一

<ruby><rb>南満鉄道会社</rb><rt>なんまんてつどうかいしゃ</rt></ruby>っていったい何をするんだいと<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に聞いたら、<ruby><rb>満鉄</rb><rt>まんてつ</rt></ruby>の総裁も少し<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をして、<ruby><rb>御前</rb><rt>おまえ</rt></ruby>もよっぽど馬鹿だなあと云った。<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>から馬鹿と云われたって<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>、神田の<ruby><rb>小川亭</rb><rt>おがわてい</rt></ruby>の前にあった怪しげな<ruby><rb>天麩羅屋</rb><rt>てんぷらや</rt></ruby>へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた<ruby><rb>試</rb><rt>ためし</rt></ruby>がない。「<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその<ruby><rb>格</rb><rt>かく</rt></ruby>だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>が迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。何でも是公に聞いて見ると<ruby><rb>馬関</rb><rt>ばかん</rt></ruby>や何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この<ruby><rb>尨大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら別でも<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないと云う返事であった。

それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。立てると云えば立てるような<ruby><rb>身上</rb><rt>しんじょう</rt></ruby>だから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ<ruby><rb>何日</rb><rt>いつか</rt></ruby>の船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。それも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから<ruby><rb>一船</rb><rt>ひとふね</rt></ruby>延ばすがどうだと云う<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りがあった。これも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>に見えた。それでも御供旅行の好奇心はどこかに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。

そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>っていれば<ruby><rb>清浄潔白</rb><rt>しょうじょうけっぱく</rt></ruby>で何も不足はないじゃないかと云う気になった。<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない<ruby><rb>下賤</rb><rt>げせん</rt></ruby>なものはあるまいと思った。眼を開いて<ruby><rb>本棚</rb><rt>ほんだな</rt></ruby>を見渡すと書物がぎっしり詰っている。その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしい事<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。何の<ruby><rb>酔興</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>でこんな差別をつけたものだろう、また何の<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>でそれを大事そうに<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べ立てたものだろう。実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった。

<ruby><rb>禎二</rb><rt>ていじ</rt></ruby>さんが<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが<ruby><rb>馬鹿気</rb><rt>ばかげ</rt></ruby>ていて何とも云う<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めなくっちゃならないと説諭したが、<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もだとも<ruby><rb>不尤</rb><rt>ふもっと</rt></ruby>もだとも答えるのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だった。

そのうち日は容赦なく<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った。病気は依然として元のところに<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った。中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。

二

<ruby><rb>小蒸気</rb><rt>こじょうき</rt></ruby>を出て<ruby><rb>鉄嶺丸</rb><rt>てつれいまる</rt></ruby>の<ruby><rb>舷側</rb><rt>げんそく</rt></ruby>を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>るや否や、商船会社の<ruby><rb>大河平</rb><rt>おおかわひら</rt></ruby>さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。船が動き出すと、事務長の<ruby><rb>佐治君</rb><rt>さじくん</rt></ruby>が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。こうみんなが総裁総裁と云うと<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう<ruby><rb>安東県</rb><rt>あんとうけん</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て、<ruby><rb>韓国</rb><rt>かんこく</rt></ruby>にまで及んだのだから少からず恐縮した。総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友<ruby><rb>中村是公</rb><rt>なかむらぜこう</rt></ruby>を代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>で、あまりに親しみがなくって、あまりに<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>が出過ぎている。いっこう<ruby><rb>味</rb><rt>あじわい</rt></ruby>がない。たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てにしたかったんだが、<ruby><rb>衆寡敵</rb><rt>しゅうかてき</rt></ruby>せず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>である。

船の中は比較的楽だった。<ruby><rb>二百十日</rb><rt>にひゃくとおか</rt></ruby>の<ruby><rb>明</rb><rt>あく</rt></ruby>る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>り返っていた。<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の上に若い<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>の男が犬を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う。

ありゃ何ですかと事務長の<ruby><rb>佐治</rb><rt>さじ</rt></ruby>さんに聞くと、え、あれは英国の<ruby><rb>副領事</rb><rt>ふくりょうじ</rt></ruby>だそうですと、佐治さんが答えた。副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていた。もっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえない。この犬はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>大連に渡って<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルに投宿した。そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に<ruby><rb>出食</rb><rt>でっく</rt></ruby>わして<ruby><rb>一驚</rb><rt>いっきょう</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>きっ</rt></ruby>した。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来たものと見える。もっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>の下に<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて食堂の外に出て行った。その退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつみ</rt></ruby>のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に歩んで戸の外に<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を隠した。その時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかった。あたかも弾力ある暖かい器械の、<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、<ruby><rb>行状</rb><rt>ぎょうじょう</rt></ruby>に至ってはすこぶる気高いものであった。余はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>ついにこの犬に逢う機会を得なかった。

三

退屈だから<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>のつかない天気の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。しばらくその<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を眺めていたが、やがてまた<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>といす</rt></ruby>の上に腰をおろした。例の<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>の男が、今日は犬を<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の足に鎖で縛りつけて、長い<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をその上に延ばして書物を読んでいる。もう一人の異人はサルーンで何かしきりに<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>め<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>をしている。その妻君はどこへ行ったか見えない。<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の宣教師夫婦は席を船長室の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>へ移した。甲板の上はいつもの通り無事であった。ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。その響の中でいつの間にかうとうとした。

眼が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>剥</rb><rt>ぺ</rt></ruby>がして見た。<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。いずれも<ruby><rb>佐治文庫</rb><rt>さじぶんこ</rt></ruby>と云う判が押してある。これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。友人の<ruby><rb>畔柳芥舟</rb><rt>くろやなぎかいしゅう</rt></ruby>と同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。

また<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を出て海を眺めた。すると<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは<ruby><rb>鉄嶺丸</rb><rt>てつれいまる</rt></ruby>とほぼ同じぐらいに思われるが、<ruby><rb>船足</rb><rt>ふなあし</rt></ruby>がだいぶ<ruby><rb>遅</rb><rt>のろ</rt></ruby>いと見えて、しばらくの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にもうこれほど<ruby><rb>追</rb><rt>おっ</rt></ruby>つかれたのである。<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>に<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って行くのがよく分る。しまいには黄色い文字で書いた<ruby><rb>営口丸</rb><rt>えいこうまる</rt></ruby>の三字さえ<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かに読めるようになった。やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出た。そうして、尻から胴の方へじりじりと<ruby><rb>競</rb><rt>せ</rt></ruby>り<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げて行った。船は約一丁を隔ててほとんど<ruby><rb>並行</rb><rt>へいこう</rt></ruby>の姿勢で進行している。もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。向うの甲板にいる<ruby><rb>乗客</rb><rt>じょうかく</rt></ruby>の影が<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>ができるようになった。見るとことごとく西洋人である。中には<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。髪の色も<ruby><rb>眼鼻立</rb><rt>めはなだち</rt></ruby>も甲板に立っている人は御互に<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかった。と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>して<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかるなと思った。<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に向うの<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>は余の眼を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて過ぎ去りつつ、<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>りつつ、とうとう中等甲板の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>の所まで行ってどさりと当った。同時に甲板の上に釣るしてあった<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>が二<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>ほどでんぐり返った。端艇を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いであった鉄の棒は<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に曲った。営口丸の船員は手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ってわあと<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。

一時間の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>佐治さんがやって来て、夏目さん身を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かわす</span>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かわす</span>と云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。<ruby><rb>為替</rb><rt>かわせ</rt></ruby>の<ruby><rb>替</rb><rt>かわ</rt></ruby>せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>が好いでしょうと忠告した。佐治さんは<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。

四

船が<ruby><rb>飯田河岸</rb><rt>いいだがし</rt></ruby>のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん<ruby><rb>塊</rb><rt>かたま</rt></ruby>るとさらに<ruby><rb>不体裁</rb><rt>ふていさい</rt></ruby>である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>の方で帽子を振って知人に<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をするものなどができて来た。宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら<ruby><rb>御世辞</rb><rt>おせじ</rt></ruby>を云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら<ruby><rb>権威赫々</rb><rt>けんいかくかく</rt></ruby>たる総裁だって予知し得る道理がない。余は<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>に<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>を突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>った<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>の巣のように、急に<ruby><rb>鳴動</rb><rt>めいどう</rt></ruby>し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>なんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。まあひとまず総裁の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、<ruby><rb>紺色</rb><rt>こんいろ</rt></ruby>の夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に挨拶をされた。それが秘書の<ruby><rb>沼田</rb><rt>ぬまた</rt></ruby>さんだったので、頬杖を突いて、いつまでも鳴動を眺めている余には、大変な好都合になった。沼田さんは今度郷里から呼び迎えられた老人を、自宅へ案内されるために、船まで来られたのだそうだが、同じ鉄嶺丸に余の乗っている事を聞いて、わざわざ<ruby><rb>刺</rb><rt>し</rt></ruby>を通じられたのである。

じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた。<ruby><rb>力車</rb><rt>りきしゃ</rt></ruby>もたくさんある、ところが力車はみんな<ruby><rb>鳴動連</rb><rt>めいどうれん</rt></ruby>が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、<ruby><rb>御</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>せられている様子である。したがっていずれも鳴動流に<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、<ruby><rb>露助</rb><rt>ろすけ</rt></ruby>が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、<ruby><rb>御叮嚀</rb><rt>ごていねい</rt></ruby>に穴を掘って、土の中に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めて行ったのを、チャンが土の<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を<ruby><rb>縦横</rb><rt>たてよこ</rt></ruby>十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。

その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なのが二台あった。<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>産の肥えた馬の<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まで連れて行った。さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>った。車は鳴動の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>した。

五

門を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って馬車の輪が砂利の上を二三間<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>ったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。石段を<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の戸を内から開いて、余の顔を見ながら<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。もう御帰りかと尋ねると、まだでございますと云う。<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に<ruby><rb>佇</rb><rt>たた</rt></ruby>ずんで首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたぶ</rt></ruby>けているところへ、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に足音がするようだからふり向くと、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>鉄嶺丸で<ruby><rb>知己</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>で敷きつめられて、<ruby><rb>四角</rb><rt>よすみ</rt></ruby>だけがわずかばかり<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかな織物の色と<ruby><rb>映</rb><rt>て</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>うために、薄暗く光っている。この大きな<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>の上に、応接用の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>と<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>がちょんぼり<ruby><rb>二所</rb><rt>ふたところ</rt></ruby>に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで<ruby><rb>隣家</rb><rt>りんか</rt></ruby>の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>いて見ると<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>がむやみに高い。高いはずである。<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の入口には二階がついていて、その二階の<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>から、余の坐っている所が一目に<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井<ruby><rb>兼</rb><rt>けん</rt></ruby>二階の天井である。<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>の書斎へ通ったので、<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ<ruby><rb>阿弥陀様</rb><rt>あみださま</rt></ruby>を思い出さない事はなかった。

室を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>置いて、横に<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な象の置物が<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてある。大きさは豚の子ほどある。これは<ruby><rb>狸穴</rb><rt>まみあな</rt></ruby>の支社の客間で見たものと同じだから、<ruby><rb>一対</rb><rt>いっつい</rt></ruby>を二つに分けたものだろうと思った。そのほかには長い幕の上に、<ruby><rb>大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。書体から云うと、<ruby><rb>上海辺</rb><rt>シャンハイへん</rt></ruby>で見る看板のような字で、<ruby><rb>筆画</rb><rt>ひっかく</rt></ruby>がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>くなったものだと感心したが、その<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>感心したのは、後藤さんの<ruby><rb>揮毫</rb><rt>きごう</rt></ruby>ではなくって、清国皇帝の<ruby><rb>御筆</rb><rt>おふで</rt></ruby>であった。右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>さ<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、こう小さく<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>棄</rb><rt>ずて</rt></ruby>に書かれちゃたまらない。えらい人からは、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に賜わったり<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>かされない方がいいと思った。

沼田さんは給仕を呼んで、<ruby><rb>処々方々</rb><rt>しょしょほうぼう</rt></ruby>へ電話をかけさして、是公の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を聞き合せてくれたが全く分らない。米国の艦隊が港内に<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>しているので、<ruby><rb>驩迎</rb><rt>かんげい</rt></ruby>のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>に行ってるかも知れないと云う話であった。

そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。

六

湯を立ててもらって、久しぶりに<ruby><rb>塩気</rb><rt>しおけ</rt></ruby>のない<ruby><rb>真水</rb><rt>まみず</rt></ruby>の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>くものがある。風呂場で訪問を受けた<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>しはいまだかつてないんだから、<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の中で身を浮かしながら少々<ruby><rb>逡巡</rb><rt>しゅんじゅん</rt></ruby>していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。いくらこつこつやったって、まさか<ruby><rb>赤裸</rb><rt>はだか</rt></ruby>で飛び出して、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。すると<ruby><rb>摺硝子</rb><rt>すりガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>向側</rb><rt>むこうがわ</rt></ruby>で、ちょっと明けなさいと云う声がする。この声なら明けても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないと思って、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>全体から<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>を垂らしながら、<ruby><rb>素裸</rb><rt>すっぱだか</rt></ruby>でボールトを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すと、はたして<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>を突いて戸口に立っていた。来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て、それから舟を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いでいたと云う<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>である。飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>めた。締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら<ruby><rb>遼東</rb><rt>りょうとう</rt></ruby>ホテルへでも行けと云って帰って行った。

例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>へ坐らせられた。その男が<ruby><rb>御免</rb><rt>ごめん</rt></ruby>なさい、どうも<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>が出てと、<ruby><rb>手帛</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby>に嚏を<ruby><rb>奨励</rb><rt>しょうれい</rt></ruby>しておいた。この男は自分で英人だと名乗った。そうして御前は<ruby><rb>旅順</rb><rt>りょじゅん</rt></ruby>を見たかと余に尋ねた。旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく語って聞かせた。余はなるほどなるほどと聞いていた。次に御前は<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>を見たかと聞いた。次にあすこの石炭はもう<ruby><rb>沢山</rb><rt>たんと</rt></ruby>は出まいと聞いた。沢山は出まいと答えた。実は沢山出るか出ないか知らなかったのである。

しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>同様な返事をしておいた。すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>と<ruby><rb>寸分</rb><rt>すんぶん</rt></ruby>違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。最後に突然御前は日本人かと尋ねた。余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは<ruby><rb>何国人</rb><rt>どこじん</rt></ruby>と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。

余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>で親切で<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>で実に模範的国民だなどとしきりに<ruby><rb>御世辞</rb><rt>おせじ</rt></ruby>を振り廻し始めた。せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた。

表へ出るとアカシヤの葉が<ruby><rb>朗</rb><rt>ほが</rt></ruby>らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から<ruby><rb>突出</rb><rt>つきだ</rt></ruby>した細長い塔が、<ruby><rb>瑠璃色</rb><rt>るりいろ</rt></ruby>の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の<ruby><rb>初秋</rb><rt>はつあき</rt></ruby>が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を<ruby><rb>輝</rb><rt>きら</rt></ruby>つかせていた。

七

この間から米国の艦隊が四<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、<ruby><rb>翌日</rb><rt>あす</rt></ruby>の晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が勧めた。出て見ろったって、<ruby><rb>燕尾服</rb><rt>えんびふく</rt></ruby>も何も持って来やしないから<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だよと断ると、是公が<ruby><rb>希知</rb><rt>けち</rt></ruby>な<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だなと云った。燕尾服は其上<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>があるが、<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby><ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか持ってないか知らないくらいである。いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり箪笥の底にしまったなりで出て来た。じゃ、おれの<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby><ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>を貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、どんな<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>だか見るが好いと、是公は何でも<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り出そうとする。いっそ出るくらいなら踊らなくっちゃつまらないから、日本服ならまあ<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>そうと云いたかったが、是公は正直だから本当にすると好くないと思って、ただ羽織袴はいけないよと断った。是公はそれでも舞踏会を見せる気と見えて、<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>、社の二階で上田君を<ruby><rb>捕</rb><rt>つらま</rt></ruby>えて、君の燕尾服をこいつに貸してやらないか、君のならちょうど合いそうだと云っていた。上田君もこの突然な相談には<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>したに違ない。笑いながら、いえ私のは誰にも合いませんと<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>された。

舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>に連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めた。だいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に出た。広い通りを一二丁来ると<ruby><rb>日本橋</rb><rt>にほんばし</rt></ruby>である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、<ruby><rb>雅</rb><rt>が</rt></ruby>にも<ruby><rb>丈夫</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>にもできている。三人は橋の手前にある<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>の<ruby><rb>煉瓦造</rb><rt>れんがづく</rt></ruby>りに<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。誰かいるかなと、玉突場を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたが、ただ電灯が明るく<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いているだけで玉の鳴る音はしなかった。読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった。将棋<ruby><rb>歌留多</rb><rt>かるた</rt></ruby>をやる所へ這入って腰をかけて見たが、三人の尻をおろしたほかは、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>も<ruby><rb>洋卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>もことごとく<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いていた。今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う。是公の会話の下手な事は<ruby><rb>天品</rb><rt>てんぴん</rt></ruby>と云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>して<ruby><rb>赤髯</rb><rt>あかひげ</rt></ruby>と交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>の会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な説明をした。

会員の名札はなるほど外国流の<ruby><rb>綴</rb><rt>つづり</rt></ruby>が多い。国沢君は大きな本を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。是公はよろしいと答えて、自分の名の前に proposed by と付けた。それへ国沢君が、<ruby><rb>同</rb><rt>おなじ</rt></ruby>く seconded by と加えてくれたので、大連滞在中はいつでも、<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>に<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>する資格ができた。

それから三人でバーへ行った。バーは支那人がやっている。英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に星の光を認めた。国沢君がわざわざホテルの玄関まで送られた。玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った。国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。

八

ホテルの玄関で、<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が馬車をと云うと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや<ruby><rb>開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた奴が好いと命じている。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>って、<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>も<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>も屋根も<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>も、それぞれ<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかに<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の中に浮き出した。

やがて<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの<ruby><rb>麗</rb><rt>うらら</rt></ruby>かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、<ruby><rb>遥向</rb><rt>はるかむこ</rt></ruby>うの<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>の上に高いオベリスクが、白い<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>のように切っ立って、青空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。その奥に同じく白い色の大きな<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>が見える。屋根は<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の<ruby><rb>位地</rb><rt>いち</rt></ruby>と関係と<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。

あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>しくなって来た。よくよく<ruby><rb>糺明</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>して見ると、実は<ruby><rb>今月末</rb><rt>こんげつすえ</rt></ruby>とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。

そのうち馬車が、電車の<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>している最中なのだから、<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、<ruby><rb>鉄軌</rb><rt>レール</rt></ruby>の<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>え<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい。<ruby><rb>御影石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>が<ruby><rb>払底</rb><rt>ふってい</rt></ruby>なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の<ruby><rb>敷方</rb><rt>しきかた</rt></ruby>なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である。内地から来たものはなるほど<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。

馬車が岡の上へ出た。そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の<ruby><rb>黄土</rb><rt>こうど</rt></ruby>が、見るうちに靴の先から<ruby><rb>洋袴</rb><rt>ズボン</rt></ruby>の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。

九

これが<ruby><rb>豆油</rb><rt>まめあぶら</rt></ruby>の精製しない方で、こっちが精製した方です。色が違うばかりじゃない、<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>も少し変っています。<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。

用いる<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのです。これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じです。その点から見てもはなはだ<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。動物性と同じくらいに<ruby><rb>消化</rb><rt>こな</rt></ruby>れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり<ruby><rb>天麩羅</rb><rt>てんぷら</rt></ruby>などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。

出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、<ruby><rb>石鹸</rb><rt>シャボン</rt></ruby>が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって<ruby><rb>葢</rb><rt>ふた</rt></ruby>をした。

<ruby><rb>柞蚕</rb><rt>さくさん</rt></ruby>から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に出されると全く白い。かつ<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、<ruby><rb>羽二重</rb><rt>はぶたえ</rt></ruby>のようなものができるつもりですと云う。その上<ruby><rb>価段</rb><rt>ねだん</rt></ruby>が半分だと云う。<ruby><rb>柞蚕</rb><rt>さくさん</rt></ruby>から<ruby><rb>羽二重</rb><rt>はぶたえ</rt></ruby>が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>かろう。

<ruby><rb>高粱酒</rb><rt>こうりょうしゅ</rt></ruby>を出して<ruby><rb>洋盃</rb><rt>コップ</rt></ruby>に<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間<ruby><rb>高峯譲吉</rb><rt>たかみねじょうきち</rt></ruby>さんが来て、高粱からウィスキーを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。

陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。

中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。その上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に<ruby><rb>免</rb><rt>めん</rt></ruby>じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の上へ腰をかけてしまった。是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやった。これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。

そこへ<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない支那人が二三人、<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な<ruby><rb>鳥籠</rb><rt>とりかご</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げてやって来た。支那人て<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は<ruby><rb>風雅</rb><rt>ふうが</rt></ruby>なものだよ。着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>競</rb><rt>くらべ</rt></ruby>をするからね。ああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めている。余はポッケットからゼムを出して<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。

十

<ruby><rb>政樹公</rb><rt>まさきこう</rt></ruby>が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。政樹公には十年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby><ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>で<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>ったきりである。その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。

政樹公の姓は<ruby><rb>立花</rb><rt>たちばな</rt></ruby>と云って<ruby><rb>柳川藩</rb><rt>やながわはん</rt></ruby>だから、立派な<ruby><rb>御侍</rb><rt>おさむらい</rt></ruby>に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。しかも双方共寄宿舎に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていたものだから、立花君や立花さんでは<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は<ruby><rb>銑三郎</rb><rt>せんざぶろう</rt></ruby>という俗称だから<ruby><rb>銑</rb><rt>せん</rt></ruby>さん銑さんと云った。なぜ片っ方が<ruby><rb>公</rb><rt>こう</rt></ruby>なのに、片っ方は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さん</span>づけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って、帰り路に<ruby><rb>香港</rb><rt>ホンコン</rt></ruby>で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。やっぱり中村とも総裁とも云わないで<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れたようなものだろう。

ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>具合が悪いとかで<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰った後であった。こっちの都合もあるし、<ruby><rb>所労</rb><rt>しょろう</rt></ruby>の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。広い<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、<ruby><rb>取付</rb><rt>とっつき</rt></ruby>が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。それに一々紹介された。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で昔見た田中君の顔を覚えていた。どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで<ruby><rb>焼迹</rb><rt>やけあと</rt></ruby>のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。

しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>になった。さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。この<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。

料理は<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。胃が痛いので<ruby><rb>肉刀</rb><rt>ナイフ</rt></ruby>と<ruby><rb>肉匙</rb><rt>フォーク</rt></ruby>は<ruby><rb>人並</rb><rt>ひとなみ</rt></ruby>に動かしたようなものの、その<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>は肉も野菜も<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から<ruby><rb>瓢箪形</rb><rt>ひょうたんがた</rt></ruby>の<ruby><rb>西洋梨</rb><rt>せいようなし</rt></ruby>を<ruby><rb>勧</rb><rt>すすめ</rt></ruby>られた時は、手を出す勇気すらなかった。

十一

河村調査課長の前へ行って<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>った時は実は弱った。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>重役室へ河村さんが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来たとき、<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>世間の知るごとき人間なんだから、こう<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ<ruby><rb>迷</rb><rt>まご</rt></ruby>ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より内心に<ruby><rb>確乎</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる<ruby><rb>赤毛布式</rb><rt>あかげっとしき</rt></ruby>に<ruby><rb>縹緲</rb><rt>ひょうびょう</rt></ruby>とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>に<ruby><rb>膠着</rb><rt>こうちゃく</rt></ruby>しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>し<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せて知らん顔をしているのは<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>くない事だから、ここで全く<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に活気を<ruby><rb>漲</rb><rt>みな</rt></ruby>ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>もあがきが取れなかったのである。

そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けないうちに、早速<ruby><rb>一工夫</rb><rt>ひとくふう</rt></ruby>してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう<ruby><rb>詳</rb><rt>くわし</rt></ruby>い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、<ruby><rb>縦覧</rb><rt>じゅうらん</rt></ruby>すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。

河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると<ruby><rb>股野義郎</rb><rt>またのよしろう</rt></ruby>である。昔「猫」を書いた時、その中に<ruby><rb>筑後</rb><rt>ちくご</rt></ruby>の国は<ruby><rb>久留米</rb><rt>くるめ</rt></ruby>の住人に、<ruby><rb>多々羅三平</rb><rt>たたらさんぺい</rt></ruby>という<ruby><rb>畸人</rb><rt>きじん</rt></ruby>がいると<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>した事がある。当時股野は<ruby><rb>三池</rb><rt>みいけ</rt></ruby>の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく<ruby><rb>削除</rb><rt>さくじょ</rt></ruby>しては、全巻を<ruby><rb>改板</rb><rt>かいはん</rt></ruby>する事になるから、簡潔<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも<ruby><rb>筑後</rb><rt>ちくご</rt></ruby><ruby><rb>久留米</rb><rt>くるめ</rt></ruby>の住人だからである。幸い、<ruby><rb>肥前</rb><rt>ひぜん</rt></ruby><ruby><rb>唐津</rb><rt>からつ</rt></ruby>に<ruby><rb>多々羅</rb><rt>たたら</rt></ruby>の<ruby><rb>浜</rb><rt>はま</rt></ruby>と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る。肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。

こう云う訳で余と<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>の浅からざる股野に、ここでひょっくり<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>うとは全く思いがけなかった。しかも、その家へ呼ばれて<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>の<ruby><rb>紛議</rb><rt>ふんぎ</rt></ruby>を忘れて、<ruby><rb>旧歓</rb><rt>きゅうかん</rt></ruby>を暖める事ができたのは<ruby><rb>望外</rb><rt>ぼうがい</rt></ruby>の<ruby><rb>仕合</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>である。実を云うと、余は股野がまだ<ruby><rb>撫順</rb><rt>ぶじゅん</rt></ruby>にいる事とばかり思っていた。

余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>のような形に<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った。

十二

腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>つ雨の音がしだいに<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>くなった。これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、<ruby><rb>歌麿</rb><rt>うたまろ</rt></ruby>の美人が好い色に印刷されている。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めたら雨はいつの間にか<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>んで、<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な空が磨き上げたように<ruby><rb>一色</rb><rt>ひといろ</rt></ruby>に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は<ruby><rb>硝子越</rb><rt>ガラスごし</rt></ruby>にこの大きな色を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。

後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の<ruby><rb>亜米利加士官</rb><rt>アメリカしかん</rt></ruby>と共に<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>であったとか、口々に賛辞を<ruby><rb>呈</rb><rt>てい</rt></ruby>したものだから、是公はやむをえず、<ruby><rb>大声</rb><rt>たいせい</rt></ruby>を振り<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>って <ruby><rb>gentlemen</rb><rt>ゼントルメン</rt></ruby>\! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>よりゼントルメンの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に<ruby><rb>鞍換</rb><rt>くらがえ</rt></ruby>をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの<ruby><rb>亜米利加人</rb><rt>アメリカじん</rt></ruby>に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を<ruby><rb>胴上</rb><rt>どうあげ</rt></ruby>にしたそうである。

明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで<ruby><rb>日着</rb><rt>ひづき</rt></ruby><ruby><rb>日帰</rb><rt>ひがえ</rt></ruby>りの遠足をやった事がある。<ruby><rb>赤毛布</rb><rt>あかげっと</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち<ruby><rb>側</rb><rt>がわ</rt></ruby>まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように<ruby><rb>毛布</rb><rt>けっと</rt></ruby>に<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。その上犬が来て<ruby><rb>真水英夫</rb><rt>まみずひでお</rt></ruby>の<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>を<ruby><rb>啣</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて行った。夜が白んで物の色が<ruby><rb>仄</rb><rt>ほのか</rt></ruby>に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に砂だらけになっている。眼を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>ると砂が出る。耳を<ruby><rb>掘</rb><rt>ほじ</rt></ruby>くると砂が出る。頭を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、山にはびこる<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>がさあと<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いた。すると余の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、<ruby><rb>戦々兢々</rb><rt>せんせんきょうきょう</rt></ruby>としているじゃないかと云った。

草木の風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く様を戦々兢々と<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に形容したのは是公が<ruby><rb>嚆矢</rb><rt>はじめ</rt></ruby>なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>には胴上にしたじゃないかくらい、<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>うと云いかねない男である。

十三

昨夕は川崎造船所の<ruby><rb>須田君</rb><rt>すだくん</rt></ruby>からいっしょに<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>でも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で<ruby><rb>肉汁</rb><rt>ソップ</rt></ruby>を飲んで寝てしまった。朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>りを入れて見ると、やッぱり変だ。何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと<ruby><rb>工</rb><rt>たく</rt></ruby>んでいるような不安がある。さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。ただ曇った空のように、<ruby><rb>鈍痛</rb><rt>どんつう</rt></ruby>が薄く一面に広がっている。<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を<ruby><rb>扇芳亭</rb><rt>せんぼうてい</rt></ruby>へ招待したいからと云う<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>な<ruby><rb>御挨拶</rb><rt>ごあいさつ</rt></ruby>である。どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。

河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。今日は<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた着物を着て、ちゃんと白い<ruby><rb>襯衣</rb><rt>シャツ</rt></ruby>と白い<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授<ruby><rb>橋本左五郎</rb><rt>はしもとさごろう</rt></ruby>とあったので、おやと思った。

橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の<ruby><rb>極楽水</rb><rt>ごくらくみず</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で御寺の二階を借りていっしょに<ruby><rb>自炊</rb><rt>じすい</rt></ruby>をしていた事がある。その時は<ruby><rb>間代</rb><rt>まだい</rt></ruby>を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>へ汁をいっぱい<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、その中に浮かして食った。十銭の<ruby><rb>牛</rb><rt>ぎゅう</rt></ruby>を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>から<ruby><rb>杓</rb><rt>しゃく</rt></ruby>って食った。高い二階へ大きな釜を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る<ruby><rb>汁粉</rb><rt>しるこ</rt></ruby>を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の<ruby><rb>爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>のために盲腸炎にされたと同然である。

その<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby><ruby><rb>左五</rb><rt>さご</rt></ruby>は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってしまった。それから<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>へ行った。独逸へ行って、いつまで<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。

この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、<ruby><rb>蒙古</rb><rt>もうこ</rt></ruby>の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から<ruby><rb>慓悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>の<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。<ruby><rb>闥</rb><rt>ドーア</rt></ruby>を<ruby><rb>排</rb><rt>はい</rt></ruby>して這入って来るや否や、どうだ相変らず<ruby><rb>頑健</rb><rt>がんけん</rt></ruby>かねと聞かざるを得なかったくらいである。

十四

ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。彼の鼻の先が<ruby><rb>反返</rb><rt>そりかえ</rt></ruby>っているごとく、彼は<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>でかつ<ruby><rb>苛辣</rb><rt>からつ</rt></ruby>であった。余はこの鼻のためによく<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>まされた事を記憶している。

その頃は大勢で<ruby><rb>猿楽町</rb><rt>さるがくちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>末富屋</rb><rt>すえとみや</rt></ruby>という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて綱渡りをしていた。英語は教場であてられた時に、分らない<ruby><rb>訳</rb><rt>やく</rt></ruby>を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで<ruby><rb>塗板</rb><rt>ボールド</rt></ruby>の前に立っているのを常としていた。余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱えて今日も<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>になるかなど云っては出かけた。

こう云う連中だから、大概は級の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>の方に<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって、いつでも雑然と<ruby><rb>陳列</rb><rt>ちんれつ</rt></ruby>されていた。余のごときは、入学の当時こそ<ruby><rb>芳賀矢一</rb><rt>はがやいち</rt></ruby>の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには<ruby><rb>土俵際</rb><rt>どひょうぎわ</rt></ruby>からあまり遠くない所でやっと<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えていた。それでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。そうして、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って<ruby><rb>端艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って<ruby><rb>腕押</rb><rt>うでおし</rt></ruby>をやった。岡野という男はどこからか、<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。試験の成績が出ると、一人では<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いからみんなを<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>り<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>して揃って見に行った。するとことごとく六十代で<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どく引っ掛っている。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。<ruby><rb>韻</rb><rt>いん</rt></ruby>も<ruby><rb>平仄</rb><rt>ひょうそく</rt></ruby>もない長い詩であったが、その中に、何ぞ<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>えん<ruby><rb>席序下算</rb><rt>せきじょかさん</rt></ruby>の<ruby><rb>便</rb><rt>べん</rt></ruby>と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。まるで<ruby><rb>御籤</rb><rt>おみくじ</rt></ruby>みたような文句である。我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。

そのうち<ruby><rb>下算</rb><rt>かさん</rt></ruby>にも<ruby><rb>上算</rb><rt>じょうさん</rt></ruby>にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>がいた。こう云う自分もいた。大連で是公に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。そいつは<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しいやと大いに<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがるから、落第だって、落第の<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた。

是公だの、余だの、今の旅順の<ruby><rb>警視総長</rb><rt>けいしそうちょう</rt></ruby>だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の<ruby><rb>張本</rb><rt>ちょうほん</rt></ruby>とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>になろうとは思いも寄らぬ事であった。今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。

十五

河村さんの書いてくれた<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>を見ると、娯楽機関という題目のもとに、<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>とか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>たのさえ、ちらほら見える。ヨット倶楽部の下に（ただし一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>）と<ruby><rb>括弧</rb><rt>かっこ</rt></ruby>で註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。

参観すべき場所と云う<ruby><rb>標題</rb><rt>みだし</rt></ruby>のもとには、<ruby><rb>山城町</rb><rt>やまぎちょう</rt></ruby>の大連医院だの、<ruby><rb>児玉町</rb><rt>こだまちょう</rt></ruby>の従業員養成所だの<ruby><rb>近江町</rb><rt>おうみちょう</rt></ruby>の合宿所だの、<ruby><rb>浜町</rb><rt>はまちょう</rt></ruby>の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>る訳に行かないと云われるはずだ。しかも<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>は是非共<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。余は手に持った表に一通り眼を通しながら、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。股野は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>らしい。そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。

余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>の御礼を述べた。事務所の前がすぐ海で、<ruby><rb>船渠</rb><rt>ドック</rt></ruby>の中が<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く澄んでいる。あれで<ruby><rb>何噸</rb><rt>なんトン</rt></ruby>ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。船渠の入口は四十二尺だとか云った。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。

今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。<ruby><rb>鉄嶺丸</rb><rt>てつれいまる</rt></ruby>が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に映じたものはこの工場の煙突であった。船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じいものである。その一部分では、<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を浴びて立った時は、妙な心持がした。ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの<ruby><rb>仕掛</rb><rt>しかけ</rt></ruby>が猛烈に活動していた。工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>を飛び出したくらいである。<ruby><rb>詮</rb><rt>せん</rt></ruby>ずるに要領はただ<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。

股野はその間を<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>回</rb><rt>まわ</rt></ruby>って、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた。技師は股野に<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まるほど<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>でなかったと見えて、とうとう見当らなかった。

十六

今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた。余は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覧したまでで、化物の<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>はまだ<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>していなかった。けれども化物屋敷はこれだと云われた時には、うんそうかと云って、少しも<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく足を<ruby><rb>踏込</rb><rt>ふんご</rt></ruby>んだ。なぜそんな恐ろしい名が、この建物に<ruby><rb>付纏</rb><rt>つけまと</rt></ruby>っているのかと、立ちどまって疑って見る暇も何もなかった。いわゆる化物屋敷はそれほど陰気にでき上がっていた。でき上ったというと新規に<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた意味を含んでいるから、この建築の形容としては、むしろ不適当であるかも知れない。化物屋敷はそのくらい古い色をしている。壁は<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>だろうが、外部は一面の灰色で、中には日の<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>りそうもない、薄暗い空気を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えるごとくに思われた。

余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と<ruby><rb>幾返</rb><rt>いくかえり</rt></ruby>か<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>した。歩けば固い音がする。<ruby><rb>階段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>るときはなおさらこつこつ鳴った。階段は鉄でできていた。廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあった。その戸の上に、<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>の所有者の標札がかかっている。<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>読めないくらい廊下は暗かった。余はちょっと立ちどまって<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。股野はすぐ持っていた<ruby><rb>洋杖</rb><rt>ステッキ</rt></ruby>で右手の戸をとんと<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いた。しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はい</span>とも、<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>れとも<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるものはなかった。股野はまた二番目の戸をとんとん叩いた。これも中はしんとしている。股野は<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>した<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>なく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のする室には<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つからなかった。あたかも<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた町の中を歩いているような感じがした。三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>で<ruby><rb>御菜</rb><rt>おさい</rt></ruby>を煮ているのに<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った。そこには台所があった。化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。<ruby><rb>御神</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んで揚げますと答えた。余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。道理で<ruby><rb>真闇</rb><rt>まっくら</rt></ruby>であった。

田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である。戦争が<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの<ruby><rb>創口</rb><rt>きずぐち</rt></ruby>から出る<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みの声が大連中に響き渡るほど<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じかったので、その以後はこの<ruby><rb>一廓</rb><rt>ひとくるわ</rt></ruby>を化物屋敷と呼ぶようになった。しかし本当だか<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない。

ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、<ruby><rb>残焼家屋</rb><rt>ざんしょうかおく</rt></ruby>として、<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>のごとくに突っ立っていたそうである。陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。汽車の中で炭を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて<ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>に<ruby><rb>損</rb><rt>そく</rt></ruby>なったり、貨車へ乗って、カンテラを<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて用を足そうとすると、そのカンテラが<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>ぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった。

「<ruby><rb>清野</rb><rt>せいの</rt></ruby>が毛織の<ruby><rb>襯衣</rb><rt>シャツ</rt></ruby>を半ダース重ねて着たのは<ruby><rb>彼時</rb><rt>あのとき</rt></ruby>だよ」

「清野は驚いて、あれっきりやって来ない」

余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。

十七

三階へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って見ると豆ばかりである。ただ<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>だけが人の通る幅ぐらいの<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>になっている。余は静かに豆と壁の間をぐるぐる廻って歩いた。気をつけないと、足の裏で豆を踏み<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>す恐れがある上に、人のいない天井裏を無益に響かすのが<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>になったからである。豆は砂山のごとく脚下に起伏している。こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。その真中を通して三カ所ほどに<ruby><rb>井桁</rb><rt>いげた</rt></ruby>に似た<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の穴が掘ってある。豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の<ruby><rb>一隅</rb><rt>ひとすみ</rt></ruby>に新しい砂山ができる。これはクーリーが下から豆の袋を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>けて行くのである。その時はぼうと<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>るような<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>が立って、数え切れぬほどの豆と豆の間に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいる<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が一度に<ruby><rb>踊</rb><rt>おど</rt></ruby>り<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>る。

クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。彼等の背中に<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。それを<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>の下から、のそのそ<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って来ては三階の上へ<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けて行く。空けて行ったかと思うとまた空けに来る。何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>の足場のように<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>るものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた事がない。彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>るのである。その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくなるくらいである。

三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな<ruby><rb>麻風呂敷</rb><rt>あさぶろしき</rt></ruby>が受取って、たちまち<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>の中に運び込む。釜の中で豆を<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅を<ruby><rb>攫</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と湯気の立つやつを<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に放り出す。<ruby><rb>赤銅</rb><rt>しゃくどう</rt></ruby>のような肉の色が煙の間から、汗で<ruby><rb>光々</rb><rt>ぴかぴか</rt></ruby>するのが勇ましく見える。この<ruby><rb>素裸</rb><rt>すはだか</rt></ruby>なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと<ruby><rb>漢楚軍談</rb><rt>かんそぐんだん</rt></ruby>を思い出した。昔<ruby><rb>韓信</rb><rt>かんしん</rt></ruby>に股を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。彼等は胴から上の筋肉を<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しく<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わして、大きな足に牛の<ruby><rb>生皮</rb><rt>きがわ</rt></ruby>を縫合せた<ruby><rb>堅</rb><rt>かた</rt></ruby>い靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている。蒸した豆を<ruby><rb>藺</rb><rt>い</rt></ruby>で囲んで、丸い<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>を上から<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のまま<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>の中に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それを<ruby><rb>螺旋</rb><rt>らせん</rt></ruby>の<ruby><rb>締棒</rb><rt>しめぼう</rt></ruby>の下に押込んで、<ruby><rb>把</rb><rt>て</rt></ruby>をぐるぐると廻し始める。油は同時に<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>られて<ruby><rb>床下</rb><rt>ゆかした</rt></ruby>の<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>にどろどろに流れ込む。豆は全くの<ruby><rb>糟</rb><rt>かす</rt></ruby>だけになってしまう。すべてが約二三分の仕事である。

この油が<ruby><rb>喞筒</rb><rt>ポンプ</rt></ruby>の力で一丈四方もあろうという大きな鉄の<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>に吸上げられて、<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に深そうに<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいるところを、二階へ上がって三つも四つも<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだときには、恐ろしくなった。この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平気な顔をして、まあ<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に落ちるような事はありませんねと答えたが、余はどうしても落ちそうな気がしてならなかった。

クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>もできません。あれで一日五六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、さも<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れたように云って聞かせた。

十八

股野が先生私の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来なさらんか、八畳の間が<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いています、夜具も<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>もあります。ホテルにいるより<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>で好いでしょうと親切に云ってくれる。何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取るように眺められるのみならず、海の向うに<ruby><rb>連</rb><rt>つら</rt></ruby>なる<ruby><rb>突兀</rb><rt>とっこつ</rt></ruby>極まる山脈さえ、坐っていると、窓の中に向うから<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来てくれるという<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>な<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>なんだそうである。

始めのうちは股野の自慢を<ruby><rb>好加減</rb><rt>いいかげん</rt></ruby>に聞き流して、そうかそうかと答えていたが、せっかくの好意ではあるし、もともと気の多い男だから、都合によっては少し<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になっても好いぐらいに思って、ついでの時<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>にこの話をすると、そんな所へ行っちゃいかんとたちまち叱られてしまった。もしホテルが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なら、おれの宅へ来い、あの部屋へ入れてやるからと云うんで、書斎の次の畳の敷いてある間を見せてくれるんだが、別に西洋流の宿屋に<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>をつかした訳でもないんだから、じゃ厄介になろうとも云わなかった。

是公は書斎の大きな<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>の上に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>干物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>って酒を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでいる。どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。そうすればきっと<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ると云った。酔っていたに違ない。

余はポッケットから注文の薬を出して相手にあてがった。これは二三日前是公といっしょに馬車に乗って、市中を乗り廻した時、是公の<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>から二十銭借りて大連の薬屋で買ったものである。その時は是公の御者に対する態度のすこぶる<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>なのに気がついて少しく驚かされた。君ちょっとそこいらの薬屋へ寄って、ゼムを買ってやって下さいと云うんだから非凡である。

君は御者に対して叮嚀過ぎるよと忠告してやったら、うんあの時の二十銭をまだ払わなかったっけと思い出したように河豚の干物をまた噛っていた。

是公の御者には廿銭<ruby><rb>借</rb><rt>かり</rt></ruby>があるだけだが、その<ruby><rb>別当</rb><rt>べっとう</rt></ruby>に至っては全く奇抜である。第一日本人じゃない。<ruby><rb>辮髪</rb><rt>べんぱつ</rt></ruby>を自慢そうに垂らして、黄色の<ruby><rb>洋袴</rb><rt>ズボン</rt></ruby>に<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の長靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、手に三尺ほどの<ruby><rb>払子</rb><rt>ほっす</rt></ruby>をぶら下げている。そうして馬の先へ立って<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>ける。よくあんな紳士的な<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をして汗も出さずに<ruby><rb>走</rb><rt>かけ</rt></ruby>られる事だと思うくらいに早く走ける。もっとも足も長かった。身の<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>は六尺近くある。

別当と御者はこのくらいにしてまた股野にかえるが、余は是公に叱られたため、とうとう股野の家へは移らなかった。けれども遊びには行った。なるほど小山の上に建てられた好い社宅である。もっとも<ruby><rb>一軒立</rb><rt>いっけんだて</rt></ruby>ではない。長い<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>がいくつも灰色に並んでいるうちの一番はずれの棟の、一番最後の番号のその二階が彼の家族の領分であった。岡の下から見ると、まるで英国の避暑地へ行ったようだとある西洋人が評したほど、外部は厚い壁で洋式にできているが、中には日本の<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>がする<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な畳が敷いてあった。なるほど<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>が好い。大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向うの山が見える。股野の家にはもったいないくらいである。余はそこで村井君に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、股野の細君に逢って、手厚い<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になって帰った。

十九

支那の宿屋を一つ見ましょうと云いながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。そこには日本人が三人ほど机を並べて事務を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っていた。股野はそのうちの<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の洋服を着た人を<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まえて、話を始めた。君ここは宿屋だろうと聞いている。宿屋じゃないよと立ちながら返事をしている。何だか様子が変になって来た。やがて余はこの紺服の人に紹介された。紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論<ruby><rb>旅屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の亭主ではなかった。谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の<ruby><rb>荷主</rb><rt>にぬし</rt></ruby>と接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>を取らない。出て来ればきっと取引先へ<ruby><rb>宿</rb><rt>とま</rt></ruby>って、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。しかもその数は一人や二人ではない。したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。

じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。余は谷村君の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ<ruby><rb>追</rb><rt>つ</rt></ruby>いて事務室の裏へ出た。股野も<ruby><rb>食付</rb><rt>くっつ</rt></ruby>いて出た。裏は真四角な庭になっている。無論<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>も草も花も見当らない、ただの平たい場所である。そこを突き抜けた正面の座敷が応接間であった。応接間の入口は低い<ruby><rb>板間</rb><rt>いたま</rt></ruby>で、突当りの高い所に<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>が敷いてある。その上に腰をかけて談判をするのだそうだが、横着な事には大きな<ruby><rb>括枕</rb><rt>くくりまくら</rt></ruby>さえ備えつけてある。しかし<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を突くためか、頭を<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せるためかは聞き<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>して見なかった。彼等は談判をしながら<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>を飲む。でなければ<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸う。その<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>は煙管と云うよりも一種の器械と評した方が好いくらいである。<ruby><rb>錫</rb><rt>すず</rt></ruby>の<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>に水を盛って<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>から<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる煙がこの水の中を通って吸口まで登ってくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸い上げて口中へ入れる恐れがある。一服やって御覧なさいと勧められたから、やって見たが、ごぼごぼ音がしてまるで<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>を呑むような心持がした。

二階が荷主の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>だと云うんで、二階へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って見ると、なるほど室がたくさん並んでいる。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の一つでは<ruby><rb>四人</rb><rt>よつたり</rt></ruby>で<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を打っていた。博奕の道具はすこぶる<ruby><rb>雅</rb><rt>が</rt></ruby>なものであった。厚みも大きさも<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>飛車角</rb><rt>ひしゃかく</rt></ruby>ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>とを背中合せに<ruby><rb>接</rb><rt>つ</rt></ruby>いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝になるようにも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこが博奕なんだか、実はいっこう解らなかった。ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰って来たかった。

一つの室では五六人寄って、そのうちの一人が<ruby><rb>笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>を吹くのを聞いていた。幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまった。また吹き始めるかと思って、しばらく室の中に立っていたが、とうとう吹かなかった。室の中には妙な書が麗々と壁に<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りつけてある。いずれも<ruby><rb>下手</rb><rt>まず</rt></ruby>いものだのに、何々先生のために何々書すと云ったようにもったいぶったのばかりであった。股野が何か云うと、向うの支那人も何か云う。しかし両方の云う事は両方へ通じないようである。

二十

<ruby><rb>波止場</rb><rt>はとば</rt></ruby>から<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に行くと、大連の町へ出る。それを真直に行かずに、すぐ左へ折れて長い<ruby><rb>上屋</rb><rt>うわや</rt></ruby>の影を向うへ、三四町通り越した所に<ruby><rb>相生</rb><rt>あいおい</rt></ruby>さんの家がある。西洋館の二階を客間にして古い仏像やら鏡やら銅器陶器の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>を<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に飾っているから、客間を見ただけではただ一通りの風流人としか見えない。相生さんは満鉄の社員として<ruby><rb>埠頭事務所</rb><rt>ふとうじむしょ</rt></ruby>の取締である。

もっと卑近な言葉で云うと、荷物の<ruby><rb>揚卸</rb><rt>あげおろし</rt></ruby>に使われる<ruby><rb>仲仕</rb><rt>なかし</rt></ruby>の親方をやっている。かつて門司の労働者が三井に対してストライキをやったときに、相生さんが進んでその衝に当ったため、<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>よく解決が着いたとか云うので、満鉄から仲仕の親分として<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>されたようなものである。実際相生さんは<ruby><rb>親分気質</rb><rt>おやぶんかたぎ</rt></ruby>にでき上っている。満鉄から任用の話があったとき、子供が病気で<ruby><rb>危篤</rb><rt>きとく</rt></ruby>であったのに、相生さんはさっさと大連へ来てしまった。来て一週間すると子供が死んだと云う<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りがあった。相生さんは内地を去る時、すでにこの悲報を手にする覚悟をしていたのだそうだ。

相生さんは大連に来るや否や、仲仕その他すべて埠頭に関する事務を取り扱う連中を集めてここに一部落を築き上げた。相生さんの家を通り越すと、左右に並んでいる建物は皆自分の経営になったものばかりである。その中には図書館がある。<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>クラブ</rt></ruby>がある。運動場がある。演武場がある。部下の住宅は無論ある。

倶楽部では玉を突いていた。図書館には<ruby><rb>沙翁</rb><rt>さおう</rt></ruby>全集があった。ポルグレーヴの経済<ruby><rb>字彙</rb><rt>じい</rt></ruby>があった。余の著書も二三冊あった。

ここは柔道の道場に使っていますが、時によると講談をやったり演説をやったりしますと云う相生さん自身の説明について、中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むと、なるほど道場にはちょうど好い建物がある。その奥に<ruby><rb>高座</rb><rt>こうざ</rt></ruby>ができていて、いつでも<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>もしくは講演を開くような設備もある。講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から来られた人だとか何とかいうのを頼んでやりますと答えられた。ことによると、遠からぬうちに<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まって、ここへ引っ張り出されはしまいかと、その時すぐ気がついたが、<ruby><rb>真逆</rb><rt>まさか</rt></ruby><ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はどうぞ<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>しにして下さいと、頼まれもしないうちに断るのも失礼だと思って、はあなるほどと<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて通り過ぎた。

最後にもっとも長い二階建の<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>の前に出た。これが共同生活をやらしている所でと、相生さんが先へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る。中は<ruby><rb>勧工場</rb><rt>かんこうば</rt></ruby>のように真中を往来にして、<ruby><rb>同</rb><rt>おなじ</rt></ruby>く勧工場の<ruby><rb>見世</rb><rt>みせ</rt></ruby>に当る所を長屋の上り口にしてある。だから長屋と長屋とは<ruby><rb>壁一重</rb><rt>かべひとえ</rt></ruby>で仕切られながら、約一丁も並んでいるばかりか、三尺の往来を越すとすぐ向うの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>になる。上り口を枕にして寝れば、<ruby><rb>吸付莨</rb><rt>すいつけたばこ</rt></ruby>のやり取りぐらいはできるほど近い。相生さんが先へ立って、この狭い往来を通ると、<ruby><rb>裁縫</rb><rt>しごと</rt></ruby>をしたり、子供を寝かしたりしている<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん達が、みんな<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をする。しかし中には気がつかずに何か話しているのも見える。

この部落に住んでいる人間が<ruby><rb>総</rb><rt>そう</rt></ruby>がかりになった上に、その何十倍か何百倍のクーリーを使っても、豆の<ruby><rb>出盛</rb><rt>でさか</rt></ruby>りには持て余すほど荷が後から後からと出てくる。相生さんの話によると、多い時は<ruby><rb>着荷</rb><rt>ちゃくに</rt></ruby>の量が一日ならし五千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>あるそうである。これがため去年<ruby><rb>雨期</rb><rt>うき</rt></ruby>を持ち越した噸数は四万噸で、<ruby><rb>今年</rb><rt>こんねん</rt></ruby>はそれが十五万噸に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったとか聞いた。

南北千五百尺東西四千二百尺の<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にこのくらい豆を積んだらずいぶん<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>なものだろう。

二十一

旅順から電話がかかってこっちへはいつ来るかという問合わせである。おい誰がかけてくれるんだろうなと橋本に聞いて見ると、橋本はそうだなあと云うだけで要領を得ない。おい名前は分らないのかとやむをえずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、ただ<ruby><rb>民政署</rb><rt>みんせいしょ</rt></ruby>だと云ってかけて参りましたと同じ事を繰返している。おおかた<ruby><rb>友熊</rb><rt>ともくま</rt></ruby>だろうぐらいに橋本と二人で見当をつけて返事をさせた。これが<ruby><rb>白仁長官</rb><rt>しらにちょうかん</rt></ruby>の好意から出た聞き合せであった事は旅順に着いて<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>始めて知った。

旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しい役を勤めている。これは友熊の名前が広告する通りの<ruby><rb>薩州人</rb><rt>さっしゅうじん</rt></ruby>で、顔も気質も看板のごとく<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>にでき上がっている。始めて彼を知ったのは<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の成立学舎という<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>に、<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>の出る<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど<ruby><rb>白虎隊</rb><rt>びゃっこたい</rt></ruby>の<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いたまま<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。<ruby><rb>上草履</rb><rt>うわぞうり</rt></ruby>や<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に穴が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に、<ruby><rb>向脛</rb><rt>むこうずね</rt></ruby>を<ruby><rb>摺剥</rb><rt>すりむ</rt></ruby>くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。

古い屋敷をそのまま学校に用いているので玄関からがすでに教場であった。ある雨の降る日余はこの玄関に上って時間の来るのを待っていると、黒い<ruby><rb>桐油</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>を着て<ruby><rb>饅頭笠</rb><rt>まんじゅうがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った郵便脚夫が門から這入って来た。不思議な事にこの郵便屋が<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げている。しかも全くの素足である。<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>は無論の事、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>さえ<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていない。そうして、普通なら玄関の前へ来て、郵便と大きな声を出すべきところを、無言のまますたすた敷台から教場の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。この郵便屋がすなわち佐藤であったので大いに感心した。なぜ鉄瓶を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げていたものかその<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>は<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までついに聞く機会がない。

その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>佐藤は成立学舎の寄宿へ這入った。そこで<ruby><rb>賄</rb><rt>まかない</rt></ruby>征伐をやった時、どうした<ruby><rb>機勢</rb><rt>はずみ</rt></ruby>か額に<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>をして、しばらくの間<ruby><rb>白布</rb><rt>しろぬの</rt></ruby>で頭を巻いていたが、それが、<ruby><rb>後鉢巻</rb><rt>うしろはちまき</rt></ruby>のようにいかにも勇ましく見えた。賄に<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたなと<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>って<ruby><rb>苛</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったので今にその<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>たる姿を覚えている。

佐藤はその頃頭に毛の<ruby><rb>乏</rb><rt>とぼし</rt></ruby>い男であった。無論老朽した<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>ではないのだが、まあ<ruby><rb>土質</rb><rt>どしつ</rt></ruby>の悪い草原のように、一面に青々とは茂らなかったのである。漢語でいうと<ruby><rb>短髪種々</rb><rt>たんぱつしょうしょう</rt></ruby>とでも形容したら好いのかも知れない。風が吹けば毛の方で一本一本に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむき</rt></ruby>があった。この頭は予備門へ這入っても黒くならなかった。それで<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>して佐藤の事を<ruby><rb>寒雀</rb><rt>かんすずめ</rt></ruby>寒雀と<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>していた。当時余は寒雀とはどんなものか知らなかった。けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>った。この<ruby><rb>渾名</rb><rt>あだな</rt></ruby>を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。

話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なく綿密に毛が生えていた。もっとも黒いのばかりではなかった。近頃は正当<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>のために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて見せた。

旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>るため、大連から汽車に乗った。乗る時、是公が<ruby><rb>友熊</rb><rt>ともくま</rt></ruby>によろしくと云った。是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>の構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。やがて二人の影は物に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎられて、汽車の窓から見えなくなった。そうして満洲に有名な<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>の色が始めて眼底に映じ出した。汽車は広い野の中に出たのである。

二十二

おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着てごろごろするのも好いねという同意である。橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。その支那宿には、名は<ruby><rb>塞北</rb><rt>さいほく</rt></ruby>に<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ、<ruby><rb>味</rb><rt>あじわい</rt></ruby>は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りつけてあるそうだ。橋本はこう云う文句をたくさん手帳に控えている。ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。二人は笑いながら日本流の<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。降りるとそこに馬車がある。我々の名前を聞くものがある。

この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、<ruby><rb>渡辺秘書</rb><rt>わたなべひしょ</rt></ruby>であるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。橋本を振り返ると相変らず鼻の先を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っている。おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならない段になった。いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。

やがて馬車は新市街の方へ向いて動き出した。二人は十五分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>ホテルの二階に導かれて、行き通いのできる<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を二つ並べて取った。そこで<ruby><rb>革鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>の中から<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>を出して<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>だらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>としている。ホテルの中には一人も客がいないように見える。ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。<ruby><rb>開廊</rb><rt>ヴェランダ</rt></ruby>へ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>の真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。日中だけれども虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに聞える。隣は<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>のない家と見えて、<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>め切った門やら戸やらに<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>が一面に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んでいる。往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い<ruby><rb>赤煉瓦</rb><rt>あかれんが</rt></ruby>の家が<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>ある。けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてなければ<ruby><rb>窓硝子</rb><rt>まどガラス</rt></ruby>もついてない。足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの<ruby><rb>半建</rb><rt>はんだて</rt></ruby>である。淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちている。余は開廊の手摺を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で抑えながら、奥にいる橋本に、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいなあと云った。旅順の港は鏡のごとく暗緑に光った。港を囲む山はことごとく坊主であった。

まるで<ruby><rb>廃墟</rb><rt>ルインス</rt></ruby>だと思いながら、また室の中に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると、寝床には雪のような<ruby><rb>敷布</rb><rt>シート</rt></ruby>がかかっている。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>には<ruby><rb>柔</rb><rt>やわら</rt></ruby>かい<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷いてある。豊かな安楽椅子が<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてある。器物はことごとく新式である。いっさいが整っている。外と内とは全く反対である。満鉄の経営にかかるこのホテルは、<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を取っての<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>け仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。

食堂に下りて、窓の外に<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がる草花の<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎながら、橋本と二人静かに<ruby><rb>午餐</rb><rt>ごさん</rt></ruby>の卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。

二十三

旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>かなくては<ruby><rb>頂点</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで見上げる訳に行かなかった。

馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが<ruby><rb>白玉山</rb><rt>はくぎょくざん</rt></ruby>で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。よく見ると高い灯台のような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>である。二百何尺とかと云う話であった。この山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>を通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。その登り口を少し右へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った所に、戦利品陳列所がある。佐藤は第一番にそれを見せるつもりで<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を引張って来た。

陳列所は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より山の上の一軒家で、その山には<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>と名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい。当時の戦争に従事したと云う中尉のＡ君がただ<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り番をしている。この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に説明の労を取ってくれるのみならず、両人を<ruby><rb>鶏冠山</rb><rt>けいかんざん</rt></ruby>の上まで連れて行って、草も木もない高い所から、<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>の麓を指さしながら、自分の従軍当時の<ruby><rb>実歴譚</rb><rt>じつれきだん</rt></ruby>をことごとく語って聞かせてくれた人である。始め佐藤から砲台案内を依頼したときには、今日はちと<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えがあるから四時頃までならと云う条件であったが、山の出鼻へ立って<ruby><rb>洋剣</rb><rt>サーベル</rt></ruby>を<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>の代りにして、あちらこちらと方角を教える段になると、<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の要事はまるでそっちのけにして、満洲の赤い日が、向うの山の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>に、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈をしてくれる。あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>がましからぬ程度に聞いて見ると、実は<ruby><rb>妻</rb><rt>さい</rt></ruby>が病気でと云う返事である。さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。言葉は無論出なかった。長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある<ruby><rb>煉瓦塀</rb><rt>れんがべい</rt></ruby>の所で、それじゃ私はここで失礼しますと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入って行かれた。この煉瓦の塀を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした<ruby><rb>一構</rb><rt>ひとかまえ</rt></ruby>は病院であった。そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。

これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。ここに<ruby><rb>某中尉</rb><rt>ぼうちゅうい</rt></ruby>などとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずＡ君としておいた。

Ａ君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。しかしたった一つ覚えているものがある。それは女の<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた靴の片足である。<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>が<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>で、色は<ruby><rb>薄鼠</rb><rt>うすねずみ</rt></ruby>であった。その他の<ruby><rb>手投弾</rb><rt>てなげだん</rt></ruby>や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん<ruby><rb>時</rb><rt>どき</rt></ruby>でも意志の起り次第<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に思い浮べる事ができる。

戦争後ある<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。その時彼はこの靴を一目<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て非常に驚いたそうだ。そうしてＡ君に、これは自分の妻の<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていたものであると云って聞かしたそうだ。この小さな白い<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

二十四

今までは<ruby><rb>白馬</rb><rt>しろうま</rt></ruby>を着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。それでも<ruby><rb>露西亜人</rb><rt>ロシアじん</rt></ruby>だけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>って<ruby><rb>頂辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで登れるような広い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>をつけたのは感心ですとＡ君が語られる。実際その当時は<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な馬車を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき<ruby><rb>物数奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>は、かように<ruby><rb>零落</rb><rt>れいらく</rt></ruby>した馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。元来旅順ほど小山が<ruby><rb>四方</rb><rt>よも</rt></ruby>に<ruby><rb>割拠</rb><rt>かっきょ</rt></ruby>して、禿頭を炎天に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>し<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>っている所はない。<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>が乏しい<ruby><rb>土質</rb><rt>どしつ</rt></ruby>へ、遠慮のない<ruby><rb>強雨</rb><rt>ごうう</rt></ruby>がどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れ出す。その崩れるものがけっして尋常の土じゃない。堅い石である。しかも<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>に<ruby><rb>角張</rb><rt>かどば</rt></ruby>っている。ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、<ruby><rb>累々</rb><rt>るいるい</rt></ruby>と往来を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれている。零落した馬車は容赦なく<ruby><rb>鳴動</rb><rt>めいどう</rt></ruby>してその上を通るのだから、<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>の多い<ruby><rb>川床</rb><rt>かわどこ</rt></ruby>を渡るよりも危険である。<ruby><rb>二百三高地</rb><rt>にひゃくさんこうち</rt></ruby>へ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。そうして痛い腹を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えながら、<ruby><rb>膏汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>になって歩いたくらいである。<ruby><rb>鶏冠山</rb><rt>けいかんざん</rt></ruby>を下りるとき、馬の<ruby><rb>足掻</rb><rt>あがき</rt></ruby>が何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに<ruby><rb>詰</rb><rt>はま</rt></ruby>っていた。よほど厚い石と見えて爪から余った先が<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>ほどもある。したがって馬は一寸がた<ruby><rb>跛</rb><rt>ちんば</rt></ruby>を引いて車体を前へ運んで行く訳になる。席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>に注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて下へ下りたが、非常に固く<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>っていたと見えて、<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。そうして、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にいる余の方をふりむいて、にやにや笑いながら、また鞭を鳴らし出した。馬も存外平気なもので、そのままとうとう<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルまで帰って来た。

橋本と余はこう云う馬車の中で、こう云う路の上に<ruby><rb>揺振</rb><rt>ゆすぶ</rt></ruby>られべく旧市街から出立した。あれがステッセル将軍の家でと云うのを遠くから見ると、なかなか立派にできている。戦争の<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくならない時は、将軍がみごとな馬車を<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>ってそこいらを乗り廻しているのが<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>の先から見えたそうである。Ａ君の<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>して教えられた<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で、ただ一つ質素な<ruby><rb>板囲</rb><rt>いたがこい</rt></ruby>の小さい家があった。それがまるで日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかった。何とか云う有名な将軍の住宅だと説明されたが、不幸にしてその有名な将軍の名を忘れてしまった。何でも非常に人望のある人で、戦争のときも一番先に<ruby><rb>打死</rb><rt>うちじに</rt></ruby>をしたのだそうである。ああ云う質素の家に住んでおられたのも、一つは人望のあった原因になっているのでありましょうとＡ君は丁寧に敬慕の意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>される。この将軍は戦争だけには熱心で、ほかの事にはよほど<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>であった人らしい。この辺にある露国の将軍などの住宅は皆それ相応に立派なものばかりである。新市街の<ruby><rb>白仁長官</rb><rt>しらにちょうかん</rt></ruby>の家を<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた時、結構な<ruby><rb>御住居</rb><rt>おすまい</rt></ruby>だが、もとは誰のいた所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家だそうですと答えられた。こう云う家に住んで、こういう<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を眼の下に見れば、内地を離れる<ruby><rb>賠償</rb><rt>ばいしょう</rt></ruby>には充分なりますねと云ったら、白仁君も笑いながら、日本じゃとても<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>れませんと云われたくらいである。

そのうち馬車は無鉄砲に<ruby><rb>山路</rb><rt>やまみち</rt></ruby>を上って、旅順の市街を遥の下にうちやるようになった。Ａ君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行って御待ち申しますと云いながら、左手の急な<ruby><rb>岨路</rb><rt>そばみち</rt></ruby>をずんずん登って行った。我々の車はまたのそのそ動き出した。

二十五

下を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>すと、山の側面はそれほど急でないが、<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>と名のつくような青いものはまるで<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>らない。一眼に<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>まで<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かされるのみならず、麓からさき一里余の<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>が<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の下に集まって来る。この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざやか</rt></ruby>である。そのうちで<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>の色が一番多く眼を染めた。

あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて<ruby><rb>対溝</rb><rt>たいこう</rt></ruby>を掘出したのですとＡ君が遠くの方を指さしながら云った。この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。現に<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>から<ruby><rb>窖道</rb><rt>こうどう</rt></ruby>へ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。

余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを<ruby><rb>見較</rb><rt>みくら</rt></ruby>べて、その中間に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わる距離を<ruby><rb>胸算用</rb><rt>むなざんよう</rt></ruby>で割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと<ruby><rb>洋剣</rb><rt>サーベル</rt></ruby>を向けて教えてくれた。何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。その時敵も砲台の方から<ruby><rb>反対窖道</rb><rt>はんたいこうどう</rt></ruby>と云うのを掘って来た。日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。爆発薬の<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>で<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>したのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。我々も無論その上に立っている。この下を掘ればいくらでも<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>が出て来るのだと云う。

土山の<ruby><rb>一隅</rb><rt>ひとすみ</rt></ruby>が少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。その<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>が厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の<ruby><rb>廻廊</rb><rt>かいろう</rt></ruby>に降りた時に、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>いて見て始めてその堅固なのに気がついた。外濠を<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>した上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を<ruby><rb>専領</rb><rt>せんりょう</rt></ruby>するに至っては、全く人間以上の<ruby><rb>辛抱比</rb><rt>しんぼうくら</rt></ruby>べに違ない。その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを<ruby><rb>界</rb><rt>さかい</rt></ruby>に、ただ一尺ほどの距離を取って<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>をした。仕切は<ruby><rb>土嚢</rb><rt>どのう</rt></ruby>を積んで作ったとかＡ君から聞いたように覚えている。上から頭を出せばすぐ<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>たれるから<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を隠して乱射したそうだ。それに疲れると鉄砲をやめて、両側で話をやった事もあると云った。酒があるならくれと<ruby><rb>強請</rb><rt>ねだ</rt></ruby>ったり、死体の収容をやるから少し待てと頼んだり、あんまり下らんから、もう<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>はやめにしようと相談したり、いろいろの事を云い合ったと云う話である。

三人は暗い廻廊を這い出して、また土山の上に立った。日は<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るように明かるく<ruby><rb>坊主山</rb><rt>ぼうずやま</rt></ruby>を照らしている。野菊に似た小さな花が処々に見える。じっと日を浴びて<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいると、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がする。草の裏で鳴いているのか、崩れ掛った<ruby><rb>窖内</rb><rt>こうない</rt></ruby>で鳴いているのか分らなかった。向うの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>に支那人の影が二人見えたが、我々の姿を認めるや否や、草の中に隠れた。ああやって、何か掘りに来るんです。<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まると<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いものだから、すぐに逃げます、なかなか取り抑えるのが困難ですとＡ君が苦笑した。

<ruby><rb>後側</rb><rt>うしろがわ</rt></ruby>へ回ると広い<ruby><rb>空堀</rb><rt>からぼり</rt></ruby>の中に立派な二階建の兵舎がある。もとは橋をかけて渡ったものと思われるが、今では下りる事もできない。兵舎の背はもとより、山に囲われて、外からは見えなくなっている。三人は<ruby><rb>空濠</rb><rt>からぼり</rt></ruby>を横に通り越してなお高く上った。とうとう四方にあるものは山の頭ばかりになった。そうしてそれが一つ残らず昔の砲台であった。中尉はそれらの名前をことごとく<ruby><rb>諳</rb><rt>そら</rt></ruby>んじていた。余は<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>るもののない高い空の真下に立って、数限りもない山の背を見渡しながら、<ruby><rb>砲台巡</rb><rt>ほうだいめぐ</rt></ruby>りも容易な事ではないと思った。

二十六

大連に着いてから二三日すると、<ruby><rb>満洲日々</rb><rt>まんしゅうにちにち</rt></ruby>の伊藤君から<ruby><rb>滞留中</rb><rt>たいりゅうちゅう</rt></ruby>に是非一度講演をやって貰いたいという依頼であった。ええ都合ができればと受合ったようなまた断ったような軽い<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をして旅順に来た。するとその伊藤君が我々より一日前に同じ<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルに泊っていたので、ただ、やあ来ているねぐらいでは事がすまなくなった。伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くと云う事を、もう自分の新聞に広告してしまったと云うんだから、たちまち弱った。どうしてもやらなければならないように伊藤君は頼むし、何だかやれそうもない気分ではあるし、かたがた安楽椅子に<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めて、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>く渋り出した。すると橋本がにやにや笑いながら、まあやってやるさと<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>から余計な事を云う。実を云うと、講演は馬車でホテルに着くや否や、ここの<ruby><rb>和木君</rb><rt>わきくん</rt></ruby>からも頼まれている。もっともこの<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>は暇がないので、<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>まれ<ruby><rb>放</rb><rt>ぱな</rt></ruby>しの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>であるが、大連に帰ればそう多忙らしく見せる訳には行かない。橋本はそこをよく見破っているので、君そう云うときには快よく承諾するものだよとか君のような人はやる義務があるさとかいろいろな口を出す。余の大連でしゃべらせられたのは全くこの男の<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>である。しかも短い時日のうちに二遍もやらせられた。その内の一遍では、云う事が無くって仕方がなかったから、私は今晩、なぜ講演というものが、そう容易にできるものでないか、すなわち講演ができない訳を講演致しますと云って、妙な事を弁じてしまった。それを<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が聞きに来ていて、うん貴様はなかなか<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い、これからどこへ出て演説しようと勝手だ、おれが許してやると評したからありがたい。けれども勧告の本人たる橋本は、平気な顔をして、どこか遊んで歩いていて聞きに来なかった。そのくせ営口でまた頼まれると早速、君やるさ、せっかく頼むんだものと例の通りやり出したので、やむをえず痛い腹の上にかけていた<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、演説をしに行った。その代りおれが先へやるよと断って、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ帰って来て、また腹の上に蒲団を掛けていた。橋本はこう云うところを見ると、君演説をやってる間は苦しいかなどと気楽な質問をする。もっとも招待を断ったり何かするときには、いや実際この男は胃病でといつでも証人に立ってくれた。して見ると、橋本はただ演説に対してだけ<ruby><rb>冷刻</rb><rt>れいこく</rt></ruby>なのかも知れない。奉天でも危うく高い所へ乗せられるところを、一日<ruby><rb>日取</rb><rt>ひどり</rt></ruby>が狂ったため、いかな橋本にも、君頼まれたときにはやってやるべきだよを繰返す余地がなかった。京城では発着が前後した上に、宿屋さえ違ったものだから、泰然と講演を謝絶する余裕があった。これは<ruby><rb>偏</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>に橋本のいなかった御蔭である。

面白い事に、この演説の勧誘家はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby><ruby><rb>札幌</rb><rt>さっぽろ</rt></ruby>へ帰るや否や、自身と<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい胃病に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って、急に苦しみ出した。それで普通ならば毎週十時間余も講義を持たせられるところを、わずか一時間に減らして貰って、その一時間が済むとすぐに薬を呑むそうだ。旅行中は君の病気である事を知りながら、無理に講演を勧めて大いに悪かった。何事も自分で経験しないうちは分らぬもので、こうして胃病に悩まされて始めて気がついたが、痛いときに演説などができる訳のものでは、けっしてない。君があの際<ruby><rb>奮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って演壇に立ったのは実際感心である、と大いに<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めたり<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まったりして来た。実際橋本の云う通りである。しかしはたして橋本の推察するほど胃が痛かったら、いかな余も、いくらせっかくだから君出るが好いよを繰返されたって、ついに講演を断ってしまったろう。

二十七

<ruby><rb>白仁</rb><rt>しらに</rt></ruby>さんから<ruby><rb>正餐</rb><rt>せいさん</rt></ruby>の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になったときは、民政部内の諸君がだいぶ見えた。みんな<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>ってカーキー色の制服を着ていた。食事が済んで別室へ戻って話していると佐藤が、あしたは朝のうち<ruby><rb>二百三高地</rb><rt>にひゃくさんこうち</rt></ruby>の方を見たら好かろう、案内を出すからと云ってくれる。余も好かろうと答えた。すると、大した案内にも及ぶまいと笑いながら相談を掛けた。我々は一私人で、ただ遊覧に来たのだから、<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の職務を帯びている人を使ってはすまないが、せっかく案内をつけてくれると云うなら、小使でも何でも構わない。<ruby><rb>非番</rb><rt>ひばん</rt></ruby>か閑散の人を一人世話してくれと頼んだ。これは正直恐れ入った本当の<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>である。その時佐藤は懐中から自分の名刺を出して、端の方に鉛筆で何か書いて、じゃ<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の朝八時にこの人が来るから、来たらいっしょに行くが好いと云って分れた。

明日の朝の八時は<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>の通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いていた。馬車を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて山にかかったときなどは、その強い日の光が<ruby><rb>毛孔</rb><rt>けあな</rt></ruby>から<ruby><rb>総身</rb><rt>そうしん</rt></ruby>に<ruby><rb>浸込</rb><rt>しみこ</rt></ruby>むように空気が<ruby><rb>澄徹</rb><rt>ちょうてつ</rt></ruby>していた。相変らず<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>のない山で、山の上には日があるばかりだから、眼の向く所は、左右ともに、また前後ともに、どこまでも朗らかである。その明かな足元から、ばっと音がして、何物だか飛び出した。案内の市川君が<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>ですと云ったので始めてそうかと気がついたくらい早く、鶉は眼を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて、<ruby><rb>空濶</rb><rt>くうかつ</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に消えてしまった。その<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>を見上げると、<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>なる大きい鏡である。

その時我々はもう<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>近くにいた。ここいらへも<ruby><rb>砲丸</rb><rt>たま</rt></ruby>が飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>したためです。こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>け寄せて敵を<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>ける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついているのであります。そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に<ruby><rb>砂煙</rb><rt>すなけむり</rt></ruby>が<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>がるとその<ruby><rb>虚</rb><rt>きょ</rt></ruby>に乗じて一間か二間ずつ<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い上がるのですから、勢い砂煙に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>る石のために身体中<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>だらけになるのです。と市川君は詳しい説明を与えられた。

味方の<ruby><rb>砲弾</rb><rt>たま</rt></ruby>でやられなければ、勝負のつかないような<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>は<ruby><rb>苛過</rb><rt>つらす</rt></ruby>ぎると思いながら、<ruby><rb>天辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った。そこには<ruby><rb>道標</rb><rt>どうひょう</rt></ruby>に似た<ruby><rb>御影</rb><rt>みかげ</rt></ruby>の<ruby><rb>角柱</rb><rt>かくちゅう</rt></ruby>が立っていた。その右を少しだらだらと降りたところが<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に土を掘返したごとく<ruby><rb>白茶</rb><rt>しらちゃ</rt></ruby>けて見える。不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。これが石油を<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>に<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>み<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>まして、火を着けて、下から<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>り<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げたところですと、市川君はわざわざ<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れた<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>の上まで降りて来た。その時<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>下の方を見渡して、山やら、谷やら、<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>やら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う<ruby><rb>径路</rb><rt>けいろ</rt></ruby>をとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、<ruby><rb>藍色</rb><rt>あいいろ</rt></ruby>の海が二カ処ほど<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>たく見えるだけである。余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた。

自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。市川君の云うところによると、六月から十二月まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>った<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>の中に腰から下を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らして何時間でも<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の色を変えて<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいた。食事は鉄砲を打たない時を<ruby><rb>見計</rb><rt>みはから</rt></ruby>って、いつでも構わず口中に運んだ。その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に<ruby><rb>埋</rb><rt>うま</rt></ruby>って、馬の力ではどうしても<ruby><rb>運搬</rb><rt>うんぱん</rt></ruby>ができなかった事もある。今あんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をすれば一週間<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の<ruby><rb>組織</rb><rt>そしょく</rt></ruby>がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。

二十八

旅順の港は袋の口を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ったように狭くなって外洋に続いている。袋の中はいつ見ても油を<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>したと思われるほど平らかである。始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。魚を<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>る<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>は無論無かった。<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。ただ頭へぴかぴかと、平たい<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>澄</rb><rt>すま</rt></ruby>したものが映った。

余は<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。ホテルの玄関を出たり<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。それでも単に<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な色と光だなと感ずるだけであった。佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。

さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。港務部を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るときに水兵がこの五人に礼をした。兵隊に礼をされたのは生れてこれが<ruby><rb>初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>てであった。佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。我々は石垣の上に立っていた。足元にはすぐ<ruby><rb>小蒸気</rb><rt>こじょうき</rt></ruby>が<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いである。我々の足は、家の方より、むしろ水の方に向いていた。

十分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>五人はまた<ruby><rb>河野中佐</rb><rt>こうのちゅうさ</rt></ruby>といっしょに家を出てすぐ小蒸気に移った。海軍の将校が下士や水兵を使うのは実に簡潔<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>である。船は河野中佐の云いなり次第の速力で、思う通りの方角へ出た。港の入口ではここかしこの潜水器へ船の上から空気を送っている。船の数は十<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>近くあった。みんな波に揺られて<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったり<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>ったりしている。我々五人のも<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>ではない。鏡のように見えた湾の入口がこうまで動いているとは思いがけなかった。波で身体の調子が浮いたり沈んだりする上に、強い日が頭から<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>りつけるので、少し胸が悪くなった。河野さんは軍人だから、そんな事に気のつくはずがない。ああ云う<ruby><rb>喞筒</rb><rt>ポンプ</rt></ruby>で空気を送るのは旧式でね、時々潜水夫を殺してしまいますよと講釈をしている。田中君はふうんとさも感心したらしく聞いている。

河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は<ruby><rb>何艘</rb><rt>なんそう</rt></ruby>あるか分らない。日本人が好んで自分で沈めに来た船だけでもよほどの数になる。戦争後何年かの<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>いまだに引揚げ切れないところを見てもおおよその見当はつく。器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。

じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられたのでなるほどそんなものかと思った。沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、これは<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく覚えている、百キロぐらいな爆発薬で船体を部分部分に切り壊して、それを六<ruby><rb>吋</rb><rt>インチ</rt></ruby>の針金で<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えて、そうして六百<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>のブイアンシーのある船を、水で重くした上、<ruby><rb>干潮</rb><rt>かんちょう</rt></ruby>に乗じて<ruby><rb>作事</rb><rt>さくじ</rt></ruby>をしておいて、それから満潮の勢いと喞筒の力で引き揚げるのだそうだ。しかし我々が眺めていた時は、いつまで立っても、何も揚って来そうになかった。

港の入口は左右から続いた山を掘り割ったように岸が<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていて、その上に砲台がある。あすこから<ruby><rb>探海灯</rb><rt>たんかいとう</rt></ruby>で照らされると、一番困る。まるで方角も何も分らなくなってしまうと河野さんが高い処を指さした。

やがて小蒸気は煙りを逆に吐いて港内に引返した。戦闘艦が並んで撃沈されたという前を横に曲ってまた元の石垣の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>へ着いた。向う岸には戦利品のブイや<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>がたくさん並んでいる。あれで約三十万円の価格ですと河野さんが云った。門の出口には<ruby><rb>防材</rb><rt>ぼうざい</rt></ruby>の標本が一本寝かしてあった。その先から<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った<ruby><rb>剣</rb><rt>けん</rt></ruby>のようなものが出ていた。

二十九

風呂を注文しておいたら、用意ができたと見えて、向うの部屋で、湯の<ruby><rb>迸</rb><rt>ほと</rt></ruby>ばしる音が<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>にする。靴を脱いで、スリッパアをつっかけて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕がやって来た。田中さんがいっしょにスキ焼を食べにいらっしゃいませんかと云う案内である。スキ焼の名はこの際両人に取って珍らしい響がした。けれども白状すると、<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も食う気にはならなかった。スキ焼って<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云う。近所の料理屋はスキ焼よりも一層不思議な言葉である。ホテルの窓から往来を一日眺めていたって、通行人は<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に眼に触れないところである。外へ出て広い路を岡の上まで見通すと、左右の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は数えるほどしか並んでいない。そうしてそれがことごとく西洋館である。しかも三分の一は<ruby><rb>半建</rb><rt>はんだて</rt></ruby>のまま<ruby><rb>雨露</rb><rt>あめつゆ</rt></ruby>に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されている。他の三分の一は<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>である。残る三分の一には無論人が住んでいる。けれどもその主人はたいてい月給を取って衣食するものとしか受け取れない<ruby><rb>構</rb><rt>かまえ</rt></ruby>である。新市街という名はあるにしても、その<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>は閑静な<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>れた屋敷町に過ぎない。その屋敷のどこにスキ焼を食わす家があるかと思うと、一種小説に近い心持が起る。

ただ、昼の疲れを忘れるため、胃の不安を<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れるため、早く湯に入って、レースの<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の中で、穏かに寝たかった。そこで給仕に、今湯に這入りかけているからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか<ruby><rb>御先</rb><rt>おさき</rt></ruby>へと云ってくれと頼んだ。すると<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる橋本が例のごとく、そりゃいかんよと云い出した。せっかく誘ってくれるものを、そんな<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をする法はないぜと、また長い説教が始まりそうで恐ろしくなったので、仕方がないからうんよしよし、それじゃあね、今湯に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていますから、すぐ行きますってそう云ってくれ、よく云うんだよ、分ったかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。

そうして、少しも弱った顔を見せずにみんなと連れ立って、ホテルを出た。空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。草の生えた四角な<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>を横切って、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>も電気もない所を、<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。玄関に女が二三人出ている。我々の来るのを待っていたような挨拶をした。座敷は畳が敷いて<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>がかけるようになっていた。窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。女が危のうございますと云った。外を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたら<ruby><rb>真闇</rb><rt>まっくら</rt></ruby>に静かであった。

女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと<ruby><rb>名古屋訛</rb><rt>なごやなまり</rt></ruby>を<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>て<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>っていた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めていた。ところが<ruby><rb>前触</rb><rt>まえぶれ</rt></ruby>のスキ焼はなかなか出て来ない。酒を飲まないで、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を突っついて<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶさた</rt></ruby>であった。スキ焼があらわれても、胃の加減で<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>くも何ともなかった。天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で見ていて<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいほど食べた。余はしようがないから畳の上に<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむき</rt></ruby>に寝ていた。すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を余の頭の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ持って来た。この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をして、向うの方に長くなっている。枕元では田中君が女を相手に<ruby><rb>碁石</rb><rt>ごいし</rt></ruby>でキシャゴ<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>きをやって大騒ぎをしている。余があまり<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、<ruby><rb>顋</rb><rt>あご</rt></ruby>の下をくすぐった。

帰るときには、<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。門を出るとまた急に暗くなった。<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>として人の<ruby><rb>気合</rb><rt>けわい</rt></ruby>のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの<ruby><rb>派出</rb><rt>はで</rt></ruby>なスキ焼を<ruby><rb>眼前</rb><rt>がんぜん</rt></ruby>に浮かべると、やはり小説じみた心持がした。

三十

朝食に<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>を食わすから来いという案内である。<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>には、ケムブリジに行ったときたしか浜口君に呼ばれた事があると云う記憶がぼんやり残っているだけだから、大変珍らしかった。もっとも午前十一時に立つ客に<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>を振舞う方法は、世界にないんだから仕方がない。鶉に至っては生れてからあんまり食った事がない。昔<ruby><rb>正岡子規</rb><rt>まさおかしき</rt></ruby>に、手紙をもってわざわざ<ruby><rb>大宮公園</rb><rt>おおみやこうえん</rt></ruby>に呼び寄せられたとき、鶉だよと云って喰わせられたのが初めてぐらいなものである。その鶉の朝飯を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるからと云って、特に招待するんだから、佐藤は<ruby><rb>物数奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>に違いない。そうして、好いかほかに何にもない、鶉ばかりだよと念を押した。いったい鶉を何羽喰わせるつもりか知らんと思って、どこから貰ったのかと聞くと、いや鶉は旅順の名物だ、もう出る時分だからちょうど好かろうとすでに鶉を<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>ったような事を云っていた。

白仁さんのところへ<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまごい</rt></ruby>に行ったので少し<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れて着くと、スキ焼を推挙した田中君がもう来ていた。田中君も鶉の<ruby><rb>御相伴</rb><rt>おしょうばん</rt></ruby>と見える。佐藤は食卓の準備を見るために、出たり<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったりする。立派な<ruby><rb>仙台平</rb><rt>せんだいひら</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着けてはいるが、<ruby><rb>腰板</rb><rt>こしいた</rt></ruby>の所が妙に口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、まるで<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>を割ったようである。そうして、それを<ruby><rb>後下</rb><rt>うしろさが</rt></ruby>りに<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>っている。それでもって、さあ食おうと云って、次の間の食堂へ案内した。西洋流の食卓の上に、<ruby><rb>会席膳</rb><rt>かいせきぜん</rt></ruby>を四つ並べて、いよいよ鶉の朝飯となった。

まず<ruby><rb>御椀</rb><rt>おわん</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を取ると、鶉がいる。いわゆる鶉の御椀だから不思議もなく食べてしまった。皿の上にもいるが、これはたしか醤油で焼かれたようだ。これも<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く食べた。第三は何でも<ruby><rb>芋</rb><rt>いも</rt></ruby>か何かといっしょに煮られたように記憶している。しかし<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>ながら、<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>とその味を覚えていない。これらを<ruby><rb>漸次</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>に<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>げると、佐藤はまだあるよと云って、次の皿を取り寄せた。それも無論鶉には相違なかった。けれどもただ西洋流の<ruby><rb>油揚</rb><rt>あぶらあげ</rt></ruby>にしてあるばかりで、ややともすると前の<ruby><rb>附焼</rb><rt>つけやき</rt></ruby>と<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れやすかった。しかもこの紛れやすい油揚はだいぶ仕込んで有ったと見えて、まだ喰い切らない先に御代りが出て来た。

かくのごとく鶉が豊富であったため、つい食べ過ぎた。余の胃の中に這入った骨だけの分量でもずいぶんある。大連へ帰って胃の痛みが増したとき、あまり鶉の骨を喰ったせいじゃなかろうかと橋本に相談したら、橋本は全くそうだろうと答えた。食事が終ってから応接間へ帰って来ると、佐藤が突然、時に君は何かやるそうじゃないかと聞いた。<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>に東京で<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったとき、是公はにやにや笑いながら、いったい貴様は新聞社員だって、何か書いてるのかと聞いた。こう云う質問になると、是公も友熊も同程度のものである。

何かやるなら一つ書いて行くが好いと云って、妙な短冊を出した。それを<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ置いて話をしていると、一つ書こうじゃないかと催促する。今考えているところだと弁解すると、ああそうかと云って、また話をする。しまいに墨を磨って、とうとう<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>を<ruby><rb>分</rb><rt>わか</rt></ruby>つ<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>き<ruby><rb>都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>や<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby><ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>くと書いた。佐藤の事だから何を書いたって解るまいと思ったが、佐藤は短冊を取上げて、何だ<ruby><rb>年</rb><rt>とし</rt></ruby>を分つ古き都やと読んでいた。

<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>の<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えたなり、ホテルへ帰って<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>を済まして、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>へ<ruby><rb>駆</rb><rt>かけ</rt></ruby>つけると、プラットフォームに大きな<ruby><rb>網籠</rb><rt>あみかご</rt></ruby>があった。その中に鶉の生きたのがいっぱい<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って<ruby><rb>雛鳥</rb><rt>ひよっこ</rt></ruby>を詰めたようにむくむく動いている。発車の時間に少し間があったので、田中君は籠の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行って所有主と談判を始めた。余が近寄ったときは、一羽が三銭だとか四銭だとか云っていた。ところへ駅員が来て、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しゅうございます、この汽車へ積込んで御届け申しますと受合った。三人はとうとう鶉と別れて汽車へ乗った。

三十一

いよいよ腹が痛んだ。ゼムを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだり、<ruby><rb>宝丹</rb><rt>ほうたん</rt></ruby>を呑んだり、通じ薬をやったり、内地から持って来た散薬を用いたりする。毎日飯を食って<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>に出歩いているようなものの、内心ではこりゃたまらないと思うくらいであった。大連の病院を見に行ったとき、<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>し<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れに、案内をしてくれた院長の<ruby><rb>河西君</rb><rt>かさいくん</rt></ruby>に向って、僕も一つ診察を願おうかなと云ったら、河西君はとんだお客様だというような顔もせず、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の十時頃いらっしゃいと親切に引き受けてくれた。ところが明日の十時頃になると、診察の事はまるで忘れてしまって、相変らず鳥打帽子を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、強い日の下を<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げながら、<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>け廻った。

橋本が、全体どこまで行くつもりなんだいと聞くから、そうさまあ<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>ぐらいまで行かなくっちゃ義理が悪いようだなと答えたが、その橋本はどうする<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>かちっとも分らない。考えて見ると、内地ではもう九月の学期が<ruby><rb>始</rb><rt>はじま</rt></ruby>って、教授連がそろそろ講義に取りかかる頃である。君はこれからどうするんだと反問して見た。さあ僕も哈爾賓ぐらいまで行って見たいのだが、何しろ六月から学校を<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けているんだからねと決心しかねている。かように義務心の強い男を<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かして見当違の方角へ連れて行ったのは、全く余の力である。その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は<ruby><rb>札幌</rb><rt>さっぽろ</rt></ruby>から電報をかけられた。いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑しているので、いいや、急ぎ帰りつつありとかけておくさと、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の事だからはなはだ<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃらく</rt></ruby>な<ruby><rb>助言</rb><rt>じょごん</rt></ruby>をした。

橋本がいよいよいっしょに北へ行くと云う事になってから、余はすべてのプログラムを橋本に委任してぶらぶらしていた。橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでいた。ときどき、おいどうも<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く行かんよ、ここを火曜の急行で出るとするとなどと相談を掛けるから、いいさ火曜がいけなければ水曜の急行にしようと、まるで無学な事を云っているので、橋本も<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れていた。よく聞いて見て始めて了解したが、実は<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>へ接続する急行は、一週にたった二回しかないのだそうである。普通の<ruby><rb>客車</rb><rt>かくしゃ</rt></ruby>でも、京浜間のようにむやみには出ない。一日にわずか二度か三度らしい。だから君のように<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な事を云ったって<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だよと橋本から叱られた。なるほど駄目である。しかも余の駄目は汽車にとどまらない。地理<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>に至っても<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby><ruby><rb>真闇</rb><rt>まっくら</rt></ruby>であった。さすが<ruby><rb>遼陽</rb><rt>りょうよう</rt></ruby>だの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだかいっさい知らなかった。その上、これから先どことどこへ泊って、どことどこを通り抜けるのかに至るまで、全く<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>であったのだから橋本も呆れるはずである。しかし、おい<ruby><rb>鉄嶺</rb><rt>てつれい</rt></ruby>へは降りるのかと聞いて、いや降りないと答えられれば、はあ、そうかと云ったなりで済ましていた。別に降りて見たい気にもならなかったからである。したがって橋本は実に順良な<ruby><rb>道伴</rb><rt>みちづれ</rt></ruby>を得た訳で、同時に余は結構な御供を雇った事になる。

いよいよプログラムがきまったので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行って、それから<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>へ出て、<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は<ruby><rb>安奉線</rb><rt>あんぽうせん</rt></ruby>を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろうとすこぶる<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な<ruby><rb>助言</rb><rt>じょごん</rt></ruby>を与える。その上、<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>が無ければやるよと註釈を付けた。銭が無くなれば無論貰う気でいた。しかし余っても困るから、むやみには手を出さなかった。

余は銭問題を離れて、単に時間の点から、この大袈裟な旅行の計画を、実行しなかった。そのくせ奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。

立つ時には、是公はもとより、新たに近づきになった満鉄の社員諸氏に至るまで、ことごとく<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>まで送られた。貴様が生れてから、まだ乗った事のない汽車に乗せてやると云って、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内してくれた。汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おいこの部屋は上等切符を買った上に、ほかに二十五<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>払わなければ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>れない所だよと云った。なるほど<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>にちゃんとそう書いてある。専有の便所、洗面所、化粧室が附属した立派な<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>であった。余は痛い腹を忘れてその中に横になった。

三十二

トロと云うものに始めて乗って見た。停車場へ降りた時は、<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>の外に五六軒長屋のような低い家が見えるばかりなので、何だか汽車から置き去りにされたような気持であったが、これからトロで十五分かかるんだと聞いて、やっと<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>した。

トロは昔軍人の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたのを、手入もせずに、そのまま利用しているらしい。<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>の間から草が生えている。軌道の外にも草が生えている。先まで見渡すと、鉄色の筋が二本<ruby><rb>栄</rb><rt>は</rt></ruby>えない草の中を<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に<ruby><rb>貫</rb><rt>つら</rt></ruby>ぬいている。しかし細い筋が草に隠れて、<ruby><rb>行方知</rb><rt>ゆきがたし</rt></ruby>れずになるまで眺め尽しても、建物らしいものは一軒も見当らなかった。そうして軌道の両側はことごとく<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>であった。その大きな穂先は、眼の届く限り<ruby><rb>代赭</rb><rt>たいしゃ</rt></ruby>で染めたように日の光を吸っている。橋本と余と荷物とは、この<ruby><rb>広漠</rb><rt>こうばく</rt></ruby>な<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>の中を、トロに揺られながら、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに動いた。トロは<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えない。軌道の上を<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がす所を、よそから見ていると、はなはだ<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかで軽快に走るが、実地に乗れば、胃に響けるほど揺れる。押すものは無論支那人である。勢いよく二三十間突いておいて、ひょいと腰をかける。<ruby><rb>汗臭</rb><rt>あせくさ</rt></ruby>い<ruby><rb>浅黄色</rb><rt>あさぎいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>が<ruby><rb>背広</rb><rt>せびろ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>るので気味が悪い事がある。すると、速力の鈍った頃を<ruby><rb>見計</rb><rt>みはか</rt></ruby>らって、また<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>のまま飛び下りて、肩と手をいっしょにして、うんうん押す。押さなければいいと思うぐらい、車が早く廻るので、乗ってる人の<ruby><rb>臓器</rb><rt>ぞうき</rt></ruby>は少からず<ruby><rb>振盪</rb><rt>しんとう</rt></ruby>する。余はこのトロに運搬されたため、悪い胃を著るしく悪くした。車の上では<ruby><rb>始終</rb><rt>しじゅう</rt></ruby>ゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思っていた。勢いよく<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>けられれば、駆けられるほどなお<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>かった。それでも台からぶら下げた足を折らなかったのが、まだ仕合せである。実際酒に酔って腰をかけたまま<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>を折っぺしょった人があるそうだ。見ると橋本の帽子の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>が風に吹かれてひらひらと<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いている。余は鳥打の<ruby><rb>前廂</rb><rt>まえびさし</rt></ruby>を深く下げてなるべく日に<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>を向けるようにしていた。

苦しい十五分か廿分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>車はようやく留まった。軌道の左側だけが、<ruby><rb>畠</rb><rt>はた</rt></ruby>を切り開いて平らにしてある。眼を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う高粱の色を、百坪余り刈り取って、黒い砂地にした<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>へ、左右に長い平屋を建てた。壁の色もまだ新しかった。玄関を這入って座敷へ通ると、窓の前は二間ほどしかない。その<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に朝顔のような草が<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っているが、<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる竹も<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>もないので、<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>と云わず、葉と云わず、花を包んで雑然と<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がるばかりである。朝顔の下はすぐ<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>で、崖の向うは広い<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>になる。水は崖の真下を少し流れるだけであった。

橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。しかし<ruby><rb>屋根瓦</rb><rt>やねがわら</rt></ruby>しか見えない。支那流の古い建物で、廻廊のような段々を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りて、余のいる部分に続いているらしく思われる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になっていますと答えた。子供とは<ruby><rb>酌婦</rb><rt>しゃくふ</rt></ruby><ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>すものだろうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋に<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いだものに過ぎない。水はただ砂を洗うほどに流れている。足の甲を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らしさえすれば<ruby><rb>徒歩渉</rb><rt>かちわた</rt></ruby>るのは容易である。橋本の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>食付</rb><rt>くっつ</rt></ruby>いて<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。十里ほど<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>に<ruby><rb>遡</rb><rt>さかの</rt></ruby>ぼると<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>が<ruby><rb>漁</rb><rt>と</rt></ruby>れるそうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしい<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>だと思った。おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。

三十三

<ruby><rb>足駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を踏むとざぐりと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る。<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>を上げるとばらばらと散る。<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>よりも恐ろしい砂地である。冷たくさえなければ、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になって歩いた方が心持が好い。<ruby><rb>俎</rb><rt>まないた</rt></ruby>を<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>っていては<ruby><rb>一足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>ごとに<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>しざるようで<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>くなる。それを一町ほど行って<ruby><rb>板囲</rb><rt>いたがこい</rt></ruby>の小屋の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むと、<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>があった。大きい四角な<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>を<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>まで地の中に<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>け<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んだと同じような<ruby><rb>槽</rb><rt>ふね</rt></ruby>である。温泉はいっぱい<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っていたが、澄み切って底まで見える。いつの間に附着したものやら底も縁も青い<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>で色取られている。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。そうして遠くから見ると、砂の中へ<ruby><rb>生埋</rb><rt>いきうめ</rt></ruby>にされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。支那人の中には、実際生埋になって<ruby><rb>湯治</rb><rt>とうじ</rt></ruby>をやるものがある。この<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>の幅は、向うに見える<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>まで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼が<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>になるほど広いものである。その<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らなどこを、どう掘っても、湯が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来るのだから、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>になって、手で砂を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き分けて、<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んだ<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ横になれば、一文も使わないで事は済む。その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の<ruby><rb>掻巻</rb><rt>かいまき</rt></ruby>ができる訳である。ただ砂の中を<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>って出る湯がいかにも熱い。じくじく<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いたものを、大きな<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>に溜めて見ると、色だけは非常に<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だが、それに<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されてうっかり飛び込もうものなら<ruby><rb>苛</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>う。橋本と余は、勢いよく<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げて、競争的に<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>を<ruby><rb>突込</rb><rt>つっこ</rt></ruby>んで、急に顔を見合せながら<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>んだ事がある。大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、<ruby><rb>四半丁</rb><rt>しはんちょう</rt></ruby>ほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりと<ruby><rb>浸</rb><rt>つか</rt></ruby>った。

風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>く折れ曲っている。その向う側に五六本の大きな柳が見える。奥には村があるらしい。牛と馬が五六頭水を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>って来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけは<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う<ruby><rb>南画</rb><rt>なんが</rt></ruby>と称するものに<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>として面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。遠くから望んでも日本の柳とは<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>が違うように思われた。水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>が鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。そのくらいに周囲はどす黒かった。漢語には<ruby><rb>崔嵬</rb><rt>さいかい</rt></ruby>とか<ruby><rb>巑岏</rb><rt>さんがん</rt></ruby>とか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。あれは何と云う山だろうと<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる<ruby><rb>大重君</rb><rt>おおしげくん</rt></ruby>に尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本に<ruby><rb>随</rb><rt>つ</rt></ruby>いて<ruby><rb>蒙古</rb><rt>もうこ</rt></ruby>まで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、<ruby><rb>高麗城子</rb><rt>こまじょうし</rt></ruby>と云うんだそうですと教えてくれた。土人を<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まえて聞いて来たのだそうである。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>支那音</rb><rt>しなおん</rt></ruby>で教わったのだが、それは忘れてしまった。

<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を下げて、砂の中をぼくぼく橋の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まで帰って来ると、<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の上から若い女が<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>を<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りきらないので、こっちは<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>せず<ruby><rb>橋板</rb><rt>はしいた</rt></ruby>に足をかけた。<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の<ruby><rb>継目</rb><rt>つぎめ</rt></ruby>の所で行き合った。<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>ないよと注意すると、女は笑いながら軽い<ruby><rb>御辞儀</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をして、余の肩を<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>って行き過ぎた。

三十四

<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は<ruby><rb>梨畑</rb><rt>なしばたけ</rt></ruby>を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいと受合った上、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもう<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>をかいている。しかも<ruby><rb>豪宕</rb><rt>ごうとう</rt></ruby>な鼾である。<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の<ruby><rb>夜具</rb><rt>やぐ</rt></ruby>の中から出るべき声じゃない。まして<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の方には<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびょうぶ</rt></ruby>が立て回してある。

明日になると、空が曇って<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>が落ちている。窓から首を出して、一面に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>とを眼の底に陳列さしていた。薄く流れる河の厚さは<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>と同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の<ruby><rb>樋竹</rb><rt>といだけ</rt></ruby>が、砂に<ruby><rb>埋</rb><rt>うも</rt></ruby>れながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングをやった<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>ですと下女が答えた。満洲の下女だけあって、<ruby><rb>述語</rb><rt>じゅつご</rt></ruby>を知っている。ついこの間雨が降って、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ<ruby><rb>湯場</rb><rt>ゆば</rt></ruby>を新築するつもりであったのだと云う。河の流れが<ruby><rb>一雨</rb><rt>ひとあめ</rt></ruby>ごとに変るようでは、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>なところへ風呂を建てる訳にも行くまい。現に窓の前の<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>なども水にだいぶん喰われている。

そのうち雨が<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。退屈だから横になった。約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられては<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。

今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。胃は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>を始めた。すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。したがって同勢はだいぶんになった。その中に<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>橋の途中で行き合った女がいた。それが余と<ruby><rb>尻合</rb><rt>しりあわ</rt></ruby>せに同じ車に乗る事になった。互に尻を向けているので、別段口も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。顔もよくは見なかった。が、その言葉だけはたしかに聞いた。しかも支那語である。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より意味は通じない。しかし盛んにクーリーをきめつけていた。その達弁なのはまた驚くばかりである。昨日微笑しながら<ruby><rb>御辞儀</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をして、余の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けた女とはどうしても思えなかった。この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。<ruby><rb>洋灯</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の影で<ruby><rb>御白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をつけている事は分ったが、依然として口は利かなかった。

苦しい十五分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>車はまた<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>に着いた。御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。下女はみんな温泉宿へ帰った。余は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り構内を<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>した。いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今<ruby><rb>松山</rb><rt>まつやま</rt></ruby>を出たそうですからと断った。その松山は<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>向うにある。余は<ruby><rb>軌道</rb><rt>レール</rt></ruby>の上に立って、一直線の平たい<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を視力のつづく限り眺めた。しかしトロの来る<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はまるでなかった。

三十五

宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。この男の案内で村へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると、路は全く砂である。深さは五六寸もあろうと思われた。土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持った長い<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>が眼についた。犬が門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は<ruby><rb>飛鳥山</rb><rt>あすかやま</rt></ruby>の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い<ruby><rb>平庭</rb><rt>ひらにわ</rt></ruby>を歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。<ruby><rb>春先</rb><rt>はるさき</rt></ruby>弁当でも持って<ruby><rb>遊</rb><rt>あそび</rt></ruby>に来るには<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。余は痛い腹を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えて、とうとう<ruby><rb>天辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで登った。するとそこに小さな<ruby><rb>廟</rb><rt>びょう</rt></ruby>があった。正面に向って、<ruby><rb>聯</rb><rt>れん</rt></ruby>などを読んでいると、すぐ<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で<ruby><rb>梭</rb><rt>おさ</rt></ruby>の音がする。<ruby><rb>廟守</rb><rt>びょうもり</rt></ruby>でもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って中へ這入った。暗い土間を通り越して、奥を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見たら、窓の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>機</rb><rt>はた</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、白い<ruby><rb>疎髯</rb><rt>そぜん</rt></ruby>を生やした<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんが、せっせと梭を<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げていた。織っていたものは<ruby><rb>粗</rb><rt>あら</rt></ruby>い<ruby><rb>白布</rb><rt>しろぬの</rt></ruby>である。案内の男が<ruby><rb>二言</rb><rt>ふたこと</rt></ruby><ruby><rb>三言</rb><rt>みこと</rt></ruby>支那語で何か云うと、老人は手を休めて、<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な大きい声で返事をする。七十だそうですと案内が通訳してくれた。たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わして見た。下の家から運んでくるものを食っているそうであった。その下の家と云うのがすなわち<ruby><rb>梨畠</rb><rt>なしばたけ</rt></ruby>の主人のところだと案内は説明した。

やがて、山を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るのが面倒なので、どうです<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>を乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。余はすぐ賛成して<ruby><rb>蒲鉾形</rb><rt>かまぼこがた</rt></ruby>の<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>を<ruby><rb>向側</rb><rt>むこうがわ</rt></ruby>へ<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りた。胃は実に痛かった。<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>の下を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って二十間も来ると、向うの方に橋本始め連中が<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に腰をかけて梨を食っている。腕に<ruby><rb>金筋</rb><rt>きんすじ</rt></ruby>を入れた駅長までいっしょである。余も同勢に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って一つ二つ食った。これは胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。そうしてまた畠の中をぐるぐる歩き出した。ここの梨はまるで<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>のように赤い色をしている。大きさは日本の梨の半分もない。しかし小さいだけあって、鈴なりに枝を<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>わして、<ruby><rb>累々</rb><rt>るいるい</rt></ruby>とぶら下っているところがいかにもみごとに見える。主人がその<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で一番<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>を――何と云ったか名は思い出せないが、下男に云いつけて、<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>に一杯取り出さして、みんなに<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>した。主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。案内の話では二千万とか二億万とかの財産家だそうだが、それは<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だろう。<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>の強い<ruby><rb>亜米利加煙草</rb><rt>アメリカたばこ</rt></ruby>を吹かしていた。

梨にも<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>きた頃、橋本が通訳の大重君に、いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを大重君がすこぶる厳粛な顔で支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云うんだそうである。橋本はじゃ貰って行こうとも云わず、また三十銭を三十円に改めようともしなかった。宿へ帰ったら、下女がある御客さんといっしょに梨畠へ行って、梨を七円ほど<ruby><rb>御土産</rb><rt>おみやげ</rt></ruby>に買って帰った話をして聞かせた。その時橋本は、うんそうか、おれはまた三十銭がた買って来ようと思ったら、三十銭ぐらいなら<ruby><rb>進上</rb><rt>しんじょう</rt></ruby>すると云ったよと澄ましていた。

三十六

壁と云うと<ruby><rb>鏝</rb><rt>こて</rt></ruby>の力で塗り固めたような心持がするが、この壁は普通の<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>が<ruby><rb>天日</rb><rt>てんぴ</rt></ruby>で<ruby><rb>干上</rb><rt>ひあが</rt></ruby>ったものである。ただ大地と<ruby><rb>直角</rb><rt>ちょっかく</rt></ruby>にでき上っている所だけが泥でなくって壁に似ている。その上部には西洋の御城のように、<ruby><rb>形儀</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>よく四角な<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>をいくつも開けて、一ぱし<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>体裁</rb><rt>ていさい</rt></ruby>を示している。しかし一番人の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くのは、この孔から見える赤い旗である。旗の数は孔の数だけあって、孔の数は一つや二つではないから、ちょっと<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かに思われる。始めてこの<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>が眼に触れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でも<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたのじゃなかろうかと推測した。ところがこの櫓は馬賊の来襲に備えるために、<ruby><rb>梨畑</rb><rt>なしばたけ</rt></ruby>の主人が、わざわざ家の<ruby><rb>四隅</rb><rt>よすみ</rt></ruby>に打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分はおかしかった。ただなぜあんな赤い旗を孔の間から一つずつ出しているかが、さっぱり分らなかった。裏側へ廻って、段々を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って見て、始めてこの赤旗の一つが一挺の鉄砲を代表している事を知った。鉄砲は博物館にでもありそうな古風な大きいもので、どれもこれも<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>を吹いていた。<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を込めても恐らく<ruby><rb>筒</rb><rt>つつ</rt></ruby>から先へ出る<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづかい</rt></ruby>はあるまいと思われるほど、安全に立てかけられていた。もっとも赤い旗だけは<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけてある。そうしてちょうど<ruby><rb>壁孔</rb><rt>かべあな</rt></ruby>から外に見えるくらいな所にぶら下げてある。番兵は<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない顔を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えて、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の小屋の中にごろごろしていた。馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の<ruby><rb>苦力</rb><rt>クーリー</rt></ruby>である。<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>を下りて門を出る前に、家の内部を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>る訳に行くまいかと通訳をもって頼んだら、主人はかぶりを振って聞かなかった。女のいる所は見せる訳に行かないと云うんだそうである。その代り客間へ案内してやろうと番頭を一人つけてくれた。その客間というのは往来を隔てて向う側にある一軒建の家であった。外には大きな柳が、静な葉を細長く空に<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていた。<ruby><rb>長屋門</rb><rt>ながやもん</rt></ruby>を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>騾馬</rb><rt>らば</rt></ruby>が木の株に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いである。余はこの騾馬を見るや否や、<ruby><rb>三国志</rb><rt>さんごくし</rt></ruby>を思い出した。何だか<ruby><rb>玄徳</rb><rt>げんとく</rt></ruby>の乗った馬に似ている。全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸く<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しくって、<ruby><rb>万事</rb><rt>ばんじ</rt></ruby>邪気のないような好い動物である。橋本に騾馬の講義を聞くと、まず騾と<ruby><rb>駃騠</rb><rt>けってい</rt></ruby>の区別から始めるので、<ruby><rb>真率</rb><rt>しんそつ</rt></ruby>な頭脳をただいたずらに混乱させるばかりだから、黙って<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>のない裸姿を眺めていた。騾馬は首を伏せてしきりに短い草を食っていた。

門の突き当りがいわゆる客間であるが、<ruby><rb>観音扉</rb><rt>かんのんびらき</rt></ruby>を左右に開けて這入るところなぞは御寺に似ている。中は<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ないものであった。客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、そうだと答えていた。主人に<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。駅長が行く行く<ruby><rb>初茸</rb><rt>はつだけ</rt></ruby>を取った。どこから<ruby><rb>目付</rb><rt>めつ</rt></ruby>け出すか不思議なくらい目付け出した。橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であった。山を<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>るとき、おい満洲を汽車で通ると、はなはだ<ruby><rb>不毛</rb><rt>ふもう</rt></ruby>の地のようであるが、こうして高い所に登って見ると、<ruby><rb>沃野</rb><rt>よくや</rt></ruby>千里という感があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかったと見えて、別に要領の好い返事をしなかった。余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>になったり、段になったり、模様になったり、<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>で薄くされて、雲に<ruby><rb>接</rb><rt>つづ</rt></ruby>くまで、一面に平野を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うている。満洲は大きな所であった。

宿へ帰ったら、<ruby><rb>御神</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんが駅長の贈って来た初茸を<ruby><rb>汁</rb><rt>つゆ</rt></ruby>にして、晩に<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>の上へ乗せてくれた。それを食って、梨畑や、馬賊や、土の櫓や、赤い旗の話しなぞをして寝た。

三十七

立つ用意をしているところへ御神さんが帳面を持って出て来た。これへ何か書いて行って下さいと云う。御神さんは余を二つ<ruby><rb>接</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>せたように肥えている。それで病気だそうだ。始めはどこのものだか分らなかったが、御神さんと知って、調子の下女と違っているのに驚いた。御神さんはその体格の示すごとき好い女であった。どうしてあんなすれっからしの下女を使いこなすかが疑問になったくらいである。帳面を前へ置いて、どうぞと手を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に重ねた。その膝の厚さは八寸ぐらいある。

帳面を開けると、第一<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>に林学博士のＨ君が「<ruby><rb>本邦</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>の<ruby><rb>山水</rb><rt>さんすい</rt></ruby>に似たり」と<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ってしまったあとである。その次にはどこどこ<ruby><rb>聯隊長</rb><rt>れんたいちょう</rt></ruby>何のなにがしと書いてある。宿帳だか、<ruby><rb>書画帖</rb><rt>しょがちょう</rt></ruby>だか判然しないものの、第三頁に記念を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>す事に<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>し<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。橋本は帳面を見るや否や、<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>を向いて澄ましている。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。すると<ruby><rb>御神</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。無論<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>く気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、<ruby><rb>困却</rb><rt>こんきゃく</rt></ruby>と<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>でほとほと持て余してしまう。時に橋本が例のごとく口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いてくれた。この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。余はまた世間話をしながら、その間に<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>でも考え出さなければならなくなった。

同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を<ruby><rb>懇望</rb><rt>こんもう</rt></ruby>されるほど<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>な事はない。それも句作に熱心で<ruby><rb>壁柱</rb><rt>かべはしら</rt></ruby>へでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の<ruby><rb>払底</rb><rt>ふってい</rt></ruby>になった今頃、何か記念のためにと、<ruby><rb>短冊</rb><rt>たんじゃく</rt></ruby>でも出された日には、<ruby><rb>節季</rb><rt>せっき</rt></ruby>に無心を申し込まれるよりも<ruby><rb>苛</rb><rt>つら</rt></ruby>い。大連を立つとき、手荷物を<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby><ruby><rb>革鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>の中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>なので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。この短冊はいまだに誰のものか分らない。数は五六枚で<ruby><rb>雲形</rb><rt>くもがた</rt></ruby>の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>たものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。長春の宿屋でも御神さんに<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まった。この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい<ruby><rb>折手本</rb><rt>おりでほん</rt></ruby>を二冊出して、これへどうぞ<ruby><rb>同</rb><rt>おん</rt></ruby>なじものを二つ書いて下さいと云った。<ruby><rb>同</rb><rt>おな</rt></ruby>じでなければいけないのかと尋ねると、ええと答える。その理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊ずつ持っている事ができるためだそうだ。

こう書いて行くと、朝鮮の宴会で<ruby><rb>絖</rb><rt>ぬめ</rt></ruby>を持出された事まで云わなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った御神さんの始末をつけるが、余は切ない思いをして、汽車の時間に間に合うように一句浮かんだ。浮かぶや否や、帳面の第三頁へ<ruby><rb>熊岳城</rb><rt>ゆうがくじょう</rt></ruby>にてと<ruby><rb>前書</rb><rt>まえがき</rt></ruby>をして、<ruby><rb>黍</rb><rt>きび</rt></ruby><ruby><rb>遠</rb><rt>とお</rt></ruby>し<ruby><rb>河原</rb><rt>かわら</rt></ruby>の<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>る<ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>と<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めて、ほっと一息吐いた。そうして御神さんの御礼も何も受ける暇のないほど急いでトロに乗った。電話の柱に柳の幹を使ったのが、いつの間にか根を張って、針金の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から青い葉を出しているのに気がついて、あれでも句にすればよかったと思った。

三十八

窓から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見ると、いつの間にか<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>が無くなっている。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>までは遠くの方に黄色い屋根が処々眺められたが、それもついに消えてしまった。この黄色い屋根は<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>であった。あれは<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>が干してあるんだよと、橋本が説明してくれたので、ようやくそうかと想像し得たくらい、玉蜀黍を離れて余の頭に映った。朝鮮では同じく屋根の上に<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>を干していた。松の間から見える<ruby><rb>孤</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>が、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。しかしそれが<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>であると云う事だけは一目ですぐ分った。満洲の屋根は距離が遠いせいか、ただ<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>たる単調を破るための色彩としか思われなかった。ところがその屋根も高粱もことごとく影を隠してしまって、あるものはただの地面だけになった。その地面には赤黒い<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>のような草が限りなく生えている。始めは<ruby><rb>蓼</rb><rt>たで</rt></ruby>の種類かと思って、橋本に聞いて見たら橋本はすぐ<ruby><rb>冠</rb><rt>かむり</rt></ruby>を横に振った。蓼じゃない<ruby><rb>海草</rb><rt>かいそう</rt></ruby>だよと云う。なるほど平原の尽きる<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りを、眼を細くして、<ruby><rb>見究</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めると、暗くなった奥の方に、一筋鈍く光るものがあるように思われる。<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>かなと橋本に聞いて見た。その時日はもう暮れかかっていた。際限もなく<ruby><rb>蔓</rb><rt>はびこ</rt></ruby>っている赤い草のあなたは薄い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に包まれて、幾らか<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなりかけた頃である。あからさまに目に映るすぐ<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>をよくよく見つめると、乾いた土ではない。踏めば靴の底が<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れそうに<ruby><rb>水気</rb><rt>みずけ</rt></ruby>を含んでいる。橋本は<ruby><rb>鹹気</rb><rt>しおけ</rt></ruby>があるから穀物の種がおろせないのだと云った。豚も出ないようだねと余は橋本に聞き返した。汽車に乗って始めて満洲の豚を見たときは、実際一種の怪物に<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>ったような心持がした。あの黒い妙な動物は何だと<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に質問したくらい、<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>な感じに襲われた。それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。この薄暗い、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>のように短い草ばかりの、不毛の<ruby><rb>沢地</rb><rt>たくち</rt></ruby>のどこかに、あの怪物はきっと<ruby><rb>点綴</rb><rt>てんてつ</rt></ruby>されるに違ないと云う気がなかなか抜けなかった。けれども一匹の怪物に出逢う前に、日は全く暮れてしまった。目に余る赤黒い草の影はしだいに<ruby><rb>一色</rb><rt>ひといろ</rt></ruby>の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>に変化した。ただ北の方の空に、夕日の<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>のような明るい所が残ったのである。そうしてその明るい雲の下が目立って黒く見える。あたかも高い城壁の影が空を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って長く続いているようである。余は高いこの影を眺めて、いつの間にか万里の長城に似た<ruby><rb>古迹</rb><rt>こせき</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>でも通るんだろうぐらいの空想を<ruby><rb>逞</rb><rt>たくまし</rt></ruby>ゅうしていた。すると誰だかこの城壁の上を駆けて行くものがある。はてなと思ってしばらくするうちに、また誰か駆けて行く。不思議だと<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って<ruby><rb>瞬</rb><rt>またたき</rt></ruby>もせず城壁の上を見つめていると、また誰か駆けて行く。どう考えても人が通るに違いない。無論夜の事だから、どんな顔のどんな<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上を<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>け抜ける事は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>である。余は橋本の意見を問う暇もないほど面白くなって、一生懸命に、眼前を往来するこの黒い人間を眺めていた。同時に汽車は、刻々と城壁に向って近寄って来た。それが一定の距離まで来ると、<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>として失笑した。今までたしかに人間だと思い込んでいたものは、急に電信柱の頭に変化した。城壁らしく横長に続いていたのは大きな雲であった。汽車は容赦なく電信柱を追い越した。高い所で動くものがようやく眼底を払った。

三十九

狭い<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>の左右は<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>で、ちょっと見ると屋敷町のように人通りが少い。それを二十間ほど来て左手の門を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。ただ偶然に這入ったのだから、家の名も<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の名も知るはずがない。今から考えると、小路のうちには同じような家が何軒となく並んでいて、同じような門がまたいくつでも<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いているのだから、とくにここだけを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くべき<ruby><rb>誘致</rb><rt>インデュースメント</rt></ruby>は少しもなかったのである。余はただ案内者の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて何の気なしに這入った。その案内者もまた好い加減に這入った。案内者は<ruby><rb>青林館</rb><rt>せいりんかん</rt></ruby>と云う宿の主人である。かつて<ruby><rb>二葉亭</rb><rt>ふたばてい</rt></ruby>といっしょに北の方を旅行して、<ruby><rb>露西亜人</rb><rt>ロシアじん</rt></ruby>に<ruby><rb>苛</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったと話した。

門を這入ると、右も<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>、突き当りも室である。左りも隣の壁に隔てられなければ室であるべきはずなのだから、中の一筋だけが頭の上に空を仰ぐ訳になる。そこに立って右手の部屋を覗くと、狭い<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>から浅草の<ruby><rb>仲店</rb><rt>なかみせ</rt></ruby>を<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>るような<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>がある。実際仲店よりも低く小さい部屋であった。その一番目には幕が垂れていて、中は<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と分らなかったが、次を覗いて見る段になって驚いた。二畳敷ぐらいの土間の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方を、<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>のように、腰をかけるだけの高さに仕切って、そこに若い女が三人いた。三人共腰をかけるでもなく、寝転ぶでもなく、互に<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れ合って<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を支えるごとくに、後の壁をいっぱいにした。三人の着物が<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>なく重なって、柔かい絹をしなやかに<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しつけるので、少し誇張して形容すると、三人が一枚の上衣を引き廻しているように見える。その間から小さな<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>の靴が出ていた。

三人の身体が並んでいる通り、三人の顔も並んでいた。その左右が比較的尋常なのに引きかえて、真中のは不思議に美しかった。色が白いので、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>がいかにも判然していた。眼も<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがら</rt></ruby>かであった。頬から<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を包む<ruby><rb>弧線</rb><rt>こせん</rt></ruby>は春のように<ruby><rb>軟</rb><rt>やわらか</rt></ruby>かった。余が驚きながら、<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れているので、女は眼を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見た。余が立っている間、三人は少しも口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった。

青林館の主人は自分ほどこの女に興味がなかったと見えて、<ruby><rb>好加減</rb><rt>いいかげん</rt></ruby>に歩を移して、突き当りの部屋に這入った。そこも狭い土間で、中央には普通の<ruby><rb>卓上</rb><rt>テーブル</rt></ruby>が<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてあった。それを囲んで三人の男が食事をしている。<ruby><rb>皿小鉢</rb><rt>さらこばち</rt></ruby>から<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby><ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に至るまで<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない事はなはだしい。卓に着いている男に至ってはなおさら汚なかった。まるで大連の<ruby><rb>埠頭</rb><rt>ふとう</rt></ruby>で見る<ruby><rb>苦力</rb><rt>クーリー</rt></ruby>と同様である。余はこの<ruby><rb>体裁</rb><rt>ていさい</rt></ruby>を一見するや否や、台所で下男が<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き込んでるんじゃなかろうかと考えた。ところがつい隣の室でしきりに音楽をやっている。今見た美人のいる所とはつい三間とは離れていない。実に矛盾な感じである。

余は二歩ばかり<ruby><rb>洋卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を<ruby><rb>遠退</rb><rt>とおの</rt></ruby>いて、次の室の入口を覗いて見た。そうしてまた驚いた。<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>の壁に<ruby><rb>倚添</rb><rt>よりそ</rt></ruby>えて一脚の机を置いて、その右に一人の男が腰をかけている。その左に女が三人立っている。その前には十二三の少女が男の方を向いて<ruby><rb>立</rb><rt>たっ</rt></ruby>ている。少し離れて<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の入口には<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>が<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に腰をかけている。調子の高い<ruby><rb>胡弓</rb><rt>こきゅう</rt></ruby>と歌の声はこの一団から出るのである。歌の意味も節も分らない余の耳にはこの音楽が一種異様に<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい響を伝えた。机の右にいる男が、右の手に<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>のような物を持って、時々机の上を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>くと同時に左の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に<ruby><rb>八橋</rb><rt>やつはし</rt></ruby>と云う菓子に似た竹の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>を二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。趣向はスペインの女の用いるカスタネットに似ているが、その男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思い出すどころではない。<ruby><rb>蒼黒</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く<ruby><rb>土気</rb><rt>つちけ</rt></ruby>づいた色を、一心不乱に少女の頭の上に<ruby><rb>乗</rb><rt>の</rt></ruby>しかけるように<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>を<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>るほど恐ろしい声を出す。少女はまた<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きもせず、この男の方を見つめて、細い<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を合している。それが<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い魔物に<ruby><rb>魅入</rb><rt>みい</rt></ruby>られて身動きのできない様子としか受取れない。盲目は彼の眼の暗いごとく、暗い顔をして、悲しい陰気な、しかも高い調子の胡弓を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けに擦っている。左の方に立っている女の一人が余を見た。それが<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むべき<ruby><rb>藪睨</rb><rt>やぶにらみ</rt></ruby>であった。日の目の乏しくって暮やすい室のうちで、この怪しい団体はこの怪しい音楽を奏して夢中である。余は案内の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を引いてすぐ外へ出た。

四十

橋本は遠い所へ豚を見に行った。何でも<ruby><rb>市街</rb><rt>まち</rt></ruby>から一里余もあるとか云う話である。こんな痛い腹を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて今更豚でもあるまいと思って<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めた。その代りにそこいらをぶらつくべく<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>といっしょに馬車で出た。主人がまあ<ruby><rb>遼河</rb><rt>りょうが</rt></ruby>を御覧なさいと云う。馬車を乗り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>へ出ると眼いっぱいに見えた。色は<ruby><rb>出水</rb><rt>でみず</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の大川に似ている。灰のように動くものが、空を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>む<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>で遠くから流れて来る。<ruby><rb>哈爾賓</rb><rt>ハルピン</rt></ruby>に行く途中で、木戸さんに聞いた話だが、満洲の黄土はその昔中央<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>の方から風の力で吹き寄せたもので、それを年々河の流れが<ruby><rb>御叮嚀</rb><rt>ごていねい</rt></ruby>に海へ押出しているのだそうである。地質学者の計算によると、五万年の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には今の<ruby><rb>渤海湾</rb><rt>ぼっかいわん</rt></ruby>が全く<ruby><rb>埋</rb><rt>うま</rt></ruby>ってしまう都合になっていますと木戸君が語られた。<ruby><rb>河辺</rb><rt>かわべ</rt></ruby>に立って岸と岸との間を眺めていると、水の量が泥の量より少いくらい濁ったものが際限なく押し寄せて来る。五万年は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、一二カ月で河口はすっかり<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がってしまいそうである。それでも三千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>ぐらいな汽船は<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>もなくのそのそ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来ると云うんだから支那の河は無神経である。人間に至っては<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より無神経で、古来からこの泥水を飲んで、<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>と子を生んで<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>まで栄えている。

サンパンと云う船がここかしこに浮かんで<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>に合しては大き過ぎるぐらいな<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>を上げている。帆の裏には細い竹を何本となく横に渡してあるから、帆に<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>が立つのみか、<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げる時にはがらがら鳴る。日本では見られない絵である。その間を横切って<ruby><rb>向岸</rb><rt>むこうぎし</rt></ruby>へ着いた。向岸には何にもない。ただ<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>が一つある。<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>への急行が出るとか云うので、客がたくさん列車に乗り込んでいる。下等室を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたら、腰かけも何もない<ruby><rb>平土間</rb><rt>ひらどま</rt></ruby>に、みんなごろごろ寝ころんでいた。帰りにはサンパンに乗って、泥の<ruby><rb>流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>を押し渡った。風が出ると難儀だそうである。春の初めには山のような氷が流れてくる。先が見えないので、氷と氷の間に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まれると命を取られる。ある時氷に路を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれて仕方がないから、船を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて氷の上へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って、乗り捨てた船を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>って向う側へ出て、ようやくまた船に乗ったと云う話がある。これは<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の<ruby><rb>実歴談</rb><rt>じつれきだん</rt></ruby>である。

サンパンは妙なところへ着いた。岸は<ruby><rb>芦</rb><rt>あし</rt></ruby>を畳んでできている。石垣ではなくて<ruby><rb>芦垣</rb><rt>あしがき</rt></ruby>である。こうしなければ水の力で<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>われる恐れがあると云う。芦はいくらでも水を吸い込んで平気でいるから無難だと見える。細い<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>を突き抜けると、支那町の真中へ出た。妙な<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>がする。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から胸が痛むのでポッケットから、<ruby><rb>粉薬</rb><rt>こぐすり</rt></ruby>を出して飲もうとするがあいにく水がない。一滴の飲料も用いずに散薬を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>す方法は、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby><ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>し<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れに発見した<ruby><rb>分別</rb><rt>ふんべつ</rt></ruby>だが、この時はまだそれほど老練な患者でないので、拝むように主人を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わした。主人はええ訳はありませんと云いつつも、ずいぶん<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく引張り廻した上、ほとんど苦しくって<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みそうになった頃、ようやく一軒の店へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。<ruby><rb>盆栽</rb><rt>ぼんさい</rt></ruby>などの<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてある中庭を通り抜けて<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>の一部屋へ案内されたが、水はなかなか出る様子がない。そのうち、こちらへと云ってまた二階へ<ruby><rb>招</rb><rt>しょう</rt></ruby>ぜられた。虫のように段々を<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>って廊下から<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ這入ると、日本人が二三人事務を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っている。さあどうぞと椅子を与えられたので、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をして始めて解ったが、水を貰いに飛び込んだところは<ruby><rb>日清豆粕会社</rb><rt>にっしんまめかすかいしゃ</rt></ruby>で、さあどうぞと迎えてくれたのは、社員の倉田君である。倉田君は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より日本から<ruby><rb>漫遊</rb><rt>まんゆう</rt></ruby>もしくは視察の目的をもってわざわざ<ruby><rb>営口</rb><rt>えいこう</rt></ruby>までやって来たものと余を信じている。服薬のために通りがかりのついでながら、日清豆粕会社の奥二階へ水を貰いに立ち寄ったと判じようはずがない。そこで水は容易に出ない。湯も出ない。今御茶を上げると云って、ボイがしきりに<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしている。余は青林館の主人が<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしくなった。けれども倉田君に対しては相応に<ruby><rb>体裁</rb><rt>ていさい</rt></ruby>を具えた応対をしなければならない。豆が汽車で大連へ出るようになってから、河を下ってくる豆の量が減ったでしょうかてような事を、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>くさって質問していた。

四十一

橋本が<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>になったり、ならなかったりした話がある。大連の<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ホテルにいる時分、満鉄から封書が届いた。その表に橋本農学博士殿と<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に書いてあったのを<ruby><rb>乙</rb><rt>おつ</rt></ruby>に眺めながら、これだから<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になっちまうと云って余の方を向いて苦笑したから、先生は学者ぶって、むやみに博士<ruby><rb>呼</rb><rt>よば</rt></ruby>わりをされるのを苦にする意味なんだろうと鑑定して、取り合ってやらなかった。実際こんな事が苦になるくらいなら、始めから博士にならなければ好いと思ったからである。その時はそれですんだ。

余は橋本をもって<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より農学博士と信じていた。<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>もそう信じていた。現にある人に向って橋本って農学博士さと説明しているのを聞いた。余に至っては、いつかの新聞で、本人の博士になった事をたしかに承知した記憶がある。それで大連を立って北に行く時も、栄誉ある博士の同伴者だと云う自覚がちゃんとあった。ところが毎日毎晩一つ<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>のものを<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>ついて進行しているうちに、何かの<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>だったが、いやおれは博士じゃないよと急に橋本が云い出した。その時はいくら本人が証明したってなるほどと云う気になれないくらい驚いた。第一、十年近くも大学の教授をしている男を、博士にしない法はないと考えてる上、どうしても新聞でその授与式を拝見したとしか思われないんだから、余もできるだけは抗弁したが、やっぱり博士じゃないと<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>を張って云う事を聞かない。余もやむをえず、そうかと云って<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を折った。この時から橋本は気の毒ながらとうとう、ただの人間になってしまった。

けれども、世間には<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>ものが多いと見えて、どこへ行っても橋本博士、橋本博士と云う。新聞を折々読むときっと橋本博士と出ている。しまいにはおいまた博士だよと注意するのが面倒になった。橋本も<ruby><rb>澄</rb><rt>すま</rt></ruby>し<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>っている。もっとも澄まし返さなくったって、一々博士じゃありませんと訂正して歩く訳に行くものじゃない。こう云う余にも<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>がある。<ruby><rb>釜山</rb><rt>ふざん</rt></ruby>から<ruby><rb>馬関</rb><rt>ばかん</rt></ruby>へ渡る船中で、<ruby><rb>拓殖</rb><rt>たくしょく</rt></ruby>会社の<ruby><rb>峰八郎君</rb><rt>みねはちろうくん</rt></ruby>の妻君に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったとき、八郎君は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な顔をして、これは夏目博士と引き合した。すると妻君が御名前はかねて伺っておりますと<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に<ruby><rb>御辞儀</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をされるから、余もやむをえず、はあと云ったなり博士らしく<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。だから橋本が博士に慣れ切って満洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。余もいったんは彼の博士を撤回したようなものの、日を重ねるに従ってまた何だか博士らしい気持がし出した。それで道中つつがなく<ruby><rb>安奉線</rb><rt>あんぽうせん</rt></ruby>を通って、<ruby><rb>安東県</rb><rt>あんとうけん</rt></ruby>までやって来た。ところがここで橋本の博士がちょっと気に食わなくなった。安東県の宿屋の番頭がどう云う<ruby><rb>不料簡</rb><rt>ふりょうけん</rt></ruby>か、橋本博士御手荷物のうちと云う札を余の<ruby><rb>革鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>にぴたぴた<ruby><rb>結</rb><rt>いわ</rt></ruby>いつけてしまった。腹が立ったが面倒だからそのままにしておくと次の宿屋で橋本と分れる事になって、向うの手荷物を<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>へ運び出す際に、余の<ruby><rb>奇麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な<ruby><rb>革鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を橋本のものだと思い込んで、宿屋の小僧がずんずん停車場まで持って行ってしまった。余は冗談じゃないぜと云った。橋本は面白がって笑っていた。それだから、また博士にならない。

四十二

ここだと云うので、降りたには降りたが、夜の事だから方角も見当もまるで分らない。頼りに思う停車場は縁日の夜店ほどに小さいものであった。その軒を離れるとなおさら淋しい。空には星があるが、高い所に<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>と光るのみで、足元の景気にはならなかった。汽車路を通って行くと、<ruby><rb>鉄軌</rb><rt>レール</rt></ruby>の色が前後五六尺ばかり、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に照らされて、<ruby><rb>露</rb><rt>つゆ</rt></ruby>のごとく映ってはまた消えて行く。そのほかに何も見えなかった。やがて右へ切れて堤のようなものをだらだらと下りる心持がしたが、それも六七歩を<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えると、靴を置く土の感じが<ruby><rb>不断</rb><rt>ふだん</rt></ruby>に戻ったので、また<ruby><rb>平地</rb><rt>ひらち</rt></ruby>へ出たなと気がついた。すると虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞えだした。足元で少しばかり鳴いてるような家庭的なものではない。虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>だと云う<ruby><rb>分別</rb><rt>ふんべつ</rt></ruby>が出た時には、その声がもう左右前後に遠く続いていた。我々は一つの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を先にして、平原にはびこる無尽蔵の虫の音に包まれながら歩いた。

今考えると、なかなか風流である。筆を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って書いていても、<ruby><rb>魏叔子</rb><rt>ぎしゅくし</rt></ruby>の<ruby><rb>大鉄椎</rb><rt>だいてっつい</rt></ruby>の<ruby><rb>伝</rb><rt>でん</rt></ruby>にある<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の<ruby><rb>景色</rb><rt>けいしょく</rt></ruby>が眼の前に浮んでくる。けれども歩いている途中は実に苦しかった。飯の<ruby><rb>菜</rb><rt>さい</rt></ruby>に<ruby><rb>奴豆腐</rb><rt>やっこどうふ</rt></ruby>を一丁食ったところが、その豆腐が腹へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るや否や急に<ruby><rb>石灰</rb><rt>いしばい</rt></ruby>の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>に変化して、胃の中を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいるような心持である。<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>の奥から締めつけられて、やむをえない<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の<ruby><rb>唾液</rb><rt>つばき</rt></ruby>が流れ出す。それに<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>われるままにしておくと、<ruby><rb>嘔</rb><rt>は</rt></ruby>きたくなる。せめて口中の<ruby><rb>折合</rb><rt>おりあい</rt></ruby>でもと思って、少し抵抗しにかかると、足が<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んで動けなくなる。余は<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>か虫の音の中に苦しい尻を落ちつけようかと思った。ただ橋本に心配させるのが、気の毒である。支那の<ruby><rb>荷持</rb><rt>にもち</rt></ruby>に<ruby><rb>野糞</rb><rt>のぐそ</rt></ruby>を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れてると誤解されたって<ruby><rb>手柄</rb><rt>てがら</rt></ruby>にもならない。そこで無理に歩いた。

<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>向うに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が一つ見える。余が歩いている路は平らである。灯はその真正面に当る。あすこへ行くんだろうと推測して星の下を無言に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>った。今日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>は営口で正金銀行の杉原君の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>を断った。晩は<ruby><rb>天春君</rb><rt>あまかすくん</rt></ruby>の<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>ですでに準備のできている宴会を断った。そうして逃げるように汽車に乗った。乗る時橋本にこの様子じゃ<ruby><rb>千山</rb><rt>せんざん</rt></ruby>行は撤回だと云った。実際撤回しなければならないほど、<ruby><rb>容体</rb><rt>ようだい</rt></ruby>が<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>しくなって来た。ただ向うに見える一点の<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が、今夜の運命を決する<ruby><rb>孤</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>であると覚悟して、<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>たる原を<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に横切った。原のなかには、この灯火よりほかに<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>になるものは一つも見つからないのだから心細かった。宿屋はたった一軒かと聞いたら、案内がええと答えた。<ruby><rb>湯崗子</rb><rt>とうこうし</rt></ruby>は温泉場だと橋本のプログラムの中にちゃんと出ているのだから、温泉がこの<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる原の底から<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて出るのだろうとは、始めから想像する事ができたが、これほど<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい野の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に、ただ一軒の宿屋がひっそり立っていようとは思いがけなかった。

そのうちようやく灯のある所へ着いた。<ruby><rb>平家作</rb><rt>ひらやづくり</rt></ruby>の西洋館で、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の高さが地面とすれすれになるほど低い。<ruby><rb>板間</rb><rt>いたま</rt></ruby>ではあるが無論靴で<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>をする。宿の女は<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていた。遠くから見たと同じように浮き立たない家であった。<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさく</rt></ruby>のつかない広い<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>へ<ruby><rb>洋灯</rb><rt>ランプ</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>して<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っているのかと思った。這入るとすぐの大広間に置いてあったオルガンさえ、先の持主が忘れて置いて行ったものとしか受取れなかった。暗い廊下を突き当って右へ折れた<ruby><rb>翼</rb><rt>ウイング</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はじ</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ案内された。中を二つに仕切ってある。低い床には、椅子と<ruby><rb>洋卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>と色の<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めた長椅子とが置いてあった。高い方は畳を敷いて、日本らしく<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>ってあった。ちょうど土間から座敷へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>るようにして、甲から乙に移る構造である。余はいきなり畳の上に倒れた。三四十分の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby><ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>が出た。橋本がしきりに起きて食えと勧めたが、ついに起きなかった。第一食卓に何が盛られたかをさえ見なかった。眼を開ける勇気すら無かったのである。

四十三

朝起きると、馬が来たとか来ないとか云って橋本の連中が騒いでいる。連中は三人だから、一人が一つの馬に乗るとすれば、三匹<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る訳になる。この<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>たる原の中で、生きた馬を三匹<ruby><rb>生捕</rb><rt>いけど</rt></ruby>るとなると、<ruby><rb>手数</rb><rt>てすう</rt></ruby>のかかるのは一通りではあるまい。連中は格別早起きもしない癖に、今更苦情を並べたって始まらないと思って、同行を断念した余は、冷然と落ちついていた。本来を云うと、<ruby><rb>千山</rb><rt>せんざん</rt></ruby>へ行くのが目的で、わざわざここに降りたには相違ないが、一旦自分が千山行を<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたとなると、ほかの連中が<ruby><rb>予定通</rb><rt>よていどおり</rt></ruby>に行動するのが、いまいましくなる。第一橋本なんて農科の男は、千山を見る必要も何もないのである。千山は<ruby><rb>唐</rb><rt>とう</rt></ruby>の時代に開いた<ruby><rb>梵刹</rb><rt>ぼんさつ</rt></ruby>で、今だに残っているのは、牛でもなければ豚でもない、ただ山と谷と<ruby><rb>巌</rb><rt>いわ</rt></ruby>と御寺と坊主だけであるから、農科の教授がわざわざ馬に乗って見物に行くべきところではけっしてない。と云ってせっかく行くと云うものを、意見までして思い止まらせるほどの口実は無論考え出せないから、なすがままにさせて<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておいた。そのうち不思議な事に、<ruby><rb>注文通</rb><rt>ちゅうもんどおり</rt></ruby>馬が三匹出て来た。どこから出て来たものか聞いても見なかったが、たしかに出て来た。三人は<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>るほど勇んで外へ飛び出した。余は仕方がないから西洋間と日本間の唯一の主人として、この一日を物静かに休養すべく準備した。まず何よりも横になるのが薬だろうと思って、<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>だか<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>だか分らない毛皮の上にごろりと転がった。すると窓の外から橋本の声で、おいおいちょっと出て見ろと呼んでいる。<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>れまだそこいらを<ruby><rb>迷</rb><rt>まご</rt></ruby>ついてるなと思うと、少し面白くなったから、<ruby><rb>請求通</rb><rt>せいきゅうどおり</rt></ruby>原の中へ<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>のまま出た。すると広い牧場のようなところに、馬が三匹立っていた。それがいずれも<ruby><rb>小汚</rb><rt>こぎた</rt></ruby>ない<ruby><rb>駄馬</rb><rt>だうま</rt></ruby>だったのではなはだ愉快であった。のみならず、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の一匹がどうしても大重君を乗せようと云わない。<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行くと、飛んだり<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>たりする。馬が<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>がるからだと云って、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>で<ruby><rb>眼隠</rb><rt>めかく</rt></ruby>しをして、支那の小僧が両手で<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>をしっかり抑えている。遠くから見ると、馬が<ruby><rb>鉢巻</rb><rt>はちまき</rt></ruby>をしたようでおかしかった。その傍へ大重君が苦笑いをしながら近寄って行くところは、一層面白かった。しかも一度や二度ではない。よほど馬に遠慮する<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>と見えて、容易に<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>を明けないから、みんながなお<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>する。橋本は北海道の住人だから<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>もなく<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>った。もう一人――名前を忘れたから、もう一人というよりほかに仕方がないが――これは<ruby><rb>熊岳城</rb><rt>ゆうがくじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>苗圃</rb><rt>びょうほ</rt></ruby>の<ruby><rb>長</rb><rt>ちょう</rt></ruby>で、もと橋本に教わった事があると云うだけに、手綱を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>る<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を心得ている。余はこの時立ちながら心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で、要するに千山行を撤回した方が、馬術家としての余の名誉を<ruby><rb>完</rb><rt>まっと</rt></ruby>うする<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>ではなかろうかと考えた。

けれども、そんな<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は顔にも出さず、ただ残り惜しげに三人の後姿を眺めていた。そうして大重君の腰つきから推測して、千山まであれで乗り通すのは、定めて心配な事だろうと同情した。橋本は今夜のうちに帰るんだとか号して、しきりに馬を急がせるらしい。苗圃長も負けずに、続いて行く。<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り大重君だけが<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れた。馬はまだ眼隠をしている。やがて二人の影が<ruby><rb>高粱</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎられて、どっちへ向いて行くかちょっと分らなくなった。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からそこいらを<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>していた背の高い支那人もまた高粱の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に姿を隠した。この支那人は肩から背へかけて長い鉄砲を釣っていた。<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>は二人であった。始めて気がついたときは<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の際に馬賊という<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>が起った。橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云う砲声が聞えて、またしばらくすると、三人の馬の前にどこからかあの背の高い奴が現われて来たら大事件だと想像して、また<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中へ帰って<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>の皮の上に寝た。

四十四

<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を下げて風呂に行く。一町ばかり原の中を歩かなければならない。四方を石で<ruby><rb>畳上</rb><rt>たたみあ</rt></ruby>げた中へ段々を三つほど<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>から下へ降りると<ruby><rb>湯泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>に足が届く。軍政時代に軍人が建てたものだからかなり立派にできている代りにすこぶる<ruby><rb>殺風景</rb><rt>さっぷうけい</rt></ruby>である。入浴時間は十五分を<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>ゆべからずなどと云う<ruby><rb>布告</rb><rt>ふこく</rt></ruby>めいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。犯則を承知の上で、石段に腰をかけたり、<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらばい</rt></ruby>に身を浮かしたり、頬杖を突いて<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかったり、いろいろの工夫を尽くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があった。若い男が<ruby><rb>破舟</rb><rt>やれぶね</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってしきりに<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>を動かしている。おいこの池は湯か水かと聞くと、若い男は<ruby><rb>類稀</rb><rt>たぐいまれ</rt></ruby>なる<ruby><rb>仏頂面</rb><rt>ぶっちょうづら</rt></ruby>をして湯だと答えた。あまり<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な奴だから、それぎり口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くのをやめにした。岸の上から底を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、時々泡のようなものが浮いて来る。少しは湯気が立ってるかとも思われる。実は魚がいないかと、念のため聞いて見たかったのだけれども、相手が相手だから歩を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして宿の方へ帰った。後で、この池に魚が泳いでいる由を承知してはなはだ奇異の思いをなした。その上ここには水が一滴も出ないのだと教えられたときには全く驚いた。

驚いた事はまだある。湯から帰りがけに入口の大広間を通り抜けて、自分の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ行こうとすると、そこに見慣れない女がいた。どこから来たものか分らないが、<ruby><rb>紫</rb><rt>むらさき</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、深い靴を鳴らして、その辺を往ったり来たりする様子が、どうしても学校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だが、<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>たる<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>のいずくを物色したって、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な<ruby><rb>文采</rb><rt>ぶんさい</rt></ruby>は<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に落ちるべきはずでない。余はむしろ怪しい<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>をもって、この女の姿をしばらく見つめていた。

室に帰ってまた寝た。眼が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めると窓の外で虫の声がする。<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しくなったから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰をかけて、<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>をうたった。無論<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>である。そこへ下女が来た。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の女の事を聞いたら、何でも<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>で知ってる人なんでしょうと云っただけで、ちっとも要領を得ない。<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>飯を済まして<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んでいると急に広間の方で、オルガンを<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>く音がしたが、あの女がやったんじゃないかと聞くと、いいえ昨夕のは宅の下女ですと云う。この原のなかに、それほどハイカラな下女がいようとは思いがけなかった。先刻の袴はもう帰ったそうである。

余は一人長椅子の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。そうして永い日が<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>き尽して、原の色が寒く変るまでぽかんとしていた。すると静かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云う<ruby><rb>嬌</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい声がした。その音調は全くの東京ものである。余は突然立って、窓の外を眺めた。あいにく窓には<ruby><rb>寒冷紗</rb><rt>かんれいしゃ</rt></ruby>が張ってあった。手早く<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>を開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れていて、<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い煙が女の姿を包んでしまったので誰だか分らなかった。

橋本の連中はその晩帰って来た。下女のしらせで、暗い<ruby><rb>背戸</rb><rt>せど</rt></ruby>に出て見ると、豆のような<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が一つ遠くに見えた。下女はあれが連中だと云う。いくら<ruby><rb>野広</rb><rt>のびろ</rt></ruby>いところだって、橋本以外にも灯が見える事もあるだろうと尋ねても、やっぱりあれだと云う。はたしてそうであった。灯は夕方宿から<ruby><rb>迎</rb><rt>むかえ</rt></ruby>に出した支那人の持って行った<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>である。背戸口に馬を乗り捨てた橋本は、そう骨を折って見に行く所でもないよと云った。大重君は馬から三度落ちたそうである。

四十五

奉天へ行ったら<ruby><rb>満鉄公所</rb><rt>まんてつこうしょ</rt></ruby>に<ruby><rb>泊</rb><rt>とま</rt></ruby>るがいいと、立つ前に<ruby><rb>是公</rb><rt>ぜこう</rt></ruby>が教えてくれた。満鉄公所には俳人<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。<ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>には宿屋の馬車が迎えに来ていた。やはり泥の中から掘出して、炎天で乾かしたように色が変っている。荷物と人間をぐるに乗せて、構内を離れるや否や、<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>が<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を鳴らした。<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>を越す<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の乗合馬車よりも手荒な取扱方である。広い通りはそれほどでもないが、しだいに城内に近づくに従って、今まで野原同然に<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>としていた<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>が、左右の店の<ruby><rb>立込</rb><rt>たてこ</rt></ruby>んで来ると共に狭くなる上に、鉄道馬車がその真中を駆けつつあるにもかかわらず、烈しい鞭の影は一分に一度ぐらいはきっと頭の上で<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。馬は無理にも急がなければならない。けれども奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ<ruby><rb>騾馬</rb><rt>らば</rt></ruby>を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに<ruby><rb>無人</rb><rt>むにん</rt></ruby>の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>を行くがごとくに飛ばして見せる。我々のような平和を喜ぶ<ruby><rb>輩</rb><rt>ともがら</rt></ruby>はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。御者はもちろんチャンチャンで、油に<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の食い込んだ<ruby><rb>辮髪</rb><rt>べんぱつ</rt></ruby>を振り立てながら、時々満洲の声を出す。余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつつ眺めた。そうして、みだりに鞭を<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せ骨に加えて、旅客の<ruby><rb>御機嫌</rb><rt>ごきげん</rt></ruby>を取るのは、女房を叱って<ruby><rb>佳賓</rb><rt>まろうど</rt></ruby>をもてなすの<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>だと思った。

現に<ruby><rb>北陵</rb><rt>ほくりょう</rt></ruby>から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左り側に人が黒山のようにたかっている。その辺は支那の豆腐やら、<ruby><rb>肉饅頭</rb><rt>にくまんじゅう</rt></ruby>やら、<ruby><rb>豆素麺</rb><rt>まめそうめん</rt></ruby>などを売る<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない店の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>なく並んでいる所であったが、黒い頭の<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まった下を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、六十ばかりの爺さんが大地に腰を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、<ruby><rb>両脛</rb><rt>りょうずね</rt></ruby>を折ったなり前の方へ出していた。その右の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>と足の甲の間を二寸ほど、強い力で<ruby><rb>刳</rb><rt>えぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いたように、脛の肉が骨の上を<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>って、下の方まで行って、いっしょに<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>れ上っている。まるで<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>して<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけた風に見えた。こう云う光景には慣れているべきはずの案内も、少し寒くなったと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。余も分らないながら耳を立てて、何だ何だと繰返して聞いた。不思議な事に、黒くなって集った支那人はいずれも口も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かずに老人の<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>を眺めている。動きもしないから至って静かなものである。なお感じたのは、地面の上に手を<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ突いて、<ruby><rb>創口</rb><rt>きずぐち</rt></ruby>をみんなの前に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>している老人の顔に、何らの表情もない事であった。痛みも刻まれていない。苦しみも現れていない。と云って、別に平然ともしていない。気がついたのは、ただその眼である。老人は<ruby><rb>曇</rb><rt>どん</rt></ruby>よりと地面の上を見ていた。

馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと間接ながら<ruby><rb>窘</rb><rt>たし</rt></ruby>なめたら、ええ今にどうかするでしょうという答である。この時案内はもう本来の気分を回復していたと見える。<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>の影は間もなくまた<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>は人にも車にも往来にも遠慮なく、<ruby><rb>滅法無頼</rb><rt>めっぽうぶらい</rt></ruby>に馬を追った。帽も着物も黄色な<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持がして<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。

四十六

支那の<ruby><rb>古家</rb><rt>ふるいえ</rt></ruby>をそのまま使ってるから、御寺の本堂を客間に仕切ったと同じようである。釣り廊下を渡って正面の座敷を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>がいっぱい並べてあったので、何事かと思ったら、<ruby><rb>北京</rb><rt>ペキン</rt></ruby>へ買出しに行った道具屋が、帰り途にここで<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>中の<ruby><rb>見世</rb><rt>みせ</rt></ruby>を張ったのだと分ったから、冷し半分<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って見ているうちに、時間が来たので、外へ出た。今度は車だから好かろうと安心して、ちょっとハイカラに<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>を重ねて<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>って見たが、やはりけっして無難ではない。人力は日本人の発明したものであるけれども、<ruby><rb>引子</rb><rt>ひきこ</rt></ruby>が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。彼等はどうせ<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたものだという<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>で、<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も人力に対して尊敬を払わない引き方をする。<ruby><rb>海城</rb><rt>かいじょう</rt></ruby>というところで<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>古跡</rb><rt>こせき</rt></ruby>を見に行った時なぞは、尻が<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に落ちつく暇がないほど揺れた。一尺ばかり<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。奉天の道路は海城ほど<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ<ruby><rb>見境</rb><rt>みさかい</rt></ruby>なく<ruby><rb>走</rb><rt>か</rt></ruby>けさえすれば車夫の<ruby><rb>能事畢</rb><rt>のうじおわ</rt></ruby>ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、<ruby><rb>乗客</rb><rt>じょうかく</rt></ruby>の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく<ruby><rb>走</rb><rt>か</rt></ruby>けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。

そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>った<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>がある。その名前も<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>となく耳にした。ところがそれを忘れてしまった。その<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>もはなはだ<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>に頭に映るだけである。しかし奉天の<ruby><rb>市街</rb><rt>まち</rt></ruby>に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>って始めて<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。その時の印象はいまだに消えない。橋本といっしょにこの門の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びた経験の一つとしてよく覚えている。その時橋本は敷居を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。余も橋本に続こうとして身体を半分<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。今云う門は十間ばかり先の<ruby><rb>四辻</rb><rt>よつつじ</rt></ruby>にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ<ruby><rb>仰</rb><rt>あお</rt></ruby>むいて見た。時刻は暮に近い頃だったから、日の色は<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>にも<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>にも射さないで、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぼ</rt></ruby>しい局部もなく、総体が<ruby><rb>粛然</rb><rt>しゅくぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>喧</rb><rt>かま</rt></ruby>びすしい十字の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の上に超越していた。この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な<ruby><rb>采</rb><rt>あや</rt></ruby>をいっこう具えていなかった。木も瓦も土もほぼ<ruby><rb>一色</rb><rt>ひといろ</rt></ruby>に映る中に、<ruby><rb>風鈴</rb><rt>ふうりん</rt></ruby>だけが器用に緑を吹いていただけである。瓦の<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れた間から長い草が見えた。廂の暗い影を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。待っている間少し工夫して見たが、一句も<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まらないうちに、橋本が筆と墨を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて出て来たので<ruby><rb>興趣</rb><rt>きょうしゅ</rt></ruby>は破れてしまった。

このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>に封じ込められた<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ちりほこり</rt></ruby>を一度に頭から浴びると云う苦痛だけであった。余の車屋はこの暗い門の下を潜って、城内の満鉄公所まで、<ruby><rb>悪辣無双</rb><rt>あくらつむそう</rt></ruby>に引いて行った。余は生きた風呂敷包のごとく車の上で<ruby><rb>浮沈</rb><rt>ふちん</rt></ruby>した。

四十七

茶を飲むと、<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>いような塩はゆいような一種の味がする。少し妙だと思って、茶碗を下へ置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。その講釈によると、奉天には昔から<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>に至るまで下水と云うものがない。両便の始末は無論不完全である。そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した<ruby><rb>糞小便</rb><rt>くそしょうべん</rt></ruby>が歳月の力で<ruby><rb>自然天然</rb><rt>じねんてんねん</rt></ruby>に<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>の底に<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>み込んで、いまだに飲料水に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りをなしているんだと云う。一応はもっともだが、説明が少し科学的でないようである。第一それほどの所なら穀類野菜ともに、もっとよくできなければならないはずだと思ったが、<ruby><rb>馬鹿気</rb><rt>ばかげ</rt></ruby>ているから議論もしなかった。橋本もこれは伝説だよと断った。伝説と云えば<ruby><rb>日本武尊</rb><rt>やまとだけのみこと</rt></ruby>の東夷征伐と同種類に属すべきもので、真偽以外に、重く取扱わねばならぬ筋の来歴を有しているに違いない。いかにも<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない国民である。

湯を立てて貰って<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って見ると、濁っている。別に黄色く濁っている訳ではないが、御茶の味から<ruby><rb>演繹</rb><rt>えんえき</rt></ruby>すればやっぱり<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱい湯に<ruby><rb>浸</rb><rt>つか</rt></ruby>っているとよりほかに考えようがない。<ruby><rb>鹹水</rb><rt>しおみず</rt></ruby>にも<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>けるとか云って大連でくれた<ruby><rb>豆石鹸</rb><rt>まめシャボン</rt></ruby>でも、<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>の底から出せばよかったと思った。風呂場も風呂<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>も小さいものである。その上下女が出て来て背中を流してくれる。窮屈に身体を曲げながら、御前は日本人だろう。日本はどこの生れだいなどと話をした。この下女は始めて宿へ着いた時、余を橋本の随行と間違えて、そら何とかさんもいっしょにいらしったと云った。その何とかさんは橋本が<ruby><rb>蒙古</rb><rt>もうこ</rt></ruby>へ行くとき、彼と同じくここへ泊った事があるのだそうだ。顔が似ているから間違えたのか、様子が御供らしいから間違えたのかは、つい聞き<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>して見なかった。窓の外に大きな<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>が<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けてある。我々の汗や<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>が例の酸っぱい水といっしょになって、朝に晩に流れ込んでいるのだから、時々<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>み出さなければ<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるほど溜ってしまう。それを支那の下男が石油缶へ移して<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>で<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、どこかへ持って行く。風呂に<ruby><rb>浸</rb><rt>つか</rt></ruby>りながら、どこへ持って行くんだろうなと考えた。余計な心配のようだが余はこの汚水が結局どう片づけられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなった。

これでいて<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>がむやみに出る。胃の悪い余のごときものは、<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>の上を眺めただけで、腹がいっぱいになってしまう。夜は<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の夜具に寝かしてくれる。店の方では電話が仕切なしにちりんちりんと鳴っている。<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>御神</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんが、はあもしもしを<ruby><rb>乃別</rb><rt>のべつ</rt></ruby>に繰返す。或る時チョコレートの菓子が食いたくなったから、下女に有るかいと聞いて見ると、すぐもしもしで取り寄せてくれた。のみならず満鉄公所へ御馳走を受けに行けば、<ruby><rb>三鞭</rb><rt>シャンパン</rt></ruby>が現れる。領事館へ挨拶に行けば、<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>の王様の写真などが<ruby><rb>恭々</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく飾ってあって、まるで<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>のような気持になる。そうかと思うと、宿の座敷の廊下の向うが白壁で、高い窓から光線が横に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るのは仕方がないが、その窓に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めてある<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>北斎</rb><rt>ほくさい</rt></ruby>の<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>いた絵入の<ruby><rb>三国志</rb><rt>さんごくし</rt></ruby>に出てくるような<ruby><rb>唐</rb><rt>から</rt></ruby>めいたものである。しかもあまり<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>ではない。その上<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中が妙な<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>を放つ。支那人が<ruby><rb>執拗</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>き<ruby><rb>去</rb><rt>ざり</rt></ruby>にして行った臭だから、いくら綺麗好きの日本人が掃除をしたって、依然として臭い。宿では<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby><ruby><rb>停車場</rb><rt>ステーション</rt></ruby>附近へ新築をして引移るつもりだと云っていた。そうしたら、この臭だけは落ちるだろう。しかし酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>るものと覚悟しなければならない。

四十八

黒い柱が二本立っている。扉も黒く塗ってある。<ruby><rb>鋲</rb><rt>びょう</rt></ruby>は飯茶碗を伏せたように大きく見える。支那町の真中にこんな大名屋敷に似た門があろうとは思いがけなかった。門を<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るとまた門がある。これは支那流にできていた。それを通り越すと幅一間ほどの<ruby><rb>三和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>が<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に正面まで通っている。もっとも左右共に家続きであるから、四角な箱の中をがらん<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>にして、その屋根のない真中を、<ruby><rb>三和土</rb><rt>たたき</rt></ruby>を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って突き当る訳になる。<ruby><rb>肋骨君</rb><rt>ろっこつくん</rt></ruby>の説明を聞いて知ったのだが、この突当りが<ruby><rb>正房</rb><rt>せいぼう</rt></ruby>で、左右が<ruby><rb>廂房</rb><rt>しょうぼう</rt></ruby>である。肋骨君はこの正房の<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>に純粋の日本間さえ設けている。ちょっと見たまえと云って案内するから、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行くと、思わざる所に玄関があって、次の間が見えて、その奥の座敷には立派な掛物がかかっていた。かと思うと左の廂房の扉を開いてここが支那流の応接間だと云う。なるほど<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の椅子ばかり並んでいる。もっとも西洋の客間と違って<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の真中は<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいない。周囲に行儀よく据えつけてある。これじゃ客が来ても向い合って坐る事はできない訳だから、みんな隣同志で話をする男ばかりでなければならない。中にも正面の二脚は、<ruby><rb>玉座</rb><rt>ぎょくざ</rt></ruby>とも云うべきほどに手数の<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んだもので、上に赤い<ruby><rb>角枕</rb><rt>かくまくら</rt></ruby>が一つずつ乗せてあった、支那人てえものは<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なものでね、こうして<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>っかかって談判をするんですと肋骨君が教えてくれた。肋骨君は支那通だけあって、支那の事は何でも心得ている。あるとき余に向って、<ruby><rb>辮髪</rb><rt>べんぱつ</rt></ruby>まで弁護したくらいである。肋骨君の説によると、ああ云うぶくぶくの着物を着て、<ruby><rb>派出</rb><rt>はで</rt></ruby>な色の背中へ細い髪を長く垂らしたところは、<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>え<ruby><rb>付</rb><rt>つ</rt></ruby>きたくなるほど好いんだそうだから仕方がない。実際肋骨君が振え付きたくなると云う言葉を使ったには驚いた。今でもこの言葉を考え出しては驚いている。いっぺん<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない爺さんが<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>のような奴をあたじけなく<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>へ垂らしていたのを見て、ひどく興を<ruby><rb>覚</rb><rt>さま</rt></ruby>したせいだろう。

これほどの肋骨君も正房の応接間は西洋流で我慢している。その隣の食堂では西洋料理を<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>した。それから<ruby><rb>襯衣</rb><rt>シャツ</rt></ruby>一枚で玉を突く。その様子はけっして支那じゃない。万事橋本から聞いたより倍以上<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>にできているところをもって見ると、振え付きたいは少々言い過ぎたのかも知れない。肋骨君は戦争で右か左かどっちかの足を<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くした。ところがそれがどっちだか分らないくらい、自由自在に<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったり<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ったりする。そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好であると同時に、もっとも支那に縁の遠い<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人である。

<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>は<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いてるから来たまえとしきりに云ってくれるので、じゃ帰りに厄介になるかも知れないと云うとすぐ<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいと快諾したところだけは<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>かったが、帰りには<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君はたちまち宿泊を断った。いや、あの汽車じゃ<ruby><rb>御免</rb><rt>ごめん</rt></ruby>だと云う。もう一つの汽車が好いじゃないかと勧めるんだが、プログラムの全権があいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半の汽車でなかったら泊めて貰おうと云う条件をつけた。すると肋骨君はまた宜しいと答えた。ところが帰りにはやっぱり予定通<ruby><rb>夜半着</rb><rt>やはんちゃく</rt></ruby>の汽車へ乗ったのでとうとう満鉄公所へは泊まれない事になった。満鉄公所で余の知らない所は寝室だけである。

四十九

右へ折れると往来とは云われないくらい広い所へ出たのでようやく安心した。これならば人を引殺す心配もなかろうと思って、案内をしてくれる、宿の番頭を相手に、行く行く話をした。満洲の日は例によって<ruby><rb>秋毫</rb><rt>しゅうごう</rt></ruby>の先を<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに照らすほどに思い切ったものである。<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>に鳥打帽を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っても、<ruby><rb>三日月形</rb><rt>みかづきがた</rt></ruby>の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>では頬から下をどうする事もできないので、<ruby><rb>直下</rb><rt>じか</rt></ruby>に<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>りつけられる所は痛いくらいほてる。そこへ馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>に<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き立てられた軽い<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>が、車の下から<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と飛んで来る。番頭は、結構な<ruby><rb>御日和</rb><rt>おひより</rt></ruby>です、少し風でも吹いたらこんなものじゃありませんと喜んでいる。そのうち馬車が家を離れて広い原へ出た。原だから無論<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>も草も見えないのは当然だが、遠く眺めると、季節だけに青いものが際限のない地の<ruby><rb>上皮</rb><rt>うわがわ</rt></ruby>に、幾色かの影になって、一面に吹き出している。なぜこれほどの地面を<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく明けておくかは、家屋の発展に<ruby><rb>忙殺</rb><rt>ぼうさい</rt></ruby>されつつある東京ものの眼には即時の疑問として<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>る訳であるが、この際はそれよりも窮屈な人間を通り抜けて<ruby><rb>晴々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>したと云う意識の方が一度に余の頭を照らした。路は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>よりついていない。東西南北共に天に作った路であるから、<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>の<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>は行く人の心任せに思い思いの<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>に延びて行く。

支那人の馬車が来た。屋根に<ruby><rb>蒲鉾形</rb><rt>かまぼこがた</rt></ruby>の丸味を取った<ruby><rb>棺</rb><rt>かん</rt></ruby>のようなもののなかに、髪を油で<ruby><rb>練固</rb><rt>ねりかた</rt></ruby>めた女が坐っている。<ruby><rb>長柄</rb><rt>ながえ</rt></ruby>は短いが、車の輪は厚く丈夫なものであった。云うまでもなく<ruby><rb>騾馬</rb><rt>らば</rt></ruby>に引かしている。まず日本の昔に<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>った<ruby><rb>牛車</rb><rt>うしぐるま</rt></ruby>の小ぢんまりしたものと思えば<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないが、見たところは牛車よりもかえって<ruby><rb>雅</rb><rt>が</rt></ruby>である。その代り乗ってる人間は苦しいそうだ。余はこの車のごろごろ行くところを見て、<ruby><rb>輗</rb><rt>げい</rt></ruby>たり<ruby><rb>軏</rb><rt>げつ</rt></ruby>たりと形容したくなった。輗の字も軏の字も判然たる意味を知らないのだが、乗ってる人は定めて<ruby><rb>輗￼</rb><rt>げいげつ</rt></ruby>たるものに相違なかろうと思ったからである。実を云うと輗軏たるものは支那の車ばかりではない。こう云う自分もはなはだ<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>しかった。一望して原だよと澄ましていればそれまでの事で、<ruby><rb>仰</rb><rt>おおせ</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らにも見えるが、いざ時間に制限を切って、<ruby><rb>突切</rb><rt>つっき</rt></ruby>って見ろと云われると、恐ろしく<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>ができてくる。おいここで馬車の引っくり返る事はあるまいなと番頭に念を押すと、番頭はええ、まあたいてい大丈夫でしょうと云うだけで、けっして万一を受け合わない。どうも並んでいる番頭の座が急に高くなって、番頭そのものが余の方に<ruby><rb>摺落</rb><rt>ずりお</rt></ruby>ちて来そうになったり、またはあべこべに、余が番頭のシャッポの上に<ruby><rb>顛</rb><rt>ころ</rt></ruby>び落ちそうになるのは<ruby><rb>心好</rb><rt>こころよ</rt></ruby>くないものである。余は神経質で臆病な<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>だから、車が傾くたんびに飛び降りたくなる。しかるに人の気も知らないで、例の<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>が無敵に馬を<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>けさせる。いらぬ事だと冷や冷やしているうちに、一カ所路の悪い所へ出た。原因は解らないが、轍の迹が<ruby><rb>際立</rb><rt>きわだ</rt></ruby>って三四十本並んでいる。しかもその幅がいずれも五六寸ある。そうして見るからに深そうに、日影を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って、奥の方を黒くかつ暗くしている。我々の御者は平気にそこへ乗り込んだ。順当に乗り込んだのならまだよかったけれども、片方の輪だけが泥の中へぐしゃぐしゃと<ruby><rb>滅</rb><rt>め</rt></ruby>り<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>むと同時に、片方は依然として固い土に支えられている。余は<ruby><rb>泥側</rb><rt>どろがわ</rt></ruby>に席を占めていた。すると足が土と<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ擦れになるまで車が<ruby><rb>濘海</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>に沈んで来た。番頭は余の頭の上にあるごとく感ぜられた。余はたまらなくなって、泥の中へ飛び下りた。

五十

原が急に<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>に変化するのは不思議であった。ここにこれだけの<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>が生えるなら、原の中ももう少し茂って<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべきであると気がついた時はすでに車の両側が<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がっていた。竹こそないが、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>と云うのが適当と思われるくらいな緑の高さだから、日本の<ruby><rb>田舎道</rb><rt>いなかみち</rt></ruby>を歩くようなおとなしい感じである。ところどころ細い枝などが列を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れて往来へ差し出ているのを、通りながら<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けたり、<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>わしたりして行き過ぎるのが何より愉快だった。路も<ruby><rb>先刻</rb><rt>さき</rt></ruby>よりは<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>たくなって、真白に草と木の間を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>いている。ある所には大きな松があった。葉の長さが日本の倍もあって色は<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>のそれよりも黒い。ある所は荒れ果てた庭園の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>に見えた。そう云う場所へ来ると、馬車の上から低い<ruby><rb>雑木</rb><rt>ぞうき</rt></ruby>を<ruby><rb>一目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>に二丁も眺められる。向うに細長い石碑が立っていた。模様だけが薄く見えるが、<ruby><rb>刻字</rb><rt>こくじ</rt></ruby>は無論分らなかった。

しばらくすると、路が尽きて高い門の下へ出た。門は石を<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>んだ三つのアーチからでき上っているが、アーチの下まで行くにはだいぶ高い石段を登らなくてはならない。門の左右には大きな竜が壁に<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>り<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んであった。これが正門ですがね、締切りだから壁へ<ruby><rb>添</rb><rt>つ</rt></ruby>いて廻るんですと云って、馬を<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>のような高い所へ上げた。右は<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の壁である。それがところどころ<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れかかっている。左はだらだらの谷で<ruby><rb>野葡萄</rb><rt>のぶどう</rt></ruby>や雑木が<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>なく立て込んだ。路は馬車が<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて通れるぐらい狭い。そこを廻って横手の門から車を捨てて<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると、眼がすっきりと静まった。<ruby><rb>一抱</rb><rt>ひとかかえ</rt></ruby>もある松ばかりが<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>の<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>まで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が<ruby><rb>物寂</rb><rt>ものさ</rt></ruby>びて生えている。靴の底が石に落ちて一歩ごとに鳴った。一丁ばかり行って正面に曲ると、左右に石の象がいた。大きくって、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>で、しかも石だからはなはだ静かである。突き当りにある楼門のような所へ這入ったら、今度は大きな亀の背に<ruby><rb>頌徳碑</rb><rt>しょうとくひ</rt></ruby>が立ててあった。亀も大きかったが、碑も高い。蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。後へ出ると<ruby><rb>隆恩門</rb><rt>りゅうおんもん</rt></ruby>と云うのが空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。積み上げたアーチの上を見ると三層あった。左右に<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らしてある壁も尋常ではない。あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中へ這入った。中は真四角に仕切ってある。正面にある<ruby><rb>廟</rb><rt>びょう</rt></ruby>の横から石段を登って壁の上へ出ると、<ruby><rb>廟</rb><rt>びょう</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>だけが<ruby><rb>半月形</rb><rt>はんげつけい</rt></ruby>になっていわゆる<ruby><rb>北陵</rb><rt>ほくりょう</rt></ruby>を取り巻いている。

支那の小僧が<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た。番頭を<ruby><rb>捕</rb><rt>つら</rt></ruby>まえてしきりにこそこそ何か云っている。番頭に聞くと、ええなにと<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な答をする。また聞き返したらこう云った。――屋根の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の所に着けてある金の玉を、この間一つ落ちた時に、拾っておいたから、買ってくれと云うんです。<ruby><rb>表向</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>にすると<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しいものですから、こうして見物に来た時、そうっと売りつけようてんで、支那人は<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>に<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>ですからね。

支那の<ruby><rb>陵守</rb><rt>りょうもり</rt></ruby>も無論狡猾だろうが、金の玉を安く買おうと云う番頭もあまり正直な方じゃない。番頭はそっと<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>をやって金の玉をポッケットへ入れたようである。

壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。桑があんなに大きくなってますと番頭が<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した。なるほど<ruby><rb>一抱</rb><rt>ひとかかえ</rt></ruby>もある。この四角な壁の<ruby><rb>一側</rb><rt>ひとかわ</rt></ruby>は長さどのくらいかねと尋ねると、へえ今<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>して見ましょうと云いながら、<ruby><rb>一歩</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>二尺の割で、一二三四と歩いて行った。余は壁の外を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>して、そこらを<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んでいる赤い木の実を眺めていた。せっかく番頭の勘定した壁の長さは忘れてしまった。

五十一

<ruby><rb>撫順</rb><rt>ぶじゅん</rt></ruby>は石炭の出る所である。そこの<ruby><rb>坑長</rb><rt>こうちょう</rt></ruby>を松田さんと云って、橋本が満洲に来る時、船中で<ruby><rb>知己</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>になったとかで、その折の勧誘通り<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>行くと云う電報を打った。汽車に乗ると西洋人が二人いた。朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。出迎えのものが<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。松田さんは<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢみ</rt></ruby>の<ruby><rb>襯衣</rb><rt>シャツ</rt></ruby>の上に薄い背広を着ていた。背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。我々と英国人を<ruby><rb>二所</rb><rt>ふたところ</rt></ruby>に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。したがって英人とは言葉を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えなかった。

やがて松田さんが案内になって表へ出た。貯水池の<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>へ<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく<ruby><rb>煉瓦作</rb><rt>れんがづく</rt></ruby>りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た家がほとんど一軒ごとに<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にして、十軒<ruby><rb>十色</rb><rt>といろ</rt></ruby>とも云うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたものだと云われた。

市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。我々の立っているつい<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。

事務所へ帰って<ruby><rb>午餐</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になったとき英国人は<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>も持てず米も喰えず気の毒なものであった。この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>ともする事のできないのは案外である。その代り<ruby><rb>官話</rb><rt>かんわ</rt></ruby>は達者だそうだ。松田さんは用事が<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいとかで、食卓へは出て来られなかった。接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。けれども橋本氏も余もこの時まで英語はいっさい使わなかった。元来英人と云うものはプラウドな気風を帯びていて、紹介されない以上は、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>に向って容易に口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かない。だから我々も英人に対しては同様にプラウドである。

食後は坑内を見物する事になった。田島君という技師が案内をしてくれた。入口で安全灯を五つ<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>して、杖を五本用意して、それを<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>に分けて、一間四方ぐらいの穴をだらだらと下りた。十四五間行くか行かないに<ruby><rb>坑</rb><rt>あな</rt></ruby>のなかは<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>になった。カンテラの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>は足元を照らすにさえ不足である。けれども路は存外平らで、<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>もかなり高かった。右へ曲って、探るように下りて行くと、余のすぐ前にいる田島君がぴたりととまった。余もとまった。案内がとまったから、あとから続いて来たものもことごとくとまった。ここに腰かけがあります。坑へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るものはここで五六分休んで眼を慣らすんですと云った。五人は休みながらカンテラの灯で互の顔を見合わした。みんな立って黙っている。腰をおろすものは一人もない。静かな中で時の移るのは多少<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>かった。そのうち暗い所が自然と明るくなって来た。田島君はやがて、もうよかろうと云って、またすぐ右へ曲って、奥へ奥へと下りて行った。余も続いて下りた。あとの三人も続いて下りて来た。

ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした。