こんなばかげたものはない。世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。なにしろ<ruby><rb>信心</rb><rt>しんじん</rt></ruby>が大切だ。生きて働いているに違いない。もう少し待っていればきっと帰って来る。――じいさんはこんな事を言って、しきりに女を慰めていた。やがて汽車がとまったら、ではお大事にと、女に<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をして元気よく出て行った。

じいさんに続いて降りた者が四人ほどあったが、入れ代って、乗ったのはたった<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>しかない。もとから込み合った客車でもなかったのが、急に寂しくなった。日の暮れたせいかもしれない。駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>のついたランプをさしこんでゆく。三四郎は思い出したように前の<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>で買った弁当を食いだした。

車が動きだして二分もたったろうと思うころ、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。この時女の帯の色がはじめて三四郎の目にはいった。三四郎は<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>の煮びたしの頭をくわえたまま女の後姿を見送っていた。便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている。

女はやがて帰って来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもうしまいがけである。下を向いて一生懸命に<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。しかし三四郎が目を上げると同時に女は動きだした。ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。風が強くあたって、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>がふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎はからになった弁当の<ruby><rb>折</rb><rt>おり</rt></ruby>を力いっぱいに窓からほうり出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。風に逆らってなげた折の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>が白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。顔はあいにく列車の外に出ていた。けれども、女は静かに首を引っ込めて<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>のハンケチで額のところを丁寧にふき始めた。三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。

「ごめんなさい」と言った。

女は「いいえ」と答えた。まだ顔をふいている。三四郎はしかたなしに黙ってしまった。女も黙ってしまった。そうしてまた首を窓から出した。三、四人の乗客は暗いランプの下で、みんな寝ぼけた顔をしている。口をきいている者はだれもない。汽車だけがすさまじい音をたてて行く。三四郎は目を眠った。

しばらくすると「名古屋はもうじきでしょうか」と言う女の声がした。見るといつのまにか向き直って、及び腰になって、顔を三四郎のそばまでもって来ている。三四郎は驚いた。

「そうですね」と言ったが、はじめて東京へ行くんだからいっこう要領を得ない。

「この分では遅れますでしょうか」

「遅れるでしょう」

「あんたも名古屋へお<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>りで……」

「はあ、降ります」

この汽車は名古屋どまりであった。会話はすこぶる平凡であった。ただ女が三四郎の筋向こうに腰をかけたばかりである。それで、しばらくのあいだはまた汽車の音だけになってしまう。

次の駅で汽車がとまった時、女はようやく三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれと言いだした。一人では気味が悪いからと言って、しきりに頼む。三四郎ももっともだと思った。けれども、そう快く引き受ける気にもならなかった。なにしろ知らない女なんだから、すこぶる<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいいかげんな<ruby><rb>生返事</rb><rt>なまへんじ</rt></ruby>をしていた。そのうち汽車は名古屋へ着いた。

大きな<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>は<ruby><rb>新橋</rb><rt>しんばし</rt></ruby>まで預けてあるから心配はない。三四郎はてごろなズックの<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>と<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>だけ持って改札場を出た。頭には高等学校の夏帽をかぶっている。しかし卒業したしるしに<ruby><rb>徽章</rb><rt>きしょう</rt></ruby>だけはもぎ取ってしまった。昼間見るとそこだけ色が新しい。うしろから女がついて来る。三四郎はこの帽子に対して少々きまりが悪かった。けれどもついて来るのだからしかたがない。女のほうでは、この帽子をむろん、ただのきたない帽子と思っている。

九時半に着くべき汽車が四十分ほど遅れたのだから、もう十時はまわっている。けれども暑い時分だから町はまだ<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の口のようににぎやかだ。宿屋も目の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちとりっぱすぎるように思われた。そこで電気燈のついている三階作りの前をすまして通り越して、ぶらぶら歩いて行った。むろん不案内の土地だからどこへ出るかわからない。ただ暗い方へ行った。女はなんともいわずについて来る。すると比較的寂しい横町の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>から二軒目に<ruby><rb>御宿</rb><rt>おんやど</rt></ruby>という看板が見えた。これは三四郎にも女にも相応なきたない看板であった。三四郎はちょっと振り返って、<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとくち</rt></ruby>女にどうですと相談したが、女は結構だというんで、思いきってずっとはいった。上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内――<ruby><rb>梅</rb><rt>うめ</rt></ruby>の四番などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。

下女が茶を持って来るあいだ二人はぼんやり向かい合ってすわっていた。下女が茶を持って来て、お<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>をと言った時は、もうこの婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。そこで手ぬぐいをぶら下げて、お先へと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をして、風呂場へ出て行った。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣にあった。薄暗くって、だいぶ不潔のようである。三四郎は着物を脱いで、<ruby><rb>風呂桶</rb><rt>ふろおけ</rt></ruby>の中へ飛び込んで、少し考えた。こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。だれか便所へはいった様子である。やがて出て来た。手を洗う。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分あけた。例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、

「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>を飛び出した。そこそこにからだをふいて座敷へ帰って、<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の上にすわって、少なからず驚いていると、下女が宿帳を持って来た。

三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県<ruby><rb>京都郡</rb><rt>みやこぐん</rt></ruby><ruby><rb>真崎村</rb><rt>まさきむら</rt></ruby><ruby><rb>小川</rb><rt>おがわ</rt></ruby>三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女のところへいってまったく困ってしまった。湯から出るまで待っていればよかったと思ったが、しかたがない。下女がちゃんと控えている。やむをえず同県同郡同村同姓<ruby><rb>花</rb><rt>はな</rt></ruby>二十三年とでたらめを書いて渡した。そうしてしきりに<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を使っていた。

やがて女は帰って来た。「どうも、失礼いたしました」と言っている。三四郎は「いいや」と答えた。

三四郎は鞄の中から帳面を取り出して日記をつけだした。書く事も何もない。女がいなければ書く事がたくさんあるように思われた。すると女は「ちょいと出てまいります」と言って<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>を出ていった。三四郎はますます日記が書けなくなった。どこへ行ったんだろうと考え出した。

そこへ下女が<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>をのべに来る。広い蒲団を一枚しか持って来ないから、床は二つ敷かなくてはいけないと言うと、部屋が狭いとか、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>が狭いとか言ってらちがあかない。めんどうがるようにもみえる。しまいにはただいま番頭がちょっと出ましたから、帰ったら聞いて持ってまいりましょうと言って、<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>に一枚の蒲団を蚊帳いっぱいに敷いて出て行った。

それから、しばらくすると女が帰って来た。どうもおそくなりましてと言う。蚊帳の影で何かしているうちに、がらんがらんという音がした。子供にみやげの玩具が鳴ったに違いない。女はやがて風呂敷包みをもとのとおりに結んだとみえる。蚊帳の向こうで「お先へ」と言う声がした。三四郎はただ「はあ」と答えたままで、敷居に<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を乗せて、団扇を使っていた。いっそこのままで夜を明かしてしまおうかとも思った。けれども<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>がぶんぶん来る。外ではとてもしのぎきれない。三四郎はついと立って、鞄の中から、キャラコのシャツとズボン下を出して、それを<ruby><rb>素肌</rb><rt>すはだ</rt></ruby>へ着けて、その上から<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の<ruby><rb>兵児帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>を締めた。それから<ruby><rb>西洋手拭</rb><rt>タウエル</rt></ruby>を<ruby><rb>二筋</rb><rt>ふたすじ</rt></ruby>持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。

「失礼ですが、私は<ruby><rb>癇症</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>よけの工夫をやるから御免なさい」

三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある<ruby><rb>敷布</rb><rt>シート</rt></ruby>の余っている<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。

夜はようよう明けた。顔を洗って<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向かった時、女はにこりと笑って、「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょく</rt></ruby>の<ruby><rb>葡萄豆</rb><rt>ぶどうまめ</rt></ruby>をしきりに突っつきだした。

<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をして宿を出て、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>へ着いた時、女ははじめて関西線で<ruby><rb>四日市</rb><rt>よっかいち</rt></ruby>の方へ行くのだということを三四郎に話した。三四郎の汽車はまもなく来た。時間のつごうで女は少し待ち合わせることとなった。改札場のきわまで送って来た女は、

「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、

「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、

「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。車の中へはいったら両方の耳がいっそうほてりだした。しばらくはじっと小さくなっていた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果まで響き渡った。列車は動きだす。三四郎はそっと窓から首を出した。女はとくの昔にどこかへ行ってしまった。大きな時計ばかりが目についた。三四郎はまたそっと自分の席に帰った。乗合いはだいぶいる。けれども三四郎の挙動に注意するような者は一人もない。ただ筋向こうにすわった男が、自分の席に帰る三四郎をちょっと見た。

三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。本でも読んで気をまぎらかそうと思って、鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。そいつをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な<ruby><rb>仮綴</rb><rt>かりとじ</rt></ruby>である。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなったから、片づけるついでに<ruby><rb>提鞄</rb><rt>さげかばん</rt></ruby>の底へ、ほかの二、三冊といっしょにほうり込んでおいたのが、運悪く当選したのである。三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどはむろん読む気にならない。けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なくページ全体を見回していた。三四郎は二十三ページの前で一応昨夜のおさらいをする気である。

元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。――

三四郎はここまで来て、さらにしょげてしまった。どこの馬の骨だかわからない者に、頭の上がらないくらいどやされたような気がした。ベーコンの二十三ページに対しても、はなはだ申し訳がないくらいに感じた。

どうも、ああ<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>しちゃだめだ。学問も大学生もあったものじゃない。はなはだ人格に関係してくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。なんだか<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>がない。非常に窮屈だ。まるで<ruby><rb>不具</rb><rt>かたわ</rt></ruby>にでも生まれたようなものである。けれども……

三四郎は急に気をかえて、別の世界のことを思い出した。――これから東京に行く。大学にはいる。有名な学者に接触する。趣味品性の備わった学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>する。母がうれしがる。というような未来をだらしなく考えて、大いに元気を回復してみると、べつに二十三ページのなかに顔を埋めている必要がなくなった。そこでひょいと頭を上げた。すると筋向こうにいたさっきの男がまた三四郎の方を見ていた。今度は三四郎のほうでもこの男を見返した。

<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を濃くはやしている。<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>のやせぎすの、どことなく<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>じみた男であった。ただ鼻筋がまっすぐに通っているところだけが西洋らしい。学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教師にしてしまう。男は<ruby><rb>白地</rb><rt>しろじ</rt></ruby>の<ruby><rb>絣</rb><rt>かすり</rt></ruby>の下に、<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>に白い<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>を重ねて、<ruby><rb>紺足袋</rb><rt>こんたび</rt></ruby>をはいていた。この服装からおして、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控えている自分からみると、なんだかくだらなく感ぜられる。男はもう四十だろう。これよりさきもう発展しそうにもない。

男はしきりに<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしている。長い煙を鼻の穴から吹き出して、腕組をしたところはたいへん<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>にみえる。そうかと思うとむやみに便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをすることがある。さも退屈そうである。隣に乗り合わせた人が、新聞の読みがらをそばに置くのに借りてみる気も出さない。三四郎はおのずから妙になって、ベーコンの論文集を伏せてしまった。ほかの小説でも出して、本気に読んでみようとも考えたが、面倒だからやめにした。それよりは前にいる人の新聞を借りたくなった。あいにく前の人はぐうぐう寝ている。三四郎は手を延ばして新聞に手をかけながら、わざと「おあきですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「あいてるでしょう。お読みなさい」と言った。新聞を手に取った三四郎のほうはかえって平気でなかった。

あけてみると新聞にはべつに見るほどの事ものっていない。一、二分で通読してしまった。<ruby><rb>律義</rb><rt>りちぎ</rt></ruby>に畳んでもとの場所へ返しながら、ちょっと<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>すると、向こうでも軽く挨拶をして、

「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。

三四郎は、かぶっている古帽子の徽章の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が、この男の目に映ったのをうれしく感じた。

「ええ」と答えた。

「東京の？」と聞き返した時、はじめて、

「いえ、熊本です。……しかし……」と言ったなり黙ってしまった。大学生だと言いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。相手も「はあ、そう」と言ったなり煙草を吹かしている。なぜ熊本の生徒が今ごろ東京へ行くんだともなんとも聞いてくれない。熊本の生徒には興味がないらしい。この時三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」と言った。それでいてたしかに寝ている。ひとりごとでもなんでもない。髭のある人は三四郎を見てにやにやと笑った。三四郎はそれを<ruby><rb>機会</rb><rt>しお</rt></ruby>に、

「あなたはどちらへ」と聞いた。

「東京」とゆっくり言ったぎりである。なんだか中学校の先生らしくなくなってきた。けれども三等へ乗っているくらいだからたいしたものでないことは明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をしたまま、時々<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の前歯で、<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>を取って、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>を鳴らしたりしている。よほど退屈にみえる。しかしこの男の退屈は話したがらない退屈である。

汽車が<ruby><rb>豊橋</rb><rt>とよはし</rt></ruby>へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りて行った。よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思った。ことによると寝ぼけて停車場を間違えたんだろうと気づかいながら、窓からながめていると、けっしてそうでない。無事に改札場を通過して、<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>の人間のように出て行った。三四郎は安心して席を向こう側へ移した。これで髭のある人と隣り合わせになった。髭のある人は入れ代って、窓から首を出して、<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すいみつとう</rt></ruby>を買っている。

やがて二人のあいだに<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>を置いて、

「食べませんか」と言った。

三四郎は礼を言って、一つ食べた。髭のある人は好きとみえて、むやみに食べた。三四郎にもっと食べろと言う。三四郎はまた一つ食べた。二人が水蜜桃を食べているうちにだいぶ親密になっていろいろな話を始めた。

その男の説によると、<ruby><rb>桃</rb><rt>もも</rt></ruby>は果物のうちでいちばん<ruby><rb>仙人</rb><rt>せんにん</rt></ruby>めいている。なんだか<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>みたような味がする。第一<ruby><rb>核子</rb><rt>たね</rt></ruby>の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>が無器用だ。かつ穴だらけでたいへんおもしろくできあがっていると言う。三四郎ははじめて聞く説だが、ずいぶんつまらないことを言う人だと思った。

次にその男がこんなことを言いだした。<ruby><rb>子規</rb><rt>しき</rt></ruby>は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな<ruby><rb>樽柿</rb><rt>たるがき</rt></ruby>を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規のまねはできない。――三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味があるような気がした。もう少し子規のことでも話そうかと思っていると、

「どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。しかたがない。<ruby><rb>豚</rb><rt>ぶた</rt></ruby>などは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けないようにしておいて、その鼻の先へ、ごちそうを並べて置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは延びるそうです。どうも一念ほど恐ろしいものはない」と言って、にやにや笑っている。まじめだか冗談だか、判然と区別しにくいような話し方である。

「まあお互に豚でなくってしあわせだ。そうほしいものの方へむやみに鼻が延びていったら、今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない」

三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。

「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の<ruby><rb>核子</rb><rt>たね</rt></ruby>やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。

今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>したうえに、なんだかゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。けれども相手はそんなことにいっこう気がつかないらしい。やがて、

「東京はどこへ」と聞きだした。

「じつははじめてで様子がよくわからんのですが……さしあたり国の寄宿舎へでも行こうかと思っています」と言う。

「じゃ熊本はもう……」

「今度卒業したのです」

「はあ、そりゃ」と言ったがおめでたいとも結構だともつけなかった。ただ「するとこれから大学へはいるのですね」といかにも平凡であるかのごとく聞いた。

三四郎はいささか物足りなかった。その代り、

「ええ」という二字で挨拶を片づけた。

「科は？」とまた聞かれる。

「一部です」

「法科ですか」

「いいえ文科です」

「はあ、そりゃ」とまた言った。三四郎はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。向こうが大いに偉いか、大いに人を踏み倒しているか、そうでなければ大学にまったく縁故も同情もない男に違いない。しかしそのうちのどっちだか見当がつかないので、この男に対する態度もきわめて不明瞭であった。

浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。食ってしまっても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は<ruby><rb>上下</rb><rt>うえした</rt></ruby>ともまっ白な着物で、たいへん美しい。三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人というものを五、六人しか見たことがない。そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、その二人のうちの一人は運悪くせむしであった。女では宣教師を一人知っている。ずいぶんとんがった顔で、<ruby><rb>鱚</rb><rt>きす</rt></ruby>または<ruby><rb>魳</rb><rt>かます</rt></ruby>に類していた。だから、こういう<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える。三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。

ところへ例の男が首を後から出して、

「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、

「ああ美しい」と小声に言って、すぐに<ruby><rb>生欠伸</rb><rt>なまあくび</rt></ruby>をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、

「どうも西洋人は美しいですね」と言った。

三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、

「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが<ruby><rb>日本一</rb><rt>にほんいち</rt></ruby>の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>の引き倒しになるばかりだ」

この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>であったと悟った。

その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は別れる時まで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところにいるものと信じて、べつに姓名を尋ねようともしなかった。

## 二

三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴るあいだに、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。しかもどこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである、新しい家が往来から二、三間引っ込んでいる、古い蔵が半分とりくずされて心細く前の方に残っている。すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。

三四郎はまったく驚いた。要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。不愉快でたまらない。

この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も接触していないことになる。<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>が<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。

三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も気がつかなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。

三四郎が動く東京のまん中に閉じ込められて、<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でふさぎこんでいるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受け取った最初のものである。見るといろいろ書いてある。まず<ruby><rb>今年</rb><rt>ことし</rt></ruby>は豊作でめでたいというところから始まって、からだを大事にしなくってはいけないという注意があって、東京の者はみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届くようにするから安心しろとあって、<ruby><rb>勝田</rb><rt>かつた</rt></ruby>の<ruby><rb>政</rb><rt>まさ</rt></ruby>さんの<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出ているそうだから、尋ねて行って、万事よろしく頼むがいいで結んである。<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の名前を忘れたとみえて、欄外というようなところに<ruby><rb>野々宮宗八</rb><rt>ののみやそうはち</rt></ruby>どのと書いてあった。この欄外にはそのほか二、三件ある。<ruby><rb>作</rb><rt>さく</rt></ruby>の<ruby><rb>青馬</rb><rt>あお</rt></ruby>が急病で死んだんで、作は大弱りである。<ruby><rb>三輪田</rb><rt>みわた</rt></ruby>のお<ruby><rb>光</rb><rt>みつ</rt></ruby>さんが<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>をくれたけれども、東京へ送ると途中で腐ってしまうから、<ruby><rb>家内</rb><rt>うち</rt></ruby>で食べてしまった、等である。

三四郎はこの手紙を見て、なんだか古ぼけた昔から届いたような気がした。母にはすまないが、こんなものを読んでいる暇はないとまで考えた。それにもかかわらず繰り返して二へん読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触しているならば、今のところ母よりほかにないのだろう。その母は古い人で古いいなかにおる。そのほかには汽車の中で乗り合わした女がいる。あれは現実世界の<ruby><rb>稲妻</rb><rt>いなずま</rt></ruby>である。接触したというには、あまりに短くってかつあまりに鋭すぎた。――三四郎は母の言いつけどおり野々宮宗八を尋ねることにした。

あくる日は平生よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせてこないから、聞き合わせかたがた行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って<ruby><rb>弥生町</rb><rt>やよいちょう</rt></ruby>の門からはいった。往来は<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>が二寸も積もっていて、その上に<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の歯や、<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の底や、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の裏がきれいにできあがってる。車の輪と自転車のあとは幾筋だかわからない。むっとするほどたまらない道だったが、構内へはいるとさすがに木の多いだけに気分がせいせいした。とっつきの戸をあたってみたら錠が下りている。裏へ回ってもだめであった。しまいに横へ出た。念のためと思って押してみたら、うまいぐあいにあいた。廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくのあいだは、正気を回復するために、<ruby><rb>上野</rb><rt>うえの</rt></ruby>の森をながめていたが、突然「おいでかもしれません」と言って奥へはいって行った。すこぶる閑静である。やがてまた出て来た。

「おいででやす。おはいんなさい」と友だちみたように言う。小使にくっついて行くと四つ角を曲がって<ruby><rb>和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>の廊下を下へ降りた。世界が急に暗くなる。炎天で目がくらんだ時のようであったがしばらくすると<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>がようやくおちついて、あたりが見えるようになった。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があって、その戸があけ放してある。そこから顔が出た。額の広い目の大きな仏教に縁のある<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>である。縮みのシャツの上へ背広を着ているが、背広はところどころにしみがある。背はすこぶる高い。やせているところが暑さに釣り合っている。頭と背中を一直線に前の方へ延ばしてお辞儀をした。

「こっちへ」と言ったまま、顔を<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へ入れてしまった。三四郎は戸の前まで来て部屋の中をのぞいた。すると野々宮君はもう<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>へ腰をかけている。もう一ぺん「こっちへ」と言った。こっちへと言うところに台がある。四角な棒を四本立てて、その上を板で張ったものである。三四郎は台の上へ腰をかけて初対面の挨拶をする。それからなにぶんよろしく願いますと言った。野々宮君はただはあ、はあと言って聞いている。その様子がいくぶんか汽車の中で<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すいみつとう</rt></ruby>を食った男に似ている。ひととおり<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>を述べた三四郎はもう何も言う事がなくなってしまった。野々宮君もはあ、はあ言わなくなった。

部屋の中を見回すとまん中に大きな長い<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>のテーブルが置いてある。その上にはなんだかこみいった、太い針金だらけの器械が乗っかって、そのわきに大きなガラスの<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>に水が入れてある。そのほかにやすりとナイフと<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>飾りが一つ落ちている。最後に向こうのすみを見ると、三尺ぐらいの<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の台の上に、<ruby><rb>福神漬</rb><rt>ふくじんづけ</rt></ruby>の<ruby><rb>缶</rb><rt>かん</rt></ruby>ほどな複雑な器械が乗せてある。三四郎はこの缶の横っ腹にあいている二つの穴に目をつけた。穴が<ruby><rb>蟒蛇</rb><rt>うわばみ</rt></ruby>の目玉のように光っている。野々宮君は笑いながら光るでしょうと言った。そうして、こういう説明をしてくれた。

「昼間のうちに、あんな<ruby><rb>準備</rb><rt>したく</rt></ruby>をしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」

三四郎は大いに驚いた。驚くとともに光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦しんだ。

その時野々宮君は三四郎に、「のぞいてごらんなさい」と勧めた。三四郎はおもしろ半分、石の台の二、三間手前にある望遠鏡のそばへ行って右の目をあてがったが、なんにも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「いっこう見えません」と答えると、「うんまだ<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>が取らずにあった」と言いながら、椅子を立って望遠鏡の先にかぶせてあるものを<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けてくれた。

見ると、ただ輪郭のぼんやりした明るいなかに、物差しの度盛りがある。下に２の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「２の字が見えます」と言うと、「いまに動きます」と言いながら向こうへ回って何かしているようであった。

やがて度盛りが明るいなかで動きだした。２が消えた。あとから３が出る。そのあとから４が出る。５が出る。とうとう<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">10</span>まで出た。すると度盛りがまた逆に動きだした。<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">10</span>が消え、９が消え、８から７、７から６と順々に１まで来てとまった。野々宮君はまた「どうです」と言う。三四郎は驚いて、望遠鏡から目を放してしまった。度盛りの意味を聞く気にもならない。

丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。暑いけれども深い息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。

非常に静かである。電車の音もしない。<ruby><rb>赤門</rb><rt>あかもん</rt></ruby>の前を通るはずの電車は、大学の抗議で<ruby><rb>小石川</rb><rt>こいしかわ</rt></ruby>を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。

たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として<ruby><rb>欣然</rb><rt>きんぜん</rt></ruby>とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。

三四郎がじっとして池の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつはるかな心持ちがした。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。そうして、野々宮君の穴倉にはいって、たった一人ですわっているかと思われるほどな<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>を覚えた。熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな<ruby><rb>竜田山</rb><rt>たつたやま</rt></ruby>に上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。

活動の激しい東京を見たためだろうか。あるいは――三四郎はこの時赤くなった。汽車で乗り合わした女の事を思い出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰って母に手紙を書いてやろうと思った。

ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>で、その後がはでな<ruby><rb>赤煉瓦</rb><rt>あかれんが</rt></ruby>のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>の色も目についた。<ruby><rb>鼻緒</rb><rt>はなお</rt></ruby>の色はとにかく<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはいていることもわかった。もう一人はまっしろである。これは団扇もなにも持っていない。ただ額に少し<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥をながめていた。団扇を持った女は少し前へ出ている。白いほうは一足<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の縁からさがっている。三四郎が見ると、二人の姿が筋かいに見える。

この時三四郎の受けた感じはただきれいな色彩だということであった。けれどもいなか者だから、この色彩がどういうふうにきれいなのだか、口にも言えず、筆にも書けない。ただ白いほうが看護婦だと思ったばかりである。

三四郎はまたみとれていた。すると白いほうが動きだした。用事のあるような動き方ではなかった。自分の足がいつのまにか動いたというふうであった。見ると団扇を持った女もいつのまにかまた動いている。二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を降りて来る。三四郎はやっぱり見ていた。

坂の下に石橋がある。渡らなければまっすぐに理科大学の方へ出る。渡れば水ぎわを伝ってこっちへ来る。二人は石橋を渡った。

団扇はもうかざしていない。左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。かぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、目は伏せている。それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。

「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。頭の上には大きな<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。

「これは椎」と看護婦が言った。まるで子供に物を教えるようであった。

「そう。実はなっていないの」と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、その<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒目の動く<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>を意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と言われた時の感じとどこか似通っている。三四郎は恐ろしくなった。

二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。看護婦は先へ行く。若いほうがあとから行く。はなやかな色のなかに、白い<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>を染め抜いた帯が見える。頭にもまっ白な<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>を一つさしている。その薔薇が椎の<ruby><rb>木陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>の下の、黒い髪のなかできわだって光っていた。

三四郎はぼんやりしていた。やがて、小さな声で「<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>だ」と言った。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだか、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしいものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、――このいなか出の青年には、すべてわからなかった。ただなんだか矛盾であった。

三四郎は女の落として行った花を拾った。そうしてかいでみた。けれどもべつだんのにおいもなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いている。すると突然向こうで自分の名を呼んだ者がある。

三四郎は花から目を放した。見ると野々宮君が石橋の向こうに長く立っている。

「君まだいたんですか」と言う。三四郎は答をするまえに、立ってのそのそ歩いて行った。石橋の上まで来て、

「ええ」と言った。なんとなくまが抜けている。けれども野々宮君は、少しも驚かない。

「涼しいですか」と聞いた。三四郎はまた、

「ええ」と言った。

野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。ポケットから半分封筒がはみ出している。その上に書いてある字が女の<ruby><rb>手跡</rb><rt>しゅせき</rt></ruby>らしい。野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。そうして、こう言った。

「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。これから<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby>の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」

三四郎は快く応じた。二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、

「ちょっといい<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>でしょう。あの<ruby><rb>建築</rb><rt>ビルジング</rt></ruby>の<ruby><rb>角度</rb><rt>アングル</rt></ruby>のところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできてるがこのほうがうまいですね」

三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。

「それから、この木と水の<ruby><rb>感じ</rb><rt>エフフェクト</rt></ruby>がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが<ruby><rb>御殿</rb><rt>ごてん</rt></ruby>」と歩きだしながら、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>の建物をさしてみせる。「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」と言いながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光が乏しい。

青い空の静まり返った、<ruby><rb>上皮</rb><rt>うわかわ</rt></ruby>に白い薄雲が<ruby><rb>刷毛先</rb><rt>はけさき</rt></ruby>でかき払ったあとのように、<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>かいに長く浮いている。

「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。

「あれは、みんな雪の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」

三四郎は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として読まないと答えた。野々宮君はただ

「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから、

「この空を写生したらおもしろいですね。――<ruby><rb>原口</rb><rt>はらぐち</rt></ruby>にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。

二人はベルツの銅像の前から<ruby><rb>枳殻寺</rb><rt>からたちでら</rt></ruby>の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表はたいへんにぎやかである。電車がしきりなしに通る。

「君電車はうるさくはないですか」とまた聞かれた。三四郎はうるさいよりすさまじいくらいである。しかしただ「ええ」と答えておいた。すると野々宮君は「ぼくもうるさい」と言った。しかしいっこううるさいようにもみえなかった。

「ぼくは車掌に教わらないと、一人で乗換えが自由にできない。この二、三年むやみにふえたのでね。便利になってかえって困る。ぼくの学問と同じことだ」と言って笑った。

学期の始まりぎわなので新しい高等学校の帽子をかぶった生徒がだいぶ通る。野々宮君は愉快そうに、この<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>を見ている。

「だいぶ新しいのが来ましたね」と言う。「若い人は活気があっていい。ときに君はいくつですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いたとおりを答えた。すると、

「それじゃぼくより七つばかり若い。七年もあると、人間はたいていの事ができる。しかし<ruby><rb>月日</rb><rt>つきひ</rt></ruby>はたちやすいものでね。七年ぐらいじきですよ」と言う。どっちが本当なんだか、三四郎にはわからなかった。

<ruby><rb>四角</rb><rt>よつかど</rt></ruby>近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋がたくさんある。そのうちの二、三軒には人が黒山のようにたかっている、そうして雑誌を読んでいる。そうして買わずに行ってしまう。野々宮君は、

「みんなずるいなあ」と言って笑っている。もっとも当人もちょいと太陽をあけてみた。

四角へ出ると、左手のこちら側に西洋<ruby><rb>小間物屋</rb><rt>こまものや</rt></ruby>があって、向こう側に日本小間物屋がある。そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。ベルがちんちんちんちんいう。渡りにくいほど雑踏する。野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、

「あすこでちょいと買物をしますからね」と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた。三四郎もくっついて、向こうへ渡った。野々宮君はさっそく店へはいった。表に待っていた三四郎が、気がついて見ると、店先のガラス張りの<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>だの<ruby><rb>花簪</rb><rt>はなかんざし</rt></ruby>だのが並べてある。三四郎は妙に思った。野々宮君が何を買っているのかしらと、不審を起こして、店の中へはいってみると、<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>の羽根のようなリボンをぶら下げて、

「どうですか」と聞かれた。三四郎はこの時自分も何か買って、<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>のお礼に三輪田のお光さんに送ってやろうかと思った。けれどもお光さんが、それをもらって、鮎のお礼と思わずに、きっとなんだかんだと手前がっての理屈をつけるに違いないと考えたからやめにした。

それから<ruby><rb>真砂町</rb><rt>まさごちょう</rt></ruby>で野々宮君に西洋料理のごちそうになった。野々宮君の話では本郷でいちばんうまい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だそうだ。けれども三四郎にはただ西洋料理の味がするだけであった。しかし食べることはみんな食べた。

西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>に帰るところを丁寧にもとの四角まで出て、左へ折れた。<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を買おうと思って、下駄屋をのぞきこんだら、白熱ガスの下に、まっ白に塗り立てた娘が、<ruby><rb>石膏</rb><rt>せっこう</rt></ruby>の化物のようにすわっていたので、急にいやになってやめた。それから<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰るあいだ、大学の池の縁で会った女の、顔の色ばかり考えていた。――その色は薄く<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>をこがしたような<ruby><rb>狐色</rb><rt>きつねいろ</rt></ruby>であった。そうして<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>が非常に細かであった。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくってはだめだと断定した。

## 三

学年は九月十一日に始まった。三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>もいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。裏へ回って、大きな<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の下から高い空をのぞいたら、普通の空よりも明らかに見えた。<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>の中を水ぎわへおりて、例の<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木の所まで来て、またしゃがんだ。あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。三四郎はそれが当然だと考えた。けれどもやはりしゃがんでいた。すると、<ruby><rb>午砲</rb><rt>どん</rt></ruby>が鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。

翌日は正八時に学校へ行った。正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の並木が目についた。銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を愉快に感じた。

銀杏の並木がこちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少しさがって博物の教室がある。建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根が突き出している。その三角の縁に当る<ruby><rb>赤煉瓦</rb><rt>あかれんが</rt></ruby>と黒い屋根のつぎめの所が細い石の直線でできている。そうしてその石の色が少し青味を帯びて、すぐ下にくるはでな赤煉瓦に一種の趣を添えている。そうしてこの長い窓と、高い三角が横にいくつも続いている。三四郎はこのあいだ野々宮君の説を聞いてから以来、急にこの建物をありがたく思っていたが、けさは、この意見が野々宮君の意見でなくって、<ruby><rb>初手</rb><rt>しょて</rt></ruby>から自分の持説であるような気がしだした。ことに博物室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っ込んでいるところが不規則で妙だと思った。こんど野々宮君に会ったら自分の発明としてこの説を持ち出そうと考えた。

法文科の右のはずれから半町ほど前へ突き出している図書館にも感服した。よくわからないがなんでも同じ建築だろうと考えられる。その赤い壁につけて、大きな<ruby><rb>棕櫚</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>の木を五、六本植えたところが大いにいい。左手のずっと奥にある工科大学は封建時代の西洋のお城から割り出したように見えた。まっ四角にできあがっている。窓も四角である。ただ四すみと入口が丸い。これは<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>を形取ったんだろう。お城だけにしっかりしている。法文科みたように倒れそうでない。なんだか<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の低い<ruby><rb>相撲取</rb><rt>すもうと</rt></ruby>りに似ている。

三四郎は見渡すかぎり見渡して、このほかにもまだ目に入らない建物がたくさんあることを勘定に入れて、どことなく雄大な感じを起こした。「学問の府はこうなくってはならない。こういう構えがあればこそ研究もできる。えらいものだ」――三四郎は大学者になったような心持ちがした。

けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もそのとおりであった。三四郎は<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起こして教場を出た。そうして念のために池の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を二へんばかり回って下宿へ帰った。

それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに<ruby><rb>殊勝</rb><rt>しゅしょう</rt></ruby>なものであった。<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>が<ruby><rb>装束</rb><rt>しょうぞく</rt></ruby>を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる<ruby><rb>敬畏</rb><rt>けいい</rt></ruby>の念を増した。そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>な英語で講義を始めた。三四郎はその時 <ruby><rb>answer</rb><rt>アンサー</rt></ruby> という字はアングロ・サクソン語の and\-<ruby><rb>swaru</rb><rt>アンド・スワル</rt></ruby> から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室にはいって、ちょっと<ruby><rb>黒板</rb><rt>ボールド</rt></ruby>をながめていたが、黒板の上に書いてある <ruby><rb>Geschehen</rb><rt>ゲシェーヘン</rt></ruby> という字と <ruby><rb>Nachbild</rb><rt>ナハビルド</rt></ruby> という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。午後は大教室に出た。その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。したがって先生も演説<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>であった。砲声一発<ruby><rb>浦賀</rb><rt>うらが</rt></ruby>の夢を破ってという<ruby><rb>冒頭</rb><rt>ぼうとう</rt></ruby>であったから、三四郎はおもしろがって聞いていると、しまいにはドイツの哲学者の名がたくさん出てきてはなはだ<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しにくくなった。机の上を見ると、落第という字がみごとに彫ってある。よほど暇に任せて仕上げたものとみえて、堅い<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の板をきれいに切り込んだてぎわは<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>とは思われない。深刻のできである。隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。のぞいて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである。三四郎がのぞくやいなや隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。絵はうまくできているが、そばに<ruby><rb>久方</rb><rt>ひさかた</rt></ruby>の<ruby><rb>雲井</rb><rt>くもい</rt></ruby>の空の<ruby><rb>子規</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>と書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。

講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突いて、正門内の庭を見おろしていた。ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前の<ruby><rb>喜多床</rb><rt>きたどこ</rt></ruby>という<ruby><rb>髪結床</rb><rt>かみゆいどこ</rt></ruby>の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。その時分には有志の者が<ruby><rb>醵金</rb><rt>きょきん</rt></ruby>して構内に<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。まさかナポレオン三世時代でもなかろう。しかしのん気な時代もあったものだと考えていると、さっきポンチ絵をかいた男が来て、

「大学の講義はつまらんなあ」と言った。三四郎はいいかげんな返事をした。じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。しかしこの時からこの男と口をきくようになった。

その日はなんとなく気が<ruby><rb>鬱</rb><rt>うっ</rt></ruby>して、おもしろくなかったので、池の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を回ることは見合わせて<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った。晩食後筆記を繰り返して読んでみたが、べつに愉快にも不愉快にもならなかった。母に言文一致の手紙を書いた。――学校は始まった。これから毎日出る。学校はたいへん広いいい場所で、建物もたいへん美しい。まん中に池がある。池の周囲を散歩するのが楽しみだ。電車には近ごろようやく乗り馴れた。何か買ってあげたいが、何がいいかわからないから、買ってあげない。ほしければそっちから言ってきてくれ。<ruby><rb>今年</rb><rt>ことし</rt></ruby>の米はいまに<ruby><rb>価</rb><rt>ね</rt></ruby>が出るから、売らずにおくほうが得だろう。三輪田のお光さんにはあまり<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>よくしないほうがよかろう。東京へ来てみると人はいくらでもいる。男も多いが女も多い。というような事をごたごた並べたものであった。

手紙を書いて、英語の本を六、七ページ読んだらいやになった。こんな本を一冊ぐらい読んでもだめだと思いだした。床を取って寝ることにしたが、寝つかれない。不眠症になったらはやく病院に行って見てもらおうなどと考えているうちに寝てしまった。

あくる日も例刻に学校へ行って講義を聞いた。講義のあいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争している<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>だなどと話している者があった。三四郎は<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>と、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。むしろ<ruby><rb>昇之助</rb><rt>しょうのすけ</rt></ruby>がなんとかしたというほうの話がおもしろかった。そこで廊下で熊本出の同級生をつかまえて、昇之助とはなんだと聞いたら、<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ出る娘<ruby><rb>義太夫</rb><rt>ぎだゆう</rt></ruby>だと教えてくれた。それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるということまで言って聞かせたうえ、今度の土曜にいっしょに行こうと誘ってくれた。よく知ってると思ったら、この男はゆうべはじめて、寄席へ、はいったのだそうだ。三四郎はなんだか寄席へ行って昇之助が見たくなった。

昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの<ruby><rb>淀見軒</rb><rt>よどみけん</rt></ruby>という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に<ruby><rb>青木堂</rb><rt>あおきどう</rt></ruby>も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。赤門をはいって、<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ<ruby><rb>小泉八雲</rb><rt>こいずみやくも</rt></ruby>先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、

「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。この男は<ruby><rb>佐々木与次郎</rb><rt>ささきよじろう</rt></ruby>といって、専門学校を卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。<ruby><rb>東片町</rb><rt>ひがしかたまち</rt></ruby>の五番地の<ruby><rb>広田</rb><rt>ひろた</rt></ruby>という<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいるから、遊びに来いと言う。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答えた。

それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、<ruby><rb>律義</rb><rt>りちぎ</rt></ruby>に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。

ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。

「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か<ruby><rb>寓意</rb><rt>ぐうい</rt></ruby>でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、

「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、

「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。

「なぜ」

「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

その日の夕方、与次郎は三四郎を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、

「どうだ」と聞いた。

次に大通りから細い横町へ曲がって、<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また

「どうだ」と聞いた。

次に本場の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、<ruby><rb>木原店</rb><rt>きはらだな</rt></ruby>という寄席を上がった。ここで<ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>さんという<ruby><rb>落語家</rb><rt>はなしか</rt></ruby>を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また

「どうだ」と聞いた。

三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。

小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。――<ruby><rb>円遊</rb><rt>えんゆう</rt></ruby>もうまい。しかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした<ruby><rb>太鼓持</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発<ruby><rb>溌地</rb><rt>はっち</rt></ruby>に躍動するばかりだ。そこがえらい。

与次郎はこんなことを言って、また

「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。

高等学校の前で別れる時、三四郎は、

「ありがとう、大いにもの足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、

「これからさきは図書館でなくっちゃもの足りない」と言って<ruby><rb>片町</rb><rt>かたまち</rt></ruby>の方へ曲がってしまった。この一言で三四郎ははじめて図書館にはいることを知った。

その翌日から三四郎は四十時間の講義をほとんど半分に減らしてしまった。そうして図書館にはいった。広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。書庫は入口しか見えない。こっちの正面からのぞくと奥には、書物がいくらでも備えつけてあるように思われる。立って見ていると、書庫の中から、厚い本を二、三冊かかえて、出口へ来て左へ折れて行く者がある。職員閲覧室へ行く人である。なかには必要の本を<ruby><rb>書棚</rb><rt>しょだな</rt></ruby>からとりおろして、胸いっぱいにひろげて、立ちながら調べている人もある。三四郎はうらやましくなった。奥まで行って二階へ上がって、それから三階へ上がって、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。けれども何を読むかにいたっては、べつにはっきりした考えがない。読んでみなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。

三四郎は一年生だから書庫へはいる権利がない。しかたなしに、大きな箱入りの<ruby><rb>札目録</rb><rt>ふだもくろく</rt></ruby>を、こごんで一枚一枚調べてゆくと、いくらめくってもあとから新しい本の名が出てくる。しまいに肩が痛くなった。顔を上げて、中休みに、館内を見回すと、さすがに図書館だけあって静かなものである。しかも人がたくさんいる。そうして向こうのはずれにいる人の頭が黒く見える。目口ははっきりしない。高い窓の外から所々に木が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考えた。それでその日はそのまま帰った。

次の日は空想をやめて、はいるとさっそく本を借りた。しかし借りそくなったので、すぐ返した。あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったからまた返した。三四郎はこういうふうにして毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。もっともたまにはすこし読んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれか一度は目を通しているという事実を発見した時であった。それは書中ここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。ある時三四郎は念のため、アフラ・ベーンという作家の小説を借りてみた。あけるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしがつけてあった。この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った。ところへ窓の外を楽隊が通ったんで、つい散歩に出る気になって、通りへ出て、とうとう青木堂へはいった。

はいってみると客が二組あって、いずれも学生であったが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎がふとその横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すいみつとう</rt></ruby>をたくさん食った人のようである。向こうは気がつかない。茶を一口飲んでは<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を一吸いすって、たいへんゆっくり構えている。きょうは<ruby><rb>白地</rb><rt>しろじ</rt></ruby>の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>をやめて、背広を着ている。しかしけっしてりっぱなものじゃない。光線の圧力の野々宮君より白シャツだけがましなくらいなものである。三四郎は様子を見ているうちにたしかに水蜜桃だと<ruby><rb>物色</rb><rt>ぶっしょく</rt></ruby>した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中でこの男の話したことがなんだか急に意義のあるように思われだしたところなので、三四郎はそばへ行って<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしようかと思った。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる。手の出しようがない。

三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。

その日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで、例になくおもしろい勉強ができたので、三四郎は大いにうれしく思った。二時間ほど読書<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>に入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。

「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して<ruby><rb>醇化</rb><rt>じゅんか</rt></ruby>一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。<ruby><rb>岑々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>たる<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をおさえて未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に試験制度を<ruby><rb>呪詛</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>することを記憶せよ」

とある。署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」よほどヘーゲルの好きな男とみえる。

「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上<ruby><rb>求道</rb><rt>ぐどう</rt></ruby>の念に切なるがため、壇下に、わが<ruby><rb>不穏底</rb><rt>ふおんてい</rt></ruby>の疑義を解釈せんと欲したる<ruby><rb>清浄心</rb><rt>しょうじょうしん</rt></ruby>の発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を<ruby><rb>決定</rb><rt>けつじょう</rt></ruby>しえたり。自己の運命を改造しえたり。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺらぼう</span>に講義を聞いて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺらぼう</span>に卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは、天下の<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れなり。公らはタイプ・ライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺらぼう</span>なるかな。死に至るまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺらぼう</span>なるかな」

と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっぺらぼう</span>を二へん繰り返している。三四郎は黙然として考え込んでいた。すると、うしろからちょいと肩をたたいた者がある。例の与次郎であった。与次郎を図書館で見かけるのは珍しい。彼は講義はだめだが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張どおりにはいることも少ない男である。

「おい、野々宮宗八さんが、君を捜していた」と言う。与次郎が野々宮君を知ろうとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答を得た。さっそく本を置いて入口の新聞を閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。玄関まで出てみたがやっぱりいない。石段を降りて、首を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。やむを得ず引き返した。もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、

「だいぶ<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。三四郎は

「野々宮さんはおらんぜ」と言う。

「さっき入口にいたがな」

「何か用があるようだったか」

「あるようでもあった」

二人はいっしょに図書館を出た。その時与次郎が話した。――野々宮君は自分の<ruby><rb>寄寓</rb><rt>きぐう</rt></ruby>している広田先生の、もとの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>でよく来る。たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。

三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考えだした。与次郎にその事を話すと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。

その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにゆかない。しかしきのう自分を捜していたことが気がかりになる。さいわいまだ新宅を訪問したことがないから、こっちから行って用事を聞いてきようという気になった。

思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひる</rt></ruby>を食べたから、出かけようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。ようやくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。ちとおそくなったが、予定のとおり出た。

野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前<ruby><rb>大久保</rb><rt>おおくぼ</rt></ruby>へ越した。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。<ruby><rb>神田</rb><rt>かんだ</rt></ruby>の高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>まで来て、ついでに<ruby><rb>飯田橋</rb><rt>いいだばし</rt></ruby>まで持ってゆかれて、そこでようやく<ruby><rb>外濠線</rb><rt>そとぼりせん</rt></ruby>へ乗り換えて、<ruby><rb>御茶</rb><rt>おちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>水</rb><rt>みず</rt></ruby>から、神田橋へ出て、まだ悟らずに<ruby><rb>鎌倉河岸</rb><rt>かまくらがし</rt></ruby>を<ruby><rb>数寄屋橋</rb><rt>すきやばし</rt></ruby>の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、<ruby><rb>甲武線</rb><rt>こうぶせん</rt></ruby>は<ruby><rb>一筋</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>だと、かねて聞いているから安心して乗った。

大久保の停車場を降りて、<ruby><rb>仲百人</rb><rt>なかひゃくにん</rt></ruby>の通りを<ruby><rb>戸山</rb><rt>とやま</rt></ruby>学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>上がりにだらだらと上がると、まばらな<ruby><rb>孟宗藪</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。野々宮の家はその手前の分であった。小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置に<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>かいに立っていた。はいると、家がまた見当違いの所にあった。門も入口もまったくあとからつけたものらしい。

台所のわきにりっぱな<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>があって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。ただ大きな<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>が人の背より高く延びて、座敷の<ruby><rb>椽側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>を少し隠しているばかりである。野々宮君はこの椽側に<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでいた。三四郎のはいって来たのを見て、

「こっちへ」と言った。まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>していた。するとまた

「こっちへ」と催促するので、思い切って庭から上がることにした。座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあいに西洋の書物がたくさんある。野々宮君は椅子を離れてすわった。三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、

「きのう私を捜しておいでだったそうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒そうな顔をして、

「なにじつはなんでもないですよ」と言った。三四郎はただ「はあ」と言った。

「それでわざわざ来てくれたんですか」

「なに、そういうわけでもありません」

「じつはお国のおっかさんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、結構なものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」

「はあ、そうですか。何か送ってきましたか」

「ええ赤い<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>の<ruby><rb>粕漬</rb><rt>かすづけ</rt></ruby>なんですがね」

「じゃ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひめいち</span>でしょう」

三四郎はつまらんものを送ったものだと思った。しかし野々宮君はかの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひめいち</span>についていろいろな事を質問した。三四郎は特に食う時の心得を説明した。粕ごと焼いて、いざ<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>へうつすという時に、粕を取らないと味が抜けると言って教えてやった。

二人が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひめいち</span>について問答をしているうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰ろうと思って<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしかけるところへ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を切って、電報を読んだが、口のうちで、「困ったな」と言った。

三四郎はすましているわけにもゆかず、といってむやみに立ち入った事を聞く気にもならなかったので、ただ、

「何かできましたか」と棒のように聞いた。すると野々宮君は、

「なにたいしたことでもないのです」と言って、手に持った電報を、三四郎に見せてくれた。すぐ来てくれとある。

「どこかへおいでになるのですか」

「ええ、妹がこのあいだから病気をして、大学の病院にはいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言うんです」といっこう騒ぐ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もない。三四郎のほうはかえって驚いた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院をいっしょにまとめて、それに池の周囲で会った女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。

「じゃ、よほどお悪いんですな」

「なにそうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行ってるんですが、――もし病気のためなら、電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものだから、きょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、それで」と言って首を横に曲げて考えた。

「しかしおいでになったほうがいいでしょう。もし悪いといけません」

「さよう。<ruby><rb>四</rb><rt>し</rt></ruby>、<ruby><rb>五日</rb><rt>ごんち</rt></ruby>行かないうちにそう急に変るわけもなさそうですが、まあ行ってみるか」

「おいでになるにしくはないでしょう」

野々宮は行くことにした。行くときめたについては、三四郎に頼みがあると言いだした。万一病気のための電報とすると、今夜は帰れない。すると<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>が下女一人になる。下女が非常に<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>で、近所がことのほかぶっそうである。来合わせたのがちょうど幸いだから、あすの課業にさしつかえがなければ泊ってくれまいか、もっともただの電報ならばすぐ帰ってくる。まえからわかっていれば、例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。たった一晩のことではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだわからないさきから、関係もない人に、迷惑をかけるのはわがまますぎて、しいてとは言いかねるが、――むろん野々宮はこう<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>には頼まなかったが、相手の三四郎が、そう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知してしまった。

下女が御飯はというのを、「食わない」と言ったまま、三四郎に「失敬だが、君一人で、あとで食ってください」と夕飯まで置き去りにして、出ていった。行ったと思ったら暗い<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の間から大きな声を出して、

「ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。別におもしろいものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」

と言ったまま消えてなくなった。椽側まで見送って三四郎が礼を述べた時は、<ruby><rb>三坪</rb><rt>みつぼ</rt></ruby>ほどな孟宗藪の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。

まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さい<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を控えて、晩飯を食った。膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひめいち</span>がついている。久しぶりで<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。

飯が済むと下女は台所へ下がる。三四郎は一人になる。一人になっておちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になってきた。<ruby><rb>危篤</rb><rt>きとく</rt></ruby>なような気がする。野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。そうして妹がこのあいだ見た女のような気がしてたまらない。三四郎はもう一ぺん、女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄ではもの足らないので、いつのまにか、自分が代理になって、いろいろ親切に介抱していた。ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。<ruby><rb>根太</rb><rt>ねだ</rt></ruby>のぐあいか、土質のせいか座敷が少し震えるようである。

三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。いかさま古い建物と思われて、柱に<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>がある。その代り<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>の立てつけが悪い。天井はまっ黒だ。ランプばかりが当世に光っている。野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんな<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。もの好きならば当人の随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学からもらっていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。それで妹に入院されてはたまるまい。大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。……

<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。庭の先で虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がする。ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。その時遠い所でだれか、

「ああああ、もう少しの間だ」

と言う声がした。方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実の<ruby><rb>独白</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>と聞こえた。三四郎は気味が悪くなった。ところへまた汽車が遠くから響いて来た。その音が次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。座敷の微震がやむまでは<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていた三四郎は、<ruby><rb>石火</rb><rt>せっか</rt></ruby>のごとく、さっきの嘆声と今の列車の響きとを、一種の<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>で結びつけた。そうして、ぎくんと飛び上がった。その因果は恐るべきものである。

三四郎はこの時じっと座に着いていることのきわめて困難なのを発見した。背筋から足の裏までが<ruby><rb>疑惧</rb><rt>ぎぐ</rt></ruby>の刺激でむずむずする。立って便所に行った。窓から外をのぞくと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。それでも<ruby><rb>竹格子</rb><rt>たけごうし</rt></ruby>のあいだから鼻を出すくらいにして、暗い所をながめていた。

すると<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>の方から<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。話し声で判じると三、四人らしい。提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。

「もう少し先だ」

足音は向こうへ遠のいて行く。三四郎は庭先へ回って下駄を突っ掛けたまま孟宗藪の所から、一間余の土手を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い降りて、提灯のあとを追っかけて行った。

五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。――

「<ruby><rb>轢死</rb><rt>れきし</rt></ruby>じゃないですか」

三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。そのうち黒い男は行き過ぎた。これは野々宮君の奥に住んでいる家の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>だろうと、後をつけながら考えた。半町ほどくると提灯が留まっている。人も留まっている。人は<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をかざしたまま黙っている。三四郎は無言で灯の下を見た。下には<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、<ruby><rb>斜掛</rb><rt>はすか</rt></ruby>けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である。若い女だ。

三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。すぐ帰ろうとして、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。土手を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い上がって、座敷へもどったら、<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が打ち出した。水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰ったんだなと<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>った。やがて土手の下ががやがやする。それが済むとまた静かになる。ほとんど堪え難いほどの静かさであった。

三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という<ruby><rb>丈夫</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>へ浮き出してゆきそうに思われる。三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。ただごうという一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。

三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに<ruby><rb>面白味</rb><rt>おもしろみ</rt></ruby>があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。

三四郎は部屋のすみにあるテーブルと、テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、その本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見回して、この静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思った。――光線の圧力を研究するために、女を<ruby><rb>轢死</rb><rt>れきし</rt></ruby>させることはあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄の作った病気ではない。みずからかかった病気である。などとそれからそれへと頭が移ってゆくうちに、十一時になった。中野行の電車はもう来ない。あるいは病気が悪いので帰らないのかしらと、また心配になる。ところへ野々宮から電報が来た。妹無事、あす朝帰るとあった。

安心して床にはいったが、三四郎の夢はすこぶる危険であった。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹はすなわち三四郎が池の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>で会った女である。……

三四郎はあくる日例になく早く起きた。

寝つけない所に寝た床のあとをながめて、煙草を一本のんだが、ゆうべの事は、すべて夢のようである。椽側へ出て、低い<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。世界が今朗らかになったばかりの色をしている。飯を済まして茶を飲んで、椽側に椅子を持ち出して新聞を読んでいると、約束どおり野々宮君が帰って来た。

「昨夜、そこに轢死があったそうですね」と言う。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。

「それは珍しい。めったに会えないことだ。ぼくも家におればよかった。死骸はもう片づけたろうな。行っても見られないだろうな」

「もうだめでしょう」と一口答えたが、野々宮君ののん気なのには驚いた。三四郎はこの無神経をまったく夜と昼の差別から起こるものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、こういう場合にも、同じ態度で表われてくるのだとはまるで気がつかなかった。年が若いからだろう。

三四郎は話を転じて、病人のことを尋ねた。野々宮君の返事によると、はたして自分の推測どおり病人に異状はなかった。ただ<ruby><rb>五</rb><rt>ご</rt></ruby>、<ruby><rb>六日</rb><rt>ろくんち</rt></ruby>以来行ってやらなかったものだから、それを物足りなく思って、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。きょうは日曜だのに来てくれないのはひどいと言って怒っていたそうである。それで野々宮君は妹をばかだと言っている。本当にばかだと思っているらしい。この忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だというのである。けれども三四郎にはその意味がほとんどわからなかった。わざわざ電報を掛けてまで会いたがる妹なら、日曜の一晩や二晩をつぶしたって惜しくはないはずである。そういう人に会って過ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日はむしろ人生に遠い<ruby><rb>閑生涯</rb><rt>かんしょうがい</rt></ruby>というべきものである。自分が野々宮君であったならば、この妹のために勉強の妨害をされるのをかえってうれしく思うだろう。くらいに感じたが、その時は轢死の事を忘れていた。

野々宮君は昨夜よく寝られなかったものだからぼんやりしていけないと言いだした。きょうはさいわい昼から<ruby><rb>早稲田</rb><rt>わせだ</rt></ruby>の学校へ行く日で、大学のほうは休みだから、それまで寝ようと言っている。「だいぶおそくまで起きていたんですか」と三四郎が聞くと、じつは偶然、高等学校で教わったもとの先生の広田という人が妹の見舞いに来てくれて、みんなで話をしているうちに、電車の時間に遅れて、つい泊ることにした。広田の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ泊るべきのを、また妹がだだをこねて、ぜひ病院に泊れと言って聞かないから、やむをえず狭い所へ寝たら、なんだか苦しくって寝つかれなかった。どうも妹は<ruby><rb>愚物</rb><rt>ぐぶつ</rt></ruby>だ。とまた妹を攻撃する。三四郎はおかしくなった。少し妹のために弁護しようかと思ったが、なんだか言いにくいのでやめにした。

その代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。考えると、少し無理のようでもある。

帰る時に、ついでだから、午前中に届けてもらいたいと言って、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を一枚病院まで頼まれた。三四郎は大いにうれしかった。

三四郎は新しい四角な帽子をかぶっている。この帽子をかぶって病院に行けるのがちょっと得意である。さえざえしい顔をして野々宮君の家を出た。

御茶の水で電車を降りて、すぐ<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗った。いつもの三四郎に似合わぬ<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科のベルが鳴り出した。いつもならノートとインキ<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>を持って、八番の教室にはいる時分である。一、二時間の講義ぐらい聞きそくなってもかまわないという気で、まっすぐに青山内科の玄関まで乗りつけた。

上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当たりを左へ曲がると東側の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>だと教わったとおり歩いて行くと、はたしてあった。黒塗りの札に野々宮よし子と<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>で書いて、戸口に掛けてある。三四郎はこの名前を読んだまま、しばらく戸口の所でたたずんでいた。いなか物だからノックするなぞという気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた事はやらない。「この中にいる人が、野々宮君の妹で、よし子という女である」

三四郎はこう思って立っていた。戸をあけて顔が見たくもあるし、見て失望するのがいやでもある。自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似ていないのだから困る。

うしろから看護婦が<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>の音をたてて近づいて来た。三四郎は思い切って戸を半分ほどあけた。そうして中にいる女と顔を見合わせた。（片手にハンドルをもったまま）

目の大きな、鼻の細い、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の薄い、<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>が開いたと思うくらいに、額が広くって<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>がこけた女であった。造作はそれだけである。けれども三四郎は、こういう顔だちから出る、この時にひらめいた<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の表情を生まれてはじめて見た。青白い額のうしろに、自然のままにたれた濃い髪が、肩まで見える。それへ東窓をもれる朝日の光が、うしろからさすので、髪と<ruby><rb>日光</rb><rt>ひ</rt></ruby>の触れ合う境のところが<ruby><rb>菫色</rb><rt>すみれいろ</rt></ruby>に燃えて、生きた<ruby><rb>暈</rb><rt>つきかさ</rt></ruby>をしょってる。それでいて、顔も額もはなはだ暗い。暗くて青白い。そのなかに遠い心持ちのする目がある。高い雲が空の奥にいて容易に動かない。けれども動かずにもいられない。ただなだれるように動く。女が三四郎を見た時は、こういう目つきであった。

三四郎はこの表情のうちにものうい<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>と、隠さざる快活との統一を見いだした。その統一の感じは三四郎にとって、最も尊き人生の一片である。そうして一大発見である。三四郎はハンドルをもったまま、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出したままこの<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の感に<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>らを<ruby><rb>放下</rb><rt>ほうげ</rt></ruby>し去った。

「おはいりなさい」

女は三四郎を待ち設けたように言う。その調子には初対面の女には見いだすことのできない、安らかな<ruby><rb>音色</rb><rt>ねいろ</rt></ruby>があった。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。なれなれしいのとは違う。初めから古い知り合いなのである。同時に女は肉の豊かでない<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を動かしてにこりと笑った。青白いうちに、なつかしい暖かみができた。三四郎の足はしぜんと部屋の内へはいった。その時青年の頭のうちには遠い故郷にある母の影がひらめいた。

戸のうしろへ回って、はじめて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。この婦人は三四郎のからだがまだ扉の陰を出ないまえから席を立って待っていたものとみえる。

「<ruby><rb>小川</rb><rt>おがわ</rt></ruby>さんですか」と向こうから尋ねてくれた。顔は野々宮君に似ている。娘にも似ている。しかしただ似ているというだけである。頼まれた<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつ</rt></ruby>みを出すと、受け取って、礼を述べて、

「どうぞ」と言いながら椅子をすすめたまま、自分は<ruby><rb>寝台</rb><rt>ベッド</rt></ruby>の向こう側へ回った。

寝台の上に敷いた<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を見るとまっ白である。上へ掛けるものもまっ白である。それを半分ほど<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>にはぐって、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>のほうが厚く見えるところを、よけるように、女は窓を背にして腰をかけた。足は床に届かない。手に編針を持っている。毛糸の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>が寝台の下に転がった。女の手から長い赤い糸が筋を引いている。三四郎は寝台の下から、毛糸の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>を取り出してやろうかと思った、けれども、女が毛糸にはまるで<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>でいるので控えた。

おっかさんが向こう側から、しきりに昨夜の礼を述べる。お忙しいところをなどと言う。三四郎は、いいえ、どうせ遊んでいますからと言う。二人が話をしているあいだ、よし子は黙っていた。二人の話が切れた時、突然、

「ゆうべの轢死を御覧になって」と聞いた。見ると部屋のすみに新聞がある。三四郎が、

「ええ」と言う。

「こわかったでしょう」と言いながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄に似て首の長い女である。三四郎はこわいともこわくないとも答えずに、女の首の曲がりぐあいをながめていた。半分は質問があまり単純なので、答に窮したのである。半分は答えるのを忘れたのである。女は気がついたとみえて、すぐ首をまっすぐにした。そうして青白い頬の奥を少し赤くした。三四郎はもう帰るべき時間だと考えた。

挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向こうを見ると、長い廊下のはずれが四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上がり口に、池の女が立っている。はっと驚いた三四郎の足は、さっそく歩調に狂いができた。その時透明な空気の<ruby><rb>画布</rb><rt>カンバス</rt></ruby>の中に暗く描かれた女の影は一足前へ動いた。三四郎も誘われたように前へ動いた。二人は一筋道の廊下のどこかですれ違わねばならぬ運命をもって互いに近づいて来た。すると女が振り返った。明るい表の空気の中には、<ruby><rb>初秋</rb><rt>はつあき</rt></ruby>の緑が浮いているばかりである。振り返った女の目に応じて、四角の中に、現われたものもなければ、これを待ち受けていたものもない。三四郎はそのあいだに女の姿勢と服装を頭の中へ入れた。

着物の色はなんという名かわからない。大学の池の水へ、曇った<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>の影が映る時のようである。それはあざやかな<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>が、上から下へ貫いている。そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋になったりする。不規則だけれども乱れない。上から三<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>一のところを、広い帯で横に仕切った。帯の感じには暖かみがある。黄を含んでいるためだろう。

うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。ハンケチを持っている。そのハンケチの指に余ったところが、さらりと開いている。絹のためだろう。――腰から下は正しい姿勢にある。

女はやがてもとのとおりに向き直った。目を伏せて二足ばかり三四郎に近づいた時、突然首を少しうしろに引いて、まともに男を見た。<ruby><rb>二重瞼</rb><rt>ふたえまぶた</rt></ruby>の<ruby><rb>切長</rb><rt>きれなが</rt></ruby>のおちついた<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>である。目立って黒い<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>の下に生きている。同時にきれいな歯があらわれた。この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。

きょうは白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。こまやかな肉が、ほどよく色づいて、強い<ruby><rb>日光</rb><rt>ひ</rt></ruby>にめげないように見える上を、きわめて薄く<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>が吹いている。てらてら<ruby><rb>照</rb><rt>ひか</rt></ruby>る顔ではない。

肉は頬といわず顎といわずきちりと締まっている。骨の上に余ったものはたんとないくらいである。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かいように思われる。奥行きの長い感じを起こさせる顔である。

女は腰をかがめた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚いたというよりも、むしろ礼のしかたの巧みなのに驚いた。腰から上が、風に乗る紙のようにふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度まで来て苦もなくはっきりととまった。むろん習って覚えたものではない。

「ちょっと伺いますが……」と言う声が白い歯のあいだから出た。きりりとしている。しかし<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>である。ただ夏のさかりに<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の実がなっているかと人に聞きそうには思われなかった。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。

「はあ」と言って立ち止まった。

「十五号室はどの辺になりましょう」

十五号は三四郎が今出て来た部屋である。

「野々宮さんの部屋ですか」

今度は女のほうが「はあ」と言う。

「野々宮さんの部屋はね、その角を曲がって突き当って、また左へ曲がって、二番目の右側です」

「その角を……」と言いながら女は細い指を前へ出した。

「ええ、ついその先の角です」

「どうもありがとう」

女は行き過ぎた。三四郎は立ったまま、女の後姿を見守っている。女は角へ来た。曲がろうとするとたんに振り返った。三四郎は赤面するばかりに<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。女はにこりと笑って、この角ですかというようなあいずを顔でした。三四郎は思わずうなずいた。女の影は右へ切れて白い壁の中へ隠れた。

三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違えて部屋の番号を聞いたのかしらんと思って、五、六歩あるいたが、急に気がついた。女に十五号を聞かれた時、もう一ぺんよし子の部屋へあともどりをして、案内すればよかった。残念なことをした。

三四郎はいまさらとって帰す勇気は出なかった。やむをえずまた五、六歩あるいたが、今度はぴたりととまった。三四郎の頭の中に、女の結んでいたリボンの色が映った。そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が<ruby><rb>兼安</rb><rt>かねやす</rt></ruby>で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。図書館の横をのたくるように正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声をかけた。

「おいなぜ休んだ。きょうはイタリー人がマカロニーをいかにして食うかという講義を聞いた」と言いながら、そばへ寄って来て三四郎の肩をたたいた。

二人は少しいっしょに歩いた。正門のそばへ来た時、三四郎は、

「君、今ごろでも薄いリボンをかけるものかな。あれは<ruby><rb>極暑</rb><rt>ごくしょ</rt></ruby>に限るんじゃないか」と聞いた。与次郎はアハハハと笑って、

「○○教授に聞くがいい。なんでも知ってる男だから」と言って取り合わなかった。

正門の所で三四郎はぐあいが悪いからきょうは学校を休むと言い出した。与次郎はいっしょについて来て損をしたといわぬばかりに教室の方へ帰って行った。

## 四

三四郎の魂がふわつき出した。講義を聞いていると、遠方に聞こえる。わるくすると肝要な事を書き落とす。はなはだしい時はひとの耳を損料で借りているような気がする。三四郎はばかばかしくてたまらない。<ruby><rb>仕方</rb><rt>しかた</rt></ruby>なしに、与次郎に向かって、どうも近ごろは講義がおもしろくないと言い出した。与次郎の答はいつも同じことであった。

「講義がおもしろいわけがない。君はいなか者だから、いまに偉い事になると思って、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までしんぼうして聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼らの講義は<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>以来こんなものだ。いまさら失望したってしかたがないや」

「そういうわけでもないが……」三四郎は弁解する。与次郎のへらへら調と、三四郎の重苦しい口のききようが、<ruby><rb>不釣合</rb><rt>ふつりあい</rt></ruby>ではなはだおかしい。

こういう問答を二、三度繰り返しているうちに、いつのまにか<ruby><rb>半月</rb><rt>はんつき</rt></ruby>ばかりたった。三四郎の耳は<ruby><rb>漸々</rb><rt>ぜんぜん</rt></ruby>借りものでないようになってきた。すると今度は与次郎のほうから、三四郎に向かって、

「どうも妙な顔だな。いかにも生活に疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」と批評し出した。三四郎は、この批評に対しても依然として、

「そういうわけでもないが……」を繰り返していた。三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。またこれを興味ある<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>として使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎は<ruby><rb>下痢</rb><rt>げり</rt></ruby>のためばかりとは思わなかった。けれども大いに疲れた顔を<ruby><rb>標榜</rb><rt>ひょうぼう</rt></ruby>するほど、人生観のハイカラでもなかった。それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。

そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年がとうてい人生に疲れていることができない時節が来た。三四郎はよく出る。大学の池の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>もだいぶん回ってみたが、べつだんの変もない。病院の前も何べんとなく往復したが普通の人間に会うばかりである。また理科大学の穴倉へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。玄関で会った女の事を話そうと思ったが、<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>が忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前も<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>もたいていはわかることだから、せかずに引き取った。そうして、ふわふわして方々歩いている。<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>だの、<ruby><rb>道灌山</rb><rt>どうかんやま</rt></ruby>だの、<ruby><rb>染井</rb><rt>そめい</rt></ruby>の墓地だの、<ruby><rb>巣鴨</rb><rt>すがも</rt></ruby>の監獄だの、<ruby><rb>護国寺</rb><rt>ごこくじ</rt></ruby>だの、――三四郎は<ruby><rb>新井</rb><rt>あらい</rt></ruby>の<ruby><rb>薬師</rb><rt>やくし</rt></ruby>までも行った。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、<ruby><rb>落合</rb><rt>おちあい</rt></ruby>の<ruby><rb>火葬場</rb><rt>やきば</rt></ruby>の辺で道を間違えて、<ruby><rb>高田</rb><rt>たかた</rt></ruby>へ出たので、<ruby><rb>目白</rb><rt>めじろ</rt></ruby>から汽車へ乗って帰った。汽車の中でみやげに買った<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>を一人でさんざん食った。その余りはあくる日与次郎が来て、みんな平らげた。

三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。初めのうちはあまり講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなって筆記に困ったが、近ごろはたいていに聞いているからなんともない。講義中にいろいろな事を考える。少しぐらい落としても惜しい気も起こらない。よく観察してみると与次郎はじめみんな同じことである。三四郎はこれくらいでいいものだろうと思い出した。

三四郎がいろいろ考えるうちに、時々例のリボンが出てくる。そうすると気がかりになる。はなはだ不愉快になる。すぐ大久保へ出かけてみたくなる。しかし想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくするとまぎれてしまう。だからだいたいはのん気である。それで夢を見ている。大久保へはなかなか行かない。

ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、<ruby><rb>団子坂</rb><rt>だんござか</rt></ruby>の上から、左へ折れて<ruby><rb>千駄木</rb><rt>せんだぎ</rt></ruby><ruby><rb>林町</rb><rt>はやしちょう</rt></ruby>の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。

坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>さえ見えた。今はただ声だけ聞こえる、どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。そのまた余波が三四郎の<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>のそばまで来てしぜんにとまる。騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。

時に突然左の横町から二人あらわれた。その一人が三四郎を見て、「おい」と言う。

与次郎の声はきょうにかぎって、<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>である。その代り<ruby><rb>連</rb><rt>つれ</rt></ruby>がある。三四郎はその連を見た時、はたして日ごろの推察どおり、青木堂で茶を飲んでいた人が、広田さんであるということを悟った。この人とは<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すいみつとう</rt></ruby>以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで煙草をのんで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、いっそうよく記憶にしみている。いつ見ても<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>のような顔に西洋人の鼻をつけている。きょうもこのあいだの夏服で、べつだん寒そうな様子もない。

三四郎はなんとか言って、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしようと思ったが、あまり時間がたっているので、どう口をきいていいかわからない。ただ帽子を取って礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧すぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎はどっちつかずの中間にでた。すると与次郎が、すぐ、

「この男は私の同級生です。熊本の高等学校からはじめて東京へ出て来た――」と聞かれもしないさきからいなか者を<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>しておいて、それから三四郎の方を向いて、

「これが広田先生。高等学校の……」とわけもなく<ruby><rb>双方</rb><rt>そうほう</rt></ruby>を紹介してしまった。

この時広田先生は「知ってる、知ってる」と二へん繰り返して言ったので、与次郎は妙な顔をしている。しかしなぜ知ってるんですかなどとめんどうな事は聞かなかった。ただちに、

「君、この辺に貸家はないか。広くて、きれいな、書生部屋のある」と尋ねだした。

「貸家はと……ある」

「どの辺だ。きたなくっちゃいけないぜ」

「いやきれいなのがある。大きな石の門が立っているのがある」

「そりゃうまい。どこだ。先生、石の門はいいですな。ぜひそれにしようじゃありませんか」と与次郎は大いに進んでいる。

「石の門はいかん」と先生が言う。

「いかん？　そりゃ困る。なぜいかんです」

「なぜでもいかん」

「石の門はいいがな。新しい男爵のようでいいじゃないですか、先生」

与次郎はまじめである。広田先生はにやにや笑っている。とうとうまじめのほうが勝って、ともかくも見ることに相談ができて、三四郎が案内をした。

横町をあとへ引き返して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来た所に、突き当りと思われるような<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>がある。その小路の中へ三四郎は二人を連れ込んだ。まっすぐに行くと植木屋の庭へ出てしまう。三人は入口の五、六間手前でとまった。右手にかなり大きな<ruby><rb>御影</rb><rt>みかげ</rt></ruby>の柱が二本立っている。<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>は鉄である。三四郎がこれだと言う。なるほど貸家札がついている。

「こりゃ恐ろしいもんだ」と言いながら、与次郎は鉄の扉をうんと押したが、錠がおりている。「ちょっとお待ちなさい聞いてくる」と言うやいなや、与次郎は植木屋の奥の方へ駆け込んで行った。広田と三四郎は取り残されたようなものである。二人で話を始めた。

「東京はどうです」

「ええ……」

「広いばかりできたない所でしょう」

「ええ……」

「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」

三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている<ruby><rb>世相</rb><rt>せそう</rt></ruby>とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象をいつのまにか取り落していたのを恥ずかしく思った。すると、

「君、<ruby><rb>不二山</rb><rt>ふじさん</rt></ruby>を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。

「翻訳とは……」

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」

三四郎は翻訳の意味を了した。

「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も人格上の感化を与えていない」

三四郎はまだあとがあるかと思って、黙って聞いていた。ところが広田さんはそれでやめてしまった。植木屋の奥の方をのぞいて、

「佐々木は何をしているのかしら。おそいな」とひとりごとのように言う。

「見てきましょうか」と三四郎が聞いた。

「なに、見にいったって、それで出てくるような男じゃない。それよりここに待ってるほうが手間がかからないでいい」と言って<ruby><rb>枳殻</rb><rt>からたち</rt></ruby>の垣根の下にしゃがんで、小石を拾って、土の上へ何かかき出した。のん気なことである。与次郎ののん気とは方角が反対で、程度がほぼ相似ている。

ところへ植込みの松の向こうから、与次郎が大きな声を出した。

「先生先生」

先生は依然として、何かかいている。どうも<ruby><rb>燈明台</rb><rt>とうみょうだい</rt></ruby>のようである。返事をしないので、与次郎はしかたなしに出て来た。

「先生ちょっと見てごらんなさい。いい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だ。この植木屋で持ってるんです。門をあけさせてもいいが、裏から回ったほうが早い」

三人は裏から回った。雨戸をあけて、<ruby><rb>一間一間</rb><rt>ひとまひとま</rt></ruby>見て歩いた。中流の人が住んで恥ずかしくないようにできている。家賃が四十円で、敷金が三か月分だという。三人はまた表へ出た。

「なんで、あんなりっぱな家を見るのだ」と広田さんが言う。

「なんで見るって、ただ見るだけだからいいじゃありませんか」と与次郎は言う。

「借りもしないのに……」

「なに借りるつもりでいたんです。ところが家賃をどうしても二十五円にしようと言わない……」

広田先生は「あたりまえさ」と言ったぎりである。すると与次郎が石の門の歴史を話し出した。このあいだまである出入りの屋敷の入口にあったのを、改築のときもらってきて、すぐあすこへ立てたのだと言う。与次郎だけに妙な事を研究してきた。

それから三人はもとの大通りへ出て、<ruby><rb>動坂</rb><rt>どうざか</rt></ruby>から<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>の谷へ降りたが、降りた時分には三人ともただ歩いている。貸家の事はみんな忘れてしまった。ひとり与次郎が時々石の門のことを言う。<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>からあれを千駄木まで引いてくるのに、手間が五円ほどかかったなどと言う。あの植木屋はだいぶ金持ちらしいなどとも言う。あすこへ四十円の貸家を建てて、ぜんたいだれが借りるだろうなどとよけいなことまで言う。ついには、いまに借手がなくなってきっと家賃を下げるに違いないから、その時もう一ぺん談判してぜひ借りようじゃありませんかという結論であった。広田先生はべつに、そういう了見もないとみえて、こう言った。

「君が、あんまりよけいな話ばかりしているものだから、時間がかかってしかたがない。いいかげんにして出てくるものだ」

「よほど長くかかりましたか。何か絵をかいていましたね。先生もずいぶんのん気だな」

「どっちがのんきかわかりゃしない」

「ありゃなんの絵です」

先生は黙っている。その時三四郎がまじめな顔をして、

「燈台じゃないですか」と聞いた。かき手と与次郎は笑い出した。

「燈台は奇抜だな。じゃ野々宮宗八さんをかいていらしったんですね」

「なぜ」

「野々宮さんは外国じゃ光ってるが、日本じゃまっ暗だから。――だれもまるで知らない。それでわずかばかりの月給をもらって、穴倉へたてこもって、――じつに割に合わない商売だ。野々宮さんの顔を見るたびに気の毒になってたまらない」

「君なぞは自分のすわっている周囲方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすだけだから、<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>のようなものだ」

丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

「小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は簡単に、

「ぼくは二十三だ」と答えた。

「そんなものだろう。――先生ぼくは、丸行燈だの、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>だのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする。君はどうだ」とまた三四郎の方を向く。三四郎は、

「ぼくはべつだんきらいでもない」と言った。

「もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」

三四郎も広田もこれに対してべつだんの挨拶をしなかった。少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、きれいに地ならしをした上に、青ペンキ塗りの西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗りを等分に見ていた。

「<ruby><rb>時代錯誤</rb><rt>アナクロニズム</rt></ruby>だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、<ruby><rb>江戸名所図会</rb><rt>えどめいしょずえ</rt></ruby>に出ている」

「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

広田先生は笑い出した。じつは東京名所という<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、<ruby><rb>偕行社</rb><rt>かいこうしゃ</rt></ruby>という新式の<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。

与次郎も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前を通り越して、五、六町来ると、大きな黒い門がある。与次郎が、ここを抜けて<ruby><rb>道灌山</rb><rt>どうかんやま</rt></ruby>へ出ようと言い出した。抜けてもいいのかと念を押すと、なにこれは<ruby><rb>佐竹</rb><rt>さたけ</rt></ruby>の<ruby><rb>下屋敷</rb><rt>しもやしき</rt></ruby>で、だれでも通れるんだからかまわないと主張するので、二人ともその気になって門をくぐって、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の下を通って古い池のそばまで来ると、番人が出てきて、たいへん三人をしかりつけた。その時与次郎はへいへいと言って番人にあやまった。

それから<ruby><rb>谷中</rb><rt>やなか</rt></ruby>へ出て、<ruby><rb>根津</rb><rt>ねづ</rt></ruby>を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。

翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きな<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがって<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>で<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>を食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>になった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>まで帰ってくる。

着物を脱ぎ換えて<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向かうと、膳の上に、<ruby><rb>茶碗蒸</rb><rt>ちゃわんむし</rt></ruby>といっしょに手紙が一本載せてある。その<ruby><rb>上封</rb><rt>うわふう</rt></ruby>を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。すまんことだがこの半月あまり母の事はまるで忘れていた。きのうからきょうへかけては<ruby><rb>時代錯誤</rb><rt>アナクロニズム</rt></ruby>だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影もいっこう頭の中へ出てこなかった。三四郎はそれで満足である。母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事を済まして、煙草を吹かした。その煙を見るとさっきの講義を思い出す。

そこへ与次郎がふらりと現われた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。

「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、

「急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか」と言う。

こんなに忙しがるくせに、きのうは散歩だか、貸家捜しだかわからないようにぶらぶらつぶしていた。三四郎にはほとんど<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がいかない。与次郎はこれを解釈して、それは先生がいっしょだからさと言った。「元来先生が家を捜すなんて間違っている。けっして捜したことのない男なんだが、きのうはどうかしていたに違いない。おかげで佐竹の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>でひどい目にしかられていい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の皮だ。――君どこかないか」と急に催促する。与次郎が来たのはまったくそれが目的らしい。よくよく原因を聞いてみると、今の持ち主が高利貸で、家賃をむやみに上げるのが、<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だというので、与次郎がこっちからたちのきを宣告したのだそうだ。それでは与次郎に責任があるわけだ。

「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだ<ruby><rb>色光沢</rb><rt>いろつや</rt></ruby>が悪い。――<ruby><rb>辣薑性</rb><rt>らっきょうせい</rt></ruby>の美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。<ruby><rb>轢死</rb><rt>れきし</rt></ruby>もあれぎりないそうだ」

与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締まりのないうえに、きょうは<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>捜しで少しせきこんでいる。話が一段落つくと、相の手のように、どこかないかないかと聞く。しまいには三四郎も笑い出した。

そのうち与次郎の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>が次第におちついてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用してうれしがるようになった。話題ははしなく広田先生の上に落ちた。

「君の所の先生の名はなんというのか」

「名は<ruby><rb>萇</rb><rt>ちょう</rt></ruby>」と指で書いて見せて、「<ruby><rb>艸冠</rb><rt>くさかんむり</rt></ruby>がよけいだ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」と言う。

「高等学校の先生か」

「昔から<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>に至るまで高等学校の先生。えらいものだ。十年一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>のごとしというが、もう十二、三年になるだろう」

「子供はおるのか」

「子供どころか、まだ<ruby><rb>独身</rb><rt>ひとりみ</rt></ruby>だ」

三四郎は少し驚いた。あの年まで一人でいられるものかとも疑った。

「なぜ奥さんをもらわないのだろう」

「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理論家なんだ。<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>をもらってみないさきから、細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。愚だよ。だからしじゅう<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>ばかりしている。先生、東京ほどきたない所はないように言う。それで石の門を見ると恐れをなして、いかんいかんとか、りっぱすぎるとか言うだろう」

「じゃ細君も試みに持ってみたらよかろう」

「大いによしとかなんとか言うかもしれない」

「先生は東京がきたないとか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもしたことがあるのか」

「なにするもんか。ああいう人なんだ。万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリの<ruby><rb>凱旋門</rb><rt>がいせんもん</rt></ruby>だの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」

「三等汽車へ乗っておったぞ」

「きたないきたないって不平を言やしないか」

「いやべつに不平も言わなかった」

「しかし先生は哲学者だね」

「学校で哲学でも教えているのか」

「いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」

「著述でもあるのか」

「何もない。時々論文を書く事はあるが、ちっとも反響がない。あれじゃだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事を<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>だと言ったが、<ruby><rb>夫子</rb><rt>ふうし</rt></ruby>自身は偉大な暗闇だ」

「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」

「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」

三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>じゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな<ruby><rb>瑣末</rb><rt>さまつ</rt></ruby>な事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」

与次郎はまじめである。三四郎はその<ruby><rb>大言</rb><rt>たいげん</rt></ruby>に驚いた。驚いてもかまわない。驚いたままに進行して、しまいに、

「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」と頼んだ。まるで約束のできた家がとうからあるごとき<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>である。

与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。一人ですわっていると、どことなく<ruby><rb>肌寒</rb><rt>はださむ</rt></ruby>の感じがする。ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。障子をあけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>に、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。

三四郎はすぐ<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>へはいった。三四郎は勉強家というよりむしろ<ruby><rb>彽徊家</rb><rt>ていかいか</rt></ruby>なので、わりあい書物を読まない。その代りある<ruby><rb>掬</rb><rt>きく</rt></ruby>すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に<ruby><rb>奥行</rb><rt>おくゆき</rt></ruby>があるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。

手紙には<ruby><rb>新蔵</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>が<ruby><rb>蜂蜜</rb><rt>はちみつ</rt></ruby>をくれたから、<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>を混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると<ruby><rb>年貢米</rb><rt>ねんぐまい</rt></ruby>を二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>が強いので、時々女房を<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>でなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏の<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけてすぐ<ruby><rb>籾漏斗</rb><rt>もみじょうご</rt></ruby>に酒を吹きかけて、ことごとく<ruby><rb>生捕</rb><rt>いけどり</rt></ruby>にした。それからこれを箱へ入れて、<ruby><rb>出入</rb><rt>ではい</rt></ruby>りのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。また足りなくなる。三つにする。というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。<ruby><rb>毎年</rb><rt>まいとし</rt></ruby>夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。が、<ruby><rb>今年</rb><rt>ことし</rt></ruby>は物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。

<ruby><rb>平太郎</rb><rt>へいたろう</rt></ruby>がおやじの<ruby><rb>石塔</rb><rt>せきとう</rt></ruby>を建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、<ruby><rb>御影石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>でできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>とかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かにはわからないが、あなたのとこの<ruby><rb>若旦那</rb><rt>わかだんな</rt></ruby>は大学校へはいっているくらいだから、石の<ruby><rb>善悪</rb><rt>よしあし</rt></ruby>はきっとわかる。今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。――三四郎はひとりでくすくす笑い出した。千駄木の石門よりよほど激しい。

大学の制服を着た写真をよこせとある。三四郎はいつか<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>ってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。――このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんも<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>大学を卒業なさることだが、卒業したら<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の娘をもらってくれまいかという相談であった。お光さんは器量もよし<ruby><rb>気質</rb><rt>きだて</rt></ruby>も優しいし、家に<ruby><rb>田地</rb><rt>でんち</rt></ruby>もだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書がつけてある。――お光さんもうれしがるだろう。――東京の者は<ruby><rb>気心</rb><rt>きごころ</rt></ruby>が知れないから私はいやじゃ。

三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ置いたまま目を眠った。<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>が急に<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>であばれだしたが、やがて静まった。

三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば<ruby><rb>立退場</rb><rt>たちのきば</rt></ruby>のようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に<ruby><rb>彽徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>して旧歓をあたためる。

第二の世界のうちには、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。

第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい<ruby><rb>不精</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて歩いている。<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>は必ずきたない。<ruby><rb>生計</rb><rt>くらし</rt></ruby>はきっと貧乏である。そうして<ruby><rb>晏如</rb><rt>あんじょ</rt></ruby>としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、<ruby><rb>火宅</rb><rt>かたく</rt></ruby>をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。

第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。<ruby><rb>銀匙</rb><rt>ぎんさじ</rt></ruby>がある。歓声がある。笑語がある。<ruby><rb>泡立</rb><rt>あわだ</rt></ruby>つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>がある。三四郎はその女性の<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の<ruby><rb>稲妻</rb><rt>いなずま</rt></ruby>と一般である。三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。

三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかから一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。

結果はすこぶる平凡である。けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を<ruby><rb>上下</rb><rt>しょうか</rt></ruby>しやすい思索家自身からみると、それほど平凡ではなかった。

ただこうすると広い第三の世界を<ruby><rb>眇</rb><rt>びょう</rt></ruby>たる一個の細君で代表させることになる。美しい女性はたくさんある。美しい女性を翻訳するといろいろになる。――三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――いやしくも人格上の言葉に翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである。

三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからである。

翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。

「アハハハ。アハハハ」

偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。交番の巡査さえ薄笑いをしている。

「なんだ」

「なんだもないものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」

三四郎にはこの洋語の意味がよくわからなかった。しかたがないから、

「家はあったか」と聞いた。

「その事で今君の所へ行ったんだ――あすいよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」

「どこへ越す」

「<ruby><rb>西片町</rb><rt>にしかたまち</rt></ruby>十番地への三号。九時までに向こうへ行って<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>をしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」

与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰った。その晩取って返して、図書館でロマンチック・アイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。

あくる日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。古い家だ。

玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それと<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>の手に座敷がある。座敷のうしろが茶の間で、茶の間の向こうが勝手、下女部屋と順に並んでいる。ほかに二階がある。ただし何畳だかわからない。

三四郎は掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと認めた。むろんきれいじゃない。しかし何といって、取って捨てべきものも見当らない。しいて捨てれば畳建具ぐらいなものだと考えながら、雨戸だけをあけて、座敷の<ruby><rb>椽側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>へ腰をかけて庭をながめていた。

大きな<ruby><rb>百日紅</rb><rt>ひゃくじつこう</rt></ruby>がある。しかしこれは根が隣にあるので、幹の半分以上が横に<ruby><rb>杉垣</rb><rt>すぎがき</rt></ruby>から、こっちの領分をおかしているだけである。大きな桜がある。これはたしかに垣根の中にはえている。その代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども<ruby><rb>寒菊</rb><rt>かんぎく</rt></ruby>とみえて、いっこう咲いていない。このほかにはなんにもない。気の毒なような庭である。ただ土だけは平らで、<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>が細かではなはだ美しい。三四郎は土を見ていた。じっさい土を見るようにできた庭である。

そのうち高等学校で天長節の式の始まるベルが鳴りだした。三四郎はベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、また<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>がないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。

二方は<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>って、<ruby><rb>瓶裏</rb><rt>へいり</rt></ruby>にながむべきものである。

この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。

「失礼でございますが……」

女はこの句を冒頭に置いて<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に映った。

二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス！　池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

「広田さんのお<ruby><rb>移転</rb><rt>こし</rt></ruby>になるのは、こちらでございましょうか」

「はあ、ここです」

女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。

「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。

「まだ来ません。もう来るでしょう」

女はしばしためらった。手に大きな<ruby><rb>籃</rb><rt>バスケット</rt></ruby>をさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それに<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>だか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである。

上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

「あなたは……」

風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。

「掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。すると女も笑いながら、

「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」を略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、

「あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。

名刺には<ruby><rb>里見美禰子</rb><rt>さとみみねこ</rt></ruby>とあった。<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby><ruby><rb>真砂町</rb><rt>まさごちょう</rt></ruby>だから谷を越すとすぐ向こうである。三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。

「あなたにはお目にかかりましたな」と名刺を<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ入れた三四郎が顔をあげた。

「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。

「まだある」

「それから池の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>で……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、

「どうも失礼いたしました」と句切りをつけたので、三四郎は、

「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は桜の枝を見ていた。<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越しの荷物はなかなかやってこない。

「なにか先生に御用なんですか」

三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である。

「私もお手伝いに頼まれました」

三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。

「砂でたいへんだ。着物がよごれます」

「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、

「掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。

「まだやらんです」

「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」

三四郎はすぐに立った。女は動かない。腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから、隣で借りるほうがよかろうと言う。三四郎はすぐ隣へ行った。さっそく箒とはたきと、それからバケツと<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>まで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。

「あって……」と一口言っただけである。

三四郎は箒を肩へかついで、バケツを右の手へぶら下げて「ええありました」とあたりまえのことを答えた。

女は<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>のまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれの<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。女は箒を取った。

「いったんはき出しましょう」と言いながら、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>からは美しい<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の袖が見える。<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。

美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾をかける。三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。

三四郎がバケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきと箒を持って二階へ上がった。

「ちょっと来てください」と上から三四郎を呼ぶ。

「なんですか」とバケツをさげた三四郎が<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>の下から言う。女は暗い所に立っている。前だれだけがまっ白だ。三四郎はバケツをさげたまま二、三段上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。

「なんですか」

「なんだか暗くってわからないの」

「なぜ」

「なぜでも」

三四郎は追窮する気がなくなった。美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。バケツを暗い椽側へ置いて戸をあける。なるほど<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>のぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。

「まだあからなくって」

美禰子は反対の側へ行った。

「こっちです」

三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、バケツに蹴つまずいた。大きな音がする。ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。まぼしいくらいである。二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。

裏の窓もあける。窓には竹の<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>がついている。<ruby><rb>家主</rb><rt>やぬし</rt></ruby>の庭が見える。鶏を飼っている。美禰子は例のごとく掃き出した。三四郎は四つ<ruby><rb>這</rb><rt>ば</rt></ruby>いになって、あとから<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>き出した。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

「まあ」と言った。

やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま<ruby><rb>外面</rb><rt>そと</rt></ruby>をながめている。そのうち三四郎も拭き終った。ぬれ雑巾をバケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。

「何を見ているんです」

「あててごらんなさい」

「<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>ですか」

「いいえ」

「あの大きな木ですか」

「いいえ」

「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

「私さっきからあの白い雲を見ておりますの」

なるほど白い雲が大きな空を渡っている。空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。美禰子はそのかたまりを指さして言った。

「<ruby><rb>駝鳥</rb><rt>だちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>襟巻</rb><rt>ボーア</rt></ruby>に似ているでしょう」

三四郎はボーアという言葉を知らなかった。それで知らないと言った。美禰子はまた、

「まあ」と言ったが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。その時三四郎は、

「うん、あれなら知っとる」と言った。そうして、あの白い雲はみんな雪の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>で、下から見てあのくらいに動く以上は、<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>以上の速度でなくてはならないと、このあいだ野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は、

「あらそう」と言いながら三四郎を見たが、

「雪じゃつまらないわね」と否定を許さぬような調子であった。

「なぜです」

「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか」

「そうですか」

「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

「あなたは高い所を見るのが好きのようですな」

「ええ」

美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。

ところへ遠くから荷車の音が聞こえる。今静かな横町を曲がって、こっちへ近づいて来るのが地響きでよくわかる。三四郎は「来た」と言った。美禰子は「早いのね」と言ったままじっとしている。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳をすましている。車はおちついた秋の中を容赦なく近づいて来る。やがて門の前へ来てとまった。

三四郎は美禰子を捨てて二階を駆け降りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門をはいるのとが同時同刻であった。

「早いな」と与次郎がまず声をかけた。

「おそいな」と三四郎が答えた。美禰子とは反対である。

「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは下女と車屋ばかりでどうすることもできない」

「先生は」

「先生は学校」

二人が話を始めているうちに、車屋が荷物をおろし始めた。下女もはいって来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物がたくさんある。並べるのは一仕事だ。

「里見のお嬢さんは、まだ来ていないか」

「来ている」

「どこに」

「二階にいる」

「二階に何をしている」

「何をしているか、二階にいる」

「冗談じゃない」

与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いに梯子段の下まで行って、例のとおりの声で、

「里見さん、里見さん。書物をかたづけるから、ちょっと手伝ってください」と言う。

「ただ今参ります」

箒とはたきを持って、美禰子は静かに降りて来た。

「何をしていたんです」と下から与次郎がせきたてるように聞く。

「二階のお掃除」と上から返事があった。

降りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。<ruby><rb>車力</rb><rt>しゃりき</rt></ruby>のおろした書物がいっぱい積んである。三四郎がその中へ、向こうむきにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。

「まあたいへんね。これをどうするの」と美禰子が言った時、三四郎はしゃがみながら振り返った。にやにや笑っている。

「たいへんもなにもありゃしない。これを<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へ入れて、片づけるんです。いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。――君、しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」と与次郎が小言を言う。

美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。

「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り回す。

「だってないんですもの」

「なにないことがあるものか」

「あった、あった」と三四郎が言う。

「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」

「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」

三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、

「おいどうした」と聞く。

「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。

三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。

「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の<ruby><rb>髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>で香水のにおいがする。

絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。

「<ruby><rb>人魚</rb><rt>マーメイド</rt></ruby>」

「<ruby><rb>人魚</rb><rt>マーメイド</rt></ruby>」

頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、

「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。

ところへ広田先生がフロックコートで天長節の式から帰ってきた、三人は挨拶をする時に画帖を伏せてしまった。先生が書物だけはやく片づけようというので、三人がまた根気にやり始めた。今度は主人公がいるので、そう油を売ることもできなかったとみえて、一時間後には、どうか、こうか廊下の書物が書棚の中へ詰まってしまった。四人は立ち並んできれいに片づいた書物を一応ながめた。

「あとの整理はあしただ」と与次郎が言った。これでがまんなさいといわぬばかりである。

「だいぶお集めになりましたね」と美禰子が言う。

「先生これだけみんなお読みになったですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎はじっさい参考のため、この事実を確かめておく必要があったとみえる。

「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」

与次郎は頭をかいている。三四郎はまじめになって、じつはこのあいだから大学の図書館で、少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通している。試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなったから聞いてみたと言う。

「アフラ・ベーンならぼくも読んだ」

広田先生のこの<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>には三四郎も驚いた。

「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が言った。

広田は笑って座敷の方へ行く。着物を着換えるためだろう。美禰子もついて出た。あとで与次郎が三四郎にこう言った。

「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない。もう少し<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>るものを読んで、もう少し出しゃばってくれるといいがな」

与次郎の言葉はけっして冷評ではなかった。三四郎は黙って本箱をながめていた。すると座敷から美禰子の声が聞こえた。

「ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい」

二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来た<ruby><rb>籃</rb><rt>バスケット</rt></ruby>が据えてある。<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>が取ってある。中にサンドイッチがたくさんはいっている。美禰子はそのそばにすわって、籃の中のものを小皿へ取り分けている。与次郎と美禰子の問答が始まった。

「よく忘れずに持ってきましたね」

「だって、わざわざ御注文ですもの」

「その籃も買ってきたんですか」

「いいえ」

「家にあったんですか」

「ええ」

「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しのあいだ置いて働かせればいいのに」

「車夫はきょうは使いに出ました。女だってこのくらいなものは持てますわ」

「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」

「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」

美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しもよどみがない。しかもゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。

台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。

「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」

「アフラ・ベーンか」

「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」

「英国の<ruby><rb>閨秀</rb><rt>けいしゅう</rt></ruby>作家だ。十七世紀の」

「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」

「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」

「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」

「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」

三四郎はきれいに忘れている。先生にその<ruby><rb>梗概</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、<ruby><rb>奴隷</rb><rt>どれい</rt></ruby>に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の<ruby><rb>実見譚</rb><rt>じっけんだん</rt></ruby>だとして後世に信ぜられているという話である。

「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。

「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」

「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」

「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。

広田先生は例によって煙草をのみ出した。与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。なるほど煙の出方が少し違う。<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>として太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎はその<ruby><rb>煙柱</rb><rt>えんちゅう</rt></ruby>をながめて、半分背を<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>に持たしたまま黙っている。三四郎の目はぼんやり庭の上にある。引っ越しではない。まるで小集のていに見える。談話もしたがって気楽なものである。ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>とみえる。

「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。

「へえ、伺っておきます」と与次郎が<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>に言う。

「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」

「へえ、いっしょにしやしません」

洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity'<ruby><rb>s</rb><rt>ピチーズ</rt></ruby> <ruby><rb>akin</rb><rt>アキン</rt></ruby> <ruby><rb>to</rb><rt>ツー</rt></ruby> <ruby><rb>love</rb><rt>ラッブ</rt></ruby> という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。

「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、

「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を提出した。

そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、

「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」

「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。

「もうたいてい片づいたんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。

「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。

「少し手伝っていただきましょうか」と美禰子が与次郎に調子を合わせた。野々宮さんはにやにや笑いながら、

「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。

「今ぼくが翻訳をして先生にしかられたところです」

「翻訳を？　どんな翻訳ですか」

「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」

「へえ」と言った野々宮君は椽側で<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>かいに向き直った。「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味がわからない」

「だれだってわからんさ」と今度は先生が言った。

「いや、少し言葉をつめすぎたから――あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」

「アハハハ。そうしてその原文はなんというのです」

「Pity'<ruby><rb>s</rb><rt>ピチーズ</rt></ruby> <ruby><rb>akin</rb><rt>アキン</rt></ruby> <ruby><rb>to</rb><rt>ツー</rt></ruby> <ruby><rb>love</rb><rt>ラッブ</rt></ruby>」と美禰子が繰り返した。美しいきれいな発音であった。

野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。

「なるほどうまい訳だ」

三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。

美禰子は台所へ立って、<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>を洗って、新しい茶をついで、椽側の端まで持って出る。

「お茶を」と言ったまま、そこへすわった。「よし子さんは、どうなすって」と聞く。

「ええ、からだのほうはもう回復しましたが」とまた腰をかけて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。

「先生、せっかく大久保へ越したが、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」

「なぜ」

「妹が学校へ行き帰りに、<ruby><rb>戸山</rb><rt>とやま</rt></ruby>の原を通るのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女だけになるものですからね。<ruby><rb>臆病者</rb><rt>おくびょうもの</rt></ruby>の二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」と冗談半分の嘆声をもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも<ruby><rb>食客</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>に置いてくれませんか」と美禰子の顔を見た。

「いつでも置いてあげますわ」

「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」と与次郎が口を出した。

「どちらでも」

三四郎だけ黙っていた。広田先生は少しまじめになって、

「そうして君はどうする気なんだ」

「妹の始末さえつけば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供だから、ぼくがしじゅう行けるか、向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです」

「それじゃ里見さんの所に限る」と与次郎がまた注意を与えた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、

「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」と言う。

「先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑いながら、

「まあ、どうかしましょう。――<ruby><rb>身長</rb><rt>なり</rt></ruby>ばかり大きくってばかだからじつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れていけなんて言うんだから」

「連れていっておあげなさればいいのに。私だって見たいわ」

「じゃいっしょに行きましょうか」

「ええぜひ。小川さんもいらっしゃい」

「ええ行きましょう」

「佐々木さんも」

「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます」

「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」

「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。

「昔教場で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」と野々宮君が言った。

「じゃ先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に言う。先生は黙っている。みんな笑いだした。

台所からばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはりすわっていた。

「どれぼくも失礼しようか」と野々宮さんが腰を上げる。

「あらもうお帰り。ずいぶんね」と美禰子が言う。

「このあいだのものはもう少し待ってくれたまえ」と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」と言いながら、庭先に脱いであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。表で何か話している。

三四郎は黙ってすわっていた。

## 五

門をはいると、このあいだの<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>が、人の<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>より高く茂って、株の根に黒い影ができている。この黒い影が地の上をはって、奥の方へゆくと、見えなくなる。葉と葉の重なる裏まで上ってくるようにも思われる。それほど表には濃い日があたっている。手洗水のそばに<ruby><rb>南天</rb><rt>なんてん</rt></ruby>がある。これも普通よりは背が高い。三本寄ってひょろひょろしている。葉は便所の窓の上にある。

萩と南天の間に椽側が少し見える。椽側は南天を基点としてはすに向こうへ走っている。萩の影になった所は、いちばん遠いはずれになる。それで萩はいちばん手前にある。よし子はこの萩の影にいた。椽側に腰をかけて。

三四郎は萩とすれすれに立った。よし子は椽から腰を上げた。足は平たい石の上にある。三四郎はいまさらその背の高いのに驚いた。

「おはいりなさい」

依然として三四郎を待ち設けたような言葉づかいである。三四郎は病院の当時を思い出した。萩を通り越して椽鼻まで来た。

「お掛けなさい」

三四郎は靴をはいている。<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>のごとく腰をかけた。よし子は<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を取って来た。

「お敷きなさい」

三四郎は蒲団を敷いた。門をはいってから、三四郎はまだ<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も口を開かない。この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も返事を求めていないように思われる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。命を聞くだけである。お世辞を使う必要がない。一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>の奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である。三四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。

「兄ですか」とよし子はその次に聞いた。

野々宮を尋ねて来たわけでもない。尋ねないわけでもない。なんで来たか三四郎にもじつはわからないのである。

「野々宮さんはまだ学校ですか」

「ええ、いつでも夜おそくでなくっちゃ帰りません」

これは三四郎も知ってる事である。三四郎は<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に窮した。見ると椽側に絵の具箱がある。かきかけた水彩がある。

「絵をお習いですか」

「ええ、好きだからかきます」

「先生はだれですか」

「先生に習うほどじょうずじゃないの」

「ちょっと拝見」

「これ？　これまだできていないの」とかきかけを三四郎の方へ出す。なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。空と、前の家の<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の木と、はいり口の萩だけができている。なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。

「なかなかうまい」と三四郎が絵をながめながら言う。

「これが？」とよし子は少し驚いた。本当に驚いたのである。三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。

三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>されそうである。三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。

椽側から座敷を見回すと、しんと静かである。茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。

「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」

「まだ帰りません。近いうちに立つはずですけれど」

「今、いらっしゃるんですか」

「今ちょっと買物に出ました」

「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」

「どうして」

「どうしてって――このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから」

「まだきまりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」

三四郎は少しく要領を得た。

「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」

「ええ。お友だちなの」

男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。

「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」

「ええ」

話は「ええ」でつかえた。

「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」

「私？　そうね。でも美禰子さんのお<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>いさんにお気の毒ですから」

「美禰子さんのにいさんがあるんですか」

「ええ。うちの兄と同年の卒業なんです」

「やっぱり理学士ですか」

「いいえ、科は違います。法学士です。そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では<ruby><rb>恭助</rb><rt>きょうすけ</rt></ruby>さんだけなんです」

「おとっさんやおっかさんは」

よし子は少し笑いながら、

「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在を想像するのは<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。

「そういう関係で美禰子さんは広田先生の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>をなさるんですね」

「ええ。死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」

「こちらへも来ますか」

よし子はいつのまにか、水彩画の続きをかき始めた。三四郎がそばにいるのがまるで苦になっていない。それでいて、よく返事をする。

「美禰子さん？」と聞きながら、柿の木の下にある<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶき</rt></ruby>屋根に影をつけたが、

「少し黒すぎますね」と絵を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、

「ええ、少し黒すぎます」と答えた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、

「いらっしゃいますわ」とようやく三四郎に返事をした。

「たびたび？」

「ええたびたび」とよし子は依然として画紙に向かっている。三四郎は、よし子が絵のつづきをかきだしてから、問答がたいへん楽になった。

しばらく無言のまま、絵のなかをのぞいていると、よし子はたんねんに藁葺屋根の黒い影を洗っていたが、あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなかなか不慣れなので、黒いものがかってに四方へ浮き出して、せっかく赤くできた柿が、陰干の<ruby><rb>渋柿</rb><rt>しぶがき</rt></ruby>のような色になった。よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワットマンをなるべく遠くからながめていたが、しまいに、小さな声で、

「もう駄目ね」と言う。じっさいだめなのだから、しかたがない。三四郎は気の毒になった。

「もうおよしなさい。そうして、また新しくおかきなさい」

よし子は顔を絵に向けたまま、しりめに三四郎を見た。大きな潤いのある目である。三四郎はますます気の毒になった。すると女が急に笑いだした。

「ばかね。二時間ばかり損をして」と言いながら、せっかくかいた水彩の上へ、横縦に二、三本太い棒を引いて、絵の具箱の蓋をぱたりと伏せた。

「もうよしましょう。座敷へおはいりなさい。お茶をあげますから」と言いながら、自分は上へ上がった。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり椽側に腰をかけていた。腹の中では、今になって、茶をやるという女を非常におもしろいと思っていた。三四郎に度はずれの女をおもしろがるつもりは少しもないのだが、突然お茶をあげますといわれた時には、一種の愉快を感ぜぬわけにゆかなかったのである。その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。

茶の間で話し声がする。下女はいたに違いない。やがて<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開いて、茶器を持って、よし子があらわれた。その顔を正面から見た時に、三四郎はまた、女性中のもっとも女性的な顔であると思った。

よし子は茶をくんで椽側へ出して、自分は座敷の畳の上へすわった。三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この女のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。病院ではかつてこの女の顔をながめすぎて、少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、きょうはなんともない。茶を出したのをさいわいに椽側と座敷でまた談話を始めた。いろいろ話しているうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞きだした。それは、自分の兄の野々宮が好きかいやかという質問であった。ちょっと聞くとまるでがんぜない子供の言いそうな事であるが、よし子の意味はもう少し深いところにあった。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである。人情で物をみると、すべてが好ききらいの二つになる。研究する気なぞが起こるものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究していけない。自分を研究すればするほど、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あのくらい研究好きの兄が、このくらい自分を可愛がってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないという結論であった。

三四郎はこの説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとわからなかった。それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。ただ腹の中で、これしきの女の言う事を、<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に批評しえないのは、男児としてふがいないことだと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。

三四郎はよし子に対する敬愛の念をいだいて下宿へ帰った。はがきが来ている。「明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>までいらっしゃい。美禰子」

その字が、野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒の<ruby><rb>上書</rb><rt>うわがき</rt></ruby>に似ているので、三四郎は何べんも読み直してみた。

翌日は日曜である。三四郎は昼飯を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光った靴をはいている。静かな横町を広田先生の前まで来ると、人声がする。

先生の家は門をはいると、左手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかからずに、座敷の椽へ出られる。三四郎は<ruby><rb>要目垣</rb><rt>かなめがき</rt></ruby>のあいだに見える<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>をはずそうとして、ふと、庭の中の話し声を耳にした。話は野々宮と美禰子のあいだに起こりつつある。

「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」これは男の声である。

「死んでも、そのほうがいいと思います」これは女の答である。

「もっともそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある」

「残酷な事をおっしゃる」

三四郎はここで木戸をあけた。庭のまん中に立っていた会話の主は<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>ともこっちを見た。野々宮はただ「やあ」と平凡に言って、頭をうなずかせただけである。頭に新しい茶の<ruby><rb>中折帽</rb><rt>なかおれぼう</rt></ruby>をかぶっている。美禰子は、すぐ、

「はがきはいつごろ着きましたか」と聞いた。二人の今までやっていた会話はこれで中絶した。

椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。これは西洋の雑誌を手にしていた。そばによし子がいる。両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をながめていた。――三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。

主人は雑誌をなげ出した。

「では行くかな。とうとう引っぱり出された」

「御苦労さま」と野々宮さんが言った。女は二人で顔を見合わせて、ひとに知れないような笑をもらした。庭を出る時、女が二人つづいた。

「背が高いのね」と美禰子があとから言った。

「のっぽ」とよし子が<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>答えた。門の<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>で並んだ時、「だから、なりたけ草履をはくの」と弁解をした。三四郎もつづいて庭を出ようとすると、二階の障子ががらりと開いた。与次郎が<ruby><rb>手欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>の所まで出てきた。

「行くのか」と聞く。

「うん、君は」

「行かない。菊細工なんぞ見てなんになるものか。ばかだな」

「いっしょに行こう。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいたってしようがないじゃないか」

「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」

三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。四人は細い横町を三分の二ほど広い通りの方へ遠ざかったところである。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。影の半分は薄黒い。半分は<ruby><rb>花野</rb><rt>はなの</rt></ruby>のごとく明らかである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>として調和されている。のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの<ruby><rb>経緯</rb><rt>よこたて</rt></ruby>のなかに織りこまれている。ただそのうちのどこかにおちつかないところがある。それが不安である。歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた<ruby><rb>談柄</rb><rt>だんぺい</rt></ruby>が近因である。三四郎はこの不安の念を<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>るために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。

四人はすでに曲がり角へ来た。四人とも足をとめて、振り返った。美禰子は額に手をかざしている。

三四郎は一分かからぬうちに追いついた。追いついてもだれもなんとも言わない。ただ歩きだしただけである。しばらくすると、美禰子が、

「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事をおっしゃるんでしょう」と言いだした。話の続きらしい。

「なに理学をやらなくっても同じ事です。高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきに<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るに違いないじゃありませんか」

「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかもしれません」

「我慢しなければ、死ぬばかりですもの」

「そうすると安全で地面の上に立っているのがいちばんいい事になりますね。なんだかつまらないようだ」

野々宮さんは返事をやめて、広田先生の方を向いたが、

「女には詩人が多いですね」と笑いながら言った。すると広田先生が、

「男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう」と妙な<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。野々宮さんはそれで黙った。よし子と美禰子は何かお互いの話を始める。三四郎はようやく質問の機会を得た。

「今のは何のお話なんですか」

「なに空中飛行機の事です」と野々宮さんが無造作に言った。三四郎は落語の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おち</span>を聞くような気がした。

それからはべつだんの会話も出なかった。また長い会話ができかねるほど、人がぞろぞろ歩く所へ来た。<ruby><rb>大観音</rb><rt>おおがんのん</rt></ruby>の前に<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>がいる。額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。だれも顧みるものがない。五人も平気で行き過ぎた。五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

「君あの乞食に銭をやりましたか」

「いいえ」と三四郎があとを見ると、例の乞食は、白い額の下で両手を合わせて、相変らず大きな声を出している。

「やる気にならないわね」とよし子がすぐに言った。

「なぜ」とよし子の兄は妹を見た。たしなめるほどに強い言葉でもなかった。野々宮の顔つきはむしろ冷静である。

「ああしじゅうせっついていちゃ、せっつきばえがしないからだめですよ」と美禰子が評した。

「いえ場所が悪いからだ」と今度は広田先生が言った。「あまり人通りが多すぎるからいけない。山の上の寂しい所で、ああいう男に会ったら、だれでもやる気になるんだよ」

「その代り一日待っていても、だれも通らないかもしれない」と野々宮はくすくす笑い出した。

三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。けれども自分が乞食の前を通る時、一銭も投げてやる了見が起こらなかったのみならず、実をいえば、むしろ不愉快な感じが募った事実を反省してみると、自分よりもこれら四人のほうがかえって<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>に誠であると思いついた。また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。

行くに従って人が多くなる。しばらくすると一人の<ruby><rb>迷子</rb><rt>まいご</rt></ruby>に出会った。七つばかりの女の子である。泣きながら、人の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の下を右へ行ったり、左へ行ったりうろうろしている。おばあさん、おばあさんとむやみに言う。これには往来の人もみんな心を動かしているようにみえる。立ちどまる者もある。かあいそうだという者もある。しかしだれも手をつけない。子供はすべての人の注意と同情をひきつつ、しきりに泣きさけんでおばあさんを捜している。不可思議の現象である。

「これも場所が悪いせいじゃないか」と野々宮君が子供の影を見送りながら言った。

「いまに巡査が始末をつけるにきまっているから、みんな責任をのがれるんだね」と広田先生が説明した。

「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」とよし子が言う。

「じゃ、追っかけて行って、連れて行くがいい」と兄が注意した。

「追っかけるのはいや」

「なぜ」

「なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。私にかぎったことはないわ」

「やっぱり責任をのがれるんだ」と広田が言う。

「やっぱり場所が悪いんだ」と野々宮が言う。男は二人で笑った。団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。

「もう安心<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。

坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。広田先生はこの坂の上に立って、

「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな<ruby><rb>葭簀掛</rb><rt>よしずが</rt></ruby>けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れている。

一行は左の小屋へはいった。<ruby><rb>曾我</rb><rt>そが</rt></ruby>の<ruby><rb>討入</rb><rt>うちいり</rt></ruby>がある。五郎も十郎も<ruby><rb>頼朝</rb><rt>よりとも</rt></ruby>もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>を起こしている。これも人形の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>なく衣装の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>となるように作ったものである。

よし子は余念なくながめている。広田先生と野々宮はしきりに話を始めた。菊の培養法が違うとかなんとかいうところで、三四郎は、ほかの見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にいる。見物は、がいして<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>の者である。教育のありそうな者はきわめて少ない。美禰子はその間に立って振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の<ruby><rb>手欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>から出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。美禰子はまた向こうをむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は<ruby><rb>群集</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。

ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、

「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は<ruby><rb>青竹</rb><rt>あおだけ</rt></ruby>の<ruby><rb>手欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>に手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。なんとも言わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>をさした男が、<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>を持って、滝壺のそばにかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。

「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の<ruby><rb>二重瞼</rb><rt>ふたえまぶた</rt></ruby>に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>とこの<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の間にすべてを<ruby><rb>遺却</rb><rt>いきゃく</rt></ruby>した。すると、美禰子は言った。

「もう出ましょう」

眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の<ruby><rb>手欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。

二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか」

女は人込みの中を<ruby><rb>谷中</rb><rt>やなか</rt></ruby>の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。

「ここはどこでしょう」

「こっちへ行くと谷中の<ruby><rb>天王寺</rb><rt>てんのうじ</rt></ruby>の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」

「そう。私心持ちが悪くって……」

三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。

「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って<ruby><rb>根津</rb><rt>ねづ</rt></ruby>へ抜ける石橋のそばである。

「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。

「歩きます」

二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。

三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。

「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」

女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。

「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。

「休みましょうか」

「ええ」

「もう少し歩けますか」

「ええ」

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」

「ええ」

一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

向こうに<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。

「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。

「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。

「ありがとう。これでたくさん」

「やっぱり心持ちが悪いですか」

「あんまり疲れたから」

三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。

ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。

「空の色が濁りました」と美禰子が言った。

三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。

「重いこと。<ruby><rb>大理石</rb><rt>マーブル</rt></ruby>のように見えます」

美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。そうして、

「大理石のように見えるでしょう」と聞いた。三四郎は、

「ええ、大理石のように見えます」と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。しばらくしてから、今度は三四郎が言った。

「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」

「どういうわけですか」と美禰子が問い返した。

三四郎には、どういうわけもなかった。返事はせずに、またこう言った。

「安心して夢を見ているような空模様だ」

「動くようで、なかなか動きませんね」と美禰子はまた遠くの雲をながめだした。

菊人形で客を呼ぶ声が、おりおり二人のすわっている所まで聞こえる。

「ずいぶん大きな声ね」

「朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。えらいもんだな」と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。

「商売ですもの、ちょうど大観音の乞食と同じ事なんですよ」

「場所が悪くはないですか」

三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。乞食について下した広田の言葉をよほどおかしく受けたからである。

「広田先生は、よく、ああいう事をおっしゃるかたなんですよ」ときわめて軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子をかえて、

「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫及第よ」と比較的活発につけ加えた。そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。

「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」

「ちょうどいいじゃありませんか」と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない乞食なんだから」と結んだ。これは前句の解釈のためにつけたように聞こえた。

ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、

「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」

「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

「だれが？　広田先生がですか」

美禰子は答えなかった。

「野々宮さんがですか」

美禰子はやっぱり答えなかった。

「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」

美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。

「迷子」

女は三四郎を見たままでこの<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>を繰り返した。三四郎は答えなかった。

「迷子の英訳を知っていらしって」

三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。

「教えてあげましょうか」

「ええ」

「<ruby><rb>迷える子</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>――わかって？」

三四郎はこういう場合になると<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に困る男である。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも<ruby><rb>半間</rb><rt>はんま</rt></ruby>であると自覚している。

<ruby><rb>迷える子</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。

「私そんなに生意気に見えますか」

その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。

三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>せるものではないと思った。女は卒然として、

「じゃ、もう帰りましょう」と言った。<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな<ruby><rb>口調</rb><rt>くちょう</rt></ruby>であった。

空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる<ruby><rb>地息</rb><rt>じいき</rt></ruby>でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。

「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」

「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、

「<ruby><rb>迷える子</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。

美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶき</rt></ruby>のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。

「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」

女は<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>で笑った。そうして問い返した。

「なぜお聞きになるの」

三四郎が何か言おうとすると、足の前に<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

「おつかまりなさい」

「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

「<ruby><rb>迷える子</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を感ずることができた。

## 六

ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。

「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」

与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。<ruby><rb>stray</rb><rt>ストレイ</rt></ruby> <ruby><rb>sheep</rb><rt>シープ</rt></ruby> という字がむやみに書いてある。

「なんだこれは」

「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」

「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」

「どうだとか言った」

「聞いていなかったのか」

「いいや」

「まるで <ruby><rb>stray</rb><rt>ストレイ</rt></ruby> <ruby><rb>sheep</rb><rt>シープ</rt></ruby> だ。しかたがない」

与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、

「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>はその下にすわった。

ここは夏の初めになると<ruby><rb>苜蓿</rb><rt>うまごやし</rt></ruby>が一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>が一人に向かって、口答試験を<ruby><rb>都々逸</rb><rt>どどいつ</rt></ruby>で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡で pity'<ruby><rb>s</rb><rt>ピチーズ</rt></ruby> <ruby><rb>love</rb><rt>ラッブ</rt></ruby> を訳すはずだと思った。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページを<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>に三四郎の方へ向けた。

「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なる<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>」とある。下には<ruby><rb>零余子</rb><rt>れいよし</rt></ruby>と雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。しかし零余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにその<ruby><rb>扁平</rb><rt>へんぺい</rt></ruby>な顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。

「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。

「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」

「いや、ありゃ、たった<ruby><rb>二</rb><rt>に</rt></ruby>、<ruby><rb>三日</rb><rt>さんち</rt></ruby>まえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」

「広田先生の事か」

「うん。こうして<ruby><rb>輿論</rb><rt>よろん</rt></ruby>を喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれる<ruby><rb>下地</rb><rt>したじ</rt></ruby>を作る……」

「その雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」

三四郎は雑誌の名前さえ知らなかった。

「いや無勢力だから、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎は<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>わざるをえなかった。

「何部ぐらい売れるのか」

与次郎は何部売れるとも言わない。

「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。

だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、<ruby><rb>遊戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に等しい<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>を用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。

いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。

「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇の<ruby><rb>趨勢</rb><rt>すうせい</rt></ruby>を知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の文権はまったく我々青年の手にあるんだから、<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>はない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」

三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。

「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」

「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる<ruby><rb>工夫</rb><rt>くふう</rt></ruby>をしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎に相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気である。ベルが激しく鳴りだした。

「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」

二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も<ruby><rb>双方</rb><rt>そうほう</rt></ruby>ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。

「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間には <ruby><rb>stray</rb><rt>ストレイ</rt></ruby> <ruby><rb>sheep</rb><rt>シープ</rt></ruby> という字を一つも書かずにすんだ。

講義が終るやいなや、与次郎は三四郎に向かって、

「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。

「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、

「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろへペン<ruby><rb>軸</rb><rt>じく</rt></ruby>をはさんでいる。なんとなく得意である。三四郎は承知した。

下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>にできている。まったく西洋の絵にある<ruby><rb>悪魔</rb><rt>デビル</rt></ruby>を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>が振ってある。表は三四郎の<ruby><rb>宛名</rb><rt>あてな</rt></ruby>の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った <ruby><rb>stray</rb><rt>ストレイ</rt></ruby> <ruby><rb>sheep</rb><rt>シープ</rt></ruby> の意味がこれでようやくはっきりした。

与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>趣味がある。無邪気にもみえる。<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。

しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。

しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>に感服した。

論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛く<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>している。はやく適当の日本人を<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、<ruby><rb>煉瓦石</rb><rt>れんがせき</rt></ruby>のミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日のごとく高等学校に<ruby><rb>教鞭</rb><rt>きょうべん</rt></ruby>を執って薄給と無名に甘んじている。しかし真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>と<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たる警句とによって前後二十七ページに延長している。

その中には「<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>を自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>を<ruby><rb>田子</rb><rt>たご</rt></ruby>の<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>に比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だの<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>などはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。

よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったく<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>がない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそこと<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>ることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の<ruby><rb>悪魔</rb><rt>デビル</rt></ruby>をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>を食っていた。そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。

「先生どうですか」と聞いている。

先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものが<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>の中に並んでいる。

三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口をもがもがさせる。

「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎が<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>で皿のものをつまんで出した。<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>へ載せてみると、<ruby><rb>馬鹿貝</rb><rt>ばかがい</rt></ruby>の<ruby><rb>剥身</rb><rt>むきみ</rt></ruby>の干したのをつけ焼にしたのである。

「妙なものを食うな」と聞くと、

「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」

「どこから」

「日本橋から」

三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。

「先生、どうです」

「堅いね」

「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」

「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」

「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」

「なぜ」と三四郎が聞いた。

「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」

「あの女はおちついていて、乱暴だ」と広田が言った。

「ええ乱暴です。イブセンの女のようなところがある」

「イブセンの女は<ruby><rb>露骨</rb><rt>ろこつ</rt></ruby>だが、あの女は<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」

「里見のは乱暴の<ruby><rb>内訌</rb><rt>ないこう</rt></ruby>ですか」

三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。

与次郎はやがて、袴をはいて、改まって出て来て、

「ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。

「先生は里見のお嬢さんを乱暴だと言ったね」

「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」

「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」

「うん乱暴だと言った。なぜ」

「どういうところを乱暴というのか」

「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>はみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」

「君はあの人をイブセンの人物に似ていると言ったじゃないか」

「言った」

「イブセンのだれに似ているつもりなのか」

「だれって……似ているよ」

三四郎はむろん<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>しない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。

「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」

「ぼくはあんまり、かぶれていない」

「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって<ruby><rb>陥欠</rb><rt>かんけつ</rt></ruby>のない社会はあるまい」

「それはないだろう」

「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」

「君はそう思うか」

「ぼくばかりじゃない。<ruby><rb>具眼</rb><rt>ぐがん</rt></ruby>の士はみんなそう思っている」

「君の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の先生もそんな考えか」

「うちの先生？　先生はわからない」

「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」

「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」

と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。

「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」

「きょうあれから家へ帰って読んだ」

「どうだ」

「先生はなんと言った」

「先生は読むものかね。まるで知りゃしない」

「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」

「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」

与次郎の用事というのはこうである。――今夜の会で自分たちの科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎もいっしょに慨嘆しなくってはいけないんだそうだ。不振は事実であるからほかの者も慨嘆するにきまっている。それから、おおぜいいっしょに<ruby><rb>挽回策</rb><rt>ばんかいさく</rt></ruby>を講ずることとなる。なにしろ適当な日本人を一人大学に入れるのが急務だと言い出す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのはむろんだ。次にだれがよかろうという相談に移る。その時広田先生の名を持ち出す。その時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろという話である。そうしないと、与次郎が広田の<ruby><rb>食客</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>だということを知っている者が疑いを起こさないともかぎらない。自分は現に食客なんだから、どう思われてもかまわないが、万一<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>いが広田先生に及ぶようではすまんことになる。もっともほかに同志が三、四人はいるから、大丈夫だが、一人でも味方は多いほうが便利だから、三四郎もなるべくしゃべるにしくはないとの意見である。さていよいよ衆議一決の暁は、総代を選んで学長の所へ行く、また総長の所へ行く。もっとも今夜中にそこまでは運ばないかもしれない。また運ぶ必要もない。そのへんは臨機応変である。……

与次郎はすこぶる能弁である。惜しいことにその能弁がつるつるしているので重みがない。あるところへゆくと冗談をまじめに講義しているかと疑われる。けれども本来が<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>のいい運動だから、三四郎もだいたいのうえにおいて賛成の意を表した。ただその方法が少しく<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>に落ちておもしろくないと言った。その時与次郎は往来のまん中へ立ち留まった。二人はちょうど<ruby><rb>森川町</rb><rt>もりかわちょう</rt></ruby>の神社の<ruby><rb>鳥居</rb><rt>とりい</rt></ruby>の前にいる。

「細工に落ちるというが、ぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめ<ruby><rb>人力</rb><rt>じんりょく</rt></ruby>で装置するだけだ。自然にそむいた<ruby><rb>没分暁</rb><rt>ぼつぶんぎょう</rt></ruby>の事を企てるのとは<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>が違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」

三四郎はぐうの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>も出なかった。なんだか文句があるようだけれども、口へ出てこない。与次郎の言いぐさのうちで、自分がまだ考えていなかった部分だけがはっきり頭へ映っている。三四郎はむしろそのほうに感服した。

「それもそうだ」とすこぶる<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な返事をして、また肩を並べて歩きだした。正門をはいると、急に目の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立っている。その屋根がはっきり尽きる所から明らかな空になる。星がおびただしく多い。

「美しい空だ」と三四郎が言った。与次郎も空を見ながら、一間ばかり歩いた。突然、

「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎はまたさっきの話の続きかと思って「なんだ」と答えた。

「君、こういう空を見てどんな感じを起こす」

与次郎に似合わぬことを言った。無限とか永久とかいう持ち合わせの答はいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。

「つまらんなあ我々は。あしたから、こんな運動をするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない」

「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」

「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女にほれたことがあるか」

三四郎は即答ができなかった。

「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が言った。

「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」と三四郎も言った。すると与次郎が大きな声で笑いだした。静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。

「知りもしないくせに。知りもしないくせに」

三四郎は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>としていた。

「あすもよい天気だ。運動会はしあわせだ。きれいな女がたくさん来る。ぜひ見にくるがいい」

暗い中を二人は学生集会所の前まで来た。中には電燈が輝いている。

木造の廊下を回って、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>へはいると、そうそう来た者は、もうかたまっている。そのかたまりが大きいのと小さいのと合わせて三つほどある。なかには無言で備え付けの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れているのもある。話は方々に聞こえる。話の数はかたまりの数より多いように思われる。しかしわりあいにおちついて静かである。<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙のほうが猛烈に立ち上る。

そのうちだんだん寄って来る。黒い影が<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中から吹きさらしの廊下の上へ、ぽつりと現われると、それが一人一人に明るくなって、部屋の中へはいって来る。時には五、六人続けて、明るくなることもある。が、やがて<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>はほぼそろった。

与次郎は、さっきから、煙草の煙の中を、しきりにあちこちと往来していた。行く所で何か小声に話している。三四郎は、そろそろ運動を始めたなと思ってながめていた。

しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと言う。食卓はむろん前から用意ができていた。みんな、ごたごたに席へ着いた。順序もなにもない。食事は始まった。

三四郎は熊本で<ruby><rb>赤酒</rb><rt>あかざけ</rt></ruby>ばかり飲んでいた。赤酒というのは、所でできる下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒を飲む。それが当然と心得ている。たまたま飲食店へ上がれば牛肉屋である。その牛肉屋の<ruby><rb>牛</rb><rt>ぎゅう</rt></ruby>が馬肉かもしれないという<ruby><rb>嫌疑</rb><rt>けんぎ</rt></ruby>がある。学生は皿に盛った肉を手づかみにして、座敷の壁へたたきつける。落ちれば牛肉で、ひっつけば馬肉だという。まるで<ruby><rb>呪</rb><rt>まじない</rt></ruby>みたような事をしていた。その三四郎にとって、こういう紳士的な学生<ruby><rb>親睦会</rb><rt>しんぼくかい</rt></ruby>は珍しい。喜んでナイフとフォークを動かしていた。そのあいだにはビールをさかんに飲んだ。

「学生集会所の料理はまずいですね」と三四郎に隣にすわった男が話しかけた。この男は頭を坊主に刈って、金縁の<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をかけたおとなしい学生であった。

「そうですな」と三四郎は<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>返事をした。相手が与次郎なら、ぼくのようないなか者には非常にうまいと正直なところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。するとその男が、

「君はどこの高等学校ですか」と聞きだした。

「熊本です」

「熊本ですか。熊本にはぼくの<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>もいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」

「野蛮な所です」

二人が話していると、向こうの方で、急に高い声がしだした。見ると与次郎が隣席の二、三人を相手に、しきりに何か弁じている。時々ダーターファブラと言う。なんの事だかわからない。しかし与次郎の相手は、この言葉を聞くたびに笑いだす。与次郎はますます得意になって、ダーターファブラ我々新時代の青年は……とやっている。三四郎の筋向こうにすわっていた色の白い品のいい学生が、しばらくナイフの手を休めて、与次郎の連中をながめていたが、やがて笑いながら <ruby><rb>Il</rb><rt>イル</rt></ruby> <ruby><rb>a</rb><rt>ア</rt></ruby> <ruby><rb>le</rb><rt>ル</rt></ruby> <ruby><rb>diable</rb><rt>ディアブル</rt></ruby> <ruby><rb>au</rb><rt>オー</rt></ruby> <ruby><rb>corps</rb><rt>コール</rt></ruby>（悪魔が乗り移っている）と冗談半分にフランス語を使った。向こうの連中にはまったく聞こえなかったとみえて、この時ビールのコップが四つばかり一度に高く上がった。得意そうに祝盃をあげている。

「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡をかけた学生が言った。

「ええ。よくしゃべります」

「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」

学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。

やがてコーヒーが出る。一人が<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を離れて立った。与次郎が激しく手をたたくと、ほかの者もたちまち調子を合わせた。

立った者は、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもう<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をはやしている。背がすこぶる高い。立つには<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>のよい男である。演説めいたことを始めた。

我々が今夜ここへ寄って、懇親のために、<ruby><rb>一夕</rb><rt>いっせき</rt></ruby>の歓をつくすのは、それ自身において愉快な事であるが、この懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じうると偶然ながら気がついたら自分は立ちたくなった。この会合はビールに始まってコーヒーに終っている。まったく普通の会合である。しかしこのビールを飲んでコーヒーを飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかもそのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終るまでのあいだに、すでに自己の運命の膨脹を自覚しえた。

政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単にこれらの表面にあらわれやすい事実のために専有されべき言葉ではない。我ら新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。

我々は古き日本の圧迫に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>ええぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にも<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>ええぬ青年であるということを、世間に発表せねばいられぬ状況のもとに生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上においても文芸の上においても、我ら新時代の青年にとっては古き日本の圧迫と同じく、苦痛である。

我々は西洋の文芸を研究する者である。しかし研究はどこまでも研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸にとらわれんがために、これを研究するのではない。とらわれたる心を<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>せしめんがために、これを研究しているのである。この方便に合せざる文芸はいかなる威圧のもとにしいらるるとも学ぶ事をあえてせざるの自信と決心とを有している。

我々はこの自信と決心とを有するの点において普通の人間とは異なっている。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々はこの意味において文芸を研究し、この意味において<ruby><rb>如上</rb><rt>じょじょう</rt></ruby>の自信と決心とを有し、この意味において<ruby><rb>今夕</rb><rt>こんせき</rt></ruby>の会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。

社会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

演説の意味はざっとこんなものである。演説が済んだ時、席にあった学生はことごとく<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>した。三四郎はもっとも熱心なる喝采者の一人であった。すると与次郎が突然立った。

「ダーターファブラ、シェクスピヤの使った<ruby><rb>字数</rb><rt>じかず</rt></ruby>が何万字だの、イブセンの<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。西洋人じゃだめだ。第一幅がきかない。……」

満堂はまたことごとく喝采した。そうしてことごとく笑った。与次郎の隣にいた者が、

「ダーターファブラのために祝盃をあげよう」と言いだした。さっき演説をした学生がすぐに賛成した。あいにくビールがみな<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>である。よろしいと言って与次郎はすぐ台所の方へかけて行った。給仕が酒を持って出る。祝盃をあげるやいなや、

「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」と言った者がある。与次郎の周囲にいた者は声を合して、アハハと笑った。与次郎は頭をかいている。

散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に、三四郎が与次郎に聞いた。

「ダーターファブラとはなんの事だ」

「ギリシア語だ」

与次郎はそれよりほかに答えなかった。三四郎もそれよりほかに聞かなかった。二人は美しい空をいただいて家に帰った。

あくる日は予想のごとく好天気である。今年は例年より気候がずっとゆるんでいる。ことさらきょうは暖かい。三四郎は朝のうち湯に行った。<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>の少ない世の中だから、午前はすこぶるすいている。三四郎は板の間にかけてある<ruby><rb>三越</rb><rt>みつこし</rt></ruby>呉服店の看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。よく見ると目つきが違っている。歯並がわからない。美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。与次郎の説によると、あの女は<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>っ<ruby><rb>歯</rb><rt>ぱ</rt></ruby>の気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……

三四郎は湯につかってこんな事を考えていたので、からだのほうはあまり洗わずに出た。ゆうべから急に新時代の青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。休みになるとほかの者よりずっと楽にしている。きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。

三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき<ruby><rb>兎狩</rb><rt>うさぎが</rt></ruby>りを二、三度したことがある。それから高等学校の<ruby><rb>端艇競漕</rb><rt>ボートきょうそう</rt></ruby>の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしてみたい。

昼過ぎになったから出かけた。会場の入口は運動場の南のすみにある。大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。日の丸は<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎は日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。

運動場は長方形の<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>をいっぱいに控えて、前は運動場の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>がよいので寒くはない。しかし<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着ている者がだいぶある。その代り<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>をさして来た女もある。

三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の<ruby><rb>猿股</rb><rt>さるまた</rt></ruby>をはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の<ruby><rb>親睦会</rb><rt>しんぼくかい</rt></ruby>で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の<ruby><rb>徽章</rb><rt>きしょう</rt></ruby>をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく。柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。美禰子は急に振り返った。うれしそうな笑いにみちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸投げが始まった。

砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

それからまた競走があって、長飛びがあって、その次には<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>投げが始まった。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>がしきれなくなった。運動会はめいめいかってに開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所まで来た。幕が張ってあって通れない。引き返して<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いている。盛装した婦人も見える。三四郎はまた右へ折れて、<ruby><rb>爪先上</rb><rt>つまさきのぼ</rt></ruby>りを丘のてっぺんまで来た。道はてっぺんで尽きている。大きな石がある。三四郎はその上へ腰をかけて、高い<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の下にある池をながめた。下の運動会場でわあというおおぜいの声がする。

三四郎はおよそ五分ばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながら<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を向け直すと、丘の上りぎわの、薄く色づいた<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>の間に、さっきの女の影が見えた。並んで丘の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を通る。

三四郎は上から、二人を見おろしていた。二人は枝の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>から明らかな<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>へ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声をかけようかと考えた。距離があまり遠すぎる。急いで二、三歩芝の上を裾の方へ降りた。降り出すといいぐあいに女の一人がこっちを向いてくれた。三四郎はそれでとまった。じつはこちらからあまりごきげんをとりたくない。運動会が少し<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわっている。

「あんな所に……」とよし子が言いだした。驚いて笑っている。この女はどんな<ruby><rb>陳腐</rb><rt>ちんぷ</rt></ruby>なものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。その代り、いかな珍しいものに出会っても、やはり待ち受けていたような目つきで迎えるかと想像される。だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、常にぬれている、黒い<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>のおかげだと考えた。

美禰子も留まった。三四郎を見た。しかしその目はこの時にかぎって何物をも訴えていなかった。まるで高い木をながめるような目であった。三四郎は心のうちで、火の消えたランプを見る心持ちがした。もとの所に立ちすくんでいる。美禰子も動かない。

「なぜ競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。

「今まで見ていたんですが、つまらないからやめて来たのです」

よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、

「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」と当てたような当てないようなことを大きな声で言った。美禰子はこの時はじめて、少し笑った。三四郎にはその笑いの意味がよくわからない。二歩ばかり女の方に近づいた。

「もう<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰るんですか」

女は二人とも答えなかった。三四郎はまた二歩ばかり女の方へ近づいた。

「どこかへ行くんですか」

「ええ、ちょっと」と美禰子が小さな声で言う。よく聞こえない。三四郎はとうとう女の前まで降りて来た。しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。会場の方で喝采の声が聞こえる。

「高飛びよ」とよし子が言う。「今度は何メートルになったでしょう」

美禰子は軽く笑ったばかりである。三四郎も黙っている。三四郎は高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。すると美禰子が聞いた。

「この上には何かおもしろいものがあって？」

この上には石があって、崖があるばかりである。おもしろいものがありようはずがない。

「なんにもないです」

「そう」と疑いを残したように言った。

「ちょいと上がってみましょうか」よし子が、快く言う。

「あなた、まだここを御存じないの」と相手の女はおちついて出た。

「いいからいらっしゃいよ」

よし子は先へ上る。二人はまたついて行った。よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、

「絶壁ね」と大げさな言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」

美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。

「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。

「私？　飛び込みましょうか。でもあんまり水がきたないわね」と言いながら、こっちへ帰って来た。

やがて女二人のあいだに用談が始まった。

「あなた、いらしって」と美禰子が言う。

「ええ。あなたは」とよし子が言う。

「どうしましょう」

「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」

「そうね」

なかなか片づかない。三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっと礼に行ってくるんだと言う。美禰子はこの夏自分の<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>が入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。

よし子は、すなおに気の軽い女だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、<ruby><rb>早足</rb><rt>はやあし</rt></ruby>に一人丘を降りて行った。止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

三四郎はまた石に腰をかけた。女は立っている。秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木がはえている。青い<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby>と薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。女は丘の上からその暗い<ruby><rb>木陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>を指さした。

「あの木を知っていらしって」と言う。

「あれは<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>」

女は笑い出した。

「よく覚えていらっしゃること」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」

「ええ」

「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

「違います。これは椎――といった看護婦です」

今度は三四郎が笑い出した。

「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を持って立っていたのは」

二人のいる所は高く池の中に突き出している。この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿の<ruby><rb>一角</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」

「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。

「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」

「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」

「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」

「なぜですか」

「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」

三四郎はまた話頭を転じた。

「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」

「会場で？」

「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。

「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」

三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。

「あなた、<ruby><rb>原口</rb><rt>はらぐち</rt></ruby>さんという<ruby><rb>画工</rb><rt>えかき</rt></ruby>を御存じ？」と聞き直した。

「知りません」

「そう」

「どうかしましたか」

「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」

美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。

「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」

三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>から学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。

三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。第一鍋、<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>、<ruby><rb>手桶</rb><rt>ておけ</rt></ruby>などという<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々宮さんが一家の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>から、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。この<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>は絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。

三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。いっこうに気が乗らない。それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の<ruby><rb>肌寒</rb><rt>はださむ</rt></ruby>がようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。

三四郎も女<ruby><rb>連</rb><rt>れん</rt></ruby>に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだった<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をする機会がない。二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>を図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、

「お<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>いさんは下宿をなすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」と同意を求めるように言った。三四郎は何か返事をしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた。

「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。

学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。

三四郎は赤門の所で二人に別れた。<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>の方へ足を向けながら考えだした。――なるほど美禰子の言ったとおりである。自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>した言葉かもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生は帽子をとって礼をしながら、

「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。

## 七

裏から回ってばあさんに聞くと、ばあさんが小さな声で、与次郎さんはきのうからお帰りなさらないと言う。三四郎は勝手口に立って考えた。ばあさんは気をきかして、まあおはいりなさい。先生は書斎においでですからと言いながら、手を休めずに、<ruby><rb>膳椀</rb><rt>ぜんわん</rt></ruby>を洗っている。今<ruby><rb>晩食</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>がすんだばかりのところらしい。

三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。戸があいている。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへはいった。先生は机に向かっている。机の上には何があるかわからない。高い<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>が研究を隠している。三四郎は入口に近くすわって、

「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔をうしろへねじ向けた。<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の影が不明瞭にもじゃもじゃしている。写真版で見ただれかの肖像に似ている。

「やあ、与次郎かと思ったら、君ですか、失敬した」と言って、席を立った。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いていた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いている。しかし何を書いているんだか、ほかの者が読んでもちっともわからない。生きているうちに、大著述にでもまとめられれば結構だが、あれで死んでしまっちゃあ、<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>がたまるばかりだ。じつにつまらない。と嘆息していたことがある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出した。

「おじゃまなら帰ります。べつだんの用事でもありません」

「いや、帰ってもらうほどじゃまでもありません。こっちの用事もべつだんのことでもないんだから。そう急に片づけるたちのものをやっていたんじゃない」

三四郎はちょっと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>ができなかった。しかし腹のうちでは、この人のような気分になれたら、勉強も楽にできてよかろうと思った。しばらくしてから、こう言った。

「じつは佐々木君のところへ来たんですが、いなかったものですから……」

「ああ。与次郎はなんでもゆうべから帰らないようだ。時々漂泊して困る」

「何か急に用事でもできたんですか」

「用事はけっしてできる男じゃない。ただ用事をこしらえる男でね。ああいうばかは少ない」

三四郎はしかたがないから、

「なかなか気楽ですな」と言った。

「気楽ならいいけれども。与次郎のは気楽なのじゃない。気が移るので――たとえば田の中を流れている小川のようなものと思っていれば間違いはない。浅くて狭い。しかし水だけはしじゅう変っている。だから、する事が、ちっとも締まりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思い出したように、先生松を<ruby><rb>一鉢</rb><rt>ひとはち</rt></ruby>お買いなさいなんて妙なことを言う。そうして買うともなんとも言わないうちに<ruby><rb>値切</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>って買ってしまう。その代り縁日ものを買うことなんぞはじょうずでね。あいつに買わせるとたいへん安く買える。そうかと思うと、夏になってみんなが家を<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸をたてて錠をおろしてしまう。帰ってみると、松が<ruby><rb>温気</rb><rt>うんき</rt></ruby>でむれてまっ赤になっている。万事そういうふうでまことに困る」

実をいうと三四郎はこのあいだ与次郎に二十円貸した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れるはずだから、それまで<ruby><rb>立替</rb><rt>たてか</rt></ruby>えてくれろと言う。<ruby><rb>事理</rb><rt>わけ</rt></ruby>を聞いてみると、気の毒であったから、国から送ってきたばかりの<ruby><rb>為替</rb><rt>かわせ</rt></ruby>を五円引いて、余りはことごとく貸してしまった。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いてみると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、

「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、陰では先生のためになかなか尽力しています」と言うと、先生はまじめになって、

「どんな尽力をしているんですか」と聞きだした。ところが「偉大なる<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>」その他すべて広田先生に関する与次郎の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>は、先生に話してはならないと、当人から封じられている。やりかけた途中でそんな事が知れると先生にしかられるにきまってるから黙っているべきだという。話していい時にはおれが話すと明言しているんだからしかたがない。三四郎は話をそらしてしまった。

三四郎が広田の家へ来るにはいろいろな意味がある。一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。ことに自分の性情とはまったく<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れないようなところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心から参考のため研究に来る。次にこの人の前に出るとのん気になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく<ruby><rb>世外</rb><rt>せがい</rt></ruby>の趣はあるが、世外の<ruby><rb>功名心</rb><rt>こうみょうしん</rt></ruby>のために、流俗の<ruby><rb>嗜欲</rb><rt>しよく</rt></ruby>を遠ざけているかのように思われる。だから野々宮さんを相手に<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>ぎりで話していると、自分もはやく一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起こる。いらついてたまらない。そこへゆくと広田先生は太平である。先生は高等学校でただ語学を教えるだけで、ほかになんの芸もない――といっては失礼だが、ほかになんらの研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましている。そこに、こののん気の源は伏在しているのだろうと思う。三四郎は近ごろ女にとらわれた。恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。三四郎はいまいましくなった。そういう時は広田さんにかぎる。三十分ほど先生と相対していると心持ちが<ruby><rb>悠揚</rb><rt>ゆうよう</rt></ruby>になる。女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七<ruby><rb>分方</rb><rt>ぶがた</rt></ruby>この意味である。

訪問理由の第三はだいぶ<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>している。自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子のそばに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。その野々宮さんにもっとも近いものはこの先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係がおのずから明瞭になってくるだろうと思う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いたことがない。今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。

「野々宮さんは下宿なすったそうですね」

「ええ、下宿したそうです」

「家をもった者が、また下宿をしたら不便だろうと思いますが、野々宮さんはよく……」

「ええ、そんな事にはいっこう<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>なほうでね。あの服装を見てもわかる。家庭的な人じゃない。その代り学問にかけると非常に神経質だ」

「当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか」

「わからない。また突然家を持つかもしれない」

「奥さんでもお貰いになるお考えはないんでしょうか」

「あるかもしれない。いいのを周旋してやりたまえ」

三四郎は苦笑いをして、よけいな事を言ったと思った。すると広田さんが、

「君はどうです」と聞いた。

「私は……」

「まだ早いですね。今から細君を持っちゃたいへんだ」

「国の者は勧めますが」

「国のだれが」

「母です」

「おっかさんのいうとおり持つ気になりますか」

「なかなかなりません」

広田さんは<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の下から歯を出して笑った。わりあいにきれいな歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい心持ちがした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がしだして、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話しだした。――

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、<ruby><rb>漸々</rb><rt>ぜんぜん</rt></ruby>自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」

「いいえ」

「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をとれば<ruby><rb>肥桶</rb><rt>こえたご</rt></ruby>で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して<ruby><rb>木地</rb><rt>きじ</rt></ruby>だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜<ruby><rb>爛漫</rb><rt>らんまん</rt></ruby>としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」

三四郎は内心感心したようなものの、話がそれてとんだところへ曲がって、曲がりなりに太くなってゆくので、少し驚いていた。すると広田さんもようやく気がついた。

「いったい何を話していたのかな」

「結婚の事です」

「結婚？」

「ええ、私が母の言うことを聞いて……」

「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」と言ってにこにこしている。まるで子供に対するようである。三四郎はべつに腹も立たなかった。

「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」

「君、人から親切にされて愉快ですか」

「ええ、まあ愉快です」

「きっと？　ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」

「どんな場合ですか」

「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」

「そんな場合があるでしょうか」

「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の<ruby><rb>領袖</rb><rt>りょうしゅう</rt></ruby>だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、<ruby><rb>悪気</rb><rt>にくげ</rt></ruby>がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>だ」

ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>をもう一ぺん考えてみた。ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。

その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。

「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」

「どんなのです」

「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らなくなる」

広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場を説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。それがすこぶる楽天の趣がある。あたかも教場で講義を聞くと一般の感を起こさせる。しかし三四郎にはこたえた。念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用できるからである。三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測ってみた。しかし測り切れないところがたいへんある。先生は口を閉じて、例のごとく鼻から哲学の煙を吐き始めた。

ところへ玄関に足音がした。案内も乞わずに廊下伝いにはいって来る。たちまち与次郎が書斎の入口にすわって、

「原口さんがおいでになりました」と言う。ただ今帰りましたという挨拶を省いている。わざと省いたのかもしれない。三四郎にはぞんざいな目礼をしたばかりですぐに出ていった。

与次郎と敷居ぎわですれ違って、原口さんがはいって来た。原口さんはフランス式の<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をはやして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。広田先生よりずっときれいな和服を着ている。

「やあ、しばらく。今まで佐々木が<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来ていてね。いっしょに飯を食ったり何かして――それから、とうとう引っ張り出されて……」とだいぶ楽天的な口調である。そばにいるとしぜん陽気になるような声を出す。三四郎は原口という名前を聞いた時から、おおかたあの<ruby><rb>画工</rb><rt>えかき</rt></ruby>だろうと思っていた。それにしても与次郎は交際家だ。たいていな先輩とはみんな知合いになっているからえらいと感心して堅くなった。三四郎は年長者の前へ出ると堅くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈している。

やがて主人が原口に紹介してくれる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向こうは軽く会釈した。三四郎はそれから黙って二人の談話を承っていた。

原口さんはまず用談から片づけると言って、近いうちに会をするから出てくれと頼んでいる。会員と名のつくほどのりっぱなものはこしらえないつもりだが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、わずかな人数にかぎっておくからさしつかえはない。しかもたいてい知り合いのあいだだから、形式はまったく不必要である。目的はただおおぜい寄って<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>を食う。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。

広田先生は一口「出よう」と言った。用事はそれで済んでしまった。用事はそれで済んでしまったが、それから後の原口さんと広田先生の会話がすこぶるおもしろかった。

広田先生が「君近ごろ何をしているかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を言う。

「やっぱり<ruby><rb>一中節</rb><rt>いっちゅうぶし</rt></ruby>を<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>している。もう五つほど上げた。<ruby><rb>花紅葉吉原八景</rb><rt>はなもみじよしわらはっけい</rt></ruby>だの、<ruby><rb>小稲半兵衛唐崎心中</rb><rt>こいなはんべえからさきしんじゅう</rt></ruby>だのってなかなかおもしろいのがあるよ。君も少しやってみないか。もっともありゃ、あまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。本来が四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回しがあれでなかなか込み入っているんで、どうしてもうまくいかん。こんだ一つやるから聞いてくれたまえ」

広田先生は笑っていた。すると原口さんは続きをこういうふうに述べた。

「それでもぼくはまだいいんだが、<ruby><rb>里見恭助</rb><rt>さとみきょうすけ</rt></ruby>ときたら、まるで形無しだからね。どういうものかしらん。妹はあんなに器用だのに。このあいだはとうとう降参して、もう<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>はやめる、その代り何か楽器を習おうと言いだしたところが、<ruby><rb>馬鹿囃子</rb><rt>ばかばやし</rt></ruby>をお習いなさらないかと勧めた者があってね。大笑いさ」

「そりゃ本当かい」

「本当とも。現に里見がぼくに、君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれで馬鹿囃子には八通り囃し方があるんだそうだ」

「君、やっちゃどうだ。あれなら普通の人間にでもできそうだ」

「いや馬鹿囃子はいやだ。それよりか<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>が打ってみたくってね。なぜだか鼓の音を聞いていると、まったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのん気でも、鼓の音のような絵はとてもかけないから」

「かこうともしないんじゃないか」

「かけないんだもの。今の東京にいる者に<ruby><rb>悠揚</rb><rt>ゆうよう</rt></ruby>な絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあいだ大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画をかいて展覧会にでも出そうかと思って」

「だれの」

「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は<ruby><rb>歌麿式</rb><rt>うたまろしき</rt></ruby>や何かばかりで、西洋の<ruby><rb>画布</rb><rt>カンバス</rt></ruby>にはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの女が<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をかざして、<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>をうしろに、明るい方を向いているところを<ruby><rb>等身</rb><rt>ライフサイズ</rt></ruby>に写してみようかしらと思っている。西洋の扇は<ruby><rb>厭味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>でいけないが、日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまに嫁にでもいかれようものなら、そうこっちの自由にいかなくなるかもしれないから」

三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な事を言いだした。

「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」

「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」

「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」

「君もらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」

「なぜ」

「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつぶし</rt></ruby>を買い込んで、これでパリーの下宿に<ruby><rb>籠城</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち<ruby><rb>豹変</rb><rt>ひょうへん</rt></ruby>したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた<ruby><rb>兄</rb><rt>あにき</rt></ruby>からでも聞いたんだろう」

「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」

「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

それから二人の間に長い絵画談があった。三四郎は広田先生の西洋の画工の名をたくさん知っているのに驚いた。帰るとき勝手口で<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を捜していると、先生が<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>の下へ来て「おい佐々木ちょっと降りて来い」と言っていた。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は寒い。空は高く晴れて、どこから露が降るかと思うくらいである。手が着物にさわると、さわった所だけがひやりとする。人通りの少ない<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を二、三度折れたり曲がったりしてゆくうちに、突然<ruby><rb>辻占屋</rb><rt>つじうらや</rt></ruby>に会った。大きな丸い<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をつけて、腰から下をまっ赤にしている。三四郎は辻占が買ってみたくなった。しかしあえて買わなかった。<ruby><rb>杉垣</rb><rt>すぎがき</rt></ruby>に羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。しばらくして、暗い所をはすに抜けると、追分の通りへ出た。<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>に<ruby><rb>蕎麦屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>がある。三四郎は今度は思い切って<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくぐった。少し酒を飲むためである。

高等学校の生徒が三人いる。近ごろ学校の先生が昼の弁当に蕎麦を食う者が多くなったと話している。蕎麦屋の<ruby><rb>担夫</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>が<ruby><rb>午砲</rb><rt>どん</rt></ruby>が鳴ると、<ruby><rb>蒸籠</rb><rt>せいろ</rt></ruby>や<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>ものを山のように肩へ載せて、急いで校門をはいってくる。ここの蕎麦屋はあれでだいぶもうかるだろうと話している。なんとかいう先生は夏でも<ruby><rb>釜揚饂飩</rb><rt>かまあげうどん</rt></ruby>を食うが、どういうものだろうと言っている。おおかた胃が悪いんだろうと言っている。そのほかいろいろの事を言っている。教師の名はたいてい呼び棄てにする。なかに一人広田さんと言った者がある。それからなぜ広田さんは独身でいるかという議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画がかけてあるから、女がきらいなんじゃなかろうという説である。もっともその裸体画は西洋人だからあてにならない。日本の女はきらいかもしれないという説である。いや失恋の結果に違いないという説も出た。失恋してあんな変人になったのかと質問した者もあった。しかし若い美人が出入するという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>があるが本当かと聞きただした者もあった。

だんだん聞いているうちに、要するに広田先生は偉い人だということになった。なぜ偉いか三四郎にもよくわからないが、とにかくこの三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでいる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好きになったと言っている。時々は「偉大なる暗闇」のなかにある警句などを引用してくる。そうしてさかんに与次郎の文章をほめている。<ruby><rb>零余子</rb><rt>れいよし</rt></ruby>とはだれだろうと不思議がっている。なにしろよほどよく広田さんを知っている男に相違ないということには三人とも同意した。

三四郎はそばにいて、なるほどと感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を書くはずである。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白したとおりであるのに、<ruby><rb>麗々</rb><rt>れいれい</rt></ruby>しく彼のいわゆる大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外になんのためになるだろうと疑っていたが、これでみると活版の勢力はやはりたいしたものである。与次郎の主張するとおり、<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>でも半句でも言わないほうが損になる。人の評判はこんなところからあがり、またこんなところから落ちると思うと、筆を執るものの責任が恐ろしくなって、三四郎は蕎麦屋を出た。

下宿へ帰ると、酒はもうさめてしまった。なんだかつまらなくっていけない。机の前にすわって、ぼんやりしていると、下女が下から<ruby><rb>湯沸</rb><rt>ゆわかし</rt></ruby>に熱い湯を入れて持ってきたついでに、封書を一通置いていった。また母の手紙である。三四郎はすぐ封を切った。きょうは母の手跡を見るのがはなはだうれしい。

手紙はかなり長いものであったが、べつだんの事も書いてない。ことに三輪田のお光さんについては一口も述べてないので大いにありがたかった。けれどもなかに妙な<ruby><rb>助言</rb><rt>じょげん</rt></ruby>がある。

お前は子供の時から度胸がなくっていけない。度胸の悪いのはたいへんな損で、試験の時なぞにはどのくらい困るかしれない。<ruby><rb>興津</rb><rt>おきつ</rt></ruby>の<ruby><rb>高</rb><rt>たか</rt></ruby>さんは、あんなに学問ができて、中学校の先生をしているが、検定試験を受けるたびに、からだがふるえて、うまく答案ができないんで、気の毒なことにいまだに月給が上がらずにいる。友だちの医学士とかに頼んでふるえのとまる丸薬をこしらえてもらって、試験前に飲んで出たがやっぱりふるえたそうである。お前のはぶるぶるふるえるほどでもないようだから、平生から<ruby><rb>持薬</rb><rt>じやく</rt></ruby>に度胸のすわる薬を東京の医者にこしらえてもらって飲んでみろ。直らないこともなかろうというのである。

三四郎はばかばかしいと思った。けれどもばかばかしいうちに大いなる感謝を見出した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。その晩一時ごろまでかかって長い返事を母にやった。そのなかには東京はあまりおもしろい所ではないという一句があった。

## 八

三四郎が与次郎に金を貸したてんまつは、こうである。

このあいだの晩九時ごろになって、与次郎が雨のなかを突然やって来て、あたまから大いに弱ったと言う。見ると、いつになく顔の色が悪い。はじめは<ruby><rb>秋雨</rb><rt>あきさめ</rt></ruby>にぬれた冷たい空気に吹かれすぎたからのことと思っていたが、座について見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍しく消沈している。三四郎が「ぐあいでもよくないのか」と尋ねると、与次郎は<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>のような目を二度ほどぱちつかせて、こう答えた。

「じつは金をなくしてね。困っちまった」

そこで、ちょっと心配そうな顔をして、煙草の煙を二、三本鼻から吐いた。三四郎は黙って待っているわけにもゆかない。どういう種類の金を、どこでなくなしたのかとだんだん聞いてみると、すぐわかった。与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切るあいだだけ控えていたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすらすらと話してしまった。

与次郎のなくした金は、<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>で二十円、ただし人のものである。去年広田先生がこのまえの家を借りる時分に、三か月の敷金に窮して、足りないところを一時野々宮さんから<ruby><rb>用達</rb><rt>ようだ</rt></ruby>ってもらったことがある。しかるにその金は野々宮さんが、<ruby><rb>妹</rb><rt>いもと</rt></ruby>にバイオリンを買ってやらなくてはならないとかで、わざわざ国元の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんから送らせたものだそうだ。それだからきょうがきょう必要というほどでない代りに、延びれば延びるほどよし子が困る。よし子は現に今でもバイオリンを買わずに済ましている。広田先生が返さないからである。先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々余裕が一文も出ないうえに、月給以外にけっしてかせがない男だから、ついそれなりにしてあった。ところがこの夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時の<ruby><rb>手当</rb><rt>てあて</rt></ruby>が六十円このごろになってようやく受け取れた。それでようやく義理を済ますことになって、与次郎がその使いを言いつかった。

「その金をなくなしたんだからすまない」と与次郎が言っている。じっさいすまないような顔つきでもある。どこへ落としたんだと聞くと、なに落としたんじゃない。<ruby><rb>馬券</rb><rt>ばけん</rt></ruby>を何枚とか買って、みんななくなしてしまったのだと言う。三四郎もこれにはあきれ返った。あまり無分別の度を通り越しているので意見をする気にもならない。そのうえ本人が<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>としている。これをいつもの活発<ruby><rb>溌地</rb><rt>はっち</rt></ruby>と比べると与次郎なるものが<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>いるとしか思われない。その対照が激しすぎる。だからおかしいのと気の毒なのとがいっしょになって三四郎を襲ってきた。三四郎は笑いだした。すると与次郎も笑いだした。

「まあいいや、どうかなるだろう」と言う。

「先生はまだ知らないのか」と聞くと、

「まだ知らない」

「野々宮さんは」

「むろん、まだ知らない」

「金はいつ受け取ったのか」

「金はこの月始まりだから、きょうでちょうど二週間ほどになる」

「馬券を買ったのは」

「受け取ったあくる日だ」

「それからきょうまでそのままにしておいたのか」

「いろいろ奔走したができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>までこのままにしておこう」

「今月末になればできる見込みでもあるのか」

「文芸時評社から、どうかなるだろう」

三四郎は立って、机の引出しをあけた。きのう母から来たばかりの手紙の中をのぞいて、

「金はここにある。今月は国から早く送ってきた」と言った。与次郎は、

「ありがたい。親愛なる小川君」と急に元気のいい声で落語家のようなことを言った。

二人は十時すぎ雨を冒して、<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>の通りへ出て、角の蕎麦屋へはいった。三四郎が蕎麦屋で酒を飲むことを覚えたのはこの時である。その晩は二人とも愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払った。与次郎はなかなか人に払わせない男である。

それからきょうにいたるまで与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払いを気にしている。催促はしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って、日を過ごすうちに<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>近くなった。もう一日<ruby><rb>二日</rb><rt>ふつか</rt></ruby>しか余っていない。間違ったら下宿の勘定を延ばしておこうなどという考えはまだ三四郎の頭にのぼらない。必ず与次郎が持って来てくれる――とまではむろん彼を信用していないのだが、まあどうかくめんしてみようくらいの親切気はあるだろうと考えている。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水のようにしじゅう移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。まさかそれほどの事もあるまい。

三四郎は二階の窓から往来をながめていた。すると向こうから与次郎が足早にやって来た。窓の下まで来てあおむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、おるか」と言う。三四郎は上から、与次郎を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>して、「うん、おる」と言う。このばかみたような<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>が上下で一句交換されると、三四郎は<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へ首を引っ込める。与次郎は<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>をとんとん上がってきた。

「待っていやしないか。君のことだから下宿の勘定を心配しているだろうと思って、だいぶ奔走した。ばかげている」

「文芸時評から原稿料をくれたか」

「原稿料って、原稿料はみんな取ってしまった」

「だってこのあいだは月末に取るように言っていたじゃないか」

「そうかな、それは間違いだろう。もう一文も取るのはない」

「おかしいな。だって君はたしかにそう言ったぜ」

「なに、前借りをしようと言ったのだ。ところがなかなか貸さない。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円ばかりの金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信用しない。つまらない。いやになっちまった」

「じゃ金はできないのか」

「いやほかでこしらえたよ。君が困るだろうと思って」

「そうか。それは気の毒だ」

「ところが困った事ができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ」

「どこへ」

「じつは文芸時評がいけないから、原口だのなんだの二、三軒歩いたが、どこも月末でつごうがつかない。それから最後に里見の所へ行って――里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度は<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>でやっぱり要領を得ない。そのうち腹が減って歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って話をした」

「野々宮さんの妹がいやしないか」

「なに昼少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。それに応接間だからいたってかまやしない」

「そうか」

「それで美禰子さんが、引き受けてくれて、御用立て申しますと言うんだがね」

「あの女は自分の金があるのかい」

「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかく<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>だよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な女で、年のいかないくせにねえさんじみた事をするのが好きな<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>なんだから、引き受けさえすれば、安心だ。心配しないでもいい。よろしく願っておけばかまわない。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せませんと言うんだから、驚いたね。ぼくはそんなに不信用なんですかと聞くと、ええと言って笑っている。いやになっちまった。じゃ小川をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」

「取りにいかなければ、国へ電報でもかけるんだな」

「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいけるだろう」

「いける」

これでようやく二十円のらちがあいた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。

運動は着々歩を進めつつある。暇さえあれば下宿へ出かけていって、一人一人に相談する。相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄ると、めいめいが自分の存在を主張しようとして、ややともすれば<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>をたてる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持ちになって、<ruby><rb>初手</rb><rt>しょて</rt></ruby>から冷淡にかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。その代り暇はいる。金もいる。それを苦にしていては運動はできない。それから相談中には広田先生の名前をあまり出さないことにする。我々のための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われると、事がまとまらなくなる。

与次郎はこの方法で運動の歩を進めているのだそうだ。それできょうまでのところはうまくいった。西洋人ばかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもらおうというところまで話はきた。これから先はもう一ぺん寄って、委員を選んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べにやるばかりである。もっとも会合だけはほんの形式だから略してもいい。委員になるべき学生もだいたいは知れている。みんな広田先生に同情を持っている連中だから、談判の模様によっては、こっちから先生の名を当局者へ持ち出すかもしれない。……

聞いていると、与次郎一人で天下が自由になるように思われる。三四郎は少なからず与次郎の手腕に感服した。与次郎はまたこのあいだの晩、原口さんを先生の所へ連れてきた事について、弁じだした。

「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めていたろう」と言う。三四郎はむろん覚えている。与次郎の話によると、じつはあれも自身の<ruby><rb>発起</rb><rt>ほっき</rt></ruby>にかかるものだそうだ。その理由はいろいろあるが、まず第一に手近なところを言えば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がいる。その男と広田先生を接触させるのは、このさい先生にとって、たいへんな便利である。先生は変人だから、求めてだれとも交際しない。しかしこっちで相当の機会を作って、接触させれば、変人なりに付合ってゆく。……

「そういう意味があるのか、ちっとも知らなかった。それで君が発起人だというんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、そういう偉い人たちがみんな寄って来るのかな」

与次郎は、しばらくまじめに、三四郎を見ていたが、やがて苦笑いをしてわきを向いた。

「ばかいっちゃいけない。発起人って、おもてむきの発起人じゃない。ただぼくがそういう会を企てたのだ。つまりぼくが原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋するようにこしらえたのだ」

「そうか」

「そうかは<ruby><rb>田臭</rb><rt>でんしゅう</rt></ruby>だね。時に君もあの会へ出るがいい。もう近いうちにあるはずだから」

「そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。ぼくはよそう」

「また田臭を放った。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ。なにあんな連中、博士とか学士とかいったって、会って話してみるとなんでもないものだよ。第一向こうがそう偉いともなんとも思ってやしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来のためだから」

「どこであるのか」

「たぶん<ruby><rb>上野</rb><rt>うえの</rt></ruby>の<ruby><rb>精養軒</rb><rt>せいようけん</rt></ruby>になるだろう」

「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」

「まあ二円ぐらいだろう。なに会費なんか、心配しなくってもいい。なければぼくがだしておくから」

三四郎はたちまち、さきの二十円の件を思い出した。けれども不思議におかしくならなかった。与次郎はそのうち<ruby><rb>銀座</rb><rt>ぎんざ</rt></ruby>のどことかへ<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>を食いに行こうと言いだした。金はあると言う。不思議な男である。言いなり次第になる三四郎もこれは断った。その代りいっしょに散歩に出た。帰りに<ruby><rb>岡野</rb><rt>おかの</rt></ruby>へ寄って、与次郎は<ruby><rb>栗饅頭</rb><rt>くりまんじゅう</rt></ruby>をたくさん買った。これを先生にみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。

三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。長く東京にいるとあんなになるものかと思った。それから里見へ金を借りに行くことを考えた。美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すという当人が娘である。独立した人間ではない。たとい金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分はとにかく、あとで、貸した人の迷惑になるかもしれない。あるいはあの女のことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会ってみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら、断わって、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、国から取り寄せれば事は済む。――当用はここまで考えて句切りをつけた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。美禰子の顔や手や、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>や、帯や、着物やらを、想像にまかせて、<ruby><rb>乗</rb><rt>か</rt></ruby>けたり<ruby><rb>除</rb><rt>わ</rt></ruby>ったりしていた。ことにあした会う時に、どんな態度で、どんな事を言うだろうとその光景が<ruby><rb>十</rb><rt>と</rt></ruby>通りにも<ruby><rb>二十</rb><rt>にじっ</rt></ruby>通りにもなって、いろいろに出て来る。三四郎は本来からこんな男である。用談があって人と会見の約束などをする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後からきっとそのほうを考える。そうして後悔する。

ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、いろいろに向こうを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。それでいて、実際ははなはだ疑わしい。ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。

最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎は金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である。自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、

「やっぱり<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。

翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で<ruby><rb>一品</rb><rt>いっぴん</rt></ruby>料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。<ruby><rb>瓦葺</rb><rt>かわらぶき</rt></ruby>の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りからはいると玄関までの距離は存外短かい。長方形の<ruby><rb>御影石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめである。しかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋室である。少し暗い。

下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>がある。その上が横に長い鏡になっていて前に<ruby><rb>蝋燭立</rb><rt>ろうそくたて</rt></ruby>が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。

すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうしょ</rt></ruby>によく合った。不意に天から二、三<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>落ちて来た、でたらめの<ruby><rb>雹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>のようである。

三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。

「いらっしゃい」

女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。

「とうとういらしった」

同じような親しい調子である。三四郎にはこの<ruby><rb>一言</rb><rt>いちげん</rt></ruby>が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>に近い。

「佐々木が」

「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の<ruby><rb>臆断</rb><rt>おくだん</rt></ruby>で、じつはなんだかわからない。この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」

「なんと言っていらっしゃいました」

「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」

「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。

「ええ」と言って少し<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、<ruby><rb>外面</rb><rt>そと</rt></ruby>をながめだした。

「曇りましたね。寒いでしょう、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は」

「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」

「そう」と言いながら席へ帰って来た。

「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。

「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると

「どうしておなくしになったの」と聞いた。

「馬券を買ったのです」

女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。

「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

「あら。だれが買ったの」

「佐々木が買ったのです」

女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。

「じゃ、あなたがお金がお<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>じゃなかったのね。ばかばかしい」

「いることはぼくがいるのです」

「ほんとうに？」

「ほんとうに」

「だってそれじゃおかしいわね」

「だから借りなくってもいいんです」

「なぜ。おいやなの？」

「いやじゃないが、お<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」

「どういうわけで？　でも兄は承知しているんですもの」

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

「御迷惑なら、しいて……」

美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、

「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。

「降らなければ、私ちょっと出て<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。

「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ降りて、<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいていると、上から美禰子が、

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、<ruby><rb>和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。

二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。

そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「お願い」と言った。

「なんですか」

「これでお金を取ってちょうだい」

三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座<ruby><rb>預金通帳</rb><rt>あずかりきんかよいちょう</rt></ruby>とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

「三十円」と女が<ruby><rb>金高</rb><rt>きんだか</rt></ruby>を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび<ruby><rb>豊津</rb><rt>とよつ</rt></ruby>まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

「<ruby><rb>丹青会</rb><rt>たんせいかい</rt></ruby>の展覧会を御覧になって」と聞いた。

「まだ見ません」

「<ruby><rb>招待券</rb><rt>しょうたいけん</rt></ruby>を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた原口さんを御存じなの？」

「広田先生の所で一度会いました」

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

「このあいだは<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>をならいたいと言っていました。それから――」

「それから？」

「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

三四郎はまた<ruby><rb>隠袋</rb><rt>かくし</rt></ruby>へ手を入れた。銀行の<ruby><rb>通帳</rb><rt>かよいちょう</rt></ruby>と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、

「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。

「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>へ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>についている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しかし熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである。三四郎の目にはただ油絵と水彩画の区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。

それでも<ruby><rb>好悪</rb><rt>こうお</rt></ruby>はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

長い間外国を旅行して歩いた<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

「ベニスでしょう」

これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>とをながめていた。すると、

「<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの？」

美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をかいたものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

「里見さん」

だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な<ruby><rb>連</rb><rt>つれ</rt></ruby>と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>の肉が落ちている。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうが<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>でもかかしてくれ。

「その代りここん所へかけるつもりです」

原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。

「<ruby><rb>三井</rb><rt>みつい</rt></ruby>です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」

原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし<ruby><rb>晩餐</rb><rt>デナー</rt></ruby>には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。<ruby><rb>深見</rb><rt>ふかみ</rt></ruby>さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

「ありがとう」

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。

女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど<ruby><rb>一気呵成</rb><rt>いっきかせい</rt></ruby>に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで<ruby><rb>殻竿</rb><rt>からざお</rt></ruby>のようである。ここにもベニスが一枚ある。

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

女は「さっき？」と聞き返した。

「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>したのですか」

「なんで？」

女の語気はまったく無邪気である。三四郎は<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの？」

「だからいいです」

女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの？」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。<ruby><rb>下足</rb><rt>げそく</rt></ruby>を受け取って、出ると戸外は雨だ。

「精養軒へ行きますか」

美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって？　さっきのこと」

「いいです」

「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

女は<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>あなたのためにした事じゃありませんかと、<ruby><rb>二重瞼</rb><rt>ふたえまぶた</rt></ruby>の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

雨はだんだん濃くなった。<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

## 九

与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。その時三四郎は黒い<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の羽織を着た。この羽織は、三輪田のお光さんのおっかさんが織ってくれたのを、<ruby><rb>紋付</rb><rt>もんつき</rt></ruby>に染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包みが届いた時、いちおう着てみて、おもしろくないから、<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>へ入れておいた。それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。着てみると悪くはないようだ。

三四郎はこのいでたちで、与次郎と<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>で精養軒の玄関に立っていた。与次郎の説によると、お客はこうして迎えべきものだそうだ。三四郎はそんなこととは知らなかった。第一自分がお客のつもりでいた。こうなると、紬の羽織ではなんだか安っぽい受け付けの気がする。制服を着てくればよかったと思った。そのうち会員がだんだん来る。与次郎は来る人をつらまえてきっとなんとか話をする。ことごとく旧知のようにあしらっている。お客が帽子と<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を給仕に渡して、広い<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のは<ruby><rb>誰某</rb><rt>だれそれがし</rt></ruby>だと教えてくれる。三四郎はおかげで知名な人の顔をだいぶ覚えた。

そのうちお客はほぼ集まった。約三十人足らずである。広田先生もいる。野々宮さんもいる。――これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが、むりに引っ張り出したのだそうだ。原口さんはむろんいる。いちばんさきへ来て、世話を焼いたり、<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>を振りまいたり、フランス式の<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>をつまんでみたり、万事忙しそうである。

やがて着席となった。めいめいかってな所へすわる。譲る者もなければ、争う者もない。そのうちでも広田先生はのろいにも似合わずいちばんに腰をおろしてしまった。ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口に近く座を占めた。その他はことごとく偶然の向かい合わせ、隣同志であった。

野々宮さんと広田先生のあいだに<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の羽織を着た批評家がすわった。向こうには<ruby><rb>庄司</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>という博士が座に着いた。これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。フロックを着た品格のある男であった。髪を普通の倍以上長くしている。それが電燈の光で、黒く<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>をまいて見える。広田先生の<ruby><rb>坊主頭</rb><rt>ぼうずあたま</rt></ruby>と比べるとだいぶ相違がある。原口さんはだいぶ離れて席を取った。あちらの<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>だから、遠く三四郎と真向かいになる。<ruby><rb>折襟</rb><rt>おりえり</rt></ruby>に、幅の広い<ruby><rb>黒襦子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>を結んださきがぱっと開いて胸いっぱいになっている。与次郎が、フランスの<ruby><rb>画工</rb><rt>アーチスト</rt></ruby>は、みんなああいう襟飾りを着けるものだと教えてくれた。三四郎は<ruby><rb>肉汁</rb><rt>ソップ</rt></ruby>を吸いながら、まるで<ruby><rb>兵児帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>の結び目のようだと考えた。そのうち談話がだんだん始まった。与次郎はビールを飲む。いつものように口をきかない。さすがの男もきょうは少々<ruby><rb>謹</rb><rt>つつし</rt></ruby>んでいるとみえる。三四郎が、小さな声で、

「ちと、ダーターファブラをやらないか」と言うと、「きょうはいけない」と答えたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとかなんとか礼を述べている。ところがその論文は、彼が自分の前で、さかんに<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>したものだから、三四郎にはすこぶる不思議の思いがある。与次郎はまたこっちを向いた。

「その羽織はなかなかりっぱだ。よく似合う」と白い紋をことさら注意してながめている。その時向こうの<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するにはつごうがいい。今まで向かい合わせに言葉をかわしていた広田先生と庄司という教授は、二人の応答を途中でさえぎることを恐れて、談話をやめた。その他の人もみんな黙った。会の中心点がはじめてできあがった。

「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」

「いや、まだなかなかだ」

「ずいぶん<ruby><rb>手数</rb><rt>てすう</rt></ruby>がかかるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」

「絵はインスピレーションですぐかけるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」

「インスピレーションには<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>する。この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。聞いてみると<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>はもう明けたんだろうか、どうだろうかという研究なんだが、<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>のばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが、近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。すると一人がどうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。――絵もそのとおり、今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。ねえ<ruby><rb>田村</rb><rt>たむら</rt></ruby>さん、小説だって、そうだろう」

隣に田村という小説家がすわっていた。この男は自分のインスピレーションは原稿の催促以外になんにもないと答えたので、大笑いになった。田村は、それから改まって、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きだした。野々宮さんの答はおもしろかった。――

<ruby><rb>雲母</rb><rt>マイカ</rt></ruby>か何かで、<ruby><rb>十六武蔵</rb><rt>じゅうろくむさし</rt></ruby>ぐらいの大きさの薄い円盤を作って、<ruby><rb>水晶</rb><rt>すいしょう</rt></ruby>の糸で釣るして、<ruby><rb>真空</rb><rt>しんくう</rt></ruby>のうちに置いて、この円盤の<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>へ<ruby><rb>弧光燈</rb><rt>アークとう</rt></ruby>の光を直角にあてると、この円盤が光に<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>されて動く。と言うのである。

一座は耳を傾けて聞いていた。なかにも三四郎は腹のなかで、あの<ruby><rb>福神漬</rb><rt>ふくじんづけ</rt></ruby>の<ruby><rb>缶</rb><rt>かん</rt></ruby>のなかに、そんな装置がしてあるのだろうと、上京のさい、望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。

「君、水晶の糸があるのか」と小さい声で与次郎に聞いてみた。与次郎は頭を振っている。

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」

「ええ、水晶の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>をね。酸水素<ruby><rb>吹管</rb><rt>すいかん</rt></ruby>の炎で溶かしておいて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」

三四郎は「そうですか」と言ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。

「我々はそういう方面へかけると、全然無学なんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」

「理論上はマクスウェル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。近ごろあの<ruby><rb>彗星</rb><rt>すいせい</rt></ruby>の尾が、太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです」

批評家はだいぶ感心したらしい。

「思いつきもおもしろいが、第一大きくていいですね」と言った。

「大きいばかりじゃない、罪がなくって愉快だ」と広田先生が言った。

「それでその思いつきがはずれたら、なお罪がなくっていい」と原口さんが笑っている。

「いや、どうもあたっているらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい<ruby><rb>小片</rb><rt>パーチクル</rt></ruby>からできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」

野々宮は、ついまじめになった。すると原口が例の調子で、

「罪がない代りに、たいへん計算がめんどうになってきた。やっぱり一利一害だ」と言った。この<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>で、人々はもとのとおりビールの気分に復した。広田先生が、こんな事を言う。

「どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね」

物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。

「それはどういう意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなった。

「だって、光線の圧力を試験するために、目だけあけて、自然を観察していたって、だめだからさ。自然の<ruby><rb>献立</rb><rt>こんだて</rt></ruby>のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、<ruby><rb>雲母</rb><rt>マイカ</rt></ruby>だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ」

「しかし<ruby><rb>浪漫派</rb><rt>ローマンは</rt></ruby>でもないだろう」と原口さんがまぜ返した。

「いや浪漫派だ」と広田先生がもったいらしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか」

「しかし、いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派でしょう」と野々宮さんが言った。

「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学のほうでいうと、イブセンのようなものじゃないか」と筋向こうの博士が比較を持ち出した。

「さよう、イブセンの劇は野々宮君と同じくらいな装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のように自然の法則に従っているか疑わしい」これは縞の羽織の批評家の言葉であった。

「そうかもしれないが、こういうことは人間の研究上記憶しておくべき事だと思う。――すなわち、ある状況のもとに置かれた人間は、反対の方向に働きうる能力と権力とを有している。ということなんだが、――ところが妙な習慣で、人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから、時々とんだ間違いができる。おこらせようと思って装置をすると、笑ったり、笑わせようともくろんでかかると、おこったり、まるで反対だ。しかしどちらにしても人間に違いない」と広田先生がまた問題を大きくしてしまった。

「じゃ、ある状況のもとに、ある人間が、どんな所作をしてもしぜんだということになりますね」と向こうの小説家が質問した。広田先生は、すぐ、

「ええ、ええ。どんな人間を、どう描いても世界に一人くらいはいるようじゃないですか」と答えた。「じっさい人間たる我々は、人間らしからざる行為動作を、どうしたって想像できるものじゃない。ただへたに書くから人間と思われないのじゃないですか」

小説家はそれで黙った。今度は博士がまた口をきいた。

「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣りランプの一振動の時間が、振動の大小にかかわらず同じであることに気がついたり、ニュートンが<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>が引力で落ちるのを発見したりするのは、はじめから自然派ですね」

「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。

「あるとも。恐るべきクールベエというやつがいる。<ruby><rb>vérité</rb><rt>ヴェリテ</rt></ruby> <ruby><rb>vraie</rb><rt>ヴレイ</rt></ruby>\. なんでも事実でなければ承知しない。しかしそう<ruby><rb>猖獗</rb><rt>しょうけつ</rt></ruby>を極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローや、シャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」

「いるはずだ」と隣の小説家が答えた。

食後には卓上演説も何もなかった。ただ原口さんが、しきりに<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>の上の銅像の<ruby><rb>悪口</rb><rt>わるくち</rt></ruby>を言っていた。あんな銅像をむやみに立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いているという説であった。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作ったんだと教えた。

会が済んで、外へ出るといい月であった。今夜の広田先生は庄司博士によい印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。三四郎は与えたろうと答えた。与次郎は共同水道<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>のそばに立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いからここで水を浴びていたら、巡査に見つかって、<ruby><rb>擂鉢山</rb><rt>すりばちやま</rt></ruby>へ駆け上がったと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。

帰り道に与次郎が三四郎に向かって、突然借金の言い訳をしだした。月のさえた比較的寒い晩である。三四郎はほとんど金の事などは考えていなかった。言い訳を聞くのでさえ本気ではない。どうせ返すことはあるまいと思っている。与次郎もけっして返すとは言わない。ただ返せない事情をいろいろに話す。その話し方のほうが三四郎にはよほどおもしろい。――自分の知ってるさる男が、失恋の結果、世の中がいやになって、とうとう自殺をしようと決心したが、海もいや川もいや、噴火口はなおいや、首をくくるのはもっともいやというわけで、やむをえず<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を買ってきた。買ってきて、まだ目的を<ruby><rb>遂行</rb><rt>すいこう</rt></ruby>しないうちに、友だちが金を借りにきた。金はないと断ったが、ぜひどうかしてくれと訴えるので、しかたなしに、大事の短銃を貸してやった。友だちはそれを質に入れて一時をしのいだ。つごうがついて、質を受け出して返しにきた時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなっていた。だからこの男の命は金を借りにこられたために助かったと同じ事である。

「そういう事もあるからなあ」と与次郎が言った。三四郎にはただおかしいだけである。そのほかにはなんらの意味もない。高い月を仰いで大きな声を出して笑った。金を返されないでも愉快である。与次郎は、

「笑っちゃいかん」と注意した。三四郎はなおおかしくなった。

「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう」

三四郎は笑うのをやめた。

「それで？」

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」

与次郎はよく知っている。三四郎はふんと言って、また高い月を見た。月のそばに白い雲が出た。

「君、あの女には、もう返したのか」

「いいや」

「いつまでも借りておいてやれ」

のん気な事を言う。三四郎はなんとも答えなかった。しかしいつまでも借りておく気はむろんなかった。じつは必要な二十円を下宿へ払って、残りの十円をそのあくる日すぐ里見の家へ届けようと思ったが、今返してはかえって、好意にそむいて、よくないと考え直して、せっかく門内に、はいられる機会を犠牲にしてまでも引き返した。その時何かの<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>で、気がゆるんで、その十円をくずしてしまった。じつは今夜の会費もそのうちから出ている。自分ばかりではない。与次郎のもそのうちから出ている。あとには、ようやく二、三円残っている。三四郎はそれで冬シャツを買おうと思った。

じつは与次郎がとうてい返しそうもないから、三四郎は思いきって、このあいだ<ruby><rb>国元</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へ三十円の不足を請求した。十分な学資を月々もらっていながら、ただ不足だからといって請求するわけにはゆかない。三四郎はあまり<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をついたことのない男だから、請求の理由にいたって困却した。しかたがないからただ友だちが金をなくして弱っていたから、つい気の毒になって貸してやった。その結果として、今度はこっちが弱るようになった。どうか送ってくれと書いた。

すぐ返事を出してくれれば、もう届く時分であるのにまだ来ない。今夜あたりはことによると来ているかもしれぬくらいに考えて、下宿へ帰ってみると、はたして、母の<ruby><rb>手蹟</rb><rt>て</rt></ruby>で書いた封筒がちゃんと机の上に乗っている。不思議なことに、いつも必ず書留で来るのが、きょうは三銭切手一枚で済ましてある。開いてみると、中はいつになく短かい。母としては不親切なくらい、用事だけで申し納めてしまった。依頼の金は野々宮さんの方へ送ったから、野々宮さんから受け取れというさしずにすぎない。三四郎は床を取ってねた。

翌日もその翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかった。野々宮さんのほうでもなんともいってこなかった。そうしているうちに一週間ほどたった。しまいに野々宮さんから、下宿の下女を使いに手紙をよこした。おっかさんから頼まれものがあるから、ちょっと来てくれろとある。三四郎は講義の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>をみて、また理科大学の穴倉へ降りていった。そこで<ruby><rb>立談</rb><rt>たちばなし</rt></ruby>のあいだに事を済ませようと思ったところが、そううまくはいかなかった。この夏は野々宮さんだけで専領していた<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>のはえた人が二、三人いる。制服を着た学生も二、三人いる。それが、みんな熱心に、<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>に、頭の上の日のあたる世界をよそにして、研究をやっている。そのうちで野々宮さんはもっとも多忙に見えた。部屋の入口に顔を出した三四郎をちょっと見て、無言のまま近寄ってきた。

「国から、金が届いたから、取りに来てくれたまえ。今ここに持っていないから。それからまだほかに話す事もある」

三四郎ははあと答えた。今夜でもいいかと尋ねた。野々宮はすこしく考えていたが、しまいに思いきってよろしいと言った。三四郎はそれで穴倉を出た。出ながら、さすがに理学者は根気のいいものだと感心した。この夏見た<ruby><rb>福神漬</rb><rt>ふくじんづけ</rt></ruby>の<ruby><rb>缶</rb><rt>かん</rt></ruby>と、望遠鏡が依然としてもとのとおりの位置に備えつけてあった。

次の講義の時間に与次郎に会ってこれこれだと話すと、与次郎はばかだと言わないばかりに三四郎をながめて、

「だからいつまでも借りておいてやれと言ったのに。よけいな事をして年寄りには心配をかける。宗八さんにはお談義をされる。これくらい愚な事はない」とまるで自分から事が起こったとは認めていない申し分である。三四郎もこの問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。したがって与次郎の頭にかかってこない返事をした。

「いつまでも借りておくのは、いやだから、家へそう言ってやったんだ」

「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」

「なぜ」

このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。

「あたりまえじゃないか。ぼくを人にしたって、同じことだ。ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい心持ちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」

三四郎は返事をしないで、講義を筆記しはじめた。二、三行書きだすと、与次郎がまた、耳のそばへ口を持ってきた。

「おれだって、金のある時はたびたび人に貸したことがある。しかしだれもけっして返したものがない。それだからおれはこのとおり愉快だ」

三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。薄笑いをしただけで、またペンを走らしはじめた。与次郎もそれからはおちついて、時間の終るまで口をきかなかった。

ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。

「あの女は君にほれているのか」

二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を降りて横手の玄関から、図書館わきの<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>へ出て、はじめて与次郎を顧みた。

「よくわからない」

与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の<ruby><rb>夫</rb><rt>ハスバンド</rt></ruby>になれるか」

三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのおんな</rt></ruby>の<ruby><rb>夫</rb><rt>ハスバンド</rt></ruby>たる<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、

「知らん」と言った。三四郎は黙っている。

「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。

三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな<ruby><rb>唐物屋</rb><rt>とうぶつや</rt></ruby>へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、

「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、<ruby><rb>二日</rb><rt>ふつか</rt></ruby>ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。

手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を<ruby><rb>層々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。

二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。

表へ出て別れようとすると、女のほうが互いにお辞儀を始めた。よし子が「じゃ行ってきてよ」と言うと、美禰子が、「お早く……」と言っている。聞いてみて、<ruby><rb>妹</rb><rt>いもと</rt></ruby>が兄の下宿へ行くところだということがわかった。三四郎はまたきれいな女と<ruby><rb>二人連</rb><rt>ふたりづれ</rt></ruby>で追分の方へ歩くべき<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>となった。日はまだまったく落ちていない。

三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子といっしょに野々宮の下宿で落ち合わねばならぬ機会をいささか迷惑に感じた。いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。しかし、与次郎のいわゆるお談義を聞くには、よし子がそばにいてくれるほうが便利かもしれない。まさか人の前で、母から、こういう依頼があったと、遠慮なしの注意を与えるわけはなかろう。ことによると、ただ金を受け取るだけで済むかもわからない。――三四郎は腹の中で、ちょっとずるい決心をした。

「ぼくも野々宮さんの所へ行くところです」

「そう、お遊びに？」

「いえ、すこし用があるんです。あなたは遊びですか」

「いいえ、私も御用なの」

両方が同じようなことを聞いて、同じような答を得た。しかし両方とも迷惑を感じている<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がさらにない。三四郎は念のため、じゃまじゃないかと尋ねてみた。ちっともじゃまにはならないそうである。女は言葉でじゃまを否定したばかりではない。顔ではむしろなぜそんなことを質問するかと驚いている。三四郎は店先のガスの光で、女の黒い目の中に、その驚きを認めたと思った。事実としては、ただ大きく黒く見えたばかりである。

「バイオリンを買いましたか」

「どうして御存じ」

三四郎は返答に窮した。女は<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>なく、すぐ、こう言った。

「いくら兄さんにそう言っても、ただ買ってやる、買ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなかったんですの」

三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、むしろ与次郎を非難した。

二人は追分の通りを細い路地に折れた。折れると中に家がたくさんある。暗い道を<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby>ごとの軒燈が照らしている。その軒燈の一つの前にとまった。野々宮はこの奥にいる。

三四郎の下宿とはほとんど一丁ほどの距離である。野々宮がここへ移ってから、三四郎は二、三度訪問したことがある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当って、二段ばかりまっすぐに上がると、左手に離れた二間である。南向きによその広い庭をほとんど<ruby><rb>椽</rb><rt>えん</rt></ruby>の下に控えて、昼も夜も至極静かである。この離れ座敷に立てこもった野々宮さんを見た時、なるほど家を畳んで下宿をするのも悪い思いつきではなかったと、はじめて来た時から、感心したくらい、<ruby><rb>居心地</rb><rt>いごこち</rt></ruby>のいい所である。その時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>を見上げて、ちょっと見たまえ、<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶき</rt></ruby>だと言った。なるほど珍しく屋根に<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>を置いてなかった。

きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。三四郎は電燈を見るやいなや藁葺を思い出した。そうしておかしくなった。

「妙なお客が落ち合ったな。入口で会ったのか」と野々宮さんが妹に聞いている。妹はしからざるむねを説明している。ついでに三四郎のようなシャツを買ったらよかろうと<ruby><rb>助言</rb><rt>じょげん</rt></ruby>している。それから、このあいだのバイオリンは和製で音が悪くっていけない。買うのをこれまで延期したのだから、もうすこし良いのと買いかえてくれと頼んでいる。せめて美禰子さんくらいのなら我慢すると言っている。そのほか似たりよったりの<ruby><rb>駄々</rb><rt>だだ</rt></ruby>をしきりにこねている。野々宮さんはべつだんこわい顔もせず、といって、優しい言葉もかけず、ただそうかそうかと聞いている。

三四郎はこのあいだなんにも言わずにいた。よし子は愚な事ばかり述べる。かつ少しも遠慮をしない。それがばかとも思えなければ、わがままとも受け取れない。兄との応待をそばにいて聞いていると、広い日あたりのいい畑へ出たような心持ちがする。三四郎は来たるべきお談義の事をまるで忘れてしまった。その時突然驚かされた。

「ああ、わたし忘れていた。美禰子さんのお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>があってよ」

「そうか」

「うれしいでしょう。うれしくなくって？」

野々宮さんはかゆいような顔をした。そうして、三四郎の方を向いた。

「ぼくの妹はばかですね」と言った。三四郎はしかたなしに、ただ笑っていた。

「ばかじゃないわ。ねえ、小川さん」

三四郎はまた笑っていた。腹の中ではもう笑うのがいやになった。

「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」

「里見さんといっしょに行ったらよかろう」

「御用があるんですって」

「お前も行くのか」

「むろんだわ」

野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、まじめの用があるんだのに、あんなのん気ばかり言っていて困ると話した。聞いてみると、学者だけあって、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へそう言ってやったら、両親も異存はないと返事をしてきた。それについて本人の意見をよく確かめる必要が起こったのだと言う。三四郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分のほうを片づけて帰ろうとした。そこで、

「母からあなたにごめんどうを願ったそうで」と切り出した。野々宮さんは、

「なに、大してめんどうでもありませんがね」とすぐに机の引出しから、預かったものを出して、三四郎に渡した。

「おっかさんが心配して、長い手紙を書いてよこしましたよ。三四郎は余儀ない事情で月々の学資を友だちに貸したと言うが、いくら友だちだって、そうむやみに金を借りるものじゃあるまいし、よし借りたって返すはずだろうって。いなかの者は正直だから、そう思うのもむりはない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大げさだ。親から月々学資を送ってもらう身分でいながら、一度に二十円の三十円のと、人に用立てるなんて、いかにも無分別だとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。……」

野々宮さんは三四郎を見て、にやにや笑っている。三四郎はまじめに、「お気の毒です」と言ったばかりである。野々宮さんは、若い者を、<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めつけるつもりで言ったんでないとみえて、少し調子を変えた。

「なに、心配することはありませんよ。なんでもない事なんだから。ただおっかさんは、いなかの相場で、金の価値をつけるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が<ruby><rb>半年</rb><rt>はんねん</rt></ruby>食っていけると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にもばかげているところがすこぶるおかしいんだが、母の<ruby><rb>言条</rb><rt>いいじょう</rt></ruby>が、まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽率な事をして悪かったと少しく後悔した。

「そうすると、月に五円のわりだから、一人前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割りつけると、四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな」と野々宮さんが計算を立てた。

「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」とよし子がまじめに聞きだした。三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っているいなか生活のありさまをいろいろ話して聞かした。そのなかには<ruby><rb>宮籠</rb><rt>みやごも</rt></ruby>りという慣例もあった。三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄付することになっている。その時には六十<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby>から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村のお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、ごちそうを食いつづけに食うんだという。

「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれでどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一段落ついた時に、野々宮さんがあらためて、こう言った。

「なにしろ、おっかさんのほうではね。ぼくが一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。そうしてめんどうでもその事情を知らせてもらいたいというんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう渡してしまったしと、――どうするかね。君たしかに佐々木に貸したんですね」

三四郎は美禰子からもれて、よし子に伝わって、それが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしその金が巡り巡ってバイオリンに変形したものとは、<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>とも気がつかないから一種妙な感じがした。ただ「そうです」と答えておいた。

「佐々木が馬券を買って、自分の金をなくしたんだってね」

「ええ」

よし子はまた大きな声を出して笑った。

「じゃ、いいかげんにおっかさんの所へそう言ってあげよう。しかし今度から、そんな金はもう貸さないことにしたらいいでしょう」

三四郎は貸さないことにするむねを答えて、挨拶をして、立ちかけると、よし子も、もう帰ろうと言い出した。

「さっきの話をしなくっちゃ」と兄が注意した。

「よくってよ」と妹が拒絶した。

「よくはないよ」

「よくってよ。知らないわ」

兄は妹の顔を見て黙っている。妹は、またこう言った。

「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」

三四郎は知らないわの本意をようやく<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>した。兄妹をそのままにして急いで表へ出た。

人の通らない軒燈ばかり明らかな路地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当る。時を切って、自分の下宿の方から吹いてくる。その時三四郎は考えた。この風の中を、野々宮さんは、妹を送って里見まで連れていってやるだろう。

下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気<ruby><rb>靄然</rb><rt>あいぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき<ruby><rb>悪戯者</rb><rt>いたずらもの</rt></ruby>である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。

三四郎は母から来た三十円を<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また<ruby><rb>一煽</rb><rt>ひとあお</rt></ruby>り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。

三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。

三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。

夜が明ければ常の人である。制服をつけて、ノートを持って、学校へ出た。ただ三十円を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にすることだけは忘れなかった。あいにく時間割のつごうが悪い。三時までぎっしり詰まっている。三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。ことによれば里見恭助という兄も<ruby><rb>在宅</rb><rt>うち</rt></ruby>かもしれない。人がいては、金を返すのが、まったくだめのような気がする。

また与次郎が話しかけた。

「ゆうべはお談義を聞いたか」

「なにお談義というほどでもない」

「そうだろう、野々宮さんは、あれで<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>のわかった人だからな」と言ってどこかへ行ってしまった。二時間後の講義の時にまた出会った。

「広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ」と言う。どこまで事が運んだか聞いてみると、

「いや心配しないでもいい。いずれゆっくり話す。先生が君がしばらく来ないと言って、聞いていたぜ。時々行くがいい。先生は一人ものだからな。我々が慰めてやらんと、いかん。今度何か買って来い」と言いっぱなして、それなり消えてしまった。すると、次の時間にまたどこからか現われた。今度はなんと思ったか、講義の最中に、突然、

「金受け取ったりや」と電報のようなものを<ruby><rb>白紙</rb><rt>しらかみ</rt></ruby>へ書いて出した。三四郎は返事を書こうと思って、教師の方を見ると、教師がちゃんとこっちを見ている。白紙を丸めて足の下へなげた。講義が終るのを待って、はじめて返事をした。

「金は受け取った、ここにある」

「そうかそれはよかった。返すつもりか」

「むろん返すさ」

「それがよかろう。はやく返すがいい」

「きょう返そうと思う」

「うん昼過ぎおそくならいるかもしれない」

「どこかへ行くのか」

「行くとも、毎日毎日絵にかかれに行く。もうよっぽどできたろう」

「原口さんの所か」

「うん」

三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞きとった。

## 一〇

広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。門をはいると、玄関に<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>が一足そろえてある。医者かもしれないと思った。いつものとおり勝手口へ回るとだれもいない。のそのそ上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらくたたずんでいた。手にかなり大きな<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつ</rt></ruby>みをさげている。中には<ruby><rb>樽柿</rb><rt>たるがき</rt></ruby>がいっぱいはいっている。今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通りで買って来た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は<ruby><rb>必定</rb><rt>ひつじょう</rt></ruby><ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、

「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。

「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>の<ruby><rb>関節</rb><rt>つがい</rt></ruby>を表から、<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>で押さえているらしい。先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>を正しく、いずまいを直した。見ればりっぱな男である。先生もすぐ起き直った。

「なるほど」と言っている。

「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」

三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。

「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」

「ええ、もうよろしい」

三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。

「柿を買って来ました」

広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から<ruby><rb>包丁</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、<ruby><rb>紛擾</rb><rt>ふんじょう</rt></ruby>の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の台を買って、<ruby><rb>鼻緒</rb><rt>はなお</rt></ruby>は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

三四郎は柿の<ruby><rb>核</rb><rt>たね</rt></ruby>を吐き出しながら、この男の顔を見ていて、情けなくなった。今の自分と、この男と比較してみると、まるで人種が違うような気がする。この男の言葉のうちには、もう一ぺん学生生活がしてみたい。学生生活ほど気楽なものはないという文句が何度も繰り返された。三四郎はこの文句を聞くたびに、自分の寿命もわずか二、三年のあいだなのかしらんと、ぼんやり考えはじめた。与次郎と<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>などを食う時のように、気がさえない。

広田先生はまた立って書斎に入った。帰った時は、手に一巻の書物を持っていた。表紙が赤黒くって、切り口の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>でよごれたものである。

「これがこのあいだ話したハイドリオタフヒア。退屈なら見ていたまえ」

三四郎は礼を述べて書物を受け取った。

「<ruby><rb>寂寞</rb><rt>じゃくまく</rt></ruby>の<ruby><rb>罌粟花</rb><rt>けし</rt></ruby>を散らすやしきりなり。人の記念に対しては、<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に価するといなとを問うことなし」という句が目についた。先生は安心して柔術の学士と談話をつづける。――中学教師などの生活状態を聞いてみると、みな気の毒なものばかりのようだが、真に気の毒と思うのは当人だけである。なぜというと、現代人は事実を好むが、事実に伴なう情操は切り捨てる習慣である。切り捨てなければならないほど世間が切迫しているのだからしかたがない。その証拠には新聞を見るとわかる。新聞の社会記事は十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである。自分の取る新聞などは、死人何十人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行ずつに書くことがある。簡潔明瞭の極である。また<ruby><rb>泥棒早見</rb><rt>どろぼうはやみ</rt></ruby>という欄があって、どこへどんな泥棒がはいったか、一目にわかるように泥棒がかたまっている。これも至極便利である。すべてが、この調子と思わなくっちゃいけない。辞職もそのとおり。当人には悲劇に近いでき事かもしれないが、他人にはそれほど痛切な感じを与えないと覚悟しなければなるまい。そのつもりで運動したらよかろう。

「だって先生くらい余裕があるなら、少しは痛切に感じてもよさそうなものだが」と柔術の男がまじめな顔をして言った。この時は広田先生も三四郎も、そう言った当人も一度に笑った。この男がなかなか帰りそうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。

「<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちざる墓に眠り、伝わる事に生き、知らるる名に残り、しからずば<ruby><rb>滄桑</rb><rt>そうそう</rt></ruby>の変に任せて、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の世に存せんと思う事、昔より人の願いなり。この願いのかなえるとき、人は天国にあり。されども<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>なる信仰の教法よりみれば、この願いもこの満足も無きがごとくにはかなきものなり。生きるとは、<ruby><rb>再</rb><rt>ふたたび</rt></ruby>の我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願いにもあらず、望みにもあらず、気高き信者の見たるあからさまなる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横たわるは、なおエジプトの砂中にうずまるがごとし。常住の我身を観じ喜べば、六尺の狭きもアドリエーナスの<ruby><rb>大廟</rb><rt>たいびょう</rt></ruby>と異なる所あらず。成るがままに成るとのみ覚悟せよ」

これはハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶらぶら<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>の方へ歩きながら、往来の中で、この一節を読んだ。広田先生から聞くところによると、この著者は有名な名文家で、この一編は名文家の書いたうちの名文であるそうだ。広田先生はその話をした時に、笑いながら、もっともこれは私の説じゃないよと断わられた。なるほど三四郎にもどこが名文だかよくわからない。ただ句切りが悪くって、字づかいが異様で、<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>の運び方が重苦しくって、まるで古いお寺を見るような心持ちがしただけである。この一節だけ読むにも<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>にすると、三、四町もかかった。しかもはっきりとはしない。

<ruby><rb>贏</rb><rt>か</rt></ruby>ちえたところは物<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びている。<ruby><rb>奈良</rb><rt>なら</rt></ruby>の大仏の鐘をついて、そのなごりの響が、東京にいる自分の耳にかすかに届いたと同じことである。三四郎はこの一節のもたらす意味よりも、その意味の上に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いかかる情緒の影をうれしがった。三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる。目の前には<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を焦がすほどな大きな火が燃えている。その感じが、真の自分である。三四郎はこれから<ruby><rb>曙町</rb><rt>あけぼのちょう</rt></ruby>の原口の所へ行く。

子供の葬式が来た。羽織を着た男がたった二人ついている。小さい棺はまっ白な布で巻いてある。そのそばにきれいな<ruby><rb>風車</rb><rt>かざぐるま</rt></ruby>を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いつけた。車がしきりに回る。車の<ruby><rb>羽弁</rb><rt>はね</rt></ruby>が<ruby><rb>五色</rb><rt>ごしき</rt></ruby>に塗ってある。それが<ruby><rb>一色</rb><rt>いっしき</rt></ruby>になって回る。白い棺はきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい弔いだと思った。

三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。もしだれか来て、ついでに美禰子をよそから見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。第一よそもよそでないもそんな区別はまるで意識していない。ただ事実として、ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい<ruby><rb>享楽</rb><rt>きょうらく</rt></ruby>の底に、一種の<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>がある。三四郎はこの苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶がとれるように思う。苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。これを案じえない三四郎は、現に遠くから、<ruby><rb>寂滅</rb><rt>じゃくめつ</rt></ruby>の<ruby><rb>会</rb><rt>え</rt></ruby>を文字の上にながめて、<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>の哀れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。

曙町へ曲がると大きな松がある。この松を<ruby><rb>目標</rb><rt>めじるし</rt></ruby>に来いと教わった。松の下へ来ると、家が違っている。向こうを見るとまた松がある。その先にも松がある。松がたくさんある。三四郎は好い所だと思った。多くの松を通り越して左へ折れると、<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>にきれいな門がある。はたして原口という標札が出ていた。その標札は<ruby><rb>木理</rb><rt>もくめ</rt></ruby>の込んだ黒っぽい板に、緑の油で名前を<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>に書いたものである。字だか模様だかわからないくらい凝っている。門から玄関まではからりとしてなんにもない。左右に芝が植えてある。

玄関には美禰子の<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>がそろえてあった。鼻緒の二本が<ruby><rb>右左</rb><rt>みぎひだり</rt></ruby>で色が違う。それでよく覚えている。今仕事中だが、よければ上がれと言う<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>の取次ぎについて、画室へはいった。広い<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>である。細長く<ruby><rb>南北</rb><rt>みなみきた</rt></ruby>にのびた床の上は、画家らしく、取り乱れている。まず一部分には<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷いてある。それが部屋の大きさに比べると、まるで釣り合いが取れないから、敷物として敷いたというよりは、色のいい、模様の雅な織物としてほうり出したように見える。離れて向こうに置いた大きな<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>の皮もそのとおり、すわるための、設けの座とは受け取れない。絨毯とは不調和な位置に<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>かいに尾を長くひいている。砂を練り固めたような大きな<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>がある。その中から矢が二本出ている。<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の羽根と羽根の間が<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>で強く光る。そのそばに<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>もあった。三四郎は<ruby><rb>卯</rb><rt>う</rt></ruby>の<ruby><rb>花縅</rb><rt>はなおど</rt></ruby>しというのだろうと思った。向こう側のすみにぱっと目を射るものがある。紫の裾模様の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>に<ruby><rb>金糸</rb><rt>きんし</rt></ruby>の<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>が見える。袖から袖へ<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>の<ruby><rb>綱</rb><rt>つな</rt></ruby>を通して、虫干の時のように釣るした。袖は丸くて短かい。これが<ruby><rb>元禄</rb><rt>げんろく</rt></ruby>かと三四郎も気がついた。そのほかには絵がたくさんある。壁にかけたのばかりでも大小合わせるとよほどになる。<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>をつけない下絵というようなものは、重ねて巻いた<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>が、巻きくずれて、<ruby><rb>小口</rb><rt>こぐち</rt></ruby>をしだらなくあらわした。

描かれつつある人の肖像は、この<ruby><rb>彩色</rb><rt>いろどり</rt></ruby>の目を乱す間にある。描かれつつある人は、突き当りの正面に<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をかざして立った。描く男は丸い背をぐるりと返して、パレットを持ったまま、三四郎に向かった。口に太いパイプをくわえている。

「やって来たね」と言ってパイプを口から取って、小さい丸テーブルの上に置いた。マッチと<ruby><rb>灰皿</rb><rt>はいざら</rt></ruby>がのっている。<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>もある。

「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた<ruby><rb>画布</rb><rt>カンバス</rt></ruby>の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、

「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、

「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。

それから二、三分はまったく静かになった。部屋は<ruby><rb>暖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>で暖めてある。きょうは<ruby><rb>外面</rb><rt>そと</rt></ruby>でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の中へはいったような気がした。丸テーブルに<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った画工の<ruby><rb>画筆</rb><rt>ブラッシ</rt></ruby>だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。

静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで<ruby><rb>双方</rb><rt>そうほう</rt></ruby>がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの<ruby><rb>画筆</rb><rt>ブラッシ</rt></ruby>はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。

「また苦しくなったようですね」

女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>を通り越していった。

原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、

「どうです」と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけて、再び口にくわえた。大きな木の<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>を指でおさえて、二吹きばかり濃い煙を髭の中から出したが、やがてまた丸い背中を向けて絵に近づいた。かってなところを自由に塗っている。

絵はむろん仕上がっていないものだろう。けれどもどこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>の三四郎が見ると、なかなかりっぱである。うまいかまずいかむろんわからない。技巧の批評のできない三四郎には、ただ技巧のもたらす感じだけがある。それすら、経験がないから、すこぶる<ruby><rb>正鵠</rb><rt>せいこう</rt></ruby>を失しているらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないとみずからを証拠立てるだけでも三四郎は風流人である。

三四郎が見ると、この絵はいったいにぱっとしている。なんだかいちめんに<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>が吹いて、<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>のない<ruby><rb>日光</rb><rt>ひ</rt></ruby>にあたったように思われる。影の所でも黒くはない。むしろ薄い紫が射している。三四郎はこの絵を見て、なんとなく軽快な感じがした。浮いた調子は<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちょきぶね</rt></ruby>に乗った心持ちがある。それでもどこかおちついている。けんのんでない。<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>ったところ、渋ったところ、毒々しいところはむろんない。三四郎は原口さんらしい絵だと思った。すると原口さんは<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に画筆を使いながら、こんなことを言う。

「小川さんおもしろい話がある。ぼくの知った男にね、細君がいやになって離縁を請求した者がある。ところが細君が承知をしないで、私は縁あって、この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へかたづいたものですから、たといあなたがおいやでも私はけっして出てまいりません」

原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、

「里見さん。あなたが<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>を着てくれないものだから、着物がかきにくくって困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し<ruby><rb>大胆</rb><rt>だいたん</rt></ruby>すぎますね」

「お気の毒さま」と美禰子が言った。

原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。「それでね、細君のお<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>が離縁するにはあまり重くあったものだから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。――里見さんちょっと立ってみてください。団扇はどうでもいい。ただ立てば。そう。ありがとう。――細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫でもしたらよかろうと答えたんだって」

「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」

「でも兄は<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>結婚いたしますよ」

「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」

「存じません」

三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と<ruby><rb>画筆</rb><rt>ブラッシ</rt></ruby>を動かした。

三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、<ruby><rb>油気</rb><rt>あぶらけ</rt></ruby>のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>から<ruby><rb>咽喉首</rb><rt>のどくび</rt></ruby>が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。<ruby><rb>廂髪</rb><rt>ひさしがみ</rt></ruby>の上にきれいな裏が見える。

三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

「里見さん」と言った。

「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、<ruby><rb>内懐</rb><rt>うちぶところ</rt></ruby>へ手を入れた。

女はまた、

「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。

「このあいだの金です」

「今くだすってもしかたがないわ」

女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかねた。その時、

「もう少しだから、どうです」と言う声がうしろで聞こえた。見ると、原口さんがこっちを向いて立っている。<ruby><rb>画筆</rb><rt>ブラッシ</rt></ruby>を指の<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>にはさんだまま、三角に刈り込んだ<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の先を引っ張って笑った。美禰子は両手を椅子の肘にかけて、腰をおろしたなり、頭と背をまっすぐにのばした。三四郎は小さな声で、

「まだよほどかかりますか」と聞いた。

「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答えた。三四郎はまた丸テーブルに帰った。女はもう描かるべき姿勢を取った。原口さんはまたパイプをつけた。画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。

「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」

「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」

「何を」

「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」

「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」

「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、<ruby><rb>画工</rb><rt>えかき</rt></ruby>のほうの気分も毎日変るんだから、本当を言うと、肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだが、そうはいかない。またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜといって見たまえ……」

原口さんはこのあいだしじゅう筆を使っている。美禰子の方も見ている。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働くのを目撃して恐れ入った。

「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑な<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>だとか、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>だとか、<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>の皮だとかいう<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。<ruby><rb>二足</rb><rt>ふたあし</rt></ruby>ばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。

「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。

「いいえ」

この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ<ruby><rb>見世</rb><rt>みせ</rt></ruby>を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>だの、<ruby><rb>二重瞼</rb><rt>ふたえまぶた</rt></ruby>の影だの、<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」

原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。

「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」

「いいえ」

原口さんはまた絵へ近寄った。

「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お<ruby><rb>多福</rb><rt>たふく</rt></ruby>、能の面、もっとも著しいのは<ruby><rb>浮世絵</rb><rt>うきよえ</rt></ruby>にあらわれた美人、ことごとく細い。みんな象に似ている。なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところがじつはなんでもない。西洋には目の大きいやつばかりいるから、大きい目のうちで、美的<ruby><rb>淘汰</rb><rt>とうた</rt></ruby>が行なわれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は、日本人の目は、あれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。――そら、そういう<ruby><rb>国柄</rb><rt>くにがら</rt></ruby>だから、どうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。そこで選択の自由のきく細い目のうちで、理想ができてしまったのが、<ruby><rb>歌麿</rb><rt>うたまろ</rt></ruby>になったり、<ruby><rb>祐信</rb><rt>すけのぶ</rt></ruby>になったりして珍重がられている。しかしいくら日本的でも、西洋画には、ああ細いのは<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>をかいたようでみっともなくっていけない。といって、ラファエルの<ruby><rb>聖母</rb><rt>マドンナ</rt></ruby>のようなのは、てんでありゃしないし、あったところが日本人とは言われないから、そこで里見さんを煩わすことになったのさ。里見さんもう少しですよ」

答はなかった。美禰子はじっとしている。

三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、<ruby><rb>捕虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。<ruby><rb>色光沢</rb><rt>いろつや</rt></ruby>がよくない。<ruby><rb>目尻</rb><rt>めじり</rt></ruby>にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性の<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうしょ</rt></ruby>はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。

その時原口さんが、とうとう筆をおいて、

「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

「きょうは疲れていますね」

「私？」と羽織の<ruby><rb>裄</rb><rt>ゆき</rt></ruby>をそろえて、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結んだ。

「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

夕暮れには、まだ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を<ruby><rb>一回</rb><rt>ひとまわ</rt></ruby>り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、

「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた。

「私？」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。

「私？」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。

「色が少し悪いようです」

「そうですか」

二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。

やがて、女のほうから口をききだした。

「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」

「いいえ、用事はなかったです」

「じゃ、ただ遊びにいらしったの」

「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」

「じゃ、なんでいらしったの」

三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」

三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、

「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。

二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

三四郎は堪えられなくなった。急に、

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。

「お金は……」

「金なんぞ……」

二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。

「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」

答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。

「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」

「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。

「いつから取りかかったんです」

「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」

「そのまえって、いつごろからですか」

「あの<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>でわかるでしょう」

三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。

「そら、あなた、<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」

「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」

「あの絵のとおりでしょう」

「ええ。あのとおりです」

二人は顔を見合わした。もう少しで<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>の坂の上へ出る。

向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を掛けて、遠くから見ても色<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、<ruby><rb>蹴込</rb><rt>けこ</rt></ruby>みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。

「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。

「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。

「どなた」と男が聞いた。

「大学の小川さん」と美禰子が答えた。

男は軽く帽子を取って、向こうから<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。

「はやく行こう。にいさんも待っている」

いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。

## 一一

このごろ与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。二、三日かかって、知った者へはほぼ売りつけた様子である。与次郎はそれから知らない者をつかまえることにした。たいていは廊下でつかまえる。するとなかなか放さない。どうかこうか、買わせてしまう。時には談判中にベルが鳴って取り逃すこともある。与次郎はこれを時利あらずと号している。時には相手が笑っていて、いつまでも要領を得ないことがある。与次郎はこれを人利あらずと号している。ある時便所から出て来た教授をつかまえた。その教授はハンケチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま急いで図書館へはいってしまった。それぎりけっして出て来ない。与次郎はこれを――なんとも号しなかった。<ruby><rb>後影</rb><rt>うしろかげ</rt></ruby>を見送って、あれは腸カタルに違いないと三四郎に教えてくれた。

与次郎に切符の<ruby><rb>販売方</rb><rt>はんばいかた</rt></ruby>を何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。あまり売れすぎて演芸場にはいりきれない恐れはないかと聞くと、少しはあると言う。それでは売ったあとで困るだろうと念をおすと、なに<ruby><rb>大丈夫</rb><rt>だいじょうぶ</rt></ruby>だ、なかには義理で買う者もあるし、事故で来ないのもあるし、それから腸カタルも少しはできるだろうと言って、すましている。

与次郎が切符を売るところを見ていると、引きかえに金を渡す者からはむろん即座に受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。あとから思うとおりお金が寄るかと聞いてみると、むろん寄らないという答だ。<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>にわずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて利益だからこうすると言っている。与次郎はこれをタイムス社が日本で百科全書を売った方法に比較している。比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなく思った。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事はおもしろかった。

「相手は東京帝国大学学生だよ」

「いくら学生だって、君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう」

「なに善意に払わないのは、文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。どうせいくら切符が売れたって、とどのつまりは協会の借金になることは明らかだから」

三四郎は念のため、それは君の意見か、協会の意見かとただしてみた。与次郎は、むろんぼくの意見であって、協会の意見であるとつごうのいいことを答えた。

与次郎の説を聞くと、今度は演芸会を見ない者は、まるでばかのような気がする。ばかのような気がするまで与次郎は講釈をする。それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰しているためだか、あるいはただ自分の景気をつけて、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと<ruby><rb>明晰</rb><rt>めいせき</rt></ruby>に区別が立たないものだから、相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化をこうむらない。

与次郎は第一に会員の練習に骨を折っている話をする。話どおりに聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に役に立たなくなりそうだ。それから背景の話をする。その背景が大したもので、東京にいる有為の青年画家をことごとく引き上げて、ことごとく応分の<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>を振るわしたようなことになる。次に服装の話をする。その服装が頭から足の先まで故実ずくめにでき上がっている。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんなおもしろい。そのほかいくらでもある。

与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送ったと言っている。野々宮<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>と里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。万事が好都合だと言っている。三四郎は与次郎のために演芸会万歳を唱えた。

万歳を唱える晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。昼間とはうって変っている。堅くなって<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>のそばへすわって寒い寒いと言う。その顔がただ寒いのではないらしい。はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがて<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>になった。三四郎は与次郎の顔を陽気にするために、机の上のランプを<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>から端へ移した。ところが与次郎は<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒く<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に照らしている。いっこうさえない。どうかしたかと聞いた時に、首をあげてランプを見た。

「この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ではまだ電気を引かないのか」と顔つきにはまったく縁のないことを聞いた。

「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くていかんね」と答えていると、急に、ランプのことは忘れたとみえて、

「おい、小川、たいへんな事ができてしまった」と言いだした。

一応<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を聞いてみる。与次郎は<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけの新聞を出した。二枚重なっている。その一枚をはがして、新しく<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>み直して、ここを読んでみろと差しつけた。読むところを指の頭で押えている。三四郎は目をランプのそばへ寄せた。見出しに大学の純文科とある。

大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者はいっさいの授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人の講義も<ruby><rb>必須</rb><rt>ひっす</rt></ruby>課目として認めるに至った。そこでこのあいだじゅうから適当の人物を人選中であったが、ようやく某氏に決定して、<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>発表になるそうだ。某氏は近き過去において、海外留学の命を受けたことのある秀才だから至極適任だろうという内容である。

「広田先生じゃなかったんだな」と三四郎が与次郎を顧みた。与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。

「これはたしかなのか」と三四郎がまた聞いた。

「どうも」と首を曲げたが、「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。やりそくなった。もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが」と言う。

「しかしこれだけじゃ、まだ風説じゃないか。いよいよ発表になってみなければわからないのだから」

「いや、それだけならむろんかまわない。先生の関係したことじゃないから、しかし」と言って、また残りの新聞を畳み直して、<ruby><rb>標題</rb><rt>みだし</rt></ruby>を指の頭で押えて、三四郎の目の下へ出した。

今度の新聞にもほぼ同様の事が載っている。そこだけはべつだんに新しい印象を起こしようもないが、そのあとへ来て、三四郎は驚かされた。広田先生がたいへんな不徳義漢のように書いてある。十年間語学の教師をして、世間には<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として聞こえない凡材のくせに、大学で本邦人の外国文学講師を入れると聞くやいなや、急にこそこそ運動を始めて、自分の評判記を学生間に<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>した。のみならずその門下生をして「偉大なる<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>」などという論文を<ruby><rb>小雑誌</rb><rt>こざっし</rt></ruby>に草せしめた。この論文は<ruby><rb>零余子</rb><rt>れいよし</rt></ruby>なる匿名のもとにあらわれたが、じつは広田の家に出入する文科大学生小川三四郎なるものの筆であることまでわかっている。と、とうとう三四郎の名前が出て来た。

三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>ともしばらく黙っていた。やがて、三四郎が、

「困るなあ」と言った。少し与次郎を恨んでいる。与次郎は、そこはあまりかまっていない。

「君、これをどう思う」と言う。

「どう思うとは」

「投書をそのまま出したに違いない。けっして社のほうで調べたものじゃない。文芸時評の六号活字の投書にこんなのが、いくらでも来る。六号活字はほとんど罪悪のかたまりだ。よくよく探ってみると<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>が多い。目に見えた嘘をついているのもある。なぜそんな愚な事をやるかというとね、君。みんな利害問題が動機になっているらしい。それでぼくが六号活字を受持っている時には、<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>のよくないのは、たいてい<ruby><rb>屑籠</rb><rt>くずかご</rt></ruby>へ放り込んだ。この記事もまったくそれだね。反対運動の結果だ」

「なぜ、君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」

与次郎は「そうさ」と言っている。しばらくしてから、

「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」と説明した。けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかった。三四郎は依然として迷惑である。

「ぜんたいぼくが零余子なんてけちな号を使わずに、堂々と佐々木与次郎と署名しておけばよかった。じっさいあの論文は佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」

与次郎はまじめである。三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪われて、かえって迷惑しているのかもしれない。三四郎はばかばかしくなった。

「君、先生に話したか」と聞いた。

「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だって、ぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生の人格に関係してくる以上は、話さずにはいられない。ああいう先生だから、いっこう知りません、何か間違いでしょう、偉大なる暗闇という論文は雑誌に出ましたが、匿名です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさいくらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうわけだが、このさいそうはいかん。どうしたってぼくが責任を明らかにしなくっちゃ。事がうまくいって、知らん顔をしているのは、心持ちがいいが、やりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。第一自分が事を起こしておいて、ああいう善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がしておられるものじゃない。正邪曲直なんてむずかしい問題は別として、ただ気の毒で、いたわしくっていけない」

三四郎ははじめて与次郎を感心な男だと思った。

「先生は新聞を読んだんだろうか」

「家へ来る新聞にゃない。だからぼくも知らなかった。しかし先生は学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。よし先生が見なくってもだれか話すだろう」

「すると、もう知ってるな」

「むろん知ってるだろう」

「君にはなんとも言わないか」

「言わない。もっともろくに話をする暇もないんだから、言わないはずだが。このあいだから演芸会の事でしじゅう奔走しているものだから――ああ演芸会も、もういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいをつけて、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>なんかやったって、何がおもしろいものか」

「先生に話したら、君、しかられるだろう」

「しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒でね。よけいな事をして迷惑をかけてるんだから。――先生は道楽のない人でね。酒は飲まず、煙草は」と言いかけたが途中でやめてしまった。先生の哲学を鼻から煙にして吹き出す量は月に積もると、<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>なものである。

「煙草だけはかなりのむが、そのほかになんにもないぜ。釣りをするじゃなし、<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を打つじゃなし、家庭の楽しみがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供でもあるといいんだけれども。じつに枯淡だからなあ」

与次郎はそれで腕組をした。

「たまに、慰めようと思って、少し奔走すると、こんなことになるし。君も先生の所へ行ってやれ」

「行ってやるどころじゃない。ぼくにも多少責任があるから、あやまってくる」

「君はあやまる必要はない」

「じゃ弁解してくる」

与次郎はそれで帰った。三四郎は床にはいってからたびたび寝返りを打った。国にいるほうが寝やすい心持ちがする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎えに来て連れていったりっぱな男――いろいろの刺激がある。

<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>からぐっすり寝た。いつものように起きるのが、ひどくつらかった。顔を洗う所で、同じ文科の学生に会った。顔だけは互いに見知り合いである。失敬という<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>のうちに、この男は例の記事を読んでいるらしく推した。しかし先方ではむろん話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかった。

暖かい<ruby><rb>汁</rb><rt>しる</rt></ruby>の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>をかいでいる時に、また<ruby><rb>故里</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の母からの書信に接した。また例のごとく、長かりそうだ。洋服を着換えるのがめんどうだから、着たままの上へ<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはいて、懐へ手紙を入れて、出る。<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は薄い霜で光った。

通りへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いている。それが、みな同じ方向へ行く。ことごとく急いで行く。寒い往来は若い男の活気でいっぱいになる。そのなかに<ruby><rb>霜降</rb><rt>しもふ</rt></ruby>りの<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着た広田先生の長い影が見えた。この青年の<ruby><rb>隊伍</rb><rt>たいご</rt></ruby>に紛れ込んだ先生は、歩調においてすでに<ruby><rb>時代錯誤</rb><rt>アナクロニズム</rt></ruby>である。左右前後に比較するとすこぶる緩漫に見える。先生の影は校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨大の<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>のように枝を広げて玄関をふさいでいる。三四郎の足が門前まで来た時は、先生の影がすでに消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台ばかりであった。この時計台の時計は常に狂っている。もしくは留まっている。

門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフヒア」という字を二度繰り返した。この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。意味はまだわからない。広田先生に聞いてみるつもりでいる。かつて与次郎に尋ねたら、おそらくダーターファブラのたぐいだろうと言っていた。けれども三四郎からみると二つのあいだにはたいへんな違いがある。ダーターファブラはおどるべき性質のものと思える。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさえ暇がいる。二へん繰り返すと歩調がおのずから緩漫になる。広田先生の使うために古人が作っておいたような<ruby><rb>音</rb><rt>おん</rt></ruby>がする。

学校へ行ったら、「偉大なる暗闇」の作者として、衆人の注意を一身に集めている気色がした。<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出ようとしたが、戸外は存外寒いから廊下にいた。そうして講義のあいだに懐から母の手紙を出して読んだ。

この冬休みには帰って来いと、まるで熊本にいた当時と同様な命令がある。じつは熊本にいた時分にこんなことがあった。学校が休みになるか、ならないのに、帰れという電報が掛かった。母の病気に違いないと思い込んで、驚いて飛んで帰ると、母のほうではこっちに変がなくって、まあ結構だったといわぬばかりに喜んでいる。訳を聞くと、いつまで待っていても帰らないから、お<ruby><rb>稲荷様</rb><rt>いなりさま</rt></ruby>へ伺いを立てたら、こりゃ、もう熊本をたっているという御託宣であったので、途中でどうかしはせぬだろうかと非常に心配していたのだと言う。三四郎はその当時を思いだして、今度もまた伺いを立てられることかと思った。しかし手紙にはお稲荷様のことは書いてない。ただ三輪田のお光さんも待っていると<ruby><rb>割注</rb><rt>わりちゅう</rt></ruby>みたようなものがついている。お光さんは<ruby><rb>豊津</rb><rt>とよつ</rt></ruby>の女学校をやめて、家へ帰ったそうだ。またお光さんに縫ってもらった綿入れが小包で来るそうだ。<ruby><rb>大工</rb><rt>だいく</rt></ruby>の<ruby><rb>角三</rb><rt>かくぞう</rt></ruby>が山で<ruby><rb>賭博</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を打って九十八円取られたそうだ。――そのてんまつが詳しく書いてある。めんどうだからいいかげんに読んだ。なんでも山を買いたいという男が三人<ruby><rb>連</rb><rt>づれ</rt></ruby>で入り込んで来たのを、角三が案内をして、山を回って歩いているあいだに取られてしまったのだそうだ。角三は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って、女房にいつのまに取られたかわからないと弁解した。すると、女房がそれじゃお前さん眠り薬でもかがされたんだろうと言ったら、角三が、うんそういえばなんだかかいだようだと答えたそうだ。けれども村の者はみんな賭博をして巻き上げられたと評判している。いなかでもこうだから、東京にいるお前なぞは、本当によく気をつけなくてはいけないという<ruby><rb>訓誡</rb><rt>くんかい</rt></ruby>がついている。

長い手紙を巻き収めていると、与次郎がそばへ来て、「やあ女の手紙だな」と言った。ゆうべよりは冗談をいうだけ元気がいい。三四郎は、

「なに母からだ」と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごと懐へ入れた。

「里見のお嬢さんからじゃないのか」

「いいや」

「君、里見のお嬢さんのことを聞いたか」

「何を」と問い返しているところへ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符をほしいという人が<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>に待っていると教えに来てくれた。与次郎はすぐ降りて行った。

与次郎はそれなり消えてなくなった。いくらつらまえようと思っても出て来ない。三四郎はやむをえず精出して講義を筆記していた。講義が済んでから、ゆうべの約束どおり広田先生の家へ寄る。相変らず静かである。先生は茶の間に長くなって寝ていた。ばあさんに、どうかなすったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、ゆうべあまりおそくなったので、眠いと言って、さっきお帰りになると、すぐに横におなりなすったのだと言う。長いからだの上に<ruby><rb>小夜着</rb><rt>こよぎ</rt></ruby>が掛けてある。三四郎は小さな声で、またばあさんに、どうして、そうおそくなったのかと聞いた。なにいつでもおそいのだが、ゆうべのは勉強じゃなくって、佐々木さんと久しくお話をしておいでだったという答である。勉強が佐々木に代ったから、昼寝をする説明にはならないが、与次郎が、ゆうべ先生に例の話をした事だけはこれで明瞭になった。ついでに与次郎が、どうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはばあさんが知ろうはずがないし、<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の与次郎は学校で取り逃してしまったからしかたがない。きょうの元気のいいところをみると、大した事件にはならずに済んだのだろう。もっとも与次郎の心理現象はとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない。

三四郎は<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の前へすわった。<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>がちんちん鳴っている。ばあさんは遠慮をして下女<ruby><rb>部屋</rb><rt>べや</rt></ruby>へ引き取った。三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざして、先生の起きるのを待っている。先生は熟睡している。三四郎は静かでいい心持ちになった。<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>で鉄瓶をたたいてみた。熱い湯を<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>についでふうふう吹いて飲んだ。先生は向こうをむいて寝ている。二、三日まえに頭を刈ったとみえて、髪がはなはだ短かい。髭のはじが濃く出ている。鼻も向こうを向いている。鼻の穴がすうすう言う。安眠だ。

三四郎は返そうと思って、持って来たハイドリオタフヒアを出して読みはじめた。ぽつぽつ拾い読みをする。なかなかわからない。墓の中に花を投げることが書いてある。ローマ人は<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>を <ruby><rb>affect</rb><rt>アッフェクト</rt></ruby> すると書いてある。なんの意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。ギリシア人は <ruby><rb>Amaranth</rb><rt>アマランス</rt></ruby> を用いると書いてある。これも明瞭でない。しかし花の名には違いない。それから少しさきへ行くと、まるでわからなくなった。ページから目を離して先生を見た。まだ寝ている。なんでこんなむずかしい書物を自分に貸したものだろうと思った。それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味をひくのだろうと思った。最後に広田先生は<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>ハイドリオタフヒアだと思った。

そうすると、広田先生がむくりと起きた。首だけ持ち上げて、三四郎を見た。

「いつ来たの」と聞いた。三四郎はもっと寝ておいでなさいと勧めた。じっさい退屈ではなかったのである。先生は、

「いや起きる」と言って起きた。それから例のごとく哲学の煙を吹きはじめた。煙が沈黙のあいだに、棒になって出る。

「ありがとう。書物を返します」

「ああ。――読んだの」

「読んだけれどもよくわからんです。第一標題がわからんです」

「ハイドリオタフヒア」

「なんのことですか」

「なんのことかぼくにもわからない。とにかくギリシア語らしいね」

三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けてしまった。先生はあくびを一つした。

「ああ眠かった。いい心持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」

先生は女の夢だと言っている。それを話すのかと思ったら、湯に行かないかと言いだした。二人は手ぬぐいをさげて出かけた。

湯から上がって、二人が板の間にすえてある器械の上に乗って、<ruby><rb>身長</rb><rt>たけ</rt></ruby>を測ってみた。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。

「まだのびるかもしれない」と広田先生が三四郎に言った。

「もうだめです。三年来このとおりです」と三四郎が答えた。

「そうかな」と先生が言った。自分をよっぽど子供のように考えているのだと三四郎は思った。家へ帰った時、先生が、用がなければ話していってもかまわないと、書斎の戸をあけて、自分がさきへはいった。三四郎はとにかく、例の用事を片づける義務があるから、続いてはいった。

「佐々木は、まだ帰らないようですな」

「きょうはおそくなるとか言って断わっていた。このあいだから演芸会のことでだいぶん奔走しているようだが、世話好きなんだか、駆け回ることが好きなんだか、いっこう要領を得ない男だ」

「親切なんですよ」

「目的だけは親切なところも少しあるんだが、なにしろ、頭のできがはなはだ不親切なものだから、ろくなことはしでかさない。ちょっと見ると、要領を得ている。むしろ得すぎている。けれども終局へゆくと、なんのために要領を得てきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言っても直さないからほうっておく。あれは<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしに世の中へ生まれて来た男だね」

三四郎はなんとか弁護の道がありそうなものだと思ったが、現に結果の悪い実例があるんだから、しようがない。話を転じた。

「あの新聞の記事を御覧でしたか」

「ええ、見た」

「新聞に出るまではちっとも御存じなかったのですか」

「いいえ」

「お驚きなすったでしょう」

「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中の事はみんな、あんなものだと思ってるから、若い人ほど正直に驚きはしない」

「御迷惑でしょう」

「迷惑でないこともない。けれどもぼくくらい世の中に住み古した年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思い込む人ばかりもないから、やっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知った者があるから、その男に頼んで真相を書いてもらうの、あの投書の<ruby><rb>出所</rb><rt>でどころ</rt></ruby>を捜して制裁を加えるの、自分の雑誌で十分<ruby><rb>反駁</rb><rt>はんばく</rt></ruby>をいたしますのと、善後策の了見でくだらない事をいろいろ言うが、そんな<ruby><rb>手数</rb><rt>てかず</rt></ruby>をするならば、はじめからよけいな事を起こさないほうが、いくらいいかわかりゃしない」

「まったく先生のためを思ったからです。悪気じゃないです」

「悪気でやられてたまるものか。第一ぼくのために運動をするものがさ、ぼくの意向も聞かないで、かってな方法を講じたりかってな方針を立てたひには、最初からぼくの存在を<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>していると同じことじゃないか。存在を無視されているほうが、どのくらい体面を保つにつごうがいいかしれやしない」

三四郎はしかたなしに黙っていた。

「そうして、偉大なる暗闇なんて愚にもつかないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが実際は佐々木が書いたんだってね」

「そうです」

「ゆうべ佐々木が自白した。君こそ迷惑だろう。あんなばかな文章は佐々木よりほかに書く者はありゃしない。ぼくも読んでみた。実質もなければ、品位もない、まるで救世軍の太鼓のようなものだ。読者の悪感情を引き起こすために、書いてるとしか思われやしない。徹頭徹尾故意だけで成り立っている。常識のある者が見れば、どうしてもためにするところがあって起稿したものだと判定がつく。あれじゃぼくが門下生に書かしたと言われるはずだ。あれを読んだ時には、なるほど新聞の記事はもっともだと思った」

広田先生はそれで話を切った。鼻から例によって煙をはく。与次郎はこの煙の出方で、先生の気分をうかがうことができると言っている。濃くまっすぐにほとばしる時は、哲学の絶好頂に達したさいで、ゆるくくずれる時は、心気平穏、ことによるとひやかされる恐れがある。煙が、鼻の下に<ruby><rb>彽徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>して、<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>に未練があるように見える時は、<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>に入る。もしくは詩的感興がある。もっとも恐るべきは穴の先の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>である。渦が出ると、たいへんにしかられる。与次郎の言うことだから、三四郎はむろんあてにはしない。しかしこのさいだから気をつけて煙の<ruby><rb>形状</rb><rt>かたち</rt></ruby>をながめていた。すると与次郎の言ったような判然たる煙はちっとも出て来ない。その代り出るものは、たいていな資格をみんなそなえている。

三四郎がいつまでたっても、恐れ入ったように控えているので、先生はまた話しはじめた。

「済んだ事は、もうやめよう。佐々木も昨夜ことごとくあやまってしまったから、きょうあたりはまた<ruby><rb>晴々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>して例のごとく飛んで歩いているだろう。いくら陰で不心得を責めたって、当人が平気で切符なんぞ売って歩いていてはしかたがない。それよりもっとおもしろい話をしよう」

「ええ」

「ぼくがさっき昼寝をしている時、おもしろい夢を見た。それはね、ぼくが<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>にたった一ぺん会った女に、突然夢の中で再会したという小説じみたお話だが、そのほうが、新聞の記事より聞いていても愉快だよ」

「ええ。どんな女ですか」

「十二、三のきれいな女だ。顔に<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>がある」

三四郎は十二、三と聞いて少し失望した。

「いつごろお会いになったのですか」

「二十年ばかりまえ」

三四郎はまた驚いた。

「よくその女ということがわかりましたね」

「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。あの色のさめた夏の洋服を着てね、あの古い帽子をかぶって。――そうその時はなんでも、むずかしい事を考えていた。すべて宇宙の法則は変らないが、法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物のほかに存在していなくてはならない。――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしている。髪も昔の髪である。黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」

「それからどうしました」と三四郎が聞いた。

「それから君が来たのさ」と言う。

「二十年まえに会ったというのは夢じゃない、本当の事実なんですか」

「本当の事実なんだからおもしろい」

「どこでお会いになったんですか」

先生の鼻はまた煙を吹き出した。その煙をながめて、当分黙っている。やがてこう言った。

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。いくつかな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。ぼくは高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと言って、おおぜい鉄砲をかついで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が<ruby><rb>竹橋内</rb><rt>たけばしうち</rt></ruby>へ引っ張って行って、道ばたへ整列さした。我々はそこへ立ったなり、大臣の<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を送ることになった。名は送るのだけれども、じつは見物したのも同然だった。その日は寒い日でね、今でも覚えている。動かずに立っていると、<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の下で足が痛む。隣の男がぼくの鼻を見ては赤い赤いと言った。やがて行列が来た。なんでも長いものだった。寒い目の前を静かな馬車や<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>が何台となく通る。そのうちに今話した小さな娘がいた。今、その時の模様を思い出そうとしても、ぼうとしてとても明瞭に浮かんで来ない。ただこの女だけは覚えている。それも年をたつにしたがってだんだん薄らいで来た、今では思い出すこともめったにない。きょう夢を見るまえまでは、まるで忘れていた、けれどもその当時は頭の中へ焼きつけられたように熱い印象を持っていた。――妙なものだ」

「それからその女にはまるで会わないんですか」

「まるで会わない」

「じゃ、どこのだれだかまったくわからないんですか」

「むろんわからない」

「尋ねてみなかったですか」

「いいや」

「先生はそれで……」と言ったが急につかえた。

「それで？」

「それで結婚をなさらないんですか」

先生は笑いだした。

「それほど<ruby><rb>浪漫的</rb><rt>ロマンチック</rt></ruby>な人間じゃない。ぼくは君よりもはるかに散文的にできている」

「しかし、もしその女が来たらおもらいになったでしょう」

「そうさね」と一度考えたうえで、「もらったろうね」と言った。三四郎は気の毒なような顔をしている。すると先生がまた話し出した。

「そのために独身を余儀なくされたというと、ぼくがその女のために不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれついて、結婚のできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある」

「そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」

先生は煙の間から、じっと三四郎を見ていた。

「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」

「たとえばどんな人です」

「たとえば」と言って、先生は黙った。煙がしきりに出る。「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら<ruby><rb>誰某</rb><rt>だれそれがし</rt></ruby>の世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」

「そんな人はめったにないでしょう」

「めったには無いだろうが、いることはいる」

「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」

先生はハハハハと笑った。

「君はたしかおっかさんがいたね」

「ええ」

「おとっさんは」

「死にました」

「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」

## 一二

演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は<ruby><rb>二十日</rb><rt>はつか</rt></ruby>足らずの目のさきに春を控えた。<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>に生きるものは、忙しからんとしている。<ruby><rb>越年</rb><rt>おつねん</rt></ruby>の<ruby><rb>計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>は貧者の<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。

それが、いくらでもいる。たいていは若い<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>である。<ruby><rb>一日目</rb><rt>いちじつめ</rt></ruby>に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は<ruby><rb>二日目</rb><rt>ふつかめ</rt></ruby>の切符を持っていた。与次郎が広田先生を誘って行けと言う。切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を説明して聞かせた。三四郎は承知した。

夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。

「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。子供のような所作をする。しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。先生は断わったのが気の毒になった。

「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」

先生は黒い<ruby><rb>回套</rb><rt>まわし</rt></ruby>を着て出た。<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>らしいがわからない。空が低くたれている。星の見えない寒さである。

「雨になるかもしれない」

「降ると困るでしょう」

「<ruby><rb>出入</rb><rt>ではい</rt></ruby>りにね。日本の<ruby><rb>芝居小屋</rb><rt>しばいごや</rt></ruby>は<ruby><rb>下足</rb><rt>げそく</rt></ruby>があるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」

「ですけれども、まさか<ruby><rb>戸外</rb><rt>こがい</rt></ruby>でやるわけにもいかないからでしょう」

「お<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>はいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」

三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。

「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」

「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」

「君ギリシアの芝居を知っているか」

「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」

「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」

また与次郎の<ruby><rb>悪口</rb><rt>わるくち</rt></ruby>が出た。その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しかつ<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>して大得意なのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。困ったものだなあ。と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。

先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。三四郎はこの時先生から、<ruby><rb>Theatron</rb><rt>テアトロン</rt></ruby>, <ruby><rb>Orchêstra</rb><rt>オルケストラ</rt></ruby>, <ruby><rb>Skênê</rb><rt>スケーネ</rt></ruby>, <ruby><rb>Proskênion</rb><rt>プロスケニオン</rt></ruby> などという字の講釈を聞いた。なんとかいうドイツ人の説によるとアテンの劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。それは小さいほうである。もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。入場券は<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>と鉛と二通りあって、いずれも<ruby><rb>賞牌</rb><rt>メダル</rt></ruby>みたような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。先生はその入場券の価まで知っていた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。

さかんに電燈がついている。入場者は続々寄って来る。与次郎の言ったよりも以上の景気である。

「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」

「いやはいらない」

先生はまた暗い方へ向いて行った。

三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じことである。

入口に四、五人用のない人が立っている。そのうちの<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。かつはなはだ明るい。三四郎は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。自分の目を動かすからばかりではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。

舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>をかむって、<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいていた。そこへ長い<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から<ruby><rb>梗概</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ<ruby><rb>入鹿</rb><rt>いるか</rt></ruby>の<ruby><rb>大臣</rb><rt>おとど</rt></ruby>という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>の<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。<ruby><rb>推古天皇</rb><rt>すいこてんのう</rt></ruby>の時のようでもある。<ruby><rb>欽明天皇</rb><rt>きんめいてんのう</rt></ruby>の<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>でもさしつかえない気がする。<ruby><rb>応神天皇</rb><rt>おうじんてんのう</rt></ruby>や<ruby><rb>聖武天皇</rb><rt>しょうむてんのう</rt></ruby>ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、<ruby><rb>唐</rb><rt>から</rt></ruby>めいた<ruby><rb>装束</rb><rt>しょうぞく</rt></ruby>や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。

幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。まるで訓練がないと非難していた。そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。二人は登場人物の<ruby><rb>本名</rb><rt>ほんみょう</rt></ruby>をみんな<ruby><rb>暗</rb><rt>そら</rt></ruby>んじている。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしている。おおかた有名な人だろうと思った。けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った。それぎり話をやめてしまった。そこで幕がおりた。

あすこ、ここに席を立つ者がある。<ruby><rb>花道</rb><rt>はなみち</rt></ruby>から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。来ているはずの人はどこにも見えない。本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。三四郎は少し失望した。やむをえず目を正面に帰した。

隣の<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。なかには離れながら、互いに<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしたのも、一、二人ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。そのなかには新婚したばかりの者もあった。これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。

すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。三分の二ほどの所で留まった。少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。

そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。うまいぐあいにその男は立った。すわりくたびれたとみえて、<ruby><rb>枡</rb><rt>ます</rt></ruby>の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のほかに、まだ<ruby><rb>連</rb><rt>つれ</rt></ruby>がいるかいないかを確かめようとした。けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。

すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。口はむろん動かしているのだろう。野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。その時原口さんはうしろから、<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby>で、与次郎の背中をたたいた。与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をもぐってどこかへ消えうせた。原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。

この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分もひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>は依然として、もとの席を去りえなかった。

そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。三四郎は広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレットの写真を見たことがある。今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方とも八の字を寄せている。

このハムレットは動作がまったく軽快で、心持ちがいい。舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。<ruby><rb>能掛</rb><rt>のうがか</rt></ruby>りの入鹿とはたいへん趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。

その代り<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。あるところは能弁すぎると思われるくらい<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>に出る。文章もりっぱである。それでいて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引合いに出して、のん気にやってしまう。それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうである。しかし三四郎はこの矛盾をただ<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>に感じたのみである。けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。

したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。

ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。

幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下から<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。

本来は暗い<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。

<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>から降りだした。三四郎は<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>にぐるぐる<ruby><rb>彽徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>した。広田先生も起きているかもしれない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……

あくる日は少し熱がする。頭が重いから寝ていた。昼飯は床の上に起き直って食った。また一寝入りすると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎がはいって来た。ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。三四郎は礼を述べた。

「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」

三四郎は少し酔ったような心持ちである。口をききだすと、つるつると出る。与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。

「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いたんだ」

「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」

「いけないたって、しかたがないじゃないか」

「しかたがないったって、いけない」

三四郎の言葉はだんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。一時間ほどしてまた目をあけた。与次郎を見て、

「君、そこにいるのか」と言う。今度は平生の三四郎のようである。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。

「風邪だろう」

「風邪だろう」

両方で同じ事を言った。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。

「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」

「美禰子さんの事を？　どこで？」

「学校で」

「学校で？　いつ」

与次郎はまだ思い出せない様子である。三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、

「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任だと思った。与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。やがてこう言った。

「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」

「きまったのか」

「きまったように聞いたが、よくわからない」

「野々宮さんの所か」

「いや、野々宮さんじゃない」

「じゃ……」と言いかけてやめた。

「君、知ってるのか」

「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。

「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」

三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢していたが、とうとう<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。与次郎は笑いだした。そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。

「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と<ruby><rb>同年</rb><rt>おないどし</rt></ruby>ぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。<ruby><rb>八百屋</rb><rt>やおや</rt></ruby>お<ruby><rb>七</rb><rt>しち</rt></ruby>時代の恋だ」

三四郎は黙っていた。けれども与次郎の意味はよくわからなかった。

「なぜというに。<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>前後の同じ年の<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>を二人並べてみろ。女のほうが万事<ruby><rb>上手</rb><rt>うわて</rt></ruby>だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」

三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。しかし依然として黙っていた。

「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は<ruby><rb>風馬牛</rb><rt>ふうばぎゅう</rt></ruby>だ」

与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。

「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。<ruby><rb>日本</rb><rt>にほん</rt></ruby>じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」

「なんだ、それは」

「なんだって、ぼくの関係した女さ」

三四郎は驚いた。

「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ<ruby><rb>黴菌</rb><rt>ばいきん</rt></ruby>の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>を持って<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」

三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。

「それで、どうした」

「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」

「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」

「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」

「なんで、そんなよけいな<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をつくんだ」

「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」

三四郎はおかしくなった。

「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」

三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、

「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。

与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。

三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。

「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」

「病気が直っても、寝て待っている」

二人は笑って別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。

晩になって、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ののち病症はインフルエンザときまった。今夜<ruby><rb>頓服</rb><rt>とんぷく</rt></ruby>を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。

翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする。下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。時々うとうと眠くなる。明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。病症が軽いからだと思った。

四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。しきりに寝返りを打つ。外はいい天気である。障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>が鳴く。三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。

ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与次郎だけに<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な働きをした。寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。きょうは紫の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはいている。足は両方とも廊下にある。ちょっとはいるのを<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。

よし子は障子をたてて、<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へすわった。六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>をしないから、なお狭苦しい。女は、三四郎に、

「寝ていらっしゃい」と言った。三四郎はまた頭を枕へつけた。自分だけは穏やかである。

「臭くはないですか」と聞いた。

「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」

「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」

「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」

与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつ</rt></ruby>みの中から、<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を出した。

「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお<ruby><rb>見舞</rb><rt>みやげ</rt></ruby>だかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。

「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」

「何か特別に忙しいことができたのですか」

「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。

「蜜柑をむいてあげましょうか」

女は青い葉の間から、<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>を取り出した。<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた人は、<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。

「おいしいでしょう。美禰子さんのお<ruby><rb>見舞</rb><rt>みやげ</rt></ruby>よ」

「もうたくさん」

女は<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から白いハンケチを出して手をふいた。

「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」

「あれぎりです」

「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」

「ええ、もうまとまりました」

「だれですか、さきは」

「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になってるわけにゆかないから」

「あなたはお嫁には行かないんですか」

「行きたい所がありさえすれば行きますわ」

女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。

三四郎はその日から<ruby><rb>四日</rb><rt>よっか</rt></ruby>ほど床を離れなかった。<ruby><rb>五日目</rb><rt>いつかめ</rt></ruby>にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。<ruby><rb>亡者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。

朝飯後、シャツを重ねて、<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。

「もうすっかりいいんですか」

「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」

「にいさん？」

「いいえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは<ruby><rb>会堂</rb><rt>チャーチ</rt></ruby>」

美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく<ruby><rb>耶蘇教</rb><rt>やそきょう</rt></ruby>に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。<ruby><rb>鉄柵</rb><rt>てっさく</rt></ruby>の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。

やがて唱歌の声が聞こえた。<ruby><rb>賛美歌</rb><rt>さんびか</rt></ruby>というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。

かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。<ruby><rb>田端</rb><rt>たばた</rt></ruby>の小川の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>。<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>。雲が羊の形をしている。

<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から<ruby><rb>浮世</rb><rt>うきよ</rt></ruby>へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>吾妻</rb><rt>あずま</rt></ruby>コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。

「どうなすって」

「今お宅までちょっと出たところです」

「そう、じゃいらっしゃい」

女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>をはいている。男はわざと会堂の<ruby><rb>垣</rb><rt>かき</rt></ruby>に身を寄せた。

「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」

「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」

「寒かった」

「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」

男は返事をしずに、外套の<ruby><rb>隠袋</rb><rt>かくし</rt></ruby>から半紙に包んだものを出した。

「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」

美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。

「あなた、御不自由じゃなくって」

「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」

「そう。じゃいただいておきましょう」

女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い<ruby><rb>香</rb><rt>かおり</rt></ruby>がぷんとする。

「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>。四丁目の夕暮。<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>。<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>。空には高い日が明らかにかかる。

「結婚なさるそうですね」

美禰子は白いハンケチを<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ落とした。

「御存じなの」と言いながら、<ruby><rb>二重瞼</rb><rt>ふたえまぶた</rt></ruby>を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>だけははっきりおちついている。三四郎の舌が<ruby><rb>上顎</rb><rt>うわあご</rt></ruby>へひっついてしまった。

女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

「我はわが<ruby><rb>愆</rb><rt>とが</rt></ruby>を知る。わが罪は常にわが前にあり」

聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある。

## 一三

原口さんの絵はでき上がった。丹青会はこれを一室の正面にかけた。そうしてその前に長い腰掛けを置いた。休むためでもある。絵を見るためでもある。休みかつ味わうためでもある。丹青会はこうして、この大作に<ruby><rb>彽徊</rb><rt>ていかい</rt></ruby>する多くの観覧者に便利を与えた。特別の待遇である。絵が特別のできだからという。あるいは人の目をひく題だからともいう。少数のものは、あの女を描いたからだといった。会員の一、二はまったく大きいからだと弁解した。大きいには違いない。幅五寸に余る金の縁をつけて見ると、見違えるように大きくなった。

原口さんは開会の前日検分のためちょっと来た。腰掛けに腰をおろして、久しいあいだパイプをくわえてながめていた。やがて、ぬっと立って、場内を一巡丁寧に回った。それからまたもとの腰掛けへ帰って、第二のパイプをゆっくり吹かした。

「森の女」の前には開会の当日から人がいっぱいたかった。せっかくの腰掛けは無用の長物となった。ただ疲れた者が、絵を見ないために休んでいた。それでも休みながら「森の女」の評をしていた者がある。

美禰子は夫に連られて二日目に来た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「どうです」と<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を見た。夫は「結構です」と言って、<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>の奥からじっと<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を凝らした。

「この<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をかざして立った姿勢がいい。さすが専門家は違いますね。よくここに気がついたものだ。光線が顔へあたるぐあいがうまい。陰と<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>の段落がかっきりして――顔だけでも非常におもしろい変化がある」

「いや皆御当人のお好みだから。ぼくの<ruby><rb>手柄</rb><rt>てがら</rt></ruby>じゃない」

「おかげさまで」と美禰子が礼を述べた。

「私も、おかげさまで」と今度は原口さんが礼を述べた。

夫は細君の手柄だと聞いてさもうれしそうである。三人のうちでいちばん<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>な礼を述べたのは夫である。

開会後第一の土曜の昼過ぎにはおおぜいいっしょに来た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。<ruby><rb>四人</rb><rt>よったり</rt></ruby>はよそをあと回しにして、第一に「森の女」の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいった。与次郎が「あれだ、あれだ」と言う。人がたくさんたかっている。三四郎は入口でちょっと<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。野々宮さんは超然としてはいった。

おおぜいのうしろから、のぞきこんだだけで、三四郎は退いた。腰掛けによってみんなを待ち合わしていた。

「すてきに大きなもの描いたな」と与次郎が言った。

「佐々木に買ってもらうつもりだそうだ」と広田先生が言った。

「ぼくより」と言いかけて、見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛けにもたれている。与次郎は黙ってしまった。

「色の出し方がなかなか<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>ていますね。むしろ意気な絵だ」と野々宮さんが評した。

「少し気がききすぎているくらいだ。これじゃ<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>のようにぽんぽんする絵はかけないと自白するはずだ」と広田先生が評した。

「なんですぽんぽんする絵というのは」

「鼓の音のように間が抜けていて、おもしろい絵の事さ」

二人は笑った。二人は技巧の評ばかりする。与次郎が異を立てた。

「里見さんを描いちゃ、だれが描いたって、間が抜けてるようには描けませんよ」

野々宮さんは目録へ<ruby><rb>記号</rb><rt>しるし</rt></ruby>をつけるために、<ruby><rb>隠袋</rb><rt>かくし</rt></ruby>へ手を入れて鉛筆を捜した。鉛筆がなくって、一枚の活版刷りのはがきが出てきた。見ると、美禰子の結婚<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>の招待状であった。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出席した。三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期はすでに過ぎていた。

野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。与次郎だけが三四郎のそばへ来た。

「どうだ森の女は」

「森の女という題が悪い」

「じゃ、なんとすればよいんだ」

三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>、<ruby><rb>迷羊</rb><rt>ストレイ・シープ</rt></ruby>と繰り返した。