Soranoha

二百十日

にひゃくとおか

夏目 漱石

一

ぶらりと両手を垂さげたまま、圭けいさんがどこからか帰って来る。

「どこへ行ったね」

「ちょっと、町を歩行あるいて来た」

「何か観みるものがあるかい」

「寺が一軒あった」

「それから」

「銀杏いちょうの樹きが一本、門前もんぜんにあった」

「それから」

「銀杏いちょうの樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」

「這入はいって見たかい」

「やめて来た」

「そのほかに何もないかね」

「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」

「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」

「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻ひねる。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻ひねった首を真直まっすぐにして、圭さんがこう云った。

「それから鍛冶屋かじやの前で、馬の沓くつを替かえるところを見て来たが実に巧たくみなものだね」

「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」

「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」

「幾通りあるかな」

「あてて見たまえ」

「あてなくっても好いいから教えるさ」

「何でも七つばかりある」

「そんなにあるかい。何と何だい」

「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿のみと、鑿を敲たたく槌つちと、それから爪を削けずる小刀と、爪を刳えぐる妙みょうなものと、それから……」

「それから何があるかい」

「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」

「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪きるじゃないか」

「人間はそうだが馬だぜ、君」

「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気のんきだよ」

「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗きれいだね。ぴちぴち火花が出る」

「出るさ、東京の真中でも出る」

「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」

初秋はつあきの日脚ひあしは、うそ寒く、遠い国の方へ傾かたむいて、淋さびしい山里の空気が、心細い夕暮れを促うながすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。

「聞えるだろう」と圭さんが云う。

「うん」と碌ろくさんは答えたぎり黙然もくねんとしている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。

「そこで、その、相手が竹刀しないを落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手こてを取ったんだあね」

「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」

「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀しないを落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」

「ふうん。竹刀を落したのかい」

「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」

「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」

「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」

二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然もくねんとして、対坐たいざしていた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。

かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走かんばしった上に何だか心細い。

「まだ馬の沓くつを打ってる。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣ゆかたの下で堅くなる。碌さんも同じく白地しろじの単衣ひとえの襟えりをかき合せて、だらしのない膝頭ひざがしらを行儀ぎょうぎよく揃そろえる。やがて圭さんが云う。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」

「豆腐屋があって?」

「豆腐屋があって、その豆腐屋の角かどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」

「寒磬寺と云う御寺がある?」

「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦かねを敲たたく」

「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」

「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽かすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮さえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門を埋うずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗のぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏うちで海老えびのようになるのさ」

「海老のようになるって?」

「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

「妙だね」

「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼うすで挽ひく音がする。ざあざあと豆腐の水を易かえる音がする」

「君の家うちは全体どこにある訳わけだね」

「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」

「だから、どこにある訳だね」

「すぐ傍そばさ」

「豆腐屋の向むこうか、隣りかい」

「なに二階さ」

「どこの」

「豆腐屋の二階さ」

「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。

「僕は豆腐屋の子だよ」

「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。

「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄もやが一面に降りて、町の外はずれの瓦斯灯ガスとうに灯ひがちらちらすると思うとまた鉦かねが鳴る。かんかん竹の奥で冴さえて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子こししょうじをはめる」

「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」

「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団ふとんを敷いて寝ねる。――僕のうちの吉原揚よしはらあげは旨うまかった。近所で評判だった」

隣り座敷の小手こてと竹刀しないは双方ともおとなしくなって、向うの椽側えんがわでは、六十余りの肥ふとった爺じいさんが、丸い背せを柱にもたして、胡坐あぐらのまま、毛抜きで顋あごの髯ひげを一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑おさえて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾はね返り、顋あごは上へ反そり返る。まるで器械のように見える。

「あれは何日いくか掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。

「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」

「そうは行くまい」と碌さんが反対する。

「そうかな。じゃ一日いちんちかな」

「一日や二日ふつかで奇麗きれいに抜けるなら訳わけはない」

「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫なで廻しながら抜いてるのを」

「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生はえるかも知れないね」

「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭わとうを転じた。

「痛いに違いないね。忠告してやろうか」

「なんて」

「よせってさ」

「余計な事だ。それより幾日いくか掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」

「うん、よかろう。君が聞くんだよ」

「僕はいやだ、君が聞くのさ」

「聞いても好いいがつまらないじゃないか」

「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申もうし出だしを惜気おしげもなし撤回した。

一度途切とぎれた村鍛冶むらかじの音は、今日山里に立つ秋を、幾重いくえの稲妻いなずまに砕くだくつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。

「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。

「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」

「豆腐屋の子がどんなになったのさ」

「だって豆腐屋らしくないじゃないか」

「豆腐屋だって、肴屋さかなやだって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」

「そうさな、つまり頭だからね」

「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯しょうがい豆腐屋さ。気の毒なものだ」

「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。

「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」

「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」

「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」

「思って、なれなければ?」

「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着おうちゃくを云う。

「そう注文通りに行いけば結構だ。ハハハハ」

「だって僕は今日までそうして来たんだもの」

「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」

「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介やっかいだな。ハハハハ」

「なったら、どうするつもりだい」

「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向むこうの方が悪いのだろう」

「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」

「えらい者た、どんな者だい」

「えらい者って云うのは、何さ。例たとえば華族かぞくとか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。

「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」

「その豆腐屋連れんが馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」

「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」

「こっちがする気でも向がならないやね」

「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」

「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」

「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼あっぱくするぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨こうがいし始める。

「君はそんな目に逢あった事があるのかい」

圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変あいかわらずかあんかあんと鳴る。

「まだ、かんかん遣やってる。――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴やつを碌さんの前に圧おしつけた。

「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨ひいた事があるのかい」

「豆も磨いた、水も汲くんだ。――おい、君粗忽そこつで人の足を踏んだらどっちが謝あやまるものだろう」

「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」

「突然、人の頭を張りつけたら?」

「そりゃ気違きちがいだろう」

「気狂きちがいなら謝まらないでもいいものかな」

「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」

「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」

「そんな気違があるのかい」

「今の豆腐屋連れんはみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向むこうが恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」

「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」

圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、

「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独ひとり言ごとのようにつけた。

村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端はじから端までかあんかあんと響く。

「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺かんけいじの鉦かねに似ている」

「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜せがれから、今日こんにちまでに変化した因縁いんねんはどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」

「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯ゆうめし前に温泉ゆに這入はいろう。君いやか」

「うん這入ろう」

圭さんと碌さんは手拭てぬぐいをぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒しゅろおの貸下駄かしげたには都らしく宿の焼印やきいんが押してある。

二

「この湯は何に利きくんだろう」と豆腐屋の圭けいさんが湯槽ゆぶねのなかで、ざぶざぶやりながら聞く。

「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍へそばかりざぶざぶ洗ったって、出臍でべそは癒なおらないぜ」

「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉ゆを掬くんで、口へ入れて見る。やがて、

「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。

「飲んでもいいんだよ」と碌ろくさんはがぶがぶ飲む。

圭さんは臍へそを洗うのをやめて、湯槽の縁ふちへ肘ひじをかけて漫然まんぜんと、硝子越ガラスごしに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬つかって、相手の臍から上を見上げた。

「どうも、いい体格からだだ。全く野生やせいのままだね」

「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪わるいと華族や金持ちと喧嘩けんかは出来ない。こっちは一人向むこうは大勢だから」

「さも喧嘩の相手があるような口振くちぶりだね。当とうの敵てきは誰だい」

「誰でも構わないさ」

「ハハハ呑気のんきなもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚おどろいたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙ごめんこうむろうかと思った」

「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行あるいたつもりだ」

「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」

「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」

「また華族と金持ちか。眼の敵かたきだね」

「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」

「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」

「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」

碌さんは湯の中で首を捩ねじ向ける。

「かぼちゃさ」

「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這はってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」

「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」

「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」

「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」

「そりゃ唄うたかい」

「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」

「屋根にかぼちゃが生なるようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」

「また慷慨こうがいか、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇あそへ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」

「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石たくあんいしのような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮さかんに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」

「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行あるいちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。

「ともかくも六時に起きて……」

「六時に起きる?」

「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社あそじんじゃへ参詣さんけいして、十二時から登るのだ」

「へえ、誰が」

「僕と君がさ」

「何だか君一人ひとりで登るようだぜ」

「なに構わない」

「ありがたい仕合せだ。まるで御供おとものようだね」

「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩うどんにして置くか」と圭さんが、あすの昼飯ひるめしの相談をする。

「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸すぎばしを食うようで腹が突張つっぱってたまらない」

「では蕎麦そばか」

「蕎麦も御免だ。僕は麺類めんるいじゃ、とても凌しのげない男だから」

「じゃ何を食うつもりだい」

「何でも御馳走ごちそうが食いたい」

「阿蘇あその山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」

「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」

「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」

「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平ひらに不賛成だ。こう見えても僕は身分が好いいんだからね」

「だから柔弱にゅうじゃくでいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」

「痩やせたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。

「そんなに痩せもしなかったがただ虱しらみが湧わいたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」

「僕はないよ。身分が違わあ」

「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟かり尽せるもんじゃないぜ」

「煮え湯で洗濯せんたくしたらよかろう」

「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」

「なあるほど、銭ぜにが一文もんもないんだね」

「一文もないのさ」

「君どうした」

「仕方がないから、襯衣シャツを敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩たたいた。そうしたら虱しらみが死なないうちに、襯衣が破れてしまった」

「おやおや」

「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」

「さぞ困ったろうね」

「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多めったに困っちゃ仕方がない」

「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚あぶらげ、がんもどきと怒鳴どなって、あるかなくっちゃならないかね」

「華族でもない癖に」

「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」

「あってもそのくらいじゃ駄目だ」

「このくらいじゃ豆腐とうふいと云う資格はないのかな。大おおいに僕の財産を見縊みくびったね」

「時に君、背中せなかを流してくれないか」

「僕のも流すのかい」

「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」

「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」

「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺ゆつぼの中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭てぬぐいをしごいたと思ったら、両端りょうはじを握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜はすに膏切あぶらぎった背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤ちからこぶが急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨こすり始める。

手拭の運動につれて、圭さんの太い眉まゆがくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹ぼうちょうして、小鼻が勃ぼっとして左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締くいしばったまま、両耳の方まで割さけてくる。

「まるで仁王におうのようだね。仁王の行水ぎょうずいだ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」

圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦こする。擦っては時々、手拭を温泉ゆに漬つけて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗あせと膏あぶらと垢あかと温泉ゆの交まじったものが十五六滴ずつ飛んで来る。

「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽ゆぶねを飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極きょく、流しへ突っ立ったまま、茫然ぼうぜんとして、仁王の行水を眺めている。

「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽ふねのなかから質問する。

「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」

「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端いったんを放すや否や、ざぶんと温泉ゆの中へ、石のように大きな背中を落す。満槽まんそうの湯は一度に面喰めんくらって、槽の底から大恐惶だいきょうこうを持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢あふれだす。

「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。

「なるほどそう遠慮なしに振舞ふるまったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」

「あの隣りの客は竹刀しないと小手こての事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気のんきなものだ。

「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」

「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳わけが分らない」

「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似まねをする。

「ハハハハそこでそら竹刀しないを落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。

「なにあれでも、実は慷慨家こうがいかかも知れない。そらよく草双紙くさぞうしにあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門けぞりくえもんて」

「海賊らしくもないぜ。さっき温泉ゆに這入はいりに来る時、覗のぞいて見たら、二人共木枕きまくらをして、ぐうぐう寝ていたよ」

「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。

「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載のせたまんま寝ていたよ」

「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。

「何だろう、あの本は」

「伊賀いがの水月すいげつさ」と碌さんは、躊躇ちゅうちょなく答えた。

「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」

「伊賀の水月を知らないのかい」

「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻ひねった。

「恥じゃないが話せないよ」

「話せない? なぜ」

「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」

「うん、又右衛門か」

「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入はいる。圭さんはまた槽ふねのなかへ突立つったった。

「もう仁王の行水は御免だよ」

「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上のぼせるから、時々こう立つのさ」

「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」

「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。

「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何なんにも知らないね」

「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」

「何だい」

「相撲取すもうとりだ」

「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦だいきょうえつである。

「そんなにおかしいか」

「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」

「そんなに有名な男か」

「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」

「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」

「そら、落ち行く先きは九州相良さがらって云うじゃないか」

「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」

「困った男だな」

「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫ごうも僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路やまみちが苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」

「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶かないっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」

「君は第一平生から惰弱だじゃくでいけない。ちっとも意志がない」

「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩うどんに逢あった時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」

「ハハハハつまらん事を云っていらあ」

「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」

「こんなに黒くってもかい」

「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青ほりものがあるじゃないか」

「なぜ」

「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」

「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚ぐな真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」

「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」

「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」

「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易へきえきするよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々いいだくだくとして命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」

「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」

「僕がかい」

「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」

「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」

「なあに構わんさ」

「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半せっぱんされるんだから、愚ぐの極きょくだ」

「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇あその噴火口を見る事ができるだろう」

「可愛想かわいそうに。一人ひとりだって阿蘇ぐらい登れるよ」

「しかし華族や金持なんて存外意気地いくじがないもんで……」

「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」

「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟りくつがわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」

「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」

「その内、してやろうと思ってるのさ」

「思ってるだけじゃ剣呑けんのんなものだ」

「なあに年ねんが年中ねんじゅう思っていりゃ、どうにかなるもんだ」

「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉コレラになるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」

「時にあの髯ひげを抜いてた爺さんが手拭てぬぐいをさげてやって来たぜ」

「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」

「僕はもう湯気ゆけに上がりそうだから、出るよ」

「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入はいっていたまえ」

「おや、あとから竹刀しないと小手こてがいっしょに来たぜ」

「どれ。なるほど、揃そろって来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽ゆぶねへ這入るのかな」

「僕はともかくも出るよ」

「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」

風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌すはだを臍へそのあたりまで吹き抜けた。出臍でべその圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥くしゃみを無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉はくふようが五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向むこうでは阿蘇あその山がごううごううと遠くながら鳴っている。

「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。

「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。

三

「姉さん、この人は肥ふとってるだろう」

「だいぶん肥こえていなはります」

「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」

「ホホホ」

「豆腐屋じゃおかしいかい」

「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理しょうじんりょうりじゃ、あした、御山おやまへ登れそうもないな」

「また御馳走ごちそうを食いたがる」

「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」

「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉ゆばに、椎茸しいたけに、芋いもに、豆腐、いろいろあるじゃないか」

「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。昨日きのうは饂飩うどんばかり食わせられる。きょうは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」

「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味びみだ」

「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴さかなは何もないのかい」

「あいにく何もござりまっせん」

「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」

「玉子ならござりまっす」

「その玉子を半熟にして来てくれ」

「何に致します」

「半熟にするんだ」

「煮て参じますか」

「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」

「いいえ」

「知らない?」

「知りまっせん」

「どうも辟易へきえきだな」

「何でござりまっす」

「何でもいいから、玉子を持って御出おいで。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」

「飲んでもいい」と圭さんは泰然たいぜんたる返事をした。

「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」

「よさなくっても好いい。ともかくも少し飲もう」

「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」

「ビールはござりまっせん」

「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情なさけない所だ」

「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶あいさつをする。

「ビールはござりませんばってん、恵比寿えびすならござります」

「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」

「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎びんに這入はいってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。

「ねえ」と下女は肥後訛ひごなまりの返事をする。

「じゃ、ともかくもその栓せんを抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」

「ねえ」

下女は心得貌こころえがおに起って行く。幅の狭い唐縮緬とうちりめんをちょきり結びに御臀おしりの上へ乗せて、絣かすりの筒袖つつそでをつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪そくはつに、だいぶ碌さんと圭さんの胆たんを寒からしめたようだ。

「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、

「そうさ」と何の苦もなく答えたが、

「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接ついだようにつけた。

「剛健な趣味がありゃしないか」

「うん。実際田舎者いなかものの精神に、文明の教育を施ほどこすと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」

「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」

「うん、それも好よかろう。しかしそれより前に文明の皮を剥むかなくっちゃ、いけない」

「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜すいかのような事を云う。

「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑げびた事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性こんじょうを社会全体に蔓延まんえんさせるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根しょうねの悪い奴があるものだ」

「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」

「体裁だけはすこぶる美事みごとなものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」

「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党ごうけんとうの御仲間入りをやろうかな」

「無論の事さ。だからまず第一着だいいっちゃくにあした六時に起きて……」

「御昼に饂飩うどんを食ってか」

「阿蘇あその噴火口を観みて……」

「癇癪かんしゃくを起して飛び込まないように要心ようじんをしてか」

「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の気象きしょうを養って、齷齪あくそくたる塵事じんじを超越するんだ」

「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減いいかげんに超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」

「弱い男だ」

筒袖つつそでの下女が、盆の上へ、麦酒ビールを一本、洋盃コップを二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。

「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯いっぱい飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。

「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。

「だって玉子は僕が誂あつらえたんだぜ」

「しかし四つとも食う気かい」

「あしたの饂飩うどんが気になるから、このうち二個は携帯して行いこうと思うんだ」

「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。

「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢ぜいたくの沙汰だが、可哀想かわいそうでもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」

「おおかた熊本でござりまっしょ」

「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨うまいや。君どうだ、熊本製の恵比寿は」

「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は生なまだぜ」と玉子を割った圭さんはちょっと眉をひそめた。

「ねえ」

「生だと云うのに」

「ねえ」

「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。

「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」

「うで玉子か」と圭さんは首を延のばして相手の膳ぜんの上を見る。

「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。

「ねえ」

「そうなのか」

「ねえ」

「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」

「ねえ」

「なぜ、そんな事をしたのだい」

「半分煮て参じました」

「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手よこでを打つ。

「ハハハハ単純なものだ」

「まるで落おとし噺ばなし見たようだ」

「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」

「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」と圭さんが玉子に関係のない方面へ出て来た。

「ここが阿蘇でござりまっす」

「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日にさんち逗留とうりゅうして、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」と碌さんがすぐ云う。

「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」

「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。圭さんは相手にしない。

「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。

「ねえ」

「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」

「御宮までは三里でござりまっす」

「山の上までは」

「御宮から二里でござりますたい」

「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。

「ねえ」

「御前おまえ登った事があるかい」

「いいえ」

「じゃ知らないんだね」

「いいえ、知りまっせん」

「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」

「御山へ御登りなさいますか」

「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、

「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが打ぶち壊こわした。

「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」

「うん、ここで寝転ねころんで、あのごうごう云う音を聞いている方が楽らくなようだ。ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ烈はげしくなったようだぜ、君」

「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」

「御山が少し荒れておりますたい」

「荒れると烈しく鳴るのかね」

「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」

「よなた何だい」

「灰でござりまっす」

下女は障子をあけて、椽側えんがわへ人指ひとさしゆびを擦すりつけながら、

「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。

「なるほど、始終しじゅう降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。

「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」

「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」

「荒れればなお愉快だ。滅多めったに荒れたところなんぞが見られるものじゃない。荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。ねえ、姉さん」

「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」

どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。

「いやあ、こいつは熾さかんだ。おい君早く出て見たまえ。大変だよ」

「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」

「何が」

「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」

「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」

「ねえ」

「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の頬ほっぺたを撫なで廻す。

「大袈裟おおげさな事ばかり云う男だ」

「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」

「嘘うそばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」

「星のひかりと火のひかりとは趣おもむきが違うさ」

「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」

「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは向むこうをゆびさして大きな輪を指の先で描えがいて見せる。

「よるだもの」

「夜だって……」

「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。

「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」

「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」

「ねえい」

「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗のぞき込む。

「ねえい。女でも登りますたい」

「女でも登っちゃ、男は是非ぜひ登る訳わけかな。飛んだ事になったもんだ」

「ともかくも、あしたは六時に起きて……」

「もう分ったよ」

言い棄すてて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然もくねんと、眉まゆを軒あげて、奈落ならくから半空に向って、真直まっすぐに立つ火の柱を見詰めていた。

四

「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭けいさんが振り返る。

「ここを曲がるかね」

「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入はいらずに左へ廻れと教えたぜ」

「饂飩屋うどんやの爺じいさんがか」と碌ろくさんはしきりに胸を撫なで廻す。

「そうさ」

「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」

「なぜ」

「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡ふりょうけんだ」

「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥はるかに尊たっといさ」

「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性しょうに合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨うらんでも後あとの祭まつりだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」

「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」

「阿蘇あその火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々剣呑けんのんになって来たぜ」

「なに、大丈夫だ。天祐てんゆうがあるんだから」

「どこに」

「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」

「どうも君は自信家だ。剛健党ごうけんとうになるかと思うと、天祐派てんゆうはになる。この次ぎには天誅組てんちゅうぐみにでもなって筑波山つくばさんへ立て籠こもるつもりだろう」

「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」

「いつそんな目に逢あったんだい」

「いつでもいいさ。桀紂けっちゅうと云えば古来から悪人として通とおり者ものだが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被かぶってるから小憎こにくらしい」

「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似まねがしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳うとくの君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩はいは、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一ぱひとからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様まっさかさまに地獄の下へ落しちまったら」

「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く渦巻うずまく煙りを仰いで、草鞋足わらじあしをうんと踏張ふんばった。

「大変な権幕けんまくだね。君、大丈夫かい。十把一とからげを放ほうり込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」

「あの音は壮烈だな」

「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」

「どんなだい」

「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」

「その割に煙りがこないな」

「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」

「樹きが多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」

しばらくは雑木林ぞうきばやしの間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善よくても並んで歩行あるく訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々ゆうゆうと振って先へ行く。碌さんは小さな体躯からだをすぼめて、小股こまたに後あとから尾ついて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。

路は左右に曲折して爪先上つまさきあがりだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上あがるものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨いばらにかかっている。そのほかに人の気色けしきはさらにない、饂飩腹うどんばらの碌さんは少々心細くなった。

きのうの澄み切った空に引き易かえて、今朝宿を立つ時からの霧模様きりもようには少し掛念けねんもあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇あその社やしろまでは漕こぎつけた。白木しらきの宮に禰宜ねぎの鳴らす柏手かしわでが、森閑しんかんと立つ杉の梢こずえに響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額ひたいに落ちた。饂飩うどんを煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡なびいた頃から、午過ひるすぎは雨かなとも思われた。

雑木林を小半里こはんみちほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、梢こずえにしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠かすめて、翻ひるがえる木この葉はと共にまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。

一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、後うしろは知らず、貫つらぬいて来た一筋道のほかは、東も西も茫々ぼうぼうたる青草が波を打って幾段となく連つらなる後あとから、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。

林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道おおにゅうどうの圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘こうもりは畳んだまま、帽子さえ、被かぶらずに毬栗頭いがぐりあたまをぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。

「おうい。少し待ってくれ」

「おうい。荒れて来たぞ。荒れて来たぞうう。しっかりしろう」

「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを這はい上がる。ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、

「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが遣やっつける。

「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。ああ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」

「そうか、君のも真黒だ」

圭さんは、無雑作むぞうさに白地しろじの浴衣ゆかたの片袖かたそでで、頭から顔を撫なで廻す。碌さんは腰から、ハンケチを出す。

「なるほど、拭ふくと、着物がどす黒くなる」

「僕のハンケチも、こんなだ」

「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝さらしながら、空模様を見廻す。

「よなだ。よなが雨に溶とけて降ってくるんだ。そら、その薄すすきの上を見たまえ」と碌さんが指をさす。長い薄の葉は一面に灰を浴びて濡ぬれながら、靡なびく。

「なるほど」

「困ったな、こりゃ」

「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの煙りの出る所を目当めあてにして行けば訳わけはない」

「訳はなさそうだが、これじゃ路みちが分らないぜ」

「だから、さっきから、待っていたのさ。ここを左りへ行くか、右へ行くかと云う、ちょうど股またの所なんだ」

「なるほど、両方共路になってるね。――しかし煙りの見当から云うと、左りへ曲がる方がよさそうだ」

「君はそう思うか。僕は右へ行くつもりだ」

「どうして」

「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」

「そうかい」と碌さんは、身躯からだを前に曲げながら、蔽おおいかかる草を押し分けて、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、

「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と云った。

「ないだろう」

「そっちにはあるかい」

「うん。たった二つある」

「二つぎりかい」

「そうさ。たった二つだ。そら、こことここに」と圭さんは繻子張しゅすばりの蝙蝠傘こうもりの先で、かぶさる薄すすきの下に、幽かすかに残る馬の足跡を見せる。

「これだけかい心細いな」

「なに大丈夫だ」

「天祐てんゆうじゃないか、君の天祐はあてにならない事夥おびただしいよ」

「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い了おわらぬうちに、雨を捲まいて颯さっとおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽むぎわらぼうを遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡なびいて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの態さまに戻る。

「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが幾重いくえとなく起伏する青い草の海を指さす。

「痛快でもないぜ。帽子が飛んじまった」

「帽子が飛んだ? いいじゃないか帽子が飛んだって。取ってくるさ。取って来てやろうか」

圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を重おもしに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。

「おいこの見当か」

「もう少し左りだ」

圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。

「おうい。大丈夫か」

「何だあ」と向うの首から声が出る。

「大丈夫かよう」

やがて圭さんの首が見えなくなった。

「おうい」

鼻の先から出る黒煙りは鼠色ねずみいろの円柱まるばしらの各部が絶間たえまなく蠕動ぜんどうを起しつつあるごとく、むくむくと捲まき上がって、半空はんくうから大気の裡うちに溶とけ込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然しょうぜんとして、首の消えた方角を見つめている。

しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然こつぜんと現われた。

「帽子はないぞう」

「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」

圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄すすきの中を泳いでくる。

「おい、どこへ飛ばしたんだい」

「どこだか、相談が纏まとまらないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、歩行あるくのは厭いやになったよ」

「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」

「あの煙と、この雨を見ると、何だか物凄ものすごくって、あるく元気がなくなるね」

「今から駄々だだを捏こねちゃ仕方がない。――壮快じゃないか。あのむくむく煙の出てくるところは」

「そのむくむくが気味が悪るいんだ」

「冗談じょうだん云っちゃ、いけない。あの煙の傍そばへ行くんだよ。そうして、あの中を覗のぞき込むんだよ」

「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」

「ともかくもあるこう」

「ハハハハともかくもか。君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう饂飩うどんを食っちまった。これで赤痢せきりにでも罹かかれば全くともかくもの御蔭おかげだ」

「いいさ、僕が責任を持つから」

「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」

「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」

「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」

「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。やっぱり天祐てんゆうがあるんだよ」

「ありがたい仕合せだ。あるく事はあるくが、今夜は御馳走ごちそうを食わせなくっちゃ、いやだぜ」

「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」

「それから……」

「まだ何か注文があるのかい」

「うん」

「何だい」

「君の経歴を聞かせるか」

「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」

「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」

「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の伜せがれなんだ」

「その伜の時、寒磬寺かんけいじの鉦かねの音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話いんねんばなしをさ」

「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに呑気のんきなんだ。君はディッキンスの両都物語りょうとものがたりと云う本を読んだ事があるか」

「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」

「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」

「へえ、どんなものだい」

「そりゃ君、仏国ふっこくの革命の起る前に、貴族が暴威を振ふるって細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝ねながら話してやろう」

「うん」

「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理窟りくつだからね。ほら、あの轟々ごうごう鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち留どまって、黒い煙の方を見る。

濛々もうもうと天地を鎖とざす秋雨しゅううを突き抜いて、百里の底から沸き騰のぼる濃いものが渦うずを捲まき、渦を捲いて、幾百噸トンの量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ躍おどり上がって来る。

雨と風のなかに、毛虫のような眉を攅あつめて、余念もなく眺ながめていた、圭さんが、非常な落ちついた調子で、

「雄大だろう、君」と云った。

「全く雄大だ」と碌さんも真面目まじめで答えた。

「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。

「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。

「革命か」

「うん。文明の革命さ」

「文明の革命とは」

「血を流さないのさ」

「刀を使わなければ、何を使うのだい」

圭さんは、何にも云わずに、平手ひらてで、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返へん叩たたいた。

「頭か」

「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」

「相手は誰だい」

「金力や威力で、たよりのない同胞どうぼうを苦しめる奴らさ」

「うん」

「社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ」

「うん」

「商売なら、衣食のためと云う言い訳も立つ」

「うん」

「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らは、どうしても叩たたきつけなければならん」

「うん」

「君もやれ」

「うん、やる」

圭さんは、のっそりと踵くびすをめぐらした。碌さんは黙然もくねんとして尾ついて行く。空にあるものは、煙りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青い薄すすきと、女郎花おみなえしと、所々にわびしく交まじる桔梗ききょうのみである。二人は煢々けいけいとして無人むにんの境きょうを行く。

薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽おおうている。身を横にしても、草に触れずに進む訳わけには行かぬ。触れれば雨に濡ぬれた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣ゆかたに、白の股引ももひきに、足袋たびと脚絆きゃはんだけを紺こんにして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠ねずみのように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。

たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか見極みきわめのつくものではない。草をかぶればなおさらである。地に残る馬の足跡さえ、ようやく見つけたくらいだから、あとの始末は無論天に任せて、あるいていると云わねばならぬ。

最初のうちこそ、立ち登る煙りを正面に見て進んだ路は、いつの間にやら、折れ曲って、次第に横からよなを受くるようになった。横に眺める噴火口が今度は自然じねんに後ろの方に見えだした時、圭さんはぴたりと足を留とめた。

「どうも路が違うようだね」

「うん」と碌さんは恨うらめしい顔をして、同じく立ち留どまった。

「何だか、情なさけない顔をしているね。苦しいかい」

「実際情けないんだ」

「どこか痛むかい」

「豆が一面に出来て、たまらない」

「困ったな。よっぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは歩行あるき好いいかも知れない」

「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。

「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」

「全体いつ宿へつくんだい」

「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」

「上のぼりたてから鼻の先にあるぜ」

「そうさな。もう少しこの路を行って見ようじゃないか」

「うん」

「それとも、少し休むか」

「うん」

「どうも、急に元気がなくなったね」

「全く饂飩うどんの御蔭おかげだよ」

「ハハハハ。その代り宿へ着くと僕が話しの御馳走ごちそうをするよ」

「話しも聞きたくなくなった」

「それじゃまたビールでない恵比寿えびすでも飲むさ」

「ふふん。この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」

「なに、大丈夫だよ」

「だって、もう暗くなって来たぜ」

「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分前だ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変って来ると少し困るな。山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」

「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」

「ハハハハ。あの煙りが前に見えたんだが、もうずっと、後うしろになってしまった。すると我々は熊本の方へ二三里近付いた訳かね」

「つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ」

「そう云えばそうさ。――君、あの煙りの横の方からまた新しい煙が見えだしたぜ。あれが多分、新しい噴火口なんだろう。あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。どうして行かれないだろう。何でもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」

「路があったって駄目だよ」

「どうも雲だか、煙りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。壮さかんなものだ。ねえ、君」

「うん」

「どうだい、こんな凄すごい景色はとても、こう云う時でなけりゃ見られないぜ。うん、非常に黒いものが降って来る。君あたまが大変だ。僕の帽子を貸してやろう。――こう被かぶってね。それから手拭てぬぐいがあるだろう。飛ぶといけないから、上から結いわいつけるんだ。――僕がしばってやろう。――傘かさは、畳むがいい。どうせ風に逆さからうぎりだ。そうして杖つえにつくさ。杖が出来ると、少しは歩行あるけるだろう」

「少しは歩行きよくなった。――雨も風もだんだん強くなるようだね」

「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」

「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」

「晩にね、僕が、煙草の吸殻すいがらを飯粒めしつぶで練って、膏薬こうやくを製つくってやろう」

「宿へつけば、どうでもなるんだが……」

「あるいてるうちが難義か」

「うん」

「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高い草山が見えるだろう」

「あの右の方かい」

「ああ。あの上へ登ったら、噴火孔ふんかこうが一ひと眼めに見えるに違ちがいない。そうしたら、路が分るよ」

「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」

「待ちたまえちょっと時計を見るから。四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと物見ものみをしてくるから」

「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。二人離れ離れになっちまうよ」

「大丈夫だ。どうしたって死ぬ気遣きづかいはないんだ。どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」

「うん。呼んでくれたまえ」

圭さんは雲と煙の這はい廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄すすきのなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。

大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈はげしく轟ごうとなる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然しょうぜんと立つ碌さんの体躯からだへ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡なびく上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、顫ふるえている。よなのしずくは、碌さんの下腹まで浸しみ透とおる。

毒々しい黒煙りが長い渦うずを七巻ななまきまいて、むくりと空を突く途端とたんに、碌さんの踏む足の底が、地震のように撼うごいたと思った。あとは、山鳴りが比較的静まった。すると地面の下の方で、

「おおおい」と呼ぶ声がする。

碌さんは両手を、耳の後ろに宛あてた。

「おおおい」

たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から湧わいて出る。

「おおおい」

碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。

「おおおい」と癇かんの高い声を、肺の縮むほど絞しぼり出すと、太い声が、草の下から、

「おおおい」と応こたえる。圭さんに違ない。

碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。

「おおおい」

「おおおい。どこだ」

「おおおい。ここだ」

「どこだああ」

「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」

「どこへ落ちたんだああ」

「ここへ落ちたんだああ。気をつけろう」

「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」

「落ちると、足の豆が痛いぞうう」

「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」

「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」

圭さんの胴間声どうまごえは地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。

「おい、落ちたよ」

「どこへ落ちたんだい」

「見えないか」

「見えない」

「それじゃ、もう少し前へ出た」

「おや、何だい、こりゃ」

「草のなかに、こんなものがあるから剣呑けんのんだ」

「どうして、こんな谷があるんだろう」

「火熔石かようせきの流れたあとだよ。見たまえ、なかは茶色で草が一本も生はえていない」

「なるほど、厄介やっかいなものがあるんだね。君、上がれるかい」

「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」

「弱ったな。どうしよう」

「僕の頭が見えるかい」

「毬栗いがぐりの片割れが少し見える」

「君ね」

「ええ」

「薄すすきの上へ腹這はらばいになって、顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ」

「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」

「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは蝙蝠傘こうもりで、崖がけの腹をとんとん叩たたく。碌さんは見当を見計みはからって、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを溝みぞの上へ出して、

「おい」

「おい。どうだ。豆は痛むかね」

「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」

「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって楽らくだぜ」

「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」

「君」

「ええ」

「ハンケチはないか」

「ある。何にするんだい」

「落ちる時に蹴爪けつまずいて生爪なまづめを剥はがした」

「生爪を? 痛むかい」

「少し痛む」

「あるけるかい」

「あるけるとも。ハンケチがあるなら抛なげてくれたまえ」

「裂いてやろうか」

「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」

「じくじく濡ぬれてるから、大丈夫だ。飛ぶ気遣きづかいはない。いいか、抛げるぜ、そら」

「だいぶ暗くなって来たね。煙は相変らず出ているかい」

「うん。空中そらじゅう一面の煙だ」

「いやに鳴るじゃないか」

「さっきより、烈はげしくなったようだ。――ハンケチは裂けるかい」

「うん、裂けたよ。繃帯ほうたいはもうでき上がった」

「大丈夫かい。血が出やしないか」

「足袋たびの上へ雨といっしょに煮染にじんでる」

「痛そうだね」

「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」

「僕は腹が痛くなった」

「濡ぬれた草の上に腹をつけているからだ。もういいから、立ちたまえ」

「立つと君の顔が見えなくなる」

「困るな。君いっその事に、ここへ飛び込まないか」

「飛び込んで、どうするんだい」

「飛び込めないかい」

「飛び込めない事もないが――飛び込んで、どうするんだい」

「いっしょにあるくのさ」

「そうしてどこへ行くつもりだい」

「どうせ、噴火口から山の麓ふもとまで流れた岩のあとなんだから、この穴の中をあるいていたら、どこかへ出るだろう」

「だって」

「だって厭いやか。厭じゃ仕方がない」

「厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がって見ないか」

「それじゃ、君はこの穴の縁ふちを伝つたって歩行あるくさ。僕は穴の下をあるくから。そうしたら、上下うえしたで話が出来るからいいだろう」

「縁ふちにゃ路はありゃしない」

「草ばかりかい」

「うん。草がね……」

「うん」

「胸くらいまで生はえている」

「ともかくも僕は上がれないよ」

「上がれないって、それじゃ仕方がないな――おい。――おい。――おいって云うのにおい。なぜ黙ってるんだ」

「ええ」

「大丈夫かい」

「何が」

「口は利きけるかい」

「利けるさ」

「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」

「ちょっと考えていた」

「何を」

「穴から出る工夫をさ」

「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」

「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が御留守おるすになって、落ちてしまった」

「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」

「そうさな。――なに僕は構わないよ。それよりか。君、早く立ちたまえ。そう草で腹を冷ひやしちゃ毒だ」

「腹なんかどうでもいいさ」

「痛むんだろう」

「痛む事は痛むさ」

「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る工夫くふうを考えて置くから」

「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」

「よし」

会話はしばらく途切とぎれる。草の中に立って碌さんが覚束おぼつかなく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹はんぷくで、どっと崩くずれて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間なく吹き卸おろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々と逼せまる暮色のなかに、嵐は卍まんじに吹きすさむ。噴火孔ふんかこうから吹き出す幾万斛いくまんごくの煙りは卍のなかに万遍まんべんなく捲まき込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く漲みなぎり渡る。

「おい。いるか」

「いる。何か考えついたかい」

「いいや。山の模様はどうだい」

「だんだん荒れるばかりだよ」

「今日は何日いくかだっけかね」

「今日は九月二日さ」

「ことによると二百十日かも知れないね」

会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目まんもくの草を埋うずめ尽くして、一丁先は靡なびく姿さえ、判然はきと見えぬようになった。

「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」

谷の中の人は二百十日の風に吹き浚さらわれたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇あその御山は割れるばかりにごううと鳴る。

碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように腹這はらばいになった。

「おおおい。おらんのか」

「おおおい。こっちだ」

薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。

「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」

「ここから上がるんだああ」

「上がれるのかああ」

「上がれるから、早く来おおい」

碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎だっとの勢いきおいで飛び出した。

「おい。ここいらか」

「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」

「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘こうもりを上から出したら、それへ、取とっ捕つらまって上がれるだろう」

「傘かさだけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」

「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」

「兵児帯へこおびを解いて、その先を傘かさの柄えへ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう」

「曲ってるとも。大いに曲ってる」

「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」

「結びつけるとも。すぐ結びつけてやる」

「結びつけたら、その帯の端はじを上からぶら下げてくれたまえ」

「ぶら下げるとも。訳わけはない。大丈夫だから待っていたまえ。――そうら、長いのが天竺てんじくから、ぶら下がったろう」

「君、しっかり傘かさを握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体からだは十七貫六百目あるんだから」

「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」

「いいかい」

「いいとも」

「そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」

「今度は大丈夫だ。今のは試ためして見ただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ」

「君が滑すべると、二人共落ちてしまうぜ」

「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」

「君、薄すすきの根へ足をかけて持ち応こたえていたまえ。――あんまり前の方で蹈ふん張ばると、崖がけが崩くずれて、足が滑べるよ」

「よし、大丈夫。さあ上がった」

「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」

「おい」

「何だい」

「君は僕が力がないと思って、大おおいに心配するがね」

「うん」

「僕だって一人前の人間だよ」

「無論さ」

「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」

「じゃ上がるよ。そらっ……」

「そらっ……もう少しだ」

豆で一面に腫はれ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、素肌すはだを二百十日の雨に曝さらしたまま、海老えびのように腰を曲げて、一生懸命に、傘の柄えにかじりついている。麦藁帽子むぎわらぼうしを手拭てぬぐいで縛しばりつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分通り阿蘇卸あそおろしに吹きつけられて、喰い締めた反そっ歯ぱの上にはよなが容赦なく降ってくる。

毛繻子張けじゅすばり八間はちけんの蝙蝠こうもりの柄には、幸い太い瘤こぶだらけの頑丈がんじょうな自然木じねんぼくが、付けてあるから、折れる気遣きづかいはまずあるまい。その自然木の彎曲わんきょくした一端に、鳴海絞なるみしぼりの兵児帯へこおびが、薩摩さつまの強弓ごうきゅうに新しく張った弦ゆみづるのごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。その隠れているあたりから、しばらくすると大きな毬栗頭いがぐりあたまがぬっと現われた。

やっと云う掛声と共に両手が崖がけの縁ふちにかかるが早いか、大入道おおにゅうどうの腰から上は、斜ななめに尻しりに挿さした蝙蝠傘こうもりと共に谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんと仰向あおむきになって、薄すすきの底に倒れた。

五

「おい、もう飯だ、起きないか」

「うん。起きないよ」

「腹の痛いのは癒なおったかい」

「まあ大抵たいてい癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも知れないね。ともかくも饂飩うどんが祟たたったんだから、容易には癒りそうもない」

「そのくらい口が利きければたしかなものだ。どうだいこれから出掛けようじゃないか」

「どこへ」

「阿蘇あそへさ」

「阿蘇へまだ行く気かい」

「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。行かない訳わけには行かない」

「そんなものかな。しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」

「豆は痛むかね」

「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」

「あんなに、吸殻すいがらをつけてやったが、毫ごうも利目ききめがないかな」

「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」

「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」

「癒ると思ったからさ」

「時に君はきのう怒ったね」

「いつ」

「裸はだかで蝙蝠傘こうもりを引っ張るときさ」

「だって、あんまり人を軽蔑けいべつするからさ」

「ハハハしかし御蔭おかげで谷から出られたよ。君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」

「豆を潰つぶすのも構わずに引っ張った上に、裸で薄すすきの中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」

「その代りこの宿まで担かついで来てやったじゃないか」

「担いでくるものか。僕は独立して歩行あるいて来たんだ」

「それじゃここはどこだか知ってるかい」

「大おおいに人を愚弄ぐろうしたものだ。ここはどこだって、阿蘇町さ。しかもともかくもの饂飩うどんを強しいられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。半日山のなかを馳かけあるいて、ようやく下りて見たら元の所だなんて、全体何てえ間抜まぬけだろう。これからもう君の天祐てんゆうは信用しないよ」

「二百十日だったから悪るかった」

「そうして山の中で芝居染しばいじみた事を云ってさ」

「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」

「あの時は感心もしたが、こうなって見ると馬鹿気ばかげていらあ。君ありゃ真面目まじめかい」

「ふふん」

「冗談か」

「どっちだと思う」

「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」

「あの時僕の経歴談を聴きかせろって、泣いたのは誰だい」

「泣きゃしないやね。足が痛くって心細くなったんだね」

「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、昨日きのうた別人の観かんがある」

「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」

「僕に対してかい」

「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」

「いい迷惑だ。時に君は粥かゆを食うなら誂あつらえてやろうか」

「粥もだがだね。第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」

「馬車でどこへ行く気だい」

「どこって熊本さ」

「帰るのかい」

「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を蹴けられたには実に弱ったぜ」

「そうか、僕はちっとも知らなかった。そんなに音がしたかね」

「あの音が耳に入はいらなければ全く剛健党に相違ない。どうも君は憎くらしいほど善よく寝る男だね。僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。――そうして、非常ないびきをかいて――」

「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」

「時に天気はどうだい」

「上天気だ」

「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。――そうして顔は洗ったのかい」

「顔はとうに洗った。ともかくも起きないか」

「起きるって、ただは起きられないよ。裸で寝ているんだから」

「僕は裸で起きた」

「乱暴だね。いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」

「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。乾かわいてるよ。ただ鼠色ねずみいろになってるばかりだ」

「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、勢いきおいよく、手をぽんぽん敲たたく。台所の方で返事がある。男の声だ。

「ありゃ御者ぎょしゃかね」

「亭主かも知れないさ」

「そうかな、寝ながら占うらなってやろう」

「占ってどうするんだい」

「占って君と賭かけをする」

「僕はそんな事はしないよ」

「まあ、御者か、亭主か」

「どっちかなあ」

「さあ、早くきめた。そら、来るからさ」

「じゃ、亭主にでもして置こう」

「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。負けた方が今日一日いちんち命令に服するんだぜ」

「そんな事はきめやしない」

「御早う……御呼びになりましたか」

「うん呼んだ。ちょっと僕の着物を持って来てくれ。乾いてるだろうね」

「ねえ」

「それから腹がわるいんだから、粥かゆを焚たいて貰いたい」

「ねえ。御二人さんとも……」

「おれはただの飯めしで沢山だよ」

「では御一人さんだけ」

「そうだ。それから馬車は何時と何時に出るかね」

「熊本通いは八時と一時に出ますたい」

「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」

「ねえ」

「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。せっかくここまで来て阿蘇あそへ上のぼらないのはつまらないじゃないか」

「そりゃ、いけないよ」

「だってせっかく来たのに」

「せっかくは君の命令に因よって、せっかく来たに相違ないんだがね。この豆じゃ、どうにも、こうにも、――天祐てんゆうを空むなしくするよりほかに道はあるまいよ」

「足が痛めば仕方がないが、――惜しいなあ、せっかく思い立って、――いい天気だぜ、見たまえ」

「だから、君もいっしょに帰りたまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」

「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」

「誰に済まないんだ」

「僕の主義に済まない」

「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」

「出直して来ちゃ気が済まない」

「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」

「そうでもないさ」

「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」

「幾度もあるよ」

「なに一度もない」

「昨日きのうも聞いてるじゃないか。谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」

「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩うどんを何遍も喰ってるじゃないか」

「ハハハハ、ともかくも……」

「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」

「そうか」

「おい、君」

「ええ」

「君じゃない。君さ、おい宿の先生」

「ねえ」

「君は御者ぎょしゃかい」

「いいえ」

「じゃ御亭主かい」

「いいえ」

「じゃ何だい」

「雇人やといにんで……」

「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」

「うん、それがどうしたんだ」

「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、彼方あっちへ行っても好いよ」

「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」

「そこが今悶着中もんちゃくちゅうさ」

「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度したくが出来ます」

「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」

「へへへへ御緩ごゆっくり」

「おい、行ってしまった」

「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促さいそくするからさ」

「ハハハありゃ御者ぎょしゃでも亭主でもないんだとさ。弱ったな」

「何が弱ったんだい」

「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が賭かけに勝つ訳わけになるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」

「なるものか、そんな約束はしやしない」

「なに、したと見傚みなすんだね」

「勝手にかい」

「曖昧あいまいにさ。そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」

「そんな訳になるかね」

「なると思って喜こんでたが、雇人やといにんだって云うからしようがない」

「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」

「もし御者ですと云ったら、僕は彼奴あいつに三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴やつだ」

「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」

「だって君は一昨夜いっさくや、あの束髪そくはつの下女に二十銭やったじゃないか」

「よく知ってるね。――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」

「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」

「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」

「君がかい」

「なあに、華族や金持ちがさ」

「そうかな」

「例たとえば今日わるい事をするぜ。それが成功しない」

「成功しないのは当り前だ」

「すると、同じようなわるい事を明日あしたやる。それでも成功しない。すると、明後日あさってになって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断ごんごどうだんだ」

「言語道断だ」

「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」

「社会はめちゃくちゃだ」

「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」

「ある。うん。あるよ」

「あると思うなら、僕といっしょにやれ」

「うん。やる」

「きっとやるだろうね。いいか」

「きっとやる」

「そこでともかくも阿蘇あそへ登ろう」

「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」

二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々ごうごうと百年の不平を限りなき碧空へきくうに吐き出している。

底本 / Source edition

底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月19日公開
2004年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
/works/000751_000148/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/000751_000148/

夏目 漱石「二百十日」(新字新仮名)、底本『夏目漱石全集3』ちくま文庫、筑摩書房、1987年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000751_000148, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite