## 一

<ruby><rb>健三</rb><rt>けんぞう</rt></ruby>が遠い所から帰って来て<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>の奥に<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>し<ruby><rb>味</rb><rt>み</rt></ruby>さえ感じた。

彼の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>には新らしく<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に見捨てた遠い国の<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>がまだ付着していた。彼はそれを<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>んだ。一日も早くその臭を<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>い落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。

彼はこうした気分を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った人にありがちな<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつき</rt></ruby>のない態度で、<ruby><rb>千駄木</rb><rt>せんだぎ</rt></ruby>から<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。

ある日<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>が降った。その時彼は<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを<ruby><rb>本郷</rb><rt>ほんごう</rt></ruby>の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は<ruby><rb>根津権現</rb><rt>ねづごんげん</rt></ruby>の裏門の坂を<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をわきへ<ruby><rb>外</rb><rt>そら</rt></ruby>させたのである。

彼は知らん顔をしてその人の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をその人の方角に向けた。すると先方ではもう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに彼の姿を<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見詰めていた。

往来は<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>であった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>なく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。

彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ<ruby><rb>廿歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>になるかならない昔の事であった。それから<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。

彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。黒い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>生</rb><rt>はや</rt></ruby>して山高帽を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った今の姿と坊主頭の昔の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>とを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える<ruby><rb>媒介</rb><rt>なかだち</rt></ruby>となった。

彼は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>よりその人に出会う事を好まなかった。万一出会ってもその人が自分より立派な<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>でもしていてくれれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思っていた。しかし今<ruby><rb>目前</rb><rt>まのあたり</rt></ruby>見たその人は、あまり裕福な境遇にいるとは誰が見ても決して思えなかった。帽子を被らないのは当人の自由としても、<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>なり着物なりについて判断したところ、どうしても中流以下の活計を営んでいる<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>の年寄としか受取れなかった。彼はその人の差していた<ruby><rb>洋傘</rb><rt>こうもり</rt></ruby>が、重そうな<ruby><rb>毛繻子</rb><rt>けじゅす</rt></ruby>であった事にまで気が付いていた。

その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>決して口を利かない女であった。

## 二

次の日健三はまた同じ時刻に同じ所を通った。その次の日も通った。けれども帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らない男はもうどこからも出て来なかった。彼は器械のようにまた義務のように何時もの道を<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったり来たりした。

こうした無事の日が五日続いた<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どこの前と違わなかった。

その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>をも不安にしなければやまないほどな注意を<ruby><rb>双眼</rb><rt>そうがん</rt></ruby>に集めて彼を凝視した。<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>さえあれば彼に近付こうとするその人の心が<ruby><rb>曇</rb><rt>どん</rt></ruby>よりした<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。

「とてもこれだけでは済むまい」

しかしその日<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。

彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかし<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>としてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいずれにしても健三にとって問題にはならなかった。

ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく<ruby><rb>細字</rb><rt>さいじ</rt></ruby>で書いたものの、五分の一ほど眼を通した<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。

その時の彼には自分<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>でこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に<ruby><rb>関聯</rb><rt>かんれん</rt></ruby>して、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし<ruby><rb>機嫌買</rb><rt>きげんかい</rt></ruby>な彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問い<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>して見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが<ruby><rb>大嫌</rb><rt>だいきらい</rt></ruby>だった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す<ruby><rb>媒介</rb><rt>なかだち</rt></ruby>となるからであった。

幸い彼の目下の状態はそんな事に<ruby><rb>屈托</rb><rt>くったく</rt></ruby>している余裕を彼に与えなかった。彼は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。

彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを<ruby><rb>片端</rb><rt>かたはし</rt></ruby>から取り上げては二、三<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>ずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくを見るに見かねた<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>友人が来て、順序にも冊数にも<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>なく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。

## 三

健三は実際その日その日の仕事に追われていた。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。

娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を勧められて、<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よくそれを断わったが、彼は心のうちで、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。

自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>にその<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから<ruby><rb>索寞</rb><rt>さくばく</rt></ruby>たる<ruby><rb>曠野</rb><rt>あらの</rt></ruby>の方角へ向けて生活の<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。

彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。

「教育が違うんだから仕方がない」

彼の腹の中には常にこういう答弁があった。

「やっぱり<ruby><rb>手前味噌</rb><rt>てまえみそ</rt></ruby>よ」

これは何時でも細君の解釈であった。

気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>に<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>から<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しく思った。ある時は<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>り付けた。またある時は頭ごなしに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り込めた。すると彼の<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>が細君の耳に<ruby><rb>空威張</rb><rt>からいばり</rt></ruby>をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「<ruby><rb>大風呂敷</rb><rt>おおぶろしき</rt></ruby>」の四字に訂正するに過ぎなかった。

彼には一人の<ruby><rb>腹違</rb><rt>はらちがい</rt></ruby>の姉と一人の兄があるぎりであった。親類といったところでこの二軒より外に持たない彼は、不幸にしてその二軒ともとあまり親しく<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>をしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り<ruby><rb>千駄木</rb><rt>せんだぎ</rt></ruby>の町を毎日二<ruby><rb>返</rb><rt>へん</rt></ruby>規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った<ruby><rb>四肢</rb><rt>しし</rt></ruby>を畳の上に横たえて半日の安息を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るに過ぎなかったろう。

しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。そうして急に思い立ったように姉の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ出掛けた。姉の宅は<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>津</rb><rt>つ</rt></ruby>の<ruby><rb>守坂</rb><rt>かみざか</rt></ruby>の横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。彼女の夫というのは健三の<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>にあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。しかし<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>は<ruby><rb>同年</rb><rt>おないどし</rt></ruby>か一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>をやめた<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>でも、まだ<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の多い土地を離れるのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。

## 四

この姉は<ruby><rb>喘息持</rb><rt>ぜんそくもち</rt></ruby>であった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>なので、よほど苦しくないと決して<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>としていなかった。何か用を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて狭い<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつき</rt></ruby>のない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>な態度が健三の眼には<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも気の毒に見えた。

姉はまた非常に<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>る事の<ruby><rb>好</rb><rt>すき</rt></ruby>な女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と<ruby><rb>対坐</rb><rt>たいざ</rt></ruby>する健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。

「これが<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の姉なんだからなあ」

彼女と話をした<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。

その日健三は例の如く<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を掛けて戸棚の中を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きまわしているこの姉を見出した。

「まあ珍らしく<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く来てくれたこと。さあ御敷きなさい」

姉は健三に<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を勧めて縁側へ手を洗いに行った。

健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>には彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その<ruby><rb>落款</rb><rt>らっかん</rt></ruby>に書いてある<ruby><rb>筒井憲</rb><rt>つついけん</rt></ruby>という名は、たしか<ruby><rb>旗本</rb><rt>はたもと</rt></ruby>の書家か<ruby><rb>何</rb><rt>なに</rt></ruby>かで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>の主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby><ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>ほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>をとっては姉から<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>られたり、屋根へ登って<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>を<ruby><rb>挘</rb><rt>も</rt></ruby>いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を持ち込まれたりした。主人が箱入りの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">コンパス</span>を買って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るといって彼を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>したなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。姉と<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をして、もう向うから<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>って来ても勘忍してやらないと覚悟を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めたが、いくら待っていても、姉が<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶさた</rt></ruby>なので、向うで<ruby><rb>御這入</rb><rt>おはい</rt></ruby>りというまで、黙って<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に立っていた<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>もあった。……

古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。

「近頃は<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の具合はどうです。あんまり<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>く起る事もありませんか」

彼は自分の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った姉の顔を見ながらこう<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「ええ有難う。御蔭さまで陽気が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がせい</span>に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの<ruby><rb>遊</rb><rt>あす</rt></ruby>びに来てくれた時分にゃ、随分<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>ッ<ruby><rb>端折</rb><rt>ぱしょ</rt></ruby>りで、それこそ<ruby><rb>御釜</rb><rt>おかま</rt></ruby>の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」

健三は<ruby><rb>些少</rb><rt>さしょう</rt></ruby>ながら月々いくらかの小遣を姉に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る事を忘れなかったのである。

「少し<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せたようですね」

「なにこりゃ<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>の<ruby><rb>持前</rb><rt>もちまえ</rt></ruby>だから仕方がない。昔から<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った事のない女なんだから。やッぱり<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」

姉は肉のない細い腕を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>って健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>が、<ruby><rb>怠</rb><rt>だる</rt></ruby>そうな皮で<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。

「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんや<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」

姉の眼にはいつか涙が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と<ruby><rb>口癖</rb><rt>くちくせ</rt></ruby>のようにいっていた。そうかと思うと、「こんな<ruby><rb>偏窟</rb><rt>へんくつ</rt></ruby>じゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。

## 五

そんな古い記憶を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が<ruby><rb>一層</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>健三の眼についた。

「時に姉さんはいくつでしたかね」

「もう<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんさ。取って<ruby><rb>一</rb><rt>いち</rt></ruby>だもの御前さん」

姉は黄色い<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。

「すると<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>とは<ruby><rb>一廻</rb><rt>ひとまわり</rt></ruby>以上違うんだね。私ゃまた精々違って<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>か十一だと思っていた」

「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>が羊の<ruby><rb>三碧</rb><rt>さんぺき</rt></ruby>で姉さんが<ruby><rb>四緑</rb><rt>しろく</rt></ruby>なんだから。健ちゃんは<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>か<ruby><rb>七赤</rb><rt>しちせき</rt></ruby>だったね」

「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」

「繰って見て御覧、きっと七赤だから」

健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>の話はそれぎりやめてしまった。

「今日は御留守なんですか」と<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の事を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見た。

「<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>も<ruby><rb>宿直</rb><rt>とまり</rt></ruby>でね。なに自分の分だけなら月に三度か<ruby><rb>四度</rb><rt>よど</rt></ruby>で済むんだけれども、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」

健三は黙って障子の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に据えてある比田の机を眺めた。<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>や<ruby><rb>状袋</rb><rt>じょうぶくろ</rt></ruby>や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い<ruby><rb>脊皮</rb><rt>せがわ</rt></ruby>をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に光った小さい<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>もその下に置いてあった。

<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという<ruby><rb>評番</rb><rt>ひょうばん</rt></ruby>であった。<ruby><rb>宿直</rb><rt>とまり</rt></ruby>だ宿直だといって<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。

「比田さんは近頃どうです。<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>年を取ったから元とは違って<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になったでしょう」

「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>だ、やれ<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばや</rt></ruby>だ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しかったもんだがね。<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>いたり、髪の毛を持って座敷中<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひっずり</rt></ruby>廻したり……」

「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」

「なに<ruby><rb>妾</rb><rt>あたし</rt></ruby>ゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」

健三は勝気な姉の昔を考え出してつい<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>に思われて来た。

「久しぶりに何か<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>りましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。

「ありがと、今<ruby><rb>御鮨</rb><rt>おすし</rt></ruby>をそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」

姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないから<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>けてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。

## 六

近頃の健三は頭を余計<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>い過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の<ruby><rb>悪強</rb><rt>わるじい</rt></ruby>には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わなかった。

「<ruby><rb>海苔巻</rb><rt>のりまき</rt></ruby>なら<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>しようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>かい」

健三は仕方なしに<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>くもない海苔巻を<ruby><rb>頬張</rb><rt>ほおば</rt></ruby>って、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い加減<ruby><rb>烟草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>で荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。

姉が余り<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>くなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。

<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る事の好きな彼女は、健三がこの前<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めた古ぼけた<ruby><rb>達磨</rb><rt>だるま</rt></ruby>の掛物を彼に遣ろうかといい出した。

「あんなものあ、<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>だって<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りゃしないやね、汚ない達磨なんか」

健三は<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。

「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、<ruby><rb>御住</rb><rt>おすみ</rt></ruby>さんがいちゃ、少し話し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」

姉の<ruby><rb>前置</rb><rt>まえおき</rt></ruby>は長たらしくもあり、また<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>でもあった。小さい時分いくら手習をさせても<ruby><rb>記憶</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>が悪くって、どんなに<ruby><rb>平易</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい字も、とうとう頭へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>らずじまいに、五十の<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。

「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」

「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>早く話さなかったの」

「だって話せないんだもの」

「そんなに遠慮しないでもいいやね。<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の間じゃないか、御前さん」

姉は自分の多弁が相手の口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいるのだという明白な事実には<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も気が付いていなかった。

「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」

「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の知った事じゃないって顔をしているんだから。――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も月々の<ruby><rb>取高</rb><rt>とりだか</rt></ruby>が少ない上に、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>もあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」

姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>をもう少し<ruby><rb>増</rb><rt>ま</rt></ruby>してくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れでもあり、また腹立たしくもあった。

「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」

これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでも<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だとはいいかねた。

## 七

彼はこれから<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って今夜中に片付けなければならない<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の仕事を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。時間の価値というものを少しも認めないこの姉と<ruby><rb>対坐</rb><rt>たいざ</rt></ruby>して、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも、べんべんと<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。彼は<ruby><rb>好加減</rb><rt>いいかげん</rt></ruby>に帰ろうとした。そうして帰る間際になってやっと帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らない男の事をいい出した。

「実はこの間島田に会ったんですがね」

「へえどこで」

姉は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したような声を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。

「<ruby><rb>太田</rb><rt>おおた</rt></ruby>の<ruby><rb>原</rb><rt>はら</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>です」

「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」

「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」

「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>で口なんぞ<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けた義理でもないんだから」

姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。彼女は健三に「どんな<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしていたい」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>き足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>には多少の同情も<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っているように見えた。しかし男の昔を話し出した時にはさもさも<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>らしそうな語気を用い始めた。

「なんぼ<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>だって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り込んで<ruby><rb>動</rb><rt>いご</rt></ruby>かないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、<ruby><rb>御鍋</rb><rt>おなべ</rt></ruby>でも<ruby><rb>御釜</rb><rt>おかま</rt></ruby>でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」

「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」

「ところがあの<ruby><rb>業突張</rb><rt>ごうつくばり</rt></ruby>の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い事あないはずだあね」

健三の耳にはこの話がただの<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>としては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに<ruby><rb>引絡</rb><rt>ひっから</rt></ruby>まっている古い自分の影法師は、彼に取って<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいというよりもむしろ悲しいものであった。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」

「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」

「しかしわざわざ<ruby><rb>彼所</rb><rt>あすこ</rt></ruby>いらを通って、私の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」

この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には<ruby><rb>空御世辞</rb><rt>からおせじ</rt></ruby>のごとく響いた。

「こちらへはその後まるで来ないんですか」

「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」

「その前は？」

「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。<ruby><rb>鰻飯</rb><rt>うなぎめし</rt></ruby>かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>かたけでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いから<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>なんかかなりなものを着ているんだがね。……」

姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。

## 八

「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」

こんな簡単な質問さえ姉には<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>答えられなかった。健三は少し<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>が外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの<ruby><rb>手数</rb><rt>てかず</rt></ruby>を尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>しなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。

彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。

<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い色が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>さえ彼の鼻を襲った。彼はその<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ならしい<ruby><rb>一廓</rb><rt>いっかく</rt></ruby>を――<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>の御屋敷という名で覚えていた。

堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。

この御屋敷と反対の側には小さな<ruby><rb>平家</rb><rt>ひらや</rt></ruby>が<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていたその町並は無論<ruby><rb>不揃</rb><rt>ぶそろ</rt></ruby>であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたのである。

健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。<ruby><rb>四間</rb><rt>よま</rt></ruby>しかない狭い家だったけれども、<ruby><rb>木口</rb><rt>きぐち</rt></ruby>などはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な<ruby><rb>御影</rb><rt>みかげ</rt></ruby>の<ruby><rb>石燈籠</rb><rt>いしどうろう</rt></ruby>が据えてあった。

<ruby><rb>綺麗好</rb><rt>きれいず</rt></ruby>きな島田は、自分で<ruby><rb>尻端折</rb><rt>しりはしお</rt></ruby>りをして、絶えず<ruby><rb>濡雑巾</rb><rt>ぬれぞうきん</rt></ruby>を縁側や柱へ掛けた。それから<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になって、南向の居間の<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>へ出て、<ruby><rb>草毟</rb><rt>くさむし</rt></ruby>りをした。あるときは<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を使って、<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>も<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>った。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。

島田はまたこの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を付けた。裏は野とも<ruby><rb>畠</rb><rt>はた</rt></ruby>とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>んだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になると<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……

健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の事のように考えた。

「ことによると、<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>では年始状位まだ出してるかも知れないよ」

健三の帰る時、姉はこんな事をいって、<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。

彼はその日<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>見舞かたがた<ruby><rb>市ヶ谷</rb><rt>いちがや</rt></ruby>の<ruby><rb>薬王寺</rb><rt>やくおうじ</rt></ruby>前にいる兄の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へも寄って、島田の事を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>へ帰った。その晩はまた<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>の仕事に<ruby><rb>忙殺</rb><rt>ぼうさい</rt></ruby>されなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。

## 九

彼はまた<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。

彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。その子供たちはまた滅多に書斎へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>らなかった。たまに這入ると、きっと何か<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をして健三に<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られた。彼は子供を叱るくせに、自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていた。

一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。気分を変えるため四時頃<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ行って帰ったら、急にうっとりした<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい<ruby><rb>仮寐</rb><rt>うたたね</rt></ruby>をした。そうして<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>の時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。しかし起きて<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向った時、彼には<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな寒気が<ruby><rb>脊筋</rb><rt>せすじ</rt></ruby>を上から下へ伝わって行くような感じがあった。その後で<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>嚏</rb><rt>くさみ</rt></ruby>が二つほど出た。傍にいる細君は黙っていた。健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対する<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な心持を意識しつつ<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取った。細君の方ではまた夫が<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>自分に何もかも隔意なく話して、<ruby><rb>能働的</rb><rt>のうどうてき</rt></ruby>に細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。

その晩彼は明らかに多少<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>気味であるという事に気が付いた。用心して早く<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。熱い<ruby><rb>葛湯</rb><rt>くずゆ</rt></ruby>でも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具の<ruby><rb>裏</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んだ。彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>眼を覚した時は存外安静であった。彼は床の中で、風邪はもう<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったものと考えた。しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が<ruby><rb>倦怠</rb><rt>だる</rt></ruby>くなってきた。勇気を<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>して食卓に着いて見たが、<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさめし</rt></ruby>は少しも<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>くなかった。いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ました<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いて<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。しかしその意味は彼自身にも解らなかった。この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。彼はことさらな<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>を二度も三度もして見せた。それでも細君は依然として取り合わなかった。

健三はさっさと頭から<ruby><rb>白襯衣</rb><rt>ワイシャツ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って洋服に着換えたなり例刻に<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>を出た。細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。

外ではしきりに<ruby><rb>悪感</rb><rt>おかん</rt></ruby>がした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けたる</rt></ruby>かった。彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。<ruby><rb>指頭</rb><rt>しとう</rt></ruby>に触れるピンピンいう音が、秒を刻む<ruby><rb>袂時計</rb><rt>たもとどけい</rt></ruby>の音と<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。

## 十

彼は例刻に<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の<ruby><rb>不断着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>を持ったまま、彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。

「床を取ってくれ。<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>るんだ」

「はい」

細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の<ruby><rb>風邪気</rb><rt>かぜけ</rt></ruby>の事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。

健三が眼を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。

「あなた御飯を<ruby><rb>召上</rb><rt>めしや</rt></ruby>がりますか」

「<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>なんか食いたくない」

細君はしばらく黙っていた。けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。

「あなた、どうかなすったんですか」

健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていた。細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。

晩になって医者が来た。ただの風邪だろうという診察を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>して、<ruby><rb>水薬</rb><rt>すいやく</rt></ruby>と<ruby><rb>頓服</rb><rt>とんぷく</rt></ruby>を呉れた。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>は熱がなお高くなった。医者の注意によって<ruby><rb>護謨</rb><rt>ゴム</rt></ruby>の<ruby><rb>氷嚢</rb><rt>ひょうのう</rt></ruby>を彼の頭の上に載せた細君は、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の下に差し込むニッケル製の器械を<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>が買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。

魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものが<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。

「あなたどうなすったんです」

「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」

「そりゃ解ってます」

会話はそれで途切れてしまった。細君は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>がどうしたというんだい」

「どうしたって、――あなたが御病気だから、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>だってこうして氷嚢を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えたり、薬を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」

細君は後をいわずに下を向いた。

「そんな事をいった覚はない」

「そりゃ熱の高い時<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」

こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。

「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」

健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己を<ruby><rb>佯</rb><rt>いつわ</rt></ruby>っている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に<ruby><rb>心底</rb><rt>しんそこ</rt></ruby>から大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。

## 十一

その晩細君は<ruby><rb>土鍋</rb><rt>どなべ</rt></ruby>へ入れた<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>をもって、また健三の枕元に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。それを<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に盛りながら、「<ruby><rb>御起</rb><rt>おおき</rt></ruby>になりませんか」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

彼の舌にはまだ<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>が一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んどなれなかった。それでも彼は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし<ruby><rb>舌障</rb><rt>したざわ</rt></ruby>りの悪い飯粒が、ざらざらと<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>で口を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>ったなり、すぐ<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の通り横になった。

「まだ<ruby><rb>食気</rb><rt>しょっき</rt></ruby>が出ませんね」

「少しも<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>くない」

細君は帯の間から一枚の名刺を出した。

「こういう人が<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」

健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>来たのかい」

「たしか<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>でしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>らないから、わざと黙っていました」

「まるで知らない人だがな」

「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」

細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。

「御前島田の事を知ってるのかい」

「あの長い手紙が<ruby><rb>御常</rb><rt>おつね</rt></ruby>さんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」

健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には<ruby><rb>不確</rb><rt>ふたしか</rt></ruby>であった。

「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」

健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。

「そうね。もう七年位になるでしょう。<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>たちがまだ<ruby><rb>千本通</rb><rt>せんぼんどお</rt></ruby>りにいた時分ですから」

千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>都会の外れにある町の名であった。

細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんからも聞いて知ってますわ」といった。

「兄がどんな事をいったかい」

「どんな事って、――なんでも<ruby><rb>余</rb><rt>あんま</rt></ruby>り善くない人だっていう話じゃありませんか」

細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。

「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が<ruby><rb>御癒</rb><rt>おなお</rt></ruby>りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」

健三は仕方なしにまた眼を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。

「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ってるさ」

「しかしあなた御会いになって？　もし来たら」

実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。

「御会いにならない方が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「会っても好い。何も怖い事はないんだから」

細君には夫の言葉が、また例の<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>だと取れた。健三はそれを<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。

## 十二

健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。

健三は鳥の子紙に刷った<ruby><rb>吉田虎吉</rb><rt>よしだとらきち</rt></ruby>という<ruby><rb>見覚</rb><rt>みおぼえ</rt></ruby>のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」と<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「会うから座敷へ通してくれ」

細君は断りたさそうな顔をして少し<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>していた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。

吉田というのは、でっぷり<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った、かっぷくの<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い、四十<ruby><rb>恰好</rb><rt>がっこう</rt></ruby>の男であった。<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>を着て、その頃まで<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>った<ruby><rb>白縮緬</rb><rt>しろちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>兵児帯</rb><rt>へこおび</rt></ruby>にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>とは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。

健三には会見の順序として、まず吉田の身元から<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。

彼はもと<ruby><rb>高崎</rb><rt>たかさき</rt></ruby>にいた。そうして<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にある兵営に<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>して、<ruby><rb>糧秣</rb><rt>かいば</rt></ruby>を納めるのが彼の<ruby><rb>商買</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>であった。

「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも<ruby><rb>柴野</rb><rt>しばの</rt></ruby>の旦那には特別<ruby><rb>御贔負</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>になったものですから」

健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。

「その縁故で島田を御承知なんですね」

二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの<ruby><rb>大酒</rb><rt>たいしゅ</rt></ruby>で家計があまり<ruby><rb>裕</rb><rt>ゆたか</rt></ruby>でないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい<ruby><rb>報知</rb><rt>たより</rt></ruby>に違なかったが、同時に大した興味を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>く話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの<ruby><rb>悪感</rb><rt>あっかん</rt></ruby>も<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な心持がした。

吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。

「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されてみんな<ruby><rb>損</rb><rt>す</rt></ruby>っちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>かするもんですからな」

「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり<ruby><rb>慾張</rb><rt>よくば</rt></ruby>るからじゃありませんか」

たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々<ruby><rb>若干</rb><rt>なにがし</rt></ruby>か<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>いで<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。

正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは<ruby><rb>零</rb><rt>ゼロ</rt></ruby>だという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも<ruby><rb>下手</rb><rt>したで</rt></ruby>に出る手段を主眼としているらしく見えた。不穏の言葉は無論、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆすり</rt></ruby>がましい様子は<ruby><rb>噫</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも出さなかった。

## 十三

これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちで<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に彼の帰るのを予期した。しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。そうして自然天然<ruby><rb>話頭</rb><rt>わとう</rt></ruby>をまた島田の身の上に戻して来た。

「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの<ruby><rb>御交際</rb><rt>おつきあい</rt></ruby>は願えないものでしょうか」

健三はちょっと返答に窮した。仕方なしに黙って二人の間に置かれた<ruby><rb>烟草盆</rb><rt>タバコぼん</rt></ruby>を眺めていた。彼の頭のなかには、重たそうに<ruby><rb>毛繻子</rb><rt>けじゅす</rt></ruby>の<ruby><rb>洋傘</rb><rt>こうもり</rt></ruby>をさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>の情も禁ずる事が出来なかった。両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。

「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」

吉田の様子はいよいよ丁寧になった。どう考えても<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあう</rt></ruby>のは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>でならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。彼は厭でも正しい方に従おうと思い<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めた。

「そういう訳なら<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しゅう御座います。承知の<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それから<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>を与えるなんて事は<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしいのですが……」

「するとまあただ<ruby><rb>御出入</rb><rt>おでいり</rt></ruby>をさせて頂くという訳になりますな」

健三には御出入という言葉を聞くのが<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>かった。そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。

「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」

吉田は自分の役目が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く済んだという顔付をしてこういった<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。

健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに<ruby><rb>捗取</rb><rt>はかど</rt></ruby>らなかった。

<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>んだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。

<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>よりは遅くなって漸く<ruby><rb>夕食</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「元高崎で陸軍の<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>か何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。

問答は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>よりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。

「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」

「まあそうだ」

「それで<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>どうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」

「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」

二人は腹の中で、自分らの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てを<ruby><rb>賄</rb><rt>まかな</rt></ruby>って行く細君に取っても、少しも<ruby><rb>裕</rb><rt>ゆたか</rt></ruby>なものとはいわれなかった。

## 十四

健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたい事が残っていた。

「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」

「だって断られれば仕方がないじゃないか。<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をする訳にも行かないんだから」

「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」

「来ても構わないさ」

「でも<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>ですわ、<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>くって」

健三は細君が次の間で<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の会話を残らず聴いていたものと察した。

「御前聴いてたんだろう、<ruby><rb>悉皆</rb><rt>すっかり</rt></ruby>」

細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。

「じゃそれで<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃないか」

健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども<ruby><rb>表向</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。<ruby><rb>事々</rb><rt>ことごと</rt></ruby>について出て来る<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>ずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>もう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>も自分に充分具えていないという事実には全く<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>であった。

「あなた島田と<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>っても好いと受合っていらしったようですね」

「ああ」

健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやき</rt></ruby>がさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>彼を権柄ずくにしがちであった。

「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>一人で<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めたって」

「そりゃ<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に対して何も構って頂かなくっても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>ござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」

学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かなければならないような事をいい出した。

「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と<ruby><rb>御交際</rb><rt>おつきあい</rt></ruby>いになっちゃあ」

「御父さまって<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のおやじかい」

「無論<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の御父さまですわ」

「己のおやじはとうに死んだじゃないか」

「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、<ruby><rb>向後</rb><rt>こうご</rt></ruby>一切<ruby><rb>付合</rb><rt>つきあい</rt></ruby>をしちゃならないって<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃったそうじゃありませんか」

健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>った優しい記憶を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかった。その上絶交<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>についても、そう厳重にいい渡された<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>はなかった。

「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」

「貴方じゃありません。<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんに伺ったんです」

細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。

「おやじは<ruby><rb>阿爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」

こういい切った健三は、腹の中でその<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。

## 十五

健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>しなかった。彼の上着には腰のあたりに<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>が二つ並んでいて、胸は<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたままであった。霜降の<ruby><rb>羅紗</rb><rt>ラシャ</rt></ruby>も硬くごわごわして、極めて<ruby><rb>手触</rb><rt>てざわり</rt></ruby>が<ruby><rb>粗</rb><rt>あら</rt></ruby>かった。ことに<ruby><rb>洋袴</rb><rt>ズボン</rt></ruby>は薄茶色に<ruby><rb>竪溝</rb><rt>たてみぞ</rt></ruby>の通った調馬師でなければ<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。

彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い<ruby><rb>鍋底</rb><rt>なべぞこ</rt></ruby>のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>のように<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でまわして見た事もあった。

その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。<ruby><rb>武者絵</rb><rt>むしゃえ</rt></ruby>、<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にあう<ruby><rb>緋縅</rb><rt>ひおど</rt></ruby>しの<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>と<ruby><rb>竜頭</rb><rt>たつがしら</rt></ruby>の<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、<ruby><rb>金紙</rb><rt>きんがみ</rt></ruby>で拵えた<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を振り舞わした。

彼はまた子供の差す位な短かい<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>の所有者であった。その脇差の<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>は、鼠が赤い<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。

彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと<ruby><rb>腰蓑</rb><rt>こしみの</rt></ruby>を着けた船頭がいて網を打った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いな</span>だの<ruby><rb>鰡</rb><rt>ぼら</rt></ruby>だのが水際まで来て跳ね<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>る様が小さな彼の眼に<ruby><rb>白金</rb><rt>しろがね</rt></ruby>のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いで行って、<ruby><rb>海鯽</rb><rt>かいず</rt></ruby>というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>の網にかかった時であった。彼は<ruby><rb>杉箸</rb><rt>すぎばし</rt></ruby>で河豚の腹を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんから</span><ruby><rb>太鼓</rb><rt>だいこ</rt></ruby>のように<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて、その<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……

吉田と会見した<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来る事があった。<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てそれらの記憶は、断片的な割に<ruby><rb>鮮明</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。<ruby><rb>零砕</rb><rt>れいさい</rt></ruby>の事実を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の<ruby><rb>各自</rb><rt>おのおの</rt></ruby>のうちには必ず帽子を<ruby><rb>披</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。

「こんな光景をよく覚えているくせに、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>自分の<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていたその頃の心が思い出せないのだろう」

これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。

「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の<ruby><rb>情合</rb><rt>じょうあい</rt></ruby>が欠けていたのかも知れない」

健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。

彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情に<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。

## 十六

待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。

健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか解らなかった。思慮なしにそれらを<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。

島田はかねて<ruby><rb>横風</rb><rt>おうふう</rt></ruby>だという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。

しかし島田は思ったよりも<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>であった。普通<ruby><rb>初見</rb><rt>しょけん</rt></ruby>の人が<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に用いる「ですか」とか、「ません」とかいう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てには</span>で、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から<ruby><rb>健坊</rb><rt>けんぼう</rt></ruby>々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。

「しかしこの調子なら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いだろう」

健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。

健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。

「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」

「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」

高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。

「はあ」

「そら知ってるでしょう。あの<ruby><rb>芝</rb><rt>しば</rt></ruby>の」

島田の後妻の親類が芝にあって、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は何でも<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>か坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。しかしその親類の人には、<ruby><rb>要</rb><rt>よう</rt></ruby>さんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>のものに顔を合せた記憶はまるでなかった。

「芝というと、たしか<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんの妹さんに当る<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>の御嫁にいらしった所でしたね」

「いえ姉ですよ。妹ではないんです」

「はあ」

「<ruby><rb>要三</rb><rt>ようぞう</rt></ruby>だけは死にましたが、あとの<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」

――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。

「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>手入</rb><rt>ていれ</rt></ruby>をするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>の前を通ります」

健三は昔この男につれられて、<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>の本屋で<ruby><rb>法帖</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>のないこの人は、その時も<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か五厘の<ruby><rb>釣銭</rb><rt>つり</rt></ruby>を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。<ruby><rb>董其昌</rb><rt>とうきしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>折手本</rb><rt>おりでほん</rt></ruby>を抱えて<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいる彼に取ってはその態度が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも見苦しくまた不愉快であった。

「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」

健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。

## 十七

「でも御蔭さまで、本を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って行けるんです」

島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。<ruby><rb>字引</rb><rt>じびき</rt></ruby>か教科書だろうとは推察したが、別に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見る気にもならなかった。

「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」

健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けるには本に限るような事をいった。

「御祝儀は済んだが、――が死んだ時<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>が女だけだもんだから、実は<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>が本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めて、向うから収めさせるようにしたんです」

「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ<ruby><rb>資金</rb><rt>もとで</rt></ruby>が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い訳になるんだから、無学のものはとても<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いませんな」

「結局得ですよ」

彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶさた</rt></ruby>な彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。

その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに<ruby><rb>蒼黒</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>い葉を垣根の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に茂らしている<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、木らしい木は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どなかった。<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なず</rt></ruby>まない地面は小石<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りに<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>していた。

「こちらの先生も一つ<ruby><rb>御儲</rb><rt>おもう</rt></ruby>けになったら<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>です」

吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって<ruby><rb>跋</rb><rt>ばつ</rt></ruby>を合せた。

「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」

これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をした。しかし老人は一向そんな事に<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>する様子も見えなかった。迷惑そうな健三の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の<ruby><rb>烟草入</rb><rt>タバコいれ</rt></ruby>を腰へ差して、「では<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>はこれで<ruby><rb>御暇</rb><rt>おいとま</rt></ruby>を致す事にしましょうか」と催促したので、彼は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く帰る気になったらしかった。

二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の上に坐ったまま、腕組をして考えた。

「一体何のために来たのだろう。これじゃ<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>は面白いのだろうか」

彼の前には<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>島田の持って来た<ruby><rb>手土産</rb><rt>てみやげ</rt></ruby>がそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。

何にもいわずに<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。

「あなたまだ<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に坐っていらっしゃるんですか」

「いやもう立っても好い」

健三はすぐ<ruby><rb>立上</rb><rt>たちあが</rt></ruby>ろうとした。

「あの人たちはまた来るんでしょうか」

「来るかも知れない」

彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り合う子供の声がした。<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てがやがて<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>になったと思う頃、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。

## 十八

雨の降る日が<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日<ruby><rb>欝陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しい思いをして、<ruby><rb>縫針</rb><rt>ぬいはり</rt></ruby>にばかり気をとられていた細君は、<ruby><rb>縁鼻</rb><rt>えんばな</rt></ruby>へ出てこの<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い空を見上げた。それから急に<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を開けた。

彼女が服装を改ためて夫の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに来た時、健三は<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突いたまま<ruby><rb>盆槍</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>汚ない庭を眺めていた。

「あなた何を考えていらっしゃるの」

健三はちょっと振り返って細君の<ruby><rb>余所行姿</rb><rt>よそゆきすがた</rt></ruby>を見た。その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。

「どこかへ行くのかい」

「ええ」

細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>びしい我に帰った。

「子供は」

「子供も連れて行きます。置いて行くと<ruby><rb>八釜</rb><rt>やかま</rt></ruby>しくって<ruby><rb>御蒼蠅</rb><rt>おうるさ</rt></ruby>いでしょうから」

その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。

細君の帰って来たのは、彼が<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>を済ましてまた書斎へ引き取った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>なので、もう<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いてから一、二時間経っていた。

「ただ今」

遅くなりましたとも何ともいわない彼女の<ruby><rb>無愛嬌</rb><rt>ぶあいきょう</rt></ruby>が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる<ruby><rb>媒介</rb><rt>なかだち</rt></ruby>となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。

話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに<ruby><rb>陳腐</rb><rt>ちんぷ</rt></ruby>過ぎた。

二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せた。

「<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby><ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ行ったら、<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>の<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>に会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」

門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来て、急に<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>が出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を<ruby><rb>些少</rb><rt>さしょう</rt></ruby>ながら用立てたら、立派に印紙を<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>った証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。

「今何をしているのかね」

「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>るつもりだっていってました」

健三にはその後を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>く必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父を<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き上げたのである。

健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で切れてしまわなかった。

「あの日はあまり<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い御天気だったから、久しぶりで<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんの所へも廻って来ました」

「そうか」

細君の里は<ruby><rb>小石川台町</rb><rt>こいしかわだいまち</rt></ruby>で、健三の兄の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は<ruby><rb>市ヶ谷薬王寺前</rb><rt>いちがややくおうじまえ</rt></ruby>だから、細君の訪問は大した<ruby><rb>迂回</rb><rt>まわりみち</rt></ruby>でもなかった。

## 十九

「<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」

細君の顔には多少<ruby><rb>諷諫</rb><rt>ふうかん</rt></ruby>の意が現われていた。

「それを聞きに、御前わざわざ<ruby><rb>薬王寺前</rb><rt>やくおうじまえ</rt></ruby>へ廻ったのかい」

「またそんな皮肉を<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃる。あなたはどうしてそう<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>あんまり<ruby><rb>御無沙汰</rb><rt>ごぶさた</rt></ruby>をして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」

彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。

「<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんは<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>のために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>いだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」

「面倒ってどんな面倒を指すのかな」

「そりゃ起って見なければ、<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」

碌な事があろうとは健三にも思えなかった。

「しかし義理が悪いからね」

「だって御金を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」

手切の金は昔し養育料の名前の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。

「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ引き取られていらしったんでしょう」

いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>分らなかった。

「三つから七つまでですって。<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんがそう<ruby><rb>御仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いましたよ」

「そうかしら」

健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>で見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。

「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」

彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。

「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」

「しかし<ruby><rb>八</rb><rt>やつ</rt></ruby>ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」

細君は口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。それが<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だか健三には<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しかった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>も実は面白くないんだよ」

「じゃ<ruby><rb>御止</rb><rt>およ</rt></ruby>しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>は」

「それが己には<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも解らない。<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」

「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」

「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」

「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」

細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>を既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな不安がまた新らしく<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>した。

## 二十

その不安は多少彼の仕事の上に<ruby><rb>即</rb><rt>つ</rt></ruby>いて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。

細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。

自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて<ruby><rb>月末</rb><rt>げつまつ</rt></ruby>に細君の手から支出の<ruby><rb>明細書</rb><rt>めいさいがき</rt></ruby>を突き付けられた<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>がなかった。

「まあどうにかしているんだろう」

彼は常にこう考えた。それで自分に金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ<ruby><rb>疑</rb><rt>うたぐ</rt></ruby>った。

「月々の勘定はちゃんとして<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に見せなければいけないぜ」

細君は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。

「ええ」

彼女の返事はこれぎりであった。そうして<ruby><rb>月末</rb><rt>つきずえ</rt></ruby>が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>をどれだけ<ruby><rb>食</rb><rt>くっ</rt></ruby>たものか、または米がどれほど<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>ったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。

この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。

「何か変った事でもあるのかい」

「どうかして頂かないと……」

細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。

「不思議だね。それで<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>まで<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来られたものだね」

「実は<ruby><rb>毎月</rb><rt>まいげつ</rt></ruby>余らないんです」

余ろうとは健三にも思えなかった。先月<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>に<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>もあった。

「しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつかつ</span>位には行きそうなものだがな」

「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」

細君はいい<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>そうに、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽匣</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を話した。

彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい印象を刻み付けた。こうした<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>が今の彼を<ruby><rb>特更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>びしく思わせた。

「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」

彼自身いまだ質屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>するはずがないと考えた。

「いいえ頼んだんです」

「誰に」

「山野のうちの<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」

健三はその先を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。夫が碌な着物一枚さえ<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてやらないのに、細君が自分の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>から持ってきたものを質に入れて、家計の<ruby><rb>足</rb><rt>たし</rt></ruby>にしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。

## 二十一

健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。

彼は自分の新たに受取ったものを洋服の<ruby><rb>内隠袋</rb><rt>うちかくし</rt></ruby>から出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の<ruby><rb>出所</rb><rt>でどころ</rt></ruby>を知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。

その時細君は別に<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。

細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。

「あなたの着物を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えようと思うんですが、これはどうでしょう」

細君の顔は<ruby><rb>晴々</rb><rt>はればれ</rt></ruby>しく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>な技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>に誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で、彼は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>不愉快になった。

細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている温かい情愛を<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>き止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」

「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」

「御前はしょっちゅうしているじゃないか」

細君は恨めしそうに健三を見た。健三の<ruby><rb>論理</rb><rt>ロジック</rt></ruby>はまるで細君に通じなかった。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>を観察して下さらないのでしょう」

健三の心には細君の言葉に耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたぶ</rt></ruby>ける余裕がなかった。彼は自分に不自然な<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。

「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」

二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。

健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>った。無意味に暇を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かし<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せる、またし<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せなければならないと考える男であった。

彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。

或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って、細君に<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けられながら洋服を和服に改めた。

## 二十二

彼が<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、<ruby><rb>烟草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を一本吹かしていると、間もなく<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>が彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。

「<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったのかい」

細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>った。

「あの人ですか。――でも御留守でしたから」

細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>る事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。

「上げなかったのかい」

「ええ。ただ玄関でちょっと」

「何とかいっていたかい」

「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから<ruby><rb>御不沙汰</rb><rt>ごぶさた</rt></ruby>をして済みませんって」

済みませんという言葉が一種の<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>のように健三の耳に響いた。

「旅行なんぞするのかな、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>に用のある<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>とも思えないが。御前にその行った先を話したかい」

「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの<ruby><rb>御縫</rb><rt>おぬい</rt></ruby>さんて人の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>なんでしょう」

御縫さんの<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いた<ruby><rb>柴野</rb><rt>しばの</rt></ruby>という男には健三もその昔会った<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>があった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺の<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>都会であった。

「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」

健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を置いたあとでこんな<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>を掛けた。

「<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知ってるね」

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんから伺いましたよ」

健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、<ruby><rb>眼鼻立</rb><rt>めはなだち</rt></ruby>からいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い女で、顔は<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>の色白という出来であった。ことに美くしいのは<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の多い<ruby><rb>切長</rb><rt>きれなが</rt></ruby>のその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った記憶を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の<ruby><rb>猫板</rb><rt>ねこいた</rt></ruby>の上にある<ruby><rb>洋盃</rb><rt>コップ</rt></ruby>から<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひやざけ</rt></ruby>をぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でつけていた。彼はまた自分の分として取り<ruby><rb>配</rb><rt>わ</rt></ruby>けられた<ruby><rb>握</rb><rt>にぎ</rt></ruby>り<ruby><rb>鮨</rb><rt>すし</rt></ruby>をしきりに皿の中から<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>んで食べた。……

「御縫さんて人はよっぽど<ruby><rb>容色</rb><rt>きりょう</rt></ruby>が好いんですか」

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>」

「だって<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」

なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ寄ろうとした時、偶然門前の<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら<ruby><rb>出合頭</rb><rt>であいがしら</rt></ruby>の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は<ruby><rb>独乙</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは<ruby><rb>年歯</rb><rt>とし</rt></ruby>からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ<ruby><rb>好悪</rb><rt>こうお</rt></ruby>も<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たなかった。それから<ruby><rb>羞恥</rb><rt>はにかみ</rt></ruby>に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、<ruby><rb>護謨球</rb><rt>ゴムだま</rt></ruby>のように、かえって女から<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に面倒のあるなしを<ruby><rb>差措</rb><rt>さしお</rt></ruby>いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。

## 二十三

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>どうしてその御縫さんて人を<ruby><rb>御貰</rb><rt>おもら</rt></ruby>いにならなかったの」

健三は<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の上から急に眼を上げた。追憶の夢を<ruby><rb>愕</rb><rt>おど</rt></ruby>ろかされた人のように。

「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はまだ子供だったしね」

「あの人の本当の子じゃないんでしょう」

「無論さ。御縫さんは<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんの連れっ子だもの」

御藤さんというのは島田の後妻の名であった。

「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」

「どうなってるか<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らないじゃないか、なって見なければ」

「でも<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>によると、幸福かも知れませんわね。その方が」

「そうかも知れない」

健三は少し<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくなった。細君はそれぎり口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんな事を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くのだい。詰らない」

細君は<ruby><rb>窘</rb><rt>たし</rt></ruby>なめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。

「どうせ<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は始めっから御気に入らないんだから……」

健三は<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っている<ruby><rb>雲脂</rb><rt>ふけ</rt></ruby>をごしごし落し始めた。

二人はそれなり別々の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>で別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>に来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供を<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>かした後で、昼の残りの縫物を始めた。

御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。

その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。

「あなたその端書は<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>さんから来たんですよ」

健三は<ruby><rb>漸</rb><rt>よう</rt></ruby>やく書物から眼を放した。

「あの人の事で何か用事が出来たんですって」

なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びてあった。

「どうしたんでしょう」

「まるで<ruby><rb>判明</rb><rt>わか</rt></ruby>らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」

「みんなで<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に」

端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。

兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていたらしかったのである。

「健ちゃんの<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ行かれるんだけれども」

御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。

「だって御縫さんが今<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いてる先は元からの<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>なんでしょう」

「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」

「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」

「そんな事が<ruby><rb>判明</rb><rt>わか</rt></ruby>るもんか」

「じゃ<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんの方はどうなの」

「それも判明らんさ」

健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。

## 二十四

健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた<ruby><rb>津</rb><rt>つ</rt></ruby>の<ruby><rb>守坂</rb><rt>かみざか</rt></ruby>へ出掛けた。

彼は時間に対して<ruby><rb>頗</rb><rt>すこ</rt></ruby>ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。

彼は<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。

彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。

彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて考えなければならなかった。<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てが<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>の影であり<ruby><rb>凋落</rb><rt>ちょうらく</rt></ruby>の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。

姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。

「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。

「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」

比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその<ruby><rb>勤先</rb><rt>つとめさき</rt></ruby>の近所に囲っているという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>はまるで<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>のようであった。

古風な言葉で形容すれば、ただ<ruby><rb>算筆</rb><rt>さんぴつ</rt></ruby>に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いた。

「姉さんは」

「それに<ruby><rb>御夏</rb><rt>おなつ</rt></ruby>がまた例の<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>でね」

姉は比田のいう通り針箱の上に載せた<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。

「どうです」

彼女は頭を<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に上る事さえ<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた<ruby><rb>咳嗽</rb><rt>せき</rt></ruby>の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で見ていても気が<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けた。

「苦しそうだな」

彼は独り言のようにこう<ruby><rb>囁</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やいて、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた。

見馴れない四十<ruby><rb>恰好</rb><rt>がっこう</rt></ruby>の女が、姉の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から<ruby><rb>脊中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>さす</rt></ruby>っている傍に、一本の<ruby><rb>杉箸</rb><rt>すぎばし</rt></ruby>を添えた<ruby><rb>水飴</rb><rt>みずあめ</rt></ruby>の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。

「どうも<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>からね、あなた」

姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、<ruby><rb>目前</rb><rt>まのあたり</rt></ruby>この猛烈な<ruby><rb>咳嗽</rb><rt>せき</rt></ruby>と消え入るような<ruby><rb>呼息遣</rb><rt>いきづかい</rt></ruby>とを見ていると、病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。

「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はあっちへ行くから」

発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。

## 二十五

比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、<ruby><rb>自然</rb><rt>じねん</rt></ruby>と<ruby><rb>末枯</rb><rt>すが</rt></ruby>れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>のない男であった。

健三の<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、<ruby><rb>鉄縁</rb><rt>てつぶち</rt></ruby>の<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を外した。

「今ちょっと<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>が茶の間へ行っていらしった間に、<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>らないものを読み出したんです」

比田と<ruby><rb>読書</rb><rt>とくしょ</rt></ruby>――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。

「何ですか、それは」

「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」

比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『<ruby><rb>常山紀談</rb><rt>じょうざんきだん</rt></ruby>』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き込んでいるのを、まるで<ruby><rb>余所事</rb><rt>よそごと</rt></ruby>のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くこの男の性質をあらわしていた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」

彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた<ruby><rb>湯浅常山</rb><rt>ゆあさじょうざん</rt></ruby>を講釈師と間違えるほどでもなかった。

「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。<ruby><rb>曲亭馬琴</rb><rt>きょくていばきん</rt></ruby>とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『<ruby><rb>八犬伝</rb><rt>はっけんでん</rt></ruby>』も持っているんだが」

なるほど彼は<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に重ね込んでいた。

「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」

「いいえ」

「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の<ruby><rb>日本橋</rb><rt>にほんばし</rt></ruby>や<ruby><rb>桜田</rb><rt>さくらだ</rt></ruby>がすっかり分るんだからね」

彼は床の間の上にある別の本箱の中から、<ruby><rb>美濃紙</rb><rt>みのがみ</rt></ruby>版の<ruby><rb>浅黄</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>から引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り出して来て、<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>から頁へと丹念に<ruby><rb>挿絵</rb><rt>さしえ</rt></ruby>を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも<ruby><rb>駿河町</rb><rt>するがちょう</rt></ruby>という所に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いてある<ruby><rb>越後屋</rb><rt>えちごや</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>と富士山とが、彼の記憶を今代表する<ruby><rb>焼点</rb><rt>しょうてん</rt></ruby>となった。

「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>まい」

健三は心のうちでこう考えた。ただ<ruby><rb>焦燥</rb><rt>あせり</rt></ruby>に焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。

兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じて持っていた。

本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。

「もう来そうなもんですね、<ruby><rb>長</rb><rt>ちょう</rt></ruby>さんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと<ruby><rb>迎</rb><rt>むかい</rt></ruby>に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りましょうか」

この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。

## 二十六

やがて<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>を開けて、<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を脱ぐ音がした。

「やっと来たようですぜ」と<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>がいった。

しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。

「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>から」

短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。

「長さん、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から待ってるんだ」

性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>などはどうなっても構わないといった風のその調子が、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。

「今行きますよ」

<ruby><rb>長太郎</rb><rt>ちょうたろう</rt></ruby>も少し<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。

「<ruby><rb>重湯</rb><rt>おもゆ</rt></ruby>でも少し飲んだら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう。<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>？　でもそう何にも食べなくっちゃ<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が疲れるだけだから」

姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、<ruby><rb>脊中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>さす</rt></ruby>っていた女が一口ごとに適宜な<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>健三よりは親しくその<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>する兄は、<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れないこの女とも<ruby><rb>近付</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>と見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。

比田はぷりっと<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>った。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。

「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」

比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。

「何ですあの人は」

「そら<ruby><rb>梳手</rb><rt>すきて</rt></ruby>の<ruby><rb>御勢</rb><rt>おせい</rt></ruby>ですよ。昔し健ちゃんの<ruby><rb>遊</rb><rt>あす</rt></ruby>びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」

「へええ」

健三には比田の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>でそんな女に会った<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>が全くなかった。

「知りませんね」

「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るのが病なんだから」

よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。

姉はまた<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。

「何だか<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>より<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しいようですね」

少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。

「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しますがね。<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>なんざあもう年来<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで一所に住んでる事は出来ませんからね」

健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>の発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。

姉の<ruby><rb>咳嗽</rb><rt>せき</rt></ruby>が<ruby><rb>一収</rb><rt>ひとおさま</rt></ruby>り収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。

「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>珍らしく客があったもんだから」

「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」

比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。

## 二十七

三人はすぐ用談に取り掛った。<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>が最初に口を<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた。

彼はちょっとした相談事にも<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>ぶる男であった。そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんだ」と<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>なが<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で笑っていた。

「時に長さんどうしたもんだろう」

「そう」

「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃ」

「そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」

「だから私も突っ<ruby><rb>跳</rb><rt>ぱ</rt></ruby>ねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一<ruby><rb>返</rb><rt>ぺん</rt></ruby>生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから<ruby><rb>御止</rb><rt>およ</rt></ruby>しなさいって。だけど大将いくら何といっても、<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り込んで<ruby><rb>動</rb><rt>いご</rt></ruby>かないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へのんこのしゃあで<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来るのも、実はというと、やっぱり昔し<ruby><rb>○</rb><rt>れこ</rt></ruby>の関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」

「またただで貸す風でもなしね」

「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より<ruby><rb>阿漕</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>なんだから」

「来た時にそういって遣れば好いのに」

比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。ことに比田は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。健三は<ruby><rb>好加減</rb><rt>いいかげん</rt></ruby>に何とか口を出さなければならなくなった。

「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」

「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>って済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を御話しする事にしようか」

「ええどうぞ」

話しは意外にも単純であった。――ある日島田が突然比田の所へ来た。自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。比田もその要求の<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>なのに驚ろいて最初は拒絶した。しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。――ただこれだけなのである。

「少し変ですねえ」

健三にはどう考えても変としか思われなかった。

「変だよ」

兄も同じ意見を言葉にあらわした。

「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」

「<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>でやきが廻りゃしないか」

比田も兄も<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。しかしどこをどう思い出しても、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>からこんな結果が生れて<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようとは考えられなかった。

「どうしても変ですね」

彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。それから<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と気を換えてこういった。

「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」

## 二十八

健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。

「しかし一旦は<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の御耳まで入れて置かないと、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。

「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」

「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。

「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>だってその場ですぐ断っちまいまさあ」

こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。

「いえ何御礼なんぞ<ruby><rb>御仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。

彼は其所にある<ruby><rb>塩煎餅</rb><rt>しおせんべい</rt></ruby>を取ってやたらにぼりぼり<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだ。そうしてその<ruby><rb>相間</rb><rt>あいま</rt></ruby>々々には大きな<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆのみ</rt></ruby>へ茶を何杯も<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>えて飲んだ。

「相変らず<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く食べますね。今でも<ruby><rb>鰻飯</rb><rt>うなぎめし</rt></ruby>を二つ位<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るんでしょう」

「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」

比田はその頃から<ruby><rb>食気</rb><rt>くいけ</rt></ruby>の強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>められたがって、時機さえあれば始終<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて見せた。

健三は昔しこの人に連れられて<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>などに行った帰りに、能く二人して<ruby><rb>屋台店</rb><rt>やたいみせ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って、<ruby><rb>鮨</rb><rt>すし</rt></ruby>や<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>の<ruby><rb>立食</rb><rt>たちぐい</rt></ruby>をした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しかおどり</span>とかいう<ruby><rb>三味線</rb><rt>しゃみせん</rt></ruby>の手を教えたり、または<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さば</span>を読むという隠語などを習い覚えさせたりした。

「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍<ruby><rb>軽井沢</rb><rt>かるいざわ</rt></ruby>で蕎麦を食って御覧なさい、<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたと思って。汽車の<ruby><rb>停</rb><rt>とま</rt></ruby>ってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって<ruby><rb>旨</rb><rt>うも</rt></ruby>うがすぜ」

彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。

「それよか、<ruby><rb>善光寺</rb><rt>ぜんこうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>に元祖<ruby><rb>藤八拳</rb><rt>とうはちけん</rt></ruby>指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」

「<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って一つ遣って来やしないか」

「だって<ruby><rb>束修</rb><rt>そくしゅう</rt></ruby>が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るんだからね、君」

こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。

「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。<ruby><rb>彼所</rb><rt>あすこ</rt></ruby>に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんちらでんき</span>皿<ruby><rb>持</rb><rt>も</rt></ruby>てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていた姉が、また<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き出した時、彼は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えて、黒い顔をごしごし<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>った。

兄と健三はちょっと茶の間の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた後で、別々に比田の家を出た。

## 二十九

健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。

彼の頭には<ruby><rb>願仁坊主</rb><rt>がんにんぼうず</rt></ruby>に似た比田の<ruby><rb>毬栗頭</rb><rt>いがぐりあたま</rt></ruby>が浮いたり沈んだりした。猫のように<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>の詰った姉の息苦しく<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいる姿が薄暗く見えた。血の気の<ruby><rb>竭</rb><rt>つ</rt></ruby>きかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>んだりした。

昔しこの世界に人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>らしさとを<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>す混合物であった。

彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>らした。

或日彼はその青年の一人に誘われて、<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>を散歩した帰りに、<ruby><rb>広小路</rb><rt>ひろこうじ</rt></ruby>から<ruby><rb>切通</rb><rt>きりどお</rt></ruby>しへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた<ruby><rb>見番</rb><rt>けんばん</rt></ruby>の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。

彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年<ruby><rb>余</rb><rt>あまり</rt></ruby>も<ruby><rb>牢屋</rb><rt>ろうや</rt></ruby>の中で暗い月日を送った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。

「さぞ<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>いだろう」

<ruby><rb>容色</rb><rt>きりょう</rt></ruby>を生命とする女の身になったら、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど堪えられない<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しみが<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない<ruby><rb>伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>の青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。

「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」

彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。

「しかし<ruby><rb>他事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>じゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>で暮したのだから」

青年は驚ろいた顔をした。

「牢獄とは何です」

「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」

青年は答えなかった。

「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」

健三の調子は半ば弁解的であった。半ば<ruby><rb>自嘲的</rb><rt>じちょうてき</rt></ruby>であった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>へ進んで行くのが、この時の彼には<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>さないように見えた。

「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」

「そんな事はありません」

彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。

## 三十

<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰ると細君は奥の六畳に<ruby><rb>手枕</rb><rt>てまくら</rt></ruby>をしたなり<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていた。健三はその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に散らばっている赤い<ruby><rb>片端</rb><rt>きれはし</rt></ruby>だの<ruby><rb>物指</rb><rt>ものさし</rt></ruby>だの針箱だのを見て、またかという顔をした。

細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを<ruby><rb>貪</rb><rt>むさ</rt></ruby>ぼらないと、頭が<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れたようになって、その日一日何事をしても<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。

「<ruby><rb>不貞寐</rb><rt>ふてね</rt></ruby>をするんだ」

彼は自分の小言が、<ruby><rb>歇私的里性</rb><rt>ヒステリーしょう</rt></ruby>の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる<ruby><rb>面当</rb><rt>つらあて</rt></ruby>のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい<ruby><rb>囁</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きを口の内で<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らす事がよくあった。

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>夜早く寐ないんだ」

彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。

健三はこうした細君の態度を<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んだ。同時に彼女の<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>を恐れた。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。

彼は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>の上に載せられたその横顔はむしろ<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおしろ</rt></ruby>かった。彼は黙って立っていた。<ruby><rb>御住</rb><rt>おすみ</rt></ruby>という名前さえ呼ばなかった。

彼はふと眼を転じて、あらわな白い<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>の傍に放り出された<ruby><rb>一束</rb><rt>ひとたば</rt></ruby>の<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>に気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を<ruby><rb>一纏</rb><rt>ひとまとめ</rt></ruby>に<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ったものとも見えなかった。<ruby><rb>惣体</rb><rt>そうたい</rt></ruby>が茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん<ruby><rb>撚</rb><rt>より</rt></ruby>で丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。

彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い細君の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の上に注いだ。彼女の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>は滑り落ちるようにこけていた。

「まあ<ruby><rb>御痩</rb><rt>おや</rt></ruby>せなすった事」

久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だかこの細君を痩せさせた<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての源因が自分一人にあるような心持がした。

彼は書斎に入った。

三十分も経ったと思う頃、<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>を開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがて<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け込むように奥へ入った。其所ではまた細君が<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いといって、彼らを<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>る声がした。

それからしばらくして細君は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。

「先ほど御留守に<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんがいらっしゃいましてね」

健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。

「もう帰ったのかい」

「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって<ruby><rb>御上</rb><rt>おあが</rt></ruby>りになりませんでした」

「そうか」

「何でも<ruby><rb>谷中</rb><rt>やなか</rt></ruby>に御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」

「何の用なのかね」

「やっぱりあの人の事なんだそうです」

兄は島田の事で来たのであった。

## 三十一

細君は手に持った<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>の束を健三の前に出した。

「これを<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>に上げてくれと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃいました」

健三は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔をしてそれを受取った。

「何だい」

「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽匣</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の中にしまって置いたのを、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>出して持って来たって<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいました」

「そんな書類があったのかしら」

彼は細君から受取った<ruby><rb>一括</rb><rt>ひとくく</rt></ruby>りの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二<ruby><rb>寸</rb><rt>すん</rt></ruby>もあったが、風の通らない<ruby><rb>湿気</rb><rt>しっけ</rt></ruby>た所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざら<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて見た。けれども今更<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げたかんじん<ruby><rb>撚</rb><rt>より</rt></ruby>の結び目を<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>いて、一々中を<ruby><rb>検</rb><rt>あら</rt></ruby>ためる気も起らなかった。

「開けて見たって何が出て来るものか」

彼の心はこの一句でよく代表されていた。

「御父さまが<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>のためにちゃんと<ruby><rb>一纏</rb><rt>ひとまと</rt></ruby>めにして取って<ruby><rb>御置</rb><rt>おおき</rt></ruby>になったんですって」

「そうか」

健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。

「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」

「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のいなくなった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんに御渡になったんだそうですよ」

「そうかね、己は知らない」

健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の<ruby><rb>死目</rb><rt>しにめ</rt></ruby>にさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。

彼は<ruby><rb>漸</rb><rt>よう</rt></ruby>やく書類の結目を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。手続き書と書いたものや、<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>替</rb><rt>かわ</rt></ruby>せ一札の事と書いたものや、明治二十一年<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>一月<ruby><rb>約定金請取</rb><rt>やくじょうきんうけとり</rt></ruby>の証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。その帳面のしまいには、右本日<ruby><rb>受取</rb><rt>うけとり</rt></ruby>右月賦金は<ruby><rb>皆済相成候事</rb><rt>かいざいあいなりそうろうこと</rt></ruby>と島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してあった。

「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」

「あの人にですか」

細君はその帳面を逆さまに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んでいた。

「<ruby><rb>〆</rb><rt>しめ</rt></ruby>ていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」

書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。

「小学校の卒業証書まで入れてある」

その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。

「何ですかそれは」

「何だか己も忘れてしまった」

「よっぽど古いものね」

証書のうちには賞状も二、三枚<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り竜と<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>り竜で丸い<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。

「書物も<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った事があるんだがな」

彼は『<ruby><rb>勧善訓蒙</rb><rt>かんぜんくんもう</rt></ruby>』だの『<ruby><rb>輿地誌略</rb><rt>よちしりゃく</rt></ruby>』だのを抱いて喜びの余り飛んで<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った昔を思い出した。<ruby><rb>御褒美</rb><rt>ごほうび</rt></ruby>をもらう前の晩夢に見た<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>と違って今の健三には甚だ近く見えた。

## 三十二

細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>剥繰</rb><rt>はぐ</rt></ruby>って見た。

「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」

「あったんだね」

健三はそのまま<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>に手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。

「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ<ruby><rb>判明</rb><rt>わか</rt></ruby>らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」

健三の父と島田との<ruby><rb>懸合</rb><rt>かけあい</rt></ruby>について必要な<ruby><rb>下書</rb><rt>したがき</rt></ruby>らしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>した。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」

「そんな話は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>も聞いてはいるが」

「<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>に書いてありますよ。――同人幼少にて<ruby><rb>勤向</rb><rt>つとめむき</rt></ruby>相成りがたく<ruby><rb>当方</rb><rt>とうかた</rt></ruby>へ引き取り五カ年間養育致<ruby><rb>候縁合</rb><rt>そろえんあい</rt></ruby>を以てと」

細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が<ruby><rb>町奉行</rb><rt>まちぶぎょう</rt></ruby>か何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>した。その父から、将軍の<ruby><rb>鷹狩</rb><rt>たかがり</rt></ruby>に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>しなかった。

「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>られたのね。此所にそう書いてありますよ」

健三は因果な自分を自分で<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れんだ。平気な細君はその続きを読み出した。

「右健三三歳のみぎり養子に<ruby><rb>差遣</rb><rt>さしつかわ</rt></ruby>し<ruby><rb>置候処</rb><rt>おきそろところ</rt></ruby><ruby><rb>平吉儀妻</rb><rt>へいきちぎさい</rt></ruby><ruby><rb>常</rb><rt>つね</rt></ruby>と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで十四カ年間養育致し、――あとは<ruby><rb>真赤</rb><rt>まっか</rt></ruby>でごちゃごちゃして読めないわね」

細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。

「何が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいんだ」

「だって」

細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく<ruby><rb>割註</rb><rt>わりちゅう</rt></ruby>のように朱で書いた所を抑えた。

「ちょっと<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>を読んで御覧なさい」

健三は八の字を寄せながら、その一行を<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしそうに読み下した。

「取扱い所勤務中<ruby><rb>遠山藤</rb><rt>とおやまふじ</rt></ruby>と申す<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>へ通じ合い<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>が事の起り。――何だ下らない」

「しかし本当なんでしょう」

「本当は本当さ」

「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ御帰りになった訳ね」

「しかし籍を返さないんだ」

「あの人が？」

細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>った。

書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の<ruby><rb>印形</rb><rt>いんぎょう</rt></ruby>を<ruby><rb>濫用</rb><rt>らんよう</rt></ruby>して金を借り散らした例などが挙げてあった。

いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し<ruby><rb>被下</rb><rt>くだされ</rt></ruby>、残金――円は<ruby><rb>毎月</rb><rt>まいげつ</rt></ruby>三十日限り月賦にて<ruby><rb>御差入</rb><rt>おさしいれ</rt></ruby>のつもり御対談<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>と長たらしく書いてあった。

「<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>て<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な文句ばかりだね」

「親類取扱人<ruby><rb>比田寅八</rb><rt>ひだとらはち</rt></ruby>って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」

健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。

## 三十三

葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。

「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」

健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>して調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間を<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。

彼は兄の置いて行った書類をまた<ruby><rb>一纏</rb><rt>ひとまと</rt></ruby>めにして、元のかんじん<ruby><rb>撚</rb><rt>より</rt></ruby>で<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。

「あんまり古くなって、弱ったのね」

「まさか」

「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>」

「そういえばそうかも知れない。何しろ<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>に投げ込んだなり、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで放って置いたんだから。しかし兄貴も<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」

細君は健三の顔を見て笑い出した。

「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」

「だがさ。<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>紙屑籠</rb><rt>かみくずかご</rt></ruby>の中へ入れてしまわなかったという事さ」

細君は赤と白で撚った細い糸を<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の抽斗から出して来て、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に置かれた書類を新らしく<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げた上、それを夫に渡した。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の方にゃしまって置く所がないよ」

彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には<ruby><rb>文殻</rb><rt>ふみがら</rt></ruby>とノートがぎっしり詰っていた。<ruby><rb>空地</rb><rt>くうち</rt></ruby>のあるのは<ruby><rb>夜具</rb><rt>やぐ</rt></ruby><ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のしまってある一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。

「<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」

「あの事でかい」

「それもそうですけれども、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>御葬式にいらっしゃる時に、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るから借してくれって、<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>で<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っていますわ」

健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄から<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったべろべろの<ruby><rb>薄羽織</rb><rt>うすばおり</rt></ruby>を着て友達と一所に<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>で写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>が健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>だろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しそうに眺めた。その羽織は古い<ruby><rb>絽</rb><rt>ろ</rt></ruby>の紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>に招かれて<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>が<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>の<ruby><rb>茶寮</rb><rt>さりょう</rt></ruby>に行った時も、着るものがないので、袴羽織とも<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>て兄のを借りて間に合せた事もあった。

彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。<ruby><rb>今昔</rb><rt>こんじゃく</rt></ruby>の感――そういう<ruby><rb>在来</rb><rt>ありきたり</rt></ruby>の言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いた。

「袴位ありそうなものだがね」

「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」

「困るなあ」

「どうせ<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>にあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう。毎日使うものじゃなし」

「宅にある間はそれで好いがね」

細君は夫に<ruby><rb>内所</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。

昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。それが彼には辛かった。自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさら<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なかった。

## 三十四

健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にある<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>大きな局へ勤めていた。その<ruby><rb>宏壮</rb><rt>こうそう</rt></ruby>な建物のなかに永い間<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。

「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」

その建物のなかには何百という人間が日となく<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>となく<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。

「ああ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だ」

活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。<ruby><rb>年歯</rb><rt>とし</rt></ruby>より早く老けた。年歯より早く<ruby><rb>干乾</rb><rt>ひから</rt></ruby>びた。そうして<ruby><rb>色沢</rb><rt>いろつや</rt></ruby>の悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。

「何しろ夜<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ないんだから、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に障ってね」

彼はよく<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いて<ruby><rb>咳嗽</rb><rt>せき</rt></ruby>をした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。

実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>の朝彼はぼんやりして自分の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。

それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。

「<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>は少し<ruby><rb>危険</rb><rt>あぶな</rt></ruby>いようだから、誰かに頼んでくれないか」

改革とか整理とかいう<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>のあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその<ruby><rb>都度</rb><rt>つど</rt></ruby>誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突いて考えさせられるばかりであった。

彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に<ruby><rb>消耗</rb><rt>しょうこう</rt></ruby>して行くより外には何の事実も認められなかった。

「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」

健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の<ruby><rb>派出好</rb><rt>はでずき</rt></ruby>で勉強<ruby><rb>嫌</rb><rt>ぎらい</rt></ruby>であった昔も眼の前に見えるようであった。<ruby><rb>三味線</rb><rt>しゃみせん</rt></ruby>を<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたり、<ruby><rb>一絃琴</rb><rt>いちげんきん</rt></ruby>を習ったり、<ruby><rb>白玉</rb><rt>しらたま</rt></ruby>を丸めて<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の中へ放り込んだり、寒天を煮て<ruby><rb>切溜</rb><rt>きりだめ</rt></ruby>で冷したり、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。

「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」

これが今の彼の折々<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>す述懐になる位彼は怠け者であった。

兄弟が死に絶えた<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、自然健三の生家の跡を<ruby><rb>襲</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金を<ruby><rb>済</rb><rt>な</rt></ruby>して、自分は小さな<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。それから<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に納まり切らない道具類を売払った。

間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がっていた<ruby><rb>惣領</rb><rt>そうりょう</rt></ruby>の娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>ったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなし<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>る凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>った後で彼女が遂に<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れた時、彼の家の<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>はまるで空になっていた。儀式に<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>は無論、ちょっとした紋付の<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>さえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、それを大事に着て毎日局へ出勤した。

## 三十五

二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を返しに来た。

「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」

彼は腰板の上に双方の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>を折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の<ruby><rb>見栄坊</rb><rt>みえぼう</rt></ruby>で、ちょっとした包物を持つのも<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り<ruby><rb>膏気</rb><rt>あぶらっけ</rt></ruby>もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで、それを<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に折った。

「こりゃ好い袴だね。近頃<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたの」

「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」

細君は結婚のときこの袴を着けて<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>らしく<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った夫の姿を思いだした。遠い所で<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby>簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。

「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも<ruby><rb>敗</rb><rt>いた</rt></ruby>んでいないじゃないか」

「滅多に<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かないんですもの。それでも一人でいるうちに<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>今でも不思議だと思いますわ」

「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」

二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。

東京からわざわざ彼女を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来た細君の父は、娘に<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>を着せながら、自分は一通りの礼装さえ<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えていなかった。セルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着流しのままでしまいには<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>さえ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いた。<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うという約束があったので、<ruby><rb>媒酌人</rb><rt>なこうど</rt></ruby>もその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた<ruby><rb>注意書</rb><rt>ちゅういしょ</rt></ruby>のようなものを読んで見た。それは立派な紙に<ruby><rb>楷書</rb><rt>かいしょ</rt></ruby>で<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>められた<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしいものには違なかったが、中には『<ruby><rb>東鑑</rb><rt>あずまかがみ</rt></ruby>』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。

「<ruby><rb>雌蝶</rb><rt>めちょう</rt></ruby>も<ruby><rb>雄蝶</rb><rt>おちょう</rt></ruby>もあったもんじゃないのよ<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>。だいち<ruby><rb>御盃</rb><rt>おさかずき</rt></ruby>の縁が欠けているんですもの」

「それで三々九度を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったのかね」

「ええ。だから<ruby><rb>夫婦中</rb><rt>ふうふなか</rt></ruby>がこんなにがたぴしするんでしょう」

兄は苦笑した。

「健三もなかなかの<ruby><rb>気六</rb><rt>きむ</rt></ruby>ずかしやだから、<ruby><rb>御住</rb><rt>おすみ</rt></ruby>さんも骨が折れるだろう」

細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えなかった。

「もう帰りそうなものですがね」

「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」

兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>から出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。

「これが<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るんでしょう」

「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」

「ええ見せました」

「何といってたかね」

細君は何とも答えようがなかった。

「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」

「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」

細君は夫から頼まれてその<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。

## 三十六

彼が<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と<ruby><rb>撚</rb><rt>よ</rt></ruby>り合せた細い糸で<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>られた例の書類は兄の膝の上にあった。

「<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだっ</rt></ruby>ては」

兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。

「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」

「そうですか」

この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。

「<ruby><rb>御由</rb><rt>およし</rt></ruby>の送籍願が這入ってるんだよ」

御由というのは兄の<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>の名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>から出て<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようとは、二人とも思いがけなかった。

兄は最初の<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>を離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなく<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く出歩いた。病症が<ruby><rb>悪阻</rb><rt>つわり</rt></ruby>だから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、<ruby><rb>容体</rb><rt>ようだい</rt></ruby>が険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らない<ruby><rb>妻</rb><rt>つま</rt></ruby>に対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。

三度目の<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>を迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>の相談もしなかった。それがため<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない<ruby><rb>義姉</rb><rt>あね</rt></ruby>の方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。

「なんて<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けない人だろう」

陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって<ruby><rb>頑固</rb><rt>かたくな</rt></ruby>にした。<ruby><rb>習俗</rb><rt>コンヴェンション</rt></ruby>を重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる<ruby><rb>弊</rb><rt>へい</rt></ruby>があった。彼は<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>の眼をもって当時の自分を回顧した。

「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」

兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。

「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」

「もう古い事さ」

兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>って、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>していなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。

「<ruby><rb>御幾年</rb><rt>おいくつ</rt></ruby>でしたかね」と細君が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「御由ですか。御由は<ruby><rb>御住</rb><rt>おすみ</rt></ruby>さんと一つ違ですよ」

「まだ御若いのね」

兄はそれには何とも答えずに、先刻から<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置いた書類の帯を急に解き始めた。

「まだこんなものが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」

彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは<ruby><rb>喜代子</rb><rt>きよこ</rt></ruby>という彼の長女の出産届の下書であった。「<ruby><rb>右者</rb><rt>みぎは</rt></ruby><ruby><rb>本月</rb><rt>ほんげつ</rt></ruby>二十三日午前十一時五十分<ruby><rb>出生</rb><rt>しゅっしょう</rt></ruby>致し<ruby><rb>候</rb><rt>そろ</rt></ruby>」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が<ruby><rb>筋違</rb><rt>すじかい</rt></ruby>に入っていた。

「これも<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんの<ruby><rb>手蹟</rb><rt>て</rt></ruby>だ。ねえ」

彼はその一枚の<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。

「御覧、虫が食ってるよ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」

結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。

## 三十七

兄は過去の人であった。<ruby><rb>華美</rb><rt>はなやか</rt></ruby>な前途はもう彼の前に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていなかった。何かに付けて<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振り返りがちな彼と<ruby><rb>対坐</rb><rt>たいざ</rt></ruby>している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。

「<ruby><rb>淋</rb><rt>さむ</rt></ruby>しいな」

健三は兄の<ruby><rb>道伴</rb><rt>みちづれ</rt></ruby>になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに<ruby><rb>淋</rb><rt>さむ</rt></ruby>しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。

兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。

「何しろ<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>からそういって来たんだから<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>だろう」

その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったとも、健三には<ruby><rb>判明</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。

「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>はつい聴いて来るのを忘れたよ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もあの<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>一<ruby><rb>返</rb><rt>ぺん</rt></ruby>姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」

健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>であった。ただ<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から頭を下げて頼まれるのが<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。

「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」

兄は<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で<ruby><rb>懸合事</rb><rt>かけあいごと</rt></ruby>などに出掛ける人ではなかった。少し気を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>辛防</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>して独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくもない代りに何となく気の毒に見えた。

「自分も兄弟だから<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から見たらどこか似ているのかも知れない」

こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。

「姉さんはもう<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんですか」

問題を変えた彼は、姉の病気について経過を<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「ああ。どうも<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>ってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいても<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby><ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るんだから」

「もう話が出来ますか」

「出来るどころか、なかなか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は<ruby><rb>御縫</rb><rt>おぬい</rt></ruby>さんの所へ行って、<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>を付けられて来たんだろうっていうんだがね」

「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」

「そう」

兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。

「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」

健三はまだ黙っていた。

「何しろ<ruby><rb>淋</rb><rt>さむ</rt></ruby>しいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>で淋しいんだ」

兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ<ruby><rb>手宛</rb><rt>てあて</rt></ruby>が届く事をどうしてか知っていた。

「何でも<ruby><rb>金鵄勲章</rb><rt>きんしくんしょう</rt></ruby>の年金か何かを<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんが<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>しろあの位<ruby><rb>慾張</rb><rt>よくば</rt></ruby>ってるんだから」

健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。

## 三十八

事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。

彼はその間に時々<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの追憶を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>るべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。

彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に切り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てられべきはずの過去が、かえって自分を<ruby><rb>追掛</rb><rt>おっか</rt></ruby>けて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ歩きがちであった。

そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた<ruby><rb>真四角</rb><rt>まっしかく</rt></ruby>であった。

不思議な事に、その広い<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>には人が誰も住んでいなかった。それを<ruby><rb>淋</rb><rt>さみ</rt></ruby>しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。

彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け廻った。

彼は時々<ruby><rb>表二階</rb><rt>おもてにかい</rt></ruby>へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って、細い<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、<ruby><rb>腹掛</rb><rt>はらがけ</rt></ruby>を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を隔てた真ん向うには大きな<ruby><rb>唐金</rb><rt>からかね</rt></ruby>の仏様があった。その仏様は<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて<ruby><rb>蓮台</rb><rt>れんだい</rt></ruby>の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた。太い<ruby><rb>錫杖</rb><rt>しゃくじょう</rt></ruby>を担いでいた、それから頭に<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた。

健三は時々薄暗い<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へ下りて、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>からすぐ<ruby><rb>向側</rb><rt>むこうがわ</rt></ruby>の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った。着物の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>へ足を掛けたり、錫杖の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>へ<ruby><rb>捉</rb><rt>つら</rt></ruby>まったりして、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。

彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を二十間も折れ曲って<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った突き当りにあった。その奥は一面の<ruby><rb>高藪</rb><rt>たかやぶ</rt></ruby>で<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われていた。

この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>があった。石と石の<ruby><rb>罅隙</rb><rt>すきま</rt></ruby>からは青草が風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は<ruby><rb>草履穿</rb><rt>ぞうりばき</rt></ruby>のままで、何度かその高い石段を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったり<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>ったりした。

坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>が<ruby><rb>蒼黒</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった<ruby><rb>窪地</rb><rt>くぼち</rt></ruby>の左側に、また一軒の<ruby><rb>萱葺</rb><rt>かやぶき</rt></ruby>があった。家は表から<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には<ruby><rb>掛茶屋</rb><rt>かけぢゃや</rt></ruby>のような雑な<ruby><rb>構</rb><rt>かまえ</rt></ruby>が<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えられて、常には二、三脚の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>さえ<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よく据えてあった。

<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された<ruby><rb>両端</rb><rt>りょうはじ</rt></ruby>を支える二本の<ruby><rb>棚柱</rb><rt>たなばしら</rt></ruby>は池の中に埋まっていた。<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>には<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>が多かった。中には<ruby><rb>緋鯉</rb><rt>ひごい</rt></ruby>の影があちこちと動いた。濁った水の底を<ruby><rb>幻影</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>のように赤くするその<ruby><rb>魚</rb><rt>うお</rt></ruby>を健三は是非捕りたいと思った。

或日彼は誰も宅にいない時を<ruby><rb>見計</rb><rt>みはから</rt></ruby>って、不細工な<ruby><rb>布袋竹</rb><rt>ほていちく</rt></ruby>の先へ一枚糸を着けて、<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>を放り出した。そうして<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>静かに水面に浮いている一<ruby><rb>尺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……

「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」

彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。

## 三十九

それから舞台が急に変った。<ruby><rb>淋</rb><rt>さみ</rt></ruby>しい<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>が突然彼の記憶から消えた。

すると表に<ruby><rb>櫺子窓</rb><rt>れんじまど</rt></ruby>の付いた小さな<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>が<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>に彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。

彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。

彼は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で<ruby><rb>疱瘡</rb><rt>ほうそう</rt></ruby>をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、<ruby><rb>本疱瘡</rb><rt>ほんほうそう</rt></ruby>を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げ廻った。<ruby><rb>惣身</rb><rt>そうしん</rt></ruby>の肉を所嫌わず<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>って泣き叫んだ。

彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか<ruby><rb>薄縁</rb><rt>うすべり</rt></ruby>だかが、黄色く光って、あたりを<ruby><rb>伽藍堂</rb><rt>がらんどう</rt></ruby>の如く<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして<ruby><rb>油揚</rb><rt>あぶらげ</rt></ruby>の胴を<ruby><rb>干瓢</rb><rt>かんぴょう</rt></ruby>で<ruby><rb>結</rb><rt>いわ</rt></ruby>えた<ruby><rb>稲荷鮨</rb><rt>いなりずし</rt></ruby>の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>に似たものを、上から下へ落した。彼は<ruby><rb>勾欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>につらまって何度も下を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。<ruby><rb>伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>の大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れた。するとその潰れた屋根の間から、<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を生やした<ruby><rb>軍人</rb><rt>いくさにん</rt></ruby>が威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかったのである。

彼の頭にはこの芝居と<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れ<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>とが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>筋違</rb><rt>すじかい</rt></ruby>に飛んで行った時、誰だか彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるものが、「<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>でぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には<ruby><rb>不分明</rb><rt>ふぶんみょう</rt></ruby>であった。従って彼が<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>や<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>ばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく<ruby><rb>判明</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど人というものの影が働らいていなかった。

しかし島田夫婦が彼の父母として<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に彼の意識に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったのは、それから間もない<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の事であった。

その時夫婦は変な宅にいた。<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>から右へ折れると、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>塀際</rb><rt>へいぎわ</rt></ruby>伝いに石段を三つほど<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの<ruby><rb>露地</rb><rt>ろじ</rt></ruby>で、抜けると広くて<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を<ruby><rb>白帆</rb><rt>しらほ</rt></ruby>を懸けた船が<ruby><rb>何艘</rb><rt>なんぞう</rt></ruby>となく<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったり来たりした。<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>には<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>を<ruby><rb>結</rb><rt>い</rt></ruby>った中へ<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>が一杯積んであった。柵と柵の間にある<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>は、だらだら<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りに水際まで続いた。石垣の隙間からは<ruby><rb>弁慶蟹</rb><rt>べんけいがに</rt></ruby>がよく<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>を出した。

島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたものか、それらは<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>て健三の知識の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わる秘密であった。

一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>の<ruby><rb>御常</rb><rt>おつね</rt></ruby>は、<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>と同居でもしているように気味を悪がった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこの西洋人は<ruby><rb>上靴</rb><rt>スリッパー</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。御常が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>の気味だとかいって<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い顔をして<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。

## 四十

西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>は既に<ruby><rb>扱所</rb><rt>あつかいじょ</rt></ruby>というものに変っていた。

扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>のように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>るのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来るものも、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く自分の<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まった。

島田はこの扱所の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>であった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の<ruby><rb>突当</rb><rt>つきあた</rt></ruby>りに設けられた。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>から直角に折れ曲って、河の見える<ruby><rb>櫺子窓</rb><rt>れんじまど</rt></ruby>の際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かにそれを彼に語り得なかった。

島田の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>と扱所とは、もとより細長い一つ<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>を仕切ったまでの事なので、彼は<ruby><rb>出勤</rb><rt>しっきん</rt></ruby>といわず<ruby><rb>退出</rb><rt>たいしつ</rt></ruby>といわず、少なからぬ便宜を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。彼には天気の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す<ruby><rb>臆劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>を省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った。

こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>の中にある<ruby><rb>朱墨</rb><rt>しゅずみ</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>ったり、小刀の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払って見たり、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>がられるような<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>を続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。

島田は<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>りんしょく</rt></ruby>な男であった。<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>の御常は島田よりもなお吝嗇であった。

「<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>に火を<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>すってえのは、あの事だね」

彼が実家に帰ってから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、こんな評が時々彼の耳に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った。しかし当時の彼は、御常が<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ坐って、<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>に<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>おつけ</rt></ruby>をよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。

「それじゃ何ぼ何でも下女が<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうだ」

彼の実家のものは苦笑した。

御常はまた<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>おはち</rt></ruby>や<ruby><rb>御菜</rb><rt>おかず</rt></ruby>の<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っている戸棚に、いつでも錠を<ruby><rb>卸</rb><rt>お</rt></ruby>ろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。

しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は<ruby><rb>黄八丈</rb><rt>きはちじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>を着せたり、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の着物を買うために、わざわざ<ruby><rb>越後屋</rb><rt>えちごや</rt></ruby>まで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を<ruby><rb>択</rb><rt>よ</rt></ruby>り分けている間に、夕暮の時間が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。

彼の望む<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>は無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、<ruby><rb>三番叟</rb><rt>さんばそう</rt></ruby>の影を映して、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>を買ってもらって、時代を着けるために、それを<ruby><rb>河岸際</rb><rt>かしぎわ</rt></ruby>の<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の中に浸けた。ところがその泥溝は<ruby><rb>薪積場</rb><rt>まきつみば</rt></ruby>の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>の穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも<ruby><rb>生捕</rb><rt>いけど</rt></ruby>りにして<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ入れた。……

要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。

## 四十一

しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。

彼らが<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の前で差向いに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り合う<ruby><rb>夜寒</rb><rt>よさむ</rt></ruby>の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。

「御前の<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>ッさんは誰だい」

健三は島田の方を向いて彼を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した。

「じゃ御前の<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんは」

健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。

これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」

健三は<ruby><rb>厭々</rb><rt>いやいや</rt></ruby>ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。

或時はこんな光景が<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は<ruby><rb>執濃</rb><rt>しつこ</rt></ruby>かった。

「御前はどこで生れたの」

こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――<ruby><rb>高藪</rb><rt>たかやぶ</rt></ruby>で<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた小さな赤い門の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>なく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>しなかった。

「<ruby><rb>健坊</rb><rt>けんぼう</rt></ruby>、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」

彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。

「御前誰が一番好きだい。御父ッさん？　御母さん？」

健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。　彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ<ruby><rb>年歯</rb><rt>としは</rt></ruby>の行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んだのである。

夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。

夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。

自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>がった。

「なんでそんなに世話を焼くのだろう」

「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>を喜んだり、<ruby><rb>錦絵</rb><rt>にしきえ</rt></ruby>を飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがらなくなった。少なくとも<ruby><rb>両</rb><rt>ふた</rt></ruby>つのものを<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に切り離して、純粋な楽みに<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りたかった。

夫婦は健三を<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>るために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも<ruby><rb>自</rb><rt>みず</rt></ruby>から知らなかった。

## 四十二

同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。

彼の<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>には<ruby><rb>日増</rb><rt>ひまし</rt></ruby>に募った。自分の好きなものが手に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り込んで動かなかった。ある時は小僧の<ruby><rb>脊中</rb><rt>せなか</rt></ruby>から彼の髪の毛を力に任せて<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>り取った。ある時は神社に放し飼の<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>をどうしても<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の<ruby><rb>寵</rb><rt>ちょう</rt></ruby>を欲しいままに専有し<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>る狭い世界の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に起きたり<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>たりする事より外に何にも知らない彼には、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。

やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。

ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りながら<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>へ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を知らなかった。

眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。

驚ろいた養父母はすぐ彼を<ruby><rb>千住</rb><rt>せんじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>名倉</rb><rt>なぐら</rt></ruby>へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は<ruby><rb>醋</rb><rt>す</rt></ruby>の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>続いたか彼は知らなかった。

「まだ立てないかい。立って御覧」

御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。

彼はしまいに立った。そうして<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがりようが、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。

彼の弱点が御常の弱点とまともに<ruby><rb>相摶</rb><rt>あいう</rt></ruby>つ事も少なくはなかった。

御常は非常に<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>く事の<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に<ruby><rb>曝露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>して<ruby><rb>自</rb><rt>みず</rt></ruby>から知らなかった。

或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った甲という女を、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で聴いていても聴きづらいほど<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めていた所だというような不必要な嘘まで<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。健三は腹を立てた。

「あんな嘘を吐いてらあ」

彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に<ruby><rb>披瀝</rb><rt>ひれき</rt></ruby>した。甲の帰ったあとで御常は大変に<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>った。

「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」

健三は御常の顔から早く火が出れば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い位に感じた。

彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がられても、それに<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるだけの<ruby><rb>情合</rb><rt>じょうあい</rt></ruby>がこっちに出て<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby><ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>していたのである。そうしてその醜くいものを一番<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った<ruby><rb>駄々</rb><rt>だだ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>に外ならなかったのである。

## 四十三

その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>変な現象が島田と御常との間に起った。

ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>ではげしく<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。

その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。

こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>が、今では<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。

幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。

やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。これに反して島田は大変な悪ものであった。しかし最も悪いのは<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんであった。「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。眼から涙を流した。しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。

「あいつは<ruby><rb>讐</rb><rt>かたき</rt></ruby>だよ。<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんにも御前にも讐だよ。骨を<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>にしても<ruby><rb>仇討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>をしなくっちゃ」

御常は歯をぎりぎり<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。

彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。その島田は以前と違って、大抵は<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>にいない事が多かった。彼の帰る時刻は何時も<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>らしかった。従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。

しかし健三は毎晩暗い<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の影で彼を見た。その険悪な眼と<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>える唇とを見た。<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から<ruby><rb>渦捲</rb><rt>うずま</rt></ruby>く<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>のように<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて出るその憤りの声を聞いた。

それでも彼は時々健三を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>んだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の<ruby><rb>御縫</rb><rt>おぬい</rt></ruby>さんとを伴れて、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな通りを散歩した帰りに<ruby><rb>汁粉屋</rb><rt>しるこや</rt></ruby>へ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らは<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。

宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かれた。それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰問を受けた。健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。彼女はいろいろな<ruby><rb>鎌</rb><rt>かま</rt></ruby>を掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。

「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば<ruby><rb>御母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」

彼女はどうしても行ったといわせようとした。同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。彼女は健三を<ruby><rb>疑</rb><rt>うたぐ</rt></ruby>った。健三は彼女を卑しんだ。

「じゃあの子に<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>ッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」

何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で留まる女ではなかった。

「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」

<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>から出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わして顧り見ない彼女は、<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>にも足りないわが養い子から、<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を尽かされて<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も気が付かずにいた。

## 四十四

間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>を向いた裏通りと<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かな表通りとの間に挟まっていた今までの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>も急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れない変な<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>の中に自分を見出だした。

その家の表には<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>に<ruby><rb>縄暖簾</rb><rt>なわのれん</rt></ruby>を下げた米屋だか<ruby><rb>味噌屋</rb><rt>みそや</rt></ruby>だかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、<ruby><rb>茹</rb><rt>う</rt></ruby>でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の<ruby><rb>影像</rb><rt>イメジ</rt></ruby>も浮かべ得なかった。「時」は<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>にこの<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>びしい<ruby><rb>記念</rb><rt>かたみ</rt></ruby>を彼のために払い去ってくれた。

御常は会う人ごとに島田の話をした。<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい口惜しいといって泣いた。

「死んで<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>ってやる」

彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける<ruby><rb>媒介</rb><rt>なかだち</rt></ruby>となるに過ぎなかった。

夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。

「これからは御前一人が<ruby><rb>依怙</rb><rt>たより</rt></ruby>だよ。<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いかい。<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりしてくれなくっちゃいけないよ」

こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。

健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>に押し出される邪気が常に働いていた。それが<ruby><rb>頑是</rb><rt>がんぜ</rt></ruby>ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしその<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の点について彼は全くの無我夢中であった。

二人の生活は<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>しか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、<ruby><rb>年歯</rb><rt>とし</rt></ruby>の行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。

「考えるとまるで<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の身の上のようだ。自分の事とは思えない」

健三の記憶に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。

「御常さんて人はその時にあの<ruby><rb>波多野</rb><rt>はたの</rt></ruby>とかいう<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へまた御嫁に行ったんでしょうか」

細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の<ruby><rb>上書</rb><rt>うわがき</rt></ruby>をまだ覚えていた。

「そうだろうよ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>も<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く知らないが」

「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」

健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。<ruby><rb>生死</rb><rt>しょうし</rt></ruby>などは無論考えの中になかった。

「警部だっていうじゃありませんか」

「何んだか知らないね」

「あら、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が自分でそう<ruby><rb>御仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ったくせに」

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>」

「あの手紙を<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に御見せになった時よ」

「そうかしら」

健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おじや</span>だけで育てた事だの、<ruby><rb>下性</rb><rt>げしょう</rt></ruby>が悪くって<ruby><rb>寐小便</rb><rt>ねしょうべん</rt></ruby>の始末に困った事だの、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てそうした<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を、飽きるほど<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく述べた中に、<ruby><rb>甲府</rb><rt>こうふ</rt></ruby>とかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変<ruby><rb>仕合</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>だと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>になると健三には全く覚がなかった。

「ことによると、もう死んだかも知れないね」

「生きているかも分りませんわ」

二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。

「あの人が不意に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」

細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。

## 四十五

健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>ごとに見透かされた。

その時彼はこの手紙を東京にいる兄の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に送った。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。

御常の手紙はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>ふっつり来なくなった。健三は安心した。しかしどこかに心持の悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しかった。

「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来られちゃ困るな」

健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、<ruby><rb>漸々</rb><rt>だんだん</rt></ruby>経済上の苦境に陥いって来たのである。

健三は時々<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ話しに来る青年と<ruby><rb>対坐</rb><rt>たいざ</rt></ruby>して、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。

或日彼はその青年の一人に向ってこういった。

「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」

青年は苦笑した。そうして答えた。

「それは<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>がた時代の事でしょう。今の青年はそれほど<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>でもありません。<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>になろうとか、<ruby><rb>何</rb><rt>なに</rt></ruby>をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く承知していますから」

なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も<ruby><rb>世知</rb><rt>せち</rt></ruby><ruby><rb>辛</rb><rt>がら</rt></ruby>くなっていた。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い違った点があった。

「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」

青年は解しがたいという顔をした。

「あなただって<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の世界はこれからだという所があるようですね」

今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。

人が<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れかかったり、または絶壁から<ruby><rb>落</rb><rt>おち</rt></ruby>ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。

「人間は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に起ったある危険のために突然<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれて、もう己は駄目だと事が<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての過去の経験が一度に意識に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>るのだというんだね。その説によると」

青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby>にわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。

## 四十六

健三の心を不愉快な過去に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込む<ruby><rb>端緒</rb><rt>いとくち</rt></ruby>になった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。

その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。

「どこまでこの影が<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に付いて回るだろう」

健三の胸は好奇心の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>に促されるよりもむしろ不安の<ruby><rb>漣漪</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>に揺れた。

「この間<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の所をちょっと訪ねて見ました」

島田の言葉遣はこの前と同じように<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>であった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。

「あの<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>も昔と違って<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>変りましたね」

健三は自分の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている人の<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>さの程度を<ruby><rb>疑</rb><rt>うたぐ</rt></ruby>った。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。

「もとはそら<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>に<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>があって、みんな夏になると<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く出掛けたものですがね」

島田は相手に<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>なくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼び<ruby><rb>捨</rb><rt>ず</rt></ruby>てにし始めた。

「<ruby><rb>御夏</rb><rt>おなつ</rt></ruby>も年を取ったね。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>ももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>って掛ったり<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>かしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ<ruby><rb>可哀想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>だからその<ruby><rb>度</rb><rt>たん</rt></ruby>びにいくらかずつ都合して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったよ」

島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>るだろうと思うように<ruby><rb>横柄</rb><rt>おうへい</rt></ruby>であった。それから手前勝手な立場からばかり見た<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ事実を<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に押し付けようとする邪気に充ちていた。

健三は次第に言葉<ruby><rb>少</rb><rt>ずく</rt></ruby>なになった。しまいには黙ったなり<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と島田の顔を見詰た。

島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>はむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>がなかった。<ruby><rb>法印</rb><rt>ほういん</rt></ruby>か何ぞのように常に<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で付けられていた。

彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦<ruby><rb>横風</rb><rt>おうふう</rt></ruby>の昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>さに立ち戻って来た。健三に対して過去の<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。

彼は<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>額も掛物も掛っていなかった。

「<ruby><rb>李鴻章</rb><rt>りこうしょう</rt></ruby>の書は好きですか」

彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>ともいい<ruby><rb>兼</rb><rt>かね</rt></ruby>た。

「好きなら上げても<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>ござんす。あれでも<ruby><rb>価値</rb><rt>ねうち</rt></ruby>にしたら今じゃよっぽどするでしょう」

昔し島田は<ruby><rb>藤田東湖</rb><rt>ふじたとうこ</rt></ruby>の偽筆に時代を着けるのだといって、<ruby><rb>白髪蒼顔万死余云々</rb><rt>はくはつそうがんばんしのようんぬん</rt></ruby>と書いた<ruby><rb>半切</rb><rt>はんせつ</rt></ruby>の<ruby><rb>唐紙</rb><rt>とうし</rt></ruby>を、台所の<ruby><rb>竈</rb><rt>へっつい</rt></ruby>の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く帰った。

## 四十七

「何しに来たんでしょう、あの人は」

<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。

「解らないね、どうも。一体<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>と<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>ほど違うんだから」

「何が」

「ああいう人と<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>などとはさ」

細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>を<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>にしたら好かろうという考えを<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、自分が主な要素として<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っている事も認めていた。

細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。

「御前はそう思わないかね」

「そりゃあの人と<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>となら魚と獣位違うでしょう」

「無論外の人と己と比較していやしない」

話はまた島田の方へ戻って来た。細君は笑いながら<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」

「己に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうかっていうんだ」

「<ruby><rb>御止</rb><rt>およ</rt></ruby>しなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」

夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた<ruby><rb>雨合羽</rb><rt>あまがっぱ</rt></ruby>の代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な心持になれようはずがなかった。

「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」

「うん何にもいわない。まるで<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>に<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>まれたようなものだ」

始めからこっちの気を引くためにわざとそんな<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>な要求を持ち出したものか、または<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な<ruby><rb>懸合</rb><rt>かけあい</rt></ruby>として、それを<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>へ持ち込んだ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。

「どっちでしょう」

「到底解らないよ、ああいう人の考えは」

島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。

彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて机の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の<ruby><rb>端緒</rb><rt>いとくち</rt></ruby>を見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然<ruby><rb>截</rb><rt>た</rt></ruby>ち切られた。彼は苦い顔をして<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の入口に手を突いた<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>の方を顧みた。

「何もそう<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>来て、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の邪魔をしなくっても好さそうなものだ」

彼は腹の中でこう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やいた。断然面会を謝絶する勇気を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たない彼は、下女を見たなり<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>黙っていた。

「御通し申しますか」

「うん」

彼は仕方なしに答えた。それから「<ruby><rb>御奥</rb><rt>おく</rt></ruby>さんは」と<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「少し御気分が悪いと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃって<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から伏せっていらっしゃいます」

細君の<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>るときは<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>の起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く立ち上った。

## 四十八

電気燈のまだ<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby>ごとに<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>されない頃だったので、客間には<ruby><rb>例</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの通り暗い<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。

その洋燈は細長い竹の台の上に<ruby><rb>油壺</rb><rt>あぶらつぼ</rt></ruby>を<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>め込むように<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたもので、<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の胴の<ruby><rb>恰形</rb><rt>かっこう</rt></ruby>に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。

健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>を出したり引っ込ましたりしながら<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>の具合を眺めていた。彼は改まった<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>もせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。

なるほど<ruby><rb>火屋</rb><rt>ほや</rt></ruby>が薄黒く<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶっていた。<ruby><rb>丸心</rb><rt>まるじん</rt></ruby>の<ruby><rb>切方</rb><rt>きりかた</rt></ruby>が<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>に行かないところを、むやみに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。

「換えさせましょう」

家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易に<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>で曇った火屋から眼を離さなかった。

「どういう加減だろう」

彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>った丸い<ruby><rb>蓋</rb><rt>かさ</rt></ruby>の隙間を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。

健三の記憶にある彼は、こんな事を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く気にするという点において、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>な男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を気にした。彼は<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>をからげて、<ruby><rb>拭</rb><rt>ふき</rt></ruby>掃除をした。<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で庭へ出て<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らざる所まで掃いたり水を打ったりした。

物が壊れると彼はきっと自分で<ruby><rb>修復</rb><rt>なお</rt></ruby>した。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わなかった。そういう事が彼の<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>にあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。

「なにそんなものは<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>で出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」

損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。

「<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>の人はあんまり正直過ぎるんで」

<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>な根底があるらしく思えた。

「<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」

健三はただ金銭上の<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んだ眼を今<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の蓋の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。

「彼はこうして老いた」

島田の一生を<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この<ruby><rb>強慾</rb><rt>ごうよく</rt></ruby>な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。

その時島田は洋燈の<ruby><rb>螺旋</rb><rt>ねじ</rt></ruby>を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い<ruby><rb>灯火</rb><rt>あかり</rt></ruby>をなおの事暗くした。

「どうもどこか調子が狂ってますね」

健三は手を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>いて下女に新しい洋燈を持って来さした。

## 四十九

その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。

しかし彼はもう<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだっ</rt></ruby>ての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。<ruby><rb>李鴻章</rb><rt>りこうしょう</rt></ruby>の李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。<ruby><rb>噫</rb><rt>おくび</rt></ruby>にさえ出す様子を見せなかった。

彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>っているとも思えなかった。

健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意が<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>っていた。彼はこの老人が或日或物を持って、今より<ruby><rb>判明</rb><rt>はっき</rt></ruby>りした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。

彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき<ruby><rb>擦硝子</rb><rt>すりガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>かさ</rt></ruby>を通して油煙に<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶった<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を眺めていた時とは全く変っていた。

「<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>があったら飛び込もう」

落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつき</rt></ruby>を与えて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたくなる場合もあった。

その時突然奥の間で細君の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>るような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。彼はすぐ耳を<ruby><rb>峙</rb><rt>そば</rt></ruby>だてた。

「誰か病気ですか」と島田が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「ええ<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>が少し」

「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」

島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。従って彼の言葉にはただ<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>があるだけであった。健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。

「近頃は時候が悪いから、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く気を付けないといけませんね」

子供は<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに<ruby><rb>寐付</rb><rt>ねつ</rt></ruby>いた<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>なので奥は<ruby><rb>寂</rb><rt>しん</rt></ruby>としていた。<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>は一番懸け離れた台所の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>の三畳にいるらしかった。こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。彼は手を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて下女を呼んだ。

「ちょっと奥へ行って奥さんの傍に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っててくれ」

「へええ」

下女は何のためだか解らないといった様子をして間の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を締めた。健三はまた島田の方を向き直った。けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。腹の中で早く帰ってくれれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。

それでも島田は容易に立たなかった。話の<ruby><rb>接穂</rb><rt>つぎほ</rt></ruby>がなくなって、手持<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>で仕方なくなった時、始めて<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>から滑り落ちた。

「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」

細君の病気については何事もいわなかった彼は、<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ下りてからまた健三の方を振り向いた。

「夜分なら大抵御暇ですか」

健三は生返事をしたなり立っていた。

「実は少し御話ししたい事があるんですが」

健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い<ruby><rb>灯影</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>から、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込もうという人の悪い<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な色か動いていた。

「じゃ御免」

最後に<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>を開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえ<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていなかった。

## 五十

健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。

「どうかしたのか」

細君は眼を開けて天井を見た。健三は<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の横からまたその眼を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>した。

<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の影に置かれた<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>は客間のよりも暗かった。細君の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>がどこに向って注がれているのか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く分らない位暗かった。

「どうかしたのか」

健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。

彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。

「もうあっちへ行っても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>には<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>がいるから」

ぼんやり蒲団の裾に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、退屈そうに健三の様子を眺めていた<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>は無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら<ruby><rb>婢</rb><rt>おんな</rt></ruby>を呼び返して<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。

細君の眼はもう天井を離れていた。しかし<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>どこを見ているとも思えなかった。黒い大きな<ruby><rb>瞳子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>には生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と<ruby><rb>直接</rb><rt>じか</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と<ruby><rb>瞳孔</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の向いた見当を眺めていた。

「おい」

健三は細君の肩を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>った。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。

「おい、己だよ。分るかい」

こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>なこの言葉のうちには、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に知れないで自分にばかり解っている<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんびん</rt></ruby>と苦痛と悲哀があった。それから<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざ</rt></ruby>まずいて天に<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>る時の誠と願もあった。

「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」

彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。<ruby><rb>感傷的</rb><rt>センチメンタル</rt></ruby>な気分に支配されやすいくせに、彼は決して<ruby><rb>外表的</rb><rt>デモンストラチーヴ</rt></ruby>になれない男であった。

細君の眼は突然<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>？」

彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。

「あの人はもう帰ったの」

「うん」

二人はしばらく黙っていた。細君はまた<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を曲げて、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている子供の方を見た。

「能く寐ているのね」

子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。

健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。

「水で頭でも冷して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうか」

「いいえ、もう<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>ござんす」

「大丈夫かい」

「ええ」

「本当に大丈夫かい」

「ええ。貴夫ももう御休みなさい」

「己はまだ寐る訳に行かないよ」

健三はもう一遍書斎へ入って静かな<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>を一人<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かさなければならなかった。

## 五十一

彼の眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。

彼は<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の講義もまた<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まらないのかしら」

こう思うと彼は自分の努力が急に<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>されて起る、「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の頭は悪くない」という自信も<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼれ</rt></ruby>も<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを<ruby><rb>攪</rb><rt>か</rt></ruby>き乱す自分の周囲についての不平も<ruby><rb>常時</rb><rt>ふだん</rt></ruby>よりは高まって来た。

彼はしまいに投げるように<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を放り出した。

「もうやめだ。どうでも構わない」

時計はもう一時過ぎていた。<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>を消して<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>を縁側伝いに廊下へ出ると、<ruby><rb>突当</rb><rt>つきあた</rt></ruby>りの奥の間の障子二枚だけが<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。

子供は犬ころのように<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていた。細君も静かに眼を閉じて<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむけ</rt></ruby>に眠っていた。

音のしないように気を付けてその<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った彼は、心持<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を延ばして、細君の顔を上から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。それからそっと手を彼女の<ruby><rb>寐顔</rb><rt>ねがお</rt></ruby>の上に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>した。彼女は口を閉じていた。彼の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>には細君の鼻の穴から出る生暖かい<ruby><rb>呼息</rb><rt>いき</rt></ruby>が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。

彼は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて起った。けれども彼は<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り起そうとしたが、それもやめた。

「大丈夫だろう」

彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。

細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>している奥を見るために、彼は<ruby><rb>正体</rb><rt>たわい</rt></ruby>なく寐入った細君を、わざわざ<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。

やがて彼は<ruby><rb>寐衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>を着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。

<ruby><rb>翌朝</rb><rt>あくるあさ</rt></ruby>彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>もう時間ですよ」

まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った<ruby><rb>袂時計</rb><rt>たもとどけい</rt></ruby>を眺めていた。<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>が<ruby><rb>俎板</rb><rt>まないた</rt></ruby>の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。

「<ruby><rb>婢</rb><rt>おんな</rt></ruby>はもう起きてるのか」

「ええ。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>起しに行ったんです」

細君は下女を起して置いてまた床の中に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。

<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。

## 五十二

二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も<ruby><rb>省察</rb><rt>せいさつ</rt></ruby>も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている事を<ruby><rb>冥々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。

健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から<ruby><rb>迎</rb><rt>むかい</rt></ruby>が来るような心持になった。彼は広い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の片隅にいて真ん向うの<ruby><rb>突当</rb><rt>つきあた</rt></ruby>りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の<ruby><rb>鉢金</rb><rt>はちがね</rt></ruby>を伏せたような高い丸天井を眺めた。<ruby><rb>仮漆</rb><rt>ヴァーニッシ</rt></ruby>で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。

これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>られる恐れを<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かなかった。彼はこの老人を<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>で<ruby><rb>強慾</rb><rt>ごうよく</rt></ruby>な男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>ってもいた。ただ<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ会談に惜い時間を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。

「何をいって来る気かしら、この次は」

襲われる事を予期して、<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>にそれを苦にするような健三の<ruby><rb>口振</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>が、細君の言葉を促がした。

「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」

健三は心の裡で細君のいう事を<ruby><rb>肯</rb><rt>うけ</rt></ruby>がった。しかし口ではかえって反対な返事をした。

「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」

「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども<ruby><rb>面倒臭</rb><rt>めんどくさ</rt></ruby>いにゃ違いないでしょう、いくら<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>だって」

「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」

多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。

島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>があったら飛び込もうとして、この間から<ruby><rb>覘</rb><rt>ねらい</rt></ruby>を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>なく、ついに健三に<ruby><rb>肉薄</rb><rt>にくはく</rt></ruby>し始めた。

「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>なんだから、是非一つ」

老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>め付けるほど強くも現われていなかった。

健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を<ruby><rb>司</rb><rt>つかさ</rt></ruby>どっていない彼の<ruby><rb>財嚢</rb><rt>ざいのう</rt></ruby>は無論軽かった。空のまま<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を<ruby><rb>攫</rb><rt>つか</rt></ruby>み出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。

「どうせ<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ<ruby><rb>悉皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>上げたんですよ」

健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った事を一口もいわなかった。

## 五十三

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>例刻に帰った健三は、机の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、大事らしく何時もの所に置かれた<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>の紙入に眼を付けた。革で<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>の最も<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな町で買ったのである。

外国から持って帰った記念が、何の興味も<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。

その内何かで金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。

「おい少し金を入れてくれ」

細君は右の手で<ruby><rb>物指</rb><rt>ものさし</rt></ruby>を持ったまま夫の顔を下から見上げた。

「<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってるはずですよ」

彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られたことも全く夫婦間の話題に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>っていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。

「あれはもう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っちゃったんだ。紙入は<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから空っぽうになっているんだよ」

細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。

「ちょっと拝見」

健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中を<ruby><rb>検</rb><rt>あら</rt></ruby>ためた。中からは四、五枚の<ruby><rb>紙幣</rb><rt>さつ</rt></ruby>が出た。

「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」

彼女は<ruby><rb>手垢</rb><rt>てあか</rt></ruby>の付いた<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな笑に伴なった。

「何時入れたのか」

「あの人の帰った後でです」

健三は細君の心遣を<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が<ruby><rb>内所</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で島田に金を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られたのを気の毒とでも思ったものかしら」

彼はこう考えた。しかし口へ出してその<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を彼女に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>して見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れを説明する面倒を<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てしなかった。彼女の<ruby><rb>填補</rb><rt>てんぽ</rt></ruby>した金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。

その内細君の<ruby><rb>御腹</rb><rt>おなか</rt></ruby>が段々大きくなって来た。<ruby><rb>起居</rb><rt>たちい</rt></ruby>に重苦しそうな<ruby><rb>呼息</rb><rt>いき</rt></ruby>をし始めた。気分も<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く変化した。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby><ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>はことによると助からないかも知れませんよ」

彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だい」

「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」

質問も説明もこれ以上には<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。<ruby><rb>鈴</rb><rt>りん</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が鼓膜の及ばない<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな世界に潜り込むように。

彼女は<ruby><rb>悪阻</rb><rt>つわり</rt></ruby>で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養<ruby><rb>灌腸</rb><rt>かんちょう</rt></ruby>をするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。

「女は詰らないものね」

「それが女の義務なんだから仕方がない」

健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>に過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。

## 五十四

健三の気分にも<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、不快そうに<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている彼女の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと<ruby><rb>樫貪</rb><rt>けんどん</rt></ruby>に<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らざる用を命じて見たりした。

細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>るとも勝手にしろという態度をとった。<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>からあまり口数を利かない彼女は<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>沈黙を守って、それが夫の気を<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせるのを目の前に見ながら澄ましていた。

「つまりしぶといのだ」

健三の胸にはこんな言葉が細君の<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しぶとい</span>という観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを<ruby><rb>真闇</rb><rt>まっくら</rt></ruby>にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても<ruby><rb>気違染</rb><rt>きちがいじ</rt></ruby>みた<ruby><rb>癇癪持</rb><rt>かんしゃくもち</rt></ruby>として評価されなければならなかった。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>がそう<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>になさると、また<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>を起しますよ」

細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>くその光を怖れた。同時に<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくそれを<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>んだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、<ruby><rb>外部</rb><rt>うわべ</rt></ruby>では<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く承知していた。

「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」

彼女は健三に聞えよがしに<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やいた。健三は死んじまえといいたくなった。

或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った<ruby><rb>髪剃</rb><rt>かみそり</rt></ruby>があった。彼女が<ruby><rb>黒檀</rb><rt>エボニー</rt></ruby>の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に折り込まれたその刃を<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に立てずに、ただ黒い<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を<ruby><rb>挘</rb><rt>も</rt></ruby>ぎ取った。

「馬鹿な真似をするな」

こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>め込んだ<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ってその一部分を<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>いて向う側の<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>に落ちた。細君は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。

彼女は本当に情に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って<ruby><rb>刃物三昧</rb><rt>はものざんまい</rt></ruby>をする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあ</rt></ruby>そぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を<ruby><rb>五条</rb><rt>いつすじ</rt></ruby>にも<ruby><rb>六条</rb><rt>むすじ</rt></ruby>にも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>う人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。

その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、<ruby><rb>全</rb><rt>まったく</rt></ruby>その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前に<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れを<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>する人の誠を以て、彼は細君の<ruby><rb>膝下</rb><rt>しっか</rt></ruby>に<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざま</rt></ruby>ずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。

「今だってその源因が<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>分りさえすれば」

彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の事について、ついに<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。

## 五十五

こういう不愉快な場面の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>には大抵仲裁者としての自然が二人の間に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。

けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかった。

「じゃ当分子供を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ行っていましょう」

細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。健三は彼らの食料を<ruby><rb>毎月</rb><rt>まいげつ</rt></ruby>送って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るという条件の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいとは思わなかった。

「ああ<ruby><rb>晴々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>して<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持だ」

彼は八畳の座敷の真中に小さな<ruby><rb>餉台</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>を据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度極暑の頃だったので、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の強くない彼は、よく<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむけ</rt></ruby>になってばたりと畳の上に倒れた。何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の<ruby><rb>脊中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を蒸すような黄色い古びが<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>まで透っていた。

彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書き<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>された。<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>の頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。また義務であった。

<ruby><rb>巣鴨</rb><rt>すがも</rt></ruby>の植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。それを茶の間の<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>に置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜こんだ。けれども彼女の盆栽を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>した。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>だったのである。

彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念も<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く消えてしまった。

「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」

彼の心は二人一所にいる時よりも<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に平静であった。

細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして<ruby><rb>継布</rb><rt>つぎ</rt></ruby>のあたった青い<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の中に入って<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>た。

一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を<ruby><rb>逍遥</rb><rt>あちこち</rt></ruby>していた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>の影から急に姿を現わした。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby><ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>のようになって下さらなくって」

健三は細君の<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の表が変にささくれて、その<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも見苦しく<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り減らされているのに気が付いた。彼は<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。

「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」

細君が帰ってから<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>目か経った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で<ruby><rb>布衍</rb><rt>ふえん</rt></ruby>したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な<ruby><rb>挙動</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>であった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>へ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前と<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたような気がした。

こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。

## 五十六

同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>くした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」

島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。

「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」

「たしか十<ruby><rb>志</rb><rt>シリング</rt></ruby>だったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」

「五円？――五円は随分好い<ruby><rb>価</rb><rt>ね</rt></ruby>ですね。<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby>の<ruby><rb>黒船町</rb><rt>くろふねちょう</rt></ruby>に古くから<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の知ってる袋物屋があるが、<ruby><rb>彼所</rb><rt>あすこ</rt></ruby>ならもっとずっと安く<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてくれますよ。こんだ<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る時にゃ、私が頼んで上げましょう」

健三の紙入は何時も充実していなかった。全く<ruby><rb>空虚</rb><rt>から</rt></ruby>の時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を長くした。

「小遣を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らないうちは帰らない。<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な奴だ」

健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。

そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十と<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った金を、平気に向うから請求し始めた。

「どうか一つ。私もこの年になって<ruby><rb>倚</rb><rt>か</rt></ruby>かる子はなし、<ruby><rb>依怙</rb><rt>たより</rt></ruby>にするのは<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>一人なんだから」

彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んだ鈍い眼を<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。

「これだけの<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>をしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」

彼はこんな事まで口へ出していった。

彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。

「ありゃ成し崩しに<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を<ruby><rb>侵蝕</rb><rt>しんしょく</rt></ruby>する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようってんだ。実に厭な奴だ」

健三は腹が立ちさえすれば、よく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">実に</span>とか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">一番</span>とか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">大</span>とかいう最大級を使って<ruby><rb>欝憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>の一端を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていた。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」

健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>と唇とに見せた。

「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」

「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」

「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」

細君には健三の意味が<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く通じなかった。

「どうせ貴夫の眼から見たら、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>なんぞは馬鹿でしょうよ」

健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。

二人の間に感情の<ruby><rb>行違</rb><rt>ゆきちがい</rt></ruby>でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の<ruby><rb>後影</rb><rt>うしろかげ</rt></ruby>を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも構う<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を見せなかった。夫が自分の勝手で<ruby><rb>座敷牢</rb><rt>ざしきろう</rt></ruby>へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。

## 五十七

健三の心は<ruby><rb>紙屑</rb><rt>かみくず</rt></ruby>を丸めたようにくしゃくしゃした。時によると<ruby><rb>肝癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>の電流を何かの機会に応じて<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>へ<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らさなければ苦しくって<ruby><rb>居堪</rb><rt>いたた</rt></ruby>まれなくなった。彼は子供が母に<ruby><rb>強請</rb><rt>せび</rt></ruby>って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ<ruby><rb>蹴飛</rb><rt>けと</rt></ruby>ばして見たりした。赤ちゃけた<ruby><rb>素焼</rb><rt>すやき</rt></ruby>の鉢が彼の思い通りにがらがらと<ruby><rb>破</rb><rt>われ</rt></ruby>るのさえ彼には多少の満足になった。けれども<ruby><rb>残酷</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしく<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれたその花と茎の<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事は<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てし得なかった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の責任じゃない。<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>こんな気違じみた<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」

彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。

平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱で<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>を<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>た。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れを<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>った。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>で読み上げた。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が悪いのじゃない。己の悪くない事は、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>あの男に解っていなくっても、己には<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く解っている」

無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。

彼は時々金の事を考えた。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>物質的の富を<ruby><rb>目標</rb><rt>めやす</rt></ruby>として<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。

「己だって、専門にその方ばかり<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りゃ」

彼の心にはこんな<ruby><rb>己惚</rb><rt>おのぼれ</rt></ruby>もあった。

彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで<ruby><rb>齷齪</rb><rt>あくせく</rt></ruby>しているような島田をさえ憐れに眺めた。

「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」

こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。

彼は元来<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>ける事の<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>な男であった。儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。卒業したてに、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の口を断って、ただ一つの学校から四十円<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、それで満足していた。彼はその四十円の半分を<ruby><rb>阿爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>に取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や<ruby><rb>油揚</rb><rt>あぶらげ</rt></ruby>ばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。

その時分の彼と今の彼とは色々な点において<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>変っていた。けれども経済に<ruby><rb>余裕</rb><rt>ゆとり</rt></ruby>のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。

彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な<ruby><rb>塵労</rb><rt>わずらい</rt></ruby>が邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうして<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか解らない彼はしきりに<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るにはまだ大分<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があった。

## 五十八

健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。

彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>さな家を空けて彼らの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>に充てた。細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。<ruby><rb>張交</rb><rt>はりまぜ</rt></ruby>の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>には<ruby><rb>南湖</rb><rt>なんこ</rt></ruby>の<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>だの<ruby><rb>鵬斎</rb><rt>ぼうさい</rt></ruby>の書だの、すべて亡くなった人の趣味を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばせる<ruby><rb>記念</rb><rt>かたみ</rt></ruby>と見るべきものさえ<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の通り<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>り付けてあった。

父は官吏であった。大して<ruby><rb>派出</rb><rt>はで</rt></ruby>な暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。

彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されて<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく活動しなければならない<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれなければならなかった。

遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど心を悩ませなかった。

<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な彼は帰ってからも<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>う二十円だけでも子供二人に<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>を使って充分<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って行ける位に考えていた。

「何しろ家賃が出ないんだから」

こんな<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な想像が、実際を見た彼の眼を<ruby><rb>驚愕</rb><rt>おどろき</rt></ruby>で丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、しまいには健三の置いて行った<ruby><rb>地味</rb><rt>じみ</rt></ruby>な男物を縫い直して身に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>った。同時に<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>からは綿が出た。夜具は裂けた。それでも<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼は自分の位地を失った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、相場に手を出して、多くもない貯蓄を<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く亡くしてしまったのである。

首の回らないほど高い<ruby><rb>襟</rb><rt>カラ</rt></ruby>を掛けて外国から帰って来た健三は、この<ruby><rb>惨澹</rb><rt>みじめ</rt></ruby>な境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために<ruby><rb>手非道</rb><rt>てひど</rt></ruby>く打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえ<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たなかった。

その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>さえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。

彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、<ruby><rb>一時</rb><rt>いちじ</rt></ruby><ruby><rb>賜金</rb><rt>しきん</rt></ruby>を受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれで<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と日常生活に必要な家具家財を<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えた。

彼は<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>ばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>にかかわらずむやみに<ruby><rb>価切</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>り倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、<ruby><rb>烟草盆</rb><rt>タバコぼん</rt></ruby>、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>、<ruby><rb>丼鉢</rb><rt>どんぶりばち</rt></ruby>、眼に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を<ruby><rb>追懸</rb><rt>おっかけ</rt></ruby>なければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の物を買うのか、その区別を<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えていないように猛烈な男であった。

## 五十九

健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の<ruby><rb>指物</rb><rt>さしもの</rt></ruby>を<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>にする男の店先に立って、しきりに<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>く主人と談判をした。

彼の<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えた本棚には<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>ガラスど</rt></ruby>も<ruby><rb>後部</rb><rt>うしろ</rt></ruby>も着いていなかった。<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>った。

こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った金は何時の間にかもうなくなっていた。<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>られて、同宿の男から借りた金はどうして返して<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか分らなくなってしまったように思い出した。

そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた高い机の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>彼の手紙を眺めていた。

<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>の間とはいいながら、遠い国で<ruby><rb>一所</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、官命で<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来たその人の財力と健三の給費との間には、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど比較にならないほどの懸隔があった。

彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>で作った<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>のある<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ナイトガウン</rt></ruby>を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んだ。

その健三には<ruby><rb>昼食</rb><rt>ちゅうじき</rt></ruby>を節約した<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た<ruby><rb>帰掛</rb><rt>かえりがけ</rt></ruby>に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を<ruby><rb>片々</rb><rt>かたかた</rt></ruby>の手に持った傘で<ruby><rb>防</rb><rt>よ</rt></ruby>けつつ、片々の手で薄く切った肉と<ruby><rb>麺麭</rb><rt>パン</rt></ruby>を何度にも<ruby><rb>頬張</rb><rt>ほおば</rt></ruby>るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にあるベンチへ腰を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>そうとしては<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。ベンチは雨のために<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れていたのである。

ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>になると開いた。そうして湯も水も<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まずに、硬くて<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>いものをぼりぼり<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>いては、<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつばき</rt></ruby>の力で無理に<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>した。

ある時の彼はまた<ruby><rb>馭者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>や労働者と一所に<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>わしい<ruby><rb>一膳飯屋</rb><rt>いちぜんめしや</rt></ruby>で<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>ばかりの食事を済ました。其所の腰掛の<ruby><rb>後部</rb><rt>うしろ</rt></ruby>は高い<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>のように<ruby><rb>切立</rb><rt>きった</rt></ruby>っているので、普通の食堂の如く、広い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。

こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く健三を<ruby><rb>午餐</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>に誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>懇意になった時の事であった。

その時彼は<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>でも<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てるように無雑作な態度を見せて、五<ruby><rb>磅</rb><rt>ポンド</rt></ruby>のバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。

日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れて、<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るだけの金を彼の前に<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めた。

## 六十

こんな具合にして<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と東京に<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いた健三は、物質的に見た自分の、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々に<ruby><rb>攪</rb><rt>か</rt></ruby>き乱されてくる時、彼は始めて反省した。<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>何心なく身に着けて外へ出る<ruby><rb>黒木綿</rb><rt>くろもめん</rt></ruby>の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。

「この<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>をまた<ruby><rb>強請</rb><rt>せび</rt></ruby>りに来る奴がいるんだから<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い」

彼は最も<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪いその種の代表者として島田の事を考えた。

今の自分がどの方角から眺めても島田より<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び<ruby><rb>捨</rb><rt>ず</rt></ruby>てにした人から今となって<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>な<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と<ruby><rb>見傚</rb><rt>みな</rt></ruby>している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。

彼は念のために姉の意見を<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて見た。

「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」

「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>にばかり<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」

「御金がそんなに取れるように見えますか」

「だって<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」

姉は自分の宅の<ruby><rb>活計</rb><rt>くらし</rt></ruby>を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>が月々<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うものを満足に持って帰った<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>のない事や、俸給の少ない割に交際費の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。

「その賞与だって、そっくり<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を<ruby><rb>彦</rb><rt>ひこ</rt></ruby>さんの方へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って<ruby><rb>賄</rb><rt>まか</rt></ruby>なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」

養子と経済を別々にしながら一所の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に住んでいた姉夫婦は、自分たちの<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。自分たちの所へ来た客に出す<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。

「健ちゃんなんざ、こんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」

彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた。

「まあ好いやね。<ruby><rb>面倒臭</rb><rt>めんどくさ</rt></ruby>くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>いなら留守を御遣いよ。構う事はないから」

この注意は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも姉らしく健三の耳に響いた。

姉から要領を得られなかった彼はまた比田を<ruby><rb>捉</rb><rt>つら</rt></ruby>まえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。

「何しろ<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の通りあの地面と<ruby><rb>家作</rb><rt>かさく</rt></ruby>を有ってるんだから、そう困っていない事は<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>でさあ。それに御藤さんの方へは<ruby><rb>御縫</rb><rt>おぬい</rt></ruby>さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」

比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>っ<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>のものには相違なかった。

## 六十一

しまいに健三は細君に向った。

「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても比田に訊いても、本当の所が<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く分らないが」

細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、<ruby><rb>朱塗</rb><rt>しゅぬり</rt></ruby>の<ruby><rb>船底枕</rb><rt>ふなぞこまくら</rt></ruby>の上に乱れた頭を載せていた。

「そんなに気になさるなら、御自分で<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に調べて御覧になるが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。<ruby><rb>御姉</rb><rt>おあね</rt></ruby>えさんだって、今あの人と<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>っていらっしゃらないんだから、そんな<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>な事の知れているはずがないと思いますわ」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>にはそんな暇なんかないよ」

「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」

細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>に出来上った彼女は、自分の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>と夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない<ruby><rb>偏窟</rb><rt>へんくつ</rt></ruby>な男であった。

「放って置け？」

健三は反問した。細君は答えなかった。

「今までだって放って置いてるじゃないか」

細君はなお答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。

島田の事に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――

「御縫さんが<ruby><rb>脊髄病</rb><rt>せきずいびょう</rt></ruby>なんだそうだ」

「脊髄病じゃ<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしいでしょう」

「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと<ruby><rb>柴野</rb><rt>しばの</rt></ruby>と<ruby><rb>御藤</rb><rt>おふじ</rt></ruby>さんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」

「<ruby><rb>可哀想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>ね今から脊髄病なんぞに<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>っちゃ。まだ若いんでしょう」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>より一つ上だって話したじゃないか」

「子供はあるの」

「何でも沢山あるような様子だ。<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくたり</rt></ruby>だか能く<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見ないが」

細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たない夫人の心持を想像に描いた。間近に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なくもありまた<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましくもあった。夫はまるで気が付かなかった。

「島田がそんな心配をするのも<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>が悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が<ruby><rb>酒食</rb><rt>さけくら</rt></ruby>いで<ruby><rb>喧嘩早</rb><rt>けんかっぱや</rt></ruby>くって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を尽かされているに違ないんだ」

「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」

「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」

「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」

細君は少し<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>した。健三には意味が解らなかった。細君はいい直した。

「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」

御藤さんがまだ若い<ruby><rb>未亡人</rb><rt>びぼうじん</rt></ruby>であった頃、何かの用で<ruby><rb>扱所</rb><rt>あつかいじょ</rt></ruby>へ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をして<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。

「<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>も手伝ったに違ないね」

細君は何ともいわなかった。

## 六十二

<ruby><rb>不治</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の病気に悩まされているという御縫さんについての<ruby><rb>報知</rb><rt>たより</rt></ruby>が健三の心を<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>げた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど親しく口を利いた<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>がなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈な<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>は、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに<ruby><rb>尊</rb><rt>たっと</rt></ruby>かった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>り得る点において。また漠然として散漫な人類を、比較的<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した一人の代表者に縮めてくれる点において。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。

それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時起るかも知れない御縫さんの死は、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な島田にまた彼を<ruby><rb>強請</rb><rt>せび</rt></ruby>る口実を与えるに違なかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。

「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」

彼はこう観念した。彼は手を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>いで島田の来るのを待ち受けた。その島田の来る前に突然彼の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の御常が訪ねて<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようとは、彼も思い掛けなかった。

細君は何時もの通り書斎に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている彼の前に出て、「あの<ruby><rb>波多野</rb><rt>はたの</rt></ruby>って<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんがとうとう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来ましたよ」といった。彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図々々している<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>もののように見えた。

「御会いになりますか」

それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかに<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めたら好かろうという言葉の<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>い方であった。

「会うから上げろ」

彼は島田の来た時と同じ<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。

座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>って、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>が、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。

彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に頭を下げた。言葉遣も<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めたものであった。

健三は小供の時分<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く聞かされた彼女の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の話を思い出した。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にあったその<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。<ruby><rb>南天</rb><rt>なんてん</rt></ruby>の柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。しかし小さい健三はその<ruby><rb>宏大</rb><rt>こうだい</rt></ruby>な屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度も<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ながら見抜くように、彼の批評眼がだんだん<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>えて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>ではないかと考え出した。

健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まって坐っている<ruby><rb>白髪頭</rb><rt>しらがあたま</rt></ruby>の御婆さんとを比較して、時間の<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>した対照に不思議そうな眼を注いだ。

御常は昔から<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>り<ruby><rb>肉</rb><rt>じし</rt></ruby>の女であった。今見る御常も依然として肥っていた。どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがわ</rt></ruby>れる位であった。それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。多少誇張していえば、<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に入れた<ruby><rb>麦焦</rb><rt>むぎこが</rt></ruby>しを背中へ<ruby><rb>脊負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って近在から出て来る御婆さんであった。

## 六十三

「ああ変った」

顔を見合せた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれが<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧から<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る芝居を事新らしく<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。

彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には<ruby><rb>人世</rb><rt>じんせい</rt></ruby>と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>しているらしく見えた。

島田と別れてから二度目に<ruby><rb>嫁</rb><rt>かた</rt></ruby>づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。

養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の<ruby><rb>活計</rb><rt>くらし</rt></ruby>をしていたものか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなかった。

その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或<ruby><rb>身縁</rb><rt>みより</rt></ruby>を頼りに、ずっと<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な所へ引越した。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ<ruby><rb>毎年</rb><rt>まいねん</rt></ruby>下がる扶助料だけで<ruby><rb>活計</rb><rt>くらし</rt></ruby>を立てて行った。……

御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、<ruby><rb>当込</rb><rt>あてこみ</rt></ruby>の<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>だのは、それほど多く出て来なかった。それにもかかわらず彼は自分とこの<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。

「ああそうですか、それはどうも」

健三の<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>は簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。

「昔の因果が今でもやっぱり<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>っているんだ」

こう思った彼はさすがに<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い心持がしなかった。どっちかというと泣きたがらない<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>に生れながら、時々は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の眼は何時でも涙が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて出るように出来ているのに」

彼は丸まっちくなって<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている御婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。

彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。

「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」

彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>い同情が入っているだけで、<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わな真心は<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていなかった。彼女はそれを能く承知しているように見えた。そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、<ruby><rb>諦</rb><rt>あき</rt></ruby>らめるより外に仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。

「もしあの<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>な御婆さんが善人であったなら、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って<ruby><rb>死水</rb><rt>しにみず</rt></ruby>を取って遣る事も出来たろう」

黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。

## 六十四

「とうとう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来たのね、<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんも。今までは<ruby><rb>御爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは<ruby><rb>二人</rb><rt>ふたあり</rt></ruby>に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>られるんですよ、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>は」

細君の言葉は珍らしく<ruby><rb>乾燥</rb><rt>はしゃ</rt></ruby>いでいた。<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>とも付かず、<ruby><rb>冷評</rb><rt>ひやかし</rt></ruby>とも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。彼は何とも答えなかった。

「またあの事をいったでしょう」

細君は同じ調子で健三に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「あの事た何だい」

「貴夫が小さいうち<ruby><rb>寐小便</rb><rt>ねしょうべん</rt></ruby>をして、あの御婆さんを困らしたって事よ」

健三は苦笑さえしなかった。

けれども彼の腹の中には、御常が<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>それをいわなかったかの疑問が既に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていた。彼女の名前を聞いた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の健三は、すぐその弁口に思い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>った位、御常は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>る女であった。ことに自分を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>る事に巧みな<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の口車に乗せられやすい、また見え透いた<ruby><rb>御世辞</rb><rt>おせじ</rt></ruby>を<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがりがちな健三の実父は、何時でも彼女を<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>める事を忘れなかった。

「感心な女だよ。だいち<ruby><rb>身上持</rb><rt>しんしょうもち</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いからな」

島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。

御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>がっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうは<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>だって困るよ」とか何とかいいながら、いつか<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>だけの<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>は手文庫から取出されていた。

「比田はあんな奴だが、御夏が<ruby><rb>可愛想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>だから」

姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉を<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものに聞こえるようにいった。

しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>であった。<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>しやかという点において遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口は<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>かった。

彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。

「御前を育てたものはこの<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>だよ」

この一句を二時間でも三時間でも<ruby><rb>布衍</rb><rt>ふえん</rt></ruby>して、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>した。

「島田は御前の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>だよ」

彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前に<ruby><rb>露</rb><rt>さら</rt></ruby>け出すに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。

どっちを聴くにしても涙が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>るに違なかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>らしい強い力を入れた。<ruby><rb>円朝</rb><rt>えんちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>人情噺</rb><rt>にんじょうばなし</rt></ruby>に出て来る女が、長い<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>を灰の中に突き刺し突き刺し、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>された<ruby><rb>恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。

彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格が<ruby><rb>牢</rb><rt>ろう</rt></ruby>として崩すべからざる<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。

細君は彼のために説明した。

「三十年<ruby><rb>近</rb><rt>ぢか</rt></ruby>くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」

遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>が行かなかった。

「そんな<ruby><rb>淡泊</rb><rt>あっさり</rt></ruby>した女じゃない」

彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。

## 六十五

御常を知らない細君はかえって夫の<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつおう</rt></ruby>を笑った。

「それが<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の癖だから仕方がない」

<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>との関係について、夫のこの悪い<ruby><rb>癖</rb><rt>へき</rt></ruby>が著るしく出ているように彼女は思っていた。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>をいうのだ」

「だって現に<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」

「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは<ruby><rb>上部</rb><rt>うわべ</rt></ruby>だけで腹の中は<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の通りなんだ」

「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」

「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」

「随分独断的ね、貴夫も」

「批評が<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ってさえいれば独断的で一向<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>ないものだ」

「しかしもし中っていなければ迷惑する人が<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>出て来るでしょう。あの<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」

健三には細君の言葉が何を意味しているのか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、<ruby><rb>表向</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>夫と<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>ではなかった。

「<ruby><rb>面倒臭</rb><rt>めんどくさ</rt></ruby>い」

少し込み入った議論の筋道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>らなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。

「<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつおう</rt></ruby>だ」

「執拗だ」

二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだか</rt></ruby>まりを御互の<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>から能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。

我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。

「これで沢山だ」

「己もこれで沢山だ」

また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。

それでも<ruby><rb>護謨紐</rb><rt>ゴムひも</rt></ruby>のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の<ruby><rb>伸縮</rb><rt>のびちぢみ</rt></ruby>があった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で<ruby><rb>徐々</rb><rt>そろそろ</rt></ruby>元へ戻って来た。そうした<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れた。

「これは誰の子？」

健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内に<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めき掛けていた生の<ruby><rb>脈搏</rb><rt>みゃくはく</rt></ruby>を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の<ruby><rb>指頭</rb><rt>しとう</rt></ruby>に伝えようとしたのである。

「<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をするのはつまり両方が悪いからですね」

彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>な健三も、微笑するより外に仕方がなかった。

「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」

健三は立派な哲理でも考え出したように首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った。

## 六十六

御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。

<ruby><rb>毎年</rb><rt>まいとし</rt></ruby>時候が寒くなるときっと<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に故障の起る兄は、秋口からまた<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>経っても熱が<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>れないで苦しんでいた。

「つい無理をするもんだから」

無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかを<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>ぶより外に仕方がないように見えたのである。

「どうも<ruby><rb>肋膜</rb><rt>ろくまく</rt></ruby>らしいっていうんだがね」

彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>よりも強い<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>の念を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。

健三は細君に向っていった。――

「もう少し平気で休んでいられないものかな。<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めて熱の<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くなるまででも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いから」

「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」

健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ<ruby><rb>活計</rb><rt>くらし</rt></ruby>の方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。同時にそういう観察から<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた。

「死にやしまいな」

「まさか」

細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>と縁故のある産婆が、遠い所から<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗って時々<ruby><rb>遣</rb><rt>やっ</rt></ruby>て来た。彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。

「腹でも<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>むのかい」

「まあそうです」

細君ははかばかしい返事さえしなかった。

その内兄の熱がころりと<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>れた。

「<ruby><rb>御祈祷</rb><rt>ごきとう</rt></ruby>をなすったんですって」

迷信家の細君は<ruby><rb>加持</rb><rt>かじ</rt></ruby>、祈祷、占い、<ruby><rb>神信心</rb><rt>かみしんじん</rt></ruby>、大抵の事を好いていた。

「御前が勧めたんだろう」

「いいえそれが<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも<ruby><rb>髪剃</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を頭の上へ載せて遣るんですって」

健三には髪剃の御蔭で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しこじら</span>した体熱が除れようとも思えなかった。

「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまた<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、<ruby><rb>杓子</rb><rt>しゃくし</rt></ruby>でも<ruby><rb>鍋蓋</rb><rt>なべぶた</rt></ruby>でも同じ事さ」

「しかしいくら御医者の薬を飲んでも<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>らないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」

健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。

兄が癒ると共に姉がまた<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>で悩み出した。

「またかい」

健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。

「しかし<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>は何時もより重いんですって。ことによると<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれって<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいました」

兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を畳の上に着けた。

「少し立っていると<ruby><rb>御腹</rb><rt>おなか</rt></ruby>の具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」

産が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>るほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にあった。彼は活動を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いる勇気も自信も失なった。

「私とても御見舞には参れませんよ」

「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」

## 六十七

その頃の健三は<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰ると甚しい<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>を感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく<ruby><rb>昼寐</rb><rt>ひるね</rt></ruby>をした。机に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>って書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>仮寐</rb><rt>うたたね</rt></ruby>の夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を<ruby><rb>刺撃</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り付けられた人のように書斎に<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>としていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていろと彼に命令するのである。

かくして四、五日は<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに過ぎた。健三が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>津</rb><rt>つ</rt></ruby>の<ruby><rb>守坂</rb><rt>かみざか</rt></ruby>へ出掛けた時は<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。

「まあ結構です」

彼は尋常の<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。けれども腹の中では<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>にでも<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>まれたような気がした。

「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせ<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」

姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。しかし彼は黙って<ruby><rb>烟草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を吹かしていた。こんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>の点にも<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の気風の相違は現われた。

「でも比田のいるうちは、いくら病身でも<ruby><rb>無能</rb><rt>やくざ</rt></ruby>でも<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>が生きていて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らないと困るからね」

親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。

「<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>ゃ本当に損な生れ付でね。<ruby><rb>良人</rb><rt>うち</rt></ruby>とはまるで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>なんだから」

姉の夫思いは全く天性に違なかった。けれども比田が時として理の<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>らない<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>をいい募るように、彼女は訳の解らない<ruby><rb>実意立</rb><rt>じついだて</rt></ruby>をしてかえって夫を<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がらせる事があった。それに彼女は<ruby><rb>縫針</rb><rt>ぬいはり</rt></ruby>の道を心得ていなかった。<ruby><rb>手習</rb><rt>てならい</rt></ruby>をさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで、ついぞ夫の着物一枚縫った<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>がなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、<ruby><rb>小用</rb><rt>こよう</rt></ruby>に行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の<ruby><rb>内外</rb><rt>うちそと</rt></ruby>で母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。

そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの<ruby><rb>腹違</rb><rt>はらちがい</rt></ruby>の姉の前に、彼は反省を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられた。

「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けば<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>だって大した変りはないんだ」

<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。かく事実の上において突然人間を平等に<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>た彼は、不断から<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>していた姉に対して多少<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りの悪い思をしなければならなかった。しかし姉は何にも気が付かなかった。

「<ruby><rb>御住</rb><rt>おすみ</rt></ruby>さんはどうです。もう<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>生れるんだろう」

「ええ<ruby><rb>落</rb><rt>おっ</rt></ruby>こちそうな腹をして苦しがっています」

「御産は苦しいもんだからね。<ruby><rb>私</rb><rt>あたし</rt></ruby>も覚があるが」

久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。<ruby><rb>年歯</rb><rt>とし</rt></ruby>を取ってからの<ruby><rb>初産</rb><rt>ういざん</rt></ruby>だったので、当人も<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものも<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>心配した割に、それほどの危険もなく胎児を<ruby><rb>分娩</rb><rt>ぶんべん</rt></ruby>したが、その子はすぐ死んでしまった。

「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも<ruby><rb>彼子</rb><rt>あれ</rt></ruby>がいると少しは<ruby><rb>依怙</rb><rt>たより</rt></ruby>になるんだがね」

## 六十八

姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。

「彦ちゃんがもう少し<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>していてくれると<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんだけれども」

彼女は時々<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものにこんな述懐を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を耳にした事はあるが、その<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の点について深い交渉を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たない健三には、どこが不足なのか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く解らなかった。

「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」

無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>のいえた義理でもなかった。彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らなかった。<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>ばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>といわなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。彼はその<ruby><rb>生顔</rb><rt>いきがお</rt></ruby>を見た事がなかった。その<ruby><rb>死顔</rb><rt>しにがお</rt></ruby>も知らなかった。名前さえ忘れてしまった。

「何とかいいましたね、あの子は」

「<ruby><rb>作太郎</rb><rt>さくたろう</rt></ruby>さ。あすこに<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>があるよ」

姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなく<ruby><rb>小汚</rb><rt>こぎた</rt></ruby>ないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。

「あの小さい奴がそうですか」

「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」

立って行って<ruby><rb>戒名</rb><rt>かいみょう</rt></ruby>を読む気にもならなかった健三は、やはり<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の所に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ったまま、<ruby><rb>黒塗</rb><rt>くろぬり</rt></ruby>の上に金字で書いた小形の札のようなものを遠くから眺めていた。

彼の顔には何の表情もなかった。自分の二番目の娘が赤痢に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って、もう少しで命を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られるところだった時の心配と苦痛さえ<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>し得なかった。

「姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ、健ちゃん」

彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざとその視線を避けた。

心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄と少し趣を異にしている所があった。慢性の病気が何時までも継続するように、慢性の寿命がまた何時までも継続するだろうと彼女には見えたのである。

<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ彼女の<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>が手伝った。彼女はどんなに<ruby><rb>気息苦</rb><rt>いきぐる</rt></ruby>しくっても、いくら<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から忠告されても、どうしても<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>ながら用を足そうといわなかった。<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>うようにしてでも<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>まで行った。それから子供の時からの習慣で、朝はきっと<ruby><rb>肌抜</rb><rt>はだぬぎ</rt></ruby>になって<ruby><rb>手水</rb><rt>ちょうず</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>った。寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決してやめなかった。

「そんな心細い事をいわずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」

「養生はしているよ。健ちゃんから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>う御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事に<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めているんだから」

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>ものが米の飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのが<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての養生ででもあるかのような事をいった。日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にも、「<ruby><rb>他事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>じゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>も近頃は具合が悪くってね。ことによると<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>より早く位牌になるかも知れませんよ」

彼の言葉は無論根のない<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>として姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑った。しかし<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら健康を損いつつあると<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方を<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>んだ。

「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない」

彼はそう思って姉の<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>み込んだ眼と、<ruby><rb>痩</rb><rt>こ</rt></ruby>けた<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>と、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。

## 六十九

姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変な<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>り<ruby><rb>気</rb><rt>ぎ</rt></ruby>を出す癖を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。

健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の同情に訴え得るような<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れっぽい事実を彼の前に並べた。しまいに兄の口を借りて、いくらでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。すると姉から手紙が来た。<ruby><rb>長</rb><rt>ちょう</rt></ruby>さんの話では御前さんが月々いくらいくら<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るという事だが、実際御前さんの、呉れるといった<ruby><rb>金高</rb><rt>かねだか</rt></ruby>はどの位なのか、長さんに<ruby><rb>内所</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>でちょっと知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月<ruby><rb>中取次</rb><rt>なかとりつぎ</rt></ruby>をする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。

健三は馬鹿々々しく思った。腹立しくも感じた。しかし何より先に<ruby><rb>浅間</rb><rt>あさま</rt></ruby>しかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く現わしていた。姉はそれぎり何ともいって来なかった。<ruby><rb>無筆</rb><rt>むひつ</rt></ruby>な彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。

この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でも蚊でも<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>らなかった。

「近頃御住さんはどうだい」

「まあ相変らずです」

会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。

間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい<ruby><rb>無愛想</rb><rt>ぶあいそ</rt></ruby>な変人に過ぎなかった。

<ruby><rb>淋</rb><rt>さみ</rt></ruby>しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えていた。けれども<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>には彼の追憶を<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>う何物も残っていなかった。過去の記念が<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。

彼は昔あった青田と、その青田の間を走る<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>な<ruby><rb>径</rb><rt>こみち</rt></ruby>とを思い出した。田の尽る所には三、四軒の<ruby><rb>藁葺屋根</rb><rt>わらぶきやね</rt></ruby>が見えた。<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>を脱いで<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に腰を掛けながら、<ruby><rb>心太</rb><rt>ところてん</rt></ruby>を食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>があった。其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にある古風な銭湯の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>や、その隣の<ruby><rb>八百屋</rb><rt>やおや</rt></ruby>の店先に並んでいる<ruby><rb>唐茄子</rb><rt>とうなす</rt></ruby>などが、若い時の健三によく<ruby><rb>広重</rb><rt>ひろしげ</rt></ruby>の風景画を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>させた。

しかし今では<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。

「何時こんなに変ったんだろう」

人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい自然の変り方に驚ろかされた。

彼は子供の時分<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>と将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも<ruby><rb>所沢</rb><rt>ところざわ</rt></ruby>の<ruby><rb>藤吉</rb><rt>とうきち</rt></ruby>さんの御弟子だからなというのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>自身は<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>どうなるのだろう」

衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。

## 七十

元気のない顔をして<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

「御病人はどうなの」

あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。

「何もう<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんだ。<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>てはいるが<ruby><rb>危篤</rb><rt>きとく</rt></ruby>でも何でもないんだ。まあ兄貴に<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたようなものだね」

馬鹿らしいという気が幾分か彼の<ruby><rb>口振</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>に出た。

「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」

「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」

「やっぱり宅にいないの」

「いるもんか。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>く悪かった時はどうだか知らないが」

健三は比田の<ruby><rb>振下</rb><rt>ぶらさ</rt></ruby>げている金時計と金鎖の事を思い出した。兄はそれを<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>だろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。<ruby><rb>金着</rb><rt>きんき</rt></ruby>せにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>でいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。

「月賦で買ったに違ないよ」

「ことによると質の流れかも知れない」

姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三には<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>でも卸した。そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、<ruby><rb>金高</rb><rt>きんだか</rt></ruby>を決して知る事が出来なかった。

「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」

姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいい<ruby><rb>中</rb><rt>あ</rt></ruby>てるように夫から遠ざかっていた。

姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、<ruby><rb>妄</rb><rt>みだ</rt></ruby>りに彼女を驚ろかせたがる<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>に至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>らされながらも夫を<ruby><rb>腕利</rb><rt>うできき</rt></ruby>と思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。

「金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ<ruby><rb>一所</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>にいるだけじゃないか」

健三の<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>は容易に解けなかった。考える事の<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>な細君はまた何という評も加えなかった。

「しかし<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」

「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」

健三はすぐ<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障った。

「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」

「いますとも。<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が好いと思っていらっしゃる通りに」

彼らの争いは<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心を<ruby><rb>攪</rb><rt>か</rt></ruby>き乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の<ruby><rb>責</rb><rt>せめ</rt></ruby>に帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。

「字が書けなくっても、<ruby><rb>裁縫</rb><rt>しごと</rt></ruby>が出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」

「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」

細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていた。

## 七十一

筋道の通った頭を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど無定見であった。母はまた普通の女のように<ruby><rb>八釜</rb><rt>やかま</rt></ruby>しく子供を育て上る<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>でなかった。彼女は<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>にいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く感じていた。

「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。夫という肩書などはなくっても構わないから」

不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>からなかった。

「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」

二人が衝突する<ruby><rb>大根</rb><rt>おおね</rt></ruby>は<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあった。

夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女のくせに」という気になった。それが一段<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなると<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>が何時でも<ruby><rb>貯</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えてあった。

「いくら女だって、そう踏み付にされて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>るものか」

健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。

「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるがいい」

健三の<ruby><rb>論理</rb><rt>ロジック</rt></ruby>は何時の間にか、細君が彼に向って投げる<ruby><rb>論理</rb><rt>ロジック</rt></ruby>と同じものになってしまった。

彼らはかくして<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。

健三はその輪の上にはたりと立ち<ruby><rb>留</rb><rt>どま</rt></ruby>る事があった。彼の留る時は彼の<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>が静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>け出す時に限っていた。その時健三は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く怒号をやめた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。

細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。

「何か用でもあったのかい」

「ええ少し御話ししたい事があるんですって」

「何だい」

細君は答えなかった。

「知らないのかい」

「ええ。また二、三日うちに<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったら<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に聞いて下さい」

健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。

久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けて<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようなどとは夢にも予期しなかった。その不審が<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>より彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や<ruby><rb>無愛嬌</rb><rt>ぶあいきょう</rt></ruby>から来る<ruby><rb>寡言</rb><rt>かげん</rt></ruby>とも違っていた。

夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。細い<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の影を<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見詰めていると、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>は動かないで風の音だけが<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな<ruby><rb>洋燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>を間に置いて、しばらく<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>と<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていた。

## 七十二

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>父が来ました時、<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>がなくって寒そうでしたから、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の古いのを出して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りました」

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の洋服屋で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたその<ruby><rb>二重廻</rb><rt>にじゅうまわ</rt></ruby>しは、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。

「あんな汚ならしいもの」

彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。

「いいえ。喜こんで着て行きました」

「<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんは外套を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていないのかい」

「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」

健三は驚ろいた。細い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に照らされた細君の顔が急に<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れに見えた。

「そんなに<ruby><rb>窮</rb><rt>こま</rt></ruby>っているのかなあ」

「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」

口数の<ruby><rb>寡</rb><rt>すく</rt></ruby>ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を<ruby><rb>薄々</rb><rt>うすうす</rt></ruby>知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。

彼は<ruby><rb>絹帽</rb><rt>シルクハット</rt></ruby>にフロックコートで勇ましく官邸の<ruby><rb>石門</rb><rt>せきもん</rt></ruby>を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。<ruby><rb>堅木</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>久</rb><rt>きゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>字</rb><rt>じ</rt></ruby><ruby><rb>形</rb><rt>がた</rt></ruby>に切り組んで作ったその玄関の<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>は、つるつる光って、時によると<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない健三の足を滑らせた。前に広い<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと<ruby><rb>接続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いて長方形の食堂があった。結婚する前健三は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で細君の家族のものと一緒に<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、<ruby><rb>歌留多</rb><rt>カルタ</rt></ruby>に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>更</rb><rt>ふか</rt></ruby>した記憶もあった。

西洋館に続いて<ruby><rb>日本建</rb><rt>にほんだて</rt></ruby>も<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>と二人の書生が住んでいた。職務柄客の<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>の多いこの家の用事には、それだけの<ruby><rb>召仕</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>が必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たされるはずはなかった。

健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>の奥に<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――

「まあ自分の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>貯蓄を心掛けたら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」

貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。

「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」

彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の<ruby><rb>怪力</rb><rt>かいりょく</rt></ruby>を眺めた。しかし千円<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>く気にもならずについ<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで過ぎたのである。

「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」

「でも仕方がありませんわ、<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>せだから」

産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の<ruby><rb>気息遣</rb><rt>いきづかい</rt></ruby>はただでさえ<ruby><rb>重々</rb><rt>おもおも</rt></ruby>しかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>の悪いその<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>とを眺めた。

昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた下等な<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「<ruby><rb>阿爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>なくなった。

「でもよく着られるね」

「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」

細君は<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しそうに笑った。

## 七十三

中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。

年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>であった。或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。しかしそれが彼を現わす<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てではなかった。裏側には反対のものが所々に起伏していた。

官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初から<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る横着に見えた。超えてはならない階段を<ruby><rb>無躾</rb><rt>ぶしつけ</rt></ruby>に飛び越すようにも思われた。その上彼はむやみに<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。頭にある事を何でも口外して<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の<ruby><rb>標的</rb><rt>まと</rt></ruby>になった。

健三の稚気を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>で留まったなり動けなくなった。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所も<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と理解する事が出来<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>くなった。そうして二人とも自分の<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている欠点の大部分には決して気が付かなかった。

しかし今の彼は健三に対して<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>もなく一時的の弱者であった。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に頭を下げる事の<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>な健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも苦しいだろう」

健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ち<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>した金策談に耳を傾むけた。けれども<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>っていた。

「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>はこんな場合に<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>をするような<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>な人間とは違ます」

細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。

この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっきら</span>棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。また<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていた。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>から見れば遥に紳士らしかった。

彼は或人の名を挙げた。

「向うでは<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」

「知っています」

健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>はなかった。卒業して<ruby><rb>独乙</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>へ行って帰って来たら、急に職業がえをして<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>大きな銀行へ入ったとか人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。

「まだ銀行にいるんですか」

細君の父は<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しく<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。

「で当人のいうには、貸しても好い、好いが<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」

「なるほど」

「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」

健三は自分自身を慥なものと認めるには<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>しなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>彼の口にする<ruby><rb>知合</rb><rt>しりあい</rt></ruby>のうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>私の判が必要なんでしょう」

「貴方なら貸そうというのです」

健三は考えた。

## 七十四

彼は<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで証書を入れて<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から金を借りた経験のない男であった。つい義理で判を<ruby><rb>捺</rb><rt>つ</rt></ruby>いて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったのが<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>で、立派な腕を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>ちながら、生涯社会の底に沈んだまま、<ruby><rb>藻掻</rb><rt>もが</rt></ruby>き通しに藻掻いている人の話は、いくら<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な彼の耳にもしばしば伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物が<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く働らきたがった。この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも無情で、冷刻で、心苦しかった。

「私でなくっちゃいけないのでしょうか」

「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>なら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いというんです」

彼は同じ事を二度<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて同じ答えを二度受けた。

「どうも変ですね」

世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>った事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。

「どんな目に逢わされるか分りゃしない」

彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は<ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>しなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。

「印を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>す事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>って見ましょう。無論<ruby><rb>御入用</rb><rt>おいりよう</rt></ruby>だけの<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>は駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」

いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いなかった。

「どうぞそれじゃ何分」

彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>らずにしまった。

けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>や<ruby><rb>烟草盆</rb><rt>タバコぼん</rt></ruby>を一所に買って歩いてもらった友達の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へまた出掛けた。

「金を貸してくれないかね」

彼は<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>から棒に質問を掛けた。金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>しながら友達の前に逐一事情を話した。

「どうだろう」

三年間支那のある学堂で<ruby><rb>教鞭</rb><rt>きょうべん</rt></ruby>を取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。

「じゃ<ruby><rb>清水</rb><rt>しみず</rt></ruby>に頼んで見てくれないか」

友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。

「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」

友達の好意は幸い<ruby><rb>徒労</rb><rt>むだ</rt></ruby>にならずに済んだ。健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経って<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の事であった。

## 七十五

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は精一杯の事をしたのだ」

健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の<ruby><rb>調達</rb><rt>ちょうだつ</rt></ruby>した金の価値について余り考えなかった。さぞ<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父も<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。

従来の<ruby><rb>牆壁</rb><rt>しょうへき</rt></ruby>を取り払うにはこの機会があまりに<ruby><rb>脆弱</rb><rt>ぜいじゃく</rt></ruby>過ぎた。もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。

父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。なるべく自分を<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く了解させようと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線に<ruby><rb>触</rb><rt>あ</rt></ruby>てさせたがる<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>であった。従って彼を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>する妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。

境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>を顧みない訳に行かなかった。彼はそれを<ruby><rb>糊塗</rb><rt>こと</rt></ruby>するため、健三に向って<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>う限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという<ruby><rb>巨細</rb><rt>こさい</rt></ruby>の事実は、遂に健三の耳に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らなかった。健三も<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。

二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>でそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。

健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。

「山を掘るんだって？」

「ええ、何でも新らしく会社を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるんだそうです」

彼は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた。同時に彼は父の<ruby><rb>怪力</rb><rt>かいりょく</rt></ruby>に幾分かの信用を置いていた。

「<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く行くのかね」

「どうですか」

健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、彼はその用事を帯びて<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>のある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来た。父が旅先で急に病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>ったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の<ruby><rb>用向</rb><rt>ようむき</rt></ruby>であった。

「ええええ旅費位どうでもして<ruby><rb>上</rb><rt>あげ</rt></ruby>ますから、すぐ行って御上なさい」

宿屋に<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>から気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>びしさまで想像の眼に浮べた。

「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」

「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

幸いにして父の病気は軽かった。しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり<ruby><rb>立消</rb><rt>たちぎえ</rt></ruby>になってしまった。

「まだ何にも見付からないのかね、口は」

「あるにはあるようですけれども<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>らないんですって」

細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。しかし市の有志家が何名か打ち<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って上京した時に、有名な政治家のある<ruby><rb>伯爵</rb><rt>はくしゃく</rt></ruby>に会って、父の適不適を問い<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>したら、その伯爵がどうも<ruby><rb>不向</rb><rt>ふむき</rt></ruby>だろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。

「どうも困るね」

「今に何とかなるでしょう」

細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の<ruby><rb>怪力</rb><rt>かいりょく</rt></ruby>を知らないではなかった。

「ただ気の毒だからそういうだけさ」

彼の言葉に<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>はなかった。

## 七十六

けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら進んで母に旅費を<ruby><rb>用立</rb><rt>ようだ</rt></ruby>った<ruby><rb>女婿</rb><rt>むすめむこ</rt></ruby>は、一歩<ruby><rb>退</rb><rt>しり</rt></ruby>ぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>でもなかった。むしろ黒い<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>から<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めこうとする反感の稲妻であった。<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。

父は悲境にいた。まのあたり見る父は<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に<ruby><rb>突掛</rb><rt>つっかか</rt></ruby>る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も今度という今度は困りました」

最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。

父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。

「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く出来そうですよ。<ruby><rb>三井</rb><rt>みつい</rt></ruby>と<ruby><rb>三菱</rb><rt>みつびし</rt></ruby>を除けば日本ではまあ<ruby><rb>彼所</rb><rt>あすこ</rt></ruby>位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」

この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にある<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>の社長を選ぶ特権を有していたのである。しかし何十株か何百株かの持主として、<ruby><rb>予</rb><rt>あらか</rt></ruby>じめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。

「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」

健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>っていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>させるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>は形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。

「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」

彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。

「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎにはなりますから」

昔し彼が政府の内意で或官職を<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>った時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させても<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>いという条件を付けた事があった。しかし彼は断然それを<ruby><rb>斥</rb><rt>しり</rt></ruby>ぞけた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、別に<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。

こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。

## 七十七

細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。<ruby><rb>乃木</rb><rt>のぎ</rt></ruby>将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。――

「個人としての乃木さんは義に堅く情に<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>く実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>あるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ行くとやっぱり手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただ<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っているより外に仕方がありませんからね」

彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。<ruby><rb>侯爵</rb><rt>こうしゃく</rt></ruby>を会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に事業の上で完成した<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、彼の手元に二万円ほどの剰余金を<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねた。官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。そうして何時の間にか全部を消費してしまった。しかし彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を<ruby><rb>毎月</rb><rt>まいげつ</rt></ruby><ruby><rb>調達</rb><rt>ちょうだつ</rt></ruby>して、体面を繕ろわなければならなかった。自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、公生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全く<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいに違なかった。

よほど<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼を<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>む気は更に起らなかった。そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。しかし細君に対しての健三は、この点に関して<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど無言であった。細君は時々彼に向っていった。――

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」

「泥棒でも構わないのかい」

「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>で不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」

実際細君はこの言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。けれども彼の推察は月の<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>のように細君の言外まで<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>み出した。学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉でよそながら非難するのだという<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>がどこやらでした。しかしそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度で<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はそんな事で人と離れる人間じゃない」

自分を細君に説明しようと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。

しかし細君の父と彼との交情に、自然の<ruby><rb>溝渠</rb><rt>みぞ</rt></ruby>が出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。

健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを<ruby><rb>寛仮</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さなかった。表向それを<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>める事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を<ruby><rb>巨細</rb><rt>こさい</rt></ruby>に心得ていた彼は、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>健三が細君の父たる彼に、<ruby><rb>賀正</rb><rt>がせい</rt></ruby>を口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。

一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しくないこの余裕を非常に<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>み出した。

## 七十八

「<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>しやすい男だ」

実際において与しやすい或物を多量に<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていると自覚しながらも、健三は<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>からこう思われるのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障った。

彼の神経はこの<ruby><rb>肝癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた。彼は群衆のうちにあって<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>そういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だからなおそういう人が眼に着いた。またそういう人を余計尊敬したくなった。

同時に彼は自分を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。しかし自分を罵らせるようにする相手をば更に<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく罵った。

かくして細君の父と彼との間には自然の造った<ruby><rb>溝渠</rb><rt>みぞ</rt></ruby>が次第に出来上った。彼に対する細君の態度も<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>にそれを手伝ったには相違なかった。

二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、<ruby><rb>冥々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に細君の肩を持たなければならなくなった。しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。二人は<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>離れるだけであった。

幸にして自然は緩和剤としての<ruby><rb>歇私的里</rb><rt>ヒステリー</rt></ruby>を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶせ</rt></ruby>になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>に<ruby><rb>蹲踞</rb><rt>うずくま</rt></ruby>っている彼女を、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>として夢よりも分別がなかった。<ruby><rb>瞳孔</rb><rt>どうこう</rt></ruby>が大きく開いていた。外界はただ<ruby><rb>幻影</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>のように映るらしかった。

<ruby><rb>枕辺</rb><rt>まくらべ</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。時としては<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>の念が<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てに打ち勝った。彼は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く気の毒な細君の乱れかかった髪に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を入れて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。汗ばんだ額を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>で<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いて遣った。たまには気を<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。

発作の今よりも<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しかった昔の様も健三の記憶を<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。

或時の彼は毎夜細い<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で自分の帯と細君の帯とを<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>た。紐の長さを四尺ほどにして、<ruby><rb>寐返</rb><rt>ねがえ</rt></ruby>りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。

或時の彼は細君の<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>へ<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>の糸底を<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん<ruby><rb>反</rb><rt>ぞ</rt></ruby>り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。

或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。

「<ruby><rb>御天道</rb><rt>おてんとう</rt></ruby>さまが来ました。五<ruby><rb>色</rb><rt>しき</rt></ruby>の雲へ乗って来ました。大変よ、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>」

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にいるじゃありませんか。<ruby><rb>桔槹</rb><rt>はねつるべ</rt></ruby>の中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」

流産してから間もない彼女は、抱き<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>めにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。……

細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が<ruby><rb>靉靆</rb><rt>たなび</rt></ruby>いていた。彼は心配よりも<ruby><rb>可哀想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>になった。弱い<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔をした。

だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに<ruby><rb>肝癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。

不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君が<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>で出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>でも、ちょっと埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。

## 七十九

不合理な事の<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>な健三は心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>でそれを苦に病んだ。けれども別にどうする<ruby><rb>了簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>も出さなかった。彼の性質は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むき</span>でもあり一図でもあったと共に<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る消極的な傾向を帯びていた。

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>にそんな義務はない」

自分に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼は何時までも不愉快の中で<ruby><rb>起臥</rb><rt>きが</rt></ruby>する決心をした。<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>が自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。

不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から頼まれて男より<ruby><rb>邁進</rb><rt>まいしん</rt></ruby>する場合もあった。しかしそれは眼前に手で触れられるだけの<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>な或物を<ruby><rb>捉</rb><rt>つら</rt></ruby>まえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれというほどの<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>は認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>を閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。

「だって何にもないじゃありませんか」

裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。しまいにどうなっても構わないという<ruby><rb>投</rb><rt>な</rt></ruby>げ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。

かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。偶然というよりもむしろ必然の結果であった。互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。

細君の父が健三の手で<ruby><rb>調達</rb><rt>ちょうだつ</rt></ruby>された金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。

「産婆は何時頃生れるというのかい」

「何時って<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>いいもしませんが、もう<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>ですわ」

「用意は出来てるのかい」

「ええ奥の戸棚の中に入っています」

健三には何が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」

「<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>は死ぬかも知れないっていってたじゃないか」

「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」

「どうも御気の毒さまだな」

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いわ、死ねば<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>のせいだから」

健三は遠い<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で細君が長女を生んだ時の光景を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨に<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>み付いた。そうして拷問でもされる人のように<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。彼は自分の細君が<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。

「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」

「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」

「一人で生めるかい」

細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。<ruby><rb>生</rb><rt>うま</rt></ruby>れ<ruby><rb>付</rb><rt>つき</rt></ruby>心配性な彼は、細君の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声を<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>にして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。

産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。

「一週間以内かね」

「いえもう少し<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>でしょう」

健三も細君もその気でいた。

## 八十

日取が狂って予期より早く<ruby><rb>産気</rb><rt>さんけ</rt></ruby>づいた細君は、苦しそうな声を出して、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている夫の夢を驚ろかした。

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から急に<ruby><rb>御腹</rb><rt>おなか</rt></ruby>が痛み出して……」

「もう出そうなのかい」

健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。

「少し<ruby><rb>撫</rb><rt>さす</rt></ruby>って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうか」

起き上る事の<ruby><rb>臆劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の<ruby><rb>満干</rb><rt>みちひ</rt></ruby>のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。

「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。<ruby><rb>一仕切</rb><rt>ひとしきり</rt></ruby>痛んではまた一仕切治まるんだろう」

「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」

細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。

「産婆を呼ぼうか」

「ええ、早く」

職業柄産婆の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け付けるのを例にしていた。

<ruby><rb>初冬</rb><rt>はつふゆ</rt></ruby>の暗い夜はまだ明け離れるのに<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>間があった。彼はその人とその人の<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>く<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>の迷惑を察した。しかし<ruby><rb>夜明</rb><rt>よあけ</rt></ruby>まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てて暗い夜の中へ追い遣った。

彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby><ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で<ruby><rb>停</rb><rt>とま</rt></ruby>る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。

産婆は容易に来なかった。細君の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る声が<ruby><rb>絶間</rb><rt>たえま</rt></ruby>なく静かな夜の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を不安に<ruby><rb>攪</rb><rt>か</rt></ruby>き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を<ruby><rb>分娩</rb><rt>ぶんべん</rt></ruby>した。

「<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりしろ」

すぐ立って蒲団の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の方に廻った健三は、どうして<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか分らなかった。その時例の<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>は細長い<ruby><rb>火蓋</rb><rt>ほや</rt></ruby>の中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は、夜具の<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>さえ<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しないぼんやりした陰で一面に<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>まれていた。

彼は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した。けれども洋燈を移して<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>を<ruby><rb>輝</rb><rt>てら</rt></ruby>すのは、男子の見るべからざるものを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の判然しない何かの<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>めた。

「しかしこのままにして放って置いたら、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引くだろう、寒さで<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えてしまうだろう」

死んでいるか生きているかさえ<ruby><rb>弁別</rb><rt>みわけ</rt></ruby>のつかない彼にもこういう懸念が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の<ruby><rb>後部</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にある<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>を開けた。彼は其所から多量の綿を引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに<ruby><rb>千切</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>って、柔かい塊の上に載せた。

## 八十一

その内<ruby><rb>待</rb><rt>まち</rt></ruby>に待った産婆が来たので、健三は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く安心して自分の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ引き取った。

<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は間もなく明けた。<ruby><rb>赤子</rb><rt>あかご</rt></ruby>の泣く声が家の中の寒い空気を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。

「御安産で御目出とう御座います」

「男かね女かね」

「女の御子さんで」

産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。

「また女か」

健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>らなかった。

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で生まれた長女は<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>の<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな美くしい子であった。健三はよくその子を<ruby><rb>乳母車</rb><rt>うばぐるま</rt></ruby>に乗せて町の中を<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って来た。しかし<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>にならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れられて彼を<ruby><rb>新橋</rb><rt>しんばし</rt></ruby>に迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>御父</rb><rt>おとう</rt></ruby>さまかと思ったと<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>が詰って来た。輪廓に<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>が立った。健三はこの娘の容貌の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にいつか成長しつつある自分の<ruby><rb>相好</rb><rt>そうごう</rt></ruby>の悪い所を明らかに認めなければならなかった。

次女は年が年中<ruby><rb>腫物</rb><rt>できもの</rt></ruby>だらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのが<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>ってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、<ruby><rb>海坊主</rb><rt>うみぼうず</rt></ruby>の<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>のような風をして、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>いらをうろうろしていた。

三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。

「ああいうものが続々生れて来て、<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>どうするんだろう」

彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。

彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かに<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>に<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>まれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby><ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。

一切も<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に始末されていた。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>いらには<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の影さえ見えなかった。<ruby><rb>夜来</rb><rt>やらい</rt></ruby>の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。

「蒲団は換えて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったのかい」

「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」

「よくこう早く片付けられるもんだね」

産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」

「そうだろう。随分驚ろいたからね」

こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い顔をしている細君の方が懸念の種になった。

「どうだ」

細君は<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに眼を開けて、枕の上で軽く<ruby><rb>肯</rb><rt>うな</rt></ruby>ずいた。健三はそのまま外へ出た。

例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。

「どうだ」

しかし細君はもう肯ずかなかった。

「何だか変なようです」

彼女の顔は今朝見た折と違って熱で<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>っていた。

「心持が悪いのかい」

「ええ」

「産婆を呼びに遣ろうか」

「もう来るでしょう」

産婆は来るはずになっていた。

## 八十二

やがて細君の<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下に験温器が<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>がわれた。

「熱が少し出ましたね」

産婆はこういって<ruby><rb>度盛</rb><rt>どもり</rt></ruby>の柱の中に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った水銀を振り落した。彼女は比較的言葉<ruby><rb>寡</rb><rt>ずく</rt></ruby>なであった。用心のため産科の医者を呼んで<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。

「大丈夫なのかな」

「どうですか」

健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ<ruby><rb>産褥熱</rb><rt>さんじょくねつ</rt></ruby>じゃなかろうかという<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>の念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。

「どうですかって、御前の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゃないか」

細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。

「人がこんなに心配して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るのに」

この感じを<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>めている事に気が付いた。

「やっぱり何でもなかったのかな」

「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」

「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」

健三は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>であった。細君は<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に微笑を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

熱は<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>にしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。

「<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>は死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」

「死んだ方が好ければ何時でも死にます」

「それは御随意だ」

夫の言葉を<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。

「実際<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>は死ぬと思ったんですもの」

「どういう訳で」

「訳はないわ、ただ思うのに」

死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。

「御前は<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>だね」

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>こそ呑気よ」

細君は<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい<ruby><rb>頬片</rb><rt>ほっぺた</rt></ruby>を<ruby><rb>突</rb><rt>つっ</rt></ruby>ついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた<ruby><rb>眼鼻</rb><rt>めはな</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているとはいえないほど変な顔をしていた。

「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」

「今に大きくなりますよ」

健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。

「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」

細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。

「何ですって」

健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。

「それがどうしたの」

「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」

「詰らないわ。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に解らない事さえいいや、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いかと思って」

細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔もせずに書斎へ入った。

彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>で<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>島田の事も<ruby><rb>御常</rb><rt>おつね</rt></ruby>の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。

## 八十三

子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>さえあると、新らしい<ruby><rb>妹</rb><rt>いもと</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に寄りたがった。その妹の<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、<ruby><rb>嚏</rb><rt>くさめ</rt></ruby>でも<ruby><rb>欠</rb><rt>あくび</rt></ruby>でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。

「今にどんなになるだろう」

当面に<ruby><rb>忙殺</rb><rt>ぼうさい</rt></ruby>される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なる</span>かをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。

この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。

「また<ruby><rb>塊</rb><rt>かたま</rt></ruby>っているな」

彼はすぐ<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして部屋の外へ出る事があった。

時によると彼は服も改めずにすぐ<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。

「こう始終<ruby><rb>湯婆</rb><rt>ゆたんぽ</rt></ruby>ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」

彼は何にも解らないくせに<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い加減な<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいってかえって細君から笑われたりした。

日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。

「女は子供を専領してしまうものだね」

細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。

「何で<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>から棒にそんな事を<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃるの」

「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>をするつもりなんだろう」

「馬鹿を仰ゃい。子供が<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へばかり寄り付くのは、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が構い付けて<ruby><rb>御遣</rb><rt>おや</rt></ruby>りなさらないからです」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を構い付けなくさせたものは、<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>も直さず御前だろう」

「どうでも勝手になさい。何ぞというと<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いませんから」

健三はむしろ<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>であった。僻みとも<ruby><rb>口巧者</rb><rt>くちごうしゃ</rt></ruby>とも思わなかった。

「女は策略が好きだからいけない」

細君は床の上で<ruby><rb>寐返</rb><rt>ねがえ</rt></ruby>りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。

「そんなに何も<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>を<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>めなくっても……」

細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ<ruby><rb>産褥</rb><rt>さんじょく</rt></ruby>を離れ得ない彼女の前に<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。

次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。

「貴夫<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>その子を抱いて御遣りにならないの」

「何だか抱くと<ruby><rb>険呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>だからさ。<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>でも折ると大変だからね」

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する<ruby><rb>情合</rb><rt>じょうあい</rt></ruby>が欠けているんですよ」

「だって御覧な、ぐたぐたして抱き<ruby><rb>慣</rb><rt>つ</rt></ruby>けない男に手なんか出せやしないじゃないか」

実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に<ruby><rb>水疱瘡</rb><rt>みずぼうそう</rt></ruby>の出来た時、健三の態度が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに一変した実例を証拠に挙げた。

「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」

健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。

「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」

彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての技巧から解放された自由の人であるかのように。

## 八十四

退屈な細君は貸本屋から借りた小説を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>く時、彼は細君に向って<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「こんなものが面白いのかい」

細君は自分の文学趣味の低い事を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>けられるような気がした。

「いいじゃありませんか、<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>に面白くなくったって、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>にさえ面白けりゃ」

色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。

健三の所へ<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>する二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。

案に相違して健三は<ruby><rb>頑強</rb><rt>がんきょう</rt></ruby>であった。同時に細君の<ruby><rb>膠着力</rb><rt>こうちゃくりょく</rt></ruby>も固かった。二人は二人同志で<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>し合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三はまた自分を認めない細君を<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>す態度を公けにして<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかった。

「じゃ貴夫が教えて下されば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのに。そんなに<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を馬鹿にばかりなさらないで」

「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>にゃどうする事も出来ないよ」

誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。しかし古いだけで<ruby><rb>埓</rb><rt>らち</rt></ruby>は一向開かなかった。

健三はもう飽きたという風をして、<ruby><rb>手摺</rb><rt>てずれ</rt></ruby>のした貸本を投げ出した。

「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかし<ruby><rb>余</rb><rt>あん</rt></ruby>まり眼を使わないようにしたら好いだろう」

細君は<ruby><rb>裁縫</rb><rt>しごと</rt></ruby>が一番好きであった。<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>られない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の下に運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのが<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>で、大変視力を悪くした経験もあった。

「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」

「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」

「なに大丈夫です」

まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。

「御前が困らなくっても己が困る」

健三はわざと手前勝手らしい事をいった。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。

同時に彼のノートは<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>細かくなって行った。最初<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>の頭位であった字が次第に<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>の頭ほどに縮まって来た。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど無意味に<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>から出る薄い<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の影、彼は暇さえあれば彼の視力を<ruby><rb>濫費</rb><rt>らんぴ</rt></ruby>して顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。

## 八十五

細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>を立てようとしていた。

「大変荒れた事、今年は<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>より寒いようね」

「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」

「そうでしょうかしら」

細君は始めて気が付いたように、両手を<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の上に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して、自分の<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>の色を見た。

「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」

「ええ、そりゃ分ってますわ」

彼女は再び火の上に差し延べた手を返して<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおしろ</rt></ruby>い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を二、三度<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。

「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」

健三には自分の説明を聴かない細君が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく見えた。

「そりゃ冬だから寒いに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>まっているさ」

細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に厳しく<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った。彼はやむをえず書斎に<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>を入れて、<ruby><rb>両膝</rb><rt>りょうひざ</rt></ruby>から腰のあたりに<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>み込む<ruby><rb>冷</rb><rt>ひえ</rt></ruby>を防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>る所がなかった。

毎朝夫を送り出してから髪に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>くたびに櫛の歯に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まるその抜毛を残り<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>に眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。

「新らしく生きたものを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」

彼女の胸には<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにこういう感じが<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めるほどの頭を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。いずれにしても、新らしく生れた子が<ruby><rb>可愛</rb><rt>かあい</rt></ruby>くなるばかりであった。

彼女はぐたぐたして<ruby><rb>手応</rb><rt>てごた</rt></ruby>えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。

彼女は自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>にその子を置いて、また<ruby><rb>裁</rb><rt>たち</rt></ruby>もの板の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ているその顔を、心配そうに上から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。

「そりゃ誰の着物だい」

「やっぱりこの子のです」

「そんなにいくつも<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るのかい」

「ええ」

細君は黙って手を運ばしていた。

健三は<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と気が付いたように、細君の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置かれた大きな模様のある<ruby><rb>切地</rb><rt>きれじ</rt></ruby>を眺めた。

「それは姉から祝ってくれたんだろう」

「そうです」

「下らない話だな。金もないのに止せば<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのに」

健三から<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った小遣の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>を<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。

「つまり<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」

「でも<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」

姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。

「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」

こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。

「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」

<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を訪問する時に<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>ものを持参した<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めりんす</span>を見詰めていた。

## 八十六

「だから元は<ruby><rb>御姉</rb><rt>おあねえ</rt></ruby>さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」

細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――

「<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>に何か呉れるんだそうですよ」

「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」

「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」

<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。

「随分厄介な<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>だね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」

「<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>から見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」

健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。

今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。

<ruby><rb>兼</rb><rt>かね</rt></ruby>てからわが座敷の<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ<ruby><rb>団子坂</rb><rt>だんござか</rt></ruby>にある<ruby><rb>唐木</rb><rt>からき</rt></ruby>の<ruby><rb>指物師</rb><rt>さしものし</rt></ruby>の所へ行って、<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の<ruby><rb>懸額</rb><rt>かけがく</rt></ruby>を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った<ruby><rb>北魏</rb><rt>ほくぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>二十品</rb><rt>にじっぴん</rt></ruby>という<ruby><rb>石摺</rb><rt>いしずり</rt></ruby>のうちにある一つを<ruby><rb>択</rb><rt>え</rt></ruby>り出して入れた。それからその額を<ruby><rb>環</rb><rt>かん</rt></ruby>の着いた細長い<ruby><rb>胡麻竹</rb><rt>ごまだけ</rt></ruby>の下へ<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ら下げて、床の間の<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>へ懸けた。竹に丸味があるので壁に<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>かないせいか、額は静かな時でも<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に<ruby><rb>傾</rb><rt>かたぶ</rt></ruby>いた。

彼はまた団子坂を下りて<ruby><rb>谷中</rb><rt>やなか</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って行った。そうして<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にある陶器店から一個の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>はないけ</rt></ruby>を買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。

彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って<ruby><rb>反物</rb><rt>たんもの</rt></ruby>を買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い加減な選択をした。それはむやみに光る<ruby><rb>絣</rb><rt>かすり</rt></ruby>であった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>と着物を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるべく勧められた彼は、遂に一匹の<ruby><rb>伊勢崎銘仙</rb><rt>いせざきめいせん</rt></ruby>を抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。

これらの物を買い<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えた彼は<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を<ruby><rb>過重</rb><rt>かちょう</rt></ruby>する姉に比べて見ると、彼は<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れなものに対する好意すら失なっていた。

「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての<ruby><rb>見栄坊</rb><rt>みえぼう</rt></ruby>なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」

「<ruby><rb>親切気</rb><rt>しんせつぎ</rt></ruby>はまるでないんでしょうか」

「そうさな」

健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。

「ことによると<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の方が不人情に出来ているのかも知れない」

## 八十七

この会話がまだ健三の記憶を新しく<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>っていた頃、彼は<ruby><rb>御常</rb><rt>おつね</rt></ruby>から第二回の訪問を受けた。

<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだっ</rt></ruby>て見た時とほぼ同じように粗末な<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしている彼女の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>は、寒さと共に<ruby><rb>襦袢胴着</rb><rt>じゅばんどうぎ</rt></ruby>の類でも重ねたのだろう、前よりは<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>丸まっちくなっていた。健三は客のために出した<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>をすぐその人の方へ押し<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。

「いえもう御構い下さいますな。<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>御暖</rb><rt>おあった</rt></ruby>かで御座いますから」

<ruby><rb>外部</rb><rt>そと</rt></ruby>には穏やかな日が、障子に<ruby><rb>篏</rb><rt>はめ</rt></ruby>めた<ruby><rb>硝子越</rb><rt>ガラスごし</rt></ruby>に薄く光っていた。

「あなたは年を取って段々<ruby><rb>御肥</rb><rt>おふと</rt></ruby>りになるようですね」

「ええ御蔭さまで<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の方はまことに丈夫で御座います」

「そりゃ結構です」

「その代り<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>の方はただ<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せる一方で」

健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えるところもあった。

「酒でも飲むんじゃなかろうか」

こんな推察さえ彼の胸を横切った。

御常の<ruby><rb>肌身</rb><rt>はだみ</rt></ruby>に着けているものは<ruby><rb>悉</rb><rt>ことご</rt></ruby>とく古びていた。<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>水を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ったか分らないその着物なり<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に<ruby><rb>洗張</rb><rt>あらいはり</rt></ruby>が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。

「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」

「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」

健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。

「この人は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」

近頃の健三は実際健康を<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むしゃくしゃ</span>した。或時は<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。

「年が若くって<ruby><rb>起居</rb><rt>たちい</rt></ruby>に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。<ruby><rb>門構</rb><rt>もんがまえ</rt></ruby>の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>に住んで<ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>さえ使っていれば金でもあると考えるように」

健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に飾られた<ruby><rb>花瓶</rb><rt>はないけ</rt></ruby>とその後に懸っている<ruby><rb>懸額</rb><rt>かけがく</rt></ruby>とを眺めた。近いうちに<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を通すべきぴかぴかする<ruby><rb>反物</rb><rt>たんもの</rt></ruby>も彼の心のうちにあった。彼は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。

「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」

彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。

御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の<ruby><rb>手腕</rb><rt>うで</rt></ruby>がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも<ruby><rb>見当</rb><rt>みあた</rt></ruby>らないらしかった。

「何しろ<ruby><rb>取高</rb><rt>とりだか</rt></ruby>が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでくれると<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いのですけれども」

彼女は自分の娘婿を<ruby><rb>捉</rb><rt>つら</rt></ruby>まえて愚図だとも<ruby><rb>無能</rb><rt>やくざ</rt></ruby>だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも<ruby><rb>物指</rb><rt>ものさし</rt></ruby>で反物の寸法さえ計れば、<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。

<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。

## 八十八

好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。

「失礼ですがこれで<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>へでも乗って行って下さい」

「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったのでは御座いませんから」

彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れた。

小遣を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る時の健三がこの前と同じ<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を用いたように、それを<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>う御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という<ruby><rb>金高</rb><rt>かねだか</rt></ruby>さえ一致していた。

「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」

健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。

「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らざる<ruby><rb>義理立</rb><rt>ぎりだて</rt></ruby>をするのと同じ事なのかしら」

自分の関係した事じゃないといった風に<ruby><rb>熨斗</rb><rt>ひのし</rt></ruby>を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――

「ないときは遣らないでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか。何もそう<ruby><rb>見栄</rb><rt>みえ</rt></ruby>を張る必要はないんだから」

「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」

二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を<ruby><rb>熨斗</rb><rt>ひのし</rt></ruby>から<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>へ移す音がその間に聞こえた。

「どうしてまた今日は五円入っていたんです。<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>紙入</rb><rt>かみいれ</rt></ruby>に」

健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>はないけ</rt></ruby>を買うのに四円いくらか払った。<ruby><rb>懸額</rb><rt>かけがく</rt></ruby>を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつ</rt></ruby>らえるとき五円なにがしか取られた。<ruby><rb>指物師</rb><rt>さしものし</rt></ruby>が百円に負けて置くから買わないかといった立派な<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して<ruby><rb>匠人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の<ruby><rb>伊勢崎銘仙</rb><rt>いせざきめいせん</rt></ruby>を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、<ruby><rb>手垢</rb><rt>てあか</rt></ruby>の付いた五円札がたった一枚残ったのである。

「実はまだ買いたいものがあるんだがな」

「何を御買いになるつもりだったの」

健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。

「沢山あるんだ」

慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。

「あの<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>御姉</rb><rt>おあねえ</rt></ruby>さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>で落ち合っても、そう<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>もしないでしょう」

「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」

「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」

「喧嘩はとにかく、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の方が<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>じゃないか」

「二人ともまだ知らないようね。片っ方が<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来る事を」

「どうだか」

島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。

「あの御婆さんの方がまだあの人より<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「どうして」

「五円貰うと黙って帰って行くから」

島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。

## 八十九

日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>した。

彼らだって生れ付いての<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>同志でない以上、仲の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い昔もあったに違ない。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>から<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>に<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>すようだといわれるのも構わずに、金ばかり<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。彼らに取って<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>ましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまった<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。

健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。しかし過去に無感覚な表情しか<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>たない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>、古い<ruby><rb>愛執</rb><rt>あいしゅう</rt></ruby>、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。

彼は腰から<ruby><rb>烟草入</rb><rt>タバコいれ</rt></ruby>を出して、刻み烟草を<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>へ詰めた。<ruby><rb>吸殻</rb><rt>すいがら</rt></ruby>を落すときには、左の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で<ruby><rb>烟管</rb><rt>キセル</rt></ruby>を受けて、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の縁を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>かなかった。<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。彼は無言で<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を探った。それから健三の方を向いた。

「少し紙はありませんか、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>烟管が詰って」

彼は健三から受取った半紙を<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて<ruby><rb>小撚</rb><rt>こより</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた。それで二返も三返も<ruby><rb>羅宇</rb><rt>ラウ</rt></ruby>の中を掃除した。彼はこういう事をするのに最も<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。

「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」

彼は<ruby><rb>疎通</rb><rt>とおり</rt></ruby>の好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。

「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」

「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」

島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。

「おや赤ん坊のようですね」

「ええ、つい<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>生れたばかりです」

「そりゃどうも。<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも知りませんでした。男ですか女ですか」

「女です」

「へええ、失礼だがこれで<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくたり</rt></ruby>目ですか」

島田は色々な事を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。それに相当な<ruby><rb>受応</rb><rt>うけこたえ</rt></ruby>をしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。

出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。

「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」

彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を注いだ。何のために生きているか<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。

「どういう訳でこう丈夫なのだろう」

健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も責任がないものの如き<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――

「<ruby><rb>御縫</rb><rt>おぬい</rt></ruby>もとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」

とても助からないという事だけは、<ruby><rb>脊髄病</rb><rt>せきずいびょう</rt></ruby>という名前から<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。

「そうですか。<ruby><rb>可愛想</rb><rt>かわいそう</rt></ruby>に」

「なに病気が病気だからとても<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りっこないんです」

島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。

## 九十

しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。

「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」

<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を推察する事が出来た。

「また金でしょう」

「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」

島田の言葉は変に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>になったり、また<ruby><rb>鄭寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>になったりした。

「今までは<ruby><rb>金鵄勲章</rb><rt>きんしくんしょう</rt></ruby>の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>が外れるような始末で、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>も困るんです」

彼はまた調子を改めた。

「とにかくこうなっちゃ、御前を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」

「そう<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>にのし懸って来たって仕方がありません。今の<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>にはそれだけの事をしなければならない<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>も何もないんだから」

島田は<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>させるだけであった。健三の態度から<ruby><rb>深入</rb><rt>ふかいり</rt></ruby>の危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。

「永い間の事はまた<ruby><rb>緩々</rb><rt>ゆるゆる</rt></ruby>御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」

健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。

「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこの<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>だって暮になりゃ百と二百と<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るのは当り前だろう」

健三は勝手にしろという気になった。

「私にそんな金はありませんよ」

「<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>いっちゃいけない。これだけの<ruby><rb>構</rb><rt>かまえ</rt></ruby>をしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」

「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」

「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」

健三はこの無茶苦茶な<ruby><rb>言掛</rb><rt>いいがか</rt></ruby>りに<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>らされるよりはむしろ驚ろかされた。

「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の関係した事じゃありません」

島田は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。

「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」

「ええ、もう一文も上ません」

島田は立ち上った。<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ下りて、開けた<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>を締める時に、彼はまた振り返った。

「もう<ruby><rb>参上</rb><rt>あが</rt></ruby>りませんから」

最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>した。しかし彼はその輝きのうちに何らの<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>さも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>から出る<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。

細君は遠くから<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に健三の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

「一体どうしたんです」

「勝手にするが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いや」

「また御金でも呉れろって来たんですか」

「誰が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るもんか」

細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。

「あの<ruby><rb>御婆</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんの方が細く長く続くからまだ安全ね」

「島田の方だって、これで片付くもんかね」

健三は吐き出すようにこういって、<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>るべき次の幕さえ頭の中に予想した。

## 九十一

同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を<ruby><rb>鮮明</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに眺めた。

実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな<ruby><rb>出来損</rb><rt>できそこな</rt></ruby>いが舞い込んで来たかという顔付をした父は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、<ruby><rb>生</rb><rt>うみ</rt></ruby>の父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>い込んでからすぐ<ruby><rb>慳貪</rb><rt>けんどん</rt></ruby>に調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。次には<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>をつかした。しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げた。彼は遂に<ruby><rb>憂欝</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>にならずに済んだ。

子供を沢山<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた彼の父は、<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も健三に<ruby><rb>依怙</rb><rt>かか</rt></ruby>る気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るのは、ただ損になるだけであった。

その上肝心の本人は帰って来ても籍は<ruby><rb>復</rb><rt>もど</rt></ruby>らなかった。いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、また<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行かれればそれまでであった。

「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>でするのが当然だ」

父の理窟はこうであった。

島田はまた島田で自分に都合の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い方からばかり事件の<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>を観望していた。

「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時<ruby><rb>表沙汰</rb><rt>おもてざた</rt></ruby>にしてでもこっちへ<ruby><rb>奪還</rb><rt>ふんだ</rt></ruby>くってしまえばそれまでだ」

健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。

実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が<ruby><rb>我楽多</rb><rt>がらくた</rt></ruby>として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。

「もうこっちへ引き取って、<ruby><rb>給仕</rb><rt>きゅうじ</rt></ruby>でも何でもさせるからそう思うがいい」

健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だったか<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>している頃であった。

「給仕になんぞされては大変だ」

彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>にしてその言葉は<ruby><rb>徒労</rb><rt>むだ</rt></ruby>に繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。

「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」

彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘い<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せたものだという誇りも<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby><ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。

彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。

彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。彼が御常を<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。一方から見ると、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>と<ruby><rb>反</rb><rt>そり</rt></ruby>が合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。

## 九十二

細君は健三に向っていった。――

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」

健三の心はこうした<ruby><rb>諷刺</rb><rt>ふうし</rt></ruby>を笑って受けるほど<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>窮屈にした。

「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思っているんだろう」

「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」

<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。

彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をしたなり澄ましていた。<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>一つ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げるにさえ、彼は<ruby><rb>細紐</rb><rt>ほそびき</rt></ruby>をどう渡すべきものやら分らなかった。

「男のくせに」

動かない彼は、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものの眼に、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>反対の方面に移して行った。

彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。

「あれじゃ仕方がない。<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」

健三の<ruby><rb>申出</rb><rt>もうしで</rt></ruby>は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいま</rt></ruby>まにする我子を見て、何という未来の心配も<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。

「もし田舎へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って貴夫と衝突したり<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」

細君の弁解を聞いた時、健三は<ruby><rb>満更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>の<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>とも思わなかった。けれどもその<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にまだ意味が残っているようにも考えた。

「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」

周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるのではなかろうかと推察した。

なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ<ruby><rb>怜悧</rb><rt>りこう</rt></ruby>過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>に至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。

「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」

健三の言葉は勢い<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>ずくであった。<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。

機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――

「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ね返すっていうじゃないか」

「だからもっと解りやすいように。私に解らないような<ruby><rb>小六</rb><rt>こむ</rt></ruby>ずかしい理窟はやめにして」

「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」

「だって貴夫の理窟は、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」

「御前の頭が悪いからそう思うんだ」

「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>ですよ」

二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。

## 九十三

面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>に<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。

<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の<ruby><rb>牆</rb><rt>かき</rt></ruby>もなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>のものでなくっても、この子は私の物よ」

彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。

その赤ん坊はまだ<ruby><rb>眼鼻立</rb><rt>めはなだち</rt></ruby>さえ<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>していなかった。頭には何時まで待っても<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。

「変な子が出来たものだなあ」

健三は正直な所をいった。

「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」

「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」

「今に御覧なさい」

細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ<ruby><rb>逢着</rb><rt>ほうちゃく</rt></ruby>した。

四、五日前少し強い地震のあった時、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>な彼はすぐ<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。

「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」

<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>子供の<ruby><rb>安危</rb><rt>あんき</rt></ruby>を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。

「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」

「当り前ですわ」

健三は自分が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも不人情のような気がした。

しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かに眺めた。

「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」

しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。

「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っている。御前は<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」

書斎に<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。

「<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>に実が<ruby><rb>結</rb><rt>な</rt></ruby>ると<ruby><rb>翌年</rb><rt>あくるとし</rt></ruby>からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」

彼は母の立場をこう考え尽した<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>った時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。

「子供を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った御前は仕合せである。しかしその仕合を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」

## 九十四

年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ると御正月」という<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>をうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>るべき新年の希望に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちていた。

書斎にいる健三は時々手に<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。

子供はまた「旦那の<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらい</rt></ruby>な<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>」という<ruby><rb>毬歌</rb><rt>まりうた</rt></ruby>をうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に<ruby><rb>的中</rb><rt>あてはま</rt></ruby>らなかった。彼はただ厚い<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>つ折の半紙の束を、<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い<ruby><rb>印気</rb><rt>インキ</rt></ruby>で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。

半紙に認ためられたものは<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ<ruby><rb>判然</rb><rt>はんぜん</rt></ruby>しないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>した。「ペネロピーの仕事」という英語の<ruby><rb>俚諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>が何遍となく彼の口に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った。

「何時まで経ったって片付きゃしない」

彼は折々筆を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いて<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた。

しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。

「何だい」

「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」

「今<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>るからって返してくれ」

一度立った細君はすぐまた戻って来た。

「何時伺ったら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか御都合を聞かして頂きたいんですって」

健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。

「何といいましょう」

「<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>の午後に来て下さいといってくれ」

健三も仕方なしに時日を指定した。

仕事を中絶された彼はぼんやり<ruby><rb>烟草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。

「帰ったかい」

「ええ」

細君は夫の前に広げてある赤い<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>の附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――

調べ物を度外に置いた彼女は、<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>るとすぐ夫に<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。――

「また何かそういって来る気でしょうね。<ruby><rb>執</rb><rt>しつ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>い」

「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」

細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る方に傾いていた。しかし話は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで発展する機会を得ずによそへ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れてしまった。

「御前の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>の方はどうだい」

「相変らず困るんでしょう」

「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」

「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」

「この暮のうちには<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>ずかしいのかね」

「とても」

「困るだろうね」

「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」

細君は割合に<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いていた。何事も<ruby><rb>諦</rb><rt>あき</rt></ruby>らめているらしく見えた。

## 九十五

見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、<ruby><rb>中一日</rb><rt>なかいちにち</rt></ruby>置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた<ruby><rb>洋筆先</rb><rt>ペンさき</rt></ruby>で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>は赤い<ruby><rb>印気</rb><rt>インキ</rt></ruby>で所々<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。

島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にしていたが、健三からいえば、双方とも<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど差別のない位懸け離れた人間であった。

彼は<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>に<ruby><rb>角帯</rb><rt>かくおび</rt></ruby>を締めて<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていた。商人とも紳士とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。――

「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の顔を覚えて<ruby><rb>御出</rb><rt>おいで</rt></ruby>ですか」

健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いていえば、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までただ<ruby><rb>世帯染</rb><rt>しょたいじ</rt></ruby>みて生きて来たという位のものであった。

「どうも分りませんね」

彼は勝ち誇った人のように笑った。

「そうでしょう。もう忘れても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い時分ですから」

彼は区切を置いてまた附け加えた。

「しかし私ゃこれでも貴方の<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」

「そうですか」

健三は<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ない<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしたなり、その人の顔を<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見守った。

「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが<ruby><rb>扱所</rb><rt>あつかいじょ</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>の中にあったんでさあ。あの時<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」

健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている人のその時の姿などは夢にも<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出せなかった。

「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったような<ruby><rb>訳合</rb><rt>わけあい</rt></ruby>なんです」

彼は<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。

「もう再び御宅へは伺わないといってますから」

「この間帰る時既にそういって行ったんです」

「で、どうでしょう、<ruby><rb>此所</rb><rt>ここ</rt></ruby>いらで<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」

健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の<ruby><rb>口気</rb><rt>こうき</rt></ruby>を快よく思わなかった。

「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>にはよッぽど心持が好いんです」

その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。

「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めたものを渡して、あの書付と<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>えになすった方が好くはありませんか」

健三はその書付を<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、<ruby><rb>向後</rb><rt>こうご</rt></ruby>御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>二行<ruby><rb>余</rb><rt>あまり</rt></ruby>に<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>って先方へ渡した。

「あんなものは<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>同然ですよ。<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>で持っていても役に立たず、私が<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」

健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。

## 九十六

話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>に訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。

「書付を買えの、今に迷惑するのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り<ruby><rb>向後</rb><rt>こうご</rt></ruby>一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」

「ええそれがつまり<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」

健三はそんなら<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。

「じゃどの位出して下さいます」

健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか<ruby><rb>判明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した目安の出て<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。

「まあ百円位なものですね」

「百円」

その人はこう繰り返した。

「どうでしょう、<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めて三百円位にして<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る訳には行きますまいか」

「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」

「<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」

「そんな事をいやあ、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>だって困っています」

「そうですか」

彼の語気はむしろ皮肉であった。

「元来一文も出さないといったって、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ<ruby><rb>御止</rb><rt>およ</rt></ruby>しなさい」

相手は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>をやめた。

「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまた<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>る事にしますから、どうぞ何分」

その人が帰った後で健三は細君に向った。

「とうとう来た」

「どうしたっていうんです」

「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ってるから厭だ」

「馬鹿らしい」

細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。

「だって仕方がないよ」

健三の返事も簡単であった。彼は<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ落付くまでの筋道を<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく細君に話してやるのさえ面倒だった。

「そりゃ<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>の御金を貴夫が御遣りになるんだから、<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>何もいう訳はありませんわ」

「金なんかあるもんか」

健三は<ruby><rb>擲</rb><rt>たた</rt></ruby>き付けるようにこういって、また書斎へ入った。其所には鉛筆で一面に<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>された紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を取り上げた。そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。

客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。

「神でない以上公平は保てない」

彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやふや</span>な自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。

「神でない以上辛抱だってし切れない」

彼はまた<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を放り出した。赤い<ruby><rb>印気</rb><rt>インキ</rt></ruby>が血のように半紙の上に<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んだ。彼は帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って寒い往来へ飛び出した。

## 九十七

人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。

「御前は<ruby><rb>必竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>何をしに世の中に生れて来たのだ」

彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。

「分らない」

その声は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちせせら笑った。

「分らないのじゃあるまい。分っていても、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のせいじゃない。己のせいじゃない」

健三は逃げるようにずんずん歩いた。

<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を<ruby><rb>刺撃</rb><rt>しげき</rt></ruby>した。彼の気分は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く変った。

彼は客の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>を、それからそれと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、<ruby><rb>珊瑚樹</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>根懸</rb><rt>ねがけ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛笄</rb><rt>くしこうがい</rt></ruby>だのを、<ruby><rb>硝子越</rb><rt>ガラスごし</rt></ruby>に何の意味もなく長い間眺めていた。

「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」

少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>ばかりであった。中にも細君の父は一番<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>そうに思われた。

「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」

借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。

それは内閣の<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>した当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの<ruby><rb>退</rb><rt>しり</rt></ruby>ぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>から、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>った。官邸を引き払った時に<ruby><rb>召仕</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>の数を減らした彼は、<ruby><rb>少時</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして<ruby><rb>自用俥</rb><rt>じようぐるま</rt></ruby>を廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby>悲境に沈んで行った。

「相場に手を出したのが悪いんですよ」

細君はこんな事もいった。

「御役人をしている間は相場師の方で<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けさせてくれるんですって。だから<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いけれども、一旦役を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」

「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」

「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」

「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」

健三はその時細君と取り換わせた談話まで<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出した。

彼はふと気が付いた。彼と<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。

或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を与えた。

「御前は馬鹿だよ」

<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にはこんな顔付をするものさえあった。

彼はまた<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って赤い<ruby><rb>印気</rb><rt>インキ</rt></ruby>を<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない半紙へなすくり始めた。

## 九十八

二、三日すると島田に頼まれた男がまた<ruby><rb>刺</rb><rt>し</rt></ruby>を通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>るべく余儀なくされた。

「どうも御忙がしいところを<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>出まして」

彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。

「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しい、その代りどうか年内に<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>致したい、とこういうんですがね」

健三にはそんな見込がなかった。

「年内たってもう<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの日数しかないじゃありませんか」

「だから向うでも急ぐような訳でしてね」

「あれば今すぐ上げても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」

「そうですか」

二人は<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>無言のままでいた。

「どうでしょう、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>のところを一つ御奮発は願われますまいか。<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>も折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来たもんですから」

それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの<ruby><rb>手数</rb><rt>てかず</rt></ruby>でも面倒でもなかった。

「御気の毒ですが出来ませんね」

二人はまた沈黙を間に置いて<ruby><rb>相対</rb><rt>あいたい</rt></ruby>した。

「じゃ何時頃頂けるんでしょう」

健三には何時という<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなかった。

「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」

「私もこうして頼まれて<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>った以上、何とか<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ<ruby><rb>御取極</rb><rt>おとりきめ</rt></ruby>を願いたいと思いますが」

「<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」

健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。

その晩寒さと<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぐために<ruby><rb>蕎麦湯</rb><rt>そばゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りながら、盆を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置いて<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に坐っている細君と話し合った。

「また百円どうかしなくっちゃならない」

「<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」

「遣らないでもいいのだけれども、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は遣るんだ」

言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。

「そう<ruby><rb>依故地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>を<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃればそれまでです」

「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」

「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」

「理窟と形式とは違うさ」

「貴夫のは同なじですよ」

「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ<ruby><rb>論理</rb><rt>ロジック</rt></ruby>を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>全体にもあるんだ」

「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」

「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>のようなもので、理窟が<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>から白く吹き出すだけなんだ。<ruby><rb>外部</rb><rt>そと</rt></ruby>から<ruby><rb>喰付</rb><rt>くっつ</rt></ruby>けた砂糖とは違うさ」

こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。

「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、<ruby><rb>外部</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た所だけを<ruby><rb>捉</rb><rt>つら</rt></ruby>まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の<ruby><rb>御父</rb><rt>おとっ</rt></ruby>さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>がないと考えているようなもので……」

「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう<ruby><rb>外部</rb><rt>うわべ</rt></ruby>ばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>んだ眼で<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を見ていらっしゃるから……」

細君の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>から涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れた。そうして段々<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがらか</span>って来た。

## 九十九

また二、三日して細君は久しぶりに外出した。

「<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby><ruby><rb>見舞</rb><rt>みまい</rt></ruby>かたがた少し歳暮に廻って来ました」

<ruby><rb>乳呑児</rb><rt>ちのみご</rt></ruby>を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を赤くして、暖かい空気の<ruby><rb>裡</rb><rt>なか</rt></ruby>に<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつけ</rt></ruby>た。

「御前の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>はどうだい」

「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」

健三は<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>の仕様もなかった。

「あの<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>しました」

<ruby><rb>舞葡萄</rb><rt>まいぶどう</rt></ruby>とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな<ruby><rb>唐机</rb><rt>とうづくえ</rt></ruby>は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の<ruby><rb>抵当</rb><rt>かた</rt></ruby>に取った細君の父は、同じ運命の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。

「縁起はどうでも<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いが、そんな<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」

健三は苦笑しながら<ruby><rb>烟草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を吹かした。

「そういえば<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>、あの人に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る御金を<ruby><rb>比田</rb><rt>ひだ</rt></ruby>さんから借りなくって」

細君は<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>から棒にこんな事をいった。

「比田にそれだけの余裕があるのかい」

「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」

健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。

「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」

「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、<ruby><rb>差当</rb><rt>さしあた</rt></ruby>り困るような事はないんですって」

彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。

「<ruby><rb>居食</rb><rt>いぐい</rt></ruby>をしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」

「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」

健三は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>から島田の因業を<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>っていた比田だの姉だのを<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い浮べた。自分たちの境遇が変ると、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>まで<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>していた人の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をして<ruby><rb>恬</rb><rt>てん</rt></ruby>として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供<ruby><rb>染</rb><rt>じ</rt></ruby>みていた。

「どうせ高利なんだろう」

細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。

「何でも<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、<ruby><rb>御姉</rb><rt>おあね</rt></ruby>えさんがそう<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃいましたよ」

健三は姉のいう利子の高から<ruby><rb>胸算用</rb><rt>むなざんよう</rt></ruby>で<ruby><rb>元金</rb><rt>もときん</rt></ruby>を勘定して見た。

「悪くすると、またみんな<ruby><rb>損</rb><rt>す</rt></ruby>っちまうだけだ。それよりそう<ruby><rb>慾張</rb><rt>よくばら</rt></ruby>ないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」

「だから<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>な人に貸したいっていうんでしょう」

「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」

「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」

「それじゃ<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>だって借りるのは<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>ださ」

「<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあに</rt></ruby>いさんも困っていらしってよ」

比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。

「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>な思いまでして借りる必要もあるまいからね」

健三は苦々しいうちにも<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>を感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でも<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われた。それを<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で見て澄ましている姉の<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>も彼には不可思議であった。血が続いていても<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>という心持は全くしなかった。

「御前己が借りるとでもいったのかい」

「そんな余計な事いやしません」

## 百

利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に考えられなかった。彼は<ruby><rb>毎月</rb><rt>まいげつ</rt></ruby>いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。

「<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」

こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。

「何だか変だな。考えると<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくなるだけだ。まあ<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いや<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が借りて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らなくってもどうにかなるんだろうから」

「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。<ruby><rb>彼所</rb><rt>あすこ</rt></ruby>いらの<ruby><rb>待合</rb><rt>まちあい</rt></ruby>か何かへ」

待合という言葉が健三の耳になおさら<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>に響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>ではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。

滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。

それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>から自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど<ruby><rb>口癖</rb><rt>くちくせ</rt></ruby>のようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。

病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の<ruby><rb>記念</rb><rt>かたみ</rt></ruby>とも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は<ruby><rb>義姉</rb><rt>あね</rt></ruby>から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。

或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしい<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>に<ruby><rb>珊瑚樹</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>が装飾として付け加えられた。彼はそれを<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>らしく兄の前に置いた。

「それではこれは<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に上げる事にしますから」

<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。

「どうも色々<ruby><rb>御手数</rb><rt>おてかず</rt></ruby>を掛けまして、有難う。じゃ<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>します」

兄は礼をいってそれを受取った。

健三は黙って三人の様子を見ていた。三人は殆んど彼の<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にいる事さえ眼中に置いていなかった。しまいまで<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>も発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。しかし彼らは平気であった。彼らの仕打を<ruby><rb>仇敵</rb><rt>きゅうてき</rt></ruby>の如く憎んだ健三も、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>彼らがそんな<ruby><rb>面中</rb><rt>つらあて</rt></ruby>がましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。

彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそう</rt></ruby>を尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い刑罰に違なかろうと判断した。

「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。<ruby><rb>貴夫</rb><rt>あなた</rt></ruby>も随分執念深いわね。<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあに</rt></ruby>いさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」

細君は健三の顔を見て暗にその<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を伺った。健三はちっとも動かなかった。

「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」

「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」

こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の<ruby><rb>生家</rb><rt>さと</rt></ruby>の事も勘定に入れてあった。

## 百一

<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>が改たまった時、健三は<ruby><rb>一夜</rb><rt>いちや</rt></ruby>のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。

「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」

実際彼の周囲には<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>も元日もなかった。<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。

彼は普通の<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。<ruby><rb>冬木立</rb><rt>ふゆこだち</rt></ruby>と荒た<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>、<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶき</rt></ruby>屋根と細い<ruby><rb>流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>、そんなものが<ruby><rb>盆槍</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>した彼の眼に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った。しかし彼はこの<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な自然に対してももう感興を失っていた。

幸い天気は穏かであった。<ruby><rb>空風</rb><rt>からかぜ</rt></ruby>の吹き<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>らない<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>には春に似た<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を包んだ。彼は人もなく<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>もない所へわざわざ迷い込んだ。そうして<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいる間に、気分を紛らそうとして絵を<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた。しかしその絵があまり<ruby><rb>不味</rb><rt>まず</rt></ruby>いので、写生はかえって彼を<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>にするだけであった。彼は重たい足を引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>ってまた<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って来た。途中で島田に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。

赤い<ruby><rb>印気</rb><rt>インキ</rt></ruby>で汚ない半紙をなすくる<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた<ruby><rb>洋筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>を執って原稿紙に向った。

健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの病気に<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>でもしたいように。彼は血に<ruby><rb>餓</rb><rt>う</rt></ruby>えた。しかも<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>る事が出来ないのでやむをえず自分の血を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>って満足した。

予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。

「ああ、ああ」

彼は<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>と同じような声を揚げた。

書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡して<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いかちょっと迷った。直接の会見は彼も好まなかった。向うももう<ruby><rb>参上</rb><rt>あが</rt></ruby>りませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。

「やっぱり<ruby><rb>御兄</rb><rt>おあにい</rt></ruby>さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」

「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」

健三は<ruby><rb>津守坂</rb><rt>つのかみざか</rt></ruby>へ出掛て行った。

「百円遣るの」

驚ろいた姉は<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>なさそうな眼を丸くして健三を見た。

「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみったれ</span>た<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>も出来まいし、それにあの島田って<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんが、ただの爺さんと違って、あの通りの<ruby><rb>悪党</rb><rt>わる</rt></ruby>だから、百円位仕方がないだろうよ」

姉は健三の腹にない事まで<ruby><rb>一人合点</rb><rt>ひとりがてん</rt></ruby>でべらべら<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>った。

「だけど御正月早々御前さんも随分好い<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の皮さね」

「好い面の皮<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>の滝登りか」

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。しかしその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しかった。

「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」

「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。<ruby><rb>右大将</rb><rt>うだいしょう</rt></ruby><ruby><rb>頼朝公</rb><rt>よりともこう</rt></ruby>の<ruby><rb>髑髏</rb><rt>しゃりこうべ</rt></ruby>と来ているんだから」

比田は<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な事ばかりいった。しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。

## 百二

比田と兄が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って健三の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>を<ruby><rb>訪問</rb><rt>おとず</rt></ruby>れたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>がした。暮も春もない健三の座敷の中に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った二人は、<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>かないように<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>いらを見廻した。

比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。

「まあこれで<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く片が付きました」

その一枚には百円受取った事と、<ruby><rb>向後</rb><rt>こうご</rt></ruby>一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。<ruby><rb>手蹟</rb><rt>て</rt></ruby>は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してあった。

健三は「しかる上は後日に至り」とか、「<ruby><rb>后日</rb><rt>ごじつ</rt></ruby>のため誓約<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。

「どうも<ruby><rb>御手数</rb><rt>おてすう</rt></ruby>でした、ありがとう」

「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで<ruby><rb>蒼蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>く付け<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>わられるか分ったもんじゃないよ。ねえ<ruby><rb>長</rb><rt>ちょう</rt></ruby>さん」

「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」

比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らないでもいい百円を好意的に遣ったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるために金の力を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りたとはどうしても思えなかった。

彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送った<ruby><rb>文言</rb><rt>もんごん</rt></ruby>を見出した。

「<ruby><rb>私儀</rb><rt>わたくしぎ</rt></ruby>今般貴家御離縁に<ruby><rb>相成</rb><rt>あいなり</rt></ruby>、実父より養育料差出<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>については、今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくと<ruby><rb>存</rb><rt>ぞんじ</rt></ruby>候」

健三には意味も<ruby><rb>論理</rb><rt>ロジック</rt></ruby>も<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く解らなかった。

「それを売り付けようというのが向うの腹さね」

「つまり百円で買って遣ったようなものだね」

比田と兄はまた話し合った。健三はその間に言葉を<ruby><rb>挟</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>むのさえ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だった。

二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。

「こっちの方は虫が食ってますね」

「<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>だよ。何にもならないもんだ。破いて<ruby><rb>紙屑籠</rb><rt>かみくずかご</rt></ruby>へ入れてしまえ」

「わざわざ破かなくっても<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いでしょう」

健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。――

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の書付はどうしたい」

「<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>にしまって置きました。」

彼女は大事なものでも保存するような<ruby><rb>口振</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でこう答えた。健三は彼女の所置を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めもしない代りに、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>める気にもならなかった。

「まあ<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かった。あの人だけはこれで片が付いて」

細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。

「何が片付いたって」

「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」

「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」

「安心するかね」

「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」

「まだなかなか片付きゃしないよ」

「どうして」

「片付いたのは<ruby><rb>上部</rb><rt>うわべ</rt></ruby>だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」

細君の顔には不審と反抗の色が見えた。

「じゃどうすれば本当に片付くんです」

「世の中に片付くなんてものは<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。

「おお<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い子だ好い子だ。御父さまの<ruby><rb>仰</rb><rt>おっし</rt></ruby>ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」

細君はこういいいい、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>か赤い<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>した。